蒙恬
蒙恬 | |
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秦 将軍 | |
出生 | 不詳 |
死去 | 始皇帝37年(紀元前210年) |
主君 | 始皇帝 |
父 | 蒙武 |
兄弟 | 蒙恬、蒙毅 |
蒙 恬(もう てん - 紀元前210年)は、中国の秦の将軍。蒙驁の孫。蒙武の子。蒙毅の兄。匈奴討伐などに功績を挙げ、弟とともに始皇帝に重用されたが、趙高たちの陰謀によって扶蘇と共に自殺させられた。
生涯
[編集]蒙氏は、蒙驁の代に斉より秦へ移り住んだ。蒙恬は当初は文官として宮廷に入り、訴訟・裁判に関わっていた[1]。
始皇22年(紀元前225年)、李信の副将として楚討伐に加わり、寝丘を攻めて大勝した[1][2]。その後、城父で李信と合流したが、後方の郢陳で起きた反乱鎮圧に向かう李信の軍を三日三晩追い続けていた楚の項燕(項羽の祖父)に大敗した(城父の戦い)[2]。
始皇26年(紀元前221年)、家柄によって将軍となった[1]。李信・王賁とともに斉の討伐に赴き、見事に斉を討ち滅ぼした[3]。その功績により、内史とされた[1]。
始皇32年(紀元前215年)、30万の軍を率いての匈奴征伐では、オルドス地方を奪って匈奴を北へ追いやると、辺境に陣して長城、直道(直線で結ぶ道)の築造も担当した[1][4]。これらの軍功に始皇帝からも大いに喜ばれ、弟の蒙毅も取り立てられ、蒙恬が外政に蒙毅が内政に両者とも忠誠と功績を認められた[1]。この頃、始皇帝に焚書を止める様に言って遠ざけられた長男の扶蘇が蒙恬の元にやって来て、扶蘇の指揮下で匈奴に当たるようになった。扶蘇は始皇帝に疎まれたために蒙恬の所へ送られたとなっているが、蒙恬の監視役であったとも考えられる。
始皇37年(紀元前210年)、始皇帝が崩御すると、趙高・李斯の二人は共謀して、始皇帝の末子の胡亥を皇帝に立てて、自らの権力を護ろうと画策した。趙高らは始皇帝の詔書を偽造し、扶蘇と蒙恬に対して自殺を命じた[1]。蒙恬はこれを怪しみ、真の詔書であるかを確かめるべきだと主張したが、扶蘇は抵抗せずに自殺した[1]。蒙恬は陽周の監獄に繋がれ、趙高により蒙氏は日夜誹謗され、その罪過を挙げて弾劾された[1]。子嬰が胡亥を諫めたが、聞き入られることはなかった[1]。
その後、胡亥(二世皇帝)からの自殺命令が届くとやむを得ず、毒を飲んで自殺した[1]。蒙恬は自殺する際、「私に何の罪があって、過ちもないのに死ななければならないのか」と自らに問いかけて嘆き、それから「私の罪が死に当たるのも無理はない。長城を築くこと数万里、その途中で地脈を絶ったのだろう。それこそが私の罪である」と言って毒を仰って自殺した[1]。これに対して、司馬遷の評は「私は、蒙恬が秦のために築いた長城や要塞を見たが、山を崩し谷を埋めて道路を切り開いたこと、まことに民の労力を顧みないものである。天下が治まった当初、負傷者たちの傷はまだ癒えていなかった。蒙恬は(始皇帝に信頼された)名将であるのだから(始皇帝に諫言して)、この時こそ、人民の危機を救い、老人を養い孤児を憐み、民の融和を図るべきであった」と厳しく批判した[注 1]。
蒙恬の死後、蒙毅も趙高により言いがかりを付けられて殺害され、蒙氏一族は皆殺しにされた。
逸話
[編集]蒙恬が獣の毛を集めて作り、始皇帝に献上したのが筆の始まりとされていた。しかし1954年に戦国時代の楚の遺跡から筆(「長沙筆」[5])が発見されたのでこの説は覆された。現在では甲骨文字の中に筆を表す文字が発見されており、筆の発明は殷代まで遡るのではないかと考えられている。蒙恬は筆の発明者ではなく、筆の改良者とされている[6]。
『蒙求』には、「蒙恬製筆,蔡倫創紙(蒙恬は筆をつくり、蔡倫は紙をつくった)」の句がある。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ ただし、現在の研究では土木工事に使役されたのは囚人であり、市民が強制動員されたという見方は否定されつつある。