内史騰
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内史騰(ないし とう、生没年不詳)、または内史勝[1]は、中国戦国時代の秦の将軍、政治家。かつては韓に仕えていたが、後に秦に降ったという解釈もされている[2]。内史は官名であり、姓氏は不明であるため内史騰とのみ呼ばれるが、姓は辛[3]とする説[4]がある。
経歴
[編集]始皇16年(紀元前231年)、秦は兵を発し、韓より南陽の地を受け取ると、騰は代理の南陽守に任命された。
始皇17年(紀元前230年)、騰は10万の兵を率いて突如南下して韓に攻め込み、韓の国都新鄭を陥落させ、韓王安を捕虜とした。これにより韓は滅亡し、韓の領土を潁川郡とし、郡治を陽翟に置いた[5]。騰は南郡の郡守に任命された。
始皇18年(紀元前229年)、楚を攻略する準備のため、南郡の郡守として駐屯の準備を行った。
始皇20年(紀元前227年)4月、騰は法を厳格に執行するため、郡に文書を発布し人々に法を行き渡らせた[6]。騰の文書のうち2つは、雲夢にある秦の令史喜の墓から発掘され、その2つの文書は喜の頭部と腹部に安置されていた。これはこの文書が属吏にとっていかに重要であったかを示している。
始皇26年(紀元前221年)、秦が天下を統一し、騰は秦の国都咸陽の政務を担当する内史に任命された。騰はおそらく老死するまで職務を果たしていた。