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三公

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

三公(さんこう)は、中国およびその影響を受けた東アジア諸国の前近代の官制において、最高位に位置する3つの官職をいう。 太師太傅太保の三公と、司徒司空司馬大司徒大司空大司馬)の三公がある。もと、三公は、西周東周時代に実際にあった官職をもとに、後世の儒学者が整理・敷衍し、あるいは偽作に託して述べたものである。学説をもとに前漢紀元前1年に制定されてから、改廃を受けつつ長く続いた。

学説上の三公

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官職ではない三公

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書経』の一篇である「湯誥」は、の時代に功績があった皋陶后稷の三人を「三公」と呼んだ。この三公は後世にあまり参照されなかった。彼らは伝説上の人物なので、史実ではない。

太保・太傅・太師

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後世に影響を残した三公は二つあり、一つは今文尚書に由来する太師太傅太保からなる三公である[1]。周の成王が幼いとき、召公召公奭)が太保周公周公旦)が太傅太公(太公望呂尚)が太師となったとし、これを三公の職だという。それぞれ少保少傅少師が補佐についた。『大戴礼記』の「保傅」がこのような三公を記す[2]。『漢書』百官公卿表も基本的にこの説を紹介する[3]

書経 (尚書))』「周官」では、少師・少傅・少保をまとめて三孤といい、さらに実務を分担する冢宰司徒宗伯司馬司寇司空という六卿があった、と詳しくなる[4]。三孤と六官は同格なので、まとめて九卿といい、三公とあわせて三公九卿と呼ぶ。

「周官」が書く三公の務めは、道を論じ、邦(国)を経し、陰陽を変理することである[4]。『漢書』百官公卿表によれば、天子のそばにあって政治の全体を統べる[3]。常設の官ではなく、ふさわしい人がいる時にだけ任命される[4][3]

周では宮廷の庭にえんじゅの木が植えられ、三公は政務の際に槐に向かって座す定めであったため、三槐とも雅称される。または、三台星にちなんで三台ともいう。

司徒・司馬・司空

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もう一つは古文尚書に由来すると言われる司徒司馬司空からなる三公である[1]。これらは西周時代に実際にあった官職だが、実務を分担する官で、最高の官ではなかった。それを天子を補佐する最高の官職とする説である。

古文尚書は失われたが、『漢書』百官公卿表が太保・太傅・太師の三公と並べてこの説も紹介する。『漢書』は大司徒大司馬大司空からなる前漢末の三公が成立した後の著作だが、その成立以前から司徒・司馬・司空の三公説が流布していたようである。そのため三公を三司ともいうが一般には用いられず、儀同三司の語などにおいて用いる(当該項目参照)。

制度上の三公

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前漢

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漢の初めには、丞相または相国が官の全般を統率する最高の官職で、監察・政策立案を司る御史大夫、軍事を司る太尉がそれに次いだ。これを三公というのは、後の儒学者が学説上の三公になぞらえたまでのことである。このうち兵権を握る太尉は、任命されなかったり、大司馬大将軍など改称・改編が多かった。

前漢の終わりごろになると、儒教の影響力が強まり、周の時代にならって制度を改めようとする機運が高まった。綏和元年(紀元前8年)4月に、成帝は御史大夫を大司空と改称し、丞相・大司空・大司馬の俸禄を等しくした[5]

御史大夫から大司空への改称は、建平2年(紀元前5年)3月に哀帝が元に戻した[6]

しかし、元寿2年(紀元前1年)5月に、哀帝は丞相を大司徒と改め、御史大夫をまた大司空として、ここに大司徒大司空大司馬の三公が正式に定められた[7]

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王莽は大司徒・大司空・大司馬の三公を引き継ぎ、他の官職の名を改めて三公九卿の形を整えた。作られた制度は、周ではなく、伝説上の帝の制度にならっている[8]。王莽が舜の後裔を自任したことと関係しているとみられる[9]

後漢

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後漢を建てた光武帝は、前漢の制度を継承して大司徒・大司馬・大司空を置いたが、建武27年(51年)4月に、儒教の経典にあわせて大司徒と大司空から大の字を除いた[10]。同時に大司馬を太尉と改称した[10]。これにより、司徒太尉司空が三公になった。

和帝は三公が承天安民の策を行っていないと叱咤している例[11]桓帝の太尉である楊秉が三公は故事によれば「統べざる所無き官」であると帝に説明している例[12]から、当時の三公は国政に関する政策全般を統括する官であった。

後漢末に実権を握った曹操が208年に丞相と御史大夫を復活させて自らが丞相に就任した際に三公を廃止してしまった[13]

それ以後

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の成立後には三公が復活していたものの、実権を尚書などに奪われ長老の名誉職と化していたらしく、『魏志高柔伝には「三公を月二回参内させるほか天下の事件について意見を聴取するよう改めるべき」という上書が引用されている。高柔本人ものちに三公になったが、そのとき73歳であった。やがて三省六部の制が整えられるに及んで三公は完全に名誉職となり、時代によっては再び太師・太傅・太保の3官職が三公とされることもあった。

日本

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日本では、律令制における太政官の長である太政大臣左大臣右大臣のことを指す。のちに右大臣の下に内大臣が置かれると、常任の官ではない太政大臣を外して、左大臣・右大臣・内大臣のことを指す例もあらわれたが、江戸時代禁中並公家諸法度が制定されると内大臣を含まず太政大臣を含むものと定義付けられた。源実朝の歌集が『金槐和歌集』と称されるのは、彼が三公(三槐)のひとつである右大臣であったことにちなむものである。

ほか、朝鮮半島では、高麗のときに「大衛」「大司徒」「大司空」が設置され、李氏朝鮮では領議政左議政右議政議政府を構成した「三政丞」が三公に該当する。

脚注

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  1. ^ a b 古文尚書、今文尚書については、書経の項目を参照されたい。
  2. ^ 新釈漢文大系『大戴礼記』「保傅」、145 - 146頁。
  3. ^ a b c 『漢書』巻19上、百官公卿表第7上。『『漢書』百官公卿表訳注』2 - 3頁。
  4. ^ a b c 『書経』「周官」。新釈漢文大系『書経』下、497 - 498頁。
  5. ^ 『漢書』巻10、成帝紀第10、綏和元年4月。ちくま学芸文庫『漢書』1の321頁。
  6. ^ 『漢書』巻11、哀帝紀第11、建平2年3月。ちくま学芸文庫『漢書』1の336頁。
  7. ^ 『漢書』巻11、哀帝紀第11、元寿2年5月。ちくま学芸文庫『漢書』1の341頁。
  8. ^ 吉野賢一「前漢末における三公制の形成について」、47頁。
  9. ^ 吉野賢一「前漢末における三公制の形成について」。
  10. ^ a b 『後漢書』巻1下、光武帝紀第1下、建武27年条。早稲田文庫『後漢書』1の142頁。
  11. ^ 『後漢書』巻4和帝紀・永元12年条
  12. ^ 『後漢紀』巻22桓帝紀・延熹7年条
  13. ^ 渡邉将智『後漢政治制度の研究』(早稲田大学出版部、2014年) ISBN 978-4-657-14701-1 第三章「〈三公形骸化説〉の再検討」

参考文献

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関連項目

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