洪邁
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洪 邁(こう まい、1123年 - 1202年)は、南宋の政治家・儒学者。字は景盧、号は容斎。諡は文敏。饒州鄱陽県の出身。父は洪皓。兄の洪适・洪遵も文名が高い。
生涯
[編集]幼少のころから群書を読破し、二人の兄に先んじて紹興15年(1145年)に博学宏詞科に及第。紹興32年(1162年)に金の使者が来たときに接伴使となり、従来の接待の礼が卑屈に過ぎたのを改め、さらに賀登位使として金に赴いたときには携えた国書の中で金を「兄弟敵国」と称し改めず、金の人々を困惑させた。これらの振る舞いは秦檜の外交政策を批判するものであり、孝宗が即位した隆興元年(1163年)に泉州知州に左遷される原因となる。吉州・贛州・婺州などの知州を歴任し、大いに治績を挙げたという。敷文閣侍制から淳熙4年(1177年)には翰林学士に進み、紹熙2年(1191年)に端明殿学士となり直後に引退。80歳で没し、光禄大夫を贈られた。
著作
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『宋史』巻373 列伝第132