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竹田晃

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
竹田 晃
人物情報
生誕 (1930-11-26) 1930年11月26日
日本の旗 日本東京都
死没 2021年8月6日(2021-08-06)(90歳没)
出身校 東京大学
学問
研究分野 中国文学
研究機関 東京大学東京女子大学明海大学
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竹田 晃(たけだ あきら、1930年11月26日 - 2021年8月6日[1])は、日本中国文学者東京大学教養学部教授を経て、東京大学名誉教授・明海大学名誉教授。六朝志怪小説伝奇小説が専門。元東京大学運動会硬式野球部監督。

略歴

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1930年、東京生まれ。1943年東京高等師範学校附属国民学校(現・筑波大学附属小学校)卒、東京高師附属中学(現・筑波大学附属中学校・高等学校)に入学。在学中は野球部に所属しており、4年生時には二塁手として夏の甲子園に出場[2]。出場選手が甲子園の土を持ち帰る風習の起こりに関わったうちの一人となった。(日本の高校野球#甲子園の土 参照)[3]

旧制中学5年生の時(1948年)に旧制第一高等学校を受験するも不合格となり、学制改革に伴い新制東京高師附属高校3年生となる。1949年春に東京大学に入学。大学では野球部に入部し、学部生時代は野球部主将として東京六大学リーグで活躍した。大学院進学後は助監督、監督をつとめた。大学院博士課程進級にあたって指導教授の倉石武四郎より野球部監督を辞めて研究に専念するよう命じられ、監督を退任した。[4]

1953年東京大学文学部中国文学科を卒業。1959年同大学院中国語中国文学専門博士課程単位取得満期退学

卒業後は高等学校で非常勤講師を務めた。1961年、東京大学文学部助手に採用された。1965年、同大学教養学部講師、後に助教授、教授昇進。評議員、教養学部長もつとめた。1991年に東京大学を定年退官し、名誉教授となった。その後は東京女子大学教授、続いて明海大学教授として教鞭をとった。明海大学退任後、明海大学名誉教授となった。

家族・親族

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著書

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編著

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  • 『岩波漢語辞典』山口明穂共編 岩波書店 1987、新版2014ほか
  • 『漢字源』藤堂明保・松本昭・加納喜光共編 学研 1988、新版2018ほか
  • 『五十音引き 講談社漢和辞典』坂梨隆三共編 講談社 1997

翻訳

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記念論集

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  • 『東アジア文化論叢 竹田晃先生退官記念学術論文集編集委員会』汲古書院, 1991

脚注

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  1. ^ 東大野球部監督を務めた竹田晃氏が死去 甲子園の土持ち帰りの起源も - アマ野球 : 日刊スポーツ”. nikkansports.com. 2021年8月7日閲覧。
  2. ^ 但しこの年は甲子園が米軍に接収中で西宮球場で挙行
  3. ^ 『「甲子園の土」ものがたり』(三浦馨著、明治書院)および竹田晃「人と学問」(中国社会文化学会『中国-社会と文化』19号、2004年6月)
  4. ^ 竹田晃「人と学問」(中国社会文化学会『中国-社会と文化』19号、2004年6月)