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趙雲

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
趙雲
正定県『子龍広場』趙雲像
正定県『子龍広場』趙雲像
蜀漢
鎮軍将軍・中護軍・永昌亭侯
出生 ?(生年不詳)
冀州常山国真定県
死去 建興7年(229年
拼音 Zhào Yún
子龍
諡号 順平侯
別名 虎威将軍()、趙聖輔天帝君(神号)
主君 公孫瓚劉備劉禅
兄弟 兄(名は不詳)
趙統趙広
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趙 雲(ちょう うん、拼音: Zhào Yún Zhao Yun.ogg 再生[ヘルプ/ファイル]簡体字: 赵云、?(生年不詳) - 建興7年(229年[1])は、中国後漢末期から三国時代にかけての蜀漢の将軍。あざな子龍[注 1](しりゅう[3]・しりょう[4]拼音: Zǐ Lóng簡体字: 子龙)。

冀州常山国真定県(現在の河北省石家荘市正定県)の人。封号永昌亭侯諡号順平侯台湾マレーシアなどの華僑の人々の間では信仰の対象となり、趙聖輔天帝君と呼ばれる(詳細は「趙雲#台湾」「#マレーシア」および佳里子龍廟中国語版を参照)。

蜀漢の初代皇帝・劉備の子・劉禅(幼名:阿斗)を救ったことで知られ、小説『三国志演義』では五虎大将軍の一人とされる[5]

正史の趙雲

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以下は正史『三国志』(蜀書)「趙雲伝」(裴松之はいしょうし『趙雲別伝』を含む)より。

本文中の[注 ]には補足や研究者の推論・考察を記述する。正史の事跡からの趙雲についての研究は「#人物」および「#官職」の節を、『三国志演義』の趙雲については「#三国志演義の趙雲」の節をそれぞれ参照。

群雄割拠

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後漢~三国時代(□は異民族名)の全州と冀州の位置を示した略地図
後漢~三国時代の全州と冀州の位置を示した略地図
(□は異民族)
中国大陸の北に位置し、常山国真定県は現在の石家庄正定県に位置する。緑豊かな耕作地で、後漢当時「人口が多く裕福で兵糧も十分だった」とある[6]

約400年続いたかん王朝(以下、後漢:ごかん)は政治の腐敗や傷寒(しょうかん:腸チフス)の流行によりおびただしい数の死者が出たことで衰退を見せ、人々は聖水や御札といった宗教に頼るほかなく、太平道張角(ちょうかく)は病の治療を謳って信者を増やし、冀州(きしゅう)ほか8州にまで急速に広まった[7][注 2]

中平元年(184年)に張角の主導による大規模な農民反乱である黄巾(こうきん)の乱が起こると、趙雲の故郷である冀州の常山(じょうざん)国王・劉暠中国語版(りゅうこう)は国を棄てて逃走した[10]。この反乱に乗じて少年や山賊、犯罪者などを集め、盗賊団を結成した張燕(ちょうえん)率いる黒山軍中国語版(以下、黒山賊:こくざんぞく)の襲撃により、冀州は甚大な被害を被ったが、後漢の朝廷はこれを鎮圧することが出来なかった[11]

中平6年(189年)に後漢の皇帝・霊帝(れいてい)が崩御すると、この政治混乱に乗じて権力を掌握した董卓(とうたく)による暴政や[12]、各地で諸侯が権力争いを始め、群雄割拠の幕開けとなった。

冀州では支配権をめぐって、冀州の(ぼく:州の長官)である韓馥(かんふく)[13]、冀州北部に隣接する幽州(ゆうしゅう)の有力豪族出身で、白馬で揃えた精鋭騎兵『白馬義従』(はくばぎじゅう)を率いて異民族(鮮卑(せんぴ)や烏桓(うがん)族)の討伐で功績を上げた公孫瓚(こうそんさん)[14]、朝廷に自ら降伏し、徳を見せることで官職を与えられ、常山国の支配を朝廷に容認させた黒山賊の張燕[15]、四代に渡って三公(最高位の3つの官職のこと)を輩出した名門出身の袁紹(えんしょう)[16]らが対立し、大きな社会混乱が続いていた。

若き頃

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『子龍広場』高さ約10mの趙雲の石像
『子龍広場』
高さ約10mの趙雲の石像

正史「趙雲伝」(以下『正史』)いわく、趙雲、あざなは子龍、常山国真定県(しんていけん)の人。元は公孫瓚配下の将だった[17]

『趙雲別伝』(趙雲について記された伝記[18]。詳細は#趙雲別伝の節を参照。以下『別伝』)曰く、趙雲は身長八尺(約185cm)[注 3]、姿や顔つきが際立って立派だったという[20]。故郷の常山郡(国)から推挙され、官民(役人と民間人の混成)の義従兵(ぎじゅうへい:義勇兵のこと)[注 4]を率いて幽州の公孫瓚の下に参じ、配下となった[22]

初平2年(191年)頃、『別伝』曰く、当時袁紹は冀州牧を称し、公孫瓚は冀州の人々が袁紹に従うことを憂いていた[注 5]。そのような状況下で、冀州から常山国のみが公孫瓚に呼応し、義従兵がやってきたので公孫瓚はこれを大いに喜んだが、趙雲に対して「聞くところでは君の州の人々はみな袁紹に付くことを願っているそうだが、君はどうしてひとり心をめぐらせ、迷ったのちに正道に戻ることが出来たのかね?」と嘲笑して言った[24][注 6]

これに対し、趙雲はこう応えた。

「天下はがやがやと勝手なことを言っていますが、誰が正しいのか見当もつかず、民は未だ苦難の中に置かれています。わたしの州の議論は、仁政のある所に従います。袁紹殿を軽視し、将軍(公孫瓚)を尊重したわけではありません」 — 『三国志』巻36「趙雲伝」裴注『趙雲別伝』[27]

『別伝』曰く、こうして公孫瓚の配下となり、ともに征討した[28][注 7]

出会いと別れ

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冀州での主な出来事
西暦 出来事 内容
191年秋 袁紹冀州牧を称す 韓馥を脅し奪う
秋~冬? 趙雲が挙兵する 公孫瓚の配下に
青・徐州黄巾残党
と公孫瓚の戦い
公孫瓚の勝利
青洲の田楷の救援 劉備に随行
劉備が平原相に 公孫瓚より任命
192年
正月
界橋の戦い 袁紹の勝利
不明 趙雲と劉備の別れ 公孫瓚から辞去
193年 袁紹と公孫瓚が停戦 朝廷が介入
公孫瓚と劉虞の戦い 劉虞を殺害
6月 袁紹と黒山賊の戦い 黒山賊が大敗
199年 易京の戦い 公孫瓚が自害
205年 張燕が曹操に投降 黒山賊が帰順
冀州と周辺の略地図と勢力図
冀州と周辺の略地図と、冀州をめぐる各勢力図。
冀州はたびたび異民族の襲撃に遭うため、騎兵への対抗として精鋭兵『冀州強弩』が編み出された[31]。界橋の戦いでは、袁紹配下の麹義がこれを用いて公孫瓚の精鋭騎兵『白馬義従』を大いに撃ち破ることになる[32]

『別伝』曰く、このとき黄巾の乱から挙兵し、名を揚げた群雄のひとりである劉備(りゅうび)が公孫瓚の元に身を寄せていた。これが劉備と趙雲、二人を結びつける機縁となる。劉備は趙雲と接するたびに受け入れ、趙雲も劉備に好感を持ち、次第に二人は仲を深めていった[33]

『正史』曰く、青州(せいしゅう)で袁紹と戦っていた公孫瓚配下の将・田楷(でんかい)の援軍として、公孫瓚が劉備を派遣した際に趙雲も随行して劉備の主騎(しゅき:騎兵隊長)となった[34][注 8][注 9]

『別伝』曰く、そののち趙雲の兄が亡くなり服喪(に服すこと)のために公孫瓚の下を辞して故郷へ帰ることになった。劉備は趙雲が自らの下にもう二度と戻って来ることはないだろうと悟り、趙雲の手を固く握って別れを惜しんだ。趙雲は別れの挨拶をして「絶対にあなたの御恩徳に背きません」と応えた[38][39][注 10]

劉備と別れた時期や、そこから建安5年(200年)頃までの趙雲の行動は『正史』にも『別伝』にも記述がないため不明である[43]。192年から200年の間、常山国では董卓を殺害したのち、袁紹の客将(主従関係を結んでいない客分として待遇される武将)になっていた呂布(りょふ)に大敗した黒山賊は[44]、公孫瓚と手を結んで袁紹と戦ったが、建安4年(199年)3月、幽州と冀州の州境にある易京(えきけい)の戦いで敗れ、公孫瓚は自害[45]。袁紹は華北(かほく:中国北部のこと)一帯を支配下においた。黒山賊の張燕らはのちに群雄のひとりである曹操(そうそう)に帰順した[46]

劉備との再会

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趙雲と劉備の再会までの動き
西暦 出来事 内容
趙雲離脱とその後 200年頃まで不明
193-
194年
徐州の陶謙の救援 豫洲の小沛に駐屯
194年 劉備が徐州牧に 陶謙死後跡を継ぐ
195年 呂布が劉備を頼る 曹操に敗北した
呂布が劉備の下へ
196年 呂布の裏切り 下邳を掌握される
①呂布に敗北 曹操を頼る
198年 ②曹操とともに
呂布を討ち許昌へ
献帝の曹操暗殺
計画に賛同する
200年 曹操と争う 暗殺計画が露顕
小沛で曹操に敗北
③青洲へ逃走 袁譚を頼る
(袁紹の長男)
④袁紹を頼る 袁譚と平原へ
⑤袁紹と合流 鄴から200里地点
で袁紹が出迎える
⑥趙雲と再会 鄴で劉備に目通り
⑦劉表の元へ 関羽らが再集結
趙雲と再会するまでの劉備の動向の略地図
趙雲と再会するまでの劉備の動向を表した概要図と略地図(丸数字の詳細は右表参照)

一方、劉備は初平4年(193年)、徐州(じょしゅう)牧の陶謙(とうけん)の救援での功績が認められ、のち重病になった陶謙から徐州を託される[47]。しかし曹操に敗れて劉備を頼ってきた呂布の裏切りに遭い、徐州を奪われる[48]。劉備は曹操を頼って、ともに呂布を捕らえてこれを処刑した[49]

その後、曹操は劉備を豫州(よしゅう)にある許昌(きょしょう)に連れて厚遇したが[50]、劉備は曹操の庇護の下で傀儡となっていた後漢の皇帝・献帝(けんてい)の密詔(内密に下された命令)を受けた董承(とうしょう)の「曹操暗殺計画」に引き込まれる[51]。のち計画が露顕し、大いに怒った曹操は袁術(えんじゅつ:袁紹の従兄)の討伐を理由に赴いたまま小沛(しょうはい)に残っていた劉備を攻撃し、建安5年(200年)に劉備は敗北[52]下邳(かひ)にいた劉備の部将(一部隊の大将)の関羽(かんう)と劉備の妻子が曹操に捕らえられ、劉備の兵は散り散りとなった[53]

同じく建安5年(200年)頃、『別伝』曰く、追われた劉備が曹操と対峙していた袁紹を頼って来ると[54]、趙雲は冀州の(ぎょう)で久しぶりに劉備に目通りした[55]。再会を喜んだ劉備は、趙雲と同じしょう(ベッド)を共にして眠った[56]。袁紹を見限っていた劉備は[57]、趙雲を派遣して秘かに数百人を募兵し、みな「劉備左将軍の部曲(ぶきょく:私兵)」と称したが、袁紹はこの動きに全く気付かなかった[58][56]。こうして趙雲は劉備配下となり、荊州(けいしゅう)牧の劉表(りゅうひょう)を頼りに、劉備軍に随行した[59]

その間、袁紹配下の顔良(がんりょう)を討ち取ったことで曹操から解放された関羽(白馬の戦い)や[60]、散り散りになっていた劉備の敗残兵たちが、劉備の下へ再集結している[61]。同年8月、袁紹と曹操の間で大規模な戦いが起こり(官渡(かんと)の戦い)、曹操が勝利をおさめ、袁紹は建安7年(202年)病死した[62][63]

博望坡の戦い

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荊州略地図
荊州略地図。荊州は趙雲が長年留まったことから、さまざまな民間伝承や趙雲にまつわる古跡が残されている(#民間伝承および#古跡・施設の節を参照)。

荊州の劉表を頼ってやってきた劉備たちは曹操への対抗のため、豫州との州境近い荊州最前線の地である新野(しんや)を任されることになる[64]。建安8年(203年)曹操の命を受けた夏侯惇(かこうとん)・于禁(うきん)らが新野北東に位置する博望)に侵攻し、劉備軍は伏兵を用いてこれを撃破した[65]

一方、正史「李典伝」(曹操配下の李典(りてん)の伝)では、「劉備軍が境界の(よう)まで侵攻してきたので、夏侯惇がこれを迎撃した」と書かれ[66]、前述の正史「先主(せんしゅ)伝」(劉備の伝)に記された経緯との食い違いがみられるが、「夏侯惇が劉備軍に翻弄された」ことが共通して書かれている[67][注 11]

『別伝』曰く、趙雲はこの博望坡の戦いで敵将の夏侯蘭(かこうらん)を生け捕る武功(軍事的手柄)を挙げたが、彼が小さい頃からの同郷の友人であることから劉備に助命嘆願し、法律に明るい人物として軍正(ぐんせい:軍の法律の官)[69]に推挙した。夏侯蘭は無事登用されたが、趙雲は以降、降将の夏侯蘭が無用の疑いをかけられぬように自分から彼に接近しないよう気遣ったという[70]博望坡の戦い)。

長坂坡の戦い

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長坂坡の戦いの略地図と概要図
長坂坡の戦いの略地図と概要図。後世、長坂坡には趙雲を顕彰する『長坂坡公園』が整備され、趙雲にまつわる地名や村名がいまも存在している。
正定県『趙雲廟』阿斗を抱えた趙雲像
正定県『趙雲廟』
阿斗を抱えた趙雲の騎馬像

袁紹の息子たちと烏桓族に勝利してついに華北を平定した曹操は[71]、建安13年(208年)荊州への侵攻を開始する[72]。このとき劉表は病死していたので次男の劉琮(りゅうそう)が跡を継いでいたが、9月に曹操軍が新野に到達すると劉琮は降伏してしまう[73][74]樊城(はんじょう)に居た劉備達は劉琮の降伏を知ると南へ撤退しようとするが、劉備を慕う劉琮の側近の一部と、荊州の民衆10万人がともに南下を開始した[75]

劉備軍は江陵(こうりょう)を目指すが、民衆を連れての大行軍は思うように進まず、『正史』曰く、荊州の当陽(とうよう)・長坂(ちょうはん:または長坂)にて、曹操自ら指揮を執る精鋭5,000の兵に追いつかれた劉備は妻子を捨てて、三顧(さんこ)の礼で迎え入れていた諸葛亮(しょかつりょう)と、張飛(ちょうひ)・趙雲ら臣下の数十騎とともに南へ逃走した[76][77]。劉備の娘2人は曹純(そうじゅん:曹操の従弟)に捕らえられたが[78]、張飛が殿しんがり(時間を稼ぎ本隊への追撃を阻止する役目)を務め[79]、趙雲が劉禅(りゅうぜん:幼名の阿斗あとで知られる)を身に抱え、更にその母の甘夫人(かんふじん)を保護したので無事二人は危機を免れることができた[80][81]。この戦いののち牙門将軍中国語版(がもんしょうぐん)に昇進した[82]

『別伝』曰く、このとき「趙雲が北(曹操軍の方角)に逃げ去った」と言う者がいたが、劉備は手戟(しゅげき:刃の付いた武器)を投げつけて「子龍はわたしを棄て逃げることはない」と相手にせず、ほどなくして趙雲が到着した、とある[83]長坂の戦い)。

劉備軍は曹操軍に江陵を制圧されたが[84]漢水(かんすい:または漢江かんこう長江ちょうこうの支流)の漢津(かんしん)で関羽の船団と合流し、劉表の長男・劉琦(りゅうき)の軍とも合流して夏口(かこう)へ逃れた[85]揚州(ようしゅう)の(ご)を治める孫権(そんけん)から派遣された魯粛(ろしゅく)を迎えた劉備軍は、孫権と同盟を結ぶべく諸葛亮を呉に送る[86]。曹操が江陵の水軍と物資を大量に手に入れたことで、呉では曹操への降伏派が多数を占めていたが[87]、魯粛が劉備と同盟を結ぶことを勧め、同じく孫権配下の周瑜(しゅうゆ)が開戦することを主張し、これが後述の赤壁(せきへき)の戦いへと至ることになる[88]

荊州平定戦

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荊州南部の略地図
荊州南部の略地図

同建安13年(208年)孫権(周瑜)軍と劉備軍は赤壁に、曹操軍は江陵から進軍して赤壁の対岸にある烏林(うりん)に布陣するが、曹操軍はこの湿地帯疫病被害に遭う[89]。そこに孫権配下の黄蓋(こうがい)が曹操に偽りの投降をして接近し、火攻めをする案を周瑜に持ち掛けた[90][91]。曹操はこれを見破れず、黄蓋の投降を信じたため、孫権軍の火攻めに遭い大敗した[92][93]赤壁の戦い)。

建安13年(208年)から建安14年(209年)にかけて、孫権軍と劉備軍はともに江陵を攻めて陥落させ、周瑜が江陵のある南郡(なんぐん)の太守(たいしゅ:郡の長官)になった[94]

劉備はその間に軍事行動を起こす理由付けとして劉琦を荊州刺史(しし:州の長官、牧)に推薦し、荊州南部四郡(武陵ぶりょう長沙ちょうさ零陵れいりょう桂陽けいよう)を占拠[95]公安(こうあん:油江口ゆこうこうのこと)を本拠地とし[96]、幾度となく敗北を喫して各地を転戦してきた劉備は、ついに領地を手に入れた(南郡攻防戦)。

『別伝』曰く、趙雲は荊州南部平定戦に参加して偏将軍中国語版(へんしょうぐん)・桂陽太守になった[97][注 12]。この桂陽攻略時に降伏した前太守の趙範(ちょうはん)が、自身の兄嫁である寡婦(未亡人)の樊氏(はんし)を趙雲に嫁がせようとした[100]。趙雲は「わたしとあなたは同姓ですから、あなたの兄ならわたしの兄のようなものです」と同姓を理由に断わった[101][注 13]。しかし樊氏は国色(国内一の容色を持つ美人のこと)[103]を持つ美女だったので、なおも趙雲に娶るよう薦める者がいたが、趙雲は以下を述べ固辞した。

「趙範は追い詰められて降伏したにすぎず、本心は測り知れない。それに天下に女性はたくさんいる」 — 『三国志』巻36「趙雲伝」裴注『趙雲別伝』[104]

その後、趙雲の警戒通り趙範は逃亡したが、趙雲は樊氏に何の未練も持たなかったという[105][注 14]

阿斗奪還

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公安周辺略地図
公安周辺の略地図。東の呉へ続く大江(長江)を張飛と共に遮り劉禅を奪還することが出来た。

建安16年(211年)『正史』曰く、劉備は荊州西の益州(えきしゅう)へ向かう際に諸葛亮・関羽・張飛らとともに趙雲を荊州の守備として留め置いた[108]

『別伝』曰く、劉備はこのとき趙雲を留営司馬(りゅうえいしば:軍営に留まって軍務を総括する役職のこと。後述の#官職を参照)に任じた[109][110]

そのころ甘夫人が病没し[111]、孫権の妹の孫夫人(そんふじん:京劇での名の孫尚香そんしょうこうで知られる)が劉備の正妻となっていた。これはまたたく間に荊州南部を平定した劉備の勢いを恐れた孫権による政略結婚であった[112]。孫夫人は孫権の妹であることを鼻にかけ、呉の官兵を率いて侍女にはみな刀を携え侍立させ、軍法を無視するなどの振る舞いに劉備は手を焼いていたという[113][114]。そこで劉備は厳格で公正無私な趙雲にこの事態を収拾させるべく、目付役(監視役)に任命し、内政を立て直させた[115]

孫権は劉備が益州入りしたことを知ると船を出し孫夫人を迎えて呉に帰らせたが、その際に孫夫人は劉禅を連れて行こうとした。趙雲は張飛と共に長江を遮って劉禅を奪還した[116]。一方、『漢晋春秋』(東晋(とうしん)時代に編纂された歴史書)では「諸葛亮の命を受けて、趙雲が奪還した」と記述されている[117]

益州平定戦

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『正史』曰く、益州牧の劉璋(りゅうしょう)と不仲になった劉備は、劉璋の攻撃を決定する。荊州に留まっていた諸葛亮たちを援軍として召し出し、荊州の留守を関羽にまかせ、建安18年(213年)に趙雲は諸葛亮・張飛・劉封(りゅうほう:劉備の養子)と共に長江を遡って入しょくして各郡県を平定した。趙雲は江州(こうしゅう)から別の川に沿って西進し、途上で江陽(こうよう)を攻略、成都(せいと)にて諸葛亮らと合流した[118]。『華陽国志』(かようこくし:東晋時代に編纂された蜀・の地方志)では、趙雲はこのとき江陽のほかに、犍為(けんい)も攻略したとある[119]

益州が平定されたのち翊軍将軍中国語版(よくぐんしょうぐん)に任ぜられた[120][注 15]

『別伝』曰く、益州平定後、劉備は益州に備蓄してあった財産や農地を諸将に分配しようとしたが、趙雲は劉備にこう反対した[122]

霍去病かくきょへい前漢ぜんかん時代に活躍した名将)は匈奴きょうど(北方騎馬民族)がまだ滅んでいないとして、屋敷を作ったり私的なことに心を砕きませんでした。今の国賊は匈奴程度では済まされず、まだ平安を求める時ではありません。天下が平定されれば、それぞれ郷里に帰って故郷で農耕に励むのが一番です。
益州の民衆は度重なる戦乱で家を失い、田畑も荒れ果ててしまいました。今はこれを民衆に返し、安心して仕事に戻れるようにし、それから賦役や徴税を行なえば、民心を得られるでしょう」 — 『三国志』巻36「趙雲伝」裴注『趙雲別伝』[123]

劉備はこの意見に賛成して従ったという[124]。この趙雲の諫言は『全三国文』(しん代に編纂された三国時代の人物の言動などを収集した文集)に採用されている[125]

定軍山の戦い

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漢中の衛星画像
漢中の衛星画像

益州北部の漢中(かんちゅう)を巡って曹操と劉備の間で戦いが起きる(定軍山(ていぐんざん)の戦い)。建安24年(219年)『別伝』曰く、曹操軍の兵糧(ひょうろう:軍隊の食料、米)を奪うために劉備配下の将・黄忠(こうちゅう)は趙雲の兵を借りて出陣したが、約束の時間を過ぎても戻ってこなかった。趙雲は少数の兵を率いて軽装で偵察へ向かったところを曹操の大軍と出くわすが、見事な撤退戦で無事に自陣へ戻った。しかし負傷して敵陣に取り残されていた将軍の張著(ちょうちょ)を救出するため、取って返している[126]

しかし曹軍は再び盛り返して趙雲らの陣まで追撃してきた。陣には沔陽べんよう(ちょう:県の長官)の張翼(ちょうよく)がおり、張翼は門を閉じ拒守しようとしたが、趙雲は逆にこれを開かせ、旗を伏せて戦鼓(軍鼓、陣太鼓。軍勢の進退の合図に打ち鳴らす太鼓[127]を止めさせた。曹軍は趙雲に伏兵があると疑い引きあげたところを、趙雲は戦鼓を雷のごとく天を震わせるほど叩いて合図し、うしろから(ど、いしゆみ:射撃用武器)で曹軍を射た。曹軍は驚き、混乱の中で互いに蹂躙して漢水の中に落ち、大勢が死んだという[128][注 16]

劉備は翌朝、趙雲の陣に自ら視察に向かい、

子龍の一身はすべてこれきもである
(子龍一身都是膽也、子龍は度胸の塊の意) — 『三国志』巻36「趙雲伝」裴注『趙雲別伝』[129]

と称賛した。宴会が開かれ、夕方にまで至ったという。軍中は趙雲をごうして「虎威将軍(こいしょうぐん)」と呼んだ[130]。このエピソードは『資治通鑑』(しじつがん:北宋(ほくそう)時代に編纂された歴史書)[131]、『太平広記』(北宋時代に編纂された類書百科事典)にも採用され[132]、『空城計』と呼ばれる心理戦のひとつとされ、歴史上初めて行い成功させたのは趙雲である[133][134][注 17]

対呉戦争

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「夷陵の戦い」進路地図
「夷陵の戦い」進路地図
(青が蜀軍、赤が呉軍)

漢中を手に入れた劉備は漢中王を称する。この直後、関羽は荊州から(ぎ:曹操の王朝。曹魏)に侵攻するも、曹操と同盟を結んだ孫権の裏切りによって荊州を奪われる。退路を失った関羽らは捕らえられて孫権に処刑された(樊城の戦い)。

建安25年(220年)には曹操が病死すると、子の曹丕(そうひ)が献帝に禅譲(地位を譲ること)を迫って皇帝に即位し、ついに後漢は滅びた[136]。これを機に劉備は蜀漢(しょっかん)の皇帝を称し[137]、ここに魏・呉・蜀の三国鼎立(ていりつ)となった。

章武しょうぶ元年(221年)、劉備は呉に殺された関羽の仇を討とうとした。この時、多くの臣下が劉備を諫めた[138][139]。『別伝』曰く、大いに怒った劉備に対し、趙雲はこう諫言した[140]

「国賊は曹魏であり、孫権ではありません。魏を滅せば呉は自ら降伏するでしょう。
漢室をうばった曹丕を良しとしない民心に寄り添い、早く関中かんちゅうを平定し、黄河こうが渭水いすいの上流を拠点とし、凶逆を討伐すれば、関東義士は必ず食料を携え馬に乗り、漢の王師を支援するでしょう。魏を放置し、先に呉と戦うべきではありません。一度戦端が開かれば、容易に終結させることは不可能です」[注 18] — 『三国志』巻36「趙雲伝」裴注『趙雲別伝』[142]

しかし劉備には聴き容れられず、趙雲は江州(とく:諸州の軍事の監督)として留まることになった。夷陵(いりょう)の戦いで呉の陸遜(りくそん)の火攻めに遭い蜀漢が大敗すると、趙雲は永安(えいあん:白帝城はくていじょう)まで兵を進め劉備を救援した[143]

劉禅の即位

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そののち病を発して病床に臥せた劉備は、章武3年(223年)4月に白帝城にて崩御した。同年5月、元号を建興(けんこう)に改め、子の劉禅が即位すると、『正史』曰く、中護軍中国語版・征南将軍(四征将軍中国語版)へ昇進し、諸葛亮・魏延らと同時に永昌亭えいしょうてい(こう:爵位)に封じられた。のち鎮東将軍中国語版に昇進した[144][注 19]

第一次北伐

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「第一次北伐」進軍ルート
「第一次北伐」進路地図
(赤が蜀軍、青が魏軍)
右端の赤の点線は魏延が提案し、諸葛亮に退けられた進路。右から二番目の線が趙雲・鄧芝の進路を表す。
「明月峡古桟道」
「明月峡古桟道」 魏への北伐は秦嶺山脈が横たわる険しい山道を越える必要があった。

建興5年(227年)『正史』曰く、諸葛亮と共に曹魏への侵攻(北伐:ほくばつ)に備えて漢中に駐留した[145]

建興6年(228年)、諸葛亮が斜谷(やこく)街道を通ると宣伝すると、魏の第二代皇帝・曹叡(そうえい)は曹真(そうしん)を(び)に派遣し[146]、曹真は箕谷(きこく)に大軍を派遣してこれに当たらせた[147]。諸葛亮は趙雲と副将の鄧芝(とうし)に別動隊を率いておとりとしてその相手をさせ[148][149]、その間に諸葛亮は本隊を率いて祁山(きざん)を攻撃し、この蜀軍の侵攻に動揺した南安なんあん天水てんすい安定あんていの三郡が寝返った[150]

『正史』曰く、その後、箕谷では曹真の兵は強く趙雲と鄧芝の兵は弱小だったので敗北したが、兵をよく取りまとめて固守したので大敗にはいたらなかった[151][注 20]。しかし街亭では蜀の馬謖(ばしょく)が魏の張郃(ちょうこう)に撃破され大敗[155][156]街亭(がいてい)の戦い)、蜀軍は敗戦により手に入れた三郡を手放し[157][158]、全軍漢中に撤退、諸葛亮は馬謖を処刑した[159](第一次北伐)。

そののち諸葛亮は「街亭では命令に背かれる誤ちを犯し、箕谷では不謹慎のための失策を犯し、その責任は任命した私にあります」と上奏し、諸葛亮は自身の位階を三階級下げ右将軍に降格[160]、趙雲は鎮軍将軍中国語版に降格された[161][注 21]。一方で、『華陽国志』では位階ではなく「秩(禄)(ちつ(ろく):給与された金銭や物資)を貶した」との記録がある[164]。『水経注』(すいけいちゅう:北魏(ほくぎ)時代の地理書)によると、この撤退戦の際に趙雲は赤崖(せきがい)より北の百余里に渡る架け橋を焼き落すことで魏軍の追撃を断ち切っており、その後しばらくは鄧芝と共に赤崖の守りにつき、屯田(とんでん:辺境を防衛する兵士の農耕)を行っている[165]

『別伝』曰く、この退却時に趙雲が自ら殿しんがりを務め、兵を巧みに取りまとめたので軍需品(輜重(しちょう):兵糧・被服武器などの総称)を殆ど捨てずに済んだ。諸葛亮は鄧芝に「街亭の戦いでは我軍が撤退する際、兵は隊列を乱し、散り散りになってしまった。しかし、箕谷の戦いでは、兵は統制がとれ、秩序を保って撤退することができた。これは一体なぜか?」と尋ねた。鄧芝は「それは趙将軍自らが殿となったため、兵は秩序を乱すことなく撤退し、軍需品や器物をほとんど捨てずに済んだのです」と答えた[166]。諸葛亮は恩賞として趙雲が持ち帰った軍需品のを将兵に分配しようとしたが、趙雲は以下の進言をして敗戦の責任を明らかにし、この進言に諸葛亮は大いに喜んだという[167]

「敗軍の将になぜ恩賞があるのですか。どうかそのまま赤岸(赤崖)の倉庫におさめ、10月になるのを待ってから、冬の下賜(かし:高貴の者が身分の低い者に物を与えること。賞与)とされますようお頼みします」 — 『三国志』巻36「趙雲伝」裴注『趙雲別伝』[168]

最期

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『正史』曰く、建興7年(229年)卒。趙雲の長子趙統(ちょうとう)が後を継いだ[169]

『正史』では上記の通り「建興7年(229年)卒」となっているが、諸葛亮が建興6年(228年)11月に上奏したとされている『後出師表』(ご・すいしのひょう)では、「漢中に至ってより一年、趙雲・陽羣ようぐん馬玉ばぎょく閻芝えんし…(中略)…を失った」[170]とあり、228年11月以前に趙雲が亡くなっていることになっている。そのため『後出師表』について真作か偽作かの結論が出ていない[注 22]。(詳細は該当記事を参照)

死後

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『正史』曰く、32年後の景耀けいよう4年(261年)春3月、趙雲は『順平侯じゅんへいこう』の諡号(しごう:生前の功績への評価から贈られる名。おくりな)を追贈された[172]法正(ほうせい)・諸葛亮・蔣琬(しょうえん)・費禕(ひい)・陳祗(ちんし)・夏侯覇(かこうは)は死後すぐに、関羽・張飛・馬超(ばちょう)・龐統(ほうとう)・黄忠は景耀3年秋9月に追贈されており[173]、趙雲は12人目で、蜀漢で二文字の諡を贈られたのは、諸葛亮(忠武)[174]・関羽(壮繆)[175]・趙雲(順平)の3名のみである[176]。時の論はこれを栄誉とした[177]

『別伝』曰く、諡を追贈される前、劉禅は詔勅で「趙雲はかつて先帝に従い、その功績はすでに顕かである。朕は幼いときに困難に直面しながらも、彼の忠誠と従順を頼りに危険から身を救うことができた。諡号とは、大きな功績を記す英雄を指す。世間では趙雲に諡号を贈るのは当然のことだと取り沙汰している」と述べた[178]

大将軍姜維(きょうい)たちは会議を行い、以下を上奏した。

「趙雲はむかし先帝に仕え、労苦・功績はすでに顕かであり、天下の経営にあたっては法度を尊び奉り、記録に値すべきものです。当陽の役(長坂坡の戦い)では義は金石を貫き、忠誠を持って陛下を護りました。君主がそれを賞することを思い、下に厚く礼遇するならば、臣下はその死を忘れます。死者に知覚があるとするならば、それは不朽の名声を立てるに足ります。生者であり恩に感じるならば、それは身を捧ぐに足るものです。
謹んで諡法を調べますに、柔順・賢明・慈愛・恵愛にあふれることを『』といい、仕事を行う際に秩序のあることを『』といい、災禍や反乱を打ち勝ち平らげることを『』といいます。
よって、趙雲に諡して順平侯と称すべきです」[注 23] — 『三国志』巻36「趙雲伝」裴注『趙雲別伝』[180]

蜀漢の滅亡

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諡号の追贈から2年後の炎興えんこう元年(263年)、魏の蜀漢討伐が開始され、趙雲の次子の趙広(ちょうこう)が沓中(とうちゅう)にて戦死、綿竹(めんちく)では諸葛亮の子の諸葛瞻(しょかつせん)らが討ち取られ、冬11月、劉禅は魏に降伏、蜀漢は滅亡した。長子の趙統の死についての記述は『正史』になく、子孫がその後どうなったのかは不明である[181]

人物

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『正定(真定)城』 南門(長楽門)
『正定(真定)城』 南門(長楽門)

正史「趙雲伝」と『趙雲別伝』から、以下の推論がされている(別伝については#趙雲別伝を参照)

出自

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周~三国時代の王朝

前11世紀
|
前256
西周
前11世紀 - 前771
東周
前770

前256
春秋
前770 - 前476
戦国
前476 - 前221

前221 - 前207

前206
|
220
前漢 前206 - 8
 8 - 23
玄漢 23 - 25
後漢 25 - 220
三国
220
|
280

220

265

221

263

229

280
「戦国七雄地図」
戦国七雄地図」
(紀元前260年頃)
南門(長楽門)外側
南門(長楽門)外側
  • 趙姓:(姓の起源)
    紀元前960年(しゅう)の時代に造父中国語版(ぞうふ)が封地として趙城を賜ったことから姓を造から「」に改めたのが趙姓の起源とされる[182]
  • 趙国と常山:(国から郡へ)
    前403年春秋時代、趙・(かん)・(ぎ)の三家が(しん)から独立後にこれを滅ぼし、それぞれ領土を分け合い、趙家は戦国七雄のひとつである「」を建国した[183]前229年にはに降伏して属国となり、趙国は「趙郡」へ、さらに「恒山郡」などに分割され、「東垣県」(とうえんけん)が治所(政務を執り行う場所。政庁)[184]となった[183]。恒山はのちに、前漢文帝(ぶんてい:後述の劉邦の四男)が「劉」(りゅうこう)と名乗ったため、避諱(ひき:君主や目上の実名の使用を避けること)して「常山」に改名される[185]
  • 真定と趙佗:(真定の趙姓)
    南越(なんえつ)の王・趙佗(ちょうだ)は趙雲と同じ常山真定の人で、同じ趙姓である。
    趙佗は元は秦の役人であったが、秦から漢(前漢)へ代わる混乱に乗じて南越(現在の広東、広西、ベトナムの中北部)を建て王となった[186]前203年頃、前漢時代になると高祖・劉邦(りゅうほう:前漢の初代皇帝)が趙国を再興させると、趙の国相・陳豨中国語版(ちんき)が反乱を起こし、劉邦がこれを鎮圧したのちに東垣県を「真定県」と改名すると、南越を支配していた趙佗はすぐに劉邦に服従した[185]。 劉邦の死後、文帝と趙佗は和睦を続け、「趙佗の親族の墓のために真定に守邑(しゅゆう:警備や世話をする人々が住む集落)[187]を設け、毎年祭祀を行った」こと、「趙佗の従兄弟たちを呼び寄せ、高い官位を与え厚く賜物し、寵愛した」ことが『史記』『漢書』に残されている[188][189][185]
    これらの事実から、趙春陽は趙佗の一族(趙家)が真定に郡望(ぐんぼう:郡中の名望の族)[190]を有していたことを指摘し、趙雲もこの真定の郡望の出であったのだろうと論じている[注 24]。その根拠として、『別伝』に見られる趙雲の会話内容の語彙の多さと論理的思考から、幼少期より優れた文化教育を受けていたことが窺え[注 25]、また、劉備の主騎に抜擢されたのは、後漢末の貴族の子弟が家族と国家を守る義務を負い、幼少期から騎乗や射撃の訓練を積んでいた慣習に鑑みれば、趙雲も同様に武芸に長じていたからであろうと推論している[194][注 26]
日本の研究
渡邉義浩は『別伝』に「劉備と同じ床で眠った」[58]こと、「劉備が「趙雲が曹操軍に降った」と報告した者を打ちつけ、趙雲を信じた」[83]話に触れ、二人の間に(きょう:弱者を助け強者をくじき、義のために命を惜しまない気質を持つ者)としての強いつながりが見られることから、劉備・関羽・張飛らと同じく下層民と定義し[197]、矢野主税は「豪族(の出)?」として分類している[198]

名前

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  • :(あざな)
    成人時に実名以外につけた名のこと。本名(いみな)と関係があり、曹操の「孟徳」は荀子(じゅんし)の言葉から、周瑜の「公瑾」、諸葛瑾(しょかつきん)の「子瑜」は楚辞(そじ)の『九章·懐沙中国語版』(くしょう・かいしゃ)からなど、古典から取られることが多い。趙雲の字「子龍」は、「子」は男子の尊称、「龍」は『易経(えききょう:儒教五経の一つ。周易)』の『乾』「雲は龍に従い、風は虎に従う」[199]から取られたと考えられ、「相似た性質を持つ者同士は互いに求め合う。立派な君主のもとには優れた臣下が現れることのたとえ」といった意味がある[200][201]

年齢

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  • 挙兵:(170年前後説)
    正史にも『別伝』にも趙雲の生年についての記述はないため年齢不詳であるが、「常山郡(国)から推挙されて官民の義従(義勇)兵を率いた」[22]という『別伝』の記述からさまざまな考察がされている。趙雲のように州郡と協力して兵を率いた人物の年齢は、正史ではおよそ18歳前後~20歳以上の者に多くみられ[注 27]、これにならって趙春陽と方北辰は趙雲の生年を170年前後、つまり191年の挙兵時は20歳前後の説を支持している[202]。175年~180年頃に生まれたとする学者の説[注 28]などもあるが、生年を180年と仮定すると191年時点で11、2歳となり、この年齢で義従兵を率いたとは考えづらく、趙春陽はどんなに遅い生年でも175年までとし、それ以降に生まれた可能性を否定している[202]
  • 史書:(文中の表現から)
    『別伝』には趙雲と劉備の出会いについて、「時先主亦依託瓚,毎接納雲,雲得深自結(この時、先主(劉備)も公孫瓚の元を頼っていた。(劉備は)常に趙雲を受け入れたので、趙雲は深く自ら結託することができた)」[33]と記述され、『別伝』が書かれた後の時代(北宋)に編纂された『資治通鑑』では、この趙雲と劉備の出来事を「劉備見而之,深加接納…(略)(劉備は趙雲を見て、その才能を奇(※あや)し、深く受け入れた)※奇:才能を認め高く評価すること」[204]と解釈(表現)しており、『別伝』と『資治通鑑』双方に見られるこれら表現は、正史では「王允と呂布」[205]、「劉備と田豫[206]のような、10歳以上年の離れた年長者や目上の者と年少者に対しての記述で確認される。よって、劉備(161年生まれ)と趙雲においても10歳ほどの年齢差(趙雲が年下)であったと考えられ、これは上述の「170年前後生まれ」説とも符合すると言える[202]
  • 干支:(えと)
    趙雲の字「子」から干支の年生まれとする説もあるが、陸遜の孫の陸雲・字「士龍」は262年生まれの年、陸雲公・字「子龍」は511年生まれの年生まれで、このように「龍」の名が使われていても辰年生まれであるとは限らない[202][注 29]
  • 演義:(三国志演義から)
    『三国志演義』では趙雲が70歳の老兵として北伐で戦った描写になっているため、生年を逆算して158年生まれとし、劉備よりも年上とする考察や、中国の施設では趙雲像などの台座にこれらの生年が反映されていることがあるが[207]、『演義』はあくまで正史を元にした創作小説であり、この70歳というのは作者の羅貫中の創作である。この『演義』の趙雲の年齢描写については作中、多くの矛盾点が存在している。「#矛盾点」も併せて参照。

官職

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役職・官職の変遷

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役職・官職一覧(別伝含む)
西暦年 官職名 他の就任者 出典
191-194年? 主騎 不明 [34]
208-209年? 牙門将軍 魏延 [208]
209-214年? 偏将軍 関羽 [209]
209-214年 桂陽太守 趙範 [210]
211-214年 留営司馬 なし [109]
214?-223年 翊軍将軍 霍弋 [211]
221-223年 江州督 李福 [212]
223-229年 中護軍 費禕 [213]
223-?年 征南将軍 劉巴、姜維 [注 30]
?-228年 鎮東将軍 劉備、劉琰 [215]
228-229年 鎮軍将軍 許靖陳祗 [216]

劉備配下時代(『趙雲別伝』含む)は、劉備が長らく左将軍の地位だったことと[217]、開府(高官が役所を設けることや、新しい都や拠点を開くこと)[218]をしていなかったため、劉備が創設した官が多い(雑号将軍も合わせて参照)。

魏は独自の九品官人法を用いており、後漢・魏・呉・蜀では、同じ官職名でもそれぞれの国や時代により職務・位階(地位、等級)などに違いがある場合がある。

以下は趙雲が就いた役職・官職についての概説(職掌・在任期間など)と、研究者による推論など。各該当記事も参照(官職名横の丸数字①~⑨は就任順を表す)。

公孫瓚配下時代

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  • 主騎:①
    騎兵隊長を指す[注 8]
    当時、劉備が率いていた『幽州烏丸(烏桓)雑胡騎』を任されていたと考えられることから、馬術に長けていたと推測され[30]方北辰は趙雲は公孫瓚の『白馬義従』の一員だったのだろうと述べている[37]。「田楷の救援に向かうため、劉備の主騎として随行した」[34]と正史に書かれるが、正史「先主伝」によると田楷の救援は①191年(青洲)[219]と②193年(徐州)[220]の2回あり、『別伝』に記述されている公孫瓚に仕えた時期から①と考えられる[注 5]。『別伝』では一度劉備の下を去ったと記され(時期不明)[38]、活動期間は不明。

劉備配下時代

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  • 牙門将軍:②
    牙門将軍中国語版も参照。
    劉備が創設した官[221][222]、定員1名。
    208年「長坂の戦い」で評価され任命される[82]
    「牙門」は「将軍旗(牙旗)の立つ軍門」を意味する[223]
    『牙門将』という官名もあるが、蜀の『牙門将』とは『牙門将軍』を指すと考えられる[224][225]。『別伝』では翊軍将軍の前に偏将軍に就いているため、正しい在任期間は不明。趙雲の次子・趙広も牙門将(軍)に就いている[223]
  • 翊軍将軍:⑤
    翊軍将軍中国語版も参照。
    劉備が創設した官[226][227]、定員1名[225]
    「翊」の字は鳥が飛び立とうと両翼を広げた状態を表わし[228]、「とびこえる」「助ける」「補佐する」[229][230]などの意味があるが、「兵を統率する」[227][231]以外にどのような将軍職だったのかは不明。趙雲と霍弋の二人だけが就任している(表参照)。翊軍将軍になった時期が正史(214年)と『華陽国志』(219年)で違いがあり、在任期間不明[注 15]

趙雲別伝記載

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  • 偏将軍:③
    偏将軍中国語版も参照。
    荊州平定戦後に就任[97]
    将軍の指揮下で副官や小隊を率いる[232]
    「かたわら」「副」の意味を持ち、将軍に昇進した場合に最初に就任することが多い[233]
  • 桂陽太守:③
    太守も参照。
    荊州・桂陽の太守(郡の長官)、定員1名[234]
    荊州平定戦後に桂陽太守の趙範から交代して就任[97]
    職務は群民の統治、県令、県長などの地方の官吏の推挙の他、犯罪取り締まりなど[234][235]
    趙春陽は趙雲が桂陽太守になったことについて、三国時代は新しく群守に任命された者はその郡を攻め落とした将軍になるのが常であったため、桂陽は趙雲が単独で軍を率いて攻め落とした可能性が高いことを指摘している[99]
  • 留営司馬:④
    劉備が創設した官[236][110]
    荊州に留め置かれた時に任命される[109]
    「軍営に留まり、軍務を総括する」[110]、すなわちその地域に駐屯して軍事の指揮を執る役職で、非常事態が発生すれば大規模な軍隊を動かす権限を持つ『留府司馬』と類似しており、『宋書』や『南史』には留府司馬が実際に軍事行動を行った例が記されている[237][238]。当時劉備はまだ開府をしていなかったため、「留府」ではなく「留営」になったと考えられる。周思源中国語版は「衛戍(駐屯地)の司令官兼、公安局長のようなもので、本拠地(公安(県))の安定・管理と宮中(孫夫人)のことも任せられた重要な役職」と解説している[239]
  • 江州督:⑥
    都督も参照。
    諸州の軍事の監督、定員1名[240]
    対呉戦争(夷陵の戦い)時に任命される[143]

劉禅配下時代

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  • 中護軍:⑦
    中護軍中国語版も参照。
    禁軍(近衛兵)の執掌(指揮、支配)と武官の人事選抜を司り、諸将を統率[241][242]。定員1名[243]
    建安12年(207年)に曹操が「護軍」を「中護軍」と改め、呉や蜀でも設けた[243]。禁軍の執掌と武官の人事選抜という権限を持つため、就任者に対して強い忠誠心を抱く軍事勢力を形成しやすいという特徴があり、そのため中護軍が権力者の家族の手に渡った場合、その勢力が皇権に対する脅威となりかねないため、多くの場合は君主から絶対的な信頼を得た重臣が任じられた[244][注 31]。 『華陽国志』では建興元年(223年)以前に中護軍(と征南将軍)に就任していたとある[注 19]
  • 征南将軍:⑦
    四征将軍中国語版も参照。
    四征将軍のひとつ[231]。方面軍司令官、定員1名[245]
    「南を征する」の意味を持つ[246]。在任期間不明。
    『三国志演義』では趙雲は南蛮征伐で武功を挙げているが、正史や『別伝』にはこの戦いに参じた記述はなく、後任の姜維は北伐で武功を挙げた人物で、官名と実際の武功のあった地域が一致するとは限らない[244][注 32]
  • 鎮東将軍:⑧
    鎮東将軍中国語版も参照。
    四鎮将軍のひとつ[231]。方面軍司令官、定員1名[245]
    「東を鎮める」の意味を持つ[247]。就任時期不明。
    蜀と呉の同盟関係により、蜀漢においては征東将軍の官職は設置されず、鎮東将軍のみが置かれていた[248][注 33]
    劉備は曹操より鎮東将軍の地位を譲り受けたことがあり[249]、その地位を劉禅が趙雲に継承させたことは趙雲を高く評価していたことの証左とも言える[248]。趙雲の後任については明確な史料が確認できず、蜀漢の史料の欠落あるいは官職の廃止といった可能性が考えられる[250]
  • 鎮軍将軍:⑨
    鎮軍将軍中国語版も参照。
    劉備が創設した官[251][252]、定員1名[253]
    第一次北伐後、鎮東将軍の地位から降格して就いた[161]
    「四鎮将軍の下に位置付けられる」[254]とするが、魏と蜀では位階に違いがあるため、鎮東将軍から鎮軍将軍に移ったことが蜀においては昇格を意味するのか、降格を意味するのか、鎮軍将軍は重号将軍中国語版か、雑号将軍か、研究者の間で議論されている[注 21]

墓地

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正史には趙雲がどこに葬られたのか記録はないが[255]、以下に趙雲墓とされている墓が3か所ある。

大邑

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三国時代~清の王朝
三国
220
|
280

220

265

221

263

229

280
…(略)…

1271 - 1368
北元
1368

1635

1368 - 1644
南明
1644

1662
後金

1644 - 1912
「成都県級行政区画図」大邑の位置
「成都県級行政区画図」
大邑は成都の西側に位置する。
  • 大邑だいゆう趙雲墓:中国学会で広く認められている墓。
    四川省成都市大邑県にある銀屛山(ぎんぺい、またはぎんぺいざん。『三国志演義』では錦屛山(きんへい、またはきんぺいざん)[256]。山の名前については後述)の南麓に位置し[257][258]、趙雲が晩年、羌族(きょうぞく:四川にいた羌族は、服飾に青色を好んで用いたことから「青羌」と呼ばれる)の反乱を鎮圧するため、この地に駐屯したという逸話が大邑に伝わっている[注 34]。静恵山には趙雲が土城や羌族を監視する台(望羌台)を築いて、羌族の侵入を防いだとされる遺跡が複数残されていた[260][261][注 35]。のち趙雲が亡くなると、この地に葬られたとされる(後述)。墓の前に建てられた子龍廟は末の戦争で破壊された[255]
    1665年、大邑知県李徳耀が趙雲墓のために祠堂と碑を建て[263]、その後も何度かの改修、拡張工事が行われ、1891年5月には文荘公が奏請して趙雲が祀典に列せられ、以降、該当の地方官が春秋に祭祀を執り行った[264]
    1930年には大邑県長解汝襄が県民と一緒に子龍廟を拡張し、前殿、本殿、拝殿などからなる壮観な建造物になった。清代の頃から毎年春になると、子龍廟の近くで盛大な廟会が開かれ、趙雲に対する敬意を表し、近くの町村から商人や住民が集い、茶屋や酒場には多くの人々が集まり、廟の外には屋台が立ち並んで歌や踊りが披露されるなど、大変賑やかだったという[265]

    1949年以降も茶園が設けられるなどして庶民の憩いの場であったが[255]、その後は文化大革命で破壊されてしまう。2011年に墓の修復が始まり、その際に誤って墓道を掘り当ててしまったが、最終的に採掘を中止し、現状のまま保存する決定が下されている[266]。その後も四川地震が起こり、工事が中断されていたが、現在政府により修復作業が進められ、2025年に一般公開が予定されている[267]
    1961年、県級文物保護単位指定、1985年、市級文物保護単位指定、1996年、省級文物保護単位指定、2005年には「大邑趙子龍文化研究会」が成立[266]、趙雲の故郷・正定県の「河北省趙子龍文化研究会」や、台湾の「佳里子龍廟永昌宮」(「#台湾」を参照)と積極的な交流が行われている。

    以下は時代の地方志にわずかに記録されているという、「趙雲が大邑に葬られた理由」とされる。
「趙雲は晩年、羌族きょうぞくの人々が山から平原の民衆を襲うことを好んだため、朝廷から命を受け、大邑の静恵山を守っていた。趙雲は民衆から深く慕われ、軍略にも長けていたので羌族も漢族もみな彼を心から慕っていた。
趙雲が亡くなると、地元の人々は彼の恩恵に深く感謝し、朝廷に趙雲をその地で葬るよう強く願い出た。諸葛亮は民意に従い、こうして趙雲は大邑に葬られた」 — 「子龍墓と黄忠墓」『神游三国 蜀漢遺跡導游』より[265]
  • 墓の発見
    大邑の趙雲墓についての最古の記録は、明末の曹学佺中国語版が記した『蜀中広記』108巻中の巻13で、「本志に曰く、静恵山、一名東山…(略)」[261]と書かれている。この『本志』について、大邑地元学者の衛復華の説では、明版の『大邑県志』を指すと考えられており、また、楊慎が編纂した『邛州志』にも、当時大邑県が邛州に属していたことから、大邑県に関する記述、ひいては趙雲墓に関する当時の状況についての詳細が含まれていたと推測できるが、これらの貴重な史料は戦乱や流賊(諸地方を渡り歩く盗賊)[268]による破壊によって失われ、清代には現存していない。他の現存する史料では『大明一統志』に南陽の趙雲墓(後述)が記されているが[269]、大邑の名はなく、葉威伸は明代中期以降に初めて大邑の趙雲墓と廟が発見された、あるいはこの時期に造り出されたのではないかと推測している[270]
  • 山の名前
    清代に入ってからの文献・史料では「大邑に趙雲墓がある」ことと、墓のある場所(山の名前)として、そこで初めて『銀屛山』の名が確認されるため、葉威伸は銀屛山の名は清代に名付けられた可能性を指摘し、さらに元末から明初頃に成立した『三国志演義』には趙雲の墓の場所として『錦屛山』の名が出てくるが、大邑のいかなる志書にも錦屛山の名は見当たらないことから、清代の銀屛山の名称は『演義』の錦屛山と結びつけて名付けられたのだろうと推測している[271][注 36]
    錦屛山の名は『演義』の作者である羅貫中(らかんちゅう)が何らかの史料を元に名付けた可能性があるが[注 37]、『演義』内において錦屛山は「趙雲の墓」の場所以外にも物語中2度登場し、1つは劉璋(りゅうしょう)の配下である張任(ちょうじん)らが錦屛山を通って紫虚上人(しきょしょうにん)に吉凶を尋ねる場面[273]、もう1つは劉禅が錦屛山が崩れる夢を見た直後に諸葛亮の死の知らせを聞くという場面[274]で、これら錦屛山は蜀の人物や政権などの死と滅亡に結びつけて使われており、羅貫中の創作か、或いは当時の民間伝承に基づいて作り出した可能性も考えられる[275]

南陽

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  • 南陽なんよう趙雲墓南陽市南三十里に存在した墓。
    趙雲の墓についてもっとも古い記録である(みん)の天順5年(1461年)『大明一統志』に記述がある[269]。盗掘に遭い、現在は碑文の拓本が残っている。以下は墓にまつわる伝説である。
順治帝は自身を劉備の生まれ変わりだと名乗り、「二弟の関羽が夢に現れ、三弟の張飛は遼陽に、四弟の趙雲は南陽にいると告げた」と大臣たちに言い、神勅を発して遼陽で張飛の生まれ変わりを、南陽で趙雲の生まれ変わりを探させた。南陽の知県は3か月間、趙雲らしき人物を探したが見つけられなかった。
この時、偶然にも南陽市の南三十里の村で、誤って人に怪我を負わせてしまった罪で役所に送られた趙走軍という農民がいた。 知県は趙走軍の濃い眉、大きな目、長身で整った容姿を見て趙雲に違いないと思い、名前を聴いた知県は「””に””を足すと、”(运)”(うん)=”(云)”(うん)ではないか? 彼は間違いなく趙雲の生まれ変わりだ!」 と頭の中で考え喜んだ。知県は縛られていた趙走軍を解き、明日都へ向かうことを告げた。事情を知らない趙走軍は、都行きは傷害の罪で処刑される事だと思い、恐ろしくなった彼はその夜、首を吊った。
趙走軍が自害したと聞いて、知県は急いで都に戻って皇帝に謝罪した。 順治帝は一部始終を知ると、彼を責めることなく、四弟に永遠に会えなくなったことに激しく涙を流し、趙走軍を王侯として手厚く南陽に葬り、子龍祠を建てて永遠に偲ぶようにとの詔を発し、これが南陽の趙雲墓になった。 — 「南陽趙雲墓」の伝説より[276][277]

臨城

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  • 臨城りんじょう趙雲墓:発見がもっとも新しい墓。
    2005年5月19日、河北省邢台市臨城県麒麟崗から光緒戊戌(24年(1898年))の『漢順平侯趙雲故里』の碑が発見され、2009年に河北省政府によって無形文化遺産リストに含まれた[278]。 この臨城県の動きは正定県との趙雲の故郷をめぐる論争を引き起こし、学界でも議論を巻き起こした[279][280]。地元の伝説によれば、臨城県には3つの趙雲故里の碑があったとされている[281]。臨城の趙雲墓については、1982年に臨城県文化管理局が行った文化財調査の際に臨城県澄底村の西1.3キロで発見された[282]が、大邑趙雲墓や南陽趙雲墓が、明代に遡る『大明一統志』や現地の年代記に記録されているのに対し、臨城趙雲墓は年代記や歴史書には見つかっていないため、研究者は趙雲の墓である可能性は低いとみている。 民間伝承によると、趙姓の人々がこの墓前で千年以上にわたって春と秋に祭祀を行ったというが、墓石や記念碑はなく、墓の近くに廟も建っていない[283]。 以下はその理由とされている。
劉禅は趙雲の蜀漢建国への功績に感謝し、成都から臨城まで72の墓の建設を命じた[注 38]。これは後世の墓荒らしを防ぐためでもあった。そのため、「一年三百六十日、毎月毎日、趙雲を埋葬する」という故事が澄底村で代々受け継がれてきた。臨邑古城と乱木の溜め池(乱木水庫中国語版:子龍湖)一帯には、趙雲の墓と呼ばれるこのような大きな墓が20以上ある。 「乱木」は旧称「乱墓」と言い、墓を造る者が人目を欺くために、意図的に墓を荒らしたという意味で、これが乱木村の名前の由来である。 — 「長坂趙雲之墓」『関於趙雲故里』より[284]

家族

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正定県「趙雲廟」、趙雲と二人の息子の趙統・趙広
正定県『趙雲廟』
趙雲・趙統・趙広の塑像
  • :名は不詳。『趙雲別伝』に記載。『三国志演義』には登場しない。
  • :名は不詳だが、民間伝承や『演義』関連作品で様々な妻が登場する。
  • 趙統:長子。蜀漢の武将。『演義』では弟と共に趙雲の墓守を命じられる。
  • 趙広:次子。蜀漢の武将。『演義』では兄と共に趙雲の墓守を命じられる。
  • 関樾:趙雲の娘(趙氏)と、関羽の長男である関平との間に生まれたとされる人物。

趙雲別伝

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「趙雲別伝」とは

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陳寿~裴松之の時代
後漢 25 - 220

220

265

221

263

229

280
晋(西晋)
265 - 316
東晋
317 - 420
十六国
304 - 439
宋(南朝)
420 - 479
北魏
386

535
斉(南朝)
479 - 502

正史『三国志』は、蜀漢と西晋(せいしん)に仕えた陳寿(ちんじゅ:233年 - 297年)が編纂した後漢~西晋までの約100年の歴史を簡潔に記述した歴史書である。『三国志』の成立から約100年後の南朝宋(宋:そう)時代に文帝(ぶんてい)からその簡素な記述を補うよう命を受けた裴松之(はいしょうし:372年 - 451年)は、当時まだ残されていた史料・文献を広く調べ、詳細な注釈を付し(裴松之注裴注とも)、この裴松之注によって『三国志』の内容は大幅な充実をみることになった。

趙雲別伝ちょううんべつでん』は裴松之が引用した文献の一つであり、趙雲の生涯を詳細に記した個人の伝記である[18]。正史『三国志』の趙雲伝が約400字の簡素な記述に留まり[注 39]、多くの不明な点が残されていたのに対し、『趙雲別伝』には趙雲に関する記述が約3倍に及び、公孫瓚との関係から劉備への仕え、官職の変遷、さらには会話内容までが記されており、趙雲の生涯をより深く理解できる貴重な史料である。しかし『趙雲別伝』は作者や成立時期が不明であり[注 40]、そのため信憑性については国家が編纂した正史に比して低いと評される[286](「別伝」の成立や研究、信憑性については後述の#「別伝」とはも参照)。

既に散逸(さんいつ:まとまっていた書物がばらばらになって行方がわからなくなること)[287]しているため、裴松之の注以外にどのような内容が記されていたのかを知ることは困難である。なお、『正史』の「趙雲伝」と区別するために「別伝」と称されるため[288]、本来の名称は『趙雲伝』であったと推測される。

「別伝」は他の人物にも存在し、三国時代の主な人物は以下の通り[289][290]

 

※曹操の別伝名は『曹瞞伝』。
その他文献は三国志_(歴史書)#裴松之の注に引用された主要文献を参照。
以下は「別伝」についての解説と研究者による信憑性について。

「別伝」とは

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「別伝」とは、主に後漢時代~東晋(とうしん)時代までにおける、単独の人物に関する伝記である。その多くは名士を中心とした知識人層の名声を高める目的を持っていたが、中にはあまり重要視されなかった人物に焦点を当てるためや[291]、あるいは晋代以降に世家の子弟が多く就任していた秘書郎中国語版(ひしょろう:皇室の蔵書を管理し、校正や編纂を行う官吏)や佐著作郎中国語版(さちょさくろう:国史(国の歴史書)の編纂をする著作郎中国語版(ちょさくろう)の下に位置する官吏)の課題として書かれた[292]。後漢時代から続く人物評の流行のみならず、魏晋時代における名士層の気風の発達に伴い盛んに製作された別伝は、対象の人物に関する雑多な内容が盛り込まれており、「正統」である史書とは異なる視点や性質を有するほか[293][294][295]、表現に小説的技法が見られるのが特徴である[296]裴媛媛(はいえんえん)によれば、別伝の作者名が往々にして無記載である理由としては、単なる佚名によるもの以外では、別伝が成立する初期段階では書面ではない逸聞の寄せ集めに過ぎなかったために、それを引用する後世の歴史家たちが便宜的に「別伝」という通称を用いたこと、またそれらの逸話が単独の人物ではなく複数人から伝わったことも挙げられる[297]。だが時には、『孫資(そんし)別伝』に対して裴松之が指摘しているように[298]、家伝由来の伝記であるために該当する人物の失点を隠して記されたものも存在した[299]。また顔師古(がんしこ)が『東方朔(とうぼうさく)別伝』について「みな実際の出来事ではない」と難じたように、怪奇現象などの確証に欠ける逸話が載せられることもあった[300]。とはいえ、全ての別伝がそれらと同様に信憑性が低いとは限らず、依然として別伝の史料的価値は高いといえる[301][302]

史書は後漢時代まで国家が編纂するものであった(ただし、国家が編纂することにより偏向が生まれることもある)。裴松之が『三国志』に注をつけて引用した数々の書物を批判し、史実を確定しようとしたのは、不確実な内容を記す史書が増えたためであった[303]。『趙雲別伝』には趙雲が活躍する記述が多いのに対し、陳寿による本伝の記述は簡素であることから、その信憑性を疑う声も少数ある。しかし、引用した作品を厳しく批判したり矛盾を指摘する裴松之が、『趙雲別伝』には一切疑問を呈しておらず、また三国志研究者の論文や著作物でも、史書を補う資料として扱うのが通例である。

採用・肯定派

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  • 裴松之:『三国志』の注釈として引用し、内容について批判・指摘をしていない。
  • 司馬光:『資治通鑑』を編纂するにあたって、『趙雲別伝』の記述を採用している。
  • 方北辰周思源中国語版同様に、歴史人物(趙雲)の解説をTV番組で行った際、正史と共に『趙雲別伝』を採用している[304][239]
  • 渡邉義浩:「裴松之は、『趙雲別伝』については、内容的な誤りなどを指摘することはない。裴松之は、『三国志』を補うことができる史料と認定していたと考えてよい」と述べている[305]
  • 矢野主税:対象の人物の功績を残すのみならず、その人物周辺の政治的動向が反映されていることから、別伝は「一般史書の欠を補う貴重な史料」だと論じ、その一例として、『趙雲別伝』内に「蜀の後主が〔〕雲の死後賜った詔をのせているが如きにも見られる」ことを挙げている[306]。また、家伝に依拠した可能性も踏まえつつ、「当時、世上に流布していた人物評を基として書かれた」という作品的性質から、別伝とは「ある個人の作というよりも、当時の社会の作というべきもの(中略)換言すれば、門閥社会の、その人物に対する評価」ではないかとも述べている[307]

否定派

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  • 何焯:趙雲が劉備に仕えた時期が本伝と異なることを指摘し、また第一次北伐で降格された趙雲が褒賞を受けたことには「諸葛亮は賞罰が厳粛であるのに、趙雲を降格する一方で、どうして妄りに報奨を与えられるものだろうか。そうでないことは明らかだ。別伝の類はみな子孫が美辞で飾り立てたものであるため、承祚(陳寿)は採用しなかったのだ」と述べており、『趙雲別伝』の記述を批判する傾向にある[308]。劉備の呉討伐に対する諫言については、国家経営は諸葛亮の担当であり、彼が諫めるのは当を得ているが、趙雲のような武臣が口を挟むのは分不相応であるとして、「〔趙雲の〕家伝は〔他人の〕美談を奪い取っているのだ」と主張する。また劉備の大敗を受けて諸葛亮が想起したのが法正だったことに触れながら「雑号将軍〔である趙雲〕の及ぶところではない」とし、さらには、『趙雲別伝』は諸葛瑾の書状や孫権が帝位を称した際の諸葛亮の言葉を模倣したのだろうとも述べている[309]

その他

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  • 李光地中国語版:「趙雲の美徳はみな『別伝』に見られるが、本伝では全く触れられていないのは、なぜなのだろうか?」と疑問を呈している[310]

正史の評価

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成都武侯祠の趙雲塑像。清代に作られたもので、別格扱いの関羽、張飛を除くと、蜀漢の武将陣の中でも趙雲の像が筆頭の位置に置かれている。(左は孫乾)
成都武侯祠の清代に作られた趙雲の塑像(左は孫乾

歴史的評価

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後世、中国では趙雲を目上に対して臆せず諫言する勇敢さに加え、文官的な知性、大臣の気質を持つ儒将として高く評価した(後述の個人の評価を参照)。蜀漢の名臣名将の塑像が祀られた成都武侯祠の『劉備殿』西側にある「武将廊」の趙雲の塑像が文官の服を着せられているのは、このためであるとされる。清代は『三国志演義』の流行により高まった趙雲の人気もあり、蜀漢の武将としては、本殿に祀られている別格扱いの関羽・張飛を除いて「武将廊」に筆頭の位置に置かれている(文官を祀った東廊では龐統が筆頭)[注 41][注 42]

現在の成都武侯祠の文武官の塑像は清代に作り直されたもので、塑像の増減や調整が過去何度かなされており、現在の配置は1953年に改修された時のものである。趙雲の塑像姿(老人)や、龐統の塑像の顔色(茄子色)の理由についての民間伝承が存在する。以下概要。

果親王かしんのうはあるとき成都の武侯祠へ行くと、「長坂坡で主君の奥方を守り切れなかった罰」として、白袍を着た趙雲像が山門に設置されていることに驚き、糜夫人が井戸に身投げしたのは趙雲のせいではないこと、彼の長年の忠誠心と功績を挙げ、像を武侯祠に戻すよう住持に促した。
住持は武将廊の端にあたる部屋に小さな屋根付きの場所を設け、趙雲を置いて武将の筆頭にすることにした。しかし現在の若武者姿の像を移すわけにもいかないので、文官の袍服を着た白髪白髭の老人の姿で塑像することにした。「趙雲が長寿を全うした」という意味である。
趙雲への待遇に対し、大変不満に思った人物がいた。龐統である。「私は趙雲よりも地位の高い軍師であり、彼は私の命令の下で動いていたではないか。さらに趙雲は白髪白髭の老人として描かれ、私は青黒い顔色をしている。趙雲は長生きしたが、私は矢に当たって短い生涯を閉じた。悔しい!本当に悔しい!」
後殿の方から音がして龐統が顔を上げると、果親王が自ら筆を執って「名垂宇宙(その高名は宇宙にまで響き渡る)」と書かれた大きな額を武侯殿に掛けたところだった。この瞬間、さらに怒った龐統の顔は紫黒色、まさに茄子色に染まってしまった。 — 「武侯祠龐統的瞼為啥是茄子色的」より[314]
『成都武侯祠』龐統の塑像
『成都武侯祠』龐統の塑像

この伝承に登場する文武臣の配置は1953年の武侯祠改修後の配置で、龐統はこの時に『昭烈殿』(本殿)から文臣を祀る東廊に配置換え(降格)されており、胤礼(いんれい:果親王)の生きた時代(1697年-1738年)の配置と矛盾が生じている。趙雲が山門の番として武侯祠の外に設置されていたという話[注 43]も、1672年の時点で既に「武将廊」に祀られており、また、筆頭になったのは道光年間(1821年-1850年)からなので、やはり矛盾が生じている。

成都武侯祠博物館の『武侯祠大観』によると、「塑像の外見は後代の伝承や小説・戯曲由来で、龐統が黒顔(茄子色)なのは演劇で龐統を演じる役者由来である」と記されており、そのため趙雲も京劇で登場する老年期(武老生)の姿から作られたと考えられ[注 44]、よってこの伝承は近代の創作と推測される[317]

成都武侯祠以外では康熙61年(1722年)に歴代帝王廟中国語版に趙雲が従祀名臣の列に加わっている[注 45]小林瑞恵は、趙雲が従祀名臣に列したことについて、趙雲を不忠者と評しなかった毛宗崗本『演義』の版本の流行による影響の可能性を指摘している[319][注 46]

個人の評価

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  • 劉備:「子龍の一身はすべてこれ肝である」[320]
  • 陳寿:「①黄忠・趙雲は共に彊摯壮猛、揃って軍の爪牙となった。灌嬰滕公の輩であろうか?」[321][注 47]
    「②陳到は名声・官位ともに常に趙雲の次にあり、どちらも忠節勇武な人物として称えられた」[323]
  • 楊戯:「征南(趙雲)は厚重、征西(陳到)は忠克、共に選り抜きの兵を指揮し、勲功をあげた猛将であった」[324]
  • 朱黼:「(対呉戦争の諫言について)それは深く明確であると言える。 天下の全体を知っている」[325]
  • 盧弼:「絶世の美女の樊氏を子龍が受け入れなかったのは、関羽が秦宜禄の妻との結婚を懇願したのに対して賢明な行いだ」[326]
  • 郝経:「趙雲は忠誠を尽くし、君主への愛情深く、外敵から国を守った。その志は初めから終わりまで変わることがなく、漢の忠義の士であった。功績と志は曹樊の輩のようである。趙雲は特に博識で先見の明がある。勇ましいが注意深い。たびたび忠言を献じ、その度に時勢を的中させた」[327]
  • 薛登:「武芸に関しては、趙雲は勇気があるが、諸葛亮の指揮を必要とした。周勃は偉大な人物だが、彼には陳平の策略はない。もし樊噲蕭何の役目を担ったならば、必ず状況を見極めて適切な指示を出すという機会を逃してしまっただろう。逆に、蕭何が前線に赴いたとしても、君主を危機から救うような効果はなかったであろう。武勇に優れた武将は敵の攻撃を打ち砕くことに長け、謀略に優れた武将は事態を的確に予測することに長けている」[328]
  • 楊時偉:「子龍の心は金石を貫き、その義理堅さは関張に劣らない」[329]
  • 范光宙:「趙雲の一部始終の見解は大臣の器量であり、ただの名将ではない」[330]
  • 黄彭年:「趙雲は数十騎で敵に遭遇し、門を開けて旗を伏せ戦鼓を止め、勇気を示した」[331]
  • 李景星:「関羽・張飛・馬超・黄忠・趙雲はいずれも蜀の名将である。故に合伝されている」[332]
  • 趙作羹:「(益州農地分配の諫言について)趙雲の提案を見るに、これは統治の基礎と言える」[333]
  • 林暢園:「孫夫人の横暴は趙雲と法正によって制御できた。このように賢者は国にとって非常に有益である」[334]
  • 李光地:「趙雲と張嶷は偉大な将軍であるだけではなく、明決で思慮深く、成熟した人物であり、古の重臣に選ばれるだろう」[335]
  • 陳允錫:「(東征に対する趙雲の諫言について)これは素晴らしい戦略だ。劉備はそれに従わず敗れた。天は漢に味方しなかった」[336]
  • 計大受:「(東征に対する趙雲の諫言について)この時点で彼は諸葛亮の大節に値する人物だ。そこには古代の大臣たちの遺風がある」[337]
  • 梅公毅:「将軍になるためには、大胆にして細心であること。大胆であれば勇気があり、細心であれば賢明なので敵を倒すことができ、たとえ不利な状況であっても完全に敗北することはない。三国時代の将軍の中でこれができるのは、魏の張遼と漢の趙雲だけだ」[338]
  • 易中天:「建安二十四年、劉備は漢中王を称し、四将を封じた。前将軍関羽、右将軍張飛、左将軍馬超、後将軍黄忠。趙雲はいない。 歴史上、五虎大将軍はなく、四虎大将軍だけで趙雲はいつも雑号将軍だった。 趙雲はとても悔しいですね。それは間違いなく悔しいことですね」[339]
  • 李澄宇:「長坂の戦いで趙雲が後主を抱いて保護し、甘夫人もみな難を逃れた。孫夫人が呉に戻ると、趙雲と張飛は河を遮って後主を奪還した。この二つの出来事は今でも私たちの心に鮮明に残っている。彼の逝去後、関羽・張飛・馬超・龐統・黄忠と同じく美諡を与えたのは良い行いだ」[340]
  • 陳淡野:「人もまた器であり、各々にはそれぞれの器量がある。 天地のごとき器量は聖人や皇帝がそれに倣うのと同じである。 山・川・海の器量は貴人の定めである。 古夷齊には他人を許容する器量あり、孟夫子には剛健の器量あり、范文正には世を救う徳の器量あり、郭子儀には福の器量あり、諸葛亮には智の器量あり、歐陽永には才の器量あり、呂蒙正には寛容の器量あり、趙子龍には勇の器量あり、李德裕には力の器量あり。これらはすべて偉大な器である」[341]
  • 王復禮:「①順平(趙雲)はまさに儒将であった。自己を律するは厳しく、人との接し方は慎重であった。道理を見る目は明晰で、私心を捨てる力は強かった。当陽で後主を救い、奮って身を顧みず、漢水で功績を立て、その威勢は虎のようであった。ことわざにあるように、「胆欲大而心欲小。志欲圓而行欲方。(胆は大きく、心は小さくあれ。志は円く、行いは方正であれ)」。まさに順平のことである」[342]
    「②当陽の戦いと孫夫人の帰郷。趙雲が弱ければ後主を助けられない。したがって功績や才能に関係なく、彼は三国の全ての人々よりも優れている」[343]
  • 王夫之:「猇亭で敗れ、先主(劉備)が亡くなり、国の精鋭は夷陵で尽きた。趙雲のように公(諸葛亮)の志に共感する老将もいなくなった。公は疲弊した残りの民を率い、愚かな君主を支えながら北伐を志したが、為す術がなかった。そのため公はこう言った。「鞠躬尽瘁,死而後已。唯忘身以遂志,而成敗固不能自必也。(深く謹み、全身全霊で事業にあたり、最後まで力を尽くして志を遂げるのみで、成否は必ずしも自分で決めることはできない)」。もし先主が、関羽を信頼したように公を信頼し、趙雲の言葉を聞き入れて東征をやめ、曹丕が天下を簒奪したばかりで人心も定まっていないときに、孫権と手を結んで中原を問いただしていたならば、国力もまだ十分で、士気もまだ盛んだった。漢の運が衰えていたとしても、なぜ英雄の血が許昌洛陽に流されず猇亭にのみ流される必要があったのか?」[344]
  • 李紀中国語版:「昭烈(劉備)は趙雲を使って漢中を奪い、関羽を遣わし樊城を攻めた」[345]
  • 呉雲中国語版「天性の勇毅、将軍として自分の命を危険にさらし兵の為に戦う。これは趙順平(雲)、常開平(遇春)の遺風だ」[346]
  • 陳造中国語版:「趙子龍が魏軍を退けた時、劉備は彼を勇敢な男だと言った。いわゆる死から生へ、敗北を成功へと変えたのだ」[347]
  • 張溥中国語版:「(対呉戦争の諫言について)(趙雲は)大義を理解し政策を決定するという点で魯粛と同じだったが、劉備は彼の言うことを聴かなかった」[348]
  • 蕭常中国語版:「趙雲は勇猛の臣でありながら、田畑や家屋を返還して民心を大切にしたり、軍資を冬の下賜にしたり、呉を赦免して魏を重視したり、国家に対する明確な理論を築き上げたが、これは諸葛亮でも考えに至らないことだ。同姓を理由に趙範の兄嫁を受け入れないなど、己への厳しさは当時の武将の中でも随一ではないか?」[349]
  • 李榘中国語版:「蜀の猛将といえば、世の中では必ず関羽と張飛を最初に挙げるだろう。彼らの勇猛果敢な気概と、忠義を貫く節操は、古今を通じて傑出した人物と言える。しかし、彼らが欠けていたのは智謀であり、それが原因で敗れてしまった。私が思うに、趙雲は武将として、一万の敵にも恐れられる勇気を心に宿し、その胆力は君主に称賛され、関羽や張飛にも引けを取らない。さらに、賞の辞退や呉への出征を諫めるなど、謙虚で深く考え、時勢を見極める能力は、関羽や張飛には及ばない。まさに真の良将である。劉備、諸葛亮、関羽、張飛、そして趙雲は力を合わせて漢の復興を目指した。しかし、関羽と張飛が亡くなり、その後劉備も世を去り、趙雲が亡くなり、諸葛亮もまもなく世を去る。蜀には君臣ともに優れた人物がいなくなり、滅亡を免れることはできなかった」[350]
  • 朱軾中国語版:「趙雲・関羽・張飛・馬超・黃忠、強者を併称して五虎將。陳寿は、趙雲の剛強で勇猛なところを灌嬰と滕公にたとえたが、これは趙雲のすべてを言い尽くしたものではない。趙雲は知略が深く、度量が広く、公孫瓚の反乱の際、使者とのやり取りでその才を見せた。劉備との関係は、鄧禹光武帝に仕えたように、先見の明があった。当陽での護衛は、麦飯豆粥を煮るような手間を惜しまないほど徹底していたし、漢中の戦では、戦況を転換させるような巧みな戦略を立てた。夏侯蘭を推薦し、自分と親しくなることを避け、岑彭のように韓歆を有用な人物と見抜き、馬武のように旧部下を率いようとしなかった。趙範からの結婚の申し出や田園の贈与などを固く拒み、憂国の念を抱き公務に励む様子は、呉漢が妻が多くの田地を買ったことを怒ったという故事に似ている。要するに、趙雲の計略や戦略は、特に出兵を諫める言論に際立っていた。その見解は、諸葛亮の平生の用兵と大筋において似ており、もし趙雲が生きていれば、大将軍の地位は姜維ではなく趙雲に与えられただろう」[351]
  • 易佩紳中国語版:「趙雲は武臣であったが、儒臣としての性格も併せ持っていた」[352]
  • 鄭元佑中国語版:「趙雲が蜀で民を安んじたように、無限の需要を限られた家で共有するのは得策ではない」[353]
  • 厳如熤中国語版:「褒斜道の桟道、桟閣は趙雲と王平が忠実で慎重な将軍としてそれらを担当した。その意図が内在している」[354]
  • 沈国元中国語版:「趙雲の田宅の辞去と魏滅亡の請願は、すべて古代の大臣の識見を持っている。名将として律することを望む」[355]
  • 王士騏中国語版:「明るい洞察力は過剰な褒賞への戒めになる。趙雲を見ていると、彼は単なる名将ではなく大臣の器量である」[356]
  • 宋徵璧中国語版:「張遼と趙雲は敵の要塞に出入りし、英雄的な精神と猛々しさで敵を抑止、危害を阻止した。これは将軍のやり方ではない」[357]
  • 牛運震中国語版:「趙雲別伝には、劉備との係わり、田宅贈与の辞退、東征に関する助言などの経緯が記されているが、いずれも全体的な情勢把握という点で注目に値する」[358]
  • 朱可亭中国語版:「①趙雲と関張、そして馬超・黄忠は五虎将と呼ばれた。陳寿はその強摯壮猛によって灌嬰・滕公と比較した」[359]
    「②孫臏は竈の数を減らし、虞詡は竈の数を増やした。趙奢は陣を増やし、趙雲は陣を開いた。虚実を強弱の形にすることで軍事情勢は常に変化する」[360]
  • 魏裔介中国語版:「昭烈(劉備)は涿鹿の地で起ち上がり、一旅の兵を率いて、曹孟徳(曹操)、袁本初(袁紹)、劉景升(劉表)、呂奉先(呂布)の間で苦難を乗り越え、ついに天下を三分する基業を築いた。西南の文武の佐命は、諸葛亮、関羽、張飛を以て先とするが、しかしながら、私は順平(趙雲)を見るに大節が磊々として、ただの名将というだけでなく誠に古の大臣と呼ぶにふさわしい。長坂の戦いにおいて、順平がいなければ、劉禅(阿斗)母子は危うかったであろう。北山の戦において、順平がいなければ勝利を得られなかったであろう。漢中において、昭烈は順平を称えて、「子龍の一身はすべて胆である」と言った。私が思うに、胆とは忠義が集まったものである。忠義が性から発せなければ、どうしてこのような胆を持つことができようか。また、成都に田宅を構えようとしなかったのは、霍去病の言葉を引いて、「匈奴を滅ぼさぬうちに、どうして家を構えることができましょう。今の国賊は匈奴ばかりではない。天下が定まるまで安んじることはできない。天下が定まれば、それぞれ故郷に戻って耕すべきです」と言ったことは、まさにその通りである。また、先主(劉備)が東征しようとしたときに諫め、「国賊は曹操であって孫権ではない。関中を図り、河渭の上流から凶賊を討つべきである」と言った。その識見は特に素晴らしい。惜しいことに、先主は諫言を聞き入れず、独断で進んだために敗れ、王業が中絶してしまったことは、まことに嘆かわしい。順平の言葉を採用して、孫権を捨てて関中、秦隴(長安と涼州)を奪取していれば、漢室は興隆したであろう。先主は人を見る目はあったが、用兵の識見は時勢や権謀術数に暗かったため、自ら軍を率いるとしばしば敗れた。しかし順平のような優れた武将を、微賤の身から見出して終生信頼し合ったことは、先主の大きな功績である。史書に記された順平の功績は古今に輝き、陳寿は趙雲を灌嬰や滕公に匹敵する人物と評した」[361]
  • 大唐平百済国碑銘:『趙雲は一身全て胆、勇敢三軍。関羽は万人の敵、名声は百代に渡る』[362]
  • 同治桂陽直隷州記:『順平(趙雲)は勇猛の臣、土地を平定し城塞を守備した。婚姻を拒み田宅を辞退、果断な志は一層勇気で奮い立つ』[363]
  • 愛新覚羅·弘暦(乾隆帝):「趙雲が言ったように渭水の上流から逆賊を討てば、漢王朝は何一つ失敗しなかったかもしれない」[364]

三国志演義の趙雲

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「趙子龍大戦長坂坡」

三国志演義とは

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演義の成立時代
宋(北宋)
960 - 1127
西夏
宋(南宋)
1127- 1279

1271 - 1368
北元
1368

1635

1368 - 1644
南明
1644

1662
後金

1644 - 1912

三国志演義』(以下『演義』)とは、中国の代に書かれた長編白話小説で、以下を基にして羅貫中の手により創作されたと伝わっている。

  1. 正史『三国志』
  2. 三国志平話』(説話:せつわ。一連の物語を語って聞かせる話芸)
  3. 元雑劇(げんざつげき:時代に隆盛した戯曲のひとつ。元曲

後にさまざまな版本が生まれたが、現在広く知られている『演義』の内容は、代に成立した毛宗崗中国語版による版本である。以下は『三国志演義』における趙雲についての概説。

趙雲像の形象

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『演義』の基となった『三国志平話』と元雑劇は、当時民間に広まっていた三国志に関する物語、民間伝承などを基に作られたもので、趙雲はこれら作品では特筆すべき目立った活躍はしておらず[365]、『演義』における趙雲の形象創造においても、羅貫中はそれらの影響を受けていない[366]。羅貫中は正史「趙雲伝」注釈に引く『趙雲別伝』(以下『別伝』)に書かれたエピソードからの多くをそのまま採用、引用しており[367]、『演義』における趙雲の形象は史料に基づいて形成されたと言え、これは『三国志平話』が荒唐無稽な話が多い中で、『演義』は「正史に忠実な記述を重視する」という両作品の姿勢の違いに起因しており、『三国志平話』で趙雲の形象が弱められていたことで「五虎大将軍」(蜀漢の5人の将軍のこと)のバランスが崩れていたのを、羅貫中と毛宗崗の二人が史料に基づいて趙雲を本来の姿に戻し、バランスが回復したと言える[368]

人物造形

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  • キャラクター:(性格など)
    正史に基づいた武勇と忠義を備えた理想的な武将でありながら、同時に民衆の心に響く物語を通じて、より魅力的なキャラクターとして再構築され、「知勇兼備の槍の名手」(後世では常勝将軍と呼ばれる)として華々しく活躍し、「常山の趙子龍」の名乗りは有名[369]。『演義』屈指の名場面として、趙雲が単騎で劉備の子・阿斗を救出する「長坂坡の戦い」は、趙雲の武勇と忠義を象徴し、その英姿は読者に強烈な印象を与え、その人気を決定づけたと言える[370]。関羽・張飛・馬超・黄忠ら蜀の名将と並んで「五虎大将軍」(五虎上将・五虎将とも)の一人となっている。
    性格面においては「義に厚くプライドの高い関羽」や「乱暴者の張飛」といった個性的で破天荒な登場人物たちが多い中で、「冷静沈着な趙雲」は諸葛亮から与えられる任務を着実にこなすため、作中、劉備・諸葛亮の双方から特に重要な任務で重用されることが多い[239]。中国では古くから、神として信仰の対象となっている関羽と派手に暴れ回る張飛は庶民から愛され、非常に高い人気を誇っていたが[371][372]、清代頃から時代が下るにつれて、趙雲のような「冷静かつ真面目・謙虚な人物像」が好まれる傾向になり[373]、中国の少年が初めて『演義』を読むと「一番最初に好きになる人物」と言われている[374]。『演義』の登場人物の人気投票では絶大な人気を誇る諸葛亮に次いで2位[375]、あるいは1位になることもあり[376]、日本でも同様に常に人気の高いキャラクターとなっている[377][378]
  • 容姿:(外見とイメージカラー)
    元の『演義』においては、趙雲は英雄的な男性らしさを強調した偉丈夫として描かれていた[379][注 48]。しかし、後世の創作作品では、いわゆる「白馬に乗ったイケメンの若武者」というイメージが定着している[380]。この変化は、清代の京劇において確立された「白袍を着た若い美形の儒将」という趙雲のイメージが、後世に多大な影響を与えたことに起因する(後述)[381]。近現代においても、単田芳中国語版張国良の平話・説話作品に見られる「若い娘のように美しい」[382]、「白袍に身を包み銀の槍を持ち、整った顔に氷のように透けた美しい白い肌」[383]といった表現や、映像作品における趙雲役への美形俳優の起用と「白袍姿で白馬に乗り、銀の槍を持つ」という、特徴的なビジュアルは京劇のイメージを継承しており、現代まで続く中国における趙雲の外見を固定化する上で、決定的な役割を果たしたと言える。
    京劇の影響以外にも、趙雲が仕えた最初の主君である「白馬将軍」公孫瓚が、白馬で統一された精鋭騎兵隊「白馬義従」を率いていたという史実から[14]、趙雲もその一員であった可能性があり[37]、このことから「白馬」や「白」というイメージが趙雲に結びつき、定着した一因となったと考えられ[381]、また、正史の注釈『別伝』の趙雲の容貌についての記述「身長八尺、姿顔雄偉」(身長約185~190cm、姿や顔立ちが際立って立派だった)[20][3]と記されていることも、キャラクター造形に影響を与えたと考えられる[19](「#京劇」「#日本の作品と影響」も参照)。

あらすじ

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以下は『三国志演義』における趙雲の主なあらすじ。【回目】後ろの[注 ]は毛宗崗の趙雲に対する点評(コメント)。

為求仁君

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タイ語版「三国志」 劉備と趙雲 (Hem Vejakorn(フランス語版)
タイ語版「三国」 趙雲と劉備
Hem Vejakornフランス語版

少年・趙雲は袁紹に仕えていたが、国や民を救済する心がない人物だと判り、公孫瓚の元へ向かうと袁紹配下の文醜に襲われていたところに遭遇した。趙雲は文醜と五、六十合渡り合ったが決着はつかず、文醜は退却した。公孫瓚は趙雲の元に駆け寄り感謝し、臣下に迎えた。

袁紹軍との界橋の戦いにて劉備関羽張飛たちが加勢にやってきた。公孫瓚は劉備に礼を言い、趙雲を引き合わせた。この時、劉備と趙雲はお互い惹かれあい離れがたく思った。別れの日、二人は互いの手をとり、涙を流しながらいつか再会できるようにと挨拶を交わす。その後、公孫瓚は袁紹に敗れ、趙雲は各地を放浪の末、ついに劉備と再会。正式に劉備軍の配下となった。

瓜分けし昔兄弟の契り深く、信絶えし今音もなし空しく
君臣の義を今再び結び、龍虎の勢い風雲に会す — 『三國演義』第二十八回「賛詩」[384]

【三国演義 第7・11・28回】[注 49][注 50]

襄陽赴会

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三国志通俗演義「劉玄徳襄陽赴會」
三國志通俗演義
「劉玄徳襄陽赴会」

劉備一行は荊州に赴くと、劉表に手厚く遇された。ある日、劉表は後継ぎについて相談する。「後妻の蔡氏との子・次男劉琮を立てたいが、長男を廃するは礼法に反する。しかし長男劉琦を立てると、蔡氏一族は軍の要職に就いており、必ず災いが起こるだろう」劉備は「長男を廃することは昔から乱を起こす道。次男を立ててはいけません」と答えた。盗み聞きしていた蔡氏は心底恨みを抱き、弟の蔡瑁と共に劉備の暗殺を計画する。

劉備の元に襄陽から使者がやってきて、慰労会を開くことになったが、劉表は病気が悪化し動けないので代わりに劉備に客を迎えてほしいという。劉備は趙雲を護衛にして300の兵と襄陽へ向かう。蔡瑁は蒯越と相談し、別室を用意して趙雲を引き離すことにしたが、趙雲は頑なに拒否した。しかし劉備が応じるよう促し、趙雲は仕方なく席を離れた。宴もたけなわになった頃、伊籍が劉備に耳打ちして蔡瑁の計画を告げると、劉備は馬に飛び乗り逃げ出した。大きな川が行く手を阻んだが、馬の的盧が三丈も跳躍したおかげで追手から逃れた。劉備がいないことに気づいた趙雲は蔡瑁に劉備の行方を尋ねるも、シラを切る蔡瑁に疑心暗鬼になるが、証拠がない今は軽はずみな行動は控えた。趙雲は一晩中探し回ってついに草堂で劉備と再会した。劉備は司馬徽(水鏡先生)の草堂にたどり着き、今後について教えを乞うていたのだった。
【三国演義 第34-35回】[注 51]

単騎救主

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タイ語版「三国志」 阿斗を託す糜夫人と趙雲 (Hem Vejakorn(フランス語版)
阿斗を託す糜夫人

劉備は三顧の礼をもって諸葛亮を軍師として迎えることになった。しかし劉表が病死し、後を継いだ次男の劉琮は劉備に何も伝えずに、荊州の支配を狙っていた曹操に降伏した。突然曹操の大軍に攻め寄せられた劉備軍は長坂坡で追いつかれ、劉備の妻子を見失ってしまった趙雲は敵将の夏侯恩を討ち取り、宝剣『青釭剣(せいこうけん)』を手に入れた[注 52]。その頃、糜芳は趙雲が曹操軍の方角へ逃走するのを見たと劉備に告げ、張飛は「やつを見つけたら俺が刺し殺してやる!」と息巻いた。劉備は「子龍は私が逆境にある時から従ってくれた。子龍は私を見捨てない」と信じなかった。

趙雲はついに阿斗(劉禅)と糜夫人びふじんを発見するが、糜夫人は足手まといになることを恐れ阿斗を託し、井戸に身投げしてしまう[注 46]。趙雲は阿斗を懐に抱えて曹操の大軍の中を単騎で駆け抜けた。

紅光罩いる龍飛び、征馬長坂の圍を破らん
四十二年のの命主、将軍これより神威顕す — 『三國演義』第四十一回「賛詩」[392]

曹操はひとりの将が戦場を駆け巡る姿を眺め、あれは誰かと側近に聴いた。曹洪が大声で問うと、趙雲は「我こそは常山の趙子龍だ!」と答えた。曹操は趙雲を手に入れたくなり、「矢を射てはならぬ、生け捕りにせよ!」と命じた。これが幸いして、趙雲はこの難から逃れることができた。それでもまだ追ってくる敵の将軍を次々に青釭剣で討ち取り、その数は五十人に上った。

血染の征袍甲紅透き、当陽の激戦誰が敵う!
古来衝陣危主扶けし、唯だ常山趙子龍のみ — 『三國演義』第四十一回「賛詩」[393]

無事に劉備の元へ戻ることができた趙雲は、劉備の前にひざまずき、糜夫人の死を告げ阿斗を差し出す。劉備は阿斗を地に放り投げ、「おまえのような子供のために大事な将軍を失うところであった!」と言った。趙雲は驚き、慌てて阿斗を拾い上げるが、劉備の言葉に感激して「肝脳地にまみれさせても、このご恩に報いることはできません」と涙した。
【三国演義 第41-42回】[注 53][注 54][注 55][注 56]

取桂陽

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三国演義(繡像本)挿画「趙子龍計取桂陽」
繡像本「趙子龍計取桂陽」

劉備は荊州南部の攻略へ動き出す。趙雲は桂陽攻略を志願するが、張飛も名乗りを上げたので二人は喧嘩になる。くじ引きの結果、趙雲が出撃することになった。桂陽太守の趙範は、臣下の陳応があっさり撃退されたので降伏を願いでた。

趙範と趙雲は同郷と分かり、喜んだ二人は4か月生まれが早い趙雲を兄として義兄弟のちぎりを結ぶ。趙範は亡くなった兄の嫁の樊氏を趙雲に引き合わせた。樊氏は再婚するには名声を轟かせ、文武両道で容貌が優れ、亡き夫と同じ姓を望んでいるという。樊氏を娶るよう勧めた趙範に、趙雲は「おまえの兄嫁ならわたしの兄嫁でもある。何故道理に背くことができるか!」と大いに怒り、趙範を殴り倒して城を出て行った。怒った趙範は陳応と鮑隆に偽りの投降をして隙をつき、趙雲を捕らえるよう命じたが、趙雲に見抜かれ斬り捨てられ、趙範は捕縛された。劉備は趙範の行為に敵意がなかったことを知ると樊氏を娶るよう趙雲に薦めたが、劉備の名声が落ちることを理由に固辞したので、劉備は「子龍は真の男だ」と感嘆した。そして趙範を解放してそのまま太守にし、趙雲を賞した。
【三国演義 第52回】[注 57]

甘露寺

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趙雲「截江救主」
「截江救主」

劉備は同盟国の孫権から妹(孫夫人:孫尚香)との縁談を薦められ、この申し出を受けることにした。趙雲は劉備の護衛として同行することになった。諸葛亮から三つの錦袋(錦嚢の計)を授かり、困ったときに順番に開けるように命じられる。この婚姻話は周瑜・孫権による劉備暗殺の罠であったが、三つの錦袋の中の指示に従って数々の困難から趙雲は劉備を守りぬき、呉国太にも二人の婚姻を認められ、無事に荊州へ戻ることができた。
【三国演義 第54-55回】

截江救主

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孫権は劉備が益州に入ったと知ると、呉国太が危篤であると偽りの書状を孫夫人に届け連れ戻そうとした。同時に阿斗も連れ出し荊州と交換させようと考えていた。趙雲は孫夫人と阿斗がいないことに気付き、慌てて船を追いかけ飛び乗った。呉兵から抵抗され孫夫人に罵られるも、隙をついて趙雲は阿斗を奪い返した。張飛も慌てて駆けつけ、阿斗だけは返してもらい、孫夫人を逃した。

昔年主救いし当陽の地、今日身一つ大江飛び込む
船上呉兵皆胆裂けたり、子龍の勇猛世の無双なり! — 『三國演義』第六十一回「賛詩」[400]

【三国演義 第61回】[注 58]

一身是胆

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三國志通俗演義「趙子龍大破魏兵」
「趙子龍漢水大戦」

諸葛亮は曹操軍の輜重を奪うため、黄忠を先鋒として派遣、趙雲を陣営の守備とした。約束の時刻になっても黄忠が戻ってこないので趙雲は探索に向かうと、黄忠が曹操軍に囲まれていたのでこれを次々に倒し救出した。曹操は「長坂の英雄は健在だったか。あの者を軽んじるな」と伝令する。

曹操軍が本陣に迫ってくると、趙雲は張翼に門を開けたままにさせ、弓弩兵を陣営外の壕に伏せた。張郃徐晃は開かれた門の前にただ一人、馬に乗った趙雲が陣営の外に立っているという異様なありさまに警戒した。そこへ曹操自らやってきて前進するよう促すも、趙雲は動じない。逃げようとした曹操軍に趙雲が合図すると、弓弩がいっせいに放たれ曹操軍は混乱して踏みつけ押し合い、漢水に落ちて多数の死者が出た。劉備は諸葛亮に喜んで言った。「趙子龍は全身肝っ玉である!

昔日長坂戦場より、威風は猶や衰えなし
敵陣破り英姿顕し、包囲遭うも勇敢施す
鬼哭神號し、天驚地慘たり
常山趙子龍、一身是胆なり! — 『三國演義』第七十一回「賛詩」[402]

【三国演義 第71回】[注 59]

五虎上将

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「劉備進位漢中王」

こうして漢中を手に入れた劉備は、諸葛亮たちの意見を聞き入れ、漢中王になることを決意した。関羽、張飛、趙雲、馬超、黄忠の五人は「五虎大将軍」に封じられた。

劉備のもとに間諜が「曹操が孫権と結託して荊州を奪おうとしている」という情報を持ち帰る。諸葛亮は関羽に樊城を攻撃させ、敵の気をそらす提案をし、劉備は費詩を荊州に派遣し、関羽が五虎大将の筆頭になったことを伝える。関羽は「翼徳(張飛)は私の弟であり、孟起(馬超)は名門の出、子龍(趙雲)は兄に長く仕え、いわば私の弟も同然。しかし何故老兵の黄忠が私と同列に扱われるのか!」と激怒した。費詩はなんとか説得し、ようやく関羽を納得させて劉備の命令通り樊城を攻めることになる。
【三国演義 第73回】

諫阻東征

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関羽は樊城を攻め曹操軍を追い詰めたが、味方の裏切りや呉軍に背後から攻められ、ついには捕らえられて息子の関平らとともに呂蒙らに殺されてしまった。【演義第73-77回】

怒った劉備は弔い合戦をすると詔を下す。趙雲と諸葛亮は共に諫めて止めようとするも、劉備はこれを聴きいれず対呉戦争へと行ってしまう。その途中、張飛は苛烈な私刑でむち打ちにした部下二人に恨まれ暗殺されてしまった。さらに夷陵にて劉備軍は陸遜の火計で大敗。江州にいた趙雲が救援に来たので陸遜は追撃せず軍を撤退させた。劉備を救った趙雲は白帝城へ逃走。この戦いで多くの将兵が戦死し、劉備は心労から病にかかってしまう。ある晩、夢の中に死んだ関羽と張飛が現れた。死期を悟った劉備は諸葛亮と趙雲を呼び寄せて後事を託す。趙雲は涙を流して地に拝し、生涯忠誠を誓った。
【三国演義 第81-85回】[注 60]

力斬五将

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タイ語版『三国』 趙雲と姜維の一騎打ち
趙雲と姜維の一騎打ち

諸葛亮は北伐を進める前に、度々反乱が起きる南蛮の征伐を開始。馬謖の「心を攻める案」を採用し、南蛮王孟獲を七度捕らえ七度目も解放しようとしたところ、孟獲はようやく心服して降伏した。
【三国演義 第87-91回】

帰還した諸葛亮はついに北伐に取り掛かる。この時老兵になっていた趙雲は、人選から漏れ抗議の声をあげた。諸葛亮は高齢を理由に説得するも、趙雲は戦場で死ぬことに後悔はないと聞かない。鄧芝が共に先鋒に行くことに名乗りをあげたので二人を出発させた。趙雲は韓徳の八万の軍勢とぶつかり、その息子たちをつぎつぎに討ち取る。鄧芝は「まさかすでに七十歳になっているとは思えません」[注 61]とその猛将ぶりを称えた。夏侯楙は自ら軍勢を率いて攻め込み、趙雲は韓徳を討ち取るも、深追いして程武の計略にはまってしまう。孤立し老いを実感した趙雲の元へ張飛の息子張苞、関羽の息子関興が助けに現れ、若い二人のお蔭で窮地を脱した。

昔日の常山趙子龍憶う、古稀超え猶や奇功建つ
獨り四将誅し陣を衝く、当陽の雄風今なお健在 — 『三國演義』第九十二回「賛詩」[406]

【三国演義 第92-94回】[注 62]

失街亭

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三國志通俗演義「趙子龍大破魏軍」
「趙子龍大破魏兵」

馬謖の敗北により退却命令を受けて、魏軍の猛追を抑えるため鄧芝が本隊を率いて先に退却、趙雲は別動隊を率いて殿になる。魏軍は趙雲の軍勢を前に蘇顒他、次々に敗れた。無事帰還した趙雲の軍が一人一騎も失っていないことを不思議に思った諸葛亮が鄧芝に問うと、「子龍将軍が一人で殿となられ、わたしは兵を率いて先行しましたので、物資を放棄しなかったのです」と答えた。諸葛亮は金を褒美としたが、趙雲は「三軍に何ら功はなく、褒美を受け取ると丞相の賞罰が明確でなくなります」と固辞した。諸葛亮は劉備がよく趙雲の徳を称えていたことを思い出し、今改めて敬服するのだった。
【三国演義 第95-96回】[注 63]

一陣大風

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諸葛亮は宴会を開き諸将と打ち合わせをしていると、突然一陣の風が吹き、庭の松の樹が折れてしまう。不吉な予感がした諸葛亮の元に、趙雲の息子の趙統趙広がやってきて、父が昨晩病没したと拝して泣きながら言った。諸葛亮は「国家は棟木と梁を失い、わたしは片腕を失ってしまった」と泣いて言った。劉禅もその言葉を聞くと「朕は幼いころ子龍がいなかったら乱軍の中で死んでいたであろう」と声をあげて泣いた。劉禅は趙雲に大将軍・順平侯の爵位を贈り、成都の錦屛山の東に埋葬し、廟堂を立て春夏秋冬、祭りを行うよう命じ、趙雲の二人の息子たちには趙雲の墓守をするよう命じるのであった。

常山に虎将あり、智勇関張匹敵す
漢水に功勲あり、当陽に姓字彰り
両番幼主を扶け、一念先皇に答ゆ
清史忠烈を書き、応百世芳り流る — 『三國演義』第九十七回「賛詩」趙雲の一生を称える[409]

【三国演義 第97回】

演義の研究

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以下は『演義』の研究者、および作家による『演義』の趙雲についての推論や考察など。

矛盾点

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清代「三国演義」趙雲
清代「三國演義」趙雲

作中の矛盾点についての考察。

  • 年齢の矛盾:(少年と70歳)
    正史では趙雲の年齢は生年不詳のため不明であるが、『演義』において趙雲は初登場時(191年)には「少年」として描かれ[410]、孫夫人から劉禅を奪還した時(211年)には自身を「小将」と言い[411][注 64]、五虎大将に封じられた時(219年)には、58歳の関羽(これは『演義』での設定の年齢であり、史実の関羽の正しい年齢は生年不詳のため不明である)が、趙雲のことを「我が弟」と呼び[413]、南蛮征伐(225年)では諸葛亮が趙雲のことを「中年」と呼ぶ[414]。しかし2年後の北伐前(227年)に突然「老将」と呼ばれ[415]、翌年(228年)には「70歳」になっている[416]
228年の「70歳」が正しいと仮定すると、以下の『左表』のように「58歳の関羽が61歳の趙雲を弟と呼ぶ」、「33歳の趙雲を少年として描く」などのさまざまな矛盾点が現れる。これについて沈伯俊中国語版は、著書『沈伯俊評点三国演義』にて『右表』のように趙雲の年齢を10歳若くした。「少年」を「青春年少」と解釈すると23歳でも問題はなく、一見すると他の部分の矛盾も無くなり合理的と言え、つまり70歳というのは「羅貫中の計算ミス」という考察である[417]
『演義』の70歳を元にした年齢 沈伯俊の著書(-10歳)
西暦 年齢 実際の描写 西暦 年齢 実際の描写
228年 70歳 第一次北伐 228年 60歳 第一次北伐
225年 67歳 諸葛亮が「中年」と呼ぶ 225年 57歳 諸葛亮が「中年」と呼ぶ
219年 61歳 58歳の関羽が「弟」と呼ぶ 219年 51歳 58歳の関羽が「弟」と呼ぶ
211年 53歳 孫夫人から劉禅を奪還 211年 43歳 孫夫人から劉禅を奪還
208年 50歳 長坂坡の戦い 208年 40歳 長坂坡の戦い
191年 33歳 「少年」として描かれる 191年 23歳 「少年」として描かれる
しかし趙春陽はこの考察について、『演義』には年齢の矛盾が生じている人物が趙雲以外にもいることを指摘し、例えば諸葛亮は初登場から老練で深謀遠慮のある人物として描かれるが、実際には181年生まれの27歳で、陸遜は183年生まれで夷陵の戦いでは42歳だが、「白面の若者」と表現されている[418]
したがって、これら『演義』の年齢は羅貫中の一種の「文学的表現」であり、諸葛亮や陸遜のように歴史に明確な年齢が記録されている人物であっても、人物像を際立たせるためにわざと年をとらせたり若く見せたりしていると考えられ、趙雲に関しては「彼の年齢は歴史に明確な記載がないため、より創作の自由が与えられた羅貫中が巧みな筆で趙雲の若さを長く保ち、読者の心の中で趙雲は永遠に「白馬銀槍の若武者」[注 65]として生き続ける。歴史は真実を求めるが、文学は美を追求するのだ」と結論付けている[419]
年齢の影響
この『演義』の「70歳」という描写から生年を逆算し、『演義』関連物では趙雲の生年を「158年生まれ」とするものや[171][420][注 66]、『演義』、或いは「80歳、90歳まで生きた」という民間伝承[421][422][注 67]などを史実(正史)と混同したのか、中国の公園や施設に展示されている趙雲像の台座や展示板には「158年生まれ」のほかに「148年生まれ」とするものが存在する[207]。そのほか、光栄(現:コーエーテクモゲームス)のシミュレーションゲーム『三國志シリーズ』では、ゲームのシステム上、全武将に生没年が設定されており、趙雲はこのゲーム独自に「168年生まれ」と設定されているが[423]、この影響を受けたとみられる中国や海外のサイトにおいて、趙雲の生年を「168年生まれ」とするものがある[424]

相違点

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以下は正史との違いについて。

  • 正史との相違:(活躍に応じての変更)
    最初に仕えた主君が公孫瓚ではなく袁紹になっているほか[425]、漢中(定軍山)の戦いにおいて、『正史』では「虎威将軍」と軍中で号されたとあるが、『演義』ではこれが趙雲の官職名となっており[426]、『正史』での「翊軍将軍」「鎮東将軍」は、『演義』ではそれぞれ「鎮遠将軍」「鎮南将軍」に変更され[427]、最期は劉禅から「大将軍」の称号と「順平侯」の爵位(正史では諡号)が贈られるなど[428]、物語の活躍に応じたものに変更されている。有名な「劉備が阿斗を放り投げる」シーンは正史にはないが、中国には「劉備が阿斗を投げつける(劉備摔阿斗、対着趙雲摔阿斗)」という故事成語歇後語中国語版(けつごご:中国の言葉遊び。#歇後語も参照)[429]があり、物語中、趙雲から受け取った阿斗を地面に放り投げた劉備が言い放った「おまえのような子供のために危うく大事な将軍を失うところであったわ!」の言葉に趙雲が感動したことから、「人気取り」「人心を買う」という意味で使われる[430]

羅貫中考察

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作品内における羅貫中についての考察。

タイ語版『三国』表紙の趙雲
タイ語版『三国』表紙の趙雲
  • 二重あご:(闊面重頤の解釈)
    登場人物の初登場時にはどのような容貌をしているのかが描かれるが、趙雲は「生得身長八尺(身長約185~190cm)、濃眉大眼(濃い眉に大きな眼)、闊面重頤(広い顔に重なったあご)、威風凜凜(威風があり凛々しい姿)」[379]と表現されている。
    「重頤」は「重なったあご」、つまり「二重あご肥満)」と解釈されることが多いが、趙新月は漢代に肥満が美とされる風習がないこと、そして『別伝』に記述されている「姿顔雄偉(姿や顔立ちが際立って立派の意)」[20][3]の記述とも矛盾していることについて触れ、「重」には「重なる」以外に「重い」という意味があり、「軽くなく小さくなく、尖っていなく細く痩せていない」、つまり「あごがしっかりしている国字形の顔(四角い顔のこと。男性らしく堂々とした印象を与える顔型)」という解釈の方が正しく、中国の古代民間には「重頤豊頷,北方之人貴且強」[431]という考え(人相学)があり、「重頤」は頬が広く、「豊頷」はあごがふっくらしていることを指し、これは上述の「闊面重頤」の解釈(重なる、ではなく重い)とも一致し、北方の民族においてこの特徴は社会的地位が高く、力強い人物の相として考えられており、趙雲は実際北方人であり、つまり羅貫中の表現は「高い身長」に「端麗で美しい国字形の顔」、「堂々とした威厳ある優れた容姿」のことであろう、と結論付けている[432]
  • 一騎打ち
    『演義』では武将が一騎打ちを行うシーンが頻繁に描かれるが、趙雲は一騎打ちでの勝利数が最も多い25勝となっており、次いで関羽16勝、張飛14勝、呂布7勝となっている。『演義』は蜀勢力を善玉とし、物語の主人公として描いているため、蜀の武将で長生きだった趙雲が最多勝利者となったと推測されるが、「長坂坡の戦い」では曹操軍の将軍50人を討ち取っており、趙雲の武勇を際立たせるための羅貫中の意図的な描写と言える。[433]
  • 完璧な英雄
    周思源中国語版は、「趙雲は羅貫中が特別好んで力を入れて描いた人物であり、関羽のように傲慢で自己中心的なところもなく、張飛のように粗暴で不注意なところもなく、趙雲は常に大胆でありながら慎重で、勤勉に任務を遂行し、卓越した武勇・忠誠心・謙虚さといった美徳と結びつき、物語の中で「ほぼ完璧な英雄像」として描かれている」と述べ、物語中特に注目するべき点として、趙雲が物語の最初から最後まで輝かしい生涯を送っていることを指摘し、「初登場では公孫瓚を助けて文醜と見事な戦いを繰り広げるという印象的なシーンから始まり、他の五虎将の結末は、関羽は惨殺、張飛は暗殺、馬超は病死、黄忠は戦死するが、趙雲は生涯の最期まで敵将5人を討ち取るという武功を上げており、これは羅貫中が趙雲という人物の人生を丹念に作り上げ、趙雲を特に愛していたことを反映している」と述べている[239]

毛宗崗考察

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周倉、馬超、趙雲、黄忠、関平
周倉、馬超、趙雲、黄忠、関平

作品内における毛宗崗についての考察。

  • 五虎大将:(五虎大将軍・五虎上将)
    上野隆三は、『演義』における趙雲像について、『三国志』趙雲伝の注に引く『趙雲別伝』の記述から見出される知的な印象に、勇猛さが新たに多く書き加えられたことで、文武両道の儒将のイメージが作り上げられたと述べている[434]。また五虎大将(物語中、劉備が漢中王になった時に与えた称号)の序列(関羽・張飛・趙雲・馬超・黄忠)について、先述した『演義』の操作により趙雲は馬超や黄忠よりもめざましい活躍を見せたため、毛宗崗本とも呼ばれる『演義』で最も普及する版の編者である毛宗崗が、史書では5番手の趙雲を3番手まで引き上げたのではないかと論じている[435]

演義の評価

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以下は『演義』における趙雲と事跡についての評価。

  • 丘振声:「趙雲は勇猛果敢な英雄であると同時に、政治手腕に長けた政治家でもある」[436]
  • 金良年:「趙雲は勇猛果敢であること、常に勝利を収める将軍(常勝将軍)であること、慎重で厳格であること、私心がなく欲望が少ないこと、公務に忠実で法を遵守すること、そして最後までやり遂げることなどで知られ、類まれなる優秀な武将であった」[437]
  • 周思源:「孫夫人が劉禅を連れて呉に帰ろうとした場面では、趙雲が孫夫人の侍女たちを殺すことなく押しのけることしかしなかったのは、このような状況下でも孫・劉両家の関係を損なわないよう冷静に配慮しており、その他にも田宅を分配することに反対したり、呉討伐の諫言など、劉備たちの長期的利益や民心を得ることも重視している。物語中には数多の武将が登場するが、このように根本的な大局から劉備に直言、諫言できる武将は他におらず、これは趙雲が人並み以上に識見があったことを示しており、趙雲のもっとも素晴らしい点はその高潔な品性であり、他の人物が及ばない点である」[239]
  • 朴槿恵:「小学生時代、私は戦争の話が出てくる歴史小説が好きだった。そんな私の読書の好みが面白かったのか、父が『三国志(演義)』を勧め、新しい世界に出会った。特に趙子龍が好きだった。私の初恋相手は趙子龍ではなかったかと思うほど、登場するたび胸がときめいた。「槿恵は『三国志』の誰が好きなんだ?」父に訊かれ、即答した。「趙子龍です」」[438]
  • 正子公也:「趙雲は戦死ではなくて『演義』には「一陣の風が吹いた」と書かれています。僕にとって趙雲のイメージというのは一言で言うと「一陣の風」なんです」[439]
  • 李殿元李紹先:「三国志人物の人気投票で、趙雲は関羽や張飛を上回り、諸葛亮に次いで第2位を獲得した。中国では諸葛亮に次いで、趙雲が最も愛され、忘れられない三国志の人物と言えるだろう」[375]

演義の関連作品

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以下は主な『演義』の関連作品についての概説。

京劇

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京劇初期の名優たち「同光十三絶」右端:楊月楼(老生)
京劇初期の名優たち
「同光十三絶」右端:楊月楼(老生)

京劇とは、代(1790年頃)に北京で生まれ発展した演劇戯曲である。清代は毛宗崗版本の『三国志演義』が生まれ広く普及した時代(1666年頃)でもあり、『演義』を改編した演目『三国戯』(三国劇)が数多く作られた[440]

名優たちによる高度な演技と演出によって形作られた京劇における「白袍を着た完美(完璧)なる儒将・趙雲」のキャラクターは、外国勢力による侵略に脅かされていた当時の清において、あらゆる階層の人々に理想の英雄像として受け入れられた[441]。この趙雲像は、現代においてもなお「趙雲」というキャラクターの根底をなす重要な要素としてその影響力を維持している。以下は京劇における趙雲についての概説。

京劇における武生の趙雲(俳優:周恩旭)
京劇三国演義『長坂坡』武生の趙雲。(俳優:周恩旭)
  • 京劇の趙雲:(役柄など)
    趙雲は「武小生」「武生」「武老生」(武生:ウーションは立ち回りを得意とする勇猛果敢な武将やヒーロー役)[442]として登場する。「武小生」は小生(シャオション:美形の未婚の若者や英雄の役柄)[443]と同じ歌い方、話し方をする若い小将の役柄を差し、「武老生」は武を行う老生(ラオション:中老年の役柄)[442]を指す。武生はさらに2つに分かれ、趙雲は「長靠武生」(チャンカオウーション:鎧と丈の長い服を着る武生)に該当する[443]
    髭のない端正な容姿、性格は胆大心細(大胆であるが、慎重で几帳面)、演者は力強く安定した姿と大きな声で演じる[444][注 68]桃園の義兄弟の四番目の兄弟「四弟」と呼ばれる[注 69]
    主な登場演目は『磐河戦』『借趙雲』『長坂坡』『甘露寺』『截江奪斗』などで、特に『長坂坡』は『演義』の演目の中でも高い人気を誇り、趙雲の代表的演目である(後述)[447][448]。『借趙雲』は『演義』で「劉備が公孫瓚から趙雲を借りた」という一文から着想した脚本家が創作した演目で、「徐州の陶謙の救援のために劉備が公孫瓚から援軍として趙雲を借り、強敵の典韋に見事勝利し、当初は優男の趙雲が援軍としてやってきたことに不満を抱えていた張飛もすっかり心服する」という内容[449][450][注 70]となっており、派手な立ち回りや演出以外にも、このように『演義』にはない物語の展開や、趙範の妻の銭氏(『取桂陽』)といったオリジナルの登場人物の登場なども京劇の見どころとなっている。
①背に挿す靠旗(カオチー)
①背に挿す靠旗(カオチー)
②『龍鳳呈祥』趙雲(左)と劉備
②『龍鳳呈祥』趙雲(左)と劉備
  • 衣装と化粧
    趙雲は白を基調とした衣装に青と赤を用いているのが特徴で、白い靠(カオ:鎧)姿に銀槍を持ち、膝まである黒の厚底靴(または高方靴:高さは10cm前後)を履く[451][452]。背中の旗(靠旗:カオチー)は古代に後部から矢を避けるのに用いられたものを京劇では誇張して表現しており[453]、軍隊を表し、背中に4本挿す[454](右画像①)。『甘露寺』(劉備と孫尚香の婚姻話。『龍鳳呈祥』とも)では場面によっては靠を脱ぎ、「武生褶子」(ウーションヂャズ)という前後に刺繍の入った白い衣装[455]、または白い「蠎袍」(マンパオ)を着る。白は若者が着用する色で、模様の大龍は武将にあてがわれる[456](右画像②、動画[457]も参照)。
    趙雲が着る衣装には白が多く使われているが、白色は趙雲の清廉潔白な性格、優れた容姿を象徴しているとされる[441][注 71]。京劇の衣装は唐から清にかけての服装を参考に動きやすさ、舞台効果を考えて作られており、実際の三国時代の服装とはかけ離れたもので、厳密な時代設定に基づいたものではない[458]
    化粧は俊扮(ジュンバン)といい、肌色に白粉を叩いて眉間から髪の生え際に向かって矢じり型に紅を描き、口紅を塗り、端正さ・美を強調する[459]。(稽古、メイクの様子[460]
    小道具として馬鞭(マービャル)があり、武将は5つの房がついたものを、文官は3つの房が付いたものを持ち、これを持つ際は騎乗の状態を表わしている[461]
『長坂坡』趙雲の激しい立ち回り
『長坂坡』 高さ約10cmほどある厚底靴(高方靴)を履いての、趙雲の激しい立ち回り
  • 主な俳優
    趙雲役の俳優として特に有名なのは、親子二代で趙雲を演じた京劇巨匠の一人・楊小楼で、銀槍を持ち『長坂坡』での華麗な立ち回り姿から「活趙雲」「活子龍」と呼ばれ絶賛された[462]。『長坂坡』は楊小楼の代表作である[463]
    以下は主な趙雲役の俳優(中文版該当記事も参照)
  • 徐小香:(じょ しょうこう)
    1821年 - ?)
    三慶班中国語版』所属。小生役で知られ、同光十三絶中国語版(京劇初期の名優13人)の一人。声色が美しく、『借趙雲』の年若い趙雲役(武小生)での「豪快で侠客のような雰囲気が都中で評判だった」と当時の反響が残されている[462]
  • 楊月楼中国語版:(よう げつろう)
    1844年 - 1890年
    楊小楼の父。同光十三絶の一人。
    老生役で知られたが、武生も兼ねた文武両道の名優。武劇(戦いが中心の演目のこと)は『長坂坡』が得意演目。「終始落ち着き汗一つかかず、見事な立ち回りだった」と記される[462]。「活趙雲」(生きている趙雲)と称賛された[462]
  • 楊小楼中国語版:(よう しょうろう)
    1878年 - 1938年
    楊月楼の子。楊派の創始者。
    梅蘭芳余叔岩中国語版と共に「三賢」と称され、「武生の分野に置いて、いまだ楊小楼に達するレベルの者はいない」と阿甲中国語版が評した、武生の宗師。趙雲役を得意とし、楊小楼の『長坂坡』は京劇を新たなレベルに高め、大きな影響を与えた(後述)。美しい声音と男性らしい容貌を持ち、父同様「活趙雲」「活子龍」と称賛された[464][462]
  • 張桂軒:(ちょう けいけん)
    1873年 - 1963年
    武生の分野で「江南四傑」の一人。
    光緒19年(1893年)に日本で京劇の海外公演を初めて行った人物。84歳の高齢になっても声は澄み、鮮やかな立ち回りで『鳳鳴関』(韓徳と息子たちとの戦い)などで趙雲を演じた[462]
  • 王金璐中国語版:(おう きんろ)
    1919年 - 2016年
    楊派を継承しつつ武の中に文を込め融合する独自のスタイルを確立し、趙雲役では容姿の美しさと洗礼された動きに、目・表情を通して内面表現に長けた演技で評価された[462]
  • 厲慧良中国語版:(れい けいりょう)
    1923年 - 1995年
    楊小楼の芸風を学びながら、表現力を高める武生の高度な技巧を幾つも開発。独自のスタイルを確立した。還暦を過ぎてもそれら高度な動作を行うことが出来た名優[462]。『長坂坡』で趙雲役を数十年に渡って演じた。『長坂坡』の貢献者の一人とされる[465]
山上から趙雲を眺める曹操達
山上から趙雲を眺める曹操達
阿斗を抱えた糜夫人と趙雲
阿斗を抱えた糜夫人と趙雲
曹操軍との対峙(俳優:郝帥)
曹軍との対峙(俳優:郝帥)
  • 武生と長坂坡
    『長坂坡』は京劇初期の36本の「連台軸子戯」(れんたいじくしぎ)の一つで(後述)、最も有名な趙雲の演目且つ、武生の最も有名な演目でもあり、この『長坂坡』は「武生の試金石」とされ、「長坂坡を観ればその役者の技量が判る」と言われている[447]
    『長坂坡』は楊小楼と厲慧良の二人による貢献が最も大きいとされる。
    楊小楼は他の役者が趙雲を演じる際に、みな緊迫感のある曲調で登場したのを落ち着いた曲調へと変更し、登場後は舞台中央に立つのを舞台横へ変更した。これは、それぞれ「趙雲の冷静沈着、謙虚でおとなしい性格に合わない」との判断からであった[466]。戦闘では八卦掌通臂拳を取り入れ、安定した動作と正確な攻撃で観客を魅了し、「楊小楼の趙雲を見るたびに目が釘付けになり、まるで目の前に順平侯(趙雲)が現れ、魏の武将たちとの激戦を直接見ているかのようだった」と当時の反響が残されている[467]
    厲慧良は数々の難易度の高い技巧を編み出し、『長坂坡』では「大槍釣魚」という、右手に槍を持ち上げて空中に投げ上げ、槍が空中で一回転して落ちてくるのを背後で左手を伸ばして受け止めるという大技をいくつも用いて観客を大いに盛り上げた[468]
    このように『長坂坡』は様々な高度な技巧を歌い戦いながら演じる形式のため、役者には文武両道の高い技芸が求められる。そのため京劇の専門家・素人どちらでも楽しめ、幅広い層から愛されたという[469]。清朝末には宮廷内で109回演じられた『三国戯』のうち、『長坂坡』は13回に及んだ。庶民の間でも劇団『三慶班中国語版』が毎年年末になると36本の演目を上演し、『長坂坡』でその年を締めくくっていた[468]
    『長坂坡』は、関羽が曹操軍と対峙する演目『漢津口』[470]とセットで上演されることがあり[448]、知名度の高い武生の役者が演じる場合は、「前趙雲、後関羽」と言われ、前半の『長坂坡』で趙雲役を、後半の『漢津口』で関羽役を(関羽は紅生の役柄で[442](剛直・粗暴な役)と武生の両方を演じることが出来る)一人二役演じることで役者のファンの楽しみが増えるという[470](趙雲から関羽へと早変わりする動画[471]も参照)。上演時間は1時間40分ほどあるが、海外公演の場合は40分ほどに短縮されている[463]
清末「京劇一百人物像」満をつけた趙雲
清末「京劇一百人物像」
満(髭)をつけた中年期の趙雲
  • 当時の反響
    清代中頃、外国勢力の侵攻によって国家の危機に陥っていたにもかかわらず、劇場では人々が昆劇などを楽しんでいたという。この状況に強い不満を感じた京劇の祖と称される『三慶班』の程長庚中国語版は、盧勝奎に依頼して『演義』を改編し、「忠君愛国」の思想を盛んに訴えた36本の演目を連日上演する大作(連台軸子戯:れんたいじくしぎ)を創り上げ、すぐに都中で大評判となり、「人々がこぞって三国志を見る」という文化現象が生まれた[472]
    京劇の趙雲は「美貌と仁義礼智信の全てを備えた完璧な武将」として、都中で演じられる度に人々から熱狂的に歓迎され、その人気は庶民に留まらず宮廷でも大いに受け入れられ、特に京劇に熱心だった人物として西太后が有名である[473][474]。宮廷に役者を招き入れて『鼎峙春秋』(三国志を題材にした大規模な長編戯曲)が3度上演され、趙雲が登場する場面は40回以上もあったという[441]。『黄鶴楼』(荊州を返さない劉備に激怒した周瑜が黄鶴楼で宴を催し、劉備を招いて兵で脅そうとする計画を、趙雲が阻止するという内容)が上演された時には、西太后を喜ばせるために光緒帝自らが趙雲を演じたこともあった[441]
  • 後世への影響
    この京劇の趙雲のイメージ像(白い鎧(または銀の鎧兜)に白袍といった「白」のイメージや、銀槍を抱えた若い美形の儒将)[475]は京劇と同時代頃に誕生したとされる『八扇屏』(はちせんびょう:2人組による掛け合い漫才のような形式で、歴史を扱った話芸のこと。相声のひとつ)にもその影響が見られる[476]
「昔、後漢三国に向こう見ずな男(張飛)がいた。桃園の誓いを立てて以来、その兄貴分の姓は劉、名は備、字は玄徳、生まれは大樹のある楼桑。(中略)後続の四弟、姓は趙、名は雲、字は子龍、生まれは常山真定。戦では百戦百勝、のち常勝将軍に封じられた。(中略)(長坂坡で)曹操は山上から白い若武者を見下ろした。白い兜、白い鎧、白い旗、白い龍馬(白龍馬)に乗り、光り輝く銀の槍(亮銀槍)を振るう姿は、まさに勇将そのものだった」 — 『八扇屏』「莽撞人」より[477][478]
これらは『演義』には見られない表現であり、京劇の趙雲像から影響を受けて生まれた言葉である[479]。この趙雲のイメージは後に各地の民間伝承や創作作品にも多大な影響を与え、後述の『演義』関連小説、映像作品にみられる趙雲像にも反映されており、趙雲の愛馬とされる白馬(白龍、または白龍駒)の伝承にも影響を与えたと考えられる[381]#愛馬の白龍、および#日本の作品と影響も参照)
  • 演目と内容
    以下は趙雲の主な登場演目とその内容。
演目名 役柄 演目内容 出典
磐河戦 武小生 『演義』第7回。
趙雲が袁紹の下を去り、公孫瓚を助ける話
[480]
借趙雲 『演義』第11回。『一将難求』とも
援軍として趙雲を借りることに張飛が不満を漏らす
[481]
[450]
長坂坡 武生 『演義』第41回。『単騎救主』とも
単騎で阿斗を救う、趙雲の最も有名な演目
[463]
甘露寺 『演義』第54-55回。『龍鳳呈祥』とも
劉備の結婚に趙雲が護衛で従う話
[482]
截江奪斗 『演義』第61回。『攔江奪斗』とも
孫尚香から阿斗を奪還する趙雲の代表演目のひとつ
[483]
[484]
子龍護忠 『演義』第71回。『陽平関』とも
漢中で黄忠を助ける話。中年期なので黒髭をつける
[485]
鳳鳴関 武老生 『演義』第92-94回。『斬五将』とも
韓徳の息子達を倒す話。老年期なので白髭をつける
[486]
『収趙雲』『黄鶴楼』『取桂陽』『白帝城』『天水関(収姜維)』『失空斬』[注 72]ほか
『甘露寺(美人計)』『回荊州』を総称した演目『龍鳳呈祥』に『取桂陽』(趙範と樊氏の話)を取り組み、整理改定された『龍鳳呈祥』が2001年に日本で公演され、この公演でのみ趙雲と樊氏(今作での名は樊玉鳳)が結ばれる(詳細は樊氏#京劇を参照)[487]。このように、同じ演目名でも内容に違いがある場合がある。

他の演劇

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  • 元雑劇(詳細は該当記事を参照)
    清より前の時代である時代に隆盛した戯曲の一種で、『三国志平話』と同じく、『演義』の基になっている。この元雑劇では趙雲の慎重さと几帳面さが強調され、趙雲の演者には特にその大胆さと几帳面さを示すことが求められたという[488]。初期に広まった物語では、趙雲は諸葛亮よりも慎重な性格をしており、「城攻めの際に、いつ出発し、いつ食事をし、いつ川を渡って城を攻めるか、諸葛亮が用意した綿密な計画通りに従うよう求められ、趙雲は兵を率いて出発する。直後、諸葛亮はその計画の時刻では、川が満潮の影響で増水し、渡れないという重大なミスに気づいた。しかし趙雲は川の増水の事を知っていたので事前に筏を用意し、計画通りに問題なく完了した」[489]となっている。多くの脚本はすでに散逸しており、その中には趙雲が主題の作品もあったとされる[490]
  • その他の地方劇
    河北省の河北梆子(かほくほうし)、湖南省の湘劇中国語版(動画[491]も参照)など、中国各省に2~3種類以上の地方劇が存在し、国家に認定されたもので317種ほどがあり、三国志を題材にした演目も複数存在している[492]。メイクや衣装は京劇と変わらないものもあるが、地方独自のものも存在する[493]
    河北梆子『青釭剣』の演目では趙雲の妻として李翠蓮が登場し、長坂坡の戦いで劉備達とはぐれた趙雲が、迷い込んだ村で出会い結婚するといった内容になっている。

小説・説話

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京劇の『三国戯』が誕生して以降の作品では、京劇・民間伝承(後節参照)双方の影響を反映し、「白馬にまたがり白袍姿に銀槍を持つ」という共通点が見られ[494]1980年代前後の作品からは白馬の名前に「白龍」「白龍駒」が確認される。

京劇の趙雲の姿
京劇の趙雲の姿を模した人形
  • 三国志後伝酉陽野史
    蜀漢滅亡後、劉備、関羽、張飛、趙雲ら蜀漢の子孫の活躍を描いた作品。
  • 反三国志演義周大荒
    新聞『民徳報』にて連載された作品。趙雲と馬超の二人が主人公。蜀漢が三国を統一するという話になっており、作品内で趙雲と馬超の妹の女武将・馬雲騄が結ばれ、夫婦となる。
  • 説話三国演義袁闊成中国語版
    説話(評書)作品。『三国志』『三国志演義』の他、全国の三国故事などを研究した重厚な作品になっている。京劇のように張飛らから「四弟」と呼ばれたり、白馬に乗り、白袍姿に銀槍を持った白面の美丈夫として描写される[495]。『説話三国演義』完結後、1988年には趙雲を主題とした『長坂雄風』が全27回で放送され、この作品では樊氏が趙雲の妻となる[496]
  • 長編平話三国:張国良。
    説話(平話)作品。1983年から全20巻を予定されていたが、作者の体調不良により14巻で終了となった。袁闊成の作品と同様、白馬『鶴頂白龍駒』と銀槍『亮銀槍』を持つ槍の名手。劉備の結婚話(甘露寺)で護衛の趙雲を見た呉国太が「もう一人娘を生んでいたらこの若くて美しい将軍にも娶らせたのに」と、娘を二人産まなかった自分に腹を立てるといったように、趙雲の容姿の良さについての描写がさらに強調されている[383]。民間伝承や作者による独自展開や解釈・設定が盛り込まれ、趙雲が張任張繡と武術(槍)の師・童淵中国語版(どうえん:元曲の架空人物)の下で学んだ兄弟弟子の関係になっている他[497]、『反三国志演義』の馬雲騄が「馬雲禄」の名で登場し、『反三国志演義』同様、趙雲の妻となる[498]

日本の作品と影響

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小説以外にTVドラマやゲームなどのコンテンツから、現代中国への影響まで。

歌川国芳「通俗三国志英雄上壹人」張飛と趙雲
「通俗三国志英雄上壹人」
張飛と趙雲(歌川国芳
  • 髭の豪傑:(江戸~70年代)
    日本には前述の京劇、および民間伝承などの中国の趙雲のイメージ像が伝わる機会がなかったため、江戸時代当時の浮世絵などでは張飛のように髭の濃い豪傑然とした見た目で描かれており(右画像参照)、1939年吉川英治の小説『三国志(吉川英治)』の描写でも、「体躯堂堂とした偉丈夫」として描かれる[499]
    1971年1987年にかけて連載された横山光輝の漫画『三国志』においても、髭こそないが、吉川英治の『三国志』同様、体躯堂堂とした偉丈夫の描写となっている[注 73]。例外として1969年柴田錬三郎の小説『三国志英雄ここにあり』では「白馬に乗った紅顔の美少年」として描かれるが[500]、これは京劇などの中国の事情を柴田が知った上での描写だったのかは不明である。
  • 転換期と日・中双方への影響:(80年代~)
    これら日本における趙雲のイメージ像に変化が訪れたのが、1982年1984年にかけて放送されたTVドラマ『人形劇 三国志』で、この作品において趙雲は髭のない美青年として造形された[501]。翌1985年には光栄のシミュレーションゲーム『三國志シリーズ』が販売され、「白馬にまたがり長槍を手に、銀の鎧兜を身に着けた若武者」という、中国の趙雲のイメージ像に忠実なこのキャラクターデザインは、日本の趙雲像への影響のみならず、中国の三国志を扱ったサイトやTV番組などの映像作品の多くで『三國志シリーズ』の画像・映像が引用されており、これは京劇を観る機会の減った[502][503]、現代の中国の若い世代へも大きな影響を与えたと考えられる[504][505][506]

民間伝承・伝統芸術

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古跡にまつわる物は南宋以前からのものがあるが、その他の民間伝承は主に清代以降の物が多く、内容も『演義』と京劇の影響が色濃く見受けられる。(古跡にまつわるものは後述の#古跡・施設を参照)

人物

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歌川国芳「五将軍見立五人男 趙雲」見立絵
歌川国芳による見立絵「五将軍見立五人男 趙雲」
  • 貂蝉:『演義』に登場する架空の女性。
    民間伝承『貂蝉改嫁』という物語で趙雲の妻となる。「呂布の死後、貂蝉は郭嘉の援助を受けて曹操から逃亡するが、曹操の親衛隊に捕まりそうになったところを、偶然偵察に来ていた趙雲に救助され、彼に惹かれることになる。郭嘉は二人の縁を結びつけようとするが、趙雲が劉備軍に属しているため話が進まない。郭嘉の死後、張遼が後を継ぎ、長坂坡の戦いの混乱に乗じて趙雲に接近し、貂蝉との縁談を持ちかける。別れた後も貂蝉の事を気に掛けていた趙雲はこれを受け入れ、張遼が曹操に趙雲の生け捕りを献策したことにより、曹操軍は矢を射掛けるのを止めたので、趙雲は包囲から無事脱出することが出来た。その後、張遼と郭嘉の妻は貂蝉を趙雲のもとへ送り、二人は結婚。貂蝉は郭嘉の妹「郭蕙」と偽り、周囲に正体が知られることなく幸せに暮らした」という顛末になっている[507]
  • 孫軟児:民間伝承に登場する趙雲の妻。
    戦場で一度も怪我をしたことがない趙雲を戯れで針を刺したところ、趙雲は血が止まらず死んでしまった(詳細は該当記事を参照)。映画『三国志(2008年)』で軟児の名前が採用されており、塚本靑史の小説『趙雲伝』では正妻の名に採用されている[508]
  • 関銀屏:関羽の娘がモデルの人物。趙雲に師事して武術を習う(詳細は該当記事を参照)

愛馬

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  • 白龍:(はくりゅう)
    もしくは白龍駒(はくりゅうく)という名の白い駿馬を愛馬にしていたという。『子龍池』という話では、この馬は昼は千里を、夜は五百里を走ることができ、趙雲とは意思疎通ができたといわれるほど愛されたという。『白龍(駒)』の名は1980年代前後の創作で、『三国志平話』『演義』では白馬に乗る趙雲像もまだ確立されていなかった。京劇で確立された趙雲の『白』のイメージが民間伝承や創作作品に影響を与え、趙雲の愛馬=白馬となり、『白龍(駒)』の名が作られ広まったと考えられる[注 74](詳細は#京劇を参照)。白龍の話は映画レッドクリフで採用されている。
  • 子龍池:洗馬池、子龍洗馬池とも。
    四川省成都にかつて存在した、趙雲が住んだと伝わる官邸裏にあった池。白龍とともに趙雲が傷を癒したという。その後は邸宅の所有者が何度も変わり、その都度改築などを経て、1950年頃には池は埋め立てられ、『子龍塘街』から現在の『和平街』に改名された。跡地にある和平街小学校に『漢順平侯洗馬池』の碑がある。以下は子龍池にまつわる伝承。
南宋時代、蒙古の襲撃を受けて成都は大きな被害に遭い、蒙古の皇太子・闊端はこれを誇らしげに眺めていた。そこへ白袍姿に銀槍を抱え、白馬に乗った将軍が現れた。英気あふれる彼は、常勝将軍・趙雲にとても良く似ていた。彼は「兵よ集え、賊に抗え! 我と国を守れ!」と大喝して兵を鼓舞し、蒙古兵に突撃した。蒙古兵は次々に槍で突かれ、死体は山のように築かれた。白袍の将軍に従った兵たちは、ついに蒙古兵を成都から追い出すことができた。
後日、成都の人々はみな、「あれは趙子龍が顕聖して蒙古を倒してくれたのだ」と言った。人々は子龍池で馬を洗い、その池の横に楼閣と塔を建て、馬に乗り跳躍した趙雲の塑像を祀った。毎日絶え間なく香が焚かれ賑やかだったという。 — 「趙子龍的洗馬池」より[510]

長槍

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日本刀の鍔に施された趙雲と阿斗の彫刻
日本刀に施された趙雲と阿斗の彫刻
  • 涯角槍:(がいかくそう)
    『三国志平話』に書かれる。「海角天涯に敵う者なし」という意味で名付けられており、張飛の槍に次ぐ名槍とされる[511]。同説話ではこの槍で、張飛と互角に一騎討ちをしている[512]。『演義』では採用されていない。元雑劇では『牙角槍』または『牙角長槍』、『鴉脚長槍』と記され、『牙角』は陳寿が趙雲を評した「強摯壮猛、併作爪牙[321]が由来と考えられ、「鴉脚」は槍の形状を差しており[472]、「涯角」「牙角」「鴨脚」は全て発音が似ているため、『涯角槍』という呼称は当時の民間の口承で広まったものが、説話者や雑劇作家それぞれが表記や解釈を加えた可能性が高いと考えられる[513]
  • 亮銀槍:(りょうぎんそう)
    涯角槍以外に近代の民間伝承で一般的になった槍の名称。京劇の銀槍の影響を受けて創作されたと考えられ、民間伝承と芸術分野で相互に影響を与えあい、趙雲の標準武器として銀槍のイメージが定着した。趙雲の武術の師匠の話に関連しており、正定県・臨城県・その他民間伝承を扱った書籍にさまざまな物語が語られている[514]
正定版
語り部が異なる2つの物語①「趙子龍学芸」[515]②「趙雲学芸」[516]が存在し、内容に若干の違いはあるが、「趙雲が両親に別れを告げ、太行山で武術の師匠(老人)を数日掛けて見つけだすが、老人は大木の上でいびきをかいて眠っており、趙雲は辛抱強く跪いて待ち続ける。目覚めた老人はその誠意に感動して弟子入りを認め、趙雲は3年武芸を学ぶ。師匠は趙雲に銀の槍(亮銀槍)を与え、世の苦しんでいる人々を救うために旅立つように、と告げる」といった内容。
共通点は、趙雲が二種類の武術を習得して曹軍と戦う時にそれぞれの武術を駆使し、ひとつは師匠から与えられた『亮銀槍』を使って長坂坡の戦いにおいて活躍し、「山のように積みあがった曹軍の死体の血が、川のように流れた」と書かれ、もうひとつは『破堅拳』という拳法で、「漢中の戦いで曹軍を散々に打ちのめした」と書かれる。
①②の特徴として、師匠が『亮銀槍』を贈る過程が詳しく書かれ、師匠が趙雲に得物に大刀を選ばせなかった理由として「赤ら顔(関羽)がすでに大刀を習得しているためだ」と説明され、関羽と趙雲が兄弟弟子であることが示唆されている[517]
臨城版
趙雲が槍を手に入れる物語が複数あり、共通して「趙雲が長い蛇を見つけ、その蛇を掴んで振り回したところ、槍に変化した」[518]といった内容で、張飛の蛇矛の伝承(張飛が修行中に大蛇を見つけ、尾を99回振り回すと蛇矛になった)[519]と類似している。張飛の蛇矛の伝承は古くからよく知られており、この伝承を元に趙雲に置き換えて作られた可能性が高いことが指摘されている[520]
その他書籍[521][522][523]
弟子入りの過程、師匠の名前などが正定の物語に由来しており、これらは最初に正定で広まった物語が他の伝承に影響を与え、発展したと考えられる[524]

刀剣

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  • 青釭剣:(せいこうけん)
    『演義』に登場。元は曹操が所有する対の宝剣(倚天剣と青釭剣)の一本。敵将の夏侯恩が曹操から預かっていたのを趙雲が奪い取った[525]。物語中では阿斗の危機の際にのみ使用される[注 52]
  • 金牛山の剣陶弘景・著。
    古今刀剣録』に記される。章武元年(221年)劉備が金牛山から鉄を採取し、長さ三尺六寸の剣を八本鋳造したうちの一本を趙雲に与えたという[526]

軍需品

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「常山戦鼓」パフォーマンス
「常山戦鼓」パフォーマンス
  • 常山戦鼓:(軍太鼓)(詳細は常山戦鼓中国語版を参照)
    戦国時代に始まり、明時代に隆盛。正定の人々に広く流通した。正定県は歴史的に「常山」と呼ばれていたため『常山戦鼓』と呼ばれる。現在はパフォーマンスで使用される。伝承では趙雲が出陣する際、常山の戦太鼓を戦場で叩くことで士気を高め、兵たちを鼓舞し、常に敵を打ち破り勝利を収めたので『常山戦鼓』と呼ばれたという(動画)[527]。2008年、国の無形文化遺産に登録。

装飾品

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  • 戒指:(指輪)
    趙雲が指輪を身につける文化を広めたとの伝承がある。『益州』と『荊州』で幾つかの違った話がある他、趙雲の故郷・河北省正定出身の語り部周四成の『趙子龍与戒指』の話に見られる内容では、『益州』の話に京劇や他の語り部に見られる「徐庶が趙雲を救う」エピソードが加えられ、詳細が語られている。
益州版
趙雲が長板坂で阿斗を救出して包囲を突破したとき、張郃と曹洪から薬指に深い傷を負った。傷痕はかなり目立ち、醜く感じたので、趙雲は職人に傷を隠すための金の輪(蓋指)を作らせた。
荊州版
荊州版は2種類あり、共通点として「趙雲の死後、彼の生前着飾った姿の像が作られ、その指には金の輪をはめていた。人々はそれを真似て身に着け、その習慣が今日、指輪として民間に広まった」[528]とされている。 相違点は、像の由来が『戴戒指的来歴』では「後主・劉禅は趙雲が命を救ってくれたことに感謝し、趙子龍の像を作った」と書かれている点と、『荊州人戴戒指的来歴』では「荊州の関帝廟にある趙雲の像」[529]に基づいている。
正定版
(趙雲が長坂坡で徐庶に助けられ窮地を脱したが、その時、張郃・曹洪から指に傷を負ったので指輪で傷を隠した。)その後、劉備の軍隊が四川に入城すると、益州の人々は趙雲が手に輝く指輪をしているのを見て、彼らも指輪をつけるようになった。今日、指輪をつける習慣が四川省の成都と綿陽の人々の間で今も伝承されている。 — 「趙子龍と戒指」より[530]

食べ物

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「乾炸小丸子」
中国の肉団子(乾炸小丸子)
  • 肉丸子:肉団子。
    「再会」を意味する桂陽名物の肉団子料理。桂陽旧正月三大料理のひとつ。伝承によると、趙雲が桂陽を占領した時、率いた兵は統率が取れ、民衆を慈しんだことから桂陽の人々は趙雲を称賛して迎えた。駆け付けた劉備たちと趙雲は再会を喜び、祝宴が開かれると、桂陽の人々から黄金色の丸い揚肉団子が献上された。これを食べた趙雲らは手を打って絶賛し、それ以来、桂陽の人々のお祭りを祝う名物料理になった[531]。この他、『肉丸子』とよく似た伝承を持つ『子龍郡壇子肉[532](桂陽壇子肉)[533]という桂陽名物の肉料理があり、桂陽の人々からこの料理を献上され、気に入った趙雲が劉備にも献上し、劉備が『子龍郡壇子肉』と名付けたという[532]
  • 子龍片:薄切りの乾燥タケノコ。
    桂陽の関口・営盤嶺地区でこう呼ばれている[534]。伝承では、軍隊を率いての出征で、冬から春の食料が乏しい時期にタケノコを掘って食べる習慣が身についた趙雲が、保存が効くよう天日干しにし、人々はそれに倣った。趙雲がこの地を去ったあと、乾燥させたタケノコを『子龍タケノコ』、『子龍片』と呼ぶようになったという[535]
  • 子龍脱袍:鰻料理。
    湖南省を代表する(うなぎ)を使った伝統的郷土料理。湘菜(シャンツァイ:中国八大料理の一つ。四川料理と並んで辛い中国料理の代表格)の一種。別名「紫龍脱袍」「溜炒鳝絲」。皮を剥いて骨と頭を取り除いた鰻を卵白、片栗粉で絡め、ユリの花の根、干し椎茸青唐辛子香菜紫蘇と一緒に炒める[536][537]。香ばしく滑らかな食感が特徴。
    名前の由来は諸説あり、「鰻が小さい龍(子龍)に見えることと、皮を剥くことを「袍を脱ぐ」ことに例えた」、或いは「鰻の皮をきれいに剥ぎ取った様子を「紫龍」に例えて名付けた」という説[538]、「湘楚地方の料理人が趙雲への敬意を表し、趙雲が戦袍を解いて阿斗を懐に抱いたことからこの料理を考案し、鰻を趙雲に見立て名付けた」という説[538]がある[注 75]
    その他、正定県ではこの料理にまつわる以下の民間伝承が存在する[注 76]
あるとき董卓が真定を訪れたので、真定太守が一番有名な料理店で歓待するも、董卓は提供された料理をどれも気に入らず、料理人が途方に暮れていると、店の窓際に座っていた若い男がシュッ!と立ち上がって長袍を脱ぎ、「私がお伺いしましょう」と董卓に言った。
料理人はその若い男の動作に見入り、新しい料理が閃いた。鰻の頭に切り込みを入れ、若者が長袍を脱いだようにシュッ!と皮を剥して調理した。味も見た目も素晴らしく、董卓は大いに褒め称えたので料理人は命拾いした。若い男は趙雲、字は子龍ということが分かり、料理人はこの料理に「子龍脱袍」と名付けた。
彼の弟子が西城区に支店を開き、現在も湖南の料理店「曲園酒楼」の人気メニューとなっている。 — 「子龍脱袍」より[541]
  • 趙子龍(酒):酒のブランド名。
    湖南省長沙市寧郷市にある芙蓉山に趙雲が掘った井戸とされる『八角井(蒙泉)』の伝承にまつわる(詳細は#古跡・施設の蒙泉(八角井)を参照)。1952年、桂陽県政府が蒙泉のそばに「湘南趙子龍酒廠」(国営企業)を設立し、「趙子龍」ブランドの中国酒の製造を開始、2005年に劉培弘がブランドを引き継ぎ、2011年に「郴州趙子龍酒業有限公司」を設立。現在も紅麴酒中国語版花彫酒などが製造販売されている[542][543]
  • 長坂坡花飯:炒飯(チャーハン)。
    趙雲由来の当陽名物。伝承によると、唐・宋時代に長坂坡の語り部が趙雲が阿斗を救った話を語り、その横で炒飯の屋台主たちが趙雲の槍や剣さばきをヘラに置き換え、「七進七出(詳細は#ことばの七進七出を参照)を七度の作業工程に例えて調理したことに由来[544]
  • その他の食べ物:(生姜の伝承)
    「子龍片」の関口での伝承。趙雲が関口を巡回していると感冒が流行していたので、老生姜を切って身体を拭かせたり、木炭で生姜湯を煎じて飲ませ、病を治した。感激した関口の人々は木炭の焼き方や生姜の栽培方法を趙雲から学んだという[535]

民族芸能

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台山の浮石飘色「趙子龍救主」
台山浮石飄色「趙子龍救主」
『地戯』趙雲の仮面
『地戯』 趙雲の仮面
  • 浮石飄色:(ふせきひょうしょく)
    抬閣(たいかく)のひとつ。(詳細は抬閣中国語版を参照)
    抬閣とは、中国の伝統的な祭りの際に行われる民俗パレードの一種。古代の中原地域で神様を迎え入れる儀式が流行したことが始まりと考えられている。広東省台山市浮石村では「飄色」と呼ばれる。唐宋時代、演劇や話芸が流行するとともに大人や子供が演劇の登場人物に扮して街を練り歩く風習が生まれ、このうち表演者(8歳から10歳ほどの子供)が細い棒で支えられ、台の上で空中に浮いているように見えるものを飄色と呼ぶようになった。毎年旧暦3月3日の北帝(道教の神様のひとり)の誕生日に行われる。2008年、国の重要無形文化財に登録。主に伝統的な物語をテーマにし、三国志からは造型人物として趙雲(趙子龍救主)がよく好まれ使用されている。
  • 地戯(詳細は地戯中国語版を参照)
    または安順地戯。通称・跳神。貴州省安順地区で生まれ、約600年の歴史を持つ伝統戯劇。起源は原始社会のトーテム崇拝に由来する『儺祭』にまで遡り、雲南地方の儺戯中国語版と相似している。武術を取り入れたダイナミックな演目が特徴。明朝に江南などから移住してきた屯堡人中国語版によって継承されており、2006年に国家無形文化遺産に登録されている。約30種類の演目が伝わっており、多くは屯堡の人々に愛される英雄譚で、忠義の精神をテーマにした作品が中心。趙雲含め、三国志の英雄たちも取り上げられている(中国語版記事に他の人物の仮面の画像あり)。

日本の伝統芸術

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須加院八幡神社の趙雲と関羽
須加院八幡神社の絵馬
趙雲とみられる人物と関羽
  • 孔明祈水山:(こうめいきすいざん)
    国の重要無形民俗文化財大津祭からくりのひとつ。孔明が魏との合戦に際し、水神に祈り大勝した故事に因む。趙雲が鉾で突いた岩から水が溢れだし、魏軍が押し流されて孔明が扇子を上下させ喜ぶ場面が再現されている[545]
    その他、古くから端午の節句に関羽や趙雲がモチーフとして好まれて使用され、ねぶたなどの祭でも三国志が題材に使用されている[546]

その他の民間伝承

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  • 少年期の伝承:少年時代の逸話。
    正定県と臨城県でさまざまな伝承が語られている。
    臨城県では趙雲が天から降りてきた龍や星とするなど、運命、神秘面が強調された伝承が[547]、正定県では幼少の頃から力が強かったことを示す話や、悪い和尚をこらしめる、狼を退治して仲間を助けるなど、智略で窮地を脱するといった知勇にまつわる伝承があり[548]、以下はそのひとつ。
少年趙雲は祖母の家から自宅へ帰る途中、酸棗嶺という峠道で大男の強盗に遭遇した。趙雲は怖がるふりをして荷物を落とし、気を取られた強盗の隙を見て、懐に隠していた秤鉈(はかりの重りを吊るす道具)で強盗を殴りつけ、その場から逃げ出した。逃げ延びた趙雲はある一軒家で一晩泊めてもらうことになり、女主人は趙雲と息子を一緒に寝かせることにした。
夜中に激しい戸叩きの音が聞こえて趙雲が目を覚ますと、それは先ほど襲った強盗が帰ってきたのであった。包丁を研ぐ音が聞こえ、趙雲は急いでその家の息子を担いで場所を入れ替わった。女は外側にいるのが趙雲だと指差し、強盗は外側にいた息子の首を斬り落とした。二人が死体を玄関から運び出している隙に、趙雲は逃走したのだった。 — 「夜走酸棗嶺」より[549]
  • 墓にまつわる話(詳細は#墓地を参照)
  • 最期にまつわる話:四川省大邑県と河北省正定県ほか、似通った複数の伝承がある孫軟児#趙雲の死と刺繍針を参照)
    湖北省咸寧地方の『趙雲得意笑死』という話は、それらとは違う内容になっている。
『三国志演義』には、趙雲は老衰で死んだと書いてある。私たちは年配の人たちから「趙雲は笑い死にした」という違う話を聞いたことがある。 「周公瑾(周瑜)は怒って死んだが、趙子龍は笑って死んだ」という古い話。
趙雲の72歳の誕生日を祝いに来た親戚友人らは、老将軍の生涯の功績を称える歌を詠んだ。
「20歳、先帝(劉備)に従い、30歳、後主(劉禅)を救って名を揚げ、40歳、長江で後主を連れ戻し、50歳、南蛮征伐で軍の柱となり、60歳、祁山に出で曹軍の五将軍を斬った。70歳、あなたは元気そのもので、優れた馬と槍を持ち、将軍は全身が肝っ玉、百戦百勝、世の無双!」
趙雲は手を振って言った。「いやいや、今日の常山の趙子龍があるのは皆様の支えがあったからこそです!」
宴会が終わり招待客がみな帰ると、趙雲は突然筋肉と骨が腫れているのを感じた。「長い間戦場にいなかったから、違和感があるのだろうか?」そこで風呂に入ろうと思い、服を脱いで裸になった。この身体は何百回の戦いを経ても一度も怪我をしたことがなく、傷一つない。皆が詠った言葉を思い出す。
「将軍は全身が肝っ玉、百戦百勝、世の無双!」
「はははは…」思わず大声で笑うと、息が切れた。こうして彼は名誉の死を遂げた。 — 「趙雲はどのように死んだのか?」[550]

故事・言葉・関連人物

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故事成語

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  • 一身是胆:(いっしんしたん)
    強い勇気があり、何事にも恐れないことのたとえ。体全体に胆力が満ち溢れているという意味の四字熟語。劉備が趙雲の勇ましさを称えたという故事から[551]
  • 満身是胆:(まんしんしたん)
    強い勇気があり、何事にも恐れないことのたとえ。一身是胆の類義語[552]
  • 偃旗息鼓:(えんきそくこ)
    軍隊が旗を降ろして軍鼓を止め、所在を明らかにしないこと(軍事行動の停止)を表し、活動を停止するという意味で使われる。趙雲が定軍山の戦いにて使った『空城計』に由来。 ある出来事が中断したり、勢いが弱まることを表す比喩としても使われる[553]

ことば

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  • 七進七出:(しちしんしちしゅつ)
    京劇などの演劇作品が起源の言葉[554]
    『三国志演義』にて、長坂坡で趙雲が阿斗(劉禅)たちを救うため、曹操の陣営に何度も進入して退出したこと(七度進入・七度退出)に由来。「何度も出入りする行動」の例えで使用される。2021年、中国の猫カフェで火事が起こり、消防隊員七進七出で十数匹の猫を救出したとニュースで報じられ(動画)[555]微博(ウェイボー:中国のSNS)で「趙雲のようだ」と話題になった[556]
  • 子龍任務スラングの一種。
    2015年頃から台湾で使用されはじめる。当時、ASUSのスマートフォン「Zenfone」を購入後、しばしば修理に見舞われるユーザーが多発し、ASUSの修理店に何度も出入りすることになったことから、上述の「七進七出」に例えられ、「子龍任務」と呼ばれ始めた(「Zen」と劉「禅」が同音異義語になっている)[557]。現在でもASUS製品を修理に出すことになると、「子龍任務開始」「子龍任務(3/7)達成」(3回修理に出した、の意味)といった使用例がXなどのSNSやブログで確認される。ASUS製品に限らず、家電製品の修理全般に対しての使用例も見られる。

歇後語

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歇後語中国語版:けつごご。前半の言葉から後半の言葉(意味)を予測する言葉遊び)

  • 趙子龍出兵 —— 回回勝:(趙子龍が出兵する —— 毎回勝つ)
  • 孔明加子龍 —— 智勇双全:(孔明に子龍を併せる —— 知謀と勇気を兼備する)
  • 趙雲大戦長坂坡 —— 大顕神威:(長坂坡の戦いの趙雲 —— 大いに神威を顕す)
  • 対着趙雲摔阿斗 —— 収買人心:(趙雲に向け阿斗を投げつける —— 人心を買う)
  • 長坂坡上的趙子龍 —— 単槍匹馬:(長坂坡上の趙子龍 —— 単騎駆け(単独行動))

人物など

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  • 文鴦三国時代から西晋の軍人。
    上述の「七進七出」を実際に行い戦った人物として『資治通鑑』に記述がある[558]。『三国志演義』第110回では、たった一人で魏軍の包囲を蹴散らす勇猛な戦いぶりから「趙雲の再来」と称えられている[559][注 77]
  • 馬祥麟:明末の女性軍人・秦良玉の子。
    勇猛な性格で知られ、白馬に乗り銀の鎧を身に着け、単騎で敵将の首を討ち取ったことから、軍中で「趙子龍」「小馬超」と呼ばれた[561]
  • 劉粋剛(詳細は該当記事参照)
    中華民国空軍の軍人、エース・パイロット。その勇猛ぶりから空軍五虎将の一人とされ、多数の日本機を相手に戦ったことから「空の趙子龍」と称された。
  • 国民革命軍第95師団中国語版(詳細は該当記事参照)
    中華民国時代の河南省の国民党地方部隊。攻防に秀で、『趙子龍師団』と呼ばれた(あるいは自称した)。

古跡・施設

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主な趙雲にまつわる古跡、遺跡、公園、テーマパークなどの施設、地名など。

中国

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名称 場所 説明
河北省正定県・趙雲故里「趙雲廟」
趙雲廟
河北省
正定県
趙雲を祀った廟。明代頃には史料で存在が確認され、何度も改修や移転が繰り返されており、現在の廟は趙雲の末裔が建てたもの[562]。1997年、県級重点文物保護単位に指定されている。
廟門・四義殿・五虎殿・君臣殿・順平侯殿(正殿)があり、趙雲の二人の息子の趙統、趙広の他、劉備や諸葛亮、五虎将などの像も祀られている。清代の『漢順平侯趙雲故里』碑、大邑趙雲墓と長坂坡の土、壁画や正定県の民間伝承に登場する『趙子龍飲馬槽』の展示などもある。
(詳細は趙雲廟中国語版を参照)
河北省正定県「子龍広場」
子龍広場
庁舎前にある広場。2007年9月に一般開放。総投資額2,711万元、広場全体の面積は2.01ヘクタールあり、集会中心広場・文化展示廊・緑化休憩区の三要素からなる。歴史を感じられる公園であり、市民の憩いの場にもなっている。子龍広場の中心には巨大な趙雲像があり、正定の歴史的、文化的イメージを表しており、台座の背面に趙雲を賛辞する言葉が刻まれている[563]
常山公園 『常山東路』に整備された公園。趙雲の騎馬像が設置されている。
子龍桟橋 趙雲の字に因んだ桟橋。一角に趙雲が故郷の人々と別れを告げる場面の彫像が設置されている。
その他『子龍大橋』など、趙雲に因んだ構築物や地名があり、『正定城中国語版』『常山陵園』など街の至る所に趙雲像が設置されている。
臨城趙雲墓 同省
邢台市
臨城の趙雲の墓。(詳細は#臨城趙雲墓を参照)
中国馬鎮 同省
承徳市
豊寧満族自治県にある馬文化をテーマにした観光リゾートパーク。アトラクションや乗馬を楽しめる。『戦神趙子龍』では、長坂坡の戦いを再現した馬上パフォーマンスを観覧することができる[564]
後趙雲堡村 同省
邯鄲市
辛安鎮鎮中国語版にある趙雲の名が由来の村。創建年代不明。趙雲が軍を率いてこの村に駐屯したと伝えられている[565]
「頤和園長廊」
頤和園
北京市 1750年(清の乾隆15年)、乾隆帝が母である孝聖憲皇后のために造営した清漪園の一部として建設。1860年のアロー戦争で焼失したが、1888年に西太后が再建。その後も何度かの修繕を繰り返している。
「長廊」は全長728メートル、273室からなり、14,000枚以上の絵画で装飾されている。1998年ユネスコ世界遺産に登録。「世界最長の木造廊」としてギネス世界記録に認定されている。山水画、花鳥画などの他、中国の古典的な文化や民話、歴史上の人物や伝説の人物が描かれ、『三国志演義』のひとつに長坂坡の戦い「趙子龍大戦長坂坡」がある。
(詳細は該当記事及び頤和園長廊中国語版を参照)
長坂坡公園 当陽市 「長坂坡古戦場」に整備され、趙雲を顕彰するために造られた公園。趙雲を称えた『長阪雄風』の石碑や『演義』の名場面を再現した壁画や像が展示されている。『長坂路』ロータリーには、阿斗を抱えて槍を構えた趙雲の大きな騎馬像がある。近くには『子龍路』『子龍村』[566]など、趙雲にちなんだ地名や村名がある。
その他、『子龍畈』と呼ばれる丘の近くに、糜夫人が阿斗を抱えて避難したという『太子橋』や、糜夫人が身投げした『娘娘井』(井戸)と、『演義』にまつわる遺跡が存在する。
荊州古城
歴史文化旅遊区
湖北省
荊州市
関羽関係の展示が多いが、『荊州古城』『関帝廟』に劉備、趙雲らの像が展示されている。
「赤壁」
子龍灘
同省
咸寧市
赤壁市
赤壁近くの砂州の名。
民間伝承『子龍射帆』によると、『演義』で東南の風を起こした諸葛亮を恐れた周瑜が兵を差し向け、追ってきた呉船から逃れるため、趙雲が船上から神業で呉船のを止める縄を射抜いたところ、落ちた帆が大きな砂州へと変貌し、のように進路を遮って行く手を阻んだことから、人々はのちにその場所を『子龍灘』と呼ぶようになったという[567]
南陽趙雲墓 湖南省
南陽市
南陽にあった趙雲の墓。(詳細は#南陽趙雲墓を参照)
芙蓉峰
『芙蓉峰』
趙侯祠
同省
長沙市
寧郷市
芙蓉峰は芙蓉山ともいい、桂陽の南西に位置し、劉長卿五言絶句「逢雪宿芙蓉山主人」に登場する芙蓉山と同じ山。趙雲がここに駐屯したとあり、唐代に摩崖石刻が存在し、「趙雲屯兵處」と刻まれていた。唐宋時代には趙雲の功績を記念する『趙侯祠』(別名:漢順平候趙将軍廟。後述の関口趙侯祠とは別物。『護英祠』とも呼ばれた)が建てられ、南北に200平方メートル以上の敷地を占め、煉瓦と木材で造られた青瓦黒瓦の二棟三間の建物だったとある[99]
祠の前には、葉元棋が書いた『漢順平候趙将軍廟碑記』が刻まれた石碑が建てられていた。『康熙桂陽州志』に詳細な記録が残っており、清代には呉鯨中国語版が詩[568]を詠んでいる。
1931年8月に最後の再建が行われ、歴史上の趙侯祠と区別するため、新しく建てられた廟は『子龍廟』と呼ばれた。約600平方メートルの敷地内に、上下のホールや楼閣、南北の耳房などが配置され、上ホールには、剣を構えて胸を張った高さ2メートル以上の趙雲の塑像が安置されていたが、1960年代の文化大革命で何度も破壊され、芙蓉峰には石灰窯や砂利場が開設され、「趙雲屯兵處」の摩崖石刻は爆破、廟の基礎石も石灰の材料にされてしまった[569]
現在は『漢順平侯趙将軍廟碑記』のみ子龍廟近くの蒙泉亭に保存されている[99]
蒙泉(八角井) 趙雲が掘ったとされる井戸にまつわる泉の名前。
伝承では桂陽攻略時、趙雲が出征前に諸葛亮から錦囊(きんのう:錦で作った袋)を渡され、危急の際に開けるよう言われる。桂陽到着後、芙蓉峰に兵を駐屯させたが、真夏で水が不足し、兵士たちの士気が低下。焦った趙雲は錦囊を開けると八卦図が入っており、指示通りそれを置いたが数日経っても水は出ない。ついカッとなり長槍で八卦図を突き刺すと、そこから勢いよく水が噴き出し、兵士たちは大喜びして八卦図の形に沿って井戸を掘り、『萬軍泉』と名付け、のちに『蒙泉』(蒙恩の泉)に改名したという[570][571]
2006年には蒙泉が湖南省人民政府により省級文物保護単位指定されている。
この泉のそばに1952年「趙子龍酒」という中国酒を製造するメーカーが設立され、現在も製造販売されている。
(詳細は#食べ物の「趙子龍(酒)」を参照)
関口趙侯祠 桂陽県
北橋市
郷関口村。趙雲が営盤嶺に兵を置いたという伝承があり、塑像が祀られている。2018年、第四批市級文物保護単位指定[572]。趙雲に因んだ食べ物も存在する。
(詳細は「#子龍片」および「#その他の食べ物」を参照)
「白帝城」
白帝城
重慶市
奉節県
長江三峡。夷陵の戦い後、劉備が没した場所。現在はダムが作られた影響で四方を水に囲まれた島になっている。白帝城に弧を託す場面を再現した塑像が展示されており、劉備とその子供たち、諸葛亮、趙雲の他、陳到、張翼、陳震など、珍しい人物の塑像も展示されている。
(詳細は白帝城を参照)
大邑趙雲墓 四川省
大邑県
大邑の趙雲の墓。(詳細は#大邑趙雲墓を参照)
静恵山公園 山上に『子龍祠』があり、羌族を監視するために趙雲が築いたという『望羌台』の他、石碑や像が設置されている。そのほか『子龍街路』『白馬溝』など、趙雲にまつわる地名が複数存在する。
(詳細は静恵山公園中国語版を参照)
成都武侯祠
成都武侯祠
同省
成都市
諸葛亮、主君劉備とその臣下を祀る霊廟。漢昭烈廟、武侯祠、惠陵、三義廟の四要素からなる。成都武侯祠博物館の文化遺産保護区に属している。元は章武元年(221年)に惠陵(漢昭烈廟)が建てられ、後に武侯祠(孔明廟)が建ち、そして君臣を共に祀る祠廟に統合された。「文臣武将廊」に蜀漢の文臣武将28体の塑像が祀られ、西廊の武将廊には趙雲が筆頭で祀られている。
(詳細は成都武侯祠を参照)
和平街 旧称『子龍塘街』。趙雲の居宅があったと伝わる。(詳細は#民間伝承の子龍池を参照)
石経寺
石経寺
竜泉駅区山泉鎮にある中国仏教とチベット仏教が融合した、四川省西部の五大仏教密林のひとつ。後漢末期に建てられ、 当初は官僚の私邸であったが、蜀漢の時代に趙雲が封地として受け継ぎ、家廟(先祖を祀る場所。祖先が皇帝や王侯などの高官だった家のみ建てられるという)にして『霊音寺』と名付けたと伝わっている[573][574]。石経寺大雄宝殿の左側には、道光四年に建てられた石碑があり、「霊音とは、漢の将軍・趙侯の香火である」と刻まれている[574]
(詳細は石経寺中国語版を参照)
万年鎮子龍村 同省
南充市
趙雲の字が由来の村。伝承によると、趙雲が領内の峠道で一夜を過ごしたことに由来する[575]
富楽山公園
富楽山公園
同省
綿陽市
国家AA級観光地。1987年から建設が始まり、三国志をテーマにした庭園建築が数多く点在する大規模な公園。山頂には高さ46メートルの5階建ての富楽閣が建てられ、綿州碑林には三国志の歴史を描いた巨大な浮彫が飾られている。『三国志演義』の内容に基づいて、「桃園の誓い」「二劉涪城会」「五虎上将」「蜀漢四英」「魚水君臣」「龐統献策」などの小模型が富楽閣内に展示され、公園に五虎大将軍(五虎上将)の像が設置されている。
(詳細は富楽山中国語版を参照)
姜太公釣魚台 陝西省
宝鶏市
五丈原西に存在する地名。
崖に赤い文字で「趙雲、鄧芝屯兵處」と刻まれており、この地に趙雲と鄧芝が第一次北伐で駐屯したとされている[576]

台湾

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名称 場所 説明
佳里子龍廟
永昌宮
永昌宮
台南市
佳里区
趙雲(趙聖輔天帝君)を主祀として祀った廟。
鄭成功に従って台湾に渡ってきた福建省出身の林六叔が、佳里興堡中国語版東勢寮に開墾地として割り当てられたことに起源。
1691年、村人の林廷龍が川で魚を捕っていたところ、流木がぐるぐる回っているのを見つけ、拾い上げると白蟻によって文字が食い込まれており、「常山趙子龍」と書かれていた。村人たちはこれが神の意志であると考え、この木を草小屋に祀った。その後、大陸から来たという彫刻師が訪れ、「趙雲将軍が夢に出てきて、この流木を神像に彫るようにと頼まれた」と語り、小さな趙雲の像が彫られた。この事から東勢寮は『子龍廟』と呼ばれるようになり、趙雲の封号『永昌亭侯』から『永昌宮』とも呼ばれる。
落成式(建物が完成したことを祝う式典)の日が2月16日であったため、この日を子龍神の誕辰日(偉人や神様の誕生日を指す言葉)と定めている。台湾にはこの子龍廟の他にもほぼ全国の県市に1箇所は趙雲を祀った廟が存在し、特に島の西海岸側に複数存在する[577]
(詳細は佳里子龍廟中国語版を参照)

日本

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名称 場所 説明
八坂神社(益子) 栃木県
益子町
劉備の「檀渓を的盧で跳ぶ」趙雲の「長坂坡の戦い」をモチーフにした彫刻がある。
「宝登山神社」
宝登山神社
埼玉県
長瀞町
本殿に三国志をモチーフにした極彩色の彫刻があり、関羽や趙雲(長坂坡の戦い)が描かれている。
日本ではこの他にも三国志をモチーフにした彫刻や絵画が全国の神社や寺院に点在している。
「KOBE鉄人三国志ギャラリー」
KOBE
鉄人三国志
ギャラリー
神戸市
長田区
鉄人28号』『三国志』で知られる漫画家・横山光輝の故郷、神戸市長田区にある展示施設。横山作品の他にもさまざまな三国志(演義)関連作品の展示や中国輸入雑貨、グッズ販売、正子公也デザインの趙雲フィギュアや、巨大な趙雲の銅像が展示されている。定期的に三国志イベントも開催されている。施設内で撮影した写真はネット掲載禁止のため注意。
(詳細は該当記事を参照)
同商店街には三国志をテーマにしたカフェ『Cha-ngokushi(ちゃんごくし)』のほか、長田区には街の至る所に三国志の人物たちの像が設置されている。

マレーシア

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名称 場所 説明
北海船仔頭
Bagan Ajam
天福宮
Bagan
Ajam
1871年以前から存在するマレーシアの檳城州北海にある子龍廟[578]。北海最大の神廟の一つ。宮内には閻魔大王と福徳正神(土地神)も祀られている。マレーシアの子龍廟の多くは中国大陸から渡ってきた人々によって建立され[579]、天福宮の神像は広東から持ち込まれたという[580]。聖誕日(聖誕千秋)は旧暦8月16日。
清潔海濱路(Jalan Pantai Bersih)は元々『子龍街』(Dragon Temple Lane)と呼ばれていたが、後に名前が変わってしまい、再び『子龍街』と改名してくれるよう国会議員、州議会議員に強く求めているという[581]
柔佛麻坡鳳威宮 Muar
Johor
麻坡に存在する子龍廟。
2010年3月、創設者二人が「互いに尊敬する趙子龍の忠義の精神を広めたい」という共通の志を持ち、さらに二人の友人を加え『鳳威宮』の建設を計画。同年旧暦5月15日、多くの善信の協力のもと『鳳威宮』の看板が正式に掲げられ、趙雲の忠・孝・義・仁・謙の精神を目標とし、より良い社会づくりを目指し活動しているという[582]
ほかに趙雲が宮主に乩身(神との媒介。神霊が憑依した状態)して神像の場所を指示したという創建譚を持つ『順平宮』[580][583]、神像が海南島から持ち込まれた『風雲廟』[580]などの子龍廟が存在する。

趙雲を主題とした作品

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映画
  • 三国志(2008年)(原題:三国志之見龍卸甲)中国・韓国、2008年。
     主演:劉徳華(アンディ・ラウ)、声:東地宏樹
  • 真・三国志 蜀への道(原題:趙子龍)中国、2020年。
     主演:賀軍翔(マイク・ハー)、声:小松史法
  • 三国志 趙雲 無双伝(原題:趙雲伝之龍鳴長坂坡)中国、2020年。
     主演:梅洋(メイ・ヤン)、声:小松史法。
  • 『趙雲伝之莫問少年狂』中国、2021年。
     主演:王正宣。※日本未公開。
     少年時代、張繡とともに槍の名手の師匠のもとで学び、黄巾賊と戦う物語[584]
  • 『槍神趙子龍』中国、2022年。
     主演:張子文。※日本未公開。
     長坂坡の戦いを元にした創作作品で、同門の兄・張繡と戦いを繰り広げる[585]
  • 『戦神趙雲』中国、2028年。
     主演:張子文。※2028年公開予定[586]
映画(WEB配信)
テレビドラマ
小説
  • 大場惑『三国志武将列伝』 表紙&本文イラスト:小島文美光栄、全四巻。
     「放浪の子龍♦趙雲」1992年。ISBN 4906300731
     「天翔の騎士♦趙雲」1993年。ISBN 4877190309
     「江東の策謀♦趙雲」1994年。ISBN 4877191666
     「覇望の入蜀♦趙雲」1996年。ISBN 4877193332
文庫版『三国志武将列伝 趙雲伝』(歴史ポケットシリーズ)、全四巻。
 「放浪の子龍(1)」1998年。ISBN 487719620X
 「天翔の騎士(2)」1998年。ISBN 4877196455
 「江東の策謀(3)」1998年。ISBN 4877196463
 「覇望の入蜀(4)」1998年。ISBN 4877196471
小説(未完)
小説(短編)
朗読CD
  • 『三国志 Three Kingdoms 公式朗読CDシリーズ "夷陵に燃ゆ" 趙雲篇』
     「三国志TK朗読CD」製作委員会、株式会社エスピーオー、2012年。
     【~眠れぬ貴女に捧ぐ~特装版】CD+DVD(インタビュー映像、ドラマ「三国志Three Kingdoms」ダイジェスト映像付き。
     【通常版】CDのみ。
     主演:KENN
漫画(連載)
漫画(短編)
漫画(読切)
ゲーム

その他関連作品

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映画
テレビドラマ
アニメ
ゲーム
漫画

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 日本では子竜[2]とも。
  2. ^ 張機(ちょうき)の『傷寒論』(傷寒雑病論:しょうかんざつびょうろん。傷寒について記した書)[8]や、曹植(そうしょく)の『説疫氣』(せつえきき)[9]によると、建安時代はこの傷寒が度々流行し、甚大な被害が出ていたと記されている(建安二十二年瘟疫中国語版も参照)。
  3. ^ 尺は時代によって長さが違うため、書籍によっては約190cm[19]を採用している。
  4. ^ 当時義勇兵は「義従」と呼ばれ、「道義によって従う人」という意[21]
  5. ^ a b 『別伝』には何年の出来事かの記述はないが、袁紹が韓馥を脅し冀州牧を譲らせたのが初平2年の出来事[23]のため、191年頃と推測される。
  6. ^ 渡邉義浩は公孫瓚の応対態度から、趙雲との間に真の主従関係は結ばれていなかったのだろう、と推察している[25]。趙雲の身分は不明だが、公孫瓚は凡庸な者を重用し、名士や優秀な家の子弟を「彼らは自分たちが優遇されるのは当然のことだと考えており、感謝などしないから」という理由で彼らを抑圧し、わざと厳しい状況に追い込む傾向があった[26]
  7. ^ この『別伝』に記述される「公孫瓚とともに征討した」の一文と、公孫瓚配下となった時期から、191年の勃海郡(ぼっかいぐん)で起こった、黒山賊と合流しようとした青洲せいしゅう徐州じょしゅうの黄巾残党30万と公孫瓚の戦い[29]に趙雲も参加した可能性が高い[30]。この戦いで2万の兵で黄巾賊を大いに打ち破った公孫瓚は、冀州の人々の支持を得ることができた。
  8. ^ a b 「主騎」を「護衛(または親衛隊)隊長」[35]、「ボディーガード」[36]、と訳している書籍があるが、『新唐書』巻一百三十五「哥舒翰伝」に見られる「使王思禮主騎(騎兵の主),李承光主步(歩兵の主)」や、『資治通鑑』第六十巻の「為備主騎兵」などのように、「騎兵隊長」と訳すのが正しい。
  9. ^ 方北辰はこの事から、趙雲が馬術に優れており、公孫瓚の『白馬義従』の一員であったと考えている[37]
  10. ^ 趙春陽は、劉備が青洲で袁紹との戦いにおいて功績をあげ平原郡の相(しょう:知事)になり、身分で差別せず平原の人々に善政を敷いて慕われたことと[40]、公孫瓚の立ち振る舞いなどを比べ、趙雲が公孫瓚に失望していたのだろう、と述べている[41](趙雲が公孫瓚の下を去った時期が不明のため因果関係があるかは不明だが、193年に公孫瓚は敵対関係にあった幽州牧の劉虞(りゅうぐ)を殺害しており、劉虞は異民族との良好な関係を築いたり、幽州で善政を敷いて人々から慕われていたので、この件で公孫瓚は多くの民心を失っている)[42]
  11. ^ 『三国志演義』ではこの博望坡の戦いが諸葛亮の初陣となっており、それに合わせて戦いが起こった年が203年から208年(長坂坡の戦いの直前)に変更されている[68]
  12. ^ 前述のとおり、江陵のある南郡を攻め落とした周瑜は南郡太守になり、廬江を攻め落とした呂蒙が廬江太守になったように[98]、三国時代は新しく群守に任命される者はその郡を攻め落とした将軍になるのが常であり、そのため桂陽は趙雲が単独で軍を率いて攻め落とした可能性が高いと考えられる[99]
  13. ^ 中国には同姓不婚という考えが古くに存在していたためで、後述の通り、これは趙雲の建前であり、趙範が美人計を用いて自分を陥れようとしているのではないかと疑った、というのが本音である[102]
  14. ^ 趙春陽は劉備がのちに益州を攻略した時、甘夫人は病死、孫夫人は呉へ帰国した(後述の阿斗奪還を参照)ため、独身の劉備に臣下たちが劉瑁(りゅうぼう)の未亡人である呉氏(ごし)を娶るよう勧めた[106]ことについて触れ、劉瑁と劉備、趙範と趙雲はどちらも同姓で気を遣うという状況が非常に似ており、(めかけ)や側室を人に勧める行為は非礼にあたるため、趙雲も劉備のように独身であった可能性が高いことを指摘し、趙雲が170年生まれと仮定すると、この時40歳近くなため、もし前妻が居た場合は亡くなっていたのではないかと推察している[107]
  15. ^ a b 『華陽国志』によると、翊軍将軍への昇進は劉備の漢中王即位後であり「関羽為前将軍,張飛為右将軍,馬超為左将軍,皆假節鉞。又以黄忠為後将軍,趙雲翊軍将軍」と四将と並んで昇進したと記録されている[121]
  16. ^ 渡邉義浩は趙雲が冀州出身で幽州の公孫瓚に仕えていたため、「冀州強弩」「幽州突騎」(弩の扱いと騎兵の弱点)の戦法、双方に通じていたであろうと指摘している[31]
  17. ^ これは後に空城計と呼ばれる心理戦で、『三国志演義』では諸葛亮が空城計を用いて司馬懿ら魏軍を退けるエピソードがあるが、趙雲のこのエピソードがモデルとなっている[135]
  18. ^ 宮川尚志は「この意見は、新たに興った蜀漢のまさに進むべき国策を明確に認識したもの」と評し、「魏の領土となった華北を久しく放置すれば、民心はいつとはなしに漢の故土であったことを忘れ、魏政権を正しいものとみなしてしまうであろう。民心なおひそかに漢を思う間にこそ、堂々と実力に訴え、名分に正し漢の正統の権利を主張すべきである」と述べている[141]
  19. ^ a b 『華陽国志』では「封丞相亮武郷侯。(中略)中護軍趙雲〔為征南將軍,封永昌亭侯。〕(中略)中部督襄陽向寵,及魏延、吳懿皆封都亭侯。」とあり、建興元年以前に中護軍になっている。
  20. ^ 『三国志』諸葛亮伝および『華陽国志』によると、趙雲たちの軍は疑軍(少数の兵を多数に見せかけること)であった[152][153]と記録されている。 また、『漢晋春秋』には「祁山、箕谷では蜀軍の方が曹軍より多かったが撃破できなかった」とも記述がある[154]
  21. ^ a b 胡三省は、『晋書』職官志を根拠にすると鎮軍将軍は四征将軍・四鎮将軍の上位であるため、鎮東将軍から鎮軍将軍へとなるとむしろ昇格になることを指摘し、「思うに、蜀漢の制度では鎮東将軍は方面の鎮圧を専らにするものだから、鎮軍将軍は雑号将軍だった。それゆえ降格となるのだろう」と述べている[162]。しかし蜀の鎮軍将軍は四征将軍や四鎮将軍同様に上位職の鎮軍大将軍の位が置いてあり、雑号将軍であるとは考えづらい。盧弼は「『宋書』百官志では、鎮軍将軍は四鎮将軍と比較すると、四鎮将軍に次ぐ。『晋書』のいう鎮軍将軍は鎮軍大将軍のことであるから、四征将軍・四鎮将軍よりも上位なのだ」と述べている[163]
  22. ^ 『正史三国志』・『演義』の関連書籍などによっては、228年を没年として採用しているものもある[171]
  23. ^ 趙春陽は、姜維の上奏文にある「災禍・反乱を平らげた」の「災禍」は、荊州南部攻略、益州平定、漢中の戦い、北伐を指し、「反乱」は「羌族が「反乱」を起こし、趙雲が大邑に駐屯してこれを鎮圧した」という、大邑に伝わる「趙雲が大邑に葬られた話」の出来事を指しているのだろう、と推測している[179]。詳細は「#大邑」を参照。
  24. ^ その他に劉邦の側室になり、劉長を生んだ趙姫も同真定県の出身者で同姓であり、死後真定に葬られている[191]
  25. ^ 夏侯惇は14歳の時に[192]、劉備は15歳で盧植の元で学んでいた記述があり[193]、後漢末時代の良家の子弟はおよそ15歳前後から教育を受けさせていたことが分かる。
  26. ^ 曹丕は6歳の時に射撃の訓練を受け、8歳の時には騎射が出来た[195]とあり、孫権は淩統の死後、淩統の2人の息子を8、9歳のときに養子に迎え、10日ごとに乗馬の訓練を受けさせた[196]とある。
  27. ^ 孫堅劉備ほか。(各該当記事、正史『三国志』参照)
  28. ^ 清の歴史学者・王鳴盛の『十七史商榷』より[203]
  29. ^ 仮に辰年である場合、…152年生まれ、164年生まれ、176年生まれ、188年生まれ…となる。
  30. ^ 他の就任者の劉巴は、劉巴とは同姓同名の別人[214]
  31. ^ 蜀以外では呉では周瑜、魏では蒋済と、後期には司馬師が就任している。
  32. ^ ただし記録が抜けている可能性もあるため、必ずしもこの二人が南方で武功がなかったとも言い切れず、また、後任とされる姜維は同じ時期に劉巴も征南将軍に就いており、誤字の可能性がある(表参照)。
  33. ^ 征東は「東を征する」、つまり蜀漢から見て「東にある呉を征する」の意味になるための配慮と考えられる。
  34. ^ 大邑には墓や防羌台のほかにも趙雲にまつわる地元民による口頭伝承が多数存在している(「子龍文化」と呼ばれる)[259]
  35. ^ 専門家の考証では、三国時代の大邑は蜀漢の存亡に関わる戦略的要地で、成都の西側を守る障壁の役目を果たしたとされる[262][259]
  36. ^ 『静恵山』と『銀屛山』は違う場所にあるが、斜江東岸の諸峰を東山と呼び、連なる山々をそれぞれ『静恵山』『勝利山』『銀屛山』と名付けているため、『銀屛山』も広義の東山の範囲内になるため、矛盾はみられない、と衛復華は述べている[272]
  37. ^ 南宋時代に現在の四川省南充市閬中市の南三里にあったとされる『錦屛山』が史料に記録されている四川省内における最古の『錦屛山』だが、場所が成都市から北東約200キロメートルも離れているため、この『錦屛山』が『演義』で描かれる成都の『錦屛山』ではない、と葉威伸は否定している。
  38. ^ 成都から臨城に至るまでには魏の領域が含まれるため、実際には実現不可能である。
  39. ^ 「魏書」30巻、「呉書」20巻、「蜀書」15巻となっており、蜀はもっとも記述量が少なく、趙雲に次ぐ実力とされる陳到や、劉備の外戚である呉懿など、正史に本伝が立てられなかった人物が複数存在し、また、蜀には史官(歴史を編纂する官職)が設けられていなかったことを陳寿が述べている[285]
  40. ^ 諡号が贈られたことについて詳細が残されていることから、諡号が追贈された後~裴松之の時代に成立したと考えられる。
  41. ^ 現在の配置は「東廊(文官)」は龐統、簡雍呂凱傅彤費禕董和鄧芝陳震蔣琬董允秦宓楊洪馬良程畿
    「西廊(武官)」は趙雲、孫乾、張翼馬超王平姜維黄忠廖化向寵傅僉馬忠張嶷張南馮習[311][312]
  42. ^ 両廊への配置は康熙十一年(1672年)の祠廟再建時に始まり、東廊は呂凱、関興、費禕、龐統、鄧芝、陳震、蔣琬、董允、法正劉巴、秦宓、許靖
    西廊は張苞、馬超、黄忠、姜維、張飛、趙雲、傅僉、向寵、李彪、廖化、張虎、張嶷。
    道光年間(1821年-1850年)に再び修復された際、龐統と張飛は「昭烈殿」へ、関興と張遵が父張苞に代わり「丞相祠」に昇格した。東廊は蔣琬、費禕、董允、法正、劉巴、呂乂、陳震、秦宓、許靖、董和、馬良、楊洪、王連霍峻、呂凱。
    西廊は趙雲、馬超、黄忠、向寵、廖化、鄧芝、傅僉、姜維、張嶷、張裔、張翼、王平、馬忠、向朗李恢に変更され、趙雲はこの年から現在まで武将廊筆頭となっており、龐統は1953年の改修時に東廊に戻されている[313]
  43. ^ この伝承に書かれる「主君の奥方を守り切れなかったことから、山門を守る罰を受けた」という話は、嘉靖本『三国志通俗演義』(現在最も普及している毛宗崗本『三国志演義』よりも古い版)の注にある「後に子龍は武臣廟に入ることができず、伍子胥と共に門番を務めた。これは主母を叱責したため命を落とし、不忠であったためである」[315]という記述が由来で、その後、毛宗崗は趙雲が糜夫人を大喝した部分を語気を和らげて修正して注を削除した[316]ため、毛宗崗本『演義』が普及してからはあまり見られなくなっている。後述の歴代帝王廟の注釈も合わせて参照。
  44. ^ 京劇の武老生は武侯祠の趙雲塑像のように長い髭(満と呼ばれる)をつける。
  45. ^ この時、他に増祀された従祀名臣は、倉頡仲虺中国語版畢公高周呂侯仲山甫中国語版尹吉甫劉章魏相丙吉耿弇馬援狄仁傑宋璟姚崇李泌中国語版陸贄中国語版裴度呂蒙正李沆中国語版寇準王曾范仲淹富弼韓琦文彦博、司馬光、李綱趙鼎文天祥、呼嚕、博果密、托克托常遇春李文忠楊士奇楊榮于謙李賢劉大夏[318]
  46. ^ a b 嘉靖版『三國志通俗演義』では、趙雲が逃げようとしない麋夫人を怒鳴ったことをきっかけに麋夫人が井戸に身を投げたことについて、趙雲は不忠者であるという註がつけられている[390]。これに対し、王長友は『嘉靖本』の割注が『毛宗崗本』では省かれていることに触れ、またその割注について、思想が陳腐で融通のきかない文人によるものだと推測している[391]
  47. ^ 李光地によれば、趙雲が幼い後主(劉禅)を拾ったことが、夏侯嬰が幼い恵帝を拾ったことに対応している[322]
  48. ^ 趙雲の容貌の表現「闊面重頤」(広い顔に重なったあご(二重あご))の解釈については、異論を唱える作家がいる。「#二重あご」を参照。
  49. ^ (公孫瓚を救いに現れた趙雲について)この人(趙雲)は突然現れた。人々は昔、公孫瓚が救いの星を得たと話していたが、これは将来、劉玄徳が立派な部下を得るということだったのだ[385]
  50. ^ (袁紹を見限り、公孫瓚の元へ向かった趙雲について)子龍は高い志を持ち、人より抜きん出ている[386]
  51. ^ (趙雲と関羽・張飛の性格を比べて)趙雲は襄城の外、檀溪のほとりで何度も振り返りながら玄徳の姿を探し続けたが、見つけることができなかった。これは趙雲が非常に焦っていたことを示している。もし張飛がこのような状況に置かれたら、きっと蔡瑁を殺害しただろう。関羽であれば、蔡瑁を殺さなくても、必ず捕まえて兄(劉備)を探し求めたはずだ。決して蔡瑁を簡単に逃がして、自ら新野や南漳まで探しに行くようなことはしなかっただろう。三人とも忠義心は同じだが、子龍はさらに細心で落ち着いているという点が際立っている。人それぞれ性格が異なり、それぞれの個性が描かれているので、非常に面白く読める[387]
  52. ^ a b 諸刃の「剣」は春秋戦国時代に多用された武器で、漢の時代になると片刃の「刀」の普及により剣の使用は少なくなった。それにより剣の神秘性が増して尊重されるようになった[388]。そのため青釭剣は趙雲の英雄性を高めるための武器として登場させたと考えられ、また青釭剣は劉禅を救う場面でのみ趙雲が用いており、劉禅と趙雲の絆を表している[389]
  53. ^ (曹操の下に投降したと聴いた張飛が「殺してやる!」と言ったことについて)読者はここを読んで、趙雲の境遇に心を痛め、同情するだろう[394]
  54. ^ (呂布が娘を担いで逃走する場面と、趙雲が阿斗を抱えて敵陣突破する場面を比べ)呂布は娘を背負い、非常に重く、何度も転びそうになった[395]。趙雲は阿斗を懐に抱き、かなり軽く感じられた[396]
  55. ^ (檀溪の戦い(蔡瑁の話)と長坂坡の戦いを振り返って)檀溪の戦いでは、子龍は三百の兵をもって玄徳を救えなかった。しかし長坂の戦いでは子龍はたった一人で阿斗を救い出した。これは何が起こるか分からないものである。関羽は二夫人(甘・糜夫人)を守りながら五つの関所を通過し、全員無事であった。しかし、子龍が二夫人を守りながら長坂を通過したときには、二人を同時に守ることができなかった。これもまた、何が起こるか分からないものである。人は言う、「檀溪の戦いは、趙雲の武勇によるものではなく、長坂の戦いで趙雲が活躍できたのは、彼が虎のような将軍だったからでもない。これは天意であり、人間の力ではない」と。しかし私は思う、関羽は兄(劉備)への義理を尽くし、子龍は主君を救うことに全力を尽くした。これは天意であり、同時に人間の力でもある。玄徳が荊州を放棄したのは、地の利を失ったからであるが、それでも幸運にも天の助けと人々の助けを得ることができたのだ[397]
  56. ^ (阿斗を救ったことに対して)玄徳(劉備)が阿斗(劉禅)を地面に投げ捨てたのも、決して悪くない行為だった。後から考えると、英雄の趙雲が何の役にも立たない劉禅を救ったことは、救わなかった方が良かったかもしれない。しかし、昔から豪傑は時勢に恵まれず、凡人は多くの福に恵まれているものだ。劉禅の知恵は父より劣るが、その福は父を凌駕している。玄徳は一生苦労し、ようやく帝位についたが、まもなく亡くなってしまう。逆に、平凡な息子である劉禅は、42年間も安心して天下を治めた。長坂の戦いでは、凡庸な君主が虎将の力によって命を救われたのに、人々は逆に虎将が凡庸な君主のおかげで死なずに済んだと言う。これは皮肉な話である[398]
  57. ^ (樊氏を娶らなかったことについて)子龍は最後まで従おうとしなかった。これは子龍の素晴らしいところだ[399]
  58. ^ (阿斗を二度救ったことについて)英雄の一生において、際立って驚くべきことは、そう何度もできるものではない。一つでもあれば、立派な逸話として語り継がれる。ところが、趙雲の場合、そのような驚くべきことが一つだけでなく、なんと二つもある。それは、長江で阿斗を奪い返した出来事である[401]
  59. ^ (定軍山での空城計について)子龍は数十万の敵兵が突然襲いかかってくる中で、一人立ち向かった。城門を閉めて守れば必ず死ぬし、城を捨てて逃げればやはり死ぬ。そこで城を捨てず、閉め込まず、旗を隠し、太鼓を打ち鳴らすのをやめ、馬にまたがって外に立ち、敵に「何か裏がある」と思わせ、見事勝利した。これはただ勇気があっただけでなく、知略があったからだ。もし、ただ勇気があるだけであれば、大胆な姜維はなぜ鄧艾に何度も負けたのか?[403]
  60. ^ (劉備に対する趙雲の諫言について)子龍の見識は、大臣や諫臣(君主に諫言する役目の人)の風采があり、単なる戦将として見るべきではない[404]
  61. ^ 登場時は少年だったので、北伐のこの時点で七十歳だと計算が合わない。少年=十九歳だとしても六十歳前になる。羅貫中の計算ミスか、あるいはこのような『演義』内でのやや唐突な時間経過の描写は、山本健吉が「物語作者が読者をあざむいていたことをこういうときほど痛感することはない。(中略)物語の時間は、極度に圧縮された時間である」と述べているように[405]、時代の移行を示す物語的表現手法とみられる。(#矛盾点も参照)
  62. ^ (老将の身で韓徳の息子四人を斬ったことについて)子龍は老いない……子龍は本当に老いない……子龍は老いない……子龍は確かに老いない……子龍は確かに老いない……子龍は確かに老いない[407]
  63. ^ (一人一騎も失わず撤退したことについて)敗れても隊列を整えることは、勝利して凱旋するよりもさらに難しく、賞賛に値する[408]
  64. ^ ここで言う「小将」は謙遜の言葉で、「末将」のような意味合いが強く、主君の妻である孫夫人に対して「大将」や「老将」と自称するのは失礼にあたるためだと考えられる[412]
  65. ^ 「白馬銀槍」は中国で趙雲を形容するのに使われる言葉のひとつ。白馬に乗り、銀の槍を持つという民間伝承から。#京劇および、#愛馬#長槍を参照。
  66. ^ 生没年を158年-229年にすると、71歳となる。ただし、これは上述の通り、191年の「少年」の描写と矛盾が生じるため正しくない。
  67. ^ 詳細は民間伝承上の趙雲の妻である孫軟児の記事を参照。
  68. ^ 『子龍護忠』は中年期の武生で、『失街亭・空城計・斬馬謖』では武老生(老兵)なので髭(満:口いっぱいの髭。武生の場合は毛が少なめで短い)をつける[445]
  69. ^ この「桃園の四人兄弟の一人」について、『演義』における関羽の台詞「子龍は我が弟」[413]が大元の起源で、そこに「関羽・張飛と同じく活躍した趙雲を桃園の義兄弟の一人にしてあげたい」という人々の願いが反映され、広まった可能性が指摘されている[446]
  70. ^ 中国には「一呂二趙三典韋、四関五馬六張飛……」という、三国時代の武将の強さの順を表す数え歌が古くからあり、一番が呂布、二番が趙雲、三番が典韋、四番が関羽、五番が馬超、六番が張飛…となっており、この『借趙雲』で趙雲が典韋に勝つという展開は、この歌を参考にしたと考えられる(ただしこの数え歌は成立時期不明のため、京劇の影響を受けて後世作られた可能性もある)[449]
  71. ^ 『奪成都(収馬超)』では、同じ武生の馬超(趙雲と同じく白が基調の靠)との区別をつけるために、この演目でのみ赤い衣装を着ることがある[441]が、これは必ずしもそうではなく、区別なく二人とも白い衣装のままの場合もある。
  72. ^ 『失街亭・空城計・斬馬謖』を並称して『失空斬』とも。
  73. ^ 吉川の小説以外に、横山独自の解釈のほか、作画の参考資料にした中国の連環画も影響を与えているとされる。三国志_(横山光輝の漫画)#表現を参照。
  74. ^ 趙雲の最初の主君である公孫瓚は、白馬で揃えた騎兵『白馬義従』を率いていたことで有名で、趙雲が劉備の主騎になったことから馬術に優れていたことが推測され、『白馬義従』に選ばれていた可能性があり、そこから白馬に乗るイメージに繋がったとも考えられる[509]
  75. ^ 後者の説(料理人の趙雲への敬慕)は近年インターネットで広まった説で、後述の正定の民間伝承が広まったことから、この説が新しく作られたと考えられている[539]
  76. ^ 葉威伸は「鰻を子龍に見立てた」或いは「皮を剥いた姿(紫龍)から名付けた」説が最初の命名だったのではないかと推測し、正定の民間伝承は湖南の料理店「曲園酒楼」が1949年以降に北京に移転しており、この料理を知った正定の人々が趙雲と料理名を結びつけて物語を創作した可能性を述べている[540]
  77. ^ 毛宗崗本の前の版である嘉靖本では張飛になぞらえられていた[560]

出典

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  1. ^ 『三國志』巻三十六「趙雲伝」(建興)七年卒。
  2. ^ TVドラマ『三国志 Three Kingdoms』字幕表示など。
  3. ^ a b c 井波 1993, p. 185.
  4. ^ 渡邉 2020, p. 240.
  5. ^ 『三國演義』第七十三回「玄徳進位漢中王 雲長攻抜襄陽郡」封關羽、張飛、趙雲、馬超、黃忠為五虎大將軍
  6. ^ ウィキソース出典  (中国語) 『英雄記』「韓馥伝」, ウィキソースより閲覧。 于時冀州民人殷盛,兵糧優足。
  7. ^ 『後漢書』巻七十一「皇甫嵩伝」。初,鉅鹿張角自称「大賢良師」,奉事黄老道,畜養弟子,跪拝首過,符水呪説以療病,病者頗癒,百姓信向之。角因遣弟子八人使於四方,以善道教化天下,転相誑惑。十餘年閒,衆徒数十万,連結郡国,自青、徐、幽、冀、荊、楊、兗、豫八州之人,莫不畢応。
  8. ^ ウィキソース出典  (中国語) 『傷寒論』張仲景原序, ウィキソースより閲覧。 余宗族素多,向餘二百。建安紀年以來,猶未十稔,其死亡者,三分有二,傷寒十居其七。
  9. ^ ウィキソース出典  (中国語) 『太平御覧』巻七百四十二「疫癘」, ウィキソースより閲覧。 曹植《說疫氣》曰:建安二十二年,厲氣流行,家家有僵尸之痛,室室有號泣之哀。或闔門而殪,或覆族而喪。或以為疫者鬼神所作。夫罹此者悉被褐茹藿之子,荊室蓬戶之人耳。若夫殿處鼎食之家,重貂累蓐之門,若是者鮮焉。此乃陰陽失位,寒暑錯時,是故生疫。而愚民懸符厭之,亦可笑。
  10. ^ ウィキソース出典  (中国語) 『後漢書』巻五十「孝明八王列伝」第四十, ウィキソースより閲覧。 豹立八年薨,子暠嗣。三十二年,遭黄巾賊,棄国走,建安十一年国除。
  11. ^ 『三國志』巻八「張燕伝」張燕,常山真定人也,本姓褚。黄巾起,燕合聚少年為群盗,在山沢間転攻,還真定,眾万餘人。…(中略)…眾至百万,号曰黒山。霊帝不能征,河北諸郡被其害。
  12. ^ 『後漢書』巻七十二「董卓伝」参照。
  13. ^ ウィキソース出典  (中国語) 『英雄記』「韓馥伝」, ウィキソースより閲覧。 馥字文節,潁川人。為御史中丞。董卓舉為冀州牧。
  14. ^ a b 『漢末英雄記』「公孫瓚伝」瓚毎与虜戦,常乗白馬,追不虚発,数獲戎捷,虜相告云:「当避白馬。」因虜所忌,簡其白馬数千匹,選騎射之士,号為「白馬義従」。
  15. ^ 『三國志』巻八「張燕伝」燕遣人至京都乞降,拝燕平難中郎将。
  16. ^ 『三國志』巻六「袁紹伝」袁紹字本初,汝南汝陽人也。高祖父安,為漢司徒。自安以下四世居三公位,由是勢傾天下。
  17. ^ 『三國志』巻三十六「趙雲伝」趙雲字子龍,常山真定人也。本属公孫瓚。
  18. ^ a b 小南 1993, p. 320.
  19. ^ a b 石川 2020, p. 10.
  20. ^ a b c 『三國志』巻三十六「趙雲伝」裴松之注《雲別伝》雲別伝曰:雲身長八尺,姿顏雄偉。
  21. ^ 再生時間:03:18 - 03:28
  22. ^ a b 『三國志』巻三十六「趙雲伝」裴松之注《雲別伝》為本郡所挙,将義従吏兵詣公孫瓚。
  23. ^ 『三國志』巻一「武帝紀」二年(中略)秋七月,袁紹脅韓馥,取冀州。
  24. ^ 『三國志』巻三十六「趙雲伝」裴松之注《雲別伝》時袁紹称冀州牧,瓚深憂州人之従紹也,善雲来附,嘲雲曰:「聞貴州人皆原袁氏,君何独回心,迷而能反乎?」
  25. ^ 渡邉 2020, p. 242.
  26. ^ 『英雄記』「公孫瓚伝」瓚統內外,衣冠子弟有材秀者,必抑死在窮苦之地,或問其故,答曰:「今取衣冠家子弟及善士富貴之,皆自以為職當得之,不謝人善也。」所寵遇驕恣者,類多庸兒,若故卜數師劉緯臺、販繒李移子、賈人樂何當等三人,與之定兄弟之誓,自號為伯,三人者為仲、叔、李,富皆巨億,或取其女以配己子,常稱古者曲周、灌嬰之屬以譬也。
  27. ^ 『三國志』巻三十六「趙雲伝」裴松之注《雲別伝》雲答曰:「天下訩訩,未知孰是,民有倒県之厄,鄙州論議,従仁政所在,不為忽袁公私明将軍也。」
  28. ^ 『三國志』巻三十六「趙雲伝」裴松之注《雲別伝》遂与瓚征討。
  29. ^ 『後漢書』巻七十三「公孫瓚伝」初平二年,青、徐黄巾三十万觿入勃海界,欲与黒山合。瓚率歩騎二万人,逆撃於東光南,大破之,斬首三万餘級。賊棄其車重数万両,奔走度河。瓚因其半済薄之,賊復大破,死者数万,流血丹水,収得生口七万餘人,車甲財物不可勝筭,威名大震。拝奮武将軍,封薊侯。
  30. ^ a b 趙 2019, p. 17.
  31. ^ a b 渡邉 2020, pp. 243–245.
  32. ^ ウィキソース出典  (中国語) 『漢末英雄記』「麹義伝」, ウィキソースより閲覧。 袁紹討公孫瓚,先令麹義領精兵八百、強弩千張,以為前登。瓚軽其兵少,縦騎騰之。義兵伏楯下,一時同発,瓚軍大敗。
  33. ^ a b 『三國志』巻三十六「趙雲伝」裴松之注《雲別伝》時先主亦依託瓚,毎接納雲,雲得深自結託。
  34. ^ a b c 『三國志』巻三十六「趙雲伝」瓚遣先主為田楷拒袁紹,雲遂随従,為先主主騎。
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  38. ^ a b 『三國志』巻三十六「趙雲伝」裴松之注《雲別伝》雲以兄喪,辞瓚暫帰,先主知其不反,捉手而別,雲辞曰:「終不背徳也。」
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  42. ^ 『三國志』巻八「公孫瓚伝」付《劉虞伝》
  43. ^ 『三國志』巻三十六「趙雲伝」及び、裴松之注《雲別伝》
  44. ^ 『三國志』巻七「呂布伝」北詣袁紹,紹与布撃張燕于常山。燕精兵万餘,騎数千。布有良馬曰赤兔。常与其親近成廉、魏越等陥鋒突陳,遂破燕軍。
  45. ^ 『三國志』巻八「公孫瓚伝」付《劉虞伝》建安四年,紹悉軍囲之。瓚遣子求救於黒山賊,复欲自将突騎直出,傍西南山,擁黒山之眾,陸梁冀州,横断紹後。(中略)紹設伏撃,大破之,復還守。紹為地道,突壊其楼,稍至中京。瓚自知必敗,尽殺其妻子,乃自殺。
  46. ^ 『三國志』巻八「張燕伝」袁紹与公孫瓚争冀州,燕遣将杜長等助瓚,与紹戦,為紹所敗,人眾稍散,太祖将定冀州,燕遣使求佐王師,拝平北将軍;率眾詣鄴,封安国亭侯,邑五百戸。
  47. ^ 『三國志』巻三十二「先主伝」謙病篤,謂別駕麋竺曰:「非劉備不能安此州也。」謙死,竺率州人迎先主,先主未敢当。(中略)北海相孔融謂先主曰:「袁公路豈憂国忘家者邪?冢中枯骨,何足介意。今日之事,百姓与能,天与不取,悔不可追。」先主遂領徐州。
  48. ^ 『三國志』巻三十二「先主伝」先主与術相持経月,呂布乗虚襲下邳。下邳守将曹豹反,閒迎布。布虜先主妻子,先主転軍海西。
  49. ^ 『三國志』巻三十二「先主伝」先主還小沛,復合兵得万餘人。呂布悪之,自出兵攻先主,先主敗走帰曹公。(中略)曹公自出東征,助先主囲布於下邳,生禽布。
  50. ^ 『三國志』巻三十二「先主伝」先主復得妻子,従曹公還許。表先主為左将軍,礼之癒重,出則同輿,坐則同席。
  51. ^ 『三國志』巻三十二「先主伝」先主未出時,献帝舅車騎将軍董承,辞受帝衣帯中密詔,当誅曹公。
  52. ^ 『三國志』巻三十二「先主伝」五年,曹公東征先主,先主敗績。
  53. ^ 『三國志』巻三十二「先主伝」曹公尽収其眾,虜先主妻子,併禽関羽以帰。
  54. ^ 『三國志』巻三十二「先主伝」先主走青州。青州刺史袁譚,先主故茂才也,将歩騎迎先主。先主随譚到平原,譚馳使白紹。紹遣将道路奉迎,身去鄴二百里,与先主相見。
  55. ^ 『三國志』巻三十六「趙雲伝」裴松之注《雲別伝》先主就袁紹,雲見於鄴。
  56. ^ a b 坂口 2008, p. 347.
  57. ^ 『三國志』巻三十二「先主伝」曹公遣曹仁将兵撃先主,先主還紹軍,陰欲離紹,乃説紹南連荊州牧劉表。
  58. ^ a b 『三國志』巻三十六「趙雲伝」裴松之注《雲別伝》先主与雲同床眠臥,密遣雲合募得数百人,皆称劉左将軍部曲,紹不能知。
  59. ^ 『三國志』巻三十六「趙雲伝」裴松之注《雲別伝》遂随先主至荊州。
  60. ^ 『三國志』巻三十六「関羽伝」及羽殺顏良,曹公知其必去,重加賞賜。羽尽封其所賜,拝書告辞,而奔先主於袁軍。
  61. ^ 『三國志』巻三十二「先主伝」駐月餘日,所失亡士卒稍稍来集。
  62. ^ 『三國志』巻六「袁紹伝」自軍敗後発病,七年,憂死。
  63. ^ 『三國志』巻一「武帝紀」紹自軍破後,発病欧血,夏五月死。
  64. ^ 『三國志』巻三十二「先主伝」先主遣麋竺、孫乾与劉表相聞,表自郊迎,以上賓礼待之,益其兵,使屯新野。
  65. ^ 『三國志』巻三十二「先主伝」使拒夏侯惇、于禁等於博望。久之,先主設伏兵,一旦自焼屯偽遁,惇等追之,為伏兵所破。
  66. ^ 『三國志』巻十八「李典伝」劉表使劉備北侵,至葉,太祖遣典従夏侯惇拒之。
  67. ^ 『三國志』巻十八「李典伝」備一旦焼屯去,惇率諸軍追撃之,典曰:「賊無故退,疑必有伏。南道狭窄,草木深,不可追也。」惇不聴,与於禁追之,典留守。惇等果入賊伏里,戦不利,典往救,備望見救至,乃散退。
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  70. ^ 『三國志』巻三十六「趙雲伝」裴松之注《雲別伝》先是,与夏侯惇戦於博望,生獲夏侯蘭。蘭是雲郷里人,少小相知,雲白先主活之,薦蘭明於法律,以為軍正。雲不用自近,其慎慮類如此。
  71. ^ 『三國志』巻一「武帝紀」十年春正月,攻譚,破之,斬譚,誅其妻子,冀州平。(中略)及公破烏丸,或説公遂征之,尚兄弟可禽也。(中略)(公孫)康即斬尚、熙及速僕丸等,伝其首。
  72. ^ 『三國志』巻一「武帝紀」秋七月,公南征劉表。
  73. ^ 『三國志』巻三十二「先主伝」曹公南征表,会表卒,子琮代立,遣使請降。
  74. ^ 『三國志』巻一「武帝紀」八月,表卒,其子琮代,屯襄陽,劉備屯樊。九月,公到新野,琮遂降,備走夏口。
  75. ^ 『三國志』巻三十二「先主伝」先主屯樊,不知曹公卒至,至宛乃聞之,遂将其眾去。(中略)琮左右及荊州人多帰先主。
  76. ^ 『三國志』巻三十六「趙雲伝」及先主為曹公所追於当陽長阪,棄妻子南走。
  77. ^ 『三國志』巻三十二「先主伝」曹公以江陵有軍実,恐先主拠之,乃釈輜重,軽軍到襄陽。聞先主已過,曹公将精騎五千急追之,一日一夜行三百餘里,及於当陽之長坂。先主棄妻子,与諸葛亮、張飛、趙雲等数十騎走,曹公大獲其人眾輜重。
  78. ^ 『三國志』巻九「曹仁伝」付《弟 純伝》従征荆州,追劉備於長坂,获其二女輜重,収其散卒。
  79. ^ 『三國志』巻三十六「張飛伝」飛拠水断橋,瞋目横矛曰:「身是張益徳也,可来共決死!」敵皆無敢近者,故遂得免。
  80. ^ 『三國志』巻三十六「趙雲伝」及先主為曹公所追於当陽長阪,棄妻子南走,雲身抱弱子,即後主也,保護甘夫人,即後主母也,皆得免難。
  81. ^ 『三國志』巻三十四「皇后伝」《先主甘皇后》値曹公軍至,追及先主於当陽長阪,於時困偪,棄后及後主,頼趙雲保護,得免於難。
  82. ^ a b 『三國志』巻三十六「趙雲伝」遷為牙門将軍。
  83. ^ a b 『三國志』巻三十六「趙雲伝」裴松之注《雲別伝》雲別傳曰:初,先主之敗,有人言雲已北去者,先主以手戟擿之曰:「子龍不棄我走也。」頃之,雲至。
  84. ^ 『三國志』巻一「武帝紀」公進軍江陵,下令荊州吏民,与之更始。
  85. ^ 『三國志』巻三十二「先主伝」先主斜趨漢津,適与羽船会,得済沔,遇表長子江夏太守琦眾万餘人,与俱到夏口。
  86. ^ 『三國志』巻五十四「魯粛伝」時劉備為曹公所破,欲引南渡江。与魯粛遇於当陽,遂共図計,因進住夏口,遣諸葛亮詣権。
  87. ^ 『三國志』巻四十七「孫権伝」是時曹公新得表眾,形勢甚盛。諸議者皆望風畏懼,多勧権迎之。
  88. ^ 『三國志』巻四十七「孫権伝」惟瑜、粛執拒之儀,意与権同。
  89. ^ 『三國志』巻一「武帝紀」於是大疫,吏士多死者,乃引軍還。
  90. ^ 『三國志』巻五十五「黄蓋伝」建安中,随周瑜拒曹公於赤壁,建策火攻,語在。
  91. ^ 『三國志』巻五十四「周瑜伝」瑜等在南岸。瑜部将黄蓋曰:「今寇眾我寡,難与持久。然観操軍船艦,首尾相接,可焼而走也。」乃取蒙沖斗艦数十艘,実以薪草,膏油灌其中。裏以帷幕,上建牙旗,先書報曹公,欺以欲降。
  92. ^ 『三國志』巻四十七「孫権伝」瑜、普為左右督,各領万人,与備俱進,遇於赤壁,大破曹公軍。公焼其餘船引退,士卒飢疫,死者大半。
  93. ^ 『三國志』巻五十四「周瑜伝」又豫備走舸,各系大船後,因引次俱前。曹公軍吏士皆延頸観望,指言蓋降。蓋放諸船,同時発火。時風盛猛,悉延焼岸上営落。頃之。煙炎張天,人馬焼溺死者甚眾,軍遂敗退,還保南郡。
  94. ^ 『三國志』巻五十四「周瑜伝」備与瑜等復共追。曹公留曹仁等守江陵城。逕自北帰。(中略)権拝瑜偏将軍,領南郡太守。
  95. ^ 『三國志』巻三十二「先主伝」先主表琦為荊州刺史,又南征四郡。武陵太守金旋、長沙太守韓玄、桂陽太守趙範、零陵太守劉度皆降。
  96. ^ 『三國志』巻三十二「先主伝」裴松之注《江表伝》曰:備別立営於油江口,改名為公安。
  97. ^ a b c 『三國志』巻三十六「趙雲伝」裴松之注《雲別伝》従平江南,以為偏将軍,領桂陽太守,代趙範。
  98. ^ 『三國志』巻五十四「呂蒙伝」侵晨進攻,蒙手執枹鼓,士卒皆騰踊自升,食時破之。(中略)権嘉其功,即拝廬江太守(略)
  99. ^ a b c d 趙 2019, p. 31.
  100. ^ 『三國志』巻三十六「趙雲伝」裴松之注《雲別伝》範寡嫂曰樊氏,有国色,範欲以配雲。
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  104. ^ 『三國志』巻三十六「趙雲伝」裴松之注《雲別伝》時有人勧雲納之,雲曰:「範迫降耳,心未可測;天下女不少。」遂不取。
  105. ^ 『三國志』巻三十六「趙雲伝」裴松之注《雲別伝》雲辞曰:。範果逃走,雲無繊介。
  106. ^ 『三國志』巻三十四「先主穆皇后伝」瑁死,后寡居。先主既定益州,而孫夫人還呉,群下勧先主聘后,先主疑与瑁同族,法正進曰:「論其親疎,何与晉文之於子圉乎?」於是納后為夫人。
  107. ^ 趙 2019, p. 33.
  108. ^ 『三國志』巻三十六「趙雲伝」先主入蜀,雲留荊州。
  109. ^ a b c 『三國志』巻三十六「趙雲伝」先主入益州,雲領留営司馬。
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  112. ^ 『三國志』巻三十二「先主伝」権稍畏之,進妹固好。先主至京見権,綢繆恩紀。
  113. ^ 『三國志』巻三十六「趙雲伝」裴松之注《雲別伝》此時先主孫夫人以権妹驕豪,多将呉吏兵,縦横不法。
  114. ^ 『三國志』巻三十七「法正伝」初,孫権以妹妻先主,妹才捷剛猛,有諸兄之風,侍婢百餘人,皆親執刀侍立,先主毎入,衷心常凜凜。
  115. ^ 『三國志』巻三十六「趙雲伝」裴松之注《雲別伝》先主以雲厳重,必能整斉,特任掌内事。
  116. ^ 『三國志』巻三十六「趙雲伝」裴松之注《雲別伝》權聞備西徵,大遣舟船迎妹,而夫人内欲将後主還呉,雲與張飛勒兵截江,乃得後主還。
  117. ^ 『三國志』巻三十四「先主穆皇后」『漢晉春秋』云:先主入益州,吳遣迎孫夫人。夫人欲將太子歸吳,諸葛亮使趙雲勒兵斷江留太子,乃得止。
  118. ^ 『三國志』巻三十六「趙雲伝」先主自葭萌還攻劉璋,召諸葛亮。亮率雲與張飛等俱溯江西上,平定郡縣。至江州,分遣雲從外水上江陽,與亮會於成都。
  119. ^ ウィキソース出典  (中国語) 『華陽国志』巻五「劉璋志」, ウィキソースより閲覧。 趙雲自江州分定江陽、犍為。
  120. ^ 『三國志』巻三十六「趙雲伝」成都既定,以雲為翊軍將軍。
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  122. ^ 『三國志』巻三十六「趙雲伝」裴松之注《雲別伝》雲別傳曰:益州既定,時議欲以成都中屋舍及城外園地桑田分賜諸將。
  123. ^ 『三國志』巻三十六「趙雲伝」裴松之注《雲別伝》雲駮之曰:「霍去病以匈奴未滅,無用家為,令國賊非但匈奴,未可求安也。須天下都定,各反桑梓,歸耕本土,乃其宜耳。益州人民,初罹兵革,田宅皆可歸還,今安居複業,然後可役調,得其歡心」
  124. ^ 『三國志』巻三十六「趙雲伝」裴松之注《雲別伝》先主即従之。
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  126. ^ 『三國志』巻三十六「趙雲伝」裴松之注《雲別伝》夏侯淵敗,曹公爭漢中地,運米北山下,數千萬囊。黃忠以為可取,雲兵隨忠取米。忠過期不還,雲將數十騎輕行出圍,迎視忠等。值曹公揚兵大出,雲為公前鋒所擊,方戰,其大眾至,勢偪,遂前突其陳,且鬥且卻。公軍散,已復合,雲陷敵,還趣圍。將張著被創,雲復馳馬還營迎著。
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  128. ^ 『三國志』巻三十六「趙雲伝」裴松之注《雲別伝》公軍追至圍,此時沔陽長張翼在雲圍內,翼欲閉門拒守,而雲入營,更大開門,偃旗息鼓。公軍疑雲有伏兵,引去。雲雷鼓震天,惟以戎弩於後射公軍,公軍驚駭,自相蹂踐,墮漢水中死者甚多。
  129. ^ 『三國志』巻三十六「趙雲伝」裴松之注《雲別伝》先主明旦自来至雲営囲視昨戦處,曰:「子龍一身都是膽也。」
  130. ^ 『三國志』巻三十六「趙雲伝」裴松之注《雲別伝》作楽飲宴至暝,軍中號雲為虎威将軍。
  131. ^ ウィキソース出典  (中国語) 『資治通鑑』巻六十八, ウィキソースより閲覧。 三月,魏王操自長安出斜穀,軍遮要以臨漢中。劉備曰:「曹公雖来,無能為也,我必有漢川矣。」乃斂眾拒険,終不交鋒。操運米北山下,黄忠引兵欲取之,過期不還。翊軍将軍趙雲将数十騎出営視之,値操揚兵大出,雲猝与相遇,遂前突其陳,且斗且却。魏兵散而復合,追至営下,雲入営,更大開門,偃旗息鼓。魏兵疑雲有伏,引去;雲雷鼓震天,惟以勁弩於後射魏兵。魏兵驚駭,自相蹂践,堕漢水中死者甚多。備明旦自来,至雲営,視昨戦処備明旦自来,至雲営,視昨戦処,曰:「子龍一身都為胆也!」
  132. ^ ウィキソース出典  (中国語) 『太平廣記』巻第一百九十一「驍勇一」, ウィキソースより閲覧。 蜀趙雲,字子龍,身長八尺,姿容雄偉。居劉備前鋒,為曹公所圍,乃大開門,偃旗鼓。曹公引去,疑有伏兵。雲於後射之,公軍大駭,死者甚多。備明日自來,視昨日戰處,曰:「子龍一身都是膽也。」出《趙雲別傳》
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  136. ^ 『三國志』巻二「文帝紀」漢帝以衆望在魏,乃召羣公卿士,告祠高廟。使兼御史大夫張音持節奉璽綬禪位
  137. ^ 『三國志』巻三十二「先主伝」二十五年,魏文帝称尊号,改年曰黄初。或伝聞漢帝見害,先主乃発喪制服,追諡曰孝愍皇帝。(中略)即皇帝位於成都武担之南。
  138. ^ 『三國志』巻三十八「法正伝」先主旣即尊號,將東征孫權以復關羽之耻,羣臣多諫,一不從。
  139. ^ 『三國志』巻三十八「秦宓伝」先主既稱尊號,將東征吳,宓陳天時必無其利,坐下獄幽閉,然後貸出。
  140. ^ 『三國志』巻三十六「趙雲伝」裴松之注《雲別伝》孫權襲荊州,先主大怒,欲討權。
  141. ^ 宮川 1988, p. 125.
  142. ^ 『三國志』巻三十六「趙雲伝」裴松之注《雲別伝》雲諫曰:「國賊是曹操,非孫權也,且先滅魏,則吳自服。操身雖斃,子丕篡盜,當因眾心,早圖關中,居河、渭上流以討凶逆,關東義士必裹糧策馬以迎王師。不應置魏,先與吳戰;兵勢一交,不得卒解」
  143. ^ a b 『三國志』巻三十六「趙雲伝」裴松之注《雲別伝》先主不聴,遂東征,留雲督江州。先主失利於秭帰,雲進兵至永安,呉軍已退。
  144. ^ 『三國志』巻三十六「趙雲伝」建興元年,為中護軍、征南將軍,封永昌亭侯,遷鎮東將軍。
  145. ^ 『三國志』巻三十六「趙雲伝」五年,隨諸葛亮駐漢中。
  146. ^ 『三國志』巻三「明帝紀」蜀大将諸葛亮寇辺,天水、南安、安定三郡吏民叛応亮。遣大将軍曹真都督関右,併進兵。
  147. ^ 『三國志』巻九「曹真伝」諸葛亮囲祁山,南安、天水、安定三郡反応亮。帝遣真督諸軍軍郿。
  148. ^ 『三國志』巻三十六「趙雲伝」明年,亮出軍,揚聲由斜谷道,曹真遣大眾當之。亮令雲與鄧芝往拒,而身攻祁山。
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  150. ^ 『三國志』巻三十五「諸葛亮伝」亮身率諸軍攻祁山,戎陳整斉,賞罰粛而号令明,南安、天水、安定三郡叛魏応亮,関中響震。
  151. ^ 『三國志』巻三十六「趙雲伝」雲、芝兵弱敵強,失利於箕谷,然斂眾固守,不至大敗。
  152. ^ 『三國志』巻三十五「諸葛亮伝」六年春,揚聲由斜谷道取郿,使趙雲、鄧芝為疑軍,據箕谷,魏大將軍曹真挙衆拒之。
  153. ^ ウィキソース出典  (中国語) 華陽國志/巻七, ウィキソースより閲覧。 「劉後主志 二」六年春,丞相亮揚聲由斜谷道取郿,使鎮東将軍趙雲,中監軍鄧芝據箕谷為疑軍,魏大將軍曹真挙衆當之。
  154. ^ 『漢晋春秋』或勸亮更增兵者,亮曰:「大軍在祁山,箕穀,皆多於賊,而不能破賊為賊所破者,則此病不在兵少也,在一人耳。」
  155. ^ 『三國志』巻三十五「諸葛亮伝」魏明帝西鎮長安,命張郃拒亮,亮使馬謖督諸軍在前,与郃戦于街亭。謖違亮節度,挙働失宜,大為張郃所破。
  156. ^ 『三國志』巻九「曹真伝」遣張郃撃亮将馬谡,大破之。
  157. ^ 『三國志』巻三「明帝紀」右将軍張郃撃亮於街亭,大破之。亮敗走,三郡平。
  158. ^ 『三國志』巻九「曹真伝」安定民楊条等略吏民保月支城,真進軍囲之。条謂其眾曰:「大将軍自来,吾原早降耳。」遂自缚出。三郡皆平。真以亮惩於祁山,後出必従陳倉,乃使将軍郝昭、王生守陳倉,治其城。
  159. ^ 『三國志』巻三十五「諸葛亮伝」亮抜西県千余家,還于漢中,戮謖以謝眾。
  160. ^ 『三國志』巻三十五「諸葛亮伝」上疏曰:「臣以弱才,叨竊非據,親秉旄鉞以厲三軍,不能訓章明法,臨事而懼,至有街亭違命之闕,箕谷不戒之失,咎皆在臣授任無方。臣明不知人,恤事多闇,《春秋》責帥,臣職是當。請自貶三等,以督厥咎。」於是以亮為右將軍,行丞相事,所總統如前。
  161. ^ a b 『三國志』巻三十六「趙雲伝」軍退,貶為鎮軍將軍。
  162. ^ ウィキソース出典  (中国語) 『資治通鑑』巻七十一「太和二年胡」注, ウィキソースより閲覧, "據《晉書‧職官志》:鎭軍將軍在四征、四鎭將軍之上。今趙雲自鎭東將軍貶鎭軍將軍,蓋蜀漢之制,以鎭東爲專鎭方面,而以鎭軍爲散號,故爲貶也。" 
  163. ^ 『三國志集解』巻三十六「趙雲伝」《宋書· 百官志》鎭軍將軍比四鎭,在四鎭之次。《晉志》 之鎭軍將軍為鎭軍大將軍,故在四征、四鎭之上也。
  164. ^ ウィキソース出典  (中国語) 華陽國志/巻七, ウィキソースより閲覧。 「劉後主志 二」而雲、芝亦不利。亮抜将西県千餘家還漢中,戮謖及沐盛以謝眾,奪襲兵,貶雲秩。
  165. ^ 『水經注』巻二十七「沔水」中国哲学書電子化計画、諸葛亮《與兄瑾書》云:前趙子龍退軍,燒壞赤崖以北閣道,緣谷百餘里,其閣梁一頭入山腹,其一頭立柱于水中。今水大而急,不得安柱,此其窮極,不可强也。又云:頃大水暴出,赤崖以南橋閣悉壞,時趙子龍與鄧伯苗,一戍赤崖屯田,一戍赤崖口,但得緣崖與伯苗相聞而已。
  166. ^ 『三國志』巻三十六「趙雲伝」裴松之注《雲別伝》亮曰:「街亭軍退,兵將不復相錄,箕穀軍退,兵將初不相失,何故?」芝答曰:「雲身自斷後,軍資什物,略無所棄,兵將無緣相失。」
  167. ^ 『三國志』巻三十六「趙雲伝」裴松之注《雲別伝》雲有軍資余絹,亮使分賜将士。
  168. ^ 『三國志』巻三十六「趙雲伝」裴松之注《雲別伝》雲曰:「軍事無利,何為有賜?其物請悉入赤岸府庫,須十月為冬賜。」亮大善之。
  169. ^ 『三國志』巻三十六「趙雲伝」七年卒,(中略)雲子統嗣,官至虎賁中郎督,行領軍。
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  172. ^ 『三國志』巻三十三「後主伝」四年春三月,追諡故将軍趙雲。
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  174. ^ 『三國志』巻三十五「諸葛亮伝」令使使持節左中郎将杜瓊,贈君丞相武郷侯印綬,謚君為忠武侯。
  175. ^ 『三國志』巻三十六「関羽伝」追諡羽曰壮繆侯。
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  177. ^ 『三國志』巻三十六「趙雲伝」追諡順平侯。初,先主時,惟法正見諡;後主時,諸葛亮功德蓋世,蔣琬、費禕荷國之重,亦見諡;陳祗寵待,特加殊獎,夏侯霸遠來歸國,故複得諡;於是關羽、張飛、馬超、龐統、黃忠及雲乃追諡,時論以為榮。
  178. ^ 『三國志』巻三十六「趙雲伝」裴松之注《雲別伝》雲別傳載後主詔曰:「雲昔從先帝,功積既著。朕以幼沖,涉塗艱難,賴恃忠順,濟於危險。夫諡所以敘元勳也,外議雲宜諡」
  179. ^ 趙 2019, pp. 56-57,64,66.
  180. ^ 『三國志』巻三十六「趙雲伝」裴松之注《雲別伝》大將軍姜維等議,以為雲昔従先帝,労績既著,経営天下,遵奉法度,功效可書。當陽之役,義貫金石,忠以衛上,君念其賞,禮以厚下,臣忘其死。死者有知,足以不朽;生者感恩,足以殞身。謹按諡法,柔賢慈惠曰順,執事有班曰平,克定禍亂曰平,應諡雲曰順平侯。
  181. ^ 『三國志』巻三十六「趙雲伝」雲子統嗣,官至虎賁中郎督,行領軍。次子廣,牙門將,隨姜維遝中,臨陳戰死。
  182. ^ ウィキソース出典  (中国語) 『史記』巻四十三「造父伝」, ウィキソースより閲覧。 造父幸於周繆王。造父取驥之乗匹,与桃林盗驪、驊騮、緑耳,献之繆王。繆王使造父御,西巡狩,見西王母,楽之忘帰。而徐偃王反,繆王日馳千里馬,攻徐偃王,大破之。乃賜造父以趙城,由此為趙氏
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  209. ^ 『三國志』巻三十六「関羽伝」曹公禽羽以歸,拜為偏將軍,禮之甚厚。
  210. ^ 『三國志』巻三十二「先主伝」先主表琦為荊州刺史,又南征四郡。武陵太守金旋、長沙太守韓玄、桂陽太守趙範、零陵太守劉度皆降。
  211. ^ 『三國志』巻四十一「霍峻伝」付《霍弋伝》遷監軍、翊軍將軍,領建寧太守,還統南郡事。
  212. ^ 『季漢輔臣贊』「李孫德(李福)」建興元年,徙巴西太守,為江州督、楊威將軍,入為尚書僕射,封平陽亭侯。
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  214. ^ 『三國志』巻四十「李厳伝」行前監軍征南將軍臣劉巴、(中略)行護軍征南將軍當陽亭侯臣姜維
  215. ^ 『三國志』巻三十二「先主伝」曹公表先主為鎮東將軍,封宜城亭侯,是歲建安元年也。
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  216. ^ 『三國志』巻三十二「先主伝」長史鎮軍將軍臣許靖
    『三國志』巻三十九「董允伝」付《陳祗伝》呂乂卒,祗又以侍中守尚書令,加鎮軍將軍,大將軍姜維雖班在祗上,常率眾在外,希親朝政。
  217. ^ 『三國志』巻三十二「先主伝」表先主為左将軍,礼之癒重,出則同輿,坐則同席。
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  308. ^ 『三國志集解』巻三十六「趙雲伝」本傳先主為平原相時,[]雲已隨從主騎,《別傳》謂「就袁紹,雲見於鄴」則在建安五年後,此違反不可信也。;諸葛賞罰之肅,雲猶貶號,其下安得濫賜?又足以明其不然。別傳類皆子孫溢美之言,故承祚不取。
  309. ^ 『三國志集解』巻三十六「趙雲伝」雲之駁分賜,議甚忠正,然經國之務,有諸葛公在,必得其當,未應反待武臣駮議,殆家傳掠美耳。其諫伐吳,則又諸葛公所不能得之,其主追思孝直,恐散號列將非所及也。《別傳》大抵依仿諸葛子瑜書及孫權稱尊號諸葛公不明絕其僭之義為之。
  310. ^ 『三國志集解』巻三十六「趙雲伝」雲之美德皆見《別傳》,而本傳略不及之,何哉?
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  315. ^ 『三國志通俗演義』第八十二回「長坂坡趙雲救主」後来子龍不得入武臣廟,与(伍)子胥把門,蓋因嚇喝主母,以致喪命,亦是不忠也。
  316. ^ 『三國志通俗演義』第八十二回:四辺喊声又起,雲大喝曰:“如此不聴吾言,後軍来也”糜氏聴得,棄阿斗于地上,投枯井而死。
    『三國演義』第四十一回:雲厲声曰:「夫人不聴吾言,追軍若至,為之奈何?」糜夫人乃棄阿斗於地,翻身投入枯井中而死。
    厲声(れいせい:声を張り上げるという意味では大喝と同じだが、大喝よりも優しいニュアンスの言葉)、為之奈何?(どうしたらいいのか、途方に暮れること)※毛宗崗はこのように厲声や疑問文に修正することで表現を和らげている。
  317. ^ 葉 2023, pp. 277–278.
  318. ^ ウィキソース出典  (中国語) 『清史稿』巻八十四「礼志 三」, ウィキソースより閲覧, "[康熙]六十一年,[聖祖]諭:「帝王崇祀,代止一二君,或廟饗其臣子而不及其君父,是偏也。凡為天下主,除亡國暨無道被弒,悉當廟祀。有明國事,壞自萬曆、泰昌、天啟三朝,神宗、光宗、憙宗不應崇祀,咎不在愍帝也。」於是廷臣議正殿增祀[...]凡百四十三位。其從祀功臣,增黃帝臣倉頡,商仲虺,周畢公高、呂侯、仲山甫、尹吉甫,漢劉章、魏相、丙吉、耿弇、馬援、趙雲,唐狄仁傑、宋璟、姚崇、李泌、陸贄、裴度,宋呂蒙正、李沆、寇準、王曾、范仲淹、富弼、韓琦、文彥博、司馬光、李綱、趙鼎、文天祥,金呼嚕,元博果密、托克托,明常遇春、李文忠、楊士奇、楊榮、于謙、李賢、劉大夏,凡四十人。是歲,世宗御極,依議行,增置神主,為文鑱之石。" 
  319. ^ 小林(論文) 2014, p. 133.
  320. ^ 『三國志』巻三十六「趙雲伝」裴松之注《雲別伝》曰:「子龍一身都是膽也。」
  321. ^ a b 『三國志』巻三十六「関張馬黃趙伝」《評》黄忠、趙雲強摯壮猛,併作爪牙,其灌、滕之徒歟?
  322. ^ 『三國志集解』巻三十六「評」灌[]摧項羽於垓下,滕[]脫孝惠於彭城,比之定軍、當陽之事。
  323. ^ ウィキソース出典  (中国語) 『三國志』巻四十五《季漢輔臣贊》, ウィキソースより閲覧。  (陳寿のコメント)叔至名到,汝南人也。自豫州随先主,名位常亜趙雲,俱以忠勇称。建興初,官至永安都督、征西将軍,封亭侯。
  324. ^ ウィキソース出典 季漢輔臣贊 〈贊趙子龍、陳叔至〉 (中国語), 季漢輔臣贊, ウィキソースより閲覧。 征南厚重,征西忠克。統時選士,猛將之烈。
  325. ^ 『三国六朝五代紀年総辨』(論趙雲伐呉之諫)可謂深切著明。知天下大体矣。
  326. ^ 『三國志集解』樊氏国色,而子龍不取,賢于関羽之乞娶秦宜禄妻去遠矣。
  327. ^ 『続後漢書』雲忠繾綣御侮。始終不渝。為漢爪士。功烈志胆。曹樊之俦。雲尤識慮経遠。壮而不疎。毎進忠益。辄中幾会。
  328. ^ ウィキソース出典  (中国語) 『旧唐書』巻一百〇一「薛登伝」, ウィキソースより閲覧。 至如武芸,則趙雲雖勇,資諸葛之指捴;周勃雖雄,乏陳平之計略。若使樊哙居蕭何之任,必失指縦之機;使蕭何入戯下之軍,亦無免主之効。斗将長于摧鋒,謀将審于料事。
  329. ^ 『狂狷裁中』子龍心貫金石,義薄雲天,不減関張。
  330. ^ 『史評』観雲本末,自是大臣局量,不独名将而已。
  331. ^ 『選将論』趙雲以数十騎遇敵,開軍門偃旗息鼓,勇在胆也。
  332. ^ 『四史評議』関羽,張飛,馬超,黄忠,趙雲,皆為蜀之名将,故合伝。
  333. ^ 『季漢記』(評分田之諫)観雲此議,得為治之本矣。
  334. ^ 『三国志旁証』引  以孫夫人之橫,但任趙雲、法正二人便足以制之,賢者之有益於人國如此。
  335. ^ ウィキソース出典  (中国語) 『榕村語録』巻二十二, ウィキソースより閲覧。 趙雲、張嶷不獨有將略,其見事明決,持重老成,實古重臣之選。
  336. ^ 『史緯』(論趙雲諫東征)此策甚高,備不従以取敗,天不祚漢也。
  337. ^ 『史林測義』(論趙雲諫東征)時則不愧諸葛忠武之大節。而有古大臣之風烈已。
  338. ^ 『越南新志』為将之道,胆欲大而心欲細;胆大則勇,心細則智,所以能戦勝攻取,即有不利,亦不至一敗塗地。三国時将材,可当此者,魏之張遼,漢之趙雲而已。
  339. ^ 『易中品三国』建安二十四年劉備称漢中王,然後封了四大将軍:前将軍関羽,右将軍張飛,左将軍馬超,後将軍黄忠,没有趙雲。所以,在正史上従来没有什麽五虎上将,只有四虎上将,趙雲一直是雑号将軍。趙雲是很委屈的,確実是很委屈的。
  340. ^ 『読三国志蠡述』趙雲於長阪一役,抱後主保護甘夫人皆得免難,又孫夫人還呉,雲与張飛截江奪後主,此両事至今赫赫在目,卒与関羽張飛馬超龐統黄忠同獲美謚,有以哉。
  341. ^ 『相理衡真』人亦一器也,莫不各有其量。如天地之量,聖賢帝王之所效焉。山嶽江海之量,公侯卿相之所則焉。古夷齊有容人之大量,孟夫子有浩然之氣量,范文正公有濟世之德量,郭子儀有福量,諸葛武侯有智量,歐陽永叔有才量,呂蒙正有度量,趙子龍有膽量,李德裕有力量,此皆遠大之器。
  342. ^ 『季漢五志』順平真儒将哉。其律己也厳。接人也慎。其見理也明。其去私也力。若夫当陽救主。奮不顧身。漢水立功。威還似虎。語云。胆欲大而心欲小。志欲円而行欲方。其順平之謂乎。
  343. ^ 『季漢五志』当陽之戦、孫夫人之帰,微子龍則後主将不免矣,故無論功烈才品逈出三国諸人之上。
  344. ^ 『読通鑑論』迨猇亭敗矣,先主殂矣,国之精鋭尽于夷陵,老将如趙雲与公志合者亡矣; 公収疲敝之余民,承愚暗之沖主,以向北方,而事無可為矣。 公故曰:鞠躬尽瘁,死而後已。唯忘身以遂志,而成敗固不能自必也。 向令先主以笃信羽者信公,聴趙雲之言,辍東征之駕,乗曹丕初篡、人心未固之時,連呉好以問中原,力尚全,気尚鋭,雖漢運已衰,何至使英雄之血不灑于許、雒,而徒流于猇亭乎?
  345. ^ 『詳註史略補遺大成』(昭烈)用趙雲而取漢中,遣関羽而攻樊城。
  346. ^ 『両罍軒尺牍』天性勇毅,身為大帥仍複親冒矢石,為士卒先,此趙順平,常開平之遺風。
  347. ^ 『江湖長翁文集』十四中国哲学書電子化計画、趙子龍退魏兵玄徳謂,一身是胆署,皆可為法矣,彼皆大不得已,所謂出死入生転敗為功者。
  348. ^ 『歴代史論』(論趙雲伐呉之言)其明大義,断大策,同於魯粛,然度先主不能聴也。
  349. ^ 『蕭氏續後漢書』巻九中国哲学書電子化計画、雲雖虎臣,其所建明,通達國體,如還田宅,以繫民心,留軍資以須冬賜,赦吳而專事魏,有諸葛亮念所不到者,若其不納趙範之兄嫂,以遠同姓之嫌,律己之嚴如此,方時諸將,其最優乎?
  350. ^ 『活齋集』巻五(看史剰語,趙雲爲將)蜀之虎臣,世必以關張爲稱首,其䧺猛氣槩,忠義節行,果可謂古今傑然者也。然其所短者智畧,皆以此見敗。吾觀子龍之爲將,萬夫之勇,固已負於其心,一身之膽,宜見稱於其君,足以上下於關張。而況其辭第分賞及諫伐吳等事,謙退深遠,識機明分,又非關張之所及,眞良將也。先主武侯與關張子龍,勠力以圖興復,關張亡而先主繼崩,子龍逝而武侯且卒,蜀之君臣上下無人焉。雖欲不亡得乎。
  351. ^ 『史伝三編』 巻十七 「名臣伝・九・漢」論曰:雲与関張及馬超、黄忠,号五虎将陳寿以其強,摰壮猛比於灌滕,此未足以尽趙雲也。雲智深而量雅,其応対公孫有冦,恂答使者之詞令焉,其結託昭烈,有鄧禹游京師之先見焉。当陽之保●(草冠+言+隻),過於麦飯豆粥之勤,漢中之権,畧捷於転車張幟之巧,薦夏侯蘭而不自近,岑彭之言,韓歆可用馬武之不将旧部曲也,却趙範之婚辞、田園之賜祭,遵之憂国奉公,呉漢之怒妻子多買田宅也,要其訏謨碩画,尤在諌伐。呉数言,葢与武侯平生用兵,大指相類,使之尚在,大将軍之任,不以属文偉伯約矣。
  352. ^ 『通鑑触緒』雲固武臣之有本末者,而兼有儒臣体用矣。
  353. ^ 『鄭元佑集』如趙雲之安民于蜀,亦豈宜以有限之屋共無窮之求。
  354. ^ 『三省山内辺防論』褒中桟道桟閣,用趙雲王平輩忠謹慎密,良将専司之。其意固有在也。
  355. ^ 『二十一史論賛』而趙雲之辞田宅請滅魏,皆有古大臣識量,寧得僅以以名将律之。
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  357. ^ 『左氏法測要』十一中国哲学書電子化計画、張遼、趙雲出入敵塁,使敵披靡,以英風猛気自足慑敵,敵不敢害也,然非大将之道。
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  359. ^ 『歴代名臣録』雲与関張及馬超黄忠。号五虎将。陳寿以其強摯壮猛。比於灌滕。
  360. ^ 『史傳三編』故孫臏減竈而虞詡増竈,趙奢増壘而趙雲開壘,虛實強弱之形,兵事固倏忽而異變也。
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    紅光罩体困龍飛,征馬衝開長阪囲。
    四十二年真命主,将軍因得顕神威。
  393. ^ 『三國演義』第四十一回「賛詩」
    血染征袍透甲紅,当陽誰敢与争鋒!
    古来衝陣扶危主,隻有常山趙子龍。
  394. ^ 『三國演義』第四十一回「毛宗崗点評」。読者至此,為趙雲寒心。
  395. ^ 『三國演義』第十九回「下邳城曹操鏖兵 白門楼呂布殞命」次夜二更時分,呂布将女以綿纏身,用甲包里,負於背上,提戟上馬。放開城門,布当先出城,張遼、高順跟著。将次到玄徳寨前,一声鼓響,関、張二人攔住去路,大叫:「休走!」布無心恋戦,隻顧奪路而行。玄徳自引一軍殺来,両軍混戦。呂布雖勇,終是縛一女在身上,隻恐有傷,不敢衝突重囲。
  396. ^ 『三國演義』第四十一回「毛宗崗点評」。呂布駄女児在背,甚是累墜;趙雲裏阿斗在懐,頗覚軽便。
  397. ^ 『三國演義』第四十一回「毛宗崗点評」。檀渓之役,子龍以三百人而不能救玄徳;長阪之役,子龍以一単騎而独能救阿斗:事之不可知者也。関公之保二夫人,歴過五関,而皆得無恙;子龍之保二夫人,止過長阪,而不能両全;又事之不可知者也。或謂檀渓不関龍馬之力,当陽亦豈虎将之功,天也,非人也;我謂関公尽事兄之節,子龍竭救主之忠,天也,亦人也。玄徳棄荊州,既失其地利,猶幸邀天之佑,得人之助爾。
  398. ^ 『三國演義』第四十二回「毛宗崗点評」。玄徳将阿斗擲地,亦擲得不差。由後観之:以一英雄之趙雲,救一無用之劉禪,誠不如勿救矣。然従来豪傑不遇時,庸人多厚福。禪之智則劣於父,而其福則過於父。玄徳労苦一生,甫登大宝,未幾而殂,反不如庸庸之子,安享四十二年南面之福也。長阪之役,本是庸主頼虎将之力而得生,人反謂虎将頼庸主之福而不死,為之一嘆。
  399. ^ 『三國演義』第五十二回「毛宗崗点評」。子龍終不肯従,是子龍之不可及也。
  400. ^ 『三國演義』第六十一回「賛詩」
    昔年救主在当陽,今日飛身向大江。
    船上呉兵皆胆裂,子龍英勇世無双!
  401. ^ 『三國演義』第六十一回「毛宗崗点評」。英雄一生出色驚人之事,不可多得,得其一,便可伝成美談。今偏不止一番,却有両番,則子龍之截江奪阿斗是也。
  402. ^ 『三國演義』第七十一回「賛詩」
    昔日戦長阪,威風猶未減。
    突陣顕英雄,被囲施勇敢。
    鬼哭与神号,天驚併地惨。
    常山趙子龍,一身都是胆!
  403. ^ 『三國演義』第七十一回「毛宗崗点評」。子龍以一身当数十万猝至之衆,若閉寨而守則必死,即棄寨而走亦必死,乃不棄寨亦不閉寨,而掩旗息鼓立馬在外,以疑兵勝之,非独胆包身,直是智包身耳。若但雲但而已,則大胆姜維,何以屢敗于鄧艾耶?
  404. ^ 『三國演義』第八十一回「毛宗崗点評」。子龍見識,有大臣、諫臣之風,不当以戦将目之。
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  406. ^ 『三國演義』第九十二回「賛詩」
    憶昔常山趙子龍,年登七十建奇功。
    独誅四将来衝陣,猶似当陽救主雄。
  407. ^ 『三國演義』第九十二回「毛宗崗点評」。子龍不老……子龍真不老……子龍不老……子龍著実不老……子龍著実不老……子龍著実不老。
  408. ^ 『三國演義』第九十六回「毛宗崗点評」。敗而整旅,更難于勝而班師,賞之不謬。
  409. ^ 『三國演義』第九十七回「賛詩」
    常山有虎将,智勇匹関張。
    漢水功勲在,当陽姓字彰。
    両番扶幼主,一念答先皇。
    清史書忠烈,応流百世芳。
  410. ^ 『三國演義』第七回「袁紹磐河戦公孫 孫堅跨江撃劉表」忽見草坡左側転出一個少年将軍,飛馬挺槍,直取文醜。(中略)那少年也不追趕。(中略)那少年欠身答曰:「某乃常山真定人也:姓趙,名雲,字子龍;本袁紹轄下之人。」
  411. ^ 『三國演義』第六十一回「趙雲截江奪阿斗 孫権遺書退老瞞」雲曰:「主母差矣。主人一生,隻有這点骨血。小将在当陽長阪坡百万軍中救出。今日夫人却抱将去,是何道理?」
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  415. ^ 『三國演義』第九十一回「祭瀘水漢相班師 伐中原武侯上表」忽帳下一老将厲声而進曰:「我雖年邁,尚有廉頗之勇,馬援之雄。此二古人皆不服老,何故不用我耶?」衆視之,乃趙雲也。
  416. ^ 『三國演義』第九十二回「趙子龍力斬五将 諸葛亮智取三城」後人有詩讚曰: 憶昔常山趙子龍,年登七十建奇功。(中略)芝賀曰:「将軍寿已七旬,英勇如昨。今日陣前力斬四将,世所罕有!」
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    (順平は熊虎の将、その遺塁今に伝えられる。界は瀟湘の水を恨み、人は戦伐の年を思う婚を却して国色を軽くし、胆を携えて蛮を鎮め大きくする。祠の樹に鳥の啼くを聞き、還って杜鵑を拜すかと疑う)
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  576. ^ 伴野朗『英傑たちの『三国志』』NHK出版、2007年、234頁。ISBN 9784140842195 
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参考文献・関連書籍

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正史

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文献

  • 陳寿撰、裴松之注『三国志』
  • 常璩『華陽国志』

書籍

伝記

官職

  • 中国の思想刊行委員会『三国志全人名事典』徳間書店、1994年。ISBN 4198602042 
  • 吉田誠夫『中国職官辞典』日外アソシエーツ株式会社、2020年。ISBN 9784816928413 
  • 張政烺 名誉主編、呂宗力 編『中国歴代官制大辞典(修訂版)』南務印書館出版、2015年。ISBN 9787100103077 
  • 陳寿、楊耀坤、掲克倫、裴松之「巻三六 蜀書六 関張馬黄趙傳第六」『今注本二十四史「三國志」』中国社会科学出版社、2020年。ISBN 9787807526384 

演義

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原作

  • 『三国演義(毛宗崗本版)』

書籍

  • 董毎戡『三国演義試論』上海古典文学出版社、1956年。ISBN 9787200148374 
  • 廬盛江『原来三国是這様』知本家文化事業有限公司、2007年。ISBN 9789867315564 
  • 小林瑞恵(後藤裕也、高橋康浩、中川諭)「関羽・趙雲 崇拝・愛される武将」『武将で読む三国志演義読本』勉誠出版、2014年、147-261頁。ISBN 9784585290780 
  • 武田靖彦 著、渡邉義浩監修、株式会社コーエーテクモゲームス企画協力 編『三国志ビジュアル百科』講談社、2018年。ISBN 9784065135808 

論文

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(趙雲)別伝

  • 矢野主税「別伝の研究」『社會科學論叢』第16号、1967年、17-45頁。 
  • 田延峰「漢魏六朝時期人物別伝綜論」『宝鶏匯理学院学報(哲学社会科学版)』第2号、1995年、76-80, 20。 
  • 趙華「略論別伝与史伝之異同」『黒河学刊』第6号、2003年、85-86頁。 
  • 王煥然「試論漢末的名土別伝」『沈陽師範大学学報(社会科学版)』第2号、2004年、70-74頁。 
  • 朱静「魏晋別伝繁興原因探析」『塩城師範学院学報(文社会科学版)』第2号、2006年、62-66頁。 
  • 楊子龍「浅談魏晋南北朝時期雑伝之別伝」『四川教育学院学報』第3号、2009年、57-58頁。 
  • 裴媛媛「魏晋別伝体例考論」『編輯之友』第11号、2012年、106-108頁。 

演義

京劇

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古跡・民間伝承

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辞典

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  • 沈伯俊、譚良嘯『三國演義大辞典』中華書局、1989年。ISBN 9787805231525 
  • 沈伯俊、譚良嘯『三国志演義大辞典(日本語版)』潮出版社、1996年。ISBN 9784267012389 
  • 沈伯俊、譚良嘯『三國演義大辞典(改訂版)』中華書局、2007年。ISBN 9787101044317 

TV番組

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関連項目

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外部リンク

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