コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

胡質

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
胡質

征東将軍・仮節・都督徐州諸軍事
出生 生年不詳
揚州国寿春県
死去 嘉平2年(250年
拼音 Hú Zhì
文徳
諡号 貞侯
主君 曹操曹丕曹叡曹芳
テンプレートを表示

胡 質(こ しつ、? - 嘉平2年(250年))は、中国三国時代の武将、政治家。に仕えた。文徳揚州国寿春県の人。父は胡敏。子は胡威・胡羆。孫は胡奕。

生涯

[編集]

年少にして蔣済朱績[1]と並び、揚州の名士として名を馳せていた。曹操から「胡通達(胡敏)は長者[2]だったが子孫はいるだろうか?」と尋ねられた蔣済は、「質という子がいます。品行と智謀では父に及びませんが、精良に事を処理する点では父以上です」と答えた。曹操は胡質・劉曄ら州の名士5人を招聘し、度々活発な議論を交わしたが、劉曄は「深遠な言葉を得たいなら、無闇に複数人を座談させるべきではない」と訴えた。胡質は頓丘県令に、他の3人も県令に任じられたが、劉曄だけは腹心の任を授けられた[3]

県民の郭政が殺人を犯すと、郡吏の馮諒が疑いをかけられ、拷問に耐えきれずその罪を自白した。胡質は彼らの態度から真実を見抜き、郭政の罪を明らかにした。

中央に招聘され丞相東曹議令史となったが、州の要請により赴任せず、治中として留まった。当時、護軍の武周と仲違いしていた張遼は、胡質の評判を聞き、部下に貰い受けたいと刺史温恢に申し出た。胡質が病気を理由にそれを断ると、張遼はその真意を尋ねるため、胡質の元を訪れた。胡質が「武周は正しい人物です。将軍は昔、彼のことを尊敬し、口を極めて称賛しておられましたが、今は些細な恨みで仲違いされております。ましてや私のような拙い者では、将軍と上手く付き合えないと思うのです」と述べると、張遼はその言に感心し、武周と和解した。

再び曹操に召され、丞相属となった。黄初年間には吏部郎を経て、常山太守東莞太守を歴任した。

太和2年(228年)、賈逵の指揮下で石亭の戦いに従軍。曹休周魴の偽降に欺かれたため魏軍は敗北を喫したが、賈逵の軍勢は曹休を救出することには成功した[4]。太守として郡に在任すること9年、官民の生活は安らぎ、将兵は命に違うことはなかった。

青龍4年(236年[5]荊州刺史・振威将軍・関内侯となる。自身の元を訪れていた子の胡威が帰路につく時、胡質配下の帳下都督は休暇を取り、身分を伏せたまま、その道すがらで胡威の世話をした。都督の身分を知った胡威は礼として、胡質から貰った絹を与えた。しかしこれを知った胡質は都督に対して怒り、杖罰を加えた上で罷免した。父子は共に清廉さを称えられ、名声を高めた。

景初元年(237年)7月、兵2万を率い江夏郡を包囲した呉の朱然を撃ち破った[6]正始2年(241年)5月[7]、朱然が樊城を包囲すると、周囲の反対を退け軽装の軍を率いて外援のため急行し、城内を安定させた(芍陂の役)。正始3年(242年)、朱然の柤中侵攻を迎撃。蒲忠を先鋒とし、それを後方で支援したが、蒲忠が撃ち破られたため撤退を強いられた[8]

正始6年(245年[5]、征東将軍・仮節・都督徐州諸軍事に昇進。農業と防備の充実に力を注いだ。性質は沈着・篤実ながら他人の生き方には干渉しなかったので、各任地で慕われた。

嘉平2年(250年)に死去。軍功による賞賜はいつも人々に分け与えていたため、家には余財がなく、楊陵亭侯の爵位と領地100戸を追贈された。貞侯され、子の胡威が跡を継いだ。嘉平6年(254年)、同じく故人となっていた徐邈田豫らと共に清廉さを顕彰され、家に銭と穀物が賜与された[9]

西晋の時代、司馬炎(武帝)から「卿と父はどちらが清廉か?」と尋ねられた胡威は「父はその清廉さを人に知られることを恐れ、私はその清廉さを人に知られないことを恐れています。私は遠く父に及びません」と答え、父を称えた。胡威もまたその答を司馬炎に称えられた。胡威は西晋の前将軍・監青州諸軍事・青州刺史にまで昇った[10]

三国志演義

[編集]

小説『三国志演義』では、石亭の戦いで曹休を援護するときの出陣場面のみが描かれている。

出典

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ 呉の朱績とは別人の可能性もある。
  2. ^ 徳の高い人物。
  3. ^ 『三国志』魏書 劉曄伝注『傅子』
  4. ^ 『三国志』魏書 賈逵伝
  5. ^ a b 萬斯同『魏方鎮年表』
  6. ^ 『三国志』魏書 明帝紀
  7. ^ 『三国志』魏書 斉王紀
  8. ^ 『三国志』呉書 朱然伝。孫盛の『異同評』はこれを、魏書明帝紀記載の胡質と朱然の戦いと同一とし、景初元年(呉の嘉禾6年)の誤りと指摘する。
  9. ^ 『三国志』魏書 徐邈伝
  10. ^ 房玄齢等『晋書』胡威伝