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李福

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
李福
蜀漢
平陽亭侯・前監軍・大将軍司馬
出生 生年不詳
益州梓潼郡涪県
拼音 Lǐ Fú
孫徳
主君 劉備劉禅
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李 福(り ふく)は、中国後漢末期、及び三国時代蜀漢の政治家。孫徳本貫益州梓潼郡涪県。父は李権。子は李驤

生涯

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李氏は涪県の大姓(豪族)の一つ[1]。父の李権は臨邛県長を務めていたが[2]初平2年(191年)に劉焉によって殺害された[3]

劉備が益州を平定すると、李福はその下で書佐・西充国県長・成都県令を歴任する。

劉禅の時代に当たる建興年間[4]巴西太守、さらに後に李豊の後任として江州都督・揚武将軍[5]に移る。入朝すると尚書僕射となり、平陽亭侯に封じられた。

建興12年(234年[6]五丈原の戦いの最中、丞相諸葛亮が武功の地で危篤に陥る。李福は諸葛亮の下へ、国家の大計を諮問する使者として派遣された。諸葛亮は自身の後任として蔣琬を推し、またその後任には費禕を推した。李福がさらにその後任はと尋ねると、諸葛亮は答えなかった。李福は帰還すると、使者としての役目を果たしたとして称揚された。

延熙元年(238年)、蔣琬が漢中郡に出征すると、李福は前監軍・大将軍司馬として付き従ったが、まもなく死去した[7]

楊戯の『季漢輔臣賛』、陳寿の『益部耆旧雑記』、常璩の『華陽国志』のいずれでも、「果鋭[8]」な人物として称えられている。

出典

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脚注

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  1. ^ 『華陽国志』漢中志 s:zh:華陽國志/卷二#梓潼郡
  2. ^ 『三国志』蜀書 劉焉伝注『益部耆旧雑記』 s:zh:三國志/卷31#劉焉
  3. ^ 司馬光資治通鑑』漢紀52 s:zh:資治通鑑/卷060#孝獻皇帝乙初平二年(辛未,公元一九一年)
  4. ^ 『三国志』楊戯伝では建興元年(223年)、『華陽国志』先賢志では建興9年(231年)とする。
  5. ^ 『華陽国志』巴志・先賢志より。『三国志』楊戯伝では江州督・楊威将軍とする。
  6. ^ 『三国志』蜀書 諸葛亮伝 s:zh:三國志/卷35#諸葛亮
  7. ^ 『華陽国志』劉後主志 s:zh:華陽國志/卷七
  8. ^ 決断力があり、気性が鋭いこと。果鋭(かえい)とは? 意味や使い方 - コトバンク 2024-04-14閲覧。