陳道亨
陳 道亨(ちん どうこう、1552年 - 1628年)は、明代の官僚。字は孟起、号は蠡源。本貫は南昌府新建県。
生涯
[編集]1586年(万暦14年)、進士に及第した。刑部主事に任じられ、南京吏部郎中に転じた。同郷の鄧以賛・衷貞吉とともに南京の官にあって、当時の人に「江右三清」と称された。母が死去したため、辞職して喪に服したが、家を火災で失い、賃貸部屋を住居とした。冬もおしせまって家にとばりもなく、妻は葛の着物で、子とともに薪を拾い集めて燃やし、寒さをしのいだ。ある人が贈り物をしたが、道亨は拒否して受け取らなかった。湖広参政から山東按察使・山東右布政使となり、福建左布政使に転じたが、1銭も私物化することがなかった。1618年(万暦46年)[1]、南京右副都御史として提督操江をつとめた。1620年(泰昌元年)、泰昌帝が即位すると、工部右侍郎に進み、河道を総督した。1621年(天啓元年)、黄河が霊璧双溝・黄舗で決壊すると、道亨は夫役を動員して堤を築いた[2]。
1622年(天啓2年)、白蓮教の徐鴻儒の乱が起こると、道亨は済寧を守備し、各地の要害を抑え、水運を守った。反乱が鎮圧されると、俸給を加増されて銀幣を賜った。ほどなく南京兵部尚書に任じられ、最高級の政務に参与した。1624年(天啓4年)、楊漣らが魏忠賢の二十四大罪を数えて弾劾したが、かえって責めを負って失脚した。道亨はこのことに憤慨して上疏したが、天啓帝に聞き入れられなかった。1625年(天啓5年)[3]、道亨は官を辞して帰郷した。1628年(崇禎元年)、死去した。享年は67。太子少保の位を追贈された。諡は清襄といった。
子の陳弘緒は、字を士業といい、晋州知州をつとめた。文名で知られた。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『明史』巻241 列伝第129