「大牟田4人殺害事件」の版間の差分
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{{表記揺れ案内|表記1=大牟田4人殺害・死体遺棄事件<ref>{{Cite news|和書 |title=ワードBOX > 大牟田4人殺害・死体遺棄事件 |newspaper=[[西日本新聞]] |date=2005-03-16 |url=http://nishinippon.co.jp/wordbox/word/1278 |publisher=[[西日本新聞社]] |language=ja |archive-url=https://web.archive.org/web/20121110005422/http://nishinippon.co.jp/wordbox/word/1278 |archive-date=2012年11月10日}}</ref>|表記2=大牟田4人殺害・遺棄事件<ref>{{Cite news|和書 |title=ワードBOX > 大牟田4人殺害・遺棄事件 |newspaper=西日本新聞 |date=2004-11-14 |url=http://nishinippon.co.jp/wordbox/word/250 |publisher=西日本新聞社 |language=ja |archive-url=https://web.archive.org/web/20121110005339/http://nishinippon.co.jp/wordbox/word/250 |archive-date=2012年11月10日}}</ref>|font-size=15px}} |
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{{暴力的}} |
{{暴力的}} |
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{{Infobox 事件・事故 |
{{Infobox 事件・事故 |
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|名称 |
|名称= 大牟田4人殺害事件 |
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|正式名称 |
|正式名称= |
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|画像 |
|画像= |
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|脚注= |
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|場所 = {{JPN}}・[[福岡県]][[大牟田市]]<ref name="読売新聞2004-09-22 西部夕刊"/><ref name="読売新聞2004-09-22 東京夕刊"/> |
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|module={{OSM Location map |
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: 大牟田市小浜町、被害者A宅<ref name="読売新聞2005-03-16"/>(被害者C殺害現場)<ref name="読売新聞2005-03-16 冒頭陳述"/> |
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| coord = {{coord|33.0283|||N|130.4352|||E}} | zoom = 13 |
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: 大牟田市西新町、大牟田港岸壁(被害者A殺害現場)<ref name="読売新聞2004-10-27 西部朝刊"/> |
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| width = 275 | height = 300 |
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: 大牟田市新開町、大牟田港岸壁(被害者B・D殺害現場)<ref name="読売新聞2004-11-17 西部朝刊"/> |
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| caption = 殺害・死体遺棄現場 | auto-caption = 1 |
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: 大牟田市馬場町・沖田町の間を流れる[[二級水系|二級河川]][[諏訪川 (九州)|諏訪川]]に架かる橋「馬沖橋」付近(遺体遺棄現場、座標位置){{Efn2|「馬沖橋」(うまおきばし)は大牟田市馬場町と、対岸の同市沖田町の間を流れる諏訪川に架かる橋<ref>『[[有明新報]]』平成26年(2014年)1月1日号2頁「地名に見る干支」(有明新報社 江頭裕一)</ref>。}}<ref group="注">{{Cite web|url=http://www2.wagmap.jp/omuta/MAP?linkid=0d3730b5-2aad-4805-b0c4-b5f6877894e5&mid=4|title=おおむた地図ナビ:現場周辺の地図|publisher=大牟田市|accessdate=2018-04-07}}</ref> |
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| scalemark = 60 |
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|緯度度=33|緯度分=00|緯度秒=42.8 |
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|経度度=130|経度分=26|経度秒=46.2 |
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|日付 = [[2004年]]([[平成]]16年)[[9月16日]]・[[9月18日]] |
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: 2004年9月16日23時45分ごろ(C殺害)<ref name="読売新聞2005-03-16"/><ref name="読売新聞2006-10-18 判決要旨"/> |
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: 2004年9月18日午前0時30分ごろ(A殺害)<ref name="読売新聞2005-03-16"/><ref name="読売新聞2006-10-18 判決要旨"/> |
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: 2004年9月18日午前2時15分ごろ(B・D殺害)<ref name="読売新聞2005-03-16"/><ref name="読売新聞2006-10-18 判決要旨"/> |
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|時間帯 = UTC+9 |
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|概要 = 暴力団組長一家4人が、以前から不満を持っていた知人の[[闇金融]]業者一家3人を金銭目的で相次いで殺害した<ref name="週刊文春2004-10-07"/>。<br>その際、一家と行動を共にしていた知人の1人も巻き添えで殺害し、遺体をいずれも[[大牟田市]]内を流れる[[二級水系|二級河川]][[諏訪川 (九州)|諏訪川]]に遺棄した<ref name="週刊文春2004-10-07"/>。 |
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|手段 = 首を絞めて絞殺(被害者A・C)、[[拳銃#自動式拳銃|自動式拳銃]]で射殺(被害者B・D)、[[アイスピック]]で刺殺(被害者D) |
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|攻撃側人数 = 4人 |
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|武器 = |
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: ロープ(被害者C)<ref name="読売新聞2006-10-18 判決要旨"/> |
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: 自転車用ワイヤー錠(被害者A)<ref name="読売新聞2006-10-18 判決要旨"/> |
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: 25口径自動式拳銃「[[FN ブローニング・ベビー]]」(被害者B・D)<ref name="朝日新聞2004-09-28 西部夕刊"/>、アイスピック(被害者D)<ref name="読売新聞2005-03-16 冒頭陳述"/> |
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|死亡 = 合計4人([[闇金融]]業者一家3人+被害者の友人1人)<ref name="全員死刑 p.10"/><ref name="週刊文春2004-10-07"/> |
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: 女性A(事件当時58歳、大牟田市小浜町在住、B・C兄弟の母親)<ref name="読売新聞2004-09-23 東京朝刊1面"/> |
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: 少年B(事件当時18歳、Aの長男、[[九州情報大学]]1年生)<ref name="読売新聞2004-10-02 西部夕刊"/> |
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: 少年C(事件当時15歳、Aの次男、[[福岡県立大牟田北高等学校]]1年生)<ref name="読売新聞2004-09-23 東京朝刊1面"/> |
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: 少年D(事件当時17歳、[[福岡県立ありあけ新世高等学校|福岡県立大牟田南高等学校]][[定時制]]3年生、Cの友人)<ref name="全員死刑 p.10"/> |
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|損害 = 現金約400万円・貴金属<ref name="全員死刑 p.11"/> |
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|犯人 =[[暴力団]]組長一家計4人(事件当時は大牟田市桜町に在住)<ref name="読売新聞2004-09-22 西部夕刊"/><ref name="読売新聞2004-09-22 東京夕刊"/> |
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: 父親K1(犯行当時60歳、暴力団「[[村上一家|北村組]]」組長)<ref name="読売新聞2004-10-08 西部朝刊"/><ref name="全員死刑 p.10"/> |
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: 母親K2(犯行当時45歳、K1の妻)<ref name="読売新聞2004-09-22 西部夕刊"/><ref name="全員死刑 p.10"/> |
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: 長男K3(犯行当時23歳、K2と前夫との子供でK1の養子、北村組見習い、元力士「旭竜神」、[[#傷害致死前科|傷害致死で懲役3年6月の前科]]あり)<ref name="読売新聞2004-10-02 西部夕刊"/><ref name="全員死刑 p.11"/> |
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: 次男K4(犯行当時20歳、K1・K2夫妻の実子、北村組見習い、元力士「三池山」)<ref name="読売新聞2004-09-26 西部朝刊"/><ref name="読売新聞2004-09-26 東京朝刊"/><ref name="全員死刑 p.11"/> |
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|容疑 = [[強盗致死傷罪|強盗殺人罪]]・[[殺人罪 (日本)|殺人罪]]・[[死体遺棄]]罪・[[銃砲刀剣類所持等取締法]]違反罪(いずれも4人全員)<br>[[逃走の罪#単純逃走罪|単純逃走罪]](長男K3) |
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|動機 = 生活費・暴力団上部団体への上納金などの金銭目的、自分たちを見下していたAへの恨み |
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|対処 = 加害者一家4人を[[逮捕 (日本法)|逮捕]]・[[起訴]] |
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|謝罪 = K2・K4両被告人が第一審公判中に謝罪 |
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|刑事訴訟 = 加害者一家4人全員が[[日本における死刑|死刑]](いずれも[[日本における収監中の死刑囚の一覧|未執行]]) |
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|管轄 = [[福岡県警察]](捜査一課・[[大牟田警察署]]など)<ref>『西日本新聞』2004年9月22日夕刊一面1頁「大牟田市 川に少年の遺体 遺棄容疑で45歳女逮捕 男、聴取中自殺図る」(西日本新聞社)</ref><ref>『有明新報』平成16年(2004年)9月23日付7頁「少年の遺体 川に遺棄 45歳女を逮捕 県警捜査一課と大牟田署 事情聴取中の夫 自殺図る 首と足にブロック」(有明新報社)</ref> |
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* [[福岡地方検察庁]]久留米支部<ref>『有明新報』平成16年(2004年)9月24日付9頁「諏訪川の死体遺棄事件容疑者を送検 被害少年の母などの捜索続く 県警捜査一課と大牟田署」(有明新報社)</ref> |
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|影響 = 犯行に関与した一家4人がいずれも死刑判決を受け<ref name="読売新聞2006-10-18 西部朝刊1面"/><ref name="読売新聞2007-02-28 西部朝刊1面"/>、その後いずれも確定したのは<ref name="読売新聞2011-10-18 西部朝刊"/><ref name="読売新聞2011-10-18 東京朝刊"/>、前代未聞の事態だった<ref name="週刊朝日2007-03-16"/>。<br>2017年11月に本事件を題材とした単行本『我が一家全員死刑』(2010年刊行)を原作とした映画『[[全員死刑]]』([[映画監督|監督]]・[[小林勇貴]])が制作・公開された。 |
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'''大牟田4人殺害事件'''(おおむたよにんさつがいじけん)は、[[2004年]]([[平成]]16年)[[9月16日]]・[[9月18日]]両日に[[福岡県]][[大牟田市]]で発生した[[シリアルキラー|連続殺人]]事件。 |
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| mark-coord1 = {{coord|33.011897|||N|130.446177|||E}} |
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[[暴力団]]組長一家4人が知人の[[闇金融]]業者一家3人とその被害者一家の友人1人の計4人を相次いで殺害し、市内を流れる[[二級水系|二級河川]][[諏訪川 (九州)|諏訪川]]にそれぞれ遺体を遺棄した[[強盗致死傷罪|強盗殺人]]・[[殺人罪 (日本)|殺人]]・[[死体遺棄]]事件である<ref name="読売新聞2004-09-29 西部朝刊"/>。 |
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| mark-title1 = 「馬沖橋」(死体遺棄現場) |
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| shape1 = n-circle |
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| shape-color1 = red |
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| shape-outline1 = white |
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| mark-size1 = 20 |
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| mark-coord2 = {{coord|33.0302783|||N|130.4370653|||E}} |
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本事件は[[刑事訴訟法|刑事裁判]]で[[被告人]]として[[起訴]]された加害者家族4人全員が[[日本における死刑|死刑]][[判決 (日本法)|判決]]を受けた特異な事例で<ref name="東京新聞2007-02-28"/>、4人の死刑判決はいずれもその後[[確定判決|確定]]した<ref name="読売新聞2011-10-18 西部朝刊"/><ref name="読売新聞2011-10-18 東京朝刊"/>。また、[[被害者]]側・加害者側ともに家族単位(被害者側は友人を1名含む)で4人ずついた。 |
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| mark-title2 = 被害者A1宅(大牟田市小浜町) |
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| shape2 = n-circle |
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| shape-color2 = red |
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| shape-outline2 = white |
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| mark-size2 = 20 |
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| mark-coord3 = {{coord|33.03536502233207|||N|130.4258019119702|||E}} |
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== 死刑囚一家 == |
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| mark-title3 = A1殺害現場(大牟田港北側岸壁) |
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加害者K1一家は大牟田市桜町に在住しており<ref name="読売新聞2004-09-22 西部夕刊"/><ref name="読売新聞2004-09-22 東京夕刊"/>、事件以前は被害者A一家と互いに家族ぐるみの付き合いをしていたが<ref name="読売新聞2004-09-26 西部朝刊"/>、事件当時は被害者Aから数百万円の借金を抱え{{Refnest|group="注"|K1は妻K2が被害者Aから借りた金を元手に貸金業を経営しており、K2は借金の取り立てなどでAに協力することがあったが、借金の返済などを巡りAとトラブルになっていた<ref name="読売新聞2004-09-27 西部朝刊"/><ref name="読売新聞2004-09-27 東京朝刊"/>。}}、月末になると[[九州電力]]の電気料金集金人が何度も督促に来ていた<ref name="読売新聞2004-10-03 西部朝刊"/>。 |
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| shape3 = n-circle |
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| shape-color3 = red |
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| shape-outline3 = white |
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| mark-size3 = 20 |
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| mark-coord4 = {{coord|33.044864|||N|130.422044|||E}} |
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周囲の人々は度々暴力沙汰を起こす息子K3・K4を野放しにする親に対し怒りを感じてはいたが「あの家は[[ヤクザ]]だから」「喧嘩を仕掛けたのが息子でも親が相手の家に怒鳴り込んでくる」と恐れて抗議を諦めていた<ref name="毎日新聞2004-10-18"/>。 |
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| mark-title4 = A2・B殺害現場(大牟田市新開町3番地1の海岸) |
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| shape4 = n-circle |
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| shape-color4 = red |
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| shape-outline4 = white |
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| mark-size4 = 20 |
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=== 男K1 === |
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死刑囚一家の主だった男K1は事件当時60歳<ref name="読売新聞2004-09-22 西部夕刊"/><ref name="読売新聞2004-09-22 東京夕刊"/><ref name="全員死刑 p.10">{{Harvtxt|鈴木智彦|2017|p=10}}</ref>・指定暴力団[[道仁会]]系[[暴力団]]「[[村上一家|北村組]]」組長だった<ref name="読売新聞2004-09-27 西部朝刊"/><ref name="全員死刑 p.10"/>。死刑囚K1は死刑確定直後の2011年末に[[福岡拘置所]]から[[広島拘置所]]へ移送され<ref name="死刑囚90人"/>、[[2019年]]([[令和]]元年)10月1日時点で<ref name="年報・死刑廃止2019 p.275"/>死刑囚として広島拘置所へ[[日本における収監中の死刑囚の一覧|収監されている]]<ref name="年報・死刑廃止2019 p.269"/>。 |
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|場所= {{JPN}}:[[福岡県]][[大牟田市]] |
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妻K2には男女の子供5人(男3人、女2人)がいたが<ref name="全員死刑 p.18"/>、K1はK2の3人目の夫で<ref name="週刊新潮2004-10-07"/>、K1の実子は計2人(K4とその年子の弟)だけだった<ref name="週刊新潮2004-10-07"/>。15歳年下の妻K2が身長170センチメートル(cm)・体重100キログラム(kg)近くと大柄な女で気性の荒い性格だったのに対し、夫K1は身長160cmと小柄で態度も小さく、事件を報じた『[[週刊新潮]]』([[新潮社]])は2人を「[[ノミ]]の夫婦」と形容した<ref name="週刊新潮2004-10-07"/>。 |
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|緯度度=33 |緯度分=0 |緯度秒=42.83 |
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|経度度=130 |経度分=26 |経度秒=46.24 |
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|地図= {{Infobox mapframe|frame-width=300|zoom=11|type=point}} |
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|標的= |
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|日付= [[2004年]]([[平成]]16年)[[9月16日]]・[[9月18日|18日]] |
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|時間= |
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|開始時刻= |
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|終了時刻= |
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|時間帯= [[UTC+9]] |
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|概要= 暴力団組長一家4人が、[[闇金融|無登録の金融業]]を経営していた知人母子3人(母A1・長男A2・次男A3)と、A2の友人である少年Bの計4人を相次いで殺害し、遺体を[[諏訪川 (九州)|諏訪川]]に遺棄した。 |
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|懸賞金= |
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|原因= |
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|手段= |
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|攻撃側人数= 4人 |
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|武器= 小型[[拳銃#自動式拳銃|自動式拳銃]]「[[FN ブローニング・ベビー|ブローニング・ベビー]]」<ref name="朝日新聞2004-10-10"/>、ワイヤー錠、アイスピック<ref name="西日本新聞2005-04-13"/>(軸部の長さ11.8 cm){{Sfn|中尾幸司3|2008|p=153}} |
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|兵器= |
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|死亡= 4人 |
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|負傷= |
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|行方不明= |
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|被害者= 女性A1(当時58歳)ら一家3人+少年B(当時17歳)の計4人 |
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|損害= |
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|犯人= 一家4人(暴力団組長の男K1と妻K2、息子2人) |
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|容疑= |
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|動機= 金銭に窮したこと、犯人一家の被害者A1に対する恨み |
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* A3殺害 - 金銭目的 |
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* A1殺害 - 金銭目的、恨み |
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* A2・B殺害 - A1殺害の発覚を恐れて口封じ |
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|関与= |
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|防御= |
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|対処= 犯人4人を福岡県警が[[逮捕 (日本法)|逮捕]]、福岡地検久留米支部が[[起訴]] |
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|謝罪= あり |
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|補償= |
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|賠償= |
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|刑事訴訟= 犯人4人全員が[[日本における死刑|死刑]](いずれも[[日本における収監中の死刑囚の一覧|未執行]]) |
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|少年審判= |
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|海難審判= |
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|民事訴訟= |
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|影響= 事件捜査の過程でK1やK4が警察署内で自殺を図る、長男K3が検察庁舎から逃走するなどの出来事があり、後者事件ではK3に同行していた警察官が[[懲戒]]処分を受けている。 |
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|遺族会= |
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|被害者の会= |
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|管轄= |
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* [[福岡県警察]]([[刑事部|捜査一課]]・[[大牟田警察署]]など)<ref name="西日本新聞2004-09-22">『[[西日本新聞]]』2004年9月22日夕刊一面1頁「大牟田市 川に少年の遺体 遺棄容疑で45歳女逮捕 男、聴取中自殺図る」([[西日本新聞社]])</ref><ref name="有明新報2004-09-23"/> |
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* [[福岡地方検察庁]]久留米支部 |
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}} |
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'''大牟田4人殺害事件'''(おおむたよにんさつがいじけん)は、[[2004年]]([[平成]]16年)[[9月16日]]と[[9月18日|同月18日]]に[[福岡県]][[大牟田市]]で発生した[[シリアルキラー|連続殺人]]・[[死体損壊・遺棄罪|死体遺棄]]事件<ref>{{Cite news|和書 |title=ワードBOX > 大牟田4人殺害事件 |newspaper=西日本新聞 |date=2007-12-25 |url=http://nishinippon.co.jp/wordbox/word/3737 |publisher=西日本新聞社 |language=ja |archive-url=https://web.archive.org/web/20121103145157/http://nishinippon.co.jp/wordbox/word/3737 |archive-date=2012年11月10日}}</ref>。報道では'''大牟田事件'''と呼称される場合がある<ref name="西日本新聞2004-10-02社会"/><ref name="西日本新聞冒頭陳述"/><ref name="朝日新聞2004-10-03"/><ref name="読売新聞2004-11-27"/><ref name="西日本新聞2018-02-23"/>。また市内を流れる[[諏訪川 (九州)|諏訪川]]が被害者4人の死体遺棄現場となったことから、地元紙の『[[有明新報]]』では'''諏訪川事件'''<ref name="有明新報2005-03-17"/><ref name="有明新報2006-11-29"/>、'''大牟田市諏訪川の四人殺害・死体遺棄事件'''<ref name="有明新報2005-03-17"/>、'''大牟田市諏訪川4人殺害事件'''<ref name="有明新報2005-03-16">『有明新報』平成17年(2005年)3月16日付1頁「大牟田市諏訪川4人殺害事件初公判 4被告の認否に食い違い “すべて私の単独犯行” “事実どおり間違いない” 極刑受けるためここに来た」(有明新報社)</ref>、'''諏訪川4人殺害事件'''<ref name="有明新報2006-05-03">『有明新報』平成18年(2006年)5月3日付1頁「K2、K42被告へ死刑求刑 諏訪川4人殺害事件 地裁久留米支部 “生命の尊厳冒涜した” 「矯正は不可能」と検察」(有明新報社)</ref>などの名称が用いられている。 |
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2004年9月18日、暴力団組長の男'''K1'''(事件当時{{年数|1944|1|12|2004|9|18}}歳)とその妻'''K2'''(同{{年数|1959|4|26|2004|9|18}}歳)、そして彼らの息子2人(長男'''K3'''〈同{{年数|1980|12|20|2004|9|18}}歳〉・次男'''K4'''〈同{{年数|1984|6|9|2004|9|18}}歳〉)の計4人が、知人の女性A1(事件当時58歳)と彼女の長男A2(同18歳)、そしてA2の友人だった少年B(当時17歳)の計3人を殺害し、遺体を載せた軽自動車を「馬沖橋」({{ウィキ座標|33.011897|||N|130.446177|||E||座標}}){{Efn2|name="馬沖橋"}}付近から諏訪川に遺棄した。また、K3・K4兄弟はこれに先んじて同月16日、A1の次男A3(同15歳)を「馬沖橋」から諏訪川へ投げ込んで殺害していた<ref name="判決要旨"/>。[[9月21日]]にA3の遺体が発見されたことで事件が発覚し<ref name="西日本新聞2004-09-22"/>、残る3人 (A1・A2・B) の遺体も同所付近に沈められた軽自動車の車内から発見された<ref name="西日本新聞2004-09-24"/>。A1は[[闇金融|無登録の貸金業]]を経営しており、K2らがその債務者からの取り立てを代行していた<ref name="西日本新聞2004-09-29"/>。 |
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高校を卒業後に[[福岡市]]へ出て[[和菓子]]職人の仕事をしていたK1は24歳, 25歳ごろに地元・大牟田市へ戻りタクシー運転手に就職したが、7,8年程度で退職すると暴力団幹部お抱えの運転手となり、やがて自分も[[覚醒剤]]を乱用するようになった<ref name="週刊新潮2004-10-07"/>。K1は「暴力団幹部としては温和な性格だが若い衆には人一倍厳しい」性格だったため北村組には人が居付かず<ref name="全員死刑 p.29">{{Harvtxt|鈴木智彦|2017|p=29}}</ref>、事件当時組に所属していた子分(組員)は5人程度で、組の実権はほとんど妻K2が握っていた<ref name="週刊新潮2004-10-07"/>。事件発生年の2004年5月には[[車上狙い]]で逮捕されたことから上部団体により「組長なのに恥さらしだ。破門にする」という話が出たが、一部の親分が「年も年だから勘弁してやってくれ」と仲裁したため破門は見送られた<ref name="週刊新潮2004-10-07"/>。 |
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犯人一家4人 (K1・K2・K3・K4) はいずれも[[強盗致死傷罪|強盗殺人]]・[[殺人罪 (日本)|殺人]]・死体遺棄などの罪に問われ、[[2011年]]([[平成]]23年)に[[最高裁判所 (日本)|最高裁]]で[[日本における死刑|死刑]][[判決 (日本法)|判決]]が[[確定判決|確定]]した<ref name="西日本新聞2011-10-18">『西日本新聞』2011年10月18日朝刊第19版第一社会面(事件・人・話題)31頁「大牟田4人殺害 父、長男の上告棄却 最高裁 一家全員の死刑確定へ」(西日本新聞社)</ref><ref>『日本経済新聞』2011年10月18日東京朝刊社会面35頁「大牟田4人殺害、元組員らも死刑確定へ、一家全員が極刑――最高裁、上告棄却。」(日本経済新聞東京本社)</ref>。一家4人が揃って死刑判決を受けたこと<ref name="西日本新聞2007-02-28">『西日本新聞』2007年2月28日朝刊第19版一面1頁「大牟田4人殺害 父親、兄も死刑判決 地裁久留米 母親、弟に続き」(西日本新聞社)</ref><ref>『[[東京新聞]]』2007年2月28日朝刊社会面27頁「元組幹部、長男にも死刑 福岡4人殺害 地裁支部判決 極刑、一家4人全員に」([[中日新聞東京本社]])</ref><ref>『[[中日新聞]]』2008年3月27日夕刊第二社会面12頁「父と長男 二審も死刑 福岡・大牟田 4人殺害で判決」([[中日新聞社]])</ref>、また一連の犯行で4人の死刑が確定したことは異例とされている<ref>『読売新聞』2011年10月18日西部朝刊社会面35頁「大牟田4人殺害 親子4人 死刑確定へ 父と長男も上告棄却」(読売新聞西部本社)</ref>。 |
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=== 女K2(K1の妻) === |
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K2(事件当時45歳)は[[1959年]]([[昭和]]34年)4月26日生まれで<ref name="死刑囚90人">{{Harvtxt|インパクト出版会|2011|pages=123-124}}</ref>、K1の妻かつK3・K4兄弟の実母<ref name="読売新聞2004-09-22 西部夕刊"/><ref name="読売新聞2004-09-22 東京夕刊"/><ref name="全員死刑 p.10"/>。[[2019年]](令和元年)10月1日時点で<ref name="年報・死刑廃止2019 p.275"/>次男K4とともに死刑囚として福岡拘置所へ収監されている<ref name="年報・死刑廃止2019 p.269"/>。 |
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== 概要 == |
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大牟田市内にあった[[三井三池炭鉱]](1997年閉山)やその関連施設に労働者を送り込む「人夫出し」を生業としていた建設会社の四女として生まれたK2は身長170cm・体重100kg近い大柄で、背中に[[観音菩薩]]の[[刺青]]を入れていた<ref name="週刊新潮2004-10-07">{{Cite journal|和書|journal=[[週刊新潮]]|author=|title=特集記事 「観音様」を背負ってワル力士を育てた 「大牟田4人殺し」女親分の「3度の結婚」|pages=156-159|date=2004-10-07|volume=49|issue=38|publisher=[[新潮社]]|language=ja}}(※通号2467号・2004年10月7日号)</ref>。19歳で17歳年上の暴力団組員と最初の結婚をして長女(K3より3歳・K4より6歳年上の姉)を出産したが1年足らずで離婚し、22歳で16歳年上の男性と再婚して長男K3・次女(K3の年子の妹)を出産したがこの結婚生活も2年で破綻した<ref name="週刊新潮2004-10-07"/>。この2度の結婚・離婚を経て事件当時の夫K1と結婚すると次男K4・三男(K4の年子の弟、後述のように2015年1月8日に自殺)を出産し、事件当時は5児の母親だった<ref name="週刊新潮2004-10-07"/>。事件2年前の[[2002年]](平成14年)には大牟田市内に[[スナックバー (飲食店)|スナックバー]]を開店したが経営が成り立たず、数カ月で閉店していた<ref name="読売新聞2004-10-03 西部朝刊"/>。 |
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犯人である男K1の妻K2は、被害者である女性A1と家族ぐるみで付き合っていたが<ref name="判決要旨">『読売新聞』2006年10月18日西部朝刊第三社会面33頁「大牟田4人殺害判決要旨」(読売新聞西部本社)</ref>、無登録の金融業を営んでいたA1<ref name="毎日新聞2004-09-29"/>から見下されるようになっていたことに恨みを募らせ、K2から事情を聞かされていた夫K1や長男K3もA1への敵意を強めていた<ref name="判決要旨"/>。加えて、K1一家は多額の[[借金]](2004年9月時点で6,600万円以上)を抱えて生活費や暴力団の上部団体に支払う[[みかじめ料|上納金]]などの支払いに窮していたことから、まずK1・K2・K3の3人がA1を殺害して金を奪う強盗殺人の計画を練り<ref name="判決要旨"/>、後に夫婦の次男K4も加えた4人で以下のような犯罪を起こした。 |
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K3は母親であるK2を出し抜いてA1の金を奪おうと考え、弟K4と共謀した上で<ref name="判決要旨"/>、2004年9月16日夜、A1宅に1人で在宅していたA1の次男A3(当時15歳:高校2年生)の首を絞めて失神させた上で、コンクリートブロック3個を体に結びつけ、「馬沖橋」{{Efn2|name="馬沖橋"|「馬沖橋」(うまおきばし、{{ウィキ座標|33.011889|||N|130.446167|||E||座標}}{{Sfn|ゼンリン|2022|loc=157頁C-5,D-5}}<ref>{{Cite web|url=http://www2.wagmap.jp/omuta/MAP?linkid=0d3730b5-2aad-4805-b0c4-b5f6877894e5&mid=4|title=おおむた地図ナビ:現場周辺の地図|publisher=大牟田市|accessdate=2023-02-07}}</ref>)は諏訪川に面する大牟田市馬場町と、対岸の同市沖田町を結ぶ橋<ref>『[[有明新報]]』平成26年(2014年)1月1日号2頁「地名に見る干支」(有明新報社 江頭裕一)</ref>。K1宅から北東約600 m地点<ref>『西日本新聞』2004年9月22日夕刊第10版第一社会面9頁「大牟田少年遺棄 「いったい何があった」 少年の家族不明の報も」(西日本新聞社)</ref>(車で4、5分程度の場所)にある、車1台がやっと通る幅の橋である{{Sfn|鈴木智彦|2017|p=42}}。}}から[[諏訪川 (九州)|諏訪川]]に投げ込んで殺害<ref name="判決要旨"/>。A1宅から貴金属(約398万円<ref name="判決要旨"/>ないし399万円相当)を奪った<ref name="西日本新聞2006-10-18"/>。翌17日には一家4人が共謀し、A1と長男A2(当時18歳:大学生)の2人も殺害して遺体を諏訪川に遺棄することを決め、18日未明には市内の岸壁に駐車した車内で、K4が睡眠薬入り弁当を食べさせて眠らせたA1を絞殺した<ref name="判決要旨"/>。そして4人がA1宅に行くと、A2が友人である少年Bを軽自動車に乗せて帰宅していたため、2人を口封じのために殺害することになり、K3・K4兄弟が2人を車で大牟田川河口の岸壁まで連れ出した上で、K4がK1から渡された拳銃を用いて2人を射殺した<ref name="判決要旨"/>。殺害後、4人は被害者3人 (A1・A2・B) の遺体を軽自動車に載せ、諏訪川に沈めた<ref name="判決要旨"/>。 |
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長男K3が帰郷後に地元の暴走族のリーダーになるとK3の手下の少年らを建設現場に送り込み派遣料を稼いだほか<ref name="毎日新聞2004-10-18"/>、三井三池炭鉱閉山後も[[近畿地方]]方面などの工事現場に作業員を送り込む家業を続けていたが、捜査関係者は『週刊新潮』の取材に対し「北村組は夫K1が組長となっていたが、K1は女房(K2)と違って気が小さい人間で実際にはK2が組を仕切っていた。作業員を人夫出しに出しても日給15,000円のうち3,000円程度はピンハネしているのではないか?」と述べていた<ref name="週刊新潮2004-10-07"/>。(K3が傷害致死事件を起こした前後の)2000年6月には深夜、大牟田市の海水浴場沖合60メートルの鉄塔にしがみついているところを釣り人に発見されたほか、同年10月(K3が傷害致死事件の嫌疑を掛けられていた時期)にはその海水浴場付近の岸壁から車ごと海中に転落して救急車で搬送されていたが、いずれも「自殺未遂ではないか?」と疑われていた<ref name="西日本新聞2004-09-28 夕刊">『西日本新聞』2004年9月28日夕刊第10版第一社会面9頁「大牟田・4人殺害 逮捕から1週間 K2容疑者 謎の日常 にこやかに昼の顔 怒声響かせ夜の顔」</ref>。 |
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事件後、4人は[[福岡県警察|福岡県警]](捜査一課・[[大牟田警察署]])に[[逮捕 (日本法)|逮捕]]され、[[福岡地方検察庁|福岡地検]]久留米支部によって[[起訴]]された。一方でそれに前後して、K1が大牟田署内で取り調べ中に凶器の拳銃を用いて[[自殺]]を図る<ref name="毎日新聞2004-10-08"/><ref name="朝日新聞2004-10-10"/>、K3が[[脱獄|検察庁舎から脱走]]して約3時間以上逃走する<ref name="西日本新聞2004-11-14"/>、K4が[[筑紫野警察署]]の留置場内で自殺を図る<ref name="読売新聞2004-11-26"/>などの出来事も起き、K3の逃走事件では護送を担当していた大牟田署員3人が減給の[[懲戒処分]]を受けている<ref name="西日本新聞2005-01-28"/><ref name="読売新聞2005-01-28">『読売新聞』2005年1月28日西部朝刊社会面37頁「K3被告逃走 「被告が嫌がる」理由に機動隊員の同行断る 大牟田署員3人減給」(読売新聞西部本社)</ref>。 |
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北村組の事務所前を走った暴走族の少女を殴りつけるなど近隣住民の間では「暴力的な姐さん」として知られており<ref name="全員死刑 p.100">{{Harvtxt|鈴木智彦|2017|p=100}}</ref>、気に入らないことがあるとすぐ激怒したり「死んでやる」と叫びながら運転中の車をガードレールにぶつけるなど、見境のない人間として恐れられていた上、自殺未遂の癖もあったことから「[[覚醒剤中毒]]ではないか」「あの家なら人を殺したって不思議じゃない」という噂も飛び交っていた<ref name="週刊新潮2004-10-07"/>。一方で犯行時、既に息子たちの手で実行されていた被害者Cの殺害をK1が仄めかしそうになった時には「Cには何もしないよ!見つけても普通にしておく」と反対していた<ref name="全員死刑 p.172">{{Harvtxt|鈴木智彦|2017|p=172}}</ref>。 |
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刑事裁判では、4[[被告人]]全員がA1に対する強盗殺人罪、A2・Bに対する殺人罪および[[銃砲刀剣類所持等取締法]](銃刀法)違反、彼ら3被害者に対する死体遺棄罪に問われたほか、K1は大牟田署内での発砲事件に関する銃刀法違反の罪、K3・K4兄弟はA3に対する強盗殺人・死体遺棄罪<ref name="有明新報冒頭陳述"/>、そしてK3は[[逃走の罪#単純逃走罪|単純逃走罪]]にも問われた<ref name="読売新聞2005-01-12"/>。[[審級|第一審]]ではK2・K4の2被告人が起訴事実を認めた一方、被告人K3は[[無罪]]を主張し、被告人K1は家族との共謀を否定して自身の単独犯を主張した<ref name="読売新聞2005-03-16"/>。一方で[[公判]]中には、K3とK4が法廷で口論になって殴りかかろうとしたK3が退廷させられる<ref name="朝日新聞2005-06-22">『[[朝日新聞]]』2005年6月22日西部朝刊第一社会面31頁「被告の兄弟が廷内でけんか 大牟田事件公判」([[朝日新聞西部本社]])</ref><ref>『読売新聞』2005年10月12日西部朝刊社会面35頁「福岡・大牟田連続殺人 公判中、再び一触触発 K3被告とK4被告」(読売新聞西部本社)</ref>、K4が前回公判で謝罪した被害者遺族に対し「ふざけんな」と暴言を吐くなどの出来事もあった<ref name="毎日新聞2006-03-29">『毎日新聞』2006年3月29日西部朝刊社会面26頁「福岡・大牟田の4人殺害:遺族3人「死刑を」 K4被告は法廷で暴言--公判」(毎日新聞西部本社)</ref>。[[検察官]]は一連の犯行の凶悪さや、被告人らの反社会性などを重視し、4被告人全員に死刑を[[求刑]]した<ref name="西日本新聞2006-05-03">『西日本新聞』2006年5月3日朝刊第19版第一社会面(事件・人・話題)39頁「大牟田4人殺害 K2、K4被告に死刑求刑 検察「矯正は不可能」」「81歳の祖母 「4人の判決見るまで死ねぬ」 遺影抱き傍聴」(西日本新聞社)</ref><ref name="西日本新聞2006-10-25">『西日本新聞』2006年10月25日朝刊第19版第一社会面(事件・人・話題)35頁「大牟田4人殺害 K1、K3被告も死刑求刑 地裁久留米 検察「矯正は不可能」」「検察官にらむK1被告」(西日本新聞社)</ref>。[[福岡地方裁判所|福岡地裁]]久留米支部(高原正良裁判長)は検察側の主張通り、4被告人全員の共謀を[[事実認定|認定]]した上で、4人全員に求刑通り死刑判決を言い渡した<ref name="西日本新聞2006-10-18">『西日本新聞』2006年10月18日朝刊一面1頁「大牟田4人殺害 元組幹部の妻、息子に死刑 地裁久留米判決 「極めて凶悪」 4被告の共謀認定」(西日本新聞社)</ref><ref name="西日本新聞2007-02-28"/>。 |
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=== 男K3(K1夫妻の長男) === |
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K1・K2夫妻の長男K3(事件当時23歳)<ref name="全員死刑 p.11"/>は[[1980年]](昭和55年)12月20日生まれ、福岡県大牟田市出身<ref name="月刊相撲1996-04"/>。K2と前夫との子供で実父と母K2の間にはさらに年子の妹(次女)がおり<ref name="週刊新潮2004-10-07"/>、父K1とは[[養子縁組]]関係<ref>『毎日新聞』2004年10月2日西部夕刊第一社会面7面「福岡・大牟田の死体遺棄 Cさん遺棄の疑い、K4容疑者の兄逮捕」</ref>・弟K4とは異父兄弟関係である<ref name="毎日新聞2004-10-03"/>。 |
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4人とも[[福岡高等裁判所|福岡高裁]]へ[[控訴]]し、控訴審ではK1が共謀を認めた一方で強盗目的を否認する主張をしたが<ref>『読売新聞』2007年10月12日西部朝刊社会面31頁「大牟田4人殺害控訴審初公判、父が共謀認める/福岡高裁」(読売新聞西部本社)</ref>、いずれも控訴[[棄却]]の判決を言い渡されている<ref name="西日本新聞2007-12-25">『西日本新聞』2007年12月25日夕刊第10版一面1頁「大牟田4人殺害 K2、K4被告再び死刑 福岡高裁 控訴を棄却」(西日本新聞社)</ref><ref name="西日本新聞2008-03-27">『西日本新聞』2008年3月27日夕刊第10版一面1頁「大牟田4人殺害 K1、K3被告再び死刑 福岡高裁、控訴を棄却」(西日本新聞社)</ref>。そして2011年10月に4人とも最高裁で上告棄却の判決を言い渡され、一家4人の死刑が確定した<ref name="西日本新聞2011-10-18"/>。 |
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死刑囚K3は死刑確定直後の2011年末に福岡拘置所から[[大阪拘置所]]へ移送され<ref name="死刑囚90人"/>、[[2019年]](令和元年)10月1日時点で<ref name="年報・死刑廃止2019 p.275"/>大阪拘置所に収監されている<ref name="年報・死刑廃止2019 p.269"/>。犯行時には抜け目なく直接犯行に関わることを避けつつ自分は無関係であるかのように装っていたため、弟K4の怒りを買うことが多かった<ref name="全員死刑 p.203">{{Harvtxt|鈴木智彦|2017|p=203}}</ref>。 |
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=== 略年表 === |
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==== 「旭竜神」として角界挑戦・挫折 ==== |
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{| class="wikitable" style="font-size:90%" |
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K3は大柄な体格で<ref name="朝日新聞2004-10-03 西部朝刊社会面"/>、小学校卒業時の卒業文集に「好きな言葉は白星。好きな有名人は[[旭道山和泰|旭道山]]。将来の夢は相撲取り」と書いていたほか<ref name="毎日新聞2004-10-18"/>、中学校の卒業式には和服姿で出席して髷を結うために髪を伸ばしていた<ref name="朝日新聞2004-10-03 西部朝刊社会面"/>。また中学時代は周囲に喧嘩が強いことを吹聴して回っていたほか、友人たちに「相撲部屋からスカウトされたから相撲取りになる」と自慢していた<ref name="朝日新聞2004-10-03 西部朝刊社会面"/>。 |
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|+ |
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! colspan="4" |事件の経緯 |
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!段階 |
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!年 |
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!月日 |
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!出来事 |
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! rowspan="2" |殺害計画 |
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| rowspan="8" |{{nowrap|2004年}}{{nowrap|(平成16年)}} |
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| 9月9日 |
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|[[#A1殺害計画|A1殺害計画]]: K2が自宅でK1に借金の現状などを打ち明けたところ、K1からA1を殺して金を奪うことを提案され、2人で殺害の謀議を重ねる{{Sfn|福岡高裁|2007|pp=2-3}}。後にK3も犯行に引き入れる{{Sfn|福岡高裁|2007|p=3}}。 |
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|{{nowrap|9月15日}} |
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|K2がA1から多額の現金を用意できたことを伝えられる{{Sfn|福岡高裁|2007|p=3}}。<br/>これを受け、K1は翌16日に殺害計画を実行することを決める<ref name="読売新聞冒頭陳述"/>。 |
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![[#K3・K4がA3を殺害|A3殺害]] |
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|9月16日 |
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|K2、A1を山中に連れ出すが、この日は殺害に至らず{{Sfn|福岡高裁|2007|p=3}}。<br/>K3は両親を出し抜いて金を手に入れるため、K4を犯行に引き入れ、A1宅に1人で在宅していたA3を襲撃{{Sfn|福岡高裁|2007|p=4}}。<br/>家から指輪などの入った金庫を盗み出し{{Sfn|福岡高裁|2007|p=4}}、A3を「馬沖橋」から諏訪川に投げ込んで殺害する<ref name="判決要旨"/>。 |
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! rowspan="2" |[[#一家4人でA1を殺害|A1殺害]] |
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|9月17日 |
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|[[#一家4人で共謀|一家4人で共謀]]: A1は帰宅後、A2からA3がいなくなったことを知らされる{{Sfn|福岡高裁|2007|p=5}}。K3はK2から手助けを求められ、K4とともにA1殺害のため、睡眠薬入りの弁当を用意する{{Sfn|福岡高裁|2007|p=6}}。<br/>K2は組事務所でA1に弁当を食べさせて眠らせた上でK1と謀議する{{Sfn|福岡高裁|2007|pp=6-7}}。K1はA2も殺害して遺棄することを決め、K2からの提案を受けて息子2人 (K3・K4) を犯行に引き入れる{{Sfn|福岡高裁|2007|p=7}}。<br/>K1一家4人が組事務所で謀議し、A1を殺害して金品を奪うことで共謀が成立、A1を連れて車で大牟田港の岸壁に向かう{{Sfn|福岡高裁|2007|pp=7-8}}。 |
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| rowspan="4" |9月18日 |
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|K4が自動車内でA1を絞殺する{{Sfn|福岡高裁|2007|pp=8-9}}。 |
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![[#A2・Bを殺害|A2・B殺害]] |
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|金品を奪うため一家4人でA1宅に向かったところ、行方不明になっていたA3を捜していたA2・Bの2人組(ワゴンRに乗車)と鉢合わせしたため、K1は2人とも殺害することを決めて妻子3人に指示する{{Sfn|福岡高裁|2007|pp=9-10}}。<br/>K3・K4はワゴンRに乗り込み、A2・Bを大牟田港の岸壁へ連れて行き、2人をK1から手渡された拳銃で銃撃(A2はこの時点で死亡){{Sfn|福岡高裁|2007|p=11}}。次いで、まだ生きていたBもアイスピックで刺殺する{{Sfn|福岡高裁|2007|p=12}}。 |
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![[#3人の遺体を遺棄|死体遺棄]] |
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|一家4人はA1の遺体をMPV(K1一家の車)から、A2・Bの遺体が載せられたワゴンR(A1一家の車)に載せ換えた上で、「馬沖橋」付近の諏訪川に沈めて遺棄する<ref name="読売新聞冒頭陳述"/>。 |
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!{{nowrap|[[#A1宅を物色|A1宅を物色]]・}}{{nowrap|証拠隠滅}} |
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|一家4人はA1宅を物色するが、金品は得られなかった<ref name="読売新聞冒頭陳述"/>。先に金庫を盗み出していたK3・K4は、その金庫に入っていた指輪の鑑定書を盗み出して隠した<ref name="読売新聞冒頭陳述"/>。<br/>その後、K3は自分の車(プレジデント)の車内清掃を依頼したが、多忙を理由に断られた{{Sfn|小野一光|2004|p=98}}。 |
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! colspan="4" |捜査の経緯 |
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! rowspan="2" |初期捜査 |
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| rowspan="13" |{{nowrap|2004年}}{{nowrap|(平成16年)}} |
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|9月19日 |
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|A3とBにつき、大牟田署へ捜索願が出される<ref name="西日本新聞2004-09-23"/>。Bの母親はK2を訪ねて息子の行方について聞くが、「知らない」と言われる<ref name="朝日新聞2004-10-14"/>。<br/>K4は両親にA3殺害の事実を打ち明け、K1から遺体を引き上げて人目につかないよう処理することを命じられたが、遺体は既に損傷が激しかったため、引き上げることを断念した{{Sfn|鈴木智彦|2017|pp=176-177}}。 |
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|9月20日 |
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|B宅に男の声で脅迫電話(後に警察を動かそうとした友人らによる狂言と判明)が掛かり、福岡県警捜査一課・大牟田署が捜査を開始<ref name="毎日新聞2004-09-27"/>。 |
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! rowspan="2" |[[#事件発覚|事件発覚]] |
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|9月21日 |
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|諏訪川でA3の遺体が発見される<ref name="西日本新聞2004-09-22"/>。<br/>K2は捜査一課から事情聴取され<ref name="東京新聞2004-09-23"/>、大牟田署に出頭する{{Sfn|鈴木智彦|2017|p=190}}。 |
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|9月22日 |
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|K2、A3に対する死体遺棄容疑で逮捕<ref name="西日本新聞2004-09-22"/>。<br/>[[#K1の自殺未遂|K1の自殺未遂]]: K1は大牟田署内で凶器の拳銃を用いて自殺を図るが、未遂に終わる<ref name="毎日新聞2004-10-08"/><ref name="朝日新聞2004-10-10"/>。 |
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![[#K4逮捕|K4逮捕]] |
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|9月23日 |
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|「馬沖橋」付近の諏訪川で、行方不明になっていた被害者3人 (A1・A2・B) の遺体が載せられたワゴンRが発見される<ref name="有明新報2004-09-25"/>。<br/>K4がA3に対する死体遺棄容疑で逮捕される<ref name="西日本新聞2004-09-26"/>。 |
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|- |
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![[#K3逮捕|K3逮捕]] |
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|10月1日 |
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|K3がA1・A2・Bに対する死体遺棄容疑で逮捕される<ref name="西日本新聞2004-10-08"/>。 |
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!K1逮捕 |
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|10月7日 |
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|入院していたK1が退院し、K2・K4とともにA1・A2・Bに対する死体遺棄容疑で逮捕される<ref name="西日本新聞2004-10-08"/>。 |
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|- |
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! rowspan="2" |[[#再逮捕・起訴|再逮捕・起訴]] |
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|{{nowrap|10月22日}} |
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|K2・K3・K4の3人がA1ら3人に対する死体遺棄罪で起訴される<ref name="西日本新聞2004-10-23"/>。 |
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|10月26日 |
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|K3がA1ら3人に対する死体遺棄罪で起訴される<ref name="西日本新聞2004-10-27"/>。<br/>同日、4人はA1に対する強盗殺人容疑で再逮捕される<ref name="西日本新聞2004-10-27"/>。 |
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|- |
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!{{nowrap|[[#K3逃走事件|K3逃走事件]]}} |
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|11月13日 |
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|K3が取り調べを受けていた福岡地検久留米支部から逃走するが、約3時間後に[[熊本県]][[荒尾市]]内で身柄を確保される<ref name="西日本新聞2004-11-14"/>。<br/>大牟田署員3人が付き添っていながら逃走を許したことや内規違反があったことなどが問題視され、担当署員や大牟田・久留米の両署長らが後に懲戒処分を受ける<ref name="西日本新聞2005-01-28"/>。 |
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! rowspan="3" |再逮捕・起訴 |
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|11月16日 |
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|K1一家4人がA1に対する強盗殺人罪で起訴される。<br/>同日、捜査本部はA2・Bに対する殺人などの容疑で4人を再逮捕する<ref name="読売新聞2004-11-17"/>。 |
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|12月7日 |
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|一家4人がA2・Bに対する殺人・銃刀法違反の罪で起訴される。<br/>同日、K3・K4兄弟はA3に対する強盗殺人などの罪で再逮捕される<ref name="西日本新聞2004-12-08"/>。 |
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|12月27日 |
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|K3・K4がA3に対する強盗殺人罪で起訴される(死体遺棄罪については不起訴処分)<ref name="西日本新聞2004-12-28"/>。 |
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|} |
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{| class="wikitable" style="font-size:90%" |
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|+ |
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! colspan="4" |刑事裁判の経緯 |
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![[審級]] |
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!年 |
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!月日 |
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!出来事 |
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! rowspan="12" |[[#第一審|第一審]]<br/>{{nowrap|福岡地裁久留米支部}} |
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| rowspan="4" |{{nowrap|2005年}}{{nowrap|(平成17年)}} |
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|3月15日 |
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|[[#初公判|初公判]]: [[福岡地方裁判所|福岡地裁]]久留米支部(高原正良裁判長)で4[[被告人]]の[[審級|第一審]]初[[公判]]が開かれる。<br/>[[罪状認否]]でK2・K4は全面的に起訴事実を認めた一方、K1は家族との共謀を否定し、自身の単独犯を主張。K3は連続殺人への関与を全面的に否定。 |
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|4月13日 |
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|第2回公判: 同日以降、審理は起訴事実を認めたK2・K4組と、起訴事実を否認したK1・K3組にそれぞれ分離される。 |
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|5月5日 |
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|K3が拘置先の福岡刑務所で意識朦朧状態になっているところを発見され、同月31日まで入院。これにより、審理が中断する。 |
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|6月21日 |
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|無実を主張したK3にK4が憤慨して一触即発になる。同年10月11日にも同様の騒動があった。 |
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| rowspan="7" |2006年(平成18年) |
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|3月14日 |
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|K2とK4がそれぞれ被害者遺族に謝罪する。 |
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|3月28日 |
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|被害者遺族の1人(A1の母親)の陳述に対し、K4が逆上して「ふざけんな」と暴言を吐く。 |
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|5月2日 |
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|[[#死刑求刑|死刑求刑]]: K2・K4の両被告人に検察官が死刑を求刑。 |
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|6月13日 |
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|[[#最終弁論|最終弁論]]: K2・K4の審理は同日の第25回公判で結審。<br/>両被告人の弁護人がそれぞれ最終弁論を行い、死刑回避を求める。 |
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|{{nowrap|10月17日}} |
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|[[#死刑判決|K2・K4に死刑判決]]: 福岡地裁久留米支部はK2・K4の両被告人に死刑判決。<br/>同判決では分離公判中のK1・K3との共謀も認定される。判決後、2人とも福岡高裁へ控訴。 |
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|10月24日 |
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|[[#死刑求刑_2|死刑求刑]]: K1・K3の両被告人に検察官が死刑を求刑。 |
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|11月28日 |
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|[[#最終弁論_2|最終弁論]]: K1・K3の審理は同日の第32回公判で結審。<br/>K1の弁護人は死刑回避を求め、K3の弁護人は逃走事件以外は無罪を主張し、執行猶予判決を求める。 |
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| rowspan="4" |2007年(平成19年) |
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|2月27日 |
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|[[#死刑判決_2|K1・K3に死刑判決]]: 福岡地裁久留米支部はK1・K3の両被告人に死刑判決。<br/>判決後、2人とも福岡高裁へ控訴。 |
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! rowspan="4" |[[#控訴審|控訴審]]<br/>福岡高裁 |
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|6月5日 |
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|[[#K2・K4の審理_2|K2・K4の審理]]: [[福岡高等裁判所|福岡高裁]](正木勝彦裁判長)でK2・K4両被告人の初公判。<br/>審理は同年9月27日に結審。 |
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|10月11日 |
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|[[#K1・K3の審理_2|K1・K3の審理]]: K1・K3の控訴審初公判。K1は第一審における「自身の単独犯」との主張を翻し、家族との共謀を認める。<br/>審理は同年12月20日に結審。 |
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|12月25日 |
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|[[#控訴棄却判決|K2・K4の控訴棄却判決]]: 福岡高裁はK2・K4の両被告人の控訴を棄却する判決を宣告。<br/>判決後、2人とも最高裁へ上告。 |
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|2008年(平成20年) |
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|3月27日 |
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|[[#K1・K3の審理_2|K1・K3の控訴棄却判決]]: 福岡高裁はK1・K3の両被告人の控訴を棄却する判決を宣告。<br/>判決後、2人とも最高裁へ上告。 |
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|- |
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! rowspan="3" |[[#上告審|上告審]]<br/>最高裁 |
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| rowspan="3" |2011年(平成23年) |
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|6月15日 |
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|上告中のK4が知人男性と[[養子縁組]]して改姓。縁組後(上告審判決時点)の姓は「I」になっている。 |
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|10月3日 |
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|[[最高裁判所 (日本)|最高裁]]第二[[小法廷]]([[須藤正彦]]裁判長)がK2・K4の上告を棄却する判決を宣告。<br/>同判決により2人の死刑が確定(K4の死刑確定は同年11月8日付)。 |
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|10月17日 |
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|最高裁第一小法廷([[白木勇]]裁判長)がK1・K3の上告を棄却する判決を宣告。<br/>同判決により2人の死刑が確定。 |
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|} |
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== 事件の背景 == |
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K3は中学卒業後の1996年3月<ref name="毎日新聞2004-10-18"/>[[日本相撲協会]]の[[大相撲]][[新弟子検査]]に合格し<ref name="月刊相撲1996-04"/>、憧れていた旭道山がいた<ref name="毎日新聞2004-10-18"/>[[大島部屋]]に入門した<ref name="毎日新聞2004-10-03"/><ref name="毎日新聞2004-10-18"/>。入門時の四股名は当時の姓と同じ「石橋」(いしばし)で身長180cm・体重115kgだった<ref name="月刊相撲1996-04">{{Cite journal|和書|journal=[[相撲 (雑誌)|相撲]]|author=|title=角界トピックス 1996年3月新弟子検査合格者|page=147|date=1996-04-15|volume=45|issue=4|publisher=[[ベースボール・マガジン社]]|language=ja|quote=68番 大島部屋}}(※月刊誌、通号603号・1996年4月号。該当ページの上4段目×7行目)</ref>。その後1996年5月には「'''旭竜神'''」(きょくりゅうじん)に改名し<ref name="月刊相撲1996-06">{{Cite journal|和書|journal=相撲|author=|title=角界トピックス 力士往来<改名>◇序ノ口|page=122|date=1996-06-15|volume=45|issue=6|publisher=ベースボール・マガジン社|language=ja|quote=}}(※月刊誌、通号605号・1996年6月号。該当ページの上2段目×3 - 4行目)</ref>、同年5月場所(夏場所)で東[[序ノ口]]26枚目「旭竜神」として初土俵を踏んだ<ref name="月刊相撲1996-07">{{Cite journal|和書|journal=相撲|author=|title=平成8年夏場所全力士略歴星取表|page=174|date=1996-07-15|volume=45|issue=7|publisher=ベースボール・マガジン社|language=ja|quote=}}(※月刊誌、通号606号・1996年7月号)</ref>。この時、母K2が大牟田市に隣接する熊本県荒尾市内で開いた壮行パーティーでK3は「関取を目指します」と挨拶していたほか「出世したら、化粧まわしをしてやる」と励まされた、K2も当時は「父親がヤクザだからしつけが不十分だった。これからは部屋の親方・女将さんが厳しくしつけてくれる」と満足げな様子だった<ref name="毎日新聞2004-10-18"/>。 |
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=== 犯人 === |
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犯人は、男'''K1'''(事件当時{{年数|1944|1|12|2004|9|18}}歳)とその妻'''K2'''(同{{年数|1959|4|26|2004|9|18}}歳)、そしてK1・K2夫婦の長男'''K3'''(同{{年数|1980|12|20|2004|9|18}}歳)・次男'''K4'''(同{{年数|1984|6|9|2004|9|18}}歳)の計4人である(彼らの詳細な人物像については[[#犯人一家|後述]])。 |
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K1・K2・K3の上告審判決時の[[本籍]]地は大牟田市桜町19番地{{Efn2|K1宅の跡地は2022年時点で、セブンイレブン大牟田桜町店(大牟田市桜町30番地)の駐車場になっている{{Sfn|ゼンリン|2022|loc=178頁H-1}}。上告審判決時点では、一家4人とも住居は[[福岡市]][[早良区]][[百道]]二丁目16番10号([[福岡拘置所]]の所在地)になっている{{Sfn|集刑304号|2012|p=347}}。}}{{Sfn|集刑304号|2012|p=227}}{{Sfn|集刑304号|2012|p=347}}({{ウィキ座標|33.006429|||N|130.449621|||E||座標}}){{Sfn|ゼンリン|2004|loc=178頁H-1}}。K1一家はかつて大牟田市藤田町に在住していたが{{Efn2|name="藤田町"|K2が1992年に恐喝事件を起こして逮捕された際、住所は大牟田市藤田町176-1({{ウィキ座標|33.005947868380034|||N|130.44063526242752|||E||座標}})と報じられている<ref name="有明新報1992-07-24"/>。同地にはかつて、K2の旧姓である「I」姓の住宅のほか、K2が経営していた建設会社と同じ「I建設」が所在していたが{{Sfn|ゼンリン|2003|loc=157頁J-1}}、事件後(2005年)に発行された地図では「I建設」があった建物にクリーニング店が入居している{{Sfn|ゼンリン|2005|loc=177頁G-1}}。2022年版の住宅地図では、かつて「I」姓となっていた住宅は空き家となっており、かつての「I建設」所在地は「ヘアーサロン天音」になっている{{Sfn|ゼンリン|2022|loc=177頁G-1}}。}}{{Sfn|甲斐さやか|2004|p=150}}、事件発生の3年半ほど前、桜町の家で暮らしていたK1の姉が死去したため、その家にK1一家が引っ越してきた<ref name="産経新聞2004-09-22"/>。それ以来、同宅には暴力団風の男が多数出入りする姿が目撃されたほか、家族以外の同居人2、3人や、常に屯している10 - 20歳代前半の若者たちの姿が目撃されていた<ref name="産経新聞2004-09-22">『[[産経新聞]]』2004年9月22日大阪夕刊第一社会面「川に少年の遺体 数人不明? 遺棄容疑で女逮捕 福岡・大牟田」([[産経新聞大阪本社]])</ref>。 |
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しかし「旭竜神」が土俵を踏んだのはこの夏場所限りで<ref name="毎日新聞2004-10-18">『毎日新聞』2004年10月18日東京朝刊社会面31面「[現場発]福岡・大牟田の死体遺棄 子供に厳しくしていれば…」(記者:川辺康広)</ref>、通算2勝5敗の成績に終わった<ref name="月刊相撲1996-07"/>。その後、同年7月場所([[名古屋場所]])を全休して夜逃げ同然に部屋を出たが、K3の現役当時の大島部屋親方は『毎日新聞』の取材に対し「(K3の引退は)『稽古場が燃えれば稽古をしなくて済む』という理由で稽古場のカーテンに放火したことが原因だ。この時は天井に火が燃え移る前に兄弟子たちが気付いて消し止めた」と証言したほか、同部屋の女将も「残された衣類を洗って自宅に送ったのにお礼もなかった。掃除もちゃんこ鍋の用意も何もできなかった」と証言した<ref name="毎日新聞2004-10-18"/>。 |
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事件当時、K1には妻K2および子供5人[長女(当時26歳)・長男K3・次女(当時22歳)・次男K4・三男(当時19歳)]がおり、うち結婚して別居していた長女とK3の2人を除く子供3人が、両親であるK1・K2夫婦と同居していた<!--出典の女性セブンではK3も同居していたことになっているが、実際にはK3は大牟田市白銀のアパートで暮らしていたため矛盾する。--><ref name="女性セブン2004-10-14">{{Cite journal|和書|journal=[[女性セブン]]|title=福岡・大牟田連続4人殺人事件 巨漢極道の妻K2容疑者(45) 「殺しは簡単」が口癖 ゴミ屋敷で暮らし、元力士の二男K4容疑者(20)をボディガードに!|volume=42|page=52|editor=(編集人)森万紀子|date=2004-10-14|issue=38|publisher=[[小学館]]}} - 通巻:第1984号(2004年10月14日号)。</ref>。娘2人と三男は事件後、実家とは別の場所で生活しており、次女は『[[週刊現代]]』の取材に対し、自身と三男は事件当時から家庭と距離を置いていたと証言している{{Sfn|週刊現代3|2004|p=205}}。なお、三男は2015年(平成27年)1月8日に自殺している([[#福島瑞穂が実施したアンケートに対する回答|後述]]){{Sfn|年報・死刑廃止|2015|p=88}}。息子3人はいずれも体重100 [[キログラム|kg]]超の巨漢で{{Sfn|週刊実話|2004|p=219}}、K3・K4はそれぞれ中学卒業後に[[力士養成員]]として[[相撲部屋]]に入門したものの、[[序ノ口]]もしくは[[序二段]]止まりで引退し、大牟田に帰郷していた<ref name="毎日新聞2004-09-26">『毎日新聞』2004年9月26日西部朝刊社会面25頁「福岡・大牟田の死体遺棄 親しかったはずの友人が…--A1さん一家通夜 K2容疑者の息子逮捕、同級生ショック」(毎日新聞西部本社)</ref>。引退後、K3は2000年(平成12年)に傷害致死事件を起こし、懲役3年6月の実刑判決を受けた[[前科]]があり([[#傷害致死前科|後述]])<ref name="毎日新聞2004-10-09"/>、K4も薬物犯罪などで中等[[少年院]]に入院していた時期があった([[#力士廃業後|後述]]){{Sfn|集刑304号|2012|p=426}}。 |
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引退・帰郷したK3は周囲に「兄弟子たちから[[いじめ]]を受け耐えられなくなったのでやめた」と話し<ref name="毎日新聞2004-10-18"/>、母K2が経営していた建設会社を手伝う一方で<ref name="読売新聞2004-10-03 西部朝刊"/>[[暴走族]]のリーダーとして弟K4とともに暴力沙汰を度々起こし<ref name="毎日新聞2004-10-18"/>、地元の若者たちから恐れられていた<ref name="読売新聞2004-10-03 西部朝刊"/>。引退後の2000年には後述のように傷害致死事件を起こして実刑判決を受けたため2004年春まで刑務所へ服役しており<ref name="朝日新聞2004-10-03 西部朝刊社会面">『朝日新聞』2004年10月3日朝刊第一社会面39面「逮捕のK3容疑者も力士挫折・帰郷 大牟田・遺棄事件 【西部】」</ref><ref name="毎日新聞2004-10-18"/>、出所の際には父K1が近隣住民に対し「息子が戻ってきて家の人間が増えた」と話していた<ref name="朝日新聞2004-10-03 西部朝刊社会面"/>。K3は出所後の2004年6月ごろから実家を離れて大牟田市内のアパートで生活していた、組事務所にも出入りしていたほか<ref name="読売新聞2004-10-03 西部朝刊"/>、事件直前は腰痛のため弟K4とともに大牟田市内の病院へ通院していたが、看護師らに対し「自分は組員だからいずれ[[刺青]]を入れる」などと話していた<ref name="朝日新聞2004-10-03 西部朝刊社会面"/>。 |
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==== |
==== 北村組 ==== |
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K1は事件当時、指定暴力団[[道仁会]][[村上一家]]「北村組」の組長だった{{Efn2|指定暴力団(=道仁会)から見て三次団体に該当する{{Sfn|鈴木智彦|2017|p=28}}。北村組は1996年時点で、3代目村上一家の傘下にあった{{Sfn|週刊現代2|2004|p=18}}。}}{{Sfn|集刑304号|2012|p=375}}。同組は構成員10人未満の小規模な組で{{Efn2|小野一光 (2007) によれば、多い時でもK4を含めて5 - 6人の組員しかいなかった{{Sfn|小野一光|2007|p=136}}。ただし北村組の上部団体の幹部は鈴木智彦の取材に対し、大牟田ほどの地方都市では10人も組員が居ればそこそこの規模であると証言している{{Sfn|鈴木智彦|2017|pp=28-29}}。}}、K2が「姐」として資金面の管理を担当していた{{Sfn|小野一光|2019|p=13}}。主な[[シノギ#経済活動としてのシノギ|シノギ]]は、飲食店に植木・花・おしぼりなどを納品することだったが、その資金繰りは苦しかったため、K2が経営していた建設会社([[#女K2|後述]])と債権回収の仕事で生活を支えていた{{Sfn|小野一光|2007|p=136}}。また、古タイヤを加工して作った植木鉢にペンキを塗って1個2、3万円で売りつける、年末には近隣住民に[[ブリ]](大牟田では年末にブリを贈る風習がある)を1本1万円から15,000円で売りつけるなどの方法で近隣住民から金を巻き上げていた、という証言がなされている{{Sfn|週刊文春|2004|p=38}}。暴力団の世界では、組事務所と組長宅は分離することが常識だったが、北村組は事件直前に上層部から勧告を受けて事務所を移転するまで事務所がK1宅と同じ場所にあり、組員たちがK1宅の掃除・洗濯を行うなどしていた{{Sfn|鈴木智彦|2017|p=28}}。その事実を踏まえ、[[鈴木智彦]]は「組長の息子」として生育したK4が暴力団と馴染みの深い環境で育ったことで悪影響を受けた可能性を示唆している{{Sfn|鈴木智彦|2017|p=28}}。 |
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母K2が当時経営しK3が働いていた大牟田市内の建設会社では2000年6月16日から少年X(当時18歳)が住み込みで勤めていたが<ref name="読売新聞2000-10-31"/>、Xはやがて無断で出勤しなくなり、同年6月20日には住み込みの寮から逃げ出した<ref name="毎日新聞2000-10-30">『毎日新聞』2000年10月30日西部夕刊社会面「福岡・城島町の少年水死 傷害致死容疑、少年6人を逮捕 無断欠勤に腹立て」</ref>。これに腹を立てたK3(当時19歳少年・建設作業員)は<ref name="毎日新聞2000-10-30"/>「Xに制裁を加えよう」と考え、寮から逃げたXが城島町内の女友達数人に連絡していたことを把握するとその女友達に対し「後述の現場付近でXと会う」と約束させた<ref name="読売新聞2000-10-30"/>。 |
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事件当時の北村組の事務所は、大牟田市本町四丁目({{ウィキ座標|33.027553|||N|130.441268|||E||おおよその座標}})にあったアパートの2階の部屋である{{Sfn|集刑304号|2012|p=411}}。このアパートは[[九州旅客鉄道|JR]][[大牟田駅]]に近い住宅密集地に建っていた木造2階建てのアパートで、1階が駐車場になっており、2階に部屋が4室あった<!--「大牟田市本町4」のアパート、として、このアパートの写真が掲載されている出典:<ref>『毎日新聞』2004年10月4日東京朝刊社会面27頁「福岡・大牟田の死体遺棄:アパートを実況見分 「暴行の音」証言、殺害現場か 2容疑者出入り」(毎日新聞東京本社)</ref>--><ref>『毎日新聞』2004年10月4日西部朝刊一面1頁「福岡・大牟田の死体遺棄 市内アパートで殺害か--県警が実況見分」(毎日新聞西部本社)</ref>。1階の駐車場には普段から高級車が駐車されており、[[暴走族]]風の若者の車やバイクも駐車してあった<ref name="毎日新聞2004-10-04社会">『毎日新聞』2004年10月4日西部朝刊第一社会面25頁「福岡・大牟田の死体遺棄 見分アパート「まるでリンチ部屋」--日常的に悲鳴・暴行」(毎日新聞西部本社)</ref>。このアパートは以前、付近の自動車整備工場([[#犯行後|後述]])が所有していたが<ref name="西日本新聞2004-10-04"/>、借金の担保として銀行に差し押さえられそうになったことから、所有者がK1に相談を持ち掛け、K1が経営していた建設会社の作業員らが住み込んで占有していた時期もあった<ref name="毎日新聞2004-10-04社会"/>。その後は競売にかけられていたが<ref name="毎日新聞2004-10-04社会"/>、2000年11月に地元の暴力団関係者が落札し、うち一室をK2名義で借りていた<ref name="西日本新聞2004-10-04"/>。2002年(平成14年)ごろからは暴力団関係者らしき男が入居しており、隣接するプレハブも含めて若い男らも頻繁に出入りしていたほか、周囲では携帯電話で「金返せ」と怒鳴る声も聞かれていた<ref>『朝日新聞』2004年10月4日西部朝刊第二社会面34頁「出入りアパートを現場検証 大牟田・3容疑者【西部】」(朝日新聞西部本社)</ref>。 |
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K3は不良仲間の少年計6人(いずれも当時16歳・17歳、うち2人は当時高校2年生)とともに<ref name="読売新聞2000-12-14"/>{{Refnest|group="注"|犯行に加わった少年グループはK3を含め全員が被害者Xと遊び仲間で、このうち2人はXと同じ中学校の卒業生だった<ref name="読売新聞2000-10-30"/>。}}2000年6月25日2時30分ごろ<ref name="読売新聞2000-10-30"/>、福岡県[[三潴郡]][[城島町]]江上本(現:[[久留米市]]城島町江上本)の[[福岡県道702号柳川城島線]]・大溝端橋に<ref name="毎日新聞2000-10-30"/>Xを誘い出した<ref name="読売新聞2000-10-30"/>。しかしXが身の危険を感じて逃げ出したため<ref name="朝日新聞2000-11-21"/>、K3ら7人は約300メートル(m)にわたりXを追跡し{{Refnest|group="注"|K3はこの時、自分の運転する車に他の少年6人を乗せて現場付近へ向かっていた<ref name="読売新聞2000-10-31"/>。}}<ref name="読売新聞2000-10-30"/>、Xを捕まえると顔などを木刀で殴るなど暴行を加え<ref name="読売新聞2000-10-30"/>、農業用クリーク(水路)に転落させた<ref name="毎日新聞2000-10-30"/>。水路に転落したXに対しK3たち7人は木刀を差し出して助けようとしたが助けられず<ref name="毎日新聞2000-10-30"/>、Xはそのまま水死した<ref name="読売新聞2000-10-30"/>。K3は事件後、共犯の少年たちに対し「言うなよ」「黙っておけ」などと犯行を口止めしていた<ref name="読売新聞2000-10-31">『読売新聞』2000年10月31日西部朝刊第一社会面31面「福岡・城島町の少年水死事件 主犯格19歳が仲間に口止め」</ref>。 |
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=== 被害者 === |
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2000年6月28日午前5時40分ごろ、近隣住民がクリーク(深さ約3メートル・幅約20メートル)の水門付近にてXの水死体を発見した<ref name="読売新聞2000-10-02">『読売新聞』2000年10月2日西部朝刊第一社会面39面「少年水死は事件の疑い 6月に福岡・城島町のクリークで 関係者を聴取」</ref><ref name="朝日新聞2000-10-02">『朝日新聞』2000年10月2日夕刊第一社会面9面「少年が水死、男性らを聴取 6月に城島町で発見 【西部】」</ref>。遺体は検視の結果「死後3日 - 4日経過・死因は水死」と判明した一方で目立った外傷はなく<ref name="読売新聞2000-10-02"/><ref name="朝日新聞2000-10-02"/>、胃の内容物にも不審点は確認されなかった上<ref name="朝日新聞2000-10-02"/>、財布・携帯電話を身に着けたままだった<ref name="読売新聞2000-10-02"/>。また現場はXの自宅から約20キロメートル離れていたが<ref name="読売新聞2000-10-02"/><ref name="朝日新聞2000-10-30"/>、付近にはXの車・バイクはなく現場に向かった動機は不明瞭だった<ref name="読売新聞2000-10-02"/>。 |
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一連の事件の被害者は、女性A1(事件当時58歳)と長男A2(同18歳:[[九州情報大学]]1年生)・次男A3(同15歳:[[福岡県立大牟田北高等学校|大牟田北高校]]1年生)の兄弟、そしてA2の友人であった少年B(同17歳:[[福岡県立ありあけ新世高等学校|大牟田南高校]]定時制2年生)の計4人である<ref name="読売新聞2004-09-25">『読売新聞』2004年9月25日西部朝刊社会面39頁「大牟田連続死体遺棄 A1さんから数百万円借金 K2容疑者、返済でトラブル?」(読売新聞西部本社)</ref>。被害者A一家とBは事件当時、それぞれ大牟田市小浜町に在住していた<ref name="西日本新聞2004-09-24">『西日本新聞』2004年9月24日朝刊一面1頁「大牟田・死体遺棄 川底の車から3遺体 不明の母親らか 4人連続殺害の疑い」(西日本新聞社)</ref>。A一家の住宅は保育所に隣接して建っていたが、事件から丸10年となる2014年(平成26年)9月ごろに[[小野一光]]が同地に行ったところ、家は既に解体されていた{{Efn2|[[ゼンリン]]の[[住宅地図]](2004年版)によれば、大牟田市小浜町42番地の8({{ウィキ座標|33.0302783|||N|130.4370653|||E||座標}})に被害者A1と同姓の「T」姓の家があり、その南隣には「小浜保育所」(小浜町42番地の48:{{ウィキ座標|33.03010249421082|||N|130.43676794605915|||E||座標}})があった{{Sfn|ゼンリン|2004|loc=118頁B-4}}。2022年版では、42番地の8(「T」という家があった箇所)は更地になっているが、南隣の保育所は2004年時点と同じまま残っている{{Sfn|ゼンリン|2022|loc=118頁B-4}}。}}{{Sfn|小野一光|2019|pp=35-36}}。事件前、A一家は大牟田市内で転居を繰り返し、A1は情報通信関連のセールスや飲食店従業員などの仕事をして生計を立てていたと報じられている<ref name="西日本新聞2004-09-23社会"/>。 |
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A1は4人姉妹の長女として生まれ<ref name="朝日新聞2006-05-03福岡"/>、かつて[[東京都]][[品川区]]の[[キャバレー (接待飲食店)|キャバレー]]でナンバーワンホステスだった経歴を持ち、独立して東京の[[赤羽]]や[[王子 (東京都北区)|王子]]で[[スナックバー (飲食店)|スナック]]を経営して成功を収めた後、大牟田に帰郷した{{Sfn|週刊新潮|2004|p=157}}。A1は事件から十数年前、長女として高齢の母親(2006年時点で81歳)の面倒を見るために東京から帰郷してきたという<ref name="朝日新聞2006-05-03福岡">『朝日新聞』2006年5月3日西部朝刊福岡県版第一地方面27頁「悲しみ増すばかり、相当の償いを 娘と孫奪われた○○〔被害者A1の母親の姓〕さん 大牟田事件求刑 /福岡県」(朝日新聞西部本社)</ref>。A1の夫であり、A2・A3兄弟の父親でもある男性(当時45歳)は事件当時、[[神奈川県]][[川崎市]]で妻子と別居していた<ref name="読売新聞2004-09-27">『読売新聞』2004年9月27日西部朝刊社会面39頁「福岡・大牟田の4人殺害事件 A1さん宅、金庫消える K2容疑者の夫 貸金業の元手に借金」(読売新聞西部本社)</ref>。彼は東京都内でA1と知り合い、事件の約20年前に結婚、長男A2が誕生してから妻A1の出身地である大牟田に移住したが、次男A3が生まれた直後に妻子と別居し、1人で東京に戻っていた{{Efn2|A2は事件の約5年前から別居していた父親と電話やメールで連絡を取っていたが、約2年半前に「高校を辞めて東京に出たい」と言い出した際に諭されて以来、連絡は途絶えていた<ref name="読売新聞2004-09-27"/>。}}<ref name="読売新聞2004-09-27"/>。粟野仁雄 (2004) は、A1は夫と離婚してから大牟田市内を転々とし、事件の7年前(1995年ごろ)にJR大牟田駅近くに引っ越してきたと述べている<ref>{{Cite journal|和書|journal=読売ウイークリー|author=粟野仁雄|title=事件 福岡・大牟田4人殺し 45歳“姐さん”の日常とは|volume=63|page=25|editor=(編集長)川人献一|date=2004-10-10|issue=43|publisher=読売新聞東京本社}} - 通巻:第2940号(2004年10月10日号)。</ref>。 |
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Xは家族に行き先を告げずに自宅を出ていた一方<ref name="読売新聞2000-10-30"/>、自殺するような動機は見当たらなかったため<ref name="読売新聞2000-10-02"/><ref name="読売新聞2000-10-30"/><ref name="朝日新聞2000-10-30"/>、福岡県警が「現場に向かった経緯やクリークへの転落原因に不自然な点がある」として捜査を進めた結果<ref name="読売新聞2000-10-02"/><ref name="読売新聞2000-10-30"/>、「遺体発見の数日前には現場付近に複数人の男性がおり、そのうちの1人は死亡したX自身だった」ことが判明したため<ref name="読売新聞2000-10-02"/><ref name="朝日新聞2000-10-02"/>、県警は2000年10月1日から「Xは複数の男性と一緒か、グループから呼び出されて現場に行った後、現場で複数の男性と何らかのトラブルになりクリークに転落した」という線で関係者から事情聴取を開始した<ref name="読売新聞2000-10-02"/>。 |
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A1は[[福岡県知事一覧|県知事]]宛の貸金業者登録手続をしないまま、[[闇金融|無許可で貸金業]]を営んでおり<ref name="西日本新聞2004-09-29">『西日本新聞』2004年9月29日朝刊第19版第一社会面(事件・人・話題)39頁「大牟田・K2容疑者 金銭トラブルも背景? A1さんの取り立て代行 「不調、責められた」」「2人銃撃 自殺未遂の銃使用?」(西日本新聞社)</ref>、その貸金業は「[[トイチ]]」と呼ばれる違法な高金利であった<ref name="毎日新聞2004-09-29">『毎日新聞』2004年9月29日西部夕刊社会面7頁「福岡・大牟田の死体遺棄 A2さんとBさん殺害、K2容疑者が供述「息子が撃った」」([[毎日新聞西部本社]])</ref>。その元手について、A1は周囲に対し「大阪や東京のクラブで働いて貯めた」と話しており<ref name="毎日新聞2004-09-29"/>、服装や日ごろの言動から、裕福であることが周囲に知られていた<ref name="西日本新聞2004-10-27社会"/>。顧客については、資金繰りが苦しいスナックや小料理店に数十万円単位で金を貸していたとする報道<ref name="毎日新聞2004-09-29"/>、A1の身近な人々に主に数万円単位で金を貸していたとする報道がある一方<ref name="西日本新聞2004-09-29"/>、市内の「年金通り」と呼ばれる商店街をたむろする老人に強引に金を貸していたとする報道もある{{Sfn|週刊現代3|2004|p=205}}。また、鈴木智彦 (2017) は顧客としていたのは主婦たちで、中には売春をしている女性たちも多くいたと述べている{{Sfn|鈴木智彦|2017|p=72}}。高金利であることに加えて取り立ても苛烈で、利子を払えなくなった債務者のもとへ暴力団員風の男を連れたK2が取り立てに訪れたり、食事付きの条件で飲食店で働かされ、給料をすべて取られたりすることもあったという<ref name="毎日新聞2004-09-29"/>。また鈴木は、A1には当時[[沖縄県|沖縄]]在住の情夫がいたが、彼もヤクザで、ベンツにA1を乗せてあちこちでデートしていたという地元暴力団幹部の証言を紹介している{{Sfn|鈴木智彦|2017|pp=72-73}}。K4やK3はA1を「パトラ」という渾名で呼んでいたが{{Sfn|鈴木智彦|2017|p=53}}、これはA1が[[クレオパトラ7世|クレオパトラ]]のように派手な化粧をしていたことが由来である{{Sfn|鈴木智彦|2017|p=74}}。 |
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[[福岡県警察|福岡県警]][[少年犯罪|少年課]]・城島警察署(現:[[久留米警察署]]城島警部交番)は2000年10月30日に「大牟田市内の不良少年グループがXに集団リンチを加えた上でクリークに転落させ水死させた」としてグループに所属していた当時19歳の少年K3と高校2年生の少年2人・建設作業員など少年計6人{{Refnest|group="注"|K3以外の共犯5人はいずれも当時16歳・17歳<ref name="読売新聞2000-12-14"/>。}}を傷害致死容疑で逮捕した<ref name="読売新聞2000-10-30">『読売新聞』2000年10月30日西部夕刊第一社会面7面「クリーク少年水死 傷害致死容疑で少年6人を逮捕 福岡県警/福岡・城島町」</ref><ref name="朝日新聞2000-10-30">『朝日新聞』2000年10月30日夕刊第一社会面11面「6少年、傷害致死容疑で逮捕 福岡・城島町の少年水死事件 【西部】」</ref>。残る被疑者1人(大牟田市内在住・16歳少年)は行方が把握できなかったが同容疑で逮捕状を取り行方を追ったところ<ref name="読売新聞2000-10-30"/>、翌日(2000年10月31日)に城島署へ出頭して逮捕された<ref name="読売新聞2000-11-01">『読売新聞』2000年11月1日西部朝刊第一社会面35面「少年水死事件で7人目の逮捕者 16歳、城島署に出頭/福岡・城島町」</ref>。 |
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A2は生前、K4と共にバイクを乗り回したり、K4宅に出入りしたりしていたことから、K4と親しい関係と見られていた一方、内情を知っていた友人たちからは「〔A2はK4の〕使い走り」という証言もなされていた<ref name="西日本新聞2004-10-02社会">『西日本新聞』2004年10月2日朝刊第19版第一社会面(事件・人・話題)39頁「ニュースインサイド 大牟田4人殺害 K4容疑者とA2さん 力の差歴然 上下の関係 一方的暴力、青あざ 頻繁に電話呼び出し」(西日本新聞社 大牟田事件取材班)</ref>。A3は生前、夏休みに行われた高校の語学研修に積極的に参加したりボクシングの練習に励んだりしており<ref>『東京新聞』2004年9月23日朝刊社会面31頁「福岡・4人殺害供述 『容疑者、威圧的だった』 家族以外に複数住人」「『任意聴取で検査できず』 拳銃持ち込みで警察」「殺害された15歳 語学、ボクシング懸命に 17日から高校欠席 友人ら自宅前で涙」(中日新聞東京本社)</ref>、鈴木も現地取材の結果、A3については不良とは無縁の優しい子供という証言が多かったという旨を述べている{{Sfn|鈴木智彦|2017|p=38}}。 |
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K3らは取り調べに対しいずれも容疑を認めた上で「水路に背を向けていたXに木刀で殴り掛かったところ、Xが身をよじって避けようとして水路に落ちた。約1時間半にわたってXを探したが暗くて発見できなかった」と供述した<ref name="読売新聞2000-10-30"/>。[[福岡地方検察庁]]久留米支部は2000年11月20日にK3ら被疑者少年7人を傷害致死容疑で[[福岡家庭裁判所]]久留米支部へ送致し<ref name="読売新聞2000-11-21">『読売新聞』2000年11月21日西部朝刊第一社会面35面「福岡・城島町のクリーク水死事件 少年7人を傷害致死容疑で家裁送致」</ref><ref name="朝日新聞2000-11-21">『朝日新聞』2000年11月21日夕刊第二社会面8面「少年7人を家裁送致 地検久留米支部 城島町の少年水死 【西部】」</ref>、福岡家裁久留米支部は同日に2週間の[[観護措置]]を決定して被疑者少年7人を福岡[[少年鑑別所]](福岡市)へ収容した<ref name="読売新聞2000-11-21"/><ref name="朝日新聞2000-11-21"/>。 |
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== 事件の経緯 == |
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福岡家裁久留米支部(大原英雄裁判官)は2000年12月13日までに[[少年審判]]を行って非行事実を認定した上で<ref name="朝日新聞2000-12-14"/>、傷害致死容疑で送致された被疑者少年7人のうち主犯格のK3を「刑事処分相当」として福岡地検久留米支部に[[逆送致]]処分することを決定した{{Refnest|group="注"|一方で16歳・17歳の共犯被疑者少年計6人に対しては<ref name="読売新聞2000-12-14"/>非行の動機・様態・各被疑者少年の役割などを考慮した上で<ref name="朝日新聞2000-12-14"/>中等[[少年院]]送致処分の決定を出した<ref name="読売新聞2000-12-14"/><ref name="朝日新聞2000-12-14"/>。}}<ref name="読売新聞2000-12-14">『読売新聞』2000年12月14日西部朝刊第一社会面31面「クリーク水死事件 19歳を逆送致 ほか6人は少年院決定」</ref><ref name="朝日新聞2000-12-14">『朝日新聞』2000年12月14日朝刊第二社会面30面「城島町の水死事故で19歳少年を逆送致 6人、少年院へ 【西部】」</ref>。これを受け福岡地検久留米支部は2000年12月22日、逆送致からこの日までに20歳になった被疑者の男K3を傷害致死罪で[[福岡地方裁判所]]久留米支部へ[[起訴]]した<ref name="読売新聞2000-12-23">『読売新聞』2000年12月23日西部朝刊第一社会面35面「逆送致の作業員を起訴 クリーク水死事件/福岡・城島町」</ref>。 |
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=== 事件前の動向 === |
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K2は1994年(平成6年)に被害者A1と初めて顔を合わせた{{Sfn|小野一光|2007|p=134}}。翌1995年(平成7年)春、K2はA1から借金していた夫の知り合いから、A1との借金トラブルの仲裁を求められたことを機に、債権者であるA2と直接会い、依頼主(債務者)との間に立って折衷案を提案した{{Sfn|小野一光|2007|pp=134-35}}。その結果、依頼主がきちんと支払いを実行したため、A1はK2に感謝し、K一家に顔を出すようになった{{Sfn|小野一光|2007|p=135}}。福岡高裁 (2007) は、K2は1997年(平成9年)ごろからA1と親しくなったと[[事実認定|認定]]している{{Sfn|福岡高裁|2007|p=2}}。A2らの友人らの証言によれば、当初はA1とK2の個人同士の付き合いだったが、彼女たちの子供たち同士も自然と付き合うようになり、A2が家出した際には何日間かK2の家に預けられたこともあったという{{Sfn|週刊文春|2004|p=38}}。これ以降、K2はA1が行っていた高利貸しの取り立てを手伝うなどしていたが、K2が2000年(平成12年)ごろにA1から計300万円を借金して以降は{{Efn2|検察官の冒頭陳述によれば、K2がA1から300万円を借金した時期は1998年(平成10年)ごろ<ref name="西日本新聞冒頭陳述"/>。}}、A1から見下されたり、貸金の取り立てなどに使い回されるようになった{{Sfn|福岡高裁|2007|p=2}}。事件当時の報道によればK2はA1に対する借金返済が滞ったため、それを猶予してもらう代わりに他の債務者への取り立てを行うようになった<ref name="西日本新聞2004-09-29"/>。また、K1・K2・K4は返済が滞った相手から取り立てを行い、回収に成功すればA1から一定の手数料を受け取っていたとする報道もある<ref name="読売新聞2004-10-03"/>。K1は事件前に知人に対し、金貸しについて「2、3か月で元が取れる」「大きな金だと逃げられるけど、10万円くらいだと月1万円は儲かる」などと話していた一方、かつて一家が住んでいた家の近隣住民からは、貸金業の仲介で相手を脅迫するなどトラブルが絶えず、何度も警察沙汰になったことがあるとの証言もなされている<ref>『東京新聞』2004年9月25日夕刊社会面11頁「福岡の死体遺棄 夫婦で貸金業を仲介 K容疑者 被害者とトラブルか」(中日新聞東京本社)</ref>。 |
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また、K2は父親から引き継いで営んでいた建設業([[#妻K2|後述]])などによって家計を切り盛りするとともに、夫K1が組長を務めていた北村組の姐御的立場で組の会計もやり繰りしていたが{{Sfn|福岡高裁|2007|p=2}}、2000年ごろにK1が配下である組員の妻と不倫関係になり、彼女に執着したことから組の結束が揺らいだばかりか、その影響で組の屋台骨だった建設会社の経営も悪化した{{Sfn|小野一光|2007|p=135}}。そのような生活に耐えかねたK2から別れを切り出されたところ、それに逆上したK1はガソリンを室内に撒き散らすなどして暴れ、それが原因でK2は不眠症になった{{Sfn|小野一光|2007|p=135}}。K2は手記で、そのような状況でA1が自宅に平気で上がり込み、時には真夜中に呼び出されるようなこともあったと述べている{{Sfn|小野一光|2007|p=135}}。 |
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被告人K3は[[2001年]](平成13年)2月13日に福岡地裁久留米支部(大原英雄裁判長)で開かれた初公判にて起訴事実を全面的に認め<ref name="朝日新聞2001-02-14">『朝日新聞』2001年2月14日朝刊第一社会面39面「起訴事実を元少年認める 福岡の水死事件公判 【西部】」</ref>、2001年6月26日に同支部で開かれた[[判決 (日本法)|判決]]公判にて懲役3年6月(求刑:懲役5年)の実刑判決を受けた{{Refnest|group="注"|福岡地裁久留米支部は[[判決理由]]で犯罪事実・[[量刑]]理由に関して「無抵抗で逃げ惑う被害者Xを追いかけ、その前途ある命を奪った容赦ない悪質な犯行だ。犯行後も共犯の少年らと口裏合わせをしており、情状は良くない」「前途ある命を奪った悪質な犯行だ。主犯であるにも拘らず被害者遺族に対し慰謝の措置もしていない」と述べた<ref name="読売新聞2001-06-27"/><ref name="朝日新聞2001-06-27"/>。}}<ref name="読売新聞2001-06-27">『読売新聞』2001年6月27日西部朝刊第一社会面31面「少年暴行水死に懲役3年6月 地裁久留米支部判決 /福岡」</ref><ref name="朝日新聞2001-06-27">『朝日新聞』2001年6月27日朝刊第一社会面35面「当時19歳に実刑の判決 福岡・城島町の少年水死事件 【西部】」</ref>。 |
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==== K2とA1の確執 ==== |
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後述のようにK1一家にとって苦しい経済状況が続いていた中、K1は2004年6月15日に大牟田市神田町で[[車上狙い]]事件を起こし、[[窃盗罪|窃盗]]未遂容疑で現行犯逮捕された<ref>『有明新報』平成16年(2004年)6月16日号9頁「大牟田署 窃盗未遂の男逮捕」(有明新報社)</ref>。犯行動機は小遣い銭欲しさで<ref name="読売新聞冒頭陳述">『読売新聞』2005年3月16日西部朝刊第三社会面37頁「大牟田連続殺人・死体遺棄 検察側冒頭陳述(要旨)」(読売新聞西部本社)</ref>、組の上部団体からは「恥さらしだ」としてK1の破門を求める声も上がっていたが、親分の1人が「歳も歳だから勘弁してやってくれ」と仲裁して収まった{{Sfn|深笛義也|2013|p=166}}。同月下旬、K2はA1宅の改装工事{{Efn2|外壁の塗り直し工事<ref name="西日本新聞2004-09-28夕刊">『西日本新聞』2004年9月28日夕刊第10版第一社会面9頁「大牟田・4人殺害 逮捕から1週間 K2容疑者 謎の日常 にこやかに昼の顔 怒声響かせ夜の顔」(西日本新聞社)</ref>。この工事にはK3・K4も作業員として携わっていた<ref name="西日本新聞2004-10-03"/>。K3は逮捕前、『西日本新聞』の取材に対し、同年8月にA1宅の壁の塗替え作業を行ったと証言している<ref name="西日本新聞2004-10-23"/>。}}を請け負ったが、A1は工事代金を貸金やその利息と相殺すると言って支払おうとしなかった{{Efn2|K2は公判で、A1宅の改装工事を約200万円で請け負い、その支払いを度々請求したものの、約49万円しか支払ってもらえなかったと証言している<ref name="毎日新聞2005-04-27"/>。}}<ref name="読売新聞冒頭陳述"/>。また、A1はK2に対して前述のK1が起こした車上荒らし事件を引き合いに出して嫌味を言ったり、借金の利子支払いが滞っていることを詰ったりして、K2から「ちょっと過ぎたぐらいでガタガタ言うな!」と怒鳴り返されたこともあった{{Sfn|深笛義也|2013|p=166}}。K2は小野一光宛の手記で、A1からK1の車上荒らし事件を引き合いに「ヤクザの組長が窃盗事件を起こすなんて」と言われてバカにされたと思い、我慢の限界を迎えたと述べている{{Sfn|小野一光|2007|p=136}}。一方でK2がA1から支払われていた取り立て成功時の手数料に満足せず、複数の債務者から回収した金(数万円から十数万円)を着服していたことが同年9月上旬になってA1に露見し、K2とA1が口論になったという報道もある<ref name="読売新聞2004-10-03"/>。 |
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K1・K2夫妻の次男<ref name="全員死刑 p.11">{{Harvtxt|鈴木智彦|2017|p=11}}</ref>、事件当時20歳<ref name="全員死刑 p.11"/>。[[1984年]](昭和59年)6月9日<ref name="全員死刑 p.18"/><ref name="死刑囚90人"/>、福岡県大牟田市内でK1・K2夫妻の長男(K2の第4子)として生まれた<ref name="全員死刑 p.18">{{Harvtxt|鈴木智彦|2017|p=18}}</ref>。K1・K2夫妻が再婚してから最初に生まれた実子で<ref name="読売新聞2004-09-26 東京朝刊"/>、兄K3とは異父兄弟関係である<ref name="毎日新聞2004-10-03"/>。両親との間にはさらに三男(年子の弟)がいた<ref name="週刊新潮2004-10-07"/>。 |
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また、A1はK2に対し常々「1億2億は右から左」と豪語しており、同年7月ごろには「資本金1億円の金融会社を設立する」などと言っていた<ref name="西日本新聞冒頭陳述"/>。K2から後者の話を伝えられたK3は、新居購入費用などが欲しかったことや、先述の工事代金がA1側から支払われていなかったことを知ったことから、同年8月ごろに「かたぎのくせにヤクザを馬鹿にしている。殺してでも奪おう」と考え、A1を車で付け狙った<ref name="読売新聞冒頭陳述"/>。同様の話をK2から伝えられたK1も同年9月8日、A1を殺害しようとしてK2らに止められた<ref name="読売新聞冒頭陳述"/>。この時、K2はK4にK1を制止するよう要請しており、K4はA1宅に乗り込もうとしていたK1を制止している{{Sfn|集刑304号|2012|p=322}}。 |
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[[2019年]](令和元年)10月1日時点で<ref name="年報・死刑廃止2019 p.275"/>K4は母K2とともに死刑囚として福岡拘置所へ収監されている<ref name="年報・死刑廃止2019 p.269"/>。なお[[2012年]](平成24年)9月27日時点で{{Sfn|年報・死刑廃止|2012|p=241}}、姓は元の「K」(イニシャル)から「I」に変わっている{{Sfn|年報・死刑廃止|2012|p=237}}<ref name="年報・死刑廃止2017">{{Harvtxt|年報・死刑廃止|2017|pp=199-200}}</ref>。 |
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一方でK2はその金融会社の設立話から、A1が大金を持っていると思い<ref name="毎日新聞2005-03-16社会"/>、同月以降にはA1に「K1の紹介で安く買える土地がある」と持ち掛け<ref name="西日本新聞冒頭陳述"/>、自宅の近隣の土地を購入するよう勧めている<ref name="毎日新聞2005-03-16社会">『毎日新聞』2005年3月16日西部朝刊社会面27頁「福岡・大牟田の4人殺害:K3・K4両被告、親出し抜き殺害 場当たり凶行明白に」【記者:木下武、清水健二】「K2被告は謝罪」【岸達也】(毎日新聞西部本社)</ref>。 |
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すべての被害者に対する殺害行為の実行役で、自身でも「甘えた我がまま性」「完全な悪」<ref name="全員死刑 p.19">{{Harvtxt|鈴木智彦|2017|p=19}}</ref>と形容するほどの残忍・粗暴さを持つ反面、「カタギを標的にした犯行」としてK1ら親兄弟が上部団体から事実上絶縁される中、犯行の詳細を書いた手記を発表しK1らの拘置所内における生活費を分け与えるという「家族思い」といえる一面もあった<ref name="全員死刑 p.194">{{Harvtxt|鈴木智彦|2017|p=194}}</ref>。 |
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==== K1一家の困窮 ==== |
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2003年ごろからは北村組と建設会社の両方とも、資金繰りが苦しくなっていた{{Sfn|福岡高裁|2007|p=2}}。建設会社は受注先が限られて給与支払いにも窮するような経営状態に陥り<ref name="西日本新聞2004-09-29"/>、同年には事務所を閉鎖している<ref>『朝日新聞』2004年9月23日西部朝刊第一社会面31頁「消えた3人どこへ 容疑者、4人殺害供述 福岡・大牟田【西部】」(朝日新聞西部本社)</ref>。これと同時に、K1一家は次第に日々の生活にも困窮するようになり、2004年9月ごろにはK1・K2夫婦の借金は計6,000万円以上{{Efn2|検察官の冒頭陳述によれば約6,600万円<ref name="西日本新聞冒頭陳述"/>。}}にまで膨れ上がった{{Sfn|福岡高裁|2007|p=2}}。検察官の冒頭陳述によれば当時、夫婦に建設業の収入はほとんどなく、上部団体への上納金や生活費に困っていた状態で<ref name="西日本新聞冒頭陳述">『西日本新聞』2005年3月16日朝刊第三社会面37頁「大牟田事件 冒頭陳述要旨」(西日本新聞社)</ref>、同月上旬には「借金苦で失踪した」という噂も流れていた<ref name="西日本新聞2004-09-23社会"/>。また、事件当時は月末に電気料金の集金人が何度もK1宅に督促に来ていたことが報じられている<ref name="読売新聞2004-10-03"/><ref name="読売新聞2004-10-08夕刊">『読売新聞』2004年10月8日西部夕刊社会面11頁「福岡・大牟田の4人殺害 「やれることやった」 K1容疑者、独り言」(読売新聞西部本社)</ref>。しかし上告審でK1の弁護人を担当した中井淳は上告趣意書で、K2はA1や彼女の母親{{Efn2|K2は公判で、A1の母親から2,300万円を借金していたことを明かしている<ref>『有明新報』平成17年(2005年)11月16日付7頁「諏訪川の4人殺害事件 K2被告への質問始まる 事件当時の家計状況など問う」(有明新報社)</ref>。}}、知人から借金していたものの、これらの知人から激しく返済を迫られていたような形跡が一切ないことや、消費者金融などからの借金もほとんど償却済みであり、激しい取り立てを受けていた形跡もないこと、K3・K2の公判における証言(K1は魚の仕入れ販売などで年収4,500万円を稼いでおり、建設業でも相応の収入を得ていたという主旨)を挙げ、K1が強盗目的で犯行におよんだとする確定判決の認定に疑問を呈している{{Sfn|集刑304号|2012|p=361}}。また、夫婦は金にルーズで、K1は[[荒尾競馬場]]に、K2もパチンコ店にそれぞれ通っていたという証言もある{{Sfn|女性自身|2004|p=180}}。 |
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K4は[[大牟田市立米生中学校]]在学時以来、「何かをやらかしそうな手を付けられないレベルの不良。ろくに字も読めず、学力は小学校1,2年生レベル」として悪名を轟かせており、授業妨害・居眠り・テストの棄権などを日常茶飯事に行い教師らに反抗することも多かった<ref name="週刊文春2004-10-07"/>。中学時代は1歳年下の弟も在学していたことから体育祭には両親K1・K2が組の若衆4,5人とともに「一番いい場所」に陣取っていたが、K4は普段から体育の授業にも出ていなかったため、体育祭にも出ていなかった<ref name="週刊文春2004-10-07"/>。 |
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なお、事件前の8月6日夕方には遺体遺棄現場付近の諏訪川沿いの土手で、K2が経営していた建設会社の作業員が運転する車が対向車と接触する事故を起こしていた<ref name="西日本新聞2004-09-27夕刊"/>。当時助手席に乗っていたK2は、車から身を乗り出して相手に抗議したが、その最中に車が傾いてK2は川に転落した<ref name="西日本新聞2004-09-27夕刊"/>。この時はK4らが駆けつけてK2を助け、救急車で病院に搬送している<ref name="西日本新聞2004-09-27夕刊"/>。この事故直後、車を引き取りに来たK1が運転を誤って車ごと川に転落させているが、その現場はA1らの遺体が乗った車が引き上げられた地点とほぼ同一地点だった<ref name="朝日新聞2004-10-14夕刊">『朝日新聞』2004年10月14日西部夕刊第一社会面9頁「「人入れても分からぬ」 大牟田事件のK2容疑者【西部】」(朝日新聞西部本社)</ref>。事故翌日にK4ら家族が重機などを使って車を引き揚げたが<ref name="西日本新聞2004-09-27夕刊">『西日本新聞』2004年9月27日夕刊第10版第一社会面13頁「大牟田・4人殺害 8月K2容疑者 現場の川で転落事故 深さ知り遺体遺棄?」(西日本新聞社)</ref>、K2はその様子を目撃したA3の親族に対し、川の中に車やゴミが多数投棄されていることや「人を入れても分からないだろう」ということを話していたという<ref name="朝日新聞2004-10-14夕刊"/>。実際、後にA1ら3人の遺体を載せた車が沈められていた現場付近には不法投棄されたと見られる複数の車が沈んでおり、A1の車は目立たない状態だった<ref name="日本経済新聞2004-09-25"/>。それらの経緯から、K2らはこの事故をきっかけにこの場所の状況を知り、遺棄現場として選んだと見られている<ref name="西日本新聞2004-09-27夕刊"/><ref name="朝日新聞2004-10-14夕刊"/>。また、この事故の際、K3はK2を救出するときに眼鏡を紛失しており、事件当時は眼鏡を掛けていない状況で深夜運転せざるを得なかったため、上告審でK3の弁護人を務めた小松初男・今村憲は上告趣意書で、スピードを出しての運転は困難な状況だったと指摘している{{Sfn|集刑304号|2012|p=410}}。 |
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被害者Bが高校1年生の頃に一時不登校になった際、約1カ月間にわたりK2宅に預けられたことがあったが、知人は『[[読売新聞]]』の取材に「BはK4と年齢が近かったので、この時期に親しくなったのだろう」と証言した<ref name="読売新聞2004-09-26 西部朝刊"/><ref name="読売新聞2004-09-26 東京朝刊"/>。しかし被害者Bの友人は『[[週刊文春]]』([[文藝春秋社]])の取材に対し「BとK4は「親しい間柄」とはとても言えず、実際はBが不良グループの下っ端としてK3・K4兄弟の使い走りにされていただけで、BはK3・K4から[[いじめ]]を受けて泣くこともあった」と証言した<ref name="週刊文春2004-10-07"/>。 |
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=== A1殺害計画 === |
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後述のように一時は[[大相撲]]に挑戦したが、1年半で引退して17歳で地元・大牟田市に戻った<ref name="読売新聞2004-09-26 東京朝刊"/>。 |
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K2は2004年9月9日、桜町の自宅でK1に対し{{Sfn|集刑304号|2012|p=384}}、借金の現状・組の資金繰りの実情などを打ち明けたところ、A1を殺して彼女の金を奪うことをK1から提案された{{Sfn|福岡高裁|2007|pp=2-3}}。これに対し、K2も生活難・資金難から脱し、A1からの借金も免れられるだけでなく、かねてから彼女に対し抱いていた憤懣も一気に解消できると考え、その提案に賛同した{{Sfn|福岡高裁|2007|p=3}}。そして、彼ら夫婦は以前A1に持ちかけていたK1宅の隣地の購入話を利用して{{Sfn|福岡高裁|2007|p=3}}、A1に土地購入資金として現金を用意させた上で、K2がA1を夜には人気がない大牟田市内の三池公園({{ウィキ座標|33.05056922407953|||N|130.48811493887303|||E||座標}})上の大間山(八角目:{{ウィキ座標|33.0485927297134|||N|130.4936660988087|||E||座標}}){{Efn2|大間山({{ウィキ座標|33.0485927297134|||N|130.4936660988087|||E||座標}})は、大牟田市東部(熊本県玉名郡南関町との県境付近)に位置する標高225 mの山で、その南東には「八角目峠」という峠({{ウィキ座標|33.04637406093222|||N|130.4969008003122|||E||座標}})がある<ref>{{Cite web |url=https://maps.gsi.go.jp/#15/33.0485927297134/130.4936660988087/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1 |title=地理院地図 GSI Maps |access-date=2023-06-02 |publisher=[[国土交通省]] |year=2023 |website=[[国土地理院]] |language=ja}}</ref>。三池公園(大牟田市大字三池1209-1:{{ウィキ座標|33.05056922407953|||N|130.48811493887303|||E||座標}})は、大間山とその登山道路、そして標高50 m地点にある広場からなる公園である<ref>{{Cite web |url=https://www.sekoia.org/100slctn/13.html |title=おおむたの宝もの100選|自然・風景| vol.13 三池公園 |access-date=2023-06-02 |publisher=大牟田観光協会 |website=大牟田市観光情報サイト おおむたnavi |quote=大牟田市大字三池1209-1 |language=ja |archive-url=https://web.archive.org/web/20230602150205/https://www.sekoia.org/100slctn/13.html |archive-date=2023-06-02 |url-status=live}}</ref>。}}に連れて行って殺害し{{Sfn|集刑304号|2012|p=384}}、その死体を普段彼女が使用していた[[スズキ・ワゴンR|ワゴンR]]に積み込み、車ごと諏訪川に遺棄する計画を練った{{Sfn|福岡高裁|2007|p=3}}。 |
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その後、K2はA1から土地代金などとして、同月15日ごろまでに計2,680万円{{Efn2|地代2,600万円と改装工事代80万円<ref name="西日本新聞冒頭陳述"/>。}}を用意できると聞き、K1との間で同月16日にはA1殺害を決行する旨の謀議を固めた上で、K3にもその計画を伝えた{{Sfn|福岡高裁|2007|p=3}}。K3はそれ以前からある程度、北村組や一家の財政事情、そしてK2とA1との確執を知っていたことに加え、自らも将来の夢を実現するためにまとまった金が欲しいと考えていたため、両親の計画に加担することを決めた{{Sfn|福岡高裁|2007|p=3}}。この時、K3は「自分が殺すから(奪った金の)6割欲しい」と要求したが、K2は「自分が殺す」と譲らず、K3も最終的には了承している<ref name="毎日新聞2005-03-16社会"/>。しかしK2の控訴趣意書によれば、A1の「多額の現金を用意した」という言動などは虚勢を張ったものと認定されている{{Sfn|福岡高裁|2007|p=14}}。また、上告審でK2の弁護人を務めた鈴木敏彦の上告趣意書によれば、K2は「A1がリフォーム代だけでも支払ってくれたら、K1およびK3のA1に対する強盗殺人の計画が中止になるのではないか」と考えてA1にリフォーム代を請求したり、A1殺害が決まった9月16日にもK1・K3を納得させるため、約100万円の金策をしようと知人に当たったりしていた{{Sfn|集刑304号|2012|p=256}}。 |
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大牟田に帰郷してからは17歳で実家に帰り母K2の建設会社で建設作業員として働いたが、首・腰を痛めたことや、17歳になったためにオートバイの運転免許を取得しようと仕事を辞めた<ref name="全員死刑 p.21"/>。 |
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同月15日、K2はA1から現金の用意ができたことを伝えられ、K1にもその旨を報告した{{Sfn|福岡高裁|2007|p=3}}。これを受けてK1は翌16日に決行することを指示し、K3も了承した<ref name="読売新聞冒頭陳述"/>。そして16日、K2は凶器としてカッターナイフを携帯した上で{{Sfn|福岡高裁|2007|p=3}}、三池公園前で{{Sfn|小野一光3|2007|p=54}}ワゴンRを運転して来たA1と待ち合わせ、彼女を自分が運転していた自動車の助手席に乗り移らせて殺害の機会を窺った{{Sfn|福岡高裁|2007|p=3}}。しかし夜遅くなっても殺害には踏み切れず、その途中でK1やK3からそれぞれアイスピックや万能包丁を示されたりして急かされていた{{Sfn|福岡高裁|2007|p=3}}。一方で同日22時、K2は車で近くまで来たK3に対し「金は家にあるくさ」と言っている<ref name="判決要旨"/>。 |
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その後、被害者Bらとともに[[暴走族]]「族・神鬼狼」を結成し、ともに[[愚連隊]]のように過ごしていた<ref name="全員死刑 p.21"/>。近隣住民からは「暴力団とのつながりが深く暴走族・不良少年グループのリーダー格」と映っていたK4は<ref name="読売新聞2004-09-26 西部朝刊"/><ref name="読売新聞2004-09-26 東京朝刊"/>、仲間たちを率いて暴走行為・窃盗・薬物乱用・輪姦などの犯罪行為を繰り返しており、被害者B・Dと親しいグループにいた少女が事件の約1年前K3・K4兄弟周辺のグループに輪姦された事件がきっかけで、B・C・D各被害者の近しいグループとは対立関係になっていた<ref name="週刊新潮2004-10-07"/>{{Refnest|group="注"|K4によれば激しい内部抗争ゆえ、最終的にB・C・Dらと和解するために双方のグループを解散させることにしたという<ref name="全員死刑 p.123">{{Harvtxt|鈴木智彦|2017|p=123}}</ref>。}}。 |
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=== K3・K4がA3を殺害 === |
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しかし、「いつまでたっても地に足がつかない」状態だったために本人曰く「気持ちを切り替えようと」、父K1の北村組に入ることにし、組の準構成員となった<ref name="全員死刑 p.21"/>。しかしその後も「わがままな性格・遊び癖が抜けずに中途半端な状態」だったため、堪忍袋の緒が切れた父K1から他組織の幹部(K1の兄弟分の暴力団組長)に部屋住みとして預けられた<ref name="全員死刑 p.22">{{Harvtxt|鈴木智彦|2017|p=22}}</ref>。 |
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母K2のこのような煮え切らない態度に憤慨したK3は、両親を出し抜いて自分だけでA1の現金を手に入れようと考え、猪突猛進型の性格で実行力のある弟K4を犯行に引き込むことを決めた{{Sfn|福岡高裁|2007|p=4}}。K4は事件当時、K3とよく行動をともにしており、K3宅に度々泊めてもらっていた{{Sfn|鈴木智彦|2017|p=31}}。 |
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福岡高裁 (2007) によれば同日(9月16日)夜、K3は両親には内緒でK4に対し、A1宅に1人でいる次男A3を殺害し、A1宅にあると思われる2,000万円以上の現金を奪うことを持ち掛けたが、K4は即答しなかった{{Sfn|福岡高裁|2007|p=4}}。一方、K4は鈴木智彦宛に送った手記で、K3は同日朝、当時同居していた内妻を実家(福岡県[[大川市]])に帰し、K4と彼の交際相手である女性の2人を、力士時代の先輩でもある組員([[#出所後|後述]]:組員としては彼よりK4の方がわずかに兄貴分)が入院していた病院まで見舞いに行かせたと述べている{{Sfn|鈴木智彦|2017|pp=30-31}}。その後、22時になってK3はK4たちと落ち合い、2人を車に乗せたが、しばらくしてK3はコンビニエンスストアの駐車場に入り、女性を車から降ろさせた上で、K4にA3を殺して2,000万円を奪う計画に加担するよう要求した{{Sfn|鈴木智彦|2017|p=32}}。同時にこの件は両親には内緒にするよう念押ししたほか、断った場合には一番下の弟(2015年に自殺したK1・K2夫婦の三男)や交際相手の女性を殺すなどと脅迫した{{Sfn|鈴木智彦|2017|p=32}}。K4は弟や彼女を出しに脅されたことに反感を抱いたものの、彼らを守る意味で承諾したと述べている{{Sfn|鈴木智彦|2017|p=32}}。鈴木は、この時点ではまだ犯行を目撃したわけではないA3を殺害する必然性がなかったことを指摘した上で、K3はこの時点で既にA1一家全員を皆殺しにするつもりでいたという可能性や、K4の気質(猪突猛進型で虚栄心が強い)を十分に理解していたK3が、K4にA3を殺害させることで彼を勢いづかせ、殺人マシーンに仕立て上げようとしていたという可能性を指摘している{{Sfn|鈴木智彦|2010|pp=53-54}}。 |
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部屋住みになってから約1年後には母体の北村組に戻り、[[2002年]](平成14年)ごろには18歳の若さで北村組及び上部組織の本部当直、総長宅の本家当直を務めるようになった<ref name="全員死刑 p.22"/>。その当時は、愚連隊時代に始めていた女子中高生の売春チームとともに、組織内では「ご法度」とされていた[[覚醒剤]]など違法薬物全般の密売買を取り扱うシノギを父K1には内緒でしており{{Refnest|group="注"|K4によれば父K1は薬物売買に人一倍厳しく、それ以前にも「前にもばれて何度かもめ、銃や刃物沙汰にまでなった」という<ref name="全員死刑 p.22"/>。}}、それ以外にも表向きのシノギとして賭博・中古車販売・違法売買などをしてはいたが、「ご法度」とされていた薬物売買の方が儲かったという<ref name="全員死刑 p.22"/>。 |
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K4は同日22時30分ごろ、K3所有の[[日産・プレジデント|プレジデント]]に同乗してA1宅の様子を見に行き、A3が1人で在宅していることを確認した上で、その旨をK3に報告した{{Sfn|福岡高裁|2007|p=4}}。するとK3から「さっさと殺してこんか」などと指示されたため、K4はその場でA3を殺害することを決意し、22時40分ごろには殺意を持って、同宅2階居間の机でノートパソコンに向かっていたA3の首を、背後からタオルで絞めた{{Sfn|福岡高裁|2007|p=4}}。A3が失神して動かなくなると、K4はさらに彼の首をタオルで絞め、仮死状態に陥らせている{{Sfn|福岡高裁|2007|p=4}}。なお、K4は公判で、兄K3からA3の殺害を持ち掛けられた際に「オレが〔A3〕を外に連れ出すけん、兄ちゃんは金庫を持ち出したらよかろう」と抵抗したが、K3から「殺すしかなかろう」と却下されたことを主張しており、また事件は100%発覚すると思っていたことや、K3からは逮捕時に「おれの名前を出さずに1人でやったと言え」と言われたということも主張している<ref>『毎日新聞』2005年8月24日西部朝刊社会面24頁「福岡・大牟田の4人殺害:二男が長男の関与を証言「1人でやったと言え」」(毎日新聞西部本社【福岡静哉】)</ref>。また、鈴木宛の手記では、この時に[[快楽殺人|殺人行為そのものに快感やスリルを感じていた]]という旨を述べている{{Sfn|鈴木智彦|2017|pp=35-36}}。 |
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しかしこの頃、「初めて心から惚れて愛した女性」ができたことから一時は暴力団から足を洗い、その女性と真面目で一般的な暮らしをしようとしていたが、関係者のところから福岡県警の家宅捜索で覚醒剤・[[大麻]]が見つかったため、「ジギリ出頭」(組織のために自らを切る=犠牲になること)として身代わりになることになった<ref name="全員死刑 p.23">{{Harvtxt|鈴木智彦|2017|p=23}}</ref>。 |
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その後、K3はK4とともに1階寝室内から指輪などが入った金庫を捜し出し、同宅付近に駐車していたプレジデントの後部座席に積み込むとともに、仮死状態になっていたA3を同車のトランク内に押し込んだ{{Sfn|福岡高裁|2007|p=4}}。金庫の中身は指輪など61点(約398万円相当)だったが<ref name="毎日新聞判決要旨"/>、K4はこの時、A1が用意したとしていた2,000万円の現金はA1宅にはないことを確認していた{{Sfn|集刑304号|2012|p=363}}。当時、2人はA3は既に死亡したものと思っており、その死体を遺棄しようとしていた<ref name="毎日新聞判決要旨"/>。その後、K3は助手席にK4を乗せてプレジデントを運転していたが{{Sfn|福岡高裁|2007|p=4}}、大牟田市内を走行中{{Efn2|K4の手記によれば、大牟田駅前の[[国道208号]]に入ったころ{{Sfn|鈴木智彦|2017|p=41}}。}}<ref name="毎日新聞判決要旨"/>、トランク内のA3が意識を取り戻し、悲鳴を上げて暴れ出した{{Sfn|福岡高裁|2007|p=4}}。そのためA3がまだ生きていることを知った2人は<ref name="毎日新聞判決要旨"/>、A3を確実に殺害して諏訪川に捨てることにし{{Sfn|福岡高裁|2007|p=4}}、カーステレオの音量を大きくして車の窓を開け、自宅に立ち寄ってコンクリートブロック3個(総重量約15 kg)とロープ1束を持ち出した{{Sfn|中尾幸司2|2008|p=147}}。K4は手記で、A3をどうするか相談した際、自身は「しばらくどこかに監禁して、俺らのことを歌わん{{Efn2|「歌う」=警察に通報する、の意味{{Sfn|鈴木智彦|2017|p=42}}。}}ように言い聞かせて解放してやろう」と提案したが、傷害致死で服役した前科([[#傷害致死前科|後述]])を有するK3が犯行の発覚を恐れて殺害を強硬に主張したと述べている{{Sfn|鈴木智彦|2017|pp=41-42}}。その上で、K3の態度に「快感というよりも、多少の気味悪さ」を感じたものの、最終的には自身もA3殺害を決意したと述べている{{Sfn|鈴木智彦|2017|p=42}}。 |
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その直前には「出頭前に一暴れしてやろう」と不良仲間らとともに一夜のうちに大牟田市近辺の[[交番]]など49軒を襲撃し、自転車の通行人を[[ひき逃げ]]するなどの犯罪行為を繰り返した<ref name="全員死刑 p.24"/>。結果、18歳から19歳になる直前、即ち[[2003年]](平成15年)春ごろに相次いで逮捕され、[[大牟田警察署]]・[[柳川警察署]]の[[留置場]]への勾留、[[少年鑑別所]]への2度の収容を経て、事件4カ月前の2004年5月6日に出所するまでの約1年半にわたり大分少年院([[大分県]][[豊後大野市]])に送致されていた<ref name="全員死刑 p.24">{{Harvtxt|鈴木智彦|2017|p=24}}</ref>。この逮捕後に交際相手の女性と別れて以来、少年鑑別所では窓ガラスを叩き割ったり職員をガラスの破片で切りつけるなど、手の付けられないほどの暴力行為が目立ったため常に単独室で処遇されていた<ref name="全員死刑 p.24"/>。 |
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同日23時45分ごろ<ref name="毎日新聞判決要旨"/>、2人は諏訪川に架かる「馬沖橋」{{Efn2|name="馬沖橋"}}の中央付近([[#3人の遺体を遺棄|後述]])で{{Sfn|鈴木智彦|2017|p=42}}、プレジデントを駐車してトランクを開けた{{Sfn|福岡高裁|2007|p=4}}。上半身を起こしてきたA3の顔面を<ref name="毎日新聞判決要旨"/>、K4が1回殴打するとともに、K3が仰向けに倒れたA3の首に素早くロープを掛け、2人がかりでそのロープを強く絞めた{{Sfn|福岡高裁|2007|pp=4-5}}。A3が動かなくなると{{Sfn|福岡高裁|2007|p=5}}、2人はA3の首からロープを外し、それを3本に切断した<ref name="毎日新聞判決要旨"/>。そして、A3の首と両足にロープでコンクリートブロックを1個ずつ結びつけ、同月17日0時ごろ、橋の上からA3を諏訪川に投げ込んで殺害した{{Sfn|福岡高裁|2007|p=5}}。K4は首を絞めてから2、3分でA3の死亡を確信した旨を述べているが{{Sfn|鈴木智彦|2017|pp=44-45}}、捜査の結果、A3は川に投げ込まれた後に死亡したとされており<ref name="西日本新聞2004-12-28"/>、死因は頸部圧迫による窒息もしくは溺死、あるいはそれらの両方とされている{{Sfn|福岡高裁|2007|p=5}}。また、事件後にはA3の遺体は胸部の肋骨が数本折れており、内臓が破裂していたとも報じられていたが<ref>『西日本新聞』2004年10月1日朝刊第19版第一社会面(事件・人・話題)39頁「大牟田事件 A3さんリンチし殺害か 遺体の内臓破裂 A1さん 体内から睡眠薬」(西日本新聞社)</ref>、[[司法解剖]]の結果、そのような事実はなかったことが確認されている<ref name="西日本新聞2004-10-08社会">『西日本新聞』2004年10月8日朝刊第19版第一社会面(事件・人・話題)37頁「大牟田・4人殺害事件 凶行 家族ぐるみか 県警 「一家4人土俵に」 動機、実行犯詰めへ」「K1容疑者 住民威圧…組では不興」(西日本新聞社)</ref>。後にA3の遺体が発見された地点は、「馬沖橋」から約10 [[メートル|m]]下流の諏訪川で<ref name="有明新報2004-09-23"/><ref name="読売新聞2004-09-22"/>、川幅は約50 m、水深は約7 mだった<ref>『日本経済新聞』2004年9月22日西部夕刊社会面20頁「川に少年遺体 女を逮捕 遺棄容疑 夫、聴取中に自殺図る 遺体複数の情報も 大牟田」(日本経済新聞西部本社)</ref>。K4はA3を川に遺棄した後、両手を合わせているが、本人は公判でその理由について「憎くて殺したというわけではないこと、冥福を祈る気持ちがあったことから」であると述べている{{Sfn|集刑304号|2012|p=311}}。 |
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少年院を出院後、年下の若い女性と交際するようになったK4は先に刑務所を出所した兄K3の家で共に暮らしていることが多く、事件前まで「シノギ3:遊び7」の生活を送っていた<ref name="全員死刑 p.25">{{Harvtxt|鈴木智彦|2017|p=25}}</ref>。 |
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=== 一家4人で共謀 === |
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一方、K2は自分が運転する車内でA1と2人きりになって殺害の機会を窺っていたが、依然としてためらって実行できず、同日(9月17日)4時ごろになってK1からいったん殺害計画を中止するが、A1を帰宅させずに桜町の自宅へ連れ帰るよう指示された{{Sfn|福岡高裁|2007|p=5}}。 |
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近所の男性店員は『読売新聞』の取材に対し、K4の人柄について「とにかく態度が横柄で、買い物に来ても何かと注文を付けるから関わり合いになりたくなかった」と証言した<ref name="読売新聞2004-09-26 西部朝刊"/>。 |
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しかし6時ごろ、A1が次男A3を起こそうと彼の携帯電話に電話をかけたところ、長男A2が応答し、A3がいなくなったことを知る{{Sfn|福岡高裁|2007|p=5}}。これを受け、A1はA3が家出したものだと思い込み、K2に対し、A2にA3を捜させるため、自分が乗ってきたワゴンRを自宅に持ち帰ってA2に渡したいと言い出した{{Sfn|福岡高裁|2007|p=5}}。K2らはA1を殺害した後、死体をワゴンRに載せて車ごと諏訪川に遺棄する計画を立てていた([[#A1殺害計画|前述]])ため、A1がA2にワゴンRを渡すのは困ると考えたが、それをA1本人には言えず、仕方なくA1とそれぞれの使用している自家用車を運転してA1宅に行った{{Sfn|福岡高裁|2007|p=5}}。その後、A1はA2に対し、A3を捜すように言ってワゴンRを渡し、K2運転の車に戻ってきた{{Sfn|福岡高裁|2007|p=5}}。K2はそのまま自分の車を運転してA1を自宅に連れて帰ったが、そこにいたK1から、A1をアパートの北村組事務所へ連れていき、できるだけ外出させないよう指示されたため、その指示に従ってA1を組事務所に連れて行った{{Sfn|福岡高裁|2007|pp=5-6}}。K2はその後も「A1の金は欲しいが、やはり自分の手では殺せない」と思い悩んだ末、14時ごろにはK3に対し、「もうどげんもしきらんばい」「お願い、お母さんば助けて」などと電話して手助けを求めた{{Sfn|福岡高裁|2007|p=6}}。一方、このことはK4には内緒にするようにも言っている{{Sfn|福岡高裁|2007|p=6}}。 |
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その一方で、K4を幼少期から知っていた近隣住民の男性は『読売新聞』の取材に対し「K4は相撲を辞めてからすぐに暴力団の世界に入ったらしい。暴力団の組事務所では電話番をしていると聞いた」と証言した一方で「母K2が逮捕された後、自分に『おじちゃん、迷惑かけてごめんな』と頭を下げてきた」とも語った<ref name="読売新聞2004-09-26 西部朝刊"/>。 |
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このころ、K3はK4とともにA1宅から奪った金庫をこじ開け、中身の貴金属を換金するために質屋を回っていたが、K2からの電話を受けると彼女の意に反し、実行力のあるK4にもその計画を手伝わせようと事情を話した{{Sfn|福岡高裁|2007|p=6}}。K4もそれを了承した上で、2人でA1殺害のためには睡眠薬で眠らせるのが良いと相談した{{Sfn|福岡高裁|2007|p=6}}。K3がK2に電話で、A1に睡眠薬入りの食べ物を食べさせることを提案すると、K2はA1に食べさせるための弁当とお茶を購入して持参するよう依頼したため、K3とK4は弁当にかけられているタルタルソースに睡眠薬を入れることを決めた{{Sfn|福岡高裁|2007|p=6}}。K3とK4はコンビニエンスストアに寄って弁当とタルタルソースなどを購入し<ref name="西日本新聞冒頭陳述"/>、K4がタルタルソースに睡眠薬{{Efn2|検察官の冒頭陳述によれば12錠<ref name="西日本新聞冒頭陳述"/><ref name="読売新聞冒頭陳述"/>。}}をすりつぶして混ぜた上で{{Sfn|福岡高裁|2007|p=6}}、それを元通り包装した<ref name="読売新聞冒頭陳述"/>。また、K4は同日午後、自分の身分証明書を用いてA1宅の金庫から奪った指輪6個を計10万8000円で質入れし{{Efn2|K4はこの時、大牟田市内および近郊の質屋3店を回っている<ref name="西日本新聞2004-12-08"/>。質入れの際には本名を用いていた<ref>『西日本新聞』2004年12月8日朝刊第19版第二社会面(事件・人・話題)32頁「ニュースインサイド 大牟田事件・K家の4容疑者 架空の大金話に群がる 捜査幹部「常識通じぬファミリー」」(西日本新聞社 大牟田事件取材班)</ref>。}}、その現金をK3に渡したが、K3はうち4万円をK4に分配している<ref name="西日本新聞冒頭陳述"/>。 |
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また、福岡拘置所に収監されていた被告人K4の手記を書籍『我が一家全員死刑』として出版した作家・[[鈴木智彦]]とK4と接見した当初、「被害者に対する謝罪はないのか?」と鈴木が問いただすと、K4は「(被害者たちを)可哀想とは思いますが、申し訳ないとは思ってないです。殺されたのも運命、私が死刑になるのも運命。それに私はヤクザです。親分の命令は絶対なんです」と語り、反省・謝罪の念を示さなかった<ref name="全員死刑 p.195">{{Harvtxt|鈴木智彦|2017|p=195}}</ref>。 |
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A2は同日、弟A3が消息不明になったことを友人らに相談し、22時ごろから手分けしてA3の行方を探していた<ref name="西日本新聞2004-10-04"/>。一方でその前後(同日夜)には、K4の交流グループが知人ら複数に電話をかけ、「K4君が〔A2を〕捜しよる」とA2の居場所を探っていた<ref name="西日本新聞2004-10-04">『西日本新聞』2004年10月4日朝刊第19版第一社会面(事件・人・話題)27頁「大牟田4人殺害 失跡直前 A2さん探す K4容疑者ら 知人ら複数に電話」「県警 夫の組事務所を検証」(西日本新聞社)</ref>。 |
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しかし鈴木は同書文中で「犯行に対する悔恨のない内容だった手記から、初めて面会した当初は『K4は極悪非道な殺人鬼』という印象を抱いていたが実際にK4と接見を重ねるにつれて印象が変わり、『殺人犯であるという事実を忘れそうになった』『案外まともな人間であることがわかった』」と綴った<ref name="全員死刑 p.14">{{Harvtxt|鈴木智彦|2017|p=14}}</ref>。その上で鈴木は同書で「K4は[[快楽殺人|殺人に快楽を覚える]]感性を告白してはいるがそれを完全には肯定できておらず、自らを『鬼畜』と居直る割には自らの行為に疑問を持っている。どれだけ粋がっても『素直な子供の部分』を隠しきれていないことから手記は『狂人の妄想』とは思えなかった」と述べた<ref name="全員死刑 p.15">{{Harvtxt|鈴木智彦|2017|p=15}}</ref>。その上で鈴木は、K4の人間性について「『家族が生きるためなら他人の生命さえ奪っても構わない』とする社会性のなさ以外、我々と変わらぬ人間らしい感情はふんだんに持っている」と評した<ref name="全員死刑 p.195"/>。 |
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=== 一家4人でA1を殺害 === |
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「父が暴力団幹部、自宅が組事務所という環境で育った『組員2世』」「生活が暴力団といつもつながっていた」というK4の生い立ちについて、『毎日新聞』記者・岸達也は「『違う環境で生まれ育っていたらこんな事件は起こさなかったかもしれない』という思いが、ふと頭をかすめた」と振り返った<ref name="毎日新聞2011-11-29"/>。 |
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K3は同日16時ごろに北村組事務所を訪れ、K3に弁当などを手渡したが、その際に小さい声で「タルタル」と耳打ちした{{Sfn|福岡高裁|2007|p=6}}。これを受けたK2は、タルタルソースに睡眠薬が混ぜられていることを察した上で、その弁当をA1に食べさせた{{Sfn|福岡高裁|2007|p=6}}。その結果、弁当を食べ終わったA1はまもなく眠り始めた{{Sfn|福岡高裁|2007|p=6}}。同日5時ごろ、K2は電話でK1を呼び寄せ、2人でA1の殺害や死体の処理方法について話し合った{{Sfn|福岡高裁|2007|pp=6-7}}。K1はA1だけでなく、彼女とK2が一緒にいることを知っているA2も口封じのために殺した上で、2人の死体をワゴンRに載せて諏訪川に沈める必要があると主張した{{Sfn|福岡高裁|2007|p=7}}。これに対しK2は、A1は体格が良いので、(殺害場所はさておき)自身とK1の2人だけで死体もしくは眠っているA1を運び出すことは不可能と考え、息子2人 (K3・K4) を協力させることを提案し、K1もそれに賛成した{{Sfn|福岡高裁|2007|p=7}}。そのため同日20時30分ごろ、K1はK3に電話し、K4を連れて組事務所に来るよう指示した{{Sfn|福岡高裁|2007|p=7}}。 |
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こうして21時前ごろ、4人が組事務所に集まり、K4も含めた4人全員の間で、A1を殺害して金品を強取するという共謀が成立した{{Sfn|福岡高裁|2007|p=7}}。なお、この事務所での謀議の際、K3は仕事の電話で組事務所を何度も出入りしていたと主張しており<ref name="有明新報2005-06-22"/>、K2もその主張に沿う旨の証言をしている<ref name="有明新報2005-07-06"/>。その後、4人はA1の殺害方法や、口封じのためにA2も殺害して2人の死体をワゴンRに載せ、諏訪川に沈めることなどについて話し合った上で、翌18日0時ごろ、A1を殺害するために組事務所から連れ出すことにした{{Sfn|福岡高裁|2007|p=7}}。この時、K2がA1を目覚めさせた一方、K4は事務所内でオートバイなどを駐輪する際に使うワイヤー錠を見つけ、それを使ってA1を絞殺することを決意した上で、睡眠薬の影響でまだ意識が朦朧として足取りがおぼつかない状態だったA1を、K1の運転する[[マツダ・MPV|MPV]]に乗せた上、自身もK2とともにMPVに乗車した{{Sfn|福岡高裁|2007|p=7}}。そして、K1がMPVを運転して発進させ、K3もプレジデントを運転してMPVに続く形で殺害現場に向かったが、K1は走行中の車内でK4に対し、自分が咳払いをして合図したらA1殺害を実行するよう指示した{{Sfn|福岡高裁|2007|pp=7-8}}。K2はMPVの助手席に、A1は2列目シートに、K4は3列目シートにそれぞれ座っていた{{Sfn|福岡高裁|2007|p=8}}。A1を組事務所から連れ出した際、K4はK2に対し「母ちゃん心配せんでよ。俺がやっちゃるから」と声を掛けていた<ref>『有明新報』平成17年(2005年)11月23日付7頁「諏訪川の4人殺害事件 K2被告への質問続く A1さんの殺害状況など問う」(有明新報社)</ref>。 |
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==== 「三池山」として角界挑戦・挫折 ==== |
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{{Infobox 力士 |
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|名前=三池山 |
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|画像= |
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|説明= |
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|四股名= 三池山 |
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|本名= |
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|愛称= |
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|生年月日={{生年月日と年齢|1984|6|9}} |
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|没年月日= |
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|出身= |
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|身長=168cm(現役時) |
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|体重=134kg(現役時) |
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|BMI= |
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|所属部屋=[[松ヶ根部屋]] |
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|得意技= |
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|現在の番付=引退 |
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|最高位=西序二段108枚目 |
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|生涯戦歴=21勝35敗7休(10場所) |
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|幕内戦歴= |
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|優勝= |
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|賞= |
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|初土俵=[[2000年]]5月場所 |
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|入幕= |
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|引退=[[2001年]]11月場所 |
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|引退後= |
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|他の活動= |
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|趣味= |
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|備考= 出典 [http://sumodb.sumogames.de/Rikishi.aspx?r=1092&l=j] |
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}} |
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K4は、2000年3月<ref name="毎日新聞2004-10-18"/>、[[大牟田市立米生中学校]]を卒業後<ref name="週刊文春2004-10-07">{{Cite journal|和書|journal=[[週刊文春]]|author=|title=大牟田4人殺害 「毎晩違う女と寝ている」と豪語する極道一家20歳元力士の女漁り人生|pages=37-39|date=2004-10-07|volume=46|issue=39|publisher=[[文藝春秋社]]|language=ja}}(※通号2297号・2004年10月7日号)</ref>、2000年4月25日の大相撲新弟子検査に合格した<ref name="月刊相撲2000-06">{{Cite journal|和書|journal=相撲|author=|title=角界トピックス 2000年5月25日 新弟子検査合格者|page=156|date=2000-06-15|volume=49|issue=6|publisher=ベースボール・マガジン社|language=ja|quote=6番 松ヶ根部屋}}(※月刊誌、通号655号・2000年6月号。該当ページの上3段目×3行目)</ref>。 |
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A1が殺害された現場は、大牟田港の岸壁({{ウィキ座標|33.03536502233207|||N|130.4258019119702|||E||おおよその座標}})である<ref name="有明新報2004-10-27">『有明新報』平成16年(2004年)10月27日号1頁「大牟田市諏訪川の4人殺害・死体遺棄事件 4人を強盗殺人容疑で再逮捕 福岡県警捜査本部 金品強取目的にA1さん絞殺 全容解明へ「重要な位置占める」と捜査本部」(有明新報社)</ref>。大牟田港は、大牟田川の河口付近に位置する港で{{Sfn|ゼンリン|2004|loc=98頁(F-4からJ-5の範囲内)}}、大牟田市岬町と西新町にまたがっている<ref>『有明新報』平成16年(2004年)10月19日号7頁「K4容疑者立ち会い実況見分 諏訪川の死体遺棄事件 福岡県警捜査本部」(有明新報社)</ref><ref>『有明新報』平成16年(2004年)10月22日号11頁「諏訪川の死体遺棄事件 きょうK3容疑者起訴か、再逮捕か K2容疑者立ち会わせ見分」(有明新報社)</ref>。確定判決では「大牟田市岬町の北側岸壁」と認定されているが{{Sfn|集刑304号|2012|p=411}}、住所を「大牟田市西新町」とする報道もある<ref name="有明新報2004-10-27"/><ref name="西日本新聞2004-10-27">『西日本新聞』2004年10月27日朝刊一面1頁「大牟田事件 強殺容疑 4人再逮捕 県警 A1さんの金品奪う」(西日本新聞社)</ref>。鈴木智彦 (2017) によれば、A1殺害現場は大牟田川の河口付近にある緑地公園{{Sfn|鈴木智彦|2017|p=91}}、正式名称は「大牟田港緑地運動公園」({{ウィキ座標|33.035488916275725|||N|130.4326869623707|||E||座標}})である{{Efn2|同公園は全敷地が大牟田市西新町に位置する{{Sfn|ゼンリン|2004|p=107}}。}}{{Sfn|鈴木智彦|2017|p=152}}。 |
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[[松ヶ根部屋]]に入門して大相撲に挑戦したK4は<ref name="毎日新聞2004-10-03">『毎日新聞』2004年10月3日西部朝刊社会面26面「福岡・大牟田の死体遺棄 家族ぐるみの凶行か K兄弟『悪質』、不良らも嫌う」</ref><ref name="毎日新聞2004-10-18"/>、入門時は身長173cm・体重142kgだった<ref name="月刊相撲2000-06"/><ref name="月刊相撲2000-09"/><ref name="毎日新聞2004-09-26">『毎日新聞』2004年9月26日西部朝刊社会面25面「福岡・大牟田の死体遺棄 親しかったはずの友人が… Aさん一家通夜」</ref>。 |
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0時30分ごろ、K1がMPV車内で咳払いの合図をすると、K4は意識が朦朧としていたA1に対し「おばちゃん、肩を揉んでやるたい」などと言いながら、背後からその頸部にワイヤー錠のワイヤー部分を引っ掛けた{{Sfn|福岡高裁|2007|p=8}}。そして、ワイヤー錠を施錠して輪にした上で、片手もしくは両手でワイヤー錠を持ち、A1が座っていたシートの背部分に脚を当てて踏ん張りながら、自分が座っていたシートの背もたれを後ろに倒すことで、自身の状態を後ろに倒すなどしてワイヤー錠を力いっぱい引っ張り、A1の首を絞め始めた{{Sfn|福岡高裁|2007|p=8}}。その様子を車外から見ていたK3は、K4の求めに応じてたばこを車内に差し入れたり、車の窓ガラスに「ひとごろし」と指で書くなどしてK4をからかったりした{{Sfn|福岡高裁|2007|p=8}}。これに対し、K4は笑ってK3の行動を受け流しており{{Sfn|小野一光|2019|p=16}}、たばこを吸ったり笑ったりしながらA1の首を絞め続けていた<ref name="西日本新聞冒頭陳述"/>。またK1は、車内が暑いと言い出したK4のために、車のエアコンを作動させたり、K4の口元にペットボトルの口を当てがってお茶を飲ませてやったりした{{Sfn|福岡高裁|2007|p=8}}。一方でK2は当初、助手席からK4がA1の首を絞めている様子を見ていたが、A1が両足をばたつかせてもがいているのを正視できずに車外に出たところ、K3から「人間は首を絞めてもしっかり絞めないと息を吹き返す」などと言われると、K4のところへ行って「A1が息を吹き返さないようにしっかり首を絞めろ」などと指示した{{Sfn|福岡高裁|2007|p=8}}。こうしてK4はA1の首を絞め続けて窒息死させ{{Sfn|福岡高裁|2007|pp=8-9}}、頭をノックするようにコンコンと叩き、その死亡を確認している{{Sfn|中尾幸司3|2008|p=152}}。K4は鈴木宛の手記で、この時もA3を殺害した時と同様に興奮を感じていたことや{{Sfn|鈴木智彦|2017|p=93}}、その一方で殺人行為を行うことへの嫌悪感が皆無だったわけではなく、汚れ仕事を自分に押し付けるK3には怒りや不満を感じていたという旨を述べている{{Sfn|鈴木智彦|2017|p=96}}。 |
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K4は2000年5月<ref name="毎日新聞2004-09-26"/><ref name="毎日新聞2004-10-03"/><ref name="毎日新聞2004-10-18"/>、引退した兄K3同様、当時名乗っていた旧姓だった「石橋」(いしばし)の四股名で、2000年夏場所にて、東序ノ口41段目で、初土俵を踏んだ<ref name="月刊相撲2000-09">{{Cite journal|和書|journal=相撲|author=|title=平成12年夏場所全力士略歴星取表|page=156|date=2000-09-15|volume=49|issue=10|publisher=ベースボール・マガジン社|language=ja|quote=}}(※月刊誌、通号658号・2000年9月号)</ref><ref name="毎日新聞2004-10-03"/>。 |
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=== A2・Bを発見 === |
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その後2000年9月にK4は四股名を地元の地名に由来した「[[三池山 (曖昧さ回避)|三池山]]」(みいけざん)に改名し<ref name="月刊相撲2000-10">{{Cite journal|和書|journal=相撲|author=|title=角界トピックス 力士往来<改名>◇序ノ口|page=118|date=2000-10-15|volume=49|issue=11|publisher=ベースボール・マガジン社|language=ja|quote=}}(※月刊誌、通号659号・2000年10月号。該当ページの上1段目×27 - 28行目)</ref>、西序ノ口1枚目で臨んだ同年秋場所以降「三池山」として土俵を踏んだ<ref name="月刊相撲2000-11">{{Cite journal|和書|journal=相撲|author=|title=平成12年秋場所全力士略歴星取表|page=152|date=2000-11-15|volume=49|issue=12|publisher=ベースボール・マガジン社|language=ja|quote=}}(※月刊誌、通号660号・2000年11月号)</ref>。 |
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A1を殺害した後、K4は死体が車外から見えないようにシート上に倒し、首にかかっていたワイヤー錠をシートの肘掛けにかけてその首が絞まり続けるようにした{{Sfn|福岡高裁|2007|p=9}}。K1は、K2が助手席に戻るとすぐにMPVを発進させ、K3もプレジデントを運転してそれに続いた{{Sfn|福岡高裁|2007|p=9}}。4人はA2が運転していると思われるワゴンRを捜したが、なかなか見つけられず、一時K3がはぐれる事態もあった{{Sfn|福岡高裁|2007|p=9}}。検察官の冒頭陳述によれば、4人はこの後自宅(桜町のK1宅)で合流し、車中でA2も殺害してA1ともども車ごと諏訪川に遺棄することを再確認した<ref name="西日本新聞冒頭陳述"/>。K4は鈴木宛の手記で、実家(K1宅)でK3と合流するまでの間の行動について、自身と両親、A1の死体が乗ったMPVは国道208号を経由し、途中でNシステムに引っかかりながら約1時間半かけて人気のない荒尾市方面や[[グリーンランド (遊園地)|三井グリーンランド]]近辺の山道などを走り回っていたこと、その間自分は倒した2列目の座席の上でブルーシートを被せられて横たわっていたA1の死体の上に座っており、その際には気味悪さと同時にスリルも感じていたことを述べている{{Sfn|鈴木智彦|2017|pp=101-104}}。また、K4の手記によれば、A1のバッグに入っていた現金26万円を手に入れた([[#A1宅を物色|後述]]のように、判決では4時30分ごろとされている)のは、桜町に戻る途中で立ち寄った勝立町交差点のセルフ式ガソリンスタンドで給油していたころ(K3と桜町で合流する約15分前)である{{Sfn|鈴木智彦|2017|pp=105-106}}。 |
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その後、再度合流したK3はプレジデントからMPVに乗り換え、同日1時35分ごろ、A2がワゴンRで帰宅しているかもしれないと考えたため、A1宅付近にMPVを駐めた{{Sfn|福岡高裁|2007|p=9}}。するとちょうど、A3が家出をしたと思って捜していたA2と、彼に協力していたBの2人がワゴンRに乗車してA1宅に帰宅してきた{{Sfn|福岡高裁|2007|p=9}}。K1・K3・K4の3人は、MPVから降車してワゴンRに近づいていったが、彼らはBとは初対面だった{{Sfn|福岡高裁|2007|p=9}}。 |
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この時、松ヶ根部屋の親方は元[[大関]]・[[若嶋津六夫|若嶋津]]で<ref name="週刊文春2004-10-07"/>、女将はその妻である元歌手・[[高田みづえ]]だった<ref name="週刊文春2004-10-07"/><ref name="毎日新聞2004-10-18"/>。K4から「兄K3が早々に廃業した」と聞かされた高田が「お兄さんのようにならないでね」と励ますと、K4は「やめません」と答えており<ref name="毎日新聞2004-10-18"/>、母校・米生中学校の校長室には親方夫妻や部屋の力士たちとともにK4が写った写真が飾ってあった<ref name="週刊文春2004-10-07"/>。高田は事件直後、『[[週刊文春]]』([[文藝春秋社]])の取材に対し「K4の家庭環境・引退後の近況については知らなかった。『もともと粗暴な性格で相撲を辞めてからさらに粗暴になった』と言われればショックだが、そのような捉え方もあるのかもしれない」と答えた<ref name="週刊文春2004-10-07"/>。 |
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K4はワゴンRの運転席にいたA2に対し、自分たちもA3を捜しているかのように嘘をついて話しかけたが、同車にはA2以外にもう1人(K4たちとは初対面であったB)が乗車していたため、K1・K3とともにその同乗者をどうするか相談したところ、2人から同乗者も含めて殺害するように指示された{{Sfn|福岡高裁|2007|p=9}}。そして、K1からは凶器の拳銃(弾が6発装填されていた)を手渡され、安全装置を外せばすぐに発射できる状態であることを教えられるとともに、A2らの心臓を撃つよう指示された{{Sfn|福岡高裁|2007|pp=9-10}}。その拳銃は、ベルギー製の小型[[拳銃#自動式拳銃|自動式拳銃]]「[[FN ブローニング・ベビー|ブローニング・ベビー]]」(25[[口径]]{{Efn2|25口径=銃口の直径6.4 [[ミリメートル|mm]]<ref name="朝日新聞2004-09-26">『朝日新聞』2004年9月26日西部朝刊第一社会面39頁「母の遺体、後部荷台に 兄・友は後部席 大牟田・4人遺棄【西部】」(朝日新聞西部本社)</ref>。}}、装弾数は6発)で<ref name="朝日新聞2004-09-28夕刊"/>、後にK1が大牟田署内で自殺を図った際にも使用されたものである{{Efn2|A1・Bの両名の遺体からは、それぞれ25口径の銃弾が3発ずつ(計6発)検出されたが、それらの[[ライフリング|線条痕]](銃弾が発射される際に刻まれ、「銃の指紋」と言われる)はいずれも、K1が自殺を図った際に使用した「ブローニング・ベビー」のものと一致している<ref name="朝日新聞2004-10-10"/>。}}<ref name="朝日新聞2004-10-10">『朝日新聞』2004年10月10日西部朝刊第一社会面31頁「K1容疑者の銃と断定 次男「2人撃った」 大牟田事件【西部】」(朝日新聞西部本社)</ref>。K4はそれを了承した上で、K3に拳銃を渡そうとしたが、K3は受け取ろうとしなかったため、自ら実行することを決意した{{Sfn|福岡高裁|2007|p=10}}。そして、K3・K4の2人はA2らに対し、一緒にワゴンRに乗ってA3を探しに行こうなどと言葉巧みに申し向け、騙された2人を後部座席に移動させると、後部座席ドアのチャイルドロックをかけてドアを閉め、2人を逃げられない状態にした{{Sfn|福岡高裁|2007|p=10}}。その際に「A2の運転は怖い」という口実でK3が運転するようにさせ、K4は助手席に座った上で{{Sfn|小野一光|2019|p=16}}、同日2時ごろにK3がワゴンRを発進させた{{Sfn|福岡高裁|2007|p=10}}。また、K4は走行中の車内で2人が外部に助けを求めないよう、虚言を弄して2人から携帯電話を取り上げ、それらを壊すなどした{{Sfn|福岡高裁|2007|p=10}}。A2・Bの2人と、彼らの仲間との携帯電話連絡が途絶えた時刻はこのころである<ref name="西日本新聞2004-09-25">『西日本新聞』2004年9月25日朝刊第19版一面1頁「大牟田・死体遺棄 女友達めぐりトラブル 被害者と容疑者周辺 県警捜査」(西日本新聞社)</ref>。 |
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「三池山」ことK4は[[2001年]](平成13年)3月20日に平成13年春場所10日目の[[序ノ口]]の取組において同場所で初優勝した[[伊勢ヶ濱部屋|安治川部屋]]の序ノ口・安馬(後の第70代[[横綱]]・[[日馬富士公平|日馬富士]])と対戦し、[[上手出し投げ]]で敗れた<ref name="月刊相撲2001-04">{{Cite journal|和書|journal=相撲|author=谷口正美|title=平成13年春場所 幕下以下決まり手付き全勝負&優勝ウォッチング|page=82|date=2001-03-29|volume=50|issue=4|publisher=ベースボール・マガジン社|language=ja|quote=10日目 序ノ口}}(※月刊誌、通号665号・2001年4月号。該当ページ上から4段目)</ref>。 |
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一方、K2はK1の運転するMPVでワゴンRを追いかけたが、その車内でK1から、ワゴンRにはA2だけでなくもう1人友達 (B) が乗っているが、2人とも拳銃で殺害することにしてK4に拳銃を渡したという旨を告げられた{{Sfn|福岡高裁|2007|p=10}}。K2はそれには若干異を唱えたが、K1から「顔を見られた以上、2人とも殺さなければならない」と説得されて了承した{{Sfn|福岡高裁|2007|p=10}}。K2の弁護人(鈴木敏彦)は上告趣意書で、K2は2人の殺害に反対し、K1らに対し「全く関係ないのだから殺さないでほしい」と懇願したものの、その願いは聞き入れられず、K2は不本意ながらも従わざるを得なかったと主張している{{Sfn|集刑304号|2012|p=256}}。その後、K1・K2は途中でK3の運転するワゴンRを見失い、一時はぐれたものの、その間もK3らと連絡を取り合い続けた{{Sfn|福岡高裁|2007|p=10}}。その間、K1から指示を受けたK2がK3・K4に対し「お父さんがさっさとせろち言いよらすよ」などと急かしたり、K1も自ら「なんばしょっとか。うろうろせんで早く発射せんか」などと怒鳴りつけたりして、A2・Bの2人を殺害するよう促していた{{Sfn|福岡高裁|2007|pp=10-11}}。 |
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K4は力士「三池山」として2001年5月場所で[[序二段]]108枚目に番付を上げたが<ref name="毎日新聞2004-10-18"/>、それ以上は芽が出ず<ref name="毎日新聞2004-09-26"/>部屋関係者から「筋が良くない」と判断された<ref name="毎日新聞2004-10-03"/>。また伯母の死・前述の兄の傷害致死事件が重なったことや本人曰く「甘えが後押しした」ことから<ref name="全員死刑 p.21">{{Harvtxt|鈴木智彦|2017|p=21}}</ref>、2001年11月の九州場所を最後に<ref name="毎日新聞2004-10-18"/>引退した<ref name="毎日新聞2004-10-03"/>。女将は事件当時『毎日新聞』の取材に対し「上下関係・けいこの厳しさに耐えられずに辞めたのだろう。引き留めなかった」と語った<ref name="毎日新聞2004-10-18"/>。相撲界を引退後、K4自身は知人に対し「腰を痛めたから引退した」<ref name="毎日新聞2004-10-18"/>「親方の指導が鬱陶しい」と不満を漏らすだけで<ref name="週刊文春2004-10-07"/>、母K2もこの時から相撲の話をしなくなった<ref name="毎日新聞2004-10-18"/>。 |
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=== A2・Bを殺害 === |
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同日2時15分ごろ、K4はA2とBの2人の頭や胸をそれぞれ3発ずつ銃撃し、A2をその場で失血死させたほか、約10分後(2時25分ごろ)には走行中のワゴンR車内で、まだ息のあったBの左胸をアイスピックで突き刺して失血死させた{{Sfn|福岡高裁|2007|pp=11-12}}。Bを刺殺するための凶器として用いられたアイスピックは、軸部の長さ11.8 cmである{{Sfn|中尾幸司3|2008|p=153}}。 |
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=== 事件前の動向 === |
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母親K2は[[1994年]](平成6年)ごろ<ref name="読売新聞2006-10-18 判決要旨"/>、[[闇金融]]業を営んでいた[[被害者]]女性A(事件当時58歳)<ref name="週刊文春2004-10-07"/>と知り合い家族ぐるみで付き合うようになった<ref name="読売新聞2006-10-18 判決要旨"/>。被害者Aは利子は通常より高い利率で<ref name="読売新聞2004-10-03 西部朝刊"/>事件の10年以上前から知人に金を貸しており、借金額が膨らんで借り手に返済の見通しが立たなくなったり返済期限が守られなかったりした場合は、K4ら若者グループが取り立てを代行していた<ref name="読売新聞2004-09-28 東京夕刊">『読売新聞』2004年9月28日東京夕刊第一社会面23面「福岡・大牟田の連続殺人事件 Aさんの貸金取り立て、K2容疑者息子が代行」</ref>。回収に成功した場合、AはK2らに対し一定の手数料を支払っていたが、手数料に満足しなかったK2らは複数の借り手から回収した数万円 - 十数万円の金を着服しており、そのことを知られて2004年9月上旬にはAと口論になっていた<ref name="読売新聞2004-10-03 西部朝刊">『読売新聞』2004年10月3日西部朝刊第一社会面35面「福岡・大牟田4人殺害事件 K2容疑者が回収金着服 Aさん抗議、口論」</ref><ref name="読売新聞2004-10-03 東京朝刊">『読売新聞』2004年10月3日東京朝刊第一社会面35面「福岡・大牟田の連続殺人 K2容疑者、回収金着服 Aさんが抗議、口論」</ref>。 |
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K4が拳銃を撃った現場は、大牟田市新開町3番地1[[モビリティおおむた|三井三池オートスポーツランド]]事務所{{Efn2|{{ウィキ座標|33.044316422257864|||N|130.42447281245944|||E||三井三池オートスポーツランド事務所の位置座標}}:出典{{Sfn|ゼンリン|2004|loc=80頁I-5}}。}}西側海岸({{ウィキ座標|33.044864|||N|130.422044|||E||座標}})である{{Sfn|集刑304号|2012|p=243}}。同所は、大牟田川と堂面川に挟まれた[[有明海]]岸壁のほぼ中間にあり、三井三池オートスポーツランド事務所から西方に目測110 m、大牟田エコタウン内の大牟田エコサンクセンター({{ウィキ座標|33.04763160093008|||N|130.42668451797402|||E||座標}})から南西目測240 mの地点であり、大牟田市道唐船松原線の「健老町交差点」({{ウィキ座標|33.04325499889166|||N|130.44202927006373|||E||座標}})から西方に目測1,800 m入った有明海岸壁である{{Sfn|集刑304号|2012|p=243}}。現場付近は工場やオートレース場、エコタウン施設などからなる工業地帯だった{{Sfn|集刑304号|2012|pp=243-244}}。また『西日本新聞』によれば、Bが殺害された現場は銃撃現場から約1.2 km離れた箇所である<ref>{{Cite news|和書 |title=大牟田・4人殺害 2人射殺で再逮捕 北村家4人 容疑で県警 「口封じ」目的 |newspaper=西日本新聞 |date=2004-1-17 |edition=朝刊 |url=http://www.nishinippon.co.jp/news/2004/oomuta/kiji/041117.html |publisher=西日本新聞社 |language=ja |archive-url=https://web.archive.org/web/20110920032413/http://www.nishinippon.co.jp/news/2004/oomuta/kiji/041117.html |archive-date=2011年9月20日}}</ref>。 |
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K2は当初はAより強い立場でAの借金の取り立ても手伝っていたが、Aから30万円を借金して以降は一転して見下される立場となっており<ref name="読売新聞2006-10-18 判決要旨"/>、事件前は組長の夫K1に収入がなく、生活費に加え暴力団関係者への借金返済・上納金のため多額の現金を必要としていた<ref name="読売新聞2006-10-18 判決要旨"/>。また当時は建設会社を経営していたが、その会社も自転車操業状態で<ref name="読売新聞2006-10-18 判決要旨"/>収入はほとんどなく<ref name="読売新聞2005-03-16 冒頭陳述"/>、2004年9月時点でK1・K2夫婦の借金は約6600万円以上になり<ref name="読売新聞2006-10-18 判決要旨"/>。夫K1が小遣い銭欲しさに窃盗未遂を起こしたこともあった<ref name="読売新聞2005-03-16 冒頭陳述"/>。また2004年6月下旬にK2はA宅の改装工事を請け負ったが、Aは「貸金やその利息と相殺するから」と工事代金をK2に支払おうとせず<ref name="読売新聞2005-03-16 冒頭陳述"/>、Aの態度に憤懣を募らせていたK2は2004年7月ごろには「いつかうち殺さなでけん」などと口癖のように言っていた<ref name="読売新聞2006-10-18 判決要旨"/>。またK3・K4兄弟は被害者Aを「[[クレオパトラ]]のように厚化粧」という意味から陰で「パトラ」と蔑称で呼んでいた<ref name="全員死刑 p.13">{{Harvtxt|鈴木智彦|2017|p=13}}</ref>。 |
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2時15分ごろ、K3は同所にワゴンRを停車させると、K4に対し、自分が車から降りたら2人を殺害するように告げた上で車外に出た{{Sfn|福岡高裁|2007|p=11}}。するとK4は、まずBに対し、拳銃をモデルガンだと言って安心させた上で頭部を前に出させ、左耳上辺りに拳銃を向けて銃撃した{{Sfn|福岡高裁|2007|p=11}}。次に目の前でBを撃たれて驚き、唖然としていたA2に対し「A3もA1も俺が殺して死んどる。お前ん方、2,000万あろうが。金、どけあっとか」などと問いかけたが、A2から金の在処など知らないと答えられると、Bと同じくその左耳上辺りを銃撃した{{Sfn|福岡高裁|2007|p=11}}。K4は鈴木宛の手記で、父の指示に反して心臓ではなく頭を銃撃した理由について、人間は心臓を撃ち抜かれても即死せず、大きな苦痛を味わうと聞いていたことや、A2は旧知の仲であり、Bも居合わせただけであるため、彼らを殺すことは避けられないにしても頭部を銃撃して脳を破壊することで一瞬のうちに意識を喪失させ、できるだけ彼らに苦痛を味わわせないようにしようと考えたためだという旨を述べており、また先にBを銃撃した理由についても、「目の前で友人を殺られる場面を見て死の恐怖を感じる前に、すべてを済ませてやろうと思ったからだ。」と述べている{{Sfn|鈴木智彦|2017|p=133}}。 |
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2004年8月6日夕方、K1の建設会社の作業員が運転していた車が諏訪川沿い堤防道路(遺体発見現場付近)にて対向車と接触事故を起こし、助手席に乗っていたK2が車から身を乗り出して相手に抗議していたところ、車が傾いてK2が川に転落した<ref name="西日本新聞2004-09-27 夕刊">『西日本新聞』2004年9月27日夕刊第10版第一社会面13頁「大牟田・4人殺害 現場の川で転落事故 8月K2容疑者 深さ知り遺体遺棄?」</ref>。この時はK4らが駆け付けてK2を助け、救急車で病院に搬送したが、事故直後にK1が車を移動させようとしたところ運転操作を誤って川に車を転落させ、翌日にはK4ら家族が重機などを使って車を引き揚げていた<ref name="西日本新聞2004-09-27 夕刊"/>。 |
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その後、K4はいったん車外に出てK3に対し「頭を撃ったが2人ともまだ生きている」という旨を報告した{{Sfn|福岡高裁|2007|p=11}}。K3はそれを電話でK2に伝えると、K2はそれをK1に伝えたが、K1はK2から携帯電話を取り上げ、K3に対し「何で頭ば撃ったとか。胸ば撃てち言うとったろうが」と怒鳴りつけた{{Sfn|福岡高裁|2007|p=11}}。その後、K2は再びK1から携帯電話を受け取り、K1と同じようにK3に対し「お父さんが胸ば撃てち言いよらす。3発ずつ6発全部撃てげなばい」と指示した{{Sfn|福岡高裁|2007|p=11}}。それをK3から伝えられたK4は、再びK3に拳銃を渡そうとしたが拒まれたため、再びワゴンRの助手席に乗り込み、4発残っていた拳銃をそれぞれA2・B両名の胸に2発ずつ撃った{{Sfn|福岡高裁|2007|pp=11-12}}。これにより、A2はその場で死亡した{{Sfn|福岡高裁|2007|p=12}}。K4は鈴木宛の手記で、2人が頭部を撃ち抜かれても即死しなかったため、自分でとどめを刺すことが嫌になり、K3に銃を渡して残り2発ずつ撃つよう仕向けたが、K3がそれを拒んだために憤慨し、本気でK3を撃とうと思って怒鳴りつけて銃を向けたところ、K3が尻込みして命乞いしたため、怒りは冷めたもののK3を軽蔑したと述べている{{Sfn|鈴木智彦|2017|pp=143-144}}。 |
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=== 殺害計画 === |
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母K2はAの「資本金1億円の金融会社を設立する」という話を夫K1・長男K3に伝えたほか<ref name="読売新聞2005-03-16 冒頭陳述"/>、K2の「Aを殺したい」という発言を聞いた夫K1・長男K3もK2に同調し、Aに対し敵意を強めるようになっていった<ref name="読売新聞2006-10-18 判決要旨"/>。また新居の購入費用を求めていたK3は2004年8月ごろに工事代金が支払われていないことを知ると「Aはカタギのくせに俺たちヤクザをバカにしている。殺してでも金を奪おう」と考えてAを車で付け狙ったほか、K1も2004年9月8日にAを殺害しようとしたが、この時はK2に止められた<ref name="読売新聞2005-03-16 冒頭陳述"/>。 |
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その後、4人はK1の指示により、それぞれ移動して合流することを決め{{Sfn|福岡高裁|2007|p=12}}、大牟田川付近で再び合流した<ref>『朝日新聞』2004年10月24日西部朝刊第一社会面35頁「不明のA3さん捜した2人、K兄弟が殺害か 大牟田事件【西部】」(朝日新聞西部本社)</ref>。K1・K2はその移動中にK3らと連絡を取り合ううち、A2は既に死亡したが、Bがまだ生きていると報告された{{Sfn|福岡高裁|2007|p=12}}。そのため、4人はK1の指示の下、合流後にアイスピックでBにとどめを刺すことを決め、K2がMPV車内にあった2本のアイスピックのうち、長い方の1本をK4に手渡した{{Sfn|福岡高裁|2007|p=12}}。そして、K1とK4がワゴンRに、K2とK3がMPVにそれぞれ分乗し、K1とK2がそれぞれ車を運転して出発した{{Sfn|福岡高裁|2007|p=12}}。そして2時25分ごろ、K4はワゴンRの車内で、Bの左胸にアイスピックを突き刺してとどめを刺した{{Sfn|福岡高裁|2007|p=12}}。2人とも死因は失血死である{{Sfn|福岡高裁|2007|p=12}}。 |
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2004年9月9日、K1は妻K2から家の借金の実情を打ち明けられると「Aを殺して金を奪おう」と提案し<ref name="読売新聞2006-10-18 判決要旨"/><ref name="読売新聞2005-03-16 冒頭陳述"/>、K2も生活難・借金苦から脱することに加えてAへの憤懣を解消することを目的に夫K1の意見に賛成し、A殺害計画を練り始めた<ref name="読売新聞2006-10-18 判決要旨"/>。K1・K2夫婦は2人で「Aに嘘の土地購入話を持ちかけ現金2600万円を用意させた上で殺し、遺体は諏訪川に捨てる」など具体的な犯行計画を練ったほか<ref name="読売新聞2005-03-16 冒頭陳述"/>、K2は長男K3に「Aを殺して金を奪い、折半しよう」と持ち掛け、K3を犯行に誘い入れた<ref name="読売新聞2006-10-18 判決要旨"/>。これを聞いたK3は「自分が殺すので奪った金の6割が欲しい」と申し出たが、K2は「自分が殺す」と譲らなかった<ref name="読売新聞2005-03-16 冒頭陳述"/>。 |
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=== 3人の遺体を遺棄 === |
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2004年9月15日、K2が「Aが土地購入代金として2,680万円を用意した」と確認したため、K1は「翌16日にAの殺害を決行する」と指示し、K3も了承した<ref name="読売新聞2005-03-16 冒頭陳述"/>。K2は2004年9月16日夕方に被害者Aを車で誘い出し、大牟田市内の公園駐車場まで連れ出すと、車内で話をしながらカッターナイフでAを殺害する機会を窺ったが躊躇し<ref name="読売新聞2005-03-16 冒頭陳述"/>、この時は殺害を実行できなかった<ref name="読売新聞2006-10-18 判決要旨"/>。その一方でK2は同日22時ごろ、車で近くまで来た長男K3に「金は家にある」と伝えた<ref name="読売新聞2006-10-18 判決要旨"/>。 |
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3人 (A1・A2・B) の遺体が入った軽自動車が遺棄された現場は諏訪川に架かる「馬沖橋」{{Efn2|name="馬沖橋"}}から南西(下流)約345 m先の諏訪川左岸堤防道路({{ウィキ座標|33.010473492317495|||N|130.443009715235|||E||おおよその座標}})で<ref name="毎日新聞判決要旨"/>、車がすれ違いできない狭い道だった{{Sfn|鈴木智彦|2017|p=164}}。沈められた車が発見された現場は、「馬沖橋」から約350 m下流地点の諏訪川({{ウィキ座標|33.010806|||N|130.442754|||E||座標}})で<ref name="西日本新聞2004-09-24"/>、川幅は約50 mあった<ref>『日本経済新聞』2004年9月25日西部朝刊社会面39頁「大牟田死体遺棄 車の3遺体 他殺と断定 死後1週間経過」(日本経済新聞西部本社)</ref>。車が沈んでいた位置は、川岸から約25 m{{Efn2|川幅約30 mの中央部分という報道もある<ref name="読売新聞2004-09-24社会"/>。}}の川底(水深約3.5 m)で<ref name="西日本新聞2004-09-24"/>、川が大きく蛇行した場所であった<ref name="読売新聞2004-09-24社会">『読売新聞』2004年9月24日西部朝刊社会面33頁「福岡・大牟田の高1死体遺棄 やはり3人も…遺体、K2容疑者の供述通り」(読売新聞西部本社)</ref>。同現場から約200 m下流には<ref>『朝日新聞』2004年9月24日西部朝刊第一社会面29頁「暗い川面、最悪の結果 大牟田・遺体発見【福岡】」(朝日新聞西部本社)</ref>、「三井水門」という名称の水門({{ウィキ座標|33.01140226507038|||N|130.44118242337683|||E||座標}}){{Sfn|ゼンリン|2004|loc=156頁G-5}}があったため、現場の水深は諏訪川の他の箇所より深くなっていた<ref>『朝日新聞』2004年9月25日西部夕刊第一社会面11頁「「親密」一転、謎の山 大牟田・4人遺棄事件【西部】」(朝日新聞西部本社)</ref>。なお、車はK2が供述した場所より数十メートル下流で発見されたが、これは車がしばらく浮くなどして流されたためと判断されている<ref name="朝日新聞2004-09-26"/>。現場周辺は[[熊本県]][[荒尾市]]との県境に近い田園地帯だが民家も多く、近くには[[大牟田市立駛馬小学校|市立駛馬北小学校]]などがあった<ref name="読売新聞2004-09-22"/>。 |
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A2とBを殺害した後、4人は彼らとA1の遺体をワゴンRに積み込んで車ごと遺棄するため、A1殺害現場付近の岸壁へ移動し、K4が同所でA1の遺体をMPVから引きずり降ろした{{Sfn|福岡高裁|2007|p=12}}。しかし遺体は重くてK4だけでは持ち上げられなかったため、K3と2人がかりで持ち上げてワゴンR{{Efn2|検察官の冒頭陳述書によればトランク<ref name="読売新聞冒頭陳述"/>。}}に積み込んだ{{Sfn|福岡高裁|2007|p=12}}。検察官の冒頭陳述によれば、これは18日2時40分 - 50分ごろの出来事である<ref name="読売新聞冒頭陳述"/>。その後、K1がワゴンRを運転するなどして諏訪川付近に行き、A1らの遺体を遺棄しようとしたが、通行車両があったため、4人は犯行をいったん中止してK1らの自宅(桜町)に戻り、ワゴンRのナンバープレートを外すための電動ドライバーなどを用意した{{Sfn|福岡高裁|2007|pp=12-13}}。K4の手記によれば、諏訪川の下流側から堤防道路を走って遺棄現場に向かおうとしたところ、24時間営業のうどん屋{{Efn2|大牟田市街地から[[国道208号]]を利用して遺棄現場に向かう際、国道208号の「片平橋」で諏訪川を渡ったところに遺棄現場となった同川左岸の堤防道路との交差点({{ウィキ座標|33.01204482856383|||N|130.43879022712167|||E||座標}})があるが、その交差点の角(大牟田市船津町269-1:{{ウィキ座標|33.01190390818693|||N|130.43901807079462|||E||座標}})に「うどんそばあずみ」という店があった{{Sfn|ゼンリン|2004|loc=156頁D-5、E-5}}。2023年時点では、同店は同市船津町413-1({{ウィキ座標|33.00925957983515|||N|130.4384072584887|||E||座標}})に移転しており、事件当時の所在地には「たんぽぽ」が出店している<ref>{{Cite web |url=http://www.kurume.or.jp/udon/azumi.html |title=筑後うどん振興会 加盟店 あずみうどん |access-date=2023-05-28 |publisher=久留米商工会議所 |website=筑後うどん振興会公式ウェブサイト |language=ja |archive-url=https://web.archive.org/web/20230528112908/http://www.kurume.or.jp/udon/azumi.html |archive-date=2023-05-28 |url-status=live}}</ref>。}}でプロパンガス業者がトラックを路上駐車してガスボンベの交換作業を行っていたため、そのトラックをどかさせた上でK1とともに遺棄現場に向かって遺体を遺棄しようとした{{Sfn|鈴木智彦|2017|pp=158-159}}。この時はK3が遺棄現場(「馬沖橋」付近)より下流側にある先述のうどん屋付近で、K2も同現場より上流側にある「一部橋」(正式名称は「駛馬橋」、{{ウィキ座標|33.011509026066726|||N|130.4507405001099|||E||座標}}){{Efn2|「一部橋」の正式名称は「駛馬橋」である<ref>{{Cite book|和書 |title=写真集 明治 大正 昭和 大牟田 |publisher=[[国書刊行会]] |date=1982-01-30 |editor=安元薫 |series=ふるさとの想い出 |isbn=978-4336068378 |ncid=BC0289109X |chapter=交通と橋 > 127 明治四〇年頃の駛馬橋 |issue=106 |url=https://dl.ndl.go.jp/pid/9574911/1/75 |id={{NDLJP|9574911/1/75}}}}</ref>。同橋は大牟田市一部町と、諏訪川対岸の同市沖田町を結ぶ[[福岡県道788号藤田上官線|県道藤田上官線]]の橋で{{Sfn|ゼンリン|2004|loc=157頁I-5}}{{Sfn|ゼンリン|2022|loc=157頁I-5}}、橋の北側(一部町)には「一部橋」という西鉄バスのバス停がある{{Sfn|ゼンリン|2022|loc=157頁I-4、J-4}}。また、駛馬橋の南詰付近(左岸)には「一部橋公園」がある{{Sfn|ゼンリン|2004|loc=157頁H-5、I-5}}。}}付近で、それぞれ現場付近へ通行車両が入れないように車で堤防道路の入口を塞ぎ、K4が夜釣りをしている者がいないか見張りながら、K1がワゴンRを沈めるという算段だったが、K3が駐車していたうどん屋付近に3、4台の車が来てしまい、長くは駐車できないためいったん中止して桜町の実家に帰ったという{{Sfn|鈴木智彦|2017|pp=160-164}}。 |
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一方で業を煮やしたK1はK2がいた駐車場へ向かい、持ってきたアイスピックをK2に示した上で「俺が殺してやる」と言ったが、これに対しK2は「自分で殺す」と言い殺害予定場所の山に向かったもののそこでも殺害を躊躇した<ref name="読売新聞2005-03-16 冒頭陳述"/>。その際、K2は離れて駐車していたK3から包丁を示され「俺が刺し殺す」と申し出られた際にも再び「自分で殺す」と言ったが踏ん切りがつかなかった<ref name="読売新聞2005-03-16 冒頭陳述"/>。 |
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4人は同日3時15分ごろになって再び諏訪川へ赴き{{Sfn|福岡高裁|2007|p=13}}、遺棄現場に車を停車した<ref name="毎日新聞判決要旨"/>。この時はK1が3人の遺体を載せた車(ワゴンR)を運転し、K4が同車の助手席に乗った状態で諏訪川の下流から堤防上を走り、K2の乗った車が先導する形で遺棄現場に向かっていた<ref name="毎日新聞2004-10-22">『毎日新聞』2004年10月22日西部朝刊社会面25頁「福岡・大牟田の死体遺棄 3遺体運搬、K1容疑者が運転 K4容疑者、プレート外す」(毎日新聞西部本社)</ref>。K1は遺棄現場から約500 m手前でいったん停車しているが、この時にK4が降車して<ref name="毎日新聞2004-10-22"/>ワゴンRの前後ナンバープレートを外した上で、A2・Bの携帯電話とともに諏訪川に投げ捨てている{{Sfn|鈴木智彦|2017|p=168}}。この間、K2は自身が運転していたMPVの前照灯でワゴンRを照射し、K4の作業を助けている{{Sfn|福岡高裁|2007|p=13}}。また、K1とK4はワゴンRを沈みやすくするため、車の窓3つを少し開けた{{Sfn|福岡高裁|2007|p=13}}。 |
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2004年9月16日朝、母K2と別れたK3は自宅アパートに帰り、自宅にいたK4に「仕事をしているから子分(K4の力士時代の先輩)の見舞いをして待て」と言い、K4とK4のガールフレンドを病院まで乗用車で送り届けた。 |
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こうして3時30分ごろ、K1はA1・A2・Bの遺体を載せた車を<ref name="毎日新聞判決要旨"/>、エンジンをかけてドライブギアにしたままの状態で<ref name="西日本新聞冒頭陳述"/>、車外からアクセルを踏むことにより、土手の斜面から川の中央付近に向けて走行させることで水没させ、3人の遺体を遺棄した<ref name="毎日新聞判決要旨">『毎日新聞』2006年10月18日西部朝刊総合面23頁「福岡・大牟田の4人殺害:判決要旨」(毎日新聞西部本社)</ref>。車は落水してもなかなか沈まなかったため、K4はK1に命じられて川に入ろうとしたが、その直前に沈んでいった{{Sfn|鈴木智彦|2017|p=170}}。検察官の冒頭陳述では、K3はK1が遺体を遺棄する際に対岸の道路に乗用車を駐め、他の車が入れないようにしていたとされているが<ref name="読売新聞冒頭陳述"/>、K4の手記によれば、K3はK1たちと同じ左岸側にあるうどん屋付近で車を駐め、他の車が入れないようにしていたという{{Sfn|鈴木智彦|2017|p=160}}。同日夜<!--未明かどうかは不明-->、川べりの堤防(高さ約6 m)付近で車がヘッドライトを点灯したまま駐車してあったという目撃証言がなされている{{Sfn|週刊女性|2004|p=193}}。 |
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=== 次男Cを殺害・遺棄 === |
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K4らは9月16日の大半を病院で過ごしていたが<ref name="全員死刑 p.30">{{Harvtxt|鈴木智彦|2017|p=30}}</ref>、同日夜になって兄K3が乗用車でK4を病院まで迎えに行った<ref name="読売新聞2005-03-16 冒頭陳述"/>。 |
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=== A1宅を物色 === |
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K3はAを殺害しようとしている父K1・母K2を出し抜き<ref name="読売新聞2005-03-16 冒頭陳述"/>、K4とともにA宅で留守番をしていた次男C(事件当時15歳)を殺し<ref name="読売新聞2005-03-16 冒頭陳述"/>、Aの現金を手に入れることを考えた<ref name="読売新聞2006-10-18 判決要旨"/>。そのため実行力のあるK4に対し500万円の分け前を提示するなどして「Aの家に2,000万円ある。Aの次男Cが1人で家にいるからCを殺して奪おう」と持ち掛け<ref name="読売新聞2006-10-18 判決要旨"/><ref name="読売新聞2005-03-16 冒頭陳述"/>、K4がその提案に賛同したため殺害の謀議が成立した<ref name="読売新聞2006-10-18 判決要旨"/>。 |
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4人は軽自動車の水没を確認してから<ref name="西日本新聞冒頭陳述"/>、桜町の実家に帰った{{Sfn|鈴木智彦|2017|pp=170-171}}。その後、4人で今後の行動について話し合い、夜が明ける前にA1宅へ行って金品を物色することで話がまとまったが、この時点でK1・K2はK3・K4がA3を殺害して金庫を奪ったことを知らなかった{{Sfn|鈴木智彦|2017|p=171}}。そのため、K4は金品の隠し場所を知っていたK2を誤魔化すため、「A2を殺した時に金と金庫の在処を聞いたが、金はどこにあるか分からない。金庫はA3が持って家出していった」という旨の嘘をついた{{Sfn|鈴木智彦|2017|p=171}}。これを受け、K1は「後でA3を捜して金庫を奪おう」と提案したが、その後のA3の処遇についてK4が質問したところ、K2は強い口調で「A3は殺さない」と念押しした{{Sfn|鈴木智彦|2017|p=172}}。 |
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一方、話し合いが終わるとK3はK1に対し「俺はA1宅に行ったら自分で帰るから、自分の車で行く」という旨を伝え、K1から「お前の車は目立つから(実家のワゴン車に)一緒に乗って行け」と言われても聞かなかった{{Sfn|鈴木智彦|2017|pp=172-173}}。K4は手記で、K2がそのようなK3の自分勝手な態度に激怒しており、自分もK3を兄弟としても極道としても恥と思ったと述べている{{Sfn|鈴木智彦|2017|p=173}}。そのため、夜明け前にK1・K2・K4の3人でA1宅に向かうことになったが、途中で新聞配達員のバイクが走り回っていることに気づいたK1がK4を通じ、K3に「K3の車は目立つから、[[大牟田駅|駅]]の駐車場に駐車させて俺の車で回ろう」と伝え、K3の車を駅前の地下パーキングに駐車させた{{Sfn|鈴木智彦|2017|pp=173-174}}。そして途中でK1一行とK3が合流し{{Sfn|鈴木智彦|2017|p=174}}、同日4時ごろになって4人はMPVをA1宅近くに停車した{{Sfn|福岡高裁|2007|p=13}}。K2は車内で待機した一方{{Sfn|福岡高裁|2007|p=13}}、K1・K3・K4の3人が同宅へ向かうことになった{{Sfn|鈴木智彦|2017|p=174}}。3人はその途中で新聞配達員とすれ違ったが、早朝散歩を装って挨拶してやり過ごし、A1の携帯電話からK4が取り外していた鍵を使って玄関から同宅に侵入した{{Sfn|鈴木智彦|2017|p=174}}。その際、同宅で飼われていた座敷犬{{Efn2|この犬はA3を殺害した際にはいなかったことから、K4はA2が部屋に入れたのだろうと述べている{{Sfn|鈴木智彦|2017|p=177}}。}}が鳴いたり、K4たちの足に飛びついたりしたため、K4とK3はこの犬を蹴り飛ばし、最終的にはK1が頭を踏みつけて殺している{{Sfn|鈴木智彦|2017|pp=177-178}}。その後、3人はK2が言っていた「隠し場所」のベッドも含めてA1宅を念入りに物色し、K4がベッドの横(A3殺害時に奪った金庫があった場所の脇)に押し込まれた衣服の中から、別の金庫が埋まっているのを見つけた{{Sfn|鈴木智彦|2017|p=178}}。しかしK4が金庫を解錠したところ、中身は土地・家の権利書、借用書、指輪などの宝石鑑定書のみだったため、K1は足がつくことを恐れ、それらの書類をすべて金庫に戻すよう命じた{{Sfn|鈴木智彦|2017|p=179}}。一方でK3とK4はA3を殺害した際、A1宅の金庫から奪った指輪を質入れしていたため、その鑑定書が残っていれば警察が指輪を探すうちに犯行が発覚することを懸念したため<ref name="西日本新聞冒頭陳述"/>、K4は鑑定書と指輪を盗み出し、同宅近くの電柱下に隠した<ref name="読売新聞冒頭陳述"/>。K1はその後も物色を続けたが、結局それ以外に金品を発見することはできず{{Sfn|鈴木智彦|2017|p=180}}、最終的に物色を断念し<ref name="読売新聞冒頭陳述"/>、3人でK2の待っていた車に戻った{{Sfn|鈴木智彦|2017|p=180}}。 |
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その上でK3・K4兄弟はともに<ref name="読売新聞2006-10-18 判決要旨"/>大牟田市小浜町のA宅へ向かい、家人殺害の実行を決意した<ref name="読売新聞2006-10-18 判決要旨"/>{{Refnest|group="注"|なおこの際、K3はK4に「やらないと一番下の弟(K4の1歳年下の実弟、一家の三男)に(殺害行為を)やらせる。お前の女(K4のガールフレンド)も口封じに殺す」と脅迫した<ref name="全員死刑 p.32">{{Harvtxt|鈴木智彦|2017|p=32}}</ref>。}}。2004年9月16日22時40分ごろ<ref name="読売新聞2005-03-16 冒頭陳述"/>、K4はA宅に入ると2階室内にいた被害者Cを見つけ、Cの首をタオルで絞めたが<ref name="読売新聞2006-10-18 判決要旨"/>、この時点ではCは死亡せず失神しただけだった<ref name="読売新聞2005-03-16 冒頭陳述"/><ref name="読売新聞2006-10-18 判決要旨"/>。 |
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同日4時30分ごろ、K2は走行中のMPV車内でA1の手提げバッグを物色し、現金約26万円を奪った{{Sfn|福岡高裁|2007|p=9}}。その後、K3とK4は大牟田駅のコインパーキングで車を降りたが、その際にK2は約26万円のうち10万円をK3に与え{{Efn2|K2はK3に奪った現金の一部を手渡した理由について、公判で「余計な頼みで一緒に時間を潰してくれたから」と述べている<ref name="有明新報2005-07-06">『有明新報』平成17年(2005年)7月6日付9頁「諏訪川4人殺害事件 K2被告を証人尋問 K3被告の関与に質問集中」(有明新報社)</ref>。}}{{Sfn|鈴木智彦|2017|p=181}}、K3はその半分である5万円をK4に渡した<ref name="読売新聞冒頭陳述"/>。 |
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K3・K4兄弟はこの時点では殺害に失敗していたことに気づかぬまま、A宅の室内から指輪など約398万円相当が入った金庫1個を見つけて盗み出し<ref name="読売新聞2006-10-18 判決要旨"/>、乗用車に積み込んだほか、K4が失神したCを「既に死んだ」と思い込んだまま乗用車のトランクに押し込んだ<ref name="読売新聞2005-03-16 冒頭陳述"/>。その後、K3が乗用車を運転して大牟田市内を走行していたが<ref name="読売新聞2005-03-16 冒頭陳述"/>、まだ生きていたCが途中で息を吹き返して車内で暴れ出した<ref name="読売新聞2006-10-18 判決要旨"/>。K4は「通報しないよう脅して帰せばいい」と殺害を躊躇するような発言をしたが、K3が「Cは絶対に通報するから殺せ」と発言し<ref name="全員死刑 p.42">{{Harvtxt|鈴木智彦|2017|p=42}}</ref>、Cにとどめを刺すこととなった。 |
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K3・K4は隠した鑑定書などを持ち出し<ref name="読売新聞冒頭陳述"/>、K3は同月19日、奪った指輪4個を質入れして2万1,000円を得ている{{Sfn|福岡高裁|2007|p=13}}。また、K1・K2は奪った現金を電話料金や飲食費の支払い、上部団体への上納金などに遣った{{Efn2|検察官の冒頭陳述書によれば、建設作業員の出張費にも奪われた金の一部が遣われている<ref name="読売新聞冒頭陳述"/>。}}{{Sfn|福岡高裁|2007|p=13}}。検察官の冒頭陳述書によれば、K3も奪った金を家賃の支払いに充てている<ref name="読売新聞冒頭陳述"/>。 |
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K3・K4兄弟は2004年9月16日23時45分ごろ、諏訪川に架かる「馬沖橋」で<ref name="読売新聞2006-10-18 判決要旨"/>乗用車を停車すると<ref name="読売新聞2005-03-16 冒頭陳述"/>、橋の上でトランクを開けてCの首にロープを掛け、2人がかりで再びCの首を絞め<ref name="読売新聞2006-10-18 判決要旨"/>、Cの体にコンクリートブロック3個を結び付けた上でCを諏訪川に投げ込み殺害した(強盗殺人罪)<ref name="読売新聞2005-03-16 冒頭陳述"/><ref name="読売新聞2006-10-18 判決要旨"/>。Cの死因は「窒息死もしくは溺死」と認定されている<ref name="読売新聞2006-10-18 判決要旨"/>。 |
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=== 犯行後 === |
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18日午後、K3は福岡県内の自動車整備工場を訪れ、犯行に用いたプレジデントのトランクや車内の清掃、車体のポリマー加工費用を尋ねていたが、その際に店員に対し「変な生ゴミば入れとったもんで、汚れとるったい」と言っており、店員が確認したところ、トランクには掌大の黒いシミがあったほか、その周囲には土が付着していた{{Sfn|小野一光|2004|p=98}}。その後、K3は22日に再び同店を訪れてトランク清掃を依頼したが、店側から多忙を理由に断られていた{{Sfn|小野一光|2004|p=98}}。 |
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その一方で母K2は夫K1から「自宅アパートにAを連れて行き監視しておけ」と指示され<ref name="読売新聞2005-03-16 冒頭陳述"/>、Aを自車に乗せた上で組事務所のある自宅アパート(大牟田市本町四丁目のアパート<ref name="朝日新聞2004-10-04 西部朝刊">『朝日新聞』2004年10月4日朝刊第二社会面34面「出入りアパートを現場検証 大牟田・3容疑者 【西部】」</ref>{{Refnest|group="注"|JR大牟田駅付近の住宅密集地に所在し、被害者A宅から約600m離れた地点の木造アパート<ref name="毎日新聞2004-10-04 西部朝刊1面">『毎日新聞』2004年10月4日西部朝刊1面「福岡・大牟田の死体遺棄:アパートを実況見分 『暴行の音』証言、殺害現場か」</ref>。アパートは2階建てで1階は車庫・2階が居室4部屋になっていた<ref name="読売新聞2004-10-04 西部朝刊"/><ref name="毎日新聞2004-10-04 西部朝刊1面"/><ref name="読売新聞2004-10-04 西部朝刊"/>。}})まで連行したが<ref name="読売新聞2006-10-18 判決要旨"/>殺害に踏み切れずにいた<ref name="読売新聞2005-03-16 冒頭陳述"/>。K1・K2夫妻は犯行当日の9月17日ごろの深夜、ひどく落ち込んだ様子で玄関に座り込んでいるのを知人女性に目撃されていた<ref name="読売新聞2004-10-08 西部夕刊"/>。 |
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犯行に用いられたワゴン車は23日早朝まで、K1宅付近の駐車場に置いてあったが<ref name="西日本新聞2004-09-28"/>、K4はK2の逮捕に前後して(自身が逮捕される前)、大牟田市内の自動車整備工場にこの車を持ち込み、廃車処分にするよう依頼した<ref name="読売新聞2004-09-28">{{Cite news|和書 |title=K4容疑者が事件後に廃車依頼…証拠隠滅か : 大牟田4人殺害事件 : ニュース特集 : 九州発 |newspaper=[[読売新聞オンライン|YOMIURI ONLINE]] |date=2004-09-28 |edition= |url=http://kyushu.yomiuri.co.jp/news-spe/omuta/0409/om_409_04092801.htm |publisher=読売新聞西部本社 |language=ja |archive-url=https://web.archive.org/web/20080430141531/http://kyushu.yomiuri.co.jp/news-spe/omuta/0409/om_409_04092801.htm |archive-date=2008年4月30日}}</ref>。この自動車整備工場は北村組の事務所になっていた本町四丁目のアパート([[#一家4人で共謀|前述]])付近にあり、同アパートの元所有者でもあった<ref name="西日本新聞2004-10-04"/>。また、同工場にはK4の親族が約1年前まで勤務しており、経営者はK1一家とも面識があった<ref name="西日本新聞2004-09-28"/>。しかし当日は経営者が不在だったため、車は建物内に保管されており、25日に経営者が従業員から説明を受けた<ref name="西日本新聞2004-09-28">{{Cite news|和書 |title=大牟田・4人殺害 ワゴン車を廃車依頼 整備工場 容疑者関係者が搬入 |newspaper=西日本新聞 |date=2004-09-28 |edition=朝刊 |url=http://www.nishinippon.co.jp/news/2004/oomuta/kiji/040928.html |publisher=西日本新聞社 |language=ja |archive-url=https://web.archive.org/web/20110922053052/http://www.nishinippon.co.jp/news/2004/oomuta/kiji/040928.html |archive-date=2011年9月22日}}</ref>。また、工場の関係者が見たところ、車は年式こそ古かったものの目立った傷はなく、廃車にする必要性は感じなかったという<ref>『読売新聞』2004年9月28日西部朝刊社会面35頁「福岡・大牟田の連続殺人 K4容疑者、事件後修理工場に廃車依頼 証拠隠滅図る?」(読売新聞西部本社)</ref>。『朝日新聞』によれば、K4が逮捕されたことを知った工場の関係者が「廃車にしたら証拠隠滅になるおそれがある」と考えてそのまま放置しており、26日に県警によって押収されたという<ref name="朝日新聞2004-09-28夕刊"/>。県警がこの車を調べたところ、車内から血液反応が確認されている<ref name="朝日新聞2004-09-28夕刊">『朝日新聞』2004年9月28日西部夕刊第一社会面9頁「2少年が撃たれた銃、組員と同口径 大牟田・遺棄事件」(朝日新聞西部本社)</ref>。 |
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K2が2004年9月17日10時ごろに長男K3に電話で相談したところ、K3は「殺しきれないなら俺が殺してやる」と申し出た<ref name="読売新聞2005-03-16 冒頭陳述"/>。その一方で2004年9月17日13時ごろ、Aの長男B(事件当時18歳)からBの友人らに対し「弟Cがいない」と連絡があったため、Bとその友人らは後にBとともに殺害された少年D(事件当時17歳)を含めた6人でCの行方を捜索したが、発見できなかったため翌9月18日2時ごろ解散した<ref name="読売新聞2004-09-23 東京朝刊1面"/>。B・Dとも仲間と解散してから約2時間後の9月18日4時ごろに<ref name="読売新聞2004-09-23 東京朝刊1面"/>行方不明になって友人たちとの連絡が途絶えたほか<ref name="読売新聞2004-09-24 西部朝刊1面"/>、それに前後して母Aも知人らとの連絡が途絶え行方不明になった<ref name="読売新聞2004-09-24 西部朝刊1面"/>。 |
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== 捜査 == |
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殺害方法の思案がつかなかったK2が14時ごろ、再びK3に<ref name="読売新聞2005-03-16 冒頭陳述"/>「もうどうしようもない。お母さんを助けて」と<ref name="読売新聞2005-03-16 冒頭陳述"/>電話で助けを求めてきたため<ref name="読売新聞2006-10-18 判決要旨"/>、K3は「K4にAの殺害を実行させよう」と考え、乗用車内で「おふくろがAを殺せと言っている」などと協力を求めた上で「飲食物に睡眠導入剤を混ぜ眠らせた上で殺害する」と決めた<ref name="読売新聞2005-03-16 冒頭陳述"/>。 |
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File:Ōmuta murders Corpse abandonment site Panorama, on 2019-12-24 in Omuta, Fukuoka.jpg|x270px|center |
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<div class="thumbcaption">被害者4人の遺棄現場となった大牟田市内を流れる諏訪川。「馬沖橋」({{ウィキ座標|33.011889|||N|130.446167|||E||座標}}:写真右手奥に見える橋)からA3が投げ捨てられて殺害され、A1・A2・Bの3人の遺体はA1の乗用車もろとも撮影地点付近({{ウィキ座標|33.010806|||N|130.442754|||E||座標}}:馬沖橋から約350 m下流地点)に沈められた。写真左手奥に見える水門は「三井水門」({{ウィキ座標|33.01140226507038|||N|130.44118242337683|||E||座標}}){{Sfn|ゼンリン|2004|loc=156頁G-5}}</div></div> |
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=== 発覚前 === |
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K2は同日15時ごろになってK3から電話で「殺すなら眠らせた方がいい。食べ物か飲み物に睡眠薬を入れてきてやろうか」と伝えられたため、Aから好物を聞いた上で「お茶と弁当を届けてほしい」と頼み、K3は睡眠導入剤12錠をすり潰してタルタルソースに混ぜた上で弁当のおかずに掛け、弁当を元通り包装した上で<ref name="読売新聞2005-03-16 冒頭陳述"/>弁当をアパートに持って行き<ref name="読売新聞2006-10-18 判決要旨"/>、K2に手渡した<ref name="読売新聞2005-03-16 冒頭陳述"/>。K2の勧めでその弁当を食べたAは間もなく寝入ったため<ref name="読売新聞2005-03-16 冒頭陳述"/>、K2は夫K1を呼び、K3・K4も加えて4人で殺害・遺棄方法などを相談した<ref name="読売新聞2005-03-16 冒頭陳述"/><ref name="読売新聞2006-10-18 判決要旨"/>。この時、Aの長男BにA・K2が2人で一緒に行動していたことを知られていたため<ref name="読売新聞2005-03-16 冒頭陳述"/>、夫K1は「Aの長男Bも口封じのために殺し、Aの軽乗用車に2人の遺体を乗せ諏訪川に沈めよう」と主張し、4人の殺害共謀が成立した<ref name="読売新聞2006-10-18 判決要旨"/>。 |
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17日からA3が高校に登校しなくなり、19日にはA3とBについてそれぞれ、[[福岡県警察]]の所轄警察署である[[大牟田警察署]]へ捜索願が出された{{Efn2|『西日本新聞』 (2004) によれば同日、行方不明になっていたA3について捜索願が出された<ref name="西日本新聞2004-09-23"/>。また、Bの家出人捜索願は19日午前、Bの母親が出したものである<ref name="有明新報2004-09-25">『有明新報』平成16年(2004年)9月25日付9頁「諏訪川の死体遺棄事件 川底の車から遺体発見 行方不明の母らと判明」(有明新報社)</ref>。}}<ref name="西日本新聞2004-09-23">『西日本新聞』2004年9月23日朝刊第19版一面1頁「大牟田・死体遺棄事件 「一家3人殺した」 容疑の女が供述 男の声で脅迫電話も」(西日本新聞社)</ref><ref name="毎日新聞2004-09-27">『毎日新聞』2004年9月27日西部朝刊社会面29頁「福岡・大牟田の死体遺棄 脅迫電話は友人 県警動かすため--不明段階でBさん宅に」(毎日新聞西部本社)</ref>。同日、K2はBの母親が息子の行方を尋ねてきた際に「知らない」と答えていた<ref name="朝日新聞2004-10-14">『朝日新聞』2004年10月14日西部朝刊第一社会面31頁「「A家みんな不明」K2容疑者、心配装う 大牟田事件【西部】」(朝日新聞西部本社)</ref>。一方、同日にはK4が両親にA3殺害の事実を打ち明けたが、それを聞いた両親はA3の遺体の処理方法(体にブロックをくくりつけただけ)ではいずれ遺体が腐乱して浮き上がってくることを危惧したため、K1はK4に対し、川に潜って遺体を引き上げ、人目につかない方法で処理するよう命じた{{Sfn|鈴木智彦|2017|p=176}}。このためK4は知人から水中眼鏡を借りて諏訪川に潜り、自身が遺棄したA3の遺体を発見したが、遺体は既に損傷が激しかったため、引き上げることを断念している{{Sfn|鈴木智彦|2017|pp=176-177}}。同日にはK1がK4に酷似した男と一緒に、遺体発見現場付近で諏訪川を見つめながらゆっくり歩いている姿を近隣住民に目撃されている<ref name="読売新聞2004-10-08夕刊"/>。 |
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K2は9月20日、A3の親族に電話をかけて「A3が家出して行方不明になっている」と伝え、さらに他の被害者3人 (A1・A2・B) も行方不明になっていることを話した後、自宅を訪れたその親族{{Efn2|事件後、A1の母親がK2のもとを訪れて(当時行方不明だった)3人について尋ねていたことが報じられている<ref name="朝日新聞2006-05-03福岡"/>。}}と3時間あまり話したが、その際には4人の行方を心配する素振りを見せていた<ref name="朝日新聞2004-10-14"/>。またその場にはK4も居合わせていたが、彼は落ち着かない様子を見せていたという<ref name="朝日新聞2004-10-14"/>。一方、K4は同日に開かれた保育園の運動会を見に行った際、その会場でK2に対し、「おれは4人殺したけど、4人の中でA3のときが一番気持ち悪かったばい」と打ち明けている{{Sfn|集刑304号|2012|p=336}}。 |
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K1・K2・K3・K4の一家4人は2004年9月18日0時ごろ<ref name="読売新聞2005-03-16 冒頭陳述"/>、意識が朦朧としていたAをワゴン車に乗せ大牟田市内の岸壁まで連行し<ref name="読売新聞2006-10-18 判決要旨"/>、30分後の0時30分ごろに大牟田港岸壁に駐車したワゴン車内で<ref name="読売新聞2005-03-16 冒頭陳述"/>次男K4がAの首をワイヤー錠で絞め、Aを殺害した(強盗殺人罪)<ref name="読売新聞2005-03-16 冒頭陳述"/>。兄K3はこの時、殺害行為を実行していた弟K4にたばこを手渡したりワゴン車の窓に指で「人殺し」と書いて冷やかしたりしており、K4もK3から受け取ったたばこを吸い、笑いながらAの首を絞め続けていた<ref name="読売新聞2005-03-16 冒頭陳述"/>。 |
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同日午前には、B宅に男の声で「B君の命はない」などという電話が掛かり、Bの家族が大牟田署に通報した<ref name="毎日新聞2004-09-27"/>。これを受けた県警はBが事件に巻き込まれた可能性が高いと判断し<ref name="毎日新聞2004-09-27"/>、誘拐事件の可能性もあるとして<ref name="西日本新聞2004-09-23"/>、県警本部の捜査一課を投入して本格捜査に乗り出し、その過程でA1一家も行方不明になっていることが判明した<ref name="毎日新聞2004-09-27"/>。なお、この脅迫電話はK1ら犯人側によるものではなく、県警が本格的に動かないことを懸念したBの友人が「脅迫電話をすれば、事件として扱ってもらえる」と考えて掛けたものだった<ref name="毎日新聞2004-09-27"/>。『週刊新潮』 (2004) は、19日にBの母親とA2の彼女が大牟田署に捜索願を出したものの、「事件性はない」と相手にされなかったことから、4人の失踪にK1一家が絡んでいると確信していたA2の仲間が警察を動かそうと考え、狂言の脅迫電話を掛けたと報じている{{Sfn|週刊新潮|2004|p=158}}。一方で同日昼ごろ、K2・K4が組事務所のあった本町四丁目のアパート前で目撃されていたが、目撃者(同アパート近隣の住民)によれば普段K4の姿を見かけるのは夕方以降が多く、印象に残ったという<ref>『西日本新聞』2004年10月4日夕刊第10版第一社会面11頁「大牟田・4人殺害 K2・K4容疑者 発覚直前 組事務所前に 住民が目撃」(西日本新聞社)</ref>。 |
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K2は助手席で次男K4がAの首を絞め始めるのを見てからいったん車外に出たが、Aが死亡したことを確認したK1から「もういい、死んだ」と聞かされても「Aが息を吹き返すのではないか?」と心配したためK4に「Aの首を絞め続けて」と指示した<ref name="読売新聞2005-03-16 冒頭陳述"/>。Aを殺害後、ワゴン車内ではAの遺体が見えないようビニールシートを被せたが、K4はAの遺体の上に座ったり寝そべったりしていた<ref name="読売新聞2005-03-16 冒頭陳述"/>。 |
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=== 事件発覚 === |
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A3が通学していた[[福岡県立大牟田北高等学校|大牟田北高校]]は連休明けの9月21日に県警から問い合わせを受け、担任教諭が1日に数回A3宅に電話を入れたが、本人とも家族とも連絡がつかず<ref>『産経新聞』2004年9月23日東京朝刊第一社会面「大牟田「4人殺害、遺棄」 金銭トラブル動機? 容疑者夫の組員、署内で自殺図る」(産経新聞東京本社)</ref>、同日11時ごろになって、諏訪川に浮いているA3の遺体が発見された<ref name="西日本新聞2004-09-22"/>。21日夜、K1は大牟田市内の飲食店で飲酒していたが、その際に「やれることはやった」などの独り言を何度も呟いていた<ref name="読売新聞2004-10-08夕刊"/>。また、同店で「オレはこれでもう最後やからなあ」と呟いたという証言もある{{Sfn|週刊ポスト|2004|p=205}}。 |
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Aを殺害後、4人はいったん解散してから自宅で再度合流し、2004年9月18日1時35分ごろにワゴン車で移動しながら「Bも殺して軽乗用車にA・B両名の遺体を乗せ、車ごと諏訪川に沈めよう」と話し合い、その計画通りにA宅から現金などを捜し出すことにした<ref name="読売新聞2005-03-16 冒頭陳述"/>。A宅付近でK2以外の3人が降車し軍手を嵌めて歩いていたところ<ref name="読売新聞2005-03-16 冒頭陳述"/>、Aの長男Bがちょうど軽乗用車で家に戻っていたほか、Bが運転していた軽乗用車の助手席にはBの友人だった少年Dが乗車していた<ref name="読売新聞2005-03-16 冒頭陳述"/><ref name="読売新聞2006-10-18 判決要旨"/>。B・D両名はB・C兄弟の母Aの車にともに同乗しCの行方を捜していた<ref name="読売新聞2004-09-24 西部朝刊1面"/>。 |
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A1も行方不明になっていたため、捜査一課はA1と最後に会った人物であるK2が事情を知っているものと見て事情聴取を行い{{Efn2|深笛義也 (2013) によれば、K2はA3の遺体が発見される少し前から大牟田署に参考人として呼ばれ、事情聴取されていた{{Sfn|深笛義也|2013|p=172}}。}}<ref name="東京新聞2004-09-23">『東京新聞』2004年9月23日朝刊一面1頁「『4人殺し、捨てた』 逮捕の女 少年の母から借金か 福岡・大牟田」(中日新聞東京本社)</ref>、翌22日0時53分、捜査一課と大牟田署はK2をA3に対する死体遺棄容疑で逮捕した<ref>『日刊大牟田』2004年9月23日号(第5265号)1頁「高1男子遺体で発見 現場は諏訪川 知り合いの母親逮捕 橋から死体遺棄の容疑」「遺体に複数のブロック 容疑者の夫、自殺未遂」(日刊総合調査企画)</ref>。K2の当初の逮捕容疑は、18日早朝に「馬沖橋」{{Efn2|name="馬沖橋"}}からA3の遺体を投棄したという死体遺棄容疑だったが<ref name="西日本新聞2004-09-22"/>、同容疑については同月12日付で福岡地検久留米支部から処分保留とされ<ref name="読売新聞2004-10-15">『読売新聞』2004年10月15日西部朝刊社会面35頁「福岡・大牟田4人殺害 K4容疑者、処分保留に/地検久留米支部」(読売新聞西部本社)</ref>、最終的には嫌疑不十分で不起訴処分となっている<ref name="西日本新聞2004-12-28"/>。K2は警察から任意の呼び出しを受けた際、着替えや洗面用具一式を持って出頭している{{Sfn|鈴木智彦|2017|p=190}}。また、K2が出頭することになった際、K4は「おかん、おれが1人でもう行くけん」「おれがもう警察に行くからいいって、おかんはいいから」と繰り返し言ったが、K2は聞かなかったため、K4は「苦しなったら、おれの名前いいな」と声を掛けている{{Sfn|集刑304号|2012|p=323}}。同日には北村組の事務所に家宅捜索が入ったが、配下の組員たちはその時点までK2が逮捕されたことも、K1が大牟田署内で自殺未遂事件([[#K1の自殺未遂|後述]])を起こしたことも知らなかったという{{Sfn|鈴木智彦|2017|pp=191-193}}。 |
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K4が「2人いるぞ」と兄K3に尋ねると<ref name="読売新聞2006-10-18 判決要旨"/>、自分たちの顔を見られたため<ref name="読売新聞2005-03-16 冒頭陳述"/>K3は「殺そう」と述べた<ref name="読売新聞2006-10-18 判決要旨"/>。K1は「2人いるから(殺すには)拳銃の方がいいだろう」と言い<ref name="読売新聞2005-03-16 冒頭陳述"/><ref name="読売新聞2006-10-18 判決要旨"/>、25口径自動式拳銃「[[FN ブローニング・ベビー]]」を取り出し<ref name="朝日新聞2004-09-28 西部夕刊"/>次男K4へ渡した<ref name="読売新聞2005-03-16 冒頭陳述"/><ref name="読売新聞2006-10-18 判決要旨"/>。K3・K4兄弟はBに対し「Cを一緒に探すふりをして」B・D両名を殺害することを計画し<ref name="読売新聞2005-03-16 冒頭陳述"/>、2時ごろに<ref name="読売新聞2005-03-16 冒頭陳述"/>B・D両名に嘘をついた上で<ref name="読売新聞2006-10-18 判決要旨"/>Bの運転していた軽乗用車へ乗り込み、B・Dの2人を後部座席に移動させた<ref name="読売新聞2005-03-16 冒頭陳述"/>。 |
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23日、県警は同容疑でK2を[[福岡地方検察庁]]久留米支部へ[[送致|送検]]した<ref>『有明新報』平成16年(2004年)9月24日付9頁「諏訪川の死体遺棄事件容疑者を送検 被害少年の母などの捜索続く 県警捜査一課と大牟田署」(有明新報社)</ref>。県警捜査一課と大牟田署が同日10時過ぎから署員や機動隊を動員して諏訪川を捜索したところ、同日18時過ぎになって「馬沖橋」の下流約350 m地点からA1の軽乗用車([[スズキ・ワゴンR|ワゴンR]])が発見され、車内から行方不明になっていた被害者3人 (A1・A2・B) の遺体が発見された{{Efn2|遺体の身元確認および、車の車台番号による特定は翌24日<ref name="日本経済新聞2004-09-25">『日本経済新聞』2004年9月25日西部朝刊社会面17頁「大牟田遺棄車内3遺体、不明の母らと確認――ナンバー外し偽装図る?」(日本経済新聞西部本社)</ref>。}}<ref name="有明新報2004-09-25"/>。発見時、車は川底に堆積したヘドロ状の汚泥の中に前のめりに沈んでいたという<ref>『西日本新聞』2004年9月24日朝刊第18版第一社会面(事件・人・話題)27頁「大牟田・3遺体発見 なぜ4人も…最悪結末 泥の川 変わり果て やるせなさ広がる現場」「「A3っ…」むせび泣き 同級生3人花束で追悼」(西日本新聞社)</ref>。これを受け、捜査一課と大牟田署は署内に92人体制の「大牟田市内における連続四名殺人並びに死体遺棄事件捜査本部」を設置した<ref name="有明新報2004-09-25"/>。 |
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一方でK1は自分のワゴン車に戻り、K2に「B・Dの2人を殺す」と話して了承を得ると<ref name="読売新聞2005-03-16 冒頭陳述"/>、K3に対し携帯電話で「うろうろしないで早く発射しろ」と指示した<ref name="読売新聞2005-03-16 冒頭陳述"/>。2004年9月18日2時15分ごろ<ref name="読売新聞2005-03-16 冒頭陳述"/>、大牟田川河口の岸壁{{Refnest|group="注"|大牟田市新開町の大牟田港岸壁<ref name="読売新聞2004-11-17 西部朝刊"/>。}}まで走ったところで<ref name="読売新聞2006-10-18 判決要旨"/>助手席に座っていたK4は<ref name="読売新聞2005-03-16 冒頭陳述"/>拳銃を取り出すと<ref name="読売新聞2006-10-18 判決要旨"/>、A宅の現金保管場所を聞き出すため「先にDをBの目の前で撃とう」と考え<ref name="読売新聞2005-03-16 冒頭陳述"/>、Dに「これはモデルガンだ。音が出るだけで弾は出ない」などと言いつつ頭部に1発発砲した<ref name="読売新聞2006-10-18 判決要旨"/>。そしてDが撃たれる姿を目の当たりにしたBにも「CもAも俺が殺した。お前の家に2,000万円あるだろう。金はどこにある?」と問うたが、Bが「知らない」と答えたため<ref name="読売新聞2005-03-16 冒頭陳述"/>、「すまないがお前も殺すことになっている」と言い、Bの左耳こめかみに1発拳銃を発砲した<ref name="読売新聞2006-10-18 判決要旨"/>。 |
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==== 一家4人を逮捕 ==== |
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その間、K1・K2夫妻は長男K3から携帯電話で「頭を撃ったがまだ2人とも生きている」と報告を受けたため、K1が「胸を撃て」「(装填されている弾を)3発ずつ、6発全部撃て」と指示し、K2を通じてK4に伝えさせた<ref name="読売新聞2005-03-16 冒頭陳述"/>。K4はさらにBの胸へ計2発ずつ拳銃を発射してBを射殺した(殺人罪)が<ref name="読売新聞2005-03-16 冒頭陳述"/><ref name="読売新聞2006-10-18 判決要旨"/>、この時点でも生きていたDはK4が待ち合わせ場所に向かう際に呻き声を上げた<ref name="読売新聞2005-03-16 冒頭陳述"/>。K1・K2夫妻とK3・K4兄弟が合流した後、K4はK1から「アイスピックでとどめを刺せ」と指示を受け、アイスピックでDの左胸を突き刺し<ref name="読売新聞2005-03-16 冒頭陳述"/>、Dを刺殺した(殺人罪)<ref name="読売新聞2006-10-18 判決要旨"/>。 |
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動機については、K3・K4兄弟の率いるグループと、A2・A3兄弟の属するグループの間で女性関係を巡るトラブルがあったという可能性も指摘されていたが{{Sfn|週刊新潮2|2004|p=151}}、最終的には金銭トラブルが主な動機とされている。事件発覚後もK3・K4は変わらず暴力団に出入りしており、K3は事件について質問されても関与を否定していたが、4人全員が逮捕されて以降、事態を重く見た上部団体は配下組員に対し、K1一家との接触禁止令を出している{{Sfn|鈴木智彦|2017|p=194}}。 |
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===== K1の自殺未遂 ===== |
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K1は22日9時ごろ<ref name="読売新聞2004-09-22"/>ないし9時10分ごろ<ref name="有明新報2004-09-23">『有明新報』平成16年(2004年)9月23日付7頁「少年の遺体 川に遺棄 45歳女を逮捕 県警捜査一課と大牟田署 事情聴取中の夫 自殺図る 首と足にブロック」(有明新報社)</ref>、妻K2が逮捕されたことを知って大牟田署に出頭した{{Efn2|当時、K1に出頭要請は出ていなかった<ref name="読売新聞2004-09-23">『読売新聞』2004年9月23日西部朝刊社会面39頁「福岡・大牟田の高1遺体 「まさか家族全員が」 知人ら言葉失う」(読売新聞西部本社)</ref>。}}<ref name="西日本新聞2004-09-22"/>。この時、K1は自宅に「母さんを守っていってください。許してください」などという内容の遺書を残していた<ref name="有明新報2006-04-26"/>。また、出頭前にはカーテンを閉め切り、他人を寄せ付けようとしなかったため、K4はK1が自殺するのではないかと心配していたという{{Sfn|鈴木智彦|2017|p=190}}。 |
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2004年9月18日2時40分 - 50分ごろ、K3・K4兄弟がAの遺体をワゴン車から軽乗用車の後部トランクに移動させ、いったん4人で帰宅した<ref name="読売新聞2005-03-16 冒頭陳述"/>。その後、4人は馬沖橋付近から約350メートル(m)下流地点<ref name="読売新聞2004-09-24 東京朝刊"/>へ移動し、そこでA・B・Dの遺体を遺棄した。 |
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K1は署2階の刑事課に上がると「妻が逮捕された理由を聞きたい」と申し出、取調室で捜査員1人から約1時間に渡り、机を挟んで事情の説明を受けていた<ref name="読売新聞2004-09-23"/>。K1は取調室で捜査員と1対1で、任意の事情聴取を受けていたが<ref name="西日本新聞2004-09-22"/>、10時16分ごろに持っていた拳銃で自身の頭を撃って自殺を図った<ref name="読売新聞2004-09-22">『読売新聞』2004年9月22日西部夕刊社会面7頁「高1男子遺体、川に遺棄 容疑の女逮捕 母ら3人も不明/福岡・大牟田」(読売新聞西部本社)</ref>。この拳銃は、A2・Bの殺害に用いられた凶器でもある「ブローニング・ベビー」であり<ref name="毎日新聞2004-10-08">『毎日新聞』2004年10月8日西部朝刊社会面27頁「福岡・大牟田の死体遺棄 K1・暴力団幹部も逮捕 「殺害」も供述」(毎日新聞西部本社)</ref>、適合実包6発(発射した1発を含む数)が装填されていたほか、K1の着衣ポケット内にも適合実包2発が入っていた<ref name="有明新報冒頭陳述"/>。しかし銃弾は脳内に入らず前額部で止まっており<ref name="西日本新聞2004-10-08社会"/>、命に別状はなかった<ref name="西日本新聞2004-09-23"/>。 |
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Cの遺体遺棄現場である馬沖橋付近の堤防に移動し<ref name="読売新聞2006-10-18 判決要旨"/>、諏訪川左岸の土手から<ref name="西日本新聞2004-10-23"/>K1が運転席を車外から操作して<ref name="読売新聞2005-03-16 冒頭陳述"/>A・B・Dの計3人の遺体を乗せた軽乗用車を川に向かって走らせ、水没させることで遺体を遺棄した(死体遺棄罪)<ref name="読売新聞2006-10-18 判決要旨"/>。この時、K4は証拠隠滅のためAの軽乗用車の前後[[ナンバープレート]]を取り外して<ref name="読売新聞2006-10-18 判決要旨"/>諏訪川に投げ捨てたほか、K3は対岸の道路に乗用車を駐車することで他の車が道路に入ってこないようにした<ref name="読売新聞2005-03-16 冒頭陳述"/>。 |
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検察官は冒頭陳述でこの拳銃自殺未遂事件について、K1がK2らを庇うため、自分の単独犯行と主張した上で自殺しようと決意し、実行したと述べている<ref name="有明新報冒頭陳述"/>。K1自身も第一審の公判で、動機について「私が真犯人だから[[自首]]して自殺しようと思った」<ref name="有明新報2006-04-19"/>「自分の命で償うしかない」などと述べている<ref name="有明新報2006-04-26"/>。大牟田署副所長の縄田和生は、この時点ではK1はあくまで「参考人」に過ぎず、逮捕した被疑者や不審人物などのように所持品検査を強制することはできなかったと説明している<ref>『西日本新聞』2004年9月23日朝刊第19版第二社会面(事件・人・話題)32頁「取調室 まさかの発砲 容疑者の夫 自殺未遂 検査強制できず 「関係者」で署に 県警、対応に苦慮」(西日本新聞社)</ref>。 |
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=== A宅での強盗・証拠隠滅 === |
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帰宅した4人は計画通り大牟田市小浜町内のA宅から現金を奪うことに決め<ref name="読売新聞2005-03-16 冒頭陳述"/>、夜明け前にA宅に向かっていたが、途中で新聞配達員がバイクで走り回っていることを確認したK1が「K3の車は目立つから[[大牟田駅]]の駐車場に駐車させて俺の車で回ろう」とK4を通じてK3に伝え、K3の車を大牟田駅前の地下パーキングに駐車させた<ref name="全員死刑 p.173-174">{{Harvtxt|鈴木智彦|2017|p=173-174}}</ref>。 |
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K1は頭部を負傷して病院に入院したが、後に額に残っていた銃弾の摘出手術を受け、傷口もほぼ回復した<ref name="西日本新聞2004-10-07">『西日本新聞』2004年10月7日夕刊第10版第一社会面9頁「大牟田・4人殺害 K1幹部一両日中逮捕へ 県警 事件関与取り調べ」(西日本新聞社)</ref>。医師が逮捕後の拘置に耐えられると判断したため、10月7日19時5分<ref name="有明新報2004-10-08"/>、K1はA1・A2・Bの3人に対する死体遺棄容疑で逮捕された<ref name="西日本新聞2004-10-08"/>。また、この自殺未遂事件について、K1は同年12月7日に銃刀法違反容疑で再逮捕され<ref name="西日本新聞2004-12-08"/>、同年12月17日に同罪(加重所持)で起訴されている<ref name="西日本新聞2004-12-18">『西日本新聞』2004年12月18日朝刊第19版第一社会面(事件・人・話題)31頁「大牟田4人殺害 銃刀法違反の罪でK1容疑者を起訴」(西日本新聞社)</ref>。 |
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K1・K3・K4の3人はA宅付近に駐車した車内にK2を残してA宅に向かう途中で新聞配達員と遭遇したが、先頭を歩いていたK4は逃げ隠れようとはせず、早朝の散歩を装って「おはようございます」と挨拶を交わし、K1・K3両名も同じく挨拶をしてやり過ごした<ref name="全員死刑 p.173-174"/>。3人はK4がAの携帯電話から取り外した家の鍵を使って玄関を開錠し、土足のままA宅に上がり込むと<ref name="全員死刑 p.173-174"/>、家じゅうで金目のものを探し回った<ref name="読売新聞2005-03-16 冒頭陳述"/>。結果、K3・K4兄弟が不動産の権利書・借用書・指輪などの宝石鑑定書を発見したが現金は発見できなかったため、K1が「ヘタに書類を持ち出すと足がつく」と指示し<ref name="全員死刑 p.177-178"/>、書類を持ち出すことを断念した<ref name="読売新聞2005-03-16 冒頭陳述"/>。物色途中、A宅で飼われていた座敷犬が大声で吠えていたためにK3・K4両名が蹴り飛ばし、最後はK1がとどめを刺す形で頭を踏み潰して殺害した<ref name="全員死刑 p.177-178">{{Harvtxt|鈴木智彦|2017|p=177-178}}</ref>。またK3・K4はCを殺害した際にA宅の金庫から奪った[[指輪]]を[[質屋]]に質入れし、K3はA宅から奪った指輪4個を質入れして現金21,000円を得たが、その鑑定書から事件が発覚することを恐れたK4は鑑定書・指輪を盗み出して付近の電柱下に隠した<ref name="読売新聞2005-03-16 冒頭陳述"/>。<!--その後K3・K4は、隠した鑑定書などを持ち出した<ref name="読売新聞2005-03-16 冒頭陳述"/>。--> |
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===== K4逮捕 ===== |
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K2は4時30分ごろ、ワゴン車内でAの手提げバッグ内から現金26万円を抜き取るとうち10万円をK3に与え、K3はその10万円のうち半分の5万円をK4に与えた<ref name="読売新聞2005-03-16 冒頭陳述"/>。奪った金についてK3は家賃支払い、K1・K2は電話料金支払い・建設作業員の出張費・暴力団の上納費などに費やした<ref name="読売新聞2005-03-16 冒頭陳述"/>。 |
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K2は逮捕当初、全て自分の単独犯である旨を主張していたが<ref name="西日本新聞2004-09-30">『西日本新聞』2004年9月30日朝刊第19版第一社会面(事件・人・話題)39頁「大牟田4人殺害 K4容疑者銃撃認める K2容疑者供述を一転「かばいたかった」」(西日本新聞社)</ref>、4人の遺棄現場について供述内容を二転三転させる、捜査員から見て「明らかに嘘」とわかるような供述をする、詳細について言葉を濁すなど、その供述内容には不自然な点が目立った<ref name="西日本新聞2004-09-27社会">『西日本新聞』2004年9月27日朝刊第19版第一社会面(事件・人・話題)33頁「大牟田・K2容疑者 息子らかばい虚偽供述? 県警「信用度2割程度」」(西日本新聞社)</ref>。また、捜査本部は女であるK2が1人で4人を殺害したり<ref name="東京新聞2004-09-26">『東京新聞』2004年9月26日朝刊社会面31頁「福岡の死体遺棄 K2容疑者の息子逮捕 A3さん遺体川に遺棄の疑い」(中日新聞東京本社)</ref>、車を川に押し込んだりすることは困難であると見ていたため<ref>『東京新聞』2004年9月25日朝刊社会面31頁「車内3人は射殺か 福岡連続殺人 身元を最終確認」(中日新聞東京本社)</ref>、共犯者の存在について調べた<ref name="東京新聞2004-09-26"/>。 |
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K4は事件が発覚した22日夕方、近隣住民に対し「お騒がせしてすみません。ご迷惑をお掛けしました」と挨拶していた<ref name="毎日新聞2004-09-26"/>。また、同日深夜には諏訪川が見えるコンビニの駐車場で、K3とともに呆然と立ち尽くしている姿が目撃されている<ref name="毎日新聞2004-10-18"/>。しかし翌23日夜、K4は市内で捜査員から任意同行を求められ、同日深夜にA3に対する死体遺棄容疑で逮捕された<ref name="西日本新聞2004-09-26">『西日本新聞』2004年9月26日朝刊第19版一面1頁「大牟田4人殺害 K2容疑者の息子逮捕 県警 A3さん遺棄容疑 4人の死にも関与?」(西日本新聞社)</ref>(25日に送検)<ref>『有明新報』平成16年(2004年)9月27日付7頁「大牟田市諏訪川事件 A3さんら4人の殺害にも関与か 死体遺棄で逮捕されたK2容疑者と息子追及へ」(有明新報社)</ref>。ただし、同容疑については10月15日付で処分保留とされ<ref name="読売新聞2004-10-15"/>、最終的には不起訴処分となっている([[#再逮捕・起訴|後述]])。 |
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K3・K4兄弟は9月18日夜になって「Cの遺体はブロックを結び付けただけなので浮かび上がってくるのではないか?」と心配し、両親にCの殺害を打ち明けると両親も一連の犯行発覚を恐れた<ref name="読売新聞2005-03-16 冒頭陳述"/>。そのためK4が諏訪川に潜り遺体を探したが見つけることはできず<ref name="読売新聞2005-03-16 冒頭陳述"/>、いったん自宅に戻ってから午後になって再び諏訪川を探したところ被害者Cの遺体を発見したが、既に遺体の腐敗が激しかったため触れることを躊躇した<ref name="全員死刑 p.179">{{Harvtxt|鈴木智彦|2017|p=179}}</ref>。 |
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K4は逮捕当初は容疑を否認していたが、後に「全部やった」と4人殺害を認める供述をした<ref name="西日本新聞2004-09-30夕刊">『西日本新聞』2004年9月30日夕刊第10版第一社会面19頁「大牟田事件 K4容疑者 4人殺害を示唆 県警、信用性見極め」(西日本新聞社)</ref>。しかし、後に逮捕されたK1も自身が4人殺害の実行犯である旨を供述していた<ref name="西日本新聞2004-10-08"/>。また、K2も自身の単独犯という主張を翻し「息子が撃った」「息子をかばおうと思っていた」と供述したが、捜査本部はそれまでK2が主張内容を二転三転させてきた経緯や<ref name="西日本新聞2004-09-30"/>、K1の「自分が4人を殺した」という供述にも信用性に乏しい内容が含まれていた点<ref>『西日本新聞』2004年10月8日夕刊第10版第一社会面15頁「大牟田・4人殺害 3人遺棄 家族謀議か 車ナンバー外す工作も」(西日本新聞社)</ref>、K4が取り調べの中で自暴自棄な発言をしていた点から、各種の物的証拠などと彼らの供述内容を突き合わせ、裏付けを進めた<ref name="西日本新聞2004-09-30夕刊"/>。 |
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== 事件後の動向 == |
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事件後、被害者Aの母親(B・C兄弟の祖母)が行方不明になった娘Aと2人の孫(B・C)を案じてK2の下を訪ねた際、K4はAの母親を前にして落ち着かない様子だった<ref name="朝日新聞2006-05-03 福岡面"/>。 |
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K4は逮捕後の10月4日0時過ぎ、拘置されていた[[筑紫野警察署]]の留置場で丸めたトイレのちり紙を飲み込んで自殺を図ったが、うめき声を聞いた署員によってすぐに取り出され、命に別状はなく<ref name="読売新聞2004-11-26">『読売新聞』2004年11月26日西部夕刊社会面11頁「大牟田連続殺人 K4被告自殺未遂 先月4日、留置場でトイレのちり紙飲み」(読売新聞西部本社)</ref>、入院することもなかった<ref>『毎日新聞』2004年11月26日西部夕刊社会面9頁「福岡・大牟田の死体遺棄 K4容疑者が自殺未遂--拘置先のトイレ用紙飲み込む」(毎日新聞西部本社)</ref>。また、実況見分調書に添付された写真の中には、K4が笑顔やカメラに向かってポーズを作った状態で撮影されたものも見受けられたが、K4は第一審の第22回公判で、捜査官から冗談を言われて笑顔になったところを撮影されたり、捜査官から言われるがままにポーズを取ったところを撮影されたものであると述べている{{Sfn|集刑304号|2012|p=312}}。 |
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2004年9月19日にはDの母親・Bのガールフレンドが大牟田署に「B・Dがいなくなった」と家出人捜索願を出したが<ref name="読売新聞2004-09-24 西部朝刊1面"/>、大牟田署は「事件性はない」と相手にしなかった<ref name="週刊新潮2004-10-07"/>。一方で同日には父K1が次男K4と酷似した男と一緒に、遺体発見現場付近(馬沖橋)で諏訪川を見つめながらゆっくり歩く姿を近隣住民に目撃されていた<ref name="読売新聞2004-09-27 西部夕刊">『読売新聞』2004年9月27日西部夕刊第一社会面9面「福岡・大牟田の連続殺人 K4容疑者、高1遺体遺棄の翌日現場に?」</ref>。 |
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===== K3逮捕 ===== |
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2004年9月20日午前、行方不明となったD宅に男の声で「(Dの)命はない」と脅迫めいた電話がかかったが<ref name="読売新聞2004-09-24 西部朝刊1面"/>、これは「K1一家が事件に絡んでいる」と確信していた被害者Bの友人たちが、なかなか重い腰を上げない警察を動かそうと苦肉の策として仕掛けた自作自演の電話だった<ref name="週刊新潮2004-10-07"/>。 |
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K3は事件が発覚した21日以降も、普段通り昼過ぎに外出し、深夜に帰宅する生活を続けていた<ref name="西日本新聞2004-10-03"/>。逮捕の約1週間前には喪服姿で外出する姿が目撃されており<ref name="読売新聞2004-10-03"/>、A一家3人の葬儀に参列していた<ref name="西日本新聞2004-10-03"/>ほか、逮捕前は弟K4の弁護士探しに必死な様子を見せていた<ref name="読売新聞2004-10-03"/>。葬儀に参列した理由について、K3は自身は犯行に関与していないためだと主張している([[#K3の主張|後述]])<ref name="有明新報2006-06-28"/>。また、母K2と弟K4が相次いで逮捕された後も、周囲に対しては「これ以上、家族から逮捕者が出ることは絶対ない」と話しており<ref name="西日本新聞2004-10-03">『西日本新聞』2004年10月3日朝刊第19版第一社会面(事件・人・話題)35頁「大牟田・4人殺害 死体遺棄で共犯容疑の兄 周囲に「逮捕 絶対ない」」(西日本新聞社)</ref>、同月末には『西日本新聞』の取材に対しても、A2・A3兄弟とはあまり面識がなかった(A2とは1回会ったことがあるだけで、A3とは全く面識はなかった)と主張した上で事件への関与を否定し、「(事件のことは)こちらが聞きたいくらいだ」と話していた<ref name="西日本新聞2004-10-23">『西日本新聞』2004年10月23日朝刊第10版第一社会面(事件・人・話題)39頁「大牟田事件 死体遺棄罪 K2容疑者ら3人起訴」「逮捕前のK3被告 事件関与を否定」(西日本新聞社)</ref>。 |
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しかし10月1日には県警から事情聴取を受け<ref>『朝日新聞』2004年10月3日東京朝刊第一社会面39頁「K2容疑者の長男、死体遺棄の疑いで逮捕 大牟田事件」(朝日新聞東京本社)</ref>、同日23時35分<ref name="有明新報2004-10-08">『有明新報』平成16年(2004年)10月8日付(第17249号)1頁「諏訪川の死体遺棄事件 親子4容疑者を逮捕 死亡状態で車ごと川へ 福岡県警捜査本部が会見」(有明新報社)</ref>、彼もA1・A2・Bの3被害者に対する死体遺棄容疑で逮捕された{{Efn2|逮捕当初の報道では逮捕容疑はA3に対する死体遺棄容疑とされていたが、後にA1ら3人に対するものだったことが判明している<ref name="西日本新聞2004-10-04夕刊"/>。}}<ref name="西日本新聞2004-10-04夕刊">『西日本新聞』2004年10月4日夕刊第10版一面1頁「大牟田・4人殺害 遺棄に家族4人関与 K1幹部にも疑い」(西日本新聞社)</ref>。K3の関与を裏付けた有力な証拠は、A1殺害後に荒尾市方面へ車を走らせていた際、[[自動車ナンバー自動読取装置|Nシステム]]に映っていたK3の姿だった{{Sfn|鈴木智彦|2017|p=113}}。 |
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== 初動捜査 == |
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File:Ōmuta murders Corpse abandonment site Panorama, on 2019-12-24 in Omuta, Fukuoka.jpg|x270px|center |
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<div class="thumbcaption">被害者4人の遺体遺棄現場となった大牟田市内を流れる諏訪川。「馬沖橋」(写真右手奥に見える橋)から被害者Cの遺体が投げ捨てられ、A・B・Dの3人の遺体はAの乗用車もろとも撮影地点付近(馬沖橋付近から約350メートル下流地点)に沈められた。</div></div> |
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『朝日新聞』では9月に逮捕されたK2・K4の供述などから、K3への嫌疑が深まり逮捕に至ったと報じられている<ref name="朝日新聞2004-10-03">『朝日新聞』2004年10月3日西部朝刊第一総合面1頁「A3さん遺棄容疑で別の息子も逮捕 大牟田事件【西部】」(朝日新聞西部本社)</ref>。一方で鈴木智彦 (2017) によれば、K3の関与を最初に自供したのはK2で、K1・K4は捜査段階ではK3の関与について供述しなかったが、K4は裁判でK3とすれ違った際に「全部話してしまえ」と囁かれたことがきっかけでK3の関与を話し始めたという{{Sfn|鈴木智彦|2017|pp=165-166}}。K3は逮捕当初、「身ごもっていた内妻や生まれてくる子供のことを考えると死刑になりたくないという気持ちだったし、K2やK4が庇ってくれていたので、正直に話せなかった」と供述し{{Sfn|中尾幸司3|2008|p=153}}、起訴されるまでは「この一連の事件で一番悪いのは、自分だと思っています」と供述するなど、被疑事実をほぼ認めていた{{Sfn|中尾幸司2|2008|p=146}}。 |
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=== 少年Cの遺体発見 === |
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2004年9月21日午前10時ごろ、大牟田市沖田町にある馬沖橋の下流10mを流れる[[諏訪川 (九州)|諏訪川]]に上半身裸の男性の遺体が浮いているのを通行人が発見し、福岡県警大牟田署に110番通報した<ref name="読売新聞2004-09-22 西部夕刊">『[[読売新聞]]』2004年9月22日西部夕刊第一社会面7面「高1男子遺体、川に遺棄 容疑の女逮捕 母ら3人も不明/福岡・大牟田」</ref><ref name="読売新聞2004-09-22 東京夕刊">『[[読売新聞]]』2004年9月22日東京夕刊第一社会面19面「15歳少年遺体、川に遺棄 母の知人女を容疑で逮捕/福岡・大牟田」</ref>。遺体は首・両足の計3か所にロープでブロックが括り付けてあったほか、死後時間が経過して腐敗が進行し内部にガスが溜まったことで水面に浮上していた<ref name="読売新聞2004-09-27 西部夕刊"/>。 |
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==== 再逮捕・起訴 ==== |
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遺体発見現場は大牟田駅から南約2km地点・隣接する[[熊本県]][[荒尾市]]との県境に近い田園地帯で<ref name="読売新聞2004-09-22 西部夕刊"/><ref name="読売新聞2004-09-22 東京夕刊"/>周辺には民家も多く、付近には大牟田市立駛馬北小学校(現:大牟田市立駛馬小学校)などもあった<ref name="読売新聞2004-09-22 西部夕刊"/>。 |
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K1が逮捕された10月7日、K2・K4の両名もK1の逮捕容疑と同じくA1らに対する死体遺棄容疑で再逮捕された<ref name="西日本新聞2004-10-08">『西日本新聞』2004年10月8日朝刊第19版一面1頁「大牟田・4人殺害 死体遺棄容疑で県警 K1容疑者も逮捕 4人を殺害と供述」(西日本新聞社)</ref>。同容疑については、K2・K3・K4の3人が10月22日に<ref name="西日本新聞2004-10-23"/><ref>『有明新報』平成16年(2004年)10月23日付1頁「諏訪川の事件発覚から1カ月 3容疑者を死体遺棄容疑で起訴 捜査の焦点は殺人容疑へ」(有明新報社)</ref><ref>『朝日新聞』2004年10月23日西部朝刊第二社会面34頁「母子3容疑者起訴 3遺体遺棄した罪 大牟田事件【西部】」(朝日新聞西部本社)</ref>、K1は同月26日に、それぞれ福岡地検久留米支部によって[[起訴]]されている<ref name="西日本新聞2004-10-27"/>。 |
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取り調べに対し、K2は「(A1から依頼されていた)借金の取り立てが不調でA1に責められていた」、K1は「(A1が)ヤクザを馬鹿にした」とそれぞれ供述したことから、捜査本部は金銭問題がA1殺害の動機という疑念を強め、4被疑者のうち複数人から「A1から金を奪う目的で殺した」との供述を得た上で、それらの裏付け捜査を行った<ref name="西日本新聞2004-10-27社会">『西日本新聞』2004年10月27日朝刊第19版第二社会面(事件・人・話題)30頁「大牟田事件 4人再逮捕 「一番の目的は金」 県警 なぜ高校生、疑問なお」(西日本新聞社)</ref>。同月26日、捜査本部は4人をA1に対する強盗殺人容疑で再逮捕した<ref name="西日本新聞2004-10-27"/>。 |
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父K1は同日夜、大牟田市内の飲食店で飲酒していた際に「やれることはやった」などと独り言を繰り返すなど不可解な言動が目立っていた<ref name="読売新聞2004-10-08 西部夕刊">『読売新聞』2004年10月8日西部夕刊第一社会面11面「福岡・大牟田の4人殺害 『やれることやった』 K1容疑者、独り言」</ref>。またK4は母K2の逮捕に前後して普段から使用していた6人乗りワゴンタイプ乗用車を大牟田市内の自動車修理工場に自ら乗り付けて持ち込み「廃車にしてほしい」と依頼したが<ref name="読売新聞2004-09-28 西部朝刊">『読売新聞』2004年9月28日西部朝刊第一社会面35面「福岡・大牟田の連続殺人 K4容疑者、事件後修理工場に廃車依頼」</ref><ref name="読売新聞2004-09-28 東京朝刊">『読売新聞』2004年9月28日東京朝刊第一社会面39面「福岡・大牟田の4人殺害 K4容疑者の車、事件後に廃棄依頼」</ref>、修理工場側は「年式こそ古いが目立った傷はなく廃車にする必要性はない」と感じていた<ref name="読売新聞2004-09-28 西部朝刊"/>。 |
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11月11日、A1殺害時に用いられた凶器とみられるワイヤー錠のようなものが殺害現場(大牟田港)付近の大牟田川から発見されている<ref>『読売新聞』2004年11月12日西部朝刊社会面35頁「A1さん絞殺凶器か 自転車ワイヤ錠? 大牟田川から押収/福岡・大牟田」(読売新聞西部本社)</ref><ref>『有明新報』平成16年(2004年)11月12日号11頁「諏訪川の4人殺害・死体遺棄事件 川底から凶器?見つかる 福岡県警捜査本部 大牟田港周辺を捜索」(有明新報社)</ref>。凶器のワイヤー錠はその後、第一審の第2回公判(2005年4月12日)で拳銃やアイスピックとともに検察官から証拠品として提出されている<ref name="西日本新聞2005-04-13">『西日本新聞』2005年4月13日朝刊第19版第二社会面(事件・人・話題)30頁「大牟田事件公判 K3被告が意見書 関与を再び否定」(西日本新聞社)</ref><ref>『有明新報』平成17年(2005年)4月13日付7頁「諏訪川の4人殺害死体遺棄事件 K3被告は争う姿勢見せる 次回からK2被告ら証人に」(有明新報社)</ref>。 |
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=== K2逮捕・K1拳銃自殺未遂 === |
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2004年9月22日午前1時前<ref name="読売新聞2004-09-28 西部朝刊"/>、福岡県警捜査一課・大牟田署はCの遺体を馬沖橋から諏訪川に遺棄したとして女K2を死体遺棄容疑で逮捕したが<ref name="読売新聞2004-09-22 西部夕刊"/>、K2はその後取り調べに対し「4人を殺害した」と供述し<ref name="読売新聞2004-09-23 東京朝刊1面">『読売新聞』2004年9月23日東京朝刊1面「福岡・大牟田の高1死体遺棄 『母子ら4人殺した』 K2容疑者が供述」</ref>、既に遺体が発見されたC以外について「A・B・Dの3人をAの車ごと川に捨てた」と供述した<ref name="読売新聞2004-09-24 西部朝刊社会面"/>。その供述通りA・B・Dの3人が行方不明になっていたことに加え、福岡県警に対し「金の貸し借りを巡りK2・Aの両者間にトラブルがあった」と情報提供がなされたため、県警は<ref name="読売新聞2004-09-23 東京朝刊1面"/>80人態勢で<ref name="読売新聞2004-09-24 西部朝刊1面"/>行方不明となった3人の発見に全力を挙げつつ<ref name="読売新聞2004-09-23 東京朝刊1面"/>、金銭トラブルの真偽について確認を急いだ<ref name="読売新聞2004-09-23 東京朝刊1面"/>。 |
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11月16日、4人はA1に対する強盗殺人罪で追起訴され、同日にはA2・Bに対する殺人容疑などで再逮捕された<ref name="読売新聞2004-11-17">『読売新聞』2004年11月17日西部朝刊社会面35頁「大牟田事件 K親子4人再逮捕 長男ら殺害容疑で 母強殺の口封じ?/福岡」(読売新聞西部本社)</ref>。12月7日、一家4人はA2・Bに対する殺人・銃刀法違反の罪で追起訴され<ref>『読売新聞』2004年12月8日西部朝刊社会面35頁「福岡・大牟田連続殺人 K兄弟を再逮捕 A2さん強殺容疑など」(読売新聞西部本社)</ref>、同日にはK3・K4の2人がA3に対する強盗殺人容疑(K3は死体遺棄容疑も含む)で再逮捕された<ref name="西日本新聞2004-12-08">『西日本新聞』2004年12月8日朝刊第19版一面1頁「大牟田事件 A3さん強殺容疑で県警 2人再逮捕 4件すべて立件」(西日本新聞社)</ref>。同月27日、福岡地検久留米支部はK3・K4をA3に対する強盗殺人罪で追起訴したが、A3は川に投げ込まれた後に死亡した([[#K3・K4がA3を殺害|前述]])として、死体遺棄罪については不起訴処分とした<ref name="西日本新聞2004-12-28">『西日本新聞』2004年12月28日朝刊第19版第二社会面(事件・人・話題)34頁「K兄弟を起訴 一家殺害の捜査終結――大牟田A3さん強殺罪」(西日本新聞社)</ref>。 |
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一方で9月22日午前9時過ぎ、K2の夫K1が大牟田署2階の刑事課を訪れ「妻が逮捕された理由を聞きたい」と申し出たため{{Refnest|group="注"|この時点ではK1に対し出頭要請はしていなかったため、身体検査などは行っておらず、大牟田署の副署長(当時)・縄田和生は「署内で拳銃を発砲されることは想定していなかった」と説明した<ref name="読売新聞2004-09-23 西部朝刊"/>。}}、大牟田署捜査員が取調室で約1時間にわたり1人で机を挟んでK1に事情を話していたが<ref name="読売新聞2004-09-23 西部朝刊">『読売新聞』2004年9月23日西部朝刊第一社会面39面「福岡・大牟田の高1遺体 『まさか家族全員が』 知人ら言葉失う」</ref>、午前10時16分ごろになって<ref name="読売新聞2004-09-22 西部夕刊"/>K1が突然拳銃を取り出し<ref name="読売新聞2004-09-23 西部朝刊"/>、銃口を自身のこめかみに当てて1発発砲し自殺を図った<ref name="読売新聞2004-09-23 西部朝刊"/>。K1は命に別状はなかったものの病院に搬送され治療を受けることとなったが<ref name="読売新聞2004-09-24 西部朝刊1面"/>、その動機は「事件に強く関与していたK1が自殺を図ることで捜査を攪乱する意図があった」と推測された<ref name="読売新聞2004-10-08 西部朝刊"/>。 |
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== K3逃走事件 == |
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2004年9月23日付で福岡県警は連続殺人・死体遺棄事件として大牟田署に捜査本部を設置したほか、逮捕した被疑者K2を死体遺棄容疑で福岡地方検察庁久留米支部に送致した<ref name="読売新聞2004-09-24 西部朝刊1面">『読売新聞』2004年9月24日西部朝刊1面「福岡・大牟田の高1死体遺棄 母・兄ら?3遺体発見 川底の車から」</ref>。 |
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2004年11月13日17時40分ごろ、K3は取り調べを受けていた福岡地検久留米支部の仮庁舎(福岡県[[久留米市]]篠山町)から逃走する事件を起こしたが、約3時間後の20時55分に熊本県荒尾市上井手の駐車場で身柄を確保された<ref name="西日本新聞2004-11-14">『西日本新聞』2004年11月14日朝刊第19版一面1頁「大牟田4人殺害 K3容疑者が一時逃走 地検で警官監視中 久留米から熊本・荒尾へ 3時間後に確保 タクシー乗り込む」(西日本新聞社)</ref>。同支部庁舎は当時建て替え中で、隣接する福岡地裁久留米支部の敷地内に建設された仮庁舎への移転が同月8日に完了したばかりだった<ref name="毎日新聞2004-11-14東京">『毎日新聞』2004年11月14日東京朝刊社会面31頁「福岡・大牟田の死体遺棄:K3容疑者、一時逃走 3警官閉じ込め--地検久留米支部」(毎日新聞東京本社)</ref>。 |
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=== 逃走前の経緯 === |
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同日9時30分ごろ、K3は留置先の[[久留米警察署]]から同支部へ移送され<ref name="読売新聞2004-11-27">『読売新聞』2004年11月27日西部朝刊社会面33頁「大牟田事件 K3被告逃走の詳細 眼鏡投げスキ突く、警官鍵持たず足でドア止め」(読売新聞西部本社)</ref>、10時ごろから同所で一連の事件に関するK3の取り調べが行われていた<ref name="西日本新聞2004-11-14"/>。護送を担当したのは、責任者である大牟田署警備課の巡査部長と、護送員の同課巡査長・刑事課巡査長の3人である<ref name="朝日新聞2005-01-28">『朝日新聞』2005年1月28日西部朝刊第一社会面31頁「眼鏡投げられスキ K3被告逃走、署員言いなり 大牟田事件【西部】」(朝日新聞西部本社)</ref>。この3人はいずれも留置管理担当者ではなく、刑事課巡査長が護送車の運転を、警備課の2人が付き添いをそれぞれ担当していた<ref name="読売新聞2004-11-27"/>。K3は元力士で体が大きいため<ref name="読売新聞2005-01-28"/>、県警により「特別要注意者」として扱われており、護送時には通常の護送員3人に加え、応援の機動隊員2人{{Efn2|大牟田署に派遣されていた<ref name="読売新聞2005-01-28"/>。}}が常時同行することになっていたが、当日は大牟田署員が久留米署管理課の係長に「機動隊員が付くと本人が嫌がる」と伝え、係長も了承したため、3人だけで護送した<ref name="朝日新聞2005-01-28"/>。K3はこれ以前から、機動隊員の同行を嫌がって反抗することが多かった<ref name="読売新聞2005-01-28"/>。 |
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2004年9月23日夜になって福岡県警は諏訪川の川底で大規模な捜索を行ったが、捜索した箇所は最大水深4メートル・視界50センチメートルほどと透明度も低く、泥質の川底だったため捜索は難航した<ref name="読売新聞2004-09-24 西部朝刊社会面"/>。しかしCの遺体が発見された馬沖橋付近から約350メートル(m)下流地点<ref name="読売新聞2004-09-24 東京朝刊">『読売新聞』2004年9月24日東京朝刊第一社会面39面「福岡・大牟田の遺棄 川から車、3遺体 K2容疑者の供述通り」</ref><ref name="読売新聞2004-09-24 西部朝刊社会面"/>{{Refnest|group="注"|車が沈んでいた川底は川岸から約25メートル離れ<ref name="西日本新聞2004-09-27 夕刊"/>、川が大きく蛇行しヘドロが堆積していた(水深約3.5メートル・川幅約30メートルの中央部分)<ref name="読売新聞2004-09-24 西部朝刊社会面"/>。}}を大型クレーン車・投光器などで捜索したほか<ref name="読売新聞2004-09-24 西部朝刊社会面">『読売新聞』2004年9月24日西部朝刊第一社会面33面「福岡・大牟田の高1死体遺棄 やはり3人も… 遺体、K2容疑者の供述通り」</ref>、同地点付近で県警機動隊所属のダイバーが潜水作業をしていたところ<ref name="読売新聞2004-09-24 西部夕刊"/>、18時すぎに女性Aが所有していた赤茶色の軽乗用車が沈んでいるのが発見され{{Refnest|group="注"|発見時、車のナンバープレートは前後とも取り外されていた<ref name="読売新聞2004-09-24 西部夕刊"/>。}}、21時ごろに車を大型クレーン車で引き揚げたところ<ref name="読売新聞2004-09-24 西部朝刊社会面"/>、車内から男女3人の遺体が発見された<ref name="読売新聞2004-09-24 西部朝刊1面"/>。 |
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17時15分<ref>『朝日新聞』2004年11月14日西部朝刊第一総合面1頁「K3容疑者が逃走 久留米の地検から 大牟田・強殺事件【西部】」(朝日新聞西部本社)</ref>、K3に食事をさせるため<ref name="朝日新聞2005-01-28"/>、大牟田署員3人が逃走防止の目的でK3に付き添って建物3階の同行室(控室)へ移動した<ref name="西日本新聞2004-11-14"/>。同行室は、取り調べを受ける被疑者が休憩・食事をするための施設で、同支部の場合は室内に金網で囲った2つの小部屋があり<ref name="西日本新聞2004-11-14"/>、扉は閉めると中からは開けられないオートロック式になっていた<ref name="毎日新聞2004-11-14東京"/>。また、同支部では同行室を利用する際、監視の警察官は同行室の入口の鍵と、同行室内の小部屋の鍵の2種類を持って同行室に入り、小部屋には被疑者だけを入れることになっていた<ref>『毎日新聞』2004年11月15日大阪朝刊社会面26頁「福岡・大牟田の死体遺棄:K3容疑者、死刑恐れ逃走--監視署員に話す」([[毎日新聞大阪本社]])</ref>。しかし同行室を解錠した同支部の職員(事務官)は署員らに鍵を手渡さず<ref name="読売新聞2004-11-27"/>、そのまま鍵を持ち帰った<ref>『毎日新聞』2004年11月16日西部朝刊社会面27頁「福岡・大牟田の死体遺棄 K3容疑者逃走 監視役全員と食事、服務規程に違反」(毎日新聞西部本社)</ref>。また、旧庁舎の同行室の扉は鍵がかからない構造であり<ref name="読売新聞2004-11-27"/>、署員3人は当時運用されていた仮庁舎への護送は初めてであったため<ref>『毎日新聞』2005年1月28日西部朝刊社会面26頁「福岡・大牟田の死体遺棄:護送警官ら12人、被告逃走で処分--県警」(毎日新聞西部本社)</ref>、扉は施錠しないでおくものと思い込み、鍵を取りに行かなかったという<ref name="読売新聞2004-11-27"/>。 |
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3人の遺体はいずれも衣服を着たままで、ロープなどにより縛られた痕跡はなく<ref name="読売新聞2004-09-24 西部朝刊1面"/>、遺体は助手席、後部座席にあったが運転席は空いていた<ref name="読売新聞2004-09-24 西部夕刊"/>。そのため「運転免許を持っていたK2が別の場所で3人を殺害後、遺体を乗せた車を現場近くまで運転して川に沈めた」と推測された<ref name="読売新聞2004-09-24 西部夕刊"/>。実際に遺体発見現場を検証して車の進入経路を確認したところ、付近の土手から諏訪川の川岸にかけて車が通ったような痕跡が確認されたが<ref name="読売新聞2004-09-25 西部朝刊"/>、福岡県警は「女性であるK2単独では4人の殺害・遺体遺棄など一連の犯行を遂行するのは困難だ」との理由から複数犯の線を強めた<ref name="読売新聞2004-09-25 西部夕刊社会面"/><ref name="読売新聞2004-09-25 東京夕刊"/>。その上でK1についても犯行への嫌疑を掛け<ref name="読売新聞2004-09-24 西部夕刊">『読売新聞』2004年9月24日西部夕刊第一社会面11面「福岡・大牟田遺棄事件 3遺体の車、運転席無人 K2容疑者が運転か」</ref>、「銃の入手経路などについても事情を知っている可能性がある」と推測した上でK1の回復を待ち、改めて事情聴取する方針を固めた<ref name="読売新聞2004-09-25 西部夕刊社会面"/>。 |
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その後、まず3人のうち2人がK3とともに同行室内の個室へ入室し、残る1人は初めは外にいたが、K3から「一緒に食事しよう」と誘われたために入室し、全員がK3と同じ個室に入る形となった<ref name="朝日新聞2005-01-28"/>。K3は両手から手錠を外されて部屋の正面奥の椅子に座り、その左に巡査部長が、扉の左右に巡査長2人が座って食事を摂った<ref name="読売新聞2004-11-27"/>。県警の被留置者管理規程では被疑者の逃走を防ぐため、被疑者が同行室で食事をする間は警察官が同行室の扉を閉め<ref name="読売新聞2004-11-14">『読売新聞』2004年11月14日西部朝刊一面1頁「大牟田連続殺人 K3被告、地検久留米支部から一時逃走 荒尾で3時間後確保 手錠外し夕食中 3警官閉じ込め」(読売新聞西部本社)</ref>、被疑者の入った部屋を施錠した上で、少なくとも警察官1人が室外{{Efn2|隣の小部屋<ref name="読売新聞2004-11-14"/>。}}で待機すること<ref name="西日本新聞2004-11-15"/>、また警察官は被疑者と同じ部屋には入らず、室外(中を監視できる場所)にいることが定められていた<ref>『毎日新聞』2004年11月14日西部朝刊一面1頁「福岡・大牟田の死体遺棄 聴取中のK3容疑者が逃走 熊本・荒尾で発見、確保」(毎日新聞西部本社)</ref>。しかしこの時、巡査長の1人はオートロック式になっている鉄格子の扉が閉まらないよう、室外に右足を出した状態で、腰縄も床に放置されており、K3は室内を自由に歩き回れる状態だった<ref name="読売新聞2004-11-27"/>。 |
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県警捜査本部は2004年9月24日になって軽乗用車内で発見された3人の遺体をいずれも[[司法解剖]]し、遺体の身元を行方不明だったA・B・Dと断定したほか、3人の遺体は死後1週間程度経過していることが判明した<ref name="読売新聞2004-09-25 西部朝刊">『読売新聞』2004年9月25日西部朝刊第一社会面39面「大牟田連続死体遺棄 Aさんから数百万円借金 K2容疑者、返済でトラブル?」</ref><ref name="読売新聞2004-09-25 東京朝刊">『読売新聞』2004年9月25日東京朝刊第一社会面39面「福岡・大牟田の連続殺人 K2容疑者、数百万?借金 返済巡りトラブル」</ref>。また司法解剖の結果B・D両名の遺体には<ref name="読売新聞2004-09-25 西部夕刊社会面"/><ref name="読売新聞2004-09-25 東京夕刊"/>それぞれ3発ずつ<ref name="読売新聞2004-09-26 東京朝刊"/>拳銃で銃撃された痕が確認された<ref name="読売新聞2004-09-25 西部夕刊社会面">『読売新聞』2004年9月25日西部夕刊第一社会面19面「大牟田連続死体遺棄 Bさん・Cさんに銃撃痕 福岡県警、銃の入手経路追及」</ref><ref name="読売新聞2004-09-25 東京夕刊">『読売新聞』2004年9月25日東京夕刊第一社会面19面「福岡・大牟田の連続殺人 2遺体に銃撃の跡 『複数犯』強まる」</ref>。 |
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=== 逃走から身柄確保まで === |
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約10分後、署員たちより早く食事を食べ終えたK3は<ref name="読売新聞2004-11-27"/>「暑いからエアコンをつけていいか」と言い、1人の許可を得て外に出た<ref name="朝日新聞2005-01-28"/>。この時、巡査長の1人は鉄格子が閉まらないように足で押さえていたが、K3から「眼鏡を貸して」と言われて貸したところ、K3はその眼鏡を個室内に投げた<ref name="読売新聞2004-11-27"/>。鉄格子を押さえていた巡査長が眼鏡を拾おうと足を引いたところ<ref name="読売新聞2004-11-27"/>、K3はその隙にドアを閉め<ref name="朝日新聞2005-01-28"/>、署員3人は室内に閉じ込められた<ref name="西日本新聞2004-11-14"/>。署員たちはK3をドア越しに説得したが<ref name="読売新聞2004-11-14"/>、K3は閉じ込められた署員たちの前で腰縄を外し「担当さん、悪い」「死刑になるかもしれないから逃げる」「3日たったら戻ってくる」などと言い<ref name="読売新聞2004-11-27"/>、階段を経由して1階西側通用口から庁舎外に逃走した<ref name="有明新報冒頭陳述">『有明新報』平成17年(2005年)3月17日号2頁「諏訪川4人殺人事件 冒頭陳述(要旨)」(有明新報社)</ref>。逃走は17時40分ごろのことで、署員はその後携帯電話で110番通報してK3の逃走を知らせた<ref name="西日本新聞2004-11-14"/>。 |
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2004年9月23日<ref name="読売新聞2004-09-26 東京朝刊"/>、福岡県警捜査本部はK1・K2夫妻の次男K4を大牟田市内で発見して任意同行を求め、同日深夜になって<ref name="読売新聞2004-09-28 西部朝刊"/>K4をK2の共犯として被害者Cに対する死体遺棄容疑で逮捕した<ref name="読売新聞2004-09-25 西部夕刊1面"/><ref name="読売新聞2004-09-26 西部朝刊"/><ref name="読売新聞2004-09-26 東京朝刊"/>(発表は9月25日付)<ref name="読売新聞2004-09-25 西部夕刊1面">『読売新聞』2004年9月25日西部夕刊1面「大牟田死体遺棄 共犯の男、容疑で逮捕 被害者の友人/福岡県警」</ref><ref name="読売新聞2004-09-26 西部朝刊">『読売新聞』2004年9月26日西部朝刊第一社会面39面「大牟田4人殺害 2組の母子に何が K2容疑者長男、Bさんと親交」(※本記事ではK1・K2の次男であるK4が「長男」と報道されているため、注意されたい。)</ref><ref name="読売新聞2004-09-26 東京朝刊">『読売新聞』2004年9月26日東京朝刊第一社会面39面「福岡・大牟田連続殺人 K2容疑者の息子逮捕 死体遺棄容疑 交友トラブルか」</ref><ref name="朝日新聞2004-09-26">『朝日新聞』2004年9月26日朝刊第一社会面39面「高1遺棄で息子も逮捕 母親と共犯の疑い 大牟田事件」</ref>{{Refnest|group="注"|K4については逮捕の第一報となった『読売新聞』2004年9月25日西部夕刊1面では「大牟田市在住の20歳男。被害者のうちの1人と友人関係」と匿名で報道されており、K2との血縁関係については言及されていなかった<ref name="読売新聞2004-09-25 西部夕刊1面"/>。その後『読売新聞』2004年9月26日東京朝刊第一社会面39面・西部朝刊第一社会面39面では[[実名報道]]に切り替えられた上で「K2の息子」であることが明示されたが<ref name="読売新聞2004-09-26 西部朝刊"/><ref name="読売新聞2004-09-26 東京朝刊"/>、西部朝刊ではK4はK2の「次男」であるところを「K4はK2の長男」と報道された<ref name="読売新聞2004-09-26 西部朝刊"/>。}}。 |
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こうして[[脱獄|庁舎から脱走]]したK3は車をヒッチハイクして移動し<ref name="西日本新聞2004-11-15">『西日本新聞』2004年11月15日朝刊第19版第一社会面(事件・人・話題)29頁「大牟田・4人殺害K3容疑者 「死刑になる」と逃走 県警 関係警官の処分検討」「タクシー運転手にK3容疑者語る 「暴力団に追われている」 言葉丁寧 容疑者に見えず」(西日本新聞社)</ref>、逃走から約15分後の<ref>『読売新聞』2004年11月15日西部朝刊社会面35頁「大牟田事件K3被告 逃走中、タクシーから何度も電話 知人に「金貸して」」(読売新聞西部本社)</ref>17時55分<ref name="朝日新聞2004-11-15">『朝日新聞』2004年11月15日西部朝刊第一社会面35頁「強盗殺人で逃走中と気づかず 車中のK3容疑者を運転手語る【西部】」(朝日新聞西部本社)</ref>、同支部の約900 m南にあったタクシー会社(同市本町四丁目){{Efn2|タクシー会社名は『朝日新聞』 (2004) で報じられている<ref name="朝日新聞2004-11-15"/>。久留米市本町12-1({{ウィキ座標|33.31222976897813|||N|130.50768549672412|||E||座標}})にはそのタクシー会社の施設が県道に面して建っており、その付近には「本町四」交差点({{ウィキ座標|33.311750|||N|130.507265|||E||座標}})および「本町四丁目」バス停({{ウィキ座標|33.31157029885839|||N|130.50821770777523|||E||座標}})があった<ref>{{Cite book|和書 |title=福岡県 久留米市 西部 200411 |publisher=ゼンリン |date=2004-11 |page=40 |ref= |series=ゼンリン住宅地図 |isbn=978-4432190904 |NCID= |id={{国立国会図書館書誌ID|000007586206}}・{{全国書誌番号|20718818}}}}</ref>。}}のそばでタクシーに乗った<ref name="西日本新聞2004-11-14"/>。この時、このタクシーの運転手は裸足{{Efn2|K3が脱走した時に履いていたスリッパは、庁舎1階に残されていた<ref name="読売新聞2004-11-14"/>。}}のK3からの「極道に3日ほど監禁されていた。隙をついて逃げた。料金は知人が払う」という言葉を信じ込み<ref name="西日本新聞2004-11-15"/>、その指示通り[[福岡県道23号久留米柳川線|県道23号]]を南下して[[柳川市]]の沖端地区にある大きな橋の方へ向かった<ref name="毎日新聞2004-11-15">『毎日新聞』2004年11月15日西部朝刊社会面23頁「福岡・大牟田の死体遺棄 K3容疑者、タクシー運転手だます「暴力団から逃げてきた」 逃走は「死刑恐れ」」(毎日新聞西部本社)</ref>。この途中、運転手はK3から頼まれて携帯電話を貸したり、コンビニでお茶を買ってK3に与えたりしたが、K3は運転手に対して丁寧な言葉遣いで応対しており、運転手も目の前の男 (K3) が逃走中の強盗殺人犯だとは気づかなかったという<ref name="西日本新聞2004-11-15"/>。また、K3は乗車中の19時 - 20時過ぎにかけ、計3回にわたって運転手から借りた携帯電話から<ref name="毎日新聞2004-11-14東京"/>、K1配下の組員{{Efn2|「K1の仲間の暴力団幹部」とも報じられている<ref name="毎日新聞2004-11-14東京"/>。}}へ電話を掛け、待ち合わせ場所を指定したり、タクシー代を貸してほしい旨を伝えたりしていた<ref name="朝日新聞2004-11-15"/>。乗車から約1時間後、タクシーは柳川市内{{Efn2|[[沖端川]]の河口付近<ref>『読売新聞』2004年11月15日西部朝刊社会面35頁「大牟田事件K3被告 逃走中、タクシーから何度も電話 知人に「金貸して」」(読売新聞西部本社)</ref>、および沖端川に架かる橋の周辺<ref name="朝日新聞2004-11-15"/>。K3は電話を掛けた組員に対し、ここを待ち合わせ場所として伝えていた<ref name="朝日新聞2004-11-15"/>。}}に到着したが、K3は降車しようとせず{{Efn2|道が行き止まりになっているなどしていたため、目的地にたどり着けなかったという報道もある<ref name="朝日新聞2004-11-15"/>。}}、同市内を転々とした後、[[国道209号]]を通らず大牟田方面に向かうよう指示された<ref name="西日本新聞2004-11-15"/>。 |
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2004年9月26日に福岡県警捜査本部が被害者A宅の状況を確認したところA宅の室内から小型金庫がなくなっていたことが判明したため、捜査本部は「金銭トラブルが犯行動機」と睨んでK2・K4を金庫紛失の件も含めて追及した<ref name="読売新聞2004-09-27 西部朝刊">『読売新聞』2004年9月27日西部朝刊第一社会面39面「福岡・大牟田の4人殺害事件 Aさん宅、金庫消える」</ref><ref name="読売新聞2004-09-27 東京朝刊">『読売新聞』2004年9月27日東京朝刊第一社会面39面「福岡・大牟田の連続殺人 被害者宅の金庫消える K2容疑者と金銭トラブルか」</ref>{{Refnest|group="注"|Aは周囲の知人に対し利息を付けて金を貸しており、失われた小型金庫は現金・証書の保管などに使用されていた<ref name="読売新聞2004-09-27 西部朝刊"/><ref name="読売新聞2004-09-27 東京朝刊"/>。その後、福岡県警が同日までに被疑者K2・K4らの自宅(大牟田市桜町)などを捜索した際に指輪など数点の貴金属とともに小型金庫などが発見された<ref name="読売新聞2004-09-30 西部朝刊社会面">『読売新聞』2004年9月30日西部朝刊第一社会面35面「福岡・大牟田の連続殺人 Aさんの貴金属?K2容疑者宅などで発見」</ref><ref name="読売新聞2004-09-30 西部朝刊社会面"/>。}}。また同日、福岡県警は被疑者K4が普段から使用していた6人乗りワゴンタイプ乗用車{{Refnest|group="注"|この乗用車はK4本人に加え、K4宅に出入りしていた建設作業員らが使用していた<ref name="読売新聞2004-09-28 西部朝刊"/>。}}が自動車修理工場へ「廃車にしてほしい」と持ち込まれていたことを確認し、車を押収した<ref name="読売新聞2004-09-27 西部朝刊"/>。 |
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一方でK3の脱走後、久留米署には17時44分になって第一報が入った<ref name="読売新聞2004-11-14社会"/>。県警は久留米署員全370人を緊急招集し、タクシー・バス会社などにも連絡したが<ref name="西日本新聞2004-11-14第二"/>、住民への直接の注意喚起は行わず、マスコミを通じて広報することを優先した<ref name="朝日新聞2004-11-14社会"/>。このため、検察庁舎付近の住民の大半は逃走から1時間以上が経過した19時になって、テレビのニュースで初めて事件を知ることとなった<ref name="西日本新聞2004-11-14第二">『西日本新聞』2004年11月14日朝刊第19版第二社会面(事件・人・話題)38頁「広報なし 住民激怒 「警察 何してる」 TVで知り 恐怖増す」(西日本新聞社)</ref>。久留米市民に逃走事件の発生を直接広報しなかった理由について、久留米署副署長の松永康行は「行き先を特定できないまま大々的に知らせれば、パニックを引き起こす恐れがある」と<ref name="朝日新聞2004-11-14社会"/>、県警本部長の廣畑史朗は「逃走直後の早い段階から被疑者は久留米から大牟田方向へタクシーで逃走中であるとの確度の高い情報を入手し、逃走現場付近での潜伏等の可能性が極めて低いと判断したことなどから」とそれぞれ説明している<ref>『読売新聞』2004年12月14日西部朝刊福岡県版第二地方面35頁「K3被告逃走事件 県警本部長が県議会で陳謝 「信頼大きく損なった」=福岡」(読売新聞西部本社)</ref><ref>「[https://www.pref.fukuoka.dbsr.jp/index.php/ 福岡県議会 会議録検索システム]」 > 「平成16年12月定例会(第13日) 本文」(2004年12月13日) > 「33 ◯警察本部長(廣畑 史朗君)」</ref>。 |
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2004年9月28日になってK2が共犯関係の追及を受けていた中で「息子K4が被害者を銃撃した」と認める供述をした<ref name="読売新聞2004-09-29 東京朝刊">『読売新聞』2004年9月29日東京朝刊第一社会面39面「大牟田の連続殺人 K2容疑者『息子が銃撃』 遺体の弾、夫の拳銃と口径一致」</ref><ref name="朝日新聞2004-09-28 西部夕刊">『朝日新聞』2004年9月28日夕刊第一社会面9面「2少年が撃たれた銃、組員と同口径 大牟田・遺棄事件 【西部】」</ref>。使用された拳銃は[[ベルギー]]・[[FNハースタル]]社製の25口径自動式拳銃「[[FN ブローニング・ベビー]]」{{Refnest|group="注"|「ブローニング・ベビー」は暴力団関係者の間で30万円から40万円の相場で取引されていたが、あまり出回っていなかった<ref name="朝日新聞2004-09-28 西部夕刊"/>。}}で、弾倉に銃弾6発が装填できるものだったことから使用が裏付けられた<ref name="朝日新聞2004-09-28 西部夕刊"/>{{Refnest|group="注"|遺体から摘出した銃弾を調べたところ「25口径の拳銃から発射されたもの」と判明したほか<ref name="読売新聞2004-09-29 東京朝刊"/>、福岡県警がB・D両名がそれぞれ3発ずつ計6発撃たれていた点に着目し「2人はほぼ同時に同じ拳銃で撃たれた可能性が高い」と推測した<ref name="朝日新聞2004-09-28 西部夕刊"/>。またK1が大牟田署内で自殺を図った際も同じ25口径の拳銃が使用されていた<ref name="読売新聞2004-09-29 東京朝刊"/><ref name="朝日新聞2004-09-28 西部夕刊"/>。}}。 |
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その後、タクシーはK3の指示を受けて熊本県[[玉名郡]][[南関町]]を経由し<ref name="朝日新聞2004-11-15"/>、20時40分ごろにK3が指示した荒尾市の駐車場(身柄確保現場)へ到着した<ref name="西日本新聞2004-11-15"/>。この駐車場は県の重要文化財に指定されている「眼鏡橋」({{ウィキ座標|33.001304485402535|||N|130.48962965196685|||E||座標}})近くの駐車場で<ref name="読売新聞2004-11-14社会">『読売新聞』2004年11月14日西部朝刊社会面35頁「大牟田連続殺人 K3被告が逃走3時間 福岡県警、また失態 週末の夜に衝撃 K1被告自殺未遂に続き 大牟田署長、ただ陳謝」(読売新聞西部本社)</ref>、福岡・熊本の県境にも近かった<ref name="西日本新聞2004-11-14"/>。当時、タクシーの料金メーターは20,400円を示していたが、K3は電話でそれより2,000円多い22,400円を持ってくるよう頼んでいた{{Sfn|小野一光3|2004|p=86}}。また、運転手に「あと5、6分でここに金を持ってくることになっとります」と説明し<ref name="西日本新聞2004-11-15"/>、駐車場に着いてから一度外に出て携帯電話で誰かと会話していたが、話し終わってタクシーの助手席側後部座席に乗り込んだ直後、刑事4、5人が駐車場に到着した{{Sfn|集刑304号|2012|pp=447-448}}。K3は刑事にドアを開けられないよう、ドアを内側から手で押さえていたが、やがて観念した<ref name="西日本新聞2004-11-15"/>。県警はK3と通話していた組員の通話記録から、K3が乗車していたタクシーを特定し<ref name="朝日新聞2004-11-15"/>、そのタクシーの所属会社に「熊本県方面に行っている車はないか」と問い合わせたところ、該当するタクシー1台が[[南関インターチェンジ|南関IC]]([[九州自動車道]])付近を走行していることを確認、身柄確保に至った<ref name="朝日新聞2004-11-14社会">『朝日新聞』2004年11月14日西部朝刊第一社会面35頁「「そんなに簡単に」捜査当局へ厳しい視線 K3容疑者、逃走【西部】」(朝日新聞西部本社)</ref>。 |
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=== 動機・犯行詳細の究明 === |
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被疑者K2が取り調べに対し「被害者Aから借金していた」と供述したほか、Aの友人たちも「AはK2に数百万円を貸しており『なかなか返してもらえない』とこぼしてもいた」と証言したため<ref name="読売新聞2004-09-25 西部朝刊"/><ref name="読売新聞2004-09-25 東京朝刊"/>、福岡県警は事件当初から「被疑者K2と被害者Aとの間の金銭トラブルが事件の発端となった」と睨んでいたが、金銭トラブルのみが一家を殺害するほどの動機になるのか疑問視する声もあった<ref name="読売新聞2004-09-29 西部朝刊">『読売新聞』2004年9月29日西部朝刊第一社会面39面「福岡・大牟田の4人殺害 見えぬ真相 金銭関係こじれ? 女友達巡るトラブル?」</ref>。そのため福岡県警は他に殺害につながるようなトラブルがなかったかを洗い出し<ref name="読売新聞2004-09-25 西部朝刊"/><ref name="読売新聞2004-09-25 東京朝刊"/>、「被害者B・DとK4との間に交友関係を巡りトラブルがあった」とする情報を得たことから<ref name="読売新聞2004-09-26 東京朝刊"/>「それがエスカレートし両家全体を巻き込んだ事件に発展した可能性がある」との見方も含め、被疑者一家の交友関係を幅広く捜査した<ref name="読売新聞2004-09-29 西部朝刊"/>。被害者Aの一家が全員死亡していたため、福岡県警は関係者の供述・証拠を手掛かりに捜査を進めることとなった<ref name="読売新聞2004-09-29 西部朝刊"/>。 |
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=== 処分など === |
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K2は逮捕された当初「4人を拳銃で撃った」と説明したが、司法解剖の結果A・C両被害者の遺体には銃撃痕は見られなかったほか、殺害の順番・場所の説明も二転三転するものだったため、福岡県警は「K2が何か重大なことを隠している」と推測して追及を続けた<ref name="読売新聞2004-09-29 西部朝刊"/><ref name="読売新聞2004-09-29 西部朝刊"/>。その結果、2004年9月29日までにK2は「息子K4が被害者を銃で射殺した」と述べたほか、一連の事件への関与を否定していたK4も「全部俺がやったことだ」などと4人の殺害に関与したことを認める供述をしたため、それぞれ供述の矛盾点を慎重に突き詰めるなど裏付け捜査を行った<ref name="読売新聞2004-09-30 西部朝刊1面">『読売新聞』2004年9月30日西部朝刊1面「福岡・大牟田の連続殺人 K4容疑者が4人殺害関与供述」</ref><ref name="読売新聞2004-09-30 東京朝刊">『読売新聞』2004年9月30日東京朝刊第一社会面39面「福岡・大牟田の連続殺人 『全部おれがやった』K4容疑者が供述」</ref>。 |
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逃走事件については2005年(平成17年)1月4日、大牟田署がK3を[[逃走の罪#単純逃走罪|単純逃走罪]]容疑で福岡地検久留米支部に[[書類送検]]した<ref>『読売新聞』2005年1月5日西部朝刊社会面39頁「福岡・大牟田の連続殺人 単純逃走容疑でK3被告を書類送検」(読売新聞西部本社)</ref><ref>『朝日新聞』2005年1月5日西部朝刊第一社会面35頁「4人殺害事件のK3容疑者を逃走で書類送検 大牟田署【西部】」(朝日新聞西部本社)</ref>。同月11日に同地検がK3を単純逃走罪で追起訴し<ref name="読売新聞2005-01-12">『読売新聞』2005年1月12日西部朝刊社会面31頁「福岡・大牟田連続殺人 逃走罪でK3被告を追起訴」(読売新聞西部本社)</ref>、一連の事件の捜査を終えた<ref>『西日本新聞』2005年1月12日朝刊第19版第二社会面(事件・人・話題)36頁「大牟田事件、逃走罪でK3被告を追起訴 地検久留米支部」(西日本新聞社)</ref>。K3は刑事裁判で一連の殺人などへの関与を否定した一方、この逃走事件だけは起訴事実を認めたが<ref name="読売新聞2005-03-16"/>、その動機などについてはK2・K4の公判に証人として出廷した際、逃走前夜に(久留米署で)自殺を図ったが死にきれず、死のうと思って逃げたことや、父K1の近くで死のうと思って大牟田方面に逃走したということ<ref>『読売新聞』2005年6月22日西部朝刊社会面31頁「大牟田の連続殺人 K3被告が地検逃走の動機説明 「死のうと思った」/福岡地裁」(読売新聞西部本社)</ref>、そして「自分がやった」という遺書を残せば、K4たちが助かると思ったことなどを供述している<ref name="有明新報2005-06-22"/>。また、タクシー代金を踏み倒さず、父の配下の組員に用意させて払おうとした理由についても、運転手が親身になって自分の話を聞いてくれたことを理由に「このような人の良い運転手を騙す訳にはいかない。タクシー代だけは払ってやりたいと考え直しました。そのようにタクシー代を払ってやることを決めると、そのお金を親父が組長を務める北村組の組員である〔当該組員の実名〕に用意させることにして、取り敢えずはこの〔組員〕に連絡をとることにしました。」と述べている{{Sfn|集刑304号|2012|p=447}}。 |
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また、地元住民からは、警察官3人が付き添いながら逃走を許したことや、県警が周囲に警戒を喚起する広報をしなかったことに対し強い批判の声が上がった<ref name="西日本新聞2004-11-14第二"/>。小野一光の取材に応じた社会部記者は、実況見分の際にK3がサングラスを掛けていたり、K4が殺害現場でガムを噛む・たばこを吸う・捜査員の足を蹴るなどしており、捜査員がそれを黙認しているなどといった姿が見られたことを指摘した上で、県警内部にそのような気の緩み・馴れ合いがあったことが逃走事件の原因であると指摘している{{Sfn|小野一光3|2004|p=87}}。福岡県警[[監察官#日本の警察|監察官室]]は同月27日、重大被疑者の動静監視を怠って逃走を招いたとして<ref>『有明新報』平成17年(2005年)1月28日号9頁「福岡県警監察官室 被疑者逃走で大牟田署巡査部長らを減給処分」(有明新報社)</ref>、護送を担当していた大牟田署員3人にそれぞれ100分の10の減給(巡査部長は3か月間、巡査長2人は1か月間)、護送を監督する立場だった久留米署の留置管理課長に戒告といった[[懲戒処分]]を下し、他8人(大牟田・久留米の両署長ら)も本部長訓戒などの処分に付した<ref name="西日本新聞2005-01-28">『西日本新聞』2005年1月28日朝刊第19版第二社会面(事件・人・話題)26頁「県警 大牟田事件被告逃走で12人処分」(西日本新聞社)</ref>。また、県警および[[警察庁]]は事件を受け、以下のような対応を取ったほか、県警総務部長の渡辺達哉は同月22日の[[福岡県議会|県議会]]警察委員会で[[警察不祥事|県警の落ち度]](護送員の危機意識の欠如など)を認め、県民に謝罪している<ref>『朝日新聞』2004年11月22日西部夕刊第一社会面9頁「「危機意識が欠如」謝罪 大牟田事件容疑者逃走【西部】」(朝日新聞西部本社)</ref>。 |
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一方で2004年9月末、まだ逮捕されていなかった長男K3は『[[西日本新聞]]』([[西日本新聞社]])の取材に対し「殺害されたB・C兄弟とはあまり面識はなかった。家族が逮捕されたことは世間に申し訳ないと思うが、自分は事件に関与していないし『なぜ事件が起きたか』はこちらが聞きたい」と述べていた<ref>『[[西日本新聞]]』2004年10月23日朝刊第19版第一社会面(事件・人・話題)39頁「大牟田事件 逮捕前のK3被告 事件関与を否定」</ref>。 |
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* 県警 - 県内全署宛に渡辺の名で「逃走事故防止の徹底」を喚起する文書を出し<ref name="朝日新聞2004-11-16">『朝日新聞』2004年11月16日西部朝刊第一社会面31頁「3警官、一緒に食事 大牟田・強殺事件のK3容疑者逃走【西部】」(朝日新聞西部本社)</ref>、同月17日、県警留置管理課が県警本部に各警察署の留置管理課長らを招集し、留置手順の徹底を指導した<ref>『読売新聞』2004年11月17日西部夕刊社会面7頁「留置手順徹底を指導 大牟田の連続殺人・K3被告の逃走で/福岡県警」(読売新聞西部本社)</ref>。また、地検各支部の同行室などの緊急点検も実施した<ref name="朝日新聞2004-11-16"/>。 |
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* 警察庁 - 事件後、全国の警察本部に対し「同行室の運用実態の把握」「同行室での監視要領の制定」「被疑者に応じた護送態勢と人員の制定」などを指示した<ref name="読売新聞2004-11-27"/>。 |
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== 刑事裁判 == |
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4被告人ともいったんは[[国選弁護制度|国選]]もしくは私選の[[弁護人]]が決まっていたが、K4の弁護人は産休のために辞任し、K2の私選弁護人も「やりたくない」と辞任した<ref name="読売新聞2004-12-11">『読売新聞』2004年12月11日西部夕刊社会面11頁「福岡・大牟田事件 弁護人、あみだで決定 弁護士会筑後、引き受け手見つからず」(読売新聞西部本社)</ref>。その後、K1の弁護人も担当できなくなったため<ref name="読売新聞2004-12-11"/>、K3以外の3被告人について国選弁護人の選任が必要となった<ref name="西日本新聞2004-12-11"/>。[[福岡県弁護士会]]筑後部会(部会長:高橋謙一)は3人の国選弁護人を選任するため、部会内で作成していた国選弁護人名簿に基づき、名簿に掲載されていた弁護士たちに担当を依頼していたが、辞退者が相次ぎ、引き受け手が見つからなかった<ref name="読売新聞2004-12-11"/>。 |
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福岡県警は2004年10月2日に長男K3を死体遺棄容疑の被疑者として逮捕したほか<ref name="読売新聞2004-10-02 西部夕刊">『読売新聞』2004年10月2日西部夕刊1面「福岡・大牟田4人殺害事件 K4容疑者の兄逮捕 死体遺棄容疑共犯で」</ref><ref name="読売新聞2004-10-02 東京夕刊">『読売新聞』2004年10月2日東京夕刊第一社会面19面「大牟田連続殺人・死体遺棄 死体遺棄容疑でK4容疑者の兄も逮捕」</ref>、翌10月3日には入院中だった父K1も犯行に関与していたことが判明した<ref name="読売新聞2004-10-04 西部朝刊">『読売新聞』2004年10月4日西部朝刊第一社会面35面「福岡・大牟田の4人殺害 夫も3人遺棄関与 県警『親子4人の犯行』」</ref><ref name="読売新聞2004-10-04 東京朝刊">『読売新聞』2004年10月4日東京朝刊第一社会面39面「福岡・大牟田事件 親子4人で犯行か 夫の組幹部、3人遺棄に関与」</ref>。そのため捜査本部はK1を回復次第死体遺棄容疑で逮捕することを決めたほか、2つの遺棄事件(C事件、A・B・D事件)はそれぞれ遺棄現場・犯行日がほぼ同一だったことから、福岡県警はこの時点ではK1・K3に対し未立件だったC事件についても、2人が関与したとみて事情聴取した<ref name="読売新聞2004-10-04 西部朝刊"/><ref name="読売新聞2004-10-04 東京朝刊"/>。 |
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一方、弁護士会内で「今回は重大事件だ」との指摘が出されたため、同部会は翌2005年1月から運用する予定で作成を進めていた特別案件用の名簿から弁護人を選任することとなった<ref name="西日本新聞2004-12-11"/>。その名簿には中堅を中心に十数人が登録される予定だったが、記載順が未定だったため、同会は2004年12月2日、全登録予定者を対象にあみだくじによる弁護人の選任を行い、3人を選任した<ref name="西日本新聞2004-12-11">『西日本新聞』2004年12月11日夕刊第10版第一社会面11頁「大牟田事件 あみだで国選弁護人 弁護士会筑後部会 3被告分、受け手なく」(西日本新聞社)</ref>。同部会は「公平を期する」ためにあみだくじで選任を行っており、同会所属の弁護士は「拘置所が建て替え予定で遠隔地になることや、調書が膨大で手間がかかるため引き受け手がいなかった」と証言している<ref>『東京新聞』2004年12月11日夕刊第二社会面10頁「あみだで国選弁護人 福岡4人殺害 3被告 引き受けなく」(中日新聞東京本社)</ref>。この問題について[[土本武司]]は、地元の部会に適切な人材がいなければ、他の部会に相談する方法もあったかもしれないと指摘している<ref name="読売新聞2004-12-11"/>。 |
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K3は事件後に「弟K4の弁護士が見つからない」と漏らし弁護士を探していたほか、逮捕される約1週間前(被害者の告別式が開かれた時期)には喪服姿で外出する姿が目撃されていた<ref name="読売新聞2004-10-03 西部朝刊"/>。 |
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第一審判決が宣告された時点で、K1の弁護人は富永孝太郎<ref name="西日本新聞2007-02-28"/>、K2の弁護人は北村哲<ref name="西日本新聞2006-10-18"/>、K3の弁護人は紫藤拓也<ref name="西日本新聞2007-02-28"/>、K4の弁護人は永尾廣久がそれぞれ担当していた<ref name="西日本新聞2006-10-18"/>。同時点の福岡地検久留米支部長は、内藤惣一郎である<ref name="西日本新聞2006-10-18"/><ref name="西日本新聞2007-02-28"/>。 |
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2004年10月4日、K2は「Aとトラブルになっていた。自分のせいで息子たちを巻き込み迷惑をかけた」と供述した<ref name="読売新聞2004-10-05 西部朝刊">『読売新聞』2004年10月5日西部朝刊第一社会面35面「福岡・大牟田の4人殺害 K2容疑者供述『息子巻き込んだ』 金銭問題きっかけ?」</ref>。同日午前0時すぎ、被疑者K4は拘置されていた福岡県警[[筑紫野警察署]]の留置場で丸めたトイレットペーパーを喉に詰め自殺を図ったが、すぐ署員に発見されてトイレットペーパーを取り出されたため大事には至らなかった<ref name="読売新聞2004-11-26 西部夕刊">『読売新聞』2004年11月26日西部夕刊第一社会面11面「大牟田連続殺人 K4被告自殺未遂 先月4日、留置場でトイレのちり紙飲み」</ref><ref name="読売新聞2004-11-26 東京夕刊">『読売新聞』2004年11月26日東京夕刊第一社会面31面「福岡・大牟田の4人殺害 K4被告、留置場で自殺未遂 ちり紙飲み込む」</ref>。 |
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=== 第一審 === |
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[[審級|第一審]]の[[公判]]は、[[福岡地方裁判所]]久留米支部(高原正良裁判長)に係属した<ref name="読売新聞2005-03-16">『読売新聞』2005年3月16日西部朝刊一面1頁「福岡・大牟田連続殺人初公判 一家4人、認否割れる」(読売新聞西部本社)</ref>。 |
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拳銃自殺未遂事件で重傷を負って入院していた被疑者K1は2004年10月7日になって医師から「逮捕後の拘置に耐えきれる」と判断されたため、福岡県警によりA・B・Dの3人の遺体を車ごと川に沈めたとして死体遺棄容疑で逮捕された<ref name="読売新聞2004-10-08 西部朝刊">『読売新聞』2004年10月8日西部朝刊第一社会面31面「福岡・大牟田の4人殺害事件 3人遺棄容疑で夫逮捕 K2・K4容疑者も再逮捕」</ref><ref name="読売新聞2004-10-08 東京朝刊">『読売新聞』2004年10月8日東京朝刊第一社会面39面「福岡・大牟田の4人殺害 福岡県警、3人の死体遺棄容疑で夫の組幹部逮捕」</ref>。この逮捕により「一連の事件はK1一家4人全員が関与した」とほぼ断定される格好となった<ref name="読売新聞2004-10-08 西部朝刊"/>。 |
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初公判は2005年3月15日に開かれ、[[罪状認否]]でK1は4人殺害・死体遺棄について家族3人との共謀を否定し、全て自身の単独犯である旨を主張した上で、A1殺害については金品を奪う意図はなかったとして、強盗殺人罪の成立を否定<ref name="有明新報2005-03-16"/>、殺人罪と窃盗罪に該当することを主張した<ref name="有明新報2007-02-28">『有明新報』平成19年(2007年)2月28日付1頁「諏訪川4人殺害事件 残る2人にも死刑判決 K1、K3両被告 福岡地裁久留米支部 人命軽視し犯行は冷酷 “刑事責任あまりに重い”」(有明新報社)</ref>。また、K3は逃走事件を除く一連の犯行(4人殺害・死体遺棄)への関与を全て否定した一方、K4・K2の2人は起訴事実を全面的に認めた<ref name="有明新報2005-03-16"/>。その後、検察官が冒頭陳述を行い、4被告人が関与した強盗殺人・殺人・死体遺棄・銃刀法違反の各罪状について、謀議状況などからそれぞれ共謀の成立を主張した上で、犯行の背景から経緯に至るまで詳細な態様を陳述した<ref name="有明新報2005-03-16"/>。 |
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取り調べに対し被疑者K1は「全部俺がやった」と供述したが、次男K4も「全部俺がやったことだ」と供述していたほか、妻K2が「自分のせいで子供を巻き込んだ。息子が銃で撃った」などとそれぞれ矛盾する供述をしていたため、福岡県警は慎重に裏付け捜査を進めた<ref name="読売新聞2004-10-08 西部朝刊"/>。福岡県警は同日、C事件の死体遺棄容疑で逮捕されていた母K2・次男K4をそれぞれA・B・Dの3人に対する死体遺棄容疑で再逮捕した<ref name="読売新聞2004-10-08 西部朝刊"/><ref name="読売新聞2004-10-08 東京朝刊"/>。<!-- |
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K1の弁護人は次回公判以降、公判を分離することを希望し<ref name="読売新聞2005-03-16"/>、審理は第2回公判(同年4月13日)より、起訴事実を認めたK2・K4の両被告人と、起訴事実を否認したK1・K3両被告人のそれぞれ2グループに分離された<ref name="西日本新聞2005-04-13"/>。その後も、K1・K3の公判にK2やK4が証人として出廷したり<ref name="毎日新聞2005-04-27">『毎日新聞』2005年4月27日西部朝刊総合面28頁「福岡・大牟田の4人殺害:「事実認めて」 K2被告、夫と長男に呼びかけ--地裁公判」(毎日新聞西部本社【岸達也】)</ref><ref>『毎日新聞』2005年9月28日西部朝刊社会面31頁「福岡・大牟田の4人殺害:「おもちゃ」と頭に1発発射--地裁公判」(毎日新聞西部本社【岸達也】)</ref>、逆にK2・K4の公判にK1やK3が証人として出廷したりした<ref name="毎日新聞2005-10-12"/>。同年11月8日のK1・K3の公判(K4が彼らの法廷で証言するのは同日が最後という予定だった)で、証人として出廷したK4はK1に対し「親父と会うのはこれが最後。死ぬまでしっかり生きてほしい」と述べているが、『日本経済新聞』ではこのK4の行動が「死刑判決を覚悟したように父親らに別れの言葉を述べる異例の場面があった。」と報じられている<ref>『日本経済新聞』2005年11月9日西部朝刊社会面17頁「福岡・大牟田連続殺人、法廷で父らに別れの言葉−−K4被告「会うのは最後」」(日本経済新聞西部本社)</ref>。 |
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被害者4人の死体遺棄容疑で逮捕されていたK2はA・B・Dの計3人の遺体を遺棄した容疑は認めた一方、Aの次男Cを殺害し遺体の遺棄にも関与した容疑について「まったく知らない。Cが殺されたことはあとで知った」と供述した<ref name="読売新聞2004-10-09 西部朝刊">『読売新聞』2004年10月9日西部朝刊第一社会面39面「福岡・大牟田の4人殺害 K2容疑者がCさん殺害関与を否認」</ref>。そのため福岡県警の捜査本部は、夫K1や息子K3・K4兄弟との役割分担を追及するとともに裏付け捜査を進めた<ref name="読売新聞2004-10-09 西部朝刊"/>。--> |
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==== 法廷での兄弟喧嘩 ==== |
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=== 被疑者K3が関与を認める === |
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同年6月21日および10月11日に開かれた公判で、K3は無実を主張したり、母K2を「実の親とも、身内とも思っていない」と表現{{Efn2|K3がK2の弁護人から、K2の調書に「拳銃6発のうち何発かはK3が撃ったかもしれない」との供述があったことに対する答え<ref>『有明新報』平成17年(2005年)10月12日付7頁「諏訪川4人殺害事件 K3被告の証言に対しK4被告が激高 一時騒然」(有明新報社)</ref>。}}したりしたが、これに憤慨したK4と法廷で一触即発になり、刑務官によって廷外に連れ出されている<ref name="朝日新聞2005-06-22"/><ref name="毎日新聞2005-10-12"/>。K4はK1・K3の公判(同年9月27日)で検察側証人として出廷した際、自身の単独犯を主張したK1について「息子であることを誇りに思う。正しいことを言ってほしい」と述べた一方、関与を否認するK3については「両親を踏み台にして自分だけ責任逃れをするのは人間として失格。最後くらいはきちっとするのが社会に対してのけじめ」と批判している<ref>『有明新報』平成17年(2005年)9月28日付7頁「諏訪川4人殺害事件 K4被告 4人共謀を証言 父、兄の心情に訴え」(有明新報社)</ref><ref>『朝日新聞』2005年9月28日西部朝刊福岡県版第一地方面31頁「「4人で計画して実行」 K4被告、否認の兄批判 大牟田事件で地裁支部公判/福岡県」(朝日新聞西部本社)</ref>。 |
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2004年10月13日までにK3はそれまでの全面否認から一転して容疑を認める供述を始めたため、一家4人全員が容疑を認めたこととなった<ref name="読売新聞2004-10-13 西部夕刊">『読売新聞』2004年10月13日西部夕刊第一社会面7面「福岡・大牟田4人殺害 K3容疑者、遺棄認める」</ref>。また捜査本部が銃弾の[[線条痕]]を鑑定した結果、B・D両名に向けて発砲された拳銃とK1が大牟田署で自殺を図った拳銃は線条痕が一致したため、同一の拳銃による犯行が裏付けられた<ref name="読売新聞2004-10-13 西部夕刊"/>。 |
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一方で同年10月18日に開かれたK1・K3の公判で、K4はA3を自ら殺害した理由について質問されると「直接兄貴に人殺しをさせたくなかった」と答えており、K3との仲については「逮捕された今でも兄と思っている」と供述している<ref>『有明新報』平成17年(2005年)10月19日付7頁「諏訪川4人殺害事件 K1、K3両被告公判 K4被告が殺害状況など証言」(有明新報社)</ref>。また、同年11月8日の公判では、K1・K3の2人に対し、それぞれ涙を流しながら真実を語るよう訴えている<ref>『有明新報』平成17年(2005年)11月9日付7頁「諏訪川の4人殺害事件 K4被告証人尋問終了 声詰まらせ父、兄への思い話す」(有明新報社)</ref>。 |
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同日までの取り調べの結果、被疑者K2は「夫K1や息子がAら3人を殺すのを止めようとしたがどうしようもなかった」と供述した<ref name="読売新聞2004-10-14 西部朝刊">『読売新聞』2004年10月14日西部朝刊第一社会面39面「大牟田事件 『夫と息子の殺人止めようとしたが…』 K2容疑者が供述/福岡」</ref>。一連の事件で被疑者が殺害の実行役に関して具体的な供述をしたのはこれが初めてだった<ref name="読売新聞2004-10-14 西部朝刊"/>。 |
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* 2004年10月12日、[[福岡地方検察庁]]久留米支部はCの死体遺棄容疑で逮捕された被疑者K2について「本日で勾留期限が切れるが犯行の状況を含め事件の解明に至っていない」として処分保留とした<ref name="読売新聞2004-10-15 西部朝刊"/>。 |
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* 2004年10月14日、福岡地検久留米支部はCの死体遺棄容疑で逮捕された被疑者K3について、母K2と同様の理由で処分保留とした<ref name="読売新聞2004-10-15 西部朝刊">『読売新聞』2004年10月15日西部朝刊第一社会面35面「福岡・大牟田4人殺害 K4容疑者、処分保留に/地検久留米支部」</ref>。Cの死体遺棄容疑における勾留期限は切れたが、K2・K3両名はAら3人の死体遺棄容疑で再逮捕されていたため引き続き拘置された<ref name="読売新聞2004-10-15 西部朝刊"/>。 |
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2004年10月15日、K2が「9月17日か18日、出入りしていた大牟田市本町のアパートで夫K1、息子K3・K4とともに被害者Aと会ったがAと口論になり、K1ら3人がAを殺そうとしたため自分が止めた。その後全員で市内の港に移動した後(息子らが)Aを殺害した」と供述した<ref name="読売新聞2004-10-16 西部朝刊">『読売新聞』2004年10月16日西部朝刊第一社会面37面「福岡・大牟田4人殺害 『Aさん、港で殺害』 K2容疑者が供述」</ref>。 |
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==== K2・K4の審理 ==== |
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福岡県警捜査本部は2004年10月14日に被疑者K3を立ち会わせて大牟田港岸壁などで現場検証を行った<ref name="読売新聞2004-10-20 西部朝刊">『読売新聞』2004年10月20日西部朝刊第一社会面35面「福岡・大牟田の連続殺人 容疑者立ち合い、港岸壁で現場検証」</ref>。 |
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K2は第15回公判で、自分には犯行に家族を巻き込んでしまった責任があると述べ、第18回公判では母親としての真情(犯行に巻き込んでしまったことへの謝罪など)を述べている{{Sfn|集刑304号|2012|pp=309-310}}。 |
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2006年(平成18年)3月14日に開かれた第22回公判で、K2とK4はそれぞれ公判を傍聴していた被害者遺族(A1の母親ら)の方を向いて謝罪の言葉を述べ、頭を下げた<ref>『朝日新聞』2006年3月15日西部朝刊福岡県版第一地方面31頁「大牟田事件のK2・K4被告、遺族に直接謝罪 地裁久留米 /福岡県」(朝日新聞西部本社)</ref>。同日、K2は死刑を受け入れることが唯一の謝罪方法であるという旨を述べている<ref>『有明新報』平成18年(2006年)3月15日付7頁「諏訪川の4人殺害事件 K2、K4両被告公判 傍聴席の遺族に謝罪」(有明新報社)</ref>。 |
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=== K2・K3・K4を死体遺棄罪で起訴 === |
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福岡地検久留米支部は2004年10月22日、A・B・Dの被害者3人に対する死体遺棄罪で拘置期限が切れるK2・K3・K4の3被疑者を[[福岡地方裁判所久留米支部]]へ[[起訴]]した<ref name="西日本新聞2004-10-23">『西日本新聞』2004年10月23日朝刊第19版第一社会面(事件・人・話題)39頁「大牟田事件 死体遺棄罪 K2容疑者ら3人起訴」</ref><ref name="読売新聞2004-10-23 西部朝刊"/>。被疑者K1は拳銃自殺を図って入院し逮捕が遅れており2004年10月28日が拘置期限となっていたため、同日は起訴されなかった<ref name="読売新聞2004-10-23 西部朝刊"/>。 |
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しかしその次の公判(3月28日)で、被害者遺族の1人であるA1の母親による「K2が(息子)2人の殺人鬼を育て上げた。同じ苦痛を受けさせてやりたい」という調書が裁判長の高原によって代読された{{Efn2|同日はこのほか、A1の妹とBの母親もそれぞれ意見陳述で犯人らを死刑にするよう求めた<ref name="毎日新聞2006-03-29"/>。}}ところ、K4は陳述後に行われた弁護人による被告人質問の際、A1の母親に対し「ふざけんな。親を悪く言うな」などと叫び、高原から「落ち着きなさい」と諭されたほか、K2からも制止されている<ref name="毎日新聞2006-03-29"/>。一方で意見陳述後、K4は「責任を持って極刑を受けます」と答えたとする報道もある<ref>『有明新報』平成18年(2006年)3月29日付1頁「諏訪川の4人殺害事件 5月2日論告求刑 K2・K4被告 遺族らが処罰感情あらわ」(有明新報社)</ref>。上告趣意書によれば、K4は第23回公判でK2とともにBの母親に頭を下げ、謝罪の言葉を述べている{{Sfn|集刑304号|2012|pp=312-313}}。 |
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また福岡県警捜査本部による捜査の結果、諏訪川に沈められた車から遺体で見つかったA・B・Dの被害者3人について大まかな殺害方法・場所が判明したため、捜査本部は一家4人を翌週中にも殺人容疑で再逮捕する方針を固めた<ref name="西日本新聞2004-10-23"/><ref name="読売新聞2004-10-23 西部朝刊">『読売新聞』2004年10月23日西部朝刊第一社会面37面「福岡・大牟田連続殺人 Aさん、港で絞殺か 2人は埋め立て地で射殺」</ref><ref name="読売新聞2004-10-23 東京朝刊">『読売新聞』2004年10月23日東京朝刊第一社会面35面「福岡・大牟田4人殺害事件 1人は絞殺」</ref>。 |
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そのうちAは9月17日、大牟田市本町のアパートでK1一家4人と口論になったためにK1らが殺害しようとし、いったんは妻K2が諫めたが、ワゴン車にAを乗せ全員で大牟田市西新町の大牟田港岸壁に移動し<ref name="読売新聞2004-10-23 西部朝刊"/><ref name="読売新聞2004-10-23 東京朝刊"/>、次男K4がひも状のもので首を絞めて絞殺した可能性が高いことが判明した<ref name="読売新聞2004-10-23 西部朝刊"/><ref name="読売新聞2004-10-23 東京朝刊"/>。 |
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K2の知人でもあったBの母親は公判中の2006年3月から6月にかけ、当時大牟田拘置支所に収監されていたK2と4回にわたる面会を重ね、「なぜ事件が起きたの。あなたを追い詰めたものは何」と詰問していた<ref name="西日本新聞2006-06-14"/>。彼女は『西日本新聞』の取材に対し、K2らについて「死刑は望んでいない。私が生きることがつらいように、被告〔人〕たちも生きて一生苦しんでほしい」と述べている<ref name="西日本新聞2006-06-14"/>。 |
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一方でB・D両名は9月16日か17日ごろ、Bの母Aの軽乗用車で行方不明になっていたBの弟Cを捜索していたところをK4らに呼び止められた<ref name="読売新聞2004-10-23 西部朝刊"/><ref name="読売新聞2004-10-23 東京朝刊"/>。K4らはその後、Aの殺害現場から約1km離れた大牟田港付近の埋め立て地まで連れて行き、軽乗用車内にて拳銃で射殺した疑いが強いことが判明した<ref name="読売新聞2004-10-23 西部朝刊"/><ref name="読売新聞2004-10-23 東京朝刊"/>。--> |
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===== 死刑求刑 ===== |
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2006年5月2日の公判で[[論告]][[求刑]]が行われ、検察官はK2・K4の両被告人ともに死刑を求刑した<ref>『読売新聞』2006年5月3日西部朝刊社会面31頁「福岡・大牟田連続殺人 K2、K4被告に死刑求刑 検察「矯正は不可能」」(読売新聞西部本社)</ref>。検察官は論告で、一連の事件は4被告人が共謀して起こしたものであり、4人全員が殺害計画・犯行に関与したものであるとした上で、犯行動機はK2が無計画で場当たり的な生活を続けたことによって陥った資金難を打開するためであり、金銭欲・自己保身欲を満たすためのものであると主張した<ref name="有明新報2006-05-03"/>。また、犯行は周到・綿密に準備された計画的なもので、事件を隠蔽するために遺体を遺棄するなど、[[完全犯罪]]を目論んだものである旨も主張した<ref name="有明新報2006-05-03"/>。 |
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=== 強盗殺人容疑で一家4人再逮捕 === |
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2004年10月26日、福岡県警捜査本部は「K1ら一家4人が金銭トラブルの末、金目当てで被害者Aを睡眠薬を飲ませた上で殺害し現金などが入ったバッグを奪った」と断定し、被疑者一家4人をいずれも強盗殺人容疑で再逮捕した<ref name="読売新聞2004-10-27 西部朝刊">『読売新聞』2004年10月27日西部朝刊1面「大牟田連続殺人事件 K親子4人を母親強殺容疑で再逮捕」</ref><ref name="読売新聞2004-10-27 東京朝刊">『読売新聞』2004年10月27日東京朝刊第一社会面39面「福岡・大牟田事件 Aさん殺害容疑でK1親子を再逮捕」</ref>。捜査本部は被疑者4人が、Bら残る3人についても殺害に関与したとみて引き続き役割分担を追及した<ref name="読売新聞2004-10-27 西部朝刊"/>。福岡地検久留米支部は同日、入院で逮捕が遅れていた被疑者K1を死体遺棄罪で追起訴した<ref name="読売新聞2004-10-27 西部朝刊"/>。 |
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次いで、犯行態様は執拗かつ残虐であり、生命の尊厳を冒涜したものであると位置づけた上で、以下のように両被告人の情状について言及し<ref name="有明新報2006-05-03"/>、矯正は不可能であると主張した<ref name="読売新聞2006-05-03"/>。 |
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2004年10月29日までに死体遺棄罪で起訴された[[被告人]]K2は「被害者Aを殺害後、夫K1が息子に『Aの子どもを拉致してこい』と指示した」と供述した<ref name="読売新聞2004-10-30 西部朝刊">『読売新聞』2004年10月30日西部朝刊第一社会面39面「福岡・大牟田事件 夫がBさんら拉致指示、Aさん殺害後に K2被告供述」</ref>。 |
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;K2 |
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: K3・K4の息子2人に対し「分け前」を提示して犯行に引き込んだ<ref name="読売新聞2006-05-03">『読売新聞』2006年5月3日西部朝刊社会面31頁「福岡・大牟田連続殺人 K2、K4被告に死刑求刑 検察「矯正は不可能」 地裁久留米」(読売新聞西部本社)</ref>。事件を主導した1人であり<ref name="有明新報2006-05-03"/>、動機面における中心的存在であった<ref name="読売新聞2006-05-03"/>。母親が子供に人を殺させるとは人間の所業ではない<ref name="読売新聞2006-05-03"/>。同種再犯の可能性が高い<ref name="有明新報2006-05-03"/>。 |
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;K4 |
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:2晩程度の間に殺害実行犯として4人の命を奪っており、殺人鬼としか言いようがない<ref name="読売新聞2006-05-03"/>。A1殺害の際には車外にいたK3にからかわれて笑ったり、たばこを吹かしたりしており、人間性や良心の呵責の欠片も見られない<ref name="読売新聞2006-05-03"/>。K4は被告人質問で<ref name="朝日新聞2006-05-03"/>、K2から指示された殺害行為について「組員として自らの手を汚すことは務めであり、自分の考えるやくざ論としては名誉なこと」などと正当化していることなどから<ref>『毎日新聞』2006年5月3日西部朝刊社会面27頁「福岡・大牟田の4人殺害:妻と二男に死刑求刑 遺族「恨み消えない」 K4被告、傍聴席にらみつけ」(毎日新聞西部本社【福岡静哉、木下武】)</ref>、歪んだ観念・発想が人格の本質に深く根差している<ref name="有明新報2006-05-03"/>。これまでの公判でも度々暴言を吐くなどしており、犯罪性向は矯正不可能である<ref name="読売新聞2006-05-03"/>。 |
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そして一連の事件は「被害者一家を根絶やしにし、金銭欲の赴くまま生命を奪った史上稀に見る犯行」と位置づけ<ref name="朝日新聞2006-05-03">『朝日新聞』2006年5月3日西部朝刊第一総合面1頁「母・次男に死刑求刑 「金銭欲おもむくまま」 大牟田4人殺害 【西部】」(朝日新聞西部本社)</ref>、社会や国民に大きな衝撃・不安・恐怖を与えた事件であること、遺族の処罰感情も峻烈であることを挙げ、2被告人に対しては「寛刑に付されれば国民の安全は守れない」「極刑しかあり得ないと言わざるを得ない」と結論づけた<ref name="有明新報2006-05-03"/>。 |
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===== 最終弁論 ===== |
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福岡県警捜査本部は夫K1が事件の発覚を恐れ、息子K3・K4両被告人に対しB・D両名の拉致・殺害を指示したとみてさらに追及した<ref name="読売新聞2004-10-30 西部朝刊"/>。 |
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同年6月13日の第25回公判で、K2・K4それぞれの弁護人による最終弁論が行われ、両被告人の審理は結審した<ref name="読売新聞2006-06-14">『読売新聞』2006年6月14日西部朝刊社会面31頁「福岡・大牟田連続殺人 2被告の最終弁論、死刑回避求める 地裁公判」(読売新聞西部本社)</ref>。最終弁論の要旨は以下の通りで、「被告人なりに反省、悔悟の情を示している」として死刑回避を求めるもので<ref name="読売新聞2006-06-14"/>、両被告人は最終意見陳述でそれぞれ謝罪・反省の弁を述べている<ref name="朝日新聞2006-06-14"/>。 |
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;K2の弁護人 |
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:犯行の首謀者はK1とK3である<ref name="西日本新聞2006-06-14"/>。K2は2人の圧力から事件に加担せざるを得ない状況にあった<ref>『毎日新聞』2006年6月14日西部朝刊社会面25頁「福岡・大牟田の4人殺害:K2・K4両被告、死刑回避求める--地裁久留米支部」(毎日新聞西部本社)</ref>が、殺害に臆する気持ちがあり<ref name="西日本新聞2006-06-14"/>、従属的かつ消極的であった<ref>『読売新聞』2006年10月17日西部朝刊第三社会面31頁「大牟田4人殺害 K母子きょう判決 ともに死刑回避求める/福岡地裁支部」(読売新聞西部本社)</ref>。K2は公判で他の3被告人に真実を話すよう促しており<ref name="西日本新聞2006-06-14">『西日本新聞』2006年6月14日朝刊第18版第二社会面30頁(事件・人・話題)「大牟田4人殺害 最終弁論 2被告 死刑回避求める」「被害者母「一生償いを」「死刑は望まぬ」 「なぜ息子巻き添え」面会4回」(西日本新聞社)</ref>、再犯の可能性はない<ref name="朝日新聞2006-06-14">『朝日新聞』2006年6月14日西部朝刊第一社会面31頁「母・次男弁護側、死刑回避を主張 大牟田殺害最終弁論【西部】」(朝日新聞西部本社)</ref>。 |
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;K4の弁護人 |
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:K4は暴力団の家庭に育ったことで暴力団特有の思考に浸かっていた<ref name="西日本新聞2006-06-14"/>。事件当時は20歳3か月と若年であり、精神的にも未熟であった一方、矯正可能性が認められる<ref>『有明新報』平成18年(2006年)6月14日付1頁「諏訪川の4人殺害事件 K2・K4被告は従属「死刑回避」と弁護人 10月17日に判決公判」(有明新報社)</ref>。 |
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===== 死刑判決 ===== |
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またAら3人より先に殺害されたAの次男Cについても、殺害の経緯・役割分担について一家4人を引き続き追及した<ref name="読売新聞2004-10-30 西部朝刊"/>。 |
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同年10月17日に判決公判が開かれ、福岡地裁久留米支部は求刑通り、K2・K4の両被告人に死刑を宣告した<ref name="有明新報2006-10-18">『有明新報』平成18年(2006年)10月18日付1頁「K2、K4両被告に死刑 諏訪川の4人殺害判決公判 地裁久留米支部 冷酷非道、極めて凶悪 4人共謀の犯行と断定」(有明新報社)</ref>。 |
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同地裁支部は、A1殺害についてはK3・K4の2人が共謀し「呼吸を合わせて連携して行ったもの」と[[事実認定|認定]]し<ref name="西日本新聞2006-10-18社会">『西日本新聞』2006年10月18日朝刊第19版第一社会面(事件・人・話題)35頁「大牟田4人殺害判決 被告 涙の謝罪空しく 裁判長遮り頭下げ 遺族「本心か分からぬ」」「【解説】K2被告の関与「中心的な役割」(久留米総局・河津由紀子)」(西日本新聞社)</ref>、A1殺害については殺害・遺体の処理などについて4被告人で謀議を図ったことを理由に、4被告人の共謀を認定した<ref name="判決要旨"/>。また、A2・B殺害についても、4人が遺体を遺棄するために使用する車を得ることや、姿を見られたことから事件発覚を恐れて口封じを図ったことが動機であるとして、4被告人の共謀を認定した<ref name="判決要旨"/>。『西日本新聞』久留米総局記者の河津由紀子はこのような事実認定について、K1・K3の共謀を積極的に認定した判決と評している<ref name="西日本新聞2006-10-18社会"/>。 |
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=== Aの殺害現場付近を捜索 === |
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2004年11月11日、福岡県警捜査本部はAの殺害現場となった大牟田港付近の大牟田川を捜索した<ref name="読売新聞2004-11-12 西部朝刊"/>。その結果、川底から殺害の凶器に用いられたとみられる自転車のワイヤー錠のようなものが発見され、押収された<ref name="読売新聞2004-11-12 西部朝刊">『読売新聞』2004年11月12日西部朝刊第一社会面35面「Aさん絞殺凶器か 自転車ワイヤ錠? 大牟田川から押収/福岡・大牟田」</ref>。 |
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その上で焦点となっていたK2の関与の程度については、弁護人の「従属的だった」という主張を退け<ref name="西日本新聞2006-10-18社会"/>、K2が犯行のきっかけを与え<ref name="有明新報2006-10-18"/>、積極的に関与したことを認定した<ref name="西日本新聞2006-10-18"/>。[[量刑]]理由では、各種の情状について以下のように列挙している。 |
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捜査本部は、強盗殺人容疑で逮捕された被疑者K4が港付近の岸壁に駐車した車内でAを絞殺した後、凶器のワイヤー錠を海に投げ捨てたとみて引き続き追及した<ref name="読売新聞2004-11-12 西部朝刊"/>。 |
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;犯行の動機・態様 |
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:動機は身勝手・短絡的なもので、酌量の余地はない<ref name="判決要旨"/>。態様も執拗・残虐かつ人命を軽視したものである。 |
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;遺族の処罰感情、および被告人らの反省の念 |
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:遺族の処罰感情は峻烈である一方、被告人らから被害弁償や慰謝の措置、謝罪の言葉はない<ref name="判決要旨"/>。 |
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;各被告人の情状 |
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:;K2 |
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::K2は「動機面での中心的存在」となっていた<ref name="読売新聞2006-10-18">『読売新聞』2006年10月18日西部朝刊一面1頁「大牟田4人殺害 K2被告とK4被告に死刑判決 福岡地裁支部「冷酷で残虐」」(読売新聞西部本社)</ref>。自ら息子2人を犯行に引き入れ<ref name="西日本新聞2006-10-18"/>、A1殺害の際には首を絞め続けるよう指示したり、殺害後にA1のバッグを物色して現金を発見したりしている<ref name="西日本新聞2006-10-18社会"/>。B殺害の際にもK4にアイスピックを手渡すなどしており<ref name="西日本新聞2006-10-18"/>、直接殺害行為を実行していない点は有利な情状としては認められない<ref name="判決要旨"/>。犯行態様や結果の重大性(3人殺害に関与したこと)、反規範的な人格態度の存在といった事情も認められる<ref name="判決要旨"/>。 |
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:;K4 |
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::K4は被害者4人全員の殺害実行犯である<ref name="判決要旨"/>。刑事責任の重大さに加えて「暴力団特有の人命を軽視する反社会的な価値観、偏った美意識」および、父K1(組長)や母K2(姐御)から犯罪行為を指示されれば、絶対のものとして実行に移すという「反規範的な傾向」を強く有していることから、「人間の生命の尊厳を軽視する態度」が顕著で、矯正は困難である<ref name="判決要旨"/>。 |
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以上の点から同地裁支部は、K2が反省の弁を述べていることや、K4は犯行時20歳3か月と若く、概ね自白していることなどといった有利な情状を斟酌しても、両被告人に対し「極刑をもって臨むほかない」と結論づけた<ref name="判決要旨"/>。 |
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K4は同日中に<ref>『読売新聞』2006年10月21日西部朝刊社会面35頁「大牟田4人殺害 死刑判決の被告が控訴/福岡高裁」(読売新聞西部本社)</ref>、K2も同月26日付で、それぞれ[[福岡高等裁判所]]へ[[控訴]]した<ref>『西日本新聞』2006年10月27日夕刊第10版第一社会面15頁「大牟田4人殺害 K2被告も控訴」(西日本新聞社)</ref>。その後、K2は12月7日付で久留米拘置支所から福岡拘置所へ移送された{{Efn2|K4はK2より1年数か月前から福岡拘置所で生活していた{{Sfn|小野一光|2007|p=128}}。}}{{Sfn|小野一光|2007|p=128}}。K4は控訴理由について、小野宛の手紙で「私がまだやらねばならぬ事が残っている為」と述べていたが、小野はその「まだやらねばならぬ事」とは、父K1が率いていた北村組を新生「二代目北村組」として存続させるための作業であると述べている{{Sfn|小野一光|2006|p=77}}。 |
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=== B・D殺人容疑で再逮捕 === |
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2004年11月16日、福岡県警捜査本部は被害者B・D両名を大牟田港岸壁に停車した軽乗用車後部座席にて拳銃で射殺したとして、いずれも死体遺棄罪で起訴された被告人4人を殺人容疑で再逮捕した<ref name="読売新聞2004-11-17 西部朝刊">『読売新聞』2004年11月17日西部朝刊第一社会面35面「大牟田事件 K1親子4人再逮捕 長男ら殺害容疑で 母強殺の口封じ?/福岡」</ref><ref name="読売新聞2004-11-17 東京朝刊">『読売新聞』2004年11月17日西部朝刊第一社会面39面「福岡・大牟田の連続殺人 K一家4被告を殺人容疑などで再逮捕/福岡県警」</ref>。被疑者・被告人K2は残るCの殺害について「息子K4から『人を殺してしまった』と打ち明けられ初めて知った。4人の中で最初に殺害された」と供述した<ref name="読売新聞2004-11-17 西部朝刊"/>。 |
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==== K1・K3の審理 ==== |
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捜査本部は一連の犯行の動機をAの財産目当てであると目星をつけていたが「Aの財産目当ての犯行だとして、なぜCが最初に殺害されたのか」などの疑問点を抱えていた<ref name="読売新聞2004-11-17 西部朝刊"/>。 |
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公判では凶器だけでなく、K2が持っていたとされるカッターナイフ([[#A1殺害計画|前述]])も証拠品として提出されたが、K1は「見覚えがない」、K3は「断定できない」とそれぞれ供述している<ref name="有明新報2006-07-12"/>。 |
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===== K1の主張 ===== |
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そのため「次男Cの殺害が発端となり、かねてからトラブルとなっていたAを金を奪う目的で殺害した。その口封じのため長男Bの殺害に発展したところ、Bと同行していたDも巻き添えになった」とみて全容解明を急いだ<ref name="読売新聞2004-11-17 西部朝刊"/>。福岡地検久留米支部は同日付でK1・K2・K3・K4の被告人4人を被害者Aに対する強盗殺人罪で福岡地裁久留米支部に追起訴した<ref name="読売新聞2004-11-17 西部朝刊"/>。 |
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K1は自身の単独犯を主張し、K2・K4が死刑を求刑された際には、彼らの[[冤罪]]を主張していた<ref name="有明新報2006-05-10"/>。 |
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K1はA1殺害については強盗目的ではなく、A1の態度が気に入らなかったことが殺害動機であると主張した<ref>『朝日新聞』2006年4月26日西部朝刊第一社会面31頁「母・次男、来月2日に論告 4人殺害一家 福岡・大牟田【西部】」(朝日新聞西部本社)</ref>。また、自分やK2は起訴されていないA3の殺害・死体遺棄についても自身が実行したと主張し<ref name="有明新報2006-04-19"/>、その動機については家族問題や金銭目的などではなく、「口論になってはずみで首を絞めた。殺すつもりはなかった」と供述している<ref name="有明新報2006-04-26">『有明新報』平成18年(2006年)4月26日付7頁「諏訪川の4人殺害事件 K1被告が犯行動機など言及 「はずみで殺した」」(有明新報社)</ref>。一方、犯行の詳細についてはところどころ「覚えていない」と供述しており<ref name="有明新報2006-04-26"/>、また被害者との関係や犯行の経緯・詳細について質問された際には曖昧な返答を繰り返した一方、家族との共謀に関して質問されると「子供たちが人を殺すわけがない」と反論している<ref name="有明新報2006-04-19">『有明新報』平成18年(2006年)4月19日付7頁「諏訪川の4人殺害事件 K1被告が一貫して単独犯行主張 「家族は自分かばっている」」(有明新報社)</ref>。なお、A3殺害の凶器の1つであるロープの色については、検察官からの被告人質問で「黒と黄色」と発言していたが、実際には白のロープであった<ref name="有明新報2006-05-10">『有明新報』平成18年(2006年)5月10日付7頁「諏訪川の4人殺害事件 K1被告単独犯主張変えず 妻など死刑求刑に「冤罪」」(有明新報社)</ref>。 |
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=== 次男Cの殺害動機解明 === |
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2004年11月25日までの福岡県警捜査本部の捜査の結果、一連の事件の発端は被告人K3・K4兄弟が金を奪う目的でA宅に侵入したことである可能性が高いことが判明したため、捜査本部は強盗殺人容疑での再逮捕を視野に追及を進めた<ref name="読売新聞2004-11-26 西部朝刊">『読売新聞』2006年11月26日西部朝刊第一社会面35面「大牟田の連続殺人 Aさん宅侵入が発端? K兄弟、気付いたCさん絞殺か」</ref>。 |
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一方、K2はK1・K3の公判で、検察官の主張した通り6,000万円以上の借金を抱えており、家族4人で共謀して強盗殺人におよんだことを認めた上で、K1に対しては「私くらいは共犯として認めてほしい」、K3に対しても「事実を認めてほしい」とそれぞれ述べている<ref>『有明新報』平成17年(2005年)4月27日付9頁「諏訪川殺害・死体遺棄事件 K1・K3被告公判でK2被告が殺害謀議証言 “事実を認めてほしい”」(有明新報社)</ref>。また、逮捕当時自身の単独犯を主張していた理由については、「全て私が引き金。一番責任が重かったから」と供述している<ref>『有明新報』平成17年(2005年)6月29日付7頁「諏訪川4人殺害事件 K2被告 家族の関係など証言 極刑への気持ち変わらず」(有明新報社)</ref>。その一方でK4は、事件当時の自身の経済状況については「苦しいが、喉から手が出るほどではなかった。強盗や殺人をしてまでのお金は必要なかった」と供述したものの、動機は「欲とか借金逃れ」と認めた上で、4人殺害を実行した点については「親父の命令は絶対。断ろうという考えはなかった」と供述している<ref>『有明新報』平成18年(2006年)3月8日付7頁「諏訪川の4人殺害事件 K4被告が経済状況など話す 「お金は必要なかった」」(有明新報社)</ref>。また、調書によればK4は「実の親兄弟に人を殺させるくらいなら自分がやろうと思った」「やくざになったことは後悔していない。今回のことも後悔してはいけないと思っている」などと話していた<ref>『有明新報』平成18年(2006年)2月15日付7頁「諏訪川の4人殺害事件 K2被告が息子への心情吐露 「つらい目に遭わせた」」(有明新報社)</ref>。 |
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その経緯は「父K1・母K2がA宅の多額の現金を狙っていたことを知ったK3・K4は、両親を出し抜こうとA宅に侵入したが、この時、当時1人で留守番をしていたAの次男Cに気付かれたためタオルのようなもので首を絞めた。その後、気絶したCを車に乗せA宅を出たが、途中でCが息を吹き返したため車内で再度首を絞めて殺害した」というものだった<ref name="読売新聞2004-11-26 西部朝刊"/>。 |
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==== K3 |
===== K3の主張 ===== |
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K3の弁護人は冒頭陳述(2005年6月14日)で、事件発覚前にK4が死刑になることを恐れたK2の提案により、「一家4人で共謀したことにすれば全員が無期懲役で済む」という理由から、K3が犯行に加担したとする物語が作り上げられた――という主張を展開し、K3は逃走事件を除き、犯行現場に不在で共謀もしていないと訴えた<ref name="西日本新聞2005-06-15">『西日本新聞』2005年6月15日朝刊第19版第一社会面(事件・人・話題)33頁「大牟田事件公判「母が共謀計画」 K3被告無罪主張」(西日本新聞社)</ref>。弁護人はその陳述にあたり、K3の傷害致死前科([[#傷害致死前科|後述]])を挙げて「罪悪感から、二度と同じことはしないと決意していた」とした上で、K4がA1宅から金を盗もうとした際には「A3を殺して金を奪おうと提案した弟を止め、帰宅した」などと主張している<ref name="西日本新聞2005-06-15"/>。主張したアリバイの内容は以下の通りである。 |
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2004年12月7日、福岡県警捜査本部はK3・K4兄弟を「Aの次男Cに対する強盗殺人容疑」で再逮捕した<ref name="読売新聞2004-12-08 西部朝刊">『読売新聞』2004年12月8日西部朝刊第一社会面35面「福岡・大牟田連続殺人 K兄弟を再逮捕 Cさん強殺容疑など」</ref>。これに加え、K3についてはCに対する死体遺棄容疑でも再逮捕した<ref name="読売新聞2004-12-08 西部朝刊"/>。また同日、大牟田署の取調室で拳銃自殺を図った兄弟の父K1を銃刀法違反容疑などで再逮捕した<ref name="読売新聞2004-12-08 西部朝刊"/>。これにより、母K2を含めK1一家4人全員が「A宅に大金があると思い込み金目当てで犯行に及んだ」と断定した上で、被害者4人全員について強盗殺人罪・殺人罪で立件を完了した<ref name="読売新聞2004-12-08 西部朝刊"/>。 |
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;殺害・死体遺棄の現場 |
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:いずれも不在である<ref name="有明新報2005-06-22"/>。 |
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;A3殺害 |
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:K4の単独犯行<ref name="有明新報2006-06-07">『有明新報』平成18年(2006年)6月7日付7頁「諏訪川の4人殺害事件 K3被告が主張 A3さん殺害 弟の単独犯行」(有明新報社)</ref>。K4と一緒にA1宅に行ったが、A3が1人でいることを確認したK4が「殺そう」と言った際、「殺すのはいけない」と諭してK4を連れ帰った<ref name="有明新報2006-05-24"/>。その後、K4がA3をバイクで連れ出し、諏訪川で揉み合って殺したと聞いた<ref name="有明新報2006-06-07"/>。「馬沖橋」で駐車していた理由は、K4が主張する殺害・死体遺棄のためではなく、車のタイヤのパンクを修理していたためである<ref name="有明新報2006-05-24"/>。(検察官の「通行車両があった」という追及に対し)運転手と顔を合わせて話している<ref name="有明新報2006-05-24">『有明新報』平成18年(2006年)5月24日付7頁「諏訪川の4人殺害事件 「殺すのはいけない」弟諭す 犯行止めた、とK3被告」(有明新報社)</ref>。腰が悪く([[#出所後|後述]])、重い物は持てないため、(K4と共謀してA3を諏訪川に投げ入れたとする)犯行は不可能である<ref name="有明新報2006-07-12">『有明新報』平成18年(2006年)7月12日付7頁「諏訪川の4人殺害事件 25日もK1、K3被告公判 カッターナイフなど証拠提示」(有明新報社)</ref>。 |
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;両親やK4との謀議について |
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:組事務所(本町四丁目のアパート)にいたことや、A1に睡眠導入剤を飲ませたことは事実であるが、前者については仕事の電話で出入りを繰り返していたため、両親やK4が殺害の謀議を行っていたことは知らなかったという。後者についても「腹いせのため」であり、殺害することまでは考えていなかった<ref name="有明新報2005-06-22">『有明新報』平成17年(2005年)6月22日付7頁「諏訪川殺害遺棄事件 “殺すことまで考えていなかった” K3被告閉廷直後に激高」(有明新報社)</ref>。仕事の電話をしていたのは、自分の生活のためで、(犯行謀議とされる家族らの話し合いには)関わりたくなかった<ref name="有明新報2006-06-28">『有明新報』平成18年(2006年)6月28日付7頁「諏訪川の4人殺害事件 K3被告「かかわっていないので行った」 被害者の葬儀参列など明かす」(有明新報社)</ref>。K1から「お前はもうすぐ子供が生まれるから自宅に帰っておけ」と言われ、犯行時刻は自宅でビデオを見ていた<ref>『有明新報』平成18年(2006年)5月31日付9頁「諏訪川の4人殺害事件 K3被告が謀議への参加否定 犯行時「自宅にいた」」(有明新報社)</ref>。 |
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;犯行後の行動 |
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:諏訪川から遺体の乗った車が発見された際は、「自分の家族がやってしまった」と考え、涙が出た<ref>『有明新報』平成18年(2006年)6月21日付7頁「諏訪川の4人殺害事件 「一切かかわっていない」とK3被告 検察側の追及にも“無罪”主張」(有明新報社)</ref>。自分は犯行に関与していないから、被害者の葬儀に行った([[#K3逮捕|前述]])<ref name="有明新報2006-06-28"/>。 |
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また、K3の捜査段階における供述の任意性に関する審理も行われ、K3は弁護人の質問に対し、捜査段階で死体遺棄容疑を認めたことについては「警察官がシャープペンシルで下書きした書類をボールペンでなぞった」「内妻が『別れる』と言ったと聞いて、ショックで否認しても無駄だと思った」「検察官に『(犯行を認めれば)内妻の接見禁止は解いてやる』と言われた」「内妻に会いたくて、うその供述をしようと思った」などと証言し<ref>『朝日新聞』2006年2月8日西部朝刊福岡県版第一地方面27頁「供述任意性で被告人質問 大牟田事件、K3被告に/福岡県」(朝日新聞西部本社)</ref>、弁護人も捜査官による利益誘導などのために任意性がないと指摘した上で、K3はK4や家族を庇うために虚偽の自白をしたと主張した<ref>『有明新報』平成17年(2005年)6月15日付7頁「諏訪川殺害遺棄事件 K3被告 殺害、遺棄の無罪主張 「犯行現場におらず共謀不成立」」(有明新報社)</ref>。後の公判でも、K3は自白した理由について、ポリグラフ検査を受けたことや、K2らが自白していることを知らされたことなどから自暴自棄になったことに加え、弟であるK4を助けるため、自分が嘘の自白をしようと思ったためであると供述したほか<ref>『有明新報』平成18年(2006年)2月7日付7頁「諏訪川の4人殺害事件 公判でK3被告人質問 逮捕時の認否状況言及」(有明新報社)</ref>、K2から「お前も加わったことにしてくれ」と言われたため、K2・K4とともに自分が加わったというストーリーを作り上げたと供述した<ref name="有明新報2006-06-07"/>。高原裁判長から「あなたが本当のことを話しているなら、なぜ2人は嘘を言っているのか」と質問されると、K3は「全員が無期になるため」と答えている<ref name="有明新報2006-06-28"/>。 |
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一方で母K2は、K3の弁護人が冒頭陳述で主張した「事件後に現場を回り、事件について口裏合わせをした」という内容を否定したが<ref>『有明新報』平成18年(2006年)1月11日付7頁「諏訪川の4人殺害事件 K2被告が質問に回答 逮捕直前までの経緯は」(有明新報社)</ref>、自身が警察に出頭する直前、K1から「余計なことは喋らなくていい」と言われたことや、K4から「苦しくなったら俺の名前を出せ」と言われた([[#事件発覚|前述]])ため、逮捕後に最初にK4の名前を共犯者として挙げたことなどを証言している<ref>『有明新報』平成18年(2006年)1月18日付7頁「諏訪川の4人殺害事件 K2被告が公判で明かす 出頭直前の会話など説明」(有明新報社)</ref>。一方でK4は、兄の証言を「すべてうそ」と断じ、自身の単独犯と主張されたA3殺害については「自分1人の意志でやるならどこかに呼び出した隙に金を盗む」と主張しているが<ref>『有明新報』平成18年(2006年)3月1日付7頁「諏訪川の4人殺害事件 K4被告が反論 兄の証言「すべてうそ」」(有明新報社)</ref>、K3はK2・K4による「K3も関与した」という供述は虚偽・誤解であると主張していた<ref>『有明新報』平成18年(2006年)5月17日付7頁「諏訪川の4人殺害事件 共謀「なかった」とK3被告 逃走罪以外の無罪主張」(有明新報社)</ref>。また、K3はA3殺害時の状況について、K4に対し何度も「殺すのはやめよう」と言った旨を証言しているが、K4は「やめるよう勧めたのは自分だ」と逆の供述をしていた<ref>『有明新報』平成18年(2006年)2月22日付7頁「諏訪川の4人殺害事件 K4被告人質問 兄との証言 依然平行線」(有明新報社)</ref>。 |
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福岡地検久留米支部は同日、K1ら被告人一家4人を被害者B・D両名に対する殺人・銃刀法違反の罪で、福岡地裁久留米支部に追起訴した<ref name="読売新聞2004-12-08 西部朝刊"/>。 |
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また、事件当時K3やK4と交際していた女性2人の証言についても公判で調べられたが、彼女らはK3の「〔A3が殺害された〕9月16日から17日にかけて、部屋に一緒にいたK4が自分の車(プレジデント)を借り、1人でA3を殺害しに行った」という主張とは矛盾する証言(「K4は長い間席を外してはいなかった」「車のエンジン音やドアの開閉音もなかった」という内容など)をしていた<ref>『有明新報』平成18年(2006年)2月1日付7頁「諏訪川の4人殺害事件 K1・K3被告公判で 期日外に証人呼び調べ 交際相手らの証言明らかに」(有明新報社)</ref>。検察官は、K3の「腰が悪い([[#出所後|後述]])ため、A3を遺棄することは不可能」という主張への反証として、医師の「痛みをこらえれば可能」という証言を証拠提出している<ref name="有明新報2006-07-12"/>。一方で弁護側は、「腰に強い痛みがあり重いものは持ち上げられないだろう」という医師の見解や、末弟(K1・K2夫婦の三男)による「人に罪をなすりつけるような人ではない」という証言<ref name="有明新報2006-07-26">『有明新報』平成18年(2006年)7月26日付7頁「諏訪川4人殺害事件 遺族の処罰感情などの書証提出」(有明新報社)</ref>、またK1の配下組員による「K2やK4からは事件について聞いたが、K3からは聞いていない」という旨の証言などを公判で明かしている<ref>『有明新報』平成18年(2006年)9月13日付7頁「諏訪川4人殺害事件 次回公判で遺族が意見陳述」(有明新報社)</ref>。 |
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2004年12月17日、福岡地検久留米支部は大牟田署の取調室で拳銃自殺を図った被告人K1を「2004年9月22日午前10時15分ごろ同署の取調室にて拳銃1丁・実弾8発を所持した」として、[[銃砲刀剣類所持等取締法]]違反の罪(加重所持)で福岡地検久留米支部に追起訴した<ref name="読売新聞2004-12-18 西部朝刊">『読売新聞』2004年12月18日西部朝刊第一社会面31面「福岡・大牟田の連続殺人 K1被告を追起訴」</ref>。 |
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<span>'''K3の体調不良'''</span> |
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2004年12月27日、福岡地検久留米支部は被告人K3・K4兄弟を「2004年9月16日夜、被害者Cの首を絞めて失神させ指輪など貴金属61点(約400万円相当)が入った金庫を奪った上、Cの首を再び絞め、Cを諏訪川に投げ込んで殺害した」として強盗殺人罪で福岡地検久留米支部に追起訴した<ref name="読売新聞2004-12-28 西部朝刊">『読売新聞』2004年12月18日西部朝刊第一社会面31面「福岡・大牟田事件 K3・K4被告を追起訴 Cさん強殺罪で」</ref>。 |
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K3は2005年1月から[[福岡刑務所]](福岡県[[宇美町]])に拘置されていたが{{Efn2|当時は久留米拘置支所の建て替えに伴い、同支所の機能が福岡刑務所に移されていたため<ref>『朝日新聞』2005年5月10日西部朝刊第一社会面31頁「K3被告、自殺未遂か のどに物が詰まる 大牟田事件、きょうの公判延期 【西部】」(朝日新聞西部本社)</ref>。}}、同月から不眠を訴え<ref name="西日本新聞2005-07-28"/>、眠れない際には<ref name="毎日新聞2005-07-28"/>就寝前に向精神薬を渡されていた<ref name="西日本新聞2005-07-28"/>。公判中の同年5月5日朝、K3は意識が朦朧としている状態に陥っているところを職員に発見されて刑務所外の病院{{Efn2|福岡市内の病院<ref>『有明新報』平成17年(2005年)5月11日付9頁「大牟田市諏訪川の4人殺害・死体遺棄事件 健康上の理由で公判延期」(有明新報社)</ref>。}}へ搬送され<ref name="西日本新聞2005-07-28"/>、緊急入院した<ref name="毎日新聞2005-07-28"/>。K3は向精神薬による悪性症候群に陥っていると診断され<ref name="毎日新聞2005-07-28"/>、一時は意識不明になるなど危険な状態に陥ったが、同月31日に退院した<ref name="西日本新聞2005-07-28">『西日本新聞』2005年7月28日朝刊第19版第一社会面(事件・人・話題)33頁「福岡矯正管区が結論 K3被告の意識不明 「自殺の可能性低い」」(西日本新聞社)</ref>、同刑務所では入所者の自殺を防ぐため、薬は職員が飲んだことを確認するよう内規で決められているが{{Efn2|刑務官が入所者の服薬に立ち会い、服用後は口の中に薬が残っていないかを点検する<ref>『読売新聞』2005年7月28日西部朝刊社会面35頁「連続殺人のK3被告健康悪化 不眠症薬の副作用が原因/福岡矯正管区調査」(読売新聞西部本社)</ref>。}}、K3は職員からもらった量の薬では眠れないこともあるという理由から、効き目を上げるため薬を飲んだふりをして吐き出し、入院した前日の夜にまとめて飲んだ記憶があるという旨を説明している<ref name="西日本新聞2005-07-28"/>。 |
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両被告人はCに対する死体遺棄罪でも逮捕されていたが、福岡地検久留米支部は「Cが死亡する前に川に遺棄しCが溺死した可能性も否定できない」として死体遺棄罪での起訴は見送り強盗殺人罪でのみ起訴した<ref name="読売新聞2004-12-28 西部朝刊"/>。 |
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このため、同月10日に予定されていたK1・K3の公判は中止され<ref name="西日本新聞2005-05-10">『西日本新聞』2005年5月10日朝刊第19版第一社会面(事件・人・話題)31頁「大牟田4人殺害事件 K3被告公判 病気で中止」(西日本新聞社)</ref>、24日・31日の公判も延期された<ref name="朝日新聞2005-06-08">『朝日新聞』2005年6月8日西部朝刊福岡県版第一地方面25頁「長男のK3被告が1カ月ぶり 大牟田連続殺人事件 /福岡県」(朝日新聞西部本社)</ref>。また、K2・K4両被告人の公判にK3が証人として出廷することもできなくなったため<ref>『有明新報』平成17年(2005年)5月18日付7頁「大牟田 諏訪川4人殺害事件 K3被告出廷せず公判期日を調整」(有明新報社)</ref>、彼らの公判期日にも影響が出た<ref name="西日本新聞2005-05-18">『西日本新聞』2005年5月18日朝刊第19版第二社会面(事件・人・話題)34頁「大牟田事件公判 K3被告は肺炎 加療1週間超」(西日本新聞社)</ref>。当初は関係者からの情報により、K3は肺炎で入院しているとされていた<ref name="西日本新聞2005-05-18"/>。K3は退院後に開かれた同年6月7日の第4回公判で約1か月ぶりに出廷した際<ref name="朝日新聞2005-06-08"/>、体調不良を訴えることはなかったが<ref>『有明新報』平成17年(2005年)6月8日付7頁「諏訪川殺害遺棄事件 体調崩していたK3被告出廷 K2被告が証言」(有明新報社)</ref>、この時も右足を引きずっていたり、右手を小刻みに痙攣させたりしていた<ref>『西日本新聞』2005年6月8日朝刊第19版第一社会面(事件・人・社会)33頁「大牟田4人殺害 K3被告1ヵ月ぶり出廷」(西日本新聞社)</ref>。 |
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また同じく死体遺棄容疑で逮捕された母K2は「関与が認められない」として[[不起訴処分]]とした<ref name="読売新聞2004-12-28 西部朝刊"/>。 |
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同刑務所を管轄する[[福岡矯正管区]]は同年7月27日、遺書が見当たらなかったことや<ref>『日本経済新聞』2005年7月28日西部朝刊社会面17頁「福岡・大牟田連続殺人のK3被告、入院は不眠時の向精神薬が原因。」(日本経済新聞西部本社)</ref>、K3の説明を覆す証拠がないことから「自殺の可能性は極めて低い」という内部調査の結果を公表したが<ref name="西日本新聞2005-07-28"/>、法務省矯正局によれば、受刑者・被告人が死亡した事例以外で調査結果が公表されることは極めて異例だった<ref name="毎日新聞2005-07-28">『毎日新聞』2005年7月28日西部朝刊第二社会面24頁「福岡・大牟田の死体遺棄:K3被告入院問題 「自殺未遂でない」刑務所が異例の公表」(毎日新聞西部本社【坂本高志、松本光央】)</ref>。一方、K3はK2・K4両被告人の公判で行われた証人尋問の際、検察官からK2との関係について尋ねられ、興奮した口調で「もう二度とおれを生んでほしくない。判決の結果がどうあれ、おれは自殺する」と答えている<ref name="毎日新聞2005-10-12">『毎日新聞』2005年10月12日西部朝刊第一社会面27頁「福岡・大牟田の4人殺害:廷内でけんか K4被告、K3被告に殴りかかる」(毎日新聞西部本社【福岡静哉】)</ref>。 |
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== K3脱走事件 == |
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2004年11月13日午前9時30分ごろ<ref name="読売新聞2004-11-27 西部朝刊">『読売新聞』2004年11月27日西部朝刊第一社会面33面「大牟田事件 K3被告逃走の詳細 眼鏡投げスキ突く、警官鍵持たず足でドア止め」</ref>、被疑者・被告人K3は拘置されていた福岡県久留米警察署から福岡地検久留米支部([[久留米市]]篠山町)に移送された<ref name="読売新聞2004-11-27 西部朝刊"/><ref name="読売新聞2004-11-14 西部朝刊1面"/><ref name="読売新聞2004-11-14 東京朝刊"/>。この時、護送車を運転していたのは大牟田署刑事課巡査長(当時27歳)で、大牟田署警備課巡査部長(当時49歳)大牟田署警備課巡査長(同25歳)がそれぞれK3に付き添っていたが、3人はいずれも留置管理担当者ではなかった<ref name="読売新聞2004-11-27 西部朝刊"/>。 |
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===== 死刑求刑 ===== |
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その後K3は同所で[[検察官]]による取り調べを受けていた<ref name="読売新聞2004-11-27 西部朝刊"/><ref name="読売新聞2004-11-14 西部朝刊1面">『読売新聞』2004年11月14日西部朝刊1面「大牟田連続殺人 K3被告、地検久留米支部から一時逃走 荒尾で3時間後確保」</ref><ref name="読売新聞2004-11-14 東京朝刊">『読売新聞』2004年11月14日東京朝刊第一社会面39面「大牟田4人殺害 K3被告が地検支部で取り調べ中に一時脱走 3時間後に拘束」</ref>。元力士で大柄なK3の逮捕後は、[[機動隊]]員2人を大牟田署に派遣し護送などの応援に当たらせていた<ref name="読売新聞2005-01-28"/>。 |
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論告求刑前最後の公判となった2006年9月19日の公判では、A1の母と妹がそれぞれ2被告人への厳罰を求める意見陳述を行った。特にA1の妹は「生きて償うなどありえない、許されない。死刑より重い罪があれば教えてほしい」などと訴えている<ref>『有明新報』平成18年(2006年)9月20日付7頁「諏訪川の4人殺害事件 事件発生から2年 K1、K3被告 来月24日求刑 「厳正なる法の裁きを」と遺族」(有明新報社)</ref>。 |
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同年10月24日の公判で、検察官は以下のような論告を行った上で、K1・K3の両被告人にいずれも死刑を求刑した<ref name="西日本新聞2006-10-25"/><ref name="有明新報2006-10-25">『有明新報』平成18年(2006年)10月25日付1頁「諏訪川の4人殺害事件 K1、K3両被告に死刑求刑 事件主導し矯正不可能 主張は「不合理で証拠と矛盾」」(有明新報社)</ref>。 |
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K3は福岡県警から「特別要注意者」に指定され留置場では機動隊員も監視に加わることになっていたが、護送業務は通常体制だった<ref name="読売新聞2004-11-27 西部朝刊"/>。またK3は機動隊員の同行を嫌がり反抗することが多かったため、護送を担当した3人はこの日、同行を断っていた<ref name="読売新聞2005-01-28"/>。 |
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;K1・K3それぞれの主張について |
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:「家族4人で共謀した」とするK2・K4の証言には信用性がある一方、K1・K3の主張はいずれも不合理で、他の証拠と矛盾している。 |
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;犯行の動機・態様など |
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:一連の事件は金銭欲・自己保身欲のために起こされたもので、被告人らは事前に計画を練り、巧妙な犯行を続けた。犯行は残忍かつ執拗で、遺体を遺棄するなど完全犯罪を目論んだものであり、生命の尊厳を著しく冒涜している。史上稀に見る凶悪な事件として社会に大きな衝撃・不安を与えており、遺族の処罰感情も峻烈である<ref name="有明新報2006-10-25"/>。凶悪ぶりは筆舌に尽くしがたく<ref name="毎日新聞2006-10-25"/>、公判廷で虚偽供述を積み重ねるなど、死刑適用を躊躇する要因は一切ない<ref name="朝日新聞2006-10-25">『朝日新聞』2006年10月25日西部朝刊第一社会面29頁「父・長男に死刑求刑 検察「2人の主張不合理」 大牟田4人殺害 【西部】」(朝日新聞西部本社)</ref>。 |
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;被告人K1の情状 |
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:事件を主導し、動機の中心的存在にあった。息子2人を犯行に引き込んだことは人間の所業とは思えない<ref name="有明新報2006-10-25"/>。30年以上暴力団で活動し、犯罪性向が深まっている<ref name="毎日新聞2006-10-25">『毎日新聞』2006年10月25日西部朝刊社会面25頁「福岡・大牟田の4人殺害:父と長男に死刑求刑 検察側「矯正は不可能」」(毎日新聞西部本社【福岡静哉】)</ref>。矯正は不可能である<ref name="有明新報2006-10-25"/>。単独犯行との主張は、家族を責任から免れさせるための独善的発想である<ref name="西日本新聞2006-10-25"/>。 |
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;被告人K3の情状 |
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:犯行の計画立案当初から関与しており、実行者かつ主導者であった。刑事責任は実行犯であるK4以上に重大である<ref name="有明新報2006-10-25"/>。両親や弟に刑事責任をなすりつけており、人間性は邪悪としか言いようがない<ref name="西日本新聞2006-10-25"/>。 |
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===== 最終弁論 ===== |
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17時過ぎ、K3と大牟田署員3人の計4人は夕食を摂るため被疑者の待機・休憩に使われる検察庁舎3階の「同行室」に移動した<ref name="読売新聞2004-11-27 西部朝刊"/>。この時、同行室の鍵を開けたのは地検支部の事務官だった<ref name="読売新聞2004-11-27 西部朝刊"/>。事務官から鍵を手渡されなかったことなどから3人は「扉は施錠しないでおくものだ」と思い込み、誰も鍵を取りにいかなかった<ref name="読売新聞2004-11-27 西部朝刊"/>。地検支部は当時建て替え中で仮庁舎に移転していたが<ref name="読売新聞2004-11-14 西部朝刊1面"/><ref name="読売新聞2004-11-14 東京朝刊"/>、旧庁舎の同行室の扉は施錠できない構造だった<ref name="読売新聞2004-11-27 西部朝刊"/>。 |
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審理は第32回公判(2006年11月28日)で結審した<ref>『読売新聞』2006年11月29日西部朝刊社会面39頁「大牟田連続殺人最終弁論 長男は無罪主張 父側は死刑回避求める/福岡地裁支部」(読売新聞西部本社)</ref>。同日は両被告人の弁護人による最終弁論が行われ、K1の弁護人は死刑回避を求めた<ref name="有明新報2006-11-29"/>。またK3の弁護人は逃走罪以外については無罪を主張し、逃走罪については「反省があり若年でやり直しがきく年齢である」として[[執行猶予]]判決を求めた<ref name="有明新報2006-11-29">『有明新報』平成18年(2006年)11月29日号(第17914号)1頁「諏訪川事件最終弁論 来年2月27日判決へ K1被告「死刑回避すべき」 K3被告は逃走以外無罪主張」(有明新報社)</ref>。弁論要旨は以下の通り。 |
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;K1の弁護人 |
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:A1殺害は金銭の強取目的ではなく、強盗殺人罪は成立しない。一連の事件は全てK1の単独犯行であり、動機は経済的なものではなく、感情のもつれである<ref name="有明新報2006-11-29"/>。犯行後の自殺未遂は反省の表れで<ref>『毎日新聞』2006年11月29日西部朝刊社会面24頁「福岡・大牟田の4人殺害:K3被告、無罪主張--最終弁論」(毎日新聞西部本社)</ref>、真摯に反省しており、謝罪する態度がある<ref>『朝日新聞』2006年11月29日西部朝刊第一社会面35頁「父・長男の判決、来年2月27日 大牟田4人殺害事件 【西部】」(朝日新聞西部本社)</ref>。死刑適用は回避すべきであり、一生をかけて被害者らの冥福を祈らせるべきである<ref name="有明新報2006-11-29"/>。 |
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;K3の弁護人 |
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:K3は事件当時現場におらず、共謀も成立しない。共謀を認めたK2・K4の証言は自己保身目的であり、彼らはK3に責任転嫁をしている。 |
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最終意見陳述で、K1は「家族は一切関係ない」、K3は「天地神明に誓って事件に関わっていない」などと陳述した<ref name="有明新報2006-11-29"/>。 |
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===== 死刑判決 ===== |
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K3は両手から手錠を外され<ref name="読売新聞2004-11-27 西部朝刊"/><ref name="読売新聞2004-11-14 西部朝刊1面"/>正面奥に座り、その左隣に巡査部長、扉の左右に巡査長2人がそれぞれ椅子に座った<ref name="読売新聞2004-11-27 西部朝刊"/>。この時、巡査長の1人が室外に右足を出した状態だったがK3の腰縄は誰も持っておらず、床に放置していた<ref name="読売新聞2004-11-27 西部朝刊"/>。 |
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2007年(平成19年)2月27日の判決公判で、福岡地裁久留米支部(高原正良裁判長)はK1・K3の両被告人にも求刑通り死刑を言い渡した<ref name="西日本新聞2007-02-28"/>。同地裁支部は事実認定について、「4被告人が共謀した」とする検察側の主張およびK2・K4の証言を支持し、K1の主張・K3の主張をいずれも以下のような理由から「不自然、不合理」として退けた<ref name="有明新報2007-02-28"/>。 |
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;共謀に関する認定 |
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:K2・K4の「4人で共謀した」という証言は、自己の刑事責任を軽減しようとした虚偽のものとは考えられず、信用性があり、客観的証拠からも4人が共謀した事実を認定できる<ref>『毎日新聞』2007年2月28日西部朝刊政治面1頁「福岡・大牟田の4人殺害:父、長男も死刑「冷酷で矯正困難」--地裁支部判決」(毎日新聞西部本社)</ref>。 |
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:;[[#K1の主張|K1の主張]]について |
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::K1の「自身の単独犯」とする主張は詳細な部分が曖昧であり<ref name="有明新報2007-02-28"/>、関係証拠とも符合しない不自然なもので、到底信用できない<ref name="朝日新聞2007-02-28"/>。事件当時経済的に困窮しており、金銭強取目的があったことは明らかである<ref name="有明新報2007-02-28"/>。 |
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:;[[#K3の主張|K3の主張]]について |
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::捜査段階におけるK3の自白は臨場感や迫真性があり、内容も体験した者でなければ語り得ないもので<ref name="朝日新聞2007-02-28">『朝日新聞』2007年2月28日東京朝刊第一社会面39頁「父・長男も死刑判決 地裁「一家4人共謀」 福岡4人殺害」([[朝日新聞東京本社]])</ref>、信用性がある<ref name="西日本新聞2007-02-28"/>。K3は「知人と会っていた」とアリバイを主張しているが、〔犯行時刻以外にも〕そのための時間は十分あり、アリバイにはなりえない<ref name="有明新報2007-02-28"/>。K3の公判における主張もK1と同様、不自然・不合理で信用できない<ref name="西日本新聞2007-02-28"/>。 |
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その上で両被告人の矯正可能性を否定し、K1は「息子を巻き込んだ」、K3は「弟に責任を押し付けた」とそれぞれ指摘。犯行は金銭に対する執着と強い欲望が動機となって敢行された、執拗・残忍で容赦ないものであり、人命を軽視したものであるとして、両被告人とも死刑が妥当と結論づけた<ref name="西日本新聞2007-02-28"/>。 |
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K1は即日控訴し、K3も同年3月1日付で控訴した<ref>『西日本新聞』2007年3月1日朝刊第18版第二社会面(事件・人・話題)32頁「大牟田4人殺害 死刑判決の兄も控訴」(西日本新聞社)</ref>。 |
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17時40分ごろ、K3は大牟田署員3人の付き添いの下<ref name="読売新聞2004-11-14 西部朝刊1面"/><ref name="読売新聞2004-11-14 東京朝刊"/>、同行室にて夕食の弁当を食べていた<ref name="読売新聞2004-11-27 西部朝刊"/>。弁当を食べ始めた当初は署員1人が室外にいたが、K3から「一緒に食べよう」と誘われ全員が室内に入ってしまった<ref name="読売新聞2005-01-28"/>。 |
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=== 控訴審 === |
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弁当を食べ始めてから約10分後、署員より早く弁当を食べ終えたK3は室内をうろつき始め「部屋が暑い。エアコンを調整したい」と言った<ref name="読売新聞2004-11-27 西部朝刊"/>。そしてまだ食事中の巡査長2人の間をすり抜け、いったんオートロックの扉の外に出た<ref name="読売新聞2004-11-27 西部朝刊"/>。エアコンのリモコンは隣の事務室にあったため<ref name="読売新聞2004-11-27 西部朝刊"/>、大牟田署員1人がK3に付き添い隣室に向かった<ref name="読売新聞2004-11-14 西部朝刊1面"/><ref name="読売新聞2004-11-14 東京朝刊"/>。エアコンのリモコンを取り扉近くに戻ったところ<ref name="読売新聞2004-11-27 西部朝刊"/>、K3が「(操作は)1人でできる」と言ったため、警察官が先に隣室を出て同行室に戻った<ref name="読売新聞2004-11-14 西部朝刊1面"/>。 |
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控訴審はK2・K4組、K1・K3組の双方とも、福岡高裁(正木勝彦裁判長)に係属した<ref name="西日本新聞2007-12-25"/><ref name="西日本新聞2008-03-27"/>。その係属部は、福岡高裁第3刑事部である{{Sfn|福岡高裁|2007}}。 |
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==== K2・K4の審理 ==== |
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K3は脚を出していた巡査長に対し「眼鏡を貸してくれ」と言った<ref name="読売新聞2004-11-27 西部朝刊"/>。巡査長が眼鏡を差し出すと、K3は眼鏡をかけるふりをして同行室内に投げ入れ、巡査長が足をひっこめた瞬間<ref name="読売新聞2004-11-27 西部朝刊"/>、同行室のオートロックの鉄格子扉を閉め<ref name="読売新聞2004-11-14 西部朝刊1面"/><ref name="読売新聞2004-11-27 西部朝刊"/>3人を閉じ込めた<ref name="読売新聞2004-11-14 西部朝刊1面"/><ref name="読売新聞2004-11-14 東京朝刊"/>。 |
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控訴審でK4の国選弁護人を担当した弁護士は松井仁で、彼は今後も引き続き福岡で相談に乗ってもらいたいというK4の願いを聞き入れ、上告審でも東京都の弁護士との2人態勢で弁護人を担当した{{Sfn|小野一光|2019|p=32}}。松井はK4の弁護活動を行うのみならず、K4の刺青下絵の画集『証』の制作に協力したり、死刑確定後もK4経由で獄中にいる家族からの頼み事(K1の年金手続き、K3への書籍差し入れや読み終わった古本の売却など)を引き受けたりしている{{Sfn|小野一光|2019|p=33}}。また、K2の弁護人は桃原健二が務めた{{Sfn|福岡高裁|2007|p=1}}。 |
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K2・K4の控訴審は2007年6月5日に初公判が開かれ<ref>『西日本新聞』2007年6月6日朝刊第19版第一社会面(事件・人・話題)31頁「大牟田事件高裁初公判 母親と息子は死刑回避主張」(西日本新聞社)</ref><ref>『朝日新聞』2007年6月6日西部朝刊第三社会面25頁「二審、無期を主張 大牟田・4人殺害、母と次男の弁護側【西部】」(朝日新聞西部本社)</ref>、同年9月27日に結審した<ref>『日本経済新聞』2007年9月27日西部夕刊社会面20頁「妻と次男、12月25日判決 大牟田4人殺害控訴審」(日本経済新聞西部本社)</ref>。両被告人の弁護人による控訴趣意はそれぞれ、被告人を死刑とした原判決は不当に重く、無期懲役が妥当とするもので{{Sfn|福岡高裁|2007|p=1}}、所論は主に以下の通りである。 |
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福岡県警の被留置者管理規定によれば、食事をする間を含め<ref name="読売新聞2004-11-14 西部朝刊1面"/>同行室に被留置者を入れた際は警察官は自動的に施錠される同行室の扉を閉め<ref name="読売新聞2004-11-16 西部朝刊"/>、隣の小部屋で待機し<ref name="読売新聞2004-11-14 西部朝刊1面"/>外から監視を続けることとなっていた<ref name="読売新聞2004-11-16 西部朝刊"/>。 |
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;K2側の控訴趣意所論 |
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:;A1の落ち度 |
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::A1は長年にわたってK2をいいように利用し、K1一家を見下す態度を取ったり、多額の現金を用意したなどと虚勢を張ったりしたことで一連の犯行を誘発した{{Sfn|福岡高裁|2007|p=14}}。 |
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:;K2の従属性 |
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::各犯行の計画を主導的に立案したのはK1、それに準ずる首謀者的役割を果たしたのはK3、実行犯はK4であり、K2はいずれの犯行にも従属的かつ消極的に関与したに過ぎない{{Sfn|福岡高裁|2007|pp=16-17}}。 |
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;K4側の控訴趣意所論 |
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:;犯行動機 |
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::;A1の落ち度 |
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:::A1の言動が犯意形成に寄与したことは否定できず、原判決がA1殺害の動機について「人の尊厳を無視する短絡的かつ極めて自己中心的なものであって、酌量の余地は全くない」と判示しているのは断定的すぎる{{Sfn|福岡高裁|2007|p=19}}。 |
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::;K4の従属性 |
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:::K4は特に金銭に困っておらず、A1に対する恨みもなかったが、暴力団組織および家庭で絶対的立場にあった両親 (K1・K2) 、また日ごろから腕力でも弟としての立場からも逆らえない立場にあった兄K3の命令に従ったものであり、両親に対する忠誠心や愛情も相まって犯行に及んだものであるから、その動機は自己中心的なものとは言えない{{Sfn|福岡高裁|2007|pp=19-20}}。 |
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::;その他 |
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:::K4はA2やBの殺害についていったん逡巡もしており、A3殺害の発覚を防ぐために2人の生命を奪うという身勝手極まりない動機があったとも言えない{{Sfn|福岡高裁|2007|p=20}}。 |
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:;犯行の無計画性 |
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::K4はA3殺害については犯行の30分前、他3人の殺害については犯行当日にそれぞれ初めて知らされ、その勢いで各犯行に突っ走ってしまったものであり、本件は場当たり的で計画性のない犯行である。計画的犯行の特徴である犯罪遂行に対する強固で継続的な意思はなく、犯行を中止する機会もなかった{{Sfn|福岡高裁|2007|pp=20-21}}。 |
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:;K4の関与の程度に関する疑念 |
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::原判決はK4がA1・A2・Bの殺害行為を全て実行したと認定しているが、K4はK3に意地を張って真実を述べていない可能性があり、実際にはK3も殺害行為をさらに実行した[[合理的な疑い|合理的疑い]]がある(K2もその疑いについて言及している){{Sfn|福岡高裁|2007|p=21}}。 |
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:;遺族の処罰感情について |
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::Bの母親は現時点では、K4らに対する死刑を望んではいないと考えられる{{Sfn|福岡高裁|2007|p=22}}。 |
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また被告人質問やK1に対する証人尋問も行われ、K4はK2に対し「おれのことを気にするな。自分を責めんでいい。おれはおれの意思で親についていきよるんや。おれが最後まで付いていく」と述べたほか、K1に対しては「事件についてはともかく、俺は、今まで親父やおかんに従ってきたことについて全く後悔していないのだから、どうか気にしないでくれ」と言い切っている{{Sfn|集刑304号|2012|p=323}}。一方、検察官は両被告人にはいずれも極刑をもって臨むほかないと主張して控訴棄却を求めた<ref>『西日本新聞』2007年9月27日夕刊第10B版第一社会面11頁「大牟田4人強盗殺人 2被告の控訴審結審 福岡高裁」(西日本新聞社)</ref>。 |
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===== 控訴棄却判決 ===== |
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しかし警察官は鍵を持たず3人とも同行室に入った上、扉を完全に閉めていなかった状態で<ref name="読売新聞2004-11-14 西部朝刊1面"/>、室外で待機していた者はいなかった<ref name="読売新聞2004-11-16 西部朝刊"/>。その上、同行室から退出することなくK3と一緒に食事を摂るという「内規違反に油断が重なる」事態が逃走につながった<ref name="読売新聞2004-11-16 西部朝刊">『読売新聞』2004年11月16日西部朝刊第一社会面31面「福岡地検久留米支部逃走事件 3警官、K3被告と食事 内規違反に油断重なる」</ref>。2004年11月26日、K3が福岡地検久留米支部の仮庁舎から逃走した際の詳細な経緯が判明した<ref name="読売新聞2004-11-16 西部朝刊"/>。 |
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同年12月25日に判決公判が開かれ、K2・K4はいずれも控訴棄却の判決を言い渡された<ref name="西日本新聞2007-12-25"/>。福岡高裁 (2007) は一連の犯行について、動機の身勝手さ、犯行態様の凶悪性、犯行の計画性・悪質性、結果の重大性などを指摘し、各犯行には被告人らの「物欲と人命軽視」が認められると判示した{{Sfn|福岡高裁|2007|pp=14-16}}。 |
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;K2について |
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:その上で、K2の「従属的だった」という主張については、K2の言動が一連の犯行の契機となったこと、当初は「自分がA1を殺す」と言いながら恐ろしくなって犯行に踏み切れなかったことからK3に協力を求めた上でK4まで犯行に引き入れたこと、殺害実行犯のK4に対し自ら犯行の指示をしたり凶器のアイスピックを手渡したりしたこと、(A2殺害については若干異を唱えはしたが)共犯者として犯行を制止しなかったどころか、かえって十分納得した上で自身が殺害に関与した3被害者 (A1・A2・B) の殺害に参加したことなどを挙げ、「殺害行為こそ担当しなかったものの、各犯罪の遂行に向けて重要な役割を積極的に果たしている。」と認定してその主張を退け、「同被告人を首謀者と評価するかどうかはともかく、その関与が従属的かつ消極的なものにとどまるなどと評価することはできず、同被告人の本件犯情はすこぶる悪いというほかなく、その刑事責任が極めて重大であることも明らかである。」と判示した{{Sfn|福岡高裁|2007|pp=16-17}}。 |
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:その一方でK2に有利な情状として、彼女は当初から各被害者を殺害することを主導したわけではないこと、捜査段階から素直に罪を認めて事実関係を詳細に供述し、公判でも事実を正直に認め、K1・K3に手紙で「一緒に刑に服そう」と呼び掛けるなど深い反省が認められる(更生可能性が皆無とは言えない)こと、被害者・遺族への謝罪の意思を明らかにしていることなども列挙したが、それらの情状や死刑という刑罰の性質(人命を奪う極刑であり、その適用は慎重に行われなければならないこと)、[[永山基準|その性質を踏まえて1983年7月8日に最高裁が示した死刑適用基準]]に照らしても、K2を死刑とした原判決はやむを得ず、重すぎて不当とは言えないと結論づけた{{Sfn|福岡高裁|2007|p=18}}。 |
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;K4について |
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:K4については、先にK3からA3への強盗殺人を持ち掛けられ、消極的態度を示したら「お前の弟(三男)を使う」「お前も〔K4の交際相手〕も殺す」などと言われたことなどを踏まえても、K4とK1・K2・K3とのやり取りを踏まえれば、K4が彼らに支配されて逆らえない状況にあったとは認められず、あくまでK4自ら犯行を決意したものであると判示し、K4は従属的だったとする弁護側の主張を排斥した{{Sfn|福岡高裁|2007|pp=19-20}}。 |
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:また「場当たり的で計画性のない犯行」という主張についても、各犯行はその経緯から見て、綿密とは言えないまでもそれなりの計画性および強固な殺意が認められることを指摘し、主張を排斥した{{Sfn|福岡高裁|2007|pp=20-21}}。そして4人の人命が奪われた結果の重大性、被害者の無念や遺族の峻烈な処罰感情を列挙した上で、以下のようにその犯罪性向は深刻であり、事件当時20歳かつ判決当時23歳と若年であることを考えても、人格傾向の矯正は著しく困難であることを指摘した{{Sfn|福岡高裁|2007|pp=21-22}}。 |
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{{Quotation|「ためらいなく次々と冷酷に殺人を重ねる様子からは、顕著な人命軽視及び極端な暴力肯定の態度が明白に認められる。」<br />「保護処分当時から、同被告人には、深刻な反社会性や無軌道な粗暴性や暴力団に対するあこがれといった問題点があると指摘されていることにも照らすと、同被告人の犯罪性向は極めて深刻」|福岡高裁 (2007) |{{Sfn|福岡高裁|2007|pp=21-22}}}} |
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:以上の点から、K4の犯情は極めて悪く、刑事責任は少なくともK2以上に重大であると位置づけ、K4にとって有利な情状(若年であること、捜査段階から素直に罪を認めて公判でも反省の態度を示していること、前科がないことなど)や「永山判決」の趣旨を踏まえても、K2と同じく死刑はやむを得ないものと結論づけた{{Sfn|福岡高裁|2007|pp=22-23}}。 |
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K4は冒頭で主文を言い渡された際に指を鳴らし、溜め息をついて着席したほか、閉廷後には話しかけようとした弁護人に対し「先生、メリークリスマス」と大声を出して退廷した{{Efn2|K4は判決前に小野に対し、クリスマスに死刑判決が出たら「素敵なプレゼントをありがとう」と言おうと考えていることを打ち明けていた{{Sfn|小野一光|2008|p=89}}。}}<ref>『西日本新聞』2007年12月26日朝刊第19版第一社会面(事件・人・話題)29頁「大牟田4人殺害 K2、K4被告 二審も死刑 高裁「酌量余地ない」」「K4被告 大声で「メリークリスマス」」(西日本新聞社)</ref>。 |
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K4の弁護人は同月27日付で、K2の弁護人も28日付でそれぞれ上告した<ref>『西日本新聞』2007年12月28日朝刊第18版第一社会面(事件・人・話題)31頁「大牟田4人殺害 K4被告が上告」(西日本新聞社)</ref><ref>『西日本新聞』2007年12月29日朝刊第18版第一社会面(事件・人・話題)29頁「大牟田4人殺害 K2被告も上告」(西日本新聞社)</ref>。上告審でK2の弁護人を務めた鈴木敏彦は、第一審から控訴審まで「極刑を覚悟している」と供述していたK2が上告した理由について、自分が認識していなかったこと(K3・K4によるA3殺害)などの真相を知りたい気持ちや、被害者らへの罪悪感からそれまでは主張できずにいたことに気付いたため、それを裁判所に伝えたくなったことなどであると述べている{{Sfn|集刑304号|2012|pp=241-242}}。 |
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警察官は室内から解錠する鍵を持っていなかったためドア越しに説得したが<ref name="読売新聞2004-11-14 西部朝刊1面"/><ref name="読売新聞2004-11-14 東京朝刊"/>、K3は腰縄を外しながら「担当者さん、悪い」<ref name="読売新聞2004-11-27 西部朝刊"/>「俺は(強盗殺人などを)やっていない。死刑になるかもしれないから逃げる」<ref name="読売新聞2004-11-27 西部朝刊"/><ref name="読売新聞2004-11-14 西部朝刊1面"/><ref name="読売新聞2004-11-14 東京朝刊"/>「3日経ったら戻ってくる」と言い残し<ref name="読売新聞2004-11-27 西部朝刊"/>、階段を降り<ref name="読売新聞2004-11-27 西部朝刊"/>履いていたスリッパを1階に残したまま裸足で検察庁舎から逃走した<ref name="読売新聞2004-11-14 西部朝刊1面"/>。これを受け、警察官は携帯電話で110番通報しK3が逃走したことを知らせた<ref name="読売新聞2004-11-14 西部朝刊1面"/><ref name="読売新聞2004-11-14 東京朝刊"/>。 |
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==== K1・K3の審理 ==== |
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K3は脱走から約15分後<ref name="読売新聞2004-11-15 西部朝刊"/><ref name="読売新聞2004-11-15 東京朝刊"/>の17時55分<ref name="朝日新聞2004-11-15 西部朝刊"/>、地検支部から南へ約800mの<ref name="読売新聞2004-11-15 西部朝刊"/><ref name="読売新聞2004-11-15 東京朝刊"/>久留米市本町の[[福岡県道23号久留米柳川線]]で<ref name="朝日新聞2004-11-15 西部朝刊"/>待機中のタクシーに客を装って乗り込んだ<ref name="読売新聞2004-11-15 西部朝刊"/><ref name="読売新聞2004-11-15 東京朝刊"/>。そしてタクシー運転手に対し「3日ほど暴力団に監禁されていて脱走してきた。金は知人に持ってこさせるから[[柳川市]]方面に行ってくれ」と指示した<ref name="読売新聞2004-11-15 西部朝刊"/><ref name="読売新聞2004-11-15 東京朝刊"/>。 |
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2007年10月11日、K1・K3の控訴審初公判が開かれたが、K1は第一審における「自身の単独犯」との主張を翻し、A1殺害についてはK2・K4との共謀を認めた上で、K3との共謀や強盗目的を否認した<ref name="西日本新聞2007-10-12">『西日本新聞』2007年10月12日朝刊第18版第二社会面(事件・人・話題)34頁「大牟田4人強殺 K1被告が共謀認める 控訴審初公判」(西日本新聞社)</ref>。また別の2人殺害に関しては家族3人との共謀を認め、もう1人の殺害については関与を否定した<ref name="西日本新聞2007-10-12"/>。 |
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同年12月20日、K1・K3の控訴審は結審した<ref name="西日本新聞2007-12-21"/>。K3の弁護人は最終弁論で、K3には事件当時アリバイがあるため、犯行への関与は不可能であることを主張し、一連の殺害行為についてはいずれも無罪を主張した<ref name="西日本新聞2007-12-21">『西日本新聞』2007年12月21日朝刊第18版第二社会面(事件・人・話題)34頁「大牟田4人強殺 父とK3被告結審」(西日本新聞社)</ref>。 |
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このタクシー運転手は裸足だったK3の「ヤクザから逃げてきた」という言葉を信じ込み、「組から逃げてきたな」と思っただけで特に不審には思わなかったという<ref name="朝日新聞2004-11-15 西部朝刊"/>。運転手は普段車中でラジオを流していたが、後述のようにK3に自分の携帯電話を貸し通話させていたため音量を小さくしていた<ref name="朝日新聞2004-11-15 西部朝刊"/>。そのため運転していたタクシーが後述のように警察官に取り囲まれるまで、客だと思って乗車させたK3の正体にまったく気づかなかったという<ref name="朝日新聞2004-11-15 西部朝刊">『朝日新聞』2004年11月15日朝刊第一社会面35面「強盗殺人で逃走中と気づかず 車中のK3容疑者を運転手語る【西部】」</ref>。 |
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2008年(平成20年)3月27日、K1・K3の2人もそれぞれ控訴棄却の判決を言い渡された<ref name="西日本新聞2008-03-27"/>。福岡高裁は、強盗目的を否認したK1、無罪を主張したK3の主張をいずれも排斥し、K1については経済的困窮から強盗殺人を計画したことを認定、K3についても他の被告人らの供述などから共謀関係を認定した<ref name="西日本新聞2008-03-28"/>。その上で、K1は殺害行為の実行こそしなかったものの、K3らを犯行に引き入れた上で殺害方法を具体的に指示していたことに言及した上で<ref name="読売新聞2008-03-28">『読売新聞』2008年3月28日西部朝刊社会面39頁「大牟田4人殺害 父と長男、2審も死刑 福岡高裁が控訴棄却 「人命軽視、甚だしい」」(読売新聞西部本社)</ref>、各犯罪で主導的な役割を果たした点や、犯行態様も非情かつ残酷で凶悪な犯行態様である点を指摘した<ref name="西日本新聞2008-03-28"/>。またK3についても、アリバイ主張を「犯行に関与していないとの絶対的な決め手にはならない」と退け<ref>『朝日新聞』2008年3月28日西部朝刊第一社会面35頁「「人命軽視で悪質」指摘 大牟田4人殺害、二審も死刑【西部】」(朝日新聞西部本社)</ref>、殺害計画に積極的に関与しながら実行役をK4に押し付け、自分の手を汚さずに済ませようとしたと指摘した上で<ref name="読売新聞2008-03-28"/>、その点を「自己中心的で狡猾」と形容<ref name="西日本新聞2008-03-28"/>。「金銭欲に始まり人命軽視も甚だしく、身勝手極まりない犯行動機に酌むべきところはない」として、2人を死刑とした原判決を追認した<ref name="西日本新聞2008-03-28">『西日本新聞』2008年3月28日朝刊第19版第一社会面(事件・人・話題)39頁「大牟田4人殺害 K1・K3被告に再び死刑判決 福岡高裁 「犯行は凶悪」」(西日本新聞社)</ref>。その後、両被告人の弁護人がそれぞれ上告した<ref>『西日本新聞』2008年3月29日朝刊第19版第一社会面(事件・人・話題)39頁「大牟田4人殺害 K1被告が上告」(西日本新聞社)</ref><ref>『西日本新聞』2008年4月1日朝刊第19版第二社会面(事件・人・話題)30頁「大牟田4人連続殺害 K3被告が上告」(西日本新聞社)</ref>。 |
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また、タクシー運転手によればこの時のK3は「タクシー料金のみならず、途中に立ち寄ったコンビニエンスストアで運転手が購入したペットボトルのお茶代なども含めきちんと料金を払おうとしており、普通の客より丁寧な口ぶりだった」という<ref name="朝日新聞2004-11-15 西部朝刊"/>。 |
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=== 上告審 === |
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柳川市の[[沖端川]]河口付近に到着後、K3は運転手に対し「[[熊本県]][[玉名郡]][[南関町]]経由で大牟田市に向かってくれ」と指示した上で「(大牟田市内の)幹線道路は見張りがいるから行けない。裏道を知らないか」と尋ねた<ref name="読売新聞2004-11-15 西部朝刊"/><ref name="読売新聞2004-11-15 東京朝刊"/>。 |
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上告審は、K2・K4の両被告人が[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]第二[[小法廷]]([[須藤正彦]]裁判長)に、K1・K3の両被告人が同第一小法廷([[白木勇]]裁判長)に、それぞれ係属した<ref name="西日本新聞2011-10-04"/><ref name="西日本新聞2011-10-18"/>。4被告人それぞれの担当弁護人は、K1が中井淳{{Sfn|集刑304号|2012|p=347}}、K2が鈴木敏彦{{Sfn|集刑304号|2012|p=227}}、K3が小松初男・今村憲{{Sfn|集刑304号|2012|p=347}}、K4が福島昭宏と先述の松井である{{Sfn|集刑304号|2012|p=227}}。上告審における各被告人の主張(上告趣意書)の要旨は以下の通り。 |
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;K2 |
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:;判例違反 |
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::原判決は、K4による拳銃発射行為が銃刀法第31条および同法第3条の13(けん銃等発射罪){{Efn2|銃砲刀剣類所持等取締法 第三条の十三(発射の禁止)「何人も、道路、公園、駅、劇場、百貨店その他の不特定若しくは多数の者の用に供される場所若しくは電車、乗合自動車その他の不特定若しくは多数の者の用に供される乗物に向かつて、又はこれらの場所(銃砲で射撃を行う施設(以下「射撃場」という。)であつて内閣府令で定めるものを除く。)若しくはこれらの乗物において拳銃等を発射してはならない。ただし、法令に基づき職務のため拳銃等を所持する者がその職務を遂行するに当たつて当該拳銃等を発射する場合は、この限りでない。」}}に違反することを認定しているが、後者は「不特定若しくは多数の者の用に供される」場所もしくは乗物で拳銃を発砲するか、そのような場所もしくは乗物に向かって拳銃を発砲した場合に成立するため、個人的に使用する自動車内で発砲しただけでは成立しない。発射現場は周囲に人気も何もない場所であり、けん銃等発射罪の成立要件を満たすような場所ではなかったことが明らかであり、原判決の認定は2005年4月18日付の最高裁決定{{Efn2|最高裁第一小法廷([[才口千晴]]裁判長)が2005年4月18日付で出した殺人、銃砲刀剣類所持等取締法違反、殺人未遂被告事件に関する決定<ref>{{Cite 判例検索システム|事件番号=平成16年(あ)第971号|裁判年月日=2005年(平成17年)4月18日|法廷=最高裁判所第一小法廷|裁判形式=決定|判例集=刑集 第59巻3号302頁|url=https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=50090|事件名=殺人、銃砲刀剣類所持等取締法違反、殺人未遂被告事件|判示事項=道路を走行中の普通乗用自動車内におけるけん銃発射行為が銃砲刀剣類所持等取締法3条の13,31条のけん銃等発射罪に当たるとされた事例|裁判要旨=国道を走行中の普通乗用自動車内において,助手席に乗車していた被害者に対し,背後からけん銃を突き付け発射した行為(判文参照)は,銃砲刀剣類所持等取締法3条の13,31条のけん銃等発射罪に当たる。}} |
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* 決定主文:本件上告を棄却する。 |
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* 最高裁判所裁判官:[[才口千晴]](裁判長)・[[横尾和子]]・[[甲斐中辰夫]]・[[泉徳治]]・[[島田仁郎]] |
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* 弁護人:南出喜久治</ref>。}}(民家などの立ち並ぶ国道上を走行中の自動車内で、助手席に乗車していた被害者の左肩に、背後から銃口を下向きにして拳銃を突きつけ、発砲した行為について、「不特定若しくは多数の者の用に供される場所」であることが明らかな道路上が現場であることを理由に、けん銃等発射罪の成立を認定)に違反する{{Sfn|集刑304号|2012|pp=242-244}}。また以下の事実誤認から、K2を死刑とした原判決は「永山判決」に相反するものであるといえる{{Sfn|集刑304号|2012|p=257}}。 |
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:;事実誤認 |
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::主たる動機はA1に対する憤懣であり、金銭を奪う動機はK1から提案されて付随的に生じたものにすぎない{{Sfn|集刑304号|2012|p=245}}。K2はA1により、借金の弱みに漬け込まれて取り立てに使い回すなど都合よく利用されたり、リフォーム工事代金を踏み倒されるなどしていたのであり、A1にも落ち度があったといえる{{Sfn|集刑304号|2012|pp=247-248}}。K2にはA2・Bを殺害する動機はなく、結果的に共犯者らによる彼らの殺害を止められなかったにすぎない{{Sfn|集刑304号|2012|pp=248-249}}。K2が息子らを強盗殺人の犯行に引き込んだというのは事実誤認であり、K3は元からK1とともにA1に対する強盗殺人を狙っており、K4もそのK3が犯行に引き込んだにすぎない{{Sfn|集刑304号|2012|p=250}}。またK2自身も、強盗殺人・殺人・死体遺棄の犯行でも重要な役割を果たしたとはいえない{{Sfn|集刑304号|2012|pp=250-255}}。犯行直前までA1らを殺害しようとするK1・K3を制したり、彼らを納得させるために金策をしようとするなどしており、原判決の「K2が、A1殺害を自ら実行しなかったのは、怖気づいたからにすぎず、共犯者として犯行の遂行に何らの防止策も採らず、かえって十分納得した上で、A1、A2およびB全員の殺害に参加し、各犯行で重要な役割を果たしている」と認定した原判決には事実誤認がある{{Sfn|集刑304号|2012|pp=256-257}}。 |
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:;量刑不当 |
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::K2の関与の度合いは共犯者らに比べて低く、死刑に処すべきほど重要な役割を果たしたとは言えない{{Sfn|集刑304号|2012|p=235}}。K2はA1を「殺す」としばしば口にしていたが、本気でA1殺害を考えていたわけではなく、K1がA1を殺して金を奪うことを提案したことや、K3・K4がA2を殺害したことが原因でA1も殺害せざるを得なくなったに過ぎない{{Sfn|集刑304号|2012|pp=237-238}}。K2が関与した3人 (A1・A2・B) 殺害に関しても、K2の果たした役割は小さく、関与は従属的かつ消極的である{{Sfn|集刑304号|2012|pp=239-241}}。事件後は事実を正直に認め、起訴事実を否定していたK1・K3を手紙で説得するなど深く反省しており、更生可能性が大きい{{Sfn|集刑304号|2012|p=241}}。以上のような事情に加え、過去に複数人を殺害した実行犯および首謀者に対する死刑適用が回避された事件{{Efn2|[[いわき2人射殺事件|暴力団組織の幹部およびその弟分の2被告人が、組織の構成員2人を拳銃で射殺した事件]]で、幹部(首謀者)と弟分(実行犯)の2被告人をそれぞれ無期懲役とした最高裁決定(第一小法廷:2008年2月20日)や、2人を殺害した強盗殺人事件で、殺害実行犯の女性被告人および共犯である男性被告人の2人を死刑とした原判決を破棄し、2被告人に無期懲役を言い渡した判決(東京高裁:1995年12月13日){{Sfn|集刑304号|2012|pp=264-265}}。前者は本事件と同じ強盗殺人・死体遺棄・銃刀法違反事件であるが、当該強盗殺人は被告人の被害者に対する恨みが主たる動機であったことが死刑回避の1つの根拠となっていた{{Sfn|集刑304号|2012|p=260}}。}}、そして被害者3人でかつ被告人が直接殺害を実行した事件でありながら死刑が回避された事件{{Efn2|福岡高裁1997年12月4日判決、[[つくば妻子殺害事件|東京高裁1997年1月31日判決]]、[[林郁夫 (オウム真理教)|東京地裁1998年5月26日判決]]など{{Sfn|集刑304号|2012|p=266}}。1997年の2判決はいずれも妻子3人を殺害した被告人に対し、犯行に計画性がないことや動機に酌量の余地があることなどを理由に、無期懲役を言い渡した原判決に対する検察側の死刑を求めた控訴を棄却したもので、検察側が上告せず、無期懲役が確定している{{Sfn|年報・死刑廃止|1998|pp=114-118}}。}}の判例から見ても、実行犯でも首謀者でもないK2に対する死刑は重すぎて不当である{{Sfn|集刑304号|2012|pp=264-265}}。 |
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;K4 |
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:;[[死刑制度合憲判決事件|死刑の違憲性]] |
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::死刑制度は[[日本国憲法第12条|憲法第12条]]および[[日本国憲法第13条|13条]]で規定された国民の生命に関する権利を不当に侵害するものであり、[[日本国憲法第36条|同36条]]で定められた「残虐な刑罰」に該当するため、違憲である{{Sfn|集刑304号|2012|p=271}}。 |
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:;量刑不当 |
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::K4は暴力団組長夫婦という両親の下で育ち、「親のいうことは絶対」という価値観を有し、同時に相撲部屋での挫折・ヤクザへの入門・少年院への入院という因子も相まって、反社会的・粗暴な性格と評されるような人格を形成するに至ったが、優しい一面や人間的な一面もあり、矯正は可能である{{Sfn|集刑304号|2012|pp=298-300}}。犯行の動機・経緯を見れば、当時K4には生活苦やA1に対する憤懣はなく、犯行途中までは殺害を躊躇する姿勢も見せていたが、誤った家族愛や両親への尊敬の念から、家族の命令に忠実に従う形で犯行に至ったものであり、動機に酌むべき事情がないと断定するには躊躇を覚える{{Sfn|集刑304号|2012|pp=300-301}}。犯行は偶発的とは言えないまでも、A3の殺害謀議がなされた段階で具体的な殺害方法・殺害後の行動が決まっていなかったことなどから見れば、決して計画的な犯行とは言えない{{Sfn|集刑304号|2012|pp=301-302}}。実行犯だったとはいえ、両親や兄K3に引き込まれたり指示されたりした上で犯行におよんでおり、一貫して従属的な立場にあったと言える{{Sfn|集刑304号|2012|p=302-303}}。犯行後、公判で反省の念を露わにしている{{Sfn|集刑304号|2012|pp=303-304}}。 |
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:;事件の真相について |
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::2008年3月28日付の上申書で、本件の真相を明らかにする旨を上申し{{Sfn|集刑304号|2012|p=329}}、同年4月21日付の手紙で{{Sfn|集刑304号|2012|p=330}}、A1殺害はA1の母親から依頼されたものであると主張している{{Sfn|集刑304号|2012|p=337}}。その内容によればA1の母親はK2に対し、何度か娘A1を殺害するよう依頼していた{{Sfn|集刑304号|2012|p=331}}。K2はA1本人よりも母親との方が仲が良かった時期があり、そのためにA1本人からの借入金額(約900万円)よりA1の母親からの借入金額(約2,300万円)の方が大きくなっていたことから、母親からの娘殺害の依頼を断ることができなかった{{Sfn|集刑304号|2012|p=337}}。また拳銃を発射した場所は原判決の事実認定とは異なり、最初の1発を撃った発砲者もK4ではなくK3である{{Sfn|集刑304号|2012|p=330}}。 |
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;K1 |
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:;事実誤認 |
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::犯行前の妻子との会話{{Sfn|集刑304号|2012|pp=357-359}}、犯行時の行動(A1が眠っている間にバッグを持つ機会があったが、物色しなかったことなど){{Sfn|集刑304号|2012|pp=359-361}}、事件当時の資力状況([[#K1一家の困窮|前述]]){{Sfn|集刑304号|2012|p=361}}などから、A1殺害について強盗の意図は認められず、強盗殺人罪ではなく殺人罪と窃盗罪が成立する{{Sfn|集刑304号|2012|pp=363-364}}。 |
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:;死刑制度の違憲性 |
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::諸外国における死刑廃止の潮流{{Sfn|集刑304号|2012|p=365}}、死刑制度を合憲とした最高裁大法廷判決(1948年3月12日)における補充意見(将来的に死刑制度が違憲と認められる可能性を示唆した意見)、およびそれを踏まえた[[名古屋保険金殺人事件|1993年9月12日最高裁判決における大野正男裁判官の「死刑が残虐な刑罰に当たると評価される余地は著しく増大したということができる」という補足意見]]、後者意見の根拠として例示された死刑事件を含めた[[冤罪]]事件の存在{{Efn2|死刑確定者が[[再審]]無罪になった4事件([[免田事件]]・[[財田川事件]]・[[松山事件]]・[[島田事件]])および、[[志布志事件]]・[[氷見事件]]を例示している{{Sfn|集刑304号|2012|pp=368-369}}。}}などを踏まえれば、死刑制度が憲法に違反している疑いは払拭できない{{Sfn|集刑304号|2012|pp=367-370}}。 |
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:;本件事案について死刑判決を下すことについての憲法違反、判例違反{{Sfn|集刑304号|2012|p=370}} |
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::K1を死刑とすることは死刑の量刑基準を判示した「永山判決」(1983年7月8日)に違反するし、明らかに「残虐な刑罰」といえる{{Sfn|集刑304号|2012|p=370}}。原判決は動機に酌量の余地がないこと{{Sfn|集刑304号|2012|p=371}}、犯行が計画的かつ悪質なものであること{{Sfn|集刑304号|2012|p=372}}、結果の重大性および遺族の処罰感情を死刑選択の理由として挙げているが{{Sfn|集刑304号|2012|p=374}}、A1殺害の動機については一定程度は酌むべきところがあり、犯行計画も杜撰で、周到に計画された計画的犯行とは言えない{{Sfn|集刑304号|2012|pp=371-373}}。また被害者の被害回復の問題と量刑の問題は切り離して考えなければならず、遺族の感情を量刑に反映させるのは慎重でなければならない{{Sfn|集刑304号|2012|p=374}}。K1の性格は矯正不可能なほど犯罪性が高いとも言えず、犯行も心から反省している{{Sfn|集刑304号|2012|p=377}}。 |
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;K3 |
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:;判例違反・審理不尽 |
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::いわゆる「[[練馬事件]]」の上告審判決(1958年5月28日大法廷判決)では、「共謀共同正犯が成立するには、二人以上の者が、特定の犯罪を行うため、共同意思の下に一体となつで互に他人の行為を利用し、各自の意思を実行に移すことを内容とする謀議をなし、よつて犯罪を実行した事実が認められなければならない。したがつて右のような関係において共謀に参加した事実が認められる以上、直接実行行為に関与しない者でも、他人の行為をいわば自己の手段として犯罪を行つたという意味において、その間刑責の成立に差異を生ずると解すべき理由はない。」と判示されている{{Sfn|集刑304号|2012|p=381}}。強盗殺人・殺人の共謀共同正犯を認定するには、その実行正犯と意思の疎通のもとで相互に補い合い協力し合う関係で犯罪を遂行したという関係が厳格に認定されるべきであるが、原判決はK2・K4の供述証拠のみに依拠し、K3の自白に「裏付けがある」として、その共謀の成立時期や内容・程度を吟味検討せず、実行正犯の行為の残虐性を強調して、K3がこれに「積極的に加担した」などと認定している{{Sfn|集刑304号|2012|p=413}}。しかしA1殺害はK2が首謀者、K4が実行犯であり、K3はそのどちらでもなければK1のようにK4に凶器を渡したわけでもなく、「積極的な関与」は認定できない{{Sfn|集刑304号|2012|p=413}}。またA3殺害について、原判決はK4の供述に依拠してK3の共謀を認定しているが、K4は真実を語るというより、母や組長である父の意思を実現し北村組の跡目を継承すべきものである自分をクローズアップさせたいとの思惑の下に種々供述しているのであり、その供述には不自然・不合理な点が随所に見られる。以下のようにK3にはアリバイも存在する可能性があることも踏まえれば、それらの点を看過して漠然たる共謀関係を認定したに過ぎない状況で、K4を4人に対する強盗殺人・殺人などの共謀共同正犯と認定した原判決には、重大な最高裁判例違反、法令の解釈適用の誤り、事実誤認、審理不尽が認められ、破棄を免れない{{Sfn|集刑304号|2012|pp=413-414}}。 |
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::;アリバイ存在の可能性 |
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:::;A3殺害時期に関するアリバイ |
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::::A3の殺害時刻は9月16日23時45分ごろとされているが、約45分後の17日0時30分ごろ、内妻を迎えに高田町のパチンコ店にいた。また当時K3と同行していたとされるK4の供述によれば、K3はA3殺害時刻より後に「馬沖橋」(殺害現場)から[[大牟田市立病院|大牟田市立総合病院]]・K3の自宅を経由してから同店に向かっている([[#出所後|後述]])。その間の道のりは約16 kmだが、K3は当時眼鏡を紛失しており、夜間スピードを出しての運転は困難な状態だったことを踏まえれば、K3本人の「馬沖橋からならパチンコ店まで約1時間かかると思います」という公判供述には十分な信憑性がある([[#K1一家の困窮|前述]])。それらの客観的状況を踏まえれば、K3がA3殺害時刻に「馬沖橋」にいたことはありえず、同時刻から約45分でパチンコ店まで行くことが「不可能とまではいえない」として客観的な裏付けを取らずにアリバイを否定した原判決は審理不尽の誹りを免れない{{Sfn|集刑304号|2012|pp=409-411}}。 |
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:::;A1殺害時期に関するアリバイ |
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::::K3は、A1が北村組事務所から連れ出されたとされる18日0時ごろ、K1から「(実家に)帰っとけ」と言われて家族と別れ、0時過ぎごろには代行運転のドライバーと話をしており、後にファミリーレストラン「[[ジョイフル]]」の駐車場で人夫出しの仕事の協力者と会っていた旨を主張している。K1がA1殺害にK3を巻き込むことに消極的な言動を取っていたこと、またK3は17日午後から夜にかけて頻繁に携帯電話で仕事の話をしていたことは、K2・K4も認めており、電話相手の証言もK3の主張と矛盾せず、信憑性も高いと言える。よってA1殺害時刻(18日0時30分ごろ)にK3が殺害現場にいたことはあり得ず、原判決がその点を確たる反対証拠の検討吟味をせずに否定したことは審理不尽の誹りを免れない{{Sfn|集刑304号|2012|pp=411-413}}。 |
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:;量刑不当(予備的主張) |
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::仮に原判決の認定通りK3が有罪だとしても、K3はA3を除く3人の殺害については従属的であり、他3人と比べて刑事責任が重いとは言えない{{Sfn|集刑304号|2012|pp=414-427}}。A3殺害についても計画性は低く、猪突猛進型のK4に押されて殺害にまで至ってしまった{{Sfn|集刑304号|2012|pp=432-433}}。K3は暴力団の親分でもある両親に従わざるを得ない状況にあり{{Sfn|集刑304号|2012|p=429}}、犯行を躊躇する{{Sfn|集刑304号|2012|p=437}}、犯行を真摯に反省する{{Sfn|集刑304号|2012|pp=443-444}}、不仲であった父K1が署内で自殺を図った上に自分たちを庇って罪を被ろうとしていると知り、その義理立てのためにK1の供述と矛盾しないよう犯行を否認する供述をする{{Sfn|集刑304号|2012|pp=445-446}}、他者を思いやる心を持っている{{Sfn|集刑304号|2012|p=447}}などの点から、矯正可能性が認められる{{Sfn|集刑304号|2012|p=451}}。 |
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K2・K4両被告人は2011年10月3日に<ref name="西日本新聞2011-10-04">『西日本新聞』2011年10月4日朝刊第19版第一社会面(事件・人・話題)29頁「大牟田4人殺害 母・次男 死刑確定へ 最高裁上告棄却 「酌量の余地なし」」(西日本新聞社)</ref>、K1・K3両被告人も同月17日にそれぞれ上告棄却の判決を宣告されたため、犯行に関わった一家4人の死刑が[[確定判決|確定]]することとなった<ref name="西日本新聞2011-10-18"/>。なお、福岡県弁護士会 (2018) によれば、K4の死刑確定日は同年11月8日である{{Efn2|name="死刑確定日"|K1・K3に対する上告審判決が宣告された時点では、K2・K4の両名に対する死刑判決はまだ確定していなかった<ref name="西日本新聞2011-10-18"/>。}}{{Sfn|福岡県弁護士会|2018|p=3}}。 |
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== 犯人一家 == |
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その後K3は運転手の携帯電話を借り、知人と数十回にわたり「金を貸してくれ」「もうすぐ着く」などと連絡を取り、タクシー料金として現金を届けるように要請していた<ref name="読売新聞2004-11-15 西部朝刊">『読売新聞』2004年11月15日西部朝刊第一社会面35面「大牟田事件K3被告 逃走中、タクシーから何度も電話 知人に『金貸して』」</ref><ref name="読売新聞2004-11-15 東京朝刊">『読売新聞』2004年11月15日西部朝刊第一社会面39面「福岡・大牟田事件 逃走したK3被告、知人に連絡『金貸せ』」</ref>。 |
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いずれも2011年(平成23年)に最高裁で死刑が確定し、2022年(令和4年)9月27日時点で{{Sfn|年報・死刑廃止|2022|p=243}}、[[日本における死刑囚|死刑確定者(死刑囚)]]として各地の拘置所に収監されている(後述)。上告中は4人全員が[[福岡拘置所]]に収監されていたが{{Efn2|『年報・死刑廃止』 (2011) によれば、2011年9月25日時点で{{Sfn|年報・死刑廃止|2011|p=214}}、4人(いずれも当時は上告中)とも福岡拘置所に収監されていた{{Sfn|年報・死刑廃止|2011|p=212}}。K2は死刑確定後の2012年(平成24年)に福島のアンケートに対し、前年末に夫K1と長男K3がそれぞれ広島と大阪へ移送されたと回答している{{Sfn|フォーラム90|2012|p=123}}。}}、死刑確定後の2011年末にK1は[[広島拘置所]]へ、K3は[[大阪拘置所]]へそれぞれ移監された{{Sfn|フォーラム90|2012|p=123}}。 |
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K3・K4兄弟は度々暴力沙汰を起こしていたが、周囲は息子を野放しにする親に怒りを感じつつも「ヤクザだから」と諦めていたという証言がなされている<ref name="毎日新聞2004-10-18"/>。 |
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逃走から約3時間後の20時50分ごろ、地検支部から南に約35km離れた<ref name="読売新聞2004-11-14 西部朝刊1面"/>熊本県[[荒尾市]]上井手の駐車場に到着した際、タクシー料金が20400円に達していた<ref name="読売新聞2004-11-15 西部朝刊"/>。そのような中、K3はタクシーからいったん下車し、車外で電話をかけた<ref name="読売新聞2004-11-15 西部朝刊"/>。 |
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=== 男K1 === |
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しかしK3が車内に戻ったところ数人の捜査員がタクシーを取り囲んだ<ref name="読売新聞2004-11-15 西部朝刊"/>。K3は当初後部座席でドアを開けさせまいと抵抗したが、観念した様子で車外に出て警察に取り押さえられた<ref name="読売新聞2004-11-15 西部朝刊"/>。 |
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{{Infobox 犯罪者 |
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|名前=K・J |
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|画像= |
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|画像サイズ= |
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|画像説明= |
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|出生名= |
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|生年月日={{生年月日と年齢|1944|1|12}}{{Sfn|集刑304号|2012|p=347}} |
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|出生地= |
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|失踪= |
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|没年月日= |
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|死没地= |
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|死因= |
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|遺体発見= |
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|墓地= |
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|記念碑= |
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|住居={{JPN}}: 福岡県大牟田市桜町 |
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|国籍= |
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|別名= |
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|民族= |
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|市民権= |
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|教育= |
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|出身校= |
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|職業= |
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|雇用者= |
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|所属= |
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|動機= |
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|罪名=強盗殺人、死体遺棄、殺人、銃砲刀剣類所持等取締法違反 |
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|有罪判決= |
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|刑罰=[[日本における死刑|死刑]] |
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|犯罪者現況=[[日本における死刑囚|死刑確定者]] |
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|国={{JPN}} |
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|都道府県={{JPN}}: 福岡県 |
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|現場= |
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|標的= |
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|死者=3人 |
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|負傷者= |
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|凶器= |
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|逮捕日=2004年10月7日<ref name="有明新報2004-10-08"/> |
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|収監場所=[[広島拘置所]]{{Sfn|年報・死刑廃止|2022|p=237}} |
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|配偶者=[[#妻K2|K2(妻)]] |
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|両親= |
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|子=[[#長男K3|K3(長男)]]・[[#次男K4|K4(次男)]]ら5人(3男2女)<ref name="女性セブン2004-10-14"/> |
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|署名= |
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}} |
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男'''K1'''は1944年([[昭和]]19年)1月12日生まれ{{Sfn|集刑304号|2012|p=347}}(事件当時{{年数|1944|1|12|2004|9|18}}歳)。本名のイニシャルは'''K・J'''<ref>『毎日新聞』2004年9月27日西部夕刊社会面7頁「福岡・大牟田の死体遺棄 K2容疑者の夫の組幹部、逮捕へ--「殺害」も追及方針 銃刀法違反容疑」(毎日新聞西部本社)</ref>。K2の夫であり、K3・K4兄弟の父親である。2022年9月27日時点で{{Sfn|年報・死刑廃止|2022|p=243}}、死刑確定者として広島拘置所に収監されている{{Sfn|年報・死刑廃止|2022|p=237}}(現在{{年数|1944|1|12}}歳)。身長は160 [[センチメートル|cm]]{{Sfn|週刊新潮|2004|p=159}}ないし約165 cmで、妻K2より小柄だった<ref name="週刊現代2004-10-09"/>。 |
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K1は高校を卒業後、[[福岡市|福岡]]に出て和菓子職人として働いていたが、24 - 25歳のころに大牟田に帰郷し、タクシー運転手として7、8年働いた{{Sfn|週刊新潮|2004|p=159}}。その後、暴力団幹部の専属運転手として雇われ、自分も覚醒剤を打つようになり{{Sfn|週刊新潮|2004|p=159}}、30歳代でタクシー運転手を退職{{Sfn|週刊現代|2004|p=50}}、自身も暴力団組員になった{{Sfn|週刊新潮|2004|p=159}}。1978年(昭和53年)から1992年(平成4年)にかけ、[[覚醒剤取締法|覚せい剤取締法]]違反・[[詐欺罪|詐欺]]・[[暴力行為等処罰ニ関スル法律|暴力行為等処罰法]]などによる懲役刑に処された前科が4回ある{{Sfn|集刑304号|2012|p=375}}。また傷害罪などによる複数の罰金前科も有しているが、弁護人は上告趣意書で、1994年(平成6年)に傷害罪で罰金刑に処されて以降、2004年に車上荒らしで罰金刑に処されるまで、犯罪らしい犯罪は犯していなかったと主張している{{Sfn|集刑304号|2012|pp=375-376}}。知人によれば、K1は50歳ぐらいの時にK2や配下の組員とともに刺青を入れたという{{Sfn|週刊現代|2004|p=50}}。 |
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福岡県警が通話記録などを調べた結果、携帯電話でK3とやり取りしていた相手は、父K1の配下の暴力団組員だった<ref name="朝日新聞2004-11-15 西部朝刊"/>。K3は[[2005年]](平成17年)1月4日に大牟田署から[[逃走の罪#単純逃走罪|単純逃走罪]]で福岡地検久留米支部へ[[書類送検]]され<ref name="読売新聞2005-01-05 西部朝刊">『読売新聞』2005年1月5日西部朝刊第一社会面39面「福岡・大牟田の連続殺人 単純逃走容疑でK3被告を書類送検」</ref>、2005年1月11日に福岡地検久留米支部からへ福岡地裁久留米支部に追起訴された<ref name="読売新聞2005-01-12 西部朝刊">『読売新聞』2005年1月12日西部朝刊第一社会面31面「福岡・大牟田連続殺人 逃走罪でK3被告を追起訴」</ref>。 |
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配下の組員は鈴木智彦の取材に対し、K1は事件の3年ほど前から妻K2とともに何回も自殺未遂事件を起こしており、事件当時は金に困っていたという旨や、事件の約1年前からは若い衆が次々と組から逃げ出し、上層部からは引退を求められ、それに対しやけを起こしたK1が暴れたため、最高幹部たちがK1宅に行かないよう命じていたという旨を証言している{{Sfn|鈴木智彦|2017|pp=190-191}}。 |
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=== 地域住民らの反応 === |
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K3の義父K1が、大牟田署内で拳銃自殺を図った衝撃が冷めやらぬうちに、凶悪犯罪の被告人が、週末の夜の街に逃亡したこの事件は、福岡県警の相次ぐ不手際を露呈する形となった<ref name="読売新聞2004-11-14 西部朝刊社会面"/>。 |
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==== 人物像 ==== |
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またこの3時間にわたる逃走劇は、現場の大牟田市・地検支部がある久留米市を中心に、地域住民に大きな不安・衝撃を与えた<ref name="読売新聞2004-11-14 西部朝刊社会面">『読売新聞』2004年11月14日西部朝刊第一社会面35面「大牟田連続殺人 K3被告が逃走3時間 福岡県警、また失態 週末の夜に衝撃」</ref>。 |
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K1の人物像については、「女房 (K2) と違って気の小さい人間」で、実際にはK2が組の実権を握っていたという捜査関係者の証言や{{Sfn|週刊新潮|2004|p=159}}、K2の尻に敷かれていたという知人からの証言がなされている{{Sfn|週刊現代|2004|p=50}}。一方、妻K2は手記で[[ドメスティックバイオレンス|K1から暴力を振るわれたことがある]]([[#3度の結婚|後述]])と訴えている{{Sfn|小野一光|2007|p=134}}ほか、長男K3は「親父は素手では私達にかないませんから、酒に酔ったときなど包丁などの道具をすぐに握り、一度だけチャか(けん銃)〔原文ママ〕を取り出したこともあり、このとき親父は家の中で〔K4〕に向けてチャかを弾いています。このチャかは、銀色の小型自動式でしたから今回の事件に使ったものと同じものだと思います。」と供述している{{Sfn|集刑304号|2012|p=450}}。 |
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近隣住民はK1について、信号無視をしたり、自宅近所で背中の刺青をちらつかせたりしていたと述べている{{Sfn|小野一光3|2004|p=87}}。かつてK1一家が住んでいた藤田町{{Efn2|name="藤田町"}}の住民は、K1らが隣の敷地に自分の荷物を置くなどしていたため迷惑していたが、彼らが暴力団員であることも知っていたため、関わらないようにしていたと証言している<ref name="週刊現代2004-10-09">{{Cite journal|和書|journal=[[週刊現代]]|title=ON TIME 事件・芸能 大牟田市・母子ら4人殺害事件「自供女性」の共犯は誰か|volume=46|page=56|editor=(編集人)出樋一親|date=2004-10-09|issue=39|pages=4-951|publisher=講談社|ref=}} - 2004年10月0日号。</ref>。 |
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「大牟田市内で現場検証に立ち会うK3の姿を見た」という近隣住民は「現場検証で見たときは、K3は大男だったのに付き添う捜査員の数が少なかった。逃げ出してもおかしくないと思ったが現実になってしまった」と語った<ref name="読売新聞2004-11-14 西部朝刊社会面"/>。 |
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その一方で長男K3が中学生のころ、実家が火事になったことがあったが、K1はその際に自ら火の中に飛び込んで娘を助けている{{Sfn|集刑304号|2012|p=377}}。またK1の娘は、父親であるK1について「世間から見ると怖い存在である」とした上で、性格については「短気ではあるが、子供や孫にはもの凄く優しい面がある」と評しており、配下の組員たちからも「子供たちが大好きだが束縛しすぎる」「若い者を大事にする反面、周りの人間のことを把握していないと落ち着かないところもありました。普段は温厚ですが、寂しがりやで酒が入ると説教する」「面倒見が良く、優しく、私のことを可愛がってくれ、私が悪いことをしても、叱りつけることはあっても、暴力を振るうことはなかった人であります」という証言がなされている{{Sfn|集刑304号|2012|p=376}}。その事実を踏まえ、K1の弁護人(中井淳)は上告趣意書で、K1にはいわゆる暴力団の親分としての「怖い存在」である一面があったと思われる一方、自分の身内(子供や孫、配下の組員たち)には優しく愛情深い一面もあったことが十分に見て取れると評している{{Sfn|集刑304号|2012|p=377}}。 |
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また確保現場となった荒尾市上井手の近隣住民は「熊本県[[重要文化財]]の[[眼鏡橋]]付近の駐車場近くでパトカーなど数台の車両が止まり、タクシーを4,5人で取り囲んでいたのを目撃した。後でテレビのニュースを見て、そこでK3の身柄が確保されたことを知った。逃走のニュースが流れた直後『ここに逃げてくるかも』と家族と冗談を言い合っていたが、まさか本当になるとは」と驚いていた<ref name="読売新聞2004-11-14 西部朝刊社会面"/>。 |
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=== 妻K2 === |
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地検支部付近の私立保育園(園児120人)の園長は「警察官がそばにいたのに、なぜ逃走できたのか」と疑問の声を口にした<ref name="読売新聞2004-11-14 西部朝刊社会面"/>。 |
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{{Infobox 犯罪者 |
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|名前=K・M |
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|画像= |
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|画像サイズ= |
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|画像説明= |
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|出生名= |
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|生年月日={{生年月日と年齢|1959|4|26}}{{Sfn|集刑304号|2012|p=227}} |
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|出生地={{JPN}}: 福岡県大牟田市 |
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|失踪= |
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|没年月日= |
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|死没地= |
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|死因= |
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|遺体発見= |
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|墓地= |
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|記念碑= |
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|住居={{JPN}}: 福岡県大牟田市桜町 |
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|国籍= |
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|別名= |
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|民族= |
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|市民権= |
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|教育= |
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|出身校= |
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|職業= |
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|雇用者= |
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|所属= |
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|動機= |
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|罪名=強盗殺人、死体遺棄、殺人、銃砲刀剣類所持等取締法違反 |
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|有罪判決= |
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|刑罰=死刑 |
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|犯罪者現況=死刑確定者 |
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|国={{JPN}} |
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|都道府県={{JPN}}: 福岡県 |
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|現場= |
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|標的= |
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|死者=3人 |
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|負傷者= |
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|凶器= |
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|逮捕日=2004年9月22日<ref name="西日本新聞2004-09-22"/> |
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|収監場所=[[福岡拘置所]]{{Sfn|年報・死刑廃止|2022|p=237}} |
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|配偶者=[[#男K1|K1(夫)]] |
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|両親= |
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|子=[[#長男K3|K3(長男)]]・[[#次男K4|K4(次男)]]ら5人(3男2女)<ref name="女性セブン2004-10-14"/> |
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|署名= |
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K1の妻かつ、K3・K4兄弟の母親でもある女'''K2'''は1959年(昭和34年)4月26日生まれ{{Sfn|集刑304号|2012|p=227}}(事件当時{{年数|1959|4|26|2004|9|18}}歳)。本名のイニシャルは'''K・M'''<ref name="毎日新聞2004-09-27">『毎日新聞』2004年9月27日西部朝刊社会面29頁「福岡・大牟田の死体遺棄 脅迫電話は友人 県警動かすため--不明段階でBさん宅に」(毎日新聞西部本社)</ref>。2022年9月27日時点で{{Sfn|年報・死刑廃止|2022|p=243}}、死刑確定者として次男K4とともに福岡拘置所に収監されている{{Sfn|年報・死刑廃止|2022|p=237}}(現在{{年数|1959|4|26}}歳)。K2は[[女性死刑囚]]としては戦後日本では14人目{{Sfn|深笛義也|2013|p=158}}、1981年(昭和56年)以降に死刑が確定した者に限れば11人目である<ref>{{Cite web |url=https://www.crimeinfo.jp/data/dplist/female/ |title=女性死刑確定者 <nowiki>|</nowiki> データ・資料 <nowiki>|</nowiki> |access-date=2023-05-21 |publisher=特定非営利活動法人CrimeInfo |website=CrimeInfo |language=ja |archive-url=https://web.archive.org/web/20230521042302/https://www.crimeinfo.jp/data/dplist/female/ |archive-date=2023-05-21 |url-status=live}}</ref>。 |
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K2は控訴中の2007年1月12日、福岡拘置所内で自身の半生を手記に記しており、同年3月下旬に[[小野一光]]がK4を通じてこの手記を入手{{Sfn|小野一光|2007|p=128}}、『[[月刊現代|現代]]』2007年7月号で内容を紹介している{{Sfn|深笛義也|2013|p=158}}。K2は長男K3が[[大島部屋]]に入門した際([[#力士時代|後述]])、それまでは夫K1がヤクザだったため、K3へのしつけが不十分だったと語っていた<ref name="毎日新聞2004-10-18"/>。 |
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=== 福岡県警・警察庁の対応 === |
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17時44分「K3逃走」の第一報を受けた久留米署は緊急配備を敷くとともに全署員を招集し、K3の顔写真を捜査員に携帯させ捜索に当たらせた<ref name="読売新聞2004-11-16 西部朝刊"/>。 |
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==== K2の生い立ち ==== |
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また知らせを受けた福岡県警は殿村明大・刑事部長をはじめ、刑事部員全員が緊急招集された<ref name="読売新聞2004-11-16 西部朝刊"/>。本事件の捜査を担当していた捜査一課は情報収集・捜査員の割り振り・近隣県警との連絡に追われ、時折「検問を強化せよ」という声も飛び交った<ref name="読売新聞2004-11-16 西部朝刊"/>。 |
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K2は大牟田市の家庭で四女として誕生した{{Sfn|小野一光|2007|pp=129-130}}{{Sfn|深笛義也|2013|p=158}}。父親は炭鉱夫から鳶職に、母親も美容師からセールスレディにそれぞれ転職していた{{Sfn|小野一光|2007|p=130}}。K2の実家は、[[三井三池炭鉱]]や関連施設に労働者を送り込む仕事(地元では通称「人夫出し」と呼ばれる)を生業としていた建設会社であり{{Sfn|週刊新潮|2004|p=158}}、かねてから暴力団との関係も深かったという証言がなされている{{Sfn|週刊現代|2004|p=50}}。「人夫出し」がなくなった事件当時も、K2が経営していた建設会社「I(K2の旧姓)建設」は関西方面などの工事現場に作業員を送り込んでいたが、捜査関係者は「日給1万5000円のうち、3000円はピンハネしているんじゃないか」と証言している{{Sfn|週刊新潮|2004|p=159}}。[[バブル経済|バブル期]]には建設作業員斡旋の仕事が好調で、K1宅には黒塗りの高級車が頻繁に駐車してあり{{Sfn|神足裕司|2004|p=33}}、従業員を数十人抱え{{Sfn|甲斐さやか|2004|p=150}}、一時期は大牟田市の公共事業にも参入していた<ref name="西日本新聞2004-09-23社会">『西日本新聞』2004年9月23日朝刊第19版第一社会面(事件・人・話題)33頁「大牟田・殺害供述 家族ぐるみ謎の交流 容疑者は借金苦? 容疑者宅 被害者宅 若い男女出入り」「「むごい仕打ち」友人号泣」(西日本新聞社)</ref>。一方でそのころには人の出入りも多く、異様な雰囲気だったという{{Sfn|週刊女性|2004|p=193}}。 |
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K2の母親は、K2が小学2年生になった年に42歳の若さで病死したが、生前は毎晩のように自宅の隣で開かれていた花札博打に出向いており、家族で食事をすることはほとんどなかった{{Sfn|小野一光|2007|p=130}}。母親の死後、K2は小学校の担任教諭(若い女性)から冷たく当たられるようになり、体罰も受けるようになった{{Sfn|小野一光|2007|p=130}}。その後、母方の祖母が父親と同居してK2ら家族の面倒を見るようになるが、K2は小学4年生のころ、父と祖母の情事を目の当たりにしたことがきっかけで、家族に対する不信感を抱いた{{Sfn|小野一光|2007|p=130}}。それ以降、彼女は中学にかけて学校や家で反抗を繰り返し、不良仲間と交際して喫煙や万引きといった非行に手を染める{{Sfn|小野一光|2007|p=130}}。 |
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事件の舞台でありK3の逃走を許した巡査部長1人・巡査長2人が所属していた大牟田署は、身柄確保から3時間後の2004年11月14日午前0時前、中村隆一署長が記者会見した<ref name="読売新聞2004-11-16 西部朝刊"/>。中村は、安堵の表情を見せつつも「凶悪事件の被疑者が逃げたことは大変申し訳ない。再発防止に努めたい」と陳謝した<ref name="読売新聞2004-11-16 西部朝刊"/>。 |
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==== 福山での生活 ==== |
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事件を受け、福岡県警は翌2004年11月14日、全警察署長に対し被疑者・被告人の逃走防止を徹底するよう文書で通達した<ref name="読売新聞2004-11-16 西部朝刊"/>。 |
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中学卒業後、地元の縫製工場に就職したK2は年上の女性と仲良くなるが、それから数か月後に彼女の無断欠勤が続いたことを心配し、友人とともに彼女の家を訪れたところ、彼女がヤクザの夫に暴力を振るわれて負傷しているのを目撃する{{Sfn|小野一光|2007|pp=128-129}}。その後、彼女は夫の下から逃げ出したが、K2と友人は夫に2日間にわたって監禁される{{Sfn|小野一光|2007|p=129}}。命からがら彼のもとから逃げ出したK2は、身の安全を図るために大牟田を離れ、[[広島県]][[福山市]]にある布団縫製工場に住み込みで働いていた同級生の少女を頼り、彼女の口添えを得て同じ工場で働き始める{{Sfn|小野一光|2007|p=129}}。 |
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しかし、そこでの仕事を始めて約1か月半で腎炎を患って入院していたところ、眉や体に刺青を入れた男性X(当時28歳)と知り合う{{Sfn|小野一光|2007|p=129}}。当時15歳だったK2は当初こそXを相手にしなかったが、次第にその気さくな人柄に惹かれ、退院後にドライブをしたことをきっかけに2人で過ごす時間が増えていった{{Sfn|小野一光|2007|p=129}}。しかし、先述の少女からXとの交際を反対されたことで彼女との間に距離が生じ、工場を退職してXの友人の妻が経営するスナックで、年齢を詐称して働くようになった{{Sfn|小野一光|2007|p=129}}。その後、Xが「[[神戸市|神戸]]で男を磨きたい」と言い出すと、K2は周囲の反対を聞かず、店のママから20万円を借りて渡した{{Sfn|小野一光|2007|p=129}}。しかし、次第にXからの連絡が来なくなったことから、16歳になった直後には我慢できずに神戸に向かうが、そこで豹変していたXから暴力を振るわれ、別れを切り出したところ[[強姦]]される{{Sfn|小野一光|2007|p=129}}。 |
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またK3の逃走時に付き添っていた大牟田署員3人に対し処分を検討した<ref name="読売新聞2004-11-16 西部朝刊"/>。 |
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==== 姫路での生活 ==== |
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福岡県警留置管理課は2004年11月17日、福岡市にある福岡県警察本部にて各所の留置担当者(警察署の留置管理課長ら)を集め緊急会議を開き、留置手順の徹底を指導した<ref name="読売新聞2004-11-17 西部夕刊">『読売新聞』2004年11月17日西部夕刊第一社会面7面「留置手順徹底を指導 大牟田の連続殺人・K3被告の逃走で/福岡県警」</ref>。 |
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Xから逃げるように福山に戻ったK2はスナックを辞め、中古車販売店に住み込みで働いたが、半年もせずに自身を追ってきたXに居場所を突き止められて脅迫されたことから警察沙汰になり、親戚に連れられて大牟田に帰郷した{{Sfn|小野一光|2007|p=129}}。 |
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それから半月後、Xの子供を妊娠していることが判明し、[[人工妊娠中絶|中絶]]手術を受けたが、それから約1週間後には祖母と喧嘩して再び家出し、姉2人が住んでいた[[兵庫県]][[姫路市]]に行き、長姉夫婦のアパートに居候しながら病院で見習い看護師として働いた{{Sfn|小野一光|2007|pp=129-130}}。その年の冬、当時16歳だったK2は入院患者の友人である会社員の男性Y(当時26歳)と交際を始めた{{Sfn|小野一光|2007|p=130}}。彼はXとは違う優しい性格の男性で、それ以来K2は彼とデートを重ねるようになった{{Sfn|小野一光|2007|p=130}}。また、彼の母親や妹も自身を実の家族のように迎え入れてくれたこともあって、K2は当時を「普通の生活、普通の家族てこんなに温かいんだと私は思っていた。今もこの思いは初体験として記憶している」と述べている{{Sfn|小野一光|2007|p=130}}。やがて、K2はYの実家が所有するアパートでYと同棲し、17歳の誕生日を翌月に控えた3月初旬にはYの子供を妊娠した{{Sfn|小野一光|2007|p=130}}。これを受けて周囲はK2を祝福し、父親になるYも断酒した{{Sfn|小野一光|2007|p=130}}。 |
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[[警察庁]]は事件後、都道府県警察警察本部に対し「同行室の運用実態の把握」「同行室での管理要領の制定」「被疑者に応じた護送態勢と人員の選定」などを指示した<ref name="読売新聞2004-11-27 西部朝刊"/>。 |
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しかし同年4月11日、Yは会社の花見会{{Efn2|当時はK2の悪阻が酷かったため、Yは当初は誘いを断ろうとしていたが、K2から「たまにはゆっくり行っておいでよ」と送り出されて参加した{{Sfn|小野一光|2007|p=133}}。}}で久々に飲酒し、その帰りに自ら運転して友人を車で送る際に事故を起こし、数日後に死亡{{Sfn|小野一光|2007|p=133}}。自身もYの事故の翌日に流産し、入院した{{Sfn|小野一光|2007|p=133}}。同年6月に姫路を離れ、同年末には福岡市の[[中洲]]でホステスとして働き始める{{Sfn|小野一光|2007|p=133}}。1977年(昭和52年)、K2は中洲で知り合った男性との間に娘をもうけ、翌1978年(昭和53年)に最初の結婚をしたが、同年中に離婚する{{Sfn|小野一光|2007|p=133}}。K2の知人は最初の結婚相手について、背中や足に入れ墨を入れ、両手小指を詰めていたヤクザだったが、事件当時は足を洗って大阪方面で暮らしているようだと述べていた{{Sfn|週刊新潮|2004|p=158}}。 |
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2004年12月13日、福岡県議会一般質問で、県議会議員・清田信治(県政クラブ)が、この逃走事件について「今回の失態とも言われている容疑者脱走という事件に対して、警察本部長はどのように受けとめてあるのか」、「周辺に警戒を呼びかける広報をしなかった警察に対して住民からは強い批判の声が上がっている。今回の事件で久留米市民へなぜ外に出ないような待機勧告、逮捕後の広報並びに待機解除などの情報提供をしなかったのか、その根拠となる理由は」、「逃走防止の基本や事件発生時には住民への避難、待機などの勧告、解除などの広報マニュアルがあるのかないのか」と、廣畑史朗・福岡県警本部長に質問した<ref name="清田議員質問">{{Cite web|title=2004.12.13 : 平成16年12月定例会(第13日) 本文 29 : ◯二十六番(清田 信治君)|url=http://asp.db-search.com/fukuoka/dsweb.cgi/document!1!guest04!!17390!1!1!5,-1,5!5448!243819!5,-1,5!5448!243819!6,0,6!42!1726!12785!29!21?Template=DocPage|date=2004-12-13|publisher=福岡県議会議事録|accessdate=2018-04-13}}</ref><ref name="読売新聞2004-12-14 西部朝刊">『読売新聞』2004年12月14日西部朝刊第二福岡面35面「K3被告逃走事件 県警本部長が県議会で陳謝 『信頼大きく損なった』=福岡」</ref>。 |
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==== 3度の結婚 ==== |
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これに対し廣畑は「地域住民を初め県民の皆様に多大の不安を与え、警察に対する信頼を大きく損なったものであり、まことに遺憾であります。今後このような事案を二度と引き起こすことがないよう再発防止に努めていく所存であります」と陳謝した<ref name="廣畑本部長回答">{{Cite web|title=2004.12.13 : 平成16年12月定例会(第13日) 本文 33 : ◯警察本部長(廣畑 史朗君)|url=http://asp.db-search.com/fukuoka/dsweb.cgi/document!1!guest04!!17390!1!1!5,-1,5!5448!243819!5,-1,5!5448!243819!6,0,6!42!1726!12785!33!21?Template=DocPage|date=2004-12-13|publisher=福岡県議会議事録|accessdate=2018-04-13}}</ref><ref name="読売新聞2004-12-14 西部朝刊"/>。その上で久留米市民に直接の広報をしなかった理由について「逃走直後の早い段階から被疑者は久留米から大牟田方向へタクシーで逃走中であるとの確度の高い情報を入手し、逃走現場付近での潜伏等の可能性が極めて低いと判断したことなどから」と回答した<ref name="廣畑本部長回答"/><ref name="読売新聞2004-12-14 西部朝刊"/>。また「事件が発生した場合の現場広報や防犯情報の提供につきましては一般的なマニュアルはありますが、本事案のような場合は個々の事案の犯行対応や模倣性連続性などを勘案して、情報提供の要否を判断しているところであります」「今後とも犯罪の発生実態を的確に判断し、住民の皆様が防犯行動をとれるようわかりやすい広報に努めてまいりたいと考えております」と、それぞれ回答した<ref name="廣畑本部長回答"/>。 |
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先述の男性(前々夫)と離婚後、K2は大牟田市内でホステスとして働きつつ、母子家庭として生活していたが、1980年(昭和55年)ごろ(当時、K2は20 - 21歳ごろ)に夫K1と知り合い、彼と内縁関係になった{{Sfn|小野一光|2007|p=133}}。やがて長男K3を妊娠するが、K1はK3の誕生前に[[覚醒剤取締法|覚せい剤取締法]]違反の罪で[[鹿児島刑務所]]に服役することとなったため、K2は鹿児島で住み込める仕事を探し、寮付きのキャバレーで働いたが、出産前は刑務所へ面会に行くことはできなかった{{Sfn|小野一光|2007|p=133}}。一方でこの間、K2はK1とは別の男性Zと知り合い{{Sfn|小野一光|2007|p=133}}、彼と同居していたものの、Zが全く働かなかったため、K2は妊娠中の子供(後のK3)を出産しようか苦悩した{{Sfn|集刑304号|2012|p=450}}。しかし、「結局は母親の気持ちが生活苦を勝り、お腹の中で誕生を待っている子供を死なせてはならないと決断し」たことから、K3を出産し、その後は幼いK3を連れてK1の元へ一度面会へ行ったこともあったが{{Sfn|集刑304号|2012|p=450}}、当時のK1は全く子供に関心を示さなかったため、それに絶望したK2はK1に別れを告げ、寮に帰った{{Sfn|小野一光|2007|p=133}}。 |
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この後、K2はZと普通の生活を始め、[[鹿児島県]][[姶良郡]]で喫茶スナックを営むようになる{{Sfn|小野一光|2007|pp=133-134}}。K2は22歳でZと再婚して次女(第3子)を出産するが、Zは朝から晩までパチンコ屋に入り浸り、妻であるK2や子供たちに暴力を振るうようになったため、K2は怪我の絶えない日々を送っていた{{Sfn|小野一光|2007|p=134}}。その一方で、馴染みの刑事から電話でK1の出所を知らされたことから、1982年(昭和57年)10月には姶良郡の家を飛び出してK1と同棲し始め、1983年(昭和58年)1月にZと離婚、同年8月に24歳でK1と再々婚した{{Sfn|小野一光|2007|p=134}}。この3度目の結婚によってK2は「K」姓に改姓し{{Sfn|深笛義也|2013|p=162}}、1984年(昭和59年)6月、次男のK4を出産している{{Sfn|小野一光|2007|p=134}}。なお、K2の前夫であるZは事件3年前(2001年ごろ)に鹿児島県内で孤独死した{{Sfn|週刊新潮|2004|p=159}}。 |
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2005年1月27日、福岡県警はK3の逃走事件を受け、関係者を以下のように処分した<ref name="読売新聞2005-01-28">『読売新聞』2005年1月28日西部朝刊第一社会面37面「K3被告逃走 『被告が嫌がる』理由に機動隊員の動向断る」</ref>。その一方で護送を担当した3人が「K3が嫌がる」などの理由で本来必要だった機動隊員の同行を断っていたことも新たに判明した<ref name="読売新聞2005-01-28"/>。 |
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* 護送を担当した大牟田署員3人 - いずれも減給(10分の1、期間:1か月から3か月)<ref name="読売新聞2005-01-28"/> |
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* 被告人K3を留置していた久留米署留置管理課長 - 戒告<ref name="読売新聞2005-01-28"/> |
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* 大牟田署・久留米署の両署長、副署長ら計8人(監督責任) - 本部長訓戒などの内部処分<ref name="読売新聞2005-01-28"/> |
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しかしK1は暴力団員だったため、K2は「極道の妻」としての生活を送るようになった{{Sfn|小野一光|2007|p=134}}。K2は結婚後、[[抗争事件]]で自宅に散弾銃を撃ち込まれて妊娠8か月の子供を死産したことがあるほか、抗争中に子供を連れて祭りに行ったことでK1の怒りを買い、激しく殴打されたこともあった{{Sfn|小野一光|2007|p=134}}。このためK2はK1に対し次第に恐怖心を強めていき、「逃げ出したら何をされるかわからない」という不安から逃れるため、覚醒剤を使っていた時期もあったが、1986年(昭和61年)にK1が北村組の組長になってからは、自身も組長の妻として振る舞うようになった{{Sfn|小野一光|2007|p=134}}。1992年(平成4年)には[[脅迫罪]]で罰金刑に処された前科があるほか、1996年(平成8年)には[[逮捕・監禁罪|逮捕監禁]]・[[恐喝罪|恐喝]]未遂で不起訴になった前歴がある{{Sfn|集刑304号|2012|p=268}}。前者の恐喝事件(自身の知人から借金していた女性を恐喝した)を起こした当時、K2(当時の姓は旧姓の「I」)は「道仁会二代目村上一家幹部の内妻」と報じられている<ref name="有明新報1992-07-24">『有明新報』平成4年(1992年)7月24日付10頁「暴力団関係者と内妻 恐喝、傷害容疑で逮捕 大牟田署」(有明新報社)</ref>。K2の弁護人(鈴木敏彦)は上告趣意書で、K2はK1を指定暴力団の組長として恐れていただけでなく、過去にK1から拳銃を発砲されて傷害を負った経験があったことから「K1に逆らえば殺される」と強い畏怖の念を抱いており、精神的にK1には逆らえなかった上、犯行時もそのK1だけでなく、体が大きく気性の激しい息子2人を加えた大の男3人に逆らってA1・A2・Bの殺害を阻止することができなかったと述べている{{Sfn|集刑304号|2012|p=256}}。 |
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== あみだくじ弁護人選出問題 == |
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[[弁護人]]については当初4被告人ともに、それぞれ国選弁護人・私選弁護人が選任されたが、次男K4の弁護人が産休のために辞退した<ref name="読売新聞2004-12-11 西部夕刊"/>。 |
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K2は身長170 cm、体重100 kgと体が大きかった上、背中に観音像の刺青を入れていたために「女親分」と恐れられていた{{Sfn|週刊新潮|2004|p=158}}。また気が短い上に自殺癖もあり、観音像を体に縛り付けて海に飛び込んだこともあるなど{{Sfn|週刊新潮|2004|p=158}}、事件前の4年間で7回にわたって救急車で搬送されたことから、地元の消防関係者の間では有名になっていた<ref name="西日本新聞2004-09-28夕刊"/>。また近隣住民は、K2が家の中で怒鳴っている声がよく外に響いていたと述べている{{Sfn|小野一光3|2004|p=87}}。 |
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これに加え妻K2の私選弁護人も「やりたくない」と辞退したほか夫K1の弁護人も担当できなくなった<ref name="読売新聞2004-12-11 西部夕刊"/>。その結果、長男K3以外3被告人についてはいずれも弁護人が担当できない状態となった<ref name="読売新聞2004-12-11 西部夕刊"/><ref name="読売新聞2004-12-11 東京夕刊"/>。部会所属の弁護士曰く、引き受け手が見つからなかった理由は「[[福岡拘置所]]が建て替え予定で遠隔地になることや、調書が膨大で手間がかかるため引き受け手が見つからなかったことだ」という<ref name="東京新聞2004-12-11"/>。 |
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K2は事件前に大牟田市内でスナックを開店したが、事件当時は既に閉店していた{{Efn2|市中心街で経営していた「ジュエリー」{{Sfn|週刊ポスト|2004|p=204}}。K2が事件の約2年前(2002年ごろ)に開店したが、経営は不調で数か月後に閉店したという報道<ref name="読売新聞2004-10-03"/>、K2の親族が経営していたスナックが事件前月(2004年8月)に光熱費すら払えなくなり閉店したという報道がある<ref name="毎日新聞2004-09-29"/>。娘とともに店を切り盛りし、店は繁盛していたとする報道もある{{Sfn|週刊実話|2004|p=219}}。}}<ref name="読売新聞2004-10-03"/><ref name="毎日新聞2004-09-29"/>。このスナックでは一時期、後に被害者となるBの母親(K2・A1と知人関係)も働いていたことがある<ref name="西日本新聞2006-06-14"/>。同店の元従業員は、同店は開店当初、K4の友人である15 - 16歳の少女に年齢を詐称させて働いていたが、次第に給料未払いが続いて辞める従業員が続出したことや、知り合いの暴力団関係者が顔を出すことから一般客が寄らなくなったことで、最終的に廃業したという旨を述べている{{Sfn|小野一光3|2004|p=87}}。 |
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そのため3被告人について地元の[[福岡県弁護士会]]筑後部会(部会長:高橋謙一)が部会の国選弁護人名簿に基づき依頼して回ったが、いずれにも断られてしまった<ref name="読売新聞2004-12-11 西部夕刊"/><ref name="読売新聞2004-12-11 東京夕刊"/><ref name="朝日新聞2004-12-11"/>。そのため高橋は苦肉の策として<ref name="読売新聞2004-12-11 西部夕刊" /><ref name="読売新聞2004-12-11 東京夕刊" />「公平を期する方法」と<ref name="東京新聞2004-12-11" />、新たに弁護人3人(被告人1人につき1人)を[[あみだくじ]]で新たに選出した<ref name="読売新聞2004-12-11 西部夕刊">『読売新聞』2004年12月11日西部夕刊第一社会面11面「福岡・大牟田事件 弁護人、あみだで決定 弁護士会筑後、引き受け手見つからず」</ref><ref name="読売新聞2004-12-11 東京夕刊">『読売新聞』2004年12月11日東京夕刊第一社会面11面「福岡・大牟田の連続殺人 『あみだ』で国選弁護人 3被告、引き受け手なく」</ref><ref name="朝日新聞2004-12-11">『朝日新聞』2004年12月11日朝刊第一社会面39面「あみだで国選弁護人 3被告分、引き受け手なく 福岡・大牟田事件」</ref><ref name="東京新聞2004-12-11">『東京新聞』2004年12月11日夕刊第二社会面10面「あみだで国選弁護人 福岡4人殺害 3被告、引き受け手なく」</ref>。 |
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=== 長男K3 === |
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高橋は『朝日新聞』の取材に対し「これが初めてではなく10年ほど前にも1度(あみだくじでの選出を)やったことがある」と話した<ref name="朝日新聞2004-12-11"/>。あみだくじによる選出は2004年12月2日、部会事務局で実施し「当たった」3人がそのまま国選弁護人に選任された<ref name="朝日新聞2004-12-11"/>。 |
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{{Infobox 犯罪者 |
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|名前=K・T |
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|画像= |
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|画像サイズ= |
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|画像説明= |
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|出生名= |
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|生年月日={{生年月日と年齢|1980|12|20}}{{Sfn|集刑304号|2012|p=347}} |
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|出生地={{JPN}}: 福岡県大牟田市 |
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|失踪= |
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|没年月日= |
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|死没地= |
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|死因= |
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|遺体発見= |
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|墓地= |
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|記念碑= |
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|住居={{JPN}}: 福岡県大牟田市白銀<ref name="西日本新聞2004-10-03"/> |
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|国籍= |
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|別名= |
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|民族= |
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|市民権= |
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|教育= |
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|出身校= |
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|職業= |
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|雇用者= |
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|所属= |
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|動機= |
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|罪名=強盗殺人、死体遺棄、殺人、銃砲刀剣類所持等取締法違反、逃走 |
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|有罪判決= |
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|刑罰=死刑 |
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|犯罪者現況=死刑確定者 |
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|国={{JPN}} |
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|都道府県={{JPN}}: 福岡県 |
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|現場= |
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|標的= |
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|死者=4人 |
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|負傷者= |
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|凶器= |
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|逮捕日=2004年10月2日<ref name="有明新報2004-10-08"/> |
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|収監場所=[[大阪拘置所]]{{Sfn|年報・死刑廃止|2022|p=237}} |
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|配偶者= |
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|両親=[[#男K1|K1(父親)]]・[[#妻K2|K2(母親)]] |
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|子= |
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|署名= |
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K1・K2夫婦の長男(K4の兄)である男'''K3'''は1980年(昭和55年)12月20日生まれ{{Sfn|集刑304号|2012|p=347}}(事件当時{{年数|1980|12|20|2004|9|18}}歳)。K4の実兄で{{Sfn|福岡高裁|2007|p=4}}、本名のイニシャルは弟K4と同じく'''K・T'''<ref name="朝日新聞2004-10-03"/><ref>『朝日新聞』2004年10月4日西部朝刊第二社会面34頁「出入りアパートを現場検証 大牟田・3容疑者」(朝日新聞西部本社)</ref><ref>『朝日新聞』2004年10月5日西部朝刊第一社会面31頁「K一家の暗闇 K1組員の聴取カギ 福岡・大牟田遺棄」(朝日新聞西部本社)</ref>。逮捕当初の報道ではK2と元夫との間に生まれた長男で、父K1とは[[養子縁組]]をした義理の親子関係であるとされていたが<ref name="読売新聞2004-10-03">『読売新聞』2004年10月3日西部朝刊社会面35頁「福岡・大牟田4人殺害事件 K2容疑者が回収金着服 A1さん抗議、口論」(読売新聞西部本社)</ref><ref name="朝日新聞2004-10-03"/>、K2の手記や彼女の弁護人による上告趣意書によれば、血縁上はK1との間に生まれた実子である{{Sfn|小野一光|2007|p=133}}{{Sfn|集刑304号|2012|p=450}}。 |
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2022年9月27日時点で{{Sfn|年報・死刑廃止|2022|p=243}}、死刑確定者として大阪拘置所に収監されている{{Sfn|年報・死刑廃止|2022|p=237}}(現在{{年数|1980|12|20}}歳)。なお、K3は第一審判決後の2007年5月1日付で、K1・K2・K4の3人から絶縁状を出されている{{Sfn|小野一光3|2007|pp=54-55}}。 |
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2004年12月11日あみだくじによる弁護人選出が判明し『[[読売新聞]]』・『[[朝日新聞]]』・『[[東京新聞]]』などで報道された<ref name="読売新聞2004-12-11 西部夕刊"/><ref name="読売新聞2004-12-11 東京夕刊"/><ref name="朝日新聞2004-12-11"/><ref name="朝日新聞2004-12-11"/>。部会関係者は「被告人に最適な弁護人を決めるという意味ではまずいやり方だったかもしれない」と高橋は「部会としてのコメントはできない」とそれぞれ語った<ref name="読売新聞2004-12-11 西部夕刊"/><ref name="読売新聞2004-12-11 東京夕刊"/>。 |
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逮捕当時は大牟田市白銀に在住していた([[#出所後|後述]])<ref name="西日本新聞2004-10-03"/>。K2の控訴趣意書によれば、K3は「小さい頃から長男ということで甘やかされて育ち、体も大きかったためにケンカも絶えず、何事も思い通りにしないと気が済まない性格」である{{Sfn|中尾幸司3|2008|pp=152-153}}。また知人らは、K3は中学時代は体が大きく、喧嘩が強いことを吹聴して回っていたと証言している<ref name="朝日新聞2004-10-03社会"/>。その一方でK3本人は法廷で、[[児童虐待|幼いころから両親の暴力に苦しんでいた]]ことや、K4とはえこひいきされて育ったことなどを涙ながらに訴えていた{{Sfn|中尾幸司3|2008|p=152}}。 |
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[[日本弁護士連合会]](日弁連)刑事弁護センター委員長・佐藤太勝は「聞いたこともない選び方で適切な方法とは思えない。重大事件用の名簿がないなら刑事弁護の経験が豊富な人を協議で選ぶのが妥当ではないか」と話した<ref name="朝日新聞2004-12-11"/>。 |
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一方、K2は公判でK3について、夫K1がよく逮捕されて新聞記事になっていたことから、長女(K3の姉)が小学校でいじめられていた時期にK3が姉を助けようと上級生に向かっていったことがあるなど、兄弟思いの優しい一面もある人間だったが、体が大きくて気性も荒く、父親がヤクザであることから増長し、ヤクザに成長してしまったという旨を述べている{{Sfn|集刑304号|2012|p=448}}。 |
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部会は当時、従来の国選弁護人名簿とは別に重大事件用も名簿を作成中だったが、その名簿に登録予定だった中堅以上の弁護士を中心とした十数人があみだくじの対象になっていた<ref name="読売新聞2004-12-11 西部夕刊"/><ref name="朝日新聞2004-12-11"/>。高橋は「準備中の名簿の並ぶ順もくじで決めるつもりで、それを前倒ししただけだ」と説明した<ref name="朝日新聞2004-12-11"/>。 |
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==== 力士時代 ==== |
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{{Infobox 力士 |
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=== 第一審・福岡地裁久留米支部 === |
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|名前 = 旭竜神 |
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福岡地方裁判所久留米支部は[[2005年]](平成17年)1月23日までに被告人K1・K2・K3・K4の計4人の初公判日時を2005年3月15日14時に指定した<ref>『読売新聞』2005年1月24日西部夕刊第一社会面9面「福岡・大牟田連続殺人 3月15日初公判」</ref>。 |
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|画像 = |
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|説明 = |
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|四股名 = 旭竜神 |
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|本名 = <!-- 姓名間に空白を入れる --> |
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|愛称 = |
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|生年月日 = {{生年月日と年齢|1980|12|20}} |
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|没年月日 = <!-- {{死亡年月日と没年齢|0000|00|00|0000|00|00}}テンプレートを使用 --> |
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|出身 = 福岡県大牟田市 |
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|身長 = 180 cm<ref name="月刊相撲1996-04"/> |
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|体重 = 115 kg<ref name="月刊相撲1996-04"/> |
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|BMI = |
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|所属部屋 = 大島部屋 |
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|得意技 = |
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|現在の番付 = |
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|最高位 = 東[[序ノ口]]26枚目<ref name="月刊相撲1996-11"/> |
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|生涯戦歴 = 2勝5敗7休(3場所)<ref name="月刊相撲1996-11"/> |
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|幕内戦歴 = |
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|優勝 = |
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|賞 = |
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|初土俵 = [[1996年の相撲#三月場所(春場所、大阪場所)|1996年春場所]]<ref name="朝日新聞2004-10-03社会"/> |
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|新十両 = |
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|入幕 = |
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|引退 = [[1996年の相撲#九月場所(秋場所)|1996年9月場所]]<ref name="月刊相撲1996-11"/> |
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|引退後 = |
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|他の活動 = |
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|趣味 = |
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|備考 = |
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|作成日時 = |
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K3は1990年(平成2年)の[[1990年の相撲#本場所|九州場所]]を観に行った際、体格の良さを各親方に注目されていくつかの相撲部屋から打診を受け、それを機に[[大島部屋]]とつながりを持つようになった<ref name="有明新報1996-01-12">『有明新報』平成8年(1996年)1月12日付6頁「大相撲力士の夢かなう 米生中I(K3の旧姓)君 大島部屋入りで東京へ」(有明新報社)</ref>。小学校の卒業文集では、好きな言葉は「白星」、好きな有名人は「[[旭道山和泰|旭道山]]」、将来の夢は「すもうとり」と書いていた<ref name="毎日新聞2004-11-14"/>。[[大牟田市立宮原中学校|大牟田市立米生中学校]]を卒業する直前の1996年(平成8年)1月<ref name="有明新報1996-01-12"/>、K3は旭道山が部屋頭を務めていた大島部屋に入門し{{Sfn|週刊現代2|2004|p=18}}、同年3月2日に行われた[[1996年の相撲#三月場所(春場所、大阪場所)|春場所]]前の[[新弟子検査]]に合格した<ref name="月刊相撲1996-04">{{Cite journal|和書|journal=相撲|title=角界トピックス 新弟子検査合格者 > 〈大島部屋〉|volume=45|page=|date=1996-04-15|issue=4|pages=146-147|publisher=ベースボール・マガジン社|doi=10.11501/7911277|id={{NDLJP|7911277/1/76}}}} - 通巻:第603号(1996年4月春場所総決算号)。</ref>。入門当時の[[四股名]]は、当時の姓(母K3の旧姓)である「I」で<ref name="有明新報1996-01-12"/><ref name="有明新報1996-03-19"/>、当時は身長180 cm、体重115 kgだった{{Efn2|当時の新弟子検査の合格ラインは身長173 cm、体重75 kgだった<ref name="有明新報1996-01-12"/>。また2004年11月時点では身長183 cm、体重115 kgと報じられている<ref name="産経新聞2004-11-14">『産経新聞』2004年11月14日東京朝刊第一社会面「大牟田の4人殺害事件 K3容疑者、一時逃走 3時間半後、身柄を確保」([[産経新聞東京本社]])</ref>。}}<ref name="月刊相撲1996-04"/><ref name="朝日新聞2004-10-03社会"/>。中学卒業前、K3は友人らに「スカウトされたから相撲取りになる」と自慢気に語っており<ref name="朝日新聞2004-10-03社会"/>、K2が約60人を招いて壮行パーティーを開いた際には「[[関取]]を目指す」と挨拶していた<ref name="毎日新聞2004-10-18">『毎日新聞』2004年10月18日東京朝刊社会面31面「[現場発]福岡・大牟田の死体遺棄 子供に厳しくしていれば… 母は、息子たちをかばうばかりだった。過ちと向き合わない家族。今も罪をかばい合う。」([[毎日新聞東京本社]] 記者:川辺康広) - 『毎日新聞』縮刷版 2004年(平成16年)10月号675頁。</ref>。 |
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初土俵となった春場所は[[前相撲]]で出場して2番取り、2勝して1番出世を果たす<ref name="有明新報1996-03-19">『有明新報』平成8年(1996年)3月19日付1頁「1810人が中学校を卒業 横綱めざすI(K3の旧姓)君 しこ名も旭竜神 旧友に励まされ旅立つ」(有明新報社)</ref>。同年の[[1996年の相撲#五月場所(夏場所)|5月場所]]を前に四股名を「'''旭竜神'''」(きょくりゅうじん)に改めた<ref name="改名">{{Harvnb|月刊相撲6|1996|p=112}} - 「角界トピックス 力士往来<改名>◇序ノ口」、{{NDLJP|7911279/1/62}}</ref>。この四股名は両親が親方(元大関・[[旭國斗雄#年寄時代|旭國]])の「旭」の1文字をもらった上で、「竜神のようにトップに駆け昇ってほしい」との願いから命名したものである<ref name="有明新報1996-03-19"/>。同場所では東[[序ノ口]]26枚目で2勝5敗7休の戦績を残したが<ref>{{Harvnb|月刊相撲6|1996|p=112}} - 「平成8年5月場所 東西幕下以下力士星取表」、{{NDLJP|7911279/1/57}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|journal=相撲|title=平成八年夏場所 全力士星歴星取表|volume=45|page=174|date=1996-07-15|issue=7|publisher=ベースボール・マガジン社|doi=10.11501/7911280|id={{NDLJP|7911280/1/87}}}} - 通巻:第606号(1996年7月名古屋場所展望号)。</ref>、K3が「旭竜神」として土俵入りした場所は同場所のみで<ref name="毎日新聞2004-10-18"/><ref name="毎日新聞2004-11-14">『毎日新聞』2004年11月14日西部朝刊社会面23頁「福岡・大牟田の死体遺棄 K3容疑者逃走 警察の失態に怒り--住民、恐怖と緊張」(毎日新聞西部本社)</ref>、同場所における戦績および順位が力士としての全戦績かつ最高位となった<ref name="月刊相撲1996-11"/>。 |
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==== 第1回公判 ==== |
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2005年3月15日14時、福岡地裁久留米支部(高原正良裁判長)で被告人一家4人の初公判が開かれた<ref name="読売新聞2005-03-15">『読売新聞』2005年3月15日西部朝刊第二社会面38面「福岡・大牟田連続殺人事件 きょう初公判」</ref><ref name="読売新聞2005-03-16">『読売新聞』2005年3月16日西部朝刊第一社会面39面「福岡・大牟田連続殺人初公判 一家4人、認否割れる」</ref><ref name="読売新聞2005-03-16 冒頭陳述">『読売新聞』2005年3月16日西部朝刊「大牟田連続殺人・死体遺棄 検察側冒頭陳述要旨」</ref>。初公判ではまず被告人4人それぞれに対する人定質問が行われた後、K1・K4・K2・K3の順に各被告人に対し罪状認否が行われたが、4被告人は大きく分けて主たる争点についてそれぞれ以下のように認否した<ref name="読売新聞2005-03-16"/>。 |
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===== 大島部屋を脱走 ===== |
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K3は同年6月初め、部屋を脱走しようとした際に連れ戻されたが、その際に旭道山によって靴を履いた足で顔面を何度も蹴られ、兄弟子たちに囲まれて疲弊するまでぶつかり稽古をさせられたり、スコップで尻や頭を何度も殴られるなどの暴行を受け、「今度は車で轢き殺してやる」と脅されたと、『[[FRIDAY (雑誌)|FRIDAY]]』(発行:[[講談社]])編集部の取材に対し訴えている{{Sfn|FRIDAY|1996|p=73}}。K3と同じように大島部屋を脱走した力士も同誌の取材に対し、K3が兄弟子たちからよくいじめを受けており、先述の暴行事件から3日間[[廻し]]を着けたまま寝込んでいたと証言している{{Sfn|FRIDAY|1996|p=73}}。同事件については、後年に[[時津風部屋]]で発生した[[時津風部屋力士暴行死事件|時太山リンチ死事件]]との類似性が指摘されている<ref>{{Cite journal|和書|journal=FRIDAY|author=|title=朝青龍騒動、時津風リンチ死事件は氷山の一角だッ「大相撲85年間の黒い霧」20 新弟子をスコップでメッタ打ち 『旭道山暴行事件』|volume=24|page=38|date=2007-12-10|issue=52|pages=86-87|publisher=講談社|ref=}} - 通巻:第1119号(2007年12月10日増刊号)。<!--36-38頁「朝青龍騒動、時津風リンチ死事件は氷山の一角だッ「大相撲85年間の黒い霧」20」--></ref>。 |
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|+ 各被告人の主な罪状認否 |
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! 罪状 !! 被告人K1(父親) !! 被告人K2(母親) !! 被告人K3(長男) !! 被告人K4(次男) |
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| 強盗殺人罪(被害者C) ||colspan="2" style="text-align:center"| 起訴されず<ref name="読売新聞2005-03-16"/> ||rowspan="4" style="text-align:center"| 否認<ref name="読売新聞2005-03-16"/> ||rowspan="4" style="text-align:center"| 認める<ref name="読売新聞2005-03-16"/> |
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| 強盗殺人罪(被害者A) ||rowspan="3" style="text-align:center"| 認める(単独犯を主張)<ref name="読売新聞2005-03-16"/> ||rowspan="3" style="text-align:center"| 認める<ref name="読売新聞2005-03-16"/> |
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| 殺人罪(被害者B) |
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| 殺人罪(被害者D) |
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|} |
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一方で大島部屋の女将は、K3は掃除も[[ちゃんこ鍋|ちゃんこ]]の用意も満足にできなかったと証言している<ref name="毎日新聞2004-10-18"/>。彼女は『[[週刊現代]]』(講談社)の記者からの取材に対し、K3は同部屋に入門してから3 - 4か月ごろ、周囲に対し「この家が燃えたら相撲を止められる」と漏らしており、その数日後の稽古後に部屋が無人になったところを見計らい、窓のカーテンにライターで放火したが、偶然部屋に戻ってきた兄弟子に取り押さえられ、部屋頭の旭道山から「『[[かわいがり|可愛がり]]稽古』の延長」を受けた――と証言している{{Sfn|週刊現代2|2004|p=192}}。また『毎日新聞』は同部屋の親方による同内容の証言を取り上げ、K3が動機として「稽古場が燃えれば、稽古をしなくて済むと思った」と言っていたと報じている<ref name="毎日新聞2004-10-18"/>。この出来事が原因で、K3は夜逃げ同然に部屋を飛び出したが<ref name="毎日新聞2004-11-14"/>、女将によれば荷物は置きっぱなしで、K3本人からは挨拶もなく{{Sfn|週刊現代2|2004|p=192}}、残された衣類を洗濯して実家まで送っても礼すらなかったという<ref name="毎日新聞2004-10-18"/>。K3は暴行を受けてから約10日後{{Sfn|週刊現代2|2004|p=18}}、大牟田の実家に逃げ帰ったが、母K2は旭道山への抗議の証拠とすべく、K3の全身(肘・臀部・脚など)の傷を写真撮影し{{Efn2|この写真は『FRIDAY』1996年10月25日号に掲載されている{{Sfn|FRIDAY|1996|p=73}}。}}{{Sfn|週刊現代2|2004|p=18}}、自ら『FRIDAY』編集部に連絡を入れ、同誌上で「息子を半殺しにした旭道山は絶対許さない」と告発していた{{Sfn|小野一光|2007|p=133}}。K2は『週刊現代』の記者{{Efn2|この記者は事件発生時点で『週刊現代』の記者を務めていた{{Sfn|週刊現代2|2004|p=18}}。}}による取材に対し、実家に逃げ帰ってきたK3を「なんで帰ってくるの!」と殴ろうとしたが、その腫れ上がった顔を見たため、殴ることができなかったと述べている{{Sfn|週刊現代2|2004|p=18}}。また『FRIDAY』は当時、K3の左目の視力が0.4から0.03にまで低下したと報じている{{Sfn|FRIDAY|1996|p=73}}。 |
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* 父K1は起訴された3人の殺害行為について起訴状を無視し「(他の3被告人とは)共謀せず自分が単独で実行した」と主張した<ref name="読売新聞2005-03-16"/>。 |
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* 母K2は「間違いありません」と起訴事実を認めた上で「極刑を受けるために来た。被害者・遺族には申し訳ないことをした」と謝罪した<ref name="読売新聞2005-03-16"/>。 |
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* 次男K4は起訴された4人の殺害行為について「起訴事実の通り間違いありません」と全面的に起訴事実を認め謝罪の意を示した<ref name="読売新聞2005-03-16"/>。 |
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* 一方で長男K3は「福岡地検久留米支部から逃走した単純逃走罪は認めるが、それ以外は一切認めません」として殺害・遺体遺棄についていずれも[[無罪]]を主張した<ref name="読売新聞2005-03-16"/>。 |
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以上のように殺害の中心格とされるK3が起訴事実を否認した一方、K1が起訴状を無視し罪を被る発言を繰り返すという異例の展開となった<ref name="読売新聞2005-03-16"/>。被告人K1の[[弁護人]]は共謀に関する認否を留保した上で、次回公判(2005年4月12日予定)以降公判を分離するように要望した<ref name="読売新聞2005-03-16"/>。検察側(福岡地検久留米支部)は冒頭陳述で「K1・K2夫妻は6600万円以上の借金を抱え、暴力団上部団体への上納金・生活費の支払いなどに困窮したことから、Aを殺して金を奪う強盗殺人を計画した。それを知ったK3・K4兄弟が両親に内緒でCを殺害し、その後両親を加えて残る3人の連続殺人に発展した」としてその経緯を詳述した<ref name="読売新聞2005-03-16"/><ref name="読売新聞2005-03-16 冒頭陳述"/>。 |
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K3は同年の[[1996年の相撲#七月場所(名古屋場所)|同年7月場所]]の番付では東序ノ口37枚目に入ったが<ref name="月刊相撲1996-09"/>、同場所は全休し<ref name="毎日新聞2004-10-18"/><ref name="月刊相撲1996-09">{{Cite journal|和書|journal=相撲|title=平成八年夏場所 全力士星歴星取表|volume=45|page=172|date=1996-09-15|issue=9|publisher=ベースボール・マガジン社|doi=10.11501/7911282|id={{NDLJP|7911282/1/86}}}} - 通巻:第608号(1996年9月秋場所展望号)。</ref>、[[1996年の相撲#九月場所(秋場所)|同年の9月場所]]では番付外に陥落<ref name="月刊相撲1996-11"/>。同年9月25日付で力士を廃業した<ref name="月刊相撲1996-11">{{Cite journal|和書|journal=相撲|title=角界ニュース|volume=45|page=74|date=1996-11-15|issue=11|publisher=ベースボール・マガジン社|doi=10.11501/7911284|id={{NDLJP|7911284/1/53}}}} - 通巻:第510号(1996年11月九州場所展望号)。</ref>。同年10月、旭道山が[[第41回衆議院議員総選挙|衆議院総選挙]]に立候補することを表明した直後、K2・K3母子は『週刊現代』の記者から取材を受け、大島部屋に何度も抗議の電話をしたものの、旭道山から謝罪がないことを明かした上で、旭道山を「教育と暴力の区別もつかん男」と激しく非難していた{{Sfn|週刊現代2|2004|p=18}}。一方で旭道山は同月7日(総選挙への出馬表明会見後){{Sfn|FRIDAY|1996|p=73}}、同誌記者から直撃取材を受けると暴行の事実は認めたが、「新弟子教育の一環」と主張していた{{Sfn|週刊現代2|2004|p=18}}。 |
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==== 第2回公判(以降は分離公判) ==== |
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2005年4月12日に第2回公判が開かれ、起訴事実をすべて認めたK2・K4両被告人と単独犯を主張したK1・逃走以外の罪を全面否認したK3の両被告人はそれぞれ「K2・K4」「K1・K3」の2組に分かれて分離公判で審理されることとなった<ref name="読売新聞2005-04-13">『読売新聞』2005年4月13日西部朝刊第一社会面31面「大牟田事件公判 K1被告、K3被告とK2被告ら分離/福岡地裁久留米支部」</ref>。検察側は被害者Aらの殺害に使われたとされる凶器などを証拠提出した上で、極刑を望む被害者遺族の供述調書を朗読した<ref name="読売新聞2005-04-13"/>。また検察側の証人申請に基づき、K1・K3両被告人の次回公判(2005年4月26日)で被告人K2が<ref name="読売新聞2005-04-13"/>、K2・K4両被告人の次回公判(2005年5月17日)で被告人K3がそれぞれ証人出廷し、証人尋問が行われることが決定した<ref name="読売新聞2005-04-13"/>。 |
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==== 傷害致死前科 ==== |
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帰郷後、K3は地元の[[暴走族]]グループ「魔導神」のリーダーとして非行を重ねた<ref name="週刊実話2004-10-21">{{Cite journal|和書|journal=[[週刊実話]]|title=騒然ワイド15連発!こんなのアリ!? 福岡・大牟田市 4人殺害事件 極妻が庇う「輪姦・売春斡旋」の極悪兄弟の素顔|volume=47|page=223|date=2004-10-21|issue=56|publisher=[[日本ジャーナル出版]]}} - 通巻:第2391号(2004年10月21日号)。</ref>。K3は19歳だった2000年(平成12年)6月25日、配下の少年6人と共謀し、中学の後輩である暴走族仲間の少年U(当時18歳)を暴行の末に死なせるという傷害致死事件を起こした前科があった<ref name="毎日新聞2004-10-09">『毎日新聞』2004年10月9日西部夕刊社会面7頁「福岡・大牟田の死体遺棄 K3容疑者、4年前にも傷害致死 出所後半年でまた事件 あの「反省」は何だったのか--遺族、やるせなさ吐露」(毎日新聞西部本社)</ref>。被害者Uは大牟田市倉永在住で、K2が経営する建設会社に住み込みで働いていた元建設作業員だった<ref name="読売新聞2000-10-30">『読売新聞』2000年10月30日西部夕刊社会面7頁「クリーク少年水死 傷害致死容疑で少年6人を逮捕 福岡県警/福岡・城島町」(読売新聞西部本社)</ref>。また、共犯者6人はいずれも大牟田市内在住の少年(当時16 - 17歳)で<ref>『毎日新聞』2000年12月14日西部朝刊社会面25頁「城島町・少年水死事件 1人を逆送致、6人を少年院へ--福岡地裁久留米支部」(毎日新聞西部本社)</ref>、犯人グループ7人のうち2人はUの中学の同級生だった<ref name="読売新聞2000-10-30"/>。Uの母親は『週刊現代』記者からの取材に対し、息子UがK3と知人関係にあった友人から誘いを受けて「I建設」で働くようになったことや、自身も一度K3に会って挨拶したことがあること、そして「I建設」が暴力団絡みの会社とは知らなかったことを証言している{{Sfn|週刊現代|2004|p=50}}。 |
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2005年5月17日、福岡地裁久留米支部(高原正良裁判長)にて、K2・K4両被告人について分離後初となる公判が開かれた<ref name="読売新聞2005-05-18">『読売新聞』2005年5月18日西部朝刊第二社会面34面「福岡・大牟田連続殺人公判 K3被告、証人出廷欠席」(※[[読売新聞社]]データベース「ヨミダス歴史館」では見出しが「K4被告」となっているがこれは誤りで、記事本文中のように「K3」が正しい。)</ref>。同日は公判が分離された被告人K3が検察側の証人として出廷し証人尋問が行われる予定だったが、当時K3は後述のように体調を崩し入院していたため、同日の公判を欠席した<ref name="読売新聞2005-05-18"/>。 |
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UはK3から紹介を受け<ref name="朝日新聞2001-06-27"/>、同月から建設会社で働き始めたが、すぐに無断欠勤して実家に帰った{{Efn2|6月20日に無断でK2の会社を出て行った<ref name="読売新聞2000-10-30"/>。鈴木 (2017) は、Uは同事件前は北村組と同じ暴力団の上部組織に出入りしていたが、K3によって無理矢理引き抜かれたためにトラブルが絶えず、それが事件の引き金になったと述べている{{Sfn|鈴木智彦|2017|p=55}}。}}<ref name="毎日新聞2004-10-09"/>。これに腹を立てたK3は<ref name="毎日新聞2004-10-09"/>、Uを殴って連れ戻そうと計画し<ref name="朝日新聞2001-06-27"/><ref name="朝日新聞2004-10-03社会"/>、配下6人と共謀した上で、6月25日2時35分ごろにUを福岡県[[三潴郡]][[城島町]](現:久留米市城島町)江上本の農業用水路(地元では「[[筑紫平野#堀(クリーク)|クリーク]]」と呼ばれる){{Efn2|Uが転落した用水路は、地元では「クリーク」とも呼ばれている<ref name="読売新聞2000-10-02"/><ref name="読売新聞2001-06-27"/>。クリークとは、[[筑紫平野|筑後平野]]で「掘割」とも呼ばれる農業用用排水路(総延長:約470 km)のことで、水路としての機能だけでなく、[[ため池]]のような貯留機能も兼ねている<ref>{{Cite web |url=https://www.maff.go.jp/j/nousin/sekkei/museum/m_siki/65_kawa/ |title=水郷の風情に浸る「柳川の川下り」 |access-date=2023-02-15 |publisher=[[農林水産省]] |language=ja |archive-url=https://web.archive.org/web/20230215145138/https://www.maff.go.jp/j/nousin/sekkei/museum/m_siki/65_kawa/ |archive-date=2023-02-15}}</ref>。}}近くへ誘い出した<ref name="読売新聞2000-10-30"/>。その地点は、水路に架かる「大溝端橋」({{ウィキ座標|33.243005559615|||N|130.4204843409836|||E||座標}}){{Efn2|大溝端橋(おおみぞはたばし)は、[[福岡県道702号柳川城島線|県道柳川城島線]]の橋<ref>{{Cite web |url=http://www.qsr.mlit.go.jp/fukkoku/site_files/file/iinkai_kaigi/hukuoka_mente/270831/shiryou5_3_1.pdf#page=10 |title=【福岡県】橋梁点検結果 |access-date=2023-02-15 |publisher=[[国土交通省]] [[九州地方整備局]] |year=2015 |format=PDF |page=10 |quote=大溝端橋 |language=ja |archive-url=https://web.archive.org/web/20220522115333/http://www.qsr.mlit.go.jp/fukkoku/site_files/file/iinkai_kaigi/hukuoka_mente/270831/shiryou5_3_1.pdf#page=10 |archive-date=2022-05-22}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://www.pref.fukuoka.lg.jp/uploaded/attachment/132527.pdf#page=28 |title=橋梁個別施設計画 |access-date=2023-02-15 |publisher=福岡県 |author=福岡県 県土整備部 道路維持課・福岡県 県土整備部 道路建設課 |date=2021-02-01 |format=PDF |page=28 |quote=橋梁点検計画・修繕計画表(21/138) > 大溝端橋 |language=ja |archive-url=https://web.archive.org/web/20230215134748/https://www.pref.fukuoka.lg.jp/uploaded/attachment/132527.pdf#page=28 |archive-date=2023-02-15}}</ref>。}}である<ref name="毎日新聞2000-10-30"/>。Uはここで知人の少女2人(いずれも16歳)と待ち合わせる約束をしていたが、K3はその話を別の少女(16歳)から聞き出し{{Efn2|Uは現場近くに来る前、城島町内の女友達数人に連絡してきていた<ref name="読売新聞2000-10-30"/>。}}、配下たちを連れて車で押しかけていた{{Efn2|Uの動向を把握したK3が、この現場付近でUと女友達が会う約束をさせたとする報道もある<ref name="読売新聞2000-10-30"/>。}}<ref name="西日本新聞2000-11-01">『西日本新聞』2000年11月1日朝刊第18版第一社会面31頁「クリーク水死事件 少年7人家裁送致 地検久留米支部」(西日本新聞社) - 西日本新聞 地方版 福岡県版({{国立国会図書館書誌ID|000008430203}})</ref>。当時、現場は街灯がなく、夜になると真っ暗になる場所だった<ref name="西日本新聞2000-10-31"/>。なお、地元マスコミの記者からは、K3たちがUの彼女を捕まえて[[輪姦]]し、Uを携帯電話で呼び出させてリンチしたという証言もなされている{{Sfn|週刊新潮2|2004|p=151}}。 |
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2005年6月21日の公判で被告人K3が検察側証人として出廷し<ref name="読売新聞2005-06-22">『読売新聞』2005年6月22日西部朝刊第一社会面31面「大牟田の連続殺人 K3被告が地検逃走の動機供述『死のうと思った』/福岡地裁」</ref><ref name="朝日新聞2005-06-22">『朝日新聞』2005年6月22日朝刊第一社会面31面「被告の兄弟が廷内でけんか 大牟田事件公判【西部】」</ref>、K3は被害者4人の殺害についていずれも「やっていない」と全面的に起訴事実を否認した一方、唯一起訴事実を認めた福岡地検久留米支部からの逃走事件について「逃走前夜に留置されていた久留米署で自殺を図ったが、死にきれなかったため死のうと思って逃げた」<ref name="読売新聞2005-06-22"/>「親父(被告人K1)の近くで死のうと思い大牟田に向かった」<ref name="朝日新聞2005-06-22"/>「裁判所宛に『全部1人でやった』と遺書を書けば弟K4が助かると思った」と述べた<ref name="読売新聞2005-06-22"/>。しかし閉廷後、K3は起訴事実を認めていた弟K4から「あんたの意見に同意してやる。生きられるか試してみろ」と言い放たれたことに激昂してK4に殴り掛かろうとした<ref name="朝日新聞2005-06-22"/>。 |
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Uが現場に来たところ、そこにはK3ら加害少年7人と、高校生を含む少女4人がいた{{Efn2|少女4人について、城島署は「事件への関与は薄い」などの理由から立件を見送った<ref name="西日本新聞2000-11-01"/>。}}<ref name="西日本新聞2000-11-01"/>。Uはその場から逃げ出したが、K3らは約300 m追いかけて捕まえた<ref name="読売新聞2000-10-30"/>。判決文によればK3は同日未明、同町原中牟田(現:久留米市城島町原中牟田)の路上で配下の6人に指示し、Uの腕・脚・胸などを木刀で殴らせた<ref name="朝日新聞2001-06-27"/>。Uは逃げようとしたが、用水路(幅約20 m、水深3 m)に転落して水死した<ref name="朝日新聞2001-06-27"/>。事件当時の報道によれば、7人はUに木刀を差し出して助けようとしたが、助けられなかったという<ref name="毎日新聞2000-10-30">『毎日新聞』2000年10月30日西部夕刊社会面「福岡・城島町の少年水死 傷害致死容疑、少年6人を逮捕--無断欠勤に腹立て」(毎日新聞西部本社)</ref>。また逮捕された少年らは、Uは木刀で殴りかかられたところ、身を捩って避けようとした際に水路に転落し、約1時間半探したものの、暗くて発見できなかったという旨を供述していた<ref name="読売新聞2000-10-30"/>。一方で6人は警察や消防に通報することなく逃走しており、地元民は「この辺りでは、だれかがクリークに落ちたら必死で大声を出す」「お年寄りでさえ自分で助けようと水に入ることもあるのに〔6人がUを見捨てて帰ったことは〕信じられない」と証言している<ref name="西日本新聞2000-10-31">『西日本新聞』2000年10月31日朝刊筑南版ありあけワイド面28頁「城島町 クリークの少年水死 「友達見捨てるとは」 ショックの地元住民」(西日本新聞社 久留米総局・大牟田支局) - 西日本新聞 地方版 福岡県版({{国立国会図書館書誌ID|000008430203}})</ref>。また事件後、K3は共犯の少年たちに対し「言うなよ」「黙っておけ」<ref name="読売新聞2000-10-31">『読売新聞』2000年10月31日西部朝刊社会面31頁「福岡・城島町の少年水死事件 主犯格19歳が仲間に口止め」(読売新聞西部本社)</ref>「(事件を)話したらただではおかないぞ」などと脅し、犯行を口止めしていた<ref>『毎日新聞』2000年11月1日西部朝刊社会面「福岡・城島町の少年水死 手配の少年を逮捕--県警少年課など」(毎日新聞西部本社)</ref>。 |
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2005年10月11日の公判でもK3が再び検察側証人として出廷した<ref name="読売新聞2005-10-12">『読売新聞』2005年10月12日西部朝刊第一社会面35面「福岡・大牟田連続殺人 公判中、再び一触即発 K4被告とK3被告」</ref><ref name="朝日新聞2005-10-12">『朝日新聞』2005年10月12日朝刊福岡第一地方面27面「証言巡り兄弟げんか 審議が一時中断 大牟田事件 /福岡県」</ref>。同公判で被告人K4の弁護人はB・D両被害者の殺害について「K3も銃を何発か撃ったのではないかと思う」とする被告人K2の供述調書を読み上げ<ref name="読売新聞2005-10-12"/>、K3に対し「親に疑われてどう思うか」と尋ねたが、証言台にいたK3は「(K2のことは)実の親とも身内とも思っていない」と答えたところ、左後方の被告人席に座っていた弟K4が「アホか!殺すぞ」などと叫んで兄K3に殴り掛かろうとしたため、K3と口論になった<ref name="読売新聞2005-10-12"/><ref name="朝日新聞2005-10-12"/>。この騒動により高原正良裁判長が休廷を宣言し<ref name="朝日新聞2005-10-12"/>、公判は約15分間中断した<ref name="読売新聞2005-10-12"/>。 |
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同月28日、同町江上本の農業用水路の水門付近でUの水死体が発見された<ref name="読売新聞2000-10-02"/>。現場はU宅から約20 [[キロメートル|km]]近く離れていたが、現場付近にはUの車やバイクが見当たらなかったことや、Uには自殺するような動機が見当たらないこと、発見時にUが財布や携帯電話を身に着けたままだったこと、発見数日前には現場付近でUを含む複数の男性が目撃されていたことといった不審点から、県警はUが事件に巻き込まれたものと見て捜査していた<ref name="読売新聞2000-10-02">『読売新聞』2000年10月2日西部朝刊社会面39頁「少年水死は事件の疑い 6月に福岡・城島町のクリークで 関係者を聴取」(読売新聞西部本社)</ref>。その後、K3は県警に出頭し<ref name="毎日新聞2004-10-09"/>、同年10月30日、共犯5人とともに県警少年課と城島警察署{{Efn2|城島警察署は、福岡県久留米市城島町大依371番地2にあった福岡県警の警察署だが<ref>{{Cite news|和書 |title=福岡県公安委員会告示第283号 |newspaper=福岡県公報 |date=2008-08-27 |url=https://www.pref.fukuoka.lg.jp/uploaded/life/39517_15518387_misc.pdf |access-date=2023-02-19 |format=PDF |publisher=福岡県総務部行政経営企画課 |language=ja |archive-url=https://web.archive.org/web/20230219145746/https://www.pref.fukuoka.lg.jp/uploaded/life/39517_15518387_misc.pdf |archive-date=2023年2月19日 |issue=2866}}</ref>、2010年(平成22年)4月10日に久留米警察署へ統合された<ref>{{Cite web |url=http://www.police.pref.fukuoka.jp/keimu/keimu/026.html |title=福岡県警察 【H22.1.1~】警察署の管轄区域などが変わりました(警務課) |access-date=2023-02-19 |publisher=[[福岡県警察]] |language=ja |archive-url=https://web.archive.org/web/20111025153850/http://www.police.pref.fukuoka.jp/keimu/keimu/026.html |archive-date=2011-10-25 |deadlinkdate=2023-02-19}}</ref>。現在、旧警察署庁舎は久留米署が「城島警部交番」として利用している<ref>{{Cite web |url=https://www.police.pref.fukuoka.jp/chikugo/kurume-ps/keisatusyoannai/koban/joujima.html |title=久留米警察署 城島警部交番 |access-date=2023-02-19 |publisher=福岡県警察 |language=ja |archive-url=https://web.archive.org/web/20230219143412/https://www.police.pref.fukuoka.jp/chikugo/kurume-ps/keisatusyoannai/koban/joujima.html |archive-date=2023-02-19}}</ref>。}}によって傷害致死容疑で逮捕された{{Efn2|残る1人も翌31日に城島署へ出頭して逮捕されている<ref>『読売新聞』2000年11月1日西部朝刊社会面35頁「少年水死事件で7人目の逮捕者 16歳、城島署に出頭/福岡・城島町」(読売新聞西部本社)</ref>。}}<ref name="読売新聞2000-10-30"/>。 |
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2005年11月15日の公判で被告人質問が行われ、K2は被害者Aを殺害した経緯について「犯行当時約6000万円に上る借金を抱えており生活が苦しかったが、夫婦2人で古くから計画を練っていたわけでも親子4人で計画したわけでもない。その時だけ何かに取り憑かれたように『Aを殺害して金銭を奪おう』という話になった」と説明した<ref name="朝日新聞2005-11-16">『朝日新聞』2005年11月16日朝刊福岡第一地方面23面「『取りつかれたように』殺害話に 大牟田事件・K2被告 /福岡県」</ref>。 |
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なお、この事件後、水面下で捜査が進んでいた時期にはK2が同年6月、10月と2回にわたり自殺未遂事件を起こしている<ref name="西日本新聞2004-09-28夕刊"/>。1回目(6月)は深夜、K2が市内の海水浴場{{Efn2|三池港の防波堤沿いには長さ約300 mの[[砂浜#人工砂浜|人工海浜]]があり<ref name="朝日新聞1998-07-18"/>、「三池海水浴場」({{ウィキ座標|33.0115647|||N|130.4092581|||E||座標}}{{Sfn|ゼンリン|2004|loc=134頁F-5}})として利用されていたが、同海水浴場は福岡県[[筑後地方|筑後地区]]では唯一の海水浴場であった<ref name="朝日新聞1998-07-18">『朝日新聞』1998年7月18日西部夕刊第4版第一社会面11頁「ぼくもわたしも夏休み!小中学校など一斉に終業式 家族旅行はより安・近・短」「8年ぶり海開き 三池海水浴場 普賢岳噴火以来」(朝日新聞西部本社)</ref>。同海水浴場は国と三井鉱山の所有地で<ref>『読売新聞』1998年3月6日西部夕刊第一社会面10頁「普賢岳対岸も“安全” 三池海水浴場、8年ぶり今夏から再開/福岡・大牟田市 「地震や津波、もう大丈夫」」(読売新聞西部本社)</ref>、有明海の対岸(約20 km南西)に[[島原半島]]があり、[[雲仙岳|雲仙普賢岳]]の活動による[[火山性地震]]で[[津波]]が発生した際に被害が出ることが予想されたため、[[雲仙岳#1991年6月3日の火砕流|雲仙岳の大規模噴火]]があった1991年(平成3年)以降は1997年まで休止していた<ref name="朝日新聞1998-07-18"/>。1998年に再開されたが<ref name="朝日新聞1998-07-18"/>、集客の伸び悩みなどを理由に2000年を最後に開設されなくなっている<ref>{{Cite web |url=https://www.city.omuta.lg.jp/hpKiji/pub/detail.aspx?c_id=5&id=9409&class_set_id=7&class_id=618 |title=三池海水浴場の開設について |access-date=2023-05-30 |publisher=大牟田市 |date=2017-05 |website=大牟田市ホームページ |language=ja |archive-url=https://web.archive.org/web/20200807001448/https://www.city.omuta.lg.jp/hpKiji/pub/detail.aspx?c_id=5&id=9409&class_set_id=7&class_id=618 |archive-date=2020-08-07}}</ref>。}}の沖合60 mの鉄塔にしがみついているところを釣り人に発見されており、2回目(10月)には同じ海水浴場付近の岸壁から車ごと海に転落していた<ref name="西日本新聞2004-09-28夕刊"/>。 |
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===== K2・K4が被害者遺族に謝罪 ===== |
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[[2006年]](平成18年)3月14日に第22回公判が開かれ、検察側の被告人質問が行われた<ref name="朝日新聞2006-03-15">『朝日新聞』2006年3月15日朝刊福岡第一地方面31面「大牟田事件のK2・K4被告、遺族に直接謝罪 地裁久留米 /福岡県」</ref><ref name="毎日新聞2006-03-15">『毎日新聞』2006年3月15日西部朝刊第二社会面26面「福岡・大牟田の4人殺害:被害者の遺族に、母と二男が謝罪--地裁支部で公判」(記者:福岡静哉)</ref>。この日は被害者Aの母親ら被害者遺族も公判を傍聴していたが、被告人質問の最後で被告人K4は、被害者遺族のいた傍聴席に歩み寄り「すいませんでした」と一礼したほか、被告人席に座っていた被告人K2も立ち上がりAの母親に対し「ごめんなさい」と頭を下げた<ref name="朝日新聞2006-03-15"/><ref name="毎日新聞2006-03-15"/>。 |
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===== 実刑判決 ===== |
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2006年3月28日に第23回公判が開かれ、被害者遺族3人(Aの母親と妹、Dの母親)が意見陳述していずれもK2・K4両被告人の極刑を求めたが<ref name="朝日新聞2006-03-29">『朝日新聞』2006年3月29日朝刊福岡第一地方面31面「『今も信じられない』 遺族、無念さ訴え 大牟田4人殺害、公判で意見陳述 【西部】」</ref><ref name="毎日新聞2006-03-29">『毎日新聞』2006年3月29日西部朝刊第二社会面26面「福岡・大牟田の4人殺害:遺族3人『死刑を』 K4被告は法廷で暴言--公判」(記者:福岡静哉)</ref>、その後弁護人による被告人質問で被告人K4は前回公判で謝罪したAの母親に対し「ふざけんな。親を悪く言うな」と暴言を吐いた<ref name="毎日新聞2006-03-29"/>。 |
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K3は共犯の少年6人とともに同年11月20日、福岡地検久留米支部から傷害致死容疑で[[福岡家庭裁判所|福岡家裁]]久留米支部へ送致され{{Efn2|同日、K3ら7人は2週間の観護措置となり、福岡市内の少年鑑別所に収容されている<ref name="読売新聞2000-11-21"/>。}}<ref name="読売新聞2000-11-21">『読売新聞』2000年11月21日西部朝刊社会面35頁「福岡・城島町のクリーク水死事件 少年7人を傷害致死容疑で家裁送致」(読売新聞西部本社)</ref>、同家裁支部(大原英雄裁判官)で行われた[[少年審判]]の結果、地検支部へ逆送致された{{Efn2|共犯6人はいずれも中等少年院送致の処分を下されている<ref name="読売新聞2000-12-14"/>。}}<ref name="読売新聞2000-12-14">『読売新聞』2000年12月14日西部朝刊社会面31頁「クリーク水死事件 19歳を逆送致 ほか6人は少年院決定」(読売新聞西部本社)</ref>。そして同年12月22日、地検支部から福岡地裁久留米支部へ起訴された<ref>『読売新聞』2000年12月23日西部朝刊社会面35頁「逆送致の作業員を起訴 クリーク水死事件/福岡・城島町」(読売新聞西部本社)</ref>。逮捕された当時について、K3は「被害者 (U) が夢に出てきて耐えられなくなって自首した」と振り返っているが、その一方で同事件後にも「人を殺すのは楽勝。慣れとる」という脅し文句を使うこともあった<ref name="毎日新聞2004-10-03"/>。 |
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同事件の公判でK3は起訴事実を全面的に認め<ref>『朝日新聞』2001年2月14日西部朝刊第一社会面39頁「起訴事実を元少年認める 福岡の水死事件公判」(朝日新聞西部本社)</ref>、謝罪の言葉を口にしていた<ref name="毎日新聞2004-10-09"/>。2001年(平成13年)6月26日、K3は福岡地裁久留米支部(大原英雄裁判長)で懲役3年6月(求刑:懲役5年)の実刑判決を言い渡された<ref name="読売新聞2001-06-27">『読売新聞』2001年6月27日西部朝刊社会面31頁「少年暴行水死に懲役3年6月 地裁久留米判決/福岡」(読売新聞西部本社)</ref>。同地裁支部は[[判決理由]]で結果の重大性を指摘し<ref name="毎日新聞2004-10-09"/>、「前途ある命を奪った悪質な犯行」と位置づけた<ref name="朝日新聞2001-06-27"/>。その上でK3に不利な情状として、容赦なく悪質な犯行態様(無抵抗で逃げ惑う被害者Uを追い掛けるなど)、情状の悪さ(犯行後に口裏合わせをするなど)<ref name="朝日新聞2001-06-27">『朝日新聞』2001年6月27日西部朝刊第一社会面35頁「当時19歳に実刑の判決 福岡・城島町の少年水死事件」(朝日新聞西部本社)</ref>、K3が主犯であるにもかかわらず被害者遺族への慰謝の措置をしていないことを指摘した一方<ref name="読売新聞2001-06-27"/>、有利な情状としては「被害者 (U) が被告人 (K3) の好意を大なしにして職場を放棄し、その後も被告人を無視する態度に出て被告人を憤激させたことは一定の非難を免れないところではある」「被告人らは被害者の水路転落を意図していたものではない」と判示したほか{{Sfn|集刑304号|2012|p=451}}、K3が反省していることも指摘していた<ref name="毎日新聞2004-10-09"/>。 |
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===== K2・K4両被告人に死刑求刑 ===== |
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2006年5月2日、福岡地裁久留米支部(高原正良裁判長)で母親K2・次男K4の両被告人に対し第24回公判となる[[論告]][[求刑]]公判が開かれ<ref name="読売新聞2006-05-03 西部朝刊">『読売新聞』2006年5月3日西部朝刊第一社会面31面「福岡・大牟田連続殺人 K2、K4被告に死刑求刑 検察『矯正は不可能』」</ref><ref name="読売新聞2006-05-03 東京朝刊">『読売新聞』2006年5月3日東京朝刊第一社会面31面「福岡・大牟田の4人殺害 2被告に死刑求刑」</ref><ref name="朝日新聞2006-05-03 西部朝刊1面">『朝日新聞』2006年5月3日朝刊1面「母・次男に死刑求刑 『金銭欲おもむくまま』 大牟田4人殺害【西部】」</ref><ref name="朝日新聞2006-05-03 西部朝刊31面">『朝日新聞』2006年5月3日朝刊第一社会面31面「『死刑以上の刑があれば』 大牟田4人殺害求刑、遺族が傍聴 【西部】」</ref><ref name="朝日新聞2006-05-03 福岡面">『朝日新聞』2006年5月3日朝刊福岡第一地方面27面「悲しみ増すばかり、相当の償いを 娘と孫奪われた〇〇さん(被害者Aの母親) 大牟田事件求刑 /福岡県」</ref>、福岡地検久留米支部は両被告人にいずれも死刑を求刑した<ref name="読売新聞2006-05-03 西部朝刊"/><ref name="読売新聞2006-05-03 東京朝刊"/><ref name="朝日新聞2006-05-03 西部朝刊1面"/>。 |
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当時のK3の弁護人は、当時のK3の態度・人物像について「反省は本物だと感じた。根は優しいが、暴力団関係の家に生まれて虚勢を張るしかなかったのだろう」と語っている<ref name="毎日新聞2004-10-09"/>。K3は刑務所から遺族宛に送った手紙で「真面目にやって賠償していく」と書いていたが、出所後は支払い命令が出た賠償金を全く払っていなかった{{Efn2|Uの遺族はK3に対し、損害賠償請求訴訟を起こしたが、被告 (K3) 側は「金が払えない」と和解に応じず、支払い命令にも応じていなかった{{Sfn|週刊現代|2004|p=51}}。}}{{Sfn|週刊現代2|2004|p=192}}。一方、共犯6人の家族はそれぞれUの遺族に謝罪している{{Sfn|週刊現代|2004|p=51}}。 |
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2006年6月13日に福岡地裁久留米支部(高原正良裁判長)で第25回公判が開かれ、弁護人による最終弁論が行われて結審した<ref name="読売新聞2006-06-14">『読売新聞』2006年6月14日西部朝刊第一社会面31面「福岡・大牟田連続殺人 2被告の最終弁論、死刑回避求める 地裁公判」</ref><ref name="朝日新聞2006-06-14">『読売新聞』2006年6月14日朝刊第一社会面31面「母・次男弁護側、死刑回避を主張 大牟田殺害最終弁論【西部】」</ref>。 |
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* 被告人K2の弁護人は「事件を主導的に企画・立案したのは夫K1でK2の関与は従属的だった」と述べた上で「K2は事件の内容を真摯に語っていることから再犯の可能性はない」と主張した<ref name="朝日新聞2006-06-14"/>。 |
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* 被告人K4の弁護人は「K4は事件当時精神的に未熟だった。矯正の可能性がないと決めつけるべきではない」と訴えた<ref name="朝日新聞2006-06-14"/>。 |
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最終意見陳述で被告人K2は「重ねてお詫びすること以外、何もない」と、被告人K4は「本当に申し訳ない。判決は素直に受け入れたい」と、それぞれ謝罪の弁を述べた<ref name="読売新聞2006-06-14"/>。 |
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また、K1は判決前日に勾留中のK3と面会して「助けてやれんでごめんやったね」と言って涙を流していた{{Sfn|集刑304号|2012|p=377}}。K2は知人たちを回って減刑嘆願の署名を集めており{{Sfn|週刊現代|2004|p=51}}、判決後には「あの子は友人の身代わりになって逮捕された。罪をかぶっただけ。本当は優しい子」と発言していたが、その発言を覚えていた被害者A1の妹は事件後に「身内に甘すぎる」と憤慨していた<ref name="毎日新聞2004-10-18"/>。鈴木はK3が後に本事件で、簡単にK4を犯行に引き込み、自らは手を汚さずにK4に殺人の実行役を担わせていた理由について、この傷害致死事件の経験から「人を殺しても、年が若ければたいした懲役にはならない」と誤解していた可能性を指摘している{{Sfn|鈴木智彦|2017|p=55}}。 |
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===== K2・K4に死刑判決 ===== |
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2006年10月17日判決公判が開かれ、福岡地裁久留米支部(高原正良裁判長)は母親K2・次男K4の両被告人に対し、いずれも福岡地検久留米支部の求刑通り[[日本における死刑|死刑]][[判決 (日本法)|判決]]を言い渡した<ref name="読売新聞2006-10-18 西部朝刊1面">『読売新聞』2006年10月18日西部朝刊1面「大牟田4人殺害 K2被告とK4被告に死刑判決 福岡地裁支部『冷酷で残虐』」</ref><ref name="読売新聞2006-10-18 判決要旨">『読売新聞』2006年10月18日西部朝刊1面「大牟田4人殺害判決要旨」</ref><ref name="読売新聞2006-10-18 西部朝刊社会面">『読売新聞』2006年10月18日西部朝刊第一社会面35面「福岡・大牟田4人殺害で死刑判決 遺族にらむ二男 母は頭下げ『すいません』」</ref><ref name="読売新聞2006-10-18 東京朝刊">『読売新聞』2006年10月18日東京朝刊第二社会面38面「大牟田4人殺害 母・二男に死刑判決/福岡地裁」</ref><ref name="朝日新聞2006-10-18 西部朝刊1面">『朝日新聞』2006年10月18日西部朝刊1面「母と次男に死刑、一家の共謀認定 大牟田4人殺害で福岡地裁支部判決 【西部】」</ref><ref name="朝日新聞2006-10-18 西部朝刊社会面">『朝日新聞』2006年10月18日西部朝刊第一社会面27面「極刑に謝罪と悪態 大牟田4人殺害判決 福岡地裁久留米支部 【西部】」(記者:宋潤敏、奥村智司)</ref><ref name="朝日新聞2006-10-18 東京朝刊">『朝日新聞』2006年10月18日東京朝刊第一社会面31面「元組長の妻ら死刑 福岡4人殺害、地裁支部判決」</ref><ref name="朝日新聞2006-10-18 福岡">『朝日新聞』2006年10月18日西部朝刊福岡県第一地方面23面「高い関心、傍聴券求め列 『大牟田4人連続殺害』判決 /福岡県」</ref>。 |
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==== 出所後 ==== |
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福岡地裁久留米支部は[[判決理由]]で一連の犯罪事実・被告人4人の共謀についてすべて検察側の主張通りに[[事実認定]]し、一連の殺害動機について「K2が生活難・資金難を打開して被害者Aが所持していた多額の現金を奪おうとしたものだ」と指摘した<ref name="読売新聞2006-10-18 西部朝刊1面"/><ref name="朝日新聞2006-10-18 西部朝刊1面"/>。その上でCを除く3人の殺害に関与した被告人K2を「動機面での中心的存在であり、『関与は従属的だ』として[[量刑]]の軽減を求める弁護人側の主張は認められない」とした<ref name="読売新聞2006-10-18 西部朝刊1面"/>。 |
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K3は2003年12月に刑務所を[[仮釈放|仮出獄]]すると{{Efn2|新聞では2004年春に出所したと報じられている<ref name="毎日新聞2004-10-09"/><ref name="朝日新聞2004-10-03社会">『朝日新聞』2004年10月3日西部朝刊第一社会面39頁「逮捕のK3容疑者も力士挫折・帰郷 大牟田・遺棄事件」(朝日新聞西部本社)</ref>。}}、北村組の上部団体に当たる村上一家村上会の預かりとなって暴力団組員の行儀見習いをしており、刑執行終了後間もなくして一連の犯行におよんだ{{Sfn|集刑304号|2012|p=437}}。このころ、K3は暴走族の相談役存在として集会に顔を出していたほか<ref name="週刊実話2004-10-21"/>、工事現場に人夫を派遣するなどして収入を得ていたが、実家と同じく金に困っていた{{Sfn|小野一光|2007|p=136}}。 |
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同年春ごろ、K1は近隣住民に対し「息子が戻ってきて家の人間が増えましたよ」と話していた<ref name="朝日新聞2004-10-03社会"/>。またK3自身は外傷性腰椎症に罹患しており{{Sfn|集刑304号|2012|p=449}}、その治療のためK4とともに市内の病院に通院していたが、看護師らに対し「自分は組員だ。いずれ[[入れ墨]]を入れる」などと話していた<ref name="朝日新聞2004-10-03社会"/>。K3は同年6月から7月ごろに実家を離れ<ref name="読売新聞2004-10-03"/>、7月からアパートに入居していたが、その際には各部屋に洗剤を持って入居の挨拶をしていた{{Sfn|週刊現代2|2004|p=192}}。 |
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そして4人殺害を実行した被告人K4に対しては「Aを殺害する際、たばこを吸ったり遺体の上に寝そべるなどしたことなどから、人間の生命の尊厳を軽視する態度が著しく矯正は困難だ」と断じ<ref name="読売新聞2006-10-18 西部朝刊1面"/>、被告人K4は公判中「親に人殺しをさせるくらいなら自分が殺した方がマシだ。後悔していない」「また同じ状況になれば人を殺す」などと発言したり、被害者遺族に暴言を吐くなどしていたが<ref name="朝日新聞2006-10-18 西部朝刊社会面"/>、これらの態度に対しては「暴力団組長の父親の下で人命を軽視し両親の指示であれば殺人も厭わないなど、暴力団特有の反社会的な美意識を強く持っており矯正は困難だ」と認定した<ref name="朝日新聞2006-10-18 西部朝刊1面"/><ref name="朝日新聞2006-10-18 西部朝刊社会面"/>。 |
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K3の事件当時の住居は、「宮の西ハイツ」(大牟田市大字白銀776番地1:{{ウィキ座標|33.073509|||N|130.481923|||E||座標}})である{{Sfn|集刑304号|2012|p=409}}。K4の公判における供述によれば、K4は9月16日23時45分以降、K3が運転する[[日産・プレジデント|プレジデント]]に同乗して大牟田市立総合病院に入院していた北村組の兄貴分{{Efn2|この男性(当時23歳)はK4が相撲部屋に在籍していたころの知人で、K1一家(特にK4)と親しい関係にあった<ref name="西日本新聞2004-10-06"/>。K4は鈴木宛の手記で、彼は力士時代の先輩であり、自身と同じく引退後にヤクザとして家に迎え入れていたと述べている{{Sfn|鈴木智彦|2017|p=30}}。彼は8月末から大牟田市内の病院に入院していたが、9月18日夜と19日未明 - 20日にかけて外泊、外出していた<ref name="西日本新聞2004-10-06">『西日本新聞』2004年10月6日朝刊第19版第一社会面(事件・人・話題)35頁「大牟田・4人殺害 K4容疑者の知人聴取へ 入院中 2度外出 遺棄時?18―20日 K宅近くで目撃」(西日本新聞社)</ref>。}}の病室に預けていた女性を迎えに行き、彼女を後部座席に乗せて「宮の西ハイツ」まで行き、そこでK4と女性は降りた{{Sfn|集刑304号|2012|p=409}}。その後、K3はプレジデントを運転して内妻を迎えに行き、9月17日0時30分には内妻がいた高田町のパチンコ店「[[ワンダーランド (パチンコチェーン)|ワンダーランド]]」{{Efn2|「ワンダーランド高田店」(現在の住所:福岡県[[みやま市]]高田町今福669番地:{{ウィキ座標|33.10645046482515|||N|130.45875286032896|||E||座標}})<ref>{{Cite web |url=http://www.wonderland.gr.jp/takada/ |title=ワンダーランド高田店 |access-date=2023-02-08 |publisher=[[タイラグループ]] |website=[[ワンダーランド (パチンコチェーン)|ワンダーランド]] |language=ja |archive-url=https://web.archive.org/web/20230208145317/http://www.wonderland.gr.jp/takada/ |archive-date=2023-02-08}}</ref>。同店は2000年に現在地で開店している<ref>{{Cite web |url=https://taira-group.jp/company/information/ |title=会社概要・沿革 |access-date=2023-02-08 |publisher=[[タイラグループ]] |website=株式会社タイラベストビート |quote=HISTORY 沿革 > 2000年 > ワンダーランド高田店を移転新規オープン |language=ja |archive-url=https://web.archive.org/web/20230208145720/https://taira-group.jp/company/information/ |archive-date=2023-02-08}}</ref>。}}にいた{{Sfn|集刑304号|2012|p=409}}。またK4本人は手記で、A3の死体を遺棄した後、病院で自身の交際相手である女性を拾い、途中コンビニで買物をしてからK3の家で彼女と2人で下車し、K3は内妻を迎えに行った。その後、自分たちはホットケーキを作り、出来上がったころにK3が内妻を連れて帰ってきた――と述べている{{Sfn|鈴木智彦|2017|p=46}}。 |
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被告人K4は死刑判決を受けた2006年10月17日付で判決を不服として[[福岡高等裁判所]]に[[控訴]]したほか<ref name="読売新聞2006-10-21">『読売新聞』2006年10月21日西部朝刊第一社会面35面「大牟田4人殺害 死刑判決の被告が控訴/福岡高裁」</ref><ref name="朝日新聞2006-10-27"/>、被告人K2も2006年10月26日付で福岡高裁に控訴した<ref name="読売新聞2006-10-27">『読売新聞』2006年10月27日西部夕刊10面「4人連続殺人 K2被告も控訴/福岡地裁」</ref><ref name="朝日新聞2006-10-27">『朝日新聞』2006年10月27日西部夕刊第二社会面10面「母親も控訴 大牟田4人殺害 【西部】」</ref>。 |
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=== 次男K4 === |
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{{Infobox 犯罪者 |
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2005年4月26日、K1・K3両被告人について第3回公判が開かれ、同日は分離公判となった被告人K2が検察側の証人として出廷して「被害者Aの殺害は両被告人と共謀して殺害した。当初はK1とともに計画したが、自分が実行を躊躇っていたところK3が『自分が殺してもいい』と持ち掛けた」「長男Bの殺害は次男K4を含め4人全員で決めた」と証言した<ref name="読売新聞2005-04-27">『読売新聞』2005年4月27日西部朝刊第一社会面35面「大牟田事件公判 K2被告、4人共謀を証言」</ref>。 |
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|名前=K・T |
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|画像= |
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|画像サイズ= |
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|画像説明= |
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|出生名= |
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|生年月日={{生年月日と年齢|1984|6|9}}{{Sfn|集刑304号|2012|p=227}} |
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|出生地={{JPN}}: 福岡県大牟田市 |
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|失踪= |
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|没年月日= |
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|死没地= |
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|死因= |
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|遺体発見= |
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|墓地= |
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|記念碑= |
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|住居={{JPN}}: 福岡県大牟田市桜町 |
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|国籍= |
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|別名= |
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|民族= |
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|市民権= |
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|教育= |
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|出身校= |
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|職業= |
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|雇用者= |
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|所属= |
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|動機= |
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|罪名=強盗殺人、死体遺棄、殺人、銃砲刀剣類所持等取締法違反 |
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|有罪判決= |
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|刑罰=死刑 |
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|犯罪者現況=死刑確定者 |
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|国={{JPN}} |
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|都道府県={{JPN}}: 福岡県 |
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|現場= |
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|標的= |
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|死者=4人 |
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|負傷者= |
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|凶器= |
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|逮捕日=2004年10月2日<ref name="有明新報2004-10-08"/> |
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|収監場所=福岡拘置所{{Sfn|年報・死刑廃止|2022|p=237}} |
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|配偶者= |
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|両親=[[#男K1|K1(父親)]]・[[#妻K2|K2(母親)]] |
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|子= |
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|署名= |
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}} |
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男'''K4'''は1984年(昭和59年)6月9日生まれ{{Sfn|集刑304号|2012|p=227}}。K1・K2夫婦の次男かつK3の弟だが、戸籍上はK4がK1の長男かつ第二子である<ref>『日本経済新聞』2004年9月27日西部朝刊社会面17頁「福岡・大牟田遺棄――K4容疑者の車押収、遺体運搬か、高1死因は窒息。」(日本経済新聞西部本社)</ref>。事件当時は20歳3か月{{Sfn|小野一光|2019|p=18}}。K3の実弟{{Sfn|福岡高裁|2007|p=4}}。本名のイニシャルは兄K3と同じく'''K・T'''<ref name="毎日新聞2004-09-27"/>。2011年11月8日に死刑が確定し{{Efn2|name="死刑確定日"}}{{Sfn|福岡県弁護士会|2018|p=3}}、2022年9月27日時点で{{Sfn|年報・死刑廃止|2022|p=243}}、死刑確定者として母親K2とともに福岡拘置所に収監されている{{Sfn|年報・死刑廃止|2022|p=237}}(現在{{年数|1984|6|9}}歳、死刑確定から{{For year month day|year=2011|month=11|day=8}}経過)。死刑確定前に[[養子縁組]]を行い、「K」から「I」姓に改姓している([[#K4の養子縁組|後述]]){{Sfn|小野一光|2019|p=40}}。 |
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K4は第一審の公判で度々ヤクザ論を語っており、控訴審でも初公判における人定質問で、裁判長から職業を尋ねられた際に「ヤクザです」と答えている{{Sfn|中尾幸司|2008|p=159}}。 |
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福岡地裁久留米支部はK1・K3両被告人について第4回公判を2005年5月10日14時から開廷することを予定していたが、K3は2005年5月5日午前8時ごろ、拘置先の[[福岡刑務所]]にて房内で体調を崩しているところを巡回した刑務官に発見されたため、医務官から応急措置を受けた後、病院に搬送された<ref name="読売新聞2005-05-10">『読売新聞』2005年5月10日西部夕刊第一社会面11面「大牟田事件 K3被告の入院で公判中止/福岡地裁支部」</ref>。そのため福岡地裁久留米支部は第4回公判を開廷予定だった2005年5月10日、公判日程を取り消し公判を中止した<ref name="読売新聞2005-05-10"/>。 |
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==== 少年時代 ==== |
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その後、福岡地裁久留米支部はいったん「2005年5月24日14時から改めて第4回公判を開廷する」と決定したが<ref name="読売新聞2005-05-21">『読売新聞』2005年5月21日西部朝刊第一社会面31面「福岡・大牟田連続殺人 K3被告公判日程、再び取り消し」</ref>、2005年5月20日に再び「K3の体調不良」を理由に公判日程を取り消した<ref name="読売新聞2005-05-21"/>。この時点でK3は気管支系の疾患などを併発していたが回復に向かい<ref name="読売新聞2005-05-21"/>、第4回公判(2005年6月7日)までに退院した<ref name="読売新聞2005-06-08"/>。 |
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K4は「親分の息子」として甘やかされて育ち、自身も組長の息子であることを傘に着て横柄に振る舞ったため、保育園でも友達ができず、兄弟たちからも一番嫌われていたと手記で語っている{{Sfn|鈴木智彦|2017|p=18}}。また、体が大きいこともあって思い通りにいかないとすぐに暴力で解決してきたため、対人関係や人付き合いが苦手であることを告白している{{Sfn|鈴木智彦|2017|pp=18-19}}。大牟田市内の小学校を経て{{Sfn|鈴木智彦|2017|p=39}}、2000年に市立米生中学校を卒業したが、中学時代は授業を真面目に受けなかったり、教師に反抗したりなどしていたため、関係者からの評判は芳しくなく、不良仲間とつるんで「米生連合」と称し、バイクを乗り回していたという証言もされている{{Sfn|週刊文春|2004|pp=38-39}}。本人も手記で、小中学校時代は不良たちからも嫌われており、中学時代には窃盗や喧嘩、傷害、強盗、強姦(輪姦)などの非行を繰り返していたが、後述する18歳の終わりまでは事件が表沙汰になりそうになるといつも父K1たちが手を回してくれたことから、一度も逮捕・補導されなかったと語っている{{Sfn|鈴木智彦|2017|p=19}}。 |
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K4の幼馴染である男性は、K4は小学生時代、父親が組幹部であることを理由にいじめられていたこともあったが、それを目撃したK1が怒鳴りつけて以来、いじめはなくなり、次第に不良グループの中心的存在になっていったと証言している<ref name="産経新聞2004-09-26"/>。また同級生の親も、K4が学校でいじめられていることを知ったK2が、若い衆を2、3人授業参観に連れてきたことがあると証言している{{Sfn|週刊現代|2004|p=51}}。鈴木によれば、K4は不良たちからは「キレると何をしでかすかわからない」という共通認識を持たれていた一方、弱い者には強く、強い者(暴力団など)には下手に出たり、暴力団の幹部たちには必要以上にへりくだったりしていたため、地元の暴力団員たちの評判はさほど悪くないという{{Sfn|鈴木智彦|2010|p=44}}。またK2やK4の姉、北村組の舎弟としてK4の幼少期を知る人物や友人らにより、「家族(兄弟)の中で一番優しい性格だったが、中学校入学のころから粗暴になっていった」「体の弱い子や学校でいじめられている子など、弱点を持った子には比較的優しく接していたことから慕われていた」という証言もなされている{{Sfn|集刑304号|2012|pp=318-319}}。K3も逮捕前に『西日本新聞』の取材を受けた際、K4は兄弟の中で一番優しく、K2が交通事故に遭った際には真っ先に人工呼吸をして助けたことがあると証言している<ref name="西日本新聞2004-10-23"/>。 |
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公判再開後、2005年7月27日になって[[福岡矯正管区]]はこの体調不良について「K3が2005年1月以降に服用していた不眠症の薬([[向精神薬]])の副作用が原因だ」と発表した<ref name="読売新聞2005-07-28">『読売新聞』2005年7月28日西部朝刊第一社会面35面「連続殺人のK3被告体調悪化 不眠症薬の副作用が原因/福岡矯正管区調査」</ref>。またK3自身は「自殺未遂ではない。薬の効き目を高めるため刑務官の目をごまかし、1回か2回、薬を飲むふりをしてから吐き出しては一度に飲んでいたかもしれない」と話した<ref name="読売新聞2005-07-28"/>。 |
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近隣住民によれば、K4は自分たちとすれ違う際に「クソババア」と罵ってきたり、店の商品をいたずらして店主に注意されるとそれに逆上して「ジジイ、ぶっ殺すぞ。オレは北村組だ」と恫喝してきたこともあったと証言している{{Sfn|週刊現代|2004|p=51}}。鈴木はK4の反社会的な人格(『親分の命令」ならば殺人も肯定するなど)が形成された背景について、自宅が組事務所になっているという暴力団と馴染みの深い生育環境([[#北村組|前述]]){{Sfn|鈴木智彦|2017|p=28}}に加え、暴力との親和性が高い炭鉱街であった大牟田の地域コミュニティが影響している可能性を指摘している{{Sfn|鈴木智彦|2010|pp=43-44}}。 |
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2005年6月7日に福岡地裁久留米支部でK1・K3両被告人の第4回公判が開かれ、検察側証人として出廷した被告人K2は「次男K4がAを絞殺した際の状況」について「一緒にいたK3が『しっかり首を絞めろ。人は息を吹き返すぞ』と自分に話しかけてきた」と証言した<ref name="読売新聞2005-06-08">『読売新聞』2005年6月8日西部朝刊第一社会面31面「福岡・大牟田連続殺人 K3被告が1か月半ぶり出廷」</ref>。 |
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==== 力士時代 ==== |
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2005年6月14日に第5回公判が開かれ、被告人K3の弁護人は冒頭陳述で「K3は4人の殺害現場に居合わせた事実はなく、起訴事実を認めている母K2らとの謀議もなかったが、次男K4が死刑になるのを防ぐため、K1を除く母子3人で『K3も計画に加わったことにする』物語を作り上げた」と述べて無罪を主張した<ref name="読売新聞2005-06-14">『読売新聞』2005年6月15日西部朝刊第一社会面35面「福岡・大牟田連続殺人公判 K3被告の弁護側、改めて無罪主張」</ref>。<!--同日の公判では被告人K3の弁護人が母K2被告人を証人尋問した<ref name="朝日新聞2005-06-29">『朝日新聞』2005年6月29日朝刊福岡第一地方面35面「供述の変遷をK2被告語る 大牟田事件、証人尋問 /福岡県」</ref>。 |
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{{Infobox 力士 |
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|名前 = 三池山 |
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|画像 = |
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|説明 = |
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|四股名 = 三池山 |
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|本名 = <!-- 姓名間に空白を入れる --> |
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|愛称 = |
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|生年月日 = {{生年月日と年齢|1984|6|9}} |
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|没年月日 = <!-- {{死亡年月日と没年齢|0000|00|00|0000|00|00}}テンプレートを使用 --> |
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|出身 = 福岡県大牟田市 |
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|身長 = 173 cm<ref name="月刊相撲2000-07"/> |
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|体重 = 142 kg<ref name="月刊相撲2000-07"/> |
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|BMI = |
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|所属部屋 = [[放駒部屋|松ヶ根部屋]] |
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|得意技 = |
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|現在の番付 = |
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|最高位 = 西[[序二段]]108枚目<ref name="月刊相撲2001-07"/> |
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|生涯戦歴 = 21勝35敗7休(10場所)<ref name="月刊相撲2002-01"/> |
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|幕内戦歴 = |
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|優勝 = |
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|賞 = |
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|初土俵 = [[2000年の相撲#五月場所(夏場所)|2000年5月場所]]<ref name="毎日新聞2004-09-26"/> |
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|新十両 = |
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|入幕 = |
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|引退 = [[2001年の相撲#十一月場所(九州場所)|2001年11月場所]]<ref name="月刊相撲2002-01"/> |
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|引退後 = |
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|他の活動 = |
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|趣味 = |
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|備考 = |
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|作成日時 = |
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K4は小学生時代、相撲大会に出場したことがある<ref name="月刊相撲2000-07"/>。 |
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2000年(平成12年)3月に中学校を卒業<ref name="毎日新聞2004-10-18"/>。その後、同年4月下旬には両親の知人からの勧めで[[放駒部屋|松ヶ根部屋]]を見学し、部屋の雰囲気が気に入ったことからそのまま入門<ref name="月刊相撲2000-07">{{Cite journal|和書|journal=[[相撲 (雑誌)|相撲]]|title=相撲部屋聞き書き帖<!--68-74頁-->|volume=49|page=72|date=2000-07-15|issue=7|publisher=[[ベースボール・マガジン社]]|doi=10.11501/7911329|id={{NDLJP|7911329/1/36}}}} - 通巻:第655号(2000年7月名古屋場所展望号)。</ref>、同月25日の新弟子検査に合格した<ref name="相撲2000-06">{{Cite journal|和書|journal=相撲|title=情報四十八手 新弟子検査合格者|volume=49|page=118|date=2000-06-15|issue=6|publisher=ベースボール・マガジン社|doi=10.11501/7911328|id={{NDLJP|7911328/1/59}}}} - 通巻:第654号(2000年6月夏場所総決算号)。</ref>。入門当時は身長173 cm、体重142 kgだった<ref name="月刊相撲2000-07"/>{{Sfn|週刊文春|2004|p=39}}<ref name="毎日新聞2004-09-26"/>。また、当時の親方は[[若嶋津六夫|若嶋津]](元[[大関]])で{{Sfn|週刊文春|2004|p=39}}、女将は若嶋津の妻である[[高田みづえ]]だった<ref name="毎日新聞2004-10-18"/>。K4は高田に対し、兄が早々に廃業したことを語り、高田から「お兄さんのようにならないでね」と励まされると「やめません」と答えていた<ref name="毎日新聞2004-10-18"/>。当時はまだ本格的な相撲経験はなかったが、巨体ながら体が柔らかく、本人は「やるからには頂点を目指したい」と意気込んでいたほか、親方も「一生懸命だし、楽しみな存在」と期待を寄せていた<ref name="月刊相撲2000-07"/>。また母校である米生中の校長室にはこのころ、K4が親方夫婦や部屋の力士たちとともに写っている写真が飾ってあったという{{Sfn|週刊文春|2004|p=39}}。 |
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被告人K2は逮捕当初「4人全員を自分1人で殺した」と供述したが、後に家族の関与を認めたことについて「まず次男K4、次に夫K1、最後に長男K3と、それぞれ関与を認め、話した」と述べた<ref name="朝日新聞2005-06-29"/>。 |
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入門当時の四股名は兄K3と同じ「I」(母親の旧姓)で<ref name="相撲2000-06"/>、初土俵は同年5月<ref name="毎日新聞2004-09-26"/>、[[2000年の相撲#五月場所(夏場所)|夏場所]]の[[前相撲]]だった。[[2000年の相撲#七月場所(名古屋場所)|同年の名古屋場所]]で、東序ノ口41枚目として土俵を踏み<ref>{{Harvnb|月刊相撲9|2000|p=156}} - 「平成12年名古屋場所全力士星歴星取表」、{{NDLJP|7911331/1/79}}</ref>、[[2000年の相撲#九月場所(秋場所)|9月場所]]以降は四股名を「'''三池山'''」(みいけざん)に改めた<ref>{{Harvnb|月刊相撲9|2000|p=156}} - 「平成12年秋場所新番付速報 活字番付」、{{NDLJP|7911331/1/29}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|journal=相撲|title=角界トピックス 力士往来<改名>◇序ノ口|volume=49|page=118|date=2000-10-15|issue=11|publisher=ベースボール・マガジン社|doi=10.11501/7911332|id={{NDLJP|7911332/1/60}}}} - 通巻:第658号(2000年10月[[2000年の相撲#九月場所(秋場所)|秋場所]]総決算号)。</ref>。この四股名は[[三池山|地元の地名]]に由来するもので{{Sfn|週刊文春|2004|p=39}}<ref name="毎日新聞2004-09-26"/>、[[2001年の相撲#三月場所(春場所、大阪場所)|2001年(平成13年)の春場所]]では、東序ノ口26枚目として4勝3敗の戦績を残した<ref name="月刊相撲2001-05">{{Cite journal|和書|journal=相撲|title=平成13年春場所全力士星歴星取表|volume=50|page=153|date=2001-05-15|issue=5|publisher=ベースボール・マガジン社}} - 通巻:第666号(2001年5月[[2001年の相撲#五月場所(夏場所)|同年の5月場所]]展望号)。</ref>。同場所10日目(同年3月20日)<ref>『朝日新聞』2001年3月21日東京朝刊第14版スポーツ面15頁「大相撲春場所10日目(大阪府立体育会館)」(朝日新聞東京本社) - 『朝日新聞』縮刷版 2001年(平成13年)3月号1103頁。</ref>の取組では、安馬(後の横綱・[[日馬富士公平|日馬富士]]){{Efn2|当時は[[安治川部屋]]の西序ノ口29枚目で<ref name="月刊相撲2001-05"/>、同場所を7戦全勝で優勝している{{Sfn|月刊相撲4|2001|p=83}}。この取組の当時、K4(三池山)と安馬は互いに4連勝中だった{{Sfn|鈴木智彦|2017|p=18}}。}}と対戦して[[上手出し投げ]]で敗れている{{Sfn|月刊相撲4|2001|p=82}}。 |
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その一方でK3の関与を認めた経緯については「覚えていない」被害者Cの殺害については「K4が1人で殺したと聞いた」とそれぞれ証言した<ref name="朝日新聞2005-06-29"/>。 |
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[[2001年の相撲#五月場所(夏場所)|同年の5月場所]]では西[[序二段]]108枚目に昇進したが<ref name="月刊相撲2001-07"/>、これが番付最高位で<ref name="毎日新聞2004-10-18"/>、それ以上は芽が出なかった<ref name="毎日新聞2004-09-26"/>。同場所は2勝5敗に終わり<ref name="月刊相撲2001-07">{{Cite journal|和書|journal=相撲|title=平成13年夏場所 全力士星歴星取表<!--125-155頁-->|volume=50|page=149|date=2001-07-15|issue=7|publisher=ベースボール・マガジン社}}} - 通巻:第668号(2001年7月[[2001年の相撲#七月場所(名古屋場所)|同年7月場所]]展望号)。</ref>、[[2001年の相撲#七月場所(名古屋場所)|同年7月場所]]では西序ノ口4枚目に降格<ref name="月刊相撲2001-09"/>。同場所および[[2001年の相撲#九月場所(秋場所)|秋場所]](西序ノ口12枚目)は3勝4敗8休の成績で<ref name="月刊相撲2001-09">{{Cite journal|和書|journal=相撲|title=平成13年名古屋場所 全力士星歴星取表<!--125-155頁-->|volume=50|page=151|date=2001-09-15|issue=9|publisher=ベースボール・マガジン社}}} - 通巻:第670号(2001年9月[[2001年の相撲#九月場所(秋場所)|秋場所]]展望号)。</ref><ref name="月刊相撲2001-11">{{Cite journal|和書|journal=相撲|title=平成13年秋場所 全力士星歴星取表<!--125-154頁-->|volume=50|page=151|date=2001-11-15|issue=11|publisher=ベースボール・マガジン社}} - 通巻:第672号(2001年11月[[2001年の相撲#十一月場所(九州場所)|九州場所]]展望号)。</ref>、[[2001年の相撲#十一月場所(九州場所)|九州場所]](東序ノ口15枚目)は全休した<ref>{{Cite journal|和書|journal=相撲|title=平成13年九州場所 全力士星歴星取表<!--94-123頁-->|volume=51|page=121|date=2002-01-15|issue=1|publisher=ベースボール・マガジン社}} - 通巻:第674号(2002年1月[[2002年の相撲#一月場所(初場所)|初場所]]展望号)。</ref>。同場所後の同年11月28日付で力士を引退し<ref name="月刊相撲2002-01"/>、大牟田に帰郷した<ref name="毎日新聞2004-09-26"/>。通算成績は21勝35敗7休<ref name="月刊相撲2002-01">{{Cite journal|和書|journal=相撲|title=角界ニュース|volume=51|page=74|date=2002-01-15|issue=1|publisher=ベースボール・マガジン社}} - 通巻:第674号(2002年1月初場所展望号)。</ref>。 |
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2005年7月12日の公判で被告人K2が再び証人出廷した<ref name="朝日新聞2005-07-13">『朝日新聞』2005年7月13日朝刊福岡第一地方面31面「夫の被告が直接、妻の被告に質問 大牟田の4人殺害事件公判 /福岡県」</ref>。 |
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部屋関係者は事件後、K4について「筋がよくなかったのでやめさせた」と語っている<ref name="毎日新聞2004-10-03">『毎日新聞』2004年10月3日西部朝刊社会面26頁「福岡・大牟田の死体遺棄 家族ぐるみの凶行か--K兄弟「悪質」、不良らも嫌う 元力士 凶悪コンビ 姐さんの威圧」(毎日新聞西部本社)</ref>。一方、『産経新聞』ではK4が自ら引退を申し出たと報じている<ref name="産経新聞2004-09-26">『産経新聞』2004年9月26日大阪朝刊第一社会面「福岡の死体遺棄 K2容疑者の二男逮捕 女友達でトラブルか」(産経新聞大阪本社)</ref>。K4本人は鈴木智彦宛の手記で、相撲部屋では親方や兄弟子たちからよく世話をしてもらっており、後に獄中生活を送るようになってからも兄弟弟子たちとの付き合いが続いていると述べている{{Sfn|鈴木智彦|2017|p=20}}。その上で引退の理由については、引退した九州場所の際に首や腰を怪我し、それに加えて伯母の死や兄K3の傷害致死事件(前述)が重なったこと、そして自身の甘えが引退を後押ししたと述べている{{Sfn|鈴木智彦|2017|p=21}}。 |
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同日、被告人K1が妻K2に対し「事件は私が全部1人で実行したので、あなたと共謀した覚えはない。なぜ共謀したというのか」と直接質問すると、K2は一息置いて「私は嘘はついていません」と話した<ref name="朝日新聞2005-07-13"/>。また、K3の弁護人が、「『K3も計画に加わったことにする』物語を作り上げた」と主張したことについて、裁判官がK2に対し、「このような話をしたことがありますか」と尋ねると、K2は「ありません」と答えた<ref name="朝日新聞2005-07-13"/>。--> |
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一方で小野一光に対しては、面会の席で度々「自分の凶暴性は相撲部屋時代に身に付いたもの」などと語り{{Sfn|小野一光|2009|p=23}}、2009年(平成21年)1月19日付で送った小野宛の手記では{{Sfn|小野一光|2009|p=22}}、2000年10月ごろから2001年5月ごろにかけ、松ヶ根部屋の兄弟子3人(それぞれ当時[[十両]]、序二段、序ノ口){{Efn2|年齢は序ノ口・序二段の兄弟子がいずれも10歳代で、十両だった兄弟子は当時25歳{{Sfn|小野一光|2009|p=24}}。当時序ノ口だった1人は、2009年2月時点でも現役だった{{Sfn|小野一光|2009|p=23}}。}}とともに大麻やMDMA、LSDなどといった違法薬物を乱用していたことも明かしていた{{Sfn|小野一光|2009|p=23}}。また、所属当時の松ヶ根部屋では兄弟子たちによる(自身を含めた)未成年の弟弟子への飲酒強要や暴力行為、賭博などが横行していたとも証言している{{Sfn|小野一光|2009|pp=24-25}}。一方で名指しされた兄弟子(当時十両)は小野の取材に対し、大麻吸引の事実を否定した上で、K4(三池山)が当時常習的に喫煙していたこと、また何かあるとすぐに「俺の親父はヤクザや」と凄んで暴力沙汰を繰り返しており、自分たちから制裁されていたことを逆恨みしているのだろうと証言している{{Sfn|小野一光|2009|p=25}}。 |
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===== K4が証人出廷 ===== |
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2005年8月23日の公判で起訴事実を認めていた被告人K4が初めて証人出廷し、検察官から被害者Cの殺害について質問を受け「兄K3から、Cを殺害しA宅金を奪う計画を持ち掛けられた」「殺害を2人で実行し『このことは両親にも言うな。もし警察にばれたらお前が自首して「全部自分1人でやった」と言え』と言われた」と証言した<ref name="朝日新聞2005-08-24">『朝日新聞』2005年8月24日朝刊福岡第一地方面24面「K4被告、初の証言 大牟田事件公判 /福岡県」</ref>。 |
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==== 力士廃業後 ==== |
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2005年9月27日の公判で検察側証人として出廷したK4は主尋問にて「一連の犯行は家族4人全員で計画して行った。亡くなった被害者4人に申し訳ない」と謝罪の言葉を述べたほか、遺棄した遺体の発見を遅らせるため川に潜って遺体を探したことなどを証言した<ref name="朝日新聞2005-09-28">『朝日新聞』2005年9月28日朝刊福岡第一地方面31面「『4人で計画して実行』 K4被告、否認の兄批判 大牟田事件で地裁支部公判 /福岡県」</ref>。その上で父K1に対しては「息子であることを誇りに思うが正しいことを話してほしい」、K3に対しては「両親を踏み台にして自分だけ責任逃れしようとは人間失格だ。最後くらいはきちんとするのが社会に対してのけじめだ」と述べた<ref name="朝日新聞2005-09-28"/>。 |
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K4は18歳だった2003年4月、[[暴力行為等処罰ニ関スル法律|暴力行為等処罰に関する法律]]違反{{Efn2|知人女性が他の女性と揉めていたため怒鳴りつけたこと{{Sfn|集刑304号|2012|p=426}}。}}、覚せい剤取締法違反、[[大麻取締法]]違反、[[器物損壊罪|器物損壊]]{{Efn2|交番のガラスを割ったこと{{Sfn|集刑304号|2012|p=426}}。}}の4つの罪で中等少年院送致の保護処分を受けた{{Sfn|福岡高裁|2007|p=22}}。主な非行事実は覚せい剤取締法・大麻取締法違反で{{Sfn|集刑304号|2012|pp=322-323}}、同処分を受けた時点で、K4は「深刻な反社会性や無軌道な粗暴性や暴力団に対するあこがれといった問題点がある」と指摘されていた{{Sfn|福岡高裁|2007|p=22}}。 |
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友人によればK4は帰郷後、兄K3が入っていた「魔導神」という暴走族に入り、昼間は仲間たちと屯し、夜はバイクを乗り回すという生活を送っていた{{Sfn|週刊文春|2004|p=39}}。また本人の手記によれば廃業後、大牟田に帰郷してからは実家の会社で鳶職として半年弱働いたが、首と腰の具合が悪かったことや、17歳になることから単車の免許を取ることを決め、退職した{{Sfn|鈴木智彦|2017|p=21}}。その後、被害者A2らとともに「族・神鬼狼(ぞく・しんきろう)」という暴走族を結成し、愚連隊のように過ごしていたが、やがて「気持ちを切り替えようと」父K1の北村組に入り、組の準構成員として過ごした{{Sfn|鈴木智彦|2017|p=21}}。未成年者を組員登録すると[[児童福祉法]]に抵触するため、形式上は見習い(準構成員)として扱われていたが、実質は正式な組員と変わらない生活をしていた{{Sfn|鈴木智彦|2017|p=18}}。地元の暴走族の1人は、自身の知り合いが深夜、[[三池港]]近くの公園でK4に両手首を縛られて車で引きずり回されたことや、K4のグループがよく女性を輪姦していたということを証言している{{Sfn|週刊新潮|2004|p=159}}。また地元住民や友人からは、よく「女とホテルで寝てきた」「おじちゃん、中学生の女を紹介しようか?」「毎日違う女と寝ている」などと自慢していたことも証言されている{{Sfn|週刊文春|2004|p=39}}。一方、事件当時K4と交際しており、事件後にK4からの頼みを受けて小野一光が取材した少女(小野と出会った当時は17歳)はK4と出会ったきっかけについて、無理矢理車に乗せられて強姦されたことであったが、その後車で色々な場所に連れて行ってもらったり、食事を奢ってもらったりしたことで好意を抱き、交際に至ったと述べている{{Sfn|小野一光|2018|p=80}}。 |
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===== K3への被告人質問 ===== |
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2006年2月7日、被告人K3の公判で捜査段階の供述の任意性について被告人質問が行われ、K3は弁護人の質問に対し捜査段階で死体遺棄容疑を認めていたことについて「検察官がシャープペンシルで下書きした書類をボールペンでなぞった。『内縁の妻が別れると言った』と聞きショックで『否認しても無駄だ』と思った。検察官から『犯行を認めれば内縁の妻の接見禁止は解除する』と言われ、嘘の供述をした」と述べた<ref name="朝日新聞2006-02-08">『朝日新聞』2006年2月8日朝刊福岡第一地方面23面「供述任意性で被告人質問 大牟田事件、K3被告に /福岡県」</ref>。 |
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その後、わがままな性格や遊び癖が治らなかったことから、父K1に怒られたり対立したりするようになり、最終的には他組織の大親分(K1の兄弟分の組長)に部屋住みとして約1年間預けられた{{Sfn|鈴木智彦|2017|p=22}}。部屋済みを終えて北村組に帰ると、18歳になったK4は上部組織の本部当直や、総長宅の本家当直を務めるようになったが、このころには女子中高生の売春チームとともにシノギとして、K1には内緒で覚醒剤などの密売(暴走族時代に始めていた)を行っていた{{Sfn|鈴木智彦|2017|p=22}}。薬物売買をシノギとしている暴力団でも、自分たちで薬物を使用することは「御法度」とされているため{{Efn2|薬物売買は体面が悪いため、暴力団の世界でも自ら薬物を使用することは「御法度」とされているが{{Sfn|鈴木智彦|2017|p=29}}、商品の純度を確認するため、自らの身体に薬物を試し打ちすることがあり、薬物売買を行っている組にはそのような役割を果たす組員がいることもあった{{Sfn|鈴木智彦|2017|p=30}}。}}{{Sfn|鈴木智彦|2017|p=29}}、以前にもそれが発覚して銃や刃物沙汰になったことがあったが、表向きのシノギ(テキ屋の射的、車売り、違法売買など)より儲かるという理由で、K4はシノギとして薬物売買をを行っていた{{Sfn|鈴木智彦|2017|pp=22-23}}。また、このころには「初めて心から惚れ、愛した」女性ができ、彼女とともに真面目に暮らすため、カタギになることも考えたという{{Sfn|鈴木智彦|2017|p=23}}。しかしそのころ、福岡県警がK4の関係者のところへ家宅捜索に入り、覚醒剤や大麻を押収したため、誰かが身代わり出頭せざるを得なくなったことから、K4は父親の希望や、暴力団世界の仁義関係から自らが身代わりになることを決意した{{Sfn|鈴木智彦|2017|p=23}}。K4は出頭前に一暴れしようと考え、仲間たちとともに一夜で大牟田近辺の交番などを49軒襲撃したり、自転車の通行人を故意にひき逃げしたりなどの事件を起こし、18歳の終わりに初めて逮捕されてから何回か再逮捕される{{Sfn|鈴木智彦|2017|p=24}}。K4は一連の事件について、第一審の第23回公判でそれぞれ以下のように述べている。 |
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===== K1への被告人質問 ===== |
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{{Quotation|被告人の少年時代の事件について |
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2006年4月18日、K1・K3両被告人の公判で被告人K1に対し被告人質問が行われた<ref name="朝日新聞2006-04-19">『朝日新聞』2006年4月19日朝刊福岡第一地方面25面「K1被告『1人でやった』 大牟田4人殺害事件 /福岡県」</ref>。 |
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* 被告人K1は弁護人の質問に対し家族との共謀を否定した上で「全て1人でやった」と従来通りの主張を繰り返した<ref name="朝日新聞2006-04-19"/>。 |
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* また分離公判中の妻K2・次男K4の両被告人がそれぞれ起訴事実を認めている点について「(2人は)自分を庇って、『やった』と言っている。息子が人を殺すわけがない」と話した<ref name="朝日新聞2006-04-19"/>。 |
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2006年4月25日にも被告人K1に対し被告人質問が行われ、K1は被害者Aの殺害について強盗目的を否定した上で「Aの態度が気に入らず殺した。金品を奪う目的はない」と話した<ref name="朝日新聞2006-04-26">『朝日新聞』2006年4月26日朝刊福岡第一地方面27面「母・次男、来月2日に論告 4人殺害一家 福岡・大牟田 【西部】」</ref>。 |
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(1) 1つ目の暴力行為等処罰に関する法律違反事件については、共犯者とされる人物が警察に出頭せず逃亡したため、全部被告人のせいでよいということを共犯者に伝えたため、被告人が責任を取ったものである。 |
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===== K3への被告人質問 ===== |
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2006年5月16日、K1・K3両被告人の公判で被告人K3に対し弁護人からの被告人質問が行われた<ref name="朝日新聞2006-05-17">『朝日新聞』2006年5月17日朝刊第一社会面31面「K3被告が共謀改めて否定 大牟田4人殺害公判 /福岡県」</ref>。 |
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* 被告人K3は被害者Aを「自分が殺す」と語ったことについて「『Aが知人の工務店に支払いをしないのは母K2の説得力が弱いからだ』と考え、母K2を本気にさせようとしただけだ」と述べ、改めて共謀を否定した<ref name="朝日新聞2006-05-17"/>。 |
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2006年5月30日に被告人K3は被告人質問で「2004年9月18日未明、K1ら他の被告人3人が被害者Aの殺害を話し合っていた際、自分は部屋の外で仕事の電話をかけていた」としてアリバイを主張したほか、Aが殺害された時についても「弁当屋・ファミリーレストランに行った後、実家でビデオを見ていた。3人が何をしているのか知らなかった」などと述べ、改めて関与を否定した<ref name="朝日新聞2006-05-31">『朝日新聞』2006年5月31日朝刊福岡第一地方面31面「長男のK3被告、アリバイ主張 大牟田連続殺人公判 /福岡県」</ref>。 |
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(2) 2つ目の薬物事件については、身代わりで罪をかぶったものである。 |
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2006年6月27日、K3は高原正良裁判長から被告人質問で「死刑を求刑されたK2・K4両被告人はともに『K3も共犯だ』と証言している。2人は極刑を受ける可能性も出てくるあなたの立場もわかっているはずだが、なぜあなたの言う事実と違うことを言うのか」と質問されると「自分は正直に言っているだけだ。K2・K4は犯行に私を含めることで無期懲役になると思っているのではないか?」と話した<ref name="朝日新聞2006-06-27">『朝日新聞』2006年6月28日朝刊福岡第一地方面31面「長男のK3被告、アリバイ主張 大牟田連続殺人公判 /福岡県」</ref>。 |
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(3) 3つ目の器物損壊事件については、調書上は被告人の指示に基づく事件とされているが、最初はゴム銃を貸して欲しいと言われただけにとどまり、運転手がいないため、被告人が運転をするに至ったのである |
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2006年9月19日、K1・K3両被告人の公判で被害者遺族2人が意見陳述し、それぞれ両被告人の極刑を求めた<ref name="朝日新聞2006-09-20">『朝日新聞』2006年9月20日朝刊第二地方面30面「大牟田4人殺害、遺族が意見陳述 【西部】」</ref>。 |
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|上告趣意書(K4の弁護人:福島昭宏・松井仁)|{{Sfn|集刑304号|2012|pp=312-313}}}} |
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===== K1・K3に死刑求刑 ===== |
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この結果、K4は彼女とも別れることになり、大分少年院に送致されたが、そこでも喧嘩や職員への暴力沙汰を繰り返し、常に独居房での単独処遇を受けていたと語っている{{Sfn|鈴木智彦|2017|p=24}}。一方で在院時代には、当時孤立していた少年{{Efn2|この少年は新入りだった{{Sfn|集刑304号|2012|p=326}}。}}に声をかけるなどして優しくしたことで彼と親友になり{{Sfn|集刑304号|2012|p=319}}、彼が自分より遅れて退院した際には、先に退院した自分が前日に交通事故で負傷して大変な状況であったにもかかわらず、出迎えに行ったこともあった{{Sfn|集刑304号|2012|p=326}}。事件後、K4は彼が事件を起こして福岡拘置所にいることを知り、頻繁に手紙のやり取りをしていた{{Sfn|集刑304号|2012|p=319}}。また[[少年鑑別所]]技官は、K4は「暴力団の組長である父親や、建設会社を切り盛りする母親に対して、畏怖または畏敬の念を抱いていた」と分析している{{Sfn|集刑304号|2012|p=322}}。 |
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2006年10月24日福岡地裁久留米支部(高原正良裁判長)にて第31回公判となる論告求刑公判が開かれ、福岡地検久留米支部は両被告人に死刑を求刑した<ref name="読売新聞2006-10-25">『読売新聞』2006年10月25日西部朝刊第一社会面35面「大牟田4人殺害 父と長男に死刑求刑 検察側『自己中心的で凶悪』/福岡地裁」</ref><ref name="朝日新聞2006-10-25">『朝日新聞』2006年10月25日西部朝刊第一社会面29面「父・長男に死刑求刑 検察『2人の主張不合理』 大牟田4人殺害 【西部】」</ref>。 |
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逮捕から約1年半後の2004年5月6日、K4は大分少年院を退院して実家に帰った{{Sfn|鈴木智彦|2017|p=24}}。その直後、K4は北村組に加入しており{{Sfn|福岡高裁|2007|p=22}}、友人に対し「将来組長になる」と言って暴力団に入るよう勧誘もしていた{{Sfn|週刊文春|2004|p=39}}。 |
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2006年11月28日、福岡地裁久留米支部(高原正良裁判長)にて第32回公判(弁護人の最終弁論)が行われ、2人の弁護人がそれぞれ死刑回避を求め結審した<ref name="読売新聞2006-11-29">『読売新聞』2006年11月29日西部朝刊第一社会面39面「大牟田連続殺人最終弁論 長男は無罪主張 父側は死刑回避求める/福岡地裁支部」</ref><ref name="朝日新聞2006-11-29">『朝日新聞』2006年11月29日朝刊第一社会面35面「父・長男の判決、来年2月27日 大牟田4人殺害事件 【西部】」</ref>。 |
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==== 外部との交流 ==== |
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K4は上告中の2008年5月30日付で書いた手記を{{Sfn|鈴木智彦|2010|p=209}}、『実話マッドマックス』編集部宛に送っていた{{Sfn|鈴木智彦|2010|p=223}}。鈴木はK1一家と関係のあった暴力団員や地元の関係者から取材を重ね{{Sfn|鈴木智彦|2010|p=201}}、その取材内容を手記に加筆した上で{{Sfn|鈴木智彦|2017|p=15}}、同誌2008年8月号から2010年1月号まで「我が人殺し半生」と銘打った記事を連載していた{{Sfn|鈴木智彦|2010|p=223}}。その連載中に記事内容をめぐってK4本人から抗議がなされたため、鈴木は福岡拘置所でK4と面会して、その後も数回にわたってK4と記事内容に関する打ち合わせを行っている{{Sfn|鈴木智彦|2017|pp=13-15}}。K4は鈴木に記事を出させるにあたり、共犯者(両親と兄K3)のことは書かないこと、また家族に面会・取材しないことを条件として挙げていたが、事件を取り上げる上で前者について割愛すると不自然な内容になるため、前者については鈴木との交渉を経て「事件の経過を説明する最低限だけは認める」と条件を緩和している{{Sfn|鈴木智彦|2017|p=15}}。鈴木は2010年、前述の連載内容をまとめた単行本『我が一家全員死刑』を[[コアマガジン]]から出版している([[#事件を題材とした作品]]、[[#書籍|「参考文献」節]]も参照)。 |
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[[2007年]](平成19年)2月27日判決公判が開かれ、福岡地裁久留米支部(高原正良裁判長)は父親K1・長男K3両被告人に対し、いずれも福岡地検久留米支部の求刑通り死刑判決を言い渡した<ref name="読売新聞2007-02-28 西部朝刊1面">『読売新聞』2007年2月28日西部朝刊1面「福岡・大牟田4人殺害 父、長男にも死刑 一家4人の共謀認定/地裁久留米判決」</ref><ref name="読売新聞2007-02-28 西部朝刊社会面">『読売新聞』2007年2月28日西部朝刊第一社会面35面「福岡・大牟田4人殺害死刑 父ぼうぜん、長男ため息 遺族『憎しみでいっぱい』」</ref><ref name="読売新聞2007-02-28 東京朝刊">『読売新聞』2007年2月28日東京朝刊第二社会面38面「大牟田4人殺害 夫・長男も死刑判決 妻・二男に続き/福岡地裁支部」</ref><ref name="東京新聞2007-02-28">『東京新聞』2007年2月28日朝刊第一社会面27面「元組幹部、長男にも死刑 福岡4人殺害 地裁支部判決 極刑、一家4人全員に」</ref><ref name="朝日新聞2007-02-28 西部朝刊">『朝日新聞』2007年2月28日朝刊第一社会面35面「一家の凶行、代償は命 大牟田4人殺害で死刑判決 【西部】」</ref><ref name="朝日新聞2007-02-28 福岡">『朝日新聞』2007年2月28日朝刊福岡県第一地方面31面「傍聴席数の8倍、人の列 大牟田の4人殺害事件、父・長男にも死刑判決 【西部】」</ref><ref name="朝日新聞2007-02-28 東京朝刊">『朝日新聞』2007年2月28日朝刊第一社会面39面「父・長男も死刑判決 地裁『一家4人共謀』福岡4人殺害」</ref>。福岡地裁久留米支部は一連の犯行を「人命を軽視した冷酷・残忍な犯行で、極刑をもって臨むほかない」と非難した<ref name="読売新聞2007-02-28 西部朝刊1面"/>。 |
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鈴木はK4が事件後、積極的にマスコミと接触して自身の事件などについて語ってきた理由について、K1一家が上部団体から見放され、面会や差し入れがなされなくなっている([[#一家4人を逮捕|前述]])ことから、獄中生活を送る間に購入する菓子・はがき・日用品などの代金を稼ぐため、その役目を一手に引き受けたK4が執筆によって得た原稿料を家族に分け与えているためだと評している{{Sfn|鈴木智彦|2017|p=194}}。鈴木はその点からK4を「どこまでも家族思いの息子」「我々と変わらぬ人間らしい感情はふんだんに持っている」と評しつつ{{Sfn|鈴木智彦|2017|p=194}}、自身が面会した際の印象から「実直な青年に見えた」とも評している{{Sfn|鈴木智彦|2017|p=14}}一方、「家族が生きるためなら、他人の生命さえ奪ってもかまわない」という反社会的な価値観も併せ持っていることを指摘している{{Sfn|鈴木智彦|2017|pp=194-195}}。K4は福岡拘置所で鈴木と面会した際、被害者たちへの謝罪の念について問われると以下のように返答している。 |
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これにより、犯行に関与した一家4人がいずれも死刑判決を受ける<ref name="読売新聞2007-02-28 西部朝刊1面"/>前代未聞の事態となった<ref name="週刊朝日2007-03-16">{{Cite journal|和書|journal=[[週刊朝日]]|author=|title=凶悪 福岡4人殺しで一家全員「死刑」|page=163|date=2007-03-16|volume=112|issue=13|publisher=[[朝日新聞社]]|language=ja}}(※通号4805号・2007年3月16日号)</ref>。 |
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{{Quotation|(被害者たちを)かわいそうだとは思いますが、申し訳ないとは思ってないです。殺されたのも運命、私が死刑になるのも運命。それに私はヤクザです。親分の命令は絶対なんです|K4|鈴木智彦 (2017) {{Sfn|鈴木智彦|2017|p=195}}}} |
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* 被告人K1は判決を不服として同日付で福岡高裁に控訴した<ref name="読売新聞2007-02-28 西部朝刊1面"/><ref name="朝日新聞2007-02-28 福岡"/><ref name="朝日新聞2007-02-28 東京朝刊"/>。 |
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また、K4は死刑確定まで小野一光とも面会や文通などの交流を続けていた{{Sfn|小野一光|2018|p=75}}。小野は事件直後から週刊誌(『FRIDAY』、[[#雑誌記事|参考文献]]も参照)に本事件の取材記事を掲載しており{{Sfn|小野一光|2019|p=18}}、第一審の初公判や論告求刑公判といった節目となる公判も傍聴していた{{Sfn|小野一光|2018|p=61}}。K2・K4への判決公判を5日後に控えた2006年10月12日、小野は福岡拘置所でK4と初めて面会したが{{Sfn|小野一光|2019|p=12}}、これはK4が弁護士を通じて、先述の週刊誌編集部に「話したいことがある」と連絡してきたために実現したものだった{{Sfn|小野一光|2019|p=18}}。K4は当初、小野を威嚇するような言動を取っていたが{{Sfn|小野一光|2019|p=12}}、小野は冷静にK4の言い分を聞き出そうとし、その後も死刑が確定するまで面会などの交流を続けた{{Sfn|小野一光|2019|p=40}}。小野はその過程で、K4の希望する物品(暴力団関連の記事を掲載した雑誌、衣類など)を差し入れたり{{Sfn|小野一光|2019|p=19}}、K4が彫師を目指していることを聞いて彼が描いていた刺青の下絵を雑誌に掲載するよう掛け合ったりもしている{{Sfn|小野一光|2018|p=61}}。また、小野は事件前からK4を恐れていた大牟田市内の不良少年たち{{Sfn|小野一光|2018|p=61}}、K4を取り調べた福岡県警の刑事{{Sfn|小野一光|2019|p=28}}、控訴審・上告審でK4の弁護人を担当した弁護士の松井仁{{Sfn|小野一光|2019|p=32}}、そして被害者遺族であるBの母親{{Sfn|小野一光|2019|p=36}}といった事件の関係者たちを取材している。 |
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* 被告人K3も2007年3月1日付で判決を不服として福岡高裁に控訴した<ref name="読売新聞2007-03-02">『読売新聞』2007年3月2日西部朝刊第二社会面30面「大牟田4人殺害 K3被告も控訴/福岡高裁」</ref><ref name="朝日新聞2007-03-02">『朝日新聞』2007年3月2日朝刊第一社会面31面「長男も控訴 大牟田4人殺害 【西部】」</ref>。 |
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K4は小野に対し、殺害を実行していた際の自身の心理について、腕に留まった蚊を叩き殺すようなものであると説明していた{{Sfn|小野一光|2008|p=89}}{{Sfn|小野一光|2018|pp=69-70}}。小野は面会室では親身になってK4から言い分を聞き出した一方、自身が執筆した雑誌記事では「犯行を反省しているような素振り」「身勝手な主張」などといった厳しい言葉で犯行を批判することも、K4に断りを入れて了承を得ており{{Sfn|小野一光|2018|pp=72-73}}、面会を続けるうちに、K4からは「小野さん」から「一光さん」と下の名前で呼ばれるようになっていた{{Sfn|小野一光|2018|p=79}}。またK4からの依頼を受け、事件前にK4と交際していた少女や{{Sfn|小野一光|2018|pp=78-79}}、同じく福岡拘置所に収監されていた母K2とも面会しており{{Efn2|K4は初めて小野と面会した当時、「俺が家族の窓口になる」と言って両親や兄K3との面会には勝手に行かないよう厳命していた{{Sfn|小野一光|2018|p=81}}。}}、同時にK4から託されたK2の手記{{Sfn|小野一光|2018|pp=81-82}}も雑誌記事にしている{{Sfn|小野一光|2018|p=86}}。最後の面会は上告棄却判決後の2011年10月(死刑が正式に確定し、親族など以外と面会できなくなる期日の直前)であったが、K4はその際にも将来やりたいこと(弁護士の協力を得て雑誌を制作することなど)を語っており、面会終了時には目に涙を浮かべながら小野に深々と礼をしていた{{Sfn|小野一光|2018|pp=94-95}}。小野は当時の出来事について、凶悪犯との別れに胸が締め付けられるという経験は初めてだったと述べている{{Sfn|小野一光|2018|p=95}}。死刑確定後はK4との面会や当人同士の直接の文通はできなくなったが、その後も小野宛には代理人を通じてK4からの暑中見舞いや年賀状が送られているという{{Sfn|小野一光|2018|p=75}}。 |
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=== 控訴審・福岡高裁 === |
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==== K2・K4の審理 ==== |
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===== 控訴審初公判 ===== |
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2007年6月5日、母親K2・次男K4両被告人の控訴審初公判が[[福岡高等裁判所]](正木勝彦裁判長)で開かれた<ref name="読売新聞2007-06-06">『読売新聞』2007年6月6日西部朝刊第二社会面30面「大牟田4人連続殺人公判 K2、K4被告に無期懲役求める/福岡高裁」</ref><ref name="朝日新聞2007-06-06">『朝日新聞』2007年6月6日朝刊第三社会面25面「二審、無期を主張 大牟田・4人殺害、母と次男の弁護側【西部】」</ref>。 |
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* 両被告人それぞれの弁護人はそれぞれ「従属的な立場だった」と主張し、死刑判決を[[取消し|破棄]]し無期懲役を適用するよう訴えた<ref name="読売新聞2007-06-06"/><ref name="朝日新聞2007-06-06"/>。 |
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* 検察側([[福岡高等検察庁]])は「第一審・死刑判決は妥当である」と主張し、両被告人・弁護人側の控訴をいずれも棄却するよう求めた<ref name="読売新聞2007-06-06"/><ref name="朝日新聞2007-06-06"/>。 |
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K4は小野宛の手記で、組長でもある父K1を「親父」、母K2を「姐」とそれぞれ呼んだ上で、2人とも被害者4人のうち1人 (A3) の殺害に関与していないことや、K2は殺害の実行行為に加担していないことを理由に、いずれも無期懲役刑が相当であると主張していた{{Sfn|小野一光2|2008|p=79}}。一方で兄K3については「今件一番の原因」「全ての元凶」と位置づけ{{Sfn|小野一光2|2007|p=79}}、「極道、一侠としてのクズ」「天地無用の不義理者」と激しい非難の言葉を並べた上で、自身とともに死刑になるべきだと主張していた{{Sfn|小野一光2|2008|p=79}}。ただし、死刑確定後の2014年にはK4がK3の[[再審]]請求を支援しようとしていたことが判明している([[#国家賠償請求訴訟|後述]]){{Sfn|福岡県弁護士会|2018|p=13}}。 |
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===== K2・K4の死刑判決支持 ===== |
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2007年12月25日に控訴審判決公判が開かれ、福岡高裁(正木勝彦裁判長)は第一審・死刑判決を支持して母親K2・次男K4両被告人の控訴をいずれも[[棄却]]する判決をそれぞれ言い渡した<ref name="読売新聞2007-12-25 西部夕刊">『読売新聞』2007年12月25日西部夕刊第一社会面9面「大牟田4人殺害 母・二男、2審も死刑判決 減刑の主張退ける/福岡高裁」</ref><ref name="読売新聞2007-12-26 西部朝刊">『読売新聞』2007年12月26日西部朝刊第一社会面27面「大牟田4人殺害2審も断罪 母と二男に死刑判決 福岡高裁『人命軽視』」</ref><ref name="読売新聞2007-12-26 東京朝刊">『読売新聞』2007年12月26日東京朝刊第二社会面30面「大牟田4人殺害 母と二男、2審も死刑/福岡高裁」</ref><ref name="朝日新聞2007-12-26 西部朝刊">『朝日新聞』2007年12月26日朝刊第一社会面29面「母・次男、二審も死刑 福岡高裁『積極的に役割』 大牟田4人殺害【西部】」</ref><ref name="朝日新聞2007-12-26 東京朝刊">『朝日新聞』2007年12月26日朝刊第二社会面30面「母親と次男、二審も死刑 福岡4人殺害、高裁判決」</ref><ref name="毎日新聞2007-12-26 西部朝刊">『毎日新聞』2007年12月26日西部朝刊第一社会面25面「福岡・大牟田の4人殺害:『人命軽視甚だしい』 妻、次男の死刑支持--福岡高裁」(記者:石川淳一)</ref>。 |
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また、被害者4人のうちA2・A3兄弟やBに対しては謝罪の意思があることを表明していた一方、「まだ謝りたくない相手もおる」として、A1に対する謝罪の言葉は書いていなかった{{Sfn|小野一光2|2008|p=79}}。その後、2011年の上告審判決後には小野宛の手紙で、自らが死刑に処されることは相応だと思っており、死に対する恐怖心はない旨を述べた上で、締めくくりに「事件、己の行いに後悔はないが、我が手に掛けて殺めた被害者四名へ、今ここに心より手を合わせたい思いです。合掌。」と綴っている<ref>{{Cite journal|和書|journal=[[週刊朝日]]|author=小野一光|title=週刊朝日新聞 手記 福岡・大牟田4人殺害事件の実行犯が綴った「死刑と不敵」|volume=116|page=154|date=2011-11-04|issue=53|pages=|publisher=[[朝日新聞出版|朝日新聞社出版部]]}} - 通巻:第5099号(2011年11月4日増大号)。</ref>。 |
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福岡高裁は冒頭で控訴棄却の[[主文]]を読み上げてから[[判決理由]]の朗読に入り<ref name="毎日新聞2007-12-26 西部朝刊"/>、「被害者Aへの憤りを晴らし生活苦を一気に解消しようとそれぞれ重要な役割を果たした」「人命軽視の態度が甚だしく死刑が重すぎて不当とは言えない」と事実認定した<ref name="朝日新聞2007-12-26 西部朝刊"/>。閉廷後、被告人K4は弁護人に対し突然「先生、[[メリークリスマス]]!」と叫び<ref name="毎日新聞2007-12-26 西部朝刊"/><ref name="朝日新聞2007-12-26 西部朝刊"/>退廷した<ref name="読売新聞2007-12-26 西部朝刊"/>。 |
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死刑確定直前の2011年10月に福岡拘置所でK4と面会した岸達也(『毎日新聞』記者)は、K4の生育環境が暴力団と身近なものだったことに言及し、仮に生育環境が違えば事件を起こさなかったのではないかと指摘している<ref>『毎日新聞』2011年11月29日西部朝刊福岡地方版21頁「記者有情:2世 /福岡」(毎日新聞西部本社【岸達也】〔福岡都市圏版〕)</ref>。 |
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被告人K4は2007年12月27日付で控訴審判決を不服として[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]へ[[上告]]したほか<ref name="読売新聞2007-12-27">『読売新聞』2007年12月27日西部朝刊第三社会面25面「福岡・大牟田4人殺害 K4被告が上告」</ref>、被告人K2も2007年12月28日付で最高裁へ上告した<ref name="読売新聞2007-12-28">『読売新聞』2007年12月28日西部朝刊第三社会面25面「福岡・大牟田4人殺害 K2被告も上告」</ref>。 |
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== 死刑確定後 == |
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=== 福島瑞穂が実施したアンケートに対する回答 === |
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===== 控訴審初公判 ===== |
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2011年6月20日 - 8月31日に[[福島瑞穂]]([[参議院]][[日本の国会議員|議員]])が、[[日本における死刑囚|死刑確定者]]120人(2011年6月20日時点)を対象に実施したアンケート{{Efn2|2011年12月時点で新たな死刑確定者にも同様のアンケートを送付している{{Sfn|フォーラム90|2012|p=10}}。}}{{Sfn|フォーラム90|2012|pp=10-12}}に対し、K2とK4(ともに福岡拘置所在監)の2人が回答している{{Sfn|フォーラム90|2012|pp=123-124}}。K2は死刑執行は受け入れるつもりでいるものの、身辺整理や心の準備のために執行の予告を希望するという旨や、死刑確定後に夫K1と息子K3がそれぞれ広島拘置所や大阪拘置所に移送され、自身も処遇が厳しくなった(それまで特別に認められていた次男K4との金品のやり取りができなくなった)ことを訴えている{{Sfn|フォーラム90|2012|pp=123-124}}。一方でK4は、[[接見交通権|外部交通権]]や親族権が認められなかったり、拘置所によって[[再審]]請求費用を工面するために行っている文書・図画の執筆や発表など(K4曰く「社会的職務」)を禁じられていることなどを訴え、以下のように述べている{{Sfn|フォーラム90|2012|p=124}}。 |
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2007年10月11日、父親K1・長男K3両被告人の控訴審初公判が福岡高裁(正木勝彦裁判長)で開かれた<ref name="読売新聞2007-10-12">『読売新聞』2007年10月12日西部朝刊第一社会面31面「大牟田4人殺害控訴審初公判、父が共謀認める/福岡高裁」</ref><ref name="朝日新聞2007-10-12">『朝日新聞』2007年10月12日朝刊第二社会面34面「家族と共謀、一転認める 大牟田4人殺害の控訴審で父親 【西部】」</ref>。 |
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{{Quotation|どうかどうか、権利とか大それた事言えない立場なのですが、死刑、死す時までの間を、普通に生き、生活できるようにしてほしいです。|死刑囚K4|死刑廃止国際条約の批准を求めるフォーラム90『死刑囚90人 とどきますか、獄中からの声』 (2012) |{{Sfn|フォーラム90|2012|p=124}}}} |
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* 第一審で自らの単独犯行を主張していた被告人K1は、他3被告人との共謀関係を一転して認めた一方で「金品を奪うつもりはなかった。死刑は相当ではない」として、強盗目的を認定した第一審判決に対する事実誤認を主張した上で、死刑判決を破棄し無期懲役刑を適用するよう訴えた<ref name="読売新聞2007-10-12"/><ref name="朝日新聞2007-10-12"/>。 |
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* 被告人K3は「有罪と認定するには証拠不十分だ」と主張して第一審と同様に無罪を主張した<ref name="読売新聞2007-10-12"/><ref name="朝日新聞2007-10-12"/>。 |
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一方で検察側(福岡高検)は「第一審・死刑判決は妥当である」として、両被告人・弁護人側の控訴をいずれも棄却するよう求めた<ref name="読売新聞2007-10-12"/>。 |
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2012年9月から11月にも、福島は死刑確定者全133人を対象としたアンケートを実施し{{Sfn|週刊ポスト|2013|p=14}}、先述の2人に加え、K3(大阪拘置所在監)含む78人{{Efn2|78人のうち、実名掲載に応じた人数はこの3人を含む70人{{Sfn|週刊ポスト|2013|p=172}}。}}が回答を寄せている{{Sfn|週刊ポスト|2013|pp=172-173}}。K4は前年と同様、拘置所から親族や再審請求のための弁護人も含めて外部交通権を厳しく制限されていることを訴えたほか{{Sfn|小野一光|2023|p=469}}、絞首刑に代わる死刑執行方法として、「薬物注射、自害(切腹、銃自害)など本人に選ばせるとよい」と回答しており、K2は死刑制度について「私は賛成とも反対とも言えません」と前置きした上で、以下のように回答している{{Sfn|週刊ポスト|2013|pp=170-171}}。 |
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2007年12月20日に控訴審第4回公判が開かれ結審した<ref name="読売新聞2007-12-21">『読売新聞』2007年12月21日西部朝刊第一社会面31面「大牟田4人連続殺人 父と長男の控訴審結審、3月27日に判決/福岡高裁」</ref>。K3の弁護人は「K3にはアリバイがあり犯行への関与は不可能だ」として、第一審同様一連の殺害行為についていずれも無罪を主張した<ref name="朝日新聞2007-12-21">『朝日新聞』2007年12月21日朝刊第三社会面29面「大牟田4人殺害、父と長男が結審 福岡高裁 【西部】」</ref>。 |
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{{Quotation|死刑という制度がある以上、それに逆う事ができないし、4人もの人の命を考えれば仕方ないのかと思うが、叶うものならば生きて償い祈りたい|死刑囚K2|『[[週刊ポスト]]』 (2013) |{{Sfn|週刊ポスト|2013|p=171}}}} |
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またK3は、1日に何回も死刑を執行される夢を見て起きる毎日が続いていることや、[[東日本大震災]]の被災地住民たちの境遇を考えれば、「自分が3食毎日食べていいのか」という悩みを有していることを訴えている{{Sfn|週刊ポスト|2013|p=20}}。 |
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[[2015年]](平成27年){{Efn2|アンケート送付は2015年5月で、回答の締切は7月末まで{{Sfn|年報・死刑廃止|2015|p=42}}。}}に「[[市民的及び政治的権利に関する国際規約の第2選択議定書|死刑廃止国際条約]]の批准を求めるフォーラム90」と福島が、死刑確定者127人{{Efn2|2015年7月時点での死刑確定者全130人のうち、執行停止中の1人([[袴田巌]])と、重篤な病人2人を除く人数{{Sfn|年報・死刑廃止|2015|p=41}}。うち、K2・K3・K4の3人を含む73人が回答した{{Sfn|年報・死刑廃止|2015|p=41}}。}}を対象に実施したアンケート{{Sfn|年報・死刑廃止|2015|pp=40-41}}に対しても、先述の3人が回答を寄せている{{Sfn|年報・死刑廃止|2015|pp=88-91}}。回答の要旨は以下の通りである。 |
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===== K1・K3の死刑判決支持 ===== |
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* K2 - 外に残してきた息子(三男)が同年1月8日に自殺した。そのショックで自身も自殺を考えたが、長男 (K3) ・次男 (K4) ・夫 (K1) ・娘から便りを受け取り、もう少ししっかり頑張って生きてみようと思った{{Sfn|年報・死刑廃止|2015|p=88}}。 |
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[[2008年]](平成20年)3月27日に控訴審判決公判が開かれ、福岡高裁(正木勝彦裁判長)は第一審・死刑判決を支持して父親K1・長男K3両被告人の控訴をいずれも棄却する判決をそれぞれ言い渡した<ref name="読売新聞2008-03-27 西部夕刊">『読売新聞』2008年3月27日西部夕刊第一社会面15面「大牟田4人殺害 元組長と長男、2審も死刑 控訴を棄却/福岡高裁」</ref><ref name="読売新聞2008-03-28 西部朝刊">『読売新聞』2008年3月28日西部朝刊第一社会面39面「大牟田4人殺害 父と長男、2審も死刑 福岡高裁が控訴棄却」</ref><ref name="読売新聞2008-03-28 東京朝刊">『読売新聞』2008年3月28日東京朝刊第一社会面39面「大牟田連続殺人 元組長と長男、2審も死刑判決/福岡高裁」</ref><ref name="朝日新聞2008-03-27 西部夕刊">『朝日新聞』2008年3月27日西部夕刊1面「父・長男、二審も死刑 大牟田・4人殺害で福岡高裁 【西部】」</ref><ref name="朝日新聞2008-03-28 西部朝刊">『朝日新聞』2008年3月28日朝刊第一社会面35面「『人命軽視で悪質』指摘 大牟田4人殺害、二審も死刑 【西部】」</ref><ref name="朝日新聞2008-03-28 東京朝刊">『朝日新聞』2008年3月28日朝刊第一社会面39面「父親と長男、二審も死刑 福岡・4人殺害事件で福岡高裁」</ref>。 |
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* K3 - 現在、両親 (K1・K2) と弟 (K4) が自分の無実を訴え、支援者もつけずに自費で再審請求を行っているが、資金に困っている。死刑囚に弁護人の支援をしてほしい。また、検察が押収証拠品を開示しないので、我々死刑囚にも証拠リスト一式を開示させる法律がほしい。死刑囚は外部に声を発信する機会がないので、アンケートはもっと短い間隔で行ってほしい{{Sfn|年報・死刑廃止|2015|pp=90-91}}。 |
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* 被告人K1は同判決同日の2008年3月27日に判決を不服として最高裁へ上告したほか<ref name="読売新聞2008-03-29">『読売新聞』2008年3月29日西部朝刊第二社会面25面「福岡・大牟田4人殺害 元組長側が上告」</ref>、被告人K3の弁護人も2008年3月31日付で最高裁へ上告した<ref>『[[西日本新聞]]』2008年4月1日朝刊第19版第二社会面(事件・人・話題)30頁「大牟田4人連続殺害 K3被告が上告」</ref>。 |
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* K4 - 外部交通権を不当または違法に厳しく制限されるなど、施設の処遇が著しく悪化している。死刑確定者は刑の執行だけが「罰」であり、執行までの間は受刑罰ではないので、制限を緩和すべきである{{Sfn|年報・死刑廃止|2015|pp=88-90}}。 |
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=== K4の養子縁組 === |
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K4は第一審判決を言い渡される直前から、刺青の彫師になりたいと話しており、小野を通じて自身が手掛けていた刺青の下絵を雑誌で公開してもらったり{{Efn2|『FRIDAY』の記事で公開されている{{Sfn|小野一光|2008|pp=88-89}}{{Sfn|小野一光2|2008|pp=78-79}}。}}、刺青の下絵画集などを[[自費出版]]で発売したりといった活動をしていた{{Sfn|小野一光|2023|p=466}}。後者の画集は、それまでに描いた刺青の下絵100枚のうち80枚をまとめたもので{{Sfn|小野一光|2008|p=89}}、弁護人の松井仁と共同で制作したものである{{Sfn|小野一光|2019|p=33}}。同書は2007年秋に『証』という書名で上梓され{{Sfn|小野一光|2008|p=89}}、5,500円の寄付をした人物に配布されていた{{Sfn|小野一光2|2008|p=78}}。K4は同書に以下のような序文を寄せている。 |
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==== 最高裁第二小法廷(K2・K4) ==== |
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{{Quotation|私は今、重罪を犯し「死刑」の判決を受けている「死刑囚」である。そして今、福岡拘置所内にてこの下絵を書き続けています。私に残された少ない時間の中で、私の愛する日本の伝統刺青を極めんが為、日々修行に精進している。又、この下絵集を作るに当たって、私は「死刑」とは言え、ここに「私」という一人の男がたしかに存在していたことの「証」としたい|犯人K4|K4『証』 (2007) 序文{{Sfn|小野一光|2018|p=90}}}} |
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[[2011年]](平成23年)4月15日までに[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]第二[[小法廷]]([[須藤正彦]]裁判長)は母親K2・次男K4の両被告人について、上告審[[口頭弁論]]公判の開廷期日を2011年9月9日に指定した<ref>『読売新聞』2011年4月16日西部朝刊第三社会面29面「4人殺害 9月口頭弁論」</ref>。 |
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またK4は2009年 - 2011年にかけ、画集出版などに協力した弁護人の協力を得た上で、彫師としての活動がきっかけで知り合った人物3人と養子縁組を行っている{{Sfn|小野一光|2023|pp=466-468}}。 |
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K4は上告中、自身と同い年である[[東海地方]]出身の男性・甲(ただし、誕生日はK4より後)から連絡を寄せられた{{Sfn|小野一光|2023|p=466}}。甲は刺青の彫師になることを希望していたことからK4と知り合いになり、やがてK4に弟子入りし{{Sfn|小野一光|2023|p=466}}、2009年8月14日付で{{Sfn|福岡県弁護士会|2018|p=3}}、K4と甲は養子縁組した{{Sfn|小野一光|2023|p=466}}。この時は甲の方がK4より年少だったため、甲がK4の養子となって「K」姓に改姓している{{Sfn|小野一光|2023|p=466}}。この養子縁組は、K4と甲が互いの師弟関係を深めることを目的に行ったものだったが、甲は同年12月にK4の戸籍を離れて別の人物と養子縁組した{{Sfn|小野一光|2023|p=466}}。なお、甲は後に懲役3年6月の実刑判決を受け、2021年(令和3年)1月時点では東海地方の刑務所に服役していた{{Sfn|小野一光|2023|p=466}}。 |
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2011年9月9日に母親K2・次男K4の両被告人について最高裁第二小法廷(須藤正彦裁判長)で上告審口頭弁論公判が開かれ、弁護人が死刑回避を、検察官が上告棄却をそれぞれ求め結審した<ref name="読売新聞2011-09-10">『読売新聞』2011年9月10日西部朝刊第一社会面39面「大牟田4人殺害 『死刑回避』を主張 最高裁で2被告側」</ref><ref name="朝日新聞2011-09-10">『朝日新聞』2011年9月10日朝刊第三社会面33面「大牟田4人殺害、死刑回避求める 上告審、妻らの弁護側 【西部】」</ref>。 |
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* 被告人K2の弁護人は「殺害行為には直接関与しておらず他の共犯者と同じ死刑は量刑不当だ」<ref name="朝日新聞2011-09-10"/>「K2は首謀者ではなく犯行で果たした役割も小さい」として<ref name="読売新聞2011-09-10"/>死刑判決を破棄するよう訴えた<ref name="読売新聞2011-09-10"/><ref name="朝日新聞2011-09-10"/>。 |
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* 被告人K4の弁護人も「事件当時20歳で未熟だったが現在は矯正の余地が見込める」<ref name="朝日新聞2011-09-10"/>「K4には事件と向き合わせつつ生きて罪を償わせるべきだ」として<ref name="読売新聞2011-09-10"/>死刑判決を破棄するよう訴えた<ref name="読売新聞2011-09-10"/><ref name="朝日新聞2011-09-10"/>。 |
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最高裁第二小法廷(須藤正彦裁判長)は2011年9月16日までに母親K2・次男K4の両被告人について上告審判決公判開廷期日を2011年10月3日に指定し関係者に通知した<ref>『読売新聞』2011年9月17日西部朝刊第三社会面33面「大牟田連続殺人 来月3日に判決 最高裁、2被告に」</ref>。 |
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この後、K4は2010年(平成22年)4月28日付で{{Sfn|福岡県弁護士会|2018|p=3}}、[[関西]]出身の男性・乙(当時33歳)と養子縁組し、乙と同じ姓に改姓した{{Sfn|小野一光|2023|pp=466-467}}。後述の養子縁組を行う前の2011年4月時点では、K4はイニシャル「H」姓を名乗っていた<ref>『読売新聞』2011年4月16日西部朝刊第三社会面29頁「4人殺害 9月口頭弁論」(読売新聞西部本社)</ref>。乙は当時、刑務所に服役していたが、出所後に彫師になることを志して刺青の勉強をしていたところ、K4の自費出版した本を購入したことで知り合い、それ以降信書などを通じて、福岡拘置所にいたK4と刺青などについて意見交換するとともに、オリジナル商品などの作成・販売事業確立のために協力しており、互いに精神的なつながりを求めて養子縁組を行ったものである{{Sfn|小野一光|2023|pp=466-467}}。しかしこの養子縁組を行った直後、乙の服役していた刑務所はK4を「外部交通禁止者」に指定し、それ以降はK4と乙の間での手紙のやり取りはできなくなった{{Sfn|小野一光|2023|p=468}}。乙は2023年1月時点で、関東地方の刑務所に服役中である{{Sfn|小野一光|2023|p=467}}。 |
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2011年10月3日に上告審判決公判が開かれ、最高裁第二小法廷(須藤正彦裁判長)は母親K2・次男K4の両被告人に対しいずれも一・二審の死刑判決を支持して上告を棄却する判決をそれぞれ言い渡した<ref name="読売新聞2011-10-04 西部朝刊">『読売新聞』2011年10月4日西部朝刊第一社会面35面「大牟田4人殺害 母・次男死刑確定へ」</ref><ref name="読売新聞2011-10-04 東京朝刊">『読売新聞』2011年10月4日東京朝刊第一社会面39面「母親と次男 死刑確定へ 大牟田4人殺害上告審」</ref><ref name="朝日新聞2011-10-04">『朝日新聞』2011年10月4日朝刊第二社会面38面「福岡連続殺害、死刑が確定へ 母・次男の上告棄却」</ref>。この上告審判決により母親K2・次男K4の両被告人について死刑判決が確定した<ref name="読売新聞2011-10-04 西部朝刊"/><ref name="読売新聞2011-10-04 東京朝刊"/><ref name="朝日新聞2011-10-04"/>。 |
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2011年6月15日{{Sfn|福岡県弁護士会|2018|p=3}}、K4は彫師の一門の師匠である関西出身の男性・丙(当時36歳)と養子縁組し、丙と同じ姓に改姓した{{Sfn|小野一光|2023|p=468}}。この姓が、上告審の公判が開かれた時点および死刑確定後である2018年(平成30年)時点の姓「I」である<ref>『読売新聞』2011年9月10日西部朝刊社会面39頁「大牟田4人殺害 「死刑回避」を主張 最高裁で2被告側」(読売新聞西部本社)</ref><ref name="西日本新聞2011-10-04"/><ref name="朝日新聞2018-02-23">『朝日新聞』2018年2月23日西部朝刊筑後版第一地方面31頁「信書不許可は「不当」/福岡県」(朝日新聞西部本社)</ref>。この養子縁組により、K4はそれまでの養父だった乙の戸籍を離れることとなったが、甲や乙との「養縁親族」としての関係は、それぞれ籍を離れても維持されている{{Sfn|小野一光|2023|p=468}}。丙は養子縁組した当時、関西の刑務所に服役していたが、その後は出所したという{{Sfn|小野一光|2023|p=468}}。 |
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被告人K4は判決後『[[朝日新聞]]』記者・小野一光に対し「死刑確定はわかっていたことではあるがやはりいろいろ複雑だ。今は死刑確定の実感がまだないが、自分がこの手で4人を殺害したのは事実だから死刑確定は相応だと思う。殺害した被害者4人の冥福を祈りたい」と記した手紙を送ったほか、2011年10月11日には福岡拘置所で小野と面会して「勾留された最初の年は暴れて6回ぐらいは懲罰房に入れられたが、この7年で人間が丸くなったとは思う。しかし最初のころと心境は変わらない」と述べた<ref name="週刊朝日2011-11-04">{{Cite journal|和書|journal=週刊朝日|author=小野一光|title=福岡・大牟田4人殺害事件の実行犯が綴った「死刑と不敵」|page=154|date=2011-11-04|volume=116|issue=53|publisher=[[朝日新聞社]]|language=ja}}(※通号5099号・2011年11月4日号)</ref>。これに加えてK4は死刑確定直前の2011年10月に福岡拘置所で『[[毎日新聞]]』記者・岸達也と面会し「被害者には謝罪の気持ちを抱いている」「現在も父親K1を尊敬している」などと述べた<ref name="毎日新聞2011-11-29">『毎日新聞』2011年11月29日西部朝刊福岡都市圏版21面「記者有情:2世 /福岡」(記者:岸達也)</ref>。 |
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==== 国家賠償請求訴訟 ==== |
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福岡県弁護士会は2018年2月22日付で福岡拘置所に対し、K4が養親ら宛に信書を送付することを福岡拘置所側が不許可としたことを不当として、それらを不許可にしないよう勧告した<ref name="朝日新聞2018-02-23"/>。 |
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最高裁第一小法廷([[白木勇]]裁判長)は2011年5月16日までに父親K1・長男K3の両被告人について、上告審口頭弁論公判の開廷期日を2011年9月12日に指定した<ref>『読売新聞』2011年5月17日西部朝刊第二社会面30面「大牟田の4人殺害 9月12日口頭弁論 最高裁」</ref>。 |
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この勧告は、K4が福岡県弁護士会に人権救済を申し立てたことから出されたもので<ref name="西日本新聞2018-02-23">『毎日新聞』2018年2月23日西部朝刊社会面29頁「福岡県弁護士会:大牟田事件死刑囚の手紙送付不許可で勧告」(毎日新聞西部本社【平川昌範】)</ref>、勧告書によればK4は死刑確定後の2011年11月中旬ごろ、面会および信書の発受が予想される人物として、養父乙とその母、養父丙、養子甲の計4人を「親族」として福岡拘置所へ届け出た{{Sfn|福岡県弁護士会|2018|p=3}}。しかし福岡拘置所は、K4と彼ら4人との養子縁組は外部交通の確保が目的であると判断し{{Efn2|平成19年5月30日付け法務省矯成第3350号法務省矯正局長依命通達「被収容者の外部交通に関する訓令の運用について」:「法は、人道上の観点から、親族については外部交通を許すことが適当であるとして、その権利を保障しているところ、当該養子縁組が[[:b:民法第802条|民法第802条]]第1号の規定により無効を主張できる場合はもとより、無効とは認定できないまでも、専ら外部交通を得る目的などのためにされたものであり、養親子としての情を深めたりするという目的意識はなく、あるいは極めて希薄である場合など、法令における外部交通に関する各種規制を潜脱するためと認められる場合は、当該養子縁組による親族関係は、法における親族との外部交通に係る規定を適用する基礎を欠くものであり、当該外部交通を認めない運用もあり得ること。特に、暴力団関係受刑者の場合、安易に外部交通を認めないよう留意すること。」<ref>{{Cite web |url=https://www.moj.go.jp/content/001174902.pdf |title=被収容者の外部交通に関する訓令の運用について(依命通達) |access-date=2023-06-04 |publisher=法務省 |author=法務省矯正局長 梶木壽 |date=2007-05-30 |format=PDF |pages=12-13 |language=ja |archive-url=https://web.archive.org/web/20220818030154/https://www.moj.go.jp/content/001174902.pdf |archive-date=2022-08-18}}</ref>}}、2012年1月12日、4人を親族として取り扱わないことをK4に告知した{{Sfn|福岡県弁護士会|2018|p=3}}。 |
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2011年9月12日に最高裁第一小法廷(白木勇裁判長)で父親K1・長男K3の両被告人について上告審口頭弁論公判が開かれ、弁護人が死刑回避・検察官が上告棄却を求め結審した<ref name="読売新聞2011-09-13">『読売新聞』2011年9月13日西部朝刊第三社会面37面「大牟田4人殺害 上告審弁論」</ref><ref name="朝日新聞2011-09-13">『朝日新聞』2011年9月13日朝刊第三社会面37面「元組長と長男側、死刑回避求める 大牟田・4人殺害、最高裁で上告審弁論 【西部】」</ref>。 |
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* 被告人K1の弁護人は「金銭目的を動機と事実認定した一・二審判決は事実誤認だ」<ref name="朝日新聞2011-09-13"/>「K1は心から反省しており死刑は重すぎる」と述べ、死刑判決を破棄するよう訴えた<ref name="読売新聞2011-09-13"/><ref name="朝日新聞2011-09-13"/>。 |
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* 被告人K3の弁護人も「K3は殺害には関与しておらず強盗殺人・殺人罪に関しては無罪だ」<ref name="読売新聞2011-09-13"/>「仮に共謀が成立しても犯行に消極的であり極刑は重すぎる」と述べ<ref name="朝日新聞2011-09-13"/>、死刑判決を破棄するよう訴えた<ref name="読売新聞2011-09-13"/><ref name="朝日新聞2011-09-13"/>。 |
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2011年9月28日までに最高裁第一小法廷(白木勇裁判長)は父親K1・長男K3の両被告人について上告審判決公判開廷期日を2011年10月3日に指定した<ref>『読売新聞』2011年9月29日西部朝刊第二社会面38面「元組長と長男 来月17日判決 最高裁、大牟田4人殺害」</ref>。 |
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K4は先述の4人宛にそれぞれ信書の発信許可を出したが、福岡拘置所は同年11月1日、それらすべてを不許可とすることをK4に告知した{{Sfn|福岡県弁護士会|2018|p=3}}。またK4はそれら以外にも、兄K3に対する大阪拘置所の医療行為が不適切であるとして救済を求める[[大阪弁護士会]]宛の信書や、自己の処遇に関する相談を目的としたNPO法人監獄人権センター宛の信書を送ろうとしたほか、2014年5月 - 9月には友人・知人ら宛の信書計5通{{Efn2|刺青の下絵の指導を請う絵の教師宛の信書、養子縁組・死刑執行後の遺体引取・訴訟および再審請求・債権回収の調整などの調整を求める知人宛の信書など{{Sfn|福岡県弁護士会|2018|pp=4-5}}。}}を送ろうとしたが、いずれも不許可とされている{{Sfn|福岡県弁護士会|2018|pp=4-5}}。K4は2014年11月17日にも兄K3の再審請求を支援するため、訴訟の証拠品として雑誌2冊(『[[実話ドキュメント]]』『[[実話ナックルズ]]』)をK3宛に宅下げするよう福岡拘置所に申請したが、同月21日付で不許可とされた{{Sfn|福岡県弁護士会|2018|p=13}}。勧告書は、K4と各人物との養子縁組は適法に成立したものである以上、福岡拘置所が十分な調査を行わずに甲らを「親族ではない」と判断して外部交通権を否定したことは、養子縁組の有効性まで否定する法の「僭脱」的な行為であり、[[刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律|刑事収容施設法]]に違反するだけでなく、信書発信の自由を不当に制約する重大な人権侵害であるとしており{{Sfn|福岡県弁護士会|2018|pp=8-9}}、その他の福岡拘置所側の対応についても刑事収容施設法に違反するものと批判している{{Sfn|福岡県弁護士会|2018|pp=9-15}}。 |
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2011年10月17日に上告審判決公判が開かれ、最高裁第一小法廷(白木勇裁判長)は父親K1・長男K3の両被告人に対し、いずれも一・二審の死刑判決を支持して上告を棄却する判決をそれぞれ言い渡した<ref name="読売新聞2011-10-18 西部朝刊">『読売新聞』2011年10月18日西部朝刊第二社会面38面「大牟田4人殺害 親子4人 死刑確定へ 元組長と長男も上告棄却」</ref><ref name="読売新聞2011-10-18 東京朝刊">『読売新聞』2011年10月18日東京朝刊第二社会面38面「元組長と長男も死刑確定へ 大牟田4人殺害の上告審判決」</ref><ref name="朝日新聞2011-10-18 西部朝刊">『朝日新聞』2011年10月18日朝刊第二社会面38面「一家4人、死刑確定へ 大牟田4人殺害、上告棄却 【西部】」</ref><ref name="朝日新聞2011-10-18 東京朝刊">『朝日新聞』2011年10月18日朝刊第三社会面37面「大牟田4人殺害、父子の死刑確定へ」</ref>。これにより父親K1・長男K3の両被告人についても死刑判決が確定するとともに、犯罪に携わった一家4人全員に対し死刑が確定することとなった<ref name="読売新聞2011-10-18 西部朝刊"/><ref name="読売新聞2011-10-18 東京朝刊"/><ref name="朝日新聞2011-10-18 西部朝刊"/><ref name="朝日新聞2011-10-18 東京朝刊"/>。 |
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またK4はこれらの対応のうち、養親や養子計3人(養親である乙および丙、養子である甲)への信書発信を不許可としたことを不服として、2020年(令和2年)7月27日付で福岡地裁へ国家賠償等請求訴訟を起こした{{Sfn|小野一光|2023|p=461}}。2023年(令和5年)2月時点でこの訴訟は係争中で、判決宣告までに数年を要するという{{Sfn|小野一光|2023|p=461}}。 |
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== 死刑囚一家の現在 == |
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2017年(平成29年)9月22時点で<ref name="年報・死刑廃止2019 p.275">{{Harvtxt|年報・死刑廃止|2019|p=275}}</ref>、母親K2・次男K4はそれぞれ[[福岡拘置所]]、父親K1は[[広島拘置所]]、長男K3は[[大阪拘置所]]にそれぞれ[[日本における収監中の死刑囚の一覧|死刑囚として収監されている]]<ref name="年報・死刑廃止2019 p.269">{{Harvtxt|年報・死刑廃止|2019|p=269}}</ref>。なお2012年9月27日時点で{{Sfn|年報・死刑廃止|2012|p=241}}、次男K4は姓が元の「K」(イニシャル)から「I」に変わっている{{Sfn|年報・死刑廃止|2012|p=237}}。 |
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== その他 == |
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また母親K2は戦後日本14番目の[[女性死刑囚]]である。 |
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本事件発生前の2004年8月 - 9月にかけては、[[加古川7人殺害事件]](8月2日発生)、[[津山小3女児殺害事件]](9月3日)、[[愛知豊明母子4人殺人放火事件]](9月9日)、[[栃木兄弟誘拐殺人事件]](9月12日)、[[金沢市夫婦強盗殺人事件]](9月13日)、[[長野・愛知4連続強盗殺人事件]](9月17日に犯人逮捕)と、被害者が大量に上ったり、幼い子供が犠牲になったりする凶悪な殺人事件が短期間に相次いで発生していた<ref>『産経新聞』2004年9月23日大阪朝刊総合一面「福岡の少年遺棄 「4人殺し捨てた」 逮捕の女供述 不明の母、兄らか」(産経新聞大阪本社)</ref>。[[神足裕司]] (2004) は、栃木の事件と本事件(ともに犯人が被害者を橋から川に投げ込んで殺害したか、殺害した被害者の遺体を橋から川に遺棄した)について、[[アダム・スミス]]の「人間は利己的であるからこそ道徳を育てた」という言葉を引用した上で、「犯人のやったことは虫以下だ。悲しむのは人間だというのに。」と述べている{{Sfn|神足裕司|2004|pp=32-33}}。 |
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本事件は全国から高い関心を集め、東京からも新聞記者だけでなく雑誌・テレビ関係者が数多く大牟田まで取材に駆けつけ、全国で報道された<ref name="有明新報2005-03-17">『有明新報』平成17年(2005年)3月17日付3頁「社説 諏訪川事件の明確な解明を 安心・安全社会への教訓受け取れ」(有明新報社)</ref>。地元紙の『[[有明新報]]』は[[社説]]で、本事件が「悪いイメージの大牟田を全国へ向け発信した」と評している<ref>『有明新報』平成16年(2004年)12月29日号3頁「社説 きれいな郷土づくり進めよう 大掃除のごみ、きちんと捨てて」(有明新報社)</ref>。また、本事件の捜査を手掛けた大牟田署の地域課巡査(同年6月に[[免職|懲戒免職]])が同年2月に[[佐賀県]][[鳥栖市]]内で起こした小学生女児連れ去り事件{{Efn2|同事件の犯人は[[佐賀県警察|佐賀県警]]に逮捕された後、別の女児に対するわいせつ目的略取などの容疑(1件は大牟田署管内で発生)でも再逮捕された<ref name="有明新報2004-12-27"/>。その後、2006年3月14日に[[佐賀地方裁判所|佐賀地裁]](坂主勉裁判長)で求刑通り懲役20年の判決を言い渡されている<ref name="有明新報2006-03-15"/>。同判決によれば、犯人は2001年5月 - 2004年2月にかけて鳥栖市や大牟田市などで5人の女児を略取してわいせつ行為におよんだ(未遂を含む)ほか、佐賀県[[三養基郡]]の小学校に侵入してスクール水着4着を窃盗したり、2004年4月には拘置先の[[鳥栖警察署]]で警察官に怪我を負わせて逃走しようとしたりした<ref name="有明新報2006-03-15">『有明新報』平成18年(2006年)3月15日号1頁「××被告に懲役20年 女児連れ去り事件 刑事責任極めて重大 佐賀地裁 性的欲求満たすため 酌量すべき点一切なし」(有明新報社)</ref>。}}とともに、本事件は全国を震撼させ、住民に計り知れない恐怖を与えた事件であると評している<ref name="有明新報2004-12-27">『有明新報』平成16年(2004年)12月27日号9頁「2004回顧 重大事件発生、住民に恐怖」(有明新報社)</ref>。 |
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死刑囚K2は2015年7月に[[参議院|参議院議員]]・[[福島瑞穂]]が確定死刑囚らを対象に実施したアンケートで<ref>{{Harvtxt|年報・死刑廃止|2015|p=39-40}}</ref>「今年(2015年)1月8日、外に残した三男(K4の年子の弟)が自殺した。遺書も残されておらず本当の理由は分からないが三男は生前人間関係で悩んでいたらしい」と告白した上で「死刑は怖いが生きている限り前を向いて頑張って生きる」と述べた<ref>{{Harvtxt|年報・死刑廃止|2015|p=88}}</ref>。また同アンケートに対し死刑囚K3は「自分は無実だ。無罪を主張して[[再審]]請求をしている」と述べたほか<ref>{{Harvtxt|年報・死刑廃止|2015|p=90-91}}</ref>、死刑囚K4は施設処遇・制度などの改善を訴えていた<ref>{{Harvtxt|年報・死刑廃止|2015|p=88-90}}</ref>。 |
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=== 事件を題材とした作品 === |
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=== 死刑囚の信書不許可問題 === |
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* [[鈴木智彦]]『我が一家全員死刑』([[コアマガジン]]) - 2010年11月に発刊された単行本。著者の鈴木が犯人K4と文通を重ね、K4から送られてきた獄中手記を中心に<ref name="全員死刑">{{Cite news|和書 |title=大牟田4人殺害事件はどれだけ残酷だったか 家族全員死刑、父も母も兄も弟も <nowiki>|</nowiki> 今週のHONZ |newspaper=東洋経済オンライン |date=2017-11-18 |author=栗下直也 |url=https://toyokeizai.net/articles/-/197774 |access-date=2023-06-5 |publisher=[[東洋経済新報社]] |language=ja |archive-url=https://web.archive.org/web/20230605122730/https://toyokeizai.net/articles/-/197774 |archive-date=2023年6月5日}}</ref>、事件関係者への取材内容を加筆し、雑誌『実話マッドマックス』(2008年8月号 - 2010年1月号)に連載した記事をまとめた書籍である{{Sfn|鈴木智彦|2017|p=15}}。[[コア新書]]での再刊を経て、映画化に併せて[[2017年]](平成29年)11月7日、[[小学館]]から文庫本『全員死刑』として発売された<ref name="全員死刑"/>。 |
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死刑囚K4は[[2012年]](平成24年)、収監先の福岡拘置所から養父・養子ら計4人に信書を送ろうとしたが、福岡拘置所は「4人は[[刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律]]で信書のやり取りが認められる『親族』に該当しない」として許可しなかった<ref name="朝日新聞2018-02-23">『朝日新聞』2018年2月23日朝刊筑後第一地方面31面「信書不許可は『不当』 /福岡県」</ref>。 |
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** 『[[全員死刑]]』([[映画監督|監督]]:[[小林勇貴]]、プロデューサー:[[西村喜廣]]) - 2017年11月18日に公開された[[映画]]で、『我が一家全員死刑』を原作としている。主演は[[間宮祥太朗]]<ref>{{Cite news|和書 |title=間宮祥太朗、『全員死刑』主演に! 実在する事件「大牟田4人殺人事件」を描く |newspaper=cinemacafe.net |date=2017-03-01 |url=https://www.cinemacafe.net/article/2017/03/01/47462.html |access-date=2023-06-05 |publisher=[[イード (企業)|株式会社イード]] |language=ja |archive-url=https://web.archive.org/web/20230605125229/https://www.cinemacafe.net/article/2017/03/01/47462.html |archive-date=2023年6月5日}}</ref><ref>{{Cite news|和書 |title=間宮祥太朗×小林勇貴が初タッグ、実際の事件モチーフにした「全員死刑」公開 |newspaper=[[ナタリー (ニュースサイト)|映画ナタリー]] |date=2017-03-01 |author=映画ナタリー編集部 |url=https://natalie.mu/eiga/news/222674 |access-date=2023-06-05 |publisher=株式会社ナターシャ |language=ja |archive-url=https://web.archive.org/web/20230605125815/https://natalie.mu/eiga/news/222674 |archive-date=2023年6月5日}}</ref>。 |
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* 『殺風景』(作・演出:[[赤堀雅秋]]、主演:[[八乙女光]])- 本事件を題材にした[[演劇|舞台作品]]で<ref>{{Cite news|和書 |title=Hey!Say!JUMP八乙女光、主演舞台で笑顔封印!西岡徳馬「(メンバーが観たら)嫉妬する」と太鼓判【コメント全文】 |newspaper=News Lounge |date=2014-05-04 |url=https://japan-newslounge.com/archives/126566 |access-date=2023-06-05 |publisher=株式会社モバイルメディアプロダクション |language=ja |archive-url=https://web.archive.org/web/20230605130610/https://japan-newslounge.com/archives/126566 |archive-date=2023年6月5日}}</ref>、2014年5月に[[シアターコクーン]]で上映された<ref>{{Cite web |url=https://www.bunkamura.co.jp/cocoon/lineup/14_sappukei/ |title=Bunkamura25周年記念 殺風景 |access-date=2023-06-05 |publisher=[[Bunkamura]] |date=2014-05 |archive-url=https://web.archive.org/web/20230605130307/https://www.bunkamura.co.jp/cocoon/lineup/14_sappukei/ |archive-date=2023-06-05}}</ref>。作者の赤堀は公開前、事件の舞台となった大牟田へ取材に趣いている<ref>{{Cite web |url=https://www.bunkamura.co.jp/cocoon/lineup/14_sappukei/topics/post_1.html |title=稽古場レポート 4/21更新 <nowiki>|</nowiki> トピックス <nowiki>|</nowiki> Bunkamura25周年記念 殺風景 | Bunkamura |access-date=2023-06-05 |publisher=[[Bunkamura]] |date=2014-04-21 |archive-url=https://web.archive.org/web/20230605130415/https://www.bunkamura.co.jp/cocoon/lineup/14_sappukei/topics/post_1.html |archive-date=2023-06-05}}</ref>。 |
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== 関連リンク == |
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これは「死刑囚が外部とのやり取りを確保するのが目的と認められる養子縁組の場合、文通は許可しない」という[[法務省]]の通達を根拠としたものだったが、[[福岡県弁護士会]]は2018年2月22日付の勧告書で福岡拘置所に対し「養子縁組は適法に成立しており文通は許可されるべきだ」と指摘して文通を不許可にしないよう勧告した<ref name="朝日新聞2018-02-23"/>。 |
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* {{Cite web |url=https://web.archive.org/web/20040804053248/http://www.tom-tour.co.jp/matsugane/rikishi/miikezan/miikezan.htm |title=三池山 |access-date=2023-05-14 |website=松ヶ根部屋公認情報サイト |language=ja |archive-url=https://web.archive.org/web/20040804053248/http://www.tom-tour.co.jp/matsugane/rikishi/miikezan/miikezan.htm |archive-date=2004-08-04 |url-status=dead |deadlinkdate=2023-05-14}} - かつては[[放駒部屋|松ヶ根部屋]]公認ホームページで、引退力士の1人としてK4(三池山)が紹介されていた{{Sfn|週刊文春|2004|p=37}}。「[https://web.archive.org/web/20011031150234/http://www.tom-tour.co.jp/matsugane/ トップページ]」→「[https://web.archive.org/web/20020225152121/http://www.tom-tour.co.jp/matsugane/rikishi.htm 力士の紹介]」よりアクセス可能。 |
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== その他 == |
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次男K4は死刑が確定するまで作家・[[鈴木智彦]]との文通を重ねており、その獄中手記を中心に構成された単行本『我が一家全員死刑』([[コアマガジン]]発行)が上告中の2010年11月に刊行された<ref name="全員死刑">{{cite news|url=http://honz.jp/articles/-/44505|title=『全員死刑』父も母も兄も弟も死刑確定|newspaper=HONZ|date=2017-11-07|author=栗下直也|accessdate=2018-04-18|archivedate=2018-04-18|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180418150509/http://honz.jp/articles/-/44505}}</ref>。同書はその後[[コア新書]]で再刊された後、後述の映画化に合わせ[[2017年]](平成29年)11月7日、[[小学館]]から文庫本『全員死刑』として発売された<ref name="全員死刑"/>。 |
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同書を原作にこの事件をモチーフとした[[間宮祥太朗]]主演の映画『[[全員死刑]]』([[映画監督|監督]]・[[小林勇貴]]、プロデューサー・[[西村喜廣]])が制作され、2017年11月18日に公開された<ref>{{cite news|url=http://www.cinemacafe.net/article/2017/03/01/47462.html|title=間宮祥太朗、『全員死刑』主演に! 実在する事件「大牟田4人殺人事件」を描く|newspaper=シネマカフェ|date=2017-03-01|accessdate=2017-03-02|archivedate=2018-02-17|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180216154239/http://www.cinemacafe.net/article/2017/03/01/47462.html}}</ref><ref>{{cite news|url=https://natalie.mu/eiga/news/222674|title=間宮祥太朗×小林勇貴が初タッグ、実際の事件モチーフにした「全員死刑」公開|newspaper=映画ナタリー|date=2017-03-01|accessdate=2017-03-02|archivedate=2018-02-17|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180216154247/https://natalie.mu/eiga/news/222674}}</ref>。 |
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また、[[八乙女光]]主演の舞台『殺風景』(2014年5月上映)は、本事件を題材にしている<ref>{{cite news|url=http://newslounge.net/archives/126566|title=Hey!Say!JUMP八乙女光、主演舞台で笑顔封印!西岡徳馬「(メンバーが観たら)嫉妬する」と太鼓判【コメント全文】|newspaper=芸能ニュースラウンジ|date=2014-5-4|accessdate=2021-9-16|archivedate=2017-6-12|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170612145607/http://newslounge.net/archives/126566}}</ref>。 |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
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{{脚注ヘルプ}} |
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=== 注釈 === |
=== 注釈 === |
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=== 出典 === |
=== 出典 === |
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; ※以下の出典において、見出しなどに死刑囚一家・被害者の実名が含まれている場合はその箇所を記事中で該当する人物の仮名に置き換えている。また死刑囚一家の姓はイニシャル「K」に置き換えている。 |
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== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
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=== 裁判関連資料など === |
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* K2・K4両[[被告人]]に対する[[控訴]]審判決 - {{Cite 判例検索システム|Ref={{SfnRef|福岡高裁|2007}}|事件番号=平成18年(う)第737号|裁判年月日=2007年(平成19年)12月25日|裁判所=[[福岡高等裁判所]]|法廷=第3刑事部|裁判形式=判決|判例集=裁判所ウェブサイト掲載判例|url=https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail4?id=35612|事件名=強盗殺人、死体遺棄、殺人、銃砲刀剣類所持等取締法違反各被告事件|判示事項=被告人b (K4) がその実兄 (K3) と共謀の上,被害者d (A1) の二男である被害者e (A3) を殺害して貴金属を強取した強盗殺人(1)と,以下,いずれも被告人b及びその実兄が,両親である被告人a (K2) とその夫 (K1) と共謀して,被害者dを殺害して現金を強取した強盗殺人(2),被害者dの長男である被害者g (A2) とその友人である被害者h (B) を,上記(2)の犯行発覚を免れようとして口封じのために,けん銃などを用いて殺害し,その際,けん銃を発射した殺人等(3),被害者d,g,hの死体を車に載せて川に沈めて遺棄した死体遺棄(4)からなる事案につき,被告人a,b両名をいずれも死刑に処した原判決の量刑はやむを得ないものとして,被告人a,b両名からの控訴をいずれも棄却した。}}<!--備考:本文中で用いられている仮名が指す固有名詞は以下の通り。被告人a=K2、被告人b=K4、c=K3、d=被害者A1、e=被害者A3、f=K1、g=被害者A2、h=被害者B、u川=諏訪川、i組=「北村組」、j家=犯人一家--> |
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* {{Cite 判例検索システム |裁判所=[[福岡高等裁判所]]第三刑事部 |裁判形式=判決 |事件番号=平成18年(う)第737号 |事件名=強盗殺人,死体遺棄,殺人,銃砲刀剣類所持等取締法違反各被告事件 |裁判年月日=2007年(平成19年)12月25日 |判例集=裁判所ウェブサイト掲載判例 |判示事項= |裁判要旨=| url=https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail4?id=035612 }} |
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** 判決[[主文]]:本件各控訴を棄却する。 |
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<div style="border: 1px solid #aaa; margin-left: 25px; padding: 2px; background: #eee; font-size: 90%;"> |
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** [[裁判官]]:正木勝彦([[裁判長]])・松下潔・平島正道 |
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被告人b(本文中K4)がその実兄(本文中K3)と共謀の上,被害者d(本文中A)の二男である被害者e(本文中C)を殺害して貴金属を強取した強盗殺人(1)と,以下,いずれも被告人b及びその実兄が,両親である被告人a(本文中K2)とその夫(本文中K1)と共謀して,被害者dを殺害して現金を強取した強盗殺人(2),被害者dの長男である被害者g(本文中B)とその友人である被害者h(本文中D)を,上記(2)の犯行発覚を免れようとして口封じのために,けん銃などを用いて殺害し,その際,けん銃を発射した殺人等(3),被害者d,g,hの死体を車に載せて川に沈めて遺棄した死体遺棄(4)からなる事案につき,被告人a,b両名をいずれも死刑に処した原判決の量刑はやむを得ないものとして,被告人a,b両名からの控訴をいずれも棄却した。 |
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** 原判決:[[福岡地方裁判所]]久留米支部、2006年10月17日 - 事件番号:平成16年(わ)第276号 |
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</div> |
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** [[弁護人]]・[[検察官]] |
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** 原判決:[[福岡地方裁判所]]久留米支部、2006年10月17日、平成16年(わ)第276号 |
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*** 被告人K2の弁護人:桃原健二(控訴趣意書を提出) |
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** 判決内容:被告人2人(母親K2・次男K4)側控訴棄却判決(第一審・死刑判決をいずれも支持) |
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*** 被告人K4の弁護人:松井仁(同上) |
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** 裁判官:[[裁判官]]:[[正木勝彦]]([[裁判長]])・[[松下潔]]・[[平島正道]] |
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*** 検察官:大久保信英(各控訴趣意書に対する答弁書を提出) |
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* {{Cite 判例検索システム |法廷名=[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]第二小法廷 |裁判形式=判決 |事件番号=平成20年(あ)第254号 |事件名=強盗殺人,死体遺棄,殺人,銃砲刀剣類所持等取締法違反各被告事件 |裁判年月日=2011年(平成23年)10月3日 |判例集=裁判所ウェブサイト掲載判例 |判示事項= |url=https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail4?id=081811 }} |
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* 4被告人の[[上告]]審判決・上告趣意書 - {{Cite journal|和書|journal=最高裁判所裁判集 刑事|year=2012|page=|issue=304|pages=227-452|publisher=最高裁判所|ref={{SfnRef|集刑304号|2012}}}}『集刑』第304号(平成23年4月 - 10月分)。 |
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** 判決内容:被告人2人(母親K2・次男K4)側上告棄却(死刑判決確定) |
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** K2・K4両被告人に対する上告審判決 - {{Cite 判例検索システム|Ref=|事件番号=平成20年(あ)第254号|裁判年月日=2011年(平成23年)10月3日|法廷名=[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]第二[[小法廷]]|裁判形式=判決|判例集=集刑 第304号227頁|url=https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=81811|事件名=強盗殺人、死体遺棄、殺人、銃砲刀剣類所持等取締法違反被告事件|判示事項=死刑の量刑が維持された事例(大牟田の4名殺害等事件)}} |
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** [[最高裁判所裁判官]]:[[須藤正彦]](裁判長)・[[古田佑紀]]・[[竹内行夫]]・[[千葉勝美]] |
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*** 判決主文:本件各上告を棄却する。 |
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* {{Cite 判例検索システム |法廷名=[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]第一小法廷 |裁判形式=判決 |事件番号=平成20年(あ)第808号 |事件名=被告人A(本文中K1)に対する強盗殺人,死体遺棄,殺人,銃砲刀剣類所持等取締法違反,被告人B(本文中K3)に対する強盗殺人,死体遺棄,殺人,銃砲刀剣類所持等取締法違反,逃走各被告事件 |裁判年月日=2011年(平成23年)10月17日 |判例集=裁判所ウェブサイト掲載判例 |判示事項= |url=https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail4?id=081812 }} |
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*** [[最高裁判所裁判官]] - [[須藤正彦]](裁判長)・[[古田佑紀]]・[[竹内行夫]]・[[千葉勝美]] |
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** 判決内容:被告人2人(父親K1・長男K3)側上告棄却(死刑判決確定) |
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*** 弁護人・検察官 |
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** 最高裁判所裁判官:[[白木勇]](裁判長)・[[宮川光治]]・[[櫻井龍子]]・[[金築誠志]]・[[横田尤孝]] |
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**** 被告人K2の弁護人:鈴木敏彦・樋口明巳(それぞれ上告趣意書を提出) |
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**** 被告人K4の弁護人:福島昭宏・松井仁(上告趣意書を提出) |
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**** 検察官:城祐一郎(公判出席) |
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** K1・K3両被告人に対する上告審判決 - {{Cite 判例検索システム|Ref=|事件番号=平成20年(あ)第808号|裁判年月日=2011年(平成23年)10月17日|法廷名=最高裁判所第一小法廷|裁判形式=判決|判例集=集刑 第304号347頁|url=https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=81812|事件名=被告人A (K1) に対する強盗殺人、死体遺棄、殺人、銃砲刀剣類所持等取締法違反、被告人B (K3) に対する強盗殺人、死体遺棄、殺人、銃砲刀剣類所持等取締法違反、逃走各被告事件|判示事項=死刑の量刑が維持された事例(大牟田の4名殺害等事件)}} |
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*** 判決主文:本件各上告を棄却する。 |
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*** 最高裁判所裁判官:[[白木勇]](裁判長)・[[宮川光治]]・[[櫻井龍子]]・[[金築誠志]]・[[横田尤孝]] |
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*** 弁護人・検察官 |
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**** 被告人K1の弁護人:中井淳(上告趣意書を提出) |
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**** 被告人K3の弁護人:小松初男・今村憲(同上) |
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**** 検察官:城祐一郎(公判出席) |
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* {{Cite web |url=https://www.fben.jp/jinkenkyusai/data/20180222_02.pdf |title=福岡拘置所 御中 勧告書 |access-date=2022-07-12 |publisher=[[福岡県弁護士会]] |author=福岡県弁護士会 会長 作間功, 人権擁護委員会 委員長 斉藤芳朗 |date=2018-02-22 |format=PDF |language=ja |archive-url=https://web.archive.org/web/20220712152229/https://www.fben.jp/jinkenkyusai/data/20180222_02.pdf |archive-date=2022-07-12 |ref={{SfnRef|福岡県弁護士会|2018}}}} - 本事件で2011年11月8日に死刑が確定し、[[福岡拘置所]]に収監されている死刑確定者が同拘置所に対し、[[養子縁組]]相手に対する信書の発信許可を求めたところ、同書がそれを不許可にしたことなどに対し、福岡県弁護士会が今後、不許可としないように勧告を出した際の文書。同書では、当該死刑囚 (K4) の兄 (K3) が死刑確定者として[[大阪拘置所]]に収監されている旨についても言及されている。 |
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=== 雑誌記事 === |
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'''事件関係者の手記''' |
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* {{Cite journal|和書|journal=[[月刊現代|現代]]|author=構成:[[小野一光]](ルポライター)|title=一家4人に死刑判決――史上最凶家族はなぜ生まれたのか 初公開手記 極妻(K2被告)が綴った「48年間」の転落物語 410枚 大牟田4人殺害事件の原点が明かされる|volume=41|date=2007-07-01|issue=7|pages=128-136|publisher=[[講談社]]|ref={{SfnRef|小野一光|2007}}}} - 2007年7月号。犯人の1人である[[女性死刑囚]]K2(当時は上告中)の手記が掲載されている。 |
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'''小野一光による雑誌記事''' |
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* {{Cite journal|和書|journal=[[FRIDAY (雑誌)|FRIDAY]]|author=小野一光|title=借金トラブルと息子同士の女性問題で 福岡・大牟田「連続4人殺人親子」の狂暴すぎる全人生|volume=21|editor=(編集人)中本顕二|date=2004-10-15|issue=44|pages=96-97|publisher=講談社|ref={{SfnRef|小野一光|2004}}}} - 通巻:第1109号(2004年10月15日号)。 |
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* {{Cite journal|和書|journal=FRIDAY|author=小野一光|title=福岡・大牟田4人殺害 続報!凶暴すぎる巨漢一家(K母子)の「犯行完全記録」 逮捕・長男は「クルマのトランク」洗って証拠隠滅を|volume=21|editor=(編集人)中本顕二|date=2004-10-22|issue=45|pages=98-99|publisher=講談社|ref={{SfnRef|小野一光2|2004}}}} - 通巻:第1110号(2004年10月22日号)。 |
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* {{Cite journal|和書|journal=FRIDAY|author=小野一光|title=福岡 K親子の凶悪すぎる犯行記録 “巨漢一家”4人殺害事件[10月15日号]|volume=21|editor=(編集人)中本顕二|date=2004-10-22|issue=54|pages=86-87|publisher=講談社|ref={{SfnRef|小野一光3|2004}}}} - 通巻:第1119号(2004年12月16日増刊号)。 |
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* {{Cite journal|和書|journal=FRIDAY|author=小野一光|title=大牟田4人惨殺事件 実行犯の一家全員が極刑へ 元相撲取りの犯人 二男・K4被告 「死刑判決直後の“厚顔”手紙」独占公開!|volume=23|editor=(編集人)出樋一親|date=2006-11-17|issue=51|pages=76-77|publisher=講談社|ref={{SfnRef|小野一光|2006}}}} - 通巻:第1230号(2006年11月17日号)。 |
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* {{Cite journal|和書|journal=FRIDAY|author=小野一光|title=福岡発4人惨殺事件 キラーファミリー4人全員に死刑判決 大牟田殺人一家の次男K4被告「獄中からの冷血手紙」|volume=24|editor=(編集人)出樋一親|date=2007-03-16|issue=11|pages=78-79|publisher=講談社|ref={{SfnRef|小野一光2|2007}}}} - 通巻:第1248号(2007年3月16日号)。 |
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* {{Cite journal|和書|journal=FRIDAY|author=小野一光|title=深層カラーレポ 大牟田4人惨殺事件 元力士の次男と長男は裁判中に決別 極道一家は一審で「死刑」 「長男への絶縁状」と「極妻の獄中手記」|volume=24|editor=(編集人)出樋一親|date=2007-07-06|issue=28|pages=54-56|publisher=講談社|ref={{SfnRef|小野一光3|2007}}}} - 通巻:第1265号(2007年7月6日号)。 |
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* {{Cite journal|和書|journal=FRIDAY|author=小野一光|title=大牟田4人惨殺 極道一家の次男K4被告が明かす「死刑への覚悟!」 クリスマス(12月25日)に控訴審判決 獄中で制作した入れ墨画集も初公開する|volume=25|editor=(編集人)出樋一親|date=2008-01-04|issue=1|pages=88-89|publisher=講談社|ref={{SfnRef|小野一光|2008}}}} - 通巻:第1293号(2008年1月4日号)。 |
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* {{Cite journal|和書|journal=FRIDAY|author=小野一光|title=大牟田4人惨殺事件 「兄(3・27判決)は地獄の底まで連れて行く」と決別宣言 極道一家次男「獄中で描いた100枚の刺青画」|volume=25|editor=(編集人)出樋一親|date=2008-04-11|issue=16|pages=78-79|publisher=講談社|ref={{SfnRef|小野一光2|2008}}}} - 通巻:第1308号(2008年4月11日号)。 |
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* {{Cite journal|和書|journal=[[週刊現代]]|author=小野一光|title=獄中から告発 殺人犯元力士が激白 角界の「麻薬、暴力、カネ」 松ヶ根部屋元若嶋津が親方「飲酒強要、部屋で賭博も」 引退のわずか3年後に「大牟田4人惨殺事件」を起こし、死刑判決を受けたK4被告(元三池山・24歳)が寄せた衝撃の手紙!|volume=51|editor=(編集人)出樋一親|date=2009-02-21|issue=7|pages=22-25|publisher=講談社|CRID=1521980705561616640|NAID=40016438086|id={{国立国会図書館書誌ID|9787446}}|ref={{SfnRef|小野一光|2009}}}} - 2009年2月21日号。 |
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* {{Cite journal|和書|journal=[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]|author=小野一光|title=私はなぜ死刑囚の養子になったか|volume=101|date=2023-02-01|issue=2|pages=460-469|publisher=文藝春秋|CRID=1520857757594886144|id={{国立国会図書館書誌ID|032589769}}|ref={{SfnRef|小野一光|2023}}}} - 2023年(令和5年)2月号。 |
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'''事件関連の雑誌記事''' |
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* {{Cite journal|和書|journal=[[SPA!]]|author=[[神足裕司]]|title=Kohtari's News Column これは事件だ 夜討ち朝寝のリポーター神足裕司のニュースコラム vol.406 4人もの命を奪うに値する理由など、あるわけがない|volume=53|date=2004-10-05|issue=39|pages=32-33|publisher=[[扶桑社]]|ref={{SfnRef|神足裕司|2004}}}} - 通巻:第2914号(2004年10月5日号)。 |
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* {{Cite journal|和書|journal=[[週刊文春]]|title=大牟田4人殺害 「毎晩違う女と寝ている」と豪語する極道一家20歳元力士の女漁り人生|volume=46|date=2004-10-07|issue=39|pages=37-39|publisher=[[文藝春秋]]|CRID=1523106605282009216|NAID=40006415865|id={{国立国会図書館書誌ID|7091292}}|ref={{SfnRef|週刊文春|2004}}}} - 通巻:第2297号(2004年10月7日号)。 |
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* {{Cite journal|和書|journal=[[週刊新潮]]|title=[特集]「観音様」を背負ってワル力士を育てた 「大牟田4人殺し」女親分の「3度の結婚」|volume=49|date=2004-10-07|issue=38|pages=156-159|publisher=[[新潮社]]|CRID=1520010380742302464|NAID=40006415831|id={{国立国会図書館書誌ID|7089839}}|ref={{SfnRef|週刊新潮|2004}}}} - 通巻:第2467号(2004年10月7日号)。 |
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* {{Cite journal|和書|journal=[[週刊朝日]]|author=甲斐さやか|title=大牟田「4人殺し」の女が住むゴミの家|volume=109|date=2004-10-08|issue=48|pages=150-151|publisher=[[朝日新聞出版|朝日新聞社出版部]]|ref={{SfnRef|甲斐さやか|2004}}}} - 通巻:第4647号(2004年10月8日増大号)。 |
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* {{Cite journal|和書|journal=[[女性自身]]|title=福岡・大牟田「一家3人」惨殺を自供――2人の息子は角界に!暴力団員も恐れた「極妻」K2容疑者(45)の暴走人生|volume=47|editor=|date=2004-10-15|issue=37|pages=180-181|publisher=[[光文社]]|ref={{SfnRef|女性自身|2004}}}} - 2004年10月12日号。 |
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* {{Cite journal|和書|journal=[[週刊女性]]|title=福岡発 女の金と男をめぐる凶悪犯罪(2) 大牟田一家惨殺事件 4人を殺した主婦の素顔! K2容疑者(45) 背中にイレズミ コワモテ|volume=48|date=2004-10-12|issue=39|pages=192-193|publisher=[[主婦と生活社]]|ref={{SfnRef|週刊女性|2004}}}} - 通巻:第2321号(2004年10月12日号)。 |
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* {{Cite journal|和書|journal=週刊新潮|title=[ワイド特集]「激アツ!」人生ドラマ 大牟田4人殺しの「動機はカネ」にしたい「県警の事情」|volume=49|date=2004-10-14|issue=39|pages=150-151|publisher=新潮社|CRID=1523669555177018496|NAID=40006426328|id={{国立国会図書館書誌ID|7097341}}|ref={{SfnRef|週刊新潮2|2004}}}} - 通巻:第2468号(2004年10月14日号)。 |
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* {{Cite journal|和書|journal=[[週刊実話]]|title=福岡県大牟田市連続殺人死体遺棄事件 地元民も震えあがった「巨漢で札付きのワル」K2容疑者の長男 凄絶リンチ|volume=47|date=2004-10-14|issue=55|pages=218-219|publisher=[[日本ジャーナル出版]]|ref={{SfnRef|週刊実話|2004}}}} - 通巻:第2390号(2004年10月14日号)。 |
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* {{Cite journal|和書|journal=[[週刊ポスト]]|author=|title=大牟田4人殺害事件 周囲が心底怯えた恐怖の借金取り立て手口 “極妻”(K2容疑者)と“元力士”次男(K4容疑者)の「カネ、カネ、カネ!」生爪をはがし、歯を折り……バイオレンス映画顔負けの犯行|volume=36|editor=|date=2004-10-15|issue=43|pages=203-205|publisher=小学館|CRID=1521980704649713280|NAID=40006450193|id={{国立国会図書館書誌ID|7115189}}|ref={{SfnRef|週刊ポスト|2004}}}} - 通巻:第1775号(2004年10月15日号)。 |
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* {{Cite journal|和書|journal=週刊現代|title=愕然!大牟田4人殺害事件100kg妻と元力士息子の凶悪極道一家 4年前の少年リンチ殺人|volume=46|editor=(編集人)出樋一親|date=2004-10-16|issue=40|pages=49-51|publisher=講談社|CRID=1521699229808396928|NAID=40006426290|id={{国立国会図書館書誌ID|7099033}}|ref={{SfnRef|週刊現代|2004}}}} - 2004年10月16日号。 |
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* {{Cite journal|和書|journal=週刊現代|title=発掘スクープ 大島部屋時代の問題フォト 大牟田4人殺害事件 100kg極妻(K2容疑者)が旭道山をビビらせた「長男イジメ写真」 / モノクログラフと連動事件ルポ 大牟田4人殺害事件 大島部屋おかみさんが語った「不良力士長男」の正体|volume=46|editor=(編集人)出樋一親|date=2004-10-23|issue=41|pages=17-20, 192-193|publisher=講談社|ref={{SfnRef|週刊現代2|2004}}}} - 2004年10月23日号。 |
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* {{Cite journal|和書|journal=週刊現代|title=大牟田4人殺害事件 極道息子を育てた「ビッグママ」の凶暴|volume=46|editor=(編集人)出樋一親|date=2004-12-18|issue=49|pages=204-205|publisher=講談社|CRID=1523669555701853440|NAID=40006537234|id={{国立国会図書館書誌ID|7174465}}|ref={{SfnRef|週刊現代3|2004}}}} - 2004年12月18日号。 |
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* {{Cite journal|和書|journal=週刊朝日|author=本誌取材班|title=凶悪 福岡4人殺しで一家全員「死刑」|volume=112|date=2007-03-16|issue=13|pages=163-164|publisher=朝日新聞社出版部|ref={{SfnRef|週刊朝日|2007}}}} - 通巻:第4805号(2007年3月16日号)。 |
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* {{Cite journal|和書|journal=週刊ポスト|author=中尾幸司|title=法廷は語る FILE49 大牟田市四人連続殺人事件(前編) 極道一家の鬼畜の所業!「(職業は)ヤクザです」と答える組長の次男に裁判長は一瞬、絶句した――。|volume=40|editor=|date=2008-05-23|issue=24|pages=158-159|publisher=小学館|ref={{SfnRef|中尾幸司|2008}}}} - 通巻:第1971号(2008年5月23日薫風特大号)。 |
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* {{Cite journal|和書|journal=週刊ポスト|author=中尾幸司|title=法廷は語る FILE50 大牟田市四人連続殺人事件(中編) 「○○○兄ちゃん(K3被告)は『もうお前に話したけん、断るんだったらお前も殺すし、内妻も殺す』と言った」|volume=40|editor=|date=2008-05-30|issue=25|pages=146-147|publisher=小学館|ref={{SfnRef|中尾幸司2|2008}}}} - 通巻:第1972号(2008年5月30日号)。 |
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* {{Cite journal|和書|journal=週刊ポスト|author=中尾幸司|title=法廷は語る FILE51 大牟田市四人連続殺人事件(後編) 父親から携帯電話で命令された兄弟はアイスピックを左胸部に突き刺した――。|volume=40|editor=|date=2008-06-06|issue=26|pages=152-153|publisher=小学館|ref={{SfnRef|中尾幸司3|2008}}}} - 通巻:第1973号(2008年6月6日号)。 |
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'''『[[相撲 (雑誌)|相撲]]』([[ベースボール・マガジン社]])''' |
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* {{Cite journal|和書|journal=相撲|title=1996年9月夏場所展望号|volume=45|page=156|date=1996-06-15|issue=6|publisher=ベースボール・マガジン社|doi=10.11501/7911279|id={{NDLJP|7911279/1/}}|ref={{SfnRef|月刊相撲6|1996}}}} - 通巻:第657号。 |
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* {{Cite journal|和書|journal=相撲|title=2000年9月秋場所展望号|volume=49|page=156|date=2000-09-15|issue=9|publisher=ベースボール・マガジン社|doi=10.11501/7911331|id={{NDLJP|7911331/1/}}|ref={{SfnRef|月刊相撲9|2000}}}} - 通巻:第657号。 |
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* {{Cite journal|和書|journal=相撲|title=平成13年春場所展望号|volume=50|date=2001-04-15|issue=4|pages=82-83|publisher=ベースボール・マガジン社|ref={{SfnRef|月刊相撲4|2001}}}} - 通巻:第665号。 |
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'''その他関連記事''' |
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* {{Cite journal|和書|journal=FRIDAY|title=スクープ 弟子を「スコップでメッタ打ち」 異色候補「旭道山」が加えた暴行“証拠写真”|volume=13|editor=(編集人)谷雅志|date=1996-10-25|issue=46|pages=72-73|publisher=講談社|ref={{SfnRef|FRIDAY|1996}}}} - 通巻:第656号(1996年10月25日号)。K2が「息子K3が[[大島部屋]]で[[旭道山和泰|旭道山]]から暴行を受けた」という旨を証言した記事。 |
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* {{Cite journal|和書|journal=週刊ポスト|title=独占スクープ! 16頁大特集 死刑囚78人、獄中からの「肉筆」全掲載 確定死刑囚133人アンケート調査に寄せられた直筆回答から死刑存廃を考える大特集|volume=45|editor=飯田昌宏(編集人)|date=2013-02-22|issue=7|pages=13-20頁、169-176頁|publisher=講談社|ref={{SfnRef|週刊ポスト|2013}}}} - 通巻:第2217号(2013年2月15・22日号)。同年2月4日発売。福島瑞穂が2012年9月から11月にかけ、死刑確定者133人を対象に実施したアンケート(うち78人が回答、70人が実名掲載に同意)の内容を掲載している。 |
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=== 書籍 === |
=== 書籍 === |
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'''[[住宅地図]]''' |
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* {{Cite book|和書|author=鈴木智彦|authorlink=鈴木智彦 |title=我が一家全員死刑|publisher=[[コアマガジン]]|date=2010-11-06|isbn=978-4862529138}} |
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* {{Cite book|和書 |title=福岡県 大牟田市 200302 |publisher=[[ゼンリン]] |date=2003-02 |page= |ref={{SfnRef|ゼンリン|2003}} |series=ゼンリン住宅地図 |isbn=978-4432156849 |NCID= |id={{国立国会図書館書誌ID|000004065423}}・{{全国書誌番号|20372206}}}} |
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** 次男K4による獄中手記。書名は「一家全員」となっているが、同書によると事件に関わっていない家族や、事件当時既に他界していた家族もいる。 |
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* {{Cite book|和書 |
* {{Cite book|和書 |title=福岡県 大牟田市 200401 |publisher=ゼンリン |date=2004-01 |page= |ref={{SfnRef|ゼンリン|2004}} |series=ゼンリン住宅地図 |isbn=978-4432175406 |NCID= |id={{国立国会図書館書誌ID|000004354494}}・{{全国書誌番号|20573614}}}} |
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* {{Cite book|和書 |title=福岡県 大牟田市 200501 |publisher=ゼンリン |date=2005-01 |page= |ref={{SfnRef|ゼンリン|2004}} |series=ゼンリン住宅地図 |isbn=978-4432194308 |NCID= |id={{国立国会図書館書誌ID|000007639139}}・{{全国書誌番号|20742127}}}} |
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** 『我が一家全員死刑』を映画化に合わせて加筆・修正の上で文庫化したもの。 |
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* {{Cite book|和書 |title=福岡県 大牟田市 202211 |publisher=ゼンリン |date=2022-11 |page= |ref={{SfnRef|ゼンリン|2022}} |series=ゼンリン住宅地図 |isbn=978-4432533244 |NCID= |id={{国立国会図書館書誌ID|032468648}}・{{全国書誌番号|23779450}}}} |
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* {{Cite book|和書|author=死刑廃止国際条約の批准を求めるフォーラム90|title=死刑囚90人 とどきますか、獄中からの声|publisher=[[インパクト出版会]]|date=2012-05-23|edition=初版第1刷発行|isbn=978-4755402241|ref={{SfnRef|インパクト出版会|2011}}}} |
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'''事件を題材とした書籍''' |
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* {{Cite book|和書|author=年報・死刑廃止編集委員会|title=死刑囚監房から 年報・死刑廃止2015|publisher=インパクト出版会|date=2015-10-10|edition=初版第1刷発行|isbn=978-4755402616|ref={{SfnRef|年報・死刑廃止|2015}}}} |
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* {{Cite book|和書 |title=我が一家全員死刑 大牟田4人殺害事件「死刑囚」獄中手記 |publisher=[[コアマガジン]] |date=2010-11-20 |ref={{SfnRef|鈴木智彦|2010}} |author=[[鈴木智彦]] |editor=(編集人)末永孝弘 |edition=初版第一刷 |isbn=978-4862529138 |NCID=BB08225843 |id={{国立国会図書館書誌ID|000011174801}}・{{全国書誌番号|21936101}}}} - 次男K4による獄中手記で、映画『[[全員死刑]]』の原作となった。書名は「一家全員」となっているが、同書によると事件に関わっていない家族や、事件当時既に他界していた家族もいる。 |
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* {{Cite book|和書|author=年報・死刑廃止編集委員会|title=ポピュリズムと死刑 年報・死刑廃止2017|publisher=インパクト出版会|date=2017-10-15|edition=初版第1刷発行|isbn=978-4755402807|ref={{SfnRef|年報・死刑廃止|2017}}}} |
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** {{Cite book|和書 |title=全員死刑 大牟田4人殺害事件「死刑囚」獄中手記 |publisher=[[小学館]] |date=2017-11-12 |ref={{SfnRef|鈴木智彦|2017}} |author=鈴木智彦 |edition=初版第1刷発行 |series=[[小学館文庫]] |isbn=978-4094064759 |NCID=BB25145977 |volume=す12-1 |id={{国立国会図書館書誌ID|028582927}}・{{全国書誌番号|22984380}}}} - 『我が一家全員死刑』を映画化に合わせて加筆・修正の上で文庫化したもの。 |
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* {{Cite book|和書|author=年報・死刑廃止編集委員会|title=オウム大虐殺 13人執行の残したもの 年報・死刑廃止2019|publisher=インパクト出版会|date=2019-10-25|edition=初版第1刷発行|pages=269,275|isbn=978-4755402982|ref={{SfnRef|年報・死刑廃止|2019}}}} |
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* {{Cite book|和書 |title=増補新版 女性死刑囚 十四人の黒い履歴書 |publisher=[[鹿砦社]] |date=2013-12-16 |pages=158-172 |ref={{SfnRef|深笛義也|2013}} |author=深笛義也 |edition=初版第1刷発行 |isbn=978-4846309794 |NCID=BB15913176 |chapter=File No.14 大牟田一家四人殺害事件 母の提案で一家で殺人、家族全員が死刑に K2 |id={{国立国会図書館書誌ID|025046549}}・{{全国書誌番号|22341849}}}} |
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* {{Cite book|和書 |title=人殺しの論理 凶悪殺人犯へのインタビュー |publisher=[[幻冬舎]] |date=2018-11-30 |pages=55-94 |ref={{SfnRef|小野一光|2018}} |author=小野一光 |editor=市儀保博 |edition=第一刷 |series=[[幻冬舎新書]] |isbn=978-4344985254 |ncid=BB27301519 |chapter=第2章 K4の涙――大牟田四人殺人事件 |issue=524 |id={{国立国会図書館書誌ID|029341744}}・{{全国書誌番号|23143144}}}} - お-27-1。 |
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* {{Cite book|和書 |title=連続殺人犯 |publisher=[[文藝春秋]] |date=2019-02-10 |pages=11-41 |ref={{SfnRef|小野一光|2019}} |author=小野一光 |edition=第1刷 |series=[[文春文庫]] |isbn=978-4167912314 |NCID=BB27711361 |chapter=CASE 1 K4 大牟田連続4人殺人事件 |volume=お-71-2 |id={{国立国会図書館書誌ID|029455835}}・{{全国書誌番号|23177160}}}} - 単行本『殺人犯との対話』(2015年11月15日第一刷)の文庫版。『週刊文春』2015年1月22日号 - 9月10日号に連載された記事を加筆・修正した内容をまとめた本。 |
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'''[[インパクト出版会]]発行の書籍(『年報・死刑廃止』シリーズなど)''' |
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* {{Cite book|和書 |title=犯罪被害者と死刑制度 年報・死刑廃止98 |publisher=インパクト出版会 |date=1998-08-25 |pages=58-77 |ref={{SfnRef|年報・死刑廃止|1998}} |author=平川宗信 |editor=(編集)年報・死刑廃止編集委員会(編集委員)阿部圭太・岩井信・江頭純二・菊池さよこ・菊田幸一・島谷直子・高田章子・対馬滋・永井迅・安田好弘・深田卓(インパクト出版会) / (協力:深瀬暢子・フォーラム90実行委員会) |edition=第1刷発行 |isbn=978-4755400797 |NCID=BA37394461 |chapter= |url=http://impact-shuppankai.com/products/detail/74 |author2=村岡啓一 |author3=安田好弘 |author4=岩井信 |id={{国立国会図書館書誌ID|000002746734}}・{{全国書誌番号|99055469}}}} |
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* {{Cite book|和書 |title=死刑囚90人 とどきますか、獄中からの声 |publisher=インパクト出版会 |date=2012-05-23 |pages= |ref={{SfnRef|フォーラム90|2012}} |author=死刑廃止国際条約の批准を求めるフォーラム90 |editor=(編集委員:可知亮、国分葉子、高田章子、中井厚、深瀬暢子、[[安田好弘]]、深田卓 / 協力=[[福島瑞穂|福島みずほ]]事務所、死刑廃止のための大道寺幸子基金) |edition= |isbn=978-4755402241 |ncid=BB09377869 |chapter=特集・死刑囚監房から |url=http://impact-shuppankai.com/products/detail/208 |id={{国立国会図書館書誌ID|023615338}}・{{全国書誌番号|22127584}}}} |
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* {{Cite book|和書 |title=死刑囚監房から 年報・死刑廃止2015 |publisher=インパクト出版会 |date=2015-10-10 |pages=39-107 |ref={{SfnRef|年報・死刑廃止|2015}} |author=年報・死刑廃止編集委員会 |editor=(編集委員:岩井信・可知亮・笹原恵・島谷直子・高田章子・永井迅・安田好弘・深田卓) / (協力:死刑廃止国際条約の批准を求めるフォーラム90・死刑廃止のための大道寺幸子基金・福島みずほ事務所・深瀬暢子・国分葉子・岡本真菜) |edition=第1刷 |isbn=978-4755402616 |ncid=BB19673314 |chapter=特集・死刑囚監房から |url=http://impact-shuppankai.com/products/detail/246 |id={{国立国会図書館書誌ID|026759091}}・{{全国書誌番号|22671713}}}} |
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* {{Cite book|和書 |title=加藤智大さんの死刑執行 年報・死刑廃止2022 |publisher=インパクト出版会 |date=2022-10-10 |ref={{SfnRef|年報・死刑廃止|2022}} |author=年報・死刑廃止編集委員会 |editor=(編集委員:岩井信・可知亮・笹原恵・島谷直子・高田章子・永井迅・安田好弘・深田卓) / (協力:死刑廃止国際条約の批准を求めるフォーラム90、死刑廃止のための大道寺幸子・[[島田事件|赤堀政夫]]基金、深瀬暢子・国分葉子・岡本真菜) |edition=第1刷発行 |isbn=978-4755403248 |ncid=BC17102998 |chapter= |url=http://impact-shuppankai.com/products/detail/322 |id={{国立国会図書館書誌ID|032411605}}・{{全国書誌番号|23787981}}}} |
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== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
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* [[ |
* [[日本における死刑囚の一覧 (2010-)]] |
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** [[日本における収監中の死刑囚の一覧]] |
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* [[全員死刑]] - 本事件を題材にした2017年公開の映画 |
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* [[一家四人死刑事件]] - [[1914年]]([[大正]]3年)に[[新潟県]]で発生した殺人事件。一家4人が死刑判決を受けたが、最終的に死刑が確定したのは1人のみである。 |
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* [[脱獄]] |
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* [[警察不祥事]] |
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* [[日本における銃犯罪一覧]] |
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== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
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* {{Cite news|title=大牟田 |
* {{Cite news|和書 |title=大牟田・四人殺害関連特集 |newspaper=[[西日本新聞]] |date=2004-11-17 |url=http://www.nishinippon.co.jp/news/2004/oomuta/ |publisher=[[西日本新聞社]] |language=ja |archive-url=https://web.archive.org/web/20121124100950/http://www.nishinippon.co.jp/news/2004/oomuta/ |archive-date=2012年11月24日}} |
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* {{Cite news|和書 |title=大牟田4人殺害 : ニュース特集 : 九州発 |newspaper=[[読売新聞オンライン|YOMIURI ONLINE]] |date=2008-06-19 |url=http://kyushu.yomiuri.co.jp/news-spe/20080619-2971383/ |publisher=読売新聞西部本社 |language=ja |archive-url=https://web.archive.org/web/20111024043431/http://kyushu.yomiuri.co.jp/news-spe/20080619-2971383/ |archive-date=2011年10月24日}} |
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2023年8月31日 (木) 13:04時点における版
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大牟田4人殺害事件 | |
---|---|
場所 | 日本:福岡県大牟田市 |
座標 | |
日付 | 2004年(平成16年)9月16日・18日 (UTC+9) |
概要 | 暴力団組長一家4人が、無登録の金融業を経営していた知人母子3人(母A1・長男A2・次男A3)と、A2の友人である少年Bの計4人を相次いで殺害し、遺体を諏訪川に遺棄した。 |
攻撃側人数 | 4人 |
武器 | 小型自動式拳銃「ブローニング・ベビー」[3]、ワイヤー錠、アイスピック[4](軸部の長さ11.8 cm)[5] |
死亡者 | 4人 |
被害者 | 女性A1(当時58歳)ら一家3人+少年B(当時17歳)の計4人 |
犯人 | 一家4人(暴力団組長の男K1と妻K2、息子2人) |
動機 |
金銭に窮したこと、犯人一家の被害者A1に対する恨み
|
対処 | 犯人4人を福岡県警が逮捕、福岡地検久留米支部が起訴 |
謝罪 | あり |
刑事訴訟 | 犯人4人全員が死刑(いずれも未執行) |
影響 | 事件捜査の過程でK1やK4が警察署内で自殺を図る、長男K3が検察庁舎から逃走するなどの出来事があり、後者事件ではK3に同行していた警察官が懲戒処分を受けている。 |
管轄 |
大牟田4人殺害事件(おおむたよにんさつがいじけん)は、2004年(平成16年)9月16日と同月18日に福岡県大牟田市で発生した連続殺人・死体遺棄事件[8]。報道では大牟田事件と呼称される場合がある[9][10][11][12][13]。また市内を流れる諏訪川が被害者4人の死体遺棄現場となったことから、地元紙の『有明新報』では諏訪川事件[14][15]、大牟田市諏訪川の四人殺害・死体遺棄事件[14]、大牟田市諏訪川4人殺害事件[16]、諏訪川4人殺害事件[17]などの名称が用いられている。
2004年9月18日、暴力団組長の男K1(事件当時60歳)とその妻K2(同45歳)、そして彼らの息子2人(長男K3〈同23歳〉・次男K4〈同20歳〉)の計4人が、知人の女性A1(事件当時58歳)と彼女の長男A2(同18歳)、そしてA2の友人だった少年B(当時17歳)の計3人を殺害し、遺体を載せた軽自動車を「馬沖橋」(座標)[注 1]付近から諏訪川に遺棄した。また、K3・K4兄弟はこれに先んじて同月16日、A1の次男A3(同15歳)を「馬沖橋」から諏訪川へ投げ込んで殺害していた[18]。9月21日にA3の遺体が発見されたことで事件が発覚し[6]、残る3人 (A1・A2・B) の遺体も同所付近に沈められた軽自動車の車内から発見された[19]。A1は無登録の貸金業を経営しており、K2らがその債務者からの取り立てを代行していた[20]。
犯人一家4人 (K1・K2・K3・K4) はいずれも強盗殺人・殺人・死体遺棄などの罪に問われ、2011年(平成23年)に最高裁で死刑判決が確定した[21][22]。一家4人が揃って死刑判決を受けたこと[23][24][25]、また一連の犯行で4人の死刑が確定したことは異例とされている[26]。
概要
犯人である男K1の妻K2は、被害者である女性A1と家族ぐるみで付き合っていたが[18]、無登録の金融業を営んでいたA1[27]から見下されるようになっていたことに恨みを募らせ、K2から事情を聞かされていた夫K1や長男K3もA1への敵意を強めていた[18]。加えて、K1一家は多額の借金(2004年9月時点で6,600万円以上)を抱えて生活費や暴力団の上部団体に支払う上納金などの支払いに窮していたことから、まずK1・K2・K3の3人がA1を殺害して金を奪う強盗殺人の計画を練り[18]、後に夫婦の次男K4も加えた4人で以下のような犯罪を起こした。
K3は母親であるK2を出し抜いてA1の金を奪おうと考え、弟K4と共謀した上で[18]、2004年9月16日夜、A1宅に1人で在宅していたA1の次男A3(当時15歳:高校2年生)の首を絞めて失神させた上で、コンクリートブロック3個を体に結びつけ、「馬沖橋」[注 1]から諏訪川に投げ込んで殺害[18]。A1宅から貴金属(約398万円[18]ないし399万円相当)を奪った[33]。翌17日には一家4人が共謀し、A1と長男A2(当時18歳:大学生)の2人も殺害して遺体を諏訪川に遺棄することを決め、18日未明には市内の岸壁に駐車した車内で、K4が睡眠薬入り弁当を食べさせて眠らせたA1を絞殺した[18]。そして4人がA1宅に行くと、A2が友人である少年Bを軽自動車に乗せて帰宅していたため、2人を口封じのために殺害することになり、K3・K4兄弟が2人を車で大牟田川河口の岸壁まで連れ出した上で、K4がK1から渡された拳銃を用いて2人を射殺した[18]。殺害後、4人は被害者3人 (A1・A2・B) の遺体を軽自動車に載せ、諏訪川に沈めた[18]。
事件後、4人は福岡県警(捜査一課・大牟田警察署)に逮捕され、福岡地検久留米支部によって起訴された。一方でそれに前後して、K1が大牟田署内で取り調べ中に凶器の拳銃を用いて自殺を図る[34][3]、K3が検察庁舎から脱走して約3時間以上逃走する[35]、K4が筑紫野警察署の留置場内で自殺を図る[36]などの出来事も起き、K3の逃走事件では護送を担当していた大牟田署員3人が減給の懲戒処分を受けている[37][38]。
刑事裁判では、4被告人全員がA1に対する強盗殺人罪、A2・Bに対する殺人罪および銃砲刀剣類所持等取締法(銃刀法)違反、彼ら3被害者に対する死体遺棄罪に問われたほか、K1は大牟田署内での発砲事件に関する銃刀法違反の罪、K3・K4兄弟はA3に対する強盗殺人・死体遺棄罪[39]、そしてK3は単純逃走罪にも問われた[40]。第一審ではK2・K4の2被告人が起訴事実を認めた一方、被告人K3は無罪を主張し、被告人K1は家族との共謀を否定して自身の単独犯を主張した[41]。一方で公判中には、K3とK4が法廷で口論になって殴りかかろうとしたK3が退廷させられる[42][43]、K4が前回公判で謝罪した被害者遺族に対し「ふざけんな」と暴言を吐くなどの出来事もあった[44]。検察官は一連の犯行の凶悪さや、被告人らの反社会性などを重視し、4被告人全員に死刑を求刑した[45][46]。福岡地裁久留米支部(高原正良裁判長)は検察側の主張通り、4被告人全員の共謀を認定した上で、4人全員に求刑通り死刑判決を言い渡した[33][23]。
4人とも福岡高裁へ控訴し、控訴審ではK1が共謀を認めた一方で強盗目的を否認する主張をしたが[47]、いずれも控訴棄却の判決を言い渡されている[48][49]。そして2011年10月に4人とも最高裁で上告棄却の判決を言い渡され、一家4人の死刑が確定した[21]。
略年表
事件の経緯 | |||
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段階 | 年 | 月日 | 出来事 |
殺害計画 | 2004年(平成16年) | 9月9日 | A1殺害計画: K2が自宅でK1に借金の現状などを打ち明けたところ、K1からA1を殺して金を奪うことを提案され、2人で殺害の謀議を重ねる[50]。後にK3も犯行に引き入れる[51]。 |
9月15日 | K2がA1から多額の現金を用意できたことを伝えられる[51]。 これを受け、K1は翌16日に殺害計画を実行することを決める[52]。 | ||
A3殺害 | 9月16日 | K2、A1を山中に連れ出すが、この日は殺害に至らず[51]。 K3は両親を出し抜いて金を手に入れるため、K4を犯行に引き入れ、A1宅に1人で在宅していたA3を襲撃[53]。 家から指輪などの入った金庫を盗み出し[53]、A3を「馬沖橋」から諏訪川に投げ込んで殺害する[18]。 | |
A1殺害 | 9月17日 | 一家4人で共謀: A1は帰宅後、A2からA3がいなくなったことを知らされる[54]。K3はK2から手助けを求められ、K4とともにA1殺害のため、睡眠薬入りの弁当を用意する[55]。 K2は組事務所でA1に弁当を食べさせて眠らせた上でK1と謀議する[56]。K1はA2も殺害して遺棄することを決め、K2からの提案を受けて息子2人 (K3・K4) を犯行に引き入れる[57]。 K1一家4人が組事務所で謀議し、A1を殺害して金品を奪うことで共謀が成立、A1を連れて車で大牟田港の岸壁に向かう[58]。 | |
9月18日 | K4が自動車内でA1を絞殺する[59]。 | ||
A2・B殺害 | 金品を奪うため一家4人でA1宅に向かったところ、行方不明になっていたA3を捜していたA2・Bの2人組(ワゴンRに乗車)と鉢合わせしたため、K1は2人とも殺害することを決めて妻子3人に指示する[60]。 K3・K4はワゴンRに乗り込み、A2・Bを大牟田港の岸壁へ連れて行き、2人をK1から手渡された拳銃で銃撃(A2はこの時点で死亡)[61]。次いで、まだ生きていたBもアイスピックで刺殺する[62]。 | ||
死体遺棄 | 一家4人はA1の遺体をMPV(K1一家の車)から、A2・Bの遺体が載せられたワゴンR(A1一家の車)に載せ換えた上で、「馬沖橋」付近の諏訪川に沈めて遺棄する[52]。 | ||
A1宅を物色・証拠隠滅 | 一家4人はA1宅を物色するが、金品は得られなかった[52]。先に金庫を盗み出していたK3・K4は、その金庫に入っていた指輪の鑑定書を盗み出して隠した[52]。 その後、K3は自分の車(プレジデント)の車内清掃を依頼したが、多忙を理由に断られた[63]。 | ||
捜査の経緯 | |||
初期捜査 | 2004年(平成16年) | 9月19日 | A3とBにつき、大牟田署へ捜索願が出される[64]。Bの母親はK2を訪ねて息子の行方について聞くが、「知らない」と言われる[65]。 K4は両親にA3殺害の事実を打ち明け、K1から遺体を引き上げて人目につかないよう処理することを命じられたが、遺体は既に損傷が激しかったため、引き上げることを断念した[66]。 |
9月20日 | B宅に男の声で脅迫電話(後に警察を動かそうとした友人らによる狂言と判明)が掛かり、福岡県警捜査一課・大牟田署が捜査を開始[67]。 | ||
事件発覚 | 9月21日 | 諏訪川でA3の遺体が発見される[6]。 K2は捜査一課から事情聴取され[68]、大牟田署に出頭する[69]。 | |
9月22日 | K2、A3に対する死体遺棄容疑で逮捕[6]。 K1の自殺未遂: K1は大牟田署内で凶器の拳銃を用いて自殺を図るが、未遂に終わる[34][3]。 | ||
K4逮捕 | 9月23日 | 「馬沖橋」付近の諏訪川で、行方不明になっていた被害者3人 (A1・A2・B) の遺体が載せられたワゴンRが発見される[70]。 K4がA3に対する死体遺棄容疑で逮捕される[71]。 | |
K3逮捕 | 10月1日 | K3がA1・A2・Bに対する死体遺棄容疑で逮捕される[72]。 | |
K1逮捕 | 10月7日 | 入院していたK1が退院し、K2・K4とともにA1・A2・Bに対する死体遺棄容疑で逮捕される[72]。 | |
再逮捕・起訴 | 10月22日 | K2・K3・K4の3人がA1ら3人に対する死体遺棄罪で起訴される[73]。 | |
10月26日 | K3がA1ら3人に対する死体遺棄罪で起訴される[74]。 同日、4人はA1に対する強盗殺人容疑で再逮捕される[74]。 | ||
K3逃走事件 | 11月13日 | K3が取り調べを受けていた福岡地検久留米支部から逃走するが、約3時間後に熊本県荒尾市内で身柄を確保される[35]。 大牟田署員3人が付き添っていながら逃走を許したことや内規違反があったことなどが問題視され、担当署員や大牟田・久留米の両署長らが後に懲戒処分を受ける[37]。 | |
再逮捕・起訴 | 11月16日 | K1一家4人がA1に対する強盗殺人罪で起訴される。 同日、捜査本部はA2・Bに対する殺人などの容疑で4人を再逮捕する[75]。 | |
12月7日 | 一家4人がA2・Bに対する殺人・銃刀法違反の罪で起訴される。 同日、K3・K4兄弟はA3に対する強盗殺人などの罪で再逮捕される[76]。 | ||
12月27日 | K3・K4がA3に対する強盗殺人罪で起訴される(死体遺棄罪については不起訴処分)[77]。 |
刑事裁判の経緯 | |||
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審級 | 年 | 月日 | 出来事 |
第一審 福岡地裁久留米支部 |
2005年(平成17年) | 3月15日 | 初公判: 福岡地裁久留米支部(高原正良裁判長)で4被告人の第一審初公判が開かれる。 罪状認否でK2・K4は全面的に起訴事実を認めた一方、K1は家族との共謀を否定し、自身の単独犯を主張。K3は連続殺人への関与を全面的に否定。 |
4月13日 | 第2回公判: 同日以降、審理は起訴事実を認めたK2・K4組と、起訴事実を否認したK1・K3組にそれぞれ分離される。 | ||
5月5日 | K3が拘置先の福岡刑務所で意識朦朧状態になっているところを発見され、同月31日まで入院。これにより、審理が中断する。 | ||
6月21日 | 無実を主張したK3にK4が憤慨して一触即発になる。同年10月11日にも同様の騒動があった。 | ||
2006年(平成18年) | 3月14日 | K2とK4がそれぞれ被害者遺族に謝罪する。 | |
3月28日 | 被害者遺族の1人(A1の母親)の陳述に対し、K4が逆上して「ふざけんな」と暴言を吐く。 | ||
5月2日 | 死刑求刑: K2・K4の両被告人に検察官が死刑を求刑。 | ||
6月13日 | 最終弁論: K2・K4の審理は同日の第25回公判で結審。 両被告人の弁護人がそれぞれ最終弁論を行い、死刑回避を求める。 | ||
10月17日 | K2・K4に死刑判決: 福岡地裁久留米支部はK2・K4の両被告人に死刑判決。 同判決では分離公判中のK1・K3との共謀も認定される。判決後、2人とも福岡高裁へ控訴。 | ||
10月24日 | 死刑求刑: K1・K3の両被告人に検察官が死刑を求刑。 | ||
11月28日 | 最終弁論: K1・K3の審理は同日の第32回公判で結審。 K1の弁護人は死刑回避を求め、K3の弁護人は逃走事件以外は無罪を主張し、執行猶予判決を求める。 | ||
2007年(平成19年) | 2月27日 | K1・K3に死刑判決: 福岡地裁久留米支部はK1・K3の両被告人に死刑判決。 判決後、2人とも福岡高裁へ控訴。 | |
控訴審 福岡高裁 |
6月5日 | K2・K4の審理: 福岡高裁(正木勝彦裁判長)でK2・K4両被告人の初公判。 審理は同年9月27日に結審。 | |
10月11日 | K1・K3の審理: K1・K3の控訴審初公判。K1は第一審における「自身の単独犯」との主張を翻し、家族との共謀を認める。 審理は同年12月20日に結審。 | ||
12月25日 | K2・K4の控訴棄却判決: 福岡高裁はK2・K4の両被告人の控訴を棄却する判決を宣告。 判決後、2人とも最高裁へ上告。 | ||
2008年(平成20年) | 3月27日 | K1・K3の控訴棄却判決: 福岡高裁はK1・K3の両被告人の控訴を棄却する判決を宣告。 判決後、2人とも最高裁へ上告。 | |
上告審 最高裁 |
2011年(平成23年) | 6月15日 | 上告中のK4が知人男性と養子縁組して改姓。縁組後(上告審判決時点)の姓は「I」になっている。 |
10月3日 | 最高裁第二小法廷(須藤正彦裁判長)がK2・K4の上告を棄却する判決を宣告。 同判決により2人の死刑が確定(K4の死刑確定は同年11月8日付)。 | ||
10月17日 | 最高裁第一小法廷(白木勇裁判長)がK1・K3の上告を棄却する判決を宣告。 同判決により2人の死刑が確定。 |
事件の背景
犯人
犯人は、男K1(事件当時60歳)とその妻K2(同45歳)、そしてK1・K2夫婦の長男K3(同23歳)・次男K4(同20歳)の計4人である(彼らの詳細な人物像については後述)。
K1・K2・K3の上告審判決時の本籍地は大牟田市桜町19番地[注 2][80][79](座標)[81]。K1一家はかつて大牟田市藤田町に在住していたが[注 3][86]、事件発生の3年半ほど前、桜町の家で暮らしていたK1の姉が死去したため、その家にK1一家が引っ越してきた[87]。それ以来、同宅には暴力団風の男が多数出入りする姿が目撃されたほか、家族以外の同居人2、3人や、常に屯している10 - 20歳代前半の若者たちの姿が目撃されていた[87]。
事件当時、K1には妻K2および子供5人[長女(当時26歳)・長男K3・次女(当時22歳)・次男K4・三男(当時19歳)]がおり、うち結婚して別居していた長女とK3の2人を除く子供3人が、両親であるK1・K2夫婦と同居していた[88]。娘2人と三男は事件後、実家とは別の場所で生活しており、次女は『週刊現代』の取材に対し、自身と三男は事件当時から家庭と距離を置いていたと証言している[89]。なお、三男は2015年(平成27年)1月8日に自殺している(後述)[90]。息子3人はいずれも体重100 kg超の巨漢で[91]、K3・K4はそれぞれ中学卒業後に力士養成員として相撲部屋に入門したものの、序ノ口もしくは序二段止まりで引退し、大牟田に帰郷していた[92]。引退後、K3は2000年(平成12年)に傷害致死事件を起こし、懲役3年6月の実刑判決を受けた前科があり(後述)[93]、K4も薬物犯罪などで中等少年院に入院していた時期があった(後述)[94]。
北村組
K1は事件当時、指定暴力団道仁会村上一家「北村組」の組長だった[注 4][97]。同組は構成員10人未満の小規模な組で[注 5]、K2が「姐」として資金面の管理を担当していた[100]。主なシノギは、飲食店に植木・花・おしぼりなどを納品することだったが、その資金繰りは苦しかったため、K2が経営していた建設会社(後述)と債権回収の仕事で生活を支えていた[98]。また、古タイヤを加工して作った植木鉢にペンキを塗って1個2、3万円で売りつける、年末には近隣住民にブリ(大牟田では年末にブリを贈る風習がある)を1本1万円から15,000円で売りつけるなどの方法で近隣住民から金を巻き上げていた、という証言がなされている[101]。暴力団の世界では、組事務所と組長宅は分離することが常識だったが、北村組は事件直前に上層部から勧告を受けて事務所を移転するまで事務所がK1宅と同じ場所にあり、組員たちがK1宅の掃除・洗濯を行うなどしていた[95]。その事実を踏まえ、鈴木智彦は「組長の息子」として生育したK4が暴力団と馴染みの深い環境で育ったことで悪影響を受けた可能性を示唆している[95]。
事件当時の北村組の事務所は、大牟田市本町四丁目(おおよその座標)にあったアパートの2階の部屋である[102]。このアパートはJR大牟田駅に近い住宅密集地に建っていた木造2階建てのアパートで、1階が駐車場になっており、2階に部屋が4室あった[103]。1階の駐車場には普段から高級車が駐車されており、暴走族風の若者の車やバイクも駐車してあった[104]。このアパートは以前、付近の自動車整備工場(後述)が所有していたが[105]、借金の担保として銀行に差し押さえられそうになったことから、所有者がK1に相談を持ち掛け、K1が経営していた建設会社の作業員らが住み込んで占有していた時期もあった[104]。その後は競売にかけられていたが[104]、2000年11月に地元の暴力団関係者が落札し、うち一室をK2名義で借りていた[105]。2002年(平成14年)ごろからは暴力団関係者らしき男が入居しており、隣接するプレハブも含めて若い男らも頻繁に出入りしていたほか、周囲では携帯電話で「金返せ」と怒鳴る声も聞かれていた[106]。
被害者
一連の事件の被害者は、女性A1(事件当時58歳)と長男A2(同18歳:九州情報大学1年生)・次男A3(同15歳:大牟田北高校1年生)の兄弟、そしてA2の友人であった少年B(同17歳:大牟田南高校定時制2年生)の計4人である[107]。被害者A一家とBは事件当時、それぞれ大牟田市小浜町に在住していた[19]。A一家の住宅は保育所に隣接して建っていたが、事件から丸10年となる2014年(平成26年)9月ごろに小野一光が同地に行ったところ、家は既に解体されていた[注 6][110]。事件前、A一家は大牟田市内で転居を繰り返し、A1は情報通信関連のセールスや飲食店従業員などの仕事をして生計を立てていたと報じられている[111]。
A1は4人姉妹の長女として生まれ[112]、かつて東京都品川区のキャバレーでナンバーワンホステスだった経歴を持ち、独立して東京の赤羽や王子でスナックを経営して成功を収めた後、大牟田に帰郷した[113]。A1は事件から十数年前、長女として高齢の母親(2006年時点で81歳)の面倒を見るために東京から帰郷してきたという[112]。A1の夫であり、A2・A3兄弟の父親でもある男性(当時45歳)は事件当時、神奈川県川崎市で妻子と別居していた[114]。彼は東京都内でA1と知り合い、事件の約20年前に結婚、長男A2が誕生してから妻A1の出身地である大牟田に移住したが、次男A3が生まれた直後に妻子と別居し、1人で東京に戻っていた[注 7][114]。粟野仁雄 (2004) は、A1は夫と離婚してから大牟田市内を転々とし、事件の7年前(1995年ごろ)にJR大牟田駅近くに引っ越してきたと述べている[115]。
A1は県知事宛の貸金業者登録手続をしないまま、無許可で貸金業を営んでおり[20]、その貸金業は「トイチ」と呼ばれる違法な高金利であった[27]。その元手について、A1は周囲に対し「大阪や東京のクラブで働いて貯めた」と話しており[27]、服装や日ごろの言動から、裕福であることが周囲に知られていた[116]。顧客については、資金繰りが苦しいスナックや小料理店に数十万円単位で金を貸していたとする報道[27]、A1の身近な人々に主に数万円単位で金を貸していたとする報道がある一方[20]、市内の「年金通り」と呼ばれる商店街をたむろする老人に強引に金を貸していたとする報道もある[89]。また、鈴木智彦 (2017) は顧客としていたのは主婦たちで、中には売春をしている女性たちも多くいたと述べている[117]。高金利であることに加えて取り立ても苛烈で、利子を払えなくなった債務者のもとへ暴力団員風の男を連れたK2が取り立てに訪れたり、食事付きの条件で飲食店で働かされ、給料をすべて取られたりすることもあったという[27]。また鈴木は、A1には当時沖縄在住の情夫がいたが、彼もヤクザで、ベンツにA1を乗せてあちこちでデートしていたという地元暴力団幹部の証言を紹介している[118]。K4やK3はA1を「パトラ」という渾名で呼んでいたが[119]、これはA1がクレオパトラのように派手な化粧をしていたことが由来である[120]。
A2は生前、K4と共にバイクを乗り回したり、K4宅に出入りしたりしていたことから、K4と親しい関係と見られていた一方、内情を知っていた友人たちからは「〔A2はK4の〕使い走り」という証言もなされていた[9]。A3は生前、夏休みに行われた高校の語学研修に積極的に参加したりボクシングの練習に励んだりしており[121]、鈴木も現地取材の結果、A3については不良とは無縁の優しい子供という証言が多かったという旨を述べている[122]。
事件の経緯
事件前の動向
K2は1994年(平成6年)に被害者A1と初めて顔を合わせた[123]。翌1995年(平成7年)春、K2はA1から借金していた夫の知り合いから、A1との借金トラブルの仲裁を求められたことを機に、債権者であるA2と直接会い、依頼主(債務者)との間に立って折衷案を提案した[124]。その結果、依頼主がきちんと支払いを実行したため、A1はK2に感謝し、K一家に顔を出すようになった[125]。福岡高裁 (2007) は、K2は1997年(平成9年)ごろからA1と親しくなったと認定している[126]。A2らの友人らの証言によれば、当初はA1とK2の個人同士の付き合いだったが、彼女たちの子供たち同士も自然と付き合うようになり、A2が家出した際には何日間かK2の家に預けられたこともあったという[101]。これ以降、K2はA1が行っていた高利貸しの取り立てを手伝うなどしていたが、K2が2000年(平成12年)ごろにA1から計300万円を借金して以降は[注 8]、A1から見下されたり、貸金の取り立てなどに使い回されるようになった[126]。事件当時の報道によればK2はA1に対する借金返済が滞ったため、それを猶予してもらう代わりに他の債務者への取り立てを行うようになった[20]。また、K1・K2・K4は返済が滞った相手から取り立てを行い、回収に成功すればA1から一定の手数料を受け取っていたとする報道もある[127]。K1は事件前に知人に対し、金貸しについて「2、3か月で元が取れる」「大きな金だと逃げられるけど、10万円くらいだと月1万円は儲かる」などと話していた一方、かつて一家が住んでいた家の近隣住民からは、貸金業の仲介で相手を脅迫するなどトラブルが絶えず、何度も警察沙汰になったことがあるとの証言もなされている[128]。
また、K2は父親から引き継いで営んでいた建設業(後述)などによって家計を切り盛りするとともに、夫K1が組長を務めていた北村組の姐御的立場で組の会計もやり繰りしていたが[126]、2000年ごろにK1が配下である組員の妻と不倫関係になり、彼女に執着したことから組の結束が揺らいだばかりか、その影響で組の屋台骨だった建設会社の経営も悪化した[125]。そのような生活に耐えかねたK2から別れを切り出されたところ、それに逆上したK1はガソリンを室内に撒き散らすなどして暴れ、それが原因でK2は不眠症になった[125]。K2は手記で、そのような状況でA1が自宅に平気で上がり込み、時には真夜中に呼び出されるようなこともあったと述べている[125]。
K2とA1の確執
後述のようにK1一家にとって苦しい経済状況が続いていた中、K1は2004年6月15日に大牟田市神田町で車上狙い事件を起こし、窃盗未遂容疑で現行犯逮捕された[129]。犯行動機は小遣い銭欲しさで[52]、組の上部団体からは「恥さらしだ」としてK1の破門を求める声も上がっていたが、親分の1人が「歳も歳だから勘弁してやってくれ」と仲裁して収まった[130]。同月下旬、K2はA1宅の改装工事[注 9]を請け負ったが、A1は工事代金を貸金やその利息と相殺すると言って支払おうとしなかった[注 10][52]。また、A1はK2に対して前述のK1が起こした車上荒らし事件を引き合いに出して嫌味を言ったり、借金の利子支払いが滞っていることを詰ったりして、K2から「ちょっと過ぎたぐらいでガタガタ言うな!」と怒鳴り返されたこともあった[130]。K2は小野一光宛の手記で、A1からK1の車上荒らし事件を引き合いに「ヤクザの組長が窃盗事件を起こすなんて」と言われてバカにされたと思い、我慢の限界を迎えたと述べている[98]。一方でK2がA1から支払われていた取り立て成功時の手数料に満足せず、複数の債務者から回収した金(数万円から十数万円)を着服していたことが同年9月上旬になってA1に露見し、K2とA1が口論になったという報道もある[127]。
また、A1はK2に対し常々「1億2億は右から左」と豪語しており、同年7月ごろには「資本金1億円の金融会社を設立する」などと言っていた[10]。K2から後者の話を伝えられたK3は、新居購入費用などが欲しかったことや、先述の工事代金がA1側から支払われていなかったことを知ったことから、同年8月ごろに「かたぎのくせにヤクザを馬鹿にしている。殺してでも奪おう」と考え、A1を車で付け狙った[52]。同様の話をK2から伝えられたK1も同年9月8日、A1を殺害しようとしてK2らに止められた[52]。この時、K2はK4にK1を制止するよう要請しており、K4はA1宅に乗り込もうとしていたK1を制止している[134]。
一方でK2はその金融会社の設立話から、A1が大金を持っていると思い[135]、同月以降にはA1に「K1の紹介で安く買える土地がある」と持ち掛け[10]、自宅の近隣の土地を購入するよう勧めている[135]。
K1一家の困窮
2003年ごろからは北村組と建設会社の両方とも、資金繰りが苦しくなっていた[126]。建設会社は受注先が限られて給与支払いにも窮するような経営状態に陥り[20]、同年には事務所を閉鎖している[136]。これと同時に、K1一家は次第に日々の生活にも困窮するようになり、2004年9月ごろにはK1・K2夫婦の借金は計6,000万円以上[注 11]にまで膨れ上がった[126]。検察官の冒頭陳述によれば当時、夫婦に建設業の収入はほとんどなく、上部団体への上納金や生活費に困っていた状態で[10]、同月上旬には「借金苦で失踪した」という噂も流れていた[111]。また、事件当時は月末に電気料金の集金人が何度もK1宅に督促に来ていたことが報じられている[127][137]。しかし上告審でK1の弁護人を担当した中井淳は上告趣意書で、K2はA1や彼女の母親[注 12]、知人から借金していたものの、これらの知人から激しく返済を迫られていたような形跡が一切ないことや、消費者金融などからの借金もほとんど償却済みであり、激しい取り立てを受けていた形跡もないこと、K3・K2の公判における証言(K1は魚の仕入れ販売などで年収4,500万円を稼いでおり、建設業でも相応の収入を得ていたという主旨)を挙げ、K1が強盗目的で犯行におよんだとする確定判決の認定に疑問を呈している[139]。また、夫婦は金にルーズで、K1は荒尾競馬場に、K2もパチンコ店にそれぞれ通っていたという証言もある[140]。
なお、事件前の8月6日夕方には遺体遺棄現場付近の諏訪川沿いの土手で、K2が経営していた建設会社の作業員が運転する車が対向車と接触する事故を起こしていた[141]。当時助手席に乗っていたK2は、車から身を乗り出して相手に抗議したが、その最中に車が傾いてK2は川に転落した[141]。この時はK4らが駆けつけてK2を助け、救急車で病院に搬送している[141]。この事故直後、車を引き取りに来たK1が運転を誤って車ごと川に転落させているが、その現場はA1らの遺体が乗った車が引き上げられた地点とほぼ同一地点だった[142]。事故翌日にK4ら家族が重機などを使って車を引き揚げたが[141]、K2はその様子を目撃したA3の親族に対し、川の中に車やゴミが多数投棄されていることや「人を入れても分からないだろう」ということを話していたという[142]。実際、後にA1ら3人の遺体を載せた車が沈められていた現場付近には不法投棄されたと見られる複数の車が沈んでおり、A1の車は目立たない状態だった[143]。それらの経緯から、K2らはこの事故をきっかけにこの場所の状況を知り、遺棄現場として選んだと見られている[141][142]。また、この事故の際、K3はK2を救出するときに眼鏡を紛失しており、事件当時は眼鏡を掛けていない状況で深夜運転せざるを得なかったため、上告審でK3の弁護人を務めた小松初男・今村憲は上告趣意書で、スピードを出しての運転は困難な状況だったと指摘している[144]。
A1殺害計画
K2は2004年9月9日、桜町の自宅でK1に対し[145]、借金の現状・組の資金繰りの実情などを打ち明けたところ、A1を殺して彼女の金を奪うことをK1から提案された[50]。これに対し、K2も生活難・資金難から脱し、A1からの借金も免れられるだけでなく、かねてから彼女に対し抱いていた憤懣も一気に解消できると考え、その提案に賛同した[51]。そして、彼ら夫婦は以前A1に持ちかけていたK1宅の隣地の購入話を利用して[51]、A1に土地購入資金として現金を用意させた上で、K2がA1を夜には人気がない大牟田市内の三池公園(座標)上の大間山(八角目:座標)[注 13]に連れて行って殺害し[145]、その死体を普段彼女が使用していたワゴンRに積み込み、車ごと諏訪川に遺棄する計画を練った[51]。
その後、K2はA1から土地代金などとして、同月15日ごろまでに計2,680万円[注 14]を用意できると聞き、K1との間で同月16日にはA1殺害を決行する旨の謀議を固めた上で、K3にもその計画を伝えた[51]。K3はそれ以前からある程度、北村組や一家の財政事情、そしてK2とA1との確執を知っていたことに加え、自らも将来の夢を実現するためにまとまった金が欲しいと考えていたため、両親の計画に加担することを決めた[51]。この時、K3は「自分が殺すから(奪った金の)6割欲しい」と要求したが、K2は「自分が殺す」と譲らず、K3も最終的には了承している[135]。しかしK2の控訴趣意書によれば、A1の「多額の現金を用意した」という言動などは虚勢を張ったものと認定されている[148]。また、上告審でK2の弁護人を務めた鈴木敏彦の上告趣意書によれば、K2は「A1がリフォーム代だけでも支払ってくれたら、K1およびK3のA1に対する強盗殺人の計画が中止になるのではないか」と考えてA1にリフォーム代を請求したり、A1殺害が決まった9月16日にもK1・K3を納得させるため、約100万円の金策をしようと知人に当たったりしていた[149]。
同月15日、K2はA1から現金の用意ができたことを伝えられ、K1にもその旨を報告した[51]。これを受けてK1は翌16日に決行することを指示し、K3も了承した[52]。そして16日、K2は凶器としてカッターナイフを携帯した上で[51]、三池公園前で[150]ワゴンRを運転して来たA1と待ち合わせ、彼女を自分が運転していた自動車の助手席に乗り移らせて殺害の機会を窺った[51]。しかし夜遅くなっても殺害には踏み切れず、その途中でK1やK3からそれぞれアイスピックや万能包丁を示されたりして急かされていた[51]。一方で同日22時、K2は車で近くまで来たK3に対し「金は家にあるくさ」と言っている[18]。
K3・K4がA3を殺害
母K2のこのような煮え切らない態度に憤慨したK3は、両親を出し抜いて自分だけでA1の現金を手に入れようと考え、猪突猛進型の性格で実行力のある弟K4を犯行に引き込むことを決めた[53]。K4は事件当時、K3とよく行動をともにしており、K3宅に度々泊めてもらっていた[151]。
福岡高裁 (2007) によれば同日(9月16日)夜、K3は両親には内緒でK4に対し、A1宅に1人でいる次男A3を殺害し、A1宅にあると思われる2,000万円以上の現金を奪うことを持ち掛けたが、K4は即答しなかった[53]。一方、K4は鈴木智彦宛に送った手記で、K3は同日朝、当時同居していた内妻を実家(福岡県大川市)に帰し、K4と彼の交際相手である女性の2人を、力士時代の先輩でもある組員(後述:組員としては彼よりK4の方がわずかに兄貴分)が入院していた病院まで見舞いに行かせたと述べている[152]。その後、22時になってK3はK4たちと落ち合い、2人を車に乗せたが、しばらくしてK3はコンビニエンスストアの駐車場に入り、女性を車から降ろさせた上で、K4にA3を殺して2,000万円を奪う計画に加担するよう要求した[153]。同時にこの件は両親には内緒にするよう念押ししたほか、断った場合には一番下の弟(2015年に自殺したK1・K2夫婦の三男)や交際相手の女性を殺すなどと脅迫した[153]。K4は弟や彼女を出しに脅されたことに反感を抱いたものの、彼らを守る意味で承諾したと述べている[153]。鈴木は、この時点ではまだ犯行を目撃したわけではないA3を殺害する必然性がなかったことを指摘した上で、K3はこの時点で既にA1一家全員を皆殺しにするつもりでいたという可能性や、K4の気質(猪突猛進型で虚栄心が強い)を十分に理解していたK3が、K4にA3を殺害させることで彼を勢いづかせ、殺人マシーンに仕立て上げようとしていたという可能性を指摘している[154]。
K4は同日22時30分ごろ、K3所有のプレジデントに同乗してA1宅の様子を見に行き、A3が1人で在宅していることを確認した上で、その旨をK3に報告した[53]。するとK3から「さっさと殺してこんか」などと指示されたため、K4はその場でA3を殺害することを決意し、22時40分ごろには殺意を持って、同宅2階居間の机でノートパソコンに向かっていたA3の首を、背後からタオルで絞めた[53]。A3が失神して動かなくなると、K4はさらに彼の首をタオルで絞め、仮死状態に陥らせている[53]。なお、K4は公判で、兄K3からA3の殺害を持ち掛けられた際に「オレが〔A3〕を外に連れ出すけん、兄ちゃんは金庫を持ち出したらよかろう」と抵抗したが、K3から「殺すしかなかろう」と却下されたことを主張しており、また事件は100%発覚すると思っていたことや、K3からは逮捕時に「おれの名前を出さずに1人でやったと言え」と言われたということも主張している[155]。また、鈴木宛の手記では、この時に殺人行為そのものに快感やスリルを感じていたという旨を述べている[156]。
その後、K3はK4とともに1階寝室内から指輪などが入った金庫を捜し出し、同宅付近に駐車していたプレジデントの後部座席に積み込むとともに、仮死状態になっていたA3を同車のトランク内に押し込んだ[53]。金庫の中身は指輪など61点(約398万円相当)だったが[157]、K4はこの時、A1が用意したとしていた2,000万円の現金はA1宅にはないことを確認していた[158]。当時、2人はA3は既に死亡したものと思っており、その死体を遺棄しようとしていた[157]。その後、K3は助手席にK4を乗せてプレジデントを運転していたが[53]、大牟田市内を走行中[注 15][157]、トランク内のA3が意識を取り戻し、悲鳴を上げて暴れ出した[53]。そのためA3がまだ生きていることを知った2人は[157]、A3を確実に殺害して諏訪川に捨てることにし[53]、カーステレオの音量を大きくして車の窓を開け、自宅に立ち寄ってコンクリートブロック3個(総重量約15 kg)とロープ1束を持ち出した[160]。K4は手記で、A3をどうするか相談した際、自身は「しばらくどこかに監禁して、俺らのことを歌わん[注 16]ように言い聞かせて解放してやろう」と提案したが、傷害致死で服役した前科(後述)を有するK3が犯行の発覚を恐れて殺害を強硬に主張したと述べている[161]。その上で、K3の態度に「快感というよりも、多少の気味悪さ」を感じたものの、最終的には自身もA3殺害を決意したと述べている[32]。
同日23時45分ごろ[157]、2人は諏訪川に架かる「馬沖橋」[注 1]の中央付近(後述)で[32]、プレジデントを駐車してトランクを開けた[53]。上半身を起こしてきたA3の顔面を[157]、K4が1回殴打するとともに、K3が仰向けに倒れたA3の首に素早くロープを掛け、2人がかりでそのロープを強く絞めた[162]。A3が動かなくなると[54]、2人はA3の首からロープを外し、それを3本に切断した[157]。そして、A3の首と両足にロープでコンクリートブロックを1個ずつ結びつけ、同月17日0時ごろ、橋の上からA3を諏訪川に投げ込んで殺害した[54]。K4は首を絞めてから2、3分でA3の死亡を確信した旨を述べているが[163]、捜査の結果、A3は川に投げ込まれた後に死亡したとされており[77]、死因は頸部圧迫による窒息もしくは溺死、あるいはそれらの両方とされている[54]。また、事件後にはA3の遺体は胸部の肋骨が数本折れており、内臓が破裂していたとも報じられていたが[164]、司法解剖の結果、そのような事実はなかったことが確認されている[165]。後にA3の遺体が発見された地点は、「馬沖橋」から約10 m下流の諏訪川で[7][166]、川幅は約50 m、水深は約7 mだった[167]。K4はA3を川に遺棄した後、両手を合わせているが、本人は公判でその理由について「憎くて殺したというわけではないこと、冥福を祈る気持ちがあったことから」であると述べている[168]。
一家4人で共謀
一方、K2は自分が運転する車内でA1と2人きりになって殺害の機会を窺っていたが、依然としてためらって実行できず、同日(9月17日)4時ごろになってK1からいったん殺害計画を中止するが、A1を帰宅させずに桜町の自宅へ連れ帰るよう指示された[54]。
しかし6時ごろ、A1が次男A3を起こそうと彼の携帯電話に電話をかけたところ、長男A2が応答し、A3がいなくなったことを知る[54]。これを受け、A1はA3が家出したものだと思い込み、K2に対し、A2にA3を捜させるため、自分が乗ってきたワゴンRを自宅に持ち帰ってA2に渡したいと言い出した[54]。K2らはA1を殺害した後、死体をワゴンRに載せて車ごと諏訪川に遺棄する計画を立てていた(前述)ため、A1がA2にワゴンRを渡すのは困ると考えたが、それをA1本人には言えず、仕方なくA1とそれぞれの使用している自家用車を運転してA1宅に行った[54]。その後、A1はA2に対し、A3を捜すように言ってワゴンRを渡し、K2運転の車に戻ってきた[54]。K2はそのまま自分の車を運転してA1を自宅に連れて帰ったが、そこにいたK1から、A1をアパートの北村組事務所へ連れていき、できるだけ外出させないよう指示されたため、その指示に従ってA1を組事務所に連れて行った[169]。K2はその後も「A1の金は欲しいが、やはり自分の手では殺せない」と思い悩んだ末、14時ごろにはK3に対し、「もうどげんもしきらんばい」「お願い、お母さんば助けて」などと電話して手助けを求めた[55]。一方、このことはK4には内緒にするようにも言っている[55]。
このころ、K3はK4とともにA1宅から奪った金庫をこじ開け、中身の貴金属を換金するために質屋を回っていたが、K2からの電話を受けると彼女の意に反し、実行力のあるK4にもその計画を手伝わせようと事情を話した[55]。K4もそれを了承した上で、2人でA1殺害のためには睡眠薬で眠らせるのが良いと相談した[55]。K3がK2に電話で、A1に睡眠薬入りの食べ物を食べさせることを提案すると、K2はA1に食べさせるための弁当とお茶を購入して持参するよう依頼したため、K3とK4は弁当にかけられているタルタルソースに睡眠薬を入れることを決めた[55]。K3とK4はコンビニエンスストアに寄って弁当とタルタルソースなどを購入し[10]、K4がタルタルソースに睡眠薬[注 17]をすりつぶして混ぜた上で[55]、それを元通り包装した[52]。また、K4は同日午後、自分の身分証明書を用いてA1宅の金庫から奪った指輪6個を計10万8000円で質入れし[注 18]、その現金をK3に渡したが、K3はうち4万円をK4に分配している[10]。
A2は同日、弟A3が消息不明になったことを友人らに相談し、22時ごろから手分けしてA3の行方を探していた[105]。一方でその前後(同日夜)には、K4の交流グループが知人ら複数に電話をかけ、「K4君が〔A2を〕捜しよる」とA2の居場所を探っていた[105]。
一家4人でA1を殺害
K3は同日16時ごろに北村組事務所を訪れ、K3に弁当などを手渡したが、その際に小さい声で「タルタル」と耳打ちした[55]。これを受けたK2は、タルタルソースに睡眠薬が混ぜられていることを察した上で、その弁当をA1に食べさせた[55]。その結果、弁当を食べ終わったA1はまもなく眠り始めた[55]。同日5時ごろ、K2は電話でK1を呼び寄せ、2人でA1の殺害や死体の処理方法について話し合った[56]。K1はA1だけでなく、彼女とK2が一緒にいることを知っているA2も口封じのために殺した上で、2人の死体をワゴンRに載せて諏訪川に沈める必要があると主張した[57]。これに対しK2は、A1は体格が良いので、(殺害場所はさておき)自身とK1の2人だけで死体もしくは眠っているA1を運び出すことは不可能と考え、息子2人 (K3・K4) を協力させることを提案し、K1もそれに賛成した[57]。そのため同日20時30分ごろ、K1はK3に電話し、K4を連れて組事務所に来るよう指示した[57]。
こうして21時前ごろ、4人が組事務所に集まり、K4も含めた4人全員の間で、A1を殺害して金品を強取するという共謀が成立した[57]。なお、この事務所での謀議の際、K3は仕事の電話で組事務所を何度も出入りしていたと主張しており[171]、K2もその主張に沿う旨の証言をしている[172]。その後、4人はA1の殺害方法や、口封じのためにA2も殺害して2人の死体をワゴンRに載せ、諏訪川に沈めることなどについて話し合った上で、翌18日0時ごろ、A1を殺害するために組事務所から連れ出すことにした[57]。この時、K2がA1を目覚めさせた一方、K4は事務所内でオートバイなどを駐輪する際に使うワイヤー錠を見つけ、それを使ってA1を絞殺することを決意した上で、睡眠薬の影響でまだ意識が朦朧として足取りがおぼつかない状態だったA1を、K1の運転するMPVに乗せた上、自身もK2とともにMPVに乗車した[57]。そして、K1がMPVを運転して発進させ、K3もプレジデントを運転してMPVに続く形で殺害現場に向かったが、K1は走行中の車内でK4に対し、自分が咳払いをして合図したらA1殺害を実行するよう指示した[58]。K2はMPVの助手席に、A1は2列目シートに、K4は3列目シートにそれぞれ座っていた[173]。A1を組事務所から連れ出した際、K4はK2に対し「母ちゃん心配せんでよ。俺がやっちゃるから」と声を掛けていた[174]。
A1が殺害された現場は、大牟田港の岸壁(おおよその座標)である[175]。大牟田港は、大牟田川の河口付近に位置する港で[176]、大牟田市岬町と西新町にまたがっている[177][178]。確定判決では「大牟田市岬町の北側岸壁」と認定されているが[102]、住所を「大牟田市西新町」とする報道もある[175][74]。鈴木智彦 (2017) によれば、A1殺害現場は大牟田川の河口付近にある緑地公園[179]、正式名称は「大牟田港緑地運動公園」(座標)である[注 19][181]。
0時30分ごろ、K1がMPV車内で咳払いの合図をすると、K4は意識が朦朧としていたA1に対し「おばちゃん、肩を揉んでやるたい」などと言いながら、背後からその頸部にワイヤー錠のワイヤー部分を引っ掛けた[173]。そして、ワイヤー錠を施錠して輪にした上で、片手もしくは両手でワイヤー錠を持ち、A1が座っていたシートの背部分に脚を当てて踏ん張りながら、自分が座っていたシートの背もたれを後ろに倒すことで、自身の状態を後ろに倒すなどしてワイヤー錠を力いっぱい引っ張り、A1の首を絞め始めた[173]。その様子を車外から見ていたK3は、K4の求めに応じてたばこを車内に差し入れたり、車の窓ガラスに「ひとごろし」と指で書くなどしてK4をからかったりした[173]。これに対し、K4は笑ってK3の行動を受け流しており[182]、たばこを吸ったり笑ったりしながらA1の首を絞め続けていた[10]。またK1は、車内が暑いと言い出したK4のために、車のエアコンを作動させたり、K4の口元にペットボトルの口を当てがってお茶を飲ませてやったりした[173]。一方でK2は当初、助手席からK4がA1の首を絞めている様子を見ていたが、A1が両足をばたつかせてもがいているのを正視できずに車外に出たところ、K3から「人間は首を絞めてもしっかり絞めないと息を吹き返す」などと言われると、K4のところへ行って「A1が息を吹き返さないようにしっかり首を絞めろ」などと指示した[173]。こうしてK4はA1の首を絞め続けて窒息死させ[59]、頭をノックするようにコンコンと叩き、その死亡を確認している[183]。K4は鈴木宛の手記で、この時もA3を殺害した時と同様に興奮を感じていたことや[184]、その一方で殺人行為を行うことへの嫌悪感が皆無だったわけではなく、汚れ仕事を自分に押し付けるK3には怒りや不満を感じていたという旨を述べている[185]。
A2・Bを発見
A1を殺害した後、K4は死体が車外から見えないようにシート上に倒し、首にかかっていたワイヤー錠をシートの肘掛けにかけてその首が絞まり続けるようにした[186]。K1は、K2が助手席に戻るとすぐにMPVを発進させ、K3もプレジデントを運転してそれに続いた[186]。4人はA2が運転していると思われるワゴンRを捜したが、なかなか見つけられず、一時K3がはぐれる事態もあった[186]。検察官の冒頭陳述によれば、4人はこの後自宅(桜町のK1宅)で合流し、車中でA2も殺害してA1ともども車ごと諏訪川に遺棄することを再確認した[10]。K4は鈴木宛の手記で、実家(K1宅)でK3と合流するまでの間の行動について、自身と両親、A1の死体が乗ったMPVは国道208号を経由し、途中でNシステムに引っかかりながら約1時間半かけて人気のない荒尾市方面や三井グリーンランド近辺の山道などを走り回っていたこと、その間自分は倒した2列目の座席の上でブルーシートを被せられて横たわっていたA1の死体の上に座っており、その際には気味悪さと同時にスリルも感じていたことを述べている[187]。また、K4の手記によれば、A1のバッグに入っていた現金26万円を手に入れた(後述のように、判決では4時30分ごろとされている)のは、桜町に戻る途中で立ち寄った勝立町交差点のセルフ式ガソリンスタンドで給油していたころ(K3と桜町で合流する約15分前)である[188]。
その後、再度合流したK3はプレジデントからMPVに乗り換え、同日1時35分ごろ、A2がワゴンRで帰宅しているかもしれないと考えたため、A1宅付近にMPVを駐めた[186]。するとちょうど、A3が家出をしたと思って捜していたA2と、彼に協力していたBの2人がワゴンRに乗車してA1宅に帰宅してきた[186]。K1・K3・K4の3人は、MPVから降車してワゴンRに近づいていったが、彼らはBとは初対面だった[186]。
K4はワゴンRの運転席にいたA2に対し、自分たちもA3を捜しているかのように嘘をついて話しかけたが、同車にはA2以外にもう1人(K4たちとは初対面であったB)が乗車していたため、K1・K3とともにその同乗者をどうするか相談したところ、2人から同乗者も含めて殺害するように指示された[186]。そして、K1からは凶器の拳銃(弾が6発装填されていた)を手渡され、安全装置を外せばすぐに発射できる状態であることを教えられるとともに、A2らの心臓を撃つよう指示された[60]。その拳銃は、ベルギー製の小型自動式拳銃「ブローニング・ベビー」(25口径[注 20]、装弾数は6発)で[190]、後にK1が大牟田署内で自殺を図った際にも使用されたものである[注 21][3]。K4はそれを了承した上で、K3に拳銃を渡そうとしたが、K3は受け取ろうとしなかったため、自ら実行することを決意した[191]。そして、K3・K4の2人はA2らに対し、一緒にワゴンRに乗ってA3を探しに行こうなどと言葉巧みに申し向け、騙された2人を後部座席に移動させると、後部座席ドアのチャイルドロックをかけてドアを閉め、2人を逃げられない状態にした[191]。その際に「A2の運転は怖い」という口実でK3が運転するようにさせ、K4は助手席に座った上で[182]、同日2時ごろにK3がワゴンRを発進させた[191]。また、K4は走行中の車内で2人が外部に助けを求めないよう、虚言を弄して2人から携帯電話を取り上げ、それらを壊すなどした[191]。A2・Bの2人と、彼らの仲間との携帯電話連絡が途絶えた時刻はこのころである[192]。
一方、K2はK1の運転するMPVでワゴンRを追いかけたが、その車内でK1から、ワゴンRにはA2だけでなくもう1人友達 (B) が乗っているが、2人とも拳銃で殺害することにしてK4に拳銃を渡したという旨を告げられた[191]。K2はそれには若干異を唱えたが、K1から「顔を見られた以上、2人とも殺さなければならない」と説得されて了承した[191]。K2の弁護人(鈴木敏彦)は上告趣意書で、K2は2人の殺害に反対し、K1らに対し「全く関係ないのだから殺さないでほしい」と懇願したものの、その願いは聞き入れられず、K2は不本意ながらも従わざるを得なかったと主張している[149]。その後、K1・K2は途中でK3の運転するワゴンRを見失い、一時はぐれたものの、その間もK3らと連絡を取り合い続けた[191]。その間、K1から指示を受けたK2がK3・K4に対し「お父さんがさっさとせろち言いよらすよ」などと急かしたり、K1も自ら「なんばしょっとか。うろうろせんで早く発射せんか」などと怒鳴りつけたりして、A2・Bの2人を殺害するよう促していた[193]。
A2・Bを殺害
同日2時15分ごろ、K4はA2とBの2人の頭や胸をそれぞれ3発ずつ銃撃し、A2をその場で失血死させたほか、約10分後(2時25分ごろ)には走行中のワゴンR車内で、まだ息のあったBの左胸をアイスピックで突き刺して失血死させた[194]。Bを刺殺するための凶器として用いられたアイスピックは、軸部の長さ11.8 cmである[5]。
K4が拳銃を撃った現場は、大牟田市新開町3番地1三井三池オートスポーツランド事務所[注 22]西側海岸(座標)である[196]。同所は、大牟田川と堂面川に挟まれた有明海岸壁のほぼ中間にあり、三井三池オートスポーツランド事務所から西方に目測110 m、大牟田エコタウン内の大牟田エコサンクセンター(座標)から南西目測240 mの地点であり、大牟田市道唐船松原線の「健老町交差点」(座標)から西方に目測1,800 m入った有明海岸壁である[196]。現場付近は工場やオートレース場、エコタウン施設などからなる工業地帯だった[197]。また『西日本新聞』によれば、Bが殺害された現場は銃撃現場から約1.2 km離れた箇所である[198]。
2時15分ごろ、K3は同所にワゴンRを停車させると、K4に対し、自分が車から降りたら2人を殺害するように告げた上で車外に出た[61]。するとK4は、まずBに対し、拳銃をモデルガンだと言って安心させた上で頭部を前に出させ、左耳上辺りに拳銃を向けて銃撃した[61]。次に目の前でBを撃たれて驚き、唖然としていたA2に対し「A3もA1も俺が殺して死んどる。お前ん方、2,000万あろうが。金、どけあっとか」などと問いかけたが、A2から金の在処など知らないと答えられると、Bと同じくその左耳上辺りを銃撃した[61]。K4は鈴木宛の手記で、父の指示に反して心臓ではなく頭を銃撃した理由について、人間は心臓を撃ち抜かれても即死せず、大きな苦痛を味わうと聞いていたことや、A2は旧知の仲であり、Bも居合わせただけであるため、彼らを殺すことは避けられないにしても頭部を銃撃して脳を破壊することで一瞬のうちに意識を喪失させ、できるだけ彼らに苦痛を味わわせないようにしようと考えたためだという旨を述べており、また先にBを銃撃した理由についても、「目の前で友人を殺られる場面を見て死の恐怖を感じる前に、すべてを済ませてやろうと思ったからだ。」と述べている[199]。
その後、K4はいったん車外に出てK3に対し「頭を撃ったが2人ともまだ生きている」という旨を報告した[61]。K3はそれを電話でK2に伝えると、K2はそれをK1に伝えたが、K1はK2から携帯電話を取り上げ、K3に対し「何で頭ば撃ったとか。胸ば撃てち言うとったろうが」と怒鳴りつけた[61]。その後、K2は再びK1から携帯電話を受け取り、K1と同じようにK3に対し「お父さんが胸ば撃てち言いよらす。3発ずつ6発全部撃てげなばい」と指示した[61]。それをK3から伝えられたK4は、再びK3に拳銃を渡そうとしたが拒まれたため、再びワゴンRの助手席に乗り込み、4発残っていた拳銃をそれぞれA2・B両名の胸に2発ずつ撃った[194]。これにより、A2はその場で死亡した[62]。K4は鈴木宛の手記で、2人が頭部を撃ち抜かれても即死しなかったため、自分でとどめを刺すことが嫌になり、K3に銃を渡して残り2発ずつ撃つよう仕向けたが、K3がそれを拒んだために憤慨し、本気でK3を撃とうと思って怒鳴りつけて銃を向けたところ、K3が尻込みして命乞いしたため、怒りは冷めたもののK3を軽蔑したと述べている[200]。
その後、4人はK1の指示により、それぞれ移動して合流することを決め[62]、大牟田川付近で再び合流した[201]。K1・K2はその移動中にK3らと連絡を取り合ううち、A2は既に死亡したが、Bがまだ生きていると報告された[62]。そのため、4人はK1の指示の下、合流後にアイスピックでBにとどめを刺すことを決め、K2がMPV車内にあった2本のアイスピックのうち、長い方の1本をK4に手渡した[62]。そして、K1とK4がワゴンRに、K2とK3がMPVにそれぞれ分乗し、K1とK2がそれぞれ車を運転して出発した[62]。そして2時25分ごろ、K4はワゴンRの車内で、Bの左胸にアイスピックを突き刺してとどめを刺した[62]。2人とも死因は失血死である[62]。
3人の遺体を遺棄
3人 (A1・A2・B) の遺体が入った軽自動車が遺棄された現場は諏訪川に架かる「馬沖橋」[注 1]から南西(下流)約345 m先の諏訪川左岸堤防道路(おおよその座標)で[157]、車がすれ違いできない狭い道だった[202]。沈められた車が発見された現場は、「馬沖橋」から約350 m下流地点の諏訪川(座標)で[19]、川幅は約50 mあった[203]。車が沈んでいた位置は、川岸から約25 m[注 23]の川底(水深約3.5 m)で[19]、川が大きく蛇行した場所であった[204]。同現場から約200 m下流には[205]、「三井水門」という名称の水門(座標)[206]があったため、現場の水深は諏訪川の他の箇所より深くなっていた[207]。なお、車はK2が供述した場所より数十メートル下流で発見されたが、これは車がしばらく浮くなどして流されたためと判断されている[189]。現場周辺は熊本県荒尾市との県境に近い田園地帯だが民家も多く、近くには市立駛馬北小学校などがあった[166]。
A2とBを殺害した後、4人は彼らとA1の遺体をワゴンRに積み込んで車ごと遺棄するため、A1殺害現場付近の岸壁へ移動し、K4が同所でA1の遺体をMPVから引きずり降ろした[62]。しかし遺体は重くてK4だけでは持ち上げられなかったため、K3と2人がかりで持ち上げてワゴンR[注 24]に積み込んだ[62]。検察官の冒頭陳述によれば、これは18日2時40分 - 50分ごろの出来事である[52]。その後、K1がワゴンRを運転するなどして諏訪川付近に行き、A1らの遺体を遺棄しようとしたが、通行車両があったため、4人は犯行をいったん中止してK1らの自宅(桜町)に戻り、ワゴンRのナンバープレートを外すための電動ドライバーなどを用意した[208]。K4の手記によれば、諏訪川の下流側から堤防道路を走って遺棄現場に向かおうとしたところ、24時間営業のうどん屋[注 25]でプロパンガス業者がトラックを路上駐車してガスボンベの交換作業を行っていたため、そのトラックをどかさせた上でK1とともに遺棄現場に向かって遺体を遺棄しようとした[211]。この時はK3が遺棄現場(「馬沖橋」付近)より下流側にある先述のうどん屋付近で、K2も同現場より上流側にある「一部橋」(正式名称は「駛馬橋」、座標)[注 26]付近で、それぞれ現場付近へ通行車両が入れないように車で堤防道路の入口を塞ぎ、K4が夜釣りをしている者がいないか見張りながら、K1がワゴンRを沈めるという算段だったが、K3が駐車していたうどん屋付近に3、4台の車が来てしまい、長くは駐車できないためいったん中止して桜町の実家に帰ったという[217]。
4人は同日3時15分ごろになって再び諏訪川へ赴き[218]、遺棄現場に車を停車した[157]。この時はK1が3人の遺体を載せた車(ワゴンR)を運転し、K4が同車の助手席に乗った状態で諏訪川の下流から堤防上を走り、K2の乗った車が先導する形で遺棄現場に向かっていた[219]。K1は遺棄現場から約500 m手前でいったん停車しているが、この時にK4が降車して[219]ワゴンRの前後ナンバープレートを外した上で、A2・Bの携帯電話とともに諏訪川に投げ捨てている[220]。この間、K2は自身が運転していたMPVの前照灯でワゴンRを照射し、K4の作業を助けている[218]。また、K1とK4はワゴンRを沈みやすくするため、車の窓3つを少し開けた[218]。
こうして3時30分ごろ、K1はA1・A2・Bの遺体を載せた車を[157]、エンジンをかけてドライブギアにしたままの状態で[10]、車外からアクセルを踏むことにより、土手の斜面から川の中央付近に向けて走行させることで水没させ、3人の遺体を遺棄した[157]。車は落水してもなかなか沈まなかったため、K4はK1に命じられて川に入ろうとしたが、その直前に沈んでいった[221]。検察官の冒頭陳述では、K3はK1が遺体を遺棄する際に対岸の道路に乗用車を駐め、他の車が入れないようにしていたとされているが[52]、K4の手記によれば、K3はK1たちと同じ左岸側にあるうどん屋付近で車を駐め、他の車が入れないようにしていたという[222]。同日夜、川べりの堤防(高さ約6 m)付近で車がヘッドライトを点灯したまま駐車してあったという目撃証言がなされている[223]。
A1宅を物色
4人は軽自動車の水没を確認してから[10]、桜町の実家に帰った[224]。その後、4人で今後の行動について話し合い、夜が明ける前にA1宅へ行って金品を物色することで話がまとまったが、この時点でK1・K2はK3・K4がA3を殺害して金庫を奪ったことを知らなかった[225]。そのため、K4は金品の隠し場所を知っていたK2を誤魔化すため、「A2を殺した時に金と金庫の在処を聞いたが、金はどこにあるか分からない。金庫はA3が持って家出していった」という旨の嘘をついた[225]。これを受け、K1は「後でA3を捜して金庫を奪おう」と提案したが、その後のA3の処遇についてK4が質問したところ、K2は強い口調で「A3は殺さない」と念押しした[226]。
一方、話し合いが終わるとK3はK1に対し「俺はA1宅に行ったら自分で帰るから、自分の車で行く」という旨を伝え、K1から「お前の車は目立つから(実家のワゴン車に)一緒に乗って行け」と言われても聞かなかった[227]。K4は手記で、K2がそのようなK3の自分勝手な態度に激怒しており、自分もK3を兄弟としても極道としても恥と思ったと述べている[228]。そのため、夜明け前にK1・K2・K4の3人でA1宅に向かうことになったが、途中で新聞配達員のバイクが走り回っていることに気づいたK1がK4を通じ、K3に「K3の車は目立つから、駅の駐車場に駐車させて俺の車で回ろう」と伝え、K3の車を駅前の地下パーキングに駐車させた[229]。そして途中でK1一行とK3が合流し[230]、同日4時ごろになって4人はMPVをA1宅近くに停車した[218]。K2は車内で待機した一方[218]、K1・K3・K4の3人が同宅へ向かうことになった[230]。3人はその途中で新聞配達員とすれ違ったが、早朝散歩を装って挨拶してやり過ごし、A1の携帯電話からK4が取り外していた鍵を使って玄関から同宅に侵入した[230]。その際、同宅で飼われていた座敷犬[注 27]が鳴いたり、K4たちの足に飛びついたりしたため、K4とK3はこの犬を蹴り飛ばし、最終的にはK1が頭を踏みつけて殺している[232]。その後、3人はK2が言っていた「隠し場所」のベッドも含めてA1宅を念入りに物色し、K4がベッドの横(A3殺害時に奪った金庫があった場所の脇)に押し込まれた衣服の中から、別の金庫が埋まっているのを見つけた[233]。しかしK4が金庫を解錠したところ、中身は土地・家の権利書、借用書、指輪などの宝石鑑定書のみだったため、K1は足がつくことを恐れ、それらの書類をすべて金庫に戻すよう命じた[234]。一方でK3とK4はA3を殺害した際、A1宅の金庫から奪った指輪を質入れしていたため、その鑑定書が残っていれば警察が指輪を探すうちに犯行が発覚することを懸念したため[10]、K4は鑑定書と指輪を盗み出し、同宅近くの電柱下に隠した[52]。K1はその後も物色を続けたが、結局それ以外に金品を発見することはできず[235]、最終的に物色を断念し[52]、3人でK2の待っていた車に戻った[235]。
同日4時30分ごろ、K2は走行中のMPV車内でA1の手提げバッグを物色し、現金約26万円を奪った[186]。その後、K3とK4は大牟田駅のコインパーキングで車を降りたが、その際にK2は約26万円のうち10万円をK3に与え[注 28][236]、K3はその半分である5万円をK4に渡した[52]。
K3・K4は隠した鑑定書などを持ち出し[52]、K3は同月19日、奪った指輪4個を質入れして2万1,000円を得ている[218]。また、K1・K2は奪った現金を電話料金や飲食費の支払い、上部団体への上納金などに遣った[注 29][218]。検察官の冒頭陳述書によれば、K3も奪った金を家賃の支払いに充てている[52]。
犯行後
18日午後、K3は福岡県内の自動車整備工場を訪れ、犯行に用いたプレジデントのトランクや車内の清掃、車体のポリマー加工費用を尋ねていたが、その際に店員に対し「変な生ゴミば入れとったもんで、汚れとるったい」と言っており、店員が確認したところ、トランクには掌大の黒いシミがあったほか、その周囲には土が付着していた[63]。その後、K3は22日に再び同店を訪れてトランク清掃を依頼したが、店側から多忙を理由に断られていた[63]。
犯行に用いられたワゴン車は23日早朝まで、K1宅付近の駐車場に置いてあったが[237]、K4はK2の逮捕に前後して(自身が逮捕される前)、大牟田市内の自動車整備工場にこの車を持ち込み、廃車処分にするよう依頼した[238]。この自動車整備工場は北村組の事務所になっていた本町四丁目のアパート(前述)付近にあり、同アパートの元所有者でもあった[105]。また、同工場にはK4の親族が約1年前まで勤務しており、経営者はK1一家とも面識があった[237]。しかし当日は経営者が不在だったため、車は建物内に保管されており、25日に経営者が従業員から説明を受けた[237]。また、工場の関係者が見たところ、車は年式こそ古かったものの目立った傷はなく、廃車にする必要性は感じなかったという[239]。『朝日新聞』によれば、K4が逮捕されたことを知った工場の関係者が「廃車にしたら証拠隠滅になるおそれがある」と考えてそのまま放置しており、26日に県警によって押収されたという[190]。県警がこの車を調べたところ、車内から血液反応が確認されている[190]。
捜査
発覚前
17日からA3が高校に登校しなくなり、19日にはA3とBについてそれぞれ、福岡県警察の所轄警察署である大牟田警察署へ捜索願が出された[注 30][64][67]。同日、K2はBの母親が息子の行方を尋ねてきた際に「知らない」と答えていた[65]。一方、同日にはK4が両親にA3殺害の事実を打ち明けたが、それを聞いた両親はA3の遺体の処理方法(体にブロックをくくりつけただけ)ではいずれ遺体が腐乱して浮き上がってくることを危惧したため、K1はK4に対し、川に潜って遺体を引き上げ、人目につかない方法で処理するよう命じた[240]。このためK4は知人から水中眼鏡を借りて諏訪川に潜り、自身が遺棄したA3の遺体を発見したが、遺体は既に損傷が激しかったため、引き上げることを断念している[66]。同日にはK1がK4に酷似した男と一緒に、遺体発見現場付近で諏訪川を見つめながらゆっくり歩いている姿を近隣住民に目撃されている[137]。
K2は9月20日、A3の親族に電話をかけて「A3が家出して行方不明になっている」と伝え、さらに他の被害者3人 (A1・A2・B) も行方不明になっていることを話した後、自宅を訪れたその親族[注 31]と3時間あまり話したが、その際には4人の行方を心配する素振りを見せていた[65]。またその場にはK4も居合わせていたが、彼は落ち着かない様子を見せていたという[65]。一方、K4は同日に開かれた保育園の運動会を見に行った際、その会場でK2に対し、「おれは4人殺したけど、4人の中でA3のときが一番気持ち悪かったばい」と打ち明けている[241]。
同日午前には、B宅に男の声で「B君の命はない」などという電話が掛かり、Bの家族が大牟田署に通報した[67]。これを受けた県警はBが事件に巻き込まれた可能性が高いと判断し[67]、誘拐事件の可能性もあるとして[64]、県警本部の捜査一課を投入して本格捜査に乗り出し、その過程でA1一家も行方不明になっていることが判明した[67]。なお、この脅迫電話はK1ら犯人側によるものではなく、県警が本格的に動かないことを懸念したBの友人が「脅迫電話をすれば、事件として扱ってもらえる」と考えて掛けたものだった[67]。『週刊新潮』 (2004) は、19日にBの母親とA2の彼女が大牟田署に捜索願を出したものの、「事件性はない」と相手にされなかったことから、4人の失踪にK1一家が絡んでいると確信していたA2の仲間が警察を動かそうと考え、狂言の脅迫電話を掛けたと報じている[242]。一方で同日昼ごろ、K2・K4が組事務所のあった本町四丁目のアパート前で目撃されていたが、目撃者(同アパート近隣の住民)によれば普段K4の姿を見かけるのは夕方以降が多く、印象に残ったという[243]。
事件発覚
A3が通学していた大牟田北高校は連休明けの9月21日に県警から問い合わせを受け、担任教諭が1日に数回A3宅に電話を入れたが、本人とも家族とも連絡がつかず[244]、同日11時ごろになって、諏訪川に浮いているA3の遺体が発見された[6]。21日夜、K1は大牟田市内の飲食店で飲酒していたが、その際に「やれることはやった」などの独り言を何度も呟いていた[137]。また、同店で「オレはこれでもう最後やからなあ」と呟いたという証言もある[245]。
A1も行方不明になっていたため、捜査一課はA1と最後に会った人物であるK2が事情を知っているものと見て事情聴取を行い[注 32][68]、翌22日0時53分、捜査一課と大牟田署はK2をA3に対する死体遺棄容疑で逮捕した[247]。K2の当初の逮捕容疑は、18日早朝に「馬沖橋」[注 1]からA3の遺体を投棄したという死体遺棄容疑だったが[6]、同容疑については同月12日付で福岡地検久留米支部から処分保留とされ[248]、最終的には嫌疑不十分で不起訴処分となっている[77]。K2は警察から任意の呼び出しを受けた際、着替えや洗面用具一式を持って出頭している[69]。また、K2が出頭することになった際、K4は「おかん、おれが1人でもう行くけん」「おれがもう警察に行くからいいって、おかんはいいから」と繰り返し言ったが、K2は聞かなかったため、K4は「苦しなったら、おれの名前いいな」と声を掛けている[249]。同日には北村組の事務所に家宅捜索が入ったが、配下の組員たちはその時点までK2が逮捕されたことも、K1が大牟田署内で自殺未遂事件(後述)を起こしたことも知らなかったという[250]。
23日、県警は同容疑でK2を福岡地方検察庁久留米支部へ送検した[251]。県警捜査一課と大牟田署が同日10時過ぎから署員や機動隊を動員して諏訪川を捜索したところ、同日18時過ぎになって「馬沖橋」の下流約350 m地点からA1の軽乗用車(ワゴンR)が発見され、車内から行方不明になっていた被害者3人 (A1・A2・B) の遺体が発見された[注 33][70]。発見時、車は川底に堆積したヘドロ状の汚泥の中に前のめりに沈んでいたという[252]。これを受け、捜査一課と大牟田署は署内に92人体制の「大牟田市内における連続四名殺人並びに死体遺棄事件捜査本部」を設置した[70]。
一家4人を逮捕
動機については、K3・K4兄弟の率いるグループと、A2・A3兄弟の属するグループの間で女性関係を巡るトラブルがあったという可能性も指摘されていたが[253]、最終的には金銭トラブルが主な動機とされている。事件発覚後もK3・K4は変わらず暴力団に出入りしており、K3は事件について質問されても関与を否定していたが、4人全員が逮捕されて以降、事態を重く見た上部団体は配下組員に対し、K1一家との接触禁止令を出している[254]。
K1の自殺未遂
K1は22日9時ごろ[166]ないし9時10分ごろ[7]、妻K2が逮捕されたことを知って大牟田署に出頭した[注 34][6]。この時、K1は自宅に「母さんを守っていってください。許してください」などという内容の遺書を残していた[256]。また、出頭前にはカーテンを閉め切り、他人を寄せ付けようとしなかったため、K4はK1が自殺するのではないかと心配していたという[69]。
K1は署2階の刑事課に上がると「妻が逮捕された理由を聞きたい」と申し出、取調室で捜査員1人から約1時間に渡り、机を挟んで事情の説明を受けていた[255]。K1は取調室で捜査員と1対1で、任意の事情聴取を受けていたが[6]、10時16分ごろに持っていた拳銃で自身の頭を撃って自殺を図った[166]。この拳銃は、A2・Bの殺害に用いられた凶器でもある「ブローニング・ベビー」であり[34]、適合実包6発(発射した1発を含む数)が装填されていたほか、K1の着衣ポケット内にも適合実包2発が入っていた[39]。しかし銃弾は脳内に入らず前額部で止まっており[165]、命に別状はなかった[64]。
検察官は冒頭陳述でこの拳銃自殺未遂事件について、K1がK2らを庇うため、自分の単独犯行と主張した上で自殺しようと決意し、実行したと述べている[39]。K1自身も第一審の公判で、動機について「私が真犯人だから自首して自殺しようと思った」[257]「自分の命で償うしかない」などと述べている[256]。大牟田署副所長の縄田和生は、この時点ではK1はあくまで「参考人」に過ぎず、逮捕した被疑者や不審人物などのように所持品検査を強制することはできなかったと説明している[258]。
K1は頭部を負傷して病院に入院したが、後に額に残っていた銃弾の摘出手術を受け、傷口もほぼ回復した[259]。医師が逮捕後の拘置に耐えられると判断したため、10月7日19時5分[260]、K1はA1・A2・Bの3人に対する死体遺棄容疑で逮捕された[72]。また、この自殺未遂事件について、K1は同年12月7日に銃刀法違反容疑で再逮捕され[76]、同年12月17日に同罪(加重所持)で起訴されている[261]。
K4逮捕
K2は逮捕当初、全て自分の単独犯である旨を主張していたが[262]、4人の遺棄現場について供述内容を二転三転させる、捜査員から見て「明らかに嘘」とわかるような供述をする、詳細について言葉を濁すなど、その供述内容には不自然な点が目立った[263]。また、捜査本部は女であるK2が1人で4人を殺害したり[264]、車を川に押し込んだりすることは困難であると見ていたため[265]、共犯者の存在について調べた[264]。
K4は事件が発覚した22日夕方、近隣住民に対し「お騒がせしてすみません。ご迷惑をお掛けしました」と挨拶していた[92]。また、同日深夜には諏訪川が見えるコンビニの駐車場で、K3とともに呆然と立ち尽くしている姿が目撃されている[266]。しかし翌23日夜、K4は市内で捜査員から任意同行を求められ、同日深夜にA3に対する死体遺棄容疑で逮捕された[71](25日に送検)[267]。ただし、同容疑については10月15日付で処分保留とされ[248]、最終的には不起訴処分となっている(後述)。
K4は逮捕当初は容疑を否認していたが、後に「全部やった」と4人殺害を認める供述をした[268]。しかし、後に逮捕されたK1も自身が4人殺害の実行犯である旨を供述していた[72]。また、K2も自身の単独犯という主張を翻し「息子が撃った」「息子をかばおうと思っていた」と供述したが、捜査本部はそれまでK2が主張内容を二転三転させてきた経緯や[262]、K1の「自分が4人を殺した」という供述にも信用性に乏しい内容が含まれていた点[269]、K4が取り調べの中で自暴自棄な発言をしていた点から、各種の物的証拠などと彼らの供述内容を突き合わせ、裏付けを進めた[268]。
K4は逮捕後の10月4日0時過ぎ、拘置されていた筑紫野警察署の留置場で丸めたトイレのちり紙を飲み込んで自殺を図ったが、うめき声を聞いた署員によってすぐに取り出され、命に別状はなく[36]、入院することもなかった[270]。また、実況見分調書に添付された写真の中には、K4が笑顔やカメラに向かってポーズを作った状態で撮影されたものも見受けられたが、K4は第一審の第22回公判で、捜査官から冗談を言われて笑顔になったところを撮影されたり、捜査官から言われるがままにポーズを取ったところを撮影されたものであると述べている[271]。
K3逮捕
K3は事件が発覚した21日以降も、普段通り昼過ぎに外出し、深夜に帰宅する生活を続けていた[132]。逮捕の約1週間前には喪服姿で外出する姿が目撃されており[127]、A一家3人の葬儀に参列していた[132]ほか、逮捕前は弟K4の弁護士探しに必死な様子を見せていた[127]。葬儀に参列した理由について、K3は自身は犯行に関与していないためだと主張している(後述)[272]。また、母K2と弟K4が相次いで逮捕された後も、周囲に対しては「これ以上、家族から逮捕者が出ることは絶対ない」と話しており[132]、同月末には『西日本新聞』の取材に対しても、A2・A3兄弟とはあまり面識がなかった(A2とは1回会ったことがあるだけで、A3とは全く面識はなかった)と主張した上で事件への関与を否定し、「(事件のことは)こちらが聞きたいくらいだ」と話していた[73]。
しかし10月1日には県警から事情聴取を受け[273]、同日23時35分[260]、彼もA1・A2・Bの3被害者に対する死体遺棄容疑で逮捕された[注 35][274]。K3の関与を裏付けた有力な証拠は、A1殺害後に荒尾市方面へ車を走らせていた際、Nシステムに映っていたK3の姿だった[275]。
『朝日新聞』では9月に逮捕されたK2・K4の供述などから、K3への嫌疑が深まり逮捕に至ったと報じられている[11]。一方で鈴木智彦 (2017) によれば、K3の関与を最初に自供したのはK2で、K1・K4は捜査段階ではK3の関与について供述しなかったが、K4は裁判でK3とすれ違った際に「全部話してしまえ」と囁かれたことがきっかけでK3の関与を話し始めたという[276]。K3は逮捕当初、「身ごもっていた内妻や生まれてくる子供のことを考えると死刑になりたくないという気持ちだったし、K2やK4が庇ってくれていたので、正直に話せなかった」と供述し[5]、起訴されるまでは「この一連の事件で一番悪いのは、自分だと思っています」と供述するなど、被疑事実をほぼ認めていた[277]。
再逮捕・起訴
K1が逮捕された10月7日、K2・K4の両名もK1の逮捕容疑と同じくA1らに対する死体遺棄容疑で再逮捕された[72]。同容疑については、K2・K3・K4の3人が10月22日に[73][278][279]、K1は同月26日に、それぞれ福岡地検久留米支部によって起訴されている[74]。
取り調べに対し、K2は「(A1から依頼されていた)借金の取り立てが不調でA1に責められていた」、K1は「(A1が)ヤクザを馬鹿にした」とそれぞれ供述したことから、捜査本部は金銭問題がA1殺害の動機という疑念を強め、4被疑者のうち複数人から「A1から金を奪う目的で殺した」との供述を得た上で、それらの裏付け捜査を行った[116]。同月26日、捜査本部は4人をA1に対する強盗殺人容疑で再逮捕した[74]。
11月11日、A1殺害時に用いられた凶器とみられるワイヤー錠のようなものが殺害現場(大牟田港)付近の大牟田川から発見されている[280][281]。凶器のワイヤー錠はその後、第一審の第2回公判(2005年4月12日)で拳銃やアイスピックとともに検察官から証拠品として提出されている[4][282]。
11月16日、4人はA1に対する強盗殺人罪で追起訴され、同日にはA2・Bに対する殺人容疑などで再逮捕された[75]。12月7日、一家4人はA2・Bに対する殺人・銃刀法違反の罪で追起訴され[283]、同日にはK3・K4の2人がA3に対する強盗殺人容疑(K3は死体遺棄容疑も含む)で再逮捕された[76]。同月27日、福岡地検久留米支部はK3・K4をA3に対する強盗殺人罪で追起訴したが、A3は川に投げ込まれた後に死亡した(前述)として、死体遺棄罪については不起訴処分とした[77]。
K3逃走事件
2004年11月13日17時40分ごろ、K3は取り調べを受けていた福岡地検久留米支部の仮庁舎(福岡県久留米市篠山町)から逃走する事件を起こしたが、約3時間後の20時55分に熊本県荒尾市上井手の駐車場で身柄を確保された[35]。同支部庁舎は当時建て替え中で、隣接する福岡地裁久留米支部の敷地内に建設された仮庁舎への移転が同月8日に完了したばかりだった[284]。
逃走前の経緯
同日9時30分ごろ、K3は留置先の久留米警察署から同支部へ移送され[12]、10時ごろから同所で一連の事件に関するK3の取り調べが行われていた[35]。護送を担当したのは、責任者である大牟田署警備課の巡査部長と、護送員の同課巡査長・刑事課巡査長の3人である[285]。この3人はいずれも留置管理担当者ではなく、刑事課巡査長が護送車の運転を、警備課の2人が付き添いをそれぞれ担当していた[12]。K3は元力士で体が大きいため[38]、県警により「特別要注意者」として扱われており、護送時には通常の護送員3人に加え、応援の機動隊員2人[注 36]が常時同行することになっていたが、当日は大牟田署員が久留米署管理課の係長に「機動隊員が付くと本人が嫌がる」と伝え、係長も了承したため、3人だけで護送した[285]。K3はこれ以前から、機動隊員の同行を嫌がって反抗することが多かった[38]。
17時15分[286]、K3に食事をさせるため[285]、大牟田署員3人が逃走防止の目的でK3に付き添って建物3階の同行室(控室)へ移動した[35]。同行室は、取り調べを受ける被疑者が休憩・食事をするための施設で、同支部の場合は室内に金網で囲った2つの小部屋があり[35]、扉は閉めると中からは開けられないオートロック式になっていた[284]。また、同支部では同行室を利用する際、監視の警察官は同行室の入口の鍵と、同行室内の小部屋の鍵の2種類を持って同行室に入り、小部屋には被疑者だけを入れることになっていた[287]。しかし同行室を解錠した同支部の職員(事務官)は署員らに鍵を手渡さず[12]、そのまま鍵を持ち帰った[288]。また、旧庁舎の同行室の扉は鍵がかからない構造であり[12]、署員3人は当時運用されていた仮庁舎への護送は初めてであったため[289]、扉は施錠しないでおくものと思い込み、鍵を取りに行かなかったという[12]。
その後、まず3人のうち2人がK3とともに同行室内の個室へ入室し、残る1人は初めは外にいたが、K3から「一緒に食事しよう」と誘われたために入室し、全員がK3と同じ個室に入る形となった[285]。K3は両手から手錠を外されて部屋の正面奥の椅子に座り、その左に巡査部長が、扉の左右に巡査長2人が座って食事を摂った[12]。県警の被留置者管理規程では被疑者の逃走を防ぐため、被疑者が同行室で食事をする間は警察官が同行室の扉を閉め[290]、被疑者の入った部屋を施錠した上で、少なくとも警察官1人が室外[注 37]で待機すること[291]、また警察官は被疑者と同じ部屋には入らず、室外(中を監視できる場所)にいることが定められていた[292]。しかしこの時、巡査長の1人はオートロック式になっている鉄格子の扉が閉まらないよう、室外に右足を出した状態で、腰縄も床に放置されており、K3は室内を自由に歩き回れる状態だった[12]。
逃走から身柄確保まで
約10分後、署員たちより早く食事を食べ終えたK3は[12]「暑いからエアコンをつけていいか」と言い、1人の許可を得て外に出た[285]。この時、巡査長の1人は鉄格子が閉まらないように足で押さえていたが、K3から「眼鏡を貸して」と言われて貸したところ、K3はその眼鏡を個室内に投げた[12]。鉄格子を押さえていた巡査長が眼鏡を拾おうと足を引いたところ[12]、K3はその隙にドアを閉め[285]、署員3人は室内に閉じ込められた[35]。署員たちはK3をドア越しに説得したが[290]、K3は閉じ込められた署員たちの前で腰縄を外し「担当さん、悪い」「死刑になるかもしれないから逃げる」「3日たったら戻ってくる」などと言い[12]、階段を経由して1階西側通用口から庁舎外に逃走した[39]。逃走は17時40分ごろのことで、署員はその後携帯電話で110番通報してK3の逃走を知らせた[35]。
こうして庁舎から脱走したK3は車をヒッチハイクして移動し[291]、逃走から約15分後の[293]17時55分[294]、同支部の約900 m南にあったタクシー会社(同市本町四丁目)[注 38]のそばでタクシーに乗った[35]。この時、このタクシーの運転手は裸足[注 39]のK3からの「極道に3日ほど監禁されていた。隙をついて逃げた。料金は知人が払う」という言葉を信じ込み[291]、その指示通り県道23号を南下して柳川市の沖端地区にある大きな橋の方へ向かった[296]。この途中、運転手はK3から頼まれて携帯電話を貸したり、コンビニでお茶を買ってK3に与えたりしたが、K3は運転手に対して丁寧な言葉遣いで応対しており、運転手も目の前の男 (K3) が逃走中の強盗殺人犯だとは気づかなかったという[291]。また、K3は乗車中の19時 - 20時過ぎにかけ、計3回にわたって運転手から借りた携帯電話から[284]、K1配下の組員[注 40]へ電話を掛け、待ち合わせ場所を指定したり、タクシー代を貸してほしい旨を伝えたりしていた[294]。乗車から約1時間後、タクシーは柳川市内[注 41]に到着したが、K3は降車しようとせず[注 42]、同市内を転々とした後、国道209号を通らず大牟田方面に向かうよう指示された[291]。
一方でK3の脱走後、久留米署には17時44分になって第一報が入った[298]。県警は久留米署員全370人を緊急招集し、タクシー・バス会社などにも連絡したが[299]、住民への直接の注意喚起は行わず、マスコミを通じて広報することを優先した[300]。このため、検察庁舎付近の住民の大半は逃走から1時間以上が経過した19時になって、テレビのニュースで初めて事件を知ることとなった[299]。久留米市民に逃走事件の発生を直接広報しなかった理由について、久留米署副署長の松永康行は「行き先を特定できないまま大々的に知らせれば、パニックを引き起こす恐れがある」と[300]、県警本部長の廣畑史朗は「逃走直後の早い段階から被疑者は久留米から大牟田方向へタクシーで逃走中であるとの確度の高い情報を入手し、逃走現場付近での潜伏等の可能性が極めて低いと判断したことなどから」とそれぞれ説明している[301][302]。
その後、タクシーはK3の指示を受けて熊本県玉名郡南関町を経由し[294]、20時40分ごろにK3が指示した荒尾市の駐車場(身柄確保現場)へ到着した[291]。この駐車場は県の重要文化財に指定されている「眼鏡橋」(座標)近くの駐車場で[298]、福岡・熊本の県境にも近かった[35]。当時、タクシーの料金メーターは20,400円を示していたが、K3は電話でそれより2,000円多い22,400円を持ってくるよう頼んでいた[303]。また、運転手に「あと5、6分でここに金を持ってくることになっとります」と説明し[291]、駐車場に着いてから一度外に出て携帯電話で誰かと会話していたが、話し終わってタクシーの助手席側後部座席に乗り込んだ直後、刑事4、5人が駐車場に到着した[304]。K3は刑事にドアを開けられないよう、ドアを内側から手で押さえていたが、やがて観念した[291]。県警はK3と通話していた組員の通話記録から、K3が乗車していたタクシーを特定し[294]、そのタクシーの所属会社に「熊本県方面に行っている車はないか」と問い合わせたところ、該当するタクシー1台が南関IC(九州自動車道)付近を走行していることを確認、身柄確保に至った[300]。
処分など
逃走事件については2005年(平成17年)1月4日、大牟田署がK3を単純逃走罪容疑で福岡地検久留米支部に書類送検した[305][306]。同月11日に同地検がK3を単純逃走罪で追起訴し[40]、一連の事件の捜査を終えた[307]。K3は刑事裁判で一連の殺人などへの関与を否定した一方、この逃走事件だけは起訴事実を認めたが[41]、その動機などについてはK2・K4の公判に証人として出廷した際、逃走前夜に(久留米署で)自殺を図ったが死にきれず、死のうと思って逃げたことや、父K1の近くで死のうと思って大牟田方面に逃走したということ[308]、そして「自分がやった」という遺書を残せば、K4たちが助かると思ったことなどを供述している[171]。また、タクシー代金を踏み倒さず、父の配下の組員に用意させて払おうとした理由についても、運転手が親身になって自分の話を聞いてくれたことを理由に「このような人の良い運転手を騙す訳にはいかない。タクシー代だけは払ってやりたいと考え直しました。そのようにタクシー代を払ってやることを決めると、そのお金を親父が組長を務める北村組の組員である〔当該組員の実名〕に用意させることにして、取り敢えずはこの〔組員〕に連絡をとることにしました。」と述べている[309]。
また、地元住民からは、警察官3人が付き添いながら逃走を許したことや、県警が周囲に警戒を喚起する広報をしなかったことに対し強い批判の声が上がった[299]。小野一光の取材に応じた社会部記者は、実況見分の際にK3がサングラスを掛けていたり、K4が殺害現場でガムを噛む・たばこを吸う・捜査員の足を蹴るなどしており、捜査員がそれを黙認しているなどといった姿が見られたことを指摘した上で、県警内部にそのような気の緩み・馴れ合いがあったことが逃走事件の原因であると指摘している[310]。福岡県警監察官室は同月27日、重大被疑者の動静監視を怠って逃走を招いたとして[311]、護送を担当していた大牟田署員3人にそれぞれ100分の10の減給(巡査部長は3か月間、巡査長2人は1か月間)、護送を監督する立場だった久留米署の留置管理課長に戒告といった懲戒処分を下し、他8人(大牟田・久留米の両署長ら)も本部長訓戒などの処分に付した[37]。また、県警および警察庁は事件を受け、以下のような対応を取ったほか、県警総務部長の渡辺達哉は同月22日の県議会警察委員会で県警の落ち度(護送員の危機意識の欠如など)を認め、県民に謝罪している[312]。
- 県警 - 県内全署宛に渡辺の名で「逃走事故防止の徹底」を喚起する文書を出し[313]、同月17日、県警留置管理課が県警本部に各警察署の留置管理課長らを招集し、留置手順の徹底を指導した[314]。また、地検各支部の同行室などの緊急点検も実施した[313]。
- 警察庁 - 事件後、全国の警察本部に対し「同行室の運用実態の把握」「同行室での監視要領の制定」「被疑者に応じた護送態勢と人員の制定」などを指示した[12]。
刑事裁判
4被告人ともいったんは国選もしくは私選の弁護人が決まっていたが、K4の弁護人は産休のために辞任し、K2の私選弁護人も「やりたくない」と辞任した[315]。その後、K1の弁護人も担当できなくなったため[315]、K3以外の3被告人について国選弁護人の選任が必要となった[316]。福岡県弁護士会筑後部会(部会長:高橋謙一)は3人の国選弁護人を選任するため、部会内で作成していた国選弁護人名簿に基づき、名簿に掲載されていた弁護士たちに担当を依頼していたが、辞退者が相次ぎ、引き受け手が見つからなかった[315]。
一方、弁護士会内で「今回は重大事件だ」との指摘が出されたため、同部会は翌2005年1月から運用する予定で作成を進めていた特別案件用の名簿から弁護人を選任することとなった[316]。その名簿には中堅を中心に十数人が登録される予定だったが、記載順が未定だったため、同会は2004年12月2日、全登録予定者を対象にあみだくじによる弁護人の選任を行い、3人を選任した[316]。同部会は「公平を期する」ためにあみだくじで選任を行っており、同会所属の弁護士は「拘置所が建て替え予定で遠隔地になることや、調書が膨大で手間がかかるため引き受け手がいなかった」と証言している[317]。この問題について土本武司は、地元の部会に適切な人材がいなければ、他の部会に相談する方法もあったかもしれないと指摘している[315]。
第一審判決が宣告された時点で、K1の弁護人は富永孝太郎[23]、K2の弁護人は北村哲[33]、K3の弁護人は紫藤拓也[23]、K4の弁護人は永尾廣久がそれぞれ担当していた[33]。同時点の福岡地検久留米支部長は、内藤惣一郎である[33][23]。
第一審
第一審の公判は、福岡地方裁判所久留米支部(高原正良裁判長)に係属した[41]。
初公判は2005年3月15日に開かれ、罪状認否でK1は4人殺害・死体遺棄について家族3人との共謀を否定し、全て自身の単独犯である旨を主張した上で、A1殺害については金品を奪う意図はなかったとして、強盗殺人罪の成立を否定[16]、殺人罪と窃盗罪に該当することを主張した[318]。また、K3は逃走事件を除く一連の犯行(4人殺害・死体遺棄)への関与を全て否定した一方、K4・K2の2人は起訴事実を全面的に認めた[16]。その後、検察官が冒頭陳述を行い、4被告人が関与した強盗殺人・殺人・死体遺棄・銃刀法違反の各罪状について、謀議状況などからそれぞれ共謀の成立を主張した上で、犯行の背景から経緯に至るまで詳細な態様を陳述した[16]。
K1の弁護人は次回公判以降、公判を分離することを希望し[41]、審理は第2回公判(同年4月13日)より、起訴事実を認めたK2・K4の両被告人と、起訴事実を否認したK1・K3両被告人のそれぞれ2グループに分離された[4]。その後も、K1・K3の公判にK2やK4が証人として出廷したり[133][319]、逆にK2・K4の公判にK1やK3が証人として出廷したりした[320]。同年11月8日のK1・K3の公判(K4が彼らの法廷で証言するのは同日が最後という予定だった)で、証人として出廷したK4はK1に対し「親父と会うのはこれが最後。死ぬまでしっかり生きてほしい」と述べているが、『日本経済新聞』ではこのK4の行動が「死刑判決を覚悟したように父親らに別れの言葉を述べる異例の場面があった。」と報じられている[321]。
法廷での兄弟喧嘩
同年6月21日および10月11日に開かれた公判で、K3は無実を主張したり、母K2を「実の親とも、身内とも思っていない」と表現[注 43]したりしたが、これに憤慨したK4と法廷で一触即発になり、刑務官によって廷外に連れ出されている[42][320]。K4はK1・K3の公判(同年9月27日)で検察側証人として出廷した際、自身の単独犯を主張したK1について「息子であることを誇りに思う。正しいことを言ってほしい」と述べた一方、関与を否認するK3については「両親を踏み台にして自分だけ責任逃れをするのは人間として失格。最後くらいはきちっとするのが社会に対してのけじめ」と批判している[323][324]。
一方で同年10月18日に開かれたK1・K3の公判で、K4はA3を自ら殺害した理由について質問されると「直接兄貴に人殺しをさせたくなかった」と答えており、K3との仲については「逮捕された今でも兄と思っている」と供述している[325]。また、同年11月8日の公判では、K1・K3の2人に対し、それぞれ涙を流しながら真実を語るよう訴えている[326]。
K2・K4の審理
K2は第15回公判で、自分には犯行に家族を巻き込んでしまった責任があると述べ、第18回公判では母親としての真情(犯行に巻き込んでしまったことへの謝罪など)を述べている[327]。
2006年(平成18年)3月14日に開かれた第22回公判で、K2とK4はそれぞれ公判を傍聴していた被害者遺族(A1の母親ら)の方を向いて謝罪の言葉を述べ、頭を下げた[328]。同日、K2は死刑を受け入れることが唯一の謝罪方法であるという旨を述べている[329]。
しかしその次の公判(3月28日)で、被害者遺族の1人であるA1の母親による「K2が(息子)2人の殺人鬼を育て上げた。同じ苦痛を受けさせてやりたい」という調書が裁判長の高原によって代読された[注 44]ところ、K4は陳述後に行われた弁護人による被告人質問の際、A1の母親に対し「ふざけんな。親を悪く言うな」などと叫び、高原から「落ち着きなさい」と諭されたほか、K2からも制止されている[44]。一方で意見陳述後、K4は「責任を持って極刑を受けます」と答えたとする報道もある[330]。上告趣意書によれば、K4は第23回公判でK2とともにBの母親に頭を下げ、謝罪の言葉を述べている[331]。
K2の知人でもあったBの母親は公判中の2006年3月から6月にかけ、当時大牟田拘置支所に収監されていたK2と4回にわたる面会を重ね、「なぜ事件が起きたの。あなたを追い詰めたものは何」と詰問していた[332]。彼女は『西日本新聞』の取材に対し、K2らについて「死刑は望んでいない。私が生きることがつらいように、被告〔人〕たちも生きて一生苦しんでほしい」と述べている[332]。
死刑求刑
2006年5月2日の公判で論告求刑が行われ、検察官はK2・K4の両被告人ともに死刑を求刑した[333]。検察官は論告で、一連の事件は4被告人が共謀して起こしたものであり、4人全員が殺害計画・犯行に関与したものであるとした上で、犯行動機はK2が無計画で場当たり的な生活を続けたことによって陥った資金難を打開するためであり、金銭欲・自己保身欲を満たすためのものであると主張した[17]。また、犯行は周到・綿密に準備された計画的なもので、事件を隠蔽するために遺体を遺棄するなど、完全犯罪を目論んだものである旨も主張した[17]。
次いで、犯行態様は執拗かつ残虐であり、生命の尊厳を冒涜したものであると位置づけた上で、以下のように両被告人の情状について言及し[17]、矯正は不可能であると主張した[334]。
- K2
- K3・K4の息子2人に対し「分け前」を提示して犯行に引き込んだ[334]。事件を主導した1人であり[17]、動機面における中心的存在であった[334]。母親が子供に人を殺させるとは人間の所業ではない[334]。同種再犯の可能性が高い[17]。
- K4
- 2晩程度の間に殺害実行犯として4人の命を奪っており、殺人鬼としか言いようがない[334]。A1殺害の際には車外にいたK3にからかわれて笑ったり、たばこを吹かしたりしており、人間性や良心の呵責の欠片も見られない[334]。K4は被告人質問で[335]、K2から指示された殺害行為について「組員として自らの手を汚すことは務めであり、自分の考えるやくざ論としては名誉なこと」などと正当化していることなどから[336]、歪んだ観念・発想が人格の本質に深く根差している[17]。これまでの公判でも度々暴言を吐くなどしており、犯罪性向は矯正不可能である[334]。
そして一連の事件は「被害者一家を根絶やしにし、金銭欲の赴くまま生命を奪った史上稀に見る犯行」と位置づけ[335]、社会や国民に大きな衝撃・不安・恐怖を与えた事件であること、遺族の処罰感情も峻烈であることを挙げ、2被告人に対しては「寛刑に付されれば国民の安全は守れない」「極刑しかあり得ないと言わざるを得ない」と結論づけた[17]。
最終弁論
同年6月13日の第25回公判で、K2・K4それぞれの弁護人による最終弁論が行われ、両被告人の審理は結審した[337]。最終弁論の要旨は以下の通りで、「被告人なりに反省、悔悟の情を示している」として死刑回避を求めるもので[337]、両被告人は最終意見陳述でそれぞれ謝罪・反省の弁を述べている[338]。
- K2の弁護人
- 犯行の首謀者はK1とK3である[332]。K2は2人の圧力から事件に加担せざるを得ない状況にあった[339]が、殺害に臆する気持ちがあり[332]、従属的かつ消極的であった[340]。K2は公判で他の3被告人に真実を話すよう促しており[332]、再犯の可能性はない[338]。
- K4の弁護人
- K4は暴力団の家庭に育ったことで暴力団特有の思考に浸かっていた[332]。事件当時は20歳3か月と若年であり、精神的にも未熟であった一方、矯正可能性が認められる[341]。
死刑判決
同年10月17日に判決公判が開かれ、福岡地裁久留米支部は求刑通り、K2・K4の両被告人に死刑を宣告した[342]。
同地裁支部は、A1殺害についてはK3・K4の2人が共謀し「呼吸を合わせて連携して行ったもの」と認定し[343]、A1殺害については殺害・遺体の処理などについて4被告人で謀議を図ったことを理由に、4被告人の共謀を認定した[18]。また、A2・B殺害についても、4人が遺体を遺棄するために使用する車を得ることや、姿を見られたことから事件発覚を恐れて口封じを図ったことが動機であるとして、4被告人の共謀を認定した[18]。『西日本新聞』久留米総局記者の河津由紀子はこのような事実認定について、K1・K3の共謀を積極的に認定した判決と評している[343]。
その上で焦点となっていたK2の関与の程度については、弁護人の「従属的だった」という主張を退け[343]、K2が犯行のきっかけを与え[342]、積極的に関与したことを認定した[33]。量刑理由では、各種の情状について以下のように列挙している。
- 犯行の動機・態様
- 動機は身勝手・短絡的なもので、酌量の余地はない[18]。態様も執拗・残虐かつ人命を軽視したものである。
- 遺族の処罰感情、および被告人らの反省の念
- 遺族の処罰感情は峻烈である一方、被告人らから被害弁償や慰謝の措置、謝罪の言葉はない[18]。
- 各被告人の情状
-
- K2
- K2は「動機面での中心的存在」となっていた[344]。自ら息子2人を犯行に引き入れ[33]、A1殺害の際には首を絞め続けるよう指示したり、殺害後にA1のバッグを物色して現金を発見したりしている[343]。B殺害の際にもK4にアイスピックを手渡すなどしており[33]、直接殺害行為を実行していない点は有利な情状としては認められない[18]。犯行態様や結果の重大性(3人殺害に関与したこと)、反規範的な人格態度の存在といった事情も認められる[18]。
- K4
- K4は被害者4人全員の殺害実行犯である[18]。刑事責任の重大さに加えて「暴力団特有の人命を軽視する反社会的な価値観、偏った美意識」および、父K1(組長)や母K2(姐御)から犯罪行為を指示されれば、絶対のものとして実行に移すという「反規範的な傾向」を強く有していることから、「人間の生命の尊厳を軽視する態度」が顕著で、矯正は困難である[18]。
以上の点から同地裁支部は、K2が反省の弁を述べていることや、K4は犯行時20歳3か月と若く、概ね自白していることなどといった有利な情状を斟酌しても、両被告人に対し「極刑をもって臨むほかない」と結論づけた[18]。
K4は同日中に[345]、K2も同月26日付で、それぞれ福岡高等裁判所へ控訴した[346]。その後、K2は12月7日付で久留米拘置支所から福岡拘置所へ移送された[注 45][347]。K4は控訴理由について、小野宛の手紙で「私がまだやらねばならぬ事が残っている為」と述べていたが、小野はその「まだやらねばならぬ事」とは、父K1が率いていた北村組を新生「二代目北村組」として存続させるための作業であると述べている[348]。
K1・K3の審理
公判では凶器だけでなく、K2が持っていたとされるカッターナイフ(前述)も証拠品として提出されたが、K1は「見覚えがない」、K3は「断定できない」とそれぞれ供述している[349]。
K1の主張
K1は自身の単独犯を主張し、K2・K4が死刑を求刑された際には、彼らの冤罪を主張していた[350]。
K1はA1殺害については強盗目的ではなく、A1の態度が気に入らなかったことが殺害動機であると主張した[351]。また、自分やK2は起訴されていないA3の殺害・死体遺棄についても自身が実行したと主張し[257]、その動機については家族問題や金銭目的などではなく、「口論になってはずみで首を絞めた。殺すつもりはなかった」と供述している[256]。一方、犯行の詳細についてはところどころ「覚えていない」と供述しており[256]、また被害者との関係や犯行の経緯・詳細について質問された際には曖昧な返答を繰り返した一方、家族との共謀に関して質問されると「子供たちが人を殺すわけがない」と反論している[257]。なお、A3殺害の凶器の1つであるロープの色については、検察官からの被告人質問で「黒と黄色」と発言していたが、実際には白のロープであった[350]。
一方、K2はK1・K3の公判で、検察官の主張した通り6,000万円以上の借金を抱えており、家族4人で共謀して強盗殺人におよんだことを認めた上で、K1に対しては「私くらいは共犯として認めてほしい」、K3に対しても「事実を認めてほしい」とそれぞれ述べている[352]。また、逮捕当時自身の単独犯を主張していた理由については、「全て私が引き金。一番責任が重かったから」と供述している[353]。その一方でK4は、事件当時の自身の経済状況については「苦しいが、喉から手が出るほどではなかった。強盗や殺人をしてまでのお金は必要なかった」と供述したものの、動機は「欲とか借金逃れ」と認めた上で、4人殺害を実行した点については「親父の命令は絶対。断ろうという考えはなかった」と供述している[354]。また、調書によればK4は「実の親兄弟に人を殺させるくらいなら自分がやろうと思った」「やくざになったことは後悔していない。今回のことも後悔してはいけないと思っている」などと話していた[355]。
K3の主張
K3の弁護人は冒頭陳述(2005年6月14日)で、事件発覚前にK4が死刑になることを恐れたK2の提案により、「一家4人で共謀したことにすれば全員が無期懲役で済む」という理由から、K3が犯行に加担したとする物語が作り上げられた――という主張を展開し、K3は逃走事件を除き、犯行現場に不在で共謀もしていないと訴えた[356]。弁護人はその陳述にあたり、K3の傷害致死前科(後述)を挙げて「罪悪感から、二度と同じことはしないと決意していた」とした上で、K4がA1宅から金を盗もうとした際には「A3を殺して金を奪おうと提案した弟を止め、帰宅した」などと主張している[356]。主張したアリバイの内容は以下の通りである。
- 殺害・死体遺棄の現場
- いずれも不在である[171]。
- A3殺害
- K4の単独犯行[357]。K4と一緒にA1宅に行ったが、A3が1人でいることを確認したK4が「殺そう」と言った際、「殺すのはいけない」と諭してK4を連れ帰った[358]。その後、K4がA3をバイクで連れ出し、諏訪川で揉み合って殺したと聞いた[357]。「馬沖橋」で駐車していた理由は、K4が主張する殺害・死体遺棄のためではなく、車のタイヤのパンクを修理していたためである[358]。(検察官の「通行車両があった」という追及に対し)運転手と顔を合わせて話している[358]。腰が悪く(後述)、重い物は持てないため、(K4と共謀してA3を諏訪川に投げ入れたとする)犯行は不可能である[349]。
- 両親やK4との謀議について
- 組事務所(本町四丁目のアパート)にいたことや、A1に睡眠導入剤を飲ませたことは事実であるが、前者については仕事の電話で出入りを繰り返していたため、両親やK4が殺害の謀議を行っていたことは知らなかったという。後者についても「腹いせのため」であり、殺害することまでは考えていなかった[171]。仕事の電話をしていたのは、自分の生活のためで、(犯行謀議とされる家族らの話し合いには)関わりたくなかった[272]。K1から「お前はもうすぐ子供が生まれるから自宅に帰っておけ」と言われ、犯行時刻は自宅でビデオを見ていた[359]。
- 犯行後の行動
- 諏訪川から遺体の乗った車が発見された際は、「自分の家族がやってしまった」と考え、涙が出た[360]。自分は犯行に関与していないから、被害者の葬儀に行った(前述)[272]。
また、K3の捜査段階における供述の任意性に関する審理も行われ、K3は弁護人の質問に対し、捜査段階で死体遺棄容疑を認めたことについては「警察官がシャープペンシルで下書きした書類をボールペンでなぞった」「内妻が『別れる』と言ったと聞いて、ショックで否認しても無駄だと思った」「検察官に『(犯行を認めれば)内妻の接見禁止は解いてやる』と言われた」「内妻に会いたくて、うその供述をしようと思った」などと証言し[361]、弁護人も捜査官による利益誘導などのために任意性がないと指摘した上で、K3はK4や家族を庇うために虚偽の自白をしたと主張した[362]。後の公判でも、K3は自白した理由について、ポリグラフ検査を受けたことや、K2らが自白していることを知らされたことなどから自暴自棄になったことに加え、弟であるK4を助けるため、自分が嘘の自白をしようと思ったためであると供述したほか[363]、K2から「お前も加わったことにしてくれ」と言われたため、K2・K4とともに自分が加わったというストーリーを作り上げたと供述した[357]。高原裁判長から「あなたが本当のことを話しているなら、なぜ2人は嘘を言っているのか」と質問されると、K3は「全員が無期になるため」と答えている[272]。
一方で母K2は、K3の弁護人が冒頭陳述で主張した「事件後に現場を回り、事件について口裏合わせをした」という内容を否定したが[364]、自身が警察に出頭する直前、K1から「余計なことは喋らなくていい」と言われたことや、K4から「苦しくなったら俺の名前を出せ」と言われた(前述)ため、逮捕後に最初にK4の名前を共犯者として挙げたことなどを証言している[365]。一方でK4は、兄の証言を「すべてうそ」と断じ、自身の単独犯と主張されたA3殺害については「自分1人の意志でやるならどこかに呼び出した隙に金を盗む」と主張しているが[366]、K3はK2・K4による「K3も関与した」という供述は虚偽・誤解であると主張していた[367]。また、K3はA3殺害時の状況について、K4に対し何度も「殺すのはやめよう」と言った旨を証言しているが、K4は「やめるよう勧めたのは自分だ」と逆の供述をしていた[368]。
また、事件当時K3やK4と交際していた女性2人の証言についても公判で調べられたが、彼女らはK3の「〔A3が殺害された〕9月16日から17日にかけて、部屋に一緒にいたK4が自分の車(プレジデント)を借り、1人でA3を殺害しに行った」という主張とは矛盾する証言(「K4は長い間席を外してはいなかった」「車のエンジン音やドアの開閉音もなかった」という内容など)をしていた[369]。検察官は、K3の「腰が悪い(後述)ため、A3を遺棄することは不可能」という主張への反証として、医師の「痛みをこらえれば可能」という証言を証拠提出している[349]。一方で弁護側は、「腰に強い痛みがあり重いものは持ち上げられないだろう」という医師の見解や、末弟(K1・K2夫婦の三男)による「人に罪をなすりつけるような人ではない」という証言[370]、またK1の配下組員による「K2やK4からは事件について聞いたが、K3からは聞いていない」という旨の証言などを公判で明かしている[371]。
K3の体調不良
K3は2005年1月から福岡刑務所(福岡県宇美町)に拘置されていたが[注 46]、同月から不眠を訴え[373]、眠れない際には[374]就寝前に向精神薬を渡されていた[373]。公判中の同年5月5日朝、K3は意識が朦朧としている状態に陥っているところを職員に発見されて刑務所外の病院[注 47]へ搬送され[373]、緊急入院した[374]。K3は向精神薬による悪性症候群に陥っていると診断され[374]、一時は意識不明になるなど危険な状態に陥ったが、同月31日に退院した[373]、同刑務所では入所者の自殺を防ぐため、薬は職員が飲んだことを確認するよう内規で決められているが[注 48]、K3は職員からもらった量の薬では眠れないこともあるという理由から、効き目を上げるため薬を飲んだふりをして吐き出し、入院した前日の夜にまとめて飲んだ記憶があるという旨を説明している[373]。
このため、同月10日に予定されていたK1・K3の公判は中止され[377]、24日・31日の公判も延期された[378]。また、K2・K4両被告人の公判にK3が証人として出廷することもできなくなったため[379]、彼らの公判期日にも影響が出た[380]。当初は関係者からの情報により、K3は肺炎で入院しているとされていた[380]。K3は退院後に開かれた同年6月7日の第4回公判で約1か月ぶりに出廷した際[378]、体調不良を訴えることはなかったが[381]、この時も右足を引きずっていたり、右手を小刻みに痙攣させたりしていた[382]。
同刑務所を管轄する福岡矯正管区は同年7月27日、遺書が見当たらなかったことや[383]、K3の説明を覆す証拠がないことから「自殺の可能性は極めて低い」という内部調査の結果を公表したが[373]、法務省矯正局によれば、受刑者・被告人が死亡した事例以外で調査結果が公表されることは極めて異例だった[374]。一方、K3はK2・K4両被告人の公判で行われた証人尋問の際、検察官からK2との関係について尋ねられ、興奮した口調で「もう二度とおれを生んでほしくない。判決の結果がどうあれ、おれは自殺する」と答えている[320]。
死刑求刑
論告求刑前最後の公判となった2006年9月19日の公判では、A1の母と妹がそれぞれ2被告人への厳罰を求める意見陳述を行った。特にA1の妹は「生きて償うなどありえない、許されない。死刑より重い罪があれば教えてほしい」などと訴えている[384]。
同年10月24日の公判で、検察官は以下のような論告を行った上で、K1・K3の両被告人にいずれも死刑を求刑した[46][385]。
- K1・K3それぞれの主張について
- 「家族4人で共謀した」とするK2・K4の証言には信用性がある一方、K1・K3の主張はいずれも不合理で、他の証拠と矛盾している。
- 犯行の動機・態様など
- 一連の事件は金銭欲・自己保身欲のために起こされたもので、被告人らは事前に計画を練り、巧妙な犯行を続けた。犯行は残忍かつ執拗で、遺体を遺棄するなど完全犯罪を目論んだものであり、生命の尊厳を著しく冒涜している。史上稀に見る凶悪な事件として社会に大きな衝撃・不安を与えており、遺族の処罰感情も峻烈である[385]。凶悪ぶりは筆舌に尽くしがたく[386]、公判廷で虚偽供述を積み重ねるなど、死刑適用を躊躇する要因は一切ない[387]。
- 被告人K1の情状
- 事件を主導し、動機の中心的存在にあった。息子2人を犯行に引き込んだことは人間の所業とは思えない[385]。30年以上暴力団で活動し、犯罪性向が深まっている[386]。矯正は不可能である[385]。単独犯行との主張は、家族を責任から免れさせるための独善的発想である[46]。
- 被告人K3の情状
- 犯行の計画立案当初から関与しており、実行者かつ主導者であった。刑事責任は実行犯であるK4以上に重大である[385]。両親や弟に刑事責任をなすりつけており、人間性は邪悪としか言いようがない[46]。
最終弁論
審理は第32回公判(2006年11月28日)で結審した[388]。同日は両被告人の弁護人による最終弁論が行われ、K1の弁護人は死刑回避を求めた[15]。またK3の弁護人は逃走罪以外については無罪を主張し、逃走罪については「反省があり若年でやり直しがきく年齢である」として執行猶予判決を求めた[15]。弁論要旨は以下の通り。
- K1の弁護人
- A1殺害は金銭の強取目的ではなく、強盗殺人罪は成立しない。一連の事件は全てK1の単独犯行であり、動機は経済的なものではなく、感情のもつれである[15]。犯行後の自殺未遂は反省の表れで[389]、真摯に反省しており、謝罪する態度がある[390]。死刑適用は回避すべきであり、一生をかけて被害者らの冥福を祈らせるべきである[15]。
- K3の弁護人
- K3は事件当時現場におらず、共謀も成立しない。共謀を認めたK2・K4の証言は自己保身目的であり、彼らはK3に責任転嫁をしている。
最終意見陳述で、K1は「家族は一切関係ない」、K3は「天地神明に誓って事件に関わっていない」などと陳述した[15]。
死刑判決
2007年(平成19年)2月27日の判決公判で、福岡地裁久留米支部(高原正良裁判長)はK1・K3の両被告人にも求刑通り死刑を言い渡した[23]。同地裁支部は事実認定について、「4被告人が共謀した」とする検察側の主張およびK2・K4の証言を支持し、K1の主張・K3の主張をいずれも以下のような理由から「不自然、不合理」として退けた[318]。
- 共謀に関する認定
- K2・K4の「4人で共謀した」という証言は、自己の刑事責任を軽減しようとした虚偽のものとは考えられず、信用性があり、客観的証拠からも4人が共謀した事実を認定できる[391]。
その上で両被告人の矯正可能性を否定し、K1は「息子を巻き込んだ」、K3は「弟に責任を押し付けた」とそれぞれ指摘。犯行は金銭に対する執着と強い欲望が動機となって敢行された、執拗・残忍で容赦ないものであり、人命を軽視したものであるとして、両被告人とも死刑が妥当と結論づけた[23]。
K1は即日控訴し、K3も同年3月1日付で控訴した[393]。
控訴審
控訴審はK2・K4組、K1・K3組の双方とも、福岡高裁(正木勝彦裁判長)に係属した[48][49]。その係属部は、福岡高裁第3刑事部である[394]。
K2・K4の審理
控訴審でK4の国選弁護人を担当した弁護士は松井仁で、彼は今後も引き続き福岡で相談に乗ってもらいたいというK4の願いを聞き入れ、上告審でも東京都の弁護士との2人態勢で弁護人を担当した[395]。松井はK4の弁護活動を行うのみならず、K4の刺青下絵の画集『証』の制作に協力したり、死刑確定後もK4経由で獄中にいる家族からの頼み事(K1の年金手続き、K3への書籍差し入れや読み終わった古本の売却など)を引き受けたりしている[396]。また、K2の弁護人は桃原健二が務めた[397]。
K2・K4の控訴審は2007年6月5日に初公判が開かれ[398][399]、同年9月27日に結審した[400]。両被告人の弁護人による控訴趣意はそれぞれ、被告人を死刑とした原判決は不当に重く、無期懲役が妥当とするもので[397]、所論は主に以下の通りである。
- K2側の控訴趣意所論
- K4側の控訴趣意所論
-
- 犯行動機
-
- A1の落ち度
- A1の言動が犯意形成に寄与したことは否定できず、原判決がA1殺害の動機について「人の尊厳を無視する短絡的かつ極めて自己中心的なものであって、酌量の余地は全くない」と判示しているのは断定的すぎる[402]。
- K4の従属性
- K4は特に金銭に困っておらず、A1に対する恨みもなかったが、暴力団組織および家庭で絶対的立場にあった両親 (K1・K2) 、また日ごろから腕力でも弟としての立場からも逆らえない立場にあった兄K3の命令に従ったものであり、両親に対する忠誠心や愛情も相まって犯行に及んだものであるから、その動機は自己中心的なものとは言えない[403]。
- その他
- K4はA2やBの殺害についていったん逡巡もしており、A3殺害の発覚を防ぐために2人の生命を奪うという身勝手極まりない動機があったとも言えない[404]。
- 犯行の無計画性
- K4はA3殺害については犯行の30分前、他3人の殺害については犯行当日にそれぞれ初めて知らされ、その勢いで各犯行に突っ走ってしまったものであり、本件は場当たり的で計画性のない犯行である。計画的犯行の特徴である犯罪遂行に対する強固で継続的な意思はなく、犯行を中止する機会もなかった[405]。
- K4の関与の程度に関する疑念
- 原判決はK4がA1・A2・Bの殺害行為を全て実行したと認定しているが、K4はK3に意地を張って真実を述べていない可能性があり、実際にはK3も殺害行為をさらに実行した合理的疑いがある(K2もその疑いについて言及している)[406]。
- 遺族の処罰感情について
- Bの母親は現時点では、K4らに対する死刑を望んではいないと考えられる[407]。
また被告人質問やK1に対する証人尋問も行われ、K4はK2に対し「おれのことを気にするな。自分を責めんでいい。おれはおれの意思で親についていきよるんや。おれが最後まで付いていく」と述べたほか、K1に対しては「事件についてはともかく、俺は、今まで親父やおかんに従ってきたことについて全く後悔していないのだから、どうか気にしないでくれ」と言い切っている[249]。一方、検察官は両被告人にはいずれも極刑をもって臨むほかないと主張して控訴棄却を求めた[408]。
控訴棄却判決
同年12月25日に判決公判が開かれ、K2・K4はいずれも控訴棄却の判決を言い渡された[48]。福岡高裁 (2007) は一連の犯行について、動機の身勝手さ、犯行態様の凶悪性、犯行の計画性・悪質性、結果の重大性などを指摘し、各犯行には被告人らの「物欲と人命軽視」が認められると判示した[409]。
- K2について
- その上で、K2の「従属的だった」という主張については、K2の言動が一連の犯行の契機となったこと、当初は「自分がA1を殺す」と言いながら恐ろしくなって犯行に踏み切れなかったことからK3に協力を求めた上でK4まで犯行に引き入れたこと、殺害実行犯のK4に対し自ら犯行の指示をしたり凶器のアイスピックを手渡したりしたこと、(A2殺害については若干異を唱えはしたが)共犯者として犯行を制止しなかったどころか、かえって十分納得した上で自身が殺害に関与した3被害者 (A1・A2・B) の殺害に参加したことなどを挙げ、「殺害行為こそ担当しなかったものの、各犯罪の遂行に向けて重要な役割を積極的に果たしている。」と認定してその主張を退け、「同被告人を首謀者と評価するかどうかはともかく、その関与が従属的かつ消極的なものにとどまるなどと評価することはできず、同被告人の本件犯情はすこぶる悪いというほかなく、その刑事責任が極めて重大であることも明らかである。」と判示した[401]。
- その一方でK2に有利な情状として、彼女は当初から各被害者を殺害することを主導したわけではないこと、捜査段階から素直に罪を認めて事実関係を詳細に供述し、公判でも事実を正直に認め、K1・K3に手紙で「一緒に刑に服そう」と呼び掛けるなど深い反省が認められる(更生可能性が皆無とは言えない)こと、被害者・遺族への謝罪の意思を明らかにしていることなども列挙したが、それらの情状や死刑という刑罰の性質(人命を奪う極刑であり、その適用は慎重に行われなければならないこと)、その性質を踏まえて1983年7月8日に最高裁が示した死刑適用基準に照らしても、K2を死刑とした原判決はやむを得ず、重すぎて不当とは言えないと結論づけた[410]。
- K4について
- K4については、先にK3からA3への強盗殺人を持ち掛けられ、消極的態度を示したら「お前の弟(三男)を使う」「お前も〔K4の交際相手〕も殺す」などと言われたことなどを踏まえても、K4とK1・K2・K3とのやり取りを踏まえれば、K4が彼らに支配されて逆らえない状況にあったとは認められず、あくまでK4自ら犯行を決意したものであると判示し、K4は従属的だったとする弁護側の主張を排斥した[403]。
- また「場当たり的で計画性のない犯行」という主張についても、各犯行はその経緯から見て、綿密とは言えないまでもそれなりの計画性および強固な殺意が認められることを指摘し、主張を排斥した[405]。そして4人の人命が奪われた結果の重大性、被害者の無念や遺族の峻烈な処罰感情を列挙した上で、以下のようにその犯罪性向は深刻であり、事件当時20歳かつ判決当時23歳と若年であることを考えても、人格傾向の矯正は著しく困難であることを指摘した[411]。
「ためらいなく次々と冷酷に殺人を重ねる様子からは、顕著な人命軽視及び極端な暴力肯定の態度が明白に認められる。」
「保護処分当時から、同被告人には、深刻な反社会性や無軌道な粗暴性や暴力団に対するあこがれといった問題点があると指摘されていることにも照らすと、同被告人の犯罪性向は極めて深刻」 — 福岡高裁 (2007) 、[411]
- 以上の点から、K4の犯情は極めて悪く、刑事責任は少なくともK2以上に重大であると位置づけ、K4にとって有利な情状(若年であること、捜査段階から素直に罪を認めて公判でも反省の態度を示していること、前科がないことなど)や「永山判決」の趣旨を踏まえても、K2と同じく死刑はやむを得ないものと結論づけた[412]。
K4は冒頭で主文を言い渡された際に指を鳴らし、溜め息をついて着席したほか、閉廷後には話しかけようとした弁護人に対し「先生、メリークリスマス」と大声を出して退廷した[注 49][414]。
K4の弁護人は同月27日付で、K2の弁護人も28日付でそれぞれ上告した[415][416]。上告審でK2の弁護人を務めた鈴木敏彦は、第一審から控訴審まで「極刑を覚悟している」と供述していたK2が上告した理由について、自分が認識していなかったこと(K3・K4によるA3殺害)などの真相を知りたい気持ちや、被害者らへの罪悪感からそれまでは主張できずにいたことに気付いたため、それを裁判所に伝えたくなったことなどであると述べている[417]。
K1・K3の審理
2007年10月11日、K1・K3の控訴審初公判が開かれたが、K1は第一審における「自身の単独犯」との主張を翻し、A1殺害についてはK2・K4との共謀を認めた上で、K3との共謀や強盗目的を否認した[418]。また別の2人殺害に関しては家族3人との共謀を認め、もう1人の殺害については関与を否定した[418]。
同年12月20日、K1・K3の控訴審は結審した[419]。K3の弁護人は最終弁論で、K3には事件当時アリバイがあるため、犯行への関与は不可能であることを主張し、一連の殺害行為についてはいずれも無罪を主張した[419]。
2008年(平成20年)3月27日、K1・K3の2人もそれぞれ控訴棄却の判決を言い渡された[49]。福岡高裁は、強盗目的を否認したK1、無罪を主張したK3の主張をいずれも排斥し、K1については経済的困窮から強盗殺人を計画したことを認定、K3についても他の被告人らの供述などから共謀関係を認定した[420]。その上で、K1は殺害行為の実行こそしなかったものの、K3らを犯行に引き入れた上で殺害方法を具体的に指示していたことに言及した上で[421]、各犯罪で主導的な役割を果たした点や、犯行態様も非情かつ残酷で凶悪な犯行態様である点を指摘した[420]。またK3についても、アリバイ主張を「犯行に関与していないとの絶対的な決め手にはならない」と退け[422]、殺害計画に積極的に関与しながら実行役をK4に押し付け、自分の手を汚さずに済ませようとしたと指摘した上で[421]、その点を「自己中心的で狡猾」と形容[420]。「金銭欲に始まり人命軽視も甚だしく、身勝手極まりない犯行動機に酌むべきところはない」として、2人を死刑とした原判決を追認した[420]。その後、両被告人の弁護人がそれぞれ上告した[423][424]。
上告審
上告審は、K2・K4の両被告人が最高裁判所第二小法廷(須藤正彦裁判長)に、K1・K3の両被告人が同第一小法廷(白木勇裁判長)に、それぞれ係属した[425][21]。4被告人それぞれの担当弁護人は、K1が中井淳[79]、K2が鈴木敏彦[80]、K3が小松初男・今村憲[79]、K4が福島昭宏と先述の松井である[80]。上告審における各被告人の主張(上告趣意書)の要旨は以下の通り。
- K2
-
- 判例違反
- 原判決は、K4による拳銃発射行為が銃刀法第31条および同法第3条の13(けん銃等発射罪)[注 50]に違反することを認定しているが、後者は「不特定若しくは多数の者の用に供される」場所もしくは乗物で拳銃を発砲するか、そのような場所もしくは乗物に向かって拳銃を発砲した場合に成立するため、個人的に使用する自動車内で発砲しただけでは成立しない。発射現場は周囲に人気も何もない場所であり、けん銃等発射罪の成立要件を満たすような場所ではなかったことが明らかであり、原判決の認定は2005年4月18日付の最高裁決定[注 51](民家などの立ち並ぶ国道上を走行中の自動車内で、助手席に乗車していた被害者の左肩に、背後から銃口を下向きにして拳銃を突きつけ、発砲した行為について、「不特定若しくは多数の者の用に供される場所」であることが明らかな道路上が現場であることを理由に、けん銃等発射罪の成立を認定)に違反する[427]。また以下の事実誤認から、K2を死刑とした原判決は「永山判決」に相反するものであるといえる[428]。
- 事実誤認
- 主たる動機はA1に対する憤懣であり、金銭を奪う動機はK1から提案されて付随的に生じたものにすぎない[429]。K2はA1により、借金の弱みに漬け込まれて取り立てに使い回すなど都合よく利用されたり、リフォーム工事代金を踏み倒されるなどしていたのであり、A1にも落ち度があったといえる[430]。K2にはA2・Bを殺害する動機はなく、結果的に共犯者らによる彼らの殺害を止められなかったにすぎない[431]。K2が息子らを強盗殺人の犯行に引き込んだというのは事実誤認であり、K3は元からK1とともにA1に対する強盗殺人を狙っており、K4もそのK3が犯行に引き込んだにすぎない[432]。またK2自身も、強盗殺人・殺人・死体遺棄の犯行でも重要な役割を果たしたとはいえない[433]。犯行直前までA1らを殺害しようとするK1・K3を制したり、彼らを納得させるために金策をしようとするなどしており、原判決の「K2が、A1殺害を自ら実行しなかったのは、怖気づいたからにすぎず、共犯者として犯行の遂行に何らの防止策も採らず、かえって十分納得した上で、A1、A2およびB全員の殺害に参加し、各犯行で重要な役割を果たしている」と認定した原判決には事実誤認がある[434]。
- 量刑不当
- K2の関与の度合いは共犯者らに比べて低く、死刑に処すべきほど重要な役割を果たしたとは言えない[435]。K2はA1を「殺す」としばしば口にしていたが、本気でA1殺害を考えていたわけではなく、K1がA1を殺して金を奪うことを提案したことや、K3・K4がA2を殺害したことが原因でA1も殺害せざるを得なくなったに過ぎない[436]。K2が関与した3人 (A1・A2・B) 殺害に関しても、K2の果たした役割は小さく、関与は従属的かつ消極的である[437]。事件後は事実を正直に認め、起訴事実を否定していたK1・K3を手紙で説得するなど深く反省しており、更生可能性が大きい[438]。以上のような事情に加え、過去に複数人を殺害した実行犯および首謀者に対する死刑適用が回避された事件[注 52]、そして被害者3人でかつ被告人が直接殺害を実行した事件でありながら死刑が回避された事件[注 53]の判例から見ても、実行犯でも首謀者でもないK2に対する死刑は重すぎて不当である[439]。
- K4
-
- 死刑の違憲性
- 死刑制度は憲法第12条および13条で規定された国民の生命に関する権利を不当に侵害するものであり、同36条で定められた「残虐な刑罰」に該当するため、違憲である[443]。
- 量刑不当
- K4は暴力団組長夫婦という両親の下で育ち、「親のいうことは絶対」という価値観を有し、同時に相撲部屋での挫折・ヤクザへの入門・少年院への入院という因子も相まって、反社会的・粗暴な性格と評されるような人格を形成するに至ったが、優しい一面や人間的な一面もあり、矯正は可能である[444]。犯行の動機・経緯を見れば、当時K4には生活苦やA1に対する憤懣はなく、犯行途中までは殺害を躊躇する姿勢も見せていたが、誤った家族愛や両親への尊敬の念から、家族の命令に忠実に従う形で犯行に至ったものであり、動機に酌むべき事情がないと断定するには躊躇を覚える[445]。犯行は偶発的とは言えないまでも、A3の殺害謀議がなされた段階で具体的な殺害方法・殺害後の行動が決まっていなかったことなどから見れば、決して計画的な犯行とは言えない[446]。実行犯だったとはいえ、両親や兄K3に引き込まれたり指示されたりした上で犯行におよんでおり、一貫して従属的な立場にあったと言える[447]。犯行後、公判で反省の念を露わにしている[448]。
- 事件の真相について
- 2008年3月28日付の上申書で、本件の真相を明らかにする旨を上申し[449]、同年4月21日付の手紙で[450]、A1殺害はA1の母親から依頼されたものであると主張している[451]。その内容によればA1の母親はK2に対し、何度か娘A1を殺害するよう依頼していた[452]。K2はA1本人よりも母親との方が仲が良かった時期があり、そのためにA1本人からの借入金額(約900万円)よりA1の母親からの借入金額(約2,300万円)の方が大きくなっていたことから、母親からの娘殺害の依頼を断ることができなかった[451]。また拳銃を発射した場所は原判決の事実認定とは異なり、最初の1発を撃った発砲者もK4ではなくK3である[450]。
- K1
-
- 事実誤認
- 犯行前の妻子との会話[453]、犯行時の行動(A1が眠っている間にバッグを持つ機会があったが、物色しなかったことなど)[454]、事件当時の資力状況(前述)[139]などから、A1殺害について強盗の意図は認められず、強盗殺人罪ではなく殺人罪と窃盗罪が成立する[455]。
- 死刑制度の違憲性
- 諸外国における死刑廃止の潮流[456]、死刑制度を合憲とした最高裁大法廷判決(1948年3月12日)における補充意見(将来的に死刑制度が違憲と認められる可能性を示唆した意見)、およびそれを踏まえた1993年9月12日最高裁判決における大野正男裁判官の「死刑が残虐な刑罰に当たると評価される余地は著しく増大したということができる」という補足意見、後者意見の根拠として例示された死刑事件を含めた冤罪事件の存在[注 54]などを踏まえれば、死刑制度が憲法に違反している疑いは払拭できない[458]。
- 本件事案について死刑判決を下すことについての憲法違反、判例違反[459]
- K1を死刑とすることは死刑の量刑基準を判示した「永山判決」(1983年7月8日)に違反するし、明らかに「残虐な刑罰」といえる[459]。原判決は動機に酌量の余地がないこと[460]、犯行が計画的かつ悪質なものであること[461]、結果の重大性および遺族の処罰感情を死刑選択の理由として挙げているが[462]、A1殺害の動機については一定程度は酌むべきところがあり、犯行計画も杜撰で、周到に計画された計画的犯行とは言えない[463]。また被害者の被害回復の問題と量刑の問題は切り離して考えなければならず、遺族の感情を量刑に反映させるのは慎重でなければならない[462]。K1の性格は矯正不可能なほど犯罪性が高いとも言えず、犯行も心から反省している[464]。
- K3
-
- 判例違反・審理不尽
- いわゆる「練馬事件」の上告審判決(1958年5月28日大法廷判決)では、「共謀共同正犯が成立するには、二人以上の者が、特定の犯罪を行うため、共同意思の下に一体となつで互に他人の行為を利用し、各自の意思を実行に移すことを内容とする謀議をなし、よつて犯罪を実行した事実が認められなければならない。したがつて右のような関係において共謀に参加した事実が認められる以上、直接実行行為に関与しない者でも、他人の行為をいわば自己の手段として犯罪を行つたという意味において、その間刑責の成立に差異を生ずると解すべき理由はない。」と判示されている[465]。強盗殺人・殺人の共謀共同正犯を認定するには、その実行正犯と意思の疎通のもとで相互に補い合い協力し合う関係で犯罪を遂行したという関係が厳格に認定されるべきであるが、原判決はK2・K4の供述証拠のみに依拠し、K3の自白に「裏付けがある」として、その共謀の成立時期や内容・程度を吟味検討せず、実行正犯の行為の残虐性を強調して、K3がこれに「積極的に加担した」などと認定している[466]。しかしA1殺害はK2が首謀者、K4が実行犯であり、K3はそのどちらでもなければK1のようにK4に凶器を渡したわけでもなく、「積極的な関与」は認定できない[466]。またA3殺害について、原判決はK4の供述に依拠してK3の共謀を認定しているが、K4は真実を語るというより、母や組長である父の意思を実現し北村組の跡目を継承すべきものである自分をクローズアップさせたいとの思惑の下に種々供述しているのであり、その供述には不自然・不合理な点が随所に見られる。以下のようにK3にはアリバイも存在する可能性があることも踏まえれば、それらの点を看過して漠然たる共謀関係を認定したに過ぎない状況で、K4を4人に対する強盗殺人・殺人などの共謀共同正犯と認定した原判決には、重大な最高裁判例違反、法令の解釈適用の誤り、事実誤認、審理不尽が認められ、破棄を免れない[467]。
- アリバイ存在の可能性
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- A3殺害時期に関するアリバイ
- A3の殺害時刻は9月16日23時45分ごろとされているが、約45分後の17日0時30分ごろ、内妻を迎えに高田町のパチンコ店にいた。また当時K3と同行していたとされるK4の供述によれば、K3はA3殺害時刻より後に「馬沖橋」(殺害現場)から大牟田市立総合病院・K3の自宅を経由してから同店に向かっている(後述)。その間の道のりは約16 kmだが、K3は当時眼鏡を紛失しており、夜間スピードを出しての運転は困難な状態だったことを踏まえれば、K3本人の「馬沖橋からならパチンコ店まで約1時間かかると思います」という公判供述には十分な信憑性がある(前述)。それらの客観的状況を踏まえれば、K3がA3殺害時刻に「馬沖橋」にいたことはありえず、同時刻から約45分でパチンコ店まで行くことが「不可能とまではいえない」として客観的な裏付けを取らずにアリバイを否定した原判決は審理不尽の誹りを免れない[468]。
- A1殺害時期に関するアリバイ
- K3は、A1が北村組事務所から連れ出されたとされる18日0時ごろ、K1から「(実家に)帰っとけ」と言われて家族と別れ、0時過ぎごろには代行運転のドライバーと話をしており、後にファミリーレストラン「ジョイフル」の駐車場で人夫出しの仕事の協力者と会っていた旨を主張している。K1がA1殺害にK3を巻き込むことに消極的な言動を取っていたこと、またK3は17日午後から夜にかけて頻繁に携帯電話で仕事の話をしていたことは、K2・K4も認めており、電話相手の証言もK3の主張と矛盾せず、信憑性も高いと言える。よってA1殺害時刻(18日0時30分ごろ)にK3が殺害現場にいたことはあり得ず、原判決がその点を確たる反対証拠の検討吟味をせずに否定したことは審理不尽の誹りを免れない[469]。
- 量刑不当(予備的主張)
- 仮に原判決の認定通りK3が有罪だとしても、K3はA3を除く3人の殺害については従属的であり、他3人と比べて刑事責任が重いとは言えない[470]。A3殺害についても計画性は低く、猪突猛進型のK4に押されて殺害にまで至ってしまった[471]。K3は暴力団の親分でもある両親に従わざるを得ない状況にあり[472]、犯行を躊躇する[473]、犯行を真摯に反省する[474]、不仲であった父K1が署内で自殺を図った上に自分たちを庇って罪を被ろうとしていると知り、その義理立てのためにK1の供述と矛盾しないよう犯行を否認する供述をする[475]、他者を思いやる心を持っている[309]などの点から、矯正可能性が認められる[476]。
K2・K4両被告人は2011年10月3日に[425]、K1・K3両被告人も同月17日にそれぞれ上告棄却の判決を宣告されたため、犯行に関わった一家4人の死刑が確定することとなった[21]。なお、福岡県弁護士会 (2018) によれば、K4の死刑確定日は同年11月8日である[注 55][477]。
犯人一家
いずれも2011年(平成23年)に最高裁で死刑が確定し、2022年(令和4年)9月27日時点で[478]、死刑確定者(死刑囚)として各地の拘置所に収監されている(後述)。上告中は4人全員が福岡拘置所に収監されていたが[注 56]、死刑確定後の2011年末にK1は広島拘置所へ、K3は大阪拘置所へそれぞれ移監された[481]。
K3・K4兄弟は度々暴力沙汰を起こしていたが、周囲は息子を野放しにする親に怒りを感じつつも「ヤクザだから」と諦めていたという証言がなされている[266]。
男K1
K・J | |
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生誕 | 1944年1月12日(80歳)[79] |
住居 | 日本: 福岡県大牟田市桜町 |
罪名 | 強盗殺人、死体遺棄、殺人、銃砲刀剣類所持等取締法違反 |
刑罰 | 死刑 |
犯罪者現況 | 死刑確定者 |
配偶者 | K2(妻) |
子供 | K3(長男)・K4(次男)ら5人(3男2女)[88] |
国 | 日本 |
都道府県 | 日本: 福岡県 |
死者 | 3人 |
逮捕日 | 2004年10月7日[260] |
収監場所 | 広島拘置所[482] |
男K1は1944年(昭和19年)1月12日生まれ[79](事件当時60歳)。本名のイニシャルはK・J[483]。K2の夫であり、K3・K4兄弟の父親である。2022年9月27日時点で[478]、死刑確定者として広島拘置所に収監されている[482](現在80歳)。身長は160 cm[484]ないし約165 cmで、妻K2より小柄だった[485]。
K1は高校を卒業後、福岡に出て和菓子職人として働いていたが、24 - 25歳のころに大牟田に帰郷し、タクシー運転手として7、8年働いた[484]。その後、暴力団幹部の専属運転手として雇われ、自分も覚醒剤を打つようになり[484]、30歳代でタクシー運転手を退職[486]、自身も暴力団組員になった[484]。1978年(昭和53年)から1992年(平成4年)にかけ、覚せい剤取締法違反・詐欺・暴力行為等処罰法などによる懲役刑に処された前科が4回ある[97]。また傷害罪などによる複数の罰金前科も有しているが、弁護人は上告趣意書で、1994年(平成6年)に傷害罪で罰金刑に処されて以降、2004年に車上荒らしで罰金刑に処されるまで、犯罪らしい犯罪は犯していなかったと主張している[487]。知人によれば、K1は50歳ぐらいの時にK2や配下の組員とともに刺青を入れたという[486]。
配下の組員は鈴木智彦の取材に対し、K1は事件の3年ほど前から妻K2とともに何回も自殺未遂事件を起こしており、事件当時は金に困っていたという旨や、事件の約1年前からは若い衆が次々と組から逃げ出し、上層部からは引退を求められ、それに対しやけを起こしたK1が暴れたため、最高幹部たちがK1宅に行かないよう命じていたという旨を証言している[488]。
人物像
K1の人物像については、「女房 (K2) と違って気の小さい人間」で、実際にはK2が組の実権を握っていたという捜査関係者の証言や[484]、K2の尻に敷かれていたという知人からの証言がなされている[486]。一方、妻K2は手記でK1から暴力を振るわれたことがある(後述)と訴えている[123]ほか、長男K3は「親父は素手では私達にかないませんから、酒に酔ったときなど包丁などの道具をすぐに握り、一度だけチャか(けん銃)〔原文ママ〕を取り出したこともあり、このとき親父は家の中で〔K4〕に向けてチャかを弾いています。このチャかは、銀色の小型自動式でしたから今回の事件に使ったものと同じものだと思います。」と供述している[489]。
近隣住民はK1について、信号無視をしたり、自宅近所で背中の刺青をちらつかせたりしていたと述べている[310]。かつてK1一家が住んでいた藤田町[注 3]の住民は、K1らが隣の敷地に自分の荷物を置くなどしていたため迷惑していたが、彼らが暴力団員であることも知っていたため、関わらないようにしていたと証言している[485]。
その一方で長男K3が中学生のころ、実家が火事になったことがあったが、K1はその際に自ら火の中に飛び込んで娘を助けている[464]。またK1の娘は、父親であるK1について「世間から見ると怖い存在である」とした上で、性格については「短気ではあるが、子供や孫にはもの凄く優しい面がある」と評しており、配下の組員たちからも「子供たちが大好きだが束縛しすぎる」「若い者を大事にする反面、周りの人間のことを把握していないと落ち着かないところもありました。普段は温厚ですが、寂しがりやで酒が入ると説教する」「面倒見が良く、優しく、私のことを可愛がってくれ、私が悪いことをしても、叱りつけることはあっても、暴力を振るうことはなかった人であります」という証言がなされている[490]。その事実を踏まえ、K1の弁護人(中井淳)は上告趣意書で、K1にはいわゆる暴力団の親分としての「怖い存在」である一面があったと思われる一方、自分の身内(子供や孫、配下の組員たち)には優しく愛情深い一面もあったことが十分に見て取れると評している[464]。
妻K2
K・M | |
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生誕 |
1959年4月26日(65歳)[80] 日本: 福岡県大牟田市 |
住居 | 日本: 福岡県大牟田市桜町 |
罪名 | 強盗殺人、死体遺棄、殺人、銃砲刀剣類所持等取締法違反 |
刑罰 | 死刑 |
犯罪者現況 | 死刑確定者 |
配偶者 | K1(夫) |
子供 | K3(長男)・K4(次男)ら5人(3男2女)[88] |
国 | 日本 |
都道府県 | 日本: 福岡県 |
死者 | 3人 |
逮捕日 | 2004年9月22日[6] |
収監場所 | 福岡拘置所[482] |
K1の妻かつ、K3・K4兄弟の母親でもある女K2は1959年(昭和34年)4月26日生まれ[80](事件当時45歳)。本名のイニシャルはK・M[67]。2022年9月27日時点で[478]、死刑確定者として次男K4とともに福岡拘置所に収監されている[482](現在65歳)。K2は女性死刑囚としては戦後日本では14人目[491]、1981年(昭和56年)以降に死刑が確定した者に限れば11人目である[492]。
K2は控訴中の2007年1月12日、福岡拘置所内で自身の半生を手記に記しており、同年3月下旬に小野一光がK4を通じてこの手記を入手[347]、『現代』2007年7月号で内容を紹介している[491]。K2は長男K3が大島部屋に入門した際(後述)、それまでは夫K1がヤクザだったため、K3へのしつけが不十分だったと語っていた[266]。
K2の生い立ち
K2は大牟田市の家庭で四女として誕生した[493][491]。父親は炭鉱夫から鳶職に、母親も美容師からセールスレディにそれぞれ転職していた[494]。K2の実家は、三井三池炭鉱や関連施設に労働者を送り込む仕事(地元では通称「人夫出し」と呼ばれる)を生業としていた建設会社であり[242]、かねてから暴力団との関係も深かったという証言がなされている[486]。「人夫出し」がなくなった事件当時も、K2が経営していた建設会社「I(K2の旧姓)建設」は関西方面などの工事現場に作業員を送り込んでいたが、捜査関係者は「日給1万5000円のうち、3000円はピンハネしているんじゃないか」と証言している[484]。バブル期には建設作業員斡旋の仕事が好調で、K1宅には黒塗りの高級車が頻繁に駐車してあり[495]、従業員を数十人抱え[86]、一時期は大牟田市の公共事業にも参入していた[111]。一方でそのころには人の出入りも多く、異様な雰囲気だったという[223]。
K2の母親は、K2が小学2年生になった年に42歳の若さで病死したが、生前は毎晩のように自宅の隣で開かれていた花札博打に出向いており、家族で食事をすることはほとんどなかった[494]。母親の死後、K2は小学校の担任教諭(若い女性)から冷たく当たられるようになり、体罰も受けるようになった[494]。その後、母方の祖母が父親と同居してK2ら家族の面倒を見るようになるが、K2は小学4年生のころ、父と祖母の情事を目の当たりにしたことがきっかけで、家族に対する不信感を抱いた[494]。それ以降、彼女は中学にかけて学校や家で反抗を繰り返し、不良仲間と交際して喫煙や万引きといった非行に手を染める[494]。
福山での生活
中学卒業後、地元の縫製工場に就職したK2は年上の女性と仲良くなるが、それから数か月後に彼女の無断欠勤が続いたことを心配し、友人とともに彼女の家を訪れたところ、彼女がヤクザの夫に暴力を振るわれて負傷しているのを目撃する[496]。その後、彼女は夫の下から逃げ出したが、K2と友人は夫に2日間にわたって監禁される[497]。命からがら彼のもとから逃げ出したK2は、身の安全を図るために大牟田を離れ、広島県福山市にある布団縫製工場に住み込みで働いていた同級生の少女を頼り、彼女の口添えを得て同じ工場で働き始める[497]。
しかし、そこでの仕事を始めて約1か月半で腎炎を患って入院していたところ、眉や体に刺青を入れた男性X(当時28歳)と知り合う[497]。当時15歳だったK2は当初こそXを相手にしなかったが、次第にその気さくな人柄に惹かれ、退院後にドライブをしたことをきっかけに2人で過ごす時間が増えていった[497]。しかし、先述の少女からXとの交際を反対されたことで彼女との間に距離が生じ、工場を退職してXの友人の妻が経営するスナックで、年齢を詐称して働くようになった[497]。その後、Xが「神戸で男を磨きたい」と言い出すと、K2は周囲の反対を聞かず、店のママから20万円を借りて渡した[497]。しかし、次第にXからの連絡が来なくなったことから、16歳になった直後には我慢できずに神戸に向かうが、そこで豹変していたXから暴力を振るわれ、別れを切り出したところ強姦される[497]。
姫路での生活
Xから逃げるように福山に戻ったK2はスナックを辞め、中古車販売店に住み込みで働いたが、半年もせずに自身を追ってきたXに居場所を突き止められて脅迫されたことから警察沙汰になり、親戚に連れられて大牟田に帰郷した[497]。
それから半月後、Xの子供を妊娠していることが判明し、中絶手術を受けたが、それから約1週間後には祖母と喧嘩して再び家出し、姉2人が住んでいた兵庫県姫路市に行き、長姉夫婦のアパートに居候しながら病院で見習い看護師として働いた[493]。その年の冬、当時16歳だったK2は入院患者の友人である会社員の男性Y(当時26歳)と交際を始めた[494]。彼はXとは違う優しい性格の男性で、それ以来K2は彼とデートを重ねるようになった[494]。また、彼の母親や妹も自身を実の家族のように迎え入れてくれたこともあって、K2は当時を「普通の生活、普通の家族てこんなに温かいんだと私は思っていた。今もこの思いは初体験として記憶している」と述べている[494]。やがて、K2はYの実家が所有するアパートでYと同棲し、17歳の誕生日を翌月に控えた3月初旬にはYの子供を妊娠した[494]。これを受けて周囲はK2を祝福し、父親になるYも断酒した[494]。
しかし同年4月11日、Yは会社の花見会[注 57]で久々に飲酒し、その帰りに自ら運転して友人を車で送る際に事故を起こし、数日後に死亡[498]。自身もYの事故の翌日に流産し、入院した[498]。同年6月に姫路を離れ、同年末には福岡市の中洲でホステスとして働き始める[498]。1977年(昭和52年)、K2は中洲で知り合った男性との間に娘をもうけ、翌1978年(昭和53年)に最初の結婚をしたが、同年中に離婚する[498]。K2の知人は最初の結婚相手について、背中や足に入れ墨を入れ、両手小指を詰めていたヤクザだったが、事件当時は足を洗って大阪方面で暮らしているようだと述べていた[242]。
3度の結婚
先述の男性(前々夫)と離婚後、K2は大牟田市内でホステスとして働きつつ、母子家庭として生活していたが、1980年(昭和55年)ごろ(当時、K2は20 - 21歳ごろ)に夫K1と知り合い、彼と内縁関係になった[498]。やがて長男K3を妊娠するが、K1はK3の誕生前に覚せい剤取締法違反の罪で鹿児島刑務所に服役することとなったため、K2は鹿児島で住み込める仕事を探し、寮付きのキャバレーで働いたが、出産前は刑務所へ面会に行くことはできなかった[498]。一方でこの間、K2はK1とは別の男性Zと知り合い[498]、彼と同居していたものの、Zが全く働かなかったため、K2は妊娠中の子供(後のK3)を出産しようか苦悩した[489]。しかし、「結局は母親の気持ちが生活苦を勝り、お腹の中で誕生を待っている子供を死なせてはならないと決断し」たことから、K3を出産し、その後は幼いK3を連れてK1の元へ一度面会へ行ったこともあったが[489]、当時のK1は全く子供に関心を示さなかったため、それに絶望したK2はK1に別れを告げ、寮に帰った[498]。
この後、K2はZと普通の生活を始め、鹿児島県姶良郡で喫茶スナックを営むようになる[499]。K2は22歳でZと再婚して次女(第3子)を出産するが、Zは朝から晩までパチンコ屋に入り浸り、妻であるK2や子供たちに暴力を振るうようになったため、K2は怪我の絶えない日々を送っていた[123]。その一方で、馴染みの刑事から電話でK1の出所を知らされたことから、1982年(昭和57年)10月には姶良郡の家を飛び出してK1と同棲し始め、1983年(昭和58年)1月にZと離婚、同年8月に24歳でK1と再々婚した[123]。この3度目の結婚によってK2は「K」姓に改姓し[500]、1984年(昭和59年)6月、次男のK4を出産している[123]。なお、K2の前夫であるZは事件3年前(2001年ごろ)に鹿児島県内で孤独死した[484]。
しかしK1は暴力団員だったため、K2は「極道の妻」としての生活を送るようになった[123]。K2は結婚後、抗争事件で自宅に散弾銃を撃ち込まれて妊娠8か月の子供を死産したことがあるほか、抗争中に子供を連れて祭りに行ったことでK1の怒りを買い、激しく殴打されたこともあった[123]。このためK2はK1に対し次第に恐怖心を強めていき、「逃げ出したら何をされるかわからない」という不安から逃れるため、覚醒剤を使っていた時期もあったが、1986年(昭和61年)にK1が北村組の組長になってからは、自身も組長の妻として振る舞うようになった[123]。1992年(平成4年)には脅迫罪で罰金刑に処された前科があるほか、1996年(平成8年)には逮捕監禁・恐喝未遂で不起訴になった前歴がある[501]。前者の恐喝事件(自身の知人から借金していた女性を恐喝した)を起こした当時、K2(当時の姓は旧姓の「I」)は「道仁会二代目村上一家幹部の内妻」と報じられている[82]。K2の弁護人(鈴木敏彦)は上告趣意書で、K2はK1を指定暴力団の組長として恐れていただけでなく、過去にK1から拳銃を発砲されて傷害を負った経験があったことから「K1に逆らえば殺される」と強い畏怖の念を抱いており、精神的にK1には逆らえなかった上、犯行時もそのK1だけでなく、体が大きく気性の激しい息子2人を加えた大の男3人に逆らってA1・A2・Bの殺害を阻止することができなかったと述べている[149]。
K2は身長170 cm、体重100 kgと体が大きかった上、背中に観音像の刺青を入れていたために「女親分」と恐れられていた[242]。また気が短い上に自殺癖もあり、観音像を体に縛り付けて海に飛び込んだこともあるなど[242]、事件前の4年間で7回にわたって救急車で搬送されたことから、地元の消防関係者の間では有名になっていた[131]。また近隣住民は、K2が家の中で怒鳴っている声がよく外に響いていたと述べている[310]。
K2は事件前に大牟田市内でスナックを開店したが、事件当時は既に閉店していた[注 58][127][27]。このスナックでは一時期、後に被害者となるBの母親(K2・A1と知人関係)も働いていたことがある[332]。同店の元従業員は、同店は開店当初、K4の友人である15 - 16歳の少女に年齢を詐称させて働いていたが、次第に給料未払いが続いて辞める従業員が続出したことや、知り合いの暴力団関係者が顔を出すことから一般客が寄らなくなったことで、最終的に廃業したという旨を述べている[310]。
長男K3
K・T | |
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生誕 |
1980年12月20日(43歳)[79] 日本: 福岡県大牟田市 |
住居 | 日本: 福岡県大牟田市白銀[132] |
罪名 | 強盗殺人、死体遺棄、殺人、銃砲刀剣類所持等取締法違反、逃走 |
刑罰 | 死刑 |
犯罪者現況 | 死刑確定者 |
親 | K1(父親)・K2(母親) |
国 | 日本 |
都道府県 | 日本: 福岡県 |
死者 | 4人 |
逮捕日 | 2004年10月2日[260] |
収監場所 | 大阪拘置所[482] |
K1・K2夫婦の長男(K4の兄)である男K3は1980年(昭和55年)12月20日生まれ[79](事件当時23歳)。K4の実兄で[53]、本名のイニシャルは弟K4と同じくK・T[11][503][504]。逮捕当初の報道ではK2と元夫との間に生まれた長男で、父K1とは養子縁組をした義理の親子関係であるとされていたが[127][11]、K2の手記や彼女の弁護人による上告趣意書によれば、血縁上はK1との間に生まれた実子である[498][489]。
2022年9月27日時点で[478]、死刑確定者として大阪拘置所に収監されている[482](現在43歳)。なお、K3は第一審判決後の2007年5月1日付で、K1・K2・K4の3人から絶縁状を出されている[505]。
逮捕当時は大牟田市白銀に在住していた(後述)[132]。K2の控訴趣意書によれば、K3は「小さい頃から長男ということで甘やかされて育ち、体も大きかったためにケンカも絶えず、何事も思い通りにしないと気が済まない性格」である[506]。また知人らは、K3は中学時代は体が大きく、喧嘩が強いことを吹聴して回っていたと証言している[507]。その一方でK3本人は法廷で、幼いころから両親の暴力に苦しんでいたことや、K4とはえこひいきされて育ったことなどを涙ながらに訴えていた[183]。
一方、K2は公判でK3について、夫K1がよく逮捕されて新聞記事になっていたことから、長女(K3の姉)が小学校でいじめられていた時期にK3が姉を助けようと上級生に向かっていったことがあるなど、兄弟思いの優しい一面もある人間だったが、体が大きくて気性も荒く、父親がヤクザであることから増長し、ヤクザに成長してしまったという旨を述べている[508]。
力士時代
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基礎情報 | ||||
四股名 | 旭竜神 | |||
生年月日 | 1980年12月20日(43歳) | |||
出身 | 福岡県大牟田市 | |||
身長 | 180 cm[510] | |||
体重 | 115 kg[510] | |||
所属部屋 | 大島部屋 | |||
成績 | ||||
最高位 | 東序ノ口26枚目[509] | |||
生涯戦歴 | 2勝5敗7休(3場所)[509] | |||
データ | ||||
初土俵 | 1996年春場所[507] | |||
引退 | 1996年9月場所[509] | |||
備考 | ||||
K3は1990年(平成2年)の九州場所を観に行った際、体格の良さを各親方に注目されていくつかの相撲部屋から打診を受け、それを機に大島部屋とつながりを持つようになった[511]。小学校の卒業文集では、好きな言葉は「白星」、好きな有名人は「旭道山」、将来の夢は「すもうとり」と書いていた[512]。大牟田市立米生中学校を卒業する直前の1996年(平成8年)1月[511]、K3は旭道山が部屋頭を務めていた大島部屋に入門し[96]、同年3月2日に行われた春場所前の新弟子検査に合格した[510]。入門当時の四股名は、当時の姓(母K3の旧姓)である「I」で[511][513]、当時は身長180 cm、体重115 kgだった[注 59][510][507]。中学卒業前、K3は友人らに「スカウトされたから相撲取りになる」と自慢気に語っており[507]、K2が約60人を招いて壮行パーティーを開いた際には「関取を目指す」と挨拶していた[266]。
初土俵となった春場所は前相撲で出場して2番取り、2勝して1番出世を果たす[513]。同年の5月場所を前に四股名を「旭竜神」(きょくりゅうじん)に改めた[515]。この四股名は両親が親方(元大関・旭國)の「旭」の1文字をもらった上で、「竜神のようにトップに駆け昇ってほしい」との願いから命名したものである[513]。同場所では東序ノ口26枚目で2勝5敗7休の戦績を残したが[516][517]、K3が「旭竜神」として土俵入りした場所は同場所のみで[266][512]、同場所における戦績および順位が力士としての全戦績かつ最高位となった[509]。
大島部屋を脱走
K3は同年6月初め、部屋を脱走しようとした際に連れ戻されたが、その際に旭道山によって靴を履いた足で顔面を何度も蹴られ、兄弟子たちに囲まれて疲弊するまでぶつかり稽古をさせられたり、スコップで尻や頭を何度も殴られるなどの暴行を受け、「今度は車で轢き殺してやる」と脅されたと、『FRIDAY』(発行:講談社)編集部の取材に対し訴えている[518]。K3と同じように大島部屋を脱走した力士も同誌の取材に対し、K3が兄弟子たちからよくいじめを受けており、先述の暴行事件から3日間廻しを着けたまま寝込んでいたと証言している[518]。同事件については、後年に時津風部屋で発生した時太山リンチ死事件との類似性が指摘されている[519]。
一方で大島部屋の女将は、K3は掃除もちゃんこの用意も満足にできなかったと証言している[266]。彼女は『週刊現代』(講談社)の記者からの取材に対し、K3は同部屋に入門してから3 - 4か月ごろ、周囲に対し「この家が燃えたら相撲を止められる」と漏らしており、その数日後の稽古後に部屋が無人になったところを見計らい、窓のカーテンにライターで放火したが、偶然部屋に戻ってきた兄弟子に取り押さえられ、部屋頭の旭道山から「『可愛がり稽古』の延長」を受けた――と証言している[520]。また『毎日新聞』は同部屋の親方による同内容の証言を取り上げ、K3が動機として「稽古場が燃えれば、稽古をしなくて済むと思った」と言っていたと報じている[266]。この出来事が原因で、K3は夜逃げ同然に部屋を飛び出したが[512]、女将によれば荷物は置きっぱなしで、K3本人からは挨拶もなく[520]、残された衣類を洗濯して実家まで送っても礼すらなかったという[266]。K3は暴行を受けてから約10日後[96]、大牟田の実家に逃げ帰ったが、母K2は旭道山への抗議の証拠とすべく、K3の全身(肘・臀部・脚など)の傷を写真撮影し[注 60][96]、自ら『FRIDAY』編集部に連絡を入れ、同誌上で「息子を半殺しにした旭道山は絶対許さない」と告発していた[498]。K2は『週刊現代』の記者[注 61]による取材に対し、実家に逃げ帰ってきたK3を「なんで帰ってくるの!」と殴ろうとしたが、その腫れ上がった顔を見たため、殴ることができなかったと述べている[96]。また『FRIDAY』は当時、K3の左目の視力が0.4から0.03にまで低下したと報じている[518]。
K3は同年の同年7月場所の番付では東序ノ口37枚目に入ったが[521]、同場所は全休し[266][521]、同年の9月場所では番付外に陥落[509]。同年9月25日付で力士を廃業した[509]。同年10月、旭道山が衆議院総選挙に立候補することを表明した直後、K2・K3母子は『週刊現代』の記者から取材を受け、大島部屋に何度も抗議の電話をしたものの、旭道山から謝罪がないことを明かした上で、旭道山を「教育と暴力の区別もつかん男」と激しく非難していた[96]。一方で旭道山は同月7日(総選挙への出馬表明会見後)[518]、同誌記者から直撃取材を受けると暴行の事実は認めたが、「新弟子教育の一環」と主張していた[96]。
傷害致死前科
帰郷後、K3は地元の暴走族グループ「魔導神」のリーダーとして非行を重ねた[522]。K3は19歳だった2000年(平成12年)6月25日、配下の少年6人と共謀し、中学の後輩である暴走族仲間の少年U(当時18歳)を暴行の末に死なせるという傷害致死事件を起こした前科があった[93]。被害者Uは大牟田市倉永在住で、K2が経営する建設会社に住み込みで働いていた元建設作業員だった[523]。また、共犯者6人はいずれも大牟田市内在住の少年(当時16 - 17歳)で[524]、犯人グループ7人のうち2人はUの中学の同級生だった[523]。Uの母親は『週刊現代』記者からの取材に対し、息子UがK3と知人関係にあった友人から誘いを受けて「I建設」で働くようになったことや、自身も一度K3に会って挨拶したことがあること、そして「I建設」が暴力団絡みの会社とは知らなかったことを証言している[486]。
UはK3から紹介を受け[525]、同月から建設会社で働き始めたが、すぐに無断欠勤して実家に帰った[注 62][93]。これに腹を立てたK3は[93]、Uを殴って連れ戻そうと計画し[525][507]、配下6人と共謀した上で、6月25日2時35分ごろにUを福岡県三潴郡城島町(現:久留米市城島町)江上本の農業用水路(地元では「クリーク」と呼ばれる)[注 63]近くへ誘い出した[523]。その地点は、水路に架かる「大溝端橋」(座標)[注 64]である[532]。Uはここで知人の少女2人(いずれも16歳)と待ち合わせる約束をしていたが、K3はその話を別の少女(16歳)から聞き出し[注 65]、配下たちを連れて車で押しかけていた[注 66][533]。当時、現場は街灯がなく、夜になると真っ暗になる場所だった[534]。なお、地元マスコミの記者からは、K3たちがUの彼女を捕まえて輪姦し、Uを携帯電話で呼び出させてリンチしたという証言もなされている[253]。
Uが現場に来たところ、そこにはK3ら加害少年7人と、高校生を含む少女4人がいた[注 67][533]。Uはその場から逃げ出したが、K3らは約300 m追いかけて捕まえた[523]。判決文によればK3は同日未明、同町原中牟田(現:久留米市城島町原中牟田)の路上で配下の6人に指示し、Uの腕・脚・胸などを木刀で殴らせた[525]。Uは逃げようとしたが、用水路(幅約20 m、水深3 m)に転落して水死した[525]。事件当時の報道によれば、7人はUに木刀を差し出して助けようとしたが、助けられなかったという[532]。また逮捕された少年らは、Uは木刀で殴りかかられたところ、身を捩って避けようとした際に水路に転落し、約1時間半探したものの、暗くて発見できなかったという旨を供述していた[523]。一方で6人は警察や消防に通報することなく逃走しており、地元民は「この辺りでは、だれかがクリークに落ちたら必死で大声を出す」「お年寄りでさえ自分で助けようと水に入ることもあるのに〔6人がUを見捨てて帰ったことは〕信じられない」と証言している[534]。また事件後、K3は共犯の少年たちに対し「言うなよ」「黙っておけ」[535]「(事件を)話したらただではおかないぞ」などと脅し、犯行を口止めしていた[536]。
同月28日、同町江上本の農業用水路の水門付近でUの水死体が発見された[527]。現場はU宅から約20 km近く離れていたが、現場付近にはUの車やバイクが見当たらなかったことや、Uには自殺するような動機が見当たらないこと、発見時にUが財布や携帯電話を身に着けたままだったこと、発見数日前には現場付近でUを含む複数の男性が目撃されていたことといった不審点から、県警はUが事件に巻き込まれたものと見て捜査していた[527]。その後、K3は県警に出頭し[93]、同年10月30日、共犯5人とともに県警少年課と城島警察署[注 68]によって傷害致死容疑で逮捕された[注 69][523]。
なお、この事件後、水面下で捜査が進んでいた時期にはK2が同年6月、10月と2回にわたり自殺未遂事件を起こしている[131]。1回目(6月)は深夜、K2が市内の海水浴場[注 70]の沖合60 mの鉄塔にしがみついているところを釣り人に発見されており、2回目(10月)には同じ海水浴場付近の岸壁から車ごと海に転落していた[131]。
実刑判決
K3は共犯の少年6人とともに同年11月20日、福岡地検久留米支部から傷害致死容疑で福岡家裁久留米支部へ送致され[注 71][545]、同家裁支部(大原英雄裁判官)で行われた少年審判の結果、地検支部へ逆送致された[注 72][546]。そして同年12月22日、地検支部から福岡地裁久留米支部へ起訴された[547]。逮捕された当時について、K3は「被害者 (U) が夢に出てきて耐えられなくなって自首した」と振り返っているが、その一方で同事件後にも「人を殺すのは楽勝。慣れとる」という脅し文句を使うこともあった[548]。
同事件の公判でK3は起訴事実を全面的に認め[549]、謝罪の言葉を口にしていた[93]。2001年(平成13年)6月26日、K3は福岡地裁久留米支部(大原英雄裁判長)で懲役3年6月(求刑:懲役5年)の実刑判決を言い渡された[528]。同地裁支部は判決理由で結果の重大性を指摘し[93]、「前途ある命を奪った悪質な犯行」と位置づけた[525]。その上でK3に不利な情状として、容赦なく悪質な犯行態様(無抵抗で逃げ惑う被害者Uを追い掛けるなど)、情状の悪さ(犯行後に口裏合わせをするなど)[525]、K3が主犯であるにもかかわらず被害者遺族への慰謝の措置をしていないことを指摘した一方[528]、有利な情状としては「被害者 (U) が被告人 (K3) の好意を大なしにして職場を放棄し、その後も被告人を無視する態度に出て被告人を憤激させたことは一定の非難を免れないところではある」「被告人らは被害者の水路転落を意図していたものではない」と判示したほか[476]、K3が反省していることも指摘していた[93]。
当時のK3の弁護人は、当時のK3の態度・人物像について「反省は本物だと感じた。根は優しいが、暴力団関係の家に生まれて虚勢を張るしかなかったのだろう」と語っている[93]。K3は刑務所から遺族宛に送った手紙で「真面目にやって賠償していく」と書いていたが、出所後は支払い命令が出た賠償金を全く払っていなかった[注 73][520]。一方、共犯6人の家族はそれぞれUの遺族に謝罪している[550]。
また、K1は判決前日に勾留中のK3と面会して「助けてやれんでごめんやったね」と言って涙を流していた[464]。K2は知人たちを回って減刑嘆願の署名を集めており[550]、判決後には「あの子は友人の身代わりになって逮捕された。罪をかぶっただけ。本当は優しい子」と発言していたが、その発言を覚えていた被害者A1の妹は事件後に「身内に甘すぎる」と憤慨していた[266]。鈴木はK3が後に本事件で、簡単にK4を犯行に引き込み、自らは手を汚さずにK4に殺人の実行役を担わせていた理由について、この傷害致死事件の経験から「人を殺しても、年が若ければたいした懲役にはならない」と誤解していた可能性を指摘している[526]。
出所後
K3は2003年12月に刑務所を仮出獄すると[注 74]、北村組の上部団体に当たる村上一家村上会の預かりとなって暴力団組員の行儀見習いをしており、刑執行終了後間もなくして一連の犯行におよんだ[473]。このころ、K3は暴走族の相談役存在として集会に顔を出していたほか[522]、工事現場に人夫を派遣するなどして収入を得ていたが、実家と同じく金に困っていた[98]。
同年春ごろ、K1は近隣住民に対し「息子が戻ってきて家の人間が増えましたよ」と話していた[507]。またK3自身は外傷性腰椎症に罹患しており[551]、その治療のためK4とともに市内の病院に通院していたが、看護師らに対し「自分は組員だ。いずれ入れ墨を入れる」などと話していた[507]。K3は同年6月から7月ごろに実家を離れ[127]、7月からアパートに入居していたが、その際には各部屋に洗剤を持って入居の挨拶をしていた[520]。
K3の事件当時の住居は、「宮の西ハイツ」(大牟田市大字白銀776番地1:座標)である[552]。K4の公判における供述によれば、K4は9月16日23時45分以降、K3が運転するプレジデントに同乗して大牟田市立総合病院に入院していた北村組の兄貴分[注 75]の病室に預けていた女性を迎えに行き、彼女を後部座席に乗せて「宮の西ハイツ」まで行き、そこでK4と女性は降りた[552]。その後、K3はプレジデントを運転して内妻を迎えに行き、9月17日0時30分には内妻がいた高田町のパチンコ店「ワンダーランド」[注 76]にいた[552]。またK4本人は手記で、A3の死体を遺棄した後、病院で自身の交際相手である女性を拾い、途中コンビニで買物をしてからK3の家で彼女と2人で下車し、K3は内妻を迎えに行った。その後、自分たちはホットケーキを作り、出来上がったころにK3が内妻を連れて帰ってきた――と述べている[557]。
次男K4
K・T | |
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生誕 |
1984年6月9日(40歳)[80] 日本: 福岡県大牟田市 |
住居 | 日本: 福岡県大牟田市桜町 |
罪名 | 強盗殺人、死体遺棄、殺人、銃砲刀剣類所持等取締法違反 |
刑罰 | 死刑 |
犯罪者現況 | 死刑確定者 |
親 | K1(父親)・K2(母親) |
国 | 日本 |
都道府県 | 日本: 福岡県 |
死者 | 4人 |
逮捕日 | 2004年10月2日[260] |
収監場所 | 福岡拘置所[482] |
男K4は1984年(昭和59年)6月9日生まれ[80]。K1・K2夫婦の次男かつK3の弟だが、戸籍上はK4がK1の長男かつ第二子である[558]。事件当時は20歳3か月[559]。K3の実弟[53]。本名のイニシャルは兄K3と同じくK・T[67]。2011年11月8日に死刑が確定し[注 55][477]、2022年9月27日時点で[478]、死刑確定者として母親K2とともに福岡拘置所に収監されている[482](現在40歳、死刑確定から13年と1日経過)。死刑確定前に養子縁組を行い、「K」から「I」姓に改姓している(後述)[560]。
K4は第一審の公判で度々ヤクザ論を語っており、控訴審でも初公判における人定質問で、裁判長から職業を尋ねられた際に「ヤクザです」と答えている[561]。
少年時代
K4は「親分の息子」として甘やかされて育ち、自身も組長の息子であることを傘に着て横柄に振る舞ったため、保育園でも友達ができず、兄弟たちからも一番嫌われていたと手記で語っている[562]。また、体が大きいこともあって思い通りにいかないとすぐに暴力で解決してきたため、対人関係や人付き合いが苦手であることを告白している[563]。大牟田市内の小学校を経て[564]、2000年に市立米生中学校を卒業したが、中学時代は授業を真面目に受けなかったり、教師に反抗したりなどしていたため、関係者からの評判は芳しくなく、不良仲間とつるんで「米生連合」と称し、バイクを乗り回していたという証言もされている[565]。本人も手記で、小中学校時代は不良たちからも嫌われており、中学時代には窃盗や喧嘩、傷害、強盗、強姦(輪姦)などの非行を繰り返していたが、後述する18歳の終わりまでは事件が表沙汰になりそうになるといつも父K1たちが手を回してくれたことから、一度も逮捕・補導されなかったと語っている[566]。
K4の幼馴染である男性は、K4は小学生時代、父親が組幹部であることを理由にいじめられていたこともあったが、それを目撃したK1が怒鳴りつけて以来、いじめはなくなり、次第に不良グループの中心的存在になっていったと証言している[567]。また同級生の親も、K4が学校でいじめられていることを知ったK2が、若い衆を2、3人授業参観に連れてきたことがあると証言している[550]。鈴木によれば、K4は不良たちからは「キレると何をしでかすかわからない」という共通認識を持たれていた一方、弱い者には強く、強い者(暴力団など)には下手に出たり、暴力団の幹部たちには必要以上にへりくだったりしていたため、地元の暴力団員たちの評判はさほど悪くないという[568]。またK2やK4の姉、北村組の舎弟としてK4の幼少期を知る人物や友人らにより、「家族(兄弟)の中で一番優しい性格だったが、中学校入学のころから粗暴になっていった」「体の弱い子や学校でいじめられている子など、弱点を持った子には比較的優しく接していたことから慕われていた」という証言もなされている[569]。K3も逮捕前に『西日本新聞』の取材を受けた際、K4は兄弟の中で一番優しく、K2が交通事故に遭った際には真っ先に人工呼吸をして助けたことがあると証言している[73]。
近隣住民によれば、K4は自分たちとすれ違う際に「クソババア」と罵ってきたり、店の商品をいたずらして店主に注意されるとそれに逆上して「ジジイ、ぶっ殺すぞ。オレは北村組だ」と恫喝してきたこともあったと証言している[550]。鈴木はK4の反社会的な人格(『親分の命令」ならば殺人も肯定するなど)が形成された背景について、自宅が組事務所になっているという暴力団と馴染みの深い生育環境(前述)[95]に加え、暴力との親和性が高い炭鉱街であった大牟田の地域コミュニティが影響している可能性を指摘している[570]。
力士時代
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基礎情報 | ||||
四股名 | 三池山 | |||
生年月日 | 1984年6月9日(40歳) | |||
出身 | 福岡県大牟田市 | |||
身長 | 173 cm[572] | |||
体重 | 142 kg[572] | |||
所属部屋 | 松ヶ根部屋 | |||
成績 | ||||
最高位 | 西序二段108枚目[573] | |||
生涯戦歴 | 21勝35敗7休(10場所)[571] | |||
データ | ||||
初土俵 | 2000年5月場所[92] | |||
引退 | 2001年11月場所[571] | |||
備考 | ||||
K4は小学生時代、相撲大会に出場したことがある[572]。
2000年(平成12年)3月に中学校を卒業[266]。その後、同年4月下旬には両親の知人からの勧めで松ヶ根部屋を見学し、部屋の雰囲気が気に入ったことからそのまま入門[572]、同月25日の新弟子検査に合格した[574]。入門当時は身長173 cm、体重142 kgだった[572][575][92]。また、当時の親方は若嶋津(元大関)で[575]、女将は若嶋津の妻である高田みづえだった[266]。K4は高田に対し、兄が早々に廃業したことを語り、高田から「お兄さんのようにならないでね」と励まされると「やめません」と答えていた[266]。当時はまだ本格的な相撲経験はなかったが、巨体ながら体が柔らかく、本人は「やるからには頂点を目指したい」と意気込んでいたほか、親方も「一生懸命だし、楽しみな存在」と期待を寄せていた[572]。また母校である米生中の校長室にはこのころ、K4が親方夫婦や部屋の力士たちとともに写っている写真が飾ってあったという[575]。
入門当時の四股名は兄K3と同じ「I」(母親の旧姓)で[574]、初土俵は同年5月[92]、夏場所の前相撲だった。同年の名古屋場所で、東序ノ口41枚目として土俵を踏み[576]、9月場所以降は四股名を「三池山」(みいけざん)に改めた[577][578]。この四股名は地元の地名に由来するもので[575][92]、2001年(平成13年)の春場所では、東序ノ口26枚目として4勝3敗の戦績を残した[579]。同場所10日目(同年3月20日)[580]の取組では、安馬(後の横綱・日馬富士)[注 77]と対戦して上手出し投げで敗れている[582]。
同年の5月場所では西序二段108枚目に昇進したが[573]、これが番付最高位で[266]、それ以上は芽が出なかった[92]。同場所は2勝5敗に終わり[573]、同年7月場所では西序ノ口4枚目に降格[583]。同場所および秋場所(西序ノ口12枚目)は3勝4敗8休の成績で[583][584]、九州場所(東序ノ口15枚目)は全休した[585]。同場所後の同年11月28日付で力士を引退し[571]、大牟田に帰郷した[92]。通算成績は21勝35敗7休[571]。
部屋関係者は事件後、K4について「筋がよくなかったのでやめさせた」と語っている[548]。一方、『産経新聞』ではK4が自ら引退を申し出たと報じている[567]。K4本人は鈴木智彦宛の手記で、相撲部屋では親方や兄弟子たちからよく世話をしてもらっており、後に獄中生活を送るようになってからも兄弟弟子たちとの付き合いが続いていると述べている[586]。その上で引退の理由については、引退した九州場所の際に首や腰を怪我し、それに加えて伯母の死や兄K3の傷害致死事件(前述)が重なったこと、そして自身の甘えが引退を後押ししたと述べている[587]。
一方で小野一光に対しては、面会の席で度々「自分の凶暴性は相撲部屋時代に身に付いたもの」などと語り[588]、2009年(平成21年)1月19日付で送った小野宛の手記では[589]、2000年10月ごろから2001年5月ごろにかけ、松ヶ根部屋の兄弟子3人(それぞれ当時十両、序二段、序ノ口)[注 78]とともに大麻やMDMA、LSDなどといった違法薬物を乱用していたことも明かしていた[588]。また、所属当時の松ヶ根部屋では兄弟子たちによる(自身を含めた)未成年の弟弟子への飲酒強要や暴力行為、賭博などが横行していたとも証言している[591]。一方で名指しされた兄弟子(当時十両)は小野の取材に対し、大麻吸引の事実を否定した上で、K4(三池山)が当時常習的に喫煙していたこと、また何かあるとすぐに「俺の親父はヤクザや」と凄んで暴力沙汰を繰り返しており、自分たちから制裁されていたことを逆恨みしているのだろうと証言している[592]。
力士廃業後
K4は18歳だった2003年4月、暴力行為等処罰に関する法律違反[注 79]、覚せい剤取締法違反、大麻取締法違反、器物損壊[注 80]の4つの罪で中等少年院送致の保護処分を受けた[407]。主な非行事実は覚せい剤取締法・大麻取締法違反で[593]、同処分を受けた時点で、K4は「深刻な反社会性や無軌道な粗暴性や暴力団に対するあこがれといった問題点がある」と指摘されていた[407]。
友人によればK4は帰郷後、兄K3が入っていた「魔導神」という暴走族に入り、昼間は仲間たちと屯し、夜はバイクを乗り回すという生活を送っていた[575]。また本人の手記によれば廃業後、大牟田に帰郷してからは実家の会社で鳶職として半年弱働いたが、首と腰の具合が悪かったことや、17歳になることから単車の免許を取ることを決め、退職した[587]。その後、被害者A2らとともに「族・神鬼狼(ぞく・しんきろう)」という暴走族を結成し、愚連隊のように過ごしていたが、やがて「気持ちを切り替えようと」父K1の北村組に入り、組の準構成員として過ごした[587]。未成年者を組員登録すると児童福祉法に抵触するため、形式上は見習い(準構成員)として扱われていたが、実質は正式な組員と変わらない生活をしていた[562]。地元の暴走族の1人は、自身の知り合いが深夜、三池港近くの公園でK4に両手首を縛られて車で引きずり回されたことや、K4のグループがよく女性を輪姦していたということを証言している[484]。また地元住民や友人からは、よく「女とホテルで寝てきた」「おじちゃん、中学生の女を紹介しようか?」「毎日違う女と寝ている」などと自慢していたことも証言されている[575]。一方、事件当時K4と交際しており、事件後にK4からの頼みを受けて小野一光が取材した少女(小野と出会った当時は17歳)はK4と出会ったきっかけについて、無理矢理車に乗せられて強姦されたことであったが、その後車で色々な場所に連れて行ってもらったり、食事を奢ってもらったりしたことで好意を抱き、交際に至ったと述べている[594]。
その後、わがままな性格や遊び癖が治らなかったことから、父K1に怒られたり対立したりするようになり、最終的には他組織の大親分(K1の兄弟分の組長)に部屋住みとして約1年間預けられた[595]。部屋済みを終えて北村組に帰ると、18歳になったK4は上部組織の本部当直や、総長宅の本家当直を務めるようになったが、このころには女子中高生の売春チームとともにシノギとして、K1には内緒で覚醒剤などの密売(暴走族時代に始めていた)を行っていた[595]。薬物売買をシノギとしている暴力団でも、自分たちで薬物を使用することは「御法度」とされているため[注 81][596]、以前にもそれが発覚して銃や刃物沙汰になったことがあったが、表向きのシノギ(テキ屋の射的、車売り、違法売買など)より儲かるという理由で、K4はシノギとして薬物売買をを行っていた[597]。また、このころには「初めて心から惚れ、愛した」女性ができ、彼女とともに真面目に暮らすため、カタギになることも考えたという[598]。しかしそのころ、福岡県警がK4の関係者のところへ家宅捜索に入り、覚醒剤や大麻を押収したため、誰かが身代わり出頭せざるを得なくなったことから、K4は父親の希望や、暴力団世界の仁義関係から自らが身代わりになることを決意した[598]。K4は出頭前に一暴れしようと考え、仲間たちとともに一夜で大牟田近辺の交番などを49軒襲撃したり、自転車の通行人を故意にひき逃げしたりなどの事件を起こし、18歳の終わりに初めて逮捕されてから何回か再逮捕される[599]。K4は一連の事件について、第一審の第23回公判でそれぞれ以下のように述べている。
被告人の少年時代の事件について(1) 1つ目の暴力行為等処罰に関する法律違反事件については、共犯者とされる人物が警察に出頭せず逃亡したため、全部被告人のせいでよいということを共犯者に伝えたため、被告人が責任を取ったものである。
(2) 2つ目の薬物事件については、身代わりで罪をかぶったものである。
(3) 3つ目の器物損壊事件については、調書上は被告人の指示に基づく事件とされているが、最初はゴム銃を貸して欲しいと言われただけにとどまり、運転手がいないため、被告人が運転をするに至ったのである
— 上告趣意書(K4の弁護人:福島昭宏・松井仁)、[331]
この結果、K4は彼女とも別れることになり、大分少年院に送致されたが、そこでも喧嘩や職員への暴力沙汰を繰り返し、常に独居房での単独処遇を受けていたと語っている[599]。一方で在院時代には、当時孤立していた少年[注 82]に声をかけるなどして優しくしたことで彼と親友になり[601]、彼が自分より遅れて退院した際には、先に退院した自分が前日に交通事故で負傷して大変な状況であったにもかかわらず、出迎えに行ったこともあった[600]。事件後、K4は彼が事件を起こして福岡拘置所にいることを知り、頻繁に手紙のやり取りをしていた[601]。また少年鑑別所技官は、K4は「暴力団の組長である父親や、建設会社を切り盛りする母親に対して、畏怖または畏敬の念を抱いていた」と分析している[134]。
逮捕から約1年半後の2004年5月6日、K4は大分少年院を退院して実家に帰った[599]。その直後、K4は北村組に加入しており[407]、友人に対し「将来組長になる」と言って暴力団に入るよう勧誘もしていた[575]。
外部との交流
K4は上告中の2008年5月30日付で書いた手記を[602]、『実話マッドマックス』編集部宛に送っていた[603]。鈴木はK1一家と関係のあった暴力団員や地元の関係者から取材を重ね[604]、その取材内容を手記に加筆した上で[605]、同誌2008年8月号から2010年1月号まで「我が人殺し半生」と銘打った記事を連載していた[603]。その連載中に記事内容をめぐってK4本人から抗議がなされたため、鈴木は福岡拘置所でK4と面会して、その後も数回にわたってK4と記事内容に関する打ち合わせを行っている[606]。K4は鈴木に記事を出させるにあたり、共犯者(両親と兄K3)のことは書かないこと、また家族に面会・取材しないことを条件として挙げていたが、事件を取り上げる上で前者について割愛すると不自然な内容になるため、前者については鈴木との交渉を経て「事件の経過を説明する最低限だけは認める」と条件を緩和している[605]。鈴木は2010年、前述の連載内容をまとめた単行本『我が一家全員死刑』をコアマガジンから出版している(#事件を題材とした作品、「参考文献」節も参照)。
鈴木はK4が事件後、積極的にマスコミと接触して自身の事件などについて語ってきた理由について、K1一家が上部団体から見放され、面会や差し入れがなされなくなっている(前述)ことから、獄中生活を送る間に購入する菓子・はがき・日用品などの代金を稼ぐため、その役目を一手に引き受けたK4が執筆によって得た原稿料を家族に分け与えているためだと評している[254]。鈴木はその点からK4を「どこまでも家族思いの息子」「我々と変わらぬ人間らしい感情はふんだんに持っている」と評しつつ[254]、自身が面会した際の印象から「実直な青年に見えた」とも評している[607]一方、「家族が生きるためなら、他人の生命さえ奪ってもかまわない」という反社会的な価値観も併せ持っていることを指摘している[608]。K4は福岡拘置所で鈴木と面会した際、被害者たちへの謝罪の念について問われると以下のように返答している。
(被害者たちを)かわいそうだとは思いますが、申し訳ないとは思ってないです。殺されたのも運命、私が死刑になるのも運命。それに私はヤクザです。親分の命令は絶対なんです — K4、鈴木智彦 (2017) [609]
また、K4は死刑確定まで小野一光とも面会や文通などの交流を続けていた[610]。小野は事件直後から週刊誌(『FRIDAY』、参考文献も参照)に本事件の取材記事を掲載しており[559]、第一審の初公判や論告求刑公判といった節目となる公判も傍聴していた[611]。K2・K4への判決公判を5日後に控えた2006年10月12日、小野は福岡拘置所でK4と初めて面会したが[612]、これはK4が弁護士を通じて、先述の週刊誌編集部に「話したいことがある」と連絡してきたために実現したものだった[559]。K4は当初、小野を威嚇するような言動を取っていたが[612]、小野は冷静にK4の言い分を聞き出そうとし、その後も死刑が確定するまで面会などの交流を続けた[560]。小野はその過程で、K4の希望する物品(暴力団関連の記事を掲載した雑誌、衣類など)を差し入れたり[613]、K4が彫師を目指していることを聞いて彼が描いていた刺青の下絵を雑誌に掲載するよう掛け合ったりもしている[611]。また、小野は事件前からK4を恐れていた大牟田市内の不良少年たち[611]、K4を取り調べた福岡県警の刑事[614]、控訴審・上告審でK4の弁護人を担当した弁護士の松井仁[395]、そして被害者遺族であるBの母親[615]といった事件の関係者たちを取材している。
K4は小野に対し、殺害を実行していた際の自身の心理について、腕に留まった蚊を叩き殺すようなものであると説明していた[413][616]。小野は面会室では親身になってK4から言い分を聞き出した一方、自身が執筆した雑誌記事では「犯行を反省しているような素振り」「身勝手な主張」などといった厳しい言葉で犯行を批判することも、K4に断りを入れて了承を得ており[617]、面会を続けるうちに、K4からは「小野さん」から「一光さん」と下の名前で呼ばれるようになっていた[618]。またK4からの依頼を受け、事件前にK4と交際していた少女や[619]、同じく福岡拘置所に収監されていた母K2とも面会しており[注 83]、同時にK4から託されたK2の手記[621]も雑誌記事にしている[622]。最後の面会は上告棄却判決後の2011年10月(死刑が正式に確定し、親族など以外と面会できなくなる期日の直前)であったが、K4はその際にも将来やりたいこと(弁護士の協力を得て雑誌を制作することなど)を語っており、面会終了時には目に涙を浮かべながら小野に深々と礼をしていた[623]。小野は当時の出来事について、凶悪犯との別れに胸が締め付けられるという経験は初めてだったと述べている[624]。死刑確定後はK4との面会や当人同士の直接の文通はできなくなったが、その後も小野宛には代理人を通じてK4からの暑中見舞いや年賀状が送られているという[610]。
K4は小野宛の手記で、組長でもある父K1を「親父」、母K2を「姐」とそれぞれ呼んだ上で、2人とも被害者4人のうち1人 (A3) の殺害に関与していないことや、K2は殺害の実行行為に加担していないことを理由に、いずれも無期懲役刑が相当であると主張していた[625]。一方で兄K3については「今件一番の原因」「全ての元凶」と位置づけ[626]、「極道、一侠としてのクズ」「天地無用の不義理者」と激しい非難の言葉を並べた上で、自身とともに死刑になるべきだと主張していた[625]。ただし、死刑確定後の2014年にはK4がK3の再審請求を支援しようとしていたことが判明している(後述)[627]。
また、被害者4人のうちA2・A3兄弟やBに対しては謝罪の意思があることを表明していた一方、「まだ謝りたくない相手もおる」として、A1に対する謝罪の言葉は書いていなかった[625]。その後、2011年の上告審判決後には小野宛の手紙で、自らが死刑に処されることは相応だと思っており、死に対する恐怖心はない旨を述べた上で、締めくくりに「事件、己の行いに後悔はないが、我が手に掛けて殺めた被害者四名へ、今ここに心より手を合わせたい思いです。合掌。」と綴っている[628]。
死刑確定直前の2011年10月に福岡拘置所でK4と面会した岸達也(『毎日新聞』記者)は、K4の生育環境が暴力団と身近なものだったことに言及し、仮に生育環境が違えば事件を起こさなかったのではないかと指摘している[629]。
死刑確定後
福島瑞穂が実施したアンケートに対する回答
2011年6月20日 - 8月31日に福島瑞穂(参議院議員)が、死刑確定者120人(2011年6月20日時点)を対象に実施したアンケート[注 84][631]に対し、K2とK4(ともに福岡拘置所在監)の2人が回答している[632]。K2は死刑執行は受け入れるつもりでいるものの、身辺整理や心の準備のために執行の予告を希望するという旨や、死刑確定後に夫K1と息子K3がそれぞれ広島拘置所や大阪拘置所に移送され、自身も処遇が厳しくなった(それまで特別に認められていた次男K4との金品のやり取りができなくなった)ことを訴えている[632]。一方でK4は、外部交通権や親族権が認められなかったり、拘置所によって再審請求費用を工面するために行っている文書・図画の執筆や発表など(K4曰く「社会的職務」)を禁じられていることなどを訴え、以下のように述べている[633]。
どうかどうか、権利とか大それた事言えない立場なのですが、死刑、死す時までの間を、普通に生き、生活できるようにしてほしいです。 — 死刑囚K4、死刑廃止国際条約の批准を求めるフォーラム90『死刑囚90人 とどきますか、獄中からの声』 (2012)、[633]
2012年9月から11月にも、福島は死刑確定者全133人を対象としたアンケートを実施し[634]、先述の2人に加え、K3(大阪拘置所在監)含む78人[注 85]が回答を寄せている[636]。K4は前年と同様、拘置所から親族や再審請求のための弁護人も含めて外部交通権を厳しく制限されていることを訴えたほか[637]、絞首刑に代わる死刑執行方法として、「薬物注射、自害(切腹、銃自害)など本人に選ばせるとよい」と回答しており、K2は死刑制度について「私は賛成とも反対とも言えません」と前置きした上で、以下のように回答している[638]。
またK3は、1日に何回も死刑を執行される夢を見て起きる毎日が続いていることや、東日本大震災の被災地住民たちの境遇を考えれば、「自分が3食毎日食べていいのか」という悩みを有していることを訴えている[640]。
2015年(平成27年)[注 86]に「死刑廃止国際条約の批准を求めるフォーラム90」と福島が、死刑確定者127人[注 87]を対象に実施したアンケート[643]に対しても、先述の3人が回答を寄せている[644]。回答の要旨は以下の通りである。
- K2 - 外に残してきた息子(三男)が同年1月8日に自殺した。そのショックで自身も自殺を考えたが、長男 (K3) ・次男 (K4) ・夫 (K1) ・娘から便りを受け取り、もう少ししっかり頑張って生きてみようと思った[90]。
- K3 - 現在、両親 (K1・K2) と弟 (K4) が自分の無実を訴え、支援者もつけずに自費で再審請求を行っているが、資金に困っている。死刑囚に弁護人の支援をしてほしい。また、検察が押収証拠品を開示しないので、我々死刑囚にも証拠リスト一式を開示させる法律がほしい。死刑囚は外部に声を発信する機会がないので、アンケートはもっと短い間隔で行ってほしい[645]。
- K4 - 外部交通権を不当または違法に厳しく制限されるなど、施設の処遇が著しく悪化している。死刑確定者は刑の執行だけが「罰」であり、執行までの間は受刑罰ではないので、制限を緩和すべきである[646]。
K4の養子縁組
K4は第一審判決を言い渡される直前から、刺青の彫師になりたいと話しており、小野を通じて自身が手掛けていた刺青の下絵を雑誌で公開してもらったり[注 88]、刺青の下絵画集などを自費出版で発売したりといった活動をしていた[649]。後者の画集は、それまでに描いた刺青の下絵100枚のうち80枚をまとめたもので[413]、弁護人の松井仁と共同で制作したものである[396]。同書は2007年秋に『証』という書名で上梓され[413]、5,500円の寄付をした人物に配布されていた[650]。K4は同書に以下のような序文を寄せている。
私は今、重罪を犯し「死刑」の判決を受けている「死刑囚」である。そして今、福岡拘置所内にてこの下絵を書き続けています。私に残された少ない時間の中で、私の愛する日本の伝統刺青を極めんが為、日々修行に精進している。又、この下絵集を作るに当たって、私は「死刑」とは言え、ここに「私」という一人の男がたしかに存在していたことの「証」としたい — 犯人K4、K4『証』 (2007) 序文[651]
またK4は2009年 - 2011年にかけ、画集出版などに協力した弁護人の協力を得た上で、彫師としての活動がきっかけで知り合った人物3人と養子縁組を行っている[652]。
K4は上告中、自身と同い年である東海地方出身の男性・甲(ただし、誕生日はK4より後)から連絡を寄せられた[649]。甲は刺青の彫師になることを希望していたことからK4と知り合いになり、やがてK4に弟子入りし[649]、2009年8月14日付で[477]、K4と甲は養子縁組した[649]。この時は甲の方がK4より年少だったため、甲がK4の養子となって「K」姓に改姓している[649]。この養子縁組は、K4と甲が互いの師弟関係を深めることを目的に行ったものだったが、甲は同年12月にK4の戸籍を離れて別の人物と養子縁組した[649]。なお、甲は後に懲役3年6月の実刑判決を受け、2021年(令和3年)1月時点では東海地方の刑務所に服役していた[649]。
この後、K4は2010年(平成22年)4月28日付で[477]、関西出身の男性・乙(当時33歳)と養子縁組し、乙と同じ姓に改姓した[653]。後述の養子縁組を行う前の2011年4月時点では、K4はイニシャル「H」姓を名乗っていた[654]。乙は当時、刑務所に服役していたが、出所後に彫師になることを志して刺青の勉強をしていたところ、K4の自費出版した本を購入したことで知り合い、それ以降信書などを通じて、福岡拘置所にいたK4と刺青などについて意見交換するとともに、オリジナル商品などの作成・販売事業確立のために協力しており、互いに精神的なつながりを求めて養子縁組を行ったものである[653]。しかしこの養子縁組を行った直後、乙の服役していた刑務所はK4を「外部交通禁止者」に指定し、それ以降はK4と乙の間での手紙のやり取りはできなくなった[655]。乙は2023年1月時点で、関東地方の刑務所に服役中である[656]。
2011年6月15日[477]、K4は彫師の一門の師匠である関西出身の男性・丙(当時36歳)と養子縁組し、丙と同じ姓に改姓した[655]。この姓が、上告審の公判が開かれた時点および死刑確定後である2018年(平成30年)時点の姓「I」である[657][425][658]。この養子縁組により、K4はそれまでの養父だった乙の戸籍を離れることとなったが、甲や乙との「養縁親族」としての関係は、それぞれ籍を離れても維持されている[655]。丙は養子縁組した当時、関西の刑務所に服役していたが、その後は出所したという[655]。
国家賠償請求訴訟
福岡県弁護士会は2018年2月22日付で福岡拘置所に対し、K4が養親ら宛に信書を送付することを福岡拘置所側が不許可としたことを不当として、それらを不許可にしないよう勧告した[658]。
この勧告は、K4が福岡県弁護士会に人権救済を申し立てたことから出されたもので[13]、勧告書によればK4は死刑確定後の2011年11月中旬ごろ、面会および信書の発受が予想される人物として、養父乙とその母、養父丙、養子甲の計4人を「親族」として福岡拘置所へ届け出た[477]。しかし福岡拘置所は、K4と彼ら4人との養子縁組は外部交通の確保が目的であると判断し[注 89]、2012年1月12日、4人を親族として取り扱わないことをK4に告知した[477]。
K4は先述の4人宛にそれぞれ信書の発信許可を出したが、福岡拘置所は同年11月1日、それらすべてを不許可とすることをK4に告知した[477]。またK4はそれら以外にも、兄K3に対する大阪拘置所の医療行為が不適切であるとして救済を求める大阪弁護士会宛の信書や、自己の処遇に関する相談を目的としたNPO法人監獄人権センター宛の信書を送ろうとしたほか、2014年5月 - 9月には友人・知人ら宛の信書計5通[注 90]を送ろうとしたが、いずれも不許可とされている[660]。K4は2014年11月17日にも兄K3の再審請求を支援するため、訴訟の証拠品として雑誌2冊(『実話ドキュメント』『実話ナックルズ』)をK3宛に宅下げするよう福岡拘置所に申請したが、同月21日付で不許可とされた[627]。勧告書は、K4と各人物との養子縁組は適法に成立したものである以上、福岡拘置所が十分な調査を行わずに甲らを「親族ではない」と判断して外部交通権を否定したことは、養子縁組の有効性まで否定する法の「僭脱」的な行為であり、刑事収容施設法に違反するだけでなく、信書発信の自由を不当に制約する重大な人権侵害であるとしており[661]、その他の福岡拘置所側の対応についても刑事収容施設法に違反するものと批判している[662]。
またK4はこれらの対応のうち、養親や養子計3人(養親である乙および丙、養子である甲)への信書発信を不許可としたことを不服として、2020年(令和2年)7月27日付で福岡地裁へ国家賠償等請求訴訟を起こした[663]。2023年(令和5年)2月時点でこの訴訟は係争中で、判決宣告までに数年を要するという[663]。
その他
本事件発生前の2004年8月 - 9月にかけては、加古川7人殺害事件(8月2日発生)、津山小3女児殺害事件(9月3日)、愛知豊明母子4人殺人放火事件(9月9日)、栃木兄弟誘拐殺人事件(9月12日)、金沢市夫婦強盗殺人事件(9月13日)、長野・愛知4連続強盗殺人事件(9月17日に犯人逮捕)と、被害者が大量に上ったり、幼い子供が犠牲になったりする凶悪な殺人事件が短期間に相次いで発生していた[664]。神足裕司 (2004) は、栃木の事件と本事件(ともに犯人が被害者を橋から川に投げ込んで殺害したか、殺害した被害者の遺体を橋から川に遺棄した)について、アダム・スミスの「人間は利己的であるからこそ道徳を育てた」という言葉を引用した上で、「犯人のやったことは虫以下だ。悲しむのは人間だというのに。」と述べている[665]。
本事件は全国から高い関心を集め、東京からも新聞記者だけでなく雑誌・テレビ関係者が数多く大牟田まで取材に駆けつけ、全国で報道された[14]。地元紙の『有明新報』は社説で、本事件が「悪いイメージの大牟田を全国へ向け発信した」と評している[666]。また、本事件の捜査を手掛けた大牟田署の地域課巡査(同年6月に懲戒免職)が同年2月に佐賀県鳥栖市内で起こした小学生女児連れ去り事件[注 91]とともに、本事件は全国を震撼させ、住民に計り知れない恐怖を与えた事件であると評している[667]。
事件を題材とした作品
- 鈴木智彦『我が一家全員死刑』(コアマガジン) - 2010年11月に発刊された単行本。著者の鈴木が犯人K4と文通を重ね、K4から送られてきた獄中手記を中心に[669]、事件関係者への取材内容を加筆し、雑誌『実話マッドマックス』(2008年8月号 - 2010年1月号)に連載した記事をまとめた書籍である[605]。コア新書での再刊を経て、映画化に併せて2017年(平成29年)11月7日、小学館から文庫本『全員死刑』として発売された[669]。
- 『殺風景』(作・演出:赤堀雅秋、主演:八乙女光)- 本事件を題材にした舞台作品で[672]、2014年5月にシアターコクーンで上映された[673]。作者の赤堀は公開前、事件の舞台となった大牟田へ取材に趣いている[674]。
関連リンク
- “三池山”. 松ヶ根部屋公認情報サイト. 2004年8月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年5月14日閲覧。 - かつては松ヶ根部屋公認ホームページで、引退力士の1人としてK4(三池山)が紹介されていた[675]。「トップページ」→「力士の紹介」よりアクセス可能。
脚注
注釈
- ^ a b c d e 「馬沖橋」(うまおきばし、座標[28][29])は諏訪川に面する大牟田市馬場町と、対岸の同市沖田町を結ぶ橋[30]。K1宅から北東約600 m地点[31](車で4、5分程度の場所)にある、車1台がやっと通る幅の橋である[32]。
- ^ K1宅の跡地は2022年時点で、セブンイレブン大牟田桜町店(大牟田市桜町30番地)の駐車場になっている[78]。上告審判決時点では、一家4人とも住居は福岡市早良区百道二丁目16番10号(福岡拘置所の所在地)になっている[79]。
- ^ a b K2が1992年に恐喝事件を起こして逮捕された際、住所は大牟田市藤田町176-1(座標)と報じられている[82]。同地にはかつて、K2の旧姓である「I」姓の住宅のほか、K2が経営していた建設会社と同じ「I建設」が所在していたが[83]、事件後(2005年)に発行された地図では「I建設」があった建物にクリーニング店が入居している[84]。2022年版の住宅地図では、かつて「I」姓となっていた住宅は空き家となっており、かつての「I建設」所在地は「ヘアーサロン天音」になっている[85]。
- ^ 指定暴力団(=道仁会)から見て三次団体に該当する[95]。北村組は1996年時点で、3代目村上一家の傘下にあった[96]。
- ^ 小野一光 (2007) によれば、多い時でもK4を含めて5 - 6人の組員しかいなかった[98]。ただし北村組の上部団体の幹部は鈴木智彦の取材に対し、大牟田ほどの地方都市では10人も組員が居ればそこそこの規模であると証言している[99]。
- ^ ゼンリンの住宅地図(2004年版)によれば、大牟田市小浜町42番地の8(座標)に被害者A1と同姓の「T」姓の家があり、その南隣には「小浜保育所」(小浜町42番地の48:座標)があった[108]。2022年版では、42番地の8(「T」という家があった箇所)は更地になっているが、南隣の保育所は2004年時点と同じまま残っている[109]。
- ^ A2は事件の約5年前から別居していた父親と電話やメールで連絡を取っていたが、約2年半前に「高校を辞めて東京に出たい」と言い出した際に諭されて以来、連絡は途絶えていた[114]。
- ^ 検察官の冒頭陳述によれば、K2がA1から300万円を借金した時期は1998年(平成10年)ごろ[10]。
- ^ 外壁の塗り直し工事[131]。この工事にはK3・K4も作業員として携わっていた[132]。K3は逮捕前、『西日本新聞』の取材に対し、同年8月にA1宅の壁の塗替え作業を行ったと証言している[73]。
- ^ K2は公判で、A1宅の改装工事を約200万円で請け負い、その支払いを度々請求したものの、約49万円しか支払ってもらえなかったと証言している[133]。
- ^ 検察官の冒頭陳述によれば約6,600万円[10]。
- ^ K2は公判で、A1の母親から2,300万円を借金していたことを明かしている[138]。
- ^ 大間山(座標)は、大牟田市東部(熊本県玉名郡南関町との県境付近)に位置する標高225 mの山で、その南東には「八角目峠」という峠(座標)がある[146]。三池公園(大牟田市大字三池1209-1:座標)は、大間山とその登山道路、そして標高50 m地点にある広場からなる公園である[147]。
- ^ 地代2,600万円と改装工事代80万円[10]。
- ^ K4の手記によれば、大牟田駅前の国道208号に入ったころ[159]。
- ^ 「歌う」=警察に通報する、の意味[32]。
- ^ 検察官の冒頭陳述によれば12錠[10][52]。
- ^ K4はこの時、大牟田市内および近郊の質屋3店を回っている[76]。質入れの際には本名を用いていた[170]。
- ^ 同公園は全敷地が大牟田市西新町に位置する[180]。
- ^ 25口径=銃口の直径6.4 mm[189]。
- ^ A1・Bの両名の遺体からは、それぞれ25口径の銃弾が3発ずつ(計6発)検出されたが、それらの線条痕(銃弾が発射される際に刻まれ、「銃の指紋」と言われる)はいずれも、K1が自殺を図った際に使用した「ブローニング・ベビー」のものと一致している[3]。
- ^ 三井三池オートスポーツランド事務所の位置座標:出典[195]。
- ^ 川幅約30 mの中央部分という報道もある[204]。
- ^ 検察官の冒頭陳述書によればトランク[52]。
- ^ 大牟田市街地から国道208号を利用して遺棄現場に向かう際、国道208号の「片平橋」で諏訪川を渡ったところに遺棄現場となった同川左岸の堤防道路との交差点(座標)があるが、その交差点の角(大牟田市船津町269-1:座標)に「うどんそばあずみ」という店があった[209]。2023年時点では、同店は同市船津町413-1(座標)に移転しており、事件当時の所在地には「たんぽぽ」が出店している[210]。
- ^ 「一部橋」の正式名称は「駛馬橋」である[212]。同橋は大牟田市一部町と、諏訪川対岸の同市沖田町を結ぶ県道藤田上官線の橋で[213][214]、橋の北側(一部町)には「一部橋」という西鉄バスのバス停がある[215]。また、駛馬橋の南詰付近(左岸)には「一部橋公園」がある[216]。
- ^ この犬はA3を殺害した際にはいなかったことから、K4はA2が部屋に入れたのだろうと述べている[231]。
- ^ K2はK3に奪った現金の一部を手渡した理由について、公判で「余計な頼みで一緒に時間を潰してくれたから」と述べている[172]。
- ^ 検察官の冒頭陳述書によれば、建設作業員の出張費にも奪われた金の一部が遣われている[52]。
- ^ 『西日本新聞』 (2004) によれば同日、行方不明になっていたA3について捜索願が出された[64]。また、Bの家出人捜索願は19日午前、Bの母親が出したものである[70]。
- ^ 事件後、A1の母親がK2のもとを訪れて(当時行方不明だった)3人について尋ねていたことが報じられている[112]。
- ^ 深笛義也 (2013) によれば、K2はA3の遺体が発見される少し前から大牟田署に参考人として呼ばれ、事情聴取されていた[246]。
- ^ 遺体の身元確認および、車の車台番号による特定は翌24日[143]。
- ^ 当時、K1に出頭要請は出ていなかった[255]。
- ^ 逮捕当初の報道では逮捕容疑はA3に対する死体遺棄容疑とされていたが、後にA1ら3人に対するものだったことが判明している[274]。
- ^ 大牟田署に派遣されていた[38]。
- ^ 隣の小部屋[290]。
- ^ タクシー会社名は『朝日新聞』 (2004) で報じられている[294]。久留米市本町12-1(座標)にはそのタクシー会社の施設が県道に面して建っており、その付近には「本町四」交差点(座標)および「本町四丁目」バス停(座標)があった[295]。
- ^ K3が脱走した時に履いていたスリッパは、庁舎1階に残されていた[290]。
- ^ 「K1の仲間の暴力団幹部」とも報じられている[284]。
- ^ 沖端川の河口付近[297]、および沖端川に架かる橋の周辺[294]。K3は電話を掛けた組員に対し、ここを待ち合わせ場所として伝えていた[294]。
- ^ 道が行き止まりになっているなどしていたため、目的地にたどり着けなかったという報道もある[294]。
- ^ K3がK2の弁護人から、K2の調書に「拳銃6発のうち何発かはK3が撃ったかもしれない」との供述があったことに対する答え[322]。
- ^ 同日はこのほか、A1の妹とBの母親もそれぞれ意見陳述で犯人らを死刑にするよう求めた[44]。
- ^ K4はK2より1年数か月前から福岡拘置所で生活していた[347]。
- ^ 当時は久留米拘置支所の建て替えに伴い、同支所の機能が福岡刑務所に移されていたため[372]。
- ^ 福岡市内の病院[375]。
- ^ 刑務官が入所者の服薬に立ち会い、服用後は口の中に薬が残っていないかを点検する[376]。
- ^ K4は判決前に小野に対し、クリスマスに死刑判決が出たら「素敵なプレゼントをありがとう」と言おうと考えていることを打ち明けていた[413]。
- ^ 銃砲刀剣類所持等取締法 第三条の十三(発射の禁止)「何人も、道路、公園、駅、劇場、百貨店その他の不特定若しくは多数の者の用に供される場所若しくは電車、乗合自動車その他の不特定若しくは多数の者の用に供される乗物に向かつて、又はこれらの場所(銃砲で射撃を行う施設(以下「射撃場」という。)であつて内閣府令で定めるものを除く。)若しくはこれらの乗物において拳銃等を発射してはならない。ただし、法令に基づき職務のため拳銃等を所持する者がその職務を遂行するに当たつて当該拳銃等を発射する場合は、この限りでない。」
- ^ 最高裁第一小法廷(才口千晴裁判長)が2005年4月18日付で出した殺人、銃砲刀剣類所持等取締法違反、殺人未遂被告事件に関する決定[426]。
- ^ 暴力団組織の幹部およびその弟分の2被告人が、組織の構成員2人を拳銃で射殺した事件で、幹部(首謀者)と弟分(実行犯)の2被告人をそれぞれ無期懲役とした最高裁決定(第一小法廷:2008年2月20日)や、2人を殺害した強盗殺人事件で、殺害実行犯の女性被告人および共犯である男性被告人の2人を死刑とした原判決を破棄し、2被告人に無期懲役を言い渡した判決(東京高裁:1995年12月13日)[439]。前者は本事件と同じ強盗殺人・死体遺棄・銃刀法違反事件であるが、当該強盗殺人は被告人の被害者に対する恨みが主たる動機であったことが死刑回避の1つの根拠となっていた[440]。
- ^ 福岡高裁1997年12月4日判決、東京高裁1997年1月31日判決、東京地裁1998年5月26日判決など[441]。1997年の2判決はいずれも妻子3人を殺害した被告人に対し、犯行に計画性がないことや動機に酌量の余地があることなどを理由に、無期懲役を言い渡した原判決に対する検察側の死刑を求めた控訴を棄却したもので、検察側が上告せず、無期懲役が確定している[442]。
- ^ 死刑確定者が再審無罪になった4事件(免田事件・財田川事件・松山事件・島田事件)および、志布志事件・氷見事件を例示している[457]。
- ^ a b K1・K3に対する上告審判決が宣告された時点では、K2・K4の両名に対する死刑判決はまだ確定していなかった[21]。
- ^ 『年報・死刑廃止』 (2011) によれば、2011年9月25日時点で[479]、4人(いずれも当時は上告中)とも福岡拘置所に収監されていた[480]。K2は死刑確定後の2012年(平成24年)に福島のアンケートに対し、前年末に夫K1と長男K3がそれぞれ広島と大阪へ移送されたと回答している[481]。
- ^ 当時はK2の悪阻が酷かったため、Yは当初は誘いを断ろうとしていたが、K2から「たまにはゆっくり行っておいでよ」と送り出されて参加した[498]。
- ^ 市中心街で経営していた「ジュエリー」[502]。K2が事件の約2年前(2002年ごろ)に開店したが、経営は不調で数か月後に閉店したという報道[127]、K2の親族が経営していたスナックが事件前月(2004年8月)に光熱費すら払えなくなり閉店したという報道がある[27]。娘とともに店を切り盛りし、店は繁盛していたとする報道もある[91]。
- ^ 当時の新弟子検査の合格ラインは身長173 cm、体重75 kgだった[511]。また2004年11月時点では身長183 cm、体重115 kgと報じられている[514]。
- ^ この写真は『FRIDAY』1996年10月25日号に掲載されている[518]。
- ^ この記者は事件発生時点で『週刊現代』の記者を務めていた[96]。
- ^ 6月20日に無断でK2の会社を出て行った[523]。鈴木 (2017) は、Uは同事件前は北村組と同じ暴力団の上部組織に出入りしていたが、K3によって無理矢理引き抜かれたためにトラブルが絶えず、それが事件の引き金になったと述べている[526]。
- ^ Uが転落した用水路は、地元では「クリーク」とも呼ばれている[527][528]。クリークとは、筑後平野で「掘割」とも呼ばれる農業用用排水路(総延長:約470 km)のことで、水路としての機能だけでなく、ため池のような貯留機能も兼ねている[529]。
- ^ 大溝端橋(おおみぞはたばし)は、県道柳川城島線の橋[530][531]。
- ^ Uは現場近くに来る前、城島町内の女友達数人に連絡してきていた[523]。
- ^ Uの動向を把握したK3が、この現場付近でUと女友達が会う約束をさせたとする報道もある[523]。
- ^ 少女4人について、城島署は「事件への関与は薄い」などの理由から立件を見送った[533]。
- ^ 城島警察署は、福岡県久留米市城島町大依371番地2にあった福岡県警の警察署だが[537]、2010年(平成22年)4月10日に久留米警察署へ統合された[538]。現在、旧警察署庁舎は久留米署が「城島警部交番」として利用している[539]。
- ^ 残る1人も翌31日に城島署へ出頭して逮捕されている[540]。
- ^ 三池港の防波堤沿いには長さ約300 mの人工海浜があり[541]、「三池海水浴場」(座標[542])として利用されていたが、同海水浴場は福岡県筑後地区では唯一の海水浴場であった[541]。同海水浴場は国と三井鉱山の所有地で[543]、有明海の対岸(約20 km南西)に島原半島があり、雲仙普賢岳の活動による火山性地震で津波が発生した際に被害が出ることが予想されたため、雲仙岳の大規模噴火があった1991年(平成3年)以降は1997年まで休止していた[541]。1998年に再開されたが[541]、集客の伸び悩みなどを理由に2000年を最後に開設されなくなっている[544]。
- ^ 同日、K3ら7人は2週間の観護措置となり、福岡市内の少年鑑別所に収容されている[545]。
- ^ 共犯6人はいずれも中等少年院送致の処分を下されている[546]。
- ^ Uの遺族はK3に対し、損害賠償請求訴訟を起こしたが、被告 (K3) 側は「金が払えない」と和解に応じず、支払い命令にも応じていなかった[550]。
- ^ 新聞では2004年春に出所したと報じられている[93][507]。
- ^ この男性(当時23歳)はK4が相撲部屋に在籍していたころの知人で、K1一家(特にK4)と親しい関係にあった[553]。K4は鈴木宛の手記で、彼は力士時代の先輩であり、自身と同じく引退後にヤクザとして家に迎え入れていたと述べている[554]。彼は8月末から大牟田市内の病院に入院していたが、9月18日夜と19日未明 - 20日にかけて外泊、外出していた[553]。
- ^ 「ワンダーランド高田店」(現在の住所:福岡県みやま市高田町今福669番地:座標)[555]。同店は2000年に現在地で開店している[556]。
- ^ 当時は安治川部屋の西序ノ口29枚目で[579]、同場所を7戦全勝で優勝している[581]。この取組の当時、K4(三池山)と安馬は互いに4連勝中だった[562]。
- ^ 年齢は序ノ口・序二段の兄弟子がいずれも10歳代で、十両だった兄弟子は当時25歳[590]。当時序ノ口だった1人は、2009年2月時点でも現役だった[588]。
- ^ 知人女性が他の女性と揉めていたため怒鳴りつけたこと[94]。
- ^ 交番のガラスを割ったこと[94]。
- ^ 薬物売買は体面が悪いため、暴力団の世界でも自ら薬物を使用することは「御法度」とされているが[596]、商品の純度を確認するため、自らの身体に薬物を試し打ちすることがあり、薬物売買を行っている組にはそのような役割を果たす組員がいることもあった[554]。
- ^ この少年は新入りだった[600]。
- ^ K4は初めて小野と面会した当時、「俺が家族の窓口になる」と言って両親や兄K3との面会には勝手に行かないよう厳命していた[620]。
- ^ 2011年12月時点で新たな死刑確定者にも同様のアンケートを送付している[630]。
- ^ 78人のうち、実名掲載に応じた人数はこの3人を含む70人[635]。
- ^ アンケート送付は2015年5月で、回答の締切は7月末まで[641]。
- ^ 2015年7月時点での死刑確定者全130人のうち、執行停止中の1人(袴田巌)と、重篤な病人2人を除く人数[642]。うち、K2・K3・K4の3人を含む73人が回答した[642]。
- ^ 『FRIDAY』の記事で公開されている[647][648]。
- ^ 平成19年5月30日付け法務省矯成第3350号法務省矯正局長依命通達「被収容者の外部交通に関する訓令の運用について」:「法は、人道上の観点から、親族については外部交通を許すことが適当であるとして、その権利を保障しているところ、当該養子縁組が民法第802条第1号の規定により無効を主張できる場合はもとより、無効とは認定できないまでも、専ら外部交通を得る目的などのためにされたものであり、養親子としての情を深めたりするという目的意識はなく、あるいは極めて希薄である場合など、法令における外部交通に関する各種規制を潜脱するためと認められる場合は、当該養子縁組による親族関係は、法における親族との外部交通に係る規定を適用する基礎を欠くものであり、当該外部交通を認めない運用もあり得ること。特に、暴力団関係受刑者の場合、安易に外部交通を認めないよう留意すること。」[659]
- ^ 刺青の下絵の指導を請う絵の教師宛の信書、養子縁組・死刑執行後の遺体引取・訴訟および再審請求・債権回収の調整などの調整を求める知人宛の信書など[660]。
- ^ 同事件の犯人は佐賀県警に逮捕された後、別の女児に対するわいせつ目的略取などの容疑(1件は大牟田署管内で発生)でも再逮捕された[667]。その後、2006年3月14日に佐賀地裁(坂主勉裁判長)で求刑通り懲役20年の判決を言い渡されている[668]。同判決によれば、犯人は2001年5月 - 2004年2月にかけて鳥栖市や大牟田市などで5人の女児を略取してわいせつ行為におよんだ(未遂を含む)ほか、佐賀県三養基郡の小学校に侵入してスクール水着4着を窃盗したり、2004年4月には拘置先の鳥栖警察署で警察官に怪我を負わせて逃走しようとしたりした[668]。
出典
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参考文献
裁判関連資料など
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- 4被告人の上告審判決・上告趣意書 - 『最高裁判所裁判集 刑事』第304号、最高裁判所、2012年、227-452頁。『集刑』第304号(平成23年4月 - 10月分)。
- K2・K4両被告人に対する上告審判決 - 最高裁判所第二小法廷判決 2011年(平成23年)10月3日 集刑 第304号227頁、平成20年(あ)第254号、『強盗殺人、死体遺棄、殺人、銃砲刀剣類所持等取締法違反被告事件』「死刑の量刑が維持された事例(大牟田の4名殺害等事件)」。
- K1・K3両被告人に対する上告審判決 - 最高裁判所第一小法廷判決 2011年(平成23年)10月17日 集刑 第304号347頁、平成20年(あ)第808号、『被告人A (K1) に対する強盗殺人、死体遺棄、殺人、銃砲刀剣類所持等取締法違反、被告人B (K3) に対する強盗殺人、死体遺棄、殺人、銃砲刀剣類所持等取締法違反、逃走各被告事件』「死刑の量刑が維持された事例(大牟田の4名殺害等事件)」。
- 福岡県弁護士会 会長 作間功, 人権擁護委員会 委員長 斉藤芳朗 (2018年2月22日). “福岡拘置所 御中 勧告書” (PDF). 福岡県弁護士会. 2022年7月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年7月12日閲覧。 - 本事件で2011年11月8日に死刑が確定し、福岡拘置所に収監されている死刑確定者が同拘置所に対し、養子縁組相手に対する信書の発信許可を求めたところ、同書がそれを不許可にしたことなどに対し、福岡県弁護士会が今後、不許可としないように勧告を出した際の文書。同書では、当該死刑囚 (K4) の兄 (K3) が死刑確定者として大阪拘置所に収監されている旨についても言及されている。
雑誌記事
事件関係者の手記
- 構成:小野一光(ルポライター)「一家4人に死刑判決――史上最凶家族はなぜ生まれたのか 初公開手記 極妻(K2被告)が綴った「48年間」の転落物語 410枚 大牟田4人殺害事件の原点が明かされる」『現代』第41巻第7号、講談社、2007年7月1日、128-136頁。 - 2007年7月号。犯人の1人である女性死刑囚K2(当時は上告中)の手記が掲載されている。
小野一光による雑誌記事
- 小野一光(著)、(編集人)中本顕二(編)「借金トラブルと息子同士の女性問題で 福岡・大牟田「連続4人殺人親子」の狂暴すぎる全人生」『FRIDAY』第21巻第44号、講談社、2004年10月15日、96-97頁。 - 通巻:第1109号(2004年10月15日号)。
- 小野一光(著)、(編集人)中本顕二(編)「福岡・大牟田4人殺害 続報!凶暴すぎる巨漢一家(K母子)の「犯行完全記録」 逮捕・長男は「クルマのトランク」洗って証拠隠滅を」『FRIDAY』第21巻第45号、講談社、2004年10月22日、98-99頁。 - 通巻:第1110号(2004年10月22日号)。
- 小野一光(著)、(編集人)中本顕二(編)「福岡 K親子の凶悪すぎる犯行記録 “巨漢一家”4人殺害事件[10月15日号]」『FRIDAY』第21巻第54号、講談社、2004年10月22日、86-87頁。 - 通巻:第1119号(2004年12月16日増刊号)。
- 小野一光(著)、(編集人)出樋一親(編)「大牟田4人惨殺事件 実行犯の一家全員が極刑へ 元相撲取りの犯人 二男・K4被告 「死刑判決直後の“厚顔”手紙」独占公開!」『FRIDAY』第23巻第51号、講談社、2006年11月17日、76-77頁。 - 通巻:第1230号(2006年11月17日号)。
- 小野一光(著)、(編集人)出樋一親(編)「福岡発4人惨殺事件 キラーファミリー4人全員に死刑判決 大牟田殺人一家の次男K4被告「獄中からの冷血手紙」」『FRIDAY』第24巻第11号、講談社、2007年3月16日、78-79頁。 - 通巻:第1248号(2007年3月16日号)。
- 小野一光(著)、(編集人)出樋一親(編)「深層カラーレポ 大牟田4人惨殺事件 元力士の次男と長男は裁判中に決別 極道一家は一審で「死刑」 「長男への絶縁状」と「極妻の獄中手記」」『FRIDAY』第24巻第28号、講談社、2007年7月6日、54-56頁。 - 通巻:第1265号(2007年7月6日号)。
- 小野一光(著)、(編集人)出樋一親(編)「大牟田4人惨殺 極道一家の次男K4被告が明かす「死刑への覚悟!」 クリスマス(12月25日)に控訴審判決 獄中で制作した入れ墨画集も初公開する」『FRIDAY』第25巻第1号、講談社、2008年1月4日、88-89頁。 - 通巻:第1293号(2008年1月4日号)。
- 小野一光(著)、(編集人)出樋一親(編)「大牟田4人惨殺事件 「兄(3・27判決)は地獄の底まで連れて行く」と決別宣言 極道一家次男「獄中で描いた100枚の刺青画」」『FRIDAY』第25巻第16号、講談社、2008年4月11日、78-79頁。 - 通巻:第1308号(2008年4月11日号)。
- 小野一光(著)、(編集人)出樋一親(編)「獄中から告発 殺人犯元力士が激白 角界の「麻薬、暴力、カネ」 松ヶ根部屋元若嶋津が親方「飲酒強要、部屋で賭博も」 引退のわずか3年後に「大牟田4人惨殺事件」を起こし、死刑判決を受けたK4被告(元三池山・24歳)が寄せた衝撃の手紙!」『週刊現代』第51巻第7号、講談社、2009年2月21日、22-25頁、CRID 1521980705561616640、NAID 40016438086、国立国会図書館書誌ID:9787446。 - 2009年2月21日号。
- 小野一光「私はなぜ死刑囚の養子になったか」『文藝春秋』第101巻第2号、文藝春秋、2023年2月1日、460-469頁、CRID 1520857757594886144、国立国会図書館書誌ID:032589769。 - 2023年(令和5年)2月号。
事件関連の雑誌記事
- 神足裕司「Kohtari's News Column これは事件だ 夜討ち朝寝のリポーター神足裕司のニュースコラム vol.406 4人もの命を奪うに値する理由など、あるわけがない」『SPA!』第53巻第39号、扶桑社、2004年10月5日、32-33頁。 - 通巻:第2914号(2004年10月5日号)。
- 「大牟田4人殺害 「毎晩違う女と寝ている」と豪語する極道一家20歳元力士の女漁り人生」『週刊文春』第46巻第39号、文藝春秋、2004年10月7日、37-39頁、CRID 1523106605282009216、NAID 40006415865、国立国会図書館書誌ID:7091292。 - 通巻:第2297号(2004年10月7日号)。
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- 甲斐さやか「大牟田「4人殺し」の女が住むゴミの家」『週刊朝日』第109巻第48号、朝日新聞社出版部、2004年10月8日、150-151頁。 - 通巻:第4647号(2004年10月8日増大号)。
- 「福岡・大牟田「一家3人」惨殺を自供――2人の息子は角界に!暴力団員も恐れた「極妻」K2容疑者(45)の暴走人生」『女性自身』第47巻第37号、光文社、2004年10月15日、180-181頁。 - 2004年10月12日号。
- 「福岡発 女の金と男をめぐる凶悪犯罪(2) 大牟田一家惨殺事件 4人を殺した主婦の素顔! K2容疑者(45) 背中にイレズミ コワモテ」『週刊女性』第48巻第39号、主婦と生活社、2004年10月12日、192-193頁。 - 通巻:第2321号(2004年10月12日号)。
- 「[ワイド特集]「激アツ!」人生ドラマ 大牟田4人殺しの「動機はカネ」にしたい「県警の事情」」『週刊新潮』第49巻第39号、新潮社、2004年10月14日、150-151頁、CRID 1523669555177018496、NAID 40006426328、国立国会図書館書誌ID:7097341。 - 通巻:第2468号(2004年10月14日号)。
- 「福岡県大牟田市連続殺人死体遺棄事件 地元民も震えあがった「巨漢で札付きのワル」K2容疑者の長男 凄絶リンチ」『週刊実話』第47巻第55号、日本ジャーナル出版、2004年10月14日、218-219頁。 - 通巻:第2390号(2004年10月14日号)。
- 「大牟田4人殺害事件 周囲が心底怯えた恐怖の借金取り立て手口 “極妻”(K2容疑者)と“元力士”次男(K4容疑者)の「カネ、カネ、カネ!」生爪をはがし、歯を折り……バイオレンス映画顔負けの犯行」『週刊ポスト』第36巻第43号、小学館、2004年10月15日、203-205頁、CRID 1521980704649713280、NAID 40006450193、国立国会図書館書誌ID:7115189。 - 通巻:第1775号(2004年10月15日号)。
- (編集人)出樋一親(編)「愕然!大牟田4人殺害事件100kg妻と元力士息子の凶悪極道一家 4年前の少年リンチ殺人」『週刊現代』第46巻第40号、講談社、2004年10月16日、49-51頁、CRID 1521699229808396928、NAID 40006426290、国立国会図書館書誌ID:7099033。 - 2004年10月16日号。
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- (編集人)出樋一親(編)「大牟田4人殺害事件 極道息子を育てた「ビッグママ」の凶暴」『週刊現代』第46巻第49号、講談社、2004年12月18日、204-205頁、CRID 1523669555701853440、NAID 40006537234、国立国会図書館書誌ID:7174465。 - 2004年12月18日号。
- 本誌取材班「凶悪 福岡4人殺しで一家全員「死刑」」『週刊朝日』第112巻第13号、朝日新聞社出版部、2007年3月16日、163-164頁。 - 通巻:第4805号(2007年3月16日号)。
- 中尾幸司「法廷は語る FILE49 大牟田市四人連続殺人事件(前編) 極道一家の鬼畜の所業!「(職業は)ヤクザです」と答える組長の次男に裁判長は一瞬、絶句した――。」『週刊ポスト』第40巻第24号、小学館、2008年5月23日、158-159頁。 - 通巻:第1971号(2008年5月23日薫風特大号)。
- 中尾幸司「法廷は語る FILE50 大牟田市四人連続殺人事件(中編) 「○○○兄ちゃん(K3被告)は『もうお前に話したけん、断るんだったらお前も殺すし、内妻も殺す』と言った」」『週刊ポスト』第40巻第25号、小学館、2008年5月30日、146-147頁。 - 通巻:第1972号(2008年5月30日号)。
- 中尾幸司「法廷は語る FILE51 大牟田市四人連続殺人事件(後編) 父親から携帯電話で命令された兄弟はアイスピックを左胸部に突き刺した――。」『週刊ポスト』第40巻第26号、小学館、2008年6月6日、152-153頁。 - 通巻:第1973号(2008年6月6日号)。
『相撲』(ベースボール・マガジン社)
- 「1996年9月夏場所展望号」『相撲』第45巻第6号、ベースボール・マガジン社、1996年6月15日、156頁、doi:10.11501/7911279、NDLJP:7911279/1/。 - 通巻:第657号。
- 「2000年9月秋場所展望号」『相撲』第49巻第9号、ベースボール・マガジン社、2000年9月15日、156頁、doi:10.11501/7911331、NDLJP:7911331/1/。 - 通巻:第657号。
- 「平成13年春場所展望号」『相撲』第50巻第4号、ベースボール・マガジン社、2001年4月15日、82-83頁。 - 通巻:第665号。
その他関連記事
- (編集人)谷雅志(編)「スクープ 弟子を「スコップでメッタ打ち」 異色候補「旭道山」が加えた暴行“証拠写真”」『FRIDAY』第13巻第46号、講談社、1996年10月25日、72-73頁。 - 通巻:第656号(1996年10月25日号)。K2が「息子K3が大島部屋で旭道山から暴行を受けた」という旨を証言した記事。
- 飯田昌宏(編集人)(編)「独占スクープ! 16頁大特集 死刑囚78人、獄中からの「肉筆」全掲載 確定死刑囚133人アンケート調査に寄せられた直筆回答から死刑存廃を考える大特集」『週刊ポスト』第45巻第7号、講談社、2013年2月22日、13-20頁、169-176頁。 - 通巻:第2217号(2013年2月15・22日号)。同年2月4日発売。福島瑞穂が2012年9月から11月にかけ、死刑確定者133人を対象に実施したアンケート(うち78人が回答、70人が実名掲載に同意)の内容を掲載している。
書籍
- 『福岡県 大牟田市 200302』ゼンリン〈ゼンリン住宅地図〉、2003年2月。ISBN 978-4432156849。国立国会図書館書誌ID:000004065423・全国書誌番号:20372206。
- 『福岡県 大牟田市 200401』ゼンリン〈ゼンリン住宅地図〉、2004年1月。ISBN 978-4432175406。国立国会図書館書誌ID:000004354494・全国書誌番号:20573614。
- 『福岡県 大牟田市 200501』ゼンリン〈ゼンリン住宅地図〉、2005年1月。ISBN 978-4432194308。国立国会図書館書誌ID:000007639139・全国書誌番号:20742127。
- 『福岡県 大牟田市 202211』ゼンリン〈ゼンリン住宅地図〉、2022年11月。ISBN 978-4432533244。国立国会図書館書誌ID:032468648・全国書誌番号:23779450。
事件を題材とした書籍
- 鈴木智彦 著、(編集人)末永孝弘 編『我が一家全員死刑 大牟田4人殺害事件「死刑囚」獄中手記』(初版第一刷)コアマガジン、2010年11月20日。ISBN 978-4862529138。 NCID BB08225843。国立国会図書館書誌ID:000011174801・全国書誌番号:21936101。 - 次男K4による獄中手記で、映画『全員死刑』の原作となった。書名は「一家全員」となっているが、同書によると事件に関わっていない家族や、事件当時既に他界していた家族もいる。
- 鈴木智彦『全員死刑 大牟田4人殺害事件「死刑囚」獄中手記』 す12-1(初版第1刷発行)、小学館〈小学館文庫〉、2017年11月12日。ISBN 978-4094064759。 NCID BB25145977。国立国会図書館書誌ID:028582927・全国書誌番号:22984380。 - 『我が一家全員死刑』を映画化に合わせて加筆・修正の上で文庫化したもの。
- 深笛義也「File No.14 大牟田一家四人殺害事件 母の提案で一家で殺人、家族全員が死刑に K2」『増補新版 女性死刑囚 十四人の黒い履歴書』(初版第1刷発行)鹿砦社、2013年12月16日、158-172頁。ISBN 978-4846309794。 NCID BB15913176。国立国会図書館書誌ID:025046549・全国書誌番号:22341849。
- 小野一光 著「第2章 K4の涙――大牟田四人殺人事件」、市儀保博 編『人殺しの論理 凶悪殺人犯へのインタビュー』524号(第一刷)、幻冬舎〈幻冬舎新書〉、2018年11月30日、55-94頁。ISBN 978-4344985254。 NCID BB27301519。国立国会図書館書誌ID:029341744・全国書誌番号:23143144。 - お-27-1。
- 小野一光「CASE 1 K4 大牟田連続4人殺人事件」『連続殺人犯』 お-71-2(第1刷)、文藝春秋〈文春文庫〉、2019年2月10日、11-41頁。ISBN 978-4167912314。 NCID BB27711361。国立国会図書館書誌ID:029455835・全国書誌番号:23177160。 - 単行本『殺人犯との対話』(2015年11月15日第一刷)の文庫版。『週刊文春』2015年1月22日号 - 9月10日号に連載された記事を加筆・修正した内容をまとめた本。
インパクト出版会発行の書籍(『年報・死刑廃止』シリーズなど)
- 平川宗信、村岡啓一、安田好弘、岩井信 著、(編集)年報・死刑廃止編集委員会(編集委員)阿部圭太・岩井信・江頭純二・菊池さよこ・菊田幸一・島谷直子・高田章子・対馬滋・永井迅・安田好弘・深田卓(インパクト出版会) / (協力:深瀬暢子・フォーラム90実行委員会) 編『犯罪被害者と死刑制度 年報・死刑廃止98』(第1刷発行)インパクト出版会、1998年8月25日、58-77頁。ISBN 978-4755400797。 NCID BA37394461。国立国会図書館書誌ID:000002746734・全国書誌番号:99055469 。
- 死刑廃止国際条約の批准を求めるフォーラム90 著「特集・死刑囚監房から」、(編集委員:可知亮、国分葉子、高田章子、中井厚、深瀬暢子、安田好弘、深田卓 / 協力=福島みずほ事務所、死刑廃止のための大道寺幸子基金) 編『死刑囚90人 とどきますか、獄中からの声』インパクト出版会、2012年5月23日。ISBN 978-4755402241。 NCID BB09377869。国立国会図書館書誌ID:023615338・全国書誌番号:22127584 。
- 年報・死刑廃止編集委員会 著「特集・死刑囚監房から」、(編集委員:岩井信・可知亮・笹原恵・島谷直子・高田章子・永井迅・安田好弘・深田卓) / (協力:死刑廃止国際条約の批准を求めるフォーラム90・死刑廃止のための大道寺幸子基金・福島みずほ事務所・深瀬暢子・国分葉子・岡本真菜) 編『死刑囚監房から 年報・死刑廃止2015』(第1刷)インパクト出版会、2015年10月10日、39-107頁。ISBN 978-4755402616。 NCID BB19673314。国立国会図書館書誌ID:026759091・全国書誌番号:22671713 。
- 年報・死刑廃止編集委員会 著、(編集委員:岩井信・可知亮・笹原恵・島谷直子・高田章子・永井迅・安田好弘・深田卓) / (協力:死刑廃止国際条約の批准を求めるフォーラム90、死刑廃止のための大道寺幸子・赤堀政夫基金、深瀬暢子・国分葉子・岡本真菜) 編『加藤智大さんの死刑執行 年報・死刑廃止2022』(第1刷発行)インパクト出版会、2022年10月10日。ISBN 978-4755403248。 NCID BC17102998。国立国会図書館書誌ID:032411605・全国書誌番号:23787981 。
関連項目
- 日本における死刑囚の一覧 (2010-)
- 一家四人死刑事件 - 1914年(大正3年)に新潟県で発生した殺人事件。一家4人が死刑判決を受けたが、最終的に死刑が確定したのは1人のみである。
- 脱獄
- 警察不祥事
- 日本における銃犯罪一覧
外部リンク
- 「大牟田・四人殺害関連特集」『西日本新聞』西日本新聞社、2004年11月17日。オリジナルの2012年11月24日時点におけるアーカイブ。
- 「大牟田4人殺害 : ニュース特集 : 九州発」『YOMIURI ONLINE』読売新聞西部本社、2008年6月19日。オリジナルの2011年10月24日時点におけるアーカイブ。