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1981年から[[1981年のヨーロッパF2選手権|F2]]へとステップアップ。2回の優勝と、5回のPPを獲得し[[ジェフ・リース]]に次ぐ選手権2位を獲得する。同年[[11月1日]]決勝の鈴鹿[[JAFグランプリ]]に招待され、[[中嶋悟]]に次ぐ2位を獲得している。また、このシーズン中のブーツェンの活躍にF1関係者からもコンタクトがあり、[[マクラーレン]]の[[ロン・デニス]]からテストに招かれ[[マクラーレン・MP4/1#MP4/1B|MP4/1B]]をドライブしたほか、ブラバムの[[バーニー・エクレストン]]からも接触があり、[[11月5日]]に[[ポール・リカール・サーキット]]にて[[ブラバム・BT49#BT49C|BT49C]]をテストしている<ref>[https://humansideofracing.com/events/jacky-versus-thierry/ When Ickx and Boutsen tested the Brabham] The Human side of racing by Pierre Van Vliet 2021年1月21日 </ref>。 |
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ホンダがエンジン供給で参加していたヨーロッパF2を注視していた元ホンダF1監督の[[中村良夫 ( |
ホンダがエンジン供給で参加していたヨーロッパF2を注視していた元ホンダF1監督の[[中村良夫 (技術者)|中村良夫]]もブーツェンに注目しており、ホンダの出資により設立準備を進められていた<Ref name="honda_201c">[https://www.honda.co.jp/Racing/gallery/1983/01/ ホンダレーシングギャラリー スピリット・ホンダ201C] ホンダ公式ウェブサイト</ref>[[スピリット・レーシング]]の[[ジョン・ウィッカム]]に中村が「ティエリーがいいんじゃない?」とブーツェンの起用を進言<ref name="gpx89_nakamura">中村良夫のグランプリ老兵見参 第十一回 ティエリー・ブーツェン [[GPX (雑誌)|GPX]] 1989スペイン 18-19頁 [[山海堂 (出版社)|山海堂]] 1989年10月21日発行</ref>。スピリット・ホンダの契約ドライバーとなった。 |
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=== スピリット・ホンダ === |
=== スピリット・ホンダ === |
2023年2月8日 (水) 05:59時点における版
ティエリー・ブーツェン | |
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現役最終年ジョーダンGP時代(1993年) | |
基本情報 | |
フルネーム | ティエリー・マルク・ブーツェン |
国籍 | ベルギー |
出身地 | ベルギー・ブリュッセル |
生年月日 | 1957年7月13日(67歳) |
F1での経歴 | |
活動時期 | 1983-1993 |
所属チーム |
'83-'86 アロウズ '87-'88 ベネトン '89-'90 ウィリアムズ '91-'92 リジェ '93 ジョーダン |
出走回数 | 164 (163スタート) |
タイトル | 0 |
優勝回数 | 3 |
表彰台(3位以内)回数 | 15 |
通算獲得ポイント | 132 |
ポールポジション | 1 |
ファステストラップ | 1 |
初戦 | 1983年ベルギーGP |
初勝利 | 1989年カナダGP |
最終勝利 | 1990年ハンガリーGP |
最終戦 | 1993年ベルギーGP |
F1関連記事 |
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関連リスト |
ティエリー・マルク・ブーツェン(Thierry Marc Boutsen、1957年7月13日 - )は、ベルギーのブリュッセル生まれの元レーシングドライバー。
フジテレビF1中継などによる「ブーツェン」表記が定着する以前には、「ブートセン」や「ボウセン」とされることもあった。
プロフィール
初期の経歴
1978年にベネルクス・フォーミュラ・フォード1600で18戦中15勝の成績を収め、翌年よりF3に参戦。1980年には3勝をあげ、ミケーレ・アルボレートに次ぐ選手権2位となる。
F2
1981年からF2へとステップアップ。2回の優勝と、5回のPPを獲得しジェフ・リースに次ぐ選手権2位を獲得する。同年11月1日決勝の鈴鹿JAFグランプリに招待され、中嶋悟に次ぐ2位を獲得している。また、このシーズン中のブーツェンの活躍にF1関係者からもコンタクトがあり、マクラーレンのロン・デニスからテストに招かれMP4/1Bをドライブしたほか、ブラバムのバーニー・エクレストンからも接触があり、11月5日にポール・リカール・サーキットにてBT49Cをテストしている[1]。
ホンダがエンジン供給で参加していたヨーロッパF2を注視していた元ホンダF1監督の中村良夫もブーツェンに注目しており、ホンダの出資により設立準備を進められていた[2]スピリット・レーシングのジョン・ウィッカムに中村が「ティエリーがいいんじゃない?」とブーツェンの起用を進言[3]。スピリット・ホンダの契約ドライバーとなった。
スピリット・ホンダ
1982年のヨーロッパF2選手権ではホンダエンジン「RA262E」を搭載するスピリット・201で3勝を挙げ、チャンピオン争いに加わりランキング3位を得た。前年に続いて全日本F2選手権にもスポット参戦し、鈴鹿グレート20レーサーズで4位に入っている。同年オフの11月からは、チームメイトのステファン・ヨハンソンと共にF1用のホンダV6ターボエンジンを積んで改良が加えられた201のテストドライブを重ね[4]、翌1983年に予定されていたホンダのF1復帰ドライバーの候補[5]となっていたが、スピリット・ホンダの計画はF1に1カー体制でエントリー申請していた為、2人のうちどちらかが外れる運命にあった。イギリス各地やアメリカ・ブラジルなどへのテスト遠征を経て、F1参戦ドライバーにはヨハンソンが選ばれた。ブーツェンが長期テストなどで常に恋人(のちの夫人)パトリシアを帯同させる事をホンダ首脳内では快く思わない人物がいたとされ、前出の中村はブーツェンかジェフ・リースがF1に向いていると思っていたが、あくまでアドバイザーで決定後の人事には関与できないため見ている他なかったという。約6年後に対談した中村はブーツェンに「あの時はホンダが失礼をしましたね.笑」と自身の言葉がきっかけでホンダ陣営に引き入れながら1年での放出となってしまったブーツェンに談笑の中ではあったが謝罪をしている[3]。
スピリット・ホンダでのF1デビューが絶たれたブーツェンはプロジェクトから離れ、同郷の先輩であるジャッキー・イクスの支援を受け別のシートを探すことになった。
F1
アロウズ時代
- 1983年
F2での実績とイクスからの推薦もあり、アロウズのジャッキー・オリバーとの交渉に成功。第6戦ベルギーGPよりチコ・セラに代わり、アロウズからF1デビュー。10戦中リタイヤ2回と堅実に完走し、うち7位2回・9位2回と計4度のシングルフィニッシュを記録した。
- 1984年
アロウズに残留し、開幕戦ブラジルGPで6位に入賞し、初めてポイントを獲得。その後、第4戦サンマリノGP・第12戦オーストリアGPでも5位に入り、計5ポイントを獲得しランキングは14位となった。また、全16戦中半数となる8度のリタイヤを喫しているが、大半がトラブルによるものだった(接触によるリタイヤは2回のみ)。
- 1985年
第3戦サンマリノGPで2位に入り、初表彰台を記録した。他にも4位1回・6位2回を記録し、ランキングは前年を上回る11位となった。また、リタイヤは16戦中4戦のみと、入賞圏外でも堅実なレース運びを見せた。
- 1986年
車両の信頼性に苦しめられ、全16戦中完走は6回にとどまった。完走した6戦のうち5戦がシングルフィニッシュだった(7位4回・8位1回)ものの、ノーポイントでシーズンを終えた。
ベネトン時代
- 1987年
この年よりベネトンへ移籍、初年度は3位1回・4位2回・5位3回の成績で16ポイントを獲得し、ランキングは8位。相棒のテオ・ファビを上回る成績を残した。
- 1988年
この年のマシン・B188は、パワー面ではターボエンジンに劣るNAエンジンを搭載しながら、優れたバランスでそれをカバーしており、高性能を示していた。最終的に16戦中5度の3位表彰台[注釈 1]など計8度の入賞を記録し、ランキング4位に食い込んだ。この活躍がフランク・ウイリアムズの目に留まり、翌1989年には、より上位チームであるウィリアムズに移籍した。
ウィリアムズ時代
- 1989年
第6戦カナダGPで初勝利、チームに2年ぶりの勝利をもたらした。デビューから出走95戦目(予選不通過に終わった1984年モナコGPを含めるとエントリー96戦目)での初勝利は、ナイジェル・マンセルの72戦目を更新する当時の最遅初優勝記録であった[注釈 2]。大雨となった最終戦オーストラリアGPでも優勝し、2勝を含めた入賞8回で計37ポイントを獲得し、ランキング5位となった。
- 1990年
シーズン前半はミスが目立ったが後半は堅実に入賞し、第10戦ハンガリーGPではデビューから116戦目にして自身初(唯一)のポール・ポジションを獲得。これまた当時の最遅記録であった[注釈 3]。このレースでは、アイルトン・セナをしのぎきり自身3勝目、初(唯一)のポール・トゥ・ウィンを果たした。また、初(唯一)のファステストラップを記録し、こちらも当時の最遅記録となった(現在は史上5位タイ[注釈 4])。
しかし、第2戦ブラジルGPを2位走行中で徐々にブレーキのストロークが長くなっていた事を忘れてピットイン時に止まれず交換タイヤを弾き飛ばして順位を11位にまで落としたり、第3戦サンマリノGPではギアボックスの不調もありながら1位で周回を重ねるもシフトミスでエンジンをオーバーレブさせてしまいリタイア、第5戦カナダGPの濡れた路面でコーナー突入前に姿勢を乱して左前方にいたリジェのニコラ・ラリーニに追突してしまい2台共リタイア[6]した事で、フランクはブーツェンに見切りを付けたと言われており、表彰式を終えたブーツェンがピットに戻ると、チームのメンバーは既に帰り支度を終えた後だったという。フランクからの祝福の言葉も、後日ブーツェンの自宅にFAXで届いただけだった。
その後、翌年よりナイジェル・マンセルがウィリアムズに復帰することが決まり、ブーツェンはこのシーズン限りでウィリアムズを去った(この年はランキング6位)。
リジェ時代
- 1991年
翌1992年からのルノーエンジン提供が既に決まっていたリジェに移籍。しかし、ランボルギーニエンジンで走ったこの年は、予選落ちこそ無かったものの下位に埋もれ、チームメイトのエリック・コマス共々、1度も入賞の無いままシーズンを終える(最高位は2度の7位)。
- 1992年
ルノーエンジンを得てシーズンを戦うが、開幕戦南アフリカGPではコマスに予選で敗れ、決勝でも先行を許したまま終盤にリタイヤ。第2戦メキシコGPは予選では上回ったものの、決勝で抜かれコマスの後ろでゴール。第3戦ブラジルGPでは決勝でコマスに接触し、同士討ちによるリタイヤを喫してしまう[注釈 5]。
その後、予選でコマスに敗れることは少なくなっていったが(最終的には10勝6敗)、コマスが4ポイントを獲得していたのに対し、ポイントを獲得出来ずにいた。第11戦ハンガリーGPでは、スタート直後に再びコマスと接触、後続のマシンも巻き込む多重事故を引き起こし、揃って十数秒でレースを終える事態を引き起こしている。最終戦オーストラリアGPにて、安定した走りで5位に入り2ポイントを獲得、ようやく結果を残した(ランキング14位)が、チームとの契約延長には至らず[注釈 6]、他チームのシートも既に大半が埋まっていた。
ジョーダン時代
- 1993年
チームを見つけらぬままシーズンを迎えたが、ジョーダンから参戦していたイヴァン・カペリが、フェラーリでの前年に引き続き結果を出すことができず、開幕2戦のみでチームから離脱。ブーツェンはその後任として、第3戦ヨーロッパGPから参戦することとなった。
しかし途中参加したチームのマシンは、長身のブーツェンにはシートが合わず、チームメイトのルーベンス・バリチェロが新人ながら度々光る走りを見せていたのに対し、好成績を残すことは出来なかった。かつての輝きを取り戻すことは出来ず、F1参戦からちょうど10年たった地元の第12戦ベルギーGPをもって、F1を引退。このレースでは、ギアボックストラブルにより1周も出来ずにリタイアとなった。
また、予選では1度もバリチェロの前に出られなかった。
その他の活動
1985年にはデイトナ24時間レースでポルシェ・962をドライブし勝利を挙げた。F1を引退した後もドライバー業は続け、ビジネスに精を出す傍ら、スポーツカーレースなどに参戦。特に1998年・1999年には、ル・マン24時間レースでトヨタのマシンを駆っている。しかし、1999年のレースでは夜間に後続車に追突されクラッシュを起こし、背骨を折る重傷を負う。
丁度、F1での初優勝からの10周年に近かったこともあり、以後ドライバー業からは完全に引退。現在は家族とモナコに移り住み、飛行機の販売を行う事業に専念している。
エピソード
- 身長は183cm。5ヶ国語に長け、日本語も少々わかるという。
- かかあ天下夫婦とされている。現役時代に夫人が眺める中、ブーツェン自身が芝刈り機を使っている写真が残されており、この様子はネタにされた。
- 飛行機やヘリコプターの操縦はプロ級の腕前で、F1引退後に専業している飛行機の販売業は現役時代から携わっており、自身のオフィスにはフランク・ウィリアムズから1万ポンド(約260万円)で譲り受けた、彼自身が初優勝を飾ったFW12Cが展示されている[注釈 7][7]。なお、モナコにあるブーツェンのオフィスはBS日テレがかつて放送していたテレビ番組「ホテルの窓から~見る 知る 歩く 世界の街~」の街頭インタビューをブーツェンが受けた事がきっかけで紹介されている。
- 仲の良いドライバーの1人に、アイルトン・セナがいた。これは、トレーニングをする場所が同じだったことで親交が深くなったという。その縁で、1994年のサンマリノGPでセナ事故死直後にウィリアムズからセナの代役ドライバーとしてのオファーが来るが、「もう2度とあんなところに戻りたくない」として断っている[注釈 8]。また、セナの告別式では、棺の一端を担いでいる。
- 変人が多いとされた1980年代〜1990年代前半のF1グランプリの世界にあって、まじめな性格で知られ、それがかえって「変わりもの」と扱われることもあった。またブーツェンの走りは「インテリジェンスな走法」とも呼ばれていた。
- 1987年に同僚となったファビとは、シーズンが後半になるにつれて関係が悪化しており、ファビがベネトンのシートを失うことが確定していた最終戦オーストラリアGPでは、ブレーキトラブルで周回遅れとなっていたファビがブーツェンを執拗にブロックし、3度のコースオフを喫した。結果的にブーツェンは4位(後日2位のセナが車体規格違反で失格となり3位に繰り上がり)でチェッカーを受けたが、レース後にこの一件をファビに抗議したところ、「お前はまだポールポジションも獲ってないくせに、3回PP獲ってから文句を言え」と言い返されたエピソードがある。
- 1989年サンマリノGPではレース序盤にブーツェンの直前を走行していたゲルハルト・ベルガーがコースアウト、側壁に衝突・大破炎上したためレースが中断された。再スタートまでの間にフジテレビのインタビューを受けたブーツェンが「(ベルガーのマシンの)何かが壊れたようだ、たぶんフロントウイングを失ったのではないか」と答える映像が残されている。(後に左フロントウイングの破損・脱落が原因と判明)
- 自身2勝目をあげた1989年オーストラリアGPでは、前方を走っていた周回遅れのベネトンのエマニュエル・ピロが、同僚のアレッサンドロ・ナニーニを追いつかせる為に、露骨なスロー走行をする場面があった。ピロをパスする際、豪雨の中抗議のため右腕を振り上げたが、もう一方の左手では同時にカウンターを当てて車を制御する走りを見せた。
- 1990年は16戦中10回ポイントを獲得するなど堅実に入賞していたため、フジテレビのF1中継で古舘伊知郎は「振り向けばブーツェン」「忘れた頃のブーツェン」と呼び実況していた。
- 1990年限りでウィリアムズから解雇された際には、「アラン・プロストやアイルトン・セナに代わられるならまだしも、ナイジェル・マンセルにとって代わられるのは理解できない」と、自分の力量に自信を持っていた事を伺わせる発言をしていた。また、尊敬するドライバーを聞かれると「自分」と答えていた。
- 1992年日本グランプリ前に「鈴鹿での思い出を」とインタビューを受けた際、「マーチBMWで参戦した全日本F2。後ろからどんどん抜いて行って最終的に2位に入ったレースさ。ウイナーはナカサン(中嶋悟)だ。完勝だったよ」と答えた。日本国内時代の中嶋悟を知るブーツェンは、他にも「日本では全く歯が立たなかったのに、F1に来てからはどうしてしまったのか」と、訝しがる趣旨の発言を何度かしていた。
- 2019年に鈴鹿サーキットで開催された「Suzuka Sound of Engine 2019」にゲストとして登場。ポルシェ・962Cに搭乗すると、1分59秒010という現役当時さながらのラップタイムを叩き出し会場を沸かせた。1988年の鈴鹿1000kmの予選でこの車両(同一個体かは不明)が記録した1分57秒709と比較しても1.3秒しか変わらない驚異的なタイムであった(ただし、コース改修の影響で1988年当時とはコーナー形状や全長が変わっているので単純には比較できない)。その後のトークショーでの本人の発言によると、それでも60%ほどのアタックで、全開アタックであれば55秒台は確実とのこと[8][9]。
レース戦績
ヨーロッパ・フォーミュラ3選手権
年 | チーム | エンジン | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 順位 | ポイント |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1980年 | マルボーロ・レーシング フォー・ゾルダー | トヨタ | NÜR 1 |
ÖST 2 |
ZOL 1 |
MAG 1 |
ZAN 2 |
LAC 10 |
MUG 5 |
MNZ 13 |
MIS 8 |
KNU 2 |
SIL Ret |
JAR 4 |
KAS 4 |
ZOL 6 |
2位 | 54 |
ヨーロッパ・フォーミュラ2選手権
年 | エントラント | シャーシ | エンジン | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 順位 | ポイント |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1981年 | マルボーロ・レーシング フォー・ゾルダー | マーチ・812 | BMW | SIL Ret |
HOC Ret |
THR Ret |
NÜR 1 |
VAL 3 |
MUG Ret |
PAU 2 |
PER 1 |
SPA 2 |
DON 12 |
MIS 8 |
MAN 4 |
2位 | 37 | |
1982年 | マルボーロ・チーム・スピリット | スピリット・201 | ホンダ | SIL 12 |
HOC 2 |
THR 3 |
NÜR 1 |
MUG 4 |
VAL 6 |
PAU 2 |
SPA 1 |
HOC Ret |
DON 9 |
MAN 4 |
PER 1 |
MIS 6 |
3位 | 50 |
F1
年 | 所属チーム | シャシー | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | WDC | ポイント |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1983年 | アロウズ | A6 | BRA | USW | FRA | SMR | MON | BEL Ret |
DET 7 |
CAN 7 |
GBR 15 |
GER 9 |
AUT 13 |
NED 14 |
ITA Ret |
EUR 11 |
RSA 9 |
NC (21位) |
0 | |
1984年 | BRA 6 |
RSA 12 |
SMR 5 |
15位 | 5 | |||||||||||||||
A7 | BEL Ret |
FRA 11 |
MON DNQ |
CAN Ret |
DET Ret |
DAL Ret |
GBR Ret |
GER Ret |
AUT 5 |
NED Ret |
ITA 10 |
EUR 9 |
POR Ret | |||||||
1985年 | A8 | BRA 11 |
POR Ret |
SMR 2 |
MON 9 |
CAN 9 |
DET 7 |
FRA 9 |
GBR Ret |
GER 4 |
AUT 8 |
NED Ret |
ITA 9 |
BEL 10 |
EUR 6 |
RSA 6 |
AUS Ret |
11位 | 11 | |
1986年 | BRA Ret |
ESP 7 |
SMR 7 |
MON 8 |
BEL Ret |
CAN Ret |
DET Ret |
FRA NC |
GBR NC |
HUN Ret |
ITA 7 |
POR 10 |
MEX 7 |
AUS Ret |
NC (20位) |
0 | ||||
A9 | GER Ret |
AUT Ret |
||||||||||||||||||
1987年 | ベネトン | B187 | BRA 5 |
SMR Ret |
BEL Ret |
MON Ret |
DET Ret |
FRA Ret |
GBR 7 |
GER Ret |
HUN 4 |
AUT 4 |
ITA 5 |
POR 14 |
ESP 16 |
MEX Ret |
JPN 5 |
AUS 3 |
8位 | 16 |
1988年 | B188 | BRA 7 |
SMR 4 |
MON 8 |
MEX 8 |
CAN 3 |
DET 3 |
FRA Ret |
GBR Ret |
GER 6 |
HUN 3 |
BEL DSQ |
ITA 6 |
POR 3 |
ESP 9 |
JPN 3 |
AUS 5 |
4位 | 27 | |
1989年 | ウィリアムズ | FW12C | BRA Ret |
SMR 4 |
MON 10 |
MEX Ret |
USA 6 |
CAN 1 |
FRA Ret |
GBR 10 |
GER Ret |
HUN 3 |
BEL 4 |
ITA 3 |
5位 | 37 | ||||
FW13 | POR Ret |
ESP Ret |
JPN 3 |
AUS 1 | ||||||||||||||||
1990年 | FW13B | USA 3 |
BRA 5 |
SMR Ret |
MON 4 |
CAN Ret |
MEX 5 |
FRA Ret |
GBR 2 |
GER 6 |
HUN 1 |
BEL Ret |
ITA Ret |
POR Ret |
ESP 4 |
JPN 5 |
AUS 5 |
6位 | 34 | |
1991年 | リジェ | JS35 | USA Ret |
BRA 10 |
SMR 7 |
MON 7 |
CAN Ret |
MEX 8 |
NC (26位) |
0 | ||||||||||
JS35B | FRA 12 |
GBR Ret |
GER 9 |
HUN 17 |
BEL 11 |
ITA Ret |
POR 16 |
ESP Ret |
JPN 9 |
AUS Ret | ||||||||||
1992年 | JS37 | RSA Ret |
MEX 10 |
BRA Ret |
ESP Ret |
SMR Ret |
MON 12 |
CAN 10 |
FRA Ret |
GBR 10 |
GER 7 |
HUN Ret |
BEL Ret |
ITA Ret |
POR 8 |
JPN Ret |
AUS 5 |
14位 | 2 | |
1993年 | ジョーダン | 193 | RSA | BRA | EUR Ret |
SMR Ret |
ESP 11 |
MON Ret |
CAN 12 |
FRA 11 |
GBR Ret |
GER 13 |
HUN 9 |
BEL Ret |
ITA | POR | JPN | AUS | NC (26位) |
0 |
ル・マン24時間レース
年 | チーム | コ・ドライバー | 車 | クラス | 周回 | 総合順位 | クラス順位 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1981年 | WM A.E.R.E.M. | セルジュ・ソルニエ ミシェル・ピニャール |
WM・P81-プジョー | C | 15 | DNF | DNF |
1983年 | フォード・フランス | アンリ・ペスカロロ | ロンド―・M482-フォード・コスワース | C | 174 | DNF | DNF |
1986年 | ブルン・モータースポーツ | アラン・フェルテ ディディアー・セイス |
ポルシェ・956 | C1 | 89 | DNF | DNF |
1993年 | プジョー・タルボ・スポール | ヤニック・ダルマス テオ・ファビ |
プジョー・905 Evo 1B | C1 | 374 | 2位 | 2位 |
1994年 | ル・マン・ポルシェチーム ヨースト・レーシング |
ハンス=ヨアヒム・スタック ダニー・サリバン |
ダウアー・962LM | GT1 | 343 | 3位 | 2位 |
1995年 | ポルシェ・クレマー・レーシング | ハンス=ヨアヒム・スタック クリストフ・ブシュー |
クレマー・K8 スパイダー | WSC | 289 | 6位 | 2位 |
1996年 | ポルシェ AG | ハンス=ヨアヒム・スタック ボブ・ウォレク |
ポルシェ・911 GT1 | GT1 | 353 | 2位 | 1位 |
1997年 | ハンス=ヨアヒム・スタック ボブ・ウォレク |
GT1 | 238 | DNF | DNF | ||
1998年 | トヨタ・モータースポーツ トヨタチームヨーロッパ |
ラルフ・ケルナーズ ジェフ・リース |
トヨタ・GT-One TS020 | GT1 | 330 | DNF | DNF |
1999年 | ラルフ・ケルナーズ アラン・マクニッシュ |
LMGTP | 173 | DNF | DNF |
セブリング12時間レース
年 | チーム | コ・ドライバー | 車両 | クラス | 周回 | 総合順位 | クラス順位 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1998年 | チャンピオン・レーシング | ボブ・ウォレク アンディ・プリグラム |
ポルシェ・911 GT1 EVO | GT1 | 318 | 3位 | 2位 |
1999年 | ディルク・ミューラー ボブ・ウォレク |
LMP | 308 | 4位 | 4位 |
FIA ツーリング・カー・ワールド・カップ
年 | 国籍 | エントラント | 車両 | 1 | 2 | 順位 | ポイント |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1995年 | ベルギー | フォード・チーム・シューベル | フォード・モンデオ | LEC 1 29 |
LEC 2 25 |
35位 | 0 |
関連項目
脚注
注釈
- ^ 第11戦ベルギーGPでも3位でフィニッシュしているので、表彰台そのものには「6度」立っている。しかし後に燃料規定違反が発覚し、4位でフィニッシュしたチームメイトのアレッサンドロ・ナニーニともどもシーズン終了後に失格となった。
- ^ この記録はミカ・ハッキネンが1997年ヨーロッパGPの出走95戦(エントリー99戦目)で塗り替えた。現在は セルジオ・ペレスの190戦目(2020年サヒールGP)が最遅記録。
- ^ 従来の記録はデニス・ハルムの85戦目であった。後にヤルノ・トゥルーリが更新(119戦目)し、現在はさらにマーク・ウェバーが更新(132戦目)している。
- ^ 現在の記録はヤルノ・トゥルーリの206戦目。
- ^ これ以後、コマスとの関係は口も聞かない程に悪化したという。
- ^ また創設者のギ・リジェは、この年限りでチームを手放すことになった。
- ^ ハンガリーGPを勝った時のFW13Bも同じように譲り受けるつもりで交渉したが、フランクが「10万ポンド払うなら売ってやる」と金額をつり上げた為にこちらは断念した。
- ^ 同じウィリアムズのドライバーでもあったリカルド・パトレーゼもオファーを断っており、その結果デビッド・クルサードが後任となった(ちなみに第7戦のフランスグランプリ、終盤のヨーロッパグランプリ、日本グランプリ、オーストラリアグランプリではナイジェル・マンセルが出走している)。
出典
- ^ When Ickx and Boutsen tested the Brabham The Human side of racing by Pierre Van Vliet 2021年1月21日
- ^ ホンダレーシングギャラリー スピリット・ホンダ201C ホンダ公式ウェブサイト
- ^ a b 中村良夫のグランプリ老兵見参 第十一回 ティエリー・ブーツェン GPX 1989スペイン 18-19頁 山海堂 1989年10月21日発行
- ^ 名車列伝 スピリット201C F1速報
- ^ Spirit 201C, Thierry Boutsen, Stefan Johansson Wheels Age
- ^ ラリーニ後方にいたプロストは無理する事なくアクセルオフで減速し、無事に2台を躱して難なく順位を上げた
- ^ サンエイムック GP CAR STORY Vol.39 P77参照 2022年4月27日発行
- ^ https://genroq.jp/2019/12/01/53981/ 感動のレイニー復活とブーツェンの激走【鈴鹿サウンド・オブ・エンジン 2019 Part.3】
- ^ https://news.yahoo.co.jp/byline/tsujinohiroshi/20191118-00151438 元F1ドライバー、ティエリー・ブーツェンが魅せた!ポルシェ962Cでの衝撃的なタイムアタック。
外部リンク
- Boutsen Aviation
- Boutsen Racing
- BOUTSEN VDS (@boutsenvds) - Instagram
- Thierry Boutsen (@thierryboutsenf1) - Instagram