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アラン・ジェンキンス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

アラン・ジェンキンスAlan Jenkins, 1947年7月24日 - [1])は、イギリスチェシャー州ネストン英語版出身の自動車技術者フォーミュラ1 (F1) のオニクスアロウズスチュワートプロストでチーフデザイナーやテクニカルディレクターを務めた。

経歴

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初期の経歴

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ジェンキンスはインダストリアルデザイン学士号を取得後、いくつかの職を経て、1978年にモータースポーツの世界に入った。初めは、ヘクトール・レバークのプライベートチームで型落ちのロータス・78を担当した。1979年ロン・デニスに認められ、彼のF2チーム「プロジェクト4」に加入した。1980年、プロジェクト4がマクラーレンF1チームの運営に合流すると、チーフデザイナーのジョン・バーナードの片腕として働いた。また、ジョン・ワトソンアラン・プロストの担当エンジニアとして貢献した。

1985年チーム・ペンスキーに誘われ、アメリカのインディカーレースに転向。ダニー・サリバンを担当し、同年のインディ500を制覇する。ペンスキーでPC15、PC16を設計したが成功作とはならず、1987年にチームを離脱した。

F1

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1988年夏から翌年にかけて、1989年より国際F3000からF1へステップアップするオニクス・グランプリのチーフデザイナーとして、ORE1を設計。マシンのデザインはすべてコンピュータで管理されたCAD/CAMシステムを導入して行った[2]コスワースDFR V8エンジンを搭載する堅実なパッケージングで、予備予選組ながらポルトガルGPステファン・ヨハンソンが3位表彰台を獲得する。しかし、1990年初頭のチーム体制混乱でオニクスを離れ、日本の運送会社フットワークグループ傘下に入ったアロウズへ移籍。

1991年、フットワークでポルシェV12エンジンを搭載するFA12を設計したが、ポルシェV12は重量過多に加えてパワーもなく期待外れに終わり、翌年から無限ホンダV10エンジンにスイッチした。FA131992年)のフロントウィングの2段式ボルテックス・ジェネレーターや、FA13B1993年)のメゾネットリアウィングなど、空力設計に個性を見せた。しかし、フットワークの経営撤退後、アロウズは開発もままならないチーム状態となる。1996年2月末の契約終了までアロウズに在籍し、FA17の完成・シェイクダウンを置き土産に去ることとなった[3]

1996年3月より、新興スチュワート・グランプリのテクニカルディレクターに就任し、翌1997年よりF1に参戦するためのマシン開発に従事。フォードのバックアップを受けながらSF-1SF-2を投入するが、2年間で十分な成績を残せず、1998年限りで契約が終了する。スチュワートに置き土産として残したSF-3は、後任のゲイリー・アンダーソンによって熟成され、1999年に1勝1ポールポジションを記録した。

1999年シーズン中、プロスト・グランプリのテクニカルディレクターに就任。マクラーレン時代の上司であるバーナードがコンサルタントに付き、翌年に向けてAP03を開発したが、2000年シーズン開幕から低迷が続き、第7戦モナコGP終了後にチーム離脱が発表された[4]

ヨット

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F1から離れたジェンキンスは、第31回アメリカスカップにエントリーしたチーム・アリンギ英語版に加入し、ヨットのデザインに関わる[5]。2003年に行われた同大会で、アリンギはルイ・ヴィトンカップを勝ち抜き挑戦艇となり、アメリカスカップ本戦でもカップ保持者のチーム・ニュージーランドを破りカップを奪った。

MotoGP

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その後、2輪メーカーのドゥカティが推進するMotoGPプロジェクトにコンサルタントとして参加し、デスモセディチの驚異的なトップスピードにつながるエアロダイナミクスを監修。ケーシー・ストーナーが初タイトルを獲得した2007年には、イギリス・レーシングドライバーズ・クラブ (British Racing Drivers' Clubの年間表彰「BRDCアワード」で、優れた業績を残したモータースポーツ技術者に贈られる「サー・ジャッキー・スチュワート賞」を受賞した[6][7]

ドゥカティ離脱後は、BAC (Briggs Automotive Companyが開発した単座スポーツカー「モノ (Mono)」のプロジェクトに関わっている[1]

評価

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1992年から1993年にかけてフットワークに在籍した鈴木亜久里は、「ジェンキンスがデザインしたマシンは全部一緒で、とにかく思うままに乗れなかった」「すごいオーバーステアで、速度が上がるほどフロントのダウンフォースが増えていくようなマシンだから、高速コーナーでは怖くてアクセルが踏めなかった」と話している[8]。1993年シーズン途中、マクラーレンから購入したアクティブサスペンションをFA14に取り付けたことで、やっと自分の思い通りのセッティングが可能になり、速く走れるようになったという[8]。1993年シーズンについて「アクティブだけで35点、ジェンキンスのマシンは0点だよ(笑)人の真似ばかりしていたから」と手厳しい評価をしている[9]

ギャラリー

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脚注

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  1. ^ a b Alan Jenkins”. OldRacingCars.com. 2020年5月1日閲覧。
  2. ^ メカニズム解析 ONYX ORE1 グランプリ・エクスプレス '89ブラジルGP号 19頁 1989年4月15日発行
  3. ^ チェックアップ・ザ・ポテンシャル ARROWS 資金不足に加えてデザイナー不在に F1グランプリ特集 Vol.82 129頁 1996年4月16日発行
  4. ^ “Prost, Alan Jenkins part ways”. us.motorsport.com. (2000年6月9日). https://us.motorsport.com/f1/news/prost-alan-jenkins-part-ways/1811102/ 2020年5月1日閲覧。 
  5. ^ These Formula 1 people get everywhere - grandprix.com 2002年11月26日
  6. ^ Matthew Birt (2007年12月12日). “MotoGP: Ducati man scoops top prize”. MCN. https://www.motorcyclenews.com/sport/motogp/2007/december/dec1207motogpducatimanscoopstopprize/ 2020年5月1日閲覧。 
  7. ^ Matt Salisbury (2007年12月4日). “2007 BRDC Award Winners.”. crash.net. https://www.crash.net/f1/news/60592/1/2007-brdc-award-winners 2020年5月1日閲覧。 
  8. ^ a b 「鈴木亜久里×片山右京 スペシャル対談」『GP Car Story Special Edition 1993 F1 進化の極みと王者の系譜』、三栄書房、2015年、pp.71-72。
  9. ^ 「鈴木亜久里×片山右京 スペシャル対談」『GP Car Story Special Edition 1993 F1 進化の極みと王者の系譜』、三栄書房、2015年、p.75。

外部リンク

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