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ベルナール・デュド

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ベルナール・デュド
Bernard Dudot
生誕 (1939-01-30) 1939年1月30日(85歳)[1]
フランスの旗 フランス
ナンシー[2]
国籍 フランスの旗 フランス
職業 自動車エンジン技術者 (モータースポーツ)
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ベルナール・デュド(Bernard Dudot、1939年1月30日[1] - )は、フランス出身の自動車エンジン技術者である。

フランスの自動車メーカーであるルノーの技術者であり、1980年代から2000年代にかけて、ルノー・スポールの開発部門を率い、ルノーのフォーミュラ1(F1)用V6ターボエンジン、自然吸気V10エンジンの開発を指揮したことで特に知られる。

経歴

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初期

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15歳の時(1954年頃)にフランスグランプリを初めて観戦し、テクノロジーの完成に大きな興味を持った[3][注釈 1]。その後、パリの高等機械学院(CESTI)で学び[4][1]、卒業後はシトロエンに入社した[4]

しかし、シトロエンでは思うような仕事ができないと感じたことから1年で辞め、1967年にアルピーヌに入社した[4][1]。同社はそれまで搭載エンジンをゴルディーニ(1969年にルノーに吸収される)やモチュール・モデルヌ(Moteur Moderne)といった他社に頼っており、同社の創業者で経営者のジャン・レデレは、自前のエンジンを持ちたいという考えから、デュドに社内にエンジン開発部門を設立するよう命じた[5]

最初の数年はフォーミュラ3(F3)やラリー向けのエンジン開発に主に従事し[2]、デュドは、入社した1967年の内にラリー用エンジンのチューニング部門を立ち上げた[1]。F3用エンジンはルノー・16のエンジンを基に開発し、アルピーヌで車体設計をしていたアンドレ・デ・コルタンツの手になる車体に搭載した。

1972年のラリーで転機となる出来事が起きた。デュドらはラリー車両用のターボエンジンを開発し、それを搭載したアルピーヌ・A110「ターボ」が、デビュー戦のクリテリウム・デ・セヴェンヌフランス語版でデビューウィンを飾った(ドライバーはジャン=リュック・テリエ英語版[6]。この勝利はデュドにとっても想定外の「奇跡的な」出来事だったが[注釈 2]、翌1973年にアルピーヌを吸収することになるルノーの上層部は、この勝利に色めき立ち、ターボチャージャーの技術に大きな可能性を見出すようになり[6][注釈 3]、この出来事はデュドのその後にも大きな影響を及ぼすことになる。

ターボエンジンの開発

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ルノー・アルピーヌ・A442B(1978年ル・マン24時間レース総合優勝車)。デュドはターボエンジンの開発責任者を務めた。

1973年、アルピーヌはルノーに吸収された。同年、デュドはルノーのレース用エンジン開発部門が置かれていたヴィリー=シャティヨン工場に配属され、そこでテクニカルディレクター(技術部長)でゴルディーニ出身のフランソワ・キャスタンジャン=ピエール・ブーディと協働を始め[4]、まずはウォーターポンプやオイルポンプといった補器類全般の開発を任された[2]

ほどなく、ルノー本社のモータースポーツ責任者(コンペティション・マネージャー)だったジャン・テラモルシ(Jean Terramorsi)はル・マン24時間レースの総合優勝を目標として掲げ、開発チームに準備を始めさせた[4][W 1]。デュドらは、キャスタンがスポーツカーレース用に設計した「ルノー・ゴルディーニ・CH1」という2リッターの自然吸気V6エンジンをベースとして、ターボエンジンの開発に着手した[4][注釈 4]。当時のルノーのモータースポーツ活動はアルピーヌによるラリー活動が主だったが、サーキットレースへの進出はエルフの重役であるフランソワ・ギテール(François Guiter)からも強く支持され、エルフから潤沢な資金提供を受けた[2]

この間、1973年末[8]にデュドはスーパーチャージャーなどの過給機技術の将来性を検証するため、(デュド自身の希望により[7])米国に派遣され、ギャレット・エアリサーチ英語版や他の専門家たちを訪ねて回り、そこでターボエンジンの将来性を確信して帰国した[4]

1974年にデュドはル・マン用エンジンの開発責任者に任命され[4][3]、ブーディと組んでターボエンジンの開発を始めた。デュドとブーディが開発した2リッターのV6ターボエンジンを搭載した最初のスポーツプロトタイプ車両となるアルピーヌ・A441Tは、1975年に完成した(車体設計はデ・コルタンツ)[1][W 1]

F1参戦開始 (1977年)

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ルノー・RS01。ルノー最初のF1車両。搭載しているEF1エンジンはスポーツプロトタイプ用の2リッターターボエンジンの設計を転用して開発された。

デュドら、ルノーのモータースポーツ関係のエンジニアたちはル・マン制覇に向けて開発を進めていたが、1975年に、ル・マン制覇に向けた計画と並行して、F1への参戦計画を始めることが突然決定した[4][9][注釈 5]。ルノー本社の上層部が「フルコンストラクターによる参戦」にこだわったため、車体製作も行うことになり、車体設計はこれまでと同様にデ・コルタンツが担当した[6]

ルノーのエンジニアたちは1976年6月のル・マン終了後からF1参戦に向けた開発を本格的に始め[注釈 6]、1年ほどの期間で車両を開発し、翌1977年7月のイギリスGP英語版で、ルノーはF1デビューを果たした[6][注釈 7]

ルノー初のF1車両である「RS01」に搭載された「ルノー・ゴルディーニ・EF1」エンジンの開発が始まった1976年の時点で、デュドはル・マンの開発プロジェクトをメインの仕事としており、その責任者でもあったことから、F1参戦の準備には片手間で関わる形となった[4]。最初の2年ほどは開発費も乏しく、F1エンジン専任のスタッフは、ブーディのほか、2、3名ほどしかおらず[4]、彼らF1を担当していた開発チームはターボチャージャーについて学ぶことが主な活動内容となっていた[1]

このような貧弱な体制にもかかわらず、上層部からはエンジンの完成を急かされ、充分なテストもせず、信頼性の見極めもできないままのエンジンをレースに投入するほかなく[6]、ルノーはエンジントラブル続きの状態でF1参戦を続け、その車両は「イエローティーポット」と揶揄された[6][注釈 8]。そうして低迷していたルノーF1の転機は、1978年6月に訪れた。この年のル・マン24時間レースでルノー・アルピーヌがル・マン制覇を果たしたことで、ルノーはル・マンにおける参戦プロジェクトを終了し、以降はF1に力が入れられるようになった[4][1]

そうして、デュドら開発陣はF1への注力を始め、1979年7月のフランスGPで、ルノーはF1初優勝を果たした[4][1]

テクニカルディレクター (1980年 - 1997年)

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1980年にキャスタンがルノー傘下のアメリカン・モーターズ(AMC)に異動したことに伴い、デュドはルノー・スポール全体の開発責任者であるテクニカルディレクターに就任した[3][2]。この年の時点で、ルノー・スポールは80名ほどのエンジニアを抱え、その全員がF1に携わるようになっていた[1]。以降、デュドは、1997年までルノー・スポールを率いることになる。

タイトル争い (1983年)

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ルノー・RE40(1983年)
ルノー・RE40(1983年)

1979年の初優勝以降、ルノーはF1で優勝争いを毎年繰り広げるようになり、1981年にはデュドはタイトル獲得を目標とすることを公言するようになった[3]。公言した通り、1982年1983年シーズンにルノーは両タイトルを争ったが、1983年は僅差の争いの末、コンストラクターズタイトルはフェラーリが獲得し、ドライバーズタイトルはルノーのアラン・プロストネルソン・ピケブラバム)に敗れ、ルノーはどちらのタイトルも逸して2位に終わった[9][6]

この年の敗因については様々な説が言われているが[12][6]、デュドは、自分たちがエンジンの信頼性を確立できなかったことが最大の敗因だったと述べている[6]。1983年にタイトルを逃したことはルノーのF1活動にとって痛打となり、エースドライバーのプロストは喧嘩別れの形でチームを去り、同時期にルノー・スポールの命運が本社のモータースポーツには縁遠い役員(ジョルジュ・ベッセ英語版)に牛耳られるようになったことで、組織の士気にも悪影響が生じるようになった[12][6][注釈 9]

一時撤退 (1986年)

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そうして、フルワークスチームとしての活動は1985年で終わり、1986年はカスタマーチームへのエンジン供給のみとなった。デュドは引き続きエンジン開発を指揮し、前年の第12戦イタリアGPで投入したEF15の「q」スペックに続いて[14]、この年の「EF15B」ではF1のエンジンとしては初めてニューマチックバルブを本格的に採用した[14][W 2][注釈 10]

しかし、ルノーはこの1986年限りでF1用エンジンの供給先を全て失い[注釈 11]、加えて、この時のルノーの総裁・最高経営責任者(CEO)はフルワークスチームの活動終了を主導したベッセで、10年近く参戦していながら「タイトル獲得」という結果を未だに出せていないことを改めて問題視され、ルノー本社はF1からの撤退を決定した[12][W 1](撤退発表は9月のポルトガルGP後に行われた[12])。

その状況下、デュドはルノー・スポールの80名のエンジニアたちを維持することを第一に考えた[3]。そのためには、本社にとって興味深い研究開発テーマを提示する必要があると考え、市販車用に4バルブ・ターボエンジンの開発を行うという名目でエンジニアの雇用を維持することを正当化した[3][注釈 12]。同時に、15名ほどのスタッフで「F1用の自然吸気エンジンの研究開発」を続けることをルノー本社に了承させ[3][2][W 1]、そうした交渉により、80名のエンジニア全員を手元に残すことに成功した[3][注釈 13]

V10エンジン (1989年 - 1997年)

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ルノー・RS1エンジン(1989年)。
RS1(1989年)。ルノーにとって最初のV10エンジン。ターボ時代の名残でタイミングベルト駆動を採用[1][注釈 14]
ルノー・RS7エンジン(1995年)
RS7(1995年)。このエンジンを搭載したウィリアムズとベネトン1995年シーズンの17戦中16勝を記録した[18]

こうして、デュドにはF1用の自然吸気エンジンの開発が許可された。結果として、デュドとしては、1986年にルノーがF1から一時撤退してから1989年にエンジンサプライヤーとして復帰するまでの2年ほどの期間はエンジンのことだけ考えればよくなり、この期間はある意味ではありがたいものになったという[9][1]。また、ターボ時代のスタッフがほとんど残ったことで、ルノー・スポールがターボ時代に得た様々な教訓や、メカクロームをはじめとするサプライヤーとの間に築いた協力関係は維持され、これらはF1復帰後の成功の下地となった[1]

新規則に合わせたエンジン開発について、他のエンジンメーカーはV8エンジンV12エンジンを投入することを計画していたが、デュドは当時としては異例な「V10エンジン」の開発を決定した[9][注釈 15]。こうして開発された「ルノー・RS1」とともに、1989年にルノーはF1に復帰し、ウィリアムズへの供給を開始した[注釈 16]

新エンジンでは、最後のターボエンジンで試して好感触を得ていたニューマチックバルブを引き続き導入した[2]。これはバルブスプリングでは実現し得ない高回転化に寄与するとともに[注釈 17]、エンジンヘッド部の軽量化、それに伴う低重心化、エンジン全体のコンパクト化といった様々なメリットをもたらした[18]

デュドはこの自然吸気V10エンジンでは、信頼性の高さ、車体とのマッチング(軽量コンパクトであること)、トルク(トルクバンドの広さ[19]と加速性能[9])、フレキシビリティ(ドライバビリティ[2])の4点を特に重視した[9][18][注釈 18]。極端な最高出力が求められたターボ時代とは異なり、最高出力の優先順位は比較的低くし[9]、ウィリアムズの車体への最適化を第一とした。その一例として、通常、V10エンジンであれば、等間隔爆発を考慮するならバンク角は「72度」とするのが最適だが、幅を狭くしてほしいというウィリアムズからの要望を取り入れて、RS1ではバンク角を「67度」として設計した[22]

今、本当に必要なのは、パワーに対する観念を捨てることだ。まだまだ、多くの人間がそれにしがみついている。実際のところ、パワーと言うだけではそれはまったく意味のないもので、それを活用できるかどうかが重要なのだ。したがって、うん、V8ルノーもありえない話ではないね。[20][注釈 19] — ベルナール・デュド(1991年)
彼ら(デュドとパトリック・ヘッド)の結びつきはとても強く、私はエンジンとシャシーのエンジニア同士があれほど密接に協力するのを見たことがなかった。ウィリアムズ・ルノーが素晴らしい成績を残した理由は、そこにあったと思う。分析とディスカッションを通じて、双方が進捗の糧を得ていたんだ。[23] — エンリケ・スカラブローニ(RS1を搭載したウィリアムズ・FW13のチーフデザイナー)

復帰前にデュドが立てた、車両全体のパッケージングを重視し、エンジンをその一要素に過ぎないと捉えた開発方針は当たり、ルノーのエンジンは1990年代半ばのF1を席巻し、1997年限りでF1から撤退するまでに、搭載チームがコンストラクターズタイトルを6連覇(1992年 - 1997年)するという結果を残した[24]

プロスト - インフィニティ (1998年 - 2002年)

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1997年末、デュドはルノー・スポールを離れ、テクニカルディレクターとしてプロスト・グランプリに加入した[2][1]

1999年6月にプロストから離脱し、2000年からはマニエッティ・マレリの競技部門の責任者となった[1]

2001年に日産自動車インフィニティ)のインディカー参戦プログラムに加わり、米国に移住したが、この参戦プロジェクト自体が2002年シーズン限りで終了となったため、2003年初めに離脱した[1]

ルノー (2003年 - 2005年)

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RS25(2005年)。デュド関与の下で最後に開発された、ルノー最後のV10エンジン[注釈 20]

日産自動車のプログラムが終わることになったタイミングで、ルノーフルワークスチームチーム代表となっていたフラビオ・ブリアトーレの意向により、デュドはルノー・スポールに呼び戻された[1](ルノーは1997年にF1から撤退した後、2001年に復帰)。

当時のルノーのV10エンジンはバンク角111度という特異なものだった(2003年のRS23エンジンまで)。2004年からはそうした特殊な広角バンク角のエンジンが使用できなくなるタイミングでもあり、エンジン開発の立て直しを要望されたデュドは、少し古いエンジンをベースとしてエンジンの設計を改めた[1]。ルノーエンジンはデュドが去った1997年を最後に優勝から遠ざかっていたが、デュドが復帰した2003年には6年ぶりの優勝を果たし、新エンジンを投入した2004年にも1勝を挙げ、2005年にルノーにとっては1980年代から悲願としていたフルワークスチームによるコンストラクターズタイトルを初めて獲得した。

デュドは2005年のチャンピオンエンジンとなるRS25エンジンを手掛けた後、同年4月に引退した[2]。F1で2006年から導入されることになったV8エンジンについて、デュドは退任前にスペックの定義のみに関与し、それがF1における最後の仕事となった[1]

人物

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  • エンジニアとしても人間としても「並外れて優れていた」と評されている[23]。気難しいことで知られるウィリアムズのパトリック・ヘッドとも問題なく仕事をこなし[23]、その間もその後も、デュドはヘッドの度量の広さや技術面での裏表のなさ、統率力の高さ等についてたびたび絶賛している[20][17]
  • 1990年代、F1における成功から、デュドはしばしば「(ルノー)V10の父」と呼ばれたが、デュド本人はそのことについてそれはルノー・スポールのスタッフ全員の功績だと述べていた[9]
  • 1995年から日本の月刊誌F1グランプリ特集』にて連載コラム「ベルナール・デュドのエンジン裏話」を執筆していた。その中で「ルノーは日本のホンダの勝利を阻止しようとしているライバルであるのに、日本グランプリでわざわざ私を探して贈り物を届けてくれるファンがいます。信じられないくらい本気でルノーが好きで応援してくれる方もいる。フランスに住む私が日本のファンに応援されるということがどれだけ感動したか、なかなか分かってもらえないと思う。」と日本の印象を記している。ルノーがF1復帰した'89年に初めて鈴鹿に行った際には、「でルノーのスタッフ達と相談して和食に挑戦して、カニ料理屋に入ったんだ。ひととおり食べても誰も全然お腹一杯にならないので追加注文してたら、ものすごくカニの代金が高くなってびっくりしてしまった(笑)」と失敗談も述べている[26]

エピソード

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  • ジャン・レデレからアルピーヌにエンジン開発部門を立ち上げるよう命じられた際、デュドはベンチテストのための部屋は台所だった部屋に設けた[5]。そうした理由は、台所であれば水の確保が容易だからだが、当時のアルピーヌ(A110)のターボエンジンはいずれもこの台所で開発され[5]、1970年代半ばにエンジン開発がヴィリー=シャティヨンに集約される頃まで使用された[27]

年譜

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  • 1967年 アルピーヌ入社[4][1](アルピーヌは1973年にルノーに吸収される)。同年中にラリー用エンジンのチューニング部門を設立[1]
  • 1973年 ルノーのヴィリー=シャティヨン工場のレース用エンジン開発部門に配属される[4]。2リッター自然吸気エンジンの開発に参加[3]。ターボエンジンの研究を開始[3]
  • 1974年 ルノーのル・マンプロジェクトの責任者に就任[3]
  • 1978年 ルノー社のエンジン部門のテクニカルディレクターに就任[3]
  • 1980年 ルノー・スポールのテクニカルディレクター(技術開発の総責任者)に就任[3]
  • 1997年末 ルノー・スポールを去る。
  • 1998年 プロスト・グランプリのテクニカルディレクターに就任[2][1]
  • 2000年 マニエッティ・マレリの競技部門の責任者に就任[1]
  • 2001年 日産自動車のインディカー参戦プログラムに加わる[1]
  • 2003年 ルノー・スポールに復帰[1]。副マネージングディレクターに就任[2]
  • 2005年4月 ルノー・スポールを再び去り、引退[2]

脚注

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注釈

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  1. ^ 1955年はフランスGPは開催されていないため、1954年フランスグランプリのことである可能性が高い。このレースはメルセデスのグランプリ復帰レースで、これがF1デビュー戦だった同チームは、予選決勝で1-2位を独占する完勝劇を演じた。
  2. ^ このラリーでは、開催に反対した現地の住民がコースとなる路面に釘を撒いており、他の参加車両と異なり、A110は運よくパンクに見舞われなかったことが幸いしたのではないかとデュドは述べている[6]
  3. ^ この勝利はドライバーのテリエの力量と運に負うところが大きいものだったが[7]、ルノーの幹部たちの多くが別件のため現地に居合わせており、このレースの優勝を偶然見ることになり、A110ターボの性能と勝利に驚くことになった[7]
  4. ^ ターボチャージャーの搭載はテラモルシのアイデア[4]
  5. ^ ル・マンと同時参戦としたのは、ルノー本社の幹部であるベルナール・アノンフランス語版の意向によるものだとされる[6]。デュドは、モータースポーツの熱心な推進者だったアノンのことを基本的には支持しつつ、「どうしてアノンがル・マンの優勝を待たずにF1参戦を決めたのかは今もってわからない」と2010年代のインタビューで述べている[6]。当時、ゼネラルマネージャーとしてルノー・スポールを率いていたジェラール・ラルースは、1975年時点では開発計画を始めただけで実際に参戦するかは未決定で、そのテスト走行の結果を踏まえ、1976年前半にラルースとアノンが交わした会話の中でアノンが(同時に参戦しても)F1で勝てることに確信を得て決断した、ということを述べている[10]
  6. ^ ルノーは1976年7月21日に、翌年からのF1参戦を正式に発表した[11]
  7. ^ 前戦はフランスGP英語版だったが、母国グランプリでトラブルによる醜態を晒してイメージダウンとなることを避けるため、あえて外国でデビューを迎えた[6]
  8. ^ 推進者のアノンが擁護したため、デュドを含む開発陣が責任を問われるようなことはなかった[6]
  9. ^ それまでルノー本社でルノー・スポールの後ろ盾となっていたアノンは、1984年にルノーを襲った赤字や人員整理問題の影響で、同年中にルノーを去った[12]。後任となったベッセは、それまでルノー本社で財務管理を担ってきた人物で、モータースポーツには接点も理解もなく、性格も堅物で、レース活動をルノーの財政を圧迫する存在とみなし、フルワークスチームの活動停止もベッセの主導によって決定された[12][2]。ベッセは合理的な人物であり、一律にモータースポーツ活動を縮小させたわけではなく、比較的少ない予算で運営されていたラリー部門のワークスチームは参戦を続けさせた[13]
  10. ^ ニューマチックバルブは、元は古参エンジニアのブーディが船舶用のシステムから着想を得て研究していた技術だった[2](ブーディ本人は完成を見ることなく1983年にプジョー・スポールに移籍)。
  11. ^ この年、ルノーは3チームに供給していたが、ティレルは自然吸気エンジンに回帰することを見越して翌年からフォード・コスワースを搭載することを早々に決定し、リジェはルノーを「高価な上に燃費が悪く勝機もない」と断じて切り捨て[15]ロータスホンダに乗り換えることを発表したため、夏前の時点で翌年の供給先を全て失っていた。ルノーはその後もマクラーレンへの供給交渉を進めていたが、それが破談となった場合は撤退することを事前に表明しており[16]、年内で撤退するであろうことは夏の時点でF1パドック内でも暗黙の了解となっていた。
  12. ^ この時点でルノーは市販車用エンジンのラインナップにDOHC4バルブのエンジンを持っておらず、同社にとって最初の4バルブエンジンである、ルノー・スポールの手になるF7P英語版は1988年に登場した[W 3]。このエンジンとその後継機はルノー市販車の中の高性能車において、採用され続けることになる[W 3]
  13. ^ ベッセは1986年末にテロに遭ったことで急死し、この交渉はベッセの跡を受けてCEOとなったレイモン・レビフランス語版と行われ、レビは、F1に復帰する時のために15名のエンジニアを残しておくというデュドの案に賛同した[2]
  14. ^ この機構のため、RS1には全長が長いという欠点が生じてしまい、ウィリアムズパトリック・ヘッド)から不評で、RS2からはギア駆動式に改められている[2]。RS1はルノーV10エンジンの「ラフドラフト」で、「RS2でようやくウィリアムズに最適化できた気がする」とデュドは述べている[17]
  15. ^ 1989年の時点ではルノーとホンダのみがV10エンジンを採用した。ルノーは復帰を計画するにあたって、V8、V10、V12の想定仕様を作成し、それを供給先の候補として交渉したチーム(マクラーレンロータスを含む)に見せ、いずれのチームも「V10が最良」と回答した聞き取り結果を反映している[1][2]。最終的にV10にするというのはルノーの技術陣が出した結論で、デュドとしても同じ考えを持っていた[9]
  16. ^ ルノーは1990年の復帰を目指していたが、開発の進捗は順調で、本社の経営陣が早期の復帰を希望したこともあって、予定より1年早く復帰した[1]
  17. ^ 金属スプリングと異なり、バルブサージングが発生しないため高回転化が可能となる[2]
  18. ^ 「フレキシビリティ」の一例として、1991年序盤の時点でウィリアムズ・FW14の新型ATギアボックスには6速ギアの信頼性が低いという弱点があったが、ルノーのRS3Cエンジンは5速まででギアを組んでも問題なく運用できるだけの柔軟性があった[20][21]
  19. ^ 「V8ルノー」はあえて極端な例を冗談として言っており、発言の直後にそのようなエンジンを開発するつもりはないと否定している[20]
  20. ^ 開発はロブ・ホワイトが主導した[25]

出典

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出版物
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  9. ^ a b c d e f g h i オートスポーツ 1992年12/15号(No.621)、「ルノーV10を成功に導いた情熱」(ベルナール・デュド インタビュー、聞き手・モーリス・ハミルトン) pp.101–103
  10. ^ Rally Cars Vol.19 Renault 5 Turbo、「F1がすべてを“食って”しまった」(ジェラール・ラルース インタビュー) pp.54–61中のp.56
  11. ^ RacingOn No.471 ターボF1の時代、「証言 ジャン・ピエール・ジャブイーユ」(パトリック・カミュ) pp.25–27
  12. ^ a b c d e f オートスポーツ 1987年1/10臨時増刊(No.462)、「ルノーがF1を全面撤退した背景は?」(ダグ・ナイ) pp.49–53
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  19. ^ GP Car Story Vol.07 Williams FW16、「究極のコンビネーションを求めて」(津川哲夫) pp.40–42
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ウェブサイト
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参考資料

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書籍
  • Roy Smith (2008) (英語). Alpine & Renault - The Development of the Revolutionary Turbo F1 car 1968 to 1979. Veloce Publishing. ASIN 1845841778. ISBN 978-1-84584-177-5  ※デュドはこの書籍に献辞を寄せている。
  • Adrian Newey (2017-11). How to Build a Car: The Autobiography of the World’s Greatest Formula 1 Designer. HarperCollins Publishers. ASIN B073TS2ZWN. ISBN 978-0008196806 
雑誌 / ムック
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