プジョー・スポール
プジョー・スポール (Peugeot Sport) は、フランスの自動車メーカー、プジョーのモータースポーツ担当部門。1981年に創設され、F1を除く参戦したカテゴリ全てで優勝を果たしてきた。
2010年代はダカール・ラリーと世界ラリークロス選手権で活動してきた。2022年よりFIA 世界耐久選手権(WEC)へル・マン・ハイパーカー(LMH)を用いて参戦している。またカスタマー向けにグループRallyやTCR規定車両の開発・販売も行っている。
経営上の合理化を目的に、同じPSAグループのシトロエン・レーシングやDSパフォーマンスと本拠地・予算の統合がされている[1]。
ラリー
[編集]グループB
[編集]プジョー・スポールは、かつて世界ラリー選手権(WRC)でコ・ドライバーを務めていたジャン・トッドがプジョーからPSA・プジョーシトロエングループのためのスポーツ部門を創設して欲しいと頼まれ、1981年にプジョー・タルボ・スポール (Peugeot Talbot Sport) の名称で創設された。
WRCのトップが主にグループ4車両で争われていた1980年代初期、グループ会社のタルボのサンバ(プジョー・104ベースのFR駆動の小型ハッチバック)をグループ4規定のラリー仕様に仕立てた「タルボ・サンバ・ラリー」で参戦していた。
ラリーチームはブローニュの森近くに設立され[2]、1984年にツール・ド・コルスでプジョー・205ターボ16がグループB規定でデビューし、初戦で2位を獲得。1000湖ラリー(フィンランド)でアリ・バタネンが初優勝を遂げた。その後も強豪ひしめく群雄割拠のグループBの中でも、ランチア・ラリー037、アウディ・クワトロ、ランチア・デルタS4といった強敵に互角以上に打ち勝ち、数戦後には更に戦闘力を高めた改良型 205 T16 E2 を投入する磐石のシーズン運びを見せた。
1985年、プジョーはバタネンとティモ・サロネンの手で12戦中7勝を挙げ、マニファクチャラーズタイトルおよびサロネンがドライバーズタイトルを獲得した。
1986年は前年のアルゼンチンで重傷を負ったバタネンに代わってユハ・カンクネンが加入した。カンクネンはチームに2年連続のタイトルをもたらした。結果1985年と1986年の2年連続でドライバー(1985年:ティモ・サロネン、1986年:ユハ・カンクネン)とマニュファクチャラーズのダブルタイトルを獲得するに至った。
登場当時、覇を誇っていたフロントエンジン4WD車・アウディ・クワトロの牙城を崩し、ミッドシップ4WD車のWRCにおける優位性を確立した。のちに、同様のコンセプト及び駆動系などのレイアウトを、各メーカー毎の解釈に基づき製作されたランチア・デルタS4、MG・メトロ6R4、フォード・RS200などが続々と発表、実戦投入され、レイアウトはそのままにショートホイールベース化され、更に過激な進化を遂げたアウディ・スポーツ・クワトロ等と共に、グループBで競われたWRC最終年となる1986年までラリー・コンペティションの歴史に残るパワー戦争を繰り広げた。国際自動車連盟(FIA)はランチアのヘンリ・トイヴォネンなど多発した死亡事故を受け、1987年以降ラリー競技からグループBを排除した。
また205は、全日本ラリー選手権に当時のインポーターであったARJ(オースチン・ローバー・ジャパン)のサポートにより参戦した。ライバルの通称・ハチロクと呼ばれるAE86型レビン / トレノと名バトルを繰り広げた。なお、同選手権に左ハンドル車として初めてエントリーしたマシンである。
その後、1990年代前半はプジョー・タルボ・スポールが活動の主軸をグループCカーやF1に移したため、205・306・106のグループA車両でのラリー活動を比較的小規模で行っていた。
ワールドラリーカー
[編集]1990年代後半からは、WRCやフランス・ラリー選手権に新設されたF2クラス(2000cc以下の2ボックスFF車による競技クラス)に主に306 キットカーで参戦。ここで好成績をあげたことが、WRC復帰への弾みとなった。またフランス・ラリー選手権では同じPSAグループのシトロエン・クサラ キットカーやルノー・クリオ MAXI / メガーヌ MAXI等と激戦を繰り広げた。ちなみに、1600ccエンジンの106 キットカーも数戦ではあるがWRCに参戦している。
1999年、プジョー・スポールはWRカー規定のプジョー・206 WRCと共に、コラード・プロベラの監督下世界ラリー選手権に復帰した。デビュー戦はツール・ド・コルス、フランソワ・デルクールが第一ドライバー、ジル・パニッツィとマーカス・グロンホルムがセカンドカーをシェアした。パニッツィはサンレモ・ラリーで2位に入賞、グロンホルムはラリー・フィンランドで4位に入った。206はターマックで特に速さを見せた。
2000年、グロンホルムはラリー・スウェーデンで初勝利を遂げた。その後もニュージーランド、フィンランド、オーストラリアで勝利、ドライバーズタイトルを獲得した。パニッツィはコルシカとサンレモで勝利し、マニファクチャラーズタイトルに寄与した。
2001年、デルクールに代わってディディエ・オリオールがチームに加入、グロンホルムと共にメインドライバーとなった。また、パニッツィとハリ・ロバンペラはセカンドカーを選択されたイベントでドライブした。グロンホルムは前半戦、多くのリタイヤに苦しむ一方、ロバンペラは第2戦のスウェーデンで勝利した。オリオールはスペインで勝利し、グロンホルムはフィンランド、オーストラリア、イギリスで勝利、パニッツィはイタリアで勝利した。チームはマニファクチャラーズタイトルを連覇し、グロンホルムはランキング4位に入り、これがチーム内最上位であった。ロバンペラは5位、オリオールは8位、パニッツィは9位であった。
2002年、チームは前年度チャンピオンのリチャード・バーンズをスバルから獲得、オリオールに代えて加入させた。グロンホルムは第2戦のスウェーデンで勝利、パニッツィはフランスとスペインで勝利した。グロンホルムはキプロスで勝利したが、続くアルゼンチンではバーンズと共に技術的な違反のため失格となった。グロンホルムは再びフィンランドで勝利したが、パニッツィはイタリアでシーズン3勝目を挙げた。その後グロンホルムはニュージーランドとオーストラリアで連勝し、2度目のドライバーズタイトルを獲得した。バーンズはシーズンを5位で終え、パニッツィは6位、ロバンペラは7位であった。プジョーはマニファクチャラーズタイトルを三連覇した。
マールボロがタイトルスポンサーとなり、ドライバーラインアップは2003年も維持された。グロンホルムは再びスウェーデンで勝利し、ニュージーランド、アルゼンチンでも勝利した。パニッツィはスペインで勝利した。バーンズは2004年にスバルへの復帰が決まっていたが、最終戦のイギリスに向かう途中に失神、ラリーを欠場した。彼に代わってベルギー人ドライバーのフレディ・ロイクスが参加した。バーンズはシーズンを4位で終え、グロンホルムは6位であった。プジョーはマニファクチャラーズタイトルを失い、代わって獲得したのがシトロエンであった。また、パニッツィはこの年をもって三菱に移籍している。
プジョーは2004年シーズン、販売戦略からマシンを307CCをベースとしたWRカー・307WRCにスイッチした。これは307のカブリオレを元に開発された物であった。しかし307WRCは時折早さを見せるものの、ボディの大型化により時としてカスタマー・スペック車の206WRCの後塵を浴びるほど不振を極めた。グロンホルムは全戦出場したが、ロイクスは1、2戦と15戦、ロバンペラは3戦以降の選択されたイベントに出場したほか、セドリック・ロバーツを1戦のみ起用した。グロンホルムは新型車のトラブルに苦しみ、フィンランドでチーム唯一の勝利を挙げた。グロンホルムはランキング5位でシーズンを終え、プジョーはマニファクチャラーズ4位で終わった。
2005年、プジョーはグロンホルムのパートナーとしてフォードからマルコ・マルティンを獲得した。グロンホルムは8月のフィンランドで勝利したが、その後のイギリスでマルティンが事故を起こし、コ・ドライバーのマイケル・パークが死亡した。マルティンはWRCを引退することとなった。ダニエル・カールソンとニコラ・ベルナルディが彼に代わって残りのイベントをドライブした。グロンホルムはシーズン2勝目を日本で挙げ、ランキング3位となった。プジョーはマニファクチャラー2位でシーズンを終えた。
2005年末、グループPSA(プジョー・シトロエン)はWRCからワークスの2チームを撤退することを発表した。シトロエンは新車開発のため1年間活動を休止という形であったため2007年に復帰したが、プジョーが復帰することは無かった。プジョー最終戦となったラリー・オーストラリアではカールソンのマシンが崖下に横転し炎上。グロンホルムもサスペンションを壊してリタイアに終わり、有終の美を飾ることはできなかった。
ワークス撤退後の2006年以降はいくつかのプライベートチームから型落ちの307 WRCがエントリー。OMVプジョーノルウェーのマンフレッド・ストールはフル参戦を果たし、ドライバーズランキング5位に入ったほか、開幕戦でアストラレーシングのトニ・ガルデマイスターがこのマシンで3位入賞を果たすと、同年のラリーアルゼンチンではピレリチームのジジ・ガリが、ラリートルコではストールのチームメイトのヘニング・ソルベルグが自身初となる表彰台フィニッシュを達成している。
WRC撤退後
[編集]2007年からプジョー・スポールは新たなスーパー2000規定に合わせたプジョー・207 S2000を開発。クロノス・レーシングに託してIRC(インターコンチネンタル・ラリー・チャレンジ)に参戦した。この選手権ではラリー・トルコの初優勝を皮切りに毎回上位に入賞、2007年から2009年までドライバーズ/マニュファクチャラーズタイトル3連覇(2007年エンリケ・ガルシア=オヘダ、2008年ニコラス・ヴィヨズ、2009年クリス・ミーク)という大成功を収め、WRC時代の栄光を再現した。
しかし2010年にシュコダにタイトルを奪われた以降は苦戦を強いられタイトルから遠ざかってしまった。2013年はIRCと統合されたERC(ヨーロッパ・ラリー選手権)にワークス参戦。8戦に出場し5戦で表彰台に入るも未勝利に終わった。しかしドライバーズではセミワークスのデルタチームから出場したブリアン・ブフィエが母国コルシカで優勝を果たしランキング2位と健闘を見せた。
2014年以降はグループR5/R2(後にRally2/Rally4とそれぞれ改名)規定に沿って開発された208がプライベーター向けに販売されている。また、2021年からプジョー・208をベースにした四輪駆動のRally3マシンも開発している。
日本でも、全日本ラリー選手権に参戦するオートスポーツ系雑誌の『ラリープラス』とコンストラクターのキャロッセのジョイントチーム『ラリープラス・クスコレーシング・ラリーチーム』を支援しており、2016年に柳澤宏至/中原祥雅組がJN-5クラスチャンピオンを獲得している[3]。新井大輝は前輪駆動の208 Rally4で、国内の四輪駆動勢に伍する好成績を収めている。
スポーツカー耐久
[編集]耐久レースではヴェリジー=ヴィラクブレーにスポーツカーチームを設立した[4]。そして1988年に905プロジェクトを開始。『プジョー・905』は1990年に発表され、同年の第8戦モントリオールよりスポーツカー世界選手権(SWC)に参戦を開始。ドライバーには元F1チャンピオンのケケ・ロズベルグと、ルノーでエンジン開発に貢献したジャン=ピエール・ジャブイーユを起用した。
本格参戦開始となる1991年シーズンは、マウロ・バルディ、フィリップ・アリオー組が開幕戦から勝利を挙げるなどランキング2位を獲得。905のエヴォリューションモデル「evo1 bis」が投入された第5戦以後は完全にジャガーやメルセデスと並ぶトップコンテンダーとなった。ロズベルグとヤニック・ダルマスのチームも勝利を挙げ、第6戦マニクールと第7戦メキシコシティでは905 evo1 bisによる1-2フィニッシュで制した[5]。
1992年シーズンにはル・マン24時間でデレック・ワーウィック、ヤニック・ダルマス、マーク・ブランデル組が優勝を遂げた。また、ワーウィック、ダルマス、アリオー、バルディの活躍でシリーズチャンピオンも獲得した。SWCは1992年限りで廃止となったが、翌1993年はル・マン24時間レースで1-2-3フィニッシュを達成し、スクーデリア・フェラーリへの移籍が決まっていたジャン・トッドを有終の美で送り出し、またグループCの終焉を受けてこの年限りでプジョーはスポーツカーレースから撤退した。
なおプジョー有志で結成されていたヴェルテール・レーシングが、オープンプロトにプジョーエンジンを用いた『WRプジョー』として2000年代半ばまでプライベーターとしてル・マンへの活動を続けていた。その間韓国の双竜自動車や、日本のオートエグゼと提携し、寺田陽次郎がドライブしたこともある。
その後WRC復帰を経て2007年、耐久レース界で圧倒的な強さを誇るアウディ・R10 TDIに対抗すべく、ディーゼルエンジン搭載のプロトタイプレーシングカーであるプジョー・908 HDi FAPにてル・マン24時間レースへ再参戦を開始。ドライバーにはジャック・ヴィルヌーヴを始めとする元F1ドライバーを多数起用しており、優勝を目指す姿勢を鮮明に打ち出した。シリーズを支配するアウディに対してプジョー・908 HDi FAPで挑戦した。908はル・マン・シリーズ第1戦、モンツァ1000kmでデビューし、マルク・ジェネ、ニコラ・ミナシアン組がこのレースで優勝した。ル・マン24時間レースではステファン・サラザンがポールポジションを獲得、レースではサラザン、ペドロ・ラミー、セバスチャン・ボーデ組の8番車がアウディ1番車に次いで2位でフィニッシュした。ル・マンの後サラザンとラミーはル・マン・シリーズタイトルを獲得した。
2008年ル・マンではサラザンが3分18秒513という前年度のタイムを8秒近く上回り、ユノディーエールにシケインが出来て以来初となる10秒台に突入するという驚異的なタイムで再びポールポジションを獲得し、グリッド1列目をプジョーが独占した。しかしレースではそれぞれ2位、3位、5位で優勝は為らなかった。ル・マン・シリーズではアウディに次ぐランキング2位となり、ミナシアン、ジェネが共にドライバーズランキング2位となった。
2009年の始めにPSA・プジョーシトロエンは、シトロエンのスポーツディレクター、オリビエ・クエスネルをプジョー・スポールのディレクター兼任とした。ル・マン24時間ではサラザンが再びポールポジションを獲得、レースではデヴィッド・ブラバム/ジェネ/アレクサンダー・ヴルツ組が勝利し、1993年以来念願のル・マン制覇を果たした。2位にはフランク・モンタニー、ボーデ、サラザン組が入り、チームの3台目は6位に入賞した。その他のシリーズ戦では、ル・マンに備えたスパ戦にしか参戦しなかった。
2010年のセブリング12時間でチームは2度目の1-2フィニッシュを達成した。しかしながらル・マン24時間では信頼性の問題が生じ、アウディが1-2-3を達成した。
2011年のセブリング12時間では、チーム・オレカの旧型プジョー・908 HDi FAPがファクトリー仕様のプジョー・908およびアウディ・R15を抑えて驚きの勝利を挙げる。ル・マン24時間では2台のアウディ・R18がクラッシュしたが、残る1台に抑えられ2位に終わった。優勝したアウディは2位の908に対して僅か13秒のリードしか無かった。
2012年1月18日、新たに誕生する世界耐久選手権(WEC)にプジョー・908 HYbrid4で参戦する予定であったが、景気の失速と販売不振を理由とし、突如スポーツカーレースからの撤退を発表した[6]。
2020年、2021年から始まるル・マン・ハイパーカー(LMH)規定に、リジェ・オートモーティブとも提携し、2022年からWECに参戦することが発表され[7]、その後リアウィング無しという前代未聞のスポーツプロトタイプである新型プジョー・9X8を発表した[8]。しかしその後、2022年についてはル・マンまでの3戦を欠場し[9]、第4戦モンツァより2台体制での参戦が正式発表された[10]。
ツーリングカーレース
[編集]1990年代のスーパーツーリングの時代に、405/406で各国ツーリングカーレースで活躍。BTCC(英国)では振るわなかったが、405はフランス、406はフランスとドイツでそれぞれチャンピオンを獲得した。
ストックカー・ブラジルでは2007年から2016年までの10年間参戦。307で2回、408で3度チャンピオンを獲得し、古豪シボレーと互角に渡り合い続けた。
スーパー2000時代のWTCC(世界ツーリングカー選手権)にはプジョー・407を用いるプライベーターが散見された。
2015年から施行されたカスタマー向けツーリングカー規定のTCRでは、2018年からプジョー・スポール謹製の308 TCRのプライベーターへの販売が行われ、TCRヨーロッパなどにエントリーが見られる。
F1
[編集]プジョーはスポーツカー世界選手権が1992年を以て事実上終了したことから、この分野のレースから撤退したが、1994年にエンジン供給の形でフォーミュラ1に転向。マクラーレンと複数年契約を結び、耐久レースで使用された905のエンジンである、3.5リッターV10エンジンを転用する形で供給した。その結果、ミカ・ハッキネンが6度表彰台に登るなど、チームとして計8戦で表彰台に上ったものの、シーズン前半はエンジントラブルが頻発し、タイトル争いから早々と脱落する一因となった。そのため、マクラーレン側から契約が破棄され、1994年限りで解消となった。翌1995年からはジョーダン・グランプリに供給。ジョーダンとの協力体制は1997年まで続き、ここでも数回の表彰台は獲得するものの、最高位は1995年カナダグランプリの未勝利のダブル表彰台であり、優勝までには至らなかった。1998年からはオール・フレンチを目指すプロスト・グランプリに供給。しかし、プロスト自体の低迷もあり、表彰台はおろか入賞もままならない結果が続きチームとの関係は悪化。結局2000年末にプジョーエンジンはアジアテックに売却、その後2年間使用されたが、そのアジアテックも2002年シーズン終了とともに消滅した。参戦してきたカテゴリ全てで成功してきたプジョーにとってのF1への参戦は未勝利という苦い結果に終わった。
ダカール・ラリー
[編集]1987年以降のグループB消滅後、205 T16(E2ベース)はパリ・ダカール・ラリーに活躍の場を移し、後継の405 T16と合わせると四連覇するという快挙を達成(1987年 - 1990年)。その強さは「砂漠のライオン」として競合メーカーに怖れられ、のちにパリ・ダカ常勝軍団となる三菱自動車工業の挑戦をことごとく跳ね返した。
2015年にはグループT1規定の2008 DKR を開発してダカール・ラリーに復帰。このマシンはプライベーター向けであった二輪駆動車両の規定をメーカーワークスが利用した初めての例であり、2年目にステファン・ペテランセルによって早くも総合優勝を達成。
2017年には3008 DKRへモデルチェンジし、2017年ステファン・ペテランセル、2018年にはカルロス・サインツのドライブで合計3連覇し、「砂漠のライオン」の異名を再び轟かせた。なおこの年をもってダカールからは撤退している。
パイクスピーク
[編集]ダカールを制した205 T16と405 T16の2台は、1987年 - 1989年パイクスピーク・インターナショナル・ヒルクライムオープンラリークラスにも投入された。1987年に205 T16による初参加で2位につけると、翌年には新型の405 T16GRを投入。アリ・バタネンが前年のライバルの記録を更新して見事総合優勝を果たした。なおこの時の映像を使ったドキュメンタリーショートフィルム作品「Climb Dance」[11]が公開されている。
2013年には再びパイクスピーク・ヒルクライムにセバスチャン・ローブを擁して参戦。全舗装路の初年度であったが、見事総合優勝を遂げた。ここで叩きだした8:13.878というタイムは全舗装路のレコードとして2018年にフルEVのフォルクスワーゲン・ID.Rが更新するまで保持されており、内燃機関車の記録としては2023年現在も最速記録である。
ラリークロス
[編集]WRCでグループBが廃止された後の205 T16は1987年から欧州ラリークロス選手権(Euro RX)に投入され、1990年までディヴィジョン2(グループBクラス)を4連覇した。以降も下位クラスで306や106、206などがタイトルに絡む活躍をした。
2014年からは新たに発足した世界ラリークロス選手権(World RX)でハンセン・モータースポーツをワークス支援し、「チーム・プジョー・ハンセン」の名で208で参戦。2015年にチームタイトルを獲得している。[12]。しかし2018年シーズン終了をもって、ハイブリッド技術開発に注力するとしてダカールに続いて撤退した。
主な成績
[編集]WRC
[編集]グループB時代 (1984-1986)
[編集]WRC時代 (1999-2005)
[編集]F1
[編集](key)
年 | チーム | シャシー | ドライバー | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | ポイント | 順位 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1994年 | マールボロ マクラーレン・プジョー | マクラーレン・MP4/9 | BRA | PAC | SMR | MON | ESP | CAN | FRA | GBR | GER | HUN | BEL | ITA | POR | EUR | JPN | AUS | 42 | 4位 | ||
ミカ・ハッキネン | Ret | Ret | 3 | Ret | Ret | Ret | Ret | 3 | Ret | 2 | 3 | 3 | 3 | 7 | 12 | |||||||
フィリップ・アリオー | Ret | |||||||||||||||||||||
マーティン・ブランドル | Ret | Ret | 8 | 2 | 11 | Ret | Ret | Ret | Ret | 4 | Ret | 5 | 6 | Ret | Ret | 3 | ||||||
1995年 | トタル・ジョーダン・プジョー | ジョーダン・195 | BRA | ARG | SMR | ESP | MON | CAN | FRA | GBR | GER | HUN | BEL | ITA | POR | EUR | PAC | JPN | AUS | 21 | 6位 | |
ルーベンス・バリチェロ | Ret | Ret | Ret | 7 | Ret | 2 | 6 | 11 | Ret | 7 | 6 | Ret | 11 | 4 | Ret | Ret | Ret | |||||
エディ・アーバイン | Ret | Ret | 8 | 5 | Ret | 3 | 9 | Ret | 9 | 13 | Ret | Ret | 10 | 6 | 11 | 4 | Ret | |||||
1996年 | ベンソン&ヘッジス トタル・ジョーダン・プジョー |
ジョーダン・196 | AUS | BRA | ARG | EUR | SMR | MON | ESP | CAN | FRA | GBR | GER | HUN | BEL | ITA | POR | JPN | 22 | 5位 | ||
ルーベンス・バリチェロ | Ret | Ret | 4 | 5 | 5 | Ret | Ret | Ret | 9 | 4 | 6 | 6 | Ret | 5 | Ret | 9 | ||||||
マーティン・ブランドル | Ret | 12 | Ret | 6 | Ret | Ret | Ret | 6 | 8 | 6 | 10 | Ret | Ret | 4 | 9 | 5 | ||||||
1997年 | ベンソン&ヘッジス ジョーダン・プジョー |
ジョーダン・197 | AUS | BRA | ARG | SMR | MON | ESP | CAN | FRA | GBR | GER | HUN | BEL | ITA | AUT | LUX | JPN | EUR | 33 | 5位 | |
ラルフ・シューマッハ | Ret | Ret | 3 | Ret | Ret | Ret | Ret | 6 | 5 | 5 | 5 | Ret | Ret | 5 | Ret | 9 | Ret | |||||
ジャンカルロ・フィジケラ | Ret | 8 | Ret | 4 | 6 | 9 | 3 | 9 | 7 | 11 | Ret | 2 | 4 | 4 | Ret | 7 | 11 | |||||
1998年 | ゴロワーズ・プロスト・プジョー | プロスト・AP01 | AUS | BRA | ARG | SMR | ESP | MON | CAN | FRA | GBR | AUT | GER | HUN | BEL | ITA | LUX | JPN | 1 | 9位 | ||
オリビエ・パニス | 9 | Ret | 15 | 11 | 16 | Ret | Ret | 11 | Ret | Ret | 15 | 12 | DNS | Ret | 12 | 11 | ||||||
ヤルノ・トゥルーリ | Ret | Ret | 11 | Ret | 9 | Ret | Ret | Ret | Ret | 10 | 12 | Ret | 6 | 13 | Ret | 12 | ||||||
1999年 | ゴロワーズ・プロスト・プジョー | プロスト・AP02 | AUS | BRA | SMR | MON | ESP | CAN | FRA | GBR | AUT | GER | HUN | BEL | ITA | EUR | MAL | JPN | 9 | 7位 | ||
オリビエ・パニス | Ret | 6 | Ret | Ret | Ret | 9 | 8 | 13 | 10 | 6 | 10 | 13 | 11 | 9 | Ret | Ret | ||||||
ヤルノ・トゥルーリ | Ret | Ret | Ret | 7 | 6 | Ret | 7 | 9 | 7 | Ret | 8 | 12 | Ret | 2 | Ret | Ret | ||||||
2000年 | ゴロワーズ・プロスト・プジョー | プロスト・AP03 | AUS | BRA | SMR | GBR | ESP | EUR | MON | CAN | FRA | AUT | GER | HUN | BEL | ITA | USA | JPN | MAL | 0 | NC | |
ジャン・アレジ | Ret | Ret | Ret | 10 | Ret | 9 | Ret | Ret | 14 | Ret | Ret | Ret | Ret | 12 | Ret | Ret | 11 | |||||
ニック・ハイドフェルド | 9 | Ret | Ret | Ret | 16 | DSQ | 8 | Ret | 12 | Ret | 12 | Ret | Ret | Ret | 9 | Ret | Ret |
参照
[編集]- ^ 『トヨタWRCのすべて』 2018年4月15日 三栄書房刊
- ^ http://www.juwra.com/peugeot_season_1984.html
- ^ ラリプラ208 R2 全日本ラリー参戦プロジェクト rally plus
- ^ “Motor Racing: Warwick on top of world - Sport”. London: The Independent. (1992年8月31日) 2010年3月26日閲覧。
- ^ プジョーが初めて作り上げたグループCカー『PEUGEOT 905』 クルマを文化するAuto Messe Web 2019年3月1日
- ^ Dagys, John. “Peugeot 908 Bids Farewell”. Web. SPEED.com. 2012年2月5日閲覧。
- ^ [1]
- ^ プジョーが2022年ル・マン/WEC参戦マシン『9X8ハイパーカー』を正式発表 - オートスポーツ・2021年7月6日
- ^ プジョー、2022年のル・マン参戦見送りを発表。『9X8』は競争力を高め今夏デビューへ/WEC - オートスポーツ・2022年2月26日
- ^ “プジョー9X8、WEC第4戦モンツァでのデビューが決定。ロシターがレースドライバーに”. autosport web. 2022年5月21日閲覧。
- ^ プジョー製作・1989年
- ^ 世界ラリークロス:プジョー、ローブとともに2018年以降もワークス体制継続を表明