「内田裕也」の版間の差分
m →経歴・人物: Wikipedia:曖昧さ回避へのリンクの修正, replaced: ラグビー → ラグビー |
|||
326行目: | 326行目: | ||
[[Category:日本の音楽プロデューサー]] |
[[Category:日本の音楽プロデューサー]] |
||
[[Category:日本の男優]] |
[[Category:日本の男優]] |
||
[[Category:日本の悪役俳優]] |
|||
[[Category:日本の映画の脚本家]] |
[[Category:日本の映画の脚本家]] |
||
[[Category:過去の芸映所属者]] |
[[Category:過去の芸映所属者]] |
2022年10月19日 (水) 19:55時点における版
内田裕也 | |
---|---|
新興音楽出版社『ミュージック・ライフ』第13巻第5号(1963)より | |
基本情報 | |
生誕 | 1939年11月17日 |
出身地 | 日本 兵庫県西宮市 |
死没 | 2019年3月17日(79歳没) |
ジャンル |
ロック ロカビリー |
職業 |
歌手 音楽プロデューサー |
担当楽器 | ボーカル |
活動期間 | 1959年 - 2019年 |
公式サイト | 内田裕也オフィシャルサイト |
うちだ ゆうや 内田 裕也 | |||||
---|---|---|---|---|---|
本名 | 内田 雄也 | ||||
生年月日 | 1939年11月17日 | ||||
没年月日 | 2019年3月17日(79歳没) | ||||
出生地 | 日本 兵庫県西宮市 | ||||
死没地 | 日本 東京都 | ||||
身長 | 174cm | ||||
血液型 | B型 | ||||
職業 |
俳優 脚本家 タレント | ||||
ジャンル |
映画 テレビドラマ | ||||
活動期間 | 1966年 - 2019年 | ||||
配偶者 | 樹木希林(1973年 - 2018年死別) | ||||
著名な家族 |
内田也哉子(娘) 本木雅弘(娘婿) 内田伽羅(孫) | ||||
公式サイト | 内田裕也オフィシャルサイト | ||||
主な作品 | |||||
『コミック雑誌なんかいらない!』 『魚からダイオキシン!!』 | |||||
|
内田 裕也(うちだ ゆうや、1939年11月17日 - 2019年3月17日[1])は、日本のミュージシャン、俳優。本名は内田 雄也(読み同じ)。身長174cm。血液型はB型。
兵庫県西宮市に生まれ[1]、1959年に日劇ウエスタンカーニバルで本格的にデビュー。以降、内田裕也とザ・フラワーズのヴォーカリスト、フラワー・トラベリン・バンドのプロデュース活動などを経て、1970年代後半からは俳優としても活動し映画出演や映画監督なども手掛ける。また、映画『コミック雑誌なんかいらない!』や『エロティックな関係』などでは脚本も担当した。映画の代表作には他に『水のないプール』『十階のモスキート』『魚からダイオキシン』などがある。若松孝二監督の作品に出演した。口癖は「ロックンロール」(Rock'n Roll)。
妻は俳優の樹木希林。娘は内田也哉子。内田也哉子と結婚した本木雅弘は娘婿に当たる。
経歴・人物
父・鐵蔵(1969年12月28日 81歳没)、母・壽子(1985年1月29日 88歳没)の間に兵庫県に生まれ、大阪府堺市で育つ[2]。堺市立大美野小学校〜堺市立三国丘中学校入学(1952年)[2]。中学二年の時、清教学園中学校に転入(一期生)[2]、翌1953年、大阪市立旭陽中学校へ転入[2]。1955年、大阪府立旭高等学校へ入学[2]。少年時代は発明に凝るなど、真面目で勉強熱心なタイプで、清教学園中学時には生徒会副会長を務める[2]。中学ではラグビー部、高校では野球部に所属[2]。しかし、エルヴィス・プレスリーに憧れたことで学校をドロップアウトし、旭高等学校を退学して1956年、大阪府立三国丘高等学校に転校する[2]。1957年、高校卒業後、日本大学法学部の夜学を中退。
バンドボーイとして音楽生活を開始し、間もなく佐川ミツオ(現・佐川満男)とともにバンドボーイ兼ボーカルとしてロカビリー・バンドのブルー・キャップスを結成する[2]。
1958年、自身がバンドマスターのブルージーン・バップスを結成。メンバーには美川鯛二(現・中村泰士)、北原謙二などがいた[2]。
1959年、大手芸能事務所である渡辺プロダクションに所属し、同年に日劇ウエスタンカーニバルへ初出場する。
1960年、かまやつひろしなどとサンダーバードへ参加するが、ジャズ志向が強いバンドであったため脱退し、山下敬二郎とレッド・コースターズ、田川譲二とダブル・ビーツなどのバンドを渡り歩く。
1962年、寺内タケシとブルージーンズにヴォーカリストとして参加する。
1963年、恩地日出夫監督の『素晴らしい悪女』に映画初出演。その後も、1965年公開の『エレキの若大将』に勝ち抜きエレキ合戦の司会者役で出演し、「レディース&ジェントルメン、マイ・ネーム・イズ・ショーン・コネリー...なんてなことを言っちゃったりして」、「シャークス...シャーク(癪)な名前ですね」などのジョークを交えた軽妙なセリフと演技が見られる。
1960年代中頃から、ベンチャーズやビートルズの影響により、ロック色を強めた活動に転換していく。1966年6月のビートルズ日本公演では、尾藤イサオとのツインボーカル、バックにジャッキー吉川とブルーコメッツ、ブルージーンズを従えた特別編成のバンドで前座として出演(「ウェルカム・ビートルズ」など数曲を演奏)する。同年には大阪のジャズ喫茶・ナンバ一番で活動していたファニーズ、のちのザ・タイガースをスカウトする。東京へ活動の場を移しジャズ喫茶・新宿ACBなどからステージ・再デビューや内田のバック・バンドを足がかりに活動を広げる計画を持ちかける。しかし諸事情で
1967年、春頃から3か月ほどヨーロッパに渡る。オーストリア、ドイツ、イタリア、スペイン、ロンドン、フランスを放浪し、クリーム、ジミ・ヘンドリックス、ピンク・フロイド、ジャニス・ジョプリンなどの新しいロックを体験する。その経験を活かし、同年11月に麻生レミをヴォーカルとして内田裕也とザ・フラワーズを結成し、ジャニス・ジョプリンやジェファーソン・エアプレインなどのカバーを中心に、ジャズ喫茶でのライヴ活動を展開する(レコード・デビュー前の音源として、一柳慧の「オペラ横尾忠則を唄う」〈正式な発売は1970年3月〉がある)。
1969年、1月にフラワーズのデビュー・シングル「ラスト・チャンス」、同年7月にはジャケットにメンバーのヌード写真を使用したアルバム「チャレンジ!」が発売されるが、志とは裏腹にセールスには繋がらなかった。
1970年、前年年末にフラワーズへ参加したジョー山中(ヴォーカル、元・4.9.1〈フォー・ナイン・エース〉)、石間秀樹(リードギター、元・ビーバーズ)によりサウンド面が強化され、1970年1月26日に開催されたコンサート「ロックンロール・ジャム'70」(同録音は後にレコード化される)では石間がシタールを使用するなど、意欲的な演奏であったが、同時期にメンバーの麻生レミと小林勝彦(スチール・ギター)が渡米のため脱退する。このため、メンバーを新たにピックアップして同年春にはフラワーズをフラワー・トラベリン・バンドとして再編成するが、自身はヴォーカルを降りてプロデュースを担当する。同年10月にデビュー・アルバム「Anywhere」を発表する。日本万国博覧会(通称・大阪万博)で出会ったバンド、ライトハウスのプロデュースを手掛けていたヴィンセント・フスコーが興味を持ったことやオリジナル曲によるアルバム製作も可能となったため、12月には自身とメンバーがカナダへと渡った。
1971年、4月に当時発足したばかりのワーナー・パイオニア(現:ワーナーミュージック・ジャパン)のアトランティック・レーベルから、フラワー・トラヴェリン・バンドとして2枚目のアルバムとなる『SATORI』を発売。その後、1972年2月にライトハウスのキーボード奏者ポール・ホファートのプロデュースによる3枚目のアルバム『Made in Japan』、1973年2月にはカナダより凱旋帰国後に行われた1972年9月16日の横須賀文化会館でのライブ音源に、スタジオ録音の新曲を加えた2枚組として4枚目のアルバム『Make Up』を発売するが、1973年4月の京都円山公園でのコンサートを最後にフラワー・トラベリン・バンドは活動を休止する。
1973年、初のソロアルバム『ロックンロール放送局(Y.U.Y.A 1815KC ROCK'N ROLL BROADCASTING STATION)』を発表。10月には悠木千帆(現・樹木希林)と結婚。12月には年越しロックイベント「フラッシュ・コンサート」を開催する。
1974年8月にワンステップフェスティバル、1975年8月に第1回ワールドロック・フェスティバルの主催、ジェフ・ベックやニューヨーク・ドールズなどの来日に尽力するなど、1970年代中盤からは国外アーティストの
1970年代後半からは映画俳優としても活躍し、神代辰巳監督の『嗚呼!おんなたち 猥歌』では、本人のキャラクターを活かした歌手役を演じた。また、『コミック雑誌なんかいらない!』『魚からダイオキシン!!』では脚本・主演を兼ね、一定の評価を得た。
1979年1月、妻の樹木が『ムー一族』の打ち上げパーティーの席上、番組プロデューサーの久世光彦と番組出演者の不倫を暴露し騒動となる。騒動を聞きつけた内田はパーティー会場へ乗り込もうとするが、入店を断られたため店員と押し問答となった揚句、パトカーが出動する騒ぎを起こした[6]。
1981年、離婚届を区役所に提出するも、樹木は離婚を認めず、訴訟となり、離婚無効との判決が下る。
1991年にはアントニオ猪木が一度出馬表明しながら撤回したことに触発され東京都知事選挙に立候補し、対立候補である浜田マキ子と共闘。政見放送の冒頭から10秒間の沈黙の後アカペラで「パワー・トゥ・ザ・ピープル」、後半にも「コミック雑誌なんかいらない!」を歌い、英語及びフランス語で主張を演説した[7][注釈 2]。また選挙戦最終日の4月6日の街頭演説では対立候補である「鈴木俊一」と書かれたたすきを帯び、ほとんど演説をしないまま演奏に終始し、最後は「明日は投票日、絶対に入れないでください」との言葉で締めた[7]。選挙公報は「NANKA変だなぁ! キケンするならROCKにヨロシク! Love&Peace Tokyo」とだけ手書きで書かれた物だった。マスコミへのアピール時に政策をフリップ(放送用の手書きボード)に書き込むことを求められた際、「GOMISHUSHUSHA NO TAIGUU O KAIZEN SURU」(ゴミ収集者の待遇を改善する)とローマ字で政策を書いた。以上、数々のエピソードを作り(この模様は映画『魚からダイオキシン!!』にて一部見ることができる)、メディアからは「売名出馬の泡沫候補」と批判され、結果的には落選したが、無所属(政党推薦候補除く)ではトップの票(5万4654票、16人中5位)を獲得した。
シンガーでありながら1985年に発売した「アニー FOR A CHEEK TIME(Annie For A Cheek Time)」以来シングル盤を発表していなかったが、2014年6月11日に29年ぶりにシングル盤としてエイベックスから「シェキナベイベー」[注釈 3]を指原莉乃(HKT48)とのコラボレーション・デュエットという形で発売した[8]。
2017年11月には脱水症状を起こして緊急入院する[1]など、晩年は怪我や病気が続いたことで体力が低下し、自身が主催する恒例の年越しライブ「New Years World Rock Festival」では2017・18年と車椅子での出演となった[1]。
2018年9月15日に妻の樹木と死別。その約半年後となる2019年3月17日5時33分、肺炎のため東京都内の病院で死去[1][9]。79歳だった。
同年4月3日、青山葬儀場でお別れの会が開かれ、AI、堺正章、指原莉乃、竹中直人、ダイアモンド☆ユカイ、浅田美代子、鮎川誠、崔洋一、尾藤イサオ、DJ KOO、PANTA、田代まさし、郷ひろみ、氏神一番、巻上公一、秋元康、南部虎弾、ギュウゾウ、ビートたけし、美勇士ら950人が参列した[10][11][12][13][14]。戒名は「和響天裕居士」[10][11]。
ニューイヤーズワールドロックフェスティバル(New Years World Rock Festival)
沿革
「打倒!NHK紅白歌合戦」をテーマとして、1973年12月に年越しロックイベント「フラッシュ・コンサート」を渋谷西武劇場(現:PARCO劇場)にて開催。以降、2019年まで毎年12月31日に開催されている。イベント名・開催会場は度々変わっている。
名称については「浅草ROCK'N'ROLL VOLUNTEER」、「スモーキン・クリーンコンサート」、「New Year Rock Festival」を経て、2007年からは「New Years World Rock Festival」の名称で実施。開催会場は一時は浅草の国際劇場やロックンロック、ロック座で行われた時期もあるが、2008年(36回)から東京会場は銀座の博品館劇場をメイン会場に据えるようになっている。
ライブの模様はフジテレビでダイジェスト放送されている。
2020年は「新生New Year Rock Festival」として、無観客かつ生配信での公演が予定されている。(会場:神田明神ホール)
開催国の拡大
2004年から中国(2004から2011年と2014年は上海、2012年・北京)、2005年から韓国(ソウル)、2006年からアメリカ(ニューヨーク等)、2008年と2009年はカナダ(トロント)、2010年からイギリス(ロンドン)、2013年から台湾(台北)、2014年にはロシア(モスクワ)と年々開催国が増え、2009・2013・2014年にはこれまでで最大規模となる5カ国6都市で同時開催されている。また、2013年からは日本国内において2都市同時公演を東京と石巻(2015年は福島)で行っており、東北開催ではその地ゆかりのアーティストが参加している。2019年は国外での開催はなく、16年ぶりに日本のみで開催された。
参加者
内田の交友関係により集まったアーティストが中心となっている。
【常連(古参)】白竜、シーナ&ザ・ロケッツ、THE NEWS、石橋勲BAND、頭脳警察(PANTA)、近田春夫/活躍中、氏神一番/カブキロックス、陣内孝則/ザ・ロッカーズなどに加え、故人となったジョー山中、桑名正博、安岡力也が生前までほぼ毎年参加していた。
【常連(近年)】カイキゲッショク、新月灯花、高木完、高樹町ミサイルズ(Vo.中村獅童)、原田喧太(原田芳雄の長男)/KATAMALI、美勇士(桑名正博の長男)/トライポリズムなど。
【常連以外】ビートたけし、原田芳雄、宇崎竜童、かまやつひろしなどが数回出演した他、沢田研二、キャロル、本木雅弘、RCサクセション、アナーキー、あぶらだこ、THE MODS、ルースターズ、HOUND DOG、P-MODEL、BOØWY、ラッツ&スター、ザ・スターリン、松田優作、JAGATARA、つんく♂、ヒカシューなどが過去の参加者として名を連ねている。
2020年は美勇士が17年ぶりに単独名義で参加する他、AI(カイキゲッショク・HIROの妻)、Zeebraらロック畑以外のアーティストもラインナップされている。(予定)
家族
『SWITCH』誌にて、本木も含む家族全員の記念写真が掲載されたり、孫の七五三を報じるワイドショーでは、内田裕也は不在だったが、一家の祝い事を撮影するジョー山中の姿が全国にオンエアされたこともある。女優の内田伽羅は孫[15]。
エピソード
- 自身の自虐ネタにもなっている位にヒット曲といえるものはない。また、日本のロックの
首領 ()(関西では「関西のロック界の首領 ()」と称される)とされているが、実態はほとんどない[16]。 - 『YOUNG GUITAR』1972年7月号での大滝詠一との対談で「おれは、フォークとロックの違いというのは、結局Drugをやってるか、やってないかの違いだと思う。日本の場合だと、わりと健康、健康ムードで、LSDのようなものはヘビー過ぎてあれだろうけど、Grassぐらい別に日本でも売っておかしくない世の中になるんだと思う」と発言、大滝に「Drugは、音楽する人には必要ないと思う」と反論された。これに内田は「アメリカではDrug常用者の80%がロック・ミュージックが好きだということを考えれば、日本でも。そういうことが絶対にあると思う」などと、日本での麻薬合法化を期待する発言を行なった[17]。
- 映画『花園の迷宮』で共演した島田陽子と不倫関係に入る。きっかけは同作品で内田が島田洋子をレイプする役どころであり、当初は島田も不信感を抱いていたところへ内田から「この撮影をしても、あなたの品位はなんら貶められません」と訴える長文の手紙が丁寧な字で届いた。島田は誠意が尽くされたその文面に心を動かされたという。また、撮影が終わると内田が花束を持って待っていてくれたりしたことから交際がスタート[18]。だが後に破局(DVもあった)。内田が1991年東京都知事選挙に出馬した際、島田は内田に選挙カーを提供するなどの支援をしたが、その際に方々から数億ともいわれる膨大な借金をし、破局後それに関するトラブルを多数引き起こす。これが現在に至るまで、内田の死後も尾をひくこととなり、女優としてのキャリアに暗い影を落とした[19][20]。
- 内田が主演を務めた日活ロマンポルノの映画『嗚呼!おんなたち 猥歌』(1981年、監督:神代辰巳)のヒロインに高畑淳子が抜擢されたが、撮影直前になって高畑が出演を取りやめた(代役は中村れい子)[21][22]。内田はこの件で高畑を許しておらず[21][22]、「会ったら蹴飛ばしてやろうと思ってんだけど、なかなか会わねぇんだよね」[23]「怒りは未だに収まらない」[21]「今思い出しても腹が立つ」[22]といった言葉を残している。
- 2011年4月6日に東日本大震災で被災した宮城県石巻市で炊き出しを行なった。ピザ・野菜スープ400食、ロックにちなんだバナナ690本、ミカン690個を被災者に配布した[24]。
- 先述の指原莉乃とのデュエット曲発売の関係で、2014年7月13日に福岡市の海の中道海浜公園で開催されたHKT48コンサート「可愛い子にはもっと旅をさせよ」に出演、「裕也」コールや「超絶かわいい裕也」など、アイドルのコンサートならではのかけ声を浴びた内田は出番を終えた後「俺の一生の中でも忘れられないコンサートになりました」と振り返った[25]。
- 『NHK紅白歌合戦』には出場歴がない(先述)一方、2013年9月13日放送のNHK総合テレビ『あさイチ』出演時、「いつか紅白に出て見返したい」と語った[26][27]。
- 代名詞ともいえるフレーズ「シェキナベイベー(シェキナ)」は『ロック・サーフィン・ホット・ロッド』収録の「ツイスト・アンド・シャウト」にて歌詞中の“Shake it up Baby”を歌ったもので、後にグッチ裕三のモノマネから広がって内田自身を代表するフレーズとなった。後にシングル「シェキナベイベー」のタイトルともなった。
逮捕・犯罪歴
- 1977年9月に佐世保警察署に大麻取締法違反の疑いで逮捕され(事情聴取後、起訴猶予処分)[28][29][30][31]、釈放後の『週刊文春』のインタビューでは「マリワナに関して、くどくど弁解などしたくない。オレは10年前からやってるわけで、いつかはやられるだろうと思ってた。ただね、ひとつだけ言っとくと、あれによって音楽が変わるかというけど、そんなにたいそうなもんじゃないよ。まあ、アルコールは人を攻撃的にするよね。酔うと悪口の言い合いになったりする。その点マリワナは、決して攻撃的にならない。やさしく包んでくれる。そういう意味では、アルコールよりも健康的なわけで、ただそれだけのことだよ」と持論を述べた[31]。
- 2011年5月13日、交際中の女性に別れ話をされた際に女性を脅迫し、女性の自宅に侵入した容疑で逮捕された。逮捕容疑は4月2日、交際していた50歳の女性会社員に別れ話を持ちかけられ、復縁を迫ろうと、「会社に連絡した。内容は、暴力団と交際している。アブリ[注釈 4]をやっている。まだ実名は言ってない!よく考えて一週間以内にTELLを!今ならまだ間に合う!」(原文ママ)などと書いた文章を女性宅のポストに
投函 ()した。さらに同月19日、女性宅を自分の家と偽って鍵屋に頼んで鍵を無断で交換し、女性宅に侵入したとしている。帰宅した女性が110番通報し、内田は同署で事情を聴かれた。交際していた会社員の女性に対し、2011年4月2日に女性宅のポストに復縁を強要する内容の文書を投函し、4月19日には女性宅の玄関の鍵を付け替えて侵入をして、警視庁原宿署は2011年5月13日に強要未遂と住居侵入の疑いで逮捕した。玄関の鍵が開かないことを不審に思っているところに内田が部屋の中から出てきたという[32]。2011年3月にはストーカー行為を110番通報され、4月には被害届も提出されていた。2011年5月31日に起訴猶予処分で原宿署から釈放され[33]、6月3日に銀座博品館劇場にて謝罪会見を行った[34][35]。
作品
シングル
- ひとりぼっちのジョニー/ヤング ワン(1963年)
- 破れたハートを売り物に/メダルのジョーイ(1963年)
- 悲しき悪魔/キューティー・パイ(1963年)
- ブルージーンと皮ジャンパー/ジプシー・キャラヴァン(1964年)
- ラスベガス万才/ロール・オーバー・ベートーベン(1964年)
- スイムで行こう/ラン ラン ラン(1965年)
- 「スイムで行こう」はエルヴィス・プレスリー、「ラン ラン ラン」はザ・ジェスチャーズの楽曲。
- マンジョキロックンロール/ジョキ安ブギ」(内田裕也と1815ロックンロールバンド名義)(1974年)
- きめてやる今夜(Gonna Make It Tonight)/レッツ・ツイストNo.1(Let's Twist No.1)(1977年)[注釈 5]
- いま、ボブ・ディランは何を考えているか(What's Happening, Mr.Dylan?)/アニーよ銃をとれ!(Annie Get Your Guns)(1978年)
- 無礼講(Sake,Women & My Life)/ONE NIGHT ララバイ(One Night Lullabye)(1979年)
- 長いお別れ(The Long Goodbye)/さらば愛しき女よ(Farewell My Lovely)(1982年)
- 雨の殺人者(Killer In The Rain)/ローリング・オン・ザ・ロード(テーマ・オブ「ロックンロールBAKA」)(1982年)
- アニー FOR A CHEEK TIME(Annie For A Cheek Time)(1985年)/コミック雑誌なんかいらない(No More Comics)(1985年)
- シェキナベイベー(内田裕也feat.指原莉乃名義)(2014年)
アルバム
- ロック・サーフィン・ホット・ロッド(尾藤イサオ+内田裕也)(1964年)
- レッツ・ゴー・モンキー(尾藤イサオ+内田裕也)(1965年)
- Challenge!(内田裕也とフラワーズ)(1969年)
- ロックンロール放送局(Y.U.Y.A 1815KC ROCK'N ROLL BROADCASTING STATION)(1973年)
- エキサイティング! ロックンロールパーティ(内田裕也と1815スーパーロックンロールバンド)(1973年)
- HOLLYWOOD(内田裕也 & ザ・ヴェンチャーズ)(1975年)
- ア・ドッグ・ランズ(1978年)
- さらば愛しき女よ(1981年)
- NO MORE COMICS(1985年)
出演作品
テレビドラマ
- ザ・ガードマン(1966年、大映テレビ室・TBS)第87話「檻の中の女」
- 三匹の侍 第5シリーズ 第5話「獣」(1967年、フジテレビ) - ふうてんの仙太 役
- 七人の刑事(1978年・TBS)第28話「悲しきチェイサー」
- 翔んでる警視(1986年・TBS)
- スターライト・キッズ 新・北斗七星伝説(1988年・TBS)
- 美少女新世紀 GAZER(1998年・テレビ朝日)第4話・第5話
- 警視庁捜査二課・郷間彩香 特命指揮官(2016年) ‐ 伊藤重太郎 役
映画
- 素晴らしい悪女(1963年)
- エレキの若大将(1965年)
- クレージーだよ奇想天外(1966年)
- お嫁においで(1966年)
- パンチ野郎(1966年)
- リオの若大将(1968年)
- コント55号 世紀の大弱点(1968年)
- 恋のつむじ風(1968年)
- 昭和元禄 TOKYO・196X年(1968年)
- ザ・タイガース 華やかなる招待(1969年)
- ドリフターズですよ! 特訓特訓また特訓(1969年)
- ドリフターズですよ!全員突撃(1969年)
- 野蛮人のネクタイ(1969年)
- キャロル(1974年)
- 炎の肖像(1974年)
- 不連続殺人事件(1977年)
- 実録不良少女 姦(1977年)
- 新宿乱れ街 いくまで待って(1977年)
- 最も危険な遊戯(1978年)
- エロチックな関係(1978年)
- 桃尻娘 ピンク・ヒップ・ガール(1978年)
- 餌食(1979年)
- スーパーGUNレディ ワニ分署(1979年)
- 夢一族 ザ・ライバル(1979年)
- 赤い暴行(1980年)
- 少女娼婦 けものみち(1980年)
- ヨコハマBJブルース(1981年)
- 無力の王(1981年)
- 嗚呼! おんなたち 猥歌(1981年)
- 水のないプール(1982年)
- コールガール(1982年)
- さらば相棒(1982年)
- 十階のモスキート(1983年)
- 戦場のメリークリスマス(1983年)
- コミック雑誌なんかいらない!(1986年)
- さらば愛しき人よ(1987年)
- 花園の迷宮(1988年)
- 座頭市(1989年)
- ブラック・レイン(1989年)
- 魚からダイオキシン!!(1992年)
- エロティックな関係(1992年)
- 共犯者(1999年)
- 修羅のみち2 関西頂上作戦(2002年)
- 実録・安藤昇侠道伝 烈火(2002年)
- すてごろ 梶原三兄弟激動昭和史(2003年) - 『少年マガジン』編集長 牧野武朗 役
- 赤目四十八瀧心中未遂(2003年)
- IZO(2004年)
- ザ・ゴールデン・カップス ワンモアタイム(2004年)
- JOHNEN 定の愛(2008年)
- 総長を護れ(2010年) - 六代目渋谷一家総長 板倉ケイジロウ 役
- 星くず兄弟の新たな伝説(2018年)
コンサート
- ザ・ビートルズ日本公演 (前座) (1966年)
- Dream Power ジョン・レノン スーパー・ライヴ (2003年)
CM
- ビッグジョン「天然インディゴ」
- マンダム「GATSBY」(娘婿の本木雅弘との共演、1996年)
- リクルート「ゼクシィ Get Old with Me」(妻の樹木希林との共演)[36]
- 大日本除虫菊「タンスにゴン」(ちあきなおみとの共演、1991年)
- スニッカーズ
- イシダ
- セレミューズ株式会社 (2015年11月1日- 、近畿地方のみ放映)[注釈 6]
- 日清食品「日清焼そばU.F.O.」(2018年)
- サンコーインダストリー - CMは内田の没後も放映され、画面下部には内田の冥福を祈る旨のテロップが挿入されている。
MV
その他
- 絶対に笑ってはいけない熱血教師24時(友情出演)
著書
- 「音楽をどう生きるか 内田裕也対談集」 中村とうよう編 創樹社, 1974年
- 「俺はロッキンローラー」 高平哲郎構成 講談社 1976年(2009年、復刻版として廣済堂文庫より発売)
- 「JOHNNY TOO BAD 内田裕也」モブノリオ/内田裕也 文藝春秋 2009年
- 「内田裕也俺は最低な奴さ」 白夜書房 2009年
- 「ありがとうございます」 幻冬舎アウトロー文庫 2014年
脚注
注釈
出典
- ^ a b c d e 「内田裕也さん逝く 79歳 希林さんの死から半年 もう聞けない“ロケンロール" - スポニチ Sponichi Annex 芸能」『スポーツニッポン』スポーツニッポン新聞社、2019年3月18日。2019年3月18日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j 『ぼくのしょうらいのゆめ』プチグラパブリッシング、2006年7月7日、33頁。ISBN 978-4-903267-33-3。
- ^ “内田裕也、阪神は「ロックな勢いバリバリ」”. 日刊スポーツ. (2014年12月18日) 2017年12月26日閲覧。
- ^ 週刊ポスト2019年4月19日号、p122
- ^ http://www.nikkansports.com/ > ホーム > 芸能 > ニュース
- ^ “芸能界スキャンダル史”. 日刊ゲンダイ (日刊現代): 13面. (2013年3月7日)
- ^ a b 『ミュージック・マガジン』1991年5月号、ミュージック・マガジン、171-172頁。
- ^ “内田裕也&さしこ 53歳差デュエット「シェキナベイベー」”. スポニチ Sponichi Annex (スポーツニッポン新聞社). (2014年4月23日) 2016年10月10日閲覧。
- ^ 内田裕也さん死去 79歳、肺炎で…Rock'n Roll人生を全う、樹木希林さん死去から半年 - スポーツ報知 2019年3月18日
- ^ a b 内田裕也さん「僕は今あの世にいます」ロックンロール葬で肉声公開…動く遺影など異例のお別れ会に『スポーツ報知』2019年4月3日
- ^ a b 「安らかに眠るな」内田裕也さん ロックンロール葬『産経新聞』2019年4月3日
- ^ 内田裕也さん「ロックンロール葬」 指原莉乃さんら参列『朝日新聞』2019年4月3日
- ^ 内田裕也さんしのぶ「Rock’n’Roll葬」NHKニュース、2018年4月3日
- ^ 「僕は今、あの世にいます」ロック人生貫いた内田裕也のRock'n Roll葬『音楽ナタリー』2019年4月3日
- ^ “祖母・樹木希林が高評価 15歳の内田伽羅に宿る“怪優”の素質”. Yahoo!ニュース. 日刊ゲンダイ (Yahoo Japan). (2015年4月8日). オリジナルの2015年4月20日時点におけるアーカイブ。 2015年4月20日閲覧。
- ^ “「ヒット曲もなく」内田裕也は本当に「ロック界のドン」なのか”. ライブドアニュース. 日刊サイゾー (LINE). (2011年5月21日) 2016年10月10日閲覧。
- ^ 『フォーク黄金時代 FOLK OF AGES 1969-1978』シンコーミュージック、1992年11月、67頁。ISBN 4-401-61406-2。
- ^ “島田陽子さん「妹が葬儀拒否」の寂しき最期…“ハワイで足蹴り“樹木希林さんと同じ粒子線治療の数奇な因縁”. SmartFLASH. (2022年8月2日11:00)
- ^ ““国際女優”島田陽子をドン底に突き落とした内田裕也に山路氏批判の資格ナシ!”. 日刊サイゾー (サイゾー). (2011年1月4日) 2016年10月10日閲覧。
- ^ “DV癖も…トラブル“常習犯”内田裕也、本当の素顔!”. ZAKZAK (産経デジタル). (2011年5月16日) 2016年10月10日閲覧。
- ^ a b c “「消えた主役」名作ドラマ・映画の知られざる“交代劇”(2)観月ありさが「高校教師」女子高生役を断った理由”. アサ芸プラス (2016年9月11日). 2020年4月7日閲覧。
- ^ a b c 伊藤徳裕 (2016年12月10日). “内田裕也が暴露&激怒 共演をドタキャンした“あの女優”に「今思い出しても腹が立つ」”. 産経ニュース: pp. 1・2ページ 2020年4月7日閲覧。
- ^ 内田裕也『俺は最低な奴さ』白夜書房、2009年、[要ページ番号]頁。ISBN 978-4-86191-525-3。
- ^ “内田裕也 ピザ車で参上!石巻市で炊き出し”. スポニチ Sponichi Annex (スポーツニッポン新聞社). (2011年4月7日) 2016年10月10日閲覧。
- ^ “HKT48 たどり着いた「伝説の一日」 単独アリーナツアー「可愛い子にはもっと旅をさせよ」福岡市で千秋楽”. 西日本スポーツ (西日本新聞社). (2014年7月18日) 2014年7月19日閲覧。
- ^ “内田裕也、22年ぶりNHKで「ロックンロール!」 紅白出演に意欲も”. ORICON NEWS (オリコン). (2013年9月13日) 2017年12月26日閲覧。
- ^ “『あさイチ』登場の内田裕也をグサリ、有働由美子アナの一言”. サイゾーウーマン (サイゾー). (2013年9月23日) 2017年12月26日閲覧。
- ^ 敏いとう「俺が見てきた芸能界薬物汚染40年」の闇真相(1)研ナオコが声を詰まらせた
- ^ 「実刑もありうる」内田裕也容疑者の前歴…大麻に銃刀法違反も
- ^ 内田裕也、ASKA容疑者に喝 関連商品発売中止には苦言
- ^ a b 藤原邦洋「ミュージック・スポット」『週刊文春』1977年(昭和52年)12月22日/29日号、文藝春秋、1977年、119頁。
- ^ “ロックミュージシャン内田裕也容疑者を逮捕 交際女性に復縁迫る”. MSN産経ニュース (産経デジタル). (2011年5月13日). オリジナルの2011年5月15日時点におけるアーカイブ。
- ^ “「よろしくロックンロール」内田裕也容疑者 起訴猶予で釈放”. スポニチ Sponichi Annex (スポーツニッポン新聞社). (2011年6月1日) 2016年10月10日閲覧。
- ^ “内田裕也「釈明ショー」に取材陣は失笑”. nikkansports.com (日刊スポーツ新聞社). (2011年6月4日) 2016年10月10日閲覧。
- ^ “内田裕也 赤裸々告白「娘が口をきいてくれない」”. スポニチ Sponichi Annex (スポーツニッポン新聞社). (2011年6月4日) 2016年10月10日閲覧。
- ^ 内田裕也 - オリコンCM出演情報
- ^ “神戸アイドルKOBerrieS、ニューシングルでガガガ山本や内田裕也とコラボ”. 音楽ナタリー. ナターシャ (2015年8月26日). 2015年8月27日閲覧。
外部リンク
- 内田裕也オフィシャルサイト
- ニューイヤー・ロック・フェスティバル公式サイト
- 内田裕也 (@UCHIDAYUYA) - X(旧Twitter)
- 内田裕也 - 日本映画データベース
- 内田裕也 - allcinema
- 内田裕也 - KINENOTE
- Yûya Uchida - IMDb
- 内田裕也 - テレビドラマデータベース