「日本のコーヒー文化」の版間の差分
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本項では、'''日本のコーヒー文化'''(にほんのコーヒーぶんか)について解説する。[[コーヒー]]は、[[16世紀]]から17世紀の間にオランダ人とポルトガル人によって日本にもたらされた飲料だが、20世紀に入ってからは急速にその人気が高まった。日本の{{仮リンク|コーヒー文化|en|Coffee culture}}は、社会のニーズに応じて変化を続けてきたが、今日では日本の都市文化における[[喫茶店]]・[[カフェ]]はニッチな業界といえる。 |
本項では、'''日本のコーヒー文化'''(にほんのコーヒーぶんか)について解説する。[[コーヒー]]は、[[16世紀]]から17世紀の間にオランダ人とポルトガル人によって日本にもたらされた飲料だが、20世紀に入ってからは急速にその人気が高まった。日本の{{仮リンク|コーヒー文化|en|Coffee culture}}は、社会のニーズに応じて変化を続けてきたが、今日では日本の都市文化における[[喫茶店]]・[[カフェ]]はニッチな業界といえる。 |
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== 特徴 == |
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[[ファイル:Donuts_and_Coffee_at_Rokuyosya.jpg|リンク=https://en-two.iwiki.icu/wiki/File:Donuts_and_Coffee_at_Rokuyosya.jpg|サムネイル|[[六曜社 (喫茶店)|六曜社]]のドーナツとミルクコーヒー([[京都市]])]] |
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日本のコーヒー文化は、世界のなかでももっともユニークなものの一つである。海外からみて興味深い習慣の一つに、提供する際、コーヒーカップの取っ手は左に、コーヒースプーンの持ち手は右に置かれる、というものがある<ref name=":3282">{{cite web |last1=Hoang |first1=Rochelle |last2=Hoang |first2=Viet |title=Coffee In Japan: 120 Years Of Mornings. |location=Tofugu |date=2014-04-29 |url=https://www.tofugu.com/japan/japanese-coffee/ |accessdate=2022-02-25}}</ref>。コーヒー自体が海外からもたらされた飲料であるから、日本におけるコーヒー文化もまた外国・西洋のものと位置づけられた。こうした認識が、第二次世界大戦中にコーヒーが禁止される原因ともなった。戦後の日本において、欧米の商品や製品は、新興の中流階級を測る指標だった<ref name=":03">{{Cite journal|last=Assmann|first=Stephanie|date=2013|title=Review of Coffee Life in Japan|journal=The Journal of Asian Studies|volume=72|issue=3|pages=728–729|doi=10.1017/S0021911813000910|issn=0021-9118|jstor=43553563}}</ref>。高級なコーヒーやコーヒー器具、そして挽き売りコーヒーは、まさにこうした商品の一つとなったのである。{{仮リンク|連合国占領期後の日本|en|Post-occupation Japan|label=主権回復後の日本}}では、[[ジャズ喫茶]]やコーヒーが、欧米にならって日本の文化・社会を近代化しようとした例であった。また喫茶店は、1960年代から1970年代頃の進歩的な若者にとっての文化的な拠点ともなり、[[ウーマン・リブ]]や[[日本の学生運動|学生運動]]、[[反政府運動]]に集会の場を提供した<ref name="grinshpun22">{{Cite journal|last=Grinshpun|first=Helena|date=2013-05-22|title=Deconstructing a global commodity: Coffee, culture, and consumption in Japan|journal=Journal of Consumer Culture|volume=14|issue=3|pages=343–364|doi=10.1177/1469540513488405|issn=1469-5405|s2cid=145248555}}</ref>。現代日本では、スターバックスコーヒーのような欧米のコーヒーフランチャイズも、ディズニーランドのフランチャイズと同じように国民的に愛好されている<ref name="grinshpun4">{{Cite journal|last=Grinshpun|first=Helena|date=2013-05-22|title=Deconstructing a global commodity: Coffee, culture, and consumption in Japan|journal=Journal of Consumer Culture|volume=14|issue=3|pages=343–364|doi=10.1177/1469540513488405|issn=1469-5405|s2cid=145248555}}</ref>。 |
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文化的な面でいえば、コーヒーは伝統的な{{仮リンク|日本における茶の歴史|en|History of tea in Japan|label=日本の喫茶文化}}([[喫茶文化]])とは大きく異なる。日本では、[[茶道]]がそうであるように、茶文化とは即ち社交であり、一座建立のためのイベントである。茶会とは、親友や客人へのもてなしや敬う気持ちを表現する場なのである。一方で日本人にとって、コーヒーは西洋のものであるだけでなく一人で楽しむ飲み物である。実際60年代から70年代にかけて、コーヒーは、社会に出て一人で働く[[ビジネスマン]]からの人気を獲得した<ref name="grinshpun32">{{Cite journal|last=Grinshpun|first=Helena|date=2013-05-22|title=Deconstructing a global commodity: Coffee, culture, and consumption in Japan|journal=Journal of Consumer Culture|volume=14|issue=3|pages=343–364|doi=10.1177/1469540513488405|issn=1469-5405|s2cid=145248555}}</ref>。日本のコーヒー文化にも、茶文化における社交とは根本から異なるとはいえ、社交の要素がないわけではない。しかし喫茶店・カフェとそこで提供されるコーヒーもまた社会的な役割を担ってはいるものの、社会に対して破壊的な側面を持っているところが茶とは根本的に異なる。こと1970年代から1980年代にかけては、日本における喫茶店は、ウーマン・リブや[[新左翼]]といった、既存の日本社会の破壊・変革をめざす社会運動にとっての集会の場となったからである<ref name=":022">{{Cite journal|last=Assmann|first=Stephanie|date=2013|title=Review of Coffee Life in Japan|journal=The Journal of Asian Studies|volume=72|issue=3|pages=728–729|doi=10.1017/S0021911813000910|issn=0021-9118|jstor=43553563}}</ref>。このように、コーヒーは日本のビジネスマンだけでなく、若き活動家のシンボルでもあるが、コーヒーのタイプによっては年齢層による断絶も明らかになる。[[ハワイ大学]]と[[桃山学院大学]]の教授が共同で執筆した、日本のコーヒー市場についての論文によれば、日本で[[インスタントコーヒー]]は一般的なものとして扱われている一方、挽き売り・[[焙煎]]コーヒー豆は{{仮リンク|贅沢品|en|luxury goods|label=ぜいたく品}}とされている<ref name=":22">{{Cite web |url=https://scholarspace.manoa.hawaii.edu/bitstream/10125/25536/ITS-037.pdf |title=The Coffee Market In Japan |last=Halloran |first=John |date= |website=scholarspace.manoa.hawaii.edu |url-status=live |archive-url= |archive-date= |access-date=2022-02-25}}</ref>。若者はインスタントコーヒーを好むが、経済的・社会的に成功した中流階級の大人は挽き売りコーヒーを好む<ref name=":22" />。 |
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== 歴史 == |
== 歴史 == |
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{{Seealso|日本における喫茶店の歴史}} |
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[[File:Japanese_Workers_in_Coffee_Sieving.jpg|リンク=https://en-two.iwiki.icu/wiki/File:Japanese_Workers_in_Coffee_Sieving.jpg|サムネイル|ブラジルの[[プランテーション|コーヒー・プランテーション]]で働く日本人労働者]] |
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[[1700年]]、コーヒーはオランダ人商人によって初めて日本にもたらされた<ref name=":32">{{cite web |last1=Hoang |first1=Rochelle |last2=Hoang |first2=Viet |title=Coffee In Japan: 120 Years Of Mornings. |location=Tofugu |date=2014-04-29 |url=https://www.tofugu.com/japan/japanese-coffee/ |accessdate=2022-02-25}}</ref>。鄭永慶が[[1888年]](明治21年)に開業した「可否茶館」は日本初の[[カフェ]]だったが<ref name=":4">{{cite web |title=UCC Ueshima Coffee Co., Ltd. Company. |publisher=UCC Ueshima Coffee Co., Ltd |accessdate=2019-10-29 |url=https://www.ucc.co.jp/eng/}}</ref>、これは5年後に破産している。1933年(昭和8年)、上島忠雄が[[神戸]]で上島忠雄商店(後の[[UCC上島珈琲]])を立ち上げる<ref name=":32" />。以後、上島は「日本のコーヒーの父」と呼ばれる様になった。[[第二次世界大戦]]中、日本は、コーヒーの生産地を勢力圏・植民地に持つ、欧米の[[連合国 (第二次世界大戦)|連合諸国]]と対立した。この事態によって、日本政府は1950年までコーヒーの輸入を禁止した<ref name=":4" />。また、政府のこの措置によって、戦時中の日本国内では[[代用コーヒー]]が出回っていた。 |
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=== 伝来 === |
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1969年、上島忠雄は[[缶コーヒー]]を再開発・大量生産し、コーヒーをどこでも飲めるような商品へと作り上げた。なお、上島のこの発明以前は、瓶入りコーヒーが一般的であった。缶コーヒー業界で著名なブランドとしては、[[ボス (コーヒー)|ボス]]([[サントリー]])、[[ジョージア (缶コーヒー)|ジョージア]]([[コカ・コーラ社]])、[[ネスカフェ]](ネスレ)、[[ルーツ (缶コーヒー)|ルーツ]]([[JT]]、2006年に販売終了)などが挙げられる<ref name=":323">{{cite web |last1=Hoang |first1=Rochelle |last2=Hoang |first2=Viet |title=Coffee In Japan: 120 Years Of Mornings. |location=Tofugu |date=2014-04-29 |url=https://www.tofugu.com/japan/japanese-coffee/ |accessdate=2022-02-25}}</ref>。 |
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==== 最初期の接触 ==== |
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[[ファイル:Nagasaki_Oranda_Yashiki_En_(Rissho_University_Library).jpg|サムネイル|コーヒーが伝来した長崎の出島]] |
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[[日本]]に[[コーヒー]]がもたらされたのは、[[17世紀]]末から[[18世紀]]頃と考えられている<ref name=":31">{{Cite book|和書|title=珈琲の世界史|date=2017-10-20|year=2017|publisher=株式会社講談社<講談社現代新書2445>|page=190|author=旦部幸博著}}</ref>。[[鎖国政策]]下で唯一[[交易]]が許されていた[[長崎]]の[[出島]]に[[オランダ]]商人によって持ち込まれたとされ<ref name=":0">{{Cite book|和書|title=コーヒーの歴史|date=2019-05-31|year=2019|publisher=株式会社原書房<「食」の図書館>|page=170|author=ジョナサン・モリス著・龍和子訳}}</ref><ref name=":61">{{Cite book|和書|title=珈琲の大事典|date=2011-09-20|year=2011|publisher=成美堂出版株式会社|page=248|author=成美堂出版編集部編}}</ref>、[[1706年]]([[宝永]]3年)の[[オランダ商館長]]の[[日記]]に、[[日本人]]に淹れさせたコーヒーを夕食時に飲んだとある<ref>{{Cite book|和書|title=コーヒーと日本人の文化誌-世界最高のコーヒーが生まれる場所|date=2018-06-20|year=2018|publisher=株式会社創元社|pages=117-118|author=メリー・ホワイト著・有泉芙美代訳}}</ref>。[[1724年]]([[享保]]9年)に時の[[将軍]][[徳川吉宗]]の命によって行われたオランダ商館長との対談の記録には、「我々には[[煎茶]]や[[番茶]]はないが、唐茶がある」とあり、この「唐茶」はコーヒーのことと考えられている<ref name=":54">{{Cite book|和書|title=コーヒーと日本人の文化誌-世界最高のコーヒーが生まれる場所|date=2018-06-20|year=2018|publisher=株式会社創元社|page=118|author=メリー・ホワイト著・有泉芙美代訳}}</ref>。 |
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日本人で初めてコーヒーを飲用した者についての確かな記録はないが<ref name=":31" />、出島に出入りしていた[[通詞]]([[通訳]])か[[蘭学者]]、または[[遊女]]であろうと推測される<ref name=":61" /><ref>{{Cite book|和書|title=コーヒーの事典|date=2008-04-01|year=2008|publisher=成美堂出版株式会社|page=148|author=田口護監修}}</ref>。[[1775年]]([[安永]]4年)に出島で[[医師]]として勤務に就いた[[カール・ツンベルク]]は<ref name=":54" />、「2~3人の通訳がかろうじてコーヒーの味を知っている程度」と記録している<ref name=":31" />。また、ツンベルクの通訳は、日本人にオランダ人の習慣を説明するため「コヒイは、オランダ人によって習慣的に飲まれている。その形状は[[えんどう豆]]や[[大豆]]のようだが、それは木になる。すりつぶし、お湯の中に入れてしばらく待ち、[[砂糖]]を加えて飲む。コヒイは我々にとって茶のようなものである」と書き残している<ref name=":54" />。 |
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蘭学者は、[[医学]]や[[植物学]]に関する書物の[[翻訳]]を通じてコーヒーを知り、日本人医師にその[[効能]]と[[処方]]を広めた<ref name=":54" />。日本で初めてコーヒーが記述された書籍は、[[1782年]]([[天明]]2年)刊行の[[志筑忠雄]]訳『万国管闚』である<ref>{{Cite book|和書|title=極める 愉しむ 珈琲事典|date=2018-01-05|year=2018|publisher=株式会社西東社|page=226|author=西東社編集部編}}</ref>。この頃、コーヒーは、[[食欲]]や[[活力]]の増進、[[消化]]促進や[[下痢止め]]などに効果があるとされており<ref name=":54" />、[[京都]]の[[蘭方医]]の広川獬によって[[1800年]]([[寛政]]12年)に刊行された『長崎見聞録』には<ref>{{Cite web |url=https://www.kufs.ac.jp/toshokan/gallery/50-10.htm |title=広川獬著 『長崎聞見録』 |access-date=2022-07-25 |publisher=学校法人京都外国語大学 |website=京都外国語大学付属図書館}}</ref>、「かうひいは蠻人煎する豆にて」「日本の茶を飲む如く常に服するなり」<ref name=":57">{{Cite book|和書|title=たべもの起源事典|date=2003-01-30|year=2003|publisher=株式会社東京堂出版|page=165|author=岡田哲編}}</ref>、「かふひぃは[[脾]]を運化し、溜飲を消し、気を降ろす。よく[[小便]]を通じ胸脾を快くす。平胃酸、茯令飲等に加入して、はなはだ効あり」とある<ref name=":7">{{Cite book|和書|title=コーヒーの事典|date=2008-04-01|year=2008|publisher=成美堂出版株式会社|page=149|author=田口護監修}}</ref>。 |
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出島に出入りできた遊女たちも、この時代にコーヒーを飲んでいた数少ない日本人である<ref name=":0" />。遊女たちは、客に代金を踏み倒されたり<ref name=":0" />物を盗られたりしないように朝まで寝ずに過ごしたため<ref name=":54" />、飲むと眠くならないコーヒーは有用であった<ref name=":0" />。[[1797年]](寛政9年)<ref name=":54" />、遊女がオランダ人からの[[贈り物]]を出島から持ち出した物品記録に<ref name=":31" />、[[石鹸]]や[[チョコレート]]などとともに<ref name=":54" />「コヲヒ豆」と記録されている<ref name=":31" />。 |
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これらのほか、長崎の貿易商たちもこの時期にコーヒーを飲用していたようで、同年6月19日には、井出要右衛門によって[[太宰府天満宮]]にコーヒーが奉納されている<ref>{{Cite book|和書|title=コーヒーと日本人の文化誌-世界最高のコーヒーが生まれる場所|date=2018-06-20|year=2018|publisher=株式会社創元社|pages=118-119|author=メリー・ホワイト著・有泉芙美代訳}}</ref>。また、難破して外国船に救助された船乗りたちがコーヒーを与えられたという話もあり<ref name=":53">{{Cite book|和書|title=コーヒーと日本人の文化誌-世界最高のコーヒーが生まれる場所|date=2018-06-20|year=2018|publisher=株式会社創元社|page=117|author=メリー・ホワイト著・有泉芙美代訳}}</ref>、[[1807年]]([[文化]]4年)の『環海異聞』には[[仙台]]の[[津太夫]]が[[ペテルブルグ]]でコーヒーを知ったと記されており<ref name=":57" />、[[1841年]]([[天保]]12年)には[[スペイン]]船に救助された船乗りが「親切な人々が来て、『コオヒイ』と呼ばれる砂糖の入った茶のような飲み物を我々に提供してくれた」と報告している<ref name=":53" />。 |
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==== 緩慢な浸透 ==== |
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[[ファイル:Ōta_Nampo.jpg|サムネイル|大田蜀山人]] |
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[[コーヒー]]を飲用した感想を記した最初の[[日本人]]は<ref name=":61" /><ref name=":32">{{Cite book|和書|title=珈琲の世界史|date=2017-10-20|year=2017|publisher=株式会社講談社<講談社現代新書2445>|page=191|author=旦部幸博著}}</ref><ref name=":69">{{Cite book|和書|title=コーヒーの事典|date=2008-04-01|year=2008|publisher=成美堂出版株式会社|pages=148-149|author=田口護監修}}</ref>、[[狂歌師]]で[[戯作者]]の[[大田蜀山人]]である<ref name=":70">{{Cite book|和書|title=コーヒーの歴史|date=2019-05-31|year=2019|publisher=株式会社原書房<「食」の図書館>|page=224|author=ジョナサン・モリス著・龍和子訳}}</ref>。[[幕府]]の[[御家人]]でもあった蜀山人は<ref name=":70" />、役人として[[長崎奉行所]]に赴任していた[[1804年]]([[文化]]元年)に<ref name=":61" /><ref name=":69" />、「[[紅毛]]船にて『カウヒイ』といふものを勧む、[[豆]]を黒く煎りて粉にし、白糖を和したるものなり、焦げくさくして味ふるに堪ず」と『瓊浦又綴』に記している<ref name=":32" />。 |
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[[1823年]]([[文政]]6年)、[[フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト]]が[[出島]]に[[医師]]として着任し、コーヒーを健康と長寿の[[薬]]だとして普及を図った<ref name=":65">{{Cite book|和書|title=珈琲の書|date=1972-02-15|year=1972|publisher=株式会社柴田書店|page=104|author=井上誠著}}</ref>。シーボルト自身もコーヒーを好んだとされるが<ref name=":61" /><ref name=":7" />、シーボルトは、「日本人は温かい飲料を用い、交際好きな[[人種]]であるのに、世界のコーヒー商人である[[オランダ人]]と[[交易]]しながら、一向にコーヒーを取り入れようとしないのは不思議だ」としながらも<ref name=":65" />、日本にコーヒーを定着させ輸入するようにさせるには2つの障害があるとして、日本人が生来[[牛乳]]を好まないことと、[[焙煎]]の経験・技術がないことを挙げている<ref name=":55">{{Cite book|和書|title=コーヒーと日本人の文化誌-世界最高のコーヒーが生まれる場所|date=2018-06-20|year=2018|publisher=株式会社創元社|page=119|author=メリー・ホワイト著・有泉芙美代訳}}</ref>。 |
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シーボルトが懸念した通り<ref name=":55" />、[[江戸時代]]においてはコーヒーは普及せず、オランダ商人と接触があった者などごく限られた者が嗜んでいたほかは、[[医薬品]]として一部で利用されていただけであった<ref name=":54" />。また、それまで味わったことのないコーヒーの風味は<ref name=":7" />、蜀山人と同様に当時の多くの日本人には受け入れられなかったらしく<ref name=":32" />、同じくオランダからもたらされた[[カステラ]]とは対照的に<ref name=":26">{{Cite book|和書|title=コーヒー語辞典|date=2015-05-14|year=2015|publisher=株式会社誠文堂新光社|page=130|author=村澤智之監修}}</ref>、コーヒーはほとんど広まらなかった<ref name=":32" />。ただし、名奉行「[[遠山の金さん]]」として知られる[[遠山景元]]はコーヒーを好んだという話が伝えられている<ref name=":26" />。[[幕末]]には[[江戸幕府]]も普及を図っていたようで、[[1855年]]([[安政]]2年)に幕府から[[津軽藩]]などに対する[[贈答品]]としてコーヒーが送られた<ref name=":56">{{Cite book|和書|title=コーヒーと日本人の文化誌-世界最高のコーヒーが生まれる場所|date=2018-06-20|year=2018|publisher=株式会社創元社|page=120|author=メリー・ホワイト著・有泉芙美代訳}}</ref>。[[1857年]](安政4年)頃には、[[蝦夷地]]に勤務する兵に対して支給されている<ref name=":32" />。受け取った津軽藩では、[[コーヒー豆]]を[[鉄鍋]]で焙煎し[[擂り鉢]]で潰して[[麻袋]]に入れ、[[土瓶]]で沸かした湯に浸して抽出して飲用したという<ref>{{Cite book|和書|title=コーヒー語辞典|date=2015-05-14|year=2015|publisher=株式会社誠文堂新光社|page=147|author=村澤智之監修}}</ref>。 |
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なお、「かうひい」「かうへい」「可否」「加菲」などの字があてられていた[[オランダ語]]の「koffie」に<ref name=":30">{{Cite book|和書|title=珈琲の世界史|date=2017-10-20|year=2017|publisher=株式会社講談社<講談社現代新書2445>|page=17|author=旦部幸博著}}</ref>「珈琲」を用いたのは、江戸時代の[[蘭学者]]の[[宇田川榕菴]]である<ref name=":13">{{Cite book|和書|title=極める 愉しむ 珈琲事典|date=2018-01-05|year=2018|publisher=株式会社西東社|page=229|author=西東社編集部編}}</ref>。コーヒーの中国語表記である「咖啡」も参考にしたと思われるが<ref name=":30" />、コーヒーの実が生る様を[[簪]]の形に見立てて簪の花を意味する「珈」と簪の玉をつなぐ紐を意味する「琲」をあてたとされている<ref name=":13" />。 |
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=== 開国と普及 === |
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==== 初期の普及 ==== |
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[[1854年]]([[嘉永]]7年)に[[鎖国]]が解かれると、[[コーヒー]]は、[[1856年]]([[安政]]3年)に[[オランダ]]が[[商品]]として持ち込み<ref name=":32" />、[[1858年]](安政5年)からは正式に[[輸入]]されるようになった<ref name=":32" /><ref>{{Cite book|和書|title=極める 愉しむ 珈琲事典|date=2018-01-05|year=2018|publisher=株式会社西東社|page=227|author=西東社編集部編}}</ref>。当初は、主に[[外国人居留地]]の[[需要]]に応えるためのものであった<ref name=":56" />。コーヒーの人気を目の当たりにした[[幕府]]は、[[1866年]]([[慶応]]2年)、コーヒーに輸入[[関税]]を設定した<ref name=":56" />。 |
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[[明治維新]]後になると、コーヒーは[[日本人]]にも広まるようになっていく<ref>{{Cite book|和書|title=コーヒーの歴史|date=2019-05-31|year=2019|publisher=株式会社原書房<「食」の図書館>|page=223|author=ジョナサン・モリス著・龍和子訳}}</ref>。[[1860年代]]に[[日本]]国外でコーヒーを体験した[[エリート]]層が[[文明開化]]の一つとして持ち帰ると、[[1870年代]]には[[神戸]]や[[日本橋]]にコーヒーを飲ませる[[茶屋]]などが出現した<ref>{{Cite book|和書|title=珈琲の世界史|date=2017-10-20|year=2017|publisher=株式会社講談社<講談社現代新書2445>|pages=191-192|author=旦部幸博著}}</ref>。[[鹿鳴館時代]]([[1883年]]([[明治]]16年)から[[1887年]](明治20年)頃)になると<ref name=":7" />、[[上流階級]]を中心に<ref name=":26" /><ref name=":62">{{Cite book|和書|title=珈琲の大事典|date=2011-09-20|year=2011|publisher=成美堂出版株式会社|page=249|author=成美堂出版編集部編}}</ref>[[ハイカラ]]な飲み物として受け入れられていった<ref name=":7" /><ref name=":62" />。この頃の日本にはまだコーヒーの抽出器具がなかったため、[[トルココーヒー]]のように[[コーヒー豆]]を細かく挽いて手鍋で煮出した上澄みを飲用していた<ref name=":26" />。 |
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日本で最初の[[コーヒー店]]は[[1886年]](明治19年)に[[東京]]日本橋の[[小網町]]に開店した<ref name=":57" />「洗愁亭」であるとされるが<ref name=":58">{{Cite book|和書|title=水・飲料|date=1992-10-20|year=1992|publisher=株式会社真珠書院<新・食品事典11>|page=163|author=河野友美編}}</ref>、鄭永慶が[[1888年]](明治21年)に東京[[上野]]の[[黒門町]]に開店した「可否茶館」が<ref name=":57" /><ref name=":33">{{Cite book|和書|title=珈琲の世界史|date=2017-10-20|year=2017|publisher=株式会社講談社<講談社現代新書2445>|page=192|author=旦部幸博著}}</ref>、コーヒーを主体とした<ref name=":7" />本格的な[[喫茶店]]の元祖であるとされる<ref name=":13" /><ref name=":33" /><ref name=":42">{{cite web |title=UCC Ueshima Coffee Co., Ltd. Company. |publisher=UCC Ueshima Coffee Co., Ltd |accessdate=2019-10-29 |url=https://www.ucc.co.jp/eng/}}</ref>。鄭は、[[ニューヨーク]]や[[ロンドン]]で利用した[[コーヒーハウス]]をモデルとし<ref name=":1">{{Cite book|和書|title=コーヒーの歴史|date=2019-05-31|year=2019|publisher=株式会社原書房<「食」の図書館>|page=171|author=ジョナサン・モリス著・龍和子訳}}</ref>、[[鹿鳴館]]が上流階級の社交場であるのに対して、「可否茶館」は[[庶民]]の社交場を目指した<ref name=":33" />。建物は青ペンキ塗り<ref name=":57" />2階建ての[[洋館]]で<ref name=":62" /><ref name=":7" />、1階には[[トランプ]]や[[ビリヤード]]<ref name=":26" /><ref name=":13" /><ref name=":19">{{Cite book|和書|title=コーヒー語辞典|date=2015-05-14|year=2015|publisher=株式会社誠文堂新光社|page=69|author=村澤智之監修}}</ref>、[[囲碁]]・[[将棋]]ができるスペースや<ref name=":7" />、[[図書室]]などがあり<ref name=":62" />、2階が喫茶室であった<ref name=":19" />。室内には[[絨毯]]が敷かれて立派なライティングデスクや皮張りの[[肘掛け椅子]]が設えられ<ref name=":1" />、敷地内にはクリケット場もあった<ref name=":62" /><ref name=":33" /><ref name=":7" />。「可否茶館」では、コーヒー1杯が1[[銭]]5[[厘]]で[[牛乳]]入りが2銭であった<ref name=":58" /><ref name=":57" /><ref name=":7" />。華やかな雰囲気で[[文化人]]の社交場として利用されたが<ref name=":58" />事業としては成り立たず、「可否茶館」は4年で閉店となった<ref name=":62" /><ref name=":33" />。鄭は[[破産]]して無一文となり<ref name=":1" />、密航して[[アメリカ]]で再起を期したが、3年後の[[1895年]](明治28年)、不遇のまま[[シアトル]]で37年の人生を閉じた<ref>{{Cite book|和書|title=珈琲遍歴|date=1973-08-20|year=1973|publisher=株式会社旭屋出版|page=260|author=奥山儀八郎著}}</ref><ref>{{Cite journal|author=星田宏司著|year=1986|date=1986-11-01|title=そして日本中に喫茶店はあふれた 日本珈琲店小史|journal=珈琲博物館|page=103|publisher=株式会社平凡社<太陽スペシャル>}}</ref>。 |
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[[1890年]](明治23年)には、東京[[浅草六区]]のパノラマ館に「ダイヤモンド珈琲店」が開店したが<ref name=":57" /><ref name=":58" />、これも長くは続かなかった<ref name=":33" />。それでもその後コーヒーは、「麻布[[風月堂]]」や「[[木村屋總本店]]」、「[[不二家]]」などの菓子店や、[[中国茶]]中心の台湾喫茶店、[[ミルクホール]]や[[百貨店]]の[[食堂]]などで提供されるようになり<ref name=":33" />、明治後期には次第に日本人の間に浸透していくようになった<ref name=":62" />。 |
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==== カフェーの興隆 ==== |
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[[ファイル:Cafe_Printemps_Interior.jpg|サムネイル|カフェー・プランタン]] |
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[[明治]]から[[大正]]にかけて、[[コーヒー]]は一般の[[日本人]]も飲むようになり<ref name=":58" />、[[カフェー]]が次々と開店した<ref name=":57" />。これらの店は、[[料理]]や[[アルコール]]も提供する店と、コーヒーを中心とする[[ソフトドリンク]]を提供する店の二つに大別される<ref name=":62" />。 |
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前者の代表的な店としては、「[[カフェー・プランタン]]」や「[[カフェー・ライオン]]」などがある<ref name=":62" />。「カフェー・プランタン」は[[1911年]](明治44年)3月に[[洋画家]]の[[松山省三]]によって[[東京]][[銀座]]に開業した<ref name=":34">{{Cite book|和書|title=珈琲の世界史|date=2017-10-20|year=2017|publisher=株式会社講談社<講談社現代新書2445>|page=193|author=旦部幸博著}}</ref>。「プランタン」では、コーヒーのほか、[[洋食]]や軽食も提供した<ref name=":71">{{Cite book|和書|title=珈琲の世界史|date=2017-10-20|year=2017|publisher=株式会社講談社<講談社現代新書2445>|pages=193-194|author=旦部幸博著}}</ref>。同年8月には、同じく東京銀座に「カフェー・ライオン」が開業し、料理中心のメニューとコーヒーを提供した<ref name=":35">{{Cite book|和書|title=珈琲の世界史|date=2017-10-20|year=2017|publisher=株式会社講談社<講談社現代新書2445>|page=194|author=旦部幸博著}}</ref>。後の「[[銀座ライオン]]」や「ビヤホールライオン」のルーツである<ref name=":35" />。これらに先立つ[[1910年]](明治43年)には東京[[日本橋]]に「メイゾン鴻の巣」が開業している<ref name=":34" />。[[酒場]]として開業した後にフランス料理店となった店だが、[[詩人]]の[[木下杢太郎]]が「まづまづ東京最初のCafeと云っても可い」と評するほど食後のコーヒーに力を入れた店であった<ref name=":34" />。 |
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[[ファイル:Japanese_Workers_in_Coffee_Sieving.jpg|リンク=https://en-two.iwiki.icu/wiki/File:Japanese_Workers_in_Coffee_Sieving.jpg|サムネイル|ブラジルの[[プランテーション|コーヒー・プランテーション]]で働く日本人労働者]] |
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後者の代表的な店は、「[[カフェーパウリスタ]]」である<ref name=":62" />。[[ブラジル]]に[[日本人]][[移民]]を送り込んで現地のコーヒー生産に貢献し<ref name=":1" />「[[ブラジル移民]]の父」と呼ばれた[[水野龍]]は<ref name=":35" />、見返りに[[サンパウロ州]]政府からブラジルコーヒー宣伝のためとして[[コーヒー豆]]を無償で提供された<ref name=":72">{{Cite book|和書|title=珈琲の世界史|date=2017-10-20|year=2017|publisher=株式会社講談社<講談社現代新書2445>|pages=194-195|author=旦部幸博著}}</ref>。これを受けて水野は<ref name=":62" />、1911年(明治44年)6月にいったん[[大阪]][[箕面]]に[[コーヒー店]]を開いたがすぐに閉め、同年12月にあらためて<ref name=":72" />東京[[京橋]]の南鍋町に「カフェーパウリスタ」を開店した<ref name=":58" />。水野は、州政府に宣伝を託されたことを意気に感じ<ref>{{Cite book|和書|title=珈琲遍歴|date=1973-08-20|year=1973|publisher=株式会社旭屋出版|pages=273-274|author=奥山儀八郎著}}</ref>、また、移民たちへの支援にもなると考え<ref name=":36">{{Cite book|和書|title=珈琲の世界史|date=2017-10-20|year=2017|publisher=株式会社講談社<講談社現代新書2445>|page=195|author=旦部幸博著}}</ref>、1杯5[[銭]]で提供した<ref name=":62" />。コーヒー一杯だけの客も歓迎した「パウリスタ」は、[[学生]]や[[庶民]]に人気となり<ref name=":36" />、本格的なブラジルコーヒーを日本人に普及させた<ref name=":26" /><ref name=":62" />。「パウリスタ」は[[北海道]]から[[九州]]まで展開する日本初の全国チェーンのコーヒー店となり、さらに[[上海]]にも支店を開店した<ref name=":36" />。「パウリスタ」からは[[キーコーヒー]]や松屋珈琲の[[創業者]]など数多くの人材が輩出されたこともあって、「日本のコーヒー史における一つの原点」と評価されている<ref name=":36" />。 |
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また、この頃にコーヒーは直接飲用する以外の用途でも利用されるようになり、コーヒー入りの[[落雁]]や[[角砂糖]]が考案されている<ref name=":58" />。中心部にコーヒー豆の粉末が入れられた角砂糖は、直接食べたり、[[湯]]や牛乳で溶かして飲用された<ref name=":58" />。 |
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==== 多様化と純喫茶 ==== |
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[[ファイル:Cafe_Tiger.jpg|サムネイル|カフェー・タイガー]] |
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[[明治]]末期から[[1937年]]([[昭和]]12年)・[[1938年]](昭和13年)頃にかけてが、[[太平洋戦争]]前の[[日本]]における[[コーヒー]]の全盛期であった<ref name=":59">{{Cite book|和書|title=水・飲料|date=1992-10-20|year=1992|publisher=株式会社真珠書院<新・食品事典11>|page=164|author=河野友美編}}</ref>。 |
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「プランタン」や「ライオン」では、[[女給]]を置いて給仕させたのが特徴であった<ref name=":35" />。すると男性客の間で女給の容姿が話題に上るようになり、女給目当てに店に通い詰める男性客が現れた<ref name=":37">{{Cite book|和書|title=珈琲の世界史|date=2017-10-20|year=2017|publisher=株式会社講談社<講談社現代新書2445>|page=196|author=旦部幸博著}}</ref>。当時、女給たちは店から[[給与]]が支払われておらず客からの[[チップ]]が唯一の収入源だったと言われており、女給たちはそのような客も無下には扱えなかった<ref name=":37" />。特に酒食を提供していた店では、女給が[[酌]]や接客を行うことも普通になった<ref name=":37" />。こうした傾向は、[[1923年]]([[大正]]12年)の[[関東大震災]]後に拍車がかかる<ref name=":37" />。復興とともに[[カフェー]]が激増し、「サービス」もエスカレートしていった<ref>{{Cite book|和書|title=珈琲の世界史|date=2017-10-20|year=2017|publisher=株式会社講談社<講談社現代新書2445>|pages=196-197|author=旦部幸博著}}</ref>。「カフェー・ライオン」の近くには「[[カフェー・タイガー]]」という店が立ち、素行が悪いとして「ライオン」をクビになったの元女給を雇って「ライオン」以上のサービスを行ったという<ref>{{Cite book|和書|title=珈琲の世界史|date=2017-10-20|year=2017|publisher=株式会社講談社<講談社現代新書2445>|pages=197-198|author=旦部幸博著}}</ref>。[[大阪]]からさらに過激なサービスを売りにするカフェーが[[東京]]に進出し、さらには[[性的サービス]]そのものを行う[[風俗店]]と変わらないカフェーも現れた<ref name=":38">{{Cite book|和書|title=珈琲の世界史|date=2017-10-20|year=2017|publisher=株式会社講談社<講談社現代新書2445>|page=198|author=旦部幸博著}}</ref>。このようなカフェーの増加は、[[風紀]]を乱すものとして[[社会問題]]化し、[[1929年]]([[昭和]]4年)に「カフェー・バー等取締要項」によって[[規制]]対象となった<ref name=":38" />。 |
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一方、「パウリスタ」では女給ではなく男の[[給仕]]を雇い、チップも不要としていた<ref name=":36" />。こうしたコーヒーや[[軽食]]を提供する[[コーヒー店]]では、[[酒]]や女給の接待を主とするカフェーと区別するために<ref name=":13" />、「[[喫茶店]]」や「[[純喫茶]]」と名乗るようになった<ref>{{Cite book|和書|title=珈琲の世界史|date=2017-10-20|year=2017|publisher=株式会社講談社<講談社現代新書2445>|pages=198-199|author=旦部幸博著}}</ref>。[[1930年代]]には喫茶店ブームとなり、コーヒーの淹れ方や開業指南を載せた[[本]]や[[雑誌]]が多く出回り、『喫茶街』『茶と珈琲』といった[[専門誌]]も発刊された<ref>{{Cite book|和書|title=珈琲の世界史|date=2017-10-20|year=2017|publisher=株式会社講談社<講談社現代新書2445>|page=199|author=旦部幸博著}}</ref>。[[1933年]]([[昭和]]8年)には、上島忠雄が[[神戸]]で上島忠雄商店(後の[[UCC上島珈琲]])を立ち上げている<ref name=":322">{{cite web |last1=Hoang |first1=Rochelle |last2=Hoang |first2=Viet |title=Coffee In Japan: 120 Years Of Mornings. |location=Tofugu |date=2014-04-29 |url=https://www.tofugu.com/japan/japanese-coffee/ |accessdate=2022-02-25}}</ref>。最盛期の1937年(昭和12年)には<ref name=":7" />、東京には2600件以上の喫茶店があったとされる<ref name=":62" />。 |
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このような状況の中で、大正から昭和にかけてコーヒーの消費量は増大した<ref name=":7" />。1929年(昭和4年)に[[サンパウロ州]]政府と[[輸入]]契約を結んだ星隆造が翌年から喫茶「[[ブラジレイロ]]」を全国展開、[[1932年]](昭和7年)には[[三井物産]]と組んだ[[ブラジル]]政府直営のブラジルコーヒー宣伝販売本部が[[コーヒー豆]]の販売と喫茶店を開業するなど、当初はブラジル産を中心に輸入されたが、[[1930年代]]半ば以降は[[コロンビア]]や[[コスタリカ]]からも輸入されるようになった<ref>{{Cite book|和書|title=珈琲の世界史|date=2017-10-20|year=2017|publisher=株式会社講談社<講談社現代新書2445>|pages=199-200|author=旦部幸博著}}</ref>。1937年(昭和12年)には[[ブルーマウンテン]]の輸入も始まっている<ref name=":40">{{Cite book|和書|title=珈琲の世界史|date=2017-10-20|year=2017|publisher=株式会社講談社<講談社現代新書2445>|page=200|author=旦部幸博著}}</ref>。このほか、この時期に[[台湾]]で[[コーヒー栽培]]が始まって「国産コーヒー」と呼ばれて話題を呼んだ<ref name=":40" />。 |
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=== 戦時下の途絶 === |
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[[1935年]]([[昭和]]10年)頃には一般家庭でも飲まれるようになるほど普及した[[コーヒー]]であったが<ref name=":59" />、[[1938年]](昭和13年)に[[国家総動員法]]が発令されると<ref name=":40" />、[[国家主義]]の台頭とともにコーヒー文化は後退していった<ref name=":1" />。[[太平洋戦争]]がはじまるとコーヒーは完全に品薄状態となった<ref name=":40" />。[[コーヒー豆]]の輸入は、[[1942年]](昭和17年)に規制の対象となり<ref name=":63">{{Cite book|和書|title=珈琲の大事典|date=2011-09-20|year=2011|publisher=成美堂出版株式会社|page=250|author=成美堂出版編集部編}}</ref>、[[1944年]](昭和19年)には完全に停止した<ref name=":40" />。[[日本]]国内では[[大豆]]や[[ユリ]]の根、[[どんぐり]]などを煎って作った[[代用コーヒー]]が出回った<ref>{{Cite book|和書|title=コーヒーの事典|date=2008-04-01|year=2008|publisher=成美堂出版株式会社|page=156|author=田口護監修}}</ref>。[[明治]]以来の日本のコーヒー文化は、ここでいったん途絶えることになった<ref name=":40" />。 |
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=== 再興と黄金期 === |
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==== 輸入再開と喫茶店ブーム ==== |
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[[1945年]]([[昭和]]20年)に[[太平洋戦争]]が[[終戦]]を迎えても、[[コーヒー]]が流通するようになるまでには時間がかかり、戦争中に隠匿されていた[[コーヒー豆]]や[[アメリカ軍]]から[[払い下げ]]られた缶入りのコーヒー粉がわずかに出回っただけであった<ref name=":40" />。[[1950年]](昭和25年)になって、ようやくコーヒーの[[輸入]]が再開された<ref name=":59" /><ref name=":63" /><ref name=":41">{{Cite book|和書|title=珈琲の世界史|date=2017-10-20|year=2017|publisher=株式会社講談社<講談社現代新書2445>|page=201|author=旦部幸博著}}</ref>。輸入再開とともに、[[喫茶店]]や[[カフェー]]が急速に復興されていく<ref name=":63" />。[[上島珈琲]](現・[[UCC上島珈琲]])や木村産業(現・キーコーヒー)などがコーヒー事業に参入し<ref name=":41" />、輸入量は年々増加していった<ref name=":59" />。[[1960年]](昭和35年)になると[[生豆]]の輸入が全面自由化され、翌[[1961年]](昭和36年)には[[インスタントコーヒー]]の輸入も自由化された<ref name=":41" />。当時、生産国は質の高いコーヒー豆は[[アメリカ]]などに優先して輸出したため、[[日本]]には主に質の劣る豆が回されたが、それでも安価なコーヒーを手軽に買えるようになったことと<ref name=":43">{{Cite book|和書|title=珈琲の世界史|date=2017-10-20|year=2017|publisher=株式会社講談社<講談社現代新書2445>|page=202|author=旦部幸博著}}</ref>、インスタントコーヒーや[[缶コーヒー]]が普及したことで、コーヒーは一般に広がった<ref name=":43" /><ref name=":4">{{Cite book|和書|title=大人のためのコーヒー絵本|date=2021-02-01|year=2021|publisher=株式会社日本文芸社|page=116|author=アンヌ・カロン著・篠崎好治監修・ダコスタ吉村花子訳}}</ref>。 |
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この時期の[[喫茶店]]には、音楽を楽しむ[[名曲喫茶]]や[[ジャズ喫茶]]、合唱を目的とした[[歌声喫茶]]など、コーヒーだけでなく文化的な娯楽を提供するさまざまなスタイルの喫茶店が流行した<ref name=":63" /><ref name=":41" />。また、[[GHQ]]の公娼廃止指令が出されると[[遊郭]]の多くがカフェーや[[料理屋]]に看板を変えたため、カフェーも増えたが、これらは[[1957年]](昭和32年)の[[売春防止法]]の施行によって姿を消した<ref name=":41" />。 |
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[[1960年代]]半ばになると、喫茶店が全国に広がっていくとともに、[[高度経済成長]]によって客数も増加した<ref name=":1" />。[[1970年]](昭和45年)に[[いざなぎ景気]]が終わって[[景気後退期]]に入ると、[[サラリーマン]]を辞めて喫茶店を開業する人が多数生まれた<ref>{{Cite book|和書|title=珈琲の世界史|date=2017-10-20|year=2017|publisher=株式会社講談社<講談社現代新書2445>|pages=202-203|author=旦部幸博著}}</ref>。喫茶店は、比較的初期費用が少なくて済み<ref name=":1" /><ref name=":63" />、[[1967年]](昭和42年)に設立された環境衛生金融公庫から融資が受けられたことに加えて、「コーヒーと[[軽食]]を作って出すだけ」なら何とかなると考える者が多かったためである<ref name=":44">{{Cite book|和書|title=珈琲の世界史|date=2017-10-20|year=2017|publisher=株式会社講談社<講談社現代新書2445>|page=203|author=旦部幸博著}}</ref>。実際、喫茶店の開業を指南するコンサルタントの助言に従い、コーヒー会社から[[焙煎]]したコーヒー豆や[[砂糖]]、[[ミルク]]、[[消耗品]]などの一式を購入すれば、開業まではそう難しいことではなかった<ref name=":44" />。「喫茶店でもしようか」「喫茶店くらいしかできない」と考えて開業した喫茶店を指す「でもしか喫茶」という言葉も生まれている<ref name=":44" />。1970年(昭和45年)に約5万軒だった日本の喫茶店は<ref name=":1" />、[[1981年]](昭和56年)には15万軒を超え<ref name=":4" />、そのうち約13万軒が[[個人経営]]の店であった<ref name=":45">{{Cite book|和書|title=珈琲の世界史|date=2017-10-20|year=2017|publisher=株式会社講談社<講談社現代新書2445>|page=204|author=旦部幸博著}}</ref>。一方、[[1970年代]]には家庭に[[レコードプレーヤー]]が普及したことで、名曲喫茶やジャズ喫茶は下火になった<ref name=":43" />。 |
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喫茶店が急増すると、競争が激しくなり、他店との差別化を図る店が出てきた<ref name=":45" />。コーヒーの味で勝負しようとした店では、抽出技術を磨き<ref>{{Cite book|和書|title=珈琲の世界史|date=2017-10-20|year=2017|publisher=株式会社講談社<講談社現代新書2445>|pages=204-205|author=旦部幸博著}}</ref>、自家焙煎に挑戦し<ref name=":46">{{Cite book|和書|title=珈琲の世界史|date=2017-10-20|year=2017|publisher=株式会社講談社<講談社現代新書2445>|page=205|author=旦部幸博著}}</ref>、コーヒー豆の産地にこだわっていった<ref>{{Cite book|和書|title=コーヒーの歴史|date=2019-05-31|year=2019|publisher=株式会社原書房<「食」の図書館>|page=172|author=ジョナサン・モリス著・龍和子訳}}</ref>。こうした店は「コーヒー専門店」を名乗り<ref name=":63" />、複数の産地のコーヒー豆を用意し<ref name=":63" /><ref name=":46" />、注文に応じて一杯ずつ[[サイフォン]]やドリップで抽出して提供した<ref name=":63" /><ref name=":4" />。喫茶店は、コーヒー専門店と普通の喫茶店とに二極化していった<ref>{{Cite book|和書|title=珈琲の世界史|date=2017-10-20|year=2017|publisher=株式会社講談社<講談社現代新書2445>|page=207|author=旦部幸博著}}</ref>。 |
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==== セルフサービスとカフェ ==== |
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[[1980年代]]に入ると、飽和状態となっていた[[日本]]の[[喫茶店]]は冬の時代を迎える<ref name=":64">{{Cite book|和書|title=珈琲の大事典|date=2011-09-20|year=2011|publisher=成美堂出版株式会社|page=251|author=成美堂出版編集部編}}</ref>。1980年代後半に[[バブル経済]]に突入すると、[[地価]]高騰による[[テナント]]料の高騰、[[円安]]による原価の上昇が直撃した<ref name=":48">{{Cite book|和書|title=珈琲の世界史|date=2017-10-20|year=2017|publisher=株式会社講談社<講談社現代新書2445>|page=208|author=旦部幸博著}}</ref>。コーヒー1杯で1人が長時間テーブルを占有するという時間当たり客単価の低い喫茶店という業態は「儲からない商売」となり、この時期に店を閉め、あるいは他業種に転換した喫茶店も多い<ref name=":48" />。 |
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[[ファイル:Doutor_Coffee_Sendaichuodori_Shop.jpg|サムネイル|ドトールコーヒーショップ]] |
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そんな中、[[1962年]]([[昭和]]37年)創業で[[コーヒー豆]]の焙煎卸業を営んでいた[[ドトールコーヒー]]が<ref name=":25">{{Cite book|和書|title=コーヒー語辞典|date=2015-05-14|year=2015|publisher=株式会社誠文堂新光社|page=125|author=村澤智之監修}}</ref>、[[1980年]](昭和55年)に[[セルフサービス]]の[[ドトールコーヒーショップ]]を開店した<ref name=":45" /><ref name=":1" />。ドトールコーヒーショップは、安価なコーヒーと<ref name=":45" />誰でも気軽に入れる雰囲気が支持され<ref name=":25" />、のちに[[フランチャイズ]]を含めて1000店を超えるコーヒーチェーンに成長する<ref name=":1" />。セルフサービスの導入は[[人件費]]の削減と[[回転率]]アップを実現し、小さな店舗でも経営的に成り立つ新たな[[コーヒー店]]のスタイルを示した<ref name=":4" />。ドトールコーヒーショップの成功を受けて、他の焙煎卸売企業も直営店を増やす形で参入した<ref name=":45" />。日本のコーヒー店は以前からの喫茶店とセルフサービスのコーヒー店に二分されることになった<ref name=":1" />。既存の個人経営の喫茶店は、フランチャイズに加わるか、対抗できる特色を探すか、あるいは店を閉めるかに頭を悩ませることになる<ref name=":45" />。 |
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[[1991年]]([[平成]]3年)にバブル経済は崩壊<ref name=":48" />。[[1990年代]]後半になると<ref name=":64" />、[[リストラ]]にあったサラリーマンや[[就職氷河期]]世代の若者などが、[[バブル期]]に直接訪れたり[[インターネット]]などで見聞きした日本国外の[[カフェ]]を参考に、オープンテラスや洒落たメニューを取り入れるなどした喫茶店を開業するようになった<ref name=":49">{{Cite book|和書|title=珈琲の世界史|date=2017-10-20|year=2017|publisher=株式会社講談社<講談社現代新書2445>|page=209|author=旦部幸博著}}</ref>。こうした新しいスタイルの喫茶店は「カフェ」と呼ばれ<ref name=":64" /><ref name=":49" />、昭和な雰囲気の従来の喫茶店を敬遠していた若者や女性に受け入れられた<ref name=":49" />。 |
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1990年代は、[[アメリカ]]の影響を強く受けた時期でもあった<ref>{{Cite book|和書|title=珈琲の世界史|date=2017-10-20|year=2017|publisher=株式会社講談社<講談社現代新書2445>|page=210|author=旦部幸博著}}</ref>。[[1992年]](平成4年)に[[成田空港]]に出店したものの1年足らずで撤退していた[[スターバックス]]が、[[1996年]](平成8年)に再上陸<ref name=":51">{{Cite book|和書|title=珈琲の世界史|date=2017-10-20|year=2017|publisher=株式会社講談社<講談社現代新書2445>|page=224|author=旦部幸博著}}</ref>。女性をターゲットにしたメディア戦略によって、日本中に「スタバ旋風」が巻き起こった<ref name=":51" />。スターバックスの成功を受けて[[1997年]](平成9年)には[[タリーズコーヒー]]が続き<ref>{{Cite book|和書|title=コーヒー語辞典|date=2015-05-14|year=2015|publisher=株式会社誠文堂新光社|page=117|author=村澤智之監修}}</ref>、「シアトル系」と呼ばれる[[エスプレッソ]]を中心としたスペシャルティコーヒーが日本に定着した<ref>{{Cite book|和書|title=珈琲の世界史|date=2017-10-20|year=2017|publisher=株式会社講談社<講談社現代新書2445>|pages=224-225|author=旦部幸博著}}</ref>。 |
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=== 21世紀 === |
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[[21世紀]]に入ると、ますます[[アメリカ]]をはじめとした世界の影響を受けるようになり、[[インターネット]]などを通じて世界の流行がリアルタイムで伝えられるようになった<ref>{{Cite book|和書|title=珈琲の世界史|date=2017-10-20|year=2017|publisher=株式会社講談社<講談社現代新書2445>|page=246|author=旦部幸博著}}</ref>。スペシャルティコーヒーや[[サードウェーブコーヒー]]は、苦みの強い自家焙煎店の[[コーヒー]]になじめなかった層から一定の支持を獲得している<ref>{{Cite book|和書|title=珈琲の世界史|date=2017-10-20|year=2017|publisher=株式会社講談社<講談社現代新書2445>|pages=246-247|author=旦部幸博著}}</ref>。 |
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[[ファイル:Odaiba_Tokyo_August_2014_Gundam_008.JPG|サムネイル|メイド喫茶]] |
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[[2005年]]([[平成]]17年)頃のサブカルブームでは、[[メイド]]の衣装を着た[[ウエイトレス]]が接客する[[メイド喫茶]]が話題となった<ref name=":73">{{Cite book|和書|title=コーヒー語辞典|date=2015-05-14|year=2015|publisher=株式会社誠文堂新光社|page=179|author=村澤智之監修}}</ref>。ただ、メイド喫茶では、衣装や世界観から、どちらかというとコーヒーより[[紅茶]]を主とする店が多いとされる<ref name=":73" />。また、[[2000年代]]後半から<ref>{{Cite book|和書|title=珈琲の世界史|date=2017-10-20|year=2017|publisher=株式会社講談社<講談社現代新書2445>|page=244|author=旦部幸博著}}</ref>[[2010年代]]には、[[日本]]国内では古臭いと思われていた昔ながらの[[喫茶店]]が、日本のコーヒー文化として日本国外から評価された<ref name=":74">{{Cite book|和書|title=珈琲の世界史|date=2017-10-20|year=2017|publisher=株式会社講談社<講談社現代新書2445>|page=247|author=旦部幸博著}}</ref>。自家焙煎で1杯ずつ時間をかけて淹れるというアメリカで流行したサードウェーブコーヒーの特徴が、日本では喫茶店文化としてすでに根付いていることが注目されたのである<ref name=":13" />。日本国外で評価されたことで、日本国内でも再評価されている<ref name=":74" />。 |
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[[総務省統計局]]の調査によると、日本におけるコーヒーに対する支出金額は、[[2000年]](平成12年)からの6年間でコーヒーが2割、[[コーヒー飲料]]が3割増加したとされており、日本はコーヒー豆の[[輸入]]で世界3位となっている<ref name=":70" />。国内には、昔ながらの喫茶店やスペシャルティコーヒーを扱うカフェなどさまざまなコーヒー店があり<ref name=":75">{{Cite book|和書|title=珈琲の世界史|date=2017-10-20|year=2017|publisher=株式会社講談社<講談社現代新書2445>|page=248|author=旦部幸博著}}</ref>、多種多様な[[缶コーヒー]]は<ref name=":70" />街中のいたるところに設置されている[[自動販売機]]で買うことができる<ref name=":75" />。多くの[[コンビニエンスストア]]では、ドリップあるいは[[エスプレッソ]]マシンで抽出した[[コンビニコーヒー]]が、100円程度で販売されている<ref name=":70" />。また、家庭や職場で気軽に楽しむ場合にも多様な[[インスタントコーヒー]]や[[レギュラーコーヒー]]から選べるし<ref name=":70" />、自分で淹れたり[[焙煎]]するための器具や[[コーヒー豆]]を手に入れるのも容易である<ref name=":75" />。[[大田蜀山人]]が「焦げくさくして味ふるに堪ず」と評したコーヒーは、現代日本社会に完全に定着している<ref name=":70" />。 |
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== 喫茶文化 == |
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戦後、コーヒーは再び日本人に飲まれるようになる。1950年代には、戦後に一時流行した[[名曲喫茶]]の再開や、[[歌声喫茶]]の流行が始まるなど、喫茶店文化にも新しい流れが見られるようになった。コーヒーの消費量も増加の一途を辿った。輸入量においても、1960年には15,000トンであったのが、2014年には440,000トンを超えている。[[西洋文化]]への憧れから急増した日本におけるコーヒーの大量消費は、結果としてコーヒー産業への大規模な投資につながったと考えられる。また、上島忠雄は、[[1980年]]に日本のコーヒー業界団体である[[全日本コーヒー協会]]の再編・立ち上げを行うなど、コーヒー文化の定着に大きな役割を果たした。同年、[[ドトールコーヒー]]が日本初のコーヒーチェーン店を開店。コーヒーの消費はさらに拡大し、貴重な経済資源となった<ref name=":324">{{cite web |last1=Hoang |first1=Rochelle |last2=Hoang |first2=Viet |title=Coffee In Japan: 120 Years Of Mornings. |location=Tofugu |date=2014-04-29 |url=https://www.tofugu.com/japan/japanese-coffee/ |accessdate=2022-02-25}}</ref>。ドトールの事業が成功した一因に、コーヒーを[[テイクアウト]]できるようにしたことがあった。つまり、ドトールの商業的成功は、顧客がコーヒーを職場や学校へと持ち運べる環境を整えたことにある。 |
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=== 喫茶店 |
=== 喫茶店 === |
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{{Seealso|シアトル系コーヒー}} |
{{Seealso|シアトル系コーヒー}} |
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[[ファイル:TULLY'S_COFFEE_Sakaisujihonmachi.JPG|リンク=https://en-two.iwiki.icu/wiki/File:TULLY'S_COFFEE_Sakaisujihonmachi.JPG|サムネイル|[[タリーズコーヒー]]堺筋本町店([[大阪市]][[中央区 (大阪市)|中央区]])]] |
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小規模なコーヒーチェーンは、それぞれの特色を打ち出す生存戦略を駆使している。たとえば、[[銀座ルノアール]]は、店内で客向けに、充電用の電源と[[Wi-Fi]]を提供していることで知られている。またタバコをに対する方針もその戦略の一部である。顧客のなかにはコーヒーと喫煙を同時に楽しみたい人もいれば、[[分煙]]を好む人もいる。小規模な喫茶店のなかには喫煙者に合わせたサービスを提供するものもある一方、[[スターバックス]]のような大規模チェーンは、企業方針として喫煙席を置いていない。[[マクドナルド]]やスターバックスといった、北米発祥の大手チェーンは、店頭販売やコーヒー・スタンド<ref group="注釈">北米などで見られる、テイクアウト中心の営業形態のこと。</ref>といった形態を通じて、日本での事業展開を進めてきた。 |
小規模なコーヒーチェーンは、それぞれの特色を打ち出す生存戦略を駆使している。たとえば、[[銀座ルノアール]]は、店内で客向けに、充電用の電源と[[Wi-Fi]]を提供していることで知られている。またタバコをに対する方針もその戦略の一部である。顧客のなかにはコーヒーと喫煙を同時に楽しみたい人もいれば、[[分煙]]を好む人もいる。小規模な喫茶店のなかには喫煙者に合わせたサービスを提供するものもある一方、[[スターバックス]]のような大規模チェーンは、企業方針として喫煙席を置いていない。[[マクドナルド]]やスターバックスといった、北米発祥の大手チェーンは、店頭販売やコーヒー・スタンド<ref group="注釈">北米などで見られる、テイクアウト中心の営業形態のこと。</ref>といった形態を通じて、日本での事業展開を進めてきた。 |
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事業規模の大小に関わらず、日本のコーヒーチェーンは西洋の影響を強く受けている。比較的小規模なチェーンであるボスとルーツは、アメリカ人俳優の[[トミー・リー・ジョーンズ]](ボス)や[[ブラッド・ピット|ブラット・ピット]](ルーツ)をイメージキャラクターとして迎えている。スターバックスなどの海外の大手チェーン、活況に湧く日本のコーヒー業界に乗じて上陸した。スターバックスの第一号店は、[[1996年]]に銀座で開業。2005年、同社はサントリーと提携し、缶コーヒーを発売。2021年12月現在、スターバックスの国内店舗は1700店を超えている<ref name=": |
事業規模の大小に関わらず、日本のコーヒーチェーンは西洋の影響を強く受けている。比較的小規模なチェーンであるボスとルーツは、アメリカ人俳優の[[トミー・リー・ジョーンズ]](ボス)や[[ブラッド・ピット|ブラット・ピット]](ルーツ)をイメージキャラクターとして迎えている。スターバックスなどの海外の大手チェーン、活況に湧く日本のコーヒー業界に乗じて上陸した。スターバックスの第一号店は、[[1996年]]に銀座で開業。2005年、同社はサントリーと提携し、缶コーヒーを発売。2021年12月現在、スターバックスの国内店舗は1700店を超えている<ref name=":3252">{{cite web |last1=Hoang |first1=Rochelle |last2=Hoang |first2=Viet |title=Coffee In Japan: 120 Years Of Mornings. |location=Tofugu |date=2014-04-29 |url=https://www.tofugu.com/japan/japanese-coffee/ |accessdate=2022-02-25}}</ref>。これに対し、マクドナルドの[[マックカフェ]]は、カフェとしては個別の店舗を持たず、マクドナルドのコーヒーを販売するスタンドだけを置いている。2007年に新規事業として正式に始動したこのスタンド式店舗は、コーヒーと持ち帰り用のお菓子を主に販売している。[[ワシントン州]][[シアトル]]発祥の[[タリーズコーヒー]]は、3番目に日本に進出した国外コーヒーチェーンである。第一号店は1997年にオープン、2014年には513店舗まで拡大している<ref name=":3262">{{cite web |last1=Hoang |first1=Rochelle |last2=Hoang |first2=Viet |title=Coffee In Japan: 120 Years Of Mornings. |location=Tofugu |date=2014-04-29 |url=https://www.tofugu.com/japan/japanese-coffee/ |accessdate=2022-02-25}}</ref>。 |
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現在、[[コンビニエンスストア]]もコーヒー産業へと参入している。例えば、大手コンビニエンスストア・チェーンの[[セブン-イレブン]]は、コーヒーの年間販売数が11億杯を突破している<ref name=": |
現在、[[コンビニエンスストア]]もコーヒー産業へと参入している。例えば、大手コンビニエンスストア・チェーンの[[セブン-イレブン]]は、コーヒーの年間販売数が11億杯を突破している<ref name=":3272">{{cite web |last1=Hoang |first1=Rochelle |last2=Hoang |first2=Viet |title=Coffee In Japan: 120 Years Of Mornings. |location=Tofugu |date=2014-04-29 |url=https://www.tofugu.com/japan/japanese-coffee/ |accessdate=2022-02-25}}</ref>。なお、外部食研究家の梅澤聡によれば、セブン-イレブンのシェアは既存のコーヒーチェーンとは競合していない<ref>{{Cite web |url=https://toyokeizai.net/articles/-/331280 |title=コンビニコーヒー飲む人が超激増した根本原因 「40年前からコーヒー販売」していた衝撃事実 |accessdate=2022-02-22 |publisher=[[東洋経済新報社]]}}</ref>。 |
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== 文化 == |
=== その他のコーヒー文化 === |
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[[アイスコーヒー|'''アイスコーヒー''']]は、世界的には[[アルジェリア]]に駐留していた[[フランス軍]]が冷やした[[コーヒー]]に甘みをつけて[[酒]]で割ったのが始まりだとされるものの<ref name=":16">{{Cite book|和書|title=コーヒー語辞典|date=2015-05-14|year=2015|publisher=株式会社誠文堂新光社|page=36|author=村澤智之監修}}</ref>、[[欧米]]ではコーヒーを冷やして飲む[[風習]]は一般的ではなかった<ref name=":60">{{Cite book|和書|title=物語 食の文化|date=2011-06-25|year=2011|publisher=株式会社中央公論新社<中公新書2117>|page=138|author=北岡正三郎著}}</ref>。[[日本]]では早くも[[明治時代]]にはコーヒーを冷やして飲んでいたと言われており<ref name=":11">{{Cite book|和書|title=極める 愉しむ 珈琲事典|date=2018-01-05|year=2018|publisher=株式会社西東社|page=228|author=西東社編集部編}}</ref>、氷屋の[[メニュー]]に「氷コーヒー」と記載されていたという<ref name=":5">{{Cite book|和書|title=コーヒーの事典|date=2008-04-01|year=2008|publisher=成美堂出版株式会社|page=85|author=田口護監修}}</ref>。[[戦後]]、コーヒーの需要が下がる夏場の<ref>{{Cite book|和書|title=コーヒー語辞典|date=2015-05-14|year=2015|publisher=株式会社誠文堂新光社|page=29|author=村澤智之監修}}</ref>[[喫茶店]]の定番メニューとなり<ref name=":60" />、日本では[[ホットコーヒー]]と同様に一般的な飲み方となっている<ref name=":11" /><ref name=":5" />。日本以外ではあまり飲まれていない国も多かったが<ref name=":16" />、グローバルなコーヒーチェーンの展開によって<ref name=":60" />広まりつつある<ref name=":11" />。 |
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[[File:Donuts_and_Coffee_at_Rokuyosya.jpg|リンク=https://en-two.iwiki.icu/wiki/File:Donuts_and_Coffee_at_Rokuyosya.jpg|サムネイル|[[六曜社 (喫茶店)|六曜社]]のドーナツとミルクコーヒー([[京都市]])]] |
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日本のコーヒー文化は、世界のなかでももっともユニークなものの一つである。海外からみて興味深い習慣の一つに、提供する際、コーヒーカップの取っ手は左に、コーヒースプーンの持ち手は右に置かれる、というものがある<ref name=":328">{{cite web |last1=Hoang |first1=Rochelle |last2=Hoang |first2=Viet |title=Coffee In Japan: 120 Years Of Mornings. |location=Tofugu |date=2014-04-29 |url=https://www.tofugu.com/japan/japanese-coffee/ |accessdate=2022-02-25}}</ref>。コーヒー自体が海外からもたらされた飲料であるから、日本におけるコーヒー文化もまた外国・西洋のものと位置づけられた。こうした認識が、第二次世界大戦中にコーヒーが禁止される原因ともなった。戦後の日本において、欧米の商品や製品は、新興の中流階級を測る指標だった<ref name=":0">{{Cite journal|last=Assmann|first=Stephanie|date=2013|title=Review of Coffee Life in Japan|journal=The Journal of Asian Studies|volume=72|issue=3|pages=728–729|doi=10.1017/S0021911813000910|issn=0021-9118|jstor=43553563}}</ref>。高級なコーヒーやコーヒー器具、そして挽き売りコーヒーは、まさにこうした商品の一つとなったのである。{{仮リンク|連合国占領期後の日本|en|Post-occupation Japan|label=主権回復後の日本}}では、[[ジャズ喫茶]]やコーヒーが、欧米にならって日本の文化・社会を近代化しようとした例であった。また喫茶店は、1960年代から1970年代頃の進歩的な若者にとっての文化的な拠点ともなり、[[ウーマン・リブ]]や[[日本の学生運動|学生運動]]、[[反政府運動]]に集会の場を提供した<ref name="grinshpun2">{{Cite journal|last=Grinshpun|first=Helena|date=2013-05-22|title=Deconstructing a global commodity: Coffee, culture, and consumption in Japan|journal=Journal of Consumer Culture|volume=14|issue=3|pages=343–364|doi=10.1177/1469540513488405|issn=1469-5405|s2cid=145248555}}</ref>。現代日本では、スターバックスコーヒーのような欧米のコーヒーフランチャイズも、ディズニーランドのフランチャイズと同じように国民的に愛好されている<ref name="grinshpun">{{Cite journal|last=Grinshpun|first=Helena|date=2013-05-22|title=Deconstructing a global commodity: Coffee, culture, and consumption in Japan|journal=Journal of Consumer Culture|volume=14|issue=3|pages=343–364|doi=10.1177/1469540513488405|issn=1469-5405|s2cid=145248555}}</ref>。 |
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[[コーヒーゼリー|'''コーヒーゼリー''']]は、コーヒーを[[ゼラチン]]や[[寒天]]で固めた日本生まれの[[デザート]]である<ref name=":23">{{Cite book|和書|title=コーヒー語辞典|date=2015-05-14|year=2015|publisher=株式会社誠文堂新光社|page=89|author=村澤智之監修}}</ref>。[[1963年]]([[昭和]]38年)に[[ミカドコーヒー]][[軽井沢]]店が「食べるコーヒー」として考案して売り出したのが発祥とされている<ref name=":23" />。[[ミルク]]や[[ガムシロップ]]をかけて食べても美味である<ref name=":23" />。 |
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文化的な面でいえば、コーヒーは伝統的な{{仮リンク|日本における茶の歴史|en|History of tea in Japan|label=日本の喫茶文化}}([[喫茶文化]])とは大きく異なる。日本では、[[茶道]]がそうであるように、茶文化とは即ち社交であり、一座建立のためのイベントである。茶会とは、親友や客人へのもてなしや敬う気持ちを表現する場なのである。一方で日本人にとって、コーヒーは西洋のものであるだけでなく一人で楽しむ飲み物である。実際60年代から70年代にかけて、コーヒーは、社会に出て一人で働く[[ビジネスマン]]からの人気を獲得した<ref name="grinshpun3">{{Cite journal|last=Grinshpun|first=Helena|date=2013-05-22|title=Deconstructing a global commodity: Coffee, culture, and consumption in Japan|journal=Journal of Consumer Culture|volume=14|issue=3|pages=343–364|doi=10.1177/1469540513488405|issn=1469-5405|s2cid=145248555}}</ref>。日本のコーヒー文化にも、茶文化における社交とは根本から異なるとはいえ、社交の要素がないわけではない。しかし喫茶店・カフェとそこで提供されるコーヒーもまた社会的な役割を担ってはいるものの、社会に対して破壊的な側面を持っているところが茶とは根本的に異なる。こと1970年代から1980年代にかけては、日本における喫茶店は、ウーマン・リブや[[新左翼]]といった、既存の日本社会の破壊・変革をめざす社会運動にとっての集会の場となったからである<ref name=":02">{{Cite journal|last=Assmann|first=Stephanie|date=2013|title=Review of Coffee Life in Japan|journal=The Journal of Asian Studies|volume=72|issue=3|pages=728–729|doi=10.1017/S0021911813000910|issn=0021-9118|jstor=43553563}}</ref>。このように、コーヒーは日本のビジネスマンだけでなく、若き活動家のシンボルでもあるが、コーヒーのタイプによっては年齢層による断絶も明らかになる。[[ハワイ大学]]と[[桃山学院大学]]の教授が共同で執筆した、日本のコーヒー市場についての論文によれば、日本で[[インスタントコーヒー]]は一般的なものとして扱われている一方、挽き売り・[[焙煎]]コーヒー豆は{{仮リンク|贅沢品|en|luxury goods|label=ぜいたく品}}とされている<ref name=":2">{{Cite web|url=https://scholarspace.manoa.hawaii.edu/bitstream/10125/25536/ITS-037.pdf|title=The Coffee Market In Japan|last=Halloran|first=John|date=|website=scholarspace.manoa.hawaii.edu|url-status=live|archive-url=|archive-date=|access-date=2022-02-25}}</ref>。若者はインスタントコーヒーを好むが、経済的・社会的に成功した中流階級の大人は挽き売りコーヒーを好む.<ref name=":2" />。 |
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瓶入りの[[コーヒー牛乳]]は、[[銭湯]]の風呂上がりに、腰に手を当てて飲むものの定番である<ref name=":23" />。 |
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== 海外とのつながり == |
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[[File:50th_Anniv._of_Japanese_Emigration_to_Brazil.JPG|リンク=https://en-two.iwiki.icu/wiki/File:50th_Anniv._of_Japanese_Emigration_to_Brazil.JPG|サムネイル|ブラジル移住50年記念切手]] |
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なお、日本では[[コーヒーの日]]は[[10月1日]]である<ref name=":23" />。これは、秋から冬にかけて[[需要]]が高まることに由来している<ref name=":23" />。<gallery> |
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ファイル:Ice coffee image.jpg|alt=|アイスコーヒー |
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ファイル:Coffee jelly (2014-01-23).jpg|alt=|コーヒーゼリー |
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ファイル:Yamamura Coffee Milk.jpg|alt=|コーヒー牛乳 |
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</gallery> |
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== 経済 == |
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=== 生産と輸入 === |
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日本は国土のほぼ全てが[[コーヒーベルト]]から外れており、気候的にも[[コーヒーノキ]]の栽培に適した土地ではないが<ref name=":14">{{Cite book|和書|title=極める 愉しむ 珈琲事典|date=2018-01-05|year=2018|publisher=株式会社西東社|page=269|author=西東社編集部編}}</ref>、それでもコーヒーベルトの端にあたる[[沖縄県]]や[[小笠原諸島]]<ref name=":14" /><ref>{{Cite book|和書|title=コーヒー語辞典|date=2015-05-14|year=2015|publisher=株式会社誠文堂新光社|page=131|author=村澤智之監修}}</ref>、[[鹿児島県]]の[[徳之島]]などでは[[コーヒー豆]]の生産が小規模ながら行われている<ref name=":14" /><ref name=":8">{{Cite book|和書|title=コーヒーの事典|date=2008-04-01|year=2008|publisher=成美堂出版株式会社|page=153|author=田口護監修}}</ref>。[[品種]]としては、[[アラビカ種]]と[[ロブスタ種]]がともに栽培されている<ref name=":8" />。ただ、いずれの地域でも市場に流通するほどの生産量には至っておらず<ref name=":14" /><ref name=":8" />、現地の[[土産物]]として販売されている程度である<ref name=":8" />。 |
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小笠原諸島では明治時代からコーヒーノキの栽培が行われていたといわれるほか、沖縄県でも1980年頃から本格的な栽培が試みられ始めた<ref name="beans-express2">{{cite web |url=https://beans-express.com/article/detail.php?article_id=10029#2 |title=日本産のコーヒー、一体日本のどこで生産されてるの? |publisher=珈琲特急便 |date=2018年12月12日 |accessdate=2022年7月9日}}</ref>。小笠原諸島で栽培されている小笠原ボニンアイランドコーヒーは、中煎りでチョコレートやワインのような深い味わいが特徴である<ref name=":14" />。沖縄県では2014年(平成26年)に「沖縄珈琲生産組合」が設立された他<ref name="beans-express2" />、2019年には[[沖縄SV]]・[[ネスレ日本]]らが中心となり沖縄での大規模なコーヒー生産を目標とする「沖縄コーヒープロジェクト」が立ち上がっている(詳しくは[[沖縄SV#サッカー以外の取り組み]]を参照)。沖縄県では甘みのあるコーヒーができるとされ、数十軒の農家がコーヒー栽培に取り組んでいる<ref name=":17">{{Cite book|和書|title=コーヒー語辞典|date=2015-05-14|year=2015|publisher=株式会社誠文堂新光社|page=60|author=村澤智之監修}}</ref>。[[ファイル:50th_Anniv._of_Japanese_Emigration_to_Brazil.JPG|リンク=https://en-two.iwiki.icu/wiki/File:50th_Anniv._of_Japanese_Emigration_to_Brazil.JPG|サムネイル|ブラジル移住50年記念切手]] |
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日本におけるコーヒーの[[サプライチェーン]]は、国際的なものである。日本で焙煎・販売されるコーヒー豆は、ブラジルや[[ベトナム]]、[[コロンビア]]といった温暖な国で製造されたものである<ref>{{Cite web |url=https://coffee.ajca.or.jp/pdf/data02_2021_04.pdf |title=日本のコーヒー生豆の国別輸入量 |accessdate=2022-02-27 |publisher=[[全日本コーヒー協会]] |archiveurl=https://web.archive.org/web/20220122041337/https://coffee.ajca.or.jp/pdf/data02_2021_04.pdf |archivedate=2022-01-22}}</ref><ref group="注釈">2020年時点では、日本へのコーヒー輸入量のうち、全体の70.9%をブラジル・ベトナム・コロンビアの3国が占めている。</ref>。 |
日本におけるコーヒーの[[サプライチェーン]]は、国際的なものである。日本で焙煎・販売されるコーヒー豆は、ブラジルや[[ベトナム]]、[[コロンビア]]といった温暖な国で製造されたものである<ref>{{Cite web |url=https://coffee.ajca.or.jp/pdf/data02_2021_04.pdf |title=日本のコーヒー生豆の国別輸入量 |accessdate=2022-02-27 |publisher=[[全日本コーヒー協会]] |archiveurl=https://web.archive.org/web/20220122041337/https://coffee.ajca.or.jp/pdf/data02_2021_04.pdf |archivedate=2022-01-22}}</ref><ref group="注釈">2020年時点では、日本へのコーヒー輸入量のうち、全体の70.9%をブラジル・ベトナム・コロンビアの3国が占めている。</ref>。 |
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1908年から1924年の間、およそ3万5000人の日本人がブラジルへと移住し、コーヒー農園で働いた<ref name=": |
1908年から1924年の間、およそ3万5000人の日本人がブラジルへと移住し、コーヒー農園で働いた<ref name=":322" />。彼ら[[日系ブラジル人]]は日本に帰国する際、コーヒーをも持って帰ったのである。 |
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日本のコーヒー文化は、用語や言葉を西洋から直接採り入れたために、新たな日本語を産み出すことはなかった<!-- 「焙煎」や「落とす」?出典が無いので削ってもいいかもしれません。 -->。<!-- 「焙煎」や「落とす」?出典が無いので削ってもいいかもしれません。 --> |
日本のコーヒー文化は、用語や言葉を西洋から直接採り入れたために、新たな日本語を産み出すことはなかった<!-- 「焙煎」や「落とす」?出典が無いので削ってもいいかもしれません。 -->。<!-- 「焙煎」や「落とす」?出典が無いので削ってもいいかもしれません。 --> |
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=== 市場規模 === |
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歴史的に見れば、喫茶店・カフェ業界の市場規模が飛躍を遂げたのは、「[[バブル景気]]」という、不安定ながらも主に商業において大きな経済成長が起こった時期のことであった<ref>{{Cite web |url=https://www.nationalgeographic.com/culture/food/the-plate/2015/09/11/the-way-of-coffee-japan-brews-up-its-own-unique-culture/ |title=The Way of Coffee: Japan Brews Up Its Own Unique Culture |last=Beser |first=Ari |date=January 31, 2018 |website=National Geographic |publisher=National Geographic Society |url-status=live |archive-url= |archive-date= |access-date=October 30, 2019}}</ref>。2019年時点までの同業界の平均売上は4075994.85[[円 (通貨)|円]]、[[アメリカ合衆国ドル|米ドル]]換算では374億7800万ドルに登る。また、日本のコーヒー消費の主流を担うインスタントコーヒーの売上高は3016157.88円、米ドル換算で277億3300万を計上している。<!-- この数字はおそらく原文段階での誤り -->2019年の時点で、インスタントコーヒーの単価は増加傾向にあったが、焙煎コーヒーの単価は比較的安定していた<ref>{{Cite web |url=https://www.statista.com/outlook/30010000/121/coffee/japan#market-pricePerUnit |title=Coffee - Japan: Price Per Unit |last= |first= |date= |website=Statista |language=en |url-status=live |archive-url= |archive-date= |access-date=2019-10-30}}</ref>。大多数のコーヒーは、喫茶店や[[バー (酒場)|バー]]、[[レストラン]]といった家庭外で消費されるが、コーヒーの消費量は家庭内消費と比例する傾向にある<ref>{{Cite web |url=https://www.statista.com/outlook/30010000/121/coffee/japan#market-ontradeRevenueShare |title=Coffee - Japan: On Trade Revenue Share |last= |first= |date= |website=Statista |language=en |url-status=live |archive-url= |archive-date= |access-date=2019-10-30}}</ref>。コーヒー小売業界最大手は、スイスに本社を置く[[ネスレ]]、家庭用・業務用コーヒーの最大手は、ルクセンブルクに本社を置く{{仮リンク|JABホールディングス|en|JAB Holding Company}}である<ref>{{Cite web |url=https://www.statista.com/outlook/30010000/121/coffee/japan |title=Coffee - Japan: Market Definition |last= |first= |date= |website=Statista |language=en |url-status=live |archive-url= |archive-date= |access-date=2019-10-30}}</ref>。2019年の時点で、日本のコーヒー市場は過去10年にわたり着実な成長を遂げているし<ref name=": |
歴史的に見れば、喫茶店・カフェ業界の市場規模が飛躍を遂げたのは、「[[バブル景気]]」という、不安定ながらも主に商業において大きな経済成長が起こった時期のことであった<ref>{{Cite web |url=https://www.nationalgeographic.com/culture/food/the-plate/2015/09/11/the-way-of-coffee-japan-brews-up-its-own-unique-culture/ |title=The Way of Coffee: Japan Brews Up Its Own Unique Culture |last=Beser |first=Ari |date=January 31, 2018 |website=National Geographic |publisher=National Geographic Society |url-status=live |archive-url= |archive-date= |access-date=October 30, 2019}}</ref>。2019年時点までの同業界の平均売上は4075994.85[[円 (通貨)|円]]、[[アメリカ合衆国ドル|米ドル]]換算では374億7800万ドルに登る。また、日本のコーヒー消費の主流を担うインスタントコーヒーの売上高は3016157.88円、米ドル換算で277億3300万を計上している。<!-- この数字はおそらく原文段階での誤り -->2019年の時点で、インスタントコーヒーの単価は増加傾向にあったが、焙煎コーヒーの単価は比較的安定していた<ref>{{Cite web |url=https://www.statista.com/outlook/30010000/121/coffee/japan#market-pricePerUnit |title=Coffee - Japan: Price Per Unit |last= |first= |date= |website=Statista |language=en |url-status=live |archive-url= |archive-date= |access-date=2019-10-30}}</ref>。大多数のコーヒーは、喫茶店や[[バー (酒場)|バー]]、[[レストラン]]といった家庭外で消費されるが、コーヒーの消費量は家庭内消費と比例する傾向にある<ref>{{Cite web |url=https://www.statista.com/outlook/30010000/121/coffee/japan#market-ontradeRevenueShare |title=Coffee - Japan: On Trade Revenue Share |last= |first= |date= |website=Statista |language=en |url-status=live |archive-url= |archive-date= |access-date=2019-10-30}}</ref>。コーヒー小売業界最大手は、スイスに本社を置く[[ネスレ]]、家庭用・業務用コーヒーの最大手は、ルクセンブルクに本社を置く{{仮リンク|JABホールディングス|en|JAB Holding Company}}である<ref>{{Cite web |url=https://www.statista.com/outlook/30010000/121/coffee/japan |title=Coffee - Japan: Market Definition |last= |first= |date= |website=Statista |language=en |url-status=live |archive-url= |archive-date= |access-date=2019-10-30}}</ref>。2019年の時点で、日本のコーヒー市場は過去10年にわたり着実な成長を遂げているし<ref name=":12">{{Cite web |url=https://www.statista.com/outlook/30010000/121/coffee/japan |title=Coffee - Japan: Market Revenue |last= |first= |date= |website=Statista |language=en |url-status=live |archive-url= |archive-date= |access-date=2019-10-30}}</ref>、世界的に見ても日本のコーヒーの売上高は世界3位につけていた<ref>{{Cite web |url=https://www.statista.com/outlook/30010000/121/coffee/japan#market-globalRevenue |title=Coffee - Japan: Market Global Revenue |last= |first= |date= |website=Statista |language=en |url-status=live |archive-url= |archive-date= |access-date=2019-10-30}}</ref>。 |
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== 芸術との関係 == |
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=== パンの会 === |
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[[明治時代]]後期に次々と開業した[[カフェー]]には、多くの[[文化人]]や[[芸術家]]が集い、[[ヨーロッパ]]のようなカフェ文化が花開いた<ref name=":7" />。 |
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[[1908年]]([[明治]]41年)<ref name=":33" />、[[石川啄木]]や<ref name=":21">{{Cite book|和書|title=コーヒー語辞典|date=2015-05-14|year=2015|publisher=株式会社誠文堂新光社|page=78|author=村澤智之監修}}</ref>[[北原白秋]]、[[木下杢太郎]]、[[石井柏亭]]、[[山本鼎]]らが集まり、[[日本]]で[[パリ]]の[[カフェ]]の雰囲気を味わえる店を求めて、[[コーヒー]]を出す西洋料理店で会合を重ねた<ref>{{Cite book|和書|title=珈琲の世界史|date=2017-10-20|year=2017|publisher=株式会社講談社<講談社現代新書2445>|pages=192-193|author=旦部幸博著}}</ref>。会は[[ギリシャ神話]]の牧神から「'''パンの会'''」と名付けられ、[[耽美派]]の活動拠点になった<ref name=":34" />。ただ、すぐに[[宴会]]になることもあったという<ref name=":34" />。コーヒー好きだった白秋の詩に、「やわらかな誰が喫みさしし珈琲ぞ紫の吐息ゆるくのぼれる」がある<ref name=":21" />。 |
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[[東京]][[銀座]]の「[[カフェー・プランタン]]」は、この「パンの会」の活動に触発された[[松山省三]]が、芸術家の語り合う[[サロン]]を目指して開業した<ref name=":34" />。当初は[[会員制]]で、[[黒田清輝]]や[[森鴎外]]、[[永井荷風]]、北原白秋らの文化人や[[インテリ]]が集う場となった<ref name=":71" />。また、東京[[京橋]]の「[[カフェーパウリスタ]]」には、[[芥川龍之介]]や[[久保田万太郎]]、[[平塚らいてう]]らの作家が集まり、文化の発信地となった<ref name=":36" />。 |
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=== 扱った作品 === |
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==== 小説 ==== |
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* 『'''コーヒーと恋愛'''』 |
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** [[1962年]]([[昭和]]37年)に[[読売新聞]]に[[連載]]された[[獅子文六]]の[[長編小説]]<ref name=":29">{{Cite book|和書|title=コーヒー語辞典|date=2015-05-14|year=2015|publisher=株式会社誠文堂新光社|page=170|author=村澤智之監修}}</ref>。人気[[女優]]と年下の夫に、[[コーヒー]]愛好家も加わって巻き起こすドタバタ劇を描く<ref name=":29" />。 |
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* 『'''[[かもめ食堂]]'''』 |
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** [[フィンランド]]を舞台にした[[群ようこ]]の小説。[[まじない]]をかけて淹れられたコーヒーが物語を紡ぐ<ref name=":20">{{Cite book|和書|title=コーヒー語辞典|date=2015-05-14|year=2015|publisher=株式会社誠文堂新光社|page=74|author=村澤智之監修}}</ref>。[[2006年]]([[平成]]18年)には[[小林聡美]]の[[主演]]で[[映画化]]された<ref name=":20" />。 |
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==== 楽曲 ==== |
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* 「'''[[コーヒールンバ]]'''」 |
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** 世界的にヒットした曲だが、[[日本]]では[[西田佐知子]]や[[ザ・ピーナッツ]]、[[荻野目洋子]]、[[井上陽水]]、[[西城秀樹]]などが[[カバー]]や[[リメイク]]を行っている<ref name=":18">{{Cite book|和書|title=コーヒー語辞典|date=2015-05-14|year=2015|publisher=株式会社誠文堂新光社|page=61|author=村澤智之監修}}</ref>。 |
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* 「'''コーヒー一杯の幸福'''」 |
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** [[Belle]]の[[シングル]]<ref name=":18" />。[[学生時代]]の[[恋人]]と再会し、[[喫茶店]]に通った思い出を歌う<ref name=":18" />。 |
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* 「'''コーヒー'''」 |
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** [[奥田民生]]のシングル<ref name=":17" />。雨の日は家でコーヒーで一息入れることを勧めている<ref name=":17" />。 |
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== 関連項目 == |
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* [[コーヒーの歴史]] |
* [[コーヒーの歴史]] |
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* [[コーヒー・ハウス]] |
* [[コーヒー・ハウス]] |
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== 脚注 == |
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=== 注釈 === |
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== 参考文献 == |
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=== 日本語文献 === |
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* [[井上誠]]著『珈琲の書』株式会社柴田書店、1972年2月。 |
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* {{Cite book|和書|title=イノダアキオさんのコーヒーがおいしい理由|date=2018-11-20|year=2018|publisher=アノニマ・スタジオ|author=猪田彰郎|ref={{SfnRef|猪田|2018}}}} |
* {{Cite book|和書|title=イノダアキオさんのコーヒーがおいしい理由|date=2018-11-20|year=2018|publisher=アノニマ・スタジオ|author=猪田彰郎|ref={{SfnRef|猪田|2018}}}} |
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* [[岡田哲]]編『たべもの起源事典』株式会社[[東京堂出版]]、2003年1月。ISBN 4-490-10616-5 |
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* 岡田哲編『世界 たべもの起源事典』株式会社東京堂出版、2005年3月。ISBN 4-490-10663-7 |
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* [[奥山儀八郎]]著『珈琲遍歴』株式会社旭屋出版、1973年8月。 |
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* アンヌ・カロン著・篠崎好治監修・ダコスタ吉村花子訳『大人のためのコーヒー絵本』株式会社[[日本文芸社]]、2021年2月。ISBN 978-4-537-21868-8 |
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* [[北岡正三郎]]著『物語 食の文化』株式会社中央公論新社<中公新書2117>、2011年6月。ISBN 978-4-12-102117-5 |
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* [[河野友美]]編『水・飲料』株式会社[[真珠書院]]<新・食品事典11>、1992年10月。ISBN 4-88009-111-1 |
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* {{Cite journal|author=[[坂井素思]]|year=2008|title=コーヒー消費と日本人の嗜好趣味|url=http://id.nii.ac.jp/1146/00007497/|journal=放送大学研究年報|volume=25|pages=33-40|issn=0911-4505}} |
* {{Cite journal|author=[[坂井素思]]|year=2008|title=コーヒー消費と日本人の嗜好趣味|url=http://id.nii.ac.jp/1146/00007497/|journal=放送大学研究年報|volume=25|pages=33-40|issn=0911-4505}} |
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* [[清水哲男]]編『日本の名随筆 別巻3 珈琲』株式会社[[作品社]]、1991年5月。ISBN 4-87893-823-4 |
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* [[成美堂出版]]編集部編『珈琲の大事典』成美堂出版株式会社、2011年9月。ISBN 978-4-415-31127-2 |
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{{コーヒー}} |
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* 田口護監修『コーヒーの事典』成美堂出版株式会社、2008年4月。ISBN 978-4-415-30254-6 |
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{{日本関連の項目}} |
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* [[旦部幸博]]著『珈琲の世界史』株式会社[[講談社]]<[[講談社現代新書]]2445>、2017年10月。ISBN 978-4-06-288445-7 |
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{{Normdaten}} |
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* [[西東社]]編集部編『極める 愉しむ 珈琲事典』株式会社西東社、2018年1月。ISBN 978-4-7916-2478-2 |
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* [[星田宏司]]著「そして日本中に喫茶店はあふれた 日本珈琲小史」『珈琲博物館』株式会社平凡社<太陽スペシャル>、1986年11月。 |
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* メリー・ホワイト著・有泉芙美代訳『コーヒーと日本人の文化誌-世界最高のコーヒーが生まれる場所』株式会社[[創元社]]、2018年6月。ISBN 978-4-422-21018-6 |
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* 村澤智之監修『コーヒー語辞典』株式会社[[誠文堂新光社]]、2015年5月。ISBN 978-4-416-61597-3 |
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* ジョナサン・モリス著・龍和子訳『コーヒーの歴史』株式会社[[原書房]]<「食」の図書館>、2019年5月。ISBN 978-4-562-05652-1 |
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[[Category:日本のコーヒー]] |
[[Category:日本のコーヒー]] |
2022年7月28日 (木) 10:09時点における版
本項では、日本のコーヒー文化(にほんのコーヒーぶんか)について解説する。コーヒーは、16世紀から17世紀の間にオランダ人とポルトガル人によって日本にもたらされた飲料だが、20世紀に入ってからは急速にその人気が高まった。日本のコーヒー文化は、社会のニーズに応じて変化を続けてきたが、今日では日本の都市文化における喫茶店・カフェはニッチな業界といえる。
特徴
日本のコーヒー文化は、世界のなかでももっともユニークなものの一つである。海外からみて興味深い習慣の一つに、提供する際、コーヒーカップの取っ手は左に、コーヒースプーンの持ち手は右に置かれる、というものがある[1]。コーヒー自体が海外からもたらされた飲料であるから、日本におけるコーヒー文化もまた外国・西洋のものと位置づけられた。こうした認識が、第二次世界大戦中にコーヒーが禁止される原因ともなった。戦後の日本において、欧米の商品や製品は、新興の中流階級を測る指標だった[2]。高級なコーヒーやコーヒー器具、そして挽き売りコーヒーは、まさにこうした商品の一つとなったのである。主権回復後の日本では、ジャズ喫茶やコーヒーが、欧米にならって日本の文化・社会を近代化しようとした例であった。また喫茶店は、1960年代から1970年代頃の進歩的な若者にとっての文化的な拠点ともなり、ウーマン・リブや学生運動、反政府運動に集会の場を提供した[3]。現代日本では、スターバックスコーヒーのような欧米のコーヒーフランチャイズも、ディズニーランドのフランチャイズと同じように国民的に愛好されている[4]。
文化的な面でいえば、コーヒーは伝統的な日本の喫茶文化(喫茶文化)とは大きく異なる。日本では、茶道がそうであるように、茶文化とは即ち社交であり、一座建立のためのイベントである。茶会とは、親友や客人へのもてなしや敬う気持ちを表現する場なのである。一方で日本人にとって、コーヒーは西洋のものであるだけでなく一人で楽しむ飲み物である。実際60年代から70年代にかけて、コーヒーは、社会に出て一人で働くビジネスマンからの人気を獲得した[5]。日本のコーヒー文化にも、茶文化における社交とは根本から異なるとはいえ、社交の要素がないわけではない。しかし喫茶店・カフェとそこで提供されるコーヒーもまた社会的な役割を担ってはいるものの、社会に対して破壊的な側面を持っているところが茶とは根本的に異なる。こと1970年代から1980年代にかけては、日本における喫茶店は、ウーマン・リブや新左翼といった、既存の日本社会の破壊・変革をめざす社会運動にとっての集会の場となったからである[6]。このように、コーヒーは日本のビジネスマンだけでなく、若き活動家のシンボルでもあるが、コーヒーのタイプによっては年齢層による断絶も明らかになる。ハワイ大学と桃山学院大学の教授が共同で執筆した、日本のコーヒー市場についての論文によれば、日本でインスタントコーヒーは一般的なものとして扱われている一方、挽き売り・焙煎コーヒー豆はぜいたく品とされている[7]。若者はインスタントコーヒーを好むが、経済的・社会的に成功した中流階級の大人は挽き売りコーヒーを好む[7]。
歴史
伝来
最初期の接触
日本にコーヒーがもたらされたのは、17世紀末から18世紀頃と考えられている[8]。鎖国政策下で唯一交易が許されていた長崎の出島にオランダ商人によって持ち込まれたとされ[9][10]、1706年(宝永3年)のオランダ商館長の日記に、日本人に淹れさせたコーヒーを夕食時に飲んだとある[11]。1724年(享保9年)に時の将軍徳川吉宗の命によって行われたオランダ商館長との対談の記録には、「我々には煎茶や番茶はないが、唐茶がある」とあり、この「唐茶」はコーヒーのことと考えられている[12]。
日本人で初めてコーヒーを飲用した者についての確かな記録はないが[8]、出島に出入りしていた通詞(通訳)か蘭学者、または遊女であろうと推測される[10][13]。1775年(安永4年)に出島で医師として勤務に就いたカール・ツンベルクは[12]、「2~3人の通訳がかろうじてコーヒーの味を知っている程度」と記録している[8]。また、ツンベルクの通訳は、日本人にオランダ人の習慣を説明するため「コヒイは、オランダ人によって習慣的に飲まれている。その形状はえんどう豆や大豆のようだが、それは木になる。すりつぶし、お湯の中に入れてしばらく待ち、砂糖を加えて飲む。コヒイは我々にとって茶のようなものである」と書き残している[12]。
蘭学者は、医学や植物学に関する書物の翻訳を通じてコーヒーを知り、日本人医師にその効能と処方を広めた[12]。日本で初めてコーヒーが記述された書籍は、1782年(天明2年)刊行の志筑忠雄訳『万国管闚』である[14]。この頃、コーヒーは、食欲や活力の増進、消化促進や下痢止めなどに効果があるとされており[12]、京都の蘭方医の広川獬によって1800年(寛政12年)に刊行された『長崎見聞録』には[15]、「かうひいは蠻人煎する豆にて」「日本の茶を飲む如く常に服するなり」[16]、「かふひぃは脾を運化し、溜飲を消し、気を降ろす。よく小便を通じ胸脾を快くす。平胃酸、茯令飲等に加入して、はなはだ効あり」とある[17]。
出島に出入りできた遊女たちも、この時代にコーヒーを飲んでいた数少ない日本人である[9]。遊女たちは、客に代金を踏み倒されたり[9]物を盗られたりしないように朝まで寝ずに過ごしたため[12]、飲むと眠くならないコーヒーは有用であった[9]。1797年(寛政9年)[12]、遊女がオランダ人からの贈り物を出島から持ち出した物品記録に[8]、石鹸やチョコレートなどとともに[12]「コヲヒ豆」と記録されている[8]。
これらのほか、長崎の貿易商たちもこの時期にコーヒーを飲用していたようで、同年6月19日には、井出要右衛門によって太宰府天満宮にコーヒーが奉納されている[18]。また、難破して外国船に救助された船乗りたちがコーヒーを与えられたという話もあり[19]、1807年(文化4年)の『環海異聞』には仙台の津太夫がペテルブルグでコーヒーを知ったと記されており[16]、1841年(天保12年)にはスペイン船に救助された船乗りが「親切な人々が来て、『コオヒイ』と呼ばれる砂糖の入った茶のような飲み物を我々に提供してくれた」と報告している[19]。
緩慢な浸透
コーヒーを飲用した感想を記した最初の日本人は[10][20][21]、狂歌師で戯作者の大田蜀山人である[22]。幕府の御家人でもあった蜀山人は[22]、役人として長崎奉行所に赴任していた1804年(文化元年)に[10][21]、「紅毛船にて『カウヒイ』といふものを勧む、豆を黒く煎りて粉にし、白糖を和したるものなり、焦げくさくして味ふるに堪ず」と『瓊浦又綴』に記している[20]。
1823年(文政6年)、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが出島に医師として着任し、コーヒーを健康と長寿の薬だとして普及を図った[23]。シーボルト自身もコーヒーを好んだとされるが[10][17]、シーボルトは、「日本人は温かい飲料を用い、交際好きな人種であるのに、世界のコーヒー商人であるオランダ人と交易しながら、一向にコーヒーを取り入れようとしないのは不思議だ」としながらも[23]、日本にコーヒーを定着させ輸入するようにさせるには2つの障害があるとして、日本人が生来牛乳を好まないことと、焙煎の経験・技術がないことを挙げている[24]。
シーボルトが懸念した通り[24]、江戸時代においてはコーヒーは普及せず、オランダ商人と接触があった者などごく限られた者が嗜んでいたほかは、医薬品として一部で利用されていただけであった[12]。また、それまで味わったことのないコーヒーの風味は[17]、蜀山人と同様に当時の多くの日本人には受け入れられなかったらしく[20]、同じくオランダからもたらされたカステラとは対照的に[25]、コーヒーはほとんど広まらなかった[20]。ただし、名奉行「遠山の金さん」として知られる遠山景元はコーヒーを好んだという話が伝えられている[25]。幕末には江戸幕府も普及を図っていたようで、1855年(安政2年)に幕府から津軽藩などに対する贈答品としてコーヒーが送られた[26]。1857年(安政4年)頃には、蝦夷地に勤務する兵に対して支給されている[20]。受け取った津軽藩では、コーヒー豆を鉄鍋で焙煎し擂り鉢で潰して麻袋に入れ、土瓶で沸かした湯に浸して抽出して飲用したという[27]。
なお、「かうひい」「かうへい」「可否」「加菲」などの字があてられていたオランダ語の「koffie」に[28]「珈琲」を用いたのは、江戸時代の蘭学者の宇田川榕菴である[29]。コーヒーの中国語表記である「咖啡」も参考にしたと思われるが[28]、コーヒーの実が生る様を簪の形に見立てて簪の花を意味する「珈」と簪の玉をつなぐ紐を意味する「琲」をあてたとされている[29]。
開国と普及
初期の普及
1854年(嘉永7年)に鎖国が解かれると、コーヒーは、1856年(安政3年)にオランダが商品として持ち込み[20]、1858年(安政5年)からは正式に輸入されるようになった[20][30]。当初は、主に外国人居留地の需要に応えるためのものであった[26]。コーヒーの人気を目の当たりにした幕府は、1866年(慶応2年)、コーヒーに輸入関税を設定した[26]。
明治維新後になると、コーヒーは日本人にも広まるようになっていく[31]。1860年代に日本国外でコーヒーを体験したエリート層が文明開化の一つとして持ち帰ると、1870年代には神戸や日本橋にコーヒーを飲ませる茶屋などが出現した[32]。鹿鳴館時代(1883年(明治16年)から1887年(明治20年)頃)になると[17]、上流階級を中心に[25][33]ハイカラな飲み物として受け入れられていった[17][33]。この頃の日本にはまだコーヒーの抽出器具がなかったため、トルココーヒーのようにコーヒー豆を細かく挽いて手鍋で煮出した上澄みを飲用していた[25]。
日本で最初のコーヒー店は1886年(明治19年)に東京日本橋の小網町に開店した[16]「洗愁亭」であるとされるが[34]、鄭永慶が1888年(明治21年)に東京上野の黒門町に開店した「可否茶館」が[16][35]、コーヒーを主体とした[17]本格的な喫茶店の元祖であるとされる[29][35][36]。鄭は、ニューヨークやロンドンで利用したコーヒーハウスをモデルとし[37]、鹿鳴館が上流階級の社交場であるのに対して、「可否茶館」は庶民の社交場を目指した[35]。建物は青ペンキ塗り[16]2階建ての洋館で[33][17]、1階にはトランプやビリヤード[25][29][38]、囲碁・将棋ができるスペースや[17]、図書室などがあり[33]、2階が喫茶室であった[38]。室内には絨毯が敷かれて立派なライティングデスクや皮張りの肘掛け椅子が設えられ[37]、敷地内にはクリケット場もあった[33][35][17]。「可否茶館」では、コーヒー1杯が1銭5厘で牛乳入りが2銭であった[34][16][17]。華やかな雰囲気で文化人の社交場として利用されたが[34]事業としては成り立たず、「可否茶館」は4年で閉店となった[33][35]。鄭は破産して無一文となり[37]、密航してアメリカで再起を期したが、3年後の1895年(明治28年)、不遇のままシアトルで37年の人生を閉じた[39][40]。
1890年(明治23年)には、東京浅草六区のパノラマ館に「ダイヤモンド珈琲店」が開店したが[16][34]、これも長くは続かなかった[35]。それでもその後コーヒーは、「麻布風月堂」や「木村屋總本店」、「不二家」などの菓子店や、中国茶中心の台湾喫茶店、ミルクホールや百貨店の食堂などで提供されるようになり[35]、明治後期には次第に日本人の間に浸透していくようになった[33]。
カフェーの興隆
明治から大正にかけて、コーヒーは一般の日本人も飲むようになり[34]、カフェーが次々と開店した[16]。これらの店は、料理やアルコールも提供する店と、コーヒーを中心とするソフトドリンクを提供する店の二つに大別される[33]。
前者の代表的な店としては、「カフェー・プランタン」や「カフェー・ライオン」などがある[33]。「カフェー・プランタン」は1911年(明治44年)3月に洋画家の松山省三によって東京銀座に開業した[41]。「プランタン」では、コーヒーのほか、洋食や軽食も提供した[42]。同年8月には、同じく東京銀座に「カフェー・ライオン」が開業し、料理中心のメニューとコーヒーを提供した[43]。後の「銀座ライオン」や「ビヤホールライオン」のルーツである[43]。これらに先立つ1910年(明治43年)には東京日本橋に「メイゾン鴻の巣」が開業している[41]。酒場として開業した後にフランス料理店となった店だが、詩人の木下杢太郎が「まづまづ東京最初のCafeと云っても可い」と評するほど食後のコーヒーに力を入れた店であった[41]。
後者の代表的な店は、「カフェーパウリスタ」である[33]。ブラジルに日本人移民を送り込んで現地のコーヒー生産に貢献し[37]「ブラジル移民の父」と呼ばれた水野龍は[43]、見返りにサンパウロ州政府からブラジルコーヒー宣伝のためとしてコーヒー豆を無償で提供された[44]。これを受けて水野は[33]、1911年(明治44年)6月にいったん大阪箕面にコーヒー店を開いたがすぐに閉め、同年12月にあらためて[44]東京京橋の南鍋町に「カフェーパウリスタ」を開店した[34]。水野は、州政府に宣伝を託されたことを意気に感じ[45]、また、移民たちへの支援にもなると考え[46]、1杯5銭で提供した[33]。コーヒー一杯だけの客も歓迎した「パウリスタ」は、学生や庶民に人気となり[46]、本格的なブラジルコーヒーを日本人に普及させた[25][33]。「パウリスタ」は北海道から九州まで展開する日本初の全国チェーンのコーヒー店となり、さらに上海にも支店を開店した[46]。「パウリスタ」からはキーコーヒーや松屋珈琲の創業者など数多くの人材が輩出されたこともあって、「日本のコーヒー史における一つの原点」と評価されている[46]。
また、この頃にコーヒーは直接飲用する以外の用途でも利用されるようになり、コーヒー入りの落雁や角砂糖が考案されている[34]。中心部にコーヒー豆の粉末が入れられた角砂糖は、直接食べたり、湯や牛乳で溶かして飲用された[34]。
多様化と純喫茶
明治末期から1937年(昭和12年)・1938年(昭和13年)頃にかけてが、太平洋戦争前の日本におけるコーヒーの全盛期であった[47]。
「プランタン」や「ライオン」では、女給を置いて給仕させたのが特徴であった[43]。すると男性客の間で女給の容姿が話題に上るようになり、女給目当てに店に通い詰める男性客が現れた[48]。当時、女給たちは店から給与が支払われておらず客からのチップが唯一の収入源だったと言われており、女給たちはそのような客も無下には扱えなかった[48]。特に酒食を提供していた店では、女給が酌や接客を行うことも普通になった[48]。こうした傾向は、1923年(大正12年)の関東大震災後に拍車がかかる[48]。復興とともにカフェーが激増し、「サービス」もエスカレートしていった[49]。「カフェー・ライオン」の近くには「カフェー・タイガー」という店が立ち、素行が悪いとして「ライオン」をクビになったの元女給を雇って「ライオン」以上のサービスを行ったという[50]。大阪からさらに過激なサービスを売りにするカフェーが東京に進出し、さらには性的サービスそのものを行う風俗店と変わらないカフェーも現れた[51]。このようなカフェーの増加は、風紀を乱すものとして社会問題化し、1929年(昭和4年)に「カフェー・バー等取締要項」によって規制対象となった[51]。
一方、「パウリスタ」では女給ではなく男の給仕を雇い、チップも不要としていた[46]。こうしたコーヒーや軽食を提供するコーヒー店では、酒や女給の接待を主とするカフェーと区別するために[29]、「喫茶店」や「純喫茶」と名乗るようになった[52]。1930年代には喫茶店ブームとなり、コーヒーの淹れ方や開業指南を載せた本や雑誌が多く出回り、『喫茶街』『茶と珈琲』といった専門誌も発刊された[53]。1933年(昭和8年)には、上島忠雄が神戸で上島忠雄商店(後のUCC上島珈琲)を立ち上げている[54]。最盛期の1937年(昭和12年)には[17]、東京には2600件以上の喫茶店があったとされる[33]。
このような状況の中で、大正から昭和にかけてコーヒーの消費量は増大した[17]。1929年(昭和4年)にサンパウロ州政府と輸入契約を結んだ星隆造が翌年から喫茶「ブラジレイロ」を全国展開、1932年(昭和7年)には三井物産と組んだブラジル政府直営のブラジルコーヒー宣伝販売本部がコーヒー豆の販売と喫茶店を開業するなど、当初はブラジル産を中心に輸入されたが、1930年代半ば以降はコロンビアやコスタリカからも輸入されるようになった[55]。1937年(昭和12年)にはブルーマウンテンの輸入も始まっている[56]。このほか、この時期に台湾でコーヒー栽培が始まって「国産コーヒー」と呼ばれて話題を呼んだ[56]。
戦時下の途絶
1935年(昭和10年)頃には一般家庭でも飲まれるようになるほど普及したコーヒーであったが[47]、1938年(昭和13年)に国家総動員法が発令されると[56]、国家主義の台頭とともにコーヒー文化は後退していった[37]。太平洋戦争がはじまるとコーヒーは完全に品薄状態となった[56]。コーヒー豆の輸入は、1942年(昭和17年)に規制の対象となり[57]、1944年(昭和19年)には完全に停止した[56]。日本国内では大豆やユリの根、どんぐりなどを煎って作った代用コーヒーが出回った[58]。明治以来の日本のコーヒー文化は、ここでいったん途絶えることになった[56]。
再興と黄金期
輸入再開と喫茶店ブーム
1945年(昭和20年)に太平洋戦争が終戦を迎えても、コーヒーが流通するようになるまでには時間がかかり、戦争中に隠匿されていたコーヒー豆やアメリカ軍から払い下げられた缶入りのコーヒー粉がわずかに出回っただけであった[56]。1950年(昭和25年)になって、ようやくコーヒーの輸入が再開された[47][57][59]。輸入再開とともに、喫茶店やカフェーが急速に復興されていく[57]。上島珈琲(現・UCC上島珈琲)や木村産業(現・キーコーヒー)などがコーヒー事業に参入し[59]、輸入量は年々増加していった[47]。1960年(昭和35年)になると生豆の輸入が全面自由化され、翌1961年(昭和36年)にはインスタントコーヒーの輸入も自由化された[59]。当時、生産国は質の高いコーヒー豆はアメリカなどに優先して輸出したため、日本には主に質の劣る豆が回されたが、それでも安価なコーヒーを手軽に買えるようになったことと[60]、インスタントコーヒーや缶コーヒーが普及したことで、コーヒーは一般に広がった[60][61]。
この時期の喫茶店には、音楽を楽しむ名曲喫茶やジャズ喫茶、合唱を目的とした歌声喫茶など、コーヒーだけでなく文化的な娯楽を提供するさまざまなスタイルの喫茶店が流行した[57][59]。また、GHQの公娼廃止指令が出されると遊郭の多くがカフェーや料理屋に看板を変えたため、カフェーも増えたが、これらは1957年(昭和32年)の売春防止法の施行によって姿を消した[59]。
1960年代半ばになると、喫茶店が全国に広がっていくとともに、高度経済成長によって客数も増加した[37]。1970年(昭和45年)にいざなぎ景気が終わって景気後退期に入ると、サラリーマンを辞めて喫茶店を開業する人が多数生まれた[62]。喫茶店は、比較的初期費用が少なくて済み[37][57]、1967年(昭和42年)に設立された環境衛生金融公庫から融資が受けられたことに加えて、「コーヒーと軽食を作って出すだけ」なら何とかなると考える者が多かったためである[63]。実際、喫茶店の開業を指南するコンサルタントの助言に従い、コーヒー会社から焙煎したコーヒー豆や砂糖、ミルク、消耗品などの一式を購入すれば、開業まではそう難しいことではなかった[63]。「喫茶店でもしようか」「喫茶店くらいしかできない」と考えて開業した喫茶店を指す「でもしか喫茶」という言葉も生まれている[63]。1970年(昭和45年)に約5万軒だった日本の喫茶店は[37]、1981年(昭和56年)には15万軒を超え[61]、そのうち約13万軒が個人経営の店であった[64]。一方、1970年代には家庭にレコードプレーヤーが普及したことで、名曲喫茶やジャズ喫茶は下火になった[60]。
喫茶店が急増すると、競争が激しくなり、他店との差別化を図る店が出てきた[64]。コーヒーの味で勝負しようとした店では、抽出技術を磨き[65]、自家焙煎に挑戦し[66]、コーヒー豆の産地にこだわっていった[67]。こうした店は「コーヒー専門店」を名乗り[57]、複数の産地のコーヒー豆を用意し[57][66]、注文に応じて一杯ずつサイフォンやドリップで抽出して提供した[57][61]。喫茶店は、コーヒー専門店と普通の喫茶店とに二極化していった[68]。
セルフサービスとカフェ
1980年代に入ると、飽和状態となっていた日本の喫茶店は冬の時代を迎える[69]。1980年代後半にバブル経済に突入すると、地価高騰によるテナント料の高騰、円安による原価の上昇が直撃した[70]。コーヒー1杯で1人が長時間テーブルを占有するという時間当たり客単価の低い喫茶店という業態は「儲からない商売」となり、この時期に店を閉め、あるいは他業種に転換した喫茶店も多い[70]。
そんな中、1962年(昭和37年)創業でコーヒー豆の焙煎卸業を営んでいたドトールコーヒーが[71]、1980年(昭和55年)にセルフサービスのドトールコーヒーショップを開店した[64][37]。ドトールコーヒーショップは、安価なコーヒーと[64]誰でも気軽に入れる雰囲気が支持され[71]、のちにフランチャイズを含めて1000店を超えるコーヒーチェーンに成長する[37]。セルフサービスの導入は人件費の削減と回転率アップを実現し、小さな店舗でも経営的に成り立つ新たなコーヒー店のスタイルを示した[61]。ドトールコーヒーショップの成功を受けて、他の焙煎卸売企業も直営店を増やす形で参入した[64]。日本のコーヒー店は以前からの喫茶店とセルフサービスのコーヒー店に二分されることになった[37]。既存の個人経営の喫茶店は、フランチャイズに加わるか、対抗できる特色を探すか、あるいは店を閉めるかに頭を悩ませることになる[64]。
1991年(平成3年)にバブル経済は崩壊[70]。1990年代後半になると[69]、リストラにあったサラリーマンや就職氷河期世代の若者などが、バブル期に直接訪れたりインターネットなどで見聞きした日本国外のカフェを参考に、オープンテラスや洒落たメニューを取り入れるなどした喫茶店を開業するようになった[72]。こうした新しいスタイルの喫茶店は「カフェ」と呼ばれ[69][72]、昭和な雰囲気の従来の喫茶店を敬遠していた若者や女性に受け入れられた[72]。
1990年代は、アメリカの影響を強く受けた時期でもあった[73]。1992年(平成4年)に成田空港に出店したものの1年足らずで撤退していたスターバックスが、1996年(平成8年)に再上陸[74]。女性をターゲットにしたメディア戦略によって、日本中に「スタバ旋風」が巻き起こった[74]。スターバックスの成功を受けて1997年(平成9年)にはタリーズコーヒーが続き[75]、「シアトル系」と呼ばれるエスプレッソを中心としたスペシャルティコーヒーが日本に定着した[76]。
21世紀
21世紀に入ると、ますますアメリカをはじめとした世界の影響を受けるようになり、インターネットなどを通じて世界の流行がリアルタイムで伝えられるようになった[77]。スペシャルティコーヒーやサードウェーブコーヒーは、苦みの強い自家焙煎店のコーヒーになじめなかった層から一定の支持を獲得している[78]。
2005年(平成17年)頃のサブカルブームでは、メイドの衣装を着たウエイトレスが接客するメイド喫茶が話題となった[79]。ただ、メイド喫茶では、衣装や世界観から、どちらかというとコーヒーより紅茶を主とする店が多いとされる[79]。また、2000年代後半から[80]2010年代には、日本国内では古臭いと思われていた昔ながらの喫茶店が、日本のコーヒー文化として日本国外から評価された[81]。自家焙煎で1杯ずつ時間をかけて淹れるというアメリカで流行したサードウェーブコーヒーの特徴が、日本では喫茶店文化としてすでに根付いていることが注目されたのである[29]。日本国外で評価されたことで、日本国内でも再評価されている[81]。
総務省統計局の調査によると、日本におけるコーヒーに対する支出金額は、2000年(平成12年)からの6年間でコーヒーが2割、コーヒー飲料が3割増加したとされており、日本はコーヒー豆の輸入で世界3位となっている[22]。国内には、昔ながらの喫茶店やスペシャルティコーヒーを扱うカフェなどさまざまなコーヒー店があり[82]、多種多様な缶コーヒーは[22]街中のいたるところに設置されている自動販売機で買うことができる[82]。多くのコンビニエンスストアでは、ドリップあるいはエスプレッソマシンで抽出したコンビニコーヒーが、100円程度で販売されている[22]。また、家庭や職場で気軽に楽しむ場合にも多様なインスタントコーヒーやレギュラーコーヒーから選べるし[22]、自分で淹れたり焙煎するための器具やコーヒー豆を手に入れるのも容易である[82]。大田蜀山人が「焦げくさくして味ふるに堪ず」と評したコーヒーは、現代日本社会に完全に定着している[22]。
喫茶文化
喫茶店
小規模なコーヒーチェーンは、それぞれの特色を打ち出す生存戦略を駆使している。たとえば、銀座ルノアールは、店内で客向けに、充電用の電源とWi-Fiを提供していることで知られている。またタバコをに対する方針もその戦略の一部である。顧客のなかにはコーヒーと喫煙を同時に楽しみたい人もいれば、分煙を好む人もいる。小規模な喫茶店のなかには喫煙者に合わせたサービスを提供するものもある一方、スターバックスのような大規模チェーンは、企業方針として喫煙席を置いていない。マクドナルドやスターバックスといった、北米発祥の大手チェーンは、店頭販売やコーヒー・スタンド[注釈 1]といった形態を通じて、日本での事業展開を進めてきた。
事業規模の大小に関わらず、日本のコーヒーチェーンは西洋の影響を強く受けている。比較的小規模なチェーンであるボスとルーツは、アメリカ人俳優のトミー・リー・ジョーンズ(ボス)やブラット・ピット(ルーツ)をイメージキャラクターとして迎えている。スターバックスなどの海外の大手チェーン、活況に湧く日本のコーヒー業界に乗じて上陸した。スターバックスの第一号店は、1996年に銀座で開業。2005年、同社はサントリーと提携し、缶コーヒーを発売。2021年12月現在、スターバックスの国内店舗は1700店を超えている[83]。これに対し、マクドナルドのマックカフェは、カフェとしては個別の店舗を持たず、マクドナルドのコーヒーを販売するスタンドだけを置いている。2007年に新規事業として正式に始動したこのスタンド式店舗は、コーヒーと持ち帰り用のお菓子を主に販売している。ワシントン州シアトル発祥のタリーズコーヒーは、3番目に日本に進出した国外コーヒーチェーンである。第一号店は1997年にオープン、2014年には513店舗まで拡大している[84]。
現在、コンビニエンスストアもコーヒー産業へと参入している。例えば、大手コンビニエンスストア・チェーンのセブン-イレブンは、コーヒーの年間販売数が11億杯を突破している[85]。なお、外部食研究家の梅澤聡によれば、セブン-イレブンのシェアは既存のコーヒーチェーンとは競合していない[86]。
その他のコーヒー文化
アイスコーヒーは、世界的にはアルジェリアに駐留していたフランス軍が冷やしたコーヒーに甘みをつけて酒で割ったのが始まりだとされるものの[87]、欧米ではコーヒーを冷やして飲む風習は一般的ではなかった[88]。日本では早くも明治時代にはコーヒーを冷やして飲んでいたと言われており[89]、氷屋のメニューに「氷コーヒー」と記載されていたという[90]。戦後、コーヒーの需要が下がる夏場の[91]喫茶店の定番メニューとなり[88]、日本ではホットコーヒーと同様に一般的な飲み方となっている[89][90]。日本以外ではあまり飲まれていない国も多かったが[87]、グローバルなコーヒーチェーンの展開によって[88]広まりつつある[89]。
コーヒーゼリーは、コーヒーをゼラチンや寒天で固めた日本生まれのデザートである[92]。1963年(昭和38年)にミカドコーヒー軽井沢店が「食べるコーヒー」として考案して売り出したのが発祥とされている[92]。ミルクやガムシロップをかけて食べても美味である[92]。
瓶入りのコーヒー牛乳は、銭湯の風呂上がりに、腰に手を当てて飲むものの定番である[92]。
なお、日本ではコーヒーの日は10月1日である[92]。これは、秋から冬にかけて需要が高まることに由来している[92]。
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アイスコーヒー
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コーヒーゼリー
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コーヒー牛乳
経済
生産と輸入
日本は国土のほぼ全てがコーヒーベルトから外れており、気候的にもコーヒーノキの栽培に適した土地ではないが[93]、それでもコーヒーベルトの端にあたる沖縄県や小笠原諸島[93][94]、鹿児島県の徳之島などではコーヒー豆の生産が小規模ながら行われている[93][95]。品種としては、アラビカ種とロブスタ種がともに栽培されている[95]。ただ、いずれの地域でも市場に流通するほどの生産量には至っておらず[93][95]、現地の土産物として販売されている程度である[95]。
小笠原諸島では明治時代からコーヒーノキの栽培が行われていたといわれるほか、沖縄県でも1980年頃から本格的な栽培が試みられ始めた[96]。小笠原諸島で栽培されている小笠原ボニンアイランドコーヒーは、中煎りでチョコレートやワインのような深い味わいが特徴である[93]。沖縄県では2014年(平成26年)に「沖縄珈琲生産組合」が設立された他[96]、2019年には沖縄SV・ネスレ日本らが中心となり沖縄での大規模なコーヒー生産を目標とする「沖縄コーヒープロジェクト」が立ち上がっている(詳しくは沖縄SV#サッカー以外の取り組みを参照)。沖縄県では甘みのあるコーヒーができるとされ、数十軒の農家がコーヒー栽培に取り組んでいる[97]。
日本におけるコーヒーのサプライチェーンは、国際的なものである。日本で焙煎・販売されるコーヒー豆は、ブラジルやベトナム、コロンビアといった温暖な国で製造されたものである[98][注釈 2]。
1908年から1924年の間、およそ3万5000人の日本人がブラジルへと移住し、コーヒー農園で働いた[54]。彼ら日系ブラジル人は日本に帰国する際、コーヒーをも持って帰ったのである。
日本のコーヒー文化は、用語や言葉を西洋から直接採り入れたために、新たな日本語を産み出すことはなかった。
市場規模
歴史的に見れば、喫茶店・カフェ業界の市場規模が飛躍を遂げたのは、「バブル景気」という、不安定ながらも主に商業において大きな経済成長が起こった時期のことであった[99]。2019年時点までの同業界の平均売上は4075994.85円、米ドル換算では374億7800万ドルに登る。また、日本のコーヒー消費の主流を担うインスタントコーヒーの売上高は3016157.88円、米ドル換算で277億3300万を計上している。2019年の時点で、インスタントコーヒーの単価は増加傾向にあったが、焙煎コーヒーの単価は比較的安定していた[100]。大多数のコーヒーは、喫茶店やバー、レストランといった家庭外で消費されるが、コーヒーの消費量は家庭内消費と比例する傾向にある[101]。コーヒー小売業界最大手は、スイスに本社を置くネスレ、家庭用・業務用コーヒーの最大手は、ルクセンブルクに本社を置くJABホールディングスである[102]。2019年の時点で、日本のコーヒー市場は過去10年にわたり着実な成長を遂げているし[103]、世界的に見ても日本のコーヒーの売上高は世界3位につけていた[104]。
芸術との関係
パンの会
明治時代後期に次々と開業したカフェーには、多くの文化人や芸術家が集い、ヨーロッパのようなカフェ文化が花開いた[17]。
1908年(明治41年)[35]、石川啄木や[105]北原白秋、木下杢太郎、石井柏亭、山本鼎らが集まり、日本でパリのカフェの雰囲気を味わえる店を求めて、コーヒーを出す西洋料理店で会合を重ねた[106]。会はギリシャ神話の牧神から「パンの会」と名付けられ、耽美派の活動拠点になった[41]。ただ、すぐに宴会になることもあったという[41]。コーヒー好きだった白秋の詩に、「やわらかな誰が喫みさしし珈琲ぞ紫の吐息ゆるくのぼれる」がある[105]。
東京銀座の「カフェー・プランタン」は、この「パンの会」の活動に触発された松山省三が、芸術家の語り合うサロンを目指して開業した[41]。当初は会員制で、黒田清輝や森鴎外、永井荷風、北原白秋らの文化人やインテリが集う場となった[42]。また、東京京橋の「カフェーパウリスタ」には、芥川龍之介や久保田万太郎、平塚らいてうらの作家が集まり、文化の発信地となった[46]。
扱った作品
小説
- 『コーヒーと恋愛』
- 『かもめ食堂』
楽曲
- 「コーヒールンバ」
- 「コーヒー一杯の幸福」
- 「コーヒー」
関連項目
脚注
注釈
出典
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参考文献
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