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志筑忠雄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
鎖国論、写本(江戸後期)

志筑 忠雄(しづき ただお、宝暦10年〈1760年〉- 文化3年7月3日1806年8月16日〉)は、江戸時代長崎蘭学者、長崎の商家中野家三代用助の五男。地役人株を購入して阿蘭陀稽古通詞に就いたが、のち辞職して中野家に出戻り。

人物・生涯

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天文物理オランダ語学、地理誌・物産、海外事情といった分野を中心に、蘭書を底本とした各種和訳書を成した。

本姓中野氏、通称忠次郎。名をはじめは盈長、後に忠雄とする[1]。晩年には体質が弱い謂である「蒲柳の質」をかけた「柳圃」を号し、また、末男の排行を含んだ「季飛」を字(あざな)とするとともに、詩才がありながらも素行の悪さから官職に就けなかった晩唐の詩人温庭筠に自身を託し、「飛卿」も字とした[2]

長崎で三井の用達を業としていた三代中野用助の五男として生まれ[3]、中野家の貿易戦略から養父孫次郎の養子として阿蘭陀通詞志筑本家8代を継いだ[4]。志筑の経歴については長年『長崎通詞由緒書』の情報をもとに、阿蘭陀通詞志筑家の養子となり、安永5年(1776年)には稽古通詞となったが、その翌年病身を理由に辞職し、阿蘭陀通詞で西洋天文学に精通していた本木良永に師事したと信じられてきた[5]。ところが、近年の研究成果によって、天明6年(1786年)まで同職を務めていたこと[6]、本木良永の門弟ではなかったことが指摘されている[7]

その生涯は蘭書翻訳に身を捧げる一方、多病であったようである。馬場佐十郎、大槻玄幹杉田玄白新宮凉庭らの諸著述によって、志筑は若くして病気を理由に阿蘭陀稽古通詞を辞し、隠居して人との交わりをできるだけ絶ち、およそ政治や現実問題とは無縁な生き方をしながら蘭書に没頭する、実像とは離れた(あるいは誇張した)伝説的な人物像が形成された[8][9]

大正5年(1916年)、従五位を追贈された[10]

業績・評価

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志筑の名が冠された著作は全て写本で伝わり、現在までに確認されているものは40点以上である[11][12]。没後に編纂されたものも多く、いつ成立したのか、いつ写されたのかが不明のものも少なくないが、少なくとも生前の著作が25点であることが指摘されており、その大半は通詞を退任し、商家中野家に出戻りしてからの仕事である[13]

著述の半分近くは西洋天文・物理学関係の蘭書からの訳出で、「引力」や「遠心力」などの言葉を創出し、ニュートン物理学を初めて日本に導入することとなった『暦象新書』[14](1802成)がその代表的な仕事である。ジョン・ケイルの翻訳とホイヘンスなどを参照にしつつ書いた自らの注釈であり、無限小概念や逆2乗の法則などに基づいてケプラーの第三法則などを基礎づけ、地動説を強固にするのには十分な内容で、自ら気圧を測る実験を行う記述もある[15][16][17]

次に多いのはオランダ語文法に関するもので約3割を占める。蘭書の各種オランダ語文典に基づいて編まれた志筑の著作群は、「品詞」概念を初めて導入するなど日本のオランダ語学のレベルを飛躍的に向上させた。なお、オランダ語文法学関連の著作は、『暦象新書』が完成した1802年以降、志筑の晩年に成されたものが大半である[18][19]。前二者に比べると数は多くないが、世界地理や海外事情に関する和訳も認められる。「鎖国」という言葉を生み出した『鎖国論』(1801成)がこの分野の主たる作品である。

蘭学以外、すなわち漢学や国学などの素養については、志筑のキャリアのうち最初期に成された世界の地理・事情に関する雑記帳『万国管闚』(1782序)から、その序文が山崎闇斎編『朱書抄略』(1681刊)に基づいていることが見て取れるとともに[20]、享和3年(1803年)後半から文化2年2月の間に編まれたと目される蘭文和訳論「蘭学生前父」(オランダマナビウマレヌサキノチチ)において、志筑がオランダ語和訳の理念的側面には荻生徂徠『訳文筌蹄』、和訳の実践的側面には本居宣長の国語学を援用していることが明らかにされている[21]

志筑は「品詞」概念、名詞の性、格と格変化、動詞の自他と曲用、時制、法などを蘭文典から学び取り、オランダ語を西洋文法カテゴリーの中で理解した日本史上初の人物である[22]。その文法理解に基づいた読解は、同時代のいわゆる「欧文訓読」(オランダ語を書き下し文のように読む読解法)や「和解」(わげ:想定される読者に向けて解釈を交えて説明をする行為)とは一線を画し、現代の水準での「翻訳」と呼びうるものであった[23]。その一方で、エンゲルベルト・ケンペル日本誌』のオランダ語第2版(1733)の巻末附録の最終章を訳出した写本『鎖国論』(1801成)に志筑が付した注釈や加筆に基づいて、排外的な側面が見られることが指摘されてきた[24]。確かに志筑は「蘭学」を中華思想の枠内で捉え「夷狄」の学問と見ていたが、それを「排外的」な文脈から捉えるのではなく、「治国平天下」、すなわち志筑が中華思想の枠組みの中で「公」に益する学問と認識していたことに着目することが重要である[25]。ロシア南下情報を受けて以来、志筑は海外情勢の訳出に手を出したが、それは幕府や藩に学者として仕官することを目的とした行動で、要人に読まれ知遇を得ることに一縷の望みを託し、商家中野姓ではなく、既に辞任していた通詞「志筑」姓で中華思想にまみれた政治的な言葉で『鎖国論』を成したのである[26]

志筑の著作は全て写本で成されていることから、研究を進めるには、写本蒐集・校合し、著作の原型復元を模索した上で論じる姿勢が求められる。また、多くの仕事が西洋文献のオランダ語訳書からの訳出なので、蘭語原典を無視して論じる態度も不誠実である。

主な訳著書

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  • 『万国管闚』1782年 - 大航海時代のいくつかの旅行記から和訳抜き書きした雑記帳。日本で初めてコーヒーについて言及したと言われる。
  • 『八円儀及其用法之記』1798年 - Cornelis Douwes: Beschryving van het Octant.(1749年)の和訳。
  • 鎖国論1801年 - エンゲルベルト・ケンペル1651年 - 1716年、ドイツ人医師)著『日本誌』(1727年)のオランダ語版Beschryving van Japanの1733年第2版の付録第6章「Onderzoek, of het vanbelang is voor ’t Ryk van Japan om het zelve geslooten te houden, gelyk het nu is, en aan desselfs Inwooners niet toe te laaten Koophandel te dryven met uytheemsche Natien ’t zy binnen of buyten ’s Lands.」(日本国において自国人の出国、外国人の入国を禁じ、又此国の世界諸国との交通を禁止するにきわめて当然なる理)を訳出したもの。この和訳によって「鎖国」という言葉が誕生したと考えられている。
  • 『暦象新書』(上編、中編・下編)1798年から1802年 - 原著はジョン・キール(John Keill, 1671年-1721年)の『真正なる自然学および天文学への入門書』(Introductiones ad Veram Physicam et veram Astronomiam)(1725年)のオランダ語版Inleidinge tot de waare natuur-en sterrekunde, of de natuur-en sterrekundige lessen van den heer Johan Keill ... : waar by gevoegt zyn deszelfs verhandelingen over de platte en klootsche driehoeks-rekeninge, over de middelpunts-kragten en over de wetten der aantrekkinge(1741年)の翻訳。アイザック・ニュートンヨハネス・ケプラーの生んだ法則概念を日本に紹介し、「引力」、「遠心力」、「求心力」、「重力」という語を生んだ書[27][28]
  • 『二国会盟録』1806年 - プレヴォ『旅行記集成』の蘭語版(Abbé Prévost: Historische Beschryving der Reizen. 1761)の中から、ネルチンスク条約締結現場に同行したジェルビヨン(フランス人宣教師)の紀行文を訳出したもの。
  • 『三角算秘伝』 - 「ネイピアの法則」を日本に最初に紹介したとされる書。
  • 『三種諸格』 - 1803年後半から1805年2月の間に成立。オランダ語における名詞のを中心に文法を説いた書。各種オランダ語文典に基づいて編まれた。
  • 『蘭学生前父』 - 1803年後半から1805年2月の間に成立。実例を交えながらオランダ語文の和訳法を説いた書。翻訳の理念面に荻生徂徠を、実践面に本居宣長の言語学を援用している。漢文まがいのいわゆる「欧文訓読」的な翻訳を批判し、初めてオランダ語をオランダ語として理解し、その性質を分析した上でその適切な和訳を説いた、日本史上初の「欧文和訳論」である。

脚注

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  1. ^ 渡辺 1957.
  2. ^ 大島 2024, pp. 165–167.
  3. ^ 松尾 2009.
  4. ^ 大島 2024, pp. 21–22.
  5. ^ 渡辺 1957, pp. 31–35.
  6. ^ 田中・ファン・ダーレン (2007, pp. 32–34)が示唆し、大島 (2024, pp. 22–31)で証明された。
  7. ^ 大島 2024, pp. 95–114.
  8. ^ 大島 2009, pp. 66–67.
  9. ^ 大島 2024, pp. 218–228.
  10. ^ 田尻 1975, p. 42, 特旨贈位年表.
  11. ^ 鳥井 2007.
  12. ^ 大島 2009, pp. 68–69, 表3.
  13. ^ 大島 2024, 「はしがき」9, 巻末表.
  14. ^ 暦象新書. 上,中,下編”. 早稲田大学図書館. December 14, 2020閲覧。
  15. ^ 大森 1962.
  16. ^ 久保 2013.
  17. ^ 三枝 & 清水 1956.
  18. ^ 大島 2018a.
  19. ^ 大島 2019, p. 39, 表1.
  20. ^ 大島 2018b.
  21. ^ 大島 2019, pp. 37–54.
  22. ^ 大島明秀『人物叢書 志筑忠雄』吉川弘文館、2025、174-189頁。 
  23. ^ 大島 2024, pp. 95–114, 168–174, 189–212.
  24. ^ 鳥井 1996.
  25. ^ 大島 2024, pp. 39, 79–81, 127, 128.
  26. ^ 大島 2024, pp. 115–131.
  27. ^ 吉田 1989.
  28. ^ 吉田 1990.

参考文献

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  • 大森実「『暦象新書』の研究 : 主としてその物理学について」『法政史学』第15巻、法政大学史学会、1962年、CRID 1390853649757738368doi:10.15002/00010679 
  • 大島明秀『「鎖国」という言説―ケンペル著・志筑忠雄訳『鎖国論』の受容史―』ミネルヴァ書房〈人と文化の探究 5〉、2009年1月。ISBN 978-4-6230-5312-4 
  • 大島明秀「志筑忠雄「三種諸格」の資料的研究」『シーボルト記念館鳴滝紀要』第28巻、シーボルト記念館、2018年3月、7-21頁、CRID 1050580007681938688hdl:2324/1917880ISSN 0918-0087 
  • 大島明秀「志筑忠雄「万国管闚」の文献学的研究」『雅俗』第17巻、雅俗の会、2018年7月、52-72頁、CRID 1050861482658072832hdl:2324/2328864ISSN 13437577 
  • 大島明秀「蘭文和訳論の誕生 : 志筑忠雄「蘭学生前父」と徂徠・宣長学」『雅俗』第18巻、雅俗の会、2019年7月、37-54頁、CRID 1390574798849063936doi:10.15017/4061064hdl:2324/4061064ISSN 1343-7577 
  • 大島明秀『志筑忠雄』吉川弘文館〈人物叢書 325〉、2024年12月26日。ISBN 9784642053181 
  • 三枝博音、清水幾太郎 編『日本哲学思想全書』 第6巻(科学 自然篇)、平凡社、1956年。NDLJP:2966147 
  • 田尻佐 編『贈位諸賢伝』 上(増補版)、近藤出版社、1975年。NDLJP:12253111 
  • イサベル・田中・ファン・ダーレン「オランダ史料から見た長崎通詞―志筑家を中心にー」『蘭学のフロンティア―志筑忠雄の世界 志筑忠雄没後200年記念国際シンポジウム報告書』長崎文献社、2007年11月、28-43頁。ISBN 978-4-88851-079-0 
  • 久保誠『阿蘭陀通詞 志筑忠雄の思想 : 近世日本における統一的宇宙観の展開』(博士(学術)論文)聖学院大学、2013年。甲第024号http://id.nii.ac.jp/1477/00001953/ 
  • 鳥井裕美子「ケンペルから志筑へ―日本賛美論から排外的『鎖国論』への変容」『季刊 日本思想史』第47号、ぺりかん社、1996年、115-133頁、CRID 1520854805524287616ISSN 0385-3195 
  • 鳥井裕美子「志筑忠雄の生涯と業績―今なぜ志筑忠雄なのか?」『蘭学のフロンティア―志筑忠雄の世界 志筑忠雄没後200年記念国際シンポジウム報告書』長崎文献社、2007年11月、7-17頁。ISBN 978-4-88851-079-0 
  • 松尾龍之介「(研究ノート)志筑忠雄の実家―中野家に関するノート」『洋学史研究』第26号、2009年、105-111頁、CRID 1520009408147819008 
  • 吉田忠「「暦象新書」の研究(一)」『日本文化研究所研究報告』第25号、1989年、107-152頁、CRID 1520572360354567936 
  • 吉田忠「「暦象新書」の研究(二)」『日本文化研究所研究報告』第26号、1990年、143-176頁、CRID 1520290885354789760 
  • 渡辺庫輔『阿蘭陀通詞志筑氏事略』長崎学会〈長崎学会叢書 第4輯〉、1957年。NDLJP:2973441 

関連文献

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  • 大島明秀「志筑忠雄訳「鎖国論」の誕生とその受容」『蘭学のフロンティア―志筑忠雄の世界 志筑忠雄没後200年記念国際シンポジウム報告書』長崎文献社、2007年11月、110-122頁。ISBN 978-4-88851-079-0 
  • 大島明秀「津市図書館稲垣文庫蔵「柬砂葛記」について―志筑忠雄訳「阿羅祭亜来歴」の一転写本―」『国文研究』第59号、2014年、1-13頁、CRID 1050282813791866112hdl:2324/1449084ISSN 0914-8345 
  • 大島明秀「伝吉村迂斎序を付したのは誰か―志筑忠雄「暦象新書」受容史の一駒―」『文彩』第15号、2019年、24-31頁、CRID 1050285299763785984hdl:2324/2232314 
  • 大島明秀「泉屋家旧蔵「オランダ語文法書」と志筑忠雄「助詞考」」『鳴滝紀要』第29号、2019年、1-8頁、CRID 1050017057728056064hdl:2324/2232313 
  • 大島明秀「神戸市立博物館蔵、有志筑忠雄序「万国管闚」について」『国文研究』第64号、2019年、51-68頁、CRID 1050861482657996544hdl:2324/2334002 
  • 小林龍彦「中野忠雄輯「三角算秘傳」について」『鳴滝紀要』第10号、2000年、1-13頁。 
  • 杉本つとむ『江戸時代蘭語学の成立とその展開』 第1部、早稲田大学出版部〈長崎通詞による蘭語の学習とその研究〉、1976年。NDLJP:13751569 
  • 原田博二「阿蘭陀通詞志筑家について」『蘭学のフロンティア―志筑忠雄の世界 志筑忠雄没後200年記念国際シンポジウム報告書』長崎文献社、2007年11月、20-27頁。ISBN 978-4-88851-079-0 
  • 松尾龍之介『長崎蘭学の巨人―志筑忠雄とその時代』弦書房、2007年。ISBN 978-4-902116-95-3 
  • 吉田忠「中天游の『暦象新書』研究」『適塾』第37号、2004年、78-89頁、CRID 1524232505589461120ISSN 0916-4030 
  • 吉田忠「志筑忠雄―独創的思索家―」『九州の蘭学―越境と交流』思文閣出版、2009年、102-108頁。ISBN 978-4-7842-1410-5 
  • 吉田光邦『江戸の科学者たち』社会思想社〈現代教養文庫〉、1969年。NDLJP:12590380 

外部リンク

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