「東名高速道路」の版間の差分
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{{Redirect|東名}} |
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{{告知|議論|施設間距離から独自研究を排除するための試行議論|プロジェクト:道路/高速道路の施設間距離}} |
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なはなゆら |
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{{Infobox road |
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|種別・系統 = [[高速自動車国道]]<br />([[有料道路|有料]]) |
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|アイコン = [[ファイル:TOMEI EXP (E1).svg|130px|東名高速道路]] |
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|名前 = {{Ja Exp Route Sign|E1}} 東名高速道路 |
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|名前の補足 = {{AHN-AH|1}} [[アジアハイウェイ1号線]] |
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|地図画像 = |
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{{Highway system OSM map |
{{Highway system OSM map |
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|開通年 = [[1968年]]([[昭和]]43年)- [[1969年]](昭和44年) |
|開通年 = [[1968年]]([[昭和]]43年)- [[1969年]](昭和44年) |
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|起点 = [[東京都]][[世田谷区]]([[東京インターチェンジ|東京IC]]) |
|起点 = [[東京都]][[世田谷区]]([[東京インターチェンジ|東京IC]]) |
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|主な経由都市 = [[川崎市]] |
|主な経由都市 = [[川崎市]]・[[横浜市]]・[[富士市]]・[[静岡市]]・[[浜松市]]・[[岡崎市]]・[[豊田市]]・[[名古屋市]]<!--高速自動車国道の路線を指定する政令・別表の「第一東海自動車道」の都市で、「エリア(国・州・都道府県など)の境界に位置する都市」「経路が大きく変わる都市」「沿道の都市で、そのエリア内で一番大きな都市」を勘案し、各県の都道府県庁所在地および政令指定都市・中核市(ただし豊橋市はICがないため除外)--> |
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|終点 = [[愛知県]][[小牧市]]([[小牧インターチェンジ|小牧IC]]) |
|終点 = [[愛知県]][[小牧市]]([[小牧インターチェンジ|小牧IC]]) |
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|接続する主な道路 = [[#接続する高速道路|記事参照]] |
|接続する主な道路 = [[#接続する高速道路|記事参照]] |
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'''東名高速道路'''(とうめいこうそくどうろ、 |
'''東名高速道路'''(とうめいこうそくどうろ、{{lang-en|TOMEI EXPWY}}<ref>{{Cite web|url=https://www.mlit.go.jp/road/sign/numbering/en/file/numbering_leaflet_en.pdf|title=Japan's Expressway Numbering System|accessdate=2022-04-03|publisher=Ministry of Land, Infrastructure, Transport and Tourism|format=PDF}}</ref>)は、[[東京都]][[世田谷区]]の[[東京インターチェンジ]](IC)から、[[神奈川県]]・[[静岡県]]を[[経由]]し、[[愛知県]][[小牧市]]の[[小牧インターチェンジ|小牧IC]]へ至る[[日本の高速道路|高速道路]]([[高速自動車国道]])である。[[略語|略称]]は'''東名高速'''(とうめいこうそく)、'''東名'''(とうめい)、[[新東名高速道路]]と特に区別する場合には'''旧東名・現東名'''など。[[中日本高速道路]](NEXCO中日本)の公式的呼称は'''東名'''と'''現東名'''。法令上の正式な路線名は[[第一東海自動車道]]である{{sfn|浅井建爾|2001|p=62}}。また、[[アジアハイウェイ1号線]]「AH1」の一部である。 |
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[[高速道路ナンバリング]]による路線番号は[[名神高速道路]]とともに 「'''E1'''」 が割り振られている<ref>[ |
[[高速道路ナンバリング]]による路線番号は[[名神高速道路]]とともに 「'''E1'''」 が割り振られている<ref>[https://www.mlit.go.jp/road/sign/numbering/list/index.html 高速道路ナンバリング一覧]、国土交通省</ref>。 |
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== 概要 == |
== 概要 == |
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[[File:Schematic diagram of the Tomei Expressway.svg|thumb|300px|東京起点より沼津までは内陸を通行することにより国道246号に概ね並行する。東海道新幹線との競合はできる限り避け{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=55}}、特に熱海、浜名湖付近では違いがはなはだしくなる{{sfn|池上雅夫|1969|p=111}}。ただし、静岡県内では東海道新幹線との交差が6か所に及ぶ{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=652}}。愛知県内は内陸に通し、岡崎付近を除いて国道1号から大きく外れて小牧に至る。赤枠の都市は中心部の通過を避けた。]] |
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東名高速道路は、[[東海道]]を走る[[国道1号]]の貨物輸送量増加による逼迫を受けて、大量、高速輸送等の時代の要請に応える新たな自動車専用道路として開通した{{sfn|吉田喜市|1973|pp=84-85}}{{sfn|高速道路五十年史編集委員会|2016|p=52}}。 |
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東名高速道路は、[[東海道]]を走る[[国道1号]]の貨物輸送量増加による逼迫を受けて、貨物の大量、高速輸送等の時代の要請に応える新たな自動車専用道路として建設された{{sfn|吉田喜市|1973|pp=84-85}}{{sfn|高速道路五十年史編集委員会|2016|p=52}}。都市間高速道路における東名の開通順位は、名神高速道路、[[中央自動車道]]に次いで3番目である<ref name="朝日19680424夕">{{Cite news |title=3か所で飛石開通 東名高速道路 一般、あすから |newspaper=朝日新聞(東京)夕刊|date=1968-04-24|page=1}}</ref>。路線がカバーする範囲は名神高速道路と併せて日本経済の枢要部であり{{sfn|池上雅夫|1969|p=15}}、開通当時において工業的に最も高い発展を遂げた地域を貫通したことから、東名はこれらの地域のさらなる機能強化と拡大を図るうえで積極的な役割を果たし{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=132}}、ひいては日本の[[高度経済成長]]の前半部を支え牽引した{{sfn|武田文夫|1999|p=11}}。 |
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路線は[[関東地方]]から[[中部地方]]にかけて、東海道とほぼ並行して東西に縦貫する。用地買収費と建設費を抑える観点から、家屋や田畑等を可能な限り回避のうえ東京 - 小牧間を最短距離となるように計画し、併せて市街地をはじめ集落の分断を極力回避した<ref name="朝日19601015">{{Cite news |title=建設省 路線案まとめる 東海道幹線自動車道 |newspaper=朝日新聞(東京)朝刊|date=1960-10-15|page=1}}</ref>。また、[[東海道新幹線]]と競合しないように路線位置の調整が行われている{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=55}}。結果、路線は[[横浜市|横浜]]、[[藤沢市|藤沢]]、[[小田原市|小田原]]、[[沼津市|沼津]]、[[浜松市|浜松]]、[[名古屋市|名古屋]]などの都市中心部を通さず、併せて[[熱海市|熱海]]、[[三島市|三島]]に寄らずに[[御殿場市|御殿場]]回りとなっているほか、[[豊川市|豊川]] - 名古屋間も海岸を避けて内陸に路線を通した<ref name="朝日19601015"/>。これにより、市街地を通過する東海道新幹線、[[東海道本線]]、国道1号とは位置的に若干の相違があり、東京起点より沼津までは内陸を通行する[[国道246号]]に概ね並行し、以降浜松付近まで国道1号に並行する。これより東海道新幹線と東海道本線を避けて[[舘山寺#舘山寺町|舘山寺]]、[[三ヶ日]]を通過して{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=58}}、[[岡崎市|岡崎]]付近で国道1号に並行して以降は内陸を通って名古屋市東端、[[春日井市|春日井]]、小牧に至り名神に接続する。 |
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全区間をNEXCO中日本が管理・運営している。[[中央自動車道]]・[[名神高速道路]]・[[新東名高速道路]]・[[伊勢湾岸自動車道]]・[[新名神高速道路]]・[[東名阪自動車道]]・[[名阪国道]]・[[西名阪自動車道]]とともに、[[東京都区部|東京23区]]付近から[[名古屋市|名古屋]]付近を経由し[[大阪市|大阪]]付近につながる日本の[[大動脈]]となっている。新東名高速道路が未開通の時代にあっては日本の最大動脈であり続け、[[高度経済成長]]期を牽引した[[東海道メガロポリス]]の産業発展の基盤を提供した{{sfn|武田文夫|1999|p=11}}。 |
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この道路は先行した名神高速道路の技術と経験を取り入れて建設されたが、全体的に直線が多勢を占める名神に対して、東名は9割までが曲線で構成されている{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=229}}。また、東海道の特色として大河川の横断が多岐に渡り、東名においても[[多摩川]]、[[相模川]]、[[酒匂川]]、[[富士川]]、[[安倍川]]、[[大井川]]、[[天竜川]]、[[浜名湖]]等の幾多の大規模河川を横断することが路線の特徴である{{sfn|武田文夫|1968|p=154}}。 |
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「東名高速道路」の名称は東京IC - 小牧IC間の道路名(通称名)である。また、小牧IC以西に連続する道路名は「名神高速道路」である。法令([[s:国土開発幹線自動車道建設法|国土開発幹線自動車道建設法]]の別表、[[高速自動車国道の路線を指定する政令]]の別表)による路線名は、東京IC - 小牧IC間は'''[[第一東海自動車道]]'''で、かつ小牧JCT - 小牧IC間は'''[[中央自動車道#路線名・道路名|中央自動車道西宮線]]'''と第一東海自動車道の重複区間である{{sfn|浅井建爾|2015|p=170}}。 |
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「高速道路」という呼称を使用しているのは、現在、新東名・東名と新名神・名神のみであるが、これは東名・名神の |
「東名高速道路」の名称は、東京と名古屋を結ぶ高速道路という意味でそう呼ばれる{{sfn|社団法人建設広報協議会|1963|p=167}}。また「高速道路」という呼称を使用しているのは、現在、新東名・東名と新名神・名神のみであるが、これは東名・名神の計画・建設の進められる過程で広く民間において「高速道路」という通称が使用され、一般的に定着して馴染みがある名称となったという歴史的な背景を考慮して採用されたものである<ref>{{Wayback |url=http://www.mlit.go.jp/road/soudan/soudan_01a_05.html |title=国土交通省道路局 道の相談室 |date=20091209074729}}</ref>。これらは東京IC - 小牧IC間の道路名(通称名)で、法令による路線名はこれとは異なる(後述) |
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東京ICから小牧ICまでの直線距離は248.4[[キロメートル]] (km) {{efn|[http://www.mapion.co.jp/route/ 距離測定:キョリ測(ベータ)]}}であるが、東名の延長距離は346. |
東京ICから小牧ICまでの直線距離は248.4[[キロメートル]] (km) {{efn|[http://www.mapion.co.jp/route/ 距離測定:キョリ測(ベータ)]}}であるが、東名の延長距離は346.7 kmと、約100 kmも迂回している(東海道新幹線の[[東京駅]] - [[名古屋駅]]とほぼ同じ距離)。 |
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全区間をNEXCO中日本が管理・運営している。道路カラーはスカイブルー({{Color|#20a5dd|■}})<ref>{{Cite web|和書|url=https://twitter.com/cnexco_official/status/1452452879717965830|title=みちのつぶやき~NEXCO中日本~ (@cnexco_official)の2021年10月25日のツイート|accessdate=2021-10-25}}</ref>。 |
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東京IC・[[横浜青葉インターチェンジ|横浜青葉IC]]・[[裾野インターチェンジ|裾野IC]]の3箇所のICを除き、全て[[インターチェンジ#分類|トランペット型IC]]となっている。また[[台風]]接近時は、[[高潮]]と[[高波]]の影響で、[[駿河湾]]に面した下り線(名古屋方面)の[[富士インターチェンジ|富士IC]] - [[清水ジャンクション]] (JCT) が度々通行止になる。 |
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東京IC - [[厚木インターチェンジ|厚木IC]]は[[大都市近郊区間 (高速道路)|大都市近郊区間]]、豊田JCT - 小牧IC間は普通区間における大都市近郊区間と同じ料金水準の区間となるため、普通区間に比べて通行料金が割高になっている。 |
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また、[[ETC割引制度]]については東京IC-厚木IC間のみ対象外となる。 |
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道路カラーは{{Colorbox|#20a5dd}}スカイブルー<ref>{{Cite web|url=https://twitter.com/cnexco_official/status/1452452879717965830|title=みちのつぶやき~NEXCO中日本~ (@cnexco_official)の2021年10月25日のツイート|accessdate=2021-10-25}}</ref>。 |
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=== 新東名高速道路との関係 === |
=== 新東名高速道路との関係 === |
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{{ |
{{Main|新東名高速道路}} |
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東名に並行している |
東名に並行している新東名高速道路(以下、新東名)は、東名のバイパス路線として建設された道路である。東名は交通量が多く、そのため渋滞や事故が常態化していて、さらに設計が古いため急曲線・急勾配等が多く、近年は老朽化が深刻であり大規模な更新工事を多数実施する状況となっている。さらに、東名は首都圏と中部地方や関西地方等を結ぶ大動脈の一つであるため、災害時においては東西間の物流に障害が生じる。そのため、高速道路ネットワークを本道路と相互に補完し合う新たな路線として新東名が建設された。 |
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新東名は東名と比較して高規格で設計され、急曲線・急勾配等が少ない上、最高速度120 km/hで運用されている区間も存在する。[[御殿場ジャンクション|御殿場JCT]] - [[豊田ジャンクション|豊田JCT]]で新東名・[[伊勢湾岸自動車道|伊勢湾岸道]]を |
新東名は東名と比較して高規格で設計され、急曲線・急勾配等が少ない上、最高速度120 km/hで運用されている区間も存在する。[[御殿場ジャンクション|御殿場JCT]] - [[豊田ジャンクション|豊田JCT]]で新東名・[[伊勢湾岸自動車道|伊勢湾岸道]]・[[新名神高速道路|新名神]]ルートで東京~大阪間を走行する場合は、東名経由に比べ距離が数十キロメートル短縮<ref>御殿場JCT~豊田JCT間は新東名経由が東名に対し11km、豊田JCT~草津JCT間は新名神経由が名神経由に比べ36km短縮される。</ref>され、さらに新東名経由の方が所要時間短縮となる事が多いという結果になっている。 |
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2012年(平成24年)4月14日に御殿場JCT - 浜松いなさJCT間と清水連絡路・引佐連絡路が、[[2016年]](平成28年)[[2月13日]]には浜松いなさJCT - [[豊田東ジャンクション|豊田東JCT]]間が開通し、静岡県内から愛知県内までの区間で東名・新東名のダブルネットワークが形成された。また、神奈川県中部から静岡県に至る区間については、[[ |
2012年(平成24年)4月14日に御殿場JCT - 浜松いなさJCT間と清水連絡路・引佐連絡路が、[[2016年]](平成28年)[[2月13日]]には浜松いなさJCT - [[豊田東ジャンクション|豊田東JCT]]間が開通し、静岡県内から愛知県内までの区間で東名・新東名のダブルネットワークが形成された。また、神奈川県中部から静岡県に至る区間については、[[2022年]](令和4年)[[4月16日]]までに[[海老名南ジャンクション|海老名南JCT]] - [[伊勢原ジャンクション|伊勢原JCT]]<!--東名との結節点につき記載--> - [[新秦野インターチェンジ|新秦野IC]]間、および[[新御殿場インターチェンジ|新御殿場IC]] - 御殿場JCT間が開通しており<ref>{{Cite web|和書|title=E1A 新東名 伊勢原大山IC〜新秦野ICが2022年4月16日(土)15時に開通します。 〜 秦野丹沢スマートICも同時に開通します 〜 {{!}} ニュースリリース {{!}} プレスルーム {{!}} 企業情報 {{!}} 高速道路・高速情報はNEXCO 中日本 |url=https://www.c-nexco.co.jp/corporate/pressroom/news_release/5365.html |website=E1A 新東名 伊勢原大山IC〜新秦野ICが2022年4月16日(土)15時に開通します。〜秦野丹沢スマートICも同時に開通します〜 {{!}} ニュースリリース {{!}} プレスルーム {{!}} 企業情報 {{!}} 高速道路・高速情報はNEXCO 中日本 |date=2022-02-24 |accessdate=2022-03-13 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.c-nexco.co.jp/corporate/pressroom/news_release/5022.html|title=E1A 新東名高速道路と国道138号バイパスが2021年4月10日(土)に開通します! 〜観光・物流を支えるネットワークがさらに広がります〜 〜国道469号バイパス、県道仁杉柴怒田線も開通します〜|date=2021-02-19|accessdate=2021-03-27|publisher=中日本高速道路株式会社・国土交通省中部地方整備局 沼津河川国道事務所・静岡県}}</ref>、残る新秦野IC - 新御殿場IC間は2027年(令和9年)度の開通予定である<ref>{{Cite press release |和書 |url=https://www.c-nexco.co.jp/corporate/pressroom/news_release/5591.html |title=E1A 新東名高速道路(海老名南JCT〜御殿場JCT間)連絡調整会議(第5回)開催結果について〜開通予定時期を2027年度に見直し〜 |publisher=中日本高速道路株式会社 |date=2022-12-16 |access-date=2022-12-17 }}</ref>。なお、海老名南JCT以東の横浜・東京方面に向けた区間については、基本計画路線および予定路線に留まっており、ルートや整備計画は決定していない。 |
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=== 路線データ === |
=== 路線データ === |
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* 車線幅員 : 3.6 [[メートル|m]] |
* 車線幅員 : 3.6 [[メートル|m]] |
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* 道路幅員 : 24.9 m - 32.1 m |
* 道路幅員 : 24.9 m - 32.1 m |
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* 車線数 : 4車線 - |
* 車線数 : 片側2 - 4車線、往復4 - 8車線(一部、付加車線(加速車線、合流車線)などで8車線区間あり。主な例は[[大和トンネル]]、[[御殿場ジャンクション]]付近の区間) |
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== |
== 根拠法令 == |
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東名高速道路の建設に関しては[[高速自動車国道法]]および[[s:国土開発幹線自動車道建設法|国土開発幹線自動車道建設法]]の二法が制定されている{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|pp=12-13}}。 |
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東名高速道路を整備・建設するための根拠となる法律を制定順に列挙する。既に廃止されたものも含む。 |
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法令(国土開発幹線自動車道建設法の別表、[[高速自動車国道の路線を指定する政令]]の別表)による路線名は、東京IC - 小牧IC間は'''[[第一東海自動車道]]'''で、かつ小牧JCT - 小牧IC間は'''[[中央自動車道#路線名・道路名|中央自動車道西宮線]]'''と第一東海自動車道の重複区間である{{sfn|浅井建爾|2015|p=170}}。 |
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1966年(昭和41年)7月までの根拠法令は、上記法令と異なる。以下、当時の法令を列挙する。 |
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東海道幹線自動車国道建設法。1960年(昭和35年)7月25日公布施行。東海道幹線自動車国道建設法は、国土開発幹線自動車道建設法の予定路線網に取り込まれる形で、1966年(昭和41年)7月1日で廃止された{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|pp=804-805}}。路線名は「○○自動車道」ではなく「幹線自動車国道」という他に例を見ない名称が使用され、終点位置はその後の国土開発幹線自動車道建設法の「小牧市」とは異なって「名古屋市附近」となっているが、その経緯については[[東京・神戸間の高速道路計画]]で詳述。 |
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{| class="wikitable" |
{| class="wikitable" |
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! style="white-space:nowrap" | 路線名 |
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! 制定日 !! 廃止日 !! 法律名 !! 備考 |
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! style="white-space:nowrap" | 起点 |
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! colspan="2" style="white-space:nowrap" | 主たる経過地 |
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! style="white-space:nowrap" | 終点 |
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|- |
|- |
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! style="white-space:nowrap" | 東海道幹線自動車国道 |
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| 1960年7月25日{{sfn|高速道路五十年史編集委員会|2016|p=年表5}} || 1966年7月30日{{sfn|高速道路五十年史編集委員会|2016|p=年表9}} || '''東海道幹線自動車国道建設法''' || 議員立法(個別立法)により制定 |
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| style="white-space:nowrap" rowspan="1"|東京都 |
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|colspan="2"|横浜市附近 静岡市附近 浜松市附近 豊橋市附近 |
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| style="white-space:nowrap" | 名古屋市附近 |
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|- |
|- |
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|} |
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| 1966年7月30日{{sfn|高速道路五十年史編集委員会|2016|p=年表9}} || || '''高速自動車国道の路線を指定する政令一部改正''' || 東海道幹線自動車国道建設法廃止に伴い、東海自動車道(東京 - 小牧)を高速自動車国道に指定 |
|||
東海道幹線自動車国道建設法施行令(その後の「高速自動車国道の路線を指定する政令」に該当{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=804}})では次のように指定されている。この法律は東海道幹線自動車国道建設法第3条第1項、第5条の規定に基づいて政令として制定された。1962年(昭和37年)5月30日公布施行。本法律は1966年(昭和41年)7月1日で廃止された{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=806}}。経過地は合併前の[[吉原市]]や[[清水市]]が含まれ、起点は世田谷区ではなく[[渋谷区]]となっている。 |
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{| class="wikitable" |
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! style="white-space:nowrap" | 路線名 |
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! style="white-space:nowrap" | 起点 |
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! colspan="4" style="white-space:nowrap" | 重要な経過地 |
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! style="white-space:nowrap" | 終点 |
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|- |
|- |
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! style="white-space:nowrap" | 高速自動車国道東海道幹線自動車国道 |
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| 1966年7月1日{{sfn|高速道路五十年史編集委員会|2016|p=年表9}} || || '''国土開発幹線自動車道建設法(国幹道法)''' || 国土開発縦貫自動車道建設法を一部改正のうえ、東海道幹線自動車国道建設法など個別に制定された5路線を統合{{sfn|高速道路五十年史編集委員会|2016|p=年表9}}(7月31日施行) |
|||
| style="white-space:nowrap" rowspan="1"|東京都渋谷区 |
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|colspan="4"|川崎市 横浜市 大和市 厚木市 秦野市 御殿場市 沼津市 吉原市 富士市 清水市 静岡市 焼津市 掛川市 袋井市 磐田市 浜松市 新城市 豊橋市 豊川市 岡崎市 豊田市 名古屋市 春日井市 |
|||
| style="white-space:nowrap" | 小牧市 |
|||
|- |
|- |
||
|} |
|} |
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なお、東名の建設に関わる法令は、1966年(昭和41年)7月に廃止された東海道幹線自動車国道建設法に基づいていたため、国土開発幹線自動車道建設法(旧国土開発縦貫自動車道建設法)第5条による建設線の基本計画は告示されていない。計画の最初から国土開発縦貫自動車道建設法に基づいている名神高速道路、中央自動車道との違いである{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=13}}。 |
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== インターチェンジなど == |
== インターチェンジなど == |
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* IC番号欄の背景色が {{colorbox|#BFB}} である部分については道路が供用済みの区間を示す。施設名欄の背景色が {{colorbox|#CCC}} である部分は施設が供用されていない、または完成していないことを示す。 |
* IC番号欄の背景色が {{colorbox|#BFB}} である部分については道路が供用済みの区間を示す。施設名欄の背景色が {{colorbox|#CCC}} である部分は施設が供用されていない、または完成していないことを示す。 |
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* [[スマートインターチェンジ]] |
* [[スマートインターチェンジ]](SIC)は背景色 {{colorbox|#eda5ff}} で示す。 |
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* 路線名の特記がないものは[[市町村道|市町道]]。 |
* 路線名の特記がないものは[[市町村道|市町道]]。 |
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* [[バス停留所|バスストップ]] |
* [[バス停留所|バスストップ]](BS)のうち、○/●は運用中、◆は休止中の施設。無印はBSなし。 |
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** 浜松IC、名古屋ICは▲としている。これは当該BSはIC近隣に設置された施設でIC設備からも離れており、本高速道路に属すBSではないためであるが、実際の運用上の扱いは一緒である。 |
** 浜松IC、名古屋ICは▲としている。これは当該BSはIC近隣に設置された施設でIC設備からも離れており、本高速道路に属すBSではないためであるが、実際の運用上の扱いは一緒である。 |
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* TB は[[本線料金所]]の略称を示す。 |
* TB は[[本線料金所]]の略称を示す。 |
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!colspan="3" style="border-bottom:3px solid green"|所在地 |
!colspan="3" style="border-bottom:3px solid green"|所在地 |
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|colspan="9" style="text-align:center" |[[File:Shuto Urban Expwy Sign 0003.svg|24px]] [[首都高速3号渋谷線]] <!--[[大橋ジャンクション|大橋]]・[[渋谷出入口|渋谷]]・[[谷町ジャンクション|谷町]]方面--> |
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|- |
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!style="background-color:#BFB"|1 |
!style="background-color:#BFB"|1 |
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|style="text-align:center"| |
|style="text-align:center"| |
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|rowspan="2" style="width:1em"|[[東京都]] |
|rowspan="2" colspan="3" style="width:1em"|[[東京都]]<br>[[世田谷区]] |
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| rowspan="2" colspan="2"|[[世田谷区]] |
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114行目: | 135行目: | ||
|style="text-align:right"|1.8 |
|style="text-align:right"|1.8 |
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|事業中<ref>{{Cite web |
|事業中<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ktr.mlit.go.jp/gaikan/gaiyo/keii.html |title=これまでの経緯 |publisher=国土交通省関東地方整備局東京外かく環状国道事務所 |accessdate=2013-05-12}}</ref>{{efn|東名計画時点では砧JCTとして計画。この時点で砧JCTの番号として2番が付与されている{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=930}}。}}。 |
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|[[東京料金所|東京TB/向ヶ丘BS]] |
|[[東京料金所|東京TB/向ヶ丘BS]] |
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|style="text-align:center"|- |
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|style="text-align:right"|6. |
|style="text-align:right"|6.6 |
||
|style="text-align:center"|○ |
|style="text-align:center"|○ |
||
| |
| |
||
| |
|rowspan="21" style="width:1em;text-align:center;"|{{縦書き|[[神奈川県]]}} |
||
| |
|rowspan="2" colspan="2"|[[川崎市]]<br>[[宮前区]] |
||
|- |
|- |
||
!style="background-color:#BFB"|3 |
!style="background-color:#BFB"|3 |
||
|[[東名川崎インターチェンジ|東名川崎IC]] |
|[[東名川崎インターチェンジ|東名川崎IC]] |
||
|[[川崎市主要地方道野川菅生線 |
|[[尻手黒川道路]]<br/>(川崎市道尻手黒川線/主要地方道野川菅生線) |
||
|style="text-align:right"|7.6 |
|style="text-align:right"|7.6 |
||
|style="text-align:center"| |
|style="text-align:center"| |
||
138行目: | 159行目: | ||
|style="text-align:center"|○ |
|style="text-align:center"|○ |
||
| |
| |
||
| |
|rowspan="5" style="width:1em;text-align:center;"|{{縦書き|[[横浜市]]}} |
||
| |
|rowspan="2" style="white-space:nowrap;"|[[青葉区 (横浜市)|青葉区]] |
||
|- |
|- |
||
!style="background-color: #BFB"|3-1 |
!style="background-color: #BFB"|3-1 |
||
|[[横浜青葉インターチェンジ|横浜青葉IC/JCT]] |
|[[横浜青葉インターチェンジ|横浜青葉IC/JCT]] |
||
|[[国道246号]]<br />[[File:Shuto Urban Expwy Sign K7 (NW). |
|[[国道246号]]<br />[[File:Shuto Urban Expwy Sign K7 (NW).svg|24px]] [[首都高速神奈川7号横浜北西線]] |
||
|style="text-align:right"|13.3 |
|style="text-align:right"|13.3 |
||
|style="text-align:center"| |
|style="text-align:center"| |
||
151行目: | 172行目: | ||
|[[港北パーキングエリア|港北PA]] |
|[[港北パーキングエリア|港北PA]] |
||
|style="text-align:center"|- |
|style="text-align:center"|- |
||
|style="text-align:right"|14. |
|style="text-align:right"|14.2<br />14.9 |
||
|style="text-align:center"| |
|style="text-align:center"| |
||
|名古屋方面<br />東京方面 |
|名古屋方面<br />東京方面 |
||
| |
|rowspan="2"|[[緑区 (横浜市)|緑区]] |
||
|- |
|- |
||
!style="background-color:#BFB"|4 |
!style="background-color:#BFB"|4 |
||
162行目: | 183行目: | ||
|style="text-align:center"|[[横浜バスストップ|◆]] |
|style="text-align:center"|[[横浜バスストップ|◆]] |
||
|BSは[[1999年]](平成11年)廃止 |
|BSは[[1999年]](平成11年)廃止 |
||
|- |
|||
!style="background-color:#CCC; text-align:right"| |
|||
|style="background-color:#CCC"|横浜上瀬谷IC(仮称) |
|||
|style="background-color:#CCC"| |
|||
|style="background-color:#CCC"|21.2 |
|||
|style="background-color:#CCC"| |
|||
|style="background-color:#CCC"|検討中<ref>{{Cite web|和書|url=https://walk.tokyo.jp/2024/02/22/tomei-expressway-yokohama-new-interchange/ |title=東名高速・横浜上瀬谷インター(仮)計画:上瀬谷通信施設跡地至近に新たなIC設置を2030年代前半に検討 |publisher=再開発ニュース:東京を中心に三大都市圏情報発信 |accessdate=2024-03-15}}</ref> |
|||
|colspan="2"|[[瀬谷区]] |
|||
|- |
|- |
||
!style="background-color:#BFB"|- |
!style="background-color:#BFB"|- |
||
174行目: | 203行目: | ||
|style="background-color:#eda5ff"|[[綾瀬スマートインターチェンジ|綾瀬SIC/BS]] |
|style="background-color:#eda5ff"|[[綾瀬スマートインターチェンジ|綾瀬SIC/BS]] |
||
|style="background-color:#eda5ff"|[[神奈川県道42号藤沢座間厚木線|県道42号藤沢座間厚木線]] |
|style="background-color:#eda5ff"|[[神奈川県道42号藤沢座間厚木線|県道42号藤沢座間厚木線]] |
||
|style="text-align:right"|28. |
|style="text-align:right"|28.8 |
||
|style="text-align:center"|○ |
|style="text-align:center"|○ |
||
| |
| |
||
182行目: | 211行目: | ||
|[[海老名サービスエリア|海老名SA]] |
|[[海老名サービスエリア|海老名SA]] |
||
|style="text-align:center"|- |
|style="text-align:center"|- |
||
|style="text-align:right"|31. |
|style="text-align:right"|31.4 |
||
|style="text-align:center"| |
|style="text-align:center"| |
||
| |
| |
||
189行目: | 218行目: | ||
!style="background-color:#BFB"|4-2 |
!style="background-color:#BFB"|4-2 |
||
|[[海老名ジャンクション|海老名JCT]] |
|[[海老名ジャンクション|海老名JCT]] |
||
| |
|{{Ja Exp Route Sign|C4}} [[首都圏中央連絡自動車道]] {{efn|法令上、[[海老名インターチェンジ|海老名IC]] - [[海老名南ジャンクション|海老名南JCT]]間は第一東海自動車道の支線。}} |
||
|style="text-align:right"|33.9 |
|style="text-align:right"|33.9 |
||
|style="text-align:center"|- |
|style="text-align:center"|- |
||
214行目: | 243行目: | ||
|style="text-align:right"|40.2 |
|style="text-align:right"|40.2 |
||
|style="text-align:center"|- |
|style="text-align:center"|- |
||
|東名東京方面⇔新東名海老名南JCT方面<br />及び東名名古屋方面⇔新東名伊勢原大山IC相互間の利用不可 |
|東名東京方面⇔新東名海老名南JCT方面<br />及び東名名古屋方面⇔新東名伊勢原大山IC方面相互間の利用不可 |
||
| rowspan="2" colspan="2"|[[伊勢原市]] |
| rowspan="2" colspan="2"|[[伊勢原市]] |
||
|- |
|- |
||
235行目: | 264行目: | ||
|[[中井パーキングエリア|中井PA]] |
|[[中井パーキングエリア|中井PA]] |
||
|style="text-align:center"|- |
|style="text-align:center"|- |
||
|style="text-align:right"|53. |
|style="text-align:right"|53.7 |
||
|style="text-align:center"| |
|style="text-align:center"| |
||
| |
| |
||
| rowspan="6" style="width:1em"|[[足柄上郡]] |
| rowspan="6" style="width:1em;text-align:center;"|{{縦書き|[[足柄上郡]]}} |
||
|[[中井町]] |
|[[中井町]] |
||
|- |
|- |
||
285行目: | 314行目: | ||
| style="text-align:center" |○ |
| style="text-align:center" |○ |
||
|下り線は左ルート |
|下り線は左ルート |
||
| |
|rowspan="50" style="width:1em;text-align:center;"|{{縦書き|[[静岡県]]}} |
||
| rowspan="3" colspan="2"|[[駿東郡]]<br/>[[小山町]] |
| rowspan="3" colspan="2"|[[駿東郡]]<br/>[[小山町]] |
||
|- |
|- |
||
294行目: | 323行目: | ||
|style="text-align:center"|○ |
|style="text-align:center"|○ |
||
| |
| |
||
|-style="height:1em;" |
|||
|- |
|||
!rowspan="2" style="background-color:#BFB"|6-1 |
!rowspan="2" style="background-color:#BFB"|6-1 |
||
|rowspan="2" style="background-color:#eda5ff"|[[足柄サービスエリア|足柄SA/SIC]] |
|rowspan="2" style="background-color:#eda5ff"|[[足柄サービスエリア|足柄SA/SIC]] |
||
|rowspan="2" style="background-color:#eda5ff"| |
|rowspan="2" style="background-color:#eda5ff"| |
||
|rowspan="2" style="text-align:right"| |
|rowspan="2" style="text-align:right"|81.1 |
||
|rowspan="2" style="text-align:center"| |
|rowspan="2" style="text-align:center"| |
||
|rowspan="2" | |
|rowspan="2" | |
||
314行目: | 343行目: | ||
|[[静岡県道401号・神奈川県道736号御殿場箱根線|県道401号御殿場箱根線]] |
|[[静岡県道401号・神奈川県道736号御殿場箱根線|県道401号御殿場箱根線]] |
||
|style="text-align:center"|○ |
|style="text-align:center"|○ |
||
|東名高速 |
|東名高速道路最高地点([[標高]]454[[メートル|m]]) |
||
|- |
|- |
||
!style="background-color:#BFB"|7-1 |
!style="background-color:#BFB"|7-1 |
||
325行目: | 354行目: | ||
!style="background-color:#BFB"|7-2 |
!style="background-color:#BFB"|7-2 |
||
|style="background-color:#eda5ff"|[[駒門パーキングエリア|駒門PA/SIC]] |
|style="background-color:#eda5ff"|[[駒門パーキングエリア|駒門PA/SIC]] |
||
|style="background-color:#eda5ff"| |
|style="background-color:#eda5ff"| |
||
|style="text-align:right"| |
|style="text-align:right"|90.0<br />91.6 |
||
|style="text-align:center"|◆ |
|style="text-align:center"|◆ |
||
| |
|東京方面<br />名古屋方面 |
||
|- |
|- |
||
!style="background-color:#BFB"|7-3 |
!style="background-color:#BFB"|7-3 |
||
402行目: | 431行目: | ||
| style="text-align:center" |○ |
| style="text-align:center" |○ |
||
| |
| |
||
| rowspan="8" style="width:1em"|[[静岡市]] |
| rowspan="8" style="width:1em; text-align:center;"|{{縦書き|[[静岡市]]}} |
||
| rowspan="5" |[[清水区]] |
| rowspan="5" |[[清水区]] |
||
|- |
|- |
||
408行目: | 437行目: | ||
|[[由比パーキングエリア|由比PA]] |
|[[由比パーキングエリア|由比PA]] |
||
|style="text-align:center"|- |
|style="text-align:center"|- |
||
|style="text-align:right"|138. |
|style="text-align:right"|138.7<br />139.8 |
||
|style="text-align:center"|◆ |
|style="text-align:center"|◆ |
||
|名古屋方面<br />東京方面 |
|名古屋方面<br />東京方面 |
||
436行目: | 465行目: | ||
|[[日本平パーキングエリア|日本平PA]] |
|[[日本平パーキングエリア|日本平PA]] |
||
|style="text-align:center"|- |
|style="text-align:center"|- |
||
|style="text-align:right"|155. |
|style="text-align:right"|155.9 |
||
|style="text-align:center"|○ |
|style="text-align:center"|○ |
||
| |
| |
||
| rowspan="3" |[[駿河区]] |
| rowspan="3" |[[駿河区]] |
||
|- |
|- |
||
!style="background-color:#BFB"|10-1 |
!style="background-color:#BFB;white-space:nowrap;"|10-1 |
||
|style="background-color:#eda5ff"|[[日本平久能山スマートインターチェンジ|日本平久能山SIC]] |
|style="background-color:#eda5ff"|[[日本平久能山スマートインターチェンジ|日本平久能山SIC]] |
||
|style="background-color:#eda5ff"|静岡 |
|style="background-color:#eda5ff"|[[静岡県道74号山脇大谷線|県道74号山脇大谷線]] |
||
|style="text-align:right"|158.8 |
|style="text-align:right"|158.8 |
||
|style="text-align:center"|- |
|style="text-align:center"|- |
||
495行目: | 524行目: | ||
|[[牧之原サービスエリア|牧之原SA/牧の原BS]] |
|[[牧之原サービスエリア|牧之原SA/牧の原BS]] |
||
|style="text-align:center"|- |
|style="text-align:center"|- |
||
|style="text-align:right"|194. |
|style="text-align:right"|194.4 |
||
|style="text-align:center"|○ |
|style="text-align:center"|○ |
||
| |
| |
||
503行目: | 532行目: | ||
|[[相良牧之原インターチェンジ|相良牧之原IC]] |
|[[相良牧之原インターチェンジ|相良牧之原IC]] |
||
|[[国道473号]]([[金谷御前崎連絡道路]]) |
|[[国道473号]]([[金谷御前崎連絡道路]]) |
||
|style="text-align:right"| |
|style="text-align:right"|196.6 |
||
|style="text-align:center"| |
|style="text-align:center"| |
||
| |
| |
||
526行目: | 555行目: | ||
|[[小笠パーキングエリア|小笠PA]] |
|[[小笠パーキングエリア|小笠PA]] |
||
|style="text-align:center"|- |
|style="text-align:center"|- |
||
|style="text-align:right"|209. |
|style="text-align:right"|209.8 |
||
|style="text-align:center"| |
|style="text-align:center"| |
||
| |
| |
||
548行目: | 577行目: | ||
|[[磐田インターチェンジ|磐田IC]] |
|[[磐田インターチェンジ|磐田IC]] |
||
|[[静岡県道86号磐田インター線|県道86号磐田インター線]]<br />[[静岡県道283号横川磐田線|県道283号横川磐田線]] |
|[[静岡県道86号磐田インター線|県道86号磐田インター線]]<br />[[静岡県道283号横川磐田線|県道283号横川磐田線]] |
||
|rowspan="2" style="text-align:right"|223. |
|rowspan="2" style="text-align:right"|223.4 |
||
|style="text-align:center"| |
|style="text-align:center"| |
||
| |
| |
||
554行目: | 583行目: | ||
|- |
|- |
||
!style="background-color:#BFB"|- |
!style="background-color:#BFB"|- |
||
|style="background-color:#CCC"|[[ |
|style="background-color:#CCC"|[[遠州豊田パーキングエリア|磐田原PA]] |
||
|style="text-align:center"|- |
|style="text-align:center"|- |
||
|style="text-align:center"| |
|style="text-align:center"| |
||
|[[1997年]](平成9年)[[6月1日]]廃止 |
|[[1997年]](平成9年)[[6月1日]]廃止、遠州豊田PAに移設された。跡地には磐田ICを設置。 |
||
|- |
|- |
||
!style="background-color:#BFB"|15-2 |
!style="background-color:#BFB"|15-2 |
||
|style="background-color:#eda5ff"|[[遠州豊田パーキングエリア|遠州豊田PA/SIC]] |
|style="background-color:#eda5ff"|[[遠州豊田パーキングエリア|遠州豊田PA/SIC]] |
||
|style="background-color:#eda5ff"| |
|style="background-color:#eda5ff"| |
||
|style="text-align:right"|225. |
|style="text-align:right"|225.3 |
||
|style="text-align:center"| |
|style="text-align:center"| |
||
| |
| |
||
579行目: | 608行目: | ||
|style="text-align:center"|[[浜松インターバスストップ|▲]] |
|style="text-align:center"|[[浜松インターバスストップ|▲]] |
||
| |
| |
||
| rowspan="9" style="width:1em"|[[浜松市]] |
| rowspan="9" style="width:1em; text-align:center;"|{{縦書き|[[浜松市]]}} |
||
| rowspan=" |
| rowspan="5" |[[中央区 (浜松市)|中央区]] |
||
|- |
|- |
||
!style="background-color:#BFB"|- |
!style="background-color:#BFB"|- |
||
591行目: | 620行目: | ||
!style="background-color:#BFB"|16-1 |
!style="background-color:#BFB"|16-1 |
||
|style="background-color:#eda5ff"|[[三方原パーキングエリア|三方原PA/SIC]] |
|style="background-color:#eda5ff"|[[三方原パーキングエリア|三方原PA/SIC]] |
||
|style="background-color:#eda5ff"| |
|style="background-color:#eda5ff"| |
||
|style="text-align:right"|234.9 |
|style="text-align:right"|234.9 |
||
|style="text-align:center"| |
|style="text-align:center"| |
||
602行目: | 631行目: | ||
|style="text-align:center"| |
|style="text-align:center"| |
||
| |
| |
||
| rowspan="2" |[[西区 (浜松市)|西区]] |
|||
|- |
|- |
||
!style="background-color:#BFB"|16-3 |
!style="background-color:#BFB"|16-3 |
||
617行目: | 645行目: | ||
|style="text-align:center"|○ |
|style="text-align:center"|○ |
||
| |
| |
||
| rowspan="4" |[[ |
| rowspan="4" |[[浜名区]] |
||
|- |
|- |
||
!style="background-color:#BFB"|17 |
!style="background-color:#BFB"|17 |
||
643行目: | 671行目: | ||
|[[新城パーキングエリア|新城PA]] |
|[[新城パーキングエリア|新城PA]] |
||
|style="text-align:center"|- |
|style="text-align:center"|- |
||
|style="text-align:right"|261. |
|style="text-align:right"|261.0 |
||
|style="text-align:center"| |
|style="text-align:center"| |
||
| |
| |
||
|rowspan="26" style="width:1em"|[[愛知県]] |
|rowspan="26" style="width:1em; text-align:center;"|{{縦書き|[[愛知県]]}} |
||
|rowspan="2" colspan="2"|[[新城市]] |
|rowspan="2" colspan="2"|[[新城市]] |
||
|- |
|- |
||
661行目: | 689行目: | ||
|style="text-align:right"|262.7 |
|style="text-align:right"|262.7 |
||
|style="text-align:center"| |
|style="text-align:center"| |
||
|[[2026年]](令和8年)度供用開始予定<ref>{{Cite news|title=豊橋新城スマートIC建設決定 産業活動の支援などに期待/国交省が事業採択、2026年度完成目指す|newspaper=東日新聞|date=2021-08-07|accessdate=2022-03-12|url=https://www.tonichi.net/news/index.php?id=89462}}</ref> |
|||
|事業中<ref>{{Cite web|url=https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001418134.pdf|title=スマートインターチェンジの高速道路会社への事業許可および準備段階調査着手について|date=2021-08-06|accessdate=2021-08-06|publisher=国土交通省道路局|format=PDF}}</ref> |
|||
| rowspan="2" colspan="2"|[[豊橋市]] |
| rowspan="2" colspan="2"|[[豊橋市]] |
||
|- |
|- |
||
!style="background-color:#BFB"|- |
!style="background-color:#BFB"|- |
||
|[[豊橋パーキングエリア|豊橋PA]]/<span style="background-color:#CCC">[[豊橋本線料金所|TB]] |
|[[豊橋パーキングエリア|豊橋PA]]/<span style="background-color:#CCC">[[豊橋本線料金所|TB]]</span> |
||
|style="text-align:center"|- |
|style="text-align:center"|- |
||
|style="text-align:right"|265. |
|style="text-align:right"|265.7 |
||
|style="text-align:center"| |
|style="text-align:center"| |
||
|本線料金所(検札所)は[[2007年]](平成19年)[[5月31日]]廃止<br />PAは名古屋方面のみ |
|本線料金所(検札所)は[[2007年]](平成19年)[[5月31日]]廃止<br />PAは名古屋方面のみ |
||
711行目: | 739行目: | ||
|[[美合パーキングエリア|美合PA]] |
|[[美合パーキングエリア|美合PA]] |
||
|style="text-align:center"|- |
|style="text-align:center"|- |
||
|style="text-align:right"| |
|style="text-align:right"|288.9 <br />290.2 |
||
|style="text-align:center"| |
|style="text-align:center"| |
||
|名古屋方面<br />東京方面 |
|||
| |
|||
|- |
|- |
||
!style="background-color:#BFB"|19 |
!style="background-color:#BFB"|19 |
||
727行目: | 755行目: | ||
|style="text-align:right"|299.5 |
|style="text-align:right"|299.5 |
||
|style="text-align:center"|- |
|style="text-align:center"|- |
||
|事業中<ref name="press20190927">{{Cite web|url=https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001310103.pdf|title=高速道路会社への事業許可および スマートインターチェンジの準備段階調査への採択等を行いました|date=2019-09-27|accessdate=2019-09-27|publisher=国土交通省道路局|format=PDF}}</ref> |
|事業中<ref name="press20190927">{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001310103.pdf|title=高速道路会社への事業許可および スマートインターチェンジの準備段階調査への採択等を行いました|date=2019-09-27|accessdate=2019-09-27|publisher=国土交通省道路局|format=PDF}}</ref> |
||
|- |
|- |
||
!style="background-color:#BFB"|- |
!style="background-color:#BFB"|- |
||
746行目: | 774行目: | ||
!style="background-color:#BFB"|19-3 |
!style="background-color:#BFB"|19-3 |
||
|style="background-color:#eda5ff"|[[豊田上郷サービスエリア|豊田上郷SA/SIC]] |
|style="background-color:#eda5ff"|[[豊田上郷サービスエリア|豊田上郷SA/SIC]] |
||
|style="background-color:#eda5ff"|[[愛知県道76号豊田安城線|県道76号豊田安城線]] |
|style="background-color:#eda5ff"|[[愛知県道76号豊田安城線|県道76号豊田安城線]] |
||
|style="text-align:right"|305.8 |
|style="text-align:right"|305.8 |
||
|style="text-align:center"|○ |
|style="text-align:center"|○ |
||
769行目: | 797行目: | ||
|[[東郷パーキングエリア|東郷PA]]/<span style="background-color: #CCC">[[東郷パーキングエリア|SIC]]</span> |
|[[東郷パーキングエリア|東郷PA]]/<span style="background-color: #CCC">[[東郷パーキングエリア|SIC]]</span> |
||
|style="text-align:center"|- |
|style="text-align:center"|- |
||
|style="text-align:right"|318. |
|style="text-align:right"|318.0 |
||
|style="text-align:center"| |
|style="text-align:center"| |
||
|SICは事業中<ref name="press20190927" /> |
|||
|SICは2024年度(令和6年)末供用予定<ref>{{Cite web|url=https://www.city.nisshin.lg.jp/material/files/group/122/sic_jisshikeikakusho_gaiyouban.pdf|title=東名高速道路 (仮称)東郷スマートインターチェンジ 実施計画書(概要版)|date=2019-09|accessdate=2020-11-12|publisher=日進市}}</ref> |
|||
| rowspan="3" colspan="2"|[[日進市]] |
| rowspan="3" colspan="2"|[[日進市]] |
||
|- |
|- |
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806行目: | 834行目: | ||
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|style="background-color:#eda5ff"|[[守山パーキングエリア|守山PA/SIC]] |
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|[[春日井インターチェンジ|春日井IC]] |
|[[春日井インターチェンジ|春日井IC]] |
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|[[国道19号]] |
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|[[小牧インターチェンジ|小牧IC]] |
|[[小牧インターチェンジ|小牧IC]] |
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|[[国道41号]] |
|[[国道41号]]<br />[[File:Nagoya Urban Expwy Sign 0011.svg|24px]] [[名古屋高速11号小牧線]] |
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| colspan="9" style="text-align:center" |{{Ja Exp Route Sign|E1}} [[名神高速道路]] |
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|} |
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なお、全線開通日から現在に至るまでIC番号の2は欠番となっている。 |
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== 歴史 == |
== 歴史 == |
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=== 構想から法整備まで === |
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[[File:National Expressway Plan(1943).svg|thumb|内務省土木局が戦時下に計画した自動車国道網{{sfn|吉田喜市|1973|p=81}}。既に東名の原型が構想されている。]] |
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{{double image aside|right|National Expressway Plan(1943).svg|250|Tanaka's plan(Seichi Tanaka).svg|250|内務省土木局が1943年(昭和18年)に計画した自動車国道網(画像左){{sfn|吉田喜市|1973|p=81}}と田中清一が「平和国家建設国土計画大綱」で提案した全国道路網(画像右){{sfn|田中清一|1952|p=23}}。田中案はループを構成する内務省案とは対照的で、列島中央に基幹となる道路を通し、そこから日本海岸と太平洋岸を複数の支線で結ぶという、背骨と肋骨の関係にも似た姿が特徴的であった。東海道沿岸の都市とは支線で連絡しており、この点でも東海道を縦貫する内務省案とは異なっている。この路線網が建設省の不興を買うことになった{{sfn|日本道路協会|1997|p=207}}。}} |
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[[File:Bronze sculpture of Saburo Endo.jpg|thumb|遠藤三郎の銅像。遠藤は東名の実現において主導的な役割を果たした{{sfn|遠藤三郎先生を偲ぶ会|1990|pp=133-134}}。]] |
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東海道の高速道路の計画は1940年(昭和15年)に当時の[[内務省 (日本)|内務省]]土木局が「重要道路整備調査」を提唱したことに端を発し、諸々の調査を経て1943年(昭和18年)には全国自動車国道網計画ができあがった。この道路は太平洋岸と日本海側をそれぞれ一本ずつの幹線で構成するループであることが特徴で、各港湾を連絡する国防的要請がその背景にあった{{sfn|門間俊幸|2009|p=9}}。この路線を当時は「弾丸道路」と呼び{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=3}}、鉄道における高速鉄道構想を戦前は[[弾丸列車]]と呼称したことに倣ったものであった{{sfn|イカロス出版|2011|p=55}}。路線は出入制限を行った自動車専用道路として計画され、一般道路との交差は立体交差であるなど、その後の東名の原型といえるが、有料道路としては計画されていなかった{{sfn|吉田喜市|1973|p=80}}。この自動車道路網は、その優先順位の検討において東京 - 神戸間を最優先とするに至り、相応の予算が付けられて測量、設計が行われた{{sfn|吉田喜市|1973|pp=80-81}}。さらに、名古屋 - 神戸間において緊急度が高いと認められて予算請求を行ったところ、当時の内務大臣の[[東条英機]]から「土木局は気が狂ったか」という一喝のあと、本案は差し戻された<ref>{{Cite web|url=http://blogs.jsce.jp/2013/08/6.html|title=第6回 元本四公団総裁 山根孟さん(後編) |publisher=土木学会 |accessdate=2021-11-08|language=日本語}}</ref>。また、その後の戦況悪化もあって道路予算の極度の削減に至り{{sfn|池上雅夫|1969|p=4}}、1944年(昭和19年)に計画は打ち切りとなった{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=1}}。 |
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東名の計画は1940年(昭和15年)の[[内務省 (日本)|内務省]]における弾丸道路計画に端を発する。計画は戦局悪化により中断されたが{{sfn|池上雅夫|1969|p=4}}、1951年(昭和26年)に当時の[[内閣総理大臣|首相]]であった[[吉田茂]]の命により東京 - 神戸間の道路計画として再開された{{sfn|NHK「プロジェクトX」制作班 |2005|p=9}}。 |
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これと相前後して、同じ東京 - 神戸間を[[赤石山脈|南アルプス]]経由で貫く中央道が計画され、東名と競合の形をとったために{{sfn|日本道路公団総裁室企画課|1957|p=179}}いずれを採用するかで政府や政治家、専門家を巻き込む大論争へと発展した{{sfn|池上雅夫|1969|p=8}}。しかし両案とも名古屋 - 神戸間はさしたる違いがないことと、経済効果が大きいことを勘案してこの区間のみ先行して事業化することにした。これが名神高速道路である{{sfn|吉田喜市|1973|pp=82-83}}。 |
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[[File:Conceptual map of the Tomei Expressway.svg|thumb|300px|中央道案(田中案)、東海道案(建設省案)、東海道海岸線案(産業計画会議案)の比較図{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=3}}。]] |
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頓挫の憂き目に遭った弾丸道路計画だが、大戦終結後の混乱もやがて収まるにおよび{{sfn|高速道路五十年史編集委員会|2016|p=21}}、輸送体系の整備としての高速道路の計画が主に3つの機関から発案されるに至った。一つは静岡県出身の有力実業家、[[田中清一]]による計画で、1947年(昭和22年)頃に提唱した「平和国家建設国土計画大綱」である。計画の趣旨は、狭い国土に大人数が住み、それも敗戦後の食糧難にあえぐ国家を立ち直らせるためには食料の自給自足と未開発資源の大規模開発が必要であるとして、農地に適する平野部は人口過密と産業集中にあることでこれを山間部へ移し、入替えに平野部を農耕地に転用するというものであった。それを具現化する手法として田中は幹線道路網の必要を挙げた。山間地が占める内陸部に幅100 mの大幹線道路を列島の東西に通し、そこから太平洋岸と日本海岸の重要港湾に向けて支線道路を複数設けるという、背骨と肋骨の関係にも似た道路網を構築する計画であった。つまり、大幹線道路に沿って平野から移転させた軽工業、各種研究と試験場、精密工業、学校、官庁等を再配置し、道路に沿う大河川には水力発電所を建設し、併せて道路開墾により重要地下資源と観光資源の開発までも行うという趣旨である{{sfn|田中清一|1952|pp=20-25}}。その計画遂行の最初の一手として、東京 - 大阪間の道路計画に着手するべきであり、東京 - 大阪間を最も短絡する中部山岳地帯を通ることを提唱したが、これが後述する中央道案の原形である{{sfn|吉田喜市|1973|p=81}}。この発想は戦時下において内務省土木局が計画した路線網と対照的で、この相違が後述する論争の種となった{{sfn|吉田喜市|1973|p=81}}。もっとも、田中が構想した高速道路は、インターチェンジからのみ出入可能な完全出入制限型の道路であったかどうかは不明であった{{sfn|吉田喜市|1973|p=82}}。ともかく、田中案は有力国会議員の支持を次第に獲得し、1953年(昭和28年)には支持者によって「国土建設推進連盟」を結成、同年5月には「国土開発中央自動車道事業法案」が提出されるに至った{{sfn|武部健一|2015|p=183}}。 |
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残る東京 - 名古屋間は、法整備のうえでは中央道が先行した。1957年(昭和32年)4月に、中央道建設の根拠法である[[s:国土開発縦貫自動車道建設法|国土開発縦貫自動車道建設法]]が施行され{{sfn|吉田喜市|1973|p=83}}、このため東名の計画は中止のやむなきに至った<ref name="議録S350517P5">『第三十四回国会 衆議院建設委員会議録第19号 昭和三十四年五月十七日』p.5</ref>。 |
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田中が計画を推し進めている頃、別のもう1案が構想された。これが久しく途絶えていた弾丸道路計画の再始動であり、建設省が1951年(昭和26年)に提唱した東京 - 神戸間の高速道路構想であった。これは、[[サンフランシスコ平和条約]]の締結後、戦後日本を平和国家として再出発させるにあたり、外資を導入した事業を推進し、日本経済の再建に役立てようとする動きの中から生まれたものであった。その対象事業の一つに高速道路の建設を選択しようという気運が首相の[[吉田茂]]を介して生まれ、建設省に資料の提出を求めた。同省はそれに応え、戦争により中断した東京 - 神戸間の高速道路計画を再検討することにした{{sfn|吉田喜市|1973|p=82}}。再始動した計画が戦時下のものと異なるのは、有料道路として検討されたことである。このため、果たして高速道路を新設することが経済的に成り立つのか、必要資金の調達方法や運営者を誰にするのか、という問題提起がなされ、それに道筋を与えるために経済調査と技術調査を行った{{sfn|吉田喜市|1973|p=82}}。概ねまとまったところで、1952年(昭和27年)2月以降、アメリカ人コンサルタントを2人招いて調査を依頼した。その結果、東京から神戸に至る道路は、日本の全人口の30パーセントにあたる2,600万人に対して利益をもたらし、全国総生産額の半分以上にあたる15億円の年間生産額を有する地域を通過することで、全く健全な投資と考えられる。よって、東京 - 神戸間の高速道路は経済的に十分実現性があり、有料道路としても交通量の激増からみて、通行料金収入によって十分採算の採れることは疑う余地がない、との回答を得たが{{sfn|ワトキンス・レポート45周年記念委員会|2001|p=323}}、このルートは東海道を考慮した計画であった{{sfn|高速道路五十年史編集委員会|2016|p=21}}。この一連の調査は5年間に6,300万円の調査費を投じて行われ、その成果として「東京神戸間有料道路計画書」が公表された{{sfn|吉田喜市|1973|p=82}}。しかしながら、公表のタイミングがときあたかも中央道案が具体化した時期と重なったこともあって、両案を巡る対立が次第に表面化することになった{{sfn|武部健一|2015|p=183}}。 |
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この間も国道1号の交通量は暫時増加傾向を示し、いよいよ行き詰まりの様相を呈した。大量の交通を高速で流すためには東名の建設が必須で{{sfn|石井興良|1960|pp=480-483}}、これは[[衆議院]]議員の[[遠藤三郎 (政治家)|遠藤三郎]]らによって支持された{{sfn|遠藤三郎先生を偲ぶ会|1990|pp=64-67}}。遠藤は東名建設のための法案を[[議員立法|議員提案]]として国会に提案し{{sfn|遠藤三郎先生を偲ぶ会|1990|pp=133-134}}、1960年(昭和35年)7月に[[s:東海道幹線自動車国道建設法|東海道幹線自動車国道建設法]]が成立するに至った{{sfn|吉田喜市|1973|p=84}}。 |
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[[File:相良サンビーチ (静岡県牧之原市相良) - panoramio.jpg|thumb|静岡県牧之原市。産業計画会議は用地買収費を抑える観点から東海道の海岸線利用を主張した。]] |
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この2案より遅れて第3案が[[シンクタンク]]の「[[産業計画会議]]」により提案された。このシンクタンクは電力界の鬼才の異名を持つ[[松永安左衛門]]が1956年(昭和31年)に設立したもので、1958年(昭和33年)に至って「東京・神戸間高速自動車道路についての勧告」として独自に考案した東海道案を前面に打ち出したのであるが、ルートが建設省案と微妙に異なった{{sfn|吉田喜市|1973|p=84}}。原則的に全線高架式で、海岸沿いに建設することを主張し、「東海道海岸路線案」を称した{{sfn|吉田喜市|1973|p=84}}。海岸にこだわったのは公有地の多さから土地の買収が早くて取得費用も安い{{sfn|産業計画会議|1958|p=8}}、高架橋にこだわったのは盛土では締め固まりに時間を要するためである。松永の計算では、工期5年、工費は土地収用費を別にしても2、3割安くできるとした{{sfn|日本道路協会|1997|p=41}}。特に[[プレストレスト・コンクリート]]工法で橋を造ることで、盛り土に比べて工費で差はないか、多少高くなる程度と主張した{{sfn|産業計画会議|1958|p=49}}。そして将来、交通量が増えたときは、その上に道路を積みますことで二階建てとすることも可能で、それを考慮してトンネルは天井を少し尖らせて造っておきたいという{{sfn|産業計画会議|1958|p=50}}。また、漁業に対する補償問題もあろうが、[[遠洋漁業]]は衰退しており、小舟の漁業は東海道ではあまり見られず、あるとすれば[[アサリ]]かタコを探すくらいであるとして、見通しはかなり楽観的であった{{sfn|産業計画会議|1958|p=49}}。これを受けて建設省は自案と東海道海岸路線案を比較したが、それは東京 - 名古屋間の長距離におよんだ。東海道海岸路線案は、東京都大田区から藤沢を経て、相模湾、駿河湾、遠州灘と海岸に沿い、蒲郡から一宮まで直線で結ぶことが特徴であった。利点としては、海岸地帯の開発に役立ち、120 km/h走行可能な区間が全体距離の半数を占めることがあった。しかし海岸案が決定された場合、国道や東海道新幹線との路線競合が甚だしくなる{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=60}}。さらに、漁業権や海水浴施設、海岸砂防施設等に対する補償問題、客土の多さ等の問題もあった{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=60}}。とりわけ、距離が建設省案と比較して20 km長く、走行経費が嵩張ることの他に{{sfn|吉田喜市|1973|p=84}}、松永の主張と違って橋の工事費が盛り土の二倍であること<ref name="朝日19601015">{{Cite news |title=建設省 路線案まとめる 東海道幹線自動車道 |newspaper=朝日新聞(東京)朝刊|date=1960-10-15|page=1}}</ref>を勘案して、海岸線案は最終的に却下された{{sfn|吉田喜市|1973|p=84}}。 |
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{{see also|東京・神戸間の高速道路計画}} |
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=== 東海道案か中央道案か === |
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{{double image aside|right|Shirane three mountains Ina Basin from Mount Ena.jpg|200|Mount Ashiwada and Aokigahara.jpg|200|画像左 : 恵那山から望む赤石山脈。建設省は当初から中央道案に乗り気ではなかった。通過予定地に立ちはだかる赤石山脈の貫通には技術的にも工費でも困難が予想されたためである<ref name="朝日19600403"/>。画像右 : [[精進湖]]付近から望む[[青木ヶ原]]の大樹海。構想ではここを中央道が横断する計画であった{{sfn|平沼義之|2017|pp=326-331}}。}} |
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田中清一発案の中央道案に対して建設省は否定的であった。日本列島の中央に高速道路を縦に通す馬鹿馬鹿しい構想で、あんな無茶苦茶な高速道路網はないと省内で言い合っていたという{{sfn|日本道路協会|1997|p=207}}。[[赤石山脈]]を貫いて道路を通すことの難しさを建設省はよく理解していて、ゆえに建設省に相手にされない中央道派は、鉄道、運輸省関係に働きかけ、さらに建設予定地域の国会議員の代表として青木一男が中央道実現に向けて強力な運動を展開した{{sfn|日本道路協会|1997|p=83}}。鉄道派の議員などは特に中央道に肩入れし、[[東海道本線]]を守るために東海道案に反対したが{{sfn|日本道路協会|1997|p=207}}、対する東海道派も参議院議員の太田正孝が先頭に立って中央道に対抗した{{sfn|日本道路協会|1997|pp=83-84}}。 |
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=== 設計と建設 === |
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両派の論争は理想と現実の争いであった。中央道派は田中の掲げた構想を貫き、「国土開発、沿線への人口の再配分、[[酪農]]中心の農業振興、工場誘致、観光と地下資源開発」等の理想を追い、それは[[長野県]]、[[山梨県]]など、関係県が後進性打開の夢を中央道に託しているのに対し、東海道派は限界を超えた交通状況の打開という現実に重きを置いていた<ref name="朝日19600403"/>。 |
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==== 調査 ==== |
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[[File:Traffic volume on Route 1 between Tokyo and Nagoya.svg|thumb|国道1号(東京 - 名古屋間)の交通量の推移{{sfn|高野務・斉藤義治|1961|p=15}}。交通量の激増ぶりを見てとることができる。]] |
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東名の設計の基本となったのが、建設省が1959年(昭和34年)から1961年(昭和36年)にかけて調査のうえまとめた「東海道幹線自動車国道調査報告書」である{{sfn|高野務・斉藤義治|1961|p=15}}。 |
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調査は逼迫する国道1号の現状調査<ref name="官報19600621-P5">『官報 第三十四回国会 参議院建設委員会会議録第35号 昭和三十五年六月二十一日』p.5</ref>、改良箇所およびバイパス建設の検討から始まり、それでも逼迫する場合は自動車専用道路の調査も考慮した<ref name="朝日19590517">{{Cite news |title=東海道を総合調査 建設省 自動車交通緩和で |newspaper=朝日新聞(東京)朝刊|date=1959-05-17|page=1}}</ref>。結果、国道1号の現状から推して高速自動車国道の建設は一刻も放置できないと判断されて重点をこれに移して調査を行ない{{sfn|高野務・斉藤義治|1961|pp=15-16}}、1961年(昭和36年)10月にはまとめあげて道路審議会に報告した<ref name="朝日19611008">{{Cite news |title=渋谷-小牧三時間半 建設省の調査報告 東海道自動車国道 |newspaper=朝日新聞(東京)朝刊|date=1961-10-08|page=2}}</ref>。 |
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両派の対立は次第に大きくなっていき、政府は東京 - 神戸間のうち、計画ルートが決まらない東京 - 名古屋間を後回しにして、とりあえず整備すべき区間を名古屋 - 神戸間に限定し、[[名神高速道路]]として先行建設されることになった{{sfn|武部健一|2015|p=190}}。1957年(昭和32年)に建設省から日本道路公団へ施行命令が出されたことによって名神高速道路の建設は始められたが、この時点でも東京 - 名古屋間の建設ルートを東海道にするのか中央道にするのかについての話し合いは依然としてまとまらず、ルートは決まらなかった{{sfn|武部健一|2015|pp=199–200|ps=、「東海道か中央道か」より}}。 |
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| footer = 東海道幹線自動車国道調査報告書に添付された参考データ{{sfn|高野務・斉藤義治|1961|pp=15-18}}。 |
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| width = 350 |
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| image1 = Tokaido traffic capacity excess graph in 1965.svg |
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| caption1 = 1965年度の東海道交通容量超過予測図。国道1号のキャパシティ(交通容量)を実際の交通量が上回る交通容量超過が全線の94 %にわたる。東京 - 名古屋間の平均交通量は1958年度の調査では全国一級国道平均交通量の約3倍にあたり、自動車の走行速度ははなはだしく低下しており、東海道の高速道路の建設は焦眉の急であることが明らかとなった{{sfn|高野務・斉藤義治|1961|p=15}}。 |
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| image2 = Tomei Expressway Estimated Traffic Volume Map (1969).svg |
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| caption2 = 1969年度における東海道幹線自動車国道推定交通量。東海道新幹線、中央道(東京 - 富士吉田)、名神高速、第三京浜道路がいずれも開通しているとの前提の元に計算をおこなった場合、道路および鉄道から転換してくる東名の交通量は日平均交通量を約15,500台で、これを元に将来の伸びを考慮して建設費償還に要する年数を推察すると開通後21年と算出した{{sfn|高野務・斉藤義治|1961|pp=15-18}}。 |
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報告によると、有料道路とした場合の採算性は1962年度に着工し、建設期間を7年として、1969年度から供用すると仮定した場合の1969年(昭和44年)の一日の平均交通量は15,594台と算出した。これに将来の伸びを考慮すると供用開始後21年で償還を終了すると推定した。さらに直接の経済効果として、走行便益、時間便益、交通事故減少効果のほかに間接効果として沿道地域の人口と産業の増加ならびに工場などの在庫の減少が期待される。このうち一般道路から東名に転換する交通量による直接効果は235億円と推定され、これだけでも10年足らずで建設費相当額の便益がある{{sfn|高野務・斉藤義治|1961|p=18}}。つまり、東名は巨額の投資を行っても造るに値する経済価値があることが明らかとなった。 |
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起点はその後の世田谷区と異なって渋谷区代々木八幡の環状6号([[東京都道317号環状六号線|山手通り]])の接続部とされ、以後、[[東京都道318号環状七号線|環状7号]]、[[東京都道311号環状八号線|環状8号]]の各交差部でインターチェンジを設ける手筈であった{{sfn|樽井常忠|1961|p=28}}。調査時点で東京都内における東名と接続する交通体系の方針が未確定であったことから一応決めたことであって、これが確定すればこの計画に合わせることにした{{sfn|樽井常忠|1961|p=28}}。終点は法律では名古屋市附近であるが、技術的な事情によって小牧市となった。その延長は356 kmで、建設費用は2,442億円である{{sfn|高野務・斉藤義治|1961|pp=16-17}}。具体的調査により、過去に概算された1,700 - 1,900億円<ref name="官報19600621-P6">『官報 第三十四回国会 参議院建設委員会会議録第35号 昭和三十五年六月二十一日』p.6</ref>から大幅増となった。 |
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[[File:National Land Development Longitudinal Expressway Construction Law.svg|thumb|1957年(昭和32年)4月施行の国土開発縦貫自動車道建設法の路線網{{sfn|師井於菟彦|1964|p=265}}。そこに東海道沿岸の路線計画はない。]] |
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このような混乱の中、1955年(昭和30年)6月に超党派の衆議院議員430名によって提出されていた、田中構想を軸に約5000 kmの自動車道を整備するとした「国土開発縦貫自動車道建設法案」が、1957年(昭和32年)4月に成立した{{sfn|武部健一|2015|pp=197-198|ps=、「高速道路の二大潮流とその決着」より}}<ref name="朝日19600403"/>。法的根拠を得た中央道派の勢いは凄まじく、法律に示される名古屋以東の中央道の予定路線を建設するのは当然として、ますますその主張を強めた{{sfn|吉田喜市|1973|p=83}}。この時期、政治家と官庁のほとんどは中央道支持で、東海道支持は建設省など、ごく少数であった{{sfn|ラルフ・J・ワトキンス|1969|p=43}}。 |
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ルートは確定後の東名と概ね一致するが、焼津 - 豊川間は3ルートがあってこの時点では絞り切れていない(後述)。車線数は東京第3インターチェンジ(環状8号接続)から松田までが往復6車線で、さし当たりは4車線の建設を行い、用地のみ完成形で買収する。それ以外は完成形の4車線断面である{{sfn|高野務・斉藤義治|1961|p=18}}。こうした建設省の調査を引き継いで日本道路公団(以下、公団)が改めて調査に望んだ。以下は公団による調査である。 |
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[[File:Tenryu river aerial photo.jpg|thumb|天竜川と遠州灘。松永安左衛門の勧めに従って、建設省職員はヘリコプターに乗って東海道海岸線の視察を行った。産業計画会議案は不採用となったが、東海道高速道路の促進に大変力があったと省職員は松永を評した{{sfn|日本道路協会|1997|p=85}}。]] |
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東海道不利のなか、世論は政治臭の強い中央道案よりも東海道案に同情的で、さらに東海道を擁護する団体が現れたが、これが産業計画会議であった。1958年(昭和33年)3月に「東京・神戸間高速自動車道路についての勧告」としてレコメンデーションを出した{{sfn|吉田喜市|1973|p=84}}。松永は建設省案に対してさらに安上がりの方法があるとして、チャーターしたヘリコプターに建設省職員を乗せて、東京から京都まで東海道海岸を往復して見せるなど、間接的に東海道案促進に大きな力を与えた{{sfn|日本道路協会|1997|p=85}}。また、この頃には国道1号の混雑はいよいよ限界に達し、沿線自治体は東海道に高速道路を呼び込むべく「東海道第二国道期成同盟会」{{efn|1959年時点では「東名高速道路」という名前はなく、「東海道第二国道」が東海道自動車専用道路の通称であった(『朝日新聞』1959年8月22日朝刊、10面)。}}を立ち上げて国に陳情するなど<ref name="朝日19590822">{{Cite news |title=東海道をもう一つ 三県二市で実現運動始める |newspaper=朝日新聞(東京)朝刊|date=1959-08-22|page=10}}</ref>、東海道派も着実に歩を進めていた。 |
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建設省の調査は直線主体の旧来の線形であったことと、名神建設で経験された建設費用の実績が建設費積算に反映されておらず、加えて短い区間における比較線調査が十分に行われていなかった。これによりこの調査のみをもって東名の整備計画を確定するには不十分であることから、1961年(昭和36年)より改めて公団の手で調査が行われ、それが結果的に3,425億円という建設費概算となって現れた{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=60}}。さらに東名の特徴である曲線主体の線形を大幅採用し、建設省調査後に住宅団地化、工業団地化した区域を避けるべく路線修正を行った{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=61}}。 |
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建設省は一貫して東海道実現のために運動していたが、国土開発縦貫自動車道建設法の施行に伴って中央道をいつまでも放置しておくことは出来なくなった。予定路線について調査し、基本計画、整備計画を策定せねばならなかったからである{{sfn|吉田喜市|1973|p=84}}。このため、精細な調査をおこなって、その結果を「建設省中央道調査報告書」<ref name="朝日19600403"/>にまとめて中央道派に示したところ、猛烈な反撃が加えられた{{sfn|日本道路公団|1970|p=4}}。このとき提示した建設費用は3,200億円、kmあたり10.8億円で{{sfn|日本道路公団|1970|p=4}}、中央道派が信じていたkmあたり3.2億円、事業費にして約1,000億円とはほど遠かったからである。これにより「建設省の積算は過大だ」「建設省はやる気がないのだ」と怒って、席を立って出て行く者が多かった{{sfn|吉田喜市|1973|p=84}}。しかし、積算が間違っていたのは中央道派のデータで、全延長の50パーセントが山岳区間ゆえ、建設費用も勢い高額になることは明らかで<ref group="注釈">東京 - 小牧間約295 kmの中に、トンネル総数が209本、その延長は74 kmで、中央道の工費の約半分がトンネル費用である。橋の延長は45 kmで全工費の二割弱。すなわち、トンネルと橋だけで全工費の七割を占める(『朝日新聞』1960年4月3日朝刊、2面)。</ref>、一般に言われている資金では到底、中央道の建設は不可能であることを、実際に中央道の通過予定地を視察した関係者は確信したという{{sfn|高速道路五十年史編集委員会|2016|p=42}}。 |
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[[File:6-lane section plan of Tomei Expressway.svg|thumb|東名の起点は建設省案の渋谷区代々木八幡から世田谷区瀬田町に変更された{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=62}}。6車線区間は当初は環状八号接続部から松田の間であったが、公団はこれを厚木に短縮した。]] |
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この試算結果を受けて[[大蔵省]]は、3,200億の建設費に見合うだけの交通需要の見込めないところに[[世界銀行]]が融資するはずがないとして、中央道案に反対した<ref name="朝日19600403">{{Cite news |title=せり合う弾丸二道路 理想と現実論が戦う 勝敗は政治力の結集で |newspaper=朝日新聞(東京)朝刊|date=1960-04-03|page=2}}</ref>。[[経済企画庁]]も開発の趣旨には賛同するも、予算とのバランスの悪さによって消極的で、[[農林水産省]]に至っては、酪農振興は結構だが、中央道予算のあおりを受けて本来の農林予算が縮小されてはたまらないとして警戒するなど、中央道の旗色はいよいよ悪くなってきた<ref name="朝日19600403"/>。 |
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起点は、東名の道路規格で都心部まで乗り入れることは極めて困難であることから、建設省案の渋谷区から世田谷区の環状8号外側まで後退した。最終的な起点位置は、[[首都高速3号渋谷線]]の連結を考慮して決定した{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=62}}。 |
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また、費用対効果の確認や車線数、インターチェンジ位置を計画するに当たって推定交通量を算出した。1969年(昭和44年)の東名開通時点の交通量は、東京の日換算33,000台を頂点に厚木までが2万台以上と突出しており{{sfn|池上雅夫|1969|p=10-13}}、さらに開通後10年以内の東京 - 厚木間の推計は2倍以上に増加するとの見立てから、東京 - 厚木間は往復6車線、それ以外は往復4車線とした{{sfn|池上雅夫|1969|p=32}}。ただし、当初整備計画では東京 - 大井松田間を往復6車線としたが、[[小田原厚木道路]]が計画されたことによって、厚木 - 大井松田間は往復4車線に縮小された{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=596}}。 |
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依然として法的根拠を持たない東海道案であったが、中央道派は焦りを覚えていた。建設費用で圧倒的有利、かつ経済効果もある東海道案が法的根拠を得れば、中央道実現の道が遠のくことから、どうしても東海道案に法的根拠を与えるわけにはいかなかった<ref name="朝日19600403"/>。しかし、建設省が示した3,200億円という予想外の建設費用に対して「悪意に満ちた大げさな報告」と決めつけた中央道派も、さすがに採算の採れないことは認めざるを得なかった。このため、有料道路にこだわる必要はないとして態度を軟化させながらも着工へのこだわりを捨てることはなかった<ref name="朝日19600403"/>。できれば両案採用に越したことはないが、当時の貧乏な日本にそれは叶わず、いずれか一つを採択せざるを得ないことで、両派の争いはいよいよ激しくなった<ref name="朝日19600403"/>。こうした中で、アメリカの交通経済学者のオーエン<ref group="注釈">オーエンはワトキンス調査団の一人であった(『朝日新聞』1960年5月10日朝刊、11面)。</ref>が来日し、東海道案を追い込もうとする中央道派に痛烈な批判を浴びせたが、その趣旨はかつてワトキンス調査団が示した意見と同様であった(後述)<ref name="朝日19600510P11">{{Cite news |title=開発を主目的に オーエン氏 中央道計画に批判 |newspaper=朝日新聞(東京)朝刊|date=1960-05-10|page=11}}</ref>。 |
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なお、1時間あたりの交通容量は、6車線7,000台、4車線4,600台で、これを基に年平均の1日の交通容量を算出した場合、往復6車線区間で88,000台、往復4車線区間で48,000台である。これだけの交通容量ならば、東名は無理なく車を流すことができる{{sfn|池上雅夫|1969|pp=34-36}}。実際、全線開通15年後の1984年(昭和59年)の推定交通量はこの範囲に収まっている{{sfn|池上雅夫|1969|p=11}}。しかしながら、開通後ほどなくして、この交通容量では圧倒的に不足することが明らかとなった{{sfn|橋本弘之|1982|pp=58-59}}。 |
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こうした中央道派の不利に乗じて、東海道派は一気に攻勢を仕掛け<ref name="朝日19600403"/>、まずは建設の根拠を得るための立法化に全力を傾注した。これは中央道と違って東海道には「国土開発縦貫自動車道建設法」に予定路線の記載がないためである。よって、それに拠らずに建設するための独自の法律策定を目指したが{{sfn|平沼義之|2017|p=313}}、これが「東海道幹線自動車国道建設法案」で、議員立法としての成立を試みることになった<ref name="朝日19600403"/>。 |
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{{wide image|Estimated traffic volume on the Tomei Expressway (1969 and 1984).svg|600px|公団が推計した東名の推定交通量。1969年(昭和44年)全線開業時点と15年後の1984年(昭和59年)時点の比較図。1984年時点の各区間毎の推定交通量は東京 - 厚木間88,000台、それ以外が概ね48,000台である。88,000台の交通量に対して4車線では不足するため、東京 - 厚木間は6車線とした{{sfn|池上雅夫|1969|p=32}}。公団としては万全を期して算出した15年後の推定交通量であったが、実際の交通量は、特に東京 - 厚木間では推定を大きく上回る結果となった<ref>『高速道路と自動車』1984年4月号から1985年3月号までの統計月報を元に作成</ref>。}} |
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==== 路線選定 ==== |
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この時に至って、中央道案唯一の優位性といえば、東海道案よりも先に法的整備がなされたことくらいで、ゆえに整備優先順位の上位を主張することがせいぜいできることであった。総仕上げとしての建設に持って行くためには、中央道の予定路線法案を国会に提出する必要があるが{{efn|国土開発縦貫自動車道の路線リストは予定路線としてのそれではなかったことで、予定路線にするには別途の立法を必要とした{{sfn|太田和博|2020|p=52}}。}}、かつて中央道を強力に支持した[[運輸省]]にさえ、成立しても着工とは別問題であるとして敬遠される始末であった<ref name="朝日19600403"/>。ただし、中央道予定路線法案は法律上、早かに手続きすることが定められおり{{efn|「国において建設すべき自動車道の予定路線は、別表に掲げる中央自動車道のうち小牧市附近から吹田市までを別表のとおりとするほか、別に法律で定める」「政府はすみやかに前項の法律で定める国開道の予定路線に関する法律案を別表に定める路線を基準として作成し、これを国会に提出しなければならない」(国土開発縦貫自動車道建設法第3条第1項)と規定されている{{sfn|太田和博|2020|pp=50-51}}。}}、このため交通関係の閣僚{{efn|大蔵、通産、建設、運輸、農林、経済企画の各省庁の大臣で構成(『朝日新聞』1960年3月10日朝刊、1面)。}}からなる「交通関係閣僚協議会」は、中央道の予定路線を定める法案の国会提出を決定した<ref name="朝日19600510P1">{{Cite news |title=「中央道」法案出す 交通閣僚協議会決める |newspaper=朝日新聞(東京)夕刊|date=1960-03-10|page=1}}</ref>。 |
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[[File:Comparison diagram between Shizuoka and Toyokawa on the Tomei Expressway.svg|thumb|400px|静岡 - 豊川間比較線図{{sfn|池上雅夫|1969|pp=16-17}}。この内の焼津から天竜川に至る約60 km区間は、東名において最も大きな比較論争を巻き起こし{{sfn|池上雅夫|1969|pp=16-17}}、結果的に整備計画策定が1年遅れた{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=62}}。<small>([https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1 国土地理院地図・空中写真閲覧サービス]の地形図を元に加工)</small>]] |
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日本道路公団が建設省から事業を引き継いだ段階で、静岡県西部の焼津 - 三ヶ日間の大比較線が残されていた。建設省が大比較線を残したのはいずれも決っしえなかったためである。よって公団の手で改めて比較調査を行った{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=60}}。大比較線は3ルート用意され、この中から、経済効果、建設費用、工事の難易度、走行安全性といった要素を加味して一本に絞る。3案とは、内陸、海岸、その中間であるが、元々建設省が計画したのは浜北を通過する内陸案で、これに対して産業計画会議が海岸案を提案し、この二案を折衷したのが中間案であった<ref name="朝日19620524">{{Cite news |title=東海道幹線自動車国道 来月中にも着工 静岡 - 豊川間除き決まる |newspaper=朝日新聞(東京)朝刊|date=1962-05-24|page=1}}</ref>。 |
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内陸は路線延長が短く建設費も最小だが浜松市から遠く、利用交通量が少ない。海岸は路線延長が長く建設費も高いうえに、利用交通量が少ないことで2,000億円相当の損失が見込まれた。よって、公団は中間を採用することにしたが、そこへ静岡県が海岸案を主張してきた。これは静岡県が1961年(昭和36年)に策定した総合開発計画がこの海岸線案を骨子として出来たためで、県の考えでは、開発の遅れている遠州灘海岸地帯の振興のために東名を利用しようということであったが{{sfn|池上雅夫|1969|p=18}}、いかんせん損失額が大きすぎるため、県は海岸よりやや内陸となる案(静岡県案)を提案した{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|pp=62-63}}。それでも中間有利と判定されたのは、利用する地形がよく、路線延長が短い、3パーセント以上の勾配距離が海岸の半分以下、建設費が97億円安い、海岸と比べ交通量が多い、よって超過便益は海岸に比べて差し引き504億円相当で圧倒的に中間有利という結果が出たことによる。また、海岸は未開発地帯を通るだけに、東名開通の折には土地の利用効率は約69億円相当海岸有利であるが、それとて建設費97億円の差額にも及ばないとされた{{sfn|池上雅夫|1969|p=20}}。但し、静岡県の主張する海岸地帯開発の考えを一部取り入れてルートに反映させることとした。これに茶畑の潰地を少なくし、橋梁を避ける等の修正を行って最終ルートが確定した{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=65}}。路線の内定は1963年(昭和38年)6月で<ref name="朝日19630614">{{Cite news |title=東名高速道路の全路線固まる 静岡県、ほぼ第二案で 建設相あす現地を視察 |newspaper=朝日新聞(東京)朝刊|date=1963-06-14|page=1}}</ref>、一年以上も遅れていた整備計画の策定にさっそく反映された<ref name="朝日19631112">{{Cite news |title=全区間に施行命令出す 東名高速道路 |newspaper=朝日新聞(東京)朝刊|date=1963-11-12|page=2}}</ref>。 |
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[[File:1960 Protests against the United States-Japan Security Treaty 01.jpg|thumb|第34回国会期間中(会期:1959年〈昭和34年〉12月29日 - 1960年〈昭和35年〉7月15日)における日米安全保障条約改定を巡る混乱の一幕。東海道幹線自動車国道建設法はこうした混乱の影響を受け、会期終了間際に可決成立した。]] |
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そして迎えた1960年(昭和35年)7月15日の夜、自民党と同志会だけで開かれた参議院本会議で「東京 - 小牧間国土開発縦貫自動車道予定路線法案」(中央道)と「東海道幹線自動車国道建設法案」(東海道)が同時に可決成立した。同じ自民党議員同士で最後までいがみ合った挙げ句の会期終了間際の際どさで<ref group="注釈">第34回国会の会期は1959年(昭和34年)12月29日から1960年(昭和35年)7月15日まで。</ref>、自民党政策審議会の「両方とも通す」の裁定により通過した。今国会では[[日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約|日米安全保障条約]]の改定と、[[岸信介]]の跡目争いなど、政界の混乱によって参議院が停止したまま、両案廃案になりかねない危うさの中での成立であった<ref name="朝日19600717">{{Cite news |title=中央道法案通る 会期末危うく「第二東海道」と共に |newspaper=朝日新聞(東京)朝刊|date=1960-07-17|page=10}}</ref>。こうした安保闘争のどさくさに紛れての成立であったが、経済成長の只中にあったこともまた両道成立の要因であった<ref name="朝日19601004">{{Cite news |title=大詰めを迎えた二つの弾丸道路計画 十年ぶりに解決へ 同時着工共同戦線で圧力 |newspaper=朝日新聞(東京)朝刊|date=1960-10-04|page=2}}</ref>。なお、東海道幹線自動車国道建設法は、それ自体が予定路線を法定するため、今回同時成立した中央道の予定路線案とようやく同等の立場となった{{sfn|太田和博|2020|p=51}}{{efn|東海道幹線自動車国道建設法以外の議員立法(関越、東海北陸、九州横断、中国横断)は、予定路線を別の法律で定めることを法定している。早急に整備を行う必要のある東名(東海道幹線自動車国道建設法)が優先度において他の立法と異なる立ち位置にあったためである{{sfn|太田和博|2020|p=51}}。}}。 |
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{{double image aside|right|CA390268.JPG|210|Near Ayuzawa on the Tomei Expressway.svg|190|画像左 : 松田町内の東名。奥は酒匂川で、高速道路の建設に適した酒匂川と手前の山地間の平野は、人家、道路などで全て埋め尽くされていた。このため東名は画面手前側の山沿いに計画された。画像右 : 鮎沢付近の東名最大規模の長大切土。切り取り高さ75 m、掘削土量約5万立方メートルに及んだ{{sfn|池上雅夫|1969|p=170}}。こうした長大切土は自然のバランスを崩すことから負の条件を持つ。工事中の災害の危険が伴い、開通後も崖崩れの恐れがある。そうした危険を回避する意味でも山北の場合は都夫良野トンネルが掘削された{{sfn|池上雅夫|1969|p=158}}。}} |
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両法案成立で決着をみたが、いざ着工の段取りを決める段になって今度は大蔵省と建設省の対立が生じた。政府の意向で公共投資を抑える必要から効果の薄い中央道を後回しにしたい大蔵省と、東海道と並行して一部にせよ中央道の同時着工を行いたい建設省の争いであったが、建設省には運輸、通産、農林の各省が味方し、かつていがみあった中央道派と東海道派の国会議員も一体となって大蔵省に圧力をかけた結果、1960年(昭和35年)10月の協議で両道の同時着工が決定した<ref name="朝日19601004"/><ref name="朝日19601004夕">{{Cite news |title=同時着工決める 中央と東海道自動車道 |newspaper=朝日新聞(東京)夕刊|date=1960-10-04|page=1}}</ref>。 |
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[[File:Planned line between Matsuda and Ayusawa on the Tomei Expressway 2.svg|thumb|400px|松田 - 山北間比較線図{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=66}}。箱根山と丹沢山塊に囲まれた標高150 - 400 mの山あいに計画された{{sfn|池上雅夫|1969|p=155}}。<small>([https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1 国土地理院地図・空中写真閲覧サービス]の地形図を元に加工)</small>]] |
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こうしたルート選択において難渋を極めたのが松田 - 山北間、インターチェンジでいえば大井松田IC - 御殿場IC間である。このわずか14 kmの区間に工費254億円を投じ、km換算では17億円という、東京付近の地価の高い区間を除いて最高の建設費を要した{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=70}}。東京 - 小牧間の東名にあって最後に開通した区間であり、予算不足ゆえ工事の発注が遅れたうえに高難度の建設工事、そして路線選定でもめた区間であった{{sfn|池上雅夫|1969|p=155}}。松田 - 山北間は、[[箱根山]]と[[丹沢山地|丹沢山塊]]に囲まれた、急峻で狭隘な谷間とを縫って進むが{{sfn|武田文夫|1968|p=155}}、[[鮎沢川]]と[[酒匂川]]による浸食作用が手伝って山腹や山裾は急崖をなし、その川と急崖の間のわずかな平地に人家が建ち並ぶ。加えて国道と鉄道が並行し、山の斜面にはミカン畑がある。結果、高速道路を造りうるような場所は全て国道、人家、鉄道で埋め尽くされており{{sfn|武田文夫|1968|p=155}}、こうした狭隘な地形条件とあっては東名は高所を通さざるを得ないとされた{{sfn|池上雅夫|1969|pp=155-156}}。東名が切り立った山の側面に取り付いているのはこうした理由からである{{sfn|武田文夫|1968|p=155}}。 |
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この区間は当初、大小を含めて10本の比較ルートが用意されたが、大別すれば長大のり面と橋が多い南線と、トンネルの長い北線に収れんされる{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=70}}。一般的にトンネルは工費が高いことから、建設費抑制の観点からいえばトンネルを要する山の通過は避けて山あいを迂回すればよい。しかし、それによって山肌を削り取る必要が生じ、結果、工事中の危険性が高く、開通後も崖崩れの危険がつきまとう。山あいの通過ではカーブがきつくなることでドライバーの負担が増し、さらに高い橋脚を要することはトンネル以上の建設費を要する。そして、高所ゆえ冬は路面凍結の恐れがあることを考慮すると、むしろトンネルを挿入する方が線形や構造物を楽にでき、全体としては安全になる。[[都夫良野トンネル]]はこうして建設されることになったが、これが北線であり、こちらが採択された{{sfn|池上雅夫|1969|p=158}}。 |
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その後の東海道と中央道は明暗が分かれた。翌昭和36年度(1961年)の予算編成で、[[経済企画庁]]が東海道と中央道の同時着工に難色を示したことが影響して、その翌年1962年(昭和37年)に建設省は日本道路公団に対して、中央道の東京 - 富士吉田間の施行命令を出して以後保留したのに対し、経済効率的に有利な東名高速については、次々と全線に渡って施行命令を出していった{{sfn|武部健一|2015|pp=199–200|ps=、「東海道か中央道か」より}}。 |
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[[File:Tomei Expressway and Route 1 (Yui Shimizu Shizuoka).jpg|thumb|由比の海岸に敷設された東名。地滑りにより発生した土砂を海浜に埋め立てて、そこに東名を建設した。]] |
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こうして両案は妥協に至ったのであるが、その契機の一助となったのが、ワトキンス調査団の[[ワトキンス・レポート|レポート]]であった。揉める東京 - 名古屋間を後回しにして、名古屋 - 神戸間のみ建設するにあたり、政府は建設資金の調達を世界銀行に打診したところ、融資に当たっての実態調査のために、ラルフ・ワトキンス率いる調査団が1956年(昭和31年)5月に来日し、その後約80日間に渡って各地を調査のうえ提出したレポートである{{sfn|高速道路五十年史編集委員会|2016|p=21}}。この中で2案対立に触れて、「比較すべきは計画ではなく、それぞれ異なった根拠で有益」との見解を示し、東海道案については、現在の交通需要を満たし、ごく近い将来の経済的発展に十分な容量を確保するために必要なルートであるとした。一方の中央道案については、新しい土地の開発および資源の開発を目的とした開発道路であると位置づけた{{sfn|ワトキンス・レポート45周年記念委員会|2001|p=43}}。 |
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比較線でもう1本苦慮したのは由比地区である。もともと建設省が海岸ルートを検討していたものを放棄して山手まわりとしたが、この付近の山は地滑り地帯であることから、それを避けるためにトンネルを通す位置を最も安全な位置に計画した。ところが、そこを東海道新幹線が利用することになり、計画が立ちいかなくなった。しかし、1961年(昭和36年)に発生した由比町寺尾地区で発生した地滑りにおいて約120万立方メートルの排土が必要となり、様々な理由から海岸へ投棄する以外に選択肢がなく、農林省から建設省に対して協力要請があった。公団はこれに飛びつき、急遽海岸回りの検討に入った。距離にして山手回りと比較して大差なく、海岸埋め立て事業を国道事業、海岸保全事業との合併施工で行えば工費もいくぶん節約できる。結局、海岸を埋め立てて、そこに東名を通すことになった{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|pp=73-74}}。東名の施行命令は1962年(昭和37年)5月の東京 - 静岡間を皮切りになされたが、当該区間を最優先としたのは、由比地区の地滑り地帯の工事に早く取りかかる必要からであった。当該地帯の工事は同年10月からの開始を予定し、そのためには一刻も早い路線指定を行って、土砂の搬出についての契約を遅くとも5月中に済ませなければ間に合わないためである<ref name="朝日19620524"/>。 |
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[[File:東海道本線 島田駅-金谷駅-78-07.jpg|thumb|建設省と日本道路公団以外の官庁は全て東海道案に反対した。外貨状況の悪化と国鉄の経営悪化を恐れたためである{{sfn|ラルフ・J・ワトキンス|1969|p=43}}。画像は東海道線の島田 - 金谷間を行く国鉄貨物列車。]] |
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調査団来日当時の日本の政治家と官僚、銀行団は、とにかく東海道案に反対であった。その理由として、東海道案は国鉄[[東海道本線|東海道線]]と競合して国鉄の経営を悪化させる。また、高級な道路を造ることは外国製の機械を輸入する必要が生じ、同時に道路開通後は石油の輸入も必要であることで、日本の外貨状況を悪化させることであった。こうした政府や国会の誤った考えに対して、ワトキンスは真っ向から反論した{{sfn|ラルフ・J・ワトキンス|1969|p=43}}。1956年(昭和31年)時点で日本の経済成長率が年々10パーセント以上を示している以上は、それによる鉄道貨物の容量不足をいかに解消するかを考えるべきで、そのために鉄道が不得手とする短距離、小口の輸送をいち早く道路に明け渡すべきである。経済が進むほど交通、運輸の需要は高まって様々なサービスを要求する。したがって、道路と鉄道の競争ではなく、互いの長所を発揮し合う補完関係に立つことが進んだ経済に対する交通体系であり、鉄道経営が悪くなるから東海道の高速道路を造らないという考えは間違いであると指摘した{{sfn|ラルフ・J・ワトキンス|1969|p=43}}。また、外貨が悪くなる事に関しては、支出により失うことを恐れるのではなく、むしろ外貨を稼ぐ方に目を向けるべきであるとした。道路が悪いことによって原材料や[[半製品]]の動きに時間とコストがかかることは、日本の生産性と国際競争力を大きくそぎ落とす。重量にして2.5ポンド(約1.1 kg)しかない日本製[[カメラ]]が、輸入する鉄の1トンの値段と等しくなることを考えると、日本が生産性を高くして輸出を振興することによって、逆に道路を造るために輸入しなければならない外貨支出をはるかに上回る外貨収入を得られることに、もっと目を向けるべきであると力説した{{sfn|ラルフ・J・ワトキンス|1969|pp=43-44}}。こうした調査団の分析にもかかわらず、両道の論争はその後約4年間も継続したが、少なくとも両道並立の気運はこのレポートによって蒔かれた{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=1}}。 |
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=== 国道1号の逼迫 === |
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東京 - 名古屋間のルートを巡って論戦が繰り広げられている時、以前から渋滞気味であった国道1号の道路事情はさらに悪化していた{{sfn|吉田喜市|1973|p=85}}。 |
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[[File:Mazda T2000 001.jpg|thumb|昭和30年代における陸上貨物輸送の主役である小型三輪トラック。当時のトラック輸送の大部分は鉄道貨物の補完輸送手段に過ぎなかった{{sfn|カーゴニュース|1998|p=8}}。]] |
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国道1号逼迫の原因は、昭和30年代以降、急速に増大したトラックの影響である。それ以前のトラック輸送といえば、鉄道貨物輸送を補完する形で日用品の地域輸送、および鉄道の両端を担当する小運送であった。当時の陸上貨物運送は鉄道が主流で、トラックはあくまで脇役であり、トラックの主な形態は小型三輪車や軽自動車であった{{sfn|カーゴニュース|1998|p=8}}。やがて100 kmに及ぶ近距離輸送にトラックが進出し始め、それが東海道の貨物輸送の九割を占めるまでになった。よって、国道1号における交通混雑はまず、都市部周辺で始まった<ref name="朝日19590517">{{Cite news |title=東海道を総合調査 建設省 自動車交通緩和で |newspaper=朝日新聞(東京)朝刊|date=1959-05-17|page=1}}</ref>。さらに、首都圏と中京圏、近畿圏をつなぐ東海道は長距離貨物の需要が旺盛であることから、近距離貨物に割って入って長距離貨物の伸長も著しかった{{sfn|道路交通問題研究会|2002|pp=207-208}}。 |
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東海道に対する路線トラックの免許は、1950年(昭和25年)に東京 - 名古屋間におり{{efn|貨物輸送についてはこれを営業として行う場合は免許が必要である。特に東海道路線に対しては1957年(昭和32年)初頭、相次いで申請が行われ、翌年末までに30社を超す申請が提出された。この時点で全線9社、区間で60社が既に免許を得ており、そこへ30社が申請されたことで既存業者の権利擁護と申請者の要望で熾烈な競争が行われた。公聴会での激論の末、1959年(昭和34年)11月に至って10社の申請が許可された。それほどに東海道路線の輸送需要は多かった{{sfn|道路交通問題研究会|2002|pp=207-208}}。}}、4年後には東京 - 大阪間を22時間で結ぶに至った{{sfn|カーゴニュース|1998|p=32}}。一方で国鉄貨物は東京 - 大阪間に3日を要し、以後、鉄道貨物輸送はトラック輸送の後塵を拝するようになった{{sfn|カーゴニュース|1998|p=32}}。これには、政府の[[所得倍増計画]]を受けて[[高度経済成長]]へと至り、大量生産、大量消費時代へと突入して増え続ける輸送需要を鉄道貨物が賄いきれず、それに代わってトラックが持ち前の機動力と利便性で次々と貨物を取り込んでいったこともトラック輸送伸長の一要因である{{sfn|カーゴニュース|1998|p=8}}。事実、1956年度から1965年度までのトラック輸送の伸びは、1955年(昭和30年)の12 %から1965年(昭和40年)には26 %と倍以上に伸び、一方の国鉄貨物は53 %から10年後には31 %までシェアを落とした{{sfn|カーゴニュース|1998|p=9}}。この流れを受けて1959年(昭和34年)には、路線トラック12社が東海道路線の免許を取得し、同年に全面舗装なった国道1号で長距離の定期便トラックの運行を本格化させた{{sfn|カーゴニュース|1998|p=12}}。もっとも、舗装といっても相変わらず道幅は狭く、曲がりくねったままの旧道がコンクリートに置き換えられただけのことで、東京 - 大阪間を大型トラックが高速で移動することは到底不可能であった{{sfn|カーゴニュース|1998|pp=11-12}}。 |
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{{double image aside|right|Yoshiwara Gyosho Tokaido.jpg|245|Tokaido1825.jpg|200|歌川広重による東海道五十三次の浮世絵と、幕末の東海道と松並木。この牧歌的な道をほとんど改良せず、トラックをはじめ自動車が行き交うのが戦後の国道1号であった{{sfn|ワトキンス・レポート45周年記念委員会|2001|p=324}}。}} |
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なお、ワトキンス調査団のまとめたレポートの巻頭には、米国の高速道路の写真に続き10葉の日本の道路の写真が掲載されており、その全てが調査団来日当時の国道1号である{{sfn|ワトキンス・レポート45周年記念委員会|2001|p=324}}。そこには、未舗装の道を砂埃を舞い上げて走る自動車、大雨によってぬかるんだ未舗装の道に轍をとられた自動車を大人数で押している写真、あるいは首都東京の路面を無秩序に占有するおびただしい数の自動車の写真など、凄まじいまでの東海道が写されていた。当時の国道1号は道幅が狭く、その両脇を民家が軒を連ねていた。そこを道幅一杯にトラックやダンプカーが走ることで、軒先が瓦もろとも剥ぎ取られる始末で、およそ安全とは言い難い道路であった。挙げ句は、車の往来で路面に敷かれた砂利が吹き飛ばされることで、民家の戸や障子が傷つけられるため、被害防止のために金網を付けるか、日中でも雨戸を閉める家も少なくなかった{{sfn|ワトキンス・レポート45周年記念委員会|2001|p=324}}。そして町を抜ければ、[[歌川広重]]の[[東海道五十三次]]、あるいは[[東海道中膝栗毛]]に登場する松並木の牧歌的光景が広がり、これでは到底、戦後の新生日本を背負って立つ大動脈の役割を国道1号に着せることは出来なかった{{sfn|ワトキンス・レポート45周年記念委員会|2001|p=324}}。 |
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昭和30年代は、自動車交通の異常な進展に対して道路条件の改善が進まなかった時代である{{sfn|道路交通問題研究会|2002|p=306}}。昭和20年代には自動車の通行がほとんど見られなかった農山村にも自動車が入り込み、大小の型の貨物自動車が通過するようになった。行き交う交通は、10トン級の大型トラックから、軽三輪自動車、原付自転車をはじめ、1960年(昭和35年)頃までは東京銀座の繁華街さえ荷馬車が通行していた{{sfn|道路交通問題研究会|2002|p=308}}。国道1号においても、道路を走り抜く交通は自動車だけではなかった。牛車、馬車、自転車、人間が走り、そこへ大型バスがすれすれにすれ違うという状況で、こうした緩速交通に邪魔されることから、国道1号の一日に走りうる距離はせいぜい220 km(東京 - 静岡市清水区間に相当)が限界であった{{sfn|ラルフ・J・ワトキンス|1969|p=42}}。なお、1960年(昭和35年)末に、1964年開催の[[1964年東京オリンピック|東京オリンピック大会]]の事前視察に来日したローマの新聞記者達は「日本の交通状況は狂的といってよいほどに悪く、果たして、オリンピック大会が実施できるかと思うほどに悪い」と本国に打電している。一方で、その2年後に来日したフランス人記者達は、「日本の自動車生産施設の整備および生産体制の充実は見事というほかない」と評したが、これなど、当時の道路状況の劣悪さと、躍進する自動車交通のアンバランスさを象徴的に捉えたエピソードである{{sfn|道路交通問題研究会|2002|p=307}}。 |
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その後、建設省によって大規模な改良が施されたが、その努力を突き破る勢いで遠距離の自動車交通が急増し、日に日に国道1号の交通状況は悪化した。かつて「ゴールデンロード」と呼ばれたこの道路は、この時に至って「倒壊道」とあだ名された{{sfn|山田員弘|1967|p=58}}。建設省がまとめた1965年度全国交通量調査では、国道1号の全延長636 kmの約86パーセントにあたる547 kmが混雑度100パーセントを超え、そのうちの272.8 kmが許容量の2倍に到達するという凄まじさであった。特に、京浜間、藤沢 - 小田原間、清水 - 静岡間、浜松市内、岡崎 - 名古屋間で顕著で、トラックの平均時速は 37 km/hという低速ぶりであった{{sfn|山田員弘|1967|p=58}}。こうした混雑によって、東京 - 大阪間における大型トラックの走行時間は、当時の標準15 - 16時間が18時間に増加し、事故発生のあかつきには20時間まで伸びるに至った。その上、ひとたび大雨が降ればところによっては立ち往生が発生し、時間を浪費したトラックが遅れを取り戻そうと空いている区間を猛スピードで飛ばして事故に至るケースが多発した。警視庁の1964年度の主要国道の事故件数(重傷、死亡)において、国道1号はそのトップとなった{{sfn|山田員弘|1967|p=58}}。建設省が中央道案よりも東海道案を優先的に考えていたのは、こうした国道1号の逼迫によった{{sfn|吉田喜市|1973|p=83}}{{sfn|ワトキンス・レポート45周年記念委員会|2001|p=138}}。 |
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ワトキンス調査団は名神の調査のために来日したが、それは最終的に東京 - 名古屋 - 神戸間の高速道路の実現を見据えて調査したことで{{sfn|ワトキンス・レポート45周年記念委員会|2001|p=294}}、ゆえに東京 - 名古屋間の国道1号の調査も行っている。その調査を元に調査団が下した結論とは次の通りである。国道1号が線形改良、路線の拡幅、完全舗装に動き出していることは評価するが、国道1号がいかに改良されようとも、今後増加する自動車交通を吸収することは不可能である。古い道路の最悪の点を変えるだけで近代的道路を造ることは出来ない。新しい位置の新しい道路だけが自動車時代の求める便宜を供与することができる。つまり、国道1号とは全くの別路線による、完全出入制限を行って緩速交通(人間、自転車、手押し車、荷牛馬車)を排した自動車専用道路を造ることが経済の発展に有効であることを、アメリカの[[ペンシルベニア・ターンパイク|ターンパイク]]を引き合いにして報告した{{sfn|ワトキンス・レポート45周年記念委員会|2001|pp=111-113}}。調査団の脳裏には、かつて[[国道1号線 (アメリカ合衆国)|U.S1号線]]が20 - 30年間にわたる渋滞解消の応急対策と数百万ドルの経費投入を結局水泡に帰せしめた失敗がよぎり、このままでは国道1号もその轍を踏むことに警鐘をならした。つまり、国道1号にいかに金をかけて改良を行っても効果は上がらず{{sfn|ワトキンス・レポート45周年記念委員会|2001|pp=262-263}}、増える需要によって早期に陳腐化して投資ロスとなる恐れがあるため、それを回避するには近代的規格の道路が必要であると勧告した{{sfn|ワトキンス・レポート45周年記念委員会|2001|p=138}}。また、この時点で東海道案が中央道案に押され気味であったことに触れて、海岸に沿う高度の人口密集地帯における交通混雑を解消するには、中央道にその役割は期待できず、ほぼ東海道に並行する高速道路が依然として必要であると報告した{{sfn|ワトキンス・レポート45周年記念委員会|2001|p=43}}。 |
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=== 国幹道法への組替え === |
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{{double image aside|right|National Land Development Longitudinal Expressway Construction Law 2.svg|250|National Land Development Trunk Road Construction Law.svg|250|画像左 : 国開道法路線と追加された議員立法各路線{{sfn|平野和男|1966|p=42}}。画像右 : 国幹道法ネットワーク7,600 km{{sfn|池上雅夫|1969|pp=6-7}}。国開道法とは別に僅か5年足らずで5路線が議員立法として乱立した。このような無秩序の乱立を防ぎ、あるべき高速道路ネットワークを法制化したのが国幹道法で、国開道に入っていなかった東海道路線もネットワークに組み込まれた。}} |
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議員立法として成立した東海道幹線自動車国道建設法は、1966年(昭和41年)7月1日をもって廃止され{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=12}}、代替の国土開発幹線自動車道建設法(国幹道法)の予定路線に組入れられて、全国高速道路ネットワーク7,600 kmを構成する道路の一部となった{{sfn|日本道路協会|1997|p=544}}{{sfn|太田和博|2020|p=51}}。 |
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これ以前の高速道路の整備に関する法的根拠は、1957年(昭和32年)4月に制定された国土開発縦貫自動車道建設法(国開道法)であった{{sfn|太田和博|2020|p=49}}。そこへ中央道に対抗して東海道幹線自動車国道建設法が制定され以降{{sfn|平野和男|1966|p=41}}、関越、東海北陸、九州横断、中国横断の各議員立法が次々と可決成立した{{sfn|太田和博|2020|p=51}}。このままではなりふり構わず議員立法で増殖することから、道路局長に議員立法を止めさせるよう当時の担当者は申し入れた{{sfn|日本道路協会|1997|p=209}}。こうした個別の立法は関係地域の利害にとらわれた計画に陥りやすい。むやみに高速道路を提案するのではなく、全国的な視野から見たあるべき高速道路網の姿を示し、秩序だった整備計画のうえに策定されたのが国幹道法であった{{sfn|太田和博|2020|p=51}}{{sfn|平野和男|1966|p=41}}。 |
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組替えに際し、法定路線名が従来の「高速自動車国道東海道幹線自動車国道」から「'''高速自動車国道東海自動車道'''」に変更された{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=15}}。 |
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=== 設計と建設 === |
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==== 施行命令 ==== |
==== 施行命令 ==== |
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建設大臣から日本道路公団に下される施行命令は次の順になされた。1962年(昭和37年)5月30日(東京 - 静岡間)、同年9月17日(豊川 - 小牧間)、1963年(昭和38年)10月25日(静岡 - 豊川間を含めた東京 - 小牧間の全線){{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|pp=13-14}}。 |
建設大臣から日本道路公団に下される施行命令は次の順になされた。1962年(昭和37年)5月30日(東京 - 静岡間)、同年9月17日(豊川 - 小牧間)、1963年(昭和38年)10月25日(静岡 - 豊川間を含めた東京 - 小牧間の全線){{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|pp=13-14}}。 |
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しかし、命令は真っ先に下されたが、その時点で路線が確定していたわけではなかった{{sfn|池上雅夫|1969|p=16}}。特に |
しかし、命令は真っ先に下されたが、その時点で路線が確定していたわけではなかった{{sfn|池上雅夫|1969|p=16}}。特に上述の松田 - 山北間の路線が確定したのは1964年(昭和39年)8月である{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=70}}。施行命令が下されたからと言って直ちに工事に入るのではなく、様々な調査結果を考慮しながら最終的な路線位置を決定し{{sfn|池上雅夫|1969|p=16}}、中心杭設置、設計協議、用地買収を経てはじめて工事に取りかかる{{sfn|高速道路五十年史編集委員会|2016|p=54}}。 |
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==== 路線選定 ==== |
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[[File:Comparison diagram between Shizuoka and Toyokawa on the Tomei Expressway.svg|thumb|400px|静岡 - 豊川間比較線図{{sfn|池上雅夫|1969|pp=16-17}}。この内の焼津から天竜川に至る約60 km区間は、東名において最も大きな比較論争を巻き起こし{{sfn|池上雅夫|1969|pp=16-17}}、結果的に整備計画策定が1年遅れた{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=62}}。<small>配布元:[https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1 国土地理院地図・空中写真閲覧サービス]</small>]] |
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建設省案採用後、静岡県西部の焼津 - 三ヶ日間の大比較線を残し、以後は日本道路公団が路線の詰めを担当した。建設省が大比較線を残したのは、いずれも決っしえなかったためである。よって公団の手で改めて比較調査を行った{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=60}}。大比較線は3ルート用意され、この中から、経済効果、建設費用、工事の難易度、走行安全性といった要素を加味して一本に絞る。3案とは、内陸、海岸、その中間であるが、内陸は路線延長が短く建設費も最小だが浜松市から遠く、利用交通量が低い。海岸は路線延長が長く建設費も高いうえに、利用交通量が少ないことで2,000億円相当の損失が見込まれた。よって、公団は中間を採用することにしたが、そこへ静岡県が海岸案を主張してきた。これは静岡県が1961年(昭和36年)に策定した総合開発計画がこの海岸線案を骨子として出来たためで、県の考えでは、開発の遅れている遠州灘海岸地帯の振興のために東名を利用しようということであったが{{sfn|池上雅夫|1969|p=18}}、いかんせん損失額が大きすぎるため、県は海岸よりやや内陸案を提案した{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|pp=62-63}}。それでも中間有利と判定されたのは、利用する地形がよく、路線延長が短い、3パーセント以上の勾配距離が海岸の半分以下、建設費が97億円安い、海岸と比べ交通量が多い、よって超過便益は海岸に比べて差し引き504億円相当で圧倒的に中間有利という結果が出たことによる。ただし、海岸は未開発地帯を通るだけに、東名開通の折には土地の利用効率は約69億円相当海岸有利であるが、それとて建設費97億円の差額にも及ばない{{sfn|池上雅夫|1969|p=20}}。だが、静岡県の主張する海岸地帯開発の考えを一部取り入れてルートに反映させた。これに茶畑の潰地を少なくし、橋梁を避ける等の修正を行って最終ルートが確定した{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=65}}。路線の内定は1963年(昭和38年)6月で<ref name="朝日19630614">{{Cite news |title=東名高速道路の全路線固まる 静岡県、ほぼ第二案で 建設相あす現地を視察 |newspaper=朝日新聞(東京)朝刊|date=1963-06-14|page=1}}</ref>、一年以上も遅れていた整備計画にさっそく反映のうえ施行命令が出された<ref name="朝日19631112">{{Cite news |title=全区間に施行命令出す 東名高速道路 |newspaper=朝日新聞(東京)朝刊|date=1963-11-12|page=2}}</ref> |
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大比較線以外では、比較的小さい比較線が幾本も検討された。なかでも、複数の比較線の中から路線を選定する場合、建設費用を低減できる初期投資が低いルートを選ぶか、あるいは、初期投資が高くとも走行時間や走行距離が短いために走行費が低い長期的な便益を選択するのか、という二択を突きつけられるケースがあり、この場合は選択が困難となる。例えば、豊川付近では初期投資の低いルート、蒲原では初期投資の高いルートが選ばれた。豊川の場合、山の通過においてトンネルを取りやめて建設費の安い迂回ルートが選ばれているが、トンネルの方が迂回ルートより300 m短いものの、建設費は418億円余分にかかる。しかし、距離が短いことによる走行費と時間の節減により477億円の超過便益があるが、初期投資の差が少ないことから豊川は初期投資が低いルートが選択された。一方の蒲原の場合、山の通過において迂回路では多くの人家にかかって地元の反対が強く、曲線半径500 mという急曲線が生じることで、トンネルを通した。この場合、迂回に比べて250 mの短縮ではあるが、初期投資は218億円増である。それでも1,554億円の超過便益があり、その圧倒的な差によって蒲原は初期投資が多いルートが選択された。このように東名のルート選択は、経済比較を綿密に行ったうえで決定した{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=77}}。 |
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[[File:Comparison diagram between Mikkabi and Toyokawa on the Tomei Expressway.svg|thumb|400px|三ヶ日 - 豊川間比較線図{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|pp=74-75}}。5つの比較線が用意され、結果的に初期投資の少ない宇利トンネル線が採用された。<small>配布元:[https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1 国土地理院地図・空中写真閲覧サービス]</small>]] |
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初期投資と超過便益を秤にかけて選定された典型的なルートが、静岡県と愛知県の県境を通過する宇利トンネル区間である。ここは当初案(建設省案)と比べてルートが大きく北寄りに移動した。建設省案では、[[三ヶ日|三ヶ日町]]を通過する予定であった。しかし、市街地分断は避けたいとの思惑から、公団は当区間を南北それぞれに移した。南側の[[猪鼻湖]]と、北側の三ヶ日トンネルを通す二案である{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=76}}。ここからさらに分岐して、都合五案が考案された{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=74}}。ここから取捨選択して二案に絞り、これ以外の案は、通過する地質が悪く、工事が難航するために破棄した{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=76}}。二案が選択されたのは、建設費、超過便益で勝っていることによるが、それぞれを比較すると以下のようになる。 |
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:*宇利トンネル線 : 宇利トンネルの挿入によって谷を渡る橋が少なく済み、土工量も少なくなったことで、工費は最小で、中山A線比で13.6億円有利。勾配も最も緩い。ただし走行距離は長いために中山A線と比べて超過便益が30.8億円不利{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=76}}。 |
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:*中山A線 : 中山Aトンネルを一本挟むが、工費は二番目に安い。3パーセント(100メートル進んで3メートルの高低差)以上の勾配が6 kmに及ぶ。走行距離は最も短く、ゆえに超過便益で最も多い。ただし、猪鼻湖の通過に未知の要素がある{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=76}}。 |
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つまり、初期投資が少なく、施工が容易なルートを選ぶか、初期投資は多いが長期的に有利なルートを選ぶかの二者択一となったが、結果は初期投資の少ない宇利トンネル線が採用された{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=76}}。 |
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{{double image aside|right|Planned line between Matsuda and Yamakita on the Tomei Expressway.svg|400|Near Ayuzawa on the Tomei Expressway.svg|220|画像左 : 松田 - 山北間比較線図{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=66}}。10本の比較線が用意された。南線から北線に連絡する案や、ドルシュの提言を受けて都夫良野トンネルを避けるルートも考案された{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=69}}。画像右 : 鮎沢付近の東名最大規模の長大切土。切り取り高さ75 m、掘削土量約5万立方メートルに及んだ{{sfn|池上雅夫|1969|p=170}}。こうした長大切土は自然のバランスを崩すことから負の条件を持つ。工事中の災害の危険が伴い、開通後も崖崩れの恐れがある。そうした危険を避ける意味でも山北の場合は都夫良野トンネルが掘削された{{sfn|池上雅夫|1969|p=158}}。}} |
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こうしたルート選択において難渋を極めたのが松田 - 山北間で、インターチェンジでいえば大井松田IC - 御殿場IC間である。このわずか14 kmの区間に工費254億円を投じ、km換算では17億円という、東京付近の地価の高い区間を除いて最高の建設費を要した{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=70}}。東京 - 小牧間の東名にあって最後に開通した区間であり、予算不足ゆえ工事の発注が遅れたうえに高難度の建設工事、そして路線選定でもめた区間であった{{sfn|池上雅夫|1969|p=155}}。松田 - 山北間は、[[箱根山]]と[[丹沢山地|丹沢山塊]]に囲まれた、急峻で狭隘な谷間とをぬって進み{{sfn|武田文夫|1968|p=155}}、[[鮎沢川]]と[[酒匂川]]による浸食作用が手伝って山腹や山裾は急崖をなし、その川と急崖の間のわずかな平地に人家が建ち並ぶ。加えて国道と鉄道が並行し、山の斜面にはミカン畑がある。結果、高速道路を造りうるような場所は全て国道、人家、鉄道で埋め尽くされており{{sfn|武田文夫|1968|p=155}}、こうした狭隘な地形条件とあっては東名は高所を通さざるを得ない{{sfn|池上雅夫|1969|pp=155-156}}。東名が切り立った山の側面に取り付いているのはこうした理由からである{{sfn|武田文夫|1968|p=155}}。 |
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この区間は当初、大小を含めて10本の比較ルートが用意されたが、大別すれば橋が多い南線と、トンネルが多い北線に収れんされる{{sfn|池上雅夫|1969|p=157}}。一般的にトンネルは工費が高いことから、建設費抑制の観点からいえばトンネルを要する山の通過は避けて山あいを迂回すればよい。しかし、それによって山肌を削り取る必要が生じ、結果、工事中の危険性が高く、開通後も崖崩れの危険がつきまとう。山あいの通過ではカーブがきつくなることでドライバーの負担が増し、さらに高い橋脚を要することはトンネル以上の建設費を要する。そして、高所ゆえ冬は路面凍結の恐れがあることを考慮すると、むしろトンネルを挿入する方が線形や構造物を楽にでき、全体としては安全になる。[[都夫良野トンネル]]はこうして入ることになったが、これが北線であり、こちらが採択された{{sfn|池上雅夫|1969|p=158}}。 |
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[[File:Tomei Expressway (Yui Shimizu Shizuoka).jpg|thumb|由比の海岸に敷設された東名。地滑りにより発生した土砂を海浜に埋め立てて、そこに東名を建設した。]] |
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比較線でもう1本苦慮したのは由比地区である。もともと建設省が海岸ルートを検討していたものを放棄して山手まわりとしたが、この付近の山は地滑り地帯であることから、それを避けるためにトンネルを通す位置を最も安全な位置に計画した。ところが、そこを東海道新幹線に奪われたことで、計画が立ちいかなくなった。しかし、1961年(昭和36年)に発生した由比町寺尾地区で発生した地滑りにおいて約120万立方メートルの排土が必要となり、様々な理由から海岸へ投棄する以外に選択肢がなく、農林省から建設省に対して協力要請があった。公団はこれに飛びつき、急遽海岸回りの検討に入った。距離にして山手回りと比較して大差なく、海岸埋め立て事業を国道事業、海岸保全事業との合併施工で行えば工費もいくぶん節約できる。結局、海岸を埋め立てて、そこに東名を通すことになった{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|pp=73-74}}。東名の施行命令は1962年(昭和37年)5月の東京 - 静岡間を皮切りになされたが、当該区間を最優先としたのは、由比地区の地滑り地帯の工事に早く取りかかる必要によった。当該地帯の工事は同年10月からの開始を予定し、そのためには一刻も早い路線指定を行って、土砂の搬出についての契約を遅くとも5月中に済ませなければ間に合わないためである<ref name="朝日19620524">{{Cite news |title=東海道幹線自動車国道 来月中にも着工 静岡 - 豊川間除き決まる |newspaper=朝日新聞(東京)朝刊|date=1962-05-24|page=1}}</ref>。 |
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なお、東名の起点は当初、渋谷区代々木八幡の環状6号接続であったが、東名の道路規格で都心部まで乗り入れることは極めて困難であることから、世田谷区の環状8号まで後退した。最終的な起点位置は、[[首都高速3号渋谷線]]の連結を考慮して決定した{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=62}}。 |
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==== 推定交通量 ==== |
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[[File:Tomei expwy20191214.jpg|thumb|東京 - 厚木間は日換算交通量が88,000台で計画され、そのため開通当初から往復6車線で設計された(海老名SA付近)。]] |
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費用対効果の確認や車線数、インターチェンジ位置を計画するに当たって推定交通量を算出した。1969年(昭和44年)の東名開通時点の交通量は、東京の日換算33,000台を頂点に厚木までが2万台以上と突出しており{{sfn|池上雅夫|1969|p=10-13}}、さらに開通後10年以内の東京 - 厚木間の推計は2倍以上に増加するとの見立てから、東京 - 厚木間は往復6車線、それ以外は往復4車線とした{{sfn|池上雅夫|1969|p=32}}。ただし、当初整備計画では東京 - 大井松田間を往復6車線としたが、[[小田原厚木道路]]が計画されたことによって、厚木 - 大井松田間は往復4車線に縮小された{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=596}}。 |
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なお、1時間あたりの交通容量は、6車線7,000台、4車線4,600台で、これを基に年平均の1日の交通容量を算出した場合、往復6車線区間で88,000台、往復4車線区間で48,000台である。これだけの交通容量ならば、東名は無理なく車を流すことができる{{sfn|池上雅夫|1969|pp=34-36}}。しかしながら、開通後ほどなくして、この交通容量では圧倒的に不足することが明らかとなった{{sfn|橋本弘之|1982|pp=58-59}}。 |
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==== 用地買収 ==== |
==== 用地買収 ==== |
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[[File:Cross-sectional composition comparison map of Tomei Expressway and Tokaido Shinkansen.svg|thumb|300px|東名と東海道新幹線の断面比較図{{sfn|渡辺智恵|2014|p=73}}{{sfn|石原達也|2014|p=74}}{{sfn|日本国有鉄道名古屋幹線工事局 |1965|p=512}}。東名の用地買収面積がいかに広大であるかは東海道新幹線と比較すると理解できる。車両のみで比較する場合、自動車よりも新幹線が寸法で上回る。しかし新幹線は上下線合わせて2本の線路で事足りるのに対して東名は上下2本ずつ、往復4車線が必要なうえに、対向車による衝突を防止するための中央分離帯と故障車を駐車させるための路肩を必要とする。このことから用地取得面積は新幹線を大きく上回り、用地買収費の比較では新幹線(515 km)598億円{{sfn|角本良平|1964|p=155}}に対して東名(350 km)は925億円{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=18}}である。トンネルも1本で済む新幹線に対して往復分離の東名は2本必要とする{{sfn|池上雅夫|1969|p=131}}{{efn|トンネルは用地買収を必要としない。ただし断面積が新幹線の1.25倍ある上に、鉄道トンネルでは必要のない排気ガスを抜くための設備や照明設備等が必要で経費がかさむ{{sfn|池上雅夫|1969|pp=131-132}}。}}。]] |
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地形図を入れたルートを地元関係者に発表(路線発表)してのち、諸々の協議を経て用地取得に入る{{sfn|高速道路五十年史編集委員会|2016|p=54}}。用地が確保されれば道路は完成したようなものだ、といわれる{{sfn|池上雅夫|1969|p=まえがき iv}}。しかし、土地が確保されなければ路線計画は絵に描いた餅で、期限までに収容できなければ、予定された開通日に間に合わないだけではなく、税金の優遇措置に影響するなど様々な不都合が生じる{{sfn|高速道路五十年史編集委員会|2016|pp=42-43}}{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=359}}。よって、調印を取り付けるために地主の感情を読み解きながら、いたずらに感情を刺激しないように事を運び、期限内の取得を目指した{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|pp=377-378}}。 |
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地形図を入れたルートを地元関係者に発表(路線発表)してのち、諸々の協議を経て用地取得に入る{{sfn|高速道路五十年史編集委員会|2016|p=54}}。用地が確保されれば道路は完成したようなものだ、といわれる{{sfn|池上雅夫|1969|p=まえがき iv}}。しかし、土地が確保されなければ路線計画は絵に描いた餅で、期限までに収容できなければ、予定された開通日に間に合わないだけではなく、税金の優遇措置に影響するなど様々な不都合が生じる{{sfn|高速道路五十年史編集委員会|2016|pp=42-43}}{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=359}}。よって、調印を取り付けるために地主の感情を読み解きながら、いたずらに感情を刺激しないように事を運び、期限内の取得を目指した{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|pp=377-378}}。以下、買収事例を挙げる。 |
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高速道路における用地買収では、買収価格と地権者の思い描いた価格が相違する場合は激しい対立が生じた{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=362}}。それを避けるために地元民を組織化して、その代表と交渉する等の対策を講じたが{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|pp=342-343}}、それでも金銭が絡むことゆえ内部分裂が生じることも多々あって、そのために地主たちをまとめる代表の苦労も並々ならぬものがあった。袋井市の場合、東海道新幹線の用地買収に2年を費やし、国道1号のそれに8か月を要した土地柄の場所へ東名が交渉に入った。価格協議は予想通りの難航を示し、ほうぼう手を尽くして妥結に至ったのであるが、この間、地主会会長が三人交代している{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=388}}。また、対立が深く、協議に一向の進展も見られない場合、自治体のトップに斡旋を依頼して解決を図った{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|pp=356-357}}{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=385}}。 |
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かつて行われた名神の用地買収は、地元民から強い抵抗を受けた。地元に直接の利益をもたらさないと思われる高速道路に先祖から受け継いだ大切な土地を取られてはならぬ、という執念があって{{sfn|高速道路五十年史編集委員会|2016|p=26}}、「弾丸道路通過絶対反対」という看板が沿道の至る所で押し立てられた{{sfn|イカロス出版|2012|p=55}}{{sfn|高速道路五十年史編集委員会|2016|p=27}}。そして、[[名古屋駅]]には[[幟|むしろ旗]]がならび、地元民が公団の現地機関や県庁、市役所に押しかけ、打たれた杭は焼かれたり抜かれたりするなどの激しい抵抗に遭った{{sfn|高速道路五十年史編集委員会|2016|p=27}}。そのあとに続く東名では、こうした絶対反対という過激な抵抗は少なく、条件闘争がおもだった争点となった{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|pp=341-342}}。以下、買収事例を挙げる。 |
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先述のように、用地買収は時間との戦いでもあった。秦野市では1966年(昭和41年)3月以降、公団の単価発表に不満を持つ地権者との交渉が決裂し、[[租税特別措置法]]の優遇措置が適用される最終期限の3日前に行われた地権者総会では、集まった約200人が関係地主の総意として、公団の買収価格には一切応じられないとして、いよいよ怪しい雰囲気が漂い始めた。そこで公団は地権者会を相手にすることをやめて各地主との直接交渉に乗り出した。そして迎えた最終日、公団は価格を再調整して市長室にて地権者会会長を呼んで協議したところ、会長は公団価格を了承、ただちに公民館に待機中の地権者に発表の上、有線放送で各地主に個別調印の呼びかけを行った。しかし、それに応じる動きを見せる一部地権者を妨害する者の仕業もあって夜半になっても1割弱の調印しか得られなかった。それでもなお公団は諦めず、特別班を編成のうえ夜を徹しての個別の説得工作を試みた結果、夜明け前に調印に訪れる者が現れ、最終的に関係地主が公団事務所を訪れて、ここにようやく完了をみた{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|pp=359-360}}。また、世田谷区では、都営砧緑地公園(現・[[砧公園|都立砧公園]])と区営総合体育グランドの用地を取得するに際し、東京都議会と区議会の承認を要することで短期間取得が危ぶまれた。しかし、都区関係者の尽力によって、まれにみる短期間での都議会の議決に至った{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=346}}。 |
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高速道路における用地買収では、限られた期間内で大量の土地を一々評価することはできないので、各々の場所から価格を決めるにふさわしい土地を選び、それを標準値として価格の算定を行い、その他の土地については、この標準値を基準として価格決定するプロセスを採用した{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=343}}。よって、買い取る場所によっては価格差が生じ、それが地権者の思い描いた価格と相違する場合は激しい対立が生じた{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=362}}。それを避けるために地元民を組織化して、その代表と交渉する等の対策を講じた{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|pp=342-343}}。それでも金銭が絡むことゆえ内部分裂が生じることも多々あって、そのために地主たちをまとめる代表の苦労も並々ならぬものであった。ある交渉では、地元民を束ねる用地対策委員長が連日の一般地主の強い突き上げにより過労で倒れ、代わった副委員長も心労によって憔悴はなはだしく、妥結の瞬間に至ってはまさに崩れ落ちるような表情であったという{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=375}}。これが袋井市の場合、東海道新幹線の用地買収に2年を費やし、国道1号のそれに8か月を要した土地柄の場所へ東名が交渉に入った。価格協議は予想通りの難航を示し、ほうぼう手を尽くして妥結に至ったのであるが、この間、地主会会長が三人交代している{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=388}}。また、対立が深く、協議に一向の進展も見られない場合、自治体のトップに斡旋を依頼して解決を図った{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|pp=356-357}}{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=385}}。 |
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先述のように、用地買収は時間との戦いでもあった。秦野市では1966年(昭和41年)3月以降、公団の単価発表に不満を持つ地権者との交渉が決裂し、[[租税特別措置法]]の優遇措置が適用される最終期限の3日前に行われた地権者総会では、集まった約200人が関係地主の総意として、公団の買収価格には一切応じられないとして、いよいよ怪しい雰囲気が漂い始めた。そこで公団は地権者会を相手にすることをやめて各地主との直接交渉に乗り出した。そして迎えた最終日、公団は価格を再調整して市長室にて地権者会会長を呼んで協議したところ、会長は公団価格を了承、ただちに公民館に待機中の地権者に発表の上、有線放送で各地主に個別調印の呼びかけを行った。しかし、それに応じる動きを見せる一部地権者を妨害する者の仕業もあって夜半になっても1割弱の調印しか得られなかった。それでもなお公団は諦めず、特別班を編成のうえ夜を徹しての個別の説得工作を試みた結果、夜明け前に調印に訪れる者が現れ、最終的に関係地主が公団事務所を訪れて、ここにようやく団体調印が完了をみた{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|pp=359-360}}。また、世田谷区では、都営砧緑地公園(現・[[砧公園|都立砧公園]])と区営総合体育グランドの用地を取得するに際し、東京都議会と区議会の承認を要することで短期間取得が危ぶまれた。しかし、都区関係者の尽力によって、まれにみる短期間での都議会の議決に至った{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=346}}。 |
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宗教施設の買収には困難が伴った。四部落共有の神社を[[曳家|曳家工法]]で移転させる事例があったが、[[氏子]]側は公団提示額の3倍を要求して交渉は難航した。最終手段として[[土地収用法]]による採決を公団が迫り、氏子側は神社移転を収用に持ち込むのは地元の恥であるとして交渉は妥結した{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=352}}。この土地収用は最終手段ではあるが、東名の用地買収ではやむを得ず行使した例がある。ある交渉において最後まで了承しなかった地主数人に対して、市長が午前9時より翌日の午前2時まで、連続17時間にもわたる説得で妥結した者を除く残り1名について、公団の妥結価格を不服として最後まで調印を拒絶し、そのうえ、7兆円の5億万倍という天文学的な価格を突きつけたことから、やむなく収用法を適用したものである{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=370}}。 |
宗教施設の買収には困難が伴った。四部落共有の神社を[[曳家|曳家工法]]で移転させる事例があったが、[[氏子]]側は公団提示額の3倍を要求して交渉は難航した。最終手段として[[土地収用法]]による採決を公団が迫り、氏子側は神社移転を収用に持ち込むのは地元の恥であるとして交渉は妥結した{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=352}}。この土地収用は最終手段ではあるが、東名の用地買収ではやむを得ず行使した例がある。ある交渉において最後まで了承しなかった地主数人に対して、市長が午前9時より翌日の午前2時まで、連続17時間にもわたる説得で妥結した者を除く残り1名について、公団の妥結価格を不服として最後まで調印を拒絶し、そのうえ、7兆円の5億万倍という天文学的な価格を突きつけたことから、やむなく収用法を適用したものである{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=370}}。 |
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こうした用地買収と工事に伴う補償費だけで工費全体の30パーセント(924億9,300万円)を要した<ref name="朝日19690526夕">{{Cite news |title=東名高速道が全通 名神と結び大動脈 御殿場で祝賀式 きょうから営業 |newspaper=朝日新聞(東京)夕刊|date=1969-05-26|page=1}}</ref>。 |
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買収地には農地も少なからず存在し、時には農協に斡旋を依頼した{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=378}}。清水市(現・静岡市清水区)内の海岸と山に挟まれた農地の買収では、残り少ない農地を提供する農民の苦悩を嫌というほど味わいながら、それでも農民を説得した用地職員の苦労は並大抵ではなかった{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=381}}。 |
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特異な例として、ある買収予定地が共有地で、複数人(100名や60名等)で一つの土地を所有という事例があった。そこは相続登記がされておらず、その相続を調査すると300人以上となるものが数件あり、その者が北海道から九州まで居場所が散在、中にはアメリカ在住者で[[ベトナム戦争]]に出兵して居場所が不明という者がおり、土地一つの調印を得るために大変な時間と労力を費やす事になった{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=369}}。一方で、名古屋市とその近辺の自治体は、[[土地区画整理]]事業の只中にあって土地が商品化されていることもあり、買収は比較的スムーズであった{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|pp=400-402}}。 |
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用地買収で総じて言えることは、限られた予算を踏み越えないように、買い取る土地の価格を厳正に査定し、それを地権者に示したうえで買収したことである{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=343}}。そのために、公団の提示した価格に対して不満を持つ地権者と対峙することも厭わなかった{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|pp=356-357}}。時には昼夜を分かたず怒号が飛び交う中を論争が繰り返され、そうした険悪な雰囲気の中にあっても公団は粘り強く交渉して{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=349}}用地を確保した。後年、新東名高速道路の用地買収において、地権者の希望する価格を否定もせずにそのまま承諾した公団の姿勢{{sfn|NHK報道局「道路公団」取材班 |2005|pp=140-141}}とは全く違う、当時の公団の厳しい姿勢がそこには見られた。 |
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==== 線形・インターチェンジ計画 ==== |
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[[File:Linear design of the Tomei Expressway.svg|250px|thumb|電子計算機を使用した透視図の例。縦断図と平面図を組み合わせて立体図として見た場合、上空からの目線を下げるに従って二次元では判らなかった欠点が浮き彫りになる{{sfn|池上雅夫|1969|pp=48-49}}。路面高さ10 mまで降下した場合、視点Bのように凸型の頂部(クレスト)のかげに隠れる部分が増えることで路面が寸断されて見える。視点Cのドライバー目線では、直前のクレストから先の路面が全く見えないことから、その先の運転予測が立てづらくドライバーを不安に陥れる{{sfn|池上雅夫|1969|pp=51-53}}。]] |
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名神高速道路では、設計に際し[[日本道路公団]]がドイツから道路計画の技術専門家である[[フランツ・クサーヴァー・ドルシュ]]、アメリカからは土質、舗装の専門家としてポール・ソレデンガーを雇って、この両名の指導の下で高速道路の計画設計がなされており、これに引き続く東名高速建設においても両名が顧問を務めた{{sfn|武部健一|2015|pp=191-194|ps=、「クサヘル・ドルシュ」より}}{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|pp=10-11}}。 |
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東名は名神の設計を基本としながらも、幾つかの改良を加えている。名神では線形が栗東以西と以東で異なっており、早期に開通した西部が直線主体、それより遅く開通した東部が曲線主体であるが、これはドルシュの影響である{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=152}}。東名では、直線をほとんど用いず、曲線主体である。その比率は東名の総延長346.7 kmのうちの330.7 kmに達し、95.5パーセントとなっている。名神の約57パーセントと比較しても、東名の曲線の多さが際立っている{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=229}}。曲線への移行の背景として、ドライバーに緊張を持続させる意図がある{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=152}}。直線道路は単調であり、ドライバーの疲労感を高めて距離の目測を誤らせ{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=154}}、ひいては眠気さえ催すにことが経験的に実証されていることから、適度な刺激としてのカーブや勾配が必要となる{{sfn|池上雅夫|1969|p=24}}。また、曲線主体とすることは、線形設計の自由度が高められ{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=152}}、用地取得においても建設費用にとっても望ましいものとなる{{sfn|池上雅夫|1969|p=40}}。 |
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曲線は平面線形と縦断(坂の上り下り)線形に用いられたが、2つはそれぞれ独立したものではなく、立体的に組み合わさったものである{{sfn|池上雅夫|1969|p=47}}。設計段階で2つを組み合わせ、運転席から見たのと同様の三次元の立体像として捉えたのが透視図で、ドルシュは名神建設に際してこの透視図の効用を説いたが、道路の設計に利用され始めたのは東名と中央道からである{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=155}}。東名では透視図の作成に電子計算機を使用し、東名全域にわたって100 - 200 m毎に透視図を作成のうえ、問題箇所について再検討する手法を採った{{sfn|池上雅夫|1969|p=49}}。平面線形、あるいは縦断線形だけを見た場合、円、[[クロソイド曲線]]、直線を入れて完璧な線形に見えても、ドライバー目線の立体的な視点から前方の道路を見たとき、道路が途切れて見えたり、先の道路形状が不明で運転予測が立てづらく、ドライバーの心理を不安に陥れることがある{{sfn|池上雅夫|1969|pp=50-54}}。2次元ではわからない欠点を3次元の透視図で洗い出し、それによって2次元の図に修正を加えて完成度を上げた。 |
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東名において最も急な勾配は、大井松田IC - 御殿場IC間の内、滝沢橋から[[東名皆瀬川橋]]に至る約2 km区間に挿入された5パーセント(100 mの間に5 mの高低差)である。当初は、急な当該区間の高低差(約15 km区間を標高差約190 m)を、地形になじませつつ、神奈川県から静岡県の県境に向けてゆるやかに上ることが計画されていた。しかし、延長約1,670 mの都夫良野トンネルの工事から出る湧水を考慮して、トンネルの中央付近を縦断曲線の頂点になるよう計画を変更した。これにより水はトンネルの両口へと分散して流出するが、ここで問題が出た。トンネル位置を高くしたことによって、県境に向けて緩やかに上るという当初方針を崩さざるを得なくなり、そのしわ寄せがどこかに向かうことになった。結局、都夫良野トンネルから見て大井松田IC側、滝沢橋と皆瀬川橋間の約2 km区間がその無理を引き受け、緩やかな勾配が一転、東名最大の5パーセントとなった{{sfn|池上雅夫|1969|p=159}}。後年、新東名の走行性解説のために、東名の最大勾配と比べて新東名は2パーセントという比較が行われたが{{sfn|中日本高速道路(株)建設事業本部|2012|p=34}}、その比較元となったのが本区間である。 |
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| image1 = E1 Tomei Expwy 20211002C.jpg |
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| caption1 = 高速走行を前提とする東名では、縦断線形と平面線形の組み合わせによるドライバー視点に立った、安全、快適な線形設計がなされた。予測の立てづらい線形、緩やかなカーブに突然急カーブが現れるなどの危険な設計は慎んだ{{sfn|早生隆彦|1969|pp=30-31}}。 |
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| image2 = Tomei-Hamanako Bridge.jpg |
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| caption2 = S曲線と横断勾配が取り入れられた浜名湖橋。 |
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| image3 = Yubure, Yamakita, Ashigarakami District, Kanagawa Prefecture 258-0123, Japan - panoramio (1).jpg |
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| caption3 = 東名酒匂川橋。曲線半径700 mと400 mのカーブに加え、カーブの前後にクロソイド曲線が4つ入る複雑な線形から成る。画像はパラメーター220 mのクロソイド曲線を経て、曲線半径400 mのカーブに差し掛かる場面{{sfn|池上雅夫|1969|pp=163-164}}。 |
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路線の95パーセント以上に曲線が取り入れられたことは、路線を構成する橋梁にも曲線橋が多用されたことを意味する。平面曲線を描く過程で橋があるなら、橋にも曲線が取り入れられ、勾配の過程にあれば橋にも高低差を取り入れた{{sfn|池上雅夫|1969|pp=109-110}}。その中でも規模の大きい曲線橋としては、東名酒匂川橋、浜名湖橋、富士川橋がある。中でも浜名湖橋は[[カント (路線)|横断勾配]]6パーセントから、S曲線を描いてマイナス4パーセントに移行することで、橋全体がねじれた構造となっている{{sfn|池上雅夫|1969|p=110}}。富士川橋の場合は、クロソイド曲線が入るうえに、勾配も入り、高低差でいえば、名古屋側25 m、東京側11 mと橋の前後で14 mの差がある{{sfn|池上雅夫|1969|p=110}}。東名酒匂川橋の場合、2箇所の曲線半径と、それを挟み込む4箇所のクロソイド曲線で構成され、このうちの一箇所は曲線半径400 mという急カーブである{{sfn|池上雅夫|1969|p=163}}。 |
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インターチェンジは21箇所を計画した。設計の基本としたことは、有料道路という建前から、管理業務の容易さを考慮して、料金所を1箇所に集約できるトランペット型を採用したことである{{sfn|池上雅夫|1969|pp=95-96}}。あらかじめ割り出した出入り交通量を踏まえ、インターチェンジ、接続する一般道路、両者の合計のそれぞれの基準量を設定し、設計時点、あるいは将来その基準量に達すると見込まれる場合は、一般道路との接続も立体交差としたダブルトランペット、また15年以内に達すると見込まれる場合はダブルトランペットの用地を確保したシングルトランペットとした{{sfn|池上雅夫|1969|pp=96-97}}。例外的に、東京インターチェンジは料金所が本線料金所であることからダイヤモンド型が採用されている{{sfn|池上雅夫|1969|p=96}}。曲線半径35 m(最小値)、設計速度40 km/hという急曲線のトランペット型が採用できるのは、接続先が低速走行の一般道路だからである{{sfn|池上雅夫|1969|p=97}}。これに対して、高速道路同士を直接接続するジャンクションでは高速で円滑に連絡できるように比較的緩いカーブが計画された{{sfn|池上雅夫|1969|pp=97-98}}。なお、開通時点で全てのジャンクションは未供用であったため{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=800(綴じ込み:東名高速道路路線図)}}、砧ジャンクションと小牧ジャンクションは設計にとどまっている{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|pp=162-163}}。 |
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インターチェンジの建設には莫大な費用がかかり、設計時点の物価では最低数億円、横浜インターチェンジ(現・横浜町田IC)で13億円である。よって、その投資に見合うだけの需要が建設場所になければならないことから、交通量の調査と共に、交通発着の度合いが高いところを見極め、そこをインターチェンジ設置の目安とした{{sfn|池上雅夫|1969|pp=10-11}}。インターチェンジ名称は地元要望が入り乱れたこともあって議論となった。川崎は[[第三京浜道路]]に同名のICがあることから「東名川崎」、松田は松田町がICの中心にありながら大井町の要望が強いため「大井松田」、富士は当初は「吉原」を称したが、吉原市と富士市の合併によって富士市になったことで自動的に「富士」となった{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=161}}。東京は将来的に東北道や常磐道の東京側の入口名称をどうするか、という問題があって、「東京世田谷」、「東京環8」の候補が挙がったが立ち消えとなった{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|pp=160-161}}。 |
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==== 資金計画 ==== |
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敗戦後の日本は極端に税収が少なく、税金だけで高速道路を造ることは不可能であった。そこでアメリカに倣って、道路の建設は借入金で賄うことで税収不足を補い、返済方法は道路を有料にしたうえで、通行料金収入で返済にあてる方法が画策された。道路とは本来公共物であるから、税金で造って無料で通行できる類いのものである。それを有料にして通行料金を取るというのは、当時は画期的なことであった。こうした道路造りの方法として日本道路公団が発足したのであるが、名神、東名、中央道の公団による建設は、税収の少ない当時の日本において選択しうる唯一の方法であった{{sfn|NHK報道局「道路公団」取材班 |2005|pp=46-49}}。よって、東名は当初から有料道路として計画され、それを日本道路公団が建設し、開通後の料金収入で借入金を返済することになった{{sfn|NHK報道局「道路公団」取材班 |2005|pp=116-117}}。 |
敗戦後の日本は極端に税収が少なく、税金だけで高速道路を造ることは不可能であった。そこでアメリカに倣って、道路の建設は借入金で賄うことで税収不足を補い、返済方法は道路を有料にしたうえで、通行料金収入で返済にあてる方法が画策された。道路とは本来公共物であるから、税金で造って無料で通行できる類いのものである。それを有料にして通行料金を取るというのは、当時は画期的なことであった。こうした道路造りの方法として日本道路公団が発足したのであるが、名神、東名、中央道の公団による建設は、税収の少ない当時の日本において選択しうる唯一の方法であった{{sfn|NHK報道局「道路公団」取材班 |2005|pp=46-49}}。よって、東名は当初から有料道路として計画され、それを日本道路公団が建設し、開通後の料金収入で借入金を返済することになった{{sfn|NHK報道局「道路公団」取材班 |2005|pp=116-117}}。 |
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東名の概算事業費は3,425億円で発足した。これは、東名全線開通における総事業費3,425億円と同額であり、これほどの大規模工事でありながら、予算枠内で出費を抑えることに成功している{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=438}}。この3,425億円という事業費に対し、1962年度(昭和37年度)における国全体の総道路投資額は約4,000億円であったことからも、東名における事業規模の大きさが解る{{sfn|千田洋一 |1999|p=41}}。1 km当たりの工事費は9.8億円で、これをアメリカの2.25億円、西ドイツの3.5億円、フランスの1.8億円と比べると約3倍となっている。これは日本の特殊事情から来るもので、地質が軟弱地盤、平地面積に比べて山地 |
東名の概算事業費は3,425億円で発足した。これは、東名全線開通における総事業費3,425億円と同額であり、これほどの大規模工事でありながら、予算枠内で出費を抑えることに成功している{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=438}}。この3,425億円という事業費に対し、1962年度(昭和37年度)における国全体の総道路投資額は約4,000億円であったことからも、東名における事業規模の大きさが解る{{sfn|千田洋一 |1999|p=41}}。1 km当たりの工事費は9.8億円で、これをアメリカの2.25億円、西ドイツの3.5億円、フランスの1.8億円と比べると約3倍となっている。これは日本の特殊事情から来るもので、地質が軟弱地盤、平地面積に比べて山地が多い、人口密度が高く土地利用が高度化している事が費用の増加要因として挙げられる{{sfn|浅井新一郎 |1967|p=35}}。 |
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日本道路公団はこの巨額な資金調達に対して、名神に引き続いて[[国際復興開発銀行]]([[世界銀行]])の借款を強く要望した。これは公団が施行するほかの道路建設計画と合わせると、政府の予算、[[財政投融資]]計画による限度一杯の投資を行ってもなお資金不足に見舞われるためである{{sfn|日本道路公団総務部|1976|p=123}}。 |
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建設資金は東名建設前の見立てでは、名神の2倍(2,442億円)は必要との見地から、日本道路公団はこの巨額な資金調達を名神に引き続いて[[国際復興開発銀行]]([[世界銀行]])からの借款によることを強く要望した{{sfn|高速道路五十年史編集委員会|2016|p=43}}。1962年(昭和37年)12月に、大蔵大臣の[[田中角栄]]が渡米し、世界銀行総裁と会談した結果、事業費7,500億ドルの借款(名神に続くことから{{sfn|高速道路五十年史編集委員会|2016|p=26}}第3次借款)に成功した。続いて、豊川 - 小牧間の第4次借款5,000万ドル、静岡 - 豊川間の第5次借款7,500万ドル、東京 - 静岡間の6次借款1億ドルと全部で4次に渡って借り入れ、合計3億ドル(1ドル=360円の[[固定相場制]]、1,080億円)を賄った{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=24}}{{sfn|高速道路五十年史編集委員会|2016|p=43}}。従って、東名の総建設費用の32パーセントを外貨に依存したことになる。名神の外貨依存率が約25パーセントであるから、東名においては建設費の財源としてより大きな割合を占めることになった{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|pp=28-29}}。この借入金は、道路債権に比べて長期かつ低利(償還期間15 - 26年、利率5.5 - 6.625パーセント)であることから、建設費の金利負担の軽減に寄与した{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=26}}。なお、世界銀行以外の借入では、政府出資金(資本金)、道路債権、産業投資特別会計借入金がある{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=24}}。 |
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1962年(昭和37年)12月に大蔵大臣の[[田中角栄]]が渡米し、世界銀行総裁と会談した結果、事業費7,500万ドルの借款(名神に続くことから{{sfn|高速道路五十年史編集委員会|2016|p=26}}第3次借款)に成功した。続いて、豊川 - 小牧間の第4次借款5,000万ドル、静岡 - 豊川間の第5次借款7,500万ドル、東京 - 静岡間の6次借款1億ドルと全部で4次に渡って借り入れ、合計3億ドル(1ドル=360円の[[固定相場制]]、1,080億円)を賄った{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=24}}{{sfn|高速道路五十年史編集委員会|2016|p=43}}。従って、東名の総建設費用の32パーセントを外貨に依存したことになる。名神の外貨依存率が約25パーセントであるから、東名においては建設費の財源としてより大きな割合を占めることになった{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|pp=28-29}}。この借入金は、道路債権に比べて長期かつ低利(償還期間15 - 26年、利率5.5 - 6.625パーセント)であることから、建設費の金利負担の軽減に寄与した{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=26}}。なお、世界銀行以外の借入では、政府出資金(資本金)、道路債権、産業投資特別会計借入金がある{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=24}}。 |
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東名は名神同様、建設資金の関係から通行料金の徴収を行い、完成後20年を目処に建設資金を償還しうるものとされた{{sfn|池上雅夫|1969|p=5}}。通行料金の設定は名神を参考としたが、名神の考え方を東名にそのまま当てはめることは適正でないことから、学識経験者の意見を元に検討した{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=38}}。その結果、長距離てい減制、画一料率制、車種区分などの議論がなされた{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=40}}。 |
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この内の画一料率制とは、同じ高速自動車国道である名神、東名、中央道で料率が異なるのは不合理であることを理由として導入された。これは、それぞれ異なる路線であっても、各路線のサービスはほぼ同質であり、経営主体が同一であることによっている{{sfn|大久保正行(1995-05)|1995|p=39}}。この画一料率制を基礎として、対距離制で料金徴収することとした{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=46}}。なお、制定当時の料率は普通車の場合、1 kmで9.5円、東京 - 横浜間は2割増(後述)の11.4円であった{{sfn|高速道路五十年史編集委員会|2016|p=46}}。 |
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また、長距離利用を促進するために該当利用者の負担を軽減する「長距離てい減制」を導入することとしたが、そこへ大蔵省(現・財務省)が横やりを入れた。大都市では建設費が著しく高く(東名の1 kmあたり建設費9.9億円対して大都市近郊は15億円を要した{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=53}})、東名利用者の利便性が大きいことから、東京 - 厚木間については他区間よりも割高に設定することを要求した。これに対して建設省は、1 kmあたり建設費が15億円以上であることを基準として、東京 - 横浜間のみに適用することを主張して両者は鋭く対立した。大蔵省は他にも、富士 - 焼津間についても要求したが、最終的に東京 - 横浜間のみ割高として{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=42}}、1 kmあたり20パーセント増しとした{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=53}}。一方のてい減率については、走行距離100 kmを超えると交通量が激減するというデータから、100 km以上の交通を対象として、1 kmあたり25パーセントの割引率を導入することになった{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=48}}。これらは1969年(昭和44年)3月17日認可、同月31日より施行された。なお、施行以前は名神とほぼ同様の暫定料金で運用することとした{{sfn|高速道路五十年史編集委員会|2016|p=51}}。 |
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このように画一料率制が採用されたが、料金プランには全国プール制も候補に挙がっていた{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|pp=40-42}}。全国プール制とは、通行料金収入を今後全国的に建設される高速道路の建設管理費にあてる方式で、ゆえに通行料金と償還期限は全国一律となる。名神開通以前から日本道路公団は一般有料道路を多数建設し、それは個別採算性のために料金も各々異なれば償還期限も異なった{{sfn|大久保正行(1995-05)|1995|p=37}}。これに倣い、名神、東名、中央道でも一般有料道路と同じ方式で出発したことが後年、高速道路に全国プール制を採用し、その後の相次ぐ通行料金の値上げに踏み切ったことが論議になった。とりわけ、高収益を上げる名神、東名の通過自治体や利用者からは不満の声が上がった。つまり、建設費の大部分を償還するほどの通行料金を支払っているにもかかわらず、その収入が不採算路線の穴埋めに利用されているという不満である{{sfn|大久保正行(1995-06)|1995|p=35}}。しかし、全国プール制であればこそ、通行量の少ない地方の高速道路も高額な通行料金を支払わずに済み、全国一律の通行料金とサービスが提供可能であることを指して、のちの日本道路公団総裁の[[鈴木道雄 (建設事務次官)|鈴木道雄]]は、最初から全国プール制であれば、これほどの論議を呼ばなかったと語っている{{sfn|岡野行秀・鈴木道雄|1995|p=17}}。しかし、名神、東名、中央道で採用された画一料率制は、3道路の料率を統一するという点で、やがて採用される全国プール制の先駆けとなる制度でもあった{{sfn|大久保正行(1995-05)|1995|p=39}}。 |
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[[File:E1 Tomei Expwy 20211003A.jpg|thumb|連続するオーバーブリッジ。地元要望と予算の板挟みにあいながらその数を決定した。]] |
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建設費を抑えるために東名では様々な試みがされており、オーバーブリッジ([[跨道橋]])もその例外ではない。東名ではオーバーブリッジが284橋ある{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=535}}。一橋につき、当時の費用で500万円、あるいは1,000万円を要する。多すぎるともとれるオーバーブリッジを整理統合すれば建設費用を抑えることができる。実際、利用頻度の少ない橋も存在するが、住民側の希望として、これまであった横断道路は一本たりとも失いたくないという希望があって、公団としては予算と地元の板挟みにあいながら、交渉を重ねたうえでの妥協の産物が284という橋の数となった{{sfn|武田文夫|1968|pp=161-162}}。 |
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==== 建設 ==== |
==== 建設 ==== |
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東名は名神の経験の上に立って建設された。名神に対して施工延長は約2倍、事業費においては約3倍であるにもかかわらず名神より1年短い工期で完工したのは、機械施工における一層の効率化が図られた結果であるが、それ以外にも公団職員から請負業者に至るまで、元旦以外は休日を返上しての突貫工事を行い、特に造園業者は開通5日前から殆ど徹夜作業で仕事に臨んだことも工期短縮の一要因であった{{sfn|高速道路五十年史編集委員会|2016|p=46}}。 |
東名は名神の経験の上に立って建設された。名神に対して施工延長は約2倍、事業費においては約3倍であるにもかかわらず名神より1年短い工期で完工したのは、機械施工における一層の効率化が図られた結果であるが、それ以外にも公団職員から請負業者に至るまで、元旦以外は休日を返上しての突貫工事を行い、特に造園業者は開通5日前から殆ど徹夜作業で仕事に臨んだことも工期短縮の一要因であった{{sfn|高速道路五十年史編集委員会|2016|p=46}}。 |
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東名の建設では、携わった者は延べ2,170万人で{{sfn|池上雅夫|1969|p=22}}、この数は土木建設のみならず、電気、通信、照明、植栽等の関連工事も含み、日本の主要な建設会社、メーカーのほとんどが工事に参加しているためである{{sfn|池上雅夫|1969|p=22}}。 |
東名の建設では、携わった者は延べ2,170万人で{{sfn|池上雅夫|1969|p=22}}、この数は土木建設のみならず、電気、通信、照明、植栽等の関連工事も含み、日本の主要な建設会社、メーカーのほとんどが工事に参加しているためである{{sfn|池上雅夫|1969|p=22}}。このうち、犠牲者数は79人であった<ref name="朝日19690419">{{Cite news |title=来月26日に全面開通 東京 - 小牧間346.4キロ 大阪まで直通7時間 |newspaper=朝日新聞(東京)朝刊|date=1969-04-19|page=15}}</ref>。 |
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=== 国幹道法への組替え === |
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名神ではそれまで日本で行われた道路工事と異なって、全く予想しなかった大工事となって、膨大な土の量を短期間で処理する必要に迫られたことから勢い建設機械も大型化した。この大型機械の使用がその後の道路建設のあり方を大きく変えることになり、それは東名においても継承された{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=438}}。 |
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建設も始まってからほどなくして、議員立法として成立した東海道幹線自動車国道建設法が1966年(昭和41年)7月1日をもって廃止され{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=12}}、代替の[[s:国土開発幹線自動車道建設法|国土開発幹線自動車道建設法]](国幹道法)の予定路線に組入れられて、全国高速道路ネットワーク7,600 kmを構成する道路の一部となった{{sfn|日本道路協会|1997|p=544}}{{sfn|太田和博|2020|p=51}}。 |
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組替えに際し、法定路線名が従来の「高速自動車国道東海道幹線自動車国道」から「'''高速自動車国道東海自動車道'''」に変更された{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=15}}。 |
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東名の土工区間における難題は[[関東ローム層]]と軟弱地盤に代表される{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=83}}。関東ローム層は東京都、神奈川県の通過地域に多い地層である。何十万年前からの古富士山と箱根火山による噴火の繰り返しと噴出物、その上に、富士山と愛鷹火山の噴火によって、さらなる噴出物が発生し、それが偏西風に乗って東へ運ばれ、降り積もって出来た火山灰の層である。この層は海進と海退、隆起と沈下を繰り返し、時には陸地、時には海底となりながらも、新たに運ばれてくる火山灰によってさらなる堆積を繰り返した。そこへ雨が降るなどして火山灰は何万年にも亘って水を含み続け、非常に含水比の高い地質となった{{sfn|池上雅夫|1969|pp=71-72}}。土に含まれている水の量の割合を含水比と呼ぶが、その割合が高いほど工事は難航する。よって、関東ロームや軟弱地盤における工事は、陸地における土を相手にした工事でありながら、その実は水との戦いでもあった{{sfn|池上雅夫|1969|pp=63-64}}。関東ローム層は東京 - 松田、沼津 - 富士間に連なり、この膨大な土を改良することなど不可能である{{sfn|池上雅夫|1969|p=75}}。盛土作業は、その上をダンプトラック、ブルドーザー、[[ロードローラー]]などが往復し、これが柔らかいロームにおいては、それらの建設機械が土にめりこんで作業が困難となる。こうした建設機械の施工対策が上記区間における主だった工事内容であった{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|pp=208-209}}。また、工事の終わったロームは何年もかけて大きい力で押さえつけると、土粒子同士の結合が次第にほぐれ、空隙の水も抜けてやがて圧縮されていく。これによって盛土の表面が少しずつ沈下していくことは、東名の路面が陥没、変形の危険にさらされることである{{sfn|池上雅夫|1969|p=74}}。こうしたことから、盛土中に含まれる水を抜く必要があり、それもまた工事における対策の一つであった{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=209}}。軟弱地盤は含水比1000パーセントという事例があり{{sfn|池上雅夫|1969|p=64}}、それは泥といっても過言ではなく、東名の建設地にはこうした軟弱地盤が約30 km分布している{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=209}}。軟弱地盤上に道路が外圧として加わった場合、道路そのものが数年という時間をかけて沈下する{{sfn|池上雅夫|1969|pp=78-79}}。よって、工事において計画より高く土を盛り付け、その重みで沈下を促進させ、開通前には沈下を終わらせるなどの対策が採られた{{sfn|公益財団法人高速道路調査会(1968-9)|1968|pp=100-101}}。 |
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=== 開通後 === |
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路線に占める橋梁の割合は約15パーセント(52.5 km)で、自動車走行上あまりよくない下路橋(通路が構造物の下にある橋)は採用せず、全て上路橋を採用した{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=228}}。しかも、カーブに溶け込ませているために、走行中の自動車から見た場合、土工区間の走行とさして変わらない印象を受ける{{sfn|池上雅夫|1969|pp=109-110}}。カーブを描く上路橋で特徴的なのが東名酒匂川橋で、橋桁にはトラスを使用し、支間中央部でトラスを折り曲げ、橋脚部でトラスの方向を変えることの組み合わせで曲線を形造っている。この2,600トンのトラスを迅速に吊上げて組上げることが、東名全線開通予定の1969年(昭和44年)5月に間に合うかどうかの分かれ目となった。なお、橋脚の基礎の掘削もスケジュール面で大変危うく、酒匂川の出水期(6月から9月)までに基礎の構築を終わらせる必要があったが、火山灰に阻まれて岩盤まで到達するのに予想以上の期間を要した{{sfn|池上雅夫|1969|pp=164-166}}。橋脚の高さは65 mで、当時日本一の高さを誇ったが、将来、こうした高いコンクリート橋脚を建設する上で貴重な設計資料を提供するために、国内3例目となる[[ロケット]]を使った橋脚の振動実験を行った。橋脚1基に推力5トンのロケットを横向きに固定した形で約1秒間、大音響をとどろかせながら噴射した{{sfn|公益財団法人高速道路調査会(1968-9)|1969|p=100}}。 |
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東名は東京IC - 小牧IC間346.7 kmを4次の部分開通に分けて全線開通に至った。1次が1968年(昭和43年)4月で、東京IC - 厚木IC間(35 km)、富士IC - 静岡IC間(40.3 km)、岡崎IC - 小牧IC間(53.3 km)の3区間である{{sfn|高速道路五十年史編集委員会|2016|p=50}}。この内、東京 - 厚木間は都市間高速道路としては初めての6車線道路である{{sfn|日本道路公団広報課|1968|p=72}}。当該区間を優先的に開通させたのは、並行する国道1号の内でもっとも混雑の激しい地区だからである{{sfn|日本道路公団広報課|1968|p=72}}。開通後、静岡 - 富士間(約60 km)の国道1号の混雑は、直近で2時間を要したものが、東名開通後は目に見えて減少し、従来の1時間に逆戻りした{{sfn|池上雅夫|1969|pp=9-10}}。 |
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続いて2次が1969年(昭和44年)2月の静岡IC - 岡崎IC間(131.6 km)、3次が同年3月の厚木IC - 大井松田IC間(22.9 km)、御殿場IC - 富士IC間(37.8 km)である{{sfn|高速道路五十年史編集委員会|2016|p=50}}。最後となった4次の大井松田IC - 御殿場IC間(25.8 km)では、足柄SAで記念式典が行われた{{sfn|杉田美昭|1994|p=14}}。1969年(昭和44年)5月26日、式典会場には名神の建設以来、調査や技術指導に当たったワトキンス、ドルシュ、ソレデンガーの3名も出席し、式典後に担当者が3人を乗せて東名、名神の全線を走破した{{sfn|武部健一|2009|p=11}}。 |
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[[File:Tomei YAMATO TN west.jpg|thumb|大和トンネル。軍用飛行機の滑走から東名を守るために設けられた。]] |
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橋梁に対してトンネルの占める割合は2.5パーセント(8.8 km)で{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=22}}、そのほとんどが山岳区間に設けられた。例外は[[厚木海軍飛行場]]の北辺に掘られた[[大和トンネル]]である{{sfn|池上雅夫|1969|p=132}}。この区間は元々は地上を通過する予定であった。しかし、この付近でジェット機が墜落し、これを重大視した[[防衛施設庁]]が東名のルート変更を求めてきた。公団は不可能との回答を行ったが、再度の要請により応じることにした。ただし、路線の移動は不可能であるため、路線縦断を航空管制の制限高さよりも低くすることで対応した。次いで、事故の型をいかに考えるかで、まず、軍用飛行機が直接東名に墜落する場合は対策のとりようがないため、二次的に発生する事故について対策することになった。すなわち、墜落または失速した軍用機が滑走して起こる事故対策である。方法としては、東名を[[切土]]にして、その上に蓋を取り付けて平地の状態に戻す方法が考案された。これが大和トンネルである。なお、基地周辺の盛土区間についても、こうした滑走から防護するために、路線の両側に堤防を築いた{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|pp=617-618}}。トンネル構造は付近の地盤支持力が低いことから軽量化が大前提となったことで、相応の構造が採用された{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|pp=618-619}}。 |
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開通により、東京 - 名古屋間の移動が従来の国道1号で約9時間半を要したものが、開通後は5時間弱と概ね半減した{{sfn|中日本高速道路株式会社|2019|p=5}}。また、総工費3,425億円は、1968年(昭和43年)の第1次開通から数えて23年目(1990年)に償還する計画とされ{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|pp=53-54}}、これは予定通り、1990年(平成2年)7月に完了した{{sfn|太田和博 |2020|p=85}}{{sfn|NHK報道局「道路公団」取材班 |2005|p=109}}。 |
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これ以外のトンネルは典型的な半円形である。鉄道トンネルでは必要のない照明や換気設備が必要であるため、断面は東海道新幹線の2.5倍、しかもそれを上下線に分離して二本掘る必要がある{{sfn|池上雅夫|1969|pp=130-131}}。当時、往復四車線断面で掘ることは難しく、工費も小断面2本掘るよりも割高になるためである{{sfn|池上雅夫|1969|p=132}}。しかしながら、小断面とはいえ、地上区間に比べて二、三倍の費用であり、照明や自動車から排出される一酸化炭素を抜く換気設備を設けることによる維持費もかさむ。だが、用地買収を必要とせず、路線線形を滑らかに出来るメリットもあり{{sfn|池上雅夫|1969|pp=131-132}}、トンネルの採用不採用については、それをよく吟味した上で決定した旨は、既に路線選定節で解説している。東名では11の山岳トンネル{{efn|大和トンネルを含めれば東名のトンネル数は12{{sfn|池上雅夫|1969|p=131}}。}}が設けられ{{sfn|池上雅夫|1969|p=131}}、静岡市より東側が岩質が悪く、相当量の[[湧水]]があると予想され、西側が比較的良好な岩質であることで、東西でトンネルの掘削工法をそれぞれ異なるものとした{{sfn|池上雅夫|1969|pp=134-135}}。つまり、東側(都夫良野トンネルから袖帥トンネルまでの7トンネル)に多い岩質の悪い所は、トンネル断面よりも小さい孔を先に掘り進め、地質を一々確認しながら通常断面に拡大していく工法を主として採用した。この場合、万が一、湧水にあっても、この小さな孔([[トンネル#本坑と先進坑|先進導坑]])を排水溝として使えるメリットがあるが、欠点としては、工期が長期化して工費も高くなる{{sfn|池上雅夫|1969|p=135}}。一方で西側(日本坂トンネルから宇利トンネルまでの4トンネル)は先進導坑を掘らず、いきなり大断面の掘削に着手する「上部半断面先進工法」を主として採用した。この方式は工期が短く、工費も安いことが特徴である{{sfn|池上雅夫|1969|p=135}}。こうした二つの異なる工法を一つのトンネルに用いて掘削したのが[[日本坂トンネル]]であった。 |
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{{double image aside|right|Tomei Tokyo IC.JPG|200|Ikejiri Onranp1.JPG|193|画像左 : 東京IC付近。奥が首都高速3号渋谷線への連絡路。<br>画像右 : 世田谷区内の玉川通り。東名開通後も3号渋谷線は建設途上で、加えて道路直下の東急新玉川線(現・[[東急田園都市線]])の建設工事とも絡んで<ref name="朝日19690523">{{Cite news |title=その先は知らないよ さばき切れぬ流れ 高速3号外郭環状 改良はまだ先の話 |newspaper=朝日新聞(東京)朝刊|date=1969-05-23|page=1}}</ref>東名開通後暫くは渋滞に悩まされ、都心から東京ICまで1時間近くを要した<ref name="朝日19711221夕"/>。}} |
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[[File:Nihonzaka-nobori-right-route.jpg|thumb|日本坂トンネル。]] |
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開通直後の東京ICは東名のみの起終点で、東京都心と東京ICの連絡は[[東京都道311号環状八号線]](環八通り)を経て国道246号(玉川通り)で連絡した。このため、都市内交通と東名利用の交通が錯綜することで、玉川通りで大渋滞が発生し、都心と東京ICの連絡に一時間を要した<ref name="朝日19711221夕">{{Cite news |title=交通マヒまた心配 首都高速と東名ドッキング |newspaper=朝日新聞(東京)夕刊|date=1971-12-21|page=8}}</ref>。都心と東名をつなぐ交通は当初から[[首都高速3号渋谷線]]が考慮されたが{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=62}}、東名との同時供用はならなかった。この間、首都高速の利用台数は上昇を続け、やがて限界を超えて渋滞が常態化した。この対策として出入口の閉鎖も日常化していたところへ<ref name="朝日19711221">{{Cite news |title=成田⇄明石を高速で だが心配な事故・渋滞 東名・首都きょう連結 |newspaper=朝日新聞(東京)朝刊|date=1971-12-21|page=19}}</ref>、いよいよ1971年(昭和46年)12月21日に三宅坂 - 用賀間の開通により東名と接続した。これまで首都高速単体で渋滞が発生していたところへ、東名からの交通がなだれ込むことでさらなる首都高速の逼迫を関係者は心配したが<ref name="朝日19711221夕"/>、その不安は的中した。 |
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日本坂トンネルが貫通する山は、岩自体は堅硬であったが、新幹線工事記録で見られるように、案外水が多い山と予想された{{sfn|池上雅夫|1969|pp=139-140}}。延長約2,000 mのこのトンネルは、東側と西側から分けて掘削された。東側が先進導坑を掘るもので、西側が先進導坑を掘らない上部半断面掘削方式である。同じ山の掘削にもかかわらず違いが出た理由は、それぞれの会社の手持ちの機械、安全施工、経済性などの考え方が一致しなかったためである{{sfn|池上雅夫|1969|p=141}}。湧水が予想されたにもかかわらず上部半断面掘削方式が採用されたのは、多少の[[断層#断層の内部構造|破砕帯]]があっても岩は硬く、良好な山と判断されたからである{{sfn|池上雅夫|1969|pp=140-142}}。 |
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接続初日で東名からの交通が[[用賀本線料金所]]で大渋滞となり、他にも首都高速都心環状線と3号渋谷線の合流地点で2 km、都心環状線各所でも3 kmの渋滞に及んだ。これにより、[[三軒茶屋出入口|三軒茶屋]]、[[渋谷出入口|渋谷]]の各ランプで閉鎖を行って丸く収めたが、それでもこの日は平日午後で、これが出勤時間帯や行楽期では到底さばききれないと関係者は危機感を募らせたという<ref name="朝日19711222">{{Cite news |title=初日の混み方まずまずだが・・・東名と首都高速の握手 |newspaper=朝日新聞(東京)朝刊|date=1971-12-22|page=18}}</ref>。なお、首都高速と都市間高速の連結はこれが最初の事例となり、以後、中央道、[[常磐自動車道|常磐道]]、[[東北自動車道|東北道]]との連結に至ることで、都心の幹線街路の補助的な役割を期された首都高速が、その性格を変えて国土全体の高速道路網のなかでも重要な役割を担うことになった<ref name="朝日19711221夕"/>。この連結によって千葉県の[[成田市|成田]]手前と、兵庫県[[明石市]]が一般道路を経由せずに結ばれたことで、「神戸のドライバーもことしの初もうでは高速を飛ばして成田山へ」というキャッチコピーが連結に際して採用された<ref name="朝日19711221"/>。 |
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先進導坑であらかじめ水が抜かれている東側は特に問題もなく工事が進んだが、西側は上り線坑口から約670 m掘り進んだところで突如として驚異的な大湧水が噴き出した。前触れはあった。その前日、並行する下り線トンネルで毎分約6トンの湧水が発生し、これでは上り線も悪い地質に遭遇するであろうと考えられたからである。このため、支保工の間隔を縮めながら建て込んで掘削したが、無駄であった。前日の湧水を遙かに凌ぐ、毎分約180トン(秒換算3トン)の水が吹き出たことで、労務者達は一目散に逃げたことが幸いして、犠牲者は一人も出なかった。鋼製の支保工はなぎ倒され、十数トンという大重量のジャンボー(掘削機械)は10 mも押し流されて土砂に埋まった。世間のニュースにならなかった最大のニュースがこれであった{{sfn|池上雅夫|1969|pp=143-144}}。結果的に湧水量は25日間で45万トンに達し{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=697}}、トンネル史上最大と言われる[[丹那トンネル]]の毎分35トンを上回る大記録となった{{sfn|池上雅夫|1969|p=144}}。水が抜けた部分は、掘削地盤より21 mの高さまで大きく吹き抜ける大空洞ができあがった。落石対策をとりながら空洞をモルタルで埋め{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=697}}、工事を再開、結果的に予定工期よりも二か月早く完成した{{sfn|池上雅夫|1969|p=141}}。 |
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首都高速連結の翌1972年(昭和47年)10月5日、今度は都市間高速道路同士の連結では初となる[[ジャンクション (道路)|ジャンクション]]の運用を開始した。中央自動車道の[[多治見インターチェンジ|多治見IC]] - [[小牧ジャンクション|小牧JCT]]間開通における小牧JCTの開設である{{sfn|高速道路五十年史編集委員会|2016|p=年表15}}。また、1974年(昭和49年)3月26日には[[浜松西インターチェンジ|浜松西IC]]が開通した。これは東名開通前から構想されたICであったが{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=167}}ここに来て設置され、これが供用中高速道路における追加インターチェンジの第一号である{{sfn|高速道路五十年史編集委員会|2016|p=年表18}}。これ以後、1981年(昭和56年)4月25日に秦野中井IC{{sfn|高速道路五十年史編集委員会|2016|p=年表24}}、1988年(昭和63年)3月30日に裾野ICが完成するなど{{sfn|高速道路五十年史編集委員会|2016|p=年表31}}、追加ICの数が増加の一途を辿った。 |
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先進導坑は地盤の確認と水を抜くことが主な目的であるが、それとは違う目的で利用したのが吾妻山トンネルである。延長わずか360 m程度のこのトンネルは、掘削に2年を費やし、延長2,000 mで、大勇水を記録した日本坂トンネルとほぼ同様の工期であった{{sfn|池上雅夫|1969|p=163}}。短距離のトンネルにしてこれほどの工期を要したのは、岩質が極めて悪かったからである。先進導坑を掘ると、人間の頭が入るような隙間が随所にあって、この山に[[ダイナマイト]]で発破をかけようものなら、山ごと崩れ落ちることは目に見えていた。そこで、先進導坑を掘って、ただちにコンクリートを注入して固めることで安全を確保した。よって、導坑というよりは、掘削する前に周りを固めるための手段であった。他にも、地山に10 mから20 mの長いパイプを場所によっては48本打ち込み、そこへセメントミルクを注入して、山とパイプを固めたにもかかわらず、地滑り計にて測定すると、山が一日に20 mm動いていることがわかった。ダイナマイトが使えないことから人の手だけで慎重に掘り進み、しかもこのトンネルは東名皆瀬川橋と連結しているため、トンネル入口の基礎工事とも絡んで、結果的に2年の工期を要することになった{{sfn|池上雅夫|1969|pp=160-163}}。 |
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静岡市内の建設では、工事も始まってから土中に埋没した未発見の遺跡らしきものに遭遇した。調査の結果、戦時下に発見されていた[[登呂遺跡]]の水田跡の一部と判明し{{sfn|堀田典裕|2011|p=74}}、これにより工事が停止したうえに手戻りが発生した。結果的に東名は遺跡を避けるべく一億円近い費用を余計にかけ、ルート変更および盛り土構造の一部を高架構造に変更した{{sfn|武田文夫|1968|pp=160-161}}。 |
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=== 開通 === |
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東名は東京IC - 小牧IC間346.7 kmを4次の部分開通に分けて全線開通に至った。1次が1968年(昭和43年)4月で、東京IC - 厚木IC間(35 km)、富士IC - 静岡IC間(40.3 km)、岡崎IC - 小牧IC間(53.3 km)の3区間である{{sfn|高速道路五十年史編集委員会|2016|p=50}}。当該区間を優先的に開通させたのは、並行する国道1号の内でもっとも混雑の激しい地区だからである{{sfn|日本道路公団広報課|1968|p=72}}。開通後、静岡 - 富士間(約60 km)の国道1号の混雑は、直近で2時間を要したものが、東名開通後は目に見えて減少し、従来の1時間に逆戻りした{{sfn|池上雅夫|1969|pp=9-10}}。 |
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続いて2次が1969年(昭和44年)2月の静岡IC - 岡崎IC間(131.6 km)、3次が同年3月の厚木IC - 大井松田IC間(22.9 km)、御殿場IC - 富士IC間(37.8 km)である{{sfn|高速道路五十年史編集委員会|2016|p=50}}。最後となった4次の大井松田IC - 御殿場IC間(25.8 km)では、足柄SAで記念式典が行われた{{sfn|杉田美昭|1994|p=14}}。1969年(昭和44年)5月26日、式典会場には名神の建設以来、調査や技術指導に当たったワトキンス、ドルシュ、ソレデンガーの3名も出席し、ワトキンスは祝辞で「日本の高速道路は信じがたいほどよい」と言った{{sfn|ラルフ・J・ワトキンス|1969|p=42}}。この日を遡ること約13年前、調査のために来日したワトキンスは、そのレポートで「日本の道路は信じがたいほど悪い」と報告しており、その対局をなす祝辞であった{{sfn|ラルフ・J・ワトキンス|1969|p=42}}。式典後、担当者が3人を乗せて東名、名神の全線を走破した{{sfn|武部健一|2009|p=11}}。 |
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東名は施行命令が下されてから僅か7年という短期間で全線開通に至った{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=31}}。内務省土木局が東京 - 神戸間に的を絞った調査時点(1943年 - 1944年)から足かけ25 - 26年目のことであった{{sfn|高速道路五十年史編集委員会|2016|p=52}}。約350 kmの長きに渡る距離を7年で完工できた背景には、名神建設時に比べて効率性が向上したこともあるが、環境・公害問題、文化財保護運動がまだ表立って叫ばれていない頃の計画であったことも一要因である。東名では地権者と自治体への対応で済まされたが、あとに続く道路では、周辺住民や環境保護団体への対応も加わり、[[圃場整備]]、河川事業、交差道路等について関係機関との協議、調整も複雑化したことから、工期は長期化することになった{{sfn|高速道路五十年史編集委員会|2016|p=64}}。 |
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開通により、東京 - 名古屋間の移動が従来の国道1号で約9時間半を要したものが、開通後は5時間弱と概ね半減した{{sfn|中日本高速道路株式会社|2019|p=5}}。また、総工費3,425億円(工費2,302億円、用地等補填費943億円、その他180億円{{sfn|池上雅夫|1969|p=21}})は、1968年(昭和43年)の第1次開通から数えて23年目(1990年)に償還する計画とされ{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|pp=53-54}}、これは予定通り、1990年(平成2年)7月に完了した{{sfn|太田和博 |2020|p=85}}{{sfn|NHK報道局「道路公団」取材班 |2005|p=109}}。 |
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=== 東海道メガロポリスの形成 === |
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かつてワトキンス調査団はその報告書で、名神においてトラック輸送を活用した様々な経済効果を予測した{{sfn|ワトキンス・レポート45周年記念委員会|2001|pp=44-45}}。しかし、名神が開通しても普通トラックの需要は予測を大きく下回り、主として乗用車主体の利用であって、ゆえに「閑古鳥鳴く観光路線」と皮肉られた{{sfn|武田文夫|1989|p=15}}。ある評論家に至っては「経済発展につながらぬ高速道路という大名道路は、スピード気違いに遊び場を提供しているようなもので、名神高速道路を利用する貨物自動車は予想の2割も通行しておらず、もっぱら観光用である」と述べている{{sfn|道路交通問題研究会|2002|p=174}}。調査団のレポートに期待した道路計画者の胸算用は全く裏切られ、「まぼろしの便益計算」であったと批判された{{sfn|武田文夫|1968|pp=76-77}}。加えて、高速道路の効果そのものに悲観論が唱えられたが、これは折からの東海道新幹線の好成績が、名神の不振とあまりに好対照であったことによった{{sfn|武田文夫|1968|p=78}}。 |
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昭和30年代は[[モータリゼーション]]の進展の時代と言われる。しかし、それは厳密には貨物自動車による貨物輸送のモータリゼーションであって、乗用車のそれではない。名神開通直前の日本の乗用車と貨物自動車の比率は1 : 3と少なく、乗用車と貨物車の比率が逆転するのは1971年(昭和46年)である{{sfn|道路交通問題研究会|2002|p=309}}。名神はその貨物を当て込んだ高速道路であったが、利用が見込みを大幅に下回り、かえって当時少なかった乗用車の利用が目立つ結果となった。貨物利用が見込みを下回った原因の一つが料率が高額であったことによった。この問題は国会を巻き込んで議論され、普通貨物自動車の料率を11.5円から9.5円に引き下げることで決着を見て、1966年(昭和41年)4月から施行された{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=38}}。これにより、トラック需要が増加傾向を示し、1967年(昭和42年)からは当初の予想交通量を上回り始め、ここに調査団の便益計算がいよいよ現実化してきた{{sfn|武田文夫|1968|p=77}}{{sfn|武田文夫|1968|p=89}}。それでも普通トラックの需要はまだ予想を下回ったが、その理由の一つに、名神のみの開通ではいかにも中途半端で、小牧で東名と直結することではじめて物流の効果が発揮されると考えられた{{sfn|武田文夫|1968|p=78}}。この流れを受けて東名が開通し、東京 - 名古屋 - 大阪を結ぶ新しい物流動脈が形成された。 |
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[[File:Tokaido megalopolis.svg|300px|thumb|各都市圏と地域の連帯と非連帯を表した図{{sfn|丹下健三|1966|p=65}}{{sfn|丹下健三|1966|p=72}}。非連帯の場合、中心都市の周りに衛星都市が連ねることで、極めて原始有機体的な閉ざされた姿をとる{{sfn|丹下健三|1966|pp=64-65}}。連帯では各都市が連携して巨帯都市群を形成する。それは情報的な連絡を可能として、人間の体にも似た高度有機体の姿をとる{{sfn|丹下健三|1966|p=70}}。こうした情報的連結を促進するのが大量、高速輸送機関の東名、名神、東海道新幹線である。]] |
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東名の開通に先立って計画された全国総合開発計画は、太平洋ベルト地帯の過密緩和と地域格差の減少をうたい文句にしたが、蓋をあけてみれば、東京、名古屋、大阪への人口と産業の集中は止まず、低開発地域の開発も思うにまかせない状態であった。このときの分散政策の反省を含めて{{sfn|宮崎仁|1969|pp=11-12}}、[[東海道メガロポリス]]構想が建築家の[[丹下健三]]によって提唱された{{sfn|岩井主蔵|1966|p=49}}{{efn|丹下の言う東海道メガロポリス構想は、東海道付近を集中的に開発エリアとして帯状に開発し、そこから枝分かれした住宅地も密度を高くして人口を集約する。残りのエリアは自然環境や歴史遺産を保全するという構想であった{{sfn|豊川斎赫|2017|p=33}}。}}。 |
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全国総合開発計画を受けて丹下が危惧したのは、首都圏、近畿圏、中京圏の三大都市群と、北海道、東北、北陸、中国、四国、九州などが個々の勢力圏の縄張り争いに固執して、一つの有機体であるべき日本が輪切りに分断されることであった{{sfn|丹下健三|1966|p=64}}。およそ各自が連携しないこうした都市の姿を丹下は求心的、分散的であるとして、国土の高度の情報的連結を不可能にすると考えた{{sfn|丹下健三|1966|p=65}}。勢力圏が競争する限り、こうした状況は改善されない{{sfn|丹下健三|1966|p=65}}。むしろ日本は一つでよいという考えの下、丹下は1955年(昭和30年)から1960年(昭和35年)までの東海道地域の固定資本形成に着目した。それは、この五年間で資本形成と人口が東海道地域に地滑り的に流動していることを示すデータで、ゆえにこの地域を一つの有機体として捉え、東京、名古屋、大阪という三つの中心ではなくて、その地域一帯を一つの都市地域と考えるべきであるとした{{sfn|丹下健三|1966|pp=74-75}}。この一体的な巨帯都市を日本の[[中枢神経系|中枢神経]]と見立て、そこから東北、北海道、瀬戸内、九州へと手足を伸ばしていく神経系統を想定したが{{sfn|丹下健三|1966|pp=74-75}}、この東海道における巨帯都市を丹下は「東海道メガロポリス」と名付けた{{sfn|丹下健三|1966|pp=71-75}}。 |
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東海道メガロポリスが一つの都市であるのは、情報的つながりが圧倒的に強いためで、つながりを強固にするものが東海道新幹線、名神、東名高速道路である。この三つを合わせれば、東京 - 大阪間を一日で三十万人が流動する。それも、新幹線で3時間、東名、名神で9時間{{efn|丹下は5 - 6時間で結ぶとしている{{sfn|丹下健三|1966|p=71}}。}}で結ばれ、大量の人口がわずかこれだけの時間で流動することで、東海道メガロポリスはすでに一日行動圏に入った一つの都市地域であるとした{{sfn|丹下健三|1966|pp=72-73}}。こうした形態もやがて21世紀に入れば、さらなる交通ネットワークの整備拡充とコミュニケーションツール(携帯電話、テレビ電話等{{sfn|丹下健三|1966|p=132}})の発展により、日本全体を一つの都市地域と考えるエクメノポリス型(分散型)に移行して、日本中のどこにいても必要かつ十分の情報が得られると丹下は想定したが、少なくとも二十世紀後半はその役割を、まず東海道メガロポリスが担うことが現実的であるとした{{sfn|丹下健三|1966|pp=73-74}}。 |
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なお、丹下は東海道メガロポリスの構成地域を1都2府8県としたが{{sfn|丹下健三|1966|p=67}}、以下で解説する地域は、東京、千葉、埼玉、神奈川、静岡、愛知、大阪、兵庫、岐阜、三重、滋賀、京都、奈良、和歌山を指す{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=132}}。これらの1都2府11県の全国に占める面積はわずか2割に満たない。しかし、1967年(昭和42年)時点で、総人口が日本全体の約半分を占め、地方の過疎化を尻目に全国労働力の9割を飲み込み{{sfn|佐藤正義|1968|p=31}}、工業出荷額と商店販売額では約7割、全国銀行の貸出残高で8割{{sfn|武田文夫|1968|p=161}}、自動車保有台数で5割以上、貨物の年間輸送量では、自動車で5割、鉄道では3割を占めるなど、日本経済の中枢であり、将来の日本経済発展の指導的立場を担う地域でもある{{sfn|池上雅夫|1969|p=15}}{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=132}}。そうした東海道メガロポリスの発展を伸長する意味で、東名には多くの期待が寄せられた{{sfn|公益財団法人高速道路調査会(1968-5)|1968|p=72}}。 |
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{{double image aside|right|Shinkansen type 0 Hikari 19890506a.jpg|200|Nagoya, view from Tōkaidō Shinkansen (1967-05-08 by Roger W).jpg|258|画像左 : 東海道メガロポリスを貫いて走る[[新幹線0系電車|0系]]東海道新幹線。首都圏 - 関西圏間を、大量の人口を乗せてわずか3時間(開業当初)で結ぶ。これに東名・名神を併せて東海道メガロポリスは日本の中枢神経の役割を担う。<br>画像右 : 東海道新幹線の車窓から見た1967年(昭和42年)頃の東海道メガロポリス(名古屋市内)。沿線は住宅が密集、連続し、こうした東海道の地勢が東海道新幹線や東名の成功に大きく貢献した{{sfn|今田保|2014|pp=9-10}}{{sfn|武田文夫|1989|pp=15-18}}。}} |
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東名開通前から、東名が及ぼす効果はある程度予測されていた。東海道メガロポリスに占める人口と工業・商業生産高、自動車保有台数を分析すれば、おのずとそこを貫く幹線高速道路の効果が解るからである{{sfn|池上雅夫|1969|p=15}}。なお、東海道新幹線が成功した要因も、国鉄技術陣の技術力と並んで東海道メガロポリスの地勢が大きく影響している。日本一の経済圏である首都圏と第2位の関西圏、第3位の中京圏に割って入り、その中間には人口第10位の静岡県を挟む。車窓から見ても密集市街地が連続する光景は世界有数のもので、アメリカ[[大西洋]]岸の巨帯都市[[ボスウォッシュ]]でさえ、当時の東海道ほど人口が稠密ではなかった{{sfn|今田保|2014|pp=9-10}}。 |
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開通前から既に、東名が発揮する効果を見越して、沿道には工場の新設が立て続けに行われたが、これは従来、集中化の一途をたどってきた工業地帯が分散化の傾向を示すものであった。つまり、既成工業地区が過密になって、もはや拡張の余地がなく、公害等の問題も絡んで、大スペースを必要とする工場は地価の安い{{sfn|高速道路五十年史編集委員会|2016|p=52}}、未開発の内陸部に展開する方向性を示すことになった{{sfn|池上雅夫|1969|pp=13-14}}。また、敗戦後の日本における復興は、まず三大臨海工業地帯(京浜、阪神、中京)が先導し、その産業形態は、鉄鋼、石油精製、造船、肥料等の重化学工業であって、臨海部に縛られる業態であった。続く昭和40年代に入ると、産業も高度化して機械組立産業と、それに関連した金属加工業が台頭し、これは内陸部に立地展開可能な業態である。臨海から内陸へと国土の全面に渡って展開するこうした工業立地の変化を勢いづけたのが、東名・名神によって工業立地適正が高まった東海道メガロポリスであった{{sfn|武田文夫|1989|p=16}}。 |
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農業でも大変革が予想された。東名の高速輸送によって農地と東京、名古屋、大阪という大消費地の台所を直接結びつけることで、新しい傾向が期待された。実際、大消費地に供給する農作物の商業的農業への転換が開通後には目立って増えることになった{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=142}}。また、農産物は鮮度が命であり、軟弱野菜や高級果実、切花や花卉、家畜の生体輸送等の鮮度低下率の大きいものほど、時間短縮効果と安定走行が約束できる東名の利用効果は高い{{sfn|日本道路公団総務部|1976|p=274}}。これは高速道路の利用による時間節約の利益であり、鮮度を要求する品物では、早く届けられるほど市場で高い値が付いて目立った利益が期待できるほか、これまでは遠くて手が届かなかった有利な市場にまで売り込むことさえ可能となる{{sfn|武田文夫|1968|pp=106-107}}。しかし、特に大きな変革が予想されたのは物流であった。東名、名神直結による時間短縮効果によってトラックのワンマン運転が可能となり、大都市の中間地点にはトラックヤードが整備されたほか、幹線輸送と結びつけるために、都市近郊の厚木、小牧などには流通センターの整備が計画された{{sfn|高速道路五十年史編集委員会|2016|p=52}}。こうした効果の具体例を以下に列挙する。 |
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| image1 = Airborne imagery Yokohama City (4274354758).jpg |
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| caption1 = 京浜工業地帯の一角を構成する横浜港。東名開通によって臨海部に集中していた工業は内陸部へ分散した。 |
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| image2 = Chukyo Industrial Area (2017).jpg |
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| caption2 = 中京工業地帯(名古屋港東海元浜ふ頭の日鉄名古屋製鉄所)。画像は鉄鉱石の輸入基地{{sfn|名古屋港史編集委員会|1990|pp=437-438}}。加工貿易の重要拠点である。 |
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| image3 = Komaki Truck Terminal 20211002B.jpg |
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| caption3 = 小牧トラックターミナル。東名・名神の整備によって小牧市は流通の拠点となった。 |
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| image4 = Komaki Truck Terminal 20211002C.jpg |
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| caption4 = 高速道路の存在とトラックによる物流は、経済を回すためにはなくてはならないものになった(小牧トラックターミナル)。 |
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東名は開通当初から主にトラックの交通を受け持ち、企業立地に大きな変化をもたらすことになった。それまでは臨海部主体の工業立地であったが、沿線内陸部へと移る契機を与えた。それは、京浜工業地帯から厚木・相模原へ、駿河湾工業地帯から沼津・富士へ、中京工業地帯から小牧への立地展開である。これらの工業団地は東京など大都市への便を意識しており、東名の開通が与えた変化の一つである{{sfn|高速道路五十年史編集委員会|2016|p=52}}。特に神奈川県の場合、工業は元来、[[横浜港]]を中心とした臨海工業地帯における重化学工業であった。ここは沿岸部に[[東海道本線]]、国道1号が走り、それに沿って細いベルト状に工業が密集していたが、もはや飽和状態であった。しかし、[[国道246号]]と[[小田急線]]に沿う内陸部は未開発地帯で、そこに東名がもう一本の太いベルトを作り上げた。そこには、相模原、厚木、海老名、座間があって、東名が着工された頃からこの地域には工場の新設が相次いだ{{sfn|武田文夫|1968|pp=161-162}}。そのうちの一つである厚木市の場合、元来は国道1号から遠いことで工業化が立ち後れて農業主体であったが、東名の整備によって一変した。インターチェンジ付近には工業団地が整備され、企業の立地が急速に進行した結果、製造業の出荷額は開通以来12年間に7倍以上の伸びを示し、就業人口も全国平均を上回る大幅な伸びを示した{{sfn|千田洋一|1999|p=42}}。 |
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こうした分散化は工場が内陸へと移動するだけにとどまらず、分業面でもその兆候を示した。元来、工業地帯内に研究、開発、生産工場、荷役がまとめて置かれていたが、大スペースを要する大量生産工場を同一敷地に置くことは得策ではない。大企業は将来の工場の拡張、福利厚生施設の拡充や公害防止等の対策によって広大なスペースを必要とするからである。さらに、大企業は激しい技術革新と消費者の好みの変化の波にさらされ、研究、開発部門の拡充が要請される。よって、従来の既成大工業地帯はそのことに特化し、量産化の目処が立った製品の生産ラインは地方の新工場に移す流れが顕著となった{{sfn|武田文夫|1968|pp=135-137}}。つまり、大企業を中心に大都市周辺と地方における機能分散が進むことで、両者をつなぐ流通はより太く、迅速にならなければならない。こうした合理的な機能の地理的分散を促進するうえで東名は力を発揮する{{sfn|武田文夫|1968|pp=137-138}}。 |
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東名の名神直結によって、いよいよ高速道路の流通に対する影響が顕著となってきた。東海道は東名開通前からトラックによる長距離輸送を大々的に行ってきた。東名開通前の国道1号は、東京 - 大阪間の走行に約16時間を要し、ゆえに二人体制の運行であった。しかし、高速輸送を約束する東名の開通によって、それは9時間に短縮された。さらに東名は15トン大型トレーラーの安定走行が可能で{{sfn|武田文夫|1968|pp=166-167}}、それを見越してトラック業界は次々と大型トレーラーの導入に踏み切り{{sfn|座談会(司会 広岡治哉)|1967|p=93}}、併せて東名の主要インターチェンジ付近の土地を買い漁って[[トラックターミナル]]を建設した{{sfn|武田文夫|1968|pp=166-167}}。トラック輸送は東名利用による高速化、トラックの大型化による大量の貨物の運搬によって、従来の国道1号ではなし得なかった、大量大型の方向へと突き進んだ{{sfn|武田文夫|1968|pp=166-167}}。トラック輸送が大量大型の方向へ向かわざるを得ないのは、運転手の賃金の上昇と絶対的人数の不足から来る輸送原価上昇を抑制するためである{{sfn|井関雅愛|1969|p=65}}{{sfn|武田文夫|1968|pp=166-167}}。この条件下で今後要求されるのは、人間の節約である。そのために東名・名神の高速輸送による時間の節約により、二人体制を一人体制に移行させ、大型トレーラーによる大量輸送は、高い積載効率によって普通トラック数台分の貨物を一台に集約できることにより運転手の削減に寄与する{{sfn|武田文夫|1968|pp=166-167}}{{sfn|井関雅愛|1969|p=65}}。また、高速運転によりトラックの回転率の向上につながり、輸送キロ当たりの固定費の減少をもたらす{{sfn|星野英|1969|pp=22-25}}。つまり、トラックが早く走ることによって、貨物1回あたりの輸送時間が減れば、浮いた分の時間を使ってさらに別の輸送を行うことができる(回転率の向上)。これによって、一回当たりの運行に発生する人件費、施設費、税金、保険料、一般管理費などの固定費が節減できる{{sfn|武田文夫|1968|pp=106-107}}。こうした大量・高速の大型トラックによる輸送は東名・名神が受け持ち、都市内と高速道路インターチェンジ付近までの輸送は普通トラックが受け持つという、トラックターミナルを中継点とした輸送の機能分化も現れてきた{{sfn|池上雅夫|1969|p=13}}。 |
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[[File:Toyota Motor Takaoka plant 20211026A.jpg|thumb|トヨタ自動車高岡工場。余分な在庫を持たないジャストイン方式で自動車生産を行う{{sfn|武田文夫|1989|p=17}}。]] |
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今ひとつの高速化のメリットは、企業側の在庫の減少と、それに伴う金利負担の軽減をもたらすことである。輸送が迅速かつタイムリーに行われるならば、在庫を沢山抱えておく必要はなく、電話一本で持ってこさせることができる{{sfn|武田文夫|1968|pp=106-107}}。高速道路は迅速化と絡めて在庫削減を可能にしたが、それを有効活用したのが[[トヨタ自動車]]である。豊田市等の三河地域に完成車工場を構えるトヨタ自動車は、東名、名神開通によるトラック輸送革命を利用し、ジャストイン配送を実現した{{sfn|武田文夫|1999|p=11}}。これにより、三河にある完成車工場からおよそ遠く離れた工場からでも部品の調達が可能となって広域的分業を成し遂げると共に、部品の流れは完成車組立ての流れと同期することで余分な在庫を持たないことから、全行程のトータルコストの切り下げをも実現した{{sfn|武田文夫|1989|p=17}}。 |
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農業で見ると、大消費地たる都市と農村との時間的距離が大幅に短縮されたことで、土地生産性の高い商業的農業への転換が進んだ。このうち、愛知県の東三河地域は1960年台までは交通や水利で恵まれず、主として[[サツマイモ|甘薯]]や麦を半農半漁で営む地域であったが、[[豊川用水]]の完成と東名の開通とも相まって作柄の転換が進んだ。これは、東京、大阪などへの大消費地へのアクセスが確保され、これが市場拡大につながったことで、[[花卉園芸|花卉]]に見る商業的農業を展開することが可能となったことによる。さらに、東名利用で東京と4時間で結ばれることにより、前日21時までの注文が入れば、翌朝までに商品を届けることが出来るなど、きめ細かい出荷調整が可能となった{{sfn|千田洋一|1999|p=44}}。例えば[[渥美半島]]産の[[電照菊]]は、輸送のほぼ全てを[[豊川インターチェンジ|豊川IC]]から東名を通して東京市場へ運ばれ、冠婚葬祭に利用されている。特に東名利用による時間短縮効果によって、収穫、選別、荷造りの行程に余裕が出ることで出荷量の拡大につながり、併せて新たな市場開拓をする余裕さえ生まれた{{sfn|日本道路公団総務部|1976|p=275}}。同じ東三河地域に属する[[三河港]]も東名開通の恩恵を受けた。やはり、東名によるアクセスの良さと、[[首都圏 (日本)|首都圏]]と[[京阪神|近畿圏]]の中間に位置し、周辺の産業集積なども評価されて外資系自動車メーカーの輸入基地が整備された。この結果、三河港は日本一の自動車輸入港となった{{sfn|千田洋一|1999|p=44}}。 |
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{{double image aside|right|2018 Tsukiji fish market.jpg|233|Tsukiji Fish market and Tuna.JPG|200|東京中央卸売市場[[築地市場]](2018年閉鎖)と築地市場で競りにかけられる冷凍マグロ。}} |
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東名の開通によって、大都市へ運ばれる地方からの生鮮食品の数が増した{{sfn|日本道路公団総務部|1976|pp=274-276}}。首都圏人口に対して食料を供給する[[東京中央卸売市場]]は、そこへ輸送される貨物のほぼ全てが自動車で運ばれ、ことに高速道路の果たす役割は大きい。高速道路を乗り継いで西日本各地から運ばれる貨物は、最終的に東名利用で東京に至り、ゆえに東名が首都圏の食料を運ぶ大動脈となっている{{sfn|千田洋一|1999|p=45}}。東京中央卸売市場に占める東名利用で運ばれてくる水産物のシェアは、[[干物|開干]]あじが90 %、冷凍マグロが70 - 85 %、野菜類では、[[フキ]]や[[ワラビ]]が季節によってはほぼ100 %となっており、[[観葉植物]]は、[[ポトス]]が90 %、[[アロエ]]が83 %である{{sfn|千田洋一|1999|p=45}}。 |
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静岡県[[袋井市]]や[[菊川町 (静岡県)|菊川町]]の畜産飼育農家の場合、東名開通後に子豚の飼育頭数を増やして生産規模の拡大を図った。東名の利用によって袋井の家畜市場への輸送が楽になったほか、市場から子豚が東名を使って京浜、大阪方面へ運ばれており、東名の効果で取引が活発化して価格の安定化がもたらされた。なお、市場からの子豚の輸送は100パーセント東名を利用している。これは農産物に比べると、消費地と産出地との距離が長いために、高速道路の利用率が高くなっているためである{{sfn|日本道路公団総務部|1976|p=277}}。 |
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[[File:Mount Fuji and Port of Shimizu from Nihondaira.jpg|thumb|清水港。東名開通と併せてマグロ流通の広範化に寄与し、工業製品の輸出を浜松から引き受けるなど地元経済に対する重要性が増した{{sfn|千田洋一|1999|p=43}}。]] |
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[[清水港]]は東名開通後に大きく発展した。[[マグロ]]流通は元来、築地岸壁にマグロ船をつけ、市場動向をにらみながら適当な量を水揚げする方法が採用されていた。それは、マグロ船のみマイナス65 ℃まで冷却可能で、倉庫や輸送トラックの冷却能力はマイナス30 ℃程度が限界で、長期保存が不可能であったためである。しかし、冷凍能力向上と東名開通により冷凍マグロの出荷体制を新たに構築したことで、清水港は冷凍マグロの重要拠点となった。そのシェアは6割以上で、日本一となっている{{sfn|千田洋一|1999|p=43}}。これ以外にも清水港は、東名開通によって工業製品の輸出額が7倍の伸びを示した。それは清水港から遠く離れた浜松における内陸コンテナ基地(インランド・デポ)の影響である。浜松市は工業出荷額が静岡県内最大であるにもかかわらず、浜松近郊には輸出港がないため、その対策として東名開通にあわせて輸出貨物のコンテナ詰めと輸出手続きを行う内陸コンテナ基地を整備した。コンテナは東名を介して清水港まで輸送される{{sfn|千田洋一|1999|p=43}}。なお、清水港に近接する[[焼津港]]の場合、東名開通前は水揚げした[[カツオ]]の出荷先は全て静岡県内であった。しかし、東名開通後は県内向けは減少し、2005年(平成17年)時点では、大都市向けが57パーセントを占めるまでになった{{sfn|中日本高速道路(株)東京支社企画調整チーム|2009|pp=36-37}}。 |
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こうした効果もあって、東名の開通前後から東海道メガロポリスの形成は急速に進行した{{sfn|武田文夫|1989|p=15}}。1973年(昭和48年)の東海道メガロポリスの製造付加価値額は、日本の生産量の56パーセントを占め、日本の生産の半分以上を受け持つまでになった{{sfn|武田文夫|1989|p=16}}。しかし、高度経済成長も頂点を極めた昭和40年代後半に至り、この巨大な経済圏を東海道メガロポリスだけに詰め込むことは不可能となったことで、東北自動車道や関越自動車道などの整備により、東海道に集中していた工業は、やがて東北をはじめ全国に分散していくことになった{{sfn|武田文夫|1989|p=16}}。この全国展開の先駆けとしての東海道メガロポリスの発展に、東名、名神は重要な役割を果たした{{sfn|武田文夫|1989|p=16}}。 |
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その後の東海道メガロポリスは、全国への産業分散を尻目にさらなる人口、立地事業所数の伸びを示した。神奈川、静岡、愛知の3県における東名のインターチェンジから30分圏内の人口増加率は著しく、東名開通以来、3県内に71か所の事業所が造られているが、その内の三分の一が1986年(昭和61年)以降に造られている。沿線の開発、発展を支える東名の役割はさらに増している{{sfn|武田文夫|1999|p=12}}。 |
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=== 混雑緩和対策 === |
=== 混雑緩和対策 === |
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[[File:Number of days of congestion on the Tomei Expressway between Tokyo and Mikkabi.svg|thumb|300px|東京 - 三ヶ日間における渋滞発生日数と年平均事故率。渋滞状況、事故率を勘案して大井松田IC - 御殿場IC間の改築の必要性と緊急性が高いと判断された{{sfn|橋本弘之|1982|p=61}}。]] |
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三大経済圏を結び、工業・商業の密集地帯を結ぶ東名・名神の輸送量は暫時増加したが、やがて東名の容量の限界を超え、特に大都市圏や線形が厳しくトンネル区間が多い山間部では渋滞が散見され始めた{{sfn|橋本弘之|1982|p=57}}。これにより、高速道路の機能である高速性、定時性、安全性を図ることが困難となってきた。加えて休憩施設の混雑も著しく、平日夜間には大型車の駐車スペースが不足し、休日にはレジャー目的の小型車のスペースが不足するという事態に直面した{{sfn|橋本弘之|1982|p=61}}。休憩施設については、園地や緑地を駐車マスに切り替える工事で急場をしのいだが{{sfn|橋本弘之|1982|p=61}}、本線については渋滞箇所や事故多発地点など多角的に検討し、各インターチェンジ区間毎に改築の必要性と緊急性を精査した結果、大井松田IC - 御殿場IC間を選定し{{sfn|橋本弘之|1982|p=61}}、1982年(昭和57年)1月開催の第26回国土開発自動車道建設審議会にて整備計画の策定に至った{{sfn|倉沢真也|1982|pp=50-54}}。 |
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三大経済圏を結び、工業・商業の密集地帯を結ぶ東名・名神の輸送量は暫時増加したが、やがて東名の容量の限界を超え、特に大都市圏や線形が厳しくトンネル区間が多い山間部では渋滞が散見され始めた{{sfn|橋本弘之|1982|p=57}}。これにより、高速道路の機能である高速性、定時性、安全性を図ることが困難となってきた。加えて休憩施設の混雑も著しく、平日夜間には大型車の駐車スペースが不足し、休日にはレジャー目的の小型車のスペースが不足するという事態に直面した{{sfn|橋本弘之|1982|p=61}}。休憩施設については、園地や緑地を駐車マスに切り替える工事で急場をしのいだ{{sfn|橋本弘之|1982|p=61}}。 |
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;大井松田IC - 御殿場IC間の改築 |
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[[File:Tomei Expressway reconstruction plan(Between Oi Matsuda Interchange and Gotemba Interchange).svg|thumb|300px|大井松田IC - 御殿場IC間の改築図。拡幅にあたり、4車線の両側に1車線ずつ付け足す方式と、別線を構築する二つの改築方法を採用した。前者を全区間に適用できなかったのは、付け足す側の低地に一般道路、鉄道、住居地が高密度に展開して土地がなかったことと、トンネルと東名酒匂川橋に見る長大支間の橋梁の拡幅が極めて困難であることによる{{Sfn|田中武夫・渡辺敏則・吉田博|1983|pp=53-54}}。<small>([https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1 国土地理院地図・空中写真閲覧サービス]の地形図を元に加工)</small>]] |
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{{double image aside|right|Tomei-Expway-Yamakita.jpg|200|Tomei-Kajiyashiki-Bridge.jpg|200|画像左 : 路線改良された大井松田IC - 御殿場IC間。左側の片側3車線道路が増設された上り線。右側は当初の往復4車線道路で、新上り線の開通を機に4車線全てが下り線となった{{Sfn|田中武夫・渡辺敏則・吉田博|1983|pp=53-54}}。<br>画像右 : 既存線との交差は2か所。画像はその内の吾妻山トンネルと都夫良野トンネル間に架かる新鍛冶屋敷橋。}} |
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東名最初の渋滞緩和を目的とした大規模改良は、大井松田IC - 御殿場IC間である。これは渋滞が慢性化した本線について、渋滞箇所や事故多発地点など多角的に検討し、各インターチェンジ区間毎に改築の必要性と緊急性を精査した結果、本区間が選定されたもので{{sfn|橋本弘之|1982|p=61}}、1982年(昭和57年)1月開催の第26回国土開発幹線自動車道建設審議会にて整備計画の策定に至った{{sfn|倉沢真也|1982|pp=50-54}}。改築では往復4車線を6車線化するが、工事の前提条件として東名を営業しながら施工する。この制約から、4車線の両側に1車線ずつ付け足す方法が全区間で採用できなかった。特に東名酒匂川橋等の高い橋脚の橋と、[[都夫良野トンネル]]と吾妻山トンネルを営業しながら拡幅することは困難であり、さらに土地の利用形態にも問題があった。東名と並行する平地に住居地区が広がり、しかも国道246号と国鉄御殿場線が位置して高密度に利用されていることから、この点でも道路両側への拡幅は困難であった{{Sfn|田中武夫・渡辺敏則・吉田博|1983|p=53}}。 |
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考慮の結果、両側への拡幅と、3車線を別途建設する2形態を採用するに至った{{Sfn|田中武夫・渡辺敏則・吉田博|1983|p=53}}。しかしながら、大井松田IC - 御殿場IC間25.3 kmのうち、両側拡幅は御殿場IC寄りのわずか5.1 kmで、それ以外は後者の別線建設となった。別線は平地側への新設を避けることから、大井松田ICから吾妻山トンネル間は既存線の山側(北側)に設けてほぼ並行して建設、都夫良野トンネルから小山バスストップ付近までは逆に既存線の北側が平地となっていることから、反対の南側の山地に建設した{{Sfn|橋本弘之|1982|p=62}}。これにより別線は既存線を軸にねじれることから、既存線を横断する箇所が存在する。 |
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[[File:Tomei-Expway-Yamakita.jpg|thumb|路線改良された大井松田IC - 御殿場IC間。左側の片側3車線道路が増設された上り線。右側は当初の往復4車線道路で、新上り線の開通を機に4車線全てが下り線となった{{Sfn|田中武夫・渡辺敏則・吉田博|1983|pp=53-54}}。]] |
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[[File:静岡県焼津市野秋 - panoramio.jpg|thumb|静岡IC - 焼津IC間も線増に伴って従来道路を片方向化した。このため左右ルート選択となった。]] |
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改築では往復4車線を6車線化するが、一般的な拡幅方法である4車線の両側に1車線ずつの拡幅が全区間では叶わなかった。特に東名酒匂川橋のような高い橋脚の橋と、都夫良野トンネルと吾妻川トンネルを拡幅することは困難であり、さらに国鉄御殿場線並行部では、拡幅しようにも住居地が崖下に密集することで、大井松田IC - 御殿場IC間25.3 kmのうち、両側拡幅はわずか5.1 kmで、それ以外の20.2 kmは別線で建設されることになった。この別線のうち、9.1 kmは既存の4車線の北側の崖を削って新たな3車線道路を並行して造り、残りは既存道路とは完全に離れたルートとされた{{sfn|田中武夫・渡辺敏則・吉田博|1983|pp=53-54}}。増設線は事故減少を目的に平面曲線半径の改良が図られたが、並列区間では既存道路に沿う関係上、既存道路の線形と類似した線形を用いざるを得なかった{{sfn|田中武夫・渡辺敏則・吉田博|1983|p=57}}。増設線は地形上、北側に位置し、大井松田ICにおいて上り線に連結することから、必然的に増設線は上り線として使用する。よって、既存道路(上下4車線)は下り方向運用に反転し、増設線は上り方向3車線運用となった{{sfn|田中武夫・渡辺敏則・吉田博|1983|p=59}}。供用は1991年(平成3年)からである{{sfn|中日本高速道路株式会社|2019|p=11}}。 |
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別線の特徴としては、並列部以西では箱根外輪山端部を通り、この点で鮎沢川沿いの谷筋を通る既存線とは著しく様相が異なる。山間部を貫くことからトンネルが多用され、結果的にカーブが減少して安全性が向上した。ただし、並列区間では新設路線とはいえ並行する既存線の線形を用いざるを得ず、カーブも従来通りである{{sfn|田中武夫・渡辺敏則・吉田博|1983|p=57}}。なお、別線を上り線として運用する理由は、並列区間の大井松田IC - 吾妻山トンネル間で既存線の北側に位置して、大井松田ICで上り線にそのまま接続するためである。別線は吾妻山トンネル付近で既存線の南側にまたぐが、小山町付近で両側拡幅区間の上り線に接続する必要から、東名足柄橋を構築して再度またいでいる。結果、交差部は2か所となった。一方の既存線は、上下4車線を下り一方向として運用することになった。既存線を下り方向に統一する理由は、当該区間が登り坂であるために、走行速度の低下を生じて渋滞の温床となるところへ、4車線運用によって交通の分散を図って走行速度の向上を期待できるためである。さらに、既存の[[登坂車線]]をそのまま使用することが可能で、これにより緩速交通を登坂車線に誘導することによって、交通分散の効果をより高めることができる{{Sfn|田中武夫・渡辺敏則・吉田博|1983|p=59}}。7車線化の運用は1991年(平成3年)12月24日からで{{sfn|高速道路五十年史編集委員会|2016|p=年表35}}、以後、渋滞がなくなり、ラジオ等の交通情報から「都夫良野トンネル」が消えた{{Sfn|西谷淳一・井上淳一|1994|p=36}}。 |
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東名の渋滞対策はこれだけにとどまらず、インターチェンジ料金所ブースの増設と流出ランプウェイの2車線化、一般道路との接続方法変更、新出口の新設{{sfn|濃添元宏・高橋文雄|1989|p=62}}、本線では厚木IC - 大井松田IC間の6車線化{{sfn|中日本高速道路株式会社|2019|p=11}}、静岡IC - 焼津IC間の日本坂トンネル部の線増など矢継ぎ早に対策が打たれた{{sfn|イカロス出版|2011|pp=76-77}}。 |
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;厚木IC - 大井松田IC間6車線化 |
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このうち、横浜ICは特に渋滞が酷く、連絡する[[国道16号]]との合流に端を発した渋滞は、料金所の容量不足でさらに増幅し、それがランプウェイを遡って本線まで及ぶに至り、最終的に本線を通過する車両まで渋滞に巻き込まれた。開通前における当ICの予想された出入交通量46,000台(日換算)に対し{{sfn|池上雅夫|1969|p=11}}、渋滞が深刻化した1988年(昭和63年)時点では67,000台であった。当ICはその交通量の多さからダブルトランペットで計画され{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=164}}、このため、国道16号との取り付けは立体交差であるが、ICの前後にある交差点(国道246号交差点、県道18号交差点)による信号待機の車列に東名からの流出交通が合流することで、ダブルトランペットの効果が消失していた。公団は料金所ブース増設と、ランプウェイの2車線化、付加車線設置により、それなりの効果をあげたが根本的解決には至らなかった{{sfn|倉沢真也|1988|pp=47-49}}。この時点で公団は追加ICの必要を認め{{sfn|倉沢真也|1988|pp=47-49}}、これはのちに[[横浜青葉インターチェンジ|横浜青葉IC]]設置へと至った{{sfn|公益財団法人高速道路調査会(1997-03)|1997|p=75}}。この結果、国道246号の立体交差完成とも相まって、横浜IC、東名川崎ICの出口渋滞件数は大きく減少した。本線流出入もスムーズとなって、本線の平均速度が3パーセント向上した{{sfn|武田文夫|1999|p=14}}。なお、横浜青葉ICの供用を前に、横浜市内に東名のインターチェンジが2か所になることを踏まえ、利用者への誘導を適切に図る必要から横浜ICは1997年(平成9年)4月1日をもって横浜町田ICに名称変更された{{sfn|公益財団法人高速道路調査会(1997-03)|1997|p=75}}。 |
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東名の運用開始後、首都圏の交通量の伸長が著しく、渋滞が御殿場付近まで達するに及んだ。そこで、厚木IC - 大井松田IC間の拡幅を行い、1995年(平成7年)までに往復6車線化された{{sfn|中日本高速道路株式会社|2019|p=11}}。当該区間は、大井松田IC以西の区間と異なり、全区間上下線の両側に1車線ずつ付け足す方式を採用した{{sfn|公益財団法人高速道路調査会|1995|pp=87-89}}。 |
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;横浜IC改良 |
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東名の運用開始後、首都圏の交通量の伸長が著しく、渋滞が御殿場付近まで達するに及んだ。そこで、厚木IC - 大井松田IC間の拡幅を行い、1995年(平成7年)までに往復6車線化された{{sfn|中日本高速道路株式会社|2019|p=11}}。当該区間は、大井松田IC以西の区間と異なり、全区間上下線の両側に1車線ずつ付け足す方式を採用した{{sfn|公益財団法人高速道路調査会|1995|pp=87-89}}。 |
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横浜ICは特に渋滞が酷く、連絡する[[国道16号]]との合流に端を発した渋滞は、料金所の容量不足でさらに増幅し、それがランプウェイを遡って本線まで及ぶに至り、最終的に本線を通過する車両まで渋滞に巻き込まれた<ref group="注釈" name="a">なお現在では当たり前となった[[ETC]]のようなノンストップ自動料金収受システムは、この当時は存在していないのは留意されたい。</ref>。開通前における当ICの予想された出入交通量46,000台(日換算)に対し{{sfn|池上雅夫|1969|p=11}}、渋滞が深刻化した1988年(昭和63年)時点では67,000台であった。当ICはその交通量の多さからダブルトランペットで計画され{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=164}}、このため、国道16号との取り付けは立体交差であるが、ICの前後にある交差点(国道246号交差点、環状4号交差点)による信号待機の車列に東名からの流出交通が合流することで、ダブルトランペットの効果が消失していた。公団は料金所ブース増設と、ランプウェイの2車線化、付加車線設置により、それなりの効果をあげたが根本的解決には至らなかった{{sfn|倉沢真也|1988|pp=47-49}}<ref group="注釈" name="a"/>。この時点で公団は追加ICの必要を認め{{sfn|倉沢真也|1988|pp=47-49}}、これはのちに[[横浜青葉インターチェンジ|横浜青葉IC]]設置へと至った{{sfn|公益財団法人高速道路調査会(1997-03)|1997|p=75}}。この結果、国道246号の立体交差完成とも相まって、横浜IC、東名川崎ICの出口渋滞件数は大きく減少した。本線流出入もスムーズとなって、本線の平均速度が3パーセント向上した{{sfn|武田文夫|1999|p=14}}。なお、横浜青葉ICの供用を前に、横浜市内に東名のインターチェンジが2か所になることを踏まえ、利用者への誘導を適切に図る必要から横浜ICは1997年(平成9年)4月1日をもって横浜町田ICに名称変更された{{sfn|公益財団法人高速道路調査会(1997-03)|1997|p=75}}。 |
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;静岡IC - 焼津IC間の改築 |
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{{double image aside|right|Tomei Expressway and Abe River.jpg|200|静岡県焼津市野秋 - panoramio.jpg|240|画像左 : 静岡IC - 日本坂トンネル間。トンネル区間以外でも部分的に3車線化した。画像右 : 静岡IC - 焼津IC間も線増に伴って従来道路を片方向化した。このため左右ルート選択となった。}} |
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静岡県通過区間のうち、日本坂トンネル坑口を先頭とした交通集中による渋滞が、年間250回以上という高頻度で発生している状況を鑑みて路線増設を計画した{{sfn|橋場幸彦|1998|p=43}}。対象区間は、静岡IC - 焼津IC間(11.8 km)で、この内の日本坂トンネルを含む4.5 kmについて、既設の本線(往復4車線)の海側に新たに片側3車線の本線を新設し、既設道路は下り線を上り線に反転した上で、片側4車線の上り専用として運用することにした。また、上り線の場合、日本坂PAから静岡ICまでを3車線(トンネル部4車線)、下り線はトンネル手前から焼津ICまでを3車線化した{{sfn|橋場幸彦|1998|pp=44-45}}。トンネル部の運用開始は1998年(平成10年)3月27日である{{sfn|橋場幸彦|1998|p=47}}。 |
静岡県通過区間のうち、日本坂トンネル坑口を先頭とした交通集中による渋滞が、年間250回以上という高頻度で発生している状況を鑑みて路線増設を計画した{{sfn|橋場幸彦|1998|p=43}}。対象区間は、静岡IC - 焼津IC間(11.8 km)で、この内の日本坂トンネルを含む4.5 kmについて、既設の本線(往復4車線)の海側に新たに片側3車線の本線を新設し、既設道路は下り線を上り線に反転した上で、片側4車線の上り専用として運用することにした。また、上り線の場合、日本坂PAから静岡ICまでを3車線(トンネル部4車線)、下り線はトンネル手前から焼津ICまでを3車線化した{{sfn|橋場幸彦|1998|pp=44-45}}。トンネル部の運用開始は1998年(平成10年)3月27日である{{sfn|橋場幸彦|1998|p=47}}。 |
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1980年代後半になると、東名の1日の平均利用台数は約33万台、1日の平均断面交通量は7万台弱となった{{Sfn|武田文夫|1989|p=15}}。これは、開通当初の平均断面交通量21,000台と比較して3倍強という増加量である{{Sfn|濃添元宏・高橋文雄|1989|p=59}}。また、日本の全道路貨物輸送量(トンキロベース〈輸送重量×輸送距離〉{{Sfn|カーゴニュース|1998|p=9}})の約12パーセント、全道路輸送旅客量の2パーセントを受け持ち{{Sfn|武田文夫|1989|p=15}}、全国高速道路の料金収入の22パーセントは東名からのもの、路線延長でいえば、全幹線道路(高速道路、一般国道、都道府県道)の総延長のわずか0.2パーセントに過ぎない道路が、これほどの物量を担うまでになった{{Sfn|武田文夫|1989|p=15}}。 |
1980年代後半になると、東名の1日の平均利用台数は約33万台、1日の平均断面交通量は7万台弱となった{{Sfn|武田文夫|1989|p=15}}。これは、開通当初の平均断面交通量21,000台と比較して3倍強という増加量である{{Sfn|濃添元宏・高橋文雄|1989|p=59}}。また、日本の全道路貨物輸送量(トンキロベース〈輸送重量×輸送距離〉{{Sfn|カーゴニュース|1998|p=9}})の約12パーセント、全道路輸送旅客量の2パーセントを受け持ち{{Sfn|武田文夫|1989|p=15}}、全国高速道路の料金収入の22パーセントは東名からのもの、路線延長でいえば、全幹線道路(高速道路、一般国道、都道府県道)の総延長のわずか0.2パーセントに過ぎない道路が、これほどの物量を担うまでになった{{Sfn|武田文夫|1989|p=15}}。 |
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路線改良によって一部の混雑は緩和されたとはいえ、東名全体の交通量は増加の一途を辿った。東名は東海道の工業、流通、農業などに好影響を与えたが、それは高速道路を使った高速性と時間短縮効果を前提にしたもので、渋滞がやがて恒常化するに及び、定時性というメリットが失われることから輸送時間の不規則化による非効率、輸送コスト増大が深刻化してきた{{Sfn|荒牧英城|1992|p=1}}。加えて、1979年(昭和54年)7月に発生した[[日本坂トンネル火災事故]]や由比地区における高潮の影響で東名が通行止めとなった際は、経済活動に甚大な影響を与えた。特に日本坂トンネル火災事故による仮復旧までの約一週間、通行止になって生じた影響は、日本の物流が高速道路の存在を前提にしていることを如実に知らしめた<ref name="中日19790724夕">{{Cite news |title=東名炎上 動脈切れ経済混乱 ハイウエー前提の危険な物流機構 |newspaper=中日新聞夕刊 |date=1979-07-24|page=8}}</ref>。滞ったトラック輸送は並行する国道1号に流れたが、概ね40 kmにのぼる大渋滞となって物流は停滞した。流通の停滞により、スーパーに食料品が届かず、品薄になって値上がりするなど、市民生活に大きな影響が現れ、工業面でも、部品が届かないことで工場生産が止まるなど、経済に深刻な影響を及ぼした{{Sfn|村上圭三|1981|p=8}}。見かねた警察庁が、静岡、神奈川、愛知の3県警察に渋滞解消を命じ、安全面で抵抗する公団の反対を押し切って、事故後一週間で仮復旧させるに至った。この日本坂の事故がいろいろな方面に影響を及ぼしたのは、それだけ日本経済に占める高速道路の比重が大きいからに他ならず、それは東名を軸に東海道 |
路線改良によって一部の混雑は緩和されたとはいえ、東名全体の交通量は増加の一途を辿った。東名は東海道の工業、流通、農業などに好影響を与えたが、それは高速道路を使った高速性と時間短縮効果を前提にしたもので、渋滞がやがて恒常化するに及び、定時性というメリットが失われることから輸送時間の不規則化による非効率、輸送コスト増大が深刻化してきた{{Sfn|荒牧英城|1992|p=1}}。加えて、1979年(昭和54年)7月に発生した[[日本坂トンネル火災事故]]や由比地区における高潮の影響で東名が通行止めとなった際は、経済活動に甚大な影響を与えた。特に日本坂トンネル火災事故による仮復旧までの約一週間、通行止になって生じた影響は、日本の物流が高速道路の存在を前提にしていることを如実に知らしめた<ref name="中日19790724夕">{{Cite news |title=東名炎上 動脈切れ経済混乱 ハイウエー前提の危険な物流機構 |newspaper=中日新聞夕刊 |date=1979-07-24|page=8}}</ref>。滞ったトラック輸送は並行する国道1号に流れたが、概ね40 kmにのぼる大渋滞となって物流は停滞した。流通の停滞により、スーパーに食料品が届かず、品薄になって値上がりするなど、市民生活に大きな影響が現れ、工業面でも、部品が届かないことで工場生産が止まるなど、経済に深刻な影響を及ぼした{{Sfn|村上圭三|1981|p=8}}。見かねた警察庁が、静岡、神奈川、愛知の3県警察に渋滞解消を命じ、安全面で抵抗する公団の反対を押し切って、事故後一週間で仮復旧させるに至った。この日本坂の事故がいろいろな方面に影響を及ぼしたのは、それだけ日本経済に占める高速道路の比重が大きいからに他ならず、それは東名を軸に東海道の物流システムが構築されたものの、その軸が機能不全に陥った場合はシステムそのものがたちいかなくなることをこの事故は如実に示した<ref name="中日19790724夕">{{Cite news |title=東名炎上 動脈切れ経済混乱 ハイウエー前提の危険な物流機構 |newspaper=中日新聞夕刊 |date=1979-07-24|page=8}}</ref>。 |
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東海道の物流を背負って立つ高速道路が東名、名神の1本だけでは、非常時の通行止めにより、動脈が切れて経済を大混乱に陥れる<ref name="中日19790724夕"/>。よって、渋滞解消のための交通量の分散と、代替ネットワークの構築は、関係者の間では喫緊の課題として認識されたが、政府の反応は鈍く{{Sfn|高橋国一郎・中村貢|1984|p=30}}、ようやく第二東名建設の端緒についたのは1987年(昭和62年)6月の[[第四次全国総合開発計画]](四全総)の閣議決定であった。同年9月に国土開発幹線自動車道建設法が改正され、第二東名は正式に計画に盛り込まれた{{Sfn|中日本高速道路(株)建設事業本部|2012|p=34}}。 |
東海道の物流を背負って立つ高速道路が東名、名神の1本だけでは、非常時の通行止めにより、動脈が切れて経済を大混乱に陥れる<ref name="中日19790724夕"/>。よって、渋滞解消のための交通量の分散と、代替ネットワークの構築は、関係者の間では喫緊の課題として認識されたが、政府の反応は鈍く{{Sfn|高橋国一郎・中村貢|1984|p=30}}、ようやく第二東名建設の端緒についたのは1987年(昭和62年)6月の[[第四次全国総合開発計画]](四全総)の閣議決定であった。同年9月に国土開発幹線自動車道建設法が改正され、第二東名は正式に計画に盛り込まれた{{Sfn|中日本高速道路(株)建設事業本部|2012|p=34}}。 |
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[[File:Hanshin Expressway Nada b059.jpg|thumb|大震災により倒壊した阪神高速。大地震以後、リダンダンシー論が急浮上した。]] |
[[File:Hanshin Expressway Nada b059.jpg|thumb|大震災により倒壊した阪神高速。大地震以後、リダンダンシー論が急浮上した。]] |
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第二東名に施行命令が下された直後の1995年(平成7年)、[[阪神・淡路大震災]]が発生し、[[阪神高速道路]]はじめ[[国道2号]]など幾多の交通が集中している所が大地震によって寸断され、物流が麻痺した。影響を受けた貨物総量は日換算117万トンで、その全てが兵庫のみで完結する訳ではない。それは |
第二東名に施行命令が下された直後の1995年(平成7年)、[[阪神・淡路大震災]]が発生し、[[阪神高速道路]]はじめ[[国道2号]]など幾多の交通が集中している箇所が大地震によって寸断され、物流が麻痺した。影響を受けた貨物総量は日換算117万トンで、その全てが兵庫のみで完結する訳ではない。それは九州で水揚げされたのち大阪、東京方面へ向かう水産物をはじめ、中京圏から中国、九州地方へ輸送される自動車、あるいは電子機器など、阪神地区を通過する貨物だけで1日22万トンに達し、影響はかなりの広範囲に及んだ。これにより企業は輸送手段を失い、部材供給が滞ったことで、工場生産に多大な影響を与えた。トラックは迂回ルートを求めて日本海側の限られたルートや、海上輸送に殺到し、特に大阪や九州のフェリーターミナルでは長距離フェリーを求めてトラックが集中し、乗りきらないトラックの積み残しが長期間続いた{{Sfn|カーゴニュース|1998|pp=1-3}}。この被害によって物流が[[ライフライン]]そのものであることが改めて認識されるに及んで、各界からリダンダンシー論が急浮上した。これは「[[冗長化|冗長性]]」「多重性」を意味し、危機管理に使われる言葉である。一本の道路に頼るよりも代替輸送ルートを整備し、非常事態に備えようとする動きがこの地震以降、強まることになった{{Sfn|カーゴニュース|1998|p=4}}。東名においても予測される[[東海地震]]等に備える意味もあって、第二東名の整備が急がれることになった<ref name="michi No.104-P6">『みち』No.104、1996年(平成8年)11月(季刊)、日本道路公団、6頁(愛知県図書館蔵)</ref>。 |
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新東名(第二東名からの改称)が開通したのは2012年(平成24年)4月で、御殿場JCT - 三ヶ日JCT間約160 kmの区間で東名とのダブルネットワークとなったことで、同区間における東名の混雑は著しく減少した<ref name="日経20130413">{{Cite news |title=新東名開通1年、長距離渋滞緩和、静岡県内9割減に |newspaper=日経新聞(東京)朝刊|date=2013-04-13|page=38}}</ref>。 |
新東名(第二東名からの改称)が開通したのは2012年(平成24年)4月で、御殿場JCT - 三ヶ日JCT間約160 kmの区間で東名とのダブルネットワークとなったことで、同区間における東名の混雑は著しく減少した<ref name="日経20130413">{{Cite news |title=新東名開通1年、長距離渋滞緩和、静岡県内9割減に |newspaper=日経新聞(東京)朝刊|date=2013-04-13|page=38}}</ref>。この直前、新東名愛知県区間の開通までの暫定的な渋滞対策として、2011年(平成23年)10月から上り線の豊田JCT - 音羽蒲郡IC間、下り線の美合PA - 豊田JCT間の4車線区間で暫定6車線化が行われた<ref>{{Cite press release |和書 |title=東名高速 2車線の一部区間を暫定的に3車線にします -音羽蒲郡IC〜豊田JCT間の安全(渋滞・事故)対策として- |publisher=中日本高速道路株式会社 |date=2011-02-23 |url=https://www.c-nexco.co.jp/corporate/pressroom/news_old/index.php?id=1896}}</ref><ref>{{Cite press release |和書 |title=東名集中工事終了とともに3車線(暫定)運用を開始します〜音羽蒲郡IC〜豊田JCT間〜 |publisher=中日本高速道路株式会社 |date=2011-09-22 |url=https://www.c-nexco.co.jp/corporate/pressroom/news_old/index.php?id=2294}}</ref>。この区間は路肩の幅員が0.75 m、1車線当たりの幅員が3.25 mと狭くなるため、最高速度は60 km/hに設定されていた(車線数が増える直前は緩衝地帯として80 km/hに設定)。2016年(平成28年)2月の新東名開通後に当該区間の渋滞が大幅に減少し{{sfn|早川慎治・宮部光貴|2015|p=19}}、同年秋の東名集中工事で4車線に戻された<ref>{{Cite press release |和書 |title=東名高速道路 音羽蒲郡IC〜豊田JCT間の3車線(暫定)運用を2車線に戻します |publisher=中日本高速道路株式会社 |date=2016-09-23 |url=https://www.c-nexco.co.jp/corporate/pressroom/news_release/3919.html}}</ref>。 |
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=== 年表 === |
=== 年表 === |
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{{Timeline of release years |
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| title = 各年ごとの開通区間 |
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| 1968 = (4月)東京IC - 厚木IC・富士IC - 静岡IC・岡崎IC - 小牧IC |
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| 1969 = (2月)静岡IC - 岡崎IC<br />(3月)厚木IC - 大井松田IC・御殿場IC - 富士IC<br />(5月)大井松田IC - 御殿場IC |
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* [[1951年]]([[昭和]]26年) : 東京 - 神戸高速自動車道調査を再開{{sfn|日本道路協会|1997|p=536}}。 |
* [[1951年]]([[昭和]]26年) : 東京 - 神戸高速自動車道調査を再開{{sfn|日本道路協会|1997|p=536}}。 |
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* [[1952年]](昭和27年) |
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** 3月 : 東京 - 神戸高速道路計画の予備調査を米国人のカール・H・コッターに依頼{{sfn|日本道路協会|1997|p=537}}。 |
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** 6月 : 東京 - 神戸自動車道建設計画経済調査報告が出る{{sfn|日本道路協会|1997|p=537}}。 |
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* [[1956年]](昭和31年)[[5月19日]] : ワトキンス調査団来日{{sfn|日本道路協会|1997|p=537}}。 |
* [[1956年]](昭和31年)[[5月19日]] : ワトキンス調査団来日{{sfn|日本道路協会|1997|p=537}}。 |
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* [[ |
* [[1957年]](昭和32年)10月17日 : 東京 - 神戸間の内、競争のない小牧 - 西宮間(名神高速道路)の施行命令が下る{{sfn|高速道路五十年史編集委員会|2016|p=年表2}}。 |
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* [[ |
* [[1958年]](昭和33年)[[3月19日]] : [[松永安左エ門]]の私設[[シンクタンク]]「[[産業計画会議]]」が東京 - 神戸間 高速道路の建設を政府に勧告{{sfn|吉田喜市|1973|p=84}}。 |
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* [[1960年]](昭和35年) |
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** 7月15日 : 第34回国会参議院本会議で東海道幹線自動車国道建設法案が可決成立<ref name="朝日19600717">{{Cite news |title=中央道法案通る 会期末危うく「第二東海道」と共に |newspaper=朝日新聞(東京)朝刊|date=1960-07-17|page=10}}</ref>。 |
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** 7月25日 : 東海道幹線自動車国道建設法施行{{sfn|高速道路五十年史編集委員会|2016|p=年表5}}。 |
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* [[1962年]](昭和37年) |
* [[1962年]](昭和37年) |
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** [[5月30日]] : 東京IC - 静岡IC間の整備計画策定{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=42}}。 |
** [[5月30日]] : 東京IC - 静岡IC間の整備計画策定{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=42}}。 |
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* [[1969年]](昭和44年) |
* [[1969年]](昭和44年) |
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** [[2月1日]] : 静岡IC - 岡崎IC間 開通{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=428}}。 |
** [[2月1日]] : 静岡IC - 岡崎IC間 開通{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=428}}。 |
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** [[3月31日]] : 厚木IC - 大井松田IC間・御殿場IC - 富士IC間 開通{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=428}}。 |
** [[3月31日]] : 厚木IC - 大井松田IC間・御殿場IC - 富士IC間 開通{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=428}}。暫定料金を廃止して長距離てい減制を取り入れた新料金体制に移行。100 kmを超えて利用する場合は25パーセントの割引率を導入<ref name="朝日19690318">{{Cite news |title=東名、名神の新料金決まる |newspaper=朝日新聞(東京)朝刊|date=1969-03-18|page=14}}</ref>。 |
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** [[5月26日]] : 大井松田IC - 御殿場IC間 開通により、'''全線開通'''{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=428}}。 |
** [[5月26日]] : 大井松田IC - 御殿場IC間 開通により、'''全線開通'''{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=428}}。 |
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* [[1970年]]:下り線吉田IC - 菊川IC間の下り坂で、雨の日のスリップ事故が多発することが問題となる。対策としてすべり止めに効果のある特殊舗装を施工<ref>間野坂、やはり欠陥道路 すべり止め舗装で事故は激減『朝日新聞』1970年(昭和45年)12月30日朝刊 12版 18面</ref>。 |
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* [[1971年]](昭和46年)[[12月21日]] : 首都高速3号渋谷線[[渋谷出入口]] - 用賀出入口間開通により、首都高速道路と接続<ref>「交通マヒまた心配 首都高速と東名ドッキング 東名・首都高速が連結」『朝日新聞』1971年12月21日付東京本社版夕刊8面</ref>。 |
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* [[1971年]](昭和46年)[[12月21日]] : 首都高速3号渋谷線[[渋谷出入口]] - 用賀出入口間開通により、首都高速道路と接続<ref name="朝日19711221夕"/>。 |
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* [[1972年]](昭和47年) |
* [[1972年]](昭和47年) |
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** 10月1日 : 高速道路料金にプール制を採用{{sfn|大久保正行(1995-05)|1995|p=39}}。 |
** 10月1日 : 高速道路料金にプール制を採用{{sfn|大久保正行(1995-05)|1995|p=39}}。 |
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** [[5月31日]] : 豊橋TB(豊橋北BS - 豊川IC間) 廃止。 |
** [[5月31日]] : 豊橋TB(豊橋北BS - 豊川IC間) 廃止。 |
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* [[2009年]](平成21年) |
* [[2009年]](平成21年) |
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** [[6月30日]] : 守山PAスマートICの連結を許可<ref>{{Cite press release |title=高速自動車国道へのインターチェンジの追加設置について |publisher=国土交通省 |date=2009-06-30 |url= |
** [[6月30日]] : 守山PAスマートICの連結を許可<ref>{{Cite press release |和書 |title=高速自動車国道へのインターチェンジの追加設置について |publisher=国土交通省 |date=2009-06-30 |url=https://www.mlit.go.jp/report/press/road01_hh_000081.html}}</ref>。 |
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** [[7月27日]] : 沼津ICで伊豆縦貫道と接続。 |
** [[7月27日]] : 沼津ICで伊豆縦貫道と接続。 |
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** [[8月11日]] : [[駿河湾地震 (2009年)|駿河湾地震]]が発生し、牧之原SA付近の上り線の一部が崩落。同年[[8月16日]]に仮復旧。 |
** [[8月11日]] : [[駿河湾地震 (2009年)|駿河湾地震]]が発生し、牧之原SA付近の上り線の一部が崩落。同年[[8月16日]]に仮復旧。 |
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* [[2011年]](平成23年) |
* [[2011年]](平成23年) |
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** [[1月23日]] : 相良牧之原ICで金谷御前崎連絡道と接続。 |
** [[1月23日]] : 相良牧之原ICで金谷御前崎連絡道と接続。 |
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** [[3月1日]] : 大井川焼津藤枝スマートICの連結を許可<ref>{{Cite press release |title=高速道路へのスマートインターチェンジの追加設置について |publisher=国土交通省 |date=2011-03-01 |url= |
** [[3月1日]] : 大井川焼津藤枝スマートICの連結を許可<ref>{{Cite press release |和書 |title=高速道路へのスマートインターチェンジの追加設置について |publisher=国土交通省 |date=2011-03-01 |url=https://www.mlit.go.jp/report/press/road01_hh_000153.html}}</ref>。 |
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** [[10月21日]] : 上り線の豊田JCT - 音羽蒲郡IC間・下り線の美合PA - 豊田JCT間を暫定6車線化。 |
** [[10月21日]] : 上り線の豊田JCT - 音羽蒲郡IC間・下り線の美合PA - 豊田JCT間を暫定6車線化。 |
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* [[2012年]](平成24年)[[4月14日]] : 新東名高速道路 |
* [[2012年]](平成24年)[[4月14日]] : [[新東名高速道路]]の御殿場JCT - 浜松いなさJCT間、清水連絡路の清水JCT - 新清水JCT間、引佐連絡路の三ヶ日JCT - 浜松いなさJCT間がそれぞれ開通。御殿場JCTで新東名と、清水JCTで清水連絡路と、三ヶ日JCTで引佐連絡路とそれぞれ接続。 |
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* [[2014年]](平成26年)[[6月25日]] : 上り線の海老名JCT - 海老名SA間の付加車線が延伸<ref>{{Cite press release |title=東名高速道路(上り線) 海老名JCT〜海老名SA間付加車線が延伸します。 〜6月25日(水) 午前11時に運用開始〜 |publisher=中日本高速道路株式会社 |date=2014-06-17 |url= |
* [[2014年]](平成26年)[[6月25日]] : 上り線の海老名JCT - 海老名SA間の付加車線が延伸<ref>{{Cite press release |和書 |title=東名高速道路(上り線) 海老名JCT〜海老名SA間付加車線が延伸します。 〜6月25日(水) 午前11時に運用開始〜 |publisher=中日本高速道路株式会社 |date=2014-06-17 |url=https://www.c-nexco.co.jp/corporate/pressroom/news_release/3505.html}}</ref>。 |
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* [[2016年]](平成28年) |
* [[2016年]](平成28年) |
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** [[2月13日]] : 新東名高速道路の浜松いなさJCT - 豊田東JCT間が開通。 |
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** [[3月12日]] : 大井川焼津藤枝スマートIC供用開始。 |
** [[3月12日]] : 大井川焼津藤枝スマートIC供用開始。 |
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** [[3月19日]] : 愛鷹スマートIC供用開始<ref>{{Cite press release |publisher=沼津市・中日本高速道路株式会社東京支社 |title=東名高速道路 愛鷹スマートインターチェンジ 2016年3月19日(土)15時に開通します |date=2016-01-22 |url= |
** [[3月19日]] : 愛鷹スマートIC供用開始<ref>{{Cite press release |和書 |publisher=沼津市・中日本高速道路株式会社東京支社 |title=東名高速道路 愛鷹スマートインターチェンジ 2016年3月19日(土)15時に開通します |date=2016-01-22 |url=https://www.c-nexco.co.jp/corporate/pressroom/news_release/3773.html |accessdate=2016-01-22}}</ref>。 |
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** [[10月8日]] : 上り線の豊田JCT - 音羽蒲郡IC間・下り線の美合PA - 豊田JCT間を再び4車線化。 |
** [[10月8日]] : 上り線の豊田JCT - 音羽蒲郡IC間・下り線の美合PA - 豊田JCT間を再び4車線化。 |
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* [[2017年]](平成29年)[[3月18日]] : 三方原スマートIC供用開始<ref>{{Cite press release |title=東名高速道路 三方原スマートインターチェンジ3月18日(土)13時に開通します |publisher=中日本高速道路株式会社 |
* [[2017年]](平成29年)[[3月18日]] : 三方原スマートIC供用開始<ref>{{Cite press release |和書 |title=東名高速道路 三方原スマートインターチェンジ3月18日(土)13時に開通します |publisher=中日本高速道路株式会社 |
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|date=2017-02-10 |url= |
|date=2017-02-10 |url=https://www.c-nexco.co.jp/corporate/pressroom/news_release/3983.html |accessdate=2017-02-10}}</ref>。同時に三方原(みかたがはら)PAが「三方原(みかたはら)PA」に名称変更。 |
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* [[2018年]](平成30年)[[3月24日]] : 守山スマートIC供用開始<ref>{{Cite press release |title=E1 東名高速道路 守山スマートインターチェンジが 2018年3月24日(土)15時に開通します |publisher=名古屋市・中日本高速道路株式会社 |date=2018-02-01 |url= |
* [[2018年]](平成30年)[[3月24日]] : 守山スマートIC供用開始<ref>{{Cite press release |和書 |title=E1 東名高速道路 守山スマートインターチェンジが 2018年3月24日(土)15時に開通します |publisher=名古屋市・中日本高速道路株式会社 |date=2018-02-01 |url=https://www.c-nexco.co.jp/corporate/pressroom/news_release/4223.html |accessdate=2018-02-01}}</ref>。 |
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* [[2019年]](平成31年 / [[令和]]元年) |
* [[2019年]](平成31年 / [[令和]]元年) |
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** [[3月9日]] : 足柄スマートIC供用開始<ref>{{Cite web|url= |
** [[3月9日]] : 足柄スマートIC供用開始<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.c-nexco.co.jp/corporate/pressroom/news_release/4458.html|title=E1 東名高速道路足柄スマートインターチェンジが 2019年3月9日(土)15時に開通します|date=2019-01-24|accessdate=2019-01-24|publisher=静岡県小山町・中日本高速道路株式会社}}</ref>。 |
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** [[3月17日]] : 伊勢原JCT・舘山寺スマートIC供用開始<ref>{{Cite web|url= |
** [[3月17日]] : 伊勢原JCT・舘山寺スマートIC供用開始<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.c-nexco.co.jp/corporate/pressroom/news_release/4464.html|title=E1 東名高速道路 舘山寺スマートインターチェンジ 2019年3月17日(日)16時に開通します|date=2019-01-31|accessdate=2019-01-31|publisher=浜松市・中日本高速道路株式会社}}</ref><ref name="press20190219">{{Cite web|和書|url=https://www.c-nexco.co.jp/corporate/pressroom/news_release/4480.html|title=E1A 新東名高速道路 厚木南IC〜伊勢原JCTが 2019年3月17日(日)15時に開通します|date=2019-02-19|accessdate=2019-02-19|publisher=中日本高速道路株式会社}}</ref>。 |
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** [[9月14日]] : 日本平久能山スマートIC供用開始<ref>{{Cite web|url=https://www.c-nexco.co.jp/corporate/pressroom/news_release/4614.html|title=静岡市の新たな玄関口 日本平久能山スマートインターチェンジ 2019年9月14日開通!|date=2019-08-09|accessdate=2019-08-09|publisher=静岡市・中日本高速道路株式会社}}</ref>。 |
** [[9月14日]] : 日本平久能山スマートIC供用開始<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.c-nexco.co.jp/corporate/pressroom/news_release/4614.html|title=静岡市の新たな玄関口 日本平久能山スマートインターチェンジ 2019年9月14日開通!|date=2019-08-09|accessdate=2019-08-09|publisher=静岡市・中日本高速道路株式会社}}</ref>。 |
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* [[2020年]](令和2年) |
* [[2020年]](令和2年) |
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** [[3月22日]] : 横浜青葉JCTで首都高速神奈川7号横浜北西線と接続<ref>{{Cite web|url=https://www.shutoko.co.jp/company/press/2019/data/12/18_hokuseisen/|title=横浜北西線(横浜北線〜東名高速)が2020年3月22日16時に開通します ファンランイベント(2020年2月29日)・一般公開イベント(2020年3月8日)も開催|date=2019-12-18|accessdate=2019-12-18|publisher=首都高速道路株式会社・横浜市道路局}}</ref>。 |
** [[3月22日]] : 横浜青葉JCTで首都高速神奈川7号横浜北西線と接続<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shutoko.co.jp/company/press/2019/data/12/18_hokuseisen/|title=横浜北西線(横浜北線〜東名高速)が2020年3月22日16時に開通します ファンランイベント(2020年2月29日)・一般公開イベント(2020年3月8日)も開催|date=2019-12-18|accessdate=2019-12-18|publisher=首都高速道路株式会社・横浜市道路局}}</ref>。 |
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** [[3月28日]] : 駒門スマートIC供用開始<ref>{{Cite web|url=https://www.c-nexco.co.jp/corporate/pressroom/news_release/4720.html|title=E1 東名高速道路 駒門スマートインターチェンジが2020年3月28日(土)15時に開通します|date=2020-01-27|accessdate=2020-01-27|publisher=静岡県御殿場市・中日本高速道路株式会社}}</ref>。 |
** [[3月28日]] : 駒門スマートIC供用開始<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.c-nexco.co.jp/corporate/pressroom/news_release/4720.html|title=E1 東名高速道路 駒門スマートインターチェンジが2020年3月28日(土)15時に開通します|date=2020-01-27|accessdate=2020-01-27|publisher=静岡県御殿場市・中日本高速道路株式会社}}</ref>。 |
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* [[2021年]](令和3年) |
* [[2021年]](令和3年) |
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** [[3月27日]] : 豊田上郷スマートIC供用開始<ref name="press20210212">{{Cite web|url=https://www.c-nexco.co.jp/corporate/pressroom/news_release/5017.html|title=E1 東名高速道路 豊田上郷スマートインターチェンジが2021年3月27日(土)午後3時に開通します|date=2021-02-12|accessdate=2021-02-12|publisher=愛知県豊田市・中日本高速道路株式会社}}</ref>、上郷SA |
** [[3月27日]] : 豊田上郷スマートIC供用開始<ref name="press20210212">{{Cite web|和書|url=https://www.c-nexco.co.jp/corporate/pressroom/news_release/5017.html|title=E1 東名高速道路 豊田上郷スマートインターチェンジが2021年3月27日(土)午後3時に開通します|date=2021-02-12|accessdate=2021-02-12|publisher=愛知県豊田市・中日本高速道路株式会社}}</ref>、同時に上郷SAが「豊田上郷SA」に名称変更<ref name="press20210212" />。 |
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** [[3月31日]] : 綾瀬スマートIC供用開始<ref>{{Cite web|url=https://www.c-nexco.co.jp/corporate/pressroom/news_release/5019.html|title=E1 東名「綾瀬スマートインターチェンジ」が2021年3月31日(水)12時に開通します|date=2021-02-17|accessdate=2021-02-17|publisher=神奈川県・綾瀬市・中日本高速道路株式会社}}</ref>。 |
** [[3月31日]] : 綾瀬スマートIC供用開始<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.c-nexco.co.jp/corporate/pressroom/news_release/5019.html|title=E1 東名「綾瀬スマートインターチェンジ」が2021年3月31日(水)12時に開通します|date=2021-02-17|accessdate=2021-02-17|publisher=神奈川県・綾瀬市・中日本高速道路株式会社}}</ref>。 |
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** [[5月1日]] : 豊田JCT - 小牧IC間の高速料金が大都市近郊区間の料金水準に変更される<ref name="c-nexco-20200501">{{Cite web |
** [[5月1日]] : 豊田JCT - 小牧IC間の高速料金が大都市近郊区間の料金水準に変更される<ref name="c-nexco-20200501">{{Cite web|和書| url = https://www.c-nexco.co.jp/corporate/company/business/permission/20200501/pdf/20200501_zn1.pdf#page=3 | title = 料金の額及びその徴収期間 | date = 2020-05-01 | accessdate = 2021-07-12 | format = PDF | work = 1.高速自動車国道中央自動車道富士吉田線等に関する事業変更について | publisher=中日本高速道路 | page = 3 }}</ref><ref name="名古屋2環">{{Cite web|和書| url = https://www.c-nexco.co.jp/images/news/5025/84e62f51193907a48b20d93aca14d6ae.pdf | title = 中京圏の高速道路料金が変わります | format = PDF | work = C2 名二環 2021年5月1日(土)に全線開通! ~名古屋西JCT~飛島JCT 延長12.2kmが開通~ 合わせて中京圏の高速道路料金が変わります! ~同日、2021年5月1日午前0時から移行します~ | publisher = 国土交通省 中部地方整備局・中日本高速道路株式会社・名古屋高速道路公社 | date = 2021-02-26 | accessdate = 2021-07-12}}</ref>。 |
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== 開通効果 == |
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東名開通前から、東名が及ぼす効果はある程度予測されていた。[[東海道メガロポリス]]に占める人口と工業・商業生産高、自動車保有台数を分析すれば、おのずとそこを貫く幹線高速道路の効果が解るからである{{sfn|池上雅夫|1969|p=15}}。 |
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東海道メガロポリスに占める地域は、東京、千葉、埼玉、神奈川、静岡、愛知、岐阜、三重、滋賀、京都、大阪、兵庫、奈良、和歌山であり{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=132}}、これらの1都2府11県の全国に占める面積はわずか2割に満たない。しかし、1967年(昭和42年)時点で、総人口が日本全体の約半分を占め、地方の過疎化を尻目に全国労働力の9割を飲み込む{{sfn|佐藤正義|1968|p=31}}。さらに、工業出荷額と商店販売額では約7割、全国銀行の貸出残高で8割{{sfn|武田文夫|1968|p=161}}、自動車保有台数で5割以上、貨物の年間輸送量では、自動車で5割、鉄道では3割を占めるなど、日本経済の中枢であり、将来の日本経済発展の指導的立場を担う地域でもある{{sfn|池上雅夫|1969|p=15}}{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=132}}。そうした東海道メガロポリスの発展を伸長する意味で、東名には多くの期待が寄せられた{{sfn|公益財団法人高速道路調査会(1968-5)|1968|p=72}}。 |
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開通前から既に、東名が発揮する効果を見越して、沿道には工場の新設が立て続けに行われたが<ref name="朝日19690310">{{Cite news |title=東名高速 流通基地づくり盛ん インタチェンジに"陸の港" |newspaper=朝日新聞(東京)朝刊|date=1969-03-10|page=2}}</ref>、これは従来、集中化の一途をたどってきた工業地帯が分散化の傾向を示すものであった。つまり、既成工業地区が過密になって、もはや拡張の余地がなく、公害等の問題も絡んで、大スペースを必要とする工場は地価の安い{{sfn|高速道路五十年史編集委員会|2016|p=52}}、未開発の内陸部に展開する方向性を示すことになった{{sfn|池上雅夫|1969|pp=13-14}}。また、敗戦後の日本における復興は、まず三大臨海工業地帯(京浜、阪神、中京)が先導し、その産業形態は、鉄鋼、石油精製、造船、肥料等の重化学工業であって、臨海部に縛られる業態であった。続く昭和40年代に入ると、産業も高度化して機械組立産業と、それに関連した金属加工業が台頭し、これは内陸部に立地展開可能な業態である。臨海から内陸へと国土の全面に渡って展開するこうした工業立地の変化を勢いづけたのが、東名・名神によって工業立地適正が高まった東海道メガロポリスであった{{sfn|武田文夫|1989|p=16}}。 |
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農業でも大変革が予想された。東名の高速輸送によって農地と東京、名古屋、大阪という大消費地の台所を直接結びつけることで、新しい傾向が期待された。実際、大消費地に供給する農作物の商業的農業への転換が開通後には目立って増えることになった{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=142}}。また、農産物は鮮度が命であり、軟弱野菜や高級果実、切花や花卉、家畜の生体輸送等の鮮度低下率の大きいものほど、時間短縮効果と安定走行が約束できる東名の利用効果は高い{{sfn|日本道路公団総務部|1976|p=274}}。これは高速道路の利用による時間節約の利益であり、鮮度を要求する品物では、早く届けられるほど市場で高い値が付いて目立った利益が期待できるほか、これまでは遠くて手が届かなかった有利な市場にまで売り込むことさえ可能となる{{sfn|武田文夫|1968|pp=106-107}}。しかし、特に大きな変革が予想されたのは物流であった。東名、名神直結による時間短縮効果によってトラックのワンマン運転が可能となり、大都市の中間地点にはトラックヤードが整備されたほか、幹線輸送と結びつけるために、都市近郊の厚木、小牧などには流通センターの整備が計画された{{sfn|高速道路五十年史編集委員会|2016|p=52}}。こうした効果の具体例を以下に列挙する。 |
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{{multiple image |
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| footer = |
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| image1 = Airborne imagery Yokohama City (4274354758).jpg |
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| caption1 = 京浜工業地帯の一角を構成する横浜港。東名開通によって臨海部に集中していた工業は内陸部へ分散した。 |
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| image2 = Chukyo Industrial Area (2017).jpg |
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| caption2 = 中京工業地帯(名古屋港東海元浜ふ頭の日鉄名古屋製鉄所)。画像は鉄鉱石の輸入基地{{sfn|名古屋港史編集委員会|1990|pp=437-438}}。加工貿易の重要拠点である。 |
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| image3 = Meitetsu Transportation(Komaki 2021-10-02A).jpg |
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| caption3 = 名神、東名の接点に位置する小牧トラックターミナル。画像は東名開通直前から運用を開始した名鉄運輸の基地<ref name="朝日19690310"/>。 |
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| image4 = Komaki Truck Terminal 20211002C.jpg |
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| caption4 = 高速道路の存在とトラックによる物流は、経済を回すためにはなくてはならないものになった(小牧トラックターミナル)。 |
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}}{{-}} |
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東名は開通当初から主にトラックの交通を受け持ち、企業立地に大きな変化をもたらすことになった。それまでは臨海部主体の工業立地であったが、沿線内陸部へと移る契機を与えた。それは、京浜工業地帯から厚木・相模原へ、駿河湾工業地帯から沼津・富士へ、中京工業地帯から小牧への立地展開である。これらの工業団地は東京など大都市への便を意識しており、東名の開通が与えた変化の一つである{{sfn|高速道路五十年史編集委員会|2016|p=52}}。特に神奈川県の場合、工業は元来、[[横浜港]]を中心とした臨海工業地帯における重化学工業であった。ここは沿岸部に[[東海道本線]]、国道1号が走り、それに沿って細いベルト状に工業が密集していたが、もはや飽和状態であった。しかし、[[国道246号]]と[[小田急小田原線]]に沿う内陸部は未開発地帯で、そこに東名がもう一本の太いベルトを作り上げた。そこには、相模原、厚木、海老名、座間があって、東名が着工された頃からこの地域には工場の新設が相次いだ{{sfn|武田文夫|1968|pp=161-162}}。そのうちの一つである厚木市の場合、元来は国道1号から遠いことで工業化が立ち後れて農業主体であったが、東名の整備によって一変した。インターチェンジ付近には工業団地が整備され、企業の立地が急速に進行した結果、製造業の出荷額は開通以来12年間に7倍以上の伸びを示し、就業人口も全国平均を上回る大幅な伸びを示した{{sfn|千田洋一|1999|p=42}}。他にも、御殿場、沼津IC付近には330万平方メートルの敷地面積で[[トヨタ自動車]]が、焼津、浜松IC周辺には[[河合楽器]]はじめ[[住友ベークライト]]、日清紡、日本ビニロン等が進出した。名神との接続部である小牧ICにおいては特に著しく、従来、毛織物工場3社があるに過ぎなかったが、東名開通前で既に工場数270社まで増加し、敷地面積33,000平方メートルの大規模工場も23社を数えた。東名全体で見ると、全線開通直前の工場進出数は1,067社という膨大な数字であり、これによっても高速道路がいかに工業立地に重要な役割を果たしているかをうかがい知ることができる{{sfn|山本正雄|1965|pp=21-23}}。 |
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[[File:Truck terminal.svg|thumb|300px|大型トラックの都心部乗り入れは制度的にも物理的にも困難である{{sfn|寺田禎之|1971|p=17}}。このため高速道路を利用する場合は大型トラックを使用するが、地域内の集配段階では小回りの利く中型・小型トラックを使ったほうが効率が良い。よって、高速道路を使った長距離輸送の大型車と市内集配の中・小型車を接続し、荷物を積み替えたり仕分けを行うためのトラックターミナルが必要である{{Sfn|社団法人中部建設協会|1998|p=52}}。東名、名神の開通によりインターチェンジ付近にはこうしたトラックターミナルが整備された{{sfn|武田文夫|1968|pp=166-167}}。]] |
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東名の名神直結によって、いよいよ高速道路の流通に対する影響が顕著となってきた。東海道は東名開通前からトラックによる長距離輸送を大々的に行ってきた。東名開通前の国道1号は、東京 - 大阪間の走行に約16時間を要し、ゆえに二人体制の運行であった。しかし、高速輸送を約束する東名の開通によって、それは7時間に短縮された<ref name="朝日19690526夕(P1-東海道メガロ)">{{Cite news |title=三経済圏を直結 東海道メガロを促進 東名高速道路 |newspaper=朝日新聞(東京)夕刊|date=1969-05-26|page=1}}</ref>。さらに、国道1号では15トンまで積めるトレーラーの使用しか認められていなかったが、東名では20トンが可能で<ref name="朝日19690526夕(P1-東海道メガロ)"/>、それを見越してトラック業界は次々と大型トレーラーの導入に踏み切り{{sfn|座談会(司会 広岡治哉)|1967|p=93}}、併せて東名の主要インターチェンジ付近の土地を買い漁って[[トラックターミナル]]を建設した{{sfn|武田文夫|1968|pp=166-167}}。トラック輸送は東名利用による高速化、トラックの大型化による大量の貨物の運搬によって、従来の国道1号ではなし得なかった、大量大型の方向へと突き進んだ{{sfn|武田文夫|1968|pp=166-167}}。トラック輸送が大量大型の方向へ向かわざるを得ないのは、運転手の賃金の上昇と絶対的人数の不足から来る輸送原価上昇を抑制するためである{{sfn|井関雅愛|1969|p=65}}{{sfn|武田文夫|1968|pp=166-167}}。 |
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この条件下で今後要求されるのは、人間の節約である。そのために東名・名神の高速輸送による時間の節約により、二人体制を一人体制に移行させ、大型トレーラーによる大量輸送は、高い積載効率によって普通トラック数台分の貨物を一台に集約できることにより運転手の削減に寄与する{{sfn|武田文夫|1968|pp=166-167}}{{sfn|井関雅愛|1969|p=65}}。また、高速運転によりトラックの回転率の向上につながり、輸送キロ当たりの固定費の減少をもたらす{{sfn|星野英|1969|pp=22-25}}。つまり、トラックが早く走ることによって、貨物1回あたりの輸送時間が減れば、浮いた分の時間を使ってさらに別の輸送を行うことができる(回転率の向上)。これによって、一回当たりの運行に発生する人件費、施設費、税金、保険料、一般管理費などの固定費が節減できる{{sfn|武田文夫|1968|pp=106-107}}。こうした大量・高速の大型トラックによる輸送は東名・名神が受け持ち、都市内と高速道路インターチェンジ付近までの輸送は普通トラックが受け持つという、トラックターミナルを中継点とした輸送の機能分化も現れてきた{{sfn|池上雅夫|1969|p=13}}。 |
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[[File:Toyota Motor Takaoka plant 20211026A.jpg|thumb|トヨタ自動車高岡工場。余分な在庫を持たないジャストイン方式で自動車生産を行う{{sfn|武田文夫|1989|p=17}}。]] |
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今ひとつの高速化のメリットは、企業側の在庫の減少と、それに伴う金利負担の軽減をもたらすことである。輸送が迅速かつタイムリーに行われるならば、在庫を沢山抱えておく必要はなく、電話一本で持ってこさせることができる{{sfn|武田文夫|1968|pp=106-107}}。高速道路は迅速化と絡めて在庫削減を可能にしたが、それを有効活用したのがトヨタ自動車である。豊田市等の三河地域に完成車工場を構えるトヨタ自動車は、東名、名神開通によるトラック輸送革命を利用し、ジャストイン配送を実現した{{sfn|武田文夫|1999|p=11}}。これにより、三河にある完成車工場からおよそ遠く離れた工場からでも部品の調達が可能となって広域的分業を成し遂げると共に、部品の流れは完成車組立ての流れと同期することで余分な在庫を持たないことから、全行程のトータルコストの切り下げをも実現した{{sfn|武田文夫|1989|p=17}}。 |
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農業で見ると、大消費地たる都市と農村との時間的距離が大幅に短縮されたことで、土地生産性の高い商業的農業への転換が進んだ。このうち、愛知県の東三河地域は1960年台までは交通や水利で恵まれず、主として[[サツマイモ|甘薯]]や麦を半農半漁で営む地域であったが、[[豊川用水]]の完成と東名の開通とも相まって作柄の転換が進んだ。これは、東京、大阪などへの大消費地へのアクセスが確保され、これが市場拡大につながったことで、[[花卉園芸|花卉]]に見る商業的農業を展開することが可能となったことによる。さらに、東名利用で東京と4時間で結ばれることにより、前日21時までの注文が入れば、翌朝までに商品を届けることが出来るなど、きめ細かい出荷調整が可能となった{{sfn|千田洋一|1999|p=44}}。例えば[[渥美半島]]産の[[電照菊]]は、輸送のほぼ全てを[[豊川インターチェンジ|豊川IC]]から東名を通して東京市場へ運ばれ、冠婚葬祭に利用されている。特に東名利用による時間短縮効果によって、収穫、選別、荷造りの行程に余裕が出ることで出荷量の拡大につながり、併せて新たな市場開拓をする余裕さえ生まれた{{sfn|日本道路公団総務部|1976|p=275}}。 |
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{{double image aside|right|2018 Tsukiji fish market.jpg|200|Tsukiji Fish market and Tuna.JPG|172|東京中央卸売市場[[築地市場]](2018年閉鎖)と築地市場で競りにかけられる冷凍マグロ。西日本などから首都圏へ輸送される食料は東名で運ばれる。}} |
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東名の開通によって、大都市へ運ばれる地方からの生鮮食品の数が増した{{sfn|日本道路公団総務部|1976|pp=274-276}}。首都圏人口に対して食料を供給する[[東京中央卸売市場]]は、そこへ輸送される貨物のほぼ全てが自動車で運ばれ、ことに高速道路の果たす役割は大きい。高速道路を乗り継いで西日本各地から運ばれる貨物は、最終的に東名利用で東京に至り、ゆえに東名が首都圏の食料を運ぶ大動脈となっている{{sfn|千田洋一|1999|p=45}}。 |
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静岡県[[袋井市]]や[[菊川町 (静岡県)|菊川町]]の畜産飼育農家の場合、東名開通後に子豚の飼育頭数を増やして生産規模の拡大を図った。東名の利用によって袋井の家畜市場への輸送が楽になったほか、市場から子豚が東名を使って京浜、大阪方面へ運ばれており、東名の効果で取引が活発化して価格の安定化がもたらされた。なお、市場からの子豚の輸送は100パーセント東名を利用している{{sfn|日本道路公団総務部|1976|p=277}}。 |
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{{double image aside|right|Mount Fuji and Port of Shimizu from Nihondaira.jpg|200|Hamamatsu Inland Container Terminal 20221106A.jpg|161|画像左 : 清水港。東名開通と併せてマグロ流通の広範化に寄与し、工業製品の輸出を浜松から引き受けるなど地元経済に対する重要性が増した{{sfn|千田洋一|1999|p=43}}。画像右 : 浜松IC付近に所在する内陸コンテナ基地(インランド・デポ)。}} |
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[[清水港]]は東名開通後に大きく発展した。[[マグロ]]流通は元来、築地岸壁にマグロ船をつけ、市場動向をにらみながら適当な量を水揚げする方法が採用されていた。理由はマグロ船のみマイナス65 ℃まで冷却可能で、倉庫や輸送トラックの冷却能力はマイナス30 ℃程度が限界のため、長期保存が不可能であったからである。しかし冷凍能力向上と東名開通により冷凍マグロの出荷体制を新たに構築したことから清水港は冷凍マグロの重要拠点となった。そのシェアは6割以上で、日本一となっている{{sfn|千田洋一|1999|p=43}}。これ以外にも清水港は、東名開通によって工業製品の輸出額が7倍の伸びを示した。それは清水港から遠く離れた浜松における内陸コンテナ基地(インランド・デポ)の影響である{{sfn|千田洋一|1999|p=43}}。 |
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浜松市は工業出荷額が静岡県内最大であるにもかかわらず、浜松近郊には輸出港がないため、その対策として東名開通にあわせて輸出貨物のコンテナ詰めと輸出手続きを行う内陸コンテナ基地を整備した。コンテナは東名を介して清水港まで輸送される{{sfn|千田洋一|1999|p=43}}。なお、清水港に近接する[[焼津港]]の場合、東名開通前は水揚げした[[カツオ]]の出荷先は全て静岡県内であった。しかし、東名開通後は県内向けは減少し、2005年(平成17年)時点では、大都市向けが57パーセントを占めるまでになった{{sfn|中日本高速道路(株)東京支社企画調整チーム|2009|pp=36-37}}。 |
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こうした効果もあって、東名の開通前後から東海道メガロポリスの形成は急速に進行した{{sfn|武田文夫|1989|p=15}}。1973年(昭和48年)の東海道メガロポリスの製造付加価値額は、日本の生産量の56パーセントを占め、日本の生産の半分以上を受け持つまでになった{{sfn|武田文夫|1989|p=16}}。しかし、高度経済成長も頂点を極めた昭和40年代後半に至り、この巨大な経済圏を東海道メガロポリスだけに詰め込むことは不可能となったことで、東北自動車道や関越自動車道などの整備により、東海道に集中していた工業は、やがて東北をはじめ全国に分散していくことになった{{sfn|武田文夫|1989|p=16}}。この全国展開の先駆けとしての東海道メガロポリスの発展に、東名、名神は重要な役割を果たした{{sfn|武田文夫|1989|p=16}}。 |
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その後の東海道メガロポリスは、全国への産業分散を尻目にさらなる人口、立地事業所数の伸びを示した。神奈川、静岡、愛知の3県における東名のインターチェンジから30分圏内の人口増加率は著しく、東名開通以来、3県内に71か所の事業所が造られているが、その内の三分の一が1986年(昭和61年)以降に造られている{{sfn|武田文夫|1999|p=12}}。 |
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== 路線状況 == |
== 路線状況 == |
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1,237行目: | 1,176行目: | ||
なお、左右ルート分岐直前で「[[大型自動車|大貨等]]」の特定の種類の車両の通行区分が解除されているが分岐までの距離が短いため、大型貨物自動車等(重トレーラーを除く)は右ルートには入りにくい{{efn|法律上は右分岐に向かうため予めその手前から最右車線に寄っていても問題はない。ただし通常時の最高速度は80 km/hである。}}。また、重トレーラー{{efn|[[重被牽引車]]を牽引中の場合。[[ライトトレーラー]]のうち車両総重量が750 kg以下(けん引免許が不要なパターン)は対象外(※ライトトレーラーが全てけん引免許不要と言うわけではない)。また通常時の最高速度は80 km/hである。}}は[[車両通行帯#牽引自動車の高速道路等の通行区分など]]により原則第一通行帯通行のため、左ルートの全車線が渋滞で最低速度 (50 km/h) 以下、または通行止め等のような場合を除いては右ルートに入ることができない。 |
なお、左右ルート分岐直前で「[[大型自動車|大貨等]]」の特定の種類の車両の通行区分が解除されているが分岐までの距離が短いため、大型貨物自動車等(重トレーラーを除く)は右ルートには入りにくい{{efn|法律上は右分岐に向かうため予めその手前から最右車線に寄っていても問題はない。ただし通常時の最高速度は80 km/hである。}}。また、重トレーラー{{efn|[[重被牽引車]]を牽引中の場合。[[ライトトレーラー]]のうち車両総重量が750 kg以下(けん引免許が不要なパターン)は対象外(※ライトトレーラーが全てけん引免許不要と言うわけではない)。また通常時の最高速度は80 km/hである。}}は[[車両通行帯#牽引自動車の高速道路等の通行区分など]]により原則第一通行帯通行のため、左ルートの全車線が渋滞で最低速度 (50 km/h) 以下、または通行止め等のような場合を除いては右ルートに入ることができない。 |
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現在の下り線右ルートは以前上り線として使用されていたが、交通量の増加などで新たに現在の上り線をまったく別ルートで建設して転用した。途中、鮎沢PAは上り線と下り線左ルートのみに設置されており、下り線右ルートには上り線として使用されていた頃の鮎沢PAの跡地がみられる。 |
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日本坂TN東側坑口付近 - 西側坑口付近は下り線が新築トンネルを利用した1ルート3車線、上り線が従来のトンネルを改築した左ルート2車線+右ルート2車線の計4車線となっている。 |
日本坂TN東側坑口付近 - 西側坑口付近は下り線が新築トンネルを利用した1ルート3車線、上り線が従来のトンネルを改築した左ルート2車線+右ルート2車線の計4車線となっている。 |
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この区間の改築完成時には上り日本坂PAは左右ルート分岐付近にあり、PAからの合流車両は強制的に左ルートに入る構造になっていた。現在は日本坂PAが焼津側に移転新築したためにPAを利用してもどちらのルートにも入れるようになっている。また、トンネル東側合流部は左ルートを手前で1車線に車線絞り込みした上で右ルートに合流させる制御をしていたが、現在は手前での車線絞り込み制御を廃止し、右ルートと合流した先で左1車線を減少させる制御方法に改善された。 |
この区間の改築完成時には上り日本坂PAは左右ルート分岐付近にあり、PAからの合流車両は強制的に左ルートに入る構造になっていた。現在は日本坂PAが焼津側に移転新築したためにPAを利用してもどちらのルートにも入れるようになっている。また、トンネル東側合流部は左ルートを手前で1車線に車線絞り込みした上で右ルートに合流させる制御をしていたが、現在は手前での車線絞り込み制御を廃止し、右ルートと合流した先で左1車線を減少させる制御方法に改善された。 |
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;リバース運用 |
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路線の維持工事による車線規制が渋滞を引き起こす状況を踏まえ、相応の対策を講じた工事を行うことで渋滞を低減する取り組みが行われているが、大井松田IC - 御殿場IC間では上述の変則的車線運用を活用したリバース運用を実施している。つまり、下り2本、上り1本の構成を活用し、上り線を工事閉鎖のうえ、下り2本の内の1本を上り線に反転して運用する手法である{{sfn|宇佐美純二・夏目惣治・片山一弘|2007|pp=30-31}}。当初は上り線3車線のうちの2車線を規制する方式を採用したが、結果的に最大22 kmに及ぶ渋滞が発生したことからリバース運用を採用するに至った。これによる欠点としては、本来広幅員であるべき左側路肩が0.75 mしか確保できず、逆に右側が3 mであることから、走行速度抑制と路肩走行防止の対策を採っている。また、バス停留所がないことから、工事期間中はバスに先導車を付けて工事中の上り線を通行する対策を採った{{sfn|宇佐美純二・夏目惣治・片山一弘|2007|pp=31-32}}。この運用により、渋滞の発生は確認されないなど一定の効果をあげた{{sfn|宇佐美純二・夏目惣治・片山一弘|2007|p=32}}。なお、この場合、上り線では鮎沢PAを使用できない。 |
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=== 車線・最高速度 === |
=== 車線・最高速度 === |
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{| class="wikitable" style="text-align:center" |
{| class="wikitable" style="text-align:center" |
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!rowspan="2" |区間!!colspan="3" |[[車線]]!!colspan=" |
!rowspan="2" |区間!!colspan="3" |[[車線]]!!colspan="3" |[[最高速度]]!!rowspan="2" |[[設計速度]]!! rowspan="2" |備考 |
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!上下線||上り線||下り線 |
!上下線||上り線||下り線 |
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!style="width:99px"|[[大型自動車|大 |
!style="width:99px"| [[大型特殊自動車|大特]]<br />[[三輪自動車|三輪]]・[[牽引自動車|牽引]] |
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!style="width:99px"| [[大型自動車|大型]][[貨物自動車|貨物]]<br />[[中型自動車#特定中型自動車|特定中型貨物]] |
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! style="width:99px"| 左記を除く車両 |
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| 東京IC - 横浜町田IC||rowspan="2" |6||rowspan="2" |3||rowspan="2" |3||rowspan="6" |80 |
| 東京IC - 横浜町田IC||rowspan="2" |6||rowspan="2" |3||rowspan="2" |3||rowspan="6" |80 [[キロメートル毎時|km/h]]<br />(法定)||rowspan="6" |90 km/h<br />(法定)||rowspan="6" |100 km/h<br />(法定)||100 km/h|| |
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| 横浜町田IC - 大和TN||rowspan="5" |120 |
| 横浜町田IC - 大和TN||rowspan="5" |120 km/h|| |
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| 大和TN||8||4||4|| |
| 大和TN||8||4||4|| |
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1,263行目: | 1,205行目: | ||
| 海老名JCT - 秦野中井IC||rowspan="2"|6||rowspan="2"|3||rowspan="2"|3|| |
| 海老名JCT - 秦野中井IC||rowspan="2"|6||rowspan="2"|3||rowspan="2"|3|| |
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| 秦野中井IC - 大井松田IC||rowspan="3"|80 km/h<br />(指定)||rowspan="3" |
| 秦野中井IC - 大井松田IC||rowspan="3"|80 km/h<br />(指定)||rowspan="3"|80 km/h<br />(指定)||rowspan="3" |80 km/h<br />(指定)||rowspan="3" |80 km/h|| |
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| 大井松田IC - 足柄SA||7||3||2+2||※1 |
| 大井松田IC - 足柄SA||7||3||2+2||※1 |
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1,269行目: | 1,211行目: | ||
| 足柄SA - 御殿場IC||rowspan="2"|6||rowspan="2"|3||rowspan="2"|3|| |
| 足柄SA - 御殿場IC||rowspan="2"|6||rowspan="2"|3||rowspan="2"|3|| |
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| 御殿場IC - 御殿場JCT||rowspan="3" |80 km/h<br />(法定)||rowspan="3"|100 km/h<br />(法定)||rowspan="17" |100 km/h|| |
| 御殿場IC - 御殿場JCT||rowspan="3" |80 km/h<br />(法定)||rowspan="3" |90 km/h<br />(法定)||rowspan="3"|100 km/h<br />(法定)||rowspan="17" |100 km/h|| |
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| 御殿場JCT - 裾野IC||5||3||2||※2 |
| 御殿場JCT - 裾野IC||5||3||2||※2 |
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1,275行目: | 1,217行目: | ||
| 裾野IC - 蒲原TN||rowspan="7"|4||rowspan="7"|2||rowspan="7"|2|| |
| 裾野IC - 蒲原TN||rowspan="7"|4||rowspan="7"|2||rowspan="7"|2|| |
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| 蒲原TN内||80 km/h<br />(指定)||80 km/h<br />(指定)|| |
| 蒲原TN内||80 km/h<br />(指定)||80 km/h<br />(指定)||80 km/h<br />(指定)|| |
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| 蒲原TN - 薩埵TN||80 km/h<br />(法定)||100 km/h<br />(法定)|| |
| 蒲原TN - 薩埵TN||80 km/h<br />(法定)||90 km/h<br />(法定)||100 km/h<br />(法定)|| |
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| 薩埵TN内||80 km/h<br />(指定)||80 km/h<br />(指定)|| |
| 薩埵TN内||80 km/h<br />(指定)||80 km/h<br />(指定)||80 km/h<br />(指定)|| |
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| 薩埵TN - 東名興津BS||80 km/h<br />(法定)||100 km/h<br />(法定)|| |
| 薩埵TN - 東名興津BS||80 km/h<br />(法定)||90 km/h<br />(法定)||100 km/h<br />(法定)|| |
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| 東名興津BS - 袖師TN内||80 km/h<br />(指定)||80 km/h<br />(指定)|| |
| 東名興津BS - 袖師TN内||80 km/h<br />(指定)||80 km/h<br />(指定)||80 km/h<br />(指定)|| |
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| 袖師TN - 清水JCT||rowspan="4" |80 km/h<br />(法定)||rowspan="4"|100 km/h<br />(法定)|| |
| 袖師TN - 清水JCT||rowspan="4" |80 km/h<br />(法定)||rowspan="4" |90 km/h<br />(法定)||rowspan="4"|100 km/h<br />(法定)|| |
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| 清水JCT - 清水IC||6||3||3|| |
| 清水JCT - 清水IC||6||3||3|| |
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1,293行目: | 1,235行目: | ||
| 静岡IC - 日本坂TN||5||3||2|| |
| 静岡IC - 日本坂TN||5||3||2|| |
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|- |
|- |
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| 日本坂TN内||7||2+2||3||80 km/h<br />(指定)||80 km/h<br />(指定)|| |
| 日本坂TN内||7||2+2||3||80 km/h<br />(指定)||80 km/h<br />(指定)||80 km/h<br />(指定)|| |
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| 日本坂TN - 日本坂PA||6||3||3||rowspan="4" |80 km/h<br />(法定)||rowspan="4"|100 km/h<br />(法定)|| |
| 日本坂TN - 日本坂PA||6||3||3||rowspan="4" |80 km/h<br />(法定)||rowspan="4" |90 km/h<br />(法定)||rowspan="4"|100 km/h<br />(法定)|| |
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|- |
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| 日本坂PA - 焼津IC||5||2||3|| |
| 日本坂PA - 焼津IC||5||2||3|| |
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1,303行目: | 1,245行目: | ||
| rowspan="2"|勝間田高架橋付近→牧之原SA<br />勝間田高架橋付近←牧之原SA||下り線<br /> |
| rowspan="2"|勝間田高架橋付近→牧之原SA<br />勝間田高架橋付近←牧之原SA||下り線<br /> |
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| 80 |
| 80 km/h<br />(指定)||80 km/h<br />(指定)||80 km/h<br />(指定) ||80 km/h||上り線 |
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| 牧之原SA - 相良牧之原IC||80 km/h<br />(法定)||100 km/h<br />(法定)||100 km/h|| |
| 牧之原SA - 相良牧之原IC||80 km/h<br />(法定)||90 km/h<br />(法定)||100 km/h<br />(法定)||100 km/h|| |
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| rowspan="2"|相良牧之原IC→菊川IC<br />相良牧之原IC←菊川IC||80 |
| rowspan="2"|相良牧之原IC→菊川IC<br />相良牧之原IC←菊川IC||80 km/h<br />(指定)||80 km/h<br />(指定)||80 km/h<br />(指定)||80 km/h||下り線<br /> |
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| rowspan="2"|80 km/h<br />(法定)||rowspan="2"|100 |
| rowspan="2"|80 km/h<br />(法定)||rowspan="2"|90 km/h<br />(法定)||rowspan="2"|100 km/h<br />(法定)||rowspan="6" |100 km/h||上り線 |
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| 菊川IC - 三ヶ日TN|| |
| 菊川IC - 三ヶ日TN|| |
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| 三ヶ日TN内||80 |
| 三ヶ日TN内||80 km/h<br />(指定)||80 km/h<br />(指定)||80 km/h<br />(指定)|| |
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| 三ヶ日TN - 宇利TN||80 km/h<br />(法定)||100 |
| 三ヶ日TN - 宇利TN||80 km/h<br />(法定)||90 km/h<br />(法定)||100 km/h<br />(法定)|| |
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| 宇利TN内 - 新城PA||80 |
| 宇利TN内 - 新城PA||80 km/h<br />(指定)||80 km/h<br />(指定)||80 km/h<br />(指定)|| |
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| 新城PA - 岡崎IC||rowspan="6" |80 km/h<br />(法定)||rowspan="6"|100 |
| 新城PA - 岡崎IC||rowspan="6" |80 km/h<br />(法定)||rowspan="6"|90 km/h<br />(法定)||rowspan="6"|100 km/h<br />(法定)||※3 |
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| 岡崎IC - 日進JCT||rowspan="5" |120 |
| 岡崎IC - 日進JCT||rowspan="5" |120 km/h|| |
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| 日進JCT - 名古屋IC||6||3||3|| |
| 日進JCT - 名古屋IC||6||3||3|| |
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1,337行目: | 1,279行目: | ||
中央自動車道と比べると平地部のルート中心で全体的に直線が多く、概ねの区間が100 km/h制限だが、一部の区間は80 km/hに規制されている。特に大井松田IC - 御殿場IC間は山間部のルートで急勾配や急カーブが連続している。また、大和トンネルを除く全てのトンネルで80 km/hに規制されている。 |
中央自動車道と比べると平地部のルート中心で全体的に直線が多く、概ねの区間が100 km/h制限だが、一部の区間は80 km/hに規制されている。特に大井松田IC - 御殿場IC間は山間部のルートで急勾配や急カーブが連続している。また、大和トンネルを除く全てのトンネルで80 km/hに規制されている。 |
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他の高速道路と同様、[[雨|雨天]]・[[降雪]]・[[霧|濃霧]]・[[台風]]などの荒天時、[[交通事故|事故]]や工事などの場合は |
他の高速道路と同様、[[雨|雨天]]・[[降雪]]・[[霧|濃霧]]・[[台風]]などの荒天時、[[交通事故|事故]]や工事などの場合は50 - 80 km/hの速度規制が行われる。 |
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上記区間以外にも[[登坂車線]]、付加車線が設置されている区間がある。特に[[尾張丘陵|名古屋市近郊の丘陵地]]を通る比較的起伏の多い区間ではかなり距離のある付加車線が設置されている。 |
上記区間以外にも[[登坂車線]]、付加車線が設置されている区間がある。特に[[尾張丘陵|名古屋市近郊の丘陵地]]を通る比較的起伏の多い区間(豊田IC - 守山PA)ではかなり距離のある付加車線が設置されている。 |
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==== 道路幅員と線形 ==== |
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また、新東名高速道路 [[浜松いなさジャンクション|浜松いなさJCT]] - [[豊田東ジャンクション|豊田東JCT]]間の開通までの暫定的な渋滞対策として、2011年(平成23年)10月から上り線の豊田JCT - 音羽蒲郡IC間、下り線の美合PA - 豊田JCT間の4車線区間で暫定6車線化が行われていた<ref>{{Cite press release |title=東名高速 2車線の一部区間を暫定的に3車線にします -音羽蒲郡IC〜豊田JCT間の安全(渋滞・事故)対策として- |publisher=中日本高速道路株式会社 |date=2011-02-23 |url=http://www.c-nexco.co.jp/corporate/pressroom/news_old/index.php?id=1896}}</ref><ref>{{Cite press release |title=東名集中工事終了とともに3車線(暫定)運用を開始します〜音羽蒲郡IC〜豊田JCT間〜 |publisher=中日本高速道路株式会社 |date=2011-09-22 |url=http://www.c-nexco.co.jp/corporate/pressroom/news_old/index.php?id=2294}}</ref>。この区間は路肩の幅員が0.75 m、1車線当たりの幅員が3.25 mと狭くなるため、最高速度は60 km/hに設定されていた(車線数が増える直前は緩衝地帯として80 km/hに設定)。2016年(平成28年)2月の新東名開通後に当該区間の渋滞が大幅に減少し、同年秋の東名集中工事で4車線に戻された<ref>{{Cite press release |title=東名高速道路 音羽蒲郡IC〜豊田JCT間の3車線(暫定)運用を2車線に戻します |publisher=中日本高速道路株式会社 |date=2016-09-23 |url=http://www.c-nexco.co.jp/corporate/pressroom/news_release/3919.html}}</ref>。 |
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[[File:Median strip and shoulder of the Tomei Expressway.svg|300px|thumb|故障車が駐車するための路肩は走行車線側が3.25 m、中央分離帯側が1.8 mとなっている{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|pp=145-146}}。]] |
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道路幅員は3.25 m([[路肩]]〈側帯{{efn|路肩の一部である。車線外縁に接して車線と同一の構造を持ち0.75 mの幅を持つ{{sfn|日本道路公団総務部|1976|p=400}}。}}含む〉)+3.6 m([[車線]])×2(または3)+0.75 m(中央側帯)+3.0 m([[中央分離帯]])+0.75 m(中央側帯)+3.6 m(車線)×2(または3)+3.25 m(路肩〈側帯含む〉)=25.4 m(または32.6 m)である{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=277}}。これは標準幅員で、橋梁、切土、盛土、トンネル等の相違によって変化する。特に工費が高いトンネルと東京近郊では路肩が狭くされ、トンネルの場合は0.75 mである{{sfn|池上雅夫|1969|p=33}}。このため、トンネルでは故障車の発生に備えて非常電話を200 m間隔で設けた{{sfn|池上雅夫|1969|p=134}}。 |
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名神では路肩が土工部2.75 m、橋梁部1.75 mであるが、東名は先の例外区間を除いて土工、橋梁の区別なく全線3.25 mとなった{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=535}}。これは名神の路肩に大型車を停車させて車道を走る車の位置を測定したところ、明らかに中央部分に退避して走行していることが判明したことから路肩の拡大に至ったものである{{sfn|片平信貴|1964|p=32}}。一方、中央分離帯側にも路肩を設けた。縁石を低くすることで、側帯と合わせて中央分離帯の一部を路肩に加えており、1.8 mを確保している。この場合、故障車の一部が車道側にはみ出すが、残りの車線幅の中で速度を落としながらの走行が可能である{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|pp=145-146}}。 |
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なお、足柄SA - 大井松田IC間の上り線は[[東名集中工事]]などの際は同区間を通行止にし、下り線右ルート(旧上り線)を上り線として使用する場合がある。この場合、上り線では鮎沢PAを使用できない。 |
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車線幅員3.6 mは名神から引き続いて採用したが、これは設計上の数値であって、実際の運用は走行車線3.5 m、追越車線3.7 mである{{sfn|日本道路公団総務部|1976|p=401}}。この数値は名神の事故調査の結果により算定し、追い越しを少しでも楽にする狙いから採用された{{sfn|池上雅夫|1969|p=32}}。ただし、東京 - 厚木間の6車線区間は全て3.6 mである{{sfn|日本道路公団総務部|1976|p=401}}。また、後年新設された大井松田 - 御殿場間の上り線(3車線)は3.5 m+3.75 m+3.5 mである{{sfn|橋本弘之|1982|p=64}}。 |
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==== 道路幅員 ==== |
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{{wide image|Tomei Expwy(Sectional view).svg|900px|東名高速道路の盛土区間とトンネル区間の標準横断構成{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=277}}{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=226}}。トンネルは下り側のみ掲載。上り線トンネルとは最小でも30 m離している{{efn|この間隔があまり狭いと、一方のトンネルの掘削による発破の影響から、他方の山が緩んで崩壊する恐れがある{{sfn|池上雅夫|1969|p=133}}。}}。トンネルの半径断面は名神より170 mm拡大されて5,170 mmとなった。これにより名神比で400 mm幅が拡大され、これを保守作業を行うための通路にあてた{{sfn|池上雅夫|1969|p=133}}。横断勾配は雨天における路面の排水不良が[[ハイドロプレーニング現象]]を引き起こして危険であることから、名神の1.5パーセントから2パーセントに改良した{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=535}}。}} |
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道路幅員は3.0 m([[路肩]])+3.6 m([[車線]])×2(または3)+0.75 m(中央側帯)+3.0 m([[中央分離帯]])+0.75 m(中央側帯)+3.6 m(車線)×2(または3)+3.0 m(路肩)=24.9 m(または32.1 m)<ref>{{PDFlink|[http://www.fdma.go.jp/html/data/tuchi1708/pdf/170818kyu184-bs3.pdf 総務省消防庁「高速道路におけるヘリコプターの離着陸に関する検討」〜ヘリコプター離着陸の要件・連絡体制等の整理〜(平成17年8月18日) 別紙3]}}</ref>であり、現在の[[道路構造令]]において車線や路肩など各部の幅員は0.25 m刻みとなっているが、東名の車線は3.6 mである。これは、<!--いつ?--><!--多分開通直前の'68年頃-->当時の日本に高規格道路の明確な基準が無く、車線幅に[[アメリカ合衆国|アメリカ]]で用いられる12[[フィート]]を採用したためといわれている<ref>[http://hyocom.jp/blog/blog.php?key=3151 jamjam 土木用語辞典 (4) 高速道路]</ref>。 |
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[[File:Linear design of the Tomei Expressway.svg|250px|thumb|電子計算機を使用した透視図の例。縦断図と平面図を組み合わせて立体図として見た場合、上空からの目線を下げるに従って二次元では判らなかった欠点が浮き彫りになる{{sfn|池上雅夫|1969|pp=48-49}}。路面高さ10 mまで降下した場合、視点Bのように凸型の頂部(クレスト)のかげに隠れる部分が増えることで路面が寸断されて見える。視点Cのドライバー目線では、直前のクレストから先の路面が全く見えないことから、その先の運転予測が立てづらくドライバーを不安に陥れる{{sfn|池上雅夫|1969|pp=51-53}}。]] |
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=== 冬季の通行規制 === |
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名神高速道路では、設計に際し[[日本道路公団]]がドイツから道路計画の技術専門家である[[フランツ・クサーヴァー・ドルシュ]]、アメリカからは土質、舗装の専門家としてポール・ソレデンガーを雇って、この両名の指導の下で高速道路の計画設計がなされており、これに引き続く東名高速建設においても両名が顧問を務めた{{sfn|武部健一|2015|pp=191-194|ps=、「クサヘル・ドルシュ」より}}{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|pp=10-11}}。 |
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東京IC - 沼津IC間では降雪時にチェーン規制が実施されることがあり、それ以西の区間ではチェーン規制はなく、降雪時は50 km/h規制→通行止という段階で規制措置がとられる。標高が高い大井松田IC - 沼津IC間や強い冬型気圧配置時に雪雲が流れ込む豊川IC以西では通行止になる場合がある。通行止区間では融雪剤散布などの作業が行われるが、雪が止んでも除雪設備の不足や夜間の凍結により通行止措置が長引く場合がある。 |
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東名は名神の設計を基本としながらも、幾つかの改良を加えている。名神では線形が栗東以西と以東で異なっており、早期に開通した西部が直線主体、それより遅く開通した東部が曲線主体であるが、これはドルシュの影響である{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=152}}。東名では、直線をほとんど用いず、曲線主体である。その比率は東名の総延長346.7 kmのうちの330.7 kmに達し、95.5パーセントとなっている。名神の約57パーセントと比較しても、東名の曲線の多さが際立っている{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=229}}。曲線への移行の背景として、ドライバーに緊張を持続させる意図がある{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=152}}。直線道路は単調であり、ドライバーの疲労感を高めて距離の目測を誤らせ{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=154}}、ひいては眠気さえ催すことが経験的に実証されていることから、適度な刺激としてのカーブや勾配が必要となる{{sfn|池上雅夫|1969|p=24}}。また、曲線主体とすることは、線形設計の自由度が高められ{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=152}}、用地取得においても建設費用にとっても望ましいものとなる{{sfn|池上雅夫|1969|p=40}}。 |
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曲線は平面線形と縦断(坂の上り下り)線形に用いられたが、2つはそれぞれ独立したものではなく、立体的に組み合わさったものである{{sfn|池上雅夫|1969|p=47}}。設計段階で2つを組み合わせ、運転席から見たのと同様の三次元の立体像として捉えたのが透視図で、ドルシュは名神建設に際してこの透視図の効用を説いたが、道路の設計に利用され始めたのは東名と中央道からである{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=155}}。東名では透視図の作成に電子計算機を使用し、東名全域にわたって100 - 200 m毎に透視図を作成のうえ、問題箇所について再検討する手法を採った{{sfn|池上雅夫|1969|p=49}}。平面線形、あるいは縦断線形だけを見た場合、円、[[クロソイド曲線]]、直線を入れて完璧な線形に見えても、ドライバー目線の立体的な視点から前方の道路を見たとき、道路が途切れて見えたり、先の道路形状が不明で運転予測が立てづらく、ドライバーの心理を不安に陥れることがある{{sfn|池上雅夫|1969|pp=50-54}}。2次元ではわからない欠点を3次元の透視図で洗い出し、それによって2次元の図に修正を加えて完成度を上げた。 |
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路線の95パーセント以上に曲線が取り入れられたことは、路線を構成する橋梁にも曲線橋が多用されたことを意味する。平面曲線を描く過程で橋があるなら、橋にも曲線が取り入れられ、勾配の過程にあれば橋にも高低差を取り入れた{{sfn|池上雅夫|1969|pp=109-110}}。その中でも規模の大きい曲線橋としては、東名酒匂川橋、浜名湖橋、富士川橋がある。中でも浜名湖橋は[[カント (路線)|横断勾配]]6パーセントから、S曲線を描いてマイナス4パーセントに移行することで、橋全体がねじれた構造となっている{{sfn|池上雅夫|1969|p=110}}。富士川橋の場合は、クロソイド曲線が入るうえに、勾配も入り、高低差でいえば、名古屋側25 m、東京側11 mと橋の前後で14 mの差がある{{sfn|池上雅夫|1969|p=110}}。東名酒匂川橋の場合、2箇所の曲線半径と、それを挟み込む4箇所のクロソイド曲線で構成され、このうちの一箇所は曲線半径400 mという急カーブが採用された{{sfn|池上雅夫|1969|p=163}}。 |
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{{multiple image |
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| footer = |
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| align = left |
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| width = 200 |
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| image1 = E1 Tomei Expwy 20211002C.jpg |
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| caption1 = 高速走行を前提とする東名では、縦断線形と平面線形の組み合わせによるドライバー視点に立った、安全、快適な線形設計がなされた。予測の立てづらい線形、緩やかなカーブに突然急カーブが現れるなどの危険な設計は慎んだ{{sfn|早生隆彦|1969|pp=30-31}}。 |
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| image2 = Tomei-Hamanako Bridge.jpg |
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| caption2 = S曲線と横断勾配が取り入れられた浜名湖橋。 |
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| image3 = Yubure, Yamakita, Ashigarakami District, Kanagawa Prefecture 258-0123, Japan - panoramio (1).jpg |
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| caption3 = 東名酒匂川橋。曲線半径700 mと400 mのカーブに加え、カーブの前後にクロソイド曲線が4つ入る複雑な線形から成る。画像はパラメーター220 mのクロソイド曲線を経て、曲線半径400 mのカーブに差し掛かる場面{{sfn|池上雅夫|1969|pp=163-164}}。 |
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}}{{-}} |
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=== 道路施設 === |
=== 道路施設 === |
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==== インターチェンジ ==== |
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{{double image aside|right|Yokohama-Machida Interchange(CKT20074-C2-2).jpg|200|Hamamatsu I.C(1975 - 2015).svg|296|当初からダブルトランペット型を採用した横浜町田IC(画像左端)とシングルトランペットとして発足してのちにダブル化した浜松IC(1975年と2015年の画像の比較){{sfn|池上雅夫|1969|p=97}}。<small>([https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1 国土地理院地図・空中写真閲覧サービス]の航空写真を元に加工)</small>}} |
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インターチェンジは当初21箇所で発足した。設計の基本としたことは、有料道路という建前から、管理業務の容易さを考慮して、料金所を1箇所に集約できるトランペット型を多用したことである{{sfn|池上雅夫|1969|pp=95-96}}。あらかじめ割り出した出入り交通量を踏まえ、インターチェンジ、接続する一般道路、両者の合計のそれぞれの基準量を設定し、設計時点、あるいは将来その基準量に達すると見込まれる場合は、一般道路との接続も立体交差としたダブルトランペット(横浜町田、厚木、大井松田、豊川、岡崎、名古屋、春日井の7か所)、また15年以内に達すると見込まれる場合はダブルトランペットの用地を確保したシングルトランペットとした(富士、清水、浜松の3か所){{sfn|池上雅夫|1969|pp=96-97}}。例外的に、東京インターチェンジは料金所が本線料金所であることからダイヤモンド型が採用されている{{sfn|池上雅夫|1969|p=96}}。 |
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トランペット型は曲線半径35 m(最小値)の急カーブを描くことから、設計速度は40 km/h(特別な場合は35 km/h)である。こうした急曲線のトランペット型が採用できるのは、接続先が低速走行の一般道路だからである{{sfn|池上雅夫|1969|p=97}}。これに対して、高速道路同士を直接接続するジャンクションでは高速で円滑に連絡できるように比較的緩いカーブが計画された{{sfn|池上雅夫|1969|pp=97-98}}。インターチェンジが急カーブを採用せざるを得ないのは、高速走行を重視するあまり、カーブを緩めすぎるとその分用地を広くとらなければならず、用地買収面で不利になるからである{{sfn|池上雅夫|1969|p=100}}。 |
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==== サービスエリア・パーキングエリア ==== |
==== サービスエリア・パーキングエリア ==== |
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{{double image aside|right|Makinohara SA 20221106.jpg|200|Yui PA 20221106A.jpg|200|画像左 : 茶畑に囲まれた牧之原SA。画像右 : 由比パーキングエリア。本来PAを設ける地形条件にはなかったが、優れた景観を提供できることから設置された{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=177}}。}} |
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概ね50 km間隔でサービスエリアを設けた。50 km間隔としたのは、諸外国の実例、運転による疲労度の限界、車両性能、給油の需要関係等を考慮した結果である{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=504}}。 |
概ね50 km間隔でサービスエリアを設けた。50 km間隔としたのは、諸外国の実例、運転による疲労度の限界、車両性能、給油の需要関係等を考慮した結果である{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=504}}。 |
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SA同士の間には概ね15 km間隔でパーキングエリア(PA)を置いた。PAは景観は考慮せず、工事の容易なところを選定したが、それでも優れた景観が望める場合はそれを考慮した。そのもっともたる例が由比PAで、多少無理をしてでも造成し、細長い駐車場を設けた{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=177}}。 |
SA同士の間には概ね15 km間隔でパーキングエリア(PA)を置いた。PAは景観は考慮せず、工事の容易なところを選定したが、それでも優れた景観が望める場合はそれを考慮した。そのもっともたる例が由比PAで、多少無理をしてでも造成し、細長い駐車場を設けた{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=177}}。 |
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* 東名は全区間を通して交通量が多いために、由比PA・赤塚PA下り線・[[豊橋パーキングエリア|豊橋PA]]を除く、すべてのサービスエリア (SA)・パーキングエリア (PA) に売店がある。 |
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* 東名は全区間を通して交通量が多いために、海岸脇で用地がなく設置困難な由比PA下り線を除く、すべてのサービスエリア (SA)・パーキングエリア (PA) に売店があったが、赤塚PA下り線の商業施設はトイレ建て替え工事に伴い、2017年(平成29年)8月31日をもって閉店となった<ref>{{Cite web|url=http://sapa.c-nexco.co.jp/topics?id=815|title=E1東名高速道路 赤塚PA(下り線:名古屋方面)商業施設の閉店について|date=2017-08-10|accessdate=2017-08-14|publisher=中日本高速道路株式会社・中日本エクシス株式会社|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170814180337/http://sapa.c-nexco.co.jp/topics?id=815|archivedate=2017-08-14|deadlinkdate=2018-07-01}}</ref>。また、2019年(平成31年)4月12日に[[豊橋本線料金所]]跡地に設置された[[豊橋パーキングエリア]]にも売店は設置されていない。さらに2020年(令和2年)5月6日には由比PA上り線のフードコートとショッピングコーナーが閉店となった<ref>{{Cite web|url=https://sapa.c-nexco.co.jp/topics?id=1606|title=E1 東名高速道路 由比PA(上り)「フードコート」「ショッピングコーナー」閉店のお知らせ|date=2020-04-17|accessdate=2020-05-06|publisher=中日本エクシス株式会社}}</ref>。 |
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* [[レストラン]]は富士川SA・牧之原SA・豊田上郷SA下り線以外のSAと新城PA下り線に設置されている。 |
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* [[ガソリンスタンド]]は全てのSAに設置されており、全て24時間営業。なお、給油所があるPAはない。 |
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* 富士川SA・牧之原SA・豊田上郷SA下り線以外のSAに[[レストラン]]が設置されている。 |
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* すべてのSAに電気自動車用の急速充電器設備が設置されている(利用には事前登録が必要)。 |
* すべてのSAに電気自動車用の急速充電器設備が設置されている(利用には事前登録が必要)。 |
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==== バスストップ ==== |
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{{Double image aside|right|Yaizu nishi Bus stop 02.jpg|170|Toyota IC 20211026F.jpg|190|本線に接する直接式バスストップ(焼津西BS)|ICトールゲートに隣接するバスストップ(豊田BS)}} |
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東名では名神から引き続いて高速路線バスを運行している。運行にあたり、バスが途中のインターチェンジをいちいち出ていたのでは高速連絡の利点を生かせないため、本線上あるいはIC、SA、PAに併設する乗降場が用意された。乗降場の長さは3台のバスが同時に発着できるように45 mを標準の長さとした。IC併設の場合はトールゲート付近に置かれ、一般道路走行バスとすぐに乗り継げるようにした{{sfn|池上雅夫|1969|p=102}}。 |
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==== 主なトンネルと橋 ==== |
==== 主なトンネルと橋 ==== |
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{{Double image aside|right|DECK BRIDGE&THROUGH BRIDGE.svg|170|Tomei Sakawa River Bridge 02.jpg|190|交通路が構造系の上方に位置するのが上路橋、下方に位置するのが下路橋である{{sfn|長井正嗣|2003|p=13}}。東名の橋梁は上路橋を採用したことから{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=228}}、車の走行中に橋そのものが視界に入ることはない{{sfn|長井正嗣|2003|p=13}}。画像右は上路橋の東名酒匂川橋。}} |
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{{Double image aside|right|Ashigara bridge.jpg|165|Nihonzaka-kudari.JPG|165|東名足柄橋|日本坂トンネル下り線入口}} |
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路線に占める橋梁の割合は約15パーセント(52.5 km)で、自動車走行上あまりよくない下路橋(通路が構造物の下にある橋)は採用せず、全て上路橋を採用した{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=228}}。このため、カーブに溶け込ませていることとも相まって、運転者目線では橋を通過していることが意識しづらくなっている{{sfn|池上雅夫|1969|pp=109-110}}。 |
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[[File:Tomei Tsuburano Tunnel east.jpg|thumb|都夫良野トンネル下り線入口]] |
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* [[東名多摩川橋]](東京IC - 東京TB) |
* [[東名多摩川橋]](東京IC - 東京TB) |
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* [[大和トンネル]] (横浜町田IC - 綾瀬 |
* [[大和トンネル]] (横浜町田IC - 綾瀬SIC) : 280 m |
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* 相模川橋(海老名 |
* 相模川橋(海老名JCT - 厚木IC) |
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* 川音川橋(大井松田IC - 鮎沢PA) |
* 川音川橋(大井松田IC - 鮎沢PA) |
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* [[東名皆瀬川橋]](大井松田IC - 鮎沢PA) |
* [[東名皆瀬川橋]](大井松田IC - 鮎沢PA) |
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* 吾妻山トンネル(大井松田IC - 鮎沢PA) : 上り線298 m 下り線右ルート347 m 左ルート360 m |
* 吾妻山トンネル(大井松田IC - 鮎沢PA) : 上り線298 m 下り線右ルート347 m 左ルート360 m |
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* [[都夫良野トンネル]](大井松田IC - 鮎沢PA) : 上り線1,715 m 下り線右ルート1,656 m 左ルート1,689 m |
* [[都夫良野トンネル]](大井松田IC - 鮎沢PA) : 上り線1,715 m 下り線右ルート1,656 m 左ルート1,689 m |
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*[[東名酒匂川橋]] (大井松田IC - 鮎沢PA) |
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* 鳥手山トンネル(鮎沢PA - 大井松田IC 東京方面のみ): 842 m |
* 鳥手山トンネル(鮎沢PA - 大井松田IC 東京方面のみ): 842 m |
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* 太郎ヶ尾トンネル(鮎沢PA - 大井松田IC 東京方面のみ): 708 m |
* 太郎ヶ尾トンネル(鮎沢PA - 大井松田IC 東京方面のみ): 708 m |
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* [[所領トンネル]](足柄SA - 鮎沢PA 東京方面のみ): 125 m |
* [[所領トンネル]](足柄SA - 鮎沢PA 東京方面のみ): 125 m |
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* [[白旗トンネル]](足柄SA - 鮎沢PA 東京方面のみ): 215 m |
* [[白旗トンネル]](足柄SA - 鮎沢PA 東京方面のみ): 215 m |
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* [[東名酒匂川橋]](大井松田IC - 鮎沢PA) |
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* [[東名足柄橋]](鮎沢PA - 足柄SA 東京方面) : 370 m(1991年度[[土木学会田中賞]]受賞) |
* [[東名足柄橋]](鮎沢PA - 足柄SA 東京方面) : 370 m(1991年度[[土木学会田中賞]]受賞) |
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* [[富士川橋]](富士IC - 富士川SA) : 780 m |
* [[富士川橋]](富士IC - 富士川SA) : 780 m |
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* 安倍川橋(静岡IC - 日本坂PA) |
* 安倍川橋(静岡IC - 日本坂PA) |
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* [[日本坂トンネル]](静岡IC - 日本坂PA) : 上り線右ルート2,371 m 左ルート2,378 m 下り線2,555 m |
* [[日本坂トンネル]](静岡IC - 日本坂PA) : 上り線右ルート2,371 m 左ルート2,378 m 下り線2,555 m |
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* [[大井川橋#東名高速道路 大井川橋|大井川橋]](焼津 |
* [[大井川橋#東名高速道路 大井川橋|大井川橋]](大井川焼津藤枝SIC - 吉田IC): 850 m |
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* [[天竜川橋#東名高速道路 天竜川橋|天竜川橋]](遠州豊田PA - 浜松IC): 1,071 m |
* [[天竜川橋#東名高速道路 天竜川橋|天竜川橋]](遠州豊田PA - 浜松IC): 1,071 m |
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* [[浜名湖橋]]( |
* [[浜名湖橋]](舘山寺SIC - 浜名湖SA) : 603 m |
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* 三ヶ日トンネル(三ヶ日IC - |
* 三ヶ日トンネル(三ヶ日IC - 三ヶ日JCT) : 上り線461 m 下り線366 m |
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* [[宇利トンネル]](三ヶ日 |
* [[宇利トンネル]](三ヶ日JCT - 新城PA) : 上り線958 m 下り線913 m |
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* 矢作川橋(岡崎IC - 豊田JCT) |
* 矢作川橋(岡崎IC - 豊田JCT) |
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|東京IC - 横浜町田IC||0||0 |
|東京IC - 横浜町田IC||0||0 |
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|横浜町田IC - |
|横浜町田IC - 綾瀬SIC||1||1 |
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|綾瀬SIC - 大井松田IC||0||0 |
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|大井松田IC - |
|大井松田IC - 鮎沢PA||5||2 |
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|- |
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|鮎沢PA - 足柄SA||4||0 |
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|足柄SA - 富士川SA||0||0 |
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|富士川SA - 由比PA||1||1 |
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|由比PA - 清水JCT||4||4 |
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|清水JCT - 静岡IC||0||0 |
|清水JCT - 静岡IC||0||0 |
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大井松田IC - 御殿場IC間は上下線でかなり離れた所を通過するため、上下線のトンネル数も大幅に異なる。新規開設された上り線の方が7本も多くなっている。 |
大井松田IC - 御殿場IC間は上下線でかなり離れた所を通過するため、上下線のトンネル数も大幅に異なる。新規開設された上り線の方が7本も多くなっている。 |
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=== 料金 === |
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東名は高速自動車国道の体系に組み込まれていることから、その料金体系で料金が決定される。以下、開通当初の料金政策と現行制度について述べる。 |
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;植栽 |
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==== 開通当初 ==== |
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{{double image aside|right|Toyota IC 20211026C.jpg|200|Toyota IC 20211026D.jpg|200|豊田IC。高木を散在させ、主木を[[クスノキ|楠]]とした。防風、遮蔽の役割も兼ねる{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=188}}。}} |
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東名は名神同様、建設資金の関係から通行料金の徴収を行い、完成後20年を目処に建設資金を償還しうるものとされた{{sfn|池上雅夫|1969|p=5}}。通行料金の設定は名神を参考としたが、名神の考え方を東名にそのまま当てはめることは適正でないことから、学識経験者の意見を元に検討した{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=38}}。その結果、長距離逓減制、画一料率制、車種区分などの議論がなされた{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=40}}。 |
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インターチェンジの修景はIC周辺の環境に配慮した。すなわち、森林、田園、将来は市街地化するのか、等の相違によって、芝生主体、あるいは樹木群を濃密にする、郷土樹木を植える、等の周辺環境との調和を目指した。予定された21か所のICごとに異なる主木を採用できればそれにこしたことはないが、いかんせん346 kmの路線ゆえ、気候風土にそれほどの相違もないことで、ICによっては重複も存在する。なお、ランプウェイから本線に合流する付近の右側は、ドライバーの注意力を妨げないために高い樹木の植栽を禁じた。ICのり面は芝生で被覆し、ランプウェイに沿っては、視線誘導と不安感の除去を目的に低木を密植した{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=186}}。 |
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この内の画一料率制とは、同じ高速自動車国道である名神、東名、中央道の料率を統一する制度である。採用理由はそれぞれ異なる路線であっても、各路線のサービスはほぼ同質であり、経営主体が同一であることによっている{{sfn|大久保正行(1995-05)|1995|p=39}}。この画一料率制を基礎として、対距離制で料金徴収することとした{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=46}}。この画一料率制は、のちに採用される[[日本の高速道路#建設費と償還|全国プール制]]の先駆けとなる制度となった{{sfn|大久保正行(1995-05)|1995|p=39}}。なお、制定当時の料率は普通車の場合、1 kmで9.5円、東京 - 横浜間は2割増(後述)の11.4円であった{{sfn|高速道路五十年史編集委員会|2016|p=46}}。 |
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中央分離帯に対向車のヘッドライトが与えるまぶしさを回避する目的で木を植えている。名神では木の間隔を4 mとしたが、その後の走行試験の結果、6 mにしても差し支えないことから、植栽の本数削減の意図もあって東名では6 m間隔とされた{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|pp=181-182}}。樹種は萌芽力が強く、下枝の上がりにくい中木、もしくは低木を採用した。なお、沿道の畑の農作物に発生する害虫が、中央分離帯の植物に宿る害虫と一致する場合は、それらの地域から離れた場所に植栽した。つまり、みかんや茶を栽培する地域では、その付近の中央分離帯の木は「さざんか」と「まさき」の植栽は避けて別の樹種を植えている{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=182}}。これらの木はトンネル、橋梁を除いた約260 km区間に16種類、13万本を植栽した{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=182}}。 |
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また、長距離利用を促進するために該当利用者の負担を軽減する「長距離逓減制」を導入することにした。データ上、走行距離100 kmを超えると交通量が激減するため、100 km以上の交通を対象として1 kmあたり25パーセントの割引率を導入することになった{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=48}}。また、通行料金について大蔵省(現・財務省)が横やりを入れ、大都市では建設費が著しく高く(東名の1 kmあたり建設費9.9億円対して大都市近郊は15億円を要した{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=53}})、東名利用者の利便性が高いことから、東京 - 厚木間については他区間よりも割高に設定することを要求した。これに対して建設省は、1 kmあたり建設費が15億円以上であることを基準として、東京 - 横浜間のみに適用することを主張して両者は鋭く対立した。大蔵省は他にも、富士 - 焼津間についても要求したが、最終的に東京 - 横浜間のみ割高として{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=42}}、1 kmあたり20パーセント増しとした{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=53}}。これらは1969年(昭和44年)3月17日認可、同月31日より施行された。なお、施行以前は名神とほぼ同様の暫定料金で運用することとした{{sfn|高速道路五十年史編集委員会|2016|p=51}}。 |
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これ以外では、路傍やサービスエリア、パーキングエリアにも植栽している。一般道路を走る車や交差する鉄道車両からのヘッドライトを遮蔽し、沿道の墓地、火葬場などの遮蔽、目障りな切土区間と盛土区間の境を隠す目的で植栽した。また、トンネルから出た車のドライバーが明るさに慣れていないことから、明るさをブロックするためのトンネル付近の植栽、学校や病院等静寂を必要とする区間では、枝葉が密な常緑樹を植栽した{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=183}}。 |
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;施設 |
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{{double image aside|right|Toyota IC 20211026A.jpg|200|Toyota IC 20211026E.jpg|200|インターチェンジトールゲートのデザインは名神で採用されたものを引き続いて採用(豊田IC)。PC工法で組み立て、上屋は肉抜きとしてセルリアンブルーに着色。屋根を支える柱は現場打ちコンクリート柱。設計・デザインは板倉準三郎による{{sfn|堀田典裕|2011|pp=34-37}}。}} |
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インターチェンジ料金所(トールゲート)は、名神でデザインされたものを{{sfn|堀田典裕|2011|pp=34-37}}引き続き採用している{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=505}}。現場打ちコンクリート柱に緊結するPC工法で、重量軽減のために肉抜きをおこなって、セルリアンブルーに着色した{{sfn|堀田典裕|2011|pp=34-37}}。 |
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画一料率制はその後の全国プール制の採用によって廃止された{{sfn|国土政策と高速道路の研究会|2004|p=29}}。 |
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本線の橋の形式は、地形条件、経済条件からのみで決定した。塗装色についても、技術的には耐候性のためであるが、景観面も考慮した。名神よりは明るい色を採用し、審美委員会の意見も取り入れたうえで次の四色が決定した。河川鋼橋は赤色、山間部鋼橋はうす黄茶色、市街地鋼高架橋は緑色、平地・田畑部鋼高架橋はうす黄色である{{sfn|内山正雄・松本洋|1968|p=47}}。 |
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==== 現行制度 ==== |
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サービスエリアは当時を代表する建築家によってデザインされた。その後改変された建築物が少なくないが、以下は当初の状況を述べる。関わった建築家は次の通りである。柳英男(上郷SA)、[[芦原義信]](浜名湖SA)、[[大高正人]](牧之原SA)、[[清家清]](富士川SA)、[[黒川紀章]](足柄SA)、[[菊竹清訓]](海老名SA){{sfn|堀田典裕|2011|pp=51-65}}。このうち、上郷SA(現・豊田上郷SA)と海老名SAは、東名本線をまたぐオーバーブリッジ型の施設が計画されていた{{sfn|堀田典裕|2011|pp=51-65}}。当時、高速道路とは車が高速で行き来するだけの施設で、よってサービスエリアの機能も、人間の生理的要求を満たす最小時間で満足するものと定義されていた。そこへ建築家達は遊びの空間、憩いの空間、地元との交流空間を主張し、その後のハイウェイオアシス構想を先取りした。こうした先進的な構想も、当時の道路法、施行令に阻まれて実現せず、陽の目を見ることはなかった。これは、道路の権利、占用権に絡むもので、地上、地下数千尺に及び、道路敷地内に建造物を造ることは交通障害になるという理由から、一切許されていなかったためである{{sfn|松本洋|1999|p=17}}。こうした当時の建築物でも際立った特徴を有したのが上郷SAで、[[独楽|コマ]]にも似た銀色の円錐状の施設が、傾斜したのり面に対して浮き上がっているような構造が採用された{{sfn|堀田典裕|2011|pp=52-54}}。 |
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普通車の利用距離当たりの料金は消費税抜きで24.6円/kmである<ref name="c-nexco-20200501">{{Cite web|和書| url = https://www.c-nexco.co.jp/corporate/company/business/permission/20200501/pdf/20200501_zn1.pdf#page=3 | title = 料金の額及びその徴収期間 | date = 2020-05-01 | accessdate = 2021-07-12 | format = PDF | work = 1.高速自動車国道中央自動車道富士吉田線等に関する事業変更について | publisher=中日本高速道路 | page = 3 }}</ref>。 |
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ただし、東京IC - [[厚木インターチェンジ|厚木IC]]は[[大都市近郊区間 (高速道路)|大都市近郊区間]]<ref name="c-nexco-20200501B">{{Cite web|和書| url = https://www.c-nexco.co.jp/corporate/company/business/permission/20200501/pdf/20200501_zn1.pdf#page=2 | title = 料金の額及びその徴収期間 | date = 2020-05-01 | accessdate = 2022-02-03 | format = PDF | publisher=中日本高速道路 | pages = 別添2}}</ref>、豊田JCT - 小牧IC間は普通区間における大都市近郊区間と同じ料金水準の区間となるため、利用距離当たりの料金が普通区間の1.2倍にあたる29.52円/kmとなる<ref name="名古屋2環"/><ref name="長距離逓減">{{Cite web|和書| url = https://highwaypost.c-nexco.co.jp/faq/toll/findout/23.html | title = 料金の計算方法を教えてください | accessdate = 2022-07-28 | publisher=中日本高速道路 }}</ref>。 |
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走行中、目に飛び込んでくるオーバーブリッジ(跨道橋)は美観上の処理が施されている。東名のオーバーブリッジの数は当初290橋で計画され、その膨大な数を個別に設計することは出来ないので、2、3の標準的なタイプを作成し、これによって対応した{{sfn|池上雅夫|1969|pp=128-129}}。一番の基本を[[プレストレスト・コンクリート|PC]]斜材付きΠ型[[ラーメン (骨組)|ラーメン]]橋とし、方丈ラーメン橋、V型ラーメン橋が状況に応じて派生している{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=193}}。オーバーブリッジに共通するのは、出来るだけ広々とした感じを与え、見通しもよく、全体的にスレンダーな印象を付与していることである{{sfn|池上雅夫|1969|pp=128-129}}。 |
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{{multiple image |
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| footer = |
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| align = left |
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| width = 200 |
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| image1 = 東名高速, Toumei Highway - panoramio.jpg |
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| caption1 = 中央分離帯と路傍の植栽(横浜町田IC付近)。 |
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| image2 = Fujikawa Bridge(1)-1.jpg |
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| caption2 = 富士川橋は河川鋼橋であるため、塗装には赤色を採用した。 |
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| image3 = Jinryo station20211120.jpg |
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| caption3 = 市街地高架橋の鋼桁は緑を採用(JR中央線 [[神領駅]]) |
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| image4 = E1 Tomei Expressway Bridge 20211003B.jpg |
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| caption4 = オーバーブリッジの種類。上が斜材付きΠ型ラーメン橋、下が方丈ラーメン橋。 |
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}}{{-}} |
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100 kmを超えて利用する場合は、100 kmから200 kmまでの利用分が25 %割引、200 km超えの利用分が30 %割引される<ref name="長距離逓減"/>。 |
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==== 道路照明灯 ==== |
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道路照明灯の設置区間は次の通り。 |
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* 東京IC - 御殿場IC |
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* 裾野IC - 沼津IC |
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* 静岡IC - 焼津IC |
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* 相良牧之原IC - 菊川ICの一部、音羽蒲郡IC - 岡崎ICの一部など[[線形 (路線)|カーブ]]が連続する区間 |
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連続照明区間の設定基準は1日平均5万台の交通量であり、本来なら東京ICから小牧ICまでの全線に設置されるはずであるが、現状では東京IC - 御殿場IC間、静岡IC - 焼津IC間の(新東名開通やETC割引など後発的要素が発生する以前から)特に交通量の多い区間、または行楽渋滞が多発する裾野BS - 沼津IC間やその他カーブ連続区間など円滑交通の確保の上で特に必要とされる区間のみ設置されている。豊川IC - 小牧ICも京浜地区や日本坂トンネル区間に匹敵する交通量があるが、こちらには連続照明は設置されておらず、現段階で設置する予定もない。また、裾野IC - 沼津IC間は連続照明の設備はあるが日によっては点灯していない場合がある。 |
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また、[[ETC割引制度#休日割引|休日割引]]、[[ETC割引制度#平日朝夕割引(NEXCO3社)|平日朝夕割引]]は大都市近郊区間である東京IC - 厚木ICのみ対象外となる。 |
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なお、[[1990年代]]初期まで連続照明区間は都市部である東京IC - 東名川崎ICと急勾配でカーブが多い[[山北バスストップ|山北BS]] - [[足柄バスストップ|足柄BS]]手前(現在の下り線右ルート・左ルートの合流地点)のみであった。1990年代の一部区間の新設および拡幅工事に伴い、上記の区間まで拡大された。 |
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{{Main|ETC割引制度}} |
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=== 道路管理者 === |
=== 道路管理者 === |
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* [[中日本高速道路|NEXCO中日本]] [[中日本高速道路東京支社|東京支社]] |
* [[中日本高速道路|NEXCO中日本]] [[中日本高速道路東京支社|東京支社]] |
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** 横浜保全・サービスセンター : 東京IC - 厚木IC |
** 横浜保全・サービスセンター : 東京IC - 厚木IC |
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** |
** 伊勢原保全・サービスセンター:厚木IC - 大井松田IC |
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** 御殿場保全・サービスセンター : 大井松田IC - 沼津IC |
** 御殿場保全・サービスセンター : 大井松田IC - 沼津IC |
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** 富士保全・サービスセンター : 沼津IC - 清水IC |
** 富士保全・サービスセンター : 沼津IC - 清水IC |
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1,487行目: | 1,443行目: | ||
** 羽島保全・サービスセンター : 春日井IC - 小牧IC |
** 羽島保全・サービスセンター : 春日井IC - 小牧IC |
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=== 所轄警察 === |
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* [[神奈川県警察]][[神奈川県警察高速道路交通警察隊|高速道路交通警察隊]]<ref>{{Cite web|和書|title=神奈川県警察/高速道路交通警察隊 |url=https://www.police.pref.kanagawa.jp/kotsu/jiko_boshi/kosoku/mes87001.html |access-date=2023-11-26}}</ref> |
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東名の利用交通は年々増加し、さらには大型車の積載量の増加で重量化が著しく、過積載車が後を絶たない状況にあっては、橋梁床板への負荷が顕著となってきた。既に1970年頃から補修、補強を実施し、舗装の修繕についても、全線開通の翌年から断続的に実施された{{sfn|濃添元宏・高橋文雄|1989|pp=60-63}}。 |
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** 厚木分駐所:東京IC - 静岡・神奈川県境 |
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*[[静岡県警察]]高速道路交通警察隊<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.pref.shizuoka.jp/police/_res/projects/project_police/_page_/002/000/925/keimu068.pdf |title=静岡県警察の組織に関する訓令 |access-date=2023-11-26 |publisher=静岡県警察}}</ref> |
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工事による通行規制は渋滞を発生させる一要因である。このため、曜日別、時間別、上下別の交通パターンを分析し、少しでも渋滞発生の少ない時間帯を厳選して工事を行うことになった結果として、夜間、日祭日工事の導入が図られた。そして、夜間工事を行ったとしても、激しい渋滞が予想される区間については集中工事方式を導入している。主として、春と秋に行い、約2週間にわたる1車線規制の中で、補修、維持作業を集中的に行って施行能率を高め、年間を通じて実施される工事件数を減らす取り組みである{{sfn|倉沢真也|1988|pp=44-46}}。 |
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** 沼津分駐隊:静岡・神奈川県境 - 蒲原BS付近(131.1キロポスト) |
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** 静岡分駐隊:蒲原BS付近(131.1キロポスト) - 牧之原SA付近(197.0キロポスト) |
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==== ハイウェイラジオ ==== |
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** 浜松分駐隊:牧之原SA付近(197.0キロポスト) - 愛知・静岡県境 |
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{{独自研究|date=2015年9月|section=1}} |
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* [[愛知県警察]]高速道路交通警察隊<ref>{{Cite web|和書|title=高速隊の所在地及び管轄路線 - 愛知県警察 |url=https://www.pref.aichi.jp/police/koutsu/kousoku/shoukai.html |website=www.pref.aichi.jp |access-date=2023-11-26}}</ref> |
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{{節スタブ}} |
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** 岡崎分駐隊: 愛知・静岡県境 - 東名三好IC |
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* 東京(東京IC - 多摩川橋付近) |
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** 名古屋東分駐隊: 東名三好IC - 愛知・岐阜県境(東名は小牧ICまで) |
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* 横浜青葉(東名川崎IC - 横浜青葉IC) |
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* 港北(横浜青葉IC - 横浜町田IC) |
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* 横浜(港北PA - 横浜町田IC) |
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* 海老名(横浜町田IC - 厚木IC) |
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* 厚木(厚木IC - 秦野中井IC) |
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* 伊勢原(厚木IC - 秦野中井IC) |
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* 秦野中井(厚木IC - 秦野中井IC) |
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* 中井(秦野中井IC - 大井松田IC) |
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* 大井松田(大井松田IC - 鮎沢PA) |
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* 都夫良野(大井松田IC - 鮎沢PA) |
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* 新鮎沢(大井松田IC - 足柄SA) |
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* 御殿場(足柄SA - 御殿場JCT) |
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* 駒門(駒門PA - 裾野IC) |
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* 裾野(裾野IC - 沼津IC) |
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* 沼津(裾野IC - 沼津IC) |
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* 愛鷹(沼津IC - 愛鷹PA) |
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* 富士東(愛鷹PA - 富士IC) |
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* 富士(富士IC - 富士川SA) |
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* 富士川(富士川SA - 蒲原TN) |
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* 由比(由比PA - 清水IC) |
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* 清水(由比PA - 清水IC) |
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* 日本平(清水IC - 日本平PA) |
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* 静岡(日本平PA - 静岡IC) |
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* 日本坂(静岡IC - 日本坂TN) |
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* 焼津東(日本坂TN - 焼津IC) |
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* 焼津(焼津IC - 吉田IC) |
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* 牧之原(吉田IC - 相良牧之原IC) |
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* 相良牧之原(相良牧之原IC - 菊川IC) |
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* 菊川(菊川IC - 掛川IC) |
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* 掛川(掛川IC - 袋井IC) |
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* 磐田(袋井IC - 遠州豊田PA) |
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* 浜松(遠州豊田PA - 浜松IC) |
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* 三方原(浜松IC - 三方原PA) |
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* 浜松西(三方原PA - 浜松西IC) |
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* 浜名湖東(浜松西IC - 浜名湖SA) |
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* 浜名湖西(浜名湖SA - 三ヶ日IC) |
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* 豊橋(宇利TN - 豊川IC) |
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* 豊川東(豊川IC - 赤塚PA) |
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* 豊川(赤塚PA - 音羽蒲郡IC) |
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* 岡崎東(音羽蒲郡IC - 岡崎IC) |
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* 岡崎(音羽蒲郡IC - 岡崎IC) |
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* 岡崎西(岡崎IC - 豊田JCT) |
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* 豊田(上郷SA - 豊田IC) |
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* 東名三好(豊田IC - 東名三好IC) |
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* 名古屋(東郷PA - 名古屋IC) |
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* 春日井(名古屋IC - 春日井IC) |
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* 小牧(小牧JCT - 小牧IC) |
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=== 交通量 === |
=== 交通量 === |
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1,549行目: | 1,460行目: | ||
{| class="wikitable" style="text-align:center" |
{| class="wikitable" style="text-align:center" |
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! 区間 !! 平成17年(2005年)度 !! 平成22年(2010年)度 !! 平成27年(2015年)度 |
! 区間 !! 平成11(1999)年度 !! 平成17年(2005年)度 !! 平成22年(2010年)度 !! 平成27年(2015年)度 !! 令和3(2021)年度 |
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| 調査当時の新東名|| colspan=" |
| 調査当時の新東名|| colspan="3" |開通前 || 御殿場 - 三ヶ日間開通後<br />浜松いなさ - 豊田東開通前 || 海老名南 - 伊勢原大山、新御殿場 -豊田東開通後<br/>伊勢原大山 - 新御殿場開通前 |
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| 東京IC - 東名川崎IC || 112,746 || 114,690 || 107,563 |
| 東京IC - 東名川崎IC || 121,780 || 112,746 || 114,690 || 107,563 || 93,294 |
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|- |
|- |
||
| 東名川崎IC - 横浜青葉IC/JCT || 110,523 || 114,053 || 107,469 |
| 東名川崎IC - 横浜青葉IC/JCT || 119,703 || 110,523 || 114,053 || 107,469 || 96,839 |
||
|- |
|- |
||
| 横浜青葉IC/JCT - 横浜町田IC || 106,762 || 113,763 || 109,326 |
| 横浜青葉IC/JCT - 横浜町田IC || 117,060 || 106,762 || 113,763 || 109,326 || 122,036 |
||
|- |
|- |
||
| 横浜町田IC - 綾瀬SIC || rowspan="3" | 120,679 || rowspan="2" | 130,425 || rowspan="2" | 138,067 |
| 横浜町田IC - 綾瀬SIC || rowspan="3" | 125,934|| rowspan="3" | 120,679 || rowspan="2" | 130,425 || rowspan="2" | 138,067 ||rowspan="2" | 140,425 |
||
|- |
|- |
||
| 綾瀬SIC - 海老名JCT |
| 綾瀬SIC - 海老名JCT |
||
|- |
|- |
||
| 海老名JCT - 厚木IC || 128,920 || 145,623 |
| 海老名JCT - 厚木IC || 128,920 || 145,623 || 137,337 |
||
|- |
|- |
||
| 厚木IC - 伊勢原JCT || rowspan="2" | 84,398 || rowspan="2" | 90,752 || rowspan="2" | 100,628 |
| 厚木IC - 伊勢原JCT || rowspan="2" | 88,754 || rowspan="2" | 84,398 || rowspan="2" | 90,752 || rowspan="2" | 100,628 || rowspan="2" | 92,872 |
||
|- |
|- |
||
| 伊勢原JCT - 秦野中井IC |
| 伊勢原JCT - 秦野中井IC |
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|- |
|- |
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| 秦野中井IC - |
| 秦野中井IC - 大井松田IC || 78,172 || 77,587 || 83,327 || 93,008 || 90,660 |
||
|- |
|- |
||
| 大井松田IC - 足柄SASIC || rowspan="2" | 73,210|| rowspan="2" | 68,473 || rowspan="2" | 74,541 || rowspan="2" | 85,753 || rowspan="2" | 80,383 |
|||
| 足柄SASIC - 大井松田IC |
|||
|- |
|- |
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| |
| 足柄SASIC - 御殿場IC |
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|- |
|- |
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| 御殿場IC - 御殿場JCT || rowspan="3" | 61,580 || rowspan="3" | 65,328 || |
| 御殿場IC - 御殿場JCT || rowspan="3" | 66,503|| rowspan="3" | 61,580 || rowspan="3" | 65,328 || 82,153 || 75,113 |
||
|- |
|- |
||
| 御殿場JCT - 駒門PASIC || rowspan="2" | 40,276 |
| 御殿場JCT - 駒門PASIC || rowspan="2" | 40,276 || rowspan="2" | 26,513 |
||
|- |
|- |
||
| 駒門PASIC - 裾野IC |
| 駒門PASIC - 裾野IC |
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|- |
|- |
||
| 裾野IC - 沼津IC || 62,645 || 66,029 || 41,008 |
| 裾野IC - 沼津IC || 66,462 || 62,645 || 66,029 || 41,008 || 27,717 |
||
|- |
|- |
||
| 沼津IC - 愛鷹PASIC || rowspan="2" | 66,837 || rowspan="2" | 71,460 || rowspan="2" | 45,636 |
| 沼津IC - 愛鷹PASIC || rowspan="2" | 58,494 || rowspan="2" | 66,837 || rowspan="2" | 71,460 || rowspan="2" | 45,636 || rowspan="2" | 31,693 |
||
|- |
|- |
||
| 愛鷹PASIC - 富士IC |
| 愛鷹PASIC - 富士IC |
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|- |
|- |
||
| 富士IC - 富士川SASIC || rowspan="3" | 64,855 || 69,033 || 42,237 |
| 富士IC - 富士川SASIC || rowspan="3" | 67,245 || rowspan="3" | 64,855 || 69,033 || 42,237 || 28,418 |
||
|- |
|- |
||
| 富士川SASIC - 清水JCT || rowspan="2" | 69,226 || 42,482 |
| 富士川SASIC - 清水JCT || rowspan="2" | 69,226 || 42,482 || 28,648 |
||
|- |
|- |
||
| 清水JCT - 清水IC || 47,131 |
| 清水JCT - 清水IC || 47,131 || 36,261 |
||
|- |
|- |
||
| 清水IC - 日本平久能山SIC || rowspan="2" | 69,756 || rowspan="2" | 70,134 || rowspan="2" | 44,970 |
| 清水IC - 日本平久能山SIC || rowspan="2" | 70,452 || rowspan="2" | 69,756 || rowspan="2" | 70,134 || rowspan="2" | 44,970 || rowspan="2" | 32,951 |
||
|- |
|- |
||
| 日本平久能山SIC - 静岡IC |
| 日本平久能山SIC - 静岡IC |
||
|- |
|- |
||
| 静岡IC - 焼津IC || 78,763 || 79,155 || 52,121 |
| 静岡IC - 焼津IC || 81,626 || 78,763 || 79,155 || 52,121 || 38,171 |
||
|- |
|- |
||
| 焼津IC - 大井川焼津藤枝SIC || rowspan="2" | 73,330 || rowspan="2" | 75,136 || rowspan="2" | 49,658 |
| 焼津IC - 大井川焼津藤枝SIC || rowspan="2" | 74,463 || rowspan="2" | 73,330 || rowspan="2" | 75,136 || rowspan="2" | 49,658 || rowspan="2" | 37,696 |
||
|- |
|- |
||
| 大井川焼津藤枝SIC - 吉田IC |
| 大井川焼津藤枝SIC - 吉田IC |
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|- |
|- |
||
| 吉田IC - 相良牧之原IC || 68,669 || 70,883 || 46,119 |
| 吉田IC - 相良牧之原IC || 57,633 || 68,669 || 70,883 || 46,119 || 32,977 |
||
|- |
|- |
||
| 相良牧之原IC - 菊川IC || 68,733 || 71,861 || 47,536 |
| 相良牧之原IC - 菊川IC || 69,205 || 68,733 || 71,861 || 47,536 || 33,991 |
||
|- |
|- |
||
| 菊川IC - 掛川IC || 67,816 || 71,357 || 46,879 |
| 菊川IC - 掛川IC || 68,513 || 67,816 || 71,357 || 46,879 || 33,444 |
||
|- |
|- |
||
| 掛川IC - 袋井IC || 68,207 || 71,559 || 46,256 |
| 掛川IC - 袋井IC || 68,815 || 68,207 || 71,559 || 46,256 || 32,497 |
||
|- |
|- |
||
| 袋井IC - 磐田IC || 72,480 || 77,141 || 47,276 |
| 袋井IC - 磐田IC || 69,458 || 72,480 || 77,141 || 47,276 || 33,496 |
||
|- |
|- |
||
| 磐田IC - 遠州豊田PASIC || rowspan="2" | 73,904 || 77,611 || 47,126 |
| 磐田IC - 遠州豊田PASIC || rowspan="2" | 71,821 || rowspan="2" | 73,904 || 77,611 || 47,126 || 33,376 |
||
|- |
|- |
||
| 遠州豊田PASIC - 浜松IC || 77,523 || 47,332 |
| 遠州豊田PASIC - 浜松IC || 77,523 || 47,332 || 34,133 |
||
|- |
|- |
||
| 浜松IC - 三方原PASIC || rowspan="2" |66,408 || rowspan="2" |68,549 || rowspan="2" |44,045 |
| 浜松IC - 三方原PASIC || rowspan="2" | 65,751 || rowspan="2" |66,408 || rowspan="2" |68,549 || rowspan="2" |44,045 || rowspan="2" | 32,458 |
||
|- |
|- |
||
| 三方原PASIC - 浜松西IC |
| 三方原PASIC - 浜松西IC |
||
|- |
|- |
||
| 浜松西IC - 舘山寺SIC || rowspan="2" | 64,996 || rowspan="2" | 66,992 || rowspan="2" | 43,203 |
| 浜松西IC - 舘山寺SIC || rowspan="2" | 65,072 || rowspan="2" | 64,996 || rowspan="2" | 66,992 || rowspan="2" | 43,203 || rowspan="2" | 27,874 |
||
|- |
|- |
||
| 舘山寺SIC - 三ヶ日IC |
| 舘山寺SIC - 三ヶ日IC |
||
|- |
|- |
||
| 三ヶ日IC - 三ヶ日JCT || rowspan="2" | 63,368 || rowspan="2" | 65,246 || 42,075 |
| 三ヶ日IC - 三ヶ日JCT || rowspan="2" | 62,964 || rowspan="2" | 63,368 || rowspan="2" | 65,246 || 42,075 || 26,519 |
||
|- |
|- |
||
| 三ヶ日JCT - 豊川IC || 79,519 |
| 三ヶ日JCT - 豊川IC || 79,519 || 27,748 |
||
|- |
|- |
||
| 豊川IC - 音羽蒲郡IC || 76,625 || 77,353 || 90,891 |
| 豊川IC - 音羽蒲郡IC || 72,620 || 76,625 || 77,353 || 90,891 || 34,948 |
||
|- |
|- |
||
| 音羽蒲郡IC - 岡崎IC || 87,764 || 89,338 || 105,880 |
| 音羽蒲郡IC - 岡崎IC || 78,932 || 87,764 || 89,338 || 105,880 || 41,448 |
||
|- |
|- |
||
| 岡崎IC - 豊田JCT || 95,937 || 101,090 || 119,167 |
| 岡崎IC - 豊田JCT || rowspan="3" | 78,135 || 95,937 || 101,090 || 119,167 || 54,999 |
||
|- |
|- |
||
| 豊田JCT - 豊田上郷SASIC || rowspan="2" | 69,634 || rowspan="2" | 56,526 || rowspan="2" | 57,322 |
| 豊田JCT - 豊田上郷SASIC || rowspan="2" | 69,634 || rowspan="2" | 56,526 || rowspan="2" | 57,322 || 40,379 |
||
|- |
|- |
||
| 豊田上郷SASIC - 豊田IC |
| 豊田上郷SASIC - 豊田IC || 40,492 |
||
|- |
|- |
||
| 豊田IC - 東名三好IC || 81,510 || 69,309 || 67,794 |
| 豊田IC - 東名三好IC || 91,734 || 81,510 || 69,309 || 67,794 || 44,541 |
||
|- |
|- |
||
| 東名三好IC - 日進JCT || 87,496 || 75,643 || 72,245 |
| 東名三好IC - 日進JCT || rowspan="2" | 98,972 || 87,496 || 75,643 || 72,245 ||| 46,193 |
||
|- |
|- |
||
| 日進JCT - 名古屋IC || 88,535 || 77,848 || 77,615 |
| 日進JCT - 名古屋IC || 88,535 || 77,848 || 77,615 || 53,465 |
||
|- |
|- |
||
| 名古屋IC - 守山PASIC || rowspan="2" | 66,019 || rowspan="2" | 54,972 || rowspan="2" | 57,105 |
| 名古屋IC - 守山PASIC || rowspan="2" | 79,154 || rowspan="2" | 66,019 || rowspan="2" | 54,972 || rowspan="2" | 57,105 || 36,246 |
||
|- |
|- |
||
| 守山PASIC - 春日井IC |
| 守山PASIC - 春日井IC || 36,745 |
||
|- |
|- |
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| 春日井IC - 小牧JCT || 69,295 || 56,883 || 57,621 |
| 春日井IC - 小牧JCT || 84,179 || 69,295 || 56,883 || 57,621 || 38,964 |
||
|- |
|- |
||
| 小牧JCT - 小牧IC || 89,457 || 76,385 || 76,103 |
| 小牧JCT - 小牧IC || 88,180 || 89,457 || 76,385 || 76,103 || 58,574 |
||
|} |
|} |
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{{smaller|(出典:「[https://www.ktr.mlit.go.jp/road/shihon/road_shihon00000023.html 平成17年 道路交通センサス 一般交通量調査結果]」([[関東地方整備局]]ホームページ)・「[https://toukei.pref.shizuoka.jp/dourokikakuka/data/10-030/80264.html 道路交通センサス報告書(一般交通量調査)]」([[静岡県]]ホームページ)・「[https://www.pref.aichi.jp/douroiji/image/H17census.pdf 交通量調査集計表]」([[愛知県]]ホームページ)・「[https://www.mlit.go.jp/road/census/h22-1/ 平成22年度道路交通センサス]」・「[https://www.mlit.go.jp/road/census/h27/index.html 平成27年度全国道路・街路交通情勢調査]」・「[https://www1.mlit.go.jp/road/census/r3/index.html 令和3年度全国道路・街路交通情勢調査]」([[国土交通省]]ホームページ)より一部データを抜粋して作成)}} |
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* 令和2年度に実施予定だった交通量調査は、[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス]]の[[日本における2019年コロナウイルス感染症による社会・経済的影響|影響]]で延期された<ref>{{Cite web|url=http://www1.mlit.go.jp/road/ir/ir-council/ict/pdf04/01.pdf|title=令和2年度全国道路・街路交通情勢調査の延期について|date=2020-10-14|accessdate=2021-04-04|publisher=国土交通省 道路局|format=PDF}}</ref>。 |
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2002年度(平成14年度) |
2002年度(平成14年度) |
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1,667行目: | 1,576行目: | ||
** 日平均 : 7億920万5000円 |
** 日平均 : 7億920万5000円 |
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=== 景観処理 === |
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他路線と比べた東名の利用の特徴としては、[[東海道]]物流の[[大動脈]]を担っていることから、夜間でも走行台数があまり減らないことと、[[大型自動車|大型車]]の割合が高いことが挙げられる。<!--特に[[深夜|深夜帯]]は、走行車両の大半が大型トラックである。-->全区間を通して大都市圏並の交通量があることも特徴となっているが、平成22年度調査では、[[新名神高速道路]]の[[亀山ジャンクション|亀山JCT]] - [[草津ジャンクション|草津JCT]]間が全面開通し、豊田JCT以東と名神・草津JCT以西の間での距離・所要時間が短縮されたため、平成17年度調査に比べ東京IC - 豊田JCT間の全区間で交通量が増加した一方、豊田JCT - 小牧IC間では12,000台程度(率にして15%程度)減少した。新東名御殿場JCT - 三ヶ日JCTが開通した2012年度(平成24年度)の調査では並行する東名の交通量が御殿場JCTを境にほぼ半減している。一方で、未開通区間を中心に横浜町田IC - 御殿場JCT間や、三ヶ日JCT - 豊田JCT間では交通量が増加し、同区間での渋滞が急増した。後者の区間では新東名延伸の2016年までの期間に限り、一部区間で暫定的に車線を増やす措置をとった。 |
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;植栽 |
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{{double image aside|right|Toyota IC 20211026C.jpg|200|Toyota IC 20211026D.jpg|200|豊田IC。高木を散在させ、主木を[[クスノキ|楠]]とした。防風、遮蔽の役割も兼ねる{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=188}}。}} |
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インターチェンジの修景はIC周辺の環境に配慮した。すなわち、森林、田園、将来は市街地化するのか、等の相違によって、芝生主体、あるいは樹木群を濃密にする、郷土樹木を植える、等の周辺環境との調和を目指した。予定された21か所のICごとに異なる主木を採用できればそれにこしたことはないが、いかんせん346 kmの路線ゆえ、気候風土にそれほどの相違もないことで、ICによっては重複も存在する。なお、ランプウェイから本線に合流する付近の右側は、ドライバーの注意力を妨げないために高い樹木の植栽を禁じた。ICのり面は芝生で被覆し、ランプウェイに沿っては、視線誘導と不安感の除去を目的に低木を密植した{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=186}}。 |
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中央分離帯に対向車のヘッドライトが与えるまぶしさを回避する目的で木を植えている。名神では木の間隔を4 mとしたが、その後の走行試験の結果、6 mにしても差し支えないことから、植栽の本数削減の意図もあって東名では6 m間隔とされた{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|pp=181-182}}。樹種は萌芽力が強く、下枝の上がりにくい中木、もしくは低木を採用した。なお、沿道の畑の農作物に発生する害虫が、中央分離帯の植物に宿る害虫と一致する場合は、それらの地域から離れた場所に植栽した。つまり、みかんや茶を栽培する地域では、その付近の中央分離帯の木は「さざんか」と「まさき」の植栽は避けて別の樹種を植えている{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=182}}。これらの木はトンネル、橋梁を除いた約260 km区間に16種類、13万本を植栽した{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=182}}。 |
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また、高速道路の中では交通量が時間帯・曜日を問わず多く、車線数を増やしても[[渋滞]]が年中激しい上に路面等の損傷も早く、車線規制を伴う[[東名集中工事]]が、例年[[10月]]頃に2週間程の工期で行われている。この際は渋滞がいつも以上に激しくなり、最後尾では大型車が絡む追突死傷事故が後を絶たず、並行する[[一般道路]](国道1号や国道246号)も迂回する車両で渋滞が激しくなる(そのため、NEXCO中日本では集中工事の期間中は中央道の料金を東名並みに調節し、中央道への迂回を促している)。このため、東名は都市高速を除くと「日本一事故の多い高速道路」<ref>警視庁「平成20年中の交通事故の発生状況」より</ref>であり、上記の諸問題を解決するため、新東名の建設が進められている。 |
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これ以外では、路傍やサービスエリア、パーキングエリアにも植栽している。一般道路を走る車や交差する鉄道車両からのヘッドライトを遮蔽し、沿道の墓地、火葬場などの遮蔽、目障りな切土区間と盛土区間の境を隠す目的で植栽した。また、トンネルから出た車のドライバーが明るさに慣れていないことから、明るさをブロックするためのトンネル付近の植栽、学校や病院等静寂を必要とする区間では、枝葉が密な常緑樹を植栽した{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=183}}。 |
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==== 渋滞 ==== |
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;施設 |
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[[小田原厚木道路]]や[[保土ヶ谷バイパス]]など、利用の多い接続路線からの車が集中する横浜町田IC - 海老名JCT間は交通量が非常に多く、同区間にある[[大和トンネル]]付近・[[綾瀬バスストップ|綾瀬BS]]付近を先頭とする渋滞が土曜・休日に頻発している。また、2009年(平成21年)3月28日から始まった[[ETC割引制度#休日特別割引|「高速上限1,000円」]]の影響により、それまで大型連休時のみ渋滞発生地点となっていた沼津IC - 富士IC間の[[中里バスストップ|中里BS]]付近、富士IC - 清水JCT間の[[松岡バスストップ|松岡BS]]付近、吉田IC付近をはじめとするほぼ全区間で週末に渋滞が発生するようになった。このほか、平日朝を中心に[[首都高速3号渋谷線|首都高速3号線]]上りの渋滞が[[東京インターチェンジ|東京IC]]を過ぎて東名上りへ延びてくることもある。 |
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{{double image aside|right|Toyota IC 20211026A.jpg|200|Toyota IC 20211026E.jpg|200|インターチェンジトールゲートのデザインは名神で採用されたものを引き続いて採用(豊田IC)。PC工法で組み立て、上屋は肉抜きとしてセルリアンブルーに着色。屋根を支える柱は現場打ちコンクリート柱。設計・デザインは板倉準三による{{sfn|堀田典裕|2011|pp=34-37}}。}} |
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インターチェンジ料金所(トールゲート)は、名神でデザインされたものを{{sfn|堀田典裕|2011|pp=34-37}}引き続き採用している{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=505}}。現場打ちコンクリート柱に緊結するPC工法で、重量軽減のために肉抜きをおこなって、セルリアンブルーに着色した{{sfn|堀田典裕|2011|pp=34-37}}。 |
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本線の橋の形式は、地形条件、経済条件からのみで決定した。塗装色についても、技術的には耐候性のためであるが、景観面も考慮した。名神よりは明るい色を採用し、審美委員会の意見も取り入れたうえで次の四色が決定した。河川鋼橋は赤色、山間部鋼橋はうす黄茶色、市街地鋼高架橋は緑色、平地・田畑部鋼高架橋はうす黄色である{{sfn|内山正雄・松本洋|1968|p=47}}。 |
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サービスエリアは当時を代表する建築家によってデザインされた。その後改変された建築物が少なくないが、以下は当初の状況を述べる。関わった建築家は次の通りである。柳英男(上郷SA)、[[芦原義信]](浜名湖SA)、[[大高正人]](牧之原SA)、[[清家清]](富士川SA)、[[黒川紀章]](足柄SA)、[[菊竹清訓]](海老名SA){{sfn|堀田典裕|2011|pp=51-65}}。このうち、上郷SA(現・豊田上郷SA)と海老名SAは、東名本線をまたぐオーバーブリッジ型の施設が計画されていた{{sfn|堀田典裕|2011|pp=51-65}}。当時、高速道路とは車が高速で行き来するだけの施設で、よってサービスエリアの機能も、人間の生理的要求を満たす最小時間で満足するものと定義されていた。そこへ建築家達は遊びの空間、憩いの空間、地元との交流空間を主張し、その後のハイウェイオアシス構想を先取りした。こうした先進的な構想も、当時の道路法、施行令に阻まれて実現せず、陽の目を見ることはなかった。これは、道路の権利、占用権に絡むもので、地上、地下数千尺に及び、道路敷地内に建造物を造ることは交通障害になるという理由から、一切許されていなかったためである{{sfn|松本洋|1999|p=17}}。 |
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{{Vertical_images_list |
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|幅= 200px |
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| 1=Jinryō Viaduct.svg |
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| 2=RC連続穴あき床版橋断面 |
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| 3=Jinryō Viaduct 20211120.jpg |
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| 4=RC連続穴あき床版橋の例(神領高架橋) |
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}} |
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東名の橋脚間15 - 17 mクラスの鉄筋コンクリート高架橋は、名神で開発された穴あき床板を採用した。穴あきとしたのはコンクリート橋の欠点である重量を軽減するためである。東名のほとんどの高架橋はこの形式が採用された。経済性に富み、外観上スレンダーで優美であるという理由である{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=252}}。 |
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走行中、目に飛び込んでくるオーバーブリッジ(跨道橋)は美観上の処理が施されている。東名のオーバーブリッジの数は284橋で計画され、その膨大な数を個別に設計することは出来ないので、2、3の標準的なタイプを作成し、これによって対応した{{sfn|池上雅夫|1969|pp=128-129}}。一番の基本を[[プレストレスト・コンクリート|PC]]斜材付きΠ型[[ラーメン (骨組)|ラーメン]]橋とし、方丈ラーメン橋、V型ラーメン橋が状況に応じて派生している{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=193}}。オーバーブリッジに共通するのは、出来るだけ広々とした感じを与え、見通しもよく、全体的にスレンダーな印象を付与していることである{{sfn|池上雅夫|1969|pp=128-129}}。 |
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{{multiple image |
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| footer = |
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| align = left |
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| width = 200 |
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| image1 = 東名高速, Toumei Highway - panoramio.jpg |
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| caption1 = 中央分離帯と路傍の植栽(横浜町田IC付近)。 |
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| image2 = Fujikawa Bridge(1)-1.jpg |
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| caption2 = 富士川橋は河川鋼橋であるため、塗装には赤色を採用した。 |
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| image3 = Jinryo station20211120.jpg |
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| caption3 = 市街地高架橋の鋼桁は緑を採用([[東海旅客鉄道|JR]][[中央線 (名古屋地区)|中央線]] [[神領駅]]) |
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| image4 = E1 Tomei Expressway Bridge 20211003B.jpg |
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| caption4 = オーバーブリッジの種類。上が斜材付きΠ型ラーメン橋、下が方丈ラーメン橋。 |
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}}{{-}} |
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== 地理 == |
== 地理 == |
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[[File:E1TOMEI EXPWY(Tokyo).svg|thumb|250px|right|東京都内の通過自治体。]] |
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[[File:E1TOMEI EXPWY(Kanagawa).svg|thumb|250px|right|神奈川県内の通過自治体。]] |
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[[File:E1TOMEI EXPWY(Shizuoka).svg|thumb|250px|right|静岡県内の通過自治体。]] |
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[[File:E1TOMEI EXPWY(Aichi).svg|thumb|250px|right|愛知県内の通過自治体。]] |
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=== 通過する自治体 === |
=== 通過する自治体 === |
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* [[東京都]] |
* [[東京都]] |
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*** [[磐田市]] |
*** [[磐田市]] |
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*** [[浜松市]] |
*** [[浜松市]] |
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**** [[ |
**** [[中央区 (浜松市)|中央区]] |
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**** [[ |
**** [[浜名区]] |
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**** [[中区 (浜松市)|中区]] |
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**** [[西区 (浜松市)|西区]] |
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**** 北区 |
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* [[愛知県]] |
* [[愛知県]] |
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**<li class="hlist hlist-hyphen"> |
**<li class="hlist hlist-hyphen"> |
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* {{Ja Exp Route Sign|C3}} [[東京外かく環状道路]](東名JCTで接続 : 事業中) |
* {{Ja Exp Route Sign|C3}} [[東京外かく環状道路]](東名JCTで接続 : 事業中) |
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* [[川崎縦貫道路|川崎縦貫道路(II期)]](宿河原JCTで接続 : 調査中) |
* [[川崎縦貫道路|川崎縦貫道路(II期)]](宿河原JCTで接続 : 調査中) |
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* |
* {{Ja_Urban_Expwy_Sign|name=首都|number=K7 (NW)|width=26}} [[首都高速神奈川7号横浜北西線]]([[横浜青葉インターチェンジ|横浜青葉JCT]]で接続) |
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* [[保土ヶ谷バイパス]]([[横浜町田インターチェンジ|横浜町田IC]]で接続) |
* [[保土ヶ谷バイパス]]([[横浜町田インターチェンジ|横浜町田IC]]で接続) |
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* {{Ja Exp Route Sign|C4}} [[首都圏中央連絡自動車道]]([[海老名ジャンクション|海老名JCT]]で接続) |
* {{Ja Exp Route Sign|C4}} [[首都圏中央連絡自動車道]]([[海老名ジャンクション|海老名JCT]]で接続) |
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* {{Ja Exp Route Sign|E70}} [[伊豆縦貫自動車道]]([[沼津インターチェンジ|沼津IC]]で接続) |
* {{Ja Exp Route Sign|E70}} [[伊豆縦貫自動車道]]([[沼津インターチェンジ|沼津IC]]で接続) |
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* [[西富士道路]]([[富士インターチェンジ|富士IC]]で接続) |
* [[西富士道路]]([[富士インターチェンジ|富士IC]]で接続) |
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* {{Ja Exp Route Sign|E52}} [[新東名高速道路 |
* {{Ja Exp Route Sign|E52}} [[新東名高速道路|新東名高速道路清水連絡路]]([[清水ジャンクション|清水JCT]]で接続)<ref group="注釈" name="連絡路経由">連絡路を経由して[[新東名高速道路|新東名]]本線に接続。</ref> |
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* {{Ja Exp Route Sign|E69}} [[新東名高速道路 |
* {{Ja Exp Route Sign|E69}} [[新東名高速道路|新東名高速道路引佐連絡路]]([[三ヶ日ジャンクション|三ヶ日JCT]]で接続)<ref group="注釈" name="連絡路経由"/> |
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* [[三遠伊勢連絡道路]](三ヶ日JCTで接続 : 調査中) |
* [[三遠伊勢連絡道路]](三ヶ日JCTで接続 : 調査中) |
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* {{Ja Exp Route Sign|E1A}} [[伊勢湾岸自動車道]]([[豊田ジャンクション|豊田JCT]]で接続) |
* {{Ja Exp Route Sign|E1A}} [[伊勢湾岸自動車道]]([[豊田ジャンクション|豊田JCT]]で接続) |
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画像:東名高速道路多摩川橋001.jpg|多摩川にかかる東名多摩川橋。東京IC - 東京TB |
画像:東名高速道路多摩川橋001.jpg|多摩川にかかる東名多摩川橋。東京IC - 東京TB |
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画像:Tomei-Atsugi-IC-Overview.jpg|厚木市付近、相模川にかかる相模川橋。 |
画像:Tomei-Atsugi-IC-Overview.jpg|厚木市付近、相模川にかかる相模川橋。綾瀬SIC - 厚木IC |
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画像:Tomei-Expwy Atsugi.jpg|下り線、厚木IC付近。背後は[[大山 (神奈川県)|大山]] |
画像:Tomei-Expwy Atsugi.jpg|下り線、厚木IC付近。背後は[[大山 (神奈川県)|大山]] |
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画像:Tomei-Expway-Oimatsuda.jpg|大井町付近。秦野中井IC - 大井松田IC |
画像:Tomei-Expway-Oimatsuda.jpg|大井町付近。秦野中井IC - 大井松田IC |
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画像:Tomei |
画像:Tomei Expway Curve R300.jpg|山北町付近。大井松田IC - 御殿場ICにある半径300 mの急カーブ |
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画像:744-10993 Tokai BKG-MU66JS Tomei MtFuji.jpg|富士川サービスエリアから見た東名富士川橋と富士山 |
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File:Tomei Expway Curve R300.jpg|山北町付近。大井松田IC - 御殿場ICにある半径300 mの急カーブ |
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画像:Fujisan.jpg|静岡県富士市からの富士山 |
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File:744-10993 Tokai BKG-MU66JS Tomei MtFuji.jpg|富士川サービスエリアから見た東名富士川橋と富士山 |
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画像:Satta yukei.jpg|静岡市清水区[[薩埵峠]]から。海側が東名。山側は国道1号。 |
画像:Satta yukei.jpg|静岡市清水区[[薩埵峠]]から。海側が東名。山側は国道1号。 |
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画像: |
画像:Nihondaira from Choseniwa.jpg|静岡IC付近。奥は日本平、右手は遠州灘。 |
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画像:Nagoya IC 20230902B.jpg|東京から約320 km、左手に[[猪高緑地]]を見て名古屋ICに到達 |
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画像:E1 Tomei Expwy (Komaki) 20211002A.jpg|小牧市内。名古屋高速11号小牧線の下をくぐり、終点の小牧ICに到達する。 |
画像:E1 Tomei Expwy (Komaki) 20211002A.jpg|小牧市内。名古屋高速11号小牧線の下をくぐり、終点の小牧ICに到達する。 |
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</gallery> |
</gallery> |
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1,802行目: | 1,743行目: | ||
* {{Cite book |和書 |author=浅井建爾 |edition= 初版|date=2001-11-10 |title=道と路がわかる辞典 |publisher=[[日本実業出版社]] |isbn=4-534-03315-X |ref=harv}} |
* {{Cite book |和書 |author=浅井建爾 |edition= 初版|date=2001-11-10 |title=道と路がわかる辞典 |publisher=[[日本実業出版社]] |isbn=4-534-03315-X |ref=harv}} |
||
* {{Cite book |和書 |author=浅井建爾 |edition= 初版|date=2015-10-10 |title=日本の道路がわかる辞典 |publisher=日本実業出版社 |isbn=978-4-534-05318-3 |ref=harv}} |
* {{Cite book |和書 |author=浅井建爾 |edition= 初版|date=2015-10-10 |title=日本の道路がわかる辞典 |publisher=日本実業出版社 |isbn=978-4-534-05318-3 |ref=harv}} |
||
* {{Cite |
* {{Cite |和書|author = 池上雅夫 |title = 東名高速道路 |date = 1969-05-25 |edition = |publisher = 中央公論社 |isbn = |series = 中公新書188 |ref = harv }} |
||
* {{Cite |和書|author = |
* {{Cite |和書|author = 角本良平 |title = 東海道新幹線 |date = 1964-04-30 |edition = |publisher = 中央公論社 |isbn = |series = 中公新書41 |ref = harv }} |
||
* {{Cite |和書|author = 東名高速道路建設誌編さん委員会 |title = 東名高速道路建設誌 |
* {{Cite |和書|author = 東名高速道路建設誌編さん委員会 |title = 東名高速道路建設誌 |date = 1970-03-25 |edition = |publisher = 日本道路公団 |isbn = |series = |ref = harv }} |
||
* {{Cite |和書|author = [[イカロス出版]] |title = 東名高速をゆく |
* {{Cite |和書|author = [[イカロス出版]] |title = 東名高速をゆく |date = 2011-09-30 |edition = |publisher = |isbn = 978-4-86320-484-3 |series = イカロスMOOK |ref = harv }} |
||
* {{Cite book |和書 |author= 高速道路五十年史編集委員会 |title=高速道路五十年史 |
* {{Cite book |和書 |author= 高速道路五十年史編集委員会 |title=高速道路五十年史 |date=2016-02 |publisher=東日本高速道路株式会社・中日本高速道路株式会社・西日本高速道路株式会社 |ref=harv}} |
||
* {{Cite |和書|author = NHK報道局「道路公団」取材班 |title = 日本道路公団 借金30兆円の真相 |
* {{Cite |和書|author = NHK報道局「道路公団」取材班 |title = 日本道路公団 借金30兆円の真相 |date = 2005-05-30 |edition = |publisher = 日本放送出版協会 |isbn = 4-14-081020-3 |series = NHKスペシャルセレクション|ref = harv }} |
||
* {{Cite |和書|author = 東名阪自動車道名古屋・勝川間工事誌編集委員会 |title = 東名阪自動車道 名古屋・勝川間工事誌 |year = 1995 |date = 1995-03 |edition = |publisher = 日本道路公団名古屋建設局 名古屋工事事務所 |isbn = |series = |ref = harv }} |
* {{Cite |和書|author = 東名阪自動車道名古屋・勝川間工事誌編集委員会 |title = 東名阪自動車道 名古屋・勝川間工事誌 |year = 1995 |date = 1995-03 |edition = |publisher = 日本道路公団名古屋建設局 名古屋工事事務所 |isbn = |series = |ref = harv }} |
||
* {{Cite |和書|author = 国土政策と高速道路の研究会 |title = 国土と高速道路の未来 豊富なデータから読み解く道路網整備のこれから |
* {{Cite |和書|author = 国土政策と高速道路の研究会 |title = 国土と高速道路の未来 豊富なデータから読み解く道路網整備のこれから |date = 2004-03-08 |edition = |publisher = 日経BP社 |isbn = 4-8222-2033-8 |series = |ref = harv }} |
||
* {{Cite book |和書 |author= カーゴニュース |title=現代のトラック産業 |
* {{Cite book |和書 |author= カーゴニュース |title=現代のトラック産業 |date=1998-04-18 |publisher=財団法人 交通研究協会|series = 交通ブックス110 |isbn=4-425-76091-3|ref=harv}} |
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* {{Cite |和書|author = 名古屋高速道路公社30年史編集委員会 |title = 名古屋高速道路公社30年史 |
* {{Cite |和書|author = 名古屋高速道路公社30年史編集委員会 |title = 名古屋高速道路公社30年史 |date = 2002-03 |edition = |publisher = 名古屋高速道路公社 |isbn = |series = |ref = harv }} |
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* {{Cite |和書|author = 武田文夫 |title = 日本のハイウエー |
* {{Cite |和書|author = 武田文夫 |title = 日本のハイウエー |date = 1968-05 |edition = |publisher = 日本経済新聞社 |isbn = |series = 日経新書76|ref = harv }} |
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* {{Cite |和書|author = 日本道路公団総務部 |title = 日本道路公団20年史 |date = 1976-04-16 |edition = |publisher = 日本道路公団 |isbn = |series = 非売品|ref = harv }} |
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* {{Cite book |和書 |author= 25年誌編さん委員会 |title=中部地建のあゆみ 25年誌 |date=1975-03-01 |publisher=建設省中部地方建設局 |ref=harv}}<!-- 愛知県図書館蔵--> |
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* {{Cite book |和書|author= |
* {{Cite book |和書 |author= 道路交通問題研究会 |title=道路交通政策史概観 |date=2002-12-01 |publisher=道路交通問題研究会(発行 プロコムジャパン)|isbn=4-87738-152-X|ref=harv}} |
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* {{Cite book |和書 |author= 名古屋港史編集委員会 |title=名古屋港史 |date=1990-03-31 |publisher=名古屋港管理組合|ref=harv}} |
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* {{Cite book |和書 |author= 堀田典裕 |title=自動車と建築 モータリゼーション時代の環境デザイン |date=2011-04-30 |publisher=河出書房新社|isbn=978-4-309-62428-0|ref=harv}} |
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* {{Cite book |和書 |author= 四方洋 |title=ハイウェイ・マイウェイ 道のロマンをかけた男たち |date=1993-07-25 |publisher=毎日新聞社|isbn=4-620-30947-8|ref=harv}} |
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* {{Cite book |和書|author = 武藤博己 |title = 道路行政 |date = 2008-07-22 |edition = 初版 |publisher = 東京大学出版会 |isbn = 978-4-13-034240-7|series = 行政学叢書10|ref = harv }} |
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* {{Cite book |和書|author = 日本国有鉄道名古屋幹線工事局 |title = 東海道新幹線工事誌 |year = 1965 |date = 1965-03-31 |edition = |publisher = 岐阜工事局 |ref = harv }} |
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;論文・レポート |
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* 『高速道路と自動車』 |
* 『高速道路と自動車』 |
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** {{Cite journal|和書|author =武田文夫 |date = 1989-06|title = 論説 東名20年の輝かしい成果 しかし今やその危機の克服策が必要|journal = 高速道路と自動車|volume = 32 |issue = 6 |pages = 15-19 |publisher = 公益財団法人高速道路調査会|ref = harv }} |
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** {{Cite journal|和書|author =大久保正行(1995-06) |date = 1995-06|title = プール制採用の経緯と料金制度の現況・課題(下)|journal = 高速道路と自動車|volume = 38 |issue = 6 |pages = 34-36 |publisher = 公益財団法人高速道路調査会|ref = harv }} |
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** {{Cite journal|和書|author =中日本高速道路(株)東京支社企画調整チーム |year = 2009 |date = 2009-09|title = 東名高速道路の整備効果について ―全線開通40周年―|journal = 高速道路と自動車|volume = 52 |issue = 9 |pages = 33-38 |publisher = 公益財団法人高速道路調査会|ref = harv }} |
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** {{Cite journal|和書|author =村上圭三 |year = 1981 |date = 1981-12|title = 論説 21世紀を開く第2東名・名神を |journal = 高速道路と自動車|volume = 24 |issue = 12 |pages = 7-17 |publisher = 公益財団法人高速道路調査会|ref = harv }} |
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* その他 |
* その他 |
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** {{Cite journal|和書|author =中日本高速道路(株)建設事業本部 |
** {{Cite journal|和書|author =中日本高速道路(株)建設事業本部 |date = 2012-05|title = 紹介 新東名高速道路 御殿場JCT〜三ヶ日JCTの概要 |journal = 高速道路と自動車|volume = 55 |issue = 5 |pages = 33-36 |publisher = 公益財団法人高速道路調査会|ref = harv }} |
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** {{Cite journal|和書|author =早川慎治・宮部光貴 |date = 2015-11-12|title = 新東名高速道路 愛知県区間お概要 浜松いなさJCT〜豊田東JCT |journal = プレストレストコンクリート|volume = 57 |issue = 6 |pages = 18-25 |publisher = プレストレストコンクリート技術協会|ref = harv }} |
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** {{Cite journal|和書|author =門間俊幸 |date = 2009-01|title = 公平性の観点からみた中国地方の高速道路ネットワークの計画策定の経緯と検証 : 空間的応用一般均衡モデルを利用した帰着便益計測 |journal = 国土技術政策総合研究所資料|volume = 515 |issue = |pages = 1-43 |publisher = 国土交通省|ref = harv }} |
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** {{Cite journal|和書|author =宇佐美純二・夏目惣治・片山一弘 |date = 2007-02|title = 東名高速道路の集中工事における交通運用 大井松田〜御殿場間 下り線右ルートの反転運用 |journal = 建設の施工企画|volume = 684 |issue = |pages = 30-33 |publisher = 社団法人日本建設機械化協会|ref = harv }} |
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** {{Cite journal|和書|author =今田保 |date = 2014-06|title = 巻頭企画 東海道新幹線開業50年に思う|journal = 鉄道ピクトリアル アーカイブセレクション28|volume = |issue = |pages = 6-12 |publisher = 鉄道図書刊行会|ref = harv }} |
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** {{Cite journal|和書|author =渡辺智恵 |date = 2014-06|title = モデル線区とは|journal = 鉄道ピクトリアル アーカイブセレクション28|volume = |issue = |pages = 72-73 |publisher = 鉄道図書刊行会|ref = harv }} |
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** {{Cite journal|和書|author =石原達也 |date = 2014-06|title = モデル線区電気施設の大要|journal = 鉄道ピクトリアル アーカイブセレクション28|volume = |issue = |pages = 74-77 |publisher = 鉄道図書刊行会|ref = harv }} |
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** {{Cite journal|和書|author =高野務・斉藤義治 |date = 1961-11|title = 東海道幹線自動車国道の調査について|journal = 土木学会誌|volume = 46 |issue = 11 |pages = 15-18 |publisher = 土木学会|ref = harv }} |
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** {{Cite journal|和書|author =樽井常忠 |date = 1961-11|title = 東海道幹線自動車国道の調査について|journal = 道路建設|volume = 167 |issue = |pages = 26-37 |publisher = 日本道路建設業協会|ref = harv }} |
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** {{Cite journal|和書|author =片平信貴 |date = 1964-11|title = 東京~神戸間高速道路|journal = 土木学会誌|volume = 49 |issue = 11|pages = 30-34 |publisher = 土木学会|ref = harv }} |
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** {{Cite journal|和書|author =石井興良 |date = 1960-07-01|title = 東海道高速自動車道路について|journal = 道路 road engineering & management review|pages = 480-486 |publisher = 日本道路協会|ref = harv }} |
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;パンフレット |
;パンフレット |
||
* {{Cite |和書|author = 中日本高速道路株式会社 |title = 東名高速道路全線開通50周年のあゆみ the course of history |year = 2019 |date = 2019-04 |edition = |publisher = 中日本高速道路株式会社 |isbn = |series = |ref = harv }} |
* {{Cite |和書|author = 中日本高速道路株式会社 |title = 東名高速道路全線開通50周年のあゆみ the course of history |year = 2019 |date = 2019-04 |edition = |publisher = 中日本高速道路株式会社 |isbn = |series = |ref = harv }} |
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高速自動車国道 (有料) | |
---|---|
E1 東名高速道路 アジアハイウェイ1号線 | |
地図 | |
路線延長 | 346.7 km |
開通年 | 1968年(昭和43年)- 1969年(昭和44年) |
起点 | 東京都世田谷区(東京IC) |
主な 経由都市 |
川崎市・横浜市・富士市・静岡市・浜松市・岡崎市・豊田市・名古屋市 |
終点 | 愛知県小牧市(小牧IC) |
接続する 主な道路 (記法) |
記事参照 |
■テンプレート(■ノート ■使い方) ■PJ道路 |
東名高速道路(とうめいこうそくどうろ、英語: TOMEI EXPWY[1])は、東京都世田谷区の東京インターチェンジ(IC)から、神奈川県・静岡県を経由し、愛知県小牧市の小牧ICへ至る高速道路(高速自動車国道)である。略称は東名高速(とうめいこうそく)、東名(とうめい)、新東名高速道路と特に区別する場合には旧東名・現東名など。中日本高速道路(NEXCO中日本)の公式的呼称は東名と現東名。法令上の正式な路線名は第一東海自動車道である[2]。また、アジアハイウェイ1号線「AH1」の一部である。
高速道路ナンバリングによる路線番号は名神高速道路とともに 「E1」 が割り振られている[3]。
概要
[編集]東名高速道路は、東海道を走る国道1号の貨物輸送量増加による逼迫を受けて、貨物の大量、高速輸送等の時代の要請に応える新たな自動車専用道路として建設された[7][8]。都市間高速道路における東名の開通順位は、名神高速道路、中央自動車道に次いで3番目である[9]。路線がカバーする範囲は名神高速道路と併せて日本経済の枢要部であり[10]、開通当時において工業的に最も高い発展を遂げた地域を貫通したことから、東名はこれらの地域のさらなる機能強化と拡大を図るうえで積極的な役割を果たし[11]、ひいては日本の高度経済成長の前半部を支え牽引した[12]。
路線は関東地方から中部地方にかけて、東海道とほぼ並行して東西に縦貫する。用地買収費と建設費を抑える観点から、家屋や田畑等を可能な限り回避のうえ東京 - 小牧間を最短距離となるように計画し、併せて市街地をはじめ集落の分断を極力回避した[13]。また、東海道新幹線と競合しないように路線位置の調整が行われている[4]。結果、路線は横浜、藤沢、小田原、沼津、浜松、名古屋などの都市中心部を通さず、併せて熱海、三島に寄らずに御殿場回りとなっているほか、豊川 - 名古屋間も海岸を避けて内陸に路線を通した[13]。これにより、市街地を通過する東海道新幹線、東海道本線、国道1号とは位置的に若干の相違があり、東京起点より沼津までは内陸を通行する国道246号に概ね並行し、以降浜松付近まで国道1号に並行する。これより東海道新幹線と東海道本線を避けて舘山寺、三ヶ日を通過して[14]、岡崎付近で国道1号に並行して以降は内陸を通って名古屋市東端、春日井、小牧に至り名神に接続する。
この道路は先行した名神高速道路の技術と経験を取り入れて建設されたが、全体的に直線が多勢を占める名神に対して、東名は9割までが曲線で構成されている[15]。また、東海道の特色として大河川の横断が多岐に渡り、東名においても多摩川、相模川、酒匂川、富士川、安倍川、大井川、天竜川、浜名湖等の幾多の大規模河川を横断することが路線の特徴である[16]。
「東名高速道路」の名称は、東京と名古屋を結ぶ高速道路という意味でそう呼ばれる[17]。また「高速道路」という呼称を使用しているのは、現在、新東名・東名と新名神・名神のみであるが、これは東名・名神の計画・建設の進められる過程で広く民間において「高速道路」という通称が使用され、一般的に定着して馴染みがある名称となったという歴史的な背景を考慮して採用されたものである[18]。これらは東京IC - 小牧IC間の道路名(通称名)で、法令による路線名はこれとは異なる(後述)
東京ICから小牧ICまでの直線距離は248.4キロメートル (km) [注釈 1]であるが、東名の延長距離は346.7 kmと、約100 kmも迂回している(東海道新幹線の東京駅 - 名古屋駅とほぼ同じ距離)。
全区間をNEXCO中日本が管理・運営している。道路カラーはスカイブルー(■)[19]。
新東名高速道路との関係
[編集]東名に並行している新東名高速道路(以下、新東名)は、東名のバイパス路線として建設された道路である。東名は交通量が多く、そのため渋滞や事故が常態化していて、さらに設計が古いため急曲線・急勾配等が多く、近年は老朽化が深刻であり大規模な更新工事を多数実施する状況となっている。さらに、東名は首都圏と中部地方や関西地方等を結ぶ大動脈の一つであるため、災害時においては東西間の物流に障害が生じる。そのため、高速道路ネットワークを本道路と相互に補完し合う新たな路線として新東名が建設された。
新東名は東名と比較して高規格で設計され、急曲線・急勾配等が少ない上、最高速度120 km/hで運用されている区間も存在する。御殿場JCT - 豊田JCTで新東名・伊勢湾岸道・新名神ルートで東京~大阪間を走行する場合は、東名経由に比べ距離が数十キロメートル短縮[20]され、さらに新東名経由の方が所要時間短縮となる事が多いという結果になっている。
2012年(平成24年)4月14日に御殿場JCT - 浜松いなさJCT間と清水連絡路・引佐連絡路が、2016年(平成28年)2月13日には浜松いなさJCT - 豊田東JCT間が開通し、静岡県内から愛知県内までの区間で東名・新東名のダブルネットワークが形成された。また、神奈川県中部から静岡県に至る区間については、2022年(令和4年)4月16日までに海老名南JCT - 伊勢原JCT - 新秦野IC間、および新御殿場IC - 御殿場JCT間が開通しており[21][22]、残る新秦野IC - 新御殿場IC間は2027年(令和9年)度の開通予定である[23]。なお、海老名南JCT以東の横浜・東京方面に向けた区間については、基本計画路線および予定路線に留まっており、ルートや整備計画は決定していない。
路線データ
[編集]- 東京都世田谷区用賀(東京IC)
- 愛知県小牧市大字村中松原(小牧IC)
- 全長 : 346.7 km
- 道路構造令
- 第1種第1級(横浜町田IC - 秦野中井IC・岡崎IC - 小牧IC)
- 第1種第2級(東京IC - 横浜町田IC・御殿場IC - 岡崎IC)
- 第1種第3級(秦野中井IC - 御殿場IC)
- 設計速度
- 120 km/h(横浜町田IC - 秦野中井IC・岡崎IC - 小牧IC)
- 100 km/h(東京IC - 横浜町田IC・御殿場IC - 岡崎IC)
- 80 km/h(秦野中井IC - 御殿場IC)
- 車線幅員 : 3.6 m
- 道路幅員 : 24.9 m - 32.1 m
- 車線数 : 片側2 - 4車線、往復4 - 8車線(一部、付加車線(加速車線、合流車線)などで8車線区間あり。主な例は大和トンネル、御殿場ジャンクション付近の区間)
根拠法令
[編集]東名高速道路の建設に関しては高速自動車国道法および国土開発幹線自動車道建設法の二法が制定されている[24]。
法令(国土開発幹線自動車道建設法の別表、高速自動車国道の路線を指定する政令の別表)による路線名は、東京IC - 小牧IC間は第一東海自動車道で、かつ小牧JCT - 小牧IC間は中央自動車道西宮線と第一東海自動車道の重複区間である[25]。
1966年(昭和41年)7月までの根拠法令は、上記法令と異なる。以下、当時の法令を列挙する。
東海道幹線自動車国道建設法。1960年(昭和35年)7月25日公布施行。東海道幹線自動車国道建設法は、国土開発幹線自動車道建設法の予定路線網に取り込まれる形で、1966年(昭和41年)7月1日で廃止された[26]。路線名は「○○自動車道」ではなく「幹線自動車国道」という他に例を見ない名称が使用され、終点位置はその後の国土開発幹線自動車道建設法の「小牧市」とは異なって「名古屋市附近」となっているが、その経緯については東京・神戸間の高速道路計画で詳述。
路線名 | 起点 | 主たる経過地 | 終点 | |
---|---|---|---|---|
東海道幹線自動車国道 | 東京都 | 横浜市附近 静岡市附近 浜松市附近 豊橋市附近 | 名古屋市附近 |
東海道幹線自動車国道建設法施行令(その後の「高速自動車国道の路線を指定する政令」に該当[27])では次のように指定されている。この法律は東海道幹線自動車国道建設法第3条第1項、第5条の規定に基づいて政令として制定された。1962年(昭和37年)5月30日公布施行。本法律は1966年(昭和41年)7月1日で廃止された[28]。経過地は合併前の吉原市や清水市が含まれ、起点は世田谷区ではなく渋谷区となっている。
路線名 | 起点 | 重要な経過地 | 終点 | |||
---|---|---|---|---|---|---|
高速自動車国道東海道幹線自動車国道 | 東京都渋谷区 | 川崎市 横浜市 大和市 厚木市 秦野市 御殿場市 沼津市 吉原市 富士市 清水市 静岡市 焼津市 掛川市 袋井市 磐田市 浜松市 新城市 豊橋市 豊川市 岡崎市 豊田市 名古屋市 春日井市 | 小牧市 |
なお、東名の建設に関わる法令は、1966年(昭和41年)7月に廃止された東海道幹線自動車国道建設法に基づいていたため、国土開発幹線自動車道建設法(旧国土開発縦貫自動車道建設法)第5条による建設線の基本計画は告示されていない。計画の最初から国土開発縦貫自動車道建設法に基づいている名神高速道路、中央自動車道との違いである[29]。
インターチェンジなど
[編集]- IC番号欄の背景色が である部分については道路が供用済みの区間を示す。施設名欄の背景色が である部分は施設が供用されていない、または完成していないことを示す。
- スマートインターチェンジ(SIC)は背景色 で示す。
- 路線名の特記がないものは市町道。
- バスストップ(BS)のうち、○/●は運用中、◆は休止中の施設。無印はBSなし。
- 浜松IC、名古屋ICは▲としている。これは当該BSはIC近隣に設置された施設でIC設備からも離れており、本高速道路に属すBSではないためであるが、実際の運用上の扱いは一緒である。
- TB は本線料金所の略称を示す。
- SA はサービスエリア、PA はパーキングエリアの略称をそれぞれ示す。
IC 番号 |
施設名 | 接続路線名 | 東京 から (km) |
BS | 備考 | 所在地 | ||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
首都高速3号渋谷線 | ||||||||
1 | 東京IC | 都道311号環状八号線 | 0.0 | 東京都 世田谷区 | ||||
- | 東名JCT | 東京外かく環状道路 (C3 東京外環自動車道) |
1.8 | - | 事業中[30][注釈 2]。 | |||
- | 東京TB/向ヶ丘BS | - | 6.6 | ○ | 神奈川県 | 川崎市 宮前区 | ||
3 | 東名川崎IC | 尻手黒川道路 (川崎市道尻手黒川線/主要地方道野川菅生線) |
7.6 | |||||
- | 江田BS | - | 10.5 | ○ | 横浜市 | 青葉区 | ||
3-1 | 横浜青葉IC/JCT | 国道246号 首都高速神奈川7号横浜北西線 |
13.3 | |||||
- | 港北PA | - | 14.2 14.9 |
名古屋方面 東京方面 |
緑区 | |||
4 | 横浜町田IC | 国道16号(大和バイパス/保土ヶ谷バイパス) | 19.7 | ◆ | BSは1999年(平成11年)廃止 | |||
横浜上瀬谷IC(仮称) | 21.2 | 検討中[32] | 瀬谷区 | |||||
- | 大和BS | - | 24.0 | ○ | 大和市 | |||
4-1 | 綾瀬SIC/BS | 県道42号藤沢座間厚木線 | 28.8 | ○ | 綾瀬市 | |||
- | 海老名SA | - | 31.4 | 海老名市 | ||||
4-2 | 海老名JCT | C4 首都圏中央連絡自動車道 [注釈 3] | 33.9 | - | ||||
5 | 厚木IC | 国道129号 E85 小田原厚木道路 |
35.0 | 厚木市 | ||||
- | 厚木BS | - | 36.7 | ○ | ||||
5-1 | 伊勢原JCT | E1A 新東名高速道路 | 40.2 | - | 東名東京方面⇔新東名海老名南JCT方面 及び東名名古屋方面⇔新東名伊勢原大山IC方面相互間の利用不可 |
伊勢原市 | ||
- | 伊勢原BS/救急車緊急退出路 | 41.7 | ○ | 東海大学医学部付属病院に接続 | ||||
5-2 | 秦野中井IC/秦野BS | 県道71号秦野二宮線 厚木秦野道路(事業中) |
50.1 | ○ | 秦野市 | |||
- | 中井PA | - | 53.7 | 足柄上郡 | 中井町 | |||
- | 大井BS | - | 57.1 | ○ | 大井町 | |||
6 | 大井松田IC | 国道255号 県道78号御殿場大井線 |
57.9 | |||||
- | 松田BS | - | 60.2 | ○ | 下り線は左ルート | 松田町 | ||
- | 山北BS | - | 63.6 | ○ | 下り線は左ルート | 山北町 | ||
- | 鮎沢PA | - | 71.9 72.5 |
下り線左ルートのみ設置 上り線 | ||||
- | 小山BS | - | 75.5 | ○ | 下り線は左ルート | 静岡県 | 駿東郡 小山町 | |
- | 足柄BS | - | 79.2 | ○ | ||||
6-1 | 足柄SA/SIC | 81.1 | ||||||
御殿場市 | ||||||||
7 | 御殿場IC第二出入口 | 国道138号(御殿場バイパス) | 83.7 | 東京方面出入口(ハーフインターチェンジ) | ||||
御殿場IC第一出入口 御殿場BS |
県道401号御殿場箱根線 | ○ | 東名高速道路最高地点(標高454m) | |||||
7-1 | 御殿場JCT | E1A 新東名高速道路 | 88.3 | - | 東名東京方面⇔新東名新御殿場IC方面 及び東名名古屋方面⇔新東名長泉沼津IC方面相互間の利用不可 | |||
7-2 | 駒門PA/SIC | 90.0 91.6 |
◆ | 東京方面 名古屋方面 | ||||
7-3 | 裾野IC | 県道82号裾野インター線 | 93.8 | 裾野市 | ||||
- | 裾野BS | - | 95.5 | ○ | ||||
8 | 沼津IC | E70 伊豆縦貫自動車道 県道83号沼津インター線 県道405号足高三枚橋線 |
103.3 | ○ | 沼津市 | |||
8-1 | 愛鷹PA/SIC | 105.9 | ○ | |||||
- | 原BS | - | 112.2 | ◆ | ||||
- | 中里BS | - | 115.7 | ○ | 富士市 | |||
9 | 富士IC | 国道139号(西富士道路) 県道353号田子浦港富士インター線 県道414号富士富士宮線 |
121.5 | ○ | ||||
- | 松岡BS | - | 125.0 | ○ | ||||
9-1 | 富士川SA/SIC | 県道10号富士川身延線 | 127.5 | ○ | 上り線のみハイウェイオアシス併設 | |||
- | 蒲原BS | - | 133.1 | ○ | 静岡市 | 清水区 | ||
- | 由比PA | - | 138.7 139.8 |
◆ | 名古屋方面 東京方面 | |||
- | 興津BS | - | 142.5 | ○ | ||||
9-2 | 清水JCT | E52 新東名高速道路(清水連絡路) | 146.4 | - | ||||
10 | 清水IC | 国道1号(静清バイパス) | 147.8 | ○ | ||||
- | 日本平PA | - | 155.9 | ○ | 駿河区 | |||
10-1 | 日本平久能山SIC | 県道74号山脇大谷線 | 158.8 | - | ||||
11 | 静岡IC | 県道84号中島南安倍線 | 161.8 | ○ | ||||
- | 日本坂PA | - | 171.5 171.6 |
東京方面 名古屋方面 |
焼津市 | |||
12 | 焼津IC | 県道81号焼津森線 | 173.6 | |||||
- | 焼津西BS | - | 176.1 | ○ | ||||
12-1 | 大井川焼津藤枝SIC 大井川BS |
181.4 | ○ | |||||
13 | 吉田IC | 県道34号島田吉田線 | 185.6 | ○ | 榛原郡 吉田町 | |||
- | 牧之原SA/牧の原BS | - | 194.4 | ○ | 牧之原市 | |||
13-1 | 相良牧之原IC | 国道473号(金谷御前崎連絡道路) | 196.6 | |||||
14 | 菊川IC | 県道79号吉田大東線 | 201.8 | ○ | 菊川市 | |||
14-1 | 掛川IC | 県道38号掛川大東線 県道403号磐田掛川線 |
207.8 | ○ | 掛川市 | |||
- | 小笠PA | - | 209.8 | |||||
- | 岡津BS | - | 212.9 | ○ | ||||
15 | 袋井IC | 県道61号浜北袋井線 | 219.4 | ● | 袋井市 | |||
15-1 | 磐田IC | 県道86号磐田インター線 県道283号横川磐田線 |
223.4 | 磐田市 | ||||
- | 磐田原PA | - | 1997年(平成9年)6月1日廃止、遠州豊田PAに移設された。跡地には磐田ICを設置。 | |||||
15-2 | 遠州豊田PA/SIC | 225.3 | ||||||
- | 磐田BS | - | 226.2 | ○ | ||||
16 | 浜松IC | 県道65号浜松環状線 | 230.0 | ▲ | 浜松市 | 中央区 | ||
- | 浜松北BS | - | 233.5 | ○ | ||||
16-1 | 三方原PA/SIC | 234.9 | ||||||
16-2 | 浜松西IC | 県道65号浜松環状線 | 240.5 | |||||
16-3 | 舘山寺BS/SIC | 県道320号引佐舘山寺線 県道368号湖東舘山寺線 |
244.4 | ○ | ||||
- | 浜名湖SA/BS | - | 247.9 | ○ | 浜名区 | |||
17 | 三ヶ日IC | 県道85号三ヶ日インター線 県道308号鳳来三ケ日線 |
251.1 | |||||
- | 三ヶ日BS | - | 255.0 | ○ | ||||
17-1 | 三ヶ日JCT | E69 新東名高速道路(引佐連絡路) 三遠伊勢連絡道路(調査中) |
255.8 | - | ||||
- | 新城PA | - | 261.0 | 愛知県 | 新城市 | |||
- | 豊橋北BS | - | 262.3 | ○ | ||||
- | 豊橋新城SIC | 262.7 | 2026年(令和8年)度供用開始予定[33] | 豊橋市 | ||||
- | 豊橋PA/TB | - | 265.7 | 本線料金所(検札所)は2007年(平成19年)5月31日廃止 PAは名古屋方面のみ | ||||
18 | 豊川IC | 国道151号 | 269.0 | ○ | 豊川市 | |||
- | 赤塚PA | - | 274.0 | |||||
- | 音羽BS | - | 279.1 | ○ | ||||
18-1 | 音羽蒲郡IC | 国道1号 県道73号長沢蒲郡線(音羽蒲郡道路) |
280.2 | |||||
- | 本宿BS | - | 285.4 | ○ | 岡崎市 | |||
- | 美合PA | - | 288.9 290.2 |
名古屋方面 東京方面 | ||||
19 | 岡崎IC | 国道1号 | 293.4 | ○ | ||||
- | 岡崎阿知和SIC | 299.5 | - | 事業中[34] | ||||
- | 岩津BS | - | 301.5 | ○ | ||||
19-2 | 豊田JCT | E1A 伊勢湾岸自動車道 | 304.1 | 豊田市 | ||||
19-3 | 豊田上郷SA/SIC | 県道76号豊田安城線 | 305.8 | ○ | ||||
20 | 豊田IC | 国道155号(豊田南バイパス) 県道76号豊田安城線 |
310.8 | ○ | ||||
20-1 | 東名三好IC/三好BS | 県道54号豊田知立線 | 315.8 | ○ | みよし市 | |||
- | 東郷PA/SIC | - | 318.0 | SICは事業中[34] | 日進市 | |||
- | 日進BS | - | 319.3 | ○ | ||||
20-2 | 日進JCT | 名古屋瀬戸道路 | 322.3 | |||||
21 | 名古屋IC | C2 名古屋第二環状自動車道支線 県道60号名古屋長久手線(東山通) |
325.5 | ▲ | 名古屋市 名東区 | |||
- | 旭BS | - | 329.5 | ◆ | 尾張旭市 | |||
21-1 | 守山PA/SIC | 333.6 | 名古屋市 守山区 | |||||
22 | 春日井IC | 国道19号 | 337.6 | ◆ | 春日井市 | |||
23 | 小牧JCT | E19 中央自動車道 | 339.8 | - | 小牧市 | |||
24 | 小牧IC | 国道41号 名古屋高速11号小牧線 |
346.7 | |||||
E1 名神高速道路 |
歴史
[編集]構想から法整備まで
[編集]東名の計画は1940年(昭和15年)の内務省における弾丸道路計画に端を発する。計画は戦局悪化により中断されたが[37]、1951年(昭和26年)に当時の首相であった吉田茂の命により東京 - 神戸間の道路計画として再開された[38]。
これと相前後して、同じ東京 - 神戸間を南アルプス経由で貫く中央道が計画され、東名と競合の形をとったために[39]いずれを採用するかで政府や政治家、専門家を巻き込む大論争へと発展した[40]。しかし両案とも名古屋 - 神戸間はさしたる違いがないことと、経済効果が大きいことを勘案してこの区間のみ先行して事業化することにした。これが名神高速道路である[41]。
残る東京 - 名古屋間は、法整備のうえでは中央道が先行した。1957年(昭和32年)4月に、中央道建設の根拠法である国土開発縦貫自動車道建設法が施行され[42]、このため東名の計画は中止のやむなきに至った[43]。
この間も国道1号の交通量は暫時増加傾向を示し、いよいよ行き詰まりの様相を呈した。大量の交通を高速で流すためには東名の建設が必須で[44]、これは衆議院議員の遠藤三郎らによって支持された[45]。遠藤は東名建設のための法案を議員提案として国会に提案し[36]、1960年(昭和35年)7月に東海道幹線自動車国道建設法が成立するに至った[46]。
設計と建設
[編集]調査
[編集]東名の設計の基本となったのが、建設省が1959年(昭和34年)から1961年(昭和36年)にかけて調査のうえまとめた「東海道幹線自動車国道調査報告書」である[47]。
調査は逼迫する国道1号の現状調査[48]、改良箇所およびバイパス建設の検討から始まり、それでも逼迫する場合は自動車専用道路の調査も考慮した[49]。結果、国道1号の現状から推して高速自動車国道の建設は一刻も放置できないと判断されて重点をこれに移して調査を行ない[50]、1961年(昭和36年)10月にはまとめあげて道路審議会に報告した[51]。
報告によると、有料道路とした場合の採算性は1962年度に着工し、建設期間を7年として、1969年度から供用すると仮定した場合の1969年(昭和44年)の一日の平均交通量は15,594台と算出した。これに将来の伸びを考慮すると供用開始後21年で償還を終了すると推定した。さらに直接の経済効果として、走行便益、時間便益、交通事故減少効果のほかに間接効果として沿道地域の人口と産業の増加ならびに工場などの在庫の減少が期待される。このうち一般道路から東名に転換する交通量による直接効果は235億円と推定され、これだけでも10年足らずで建設費相当額の便益がある[53]。つまり、東名は巨額の投資を行っても造るに値する経済価値があることが明らかとなった。
起点はその後の世田谷区と異なって渋谷区代々木八幡の環状6号(山手通り)の接続部とされ、以後、環状7号、環状8号の各交差部でインターチェンジを設ける手筈であった[54]。調査時点で東京都内における東名と接続する交通体系の方針が未確定であったことから一応決めたことであって、これが確定すればこの計画に合わせることにした[54]。終点は法律では名古屋市附近であるが、技術的な事情によって小牧市となった。その延長は356 kmで、建設費用は2,442億円である[55]。具体的調査により、過去に概算された1,700 - 1,900億円[56]から大幅増となった。
ルートは確定後の東名と概ね一致するが、焼津 - 豊川間は3ルートがあってこの時点では絞り切れていない(後述)。車線数は東京第3インターチェンジ(環状8号接続)から松田までが往復6車線で、さし当たりは4車線の建設を行い、用地のみ完成形で買収する。それ以外は完成形の4車線断面である[53]。こうした建設省の調査を引き継いで日本道路公団(以下、公団)が改めて調査に望んだ。以下は公団による調査である。
建設省の調査は直線主体の旧来の線形であったことと、名神建設で経験された建設費用の実績が建設費積算に反映されておらず、加えて短い区間における比較線調査が十分に行われていなかった。これによりこの調査のみをもって東名の整備計画を確定するには不十分であることから、1961年(昭和36年)より改めて公団の手で調査が行われ、それが結果的に3,425億円という建設費概算となって現れた[57]。さらに東名の特徴である曲線主体の線形を大幅採用し、建設省調査後に住宅団地化、工業団地化した区域を避けるべく路線修正を行った[58]。
起点は、東名の道路規格で都心部まで乗り入れることは極めて困難であることから、建設省案の渋谷区から世田谷区の環状8号外側まで後退した。最終的な起点位置は、首都高速3号渋谷線の連結を考慮して決定した[59]。
また、費用対効果の確認や車線数、インターチェンジ位置を計画するに当たって推定交通量を算出した。1969年(昭和44年)の東名開通時点の交通量は、東京の日換算33,000台を頂点に厚木までが2万台以上と突出しており[60]、さらに開通後10年以内の東京 - 厚木間の推計は2倍以上に増加するとの見立てから、東京 - 厚木間は往復6車線、それ以外は往復4車線とした[61]。ただし、当初整備計画では東京 - 大井松田間を往復6車線としたが、小田原厚木道路が計画されたことによって、厚木 - 大井松田間は往復4車線に縮小された[62]。
なお、1時間あたりの交通容量は、6車線7,000台、4車線4,600台で、これを基に年平均の1日の交通容量を算出した場合、往復6車線区間で88,000台、往復4車線区間で48,000台である。これだけの交通容量ならば、東名は無理なく車を流すことができる[63]。実際、全線開通15年後の1984年(昭和59年)の推定交通量はこの範囲に収まっている[64]。しかしながら、開通後ほどなくして、この交通容量では圧倒的に不足することが明らかとなった[65]。
路線選定
[編集]日本道路公団が建設省から事業を引き継いだ段階で、静岡県西部の焼津 - 三ヶ日間の大比較線が残されていた。建設省が大比較線を残したのはいずれも決っしえなかったためである。よって公団の手で改めて比較調査を行った[57]。大比較線は3ルート用意され、この中から、経済効果、建設費用、工事の難易度、走行安全性といった要素を加味して一本に絞る。3案とは、内陸、海岸、その中間であるが、元々建設省が計画したのは浜北を通過する内陸案で、これに対して産業計画会議が海岸案を提案し、この二案を折衷したのが中間案であった[68]。
内陸は路線延長が短く建設費も最小だが浜松市から遠く、利用交通量が少ない。海岸は路線延長が長く建設費も高いうえに、利用交通量が少ないことで2,000億円相当の損失が見込まれた。よって、公団は中間を採用することにしたが、そこへ静岡県が海岸案を主張してきた。これは静岡県が1961年(昭和36年)に策定した総合開発計画がこの海岸線案を骨子として出来たためで、県の考えでは、開発の遅れている遠州灘海岸地帯の振興のために東名を利用しようということであったが[69]、いかんせん損失額が大きすぎるため、県は海岸よりやや内陸となる案(静岡県案)を提案した[70]。それでも中間有利と判定されたのは、利用する地形がよく、路線延長が短い、3パーセント以上の勾配距離が海岸の半分以下、建設費が97億円安い、海岸と比べ交通量が多い、よって超過便益は海岸に比べて差し引き504億円相当で圧倒的に中間有利という結果が出たことによる。また、海岸は未開発地帯を通るだけに、東名開通の折には土地の利用効率は約69億円相当海岸有利であるが、それとて建設費97億円の差額にも及ばないとされた[71]。但し、静岡県の主張する海岸地帯開発の考えを一部取り入れてルートに反映させることとした。これに茶畑の潰地を少なくし、橋梁を避ける等の修正を行って最終ルートが確定した[72]。路線の内定は1963年(昭和38年)6月で[73]、一年以上も遅れていた整備計画の策定にさっそく反映された[74]。
こうしたルート選択において難渋を極めたのが松田 - 山北間、インターチェンジでいえば大井松田IC - 御殿場IC間である。このわずか14 kmの区間に工費254億円を投じ、km換算では17億円という、東京付近の地価の高い区間を除いて最高の建設費を要した[79]。東京 - 小牧間の東名にあって最後に開通した区間であり、予算不足ゆえ工事の発注が遅れたうえに高難度の建設工事、そして路線選定でもめた区間であった[78]。松田 - 山北間は、箱根山と丹沢山塊に囲まれた、急峻で狭隘な谷間とを縫って進むが[80]、鮎沢川と酒匂川による浸食作用が手伝って山腹や山裾は急崖をなし、その川と急崖の間のわずかな平地に人家が建ち並ぶ。加えて国道と鉄道が並行し、山の斜面にはミカン畑がある。結果、高速道路を造りうるような場所は全て国道、人家、鉄道で埋め尽くされており[80]、こうした狭隘な地形条件とあっては東名は高所を通さざるを得ないとされた[81]。東名が切り立った山の側面に取り付いているのはこうした理由からである[80]。
この区間は当初、大小を含めて10本の比較ルートが用意されたが、大別すれば長大のり面と橋が多い南線と、トンネルの長い北線に収れんされる[79]。一般的にトンネルは工費が高いことから、建設費抑制の観点からいえばトンネルを要する山の通過は避けて山あいを迂回すればよい。しかし、それによって山肌を削り取る必要が生じ、結果、工事中の危険性が高く、開通後も崖崩れの危険がつきまとう。山あいの通過ではカーブがきつくなることでドライバーの負担が増し、さらに高い橋脚を要することはトンネル以上の建設費を要する。そして、高所ゆえ冬は路面凍結の恐れがあることを考慮すると、むしろトンネルを挿入する方が線形や構造物を楽にでき、全体としては安全になる。都夫良野トンネルはこうして建設されることになったが、これが北線であり、こちらが採択された[76]。
比較線でもう1本苦慮したのは由比地区である。もともと建設省が海岸ルートを検討していたものを放棄して山手まわりとしたが、この付近の山は地滑り地帯であることから、それを避けるためにトンネルを通す位置を最も安全な位置に計画した。ところが、そこを東海道新幹線が利用することになり、計画が立ちいかなくなった。しかし、1961年(昭和36年)に発生した由比町寺尾地区で発生した地滑りにおいて約120万立方メートルの排土が必要となり、様々な理由から海岸へ投棄する以外に選択肢がなく、農林省から建設省に対して協力要請があった。公団はこれに飛びつき、急遽海岸回りの検討に入った。距離にして山手回りと比較して大差なく、海岸埋め立て事業を国道事業、海岸保全事業との合併施工で行えば工費もいくぶん節約できる。結局、海岸を埋め立てて、そこに東名を通すことになった[82]。東名の施行命令は1962年(昭和37年)5月の東京 - 静岡間を皮切りになされたが、当該区間を最優先としたのは、由比地区の地滑り地帯の工事に早く取りかかる必要からであった。当該地帯の工事は同年10月からの開始を予定し、そのためには一刻も早い路線指定を行って、土砂の搬出についての契約を遅くとも5月中に済ませなければ間に合わないためである[68]。
施行命令
[編集]建設大臣から日本道路公団に下される施行命令は次の順になされた。1962年(昭和37年)5月30日(東京 - 静岡間)、同年9月17日(豊川 - 小牧間)、1963年(昭和38年)10月25日(静岡 - 豊川間を含めた東京 - 小牧間の全線)[83]。
しかし、命令は真っ先に下されたが、その時点で路線が確定していたわけではなかった[84]。特に上述の松田 - 山北間の路線が確定したのは1964年(昭和39年)8月である[79]。施行命令が下されたからと言って直ちに工事に入るのではなく、様々な調査結果を考慮しながら最終的な路線位置を決定し[84]、中心杭設置、設計協議、用地買収を経てはじめて工事に取りかかる[85]。
用地買収
[編集]地形図を入れたルートを地元関係者に発表(路線発表)してのち、諸々の協議を経て用地取得に入る[85]。用地が確保されれば道路は完成したようなものだ、といわれる[93]。しかし、土地が確保されなければ路線計画は絵に描いた餅で、期限までに収容できなければ、予定された開通日に間に合わないだけではなく、税金の優遇措置に影響するなど様々な不都合が生じる[94][95]。よって、調印を取り付けるために地主の感情を読み解きながら、いたずらに感情を刺激しないように事を運び、期限内の取得を目指した[96]。以下、買収事例を挙げる。
高速道路における用地買収では、買収価格と地権者の思い描いた価格が相違する場合は激しい対立が生じた[97]。それを避けるために地元民を組織化して、その代表と交渉する等の対策を講じたが[98]、それでも金銭が絡むことゆえ内部分裂が生じることも多々あって、そのために地主たちをまとめる代表の苦労も並々ならぬものがあった。袋井市の場合、東海道新幹線の用地買収に2年を費やし、国道1号のそれに8か月を要した土地柄の場所へ東名が交渉に入った。価格協議は予想通りの難航を示し、ほうぼう手を尽くして妥結に至ったのであるが、この間、地主会会長が三人交代している[99]。また、対立が深く、協議に一向の進展も見られない場合、自治体のトップに斡旋を依頼して解決を図った[100][101]。
先述のように、用地買収は時間との戦いでもあった。秦野市では1966年(昭和41年)3月以降、公団の単価発表に不満を持つ地権者との交渉が決裂し、租税特別措置法の優遇措置が適用される最終期限の3日前に行われた地権者総会では、集まった約200人が関係地主の総意として、公団の買収価格には一切応じられないとして、いよいよ怪しい雰囲気が漂い始めた。そこで公団は地権者会を相手にすることをやめて各地主との直接交渉に乗り出した。そして迎えた最終日、公団は価格を再調整して市長室にて地権者会会長を呼んで協議したところ、会長は公団価格を了承、ただちに公民館に待機中の地権者に発表の上、有線放送で各地主に個別調印の呼びかけを行った。しかし、それに応じる動きを見せる一部地権者を妨害する者の仕業もあって夜半になっても1割弱の調印しか得られなかった。それでもなお公団は諦めず、特別班を編成のうえ夜を徹しての個別の説得工作を試みた結果、夜明け前に調印に訪れる者が現れ、最終的に関係地主が公団事務所を訪れて、ここにようやく完了をみた[102]。また、世田谷区では、都営砧緑地公園(現・都立砧公園)と区営総合体育グランドの用地を取得するに際し、東京都議会と区議会の承認を要することで短期間取得が危ぶまれた。しかし、都区関係者の尽力によって、まれにみる短期間での都議会の議決に至った[103]。
宗教施設の買収には困難が伴った。四部落共有の神社を曳家工法で移転させる事例があったが、氏子側は公団提示額の3倍を要求して交渉は難航した。最終手段として土地収用法による採決を公団が迫り、氏子側は神社移転を収用に持ち込むのは地元の恥であるとして交渉は妥結した[104]。この土地収用は最終手段ではあるが、東名の用地買収ではやむを得ず行使した例がある。ある交渉において最後まで了承しなかった地主数人に対して、市長が午前9時より翌日の午前2時まで、連続17時間にもわたる説得で妥結した者を除く残り1名について、公団の妥結価格を不服として最後まで調印を拒絶し、そのうえ、7兆円の5億万倍という天文学的な価格を突きつけたことから、やむなく収用法を適用したものである[105]。
こうした用地買収と工事に伴う補償費だけで工費全体の30パーセント(924億9,300万円)を要した[106]。
資金計画
[編集]敗戦後の日本は極端に税収が少なく、税金だけで高速道路を造ることは不可能であった。そこでアメリカに倣って、道路の建設は借入金で賄うことで税収不足を補い、返済方法は道路を有料にしたうえで、通行料金収入で返済にあてる方法が画策された。道路とは本来公共物であるから、税金で造って無料で通行できる類いのものである。それを有料にして通行料金を取るというのは、当時は画期的なことであった。こうした道路造りの方法として日本道路公団が発足したのであるが、名神、東名、中央道の公団による建設は、税収の少ない当時の日本において選択しうる唯一の方法であった[107]。よって、東名は当初から有料道路として計画され、それを日本道路公団が建設し、開通後の料金収入で借入金を返済することになった[108]。
東名の概算事業費は3,425億円で発足した。これは、東名全線開通における総事業費3,425億円と同額であり、これほどの大規模工事でありながら、予算枠内で出費を抑えることに成功している[109]。この3,425億円という事業費に対し、1962年度(昭和37年度)における国全体の総道路投資額は約4,000億円であったことからも、東名における事業規模の大きさが解る[110]。1 km当たりの工事費は9.8億円で、これをアメリカの2.25億円、西ドイツの3.5億円、フランスの1.8億円と比べると約3倍となっている。これは日本の特殊事情から来るもので、地質が軟弱地盤、平地面積に比べて山地が多い、人口密度が高く土地利用が高度化している事が費用の増加要因として挙げられる[111]。
日本道路公団はこの巨額な資金調達に対して、名神に引き続いて国際復興開発銀行(世界銀行)の借款を強く要望した。これは公団が施行するほかの道路建設計画と合わせると、政府の予算、財政投融資計画による限度一杯の投資を行ってもなお資金不足に見舞われるためである[112]。
1962年(昭和37年)12月に大蔵大臣の田中角栄が渡米し、世界銀行総裁と会談した結果、事業費7,500万ドルの借款(名神に続くことから[113]第3次借款)に成功した。続いて、豊川 - 小牧間の第4次借款5,000万ドル、静岡 - 豊川間の第5次借款7,500万ドル、東京 - 静岡間の6次借款1億ドルと全部で4次に渡って借り入れ、合計3億ドル(1ドル=360円の固定相場制、1,080億円)を賄った[114][115]。従って、東名の総建設費用の32パーセントを外貨に依存したことになる。名神の外貨依存率が約25パーセントであるから、東名においては建設費の財源としてより大きな割合を占めることになった[116]。この借入金は、道路債権に比べて長期かつ低利(償還期間15 - 26年、利率5.5 - 6.625パーセント)であることから、建設費の金利負担の軽減に寄与した[117]。なお、世界銀行以外の借入では、政府出資金(資本金)、道路債権、産業投資特別会計借入金がある[114]。
建設
[編集]東名は名神の経験の上に立って建設された。名神に対して施工延長は約2倍、事業費においては約3倍であるにもかかわらず名神より1年短い工期で完工したのは、機械施工における一層の効率化が図られた結果であるが、それ以外にも公団職員から請負業者に至るまで、元旦以外は休日を返上しての突貫工事を行い、特に造園業者は開通5日前から殆ど徹夜作業で仕事に臨んだことも工期短縮の一要因であった[118]。
東名の建設では、携わった者は延べ2,170万人で[119]、この数は土木建設のみならず、電気、通信、照明、植栽等の関連工事も含み、日本の主要な建設会社、メーカーのほとんどが工事に参加しているためである[119]。このうち、犠牲者数は79人であった[120]。
国幹道法への組替え
[編集]建設も始まってからほどなくして、議員立法として成立した東海道幹線自動車国道建設法が1966年(昭和41年)7月1日をもって廃止され[121]、代替の国土開発幹線自動車道建設法(国幹道法)の予定路線に組入れられて、全国高速道路ネットワーク7,600 kmを構成する道路の一部となった[122][123]。
組替えに際し、法定路線名が従来の「高速自動車国道東海道幹線自動車国道」から「高速自動車国道東海自動車道」に変更された[124]。
開通後
[編集]東名は東京IC - 小牧IC間346.7 kmを4次の部分開通に分けて全線開通に至った。1次が1968年(昭和43年)4月で、東京IC - 厚木IC間(35 km)、富士IC - 静岡IC間(40.3 km)、岡崎IC - 小牧IC間(53.3 km)の3区間である[125]。この内、東京 - 厚木間は都市間高速道路としては初めての6車線道路である[126]。当該区間を優先的に開通させたのは、並行する国道1号の内でもっとも混雑の激しい地区だからである[126]。開通後、静岡 - 富士間(約60 km)の国道1号の混雑は、直近で2時間を要したものが、東名開通後は目に見えて減少し、従来の1時間に逆戻りした[127]。
続いて2次が1969年(昭和44年)2月の静岡IC - 岡崎IC間(131.6 km)、3次が同年3月の厚木IC - 大井松田IC間(22.9 km)、御殿場IC - 富士IC間(37.8 km)である[125]。最後となった4次の大井松田IC - 御殿場IC間(25.8 km)では、足柄SAで記念式典が行われた[128]。1969年(昭和44年)5月26日、式典会場には名神の建設以来、調査や技術指導に当たったワトキンス、ドルシュ、ソレデンガーの3名も出席し、式典後に担当者が3人を乗せて東名、名神の全線を走破した[129]。
開通により、東京 - 名古屋間の移動が従来の国道1号で約9時間半を要したものが、開通後は5時間弱と概ね半減した[130]。また、総工費3,425億円は、1968年(昭和43年)の第1次開通から数えて23年目(1990年)に償還する計画とされ[131]、これは予定通り、1990年(平成2年)7月に完了した[132][133]。
開通直後の東京ICは東名のみの起終点で、東京都心と東京ICの連絡は東京都道311号環状八号線(環八通り)を経て国道246号(玉川通り)で連絡した。このため、都市内交通と東名利用の交通が錯綜することで、玉川通りで大渋滞が発生し、都心と東京ICの連絡に一時間を要した[135]。都心と東名をつなぐ交通は当初から首都高速3号渋谷線が考慮されたが[59]、東名との同時供用はならなかった。この間、首都高速の利用台数は上昇を続け、やがて限界を超えて渋滞が常態化した。この対策として出入口の閉鎖も日常化していたところへ[136]、いよいよ1971年(昭和46年)12月21日に三宅坂 - 用賀間の開通により東名と接続した。これまで首都高速単体で渋滞が発生していたところへ、東名からの交通がなだれ込むことでさらなる首都高速の逼迫を関係者は心配したが[135]、その不安は的中した。
接続初日で東名からの交通が用賀本線料金所で大渋滞となり、他にも首都高速都心環状線と3号渋谷線の合流地点で2 km、都心環状線各所でも3 kmの渋滞に及んだ。これにより、三軒茶屋、渋谷の各ランプで閉鎖を行って丸く収めたが、それでもこの日は平日午後で、これが出勤時間帯や行楽期では到底さばききれないと関係者は危機感を募らせたという[137]。なお、首都高速と都市間高速の連結はこれが最初の事例となり、以後、中央道、常磐道、東北道との連結に至ることで、都心の幹線街路の補助的な役割を期された首都高速が、その性格を変えて国土全体の高速道路網のなかでも重要な役割を担うことになった[135]。この連結によって千葉県の成田手前と、兵庫県明石市が一般道路を経由せずに結ばれたことで、「神戸のドライバーもことしの初もうでは高速を飛ばして成田山へ」というキャッチコピーが連結に際して採用された[136]。
首都高速連結の翌1972年(昭和47年)10月5日、今度は都市間高速道路同士の連結では初となるジャンクションの運用を開始した。中央自動車道の多治見IC - 小牧JCT間開通における小牧JCTの開設である[138]。また、1974年(昭和49年)3月26日には浜松西ICが開通した。これは東名開通前から構想されたICであったが[139]ここに来て設置され、これが供用中高速道路における追加インターチェンジの第一号である[140]。これ以後、1981年(昭和56年)4月25日に秦野中井IC[141]、1988年(昭和63年)3月30日に裾野ICが完成するなど[142]、追加ICの数が増加の一途を辿った。
混雑緩和対策
[編集]三大経済圏を結び、工業・商業の密集地帯を結ぶ東名・名神の輸送量は暫時増加したが、やがて東名の容量の限界を超え、特に大都市圏や線形が厳しくトンネル区間が多い山間部では渋滞が散見され始めた[144]。これにより、高速道路の機能である高速性、定時性、安全性を図ることが困難となってきた。加えて休憩施設の混雑も著しく、平日夜間には大型車の駐車スペースが不足し、休日にはレジャー目的の小型車のスペースが不足するという事態に直面した[143]。休憩施設については、園地や緑地を駐車マスに切り替える工事で急場をしのいだ[143]。
- 大井松田IC - 御殿場IC間の改築
東名最初の渋滞緩和を目的とした大規模改良は、大井松田IC - 御殿場IC間である。これは渋滞が慢性化した本線について、渋滞箇所や事故多発地点など多角的に検討し、各インターチェンジ区間毎に改築の必要性と緊急性を精査した結果、本区間が選定されたもので[143]、1982年(昭和57年)1月開催の第26回国土開発幹線自動車道建設審議会にて整備計画の策定に至った[146]。改築では往復4車線を6車線化するが、工事の前提条件として東名を営業しながら施工する。この制約から、4車線の両側に1車線ずつ付け足す方法が全区間で採用できなかった。特に東名酒匂川橋等の高い橋脚の橋と、都夫良野トンネルと吾妻山トンネルを営業しながら拡幅することは困難であり、さらに土地の利用形態にも問題があった。東名と並行する平地に住居地区が広がり、しかも国道246号と国鉄御殿場線が位置して高密度に利用されていることから、この点でも道路両側への拡幅は困難であった[147]。
考慮の結果、両側への拡幅と、3車線を別途建設する2形態を採用するに至った[147]。しかしながら、大井松田IC - 御殿場IC間25.3 kmのうち、両側拡幅は御殿場IC寄りのわずか5.1 kmで、それ以外は後者の別線建設となった。別線は平地側への新設を避けることから、大井松田ICから吾妻山トンネル間は既存線の山側(北側)に設けてほぼ並行して建設、都夫良野トンネルから小山バスストップ付近までは逆に既存線の北側が平地となっていることから、反対の南側の山地に建設した[148]。これにより別線は既存線を軸にねじれることから、既存線を横断する箇所が存在する。
別線の特徴としては、並列部以西では箱根外輪山端部を通り、この点で鮎沢川沿いの谷筋を通る既存線とは著しく様相が異なる。山間部を貫くことからトンネルが多用され、結果的にカーブが減少して安全性が向上した。ただし、並列区間では新設路線とはいえ並行する既存線の線形を用いざるを得ず、カーブも従来通りである[149]。なお、別線を上り線として運用する理由は、並列区間の大井松田IC - 吾妻山トンネル間で既存線の北側に位置して、大井松田ICで上り線にそのまま接続するためである。別線は吾妻山トンネル付近で既存線の南側にまたぐが、小山町付近で両側拡幅区間の上り線に接続する必要から、東名足柄橋を構築して再度またいでいる。結果、交差部は2か所となった。一方の既存線は、上下4車線を下り一方向として運用することになった。既存線を下り方向に統一する理由は、当該区間が登り坂であるために、走行速度の低下を生じて渋滞の温床となるところへ、4車線運用によって交通の分散を図って走行速度の向上を期待できるためである。さらに、既存の登坂車線をそのまま使用することが可能で、これにより緩速交通を登坂車線に誘導することによって、交通分散の効果をより高めることができる[150]。7車線化の運用は1991年(平成3年)12月24日からで[151]、以後、渋滞がなくなり、ラジオ等の交通情報から「都夫良野トンネル」が消えた[152]。
- 厚木IC - 大井松田IC間6車線化
東名の運用開始後、首都圏の交通量の伸長が著しく、渋滞が御殿場付近まで達するに及んだ。そこで、厚木IC - 大井松田IC間の拡幅を行い、1995年(平成7年)までに往復6車線化された[153]。当該区間は、大井松田IC以西の区間と異なり、全区間上下線の両側に1車線ずつ付け足す方式を採用した[154]。
- 横浜IC改良
横浜ICは特に渋滞が酷く、連絡する国道16号との合流に端を発した渋滞は、料金所の容量不足でさらに増幅し、それがランプウェイを遡って本線まで及ぶに至り、最終的に本線を通過する車両まで渋滞に巻き込まれた[注釈 5]。開通前における当ICの予想された出入交通量46,000台(日換算)に対し[64]、渋滞が深刻化した1988年(昭和63年)時点では67,000台であった。当ICはその交通量の多さからダブルトランペットで計画され[155]、このため、国道16号との取り付けは立体交差であるが、ICの前後にある交差点(国道246号交差点、環状4号交差点)による信号待機の車列に東名からの流出交通が合流することで、ダブルトランペットの効果が消失していた。公団は料金所ブース増設と、ランプウェイの2車線化、付加車線設置により、それなりの効果をあげたが根本的解決には至らなかった[156][注釈 5]。この時点で公団は追加ICの必要を認め[156]、これはのちに横浜青葉IC設置へと至った[157]。この結果、国道246号の立体交差完成とも相まって、横浜IC、東名川崎ICの出口渋滞件数は大きく減少した。本線流出入もスムーズとなって、本線の平均速度が3パーセント向上した[158]。なお、横浜青葉ICの供用を前に、横浜市内に東名のインターチェンジが2か所になることを踏まえ、利用者への誘導を適切に図る必要から横浜ICは1997年(平成9年)4月1日をもって横浜町田ICに名称変更された[157]。
- 静岡IC - 焼津IC間の改築
静岡県通過区間のうち、日本坂トンネル坑口を先頭とした交通集中による渋滞が、年間250回以上という高頻度で発生している状況を鑑みて路線増設を計画した[159]。対象区間は、静岡IC - 焼津IC間(11.8 km)で、この内の日本坂トンネルを含む4.5 kmについて、既設の本線(往復4車線)の海側に新たに片側3車線の本線を新設し、既設道路は下り線を上り線に反転した上で、片側4車線の上り専用として運用することにした。また、上り線の場合、日本坂PAから静岡ICまでを3車線(トンネル部4車線)、下り線はトンネル手前から焼津ICまでを3車線化した[160]。トンネル部の運用開始は1998年(平成10年)3月27日である[161]。
代替ネットワーク構築
[編集]当初予想された計画交通量を上回る急激な需要増から混雑が目立ってきたことで、1971年(昭和46年)4月には、第二東名高速道路の計画が立ち上がり、建設省が調査を開始した[163]。しかし、地形的な難易度が高いこともあって計画は停滞した[164]。
1980年代後半になると、東名の1日の平均利用台数は約33万台、1日の平均断面交通量は7万台弱となった[165]。これは、開通当初の平均断面交通量21,000台と比較して3倍強という増加量である[166]。また、日本の全道路貨物輸送量(トンキロベース〈輸送重量×輸送距離〉[167])の約12パーセント、全道路輸送旅客量の2パーセントを受け持ち[165]、全国高速道路の料金収入の22パーセントは東名からのもの、路線延長でいえば、全幹線道路(高速道路、一般国道、都道府県道)の総延長のわずか0.2パーセントに過ぎない道路が、これほどの物量を担うまでになった[165]。
路線改良によって一部の混雑は緩和されたとはいえ、東名全体の交通量は増加の一途を辿った。東名は東海道の工業、流通、農業などに好影響を与えたが、それは高速道路を使った高速性と時間短縮効果を前提にしたもので、渋滞がやがて恒常化するに及び、定時性というメリットが失われることから輸送時間の不規則化による非効率、輸送コスト増大が深刻化してきた[168]。加えて、1979年(昭和54年)7月に発生した日本坂トンネル火災事故や由比地区における高潮の影響で東名が通行止めとなった際は、経済活動に甚大な影響を与えた。特に日本坂トンネル火災事故による仮復旧までの約一週間、通行止になって生じた影響は、日本の物流が高速道路の存在を前提にしていることを如実に知らしめた[169]。滞ったトラック輸送は並行する国道1号に流れたが、概ね40 kmにのぼる大渋滞となって物流は停滞した。流通の停滞により、スーパーに食料品が届かず、品薄になって値上がりするなど、市民生活に大きな影響が現れ、工業面でも、部品が届かないことで工場生産が止まるなど、経済に深刻な影響を及ぼした[170]。見かねた警察庁が、静岡、神奈川、愛知の3県警察に渋滞解消を命じ、安全面で抵抗する公団の反対を押し切って、事故後一週間で仮復旧させるに至った。この日本坂の事故がいろいろな方面に影響を及ぼしたのは、それだけ日本経済に占める高速道路の比重が大きいからに他ならず、それは東名を軸に東海道の物流システムが構築されたものの、その軸が機能不全に陥った場合はシステムそのものがたちいかなくなることをこの事故は如実に示した[169]。
東海道の物流を背負って立つ高速道路が東名、名神の1本だけでは、非常時の通行止めにより、動脈が切れて経済を大混乱に陥れる[169]。よって、渋滞解消のための交通量の分散と、代替ネットワークの構築は、関係者の間では喫緊の課題として認識されたが、政府の反応は鈍く[171]、ようやく第二東名建設の端緒についたのは1987年(昭和62年)6月の第四次全国総合開発計画(四全総)の閣議決定であった。同年9月に国土開発幹線自動車道建設法が改正され、第二東名は正式に計画に盛り込まれた[172]。
第二東名に施行命令が下された直後の1995年(平成7年)、阪神・淡路大震災が発生し、阪神高速道路はじめ国道2号など幾多の交通が集中している箇所が大地震によって寸断され、物流が麻痺した。影響を受けた貨物総量は日換算117万トンで、その全てが兵庫のみで完結する訳ではない。それは九州で水揚げされたのち大阪、東京方面へ向かう水産物をはじめ、中京圏から中国、九州地方へ輸送される自動車、あるいは電子機器など、阪神地区を通過する貨物だけで1日22万トンに達し、影響はかなりの広範囲に及んだ。これにより企業は輸送手段を失い、部材供給が滞ったことで、工場生産に多大な影響を与えた。トラックは迂回ルートを求めて日本海側の限られたルートや、海上輸送に殺到し、特に大阪や九州のフェリーターミナルでは長距離フェリーを求めてトラックが集中し、乗りきらないトラックの積み残しが長期間続いた[173]。この被害によって物流がライフラインそのものであることが改めて認識されるに及んで、各界からリダンダンシー論が急浮上した。これは「冗長性」「多重性」を意味し、危機管理に使われる言葉である。一本の道路に頼るよりも代替輸送ルートを整備し、非常事態に備えようとする動きがこの地震以降、強まることになった[174]。東名においても予測される東海地震等に備える意味もあって、第二東名の整備が急がれることになった[175]。
新東名(第二東名からの改称)が開通したのは2012年(平成24年)4月で、御殿場JCT - 三ヶ日JCT間約160 kmの区間で東名とのダブルネットワークとなったことで、同区間における東名の混雑は著しく減少した[176]。この直前、新東名愛知県区間の開通までの暫定的な渋滞対策として、2011年(平成23年)10月から上り線の豊田JCT - 音羽蒲郡IC間、下り線の美合PA - 豊田JCT間の4車線区間で暫定6車線化が行われた[177][178]。この区間は路肩の幅員が0.75 m、1車線当たりの幅員が3.25 mと狭くなるため、最高速度は60 km/hに設定されていた(車線数が増える直前は緩衝地帯として80 km/hに設定)。2016年(平成28年)2月の新東名開通後に当該区間の渋滞が大幅に減少し[179]、同年秋の東名集中工事で4車線に戻された[180]。
年表
[編集]1968 | (4月)東京IC - 厚木IC・富士IC - 静岡IC・岡崎IC - 小牧IC |
---|---|
1969 | (2月)静岡IC - 岡崎IC (3月)厚木IC - 大井松田IC・御殿場IC - 富士IC (5月)大井松田IC - 御殿場IC |
- 1951年(昭和26年) : 東京 - 神戸高速自動車道調査を再開[181]。
- 1956年(昭和31年)5月19日 : ワトキンス調査団来日[182]。
- 1957年(昭和32年)10月17日 : 東京 - 神戸間の内、競争のない小牧 - 西宮間(名神高速道路)の施行命令が下る[183]。
- 1958年(昭和33年)3月19日 : 松永安左エ門の私設シンクタンク「産業計画会議」が東京 - 神戸間 高速道路の建設を政府に勧告[46]。
- 1960年(昭和35年)
- 1962年(昭和37年)
- 1963年(昭和38年)
- 1964年(昭和39年)4月22日 : 世界銀行との間で日本道路公団第4次借款の調印(豊川 - 小牧間)50,000千USD, 金利:5.5%, 期間:25年(据置期間:5年)[117]。
- 1965年(昭和40年)
- 1966年(昭和41年)
- 1968年(昭和43年)4月25日 : 東京IC - 厚木IC間・富士IC - 静岡IC間・岡崎IC - 小牧IC間が開通し、小牧ICで名神と接続[190]。
- 1969年(昭和44年)
- 1970年:下り線吉田IC - 菊川IC間の下り坂で、雨の日のスリップ事故が多発することが問題となる。対策としてすべり止めに効果のある特殊舗装を施工[193]。
- 1971年(昭和46年)12月21日 : 首都高速3号渋谷線渋谷出入口 - 用賀出入口間開通により、首都高速道路と接続[135]。
- 1972年(昭和47年)
- 1974年(昭和49年)3月26日 : 浜松西IC開通[140]。
- 1977年(昭和52年): 足柄SA上り線に高速国道初の仮眠休憩所であるレストイン足柄がオープン[195]。
- 1979年(昭和54年)7月11日 : 日本坂トンネル火災事故発生[196]。
- 1981年(昭和56年)4月25日 : 秦野中井IC開通[141]。
- 1986年(昭和61年)
- 1988年(昭和63年)3月30日 : 裾野IC開通[198]。
- 1990年(平成2年)7月15日 : 世界銀行借款を返済終了[132][199]。
- 1991年(平成3年)
- 1993年(平成5年)
- 1994年(平成6年)12月15日 : 厚木IC - 伊勢原市、秦野中井IC - 大井松田IC間の6車線化完了[154]。
- 1995年(平成7年)4月28日 : 伊勢原市 - 秦野中井IC間の6車線化完了[205]。
- 1997年(平成9年)4月1日 : 横浜ICが「横浜町田IC」に名称変更[157]。
- 1998年(平成10年)
- 1999年(平成11年)4月4日 : 磐田IC開通[207]。
- 2001年(平成13年)10月19日 : 小牧ICで名古屋高速11号小牧線と接続[208]。
- 2003年(平成15年)
- 2004年(平成16年)
- 2007年(平成19年)
- 2009年(平成21年)
- 2010年(平成22年)2月27日 : 海老名JCT開通により、圏央道と接続。
- 2011年(平成23年)
- 2012年(平成24年)4月14日 : 新東名高速道路の御殿場JCT - 浜松いなさJCT間、清水連絡路の清水JCT - 新清水JCT間、引佐連絡路の三ヶ日JCT - 浜松いなさJCT間がそれぞれ開通。御殿場JCTで新東名と、清水JCTで清水連絡路と、三ヶ日JCTで引佐連絡路とそれぞれ接続。
- 2014年(平成26年)6月25日 : 上り線の海老名JCT - 海老名SA間の付加車線が延伸[212]。
- 2016年(平成28年)
- 2017年(平成29年)3月18日 : 三方原スマートIC供用開始[214]。同時に三方原(みかたがはら)PAが「三方原(みかたはら)PA」に名称変更。
- 2018年(平成30年)3月24日 : 守山スマートIC供用開始[215]。
- 2019年(平成31年 / 令和元年)
- 2020年(令和2年)
- 2021年(令和3年)
開通効果
[編集]東名開通前から、東名が及ぼす効果はある程度予測されていた。東海道メガロポリスに占める人口と工業・商業生産高、自動車保有台数を分析すれば、おのずとそこを貫く幹線高速道路の効果が解るからである[10]。
東海道メガロポリスに占める地域は、東京、千葉、埼玉、神奈川、静岡、愛知、岐阜、三重、滋賀、京都、大阪、兵庫、奈良、和歌山であり[11]、これらの1都2府11県の全国に占める面積はわずか2割に満たない。しかし、1967年(昭和42年)時点で、総人口が日本全体の約半分を占め、地方の過疎化を尻目に全国労働力の9割を飲み込む[226]。さらに、工業出荷額と商店販売額では約7割、全国銀行の貸出残高で8割[227]、自動車保有台数で5割以上、貨物の年間輸送量では、自動車で5割、鉄道では3割を占めるなど、日本経済の中枢であり、将来の日本経済発展の指導的立場を担う地域でもある[10][11]。そうした東海道メガロポリスの発展を伸長する意味で、東名には多くの期待が寄せられた[228]。
開通前から既に、東名が発揮する効果を見越して、沿道には工場の新設が立て続けに行われたが[229]、これは従来、集中化の一途をたどってきた工業地帯が分散化の傾向を示すものであった。つまり、既成工業地区が過密になって、もはや拡張の余地がなく、公害等の問題も絡んで、大スペースを必要とする工場は地価の安い[8]、未開発の内陸部に展開する方向性を示すことになった[230]。また、敗戦後の日本における復興は、まず三大臨海工業地帯(京浜、阪神、中京)が先導し、その産業形態は、鉄鋼、石油精製、造船、肥料等の重化学工業であって、臨海部に縛られる業態であった。続く昭和40年代に入ると、産業も高度化して機械組立産業と、それに関連した金属加工業が台頭し、これは内陸部に立地展開可能な業態である。臨海から内陸へと国土の全面に渡って展開するこうした工業立地の変化を勢いづけたのが、東名・名神によって工業立地適正が高まった東海道メガロポリスであった[231]。
農業でも大変革が予想された。東名の高速輸送によって農地と東京、名古屋、大阪という大消費地の台所を直接結びつけることで、新しい傾向が期待された。実際、大消費地に供給する農作物の商業的農業への転換が開通後には目立って増えることになった[232]。また、農産物は鮮度が命であり、軟弱野菜や高級果実、切花や花卉、家畜の生体輸送等の鮮度低下率の大きいものほど、時間短縮効果と安定走行が約束できる東名の利用効果は高い[233]。これは高速道路の利用による時間節約の利益であり、鮮度を要求する品物では、早く届けられるほど市場で高い値が付いて目立った利益が期待できるほか、これまでは遠くて手が届かなかった有利な市場にまで売り込むことさえ可能となる[234]。しかし、特に大きな変革が予想されたのは物流であった。東名、名神直結による時間短縮効果によってトラックのワンマン運転が可能となり、大都市の中間地点にはトラックヤードが整備されたほか、幹線輸送と結びつけるために、都市近郊の厚木、小牧などには流通センターの整備が計画された[8]。こうした効果の具体例を以下に列挙する。
東名は開通当初から主にトラックの交通を受け持ち、企業立地に大きな変化をもたらすことになった。それまでは臨海部主体の工業立地であったが、沿線内陸部へと移る契機を与えた。それは、京浜工業地帯から厚木・相模原へ、駿河湾工業地帯から沼津・富士へ、中京工業地帯から小牧への立地展開である。これらの工業団地は東京など大都市への便を意識しており、東名の開通が与えた変化の一つである[8]。特に神奈川県の場合、工業は元来、横浜港を中心とした臨海工業地帯における重化学工業であった。ここは沿岸部に東海道本線、国道1号が走り、それに沿って細いベルト状に工業が密集していたが、もはや飽和状態であった。しかし、国道246号と小田急小田原線に沿う内陸部は未開発地帯で、そこに東名がもう一本の太いベルトを作り上げた。そこには、相模原、厚木、海老名、座間があって、東名が着工された頃からこの地域には工場の新設が相次いだ[236]。そのうちの一つである厚木市の場合、元来は国道1号から遠いことで工業化が立ち後れて農業主体であったが、東名の整備によって一変した。インターチェンジ付近には工業団地が整備され、企業の立地が急速に進行した結果、製造業の出荷額は開通以来12年間に7倍以上の伸びを示し、就業人口も全国平均を上回る大幅な伸びを示した[237]。他にも、御殿場、沼津IC付近には330万平方メートルの敷地面積でトヨタ自動車が、焼津、浜松IC周辺には河合楽器はじめ住友ベークライト、日清紡、日本ビニロン等が進出した。名神との接続部である小牧ICにおいては特に著しく、従来、毛織物工場3社があるに過ぎなかったが、東名開通前で既に工場数270社まで増加し、敷地面積33,000平方メートルの大規模工場も23社を数えた。東名全体で見ると、全線開通直前の工場進出数は1,067社という膨大な数字であり、これによっても高速道路がいかに工業立地に重要な役割を果たしているかをうかがい知ることができる[238]。
東名の名神直結によって、いよいよ高速道路の流通に対する影響が顕著となってきた。東海道は東名開通前からトラックによる長距離輸送を大々的に行ってきた。東名開通前の国道1号は、東京 - 大阪間の走行に約16時間を要し、ゆえに二人体制の運行であった。しかし、高速輸送を約束する東名の開通によって、それは7時間に短縮された[242]。さらに、国道1号では15トンまで積めるトレーラーの使用しか認められていなかったが、東名では20トンが可能で[242]、それを見越してトラック業界は次々と大型トレーラーの導入に踏み切り[243]、併せて東名の主要インターチェンジ付近の土地を買い漁ってトラックターミナルを建設した[241]。トラック輸送は東名利用による高速化、トラックの大型化による大量の貨物の運搬によって、従来の国道1号ではなし得なかった、大量大型の方向へと突き進んだ[241]。トラック輸送が大量大型の方向へ向かわざるを得ないのは、運転手の賃金の上昇と絶対的人数の不足から来る輸送原価上昇を抑制するためである[244][241]。
この条件下で今後要求されるのは、人間の節約である。そのために東名・名神の高速輸送による時間の節約により、二人体制を一人体制に移行させ、大型トレーラーによる大量輸送は、高い積載効率によって普通トラック数台分の貨物を一台に集約できることにより運転手の削減に寄与する[241][244]。また、高速運転によりトラックの回転率の向上につながり、輸送キロ当たりの固定費の減少をもたらす[245]。つまり、トラックが早く走ることによって、貨物1回あたりの輸送時間が減れば、浮いた分の時間を使ってさらに別の輸送を行うことができる(回転率の向上)。これによって、一回当たりの運行に発生する人件費、施設費、税金、保険料、一般管理費などの固定費が節減できる[234]。こうした大量・高速の大型トラックによる輸送は東名・名神が受け持ち、都市内と高速道路インターチェンジ付近までの輸送は普通トラックが受け持つという、トラックターミナルを中継点とした輸送の機能分化も現れてきた[246]。
今ひとつの高速化のメリットは、企業側の在庫の減少と、それに伴う金利負担の軽減をもたらすことである。輸送が迅速かつタイムリーに行われるならば、在庫を沢山抱えておく必要はなく、電話一本で持ってこさせることができる[234]。高速道路は迅速化と絡めて在庫削減を可能にしたが、それを有効活用したのがトヨタ自動車である。豊田市等の三河地域に完成車工場を構えるトヨタ自動車は、東名、名神開通によるトラック輸送革命を利用し、ジャストイン配送を実現した[12]。これにより、三河にある完成車工場からおよそ遠く離れた工場からでも部品の調達が可能となって広域的分業を成し遂げると共に、部品の流れは完成車組立ての流れと同期することで余分な在庫を持たないことから、全行程のトータルコストの切り下げをも実現した[247]。
農業で見ると、大消費地たる都市と農村との時間的距離が大幅に短縮されたことで、土地生産性の高い商業的農業への転換が進んだ。このうち、愛知県の東三河地域は1960年台までは交通や水利で恵まれず、主として甘薯や麦を半農半漁で営む地域であったが、豊川用水の完成と東名の開通とも相まって作柄の転換が進んだ。これは、東京、大阪などへの大消費地へのアクセスが確保され、これが市場拡大につながったことで、花卉に見る商業的農業を展開することが可能となったことによる。さらに、東名利用で東京と4時間で結ばれることにより、前日21時までの注文が入れば、翌朝までに商品を届けることが出来るなど、きめ細かい出荷調整が可能となった[248]。例えば渥美半島産の電照菊は、輸送のほぼ全てを豊川ICから東名を通して東京市場へ運ばれ、冠婚葬祭に利用されている。特に東名利用による時間短縮効果によって、収穫、選別、荷造りの行程に余裕が出ることで出荷量の拡大につながり、併せて新たな市場開拓をする余裕さえ生まれた[249]。
東名の開通によって、大都市へ運ばれる地方からの生鮮食品の数が増した[250]。首都圏人口に対して食料を供給する東京中央卸売市場は、そこへ輸送される貨物のほぼ全てが自動車で運ばれ、ことに高速道路の果たす役割は大きい。高速道路を乗り継いで西日本各地から運ばれる貨物は、最終的に東名利用で東京に至り、ゆえに東名が首都圏の食料を運ぶ大動脈となっている[251]。
静岡県袋井市や菊川町の畜産飼育農家の場合、東名開通後に子豚の飼育頭数を増やして生産規模の拡大を図った。東名の利用によって袋井の家畜市場への輸送が楽になったほか、市場から子豚が東名を使って京浜、大阪方面へ運ばれており、東名の効果で取引が活発化して価格の安定化がもたらされた。なお、市場からの子豚の輸送は100パーセント東名を利用している[252]。
清水港は東名開通後に大きく発展した。マグロ流通は元来、築地岸壁にマグロ船をつけ、市場動向をにらみながら適当な量を水揚げする方法が採用されていた。理由はマグロ船のみマイナス65 ℃まで冷却可能で、倉庫や輸送トラックの冷却能力はマイナス30 ℃程度が限界のため、長期保存が不可能であったからである。しかし冷凍能力向上と東名開通により冷凍マグロの出荷体制を新たに構築したことから清水港は冷凍マグロの重要拠点となった。そのシェアは6割以上で、日本一となっている[253]。これ以外にも清水港は、東名開通によって工業製品の輸出額が7倍の伸びを示した。それは清水港から遠く離れた浜松における内陸コンテナ基地(インランド・デポ)の影響である[253]。
浜松市は工業出荷額が静岡県内最大であるにもかかわらず、浜松近郊には輸出港がないため、その対策として東名開通にあわせて輸出貨物のコンテナ詰めと輸出手続きを行う内陸コンテナ基地を整備した。コンテナは東名を介して清水港まで輸送される[253]。なお、清水港に近接する焼津港の場合、東名開通前は水揚げしたカツオの出荷先は全て静岡県内であった。しかし、東名開通後は県内向けは減少し、2005年(平成17年)時点では、大都市向けが57パーセントを占めるまでになった[254]。
こうした効果もあって、東名の開通前後から東海道メガロポリスの形成は急速に進行した[165]。1973年(昭和48年)の東海道メガロポリスの製造付加価値額は、日本の生産量の56パーセントを占め、日本の生産の半分以上を受け持つまでになった[231]。しかし、高度経済成長も頂点を極めた昭和40年代後半に至り、この巨大な経済圏を東海道メガロポリスだけに詰め込むことは不可能となったことで、東北自動車道や関越自動車道などの整備により、東海道に集中していた工業は、やがて東北をはじめ全国に分散していくことになった[231]。この全国展開の先駆けとしての東海道メガロポリスの発展に、東名、名神は重要な役割を果たした[231]。
その後の東海道メガロポリスは、全国への産業分散を尻目にさらなる人口、立地事業所数の伸びを示した。神奈川、静岡、愛知の3県における東名のインターチェンジから30分圏内の人口増加率は著しく、東名開通以来、3県内に71か所の事業所が造られているが、その内の三分の一が1986年(昭和61年)以降に造られている[255]。
路線状況
[編集]ルート分岐
[編集]下り線の大井松田インターチェンジ (IC) から足柄バスストップ (BS) 付近の間と、上り線の日本坂トンネル (TN) 入口付近と日本坂TN出口付近の間が左右2つのルートにわかれる。ほぼ並行して走っており、距離は左右ルートでさほど変わらない。
大井松田IC - 足柄BSは下り線がほぼ並行した左ルート2車線+右ルート2車線の計4車線、上り線は1ルート3車線となっている。下り線の鮎沢パーキングエリア (PA) は左ルートからしか入れない。右ルートは分岐手前で最右車線(第3車線)から1車線により分岐する形態となっている。また、大井松田ICから下り線に入る場合は右ルートには入れない。
なお、左右ルート分岐直前で「大貨等」の特定の種類の車両の通行区分が解除されているが分岐までの距離が短いため、大型貨物自動車等(重トレーラーを除く)は右ルートには入りにくい[注釈 6]。また、重トレーラー[注釈 7]は車両通行帯#牽引自動車の高速道路等の通行区分などにより原則第一通行帯通行のため、左ルートの全車線が渋滞で最低速度 (50 km/h) 以下、または通行止め等のような場合を除いては右ルートに入ることができない。
日本坂TN東側坑口付近 - 西側坑口付近は下り線が新築トンネルを利用した1ルート3車線、上り線が従来のトンネルを改築した左ルート2車線+右ルート2車線の計4車線となっている。 この区間の改築完成時には上り日本坂PAは左右ルート分岐付近にあり、PAからの合流車両は強制的に左ルートに入る構造になっていた。現在は日本坂PAが焼津側に移転新築したためにPAを利用してもどちらのルートにも入れるようになっている。また、トンネル東側合流部は左ルートを手前で1車線に車線絞り込みした上で右ルートに合流させる制御をしていたが、現在は手前での車線絞り込み制御を廃止し、右ルートと合流した先で左1車線を減少させる制御方法に改善された。
- リバース運用
路線の維持工事による車線規制が渋滞を引き起こす状況を踏まえ、相応の対策を講じた工事を行うことで渋滞を低減する取り組みが行われているが、大井松田IC - 御殿場IC間では上述の変則的車線運用を活用したリバース運用を実施している。つまり、下り2本、上り1本の構成を活用し、上り線を工事閉鎖のうえ、下り2本の内の1本を上り線に反転して運用する手法である[256]。当初は上り線3車線のうちの2車線を規制する方式を採用したが、結果的に最大22 kmに及ぶ渋滞が発生したことからリバース運用を採用するに至った。これによる欠点としては、本来広幅員であるべき左側路肩が0.75 mしか確保できず、逆に右側が3 mであることから、走行速度抑制と路肩走行防止の対策を採っている。また、バス停留所がないことから、工事期間中はバスに先導車を付けて工事中の上り線を通行する対策を採った[257]。この運用により、渋滞の発生は確認されないなど一定の効果をあげた[258]。なお、この場合、上り線では鮎沢PAを使用できない。
車線・最高速度
[編集]区間 | 車線 | 最高速度 | 設計速度 | 備考 | ||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
上下線 | 上り線 | 下り線 | 大特 三輪・牽引 |
大型貨物 特定中型貨物 |
左記を除く車両 | |||
東京IC - 横浜町田IC | 6 | 3 | 3 | 80 km/h (法定) |
90 km/h (法定) |
100 km/h (法定) |
100 km/h | |
横浜町田IC - 大和TN | 120 km/h | |||||||
大和TN | 8 | 4 | 4 | |||||
大和TN - 綾瀬BS | 6 | 3 | 3 | |||||
綾瀬BS - 海老名JCT | 7 | 4 | 3 | |||||
海老名JCT - 秦野中井IC | 6 | 3 | 3 | |||||
秦野中井IC - 大井松田IC | 80 km/h (指定) |
80 km/h (指定) |
80 km/h (指定) |
80 km/h | ||||
大井松田IC - 足柄SA | 7 | 3 | 2+2 | ※1 | ||||
足柄SA - 御殿場IC | 6 | 3 | 3 | |||||
御殿場IC - 御殿場JCT | 80 km/h (法定) |
90 km/h (法定) |
100 km/h (法定) |
100 km/h | ||||
御殿場JCT - 裾野IC | 5 | 3 | 2 | ※2 | ||||
裾野IC - 蒲原TN | 4 | 2 | 2 | |||||
蒲原TN内 | 80 km/h (指定) |
80 km/h (指定) |
80 km/h (指定) |
|||||
蒲原TN - 薩埵TN | 80 km/h (法定) |
90 km/h (法定) |
100 km/h (法定) |
|||||
薩埵TN内 | 80 km/h (指定) |
80 km/h (指定) |
80 km/h (指定) |
|||||
薩埵TN - 東名興津BS | 80 km/h (法定) |
90 km/h (法定) |
100 km/h (法定) |
|||||
東名興津BS - 袖師TN内 | 80 km/h (指定) |
80 km/h (指定) |
80 km/h (指定) |
|||||
袖師TN - 清水JCT | 80 km/h (法定) |
90 km/h (法定) |
100 km/h (法定) |
|||||
清水JCT - 清水IC | 6 | 3 | 3 | |||||
清水IC - 静岡IC | 4 | 2 | 2 | |||||
静岡IC - 日本坂TN | 5 | 3 | 2 | |||||
日本坂TN内 | 7 | 2+2 | 3 | 80 km/h (指定) |
80 km/h (指定) |
80 km/h (指定) |
||
日本坂TN - 日本坂PA | 6 | 3 | 3 | 80 km/h (法定) |
90 km/h (法定) |
100 km/h (法定) |
||
日本坂PA - 焼津IC | 5 | 2 | 3 | |||||
焼津IC - 勝間田高架橋付近 | 4 | 2 | 2 | |||||
勝間田高架橋付近→牧之原SA 勝間田高架橋付近←牧之原SA |
下り線 | |||||||
80 km/h (指定) |
80 km/h (指定) |
80 km/h (指定) |
80 km/h | 上り線 | ||||
牧之原SA - 相良牧之原IC | 80 km/h (法定) |
90 km/h (法定) |
100 km/h (法定) |
100 km/h | ||||
相良牧之原IC→菊川IC 相良牧之原IC←菊川IC |
80 km/h (指定) |
80 km/h (指定) |
80 km/h (指定) |
80 km/h | 下り線 | |||
80 km/h (法定) |
90 km/h (法定) |
100 km/h (法定) |
100 km/h | 上り線 | ||||
菊川IC - 三ヶ日TN | ||||||||
三ヶ日TN内 | 80 km/h (指定) |
80 km/h (指定) |
80 km/h (指定) |
|||||
三ヶ日TN - 宇利TN | 80 km/h (法定) |
90 km/h (法定) |
100 km/h (法定) |
|||||
宇利TN内 - 新城PA | 80 km/h (指定) |
80 km/h (指定) |
80 km/h (指定) |
|||||
新城PA - 岡崎IC | 80 km/h (法定) |
90 km/h (法定) |
100 km/h (法定) |
※3 | ||||
岡崎IC - 日進JCT | 120 km/h | |||||||
日進JCT - 名古屋IC | 6 | 3 | 3 | |||||
名古屋IC - 春日井lC | 4 | 2 | 2 | |||||
春日井IC - 小牧JCT | 6 | 3 | 3 | |||||
小牧JCT - 小牧IC | 4 | 2 | 2 |
- ※1:下り線の車線数は足柄BS - 足柄SA間にある登坂車線を含む。
- ※2:上り線の車線数は登坂車線を含む。
- ※3:下り線の音羽蒲郡IC手前から約4 kmほどの登坂車線あり。
中央自動車道と比べると平地部のルート中心で全体的に直線が多く、概ねの区間が100 km/h制限だが、一部の区間は80 km/hに規制されている。特に大井松田IC - 御殿場IC間は山間部のルートで急勾配や急カーブが連続している。また、大和トンネルを除く全てのトンネルで80 km/hに規制されている。
他の高速道路と同様、雨天・降雪・濃霧・台風などの荒天時、事故や工事などの場合は50 - 80 km/hの速度規制が行われる。
上記区間以外にも登坂車線、付加車線が設置されている区間がある。特に名古屋市近郊の丘陵地を通る比較的起伏の多い区間(豊田IC - 守山PA)ではかなり距離のある付加車線が設置されている。
道路幅員と線形
[編集]道路幅員は3.25 m(路肩〈側帯[注釈 8]含む〉)+3.6 m(車線)×2(または3)+0.75 m(中央側帯)+3.0 m(中央分離帯)+0.75 m(中央側帯)+3.6 m(車線)×2(または3)+3.25 m(路肩〈側帯含む〉)=25.4 m(または32.6 m)である[261]。これは標準幅員で、橋梁、切土、盛土、トンネル等の相違によって変化する。特に工費が高いトンネルと東京近郊では路肩が狭くされ、トンネルの場合は0.75 mである[262]。このため、トンネルでは故障車の発生に備えて非常電話を200 m間隔で設けた[263]。
名神では路肩が土工部2.75 m、橋梁部1.75 mであるが、東名は先の例外区間を除いて土工、橋梁の区別なく全線3.25 mとなった[264]。これは名神の路肩に大型車を停車させて車道を走る車の位置を測定したところ、明らかに中央部分に退避して走行していることが判明したことから路肩の拡大に至ったものである[265]。一方、中央分離帯側にも路肩を設けた。縁石を低くすることで、側帯と合わせて中央分離帯の一部を路肩に加えており、1.8 mを確保している。この場合、故障車の一部が車道側にはみ出すが、残りの車線幅の中で速度を落としながらの走行が可能である[259]。
車線幅員3.6 mは名神から引き続いて採用したが、これは設計上の数値であって、実際の運用は走行車線3.5 m、追越車線3.7 mである[266]。この数値は名神の事故調査の結果により算定し、追い越しを少しでも楽にする狙いから採用された[61]。ただし、東京 - 厚木間の6車線区間は全て3.6 mである[266]。また、後年新設された大井松田 - 御殿場間の上り線(3車線)は3.5 m+3.75 m+3.5 mである[267]。
名神高速道路では、設計に際し日本道路公団がドイツから道路計画の技術専門家であるフランツ・クサーヴァー・ドルシュ、アメリカからは土質、舗装の専門家としてポール・ソレデンガーを雇って、この両名の指導の下で高速道路の計画設計がなされており、これに引き続く東名高速建設においても両名が顧問を務めた[272][273]。
東名は名神の設計を基本としながらも、幾つかの改良を加えている。名神では線形が栗東以西と以東で異なっており、早期に開通した西部が直線主体、それより遅く開通した東部が曲線主体であるが、これはドルシュの影響である[274]。東名では、直線をほとんど用いず、曲線主体である。その比率は東名の総延長346.7 kmのうちの330.7 kmに達し、95.5パーセントとなっている。名神の約57パーセントと比較しても、東名の曲線の多さが際立っている[15]。曲線への移行の背景として、ドライバーに緊張を持続させる意図がある[274]。直線道路は単調であり、ドライバーの疲労感を高めて距離の目測を誤らせ[275]、ひいては眠気さえ催すことが経験的に実証されていることから、適度な刺激としてのカーブや勾配が必要となる[276]。また、曲線主体とすることは、線形設計の自由度が高められ[274]、用地取得においても建設費用にとっても望ましいものとなる[277]。
曲線は平面線形と縦断(坂の上り下り)線形に用いられたが、2つはそれぞれ独立したものではなく、立体的に組み合わさったものである[278]。設計段階で2つを組み合わせ、運転席から見たのと同様の三次元の立体像として捉えたのが透視図で、ドルシュは名神建設に際してこの透視図の効用を説いたが、道路の設計に利用され始めたのは東名と中央道からである[279]。東名では透視図の作成に電子計算機を使用し、東名全域にわたって100 - 200 m毎に透視図を作成のうえ、問題箇所について再検討する手法を採った[280]。平面線形、あるいは縦断線形だけを見た場合、円、クロソイド曲線、直線を入れて完璧な線形に見えても、ドライバー目線の立体的な視点から前方の道路を見たとき、道路が途切れて見えたり、先の道路形状が不明で運転予測が立てづらく、ドライバーの心理を不安に陥れることがある[281]。2次元ではわからない欠点を3次元の透視図で洗い出し、それによって2次元の図に修正を加えて完成度を上げた。
路線の95パーセント以上に曲線が取り入れられたことは、路線を構成する橋梁にも曲線橋が多用されたことを意味する。平面曲線を描く過程で橋があるなら、橋にも曲線が取り入れられ、勾配の過程にあれば橋にも高低差を取り入れた[282]。その中でも規模の大きい曲線橋としては、東名酒匂川橋、浜名湖橋、富士川橋がある。中でも浜名湖橋は横断勾配6パーセントから、S曲線を描いてマイナス4パーセントに移行することで、橋全体がねじれた構造となっている[283]。富士川橋の場合は、クロソイド曲線が入るうえに、勾配も入り、高低差でいえば、名古屋側25 m、東京側11 mと橋の前後で14 mの差がある[283]。東名酒匂川橋の場合、2箇所の曲線半径と、それを挟み込む4箇所のクロソイド曲線で構成され、このうちの一箇所は曲線半径400 mという急カーブが採用された[284]。
道路施設
[編集]インターチェンジ
[編集]インターチェンジは当初21箇所で発足した。設計の基本としたことは、有料道路という建前から、管理業務の容易さを考慮して、料金所を1箇所に集約できるトランペット型を多用したことである[288]。あらかじめ割り出した出入り交通量を踏まえ、インターチェンジ、接続する一般道路、両者の合計のそれぞれの基準量を設定し、設計時点、あるいは将来その基準量に達すると見込まれる場合は、一般道路との接続も立体交差としたダブルトランペット(横浜町田、厚木、大井松田、豊川、岡崎、名古屋、春日井の7か所)、また15年以内に達すると見込まれる場合はダブルトランペットの用地を確保したシングルトランペットとした(富士、清水、浜松の3か所)[289]。例外的に、東京インターチェンジは料金所が本線料金所であることからダイヤモンド型が採用されている[290]。
トランペット型は曲線半径35 m(最小値)の急カーブを描くことから、設計速度は40 km/h(特別な場合は35 km/h)である。こうした急曲線のトランペット型が採用できるのは、接続先が低速走行の一般道路だからである[287]。これに対して、高速道路同士を直接接続するジャンクションでは高速で円滑に連絡できるように比較的緩いカーブが計画された[291]。インターチェンジが急カーブを採用せざるを得ないのは、高速走行を重視するあまり、カーブを緩めすぎるとその分用地を広くとらなければならず、用地買収面で不利になるからである[292]。
サービスエリア・パーキングエリア
[編集]概ね50 km間隔でサービスエリアを設けた。50 km間隔としたのは、諸外国の実例、運転による疲労度の限界、車両性能、給油の需要関係等を考慮した結果である[294]。
東京起点で見ると、第1番目のサービスエリア(SA)を30 km地点においた。これは、大都市を出発して最初に必要とされるSAはほぼ30 km地点であろうという考えによっている。35 km地点に位置する厚木ICの東京寄りに置くことが利用効率も高いと判断され、海老名SAはここに置かれた。次いで海老名から50 km離れた場所として御殿場付近が選定され、観光的な出入りが多いことを考慮して御殿場ICの東京寄りに設置された。ここは南に箱根山塊を、西に富士山を望む格好の好適地である。これが足柄SAである。御殿場から50 km離れた地点は富士川町(現・富士市)から由比の区間で、海岸に近いか、トンネルに近いところは場所がよくないため、富士川に面して富士山が望める富士川町を選定した。これが富士川SAである。東京起点とは別に名古屋起点のSAが考慮され、東に向かって最初のSAを概ね20 km地点を選定したが、これが上郷SA(現・豊田上郷SA)である。付近には景観的に優れたところはないものの、地形的に設置が容易であることが選定の理由である。上郷から概ね50 km離れた地点としては、風光明媚な土地柄ということもあって文句なく浜名湖畔に決定され、本線の地形はSAを考慮して決定した。ここが浜名湖SAである。東京と名古屋の双方から決定されてきたSAだが、富士川SAと浜名湖SAの間隔が120 km開くことから、その中間地点に1か所SAを置いたが、これが牧之原SAである。当初は2か所を計画したが、風光明媚なところがないことから1か所に集約し、大茶園に囲まれて高原地帯に位置する牧之原が選ばれた[295]。
SA同士の間には概ね15 km間隔でパーキングエリア(PA)を置いた。PAは景観は考慮せず、工事の容易なところを選定したが、それでも優れた景観が望める場合はそれを考慮した。そのもっともたる例が由比PAで、多少無理をしてでも造成し、細長い駐車場を設けた[293]。
- 東名は全区間を通して交通量が多いために、由比PA・赤塚PA下り線・豊橋PAを除く、すべてのサービスエリア (SA)・パーキングエリア (PA) に売店がある。
- レストランは富士川SA・牧之原SA・豊田上郷SA下り線以外のSAと新城PA下り線に設置されている。
- ガソリンスタンドは全てのSAに設置されており、全て24時間営業。なお、給油所があるPAはない。
- すべてのSAに電気自動車用の急速充電器設備が設置されている(利用には事前登録が必要)。
バスストップ
[編集]東名では名神から引き続いて高速路線バスを運行している。運行にあたり、バスが途中のインターチェンジをいちいち出ていたのでは高速連絡の利点を生かせないため、本線上あるいはIC、SA、PAに併設する乗降場が用意された。乗降場の長さは3台のバスが同時に発着できるように45 mを標準の長さとした。IC併設の場合はトールゲート付近に置かれ、一般道路走行バスとすぐに乗り継げるようにした[296]。
主なトンネルと橋
[編集]路線に占める橋梁の割合は約15パーセント(52.5 km)で、自動車走行上あまりよくない下路橋(通路が構造物の下にある橋)は採用せず、全て上路橋を採用した[298]。このため、カーブに溶け込ませていることとも相まって、運転者目線では橋を通過していることが意識しづらくなっている[282]。
- 東名多摩川橋(東京IC - 東京TB)
- 大和トンネル (横浜町田IC - 綾瀬SIC) : 280 m
- 相模川橋(海老名JCT - 厚木IC)
- 川音川橋(大井松田IC - 鮎沢PA)
- 東名皆瀬川橋(大井松田IC - 鮎沢PA)
- 吾妻山トンネル(大井松田IC - 鮎沢PA) : 上り線298 m 下り線右ルート347 m 左ルート360 m
- 都夫良野トンネル(大井松田IC - 鮎沢PA) : 上り線1,715 m 下り線右ルート1,656 m 左ルート1,689 m
- 東名酒匂川橋 (大井松田IC - 鮎沢PA)
- 鳥手山トンネル(鮎沢PA - 大井松田IC 東京方面のみ): 842 m
- 太郎ヶ尾トンネル(鮎沢PA - 大井松田IC 東京方面のみ): 708 m
- 北畑トンネル(鮎沢PA - 大井松田IC 東京方面のみ): 328 m
- 桜平トンネル(足柄SA - 鮎沢PA 東京方面のみ): 482 m
- 高尾トンネル(足柄SA - 鮎沢PA 東京方面のみ): 569 m
- 所領トンネル(足柄SA - 鮎沢PA 東京方面のみ): 125 m
- 白旗トンネル(足柄SA - 鮎沢PA 東京方面のみ): 215 m
- 東名足柄橋(鮎沢PA - 足柄SA 東京方面) : 370 m(1991年度土木学会田中賞受賞)
- 富士川橋(富士IC - 富士川SA) : 780 m
- 蒲原トンネル(富士川SA - 由比PA) : 上り線704 m 下り線714 m
- 薩埵トンネル(由比PA - 清水IC): 上り線463 m 下り線425 m
- 興津トンネル(由比PA - 清水IC) : 上り線505 m 下り線521 m
- 清見寺トンネル(由比PA - 清水IC) : 上り線780 m 下り線785 m
- 袖師トンネル(由比PA - 清水IC) : 上り線355 m 下り線366 m
- 安倍川橋(静岡IC - 日本坂PA)
- 日本坂トンネル(静岡IC - 日本坂PA) : 上り線右ルート2,371 m 左ルート2,378 m 下り線2,555 m
- 大井川橋(大井川焼津藤枝SIC - 吉田IC): 850 m
- 天竜川橋(遠州豊田PA - 浜松IC): 1,071 m
- 浜名湖橋(舘山寺SIC - 浜名湖SA) : 603 m
- 三ヶ日トンネル(三ヶ日IC - 三ヶ日JCT) : 上り線461 m 下り線366 m
- 宇利トンネル(三ヶ日JCT - 新城PA) : 上り線958 m 下り線913 m
- 矢作川橋(岡崎IC - 豊田JCT)
トンネルの数
[編集]区間名 | 上り線 | 下り線 |
---|---|---|
東京IC - 横浜町田IC | 0 | 0 |
横浜町田IC - 綾瀬SIC | 1 | 1 |
綾瀬SIC - 大井松田IC | 0 | 0 |
大井松田IC - 鮎沢PA | 5 | 2 |
鮎沢PA - 足柄SA | 4 | 0 |
足柄SA - 富士川SA | 0 | 0 |
富士川SA - 由比PA | 1 | 1 |
由比PA - 清水JCT | 4 | 4 |
清水JCT - 静岡IC | 0 | 0 |
静岡IC - 日本坂PA | 1 | 1 |
日本坂PA - 三ヶ日IC | 0 | 0 |
三ヶ日IC - 三ヶ日JCT | 1 | 1 |
三ヶ日JCT - 新城PA | 1 | 1 |
新城PA - 小牧IC | 0 | 0 |
合計 | 18 | 11 |
開通時には静岡IC - 焼津IC間に小坂トンネル(長さ270 m)が存在したが、同区間の改築工事に伴い日本坂トンネルに結合された。日本坂トンネル静岡側坑口からわずか60 mしか離れておらず、連続性を持たせた方が安全性を確保出来ると判断されたため、この部分にシェードが造られ1本のトンネルとなった。
大井松田IC - 御殿場IC間は上下線でかなり離れた所を通過するため、上下線のトンネル数も大幅に異なる。新規開設された上り線の方が7本も多くなっている。
料金
[編集]東名は高速自動車国道の体系に組み込まれていることから、その料金体系で料金が決定される。以下、開通当初の料金政策と現行制度について述べる。
開通当初
[編集]東名は名神同様、建設資金の関係から通行料金の徴収を行い、完成後20年を目処に建設資金を償還しうるものとされた[299]。通行料金の設定は名神を参考としたが、名神の考え方を東名にそのまま当てはめることは適正でないことから、学識経験者の意見を元に検討した[300]。その結果、長距離逓減制、画一料率制、車種区分などの議論がなされた[301]。
この内の画一料率制とは、同じ高速自動車国道である名神、東名、中央道の料率を統一する制度である。採用理由はそれぞれ異なる路線であっても、各路線のサービスはほぼ同質であり、経営主体が同一であることによっている[194]。この画一料率制を基礎として、対距離制で料金徴収することとした[302]。この画一料率制は、のちに採用される全国プール制の先駆けとなる制度となった[194]。なお、制定当時の料率は普通車の場合、1 kmで9.5円、東京 - 横浜間は2割増(後述)の11.4円であった[118]。
また、長距離利用を促進するために該当利用者の負担を軽減する「長距離逓減制」を導入することにした。データ上、走行距離100 kmを超えると交通量が激減するため、100 km以上の交通を対象として1 kmあたり25パーセントの割引率を導入することになった[303]。また、通行料金について大蔵省(現・財務省)が横やりを入れ、大都市では建設費が著しく高く(東名の1 kmあたり建設費9.9億円対して大都市近郊は15億円を要した[304])、東名利用者の利便性が高いことから、東京 - 厚木間については他区間よりも割高に設定することを要求した。これに対して建設省は、1 kmあたり建設費が15億円以上であることを基準として、東京 - 横浜間のみに適用することを主張して両者は鋭く対立した。大蔵省は他にも、富士 - 焼津間についても要求したが、最終的に東京 - 横浜間のみ割高として[186]、1 kmあたり20パーセント増しとした[304]。これらは1969年(昭和44年)3月17日認可、同月31日より施行された。なお、施行以前は名神とほぼ同様の暫定料金で運用することとした[305]。
画一料率制はその後の全国プール制の採用によって廃止された[306]。
現行制度
[編集]普通車の利用距離当たりの料金は消費税抜きで24.6円/kmである[224]。 ただし、東京IC - 厚木ICは大都市近郊区間[307]、豊田JCT - 小牧IC間は普通区間における大都市近郊区間と同じ料金水準の区間となるため、利用距離当たりの料金が普通区間の1.2倍にあたる29.52円/kmとなる[225][308]。
100 kmを超えて利用する場合は、100 kmから200 kmまでの利用分が25 %割引、200 km超えの利用分が30 %割引される[308]。
また、休日割引、平日朝夕割引は大都市近郊区間である東京IC - 厚木ICのみ対象外となる。
道路管理者
[編集]- NEXCO中日本 東京支社
- 横浜保全・サービスセンター : 東京IC - 厚木IC
- 伊勢原保全・サービスセンター:厚木IC - 大井松田IC
- 御殿場保全・サービスセンター : 大井松田IC - 沼津IC
- 富士保全・サービスセンター : 沼津IC - 清水IC
- 静岡保全・サービスセンター : 清水IC - 浜松IC
- 浜松保全・サービスセンター : 浜松IC - 豊川IC ※豊川IC含まず
- NEXCO中日本名古屋支社
- 豊田保全・サービスセンター : 豊川IC - 豊田IC ※豊川IC含む
- 名古屋保全・サービスセンター : 豊田IC - 春日井IC
- 羽島保全・サービスセンター : 春日井IC - 小牧IC
所轄警察
[編集]- 静岡県警察高速道路交通警察隊[310]
- 沼津分駐隊:静岡・神奈川県境 - 蒲原BS付近(131.1キロポスト)
- 静岡分駐隊:蒲原BS付近(131.1キロポスト) - 牧之原SA付近(197.0キロポスト)
- 浜松分駐隊:牧之原SA付近(197.0キロポスト) - 愛知・静岡県境
- 愛知県警察高速道路交通警察隊[311]
- 岡崎分駐隊: 愛知・静岡県境 - 東名三好IC
- 名古屋東分駐隊: 東名三好IC - 愛知・岐阜県境(東名は小牧ICまで)
交通量
[編集]24時間交通量(台) 道路交通センサス
区間 | 平成11(1999)年度 | 平成17年(2005年)度 | 平成22年(2010年)度 | 平成27年(2015年)度 | 令和3(2021)年度 |
---|---|---|---|---|---|
調査当時の新東名 | 開通前 | 御殿場 - 三ヶ日間開通後 浜松いなさ - 豊田東開通前 |
海老名南 - 伊勢原大山、新御殿場 -豊田東開通後 伊勢原大山 - 新御殿場開通前 | ||
東京IC - 東名川崎IC | 121,780 | 112,746 | 114,690 | 107,563 | 93,294 |
東名川崎IC - 横浜青葉IC/JCT | 119,703 | 110,523 | 114,053 | 107,469 | 96,839 |
横浜青葉IC/JCT - 横浜町田IC | 117,060 | 106,762 | 113,763 | 109,326 | 122,036 |
横浜町田IC - 綾瀬SIC | 125,934 | 120,679 | 130,425 | 138,067 | 140,425 |
綾瀬SIC - 海老名JCT | |||||
海老名JCT - 厚木IC | 128,920 | 145,623 | 137,337 | ||
厚木IC - 伊勢原JCT | 88,754 | 84,398 | 90,752 | 100,628 | 92,872 |
伊勢原JCT - 秦野中井IC | |||||
秦野中井IC - 大井松田IC | 78,172 | 77,587 | 83,327 | 93,008 | 90,660 |
大井松田IC - 足柄SASIC | 73,210 | 68,473 | 74,541 | 85,753 | 80,383 |
足柄SASIC - 御殿場IC | |||||
御殿場IC - 御殿場JCT | 66,503 | 61,580 | 65,328 | 82,153 | 75,113 |
御殿場JCT - 駒門PASIC | 40,276 | 26,513 | |||
駒門PASIC - 裾野IC | |||||
裾野IC - 沼津IC | 66,462 | 62,645 | 66,029 | 41,008 | 27,717 |
沼津IC - 愛鷹PASIC | 58,494 | 66,837 | 71,460 | 45,636 | 31,693 |
愛鷹PASIC - 富士IC | |||||
富士IC - 富士川SASIC | 67,245 | 64,855 | 69,033 | 42,237 | 28,418 |
富士川SASIC - 清水JCT | 69,226 | 42,482 | 28,648 | ||
清水JCT - 清水IC | 47,131 | 36,261 | |||
清水IC - 日本平久能山SIC | 70,452 | 69,756 | 70,134 | 44,970 | 32,951 |
日本平久能山SIC - 静岡IC | |||||
静岡IC - 焼津IC | 81,626 | 78,763 | 79,155 | 52,121 | 38,171 |
焼津IC - 大井川焼津藤枝SIC | 74,463 | 73,330 | 75,136 | 49,658 | 37,696 |
大井川焼津藤枝SIC - 吉田IC | |||||
吉田IC - 相良牧之原IC | 57,633 | 68,669 | 70,883 | 46,119 | 32,977 |
相良牧之原IC - 菊川IC | 69,205 | 68,733 | 71,861 | 47,536 | 33,991 |
菊川IC - 掛川IC | 68,513 | 67,816 | 71,357 | 46,879 | 33,444 |
掛川IC - 袋井IC | 68,815 | 68,207 | 71,559 | 46,256 | 32,497 |
袋井IC - 磐田IC | 69,458 | 72,480 | 77,141 | 47,276 | 33,496 |
磐田IC - 遠州豊田PASIC | 71,821 | 73,904 | 77,611 | 47,126 | 33,376 |
遠州豊田PASIC - 浜松IC | 77,523 | 47,332 | 34,133 | ||
浜松IC - 三方原PASIC | 65,751 | 66,408 | 68,549 | 44,045 | 32,458 |
三方原PASIC - 浜松西IC | |||||
浜松西IC - 舘山寺SIC | 65,072 | 64,996 | 66,992 | 43,203 | 27,874 |
舘山寺SIC - 三ヶ日IC | |||||
三ヶ日IC - 三ヶ日JCT | 62,964 | 63,368 | 65,246 | 42,075 | 26,519 |
三ヶ日JCT - 豊川IC | 79,519 | 27,748 | |||
豊川IC - 音羽蒲郡IC | 72,620 | 76,625 | 77,353 | 90,891 | 34,948 |
音羽蒲郡IC - 岡崎IC | 78,932 | 87,764 | 89,338 | 105,880 | 41,448 |
岡崎IC - 豊田JCT | 78,135 | 95,937 | 101,090 | 119,167 | 54,999 |
豊田JCT - 豊田上郷SASIC | 69,634 | 56,526 | 57,322 | 40,379 | |
豊田上郷SASIC - 豊田IC | 40,492 | ||||
豊田IC - 東名三好IC | 91,734 | 81,510 | 69,309 | 67,794 | 44,541 |
東名三好IC - 日進JCT | 98,972 | 87,496 | 75,643 | 72,245 | 46,193 |
日進JCT - 名古屋IC | 88,535 | 77,848 | 77,615 | 53,465 | |
名古屋IC - 守山PASIC | 79,154 | 66,019 | 54,972 | 57,105 | 36,246 |
守山PASIC - 春日井IC | 36,745 | ||||
春日井IC - 小牧JCT | 84,179 | 69,295 | 56,883 | 57,621 | 38,964 |
小牧JCT - 小牧IC | 88,180 | 89,457 | 76,385 | 76,103 | 58,574 |
(出典:「平成17年 道路交通センサス 一般交通量調査結果」(関東地方整備局ホームページ)・「道路交通センサス報告書(一般交通量調査)」(静岡県ホームページ)・「交通量調査集計表」(愛知県ホームページ)・「平成22年度道路交通センサス」・「平成27年度全国道路・街路交通情勢調査」・「令和3年度全国道路・街路交通情勢調査」(国土交通省ホームページ)より一部データを抜粋して作成)
2002年度(平成14年度)
- 区間別日平均交通量(全区間平均) : 76,657台(前年度比99.5%)
区間別に見ると横浜町田ICから厚木ICまでが126,614台(前年度比98.9%)で最大である。
- 交通量
- 年間 : 1億5141万6468台(前年度比98.8%)
- 日平均 : 41万4840台
- 料金収入
- 年間 : 2588億5981万6000円(前年度比99.0%)
- 日平均 : 7億920万5000円
景観処理
[編集]- 植栽
インターチェンジの修景はIC周辺の環境に配慮した。すなわち、森林、田園、将来は市街地化するのか、等の相違によって、芝生主体、あるいは樹木群を濃密にする、郷土樹木を植える、等の周辺環境との調和を目指した。予定された21か所のICごとに異なる主木を採用できればそれにこしたことはないが、いかんせん346 kmの路線ゆえ、気候風土にそれほどの相違もないことで、ICによっては重複も存在する。なお、ランプウェイから本線に合流する付近の右側は、ドライバーの注意力を妨げないために高い樹木の植栽を禁じた。ICのり面は芝生で被覆し、ランプウェイに沿っては、視線誘導と不安感の除去を目的に低木を密植した[313]。
中央分離帯に対向車のヘッドライトが与えるまぶしさを回避する目的で木を植えている。名神では木の間隔を4 mとしたが、その後の走行試験の結果、6 mにしても差し支えないことから、植栽の本数削減の意図もあって東名では6 m間隔とされた[314]。樹種は萌芽力が強く、下枝の上がりにくい中木、もしくは低木を採用した。なお、沿道の畑の農作物に発生する害虫が、中央分離帯の植物に宿る害虫と一致する場合は、それらの地域から離れた場所に植栽した。つまり、みかんや茶を栽培する地域では、その付近の中央分離帯の木は「さざんか」と「まさき」の植栽は避けて別の樹種を植えている[315]。これらの木はトンネル、橋梁を除いた約260 km区間に16種類、13万本を植栽した[315]。
これ以外では、路傍やサービスエリア、パーキングエリアにも植栽している。一般道路を走る車や交差する鉄道車両からのヘッドライトを遮蔽し、沿道の墓地、火葬場などの遮蔽、目障りな切土区間と盛土区間の境を隠す目的で植栽した。また、トンネルから出た車のドライバーが明るさに慣れていないことから、明るさをブロックするためのトンネル付近の植栽、学校や病院等静寂を必要とする区間では、枝葉が密な常緑樹を植栽した[316]。
- 施設
インターチェンジ料金所(トールゲート)は、名神でデザインされたものを[317]引き続き採用している[318]。現場打ちコンクリート柱に緊結するPC工法で、重量軽減のために肉抜きをおこなって、セルリアンブルーに着色した[317]。
本線の橋の形式は、地形条件、経済条件からのみで決定した。塗装色についても、技術的には耐候性のためであるが、景観面も考慮した。名神よりは明るい色を採用し、審美委員会の意見も取り入れたうえで次の四色が決定した。河川鋼橋は赤色、山間部鋼橋はうす黄茶色、市街地鋼高架橋は緑色、平地・田畑部鋼高架橋はうす黄色である[319]。
サービスエリアは当時を代表する建築家によってデザインされた。その後改変された建築物が少なくないが、以下は当初の状況を述べる。関わった建築家は次の通りである。柳英男(上郷SA)、芦原義信(浜名湖SA)、大高正人(牧之原SA)、清家清(富士川SA)、黒川紀章(足柄SA)、菊竹清訓(海老名SA)[320]。このうち、上郷SA(現・豊田上郷SA)と海老名SAは、東名本線をまたぐオーバーブリッジ型の施設が計画されていた[320]。当時、高速道路とは車が高速で行き来するだけの施設で、よってサービスエリアの機能も、人間の生理的要求を満たす最小時間で満足するものと定義されていた。そこへ建築家達は遊びの空間、憩いの空間、地元との交流空間を主張し、その後のハイウェイオアシス構想を先取りした。こうした先進的な構想も、当時の道路法、施行令に阻まれて実現せず、陽の目を見ることはなかった。これは、道路の権利、占用権に絡むもので、地上、地下数千尺に及び、道路敷地内に建造物を造ることは交通障害になるという理由から、一切許されていなかったためである[321]。
東名の橋脚間15 - 17 mクラスの鉄筋コンクリート高架橋は、名神で開発された穴あき床板を採用した。穴あきとしたのはコンクリート橋の欠点である重量を軽減するためである。東名のほとんどの高架橋はこの形式が採用された。経済性に富み、外観上スレンダーで優美であるという理由である[322]。
走行中、目に飛び込んでくるオーバーブリッジ(跨道橋)は美観上の処理が施されている。東名のオーバーブリッジの数は284橋で計画され、その膨大な数を個別に設計することは出来ないので、2、3の標準的なタイプを作成し、これによって対応した[323]。一番の基本をPC斜材付きΠ型ラーメン橋とし、方丈ラーメン橋、V型ラーメン橋が状況に応じて派生している[324]。オーバーブリッジに共通するのは、出来るだけ広々とした感じを与え、見通しもよく、全体的にスレンダーな印象を付与していることである[323]。
地理
[編集]通過する自治体
[編集]接続する高速道路
[編集]- 首都高速3号渋谷線(東京ICで直結)
- C3 東京外かく環状道路(東名JCTで接続 : 事業中)
- 川崎縦貫道路(II期)(宿河原JCTで接続 : 調査中)
- 首都高速神奈川7号横浜北西線(横浜青葉JCTで接続)
- 保土ヶ谷バイパス(横浜町田ICで接続)
- C4 首都圏中央連絡自動車道(海老名JCTで接続)
- E85 小田原厚木道路(厚木ICで接続)
- E1A 新東名高速道路(伊勢原JCTで接続)
- 厚木秦野道路(秦野中井ICで接続 : 計画中)
- E1A 新東名高速道路(御殿場JCTで接続)
- E70 伊豆縦貫自動車道(沼津ICで接続)
- 西富士道路(富士ICで接続)
- E52 新東名高速道路清水連絡路(清水JCTで接続)[注釈 11]
- E69 新東名高速道路引佐連絡路(三ヶ日JCTで接続)[注釈 11]
- 三遠伊勢連絡道路(三ヶ日JCTで接続 : 調査中)
- E1A 伊勢湾岸自動車道(豊田JCTで接続)
- 名古屋瀬戸道路(日進JCTで接続)
- C2 名古屋第二環状自動車道支線(名古屋ICで接続)
- E19 中央自動車道(小牧JCTで接続)
- 名古屋高速11号小牧線(小牧ICで接続)
- E1 名神高速道路(小牧ICで直結)
ギャラリー
[編集]-
多摩川にかかる東名多摩川橋。東京IC - 東京TB
-
厚木市付近、相模川にかかる相模川橋。綾瀬SIC - 厚木IC
-
下り線、厚木IC付近。背後は大山
-
大井町付近。秦野中井IC - 大井松田IC
-
山北町付近。大井松田IC - 御殿場ICにある半径300 mの急カーブ
-
富士川サービスエリアから見た東名富士川橋と富士山
-
静岡市清水区薩埵峠から。海側が東名。山側は国道1号。
-
静岡IC付近。奥は日本平、右手は遠州灘。
-
東京から約320 km、左手に猪高緑地を見て名古屋ICに到達
-
小牧市内。名古屋高速11号小牧線の下をくぐり、終点の小牧ICに到達する。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 距離測定:キョリ測(ベータ)
- ^ 東名計画時点では砧JCTとして計画。この時点で砧JCTの番号として2番が付与されている[31]。
- ^ 法令上、海老名IC - 海老名南JCT間は第一東海自動車道の支線。
- ^ トンネルは用地買収を必要としない。ただし断面積が新幹線の1.25倍ある上に、鉄道トンネルでは必要のない排気ガスを抜くための設備や照明設備等が必要で経費がかさむ[92]。
- ^ a b なお現在では当たり前となったETCのようなノンストップ自動料金収受システムは、この当時は存在していないのは留意されたい。
- ^ 法律上は右分岐に向かうため予めその手前から最右車線に寄っていても問題はない。ただし通常時の最高速度は80 km/hである。
- ^ 重被牽引車を牽引中の場合。ライトトレーラーのうち車両総重量が750 kg以下(けん引免許が不要なパターン)は対象外(※ライトトレーラーが全てけん引免許不要と言うわけではない)。また通常時の最高速度は80 km/hである。
- ^ 路肩の一部である。車線外縁に接して車線と同一の構造を持ち0.75 mの幅を持つ[260]。
- ^ この間隔があまり狭いと、一方のトンネルの掘削による発破の影響から、他方の山が緩んで崩壊する恐れがある[269]。
- ^ 都県境を通過するが、東京都のカントリーサインは設置されていない。
- ^ a b 連絡路を経由して新東名本線に接続。
出典
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- 竹内良夫「幹線自動車道路網の整備」『高速道路と自動車』第9巻第6号、公益財団法人高速道路調査会、1966年6月、16-20頁。
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- 大久保正行(1995-05)「プール制採用の経緯と料金制度の現況・課題(上)」『高速道路と自動車』第38巻第5号、公益財団法人高速道路調査会、1995年5月、37-39頁。
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- 日本道路公団東京第一管理局「東名高速道路30周年記念フォーラム ―東名 その役割と未来―」『高速道路と自動車』第42巻第7号、公益財団法人高速道路調査会、1999年7月、37-40頁。
- 武田文夫「東名の30年の評価と展望」『高速道路と自動車』第42巻第7号、公益財団法人高速道路調査会、1999年7月、11-14頁。
- 千田洋一「東名高速全通から30年 ―その役割と検証効果―」『高速道路と自動車』第42巻第7号、公益財団法人高速道路調査会、1999年7月、41-45頁。
- 杉田美昭「随想 東名の25年」『高速道路と自動車』第37巻第11号、公益財団法人高速道路調査会、1994年11月、14-15頁。
- 西谷淳一・井上淳一「東名高速道路の改築」『高速道路と自動車』第37巻第11号、公益財団法人高速道路調査会、1994年11月、33-38頁。
- 岡野行秀・鈴木道雄「新年にあたって 高速道路への期待」『高速道路と自動車』第38巻第1号、公益財団法人高速道路調査会、1995年1月、12-19頁。
- 武部健一「東名高速道路と今後の高速道路のあり方」『高速道路と自動車』第52巻第9号、公益財団法人高速道路調査会、2009年9月、11-14頁。
- 中日本高速道路(株)東京支社企画調整チーム「東名高速道路の整備効果について ―全線開通40周年―」『高速道路と自動車』第52巻第9号、公益財団法人高速道路調査会、2009年9月、33-38頁。
- 倉沢真也「高速道路の渋滞対策」『高速道路と自動車』第31巻第12号、公益財団法人高速道路調査会、1988年12月、44-49頁。
- 橋場幸彦「東名高速道路(静岡~焼津間)改築の概要」『高速道路と自動車』第41巻第5号、公益財団法人高速道路調査会、1998年5月、43-50頁。
- 村上圭三「論説 21世紀を開く第2東名・名神を」『高速道路と自動車』第24巻第12号、公益財団法人高速道路調査会、1981年12月、7-17頁。
- 荒牧英城「招待論文 第二東名・名神高速道路の計画と課題」『土木学会論文集(No.444)』第16巻、土木学会、1992年3月、1-9頁。
- 公益財団法人高速道路調査会(1997-03)「東名高速道路「横浜IC」の名称を変更」『高速道路と自動車』第40巻第3号、公益財団法人高速道路調査会、1997年3月、75頁。
- その他
- 中日本高速道路(株)建設事業本部「紹介 新東名高速道路 御殿場JCT〜三ヶ日JCTの概要」『高速道路と自動車』第55巻第5号、公益財団法人高速道路調査会、2012年5月、33-36頁。
- 早川慎治・宮部光貴「新東名高速道路 愛知県区間お概要 浜松いなさJCT〜豊田東JCT」『プレストレストコンクリート』第57巻第6号、プレストレストコンクリート技術協会、2015年11月12日、18-25頁。
- 門間俊幸「公平性の観点からみた中国地方の高速道路ネットワークの計画策定の経緯と検証 : 空間的応用一般均衡モデルを利用した帰着便益計測」『国土技術政策総合研究所資料』第515巻、国土交通省、2009年1月、1-43頁。
- 宇佐美純二・夏目惣治・片山一弘「東名高速道路の集中工事における交通運用 大井松田〜御殿場間 下り線右ルートの反転運用」『建設の施工企画』第684巻、社団法人日本建設機械化協会、2007年2月、30-33頁。
- 今田保「巻頭企画 東海道新幹線開業50年に思う」『鉄道ピクトリアル アーカイブセレクション28』、鉄道図書刊行会、2014年6月、6-12頁。
- 渡辺智恵「モデル線区とは」『鉄道ピクトリアル アーカイブセレクション28』、鉄道図書刊行会、2014年6月、72-73頁。
- 石原達也「モデル線区電気施設の大要」『鉄道ピクトリアル アーカイブセレクション28』、鉄道図書刊行会、2014年6月、74-77頁。
- 高野務・斉藤義治「東海道幹線自動車国道の調査について」『土木学会誌』第46巻第11号、土木学会、1961年11月、15-18頁。
- 樽井常忠「東海道幹線自動車国道の調査について」『道路建設』第167巻、日本道路建設業協会、1961年11月、26-37頁。
- 片平信貴「東京~神戸間高速道路」『土木学会誌』第49巻第11号、土木学会、1964年11月、30-34頁。
- 石井興良「東海道高速自動車道路について」『道路 road engineering & management review』、日本道路協会、1960年7月1日、480-486頁。
- パンフレット
- 中日本高速道路株式会社『東名高速道路全線開通50周年のあゆみ the course of history』中日本高速道路株式会社、2019年4月。