「北九州市病院長殺害事件」の版間の差分
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{{暴力的}} |
{{暴力的}} |
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{{Infobox 事件・事故 |
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{{出典の明記|date=2011年1月}} |
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|名称= 北九州市病院長殺害事件 |
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'''北九州市病院長殺害事件'''(きたきゅうしゅうし びょういんちょうさつがいじけん)とは、[[1979年]](昭和54年)に[[福岡県]][[北九州市]][[小倉北区]]で発生した[[略取・誘拐罪|誘拐]]および[[強盗致死傷罪|強盗殺人]]事件([[バラバラ殺人]]事件)である。なお、事件は[[被害者]]1名に対して[[被告人]]2名がいずれも[[日本における死刑|死刑]]を宣告され、後に執行された。 |
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|正式名称= |
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|画像= {{Infobox mapframe|frame-width=300|zoom=14|type=point}} |
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|脚注= 事件現場となったスナック「ピラニア」の位置 |
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|場所= {{JPN}}:[[福岡県]]・[[大分県]] |
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* 福岡県[[北九州市]][[小倉北区]][[堺町 (北九州市)|堺町]]一丁目5番12号:「エルザビル」{{Efn2|name="エルザビル"|[[ゼンリン]]の[[住宅地図]] (1980) によれば、監禁・殺害現場となったスナック「ピラニア」が入居していた「エルザビル」は、小倉北区堺町一丁目5番地に所在しており{{Sfn|ゼンリン|1980|loc=97頁 E-4}}、同ビルの4階(最上階)に「ピラニア」があった{{Sfn|ゼンリン|1980|loc=別13頁「362 エルザビル (P.97-E-4)」}}。同ビルの名称および住所は2021年2月時点で、「第一エルザビル」(住所:{{ウィキ座標|33|52|55.15|N|130|52|59.06|E||小倉北区堺町一丁目5番12号}})になっている<ref>{{Cite book|和書|title=北九州市小倉北区 2021|publisher=[[ゼンリン|善隣出版社]]|date=2021-02|page=57頁 I-1|series=ゼンリン住宅地図|isbn=978-4432506491|chapter=|id={{国立国会図書館書誌ID|031261285}}}}</ref>。}}4階にあった[[スナックバー (飲食店)|スナック]]「ピラニア」{{Sfn|和田昭三|1980|p=88}}(加害者Yが経営/[[監禁]]・殺害現場)<ref name="朝日新聞1980-06-03 社会">『[[朝日新聞]]』1980年6月3日西部夕刊第3版第一社会面9頁「A事件初公判 顔そむけるY・S なすり合いの影濃く 傍聴券を求め長い列」「起訴状要旨」([[朝日新聞西部本社]])</ref> |
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* 大分県・[[国東半島]]沖<ref name="朝日新聞1982-03-17"/>の[[周防灘]]<ref name="朝日新聞1980-07-31"/>(死体遺棄現場)<ref name="朝日新聞1982-03-17"/> |
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|緯度度=33 |緯度分=52 |緯度秒=55.15 |
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|経度度=130 |経度分=52 |経度秒=59.06 |
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|標的= 病院長の男性A(当時61歳:「ピラニア」の常連客)<ref name="朝日新聞1982-03-17"/> |
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|日付= [[1979年]]([[昭和]]54年)[[11月4日]]<ref name="朝日新聞1982-03-17"/> - [[11月5日|5日]]<ref name="朝日新聞1980-06-03 社会"/> |
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|時間= |
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|開始時刻= 4日21時過ぎ(Aが「ピラニア」に来店)<ref name="朝日新聞1980-04-02社会"/> |
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|終了時刻= 5日13時前(Aを殺害)<ref name="朝日新聞1980-06-03 社会"/> |
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|時間帯= [[UTC+9]] |
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|概要= 男2人([[釣り|釣具]]店経営者およびスナック経営者)が共謀の上、スナックの常連客だった病院長を誘い出し、あいくちで斬りつけたり、首を絞めたりして殺害<ref name="朝日新聞1982-03-17"/>。[[バラバラ殺人|死体をバラバラに解体]]し、フェリーから海に捨てた<ref name="朝日新聞1982-03-17"/>。 |
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|懸賞金= |
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|原因= |
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|手段= |
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* (殺害の手段)あいくちで斬りつけて重傷を負わせ、両手で首を絞める{{Sfn|最高裁第二小法廷|1988|pp=1-2}} |
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* (死体遺棄の手段)死体をバラバラに解体した上で、フェリーから海に投げ捨てる<ref name="朝日新聞1982-03-17"/> |
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|攻撃側人数= 2人 |
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|凶器= [[匕首|あいくち]]{{Efn2|name="あいくち"|Sを刺す際に用いた凶器の短刀(刃渡り約30 cm)は、事件前からSが持っていたものだったが、[[銃砲刀剣類所持等取締法|銃刀法]]に基づく許可は受けておらず、Sが犯行数日前にYに預けていた<ref name="朝日新聞1980-04-07"/>。}}(刃渡り約30 [[センチメートル|cm]])<ref name="朝日新聞1980-04-07"/> |
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|武器= |
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|兵器= |
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|死亡= 1人{{Sfn|判例時報|1984|p=160}} |
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|負傷= |
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|行方不明= |
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|被害者= 男性A(事件当時61歳:病院長) |
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|損害= 約95万円{{Sfn|最高裁第二小法廷|1988|p=1}} |
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|犯人= 男2人 |
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|容疑= |
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|動機= 楽な方法で大金を得るため{{Sfn|判例時報|1984|p=151}} |
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|関与= |
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|防御= |
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|対処= |
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|謝罪= 2被告人とも[[公判]]で反省の意を示した{{Sfn|判例時報|1984|p=160}} |
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|補償= |
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|賠償= 加害者Yは事件後、店を処分して作った300万円を財団法人犯罪被害救援基金に寄託{{Sfn|判例時報|1984|p=160}} |
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|刑事訴訟= 加害者2人とも[[日本における死刑|死刑]]([[上告]][[棄却]]により[[確定判決|確定]]/[[日本における被死刑執行者の一覧|執行済み]]) |
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|少年審判= |
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|海難審判= |
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|民事訴訟= |
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|影響= 事件後、Aの経営していた病院は廃業した{{Sfn|判例時報|1984|p=158}}。 |
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|遺族会= |
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|被害者の会= |
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|管轄= |
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* [[福岡県警察]]・[[大分県警察]]<ref name="読売新聞1979-11-17"/> |
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* [[福岡地方検察庁]]小倉支部<ref name=朝日新聞1980-04-15"/> |
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'''北九州市病院長殺害事件'''(きたきゅうしゅうし びょういんちょうさつがいじけん)は、[[1979年]]([[昭和]]54年)[[11月4日]]から[[11月5日|5日]]にかけて[[福岡県]][[北九州市]][[小倉北区]]で発生した[[強盗致死傷罪|強盗殺人]]・[[死体損壊・遺棄罪|死体遺棄]]([[バラバラ殺人]])事件。大病院を経営していた男性A(当時61歳)が、男2人によって金目的で殺害され、バラバラにされた死体を[[大分県]]([[国東半島]])沖の海に投棄された。加害者2人は[[1988年]](昭和63年)に[[最高裁判所 (日本)|最高裁]]で[[日本における死刑|死刑]][[判決 (日本法)|判決]]が[[確定判決|確定]]し<ref name="読売新聞1988-04-16"/>、[[1996年]]([[平成]]8年)に[[日本における被死刑執行者の一覧|死刑を執行されている]]<ref name="西日本新聞1996-07-12"/>。 |
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[[1983年]](昭和58年)に最高裁が死刑適用基準として「'''[[永山基準]]'''」を示して以降、[[2009年]](平成21年)3月時点までに、'''殺害された被害者が1人の事件で、複数の被告人の死刑が確定した事例は、本事件が唯一'''である{{Efn2|同月18日には[[名古屋地方裁判所|名古屋地裁]]で、本事件と同じく被害者1人の強盗殺人事件である'''[[闇サイト殺人事件]]'''の被告人3人のうち、犯行後に[[自首]]した1人([[懲役#無期懲役|無期懲役]])を除く2人に死刑が言い渡された<ref>『中日新聞』2009年3月18日夕刊一面1頁「千種殺害2被告に死刑 名地裁判決 『無慈悲で凄惨』 自首の1人は無期」(中日新聞社) - [[闇サイト殺人事件]]の関連記事。</ref>。被害者1人の事件で、複数の被告人に死刑が言い渡された事件は、「永山判決」(1983年)以降では本事件以来だった<ref name="読売新聞2009-03-19"/>が、1人は控訴取り下げによって死刑が確定した一方、もう1人([[堀慶末]])は控訴審で無期懲役を言い渡され、検察側の上告棄却によって確定している<ref>『中日新聞』2012年7月14日朝刊第一社会面31頁「闇サイト殺人 堀被告無期確定へ 最高裁 「関与に差」高裁支持」(中日新聞社) - 闇サイト殺人事件([[堀慶末]])の関連記事。</ref>。ただし、堀は無期懲役確定後、[[碧南市パチンコ店長夫婦殺害事件]]などへの関与が判明し、2019年に死刑が確定している<ref>『中日新聞』2019年7月20日朝刊第11版第一社会面35頁「碧南強殺、死刑確定へ 最高裁、堀被告の上告棄却」(中日新聞社) - [[碧南市パチンコ店長夫婦殺害事件]](堀慶末)の関連記事。</ref>。}}<ref group="注" name="被害者1人"/><ref name="読売新聞2009-03-19">『読売新聞』2009年3月19日東京朝刊解説面13頁「闇サイト殺人2人死刑・1人無期 「社会の脅威」強調」(読売新聞東京本社 社会部:田中史生 中部社会部:松田晋一郎) - 闇サイト殺人事件の関連記事。</ref><ref>『[[中日新聞]]』2009年3月18日夕刊第二社会面14頁「千種拉致殺害判決 被害者1人 死刑複数確定は1件」([[中日新聞社]]) - 闇サイト殺人事件の関連記事。</ref>。 |
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== 事件の概要 == |
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1979年[[11月4日]]、友人同士であったA(当時33歳)とB(当時27歳)は、[[共謀]]のうえで、北九州市小倉北区の病院長(当時61歳)を「女性歌手に会わせてやる」と、言葉巧みに誘い出した上で、Bの経営していたスナックに監禁した。そこで家族から2000万円をだまし取るために院長を脅して、家族に[[現金]]を市内の[[ホテル]]に預けるように電話をさせた後、命乞いをする院長を翌[[11月5日]]に絞殺した。殺害後、遺体をバラバラにしたうえで[[北九州港|北九州]]~[[松山港]]行きフェリーに乗りこみ、[[大分県]][[姫島村|姫島]]沖の[[周防灘]]に遺体を遺棄した。[[犯人]]らは監禁時に病院長から現金95万円を奪った上に、家族から2000万円を奪取しようとしたが、こちらは失敗した。 |
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== 概要 == |
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11月15日に被害者の胴体が大分県[[東国東郡]][[国東町]](現・[[国東市]])沖で漁師に発見され事件が明るみに出た。遺体は行方不明となっていた院長であると判明し交友関係から[[日本の警察|警察]]に2人は[[1980年]][[2月29日]]に[[逮捕]]された。被害者の右足は1980年[[7月30日]]に東国東郡[[国見町 (大分県)|国見町]](現・国東市)竹田津沖で発見され、頭蓋骨は[[1982年]][[2月15日]]に[[西国東郡]][[香々地町]](現・[[豊後高田市]])の長崎鼻沖で発見された。 |
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加害者の男2人(本文中SおよびY)はそれぞれ、北九州市小倉北区内で[[釣り|釣具]]店と[[スナックバー (飲食店)|スナック]]を経営していたが、遊惰な生活を夢見て一攫千金を狙った<ref name="朝日新聞1982-03-17"/>。そこで、加害者Yが経営していたスナック「ピラニア」(小倉北区[[堺町 (北九州市)|堺町]]一丁目5番12号){{Sfn|和田昭三|1980|p=88}}の常連客で<ref name="朝日新聞1982-03-17"/>、北九州市内で大病院を経営していた男性A{{Sfn|最高裁第二小法廷|1988|pp=1-2}}(当時61歳)に目をつけ<ref name="朝日新聞1982-03-17"/>、大金を奪った上で殺害する[[完全犯罪]]を計画{{Sfn|最高裁第二小法廷|1988|p=1}}。犯行の日時場所、脅迫方法、金品の強奪方法、犯行の隠蔽方法(死体の解体・遺棄など)などについて、事前に綿密な計画を練り上げた{{Sfn|最高裁第二小法廷|1988|p=1}}。 |
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1979年[[11月4日]]夜、2人は被害者Aを「ピラニア」に誘い出し<ref name="朝日新聞1982-03-17"/>、[[匕首|あいくち]]<ref group="注" name="あいくち"/>で左脇腹を斬りつけて瀕死の重傷を負わせ、現金約95万円を強奪したほか、Aの妻に電話を掛けさせ、2,000万円を持参するよう指示させたが失敗{{Sfn|最高裁第二小法廷|1998|pp=1-2}}。口封じのため<ref name="朝日新聞1982-03-17"/>、翌[[11月5日|5日]]昼に<ref name="朝日新聞1980-06-03 社会"/>瀕死状態のAを絞殺し、死体をバラバラに解体して{{Sfn|最高裁第二小法廷|1998|p=2}}、[[北九州港|小倉港]]発[[松山港]]行きのフェリー「[[とさ (フェリー)|はやとも丸]]」から<ref name="朝日新聞1980-04-01"/>、国東半島(大分県)沖の海<ref name="朝日新聞1982-03-17"/>([[周防灘]])に投棄した<ref name="朝日新聞1980-07-31"/>。事件後、2人は数々の証拠隠滅を図った<ref name="数々のナゾ"/>が、翌[[1980年]](昭和55年)3月から4月にかけ、[[福岡県警察|福岡県警]]の調べに対し、相次いで犯行を自供<ref name="朝日新聞1980-04-01"/><ref name="朝日新聞1980-04-02"/>。本事件の強盗殺人・死体遺棄容疑で[[逮捕 (日本法)|逮捕]]・[[起訴]]された<ref name=朝日新聞1980-04-15"/>ほか、Sは恐喝未遂の余罪でも起訴されている<ref name="別件起訴"/>。 |
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== 公判と死刑執行 == |
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[[裁判]]では命乞いをする被害者を殺害し金銭を奪った犯行の残虐性が明らかにされた。AB両名は互いの罪をなすり付けあう態度に終始した。 |
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本事件は、被害者Aが地元の名士だったことや、死体がバラバラにされた猟奇性、加害者らが被害者を誘い出す口実として[[小柳ルミ子]]{{Efn2|name="小柳ルミ子"|小柳本人は事件当日、小倉を訪れる予定はなく{{Sfn|サンデー毎日2|1980|p=159}}、事件後には「Aには会ったこともないし、名前を聞いたこともない。(事件のことは)本当に大迷惑」と述べている<ref>『朝日新聞』1980年3月12日西部朝刊北九州版地方面20頁「A事件で捜査本部長 解決へ大きな自信」「A事件で小柳ルミ子 会ったこともなく本当に大迷惑だわ」(朝日新聞西部本社)</ref>。}}(歌手)の名が使われたことから、社会的に注目を浴びた<ref name="朝日新聞1982-03-17"/>。特に地元・小倉ではかなり関心が高く、本事件の発生直後には各新聞が報道合戦を繰り広げ、本事件の報道の詳細さと、その新聞の売り上げが比例する現象も見られた{{Sfn|サンデー毎日2|1980|p=157}}。また、本事件の捜査中だった1979年12月23日には小倉北区[[赤坂 (北九州市)|赤坂]]で、[[暴力団]]組長が[[拳銃|ピストル]]で射殺される事件が発生{{Sfn|北九州市史|1983|p=951}}。同事件を受け、県警が暴力団抗争への警戒を強めていた1980年2月8日には、[[小倉南区]]貫で[[シンナー]]常習者による連続女性殺傷事件(1980年2月8日)が発生した{{Sfn|北九州市史|1983|p=953}}。このように、北九州市内で凶悪事件が続発し、それらの事件が全国ニュースで取り上げられたことや、本事件の解決後も、[[東京]]や大分県[[日田市]]で市出身者による殺傷事件が相次いで発生した{{Efn2|1980年8月19日に東京で[[新宿西口バス放火事件]]が発生したが、同事件の加害者は[[小倉市]](後の小倉南区)出身だった<ref>『朝日新聞』1985年2月14日東京夕刊第二社会面14面「新宿バス放火控訴審、××(加害者の実名)が土下座し『ごめんなさい』」(朝日新聞東京本社)</ref>。}}ことが原因で、市の対外イメージは悪化した{{Sfn|北九州市史|1983|p=954}}。『北九州市史』 (1983) では、当時の情勢について、「(市内で)凶悪事件が続発し、『'''事件の北九州'''』の異名を全国に宣伝することになった」と言及されている{{Sfn|北九州市史|1983|p=957}}。 |
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両名とも1審、2審で[[求刑]]通り死刑が宣告された。[[弁護人|弁護]]側が提出した上告趣意書の末尾に両被告人本人が書いた部分があり、その内容が死刑に対する恐怖を書き記した命乞いとも取れる内容であったため話題を呼んだ。 |
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刑事裁判で、[[被告人]]として起訴された加害者2人は、ともに自身の主導性を否定し、「相手が主犯だ」と主張し合った<ref name="朝日新聞1982-03-17"/>。しかし[[審級|第一審]]の[[福岡地方裁判所|福岡地裁]]小倉支部 (1982) は、発案および殺害の実行行為を2人の[[共同正犯|共同行為]]と[[事実認定|認定]]<ref name="朝日新聞1982-03-17"/>。犯行の計画性の高さ・残忍さ、動機の悪質さなどに加え、2人がそれぞれ相手に責任を転嫁しようとしている態度を「反省がない」と指摘し、ともに[[日本における死刑|死刑]]とする[[判決 (日本法)|判決]]を言い渡した<ref name="朝日新聞1982-03-17"/>。[[福岡高等裁判所|福岡高裁]] ([[1984年|1984]]) および最高裁第二[[小法廷]] (1988) もそれぞれ原判決を支持し<ref name="朝日新聞1984-03-14"/><ref name="読売新聞1988-04-16"/>、1988年5月に2人の死刑が確定<ref name="刑集53巻9号"/>。[[死刑囚]]2人は、事件から17年後の1996年7月11日に[[福岡拘置所]]<ref group="注" name="福岡拘置所"/>で[[日本における被死刑執行者の一覧|死刑を執行された]]<ref name="西日本新聞1996-07-12"/>。 |
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[[最高裁判所 (日本)|最高裁]]は[[上告]]を[[棄却]]した。これにより、被害者1名に対して[[共犯]]2名が死刑が確定する珍しい結果になった。 |
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なお、最高裁は[[1983年]](昭和58年)7月、[[永山則夫]]([[永山則夫連続射殺事件|連続4人射殺事件]]の被告人)の第一次上告審で、「死刑の選択は、あらゆる情状を併せて考察し、罪責が誠に重大で、極刑がやむを得ないと認められる場合に許される」という[[量刑]]判断基準(いわゆる「'''[[永山基準]]'''」)を示した<ref name="47NEWS 2019-12-07"/>。同基準の下では、結果の重大性(特に殺害された被害者の数)が特に重視されており、殺害された被害者が1人の事件の場合、死刑が確定した事例は少数に限定されているが{{Efn2|name="被害者1人"|「永山判決」以前から、死刑適用にあたっては殺害された被害者の数が重要視され、強盗殺人の場合、被害者が1人の場合は無期懲役以下、複数であれば死刑が適用される傾向にあった<ref>{{Cite book|和書|title=死刑の基準--「永山裁判」が遺したもの|publisher=[[日本評論社]]|date=2009-11-30|pages=254-258|author=[[堀川惠子]]|url=https://www.nippyo.co.jp/shop/book/5175.html|edition=第1版第1刷発行|isbn=978-4535517226}}</ref>。また同判決以降は、下級審では特に被害者1人の事件への死刑適用に慎重な傾向が強まっており<ref>『[[静岡新聞]]』2008年2月29日夕刊一面1頁「[[三島女子短大生焼殺事件|三島の女子短大生焼殺]] H被告、死刑確定へ-最高裁判決 被害者1人で適用」(静岡新聞社)</ref>、従前ならば被害者1人でも死刑が適用されていた身代金目的の誘拐殺人事件でも、死刑が回避された事例が見られる(例:[[司ちゃん誘拐殺人事件]]・[[甲府信金OL誘拐殺人事件]])。[[司法研修所]] (2012) が、1970年度(昭和45年度)以降に判決を言い渡され、1980年度 - 2009年度にかけて死刑か無期懲役が確定した殺人事件・強盗殺人事件の被告人(全346人)について調査したところ{{Sfn|司法研修所|2012|p=108}}、殺害被害者1人の事件で死刑を求刑された被告人100人(殺人48人・強盗殺人52人)のうち、死刑が確定した被告人は32人(殺人18人・強盗殺人14人)にとどまっている{{Sfn|司法研修所|2012|p=109}}。{{Main|永山基準#殺害された被害者の数}}}}<ref name="47NEWS 2019-12-07">{{Cite news|title=新潟女児殺害、死刑判決とならない事情 最高裁が求める「慎重さ」「公平性」、裁判員を説得か|newspaper=[[47NEWS]]|date=2019-12-07|url=https://this.kiji.is/575630482034885729|accessdate=2021-09-05|agency=[[共同通信社]]|language=ja|author=竹田昌弘|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210905152323/https://nordot.app/575630482034885729|archivedate=2021年9月5日}} - [[新潟小2女児殺害事件]]の関連記事。</ref>、被害者1人の強盗殺人の場合は、死刑が確定した14人のうち、本事件の犯人2人を含む大半(8人)は、当初から被害者の殺害を計画・決意していた者{{Efn2|本事件の2人(事件一覧表における整理番号:55番および56番)以外に、[[東村山署警察官殺害事件]](同18番)、[[名古屋市中区栄スナックバー経営者殺害事件]](同280番:殺人罪で懲役15年に処された前科あり)、闇サイト殺人事件の1人(同345番)などがいる{{Sfn|司法研修所|2012|pp=114-115}}。ただし、当初から被害者の殺害を計画・決意していた場合でも、無期懲役が選択された事例は多く、死刑選択にあたってはその点以外にも、犯行の動機、具体的な計画性の程度、社会的影響、被告人の前科・余罪など、様々な事情が考慮されている{{Sfn|司法研修所|2012|p=115}}。}}{{Efn2|ほか7人のうち、6人は無期懲役刑の[[仮釈放]]中に強盗殺人を再犯した者で、残る1人は2件の強盗殺人・強盗強姦事件で起訴されていたが、両事件の間に確定判決を挟んでいたため、([[:b:刑法第45条|刑法第45条]]の規定により、両事件が[[併合罪]]にならず)1件目について無期懲役、2件目について死刑に処された事例である{{Sfn|司法研修所|2012|p=113}}。}}であり、'''死刑選択にあたっては、殺人の計画性も重視されている'''ことが判明している{{Efn2|加藤松次は「死刑・無期量刑選択の変化――判決の傾向」(『[[ジュリスト]]』第798号)で<ref>{{Cite journal|和書|journal=[[ジュリスト]]|author=加藤松次|title=死刑・無期量刑選択の変化――判決の傾向|date=1983-09-15|url=http://www.yuhikaku.co.jp/jurist/detail/014401|issue=798|pages=|publisher=[[有斐閣]]|ref=|id={{国立国会図書館書誌ID|000000011053}}}} - 1983年9月15日号。</ref>、「最近の死刑判決例は、犯人がはじめから被害者の殺害を計画していた場合、いいかえれば謀殺形態の殺人もしくは強盗殺人事件ばかりである。もちろん多数殺害事件は別の配慮が必要であるが、少なくとも単数被害者殺害事件に関するかぎり、成り行き殺人(故殺)に死刑が選択されることは稀である。」と指摘している{{Sfn|判例時報|1984|p=151}}。}}{{Sfn|司法研修所|2012|pp=113-114}}。本事件は「[[永山基準|永山判決]]」以降、殺害された被害者が1人の死刑確定事件としては5件目(SとYは5人目および6人目)である<ref name="刑集53巻9号"/>。 |
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[[1996年]][[7月11日]]、[[福岡拘置所]]において両名は処刑された。Aは[[享年]]49、Bは享年43。 |
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本事件以前に、被害者1人の事件で被告人2人が死刑に処された事例は、[[名古屋地方裁判所|名古屋地裁]]で[[1968年]](昭和43年)4月19日に言い渡されたタクシー運転手強盗殺人事件の判決{{Efn2|両被告人は金に困ったことから、共謀してタクシー強盗を行うことを決め、[[1967年]](昭和42年)4月17日に[[愛知県]][[名古屋市]][[中村区]]内でタクシー運転手を襲撃し、首に掛けたズボン用のベルトの両端を引っ張り合って絞殺し、現金約1,360円と腕時計などを奪った{{Sfn|刑事裁判資料|1970|loc=事件一覧表33頁}}。2人はこの強盗殺人・[[傷害罪|同時傷害]]事件以外に、[[窃盗罪|窃盗]]・[[強盗罪|強盗]]・強盗致傷・[[強制性交等罪|強姦致傷]]の余罪があり{{Sfn|刑事裁判資料|1970|loc=事件一覧表33頁}}、1968年4月18日に名古屋地裁刑事第2部で死刑判決[事件番号:昭和42年(わ)第895号・昭和42年(わ)第1066号]を宣告された{{Sfn|刑事裁判資料|1970|p=448}}。なお被告人のうち1人(イニシャルK・T)は窃盗4回の前科が{{Sfn|刑事裁判資料|1970|loc=事件一覧表33頁}}、もう1人(イニシャルI・S)も殺人予備など1回の前科があった{{Sfn|刑事裁判資料|1970|loc=事件一覧表34頁}}。2人とも控訴したが、KTは同年12月24日付で{{Sfn|刑事裁判資料|1970|loc=事件一覧表33頁}}、ISも同年5月10日付でそれぞれ控訴を取り下げ、死刑が確定している{{Sfn|刑事裁判資料|1970|loc=事件一覧表34頁}}。}}が最後だった{{Sfn|判例タイムズ|1988|p=104}}。また、最高裁によれば、被害者1人の事件で複数の被告人に死刑が言い渡された事例は、本事件を含め、主なケースで戦後11件目だった<ref>『毎日新聞』1988年4月16日東京朝刊第一社会面27頁「A病院長殺人で最高裁はS、Y両被告の上告棄却、死刑確定」(毎日新聞東京本社)</ref>が、本事件以前では、[[1964年]](昭和39年)12月に死刑が確定した強盗殺人事件(被害者1人)の2被告人{{Efn2|事件概要:[[飯場]]で知り合った男3人 (SK・MN・GY) が、金欲しさからタクシー強盗を計画し、殺害方法などの手はずを決めるなど共謀した上で、1962年(昭和37年)6月4日深夜に[[東京都]][[中央区 (東京都)|中央区]]内で、被害者の運転手男性(当時54歳)が運転するタクシーに乗車し、地理に明るい[[神奈川県]][[三浦市]]まで運転させた{{Sfn|刑事裁判資料|1971|pp=400-401}}。そして、周囲に人家や人通りのない場所に停車させると、後部座席から被害者に対し、背広上衣を頭から被せたり、革製バンドで首を絞めたり、殴るなどの暴行を加え、金を出して助命を哀願する被害者から現金2,591円や腕時計を強取した{{Sfn|刑事裁判資料|1971|p=401}}。さらに、首に巻き付けたバンドの両端を2人で引っ張り合い、被害者を失神させた上で車外に引きずり出し、財布から現金200円を奪ったが、被害者にはまだかすかに息があったため、頭から肥溜めに落として殺害し、車を奪って逃走したものである{{Sfn|刑事裁判資料|1971|pp=401-402}}。SKは事件当時25歳、MNは同24歳で{{Sfn|刑事裁判資料|1971|loc=事件一覧表56頁・57頁}}、GYは[[少年犯罪|事件当時少年]]だった{{Sfn|刑事裁判資料|1971|p=400}}。 |
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* 第一審判決[事件番号:昭和37年(わ)第1422号・第1603号] - 1962年12月11日:[[横浜地方裁判所|横浜地裁]]第4刑事部で、強盗殺人罪に問われた3被告人のうち、SKおよびMNの両被告人に死刑、残る被告人GYに無期懲役がそれぞれ言い渡された{{Sfn|刑事裁判資料|1971|p=398}}。 |
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* 控訴審判決[事件番号:昭和38年(う)第642号] - 1964年1月24日:[[東京高等裁判所|東京高裁]]第1刑事部で、SKおよびMNの控訴をいずれも棄却する判決{{Sfn|刑事裁判資料|1971|p=402}}。 |
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* 上告審判決[事件番号:昭和39年(あ)第454号] - 1964年12月25日:最高裁第二小法廷で、SKおよびMNの上告をいずれも棄却する判決(2人の死刑が確定){{Sfn|刑事裁判資料|1971|p=405}}。参照:集刑 第153号987頁<ref>{{Cite 判例検索システム|事件番号=昭和39年(あ)第454号|裁判年月日=1964年(昭和39年)12月25日|法廷名=最高裁判所第二小法廷|裁判形式=判決|判例集=集刑 第153号987頁|url=https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=58877|事件名=強盗殺人}} |
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* [[最高裁判所裁判官]]:[[奥野健一]](裁判長)・[[山田作之助]]・[[草鹿浅之介]]・[[城戸芳彦]]・[[石田和外 (裁判官)|石田和外]] |
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* 原典:{{Cite journal|和書|journal=最高裁判所裁判集 刑事|year=1964|title=昭和39年12月25日判決 昭和39年(あ)第454号|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1349146/501|issue=第153号(昭和39年11月 - 昭和39年12月)|pages=987|publisher=最高裁判所}}</ref>。}}が最後の事例だった<ref name="読売新聞1988-04-16">『読売新聞』1988年4月16日東京朝刊第一社会面27頁「北九州市の病院長殺害 2被告の死刑確定 複数極刑24年ぶり/最高裁棄却」(読売新聞東京本社)</ref>。このように、本事件は死刑適用の限界事例とされ、死刑執行時には事件関係者から賛否両論の声が上がった([[#死刑執行|後述]])<ref name="朝日新聞1996-07-12"/>。 |
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{| class="wikitable" style="font-size:90%" |
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|+略年表 |
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!年 |
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!月日 |
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!出来事 |
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! rowspan="5" |1979年<br/>(昭和54年) |
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|11月4日 |
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|被害者Aが行方不明になる。Aは同日、SとYによってYの経営する「ピラニア」に[[監禁]]され、あいくちで瀕死の重傷を負わされていた。 |
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|11月5日 |
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|SとYはAに自宅への電話を掛けさせ、「2,000万円を持ってきてほしい」と伝えさせたが、金の受け取りに失敗。<br/>同日13時ごろ、2人でAを殺害。その後、死体を[[京都郡]][[苅田町]]の[[モーテル]]「泉」<ref group="注" name="解体場所"/>で死体をバラバラに解体<ref name="朝日新聞1980-04-01"/>。<br/>同夜、2人は[[北九州港|小倉港]]発[[松山港]]行きのフェリー「[[とさ (フェリー)|はやとも丸]]」<ref name="朝日新聞1980-04-01"/>に偽名で乗船<ref name="朝日新聞1980-02-29"/>。航行中の船から死体を海(周防灘)に遺棄し<ref name="朝日新聞1980-07-31"/>、同月9日まで[[四国]]を旅行<ref name="朝日新聞1980-04-12"/>。 |
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|- |
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|11月7日 |
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|Aの妻が[[小倉北警察署]]に夫の家出人保護願を届け出る<ref name="朝日新聞1980-04-02夕刊2"/>。 |
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|{{nowrap|11月15日}} |
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|大分県の国東半島沖でバラバラ死体が発見される。翌16日に[[指紋]]照合の結果、被害者Aと確認される<ref name="朝日新聞1979-11-17"/>。<br/>[[福岡県警察|福岡]]・[[大分県警察|大分]]の両県警が[[捜査本部]]を設置し、捜査を開始<ref name="読売新聞1979-11-17"/>。 |
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|- |
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|12月15日 |
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|このころまでにSとYへの嫌疑が強まり、福岡県警の特捜本部幹部会で、「犯人は2人に間違いない」と確認される<ref name="朝日新聞1980-04-09 夕刊"/>。 |
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|- |
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! rowspan="9" |1980年<br/>(昭和55年) |
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|2月29日 |
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|福岡県警捜査本部、SとYを本事件の重要参考人として、恐喝未遂容疑([[#恐喝未遂事件|参照]])で[[別件逮捕]]<ref name="朝日新聞1980-02-29"/>。 |
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|- |
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|3月7日 |
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|捜査本部が「ピラニア」の店内を強制捜査し、複数箇所から[[ルミノール|血液反応]]を検出<ref name="朝日新聞1980-03-07"/>。 |
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|- |
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|3月9日 |
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|YがAの殺害などを自供<ref name="朝日新聞1980-03-10"/>。捜査本部は同月11日、2人を死体遺棄容疑で再逮捕<ref name="朝日新聞1980-03-11夕刊"/>。しかし、Yは再び否認に転じ、Sも引き続き容疑を否認<ref name="朝日新聞1980-03-12"/>。 |
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|- |
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|3月31日 |
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|Yが[[#全面自供|全面自供]]<ref name="朝日新聞1980-04-01"/>。 |
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|4月1日 |
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|Sが「自分がYを刺した」と自供<ref name="朝日新聞1980-04-02社会"/>。 |
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|4月2日 |
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|2人の自供通り、死体の切断に用いられた凶器(鉈・金切り鋸など)が発見される<ref name="朝日新聞1980-04-02夕刊"/>。捜査本部、2人を強盗殺人容疑で再逮捕<ref name="朝日新聞1980-04-03"/>。 |
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|4月14日 |
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|[[福岡地方検察庁|福岡地検]]小倉支部、2人を強盗殺人罪・死体遺棄罪で[[起訴]]<ref name=朝日新聞1980-04-15"/>。 |
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|6月3日 |
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|[[福岡地方裁判所|福岡地裁]]小倉支部(佐野精孝[[裁判長]])で第一審の初[[公判]]<ref name="朝日新聞1980-06-03"/>。 |
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|7月30日 |
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|国東半島沖でAの右脚が発見される。 |
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! rowspan="5" |1982年<br/>(昭和57年) |
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|2月15日 |
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|国東半島沖でAの頭蓋骨が発見される<ref name="頭骨発見"/>。 |
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|- |
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|2月16日 |
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|[[論告]][[求刑]]公判で、[[検察官]]が「2被告人は共同正犯で、刑事責任は同等」として、それぞれ死刑を求刑<ref name="朝日新聞1982-02-17"/>。 |
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|- |
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|2月23日 |
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|両被告人の[[弁護人]]がそれぞれ最終弁論を行い、事実上結審<ref name="朝日新聞1982-02-24"/>。 |
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|3月16日 |
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|福岡地裁小倉支部(佐野精孝裁判長)、2被告人に死刑判決<ref name="朝日新聞1982-03-17"/>。判決後、2人は[[福岡高等裁判所|福岡高裁]]へ[[控訴]]<ref name="朝日新聞1982-03-18"/>。 |
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|- |
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|10月14日 |
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|福岡高裁第2刑事部(緒方誠哉裁判長)で控訴審初公判<ref name="朝日新聞1982-10-14"/>。 |
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! rowspan="2" |1984年<br/>(昭和59年) |
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|1月23日 |
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|控訴審が結審<ref name="朝日新聞1984-01-23"/>。 |
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|3月14日 |
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|福岡高裁第2刑事部(緒方誠哉裁判長)、2人の控訴を[[棄却]]する判決を宣告<ref name="朝日新聞1984-03-14"/>。判決後、2人は最高裁へ[[上告]]<ref name="読売新聞1984-03-15"/>。 |
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|- |
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! rowspan="2" |1988年<br/>(昭和63年) |
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|4月15日 |
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|最高裁第二[[小法廷]]([[香川保一]]裁判長)、2被告人の上告を棄却する判決を宣告<ref name="読売新聞1988-04-16"/>。 |
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|- |
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|5月 |
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|5月17日付で判決訂正申立棄却の決定が出され<ref name="訂正棄却決定"/>{{Sfn|井上薫|1999|p=97}}、18日付で2人の死刑が確定{{Efn2|name="訂正棄却"|実際には判決訂正申立棄却の決定が、被告人本人か弁護人の下に送達された時点をもって判決が確定する。}}<ref name="刑集53巻9号">{{Cite journal|和書|journal=[[刑集|最高裁判所刑事判例集]]|year=1999|title=第一審判決の無期懲役の科刑を維持した控訴審判決が量刑不当として破棄された事例 (別表2) 殺害された被害者が1名の死刑確定事件一覧表|volume=53|month=12|issue=9|pages=1280-1281|publisher=最高裁判所|id={{全国書誌番号|00009089}}、{{国立国会図書館書誌ID|000000009021}}}} - [[福山市独居老婦人殺害事件]]の第一次上告審[1999年(平成11年)12月10日第二小法廷判決:平成9年(あ)第479号]で、検察官が提出した上告趣意書の別表。「永山判決」(1983年7月)以降、被害者1人で死刑が確定した事例を収録している。</ref>。 |
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|- |
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!1996年<br/>(平成8年) |
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|7月11日 |
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|福岡拘置所<ref group="注" name="福岡拘置所"/>で死刑囚2人の刑が執行される<ref name="西日本新聞1996-07-12"/>。 |
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|} |
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== 加害者 == |
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=== 死刑囚S === |
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加害者'''S・Y'''(以下「S」/釣具店経営)は[[1946年]](昭和21年)10月19日生まれ{{Sfn|集刑|1988|p=335}}(事件当時{{年数|1946|10|19|1979|11|4}}歳)。[[本籍]]地は北九州市小倉北区昭和町850番地の2、住居は小倉北区木町一丁目{{Sfn|集刑|1988|p=335}}。事件当時は、「徳力釣具店」(小倉北区片野三丁目)を経営しており<ref name="朝日新聞1980-04-10"/>、妻と2人で平穏に生活していた{{Sfn|判例時報|1988|p=160}}。 |
|||
Sは幼少期に病弱の父親と別れて生活し、母親によって女手1つで育てられた{{Sfn|判例時報|1988|pp=159-160}}。幼少期に基本的な生活習慣・社会性が十分涵養されないまま生育し、高校{{Efn2|Sは門司工業高校(現:[[豊国学園高等学校|豊国学園高校]])出身<ref>『朝日新聞』1980年3月8日西部朝刊第13版第一社会面19頁「A事件 追いつめられた二人 S 釣具店主 金遣い荒い遊び人 「アリバイ工作」が裏目に Y スナック店主 夜の街で院長となじむ 捜査の進展にオドオド」(朝日新聞西部本社)</ref>。}}時代に喧嘩や[[恐喝罪|恐喝]]事件を起こしたが、成人後は(後述の[[福岡ひびき信用金庫|新北九州信用金庫]]曽根支店への[[#恐喝未遂事件|恐喝未遂事件]]を起こすまで)重大な[[前科]]・[[前歴]]はなかった{{Sfn|判例時報|1988|p=160}}。 |
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高校卒業後、[[日本国有鉄道|国鉄]]の[[行橋駅|行橋]][[車両基地|機関区]]に整備係として就職したが、半年で退職し、鮮魚仲買業に転職した{{Sfn|フクオカ犯罪史研究会|1993|p=253}}。その経営者の娘(前妻)と結婚し、1児の父になると、独立して飲食店を経営するようになったが、その店の従業員である女性と同棲するようになり、前妻と離婚した上で再婚{{Sfn|フクオカ犯罪史研究会|1993|p=253}}。1971年(昭和41年)から「徳力釣具店」を経営するようになり{{Sfn|フクオカ犯罪史研究会|1993|p=253}}、一時期は「北九州釣具店協同組合」の小倉支部長を務めていた{{Sfn|サンデー毎日2|1980|p=159}}。なお、1970年(昭和45年) - 1973年(昭和48年)ごろにかけ、「Oクリーニング店」(小倉南区[[徳力 (北九州市)|徳力]])の近くに在住しており、1971年ごろには妻が同店を利用していたことがあった{{Sfn|和田昭三|1980|p=90}}。 |
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事件後、獄中で熱心に[[写経]]に取り組み、控訴審判決までに17冊を書き上げていた<ref name="朝日新聞1984-03-14 社会"/>。 |
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=== 死刑囚Y === |
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加害者'''Y・K'''(以下「Y」/スナック経営)は[[1952年]](昭和27年)9月5日生まれ{{Sfn|集刑|1988|p=335}}{{Sfn|集刑|1988|p=372}}(事件当時{{年数|1952|9|5|1979|11|4}}歳)。本籍地は北九州市[[戸畑区]]椎ノ木町96番地の2、住居は椎ノ木町9番10号{{Sfn|集刑|1988|p=335}}。事件前まで、前科・前歴はなく、妻子とともに円満・平穏に生活していた{{Sfn|判例時報|1988|p=160}}。 |
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Yの両親は終戦後、八幡から知人を頼って[[神奈川県]]に出たが、その知人に会えず、日雇いや店員などの仕事をして生計を立てていた<ref name="朝日新聞1980-04-18夕刊">『朝日新聞』1980年4月18日西部夕刊第3△版第二社会面8頁「再録 A病院長事件 14 父と子 見交わす目と目」(朝日新聞西部本社)</ref>。その後、神奈川県[[足柄下郡]][[湯本町 (神奈川県)|湯本町]](現:[[箱根町]])で長男Yが生まれると{{Efn2|その後、2人の妹が誕生しており、Yは3人兄妹の長男として育っている{{Sfn|集刑|1988|p=372}}。}}、1954年(昭和29年)ごろ、[[遠賀郡]][[水巻町]]に戻った{{Sfn|集刑|1988|p=372}}。両親は、[[日本炭礦|日炭]]高松炭住街の人々を得意先として、鮮魚の行商をしていたが、Yが10歳(小学校4年生)のころ、[[炭鉱]]の閉山{{Efn2|日炭高松炭鉱は、[[筑豊炭田]]で最大級の規模の炭鉱だったが、1971年(昭和46年)に閉山した<ref>{{Cite Kotobank|高松炭鉱|世界大百科事典|accessdate=2021-09-06}}</ref>。}}によって町の人口が減り、商売が不調になった{{Sfn|集刑|1988|p=373}}。そのため、父は梱包会社に勤めるようになり{{Sfn|集刑|1988|p=373}}、真面目さと努力が実ったことで課長にまで昇進した{{Efn2|また、Yの父親は教育にも力を入れ、息子の高校時代には[[PTA]]の役員を務めており、事件翌年の1981年(昭和56年)に定年を控えていた<ref name="朝日新聞1980-04-18夕刊"/>。}}<ref name="朝日新聞1980-04-18夕刊"/>。母はYが5年生のころ、リアカーに魚を載せて行商をするようになった{{Sfn|集刑|1988|p=373}}が、Yも小学校のころから高校卒業まで{{Sfn|集刑|1988|p=374}}、苦しい家計を支えるため、母の鮮魚の行商を手伝った{{Sfn|判例時報|1988|p=160}}。 |
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その後、Yは1965年(昭和40年)3月に[[水巻町立下二小学校|下二小学校]]を卒業し、[[水巻町立水巻中学校|水巻中学校]]に進学したが、中学2年の時、卓球クラブで知り合った少年(家庭が[[生活保護]]を受け、[[少年院]]にも入った経験がある)と仲良くなり、[[空き巣]]の見張りをして、少年が盗んだ金を分前として貰ったことがあった{{Sfn|集刑|1988|p=376}}。しかし、主犯の少年が部屋の中に汚物をしていたため、被害者の激怒を買い、Yは父親とともに[[福岡家庭裁判所|小倉家庭裁判所]]で厳しく叱られた{{Efn2|当時はちょうど中学の[[修学旅行]]前だったが、Yは反省のため、自ら修学旅行を辞退した{{Sfn|集刑|1988|p=376}}。}}{{Sfn|集刑|1988|p=376}}。この1件以来、Yは周囲から疑いの目で見られるようになったが、中学3年生に進学した際、担任が英語の教師に交代すると、その教師がYの過去の汚点を物ともせず対処してくれたことや、Y自身も英語が得意だったことから、再び活気を取り戻した{{Sfn|集刑|1988|p=377}}。 |
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1968年(昭和43年)、[[福岡県立水産高等学校|福岡県立水産高校]]製造科に進学{{Sfn|集刑|1988|p=377}}。高校時代は、1年生の際にクラスの副学級委員を、3年生の際に新聞部長をそれぞれ務め{{Sfn|サンデー毎日2|1980|p=159}}、クラブの教諭の推薦で、保護司会が後援した[[西日本新聞社]]主催の弁論大会に、「人間失格」というテーマで出場し、地区予選まで残った{{Sfn|集刑|1988|p=377}}。 |
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高校卒業後、叔父(母の弟)が経営するタイヤ販売会社に就職し、1971年11月には4歳年上の妻と結婚{{Sfn|集刑|1988|pp=377-378}}。翌1972年(昭和47年)11月に長男が誕生したが、1973年に[[オイルショック#第1次オイルショック(第1次石油危機)|オイルショック]]の影響で経営が悪化したことから、退職して新たな仕事を探していたところ、高校時代の同級生からの勧めで、その友人の兄が経営していたスナックに務めることになった{{Sfn|集刑|1988|p=378}}。1974年(昭和49年)8月以降{{Sfn|集刑|1988|p=379}}、スナックやクラブなどのバーテン・店長などを経て、それらの経験を生かし{{Sfn|判例時報|1988|p=160}}、1978年(昭和53年)11月以降、自分の店であるスナック「ピラニア」を経営するようになった{{Sfn|集刑|1988|p=379}}。 |
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犯行後、逮捕されるまでに追及を免れようと、[[刑事訴訟法]]の解説書を読んだり、[[冤罪]]事件を扱った本を買い込んだり、[[免田事件]]や[[別府3億円保険金殺人事件|荒木虎美事件]]をスクラップしたりしており、逮捕後もそれらから得た知識を生かして、[[#全面自供|全面自供]]まで32日間にわたり、のらりくらりと追及をかわし続けた<ref name="朝日新聞1980-04-15夕刊">『朝日新聞』1980年4月15日西部夕刊第3△版第二社会面8頁「再録 A病院長事件 12 自白は女王 猛勉し長期抵抗」(朝日新聞西部本社)</ref>。一方、獄中では、身辺雑記や家族への手紙を書いたり<ref name="朝日新聞1984-03-14 社会"/>、[[英和辞典]]を用いて[[洋書]]を読んだり、[[ハングル]]の勉強をしたりしていた<ref name="朝日新聞1988-04-16 社会"/>。また、店を処分して300万円を工面し、これを遺族に対する慰謝料として払おうとしたが{{Sfn|判例時報|1984|p=160}}、受け取りを拒否されたため{{Sfn|判例時報|1984|p=158}}、財団法人犯罪被害救援基金に寄託した{{Sfn|判例時報|1984|p=160}}。 |
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== 被害者 == |
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被害者である病院長A(61歳没)は、北九州市小倉南区津田で生まれ<ref name="朝日新聞1980-04-02夕刊二社"/>、事件当時は小倉北区[[三萩野]]二丁目{{Efn2|ゼンリンの住宅地図 (1978) によれば、「A病院」は小倉北区三萩野二丁目1番27号に所在していた<ref>{{Cite book|和書|title=北九州市小倉北区 1978|publisher=[[ゼンリン|善隣出版社]]|date=1978-05|page=156頁 D-5|series=ゼンリンの住宅地図|isbn=|chapter=|id={{国立国会図書館書誌ID|000003599263}}}}</ref>。}}に在住し<ref name="読売新聞1979-11-17"/>、同地で「A病院」を経営していた<ref>『朝日新聞』1979年11月17日西部朝刊第13版第一社会面23頁「院長惨殺 暗躍する魔手 行動の陰に不審な男女 派手な交際、患者と口論も」(朝日新聞西部本社)</ref>。家族は妻(1980年1月当時57歳)と、歯科医に嫁いだ長女(同30歳)、独身の次女(同29歳)がいた{{Sfn|サンデー毎日|1980|p=29}}。 |
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Aは旧九州[[旧制医学専門学校|医学専門学校]](現:[[久留米大学]]医学部)を卒業後、[[1946年]](昭和21年)から[[1959年]](昭和34年)まで[[国立病院機構小倉医療センター|国立小倉病院]]に勤務<ref name="読売新聞1979-11-17"/>。[[1960年]](昭和35年)に「A診療所」を開業<ref name="読売新聞1979-11-17"/>。当初は[[内科]]のみの診療所だったが<ref name="朝日新聞1980-04-02夕刊二社"/>、間もなく「A病院」に昇格させ<ref name="読売新聞1979-11-17"/>、[[外科]]・[[小児科]]・[[放射線科]]を併設した<ref name="朝日新聞1980-04-02夕刊二社">『朝日新聞』1980年4月2日西部夕刊第3△版第二社会面10頁「A院長 資産だけが残った 派手な生活ねらわれ」(朝日新聞西部本社)</ref>。また、1974年(昭和49年)には医療品・医療機材の販売会社を設立したほか、マンションを賃貸する不動産会社<ref name="朝日新聞1979-11-17"/>「A興産」を設立{{Efn2|Aは、「A病院」用の給食などを「A興産」から購入し、双方から収益を上げていた<ref name="経営に疲れ"/>。}}<ref name="朝日新聞1980-04-02夕刊二社"/>。マンション6棟{{Efn2|Aの生前最後に着工されたマンション「{{ウィキ座標|33|52|18.5|N|130|53|04.4|E||A第6ビル}}」(6階建て)は1980年4月ごろ、「A病院」の隣(小倉北区三萩野二丁目)に完成した<ref name="朝日新聞1980-04-02夕刊二社"/>。}}や借家などを所有していたほか、分譲住宅の販売なども行い<ref name="朝日新聞1980-04-02夕刊二社"/>、[[1977年]]度(昭和52年度)・[[1978年]]度(昭和53年度)には北九州市の長者番付3位に入っていた{{Efn2|1976年(昭和51年度)に初めて北九州市の個人取得ベスト10に入り、1978年度の所得申告額は1億3,296万円だった<ref name="朝日新聞1980-04-02夕刊二社"/>。}}<ref name="朝日新聞1979-11-17"/>。Aは事件当時、[[糖尿病]]の持病があり、[[インスリン]]を注射しないと生命に危険がある状態だった<ref name="朝日新聞1979-11-17"/>。 |
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多額の資産を有していたAは、小倉の繁華街における夜の豪遊ぶりが巷の噂になっており{{Sfn|判例時報|1984|p=158}}、飲みに出る際には派手な洋服や装身具に身を包み、芸能人や[[関取]]を大勢連れて行くなどしていた<ref name="経営に疲れ"/>。Sは本事件以前の1978年10月初旬<!--『朝日新聞』 (1980) では「10月2日」<ref name="朝日新聞1980-04-06"/>、和田昭三 (1980) では「10月3日」となっている{{Sfn|和田昭三|1980|p=90}}。-->に[[交通事故]]で負傷し([[#事件前の動向|後述]])<ref name="朝日新聞1980-04-06">『朝日新聞』1980年4月6日西部朝刊第13版第二社会面22頁「A事件のS 示談金とり遊び癖 生活乱し犯行計画」(朝日新聞西部本社)</ref>、同年12月27日まで約2か月間{{Sfn|和田昭三|1980|p=90}}、Aが経営する「A病院」に入院したことがあり、その経営規模や、噂で聞いたAの豪遊ぶりから、「Aには相当の試算や収入がある」と推測していた{{Sfn|判例時報|1984|p=157}}。また、Yも別のスナックで店長を務めていた1975年(昭和50年)の末ごろ、同店に客として出入りしていたAと知り合い、A宅を訪れたり、贈り物を貰ったりするなどしていた([[#事件前の動向|後述]]){{Sfn|判例時報|1984|p=157}}。一方、病院経営者としては真面目な性格で、看護婦などが薬の空き箱を粗末にすると注意したりしていた<ref name="経営に疲れ"/>。 |
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事件当時、Aの経営していた「A病院」は、外科・内科・小児科・放射線科を有していた大病院(ベッド数171床)で<ref name="読売新聞1979-11-17"/>、他の病院が受け入れたがらない[[生活保護]]受給者や[[暴力団]]員も「人道的措置」と称して積極的に入院させる{{Sfn|フクオカ犯罪史研究会|1993|p=248}}ことで、入院患者数を増やし<ref name="読売新聞1979-11-17"/>、常時130人以上の入院患者がいた<ref name="朝日新聞1980-04-02夕刊二社"/>。しかし、常勤医師は院長A以外に1人しかおらず、入院患者の無断外泊や、飲酒・[[覚醒剤]]濫用{{Efn2|1978年11月には、入院患者が覚醒剤を注射して逮捕される事件が発生していた<ref name="毎日新聞1979-11-17"/>。}}、病院内での患者同士の喧嘩を発端とする殺人事件の発生などが問題視され{{Sfn|フクオカ犯罪史研究会|1993|p=248}}、小倉医師会から入院患者の監督を十分行うよう、厳しい注意を受けたこともあった<ref name="読売新聞1979-11-17"/>。特に事件発生より半年前(1979年5月)には、入院中の患者同士が飲酒して喧嘩し<ref name="毎日新聞1979-11-17">『[[毎日新聞]]』1979年11月17日東京朝刊第14版第一社会面23頁「小倉の失跡病院長 バラバラ死体で発見 首・足なし、毛布包み ナゾの電話残し 12日目、大分の海岸で」([[毎日新聞東京本社]]) - 『毎日新聞』[[新聞縮刷版|縮刷版]] 1979年(昭和54年)11月号515頁</ref>、1人が殴られて死亡する事件が発生していた<ref name="読売新聞1979-11-17"/>。また、事件当時は老朽化が著しくなっており<ref name="読売新聞1979-11-17"/>、A自身も[[佐賀県]]まで病院の後継者探しに出掛けていたほか、知人に対し、「マンションでも経営しながらのんびり暮らしたい」とこぼすなど、病院経営に疲れを見せていた<ref name="経営に疲れ"/>。事件当時、Aは出身地の小倉南区津田に<ref name="経営に疲れ"/>、豪邸(総工費は推定1億円近く)を建設中で{{Sfn|サンデー毎日|1980|p=30}}、さらにその近くにも300戸程度のマンションを建設する予定だった<ref name="経営に疲れ">『朝日新聞』1979年11月17日西部朝刊第13版第二社会面22頁「不安が現実…色めく病院 A院長 経営に疲れ」(朝日新聞西部本社)</ref>。 |
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「A病院」は事件後、院長であるAが死亡したことにより廃業{{Sfn|判例時報|1984|p=158}}。一方、遺された不動産会社は妻が継承した{{Efn2|1979年11月30日付けで、有限会社「A興産」の代表取締役はAから、妻に変更された{{Sfn|サンデー毎日|1980|p=30}}。}}<ref name="朝日新聞1988-04-16 社会">『朝日新聞』1988年4月16日西部朝刊第14版第一社会面23頁「A病院事件最高裁判決 遺族「早く忘れたい」 2被告は写経や読書」(朝日新聞西部本社)</ref>。なお、次女は1987年(昭和62年)3月17日、[[身代金]]目的の[[誘拐]]事件の被害に遭ったが、約12時間後に無事保護されている<ref>『朝日新聞』1987年3月18日東京朝刊第一社会面23頁「A院長事件の次女、誘拐・脅迫12時間 自力で電話、保護」([[朝日新聞東京本社]])</ref>。 |
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== 事件前の動向 == |
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Yは1975年(昭和50年)ごろ、自身が店長を務めていたスナック「カーニバル」を飲み客の1人として訪れていた被害者Aと知り合い、やがてAに自宅マンションまで連れて行ってもらったり、他の店に飲みに連れて行ってもらったりした{{Sfn|集刑|1988|p=380}}。また、スナック「ビーナス」の店長を務めていた1976年(昭和51年)ごろには、店の客として訪れてきたSと知り合い、一度だけ[[狩猟]]に同道したことがあった{{Sfn|集刑|1988|p=381}}。この時は、店長と客以上のプライベートな交際にまでは発展しなかったが、1979年春ごろ、Yは自分たまに通っていたピザハウスの近くに、Sの釣具店があることを知り、その店主がよく「ビーナス」へ飲みに来ていたSだったことを思い出し、「ピラニア」に飲みに来るよう勧誘の挨拶に行った{{Sfn|集刑|1988|p=381}}。当初、Sは水割りを少し飲んで帰る程度だったが、やがてYと一緒に、Yの行きつけのホステスに飲みに行くようになった{{Sfn|集刑|1988|p=382}}。また、Yは自身の店「ピラニア」で、客商売のために魚の[[ピラニア]]を飼育しており{{Sfn|集刑|1988|p=379}}、その餌である[[キンギョ|金魚]]を購入するため、Sの釣具店からすぐ近くにある養魚場へ通っていたが、その際にSの釣具店にぶらりと立ち寄るようになった{{Sfn|集刑|1988|p=382}}。 |
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=== SとYの接近 === |
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事件当時、Sの釣具店や、Yの経営するスナック「ピラニア」の売上は順調で、両者ともに約800万円余の債務を背負ってはいた{{Efn2|name="借金"|Sは銀行からの借入金、商品の買掛代金など約800万円の債務を負い、滞った買掛金の一部の支払いを催促されていたが、銀行への返済は約定通り行っていた{{Sfn|判例時報|1984|pp=156-157}}。また、Yは開店資金・営業資金のための借入金や、酒類の買掛代金など約800万円の負債があったが、これはスナック経営に伴う通常の負債の範囲に過ぎず、借入金の返済に滞りはなかった{{Sfn|判例時報|1984|p=157}}。両者とも、差し迫った取り立てや商品納入の差し止めなどを受けることはなかった{{Sfn|判例時報|1984|pp=156-157}}。}}が、ともに金銭的に困窮しているような状態ではなかった{{Efn2|Yは事件前の夏ごろには10,000円の日掛け貯金ができるほどの金銭的余裕があった{{Sfn|判例時報|1984|p=156}}。}}{{Sfn|判例時報|1984|pp=156-157}}。しかし、Sは当時、スナックホステスの[[愛人]]が2人おり{{Sfn|フクオカ犯罪史研究会|1993|p=253}}、外車を乗り回して繁華街のバーやスナックなどで飲酒し、遊興にふけることを好んでいた{{Sfn|判例時報|1984|p=157}}。 |
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Sは1978年10月2日、北九州市内で対向車に衝突される事故に遭い、むち打ち症で自宅付近の「A病院」に入院<ref name="朝日新聞1980-04-06"/>。この事故ではS側に過失はなく、相手側から[[示談|示談金]]200万円{{Efn2|事故直後に80万円が、1979年1月までに120万円がそれぞれ支払われた<ref name="朝日新聞1980-04-06"/>。}}が支払われたが、それまで大衆的なスナックに通うことが多かったSは、示談金を得てから高級クラブに行くようになった<ref name="朝日新聞1980-04-06"/>。また、Sは院長のAに依頼し、自身に有利な内容の診断書を書かせ、[[自動車保険|保険]]会社から不当な保険金を受け取っていた{{Sfn|フクオカ犯罪史研究会|1993|p=251}}。やがて示談金が尽きると、Sは店の売上金にも手を付け、[[餌#魚(釣り)|釣り餌]]や釣具を卸していた[[問屋]]への仕入れ金も滞りがちになった<ref name="朝日新聞1980-04-06"/>。当時、Sは営業資金名目で借金約900万円を抱えており<ref group="注" name="借金"/>、店舗の移転資金{{Efn2|Sが事件当時借りていた店舗の契約期限は、1979年2月だった<ref name="朝日新聞1980-04-06"/>。}}も必要としていた<ref name="朝日新聞1980-04-06"/>。 |
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SとYは1979年夏ごろから親しく交際するようになったが、Yは、小さな釣具店を経営するだけでしばしば飲み歩いているSを羨ましく思い、店の営業時間中から売上金を持ち出しては、Sとともに他のスナックなどに出掛けて遊び回るようになった{{Efn2|Sはこのころから、Yとともに一晩で4、5万円(月あたり100 - 150万円)を飲み代に費やしていたが、この時には年少者であるYの飲み代をおごることも多く、店を妻に任せて[[ゴルフ]]や[[麻雀]]、猟に出掛けるようになった<ref name="朝日新聞1980-04-06"/>。}}{{Sfn|判例時報|1984|p=157}}。そして、2人とも真面目に働くことが嫌になり、急いで返済する必要のなかった負債を一気に返還すること、店の経営を拡大することや、高級車を購入し、働かずして遊興にふける安楽な生活を送ることを望むようになり、そのために必要な大金を得る手段を考えた{{Sfn|判例時報|1984|p=157}}。そのため、Sはスナック「散歩道」のホステス甲{{Efn2|甲はSの女友達だった<ref name="朝日新聞1980-06-04冒頭陳述"/>。}}と情交関係のあった歯科医師を脅し、金品を脅し取ることを考え、Yを誘ってその準備をしていた{{Efn2|2人は甲の住居付近に出かけ、証拠となる写真を撮影した{{Sfn|判例時報|1984|p=159}}。}}{{Sfn|判例時報|1984|p=159}}が、実行するとそれが甲(元愛人に暴力団幹部がいた)に知れることを考え、計画実行を断念した{{Sfn|判例時報|1984|p=153}}。 |
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=== Aの殺害計画 === |
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2人はそれに代わる計画として、本件犯行を思い立ち{{Sfn|判例時報|1984|p=154}}、地元で有名な資産家として知られていた被害者の病院長Aを標的とした上で、AをYの経営する「ピラニア」、犯行日時は11月4日(日曜日){{Efn2|当日(11月4日)は、「ピラニア」が入居するエルザビル<ref group="注" name="エルザビル"/>内の店舗のほとんどが休む日だった{{Sfn|判例時報|1984|p=157}}。}}の21時と定めた{{Sfn|判例時報|1984|p=157}}。そして、芸能人好きのAを「[[小柳ルミ子]]<ref group="注" name="小柳ルミ子"/>(歌手)を紹介する」と騙して誘い出し{{Sfn|判例時報|1984|p=157}}、[[散弾銃]]とあいくち<ref group="注" name="あいくち"/>(Sの持ち物){{Sfn|和田昭三2|1980|p=74}}で脅迫して、店内に[[監禁]]する{{Efn2|2人は当初、Aを監禁するため<ref name="朝日新聞1980-06-03"/>、Sの飼い犬用の鎖を使う予定で<ref name="朝日新聞1980-06-04冒頭陳述"/>、それを用意していた<ref name="朝日新聞1980-06-03"/>。}}{{Sfn|判例時報|1984|p=157}}。そして、Aに家族への電話を掛けさせて大金を用意させ、それを奪った上でAを殺害し、死体をスチール製ロッカー<ref group="注" name="ロッカー"/>に入れ、マンションで解体した上で、あらかじめ手配した[[渡し船|瀬渡し船]]から海中に投棄する一方、Aの車を[[福岡空港]]付近に乗り捨てることで、Aが大金を持って失踪したように装うことにするなど、綿密な計画を立てた{{Sfn|判例時報|1984|p=157}}。当初は死体を解体後、車で[[鹿児島県|鹿児島]]まで運び、Sが以前から利用していた鹿児島県[[川内市]](現:[[薩摩川内市]])の瀬渡し船をあらかじめ借り切り{{Sfn|判例時報|1984|p=157}}、[[甑島列島|甑島]]方面に向かう途中{{Sfn|和田昭三2|1980|p=75}}、海上で船長の目を盗んで死体を投棄する計画だった{{Sfn|判例時報|1984|p=157}}。 |
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それらの計画を実行するため、YはAに連絡して11月4日に「ピラニア」に来ることを約束させた一方、死体の解体場所{{Efn2|name="解体場所"|当初はYの妹や愛人が住んでいたマンションの一室で、彼女らが仕事に出ている間に死体を運び込み、風呂場で解体する計画だった{{Sfn|判例時報|1984|p=157}}。この計画のため、Yは乙に部屋の合鍵を作らせた{{Sfn|判例時報|1984|p=157}}が、S・YがAを殺害した当時(11月5日14時ごろ)は、彼女たちはまだ出勤しておらず在宅中だった{{Sfn|フクオカ犯罪史研究会|1993|p=257}}。そのため、Sたちは解体場所をかつて利用したことのあるホテル「泉」に変更した{{Sfn|フクオカ犯罪史研究会|1993|p=257}}。このホテル「泉」(京都郡苅田町)は、北九州市との境界に近く<ref name="朝日新聞1980-04-01"/>、[[国道10号]]から約50 [[メートル|m]]海岸寄りに入った住宅街の外れに位置していた<ref>『朝日新聞』1980年4月1日西部夕刊第3△版第一社会面9頁「車庫から客室へ直行の構造 死体処理のモテル」(朝日新聞西部本社)</ref>。ゼンリンの住宅地図 (1979) によれば、「ホテル泉」の所在地は、苅田町若久町三丁目9番({{ウィキ座標|33|48|00.5|N|130|58|17.2|E||位置座標}})である<ref name="ホテル泉位置座標">{{Cite book|和書|title=京都郡 苅田町・豊津町・勝山町・犀川町 1979|publisher=[[ゼンリン|善隣出版社]]|date=1979-04|page=7頁 B-1|series=ゼンリンの住宅地図|isbn=|chapter=|id={{国立国会図書館書誌ID|000003604200}}}}</ref>。}}を手配し、Sも瀬渡し船を手配した{{Sfn|判例時報|1984|p=157}}。そして11月1日、2人は日曜大工道具大型店「ハンドメイクニシイ」(北九州市小倉南区葛原)で、被害者Aを縛ったり、殺害後に死体を搬出・解体するための道具として、竹割鉈2本、金切り鋸1本とその替え刃4本、軍手2双、プラスチック製バケツ(45 [[リットル|L]])、盆栽用のアルミ製針金(直径1 [[ミリメートル|mm]]、長さ約10 [[メートル|m]])、台所用の水手袋1双、ガムテープ1個を購入<ref>『朝日新聞』1980年4月3日西部朝刊第13版第一社会面19頁「凶器類 事前に一括購入」(朝日新聞西部本社)</ref>。それらに加え、棒たわし、洗剤、パイプクリーナー、タオル、ガーゼ、晒、ポリ袋、スチール製ロッカー{{Efn2|name="ロッカー"|死体の運搬に使われたロッカーは、Sが11月1日、[[麻雀]]仲間の事務用品販売業者から売ってもらったものだが、Sは同月下旬、その知人に対し「ロッカーを買ったことは絶対に言うな」と口止めし、伝票類などの証拠を持ち去った{{Sfn|和田昭三2|1980|p=71}}。}}なども事前に買い揃え、いずれも車に積み込んだり、散弾銃やあいくちとともにあらかじめ「ピラニア」店内に運び込むなどして、周到な準備をした{{Sfn|判例時報|1984|p=157}}。大金を得る手段の計画は、監禁したAに家族への電話を掛けさせ、大金をトランクに入れたA宅の車をホテルの駐車場に置かせた上で、車の鍵をホテルのフロントに預けさせ、その鍵を受け取って車ごと奪うというものだった{{Sfn|判例時報|1984|p=157}}。 |
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Yの愛人女性乙{{Sfn|判例時報|1984|p=157}}は、「10月21日 - 22日にYとともに塚野温泉(大分県)へ旅行に行った際、Yから『11月の初めごろ、Sと一緒に鹿児島に物を運んだら億の金が入る(=鹿児島まで死体を運び、海に投棄することを意味する)が、失敗すれば10年は覚悟しないといけないだろう』などと聞いていたが、旅行から帰った翌日に『その件はやめた』ということを聞いた」と証言している{{Sfn|判例時報|1984|p=154}}が、福岡高裁 (1984) は、乙の証言などを総合して、「(1979年)10月20日以前の時点で、被告人らの間で被害者殺害の謀議がなされていたことが明らかなのである。」と認定している{{Sfn|判例時報|1984|p=157}}。また、Yは事件当日(11月5日)に予定されていた趣味の早朝野球の予定を断っていたほか、事件発生(11月4日)の3 - 4日前には家族らに対し、「11月4日から、鹿児島の甑島に釣り旅行に行く」と話していたが、釣り船を予約・キャンセルした痕跡はなかった<ref name="朝日新聞1980-03-12"/>。 |
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一方、Aは失踪前(10月25日 - 11月3日まで)に会っていた知人や、遊興先のホステスなど約10人に対し、「11月4日に小柳ルミ子と会う」「小柳ルミ子とできたらスポンサーになって、多額の金を東京まで持って行かないかんだろう」「東京の有名歌手と会うから店に連れて来てやる」などと話しており、11月2日には、4日夜にデラックスルームの宿泊予約を取っている{{Efn2|予約は2人分で、Aは料金41,700円を事前に支払っていた{{Sfn|フクオカ犯罪史研究会|1993|pp=250}}。}}{{Sfn|和田昭三|1980|p=87}}。しかし、小柳は11月1日 - 7日にかけ、[[東京]]・[[浅草]]の[[国際劇場]]でワンマンショーを開催中で、Aとは面識がなく、小倉に行く予定もなかった<ref group="注" name="小柳ルミ子"/>{{Sfn|和田昭三|1980|p=87}}。 |
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==== 恐喝未遂事件 ==== |
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また、Sは同年10月、[[福岡ひびき信用金庫|新北九州信用金庫]]曽根支店(北九州市小倉南区[[下曽根]]三丁目){{Efn2|name="曽根支店"|新北九州信用金庫は、現在の[[福岡ひびき信用金庫]]の前身に当たる。曽根支店は1980年当時、小倉南区下曽根三丁目に所在していた<ref name="朝日新聞1980-02-29"/>が、2011年(平成23年)2月に下曽根二丁目へ新築移転した<ref>{{Cite news|title=曽根支店を小倉南区に新築移転 福岡ひびき信用金庫 土日祝日ATM21時まで稼働|newspaper=ふくおか経済Web|date=2011-01-11|url=https://www.fukuoka-keizai.co.jp/news/%E6%9B%BD%E6%A0%B9%E6%94%AF%E5%BA%97%E3%82%92%E5%B0%8F%E5%80%89%E5%8D%97%E5%8C%BA%E3%81%AB%E6%96%B0%E7%AF%89%E7%A7%BB%E8%BB%A2%E3%80%80%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E3%81%B2%E3%81%B3%E3%81%8D%E4%BF%A1%E7%94%A8/|accessdate=2021-05-02|publisher=[http://www.fukuokaweb.jp/fukuokakeizai/company/ (株)地域情報センター]|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210502132950/https://www.fukuoka-keizai.co.jp/news/%E6%9B%BD%E6%A0%B9%E6%94%AF%E5%BA%97%E3%82%92%E5%B0%8F%E5%80%89%E5%8D%97%E5%8C%BA%E3%81%AB%E6%96%B0%E7%AF%89%E7%A7%BB%E8%BB%A2%E3%80%80%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E3%81%B2%E3%81%B3%E3%81%8D%E4%BF%A1%E7%94%A8/|archivedate=2021年5月2日}}</ref>。}}に対する[[恐喝罪|恐喝]]未遂事件を起こしていた<ref name="朝日新聞1980-02-29"/>。 |
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逮捕容疑によれば、Sは同店から金を脅し取ろうと考え、同年10月18日18時ごろ、知人の牛乳販売店主{{Efn2|この牛乳販売店主は、Sの古くからの釣り客だった<ref>『朝日新聞』1980年3月14日西部夕刊第3△版第一社会面11頁「A事件 金に困り結びつく 2人、昨夏から急接近」(朝日新聞西部本社)</ref>。}}宅に同支店の得意先係を呼びつけ、「牛乳販売店が支店に依頼している牛乳自動販売機の集金額が、実際より3万円少ないが、どうしてくれる」と脅し、名刺の裏に「支店側に非があった」と書かせた上で、翌19日には同支店に押し掛け、支店長に名刺を示しながら「新聞記者に配るぞ」と脅し、支店長代理から現金30万円を恐喝しようとした<ref name="朝日新聞1980-02-29"/>。これを受け、支店長は自分の判断で30万円を支店側の知人に渡し、牛乳販売店主を説得しようとしたが、それを知った市内の暴力団幹部が、支店側の意思とは無関係に介入し、自ら肩代わりして牛乳販売店主に30万円を支払った<ref name="朝日新聞1980-03-03"/>。結局、Sは同支店から金を入手できず、恐喝は未遂に終わった<ref name="朝日新聞1980-02-29"/>。 |
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同事件については、本事件についての嫌疑を掛けられたSとYの[[#別件逮捕|別件逮捕]]と同時に、牛乳販売店主も共犯として逮捕されたが、彼には本事件の嫌疑は掛かっておらず<ref name="朝日新聞1980-02-29"/>、10日間の拘置後に釈放された<ref>『朝日新聞』1980年4月1日西部夕刊第3△版三面3頁「豊富な資料 矛盾残す 別件捜査には問題残る」(朝日新聞西部本社)</ref>。また、Sは恐喝未遂罪で[[起訴]]された(1980年3月11日付)一方、Yは同事件については処分保留とされ<ref name="別件起訴">『朝日新聞』1980年3月12日西部朝刊第13版第一社会面23頁「Sを別件で起訴」(朝日新聞西部本社)</ref>、最終的には起訴されなかった。 |
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== 事件当日 == |
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| caption = 「ピラニア」({{Color box2|#5E74F3}})・死体解体現場({{Color box2|#FF0000}})<ref group="注" name="解体場所"/><ref name="朝日新聞1980-04-01"/><ref name="ホテル泉位置座標"/><!--座標はおおよその位置-->・死体発見現場付近({{Color box2|#800000}})<ref group="注" name="来浦漁港"/><ref name="朝日新聞1980-07-31"/><ref name="頭骨発見"/>の位置関係<!--座標はおおよその位置--> | auto-caption = 1 |
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| scalemark = 60 |
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| mark-coord1 = {{coord|33|52|55.15|N|130|52|59.06|E}} |
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| mark-title1 = 「ピラニア」 |
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| mark-coord2 = {{coord|33|48|00.5|N|130|58|17.2|E}} |
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| mark-title2 = 死体解体現場(ホテル「泉」)付近 |
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| mark-coord3 = {{coord|33|53|35.0|N|130|53|10.7|E}} |
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| mark-title3 = 砂津港(「はやとも丸」に乗船) |
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| mark-coord4 = {{coord|33|46|27.5|N|131|30|54.4|E}} |
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| mark-title4 = Aの頭蓋骨および右脚が発見された現場付近([[長崎鼻 (大分県)|長崎鼻]]北方約10 [[キロメートル|km]]沖) |
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| shape4 = n-circle |
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| shape-color4 = #800000 |
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| mark-coord5 = {{coord|33|38|28.0|N|131|41|23.3|E}} |
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| mark-title5 = Aの胴体が発見された現場付近(来浦漁港) |
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| shape-color5 = #800000 |
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}} |
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11月4日午後、Yは髭を剃り落として変装した{{Sfn|和田昭三2|1980|p=74}}。同日20時ごろ、SとYは「ピラニア」に行き、散弾銃とあいくち<ref group="注" name="あいくち"/>を出入口付近のカウンターに隠すと、Yはそのまま1人でAの来店を待った{{Sfn|フクオカ犯罪史研究会|1993|p=255}}。一方、Sは20時30分ごろに店を出て、「エルザビル」<ref group="注" name="エルザビル"/>横に駐車した自分の車の中で待機した{{Sfn|フクオカ犯罪史研究会|1993|p=255}}。 |
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被害者Aは21時10分 - 17分ごろ、「ピラニア」に来店したが、その際にはラメ入りの紫の上着、[[ダイヤモンド|ダイヤ]]入りの高級腕時計([[ピアジェ (ブランド)|ピアーゼ]]:時価502万円)および[[ポーラー・タイ|ループタイ]](170万円)、指輪(70万円)を着用していた<ref name="朝日新聞1980-04-02社会">『朝日新聞』1980年4月2日西部朝刊第13版第一社会面15頁「A事件 サウナで殺しの相談 「まとまった金欲しい」 縛りあげネチネチ刺す 不敵な男も最後は涙 Y自供で崩れたS」(朝日新聞西部本社)</ref>。Yは「ピラニア」店内に入ってきたAに酒を勧め、Aから小柳のマネージャーへ渡す謝礼分として現金20万円を預かり、歓談しながらSの到着を待った{{Sfn|判例時報|1984|p=152}}。この時、預かった20万円はカウンター背後の壁面に設置してあった洋酒棚に入れて保管した{{Sfn|判例時報|1984|p=152}}。Sはそれからしばらくして店に現れると、Yから散弾銃を受け取り、実包を装填する仕草をした一方、YがAが逃げられないよう、店の出入口シャッターを閉め、あいくちを手にしてAの背後に回った{{Sfn|判例時報|1984|p=152}}。 |
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=== あいくちでAを斬りつける === |
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Aは「Y君、何のまねかね」と問いかけたが、Sは両手に持った散弾銃の銃口をAに突きつけ、「やかましい、ぐずぐず言うな、ぶっぱなすぞ、服をぬげ」などと怒鳴りつけ脅迫{{Sfn|判例時報|1984|p=152}}。Aは所持金約75万円をカウンターの上に差し出し、上半身裸になったが、全裸になることを渋ったため、Sから「全部脱がんか」などと怒鳴られた{{Sfn|判例時報|1984|p=152}}。それに対し、Aは不服そうに「こんなことをしてただですむと思うな」{{Sfn|判例時報|1984|p=152}}「(暴力団組長の実名を挙げて)俺に誰がついているか知っているんか」<ref name="朝日新聞1980-04-02社会"/>などと文句を言ったが、SはAを「ぶつぶつ言ったらはじくぞ」などと脅迫した一方、YはSの方を向いて立っていたAの背後から、Aの左斜め後方に近づき、あいくちの峰でA{{Efn2|当時、Aはズボンを脱ごうとして前かがみになっていた{{Sfn|判例時報|1984|p=152}}。}}の首付近を軽く2, 3回叩きながら「冗談でしよるんじゃないぞ」と脅迫した{{Sfn|判例時報|1984|p=152}}。 |
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しかし、Aがあいくちを払いのけようとして左手を上げたため、その態度に激昂したYは、後ろからあいくちでAの左脇腹付近を斬りつけ、左[[肺]]に達する深い切り傷を負わせた{{Efn2|この傷(深さ3 - 4 cm、長さ約15 cm)は第8肋間を切断し、左肺下葉に達するものだった{{Sfn|判例時報|1984|p=152}}。}}{{Sfn|判例時報|1984|p=152}}上で、Aに多額の金品を要求した{{Sfn|判例時報|1984|p=158}}。Aは絨毯<ref group="注" name="絨毯"/>上に血溜まりができるほど大量に出血し、苦しみながら「傷が肺に達しているから帰してくれ」「医者を呼んでくれ」と必死に哀願していた{{Sfn|判例時報|1984|p=156}}。しかし、S・Yはそのような状態のAに対し、タオルを当てて晒で巻く程度の手当てしかせず{{Sfn|判例時報|1984|p=158}}、(死亡するまで)約14 - 15時間にわたり、適切な医療措置を施さずに放置して衰弱させた{{Sfn|判例時報|1984|p=156}}。 |
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この間、2人は止血のため、Aから奪った95万円の中から5,000円を遣っている<ref name="朝日新聞1980-06-04冒頭陳述"/>。4日23時ごろ、小倉北区[[魚町 (北九州市)|魚町]](「ピラニア」にほど近い場所)のスーパーで、30歳前後の男{{Sfn|和田昭三|1980|p=89}}(=Y){{Sfn|和田昭三2|1980|p=74}}が、ガーゼ6反(Aの死体に付着していたものと同種)と増血剤を購入していた{{Sfn|和田昭三|1980|p=89}}。また、2人は血で汚れたAの身体を拭いた際、腕時計や指輪を取り外したほか、YはAをあいくちで斬りつけたのと前後して、洋酒棚に保管してあった20万円を、Aから脅し取った約75万円と一緒にしている([[#控訴審]]も参照){{Sfn|判例時報|1984|p=155}}。 |
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=== 大金奪取に失敗 === |
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その上で、SはAに対し、「金が手に入れば帰す」と言いつつ、Aから「2,000 - 3,000万円なら用意できる」と聞き出した{{Sfn|フクオカ犯罪史研究会|1993|p=256}}。翌日(11月5日)9時ごろ{{Sfn|フクオカ犯罪史研究会|1993|p=246}}、SはAに猟銃を突きつけ{{Efn2|この時、SはAが仮に監禁されていることを示すようなことを発言した場合、直ちに電話を切れるようにしていた<ref>『朝日新聞』1980年4月5日西部朝刊第13版第一社会面19頁「A事件 罪をなすり合う SとY 「あいつが刺した」」(朝日新聞西部本社)</ref>。}}、彼の妻に対し{{Sfn|フクオカ犯罪史研究会|1993|p=256}}、「高い買い物をしたので、現金2,000 - 3,000万円を車のトランクに入れて、『小倉キャッスルホテル』(小倉北区[[室町 (北九州市)|室町]]){{Efn2|「小倉キャッスルホテル」は、福岡県北九州市小倉北区室町一丁目2番16号に所在していた<ref>{{Cite news|title=[[運輸省]]告示第四百一号|newspaper=[[官報]]|date=1985-09-19|publisher=[[独立行政法人]][[国立印刷局]]|page=9|language=ja|quote=国際観光ホテル整備法施行規則(昭和二十五年運輸省令第四十九号)第八条第三項の規定により、昭和六十年七月三十一日次の登録ホテルの登録を抹消したので、同施行規則第三条に基づき、告示する。[[運輸大臣]] [[山下徳夫|山下 徳夫]] 昭和六十年九月十九日 登録番号 登録ホ第三五一号 名称 小倉キャッスルホテル 所在地 福岡県北九州市小倉北区室町一丁目二番一六号|issue=17584}}</ref>。客室65室を有していたが、事件後の1980年10月14日(翌15日に期限を迎える手形2,600万円分を決済できなくなったため)、経営が行き詰まって営業を停止し、事実上倒産した<ref>『朝日新聞』1980年10月15日東京朝刊第12版経済面8頁「小倉のホテル倒産」(朝日新聞東京本社) - 『朝日新聞』縮刷版 1980年(昭和55年)10月号564頁</ref>。}}まで持ってきてほしい」{{Sfn|フクオカ犯罪史研究会|1993|p=246}}と電話させた{{Efn2|この時、Aは「車のキーはフロントに預けてくれ」と伝えており、この電話を受けたAの妻は指示通り、[[福岡シティ銀行|福岡相互銀行]]三萩野支店で現金2,500万円を下ろして帰宅したところ、11時ごろに再び電話を受けた{{Sfn|フクオカ犯罪史研究会|1993|p=246}}。}}{{Sfn|フクオカ犯罪史研究会|1993|p=256}}。 |
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しかし、本来はまず「金が要る」という電話を掛けさせ、次いで金が用意できたところで「ホテルに持ってきてくれ」という電話を2回に分けて掛けさせる予定だったが、Aが一度に話してしまった{{Sfn|フクオカ犯罪史研究会|1993|p=256}}。そのため、2人は警察への通報を恐れ、11時ごろに再びAに電話を掛けさせ{{Sfn|フクオカ犯罪史研究会|1993|p=256}}、妻に「都合で場所が変わった。金を受け取る場所を『ニュー田川』(小倉北区古船場町){{Efn2|name="ホテルニュー田川"|「ホテルニュー田川」は、福岡県北九州市小倉北区古船場町3番46号に所在していた<ref>{{Cite news|title=会社その他の[[公告]] [[定款]]変更につき株券提出公告|newspaper=官報|date=1988-08-16|publisher=独立行政法人国立印刷局|page=18|language=ja|quote=昭和六十三年八月十六日 北九州市小倉北区古船場町三番四六号 ホテルニュー田川|issue=18445}}</ref>。2018年10月に[[マイステイズ・ホテル・マネジメント]]が運営会社となり、同年12月1日から「アートホテル小倉 ニュータガワ」に改称している<ref>『毎日新聞』2018年12月2日西部朝刊福岡地方版〔北九州版〕25頁「ホテル:「ニュータガワ」再オープン 伝統守り外国人客増を /福岡」(毎日新聞西部本社 記者:宮城裕也)</ref>。}}にしてほしい」{{Sfn|フクオカ犯罪史研究会|1993|p=246}}と伝えさせた{{Sfn|フクオカ犯罪史研究会|1993|p=256}}。当初は、Aの妻に「ニュー田川」前に停めた車の助手席に金を置かせ、彼女が立ち去ったところ、Yが車を取る予定だったが、Aの電話に対し、妻が「駐車違反になる」と言ったところ、Aは自身の判断で「それならホテルのフロントに預けなさい」と指示した<ref name="朝日新聞1980-04-08">『朝日新聞』1980年4月8日西部朝刊第13版第二社会面14頁「A院長 「金もらえば帰す」 期待つないで電話」(朝日新聞西部本社)</ref>。これに慌てたSは、次のYからの電話を待ち、Aに直接ホテルへ電話させるなどの新たな作戦を話し合うはずだったが、Yが相談しないまま、フロントに出向いたため失敗した<ref name="朝日新聞1980-04-08"/>。 |
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11時30分ごろ、Aの妻は現金2,000万円を「ニュー田川」のフロントに預け、預り証を受け取って帰宅した{{Sfn|フクオカ犯罪史研究会|1993|p=246}}。この時、Yは変装するため、Sの妻のヘアピースを着用し<ref name="朝日新聞1980-04-17夕刊"/>、かつらを被った上で、Aの妻を尾行しており、彼女が「ニュー田川」のフロントに金を預ける様子を確認した<ref>『朝日新聞』1980年4月5日西部夕刊第4△版第二社会面10頁「Y、変装し夫人尾行 ホテルに不慣れ 金の受け取り失敗」(朝日新聞西部本社)</ref>上で、同日12時過ぎにフロントで「Aから預かっている荷物を受け取りに来た」と伝えたが、「貴重品なので、預り証がなければ渡せない」と断られた{{Sfn|フクオカ犯罪史研究会|1993|pp=246-247}}。この後、SはYからの電話を受け、新たな指示を出そうとしたが、Yは「もうだめだ。フロントに顔を見られてしまった」と言ったため<ref name="朝日新聞1980-04-08"/>、結局、2人は大金の強奪には失敗した{{Efn2|このように失敗に終わった後も、Aは助かりたい一念から、2人に対し「もう一度金がとれるよう自分の方から妻に連絡する」と申し出ていた{{Sfn|判例時報|1984|p=158}}。}}。 |
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=== 殺害 === |
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その後、SはYに対し、「ここでやめれば2、3年ですむがどうかするか」と問うたが、Yは計画通り殺害する旨の意見を述べ、結局は2人とも逡巡することなく、計画通りAの殺害を確認し合った{{Sfn|判例時報|1984|pp=156-158}}。 |
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Aは「助けてくれよ、助けてくれよ」と懇願したが、2人は「家の近くまで連れて行って帰してやるから言うとおりにするように」と言って騙し、用意していたガムテープで体を縛り付けると、口にもガムテープを貼って声を上げられないようにした{{Sfn|判例時報|1984|p=158}}。そして、手足をガムテープで巻かれ、自由を失った状態のAを寝袋に入れ<ref name="朝日新聞1980-04-08"/>、11月5日の13時前、Aを殺害した<ref name="朝日新聞1980-06-03 社会"/>。まず、Yが寝袋の上からAの頸部付近を両手で強く絞めたが、Aが足を動かしたため、いったん絞めるのをやめた{{Sfn|判例時報|1984|p=152}}。そこで、SがAの上に馬乗りになり、Aを動けなくした上で{{Sfn|判例時報|1984|p=152}}、YもAに馬乗りになった{{Sfn|判例時報|1984|p=158}}。そして、Yが再びAの首を強く絞めた{{Sfn|判例時報|1984|p=152}}ところ、既に失血で衰弱していたAはさらに衰弱し、まもなく死亡した<ref name="朝日新聞1982-03-17"/>。 |
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=== 死体解体 === |
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Aを殺害してから2時間後<ref name="朝日新聞1980-06-04冒頭陳述">『朝日新聞』1980年6月4日西部朝刊第13版第一社会面21頁「目と目で殺意確認 A事件冒頭陳述 生々しく全容再現」(朝日新聞西部本社)</ref>、2人は死体を鉄製ロッカー<ref group="注" name="ロッカー"/>に入れ<ref name="朝日新聞1980-04-01"/>、ロッカーをエレベーターで1階に下ろし<ref name="朝日新聞1980-04-08夕刊"/>、Sの所有する釣り客送迎用の[[マイクロバス]]<ref name="朝日新聞1980-04-01"/>([[トヨタ・ハイエース]]:[[商標の普通名称化|通称]][[マツダ・ボンゴ|ボンゴ]]{{Sfn|フクオカ犯罪史研究会|1993|p=252}})に積み込んだ。そして、2人は、[[京都郡]][[苅田町]]の[[モーテル]]「泉」<ref group="注" name="解体場所"/>に入ると<ref name="朝日新聞1980-04-01"/>、それぞれパンツ1枚になり、鉈と鋸を使い<ref name="朝日新聞1980-06-04冒頭陳述"/>、風呂場で死体を胴体<ref group="注" name="胴体"/>と両手、頭、両足の3つに解体すると、それぞれガーゼ、ビニール袋、ポリバケツ、毛布などに包んだ{{Sfn|フクオカ犯罪史研究会|1993|p=257}}。この時、Sは切り離した片脚を浴槽の水に入れ、沈むことを確認した<ref name="朝日新聞1980-06-04冒頭陳述"/>。また、ガーゼで死体を包んだ理由について、2人は「死顔やバラバラにした死体を見ているうちに怖くなり、ぐるぐる巻きにして見えないようにした」と供述している<ref name="朝日新聞1980-04-07"/>。 |
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死体の解体後、2人は「泉」から小倉方面へ戻る途中<ref name="朝日新聞1980-04-01"/>、「{{ウィキ座標|33|47|39.0|N|130|56|56.1|E||昭和池}}」(北九州市小倉南区[[朽網]])に<ref name="朝日新聞1980-04-02"/>、Aの装身具<ref name="朝日新聞1980-04-07">『朝日新聞』1980年4月7日西部朝刊第13版第二社会面14頁「A事件二人自供 死顔など怖かった ガーゼ巻いて隠す」(朝日新聞西部本社)</ref>(サングラス<ref name="朝日新聞1980-04-02"/>など)を、[[九州電力]]干拓地の池({{ウィキ座標|33|48|37.6|N|130|58|47.5|E||小倉南区朽網}}<!--干拓地の座標の出典<ref name="朝日新聞1980-04-02"/>-->){{Efn2|九電干拓地の池は、「昭和池」から約3 km離れている。}}に鉈や鋸などの凶器を投棄した<ref name="朝日新聞1980-04-02夕刊"/>。それらの作業の際、2人は指紋が付着しないよう、手袋を用いていたが、その手袋は干拓池の入口そばの草むらに捨てている<ref name="朝日新聞1980-04-07"/>。証拠品をそれぞれ分散して捨てた理由は、Sが「1か所にまとめて捨てると、発見された時に怪しまれる」と主張したためである<ref name="朝日新聞1980-04-07"/>。また、Yは装身具の中でも最も高価な腕時計(時価502万円相当)を捨てることについて「もったいない。後で換金できる」と反対していたが、Sは「足がつく」と言い、腕時計も捨てさせた<ref name="朝日新聞1980-04-07"/>。このほか、死体の運搬に用いたスチール製ロッカーや寝袋、衣類などは、[[北九州空港 (初代)|北九州空港]]付近のゴミ焼き場(小倉南区)に捨て、四国に出掛けた後で、Sの知人である市の清掃職員にそれらを処分するよう求めた。職員はその電話を受けた日の夜、寝袋と衣服を焼却したものの、ロッカーは何者かに持ち去られていた<ref>『朝日新聞』1980年4月8日西部朝刊第13版第二社会面14頁「ロッカーは消失」(朝日新聞西部本社)</ref>。 |
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=== 死体遺棄 === |
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しかし、この日は鹿児島の海が時化ており、当初使うはずだった瀬渡し船が出港できなかったため{{Sfn|和田昭三2|1980|p=75}}、2人は死体をマイクロバスに積み込んだ上で、同日夜に出港する[[北九州港|小倉港]]発[[松山港]]行きのフェリー「[[とさ (フェリー)|はやとも丸]]」{{Efn2|Sは事件以前から、自身が主催する磯釣り愛好会「徳力フィッシングクラブ」のメンバーを案内して四国(宿毛市など)に何度も行ったことがあり、「はやとも丸」もマイクロバスで利用したことがあったものの、Yを釣りに誘ったことはなかった<ref name="朝日新聞1980-03-15"/>。当時、小倉 - 松山間の航路は[[関西汽船]]が運航していた{{Sfn|フクオカ犯罪史研究会|1993|p=252}}が、後に関西汽船は[[フェリーさんふらわあ]]と合併。2013年4月1日以降は[[松山・小倉フェリー]]が運航を行っている<ref>{{Cite press release|title=松山~小倉航路の新規許可について|publisher=[[国土交通省]][[四国運輸局]]|date=2013-03-22|url=https://wwwtb.mlit.go.jp/shikoku/newsrelease/2012/2013-0322-1113.pdf|format=PDF|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20131029200635/https://wwwtb.mlit.go.jp/shikoku/newsrelease/2012/2013-0322-1113.pdf|archivedate=2013-10-29}}</ref>。}}<ref name="朝日新聞1980-04-01"/>に偽名で乗船した<ref name="朝日新聞1980-02-29"/>。同日20時30分 - 21時ごろ、Sはマイクロバスで砂津港(小倉港)に到着したが、マイクロバスを乗せる船底のトラック用甲板の予約が埋まっていた{{Efn2|「はやとも丸」は通常は予約制だが、2人は当時、予約していなかった<ref name="朝日新聞1980-03-15"/>。}}ため、誘導の係員からキャンセル待ちを指示された<ref name="朝日新聞1980-03-15"/>。しかし、Sは「どうしても乗りたい」と言い、係員に千円札を何枚も渡そうとし、いったんは断られたものの、最終的に空き場所ができて乗船できることになるとすぐに乗船券を買いに行き、その係員へ密かに千円札3枚(3,000円)を渡したため、当時のSの様子について係員は、「よっぽど乗船できて嬉しかったのだろう」と述べている<ref name="朝日新聞1980-03-15"/>。結局、乗船できたSは、左舷後部の駐車場にマイクロバスを駐めたが、その近くにあった丸窓(直径約30 [[センチメートル|cm]])が、死体遺棄の際に利用された<ref name="朝日新聞1980-04-09 2"/>。同船は航行中、原則として駐車甲板への出入りが禁止されていたが、同夜は甲板につながるドアが施錠されておらず、甲板に出られる状態になっていた<ref name="朝日新聞1980-03-02"/>。乗船中、2人は同室(マイクロバスを駐車した甲板の真上にあった2等客室)の乗客から、夜通しひそひそ話をし、よく起き上がっては階下に降りていた様子を目撃されている<ref name="数々のナゾ"/>。 |
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2人は乗船中の深夜1時ごろ{{Sfn|フクオカ犯罪史研究会|1993|p=256}}、船倉のトラック駐車甲板から、死体を海に捨てた<ref name="朝日新聞1980-04-01">『朝日新聞』1980年4月1日西部夕刊第3△版第一総合面1頁「A院長殺し全面自供 Y「店でSが刺した」 モテル(苅田)で切断 Sも一部自供 金目当て誘い出す」(朝日新聞西部本社)</ref>。2人はまず、駐車場所近くの丸窓から頭部と足を捨てると、Yが胴体を後部デッキまで運び、2人でロープ{{Efn2|name="ロープ"|死体を包んだ毛布を縛り付けてあったナイロン製ロープ(直径5 mm)は、[[愛知県]][[蒲郡市]]の業者が生産した釣具用のロープ(PPマルチロープ)で、北九州にも大量に流通していた<ref name="数々のナゾ"/>。Sは事件直前の10月19日、このロープと同じものを[[柳川市]]内の業者から10本仕入れていたが{{Sfn|和田昭三2|1980|p=71}}、そのロープは事件後には店からなくなっていた<ref name="数々のナゾ"/>。}}に<ref group="注" name="胴体"/>ブロック<ref name="朝日新聞1980-04-09 2"/>(コンクリートブロックのおもり<ref name="朝日新聞1980-06-04冒頭陳述"/>)を結びつけ、海に投げ込んだ<ref name="朝日新聞1980-04-09 2"/>。一方、ホテルで沈むことを確認した足にはおもりを付けなかった<ref name="朝日新聞1980-06-04冒頭陳述"/>。後にAの頭蓋骨や右脚が引き揚げられた地点は、大分県[[西国東郡]][[香々地町]](現:[[豊後高田市]])の[[長崎鼻 (大分県)|長崎鼻]]北方約10 [[キロメートル|km]]沖({{ウィキ座標|33|46|27.5|N|131|30|54.4|E||おおよその位置}})<ref name="朝日新聞1980-07-31"/><ref name="頭骨発見"/>だが、その地点はフェリーなど、大型船舶が航行する本船[[航路]]上である<ref name="頭骨発見"/>。 |
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2人は奪った95万円のうち、四国への旅費として14万5,000円を遣い、さらに四国へ渡った後で、2人で20万円ずつを山分けした<ref name="朝日新聞1980-06-04冒頭陳述"/>。残り約40万円はSが保管することになったが、Sはその保管分も含めて全て飲みに遣ってしまった<ref name="朝日新聞1980-06-04冒頭陳述"/>。 |
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=== 犯行後 === |
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11月6日5時、船が松山観光港に到着すると、2人は国道で約100 kmあまり南下し、[[愛媛県]][[南宇和郡]][[内海村]](現:[[愛南町]])のホテル「シーパレス宇和海」で休憩した{{Efn2|このホテルの従業員は、当時の2人の様子について「夕方出発するまで、一睡もしていなかったように寝込んでいた」と証言している<ref name="朝日新聞1980-03-02"/>。}}後、同日は[[高知県]][[宿毛市]]のホテルに投宿<ref name="朝日新聞1980-03-02"/>。その後、Yの髭が伸びるまで、四国で遊ぶことにし{{Sfn|和田昭三2|1980|p=75}}、翌日(11月7日)には[[松山市]]に引き返して[[道後温泉]]で2泊し<ref name="朝日新聞1980-03-02"/>、11月9日夜に砂津港へ帰った<ref name="朝日新聞1980-04-12"/>。2人はこの5日間の旅行について<ref name="朝日新聞1980-03-15"/>、取り調べなどに対し「気楽な釣り旅行。宿毛から釣り船に乗るつもりだった」と言っていたが<ref name="朝日新聞1980-03-02"/>、この間に行った釣りはわずか1回のみで<ref name="朝日新聞1980-03-15">『朝日新聞』1980年3月15日西部朝刊第13版第二社会面18頁「A事件 四国旅行は「遺体捨て」 捜査本部が断定」(朝日新聞西部本社)</ref>、宿毛では釣り船を探した形跡がなかったばかりか、外出すらほとんどしていなかった<ref name="朝日新聞1980-03-02"/>。また、Sと同業者であった小倉北区の釣具店主は、『朝日新聞』の取材に対し、「Sは『砂津(小倉港)から四国行きのフェリーに乗って釣り旅行に行った』と言っていたが、(北九州から)四国に釣り旅行に行く場合、[[佐賀関港|佐賀関]]から[[宇和島港|宇和島]]行きのフェリーに乗船するのが業界の常識だから、それだけで不審に思った」と証言している<ref>「朝日新聞」1980年4月2日西部朝刊北九州版地域面12頁「「やっぱり」と市民 A事件の全面自供 「業界のツラ汚し」釣具店主 「閉口しましたよ」ソックリさん」(朝日新聞西部本社)</ref>。 |
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2人は犯行後、数々の隠蔽工作を図ったほか、捜査機関から嫌疑を掛けられると、互いに相談して自白しないことを誓い合った([[#2人の動向|後述]]){{Sfn|井上薫|1999|p=98}}。四国旅行の間、2人は(船内のものを含めた)公衆電話を使い<ref name="朝日新聞1980-03-02"/>、計20回近くにわたり<ref name="数々のナゾ"/>、北九州局番の電話(「ピラニア」や同店のホステスの家、自宅などへの電話)を掛けていた<ref name="朝日新聞1980-03-02"/>。特に5日夜には、Yが内装業者に電話を掛け、翌6日に「ピラニア」店内の絨毯のうち、トイレ付近の絨毯(30 cm四方、2箇所が血で汚れていた)<ref group="注" name="絨毯"/>を張り替えさせている{{Sfn|和田昭三2|1980|p=71}}。その後、Yは同月9日、「(張り替えた箇所が)目立つようなら、全体を取り替えてくれ」と依頼し、トイレ前付近の絨毯を総取替させたが、同月22日にも、「色違いが目立つ」といって店内の絨毯を総取替させた上で、店の入口部分の一部(業者によって警察に提出された)以外は、「焼き捨てる」と言って受け取っていた{{Efn2|「Yが業者に対し、絨毯を焼却処分するよう依頼した」とする報道もある<ref name="数々のナゾ"/>。}}{{Sfn|和田昭三2|1980|p=71}}。また、Yは業者に対し、「最初に張り替えた日を1日早めて、5日ということにしておいてほしい」とアリバイ工作を頼んでいた<ref name="数々のナゾ">『朝日新聞』1980年4月1日西部夕刊第3△版三面3頁「数々のナゾこう解明」(朝日新聞西部本社)</ref>。 |
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また、捜査が難航していると見るや{{Sfn|井上薫|1999|p=98}}、1980年1月下旬には<ref name="朝日新聞1980-06-04冒頭陳述"/>、「Aの頭部(当時未発見)の存在場所を教える」と称し、Aの遺族から金員を巻き上げることを相談したほか、さらに多額の現金強奪も計画した{{Sfn|井上薫|1999|p=98}}。これは、Aから思うように現金を得られなかったためで、別の病院長も標的の候補に上がったが、最終的に2人は<ref name="朝日新聞1980-04-09"/>、[[日本銀行]]北九州支店に出入りしていた[[現金輸送車]]を襲撃することに決めた<ref name="朝日新聞1980-04-15 2">『朝日新聞』1980年4月15日西部朝刊第13版第二社会面14頁「歯止めなく、分不相応 S Y 新旧世代の欠点もつ」(朝日新聞西部本社)</ref>。その上で、Aから奪った現金の一部を準備資金(犯行道具の購入や下見費用など)にして、実際に現金輸送車のコースの下見にも出掛けており、Aの遺体が発見されて以降も度々謀議をしていたが、捜査の手が身辺に及び始めたことを知り、断念した<ref name="朝日新聞1980-04-09">『朝日新聞』1980年4月9日西部朝刊第13版第一社会面15頁「S Y 第二の凶行を計画 現金輸送車にマト 院長から奪った金元手に」(朝日新聞西部本社)</ref>。それ以外にも、[[九州労災病院]](小倉南区葛原)の給料を奪うことを考え、Yが患者になりすまして同病院を偵察した<ref name="朝日新聞1980-06-04冒頭陳述"/>。 |
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== 捜査 == |
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=== Aの妻からの届け出 === |
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一方、Aの妻(当時57歳)は夫が帰宅しないことを心配し、同年11月7日夕方に弁護士を同伴して{{Sfn|フクオカ犯罪史研究会|1993|p=246}}、[[小倉北警察署]]へ家出人保護願を出した<ref name="朝日新聞1980-04-02夕刊2"/>。その届出を受け、[[福岡県警察]]と小倉北署はAが事件に巻き込まれた可能性も考え、家族などから事情聴取するなど、捜査を開始した<ref>『朝日新聞』1979年11月10日西部朝刊第13版第一社会面23頁「北九州 病院長が不明五日 「2000万円必要」と電話」(朝日新聞西部本社)</ref>。しかし、同月7日 - 10日にかけて聞き込みを行ったところ、「Aが夜の街を歩いていた」「[[小倉駅]]の[[山陽新幹線|新幹線]]ホームで見た」などといった目撃証言が相次いだ<ref name="朝日新聞1980-04-02夕刊2">『朝日新聞』1980年4月2日西部夕刊第3△版第二社会面10頁「再録 A病院長事件 1 ひん死の電話 大惨劇への序曲」(朝日新聞西部本社)</ref>。これらの証言は日付の記憶違いや、Aとよく似た人物を見間違えたことによるものが大半だったが<ref name="数々のナゾ"/>、捜査陣はそれらに振り回される結果となった<ref>『朝日新聞』1980年4月4日西部夕刊第3△版第二社会面10頁「再録 A病院長事件 3 証言ラッシュ 「七日、街で見た」」(朝日新聞西部本社)</ref>。 |
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11月12日(死体発見前)、Aの妻に対し、「院長の代理のY(加害者Yと同姓)」を名乗る男から「[[博多区|博多]]の[[IHG・ANA・ホテルズグループジャパン|全日空ホテル]]{{Efn2|現:ANAクラウンプラザホテル福岡。}}に、2,000万円と糖尿病の薬を持ってきてほしい。警察に言うと、これが最後になるぞ」など、金品を要求する電話が複数回掛かった<ref name="朝日新聞1980-04-02二社"/>。この電話を掛けてきたのは、全国を股にかけた「偽刑事事件」の犯人として、同年末に[[築地警察署]]([[警視庁]])に逮捕された男{{Efn2|この男は刑事や検察事務官などを詐称し、約5,000万円を騙し取ったとして逮捕された<ref name="朝日新聞1980-04-02二社"/>。}}であり、本事件とは無関係だった<ref name="朝日新聞1980-04-02二社"/>。彼はAの失踪事件を知り、便乗してAの家族から金品を騙し取ろうとしており、「Y」の名前も出鱈目に名乗ったものでしかなかったが、応対したAの妻は、その声が自身や夫と面識のあったYとは違うことを感じ、事情聴取に来た生嶋甚六警部補([[#全面自供|後にYから全面自供を引き出した]])<ref group="注" name="生嶋"/>にこのことを相談していた<ref name="朝日新聞1980-04-02二社">『朝日新聞』1980年4月2日西部朝刊第13版第二社会面14頁「「ニセ刑事」が解決にひと役 思いつきで「Y」名乗る」(朝日新聞西部本社)</ref>。 |
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=== 死体発見 === |
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{{Maplink2|frame=yes|type=point|zoom=13|frame-width=300|coord={{coord|33|38|28.0|N|131|41|23.3|E}}|text=死体発見現場付近の地図:死体発見現場に近い「{{ウィキ座標|33|38|28.0|N|131|41|23.3|E|region:JP-44|name=|来浦漁港}}」<ref group="注" name="来浦漁港"/>の位置<ref name="読売新聞1979-11-17"/>|marker-color=800000}} |
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Aが失踪してから11日後<ref name="朝日新聞1979-11-17"/>(捜査開始から5日目)の11月15日15時ごろ、大分県[[国東郡]][[国東町]](現:[[国東市]])の「来浦海岸」沖約600 [[メートル|m]]のノリ養殖場{{Efn2|name="来浦漁港"|『読売新聞』 (1979) は、死体発見現場を「{{ウィキ座標|33|38|28.0|N|131|41|23.3|E||来浦漁港}}の沖合約600 mのノリ漁場」と報じている<ref name="読売新聞1979-11-17"/>。}}で、作業中の漁師2人が不審な漂流物を発見{{Sfn|フクオカ犯罪史研究会|1993|p=247}}。船で海岸まで曳航し、針金・ナイロンロープ<ref group="注" name="ロープ"/>を解いて中身を調べたところ、毛布などに包まれた頭部と両足のない人間の死体(胴体){{Efn2|name="胴体"|SとYは、胴体部分を2枚重ねのビニール袋(縦1 m×横90 cm)に入れて口を結んだ後、再び2枚重ねのビニール袋に入れ、その上から毛布でくるんでいた<ref name="朝日新聞1980-04-07"/>。}}が出てきた{{Sfn|フクオカ犯罪史研究会|1993|p=247}}ため、同日16時50分ごろに[[国東警察署]]へ届け出た<ref name="読売新聞1979-11-17">『読売新聞』1979年11月17日東京朝刊第14版第一社会面23頁「【北九州】失跡院長、首無し死体で発見 大分の海岸、毛布包み」(読売新聞東京本社) - 『読売新聞』縮刷版 1979年(昭和54年)11月号631頁</ref>。国東署と[[大分県警察]]本部[[鑑識]]課で死体を調べたところ{{Sfn|フクオカ犯罪史研究会|1993|p=247}}、翌16日夕方に[[指紋]]照合の結果、身元はAと確認された<ref name="朝日新聞1979-11-17">『朝日新聞』1979年11月17日西部朝刊第13版第一総合面1頁「失跡病院長、バラバラ死体 脅迫、監禁し?殺害 国東沖の漂着死体 暴力団の犯行か 自宅を出て12日ぶり確認」(朝日新聞西部本社)</ref>。これを受け、福岡県警は本部([[刑事部|捜査一課]])から捜査員を出動させたほか{{Sfn|フクオカ犯罪史研究会|1993|p=247}}、小倉北署長を本部長とする100名の特別[[捜査本部]]{{Sfn|和田昭三|1980|p=87}}(「小倉北区の病院長殺人ならびに死体遺棄事件捜査本部」)を小倉北署に設置{{Sfn|北九州市史|1983|p=951}}。大分県警も、国東署に「来浦海岸漂着死体殺人事件捜査本部」を設置した{{Sfn|フクオカ犯罪史研究会|1993|p=247}}。翌17日、事件の重要性・広域性に着目した[[九州管区警察局]]は、「広域重要事件捜査要綱」に基づき、本件を九州管区認定1号事件に指定、両県警による合同捜査が開始された{{Sfn|和田昭三|1980|p=87}}。 |
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Aが生前、派手な女性関係を有して豪遊していたことから、捜査本部はAと愛人関係にあった女性たちや、暴力団関係者が犯行に関与していた可能性を疑ったが、捜査線上に上がった人物はいずれも無関係だった{{Sfn|フクオカ犯罪史研究会|1993|pp=248-249}}。その間、事件は世間からの注目を集め、週刊誌やテレビのワイドショーでも盛んに取り上げられたが、ある主婦を「Aの愛人」扱いした[[女性週刊誌]]や、[[報道被害|事件後に固く口を閉ざした家族に疑惑の目を向けるような番組もあった]]<ref name="朝日新聞1980-04-08 夕刊2"/>。 |
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また、死体の丹念な処理具合から、計画的な動機的犯行であることが示唆されたが、物証の少なさから、捜査本部はその動機そのものを絞り込めず、「暴力団絡み」という可能性が示唆されたことも、夜の街特有の口の堅さを誘い、捜査の壁となった<ref name="朝日新聞1980-02-29二社">『朝日新聞』1980年2月29日西部夕刊第3△版第二社会面10頁「難航117日、勝負に出た警察 心証「クロ」乏しい物証 「本件」の詰め、なお難関」「事件の経過」(朝日新聞西部本社)</ref>。県警や報道機関には事件を推理した電話として、「犯人は元看護婦の女性だ」「(Aの心臓に血液が残っていなかったことから)医療関係者が犯人だ」という憶測の情報も寄せられたが、捜査員たちは事件の性質から、小倉北区の夜の街で聞き込み捜査を続け、身銭を切って高級クラブを訪れた捜査員もいたほどだった<ref name="朝日新聞1980-04-08 夕刊2">『朝日新聞』1980年4月8日西部夕刊第3△版第二社会面10頁「再録 A病院長事件 6 反響 素人推理も続々」(朝日新聞西部本社)</ref>。それ以外にも、福岡県警の捜査本部は、失踪直後のAの足取りを特定するため、[[北九州地方|北九州]]・[[京築]]地区のタクシー四千数百台(運転手9,000人余り)をはじめ、北九州や福岡の芸能界に通じた人物まで、広範な聞き込みを行った{{Sfn|北九州市史|1983|p=951}}。 |
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=== 2人が捜査線上に浮上 === |
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すると、Aが失踪前、複数の知人に対し「4日に小柳ルミ子と会う」などと話していたことが判明したため、捜査本部開設から1週間後(11月23日ごろ)には、Aに対し、小柳の話を持ち込んだ人物が失踪の鍵を握っていることが浮き彫りとなった{{Sfn|和田昭三|1980|p=87}}。また、事件の遺留品は、大分県警が採取・保管した死体梱包資材しかなかったが、大分県警は遺留品の製造元・販売ルートを、福岡県警は北九州市内の卸元・小売店の解明にそれぞれ重点を置き、それぞれ捜査を進めた{{Sfn|和田昭三|1980|p=88}}。 |
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==== Sが浮上 ==== |
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福岡県警捜査一課刑事調査官付の灰塚照明警部は<ref name="朝日新聞1980-04-05夕刊"/>、犯人特定の資料として、「S」の洗濯ネームが入った黄土色の毛布に注目{{Sfn|和田昭三|1980|p=88}}。クリーニング店の記号(丸[[囲み文字]]の「37」)から<ref name="朝日新聞1980-04-05夕刊">『朝日新聞』1980年4月5日西部夕刊第3△版第二社会面10頁「再録 A病院長事件 4 「ネームを洗え」 (37)308」(朝日新聞西部本社)</ref>、小倉南区徳力の「Oクリーニング店」{{Efn2|なお、この「Oクリーニング店」に入居していた建物の2階には、Aの愛人が[[北九州大学]]在学中に一時下宿していた{{Sfn|和田昭三|1980|p=88}}。}}が浮上した{{Sfn|和田昭三|1980|p=88}}。また、死体の梱包に用いられていたロープ、タオル、ガーゼ、針金などは、いずれも小倉北区内で入手可能なものであることが判明したため、日ごろのAの生活行動区域から考えても、犯人が同一地域に居住している可能性が強まった{{Sfn|和田昭三|1980|p=89}}。 |
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そのような状況の中、11月22日には、Aをよく知っていたクラブのホステスが捜査員に対し、「Sという男がおかしい。8月ごろ、Sが『どうしたらAと会えるか』『診断書を書いてもらいたい』と言って執拗に探していた{{Efn2|Sはそのホステスに対し、「自分は昼間、病院に行けないので、ここで(Aに書いてもらいたい)」と言っていたが、ホステスは「診断書なら病院の窓口に行けばすぐ書いてもらえるのに」と不審に思っていた{{Sfn|フクオカ犯罪史研究会|1993|p=251}}。}}」と証言した{{Sfn|和田昭三|1980|p=90}}。Sは当時、釣具店を経営していたが、かつては徳力の「Oクリーニング店」付近に住んでいたこと{{Sfn|和田昭三|1980|p=90}}、そして遺留品のロープ<ref group="注" name="ロープ"/>が釣り用で、Sの店にも仕入れられていたことが判明{{Sfn|フクオカ犯罪史研究会|1993|p=252}}。また、Sには「A病院」への入院歴があったものの{{Sfn|和田昭三|1980|p=88}}、当時は既に診断書を書いてもらっており([[#事件前の動向|先述]])、Aへの用事はないはずにもかかわらず、診断書を口実にAの動向を探っていたことになるため、Sへの嫌疑が深まった{{Sfn|フクオカ犯罪史研究会|1993|p=251}}。さらに、死体を梱包していた毛布と似た色の毛布が、事件から約1か月前の時点で、Sの所有するマイクロバス(釣り客の送迎用)の車内に積まれていた事実や<ref name="朝日新聞1980-03-03">『朝日新聞』1980年3月3日西部朝刊第13版第一社会面19頁「「A院長事件」別件の釣具店主 車に酷似の毛布 知人が「目撃」証言 失跡の一ヵ月前 裏付けに全力」(朝日新聞西部本社)</ref>、事件後にはその毛布がなくなっており、マイクロバスには別の毛布(前の毛布より色がやや薄いもの)が新たに備え付けられていた事実も判明した<ref name="朝日新聞1980-03-08夕刊"/>。 |
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==== Yが浮上 ==== |
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一方、Aの妻からも彼の交友関係を聞き出し、浮上した人物をくまなく調べていったところ、Aが生前頻繁に通っていたスナック「ピラニア」の経営者だったYの存在が浮上{{Sfn|フクオカ犯罪史研究会|1993|pp=251-252}}。以下のような不審点が判明した。 |
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* その「ピラニア」にSが頻繁に出入りしており、2人とも事件当時のアリバイがない{{Efn2|Yの愛人(当時22歳)は捜査員からの事情聴取に対し、11月4日(Aが失踪した日)の2人のアリバイ(自分も含めた3人で夜明かし飲んでいた旨)を証言したが、そのスナックは日曜定休で、11月4日(日曜日)は休みだった{{Sfn|フクオカ犯罪史研究会|1993|p=252}}。}}{{Sfn|フクオカ犯罪史研究会|1993|p=252}}。 |
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* 事件当日(11月4日)、Y宅では長男(当時7歳)の誕生日パーティーが開かれたにもかかわらず、子煩悩な性格とされるYは同日から「釣りに行く」と称して先に家を出<ref name="朝日新聞1980-03-12"/>、パーティーに出なかった<ref name="朝日新聞1980-03-15夕刊"/>。 |
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* 11月5日22時に小倉港を出港した松山港行き「はやとも丸」(途中で死体発見現場付近の[[国東半島]]沖を通過する)の乗船車両名簿に、Sの所有するハイエース(マイクロバス)のナンバーが記載されていた{{Sfn|フクオカ犯罪史研究会|1993|p=252}}一方、2人は行き・帰りとも偽名で同船に乗船していた{{Sfn|和田昭三2|1980|pp=69-70}}。 |
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* Aの失踪後、「ピラニア」が室内装飾業者へ依頼し、3回にわたって絨毯を張り替えさせていた点{{Efn2|name="絨毯"|Yは当初、絨毯を3度にわたって張り替えさせた理由について、知人に対し「店に泥棒が入ったので刃物で刺した時、血が付いたので変えた」と話していたが、後に「客が汚物を吐いたため」と弁解した<ref name="朝日新聞1980-02-29"/>。その代金には、Aから奪った約95万円のうち、山分けした約20万円を費やしていた<ref name="朝日新聞1980-06-04冒頭陳述"/>。}}{{Sfn|フクオカ犯罪史研究会|1993|p=252}}。その絨毯はまだ取り替える必要性がなかったにもかかわらず、Yは「はやとも丸」の船中や四国から「ピラニア」やホステス宅などに頻繁に電話を掛け、急いで交換させていた<ref name="朝日新聞1980-02-29"/>。Yは絨毯を張り替えた理由について、取り調べで「4日深夜、店で飼っていたピラニア(魚)の餌やりに行った際、泥棒と格闘になったので刺し、その血が床についた。その晩は店に泊まり、Sと翌5日夕方、四国旅行に出掛けるまで店にいた」という趣旨の供述をした<ref name="朝日新聞1980-03-15夕刊"/>が、店の扉は二重ロックで<ref name="朝日新聞1980-03-12"/>、店の近くから救急車で病院に搬送された人物はいなかった<ref name="朝日新聞1980-03-15夕刊">『朝日新聞』1980年3月15日西部夕刊第3△版第一社会面11頁「A事件 自供のウソ追及 “Y崩し”一両日中か」(朝日新聞西部本社)</ref>。 |
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生嶋<ref group="注" name="生嶋"/>は事件発生後、頻繁に関係現場に足を運び、自ら聞き込みを積極的に行うなどして情報を集めていた<ref name="朝日新聞1980-04-01 二社"/>。彼は、死体発見前にAの妻に脅迫電話を掛けてきた男の一件で「Y」の名前を聞かされていた([[#Aの妻からの届け出|前述]])ことから<ref name="朝日新聞1980-04-09 夕刊"/>、11月29日夕方{{Sfn|和田昭三|1980|p=91}}、「念のため」とY宅へ事情聴取に出向いた<ref name="朝日新聞1980-04-09 夕刊"/>。当時、捜査陣はYとAが知人関係にあることを把握していたが、Yはこの時、狼狽しながら、Aとの関係について「『ピラニア』開店時に一度客として来たぐらいで、近ごろ会ったことはない」と嘘を言っていた{{Sfn|和田昭三|1980|p=91}}。また、捜査員から尋ねられてもいないのに、事件当時の行動について、「5日から9日まで、釣り友達のSと一緒に、四国へ釣りに行っていたが、魚は釣れず、道後温泉に行った」と話したが、生嶋はそのYの態度に不審を抱いた{{Sfn|和田昭三|1980|p=91}}。 |
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==== 四国での聞き込み ==== |
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生嶋以下、捜査員4人は11月30日夜、「はやとも丸」に乗船し{{Sfn|和田昭三2|1980|p=69}}、事件当時の2人の足取りを探るため、12月3日まで四国で聞き込み捜査を行った<ref name="朝日新聞1980-04-12"/>。この捜査には、小倉北署のベテラン刑事だった国武俊伸巡査部長も同行していた<ref name="朝日新聞1980-04-12"/>。2人が途中で休憩した「シーパレス宇和海」で、一行は支配人から<ref name="朝日新聞1980-04-12"/>、「2人は『休憩させてくれ』と言っていたが、相当疲れていたようで、部屋に案内したら勝手に布団を敷いて寝ていた。また、途中で何度も北九州に電話し、『金の工面がつく』『心配せんでいい』など、怪しい会話をしていた」という証言を得た{{Sfn|和田昭三2|1980|p=70}}。その後の聞き込みでも、2人は四国旅行の間、頻繁に北九州への電話を入れていたこと{{Sfn|和田昭三2|1980|p=70}}、ほとんど釣りをしていなかったこと<ref name="朝日新聞1980-03-15"/>も、それぞれ判明した。 |
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また、国武は四国に向かう途中、船が[[姫島 (大分県)|姫島]]沖を通過する際、船内がほとんど暗くなっていたことから、「これなら、人目につかずに死体を捨てられる」という心証を抱いた<ref name="朝日新聞1980-04-12"/>。帰路、捜査員が「はやとも丸」の船長に対し、11月5日夜に「はやとも丸」(松山行き)から死体を投棄した場合の漂着地点について尋ねたところ、船長は当時の[[航海日誌]](海流・気象状況を4時間おきに記録)から、「『はやとも丸』は1時15分ごろ、姫島北方4.3 kmの海上を航行する。もし1時前後に死体を捨てると、当日は北西の風が、7日 - 10日には東の風が吹いていたので、国東半島東岸(死体発見現場)に漂着するだろう」という仮説を述べた{{Sfn|和田昭三2|1980|p=70}}。 |
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=== 2人の動向 === |
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このように、SやYの潔白を証明する証拠は出てこなかった一方、2人への疑念を強める証拠が次々と出ていたことから、事件から約1か月が経過した12月15日に開かれた特捜本部幹部会は「(犯人は)SとYに間違いない」と確認した{{Efn2|ただし、この事実はまだ第一線の捜査員には伝えられていなかった<ref name="朝日新聞1980-04-09 夕刊"/>。}}<ref name="朝日新聞1980-04-09 夕刊">『朝日新聞』1980年4月9日西部夕刊第3△版第二社会面8頁「再録 A病院長事件 7 “クロ”をつぶせ 脇役から主役へ」(朝日新聞西部本社)</ref>。同月21日には、福岡・大分両県警の捜査本部が福岡市内で初の合同捜査会議を開き、情報交換の一掃の緊密化を確認した<ref name="朝日新聞1980-02-29二社"/>。 |
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一方、洗濯ネームの「S」という苗字から、2人の存在が浮上して以降、報道陣が「ピラニア」を訪れ、Yから四国旅行の目的などを聞き出そうとするようになったが<ref name="消されかけたY"/>、2人は自分たちに嫌疑が掛かっていることを知り、事件発生から[[別件逮捕]]までの約100日間にわたり、互いに口裏合わせをしたほか、知人たちとのアリバイ工作を図った<ref name="朝日新聞1980-04-01 夕刊3頁">『朝日新聞』1980年4月1日西部夕刊第3△版三面3頁「A事件 実った“地をはう捜査” 記者座談会 物証の乏しさ克服 からむ「人権」、苦闘の一ヵ月 市民からの情報も支え」(朝日新聞西部本社)</ref>。Sは逮捕前、[[朝日新聞西部本社]]の記者に対し、「11月5日は自分の店に1日中いた」と話し<ref name="朝日新聞1980-03-01"/>、12月ごろには、自宅に来た記者に対し、約3時間にわたって潔白を主張し、同席した妻もそれに相槌を入れていた<ref name="朝日新聞1980-04-10">『朝日新聞』1980年4月10日西部夕刊第3△版第二社会面8頁「再録 A病院長事件 8 雄弁 疑惑 克明に反論」(朝日新聞西部本社)</ref>。しかし、1980年に入ったころには<ref name="朝日新聞1980-04-10"/>、Sの主張する「アリバイ」とは異なり、11月5日の12時50分ごろには「ホテルニュー田川」<ref group="注" name="ホテルニュー田川"/>と「ピラニア」の中間地点の駐車場付近に、Sの車が駐車してあったことや、その約3時間後には「ピラニア」の前にその車が回されていた可能性があることなど、不審点が判明していた<ref name="朝日新聞1980-03-01">『朝日新聞』1980年3月1日西部夕刊第3△版第一社会面9頁「A事件 「在宅」の五日、外に車 A(Sのこと)のアリバイに不審」(朝日新聞西部本社)</ref>。 |
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同年11月末、話し好きなYが報道陣に対し、多くを話してしまったことを知ったSは、電話でYに対し「いらんことをしゃべるな」と注意した上で、「気分がむしゃくしゃするから、飛行場(北九州空港)に[[カラス]]撃ちに行こう」と提案した<ref name="消されかけたY"/>。しかし、「1人で行ったら、Sに殺されるのではないか」と考えたYが、翌日に女友達を連れてやってきたため、Sは激怒し、カラスを撃てなかった八つ当たりとして、Yに散弾銃の銃口を向け「ぶっ殺してやる」と凄んでいた<ref name="消されかけたY">『朝日新聞』1980年4月2日西部朝刊第13版第二社会面14頁「消されかけたY Sが猟に誘う 「話し過ぎ」と銃口」(朝日新聞西部本社)</ref>。また、Yが取材を受けていた際に突然Sが報道陣の前に現れ、「俺が話すから、これからYに近づくな」と抗議してきたこともあった<ref name="消されかけたY"/>。一方、2人は報道陣に対し、「(Aが)殺されたのは5日でなく7日」と言ったり、知人たちに「5日・6日生存説」を吹聴したりしていた<ref name="数々のナゾ"/>。また、Yは知人らに対し、極度に憔悴しながら「警察に逮捕される」と話していた一方、携帯無線機で警察無線を常時傍受し、常にSと行動をともにするようになり、Sもゴミ出し日(12月13日)に自宅から出したゴミを(毛髪を入手しようとした)捜査員が収集したことを把握し、次のゴミ出し日からゴミを出さなくなった{{Sfn|和田昭三2|1980|p=71}}。 |
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捜査本部内部では当初、「早く2人を逮捕すべきだ」という声も上がっていたが、当初は決め手になる物証を欠いていたため、慎重に調べを進めて容疑を固めようとしていた<ref name="朝日新聞1980-04-14"/>。しかし、1980年に入り、S・Yの両者と報道関係者とのやり取りが活発化し、2人が証拠隠滅やアリバイ工作をする危険性が強まったため{{Sfn|和田昭三2|1980|p=72}}、2月には「これ以上の(逮捕の)延期は、一線の士気に関わる」「早く逮捕しなければ、2人のガードは固まるばかりだ」という声が上がり始めた<ref name="朝日新聞1980-04-14"/>。一方、2人が10月18日、新北九州信金曽根支店への恐喝未遂事件を起こしていたことが判明{{Sfn|フクオカ犯罪史研究会|1993|pp=252-253}}。2月16日、石村義富捜査本部長(小倉北署長)が県警本部に出向き、本部刑事部長との協議を行った結果、別件の恐喝未遂容疑と、本件の死体遺棄容疑の両方の資料が揃い次第、2人を逮捕することが決まった<ref name="朝日新聞1980-04-14">『朝日新聞』1980年4月14日西部夕刊第3△版第一社会面7頁「再録 A病院長事件 11 Xデー 粘りで崩した壁」(朝日新聞西部本社)</ref>。 |
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一方、Yは逮捕の2日前(2月27日)の早朝、[[自殺]]するつもりで[[若戸大橋]]の上をうろついていたが、寒い中で2時間近くも橋上をうろついていたことを不審に思った[[日本道路公団]]若戸大橋管理事務所の職員から声を掛けられたため、自殺を断念して帰宅した。自殺を考えた理由について、Yは取り調べに対し、「店に出ても面白くないし、客も疑いの目を向けてくる。Sからも『あまりしゃべるな』と口うるさく言われるので死のうと思った」と述べている<ref>『朝日新聞』1980年4月14日西部夕刊第3△版第一社会面7頁「Y 逮捕直前に自殺企図」(朝日新聞西部本社)</ref>。 |
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=== 別件逮捕 === |
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福岡県警の捜査本部(捜査一課および小倉北署)は1980年2月29日、本事件の重要参考人として、S・Yの2人を、[[#恐喝未遂事件|新北九州信金曽根支店に対する恐喝未遂容疑]]の[[被疑者]]として別件逮捕した{{Efn2|Sは同日7時20分に恐喝未遂容疑で逮捕され、Yも同日8時20分に小倉北署に出頭して逮捕された<ref>『朝日新聞』1980年4月1日西部夕刊第3△版三面3頁「事件の経過 強制捜査以後」(朝日新聞西部本社)</ref>。}}<ref name="朝日新聞1980-02-29">『朝日新聞』1980年2月29日西部夕刊第3△版第一総合面1頁「A病院長殺し 重要参考人2人 別件逮捕 毛布に同じネーム 事件直後 偽名で四国旅行 2人とも否定」(朝日新聞西部本社)</ref>。当初は新聞の予告記事を警戒し、同日午後に逮捕する予定だったが、当日朝に新聞で報じられたことから、捜査本部は急遽予定を繰り上げ、福岡地裁小倉支部に急いで逮捕状の請求へ向かった<ref name="朝日新聞1980-04-14"/>。 |
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同日、各紙の西部版朝刊で「2人を別件で追及する」などの報道がされたが、同日6時10分、Yは自宅に朝帰りした際、待ち構えていた報道陣を自宅近くの金比羅山まで誘導し、記者会見を行った{{Sfn|サンデー毎日2|1980|p=158}}。約10分間の会見終了後、Yはラジオで自分への逮捕令状が出ている旨を知り、出頭するため小倉北署へ向かったが、その際に『[[毎日新聞]]』([[毎日新聞西部本社|西部本社]])の記者がチャーターしていたタクシーに乗車し、同紙記者からの質問に対し「(A殺害は)絶対にやっていない」とアリバイを主張した上で、フェリー乗船名簿で偽名を使った理由については、「フェリー会社の人から『予約していたのに、車が乗用車からマイクロバスに変わっている』と言われて受け付けてもらえず、むしゃくしゃしたから」などと弁明した{{Sfn|サンデー毎日2|1980|p=158}}。 |
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==== 別件逮捕後 ==== |
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S・Y・牛乳販売店主の3人は逮捕前、恐喝未遂事件について口裏合わせを行っており<ref name="朝日新聞1980-03-03"/>、当初は取り調べに対し、3人とも「損害を受けた金を賠償してもらっただけ」<ref name="朝日新聞1980-03-01社会"/>「恐喝した金は全額、牛乳販売店主が受け取った」という主張で一致していた<ref name="朝日新聞1980-03-03"/>。しかし、その後の取り調べで牛乳販売店主は「実は10万円しかもらっていなかった」と供述を翻し、Yも「全額を牛乳販売店主に渡したわけではなく、一部はみんなでスナックに飲みに行って遣った」と供述した<ref name="朝日新聞1980-03-03"/>。 |
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捜査本部は翌3月1日、2人を[[福岡地方検察庁]]小倉支部へ[[送致|送検]]し<ref name="朝日新聞1980-03-02">『朝日新聞』1980年3月2日西部朝刊第13版第一社会面23頁「A病院事件別件の2人 旅先で次々電話 「気楽な釣り」ほど遠く」(朝日新聞西部本社)</ref>、2日には[[福岡地方裁判所]]小倉支部が、2人を10日間にわたり拘置することを認めた<ref name="朝日新聞1980-03-03"/>。これに対し、2人の弁護人である高向幹範弁護士([[#弁護人|後に第一審でYの弁護人を担当]]){{Efn2|2人は別件逮捕直後、それぞれ同じ弁護士の選任を希望した<ref name="朝日新聞1980-03-01社会">『朝日新聞』1980年3月1日西部朝刊第13版第一社会面23頁「別件の2人「弁護士呼んでくれ」 対決姿勢ありあり」(朝日新聞西部本社)</ref>。}}は3日付で、「2人には明らかに恐喝の意思はなく、本事件(殺人・死体遺棄事件)の嫌疑を掛けられてはいるものの、捜査が身近に及んだことを知ってから3か月も逃げ隠れせず、今後逃亡や証拠隠滅を図る可能性も低い。本事件のために利用された不当な別件逮捕・拘置だ」として、拘置理由開示を求めたが、福岡地裁小倉支部(池田克俊裁判長)は同月7日、「捜査記録から、2人は罪(恐喝未遂)を犯しており、証拠隠滅・逃亡の恐れがある」という理由を示し、高向からの理由の具体的根拠の釈明を求める要求も、「捜査の秘密もあり、応じられない」との理由で退けた<ref>『朝日新聞』1980年3月7日西部朝刊第13版第一社会面23頁「A事件 別件の拘置理由開示 地裁小倉 釈明要求認めず 2人はハッキリ否認」(朝日新聞西部本社)</ref>。 |
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逮捕後、Sが主犯格と目された一方、気の小さい性格だったYは身柄を[[小倉南警察署]]へ移送された<ref>『朝日新聞』1980年3月10日西部朝刊第13版第一社会面15頁「院長事件自供 Yの気の弱さをつく 老練刑事も興奮気味」(朝日新聞西部本社)</ref>。しかし、2人はそれまでの報道や、逮捕容疑が本事件に関連するもの(殺人や死体遺棄)ではなかったことなどから、自分たちがAを殺害したことに直結する証拠を警察に把握されていないことを知っており、別件逮捕されて以降も「自供さえしなければ大丈夫だ」と考えていた<ref name="朝日新聞1980-04-01 夕刊3頁"/>。Yは、事件当日(11月4日夜)の行動について、「Sと一緒にサウナに入った後、女友達の家に泊まった」とアリバイを主張して容疑を否認し<ref name="朝日新聞1980-03-10"/>、Sも頑強に黙秘を続けた<ref>『朝日新聞』1980年3月8日西部夕刊第3△版第一社会面11頁「A院長事件 動揺大きいY Sはがん強に黙秘」(朝日新聞西部本社)</ref>。そのため、捜査本部は別件逮捕以降、2人への取り調べを進める一方、慎重に物的証拠の見極めを続けた<ref name="朝日新聞1980-04-01 夕刊3頁"/>。 |
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=== Yが一部自供 === |
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捜査本部は3月7日、家宅捜索令状と鑑定処分許可状を取って「ピラニア」の店内の強制捜査を行い、店の床の部分など複数箇所から[[ルミノール|血液反応]]を検出した<ref name="朝日新聞1980-03-07">『朝日新聞』1980年3月7日西部夕刊第3△版第一総合面1頁「スナックから血液反応 院長殺害で強制捜査 トイレや床の一部 別件のB(加害者Yのこと)経営 「死体遺棄」証拠固めへ」(朝日新聞西部本社)</ref>。また、S宅やSのマイクロバス、Yの女友達の家なども捜索対象となり、毛髪などが採取された<ref name="朝日新聞1980-03-08"/>。この捜索は、Aに対する死体遺棄容疑{{Efn2|「2人が共謀した上で、11月5日正午 - 12日15時ごろにかけ、Aの頭と両脚のない死体を毛布・ガーゼなどで包み、来浦港沖付近に投棄した」という容疑だった<ref name="朝日新聞1980-03-08"/>。}}で行われたため、それまで2人を匿名で報道していた新聞各紙は、「A殺害事件に関連する死体遺棄容疑が強まった」として、[[実名報道]]に切り替えた<ref name="朝日新聞1980-03-08"/><ref>『毎日新聞』1980年3月7日東京夕刊第4版第一社会面9頁「小倉の病院長殺し 死体遺棄容疑などで車など捜索」(毎日新聞東京本社) - 『毎日新聞』縮刷版 1980年(昭和55年)3月号237頁</ref>。 |
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しかし、その後もSは[[ポリグラフ]]の検査を拒否し、検査に応じたYも頑なに否認を続けた<ref name="朝日新聞1980-03-08夕刊">『朝日新聞』1980年3月8日西部夕刊第3△版第一社会面11頁「A院長事件 動揺大きいY Sはがん強に否認」「S 事件後、毛布換える」」(朝日新聞西部本社)</ref>。Yは3月7日、ポリグラフ検査を受けることに同意し、小倉南署で検査を受けた<ref name="朝日新聞1980-03-08">『朝日新聞』1980年3月8日西部朝刊第13版第一総合面1頁「A事件 スナック経営者 うそ発見器も“クロ” 血液反応鮮やか」(朝日新聞西部本社)</ref>、この時、Yは[[秘密の暴露|犯人しか知り得ない情報]](Aが事件当時着ていた下着=褌など)について質問を受けると、異常な反応を見せるなどした{{Efn2|ポリグラフ検査(Yのみが応じた)は、福岡県警犯罪科学研究所専門研究員の若松豪が担当した<ref name="朝日新聞1980-04-17夕刊"/>。Yは「犯行場所は『ピラニア』」「Aの服装は褌」「凶器は鉈」などの質問項目に対し、いずれも強く反応した<ref name="朝日新聞1980-04-17夕刊"/>。}}<ref name="朝日新聞1980-03-13"/>が、その後も否認を続けた<ref name="朝日新聞1980-03-08夕刊"/>。 |
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また、当初はホテルに金を受け取りに来た男について、ホテルの従業員が「SやYとは違う男だった」と証言したことや、11月4日深夜に小倉北区内のスーパーへ大量のガーゼを買いに来た男がいたことなどから、「第三の男」の関与の可能性も囁かれていたが、百数十人を対象とした捜査でも、別の共犯者の存在を示唆する証拠は出てこなかった一方、Yはポリグラフ検査を受けた際、「犯人は何人か」という質問で、「2人」に大きな反応を示した<ref>『朝日新聞』1980年3月14日西部朝刊第13版第一社会面23頁「A事件 直接犯行は2人? ポリグラフ Yが強く反応 カゲ薄い「第三者」介在」(朝日新聞西部本社)</ref>。結局、金を受け取りに来た男や、大量のガーゼを買っていた男の正体は{{Sfn|和田昭三2|1980|p=74}}、口髭を剃り落としたYだったことが判明した<ref>『朝日新聞』1980年4月2日西部朝刊第13版第一社会面15頁「Y 口ひげそりホテルへ」(朝日新聞西部本社)</ref>。 |
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3月9日になって、Yはそれまでのアリバイ主張を翻し、自分がAを殺害したことや、「はやとも丸」船内や宿泊先から「ピラニア」、絨毯の交換<ref group="注" name="絨毯"/>を依頼した内装業者などに複数回電話した旨などを自供した<ref name="朝日新聞1980-03-10">『朝日新聞』1980年3月10日西部朝刊第13版第一社会面1頁「Yが犯行自供 A事件 すすり泣き「オレが…」 店から同型の血液 失跡当日アリバイ崩れる」(朝日新聞西部本社)</ref>。この時、Yは興奮状態となり、調べの途中で湯呑を割り、発作的にその破片を首に当てて[[自殺]]を図るなどしたが、かすり傷のみで出血はほとんどしなかった<ref name="朝日新聞1980-03-11">『朝日新聞』1980年3月11日西部朝刊第13版第一社会面15頁「A院長事件 Sら再逮捕へ Y、自殺はかり軽傷」(朝日新聞西部本社)</ref>。 |
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==== 死体遺棄容疑で逮捕 ==== |
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同日、「ピラニア」店内から検出された血液についても、福岡県警[[科学捜査研究所|犯罪科学研究所]]での鑑定により、「人血で、[[ABO式血液型|血液型]]は被害者Aと同じAB型である」という結果が出た<ref name="朝日新聞1980-03-10"/>。これを受け、捜査本部は3月10日に死体遺棄容疑で2人の逮捕状を取り<ref name="朝日新聞1980-03-11"/>、恐喝未遂での拘置期限が切れる翌11日、2人を死体遺棄容疑で再逮捕した<ref name="朝日新聞1980-03-11夕刊">『朝日新聞』1980年3月11日西部夕刊第3△版第一総合面1頁「A院長殺し S・Y「死体遺棄」で再逮捕 難事件大詰め」(朝日新聞西部本社)</ref>。 |
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その後、Sは引き続き容疑を否認したほか、いったんは自供したYも再び否認に転じた<ref name="朝日新聞1980-03-12">『朝日新聞』1980年3月12日西部朝刊第13版第一社会面23頁「A事件 再逮捕の2人「4日」ナゾの所要 S 逮捕状に動揺 Y 長男誕生祝いに出ず 「殺害」は偶発的か」(朝日新聞西部本社)</ref>。Sは当初、Y以上に強硬な態度を取り続けていたが<ref name="朝日新聞1980-04-02社会"/>、調べが進むにつれて、当初取っていた横柄な態度から一転し、平身低頭な態度を取るようになり、調べが核心に触れた際に涙を見せたり、被害者Aの死体の写真を捜査員から見せられ、動揺を見せたりするようになった<ref name="朝日新聞1980-03-13">『朝日新聞』1980年3月13日西部夕刊第3△版第二社会面8頁「落城は近い…S・Y 食欲衰えすすり泣き 否認の一方「すみません」」(朝日新聞西部本社)</ref>。捜査本部は、3月14日に2度目の拘置延長が認められ{{Efn2|福岡地裁小倉支部(田中澄夫裁判長)の決定により、23日まで10日間の拘置が認められた<ref name="朝日新聞1980-03-15"/>。}}、翌15日から丸1日続けて取り調べができるようになったことを機に、Yの供述の矛盾点を追及<ref name="朝日新聞1980-03-15夕刊"/>、Yは「(4日夜、店に侵入してきたので刺した『泥棒』とは)Aのことだ」と認めた<ref>『朝日新聞』1980年3月18日西部朝刊第13版第一社会面15頁「「A院長を刺した」 Y、直接の関係認める」(朝日新聞西部本社)</ref>。その後、Sは「5日は1日中家にいた」というアリバイ主張を翻し、「2、3回街に外出した」と供述したが、外出先については「覚えていない」と主張した<ref>『朝日新聞』1980年3月17日西部朝刊第13版第一社会面15頁「A事件のS 焦点の五日に外出 「在宅」ひるがえす」(朝日新聞西部本社)</ref>。 |
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=== 全面自供 === |
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2人はいったん自供しかけたものの、その後否認を続け、4月2日の拘置期限切れが迫っても、捜査本部は2人がAを殺害したことを裏付ける決定的な証拠を得ることができずにいたことから、福岡地検小倉支部との協議の末、とりあえず2人を勾留期限の切れる2日に死体遺棄罪で追起訴し、起訴後拘置しながら取り調べを継続する方向で検討していた<ref>『朝日新聞』1980年4月1日西部朝刊第13版第一社会面23頁「A院長事件 あす起訴 まず死体遺棄罪で S・Y 殺人なお追及」(朝日新聞西部本社)</ref>。一方、3月27日には、[[警察庁]][[科学警察研究所]]から、「死体に巻きつけられていたガーゼの内側に付着していた毛髪20本のうち、1本は[[ABO式血液型|血液型]]を含めて、Sの妻と完全に一致した」という結果が出ていた<ref name="朝日新聞1980-04-17夕刊">『朝日新聞』1980年4月17日西部夕刊第3△版第二社会面6頁「再録 A病院長事件 13 科学兵器 否認崩しに威力」(朝日新聞西部本社)</ref>。ガーゼの内側に付着していた毛髪は、犯行時に付着した可能性が高いことや、犯行当時、Yが変装用にSの妻のヘアピース(Sの妻の毛髪が付着していた可能性が高い)を着用していたことから、有力な物証となった<ref name="朝日新聞1980-04-17夕刊"/>。 |
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3月31日夜、Yは取り調べにあたっていた生嶋甚六警部補と、国武俊伸巡査部長に対し、泣きながら「今まで嘘を言って申し訳ありませんでした」とすがりつき<ref name="朝日新聞1980-04-15夕刊"/>、「Sと共謀し、『ピラニア』店内にAを騙して誘い込み、SがAを何度も刃物で刺して殺害した。その間、自分が『ホテルニュー田川』<ref group="注" name="ホテルニュー田川"/>へ金を取りに行ったが、預り証がないため渡してもらえず、失敗した。死体の解体もSが実行し(自分はもっぱら死体を押さえていた)、死体はフェリーから海に捨てた」と全面自供を始めた<ref>『朝日新聞』1980年4月1日西部夕刊第3△版第一総合面1頁「A院長殺し全面自供 Y「店でSが刺した」 モテル(苅田)で切断 Sも一部自供 金目当て誘い出す」(朝日新聞西部本社)</ref>。生嶋{{Efn2|name="生嶋"|生嶋(捜査一課特捜班所属)は当時の福岡県警でもきってのベテラン刑事で、数々の難事件を解決し、「落としの甚六」の異名を取っていた<ref name="朝日新聞1980-04-01 二社"/>。1979年3月には、[[警察庁長官]][[警察功労章|功労章]]を授与されている<ref name="朝日新聞1980-04-01 二社"/>。}}がYに対し、自ら見聞きして調べた情報を粘り強くぶつけ<ref name="朝日新聞1980-04-01 二社">『朝日新聞』1980年4月1日西部夕刊第3△版第二社会面8頁「「落としの甚六」粘り勝ち 熟柿落ちるごとく 生嶋さん淡々と 対話の積み重ねです」(朝日新聞西部本社)</ref>、「かわいい坊や(当時7歳の長男)のためにも本当のことを言ってくれ」と諭したところ、Yは激しく動揺を見せながら自供に至った<ref>『朝日新聞』1980年4月1日西部夕刊第3△版第一社会面9頁「「坊やのため」にY崩れる 涙で震え「すいません」 状況証拠に逃げ場なく」(朝日新聞西部本社)</ref>。 |
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Sの取り調べは、島伍助巡査部長が担当していた<ref name="朝日新聞1980-04-12">『朝日新聞』1980年4月12日西部夕刊第3△版第二社会面10頁「再録 A病院長事件 10 裏付け旅行 詰めの証言次々」(朝日新聞西部本社)</ref>。Yの自供に続き、翌4月1日、Sも取調官からYが自供した旨を聞かされ、同日13時に「自分がAを刺した」と自供<ref name="朝日新聞1980-04-02社会"/>。その自供内容は、Yとほとんど同じ内容だった<ref name="朝日新聞1980-04-02">『朝日新聞』1980年4月2日西部朝刊第13版第一総合面1頁「A院長事件 S自供、Yとほぼ一致 殺害時に100万円奪う 凶器、10月末に準備 サングラス発見 自供の池付近」(朝日新聞西部本社)</ref>。 |
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==== 強盗殺人容疑で逮捕 ==== |
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また同日、Yを「昭和池」付近に連行して実地検証したところ、自供通りAのサングラスが発見された<ref name="朝日新聞1980-04-02"/>。さらに4月2日10時から、2人の自供に基づいて「昭和池」と干拓地の池(小倉南区朽網)で大規模な捜索を行ったところ、潜水した機動隊員により、干拓地の池の底(水深約2.7 m)から死体の切断に用いられた凶器(ガムテープで巻かれた鉈2本と金切り鋸、替え刃3本)が発見された<ref name="朝日新聞1980-04-02夕刊">『朝日新聞』1980年4月2日西部夕刊第3△版第一総合面1頁「A事件 凶器のナタ発見 ノコともテープ巻き」(朝日新聞西部本社)</ref>。同日15時過ぎ、2人は捜査本部によって強盗殺人容疑で再々逮捕された<ref name="朝日新聞1980-04-03">『朝日新聞』1980年4月3日西部朝刊第一総合面1頁「院長殺しのS・Y 強殺で再々逮捕 裸にし脅す残虐さ」(朝日新聞西部本社)</ref>。 |
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同月8日午前、「ピラニア」で殺害方法を検証するため、捜査一課と小倉北署の捜査員約60人を動員した[[実況見分|現場検証]]が行われ、SとYもそれぞれ個別に立ち会った<ref name="朝日新聞1980-04-08夕刊">『朝日新聞』1980年4月8日西部夕刊第3△版第二社会面10頁「A事件 密室の惨劇再現 「ピラニア」で現場検証」(朝日新聞西部本社)</ref>。さらに同日13時過ぎからは小倉北署の当直室で、死体の切断場面の検証が、夜には砂津港に係留されていた「はやとも丸」の船内で、死体遺棄の検証が、それぞれ行われた<ref name="朝日新聞1980-04-09 2">『朝日新聞』1980年4月9日西部朝刊第13版第一社会面15頁「「はやとも丸」で投棄を検証」(朝日新聞西部本社)</ref>。 |
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なお、捜査終了後の同年7月30日には、長崎鼻の北方約10 km沖で、操業中の漁船の底引き網に、切断された成人の右脚がかかり<ref name="朝日新聞1980-07-31">『朝日新聞』1980年7月31日西部夕刊第3△版第一社会面11頁「国東の沖合 A院長の足か 切断の右足」 底引き網にかかる(朝日新聞西部本社)</ref>、後にAのものと確認された<ref name="朝日新聞1982-03-17"/>。また、1982年2月15日(論告求刑公判の前日)にはそれとほぼ同じ地点(海底約30 m)で、人間の白骨化した頭蓋骨が引き上げられ、自らAの歯の治療を手掛けていた娘婿の歯科医により、Aの頭蓋骨と確認されている<ref name="頭骨発見">『朝日新聞』1982年2月17日西部朝刊第13版第一社会面15頁「国東沖 院長の頭骨発見」(朝日新聞西部本社)</ref>。一方、左脚は第一審判決が言い渡された時点でも未発見のままだった<ref name="朝日新聞1982-03-17"/>。 |
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== 刑事裁判 == |
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福岡地検小倉支部は1980年4月14日、S・Yの被疑者2人を[[共同正犯]]として、強盗殺人・死体遺棄の罪で[[福岡地方裁判所]]小倉支部へ[[起訴]]した<ref name=朝日新聞1980-04-15">『朝日新聞』1980年4月15日西部朝刊第13版第一総合面1頁「S・Yを起訴 A事件 強殺・遺棄の共同正犯」(朝日新聞西部本社)</ref>。起訴後、2人の身柄は小倉拘置所<ref group="注" name="福岡拘置所"/>へ移された<ref name="朝日新聞1980-06-03 社会"/>。 |
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恐喝未遂事件における[[被告人]]Sの初公判は、1980年4月8日14時30分から[[福岡地方裁判所]]小倉支部(福嶋登裁判官)で開かれた<ref name="朝日新聞1980-04-08 夕刊3"/>が、Sは罪状認否で、「脅し取ろうとしたのではなく、集金の不足分を弁償してもらうためだったに過ぎない」と述べ、恐喝の犯意を否認<ref>『朝日新聞』1980年4月9日西部朝刊第13版第一社会面15頁「S、犯意を否認 恐かつ未遂初公判」(朝日新聞西部本社)</ref>。同事件は後に本事件の審理と併合された<ref name="朝日新聞1980-04-08 夕刊3">『朝日新聞』1980年4月8日西部夕刊第3△版第二社会面10頁「恐かつ未遂の初公判」(朝日新聞西部本社)</ref>。 |
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2人は全面自供後も、強盗殺人罪の[[法定刑]]が死刑か[[懲役#無期懲役|無期懲役]]しかないことを知らず、Yは「(刑務所から)出る時は、(当時7歳の)息子は中学生か」と漏らしていたが<ref name="朝日新聞1980-04-15 2"/>、起訴後には拘置所の職員に対し、自分たちへの[[量刑]]を気にするような発言をしていた<ref name="朝日新聞1980-06-03 社会"/>。一方、Yの父親は息子の自供後、被害者Aの冥福を祈るため、自ら[[位牌]]を作り、毎日[[線香]]を上げていたが、4月15日に小倉南署で息子と接見した際には、「A先生の位牌の他に、お前のも用意してある」という言葉を掛けている<ref name="朝日新聞1980-04-18夕刊"/>。 |
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=== 第一審 === |
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[[審級|第一審]]における[[事件記録符号|事件番号]]は、'''昭和55年(わ)第151号'''および'''昭和55年(わ)第249号'''{{Sfn|判例タイムズ|1988|p=103}}。 |
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1980年6月3日に福岡地裁小倉支部(佐野精孝[[裁判長]])で、両被告人 (S・Y) の初[[公判]]が開かれ、罪状認否で2人とも犯行を認めた<ref name="朝日新聞1980-06-03">『朝日新聞』1980年6月3日西部夕刊第3版第一総合面1頁「A事件初公判 とどめはS・Y 検察側が特定」(朝日新聞西部本社)</ref>。しかし、検察官が冒頭陳述で「実行面では終始、被告人Sが主導した」と主張した一方、被告人Sは「首を絞めたのは自分ではなく、Yだ。被害者への脅迫は(検察官の主張とは異なり)自分の単独ではなく、Yと2人で行った」と主張した<ref name="朝日新聞1980-06-03"/>。被告人Sの[[弁護人]]は吉永普二雄が、被告人Yの弁護人は高向幹範がそれぞれ担当した<ref name="朝日新聞1982-03-17 社会"/>。 |
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続く第2回公判(7月1日)で実施された関係調書をめぐる認否では、両被告人とも、それぞれ互いに相手の調書に同意しなかった<ref>『朝日新聞』1980年7月2日西部朝刊第13版第二社会面14頁「A事件のS・Y 法廷でもなすり合い 互いの調書を否定」(朝日新聞西部本社)</ref>。第3回公判(7月10日)では、検察官がYの女友達(当時22歳)と、Aの遺体を[[司法解剖|解剖]]した医師を証人として申請したほか、物証49点(遺体を包んだ毛布や、Sの猟銃、凶器の鉈など)を提出した<ref>『朝日新聞』1980年7月10日西部夕刊第3△版第一社会面7頁「A事件第三回公判 遺体解剖の医師ら証人申請」(朝日新聞西部本社)</ref>。 |
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初公判以降、公判は計31回{{Efn2|判決公判までに計33回<ref>『朝日新聞』1982年3月17日西部朝刊第14版第二社会面18頁「公判語録 生きる幸せ知った Y 命あれば寺男に S 遺体漂着は夫の執念 院長の妻」(朝日新聞西部本社)</ref>。}}にわたって開かれたが、Sは「自分は殺すことまでは考えていなかったが、Yがあいくち<ref group="注" name="あいくち"/>で斬りつけ、殺害した」と、Yは「事件を主導したのはSで、自分はその命令に従っただけ」と主張し、互いに相手を「嘘つき」と非難するなど、自身の主導性を否定<ref name="朝日新聞1982-02-17 社会">『朝日新聞』1982年2月17日西部朝刊第13版第一社会面15頁「A事件求刑 検察、厳しい論告 顔面そう白 Y 無言 S 「鬼畜…死で償え」」(朝日新聞西部本社)</ref>。このように2人が互いに自身の主導性を否定する態度を、検察官は「責任のなすり合い」と非難し<ref name="朝日新聞1982-02-17"/>、福岡地裁小倉支部 (1982) も死刑選択の理由の1つとして、このように2人が自己の刑事責任を軽くするために責任のなすり合いをしたことを挙げている([[#2人に死刑判決|後述]])<ref name="朝日新聞1982-03-17"/>。 |
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1982年(昭和57年)2月16日の公判で検察官による[[論告]][[求刑]]が行われ、検察官は両被告人を[[共同正犯]]と位置づけ、それぞれ死刑を求刑した<ref name="朝日新聞1982-02-17">『朝日新聞』1982年2月17日西部朝刊第13版第一総合面1頁「A病院長殺人事件 S・Yに死刑求刑 検察側 「共同正犯」と断定」(朝日新聞西部本社)</ref>。主任検事の小高譲二は同日の論告で、「両者とも法廷で食い違う供述をしているが、自身に不利な点も供述しているYの方が信用性が高い」と指摘した上で、「事件を発案し、Aをあいくちで斬り付けたのはSだが、凶器の準備はYと2人で行い、殺害行為も2人が共同で実行した。YもAを自分の店におびき寄せるなど、重要な役割を果たしており、刑事責任に差はない」と指摘した<ref name="朝日新聞1982-02-17 社会"/>上で、「犯行は冷酷残忍かつ計画的で、2人とも責任を擦り付け合うなど、改悛の情はない。社会への影響も計り知れず、再発防止のために極刑で臨むほかはない」と主張した<ref name="朝日新聞1982-02-17"/>。 |
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最終弁論は同月23日に行われ、両被告人の弁護人はそれぞれ「被告人は従属的な立場だった」と主張し、死刑回避を求めた<ref name="朝日新聞1982-02-24">『朝日新聞』1982年2月24日西部朝刊第13版第一社会面19頁「A事件が結審 地裁小倉 来月16日に判決公判」「死刑 2人に重く…」(朝日新聞西部本社)</ref>。最終意見陳述で、両被告人はそれぞれ謝罪の言葉を述べたものの、従前と同じように「主犯は自分ではない」と主張したが、Sは「刑執行の時は見苦しくないようにしたい。それまでは読経と写経で、Aの冥福を祈りたい」と、Yは「罪の償いのために今一度だけ更生の機会を与えてほしい。もう一度、子供の手を握らせてほしい」と、それぞれ陳述した<ref name="朝日新聞1982-02-24"/>。その後、論告求刑前日にAの頭部が新たに発見されたことを受け、3月初めに検察官が補充立証を行い、結審した<ref name="朝日新聞1982-02-24"/>。 |
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{| class="wikitable" style="font-size:95%;width:70%" |
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|+第一審における事件の争点 |
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!被告人S側 |
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!被告人Y側 |
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!検察官 |
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!福岡地裁小倉支部 (1982) |
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!{{nowrap|犯行の発案者}} |
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|{{nowrap|Yが「大きなことならやるか」と発案した}}<ref name="朝日新聞1982-03-17 社会">『朝日新聞』1982年3月17日西部朝刊第14版第一社会面19頁「がっくり“悪の両輪” A事件判決 「残虐…罪に軽重ない!」 肩落とすS、涙のY」(朝日新聞西部本社)</ref> |
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|Sが強盗殺人の計画をすべて立案した<ref name="朝日新聞1982-03-17 社会"/> |
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| rowspan="2" |被告人Yの供述を採用<ref name="朝日新聞1982-03-17 社会"/> |
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|2人で互いに計画案を積極的に出し合い、巧妙な計画を練った{{Sfn|井上薫|1999|pp=98-99}} |
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!あいくちで斬りつけた人物 |
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|Yが被害者Aをあいくちで脅し、斬りつけた<ref name="朝日新聞1982-03-17 社会"/> |
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|{{nowrap|Sが散弾銃をあいくちに持ち替え、Aを斬りつけた}}<ref name="朝日新聞1982-03-17 社会"/> |
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|YがAに突きつけたあいくちを払われ、とっさに斬りつけた<ref name="朝日新聞1982-03-17 社会"/> |
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!殺害実行犯 |
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|Yが濡れタオルでAの鼻を覆った<ref name="朝日新聞1982-03-17 社会"/> |
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|Sに銃で脅されて実行した<ref name="朝日新聞1982-03-17 社会"/> |
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| colspan="2" |Sが馬乗りになり、Yが首を絞めた<ref name="朝日新聞1982-03-17 社会"/> |
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!Aの死因 |
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| style="text-align:center" colspan="3" |窒息死<ref name="朝日新聞1982-03-17 社会"/><ref name="朝日新聞1982-02-24"/> |
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| style="text-align:center" |失血死<ref name="朝日新聞1982-03-17 社会"/> |
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!情状・量刑 |
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|{{nowrap|主導者はYで、Sは従属的。Sの供述が一貫している一方、}}Yの供述は矛盾している。Sは犯行を反省しており、死刑を回避すべき<ref name="朝日新聞1982-02-24"/> |
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|主導者はSで、Yは従犯に過ぎず、犯行の途中で計画の中止を主張したが、Sはそれを無視した。Yは深く反省している<ref name="朝日新聞1982-02-24"/> |
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|{{nowrap|2人は両輪のように相互に助け合い、冷酷残忍な犯行を実行した。}}2人とも凶器の準備・殺害・死体遺棄を共同で行っており、刑事責任に差はない<ref name="朝日新聞1982-02-17"/><br/>犯行計画は綿密で、証拠隠滅を図るなど悪質であり、法廷で責任のなすり合いを行うなど、改悛の情はない<ref name="朝日新聞1982-02-17"/> |
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|{{nowrap|'''2人とも死刑を選択'''(量刑理由は後述)。}} |
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|} |
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==== 2人に死刑判決 ==== |
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1982年3月16日に[[判決 (日本法)|判決]]公判が開かれ、福岡地裁小倉支部(佐野精孝裁判長)は'''両被告人(SおよびY)にいずれも[[日本における死刑|死刑]]を言い渡した'''<ref name="朝日新聞1982-03-17">『朝日新聞』1982年3月17日西部朝刊第14版第一総合面1頁「S・Yともに死刑 A病院長殺しに判決 福岡地裁小倉支部 冷酷・残忍な犯行 殺害、2人の共同行為」(朝日新聞西部本社)</ref>。 |
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福岡地裁小倉支部 (1982) は事実関係について、被告人Yの主張を基本とした検察官の主張を退け、被告人Sの主張を採用し、「発案は2人の共謀で、あいくちで斬りつけたのは両者の供述{{Efn2|福岡地裁小倉支部 (1982) は「Sの供述の方が(Yより)具体的」と指摘した<ref name="朝日新聞1982-03-17"/>。}}や死体の鑑定結果から、Yと認められる。また、Aの死因は失血死である。ただし、殺害は2人の共同行為である」と[[事実認定|認定]]した<ref name="朝日新聞1982-03-17"/>。その上で、両被告人の役割(刑事責任の程度)について、「2人ともそれぞれ自己の動機を実現するため、意欲的に犯行に取り組み、互いに案を積極的に出し合って計画を練り、実行行為も大半を2人で共同して行った。Sに幾分主導的な側面が見られるが、Yは被害者を誘い出して傷害を負わせ、首を絞めるなどして直接死亡の原因を作った」と指摘し、「'''被告人両名は正に車の両輪となり互いに助けあって右犯行を遂行した'''ものというべく、'''その刑責に逕庭はない'''といわねばならない。」と判示した{{Sfn|井上薫|1999|pp=98-99}}。 |
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情状については、「犯行は、2人が完全犯罪を狙い、金を奪う方法や隠蔽工作など、周到な準備をした上で実行におよんだもの」と計画性を強調した上で、「必死の哀願を尻目に、苦しんでいる被害者を放置した上、さして迷わず殺し、遺体を切り刻んで塵芥のごとく海に捨て、得た金は酒食に使った。まれに見る冷酷かつ残忍な犯行だ」「2人とも相当の収入があったのに、遊惰な生活を夢見て一攫千金を図った。動機に酌むべきものはない」と指摘した<ref name="朝日新聞1982-03-17"/>。また、事件後に2人が隠蔽工作を図ったり、さらなる犯罪計画を立てたりした点、法廷で互いに自己の主導性を否定した態度について、以下のように判示した。 |
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{{Quotation|犯行に使用したあいくち、解体道具、被害者の持物等を種々の場所に投棄し、人を頼んで被害者の血で汚れた絨毯を3度にわたり張り替える<ref group="注" name="絨毯"/>などあらゆる隠蔽工作をなし、捜査機関から嫌疑をかけられていることを察知するや、被告人両名で善後策を相談し、自白さえしなければ嫌疑不十分で[[無罪]]に持ち込めるという目算のもとに互いに自白しないことを誓い合い、更には捜査が難航しているとみるや大胆不敵に他の数件の多額な現金強取の計画を立てて下準備にも着手し、あまつさえ悲嘆にくれている被害者の遺族から被害者の未発見の頭部の存在場所を教えると称して金員を巻き上げることまで相談している有様で、'''被告人両名には人間性を認める余地は乏しく、その倫理観の欠如と犯罪性向の深さには底知れぬものがある'''ことが窺われ、また捜査機関に逮捕された後も頑強に犯行を否認し続け、最終的にはもはや逃れられないものと観念して自白するに至ったものの、被告人両名の各自白たるや数々の不自然、不合理な点があり、全てをありのままに供述したものとはとうていいえず、'''互いに自己の刑責を少しでも軽くするため真実と虚偽とを巧みにおりまぜて供述し、相互に相被告人が主謀者で自らはこれに引きずられたものであるという印象を与えることに専念し泥仕合を演じている'''のであり、いずれもいまだ己の罪の深さに十分思い及んでおらず、反省悔悟の情に欠けるところがあるといわざるを得ない。|福岡地裁小倉支部 (1982) |{{Sfn|井上薫|1999|p=98}}}} |
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そして、被害者Aに落ち度がないこと、遺族が極刑を望んでいること、社会への影響が大きいことを挙げ、「2人は写経に励んでおり、さしたる前科もないが、死刑が人間の[[生存権]]を奪うことを慎重に考慮しても、犯行の重大性からして極刑をもって臨むしかない」と結論づけた<ref name="朝日新聞1982-03-17"/>。 |
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被告人Yは3月17日に、被告人S(量刑不当を主張)も翌18日にそれぞれ[[福岡高等裁判所]]へ[[控訴]]した<ref name="朝日新聞1982-03-18">『朝日新聞』1982年3月18日西部夕刊第4△版第一社会面11頁「A病院長殺害事件 Sも控訴」(朝日新聞西部本社)</ref>。 |
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=== 控訴審 === |
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控訴審における事件番号は、'''昭和57年(う)第304号'''{{Sfn|判例時報|1984|p=150}}{{Sfn|判例タイムズ|1988|p=103}}。 |
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被告人Sは第一審判決後に妻と離婚し<ref name="朝日新聞1988-04-16 社会"/>、控訴審でも第一審と同じ吉永普二雄を弁護人に選任した一方、被告人Yは岩城邦治ら3人の弁護人を新たに選任した<ref name="朝日新聞1984-03-14 社会">『朝日新聞』1984年3月14日西部夕刊第4△版第一社会面9頁「A事件判決 惨劇コンビに断罪 生に執着、S・Y その瞬間からだを硬直」(朝日新聞西部本社)</ref>。控訴審初公判は、福岡高裁第2刑事部(緒方誠哉裁判長)で1982年10月14日に開かれた<ref name="朝日新聞1982-10-14">『朝日新聞』1982年10月14日西部夕刊第4△版第一社会面9頁「A院長殺し なお罪なすり合い SとY 控訴審初公判開く」(朝日新聞西部本社)</ref>。 |
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控訴審でも、両被告人側は第一審と同様に、自身の主導性を否定する主張を展開した<ref name="朝日新聞1984-01-23"/>。特にYは側は、原判決が「S主導」を認定しつつ、警察・検察が採用したYの自供の事実経過を否定したことに対し、広範囲にわたって異議を唱えた<ref name="朝日新聞1984-03-14 社会"/>。また、YはSに対し「これまでのことは水に流そう」との手紙を出した一方、SはYを「いつも自分がいい子になろうとする」と非難するなどした<ref name="朝日新聞1984-01-23"/>。 |
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;被告人Sの控訴趣意 |
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:;事実誤認に関する主張 |
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:# Aから奪ったとされる約95万円のうち、奪ったと言えるのは約75万円だけで、20万円はSと関係なく、AがYに自ら任意で差し出したものだ{{Sfn|判例時報|1984|p=151}}。 |
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:# 最初に犯罪計画を言い出し、具体的な犯行を発案・主導したのはYで、Sではない。Yは「ピラニア」の営業不振から、酒類の仕入れ代金を滞納するほど経済的に困っており、「2人とも当座の生活に困っていなかった」という原判決の判断は事実誤認である。また、YはAの性格や暴力団との交際関係を熟知し、金が取れなくてもAを殺害する意思を(Sの意思と無関係に)有していた{{Sfn|判例時報|1984|pp=151-152}}。 |
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:# 殺害行為は、SとYが共同で実行したものではなく、Sがトイレに入っている間、Yが濡れたタオルでAの鼻口を押さえて殺害したものである。原判決の認定は、信用性のないYの供述を大筋で採用したものだ{{Sfn|判例時報|1984|p=152}}。 |
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:;量刑不当に関する主張 |
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::Sが犯行時に果たした役割の程度や、Sの生育歴・生活態度の中に見られる人間性、被害者の冥福を祈り反省悔悟の日々を送っている事件後の情状などを考慮すれば、死刑を適用した原判決は、量刑判断にあたってSに有利な情状を十分斟酌しておらず、重すぎて不当だ{{Sfn|判例時報|1984|p=156}}。 |
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;被告人Yの控訴趣意 |
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:;事実誤認に関する主張 |
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:# 「Aの左側胸部の刺し傷は、Yがあいくちで斬りつけたもの」と認定されているが、実際はYではなく、Sが斬りつけたものだ。以下の事実が認められるにも拘らず、原判決はそれと矛盾する「Yはカウンターの外でAの後ろに立っていた」という事実を同時に認定している{{Sfn|判例時報|1984|p=152}}。 |
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:#* YはAが斬りつけられた当時、(原判決で認定されたようにAの左後ろにいたのではなく)カウンターの中にいた。これは、原審(第一審)でAの刺し傷の部位・状況を鑑定した医師(永田武明)の証言とも一致するものである。 |
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:#* また、Aから差し出された20万円は、カウンターの背後の壁に設置されていた洋酒棚から出したもので、原判決が「Yはその20万円を取り出し、Aを脅してカウンターの上へ出させた約75万円と一緒にした」と認定していることからも、当時はYがカウンターの中にいた事実が認められる。 |
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:# 犯行の大筋を発案・計画したのはYではなくSだ。犯行はSが主導しており、YはSの指示に従って行動したに過ぎない{{Sfn|判例時報|1984|p=152}}。 |
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:;量刑不当に関する主張 |
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::死刑の選択は、ほとんど異論の余地がないほど情状が悪く、人間性の存在や、その回復に伴う人格の改善可能性がないような例外的事例に限られるべきである。Yは本来健全な人格と人間性を持ち合わせており、犯行はAに対する羨望(無意識の反感など)や、Sからの強い動機付けによって生じた価値観の瞬間的な動揺や倒錯によって引き起こされたものである。Yはまだ若く、生来の悪性は見い出せないことから、更生・改善の可能性がある。Yが犯行時に果たした役割は主導的でなく、事件後も被害者の冥福を祈り、反省悔悟の毎日を送っているなどの情状を併せ考えれば、死刑は重すぎて不当だ{{Sfn|判例時報|1984|p=156}}。 |
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控訴審は1984年(昭和59年)1月23日に結審した<ref name="朝日新聞1984-01-23">『朝日新聞』1984年1月23日西部夕刊第4△版第一社会面7頁「小倉のA院長殺人 控訴審が結審 福岡高裁」(朝日新聞西部本社)</ref>。両被告人の弁護人は、それぞれ「1件の殺人で死刑を言い渡した原判決は重すぎて不当」と主張し、原判決破棄を求めた一方、検察官は「一審判決は正当」と控訴[[棄却]]を求めた<ref name="朝日新聞1984-01-23"/>。 |
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==== 控訴棄却判決 ==== |
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1984年3月14日に福岡高裁第2刑事部(緒方誠哉裁判長)で控訴審判決公判が開かれ、原判決(両被告人をいずれも死刑とした第一審判決)を支持し、両被告人の控訴をいずれも棄却する判決が言い渡された<ref name="朝日新聞1984-03-14">『朝日新聞』1984年3月14日西部夕刊第4△版第一総合面1頁「S・Y再び死刑 福岡高裁 A院長殺害に判決 一審通りに認定 控訴棄却 「計画的犯行、許せぬ」」(朝日新聞西部本社)</ref>。 |
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開廷は13時40分で、[[判決理由]]の朗読は約1時間におよび、14時35分に[[主文]]が言い渡された<ref name="朝日新聞1984-03-14 社会"/>。判決理由の概略は以下の通りである。 |
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;被告人S側の控訴趣意(事実誤認に関する点)に対する判断 |
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# 犯行の罪質や犯情に照らせば、奪った金額に20万円の差があったとしても、責任の軽重に差異は生じず、たとえこの点が誤認だったとしても判決に影響を及ぼすものではない。Aが自らYに差し出した20万円も、最終的に暴行・脅迫によって奪われたものである{{Sfn|判例時報|1984|p=153}}。 |
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# 事件当時、「ピラニア」は営業不振ではなく、残っていた仕入代金(約67万円)も通常の流動債務に過ぎず、Yが経済的に困窮していたとは言えない。どちらが先に死体損壊・遺棄を伴う強盗殺人の計画を最初に言い出したとしても、2人はそれ以前から歯科医師からの恐喝を目論んで準備しており、それに代わる計画として本件に積極的に加担しているため、刑責の軽重は、その後の犯行遂行状況を考察して判断するのが相当だ{{Sfn|判例時報|1984|p=152}}。 |
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# 原判決の「2人で馬乗りになってAを絞め殺した」という認定は信用できる。その点に関するYの供述は、Y自身にも不利益な事実を認めるものであり、供述内容も具体的・詳細・合理的である。一方、Yの「2度目に首を絞めていたら、エルザビル<ref group="注" name="エルザビル"/>出入口に駐車していたS所有の車を移動させるようアナウンスがあったので、いったん離れて階下に降り、車を駐車場に移動して戻ってみたら、Aは既に動かなくなっていた」という供述や、Sの主張はいずれも信用し難い{{Sfn|判例時報|1984|pp=155-156}}。 |
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;被告人Y側の控訴趣意(事実誤認に関する点)に対する判断 |
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# 現場検証の調書から、YはAが斬りつけられた当時、Aのほぼ左横(あるいは直横からごくわずか前)にいたことが明らかで、その立ち位置とAの切り傷の形は、Sの「YがAを斬りつけた」という供述と符合する。Yの供述はそれ以外にも不合理な点を有しており、信用できない{{Sfn|判例時報|1984|pp=154-155}}。Yが洋酒棚から取り出した20万円は、Yがカウンターから出る前に取り出されたか、Sの主張するようにあいくちでAを斬りつけた後、その手当をする段階で取り出されたかのどちらかと思われるが、いずれにせよ、「Yはカウンターの中にいたから、あいくちで斬りつけてはいない」と結論づけることはできない{{Sfn|判例時報|1984|p=155}}。 |
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# YはAに切り傷を与えていたことから、「暴力団と関係のあるAを帰せば報復されるかもしれない」と恐れ、殺害に走ったといえる{{Sfn|判例時報|1984|pp=154-155}}。 |
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;量刑不当に関する点 |
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:;罪質などに関して |
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::両被告人は完全犯罪を目論み、被害者Aをおびき出した上で大金を奪って殺害し、死体を解体して遺棄するなどの綿密な計画を練り上げ、周到な準備を整えた上で犯行におよんだ。2人とも、事件当時は特に金に困っていたわけではなかったのに、働かず遊興にふける安楽な生活を送りたいがために犯行を思い立っており、その動機は身勝手かつ極めて悪質で、酌量の余地はない{{Sfn|判例時報|1984|pp=156-157}}。 |
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:::特に悪質な点は、Aから金を奪った後、犯跡を隠蔽して完全犯罪を実現するために'''Aを殺害することを最初から謀議・計画していた点'''で、到底天人ともに許すことのできない非道なものである。あいくちでAを負傷させ、長時間にわたって放置して衰弱させた挙句、命乞いにも耳を貸さず、2人がかりで冷酷に殺害した行為も執拗かつ残忍である。死体を解体して遺棄した行為(死体遺棄罪)も、法定刑自体は重いものではない{{Efn2|死体遺棄罪の法定刑は3年以下の懲役([[:b:刑法第190条|刑法第190条]])。}}が、本件ではもともとこのように死体を解体することを予め計画して殺害行為が行われていることから、強盗殺人と一体として評価されるべき性質のものであり、それは殺害計画の強固さと残虐さを物語るものである{{Sfn|判例時報|1984|pp=157-158}}。 |
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:::また、2人は事件後に徹底した罪証隠滅工作を行い、互いに絶対自白しないことを誓いあった上で、さらなる犯罪計画を立てたり、遺族から「(当時未発見だった)頭部の存在場所を教える」と称して金を巻き上げることまで相談していた。そこには人間性の片鱗も見い出せず、倫理観の欠如と犯罪性向の根深さが伺われる。逮捕後も頑強に否認を続け、自白後も互いに自己の刑責を軽くしようと「犯行を主導したのは自分ではない」と相反する供述をしているが、その供述内容には不自然・不合理な部分が多く含まれ、どちらか一方だけが真実を語っているとは到底認められない。犯人が自己の犯した罪の責任を軽くしたいと願うことはやむを得ないとはいえ、その供述内容を見る限り、真摯に自己の犯した行為の罪深さを自覚し反省しているとは言い難い{{Sfn|判例時報|1984|pp=158-159}}。 |
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::一方、Aには2人やその関係者から恨みを買うような事情や、殺されても仕方がないような落ち度があったわけではなく、長年北九州市内で大病院を経営し、地域社会の医療に貢献してきたにもかかわらず、身勝手な欲望の犠牲にされた。その結果は極めて重大で、被告人らに極刑を望む遺族の心情は痛ましく、察するに余りある。病院も廃業を余儀なくされたが、それによる遺族の大きな経済的損失や、転院を余儀なくされた入院患者、失職した医師・看護婦ら従業員が受けた損害も大きい{{Sfn|判例時報|1984|p=158}}。 |
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::本事件は猟奇的な強盗殺人・死体遺棄事件で、被害者が大病院を経営していただけあって、地域住民に与えた不安は大きい。完全犯罪を狙って敢行されたものであるため、もしその狙い通り死体が発見されなければ、捜査はさらに難航し、2人への嫌疑が濃かったとしても決め手を欠き、処罰されずに終わった可能性もあった。もしそのような事態になれば、これを真似て類似の犯罪が起きていた可能性があり、善良な資産家がいつこのような犯罪に巻き込まれていてもおかしくなかった。そのような観点からも、本事件がもたらした深刻な社会的影響は軽視できない{{Sfn|判例時報|1984|p=159}}。 |
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:;両被告人の責任の軽重 |
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::Sは本事件前から、新北九州信用金庫への恐喝未遂事件を起こしたり、Yとともに歯科医師を恐喝することを考えたりしており、事件前は日常の生活態度が乱れていた一方、Yは真面目に「ピラニア」を経営していたものの、そのようなSと親しくなるうちに心の緩みが生じたことが窺える。凶器はいずれもSの所有物だったことや、当初はSの知り合いの船頭がいる鹿児島方面で死体を投棄する計画がされていたことなどを考えれば、どちらかといえばSに主導的側面があったと認められる{{Sfn|判例時報|1984|p=159}}。 |
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::しかし、YもSが歯科医師恐喝計画を立てていることを知り、積極的に加担した上、その計画を中止したSに対し、その実行を迫っている。それに代わる大金奪取の計画が本件だが、どちらが最初にAの名前を挙げたかまでは断定し難いものの、Yは単にSに追従して行動していたとは言えず、むしろ「奪った金額の半分は自分の取り分」と考え、犯行計画を共同で練り上げた上で、実行行為も共同で実行していた。知人関係にあったAの弱点を知り、Aを誘い出せる立場にあったのはYで、Aに傷害を負わせ、かつ首を絞め、死亡の直接の原因を作ったのもYである{{Sfn|判例時報|1984|p=159}}。 |
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::一方、Sは大金奪取の目的を果たせず、それを断念した際、Yに「ここでやめれば2、3年ですむと思うがどうか」と持ちかけたが、殺害行為を中止してAを帰すことを真摯に考えていたとは言い難く、Yが予定通り殺害する意思であることを知ってからは、躊躇なく2人で殺害行為におよんだ。もし2人のいずれかが、真摯にAの生命を助けるつもりでその後の計画の実行を阻止しようとしていれば、殺害行為の実行はできなかったと考えられる{{Sfn|判例時報|1984|p=159}}。 |
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::以上の点から、'''本件犯行は2人が一体となって、相互にその手足となって助けあい、計画に基づいて犯行を実行したのであって、そのどちらか一方が欠けても実行することはできなかった'''ものと考えられ、その責任に軽重をつけることはできない。Yが犯行に走った契機は、Sと親交を結んだことによるものが大きいが、「Sの影響と、Yの他から影響を受けやすい性格的欠陥だけが原因」と考えるのは相当ではない。本事件が強盗殺人の中でも最も凶悪な事案(当初から被害者を殺害することが予定されていた事案)であることや、Yは当時27歳で、事柄の善悪の判断が十分できる年齢であったことなどを考えれば、Yの価値観の中に、利己的な欲望のために他人の生命を奪うことをも肯定するものがあり、犯罪性向が根深く存在していたというほかない{{Sfn|判例時報|1984|pp=159-160}}。 |
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:;結論 |
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::近年、強盗殺人など死刑の適用が問題とされる事案では、殺害された被害者が1人だった場合、死刑の適用が従前より少なくなっていることは確かだが<ref group="注" name="被害者1人"/>、だからといって'''「被害者が1人なら絶対に死刑を適用してはならない」というものではない。'''人の人格改善の可能性を判断材料とすることは極めて困難で、犯行の罪質や、動機・態様などの量刑事情を捨象してまで、「犯人の人格の改善可能性があるなら、死刑を適用してはならない」と考えるのもまた相当ではない。[[永山基準|1983年7月の最高裁判決(いわゆる「永山判決」)]]で示されたように、様々な情状を考慮した上で、罪責が誠に重大であり、罪刑の均衡・一般予防それぞれの見地から、極刑がやむを得ないと認められる場合には、その適用も許されると言わなければならない。2人の罪責は誠に重大で、2人にとって有利な事情(年齢・経歴・境遇や犯罪後の情状など)を十分考慮しても、2人を死刑に処した原判決の量刑は誠にやむを得ず、重すぎて不当とは言い難い{{Sfn|判例時報|1984|p=160}}。 |
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被告人Yは「死刑は重すぎる」として3月15日付で[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]へ[[上告]]し、被告人Sも翌16日に上告した<ref name="読売新聞1984-03-15">『[[読売新聞]]』1984年3月15日東京夕刊第4版第二社会面14頁「[ニュース・スポット]【福岡】病院長殺しの被告上告」([[読売新聞東京本社]])</ref>。 |
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=== 上告審 === |
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上告審における事件番号は、'''昭和59年(あ)第512号'''{{Sfn|集刑|1988|p=335}}{{Sfn|判例タイムズ|1988|p=103}}。 |
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上告後、被告人Sの弁護人(吉永)と、被告人Yの弁護人3人(岩城邦治・岩城和代・村井正昭)は、それぞれ1984年8月31日付で上告趣意書を提出{{Sfn|集刑|1988|p=339}}{{Sfn|集刑|1988|p=349}}。また、岩城邦治が同年8月30日に提出した上告趣意補充書には、被告人Y自身の上告趣意が記載されていたが、Yはその中で、「自分たちの犯行は到底許されない悪質なものではあるが、初犯で更生への強い意欲を認められながら死刑判決は納得の行くものではない」と主張{{Sfn|集刑|1988|p=397}}。死刑の恐怖および残虐性を強調し{{Sfn|集刑|1988|pp=397-400}}、被害者1人の強盗殺人・[[保険金殺人]]で無期懲役・有期懲役が言い渡された判例などを挙げ{{Sfn|集刑|1988|pp=400-402}}、「更生の機会を与えてほしい」と求めていた{{Sfn|集刑|1988|p=403}}。 |
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1988年(昭和63年)2月1日に[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]第二[[小法廷]]([[香川保一]]裁判長)で上告審の公判(弁論)が開かれ、結審した<ref>『読売新聞』1988年2月2日東京朝刊第二社会面26頁「「死刑事件」続々 最高裁、論議の中で積極的処理」(読売新聞東京本社)</ref>。 |
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1988年4月15日の判決公判で、最高裁第二小法廷(香川保一裁判長)は原判決(2人を死刑とした第一審判決を支持した控訴審判決)を支持し、両被告人の上告を棄却する判決を宣告<ref>『朝日新聞』1988年4月16日西部朝刊第14版第一総合面1頁「A院長殺し、最高裁も死刑 2被告の上告棄却」(朝日新聞西部本社)</ref>。両被告人は判決訂正を申し立てたが、最高裁第二小法廷によって同年5月17日付で棄却決定がなされ<ref name="訂正棄却決定">『最高裁判所刑事裁判書総目次 昭和63年5月分』11頁「刑事雑(全) 判決訂正申立 昭和63年(み)第4号 強盗殺人、死体遺棄、恐喝未遂 SY 昭和63年5月17日 第二小法廷 棄却」「昭和63年(み)第5号・7号 強盗殺人、死体遺棄 YK 昭和63年5月17日 第二小法廷 棄却」 - 『最高裁判所裁判集 刑事』(集刑)第249号の巻末付録。</ref>{{Sfn|井上薫|1999|p=97}}、同月18日付で死刑が[[確定判決|確定]]した<ref group="注" name="訂正棄却"/><ref name="刑集53巻9号"/>。 |
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== 死刑執行 == |
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[[1996年]]([[平成]]8年)7月11日、S・Yの両[[死刑囚]]([[日本における死刑囚|死刑確定者]])はいずれも収監先の[[福岡拘置所]]{{Efn2|name="福岡拘置所"|福岡拘置所はかつて、[[福岡刑務所]]の下部機関<ref name="朝日新聞1996-05-11"/>(福岡刑務所福岡拘置支所)だった<ref name="読売新聞1996-03-03"/>が、1996年5月11日に福岡拘置支所から昇格し{{Sfn|法務総合研究所|2002|p=6}}、独立機関の福岡拘置所になった<ref name="朝日新聞1996-05-11">『朝日新聞』1996年5月11日西部朝刊第14版第一社会面31頁「福岡拘置支所、拘置所に昇格 外国人房も新たに設置 密航など増加する事件に対処」(朝日新聞西部本社)</ref>。同時に、それまでの小倉拘置所は福岡拘置所の下部機関(小倉拘置支所)へ降格した<ref name="読売新聞1996-03-03">『読売新聞』1996年3月3日西部朝刊社会面27頁「福岡拘置支所が拘置所に昇格へ 全国4番目の規模 小倉は支所へ」(読売新聞西部本社)</ref>。}}で[[日本における被死刑執行者の一覧|死刑を執行された]](Sは{{没年齢|1946|10|19|1996|7|11}}、Yは{{没年齢|1952|9|5|1996|7|11}})<ref name="西日本新聞1996-07-12">『[[西日本新聞]]』1996年7月12日朝刊一面1頁「福岡で死刑執行 小倉の病院長殺人 2死刑囚 東京でも1人、計3人」([[西日本新聞社]])</ref><ref>『朝日新聞』1996年7月12日西部朝刊第14版第一総合面1頁「死刑囚3人に刑執行 福岡で2人、東京でも」(朝日新聞西部本社)</ref>。同日には、[[東京拘置所]]で別の死刑囚1人も死刑を執行されている<ref name="西日本新聞1996-07-12"/>。死刑執行は当時、1995年12月に東京拘置所・[[名古屋拘置所|名古屋]]・福岡の各拘置所で行われて以来{{Efn2|1995年12月21日には、[[名古屋市女子大生誘拐殺人事件]]の死刑囚(名古屋拘置所在監)ら3人が死刑を執行されている<ref>『中日新聞』1995年12月21日夕刊一面1頁「○○さん誘拐殺人 木村死刑囚の刑執行」(中日新聞社)</ref>。}}で、[[第1次橋本内閣|橋本政権]]および[[長尾立子]][[法務大臣]]の下では初の死刑執行でもあった<ref name="西日本新聞1996-07-12"/>。 |
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死刑囚Yは死刑確定後、[[再審]]請求をしたが、執行以前に棄却されていた{{Efn2|『年報・死刑廃止』 (2020) では「Yは死刑執行時点で、再審請求を準備していた」と述べている{{Sfn|年報・死刑廃止|2020|p=247}}が、岩城邦治は「Yからは再審請求の要望は出なかった」と述べている<ref name="朝日新聞1996-07-12"/>。}}<ref name="西日本新聞1996-07-12 社会">『西日本新聞』1996年7月12日朝刊31頁「「死刑」是非論渦巻く 福岡で2人執行 「法に定め」「新たな殺人」」「A病院長事件 今でも話題に/恩赦期待していた 関係者ら表情複雑」(西日本新聞社)</ref>。また、死刑囚Sは自力で再審請求していたとされる(詳細不明){{Efn2|『[[西日本新聞]]』 (1996) は[[大塚公子]](ノンフィクション作家)からの情報として、「Yは確定後に再審請求したが棄却され、弁護士に『もう一度(請求を)考えます』と言っていた。Sも再審請求したが、弁護士が死亡してからは何もしていなかった」と報じている<ref name="西日本新聞1996-07-12 社会"/>。}}{{Sfn|年報・死刑廃止|2020|p=247}}。 |
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死刑執行を受け、高向幹範(第一審でYの弁護人を担当)は「どちらが主犯かわからないまま判決が下っており、今でも不当判決だと思っている。死刑執行は非常に残念」と<ref name="西日本新聞1996-07-12 社会"/>、岩城邦治(控訴審・上告審でYの弁護人を担当)は「(自分は)死刑制度そのものにも反対だが、過去の例から見ても、1人の死に対して2人の死を以て報いるという量刑自体が重すぎた」と述べ、それぞれ死刑執行を批判<ref name="朝日新聞1996-07-12"/>。また、主任検事として捜査を担当した元福岡地検小倉支部副支部長の加藤石則(当時:弁護士)は「本事件は死刑適用の限界事例だろう。もし今のように死刑執行に抑制的なムードがある時代ならば、(2人への死刑は)ありえない判断だった。死刑制度は支持するが、2人よりも凶悪な犯罪を犯した死刑囚もいる。2人に死刑が執行されたことは複雑な気持ちだ」<ref name="朝日新聞1996-07-12"/>「本来はまともな人間だった2人が、なぜあのような残虐な事件を起こしたのかわからない。[[死刑存廃問題|死刑廃止論]]が高まっていることを考えれば、2人には死刑執行を免れ、[[恩赦]]で無期懲役になる道を探ってほしかった」と述べた<ref name="西日本新聞1996-07-12 社会"/>。 |
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一方、福岡県警捜査一課長として捜査を指揮した梶原成一は、本事件を「警察官生活で一番印象に残った事件」「救いようのない反社会的事件」と位置づけた上で<ref name="西日本新聞1996-07-12 社会"/>、「最近は、従来なら死刑になるはずの事件が無期懲役になったりする(死刑適用に消極的な)傾向がある<ref group="注" name="被害者1人"/>が、本事件は(犯行の動機・残忍性などから)同情の余地はない。仮に今の裁判傾向をもってしても、死刑になっていたのではないか」<ref name="朝日新聞1996-07-12">『朝日新聞』1996年7月12日西部朝刊第14版第二社会面26頁「病院長殺人事件 2人の死刑執行 関係者ら胸中複雑 一人の死に報い重すぎる/残忍、同情の余地なし」(朝日新聞西部本社)</ref>「(死刑執行の知らせを聞き)ある種の感慨を覚える」と述べている<ref>『毎日新聞』1996年7月12日西部朝刊社会面「北九州市A病院バラバラ殺人事件の2人に死刑執行 衝撃的事件から17年」([[毎日新聞西部本社]])</ref>。 |
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== 識者の評価 == |
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[[北九州大学]]教授の新村登(心理学)は、遊興費欲しさに残忍な犯行におよんだ2人について、共通点として「幼児期の自己形成ができておらず、反社会的な行為をしてはならないとするしつけを幼少期から教え込まれていないこと」と、「自己顕示欲が強く、経済事情を無視して派手に遊んだり、店をことさら大きくしたりなど、分不相応なことをしたがること」(古い世代によく見られた傾向)を挙げた上で、2人を「今の若者の欠点と、古い世代の欠点を合わせたようなところがある」と指摘した<ref name="朝日新聞1980-04-15 2"/>。その上で、本事件の解決と同時期に発生していた[[富山・長野連続女性誘拐殺人事件]]や、[[沖縄県]]での小学生誘拐事件(いずれも被疑者はSやYと同年代の、20歳代後半 - 30歳代前半)についても言及し、「3事件の被疑者とも、古い価値観から新しい価値観への移行期に生まれ育った世代で、いわば一つの時代の被害者とも言える」という見解を示している<ref name="朝日新聞1980-04-15 2"/>。 |
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また死刑執行について、同大学教授の石塚伸一(刑事学)は、2人が死刑確定から10年以内に死刑を執行されたことに注目し、「(死刑執行までの)速さに加え、共犯2人が被害者1人の事件で同時に執行されたことは極めて異例だ。[[オウム真理教事件|オウム事件]]などで死刑是非論が取り沙汰される中、[[法務省]]の『死刑囚には厳しい態度で臨む』という頑なな姿勢を示すもの」と指摘している<ref name="西日本新聞1996-07-12 社会"/>。 |
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== 関連書籍 == |
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* {{Cite book|和書|title=警察白書 警察活動の現況 昭和55年版|publisher=[[国立印刷局|大蔵省印刷局]]|date=1980-08-15|page=293|ref=|editor=[[警察庁]]|url=https://www.npa.go.jp/hakusyo/s55/s55s2.html|quote=|id={{国立国会図書館書誌ID|000001463345}}・{{NDLJP|9902763}}}} - 巻末の「昭和54年の主なできごと」に、「11 4 北九州市の病院長殺人、死体遺棄事件発生(福岡、大分)」との言及が見られる。 |
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* {{Cite book|和書|title=捜査―北九州病院長バラバラ殺人事件|publisher=[[徳間書店]]|date=1983-11-30|author=[[中村光至]]|editor=松岡妙子(編集担当)|edition=初刷|series=[[トクマ・ノベルズ|TOKUMA NOVELS]]|isbn=978-4191528253|id={{国立国会図書館書誌ID|000001655019}}}} - 本事件にヒントを得た創作作品。参考文献として、福岡県警察機関誌『暁鐘』(昭和55年8月号・9月号)に掲載された捜査実話「狂ったピラニア」(著者:和田昭三/[[#参考文献]])を用いている。 |
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** 同作を原作としたテレビドラマ「回遊海路~北九州病院長バラバラ殺人事件」(脚色:[[国弘威雄]])が、1984年3月27日の21時2分から[[火曜サスペンス劇場]]([[日本テレビ系列]])で放送された<ref name="毎日新聞1984-03-12">『毎日新聞』1984年3月12日東京夕刊第3版5頁「54年の事件を題材にTVサスペンス」(毎日新聞東京本社) - 『毎日新聞』縮刷版 1984年(昭和59年)3月号387頁</ref>。被害者の病院長を[[伊東四朗]]が、犯人2人(スナック経営者の「水野」・釣具店主の「本山」)を[[江藤潤]]・[[岸部一徳]]が、水野の妻・真由美を[[范文雀]]がそれぞれ演じた<ref name="毎日新聞1984-03-12"/>。 |
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* {{Cite book|和書|title=平成8年版 犯罪白書 凶悪犯罪の現状と対策|publisher=大蔵省印刷局|date=1996-11|page=|ref=|editor=[[法務省]][[法務総合研究所]]|url=http://hakusyo1.moj.go.jp/jp/37/nfm/n_37_2_3_4_5_3.html|accessdate=2021-09-11|isbn=978-4173501717|NCID=BN15352823|chapter=第4章 凶悪犯罪と裁判 > 第5節 凶悪事犯の実態及び量刑に関する特別調査結果 > 3 凶悪事犯の量刑に関する調査結果|quote=資産家から金品を奪った上で殺害するとの完全犯罪をもくろみ,周到な計画の下,資産家を監禁して残虐・冷酷な手段・方法をもって殺害し,死体を海中に投棄した強盗殺人等の事件において,共犯者2人が共に死刑を選択された例|id={{国立国会図書館書誌ID|000002564657}}|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210911023610/http://hakusyo1.moj.go.jp/jp/37/nfm/n_37_2_3_4_5_3.html|archivedate=2021-09-11}} |
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* {{Cite book|和書|title=九州の事件 五十年 一九六四-二〇一四年|publisher=[[海鳥社]]|date=2016-04-20|pages=41-43|author=[[読売新聞西部本社]]|edition=第1刷発行|isbn=978-4874159682|NCID=BB21343130|chapter=北九州市の病院長殺害事件|quote=|id={{国立国会図書館書誌ID|027242038}}}} |
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== 脚注 == |
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{{脚注ヘルプ}} |
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=== 注釈 === |
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{{Notelist2|30em}} |
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=== 出典 === |
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{{Reflist|30em}} |
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== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
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'''本事件の刑事裁判の判決文''' |
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* {{Cite book|和書|author=事件・犯罪研究会 村野薫|year=2002|title=明治・大正・昭和・平成 事件・犯罪大事典|publisher=東京法経学院出版|isbn=4-8089-4003-5}} 257頁 |
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* [[控訴]]審[[判決 (日本法)|判決]] - {{Cite journal|和書|journal=[[判例時報]]|title=殺害された被害者が一人の場合の強盗殺人等事件について死刑の言渡しをした第一審の量刑が相当とされた事例|date=1984-11-21|issue=1128|pages=150-160|publisher=判例時報社|ref={{SfnRef|判例時報|1984}}|id={{NDLJP|2795139}}}} |
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** {{Cite 判例検索システム|事件番号=昭和57年(う)第304号|裁判年月日=1984年(昭和59年)3月14日|裁判所=[[福岡高等裁判所]]|法廷=第2刑事部|裁判形式=判決|判例集=『判例時報』第1128号|事件名=[[強盗致死傷罪|強盗殺人]]・[[死体損壊・遺棄罪|死体遺棄]]、恐喝未遂被告事件}} |
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** 判決[[主文]]:本件各控訴を[[棄却]]する。 |
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** [[裁判官]]:緒方誠哉([[裁判長]])・前田一昭・仲家暢彦 |
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*** 被告人Sの弁護人:吉永普二雄(控訴趣意書を提出) |
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*** 被告人Yの弁護人:岩城邦治・岩城和代・村井正昭(連名で控訴趣意書を提出。また、被告人Yも単独で控訴趣意書を提出) |
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*** 検察官:橋本昮(各控訴趣意書に対する答弁書を提出) |
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* [[上告]]審判決 - {{Cite 判例検索システム|ref={{SfnRef|最高裁第二小法廷|1988}}|事件番号=昭和59年(あ)第512号|裁判年月日=1988年(昭和63年)4月15日|法廷名=[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]第二[[小法廷]]|裁判形式=判決|判例集=集刑 第249号335頁|url=https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=58377|事件名=強盗殺人、死体遺棄、恐喝未遂被告事件|判示事項=死刑事件(病院院長殺害事件)}} |
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** 判決主文:本件各上告を棄却する。 |
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** 最高裁判所裁判官:[[香川保一]](裁判長)・[[牧圭次]]・[[島谷六郎]]・[[藤島昭]]・[[奥野久之]] |
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*** 被告人Sの弁護人:吉永普二雄 |
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*** 被告人Yの弁護人:岩城邦治・岩城和代・村井正昭(連名で控訴趣意書を提出。また、岩城邦治はY本人作成の上告趣意書を引用) |
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*** 検察官:秋田清夫(公判出席) |
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*** 収録元:{{Cite journal|和書|journal=最高裁判所裁判集 刑事 昭和63年4月 - 6月|year=1988|title=昭和59年(あ)第512号|issue=249|pages=335-403|publisher=[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]|ref={{SfnRef|集刑|1988}}|id={{国立国会図書館書誌ID|000001995318}}}} |
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**** 335 - 337頁は判決本文、339 - 347頁は被告人Sの弁護人(吉永普二雄)による控訴趣意書、349 - 396頁は被告人Yの弁護人(岩城邦治・岩城和代・村井正昭)による控訴趣意書(控訴趣意書はいずれも1984年8月31日付)。また、397 - 403頁(岩城邦治の上告趣意補充書:1984年8月30日提出)は、被告人Yが自ら書いた上告趣意(死刑の恐怖および残虐性を訴え、減軽を求める内容)の引用である。 |
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*** {{Cite journal|和書|journal=[[判例タイムズ]]|title=死刑の量刑が維持された事件(いわゆる北九州市病院長殺人事件)|volume=39|date=1988-08-01|issue=18|pages=103-104|publisher=判例タイムズ社|ISSN=0438-5896|ref={{SfnRef|判例タイムズ|1988}}|id={{国立国会図書館書誌ID|000000019896}}}} - 通巻667号。 |
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'''その他裁判資料''' |
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* {{Cite journal|和書|journal=刑事裁判資料|title=死刑事件判決集(昭和41 - 43年度)|date=1970-01|issue=189|publisher=[[最高裁判所事務総局]]|ref={{SfnRef|刑事裁判資料|1970}}}} - [[朝日大学]]図書館分室、[[富山大学]]附属図書館に所蔵。本事件以前、被害者1人の強盗殺人事件で被告人2人に死刑が宣告された最後の事例([[名古屋地方裁判所]]1968年4月19日宣告判決)が掲載されている(事件一覧表33 - 34頁、本文448 - 456頁)。 |
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* {{Cite journal|和書|journal=刑事裁判資料|title=死刑事件判決集(昭和37 - 40年度)|date=1971-02|issue=193|publisher=最高裁判所事務総局|NCID=AN00336020|ref={{SfnRef|刑事裁判資料|1971}}}} - 朝日大学図書館分室、[[東京大学大学院法学政治学研究科・法学部|東京大学法学部]]研究室図書室、富山大学附属図書館、[[日本大学法学部・大学院法学研究科及び新聞学研究科|日本大学法学部]]図書館に所蔵。本事件以前、被害者1人の強盗殺人事件では最後に、最高裁で被告人2人の死刑が確定した事件[1964年12月25日:最高裁第二小法廷判決、事件番号:昭和39年(あ)第454号]が掲載されている(事件一覧表56 - 57頁、本文398 - 406頁)。 |
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* {{Cite book|和書|title=裁判員裁判における量刑評議の在り方について|publisher=[[法曹会]]|date=2012-10-20|ref={{SfnRef|司法研修所|2012}}|editor=[[司法研修所]]|url=https://www.hosokai.or.jp/item/annai/data/201210.html|edition=第1版第1刷発行|isbn=978-4908108198|NCID=BB10590091|id={{国立国会図書館書誌ID|024032494}}|series=司法研究報告書|volume=63|issue=3}} - 司法研究報告書第63輯第3号(書籍番号:24-18)。「事件一覧表」には、1980年度 - 2009年度の30年間に死刑か無期懲役が確定した死刑求刑事件全346件の概要が掲載されているが、本事件の加害者であるSおよびYは、55番・56番として掲載されている。 |
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** 協力研究員 - [[井田良]]([[慶應義塾大学]]大学院教授) |
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** 研究員 - [[大島隆明]]([[金沢地方裁判所]]所長判事 / 委嘱時:[[横浜地方裁判所]]判事)・園原敏彦([[札幌地方裁判所]]判事 / 委嘱時:[[東京地方裁判所]]判事)・辛島明([[広島高等裁判所]]判事 / 委嘱時:[[大阪地方裁判所]]判事) |
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'''書籍''' |
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* {{Cite book|和書|title=北九州市小倉北区 1980|publisher=[[ゼンリン|善隣出版社]]|date=1980-06|page=|ref={{SfnRef|ゼンリン|1980}}|series=ゼンリンの住宅地図|chapter=|id={{国立国会図書館書誌ID|000003599264}}}} |
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* {{Cite book|和書|title=北九州市史 五市合併以後|publisher=[[北九州市]]|date=1983-02-10|pages=950-957|ref={{SfnRef|北九州市史|1983}}|editor=北九州市史編さん委員会|chapter=暗い事件の続発|DOI=10.11501/9575181|NCID=BN01336884|id={{国立国会図書館書誌ID|000001607488}}・{{NDLJP|9575181}}}} |
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* {{Cite book|和書|title=実録・福岡の犯罪〈下〉|publisher=[[葦書房]]|date=1993-03-15|pages=246-258|ref={{SfnRef|フクオカ犯罪史研究会|1993}}|author=弓削信夫・中島義博・笠井邦充|editor=フクオカ犯罪史研究会|edition=初版第一刷|series=|isbn=978-4751204818|NCID=4751204815|id={{国立国会図書館書誌ID|000002260431}}|chapter=病院長バラバラ殺人事件 <昭和五十四年・北九州市>}} |
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* {{Cite book|和書|title=裁判資料 死刑の理由|publisher=[[作品社]]|date=1999-11-25|pages=97-103|ref={{SfnRef|井上薫|1999}}|author=[[井上薫 (弁護士)|井上薫]](編著者)|edition=初版第1刷|isbn=978-4878933301|NCID=BA44540439|id={{国立国会図書館書誌ID|000002842555}}|chapter=番号9 罪名…強盗殺人、死体遺棄。Xについてはさらに、恐喝未遂}} |
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* {{Cite book|和書|title=コロナ禍のなかの死刑 年報・死刑廃止2020|publisher=[[インパクト出版会]]|date=2020-10-10|ref={{SfnRef|年報・死刑廃止|2020}}|author=年報・死刑廃止編集委員会|editor=(編集委員:岩井信・可知亮・笹原恵・島谷直子・高田章子・永井迅・[[安田好弘]]・深田卓) / (協力:死刑廃止国際条約の批准を求めるフォーラム90・死刑廃止のための大道寺幸子基金・深瀬暢子・国分葉子・岡本真菜)|url=http://impact-shuppankai.com/products/detail/300|edition=第1刷発行|isbn=978-4755403064|NCID=BC03101691|id={{国立国会図書館書誌ID|030661462}}}}<!--各死刑囚の収監先のデータについては同書245 - 271頁に記載。同書271頁に「2020年9月27日時点の情報」と記載されています--> |
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'''雑誌記事''' |
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* {{Cite journal|和書|journal=[[サンデー毎日]]|author=仁科邦男|title=惨殺病院長の遺産40億円の行方|volume=55|date=1980-01-13|issue=2|pages=28-30|publisher=[[毎日新聞出版|毎日新聞社出版部]]|DOI=10.11501/3369859|ref={{SfnRef|サンデー毎日|1980}}|id={{近代デジタルライブラリー|3369859}}}} - 通巻第3221号(1980年1月13日・20日号)。 |
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* {{Cite journal|和書|journal=サンデー毎日|author=[[毎日新聞西部本社]]報道部・事件グループ|title=北九州病院長殺し 密着追跡メモから|volume=55|date=1980-03-30|issue=15|pages=157-159|publisher=毎日新聞社出版部|DOI=10.11501/3369872|ref={{SfnRef|サンデー毎日2|1980}}|id={{近代デジタルライブラリー|3369872}}}} - 通巻第3234号(1980年3月30日号)。 |
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* {{Cite journal|和書|journal=暁鐘|author=和田昭三 捜査第一課特別捜査班長|title=捜査実録 狂ったピラニア 〜A病院長強盗殺人事件捜査から〜|volume=51|date=1980-08-01|issue=8|pages=84-91|publisher=(発行所)[[福岡県警察]]本部教養課(協賛)福岡県警察職員互助会|ref={{SfnRef|和田昭三|1980}}|author2=絵・大西春雄}} - 福岡県警の機関誌『暁鐘』1980年8月号。[[福岡市総合図書館]]に所蔵。本文中、被害者Aと加害者2人は実名だが、それ以外の人物は捜査員も含めて匿名で表記されている。 |
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* {{Cite journal|和書|journal=暁鐘|author=和田昭三 捜査第一課特別捜査班長|title=捜査実録 狂ったピラニア(2) 〜A病院長強盗殺人事件捜査から〜|volume=51|date=1980-09-01|issue=9|pages=69-75|publisher=(発行所)福岡県警察本部教養課(協賛)福岡県警察職員互助会|ref={{SfnRef|和田昭三2|1980}}|author2=絵・大西春雄}} - 『暁鐘』1980年9月号。福岡市総合図書館に所蔵。 |
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* {{Cite journal|和書|journal=法務総合研究所研究部報告|author=滝本幸一|author2=細川英志|title=行刑施設の収容動向等に関する研究|date=2002-05-01|url=http://www.moj.go.jp/content/000073928.pdf|issue=20|publisher=[[法務総合研究所]](編集兼発行人)|format=PDF|accessdate=2021-04-26|ref={{SfnRef|法務総合研究所|2002}}|id={{国立国会図書館書誌ID|6234069}}・{{NDLJP|10225820}}}} |
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== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
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* [[日本における死刑囚の一覧 (1970-1999)]] |
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* [[山陽鉄道列車強盗殺人事件]] - 明治時代に発生した事件。被害者1人に対し、共犯2人が死刑になった。 |
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* [[日本における被死刑執行者の一覧]] |
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* [[バラバラ殺人]] |
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== 外部リンク == |
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* {{Cite web|url=http://kitakyu-dousoukai.com/koukaikouza/1.html|title=北九州市立大学同窓会─平成22年度北九州市立大学公開講座 (同窓会員による講演) 基本テーマ 「北九州市立大学をバネに活躍する人々」 「わが記者人生に悔いはなし」西日本新聞社 元社会部長 田村 允雄(S42・商学部商学科卒)|accessdate=2021-04-25|publisher=[[北九州市立大学]]|first=田村允雄|date=2010-09-25|website=北九州市立大学同窓会|quote=<<小倉北区の病院長殺害(遺体切断・海中遺棄)事件>>|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210422041426/http://kitakyu-dousoukai.com/koukaikouza/1.html|archivedate=2021-04-22}} |
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2021年9月14日 (火) 15:56時点における版
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北九州市病院長殺害事件 | |
---|---|
事件現場となったスナック「ピラニア」の位置 | |
場所 | |
座標 | |
標的 | 病院長の男性A(当時61歳:「ピラニア」の常連客)[6] |
日付 |
1979年(昭和54年)11月4日[6] - 5日[5] 4日21時過ぎ(Aが「ピラニア」に来店)[8] – 5日13時前(Aを殺害)[5] (UTC+9) |
概要 | 男2人(釣具店経営者およびスナック経営者)が共謀の上、スナックの常連客だった病院長を誘い出し、あいくちで斬りつけたり、首を絞めたりして殺害[6]。死体をバラバラに解体し、フェリーから海に捨てた[6]。 |
攻撃手段 | |
攻撃側人数 | 2人 |
武器 | あいくち[注 2](刃渡り約30 cm)[10] |
死亡者 | 1人[11] |
被害者 | 男性A(事件当時61歳:病院長) |
損害 | 約95万円[12] |
犯人 | 男2人 |
動機 | 楽な方法で大金を得るため[13] |
謝罪 | 2被告人とも公判で反省の意を示した[11] |
賠償 | 加害者Yは事件後、店を処分して作った300万円を財団法人犯罪被害救援基金に寄託[11] |
刑事訴訟 | 加害者2人とも死刑(上告棄却により確定/執行済み) |
影響 | 事件後、Aの経営していた病院は廃業した[14]。 |
管轄 |
北九州市病院長殺害事件(きたきゅうしゅうし びょういんちょうさつがいじけん)は、1979年(昭和54年)11月4日から5日にかけて福岡県北九州市小倉北区で発生した強盗殺人・死体遺棄(バラバラ殺人)事件。大病院を経営していた男性A(当時61歳)が、男2人によって金目的で殺害され、バラバラにされた死体を大分県(国東半島)沖の海に投棄された。加害者2人は1988年(昭和63年)に最高裁で死刑判決が確定し[17]、1996年(平成8年)に死刑を執行されている[18]。
1983年(昭和58年)に最高裁が死刑適用基準として「永山基準」を示して以降、2009年(平成21年)3月時点までに、殺害された被害者が1人の事件で、複数の被告人の死刑が確定した事例は、本事件が唯一である[注 3][注 4][20][23]。
概要
加害者の男2人(本文中SおよびY)はそれぞれ、北九州市小倉北区内で釣具店とスナックを経営していたが、遊惰な生活を夢見て一攫千金を狙った[6]。そこで、加害者Yが経営していたスナック「ピラニア」(小倉北区堺町一丁目5番12号)[4]の常連客で[6]、北九州市内で大病院を経営していた男性A[9](当時61歳)に目をつけ[6]、大金を奪った上で殺害する完全犯罪を計画[12]。犯行の日時場所、脅迫方法、金品の強奪方法、犯行の隠蔽方法(死体の解体・遺棄など)などについて、事前に綿密な計画を練り上げた[12]。
1979年11月4日夜、2人は被害者Aを「ピラニア」に誘い出し[6]、あいくち[注 2]で左脇腹を斬りつけて瀕死の重傷を負わせ、現金約95万円を強奪したほか、Aの妻に電話を掛けさせ、2,000万円を持参するよう指示させたが失敗[24]。口封じのため[6]、翌5日昼に[5]瀕死状態のAを絞殺し、死体をバラバラに解体して[25]、小倉港発松山港行きのフェリー「はやとも丸」から[26]、国東半島(大分県)沖の海[6](周防灘)に投棄した[7]。事件後、2人は数々の証拠隠滅を図った[27]が、翌1980年(昭和55年)3月から4月にかけ、福岡県警の調べに対し、相次いで犯行を自供[26][28]。本事件の強盗殺人・死体遺棄容疑で逮捕・起訴された[16]ほか、Sは恐喝未遂の余罪でも起訴されている[29]。
本事件は、被害者Aが地元の名士だったことや、死体がバラバラにされた猟奇性、加害者らが被害者を誘い出す口実として小柳ルミ子[注 5](歌手)の名が使われたことから、社会的に注目を浴びた[6]。特に地元・小倉ではかなり関心が高く、本事件の発生直後には各新聞が報道合戦を繰り広げ、本事件の報道の詳細さと、その新聞の売り上げが比例する現象も見られた[32]。また、本事件の捜査中だった1979年12月23日には小倉北区赤坂で、暴力団組長がピストルで射殺される事件が発生[33]。同事件を受け、県警が暴力団抗争への警戒を強めていた1980年2月8日には、小倉南区貫でシンナー常習者による連続女性殺傷事件(1980年2月8日)が発生した[34]。このように、北九州市内で凶悪事件が続発し、それらの事件が全国ニュースで取り上げられたことや、本事件の解決後も、東京や大分県日田市で市出身者による殺傷事件が相次いで発生した[注 6]ことが原因で、市の対外イメージは悪化した[36]。『北九州市史』 (1983) では、当時の情勢について、「(市内で)凶悪事件が続発し、『事件の北九州』の異名を全国に宣伝することになった」と言及されている[37]。
刑事裁判で、被告人として起訴された加害者2人は、ともに自身の主導性を否定し、「相手が主犯だ」と主張し合った[6]。しかし第一審の福岡地裁小倉支部 (1982) は、発案および殺害の実行行為を2人の共同行為と認定[6]。犯行の計画性の高さ・残忍さ、動機の悪質さなどに加え、2人がそれぞれ相手に責任を転嫁しようとしている態度を「反省がない」と指摘し、ともに死刑とする判決を言い渡した[6]。福岡高裁 (1984) および最高裁第二小法廷 (1988) もそれぞれ原判決を支持し[38][17]、1988年5月に2人の死刑が確定[39]。死刑囚2人は、事件から17年後の1996年7月11日に福岡拘置所[注 7]で死刑を執行された[18]。
なお、最高裁は1983年(昭和58年)7月、永山則夫(連続4人射殺事件の被告人)の第一次上告審で、「死刑の選択は、あらゆる情状を併せて考察し、罪責が誠に重大で、極刑がやむを得ないと認められる場合に許される」という量刑判断基準(いわゆる「永山基準」)を示した[40]。同基準の下では、結果の重大性(特に殺害された被害者の数)が特に重視されており、殺害された被害者が1人の事件の場合、死刑が確定した事例は少数に限定されているが[注 4][40]、被害者1人の強盗殺人の場合は、死刑が確定した14人のうち、本事件の犯人2人を含む大半(8人)は、当初から被害者の殺害を計画・決意していた者[注 8][注 9]であり、死刑選択にあたっては、殺人の計画性も重視されていることが判明している[注 10][49]。本事件は「永山判決」以降、殺害された被害者が1人の死刑確定事件としては5件目(SとYは5人目および6人目)である[39]。
本事件以前に、被害者1人の事件で被告人2人が死刑に処された事例は、名古屋地裁で1968年(昭和43年)4月19日に言い渡されたタクシー運転手強盗殺人事件の判決[注 11]が最後だった[53]。また、最高裁によれば、被害者1人の事件で複数の被告人に死刑が言い渡された事例は、本事件を含め、主なケースで戦後11件目だった[54]が、本事件以前では、1964年(昭和39年)12月に死刑が確定した強盗殺人事件(被害者1人)の2被告人[注 12]が最後の事例だった[17]。このように、本事件は死刑適用の限界事例とされ、死刑執行時には事件関係者から賛否両論の声が上がった(後述)[64]。
年 | 月日 | 出来事 |
---|---|---|
1979年 (昭和54年) |
11月4日 | 被害者Aが行方不明になる。Aは同日、SとYによってYの経営する「ピラニア」に監禁され、あいくちで瀕死の重傷を負わされていた。 |
11月5日 | SとYはAに自宅への電話を掛けさせ、「2,000万円を持ってきてほしい」と伝えさせたが、金の受け取りに失敗。 同日13時ごろ、2人でAを殺害。その後、死体を京都郡苅田町のモーテル「泉」[注 13]で死体をバラバラに解体[26]。 同夜、2人は小倉港発松山港行きのフェリー「はやとも丸」[26]に偽名で乗船[65]。航行中の船から死体を海(周防灘)に遺棄し[7]、同月9日まで四国を旅行[66]。 | |
11月7日 | Aの妻が小倉北警察署に夫の家出人保護願を届け出る[67]。 | |
11月15日 | 大分県の国東半島沖でバラバラ死体が発見される。翌16日に指紋照合の結果、被害者Aと確認される[68]。 福岡・大分の両県警が捜査本部を設置し、捜査を開始[15]。 | |
12月15日 | このころまでにSとYへの嫌疑が強まり、福岡県警の特捜本部幹部会で、「犯人は2人に間違いない」と確認される[69]。 | |
1980年 (昭和55年) |
2月29日 | 福岡県警捜査本部、SとYを本事件の重要参考人として、恐喝未遂容疑(参照)で別件逮捕[65]。 |
3月7日 | 捜査本部が「ピラニア」の店内を強制捜査し、複数箇所から血液反応を検出[70]。 | |
3月9日 | YがAの殺害などを自供[71]。捜査本部は同月11日、2人を死体遺棄容疑で再逮捕[72]。しかし、Yは再び否認に転じ、Sも引き続き容疑を否認[73]。 | |
3月31日 | Yが全面自供[26]。 | |
4月1日 | Sが「自分がYを刺した」と自供[8]。 | |
4月2日 | 2人の自供通り、死体の切断に用いられた凶器(鉈・金切り鋸など)が発見される[74]。捜査本部、2人を強盗殺人容疑で再逮捕[75]。 | |
4月14日 | 福岡地検小倉支部、2人を強盗殺人罪・死体遺棄罪で起訴[16]。 | |
6月3日 | 福岡地裁小倉支部(佐野精孝裁判長)で第一審の初公判[76]。 | |
7月30日 | 国東半島沖でAの右脚が発見される。 | |
1982年 (昭和57年) |
2月15日 | 国東半島沖でAの頭蓋骨が発見される[77]。 |
2月16日 | 論告求刑公判で、検察官が「2被告人は共同正犯で、刑事責任は同等」として、それぞれ死刑を求刑[78]。 | |
2月23日 | 両被告人の弁護人がそれぞれ最終弁論を行い、事実上結審[79]。 | |
3月16日 | 福岡地裁小倉支部(佐野精孝裁判長)、2被告人に死刑判決[6]。判決後、2人は福岡高裁へ控訴[80]。 | |
10月14日 | 福岡高裁第2刑事部(緒方誠哉裁判長)で控訴審初公判[81]。 | |
1984年 (昭和59年) |
1月23日 | 控訴審が結審[82]。 |
3月14日 | 福岡高裁第2刑事部(緒方誠哉裁判長)、2人の控訴を棄却する判決を宣告[38]。判決後、2人は最高裁へ上告[83]。 | |
1988年 (昭和63年) |
4月15日 | 最高裁第二小法廷(香川保一裁判長)、2被告人の上告を棄却する判決を宣告[17]。 |
5月 | 5月17日付で判決訂正申立棄却の決定が出され[84][85]、18日付で2人の死刑が確定[注 14][39]。 | |
1996年 (平成8年) |
7月11日 | 福岡拘置所[注 7]で死刑囚2人の刑が執行される[18]。 |
加害者
死刑囚S
加害者S・Y(以下「S」/釣具店経営)は1946年(昭和21年)10月19日生まれ[86](事件当時33歳)。本籍地は北九州市小倉北区昭和町850番地の2、住居は小倉北区木町一丁目[86]。事件当時は、「徳力釣具店」(小倉北区片野三丁目)を経営しており[87]、妻と2人で平穏に生活していた[88]。
Sは幼少期に病弱の父親と別れて生活し、母親によって女手1つで育てられた[89]。幼少期に基本的な生活習慣・社会性が十分涵養されないまま生育し、高校[注 15]時代に喧嘩や恐喝事件を起こしたが、成人後は(後述の新北九州信用金庫曽根支店への恐喝未遂事件を起こすまで)重大な前科・前歴はなかった[88]。
高校卒業後、国鉄の行橋機関区に整備係として就職したが、半年で退職し、鮮魚仲買業に転職した[91]。その経営者の娘(前妻)と結婚し、1児の父になると、独立して飲食店を経営するようになったが、その店の従業員である女性と同棲するようになり、前妻と離婚した上で再婚[91]。1971年(昭和41年)から「徳力釣具店」を経営するようになり[91]、一時期は「北九州釣具店協同組合」の小倉支部長を務めていた[30]。なお、1970年(昭和45年) - 1973年(昭和48年)ごろにかけ、「Oクリーニング店」(小倉南区徳力)の近くに在住しており、1971年ごろには妻が同店を利用していたことがあった[92]。
事件後、獄中で熱心に写経に取り組み、控訴審判決までに17冊を書き上げていた[93]。
死刑囚Y
加害者Y・K(以下「Y」/スナック経営)は1952年(昭和27年)9月5日生まれ[86][94](事件当時27歳)。本籍地は北九州市戸畑区椎ノ木町96番地の2、住居は椎ノ木町9番10号[86]。事件前まで、前科・前歴はなく、妻子とともに円満・平穏に生活していた[88]。
Yの両親は終戦後、八幡から知人を頼って神奈川県に出たが、その知人に会えず、日雇いや店員などの仕事をして生計を立てていた[95]。その後、神奈川県足柄下郡湯本町(現:箱根町)で長男Yが生まれると[注 16]、1954年(昭和29年)ごろ、遠賀郡水巻町に戻った[94]。両親は、日炭高松炭住街の人々を得意先として、鮮魚の行商をしていたが、Yが10歳(小学校4年生)のころ、炭鉱の閉山[注 17]によって町の人口が減り、商売が不調になった[97]。そのため、父は梱包会社に勤めるようになり[97]、真面目さと努力が実ったことで課長にまで昇進した[注 18][95]。母はYが5年生のころ、リアカーに魚を載せて行商をするようになった[97]が、Yも小学校のころから高校卒業まで[98]、苦しい家計を支えるため、母の鮮魚の行商を手伝った[88]。
その後、Yは1965年(昭和40年)3月に下二小学校を卒業し、水巻中学校に進学したが、中学2年の時、卓球クラブで知り合った少年(家庭が生活保護を受け、少年院にも入った経験がある)と仲良くなり、空き巣の見張りをして、少年が盗んだ金を分前として貰ったことがあった[99]。しかし、主犯の少年が部屋の中に汚物をしていたため、被害者の激怒を買い、Yは父親とともに小倉家庭裁判所で厳しく叱られた[注 19][99]。この1件以来、Yは周囲から疑いの目で見られるようになったが、中学3年生に進学した際、担任が英語の教師に交代すると、その教師がYの過去の汚点を物ともせず対処してくれたことや、Y自身も英語が得意だったことから、再び活気を取り戻した[100]。
1968年(昭和43年)、福岡県立水産高校製造科に進学[100]。高校時代は、1年生の際にクラスの副学級委員を、3年生の際に新聞部長をそれぞれ務め[30]、クラブの教諭の推薦で、保護司会が後援した西日本新聞社主催の弁論大会に、「人間失格」というテーマで出場し、地区予選まで残った[100]。
高校卒業後、叔父(母の弟)が経営するタイヤ販売会社に就職し、1971年11月には4歳年上の妻と結婚[101]。翌1972年(昭和47年)11月に長男が誕生したが、1973年にオイルショックの影響で経営が悪化したことから、退職して新たな仕事を探していたところ、高校時代の同級生からの勧めで、その友人の兄が経営していたスナックに務めることになった[102]。1974年(昭和49年)8月以降[103]、スナックやクラブなどのバーテン・店長などを経て、それらの経験を生かし[88]、1978年(昭和53年)11月以降、自分の店であるスナック「ピラニア」を経営するようになった[103]。
犯行後、逮捕されるまでに追及を免れようと、刑事訴訟法の解説書を読んだり、冤罪事件を扱った本を買い込んだり、免田事件や荒木虎美事件をスクラップしたりしており、逮捕後もそれらから得た知識を生かして、全面自供まで32日間にわたり、のらりくらりと追及をかわし続けた[104]。一方、獄中では、身辺雑記や家族への手紙を書いたり[93]、英和辞典を用いて洋書を読んだり、ハングルの勉強をしたりしていた[105]。また、店を処分して300万円を工面し、これを遺族に対する慰謝料として払おうとしたが[11]、受け取りを拒否されたため[14]、財団法人犯罪被害救援基金に寄託した[11]。
被害者
被害者である病院長A(61歳没)は、北九州市小倉南区津田で生まれ[106]、事件当時は小倉北区三萩野二丁目[注 20]に在住し[15]、同地で「A病院」を経営していた[108]。家族は妻(1980年1月当時57歳)と、歯科医に嫁いだ長女(同30歳)、独身の次女(同29歳)がいた[109]。
Aは旧九州医学専門学校(現:久留米大学医学部)を卒業後、1946年(昭和21年)から1959年(昭和34年)まで国立小倉病院に勤務[15]。1960年(昭和35年)に「A診療所」を開業[15]。当初は内科のみの診療所だったが[106]、間もなく「A病院」に昇格させ[15]、外科・小児科・放射線科を併設した[106]。また、1974年(昭和49年)には医療品・医療機材の販売会社を設立したほか、マンションを賃貸する不動産会社[68]「A興産」を設立[注 21][106]。マンション6棟[注 22]や借家などを所有していたほか、分譲住宅の販売なども行い[106]、1977年度(昭和52年度)・1978年度(昭和53年度)には北九州市の長者番付3位に入っていた[注 23][68]。Aは事件当時、糖尿病の持病があり、インスリンを注射しないと生命に危険がある状態だった[68]。
多額の資産を有していたAは、小倉の繁華街における夜の豪遊ぶりが巷の噂になっており[14]、飲みに出る際には派手な洋服や装身具に身を包み、芸能人や関取を大勢連れて行くなどしていた[110]。Sは本事件以前の1978年10月初旬に交通事故で負傷し(後述)[111]、同年12月27日まで約2か月間[92]、Aが経営する「A病院」に入院したことがあり、その経営規模や、噂で聞いたAの豪遊ぶりから、「Aには相当の試算や収入がある」と推測していた[112]。また、Yも別のスナックで店長を務めていた1975年(昭和50年)の末ごろ、同店に客として出入りしていたAと知り合い、A宅を訪れたり、贈り物を貰ったりするなどしていた(後述)[112]。一方、病院経営者としては真面目な性格で、看護婦などが薬の空き箱を粗末にすると注意したりしていた[110]。
事件当時、Aの経営していた「A病院」は、外科・内科・小児科・放射線科を有していた大病院(ベッド数171床)で[15]、他の病院が受け入れたがらない生活保護受給者や暴力団員も「人道的措置」と称して積極的に入院させる[113]ことで、入院患者数を増やし[15]、常時130人以上の入院患者がいた[106]。しかし、常勤医師は院長A以外に1人しかおらず、入院患者の無断外泊や、飲酒・覚醒剤濫用[注 24]、病院内での患者同士の喧嘩を発端とする殺人事件の発生などが問題視され[113]、小倉医師会から入院患者の監督を十分行うよう、厳しい注意を受けたこともあった[15]。特に事件発生より半年前(1979年5月)には、入院中の患者同士が飲酒して喧嘩し[114]、1人が殴られて死亡する事件が発生していた[15]。また、事件当時は老朽化が著しくなっており[15]、A自身も佐賀県まで病院の後継者探しに出掛けていたほか、知人に対し、「マンションでも経営しながらのんびり暮らしたい」とこぼすなど、病院経営に疲れを見せていた[110]。事件当時、Aは出身地の小倉南区津田に[110]、豪邸(総工費は推定1億円近く)を建設中で[115]、さらにその近くにも300戸程度のマンションを建設する予定だった[110]。
「A病院」は事件後、院長であるAが死亡したことにより廃業[14]。一方、遺された不動産会社は妻が継承した[注 25][105]。なお、次女は1987年(昭和62年)3月17日、身代金目的の誘拐事件の被害に遭ったが、約12時間後に無事保護されている[116]。
事件前の動向
Yは1975年(昭和50年)ごろ、自身が店長を務めていたスナック「カーニバル」を飲み客の1人として訪れていた被害者Aと知り合い、やがてAに自宅マンションまで連れて行ってもらったり、他の店に飲みに連れて行ってもらったりした[117]。また、スナック「ビーナス」の店長を務めていた1976年(昭和51年)ごろには、店の客として訪れてきたSと知り合い、一度だけ狩猟に同道したことがあった[118]。この時は、店長と客以上のプライベートな交際にまでは発展しなかったが、1979年春ごろ、Yは自分たまに通っていたピザハウスの近くに、Sの釣具店があることを知り、その店主がよく「ビーナス」へ飲みに来ていたSだったことを思い出し、「ピラニア」に飲みに来るよう勧誘の挨拶に行った[118]。当初、Sは水割りを少し飲んで帰る程度だったが、やがてYと一緒に、Yの行きつけのホステスに飲みに行くようになった[119]。また、Yは自身の店「ピラニア」で、客商売のために魚のピラニアを飼育しており[103]、その餌である金魚を購入するため、Sの釣具店からすぐ近くにある養魚場へ通っていたが、その際にSの釣具店にぶらりと立ち寄るようになった[119]。
SとYの接近
事件当時、Sの釣具店や、Yの経営するスナック「ピラニア」の売上は順調で、両者ともに約800万円余の債務を背負ってはいた[注 26]が、ともに金銭的に困窮しているような状態ではなかった[注 27][120]。しかし、Sは当時、スナックホステスの愛人が2人おり[91]、外車を乗り回して繁華街のバーやスナックなどで飲酒し、遊興にふけることを好んでいた[112]。
Sは1978年10月2日、北九州市内で対向車に衝突される事故に遭い、むち打ち症で自宅付近の「A病院」に入院[111]。この事故ではS側に過失はなく、相手側から示談金200万円[注 28]が支払われたが、それまで大衆的なスナックに通うことが多かったSは、示談金を得てから高級クラブに行くようになった[111]。また、Sは院長のAに依頼し、自身に有利な内容の診断書を書かせ、保険会社から不当な保険金を受け取っていた[122]。やがて示談金が尽きると、Sは店の売上金にも手を付け、釣り餌や釣具を卸していた問屋への仕入れ金も滞りがちになった[111]。当時、Sは営業資金名目で借金約900万円を抱えており[注 26]、店舗の移転資金[注 29]も必要としていた[111]。
SとYは1979年夏ごろから親しく交際するようになったが、Yは、小さな釣具店を経営するだけでしばしば飲み歩いているSを羨ましく思い、店の営業時間中から売上金を持ち出しては、Sとともに他のスナックなどに出掛けて遊び回るようになった[注 30][112]。そして、2人とも真面目に働くことが嫌になり、急いで返済する必要のなかった負債を一気に返還すること、店の経営を拡大することや、高級車を購入し、働かずして遊興にふける安楽な生活を送ることを望むようになり、そのために必要な大金を得る手段を考えた[112]。そのため、Sはスナック「散歩道」のホステス甲[注 31]と情交関係のあった歯科医師を脅し、金品を脅し取ることを考え、Yを誘ってその準備をしていた[注 32][124]が、実行するとそれが甲(元愛人に暴力団幹部がいた)に知れることを考え、計画実行を断念した[125]。
Aの殺害計画
2人はそれに代わる計画として、本件犯行を思い立ち[126]、地元で有名な資産家として知られていた被害者の病院長Aを標的とした上で、AをYの経営する「ピラニア」、犯行日時は11月4日(日曜日)[注 33]の21時と定めた[112]。そして、芸能人好きのAを「小柳ルミ子[注 5](歌手)を紹介する」と騙して誘い出し[112]、散弾銃とあいくち[注 2](Sの持ち物)[127]で脅迫して、店内に監禁する[注 34][112]。そして、Aに家族への電話を掛けさせて大金を用意させ、それを奪った上でAを殺害し、死体をスチール製ロッカー[注 35]に入れ、マンションで解体した上で、あらかじめ手配した瀬渡し船から海中に投棄する一方、Aの車を福岡空港付近に乗り捨てることで、Aが大金を持って失踪したように装うことにするなど、綿密な計画を立てた[112]。当初は死体を解体後、車で鹿児島まで運び、Sが以前から利用していた鹿児島県川内市(現:薩摩川内市)の瀬渡し船をあらかじめ借り切り[112]、甑島方面に向かう途中[128]、海上で船長の目を盗んで死体を投棄する計画だった[112]。
それらの計画を実行するため、YはAに連絡して11月4日に「ピラニア」に来ることを約束させた一方、死体の解体場所[注 13]を手配し、Sも瀬渡し船を手配した[112]。そして11月1日、2人は日曜大工道具大型店「ハンドメイクニシイ」(北九州市小倉南区葛原)で、被害者Aを縛ったり、殺害後に死体を搬出・解体するための道具として、竹割鉈2本、金切り鋸1本とその替え刃4本、軍手2双、プラスチック製バケツ(45 L)、盆栽用のアルミ製針金(直径1 mm、長さ約10 m)、台所用の水手袋1双、ガムテープ1個を購入[132]。それらに加え、棒たわし、洗剤、パイプクリーナー、タオル、ガーゼ、晒、ポリ袋、スチール製ロッカー[注 35]なども事前に買い揃え、いずれも車に積み込んだり、散弾銃やあいくちとともにあらかじめ「ピラニア」店内に運び込むなどして、周到な準備をした[112]。大金を得る手段の計画は、監禁したAに家族への電話を掛けさせ、大金をトランクに入れたA宅の車をホテルの駐車場に置かせた上で、車の鍵をホテルのフロントに預けさせ、その鍵を受け取って車ごと奪うというものだった[112]。
Yの愛人女性乙[112]は、「10月21日 - 22日にYとともに塚野温泉(大分県)へ旅行に行った際、Yから『11月の初めごろ、Sと一緒に鹿児島に物を運んだら億の金が入る(=鹿児島まで死体を運び、海に投棄することを意味する)が、失敗すれば10年は覚悟しないといけないだろう』などと聞いていたが、旅行から帰った翌日に『その件はやめた』ということを聞いた」と証言している[126]が、福岡高裁 (1984) は、乙の証言などを総合して、「(1979年)10月20日以前の時点で、被告人らの間で被害者殺害の謀議がなされていたことが明らかなのである。」と認定している[112]。また、Yは事件当日(11月5日)に予定されていた趣味の早朝野球の予定を断っていたほか、事件発生(11月4日)の3 - 4日前には家族らに対し、「11月4日から、鹿児島の甑島に釣り旅行に行く」と話していたが、釣り船を予約・キャンセルした痕跡はなかった[73]。
一方、Aは失踪前(10月25日 - 11月3日まで)に会っていた知人や、遊興先のホステスなど約10人に対し、「11月4日に小柳ルミ子と会う」「小柳ルミ子とできたらスポンサーになって、多額の金を東京まで持って行かないかんだろう」「東京の有名歌手と会うから店に連れて来てやる」などと話しており、11月2日には、4日夜にデラックスルームの宿泊予約を取っている[注 36][135]。しかし、小柳は11月1日 - 7日にかけ、東京・浅草の国際劇場でワンマンショーを開催中で、Aとは面識がなく、小倉に行く予定もなかった[注 5][135]。
恐喝未遂事件
また、Sは同年10月、新北九州信用金庫曽根支店(北九州市小倉南区下曽根三丁目)[注 37]に対する恐喝未遂事件を起こしていた[65]。
逮捕容疑によれば、Sは同店から金を脅し取ろうと考え、同年10月18日18時ごろ、知人の牛乳販売店主[注 38]宅に同支店の得意先係を呼びつけ、「牛乳販売店が支店に依頼している牛乳自動販売機の集金額が、実際より3万円少ないが、どうしてくれる」と脅し、名刺の裏に「支店側に非があった」と書かせた上で、翌19日には同支店に押し掛け、支店長に名刺を示しながら「新聞記者に配るぞ」と脅し、支店長代理から現金30万円を恐喝しようとした[65]。これを受け、支店長は自分の判断で30万円を支店側の知人に渡し、牛乳販売店主を説得しようとしたが、それを知った市内の暴力団幹部が、支店側の意思とは無関係に介入し、自ら肩代わりして牛乳販売店主に30万円を支払った[138]。結局、Sは同支店から金を入手できず、恐喝は未遂に終わった[65]。
同事件については、本事件についての嫌疑を掛けられたSとYの別件逮捕と同時に、牛乳販売店主も共犯として逮捕されたが、彼には本事件の嫌疑は掛かっておらず[65]、10日間の拘置後に釈放された[139]。また、Sは恐喝未遂罪で起訴された(1980年3月11日付)一方、Yは同事件については処分保留とされ[29]、最終的には起訴されなかった。
事件当日
11月4日午後、Yは髭を剃り落として変装した[127]。同日20時ごろ、SとYは「ピラニア」に行き、散弾銃とあいくち[注 2]を出入口付近のカウンターに隠すと、Yはそのまま1人でAの来店を待った[140]。一方、Sは20時30分ごろに店を出て、「エルザビル」[注 1]横に駐車した自分の車の中で待機した[140]。
被害者Aは21時10分 - 17分ごろ、「ピラニア」に来店したが、その際にはラメ入りの紫の上着、ダイヤ入りの高級腕時計(ピアーゼ:時価502万円)およびループタイ(170万円)、指輪(70万円)を着用していた[8]。Yは「ピラニア」店内に入ってきたAに酒を勧め、Aから小柳のマネージャーへ渡す謝礼分として現金20万円を預かり、歓談しながらSの到着を待った[141]。この時、預かった20万円はカウンター背後の壁面に設置してあった洋酒棚に入れて保管した[141]。Sはそれからしばらくして店に現れると、Yから散弾銃を受け取り、実包を装填する仕草をした一方、YがAが逃げられないよう、店の出入口シャッターを閉め、あいくちを手にしてAの背後に回った[141]。
あいくちでAを斬りつける
Aは「Y君、何のまねかね」と問いかけたが、Sは両手に持った散弾銃の銃口をAに突きつけ、「やかましい、ぐずぐず言うな、ぶっぱなすぞ、服をぬげ」などと怒鳴りつけ脅迫[141]。Aは所持金約75万円をカウンターの上に差し出し、上半身裸になったが、全裸になることを渋ったため、Sから「全部脱がんか」などと怒鳴られた[141]。それに対し、Aは不服そうに「こんなことをしてただですむと思うな」[141]「(暴力団組長の実名を挙げて)俺に誰がついているか知っているんか」[8]などと文句を言ったが、SはAを「ぶつぶつ言ったらはじくぞ」などと脅迫した一方、YはSの方を向いて立っていたAの背後から、Aの左斜め後方に近づき、あいくちの峰でA[注 40]の首付近を軽く2, 3回叩きながら「冗談でしよるんじゃないぞ」と脅迫した[141]。
しかし、Aがあいくちを払いのけようとして左手を上げたため、その態度に激昂したYは、後ろからあいくちでAの左脇腹付近を斬りつけ、左肺に達する深い切り傷を負わせた[注 41][141]上で、Aに多額の金品を要求した[14]。Aは絨毯[注 42]上に血溜まりができるほど大量に出血し、苦しみながら「傷が肺に達しているから帰してくれ」「医者を呼んでくれ」と必死に哀願していた[121]。しかし、S・Yはそのような状態のAに対し、タオルを当てて晒で巻く程度の手当てしかせず[14]、(死亡するまで)約14 - 15時間にわたり、適切な医療措置を施さずに放置して衰弱させた[121]。
この間、2人は止血のため、Aから奪った95万円の中から5,000円を遣っている[123]。4日23時ごろ、小倉北区魚町(「ピラニア」にほど近い場所)のスーパーで、30歳前後の男[142](=Y)[127]が、ガーゼ6反(Aの死体に付着していたものと同種)と増血剤を購入していた[142]。また、2人は血で汚れたAの身体を拭いた際、腕時計や指輪を取り外したほか、YはAをあいくちで斬りつけたのと前後して、洋酒棚に保管してあった20万円を、Aから脅し取った約75万円と一緒にしている(#控訴審も参照)[143]。
大金奪取に失敗
その上で、SはAに対し、「金が手に入れば帰す」と言いつつ、Aから「2,000 - 3,000万円なら用意できる」と聞き出した[144]。翌日(11月5日)9時ごろ[145]、SはAに猟銃を突きつけ[注 43]、彼の妻に対し[144]、「高い買い物をしたので、現金2,000 - 3,000万円を車のトランクに入れて、『小倉キャッスルホテル』(小倉北区室町)[注 44]まで持ってきてほしい」[145]と電話させた[注 45][144]。
しかし、本来はまず「金が要る」という電話を掛けさせ、次いで金が用意できたところで「ホテルに持ってきてくれ」という電話を2回に分けて掛けさせる予定だったが、Aが一度に話してしまった[144]。そのため、2人は警察への通報を恐れ、11時ごろに再びAに電話を掛けさせ[144]、妻に「都合で場所が変わった。金を受け取る場所を『ニュー田川』(小倉北区古船場町)[注 46]にしてほしい」[145]と伝えさせた[144]。当初は、Aの妻に「ニュー田川」前に停めた車の助手席に金を置かせ、彼女が立ち去ったところ、Yが車を取る予定だったが、Aの電話に対し、妻が「駐車違反になる」と言ったところ、Aは自身の判断で「それならホテルのフロントに預けなさい」と指示した[151]。これに慌てたSは、次のYからの電話を待ち、Aに直接ホテルへ電話させるなどの新たな作戦を話し合うはずだったが、Yが相談しないまま、フロントに出向いたため失敗した[151]。
11時30分ごろ、Aの妻は現金2,000万円を「ニュー田川」のフロントに預け、預り証を受け取って帰宅した[145]。この時、Yは変装するため、Sの妻のヘアピースを着用し[152]、かつらを被った上で、Aの妻を尾行しており、彼女が「ニュー田川」のフロントに金を預ける様子を確認した[153]上で、同日12時過ぎにフロントで「Aから預かっている荷物を受け取りに来た」と伝えたが、「貴重品なので、預り証がなければ渡せない」と断られた[154]。この後、SはYからの電話を受け、新たな指示を出そうとしたが、Yは「もうだめだ。フロントに顔を見られてしまった」と言ったため[151]、結局、2人は大金の強奪には失敗した[注 47]。
殺害
その後、SはYに対し、「ここでやめれば2、3年ですむがどうかするか」と問うたが、Yは計画通り殺害する旨の意見を述べ、結局は2人とも逡巡することなく、計画通りAの殺害を確認し合った[155]。
Aは「助けてくれよ、助けてくれよ」と懇願したが、2人は「家の近くまで連れて行って帰してやるから言うとおりにするように」と言って騙し、用意していたガムテープで体を縛り付けると、口にもガムテープを貼って声を上げられないようにした[14]。そして、手足をガムテープで巻かれ、自由を失った状態のAを寝袋に入れ[151]、11月5日の13時前、Aを殺害した[5]。まず、Yが寝袋の上からAの頸部付近を両手で強く絞めたが、Aが足を動かしたため、いったん絞めるのをやめた[141]。そこで、SがAの上に馬乗りになり、Aを動けなくした上で[141]、YもAに馬乗りになった[14]。そして、Yが再びAの首を強く絞めた[141]ところ、既に失血で衰弱していたAはさらに衰弱し、まもなく死亡した[6]。
死体解体
Aを殺害してから2時間後[123]、2人は死体を鉄製ロッカー[注 35]に入れ[26]、ロッカーをエレベーターで1階に下ろし[156]、Sの所有する釣り客送迎用のマイクロバス[26](トヨタ・ハイエース:通称ボンゴ[157])に積み込んだ。そして、2人は、京都郡苅田町のモーテル「泉」[注 13]に入ると[26]、それぞれパンツ1枚になり、鉈と鋸を使い[123]、風呂場で死体を胴体[注 48]と両手、頭、両足の3つに解体すると、それぞれガーゼ、ビニール袋、ポリバケツ、毛布などに包んだ[129]。この時、Sは切り離した片脚を浴槽の水に入れ、沈むことを確認した[123]。また、ガーゼで死体を包んだ理由について、2人は「死顔やバラバラにした死体を見ているうちに怖くなり、ぐるぐる巻きにして見えないようにした」と供述している[10]。
死体の解体後、2人は「泉」から小倉方面へ戻る途中[26]、「昭和池」(北九州市小倉南区朽網)に[28]、Aの装身具[10](サングラス[28]など)を、九州電力干拓地の池(小倉南区朽網)[注 49]に鉈や鋸などの凶器を投棄した[74]。それらの作業の際、2人は指紋が付着しないよう、手袋を用いていたが、その手袋は干拓池の入口そばの草むらに捨てている[10]。証拠品をそれぞれ分散して捨てた理由は、Sが「1か所にまとめて捨てると、発見された時に怪しまれる」と主張したためである[10]。また、Yは装身具の中でも最も高価な腕時計(時価502万円相当)を捨てることについて「もったいない。後で換金できる」と反対していたが、Sは「足がつく」と言い、腕時計も捨てさせた[10]。このほか、死体の運搬に用いたスチール製ロッカーや寝袋、衣類などは、北九州空港付近のゴミ焼き場(小倉南区)に捨て、四国に出掛けた後で、Sの知人である市の清掃職員にそれらを処分するよう求めた。職員はその電話を受けた日の夜、寝袋と衣服を焼却したものの、ロッカーは何者かに持ち去られていた[158]。
死体遺棄
しかし、この日は鹿児島の海が時化ており、当初使うはずだった瀬渡し船が出港できなかったため[128]、2人は死体をマイクロバスに積み込んだ上で、同日夜に出港する小倉港発松山港行きのフェリー「はやとも丸」[注 50][26]に偽名で乗船した[65]。同日20時30分 - 21時ごろ、Sはマイクロバスで砂津港(小倉港)に到着したが、マイクロバスを乗せる船底のトラック用甲板の予約が埋まっていた[注 51]ため、誘導の係員からキャンセル待ちを指示された[159]。しかし、Sは「どうしても乗りたい」と言い、係員に千円札を何枚も渡そうとし、いったんは断られたものの、最終的に空き場所ができて乗船できることになるとすぐに乗船券を買いに行き、その係員へ密かに千円札3枚(3,000円)を渡したため、当時のSの様子について係員は、「よっぽど乗船できて嬉しかったのだろう」と述べている[159]。結局、乗船できたSは、左舷後部の駐車場にマイクロバスを駐めたが、その近くにあった丸窓(直径約30 cm)が、死体遺棄の際に利用された[161]。同船は航行中、原則として駐車甲板への出入りが禁止されていたが、同夜は甲板につながるドアが施錠されておらず、甲板に出られる状態になっていた[162]。乗船中、2人は同室(マイクロバスを駐車した甲板の真上にあった2等客室)の乗客から、夜通しひそひそ話をし、よく起き上がっては階下に降りていた様子を目撃されている[27]。
2人は乗船中の深夜1時ごろ[144]、船倉のトラック駐車甲板から、死体を海に捨てた[26]。2人はまず、駐車場所近くの丸窓から頭部と足を捨てると、Yが胴体を後部デッキまで運び、2人でロープ[注 52]に[注 48]ブロック[161](コンクリートブロックのおもり[123])を結びつけ、海に投げ込んだ[161]。一方、ホテルで沈むことを確認した足にはおもりを付けなかった[123]。後にAの頭蓋骨や右脚が引き揚げられた地点は、大分県西国東郡香々地町(現:豊後高田市)の長崎鼻北方約10 km沖(おおよその位置)[7][77]だが、その地点はフェリーなど、大型船舶が航行する本船航路上である[77]。
2人は奪った95万円のうち、四国への旅費として14万5,000円を遣い、さらに四国へ渡った後で、2人で20万円ずつを山分けした[123]。残り約40万円はSが保管することになったが、Sはその保管分も含めて全て飲みに遣ってしまった[123]。
犯行後
11月6日5時、船が松山観光港に到着すると、2人は国道で約100 kmあまり南下し、愛媛県南宇和郡内海村(現:愛南町)のホテル「シーパレス宇和海」で休憩した[注 53]後、同日は高知県宿毛市のホテルに投宿[162]。その後、Yの髭が伸びるまで、四国で遊ぶことにし[128]、翌日(11月7日)には松山市に引き返して道後温泉で2泊し[162]、11月9日夜に砂津港へ帰った[66]。2人はこの5日間の旅行について[159]、取り調べなどに対し「気楽な釣り旅行。宿毛から釣り船に乗るつもりだった」と言っていたが[162]、この間に行った釣りはわずか1回のみで[159]、宿毛では釣り船を探した形跡がなかったばかりか、外出すらほとんどしていなかった[162]。また、Sと同業者であった小倉北区の釣具店主は、『朝日新聞』の取材に対し、「Sは『砂津(小倉港)から四国行きのフェリーに乗って釣り旅行に行った』と言っていたが、(北九州から)四国に釣り旅行に行く場合、佐賀関から宇和島行きのフェリーに乗船するのが業界の常識だから、それだけで不審に思った」と証言している[163]。
2人は犯行後、数々の隠蔽工作を図ったほか、捜査機関から嫌疑を掛けられると、互いに相談して自白しないことを誓い合った(後述)[164]。四国旅行の間、2人は(船内のものを含めた)公衆電話を使い[162]、計20回近くにわたり[27]、北九州局番の電話(「ピラニア」や同店のホステスの家、自宅などへの電話)を掛けていた[162]。特に5日夜には、Yが内装業者に電話を掛け、翌6日に「ピラニア」店内の絨毯のうち、トイレ付近の絨毯(30 cm四方、2箇所が血で汚れていた)[注 42]を張り替えさせている[133]。その後、Yは同月9日、「(張り替えた箇所が)目立つようなら、全体を取り替えてくれ」と依頼し、トイレ前付近の絨毯を総取替させたが、同月22日にも、「色違いが目立つ」といって店内の絨毯を総取替させた上で、店の入口部分の一部(業者によって警察に提出された)以外は、「焼き捨てる」と言って受け取っていた[注 54][133]。また、Yは業者に対し、「最初に張り替えた日を1日早めて、5日ということにしておいてほしい」とアリバイ工作を頼んでいた[27]。
また、捜査が難航していると見るや[164]、1980年1月下旬には[123]、「Aの頭部(当時未発見)の存在場所を教える」と称し、Aの遺族から金員を巻き上げることを相談したほか、さらに多額の現金強奪も計画した[164]。これは、Aから思うように現金を得られなかったためで、別の病院長も標的の候補に上がったが、最終的に2人は[165]、日本銀行北九州支店に出入りしていた現金輸送車を襲撃することに決めた[166]。その上で、Aから奪った現金の一部を準備資金(犯行道具の購入や下見費用など)にして、実際に現金輸送車のコースの下見にも出掛けており、Aの遺体が発見されて以降も度々謀議をしていたが、捜査の手が身辺に及び始めたことを知り、断念した[165]。それ以外にも、九州労災病院(小倉南区葛原)の給料を奪うことを考え、Yが患者になりすまして同病院を偵察した[123]。
捜査
Aの妻からの届け出
一方、Aの妻(当時57歳)は夫が帰宅しないことを心配し、同年11月7日夕方に弁護士を同伴して[145]、小倉北警察署へ家出人保護願を出した[67]。その届出を受け、福岡県警察と小倉北署はAが事件に巻き込まれた可能性も考え、家族などから事情聴取するなど、捜査を開始した[167]。しかし、同月7日 - 10日にかけて聞き込みを行ったところ、「Aが夜の街を歩いていた」「小倉駅の新幹線ホームで見た」などといった目撃証言が相次いだ[67]。これらの証言は日付の記憶違いや、Aとよく似た人物を見間違えたことによるものが大半だったが[27]、捜査陣はそれらに振り回される結果となった[168]。
11月12日(死体発見前)、Aの妻に対し、「院長の代理のY(加害者Yと同姓)」を名乗る男から「博多の全日空ホテル[注 55]に、2,000万円と糖尿病の薬を持ってきてほしい。警察に言うと、これが最後になるぞ」など、金品を要求する電話が複数回掛かった[169]。この電話を掛けてきたのは、全国を股にかけた「偽刑事事件」の犯人として、同年末に築地警察署(警視庁)に逮捕された男[注 56]であり、本事件とは無関係だった[169]。彼はAの失踪事件を知り、便乗してAの家族から金品を騙し取ろうとしており、「Y」の名前も出鱈目に名乗ったものでしかなかったが、応対したAの妻は、その声が自身や夫と面識のあったYとは違うことを感じ、事情聴取に来た生嶋甚六警部補(後にYから全面自供を引き出した)[注 57]にこのことを相談していた[169]。
死体発見
Aが失踪してから11日後[68](捜査開始から5日目)の11月15日15時ごろ、大分県国東郡国東町(現:国東市)の「来浦海岸」沖約600 mのノリ養殖場[注 39]で、作業中の漁師2人が不審な漂流物を発見[170]。船で海岸まで曳航し、針金・ナイロンロープ[注 52]を解いて中身を調べたところ、毛布などに包まれた頭部と両足のない人間の死体(胴体)[注 48]が出てきた[170]ため、同日16時50分ごろに国東警察署へ届け出た[15]。国東署と大分県警察本部鑑識課で死体を調べたところ[170]、翌16日夕方に指紋照合の結果、身元はAと確認された[68]。これを受け、福岡県警は本部(捜査一課)から捜査員を出動させたほか[170]、小倉北署長を本部長とする100名の特別捜査本部[135](「小倉北区の病院長殺人ならびに死体遺棄事件捜査本部」)を小倉北署に設置[33]。大分県警も、国東署に「来浦海岸漂着死体殺人事件捜査本部」を設置した[170]。翌17日、事件の重要性・広域性に着目した九州管区警察局は、「広域重要事件捜査要綱」に基づき、本件を九州管区認定1号事件に指定、両県警による合同捜査が開始された[135]。
Aが生前、派手な女性関係を有して豪遊していたことから、捜査本部はAと愛人関係にあった女性たちや、暴力団関係者が犯行に関与していた可能性を疑ったが、捜査線上に上がった人物はいずれも無関係だった[171]。その間、事件は世間からの注目を集め、週刊誌やテレビのワイドショーでも盛んに取り上げられたが、ある主婦を「Aの愛人」扱いした女性週刊誌や、事件後に固く口を閉ざした家族に疑惑の目を向けるような番組もあった[172]。
また、死体の丹念な処理具合から、計画的な動機的犯行であることが示唆されたが、物証の少なさから、捜査本部はその動機そのものを絞り込めず、「暴力団絡み」という可能性が示唆されたことも、夜の街特有の口の堅さを誘い、捜査の壁となった[173]。県警や報道機関には事件を推理した電話として、「犯人は元看護婦の女性だ」「(Aの心臓に血液が残っていなかったことから)医療関係者が犯人だ」という憶測の情報も寄せられたが、捜査員たちは事件の性質から、小倉北区の夜の街で聞き込み捜査を続け、身銭を切って高級クラブを訪れた捜査員もいたほどだった[172]。それ以外にも、福岡県警の捜査本部は、失踪直後のAの足取りを特定するため、北九州・京築地区のタクシー四千数百台(運転手9,000人余り)をはじめ、北九州や福岡の芸能界に通じた人物まで、広範な聞き込みを行った[33]。
2人が捜査線上に浮上
すると、Aが失踪前、複数の知人に対し「4日に小柳ルミ子と会う」などと話していたことが判明したため、捜査本部開設から1週間後(11月23日ごろ)には、Aに対し、小柳の話を持ち込んだ人物が失踪の鍵を握っていることが浮き彫りとなった[135]。また、事件の遺留品は、大分県警が採取・保管した死体梱包資材しかなかったが、大分県警は遺留品の製造元・販売ルートを、福岡県警は北九州市内の卸元・小売店の解明にそれぞれ重点を置き、それぞれ捜査を進めた[4]。
Sが浮上
福岡県警捜査一課刑事調査官付の灰塚照明警部は[174]、犯人特定の資料として、「S」の洗濯ネームが入った黄土色の毛布に注目[4]。クリーニング店の記号(丸囲み文字の「37」)から[174]、小倉南区徳力の「Oクリーニング店」[注 58]が浮上した[4]。また、死体の梱包に用いられていたロープ、タオル、ガーゼ、針金などは、いずれも小倉北区内で入手可能なものであることが判明したため、日ごろのAの生活行動区域から考えても、犯人が同一地域に居住している可能性が強まった[142]。
そのような状況の中、11月22日には、Aをよく知っていたクラブのホステスが捜査員に対し、「Sという男がおかしい。8月ごろ、Sが『どうしたらAと会えるか』『診断書を書いてもらいたい』と言って執拗に探していた[注 59]」と証言した[92]。Sは当時、釣具店を経営していたが、かつては徳力の「Oクリーニング店」付近に住んでいたこと[92]、そして遺留品のロープ[注 52]が釣り用で、Sの店にも仕入れられていたことが判明[157]。また、Sには「A病院」への入院歴があったものの[4]、当時は既に診断書を書いてもらっており(先述)、Aへの用事はないはずにもかかわらず、診断書を口実にAの動向を探っていたことになるため、Sへの嫌疑が深まった[122]。さらに、死体を梱包していた毛布と似た色の毛布が、事件から約1か月前の時点で、Sの所有するマイクロバス(釣り客の送迎用)の車内に積まれていた事実や[138]、事件後にはその毛布がなくなっており、マイクロバスには別の毛布(前の毛布より色がやや薄いもの)が新たに備え付けられていた事実も判明した[175]。
Yが浮上
一方、Aの妻からも彼の交友関係を聞き出し、浮上した人物をくまなく調べていったところ、Aが生前頻繁に通っていたスナック「ピラニア」の経営者だったYの存在が浮上[176]。以下のような不審点が判明した。
- その「ピラニア」にSが頻繁に出入りしており、2人とも事件当時のアリバイがない[注 60][157]。
- 事件当日(11月4日)、Y宅では長男(当時7歳)の誕生日パーティーが開かれたにもかかわらず、子煩悩な性格とされるYは同日から「釣りに行く」と称して先に家を出[73]、パーティーに出なかった[177]。
- 11月5日22時に小倉港を出港した松山港行き「はやとも丸」(途中で死体発見現場付近の国東半島沖を通過する)の乗船車両名簿に、Sの所有するハイエース(マイクロバス)のナンバーが記載されていた[157]一方、2人は行き・帰りとも偽名で同船に乗船していた[178]。
- Aの失踪後、「ピラニア」が室内装飾業者へ依頼し、3回にわたって絨毯を張り替えさせていた点[注 42][157]。その絨毯はまだ取り替える必要性がなかったにもかかわらず、Yは「はやとも丸」の船中や四国から「ピラニア」やホステス宅などに頻繁に電話を掛け、急いで交換させていた[65]。Yは絨毯を張り替えた理由について、取り調べで「4日深夜、店で飼っていたピラニア(魚)の餌やりに行った際、泥棒と格闘になったので刺し、その血が床についた。その晩は店に泊まり、Sと翌5日夕方、四国旅行に出掛けるまで店にいた」という趣旨の供述をした[177]が、店の扉は二重ロックで[73]、店の近くから救急車で病院に搬送された人物はいなかった[177]。
生嶋[注 57]は事件発生後、頻繁に関係現場に足を運び、自ら聞き込みを積極的に行うなどして情報を集めていた[179]。彼は、死体発見前にAの妻に脅迫電話を掛けてきた男の一件で「Y」の名前を聞かされていた(前述)ことから[69]、11月29日夕方[180]、「念のため」とY宅へ事情聴取に出向いた[69]。当時、捜査陣はYとAが知人関係にあることを把握していたが、Yはこの時、狼狽しながら、Aとの関係について「『ピラニア』開店時に一度客として来たぐらいで、近ごろ会ったことはない」と嘘を言っていた[180]。また、捜査員から尋ねられてもいないのに、事件当時の行動について、「5日から9日まで、釣り友達のSと一緒に、四国へ釣りに行っていたが、魚は釣れず、道後温泉に行った」と話したが、生嶋はそのYの態度に不審を抱いた[180]。
四国での聞き込み
生嶋以下、捜査員4人は11月30日夜、「はやとも丸」に乗船し[181]、事件当時の2人の足取りを探るため、12月3日まで四国で聞き込み捜査を行った[66]。この捜査には、小倉北署のベテラン刑事だった国武俊伸巡査部長も同行していた[66]。2人が途中で休憩した「シーパレス宇和海」で、一行は支配人から[66]、「2人は『休憩させてくれ』と言っていたが、相当疲れていたようで、部屋に案内したら勝手に布団を敷いて寝ていた。また、途中で何度も北九州に電話し、『金の工面がつく』『心配せんでいい』など、怪しい会話をしていた」という証言を得た[182]。その後の聞き込みでも、2人は四国旅行の間、頻繁に北九州への電話を入れていたこと[182]、ほとんど釣りをしていなかったこと[159]も、それぞれ判明した。
また、国武は四国に向かう途中、船が姫島沖を通過する際、船内がほとんど暗くなっていたことから、「これなら、人目につかずに死体を捨てられる」という心証を抱いた[66]。帰路、捜査員が「はやとも丸」の船長に対し、11月5日夜に「はやとも丸」(松山行き)から死体を投棄した場合の漂着地点について尋ねたところ、船長は当時の航海日誌(海流・気象状況を4時間おきに記録)から、「『はやとも丸』は1時15分ごろ、姫島北方4.3 kmの海上を航行する。もし1時前後に死体を捨てると、当日は北西の風が、7日 - 10日には東の風が吹いていたので、国東半島東岸(死体発見現場)に漂着するだろう」という仮説を述べた[182]。
2人の動向
このように、SやYの潔白を証明する証拠は出てこなかった一方、2人への疑念を強める証拠が次々と出ていたことから、事件から約1か月が経過した12月15日に開かれた特捜本部幹部会は「(犯人は)SとYに間違いない」と確認した[注 61][69]。同月21日には、福岡・大分両県警の捜査本部が福岡市内で初の合同捜査会議を開き、情報交換の一掃の緊密化を確認した[173]。
一方、洗濯ネームの「S」という苗字から、2人の存在が浮上して以降、報道陣が「ピラニア」を訪れ、Yから四国旅行の目的などを聞き出そうとするようになったが[183]、2人は自分たちに嫌疑が掛かっていることを知り、事件発生から別件逮捕までの約100日間にわたり、互いに口裏合わせをしたほか、知人たちとのアリバイ工作を図った[184]。Sは逮捕前、朝日新聞西部本社の記者に対し、「11月5日は自分の店に1日中いた」と話し[185]、12月ごろには、自宅に来た記者に対し、約3時間にわたって潔白を主張し、同席した妻もそれに相槌を入れていた[87]。しかし、1980年に入ったころには[87]、Sの主張する「アリバイ」とは異なり、11月5日の12時50分ごろには「ホテルニュー田川」[注 46]と「ピラニア」の中間地点の駐車場付近に、Sの車が駐車してあったことや、その約3時間後には「ピラニア」の前にその車が回されていた可能性があることなど、不審点が判明していた[185]。
同年11月末、話し好きなYが報道陣に対し、多くを話してしまったことを知ったSは、電話でYに対し「いらんことをしゃべるな」と注意した上で、「気分がむしゃくしゃするから、飛行場(北九州空港)にカラス撃ちに行こう」と提案した[183]。しかし、「1人で行ったら、Sに殺されるのではないか」と考えたYが、翌日に女友達を連れてやってきたため、Sは激怒し、カラスを撃てなかった八つ当たりとして、Yに散弾銃の銃口を向け「ぶっ殺してやる」と凄んでいた[183]。また、Yが取材を受けていた際に突然Sが報道陣の前に現れ、「俺が話すから、これからYに近づくな」と抗議してきたこともあった[183]。一方、2人は報道陣に対し、「(Aが)殺されたのは5日でなく7日」と言ったり、知人たちに「5日・6日生存説」を吹聴したりしていた[27]。また、Yは知人らに対し、極度に憔悴しながら「警察に逮捕される」と話していた一方、携帯無線機で警察無線を常時傍受し、常にSと行動をともにするようになり、Sもゴミ出し日(12月13日)に自宅から出したゴミを(毛髪を入手しようとした)捜査員が収集したことを把握し、次のゴミ出し日からゴミを出さなくなった[133]。
捜査本部内部では当初、「早く2人を逮捕すべきだ」という声も上がっていたが、当初は決め手になる物証を欠いていたため、慎重に調べを進めて容疑を固めようとしていた[186]。しかし、1980年に入り、S・Yの両者と報道関係者とのやり取りが活発化し、2人が証拠隠滅やアリバイ工作をする危険性が強まったため[187]、2月には「これ以上の(逮捕の)延期は、一線の士気に関わる」「早く逮捕しなければ、2人のガードは固まるばかりだ」という声が上がり始めた[186]。一方、2人が10月18日、新北九州信金曽根支店への恐喝未遂事件を起こしていたことが判明[188]。2月16日、石村義富捜査本部長(小倉北署長)が県警本部に出向き、本部刑事部長との協議を行った結果、別件の恐喝未遂容疑と、本件の死体遺棄容疑の両方の資料が揃い次第、2人を逮捕することが決まった[186]。
一方、Yは逮捕の2日前(2月27日)の早朝、自殺するつもりで若戸大橋の上をうろついていたが、寒い中で2時間近くも橋上をうろついていたことを不審に思った日本道路公団若戸大橋管理事務所の職員から声を掛けられたため、自殺を断念して帰宅した。自殺を考えた理由について、Yは取り調べに対し、「店に出ても面白くないし、客も疑いの目を向けてくる。Sからも『あまりしゃべるな』と口うるさく言われるので死のうと思った」と述べている[189]。
別件逮捕
福岡県警の捜査本部(捜査一課および小倉北署)は1980年2月29日、本事件の重要参考人として、S・Yの2人を、新北九州信金曽根支店に対する恐喝未遂容疑の被疑者として別件逮捕した[注 62][65]。当初は新聞の予告記事を警戒し、同日午後に逮捕する予定だったが、当日朝に新聞で報じられたことから、捜査本部は急遽予定を繰り上げ、福岡地裁小倉支部に急いで逮捕状の請求へ向かった[186]。
同日、各紙の西部版朝刊で「2人を別件で追及する」などの報道がされたが、同日6時10分、Yは自宅に朝帰りした際、待ち構えていた報道陣を自宅近くの金比羅山まで誘導し、記者会見を行った[191]。約10分間の会見終了後、Yはラジオで自分への逮捕令状が出ている旨を知り、出頭するため小倉北署へ向かったが、その際に『毎日新聞』(西部本社)の記者がチャーターしていたタクシーに乗車し、同紙記者からの質問に対し「(A殺害は)絶対にやっていない」とアリバイを主張した上で、フェリー乗船名簿で偽名を使った理由については、「フェリー会社の人から『予約していたのに、車が乗用車からマイクロバスに変わっている』と言われて受け付けてもらえず、むしゃくしゃしたから」などと弁明した[191]。
別件逮捕後
S・Y・牛乳販売店主の3人は逮捕前、恐喝未遂事件について口裏合わせを行っており[138]、当初は取り調べに対し、3人とも「損害を受けた金を賠償してもらっただけ」[192]「恐喝した金は全額、牛乳販売店主が受け取った」という主張で一致していた[138]。しかし、その後の取り調べで牛乳販売店主は「実は10万円しかもらっていなかった」と供述を翻し、Yも「全額を牛乳販売店主に渡したわけではなく、一部はみんなでスナックに飲みに行って遣った」と供述した[138]。
捜査本部は翌3月1日、2人を福岡地方検察庁小倉支部へ送検し[162]、2日には福岡地方裁判所小倉支部が、2人を10日間にわたり拘置することを認めた[138]。これに対し、2人の弁護人である高向幹範弁護士(後に第一審でYの弁護人を担当)[注 63]は3日付で、「2人には明らかに恐喝の意思はなく、本事件(殺人・死体遺棄事件)の嫌疑を掛けられてはいるものの、捜査が身近に及んだことを知ってから3か月も逃げ隠れせず、今後逃亡や証拠隠滅を図る可能性も低い。本事件のために利用された不当な別件逮捕・拘置だ」として、拘置理由開示を求めたが、福岡地裁小倉支部(池田克俊裁判長)は同月7日、「捜査記録から、2人は罪(恐喝未遂)を犯しており、証拠隠滅・逃亡の恐れがある」という理由を示し、高向からの理由の具体的根拠の釈明を求める要求も、「捜査の秘密もあり、応じられない」との理由で退けた[193]。
逮捕後、Sが主犯格と目された一方、気の小さい性格だったYは身柄を小倉南警察署へ移送された[194]。しかし、2人はそれまでの報道や、逮捕容疑が本事件に関連するもの(殺人や死体遺棄)ではなかったことなどから、自分たちがAを殺害したことに直結する証拠を警察に把握されていないことを知っており、別件逮捕されて以降も「自供さえしなければ大丈夫だ」と考えていた[184]。Yは、事件当日(11月4日夜)の行動について、「Sと一緒にサウナに入った後、女友達の家に泊まった」とアリバイを主張して容疑を否認し[71]、Sも頑強に黙秘を続けた[195]。そのため、捜査本部は別件逮捕以降、2人への取り調べを進める一方、慎重に物的証拠の見極めを続けた[184]。
Yが一部自供
捜査本部は3月7日、家宅捜索令状と鑑定処分許可状を取って「ピラニア」の店内の強制捜査を行い、店の床の部分など複数箇所から血液反応を検出した[70]。また、S宅やSのマイクロバス、Yの女友達の家なども捜索対象となり、毛髪などが採取された[196]。この捜索は、Aに対する死体遺棄容疑[注 64]で行われたため、それまで2人を匿名で報道していた新聞各紙は、「A殺害事件に関連する死体遺棄容疑が強まった」として、実名報道に切り替えた[196][197]。
しかし、その後もSはポリグラフの検査を拒否し、検査に応じたYも頑なに否認を続けた[175]。Yは3月7日、ポリグラフ検査を受けることに同意し、小倉南署で検査を受けた[196]、この時、Yは犯人しか知り得ない情報(Aが事件当時着ていた下着=褌など)について質問を受けると、異常な反応を見せるなどした[注 65][198]が、その後も否認を続けた[175]。
また、当初はホテルに金を受け取りに来た男について、ホテルの従業員が「SやYとは違う男だった」と証言したことや、11月4日深夜に小倉北区内のスーパーへ大量のガーゼを買いに来た男がいたことなどから、「第三の男」の関与の可能性も囁かれていたが、百数十人を対象とした捜査でも、別の共犯者の存在を示唆する証拠は出てこなかった一方、Yはポリグラフ検査を受けた際、「犯人は何人か」という質問で、「2人」に大きな反応を示した[199]。結局、金を受け取りに来た男や、大量のガーゼを買っていた男の正体は[127]、口髭を剃り落としたYだったことが判明した[200]。
3月9日になって、Yはそれまでのアリバイ主張を翻し、自分がAを殺害したことや、「はやとも丸」船内や宿泊先から「ピラニア」、絨毯の交換[注 42]を依頼した内装業者などに複数回電話した旨などを自供した[71]。この時、Yは興奮状態となり、調べの途中で湯呑を割り、発作的にその破片を首に当てて自殺を図るなどしたが、かすり傷のみで出血はほとんどしなかった[201]。
死体遺棄容疑で逮捕
同日、「ピラニア」店内から検出された血液についても、福岡県警犯罪科学研究所での鑑定により、「人血で、血液型は被害者Aと同じAB型である」という結果が出た[71]。これを受け、捜査本部は3月10日に死体遺棄容疑で2人の逮捕状を取り[201]、恐喝未遂での拘置期限が切れる翌11日、2人を死体遺棄容疑で再逮捕した[72]。
その後、Sは引き続き容疑を否認したほか、いったんは自供したYも再び否認に転じた[73]。Sは当初、Y以上に強硬な態度を取り続けていたが[8]、調べが進むにつれて、当初取っていた横柄な態度から一転し、平身低頭な態度を取るようになり、調べが核心に触れた際に涙を見せたり、被害者Aの死体の写真を捜査員から見せられ、動揺を見せたりするようになった[198]。捜査本部は、3月14日に2度目の拘置延長が認められ[注 66]、翌15日から丸1日続けて取り調べができるようになったことを機に、Yの供述の矛盾点を追及[177]、Yは「(4日夜、店に侵入してきたので刺した『泥棒』とは)Aのことだ」と認めた[202]。その後、Sは「5日は1日中家にいた」というアリバイ主張を翻し、「2、3回街に外出した」と供述したが、外出先については「覚えていない」と主張した[203]。
全面自供
2人はいったん自供しかけたものの、その後否認を続け、4月2日の拘置期限切れが迫っても、捜査本部は2人がAを殺害したことを裏付ける決定的な証拠を得ることができずにいたことから、福岡地検小倉支部との協議の末、とりあえず2人を勾留期限の切れる2日に死体遺棄罪で追起訴し、起訴後拘置しながら取り調べを継続する方向で検討していた[204]。一方、3月27日には、警察庁科学警察研究所から、「死体に巻きつけられていたガーゼの内側に付着していた毛髪20本のうち、1本は血液型を含めて、Sの妻と完全に一致した」という結果が出ていた[152]。ガーゼの内側に付着していた毛髪は、犯行時に付着した可能性が高いことや、犯行当時、Yが変装用にSの妻のヘアピース(Sの妻の毛髪が付着していた可能性が高い)を着用していたことから、有力な物証となった[152]。
3月31日夜、Yは取り調べにあたっていた生嶋甚六警部補と、国武俊伸巡査部長に対し、泣きながら「今まで嘘を言って申し訳ありませんでした」とすがりつき[104]、「Sと共謀し、『ピラニア』店内にAを騙して誘い込み、SがAを何度も刃物で刺して殺害した。その間、自分が『ホテルニュー田川』[注 46]へ金を取りに行ったが、預り証がないため渡してもらえず、失敗した。死体の解体もSが実行し(自分はもっぱら死体を押さえていた)、死体はフェリーから海に捨てた」と全面自供を始めた[205]。生嶋[注 57]がYに対し、自ら見聞きして調べた情報を粘り強くぶつけ[179]、「かわいい坊や(当時7歳の長男)のためにも本当のことを言ってくれ」と諭したところ、Yは激しく動揺を見せながら自供に至った[206]。
Sの取り調べは、島伍助巡査部長が担当していた[66]。Yの自供に続き、翌4月1日、Sも取調官からYが自供した旨を聞かされ、同日13時に「自分がAを刺した」と自供[8]。その自供内容は、Yとほとんど同じ内容だった[28]。
強盗殺人容疑で逮捕
また同日、Yを「昭和池」付近に連行して実地検証したところ、自供通りAのサングラスが発見された[28]。さらに4月2日10時から、2人の自供に基づいて「昭和池」と干拓地の池(小倉南区朽網)で大規模な捜索を行ったところ、潜水した機動隊員により、干拓地の池の底(水深約2.7 m)から死体の切断に用いられた凶器(ガムテープで巻かれた鉈2本と金切り鋸、替え刃3本)が発見された[74]。同日15時過ぎ、2人は捜査本部によって強盗殺人容疑で再々逮捕された[75]。
同月8日午前、「ピラニア」で殺害方法を検証するため、捜査一課と小倉北署の捜査員約60人を動員した現場検証が行われ、SとYもそれぞれ個別に立ち会った[156]。さらに同日13時過ぎからは小倉北署の当直室で、死体の切断場面の検証が、夜には砂津港に係留されていた「はやとも丸」の船内で、死体遺棄の検証が、それぞれ行われた[161]。
なお、捜査終了後の同年7月30日には、長崎鼻の北方約10 km沖で、操業中の漁船の底引き網に、切断された成人の右脚がかかり[7]、後にAのものと確認された[6]。また、1982年2月15日(論告求刑公判の前日)にはそれとほぼ同じ地点(海底約30 m)で、人間の白骨化した頭蓋骨が引き上げられ、自らAの歯の治療を手掛けていた娘婿の歯科医により、Aの頭蓋骨と確認されている[77]。一方、左脚は第一審判決が言い渡された時点でも未発見のままだった[6]。
刑事裁判
福岡地検小倉支部は1980年4月14日、S・Yの被疑者2人を共同正犯として、強盗殺人・死体遺棄の罪で福岡地方裁判所小倉支部へ起訴した[16]。起訴後、2人の身柄は小倉拘置所[注 7]へ移された[5]。
恐喝未遂事件における被告人Sの初公判は、1980年4月8日14時30分から福岡地方裁判所小倉支部(福嶋登裁判官)で開かれた[207]が、Sは罪状認否で、「脅し取ろうとしたのではなく、集金の不足分を弁償してもらうためだったに過ぎない」と述べ、恐喝の犯意を否認[208]。同事件は後に本事件の審理と併合された[207]。
2人は全面自供後も、強盗殺人罪の法定刑が死刑か無期懲役しかないことを知らず、Yは「(刑務所から)出る時は、(当時7歳の)息子は中学生か」と漏らしていたが[166]、起訴後には拘置所の職員に対し、自分たちへの量刑を気にするような発言をしていた[5]。一方、Yの父親は息子の自供後、被害者Aの冥福を祈るため、自ら位牌を作り、毎日線香を上げていたが、4月15日に小倉南署で息子と接見した際には、「A先生の位牌の他に、お前のも用意してある」という言葉を掛けている[95]。
第一審
第一審における事件番号は、昭和55年(わ)第151号および昭和55年(わ)第249号[209]。
1980年6月3日に福岡地裁小倉支部(佐野精孝裁判長)で、両被告人 (S・Y) の初公判が開かれ、罪状認否で2人とも犯行を認めた[76]。しかし、検察官が冒頭陳述で「実行面では終始、被告人Sが主導した」と主張した一方、被告人Sは「首を絞めたのは自分ではなく、Yだ。被害者への脅迫は(検察官の主張とは異なり)自分の単独ではなく、Yと2人で行った」と主張した[76]。被告人Sの弁護人は吉永普二雄が、被告人Yの弁護人は高向幹範がそれぞれ担当した[210]。
続く第2回公判(7月1日)で実施された関係調書をめぐる認否では、両被告人とも、それぞれ互いに相手の調書に同意しなかった[211]。第3回公判(7月10日)では、検察官がYの女友達(当時22歳)と、Aの遺体を解剖した医師を証人として申請したほか、物証49点(遺体を包んだ毛布や、Sの猟銃、凶器の鉈など)を提出した[212]。
初公判以降、公判は計31回[注 67]にわたって開かれたが、Sは「自分は殺すことまでは考えていなかったが、Yがあいくち[注 2]で斬りつけ、殺害した」と、Yは「事件を主導したのはSで、自分はその命令に従っただけ」と主張し、互いに相手を「嘘つき」と非難するなど、自身の主導性を否定[214]。このように2人が互いに自身の主導性を否定する態度を、検察官は「責任のなすり合い」と非難し[78]、福岡地裁小倉支部 (1982) も死刑選択の理由の1つとして、このように2人が自己の刑事責任を軽くするために責任のなすり合いをしたことを挙げている(後述)[6]。
1982年(昭和57年)2月16日の公判で検察官による論告求刑が行われ、検察官は両被告人を共同正犯と位置づけ、それぞれ死刑を求刑した[78]。主任検事の小高譲二は同日の論告で、「両者とも法廷で食い違う供述をしているが、自身に不利な点も供述しているYの方が信用性が高い」と指摘した上で、「事件を発案し、Aをあいくちで斬り付けたのはSだが、凶器の準備はYと2人で行い、殺害行為も2人が共同で実行した。YもAを自分の店におびき寄せるなど、重要な役割を果たしており、刑事責任に差はない」と指摘した[214]上で、「犯行は冷酷残忍かつ計画的で、2人とも責任を擦り付け合うなど、改悛の情はない。社会への影響も計り知れず、再発防止のために極刑で臨むほかはない」と主張した[78]。
最終弁論は同月23日に行われ、両被告人の弁護人はそれぞれ「被告人は従属的な立場だった」と主張し、死刑回避を求めた[79]。最終意見陳述で、両被告人はそれぞれ謝罪の言葉を述べたものの、従前と同じように「主犯は自分ではない」と主張したが、Sは「刑執行の時は見苦しくないようにしたい。それまでは読経と写経で、Aの冥福を祈りたい」と、Yは「罪の償いのために今一度だけ更生の機会を与えてほしい。もう一度、子供の手を握らせてほしい」と、それぞれ陳述した[79]。その後、論告求刑前日にAの頭部が新たに発見されたことを受け、3月初めに検察官が補充立証を行い、結審した[79]。
被告人S側 | 被告人Y側 | 検察官 | 福岡地裁小倉支部 (1982) | |
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犯行の発案者 | Yが「大きなことならやるか」と発案した[210] | Sが強盗殺人の計画をすべて立案した[210] | 被告人Yの供述を採用[210] | 2人で互いに計画案を積極的に出し合い、巧妙な計画を練った[215] |
あいくちで斬りつけた人物 | Yが被害者Aをあいくちで脅し、斬りつけた[210] | Sが散弾銃をあいくちに持ち替え、Aを斬りつけた[210] | YがAに突きつけたあいくちを払われ、とっさに斬りつけた[210] | |
殺害実行犯 | Yが濡れタオルでAの鼻を覆った[210] | Sに銃で脅されて実行した[210] | Sが馬乗りになり、Yが首を絞めた[210] | |
Aの死因 | 窒息死[210][79] | 失血死[210] | ||
情状・量刑 | 主導者はYで、Sは従属的。Sの供述が一貫している一方、Yの供述は矛盾している。Sは犯行を反省しており、死刑を回避すべき[79] | 主導者はSで、Yは従犯に過ぎず、犯行の途中で計画の中止を主張したが、Sはそれを無視した。Yは深く反省している[79] | 2人は両輪のように相互に助け合い、冷酷残忍な犯行を実行した。2人とも凶器の準備・殺害・死体遺棄を共同で行っており、刑事責任に差はない[78] 犯行計画は綿密で、証拠隠滅を図るなど悪質であり、法廷で責任のなすり合いを行うなど、改悛の情はない[78] |
2人とも死刑を選択(量刑理由は後述)。 |
2人に死刑判決
1982年3月16日に判決公判が開かれ、福岡地裁小倉支部(佐野精孝裁判長)は両被告人(SおよびY)にいずれも死刑を言い渡した[6]。
福岡地裁小倉支部 (1982) は事実関係について、被告人Yの主張を基本とした検察官の主張を退け、被告人Sの主張を採用し、「発案は2人の共謀で、あいくちで斬りつけたのは両者の供述[注 68]や死体の鑑定結果から、Yと認められる。また、Aの死因は失血死である。ただし、殺害は2人の共同行為である」と認定した[6]。その上で、両被告人の役割(刑事責任の程度)について、「2人ともそれぞれ自己の動機を実現するため、意欲的に犯行に取り組み、互いに案を積極的に出し合って計画を練り、実行行為も大半を2人で共同して行った。Sに幾分主導的な側面が見られるが、Yは被害者を誘い出して傷害を負わせ、首を絞めるなどして直接死亡の原因を作った」と指摘し、「被告人両名は正に車の両輪となり互いに助けあって右犯行を遂行したものというべく、その刑責に逕庭はないといわねばならない。」と判示した[215]。
情状については、「犯行は、2人が完全犯罪を狙い、金を奪う方法や隠蔽工作など、周到な準備をした上で実行におよんだもの」と計画性を強調した上で、「必死の哀願を尻目に、苦しんでいる被害者を放置した上、さして迷わず殺し、遺体を切り刻んで塵芥のごとく海に捨て、得た金は酒食に使った。まれに見る冷酷かつ残忍な犯行だ」「2人とも相当の収入があったのに、遊惰な生活を夢見て一攫千金を図った。動機に酌むべきものはない」と指摘した[6]。また、事件後に2人が隠蔽工作を図ったり、さらなる犯罪計画を立てたりした点、法廷で互いに自己の主導性を否定した態度について、以下のように判示した。
犯行に使用したあいくち、解体道具、被害者の持物等を種々の場所に投棄し、人を頼んで被害者の血で汚れた絨毯を3度にわたり張り替える[注 42]などあらゆる隠蔽工作をなし、捜査機関から嫌疑をかけられていることを察知するや、被告人両名で善後策を相談し、自白さえしなければ嫌疑不十分で無罪に持ち込めるという目算のもとに互いに自白しないことを誓い合い、更には捜査が難航しているとみるや大胆不敵に他の数件の多額な現金強取の計画を立てて下準備にも着手し、あまつさえ悲嘆にくれている被害者の遺族から被害者の未発見の頭部の存在場所を教えると称して金員を巻き上げることまで相談している有様で、被告人両名には人間性を認める余地は乏しく、その倫理観の欠如と犯罪性向の深さには底知れぬものがあることが窺われ、また捜査機関に逮捕された後も頑強に犯行を否認し続け、最終的にはもはや逃れられないものと観念して自白するに至ったものの、被告人両名の各自白たるや数々の不自然、不合理な点があり、全てをありのままに供述したものとはとうていいえず、互いに自己の刑責を少しでも軽くするため真実と虚偽とを巧みにおりまぜて供述し、相互に相被告人が主謀者で自らはこれに引きずられたものであるという印象を与えることに専念し泥仕合を演じているのであり、いずれもいまだ己の罪の深さに十分思い及んでおらず、反省悔悟の情に欠けるところがあるといわざるを得ない。 — 福岡地裁小倉支部 (1982) 、[164]
そして、被害者Aに落ち度がないこと、遺族が極刑を望んでいること、社会への影響が大きいことを挙げ、「2人は写経に励んでおり、さしたる前科もないが、死刑が人間の生存権を奪うことを慎重に考慮しても、犯行の重大性からして極刑をもって臨むしかない」と結論づけた[6]。
被告人Yは3月17日に、被告人S(量刑不当を主張)も翌18日にそれぞれ福岡高等裁判所へ控訴した[80]。
控訴審
控訴審における事件番号は、昭和57年(う)第304号[216][209]。
被告人Sは第一審判決後に妻と離婚し[105]、控訴審でも第一審と同じ吉永普二雄を弁護人に選任した一方、被告人Yは岩城邦治ら3人の弁護人を新たに選任した[93]。控訴審初公判は、福岡高裁第2刑事部(緒方誠哉裁判長)で1982年10月14日に開かれた[81]。
控訴審でも、両被告人側は第一審と同様に、自身の主導性を否定する主張を展開した[82]。特にYは側は、原判決が「S主導」を認定しつつ、警察・検察が採用したYの自供の事実経過を否定したことに対し、広範囲にわたって異議を唱えた[93]。また、YはSに対し「これまでのことは水に流そう」との手紙を出した一方、SはYを「いつも自分がいい子になろうとする」と非難するなどした[82]。
- 被告人Sの控訴趣意
-
- 事実誤認に関する主張
- Aから奪ったとされる約95万円のうち、奪ったと言えるのは約75万円だけで、20万円はSと関係なく、AがYに自ら任意で差し出したものだ[13]。
- 最初に犯罪計画を言い出し、具体的な犯行を発案・主導したのはYで、Sではない。Yは「ピラニア」の営業不振から、酒類の仕入れ代金を滞納するほど経済的に困っており、「2人とも当座の生活に困っていなかった」という原判決の判断は事実誤認である。また、YはAの性格や暴力団との交際関係を熟知し、金が取れなくてもAを殺害する意思を(Sの意思と無関係に)有していた[217]。
- 殺害行為は、SとYが共同で実行したものではなく、Sがトイレに入っている間、Yが濡れたタオルでAの鼻口を押さえて殺害したものである。原判決の認定は、信用性のないYの供述を大筋で採用したものだ[141]。
- 量刑不当に関する主張
- Sが犯行時に果たした役割の程度や、Sの生育歴・生活態度の中に見られる人間性、被害者の冥福を祈り反省悔悟の日々を送っている事件後の情状などを考慮すれば、死刑を適用した原判決は、量刑判断にあたってSに有利な情状を十分斟酌しておらず、重すぎて不当だ[121]。
- 被告人Yの控訴趣意
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- 事実誤認に関する主張
- 「Aの左側胸部の刺し傷は、Yがあいくちで斬りつけたもの」と認定されているが、実際はYではなく、Sが斬りつけたものだ。以下の事実が認められるにも拘らず、原判決はそれと矛盾する「Yはカウンターの外でAの後ろに立っていた」という事実を同時に認定している[141]。
- YはAが斬りつけられた当時、(原判決で認定されたようにAの左後ろにいたのではなく)カウンターの中にいた。これは、原審(第一審)でAの刺し傷の部位・状況を鑑定した医師(永田武明)の証言とも一致するものである。
- また、Aから差し出された20万円は、カウンターの背後の壁に設置されていた洋酒棚から出したもので、原判決が「Yはその20万円を取り出し、Aを脅してカウンターの上へ出させた約75万円と一緒にした」と認定していることからも、当時はYがカウンターの中にいた事実が認められる。
- 犯行の大筋を発案・計画したのはYではなくSだ。犯行はSが主導しており、YはSの指示に従って行動したに過ぎない[141]。
- 量刑不当に関する主張
- 死刑の選択は、ほとんど異論の余地がないほど情状が悪く、人間性の存在や、その回復に伴う人格の改善可能性がないような例外的事例に限られるべきである。Yは本来健全な人格と人間性を持ち合わせており、犯行はAに対する羨望(無意識の反感など)や、Sからの強い動機付けによって生じた価値観の瞬間的な動揺や倒錯によって引き起こされたものである。Yはまだ若く、生来の悪性は見い出せないことから、更生・改善の可能性がある。Yが犯行時に果たした役割は主導的でなく、事件後も被害者の冥福を祈り、反省悔悟の毎日を送っているなどの情状を併せ考えれば、死刑は重すぎて不当だ[121]。
控訴審は1984年(昭和59年)1月23日に結審した[82]。両被告人の弁護人は、それぞれ「1件の殺人で死刑を言い渡した原判決は重すぎて不当」と主張し、原判決破棄を求めた一方、検察官は「一審判決は正当」と控訴棄却を求めた[82]。
控訴棄却判決
1984年3月14日に福岡高裁第2刑事部(緒方誠哉裁判長)で控訴審判決公判が開かれ、原判決(両被告人をいずれも死刑とした第一審判決)を支持し、両被告人の控訴をいずれも棄却する判決が言い渡された[38]。
開廷は13時40分で、判決理由の朗読は約1時間におよび、14時35分に主文が言い渡された[93]。判決理由の概略は以下の通りである。
- 被告人S側の控訴趣意(事実誤認に関する点)に対する判断
- 犯行の罪質や犯情に照らせば、奪った金額に20万円の差があったとしても、責任の軽重に差異は生じず、たとえこの点が誤認だったとしても判決に影響を及ぼすものではない。Aが自らYに差し出した20万円も、最終的に暴行・脅迫によって奪われたものである[125]。
- 事件当時、「ピラニア」は営業不振ではなく、残っていた仕入代金(約67万円)も通常の流動債務に過ぎず、Yが経済的に困窮していたとは言えない。どちらが先に死体損壊・遺棄を伴う強盗殺人の計画を最初に言い出したとしても、2人はそれ以前から歯科医師からの恐喝を目論んで準備しており、それに代わる計画として本件に積極的に加担しているため、刑責の軽重は、その後の犯行遂行状況を考察して判断するのが相当だ[141]。
- 原判決の「2人で馬乗りになってAを絞め殺した」という認定は信用できる。その点に関するYの供述は、Y自身にも不利益な事実を認めるものであり、供述内容も具体的・詳細・合理的である。一方、Yの「2度目に首を絞めていたら、エルザビル[注 1]出入口に駐車していたS所有の車を移動させるようアナウンスがあったので、いったん離れて階下に降り、車を駐車場に移動して戻ってみたら、Aは既に動かなくなっていた」という供述や、Sの主張はいずれも信用し難い[218]。
- 被告人Y側の控訴趣意(事実誤認に関する点)に対する判断
- 現場検証の調書から、YはAが斬りつけられた当時、Aのほぼ左横(あるいは直横からごくわずか前)にいたことが明らかで、その立ち位置とAの切り傷の形は、Sの「YがAを斬りつけた」という供述と符合する。Yの供述はそれ以外にも不合理な点を有しており、信用できない[219]。Yが洋酒棚から取り出した20万円は、Yがカウンターから出る前に取り出されたか、Sの主張するようにあいくちでAを斬りつけた後、その手当をする段階で取り出されたかのどちらかと思われるが、いずれにせよ、「Yはカウンターの中にいたから、あいくちで斬りつけてはいない」と結論づけることはできない[143]。
- YはAに切り傷を与えていたことから、「暴力団と関係のあるAを帰せば報復されるかもしれない」と恐れ、殺害に走ったといえる[219]。
- 量刑不当に関する点
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- 罪質などに関して
- 両被告人は完全犯罪を目論み、被害者Aをおびき出した上で大金を奪って殺害し、死体を解体して遺棄するなどの綿密な計画を練り上げ、周到な準備を整えた上で犯行におよんだ。2人とも、事件当時は特に金に困っていたわけではなかったのに、働かず遊興にふける安楽な生活を送りたいがために犯行を思い立っており、その動機は身勝手かつ極めて悪質で、酌量の余地はない[120]。
- 特に悪質な点は、Aから金を奪った後、犯跡を隠蔽して完全犯罪を実現するためにAを殺害することを最初から謀議・計画していた点で、到底天人ともに許すことのできない非道なものである。あいくちでAを負傷させ、長時間にわたって放置して衰弱させた挙句、命乞いにも耳を貸さず、2人がかりで冷酷に殺害した行為も執拗かつ残忍である。死体を解体して遺棄した行為(死体遺棄罪)も、法定刑自体は重いものではない[注 69]が、本件ではもともとこのように死体を解体することを予め計画して殺害行為が行われていることから、強盗殺人と一体として評価されるべき性質のものであり、それは殺害計画の強固さと残虐さを物語るものである[220]。
- また、2人は事件後に徹底した罪証隠滅工作を行い、互いに絶対自白しないことを誓いあった上で、さらなる犯罪計画を立てたり、遺族から「(当時未発見だった)頭部の存在場所を教える」と称して金を巻き上げることまで相談していた。そこには人間性の片鱗も見い出せず、倫理観の欠如と犯罪性向の根深さが伺われる。逮捕後も頑強に否認を続け、自白後も互いに自己の刑責を軽くしようと「犯行を主導したのは自分ではない」と相反する供述をしているが、その供述内容には不自然・不合理な部分が多く含まれ、どちらか一方だけが真実を語っているとは到底認められない。犯人が自己の犯した罪の責任を軽くしたいと願うことはやむを得ないとはいえ、その供述内容を見る限り、真摯に自己の犯した行為の罪深さを自覚し反省しているとは言い難い[221]。
- 一方、Aには2人やその関係者から恨みを買うような事情や、殺されても仕方がないような落ち度があったわけではなく、長年北九州市内で大病院を経営し、地域社会の医療に貢献してきたにもかかわらず、身勝手な欲望の犠牲にされた。その結果は極めて重大で、被告人らに極刑を望む遺族の心情は痛ましく、察するに余りある。病院も廃業を余儀なくされたが、それによる遺族の大きな経済的損失や、転院を余儀なくされた入院患者、失職した医師・看護婦ら従業員が受けた損害も大きい[14]。
- 本事件は猟奇的な強盗殺人・死体遺棄事件で、被害者が大病院を経営していただけあって、地域住民に与えた不安は大きい。完全犯罪を狙って敢行されたものであるため、もしその狙い通り死体が発見されなければ、捜査はさらに難航し、2人への嫌疑が濃かったとしても決め手を欠き、処罰されずに終わった可能性もあった。もしそのような事態になれば、これを真似て類似の犯罪が起きていた可能性があり、善良な資産家がいつこのような犯罪に巻き込まれていてもおかしくなかった。そのような観点からも、本事件がもたらした深刻な社会的影響は軽視できない[124]。
- 両被告人の責任の軽重
- Sは本事件前から、新北九州信用金庫への恐喝未遂事件を起こしたり、Yとともに歯科医師を恐喝することを考えたりしており、事件前は日常の生活態度が乱れていた一方、Yは真面目に「ピラニア」を経営していたものの、そのようなSと親しくなるうちに心の緩みが生じたことが窺える。凶器はいずれもSの所有物だったことや、当初はSの知り合いの船頭がいる鹿児島方面で死体を投棄する計画がされていたことなどを考えれば、どちらかといえばSに主導的側面があったと認められる[124]。
- しかし、YもSが歯科医師恐喝計画を立てていることを知り、積極的に加担した上、その計画を中止したSに対し、その実行を迫っている。それに代わる大金奪取の計画が本件だが、どちらが最初にAの名前を挙げたかまでは断定し難いものの、Yは単にSに追従して行動していたとは言えず、むしろ「奪った金額の半分は自分の取り分」と考え、犯行計画を共同で練り上げた上で、実行行為も共同で実行していた。知人関係にあったAの弱点を知り、Aを誘い出せる立場にあったのはYで、Aに傷害を負わせ、かつ首を絞め、死亡の直接の原因を作ったのもYである[124]。
- 一方、Sは大金奪取の目的を果たせず、それを断念した際、Yに「ここでやめれば2、3年ですむと思うがどうか」と持ちかけたが、殺害行為を中止してAを帰すことを真摯に考えていたとは言い難く、Yが予定通り殺害する意思であることを知ってからは、躊躇なく2人で殺害行為におよんだ。もし2人のいずれかが、真摯にAの生命を助けるつもりでその後の計画の実行を阻止しようとしていれば、殺害行為の実行はできなかったと考えられる[124]。
- 以上の点から、本件犯行は2人が一体となって、相互にその手足となって助けあい、計画に基づいて犯行を実行したのであって、そのどちらか一方が欠けても実行することはできなかったものと考えられ、その責任に軽重をつけることはできない。Yが犯行に走った契機は、Sと親交を結んだことによるものが大きいが、「Sの影響と、Yの他から影響を受けやすい性格的欠陥だけが原因」と考えるのは相当ではない。本事件が強盗殺人の中でも最も凶悪な事案(当初から被害者を殺害することが予定されていた事案)であることや、Yは当時27歳で、事柄の善悪の判断が十分できる年齢であったことなどを考えれば、Yの価値観の中に、利己的な欲望のために他人の生命を奪うことをも肯定するものがあり、犯罪性向が根深く存在していたというほかない[222]。
- 結論
- 近年、強盗殺人など死刑の適用が問題とされる事案では、殺害された被害者が1人だった場合、死刑の適用が従前より少なくなっていることは確かだが[注 4]、だからといって「被害者が1人なら絶対に死刑を適用してはならない」というものではない。人の人格改善の可能性を判断材料とすることは極めて困難で、犯行の罪質や、動機・態様などの量刑事情を捨象してまで、「犯人の人格の改善可能性があるなら、死刑を適用してはならない」と考えるのもまた相当ではない。1983年7月の最高裁判決(いわゆる「永山判決」)で示されたように、様々な情状を考慮した上で、罪責が誠に重大であり、罪刑の均衡・一般予防それぞれの見地から、極刑がやむを得ないと認められる場合には、その適用も許されると言わなければならない。2人の罪責は誠に重大で、2人にとって有利な事情(年齢・経歴・境遇や犯罪後の情状など)を十分考慮しても、2人を死刑に処した原判決の量刑は誠にやむを得ず、重すぎて不当とは言い難い[11]。
被告人Yは「死刑は重すぎる」として3月15日付で最高裁判所へ上告し、被告人Sも翌16日に上告した[83]。
上告審
上告審における事件番号は、昭和59年(あ)第512号[86][209]。
上告後、被告人Sの弁護人(吉永)と、被告人Yの弁護人3人(岩城邦治・岩城和代・村井正昭)は、それぞれ1984年8月31日付で上告趣意書を提出[223][224]。また、岩城邦治が同年8月30日に提出した上告趣意補充書には、被告人Y自身の上告趣意が記載されていたが、Yはその中で、「自分たちの犯行は到底許されない悪質なものではあるが、初犯で更生への強い意欲を認められながら死刑判決は納得の行くものではない」と主張[225]。死刑の恐怖および残虐性を強調し[226]、被害者1人の強盗殺人・保険金殺人で無期懲役・有期懲役が言い渡された判例などを挙げ[227]、「更生の機会を与えてほしい」と求めていた[228]。
1988年(昭和63年)2月1日に最高裁判所第二小法廷(香川保一裁判長)で上告審の公判(弁論)が開かれ、結審した[229]。
1988年4月15日の判決公判で、最高裁第二小法廷(香川保一裁判長)は原判決(2人を死刑とした第一審判決を支持した控訴審判決)を支持し、両被告人の上告を棄却する判決を宣告[230]。両被告人は判決訂正を申し立てたが、最高裁第二小法廷によって同年5月17日付で棄却決定がなされ[84][85]、同月18日付で死刑が確定した[注 14][39]。
死刑執行
1996年(平成8年)7月11日、S・Yの両死刑囚(死刑確定者)はいずれも収監先の福岡拘置所[注 7]で死刑を執行された(Sは49歳没、Yは43歳没)[18][234]。同日には、東京拘置所で別の死刑囚1人も死刑を執行されている[18]。死刑執行は当時、1995年12月に東京拘置所・名古屋・福岡の各拘置所で行われて以来[注 70]で、橋本政権および長尾立子法務大臣の下では初の死刑執行でもあった[18]。
死刑囚Yは死刑確定後、再審請求をしたが、執行以前に棄却されていた[注 71][237]。また、死刑囚Sは自力で再審請求していたとされる(詳細不明)[注 72][236]。
死刑執行を受け、高向幹範(第一審でYの弁護人を担当)は「どちらが主犯かわからないまま判決が下っており、今でも不当判決だと思っている。死刑執行は非常に残念」と[237]、岩城邦治(控訴審・上告審でYの弁護人を担当)は「(自分は)死刑制度そのものにも反対だが、過去の例から見ても、1人の死に対して2人の死を以て報いるという量刑自体が重すぎた」と述べ、それぞれ死刑執行を批判[64]。また、主任検事として捜査を担当した元福岡地検小倉支部副支部長の加藤石則(当時:弁護士)は「本事件は死刑適用の限界事例だろう。もし今のように死刑執行に抑制的なムードがある時代ならば、(2人への死刑は)ありえない判断だった。死刑制度は支持するが、2人よりも凶悪な犯罪を犯した死刑囚もいる。2人に死刑が執行されたことは複雑な気持ちだ」[64]「本来はまともな人間だった2人が、なぜあのような残虐な事件を起こしたのかわからない。死刑廃止論が高まっていることを考えれば、2人には死刑執行を免れ、恩赦で無期懲役になる道を探ってほしかった」と述べた[237]。
一方、福岡県警捜査一課長として捜査を指揮した梶原成一は、本事件を「警察官生活で一番印象に残った事件」「救いようのない反社会的事件」と位置づけた上で[237]、「最近は、従来なら死刑になるはずの事件が無期懲役になったりする(死刑適用に消極的な)傾向がある[注 4]が、本事件は(犯行の動機・残忍性などから)同情の余地はない。仮に今の裁判傾向をもってしても、死刑になっていたのではないか」[64]「(死刑執行の知らせを聞き)ある種の感慨を覚える」と述べている[238]。
識者の評価
北九州大学教授の新村登(心理学)は、遊興費欲しさに残忍な犯行におよんだ2人について、共通点として「幼児期の自己形成ができておらず、反社会的な行為をしてはならないとするしつけを幼少期から教え込まれていないこと」と、「自己顕示欲が強く、経済事情を無視して派手に遊んだり、店をことさら大きくしたりなど、分不相応なことをしたがること」(古い世代によく見られた傾向)を挙げた上で、2人を「今の若者の欠点と、古い世代の欠点を合わせたようなところがある」と指摘した[166]。その上で、本事件の解決と同時期に発生していた富山・長野連続女性誘拐殺人事件や、沖縄県での小学生誘拐事件(いずれも被疑者はSやYと同年代の、20歳代後半 - 30歳代前半)についても言及し、「3事件の被疑者とも、古い価値観から新しい価値観への移行期に生まれ育った世代で、いわば一つの時代の被害者とも言える」という見解を示している[166]。
また死刑執行について、同大学教授の石塚伸一(刑事学)は、2人が死刑確定から10年以内に死刑を執行されたことに注目し、「(死刑執行までの)速さに加え、共犯2人が被害者1人の事件で同時に執行されたことは極めて異例だ。オウム事件などで死刑是非論が取り沙汰される中、法務省の『死刑囚には厳しい態度で臨む』という頑なな姿勢を示すもの」と指摘している[237]。
関連書籍
- 警察庁 編『警察白書 警察活動の現況 昭和55年版』大蔵省印刷局、1980年8月15日、293頁。国立国会図書館書誌ID:000001463345・NDLJP:9902763 。 - 巻末の「昭和54年の主なできごと」に、「11 4 北九州市の病院長殺人、死体遺棄事件発生(福岡、大分)」との言及が見られる。
- 中村光至 著、松岡妙子(編集担当) 編『捜査―北九州病院長バラバラ殺人事件』(初刷)徳間書店〈TOKUMA NOVELS〉、1983年11月30日。ISBN 978-4191528253。国立国会図書館書誌ID:000001655019。 - 本事件にヒントを得た創作作品。参考文献として、福岡県警察機関誌『暁鐘』(昭和55年8月号・9月号)に掲載された捜査実話「狂ったピラニア」(著者:和田昭三/#参考文献)を用いている。
- 法務省法務総合研究所 編「第4章 凶悪犯罪と裁判 > 第5節 凶悪事犯の実態及び量刑に関する特別調査結果 > 3 凶悪事犯の量刑に関する調査結果」『平成8年版 犯罪白書 凶悪犯罪の現状と対策』大蔵省印刷局、1996年11月。ISBN 978-4173501717。 NCID BN15352823。国立国会図書館書誌ID:000002564657。オリジナルの2021年9月11日時点におけるアーカイブ 。2021年9月11日閲覧。「資産家から金品を奪った上で殺害するとの完全犯罪をもくろみ,周到な計画の下,資産家を監禁して残虐・冷酷な手段・方法をもって殺害し,死体を海中に投棄した強盗殺人等の事件において,共犯者2人が共に死刑を選択された例」
- 読売新聞西部本社「北九州市の病院長殺害事件」『九州の事件 五十年 一九六四-二〇一四年』(第1刷発行)海鳥社、2016年4月20日、41-43頁。ISBN 978-4874159682。 NCID BB21343130。国立国会図書館書誌ID:027242038。
脚注
注釈
- ^ a b c d ゼンリンの住宅地図 (1980) によれば、監禁・殺害現場となったスナック「ピラニア」が入居していた「エルザビル」は、小倉北区堺町一丁目5番地に所在しており[1]、同ビルの4階(最上階)に「ピラニア」があった[2]。同ビルの名称および住所は2021年2月時点で、「第一エルザビル」(住所:小倉北区堺町一丁目5番12号)になっている[3]。
- ^ a b c d e Sを刺す際に用いた凶器の短刀(刃渡り約30 cm)は、事件前からSが持っていたものだったが、銃刀法に基づく許可は受けておらず、Sが犯行数日前にYに預けていた[10]。
- ^ 同月18日には名古屋地裁で、本事件と同じく被害者1人の強盗殺人事件である闇サイト殺人事件の被告人3人のうち、犯行後に自首した1人(無期懲役)を除く2人に死刑が言い渡された[19]。被害者1人の事件で、複数の被告人に死刑が言い渡された事件は、「永山判決」(1983年)以降では本事件以来だった[20]が、1人は控訴取り下げによって死刑が確定した一方、もう1人(堀慶末)は控訴審で無期懲役を言い渡され、検察側の上告棄却によって確定している[21]。ただし、堀は無期懲役確定後、碧南市パチンコ店長夫婦殺害事件などへの関与が判明し、2019年に死刑が確定している[22]。
- ^ a b c d 「永山判決」以前から、死刑適用にあたっては殺害された被害者の数が重要視され、強盗殺人の場合、被害者が1人の場合は無期懲役以下、複数であれば死刑が適用される傾向にあった[41]。また同判決以降は、下級審では特に被害者1人の事件への死刑適用に慎重な傾向が強まっており[42]、従前ならば被害者1人でも死刑が適用されていた身代金目的の誘拐殺人事件でも、死刑が回避された事例が見られる(例:司ちゃん誘拐殺人事件・甲府信金OL誘拐殺人事件)。司法研修所 (2012) が、1970年度(昭和45年度)以降に判決を言い渡され、1980年度 - 2009年度にかけて死刑か無期懲役が確定した殺人事件・強盗殺人事件の被告人(全346人)について調査したところ[43]、殺害被害者1人の事件で死刑を求刑された被告人100人(殺人48人・強盗殺人52人)のうち、死刑が確定した被告人は32人(殺人18人・強盗殺人14人)にとどまっている[44]。→詳細は「永山基準 § 殺害された被害者の数」を参照
- ^ a b c 小柳本人は事件当日、小倉を訪れる予定はなく[30]、事件後には「Aには会ったこともないし、名前を聞いたこともない。(事件のことは)本当に大迷惑」と述べている[31]。
- ^ 1980年8月19日に東京で新宿西口バス放火事件が発生したが、同事件の加害者は小倉市(後の小倉南区)出身だった[35]。
- ^ a b c d 福岡拘置所はかつて、福岡刑務所の下部機関[231](福岡刑務所福岡拘置支所)だった[232]が、1996年5月11日に福岡拘置支所から昇格し[233]、独立機関の福岡拘置所になった[231]。同時に、それまでの小倉拘置所は福岡拘置所の下部機関(小倉拘置支所)へ降格した[232]。
- ^ 本事件の2人(事件一覧表における整理番号:55番および56番)以外に、東村山署警察官殺害事件(同18番)、名古屋市中区栄スナックバー経営者殺害事件(同280番:殺人罪で懲役15年に処された前科あり)、闇サイト殺人事件の1人(同345番)などがいる[45]。ただし、当初から被害者の殺害を計画・決意していた場合でも、無期懲役が選択された事例は多く、死刑選択にあたってはその点以外にも、犯行の動機、具体的な計画性の程度、社会的影響、被告人の前科・余罪など、様々な事情が考慮されている[46]。
- ^ ほか7人のうち、6人は無期懲役刑の仮釈放中に強盗殺人を再犯した者で、残る1人は2件の強盗殺人・強盗強姦事件で起訴されていたが、両事件の間に確定判決を挟んでいたため、(刑法第45条の規定により、両事件が併合罪にならず)1件目について無期懲役、2件目について死刑に処された事例である[47]。
- ^ 加藤松次は「死刑・無期量刑選択の変化――判決の傾向」(『ジュリスト』第798号)で[48]、「最近の死刑判決例は、犯人がはじめから被害者の殺害を計画していた場合、いいかえれば謀殺形態の殺人もしくは強盗殺人事件ばかりである。もちろん多数殺害事件は別の配慮が必要であるが、少なくとも単数被害者殺害事件に関するかぎり、成り行き殺人(故殺)に死刑が選択されることは稀である。」と指摘している[13]。
- ^ 両被告人は金に困ったことから、共謀してタクシー強盗を行うことを決め、1967年(昭和42年)4月17日に愛知県名古屋市中村区内でタクシー運転手を襲撃し、首に掛けたズボン用のベルトの両端を引っ張り合って絞殺し、現金約1,360円と腕時計などを奪った[50]。2人はこの強盗殺人・同時傷害事件以外に、窃盗・強盗・強盗致傷・強姦致傷の余罪があり[50]、1968年4月18日に名古屋地裁刑事第2部で死刑判決[事件番号:昭和42年(わ)第895号・昭和42年(わ)第1066号]を宣告された[51]。なお被告人のうち1人(イニシャルK・T)は窃盗4回の前科が[50]、もう1人(イニシャルI・S)も殺人予備など1回の前科があった[52]。2人とも控訴したが、KTは同年12月24日付で[50]、ISも同年5月10日付でそれぞれ控訴を取り下げ、死刑が確定している[52]。
- ^ 事件概要:飯場で知り合った男3人 (SK・MN・GY) が、金欲しさからタクシー強盗を計画し、殺害方法などの手はずを決めるなど共謀した上で、1962年(昭和37年)6月4日深夜に東京都中央区内で、被害者の運転手男性(当時54歳)が運転するタクシーに乗車し、地理に明るい神奈川県三浦市まで運転させた[55]。そして、周囲に人家や人通りのない場所に停車させると、後部座席から被害者に対し、背広上衣を頭から被せたり、革製バンドで首を絞めたり、殴るなどの暴行を加え、金を出して助命を哀願する被害者から現金2,591円や腕時計を強取した[56]。さらに、首に巻き付けたバンドの両端を2人で引っ張り合い、被害者を失神させた上で車外に引きずり出し、財布から現金200円を奪ったが、被害者にはまだかすかに息があったため、頭から肥溜めに落として殺害し、車を奪って逃走したものである[57]。SKは事件当時25歳、MNは同24歳で[58]、GYは事件当時少年だった[59]。
- 第一審判決[事件番号:昭和37年(わ)第1422号・第1603号] - 1962年12月11日:横浜地裁第4刑事部で、強盗殺人罪に問われた3被告人のうち、SKおよびMNの両被告人に死刑、残る被告人GYに無期懲役がそれぞれ言い渡された[60]。
- 控訴審判決[事件番号:昭和38年(う)第642号] - 1964年1月24日:東京高裁第1刑事部で、SKおよびMNの控訴をいずれも棄却する判決[61]。
- 上告審判決[事件番号:昭和39年(あ)第454号] - 1964年12月25日:最高裁第二小法廷で、SKおよびMNの上告をいずれも棄却する判決(2人の死刑が確定)[62]。参照:集刑 第153号987頁[63]。
- ^ a b c d 当初はYの妹や愛人が住んでいたマンションの一室で、彼女らが仕事に出ている間に死体を運び込み、風呂場で解体する計画だった[112]。この計画のため、Yは乙に部屋の合鍵を作らせた[112]が、S・YがAを殺害した当時(11月5日14時ごろ)は、彼女たちはまだ出勤しておらず在宅中だった[129]。そのため、Sたちは解体場所をかつて利用したことのあるホテル「泉」に変更した[129]。このホテル「泉」(京都郡苅田町)は、北九州市との境界に近く[26]、国道10号から約50 m海岸寄りに入った住宅街の外れに位置していた[130]。ゼンリンの住宅地図 (1979) によれば、「ホテル泉」の所在地は、苅田町若久町三丁目9番(位置座標)である[131]。
- ^ a b 実際には判決訂正申立棄却の決定が、被告人本人か弁護人の下に送達された時点をもって判決が確定する。
- ^ Sは門司工業高校(現:豊国学園高校)出身[90]。
- ^ その後、2人の妹が誕生しており、Yは3人兄妹の長男として育っている[94]。
- ^ 日炭高松炭鉱は、筑豊炭田で最大級の規模の炭鉱だったが、1971年(昭和46年)に閉山した[96]。
- ^ また、Yの父親は教育にも力を入れ、息子の高校時代にはPTAの役員を務めており、事件翌年の1981年(昭和56年)に定年を控えていた[95]。
- ^ 当時はちょうど中学の修学旅行前だったが、Yは反省のため、自ら修学旅行を辞退した[99]。
- ^ ゼンリンの住宅地図 (1978) によれば、「A病院」は小倉北区三萩野二丁目1番27号に所在していた[107]。
- ^ Aは、「A病院」用の給食などを「A興産」から購入し、双方から収益を上げていた[110]。
- ^ Aの生前最後に着工されたマンション「A第6ビル」(6階建て)は1980年4月ごろ、「A病院」の隣(小倉北区三萩野二丁目)に完成した[106]。
- ^ 1976年(昭和51年度)に初めて北九州市の個人取得ベスト10に入り、1978年度の所得申告額は1億3,296万円だった[106]。
- ^ 1978年11月には、入院患者が覚醒剤を注射して逮捕される事件が発生していた[114]。
- ^ 1979年11月30日付けで、有限会社「A興産」の代表取締役はAから、妻に変更された[115]。
- ^ a b Sは銀行からの借入金、商品の買掛代金など約800万円の債務を負い、滞った買掛金の一部の支払いを催促されていたが、銀行への返済は約定通り行っていた[120]。また、Yは開店資金・営業資金のための借入金や、酒類の買掛代金など約800万円の負債があったが、これはスナック経営に伴う通常の負債の範囲に過ぎず、借入金の返済に滞りはなかった[112]。両者とも、差し迫った取り立てや商品納入の差し止めなどを受けることはなかった[120]。
- ^ Yは事件前の夏ごろには10,000円の日掛け貯金ができるほどの金銭的余裕があった[121]。
- ^ 事故直後に80万円が、1979年1月までに120万円がそれぞれ支払われた[111]。
- ^ Sが事件当時借りていた店舗の契約期限は、1979年2月だった[111]。
- ^ Sはこのころから、Yとともに一晩で4、5万円(月あたり100 - 150万円)を飲み代に費やしていたが、この時には年少者であるYの飲み代をおごることも多く、店を妻に任せてゴルフや麻雀、猟に出掛けるようになった[111]。
- ^ 甲はSの女友達だった[123]。
- ^ 2人は甲の住居付近に出かけ、証拠となる写真を撮影した[124]。
- ^ 当日(11月4日)は、「ピラニア」が入居するエルザビル[注 1]内の店舗のほとんどが休む日だった[112]。
- ^ 2人は当初、Aを監禁するため[76]、Sの飼い犬用の鎖を使う予定で[123]、それを用意していた[76]。
- ^ a b c 死体の運搬に使われたロッカーは、Sが11月1日、麻雀仲間の事務用品販売業者から売ってもらったものだが、Sは同月下旬、その知人に対し「ロッカーを買ったことは絶対に言うな」と口止めし、伝票類などの証拠を持ち去った[133]。
- ^ 予約は2人分で、Aは料金41,700円を事前に支払っていた[134]。
- ^ 新北九州信用金庫は、現在の福岡ひびき信用金庫の前身に当たる。曽根支店は1980年当時、小倉南区下曽根三丁目に所在していた[65]が、2011年(平成23年)2月に下曽根二丁目へ新築移転した[136]。
- ^ この牛乳販売店主は、Sの古くからの釣り客だった[137]。
- ^ a b c 『読売新聞』 (1979) は、死体発見現場を「来浦漁港の沖合約600 mのノリ漁場」と報じている[15]。
- ^ 当時、Aはズボンを脱ごうとして前かがみになっていた[141]。
- ^ この傷(深さ3 - 4 cm、長さ約15 cm)は第8肋間を切断し、左肺下葉に達するものだった[141]。
- ^ a b c d e Yは当初、絨毯を3度にわたって張り替えさせた理由について、知人に対し「店に泥棒が入ったので刃物で刺した時、血が付いたので変えた」と話していたが、後に「客が汚物を吐いたため」と弁解した[65]。その代金には、Aから奪った約95万円のうち、山分けした約20万円を費やしていた[123]。
- ^ この時、SはAが仮に監禁されていることを示すようなことを発言した場合、直ちに電話を切れるようにしていた[146]。
- ^ 「小倉キャッスルホテル」は、福岡県北九州市小倉北区室町一丁目2番16号に所在していた[147]。客室65室を有していたが、事件後の1980年10月14日(翌15日に期限を迎える手形2,600万円分を決済できなくなったため)、経営が行き詰まって営業を停止し、事実上倒産した[148]。
- ^ この時、Aは「車のキーはフロントに預けてくれ」と伝えており、この電話を受けたAの妻は指示通り、福岡相互銀行三萩野支店で現金2,500万円を下ろして帰宅したところ、11時ごろに再び電話を受けた[145]。
- ^ a b c 「ホテルニュー田川」は、福岡県北九州市小倉北区古船場町3番46号に所在していた[149]。2018年10月にマイステイズ・ホテル・マネジメントが運営会社となり、同年12月1日から「アートホテル小倉 ニュータガワ」に改称している[150]。
- ^ このように失敗に終わった後も、Aは助かりたい一念から、2人に対し「もう一度金がとれるよう自分の方から妻に連絡する」と申し出ていた[14]。
- ^ a b c SとYは、胴体部分を2枚重ねのビニール袋(縦1 m×横90 cm)に入れて口を結んだ後、再び2枚重ねのビニール袋に入れ、その上から毛布でくるんでいた[10]。
- ^ 九電干拓地の池は、「昭和池」から約3 km離れている。
- ^ Sは事件以前から、自身が主催する磯釣り愛好会「徳力フィッシングクラブ」のメンバーを案内して四国(宿毛市など)に何度も行ったことがあり、「はやとも丸」もマイクロバスで利用したことがあったものの、Yを釣りに誘ったことはなかった[159]。当時、小倉 - 松山間の航路は関西汽船が運航していた[157]が、後に関西汽船はフェリーさんふらわあと合併。2013年4月1日以降は松山・小倉フェリーが運航を行っている[160]。
- ^ 「はやとも丸」は通常は予約制だが、2人は当時、予約していなかった[159]。
- ^ a b c 死体を包んだ毛布を縛り付けてあったナイロン製ロープ(直径5 mm)は、愛知県蒲郡市の業者が生産した釣具用のロープ(PPマルチロープ)で、北九州にも大量に流通していた[27]。Sは事件直前の10月19日、このロープと同じものを柳川市内の業者から10本仕入れていたが[133]、そのロープは事件後には店からなくなっていた[27]。
- ^ このホテルの従業員は、当時の2人の様子について「夕方出発するまで、一睡もしていなかったように寝込んでいた」と証言している[162]。
- ^ 「Yが業者に対し、絨毯を焼却処分するよう依頼した」とする報道もある[27]。
- ^ 現:ANAクラウンプラザホテル福岡。
- ^ この男は刑事や検察事務官などを詐称し、約5,000万円を騙し取ったとして逮捕された[169]。
- ^ a b c 生嶋(捜査一課特捜班所属)は当時の福岡県警でもきってのベテラン刑事で、数々の難事件を解決し、「落としの甚六」の異名を取っていた[179]。1979年3月には、警察庁長官功労章を授与されている[179]。
- ^ なお、この「Oクリーニング店」に入居していた建物の2階には、Aの愛人が北九州大学在学中に一時下宿していた[4]。
- ^ Sはそのホステスに対し、「自分は昼間、病院に行けないので、ここで(Aに書いてもらいたい)」と言っていたが、ホステスは「診断書なら病院の窓口に行けばすぐ書いてもらえるのに」と不審に思っていた[122]。
- ^ Yの愛人(当時22歳)は捜査員からの事情聴取に対し、11月4日(Aが失踪した日)の2人のアリバイ(自分も含めた3人で夜明かし飲んでいた旨)を証言したが、そのスナックは日曜定休で、11月4日(日曜日)は休みだった[157]。
- ^ ただし、この事実はまだ第一線の捜査員には伝えられていなかった[69]。
- ^ Sは同日7時20分に恐喝未遂容疑で逮捕され、Yも同日8時20分に小倉北署に出頭して逮捕された[190]。
- ^ 2人は別件逮捕直後、それぞれ同じ弁護士の選任を希望した[192]。
- ^ 「2人が共謀した上で、11月5日正午 - 12日15時ごろにかけ、Aの頭と両脚のない死体を毛布・ガーゼなどで包み、来浦港沖付近に投棄した」という容疑だった[196]。
- ^ ポリグラフ検査(Yのみが応じた)は、福岡県警犯罪科学研究所専門研究員の若松豪が担当した[152]。Yは「犯行場所は『ピラニア』」「Aの服装は褌」「凶器は鉈」などの質問項目に対し、いずれも強く反応した[152]。
- ^ 福岡地裁小倉支部(田中澄夫裁判長)の決定により、23日まで10日間の拘置が認められた[159]。
- ^ 判決公判までに計33回[213]。
- ^ 福岡地裁小倉支部 (1982) は「Sの供述の方が(Yより)具体的」と指摘した[6]。
- ^ 死体遺棄罪の法定刑は3年以下の懲役(刑法第190条)。
- ^ 1995年12月21日には、名古屋市女子大生誘拐殺人事件の死刑囚(名古屋拘置所在監)ら3人が死刑を執行されている[235]。
- ^ 『年報・死刑廃止』 (2020) では「Yは死刑執行時点で、再審請求を準備していた」と述べている[236]が、岩城邦治は「Yからは再審請求の要望は出なかった」と述べている[64]。
- ^ 『西日本新聞』 (1996) は大塚公子(ノンフィクション作家)からの情報として、「Yは確定後に再審請求したが棄却され、弁護士に『もう一度(請求を)考えます』と言っていた。Sも再審請求したが、弁護士が死亡してからは何もしていなかった」と報じている[237]。
出典
- ^ ゼンリン 1980, 97頁 E-4.
- ^ ゼンリン 1980, 別13頁「362 エルザビル (P.97-E-4)」.
- ^ 『北九州市小倉北区 2021』善隣出版社〈ゼンリン住宅地図〉、2021年2月、57頁 I-1頁。ISBN 978-4432506491。国立国会図書館書誌ID:031261285。
- ^ a b c d e f g 和田昭三 1980, p. 88.
- ^ a b c d e f g 『朝日新聞』1980年6月3日西部夕刊第3版第一社会面9頁「A事件初公判 顔そむけるY・S なすり合いの影濃く 傍聴券を求め長い列」「起訴状要旨」(朝日新聞西部本社)
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- ^ a b c d e f 『朝日新聞』1980年7月31日西部夕刊第3△版第一社会面11頁「国東の沖合 A院長の足か 切断の右足」 底引き網にかかる(朝日新聞西部本社)
- ^ a b c d e f 『朝日新聞』1980年4月2日西部朝刊第13版第一社会面15頁「A事件 サウナで殺しの相談 「まとまった金欲しい」 縛りあげネチネチ刺す 不敵な男も最後は涙 Y自供で崩れたS」(朝日新聞西部本社)
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- ^ 『中日新聞』2012年7月14日朝刊第一社会面31頁「闇サイト殺人 堀被告無期確定へ 最高裁 「関与に差」高裁支持」(中日新聞社) - 闇サイト殺人事件(堀慶末)の関連記事。
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- ^ 最高裁第二小法廷 1998, p. 2.
- ^ a b c d e f g h i j k l m 『朝日新聞』1980年4月1日西部夕刊第3△版第一総合面1頁「A院長殺し全面自供 Y「店でSが刺した」 モテル(苅田)で切断 Sも一部自供 金目当て誘い出す」(朝日新聞西部本社)
- ^ a b c d e f g h i 『朝日新聞』1980年4月1日西部夕刊第3△版三面3頁「数々のナゾこう解明」(朝日新聞西部本社)
- ^ a b c d e 『朝日新聞』1980年4月2日西部朝刊第13版第一総合面1頁「A院長事件 S自供、Yとほぼ一致 殺害時に100万円奪う 凶器、10月末に準備 サングラス発見 自供の池付近」(朝日新聞西部本社)
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- ^ a b 『朝日新聞』1980年3月11日西部朝刊第13版第一社会面15頁「A院長事件 Sら再逮捕へ Y、自殺はかり軽傷」(朝日新聞西部本社)
- ^ 『朝日新聞』1980年3月18日西部朝刊第13版第一社会面15頁「「A院長を刺した」 Y、直接の関係認める」(朝日新聞西部本社)
- ^ 『朝日新聞』1980年3月17日西部朝刊第13版第一社会面15頁「A事件のS 焦点の五日に外出 「在宅」ひるがえす」(朝日新聞西部本社)
- ^ 『朝日新聞』1980年4月1日西部朝刊第13版第一社会面23頁「A院長事件 あす起訴 まず死体遺棄罪で S・Y 殺人なお追及」(朝日新聞西部本社)
- ^ 『朝日新聞』1980年4月1日西部夕刊第3△版第一総合面1頁「A院長殺し全面自供 Y「店でSが刺した」 モテル(苅田)で切断 Sも一部自供 金目当て誘い出す」(朝日新聞西部本社)
- ^ 『朝日新聞』1980年4月1日西部夕刊第3△版第一社会面9頁「「坊やのため」にY崩れる 涙で震え「すいません」 状況証拠に逃げ場なく」(朝日新聞西部本社)
- ^ a b 『朝日新聞』1980年4月8日西部夕刊第3△版第二社会面10頁「恐かつ未遂の初公判」(朝日新聞西部本社)
- ^ 『朝日新聞』1980年4月9日西部朝刊第13版第一社会面15頁「S、犯意を否認 恐かつ未遂初公判」(朝日新聞西部本社)
- ^ a b c 判例タイムズ 1988, p. 103.
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- ^ 『朝日新聞』1980年7月2日西部朝刊第13版第二社会面14頁「A事件のS・Y 法廷でもなすり合い 互いの調書を否定」(朝日新聞西部本社)
- ^ 『朝日新聞』1980年7月10日西部夕刊第3△版第一社会面7頁「A事件第三回公判 遺体解剖の医師ら証人申請」(朝日新聞西部本社)
- ^ 『朝日新聞』1982年3月17日西部朝刊第14版第二社会面18頁「公判語録 生きる幸せ知った Y 命あれば寺男に S 遺体漂着は夫の執念 院長の妻」(朝日新聞西部本社)
- ^ a b 『朝日新聞』1982年2月17日西部朝刊第13版第一社会面15頁「A事件求刑 検察、厳しい論告 顔面そう白 Y 無言 S 「鬼畜…死で償え」」(朝日新聞西部本社)
- ^ a b 井上薫 1999, pp. 98–99.
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- ^ 『毎日新聞』1996年7月12日西部朝刊社会面「北九州市A病院バラバラ殺人事件の2人に死刑執行 衝撃的事件から17年」(毎日新聞西部本社)
- ^ a b 『毎日新聞』1984年3月12日東京夕刊第3版5頁「54年の事件を題材にTVサスペンス」(毎日新聞東京本社) - 『毎日新聞』縮刷版 1984年(昭和59年)3月号387頁
参考文献
本事件の刑事裁判の判決文
- 控訴審判決 - 「殺害された被害者が一人の場合の強盗殺人等事件について死刑の言渡しをした第一審の量刑が相当とされた事例」『判例時報』第1128号、判例時報社、1984年11月21日、150-160頁、NDLJP:2795139。
- 上告審判決 - 最高裁判所第二小法廷判決 1988年(昭和63年)4月15日 集刑 第249号335頁、昭和59年(あ)第512号、『強盗殺人、死体遺棄、恐喝未遂被告事件』「死刑事件(病院院長殺害事件)」。
- 判決主文:本件各上告を棄却する。
- 最高裁判所裁判官:香川保一(裁判長)・牧圭次・島谷六郎・藤島昭・奥野久之
- 被告人Sの弁護人:吉永普二雄
- 被告人Yの弁護人:岩城邦治・岩城和代・村井正昭(連名で控訴趣意書を提出。また、岩城邦治はY本人作成の上告趣意書を引用)
- 検察官:秋田清夫(公判出席)
- 収録元:「昭和59年(あ)第512号」『最高裁判所裁判集 刑事 昭和63年4月 - 6月』第249号、最高裁判所、1988年、335-403頁、国立国会図書館書誌ID:000001995318。
- 335 - 337頁は判決本文、339 - 347頁は被告人Sの弁護人(吉永普二雄)による控訴趣意書、349 - 396頁は被告人Yの弁護人(岩城邦治・岩城和代・村井正昭)による控訴趣意書(控訴趣意書はいずれも1984年8月31日付)。また、397 - 403頁(岩城邦治の上告趣意補充書:1984年8月30日提出)は、被告人Yが自ら書いた上告趣意(死刑の恐怖および残虐性を訴え、減軽を求める内容)の引用である。
- 「死刑の量刑が維持された事件(いわゆる北九州市病院長殺人事件)」『判例タイムズ』第39巻第18号、判例タイムズ社、1988年8月1日、103-104頁、ISSN 0438-5896、国立国会図書館書誌ID:000000019896。 - 通巻667号。
その他裁判資料
- 「死刑事件判決集(昭和41 - 43年度)」『刑事裁判資料』第189号、最高裁判所事務総局、1970年1月。 - 朝日大学図書館分室、富山大学附属図書館に所蔵。本事件以前、被害者1人の強盗殺人事件で被告人2人に死刑が宣告された最後の事例(名古屋地方裁判所1968年4月19日宣告判決)が掲載されている(事件一覧表33 - 34頁、本文448 - 456頁)。
- 「死刑事件判決集(昭和37 - 40年度)」『刑事裁判資料』第193号、最高裁判所事務総局、1971年2月、NCID AN00336020。 - 朝日大学図書館分室、東京大学法学部研究室図書室、富山大学附属図書館、日本大学法学部図書館に所蔵。本事件以前、被害者1人の強盗殺人事件では最後に、最高裁で被告人2人の死刑が確定した事件[1964年12月25日:最高裁第二小法廷判決、事件番号:昭和39年(あ)第454号]が掲載されている(事件一覧表56 - 57頁、本文398 - 406頁)。
- 司法研修所 編『裁判員裁判における量刑評議の在り方について』 63巻、3号(第1版第1刷発行)、法曹会〈司法研究報告書〉、2012年10月20日。ISBN 978-4908108198。 NCID BB10590091。国立国会図書館書誌ID:024032494 。 - 司法研究報告書第63輯第3号(書籍番号:24-18)。「事件一覧表」には、1980年度 - 2009年度の30年間に死刑か無期懲役が確定した死刑求刑事件全346件の概要が掲載されているが、本事件の加害者であるSおよびYは、55番・56番として掲載されている。
書籍
- 『北九州市小倉北区 1980』善隣出版社〈ゼンリンの住宅地図〉、1980年6月。国立国会図書館書誌ID:000003599264。
- 北九州市史編さん委員会 編「暗い事件の続発」『北九州市史 五市合併以後』北九州市、1983年2月10日、950-957頁。doi:10.11501/9575181。 NCID BN01336884。国立国会図書館書誌ID:000001607488・NDLJP:9575181。
- 弓削信夫・中島義博・笠井邦充 著「病院長バラバラ殺人事件 <昭和五十四年・北九州市>」、フクオカ犯罪史研究会 編『実録・福岡の犯罪〈下〉』(初版第一刷)葦書房、1993年3月15日、246-258頁。ISBN 978-4751204818。 NCID 4751204815識別子"4751204815"は正しくありません。。国立国会図書館書誌ID:000002260431。
- 井上薫(編著者)「番号9 罪名…強盗殺人、死体遺棄。Xについてはさらに、恐喝未遂」『裁判資料 死刑の理由』(初版第1刷)作品社、1999年11月25日、97-103頁。ISBN 978-4878933301。 NCID BA44540439。国立国会図書館書誌ID:000002842555。
- 年報・死刑廃止編集委員会 著、(編集委員:岩井信・可知亮・笹原恵・島谷直子・高田章子・永井迅・安田好弘・深田卓) / (協力:死刑廃止国際条約の批准を求めるフォーラム90・死刑廃止のための大道寺幸子基金・深瀬暢子・国分葉子・岡本真菜) 編『コロナ禍のなかの死刑 年報・死刑廃止2020』(第1刷発行)インパクト出版会、2020年10月10日。ISBN 978-4755403064。 NCID BC03101691。国立国会図書館書誌ID:030661462 。
雑誌記事
- 仁科邦男「惨殺病院長の遺産40億円の行方」『サンデー毎日』第55巻第2号、毎日新聞社出版部、1980年1月13日、28-30頁、doi:10.11501/3369859、NDLJP:3369859。 - 通巻第3221号(1980年1月13日・20日号)。
- 毎日新聞西部本社報道部・事件グループ「北九州病院長殺し 密着追跡メモから」『サンデー毎日』第55巻第15号、毎日新聞社出版部、1980年3月30日、157-159頁、doi:10.11501/3369872、NDLJP:3369872。 - 通巻第3234号(1980年3月30日号)。
- 和田昭三 捜査第一課特別捜査班長、絵・大西春雄「捜査実録 狂ったピラニア 〜A病院長強盗殺人事件捜査から〜」『暁鐘』第51巻第8号、(発行所)福岡県警察本部教養課(協賛)福岡県警察職員互助会、1980年8月1日、84-91頁。 - 福岡県警の機関誌『暁鐘』1980年8月号。福岡市総合図書館に所蔵。本文中、被害者Aと加害者2人は実名だが、それ以外の人物は捜査員も含めて匿名で表記されている。
- 和田昭三 捜査第一課特別捜査班長、絵・大西春雄「捜査実録 狂ったピラニア(2) 〜A病院長強盗殺人事件捜査から〜」『暁鐘』第51巻第9号、(発行所)福岡県警察本部教養課(協賛)福岡県警察職員互助会、1980年9月1日、69-75頁。 - 『暁鐘』1980年9月号。福岡市総合図書館に所蔵。
- 滝本幸一、細川英志「行刑施設の収容動向等に関する研究」(PDF)『法務総合研究所研究部報告』第20号、法務総合研究所(編集兼発行人)、2002年5月1日、国立国会図書館書誌ID:6234069・NDLJP:10225820、2021年4月26日閲覧。
関連項目
外部リンク
- “北九州市立大学同窓会─平成22年度北九州市立大学公開講座 (同窓会員による講演) 基本テーマ 「北九州市立大学をバネに活躍する人々」 「わが記者人生に悔いはなし」西日本新聞社 元社会部長 田村 允雄(S42・商学部商学科卒)”. 北九州市立大学同窓会. 北九州市立大学 (2010年9月25日). 2021年4月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年4月25日閲覧。 “<<小倉北区の病院長殺害(遺体切断・海中遺棄)事件>>”