コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「フランスの歴史」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
m Cite web|和書における引数修正
 
(45人の利用者による、間の192版が非表示)
1行目: 1行目:
{{出典の明記|date=2010年5月}}
[[ファイル:GMT France 2.png|thumb|260px|フランスの地形図。現在の[[ピレネー山脈]]以北と[[ライン川]]以西の「六角形」の本土と[[コルシカ島]]が領土となったのは[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]の時期である。]]
[[ファイル:GMT France 2.png|thumb|260px|フランスの地形図。現在の[[ピレネー山脈]]以北と[[ライン川]]以西の「六角形」の本土と[[コルシカ島]]が領土となったのは[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]の時期である。]]


{{フランスの歴史}}
{{フランスの歴史}}
'''フランスの歴史'''(Histoire de France)では、現在の[[フランス共和国]]の領土を構成する西ヨーロッパの領域の歴史を取り扱う。有史以前、古代ローマ支配、中世のフランク王国の建国と分裂、そしてフランス王国の成立と発展からフランス革命以降から現在の第5共和政に至る歴史である。
'''フランスの歴史'''(フランスのれきし、{{lang-fr|Histoire de France}})では、現在の[[フランス|フランス共和国]]の領土を構成する[[西ヨーロッパ]]の領域の歴史を取り扱う。有史以前、古代[[ローマ帝国]]による支配、中世の[[フランク王国]]の建国と分裂、そして[[フランス王国]]の成立と発展から[[フランス革命]]以降より現在の第5共和政に至る歴史である。


==先史時代==
== 先史時代 ==
[[ファイル:Lascaux, horse.JPG|サムネイル|ラスコー洞窟の壁画]]
[[旧石器時代]]には[[クロマニョン人]]が居住した。彼らの遺跡である[[ラスコー洞窟]]は有名である。クロマニョン人は[[ハプログループI (Y染色体)|ハプログループI2a (Y染色体)]]に属していた<ref>Eppie R. Jones, Gloria Gonzalez-Fortes, Sarah Connell, Veronika Siska, Anders Eriksson, Rui Martiniano, Russell L. McLaughlin, Marcos Gallego Llorente, Lara M. Cassidy, Cristina Gamba, Tengiz Meshveliani, Ofer Bar-Yosef, Werner Müller, Anna Belfer-Cohen, Zinovi Matskevich, Nino Jakeli, Thomas F. G. Higham, Mathias Currat, David Lordkipanidze, Michael Hofreiter et al.(2015) [http://www.nature.com/ncomms/2015/151116/ncomms9912/full/ncomms9912.html Upper Palaeolithic genomes reveal deep roots of modern Eurasians] Nature Communications 6, Article number: 8912 doi:10.1038/ncomms9912</ref>。
[[旧石器時代]]には紀元前2万年頃に[[クロマニョン人]]が居住した{{Sfn|金沢|1984|p=10-11}}{{Sfn|新倉ら|1977|p=269}}。1940年9月に現地に住む子供たちによって偶然発見された、彼らの遺跡である[[ラスコー洞窟]]は有名である{{Sfn|新倉ら|1977|p=316-317}}。クロマニョン人は[[ハプログループI (Y染色体)|ハプログループI2a (Y染色体)]]に属していた<ref>Eppie R. Jones, Gloria Gonzalez-Fortes, Sarah Connell, Veronika Siska, Anders Eriksson, Rui Martiniano, Russell L. McLaughlin, Marcos Gallego Llorente, Lara M. Cassidy, Cristina Gamba, Tengiz Meshveliani, Ofer Bar-Yosef, Werner Müller, Anna Belfer-Cohen, Zinovi Matskevich, Nino Jakeli, Thomas F. G. Higham, Mathias Currat, David Lordkipanidze, Michael Hofreiter et al.(2015) [http://www.nature.com/ncomms/2015/151116/ncomms9912/full/ncomms9912.html Upper Palaeolithic genomes reveal deep roots of modern Eurasians] Nature Communications 6, Article number: 8912 doi:10.1038/ncomms9912</ref>。またこの時代ではシェルアシュール文化や、[[ムスティエ文化]]といった痕跡が発掘されており、特に旧石器後期の遺物や遺跡は、フランス南西部の[[ドルドーニュ県]]に流れるヴェゼール川流域に集中している{{Sfn|井上|1995|p=11}}。
[[ファイル:Carnac megalith alignment 2.jpg|サムネイル|カルナック列石]]


[[新石器時代]]には[[農耕]]の到来とともに[[巨石記念物]]の建造が盛んになされた。農耕と巨石文化をもたらしたのは[[ハプログループG (Y染色体)|ハプログループG2a (Y染色体)]]と考えられる<ref>[http://www.eupedia.com/europe/ancient_european_dna.shtml#Neolithic Eupedia1]</ref><ref>[http://www.eupedia.com/genetics/britain_ireland_dna.shtml Eupedia2]</ref>。
[[新石器時代]]には[[農耕]]の到来とともに[[ブルターニュ]]などで[[巨石記念物]]の建造が紀元前2000年頃より盛んになされた{{Sfn|新倉ら|1977|p=269}}。特に[[カルナック列石]]はその規模の壮大さでも知られている{{Sfn|新倉ら|1977|p=316-317}}。農耕と巨石文化をもたらしたのは[[ハプログループG (Y染色体)|ハプログループG2a (Y染色体)]]と考えられる<ref>[http://www.eupedia.com/europe/ancient_european_dna.shtml#Neolithic Eupedia1]</ref><ref>[http://www.eupedia.com/genetics/britain_ireland_dna.shtml Eupedia2]</ref>。またこの時代には[[イベリア人]]系や[[リグリア人]]系のものがいたとされる{{Sfn|井上|1995|p=12}}


[[青銅器時代]]になると、[[ビーカー文化]]等が起こり、[[ケルト人]]が到達したと考えられる。彼らは現在の[[フランス人]]の多数派を占める[[ハプログループR1b (Y染色体)]]に属していた<ref>[http://www.eupedia.com/europe/Haplogroup_R1b_Y-DNA.shtml Eupedia]</ref>。
[[青銅器時代]]になると、[[鐘状ビーカー文化|ビーカー文化]]等が起こり、紀元前900年頃には[[ケルト人]]が到達したと考えられる{{Sfn|新倉ら|1977|p=269}}{{Sfn|井上|1995|p=12}}。彼らは現在の[[フランス人]]の多数派を占める[[ハプログループR1b (Y染色体)]]に属していた<ref>[http://www.eupedia.com/europe/Haplogroup_R1b_Y-DNA.shtml Eupedia]</ref>。

青銅器時代から鉄器時代に移行すると、[[キンメリア人]]によってもたらされた鉄の冶金術によって[[ハルシュタット文化]]が栄え、またケルト人らはフランス以外にも小アジアから北イタリア、イギリスやアイルランドなどに分布し、[[ラ・テーヌ文化]]と呼ばれる文化も隆盛した{{Sfn|井上|1995|p=12}}{{Sfn|福井|2005|p=28-32}}。


== ガリア ==
== ガリア ==
{{main|ガリア}}
{{main|ガリア|ガロ・ローマ文化}}
[[ファイル:Statue-vercingetorix-jaude-clermont.jpg|サムネイル|ウェルキンゲトリクスの銅像]]
紀元前600年頃、古代ギリシア人によって西地中海に植民市マッサリア{{Efn|現在の[[マルセイユ]]}}やニカイア{{Efn|現在の[[ニース]]}}が建設され、ギリシア文化がもたらされた{{Sfn|金沢|1984|p=10-11}}{{Sfn|柴田|2006|p=5-7}}{{Sfn|井上|1995|p=13}}。[[アナトリア半島]]・[[バルカン半島]]から[[フランス]]、[[イギリス]]に至る地域の原住民を[[古代ギリシア人]]たちはケルトイ、ガラタイと呼び、[[古代ローマ]]人たちはガッリー(ガリア人)と呼んだ。そして彼らの住む地はガリア(ガッリー人の地)と呼ばれた。かれらは現代では[[ケルト人]]とも呼ばれる{{Sfn|毛利|2011|pp=30-31}}{{Sfn|蔵持|1995|pp=77-78}}。


[[古代ローマ]]おいてほぼ現在のフランスにある地域[[ガリア]]と呼ばれおり[[ケルト人]]が居住していたと考えられるこのことは、[[紀元前58年]]から[[紀元前51年]]にかけてガリア遠征を行った[[ガイウス・ユリウス・カエサル]]による「[[ガリア戦記]]」などからもうかがえる。こうしてローマの遠征を受けは、いくつかローマ風都市も建られ、[[ローマ化]]が進んでった
ガリア人は多くの部族分かれ住んで統一国家を作らなかっ{{Sfn|金沢|1984|p=10-11}}。各部族戦士を兼ねいる貴族が集会を通じて行政官を選び農民を支配していた{{Sfn|金沢|1984|p=10-11}}。[[紀元前58年]]から[[紀元前51年]]にかけてローマの有力者[[ガイウス・ユリウス・カエサル]]はガリア遠征を行い、その記録を「[[ガリア戦記]]」とい著作に残した。カエサル「ガリア戦記」の中で当時ガリアの情勢を次のように説明してい
{{Quotation|ガリアは全部で3つに分かれ、一つはベルガエ人、二つ目はアクィータニー人、三つ目は彼らの言葉でケルタエ人、ローマでガリア人と呼んでいるものが住む。どれも互いに言葉と制度と法律が違う。|ユリウス・カエサル|ガリア戦記}}

カエサルがガリアで、最も苦戦した相手に[[アルウェルニ族]]の[[ウェルキンゲトリクス]]率いるガリア諸部族による連合軍が挙げられる{{Sfn|高遠|2020|p=19-21}}。しかしウェルキンゲトリクスも[[紀元前52年]]、ローマ軍にアレシアで包囲され降伏した{{Sfn|金沢|1984|p=20-22}}。

こうしたローマによるガリア遠征を受けた後は、いくつかのローマ風都市も建てられ、[[ローマ化]]が進んでいった{{Sfn|高遠|2020|p=19-21}}。ローマ時代には、ガリアという言葉は現在の[[イタリア]]北部や[[ドイツ]]の一部、[[ベルギー]]、[[スイス]]等の領域を含むより広い範囲を指したが{{Sfn|毛利|2011|pp=30-31}}{{Sfn|蔵持|1995|pp=77-78}}、紀元前1世紀末、ローマ皇帝[[アウグストゥス]]時代にアルプス以南のガリアが「イタリア」に編入され{{Sfn|島田|2021|p=153}}、やがてほぼ現在のフランスにあたる地域が[[ガリア]]に対応するようになっていった{{Efn|カエサル以前に早期にローマに属州化されていた南フランスの地域の一部はしばしば単に「プロウィンキア(属州)」と呼ばれた。この名称が現在の[[プロヴァンス]]という地名に繋がる。}}。アルプス以北のガリアは[[ガリア・ナルボネンシス]]、[[アキテーヌ地域圏|アキタニア]]、[[ガリア・ルグドゥネンシス]]、[[ガリア・ベルギカ]]、ライン軍政地区の5つの地方に分けられ、それぞれの地域の実情を加味した行政組織を樹立させた{{Sfn|金沢|1984|p=20-22}}{{Sfn|井上|1995|p=18}}。

ガリア人たちによるローマ支配への抵抗は散発的なものに終わり、ガリアの貴族層はむしろローマ文化を積極的に受容し、ローマに同調する傾向が強かった{{Sfn|後藤|1995|pp=96-113}}。こうした貴族層の動向に加え、ローマ植民市の建設や軍事目的による道路網の整備を通じてローマ化されたガリアでは、ローマの文化の影響を色濃く反映した、[[ガロ・ローマ文化]]が栄えた{{Sfn|後藤|1995|pp=103-107}}{{Sfn|金沢|1984|p=24-25}}。特に[[アルル]]や[[ニーム (フランス)|ニーム]]といった地域には、ローマの円形劇場や水道などの跡が多く残る{{Sfn|柴田|2006|p=5-7}}。

1世紀半ばには、ガリアの都市[[リヨン]]出身の[[クラウディウス]]がローマ皇帝となった。彼はガリアの貴族層によるローマ元老院への参入に反発する元老院議員たちに対し、ローマが異民族を積極的に迎え入れることで発展したことを主張し、また征服以来のガリア貴族層のローマに対する忠誠を称揚した{{Sfn|後藤|1995|pp=98-99}}。属州民へのローマ市民権の授与もこの頃から拡大した。ローマ軍に参加したガリア人兵士たちは退役後にはローマ市民権を得て帰郷し、従軍中の給金等を通じて土地を取得してローマに忠実な上層市民を形成していった{{Sfn|後藤|1995|pp=98-99}}。ガリア諸属州の下部単位は[[キウィタス]]と呼ばれたが、ローマは秩序の維持と徴税義務を果たしている限り相当な自由を認めていた{{Sfn|後藤|1995|p=102}}。

3世紀に入りローマ支配が動揺([[3世紀の危機]])するようになるとガリアでも治安が悪化しはじめた{{Sfn|後藤|1995|p=118}}。3世紀半ば、[[ライン川|ライン]]国境から[[ゲルマン人]]諸部族の侵入が相次ぎ、これの対処にあたった下ゲルマニア総督ポストゥムスが260年に皇帝を名乗り[[ガリア帝国]]が形成された。ガリア帝国は短期間に瓦解したが、3世紀後半にはこうした内乱や外的の侵入によってガリアは深刻な打撃を受けた{{Sfn|後藤|1995|p=120}}。3世紀の危機を収束させた[[ディオクレティアヌス]]、[[コンスタンティヌス1世]]の時代を経て、ローマ帝国の構造改革が行われると、ガリアの属州は細分化され[[トリーア]]に拠点を置く[[ガリア道長官]]がこれを管轄した。防衛にあたる辺境軍は数州毎に[[ドゥクス]](地方軍司令官)の下に置かれた{{Sfn|後藤|1995|p=121}}。

5世紀に入ると、ローマ内の内乱とライン国境からの侵入が一層進展し、418年には[[西ゴート人]]がガリア南西部に正式に居住を認められ、その後[[ブルグント人]]、[[アラン人]]などが次々ガリアに定着していった{{Sfn|後藤|1995|p=124}}。451年には[[アッティラ]]王率いる[[フン族]]が侵入し、[[西ローマ帝国]]の将軍[[アエティウス]]が西ゴート王[[テオドリック1世]]とともに[[カタラウヌムの戦い]]でこれを撃退したが、この頃までにガリアにおけるローマの支配力は大きく弱体化していた。[[西ゴート王国]]、[[ブルグント王国]]、さらには[[フランク王国]]などが勢力を伸長させ、5世紀半ば頃までガリアにおけるローマの支配は事実上終焉を迎えた{{Sfn|後藤|1995|p=125}}。
[[ファイル:Pont du Gard BLS.jpg|サムネイル|ローマ時代に建てられた水道橋。[[ポン・デュ・ガール]]と呼ばれる。]]


== フランク王国 ==
== フランク王国 ==
{{main|フランク王国|西フランク王国}}
{{main|フランク王国|西フランク王国}}
=== メロヴィング朝 ===
=== メロヴィング朝 ===
[[ファイル:Chlodwigs taufe.jpg|thumb|200px|right|洗礼を受けるクローヴィス]]
[[ファイル:Chlodwigs taufe.jpg|thumb|150 px|right|洗礼を受けるクローヴィス]]
4世紀後半より始まる本格的な[[ゲルマン人]]の移動にともない、ゲルマン人の一派である[[フランク人]]がガリアに定住した。481年に[[クロヴィス1世|クローヴィス]]がフランク諸族統一して[[メロヴィング朝]][[フランク王国]]を建国すると旧ローマ帝国領であるガリアの現住民が[[カトリック教会|カトック]]を信仰していたため統治を円滑行うこも狙ってカトリックを受容した。メロヴィング朝において、徐々に宮宰を務める[[カロング家]]が台頭していき、8世紀前半の宮宰[[ール・マルテル]]は、[[イベリア半島]]らヨーロッパ進出っていたイスラーム勢力([[ウイヤ朝]])を[[トゥール・ポワティエ間戦い]]撃破しキリスト教世界の守護者とてその名声高めた。
4世紀後半より始まる本格的なゲルマン人の移動にともない、ゲルマン人の一派である[[フランク人]]がガリアに定住した{{Sfn|金沢|1984|p=27-28}}。フランク人らは、狩猟と牧畜主とし、数年ほどの定住の後に、移住を行う生活を繰り返していた{{Sfn|金沢|1984|p=24-25}}。フランク人は、ガリア征服前ケル人に似て、サ族とブアリ族といくつかの部族に分かれ部族ごと戦士を持って{{Sfn|金沢|1984|p=24-25}}<ref name=":59">{{Cite web|和書|url=https://www.y-history.net/appendix/wh0601-037.html|title=世界史の窓|accessdate=2021-05-04}}</ref>また彼ら[[リカ法典]]」や「リ法典」などの、ラテン語で書れた部族の規則っていた<ref name=":59" />。こうしたフンク人に関する記録は、4世紀に書かれた史書「皇帝伝」の中に収録されているローマ進軍歌が最初で、260年代にローマ軍がフランク人に勝利た旨歌っ内容であった{{Sfn|福井|2005|p=57}}

470年にはフランク族の[[キルデリク1世]]がパリを包囲する{{Sfn|コンボー|2002|p=19-20}}。この包囲戦は10年に及び、やがて481年、キルデリク1世が没すると、弱冠15歳で部族の王となった[[クローヴィス1世 (フランク王)|クローヴィス1世]]はこの包囲戦を経て、[[聖ジュヌヴィエーヴ]]との合意を取り交わし、パリを支配下に置く{{Sfn|高遠|2020|p=24-27}}。その後、フランク諸族を統一し[[メロヴィング朝]][[フランク王国]]を建国すると、旧ローマ帝国領であるガリアの現住民がカトリックを信仰していたことや、ローマ化が早かったブルグンド王や西ゴート王といった他のゲルマン民族が[[アリウス派]]を受け入れていたことに対して、ローマ化が遅かったこともあり、また[[ランス (マルヌ県)|ランス]]の司教[[レミギウス]]や、敬虔なカトリック信者であった妻クロチルダらのすすめから、統治を円滑に行うことも狙って、クローヴィスは3000人ほどの従士らとともに正統派の[[アタナシオス派]]に改宗し、カトリックを受容した{{Sfn|木村ら|2014|p=121-127}}<ref name=":59" /><ref name=":60">{{Cite web|和書|url=https://www.y-history.net/appendix/wh0601-040.html|title=世界史の窓|accessdate=2021-05-04}}</ref>{{Sfn|コンボー|2002|p=19-20}}{{Sfn|高遠|2020|p=24-27}}{{Sfn|柴田|2006|p=10-12}}。

507年、クローヴィスは長年より戦役が続いていた[[アラリック2世]]率いる[[西ゴート王国]]を撃破し、[[ボルドー]]、[[トゥールーズ]]地方などを獲得する{{Sfn|コンボー|2002|p=21}}{{Sfn|シャルマソン|2007|p=8-9}}。クローヴィスとその息子[[キルデベルト1世]]の治世では、政治的な影響力に加え、宗教的な影響力も増大し、パリには多く教会や修道院が建設された{{Sfn|コンボー|2002|p=21}}。またこの時代にはクローヴィスの頃より対立関係にあった[[ブルグント王国|ブルグンド王国]]への侵攻が523年より始まる{{Sfn|シャルマソン|2007|p=10}}。

メロヴィング朝においては、王国を家の財産とみなし、当主の没後、その土地を分割相続する慣習があったことから、王国が統一を保っていたのはごく短期間のうちであった{{Sfn|柴田|2006|p=10-12}}。クローヴィスには4人の子供がいたため、国土は4つに分割された{{Sfn|金沢|1984|p=30-33}}。

6世紀後半には[[アウストラシア]]、[[ネウストリア]]、ブルグンドの3つに国が別れ、それぞれが王を称した<ref name=":60" />{{Sfn|佐藤|2009|p=10-11}}。また各地では地方豪族が影響を強めた<ref name=":60" />。

7世紀後半にネストリアを治めていた[[クロタール2世 (フランク王)|クロタール2世]]はこの三国に対して宮宰を設置し、この宮宰を通じて三国の統一を試みた<ref name=":60" />。

こうした分割相続によって不安定化していく王国と、それらを連絡し、統率を図る権限を持つ宮宰は力を強め、中でもカロリング家が台頭していく{{Sfn|木村ら|2014|p=121-127}}{{Sfn|柴田|2006|p=10-12}}。特にカロリング家の[[ピピン2世]]は三王国の争いを利用し、それぞれの国の宮宰職を独占した<ref name=":60" />。8世紀前半の宮宰[[カール・マルテル]]は、[[イベリア半島]]からヨーロッパ進出を図っていたイスラーム勢力([[ウマイヤ朝]])を[[トゥール・ポワティエ間の戦い]]で撃破し、キリスト教世界の守護者としてその名声を高めた{{Sfn|木村ら|2014|p=121-127}}。しかしマルテルは、メロヴィング家の王位の空白を空白を良い事に、宮宰として傍若無人に振る舞い、有力貴族の反感を買った{{Sfn|菊池|2003|p=27-28}}。


=== カロリング朝 ===
=== カロリング朝 ===
[[ファイル:Amiel - Pepin the Short.jpg|thumb|160px|left|ピピン3世(小ピピン)]]
[[ファイル:Amiel - Pepin the Short.jpg|thumb|150 px|left|ピピン3世(小ピピン)]]
当時、[[聖像禁止令]]などをめぐり東ローマ皇帝(ビザンツ皇帝)との対立を深めていたローマ教皇は、新たな政治的庇護者を必要としていた。こうした中、イスラーム勢力の侵入を撃退したフランク王国に教皇は着目し、フランク王国の実権をにぎるカロリング家との接近を図った。カール・マルテルの子[[ピピン3世]](小ピピン)は、ローマ教皇の支持にも助けられ、[[カロリング朝]]フランク王国を創始した。この返礼として、北イタリアの[[ラヴェンナ]]地方を教皇に[[ピピンの寄進|寄進]]したことは、ローマ教皇領の起源となった。さらにそ息子であるシャルルマーニュ([[カール大帝]])は、[[ザクセン人]]討伐・[[イベリア半島]]への遠征、[[アヴァール|アヴァール人]]の撃退、[[ランゴバルド王国|ロンバルド王国]]の討伐などその名声を高め800年にローマ皇[[レオ3世 (ローマ教皇)|レオ3世]]からローマ皇帝冠を受けた。シャルルマーニュは、[[エクス・ラ・シャペル]](語:アーヘン)宮廷ブリタニアから学僧[[アルクィン]]を招き、古代ラテン語文献振興([[カロリング・ルネサンス]])推進すなど、文化的な西ヨーロッパ世界の統一にも寄与した。エクス・ラ・シャペルにおける学術的諸成果は、フランス各地の[[教会]]・[[修道院]]にも影響及ぼしていった
当時、聖像禁止令などをめぐり東ローマ皇帝との対立を深めていたローマ教皇は、新たな政治的庇護者を必要としていた。こうした中、イスラーム勢力の侵入を撃退したフランク王国に教皇は着目し、フランク王国の実権をにぎるカロリング家との接近を図った。カール・マルテルの子[[ピピン3世 (フランク王)|ピピン3世]](小ピピン)は、メロヴィング家の血統につながる人物を修道院から探し出し、フレデリック3世として即位させ、改めて貴族会議の合意のもと、その王位を廃し、またローマ教皇の支持にも助けられ、751年に[[カロリング朝]]フランク王国を創始した{{Sfn|木村ら|2014|p=121-127}}{{Sfn|柴田|2006|p=10-12}}{{Sfn|菊池|2003|p=27-28}}。この返礼として、北イタリアの[[ラヴェンナ]]地方を教皇に寄進したこと([[ピピンの寄進]]は、[[教皇領]]の起源となった{{Sfn|木村ら|2014|p=121-127}}寄進は、当時、世襲などによって腐敗原因にもなっていた地方豪族への恩貸地制などとは異なり、教会への土地寄進は、聖職者身制によって腐敗可能性は低いと判断してのことであった{{Efn|もっとも、これは後教会司教選ぶ叙任権をめぐ争いを誘発した。}}{{Sfn|菊池|2003|p=29}}。こうした背景から、フランク王国とローマ教会の結びつきより強めていく{{Sfn|木村ら|2014|p=121-127}}
[[ファイル:Charlemagne-by-Durer.jpg|thumb|140 px|シャルルマーニュ]]
さらにその息子であるシャルルマーニュ([[カール大帝]])は、ザクセン人の討伐・[[イベリア半島]]への遠征、[[アヴァール]]の撃退、[[ランゴバルド王国]]の討伐などその名声を高め、800年にローマ教皇[[レオ3世 (ローマ教皇)|レオ3世]]からローマ皇帝の冠を受けた{{Sfn|木村ら|2014|p=121-127}}{{Sfn|柴田|2006|p=10-12}}。

シャルルマーニュは、エクス・ラ・シャペル(独語:アーヘン)の宮廷にブリタニアから学僧[[アルクィン]]を招き、古代ラテン語文献の振興(カロリング・ルネサンス)を推進するなど、文化的な西ヨーロッパ世界の統一にも寄与した{{Sfn|浜島書店|2012|p=98}}<ref name=":61">{{Cite web|和書|url=https://www.y-history.net/appendix/wh0601-067.html|title=世界史の窓|accessdate=2021-04-05}}</ref>{{Sfn|福井|2005|p=66}}。またシャルルマーニュが宮廷で用いていた[[カロリング小文字体]]は現在のアルファベットの小文字の元となった<ref name=":61" />。エクス・ラ・シャペルにおける学術的諸成果は、フランス各地の[[教会]]・[[修道院]]にも影響を及ぼしていった。

カロリング朝は、広大な領域を支配したものの、その統治機構はメロヴィング朝と同様に脆弱であった{{Sfn|柴田|2006|p=14-15}}。宮廷はアーヘンに置かれていたものの、軍事や行政は全国の司教座組織が担当し、それに加えて、各地の地方有力者が「伯」という地方行政官に任命される恩貸地制度を設けてからというもの、本来ならば与えられるその土地は、一代限りであるはずのものを彼らはその役職によって得た土地を世襲し、独立しようという傾向を作り始めたのである{{Sfn|柴田|2006|p=14-15}}{{Sfn|金沢|1984|p=40-42}}。802年、シャルルマーニュによってこうした地方の伯を監督する「巡察使」という役職が組織されるが、彼の没後、制度は形骸化し、巡察使は派遣された地方にそのまま居着いてしまい、その地域の諸侯となる者もいた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.y-history.net/appendix/wh0601-065_3.html|title=世界史の窓|accessdate=2021-05-04}}</ref>。

カロリング朝の時代を題材にしたかれた叙事詩に「[[ローランの歌]]」がある{{Sfn|高遠|2020|p=32-34}}。「ローランの歌」は、シャルルマーニュによるイベリア遠征におけるピレネー山中でのイスラームによる襲撃に創作を加えたもので、フランス文学の歴史の初期を代表する作品である{{Sfn|高遠|2020|p=32-34}}{{Sfn|渡辺ら|2007|p=26-28}}。

シャルルマーニュが814年に没すると、[[ルートヴィヒ1世 (フランク王)|ルートヴィヒ1世]]が王位に就く{{Sfn|シャルマソン|2007|p=36-37}}。ルートヴィヒ1世は817年に帝国整備令を出し、彼の長男であるロタール1世に王国の本土を、次男の[[ピピン1世 (アクィタニア王)|ピピン1世]]には[[アキテーヌ地域圏|アキテーヌ]]を、三男の[[ルートヴィヒ2世 (東フランク王)|ルートヴィヒ2世]]には[[バイエルン州]]を与え、次の世代の分割統治の準備を進めた。

=== ヴェルダン条約とメルセン条約による帝国の分割 ===
{{Main|西フランク王国|東フランク王国|中部フランク王国|ヴェルダン条約|メルセン条約}}
ルートヴィヒ1世が840年に没すると、彼の3人の息子である[[ロタール1世 (フランク王)|ロタール1世]]、[[ルートヴィヒ2世 (東フランク王)|ルートヴィヒ2世]]、[[シャルル2世 (西フランク王)|シャルル2世]]らが、ルートヴィヒ1世の所領をめぐって争いが始まる{{Sfn|佐藤|2009|p=18-19}}。この争いは841年の[[フォントノワの戦い]]で火蓋が切られ、この戦いを受け、842年にはシャルル2世とルートヴィヒ2世がロタール1世に対抗するために同盟を組む{{Sfn|シャルマソン|2007|p=40-42}}。この同盟は歴史家{{仮リンク|ニタール|en|Nithard}}によって「[[ストラスブールの誓い]]」として書き留められた。この文書は[[フランス語]]および[[ドイツ語]]による最古のテキストとなっている。843年の[[ヴェルダン条約]]によってフランク王国の所領が[[西フランク王国]]が、[[中部フランク王国|中央フランク王国]]、[[東フランク王国]]の三分割された{{Sfn|柴田|2006|p=14-15}}{{Sfn|佐藤|2009|p=18-19}}。その後、870年9月に中部フランク王国の[[ロタール2世]]が没すると、領土の見直しが行われ、[[メルセン条約]]が結ばれる{{Sfn|柴田|2006|p=14-15}}{{Sfn|シャルマソン|2007|p=46}}。これによって現在のフランス・[[ドイツ]]・[[イタリア]]の礎となる[[西フランク王国]]、[[東フランク王国]]、[[イタリア王国 (神聖ローマ帝国)|イタリア王国]]が成立した{{Sfn|柴田|2006|p=14-15}}。


この時代より、北方の[[ノルマン人]]による襲撃が始まる{{Sfn|高遠|2020|p=34-35}}。特に対ノルマン人との戦いの中で目立った活躍をした人物に、パリ伯[[ウード (西フランク王)|ウード]]がいる{{Sfn|高遠|2020|p=34-35}}。フランク王国の中央集権は、ヴェルダン条約以降、衰退の一途をたどる{{Sfn|金沢|1984|p=40-42}}。上述のような恩貸地制度の崩壊なども相まって、877年にシャルル2世によって発布された勅令は、それを禁ずるものであるが、それはまさしく、フランク王国の中央集権の衰退を象徴している{{Sfn|金沢|1984|p=40-42}}。こうした中央集権の衰退は、結果として地方分権を推し進め、フランス各地に大小様々の荘園が発生したとされる{{Sfn|金沢|1984|p=40-42}}。この頃の西フランク王国は、北方からのノルマン人(ヴァイキング)の進出に苦慮しており、10世紀初頭には[[サン=クレール=シュール=エプト条約|サン=クレール=シュル=エプト条約]]によってノルマン人の[[ロロ]]に[[ノルマンディー]]の地を封じた([[ノルマンディー公国]]){{Sfn|柴田|2006|p=16-17}}{{Sfn|新倉ら|1977|p=270}}。後にノルマンディー公が[[イングランド]]の王位に就いたことで、その後の英仏関係は様々な紛糾が引き起こされた。地方の領邦権力の成長につれ、王権は弱体化し、9世紀末に西フランク王国は領邦君主や司教によって王位の世襲制が廃止され、これを選挙に変えた{{Sfn|柴田|2006|p=16-17}}。
=== 西フランク王国 ===
シャルルマーニュの息子ルイ1世(独語:[[ルートヴィヒ1世 (フランク王)|ルートヴィヒ1世]])には3人の息子がおり、843年の[[ヴェルダン条約]]によってフランク王国の所領が三分割された。その後、870年の[[メルセン条約]]で領土の見直しが行われ、現在のフランス・[[ドイツ]]・[[イタリア]]の礎となる[[西フランク王国]]、[[東フランク王国]]、[[イタリア王国]]が成立した。この頃の西フランク王国は、北方からの[[ノルマン人]](ヴァイキング)の進出に苦慮しており、10世紀初頭にはノルマン人の[[ロロ]]に[[ノルマンディー]]の地を封じた([[ノルマンディー公国]])。後にノルマンディー公が[[イングランド]]の王位に就いたことで、その後の英仏関係は様々な紛糾が引き起こされた。


== カペー朝 ==
== カペー朝 ==
{{main|カペー朝}}
{{main|カペー朝}}
[[ファイル:King Hugh Capet.jpg|thumb|140px|right|ユーグ・カペー]]
[[ファイル:King Hugh Capet.jpg|thumb|150 px|right|ユーグ・カペー]]
[[ファイル:Blondel - Louis VI of France.jpg|サムネイル|186x186ピクセル|ルイ6世]]
カロリング家の断絶後、987年にパリ伯であった[[ロベール家]]の[[ユーグ・カペー]]がカペー朝を創始した。ノルマン人の討伐で活躍したユーグ・カペーだったが、その王権は東フランク王国(ドイツ王国)などと比べても脆弱で、パリ周辺のみにしかその王権は及ばなかった。[[13世紀]]ころより徐々に王権の強化が進み、イングランド王[[リチャード1世 (イングランド王)|リチャード1世]]や[[ジョン (イングランド王)|ジョン王]]と争った[[フィリップ2世 (フランス王)|フィリップ2世]]は、[[プランタジネット朝]](イングランド王家)の領土であったノルマンディーやアンジューを奪った。また、この頃フランス南部で広まっていた[[アルビジョワ派]]が異端とされ、[[アルビジョワ十字軍]]が組織された。この異端撲滅闘争は仏王[[ルイ9世 (フランス王)|ルイ9世]]の時代までに完了し、結果としてフランス南部にまでフランス王権が伸張することになった。このように、総じて13世紀におけるフランス王権の強化は、ローマ教皇との連携を前提として進められたものであった。しかし、[[第6回十字軍]]・[[第7回十字軍]]を行ったことはフランス財政に重い負担を与えることになった。
987年に西フランク王国の[[ルイ5世 (西フランク王)|ルイ5世]]が没し、カロリング家が断絶する{{Sfn|木村ら|2014|p=121-127}}。同年、[[パリ伯]]であった[[ロベール家]]の[[ユーグ・カペー]]がカペー朝を創始した{{Sfn|木村ら|2014|p=121-127}}。ノルマン人の討伐で活躍したユーグ・カペーだったが、その王権は東フランク王国(ドイツ王国)などと比べても脆弱で、パリ周辺のみにしかその王権は及ばなかった{{Sfn|柴田|2006|p=40-41}}{{Sfn|金沢|1984|p=50-52}}。カペーのみならず、[[ロベール2世 (フランス王)|ロベール2世]]、[[アンリ1世 (フランス王)|アンリ1世]]、[[フィリップ1世 (フランス王)|フィリップ1世]]らの最初の4代はこうした狭い領土のため、周辺の大諸侯と肩を並べるのに精一杯で、勢力の拡大や行政上の改革は難航した{{Sfn|金沢|1984|p=50-52}}。しかし一方で、大胆な勢力拡大こそ見られないものの、各代が女性問題などの騒動{{Efn|例えばロベール2世は仇敵ブルグント王国の近親関係にあった王女ベルトとの結婚を推し進め、結果997年に破門を宣告されたり、フィリップ1世は譜代の家臣の娘であり、すでに人妻であったベルトラード・ドゥ・モンフォールとの不倫によって1095年に破門を宣告された。}}を抱えながらも長生きし、王位継承の問題を解決していたことから、それぞれの治世が長くなるにつれ、王家は安定し始めた{{Sfn|佐藤|2009|p=56}}。5代目の[[ルイ6世 (フランス王)|ルイ6世]]は、淫蕩で食道楽であったが、そうした汚名とは裏腹に、勢力を強めていたノルマンディー公を牽制し、政略結婚を通じて領土の拡大をするなど、王朝の発展に大きく寄与した{{Sfn|金沢|1984|p=50-52}}。しかしその過程での[[ルイ7世 (フランス王)|ルイ7世]]と[[アリエノール・ダキテーヌ]]との離婚騒動は、イギリスとの関係悪化を招き、結果的に百年戦争の要因の一つとなった{{Sfn|金沢|1984|p=50-52}}。


=== 十字軍の時代と王たち ===
[[ファイル:Avignon-palais-des-papes.jpg|thumb|180px|left|アヴィニョン教皇庁]]
[[File:Conquetes_Philippe_Auguste.png|thumb|200 px|フィリップ2世時代の勢力変化。青:王家領、緑:諸侯領、黄:教会領、赤:アンジュー家領]]
[[14世紀]]に入ると、フランス王と教皇の関係は対立へと転じる。財政難の打開を図った仏王[[フィリップ4世 (フランス王)|フィリップ4世]]は、国内の聖職者への課税を図ってローマ教皇との対立を深めた。[[1302年]]、状況打開を求めたフィリップは、[[三部会]](フランス初の[[身分制議会]])を開催して、フランス国内の諸身分から支持を得た。その上で、翌[[1303年]]に[[アナーニ事件]]を引き起こしてローマ教皇[[ボニファティウス8世]]を一時幽閉するなど追い込んで憤死に至らしめた。その後、フランス人教皇の[[クレメンス5世]]を擁立させた上で、[[1309年]]に教皇庁を[[ローマ]]から[[アヴィニョン]]に移転([[アヴィニョン捕囚]]、「教皇のバビロン捕囚」)させ、フランス王権の教皇に対する優位性を知らしめた。このことによって、のちの[[宗教改革]]の時代よりも早く、フランス教会はカトリックの枠内にありながらローマ教皇からの事実上の独立を成し遂げた([[ガリカニスム]])。このカペー朝の繁栄は続くかと思われたが、フィリップ4世の死後に3人の息子があいついで急逝し断絶へと至った。
{{Main|十字軍}}
西暦1000年、聖書の告知にもかかわらず、キリストの再誕は現れなかったことから、教会への失望と不信がいたずらに増長し、教会の支配権は年々低下の一途をたどっていた{{Sfn|金沢|1984|p=54-55}}。そうした背景から、起死回生の企てとして1096年にローマ教皇[[ウルバヌス2世 (ローマ教皇)|ウルバヌス2世]]によって[[第1回十字軍]]遠征がクレルモン公会議で提唱された{{Sfn|金沢|1984|p=54-55}}。フランスからはトゥールーズ伯やフランドル伯などが参加した。1147年の[[第2回十字軍]]遠征では、[[エデッサ伯国]]陥落の報告を受け、ルイ7世がローマ教皇[[エウゲニウス3世 (ローマ教皇)|エウゲニウス3世]]に十字軍勅書の要請を出し、十字軍が組織され、遠征が行われた{{Sfn|櫻井|2019|p=39-40}}。ルイ7世はイェルサレム巡礼を果たすも、神聖ローマ皇帝[[コンラート3世 (神聖ローマ皇帝)|コンラート3世]]との内部抗争や無理な攻勢が続き、結果的に遠征は失敗に終わった{{Sfn|浜島書店|2012|p=104}}{{Sfn|佐藤|2009|p=82-86}}。

1180年に王位についた[[フィリップ2世 (フランス王)|フィリップ2世]]はフィリップ・オーギュストと呼ばれ、この時代に王権は飛躍的に強化された{{Sfn|高遠|2020|p=37}}。

1189年の[[第3回十字軍]]遠征では、フィリップ2世が神聖ローマ皇帝[[フリードリヒ1世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ1世]]やイギリス王[[リチャード1世 (イングランド王)|リチャード1世]]らとともに参加した{{Sfn|浜島書店|2012|p=104}}。この遠征ではイェルサレム奪還こそ失敗したが、講和により巡礼の安全確保が行われた{{Sfn|浜島書店|2012|p=104}}。

1199年、フィリップ2世は私生活でのトラブルなどから、[[インノケンティウス3世 (ローマ教皇)|インノケンティウス3世]]から破門と聖務停止を命じられる{{Sfn|佐藤|2009|p=119-121}}。

13世紀頃より徐々に王権の強化が進み、イングランド王[[リチャード1世 (イングランド王)|リチャード1世]]や[[ジョン (イングランド王)|ジョン]]と争ったフィリップ2世は、[[プランタジネット朝]](イングランド王家)の領土であったノルマンディーや[[アンジュー]]を奪った{{Sfn|木村ら|2014|p=142-147}}。また、この頃フランス南部で広まっていた[[アルビジョワ]]派が異端とされ、アルビジョワ十字軍が組織された{{Sfn|木村ら|2014|p=142-147}}。この異端撲滅闘争は仏王[[ルイ9世 (フランス王)|ルイ9世]]の時代までに完了し、結果としてフランス南部にまでフランス王権が伸張することになった{{Sfn|木村ら|2014|p=142-147}}。このように、総じて13世紀におけるフランス王権の強化は、ローマ教皇との連携を前提として進められたものであった{{Sfn|木村ら|2014|p=142-147}}。しかし、[[第6回十字軍]]・[[第7回十字軍]]を行ったことはフランス財政に重い負担を与えることになった{{Sfn|木村ら|2014|p=142-147}}。またこの遠征を通じて、ルイ9世は遠征先の[[チュニス]]で没した{{Sfn|浜島書店|2012|p=104}}。

11世紀よりフランスに限らず西ヨーロッパは、[[ピレネー山脈]]や[[ラインラント]]での鉄の生産が盛んになった経緯を受け、13世紀には農村などに鉄製農具が供給された<ref name=":62">{{Cite web|和書|url=https://www.y-history.net/appendix/wh0603_1-001.html|title=世界史の窓|accessdate=2021-05-04}}</ref>。特に重量有輪犂はアルプス以北などの湿った重い土壌の土地を深く耕すことができたことから普及し、またこの技術を受け、春耕地、秋耕地と休耕地の3つの耕作環境をローテーションさせる[[三圃式農業]]も普及した<ref name=":62" /><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.y-history.net/appendix/wh0603_1-002_1.html|title=世界史の窓|accessdate=2021-05-09}}</ref><ref name=":63">{{Cite web|和書|url=https://www.y-history.net/appendix/wh0603_1-002.html|title=世界史の窓|accessdate=2021-05-04}}</ref>。こうした技術の変化は、農業の生産力を高め、余剰生産物の貨幣化を通じて農民の荘園への貨幣地代の導入を促したほか、大規模な開墾運動を展開し、新村落(ヴィル=ヌーヴ)が次々に登場した<ref name=":63" />{{Sfn|井上|1995|p=66-67}}。新村楽では、領主が農民を誘致させるために特許状の配布や、年貢の免除、罰金の減額などが行われた{{Sfn|井上|1995|p=66-67}}。

[[ファイル:Avignon-palais-des-papes.jpg|thumb|150 px|left|アヴィニョン教皇庁]]

=== アヴィニョン捕囚 ===
14世紀に入るとフランス王と教皇の関係は対立へと転じる{{Sfn|木村ら|2014|p=142-147}}。財政難の打開を図った仏王[[フィリップ4世 (フランス王)|フィリップ4世]]は、国内の聖職者への課税を図ってローマ教皇との対立を深めた{{Sfn|木村ら|2014|p=142-147}}。1302年、状況打開を求めたフィリップは、[[三部会]](フランス初の[[身分制議会]])を開催して、フランス国内の諸身分から支持を得た{{Sfn|木村ら|2014|p=142-147}}。その上で、翌1303年に[[アナーニ事件]]を引き起こしてローマ教皇[[ボニファティウス8世 (ローマ教皇)|ボニファティウス8世]]を一時幽閉するなど追い込んで憤死に至らしめた{{Sfn|木村ら|2014|p=142-147}}{{Sfn|高遠|2020|p=40-42}}。その後、フランス人教皇の[[クレメンス5世 (ローマ教皇)|クレメンス5世]]を擁立させた上で、1309年に教皇庁を[[ローマ]]から[[アヴィニョン]]に移転([[アヴィニョン捕囚]]、「教皇のバビロン捕囚」)させ、フランス王権の教皇に対する優位性を知らしめた{{Sfn|木村ら|2014|p=142-147}}。このことによって、のちの[[宗教改革]]の時代よりも早く、フランス教会はカトリックの枠内にありながらローマ教皇からの事実上の独立を成し遂げた([[ガリカニスム]]){{Sfn|福井|2005|p=120-121}}。このカペー朝の繁栄は続くかと思われたが、フィリップ4世の死後に3人の息子があいついで急逝し断絶へと至った{{Sfn|木村ら|2014|p=142-147}}。


なお、フランスの王位継承者は、[[サリカ法典]]により男系のカペー家の子孫のみが継承権を許されている。以降、フランス王家は[[ヴァロワ家]]、[[ブルボン家]]へと受け継がれるが、これらの家系もカペー朝の傍系である。その意味においては、王政([[フランス王国]])が[[フランス革命]]によって打倒されるまで、カペー家の血筋が続いている。(1814年以降のブルボン家、[[オルレアン家]]を含めると、その血統はさらに続くことになる。)
なお、フランスの王位継承者は、[[サリカ法典]]により男系のカペー家の子孫のみが継承権を許されている。以降、フランス王家は[[ヴァロワ家]]、[[ブルボン家]]へと受け継がれるが、これらの家系もカペー朝の傍系である。その意味においては、王政([[フランス王国]])が[[フランス革命]]によって打倒されるまで、カペー家の血筋が続いている。(1814年以降のブルボン家、[[オルレアン家]]を含めると、その血統はさらに続くことになる。)


== ヴァロワ朝 ==
== ヴァロワ朝 ==
[[ファイル:Lenepveu, Jeanne d'Arc au siège d'Orléans.jpg|thumb|right|180px|ジャンヌ・ダルク]]
[[ファイル:Lenepveu, Jeanne d'Arc au siège d'Orléans.jpg|thumb|right|150 px|ジャンヌ・ダルク]]
{{main|ヴァロワ朝}}
{{main|ヴァロワ朝}}
=== 百年戦争 ===
=== 百年戦争 ===
{{main|百年戦争}}
カペー本家の断絶を受けて、1328年に[[ヴァロワ家]]の[[フィリップ6世 (フランス王)|フィリップ6世]]がフランス王に即位した。しかし、[[フィリップ4世 (フランス王)|フィリップ4世]]の孫にあたるイングランド王[[エドワード3世 (イングランド王)|エドワード3世]]は、自らこそフランスの王位継承者であると主張し、両国の間で[[百年戦争]]が勃発した。当初は、[[長弓]]部隊などを導入したイングランドが優勢であり、[[クレシーの戦い]]や[[ポワティエの戦い]]で勝利を収めていた。勢いに乗るイングランドの軍勢はパリを占領し、フランス王[[シャルル7世 (フランス王)|シャルル7世]]を[[オルレアン]]に追いつめた。しかし、[[ジャンヌ・ダルク]]の登場を契機として戦況は逆転へとむかい、最終的には[[ドーヴァー海峡]]に近い[[カレー (フランス)|カレー]]を除く大陸領土をフランスが制圧して終わった。長期にわたる戦乱は封建諸侯の没落を招いたほか、戦争予算を工面する必要から[[官僚]]制の整備が図られ、王権の強化がさらに進んだ。
[[File:Hundred years war.gif|thumb|left|200px|百年戦争の推移。黄:フランス領、灰:イギリス領、濃い灰:ブルゴーニュ公領]]
カペー本家の断絶を受けて、1328年に[[ヴァロワ家]]の[[フィリップ6世 (フランス王)|フィリップ6世]]がフランス王に即位した{{Sfn|木村ら|2014|p=142-147}}。しかし、[[フィリップ4世 (フランス王)|フィリップ4世]]の孫にあたるイングランド王[[エドワード3世 (イングランド王)|エドワード3世]]は、自らこそフランスの王位継承者であると主張し、両国の間で[[百年戦争]]が勃発した{{Sfn|木村ら|2014|p=142-147}}{{Sfn|浜島書店|2012|p=108}}。当初は、[[長弓]]部隊などを導入したイングランドが優勢であり、[[クレシーの戦い]]や[[ポワティエの戦い]]で勝利を収めていた{{Sfn|木村ら|2014|p=142-147}}。勢いに乗るイングランドの軍勢はパリを占領し、フランス王[[シャルル7世 (フランス王)|シャルル7世]]を[[オルレアン]]に追いつめた{{Sfn|木村ら|2014|p=142-147}}。しかし、[[ジャンヌ・ダルク]]の登場を契機として戦況は逆転へとむかい、最終的には[[ドーバー海峡]]に近い[[カレー (フランス)|カレー]]を除く大陸領土をフランスが制圧して終わった{{Sfn|木村ら|2014|p=142-147}}。長期にわたる戦乱は封建諸侯の没落を招いたほか、戦争予算を工面する必要から[[官僚]]制の整備が図られ、常備軍が設置されるなど、王権の強化がさらに進んだ{{Sfn|木村ら|2014|p=142-147}}。

14世紀に入ってより、気候が寒冷化し、凶作が飢饉を生み、やがて[[ペスト]]が流行した{{Sfn|木村ら|2014|p=142-147}}。また十字軍遠征や百年戦争などの戦乱などから、農業人口が減少したため、荘園領主は労働力を確保するために、農民の待遇を向上せざるを得なかった{{Sfn|木村ら|2014|p=142-147}}。こうした背景から次第に農奴制の廃止を訴える農民による反乱がヨーロッパ各地で展開された{{Sfn|木村ら|2014|p=142-147}}。フランスにおいては1358年の[[ジャックリーの乱]]や[[エティエンヌ・マルセル]]の反乱がそれに相当する{{Sfn|木村ら|2014|p=142-147}}{{Sfn|柴田|2006|p=56-57}}。1360年、[[ブレティニー条約]]が結ばれ、[[アキテーヌ地域圏|アキテーヌ]]と[[ポワトゥー]]がイギリスに割譲された{{Sfn|新倉ら|1977|p=272}}。

1449年、イギリス軍がフランスから撤退し、ギュイエンヌとノルマンディーがフランス領となる{{Sfn|新倉ら|1977|p=272}}。

=== 宗教改革 ===
{{Main|イタリア戦争|ユグノー戦争}}[[ファイル:Francois_Dubois_001.jpg|thumb|left|200 px|[[サン・バルテルミの虐殺]]]]
1498年、[[シャルル8世 (フランス王)|シャルル8世]]はイタリアへの勢力拡大を図って[[イタリア戦争]]を引き起こした{{Sfn|金沢|1984|p=100-101}}{{Sfn|木村ら|2014|p=214-222}}。これに対して[[ハプスブルク家]]も対抗して出兵したことが、18世紀半ばまで続くフランス王家(ヴァロワ家、ブルボン家)とハプスブルク家の間の対立の端緒となった{{Sfn|木村ら|2014|p=214-222}}。16世紀前半、神聖ローマ皇帝の座をねらったが叶わなかった[[フランソワ1世 (フランス王)|フランソワ1世]]は、当時ハプスブルク家と対立していた[[オスマン帝国]]のスルタン[[スレイマン1世]]との連携まで行って、ハプスブルク家の皇帝[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]]と抗争を続けたが、結局はハプスブルク家優位のままイタリア戦争は終結した([[カトー・カンブレジ条約]]){{Sfn|木村ら|2014|p=214-222}}。
[[ファイル:John Calvin Museum Catharijneconvent RMCC s84 cropped.png|thumb|150 px|ジャン・カルヴァン]]
16世紀より広がり始めた宗教改革の流れは、フランソワ1世が新思想に敏感であったことから、早い段階からフランスに根を下ろした{{Sfn|金沢|1984|p=107-110}}。宗教改革の時代では、フランスから[[ジャン・カルヴァン]]が生み出された{{Sfn|金沢|1984|p=107-110}}。カルヴァンは1533年に「[[キリスト教綱要]]」を著し、教会の腐敗を激しく批判した{{Sfn|金沢|1984|p=107-110}}{{Sfn|渡辺ら|2007|p=60-61}}。カルヴァンは予定説を主張し、またこれに呼応する一派はカルヴァン派と呼ばれるようになった{{Sfn|木村ら|2014|p=214-222}}{{Sfn|金沢|1984|p=107-110}}。1539年、フランソワ1世は[[ヴィレール=コトレの勅令|ヴィレール=コトレ王令]]を出し、以降、フランスの全ての公文書でフランス語が使われるようになる{{Sfn|新倉ら|1977|p=273}}。


16世紀後半になると、既に[[スイス]]の[[ジュネーヴ]]で高まっていたカルヴァン派の影響がフランス国内にも及び、[[ユグノー]](カルヴァン派)の対立が深まり、30年以上にわたる内戦となった[[ユグノー戦争]]が勃発した{{Sfn|木村ら|2014|p=214-222}}。1580年、[[ミシェル・ド・モンテーニュ|モンテーニュ]]が「[[エセー]]」を出版する{{Sfn|渡辺ら|2007|p=69-71}}。「エセー」は17世紀より来る[[啓蒙時代]]に影響を与えた{{Sfn|渡辺ら|2007|p=69-71}}。1572年の[[サン・バルテルミの虐殺]]に見られるように、カトリック・[[プロテスタント]]両勢力の対立は先鋭化していき、ついに1589年には[[アンリ3世 (フランス王)|アンリ3世]]がパリで暗殺され、ヴァロワ朝は断絶した{{Sfn|木村ら|2014|p=214-222}}。
=== イタリア戦争・ユグノー戦争 ===
[[ファイル:Francois_Dubois_001.jpg|thumb|left|140px|[[サン・バルテルミの虐殺]]]]
15世紀末、[[シャルル8世 (フランス王)|シャルル8世]]は[[イタリア]]への勢力拡大を図って[[イタリア戦争]]を引き起こした。これに対して[[ハプスブルク家]]も対抗して出兵したことが、18世紀半ばまで続くフランス王家(ヴァロワ家、ブルボン家)とハプスブルク家の間の対立の端緒となった。16世紀前半、神聖ローマ皇帝の座をねらったが叶わなかった[[フランソワ1世 (フランス王)|フランソワ1世]]は、当時ハプスブルク家と対立していた[[オスマン帝国]]のスルタン[[スレイマン1世]]との連携まで行って、ハプスブルク家の皇帝[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]]と抗争を続けたが、結局はハプスブルク家優位のままイタリア戦争は終結した([[カトー・カンブレジ条約]])。16世紀後半になると、既に[[スイス]]の[[ジュネーヴ]]で高まっていた[[カルヴァン派]]の影響がフランス国内にも及び、[[ユグノー]](カルヴァン派)の対立が深まり、30年以上にわたる内戦となった[[ユグノー戦争]]が勃発した。1572年の[[サン・バルテルミの虐殺]]に見られるように、[[カトリック教会|カトリック]]・[[プロテスタント]]両勢力の対立は先鋭化していき、ついに1589年にはフランス王[[アンリ3世 (フランス王)|アンリ3世]]がパリで[[暗殺]]され、ヴァロワ朝は断絶した。


== ブルボン朝 ==
== ブルボン朝 ==
{{main|ブルボン朝}}
{{main|ブルボン朝}}
=== ブルボン朝の成立と発展 ===
=== ブルボン朝の成立と発展 ===
[[ファイル:Louis XIII Richelieu devant La Rochelle.jpg|thumb|right|180px|ルイ13世とリシュリュー]]
[[ファイル:Louis XIII Richelieu devant La Rochelle.jpg|thumb|right|200 px|ルイ13世とリシュリュー]]
1589年、ユグノー戦争におけるカルヴァン派側の首領であった[[ナバラ王国|ナヴァール]]王アンリが、フランス王[[アンリ4世 (フランス王)|アンリ4世]]として即位し、[[ブルボン朝]]が成立した。アンリは、カルヴァン派の立場を貫くことで政情が混乱することを懸念し、1593年にカトリックに改宗した。その上で、1598年には宗教的寛容を定めた[[ナントの勅令]]を出し、個人の信仰の自由を認めて、30年以上にわたって続いたユグノー戦争を終わらせた。しかし、1610年に狂信的カトリック教徒の凶刃に倒れ死去した
1589年、ユグノー戦争におけるカルヴァン派側の首領であったナヴァール王アンリが、フランス王[[アンリ4世 (フランス王)|アンリ4世]]として即位し、[[ブルボン朝]]が成立した{{Sfn|木村ら|2014|p=214-222}}。アンリは、カルヴァン派の立場を貫くことで政情が混乱することを懸念し、1593年にカトリックに改宗した{{Sfn|木村ら|2014|p=214-222}}。その上で、1598年には宗教的寛容を定めた[[ナントの勅令]]を出し、個人の信仰の自由を認めて、30年以上にわたって続いたユグノー戦争を終わらせた{{Sfn|木村ら|2014|p=214-222}}


その後、アンリ4世は、宗教戦争期に強い自律性を持った大貴族や旧教同盟の拠点にもなった諸都市への服従を迫る政策に腐心し、経済の分野においては、[[リシュリュー]]を任命し、重商主義政策による産業の振興や財政再建などにつとめた{{Sfn|福井|2005|P=156}}。
次王[[ルイ13世 (フランス王)|ルイ13世]]は、宰相[[リシュリュー]]の補佐のもとでさらに王権の強化を推し進めた。1615年からは三部会も開催されず、官僚制・常備軍の整備はさらに進んだ。1618年より中欧で起こった[[三十年戦争]]では、自国のカトリックという宗教的立場よりも[[国益]]を最優先として新教側を支援し、ブルボン家の勢力拡大を図った。1643年にルイ13世が死去したことで、まだ5歳だった[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]が即位したが、宰相の[[ジュール・マザラン|マザラン]]がよく補佐した。1648年には三十年戦争の講和条約である[[ウェストファリア条約]](独語:ヴェストファーレン条約)で[[アルザス]]地方と[[ロレーヌ]]の3都市を領土に加えた。同年に、これ以上の王権強化を懸念した貴族らによって[[フロンドの乱]]が起こったが、1653年までに鎮圧された。このフロンドの乱と同時期に、イングランドでは[[清教徒革命|ピューリタン革命]]で王が処刑されているのと対照的である。

1610年に狂信的カトリック教徒の凶刃に倒れ死去した{{Sfn|木村ら|2014|p=214-222}}。

{{Main|三十年戦争}}

次王[[ルイ13世 (フランス王)|ルイ13世]]は、母后[[マリー・ド・メディシス]]や宰相リシュリューの補佐のもとでさらに王権の強化を推し進めた{{Sfn|木村ら|2014|p=214-222}}{{Sfn|柴田|2006|p=82-83}}{{Sfn|福井|2005|p=157}}。1615年からは三部会も開催されず、官僚制・常備軍の整備はさらに進んだ{{Sfn|木村ら|2014|p=214-222}}{{Sfn|柴田|2006|p=82-83}}。1618年より中欧で起こった[[三十年戦争]]では、自国のカトリックという宗教的立場よりも[[国益]]を最優先として新教側を支援し、ブルボン家の勢力拡大を図った{{Sfn|木村ら|2014|p=214-222}}。

1643年にルイ13世が死去したことで、まだ5歳だった[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]が即位したが、宰相の[[ジュール・マザラン]]が補佐をした{{Sfn|木村ら|2014|p=214-222}}{{Sfn|柴田|2006|p=82-83}}。1648年には三十年戦争の講和条約であるウェストファリア条約(独語:[[ヴェストファーレン条約]])で[[アルザス]]地方と[[ロレーヌ]]の3都市を領土に加えた{{Sfn|木村ら|2014|p=214-222}}。同年に、これ以上の王権強化を懸念した貴族らによって[[フロンドの乱]]が起こったが、1653年までに鎮圧された{{Sfn|木村ら|2014|p=214-222}}{{Sfn|喜安|2009|p=14-16}}。

==== 文学・思想史の動向 ====
1630年代から1640年代にかけて「[[方法序説]]」(1636)や「哲学原理」(1644)、「[[情念論]]」(1649)などを著した哲学者[[ルネ・デカルト]]の[[方法的懐疑]]と呼ばれる哲学的方法と、それらによって提起された[[心身問題]]は、[[バールーフ・デ・スピノザ|スピノザ]]や[[ゴットフリート・ライプニッツ|ライプニッツ]]といった当時の哲学者たちに大きな影響を与えた{{Sfn|渡辺ら|2007|p=78-79}}。またこの時代には、ジャン・シャプランや[[ジャン・デマレ・ド・サン=ソルラン|デマレ・ドサン=ソルラン]]といった作家たちの提言を受け、リシュリュー枢機卿によって[[アカデミー・フランセーズ]]が設立される{{Sfn|渡辺ら|2007|p=78-79}}。

1650年代には[[ブレーズ・パスカル]]が「[[パンセ]]」を著したほか、数学的な発見をした{{Sfn|渡辺ら|2007|p=80-82}}。


=== ルイ14世の親政期 ===
=== ルイ14世の親政期 ===
[[File:France 1552 to 1798-fr.svg|thumb|right|200 px|16世紀からフランス革命期にかけての領土拡大]]
[[ファイル:LouisXIV.jpg|thumb|left|180px|「太陽王」ルイ14世]]
[[ファイル:LouisXIV.jpg|thumb|left|150 px|「太陽王」ルイ14世]]
1661年、ルイ14世を補佐していた宰相マザランが死去し、ルイ14世の親政が始まった。さらなるブルボン家の勢力拡大を図ったため、一層の財政充実がもとめられ、財務長官の[[ジャン=バティスト・コルベール|コルベール]]がその任にあたった。彼は、休眠中であった[[フランス東インド会社]]を再建させ、王立特権[[マニュファクチュア]]を通じて国内産業の育成を図るなど、[[重商主義]]政策を推進した。一方で対外政策としては、[[ネーデルラント継承戦争]]に見られるように、相次いで領土拡大戦争を起こした(自然国境説という説明がなされることがあるが、当時の概念ではなく19世紀の歴史家による恣意的な解釈である)。
1661年、ルイ14世を補佐していた宰相マザランが死去し、ルイ14世の親政が始まった{{Sfn|木村ら|2014|p=227-228}}{{Sfn|柴田|2006|p=84-85}}{{Sfn|金沢|1984|p=138-141}}。さらなるブルボン家の勢力拡大を図ったため、一層の財政充実がもとめられ、財務長官の[[ジャン=バティスト・コルベール|コルベール]]がその任にあたった{{Sfn|木村ら|2014|p=227-228}}{{Sfn|柴田|2006|p=84-85}}。彼は、休眠中であった[[フランス東インド会社]]を再建させ、王立特権[[マニュファクチュア]]を通じて国内産業の育成を図るなど、[[重商主義]]政策を推進した{{Sfn|木村ら|2014|p=227-228}}{{Sfn|金沢|1984|p=138-141}}。一方で対外政策としては、[[ネーデルラント継承戦争]]に見られるように、相次いで領土拡大戦争を起こした{{Efn|自然国境説という説明がなされることがあるが、当時の概念ではなく19世紀の歴史家による恣意的な解釈である。}}{{Sfn|木村ら|2014|p=227-228}}。


当初、イングランドの[[ステュアート朝]](革命中に王族を保護していた)と友好的だったため、英仏の王朝的関係は良好(英議会とは不仲)であったが、ネーデルラント継承戦争のさなか、[[名誉革命]]によって[[オランダ総督]]・[[オランジュ|オラニエ]]公ウィレム3世がイングランド王[[ウィリアム3世 (イングランド王)|ウィリアム3世]]として即位してしまったため、対英関係は完全に悪化した。
当初、イングランドの[[ステュアート朝]](革命中に王族を保護していた)と友好的だったため、英仏の王朝的関係は良好(英議会とは不仲)であったが、ネーデルラント継承戦争のさなか、[[名誉革命]]によって[[オランダ総督]]・オラニエ公ウィレム3世がイングランド王[[ウィリアム3世 (イングランド王)|ウィリアム3世]]として即位してしまったため、対英関係は悪化した。


ライン川流域のプファルツに対して起こした[[アウクスブルク同盟戦争]](プファルツ継承戦争)でも、国際的な対ブルボン家包囲網が形成されるなど、覇権を追い求めるルイ14世はヨーロッパにおける外交的孤立を余儀なくされていった。[[スペイン・ハプスブルク朝|スペイン・ハプスブルク家]]の断絶に乗じて起こした[[スペイン継承戦争]]では、[[ユトレヒト条約]]で[[スペイン・ブルボン朝|スペイン・ブルボン家]]の王位を承認させるという成果を得たものの、北米大陸で[[アカディア]]、[[ハドソン湾]]などの領土を喪失したことや、イギリスにスペイン・ブルボン家のアメリカ大陸領における[[アシエント権]](奴隷貿易独占権)を認めるなど打撃も大きかった。
ライン川流域のプファルツに対して起こした[[大同盟戦争|アウクスブルク同盟戦争]](プファルツ継承戦争)でも、国際的な対ブルボン家包囲網が形成されるなど、覇権を追い求めるルイ14世はヨーロッパにおける外交的孤立を余儀なくされていった。[[スペイン・ハプスブルク朝]]の断絶に乗じて起こした[[スペイン継承戦争]]では、[[ユトレヒト条約]]で[[スペイン・ブルボン朝]]の王位を承認させるという成果を得たものの、北米大陸で[[アカディア郡 (ルイジアナ州)|アカディア郡]]、[[ハドソン湾]]などの領土を喪失したことや、イギリスにスペイン・ブルボン家のアメリカ大陸領における[[アシエント権]](奴隷貿易独占権)を認めるなど打撃も大きかった。


=== ブルボン朝の財政 ===
=== ブルボン朝の財政 ===
[[ファイル:Versailles Garden.jpg|thumb|right|220px|ヴェルサイユ宮殿]]
[[ファイル:Versailles Garden.jpg|thumb|right|200 px|ヴェルサイユ宮殿]]
長期にわたるイギリスとの抗争は、徐々に両国の経済的状況を反映して、フランスが劣勢に陥っていった。イギリスは既に名誉革命を成し遂げて[[立憲君主制]]に移行しており、議会が徴税権を確立している上、1694年に創設された[[イングランド銀行]]が発行する英[[国債]]に対して国際[[金融センター]]であった[[アムステルダム]]などから投資が集まっていた。また、[[市民革命]]の過程で特権団体である[[ギルド]]が解体しており、企業家の形成や[[工業化]]が生じる土台が形成されていた。このように、イギリスは長期的な植民地抗争に耐えられるだけの経済的基盤があった。一方のフランスは、[[王権神授説]]を信奉するルイ14世によって1685年にナントの勅令が廃止され([[フォンテーヌブロー勅令]])、国内の富裕なカルヴァン派が国外に流出するという事態を招いた。奢侈の限りを尽くした[[ヴェルサイユ宮殿]]の建築、運営もフランス財政に重くのしかかった。また、[[聖職者]]・[[貴族]]といった特権階級が免税特権をいまだ有していた。戦争の長期化は、フランスを利することは決してなかったのである。
長期にわたるイギリスとの抗争は、徐々に両国の経済的状況を反映して、フランスが劣勢に陥っていった。イギリスは既に名誉革命を成し遂げて[[立憲君主制]]に移行しており、議会が徴税権を確立している上、1694年に創設された[[イングランド銀行]]が発行する英[[国債]]に対して国際[[金融センター]]であった[[アムステルダム]]などから投資が集まっていた。また、[[市民革命]]の過程で特権団体である[[ギルド]]が解体しており、企業家の形成や[[工業化]]が生じる土台が形成されていた。このように、イギリスは長期的な植民地抗争に耐えられるだけの経済的基盤があった。奢侈限りを尽くした[[ヴェルサイユ宮殿]]の建築、運営もフランス財政に重くのしかかった。1682年には、パリから[[ヴェルサイユ]]へと都を移し、以降、ルイ14世はヴェルサイユ宮殿の中で政治を行なった{{Sfn|柴田|2006|p=84-85}}{{Sfn|金沢|1984|p=138-141}}。また[[王権神授説]]を信奉するルイ14世は、1685年にナントの勅令が廃止([[フォンテーヌブロー勅令]]){{Sfn|木村ら|2014|p=227-228}}、国内の富裕なカルヴァン派が国外に流出するという事態を招いた{{Sfn|木村ら|2014|p=227-228}}。また、[[聖職者]]・[[貴族]]といった特権階級が免税特権をいまだ有していた。戦争の長期化は、フランスを利することは決してなかったのである。こうした中、イタリア戦争以来の反ハプスブルク家というフランス外交の基本方針を維持しつつ、北米大陸の植民地抗争も同時に継続するということは、極めて困難となっていた。当時、ハプスブルク家も対プロイセン抗争で劣勢に陥っており、両王家ともに関係改善を求めていた。かくして、18世紀半ばに両王家が対立から同盟へと転じる[[外交革命]]が起こった

===ルイ15世の時代===
[[ファイル:Louis XV, King of France (1710-1774).jpg|thumb|150 px|ルイ15世]]
ルイ14世期に確立されたとされる「[[絶対王政]]」は、[[聖職者]]・[[貴族]]・[[ギルド]]といったある種の利権団体([[社団]])との強固な結びつきのもとに成立していたもので、フランス人民1人1人にまで国家権力が及んでいたわけではなかった。18世紀になり、1715年にルイ14世が没すると、王位は[[ルイ15世 (フランス王)|ルイ15世]]に移った{{Sfn|金沢|1984|p=158-159}}。約10年間の摂政時代を経て1726年にルイ15世の親政が始まるも、ルイ15世は政治を嫌い、女遊びにばかり興じる一方であった{{Sfn|金沢|1984|p=158-159}}。特に[[ポンパドゥール夫人]]は20年近くに渡ってルイ15世を虜にし、ヴェルサイユの一隅に贅を尽くした邸宅を建て、王室の財政を圧迫した{{Sfn|金沢|1984|p=158-159}}。また、エオンという素性の知れない怪しい人物を側近にし、国際交渉の場にも彼女を出席させた{{Sfn|金沢|1984|p=158-159}}。こうしたいい加減な振る舞いは王権の威信を失わせていった{{Sfn|金沢|1984|p=158-159}}。一方で、豪華絢爛な[[バロック]]様式を好んだルイ14世と比べ、ルイ15世の時代には[[ロココ]]様式による文化が生まれ始める{{Sfn|柴田|2006|p=96-99}}。


1756年、[[七年戦争]]が勃発する。この戦争でフランスは海外植民地での戦闘で敗北を喫し、1763年の[[パリ条約 (1763年)|パリ条約]]で、カナダのミシシッピ川以東のルイジアナと西インド諸島の一部をイギリスに、ミシシッピ川以西をスペインに割譲され、アメリカ大陸・インドからの事実上全面撤退を余儀なくされた。長期にわたる対イギリス植民地抗争は、フランスに多大な負債と革命の種を残しただけであった。
=== 外交革命と英仏植民地抗争 ===
こうした中、イタリア戦争以来の反ハプスブルク家というフランス外交の基本方針を維持しつつ、北米大陸の植民地抗争も同時に継続するということは、極めて困難となっていた。当時、ハプスブルク家も対[[プロイセン王国|プロイセン]]抗争で劣勢に陥っており、両王家ともに関係改善を求めていた。かくして、18世紀半ばに両王家が対立から同盟へと転じる[[外交革命]]が起こった。しかし、アメリカ大陸における[[フレンチ・インディアン戦争]]や、インドにおける[[カーナティック戦争]]、[[プラッシーの戦い]]などにことごとく敗れ、1763年の[[パリ条約 (1763年)|パリ条約]]によって、アメリカ大陸・インドからの事実上全面撤退を余儀なくされた。長期にわたる対イギリス植民地抗争は、フランスに多大な負債と革命の種を残しただけであった。


===「絶対王政」とそ限界===
=== ルイ16世時代 ===
ルイ14期に確立されたされる「[[絶対政]]」[[聖職者]]・[[貴族]]・[[ギ]]といったあ利権団体([[社団]]の強固な結びつきのもとに成立いたもフランス人1人1人まで国家権力及んいたわけではなかった。18世紀ると、パリでは多くの[[カフェ]]が営業され、カフェや個人的な[[サロン]]において、勃興しつつある[[ブルジョワジー]]や自由主義貴族が[[新聞]]を片手に社会批判を行うようになっていた。このような、王権が及ばない「[[公共空間]]」で生まれた公論([[世論]])は、当時高まっていた[[啓蒙思想]]によって理論武装されていき、のちのフランス革命を擁護するような諸理論を育んでいった。こうした中において、国王[[ルイ16世 (フランス王)|ルイ16世]]は、王権の及ぶ範囲で改革を目指したが、[[自由主義]]擁護者と[[絶対王政|絶対主義]]擁護者の板挟みとなり、絶対王政は限界を迎える様になった。
1774年、ルイ15が没するは[[ルイ16世 (フランス王)|ルイ16世]]に移{{Sfn|佐藤|2019|p=333-334}}。こ時代は[[アンシャン・レジーム]]と呼ばれる社会体制がおり、第1身分聖職者第2身分の貴族、そして第3身分の平民に分かれており、人口の約9割第3身分った{{Sfn|木村ら|2014|p=248-255}}大多数の第3身分が税金の負担よって苦しめられてい中で、少数の第1身分第2身分には広大な土地や重要な役職免税などの特権などを得ていた{{Sfn|木村ら|2014|p=248-255}}。パリでは多くの[[カフェ]]が営業され、カフェや個人的な[[サロン]]において、勃興しつつある[[ブルジョワジー]]や自由主義貴族が新聞を片手に社会批判を行うようになっていた。このような、王権が及ばない「公共空間]で生まれた公論(世論)は、当時高まっていた[[啓蒙思想]]によって理論武装されていき、のちのフランス革命を擁護するような諸理論を育んでいった。こうした中において、国王[[ルイ16世 (フランス王)|ルイ16世]]は、ルイ15世時代の人事を大きく変え、改革派である[[ジャック・テュルゴー]]や[[ジャック・ネッケル]]を起用し、特権身分にも税金を課すなど、王権の及ぶ範囲で改革を目指したが、[[自由主義]]擁護者と[[絶対王政]]擁護者の板挟みとなり、絶対王政は限界を迎える様になった{{Sfn|木村ら|2014|p=248-255}}{{Sfn|佐藤|2019|p=339-340}} 。特にテュルゴーは、穀物取り引きの自由化や、親方制度の廃止といった[[経済的自由主義]]的な政策を多く導入した{{Sfn|木村ら|2014|p=248-255}}。しかしこうした急進的な規制の撤廃は、当時起こっていた凶作が重なったこともあり、1775年に価格の高騰や品不足を引き起こし、パリや[[ノルマンディー]]、[[イル=ド=フランス地域圏|イル・ド・フランス地域圏]]で暴動を誘発した{{Sfn|木村ら|2014|p=248-255}}


== フランス革命 ==
== フランス革命 ==
{{main|フランス革命}}
{{main|フランス革命}}
[[ファイル:Prise de la Bastille.jpg|thumb|180px|バスティーユ牢獄襲撃]]
[[ファイル:Prise de la Bastille.jpg|thumb|180px|バスティーユ牢獄襲撃]]
[[1789年]]-[[1794年]]。広義には[[1799年]]まで。ブルボン王朝及び貴族・聖職者による圧制に反発した民衆が1789年7月14日に[[バスティーユ牢獄]]を襲撃する。これを契機としてフランスの全土に騒乱が発生し、[[アンシャン・レジーム]]は崩壊する。これらの動きを受け、国民議会は封建的特権の廃止を宣言し、8月26日に[[人間と市民の権利の宣言|フランス人権宣言]]採択た。しかし革命の波及恐れるヨーロッパ各国の君主たちは革命干渉し、これに反発した革命政府と間で[[フランス革命戦争]]が勃発する
1789年 - 1794年。広義には1799年まで。ブルボン王朝及び貴族・聖職者による圧制に反発した民衆が1789年7月14日に[[バスティーユ牢獄]]を襲撃する{{Sfn|金沢|1984|p=173-175}}{{Sfn|柴田|2006|p=121}}。これを契機としてフランスの全土に騒乱が発生し、アンシャン・レジームは崩壊する。フランス文学翻訳家の[[高遠弘美]]は、フランス革命のきっかけはバスティーユ襲撃事件ではなく、その数ヶ月前に発生した「[[レヴェイヨン事件]]」が引き金であると指摘している{{Sfn|高遠|2020|p=95-97}}。レヴェイヨン事件は、パリの壁紙製造業者であったジャン・バチスト・レヴェイヨンがその日のパンの価格の暴騰を受け、パンの価格を下げることを提案した方法が結局は賃金を下げることだと誤解した労働者たちによって引き起こされた一連の暴動である{{Sfn|高遠|2020|p=95-97}}。これらの動きを受け、国民議会は8月4日には封建的特権の廃止を宣言し、領主裁判権や教会への十分の一税が廃止された{{Sfn|木村ら|2014|p=248-255}}。8月26日にはラ・ファイエットが起草した[[人間と市民の権利の宣言|フランス人権宣言]]採択され{{Sfn|木村ら|2014|p=248-255}}10月には女性先頭にしたパリ民衆が[[ヴェルサイユ行進]]し、改革に否定的な王家をパリに移転させた{{Sfn|木村ら|2014|p=248-255}}

1790年には全国の行政区画を再編し、教会財産を没収、ギルドを廃止して営業の自由を確保したり、センチ・メートル法が正式に採用されるなどの改革が行われた{{Sfn|木村ら|2014|p=248-255}}。

翌年の1791年には一院制の立憲君主制を定め、選挙権を有産市民のみに限定した[[1791年憲法]]が発布され、国民議会は解散する{{Sfn|木村ら|2014|p=248-255}}。5月26日、国民議会は、国王に多額の生活費を与えることを決議する{{Sfn|高遠|2020|p=107}}。6月、ルイ16世と王妃[[マリー・アントワネット]]がオーストリアへの逃亡を試みる[[ヴァレンヌ事件]]が発生するが失敗し、王室への信頼は地に堕ちた{{Sfn|木村ら|2014|p=248-255}}。10月に開かれた立法議会では、これ以上の革命を望まない[[立憲君主派]]と、共和政合はローマ教皇を刺激させたが1797年のトレンチノ条約によってピオ6世はその旨を認めた{{Sfn|セディヨ|1991|p=45-47}}。


== 第一共和政 ==
== 第一共和政 ==
{{main|フランス第一共和政}}
{{main|フランス第一共和政|フランス革命戦争}}
1792年の春にジロンド派が政権を握り、[[オーストリア帝国]]に対して宣戦布告を行う{{Sfn|木村ら|2014|p=248-255}}。8月にはオーストリア帝国と[[プロイセン王国]]がルイ16世の救援を各国君主に呼びかける[[ピルニッツ宣言]]が行われる中、8月10日に国王一家がいた[[テュイルリー宮殿]]を襲撃する[[8月10日事件]]が発生し王権が停止する{{Sfn|木村ら|2014|p=248-255}}。9月には男性普通選挙による[[国民公会]]が成立し、共和制の樹立が宣言された{{Sfn|木村ら|2014|p=248-255}}。
[[1792年]]に[[8月10日事件]]で王政が廃止され、国民公会で[[ルイ16世 (フランス王)|ルイ16世]]を処刑し、国民公会、総裁政府、総領政府に分かれた共和制の成立を宣言する。[[ジャコバン派]]のクーデターでジロンド派は公会から追放され、貴族や教会から没収した土地の再分配を行う。[[マクシミリアン・ロベスピエール|ロベスピエール]]は反革命派や王妃[[マリー・アントワネット]]、[[王党派]]のダントンらを処刑し、[[恐怖政治]]を行う。1794年に[[テルミドールのクーデター]]でロベスピエールが失脚し、民衆の手により処刑され、ジャコバン派は退行し[[テルミドール派]]の[[総裁政府]]が成立する。翌[[1795年]]、テルミドール派は失脚し、[[ポール・バラス]]による[[政権]]が誕生する。このバラス政権は、比較的長期政権であったが、対外戦争は好転せず([[エジプト・シリア戦役|エジプト遠征]])、[[1799年]]、[[ブリュメールのクーデター]]によって[[ナポレオン・ボナパルト]]が[[執政政府]]を樹立し独裁権を掌握した。
[[ファイル:Exécution de Louis XVI Carnavalet.jpg|サムネイル|ルイ16世の処刑]]
国民公会では急進共和派の[[ジャコバン派]]が勢力を増し、1793年1月には[[ルイ16世 (フランス王)|ルイ16世]]が処刑された{{Sfn|木村ら|2014|p=248-255}}。

こうした革命の流れがイギリスに波及することを恐れた英首相[[ウィリアム・ピット (小ピット)|ウィリアム・ピット]]はフランス軍のベルギー地方への侵入に対抗する形でフランス包囲の大同盟である第1回対仏大同盟を形成した{{Sfn|木村ら|2014|p=248-255}}。このためヨーロッパを敵に回したフランス国内では、王党派と結びついた農民反乱が広がった{{Sfn|木村ら|2014|p=248-255}}。[[ヴァンデの反乱]]がそれに相当する{{Sfn|木村ら|2014|p=248-255}}。6月にはジャコバン派が事態を乗り切るためにジロンド派を議会から追放し、男性普通選挙を定めた[[1793年憲法]]の制定や、封建地代の無償廃止、亡命した貴族の土地の競売や最高価格令に伴う強力な価格統制など、都市部の民衆や農民の支持を確保するための政策を採用した{{Sfn|木村ら|2014|p=248-255}}。同年、[[ルーヴル宮殿]]が「共和国美術館」として使用されることが決まり、宮殿に所蔵されていた王室のコレクションは、王室の私有財産ではなく、国有財産となった{{Sfn|高遠|2020|p=107-108}}。

[[マクシミリアン・ロベスピエール]]を中心とするジャコバン派政権は、強大な権限を持つ公安委員会を設置し、革命防衛のための徴兵制や亡命禁止法、革命暦{{Efn|王権と結びつきのあったキリスト教教会を否定する形で、 (つまり反キリスト教の立場から) それまでのグレゴリウス暦を否定した。共和暦とも呼ばれる。}}を導入し、理性崇拝の宗教である「[[理性の祭典]]」を創始するなどの急進的な政策を打ち出す一方で、反革命派や王妃マリー・アントワネット、[[王党派]]のダントンらを処刑し、[[恐怖政治]]を行った{{Sfn|木村ら|2014|p=248-255}}{{Sfn|金沢|1984|p=183}}。

しかし、外部勢力の排除などが落ち着き、対外勢力からの脅威が遠のくと、小土地所有農民や経済的自由を求める市民層が保守化し、独裁に対する不満が高まり、1794年には[[テルミドール9日のクーデター]]が発生し、ロベスピエールは失脚し、彼とその一派は処刑された{{Sfn|木村ら|2014|p=248-255}}。ジャコバン派が没落すると、穏健共和派が有力となり、1795年には制限選挙制を復活させた[[共和暦3年憲法|1795年憲法]]{{Efn|共和暦3年憲法とも言う。}}が制定され、国民公会と革命裁判所は解散、そして[[総裁政府]]が樹立する{{Sfn|木村ら|2014|p=248-255}}{{Sfn|高遠|2020|p=105}}。しかし社会不安は続き、1796年5月には私有財産の廃止を唱え、政府転覆を画策していた[[フランソワ・ノエル・バブーフ|バブーフ]]が逮捕され、死刑を宣告される{{Efn|なお、バブーフはこの宣告を受け、処刑される前に短剣で自殺した。}}などの事件が起こった{{Sfn|木村ら|2014|p=248-255}}{{Sfn|金沢|1984|p=190-191}}。1797年10月には、フランス革命戦争で交戦を続けていたイギリス以外の全ての国と休戦をする[[カンポ・フォルミオ条約]]が締結される{{Efn|余談ではあるが、この条約の結果、[[ヴェネツィア共和国]]と[[ジェノヴァ共和国]]は消滅する。}}{{Sfn|高遠|2020|p=102}}。1798年、ジャコバン派と総裁政府の影響を受け、当時スイスの飛び地であった[[ミュルーズ]]を併合した{{Sfn|セディヨ|1991|p=48-49}}。11日には[[ジュネーヴ]]も併合された{{Sfn|セディヨ|1991|p=48-49}}。1799年、[[ブリュメール18日のクーデター]]によって[[ナポレオン・ボナパルト]]が[[統領政府]]を樹立し独裁権を掌握した{{Sfn|木村ら|2014|p=248-255}}{{Sfn|本田|1981|p=263-264}}。


== 第一帝政 ==
== 第一帝政 ==
{{main|フランス第一帝政}}
{{main|フランス第一帝政|ナポレオン戦争}}
[[ファイル:Jacques-Louis David 017.jpg|thumb|left|皇帝に即位した[[ナポレオン・ボナパルト]]]]
[[ファイル:Napoleon in His Study.jpg|左|サムネイル|248x248ピクセル|[[ナポレオン・ボナパルト]]]]
[[ファイル:Jacques-Louis David, The Coronation of Napoleon edit.jpg|thumb|right|200 px|ナポレオンの戴冠式]]
[[1804年]]、[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン1世]]が[[皇帝]]に即位。ナポレオンは[[アウステルリッツの戦い]]・[[トラファルガーの海戦]]・[[ロシア遠征]]など、欧州諸国に数々の戦争を仕掛けた。この一連の戦争を[[ナポレオン戦争]]という。しかしナポレオンは[[ライプツィヒの戦い]]に敗れ[[1814年]]に退位する。戦後処理のために[[ウィーン会議]]が開かれた。ウィーン会議は、欧州を1792年以前の状況に戻す[[正統主義]]が主な内容で、フランスにブルボン家が王として復位することになった。1815年、[[エルバ島]]から脱出し、パリに戻ったナポレオン1世が復位。しかし[[ワーテルローの戦い]]で完敗。ナポレオン1世は再び退位した([[百日天下]])。
[[File:First French Empire 1812.svg|thumb|right|200 px|1812年の領土。紺:フランス領、薄紫:衛星国]]
1801年、革命以来、フランスと対立関係にあったローマ教皇と和解し、翌1802年にはイギリスと講和をする「[[コンコルダート]]」と「[[アミアンの和約]]」を実現させ、対外的な脅威をなくすことになった{{Sfn|木村ら|2014|p=248-255}}{{Sfn|杉本ら|2016|p=49-50}}。1804年3月には私有財産の不可侵や[[法の下の平等]]、契約の自由、国家の世俗世など、近代国家に不可欠な規範が記した[[フランス民法典]]{{Efn|ナポレオン法典とも呼ばれる。}}を公布した{{Sfn|木村ら|2014|p=248-255}}{{Sfn|高遠|2020|p=113}}。5月、ナポレオン・ボナパルトは終身執政官という地位を経て、国民投票での圧倒的な支持から[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン1世]]として皇帝に即位した{{Sfn|木村ら|2014|p=248-255}}{{Sfn|金沢|1984|p=192}}。

1805年にイギリス、ロシア、オーストリアによって第3回対仏大同盟が結成されると、10月に行われた[[トラファルガーの海戦]]でナポレオンは[[ホレーショ・ネルソン (初代ネルソン子爵)|ホレーショ・ネルソン]]率いるイギリス艦隊に敗北する{{Sfn|木村ら|2014|p=248-255}}。しかし大陸での戦いでは[[アウステルリッツの戦い]]でオーストリアとロシアの連合軍に勝利し、翌1806年には西南ドイツ諸国を保護下に収め、[[ライン同盟]]を結成した{{Sfn|木村ら|2014|p=248-255}}。11月、ナポレオンは勅令を発し、イギリスとの通商を禁止する、[[大陸封鎖令]]を出した{{Sfn|金沢|1984|p=95-96}}。1807年にはプロイセンとロシアの連合軍を破り、[[ティルジットの和約]]を結び、分割占領されていたポーランド地方にダンツィヒ公国、ウェストファリア王国、[[ワルシャワ公国]]と行った傀儡政権を打ち立てた{{Sfn|木村ら|2014|p=248-255}}{{Sfn|金沢|1984|p=95-96}}。また1808年にはイベリア半島に侵攻し、[[スペイン・ブルボン朝]]を打ち倒す。彼は兄の[[ジョゼフ・ボナパルト|ジョセフ・ボナパルト]]をホセ1世としてスペイン王位につけ、統治を行うも、各地でスペイン人による蜂起が起こり、{{Sfn|木村ら|2014|p=248-255}}{{Sfn|金沢|1984|p=95-96}}。1812年にはロシア遠征が行われるも大量の犠牲者を出した末に撤退し、遠征は失敗に終わる([[1812年ロシア戦役]]{{Sfn|木村ら|2014|p=248-255}}{{Sfn|金沢|1984|p=95-96}})。

ナポレオンは[[ライプツィヒの戦い]]に敗れ1814年に退位する{{Sfn|木村ら|2014|p=248-255}}{{Sfn|柴田|2006|p=133-134}}。戦後処理のために[[ウィーン会議]]が開かれた{{Sfn|木村ら|2014|p=156-158}}。ウィーン会議は、欧州を1792年以前の状況に戻す正統主義が主な内容で、フランスにブルボン家が王として復位することになった{{Sfn|木村ら|2014|p=156-158}}。またこの会議を受け、ジュネーブはスイスに返還された{{Sfn|セディヨ|1991|p=48-49}}。1815年、[[エルバ島]]から脱出し、パリに戻ったナポレオン1世が復位{{Sfn|木村ら|2014|p=248-255}}。しかし[[ワーテルローの戦い]]で完敗{{Sfn|木村ら|2014|p=248-255}}。ナポレオン1世は再び退位し、大西洋のイギリス領セント・ヘレナ島に軟禁された{{Sfn|木村ら|2014|p=248-255}}{{Sfn|杉本ら|2016|p=49-50}}。


== 復古王政 ==
== 復古王政 ==
{{main|フランス復古王政}}
{{main|フランス復古王政}}
[[ファイル:Gérard - Louis XVIII of France in Coronation Robes.jpg|thumb|150 px|ルイ18世]]
ナポレオン1世の失脚後、ルイ16世の弟である[[ルイ18世 (フランス王)|ルイ18世]]がフランス国王に即位した。ナポレオンが一旦エルバ島を脱出して復権すると亡命するが、ナポレオンの最終的失脚にともなって復位した。このブルボン家の復古は、[[ウィーン議定書]]で諸外国によって承認された。
1814年、ナポレオン1世の失脚後、ルイ16世の弟である[[ルイ18世 (フランス王)|ルイ18世]]がフランス国王に即位した{{Sfn|柴田|2006|p=143}}。王の帰還に伴って亡命した貴族たちも続々とフランスに帰国した{{Sfn|柴田|2006|p=143}}。このブルボン家の復古は、[[ウィーン議定書]]で諸外国によって承認された{{Sfn|浜島書店|2012|p=152}}。

一般に保守反動体制とされるウィーン体制だが、かつてのアンシャン・レジームへ完全に回帰したわけではなかった{{Sfn|柴田|2006|p=143-144}}{{Sfn|杉本ら|2016|p=87-88}}。復古王政下では制限選挙による立憲君主政が採られ、法の下の平等・所有権の不可侵・出版や言論の自由などが認められた[[1814年憲章]]が発布された{{Sfn|佐藤|2019|p=411}}。しかしアンシャン・レジームの名残が全て払拭されたわけではなく、国民主権は否定され、カトリック教会が国教として定められ、行政権や司法権、立法権などの三権は国家元首である国王が保有していた{{Sfn|柴田|2006|p=143-144}}{{Sfn|杉本ら|2016|p=87-88}}。

1824年にルイ18世が死去すると、その弟の[[シャルル10世 (フランス王)|シャルル10世]]が即位し、反動政治を推し進めた{{Sfn|柴田|2006|p=143-144}}。シャルル10世は、革命中に売却された亡命貴族の土地の補償を目的とする10億フラン法の制定や、ランス大聖堂での聖別式の復活などを行った{{Sfn|柴田|2006|p=143-144}}。王への反発が強まる中、{{仮リンク|アルジェリア出兵 (1830年)|en|Invasion of Algiers in 1830}}で関心を対外関係に向けようとするが、高まる自由主義運動に対して抑圧を図ると、1830年7月25日に選挙権をより限定し、元亡命貴族や大土地所有者の票の重みを相対的に大きくさせる七月王令が発布されると、同月27日から29日にかけて[[フランス7月革命|7月革命]]が勃発してシャルル10世は失脚し、イギリスに亡命した{{Sfn|木村ら|2014|p=156-158}}{{Sfn|杉本ら|2016|p=87-88}}{{Sfn|高遠|2020|p=121-122}}。この革命の中心は立憲君主派であったために共和政には移行せず、[[自由主義]]に理解を示す[[オルレアン家]]の[[ルイ・フィリップ (フランス王)|ルイ・フィリップ]]が王として選ばれた{{Sfn|木村ら|2014|p=156-158}}。[[アルジェリア侵略]]の結果、[[フランス領アルジェリア]]として1834年に併合され、1962年の独立まで占領が続いた。

== 7月王政 ==
{{main|7月王政|1848年のフランス革命}}
[[ファイル:1841 portrait painting of Louis Philippe I (King of the French) by Winterhalter.jpg|thumb|150 px|ルイ・フィリップ]]
1830年7月、[[自由主義]]者として知られた[[オルレアン家]]の[[ルイ・フィリップ (フランス王)|ルイ・フィリップ]]がフランス王となった{{Sfn|木村ら|2014|p=156-158}}。ここからの彼の治世を7月王政と称する{{Sfn|木村ら|2014|p=156-158}}。[[政治体制]]は[[立憲君主制]]が採られたが、極端な制限選挙により一部の大ブルジョワジーしか政治参加が認められなかった{{Sfn|柴田|2006|p=147-149}}。復古王政の打倒に基づいて新たに作られた[[1830年憲章]]では、以前の憲章のなかで示された王権神授説を述べる前文や「臣民」という語句が削除され、以前の憲章で記された自由や平等に関する記述は維持された{{Sfn|杉本ら|2016|p=89-90}}{{Sfn|金沢|1984|p=202-205}}。

新たに樹立された議会では諸党派の争いに苦しんだ{{Sfn|金沢|1984|p=202-205}}。議会は当初、王政樹立に賛成であった加担派が多数を占めたが、次第に[[ラファイエット]]や[[アドルフ・ティエール]]、[[ジャック・ラフィット (政治家)|ジャック・ラフィット]]らの進歩党と[[フランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾー]]の抵抗党に分裂し、ことあるごとに対立を極めた{{Sfn|金沢|1984|p=202-205}}。また野党には[[アンリ・ダルトワ]]を擁立する正統王朝派やルイ・ナポレオンを擁立するボナパルト派などの王党派や、都市部の労働者層を支持基盤とする共和派などがいた{{Sfn|金沢|1984|p=202-205}}。

1830年のラフィットによる組閣では復古王政時代の官僚や将軍らの粛清をすることによって政治的不安を解消しようとしたが、そうした政策が生優しいと、七月革命の原動力となった民衆からの非難を受け、何度かの騒擾などもあったことから、辞職に追い込まれる{{Sfn|金沢|1984|p=202-205}}。


翌1831年、抵抗党の{{仮リンク|カジミール・ピエール・ペリエ|en|Casimir Pierre Périer}}が首相となったが、左右両翼からの挟撃に遭い、また当時ヨーロッパで流行していた[[コレラ]]に罹り、そのまま病没してしまう{{Sfn|金沢|1984|p=202-205}}。ペリエが没してより5ヶ月後、抵抗党のブロイ公、ギゾー、進歩党のティエールによる連立内閣が成立した{{Sfn|金沢|1984|p=202-205}}。この内閣の主な支持層であった上級富裕市民は、11月リヨンで賃金問題から発生した絹織物労働者の暴動や、1832年2月の正統王党派による襲撃の陰謀、1834年の共和派の反乱といった国内での騒擾に対して否定的な立場を取らせ、彼らはやがて政府を動かして武器携行禁止法を制定させ、国民軍を、直接税を納め、かつ自費で装備することのできるブルジョワの子弟だけで構成する組織へと変えていった{{Sfn|金沢|1984|p=202-205}}。
一般に保守反動体制とされるウィーン体制だが、かつての[[アンシャン・レジーム]]へ完全に回帰したわけではなかった。復古王政下では制限選挙による立憲君主政が採られ、法の下の平等・所有権の不可侵・出版や言論の自由などが認められていた。すなわち、身分制社会の枠組みは復活しなかった。しかし、[[1824年]]にルイ18世が死去すると、その弟の[[シャルル10世 (フランス王)|シャルル10世]]が即位し、亡命貴族への補償を行うなどさらに反動政治を推し進めた。王への反発が強まる中、{{仮リンク|アルジェリア出兵 (1830年)|en|Invasion of Algiers in 1830}}で関心を対外関係に向けようとするが、高まる自由主義運動に対して抑圧を図ると、1830年に[[七月革命]]が勃発してシャルル10世は失脚した。この革命の中心は立憲君主派であったために共和政には移行せず、[[自由主義]]に理解を示す[[オルレアン家]]の[[ルイ・フィリップ (フランス王)|ルイ・フィリップ]]が王として選ばれた。[[アルジェリア侵略]]の結果、[[フランス領アルジェリア]]として[[1834年]]に併合され、[[1962年]]の独立まで占領が続いた。


[[ファイル:Eugène Delacroix - La liberté guidant le peuple.jpg|thumb|right|200 px|『民衆を導く自由の女神』<br />(1830年[[ウジェーヌ・ドラクロワ|ドラクロワ]]画)]]
== 七月王政 ==
ナポレオンの没落によって回復された平和は、銀行家や大商人に資本を蓄積させ、これらは工業生産へと注力され、製鉄業や繊維工業などが発展した{{Sfn|金沢|1984|p=202-205}}。こうした[[産業革命]]の勃興にともない形成された中小[[ブルジョワジー]]や労働者は、1845年以来、続いていたジャガイモや小麦などの飢饉や、工業生産の不振に伴う失業者の増加を受け、イギリスの流儀を真似た「改革酒宴」という宴会の形式で選挙法改正運動や議会改革運動がパリから地方へと展開された{{Sfn|木村ら|2014|p=261-262}}{{Sfn|柴田|2006|p=150-152}}{{Sfn|杉本ら|2016|p=104-105}}。1848年2月22日、政府が改革酒宴の抑圧を図ったことなどから[[1848年のフランス革命|2月革命]]が起こり、ルイ・フィリップは退位へ追い込まれた{{Sfn|木村ら|2014|p=261-262}}。この二月革命がヨーロッパ全体へと波及、[[1848年革命]]と総称される変動を引き起こすことになった{{Sfn|木村ら|2014|p=261-262}}。
{{main|七月王政}}
{{-}}
[[1830年]]7月、[[自由主義]]者として知られた[[オルレアン家]]の[[ルイ・フィリップ (フランス王)|ルイ・フィリップ]]がフランス王となった。ここからの彼の治世を[[7月王政]]と称する。[[政治体制]]は[[立憲君主制]]が採られたが、極端な制限選挙により一部の大ブルジョワジーしか政治参加が認められなかった。フランス[[産業革命]]の勃興にともない形成された中小[[ブルジョワジー]]や労働者は選挙法改正運動を展開したが、政府がその抑圧を図ったことなどから[[1848年革命|二月革命]]が起こり、ルイ・フィリップは退位へ追い込まれた。この二月革命がヨーロッパ全体へと波及、[[1848年革命]]と総称される変動を引き起こすことになった。
[[ファイル:Eugène Delacroix - La liberté guidant le peuple.jpg|thumb|right|250px|『民衆を導く自由の女神』([[ウジェーヌ・ドラクロワ|ドラクロワ]]画)]]


== 第二共和政 ==
== 第二共和政 ==
{{main|フランス第二共和政}}
{{main|フランス第二共和政|六月蜂起}}
[[1848年]]の二月革命によって、[[ラマルティーヌ]]が首班となり、アルベール、[[ルイ・ブラン]]などが入閣した臨時政府が成立する。この段階でラマルティーヌを中心するブルジョワ共和派と、ルイ・ブラン代表される社会主義者の連携図られていた。し[[国立作業場]]など諸政策をめぐっ対立深まり1848年の4月総選挙において社会主義者が大敗したこを受け、国立作業場閉鎖された。これに反発したパリ労働者が六月蜂起が起したがカヴェニャック将軍によて鎮圧された。
1848年の二月革命によって、[[アルフォンス・ド・ラマルティーヌ|ラマルティーヌ]]が首班となり、機械工のアルベール、社会主義者の[[ルイ・ブラン]]などが入閣した臨時政府が成立する{{Sfn|木村ら|2014|p=261-262}}臨時政府、政治犯の死刑の廃止、身体刑の廃止、奴隷制の廃止、表現の自由化いった自由主義的政策を矢継ぎ早決定した{{Sfn|杉本ら|2016|p=104-105}}。また社会主義者たち入閣していた背景社会政策の分野においも、労働下請け制禁止され労働時間もパリで11時間から10時間へ、地方でも12時間から11時間へと短縮された{{Sfn|杉本ら|2016|p=104-105}}。選挙制度においても、制限選挙から普通選挙なり、21歳以上の全の男性に投票権与えられた{{Sfn|杉本ら|2016|p=104-105}}。この国政選挙を男性限定とはいえ、直接普通選挙で行うとは事実上、世界初の試みであった{{Sfn|杉本ら|2016|p=104-105}}
[[ファイル:Horace Vernet-Barricade rue Soufflot.jpg|サムネイル|六月蜂起]]
この段階ではラマルティーヌを中心とするブルジョワ共和派と、ルイ・ブランなどに代表される社会主義者の連携が図られていた{{Sfn|杉本ら|2016|p=104-105}}。しかし、[[国立作業場]]など諸政策をめぐって対立が深まり、1848年の4月総選挙において社会主義者が大敗したことを受けて、国立作業場が閉鎖された{{Sfn|杉本ら|2016|p=104-105}}。これに反発したパリの労働者が'''六月蜂起'''を起こしたが、カヴェニャック将軍によって鎮圧された{{Sfn|金沢|1984|p=208-210}}。この一件は、これまで革命の担い手であったブルジョワジーに、社会主義革命への恐怖を抱かせた。それゆえに彼らはこれ以上の改革を求めずに保守化し、市民革命の時代は幕を閉じた。ブルジョワジーや農民の間には、政治的混迷を収拾しつつも市民革命の諸成果を守る強力な指導者が待望されるようになった。こうした中、新たに制定された第二共和政憲法に基づき、1848年12月の選挙で圧倒的支持のもとにルイ=ナポレオンが大統領に選ばれる{{Sfn|杉本ら|2016|p=109-111}}。その後、ルイ=ナポレオンは選挙での協力の見返りとして、オルレアン派や正統王朝派に内閣を委ねた{{Sfn|杉本ら|2016|p=109-111}}{{Sfn|金沢|1984|p=208-210}}。議会はいまだ、穏健共和派が多数派であったことから、ねじれとなった{{Sfn|杉本ら|2016|p=109-111}}。翌1849年の総選挙では穏健共和派が大きく後退し、ねじれは解消された{{Sfn|杉本ら|2016|p=109-111}}。


抱えていた問題を解決した政府は、5月に大統領がカトリックの支援を得ようと、ローマ法王のために、当時イタリアで[[ローマ共和国 (19世紀)|ローマ共和国]]を作っていた[[ジュゼッペ・マッツィーニ]]に対する攻撃のための遠征部隊を組織する{{Sfn|金沢|1984|p=208-210}}。これらは{{仮リンク|1=アレッサンドル・ルドリュ=ロラン|2=en|3=Alexandre Auguste Ledru-Rollin|label=ルドリュ=ロラン}}を筆頭に、憲法侵害であるとして、6月には示威運動まで展開された{{Sfn|金沢|1984|p=208-210}}。この運動を受け、ナポレオンは言論や集会への規制を強化し、教育への教会の影響力を増大させた{{Sfn|杉本ら|2016|p=109-111}}{{Sfn|金沢|1984|p=208-210}}。1850年5月には選挙法が改正され、選挙人名簿に記載されるためには、同一市町村に3年以上住むという条件が加えられたことによって、約3割の出稼ぎ労働者の選挙権が規制された{{Sfn|杉本ら|2016|p=109-111}}。さらに1851年11月には、1850年5月の選挙法を撤廃することを提案したが、僅差で否決された{{Sfn|杉本ら|2016|p=109-111}}。
この一件は、これまで革命の担い手であったブルジョワジーに、社会主義革命への恐怖を抱かせた。それゆえに彼らはこれ以上の改革を求めずに保守化し、市民革命の時代は幕を閉じた。ブルジョワジーや農民の間には、政治的混迷を収拾しつつも市民革命の諸成果を守る強力な指導者が待望されるようになった。こうした中、新たに制定された第二共和政憲法に基づき、1848年12月の選挙で圧倒的支持のもとに[[ナポレオン3世|ルイ=ナポレオン]]が大統領に選ばれる。その後ルイ=ナポレオンは議会との対立を深め、1851年12月に国民投票により皇帝に即位する。

{{Main|1851年12月2日のクーデター}}

1851年12月2日{{Efn|この12月2日という日は、ナポレオン1世の戴冠式の日でもあり、アウシュテルリッツ三帝会戦での勝利の日でもあったため、ナポレオン3世はその日に合わせて、クーデターと、自身の帝位戴冠の日程を合わせた。}}、ルイ・ナポレオンは、警察と軍の一部の協力を得て、クーデターを起こし、ティエールを筆頭に国会議員の多くが警察によって捕縛され、反体制派の新聞社は占拠された{{Sfn|杉本ら|2016|p=109-111}}。4日には、クーデター派による無差別の発砲がパリで行われ、通行人ら300人弱が犠牲となった{{Sfn|杉本ら|2016|p=109-111}}。5日には、32県で戒厳令が敷かれ、数週間に及ぶ弾圧の結果、約2万6千人が逮捕、1万人近くがアルジェリアや南米ギニアなどのフランス植民地へと流刑に処され、共和派、王党派を問わず、多くの新聞社が刊行を停止させられた{{Sfn|杉本ら|2016|p=109-111}}。こうしたクーデターにもかかわらず、市民は再三にわたる政治的な動乱への辟易から、多くは関心を示さなかった{{Sfn|金沢|1984|p=208-210}}。共和派であった小説家の[[ヴィクトル・ユーゴー]]といった芸術家は亡命を余儀なくされた{{Sfn|杉本ら|2016|p=109-111}}。

1852年11月、帝政の復活を問う国民投票が実施され、9割を超える賛成票を得て、クーデターから1周年となる12月2日、帝政が宣言され、ルイ・ナポレオンは「ナポレオン3世」と名乗るようになった{{Sfn|杉本ら|2016|p=109-111}}。


== 第二帝政 ==
== 第二帝政 ==
{{main|フランス第二帝政}}
{{main|フランス第二帝政|パリ改造|普仏戦争}}
[[ファイル:Napoleón III, 1865.jpg|thumb|220px|right|ナポレオン3世]]
[[ファイル:Napoleon III by Mayer & Pierson c1860.png|サムネイル|244x244ピクセル|ナポレオン3世]]
第二帝政は皇帝が国家元首として、内閣を任命し、内閣は皇帝に対してのみ責任を負った{{Sfn|杉本ら|2016|p=111-113}}。議員や公務員、司法官らはその職務への就任にあたって皇帝への忠誠宣誓が義務付けられた{{Sfn|杉本ら|2016|p=111-113}}。皇帝は法案発議権や司法権、軍の統帥権を掌握していた{{Sfn|杉本ら|2016|p=111-113}}。一方で1848年からの男性普通選挙は維持され、かねてより[[ナポレオン3世]]が反対を示し、第二共和制時代には否決された1850年5月の選挙法は撤廃された{{Sfn|杉本ら|2016|p=111-113}}。また一連のクーデターや帝政復活の過程で行われた人民投票も制度化された{{Sfn|杉本ら|2016|p=111-113}}。
皇帝に即位した[[ナポレオン3世]]は、[[クリミア戦争]]・[[アロー戦争]]などあいつぐ外征の成功を通じて自らの威光を高めた。その一方で、[[ジョルジュ・オスマン]]に大規模な[[パリ]]市の改造計画を推進させたり、フランス各地を結ぶ[[鉄道]]網を整備するなど、大規模なインフラ整備を通じて工業化を推進した。この際に創出された雇用は失業者の救済にもつながった。その統治の前半は、言論・出版の自由が制限されるなど[[権威主義]]的な統治体制であったが、労働立法を通じて労働者の支持も勝ち取りつつ、[[工業化]]を推進させることで新興のブルジョワジーの期待にも応えた。こうして、フランス[[国民]]各層からの直接的な支持を基盤に、議会を牽制しつつ政治運営を行った。こうした統治方法には、のちの[[大衆]]民主主義にも通じる要素が見いだされる。

第二帝政では第二共和制と比較して立法院の議員定数が750から約三分の一に削減され、小選挙区・単記式で行われる選挙では、行政が体制派の候補者に対して露骨に肩入れを行なわれるなど、権威主義的な選挙改革が行われた{{Sfn|杉本ら|2016|p=111-113}}。


[[ファイル:Paris-haussmann-centre.png|thumb|180px|left|オスマンの都市改造計画]]
[[ファイル:Paris-haussmann-centre.png|thumb|180px|left|オスマンの都市改造計画]]
またナポレオン3世は、1853年6月29日に[[ジョルジュ・オスマン]]をセーヌ県知事に任命し、大規な[[パリ]]市の改造計画を推進させた{{Sfn|コンボー|2002|p=80-81}}{{Sfn|高遠|2020|p=130-131}}。当時のパリは中世以来の名残を残しており、所によっては乞食や浮浪者に溢れ、治安的な問題や衛生的な問題から、犯罪や疫病の温床となっていた{{Sfn|コンボー|2002|p=80-81}}。そうした背景から、古い家は容赦なく取り壊され、跡地には大通りや高層建築などが建てられた{{Sfn|柴田|2006|p=157-158}}。こうしたパリ大改造にとどまらず、ナポレオン3世は[[サン=シモン主義|サン=シモン主義]]の影響から、全国的な鉄道の整備や金融改革を実行し、また農業や工業の分野においても、国家的な指導が行われ、フランスは急速な近代化が推し進められた{{Sfn|柴田|2006|p=157-158}}{{Sfn|金沢|1984|p=210-211}}{{Sfn|杉本ら|2016|p=113-114}}。1860年には[[ニース]]と[[サヴォワ]]を住民投票を受け、[[サルデーニャ王国]]から併合した{{Sfn|杉本ら|2016|p=115-116}}。
しかし、こうした彼の権力基盤は、華々しい成功を維持し続けることでしか支えることはできなかった。1860年代になると、アメリカ大陸への影響力強化を図った[[メキシコ出兵]]の失敗でその威光を低下させた。1862年には[[サイゴン条約]]でコーチシナ東部を獲得し[[ベトナム]]進出を進めていくが、このことも彼の威光回復にまではつながらなかった。また、[[自由貿易]]体制をとったことで、イギリスからの工業製品流入にさらされ、国内産業が打撃を受けていた。こうした失政が続くと、議会をおさえて権威主義的な統治を行うことも難しくなり、議会との妥協を迫られることが多くなった。さらに、[[世論]]を自らの権力正当化の基盤としていたため、ビスマルクによる[[エムス電報事件]]で反独世論が高揚すると、対ドイツ開戦やむなしという状況に追い込まれた。この点で、かつて自らを支えた世論がみずからの首をしめる結果になったといえる。こうして1870年より[[普仏戦争]]が勃発したが、[[スダン|セダン]]で捕らえられ第二帝政は終わりを告げた。

1853年10月に[[クリミア戦争]]が開戦すると、翌年1854年3月にフランスはイギリスなどとともに[[オスマン帝国]]陣営として参戦し、軍を派兵する{{Sfn|杉本ら|2016|p=116}}。クリミア戦争に勝利すると、講和会議をパリで開催し、フランスの優位性と名声を示した{{Sfn|杉本ら|2016|p=116}}{{Sfn|柴田|2006|p=159}}。

しかし一方で1859年の[[イタリア統一運動]]では[[普墺戦争]]に勝利していたプロイセンの動向を伺って中途半端な態度を取っていたことイタリア人のみならず、国内の共和派やカトリック支持者などを敵に回し、こうした優柔不断なイタリア政策に不安を持っていたイギリスを懐柔するために1860年に締結された英仏通商条約は、自由貿易に反対していた産業界からの支持を失わせていった{{Sfn|杉本ら|2016|p=116}}{{Sfn|柴田|2006|p=159}}{{Sfn|金沢|1984|p=211-212}}。このようにヨーロッパ地域での対外政策は一貫性を欠いていた{{Sfn|柴田|2006|p=159}}。

ヨーロッパ以外での対外政策では、フランス国内での資本の集中化がアジアやアフリカへの植民政策を実行させた{{Sfn|杉本ら|2016|p=116}}。

アジア方面では、1856年にはアロー号の事件を契機に、[[アロー戦争]]を経てイギリスなどとともに[[清]]の門戸を開くことに成功し、1858年には開国したばかりの日本と[[日仏修好通商条約]]を、1859年にはサイゴンや[[コーチシナ]]を占領し、カンボジアを保護国化、[[フランス領インドシナ]]を樹立させた{{Sfn|杉本ら|2016|p=116}}。アフリカ方面ではチュニジアやモロッコに対して財政借款を通じて影響力を浸透させ、すでに植民地であったアルジェリアやセネガルではその支配を強化し、支配域の拡大が行われた{{Sfn|杉本ら|2016|p=115-116}}。

1861年、借款返済の停止を宣言したメキシコに対してイギリス、スペインらとともに出兵を行う、[[メキシコ出兵]]を行うも、あくまで借款返済の再開を意図し、それらが達成して兵を引き上げたイギリス、スペイン側と、メキシコの支配に固執し、メキシコに兵を残留させたフランス側とで齟齬が生じ、フランスはメキシコとの戦闘を続けざるを得なくなった{{Sfn|杉本ら|2016|p=115-116}}。1864年にはオーストリア皇帝[[フランツ・ヨーゼフ1世 (オーストリア皇帝)|フランツ・ヨーゼフ1世]]の弟[[マクシミリアン (メキシコ皇帝)|マクシミリアン]]を皇帝とする傀儡政権[[メキシコ第二帝政]]を樹立させるも、[[南北戦争]]を集結させたアメリカや、普墺戦争に勝利したプロイセンなどの影響から、フランスはメキシコからの撤兵を余儀なくされた{{Sfn|杉本ら|2016|p=115-116}}。その後、銃殺刑となったマクシミリアンや6000人以上の犠牲者を出したこのメキシコ出兵の失敗は、ナポレオン3世とその政府の威信を大きく落とす結果となった{{Sfn|杉本ら|2016|p=115-116}}{{Sfn|柴田|2006|p=159}}。
[[ファイル:BismarckundNapoleonIII.jpg|サムネイル|捕虜となったナポレオン3世と会見する[[オットー・フォン・ビスマルク|ビスマルク]]]]
こうした失政を受け、議会をおさえて権威主義的な統治を行うことも難しくなり、議会との妥協を迫られることが多くなった{{Sfn|柴田|2006|p=159-160}}。その過程で、それまで禁止していた労働者の団結権などを認めた{{Sfn|柴田|2006|p=159-160}}。こうした背景から、議会では共和派が復権し始め、また[[ピエール・ジョゼフ・プルードン|プルードン]]主義の影響を受けた労働者らは、イギリスの労働組合と連携を取って、[[第一インターナショナル]]を結成するなど、反政府色を強めていった{{Sfn|柴田|2006|p=159-160}}。

1870年5月には自由主義的な改革の認否を問う人民投票で8割以上の支持を得て、国民からの信任を得た{{Sfn|杉本ら|2016|p=116-117}}{{Sfn|渡辺ら|1997|p=3}}。

さらに、世論を自らの権力正当化の基盤としていたため、ビスマルクによる[[エムス電報事件]]で反独世論が高揚すると、対ドイツ開戦やむなしという状況に追い込まれた{{Sfn|杉本ら|2016|p=116-117}}。こうして1870年7月19日よりスペインの王位継承に端を発する[[普仏戦争]]が勃発{{Efn|スペインでプロイセン王家である[[ホーエンツォレルン家]]の人物が王位につく話が持ち上がり、フランスがそれに対して強硬に反対を示して白紙に戻した。}}したが、準備万全の構えであったドイツに対して、急ごしらえの貧弱な装備で挑まざるを得なかったフランスは敗北を重ね、8月にはドイツ軍がライン河を越えてフランスへ入り、9月の[[セダンの戦い]]でナポレオン3世はドイツ軍の捕虜となり、9月2日には10万の兵士らとともに降伏した{{Sfn|柴田|2006|p=159-160}}{{Sfn|杉本ら|2016|p=116-117}}{{Sfn|渡辺ら|1997|p=3}}{{Sfn|金沢|1984|p=213}}。この降伏の報せを受けたパリの住民は4日、議会に押しかけ共和政が宣言され、第二帝政は崩壊、ただちに「臨時国防政府」が組織された{{Sfn|柴田|2006|p=159-160}}{{Sfn|金沢|1984|p=213}}{{Sfn|杉本ら|2016|p=157}}。失脚したナポレオン3世はその後、[[ロンドン]]へ亡命した{{Sfn|渡辺ら|1997|p=4}}{{Sfn|高遠|2020|p=147-148}}。


== 第三共和政 ==
== 第三共和政 ==
{{main|フランス第三共和政}}
{{main|フランス第三共和政}}
=== 対独ナショナリズムの高揚 ===
[[ファイル:Degradation alfred dreyfus.jpg|thumb|right|180px|官位剥奪式で剣を折られるドレフュス]]
1875年の第三共和国憲法によって正式に第三共和政が発足した。普仏戦争の敗北にともなう[[アルザス=ロレーヌ]]の喪失と、50億フランという高額な賠償金は、フランスの対独[[ナショナリズム]]を高揚させた。そのため、[[ブーランジェ事件]]や[[ドレフュス事件]]を引き起こすことになった。また小党分立によって政権は頻繁に交代し、1875年から1940年の65年間に、87の内閣が成立している。


=== 臨時国防政府 ===
しかし、第二帝政期に急速にインフラが整備されたこともあり、工業化は順調に進展した。[[金融資本]]の形成も進み、広大な[[植民地]]や[[ロシア]]などへの投資を積極的に行った。
1870年9月2日の[[セダンの戦い]]での[[ナポレオン3世]]の捕縛が、ただちに第三共和政を生み出したわけではなかった{{Sfn|柴田|2006|p=164}}。2日後の4日に成立した臨時国防政府は共和派によって即席で作られたもので、徹底抗戦を訴えたパリ民衆からの圧力も相まって、プロイセン首相[[オットー・フォン・ビスマルク|オットー・ビスマルク]]が提示した休戦条件は拒否され、戦争は継戦の方向へと舵が切られる{{Sfn|高遠|2020|p=147-148}}{{Sfn|柴田|2006|p=164}}{{Sfn|金沢|1984|p=157}}{{Sfn|渡辺ら|1997|p=5}}。パリでは各地で監視委員会が設置され、物資不足の中での戦闘が続けられた{{Sfn|金沢|1984|p=157}}{{Sfn|渡辺ら|1997|p=5}}。9月にはパリが攻囲され、11月には降雪による飢えがパリを襲う{{Sfn|高遠|2020|p=147-148}}{{Sfn|柴田|2006|p=164}}{{Sfn|渡辺ら|1997|p=5}}。10月には国防政府の一員であった共和主義者の[[レオン・ガンベッタ]]が気球でパリを脱出し、[[ボルドー]]といった地方での抗戦を訴えた{{Sfn|渡辺ら|1997|p=5}}{{Sfn|高遠|2020|p=147-148}}。翌年1871年1月28日、フランスはドイツと休戦した{{Sfn|柴田|2006|p=164}}。翌月には国民議会選挙が行われ、継戦派を退けて和平派が圧勝した{{Sfn|柴田|2006|p=164}}{{Sfn|渡辺ら|1997|p=6}}。またこの選挙では、普仏戦争の継戦か和平かが選挙の争点となり、ナポレオン3世の失脚に対する共和政の復活か、王政復古かは争点とはならなかった{{Sfn|渡辺ら|1997|p=6}}。新しい首脳には七月王政時代に進歩党を率いていた[[アドルフ・ティエール]]が王党派のオルレアン派として当選し、行政長官に選ばれる{{Sfn|柴田|2006|p=164}}{{Sfn|渡辺ら|1997|p=5}}。
[[ファイル:Adolphe Thiers by Disdéri, Paris-crop.jpg|サムネイル|アドルフ・ティエール]]
ティエールはドイツとの講和交渉を行い、50億フランの賠償金と[[アルザス地域圏|アルザス]]・[[ロレーヌ地域圏|ロレーヌ]]の割譲、そしてこれら条約の批准までのドイツ軍のパリ占領と、賠償金支払いの保証としてのドイツ軍のフランス駐留という屈辱的な内容の仮条約に調印し、3月1日には議会でも546対107の圧倒的多数で批准された{{Sfn|柴田|2006|p=164}}{{Sfn|金沢|1984|p=157}}{{Sfn|渡辺ら|1997|p=5}}{{Sfn|渡辺ら|1997|p=6-7}}{{Sfn|高遠|2020|p=149}}。アルザス・ロレーヌ割譲は両州の議員が強硬に反対を示したが、ティエールにとってはこの両州の割譲よりも、賠償金の支払いが重要であった{{Sfn|渡辺ら|1997|p=6-7}}。結果、迅速な条約の批准によって、ドイツ軍によるパリ占領はわずか1日のシャンゼリゼ通りでのパレードのみに短縮された{{Sfn|渡辺ら|1997|p=6-7}}。条約は5月10日に[[フランクフルト講和条約]]として正式に締結された{{Sfn|高遠|2020|p=149}}。
[[ファイル:A v Werner - Kaiserproklamation am 18 Januar 1871 (3. Fassung 1885).jpg|サムネイル|ヴェルサイユ宮殿の鏡の間でドイツ皇帝を宣言するヴィルヘルム1世]]
この年の1月18日にはプロイセン王[[ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム1世]]がヴェルサイユ宮殿でドイツ皇帝戴冠式が挙行され、3月1日にはドイツ軍がパリに入城するなどが行われ、上述の屈辱的な仮講和条約なども相まって、フランスの対独復讐熱を加速させた{{Sfn|金沢|1984|p=157}}。


=== パリ・コミューン ===
外交的には、ドイツ・[[オットー・フォン・ビスマルク|ビスマルク]]の巧みな外交政策によって孤立を余儀なくされたが、[[1887年]]にはアジアに[[フランス領インドシナ]]連邦を成立させた。しかし、1890年のビスマルク引退にともなってヨーロッパ外交の枠組みが大きく変化し、1891年(交渉終了は1894年)に成立した[[露仏同盟]]を皮切りに、各国と同盟関係を結んでいった。[[1895年]]には[[フランス領西アフリカ]]が成立した。
{{Main|パリ・コミューン}}
ひとまず対外からの平和を確保したティエールは、パリに対して苛烈な政策を打ち出す{{Sfn|渡辺ら|1997|p=6-7}}。これらはパリ市民の要求が普仏戦争の終結を長引かせ、仮条約にも反対していたこと、またオルレアン派であった背景から、将来的な王政復古のためにも、歴史的に何度も玉座を転覆させてきた背景のあるパリを牽制する必要があったからである{{Sfn|渡辺ら|1997|p=6-7}}。そうした背景から、ティエールは首都をパリからヴェルサイユへと移す{{Sfn|渡辺ら|1997|p=6-7}}。


3月18日、ティエールはパリの武装解除を解くため、パリの国民衛兵の大砲を奪取する{{Sfn|渡辺ら|1997|p=6-7}}{{Sfn|杉本ら|2016|p=158}}。こうした武力行使は、ただでさえドイツ軍による戦勝パレードなどで激昂していたパリ市民を刺激させ、パリの民衆の蜂起を誘発させた{{Sfn|渡辺ら|1997|p=6-7}}{{Sfn|杉本ら|2016|p=158}}。ティエールやパリ市長[[ジュール・フェリー]]はこの蜂起によってヴェルサイユに逃れたことにより、パリに政治的空白が生まれた{{Sfn|渡辺ら|1997|p=6-7}}{{Sfn|杉本ら|2016|p=158}}。パリはヴェルサイユ政府に対抗する形で、コミューンを宣言する{{Sfn|渡辺ら|1997|p=6-7}}{{Sfn|杉本ら|2016|p=158}}。26日にはコミューン評議会選挙が行われ、28日はパリ・コミューンの樹立宣言がなされた{{Sfn|高遠|2020|p=149}}。
[[1904年]]の[[英仏協商]]で妥協が成立した結果、フランスが[[モロッコ]]における優越権を獲得したが、これに反対する[[ドイツ帝国]]が[[第一次モロッコ事件|タンジール事件]]を起こした。[[露仏同盟]]を基軸とする対独強硬策を主張していた[[テオフィル・デルカッセ]]外相は、[[日露戦争]]で[[ロシア帝国]]が忙殺される間隙を突かれる形となり、6月になると{{仮リンク|モーリス・ルーヴィエ|en|Maurice Rouvier}}首相に解任され、[[1906年]]の[[アルヘシラス会議]]に解決がゆだねられた。会議で[[アルヘシラス議定書]]が調印され、フランスのモロッコ支配は現状維持とされた。
[[ファイル:Commune de Paris barricade Place Blanche.jpg|サムネイル|パリ・コミューン]]
パリ・コミューンはしばし「史上初の社会主義革命」と呼ばれるが、20世紀のロシア革命のような社会主義組織による指導的な革命ではなく、これまでのそうした歴史的経緯から生まれたパリの政治的空白の中で噴出した、自然発生的な運動であり、それを構成する人々も医者や法律家やジャーナリストといった小ブルジョワから、ブランキ派やプルードン派の労働者など、さまざまな階級や思想が混在していた{{Sfn|杉本ら|2016|p=158}}{{Sfn|渡辺ら|1997|p=8-9}}{{Sfn|金沢|1984|p=218-219}}{{Sfn|高遠|2020|p=149-150}}{{Sfn|柴田|2006|p=}}。パリ・コミューンは国防政府の敗北主義的な政策に対する愛国心を原動力とし、社会主義的な共和制の樹立に腐心した{{Sfn|渡辺ら|1997|p=8-9}}{{Sfn|金沢|1984|p=218-219}}。またコミューンは徴兵制と常備軍を廃止し、武装した民衆によって国防がなされた{{Sfn|渡辺ら|1997|p=8-9}}。またその過程で共和暦が再採用され、政教分離を評決し、初等教育の世俗化、義務化、無償化を推し進めた{{Sfn|高遠|2020|p=149-150}}。


コミューンの蜂起に対してティエールはコミューン側とのあらゆる妥協を拒否し、ビスマルクの了解のもと軍隊を再建し、徹底的な弾圧を行った{{Sfn|渡辺ら|1997|p=8-9}}。これらは5月21日から28日にかけての「血の一週間」によって一連の反乱はコミューン側は万人以上の犠牲者を出して鎮静化した{{Sfn|杉本ら|2016|p=158}}{{Sfn|渡辺ら|1997|p=8-9}}。
[[1911年]]に再びドイツ帝国が[[第二次モロッコ事件|アガディール事件]]を起こし、フランスは、[[フランス領コンゴ]]([[フランス領赤道アフリカ]]構成植民地の一つ)に対する一部譲渡の要求を飲んだ([[モロッコ事件]])。

パリ・コミューン鎮圧後、1871年8月、ティエールの友人でもあった{{仮リンク|ジャン・シャルル・リヴェ|fr|Jean-Charles Rivet}}が可決した憲法によってティエールは共和国大統領に就任した{{Sfn|渡辺ら|1997|p=10-11}}。その後、ティエールは王政復古を目指す王党派議会と距離を取っていく{{Sfn|渡辺ら|1997|p=10-11}}。当時の王党派は、内部でブルボン家とオルレアン家という歴史上の2つの王家のどちらを擁立するかで分裂を抱えていた{{Sfn|渡辺ら|1997|p=10-11}}。オルレアン家は7月革命によって復古王政であるブルボン朝のシャルル10世を打倒する形でルイ・フィリップ王位を得た背景や、シャルル10世の孫で、ブルボン家の王位継承者であったシャンボール伯の頑迷な反動的な態度がこうした分裂をより深刻化させた{{Sfn|渡辺ら|1997|p=10-11}}。またこれら2つの王党派に覆い被さるように普仏戦争敗戦の影響から勢力こそ弱まっていたものの、ボナパルト派も依然として存在していた{{Sfn|金沢|1984|p=219}}。これらブルボン、オルレアン、ボナパルトの足並みの不揃いが王党派の勢力の後退を招いていた{{Sfn|金沢|1984|p=219}}。

一方で国内世論は議会与党では王党派が占められていたが、実情は王政復古でも社会主義的共和政でもなく、中道的な穏健共和制を支持していた{{Sfn|渡辺ら|1997|p=10-11}}。これらは上述したように、普仏戦争の終戦過程の動乱によるもので、フランクフルト講和条約の締結やパリ・コミューンの鎮圧などを経た1871年7月の補欠選挙では共和政支持の動向がすでに見受けられるようになっていた{{Sfn|渡辺ら|1997|p=10-11}}。

1873年3月15日に賠償金の最後の支払い分が支払われたことを受け、ティエールはドイツの宰相ビスマルクとドイツ軍撤退条約が調印したが、ビスマルクはフランスの対独復讐主義を指摘し、再戦争の可能性から独仏関係は再度、緊張が走りつつあった{{Sfn|西海|1983|p=176}}{{Sfn|鹿島|1967|p=4}}。当時、ドイツは[[1873年恐慌]]の煽りを受け、恐慌克服策として新しい戦争を起こすかまたは参加する、ないしはフランスの賠償金取得かのいずれかの選択肢に頼ることが考えられていた{{Sfn|西海|1983|p=176}}。そうした背景から、ドイツの新聞も反仏的な論調へと変化していき、ドイツ軍も撤退要求に対して、しぶりを見せていた{{Sfn|西海|1983|p=176}}。敗戦国であるフランスが政治的に国力を回復し、ブルボン朝の王政復古が果たされることは元来、ビスマルクにとって阻止しなければならないことであった{{Sfn|西海|1983|p=176}}。

ドイツ撤退条約を受け、将来的な対外危機が去ると、王党派議会はティエールの厄介払いの好機を待ち望んだ{{Sfn|渡辺ら|1997|p=10-11}}。4月の補欠選挙では、教会に敵対的であった急進派の候補が保守的共和派に勝利したことから、いよいよティエールの支持基盤であったブルジョワジー層にも疑義の念を与え始めた{{Sfn|渡辺ら|1997|p=10-11}}。5月の選挙ではついにティエールは敗れ失脚し、王党派議会は後任にブルボン派でパリ・コミューンの鎮圧を指揮した[[パトリス・ド・マクマオン|パトリス・マクマオン]]元帥が大統領に、同じくブルボン派の[[アルベール・ド・ブロイ|アルベール・ブロイ]]公爵を首相に就任させる{{Sfn|杉本ら|2016|p=158}}{{Sfn|渡辺ら|1997|p=10-11}}{{Sfn|金沢|1984|p=219}}。マクマオンとブロイによる内閣は「道徳的秩序内閣」と呼ばれ、支持基盤であったカトリックなどの影響から、キリスト教的な道徳的権威による統治を目指した{{Sfn|杉本ら|2016|p=158}}{{Sfn|渡辺ら|1997|p=10-11}}。しかし相変わらず反動主義的な態度を改めないブルボン家のシャンボール伯とあくまで立憲君主制を志向するオルレアン家のルイ=フィリップの孫であるパリ伯との折衝は国旗問題{{Efn|オルレアン家のパリ伯は革命後に作られた「赤・白・青」の三色旗を国旗とすることを主張したことに対し、シャンボール伯はブルボン王家時代の白旗に固執し、両王家との折衝は難航した。}}で特に難航し、王党派はついにシャンボール伯の存命中の王政復古は諦めざるを得なくなった{{Sfn|渡辺ら|1997|p=12-13}}{{Sfn|杉本ら|2016|p=159}}{{Sfn|柴田|2006|p=166}}。王党派議会はそうした経緯から将来的な王政復古のための過渡的な措置として、11月にマクマオンの任期を7年とする「{{仮リンク|セプテナ法|fr|Septennat}}」を成立させる{{Sfn|渡辺ら|1997|p=12-13}}{{Sfn|金沢|1984|p=220}}。

ドイツ撤退条約に基づいて、ブロイ内閣は同年6月から9月にかけて、毎月5日に支払いを行い、9月5日、最後の2億5000万フランの支払いが完遂し、ドイツ軍は9月13日にヴェルダンを撤退、16日には最後のドイツ兵がフランスから去った{{Sfn|西海|1983|p=179}}。

1874年5月、ニエヴル県の選挙で大方の予想を裏切ってボナパルト派の候補者が当選したことがきっかけとなり、翌1875年2月に至るまで、5度の選挙でボナパルト派が勝利を重ね、ボナパルト派の復活の傾向が再燃する{{Sfn|渡辺ら|1997|p=12-13}}。こうした背景を受け、共和派と王政復古を半ば諦めていたオルレアン派などの穏健王党派が提携を結び、1月の国民議会でワロン修正案が賛成353、反対352の1票差で可決する{{Sfn|渡辺ら|1997|p=12-13}}{{Sfn|杉本ら|2016|p=159}}{{Sfn|柴田|2006|p=166}}。この修正案によって共和政の存在が法的に明記された{{Sfn|杉本ら|2016|p=159}}{{Sfn|柴田|2006|p=166}}。しかしこの法律によって共和政が決定したわけではなく、共和国大統領は「明日の国王たる」という接頭辞が付与され、7年という長い任期や、上院との一致が見れれば下院を解散させることができたり、上下両院と並んだ法律発議権や軍の統帥権など、非常に強大な権利を有する、王政復古の可能性を十分に持った法律であった{{Sfn|杉本ら|2016|p=159}}{{Sfn|渡辺ら|1997|p=14}}。

このワロン修正案と同年に成立した2つの法律が第3共和政の憲法的法律として「[[1875年の憲法的法律]]」を構成するようになる{{Sfn|杉本ら|2016|p=159}}{{Sfn|柴田|2006|p=166}}{{Sfn|渡辺ら|1997|p=14}}。

=== 五月十六日事件 ===
{{Main|{{仮リンク|5月16日の危機 (1877年)|fr|Crise du 16 mai 1877|label=5月16日の危機}}}}
[[ファイル:Patrice de Mac Mahon crop.jpg|サムネイル|パトリス・ド・マクマオン]]
1876年の選挙で共和派が勝利し、共和派の内閣が成立した{{Sfn|杉本ら|2016|p=159}}。翌1877年5月16日、マクマオンは下院の支持を受けていた共和派の{{仮リンク|ジュール・シモン|en|Jules Simon}}首相を罷免し、王党派のブロイを再び首相に再任させた{{Sfn|杉本ら|2016|p=159}}{{Sfn|渡辺ら|1997|p=14-16}}。このブロイ内閣が不信任を受けると、マクマオンは上院の合意を得て下院を解散させた{{Sfn|杉本ら|2016|p=159}}{{Sfn|渡辺ら|1997|p=14-16}}。しかしそれによって行われた10月の選挙ではマクマオン派による大々的な選挙干渉が行われたにもかかわらず、再び共和派が勝利し、共和派の[[ジュール・デュフォール]]内閣が成立し、マクマオンも事実上、議院内閣制を認めた{{Sfn|杉本ら|2016|p=159}}{{Sfn|渡辺ら|1997|p=14-16}}。さらに1879年の総選挙でも共和派が勝利し、これを受け、マクマオンは辞任し、共和派の[[ジュール・グレヴィ]]が後任の大統領に就任した{{Sfn|渡辺ら|1997|p=14-16}}{{Sfn|柴田|2006|p=167}}。

王党派であったマクマオンの辞任は、フランスの王党派の悲願であった王政復古の可能性を大きく萎ませ、この一連の事件によってそれまで大統領が持っていた強権は解体され、議会主義に基づく代議院の多数派に政治的決定権が委ねられるようになった{{Sfn|渡辺ら|1997|p=14-16}}。またこれにより大統領職も名誉職的な地位にまで縮小された{{Sfn|柴田|2006|p=167}}。

5月16日事件を乗り切ったフランスは、1880年代になるとグレヴィを中心とする穏健共和派と[[ジョルジュ・クレマンソー]]を中心とする急進派の二大勢力に分かれていた{{Sfn|杉本ら|2016|p=159-160}}。

共和主義的な抜本的改革を主張する急進派らは、穏健共和派を「オポルチュニスト」(日和見主義者)と呼び非難したが、穏健共和派の漸進的な政策が1890年代まで展開された{{Sfn|柴田|2006|p=167}}{{Sfn|杉本ら|2016|p=159-160}}{{Sfn|渡辺ら|1997|p=27-28}}。特に[[ジュール・フェリー]]に代表される「オポルチュニスト」の政権では、フェリーが1881年から1882年にかけて成立させたフェリー法によって初等教育システムの世俗化、義務化、無償化が実現し、その前年の1880年には{{仮リンク|カミーユ・セー|fr|Camille Sée}}が成立させた「カミーユ・セー法」によって女子教育機関が整備され、社会運動家の{{仮リンク|アルフレート・ナケ|fr|Alfred Naquet}}によって1884年に成立させた「ナケ法」では離婚の合法化が、また同年に[[ピエール・ワルデック=ルソー|ワルデック=ルソー]]によって成立した「ワルデック・ルソー法」で職業組合の結成の自由が認められた{{Sfn|杉本ら|2016|p=159-160}}{{Sfn|渡辺ら|1997|p=27-28}}{{Sfn|柴田|2006|p=167-168}}。他にも集会や出版の自由や、パリを除く市町村長で選挙制が定められ、ある程度の市町村自治も認められ、パリ・コミューン参加者に恩赦が与えられ、酒場開業の自由なども認められるようになった{{Sfn|杉本ら|2016|p=159-160}}{{Sfn|渡辺ら|1997|p=27-28}}。

=== ブーランジェ事件とドレフュス事件 ===
{{Main|ブーランジェ将軍事件|ドレフュス事件|パナマ運河疑獄}}
[[ファイル:Georges Ernest Boulanger by Atelier Nadar.jpg|サムネイル|ジョルジュ・ブーランジェ]]
1880年代後半から1890年代にかけて、ブーランジェ将軍事件とドレフュス事件といった第三共和政にとって、5月16日事件に次ぐ大きな政治的危機に陥る{{Sfn|杉本ら|2016|p=162}}。

1886年に陸軍大臣に就任した軍人[[ジョルジュ・ブーランジェ]]は、軍隊の共和主義化・民営化を図り、また炭鉱でのストライキの参加者に対して共感を示したり、ドイツとの国境紛争に対して強硬姿勢を貫くなどは国内の対独復讐主義を再燃させ、国民からの人気を集めた{{Sfn|杉本ら|2016|p=162}}{{Sfn|柴田|2006|p=168-169}}。こうした人気を危険視した政府は、彼を地方へと左遷させるが、こうした対応がかえって国民の反感を呼んだ{{Sfn|杉本ら|2016|p=162}}{{Sfn|柴田|2006|p=168-169}}。1888年にはブーランジェは各地の補欠選挙位立候補し、当選しては辞退するというやり方を繰り返した{{Sfn|杉本ら|2016|p=162}}{{Sfn|渡辺ら|1997|p=36-37}}。こうした運動は1889年1月のパリ補欠選挙で共和派の統一候補を大差で下したことで最高潮となり、興奮した群衆はブーランジェによるクーデターを待望したが、あくまで合法的な政権奪取をこだわっていたことから、クーデターの号令をかけることを躊躇い、ついには愛人ボヌマン夫人の元へと帰ってしまった{{Sfn|杉本ら|2016|p=162}}{{Sfn|柴田|2006|p=168-169}}{{Sfn|渡辺ら|1997|p=36-37}}{{Sfn|金沢|1984|p=220-221}}。このクーデターの延期は彼の人気を大きく失墜させ、運動は沈静化した{{Sfn|杉本ら|2016|p=162}}{{Sfn|柴田|2006|p=168-169}}{{Sfn|渡辺ら|1997|p=36-37}}{{Sfn|金沢|1984|p=220-221}}。政府はただちにブーランジェを国家安寧に対する罪で起訴するが、ブーランジェはベルギーに亡命し、1891年にピストル自殺を遂げた{{Sfn|杉本ら|2016|p=162}}{{Sfn|柴田|2006|p=168-169}}{{Sfn|渡辺ら|1997|p=36-37}}{{Sfn|金沢|1984|p=220-221}}。

ブーランジェ事件に並行して進行していた政治的危機にパナマ運河疑獄が挙げられる{{Sfn|金沢|1984|p=220-221}}{{Sfn|渡辺ら|1997|p=38-39}}。パナマ運河事件はスエズ運河建設事業を指導した[[フェルディナン・ド・レセップス]]によるパナマ運河建設事業が当初の予想に反して困難を極め、経営難に陥っていた{{Sfn|渡辺ら|1997|p=38-39}}。そうした背景から1888年にパナマ会社はフランス各紙に金を撒き、好意的な事業報告を出させ、さらに議員を買収し、宝くじ付き社債の発行に必要な上下両院の承認を取り付けた{{Sfn|渡辺ら|1997|p=38-39}}。しかしブーランジェ運動のピークが去ったばかりの1889年2月、パナマ会社は破産宣告を受け、総額14億フランの損失を計上し、85万人の小株主に打撃を与えた{{Sfn|渡辺ら|1997|p=38-39}}。歴代の内閣はこの事件を隠し続け、共和派議員は受け取った賄賂を、ブーランジェ派の弾圧のための資金とした{{Sfn|渡辺ら|1997|p=38-39}}。こうした隠蔽は1892年にブーランジェ派の運動家によって暴露され、当時の内閣であった{{仮リンク|エミール・ルベー|en|Émile Loubet}}内閣は崩壊し、クレマンソーといった急進派の政治家も政界を追われた{{Sfn|渡辺ら|1997|p=38-39}}{{Sfn|金沢|1984|p=222}}。[[ファイル:Degradation alfred dreyfus.jpg|thumb|right|180px|官位剥奪式で剣を折られるドレフュス]]
1889年にドイツでビスマルクが失脚し、[[独露再保障条約]]の更新が停止し、[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]による対外政策は独露関係を悪化させていた。そうした背景から、フランスを長年封じ込めていた[[ビスマルク体制]]が崩壊し、フランスはロシアと接近して、1894年には[[露仏同盟]]が結ばれた。こうした緊迫した国際情勢の中で、ドイツは大使館付武官{{仮リンク|マクシミリアン・フォン・シュヴァルツコッペン|fr|Maximilian von Schwartzkoppen}}の指揮のもと、フランスへの諜報活動を行なっていた{{Sfn|渡辺ら|1997|p=41-42}}。これらはフランス陸軍砲兵部隊に関する諜報文書が発見され、フランス将校団の中にスパイが一人活動していることが発覚した{{Sfn|渡辺ら|1997|p=41-42}}。新聞社はスパイとユダヤ人とを結びつけ、反ユダヤ主義を煽った{{Sfn|渡辺ら|1997|p=41-42}}。こうした煽りを受け、砲兵将校でたまたまユダヤ人であった[[アルフレド・ドレフュス]]が軍事機密を渡したとして、確固たる証拠もないまま有罪判決を受け、軍籍を剥奪した上で、南米ギニアの監獄島への流刑処分となった{{Sfn|渡辺ら|1997|p=41-42}}{{Sfn|柴田|2006|p=169-170}}{{Sfn|杉本ら|2016|p=163-164}}{{Sfn|高遠|2020|p=172-175}}。しかし1896年、別の諜報文書が発見され、新しく諜報部長に就任した{{仮リンク|ジョルジュ・ピカール|en|Georges Picquart}}はドレフュスの無罪を確信し、別の将校である[[フェルディナン・ヴァルザン・エステルアジ]]が真犯人であると突き止めた{{Sfn|金沢|1984|p=222}}{{Sfn|渡辺ら|1997|p=41-42}}。しかしピカールはチュニジアへと左遷され、後任に就いた{{仮リンク|ユベール・アンリ|fr|Hubert Henry}}はドレフュスの有罪を示す偽書を捏造する{{Sfn|渡辺ら|1997|p=41-42}}。1898年1月にはエステルアジは軍法会議で無罪を言い渡され、そのまま渡英し、生涯を過ごす{{Sfn|高遠|2020|p=172-175}}。作家の[[エミール・ゾラ]]がクレマンソーが発効している新聞「黎明」で政府や軍への批判とドレフュスの再審を求める「[[私は弾劾する]]」を発表し、フランス世論はドレフュス派と反ドレフュス派に二分され、激しい議論が展開された{{Sfn|渡辺ら|1997|p=41-42}}{{Sfn|柴田|2006|p=169-170}}{{Sfn|杉本ら|2016|p=163-164}}{{Sfn|高遠|2020|p=172-175}}。その後、軍幹部を名指しで批判していたゾラは名誉毀損で有罪判決を受けたことから、ベルギーを経由してイギリスに逃れた{{Sfn|高遠|2020|p=172-175}}。8月にはアンリ偽書が暴露され、半月後にアンリは獄中で自殺をする{{Sfn|渡辺ら|1997|p=41-42}}{{Sfn|高遠|2020|p=172-175}}。1899年、ドレフュス派であった急進派や社会主義者らによる左翼連合を基盤とするワルデック=ルソー内閣が誕生したことを受け、ドレフュスの再審が行われた{{Sfn|柴田|2006|p=169-170}}{{Sfn|杉本ら|2016|p=163-164}}。この再審によって軍部による証拠隠滅や偽証が明らかになったにも関わらず、再び厳刑ではあるものの有罪判決となったが、ルベー大統領によってただちに恩赦がなされ、世論はようやく沈静化した{{Sfn|柴田|2006|p=169-170}}{{Sfn|杉本ら|2016|p=163-164}}{{Sfn|高遠|2020|p=172-175}}。一方でそれまで与党であった穏健共和派は反ドレフュスの立場であったことから権威は失墜し、以降、急進共和派による政権が樹立された{{Sfn|杉本ら|2016|p=163-164}}。

====ベル・エポック期の文化====
{{Main|ベル・エポック|アール・ヌーヴォー}}
[[ファイル:Tour Eiffel, July 1888.jpg|サムネイル|建設途中のエッフェル塔(1888年)]]
[[ファイル:Monet Japonaise.jpg|サムネイル|[[クロード・モネ]] 「[[ラ・ジャポネーズ]]」]]
19世紀末から20世紀初頭にかけての時代は「ベル・エポック」と呼ばれ、1889年にはパリ万国博覧会が開催され、その過程でフランス革命100年を記念する建築物としてパリに建てられた[[エッフェル塔]]は、小説家の[[ギ・ド・モーパッサン|モーパッサン]]や作曲家の[[シャルル・グノー]]といった芸術家を刺激させ、反対運動が展開されたが、完成後は多くの民衆が塔を訪れ、評判を呼んだ{{Sfn|杉本ら|2016|p=161}}{{Sfn|高遠|2020|p=156-157}}。また1890年代は電気の普及による電話加入者の増加や、鉄道網の拡充、さらに第二帝政期に誕生した[[ボン・マルシェ百貨店|ボン・マルシェ]]や[[プランタン (フランスの百貨店)|プランタン]]といったデパートの発展は大量消費社会への移行の先駆けとなった{{Sfn|杉本ら|2016|p=164-166}}。こうした産業の発展や文化的繁栄は1918年の第1次世界大戦終結後しばらくまで続いた{{Sfn|杉本ら|2016|p=164-166}}。また1850年代の日本との国交樹立はフランスに[[浮世絵]]などの日本文化を流入させ、[[ジャポニスム]]と呼ばれる日本趣味の流行がもたらされた{{Sfn|高遠|2020|p=161-165}}。1880年代末から1890年代まで[[サミュエル・ビング]]が刊行していた「藝術の日本」などでのそうした日本文化の紹介は画家の[[フィンセント・ファン・ゴッホ|ゴッホ]]などの芸術家に影響を与えた{{Sfn|高遠|2020|p=167-168}}。さらにこの時代はアール・ヌーヴォーが流行し、建築や宝飾、絵画といった広範な分野に影響をもたらした{{Sfn|高遠|2020|p=168-171}}。文学界では[[アンドレ・ジッド]]や[[アナトール・フランス|アナートル・フランス]]、[[マルセル・プルースト]]といった作家が活躍し、ドレフュス事件の混乱から第一次世界大戦の勃発までの文化的栄華が色こく反映されている{{Sfn|杉本ら|2016|p=202-207}}。

=== 第3共和政成立から20世紀初頭までの外交政策 ===
第3共和政成立から20世紀に至るまでのフランスの外交政策は、1889年にビスマルクが更迭されるまで、彼の柔軟な外交政策によって孤立を余儀なくされ、それによって封じ込められていた対独復讐の熱量は、アフリカや東アジアへの植民地政策を同じく進めていたイギリスとの対立に誘導された{{Sfn|杉本ら|2016|p=167}}{{Sfn|柴田|2006|p=178-179}}{{Sfn|渡辺ら|1997|p=62}}。フランスは[[フランス領アルジェリア]]、1881年には[[フランス保護領チュニジア]]、1895年には現在のセネガルのダカールを首都とする[[フランス領西アフリカ]]を成立させ、さらに[[サハラ砂漠]]を横断し、紅海に面する植民地ジブチやインド洋のマダガスカルなどとのアクセスを進めていた{{Sfn|杉本ら|2016|p=167}}{{Sfn|木村ら|2014|p=317}}。しかしこうした政策は1898年にエジプトから縦断を進めていたイギリス軍と衝突する[[ファショダ事件]]が発生する{{Sfn|木村ら|2014|p=317}}{{Sfn|横山|1963|p=29}}。最終的にこの事件はフランス側が譲歩することによって一応の解決を見せた{{Sfn|木村ら|2014|p=317}}{{Sfn|横山|1963|p=36}}。

アジア方面ではベトナムを巡って[[清]]と[[清仏戦争]]が起こり、1885年には[[天津条約 (1885年4月)|天津条約]]が取り交わされ、ベトナムを保護領とし、1887年には[[フランス領インドシナ]]が、さらに1890年代にはラオスと清国から[[広州湾租借地]]が連邦に編入された{{Sfn|杉本ら|2016|p=167}}。

ビスマルクが更迭され、[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]の膨張政策が国際関係を緊迫させた結果、1889年のバルカン問題による独墺の接近が[[露仏同盟]]を結ばせ、1904年のドイツの海軍拡張政策が[[英仏協商]]を形成させるなど、英仏露によるドイツ包囲網が形作られていく{{Efn|フランス史からは逸れるところなので、注釈程度に収めるが、[[日露戦争]]の結果、中近東ではロシアに代わってドイツの脅威が差し迫ったことから、[[1907年]]には英露協商が形成され、英仏協商、露仏同盟、英露協商によるドイツ包囲網が形成されていった。|name=柴田三千雄『フランス史10講』岩波新書、2006年11月24日、178-179頁。}}{{Sfn|柴田|2006|p=178-179}}{{Sfn|木村ら|2014|p=317}}{{Sfn|杉本ら|2016|p=169}}{{Sfn|渡辺ら|1997|p=62-64}}。英仏協商で妥協が成立した結果、フランスが[[モロッコ]]における優越権を獲得したが、これに反対する[[ドイツ帝国]]がタンジールで事件([[第一次モロッコ事件]])を起こした{{Sfn|杉本ら|2016|p=169}}{{Sfn|渡辺ら|1997|p=65}}。露仏同盟を基軸とする対独強硬策を主張していた[[テオフィル・デルカッセ]]外相は、[[日露戦争]]で[[ロシア帝国]]が忙殺される間隙を突かれる形となり、6月になると{{仮リンク|モーリス・ルーヴィエ|en|Maurice Rouvier}}首相に解任され、1906年の[[アルヘシラス会議]]に解決がゆだねられた{{Sfn|金沢|1984|p=224-225}}。会議でアルヘシラス議定書が調印され、フランスのモロッコ支配は現状維持とされた{{Sfn|金沢|1984|p=224-225}}。1908年にはフランス外人部隊の脱走兵をカサブランカのドイツ領事が匿ったカサブランカ事件が起き、仏独関係に緊張が走るも、翌1909年の独仏協定によってモロッコにおけるフランスの優位性はより高まった{{Sfn|渡辺ら|1997|p=66-67}}。1911年には再びドイツによって[[アガディール]]で事件([[第二次モロッコ事件]])が起こされ、フランスは[[フランス領赤道アフリカ]]構成植民地の一つである[[フランス領コンゴ]]に対する一部譲渡の要求を飲んだ([[モロッコ事件]]){{Sfn|杉本ら|2016|p=169}}{{Sfn|渡辺ら|1997|p=66-67}}。

=== 第一次世界大戦前夜のフランス ===
{{Main|政教分離法}}
[[ファイル:Georges Clemenceau 1.jpg|サムネイル|ジョルジュ・クレマンソー]]
ドレフュス事件によって失墜した穏健共和派に代わって1899年6月に成立した急進左派連合による内閣は「共和国防衛内閣」と呼ばれ、1901年にはフランス初の本格的な政党である急進社会党がクレマンソー主導のもと結成され、翌1902年の下院選挙では急進社会党はじめ社会党といった左派政党による「左翼ブロック」が形成され、連立与党となった{{Sfn|杉本ら|2016|p=164}}{{Sfn|渡辺ら|1997|p=45}}。急進派内閣は反教権主義的な共和主義政策を徹底させ、1901年に成立した結社法では、あらゆる結社の設立の自由が認められたが、他方で修道会にはこれが適応されず、1902年に首相となった{{仮リンク|エミール・コンブ|fr|Émile Combes}}内閣では多くの無認可修道会が解散され、彼らが運営していた学校も閉鎖された{{Sfn|杉本ら|2016|p=164}}。1904年には修道会教育禁止法が制定され、修道会は教育への関与が一切禁止され、フランスとバチカンとの外交関係も途絶し、多くの修道士、修道女がフランスから亡命した{{Sfn|杉本ら|2016|p=164}}。こうした反教権主義政策の総仕上げとして成立したのが1905年の政教分離法である{{Sfn|杉本ら|2016|p=164-166}}。政教分離法の成立によって19世紀初頭にナポレオン1世によって結ばれた[[コンコルダート]]は破棄し、国家や地方公共団体の宗教予算は廃止され、フランス革命以来続いていた共和派とカトリックとの争いに決着がついた{{Sfn|杉本ら|2016|p=164}}。以降、フランスは世俗性、非宗教性を意味する「ライシテ」が国家原理として定着し、信教の自由が保障されるなど、カトリック教会にも必ずしも不利となるものではなかったが、教会財産の強制立ち入り調査などをめぐっては国家と教会は激しく対立し、抵抗運動なども見られた{{Sfn|杉本ら|2016|p=164}}。

政教分離法が制定されると、「左翼ブロック」による連立は存在意義を失い始め、階級対立が全面に出て、1906年に首相に就任したクレマンソーは累進課税法案の提出や労働災害法、退職年金法の成立などによって労働者保護政策を推める一方で、CGT(労働総同盟)書記長{{仮リンク|ヴィクター・グリフュール|fr|Victor Griffuelhes}}の指導にあった[[サンディカリスム]]を弾圧した{{Sfn|渡辺ら|1997|p=50-51}}{{Sfn|柴田|2006|p=180}}{{Sfn|杉本ら|2016|p=167}}。こうした弾圧はしばし流血を伴い、急進党の政策は批判され、1909年にクレマンソーが辞任すると、後継の[[アリスティード・ブリアン]]が成立させた内閣は、それまで急進派が批判してきたオポルチュニスム体制へと変容していった{{Sfn|渡辺ら|1997|p=50-51}}{{Sfn|柴田|2006|p=180}}。

1904年よりフランスはドイツからの主にモロッコに対する干渉が度々起こり、それらは1911年のアガディール事件でのフランス領コンゴの一部割譲という形で同年、首相に就任したばかりであった{{仮リンク|ジョセフ・カイヨー|fr|Joseph Caillaux}}によって理性的に処理されるも、こうした領土割譲による平和の実現は、普仏戦争敗戦による[[アルザス=ロレーヌ]]割譲の屈辱を想起させ、ナショナリストらを中心に大きな非難がなされた{{Sfn|渡辺ら|1997|p=66-67}}。これによって翌1912年1月に崩壊したカイヨー政権に代わって、[[ロレーヌ地域圏|ロレーヌ]]出身で対独強硬派の[[レイモン・ポアンカレ|レイモン・ポワンカレ]]が首相に就任する{{Sfn|渡辺ら|1997|p=66-67}}{{Sfn|柴田|2006|p=180}}。3月にはフェズ条約が締結され、モロッコはフランスの保護国となった{{Sfn|渡辺ら|1997|p=66-67}}。


=== 第一次世界大戦 ===
=== 第一次世界大戦 ===
{{Main|第一次世界大戦|西部戦線 (第一次世界大戦)}}
{{節スタブ}}
ドイツの強硬な態度は三国協商をより緊密にさせた。フランスはロシアのバルカン政策の支援を約束し、イギリスはアガディール事件後のロンドン秘密会議でおいて、ドイツがフランスを攻撃した場合、フランス側に立って参戦することを合意した。また、1912年には英仏海軍協定が締結された{{Sfn|渡辺ら|1997|p=66-67}}。


1913年の大統領選挙では、第3共和政発足以来初めて左翼候補が敗北、右翼候補であったポワンカレが大統領に就任する。ポワンカレ政権はジョレスやカイヨーらの反対を退け、三年兵役法や、軍備増強のための財源確保として19世紀末より先んじてドイツが導入していた[[所得税]]などを可決させるなど、強力な戦争遂行体制を整えていった{{Sfn|渡辺ら|1997|p=66-67}}{{Sfn|渡辺ら|1997|p=68-69}}。
[[1914年]]、[[第一次世界大戦]]が勃発するとフランスは[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]としてドイツと交戦した。[[マルヌ会戦]]においてドイツ軍の[[シュリーフェン・プラン]]を粉砕したフランス軍は、その後長い塹壕戦に突入した。大戦中、戦場となったフランスの国土は荒廃した。[[1916年]]の[[ヴェルダンの戦い]]では、同盟軍の攻勢を防ぐことに成功したが、フランス軍の死傷者も甚大な数に上った。いつ終わるか知らない戦争に嫌気が差した兵士達の間では、士気が低下し、[[1917年]]の[[ニヴェル攻勢]]における集団抗命に繋がる。しかし最終的にはドイツ軍を防ぎきり、[[ドイツ革命]]によるドイツ崩壊まで持ちこたえた。
[[ファイル:DC-1914-27-d-Sarajevo-cropped.jpg|サムネイル|サライェヴォ事件]]
1914年6月28日にオーストリア皇太子夫妻がセルビア人青年によって[[サラエヴォ]]で暗殺される[[サラエボ事件]]が発生すると、1ヶ月後の7月28日にオーストリアがセルビアに最後通牒を発し、宣戦布告をする{{Sfn|渡辺ら|1997|p=69-70}}{{Sfn|柴田|2006|p=181}}。フランスは当初、平和裡に解決するだろうと判断し、ポワンカレと首相の{{仮リンク|ルンエ・ヴィヴィアニ|fr|René Viviani|label=ヴィヴィアニ}}は7月16日にロシアへの公式訪問に出かけ、オーストリアによる宣戦布告時、二人は帰りの船の上であった{{Sfn|渡辺ら|1997|p=69-70}}。オーストリアによるセルビア侵攻はバルカン政策を推し進めていたロシアを介入させ、それを受けドイツもロシアへ宣戦布告。さらにロシアの介入はフランスをも参戦させた{{Efn|なおイギリスはこの時の動向ははっきりしておらず、英仏協商はイギリスの介入は義務付けてなかったことや、ロンドン秘密会議でのドイツのフランス攻撃時の援助は明確な言質を与えることをイギリス政府が拒否していたが、8月3日にドイツがフランス侵攻のために、国際条約を無視して中立を宣言していたベルギーへと侵攻したため、参戦を決定した。|name=渡辺和行、南允彦、森本哲朗『現代フランス政治史』ナカニシヤ出版、1997年11月10日、70頁。}}{{Sfn|渡辺ら|1997|p=69-70}}。

7月31日には、それまで国内や国外に対して演説を行い、戦争の拡大と終結を訴えていた社会主義者[[ジャン・ジョレス]]が、彼の平和主義を危険視したラウール・ヴィランによって暗殺され、それまで戦争反対の立場にあった社会党などの左翼政党らが戦争支持に傾いた。翌1日には総動員令が出され、ドイツがベルギー侵攻をしていた頃、ヴィヴィアニ内閣はそうした左翼政党などの面々を入閣させ、挙国一致体制を確立させた{{Sfn|金沢|1984|p=224-225}}{{Sfn|柴田|2006|p=185}}{{Sfn|杉本ら|2016|p=170}}{{Sfn|山上|2017|p=30-37}}{{Sfn|宮川|2017|p=70}}。この挙国一致体制は「[[ユニオン・サクレ]]」と呼ばれ、対独強硬派のポアンカレはもとより、社会主義者の{{仮リンク|マルセル・サンバ|en|Marcel Sambat}}と[[ジュール・ゲード]]なども入閣した{{Sfn|渡辺ら|1997|p=73}}。フランスはドイツに編入されたアルザス=ロレーヌへの正面突破をする軍事計画「{{仮リンク|プラン17|fr|Plan XVII}}」を8月6日より開始し、8日にはアルザスの一部を奪還するも、すぐにドイツ軍に奪い返され、14日には精鋭であった第1軍、第2軍を突撃させ、独仏合わせて20万人もの死傷者を出させたと言われる{{Sfn|飯倉|2016|p=38-39}}。さらに22日、23日の戦闘で戦いでの敗北を受け、フランス軍総司令官であった[[ジョゼフ・ジョフル]]は「プラン17」に見切りをつけた{{Sfn|飯倉|2016|p=38-39}}。9月の[[マルヌ会戦]]においてフランス軍はドイツ軍の[[シュリーフェン・プラン]]を粉砕し、こう着状態に持ち込ませた。その後、[[西部戦線 (第一次世界大戦)|西部戦線]]で両陣営は長い[[塹壕]]戦に突入した{{Sfn|柴田|2006|p=185}}{{Sfn|渡辺ら|1997|p=71-72}}。

フランスは当初、戦争が短期決戦で終わると予測していたことから、総動員令によって労働者の多くを戦場に送った。しかし、戦争が長引くにつれて生産は停滞し、労働力不足に陥っていた[[製造業]]に労働者を返して生産を上げるなどが求められた{{Sfn|渡辺ら|1997|p=74}}。1915年、陸軍省の軍備担当次官に任命された社会党の{{仮リンク|アルベール・トマ|en|Albert Thomas (minister)}}が、熟練労働者の職場復帰や、女性や外国人の雇用を推進させた{{Sfn|渡辺ら|1997|p=74}}。また軍需産業の生産を上げるために、勤務時間の延長を狙いとしたマータイム制を導入された。さらに、徴兵された男性労働者に代わって女性が[[銃後]]の職場へ進出し、電車の運転や砲弾作り、農村では種蒔きや収穫などの力仕事を受け持つようになった{{Sfn|渡辺ら|1997|p=75-76}}。

1916年2月21日から始まる[[ヴェルダンの戦い]]では、迎え撃った第2軍司令官[[フィリップ・ペタン]]による補給システムの改善などによって同盟軍の攻勢を防ぐことに成功したが、フランス軍の死傷者も甚大な数に上った{{Sfn|飯倉|2016|p=110-114}}。いつ終わるか知らない戦争は兵士達の間で士気を低下させ、1917年4月16日の[[ニヴェル攻勢]]では[[フランス軍反乱]]が発生した{{Sfn|渡辺ら|1997|p=77}}{{Sfn|柴田|2006|p=186}}{{Sfn|飯倉|2016|p=155-157}}。またロシアで発生した[[2月革命 (1917年)|2月革命]]は厭戦気分に追い打ちをかけ、全国的なストライキを誘発し、社会主義者たちの離反を受けた神聖連合は崩壊した{{Sfn|渡辺ら|1997|p=77}}{{Sfn|柴田|2006|p=186}}。
[[ファイル:Clemenceau visite le front.jpg|サムネイル|前線へ赴き塹壕の兵士を激励するクレマンソー(1917年)]]
11月にはロシアで[[十月革命]]が起こり、国内世論は講和か継戦かで分かれ、それをめぐってポワンカレ内閣は倒れた。ポワンカレは、個人的にそりが合わなかったものの継戦派であったクレマンソーを首相に据えた{{Sfn|飯倉|2016|p=172-173}}{{Sfn|渡辺ら|1997|p=78}}。クレマンソーが就任演説で呼びかけた戦争遂行と対独復讐は人気を呼び、議会の信任を得たことによって一度は崩れかけたフランスの戦争遂行への世論を回復した{{Sfn|渡辺ら|1997|p=78}}。

1918年、ドイツの[[1918年春季攻勢|春季攻勢]]を防衛したフランス軍は、9月26日にイギリス軍と、前年に参戦したアメリカ軍とともに大攻勢を開始した。10月5日にはドイツ軍の守りの要となっていたヒンデンブルク線を突破した{{Sfn|飯倉|2016|p=211-212}}。
[[ファイル:Armisticetrain.jpg|サムネイル|ドイツと連合国との休戦協定が合意された際に撮影された写真。]]
11月3日、キール軍港での水兵の反乱に端を発する[[ドイツ革命]]が勃発。同月11日、[[コンピエーニュの森]]でドイツは連合国との[[ドイツと連合国の休戦協定 (第一次世界大戦)|休戦協定]]に署名し、1913年に始まった第1次世界大戦の一連の戦闘は終結した{{Sfn|柴田|2006|p=186}}{{Sfn|渡辺ら|1997|p=78}}{{Sfn|飯倉|2016|p=228-230}}{{Sfn|金沢|1984|p=226}}。

第一次世界大戦でのフランスの死傷者は130万人、負傷者は300万人に上り、そのうちの7万5千人はベトナムやセネガルなどから徴兵された植民地軍人であった{{Sfn|渡辺ら|1997|p=79-81}}{{Sfn|杉本ら|2016|p=173}}。これらはフランスの出生数に劇的な低下をもたらしただけでなく、フランスの産業にも大きな影響が及んだ。また、主要な戦場となったフランス北東部は、国内有数の穀倉地帯や石炭、鉄を生産する工業地帯であったため、第1次世界大戦はフランスの農業や工業に大打撃を与えた{{Sfn|渡辺ら|1997|p=79-81}}{{Sfn|杉本ら|2016|p=173}}。大戦がもたらした出生率の低下に対し、フランス政府は様々な対策を講じた。1920年7月には中絶禁止法を制定{{Efn|フランスにおける人工中絶の禁止は、1974年の[[ヴェイユ法]]成立までつづいた<ref>{{Citation|title=Loi n° 75-17 du 17 janvier 1975 relative à l'interruption volontaire de la grossesse|url=https://www.legifrance.gouv.fr/affichTexte.do;?cidTexte=JORFTEXT000000700230&dateTexte=vig|accessdate=2021-06-21|language=fr}}</ref>}}、翌1921年には13歳以下の子どもを持つ家庭に対して児童手当が与えられた。そうした出生率の回復政策は1930年代に至るまで続けられた{{Sfn|渡辺ら|1997|p=88-89}}。さらに、南欧や東欧からの移民労働者が求められた。人口減少と労働不足の問題は安全保障にまで波及し、独仏国境には[[マジノ線]]が建設された{{Sfn|渡辺ら|1997|p=88-89}}。フランス内務省によると、第一次世界大戦に独仏両軍が発射した砲弾は14億発に上り、そのうちの1割は不発弾として残った{{Sfn|宮川|2017|p=13}}。こうした不発弾処理は21世紀現在も続けられているものの、現代の処理ペースをもってしても700年かかる計算だと言われている{{Sfn|宮川|2017|p=13}}。1993年2月21日には、連日降り注いだ大雨によって第一次世界大戦時の塹壕跡地に作られた線路が陥没し、パリ=リール間を走る高速鉄道TGVが脱線事故を起こすなど、戦後、長い時間を経てもその傷跡はいまだに残っている{{Sfn|渡辺ら|1997|p=71}}。


=== 戦間期フランス ===
=== 戦間期フランス ===
第一次世界大戦後の1919年の[[パリ講和会議]]ではイギリスはドイツとの経済関係や、フランスの対独復讐の肥大化が警戒され、過酷な講和条件を控えようとした{{Sfn|柴田|2006|p=187}}。一方でフランスは対独復讐に基づく強硬姿勢を譲らず、6月28日に[[ヴェルサイユ条約]]を締結させた{{Sfn|柴田|2006|p=187}}。結局、フランスの対独復讐の多くは受け入れられず、受け入れられたのは巨額の賠償金とアルザス=ロレーヌの復帰のみであった{{Sfn|金沢|1984|p=226-227}}。
第一次世界大戦後の[[1919年]]の[[パリ講和会議]]ではドイツに対する強硬姿勢をとり、[[ヴェルサイユ条約]]を締結させた。また、日本の提出した[[人種差別撤廃案]]に賛成するなどの姿勢も示した。[[1920年]]に成立した[[国際連盟]]では[[常任理事国 (国際連盟)|常任理事国]]となった。またアルザス=ロレーヌをドイツから奪還したほか、旧ドイツ植民地、旧[[オスマン帝国]]領の一部を[[委任統治]]領として獲得した。シリアには{{仮リンク|シリア・アラブ王国|en|Arab Kingdom of Syria}}が成立していたが、{{仮リンク|フランス・シリア戦争|en|Franco–Syrian War}}で介入・占領し、[[フランス委任統治領シリア]]が成立している。

1919年7月の総選挙では神聖連合の継続を求める層と左右両派の対立があり、結果は[[アレクサンドル・ミルラン]]、ポワンカレ、ブリアンなどの領袖によって団結された中道派と保守派による連合である「国民ブロック」が勝利した{{Sfn|杉本ら|2016|p=173}}{{Sfn|渡辺ら|1997|p=82-83}}。こうした勝利はクレマンソーの対独復讐や、[[ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国|ソビエト・ロシア]]の成立に伴う[[ボリシェヴィキ]]政権の対ロシア債務の拒否による大衆投資家の反社会主義意識などが原因している{{Sfn|渡辺ら|1997|p=82-83}}。一方でそうした反ソ意識とは裏腹に、社会党やCGTといった社会主義系組織は党員を増大させた{{Sfn|渡辺ら|1997|p=82-83}}。

1920年1月に成立したミルラン政権では1904年以来、途絶していたバチカンとの外交関係が修復された{{Sfn|渡辺ら|1997|p=82-83}}。同年には[[国際連盟]]が成立し、[[常任理事国 (国際連盟)|常任理事国]]となった。またアルザス=ロレーヌをドイツから奪還したほか、旧[[ドイツ植民地帝国]]、旧[[オスマン帝国]]領の一部を[[委任統治]]領として獲得した。シリアには[[シリア・アラブ王国]]が成立していたが、{{仮リンク|フランス・シリア戦争|en|Franco–Syrian War}}で介入・占領し、[[フランス委任統治領シリア]]が成立している。

1922年1月、ミルランが大統領に就任したことを受け、ポワンカレが首相に就き、戦債の支払や国土の荒廃もあって経済的は不安定となり、ドイツからの賠償金を厳しく取り立てるようになり、1923年にはドイツに支払い能力やその意志がないことを理由に[[ルール占領]]を強行したが、英米などの批判を受け、国際的な孤立とドイツに大混乱とインフレをもたらしたのみに終わった{{Sfn|金沢|1984|p=226-227}}{{Sfn|渡辺ら|1997|p=82-83}}{{Sfn|杉本ら|2016|p=176}}{{Sfn|柴田|2006|p=180-189}}。以降、賠償金支払いプロセスにはアメリカが加わり、一定の安定を迎えた。
[[ファイル:Édouard Herriot - photographie Henri Manuel.jpg|サムネイル|エドゥアール・エリオ]]
1924年5月の総選挙では国民ブロックによるルール占領のような強硬路線の失敗が祟って没落し、[[エドゥアール・エリオ]]による左翼連合が勝利し、ドイツの賠償金支払額を満額したドーズ案を受け入れた{{Sfn|杉本ら|2016|p=176}}{{Sfn|渡辺ら|1997|p=85}}{{Sfn|金沢|1984|p=227-228}}。また安全保障を国際連盟の枠内で保障したジュネーブ議定書もこの時、受け入れられた{{Sfn|杉本ら|2016|p=176}}。

一方で、エリオ内閣では反教権主義的な政策が再開され、アルザスでの政教分離の導入や司教区信徒会の創設の拒否などが行われたが、ローマ教皇庁もキリスト教的民主主義を支持するなどの変化から、教会と共和国との関係は和解へと促進されていった{{Sfn|渡辺ら|1997|p=85}}。外交面ではルールからの撤兵のほか、ソビエト連邦との国交樹立などが行われた{{Sfn|渡辺ら|1997|p=85}}。またこの時期は、天然資源が豊富にあったアルザス=ロレーヌの復帰もあり、鉄鋼産業が飛躍的に発展し、1920年代末には世界第3位の生産量を誇るに至った{{Sfn|渡辺ら|1997|p=85}}。

こうした経済発展に恵まれたものの、エリオ内閣は資本課税の導入や財政危機への取り組みなどの金融政策で失敗し、1925年4月には上院の反対を受け退陣を余儀なくされた{{Sfn|渡辺ら|1997|p=85-86}}。しかし後継のパンルヴェやブリアン内閣ではインフレやフラン価値の下落に対して大胆な政策を打ち出せず、1926年7月には、再びポワンカレが首相に返り咲き、自らが蔵相を兼任し、増税や減債基金の設置などの政策を通して財政危機を乗り越えた{{Sfn|渡辺ら|1997|p=85-86}}{{Sfn|杉本ら|2016|p=117}}。1928年の総選挙では財政危機の回復から、保守勢力が勝利を収め、翌1929年には、大量生産などの体制が確立され、工業分野の発展が最高潮に達した{{Sfn|渡辺ら|1997|p=86-87}}。

1929年10月に発生した世界恐慌は、2年後の1931年にフランスに到来し、1935年には最悪を迎える{{Sfn|渡辺ら|1997|p=91-92}}。また1930年代は、[[アクション・フランセーズ]]と[[クロア・ド・フー]]などの極右・ファシズム政党が誕生、活動を活発化させ、1933年末に発生した[[スタヴィスキー事件]]は、こうした極右政党の活発化をより刺激させ、これらは時の内閣であった[[カミーユ・ショータン]]内閣の崩壊を誘発し、後継の[[エドゥアール・ダラディエ]]内閣も組閣に難航した{{Sfn|渡辺ら|1997|p=91-92}}{{Sfn|杉本ら|2016|p=179-181}}。2月6日にはクロワ・ド・フーによるデモが警察による発砲事件を呼び、死者15人、負傷者1500人を出す事件となった{{Sfn|杉本ら|2016|p=179-181}}。この事件は[[1934年2月6日の危機]]と呼ばれ、事態の鎮圧に失敗したダラディエ内閣は、翌日総辞職した{{Sfn|杉本ら|2016|p=179-181}}{{Sfn|渡辺ら|1997|p=97-98}}。ダラディエ内閣の崩壊を受け、成立した[[ガストン・ドゥメルグ]]の内閣は「国民連合内閣」と呼ばれ、右翼主導による保守政権が誕生したが、執行権の強化をめぐる憲法改正が急進社会党によって拒否されると、政権運営がままならず、失脚した{{Sfn|渡辺ら|1997|p=97-98}}{{Sfn|杉本ら|2016|p=182}}。
[[ファイル:Léon Blum 1937.jpg|サムネイル|レオン・ブルム]]
1936年の総選挙では[[レオン・ブルム]]率いる[[フランス人民戦線]]が勝利し、左派政権が成立した{{Sfn|渡辺ら|1997|p=105-107}}{{Sfn|杉本ら|2016|p=183-184}}。同年5月から6月にかけて発生した全国的なストライキはブルム内閣に[[マティニョン協定 (1936年)|マティニョン協定]]を結ばせ、秋にはフランの[[平価切り下げ]]によって景気は回復したかに見えたが、翌1937年には、内閣の予想に反して、回復は減少し、6月には上院がブルムに財政政策の全権を与えることを拒否したことで、内閣は崩壊した{{Sfn|杉本ら|2016|p=185-186}}{{Sfn|渡辺ら|1997|p=107-108}}{{Sfn|金沢|1984|p=230}}。ブルム内閣時代ではドイツの[[ラインラント進駐]]や、イタリアの[[第二次エチオピア戦争|第二次エチオピア侵攻]]など、国際的な緊張が高まる事件が続き、1936年7月17日に発生した[[スペイン内戦]]では、フランスの不干渉を宣言したものの、これらは第一次世界大戦後に成立したベルギーやチェコスロバキア、ユーゴスラビアなどの小協商の離反を促した{{Sfn|渡辺ら|1997|p=107-108}}{{Sfn|ヴィラール|2006|p=142-146}}。

===第二次世界大戦からパリ占領まで===
{{Main|西部戦線 (第二次世界大戦)|マジノ線}}

1939年、4月に[[イタリアのアルバニア侵攻]]、ドイツは前年にオーストリアを併合し([[アンシュルス]])、ズデーテンラントを併合されたチェコスロヴァキアの残り全土を占領、そして[[ポーランド第二共和国]]に対して旧プロイセン領であった[[自由都市ダンツィヒ]]返還を要求した{{Sfn|金沢|1984|p=230}}。当時のフランス世論ではここでいよいよ対独戦争の可能性が強くなる。8月23日にドイツがソビエト連邦と[[独ソ不可侵条約]]を結び、9月1日に[[ポーランド侵攻]]が始まると、翌2日にはフランスで総動員令が発令され、11月3日に対独宣戦布告を行なった{{Sfn|金沢|1984|p=230}}。ドイツのポーランド侵攻から、翌年5月までの間は、独仏国境で目立った戦闘は行われず、独仏両軍はライン河を挟んで釣りをしたり、フランス兵がサッカーに興じているのを、ドイツ軍が見物し歓声を送るなど、牧歌的な光景が見られたこの時期は今日では「[[まやかし戦争]]」と呼ばれている{{Sfn|渡辺ら|1997|p=122}}{{Sfn|柴田|2006|p=199}}。
[[ファイル:Paul Reynaud 1933.jpg|サムネイル|[[ポール・レノー]]]]
開戦時、フランス世論の多くは、独仏国境に敷かれたマジノ線を希望とし、同じような構想から作られたドイツの[[ジークフリート線]]に対抗できると信じられていたが、1939年末にドイツがポーランドをおおよそ制圧すると、翌1940年5月10日に中立国であった[[ベネルクス]]を経由することでマジノ線を迂回し、フランスに侵攻する{{Sfn|柴田|2006|p=199}}{{Sfn|金沢|1984|p=231}}。また少し遡ること、3月には冬戦争の勃発への無為無策を糾弾され、ダラディエ内閣が倒閣し、後継のレノー内閣では宥和政策に反対し、徹底抗戦を訴えるも、軍の防衛戦略上の都合、そりの合わないダラディエを国防大臣として入閣させねばならず、さらに英仏合同軍司令官であったガムランの更迭問題が紛糾し、さらにイギリスではチェンバレン内閣が総辞職するなど、国防上の一大事とは裏腹に国内では政争に揉まれ、5月13日には国境が突破され、本土への侵入を許してしまう([[ナチス・ドイツのフランス侵攻]]){{Sfn|渡辺ら|1997|p=123}}。5月18日にはレノー内閣が改造され、レノー自身が国防大臣を務め、ダラディエは外務大臣に転じ、副首相には[[フィリップ・ペタン]]が入閣した{{Sfn|渡辺ら|1997|p=124}}。6月5日にはさらに内閣改造が行われ、ダラディエを外相から解任し、レノーがそれを兼任するも、外務次官に休戦派のボードゥアンを入閣させたことから自縄自縛に陥り、すでに国内へのドイツ軍の侵入が日に日に進んでいく中でも、政治的な混乱はなお続いた{{Sfn|渡辺ら|1997|p=124}}。10日にはイタリアも{{仮リンク|イタリア王国のフランス侵攻|en|Italian invasion of France|label=参戦}}し、こうした事情を受け政府はパリを去り、トゥールへと拠点を移し、14日には[[無防備都市宣言]]がなされたパリにドイツ軍が入城した{{Sfn|柴田|2006|p=199}}{{Sfn|渡辺ら|1997|p=124}}。6月16日にはペタン休戦内閣が発足し、17日に駐在スペイン大使を通じてドイツに降伏を申し入れ、22日にはかつて第一次世界大戦の休戦協定が結ばれたコンピーニュの森で独仏休戦協定が締結された{{Sfn|渡辺ら|1997|p=124-125}}。これにより、パリを含むフランス北部はドイツ、サヴォイなど南部の一部はイタリアによって占領され、残りの自由地区にはペタンを元首とするフランス国([[ヴィシー政権]])が設立された{{Sfn|渡辺ら|1997|p=126}}。またそれを受け翌18日には陸将であった[[シャルル・ド・ゴール]]を通じてロンドンで対独レジスタンスを訴え、[[自由フランス]]が組織された。

==占領期のフランス==
{{Main|ナチス・ドイツによるフランス占領}}
[[ファイル:Hitler, Speer y Breker en París, 23 de junio de 1940.jpg|サムネイル|エッフェル塔を訪れる[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]]]
フランス内部では戦争に敗れた共和政への忌避、反英感情が高まり、[[フィリップ・ペタン]]に対する個人崇拝と権威主義的志向が盛り上がった。7月10日、1940年7月10日の憲法的法律が可決され、ペタンによる権威主義的政権が成立した{{Sfn|渡辺ら|1997|p=126}}{{Sfn|柴田|2006|p=200}}。これは首都の置かれた場所を取って、ヴィシー政権と呼ばれる。10月にはペタンはドイツの「協力」([[コラボラシオン]])を表明し、またヴィシー政権のフランス国民にもそれを求めた{{Sfn|渡辺ら|1997|p=126}}{{Sfn|柴田|2006|p=200}}。第二次世界大戦期のフランス世論の研究者{{仮リンク|ピエール・ラボリ|fr|Pierre Laborie}}は、当時のヴィシーでの世論も、反ドイツを掲げてもいたペタンが、簡単に本心からドイツに協力するとは考えておらず、ペタンがその名を高めたヴェルダンの戦いと同じような活躍を期待していたと指摘している{{Sfn|宮川|2017|p=119-121}}。

外見的には中立を保つ、合法的な主権国家であったが、国内の諸政策には強くドイツの意向が反映されるなど、事実上はドイツの傀儡政権であった{{Sfn|渡辺ら|1997|p=126}}。また、休戦協定によって軍隊などは武装解除がなされ、150万人もの青年を捕虜としてドイツに残しておかなければならなかった上、1日あたり4億フランの占領費の負担を求められた。さらにドイツ占領地域、イタリア占領地域と自由地域との往来は禁止され、ヴィシー政府の権限がフランス全土に及ぶことを阻止した{{Sfn|渡辺ら|1997|p=126}}。

===ヴィシー政権と占領地域===
{{Main|ヴィシー政権|コラボラシオン}}
ヴィシー政権では、ペタンをフランス国首席とし、実際は彼がすでに老齢であったことから、多くの政治は副首相であった[[ピエール・ラヴァル]]が担当した。国内ではそれまでの共和国の標語であった「[[自由、平等、友愛]]」の語句は禁止され、「[[労働、家族、祖国]]」がそれに代わるものとして標語となった{{Sfn|杉本ら|2016|p=235}}{{Sfn|柴田|2006|p=201}}。こうした初期におけるペタンのフランス革命の人権や反教権主義、共和国の原理などを否定は「国民革命」と称され、第三共和政以降、国内で封じ込められていた伝統主義が体現したもので、ファシズムやポピュリズムなどとは異なる様相を持っていた{{Sfn|柴田|2006|p=201}}。またドイツ支配地域では、三色旗に代わって鉤十字が掲げられ、フランス時間に1時間足したドイツ時間が適用されるなどの、ナチス化が推められた{{Sfn|高遠|2020|p=194-195}}。

休戦条約に代表される一連の苛烈な統治の一方で、ヴィシー政権の主権国家は温存され、休戦監視軍という名目で10万人ほどの陸海軍を保有するなどが認められた{{Sfn|渡辺ら|1997|p=126-127}}。そうした経緯から、イギリスを除く多くの国家はペタン政権を承認した{{Sfn|渡辺ら|1997|p=126}}。また休戦条約前まで保有していたインドシナを除く植民地の多くも、ヴィシー政権を承認した。ヴィシー政権には極右団体や急進保守派、平和主義者、左派の反議会主義者、人民戦線を憎む実業家や戦前に改革案を受け入れられなかったテクノクラートなど、さまざまな第三共和政に不満を持つ人々が参加した{{Sfn|渡辺ら|1997|p=127}}{{Sfn|柴田|2006|p=201}}{{Sfn|小田中|2018|p=20-21}}。しかし一方で右翼団体の[[アクション・フランセーズ]]や左翼団体のフランス共産党などは参加せず、むしろレジスタンスとして、自由フランスとの連携を作るなどの抵抗運動を行なった{{Sfn|ミュラシオル|2008|p=11-14}}{{Sfn|ミュラシオル|2008|p=23-26}}{{Sfn|ミュラシオル|2008|p=80-84}}。

戦争が長期化すると、ヒトラーからのコラボラシオンが苛烈化し、1942年10月3日には[[ヴィシー政権によるユダヤ人並びに外来者に対する法|ユダヤ人迫害法]]などのファシズム的な政策が始まり、世論は次第に抵抗の色を帯び始めた{{Sfn|高遠|2020|p=194-195}}{{Sfn|渡辺ら|1997|p=130-131}}。ドイツ軍占領地域では、特に第一次世界大戦の敗戦によって奪われたアルザス=ロレーヌの再統一に伴い、この地域においては他の都市でのナチス化以上の徹底が見られ、フランス語の使用禁止や同地に住む多くのフランス人や黒人、ユダヤ人などの追放、ナッツヴァイラーにはガス室を備えた収容所が建てられ、ドイツで17歳から25歳までの男性に義務付けられていた[[国家労働奉仕団]]らが入植した{{Sfn|リグロ|1999|p=47-50}}{{Sfn|リグロ|1999|p=61-63}}{{Sfn|リグロ|1999|p=67-75}}。

1940年12月、対独協力に積極的であったラヴァルは、協力に慎重であったペタンと折り合いが悪く、失脚する{{Sfn|渡辺ら|1997|p=130-131}}。翌1941年2月には[[フランソワ・ダルラン]]が副首相に就任し、ドイツに譲歩を重ねながら、5月のヒトラーとの会見ではアフリカ植民地をドイツ軍の利用に供する協定に同意し、ダルランは枢軸側として参戦することを提案するも、それを危険視したペタンは1942年4月に彼を解任させ、ラヴァルを復帰させるなど、人事の混乱があった{{Sfn|渡辺ら|1997|p=130-131}}。またフランス領インドシナは仏印進駐によって日本軍の影響下に置かれることになった。連合軍が北アフリカに上陸した1942年11月、国際情勢の変化から、ヴィシーとの国交を絶つ国家が相次ぎ、影響力の低下などもあって、ドイツ軍はヴィシー地域を占領し、フランス全土を管理するようになる。戦況がドイツ不利になると、親独派で、ドイツとの関係が深かったラヴァルでさえ無視されることが多くなり、1944年1月にはより過激な対独協力者の入閣を求められ、フィリップ・アンリオやジョセフ・ダルナン、マルセル・デアなどが起用された{{Sfn|渡辺ら|1997|p=131}}。


===自由フランスとレジスタンス===
戦債の支払や国土の荒廃もあって経済的は不安定となり、[[第一次世界大戦の賠償|ドイツからの賠償金]]を厳しく取り立てるようになった。この動きの頂点が1923年の[[ルール占領]]であったが、[[ヴァイマル共和政のハイパーインフレーション|ドイツに大混乱とインフレ]]をもたらしたのみで失敗に終わった。以降賠償金支払いプロセスにはアメリカが加わり、一定の安定を迎えた。しかし世界恐慌後は経済も混乱し、1936年からは[[フランス人民戦線]]と呼ばれる左派政権が成立した。以降も内閣は頻繁に交代し、政治的な安定期を迎えることはできなかった。
{{Main|自由フランス}}
[[ファイル:De Gaulle-OWI-2.jpg|サムネイル|シャルル・ド・ゴール]]


ドイツ軍へのレジスタンスは、ドイツ軍占領地域での勢力、ヴィシー国内での非占領地域の勢力、そして[[シャルル・ド・ゴール]]が指導する国外勢力の3つに分けられる。ド・ゴールはロンドンなどを拠点に[[英国放送協会]](BBC)を抵抗を呼びかけたが、初期の段階においては、ペタンの名声などでかき消され、フランス国内においてはほとんどそうした抵抗の呼びかけへの反響はなかった{{Sfn|柴田|2006|p=202}}。また初期の自由フランスは大陸からの脱出兵による数千人ほどの規模しかなく、組織としても、イギリスの[[ウィンストン・チャーチル]]首相や、アメリカの[[フランクリン・ルーズベルト]]大統領の反応も曖昧であった{{Sfn|柴田|2006|p=202}}{{Sfn|渡辺ら|1997|p=141}}。初期のレジスタンス組織では非占領地域よりも占領地域の方が早く、当初は地下組織での出版物の刊行から始まった。1940年8月には赤道アフリカやチャドカメルーンなどのフランス領中央アフリカ地域を自由フランス側に立たせることに成功する。フランス国内では1943年春頃より、ドイツの労働力徴発に反発した若者によるレジスタンス組織「[[マキ (抵抗運動)|マキ]]」が武装抵抗を始め、5月にはド・ゴール主導による全国統一組織「レジスタンス国民会議」が結成された{{Sfn|渡辺ら|1997|p=139}}。一方でこうしたレジスタンスに対して支配をしていたドイツはドイツ兵一人の殺害につき一定数のフランス人やユダヤ人捕虜の人質を殺害するといった報復措置を取った{{Sfn|渡辺ら|1997|p=139}}。これらは戦況が悪化するにつれ、より熾烈なものになっていた{{Sfn|渡辺ら|1997|p=139}}。
== 第二次世界大戦 ==
[[ファイル:Paris1944.jpg|thumb|right|180px|連合国軍によるパリ解放]]
{{main|ヴィシー政権|ナチス・ドイツによるフランス占領|自由フランス}}
1939年、[[ナチス・ドイツ]]が[[ポーランド侵攻|ポーランドに侵攻]]すると、フランスはイギリスと協調してドイツに宣戦布告した。翌1940年にドイツは中立国であったベネルクス三国を経由してフランスに侵攻してフランス軍を打ち破り([[ナチス・ドイツのフランス侵攻]])、6月22日に[[独仏休戦協定]]が締結された。これにより、フランス北部はドイツ、南部の一部はイタリアによって占領されることになったが、名目的な主権は存続した。


===フランス解放から終戦まで===
フランス内部では戦争に敗れた共和政への忌避、反英感情が高まり、[[フィリップ・ペタン]]に対する個人崇拝と権威主義的志向が盛り上がった。7月10日、[[1940年7月10日の憲法的法律]]が可決され、ペタンによる権威主義的政権が成立した。これは首都の置かれた場所を取って、ヴィシー政権と呼ばれる。外見的には中立を保つ、合法的な主権国家であったが、国内の諸政策には強くドイツの意向が反映されるなど、事実上はドイツの傀儡政権であった。一方で国防次官[[シャルル・ド・ゴール]]はロンドンで、親連合国の組織「[[自由フランス]]」を組織した。自由フランスはドイツに対する抵抗を呼びかけたが、植民地の多くはヴィシー政権を支持した。一方で[[フランス領インドシナ]]は[[仏印進駐]]によって日本軍の影響下に置かれることになる。
{{Main|パリの解放|ノルマンディー上陸作戦|エピュラシオン}}
[[ファイル:Crowds of French patriots line the Champs Elysees-edit2.jpg|サムネイル|パリの解放]]
ドイツによる占領政策は日に日に苛烈になり、1942年以降には各地の植民地も次第に自由フランス側につくようになり、1942年11月8日の[[トーチ作戦]]によってフランス領北アフリカも喪失した。1944年6月には自由フランスと北アフリカのヴィシー軍が合同して[[フランス共和国臨時政府]]が成立し、ノルマンディー上陸作戦によってフランス本土には再び連合国軍が上陸した{{Sfn|渡邊|1998|p=13}}{{Sfn|小田中|2018|p=20-21}}。6月22日にはパリの解放が行われ、ヴィシー政権は崩壊し、臨時政府はパリに帰還した。またこの時、ヒトラーはパリ防衛の責任者であった[[ディートリヒ・フォン・コルティッツ|コルティッツ]]に対して、パリの町中に仕掛けられた爆弾を起爆させ、パリを破壊するよう指示するが、破壊司令は結局、無視され、コルティッツらはそのまま投降した{{Sfn|渡邊|1998|p=3}}{{Sfn|高遠|2020|p=198}}。1944年中にフランスの大半は奪還され、1945年のドイツ降伏によってフランス全土は再びフランス政府の手に戻った{{Sfn|小田中|2018|p=20-21}}。


ドイツから解放されたフランス国内では、レジスタンスなどに関わっていた人々などによる、コラボラシオンに関わった人々に対する、追放や粛清(エピュラシオン)が横行し、暴行や殺害などが発生したことを受け、事態のエスカレートを危惧した臨時政府は大戦期の行動に対する「正義のための法廷」を設立したが、これを利用した、公式的なエピュラシオンは少なく、多くは私刑によって暴力をもって裁かれた{{Sfn|高遠|2020|p=201}}{{Sfn|渡邊|1998|p=5-6}}{{Sfn|ベルジェール|2019|p=18-23}}。少なくとはいえ、臨時政府は12万人もの親独派とと考えられる人々を予防拘禁し、16万人に対して、対独協力行為に対して裁判を行なった{{Sfn|小田中|2018|p=23}}。特にヴィシー政権の中枢であるペタン、ラヴァル、ダルナンなどは死刑宣告を受け、そのうちペタンは高齢のため、終身刑に減刑され、残り二人は死刑が執行された{{Sfn|渡邊|1998|p=7}}{{sfn|渡辺ら|1997|p=148}}。また終戦に伴い、戦争捕虜や強制収容所、労働徴発などによってドイツなどに抑留されてきた230万人ものフランス人たちが帰国すると予想され、早急な社会的経済的な準備を迫られた{{Sfn|小田中|2018|p=24}}。戦後すぐのフランスはこうしたエピュラシオンによる「敵」の排除とともに、「一部の親独派を除き、大多数のフランス人らは、積極的か消極的にレジスタンスに参加し、ドイツに勝利した。」という、実際の実情とはやや異なる、レジスタンス神話が形成され、臨時政府もこれを利用し、国民の和解や統合に利用した{{Sfn|小田中|2018|pp=25-26}}。1944年12月にはソビエト連邦との仏ソ友好条約が結ばれ、国内の共産党系レジスタンス組織との関係も深化した{{Sfn|渡辺ら|1997|p=149}}。
ドイツによる占領政策は苛酷であり、1942年以降にはフランス国内でもレジスタンス運動が高まるようになった。各地の植民地は次第に自由フランス側につくようになり、1942年[[11月8日]]の[[トーチ作戦]]によって[[フランス領北アフリカ]]も喪失した。これによりドイツ軍はフランス全土を占領し、ヴィシー政権はほとんど名目的な存在となった。1944年6月には自由フランスと北アフリカのヴィシー軍が合同して[[フランス共和国臨時政府]]が成立し、[[ノルマンディー上陸作戦]]によってフランス本土には再び[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]軍が上陸した。6月22日には[[パリの解放]]が行われ、ヴィシー政権は崩壊し、臨時政府はパリに帰還した。1944年中にフランスの大半は奪還され、1945年のドイツ降伏によってフランス全土は再びフランス政府の手に戻った。


戦後すぐのフランスが直面した大きな問題として、ドイツの戦後処理問題が挙げられる{{Sfn|井上|1995|p=518-519}}。フランスは実際のところ、第一次世界大戦とは異なり、一度敗戦し、レジスタンスとして復活した経緯がある以上、ドイツの戦後処理問題に関して、大きな発言力を持てなかった{{Sfn|井上|1995|p=518-519}}。そのため、ド=ゴールはソ連に接近し、ド=ゴールが掲げる対独政策{{Efn|ドイツの中央集権化の阻止と、ルールの国際管理に置き、ラインを英仏白蘭の4カ国による占領、そしてザールの独立など。}}への支持を求めるも、ソ連はそれを拒み、1945年2月の[[ヤルタ会談]]では、ドイツの戦後処理問題に対して、フランスの発言権を認めることと、国際連盟に代わって設立される[[国際連合]]の[[国際連合安全保障理事会|安全保障理事会]]の[[国際連合安全保障理事会常任理事国|常任理事国]]とすることが決定された{{Sfn|井上|1995|p=518-519}}{{Sfn|杉本ら|2016|p=261}}。
フランスは[[国際連合安全保障理事会常任理事国]]という五大国の一つである地位を確保し、[[連合軍軍政期 (ドイツ)|ドイツ占領に参加した]]。一方でドイツ協力者に対する粛清も行われた。


== 第四共和政 ==
== 第四共和政 ==
{{main|フランス共和国臨時政府|フランス第四共和政}}
{{main|フランス共和国臨時政府|フランス第四共和政}}
1945年10月21日に行われた戦後の政治体制のあり方を問う国民投票では、圧倒的多数が第三共和政の復活を否定したことを受け、臨時政府は制憲議会で新たな憲法作成作業を行った。また同日、国民投票と並行して行われた議会選挙では、フランス共産党が社会党に1議席差で与党となった<ref>{{Cite book |和書 |author=岩波書店編集部 編|title=近代日本総合年表 第四版 |publisher=岩波書店 |year=2001-11-26 |page=347 |isbn=4-00-022512-X}}</ref>。次いでキリスト教系レジスタンス組織であった{{仮リンク|人民共和運動|fr|Mouvement républicain populaire}}がその位置につき、第3位には社会党が入った。この共産党、人民共和運動、社会党による三党は議会選挙後、首班をド・ゴールに指名するが、結局翌1946年1月には、党との関係悪化から首相を辞任し、ド・ゴール抜きでの戦後政治が始まった。
臨時政府は制憲議会で憲法作成作業を行った。[[1946年]]10月に第四共和政憲法が成立し、1947年1月16日から第四共和政に移行した。多党分立で議会優先であったため内閣は短命で、政情は不安定だった。ドイツの収奪と戦禍により経済は疲弊しており、ドイツからの大幅な収奪を前提とする[[モネ・プラン]]を計画していたが、アメリカなどの反対によって成立しなかった。変わってアメリカから[[マーシャル・プラン]]による支援を受ける一方で、冷戦勃発後は[[欧州石炭鉄鋼共同体|石炭鉄鋼共同体]]など[[ヨーロッパ統合]]政策を開始している。


ド・ゴールの辞任を受け、労働者インターナショナルの{{仮リンク|フェリックス・グーアン|fr|Félix Gouin}}が首班になるも、5月5日に新憲法の草案は、議会を一院制とするなど、議会の立場を強くさせる内容であったが、国民投票で僅差で否定され、また同日に行われた議会選挙では共産党に代わって人民共和党が第一党となり、[[ジョルジュ・ビドー]]が首班となる{{Sfn|渡辺ら|1997|p=151}}。10月に提出された第2次草案は、第1次草案の否決を受け二院制が復活し、結果的に第三共和政と内容は大して変わらなかったものの、国民投票で可決され、第四共和政憲法として成立したが、投票率は69%程度で、有権者全体で見た時、賛成はせいぜい36%に過ぎず、圧倒的多数の国民による合意を得たとは言い難いものであった{{Sfn|渡辺ら|1997|p=152}}。第四共和政の多くは第三共和政と変わらなかったが、戦時中における植民地に対する協力の見返りとして自治権の強化などを約束していたことから、フランスの海外植民地は、フランス植民地帝国としての時代を終わらせ、代わりに[[フランス連合]]と呼ばれるフランスと植民地と海外県、海外領土からなる緩やかな国家連合の形成が行われた{{Sfn|渡邊|1998|p=29-30}}{{Sfn|小田中|2018|p=35}}{{Sfn|高遠|2020|p=202}}。
一方で植民地支配には限界がおとずれ、中東およびアジアの植民地は次々に独立していった。インドシナでは[[1945年]]から[[1954年]]にかけて[[第一次インドシナ戦争]]が発生し、[[ジュネーヴ協定]]で撤兵した。

憲法制定後の11月の議会選挙では再び共産党が第一党に返り咲き、一方で人民共和運動や社会党などは大きく後退をするなどの得票数的な差はあったが、三党体制は依然としてある程度の影響力を持ち続けた。第四共和政の最初の首相には社会党の[[ポール・ラマディエ]]が選出され、翌1947年1月16日にはヴァンサン・オリオールが初代大統領に就任し、臨時政府はその役目を終え、本格的な第四共和政が始動する{{Sfn|高遠|2020|p=200-201}}{{Sfn|金沢|1984|p=234}}。第四共和政成立後、第三共和政末期の二大政党であった急進派と穏健派の復権が始まり、[[モーリス・トレーズ|モリース・トレーズ]]やビドーなどの首班指名が拒否され、12月には[[レオン・ブルム]]による内閣が成立する{{Sfn|渡邊|1998|p=30-31}}。1947年は、国際情勢が米ソの関係悪化による[[冷戦]]構造になっていく中、アメリカは3月に、[[ハリー・S・トルーマン|ハリー・トルーマン]]大統領によって西側諸国に対して[[マーシャル・プラン]]などの経済支援を行うことを表明し、フランスもその影響を受けるようになる{{Sfn|小田中|2018|p=39}}。一方でマーシャル・プランを受けるフランスの政権与党である共産党にとって、微妙なものとなっていたが、同時に同年春にブルムが渡米し、アメリカからの26億ドルの財政支援を約束させたブルム=バーンズ協定などがあったことから、渡りに船な状況でもあった{{Sfn|小田中|2018|p=39}}{{Sfn|渡邊|1998|p=35}}。1948年4月には、ブルム内閣の要職についていた実業家[[ジャン・モネ]]によるフランス復興計画である[[モネ・プラン]]が始動し、戦後復興の道を着々と進めた{{Sfn|渡邊|1998|p=39-40}}。

===欧州防衛共同体論争===
{{Main|欧州共同体}}
1948年2月にチェコスロバキアで発生した[[1948年のチェコスロバキア政変|クーデター]]は西側諸国に衝撃を与え、アメリカ主導のもと、1949年に[[北大西洋条約機構]](NATO)が設立され、フランスも、イギリスやイタリアなどとともに参加した{{Sfn|渡辺ら|1997|p=169}}。1950年にNATO理事会でアメリカが西欧防衛強化のために[[西ドイツ]]の再軍備を提起すると、イギリスを筆頭にそれを受け入れたものの、フランスは唯一それに反対を示した{{Sfn|渡辺ら|1997|p=169-170}}。こうした態度は、イギリスや北欧諸国から強い非難を浴びたが、フランスは対抗提案として「[[欧州防衛共同体]]」(CED)構想を提示し、これらは5月に外相[[ロベール・シューマン]]によって発表された[[欧州石炭鉄鋼共同体]](CECA)構想の防衛版でもあった{{Sfn|渡辺ら|1997|p=170}}。CED構想は1952年2月のエドガー・フォール内閣や、後継の5月の[[アントワーヌ・ピネー]]内閣で議論され、CEDを設立させて欧州軍を発足させるパリ条約が調印された{{Sfn|渡辺ら|1997|p=170}}。しかしこの条約の批准に必要な議会からの過半数の支持を得られる可能性が望み薄であったことや、こうした構想はフランス世論を二分させ、社会学者の[[レイモン・アロン]]はこの事態を「[[ドレフュス事件]]以来フランスの最も重大なイデオロギー論争」と評した{{Sfn|渡辺ら|1997|p=169-170}}。CED論争はフランスの内政を麻痺させたほか、外交政策の足かせにもなり、議論は2年以上続き、その間に起きた国際情勢の変化は次第に批准を不利に傾かせた{{Sfn|渡辺ら|1997|p=172}}。結局、CED構想はソ連での[[ヨシフ・スターリン]]の死に伴う東西緊張の緩和などを背景に、その超国家性に対する批判が紛糾し、最終的に国民議会によって批准は拒否され、この構想は頓挫した{{Sfn|藤井|2010|p=128-129}}。

===植民地問題===
{{Main|第一次インドシナ戦争|アルジェリア戦争}}
一方で植民地支配には限界がおとずれ、中東およびアジアの植民地は次々に独立していった{{Sfn|渡辺ら|1997|p=174}}。インドシナでは1945年から1954年にかけて[[第一次インドシナ戦争]]が発生し、[[ジュネーヴ協定]]で撤兵した{{Sfn|渡辺ら|1997|p=174-175}}。さらにインドシナに続いてチュニジア、モロッコも同様の運動が起こり、チュニジアでは1954年に[[ピエール・マンデス=フランス|マンデス=フランス]]政権によって内政自治権が認められ、[[エドガール・フォール]]政権では1955年にモロッコの独立が認められた{{Sfn|渡辺ら|1997|p=176}}。一方でインドシナやチュニジアといった地域とは異なり、歴史的にはフランス初の外国植民地であり、国民にとっても特別な思い入れのあるアルジェリアの独立に対しては、その議論は難航し、1954年にはアルジェリア民族主義運動の蜂起を促し、これらの問題によって崩壊したマンデス=フランス政権のみならず、続く1957年5月の[[ギー・モレ]]政権や翌6月の{{仮リンク|モーリス・ブルジェ・モーヌリ|fr|Maurice Bourgés-Maunoury}}政権、さらには11月の[[フェリックス・ガイヤール]]政権などを崩壊させた{{Sfn|渡辺ら|1997|p=176-180}}{{Sfn|渡邊|1998|p=78-91}}。


== 第五共和政 ==
== 第五共和政 ==
{{main|フランス第五共和政}}
{{Main|フランス第五共和政}}
アルジェリア戦争に際して無力さを露呈した第四共和政は、1958年6月2日にかねてより待望論がささやかれていた[[シャルル・ド・ゴール]]に憲法改正のための全権を委任させ、社会党、急進派、人民共和運動などを入閣させる挙国一致体制が成立した{{Sfn|渡邊|1998|p=101}}。もっとも多くの政党出身者たちは体裁を取り繕うに過ぎず、実際はド・ゴールや彼の側近たちによって多くの決定がなされた{{Sfn|渡邊|1998|p=101}}。憲法改正のための草案は9月12日の国民投票で約80%の支持を得たことから承認され、翌1959年1月にド・ゴールは大統領に就任し、第四共和政は幕を閉じた{{Sfn|渡邊|1998|p=102}}{{Sfn|小田中|2018|p=66}}。こうした第五共和政の突然の成立を世論は歓迎したが、知識人の間では独裁を警戒する声がささやかれた{{Sfn|柴田|2006|p=214}}。
アルジェリア戦争に際して無力さを露呈した第四共和政は、[[1959年]]に[[シャルル・ド・ゴール]]を大統領に第五共和政へと移行した。第五共和政では議会下院の多数決によって選出される首相が置かれるものの、国民の直接選挙で選出される大統領に強い行政権限がある。[[1960年]]はアフリカ植民地の多くが独立([[アフリカの年]])したものの独立時に戦火を交えた一部の国を除いて良好な関係を保ち、元植民地の国に多額の援助を行った。同年には[[核兵器]]の開発に成功、さらに[[1964年]]には中華人民共和国を承認し、[[冷戦]]下では西側陣営でありつつも米国とは一定の距離を置く独自路線を貫いた。一方経済面では1961年に成立した[[ヨーロッパ共同体]]において中心的な役割を果たし、[[1973年]]の[[第一次オイルショック]]まで高い経済成長率を維持した。この期間を栄光の30年間という。


第五共和政では議会下院の多数決によって選出される首相が置かれるものの、国民の直接選挙で選出される大統領に強い行政権限がある{{Sfn|小田中|2018|p=66}}。
1966年の学生運動を発端とする[[五月危機]]は政界にも大きな影響を与えた。ド・ゴールは総選挙で圧勝することで事態を収拾したものの、翌年には大統領を引退することとなった。1981年の大統領選で[[社会党 (フランス)|社会党]]の[[フランソワ・ミッテラン]]が当選し、[[フランス共産党]]との左派連合政権となる。以降の第五共和政下では保守派と革新派が大統領と首相を分け合う、[[コアビタシオン]](保革共存)と呼ばれる状態がしばしば発生している。第5代大統領となった[[共和国連合]]の[[ジャック・シラク]]は、[[イラク戦争]]では派兵を拒んだ。しかし[[ニコラ・サルコジ]]政権([[国民運動連合]])では対米協調がおこなわれた。2012年からは社会党の[[フランソワ・オランド]]が大統領となり、2017年に[[エマニュエル・マクロン]]が大統領に就任した。

===ゴーリズムの時代===
{{Main|栄光の三十年間}}
[[ファイル:De Gaulle 1961 (cropped).jpg|サムネイル|シャルル・ド・ゴール]]
1960年はアフリカ植民地の多くが独立([[アフリカの年]])したものの独立時に戦火を交えた一部の国を除いて良好な関係を保ち、元植民地の国に多額の援助を行った{{Sfn|小田中|2018|p=67-68}}。1962年8月22日には、パリ北郊のプチ=クラマールでド・ゴールを乗せた車が銃撃に遭うなどの災難にもあったが、翌1963年には[[エビアン協定]]を通じて、アルジェリアの独立が決定的なものとなり、第四共和政以来、問題となっていた植民地問題の多くは解決した{{Sfn|小田中|2018|p=70}}{{Sfn|杉本ら|2016|p=291}}。また経済面では1961年に成立した[[欧州共同体]]において中心的な役割を果たし、1973年の[[オイルショック]]まで高い経済成長率を維持した。この期間を経済学者の{{仮リンク|ジャン・フーラスティエ|en|Jean Fourastié}}は栄光の三十年間と呼んだ{{Sfn|柴田|2006|p=215}}。

ド・ゴールはフランスの栄光の実現のためならば、時として政策理念の合わない閣僚の更迭を強行し、非政治家の人物を側近に置いて行政府を支配するなどの手段を取り、これらは「ゴーリズム」と呼ばれた{{Sfn|小田中|2018|p=70-71}}{{Sfn|渡邊|1998|p=118}}。またド・ゴールは欧州統合の流れに対して、主権国家を維持した国家連合構想を提唱し、欧州統合派が主張する「超国家的な統合」を批判した{{Sfn|渡邊|1998|p=119}}。一方で、1963年1月には西ドイツの[[コンラート・アデナウアー]]首相とともに[[仏独協力条約]]が結ばれ、仏独関係が急速に再建されていった{{Sfn|渡邊|1998|p=125}}。一方で対英関係に対しては対独関係と反比例するように悪化の一途をたどり、1963年1月の[[ハロルド・マクミラン]]保守党政権時代と1967年5月の[[ハロルド・ウィルソン]]労働党政権時代のイギリスの二大政党からの欧州共同体への加盟申請はいずれもド・ゴールによって拒否された{{Sfn|渡邊|1998|p=126}}。

さらにド・ゴールは西側諸国やアメリカとの妥協が結果としてフランスの自立を曖昧なものとさせた第四共和政時代の外交を批判し、「偉大なフランスへの追求」という理念から、アメリカのヘゲモニーに対する挑戦を目指した{{Sfn|渡邊|1998|p=122}}。それらは1960年のサハラ砂漠での実験による核兵器開発の成功によって得た核抑止力に基づく自立外交などを展開させた{{Sfn|渡邊|1998|p=123}}。こうした外交は1962年の[[ジョン・F・ケネディ]]・マクミランによる米英首脳会談での多角的核抑止戦略の提案の拒否や、1963年8月の米英ソなどによって結ばれた「[[部分的核実験禁止条約]]」 (PTBT)への参加・調印の拒否などが行われた{{Sfn|渡邊|1998|p=123}}。

===ポスト・ド=ゴールの時代===
{{Main|五月危機}}
[[ファイル:Photographie 30 mai - Archives nationales- 98AJ-4DE-NC.jpg|サムネイル|五月危機]]
しかし1966年の学生運動を発端とする'''五月危機'''は政界にも大きな影響を与えた{{Sfn|柴田|2006|p=217}}。ド・ゴールは学生反乱には弾圧をもって、ゼネストに対してはグルネル協定をもって対応し、さらに国民議会を解散させて行われた総選挙では圧勝したことで事態を収拾したものの、翌年には大統領を引退することとなった{{Sfn|柴田|2006|p=217}}{{Sfn|小田中|2018|p=96-97}}。
[[ファイル:Georges.Pompidou.jpg|サムネイル|ジョルジュ・ポンピドゥ]]
後継には[[ジョルジュ・ポンピドゥー]]が選出され、彼はド・ゴールが目指した「偉大なフランスへの追求」を継承しつつも、彼のようなカリスマ性による統治などはできないと判断したことから、党組織を固め、経済の近代化を重視した{{Sfn|柴田|2006|p=217-218}}{{Sfn|小田中|2018|p=99}}。またポンピドゥーは欧州統合の一環として1967年7月に[[ブリュッセル条約]]によって成立した欧州共同体(EC)へのイギリス加盟を承認し、ヨーロッパ協調路線を築き上げた{{Sfn|柴田|2006|p=218}}。

1970年代は経済成長と近代化に伴って生じた社会の変容への対応によって、政界は大きな再編を迫られた{{Sfn|小田中|2018|p=102}}。特にこうした変化の産物であった「新中間層」の成立は、それまでの「中間層」を支持基盤としてきた急進党にとって深刻な影響を与えたし、共産党や社会党にとっても、これらの層の取り込みは難航した{{Sfn|小田中|2018|p=102}}。一方で早い段階からこの層に目をつけたのが[[ヴァレリー・ジスカール・デスタン]]と彼の党である独立共和派であった{{Sfn|小田中|2018|p=103-104}}。また共産党と社会党は1972年に「共同政府綱領」を発表し、接近していった{{Sfn|小田中|2018|p=103-104}}。

1971年8月、アメリカ大統領[[リチャード・ニクソン]]が発表したドルと金の兌換停止は「[[ニクソン・ショック]]」と呼ばれ、フランスをはじめ多くの国が変動為替相場制の導入を迫られた{{Sfn|小田中|2018|p=109}}。一方で欧州統合という理念に対して、欧州諸共同体の加盟国間での為替変動は統合にとって好ましくないというジレンマを抱えていた{{Sfn|小田中|2018|p=109}}。これらは加盟国間の為替相場にはある程度の余裕を持たせた上で固定し、非加盟国とは変動為替相場制を取る、為替相場協力政策によって一応の解決がもたらされた{{Sfn|小田中|2018|p=109-110}}。翌1972年には欧州諸共同体でそうした協力政策の一環である「スネーク」{{Efn|これは加盟国同士の為替相場が上限と下限の間を蛇のように蛇行することからそう名付けられた。}}が採用され、フランスも参加したものの、これは競争的平価切下げによって支えられてきたフランスの経済成長を放棄することを意味していた{{Sfn|小田中|2018|p=110}}。
[[ファイル:Valéry Giscard d'Estaing (1975).jpg|サムネイル|ヴァレリー・ジスカールデスタン]]
1974年4月、ポンピドゥーが現職のまま病気によって死去すると、5月の大統領選挙ではジスカールデスタンが当選し、大統領に就任した{{Sfn|小田中|2018|p=105}}。ジスカールデスタンの大統領就任は、第五共和政にとって、ド・ゴール派以外が政権につく、最初の政権交代であった{{Sfn|シリネッリ|2014|p=52}}。しかし一方で、ジスカールデスタンの大統領就任とほぼ同時期にフランスを襲った第一次石油危機への対応として財政支出削減や増税、貨幣流通量の減少などを目指す経済政策パッケージ「経済冷却計画」が施行され、結果として失業者の増加を招いた{{Sfn|小田中|2018|p=108}}。1976年3月にはジスカールデスタン政権の首相であった[[ジャック・シラク]]によって国内不況対策への優先から、スネークの一時離脱がなされた{{Sfn|小田中|2018|p=110}}。7月、かねてよりド=ゴール派であり、リベラルで親欧州的なジスカールデスタンとそりが合わなかったシラクは首相職を辞し、ド=ゴール派の政党である[[共和国連合]]へと離党してしまう{{Sfn|小田中|2018|p=111}}。それを受け後任に就いたレイモン・バールは石油危機対応としてインフレの抑制や、フランの為替相場安定を掲げる一連の反インフレーション計画、通称「バール・プラン」を9月より実行した{{Sfn|小田中|2018|p=111}}。この時期のフランスの政治情勢を、法学者の[[モーリス・デュヴェルジェ]]は「カドリーユ・ビポレール」(二極的なカドリーユ) と表現している{{Sfn|シリネッリ|2014|p=56}}。カドリーユとは4人の踊り手によるバレエ用語で、大統領選挙や国民議会選挙によって連立が求められると、社会党と共産党というペアと、ド・ゴール派とリベラルのペアに分かれる、ということを指摘しており、またこうした関係はお互いのペア同士の敵対心によって連合を組みながら、ペア同士の競合的な地位ゆえに遠心力も働く、といったものである{{Sfn|シリネッリ|2014|p=56}}。こうしたカドリーユ・ピボレールな政治情勢は70年代に最盛期を迎えた{{Sfn|シリネッリ|2014|p=56}}。

ジスカールデスタン政権期は、同じ時期に政権を持った西ドイツの[[ヘルムート・シュミット]]首相との仏独首脳会談の定例化と常設化を実現し、1979年にはドルの乱高下を防ぐために欧州通貨制度を立ち上げるなどし、欧州統合を進めた{{Sfn|藤井|2010|p=135}}。こうした仏独関係はしばし独仏枢軸(パリ・ボン枢軸)と呼ばれた{{Sfn|藤井|2010|p=135}}。

===コアビタシオン===
{{Main|コアビタシオン}}
1981年の大統領選で[[社会党 (フランス)|社会党]]の[[フランソワ・ミッテラン]]が当選し、[[フランス共産党]]との左派連合政権となる{{Sfn|渡邊|1998|p=209}}。ミッテランが大統領に就任した時期は、インフレの増大や失業がフランス経済に打撃を与えていたことから、大規模な国有化政策が実行され、当時、イギリスの[[マーガレット・サッチャー]]政権やアメリカの[[ロナルド・レーガン]]政権で民営化が推し進めた「[[小さな政府]]」とは対照的な「[[大きな政府]]」による政策が施行されていき、これらはしばし「実験」とも呼ばれた{{Sfn|渡邊|1998|p=217}}。またミッテラン政権期には、戦時中の対独協力者を清算するための指名手配や協力者の捜索などが行われた{{Sfn|小田中|2018|p=129}}。

しかしミッテランが政策の要としていた失業問題は回復どころか悪化し続け、1983年には不支持率が支持率を上回った{{Sfn|渡邊|1998|p=220}}。やがて連立政権を組んでいた共産党も1984年7月に首相が[[ピエール・モーロワ]]から[[ローラン・ファビウス]]に交代したことを受け、政権から離脱した{{Sfn|小田中|2018|p=132}}。

70年代後半から80年代にかけての経済不況は、ライフスタイルの変化や[[バンリュー]]に建てられた団地の治安悪化を招き、放火や窃盗、襲撃といった事件が群発した{{Sfn|小田中|2018|p=134}}。こうした暴動は「暑い夏」と呼ばれ、政府や地方行政は都市政策の見直しを求められた{{Sfn|小田中|2018|p=134-135}}。またミッテラン政権期に積極的に行われた移民政策が、言語や学歴、人種差別を招くなどし、こうした問題をより深刻化させ、1983年10月には[[マーティン・ルーサー・キング・ジュニア|キング牧師]]や[[マハトマ・ガンディー]]の非暴力・不服従運動に倣い、マルセイユからパリへと移民出身者たちが人種差別規制を求める{{仮リンク|ブールの行進|en|March for Equality and Against Racism}}が行われた{{Sfn|小田中|2018|p=136-138}}。また1989年10月には、パリ北郊のクレイユの公立学校に通うムスリムの女学生3人に対して、スカーフを脱ぐよう求められ、うち1人がそれに反対し、退学処分を受ける{{仮リンク|スカーフ事件|fr|Voile islamique dans les écoles en France}}」が起こり、[[ライシテ]]をめぐる問題が表面化し、世論は大きく分かれた{{Sfn|小田中|2018|p=138-139}}。
[[ファイル:Reagan Mitterrand 1984 (cropped).jpg|サムネイル|大統領として就任したミッテラン]]
[[ファイル:Jacques Chirac (1997) (cropped).jpg|サムネイル|首相として就任したシラク]]
1985年4月、ミッテランは選挙法を改正し、翌1986年3月の総選挙に臨むも、右派の共和国連合とフランス民主連合が過半数を2議席上回ったことから、ミッテランは共和国連合のシラクを首相に選出する、大統領与党と首相与党がねじれる'''コアビタシオン'''(保革共存)と呼ばれる状態が発生した{{Sfn|小田中|2018|p=141-142}}。これらは7年という大統領の任期と5年という国民議会議員の任期のズレによって生み出されてしまったもので、首相となったシラクは、国営企業の民営化を進め、それに対して大統領であるミッテランは拒否権を発動するなど、足並みは揃わなかった{{Sfn|小田中|2018|p=142}}{{Sfn|藤巻|1996|p=43}}。

1989年12月の[[マルタ会談]]による冷戦終結とともに浮上した「[[ドイツ再統一]]」は、独仏関係に動揺をもたらした{{Sfn|渡邊|1998|p=270-271}}。フランスにとってドイツの再統一は、それによる国力の回復によって再び第一次世界大戦や第二次世界大戦などを引き起こしかねないという危惧があった{{Sfn|渡邊|1998|p=270-271}}。そこでフランスは、統一されたドイツを承認する代わりに、経済通貨同盟を結ぶことによる、仏独関係の深化を促す一方で、こうした流れは、1991年12月、ヨーロッパ統合の流れはやがて経済統合、通貨統合、政治統合を目的とする[[マーストリヒト条約]](欧州連合条約)へと至り、フランスはそれに調印後、翌1992年の国民投票で賛成51%という僅差の勝利を収め、条約を批准させた{{Sfn|渡邊|1998|p=279-280}}{{Sfn|杉本ら|2016|p=333}}。この国民投票に際して、社会党、共和国連合、フランス民主連合は条約を支持した一方で、社会党の[[ジャン=ピエール・シュヴェヌマン]]はそれに反対し離党を表明後、新党「市民運動」を結成し、また共和国連合の[[フィリップ・セガン]]や[[シャルル・パスクワ]]といった重鎮や、フランス民主連合の[[フィリップ・ド・ヴィリエ]]などが条約批准に反対を表明するなど、賛成政党の中での離反が相次いだ{{Sfn|小田中|2018|p=158}}。また反対した政党には共産党、[[国民連合 (フランス)|国民連合]]、労働者闘争、緑の党などが名を連ねた{{Sfn|小田中|2018|p=158}}。

1993年3月の総選挙で、与党である社会党は壊滅的な敗北を喫し、現役閣僚の多くも選挙で敗れるという事態が起こった{{Sfn|渡邊|1998|p=281-282}}。一方で社会党に代わって与党となった共和国連合はミッテランによって[[エドュアール・バラデュール]]が首相に任命され、第二次コアビタシオンが始まった{{Sfn|渡邊|1998|p=281-282}}。

===21世紀のフランス===
1995年5月の大統領選挙で[[共和国連合]]の[[ジャック・シラク]]が大統領に就任する{{Sfn|小田中|2018|p=161}}{{Sfn|渡邊|1998|p=297}}。彼は1991年より続いていた[[アルジェリア内戦]]などに対して反イスラムの立場を表明したことから、フランスに対するイスラム系のテロリズムが横行した{{Sfn|小田中|2018|p=161}}。また6月には核実験の再開を表明し、1992年のミッテラン政権期における核実験の停止を時期尚早であったとした{{Sfn|渡邊|1998|p=310}}。核実験は1995年から翌1996年にかけて計8回行われた{{Sfn|渡邊|1998|p=310}}。8回にわたる実験が終結すると、主張を一変して[[包括的核実験禁止条約]]の締結や[[南太平洋非核地帯条約]]への加盟の意志を示すなどをした{{Sfn|渡邊|1998|p=311-312}}。

1995年7月16日、それまでフランス政府が認めてこなかった第二次世界大戦中のフランス警察によるユダヤ人狩りである「[[ヴェロドローム・ディヴェール大量検挙事件|ヴェルディブ事件]]」を初めて「フランス国家が犯した誤り」であると認めるなど、過去の歴史に対する清算を行なった。{{Sfn|軍司|2003|p=54-55}}。

しかし秋には、ミッテラン時代より引きずっていた失業対策や財政赤字の解消などの一環として社会保障改革を断行し、国民福祉税の増税や年金受給者への年金引き上げ凍結など、国民に負担を強いる政策が続いたことから、パリを中心に全国的なゼネストが発生した{{Sfn|軍司|2003|p=7-11}}。ゼネストは2週間以上続き、首相である[[アラン・ジュペ]]は労組との対話に乗らざるを得なくなった{{Sfn|軍司|2003|p=17}}。しかし対談は暗礁に乗り上げ、ついには外交日程にまで影響を及ぼすようになり、ジュペはついに労組側が提示した公務員の年金受給資格の延期案の取り下げを受け入れ、ゼネスト開始から約3週間当たる12月18日には全てのストライキが解消された{{Sfn|軍司|2003|p=19-21}}。これら一連のゼネストをマスコミは「68年の五月革命以来の社会危機」と表現した{{Sfn|藤巻|1996|p=161}}。これらのゼネストは時期が、本来であればクリスマス商戦が行われていた冬に展開されたことから、公共交通機関が軒並み停止されていたストライキの期間、ギフト需要が見込まれていた衣料品や玩具屋、大手百貨店などの売り上げは大幅に落ち込んだ{{Sfn|藤巻|1996|p=165}}。

また少し遡って9月では旧フランス植民地であった[[コモロ]]で軍事クーデターが発生し、コモロと協定を結んでいたフランスは軍事介入を踏み切り、クーデターを終結させた{{Sfn|藤巻|1996|p=192}}。こうした旧植民地国とのアフリカ外交は、旧植民地国の経済的、軍事的なつながりを深め、国連などの舞台で経済支援を行う一方で、そうした外交が結果として財政や軍事の面で重荷となっていた{{Sfn|藤巻|1996|p=193}}。

2003年3月にかねてより問題視されていた[[イラク武装解除問題]]から、英米を中心とする多国籍軍が[[イラク戦争]]が勃発するも、シラク政権は派兵を拒み、アメリカ合衆国政府からは、同じく派兵を渋っていたドイツなどに対して「古い欧州」と揶揄されるなど、米仏関係は悪化の一途を辿った{{Sfn|小田中|2018|p=178}}。また翌2004年には、スカーフ事件以来、問題となっていた「ライシテ」への解決のため、「{{仮リンク|公立小中高における宗教的シンボル禁止法|en|French law on secularity and conspicuous religious symbols in schools}}」が制定され、公立学校でのキマルなどの宗教的シンボルの着用が明確に違法化された{{Sfn|小田中|2018|p=140}}

2005年、[[欧州のための憲法を制定する条約|欧州憲法条約]]をめぐる国民投票がフランス国内での反対派が勝利したことを受け、この憲法の国民投票を中断する事態が相次ぎ、欧州統合の流れは2年後の2007年に調印された[[リスボン条約]]に引き継がれた{{Sfn|杉本ら|2016|p=334}}。これによって発足した[[欧州連合]](EU)は、加盟国に対して規制緩和や民営化、自由化の流れを求める一方で、企業に対して国家による手厚い保護を前提とするフランスの経済モデルと相反するこうした要求は、フランス国内で[[反グローバリゼーション]]や[[欧州懐疑主義]]といった論調を形成させ、これらの論調は[[フランスの欧州連合離脱|フレグジット]]を呼びかける運動へとつながっていく{{Sfn|杉本ら|2016|p=334}}。
[[ファイル:Nicolas Sarkozy (2008).jpg|サムネイル|ニコラ・サルコジ]]
2007年、シラクの後継を選ぶ大統領選挙では[[ニコラ・サルコジ]]が当選した{{Sfn|小田中|2018|p=185}}。当初、フランス世論は、言いたい放題でやりたい放題なサルコジのスタイル{{Efn|たとえば大統領に当選した翌日に休養を宣言し、[[マルタ島]]でヨットでクルーズをしていたり、パリの国際農業見本市で現地の男性と口論になり「失せろ、馬鹿野郎。」と罵る姿が撮影、録画されるなど、言動や行動に関するエピソードを挙げれば枚挙にいとまがない。}}から、いずれ労組を刺激させ、シラク政権の船出がそうであったように、ゼネストを招くだろうと思われていたが、サルコジは大統領就任に伴って各労組の代表者をエリゼ宮に招き、対談をするなどして、労組とのチャンネルを築き、それに対応した{{Sfn|国末|2009|p=112}}。一方で、ストライキを規制する法案が世論の反発を招いたが、提出された時期がバカンスで、パリに人が去っているシーズンであったため、目立った反対集会はほんの1日程度で、その後、この法案をスピード成立させるなど、世論を巧みに操る政策が続いた{{Sfn|国末|2009|p=113-114}}。

サルコジ政権では彼が[[経済的自由主義]]を信奉していたことから、英米との協調路線を強めた{{Sfn|小田中|2018|p=188}}。2010年10月、サルコジは治安維持を理由に「{{仮リンク|公共空間で顔を覆うことを禁止する法律|fr|Loi interdisant la dissimulation du visage dans l'espace public}}」が制定され、ライシテをめぐる新たな議論を呼んだ{{Sfn|小田中|2018|p=200}}。
[[ファイル:French President François Hollande when meeting Indian Prime Minister Narendra Modi (cropped).jpg|サムネイル|フランソワ・オランド]]
2012年からは社会党の[[フランソワ・オランド]]が大統領に当選する{{Sfn|小田中|2018|p=201}}。オランド政権では2013年に[[ヴァンサン・ペイヨン]]教育大臣によって、公立学校における宗教的所属を誇示する標章を禁止する旨が盛り込まれた「ライシテ憲章」が採択され、シラク政権やサルコジ政権などの右派政権で成立したような一連のライシテに関する規制的な立法が、左派政権であるオランド政権においても同様の積極性を持つものであることが示された{{Sfn|伊達|2018|p=43-44}}。こうした左右両翼に囚われないライシテ政策はフランス国内のイスラーム勢力を刺激させ、2015年には[[パリ同時多発テロ事件]]や[[シャルリー・エブド襲撃事件]]などのイスラーム系によるテロ事件が横行した{{Sfn|小田中|2018|p=203}}{{Sfn|伊達|2018|p=45}}。

2013年、フランスは[[マリ北部紛争 (2012年)|マリ北部戦争]]に軍事介入した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.huffingtonpost.jp/2016/12/22/hollande_n_13802640.html|title=オランド大統領が前代未聞の退場をした理由 5年間の功罪を振り返る|accessdate=2021-05-14|publisher=HUFFPOST}}</ref>。([[セルヴァル作戦]])

2014年1月から3月にかけては、企業減税などを中核とする政策パッケージを提唱し、緊縮派の[[マニュエル・ヴァルス]]を首相に任命するなどして、緊縮政策を行った{{Sfn|小田中|2018|p=202}}。しかしこうした政策は、欧州統合を進めるためには緊縮政策はやむなしとする緊縮派と、失業を減らすためには緊縮政策を放棄するべきだとする反緊縮派の両方からの失望をもたらし、支持率は暴落した{{Sfn|小田中|2018|p=202}}。また同年に制定された「フロランジュ法」をめぐる[[ジャン=マルク・エロー|ジャン=マルク・エロー]]前首相と{{仮リンク|アルノー・モントブール|en|Arnaud Montebourg}}元経済相の対立は、政権弱体化を印象付けた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.huffingtonpost.jp/2016/12/22/hollande_n_13802640.html|title=オランド大統領が前代未聞の退場をした理由 5年間の功罪を振り返る|accessdate=2021-05-14|publisher=HUFFPOST}}</ref>。

こうした不人気による支持率の低迷を受け、オランドは2017年の大統領選挙での再選を目指さないことを発表する<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.bbc.com/japanese/38178587|title=オランド仏大統領、再選目指さず 現職として異例|accessdate=2021-05-14|publisher=BBC NEWS {{!}} JAPAN}}</ref>。こうした現職大統領が再選を目指さない事例は第五共和政以来、初めてであった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.bbc.com/japanese/38178587|title=オランド仏大統領、再選目指さず 現職として異例|accessdate=2021-05-14|publisher=BBC NEWS {{!}} JAPAN}}</ref>。
[[ファイル:Emmanuel Macron in July 2017.jpg|サムネイル|エマニュエル・マクロン]]
[[ファイル:Tours Jean-Jaurès Gilets jaunes 2.jpg|サムネイル|黄色いベスト運動]]
2017年に[[再生 (政党)|再生]]の[[エマニュエル・マクロン]]が大統領に就任した{{Sfn|小田中|2018|p=205}}。マクロンの大統領就任は、フランスの歴史上、最年少の大統領就任であり、第五共和政以来、初となる二大主要政党{{Efn|社会党と共和党}}以外の大統領就任でもあった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.bbc.com/japanese/39840855|title=【仏大統領選】中道派マクロン氏が勝利 ル・ペン氏抑え|accessdate=2021-05-16|publisher=BBC NEWS {{!}} JAPAN}}</ref>。首相には元共和党の中道派[[エドゥアール・フィリップ]]が任命された。2018年11月17日にはマクロンの政策への反発から[[黄色いベスト運動]]が発生した。これを受け翌2019年1月には国民の声を直接聞く「国民大討論」が開催された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyo-np.co.jp/article/26973|title=仏、黄色いベスト運動1年 反マクロン「弱者切り捨て」 続くデモ、不満なお|accessdate=2021-05-14|publisher=東京新聞}}</ref>。

2018年より、[[ニューカレドニア]]での独立運動を受け、フランス政府とニューカレドニアの先住民側とで1998年に結ばれた「{{仮リンク|ヌーメア協定|en|Nouméa Accord}}」に基づき、ニューカレドニアの独立のための住民投票が行われた。投票は[[2018年ニューカレドニア独立住民投票|2018年1月の投票]]と、[[2020年ニューカレドニア独立住民投票|2020年10月の投票]]が2021年現在、計2回行われており、いずれも否決されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/articles/ASNB47DKSNB4UHBI00Q.html|title=フランスからの独立また否決 ニューカレドニア住民投票|accessdate=2021-05-16|publisher=朝日新聞}}</ref>。

2019年、パリの[[ノートルダム大聖堂の火災]]が発生し、歴史的な尖塔が焼失するなどの被害を受けた<ref>{{Cite web|url=https://www.cnn.co.jp/style/architecture/35170336.html|title=ノートルダム大聖堂再建へ、樹齢数百年の仏産オークを使用|accessdate=2021年5月16日|publisher=CNN.co.jp}}</ref>。

2020年1月より、[[中華人民共和国]]の[[湖北省]][[武漢市]]から世界中に流行拡大した[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス感染症(COVID-19)]]がフランスにも流行拡大しその対策に追われる ([[フランスにおける2019年コロナウイルス感染症の流行状況]])。7月にはコロナ対策のほか、いまだ続く「黄色いベスト運動」などの影響を受けた統一地方選での大敗などを受け、フィリップ内閣が総辞職し、後継として[[ジャン・カステックス]]が首相に任命された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO61143750T00C20A7FF8000/|title=フランス内閣総辞職 マクロン大統領、支持率回復狙う|accessdate=2021-05-14|publisher=日本経済新聞}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2020-07-04/QCX2K9DWLU6E01|title=マクロン仏大統領、新首相にカステックス氏を起用-内閣総辞職受け|accessdate=2021-05-14|publisher=Bloomberg}}</ref>。

2021年5月21日、マクロンはそれまでの政権が認めてこなかった1994年の[[ルワンダ虐殺]]におけるフランスの黙認への責任を認めた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyo-np.co.jp/article/106221|title=80万人犠牲のルワンダ大虐殺「フランスにも重大な責任」 マクロン大統領が歴代政権で初めて認める|accessdate=2021-05-30|publisher=東京新聞}}</ref>。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist}}
{{Reflist|group="注釈"}}


== 参考文献 ==
=== 出典 ===
{{節スタブ}}
{{Reflist|3}}


== 関連書籍 ==
== 参考文献 ==
{{Cite book|和書|title=フランス史|data=1984年8月1日|publisher=[[ダヴィッド社]]|author=金沢誠|ref={{SfnRef|金沢|1984}}}}
<!--発行年順-->
* フランス史 1 先史-15世紀』 柴田三千雄、[[樺山紘一]]、[[福井憲彦]]編、[[山川出版社]]世界歴史大系〉、1995年9月。ISBN 978-4-634-46090-4
*{{Cite book|和書|author=蔵持不三也|authorlink=蔵持不三也 |title=フランス史1 |chapter=第一章 先史時代・ケルト人社会|date=1995-9 |publisher=[[山川出版社]] |series=世界歴史大系 |isbn=978-4-634-46090-4 |ref={{SfnRef|蔵持|1995}}}}
*{{Cite book|和書|author=後藤篤子|authorlink=後藤篤子 |title=フランス史1 |chapter=第二章 ローマ属州ガリア|date=1995-9 |publisher=[[山川出版社]] |series=世界歴史大系 |isbn=978-4-634-46090-4 |ref={{SfnRef|後藤|1995}}}}
*{{Cite book|和書|author1=佐藤彰一|authorlink1=佐藤彰一|author2=中野隆生|authorlink2=中野隆生| author=毛利昌|authorlink=毛利昌 |title=フランス史研究入門| chapter=第1章 先史時代から古代末期までのガリア |date=2011-11 |publisher=[[山川出版社]] |isbn=978-4-634-64037-5 |ref={{SfnRef|毛利|2011}}}}
*{{Cite book|和書|author=島田誠|authorlink=島田誠 |title=イタリア史1 |chapter=第四章 帝政期のイタリア 1 アウグストゥスとイタリア|date=2021-3 |publisher=[[山川出版社]] |series=世界歴史大系 |isbn=978-4-634-462014 |ref={{SfnRef|島田|2021}}}}
*{{Cite book|和書|title=世界各国史2 フランス史|data=1995年3月1日|publisher=[[山川出版社]]|author=井上幸治|ref={{SfnRef|井上|1995}}}}
*{{Cite book|和書|title=フランス史|data=2005年11月30日|publisher=山川出版社|author= 福井憲彦|authorlink=福井憲彦|series=新版 世界各国史 12|ref={{SfnRef|福井|2005}}}}
*{{Cite book|和書|title=フランス史10講|date=2006年11月24日|publisher=[[岩波新書]]|author1=柴田三千雄|authorlink1=柴田三千雄|ref={{SfnRef|柴田|2006}}}}
* {{Cite book|和書|title=物語 パリの歴史|date=2020年3月12日|publisher=[[講談社現代新書]]|author=高遠弘美|authorlink=高遠弘美|ref={{SfnRef|高遠|2020}}}}
*{{Cite book|和書|title=パリ 都市統治の近代|date=2009年10月20日|publisher=岩波新書|author=喜安朗|authorlink=喜安朗|ref={{SfnRef|喜安|2009}}}}
* {{Cite book|和書|title=パリの歴史|date=2002年7月30日|publisher=[[白水社]]|author=イヴァン・コンボー|translator=[[小林茂 (仏文学者)|小林茂]]|series=[[文庫クセジュ]]|ref={{SfnRef|コンボー|2002}}}}
*{{Cite book|和書|title=フランス中世史年表 481~1515年|date=2007年7月30日|publisher=白水社|author=テレーズ・シャルマソン|series=文庫クセジュ|translator=福本直之|ref={{SfnRef|シャルマソン|2007}}}}
*{{Cite book|和書|title=カペー朝 フランス王朝史1|date=2009年7月20日|publisher=講談社現代新書|author=佐藤賢一|authorlink=佐藤賢一|ref={{SfnRef|佐藤|2009}}}}
*{{Cite book|和書|title=ヴァロワ朝 フランス王朝史2|date=2014年9月20日|publisher=講談社現代新書|author=佐藤賢一}}
*{{Cite book|和書|title=ブルボン朝 フランス王朝史3|date=2019年6月20日|publisher=講談社現代新書|author=佐藤賢一|ref={{SfnRef|佐藤|2019}}}}
*{{Cite book|和書|title=フランス革命の代償|date=1991年9月5日|publisher=[[草思社]]|author=ルネ・セディヨ|translator=[[山崎耕一 (歴史学者)|山崎耕一]]|ref={{SfnRef|セディヨ|1991}}}}
*{{Cite book|和書|title=フランス革命史|date=1981年5月30日|publisher=[[法政大学出版局]]|author=本田喜代治|authorlink=本田喜代治|ref={{SfnRef|本田|1981}}}}
*{{Cite book|和書|title=フランス第三共和政史研究|date=1983年4月20日|publisher=中央大学出版部|author=西海太郎|ref={{SfnRef|西海|1983}}}}
*{{Cite book|和書|title=近代フランス外交史序説|date=1963年8月30日|publisher=東京大学出版会|author=横山信|ref={{SfnRef|横山|1963}}}}
*{{Cite book|和書|title=フランス・レジスタンス史|date=2008年7月20日|publisher=白水社|author=ジャン=フランソワ・ミュラシオル|series=文庫クセジュ|translator=福本直之|ref={{SfnRef|ミュラシオル|2008}}}}
*{{Cite book|和書|title=戦時下のアルザス・ロレーヌ|date=1999年9月25日|publisher=白水社|author=ピエール・リグロ|series=文庫クセジュ|translator=[[宇京頼三]]|ref={{SfnRef|リグロ|1999}}}}
*{{Cite book|和書|title=コラボ=対独協力者の粛清|date=2019年11月20日|publisher=白水社|author=マルク・ベルジェール|series=文庫クセジュ|translator=宇京頼三|ref={{SfnRef|ベルジェール|2019}}}}
*{{Cite book|和書|title=教養のフランス近現代史|date=2016年4月30日|publisher=[[ミネルヴァ書房]]|author1=杉本淑彦|authorlink1=杉本淑彦|author2=竹中幸史|ref={{SfnRef|杉本ら|2016}}}}
*{{Cite book|和書|title=現代フランス政治史|date=1997年11月10日|publisher=[[ナカニシヤ出版]]|author=渡辺和行|authorlink=渡辺和行|author2=南允彦|author3=森本哲郎|authorlink3=森本哲郎|ref={{SfnRef|渡辺ら|1997}}}}
*{{Citebook|和書|title=フランス現代史 隠された記憶 戦争のタブーを追跡する|date=2017年9月10日|publisher=[[ちくま新書]]|author=宮川裕章|ref={{SfnRef|宮川|2017}}}}
*{{Cite book|和書|title=フランス現代史 英雄の時代から保革共存へ|date=1998年4月25日|publisher=[[中公新書]]|last=[[渡邊啓貴]]|ref={{SfnRef|渡邊|1998}}}}
*{{Cite book|和書|title=フランス現代史|date=2018年12月20日|publisher=岩波新書|author=小田中直樹|ref={{SfnRef|小田中|2018}}}}
*{{Cite book|和書|title=第五共和制|date=2014年11月10日|publisher=白水社|author=ジャン=フランソワ・シリネッリ|series=文庫クセジュ|translator=川嶋周一|ref={{SfnRef|シリネッリ|2014}}}}
*{{Cite book|和書|title=シラクのフランス 新ゴーリスト政権のジレンマ|date=1996年3月25日|publisher=日本経済新聞社|author=藤巻秀樹|ref={{SfnRef|藤巻|1996}}}}
*{{Cite book|和書|title=シラクのフランス|date=2003年9月19日|publisher=岩波新書|author=軍司泰史|ref={{SfnRef|軍司|2003}}}}
*{{Cite book|和書|title=サルコジ マーケティングで政治を変えた大統領|date=2009年5月25日|publisher=新潮社|author=国末憲人|authorlink=国末憲人|ref={{SfnRef|国末|2009}}}}
*{{Cite book|和書|title=ライシテから読む現代フランス 政治と宗教のいま|date=2018年3月20日|publisher=岩波新書|author=伊達聖伸|authorlink=伊達聖伸|ref={{SfnRef|伊達|2018}}}}
*{{Cite book|和書|title=事典 現代のフランス|data=1977年1月15日|publisher=大修館書店|author=新倉俊一・朝比奈誼・石井晴一|ref={{SfnRef|新倉ら|1977}}}}
*{{Cite book|和書|title=詳説世界史|date=2014年3月5日|year=2014|publisher=山川出版社|author=木村靖二|authorlink=木村靖二|author2=佐藤次高|authorlink2=佐藤次高|author3=岸本美緒|authorlink3=岸本美緒|first4=油井大三郎|author5=青木康|author6=小松久男|authorlink6=小松久男|author7=水島司|authorlink7=水島司|author8=橋場弦|authorlink8=橋場弦|author9=油井大三郎|authorlink9=油井大三郎|ref={{SfnRef|木村ら|2014}}}}
*{{Cite book|和書|title=新詳世界史図説|date=2012年10月5日|publisher=浜島書店|ref={{SfnRef|浜島書店|2012}}}}
*{{Cite book|和書|title=増補 フランス文学案内|date=2007年9月25日|publisher=岩波文庫別冊|author=渡辺一夫|author2=鈴木力衛|ref={{SfnRef|渡辺ら|2007}}}}
*{{Cite book|和書|title=神聖ローマ帝国|date=2003年7月20日|publisher=講談社現代新書|author=菊池良生|authorlink=菊池良生|ref={{SfnRef|菊池|2003}}}}
*{{Cite book|和書|title=図説 十字軍|date=2019年2月28日|publisher=河出書房新社|author=櫻井康人|series=ふくろうの本|ref={{SfnRef|櫻井|2019}}}}
*{{Cite book|和書|title=ビスマルクの外交政策|date=1967年6月30日|publisher=鹿島研究所出版会|author=鹿島守之助|ref={{SfnRef|鹿島|1967}}}}
*{{Cite book|和書|title=第一次世界大戦史 風刺画とともに見る指導者たち|date=2016年4月10日|publisher=中公新書|author=飯倉章|ref={{SfnRef|飯倉|2016}}}}
*{{Cite book|和書|title=第一次世界大戦 忘れられた戦争|date=2017年7月10日|publisher=講談社学術文庫|author=山上正太郎|ref={{SfnRef|山上|2017}}}}
*{{Cite book|和書|title=スペイン内戦|date=2006年2月20日|publisher=白水社|author=ピエール・ヴィラール|series=文庫クセジュ|translator=立石博高・中塚次郎|ref={{SfnRef|ヴィラール|2006}}}}
*{{Cite book|和書|title=EUの知識|date=2010年7月15日|publisher=日経文庫|author=藤井良広|ref={{SfnRef|藤井|2010}}}}
==関連文献==
*{{Cite book|和書|title=[[ガリア戦記]]|date=2014年10月24日|publisher=[[岩波文庫]]|author=ユリウス・カエサル|authorlink=ユリウス・カエサル|translator=[[近山金次]]}}
*{{Cite book|和書|title=大革命前夜のフランス|date=1982年3月5日|publisher=法政大学出版局|author=アルベール・ソブール|translator=[[山崎耕一 (歴史学者)|山崎耕一]]}}
*{{Cite book|和書|title=フランス革命と民衆|date=1984年12月30日|publisher=新評論|author=アルベール・ソブール|translator=[[井上幸治 (西洋史学者)|井上幸治]]}}
*{{Cite book|和書|title=絵で見るフランス革命 イメージの政治学|date=1989年6月20日|publisher=岩波新書|author=多木浩二|authorlink=多木浩二}}
*{{Cite book|和書|title=[[フランス革命の省察]]|date=2018年7月26日|publisher=みすず書房|author=エドマンド・バーク|authorlink=エドマンド・バーク|translator=半澤孝麿}}
*{{Cite book|和書|title=フランス二月革命の日々|date=1995年9月18日|publisher=岩波文庫|author=アレクシ・ド・トクヴィル|authorlink=アレクシ・ド・トクヴィル|translator=喜安朗}}
*{{Cite book|和書|title=フランス、敗れたり|date=2005年6月25日|publisher=ウェッジ|author=アンドレ・モーロワ|translator=高野彌一朗}}
*{{Cite book|和書|title=移民と現代フランス フランスは「住めば都」か|date=2016年12月18日|publisher=集英社新書|author=ミュリエル・ジョリヴェ|translator=鳥取絹子}}
*{{Cite book|和書|title=革命|date=2018年4月5日|publisher=ポプラ社|author=エマニュエル・マクロン|authorlink=エマニュエル・マクロン|translator=山本和子、松永りえ}}
*{{Cite book|和書|title=シャルリとは誰か? 人種差別と没落する西欧|date=2016年1月20日|publisher=文藝春秋|author=エマニュエル・トッド|authorlink=エマニュエル・トッド|translator=堀茂樹}}
*{{Cite book|和書|title=シャルリ・エブド事件を考える|date=2015年3月11日|publisher=白水社|author=鹿島茂|author2=関口涼子|series=ふらんす|author3=堀茂樹}}
* 『フランス史 2 16世紀-19世紀なかば』 柴田三千雄、樺山紘一、福井憲彦編、山川出版社〈世界歴史大系〉、1996年7月。ISBN 978-4-634-46100-0。
* 『フランス史 2 16世紀-19世紀なかば』 柴田三千雄、樺山紘一、福井憲彦編、山川出版社〈世界歴史大系〉、1996年7月。ISBN 978-4-634-46100-0。
* 『フランス史 3 19世紀なかば-現在』 柴田三千雄、樺山紘一、福井憲彦編、山川出版社〈世界歴史大系〉、1995年6月。ISBN 978-4-634-46110-9。
* 『フランス史 3 19世紀なかば-現在』 柴田三千雄、樺山紘一、福井憲彦編、山川出版社〈世界歴史大系〉、1995年6月。ISBN 978-4-634-46110-9。
* 『フランス史』 [[福井憲彦]]編、山川出版社〈新版 世界各国史 12〉、2001年8月。ISBN 978-4-634-41420-4。
* [[柴田三千雄]]『フランス史10講』 [[岩波書店]]〈[[岩波新書]] 新赤版 1016〉、2006年5月。ISBN 978-4-00-431016-7。
* [[長谷川輝夫]]『日常の近世フランス史』[[NHK出版]]〈NHKシリーズ[[カルチャーラジオ|カルチャーアワー]]歴史再発見〉、2008年12月。ISBN 978-4-14-910669-4。
* [[長谷川輝夫]]『日常の近世フランス史』[[NHK出版]]〈NHKシリーズ[[カルチャーラジオ|カルチャーアワー]]歴史再発見〉、2008年12月。ISBN 978-4-14-910669-4。
* 『フランス史研究入門』 [[佐藤彰一]]・中野隆生編、[[山川出版社]]、2011年11月。ISBN 978-4-634-64037-5。


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
* [[フランス王国]]
* [[パリの歴史]]
*[[フランス王国]]
* [[フランスの大統領]]
* [[フランスの大統領]]
* [[フランス植民地帝国]]
* [[フランス植民地帝国]]
187行目: 592行目:
{{ヨーロッパの題材|歴史|mode=4}}
{{ヨーロッパの題材|歴史|mode=4}}
{{フランス君主}}
{{フランス君主}}
{{フランス関連の主要項目}}
{{フランス関連の主要項目}}{{Normdaten}}

{{France-stub}}
{{History-stub}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:ふらんすのれきし}}
{{デフォルトソート:ふらんすのれきし}}
[[Category:フランス|*れきし]]
[[Category:フランスの歴史|*]]
[[Category:フランスの歴史|*]]

2024年12月2日 (月) 08:31時点における最新版

フランスの地形図。現在のピレネー山脈以北とライン川以西の「六角形」の本土とコルシカ島が領土となったのはルイ14世の時期である。
フランスの歴史
フランス国章
この記事はシリーズの一部です。
年表

フランス ポータル

フランスの歴史(フランスのれきし、フランス語: Histoire de France)では、現在のフランス共和国の領土を構成する西ヨーロッパの領域の歴史を取り扱う。有史以前、古代ローマ帝国による支配、中世のフランク王国の建国と分裂、そしてフランス王国の成立と発展からフランス革命以降より現在の第5共和政に至る歴史である。

先史時代

[編集]
ラスコー洞窟の壁画

旧石器時代には紀元前2万年頃にクロマニョン人が居住した[1][2]。1940年9月に現地に住む子供たちによって偶然発見された、彼らの遺跡であるラスコー洞窟は有名である[3]。クロマニョン人はハプログループI2a (Y染色体)に属していた[4]。またこの時代ではシェルアシュール文化や、ムスティエ文化といった痕跡が発掘されており、特に旧石器後期の遺物や遺跡は、フランス南西部のドルドーニュ県に流れるヴェゼール川流域に集中している[5]

カルナック列石

新石器時代には農耕の到来とともにブルターニュなどで巨石記念物の建造が紀元前2000年頃より盛んになされた[2]。特にカルナック列石はその規模の壮大さでも知られている[3]。農耕と巨石文化をもたらしたのはハプログループG2a (Y染色体)と考えられる[6][7]。またこの時代にはイベリア人系やリグリア人系のものがいたとされる[8]

青銅器時代になると、ビーカー文化等が起こり、紀元前900年頃にはケルト人が到達したと考えられる[2][8]。彼らは現在のフランス人の多数派を占めるハプログループR1b (Y染色体)に属していた[9]

青銅器時代から鉄器時代に移行すると、キンメリア人によってもたらされた鉄の冶金術によってハルシュタット文化が栄え、またケルト人らはフランス以外にも小アジアから北イタリア、イギリスやアイルランドなどに分布し、ラ・テーヌ文化と呼ばれる文化も隆盛した[8][10]

ガリア

[編集]
ウェルキンゲトリクスの銅像

紀元前600年頃、古代ギリシア人によって西地中海に植民市マッサリア[注釈 1]やニカイア[注釈 2]が建設され、ギリシア文化がもたらされた[1][11][12]アナトリア半島バルカン半島からフランスイギリスに至る地域の原住民を古代ギリシア人たちはケルトイ、ガラタイと呼び、古代ローマ人たちはガッリー(ガリア人)と呼んだ。そして彼らの住む地はガリア(ガッリー人の地)と呼ばれた。かれらは現代ではケルト人とも呼ばれる[13][14]

ガリア人は多くの部族に分かれ住んで、統一国家を作らなかった[1]。各部族は戦士を兼ねている貴族が集会を通じて行政官を選び、農民を支配していた[1]紀元前58年から紀元前51年にかけてローマの有力者ガイウス・ユリウス・カエサルはガリア遠征を行い、その記録を「ガリア戦記」という著作に残した。カエサルは「ガリア戦記」の中で、当時のガリアの情勢を次のように説明している。

ガリアは全部で3つに分かれ、一つはベルガエ人、二つ目はアクィータニー人、三つ目は彼らの言葉でケルタエ人、ローマでガリア人と呼んでいるものが住む。どれも互いに言葉と制度と法律が違う。 — ユリウス・カエサル、ガリア戦記

カエサルがガリアで、最も苦戦した相手にアルウェルニ族ウェルキンゲトリクス率いるガリア諸部族による連合軍が挙げられる[15]。しかしウェルキンゲトリクスも紀元前52年、ローマ軍にアレシアで包囲され降伏した[16]

こうしたローマによるガリア遠征を受けた後は、いくつかのローマ風都市も建てられ、ローマ化が進んでいった[15]。ローマ時代には、ガリアという言葉は現在のイタリア北部やドイツの一部、ベルギースイス等の領域を含むより広い範囲を指したが[13][14]、紀元前1世紀末、ローマ皇帝アウグストゥス時代にアルプス以南のガリアが「イタリア」に編入され[17]、やがてほぼ現在のフランスにあたる地域がガリアに対応するようになっていった[注釈 3]。アルプス以北のガリアはガリア・ナルボネンシスアキタニアガリア・ルグドゥネンシスガリア・ベルギカ、ライン軍政地区の5つの地方に分けられ、それぞれの地域の実情を加味した行政組織を樹立させた[16][18]

ガリア人たちによるローマ支配への抵抗は散発的なものに終わり、ガリアの貴族層はむしろローマ文化を積極的に受容し、ローマに同調する傾向が強かった[19]。こうした貴族層の動向に加え、ローマ植民市の建設や軍事目的による道路網の整備を通じてローマ化されたガリアでは、ローマの文化の影響を色濃く反映した、ガロ・ローマ文化が栄えた[20][21]。特にアルルニームといった地域には、ローマの円形劇場や水道などの跡が多く残る[11]

1世紀半ばには、ガリアの都市リヨン出身のクラウディウスがローマ皇帝となった。彼はガリアの貴族層によるローマ元老院への参入に反発する元老院議員たちに対し、ローマが異民族を積極的に迎え入れることで発展したことを主張し、また征服以来のガリア貴族層のローマに対する忠誠を称揚した[22]。属州民へのローマ市民権の授与もこの頃から拡大した。ローマ軍に参加したガリア人兵士たちは退役後にはローマ市民権を得て帰郷し、従軍中の給金等を通じて土地を取得してローマに忠実な上層市民を形成していった[22]。ガリア諸属州の下部単位はキウィタスと呼ばれたが、ローマは秩序の維持と徴税義務を果たしている限り相当な自由を認めていた[23]

3世紀に入りローマ支配が動揺(3世紀の危機)するようになるとガリアでも治安が悪化しはじめた[24]。3世紀半ば、ライン国境からゲルマン人諸部族の侵入が相次ぎ、これの対処にあたった下ゲルマニア総督ポストゥムスが260年に皇帝を名乗りガリア帝国が形成された。ガリア帝国は短期間に瓦解したが、3世紀後半にはこうした内乱や外的の侵入によってガリアは深刻な打撃を受けた[25]。3世紀の危機を収束させたディオクレティアヌスコンスタンティヌス1世の時代を経て、ローマ帝国の構造改革が行われると、ガリアの属州は細分化されトリーアに拠点を置くガリア道長官がこれを管轄した。防衛にあたる辺境軍は数州毎にドゥクス(地方軍司令官)の下に置かれた[26]

5世紀に入ると、ローマ内の内乱とライン国境からの侵入が一層進展し、418年には西ゴート人がガリア南西部に正式に居住を認められ、その後ブルグント人アラン人などが次々ガリアに定着していった[27]。451年にはアッティラ王率いるフン族が侵入し、西ローマ帝国の将軍アエティウスが西ゴート王テオドリック1世とともにカタラウヌムの戦いでこれを撃退したが、この頃までにガリアにおけるローマの支配力は大きく弱体化していた。西ゴート王国ブルグント王国、さらにはフランク王国などが勢力を伸長させ、5世紀半ば頃までガリアにおけるローマの支配は事実上終焉を迎えた[28]

ローマ時代に建てられた水道橋。ポン・デュ・ガールと呼ばれる。

フランク王国

[編集]

メロヴィング朝

[編集]
洗礼を受けるクローヴィス

4世紀後半より始まる本格的なゲルマン人の大移動にともない、ゲルマン人の一派であるフランク人がガリアに定住した[29]。フランク人らは、狩猟と牧畜を主とし、数年ほどの定住の後に、移住を行う生活を繰り返していた[21]。フランク人は、ガリア征服前のケルト人に似て、サリ族とリブアリ族といったいくつかの部族に分かれ、部族ごとに王と戦士を持っていた[21][30]。また彼らは「サリカ法典」や「リブアリ法典」などの、ラテン語で書かれた部族の規則を持っていた[30]。こうしたフランク人に関する記録は、4世紀に書かれた史書「皇帝伝」の中に収録されているローマ軍の進軍歌が最初で、260年代にローマ軍がフランク人に勝利した旨を歌った内容であった[31]

470年にはフランク族のキルデリク1世がパリを包囲する[32]。この包囲戦は10年に及び、やがて481年、キルデリク1世が没すると、弱冠15歳で部族の王となったクローヴィス1世はこの包囲戦を経て、聖ジュヌヴィエーヴとの合意を取り交わし、パリを支配下に置く[33]。その後、フランク諸族を統一しメロヴィング朝フランク王国を建国すると、旧ローマ帝国領であるガリアの現住民がカトリックを信仰していたことや、ローマ化が早かったブルグンド王や西ゴート王といった他のゲルマン民族がアリウス派を受け入れていたことに対して、ローマ化が遅かったこともあり、またランスの司教レミギウスや、敬虔なカトリック信者であった妻クロチルダらのすすめから、統治を円滑に行うことも狙って、クローヴィスは3000人ほどの従士らとともに正統派のアタナシオス派に改宗し、カトリックを受容した[34][30][35][32][33][36]

507年、クローヴィスは長年より戦役が続いていたアラリック2世率いる西ゴート王国を撃破し、ボルドートゥールーズ地方などを獲得する[37][38]。クローヴィスとその息子キルデベルト1世の治世では、政治的な影響力に加え、宗教的な影響力も増大し、パリには多く教会や修道院が建設された[37]。またこの時代にはクローヴィスの頃より対立関係にあったブルグンド王国への侵攻が523年より始まる[39]

メロヴィング朝においては、王国を家の財産とみなし、当主の没後、その土地を分割相続する慣習があったことから、王国が統一を保っていたのはごく短期間のうちであった[36]。クローヴィスには4人の子供がいたため、国土は4つに分割された[40]

6世紀後半にはアウストラシアネウストリア、ブルグンドの3つに国が別れ、それぞれが王を称した[35][41]。また各地では地方豪族が影響を強めた[35]

7世紀後半にネストリアを治めていたクロタール2世はこの三国に対して宮宰を設置し、この宮宰を通じて三国の統一を試みた[35]

こうした分割相続によって不安定化していく王国と、それらを連絡し、統率を図る権限を持つ宮宰は力を強め、中でもカロリング家が台頭していく[34][36]。特にカロリング家のピピン2世は三王国の争いを利用し、それぞれの国の宮宰職を独占した[35]。8世紀前半の宮宰カール・マルテルは、イベリア半島からヨーロッパ進出を図っていたイスラーム勢力(ウマイヤ朝)をトゥール・ポワティエ間の戦いで撃破し、キリスト教世界の守護者としてその名声を高めた[34]。しかしマルテルは、メロヴィング家の王位の空白を空白を良い事に、宮宰として傍若無人に振る舞い、有力貴族の反感を買った[42]

カロリング朝

[編集]
ピピン3世(小ピピン)

当時、聖像禁止令などをめぐり東ローマ皇帝との対立を深めていたローマ教皇は、新たな政治的庇護者を必要としていた。こうした中、イスラーム勢力の侵入を撃退したフランク王国に教皇は着目し、フランク王国の実権をにぎるカロリング家との接近を図った。カール・マルテルの子ピピン3世(小ピピン)は、メロヴィング家の血統につながる人物を修道院から探し出し、フレデリック3世として即位させ、改めて貴族会議の合意のもと、その王位を廃し、またローマ教皇の支持にも助けられ、751年にカロリング朝フランク王国を創始した[34][36][42]。この返礼として、北イタリアのラヴェンナ地方を教皇に寄進したこと(ピピンの寄進)は、教皇領の起源となった[34]。この寄進は、当時、世襲などによって腐敗の原因にもなっていた地方豪族への恩貸地制などとは異なり、教会への土地の寄進は、聖職者独身制によって腐敗の可能性は低いと判断してのことであった[注釈 4][43]。こうした背景から、フランク王国とローマ教会の結びつきをより強めていく[34]

シャルルマーニュ

さらにその息子であるシャルルマーニュ(カール大帝)は、ザクセン人の討伐・イベリア半島への遠征、アヴァールの撃退、ランゴバルド王国の討伐などその名声を高め、800年にローマ教皇レオ3世からローマ皇帝の冠を受けた[34][36]

シャルルマーニュは、エクス・ラ・シャペル(独語:アーヘン)の宮廷にブリタニアから学僧アルクィンを招き、古代ラテン語文献の振興(カロリング・ルネサンス)を推進するなど、文化的な西ヨーロッパ世界の統一にも寄与した[44][45][46]。またシャルルマーニュが宮廷で用いていたカロリング小文字体は現在のアルファベットの小文字の元となった[45]。エクス・ラ・シャペルにおける学術的諸成果は、フランス各地の教会修道院にも影響を及ぼしていった。

カロリング朝は、広大な領域を支配したものの、その統治機構はメロヴィング朝と同様に脆弱であった[47]。宮廷はアーヘンに置かれていたものの、軍事や行政は全国の司教座組織が担当し、それに加えて、各地の地方有力者が「伯」という地方行政官に任命される恩貸地制度を設けてからというもの、本来ならば与えられるその土地は、一代限りであるはずのものを彼らはその役職によって得た土地を世襲し、独立しようという傾向を作り始めたのである[47][48]。802年、シャルルマーニュによってこうした地方の伯を監督する「巡察使」という役職が組織されるが、彼の没後、制度は形骸化し、巡察使は派遣された地方にそのまま居着いてしまい、その地域の諸侯となる者もいた[49]

カロリング朝の時代を題材にしたかれた叙事詩に「ローランの歌」がある[50]。「ローランの歌」は、シャルルマーニュによるイベリア遠征におけるピレネー山中でのイスラームによる襲撃に創作を加えたもので、フランス文学の歴史の初期を代表する作品である[50][51]

シャルルマーニュが814年に没すると、ルートヴィヒ1世が王位に就く[52]。ルートヴィヒ1世は817年に帝国整備令を出し、彼の長男であるロタール1世に王国の本土を、次男のピピン1世にはアキテーヌを、三男のルートヴィヒ2世にはバイエルン州を与え、次の世代の分割統治の準備を進めた。

ヴェルダン条約とメルセン条約による帝国の分割

[編集]

ルートヴィヒ1世が840年に没すると、彼の3人の息子であるロタール1世ルートヴィヒ2世シャルル2世らが、ルートヴィヒ1世の所領をめぐって争いが始まる[53]。この争いは841年のフォントノワの戦いで火蓋が切られ、この戦いを受け、842年にはシャルル2世とルートヴィヒ2世がロタール1世に対抗するために同盟を組む[54]。この同盟は歴史家ニタール英語版によって「ストラスブールの誓い」として書き留められた。この文書はフランス語およびドイツ語による最古のテキストとなっている。843年のヴェルダン条約によってフランク王国の所領が西フランク王国が、中央フランク王国東フランク王国の三分割された[47][53]。その後、870年9月に中部フランク王国のロタール2世が没すると、領土の見直しが行われ、メルセン条約が結ばれる[47][55]。これによって現在のフランス・ドイツイタリアの礎となる西フランク王国東フランク王国イタリア王国が成立した[47]

この時代より、北方のノルマン人による襲撃が始まる[56]。特に対ノルマン人との戦いの中で目立った活躍をした人物に、パリ伯ウードがいる[56]。フランク王国の中央集権は、ヴェルダン条約以降、衰退の一途をたどる[48]。上述のような恩貸地制度の崩壊なども相まって、877年にシャルル2世によって発布された勅令は、それを禁ずるものであるが、それはまさしく、フランク王国の中央集権の衰退を象徴している[48]。こうした中央集権の衰退は、結果として地方分権を推し進め、フランス各地に大小様々の荘園が発生したとされる[48]。この頃の西フランク王国は、北方からのノルマン人(ヴァイキング)の進出に苦慮しており、10世紀初頭にはサン=クレール=シュル=エプト条約によってノルマン人のロロノルマンディーの地を封じた(ノルマンディー公国[57][58]。後にノルマンディー公がイングランドの王位に就いたことで、その後の英仏関係は様々な紛糾が引き起こされた。地方の領邦権力の成長につれ、王権は弱体化し、9世紀末に西フランク王国は領邦君主や司教によって王位の世襲制が廃止され、これを選挙に変えた[57]

カペー朝

[編集]
ユーグ・カペー
ルイ6世

987年に西フランク王国のルイ5世が没し、カロリング家が断絶する[34]。同年、パリ伯であったロベール家ユーグ・カペーがカペー朝を創始した[34]。ノルマン人の討伐で活躍したユーグ・カペーだったが、その王権は東フランク王国(ドイツ王国)などと比べても脆弱で、パリ周辺のみにしかその王権は及ばなかった[59][60]。カペーのみならず、ロベール2世アンリ1世フィリップ1世らの最初の4代はこうした狭い領土のため、周辺の大諸侯と肩を並べるのに精一杯で、勢力の拡大や行政上の改革は難航した[60]。しかし一方で、大胆な勢力拡大こそ見られないものの、各代が女性問題などの騒動[注釈 5]を抱えながらも長生きし、王位継承の問題を解決していたことから、それぞれの治世が長くなるにつれ、王家は安定し始めた[61]。5代目のルイ6世は、淫蕩で食道楽であったが、そうした汚名とは裏腹に、勢力を強めていたノルマンディー公を牽制し、政略結婚を通じて領土の拡大をするなど、王朝の発展に大きく寄与した[60]。しかしその過程でのルイ7世アリエノール・ダキテーヌとの離婚騒動は、イギリスとの関係悪化を招き、結果的に百年戦争の要因の一つとなった[60]

十字軍の時代と王たち

[編集]
フィリップ2世時代の勢力変化。青:王家領、緑:諸侯領、黄:教会領、赤:アンジュー家領

西暦1000年、聖書の告知にもかかわらず、キリストの再誕は現れなかったことから、教会への失望と不信がいたずらに増長し、教会の支配権は年々低下の一途をたどっていた[62]。そうした背景から、起死回生の企てとして1096年にローマ教皇ウルバヌス2世によって第1回十字軍遠征がクレルモン公会議で提唱された[62]。フランスからはトゥールーズ伯やフランドル伯などが参加した。1147年の第2回十字軍遠征では、エデッサ伯国陥落の報告を受け、ルイ7世がローマ教皇エウゲニウス3世に十字軍勅書の要請を出し、十字軍が組織され、遠征が行われた[63]。ルイ7世はイェルサレム巡礼を果たすも、神聖ローマ皇帝コンラート3世との内部抗争や無理な攻勢が続き、結果的に遠征は失敗に終わった[64][65]

1180年に王位についたフィリップ2世はフィリップ・オーギュストと呼ばれ、この時代に王権は飛躍的に強化された[66]

1189年の第3回十字軍遠征では、フィリップ2世が神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世やイギリス王リチャード1世らとともに参加した[64]。この遠征ではイェルサレム奪還こそ失敗したが、講和により巡礼の安全確保が行われた[64]

1199年、フィリップ2世は私生活でのトラブルなどから、インノケンティウス3世から破門と聖務停止を命じられる[67]

13世紀頃より徐々に王権の強化が進み、イングランド王リチャード1世ジョンと争ったフィリップ2世は、プランタジネット朝(イングランド王家)の領土であったノルマンディーやアンジューを奪った[68]。また、この頃フランス南部で広まっていたアルビジョワ派が異端とされ、アルビジョワ十字軍が組織された[68]。この異端撲滅闘争は仏王ルイ9世の時代までに完了し、結果としてフランス南部にまでフランス王権が伸張することになった[68]。このように、総じて13世紀におけるフランス王権の強化は、ローマ教皇との連携を前提として進められたものであった[68]。しかし、第6回十字軍第7回十字軍を行ったことはフランス財政に重い負担を与えることになった[68]。またこの遠征を通じて、ルイ9世は遠征先のチュニスで没した[64]

11世紀よりフランスに限らず西ヨーロッパは、ピレネー山脈ラインラントでの鉄の生産が盛んになった経緯を受け、13世紀には農村などに鉄製農具が供給された[69]。特に重量有輪犂はアルプス以北などの湿った重い土壌の土地を深く耕すことができたことから普及し、またこの技術を受け、春耕地、秋耕地と休耕地の3つの耕作環境をローテーションさせる三圃式農業も普及した[69][70][71]。こうした技術の変化は、農業の生産力を高め、余剰生産物の貨幣化を通じて農民の荘園への貨幣地代の導入を促したほか、大規模な開墾運動を展開し、新村落(ヴィル=ヌーヴ)が次々に登場した[71][72]。新村楽では、領主が農民を誘致させるために特許状の配布や、年貢の免除、罰金の減額などが行われた[72]

アヴィニョン教皇庁

アヴィニョン捕囚

[編集]

14世紀に入るとフランス王と教皇の関係は対立へと転じる[68]。財政難の打開を図った仏王フィリップ4世は、国内の聖職者への課税を図ってローマ教皇との対立を深めた[68]。1302年、状況打開を求めたフィリップは、三部会(フランス初の身分制議会)を開催して、フランス国内の諸身分から支持を得た[68]。その上で、翌1303年にアナーニ事件を引き起こしてローマ教皇ボニファティウス8世を一時幽閉するなど追い込んで憤死に至らしめた[68][73]。その後、フランス人教皇のクレメンス5世を擁立させた上で、1309年に教皇庁をローマからアヴィニョンに移転(アヴィニョン捕囚、「教皇のバビロン捕囚」)させ、フランス王権の教皇に対する優位性を知らしめた[68]。このことによって、のちの宗教改革の時代よりも早く、フランス教会はカトリックの枠内にありながらローマ教皇からの事実上の独立を成し遂げた(ガリカニスム[74]。このカペー朝の繁栄は続くかと思われたが、フィリップ4世の死後に3人の息子があいついで急逝し断絶へと至った[68]

なお、フランスの王位継承者は、サリカ法典により男系のカペー家の子孫のみが継承権を許されている。以降、フランス王家はヴァロワ家ブルボン家へと受け継がれるが、これらの家系もカペー朝の傍系である。その意味においては、王政(フランス王国)がフランス革命によって打倒されるまで、カペー家の血筋が続いている。(1814年以降のブルボン家、オルレアン家を含めると、その血統はさらに続くことになる。)

ヴァロワ朝

[編集]
ジャンヌ・ダルク

百年戦争

[編集]
百年戦争の推移。黄:フランス領、灰:イギリス領、濃い灰:ブルゴーニュ公領

カペー本家の断絶を受けて、1328年にヴァロワ家フィリップ6世がフランス王に即位した[68]。しかし、フィリップ4世の孫にあたるイングランド王エドワード3世は、自らこそフランスの王位継承者であると主張し、両国の間で百年戦争が勃発した[68][75]。当初は、長弓部隊などを導入したイングランドが優勢であり、クレシーの戦いポワティエの戦いで勝利を収めていた[68]。勢いに乗るイングランドの軍勢はパリを占領し、フランス王シャルル7世オルレアンに追いつめた[68]。しかし、ジャンヌ・ダルクの登場を契機として戦況は逆転へとむかい、最終的にはドーバー海峡に近いカレーを除く大陸領土をフランスが制圧して終わった[68]。長期にわたる戦乱は封建諸侯の没落を招いたほか、戦争予算を工面する必要から官僚制の整備が図られ、常備軍が設置されるなど、王権の強化がさらに進んだ[68]

14世紀に入ってより、気候が寒冷化し、凶作が飢饉を生み、やがてペストが流行した[68]。また十字軍遠征や百年戦争などの戦乱などから、農業人口が減少したため、荘園領主は労働力を確保するために、農民の待遇を向上せざるを得なかった[68]。こうした背景から次第に農奴制の廃止を訴える農民による反乱がヨーロッパ各地で展開された[68]。フランスにおいては1358年のジャックリーの乱エティエンヌ・マルセルの反乱がそれに相当する[68][76]。1360年、ブレティニー条約が結ばれ、アキテーヌポワトゥーがイギリスに割譲された[77]

1449年、イギリス軍がフランスから撤退し、ギュイエンヌとノルマンディーがフランス領となる[77]

宗教改革

[編集]
サン・バルテルミの虐殺

1498年、シャルル8世はイタリアへの勢力拡大を図ってイタリア戦争を引き起こした[78][79]。これに対してハプスブルク家も対抗して出兵したことが、18世紀半ばまで続くフランス王家(ヴァロワ家、ブルボン家)とハプスブルク家の間の対立の端緒となった[79]。16世紀前半、神聖ローマ皇帝の座をねらったが叶わなかったフランソワ1世は、当時ハプスブルク家と対立していたオスマン帝国のスルタンスレイマン1世との連携まで行って、ハプスブルク家の皇帝カール5世と抗争を続けたが、結局はハプスブルク家優位のままイタリア戦争は終結した(カトー・カンブレジ条約[79]

ジャン・カルヴァン

16世紀より広がり始めた宗教改革の流れは、フランソワ1世が新思想に敏感であったことから、早い段階からフランスに根を下ろした[80]。宗教改革の時代では、フランスからジャン・カルヴァンが生み出された[80]。カルヴァンは1533年に「キリスト教綱要」を著し、教会の腐敗を激しく批判した[80][81]。カルヴァンは予定説を主張し、またこれに呼応する一派はカルヴァン派と呼ばれるようになった[79][80]。1539年、フランソワ1世はヴィレール=コトレ王令を出し、以降、フランスの全ての公文書でフランス語が使われるようになる[82]

16世紀後半になると、既にスイスジュネーヴで高まっていたカルヴァン派の影響がフランス国内にも及び、ユグノー(カルヴァン派)の対立が深まり、30年以上にわたる内戦となったユグノー戦争が勃発した[79]。1580年、モンテーニュが「エセー」を出版する[83]。「エセー」は17世紀より来る啓蒙時代に影響を与えた[83]。1572年のサン・バルテルミの虐殺に見られるように、カトリック・プロテスタント両勢力の対立は先鋭化していき、ついに1589年にはアンリ3世がパリで暗殺され、ヴァロワ朝は断絶した[79]

ブルボン朝

[編集]

ブルボン朝の成立と発展

[編集]
ルイ13世とリシュリュー

1589年、ユグノー戦争におけるカルヴァン派側の首領であったナヴァール王アンリが、フランス王アンリ4世として即位し、ブルボン朝が成立した[79]。アンリは、カルヴァン派の立場を貫くことで政情が混乱することを懸念し、1593年にカトリックに改宗した[79]。その上で、1598年には宗教的寛容を定めたナントの勅令を出し、個人の信仰の自由を認めて、30年以上にわたって続いたユグノー戦争を終わらせた[79]

その後、アンリ4世は、宗教戦争期に強い自律性を持った大貴族や旧教同盟の拠点にもなった諸都市への服従を迫る政策に腐心し、経済の分野においては、リシュリューを任命し、重商主義政策による産業の振興や財政再建などにつとめた[84]

1610年に狂信的カトリック教徒の凶刃に倒れ死去した[79]

次王ルイ13世は、母后マリー・ド・メディシスや宰相リシュリューの補佐のもとでさらに王権の強化を推し進めた[79][85][86]。1615年からは三部会も開催されず、官僚制・常備軍の整備はさらに進んだ[79][85]。1618年より中欧で起こった三十年戦争では、自国のカトリックという宗教的立場よりも国益を最優先として新教側を支援し、ブルボン家の勢力拡大を図った[79]

1643年にルイ13世が死去したことで、まだ5歳だったルイ14世が即位したが、宰相のジュール・マザランが補佐をした[79][85]。1648年には三十年戦争の講和条約であるウェストファリア条約(独語:ヴェストファーレン条約)でアルザス地方とロレーヌの3都市を領土に加えた[79]。同年に、これ以上の王権強化を懸念した貴族らによってフロンドの乱が起こったが、1653年までに鎮圧された[79][87]

文学・思想史の動向

[編集]

1630年代から1640年代にかけて「方法序説」(1636)や「哲学原理」(1644)、「情念論」(1649)などを著した哲学者ルネ・デカルト方法的懐疑と呼ばれる哲学的方法と、それらによって提起された心身問題は、スピノザライプニッツといった当時の哲学者たちに大きな影響を与えた[88]。またこの時代には、ジャン・シャプランやデマレ・ドサン=ソルランといった作家たちの提言を受け、リシュリュー枢機卿によってアカデミー・フランセーズが設立される[88]

1650年代にはブレーズ・パスカルが「パンセ」を著したほか、数学的な発見をした[89]

ルイ14世の親政期

[編集]
16世紀からフランス革命期にかけての領土拡大
「太陽王」ルイ14世

1661年、ルイ14世を補佐していた宰相マザランが死去し、ルイ14世の親政が始まった[90][91][92]。さらなるブルボン家の勢力拡大を図ったため、一層の財政充実がもとめられ、財務長官のコルベールがその任にあたった[90][91]。彼は、休眠中であったフランス東インド会社を再建させ、王立特権マニュファクチュアを通じて国内産業の育成を図るなど、重商主義政策を推進した[90][92]。一方で対外政策としては、ネーデルラント継承戦争に見られるように、相次いで領土拡大戦争を起こした[注釈 6][90]

当初、イングランドのステュアート朝(革命中に王族を保護していた)と友好的だったため、英仏の王朝的関係は良好(英議会とは不仲)であったが、ネーデルラント継承戦争のさなか、名誉革命によってオランダ総督・オラニエ公ウィレム3世がイングランド王ウィリアム3世として即位してしまったため、対英関係は悪化した。

ライン川流域のプファルツに対して起こしたアウクスブルク同盟戦争(プファルツ継承戦争)でも、国際的な対ブルボン家包囲網が形成されるなど、覇権を追い求めるルイ14世はヨーロッパにおける外交的孤立を余儀なくされていった。スペイン・ハプスブルク朝の断絶に乗じて起こしたスペイン継承戦争では、ユトレヒト条約スペイン・ブルボン朝の王位を承認させるという成果を得たものの、北米大陸でアカディア郡ハドソン湾などの領土を喪失したことや、イギリスにスペイン・ブルボン家のアメリカ大陸領におけるアシエント権(奴隷貿易独占権)を認めるなど打撃も大きかった。

ブルボン朝の財政

[編集]
ヴェルサイユ宮殿

長期にわたるイギリスとの抗争は、徐々に両国の経済的状況を反映して、フランスが劣勢に陥っていった。イギリスは既に名誉革命を成し遂げて立憲君主制に移行しており、議会が徴税権を確立している上、1694年に創設されたイングランド銀行が発行する英国債に対して国際金融センターであったアムステルダムなどから投資が集まっていた。また、市民革命の過程で特権団体であるギルドが解体しており、企業家の形成や工業化が生じる土台が形成されていた。このように、イギリスは長期的な植民地抗争に耐えられるだけの経済的基盤があった。奢侈の限りを尽くしたヴェルサイユ宮殿の建築、運営もフランス財政に重くのしかかった。1682年には、パリからヴェルサイユへと都を移し、以降、ルイ14世はヴェルサイユ宮殿の中で政治を行なった[91][92]。また王権神授説を信奉するルイ14世は、1685年にナントの勅令が廃止し(フォンテーヌブローの勅令[90]、国内の富裕なカルヴァン派が国外に流出するという事態を招いた[90]。また、聖職者貴族といった特権階級が免税特権をいまだ有していた。戦争の長期化は、フランスを利することは決してなかったのである。こうした中、イタリア戦争以来の反ハプスブルク家というフランス外交の基本方針を維持しつつ、北米大陸の植民地抗争も同時に継続するということは、極めて困難となっていた。当時、ハプスブルク家も対プロイセン抗争で劣勢に陥っており、両王家ともに関係改善を求めていた。かくして、18世紀半ばに両王家が対立から同盟へと転じる外交革命が起こった。

ルイ15世の時代

[編集]
ルイ15世

ルイ14世期に確立されたとされる「絶対王政」は、聖職者貴族ギルドといったある種の利権団体(社団)との強固な結びつきのもとに成立していたもので、フランス人民1人1人にまで国家権力が及んでいたわけではなかった。18世紀になり、1715年にルイ14世が没すると、王位はルイ15世に移った[93]。約10年間の摂政時代を経て1726年にルイ15世の親政が始まるも、ルイ15世は政治を嫌い、女遊びにばかり興じる一方であった[93]。特にポンパドゥール夫人は20年近くに渡ってルイ15世を虜にし、ヴェルサイユの一隅に贅を尽くした邸宅を建て、王室の財政を圧迫した[93]。また、エオンという素性の知れない怪しい人物を側近にし、国際交渉の場にも彼女を出席させた[93]。こうしたいい加減な振る舞いは王権の威信を失わせていった[93]。一方で、豪華絢爛なバロック様式を好んだルイ14世と比べ、ルイ15世の時代にはロココ様式による文化が生まれ始める[94]

1756年、七年戦争が勃発する。この戦争でフランスは海外植民地での戦闘で敗北を喫し、1763年のパリ条約で、カナダのミシシッピ川以東のルイジアナと西インド諸島の一部をイギリスに、ミシシッピ川以西をスペインに割譲され、アメリカ大陸・インドからの事実上全面撤退を余儀なくされた。長期にわたる対イギリス植民地抗争は、フランスに多大な負債と革命の種を残しただけであった。

ルイ16世の時代

[編集]

1774年、ルイ15世が没すると、王位はルイ16世に移る[95]。この時代はアンシャン・レジームと呼ばれる社会体制が成り立っており、第1身分の聖職者、第2身分の貴族、そして第3身分の平民に分かれており、人口の約9割が第3身分であった[96]。大多数の第3身分が税金の負担によって苦しめられている中で、少数の第1身分と第2身分には広大な土地や重要な役職、免税などの特権などを得ていた[96]。パリでは多くのカフェが営業され、カフェや個人的なサロンにおいて、勃興しつつあるブルジョワジーや自由主義貴族が新聞を片手に社会批判を行うようになっていた。このような、王権が及ばない「公共空間]で生まれた公論(世論)は、当時高まっていた啓蒙思想によって理論武装されていき、のちのフランス革命を擁護するような諸理論を育んでいった。こうした中において、国王ルイ16世は、ルイ15世時代の人事を大きく変え、改革派であるジャック・テュルゴージャック・ネッケルを起用し、特権身分にも税金を課すなど、王権の及ぶ範囲で改革を目指したが、自由主義擁護者と絶対王政擁護者の板挟みとなり、絶対王政は限界を迎える様になった[96][97] 。特にテュルゴーは、穀物取り引きの自由化や、親方制度の廃止といった経済的自由主義的な政策を多く導入した[96]。しかしこうした急進的な規制の撤廃は、当時起こっていた凶作が重なったこともあり、1775年に価格の高騰や品不足を引き起こし、パリやノルマンディーイル・ド・フランス地域圏で暴動を誘発した[96]

フランス革命

[編集]
バスティーユ牢獄襲撃

1789年 - 1794年。広義には1799年まで。ブルボン王朝及び貴族・聖職者による圧制に反発した民衆が1789年7月14日にバスティーユ牢獄を襲撃する[98][99]。これを契機としてフランスの全土に騒乱が発生し、アンシャン・レジームは崩壊する。フランス文学翻訳家の高遠弘美は、フランス革命のきっかけはバスティーユ襲撃事件ではなく、その数ヶ月前に発生した「レヴェイヨン事件」が引き金であると指摘している[100]。レヴェイヨン事件は、パリの壁紙製造業者であったジャン・バチスト・レヴェイヨンがその日のパンの価格の暴騰を受け、パンの価格を下げることを提案した方法が結局は賃金を下げることだと誤解した労働者たちによって引き起こされた一連の暴動である[100]。これらの動きを受け、国民議会は8月4日には封建的特権の廃止を宣言し、領主裁判権や教会への十分の一税が廃止された[96]。8月26日にはラ・ファイエットが起草したフランス人権宣言が採択された[96]。10月には女性を先頭にしたパリの民衆がヴェルサイユ行進し、改革に否定的な王家をパリに移転させた[96]

1790年には全国の行政区画を再編し、教会財産を没収、ギルドを廃止して営業の自由を確保したり、センチ・メートル法が正式に採用されるなどの改革が行われた[96]

翌年の1791年には一院制の立憲君主制を定め、選挙権を有産市民のみに限定した1791年憲法が発布され、国民議会は解散する[96]。5月26日、国民議会は、国王に多額の生活費を与えることを決議する[101]。6月、ルイ16世と王妃マリー・アントワネットがオーストリアへの逃亡を試みるヴァレンヌ事件が発生するが失敗し、王室への信頼は地に堕ちた[96]。10月に開かれた立法議会では、これ以上の革命を望まない立憲君主派と、共和政合はローマ教皇を刺激させたが1797年のトレンチノ条約によってピオ6世はその旨を認めた[102]

第一共和政

[編集]

1792年の春にジロンド派が政権を握り、オーストリア帝国に対して宣戦布告を行う[96]。8月にはオーストリア帝国とプロイセン王国がルイ16世の救援を各国君主に呼びかけるピルニッツ宣言が行われる中、8月10日に国王一家がいたテュイルリー宮殿を襲撃する8月10日事件が発生し王権が停止する[96]。9月には男性普通選挙による国民公会が成立し、共和制の樹立が宣言された[96]

ルイ16世の処刑

国民公会では急進共和派のジャコバン派が勢力を増し、1793年1月にはルイ16世が処刑された[96]

こうした革命の流れがイギリスに波及することを恐れた英首相ウィリアム・ピットはフランス軍のベルギー地方への侵入に対抗する形でフランス包囲の大同盟である第1回対仏大同盟を形成した[96]。このためヨーロッパを敵に回したフランス国内では、王党派と結びついた農民反乱が広がった[96]ヴァンデの反乱がそれに相当する[96]。6月にはジャコバン派が事態を乗り切るためにジロンド派を議会から追放し、男性普通選挙を定めた1793年憲法の制定や、封建地代の無償廃止、亡命した貴族の土地の競売や最高価格令に伴う強力な価格統制など、都市部の民衆や農民の支持を確保するための政策を採用した[96]。同年、ルーヴル宮殿が「共和国美術館」として使用されることが決まり、宮殿に所蔵されていた王室のコレクションは、王室の私有財産ではなく、国有財産となった[103]

マクシミリアン・ロベスピエールを中心とするジャコバン派政権は、強大な権限を持つ公安委員会を設置し、革命防衛のための徴兵制や亡命禁止法、革命暦[注釈 7]を導入し、理性崇拝の宗教である「理性の祭典」を創始するなどの急進的な政策を打ち出す一方で、反革命派や王妃マリー・アントワネット、王党派のダントンらを処刑し、恐怖政治を行った[96][104]

しかし、外部勢力の排除などが落ち着き、対外勢力からの脅威が遠のくと、小土地所有農民や経済的自由を求める市民層が保守化し、独裁に対する不満が高まり、1794年にはテルミドール9日のクーデターが発生し、ロベスピエールは失脚し、彼とその一派は処刑された[96]。ジャコバン派が没落すると、穏健共和派が有力となり、1795年には制限選挙制を復活させた1795年憲法[注釈 8]が制定され、国民公会と革命裁判所は解散、そして総裁政府が樹立する[96][105]。しかし社会不安は続き、1796年5月には私有財産の廃止を唱え、政府転覆を画策していたバブーフが逮捕され、死刑を宣告される[注釈 9]などの事件が起こった[96][106]。1797年10月には、フランス革命戦争で交戦を続けていたイギリス以外の全ての国と休戦をするカンポ・フォルミオ条約が締結される[注釈 10][107]。1798年、ジャコバン派と総裁政府の影響を受け、当時スイスの飛び地であったミュルーズを併合した[108]。11日にはジュネーヴも併合された[108]。1799年、ブリュメール18日のクーデターによってナポレオン・ボナパルト統領政府を樹立し独裁権を掌握した[96][109]

第一帝政

[編集]
ナポレオン・ボナパルト
ナポレオンの戴冠式
1812年の領土。紺:フランス領、薄紫:衛星国

1801年、革命以来、フランスと対立関係にあったローマ教皇と和解し、翌1802年にはイギリスと講和をする「コンコルダート」と「アミアンの和約」を実現させ、対外的な脅威をなくすことになった[96][110]。1804年3月には私有財産の不可侵や法の下の平等、契約の自由、国家の世俗世など、近代国家に不可欠な規範が記したフランス民法典[注釈 11]を公布した[96][111]。5月、ナポレオン・ボナパルトは終身執政官という地位を経て、国民投票での圧倒的な支持からナポレオン1世として皇帝に即位した[96][112]

1805年にイギリス、ロシア、オーストリアによって第3回対仏大同盟が結成されると、10月に行われたトラファルガーの海戦でナポレオンはホレーショ・ネルソン率いるイギリス艦隊に敗北する[96]。しかし大陸での戦いではアウステルリッツの戦いでオーストリアとロシアの連合軍に勝利し、翌1806年には西南ドイツ諸国を保護下に収め、ライン同盟を結成した[96]。11月、ナポレオンは勅令を発し、イギリスとの通商を禁止する、大陸封鎖令を出した[113]。1807年にはプロイセンとロシアの連合軍を破り、ティルジットの和約を結び、分割占領されていたポーランド地方にダンツィヒ公国、ウェストファリア王国、ワルシャワ公国と行った傀儡政権を打ち立てた[96][113]。また1808年にはイベリア半島に侵攻し、スペイン・ブルボン朝を打ち倒す。彼は兄のジョセフ・ボナパルトをホセ1世としてスペイン王位につけ、統治を行うも、各地でスペイン人による蜂起が起こり、[96][113]。1812年にはロシア遠征が行われるも大量の犠牲者を出した末に撤退し、遠征は失敗に終わる(1812年ロシア戦役[96][113])。

ナポレオンはライプツィヒの戦いに敗れ1814年に退位する[96][114]。戦後処理のためにウィーン会議が開かれた[115]。ウィーン会議は、欧州を1792年以前の状況に戻す正統主義が主な内容で、フランスにブルボン家が王として復位することになった[115]。またこの会議を受け、ジュネーブはスイスに返還された[108]。1815年、エルバ島から脱出し、パリに戻ったナポレオン1世が復位[96]。しかしワーテルローの戦いで完敗[96]。ナポレオン1世は再び退位し、大西洋のイギリス領セント・ヘレナ島に軟禁された[96][110]

復古王政

[編集]
ルイ18世

1814年、ナポレオン1世の失脚後、ルイ16世の弟であるルイ18世がフランス国王に即位した[116]。王の帰還に伴って亡命した貴族たちも続々とフランスに帰国した[116]。このブルボン家の復古は、ウィーン議定書で諸外国によって承認された[117]

一般に保守反動体制とされるウィーン体制だが、かつてのアンシャン・レジームへ完全に回帰したわけではなかった[118][119]。復古王政下では制限選挙による立憲君主政が採られ、法の下の平等・所有権の不可侵・出版や言論の自由などが認められた1814年憲章が発布された[120]。しかしアンシャン・レジームの名残が全て払拭されたわけではなく、国民主権は否定され、カトリック教会が国教として定められ、行政権や司法権、立法権などの三権は国家元首である国王が保有していた[118][119]

1824年にルイ18世が死去すると、その弟のシャルル10世が即位し、反動政治を推し進めた[118]。シャルル10世は、革命中に売却された亡命貴族の土地の補償を目的とする10億フラン法の制定や、ランス大聖堂での聖別式の復活などを行った[118]。王への反発が強まる中、アルジェリア出兵 (1830年)英語版で関心を対外関係に向けようとするが、高まる自由主義運動に対して抑圧を図ると、1830年7月25日に選挙権をより限定し、元亡命貴族や大土地所有者の票の重みを相対的に大きくさせる七月王令が発布されると、同月27日から29日にかけて7月革命が勃発してシャルル10世は失脚し、イギリスに亡命した[115][119][121]。この革命の中心は立憲君主派であったために共和政には移行せず、自由主義に理解を示すオルレアン家ルイ・フィリップが王として選ばれた[115]アルジェリア侵略の結果、フランス領アルジェリアとして1834年に併合され、1962年の独立まで占領が続いた。

7月王政

[編集]
ルイ・フィリップ

1830年7月、自由主義者として知られたオルレアン家ルイ・フィリップがフランス王となった[115]。ここからの彼の治世を7月王政と称する[115]政治体制立憲君主制が採られたが、極端な制限選挙により一部の大ブルジョワジーしか政治参加が認められなかった[122]。復古王政の打倒に基づいて新たに作られた1830年憲章では、以前の憲章のなかで示された王権神授説を述べる前文や「臣民」という語句が削除され、以前の憲章で記された自由や平等に関する記述は維持された[123][124]

新たに樹立された議会では諸党派の争いに苦しんだ[124]。議会は当初、王政樹立に賛成であった加担派が多数を占めたが、次第にラファイエットアドルフ・ティエールジャック・ラフィットらの進歩党とフランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾーの抵抗党に分裂し、ことあるごとに対立を極めた[124]。また野党にはアンリ・ダルトワを擁立する正統王朝派やルイ・ナポレオンを擁立するボナパルト派などの王党派や、都市部の労働者層を支持基盤とする共和派などがいた[124]

1830年のラフィットによる組閣では復古王政時代の官僚や将軍らの粛清をすることによって政治的不安を解消しようとしたが、そうした政策が生優しいと、七月革命の原動力となった民衆からの非難を受け、何度かの騒擾などもあったことから、辞職に追い込まれる[124]

翌1831年、抵抗党のカジミール・ピエール・ペリエ英語版が首相となったが、左右両翼からの挟撃に遭い、また当時ヨーロッパで流行していたコレラに罹り、そのまま病没してしまう[124]。ペリエが没してより5ヶ月後、抵抗党のブロイ公、ギゾー、進歩党のティエールによる連立内閣が成立した[124]。この内閣の主な支持層であった上級富裕市民は、11月リヨンで賃金問題から発生した絹織物労働者の暴動や、1832年2月の正統王党派による襲撃の陰謀、1834年の共和派の反乱といった国内での騒擾に対して否定的な立場を取らせ、彼らはやがて政府を動かして武器携行禁止法を制定させ、国民軍を、直接税を納め、かつ自費で装備することのできるブルジョワの子弟だけで構成する組織へと変えていった[124]

『民衆を導く自由の女神』
(1830年ドラクロワ画)

ナポレオンの没落によって回復された平和は、銀行家や大商人に資本を蓄積させ、これらは工業生産へと注力され、製鉄業や繊維工業などが発展した[124]。こうした産業革命の勃興にともない形成された中小ブルジョワジーや労働者は、1845年以来、続いていたジャガイモや小麦などの飢饉や、工業生産の不振に伴う失業者の増加を受け、イギリスの流儀を真似た「改革酒宴」という宴会の形式で選挙法改正運動や議会改革運動がパリから地方へと展開された[125][126][127]。1848年2月22日、政府が改革酒宴の抑圧を図ったことなどから2月革命が起こり、ルイ・フィリップは退位へ追い込まれた[125]。この二月革命がヨーロッパ全体へと波及、1848年革命と総称される変動を引き起こすことになった[125]

第二共和政

[編集]

1848年の二月革命によって、ラマルティーヌが首班となり、機械工のアルベール、社会主義者のルイ・ブランなどが入閣した臨時政府が成立する[125]。臨時政府は、政治犯の死刑の廃止、身体刑の廃止、奴隷制の廃止、表現の自由化といった自由主義的な政策を矢継ぎ早に決定した[127]。また社会主義者たちが入閣していた背景から、社会政策の分野においても、労働下請け制が禁止され、労働時間もパリで11時間から10時間へ、地方でも12時間から11時間へと短縮された[127]。選挙制度においても、制限選挙から普通選挙となり、21歳以上の全ての男性に投票権が与えられた[127]。この国政選挙を男性限定とはいえ、直接普通選挙で行うことは、事実上、世界初の試みであった[127]

六月蜂起

この段階ではラマルティーヌを中心とするブルジョワ共和派と、ルイ・ブランなどに代表される社会主義者の連携が図られていた[127]。しかし、国立作業場など諸政策をめぐって対立が深まり、1848年の4月総選挙において社会主義者が大敗したことを受けて、国立作業場が閉鎖された[127]。これに反発したパリの労働者が六月蜂起を起こしたが、カヴェニャック将軍によって鎮圧された[128]。この一件は、これまで革命の担い手であったブルジョワジーに、社会主義革命への恐怖を抱かせた。それゆえに彼らはこれ以上の改革を求めずに保守化し、市民革命の時代は幕を閉じた。ブルジョワジーや農民の間には、政治的混迷を収拾しつつも市民革命の諸成果を守る強力な指導者が待望されるようになった。こうした中、新たに制定された第二共和政憲法に基づき、1848年12月の選挙で圧倒的支持のもとにルイ=ナポレオンが大統領に選ばれる[129]。その後、ルイ=ナポレオンは選挙での協力の見返りとして、オルレアン派や正統王朝派に内閣を委ねた[129][128]。議会はいまだ、穏健共和派が多数派であったことから、ねじれとなった[129]。翌1849年の総選挙では穏健共和派が大きく後退し、ねじれは解消された[129]

抱えていた問題を解決した政府は、5月に大統領がカトリックの支援を得ようと、ローマ法王のために、当時イタリアでローマ共和国を作っていたジュゼッペ・マッツィーニに対する攻撃のための遠征部隊を組織する[128]。これらはルドリュ=ロラン英語版を筆頭に、憲法侵害であるとして、6月には示威運動まで展開された[128]。この運動を受け、ナポレオンは言論や集会への規制を強化し、教育への教会の影響力を増大させた[129][128]。1850年5月には選挙法が改正され、選挙人名簿に記載されるためには、同一市町村に3年以上住むという条件が加えられたことによって、約3割の出稼ぎ労働者の選挙権が規制された[129]。さらに1851年11月には、1850年5月の選挙法を撤廃することを提案したが、僅差で否決された[129]

1851年12月2日[注釈 12]、ルイ・ナポレオンは、警察と軍の一部の協力を得て、クーデターを起こし、ティエールを筆頭に国会議員の多くが警察によって捕縛され、反体制派の新聞社は占拠された[129]。4日には、クーデター派による無差別の発砲がパリで行われ、通行人ら300人弱が犠牲となった[129]。5日には、32県で戒厳令が敷かれ、数週間に及ぶ弾圧の結果、約2万6千人が逮捕、1万人近くがアルジェリアや南米ギニアなどのフランス植民地へと流刑に処され、共和派、王党派を問わず、多くの新聞社が刊行を停止させられた[129]。こうしたクーデターにもかかわらず、市民は再三にわたる政治的な動乱への辟易から、多くは関心を示さなかった[128]。共和派であった小説家のヴィクトル・ユーゴーといった芸術家は亡命を余儀なくされた[129]

1852年11月、帝政の復活を問う国民投票が実施され、9割を超える賛成票を得て、クーデターから1周年となる12月2日、帝政が宣言され、ルイ・ナポレオンは「ナポレオン3世」と名乗るようになった[129]

第二帝政

[編集]
ナポレオン3世

第二帝政は皇帝が国家元首として、内閣を任命し、内閣は皇帝に対してのみ責任を負った[130]。議員や公務員、司法官らはその職務への就任にあたって皇帝への忠誠宣誓が義務付けられた[130]。皇帝は法案発議権や司法権、軍の統帥権を掌握していた[130]。一方で1848年からの男性普通選挙は維持され、かねてよりナポレオン3世が反対を示し、第二共和制時代には否決された1850年5月の選挙法は撤廃された[130]。また一連のクーデターや帝政復活の過程で行われた人民投票も制度化された[130]

第二帝政では第二共和制と比較して立法院の議員定数が750から約三分の一に削減され、小選挙区・単記式で行われる選挙では、行政が体制派の候補者に対して露骨に肩入れを行なわれるなど、権威主義的な選挙改革が行われた[130]

オスマンの都市改造計画

またナポレオン3世は、1853年6月29日にジョルジュ・オスマンをセーヌ県知事に任命し、大規なパリ市の改造計画を推進させた[131][132]。当時のパリは中世以来の名残を残しており、所によっては乞食や浮浪者に溢れ、治安的な問題や衛生的な問題から、犯罪や疫病の温床となっていた[131]。そうした背景から、古い家は容赦なく取り壊され、跡地には大通りや高層建築などが建てられた[133]。こうしたパリ大改造にとどまらず、ナポレオン3世はサン=シモン主義の影響から、全国的な鉄道の整備や金融改革を実行し、また農業や工業の分野においても、国家的な指導が行われ、フランスは急速な近代化が推し進められた[133][134][135]。1860年にはニースサヴォワを住民投票を受け、サルデーニャ王国から併合した[136]

1853年10月にクリミア戦争が開戦すると、翌年1854年3月にフランスはイギリスなどとともにオスマン帝国陣営として参戦し、軍を派兵する[137]。クリミア戦争に勝利すると、講和会議をパリで開催し、フランスの優位性と名声を示した[137][138]

しかし一方で1859年のイタリア統一運動では普墺戦争に勝利していたプロイセンの動向を伺って中途半端な態度を取っていたことイタリア人のみならず、国内の共和派やカトリック支持者などを敵に回し、こうした優柔不断なイタリア政策に不安を持っていたイギリスを懐柔するために1860年に締結された英仏通商条約は、自由貿易に反対していた産業界からの支持を失わせていった[137][138][139]。このようにヨーロッパ地域での対外政策は一貫性を欠いていた[138]

ヨーロッパ以外での対外政策では、フランス国内での資本の集中化がアジアやアフリカへの植民政策を実行させた[137]

アジア方面では、1856年にはアロー号の事件を契機に、アロー戦争を経てイギリスなどとともにの門戸を開くことに成功し、1858年には開国したばかりの日本と日仏修好通商条約を、1859年にはサイゴンやコーチシナを占領し、カンボジアを保護国化、フランス領インドシナを樹立させた[137]。アフリカ方面ではチュニジアやモロッコに対して財政借款を通じて影響力を浸透させ、すでに植民地であったアルジェリアやセネガルではその支配を強化し、支配域の拡大が行われた[136]

1861年、借款返済の停止を宣言したメキシコに対してイギリス、スペインらとともに出兵を行う、メキシコ出兵を行うも、あくまで借款返済の再開を意図し、それらが達成して兵を引き上げたイギリス、スペイン側と、メキシコの支配に固執し、メキシコに兵を残留させたフランス側とで齟齬が生じ、フランスはメキシコとの戦闘を続けざるを得なくなった[136]。1864年にはオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の弟マクシミリアンを皇帝とする傀儡政権メキシコ第二帝政を樹立させるも、南北戦争を集結させたアメリカや、普墺戦争に勝利したプロイセンなどの影響から、フランスはメキシコからの撤兵を余儀なくされた[136]。その後、銃殺刑となったマクシミリアンや6000人以上の犠牲者を出したこのメキシコ出兵の失敗は、ナポレオン3世とその政府の威信を大きく落とす結果となった[136][138]

捕虜となったナポレオン3世と会見するビスマルク

こうした失政を受け、議会をおさえて権威主義的な統治を行うことも難しくなり、議会との妥協を迫られることが多くなった[140]。その過程で、それまで禁止していた労働者の団結権などを認めた[140]。こうした背景から、議会では共和派が復権し始め、またプルードン主義の影響を受けた労働者らは、イギリスの労働組合と連携を取って、第一インターナショナルを結成するなど、反政府色を強めていった[140]

1870年5月には自由主義的な改革の認否を問う人民投票で8割以上の支持を得て、国民からの信任を得た[141][142]

さらに、世論を自らの権力正当化の基盤としていたため、ビスマルクによるエムス電報事件で反独世論が高揚すると、対ドイツ開戦やむなしという状況に追い込まれた[141]。こうして1870年7月19日よりスペインの王位継承に端を発する普仏戦争が勃発[注釈 13]したが、準備万全の構えであったドイツに対して、急ごしらえの貧弱な装備で挑まざるを得なかったフランスは敗北を重ね、8月にはドイツ軍がライン河を越えてフランスへ入り、9月のセダンの戦いでナポレオン3世はドイツ軍の捕虜となり、9月2日には10万の兵士らとともに降伏した[140][141][142][143]。この降伏の報せを受けたパリの住民は4日、議会に押しかけ共和政が宣言され、第二帝政は崩壊、ただちに「臨時国防政府」が組織された[140][143][144]。失脚したナポレオン3世はその後、ロンドンへ亡命した[145][146]

第三共和政

[編集]

臨時国防政府

[編集]

1870年9月2日のセダンの戦いでのナポレオン3世の捕縛が、ただちに第三共和政を生み出したわけではなかった[147]。2日後の4日に成立した臨時国防政府は共和派によって即席で作られたもので、徹底抗戦を訴えたパリ民衆からの圧力も相まって、プロイセン首相オットー・ビスマルクが提示した休戦条件は拒否され、戦争は継戦の方向へと舵が切られる[146][147][148][149]。パリでは各地で監視委員会が設置され、物資不足の中での戦闘が続けられた[148][149]。9月にはパリが攻囲され、11月には降雪による飢えがパリを襲う[146][147][149]。10月には国防政府の一員であった共和主義者のレオン・ガンベッタが気球でパリを脱出し、ボルドーといった地方での抗戦を訴えた[149][146]。翌年1871年1月28日、フランスはドイツと休戦した[147]。翌月には国民議会選挙が行われ、継戦派を退けて和平派が圧勝した[147][150]。またこの選挙では、普仏戦争の継戦か和平かが選挙の争点となり、ナポレオン3世の失脚に対する共和政の復活か、王政復古かは争点とはならなかった[150]。新しい首脳には七月王政時代に進歩党を率いていたアドルフ・ティエールが王党派のオルレアン派として当選し、行政長官に選ばれる[147][149]

アドルフ・ティエール

ティエールはドイツとの講和交渉を行い、50億フランの賠償金とアルザスロレーヌの割譲、そしてこれら条約の批准までのドイツ軍のパリ占領と、賠償金支払いの保証としてのドイツ軍のフランス駐留という屈辱的な内容の仮条約に調印し、3月1日には議会でも546対107の圧倒的多数で批准された[147][148][149][151][152]。アルザス・ロレーヌ割譲は両州の議員が強硬に反対を示したが、ティエールにとってはこの両州の割譲よりも、賠償金の支払いが重要であった[151]。結果、迅速な条約の批准によって、ドイツ軍によるパリ占領はわずか1日のシャンゼリゼ通りでのパレードのみに短縮された[151]。条約は5月10日にフランクフルト講和条約として正式に締結された[152]

ヴェルサイユ宮殿の鏡の間でドイツ皇帝を宣言するヴィルヘルム1世

この年の1月18日にはプロイセン王ヴィルヘルム1世がヴェルサイユ宮殿でドイツ皇帝戴冠式が挙行され、3月1日にはドイツ軍がパリに入城するなどが行われ、上述の屈辱的な仮講和条約なども相まって、フランスの対独復讐熱を加速させた[148]

パリ・コミューン

[編集]

ひとまず対外からの平和を確保したティエールは、パリに対して苛烈な政策を打ち出す[151]。これらはパリ市民の要求が普仏戦争の終結を長引かせ、仮条約にも反対していたこと、またオルレアン派であった背景から、将来的な王政復古のためにも、歴史的に何度も玉座を転覆させてきた背景のあるパリを牽制する必要があったからである[151]。そうした背景から、ティエールは首都をパリからヴェルサイユへと移す[151]

3月18日、ティエールはパリの武装解除を解くため、パリの国民衛兵の大砲を奪取する[151][153]。こうした武力行使は、ただでさえドイツ軍による戦勝パレードなどで激昂していたパリ市民を刺激させ、パリの民衆の蜂起を誘発させた[151][153]。ティエールやパリ市長ジュール・フェリーはこの蜂起によってヴェルサイユに逃れたことにより、パリに政治的空白が生まれた[151][153]。パリはヴェルサイユ政府に対抗する形で、コミューンを宣言する[151][153]。26日にはコミューン評議会選挙が行われ、28日はパリ・コミューンの樹立宣言がなされた[152]

パリ・コミューン

パリ・コミューンはしばし「史上初の社会主義革命」と呼ばれるが、20世紀のロシア革命のような社会主義組織による指導的な革命ではなく、これまでのそうした歴史的経緯から生まれたパリの政治的空白の中で噴出した、自然発生的な運動であり、それを構成する人々も医者や法律家やジャーナリストといった小ブルジョワから、ブランキ派やプルードン派の労働者など、さまざまな階級や思想が混在していた[153][154][155][156][157]。パリ・コミューンは国防政府の敗北主義的な政策に対する愛国心を原動力とし、社会主義的な共和制の樹立に腐心した[154][155]。またコミューンは徴兵制と常備軍を廃止し、武装した民衆によって国防がなされた[154]。またその過程で共和暦が再採用され、政教分離を評決し、初等教育の世俗化、義務化、無償化を推し進めた[156]

コミューンの蜂起に対してティエールはコミューン側とのあらゆる妥協を拒否し、ビスマルクの了解のもと軍隊を再建し、徹底的な弾圧を行った[154]。これらは5月21日から28日にかけての「血の一週間」によって一連の反乱はコミューン側は万人以上の犠牲者を出して鎮静化した[153][154]

パリ・コミューン鎮圧後、1871年8月、ティエールの友人でもあったジャン・シャルル・リヴェフランス語版が可決した憲法によってティエールは共和国大統領に就任した[158]。その後、ティエールは王政復古を目指す王党派議会と距離を取っていく[158]。当時の王党派は、内部でブルボン家とオルレアン家という歴史上の2つの王家のどちらを擁立するかで分裂を抱えていた[158]。オルレアン家は7月革命によって復古王政であるブルボン朝のシャルル10世を打倒する形でルイ・フィリップ王位を得た背景や、シャルル10世の孫で、ブルボン家の王位継承者であったシャンボール伯の頑迷な反動的な態度がこうした分裂をより深刻化させた[158]。またこれら2つの王党派に覆い被さるように普仏戦争敗戦の影響から勢力こそ弱まっていたものの、ボナパルト派も依然として存在していた[159]。これらブルボン、オルレアン、ボナパルトの足並みの不揃いが王党派の勢力の後退を招いていた[159]

一方で国内世論は議会与党では王党派が占められていたが、実情は王政復古でも社会主義的共和政でもなく、中道的な穏健共和制を支持していた[158]。これらは上述したように、普仏戦争の終戦過程の動乱によるもので、フランクフルト講和条約の締結やパリ・コミューンの鎮圧などを経た1871年7月の補欠選挙では共和政支持の動向がすでに見受けられるようになっていた[158]

1873年3月15日に賠償金の最後の支払い分が支払われたことを受け、ティエールはドイツの宰相ビスマルクとドイツ軍撤退条約が調印したが、ビスマルクはフランスの対独復讐主義を指摘し、再戦争の可能性から独仏関係は再度、緊張が走りつつあった[160][161]。当時、ドイツは1873年恐慌の煽りを受け、恐慌克服策として新しい戦争を起こすかまたは参加する、ないしはフランスの賠償金取得かのいずれかの選択肢に頼ることが考えられていた[160]。そうした背景から、ドイツの新聞も反仏的な論調へと変化していき、ドイツ軍も撤退要求に対して、しぶりを見せていた[160]。敗戦国であるフランスが政治的に国力を回復し、ブルボン朝の王政復古が果たされることは元来、ビスマルクにとって阻止しなければならないことであった[160]

ドイツ撤退条約を受け、将来的な対外危機が去ると、王党派議会はティエールの厄介払いの好機を待ち望んだ[158]。4月の補欠選挙では、教会に敵対的であった急進派の候補が保守的共和派に勝利したことから、いよいよティエールの支持基盤であったブルジョワジー層にも疑義の念を与え始めた[158]。5月の選挙ではついにティエールは敗れ失脚し、王党派議会は後任にブルボン派でパリ・コミューンの鎮圧を指揮したパトリス・マクマオン元帥が大統領に、同じくブルボン派のアルベール・ブロイ公爵を首相に就任させる[153][158][159]。マクマオンとブロイによる内閣は「道徳的秩序内閣」と呼ばれ、支持基盤であったカトリックなどの影響から、キリスト教的な道徳的権威による統治を目指した[153][158]。しかし相変わらず反動主義的な態度を改めないブルボン家のシャンボール伯とあくまで立憲君主制を志向するオルレアン家のルイ=フィリップの孫であるパリ伯との折衝は国旗問題[注釈 14]で特に難航し、王党派はついにシャンボール伯の存命中の王政復古は諦めざるを得なくなった[162][163][164]。王党派議会はそうした経緯から将来的な王政復古のための過渡的な措置として、11月にマクマオンの任期を7年とする「セプテナ法フランス語版」を成立させる[162][165]

ドイツ撤退条約に基づいて、ブロイ内閣は同年6月から9月にかけて、毎月5日に支払いを行い、9月5日、最後の2億5000万フランの支払いが完遂し、ドイツ軍は9月13日にヴェルダンを撤退、16日には最後のドイツ兵がフランスから去った[166]

1874年5月、ニエヴル県の選挙で大方の予想を裏切ってボナパルト派の候補者が当選したことがきっかけとなり、翌1875年2月に至るまで、5度の選挙でボナパルト派が勝利を重ね、ボナパルト派の復活の傾向が再燃する[162]。こうした背景を受け、共和派と王政復古を半ば諦めていたオルレアン派などの穏健王党派が提携を結び、1月の国民議会でワロン修正案が賛成353、反対352の1票差で可決する[162][163][164]。この修正案によって共和政の存在が法的に明記された[163][164]。しかしこの法律によって共和政が決定したわけではなく、共和国大統領は「明日の国王たる」という接頭辞が付与され、7年という長い任期や、上院との一致が見れれば下院を解散させることができたり、上下両院と並んだ法律発議権や軍の統帥権など、非常に強大な権利を有する、王政復古の可能性を十分に持った法律であった[163][167]

このワロン修正案と同年に成立した2つの法律が第3共和政の憲法的法律として「1875年の憲法的法律」を構成するようになる[163][164][167]

五月十六日事件

[編集]
パトリス・ド・マクマオン

1876年の選挙で共和派が勝利し、共和派の内閣が成立した[163]。翌1877年5月16日、マクマオンは下院の支持を受けていた共和派のジュール・シモン英語版首相を罷免し、王党派のブロイを再び首相に再任させた[163][168]。このブロイ内閣が不信任を受けると、マクマオンは上院の合意を得て下院を解散させた[163][168]。しかしそれによって行われた10月の選挙ではマクマオン派による大々的な選挙干渉が行われたにもかかわらず、再び共和派が勝利し、共和派のジュール・デュフォール内閣が成立し、マクマオンも事実上、議院内閣制を認めた[163][168]。さらに1879年の総選挙でも共和派が勝利し、これを受け、マクマオンは辞任し、共和派のジュール・グレヴィが後任の大統領に就任した[168][169]

王党派であったマクマオンの辞任は、フランスの王党派の悲願であった王政復古の可能性を大きく萎ませ、この一連の事件によってそれまで大統領が持っていた強権は解体され、議会主義に基づく代議院の多数派に政治的決定権が委ねられるようになった[168]。またこれにより大統領職も名誉職的な地位にまで縮小された[169]

5月16日事件を乗り切ったフランスは、1880年代になるとグレヴィを中心とする穏健共和派とジョルジュ・クレマンソーを中心とする急進派の二大勢力に分かれていた[170]

共和主義的な抜本的改革を主張する急進派らは、穏健共和派を「オポルチュニスト」(日和見主義者)と呼び非難したが、穏健共和派の漸進的な政策が1890年代まで展開された[169][170][171]。特にジュール・フェリーに代表される「オポルチュニスト」の政権では、フェリーが1881年から1882年にかけて成立させたフェリー法によって初等教育システムの世俗化、義務化、無償化が実現し、その前年の1880年にはカミーユ・セーフランス語版が成立させた「カミーユ・セー法」によって女子教育機関が整備され、社会運動家のアルフレート・ナケフランス語版によって1884年に成立させた「ナケ法」では離婚の合法化が、また同年にワルデック=ルソーによって成立した「ワルデック・ルソー法」で職業組合の結成の自由が認められた[170][171][172]。他にも集会や出版の自由や、パリを除く市町村長で選挙制が定められ、ある程度の市町村自治も認められ、パリ・コミューン参加者に恩赦が与えられ、酒場開業の自由なども認められるようになった[170][171]

ブーランジェ事件とドレフュス事件

[編集]
ジョルジュ・ブーランジェ

1880年代後半から1890年代にかけて、ブーランジェ将軍事件とドレフュス事件といった第三共和政にとって、5月16日事件に次ぐ大きな政治的危機に陥る[173]

1886年に陸軍大臣に就任した軍人ジョルジュ・ブーランジェは、軍隊の共和主義化・民営化を図り、また炭鉱でのストライキの参加者に対して共感を示したり、ドイツとの国境紛争に対して強硬姿勢を貫くなどは国内の対独復讐主義を再燃させ、国民からの人気を集めた[173][174]。こうした人気を危険視した政府は、彼を地方へと左遷させるが、こうした対応がかえって国民の反感を呼んだ[173][174]。1888年にはブーランジェは各地の補欠選挙位立候補し、当選しては辞退するというやり方を繰り返した[173][175]。こうした運動は1889年1月のパリ補欠選挙で共和派の統一候補を大差で下したことで最高潮となり、興奮した群衆はブーランジェによるクーデターを待望したが、あくまで合法的な政権奪取をこだわっていたことから、クーデターの号令をかけることを躊躇い、ついには愛人ボヌマン夫人の元へと帰ってしまった[173][174][175][176]。このクーデターの延期は彼の人気を大きく失墜させ、運動は沈静化した[173][174][175][176]。政府はただちにブーランジェを国家安寧に対する罪で起訴するが、ブーランジェはベルギーに亡命し、1891年にピストル自殺を遂げた[173][174][175][176]

ブーランジェ事件に並行して進行していた政治的危機にパナマ運河疑獄が挙げられる[176][177]。パナマ運河事件はスエズ運河建設事業を指導したフェルディナン・ド・レセップスによるパナマ運河建設事業が当初の予想に反して困難を極め、経営難に陥っていた[177]。そうした背景から1888年にパナマ会社はフランス各紙に金を撒き、好意的な事業報告を出させ、さらに議員を買収し、宝くじ付き社債の発行に必要な上下両院の承認を取り付けた[177]。しかしブーランジェ運動のピークが去ったばかりの1889年2月、パナマ会社は破産宣告を受け、総額14億フランの損失を計上し、85万人の小株主に打撃を与えた[177]。歴代の内閣はこの事件を隠し続け、共和派議員は受け取った賄賂を、ブーランジェ派の弾圧のための資金とした[177]。こうした隠蔽は1892年にブーランジェ派の運動家によって暴露され、当時の内閣であったエミール・ルベー英語版内閣は崩壊し、クレマンソーといった急進派の政治家も政界を追われた[177][178]

官位剥奪式で剣を折られるドレフュス

1889年にドイツでビスマルクが失脚し、独露再保障条約の更新が停止し、ヴィルヘルム2世による対外政策は独露関係を悪化させていた。そうした背景から、フランスを長年封じ込めていたビスマルク体制が崩壊し、フランスはロシアと接近して、1894年には露仏同盟が結ばれた。こうした緊迫した国際情勢の中で、ドイツは大使館付武官マクシミリアン・フォン・シュヴァルツコッペンフランス語版の指揮のもと、フランスへの諜報活動を行なっていた[179]。これらはフランス陸軍砲兵部隊に関する諜報文書が発見され、フランス将校団の中にスパイが一人活動していることが発覚した[179]。新聞社はスパイとユダヤ人とを結びつけ、反ユダヤ主義を煽った[179]。こうした煽りを受け、砲兵将校でたまたまユダヤ人であったアルフレド・ドレフュスが軍事機密を渡したとして、確固たる証拠もないまま有罪判決を受け、軍籍を剥奪した上で、南米ギニアの監獄島への流刑処分となった[179][180][181][182]。しかし1896年、別の諜報文書が発見され、新しく諜報部長に就任したジョルジュ・ピカール英語版はドレフュスの無罪を確信し、別の将校であるフェルディナン・ヴァルザン・エステルアジが真犯人であると突き止めた[178][179]。しかしピカールはチュニジアへと左遷され、後任に就いたユベール・アンリフランス語版はドレフュスの有罪を示す偽書を捏造する[179]。1898年1月にはエステルアジは軍法会議で無罪を言い渡され、そのまま渡英し、生涯を過ごす[182]。作家のエミール・ゾラがクレマンソーが発効している新聞「黎明」で政府や軍への批判とドレフュスの再審を求める「私は弾劾する」を発表し、フランス世論はドレフュス派と反ドレフュス派に二分され、激しい議論が展開された[179][180][181][182]。その後、軍幹部を名指しで批判していたゾラは名誉毀損で有罪判決を受けたことから、ベルギーを経由してイギリスに逃れた[182]。8月にはアンリ偽書が暴露され、半月後にアンリは獄中で自殺をする[179][182]。1899年、ドレフュス派であった急進派や社会主義者らによる左翼連合を基盤とするワルデック=ルソー内閣が誕生したことを受け、ドレフュスの再審が行われた[180][181]。この再審によって軍部による証拠隠滅や偽証が明らかになったにも関わらず、再び厳刑ではあるものの有罪判決となったが、ルベー大統領によってただちに恩赦がなされ、世論はようやく沈静化した[180][181][182]。一方でそれまで与党であった穏健共和派は反ドレフュスの立場であったことから権威は失墜し、以降、急進共和派による政権が樹立された[181]

ベル・エポック期の文化

[編集]
建設途中のエッフェル塔(1888年)
クロード・モネラ・ジャポネーズ

19世紀末から20世紀初頭にかけての時代は「ベル・エポック」と呼ばれ、1889年にはパリ万国博覧会が開催され、その過程でフランス革命100年を記念する建築物としてパリに建てられたエッフェル塔は、小説家のモーパッサンや作曲家のシャルル・グノーといった芸術家を刺激させ、反対運動が展開されたが、完成後は多くの民衆が塔を訪れ、評判を呼んだ[183][184]。また1890年代は電気の普及による電話加入者の増加や、鉄道網の拡充、さらに第二帝政期に誕生したボン・マルシェプランタンといったデパートの発展は大量消費社会への移行の先駆けとなった[185]。こうした産業の発展や文化的繁栄は1918年の第1次世界大戦終結後しばらくまで続いた[185]。また1850年代の日本との国交樹立はフランスに浮世絵などの日本文化を流入させ、ジャポニスムと呼ばれる日本趣味の流行がもたらされた[186]。1880年代末から1890年代までサミュエル・ビングが刊行していた「藝術の日本」などでのそうした日本文化の紹介は画家のゴッホなどの芸術家に影響を与えた[187]。さらにこの時代はアール・ヌーヴォーが流行し、建築や宝飾、絵画といった広範な分野に影響をもたらした[188]。文学界ではアンドレ・ジッドアナートル・フランスマルセル・プルーストといった作家が活躍し、ドレフュス事件の混乱から第一次世界大戦の勃発までの文化的栄華が色こく反映されている[189]

第3共和政成立から20世紀初頭までの外交政策

[編集]

第3共和政成立から20世紀に至るまでのフランスの外交政策は、1889年にビスマルクが更迭されるまで、彼の柔軟な外交政策によって孤立を余儀なくされ、それによって封じ込められていた対独復讐の熱量は、アフリカや東アジアへの植民地政策を同じく進めていたイギリスとの対立に誘導された[190][191][192]。フランスはフランス領アルジェリア、1881年にはフランス保護領チュニジア、1895年には現在のセネガルのダカールを首都とするフランス領西アフリカを成立させ、さらにサハラ砂漠を横断し、紅海に面する植民地ジブチやインド洋のマダガスカルなどとのアクセスを進めていた[190][193]。しかしこうした政策は1898年にエジプトから縦断を進めていたイギリス軍と衝突するファショダ事件が発生する[193][194]。最終的にこの事件はフランス側が譲歩することによって一応の解決を見せた[193][195]

アジア方面ではベトナムを巡って清仏戦争が起こり、1885年には天津条約が取り交わされ、ベトナムを保護領とし、1887年にはフランス領インドシナが、さらに1890年代にはラオスと清国から広州湾租借地が連邦に編入された[190]

ビスマルクが更迭され、ヴィルヘルム2世の膨張政策が国際関係を緊迫させた結果、1889年のバルカン問題による独墺の接近が露仏同盟を結ばせ、1904年のドイツの海軍拡張政策が英仏協商を形成させるなど、英仏露によるドイツ包囲網が形作られていく[注釈 15][191][193][196][197]。英仏協商で妥協が成立した結果、フランスがモロッコにおける優越権を獲得したが、これに反対するドイツ帝国がタンジールで事件(第一次モロッコ事件)を起こした[196][198]。露仏同盟を基軸とする対独強硬策を主張していたテオフィル・デルカッセ外相は、日露戦争ロシア帝国が忙殺される間隙を突かれる形となり、6月になるとモーリス・ルーヴィエ英語版首相に解任され、1906年のアルヘシラス会議に解決がゆだねられた[199]。会議でアルヘシラス議定書が調印され、フランスのモロッコ支配は現状維持とされた[199]。1908年にはフランス外人部隊の脱走兵をカサブランカのドイツ領事が匿ったカサブランカ事件が起き、仏独関係に緊張が走るも、翌1909年の独仏協定によってモロッコにおけるフランスの優位性はより高まった[200]。1911年には再びドイツによってアガディールで事件(第二次モロッコ事件)が起こされ、フランスはフランス領赤道アフリカ構成植民地の一つであるフランス領コンゴに対する一部譲渡の要求を飲んだ(モロッコ事件[196][200]

第一次世界大戦前夜のフランス

[編集]
ジョルジュ・クレマンソー

ドレフュス事件によって失墜した穏健共和派に代わって1899年6月に成立した急進左派連合による内閣は「共和国防衛内閣」と呼ばれ、1901年にはフランス初の本格的な政党である急進社会党がクレマンソー主導のもと結成され、翌1902年の下院選挙では急進社会党はじめ社会党といった左派政党による「左翼ブロック」が形成され、連立与党となった[201][202]。急進派内閣は反教権主義的な共和主義政策を徹底させ、1901年に成立した結社法では、あらゆる結社の設立の自由が認められたが、他方で修道会にはこれが適応されず、1902年に首相となったエミール・コンブフランス語版内閣では多くの無認可修道会が解散され、彼らが運営していた学校も閉鎖された[201]。1904年には修道会教育禁止法が制定され、修道会は教育への関与が一切禁止され、フランスとバチカンとの外交関係も途絶し、多くの修道士、修道女がフランスから亡命した[201]。こうした反教権主義政策の総仕上げとして成立したのが1905年の政教分離法である[185]。政教分離法の成立によって19世紀初頭にナポレオン1世によって結ばれたコンコルダートは破棄し、国家や地方公共団体の宗教予算は廃止され、フランス革命以来続いていた共和派とカトリックとの争いに決着がついた[201]。以降、フランスは世俗性、非宗教性を意味する「ライシテ」が国家原理として定着し、信教の自由が保障されるなど、カトリック教会にも必ずしも不利となるものではなかったが、教会財産の強制立ち入り調査などをめぐっては国家と教会は激しく対立し、抵抗運動なども見られた[201]

政教分離法が制定されると、「左翼ブロック」による連立は存在意義を失い始め、階級対立が全面に出て、1906年に首相に就任したクレマンソーは累進課税法案の提出や労働災害法、退職年金法の成立などによって労働者保護政策を推める一方で、CGT(労働総同盟)書記長ヴィクター・グリフュールフランス語版の指導にあったサンディカリスムを弾圧した[203][204][190]。こうした弾圧はしばし流血を伴い、急進党の政策は批判され、1909年にクレマンソーが辞任すると、後継のアリスティード・ブリアンが成立させた内閣は、それまで急進派が批判してきたオポルチュニスム体制へと変容していった[203][204]

1904年よりフランスはドイツからの主にモロッコに対する干渉が度々起こり、それらは1911年のアガディール事件でのフランス領コンゴの一部割譲という形で同年、首相に就任したばかりであったジョセフ・カイヨーフランス語版によって理性的に処理されるも、こうした領土割譲による平和の実現は、普仏戦争敗戦によるアルザス=ロレーヌ割譲の屈辱を想起させ、ナショナリストらを中心に大きな非難がなされた[200]。これによって翌1912年1月に崩壊したカイヨー政権に代わって、ロレーヌ出身で対独強硬派のレイモン・ポワンカレが首相に就任する[200][204]。3月にはフェズ条約が締結され、モロッコはフランスの保護国となった[200]

第一次世界大戦

[編集]

ドイツの強硬な態度は三国協商をより緊密にさせた。フランスはロシアのバルカン政策の支援を約束し、イギリスはアガディール事件後のロンドン秘密会議でおいて、ドイツがフランスを攻撃した場合、フランス側に立って参戦することを合意した。また、1912年には英仏海軍協定が締結された[200]

1913年の大統領選挙では、第3共和政発足以来初めて左翼候補が敗北、右翼候補であったポワンカレが大統領に就任する。ポワンカレ政権はジョレスやカイヨーらの反対を退け、三年兵役法や、軍備増強のための財源確保として19世紀末より先んじてドイツが導入していた所得税などを可決させるなど、強力な戦争遂行体制を整えていった[200][205]

サライェヴォ事件

1914年6月28日にオーストリア皇太子夫妻がセルビア人青年によってサラエヴォで暗殺されるサラエボ事件が発生すると、1ヶ月後の7月28日にオーストリアがセルビアに最後通牒を発し、宣戦布告をする[206][207]。フランスは当初、平和裡に解決するだろうと判断し、ポワンカレと首相のヴィヴィアニフランス語版は7月16日にロシアへの公式訪問に出かけ、オーストリアによる宣戦布告時、二人は帰りの船の上であった[206]。オーストリアによるセルビア侵攻はバルカン政策を推し進めていたロシアを介入させ、それを受けドイツもロシアへ宣戦布告。さらにロシアの介入はフランスをも参戦させた[注釈 16][206]

7月31日には、それまで国内や国外に対して演説を行い、戦争の拡大と終結を訴えていた社会主義者ジャン・ジョレスが、彼の平和主義を危険視したラウール・ヴィランによって暗殺され、それまで戦争反対の立場にあった社会党などの左翼政党らが戦争支持に傾いた。翌1日には総動員令が出され、ドイツがベルギー侵攻をしていた頃、ヴィヴィアニ内閣はそうした左翼政党などの面々を入閣させ、挙国一致体制を確立させた[199][208][209][210][211]。この挙国一致体制は「ユニオン・サクレ」と呼ばれ、対独強硬派のポアンカレはもとより、社会主義者のマルセル・サンバ英語版ジュール・ゲードなども入閣した[212]。フランスはドイツに編入されたアルザス=ロレーヌへの正面突破をする軍事計画「プラン17フランス語版」を8月6日より開始し、8日にはアルザスの一部を奪還するも、すぐにドイツ軍に奪い返され、14日には精鋭であった第1軍、第2軍を突撃させ、独仏合わせて20万人もの死傷者を出させたと言われる[213]。さらに22日、23日の戦闘で戦いでの敗北を受け、フランス軍総司令官であったジョゼフ・ジョフルは「プラン17」に見切りをつけた[213]。9月のマルヌ会戦においてフランス軍はドイツ軍のシュリーフェン・プランを粉砕し、こう着状態に持ち込ませた。その後、西部戦線で両陣営は長い塹壕戦に突入した[208][214]

フランスは当初、戦争が短期決戦で終わると予測していたことから、総動員令によって労働者の多くを戦場に送った。しかし、戦争が長引くにつれて生産は停滞し、労働力不足に陥っていた製造業に労働者を返して生産を上げるなどが求められた[215]。1915年、陸軍省の軍備担当次官に任命された社会党のアルベール・トマ英語版が、熟練労働者の職場復帰や、女性や外国人の雇用を推進させた[215]。また軍需産業の生産を上げるために、勤務時間の延長を狙いとしたマータイム制を導入された。さらに、徴兵された男性労働者に代わって女性が銃後の職場へ進出し、電車の運転や砲弾作り、農村では種蒔きや収穫などの力仕事を受け持つようになった[216]

1916年2月21日から始まるヴェルダンの戦いでは、迎え撃った第2軍司令官フィリップ・ペタンによる補給システムの改善などによって同盟軍の攻勢を防ぐことに成功したが、フランス軍の死傷者も甚大な数に上った[217]。いつ終わるか知らない戦争は兵士達の間で士気を低下させ、1917年4月16日のニヴェル攻勢ではフランス軍反乱が発生した[218][219][220]。またロシアで発生した2月革命は厭戦気分に追い打ちをかけ、全国的なストライキを誘発し、社会主義者たちの離反を受けた神聖連合は崩壊した[218][219]

前線へ赴き塹壕の兵士を激励するクレマンソー(1917年)

11月にはロシアで十月革命が起こり、国内世論は講和か継戦かで分かれ、それをめぐってポワンカレ内閣は倒れた。ポワンカレは、個人的にそりが合わなかったものの継戦派であったクレマンソーを首相に据えた[221][222]。クレマンソーが就任演説で呼びかけた戦争遂行と対独復讐は人気を呼び、議会の信任を得たことによって一度は崩れかけたフランスの戦争遂行への世論を回復した[222]

1918年、ドイツの春季攻勢を防衛したフランス軍は、9月26日にイギリス軍と、前年に参戦したアメリカ軍とともに大攻勢を開始した。10月5日にはドイツ軍の守りの要となっていたヒンデンブルク線を突破した[223]

ドイツと連合国との休戦協定が合意された際に撮影された写真。

11月3日、キール軍港での水兵の反乱に端を発するドイツ革命が勃発。同月11日、コンピエーニュの森でドイツは連合国との休戦協定に署名し、1913年に始まった第1次世界大戦の一連の戦闘は終結した[219][222][224][225]

第一次世界大戦でのフランスの死傷者は130万人、負傷者は300万人に上り、そのうちの7万5千人はベトナムやセネガルなどから徴兵された植民地軍人であった[226][227]。これらはフランスの出生数に劇的な低下をもたらしただけでなく、フランスの産業にも大きな影響が及んだ。また、主要な戦場となったフランス北東部は、国内有数の穀倉地帯や石炭、鉄を生産する工業地帯であったため、第1次世界大戦はフランスの農業や工業に大打撃を与えた[226][227]。大戦がもたらした出生率の低下に対し、フランス政府は様々な対策を講じた。1920年7月には中絶禁止法を制定[注釈 17]、翌1921年には13歳以下の子どもを持つ家庭に対して児童手当が与えられた。そうした出生率の回復政策は1930年代に至るまで続けられた[229]。さらに、南欧や東欧からの移民労働者が求められた。人口減少と労働不足の問題は安全保障にまで波及し、独仏国境にはマジノ線が建設された[229]。フランス内務省によると、第一次世界大戦に独仏両軍が発射した砲弾は14億発に上り、そのうちの1割は不発弾として残った[230]。こうした不発弾処理は21世紀現在も続けられているものの、現代の処理ペースをもってしても700年かかる計算だと言われている[230]。1993年2月21日には、連日降り注いだ大雨によって第一次世界大戦時の塹壕跡地に作られた線路が陥没し、パリ=リール間を走る高速鉄道TGVが脱線事故を起こすなど、戦後、長い時間を経てもその傷跡はいまだに残っている[231]

戦間期フランス

[編集]

第一次世界大戦後の1919年のパリ講和会議ではイギリスはドイツとの経済関係や、フランスの対独復讐の肥大化が警戒され、過酷な講和条件を控えようとした[232]。一方でフランスは対独復讐に基づく強硬姿勢を譲らず、6月28日にヴェルサイユ条約を締結させた[232]。結局、フランスの対独復讐の多くは受け入れられず、受け入れられたのは巨額の賠償金とアルザス=ロレーヌの復帰のみであった[233]

1919年7月の総選挙では神聖連合の継続を求める層と左右両派の対立があり、結果はアレクサンドル・ミルラン、ポワンカレ、ブリアンなどの領袖によって団結された中道派と保守派による連合である「国民ブロック」が勝利した[227][234]。こうした勝利はクレマンソーの対独復讐や、ソビエト・ロシアの成立に伴うボリシェヴィキ政権の対ロシア債務の拒否による大衆投資家の反社会主義意識などが原因している[234]。一方でそうした反ソ意識とは裏腹に、社会党やCGTといった社会主義系組織は党員を増大させた[234]

1920年1月に成立したミルラン政権では1904年以来、途絶していたバチカンとの外交関係が修復された[234]。同年には国際連盟が成立し、常任理事国となった。またアルザス=ロレーヌをドイツから奪還したほか、旧ドイツ植民地帝国、旧オスマン帝国領の一部を委任統治領として獲得した。シリアにはシリア・アラブ王国が成立していたが、フランス・シリア戦争英語版で介入・占領し、フランス委任統治領シリアが成立している。

1922年1月、ミルランが大統領に就任したことを受け、ポワンカレが首相に就き、戦債の支払や国土の荒廃もあって経済的は不安定となり、ドイツからの賠償金を厳しく取り立てるようになり、1923年にはドイツに支払い能力やその意志がないことを理由にルール占領を強行したが、英米などの批判を受け、国際的な孤立とドイツに大混乱とインフレをもたらしたのみに終わった[233][234][235][236]。以降、賠償金支払いプロセスにはアメリカが加わり、一定の安定を迎えた。

エドゥアール・エリオ

1924年5月の総選挙では国民ブロックによるルール占領のような強硬路線の失敗が祟って没落し、エドゥアール・エリオによる左翼連合が勝利し、ドイツの賠償金支払額を満額したドーズ案を受け入れた[235][237][238]。また安全保障を国際連盟の枠内で保障したジュネーブ議定書もこの時、受け入れられた[235]

一方で、エリオ内閣では反教権主義的な政策が再開され、アルザスでの政教分離の導入や司教区信徒会の創設の拒否などが行われたが、ローマ教皇庁もキリスト教的民主主義を支持するなどの変化から、教会と共和国との関係は和解へと促進されていった[237]。外交面ではルールからの撤兵のほか、ソビエト連邦との国交樹立などが行われた[237]。またこの時期は、天然資源が豊富にあったアルザス=ロレーヌの復帰もあり、鉄鋼産業が飛躍的に発展し、1920年代末には世界第3位の生産量を誇るに至った[237]

こうした経済発展に恵まれたものの、エリオ内閣は資本課税の導入や財政危機への取り組みなどの金融政策で失敗し、1925年4月には上院の反対を受け退陣を余儀なくされた[239]。しかし後継のパンルヴェやブリアン内閣ではインフレやフラン価値の下落に対して大胆な政策を打ち出せず、1926年7月には、再びポワンカレが首相に返り咲き、自らが蔵相を兼任し、増税や減債基金の設置などの政策を通して財政危機を乗り越えた[239][240]。1928年の総選挙では財政危機の回復から、保守勢力が勝利を収め、翌1929年には、大量生産などの体制が確立され、工業分野の発展が最高潮に達した[241]

1929年10月に発生した世界恐慌は、2年後の1931年にフランスに到来し、1935年には最悪を迎える[242]。また1930年代は、アクション・フランセーズクロア・ド・フーなどの極右・ファシズム政党が誕生、活動を活発化させ、1933年末に発生したスタヴィスキー事件は、こうした極右政党の活発化をより刺激させ、これらは時の内閣であったカミーユ・ショータン内閣の崩壊を誘発し、後継のエドゥアール・ダラディエ内閣も組閣に難航した[242][243]。2月6日にはクロワ・ド・フーによるデモが警察による発砲事件を呼び、死者15人、負傷者1500人を出す事件となった[243]。この事件は1934年2月6日の危機と呼ばれ、事態の鎮圧に失敗したダラディエ内閣は、翌日総辞職した[243][244]。ダラディエ内閣の崩壊を受け、成立したガストン・ドゥメルグの内閣は「国民連合内閣」と呼ばれ、右翼主導による保守政権が誕生したが、執行権の強化をめぐる憲法改正が急進社会党によって拒否されると、政権運営がままならず、失脚した[244][245]

レオン・ブルム

1936年の総選挙ではレオン・ブルム率いるフランス人民戦線が勝利し、左派政権が成立した[246][247]。同年5月から6月にかけて発生した全国的なストライキはブルム内閣にマティニョン協定を結ばせ、秋にはフランの平価切り下げによって景気は回復したかに見えたが、翌1937年には、内閣の予想に反して、回復は減少し、6月には上院がブルムに財政政策の全権を与えることを拒否したことで、内閣は崩壊した[248][249][250]。ブルム内閣時代ではドイツのラインラント進駐や、イタリアの第二次エチオピア侵攻など、国際的な緊張が高まる事件が続き、1936年7月17日に発生したスペイン内戦では、フランスの不干渉を宣言したものの、これらは第一次世界大戦後に成立したベルギーやチェコスロバキア、ユーゴスラビアなどの小協商の離反を促した[249][251]

第二次世界大戦からパリ占領まで

[編集]

1939年、4月にイタリアのアルバニア侵攻、ドイツは前年にオーストリアを併合し(アンシュルス)、ズデーテンラントを併合されたチェコスロヴァキアの残り全土を占領、そしてポーランド第二共和国に対して旧プロイセン領であった自由都市ダンツィヒ返還を要求した[250]。当時のフランス世論ではここでいよいよ対独戦争の可能性が強くなる。8月23日にドイツがソビエト連邦と独ソ不可侵条約を結び、9月1日にポーランド侵攻が始まると、翌2日にはフランスで総動員令が発令され、11月3日に対独宣戦布告を行なった[250]。ドイツのポーランド侵攻から、翌年5月までの間は、独仏国境で目立った戦闘は行われず、独仏両軍はライン河を挟んで釣りをしたり、フランス兵がサッカーに興じているのを、ドイツ軍が見物し歓声を送るなど、牧歌的な光景が見られたこの時期は今日では「まやかし戦争」と呼ばれている[252][253]

ポール・レノー

開戦時、フランス世論の多くは、独仏国境に敷かれたマジノ線を希望とし、同じような構想から作られたドイツのジークフリート線に対抗できると信じられていたが、1939年末にドイツがポーランドをおおよそ制圧すると、翌1940年5月10日に中立国であったベネルクスを経由することでマジノ線を迂回し、フランスに侵攻する[253][254]。また少し遡ること、3月には冬戦争の勃発への無為無策を糾弾され、ダラディエ内閣が倒閣し、後継のレノー内閣では宥和政策に反対し、徹底抗戦を訴えるも、軍の防衛戦略上の都合、そりの合わないダラディエを国防大臣として入閣させねばならず、さらに英仏合同軍司令官であったガムランの更迭問題が紛糾し、さらにイギリスではチェンバレン内閣が総辞職するなど、国防上の一大事とは裏腹に国内では政争に揉まれ、5月13日には国境が突破され、本土への侵入を許してしまう(ナチス・ドイツのフランス侵攻[255]。5月18日にはレノー内閣が改造され、レノー自身が国防大臣を務め、ダラディエは外務大臣に転じ、副首相にはフィリップ・ペタンが入閣した[256]。6月5日にはさらに内閣改造が行われ、ダラディエを外相から解任し、レノーがそれを兼任するも、外務次官に休戦派のボードゥアンを入閣させたことから自縄自縛に陥り、すでに国内へのドイツ軍の侵入が日に日に進んでいく中でも、政治的な混乱はなお続いた[256]。10日にはイタリアも参戦英語版し、こうした事情を受け政府はパリを去り、トゥールへと拠点を移し、14日には無防備都市宣言がなされたパリにドイツ軍が入城した[253][256]。6月16日にはペタン休戦内閣が発足し、17日に駐在スペイン大使を通じてドイツに降伏を申し入れ、22日にはかつて第一次世界大戦の休戦協定が結ばれたコンピーニュの森で独仏休戦協定が締結された[257]。これにより、パリを含むフランス北部はドイツ、サヴォイなど南部の一部はイタリアによって占領され、残りの自由地区にはペタンを元首とするフランス国(ヴィシー政権)が設立された[258]。またそれを受け翌18日には陸将であったシャルル・ド・ゴールを通じてロンドンで対独レジスタンスを訴え、自由フランスが組織された。

占領期のフランス

[編集]
エッフェル塔を訪れるヒトラー

フランス内部では戦争に敗れた共和政への忌避、反英感情が高まり、フィリップ・ペタンに対する個人崇拝と権威主義的志向が盛り上がった。7月10日、1940年7月10日の憲法的法律が可決され、ペタンによる権威主義的政権が成立した[258][259]。これは首都の置かれた場所を取って、ヴィシー政権と呼ばれる。10月にはペタンはドイツの「協力」(コラボラシオン)を表明し、またヴィシー政権のフランス国民にもそれを求めた[258][259]。第二次世界大戦期のフランス世論の研究者ピエール・ラボリフランス語版は、当時のヴィシーでの世論も、反ドイツを掲げてもいたペタンが、簡単に本心からドイツに協力するとは考えておらず、ペタンがその名を高めたヴェルダンの戦いと同じような活躍を期待していたと指摘している[260]

外見的には中立を保つ、合法的な主権国家であったが、国内の諸政策には強くドイツの意向が反映されるなど、事実上はドイツの傀儡政権であった[258]。また、休戦協定によって軍隊などは武装解除がなされ、150万人もの青年を捕虜としてドイツに残しておかなければならなかった上、1日あたり4億フランの占領費の負担を求められた。さらにドイツ占領地域、イタリア占領地域と自由地域との往来は禁止され、ヴィシー政府の権限がフランス全土に及ぶことを阻止した[258]

ヴィシー政権と占領地域

[編集]

ヴィシー政権では、ペタンをフランス国首席とし、実際は彼がすでに老齢であったことから、多くの政治は副首相であったピエール・ラヴァルが担当した。国内ではそれまでの共和国の標語であった「自由、平等、友愛」の語句は禁止され、「労働、家族、祖国」がそれに代わるものとして標語となった[261][262]。こうした初期におけるペタンのフランス革命の人権や反教権主義、共和国の原理などを否定は「国民革命」と称され、第三共和政以降、国内で封じ込められていた伝統主義が体現したもので、ファシズムやポピュリズムなどとは異なる様相を持っていた[262]。またドイツ支配地域では、三色旗に代わって鉤十字が掲げられ、フランス時間に1時間足したドイツ時間が適用されるなどの、ナチス化が推められた[263]

休戦条約に代表される一連の苛烈な統治の一方で、ヴィシー政権の主権国家は温存され、休戦監視軍という名目で10万人ほどの陸海軍を保有するなどが認められた[264]。そうした経緯から、イギリスを除く多くの国家はペタン政権を承認した[258]。また休戦条約前まで保有していたインドシナを除く植民地の多くも、ヴィシー政権を承認した。ヴィシー政権には極右団体や急進保守派、平和主義者、左派の反議会主義者、人民戦線を憎む実業家や戦前に改革案を受け入れられなかったテクノクラートなど、さまざまな第三共和政に不満を持つ人々が参加した[265][262][266]。しかし一方で右翼団体のアクション・フランセーズや左翼団体のフランス共産党などは参加せず、むしろレジスタンスとして、自由フランスとの連携を作るなどの抵抗運動を行なった[267][268][269]

戦争が長期化すると、ヒトラーからのコラボラシオンが苛烈化し、1942年10月3日にはユダヤ人迫害法などのファシズム的な政策が始まり、世論は次第に抵抗の色を帯び始めた[263][270]。ドイツ軍占領地域では、特に第一次世界大戦の敗戦によって奪われたアルザス=ロレーヌの再統一に伴い、この地域においては他の都市でのナチス化以上の徹底が見られ、フランス語の使用禁止や同地に住む多くのフランス人や黒人、ユダヤ人などの追放、ナッツヴァイラーにはガス室を備えた収容所が建てられ、ドイツで17歳から25歳までの男性に義務付けられていた国家労働奉仕団らが入植した[271][272][273]

1940年12月、対独協力に積極的であったラヴァルは、協力に慎重であったペタンと折り合いが悪く、失脚する[270]。翌1941年2月にはフランソワ・ダルランが副首相に就任し、ドイツに譲歩を重ねながら、5月のヒトラーとの会見ではアフリカ植民地をドイツ軍の利用に供する協定に同意し、ダルランは枢軸側として参戦することを提案するも、それを危険視したペタンは1942年4月に彼を解任させ、ラヴァルを復帰させるなど、人事の混乱があった[270]。またフランス領インドシナは仏印進駐によって日本軍の影響下に置かれることになった。連合軍が北アフリカに上陸した1942年11月、国際情勢の変化から、ヴィシーとの国交を絶つ国家が相次ぎ、影響力の低下などもあって、ドイツ軍はヴィシー地域を占領し、フランス全土を管理するようになる。戦況がドイツ不利になると、親独派で、ドイツとの関係が深かったラヴァルでさえ無視されることが多くなり、1944年1月にはより過激な対独協力者の入閣を求められ、フィリップ・アンリオやジョセフ・ダルナン、マルセル・デアなどが起用された[274]

自由フランスとレジスタンス

[編集]
シャルル・ド・ゴール

ドイツ軍へのレジスタンスは、ドイツ軍占領地域での勢力、ヴィシー国内での非占領地域の勢力、そしてシャルル・ド・ゴールが指導する国外勢力の3つに分けられる。ド・ゴールはロンドンなどを拠点に英国放送協会(BBC)を抵抗を呼びかけたが、初期の段階においては、ペタンの名声などでかき消され、フランス国内においてはほとんどそうした抵抗の呼びかけへの反響はなかった[275]。また初期の自由フランスは大陸からの脱出兵による数千人ほどの規模しかなく、組織としても、イギリスのウィンストン・チャーチル首相や、アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領の反応も曖昧であった[275][276]。初期のレジスタンス組織では非占領地域よりも占領地域の方が早く、当初は地下組織での出版物の刊行から始まった。1940年8月には赤道アフリカやチャドカメルーンなどのフランス領中央アフリカ地域を自由フランス側に立たせることに成功する。フランス国内では1943年春頃より、ドイツの労働力徴発に反発した若者によるレジスタンス組織「マキ」が武装抵抗を始め、5月にはド・ゴール主導による全国統一組織「レジスタンス国民会議」が結成された[277]。一方でこうしたレジスタンスに対して支配をしていたドイツはドイツ兵一人の殺害につき一定数のフランス人やユダヤ人捕虜の人質を殺害するといった報復措置を取った[277]。これらは戦況が悪化するにつれ、より熾烈なものになっていた[277]

フランス解放から終戦まで

[編集]
パリの解放

ドイツによる占領政策は日に日に苛烈になり、1942年以降には各地の植民地も次第に自由フランス側につくようになり、1942年11月8日のトーチ作戦によってフランス領北アフリカも喪失した。1944年6月には自由フランスと北アフリカのヴィシー軍が合同してフランス共和国臨時政府が成立し、ノルマンディー上陸作戦によってフランス本土には再び連合国軍が上陸した[278][266]。6月22日にはパリの解放が行われ、ヴィシー政権は崩壊し、臨時政府はパリに帰還した。またこの時、ヒトラーはパリ防衛の責任者であったコルティッツに対して、パリの町中に仕掛けられた爆弾を起爆させ、パリを破壊するよう指示するが、破壊司令は結局、無視され、コルティッツらはそのまま投降した[279][280]。1944年中にフランスの大半は奪還され、1945年のドイツ降伏によってフランス全土は再びフランス政府の手に戻った[266]

ドイツから解放されたフランス国内では、レジスタンスなどに関わっていた人々などによる、コラボラシオンに関わった人々に対する、追放や粛清(エピュラシオン)が横行し、暴行や殺害などが発生したことを受け、事態のエスカレートを危惧した臨時政府は大戦期の行動に対する「正義のための法廷」を設立したが、これを利用した、公式的なエピュラシオンは少なく、多くは私刑によって暴力をもって裁かれた[281][282][283]。少なくとはいえ、臨時政府は12万人もの親独派とと考えられる人々を予防拘禁し、16万人に対して、対独協力行為に対して裁判を行なった[284]。特にヴィシー政権の中枢であるペタン、ラヴァル、ダルナンなどは死刑宣告を受け、そのうちペタンは高齢のため、終身刑に減刑され、残り二人は死刑が執行された[285][286]。また終戦に伴い、戦争捕虜や強制収容所、労働徴発などによってドイツなどに抑留されてきた230万人ものフランス人たちが帰国すると予想され、早急な社会的経済的な準備を迫られた[287]。戦後すぐのフランスはこうしたエピュラシオンによる「敵」の排除とともに、「一部の親独派を除き、大多数のフランス人らは、積極的か消極的にレジスタンスに参加し、ドイツに勝利した。」という、実際の実情とはやや異なる、レジスタンス神話が形成され、臨時政府もこれを利用し、国民の和解や統合に利用した[288]。1944年12月にはソビエト連邦との仏ソ友好条約が結ばれ、国内の共産党系レジスタンス組織との関係も深化した[289]

戦後すぐのフランスが直面した大きな問題として、ドイツの戦後処理問題が挙げられる[290]。フランスは実際のところ、第一次世界大戦とは異なり、一度敗戦し、レジスタンスとして復活した経緯がある以上、ドイツの戦後処理問題に関して、大きな発言力を持てなかった[290]。そのため、ド=ゴールはソ連に接近し、ド=ゴールが掲げる対独政策[注釈 18]への支持を求めるも、ソ連はそれを拒み、1945年2月のヤルタ会談では、ドイツの戦後処理問題に対して、フランスの発言権を認めることと、国際連盟に代わって設立される国際連合安全保障理事会常任理事国とすることが決定された[290][291]

第四共和政

[編集]

1945年10月21日に行われた戦後の政治体制のあり方を問う国民投票では、圧倒的多数が第三共和政の復活を否定したことを受け、臨時政府は制憲議会で新たな憲法作成作業を行った。また同日、国民投票と並行して行われた議会選挙では、フランス共産党が社会党に1議席差で与党となった[292]。次いでキリスト教系レジスタンス組織であった人民共和運動フランス語版がその位置につき、第3位には社会党が入った。この共産党、人民共和運動、社会党による三党は議会選挙後、首班をド・ゴールに指名するが、結局翌1946年1月には、党との関係悪化から首相を辞任し、ド・ゴール抜きでの戦後政治が始まった。

ド・ゴールの辞任を受け、労働者インターナショナルのフェリックス・グーアンフランス語版が首班になるも、5月5日に新憲法の草案は、議会を一院制とするなど、議会の立場を強くさせる内容であったが、国民投票で僅差で否定され、また同日に行われた議会選挙では共産党に代わって人民共和党が第一党となり、ジョルジュ・ビドーが首班となる[293]。10月に提出された第2次草案は、第1次草案の否決を受け二院制が復活し、結果的に第三共和政と内容は大して変わらなかったものの、国民投票で可決され、第四共和政憲法として成立したが、投票率は69%程度で、有権者全体で見た時、賛成はせいぜい36%に過ぎず、圧倒的多数の国民による合意を得たとは言い難いものであった[294]。第四共和政の多くは第三共和政と変わらなかったが、戦時中における植民地に対する協力の見返りとして自治権の強化などを約束していたことから、フランスの海外植民地は、フランス植民地帝国としての時代を終わらせ、代わりにフランス連合と呼ばれるフランスと植民地と海外県、海外領土からなる緩やかな国家連合の形成が行われた[295][296][297]

憲法制定後の11月の議会選挙では再び共産党が第一党に返り咲き、一方で人民共和運動や社会党などは大きく後退をするなどの得票数的な差はあったが、三党体制は依然としてある程度の影響力を持ち続けた。第四共和政の最初の首相には社会党のポール・ラマディエが選出され、翌1947年1月16日にはヴァンサン・オリオールが初代大統領に就任し、臨時政府はその役目を終え、本格的な第四共和政が始動する[298][299]。第四共和政成立後、第三共和政末期の二大政党であった急進派と穏健派の復権が始まり、モリース・トレーズやビドーなどの首班指名が拒否され、12月にはレオン・ブルムによる内閣が成立する[300]。1947年は、国際情勢が米ソの関係悪化による冷戦構造になっていく中、アメリカは3月に、ハリー・トルーマン大統領によって西側諸国に対してマーシャル・プランなどの経済支援を行うことを表明し、フランスもその影響を受けるようになる[301]。一方でマーシャル・プランを受けるフランスの政権与党である共産党にとって、微妙なものとなっていたが、同時に同年春にブルムが渡米し、アメリカからの26億ドルの財政支援を約束させたブルム=バーンズ協定などがあったことから、渡りに船な状況でもあった[301][302]。1948年4月には、ブルム内閣の要職についていた実業家ジャン・モネによるフランス復興計画であるモネ・プランが始動し、戦後復興の道を着々と進めた[303]

欧州防衛共同体論争

[編集]

1948年2月にチェコスロバキアで発生したクーデターは西側諸国に衝撃を与え、アメリカ主導のもと、1949年に北大西洋条約機構(NATO)が設立され、フランスも、イギリスやイタリアなどとともに参加した[304]。1950年にNATO理事会でアメリカが西欧防衛強化のために西ドイツの再軍備を提起すると、イギリスを筆頭にそれを受け入れたものの、フランスは唯一それに反対を示した[305]。こうした態度は、イギリスや北欧諸国から強い非難を浴びたが、フランスは対抗提案として「欧州防衛共同体」(CED)構想を提示し、これらは5月に外相ロベール・シューマンによって発表された欧州石炭鉄鋼共同体(CECA)構想の防衛版でもあった[306]。CED構想は1952年2月のエドガー・フォール内閣や、後継の5月のアントワーヌ・ピネー内閣で議論され、CEDを設立させて欧州軍を発足させるパリ条約が調印された[306]。しかしこの条約の批准に必要な議会からの過半数の支持を得られる可能性が望み薄であったことや、こうした構想はフランス世論を二分させ、社会学者のレイモン・アロンはこの事態を「ドレフュス事件以来フランスの最も重大なイデオロギー論争」と評した[305]。CED論争はフランスの内政を麻痺させたほか、外交政策の足かせにもなり、議論は2年以上続き、その間に起きた国際情勢の変化は次第に批准を不利に傾かせた[307]。結局、CED構想はソ連でのヨシフ・スターリンの死に伴う東西緊張の緩和などを背景に、その超国家性に対する批判が紛糾し、最終的に国民議会によって批准は拒否され、この構想は頓挫した[308]

植民地問題

[編集]

一方で植民地支配には限界がおとずれ、中東およびアジアの植民地は次々に独立していった[309]。インドシナでは1945年から1954年にかけて第一次インドシナ戦争が発生し、ジュネーヴ協定で撤兵した[310]。さらにインドシナに続いてチュニジア、モロッコも同様の運動が起こり、チュニジアでは1954年にマンデス=フランス政権によって内政自治権が認められ、エドガール・フォール政権では1955年にモロッコの独立が認められた[311]。一方でインドシナやチュニジアといった地域とは異なり、歴史的にはフランス初の外国植民地であり、国民にとっても特別な思い入れのあるアルジェリアの独立に対しては、その議論は難航し、1954年にはアルジェリア民族主義運動の蜂起を促し、これらの問題によって崩壊したマンデス=フランス政権のみならず、続く1957年5月のギー・モレ政権や翌6月のモーリス・ブルジェ・モーヌリフランス語版政権、さらには11月のフェリックス・ガイヤール政権などを崩壊させた[312][313]

第五共和政

[編集]

アルジェリア戦争に際して無力さを露呈した第四共和政は、1958年6月2日にかねてより待望論がささやかれていたシャルル・ド・ゴールに憲法改正のための全権を委任させ、社会党、急進派、人民共和運動などを入閣させる挙国一致体制が成立した[314]。もっとも多くの政党出身者たちは体裁を取り繕うに過ぎず、実際はド・ゴールや彼の側近たちによって多くの決定がなされた[314]。憲法改正のための草案は9月12日の国民投票で約80%の支持を得たことから承認され、翌1959年1月にド・ゴールは大統領に就任し、第四共和政は幕を閉じた[315][316]。こうした第五共和政の突然の成立を世論は歓迎したが、知識人の間では独裁を警戒する声がささやかれた[317]

第五共和政では議会下院の多数決によって選出される首相が置かれるものの、国民の直接選挙で選出される大統領に強い行政権限がある[316]

ゴーリズムの時代

[編集]
シャルル・ド・ゴール

1960年はアフリカ植民地の多くが独立(アフリカの年)したものの独立時に戦火を交えた一部の国を除いて良好な関係を保ち、元植民地の国に多額の援助を行った[318]。1962年8月22日には、パリ北郊のプチ=クラマールでド・ゴールを乗せた車が銃撃に遭うなどの災難にもあったが、翌1963年にはエビアン協定を通じて、アルジェリアの独立が決定的なものとなり、第四共和政以来、問題となっていた植民地問題の多くは解決した[319][320]。また経済面では1961年に成立した欧州共同体において中心的な役割を果たし、1973年のオイルショックまで高い経済成長率を維持した。この期間を経済学者のジャン・フーラスティエ英語版は栄光の三十年間と呼んだ[321]

ド・ゴールはフランスの栄光の実現のためならば、時として政策理念の合わない閣僚の更迭を強行し、非政治家の人物を側近に置いて行政府を支配するなどの手段を取り、これらは「ゴーリズム」と呼ばれた[322][323]。またド・ゴールは欧州統合の流れに対して、主権国家を維持した国家連合構想を提唱し、欧州統合派が主張する「超国家的な統合」を批判した[324]。一方で、1963年1月には西ドイツのコンラート・アデナウアー首相とともに仏独協力条約が結ばれ、仏独関係が急速に再建されていった[325]。一方で対英関係に対しては対独関係と反比例するように悪化の一途をたどり、1963年1月のハロルド・マクミラン保守党政権時代と1967年5月のハロルド・ウィルソン労働党政権時代のイギリスの二大政党からの欧州共同体への加盟申請はいずれもド・ゴールによって拒否された[326]

さらにド・ゴールは西側諸国やアメリカとの妥協が結果としてフランスの自立を曖昧なものとさせた第四共和政時代の外交を批判し、「偉大なフランスへの追求」という理念から、アメリカのヘゲモニーに対する挑戦を目指した[327]。それらは1960年のサハラ砂漠での実験による核兵器開発の成功によって得た核抑止力に基づく自立外交などを展開させた[328]。こうした外交は1962年のジョン・F・ケネディ・マクミランによる米英首脳会談での多角的核抑止戦略の提案の拒否や、1963年8月の米英ソなどによって結ばれた「部分的核実験禁止条約」 (PTBT)への参加・調印の拒否などが行われた[328]

ポスト・ド=ゴールの時代

[編集]
五月危機

しかし1966年の学生運動を発端とする五月危機は政界にも大きな影響を与えた[329]。ド・ゴールは学生反乱には弾圧をもって、ゼネストに対してはグルネル協定をもって対応し、さらに国民議会を解散させて行われた総選挙では圧勝したことで事態を収拾したものの、翌年には大統領を引退することとなった[329][330]

ジョルジュ・ポンピドゥ

後継にはジョルジュ・ポンピドゥーが選出され、彼はド・ゴールが目指した「偉大なフランスへの追求」を継承しつつも、彼のようなカリスマ性による統治などはできないと判断したことから、党組織を固め、経済の近代化を重視した[331][332]。またポンピドゥーは欧州統合の一環として1967年7月にブリュッセル条約によって成立した欧州共同体(EC)へのイギリス加盟を承認し、ヨーロッパ協調路線を築き上げた[333]

1970年代は経済成長と近代化に伴って生じた社会の変容への対応によって、政界は大きな再編を迫られた[334]。特にこうした変化の産物であった「新中間層」の成立は、それまでの「中間層」を支持基盤としてきた急進党にとって深刻な影響を与えたし、共産党や社会党にとっても、これらの層の取り込みは難航した[334]。一方で早い段階からこの層に目をつけたのがヴァレリー・ジスカール・デスタンと彼の党である独立共和派であった[335]。また共産党と社会党は1972年に「共同政府綱領」を発表し、接近していった[335]

1971年8月、アメリカ大統領リチャード・ニクソンが発表したドルと金の兌換停止は「ニクソン・ショック」と呼ばれ、フランスをはじめ多くの国が変動為替相場制の導入を迫られた[336]。一方で欧州統合という理念に対して、欧州諸共同体の加盟国間での為替変動は統合にとって好ましくないというジレンマを抱えていた[336]。これらは加盟国間の為替相場にはある程度の余裕を持たせた上で固定し、非加盟国とは変動為替相場制を取る、為替相場協力政策によって一応の解決がもたらされた[337]。翌1972年には欧州諸共同体でそうした協力政策の一環である「スネーク」[注釈 19]が採用され、フランスも参加したものの、これは競争的平価切下げによって支えられてきたフランスの経済成長を放棄することを意味していた[338]

ヴァレリー・ジスカールデスタン

1974年4月、ポンピドゥーが現職のまま病気によって死去すると、5月の大統領選挙ではジスカールデスタンが当選し、大統領に就任した[339]。ジスカールデスタンの大統領就任は、第五共和政にとって、ド・ゴール派以外が政権につく、最初の政権交代であった[340]。しかし一方で、ジスカールデスタンの大統領就任とほぼ同時期にフランスを襲った第一次石油危機への対応として財政支出削減や増税、貨幣流通量の減少などを目指す経済政策パッケージ「経済冷却計画」が施行され、結果として失業者の増加を招いた[341]。1976年3月にはジスカールデスタン政権の首相であったジャック・シラクによって国内不況対策への優先から、スネークの一時離脱がなされた[338]。7月、かねてよりド=ゴール派であり、リベラルで親欧州的なジスカールデスタンとそりが合わなかったシラクは首相職を辞し、ド=ゴール派の政党である共和国連合へと離党してしまう[342]。それを受け後任に就いたレイモン・バールは石油危機対応としてインフレの抑制や、フランの為替相場安定を掲げる一連の反インフレーション計画、通称「バール・プラン」を9月より実行した[342]。この時期のフランスの政治情勢を、法学者のモーリス・デュヴェルジェは「カドリーユ・ビポレール」(二極的なカドリーユ) と表現している[343]。カドリーユとは4人の踊り手によるバレエ用語で、大統領選挙や国民議会選挙によって連立が求められると、社会党と共産党というペアと、ド・ゴール派とリベラルのペアに分かれる、ということを指摘しており、またこうした関係はお互いのペア同士の敵対心によって連合を組みながら、ペア同士の競合的な地位ゆえに遠心力も働く、といったものである[343]。こうしたカドリーユ・ピボレールな政治情勢は70年代に最盛期を迎えた[343]

ジスカールデスタン政権期は、同じ時期に政権を持った西ドイツのヘルムート・シュミット首相との仏独首脳会談の定例化と常設化を実現し、1979年にはドルの乱高下を防ぐために欧州通貨制度を立ち上げるなどし、欧州統合を進めた[344]。こうした仏独関係はしばし独仏枢軸(パリ・ボン枢軸)と呼ばれた[344]

コアビタシオン

[編集]

1981年の大統領選で社会党フランソワ・ミッテランが当選し、フランス共産党との左派連合政権となる[345]。ミッテランが大統領に就任した時期は、インフレの増大や失業がフランス経済に打撃を与えていたことから、大規模な国有化政策が実行され、当時、イギリスのマーガレット・サッチャー政権やアメリカのロナルド・レーガン政権で民営化が推し進めた「小さな政府」とは対照的な「大きな政府」による政策が施行されていき、これらはしばし「実験」とも呼ばれた[346]。またミッテラン政権期には、戦時中の対独協力者を清算するための指名手配や協力者の捜索などが行われた[347]

しかしミッテランが政策の要としていた失業問題は回復どころか悪化し続け、1983年には不支持率が支持率を上回った[348]。やがて連立政権を組んでいた共産党も1984年7月に首相がピエール・モーロワからローラン・ファビウスに交代したことを受け、政権から離脱した[349]

70年代後半から80年代にかけての経済不況は、ライフスタイルの変化やバンリューに建てられた団地の治安悪化を招き、放火や窃盗、襲撃といった事件が群発した[350]。こうした暴動は「暑い夏」と呼ばれ、政府や地方行政は都市政策の見直しを求められた[351]。またミッテラン政権期に積極的に行われた移民政策が、言語や学歴、人種差別を招くなどし、こうした問題をより深刻化させ、1983年10月にはキング牧師マハトマ・ガンディーの非暴力・不服従運動に倣い、マルセイユからパリへと移民出身者たちが人種差別規制を求めるブールの行進英語版が行われた[352]。また1989年10月には、パリ北郊のクレイユの公立学校に通うムスリムの女学生3人に対して、スカーフを脱ぐよう求められ、うち1人がそれに反対し、退学処分を受けるスカーフ事件フランス語版」が起こり、ライシテをめぐる問題が表面化し、世論は大きく分かれた[353]

大統領として就任したミッテラン
首相として就任したシラク

1985年4月、ミッテランは選挙法を改正し、翌1986年3月の総選挙に臨むも、右派の共和国連合とフランス民主連合が過半数を2議席上回ったことから、ミッテランは共和国連合のシラクを首相に選出する、大統領与党と首相与党がねじれるコアビタシオン(保革共存)と呼ばれる状態が発生した[354]。これらは7年という大統領の任期と5年という国民議会議員の任期のズレによって生み出されてしまったもので、首相となったシラクは、国営企業の民営化を進め、それに対して大統領であるミッテランは拒否権を発動するなど、足並みは揃わなかった[355][356]

1989年12月のマルタ会談による冷戦終結とともに浮上した「ドイツ再統一」は、独仏関係に動揺をもたらした[357]。フランスにとってドイツの再統一は、それによる国力の回復によって再び第一次世界大戦や第二次世界大戦などを引き起こしかねないという危惧があった[357]。そこでフランスは、統一されたドイツを承認する代わりに、経済通貨同盟を結ぶことによる、仏独関係の深化を促す一方で、こうした流れは、1991年12月、ヨーロッパ統合の流れはやがて経済統合、通貨統合、政治統合を目的とするマーストリヒト条約(欧州連合条約)へと至り、フランスはそれに調印後、翌1992年の国民投票で賛成51%という僅差の勝利を収め、条約を批准させた[358][359]。この国民投票に際して、社会党、共和国連合、フランス民主連合は条約を支持した一方で、社会党のジャン=ピエール・シュヴェヌマンはそれに反対し離党を表明後、新党「市民運動」を結成し、また共和国連合のフィリップ・セガンシャルル・パスクワといった重鎮や、フランス民主連合のフィリップ・ド・ヴィリエなどが条約批准に反対を表明するなど、賛成政党の中での離反が相次いだ[360]。また反対した政党には共産党、国民連合、労働者闘争、緑の党などが名を連ねた[360]

1993年3月の総選挙で、与党である社会党は壊滅的な敗北を喫し、現役閣僚の多くも選挙で敗れるという事態が起こった[361]。一方で社会党に代わって与党となった共和国連合はミッテランによってエドュアール・バラデュールが首相に任命され、第二次コアビタシオンが始まった[361]

21世紀のフランス

[編集]

1995年5月の大統領選挙で共和国連合ジャック・シラクが大統領に就任する[362][363]。彼は1991年より続いていたアルジェリア内戦などに対して反イスラムの立場を表明したことから、フランスに対するイスラム系のテロリズムが横行した[362]。また6月には核実験の再開を表明し、1992年のミッテラン政権期における核実験の停止を時期尚早であったとした[364]。核実験は1995年から翌1996年にかけて計8回行われた[364]。8回にわたる実験が終結すると、主張を一変して包括的核実験禁止条約の締結や南太平洋非核地帯条約への加盟の意志を示すなどをした[365]

1995年7月16日、それまでフランス政府が認めてこなかった第二次世界大戦中のフランス警察によるユダヤ人狩りである「ヴェルディブ事件」を初めて「フランス国家が犯した誤り」であると認めるなど、過去の歴史に対する清算を行なった。[366]

しかし秋には、ミッテラン時代より引きずっていた失業対策や財政赤字の解消などの一環として社会保障改革を断行し、国民福祉税の増税や年金受給者への年金引き上げ凍結など、国民に負担を強いる政策が続いたことから、パリを中心に全国的なゼネストが発生した[367]。ゼネストは2週間以上続き、首相であるアラン・ジュペは労組との対話に乗らざるを得なくなった[368]。しかし対談は暗礁に乗り上げ、ついには外交日程にまで影響を及ぼすようになり、ジュペはついに労組側が提示した公務員の年金受給資格の延期案の取り下げを受け入れ、ゼネスト開始から約3週間当たる12月18日には全てのストライキが解消された[369]。これら一連のゼネストをマスコミは「68年の五月革命以来の社会危機」と表現した[370]。これらのゼネストは時期が、本来であればクリスマス商戦が行われていた冬に展開されたことから、公共交通機関が軒並み停止されていたストライキの期間、ギフト需要が見込まれていた衣料品や玩具屋、大手百貨店などの売り上げは大幅に落ち込んだ[371]

また少し遡って9月では旧フランス植民地であったコモロで軍事クーデターが発生し、コモロと協定を結んでいたフランスは軍事介入を踏み切り、クーデターを終結させた[372]。こうした旧植民地国とのアフリカ外交は、旧植民地国の経済的、軍事的なつながりを深め、国連などの舞台で経済支援を行う一方で、そうした外交が結果として財政や軍事の面で重荷となっていた[373]

2003年3月にかねてより問題視されていたイラク武装解除問題から、英米を中心とする多国籍軍がイラク戦争が勃発するも、シラク政権は派兵を拒み、アメリカ合衆国政府からは、同じく派兵を渋っていたドイツなどに対して「古い欧州」と揶揄されるなど、米仏関係は悪化の一途を辿った[374]。また翌2004年には、スカーフ事件以来、問題となっていた「ライシテ」への解決のため、「公立小中高における宗教的シンボル禁止法英語版」が制定され、公立学校でのキマルなどの宗教的シンボルの着用が明確に違法化された[375]

2005年、欧州憲法条約をめぐる国民投票がフランス国内での反対派が勝利したことを受け、この憲法の国民投票を中断する事態が相次ぎ、欧州統合の流れは2年後の2007年に調印されたリスボン条約に引き継がれた[376]。これによって発足した欧州連合(EU)は、加盟国に対して規制緩和や民営化、自由化の流れを求める一方で、企業に対して国家による手厚い保護を前提とするフランスの経済モデルと相反するこうした要求は、フランス国内で反グローバリゼーション欧州懐疑主義といった論調を形成させ、これらの論調はフレグジットを呼びかける運動へとつながっていく[376]

ニコラ・サルコジ

2007年、シラクの後継を選ぶ大統領選挙ではニコラ・サルコジが当選した[377]。当初、フランス世論は、言いたい放題でやりたい放題なサルコジのスタイル[注釈 20]から、いずれ労組を刺激させ、シラク政権の船出がそうであったように、ゼネストを招くだろうと思われていたが、サルコジは大統領就任に伴って各労組の代表者をエリゼ宮に招き、対談をするなどして、労組とのチャンネルを築き、それに対応した[378]。一方で、ストライキを規制する法案が世論の反発を招いたが、提出された時期がバカンスで、パリに人が去っているシーズンであったため、目立った反対集会はほんの1日程度で、その後、この法案をスピード成立させるなど、世論を巧みに操る政策が続いた[379]

サルコジ政権では彼が経済的自由主義を信奉していたことから、英米との協調路線を強めた[380]。2010年10月、サルコジは治安維持を理由に「公共空間で顔を覆うことを禁止する法律フランス語版」が制定され、ライシテをめぐる新たな議論を呼んだ[381]

フランソワ・オランド

2012年からは社会党のフランソワ・オランドが大統領に当選する[382]。オランド政権では2013年にヴァンサン・ペイヨン教育大臣によって、公立学校における宗教的所属を誇示する標章を禁止する旨が盛り込まれた「ライシテ憲章」が採択され、シラク政権やサルコジ政権などの右派政権で成立したような一連のライシテに関する規制的な立法が、左派政権であるオランド政権においても同様の積極性を持つものであることが示された[383]。こうした左右両翼に囚われないライシテ政策はフランス国内のイスラーム勢力を刺激させ、2015年にはパリ同時多発テロ事件シャルリー・エブド襲撃事件などのイスラーム系によるテロ事件が横行した[384][385]

2013年、フランスはマリ北部戦争に軍事介入した[386]。(セルヴァル作戦)

2014年1月から3月にかけては、企業減税などを中核とする政策パッケージを提唱し、緊縮派のマニュエル・ヴァルスを首相に任命するなどして、緊縮政策を行った[387]。しかしこうした政策は、欧州統合を進めるためには緊縮政策はやむなしとする緊縮派と、失業を減らすためには緊縮政策を放棄するべきだとする反緊縮派の両方からの失望をもたらし、支持率は暴落した[387]。また同年に制定された「フロランジュ法」をめぐるジャン=マルク・エロー前首相とアルノー・モントブール英語版元経済相の対立は、政権弱体化を印象付けた[388]

こうした不人気による支持率の低迷を受け、オランドは2017年の大統領選挙での再選を目指さないことを発表する[389]。こうした現職大統領が再選を目指さない事例は第五共和政以来、初めてであった[390]

エマニュエル・マクロン
黄色いベスト運動

2017年に再生エマニュエル・マクロンが大統領に就任した[391]。マクロンの大統領就任は、フランスの歴史上、最年少の大統領就任であり、第五共和政以来、初となる二大主要政党[注釈 21]以外の大統領就任でもあった[392]。首相には元共和党の中道派エドゥアール・フィリップが任命された。2018年11月17日にはマクロンの政策への反発から黄色いベスト運動が発生した。これを受け翌2019年1月には国民の声を直接聞く「国民大討論」が開催された[393]

2018年より、ニューカレドニアでの独立運動を受け、フランス政府とニューカレドニアの先住民側とで1998年に結ばれた「ヌーメア協定英語版」に基づき、ニューカレドニアの独立のための住民投票が行われた。投票は2018年1月の投票と、2020年10月の投票が2021年現在、計2回行われており、いずれも否決されている[394]

2019年、パリのノートルダム大聖堂の火災が発生し、歴史的な尖塔が焼失するなどの被害を受けた[395]

2020年1月より、中華人民共和国湖北省武漢市から世界中に流行拡大した新型コロナウイルス感染症(COVID-19)がフランスにも流行拡大しその対策に追われる (フランスにおける2019年コロナウイルス感染症の流行状況)。7月にはコロナ対策のほか、いまだ続く「黄色いベスト運動」などの影響を受けた統一地方選での大敗などを受け、フィリップ内閣が総辞職し、後継としてジャン・カステックスが首相に任命された[396][397]

2021年5月21日、マクロンはそれまでの政権が認めてこなかった1994年のルワンダ虐殺におけるフランスの黙認への責任を認めた[398]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 現在のマルセイユ
  2. ^ 現在のニース
  3. ^ カエサル以前に早期にローマに属州化されていた南フランスの地域の一部はしばしば単に「プロウィンキア(属州)」と呼ばれた。この名称が現在のプロヴァンスという地名に繋がる。
  4. ^ もっとも、これは後に教会の司教を選ぶ叙任権をめぐる争いを誘発した。
  5. ^ 例えばロベール2世は仇敵ブルグント王国の近親関係にあった王女ベルトとの結婚を推し進め、結果997年に破門を宣告されたり、フィリップ1世は譜代の家臣の娘であり、すでに人妻であったベルトラード・ドゥ・モンフォールとの不倫によって1095年に破門を宣告された。
  6. ^ 自然国境説という説明がなされることがあるが、当時の概念ではなく19世紀の歴史家による恣意的な解釈である。
  7. ^ 王権と結びつきのあったキリスト教教会を否定する形で、 (つまり反キリスト教の立場から) それまでのグレゴリウス暦を否定した。共和暦とも呼ばれる。
  8. ^ 共和暦3年憲法とも言う。
  9. ^ なお、バブーフはこの宣告を受け、処刑される前に短剣で自殺した。
  10. ^ 余談ではあるが、この条約の結果、ヴェネツィア共和国ジェノヴァ共和国は消滅する。
  11. ^ ナポレオン法典とも呼ばれる。
  12. ^ この12月2日という日は、ナポレオン1世の戴冠式の日でもあり、アウシュテルリッツ三帝会戦での勝利の日でもあったため、ナポレオン3世はその日に合わせて、クーデターと、自身の帝位戴冠の日程を合わせた。
  13. ^ スペインでプロイセン王家であるホーエンツォレルン家の人物が王位につく話が持ち上がり、フランスがそれに対して強硬に反対を示して白紙に戻した。
  14. ^ オルレアン家のパリ伯は革命後に作られた「赤・白・青」の三色旗を国旗とすることを主張したことに対し、シャンボール伯はブルボン王家時代の白旗に固執し、両王家との折衝は難航した。
  15. ^ フランス史からは逸れるところなので、注釈程度に収めるが、日露戦争の結果、中近東ではロシアに代わってドイツの脅威が差し迫ったことから、1907年には英露協商が形成され、英仏協商、露仏同盟、英露協商によるドイツ包囲網が形成されていった。
  16. ^ なおイギリスはこの時の動向ははっきりしておらず、英仏協商はイギリスの介入は義務付けてなかったことや、ロンドン秘密会議でのドイツのフランス攻撃時の援助は明確な言質を与えることをイギリス政府が拒否していたが、8月3日にドイツがフランス侵攻のために、国際条約を無視して中立を宣言していたベルギーへと侵攻したため、参戦を決定した。
  17. ^ フランスにおける人工中絶の禁止は、1974年のヴェイユ法成立までつづいた[228]
  18. ^ ドイツの中央集権化の阻止と、ルールの国際管理に置き、ラインを英仏白蘭の4カ国による占領、そしてザールの独立など。
  19. ^ これは加盟国同士の為替相場が上限と下限の間を蛇のように蛇行することからそう名付けられた。
  20. ^ たとえば大統領に当選した翌日に休養を宣言し、マルタ島でヨットでクルーズをしていたり、パリの国際農業見本市で現地の男性と口論になり「失せろ、馬鹿野郎。」と罵る姿が撮影、録画されるなど、言動や行動に関するエピソードを挙げれば枚挙にいとまがない。
  21. ^ 社会党と共和党

出典

[編集]
  1. ^ a b c d 金沢 1984, p. 10-11.
  2. ^ a b c 新倉ら 1977, p. 269.
  3. ^ a b 新倉ら 1977, p. 316-317.
  4. ^ Eppie R. Jones, Gloria Gonzalez-Fortes, Sarah Connell, Veronika Siska, Anders Eriksson, Rui Martiniano, Russell L. McLaughlin, Marcos Gallego Llorente, Lara M. Cassidy, Cristina Gamba, Tengiz Meshveliani, Ofer Bar-Yosef, Werner Müller, Anna Belfer-Cohen, Zinovi Matskevich, Nino Jakeli, Thomas F. G. Higham, Mathias Currat, David Lordkipanidze, Michael Hofreiter et al.(2015) Upper Palaeolithic genomes reveal deep roots of modern Eurasians Nature Communications 6, Article number: 8912 doi:10.1038/ncomms9912
  5. ^ 井上 1995, p. 11.
  6. ^ Eupedia1
  7. ^ Eupedia2
  8. ^ a b c 井上 1995, p. 12.
  9. ^ Eupedia
  10. ^ 福井 2005, p. 28-32.
  11. ^ a b 柴田 2006, p. 5-7.
  12. ^ 井上 1995, p. 13.
  13. ^ a b 毛利 2011, pp. 30–31.
  14. ^ a b 蔵持 1995, pp. 77–78.
  15. ^ a b 高遠 2020, p. 19-21.
  16. ^ a b 金沢 1984, p. 20-22.
  17. ^ 島田 2021, p. 153.
  18. ^ 井上 1995, p. 18.
  19. ^ 後藤 1995, pp. 96–113.
  20. ^ 後藤 1995, pp. 103–107.
  21. ^ a b c 金沢 1984, p. 24-25.
  22. ^ a b 後藤 1995, pp. 98–99.
  23. ^ 後藤 1995, p. 102.
  24. ^ 後藤 1995, p. 118.
  25. ^ 後藤 1995, p. 120.
  26. ^ 後藤 1995, p. 121.
  27. ^ 後藤 1995, p. 124.
  28. ^ 後藤 1995, p. 125.
  29. ^ 金沢 1984, p. 27-28.
  30. ^ a b c 世界史の窓”. 2021年5月4日閲覧。
  31. ^ 福井 2005, p. 57.
  32. ^ a b コンボー 2002, p. 19-20.
  33. ^ a b 高遠 2020, p. 24-27.
  34. ^ a b c d e f g h i 木村ら 2014, p. 121-127.
  35. ^ a b c d e 世界史の窓”. 2021年5月4日閲覧。
  36. ^ a b c d e 柴田 2006, p. 10-12.
  37. ^ a b コンボー 2002, p. 21.
  38. ^ シャルマソン 2007, p. 8-9.
  39. ^ シャルマソン 2007, p. 10.
  40. ^ 金沢 1984, p. 30-33.
  41. ^ 佐藤 2009, p. 10-11.
  42. ^ a b 菊池 2003, p. 27-28.
  43. ^ 菊池 2003, p. 29.
  44. ^ 浜島書店 2012, p. 98.
  45. ^ a b 世界史の窓”. 2021年4月5日閲覧。
  46. ^ 福井 2005, p. 66.
  47. ^ a b c d e 柴田 2006, p. 14-15.
  48. ^ a b c d 金沢 1984, p. 40-42.
  49. ^ 世界史の窓”. 2021年5月4日閲覧。
  50. ^ a b 高遠 2020, p. 32-34.
  51. ^ 渡辺ら 2007, p. 26-28.
  52. ^ シャルマソン 2007, p. 36-37.
  53. ^ a b 佐藤 2009, p. 18-19.
  54. ^ シャルマソン 2007, p. 40-42.
  55. ^ シャルマソン 2007, p. 46.
  56. ^ a b 高遠 2020, p. 34-35.
  57. ^ a b 柴田 2006, p. 16-17.
  58. ^ 新倉ら 1977, p. 270.
  59. ^ 柴田 2006, p. 40-41.
  60. ^ a b c d 金沢 1984, p. 50-52.
  61. ^ 佐藤 2009, p. 56.
  62. ^ a b 金沢 1984, p. 54-55.
  63. ^ 櫻井 2019, p. 39-40.
  64. ^ a b c d 浜島書店 2012, p. 104.
  65. ^ 佐藤 2009, p. 82-86.
  66. ^ 高遠 2020, p. 37.
  67. ^ 佐藤 2009, p. 119-121.
  68. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 木村ら 2014, p. 142-147.
  69. ^ a b 世界史の窓”. 2021年5月4日閲覧。
  70. ^ 世界史の窓”. 2021年5月9日閲覧。
  71. ^ a b 世界史の窓”. 2021年5月4日閲覧。
  72. ^ a b 井上 1995, p. 66-67.
  73. ^ 高遠 2020, p. 40-42.
  74. ^ 福井 2005, p. 120-121.
  75. ^ 浜島書店 2012, p. 108.
  76. ^ 柴田 2006, p. 56-57.
  77. ^ a b 新倉ら 1977, p. 272.
  78. ^ 金沢 1984, p. 100-101.
  79. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 木村ら 2014, p. 214-222.
  80. ^ a b c d 金沢 1984, p. 107-110.
  81. ^ 渡辺ら 2007, p. 60-61.
  82. ^ 新倉ら 1977, p. 273.
  83. ^ a b 渡辺ら 2007, p. 69-71.
  84. ^ 福井 2005.
  85. ^ a b c 柴田 2006, p. 82-83.
  86. ^ 福井 2005, p. 157.
  87. ^ 喜安 2009, p. 14-16.
  88. ^ a b 渡辺ら 2007, p. 78-79.
  89. ^ 渡辺ら 2007, p. 80-82.
  90. ^ a b c d e f 木村ら 2014, p. 227-228.
  91. ^ a b c 柴田 2006, p. 84-85.
  92. ^ a b c 金沢 1984, p. 138-141.
  93. ^ a b c d e 金沢 1984, p. 158-159.
  94. ^ 柴田 2006, p. 96-99.
  95. ^ 佐藤 2019, p. 333-334.
  96. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj 木村ら 2014, p. 248-255.
  97. ^ 佐藤 2019, p. 339-340.
  98. ^ 金沢 1984, p. 173-175.
  99. ^ 柴田 2006, p. 121.
  100. ^ a b 高遠 2020, p. 95-97.
  101. ^ 高遠 2020, p. 107.
  102. ^ セディヨ 1991, p. 45-47.
  103. ^ 高遠 2020, p. 107-108.
  104. ^ 金沢 1984, p. 183.
  105. ^ 高遠 2020, p. 105.
  106. ^ 金沢 1984, p. 190-191.
  107. ^ 高遠 2020, p. 102.
  108. ^ a b c セディヨ 1991, p. 48-49.
  109. ^ 本田 1981, p. 263-264.
  110. ^ a b 杉本ら 2016, p. 49-50.
  111. ^ 高遠 2020, p. 113.
  112. ^ 金沢 1984, p. 192.
  113. ^ a b c d 金沢 1984, p. 95-96.
  114. ^ 柴田 2006, p. 133-134.
  115. ^ a b c d e f 木村ら 2014, p. 156-158.
  116. ^ a b 柴田 2006, p. 143.
  117. ^ 浜島書店 2012, p. 152.
  118. ^ a b c d 柴田 2006, p. 143-144.
  119. ^ a b c 杉本ら 2016, p. 87-88.
  120. ^ 佐藤 2019, p. 411.
  121. ^ 高遠 2020, p. 121-122.
  122. ^ 柴田 2006, p. 147-149.
  123. ^ 杉本ら 2016, p. 89-90.
  124. ^ a b c d e f g h i 金沢 1984, p. 202-205.
  125. ^ a b c d 木村ら 2014, p. 261-262.
  126. ^ 柴田 2006, p. 150-152.
  127. ^ a b c d e f g 杉本ら 2016, p. 104-105.
  128. ^ a b c d e f 金沢 1984, p. 208-210.
  129. ^ a b c d e f g h i j k l 杉本ら 2016, p. 109-111.
  130. ^ a b c d e f 杉本ら 2016, p. 111-113.
  131. ^ a b コンボー 2002, p. 80-81.
  132. ^ 高遠 2020, p. 130-131.
  133. ^ a b 柴田 2006, p. 157-158.
  134. ^ 金沢 1984, p. 210-211.
  135. ^ 杉本ら 2016, p. 113-114.
  136. ^ a b c d e 杉本ら 2016, p. 115-116.
  137. ^ a b c d e 杉本ら 2016, p. 116.
  138. ^ a b c d 柴田 2006, p. 159.
  139. ^ 金沢 1984, p. 211-212.
  140. ^ a b c d e 柴田 2006, p. 159-160.
  141. ^ a b c 杉本ら 2016, p. 116-117.
  142. ^ a b 渡辺ら 1997, p. 3.
  143. ^ a b 金沢 1984, p. 213.
  144. ^ 杉本ら 2016, p. 157.
  145. ^ 渡辺ら 1997, p. 4.
  146. ^ a b c d 高遠 2020, p. 147-148.
  147. ^ a b c d e f g 柴田 2006, p. 164.
  148. ^ a b c d 金沢 1984, p. 157.
  149. ^ a b c d e f 渡辺ら 1997, p. 5.
  150. ^ a b 渡辺ら 1997, p. 6.
  151. ^ a b c d e f g h i j 渡辺ら 1997, p. 6-7.
  152. ^ a b c 高遠 2020, p. 149.
  153. ^ a b c d e f g h 杉本ら 2016, p. 158.
  154. ^ a b c d e 渡辺ら 1997, p. 8-9.
  155. ^ a b 金沢 1984, p. 218-219.
  156. ^ a b 高遠 2020, p. 149-150.
  157. ^ 柴田 2006.
  158. ^ a b c d e f g h i j 渡辺ら 1997, p. 10-11.
  159. ^ a b c 金沢 1984, p. 219.
  160. ^ a b c d 西海 1983, p. 176.
  161. ^ 鹿島 1967, p. 4.
  162. ^ a b c d 渡辺ら 1997, p. 12-13.
  163. ^ a b c d e f g h i 杉本ら 2016, p. 159.
  164. ^ a b c d 柴田 2006, p. 166.
  165. ^ 金沢 1984, p. 220.
  166. ^ 西海 1983, p. 179.
  167. ^ a b 渡辺ら 1997, p. 14.
  168. ^ a b c d e 渡辺ら 1997, p. 14-16.
  169. ^ a b c 柴田 2006, p. 167.
  170. ^ a b c d 杉本ら 2016, p. 159-160.
  171. ^ a b c 渡辺ら 1997, p. 27-28.
  172. ^ 柴田 2006, p. 167-168.
  173. ^ a b c d e f g 杉本ら 2016, p. 162.
  174. ^ a b c d e 柴田 2006, p. 168-169.
  175. ^ a b c d 渡辺ら 1997, p. 36-37.
  176. ^ a b c d 金沢 1984, p. 220-221.
  177. ^ a b c d e f 渡辺ら 1997, p. 38-39.
  178. ^ a b 金沢 1984, p. 222.
  179. ^ a b c d e f g h 渡辺ら 1997, p. 41-42.
  180. ^ a b c d 柴田 2006, p. 169-170.
  181. ^ a b c d e 杉本ら 2016, p. 163-164.
  182. ^ a b c d e f 高遠 2020, p. 172-175.
  183. ^ 杉本ら 2016, p. 161.
  184. ^ 高遠 2020, p. 156-157.
  185. ^ a b c 杉本ら 2016, p. 164-166.
  186. ^ 高遠 2020, p. 161-165.
  187. ^ 高遠 2020, p. 167-168.
  188. ^ 高遠 2020, p. 168-171.
  189. ^ 杉本ら 2016, p. 202-207.
  190. ^ a b c d 杉本ら 2016, p. 167.
  191. ^ a b 柴田 2006, p. 178-179.
  192. ^ 渡辺ら 1997, p. 62.
  193. ^ a b c d 木村ら 2014, p. 317.
  194. ^ 横山 1963, p. 29.
  195. ^ 横山 1963, p. 36.
  196. ^ a b c 杉本ら 2016, p. 169.
  197. ^ 渡辺ら 1997, p. 62-64.
  198. ^ 渡辺ら 1997, p. 65.
  199. ^ a b c 金沢 1984, p. 224-225.
  200. ^ a b c d e f g 渡辺ら 1997, p. 66-67.
  201. ^ a b c d e 杉本ら 2016, p. 164.
  202. ^ 渡辺ら 1997, p. 45.
  203. ^ a b 渡辺ら 1997, p. 50-51.
  204. ^ a b c 柴田 2006, p. 180.
  205. ^ 渡辺ら 1997, p. 68-69.
  206. ^ a b c 渡辺ら 1997, p. 69-70.
  207. ^ 柴田 2006, p. 181.
  208. ^ a b 柴田 2006, p. 185.
  209. ^ 杉本ら 2016, p. 170.
  210. ^ 山上 2017, p. 30-37.
  211. ^ 宮川 2017, p. 70.
  212. ^ 渡辺ら 1997, p. 73.
  213. ^ a b 飯倉 2016, p. 38-39.
  214. ^ 渡辺ら 1997, p. 71-72.
  215. ^ a b 渡辺ら 1997, p. 74.
  216. ^ 渡辺ら 1997, p. 75-76.
  217. ^ 飯倉 2016, p. 110-114.
  218. ^ a b 渡辺ら 1997, p. 77.
  219. ^ a b c 柴田 2006, p. 186.
  220. ^ 飯倉 2016, p. 155-157.
  221. ^ 飯倉 2016, p. 172-173.
  222. ^ a b c 渡辺ら 1997, p. 78.
  223. ^ 飯倉 2016, p. 211-212.
  224. ^ 飯倉 2016, p. 228-230.
  225. ^ 金沢 1984, p. 226.
  226. ^ a b 渡辺ら 1997, p. 79-81.
  227. ^ a b c 杉本ら 2016, p. 173.
  228. ^ (フランス語) Loi n° 75-17 du 17 janvier 1975 relative à l'interruption volontaire de la grossesse, https://www.legifrance.gouv.fr/affichTexte.do;?cidTexte=JORFTEXT000000700230&dateTexte=vig 2021年6月21日閲覧。 
  229. ^ a b 渡辺ら 1997, p. 88-89.
  230. ^ a b 宮川 2017, p. 13.
  231. ^ 渡辺ら 1997, p. 71.
  232. ^ a b 柴田 2006, p. 187.
  233. ^ a b 金沢 1984, p. 226-227.
  234. ^ a b c d e 渡辺ら 1997, p. 82-83.
  235. ^ a b c 杉本ら 2016, p. 176.
  236. ^ 柴田 2006, p. 180-189.
  237. ^ a b c d 渡辺ら 1997, p. 85.
  238. ^ 金沢 1984, p. 227-228.
  239. ^ a b 渡辺ら 1997, p. 85-86.
  240. ^ 杉本ら 2016, p. 117.
  241. ^ 渡辺ら 1997, p. 86-87.
  242. ^ a b 渡辺ら 1997, p. 91-92.
  243. ^ a b c 杉本ら 2016, p. 179-181.
  244. ^ a b 渡辺ら 1997, p. 97-98.
  245. ^ 杉本ら 2016, p. 182.
  246. ^ 渡辺ら 1997, p. 105-107.
  247. ^ 杉本ら 2016, p. 183-184.
  248. ^ 杉本ら 2016, p. 185-186.
  249. ^ a b 渡辺ら 1997, p. 107-108.
  250. ^ a b c 金沢 1984, p. 230.
  251. ^ ヴィラール 2006, p. 142-146.
  252. ^ 渡辺ら 1997, p. 122.
  253. ^ a b c 柴田 2006, p. 199.
  254. ^ 金沢 1984, p. 231.
  255. ^ 渡辺ら 1997, p. 123.
  256. ^ a b c 渡辺ら 1997, p. 124.
  257. ^ 渡辺ら 1997, p. 124-125.
  258. ^ a b c d e f 渡辺ら 1997, p. 126.
  259. ^ a b 柴田 2006, p. 200.
  260. ^ 宮川 2017, p. 119-121.
  261. ^ 杉本ら 2016, p. 235.
  262. ^ a b c 柴田 2006, p. 201.
  263. ^ a b 高遠 2020, p. 194-195.
  264. ^ 渡辺ら 1997, p. 126-127.
  265. ^ 渡辺ら 1997, p. 127.
  266. ^ a b c 小田中 2018, p. 20-21.
  267. ^ ミュラシオル 2008, p. 11-14.
  268. ^ ミュラシオル 2008, p. 23-26.
  269. ^ ミュラシオル 2008, p. 80-84.
  270. ^ a b c 渡辺ら 1997, p. 130-131.
  271. ^ リグロ 1999, p. 47-50.
  272. ^ リグロ 1999, p. 61-63.
  273. ^ リグロ 1999, p. 67-75.
  274. ^ 渡辺ら 1997, p. 131.
  275. ^ a b 柴田 2006, p. 202.
  276. ^ 渡辺ら 1997, p. 141.
  277. ^ a b c 渡辺ら 1997, p. 139.
  278. ^ 渡邊 1998, p. 13.
  279. ^ 渡邊 1998, p. 3.
  280. ^ 高遠 2020, p. 198.
  281. ^ 高遠 2020, p. 201.
  282. ^ 渡邊 1998, p. 5-6.
  283. ^ ベルジェール 2019, p. 18-23.
  284. ^ 小田中 2018, p. 23.
  285. ^ 渡邊 1998, p. 7.
  286. ^ 渡辺ら 1997, p. 148.
  287. ^ 小田中 2018, p. 24.
  288. ^ 小田中 2018, pp. 25–26.
  289. ^ 渡辺ら 1997, p. 149.
  290. ^ a b c 井上 1995, p. 518-519.
  291. ^ 杉本ら 2016, p. 261.
  292. ^ 岩波書店編集部 編『近代日本総合年表 第四版』岩波書店、2001年11月26日、347頁。ISBN 4-00-022512-X 
  293. ^ 渡辺ら 1997, p. 151.
  294. ^ 渡辺ら 1997, p. 152.
  295. ^ 渡邊 1998, p. 29-30.
  296. ^ 小田中 2018, p. 35.
  297. ^ 高遠 2020, p. 202.
  298. ^ 高遠 2020, p. 200-201.
  299. ^ 金沢 1984, p. 234.
  300. ^ 渡邊 1998, p. 30-31.
  301. ^ a b 小田中 2018, p. 39.
  302. ^ 渡邊 1998, p. 35.
  303. ^ 渡邊 1998, p. 39-40.
  304. ^ 渡辺ら 1997, p. 169.
  305. ^ a b 渡辺ら 1997, p. 169-170.
  306. ^ a b 渡辺ら 1997, p. 170.
  307. ^ 渡辺ら 1997, p. 172.
  308. ^ 藤井 2010, p. 128-129.
  309. ^ 渡辺ら 1997, p. 174.
  310. ^ 渡辺ら 1997, p. 174-175.
  311. ^ 渡辺ら 1997, p. 176.
  312. ^ 渡辺ら 1997, p. 176-180.
  313. ^ 渡邊 1998, p. 78-91.
  314. ^ a b 渡邊 1998, p. 101.
  315. ^ 渡邊 1998, p. 102.
  316. ^ a b 小田中 2018, p. 66.
  317. ^ 柴田 2006, p. 214.
  318. ^ 小田中 2018, p. 67-68.
  319. ^ 小田中 2018, p. 70.
  320. ^ 杉本ら 2016, p. 291.
  321. ^ 柴田 2006, p. 215.
  322. ^ 小田中 2018, p. 70-71.
  323. ^ 渡邊 1998, p. 118.
  324. ^ 渡邊 1998, p. 119.
  325. ^ 渡邊 1998, p. 125.
  326. ^ 渡邊 1998, p. 126.
  327. ^ 渡邊 1998, p. 122.
  328. ^ a b 渡邊 1998, p. 123.
  329. ^ a b 柴田 2006, p. 217.
  330. ^ 小田中 2018, p. 96-97.
  331. ^ 柴田 2006, p. 217-218.
  332. ^ 小田中 2018, p. 99.
  333. ^ 柴田 2006, p. 218.
  334. ^ a b 小田中 2018, p. 102.
  335. ^ a b 小田中 2018, p. 103-104.
  336. ^ a b 小田中 2018, p. 109.
  337. ^ 小田中 2018, p. 109-110.
  338. ^ a b 小田中 2018, p. 110.
  339. ^ 小田中 2018, p. 105.
  340. ^ シリネッリ 2014, p. 52.
  341. ^ 小田中 2018, p. 108.
  342. ^ a b 小田中 2018, p. 111.
  343. ^ a b c シリネッリ 2014, p. 56.
  344. ^ a b 藤井 2010, p. 135.
  345. ^ 渡邊 1998, p. 209.
  346. ^ 渡邊 1998, p. 217.
  347. ^ 小田中 2018, p. 129.
  348. ^ 渡邊 1998, p. 220.
  349. ^ 小田中 2018, p. 132.
  350. ^ 小田中 2018, p. 134.
  351. ^ 小田中 2018, p. 134-135.
  352. ^ 小田中 2018, p. 136-138.
  353. ^ 小田中 2018, p. 138-139.
  354. ^ 小田中 2018, p. 141-142.
  355. ^ 小田中 2018, p. 142.
  356. ^ 藤巻 1996, p. 43.
  357. ^ a b 渡邊 1998, p. 270-271.
  358. ^ 渡邊 1998, p. 279-280.
  359. ^ 杉本ら 2016, p. 333.
  360. ^ a b 小田中 2018, p. 158.
  361. ^ a b 渡邊 1998, p. 281-282.
  362. ^ a b 小田中 2018, p. 161.
  363. ^ 渡邊 1998, p. 297.
  364. ^ a b 渡邊 1998, p. 310.
  365. ^ 渡邊 1998, p. 311-312.
  366. ^ 軍司 2003, p. 54-55.
  367. ^ 軍司 2003, p. 7-11.
  368. ^ 軍司 2003, p. 17.
  369. ^ 軍司 2003, p. 19-21.
  370. ^ 藤巻 1996, p. 161.
  371. ^ 藤巻 1996, p. 165.
  372. ^ 藤巻 1996, p. 192.
  373. ^ 藤巻 1996, p. 193.
  374. ^ 小田中 2018, p. 178.
  375. ^ 小田中 2018, p. 140.
  376. ^ a b 杉本ら 2016, p. 334.
  377. ^ 小田中 2018, p. 185.
  378. ^ 国末 2009, p. 112.
  379. ^ 国末 2009, p. 113-114.
  380. ^ 小田中 2018, p. 188.
  381. ^ 小田中 2018, p. 200.
  382. ^ 小田中 2018, p. 201.
  383. ^ 伊達 2018, p. 43-44.
  384. ^ 小田中 2018, p. 203.
  385. ^ 伊達 2018, p. 45.
  386. ^ オランド大統領が前代未聞の退場をした理由 5年間の功罪を振り返る”. HUFFPOST. 2021年5月14日閲覧。
  387. ^ a b 小田中 2018, p. 202.
  388. ^ オランド大統領が前代未聞の退場をした理由 5年間の功罪を振り返る”. HUFFPOST. 2021年5月14日閲覧。
  389. ^ オランド仏大統領、再選目指さず 現職として異例”. BBC NEWS | JAPAN. 2021年5月14日閲覧。
  390. ^ オランド仏大統領、再選目指さず 現職として異例”. BBC NEWS | JAPAN. 2021年5月14日閲覧。
  391. ^ 小田中 2018, p. 205.
  392. ^ 【仏大統領選】中道派マクロン氏が勝利 ル・ペン氏抑え”. BBC NEWS | JAPAN. 2021年5月16日閲覧。
  393. ^ 仏、黄色いベスト運動1年 反マクロン「弱者切り捨て」 続くデモ、不満なお”. 東京新聞. 2021年5月14日閲覧。
  394. ^ フランスからの独立また否決 ニューカレドニア住民投票”. 朝日新聞. 2021年5月16日閲覧。
  395. ^ ノートルダム大聖堂再建へ、樹齢数百年の仏産オークを使用”. CNN.co.jp. 2021年5月16日閲覧。
  396. ^ フランス内閣総辞職 マクロン大統領、支持率回復狙う”. 日本経済新聞. 2021年5月14日閲覧。
  397. ^ マクロン仏大統領、新首相にカステックス氏を起用-内閣総辞職受け”. Bloomberg. 2021年5月14日閲覧。
  398. ^ 80万人犠牲のルワンダ大虐殺「フランスにも重大な責任」 マクロン大統領が歴代政権で初めて認める”. 東京新聞. 2021年5月30日閲覧。

参考文献

[編集]

金沢誠『フランス史』ダヴィッド社 

  • 蔵持不三也「第一章 先史時代・ケルト人社会」『フランス史1』山川出版社〈世界歴史大系〉、1995年9月。ISBN 978-4-634-46090-4 
  • 後藤篤子「第二章 ローマ属州ガリア」『フランス史1』山川出版社〈世界歴史大系〉、1995年9月。ISBN 978-4-634-46090-4 
  • 佐藤彰一中野隆生「第1章 先史時代から古代末期までのガリア」『フランス史研究入門』山川出版社、2011年11月。ISBN 978-4-634-64037-5 
  • 島田誠「第四章 帝政期のイタリア 1 アウグストゥスとイタリア」『イタリア史1』山川出版社〈世界歴史大系〉、2021年3月。ISBN 978-4-634-462014 
  • 井上幸治『世界各国史2 フランス史』山川出版社 
  • 福井憲彦『フランス史』山川出版社〈新版 世界各国史 12〉。 
  • 柴田三千雄『フランス史10講』岩波新書、2006年11月24日。 
  • 高遠弘美『物語 パリの歴史』講談社現代新書、2020年3月12日。 
  • 喜安朗『パリ 都市統治の近代』岩波新書、2009年10月20日。 
  • イヴァン・コンボー 著、小林茂 訳『パリの歴史』白水社文庫クセジュ〉、2002年7月30日。 
  • テレーズ・シャルマソン 著、福本直之 訳『フランス中世史年表 481~1515年』白水社〈文庫クセジュ〉、2007年7月30日。 
  • 佐藤賢一『カペー朝 フランス王朝史1』講談社現代新書、2009年7月20日。 
  • 佐藤賢一『ヴァロワ朝 フランス王朝史2』講談社現代新書、2014年9月20日。 
  • 佐藤賢一『ブルボン朝 フランス王朝史3』講談社現代新書、2019年6月20日。 
  • ルネ・セディヨ 著、山崎耕一 訳『フランス革命の代償』草思社、1991年9月5日。 
  • 本田喜代治『フランス革命史』法政大学出版局、1981年5月30日。 
  • 西海太郎『フランス第三共和政史研究』中央大学出版部、1983年4月20日。 
  • 横山信『近代フランス外交史序説』東京大学出版会、1963年8月30日。 
  • ジャン=フランソワ・ミュラシオル 著、福本直之 訳『フランス・レジスタンス史』白水社〈文庫クセジュ〉、2008年7月20日。 
  • ピエール・リグロ 著、宇京頼三 訳『戦時下のアルザス・ロレーヌ』白水社〈文庫クセジュ〉、1999年9月25日。 
  • マルク・ベルジェール 著、宇京頼三 訳『コラボ=対独協力者の粛清』白水社〈文庫クセジュ〉、2019年11月20日。 
  • 杉本淑彦、竹中幸史『教養のフランス近現代史』ミネルヴァ書房、2016年4月30日。 
  • 渡辺和行、南允彦、森本哲郎『現代フランス政治史』ナカニシヤ出版、1997年11月10日。 
  • 宮川裕章『フランス現代史 隠された記憶 戦争のタブーを追跡する』ちくま新書、2017年9月10日。 
  • 渡邊啓貴『フランス現代史 英雄の時代から保革共存へ』中公新書、1998年4月25日。 
  • 小田中直樹『フランス現代史』岩波新書、2018年12月20日。 
  • ジャン=フランソワ・シリネッリ 著、川嶋周一 訳『第五共和制』白水社〈文庫クセジュ〉、2014年11月10日。 
  • 藤巻秀樹『シラクのフランス 新ゴーリスト政権のジレンマ』日本経済新聞社、1996年3月25日。 
  • 軍司泰史『シラクのフランス』岩波新書、2003年9月19日。 
  • 国末憲人『サルコジ マーケティングで政治を変えた大統領』新潮社、2009年5月25日。 
  • 伊達聖伸『ライシテから読む現代フランス 政治と宗教のいま』岩波新書、2018年3月20日。 
  • 新倉俊一・朝比奈誼・石井晴一『事典 現代のフランス』大修館書店。 
  • 木村靖二佐藤次高岸本美緒『詳説世界史』山川出版社、2014年3月5日。 
  • 『新詳世界史図説』浜島書店、2012年10月5日。 
  • 渡辺一夫、鈴木力衛『増補 フランス文学案内』岩波文庫別冊、2007年9月25日。 
  • 菊池良生『神聖ローマ帝国』講談社現代新書、2003年7月20日。 
  • 櫻井康人『図説 十字軍』河出書房新社〈ふくろうの本〉、2019年2月28日。 
  • 鹿島守之助『ビスマルクの外交政策』鹿島研究所出版会、1967年6月30日。 
  • 飯倉章『第一次世界大戦史 風刺画とともに見る指導者たち』中公新書、2016年4月10日。 
  • 山上正太郎『第一次世界大戦 忘れられた戦争』講談社学術文庫、2017年7月10日。 
  • ピエール・ヴィラール 著、立石博高・中塚次郎 訳『スペイン内戦』白水社〈文庫クセジュ〉、2006年2月20日。 
  • 藤井良広『EUの知識』日経文庫、2010年7月15日。 

関連文献

[編集]
  • ユリウス・カエサル 著、近山金次 訳『ガリア戦記岩波文庫、2014年10月24日。 
  • アルベール・ソブール 著、山崎耕一 訳『大革命前夜のフランス』法政大学出版局、1982年3月5日。 
  • アルベール・ソブール 著、井上幸治 訳『フランス革命と民衆』新評論、1984年12月30日。 
  • 多木浩二『絵で見るフランス革命 イメージの政治学』岩波新書、1989年6月20日。 
  • エドマンド・バーク 著、半澤孝麿 訳『フランス革命の省察』みすず書房、2018年7月26日。 
  • アレクシ・ド・トクヴィル 著、喜安朗 訳『フランス二月革命の日々』岩波文庫、1995年9月18日。 
  • アンドレ・モーロワ 著、高野彌一朗 訳『フランス、敗れたり』ウェッジ、2005年6月25日。 
  • ミュリエル・ジョリヴェ 著、鳥取絹子 訳『移民と現代フランス フランスは「住めば都」か』集英社新書、2016年12月18日。 
  • エマニュエル・マクロン 著、山本和子、松永りえ 訳『革命』ポプラ社、2018年4月5日。 
  • エマニュエル・トッド 著、堀茂樹 訳『シャルリとは誰か? 人種差別と没落する西欧』文藝春秋、2016年1月20日。 
  • 鹿島茂、関口涼子、堀茂樹『シャルリ・エブド事件を考える』白水社〈ふらんす〉、2015年3月11日。 
  • 『フランス史 2 16世紀-19世紀なかば』 柴田三千雄、樺山紘一、福井憲彦編、山川出版社〈世界歴史大系〉、1996年7月。ISBN 978-4-634-46100-0
  • 『フランス史 3 19世紀なかば-現在』 柴田三千雄、樺山紘一、福井憲彦編、山川出版社〈世界歴史大系〉、1995年6月。ISBN 978-4-634-46110-9
  • 長谷川輝夫『日常の近世フランス史』NHK出版〈NHKシリーズカルチャーアワー歴史再発見〉、2008年12月。ISBN 978-4-14-910669-4

関連項目

[編集]