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アラン人

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

アラン人(アラン族、Alans)は、紀元後に北カフカスから黒海北岸地方を支配した遊牧騎馬民族イラン系遊牧民族であるサルマタイを構成する部族のひとつ、ないしいくつかの総称[1]アラニ(Alani),アラウニ(Alauni),ハラニ(Halani)ともいう。

概説

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紀元後1世紀後半、文献記録においてアオルシ(アオルソイ)の名が消え、それに代わってアランという名の遊牧民が登場するようになる。このアランをサルマタイの一部と考える研究者が多く、中国史書の『後漢書』西域伝「奄蔡国、改名して阿蘭聊国」や、『魏略』西戎伝「奄蔡国、一名を阿蘭という」といった記述から、「奄蔡」をアオルシに、「阿蘭」をアランに比定することがある。考古学的には、黒海北岸における2世紀から4世紀の「後期サルマタイ文化」を、アランの文化と見なす見方もある。[2]

アランは紀元後にカスピ海沿岸から北カフカスを経て、黒海北岸のドン川流域に至る広大な地域を支配した。しかし、4世紀の半ばになって東の中央アジア方面から侵攻してきたフンの襲撃に遭い、潰滅的打撃を受け、フンの一部となって西の東西ゴート族侵攻に加わった。これが民族大移動の引き金となる。[3]

その後、アランの一部はパンノニアを経て民族移動期にドナウ川流域から北イタリアに侵入し、一部はガリアに入植した。さらにその一部はローマ人によってバルバロイを統治するためにブリテン島へ派遣された。また、他の一部はイベリア半島を通過して北アフリカにまで到達した。[1]

歴史

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起源

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4世紀後半のローマの歴史家であるアンミアヌス・マルケリヌスは「アランは以前マッサゲタエと呼ばれていた」と記す。また、18世紀フランスの歴史家ジョセフ・ド・ギーニュは「アランはもとトランスオクシアナの北方に住んでいたが、紀元前40年頃から西方に移転し始めた」と説いた。

中国による記録

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中国の記録によると、奄蔡という国がある時期から阿蘭国ないし阿蘭聊国[注 1]と改名し、康居という遊牧国家に属したり属さなかったりしていた。習俗からみて遊牧民であることがわかる。

西北に転じれば烏孫康居であり、本国は(これまで)増損が無い。北烏伊別国は康居の北に在り、又た柳国があり、又た巖国がある。又た奄蔡があって一名を阿蘭とし、皆な康居と習俗を同じくする。(これらは)西は大秦と、東南は康居と接している。その国には名品たる貂が多く、水草を逐って畜牧して大沢に臨み、ゆえに時には康居に羈属するが、今は属していない。 — 魚豢『魏略』西戎伝
奄蔡国は阿蘭聊国[注 1]と改名する。地城に住み、康居に属する。気候は温暖で、多くの楨、松、白草がある。民俗や衣服は康居と同じ。 — 范曄『後漢書』西域伝

パルティアへ侵入

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36年ローマ帝国シリア属州総督ルキウス・ウィテッリウスの手先に扇動されてアラン(アラニ)はコーカサス山脈の峠を通過し、イベリア(ヒベリア)人の妨害を受けることもなく、パルティア領内に集結した。[4]

72年頃、アラン(アラニ)は自領であるマイオティス湖(アゾフ海)周辺から進軍し、当時独立していたヒルカニアの王と同盟を結び、コーカサス山脈の「鉄の門」経由で南下し、メディア・アトロパテネに入った。パルティアボロガセス1世が弟のパコルスをメディア・アトロパテネ王に封じていたが、僻地に追いやっていたので、アランは不在中のパコルスの婦人部屋を襲った。アランは進軍を続け、西進してアルメニア王ティリダテスを破り、投げ縄で捕えようとしたが、戦利品を大量に与えられたので満足して東に向きを変えた。[5]

136年頃、アラン(アラニ)はイベリア(ヒベリア)のファラスマネスに説得されて東北からアルバニアとメディア・アトロパテネに侵入し、アルメニアとカッパドキアにまで進んだ。ムシハ・ズハの記述によれば、アラン軍がゴルディエネに侵入したので、アディアベネの総督ラフバフトと将軍アルシャクはボロガセス3世クテシフォンで徴兵した歩兵2万を率いてアラン軍に立ち向かった。パルティア軍はキゾという名の首領の計略にかかり、谷に閉じ込められた。ラフバフトの働きによりパルティア軍は脱出することができたが、ラフバフト自身は戦死してしまう。パルティア軍はやむなく退却し、メソポタミアへの道はアラン軍に明け渡された。しかし、ちょうどアラン本国が他の部族によって侵入を受けたので、アラン軍はその対応のため東方へ戻っていった。[6]

フンの来襲

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350年頃、カスピ海北岸から黒海にかけて住んでいたアランに東方からフンと呼ばれる騎馬遊牧民が襲いかかった。フン族はアランを取り込んで勢力を大きくし、375年頃、バランベルという首長に率いられ、黒海北岸にいた東ゴート族に侵入した。東ゴート族は敗れて一部は西方に移動し、一部はフンの配下に組み込まれた。376年、アランと東ゴートを組み込んだフンの一団は現在のルーマニア付近にいた西ゴート族に迫った。西ゴート族の大部分はドナウ川を渡河してローマ帝国に助けを求めた。[7]

カフカースに残ったアラン

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フンとともにヨーロッパへ移住したアランとは別に北カフカースに残ったアランもいた。クバン川テレク川の河間地帯や山中へと移動した[8]。6~7世紀には北カフカースに本拠を置き、しばしばサーサーン朝の同盟者としてその名がみえる。7~8世紀にはテュルク系ハザールブルガールと戦火を交え、その後もカフカース山中に残存した。8~9世紀に封建関係の萌芽が生まれ、10~12世紀には国家の形態をとるまでになった。10世紀にキリスト教が受容されたが、それは支配階級にとどまり、一般民衆の間には古来の多神教的な要素が根強く残ったという[8]オセット人カバルダ人など今日のカフカース諸民族は自らの民族形成にアランが果たした役割を強調しており、とくに北オセチア南オセチアは国名に「アラニヤ(Алания)」という語を付している。[9][10]

習俗

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生活

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4世紀後半のローマの軍人である歴史家アンミアヌス・マルケリヌスはアランの習俗について以下のように記している。

彼らは家を持たず、すきを使おうともせず、荷車に乗ったまま、肉と豊富な乳とを常食とする。そして、無限の砂漠を荷車で通り抜け、任意の牧草地に到着すると、円の中に荷車を設置し、荷車の中で動物の群のように生活する。いわば荷車は生活物資を備えた彼らの町なのである。その荷車の中で夫は妻と寝て、子どもたちは生まれて育てられる。この荷車は要するに彼らの永続する住居であり、荷車が設置できるところならどこでも設置できる。 — アンミアヌス・マルケリヌス『ローマの歴史』31巻-18

[11][12]

また、彼らの容貌についても以下のように記している。

ほぼすべてのアラニ人は背が高く美しい。彼らの髪は多少黄色で、彼らの目はひどく猛烈である。彼らの鎧は軽く、素早い動作ができる。 — アンミアヌス・マルケリヌス『ローマの歴史』31巻-21

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軍事

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アンミアヌス・マルケリヌスの記述によれば、アランは戦闘における最も壮麗な戦利品として、殺害した敵兵の頭皮を剥いで軍馬に飾るという[11]

考古学の調査によれば、アランは他のサルマタイ部族同様、長槍・長剣・馬鎧がかなり普及し、重装騎兵のような様相であったと推測される[12]

脚注

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注釈

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  1. ^ a b 「阿蘭聊国」は『魏略』に則り、「阿蘭」と「聊国」に分けて読むべきである。≪松田 1988≫

出典

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  1. ^ a b 雪嶋 2008, p.224
  2. ^ 護、岡田 1990, p.57
  3. ^ 護、岡田 1990, p.130
  4. ^ デベボイス 1993, p.125
  5. ^ デベボイス 1993, p,158
  6. ^ デベボイス 1993, p.189
  7. ^ 小松 2000, p.58
  8. ^ a b 加藤九祚 1984, p. 168.
  9. ^ 中央ユーラシアを知る事典 p.34
  10. ^ 小松 2000, p.40
  11. ^ a b c Ammianus Marcellinus, Roman History. London: Bohn (1862) Book 31. pp. 575-623.
  12. ^ a b 護、岡田 1990, p.58

歴史書

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参考文献

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  • 加藤九祚『ユーラシア記』法政大学出版局、1984年。ISBN 4588352091 
  • 松田知彬『中央ユーラシアの南北交渉:ホラズムの立場』法政大学教養部、1988年。
  • 護雅夫岡田英弘『民族の世界史4 中央ユーラシアの世界』山川出版社、1990年、ISBN 4634440407
  • ニールソン・C・デベボイス英語版『パルティアの歴史』山川出版社、1993年、ISBN 4634658607
  • 小松久男編『世界各国史4 中央ユーラシア史』山川出版社、2000年、ISBN 463441340X
  • 小松久男・梅村坦他編 編『中央ユーラシアを知る事典』平凡社、2005年4月。ISBN 978-4-582-12636-5 
  • 雪嶋宏一『スキタイ騎馬遊牧国家の歴史と考古』雄山閣、2008年、ISBN 9784639020363

関連項目

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外部リンク

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