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11代藩主・[[岡部長発]]の長男。母は[[鳥居忠挙]]の娘。最初の妻は[[青山幸哉]]の娘・錫子。2番目の妻は[[前田斉泰]]の娘・坻子(おかこ)。坻子は1867年生まれで[[学習院]]卒<ref name=kateiroku>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1046816/109 岡部長景]『華族家庭録. 昭和11年12月調』</ref>、[[有栖川宮]][[威仁親王妃慰子]]の叔母にあたり、1892年に長職と結婚、1909年には[[愛国婦人会]]長就任<ref>[https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=15230&query=&class=&d=all&page=32 婦女新聞社『婦人界三十五年』(1935.05)]</ref>。子は[[岡部長景]](長男)、[[村山長挙]](三男)、[[岡部長章]](八男)。[[尾高豊作]]の妻(三女)。 |
11代藩主・[[岡部長発]]の長男。母は[[鳥居忠挙]]の娘。最初の妻は[[青山幸哉]]の娘・錫子。2番目の妻は[[前田斉泰]]の娘・坻子(おかこ)。坻子は1867年生まれで[[学習院]]卒<ref name=kateiroku>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1046816/109 岡部長景]『華族家庭録. 昭和11年12月調』</ref>、[[有栖川宮]][[威仁親王妃慰子]]の叔母にあたり、1892年に長職と結婚、1909年には[[愛国婦人会]]長就任<ref>[https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=15230&query=&class=&d=all&page=32 婦女新聞社『婦人界三十五年』(1935.05)]</ref>。子は[[岡部長景]](長男)、[[村山長挙]](三男)、[[岡部長章]](八男)。[[尾高豊作]]の妻(三女)。 |
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後に長男・長景は、[[東條内閣|東条英機内閣]]のもとで[[文部大臣]]となっている。三男・長挙は[[朝日新聞]]創設者の[[村山龍平]]の婿養子となった。八男・長章は[[侍従]]・[[京都外国語大学]][[教授]]を歴任した。長景は[[加藤高明]]([[三菱財閥]]の創業者・[[岩崎弥太郎]]の娘婿)の長女・悦子と結婚しており、長章は[[岩崎輝弥]]([[岩崎弥之助]]の三男)の長女・妙子と結婚したので、岡部家は[[三菱グループ|三菱]]の創業者一族・[[岩崎家]]と二重の姻戚関係を持っているといえる。娘・盈(みつ)は[[新井領一郎]]の長男・米男に嫁いだ。 |
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== 脚注 == |
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2020年12月30日 (水) 08:52時点における版
岡部 長職 おかべ ながもと | |
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肖像写真 | |
生年月日 |
1855年1月3日 (嘉永7年11月15日) |
出生地 | 江戸 |
没年月日 | 1925年12月27日(70歳没) |
出身校 |
慶應義塾 (現在の慶應義塾大学) |
所属政党 | 研究会 |
称号 |
子爵 正二位 勲一等旭日大綬章 |
第15代 司法大臣 | |
内閣 | 第2次桂内閣 |
在任期間 | 1908年7月14日 - 1911年8月30日 |
第15代 東京府知事 | |
内閣 | 第2次松方内閣 |
在任期間 | 1897年10月12日 - 1898年7月16日 |
選挙区 | 子爵議員 |
在任期間 | 1890年7月11日 - 1916年4月11日 |
岡部長職肖像(泉光寺所蔵) | |
時代 | 江戸時代後期 - 大正時代 |
生誕 | 嘉永7年11月15日(1855年1月3日) |
死没 | 大正14年(1925年)12月27日 |
改名 | 弥次郎(幼名)、長職 |
墓所 | 青山霊園 |
官位 | 正二位 |
主君 | 明治天皇、大正天皇 |
藩 | 和泉岸和田藩主 |
氏族 | 岡部氏 |
父母 |
岡部長発、鳥居忠挙娘 岡部長寛 |
兄弟 | 長職、武子 |
妻 | 青山幸哉娘錫子、前田斉泰娘坻子 |
子 |
清子、鍾子、長景、長剛、村山長挙、 栄子、豊子、盈子、小林長世、長量、 久子、長建、長伸、長章 |
岡部 長職(おかべ ながもと、1855年1月3日(嘉永7年11月15日) - 1925年(大正14年)12月27日)は、和泉国岸和田藩13代(最後の)藩主。明治・大正時代の政治家・外交官。英国公使館参事官、外務次官、司法大臣、東京府知事、枢密顧問官、法律取調委員会会長などを歴任。岸和田藩岡部家14代。官位は正二位勲一等子爵。
略歴
1854年(嘉永7年)11月15日、江戸藩邸にて生まれる。幼名は弥次郎。父の長発は長職が生まれた翌年2月に早世し、家督は伯父の長寛が継いだ。長職は長寛の養嗣子となり、成長した後に家督を譲られることとなった。そして1868年(明治元年)12月28日、長寛の隠居により家督を継いだ。1869年(明治2年)、版籍奉還により知藩事となり、藩政改革を行なった。1871年(明治4年)の廃藩置県で免官となり、東京へ移る。
1874年(明治7年)慶應義塾に入学し、福澤諭吉が「行状宜敷人物」と評して1875年(明治8年)11月、渡米させる。イェール大学へ入学するが中退しており、その理由はあきらかでない。1878年(明治11年)アメリカでリバイバリストのドワイト・ライマン・ムーディーの説教を聞いて回心し、キリスト教信仰を持つことになる。手紙で、日本基督組合教会の新島襄と沢山保羅に手紙で、故郷の岸和田の伝道を依頼する。新島と沢山の伝道の結果、1885年(明治18年)に岸和田教会が誕生した[1]。
ケンブリッジ大学に数年間学ぶ。その後もヨーロッパ各国を歴訪した。帰国後は、三好退蔵の自宅で聖書研究に参加していたが、近所にあった霊南坂教会(現・日本基督教団霊南坂教会)に合流して教会員になる。
1884年(明治17年)7月8日、子爵を叙爵[2]。1886年(明治19年)3月、公使館参議官となる。翌年12月からはイギリス公使館に勤務し、臨時代理公使を務めた。1889年(明治22年)12月には外務次官となり、1890年(明治23年)7月には子爵の貴族院議員となった。青木周蔵外相の下、条約改正に尽力。しかし1891年(明治24年)、大津事件が起こると、その事件の責任を取る形で外務次官を辞任した。
1897年(明治30年)10月、高等官一等に叙任し、東京府知事となる。この頃には貴族院会派・研究会の幹事長を務めるなど、貴族院議員の中心人物として活躍していた。そのため、1908年(明治41年)7月には第2次桂太郎内閣の司法大臣に任じられ、1911年(明治44年)の大逆事件では、その処理に務めている。1916年(大正5年)4月8日には枢密顧問官となり[3]、同月11日、貴族院議員を辞職した[4]。
その他、南満州鉄道株式会社設立委員、鉄道国有調査会副会長、宗秩寮審議官、東京保善商業学校校長等の要職を歴任。晩年は一木喜徳郎と共に大正天皇の側近として宮内省にあった。1925年(大正14年)12月27日、かねてより患っていた脳梗塞が再発し、72歳で死去。両陛下より祭資が執り行われる。
身の丈180cmを超えるという、当時としてはもちろん、現代人と比較しても大柄な人物であった。
栄典
- 位階
- 勲章等
- 1873年(明治6年)12月8日 - 木盃一個[7]
- 1906年(明治39年)4月1日 - 勲四等旭日小綬章[8]
- 1909年(明治42年)12月25日 - 勲三等瑞宝章[9]
- 1910年(明治43年)12月26日 - 勲二等瑞宝章[10]
- 1912年(大正元年)8月1日 - 韓国併合記念章[11]
- 1916年(大正5年)4月1日 - 旭日重光章[12]
- 1920年(大正9年)6月25日 - 勲一等瑞宝章[13]
- 1925年(大正14年)12月27日 - 旭日大綬章[14]・帝都復興記念章[15]
家族
- 父:岡部長発(1834-1855)
- 母:鳥居忠挙の娘
- 養父:岡部長寛(1809-1887)
- 最初の妻:錫子 - 青山幸哉の娘
- 2番目の妻:坻子(1867-1943) - 前田斉泰の四女
- 生母不明の子女
11代藩主・岡部長発の長男。母は鳥居忠挙の娘。最初の妻は青山幸哉の娘・錫子。2番目の妻は前田斉泰の娘・坻子(おかこ)。坻子は1867年生まれで学習院卒[16]、有栖川宮威仁親王妃慰子の叔母にあたり、1892年に長職と結婚、1909年には愛国婦人会長就任[17]。子は岡部長景(長男)、村山長挙(三男)、岡部長章(八男)。尾高豊作の妻(三女)。 後に長男・長景は、東条英機内閣のもとで文部大臣となっている。三男・長挙は朝日新聞創設者の村山龍平の婿養子となった。八男・長章は侍従・京都外国語大学教授を歴任した。長景は加藤高明(三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎の娘婿)の長女・悦子と結婚しており、長章は岩崎輝弥(岩崎弥之助の三男)の長女・妙子と結婚したので、岡部家は三菱の創業者一族・岩崎家と二重の姻戚関係を持っているといえる。娘・盈(みつ)は新井領一郎の長男・米男に嫁いだ。
脚注
- ^ 『沢山保羅』1977年、127頁
- ^ 『官報』第308号、明治17年7月9日。
- ^ 『官報』第1104号、大正5年4月10日。
- ^ 『官報』第1107号、大正5年4月13日。
- ^ 『官報』第1966号「叙任及辞令」1890年1月21日。
- ^ 『官報』第4005号「叙任及辞令」1925年12月29日。
- ^ 『太政官日誌』明治6年、第157号
- ^ 『官報』第7272号「叙任及辞令」1907年9月23日。
- ^ 『官報』第7954号「叙任及辞令」1909年12月27日。
- ^ 『官報』第8257号「叙任及辞令」1910年12月28日。
- ^ 『官報』第205号・付録「辞令」1913年4月9日。
- ^ 『官報』第1218号「叙任及辞令」1916年8月21日。
- ^ 中野文庫 - 旧・勲一等瑞宝章受章者一覧(戦前の部)
- ^ 『官報』第4005号「叙任及辞令」1925年12月29日。
- ^ 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。
- ^ 岡部長景『華族家庭録. 昭和11年12月調』
- ^ 婦女新聞社『婦人界三十五年』(1935.05)
参考文献
- 小川原正道『評伝 岡部長職 明治を生きた最後の藩主』慶應義塾大学出版会、2006年7月。ISBN 4-7664-1291-5 。
外部リンク
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
子爵 (岸和田)岡部家初代 1884年 - 1925年 |
次代 岡部長景 |
学職 | ||
先代 新設 |
保善商工教育財団理事長 1924年 - 1925年 |
次代 結城豊太郎 |