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鶴見が幼少の頃、父・祐輔は新自由主義を標榜して新政党・明政会を結成し、自宅には父の政友が集まり会合を開いていた{{Sfn|石塚|2010|p=123}}。また父・祐輔は雑誌「雄弁」の創刊に関わり、旅行記や小説、評論を執筆するなど[[講談社]]と関係が深く{{Sfn|石塚|2010|pp=132-133,138-139}}、鶴見は姉・[[鶴見和子|和子]]と自宅に寄贈される講談社の本を競うようにして読み{{Sfn|石塚|2010|p=128}}、「[[満州事変]]以前の講談社文化にひたりきって育った」{{Sfn|石塚|2010|p=148}}。
鶴見が幼少の頃、父・祐輔は新自由主義を標榜して新政党・明政会を結成し、自宅には父の政友が集まり会合を開いていた{{Sfn|石塚|2010|p=123}}。また父・祐輔は雑誌「雄弁」の創刊に関わり、旅行記や小説、評論を執筆するなど[[講談社]]と関係が深く{{Sfn|石塚|2010|pp=132-133,138-139}}、鶴見は姉・[[鶴見和子|和子]]と自宅に寄贈される講談社の本を競うようにして読み{{Sfn|石塚|2010|p=128}}、「[[満州事変]]以前の講談社文化にひたりきって育った」{{Sfn|石塚|2010|p=148}}。


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1929年、[[筑波大学附属小学校|東京高師附属小学校]]入学{{efn2|同級生には後の[[文部大臣]]の[[永井道雄]]、後の[[中央公論社]]社長の[[嶋中鵬二]]、{{要出典範囲|[[作家]]の[[中井英夫]]など|date=2016年7月}}がいた<ref>{{Harvnb|鶴見|加藤|黒川|2006|p=26}}</ref>。}}。父・祐輔は海外での講演旅行などで自宅を空けていることが多く、特に1930年の明政会事件の後、約2年半を海外で過ごし{{Sfn|石塚|2010|pp=177}}、その間、鶴見は一緒に暮らしていた母・愛子から「しかられつづけのくらし」をしていた{{Sfn|石塚|2010|p=176}}{{efn2|母から「あなたは悪い子だ」と言われ続けた<ref>{{cite news |author=[[宮川匡司]] |title=鶴見俊輔氏死去‐権威に寄らず立ち続け(評伝) |newspaper=[[日本経済新聞]]夕刊 |date=2015年7月24日 |page=15面}}</ref>。}}。小学3年生ないし11歳の頃、不良化し、近所の子供たちと万引き集団をつくって本や小物の万引きを繰り返し、家の金を持ち出し、小学校をサボって映画館に入り浸り、歓楽街に出入りして女給やダンサーと交際、肉体関係を持つなどした<ref>{{Harvtxt|石塚|2010|pp=181-182}}。鶴見『日常生活の思想』p.4からの引用として。</ref>{{efn2|{{Harvtxt|石塚|2010|pp=181-182}}では、鶴見『日常生活の思想』p.241からの引用として、[[大塚駅 (東京都)|大塚駅]]の売店から[[カルミン]]を盗んで村八分にされた、としている。}}<ref>{{Harvtxt|新藤|1994|pp=44,52}}。鶴見『恩人』からの引用として、厳格な母親に反撥し、近所の中学生と組んで[[万引]]集団を結成、本屋から万引した本を別の本屋へ売りに行く、駅の売店から小物を盗むといった悪事を繰り返し、このためクラスでは除け者にされていた、としている({{Harvtxt|新藤|1994|pp=44,52}})。</ref>。12歳の頃には[[うつ病]]になり、睡眠薬を飲んで道路に倒れる自殺未遂を繰り返し、精神病院に3度入院{{Sfn|石塚|2010|pp=185,195}}<ref>{{Harvtxt|新藤|1994|p=58}}</ref>。1935年に[[府立高等学校 (旧制)|府立高校尋常科]]に入学するも2年生の夏に退学になり{{Sfn|鶴見|加藤|黒川|2006|p=26}}<ref>{{Harvtxt|新藤|1994|p=75}}。[[武蔵小山]]の古本屋で集めた莫大な数の性に関する文献を学校のロッカーに置いていたことが発覚したため入学後1年1学期で府立高校を退学になった({{Harvtxt|新藤|1994|p=75}})。</ref>{{efn2|府立高校尋常科で同期だった[[遠山一行]]は、鶴見と思しき同級生について「ある日突然―と私には見えた―中学の同級生が学校をやめてしまったことがあった。その男は頭がよく勉強もできたが、かなり変ったところがあって、たとえば試験の答案を、わざわざ40点とか50点とかに仕立て上げるために、正しい答えを[[消しゴム]]で消したりしておもしろがっていた。そして日ごろ反りの合わなかった教師をなぐって、学校をやめたのである。(中略)その男は戦後社会評論家として登場し、名をなした」<ref>{{Cite book |和書 |author=遠山一行 |title=遠山一行著作集 |volume=4|chapter=集団の行為 |page=196 |publisher=新潮社 |date=1987 |isbn=4106447045}}</ref>と回想している。}}、1936年に[[東京都立小石川高等学校|府立五中]]に編入したが、1937年5月に中退した{{Sfn|石塚|2010|pp=195-196}}{{Sfn|鶴見|加藤|黒川|2006|pp=26-27}}{{efn2|将来を心配した父から、「もういい。土地を買ってやるから女性と一緒にそこに住んで、蜜蜂を飼って暮らせ。14歳の結婚は法律に違反するけど、自分は目をつぶる」と言われた<ref>{{Harvnb|石塚|pp=195-196}}{{Full citation needed |date=2019-05-27 |title=「石塚」だけでは文献が特定されない。2010年刊行の『鶴見祐輔資料』を指しているのか否か不明。}}</ref>。}}{{efn2|母・愛子は、大正時代には[[天理教]]を信じていたが、俊輔の不良化が原因で1936年に[[キリスト教]]に入信した<ref>{{Harvnb|石塚|2010|p=78,195}}</ref>。}}。


=== 米国留学 ===
=== 米国留学 ===

2020年12月30日 (水) 08:37時点における版

鶴見 俊輔
生誕 (1922-06-25) 1922年6月25日
日本の旗 日本 東京府東京市麻布区
死没 (2015-07-20) 2015年7月20日(93歳没)
京都府京都市左京区
研究分野 哲学
主な概念 アメリカのプラグマティズムを日本に紹介
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鶴見 俊輔(つるみ しゅんすけ、1922年大正11年〉6月25日 - 2015年平成27年〉7月20日)は、日本哲学者評論家政治運動家大衆文化研究者。アメリカのプラグマティズムの日本への紹介者のひとりで、都留重人丸山眞男らとともに戦後の進歩的文化人を代表する1人とされる。

経歴

生い立ち

1922年6月25日東京市麻布区[注 1]で、父・祐輔と母・愛子(後藤新平の娘)の間に、4人きょうだいの2番目(長男)として生まれる[3][注 2]

鶴見が幼少の頃、父・祐輔は新自由主義を標榜して新政党・明政会を結成し、自宅には父の政友が集まり会合を開いていた[4]。また父・祐輔は雑誌「雄弁」の創刊に関わり、旅行記や小説、評論を執筆するなど講談社と関係が深く[5]、鶴見は姉・和子と自宅に寄贈される講談社の本を競うようにして読み[6]、「満州事変以前の講談社文化にひたりきって育った」[7]

1929年、東京高師附属小学校入学[注 3]。父・祐輔は海外での講演旅行などで自宅を空けていることが多く、特に1930年の明政会事件の後、約2年半を海外で過ごし[9]、その間、鶴見は一緒に暮らしていた母・愛子から「しかられつづけのくらし」をしていた[10][注 4]。小学3年生ないし11歳の頃、不良化し、近所の子供たちと万引き集団をつくって本や小物の万引きを繰り返し、家の金を持ち出し、小学校をサボって映画館に入り浸り、歓楽街に出入りして女給やダンサーと交際、肉体関係を持つなどした[12][注 5][13]。12歳の頃にはうつ病になり、睡眠薬を飲んで道路に倒れる自殺未遂を繰り返し、精神病院に3度入院[14][15]。1935年に府立高校尋常科に入学するも2年生の夏に退学になり[16][17][注 6]、1936年に府立五中に編入したが、1937年5月に中退した[19][20][注 7][注 8]

米国留学

1937年7月、父・祐輔の計らいで井口(いのくち)一郎とオーストラリアを旅行[23][24]。同年末に父に伴われて米国へ渡り、翌1938年3月までワシントン斎藤博の公邸に預けられる[25][26]。米国滞在中に、父と面識のあったハーバード大学の歴史学者・アーサー・シュレシンジャー・シニア英語版教授を介して、同大学大学院に在籍していた都留重人と面識を得る[27][28]。都留は生涯の師となった[29]。同年9月に単身渡米し、マサチューセッツ州コンコードミドルセックス校英語版(予備校)に入学[30][31][注 9]

1939年9月、16歳のとき、大学共通入学試験に合格してハーバード大学に進学、哲学を専攻[33][34][注 10]記号論理学者のホワイトヘッドラッセルの講演を聴講し、カルナップクワインに師事した[36]

1941年7月、日本軍の南部仏印進駐に対抗して在米日本資産が凍結され、日本からの送金が止まったため、夏休みにニューヨーク日本文化会館の日本図書館で本の運搬をして働く[37][注 11]。先行きへの不安から、生活費を切り詰め、成績優秀だった[39]ため卒業を急いで4年制の大学を3年で卒業できる飛び級コースを選択[40]。この頃、結核のため喀血[41]

1942年3月下旬、大学の第3学年前期が終わったとき、FBIに逮捕され[42]、東ボストン移民局の留置場を経て、同年5月に戦争捕虜としてメリーランド州ミード要塞英語版内の収容所に送られる[43][注 12]。抑留中に卒業論文を完成させ[45][注 13]、第3学年後期は大学の授業に出席できず、留置場で受けた後期の試験は不合格だったが、それまで成績優秀だった[47]ため、卒業論文を参考資料とすることで教授会の投票により特例的に卒業が認められた[48][49]

1942年6月、日米交換船グリップスホルム号に乗船、経由地のロレンソマルケスで交換船・浅間丸に乗り換え、同年8月に日本に帰国[50][51][注 14][注 15]

海軍軍属

1942年8月、米国から帰国の翌日、自主的に麻布区役所に出頭し、4日後の徴兵検査で第2乙種合格[55][注 16]。陸軍に召集されるのを避けるため、海軍軍属ドイツ語通訳として志願し、1943年2月にドイツ封鎖突破船ジャワ島に赴任[57][58]ジャカルタ在勤海軍武官府に2年間勤務し[59][60]、主に連合国のラジオ放送を聴いて情報をまとめ、部外秘の新聞を作成する業務に従事した[61][注 17]カリエスが悪化し、ジャワ島・チキニインドネシア語版の海軍病院で2度手術を受けた後、シンガポールの輸送船団、通信隊での勤務を経て[63][64]、1944年12月初に練習巡洋艦「香椎」で日本に帰還[63][65]。帰国後、体調が回復したため、1945年4月から慶應義塾大学日吉校舎に置かれていた海軍軍令部に勤務し、翻訳業務に従事[66][67]。同年7月に結核性腹膜炎のため辞職し[67][注 18]熱海で療養中に敗戦を迎えた[67][68]

戦後

戦後、鶴見は軽井沢の別荘で結核の療養生活を続けながら[69]、姉・和子の尽力で[70]、和子と丸山眞男、都留重人、武谷三男武田清子渡辺慧とともに7人で「思想の科学研究会」を結成して雑誌『思想の科学』を創刊[70][71]。同会では、米国留学の前後で日本の論壇全体の傾向が変わったとの自覚から着想して、『共同研究 転向』をまとめるなど思想史研究を行い、1962年に『共同研究 転向』全3巻を平凡社から刊行した[72][73]

1948年11月、桑原武夫の推薦により京都大学嘱託講師となり、1949年4月に京都大学人文科学研究所[要出典]助教授となる[74][注 19]

1951年5月にうつ病を再発、京大を1年間休職、精神病院に入院し、翌1952年1月に退院[76]。「親父のもとに出入りしていたら、自分がだめになると思って」家を出る[76]

1954年、東京工業大学助教授[要出典]

1959年、加太こうじ森秀人佐藤忠男虫明亜呂無邑井操らと大衆芸術研究会を創設[77]

60年安保時には、政治学者高畠通敏とともに「声なき声の会」を組織して岸内閣による日米安全保障条約改定に反対[注 20][注 21]。1960年5月、日米安保条約決議に抗議し、東工大助教授を辞職[80]。同年秋、貞子夫人と結婚[81]。うつ病を再発し、新婚の妻と別居[81]

1961年、同志社大学文学部社会学科教授[82]。1962年から一時期、脳軟化症で自宅療養生活を続ける父・祐輔の介護のため、東京都練馬区関町にあった父の自宅で父と同居[72]

1965年には高畠らとともに「声なき声の会」を母体とし[要出典]、代表に作家の小田実を迎えて「ベトナムに平和を!市民連合(ベ平連)」を結成[83]。1966年6月にはベトナム北爆に抗議して在日アメリカ大使館前で座り込みを行った[83]。1967年には横須賀に寄港した空母イントレピッドからの脱走兵2人を東京・練馬の父の家に匿い、のち京都の自宅に移し、スウェーデンに送る[84]。1970年、大学紛争での警官隊導入に反対して同志社大学教授を退職[85]。1984年発行『架橋-私にとっての朝鮮』飯沼二郎編著(麦秋社)で吉田清治について「あの、独力で韓国に強制連行の謝罪碑を建てた人でしょう。(中略)碑の前で土下座して韓国人に謝罪すると、やっぱり悪罵を浴びせられるということが出ていますね、当然だと思うけれども、そのために謝罪碑を建てたっていうのは偉いですね。」と発言した。

晩年

2000年以降、日本共産党支持の姿勢を明確にし、2004年6月には、大江健三郎小田実らと共に九条の会の呼びかけ人となる[86][注 22][注 23]

2015年7月20日、肺炎のため京都市左京区の病院で死去[89][90][91]。享年93歳[90]

家族

妻は英文学者翻訳家横山貞子[92]

エピソード

  • 筑摩書房の編集者松田哲夫によると、鶴見は専門の哲学はもとより、「マンガやジャーナリズム、近代史について、とてつもない知識」を持っていたという。『ちくま日本文学全集』の編集作業の際、鶴見が5歳の時からの膨大な既読書の内容をすべて覚えており、「古典的名作だけにとどまらない、例えば赤川次郎作品すべて」にまで及んでいることが判明した。これには名だたる読書人揃いの他の編者たち(安野光雅森毅井上ひさし池内紀)も唖然としたという[97]
  • 鶴見は、父である鶴見祐輔一高英法科の首席クラスの優等生であったにもかかわらず、倫理的によくない日中戦争や、負けるとわかっていた太平洋戦争の旗振り役となったことを「一番病」と呼び、一番病を攻撃することが自身の戦略であり、著作活動の動機の源泉になっていた、としている[98]。他方で、2年半の米国留学時代には鶴見自身も一番病にかかっていたとし、この時代のことを書くことを無意識に避けていた、としている[99]。なお「一番病」は、水木しげる手塚治虫をモデルに描いた短編漫画の題名でもある。
  • 漫画の中では山上たつひこの『がきデカ』を高く評価し、「あの『がきデカ』というのがみんなに読まれているうちは、ああ、日本人にはこういう人がいるんだな、日本ってこんなんだなという自画像をもっているうちは、まだまだ安全だと思っているんですよ。「正義のために戦え」とか、「聖戦」とかいうふうにして戦争の態勢をつくるところまでにはまだ一歩あるなという感じがするのです」[100]「こういうふうに金とセックスだけを追い求める人間が活躍するわけでしょう。ああ、日本人はこうなんだな、こういう人間がたくさんいるんだなと思って大人になることがいいんです。日本人は神の子で、万邦無比の国体なんだと思って海外に出ていったら困るんですよ。『がきデカ』を読んでいれば、ちがった人間になるんじゃないかという希望をもっています」[101]と述べている。
  • テレビ番組ハケンの品格』がお気に入りで、軍属時代に翻訳新聞発行を一手に引き受けていた自分と、同番組で描かれていた派遣社員とが重なって見えると語っている[102]
  • 敬虔なキリスト教徒であった母親への反撥、戦争推進を主張していた一部の僧侶や牧師への不信感から、宗教に反感を持っていたが、仏教徒の文化人との交流の中で仏教に理解を示すようになり、「かくれキリシタン」ならぬ「かくれ佛教徒」と自称するようになった。1975年に行われた松本清張との対談では「社会党の言うように、安保の全面廃棄、軍備の全面禁止というのは観念的か」という問いに「柳宗悦から習った言葉を使うと、一種の陀羅尼というか念仏で考えていくという方法をとっている」と答えている[103]
  • 1986年8月15日、安田武山田宗睦と「坊主の会」を結成、以後毎年同日に剃髪することを15年間続けた。鶴見はその後も毎年8月15日に断食を行っている[104][105]。また、その山田が1965年に刊行した『危険な思想家』に「この本はあくまで今の時代に肉薄し、重大な警告を発している[106]」という推薦文を寄せたが、竹内洋によると吉本隆明から山田や鶴見らは自分たちのネットワークを壊し孤立させようとしている学者を告発しているにすぎないと批判されている[107][注 24]
  • ヤマギシ会を評価しており[108][109]、ベトナム戦争脱走兵をかくまうことに協力を得ている[110]
  • 鶴見は、渡米前から自身は無政府主義者だったと言明しており、「クロポトキンを一生懸命読んで」おり、クロポトキンにはマルクスに対する偏見があったため、それが、マルクス主義者にならない、「一種の予防注射になった」としている[111]反戦運動を行う中で、戦時中に海軍軍属に志願した事に関して「なぜ戦争中に抗議の声を上げて牢屋に入らなかったっていう思いは、ものすごく辛いんだよね。だから、英語がしゃべれるのも嫌になっちゃって。戦争中から、道を歩いていても嫌だって感じだった。鬱病の状態ですよ」と本人は後に釈明している[112]。 

評価・批判

  • 蓮實重彦上野昂志絓秀実らは座談で、鶴見が左翼系知識人にすりよりながら、いつも左翼にならないこと、また蓮實重彦は「動体視力」つまり映画や文学を語る時の視力が鶴見には決定的に欠けており、それゆえ、鶴見の文化評論がことごとく無内容なものになっていると批判している[113]。また幸福会ヤマギシ会を支持し、ヤマギシ被害者から抗議を受けた[114]
  • 伊藤隆は鶴見をいいだもも飯沼二郎と並んで「進歩派」と定義している[115]

著作物等

単著

  • 『哲学の反省』先駆社 1946
  • 『アメリカ哲学』世界評論社、1950 のち講談社学術文庫、「こぶし文庫 戦後日本思想の原点」こぶし書房 2008
  • 『哲学論』創文社 1953
  • 『大衆芸術』河出書房・河出新書 1954
  • 『プラグマティズム』河出書房 1955
  • 『アメリカ思想から何を学ぶか』中央公論文庫 1958
  • 『誤解する権利 日本映画を見る』筑摩書房 1959
  • 『折衷主義の立場』筑摩書房 1961
  • 『日常的思想の可能性』筑摩書房 1967
  • 限界芸術論』勁草書房、1967 のち講談社学術文庫、ちくま学芸文庫
  • 『不定形の思想』文藝春秋 1968
  • 『北米体験再考』岩波新書 1971、復刊2015
  • 『ひとが生まれる 五人の日本人の肖像』ちくま少年図書館 1972 のちちくま文庫
  • 『漫画の戦後思想』文藝春秋 1973
  • 『私の地平線の上に』潮出版社、1975
  • 高野長英朝日新聞社・朝日評伝選、1975 のち選書
  • 『転向研究』筑摩叢書 1976
  • 『いくつもの鏡 論壇時評1974-1975』朝日新聞社 1976
  • 『グアダルーペの聖母 メキシコ・ノート』筑摩書房 1976
  • 柳宗悦平凡社選書 1976 のち平凡社ライブラリー
  • 『読書のすすめ』潮出版社 1979
  • 『太夫才蔵伝 漫才をつらぬくもの』平凡社選書 1979 のち平凡社ライブラリー
  • 『本と人と』西田書店 1979
  • 『文章心得帖』潮出版社 1980
  • 『戦後を生きる意味』筑摩書房 1981
  • 『戦後思想三話』ミネルヴァ書房 1981
  • 『戦時期日本の精神史 1931〜1945年』[注 25]岩波書店 1982 のち同時代ライブラリー、岩波現代文庫
  • 『家の中の広場』編集工房ノア 1982
  • 『戦後日本の大衆文化史 1945〜1980年』岩波書店、1984 のち同時代ライブラリー、岩波現代文庫
  • 『絵葉書の余白に 文化のすきまを旅する』東京書籍 1984
  • 『ことばを求めて』太郎次郎社 1984
  • 『人類の知的遺産 60 デューイ講談社 1984
  • 『読書日録』潮出版社、1985
  • 『大衆文学論』六興出版社、1985
  • 『テレビのある風景』マドラ出版 1985
  • 『老いの生きかた』筑摩書房 1988 のち文庫
  • 『思想の落とし穴』岩波書店、1988
  • 夢野久作-迷宮の住人-』リブロポートシリーズ民間日本学者)1989 のち双葉文庫
  • 『らんだむ・りぃだぁ』潮出版社、1991
  • アメノウズメ伝-神話からのびてくる道』平凡社、1991 のちライブラリー
  • 『書評10年』潮出版社、1992
  • 竹内好-ある方法の伝記-』リブロポート(シリーズ民間日本学者)1995 のち岩波現代文庫
  • 『期待と回想』晶文社 上下、1997、朝日文庫 全1巻 2008。自伝
  • 『隣人記』晶文社 1998
  • 『教育再定義への試み』岩波書店 1999 のち岩波現代文庫
  • 『夢野久作と埴谷雄高』深夜叢書社 2001
  • 『回想の人びと』潮出版社、2002 のちちくま文庫
  • 『風韻 日本人として』フィルムアート社 2005
  • 埴谷雄高講談社、2005、講談社文芸文庫、2016
  • 『詩と自由 恋と革命』思潮社 2006
  • 『たまたま、この世界に生まれて 半世紀後の『アメリカ哲学』講義—』編集グループSURE 2007
  • 『評伝 高野長英 1804-50』藤原書店 2007
  • 『悼詩』編集グループSURE 2008
  • 『言い残しておくこと』作品社 2009
  • 『ちいさな理想』編集グループSURE 2010
  • 『思い出袋』岩波新書 2010
  • 『もうろく帖』編集グループSURE 2010
  • 『かくれ佛教』ダイヤモンド社 2010
  • 『象の消えた動物園 同時代批評』編集工房ノア 2011
  • 『鶴見俊輔語録1 定義集 警句・読書・定義』皓星社 2011
  • 『鶴見俊輔語録2 この九十年』皓星社 2011
  • 『日本人は状況から何をまなぶか』編集グループSURE 2012
  • 『流れに抗して』編集グループSURE 2013
  • 『まなざし』藤原書店 2015

集成

  • 鶴見俊輔著作集』全5巻 筑摩書房 1975-76
  • 鶴見俊輔集』全12巻+補巻5巻、筑摩書房、1991-2001
  • 『鶴見俊輔座談』全10巻、晶文社 1996 - 選集『昭和を語る 鶴見俊輔座談』同 2015
  • 『鶴見俊輔書評集成』全3巻 みすず書房 2007
  • 『鶴見俊輔コレクション』河出書房新社(全4巻、黒川創編)2012
  • 『鶴見俊輔全漫画論』ちくま学芸文庫(全2巻、松田哲夫編)2018

共著

編著

  • 『20世紀を動かした人々1 世界の知識人』久野収共編 講談社 1964
  • 『現代日本思想大系12 ジャーナリズムの思想』筑摩書房,1965
  • 『反戦の論理 全国縦断日米反戦講演記録』小田実,開高健共編 河出書房新社 1967
  • 『反戦と変革』小田実共編 学芸書房 1968
  • 『戦後日本思想大系4 平和の思想』筑摩書房,1968
  • 『岩波講座哲学13 文化』生松敬三共編, 岩波書店, 1968
  • 『思想の科学事典』久野収と共編 勁草書房 1969
  • 『大衆の時代』平凡社 1969
  • 『脱走兵の思想 国家と軍隊への反逆』小田実,鈴木道彦共編 太平出版 1969
  • 『語りつぐ戦後史』全3巻 思想の科学社, 1969-1970
  • 『現代日本記録全集14 生活の記録』筑摩書房 1970
  • 『現代人の思想7 大衆の時代』平凡社 1970
  • 『現代漫画』全27巻 佐藤忠男,北杜夫と共編 筑摩書房 1970-1971
  • 『現代に生きる1 国際活動』東洋経済新報社 1971
  • 『右であれ左であれ、わが祖国』ジョージ・オーウェル著 平凡社 1971
  • 『近代日本思想大系24 柳宗悦集』筑摩書房 1975
  • 『日本の百年1 御一新の嵐』筑摩書房 1977、新版・ちくま学芸文庫
  • 『日本の百年9 廃墟の中から』筑摩書房 1978
  • 『日本の百年10 新しい開国』筑摩書房 1978
  • 『叢書児童文学5 児童文学の周辺』世界思想社 1979
  • 『抵抗と持続 世界思想ゼミナール』山本明と共編 世界思想社 1979
  • 『講座日本映画 全8巻』今村昌平/佐藤忠男/新藤兼人/鶴見俊輔/山田洋次編 岩波書店 1985
  • 『老いの発見』全5巻 伊東光晴,河合隼雄,副田義也,日野原重明と共編 岩波書店 1986-1987
  • 『老いの生きかた こころの本』筑摩書房 1988
  • 『祭りとイベントのつくり方』小林和夫共編 晶文社 1988
  • 『コミュニケーション事典』粉川哲夫共編 平凡社, 1988
  • 『天皇百話』上下 中川六平と共編 ちくま文庫 1989
  • 『ちくま哲学の森』全9巻 安野光雅,森毅共編 1989-1990
  • 『ちくま日本文学全集42 武田泰淳』筑摩書房 1992
  • 『帰ってきた脱走兵 ベトナムの戦場から25年』吉川勇一,吉岡忍共編 第三書館 1994
  • 『新ちくま文学の森』全16巻 安野光雅,森毅,井上ひさし,池内紀共編 筑摩書房 1994-1996
  • 『民間学事典 事項編、人名編』鹿野政直,中山茂共編 三省堂, 1997
  • 『日本人のこころ 原風景をたずねて』岩波書店 1997
  • 『現代日本文化論9 倫理と道徳』河合隼雄共編 岩波書店,1997
  • 『本音を聴く力 中学生は何を考えているのか』福島美枝子共編 同朋舎 1999
  • 日本の名随筆 別巻97 昭和1』作品社 1999
  • 鶴見良行著作集1 出発』みすず書房 1999
  • 『鶴見良行著作集5 マラッカ』みすず書房 2000
  • 林達夫セレクション』全3巻 平凡社ライブラリー 2000
  • 『人生のエッセイ』全10巻 日本図書センター, 2000
  • 『日本人のこころ2 新しく芽ばえるものを期待して』岩波書店 2001
  • 『ハンセン病文学全集』全10巻 大岡信,大谷藤郎,加賀乙彦編集委員 皓星社, 2002-2010
  • 『本と私』岩波新書 2003
  • 『源流から未来へ 『思想の科学』五十年』思想の科学社 2005
  • 『歩く学問ナマコの思想(鶴見良行論)』池澤夏樹共編 コモンズ, 2005
  • 『戦後史大事典 1945-2004』佐々木毅,富永健一,中村政則,正村公宏,村上陽一郎と共編 三省堂 2005
  • 『サザエさんの〈昭和〉』斎藤慎爾と共編 柏書房 2006
  • 『無根のナショナリズムを超えて 竹内好を再考する』加々美光行と共編 日本評論社 2007
  • 『アジアが生みだす世界像 竹内好の残したもの』編集グループSURE 2009

翻訳

映像

受賞歴

関連文献

  • ローレンス・オルソン『アンビヴァレント・モダーンズ 江藤淳・竹内好・吉本隆明・鶴見俊輔』黒川創ほか訳、新宿書房、1997年
  • 原田達「鶴見俊輔、その苦悩と思想 : ある知的マゾヒズムの軌跡」2001年12月、大阪大学人間学博士論文。[118]
  • 原田達『鶴見俊輔と希望の社会学』世界思想社、2001年
  • 木村倫幸『鶴見俊輔ノススメ プラグマティズムと民主主義』新泉社、2005年
  • 現代思想 総特集=鶴見俊輔』2015年10月臨時増刊号、青土社
  • 村瀬学『鶴見俊輔』言視舎評伝選、2016年
  • 安酸敏眞『欧米留学の原風景 福沢諭吉から鶴見俊輔へ』知泉書館、2016年‐「武田清子と鶴見俊輔」

脚注

注釈

  1. ^ 麻布桜田町の後藤新平邸の敷地内の「南荘」と呼ばれていた建屋で[1]、地番は三軒家町53番地[2]
  2. ^ 石塚 (2010, p. 87)によると、命名者は、鶴見俊輔・長田弘『旅の話』によれば父、鶴見俊輔『私の地平線の上に』によれば母とされている。新藤 (1994, p. 12)は、命名者は父で、伊藤博文の幼名による、としている。
  3. ^ 同級生には後の文部大臣永井道雄、後の中央公論社社長の嶋中鵬二作家中井英夫など[要出典]がいた[8]
  4. ^ 母から「あなたは悪い子だ」と言われ続けた[11]
  5. ^ 石塚 (2010, pp. 181–182)では、鶴見『日常生活の思想』p.241からの引用として、大塚駅の売店からカルミンを盗んで村八分にされた、としている。
  6. ^ 府立高校尋常科で同期だった遠山一行は、鶴見と思しき同級生について「ある日突然―と私には見えた―中学の同級生が学校をやめてしまったことがあった。その男は頭がよく勉強もできたが、かなり変ったところがあって、たとえば試験の答案を、わざわざ40点とか50点とかに仕立て上げるために、正しい答えを消しゴムで消したりしておもしろがっていた。そして日ごろ反りの合わなかった教師をなぐって、学校をやめたのである。(中略)その男は戦後社会評論家として登場し、名をなした」[18]と回想している。
  7. ^ 将来を心配した父から、「もういい。土地を買ってやるから女性と一緒にそこに住んで、蜜蜂を飼って暮らせ。14歳の結婚は法律に違反するけど、自分は目をつぶる」と言われた[21]
  8. ^ 母・愛子は、大正時代には天理教を信じていたが、俊輔の不良化が原因で1936年にキリスト教に入信した[22]
  9. ^ 留学中、下宿で隣の部屋同士だった本城(のち東郷)文彦と親しくなった[32]
  10. ^ 父・祐輔は、シュレシンジャー・シニア教授に身元引受人になってもらい、鶴見をハーバード大学に入学させることを委嘱していた[35]
  11. ^ 父の友人だった前田多門が館長をしていた[38]
  12. ^ 送致の前に審問(hearing)が行なわれ、シュレシンジャー・シニア教授が弁護人となって陪審員3人の票決を受けたが、2対1で抑留が決まった[44]
  13. ^ 学士論文のテーマは、ウィリアム・ジェイムズのプラグマティズムについて[46]
  14. ^ ミード要塞に抑留中に、交換船に乗船するか尋ねられて、鶴見自身が帰国を決めた[52]。帰国を選んだ理由について鶴見は、日本は必ず負けるという確信を持っていたが、負けるときに負ける側にいたいというぼんやりとした考えからだった、としている[53]
  15. ^ 船中で乗り合わせた数学者角谷静夫と親しくなった[54]
  16. ^ 当時、胸に結核性カリエスの異常突起ができており、結核であることは医学的にはっきりしていたが、徴兵官の「親の金で敵国に行っていたやつなんて、叩き直して、日本国民にしなきゃいけないという情熱」によって合格になった、としている[56]
  17. ^ 慰安所の仕事を担当させられた、と述べている文献がある[62]
  18. ^ 鶴見, 加藤 & 黒川 (2006, pp. 473)では、同年5月まで勤務、としている。
  19. ^ この年、アメリカの教育視察団が来日し、京大に人文科学研究所があるのは贅沢であると声を上げた。これに対し桑原が人文研有用論を演説し、鶴見が通訳を行った。視察団は京大に関する限り批判点なし、として帰国した。演説のあった夜、鳥養利三郎総長から桑原に電話があり、自分は鶴見が助教授となることに反対したがこれを取り消すと告げた[75]
  20. ^ 日ソ協会(現・日本ユーラシア協会)によれば、「声なき声の会」のデモの指揮は日ソ協会が行っていた[78]
  21. ^ 鶴見は、のちの回想でも「確認しておこう、あのとき、国会の中にいたトップ、岸信介首相は、A級戦犯じゃないか」と語っている[79]
  22. ^ 同党を「全ての陣営が、大勢に順応して、右に左に移動して歩く中で、創立以来、動かぬ一点を守り続けて来た。北斗七星のように、それを見ることによって、自分がどの程度時勢に流されたか、自分がどれほど駄目な人間になってしまったかを測ることの出来る尺度」と評価している[87]
  23. ^ 福島瑞穂から対談の申し入れがあった際には[いつ?]、福島が参院本会議で行った長時間の演説(牛タン戦術)を見ていたという経緯から、「国会でのフィリバスター(議事妨害)に感動したので、お会いしましょう」と快諾している[88]
  24. ^ 展望』1965年10月号 吉本隆明「わたしたちが山田宗睦の著書や、この著書におおげさな推薦の辞をよせている市民民主主義者や進歩主義者の心情から理解できるのは、じぶんたちがゆるく結んでいる連帯の人的なつながりや党派的なつながりが崩壊するのではないか、孤立しつつあるのではないかという深い危機感をかれらが抱きはじめているということだけである。そして、かれらの党派を崩壊させるような言葉をマスコミのなかでふりまいているようにみえる文学者政治学者経済学者を告発しよういうわけだ。」
  25. ^ 谷沢永一はこの副題の表記を、「日本の年号なんかけっして使わないぞ、という姿勢がはっきりしている」と指摘しており、数多い反日的日本人の著作のうち、いちばん凝り固まった極端を行く代表作を挙げろと言われたら同書を選ぶと評している[116]。なお鶴見は『日本の百年』(ちくま学芸文庫に収録)のうち、9巻(1945年から52年)と10巻(52年から60年)を担当しているが、ここでも全編にわたって「昭和」という元号を使用していない。松本清張との対談の中でも一回使ったきりである[117]

出典

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  2. ^ 石塚 2010, pp. 78, 123
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  4. ^ 石塚 2010, p. 123.
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  7. ^ 石塚 2010, p. 148.
  8. ^ 鶴見, 加藤 & 黒川 2006, p. 26
  9. ^ 石塚 2010, pp. 177.
  10. ^ 石塚 2010, p. 176.
  11. ^ 宮川匡司 (2015年7月24日). “鶴見俊輔氏死去‐権威に寄らず立ち続け(評伝)”. 日本経済新聞夕刊: p. 15面 
  12. ^ 石塚 (2010, pp. 181–182)。鶴見『日常生活の思想』p.4からの引用として。
  13. ^ 新藤 (1994, pp. 44, 52)。鶴見『恩人』からの引用として、厳格な母親に反撥し、近所の中学生と組んで万引集団を結成、本屋から万引した本を別の本屋へ売りに行く、駅の売店から小物を盗むといった悪事を繰り返し、このためクラスでは除け者にされていた、としている(新藤 (1994, pp. 44, 52))。
  14. ^ 石塚 2010, pp. 185, 195.
  15. ^ 新藤 (1994, p. 58)
  16. ^ 鶴見, 加藤 & 黒川 2006, p. 26.
  17. ^ 新藤 (1994, p. 75)。武蔵小山の古本屋で集めた莫大な数の性に関する文献を学校のロッカーに置いていたことが発覚したため入学後1年1学期で府立高校を退学になった(新藤 (1994, p. 75))。
  18. ^ 遠山一行「集団の行為」『遠山一行著作集』 4巻、新潮社、1987年、196頁。ISBN 4106447045 
  19. ^ 石塚 2010, pp. 195–196.
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  21. ^ 石塚, pp. 195–196[要文献特定詳細情報]
  22. ^ 石塚 2010, p. 78,195
  23. ^ 石塚 2010, pp. 198, 199–200.
  24. ^ 鶴見, 加藤 & 黒川 2006, pp. 194–195.
  25. ^ 石塚 2010, pp. 199, 200.
  26. ^ 鶴見, 加藤 & 黒川 2006, pp. 195–196.
  27. ^ 石塚 2010, pp. 212, 214.
  28. ^ 鶴見, 加藤 & 黒川 2006, pp. 27, 195–199, 415.
  29. ^ 鶴見, 加藤 & 黒川 2006, p. 415.
  30. ^ 石塚 2010, pp. 199, 201–202.
  31. ^ 鶴見, 加藤 & 黒川 2006, p. 196.
  32. ^ 石塚 2010, p. 205, 鶴見, 加藤 & 黒川 2006, p. 81
  33. ^ 鶴見, 加藤 & 黒川 2006, pp. 27, 41, 196–200, 289–290, 469.
  34. ^ 石塚 2010, p. 208.
  35. ^ 石塚 2010, p. 205,206,209, 鶴見, 加藤 & 黒川 2006, p. 47,290
  36. ^ 鶴見, 加藤 & 黒川 2006, pp. 27–28.
  37. ^ 鶴見, 加藤 & 黒川 (2006, pp. 32–33, 290–291)
  38. ^ 鶴見, 加藤 & 黒川 (2006, pp. 32–33, 290–291)
  39. ^ 1,000人いる同級生の中の上位10%に入っていた(鶴見, 加藤 & 黒川 2006, pp. 27–28)
  40. ^ 鶴見, 加藤 & 黒川 2006, pp. 27–28, 289–290.
  41. ^ 鶴見, 加藤 & 黒川 2006, p. 290.
  42. ^ 太平洋戦争の開戦後に移民局で取調べを受けた際に、「自分は無政府主義者だから日本も米国も支持しない」と回答したため(鶴見, 加藤 & 黒川 2006, pp. 22, 43–44, 291–292)。開戦直後に在米の日本の外交官や政府関係者、報道関係者は米当局により軟禁されたが、米国東部にいた日本人留学生には逮捕者はほとんどいなかった(鶴見, 加藤 & 黒川 2006, pp. 22, 43–44, 269–270, 291)。
  43. ^ 鶴見, 加藤 & 黒川 (2006, pp. 22, 42, 292–296)
  44. ^ 鶴見, 加藤 & 黒川 2006, pp. 46, 269, 294–295
  45. ^ 指導教官のラルフ・バートン・ペリー教授に依頼して書きかけの卒業論文を届けてもらって続きを執筆し、ニューヨークにいた姉・和子に送付してタイプしてもらい論文を仕上げた(鶴見, 加藤 & 黒川 2006, pp. 28, 47–48, 293–294)
  46. ^ 鶴見, 加藤 & 黒川 2006, pp. 293
  47. ^ 3年の前期の成績は、学年全体約1,000人の上位5%に入っており、そのまま卒業すればスマ・クム・ラウディ(Summa Cum Laude)と呼ばれる成績だった(鶴見, 加藤 & 黒川 2006, p. 48)。
  48. ^ 鶴見, 加藤 & 黒川 2006, pp. 28, 47–48, 102, 122, 293–294, 298, 314–135.
  49. ^ 石塚 (2010, p. 213)では、1941年の出来事として、FBIに抑留され裁判にかけられた、収容所で卒論を仕上げ、4年制大学を3年で卒業した、としている。
  50. ^ 鶴見, 加藤 & 黒川 2006, pp. 14–15, 22, 298–301, 374.
  51. ^ 石塚 2010, p. 216.
  52. ^ 鶴見, 加藤 & 黒川 2006, pp. 24, 298–299
  53. ^ 鶴見, 加藤 & 黒川 2006, pp. 24–25
  54. ^ 鶴見, 加藤 & 黒川 2006, pp. 123–125, 326–327
  55. ^ 鶴見, 加藤 & 黒川 (2006, pp. 181–182, 374, 472)
  56. ^ 鶴見, 加藤 & 黒川 (2006, pp. 181–182, 374, 472)
  57. ^ 石塚 2010, p. 217.
  58. ^ 鶴見, 加藤 & 黒川 2006, pp. 141, 374, 473.
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  106. ^ 林房雄『大東亜戦争肯定論』(改訂版)番町書房、1970年、606頁。 
  107. ^ 竹内洋『革新幻想の戦後史』中央公論新社、2011年10月、326頁。ISBN 978-4-12-004300-0 
  108. ^ 別冊宝島編集部 編『「カルト」の正体。』宝島社〈宝島社文庫〉、2000年1月、390-391頁。ISBN 4796616853 当該部分の執筆は春木進。春木は取材のために会いたいという旨の手紙を送ったが、返事が来なかったことを記している。ヤマギシ会を否定することは、人生の晩年における自己批判につながるため、それを避けたいのではないかと春木は推測している。
  109. ^ 別冊宝島編集部 編『「救い」の正体。』宝島社〈宝島社SUGOI文庫〉、2008年7月、390-391頁。ISBN 978-4796665025 当該部分の執筆は春木。前掲書の改版。
  110. ^ 阿奈井文彦『ベ平連と脱走米兵』文藝春秋〈文春新書〉、200-09、12頁。ISBN 4166601261 
  111. ^ 鶴見, 加藤 & 黒川 2006, p. 24.
  112. ^ 鶴見俊輔、上野千鶴子小熊英二『戦争が遺したもの』新曜社、2004年3月、42-135頁。ISBN 4788508877 
  113. ^ 絓秀実 編『1968』作品社〈知の攻略 思想読本〉、2005年。ISBN 486182009X [要ページ番号]
  114. ^ 米本和広『洗脳の楽園』(新装版)情報センター出版局、2007年10月、333頁。ISBN 4795847827 
  115. ^ 伊藤隆『歴史と私‐史料と歩んだ歴史家の回想』中央公論新社〈中公新書〉、2015年4月、86頁。ISBN 978-4121023179 
  116. ^ 谷沢永一『反日的日本人の思想 国民を誤導した12人への告発状』PHP研究所〈PHP文庫〉、91-92頁。ISBN 4569573274 
  117. ^ 松本 2009, pp. 93–94.
  118. ^ 博士論文書誌データベースによる。

参考文献

関連項目

外部リンク