「サンフレッチェ広島F.Cの育成組織」の版間の差分
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[[森山佳郎]]が監督として率いた2003年・2004年の広島ユースは、2年連続でユース三冠([[日本クラブユースサッカー選手権 (U-18)大会|クラブユース選手権]]・[[高円宮杯全日本ユース(U-18)サッカー選手権大会|高円宮杯]]・[[Jリーグユース選手権大会|Jユースカップ]])のうち二冠を達成し、"広島ユース黄金時代"と呼ばれた{{r|jsgoal20121221}}{{r|sm20080805}}{{r|footballchannel20121225}}。これは2001年からクラブ全体が攻撃的なサッカーへの転換を模索しだしたこと{{Sfn|小澤|2011a|p=}}{{r|nike2001}}、それに伴いチームとして質を上げるため2001年のみ[[スカウト (勧誘)|スカウト]]活動を積極的に行ったことにより入団した選手が高校2年・3年になる2003年・2004年に結果として現れたためである{{r|jsgoal2005}}。 |
[[森山佳郎]]が監督として率いた2003年・2004年の広島ユースは、2年連続でユース三冠([[日本クラブユースサッカー選手権 (U-18)大会|クラブユース選手権]]・[[高円宮杯全日本ユース(U-18)サッカー選手権大会|高円宮杯]]・[[Jリーグユース選手権大会|Jユースカップ]])のうち二冠を達成し、"広島ユース黄金時代"と呼ばれた{{r|jsgoal20121221}}{{r|sm20080805}}{{r|footballchannel20121225}}。これは2001年からクラブ全体が攻撃的なサッカーへの転換を模索しだしたこと{{Sfn|小澤|2011a|p=}}{{r|nike2001}}、それに伴いチームとして質を上げるため2001年のみ[[スカウト (勧誘)|スカウト]]活動を積極的に行ったことにより入団した選手が高校2年・3年になる2003年・2004年に結果として現れたためである{{r|jsgoal2005}}。 |
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;高円宮杯3連覇 |
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2020年11月30日 (月) 04:00時点における版
「 | 一流のサッカー選手である前に一流の社会人であれ | 」 |
「 | 気持ちには引力がある | 」 |
サンフレッチェ広島F.Cの育成組織(サンフレッチェひろしまエフシーのいくせいそしき)は、Jリーグ・サンフレッチェ広島F.Cの育成組織(アカデミー、下部組織)。
クラブは目標の一つに「日本一の育成・普及型クラブ」を掲げ[4][5][6]、その中で「技術があってハートもあってハードワークできる」選手の育成を目指している[7]。そしてサッカーの技術的な面だけではなく、メンタル面でのアプローチ[8][3][9]、学業・生活面の指導など人間教育にも力を入れている[4][10][11][12]。
一部では愛称として「子熊」[13]「仔熊」[14]と呼ばれている。2チーム編成で大会に出場する場合、チーム名に「セカンド」あるいは「ベアース(BearsあるいはB)」を付け登録している場合もある。これらの熊とは、チームマスコットであるツキノワグマのサンチェに由来する。また通称として下部組織と呼ばれることがあるが、Jリーグの指針では下部組織という用語は用いないとしている[15]。
スクール拠点は、広島県内のほか山口県や島根県にもある[5]。男子は全カテゴリ、女子はスクール及びU-12に相当するチーム(ジュニア)に入団できる。外部からU-18(ユース)への入団はスカウトとセレクション(募集)、U-15(ジュニアユース)への入団はセレクションのみ、U-12・U-10(ジュニア)はスクールからの選抜メンバーで編成されている。セレクション詳細に関しては公式ホームページ等を参照。
組織
Jリーグクラブライセンス制度では、Jリーグの各チームにU-18チーム、U-15チーム、U-12チーム、U-10チームを保有することを義務づけ、女子チームを保有できるものとしている。これを元に広島では以下のチームを編成している。
- 直轄
- サンフレッチェ広島F.Cユース
- サンフレッチェ広島F.Cジュニアユース
- 拠点 : 広島青少年文化センター(安芸郡府中町)
- 監督 : 岩成智和、コーチ : 山下健太・遠藤真仁、GKコーチ : 阿江孝一
- サンフレッチェ広島F.Cジュニア
- 拠点 : 広島青少年文化センター、広島広域公園第二球技場(広島市安佐北区)
- 監督 : 渡辺康則、コーチ : 木村翔
- スクール
- 提携スクール
- サンフレッチェくにびきフットボールクラブ
- サンフレッチェびんごフットボールクラブ
- 拠点 : 広島県立びんご運動公園(広島県尾道市)
- 代表 : 井上幸仁
所属選手
- ユース
- ジュニアユース以下
以前はイヤーブックやホームページなどで名簿を公開していたが、個人情報保護法が施行した2005年以降公開されていない。
取り組み
前史
- 広島のサッカー土壌
広島は古くは静岡・埼玉と共にサッカー御三家と言われる土地であった[16][17]。戦前から広島高師附属中学(現広島大学附属高校)・広島一中(現広島国泰寺高校)・修道中学(現修道高校)の広島サッカー御三家を中心に全国大会で数々のタイトルを取り、福原黎三・渡部英麿・松田輝幸・浜本敏勝ら教員指導者の尽力により、数多くのサッカー選手を輩出してきた[18]。
1950年代後半になると、指導者不足から東洋工業蹴球部(後のマツダSCでありサンフレッチェ広島F.Cの前身)をはじめとする地元実業団の現役選手が頼まれて市内の小中高校へ指導に出かけるようになった[注 1][19]。1965年東洋工業現役選手によるサッカー教室を正式に開始[20]、マツダSC以降も「マツダサッカースクール」の名称で船本幸路や小城得達など蹴球部OBを講師に県下を指導・普及して周っていた[注 2]。
1970年代以降オイルショックから広島経済の地盤沈下が進み、広島サッカーも影響し停滞していった[18][17]。地元出身の楚輪博や金田喜稔、木村和司などは大学を卒業後は関東や関西の実業団チームへ入団し、森島寛晃や田坂和昭などは他県の高校へ越境入学するなど、タレントが流出していった[18]。
- マツダSCの試み
1984年、マツダSCがJSL2部に降格したことを機に、今西和男が強化担当(兼監督)に就任した[24]。今西は蹴球部OBだが引退後はマツダ社員として働いており、指導者としてのキャリアがまったく無かったので、オランダからハンス・オフトをコーチに招聘した[24]。
今西は外国人選手獲得[注 3]も兼ねて、オフトの出身クラブであるフェイエノールトとその他にもアヤックス・アムステルダムを視察した。そこで、プロには予備軍(フェイエノールト・アカデミーとアヤックス・アカデミー[注 4])が存在すること、予備軍ではトップの内容に近いトレーニングをこなしてること、プロになれなかった場合のリスクを避けるために予備軍に勉強をさせていたこと、を知った[26][25]。
一方、新たな日本人選手発掘・獲得には、地方というハンディキャップからか、なかなか即戦力の選手を獲得できなかった。彼らは相談した結果、即戦力となる大卒選手の獲得を継続する中で、高卒選手の獲得と育成に力を入れ、フェイエノールトやアヤックスのような予備軍の実現を目指そうとした[25]。さっそく2軍である「マツダSC東洋」を強化し中国サッカーリーグに参戦、森保一・片野坂知宏・柳本啓成らを育成していった[27][28]。
さらに指導者育成にも着手[29]、後に小林伸二や松田浩、中村重和などチームを影で支える指導者が誕生した。
また1990年代以降、当時マツダSCコーチだったビル・フォルケスの紹介で、森保や高木琢也[注 5]など若手数人を年に1度1ヶ月程度マンチェスター・ユナイテッドFC.リザーブに練習参加させていた[注 6][30][32][33]。
高校年代の強化
1993年、Jリーグが開幕すると、すべてのJリーグクラブは育成組織を持つことが必須となった。サンフレッチェ広島では当初ハード面で遅れており、特にユースは広島市内で練習グラウンドの確保すらままならなかった[25]。そこへ高田郡吉田町(現安芸高田市)がサッカーを中心としたスポーツで町おこしをする「若者定住促進等緊急プロジェクト」の一環として全面協力することが決定、ユースは育成拠点を吉田町内に置き、町内の吉田運動公園を練習拠点として活動を開始した[4][10]。
ほぼゼロからのスタートであったが、前身の東洋工業/マツダSC時代から若手を育てることがクラブとして生きる道だという思い[25]から、若手育成のノウハウができつつあり、その後の試行錯誤から以下のような発展を遂げた。
- トップクラスの環境(吉田サッカー公園、全寮制)
- 吉田町は広島市内から車で1時間半以上かかる遠方[10][34]にあるため設立開始から全寮制をひいており、マツダで独身寮運営経験がある稲田夫妻を寮長・寮母に迎えた[注 7][1]。当初は民家を借りて行っていたが、環境の充実をはかり、1994年にJリーグチームとしては初めてユース寮を新設した[18]。稲田の定年退職に伴い2011年から中山夫妻[注 8]が、2015年から3代目として遠藤夫妻[6]が寮長・寮母に就任している。
- 1998年に吉田サッカー公園が完成し、本格的に練習を開始した[4]。
- 吉田町との地域密着
- 地元吉田町との関係強化が進んでいる[37][38]。
- 所属する全選手を広島県立吉田高等学校に通わせている[39]。学校での生活態度を逐一報告を受け、成績の悪い選手はペナルティとしてユースの練習に参加させないようにしている[40][10]。また高校の学校行事に積極的に参加[注 9]、ときには吉田高校サッカー部(ここには広島ユース生は所属していない)や吉田中学校にユース監督以下スタッフを派遣し指導に当たるなど、互いに密な関係を築いている[1]。
- また設立当初からサッカーフェスティバルなど町民との積極的な交流を深めた結果、2000年代以降地域に溶けこんだ。ユースの全国大会決勝では町民が応援に駆けつけたりもしている[38]。
- ユース独自のスカウト網
- 専門のスカウトを置き、若年層の有望株を全国津々浦々まで網羅しカバーしており、その情報量は2004年当時は他クラブを圧倒していた[25]。森山佳郎によると、それを見て他クラブも強化した結果一時期は広島に人材が流れてこなくなったが、そこから結果を出し続けたことで持ち直したという[41]。
中学年代以下の強化
- ジュニアユース
ユースと同様に強化に努めたが、結果として現れだしたのは2000年以降である。
ここで育った選手がユースに昇格し、ユースも結果が出るようになった。一方でライバルの不在つまり県サッカーのレベル低下を防ぐため、意図的に上のカテゴリ昇格を制限している部分もあった[42]。ここで育った選手のうちユースに昇格できなかった選手が地元高校に進学し、広島県の高校による2000年代の高校3大大会(インターハイ・高円宮杯・選手権)好成績はジュニアユース出身者によってもたらされている[18][17][43]。
2008年にはジュニアユース出身選手から初の日本代表選手を生み出した。
- 提携スクール
提携スクールは、一般的な町クラブのように地元団体・企業が運営し、サンフレッチェが指導者を派遣するなど技術提携する形をとっている。ほぼゼロから始めたところばかりだが、中には町クラブを前身としサンフレッチェと技術提携したことにより提携スクールとなったところもある[44][45]。これらのチームはスクールを中心とした普及と、ジュニアユース(中学生年代)チームを頂点とする育成チームつまり高校年代以上のチームは持っておらず、高校年代は広島ユースへ入るか高体連・他のJリーグユースなどに入団する。提携スクール出身でトップチームに昇格したもの、また日本代表に選ばれた選手も存在する。
以下は現在開校している提携スクールである。
- サンフレッチェびんご - 広島県尾道市
- 1997年提携。2013年運営を特定非営利活動法人化。
以下は、以前提携スクールとして活動していたが離脱したスクールである。
- 1994年提携、その後提携先をFCバイエルン・ミュンヘンに変え現在はバイエルン・ツネイシ。
普及事業その他
- スクール
女子の「フレッチェレディーススクール」、小学生年代の「スクール」や中学生年代の「ジュニアユーススクール」、GK専門の「GKスクール」や、サッカー未経験の大人を対象とした「おとなスクール」など、幅広く行っている。
なお直下のスクールの内、沼田(広島広域公園)のみトップス広島との提携の形で運用している。
- 街クラブとの提携
前述のとおり広島県のサッカーは1980年代に停滞し、1990年代以降サンフレッチェを中心に高校生年代の強化に成功したものの、中学生年代は未整備だった。これに対し、市内の小学生年代の町クラブが広島大河FCをモデルケースとして中学生年代のチームを作る動きが加速し、指導体制を強化した[18][43]。
この流れにサンフレ側も協力している[5]。例えば、毎週火曜日に高校サッカーや街クラブの指導者とサンフレ育成スタッフ全員が集まる"育成ミーティング"を開催、その中でサンフレ育成ノウハウを公開しお互い情報交換するなど、広島のサッカー発展に貢献している[47]。
- 小学校訪問
トップス広島やP3 HIROSHIMAでの活動の一環として、広島市主催の公共事業「Doスポーツ体育指導者招へい事業」の一環として、また広島県体育協会主催の「ジュニア育成事業」の一環として、トップチームの選手や育成コーチングスタッフ含めた全スタッフが広島市内を中心に県内の小学校訪問を1年間で平均約10校程度行っている。
- 指導者育成
元々マツダSC時代から指導者育成に力を入れており[29]、広島育成組織での指導経験がある人物でJFA 公認S級コーチを取得し他クラブで活躍しているものもいる。
2013年から他クラブに先駆けて、トップチームの現役選手がCないしD級コーチ資格を取得する手助けとして、クラブ独自で講習を開いている[48]。
- 1種アマチュア・女子
2015年時点で、女子チームを創設する予定は全くなく地元のアンジュヴィオレ広島とともに広島サッカー界を盛り上げていくと明示しているが[49]、正式な提携までには至っていない。更に、1種アマチュアチーム、いわゆるセカンドチームも創設する予定もないと明示している[49]。
2020年8月1日、女子チームを新たに設立したうえで2021年秋に開幕を予定しているWEリーグ(日本女子プロサッカーリーグ)への参加を申請したことが明らかになった。[50]
昇格実績
クラブ財政の問題からトップチームですぐ使える選手を昇格させているため、その昇格人数は極めて少なくなっている[51][7][52]。更にトップチームの成績向上に伴いアカデミー出身選手がレギュラーに割って入れない状況もある[53]。
卒団後の進路サポートも重視しており、ユースにおいてはプロになれなかった選手の就職および大学進学率はJリーグユースの中でもトップクラスを誇る[40][10]。広島アカデミーを退団後他の学校などで活躍し、広島のみならず他のJリーグチームでプロ入りを果たした選手もいる。2020年報道によると、他県のレベルアップと広島県の高中体連の地盤沈下に伴い上のカテゴリ昇格を逃したアカデミー出身選手が県外のクラブチーム・学校へ越境入団するケースが顕著になったという[54]。
以下、トップチームにおける年度シーズン開幕時点でのホームグロウン選手(HG選手)の人数と、その中でのアカデミー出身者の人数、HG選手以外の広島県出身選手の人数を示す。Yはユース、JYはジュニアユースの略。
年 度 |
HG 選手 |
アカデミー出身 | HG以外の 広島県出身 | ||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
出身 数 |
出身内訳(重複あり) | ||||||||
Y | JY | JY びんご |
JY くにびき | ||||||
2019 | 13 | 8 | 6 | 2 | 1 | 1 | 1 | ||
2020 | 15 | 10 | 9 | 3 | 1 | - | 1 |
以下、2020年2月時点での各国の1部リーグで100試合以上出場したアカデミー出身者を示す。プロ在歴は全カテゴリでのプロチーム在籍期間。1部リーグの出場・得点はJ1と海外の1部リーグの合計のみであり、J2などの2部リーグ以下やカップ戦、国際試合などは含めない。
名前 | 生年 | 出身県 | アカデミー | プロ契約 | プロ在歴 | Pos. | 1部リーグ(transfermarkt.com参照) | |||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
U15 | U18 | 出場 | 得点 | 最多出場[注 10] | ||||||
森崎和幸 | 1981 | 広島 | - | Y | 昇格 | 1999-2018 | MF | 430 | 19 | 広島 |
森崎浩司 | 広島 | - | Y | 昇格 | 2000-2016 | 258 | 41 | |||
駒野友一 | 和歌山 | - | Y | 昇格 | 2000-現在 | MF/DF | 374 | 19 | ジュビロ磐田 | |
宮本卓也 | 1983 | 広島 | JY | Y | 大商大→セレッソ大阪 | 2006-2013 | 101 | 1 | モンテディオ山形 | |
田坂祐介 | 1985 | 広島 | JY | Y | 青学大→川崎フロンターレ | 2007-現在 | MF | 156 | 15 | 川崎フロンターレ |
高萩洋次郎 | 1986 | 福島 | - | Y | 昇格 | 2003-現在 | 338 | 30 | 広島 | |
森脇良太 | 広島 | びんご | Y | 昇格 | 2005-現在 | 302 | 19 | 浦和レッドダイヤモンズ | ||
柏木陽介 | 1987 | 兵庫 | - | Y | 昇格 | 2006-現在 | 383 | 56 | ||
槙野智章 | 広島 | JY | Y | 昇格 | 2006-現在 | DF | 350 | 41 | ||
森重真人 | 広島 | JY | - | 皆実高→大分トリニータ | 2006-現在 | 347 | 28 | FC東京 | ||
遊佐克美 | 1988 | 福島 | - | Y | 昇格 | 2007-現在 | FW/MF | 168 | 42 | モフン・バガンAC |
野津田岳人 | 1994 | 広島 | JY | Y | 昇格 | 2012-現在 | MF | 143 | 17 | 広島 |
川辺駿 | 1995 | 広島 | JY | Y | 昇格 | 2013-現在 | 129 | 9 |
2012年2月24日日本代表対サッカーアイスランド代表戦にて、駒野・森脇・槙野・柏木が日本代表として出場を果たした。国際Aマッチにおいて同一アカデミー出身者4人出場は日本サッカー史上初のことである[55]。また東アジアカップ2013では国内組の縛りがあったこともあり、駒野・高萩・森脇・槙野・森重と5人日本代表に選ばれている[56]。
ノウハウとその評価
映像外部リンク | |
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サッカー国際大会開会式を盛り上げたサンフレッチェユース劇場 - 当時フィジカルアドバイザーを務めた木場克己がアップロードした動画。中心人物は大谷真史。当時やべっちFCでも取り上げられている[34]。 |
トップチームの2012年・2013年のJリーグ連覇の要因の一つとなったことから、またこれらは比較的小さいクラブ財政基盤での戦力強化モデルであることから、その育成ノウハウがお手本として注目されており[26][57][58]、他からの問い合わせに対し広島側はそのノウハウを全面的に公開している[47][5]。例えば、京都サンガF.C.は2005年"スカラーアスリートプロジェクト"を立ち上げたがベースとなったのが広島の育成ノウハウであり、鹿島アントラーズも寮整備と高校との連携の際には参考にしたという[59][41]。城里町と水戸ホーリーホックはアツマーレ整備の際に、吉田町とサンフレッチェとの関係性に着目している[60]。
ノウハウ公開と平行して、研修などを目的とした短期間の受け入れも行っている。例えば、フィッツジェラルド舞行龍ジェームズは2004年15歳当時広島ユースで短期間受け入れ、これが縁で日本の高校に通いプロ入りし日本に帰化している[61]。
かつてJリーグが始まったころ、少ない予算の中で自前の選手を育てることに長けたクラブとしてジェフ市原とともに評価された[62]。2016年中国網は「日本一大“球星加工厂”(日本の一大タレント育成組織)」と紹介している[63]。
主な戦績
ユース
|
|
- 天皇杯
2000年、ユースが天皇杯広島県予選にあたる全広島サッカー選手権大会で初優勝し、天皇杯に初出場。その後、2度出場したがすべて1回戦敗退している。
開催年月日 | 大会名 | 対戦相手 | 開催スタジアム | スコア | 勝敗 |
---|---|---|---|---|---|
2000年11月25日 | 第80回天皇杯1回戦 | 上田ジェンシャン | 福山市竹ヶ端運動公園陸上競技場 | 0-1 | 敗北 |
2002年12月1日 | 第82回天皇杯1回戦 | 大分トリニータU-18 | 大分市営陸上競技場 | 1-1(PK4-5) | 敗北 |
2003年11月30日 | 第83回天皇杯1回戦 | 水戸ホーリーホック | 福山市竹ヶ端運動公園陸上競技場 | 0-1(延長) | 敗北 |
ジュニアユース
ジュニア
国際試合
2003年と2014年にジュニアユースがJFAプレミアカップ(旧ナイキプレミアカップ)優勝したことに伴いマンチェスター・ユナイテッド・プレミアカップに出場している。 プレミアカップ
ユースは高円宮杯決勝進出の副賞として、2005年と2008年の2度にわたりドイツで開かれたSBCカップに出場している。 SBC
→「公式ホームページ」を参照
高円宮杯決勝進出の副賞として、イタリアで開かれたクラウディオサッシ国際ユーストーナメントU-18大会に出場した。2年連続でフェアプレー賞を受賞した。 なお、2012年はACチェゼーナのトップチームとも対戦、シモーネ・デル・ネロらに得点を奪われ0-6で敗戦している[64]。 クラウディオサッシ
→「平和祈念広島国際ユースサッカー」を参照
2006年から広島県で行われている国際大会に出場している。 特記
創立当初から中国地方のユース年代では抜けた存在であったため、近隣になかなかいい対戦相手がいなかった。そのため1998年、中国サッカーリーグの前期日程(第1節-第8節)にオープン参加している。しかし、社会人リーグのリーグ編成および日程の関係から、この年だけで終わっている。ちなみに戦績は7勝1敗。
森山佳郎が監督として率いた2003年・2004年の広島ユースは、2年連続でユース三冠(クラブユース選手権・高円宮杯・Jユースカップ)のうち二冠を達成し、"広島ユース黄金時代"と呼ばれた[34][66][12]。これは2001年からクラブ全体が攻撃的なサッカーへの転換を模索しだしたこと[67][68]、それに伴いチームとして質を上げるため2001年のみスカウト活動を積極的に行ったことにより入団した選手が高校2年・3年になる2003年・2004年に結果として現れたためである[69]。 前田俊介・髙柳一誠・森脇良太・柏木陽介・槙野智章・平繁龍一ら、タレントがズラリ揃った2004年には、3大会とも決勝に進出した[66]。レギュラー11人が全員プロ入りしたこのチームは強さと巧さを兼ね備え、なおかつ勝負強く、史上最強ではといわれるチームであった[66]。ただ、最上級生に田坂祐介・西山貴永・田村祐基ら、そしてクラブ史上初のプロの高校生Jリーガーとなる髙萩洋次郎が在籍した2003年のチームのほうが記録的には上で、公式戦で2敗のみ(高円宮杯準決勝静岡学園戦と2003年天皇杯1回戦対J2水戸ホーリーホック戦)しかしていない。
高円宮杯はクラブユースと高体連つまり2種登録チームすべてが参加する唯一の大会であり、現在は高校年代サッカーの最高峰と位置づけられている。この大会において2010年代初頭に、第21回高円宮杯・2011年高円宮杯プレミア・2012年高円宮杯プレミアと3連覇を達成している[34][12]。3大会の決勝すべてに出場したのは野津田岳人ら2人、2大会の決勝出場が脇本晃成・川辺駿・宮原和也らがいる。なお2012年はトップチームがJ1リーグ制覇を達成しており、リーグ戦として“兄弟制覇”ということになる[70]。 大会レギュレーション変更を挟むため参考記録ではあるが、2020年現在3連覇は清水市商高と広島ユースのみである。また高円宮杯プレミア2連覇は2020年現在で広島ユースのみである。 スポンサー→「サンフレッチェ広島F.C § ユニフォーム」も参照
ユニフォームサプライヤーはトップと同様に、当初はミズノ、2011年からナイキ、デザインもトップチームと同じもの。トップチームがミズノだった時代には1代前のデザインのものを用いていたりスポンサー表記がトップとは別だったりと不明な点が多いため、ここではミズノ時代である2010年以前については記載を省く。
出身者主な選手海外も含めた男子女子の全国リーグ経験者のみ列挙。日本の場合は男子:Jリーグ・JFL、女子:なでしこリーグ所属経験者のみとし、海外の1部リーグ所属経験はあるが日本の全国リーグには所属経験のない選手も含む。育成所属経験のうち、Yはユース、JYはジュニアユース、Jrはジュニア、Sはスクールの略。提携スクールのうち、くにびきは「く」、びんごは「び」、みろくの里は「み」、常石は「常」と略記。五十音順表記。サンフレッチェ広島F.Cの選手一覧もあわせて参照。 1970年代生まれ
1980年代生まれ
1990年代生まれ
2000年代生まれスタッフ
脚注注釈
出典
参考資料
関連項目外部リンク |