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「日本の軍事史」の版間の差分

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[[Image:G3M Type 96 Attack Bomber Nell G3M-18s.jpg|thumb|right|渡洋爆撃に使用された日本海軍の[[九六式陸上攻撃機]]]]
[[Image:G3M Type 96 Attack Bomber Nell G3M-18s.jpg|thumb|right|渡洋爆撃に使用された日本海軍の[[九六式陸上攻撃機]]]]
犬養内閣時代に一時的に[[皇道派]]が陸軍の主導権を握るが、皇道派はソ連の軍事力が増強される前にこれを叩くべきと主張していた。皇道派に反感を抱くグループは[[統制派]]を形成し、その初期の中心人物が[[永田鉄山]]であった。永田はソ連との戦争のためには日中関係の安定化が必須で、そのためには中国との戦争も排除するべきでないとしていた。また、欧州で再度の大戦が発生するのは避けられず、これに対応するには自給自足の経済圏が必要であるが、満州だけでは不足であり中国北部をも日本の経済圏とすべきと主張した。この考えに沿って陸軍は[[華北分離工作]]を推め、国民党は華北に[[冀察政務委員会]]を設置してこの圧力をかわそうとしたが、民衆の反日感情は増大していった。他方、国民党の指導者であった[[介石]]は[[中国共産党]]を主敵として日本軍との直接対決は避ける方針で、同時に[[中独合作]]を行ってドイツから軍事顧問団を受け入れ、軍事力の強化を図っていた。
犬養内閣時代に一時的に[[皇道派]]が陸軍の主導権を握るが、皇道派はソ連の軍事力が増強される前にこれを叩くべきと主張していた。皇道派に反感を抱くグループは[[統制派]]を形成し、その初期の中心人物が[[永田鉄山]]であった。永田はソ連との戦争のためには日中関係の安定化が必須で、そのためには中国との戦争も排除するべきでないとしていた。また、欧州で再度の大戦が発生するのは避けられず、これに対応するには自給自足の経済圏が必要であるが、満州だけでは不足であり中国北部をも日本の経済圏とすべきと主張した。この考えに沿って陸軍は[[華北分離工作]]を推め、国民党は華北に[[冀察政務委員会]]を設置してこの圧力をかわそうとしたが、民衆の反日感情は増大していった。他方、国民党の指導者であった[[介石]]は[[中国共産党]]を主敵として日本軍との直接対決は避ける方針で、同時に[[中独合作]]を行ってドイツから軍事顧問団を受け入れ、軍事力の強化を図っていた。


[[1937年]][[7月7日]]、北京近郊の[[盧溝橋事件|盧溝橋]]で日本軍([[支那駐屯軍]])と[[国民革命軍|国民党軍]](第29軍)の間に偶発的戦闘が発生した。一旦は解決に向かっていたが、ドイツの軍事顧問であった[[アレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼン|ファルケンハウゼン]]は、交渉を有利にするために上海に対する攻撃を主張した。介石もこれを受け入れたために、[[8月13日]]、[[第二次上海事変]]が発生する。国民党軍は[[トーチカ]]を中心とした防衛ライン([[ハンス・フォン・ゼークト|ゼークト]]・ライン)に日本軍を誘引し、損害を強要する計画であった。上海の日本軍兵力は少数の[[海軍陸戦隊]]のみであったため、[[8月15日]]、日本は2個師団からなる[[上海派遣軍]](最終的に4個師団)の派遣を決定すると同時に、海軍の[[陸上攻撃機]]による[[渡洋爆撃]]も開始された。[[8月23日]]、上海派遣軍は上海北部沿岸に上陸。増強された日本軍は損害を蒙りながらもゼークト・ラインを突破し、[[11月5日]]に新たに派遣された[[第10軍 (日本軍)|第10軍]](3個師団)による杭州湾上陸作戦が成功すると、国民党軍は[[南京]]に向かって退却を開始した。[[11月7日]]には上海派遣軍と第10軍を統括する[[中支那方面軍]]が創設された。当初参謀本部は南京への攻撃は認めていなかったが、中支那方面軍は南京攻略を主張、[[12月1日]]にこれが認められた。[[12月7日]][[南京攻略戦]]が開始され、[[12月13日]]に南京は陥落した。それに先立つ[[11月16日]]に国民政府は[[重慶]]へ遷都しており、12月7日には介石も南京から脱出した。
[[1937年]][[7月7日]]、北京近郊の[[盧溝橋事件|盧溝橋]]で日本軍([[支那駐屯軍]])と[[国民革命軍|国民党軍]](第29軍)の間に偶発的戦闘が発生した。一旦は解決に向かっていたが、ドイツの軍事顧問であった[[アレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼン|ファルケンハウゼン]]は、交渉を有利にするために上海に対する攻撃を主張した。介石もこれを受け入れたために、[[8月13日]]、[[第二次上海事変]]が発生する。国民党軍は[[トーチカ]]を中心とした防衛ライン([[ハンス・フォン・ゼークト|ゼークト]]・ライン)に日本軍を誘引し、損害を強要する計画であった。上海の日本軍兵力は少数の[[海軍陸戦隊]]のみであったため、[[8月15日]]、日本は2個師団からなる[[上海派遣軍]](最終的に4個師団)の派遣を決定すると同時に、海軍の[[陸上攻撃機]]による[[渡洋爆撃]]も開始された。[[8月23日]]、上海派遣軍は上海北部沿岸に上陸。増強された日本軍は損害を蒙りながらもゼークト・ラインを突破し、[[11月5日]]に新たに派遣された[[第10軍 (日本軍)|第10軍]](3個師団)による杭州湾上陸作戦が成功すると、国民党軍は[[南京]]に向かって退却を開始した。[[11月7日]]には上海派遣軍と第10軍を統括する[[中支那方面軍]]が創設された。当初参謀本部は南京への攻撃は認めていなかったが、中支那方面軍は南京攻略を主張、[[12月1日]]にこれが認められた。[[12月7日]][[南京攻略戦]]が開始され、[[12月13日]]に南京は陥落した。それに先立つ[[11月16日]]に国民政府は[[重慶]]へ遷都しており、12月7日には介石も南京から脱出した。


その間も講和交渉は行われていたが、1938年[[1月16日]]、[[近衛文麿]]総理は「国民政府を対手とせず」の声明を出して交渉を打ち切り長期戦へと突入した。同年には[[国家総動員法]]が制定された。その後も日本軍は戦域を拡大していくが、東南アジアからの[[援ルート]]による英米の支援を受けた重慶国民政府は講和に応じなかった。重慶政府との早期講和は無理と判断した日本は、[[1940年]][[3月30日]]に[[汪兆銘]]に南京で親日政府を樹立させたが([[汪兆銘政権|中華民国南京国民政府]])、南京政府を承認した国は少なかった。このような中、日中戦争の単独解決は不可能で、一挙解決のためには武力行使も含む東南アジア進出が必要との考えが生まれ、1940年7月には[[南進論]]が国策として決定された。
その間も講和交渉は行われていたが、1938年[[1月16日]]、[[近衛文麿]]総理は「国民政府を対手とせず」の声明を出して交渉を打ち切り長期戦へと突入した。同年には[[国家総動員法]]が制定された。その後も日本軍は戦域を拡大していくが、東南アジアからの[[援ルート]]による英米の支援を受けた重慶国民政府は講和に応じなかった。重慶政府との早期講和は無理と判断した日本は、[[1940年]][[3月30日]]に[[汪兆銘]]に南京で親日政府を樹立させたが([[汪兆銘政権|中華民国南京国民政府]])、南京政府を承認した国は少なかった。このような中、日中戦争の単独解決は不可能で、一挙解決のためには武力行使も含む東南アジア進出が必要との考えが生まれ、1940年7月には[[南進論]]が国策として決定された。


満州事変後から陸軍は師団の増設を検討していたが、1937年[[9月1日]]に12個師団が追加編成され、太平洋戦争開始前までにさらに27個師団が増設された(内、5個師団が解散されたため、太平洋戦争開戦時の総師団数は51個師団)。中国大陸(満州除く)への派遣兵力は最大85万人に達し、「[[総軍]]」たる[[支那派遣軍]]が設置された。海軍も[[大日本帝国海軍航空隊#日中戦争|航空隊]]を派遣した。実質的な全面戦争であったにも関わらず、両国とも[[宣戦布告]]は行わなかったが、これは欧米諸国との貿易が阻害され継戦能力が低下することを避けるためであった。他方海軍は1936年末に[[ワシントン海軍軍縮条約]]が失効すると、戦艦2隻・空母2隻の建造を含む[[マル3計画]]に沿って艦艇・航空機の増強を行った。
満州事変後から陸軍は師団の増設を検討していたが、1937年[[9月1日]]に12個師団が追加編成され、太平洋戦争開始前までにさらに27個師団が増設された(内、5個師団が解散されたため、太平洋戦争開戦時の総師団数は51個師団)。中国大陸(満州除く)への派遣兵力は最大85万人に達し、「[[総軍]]」たる[[支那派遣軍]]が設置された。海軍も[[大日本帝国海軍航空隊#日中戦争|航空隊]]を派遣した。実質的な全面戦争であったにも関わらず、両国とも[[宣戦布告]]は行わなかったが、これは欧米諸国との貿易が阻害され継戦能力が低下することを避けるためであった。他方海軍は1936年末に[[ワシントン海軍軍縮条約]]が失効すると、戦艦2隻・空母2隻の建造を含む[[マル3計画]]に沿って艦艇・航空機の増強を行った。
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1937年、日本は[[米国]]の6分の1の産業能力を持っていた。 日本の産業は、日本の海外領土からの原材料の出荷と海外からの輸入に依存していた。 [[日米交渉|日本の石油禁輸(1940–1941)]]など、米国からの原材料に対する経済的禁輸がますます厳しくなり、[[大日本帝国]]は[[アメリカ合衆国|アメリカ]]との対立を余儀なくされる。<ref name="US-Economic-Warfare">{{cite news |title=How U.S. Economic Warfare Provoked Japan's Attack on Pearl Harbor |date=7 December 2012|publisher=Mises Institute |accessdate=8 June 2019 |url=https://mises.org/library/how-us-economic-warfare-provoked-japans-attack-pearl-harbor|archive-url=https://web.archive.org/web/20190428130715/https://mises.org/library/how-us-economic-warfare-provoked-japans-attack-pearl-harbor |archive-date=April 28, 2019}}</ref>
1937年、日本は[[米国]]の6分の1の産業能力を持っていた。 日本の産業は、日本の海外領土からの原材料の出荷と海外からの輸入に依存していた。 [[日米交渉|日本の石油禁輸(1940–1941)]]など、米国からの原材料に対する経済的禁輸がますます厳しくなり、[[大日本帝国]]は[[アメリカ合衆国|アメリカ]]との対立を余儀なくされる。<ref name="US-Economic-Warfare">{{cite news |title=How U.S. Economic Warfare Provoked Japan's Attack on Pearl Harbor |date=7 December 2012|publisher=Mises Institute |accessdate=8 June 2019 |url=https://mises.org/library/how-us-economic-warfare-provoked-japans-attack-pearl-harbor|archive-url=https://web.archive.org/web/20190428130715/https://mises.org/library/how-us-economic-warfare-provoked-japans-attack-pearl-harbor |archive-date=April 28, 2019}}</ref>


ソ連との間に[[独ソ不可侵条約]]を結んだ[[ナチス・ドイツ|ドイツ]]は[[1939年]][[9月1日]]に[[ポーランド侵攻|ポーランドに侵攻]]、[[第2次世界大戦]]が始まった。翌年には[[オランダにおける戦い (1940年)|オランダ]]、[[ナチス・ドイツのフランス侵攻|フランスも降伏]]、[[バトル・オブ・ブリテン|イギリス]]もドイツへの対抗で手一杯の状態となった。これは東南アジア植民地の防衛力低下を意味し、このような状況の中[[南進論]]が具体化する。1940年[[9月23日]]、日本軍は[[援ルート]]の封鎖を理由に[[仏印進駐#北部仏印進駐|北部仏印進駐]]を開始、東南アジア進出の足がかりを構築した。[[9月27日]]には[[日独伊三国同盟]]が締結されるが、日独ともにアメリカの参戦防止を期待してのものであった。外相[[松岡洋右]]はソ連を含めた四国同盟とし、さらなる対米抑止力の向上を主張したが、すでに独ソ関係は悪化しておりこれは実現できず、[[日ソ中立条約]]を結ぶに留まった。1941年[[6月22日]]に[[独ソ戦]]が勃発、三国同盟による米国参戦阻止はほぼ期待できなくなった。陸軍は対ソ戦を視野に入れて[[関東軍特種演習]]を実施したがすでに南進が既定方針となっており、ソ連侵攻は見送られた。
ソ連との間に[[独ソ不可侵条約]]を結んだ[[ナチス・ドイツ|ドイツ]]は[[1939年]][[9月1日]]に[[ポーランド侵攻|ポーランドに侵攻]]、[[第2次世界大戦]]が始まった。翌年には[[オランダにおける戦い (1940年)|オランダ]]、[[ナチス・ドイツのフランス侵攻|フランスも降伏]]、[[バトル・オブ・ブリテン|イギリス]]もドイツへの対抗で手一杯の状態となった。これは東南アジア植民地の防衛力低下を意味し、このような状況の中[[南進論]]が具体化する。1940年[[9月23日]]、日本軍は[[援ルート]]の封鎖を理由に[[仏印進駐#北部仏印進駐|北部仏印進駐]]を開始、東南アジア進出の足がかりを構築した。[[9月27日]]には[[日独伊三国同盟]]が締結されるが、日独ともにアメリカの参戦防止を期待してのものであった。外相[[松岡洋右]]はソ連を含めた四国同盟とし、さらなる対米抑止力の向上を主張したが、すでに独ソ関係は悪化しておりこれは実現できず、[[日ソ中立条約]]を結ぶに留まった。1941年[[6月22日]]に[[独ソ戦]]が勃発、三国同盟による米国参戦阻止はほぼ期待できなくなった。陸軍は対ソ戦を視野に入れて[[関東軍特種演習]]を実施したがすでに南進が既定方針となっており、ソ連侵攻は見送られた。


その後も[[日米交渉]]は続けられていたが、[[7月28日]]の[[仏印進駐#南部仏印進駐|南部仏印進駐]]をきっかけに米国は態度を硬化させ、日本に対する石油の輸出を全面的に禁止した。参謀本部は10月15日までに交渉が妥結できない場合は開戦を主張していたが、[[10月18日]]に[[近衛文麿]]首相は辞職し、陸軍大臣であった[[東條英機]]が総理大臣となった。[[東條内閣]]は[[昭和天皇]]の意向に沿ってなおも交渉を続けたが、[[11月26日]]には中国からの撤退を含む[[ハルノート]]が提出されると交渉妥結は不可能と判断、開戦が決定された。
その後も[[日米交渉]]は続けられていたが、[[7月28日]]の[[仏印進駐#南部仏印進駐|南部仏印進駐]]をきっかけに米国は態度を硬化させ、日本に対する石油の輸出を全面的に禁止した。参謀本部は10月15日までに交渉が妥結できない場合は開戦を主張していたが、[[10月18日]]に[[近衛文麿]]首相は辞職し、陸軍大臣であった[[東條英機]]が総理大臣となった。[[東條内閣]]は[[昭和天皇]]の意向に沿ってなおも交渉を続けたが、[[11月26日]]には中国からの撤退を含む[[ハルノート]]が提出されると交渉妥結は不可能と判断、開戦が決定された。
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1942年までに、[[大日本帝国]]は歴史上最大のものの一つだった。これには、[[満州]]、[[朝鮮半島]]、[[台湾]]、[[中国]]東部、[[樺太庁]]、[[千島列島]]、[[インドネシア]]、[[フィリピン]]、[[マレーシア]]、[[パプアニューギニア]]、[[インドシナ半島]]、[[ビルマ]]および多くの[[太平洋諸島]]の植民地が含まれていた。
1942年までに、[[大日本帝国]]は歴史上最大のものの一つだった。これには、[[満州]]、[[朝鮮半島]]、[[台湾]]、[[中国]]東部、[[樺太庁]]、[[千島列島]]、[[インドネシア]]、[[フィリピン]]、[[マレーシア]]、[[パプアニューギニア]]、[[インドシナ半島]]、[[ビルマ]]および多くの[[太平洋諸島]]の植民地が含まれていた。


開戦前の「対英米蘭戦争終末促進に関する腹案」では「独伊と提携して先ず英の屈服を図り米の継戦意思を喪失せしむるに勉む」とされており、東南アジアの資源地帯を占領した後には[[持久戦]]に移行する予定であった。しかし、[[連合艦隊司令長官]][[山本五十六]]は長期戦は米国を利するのみであり、連続的な勝利のみが米国との早期講和を実現するとし、[[第二段作戦]]としてハワイ攻略を主張した。その前哨作戦として[[ミッドウェー島]]攻略が実施されることとなったが、それに先立ち[[軍令部]]主導の[[FS作戦|米豪遮断作戦]]のためにインド洋作戦から帰還中の[[第五航空戦隊|空母2隻]]が派遣され、[[5月8日]]に史上初めて空母部隊同士が交戦した([[珊瑚海海戦]])。日本軍は米国空母1隻を撃沈・1隻を中破するという戦術的勝利を収めたが、使用した2隻の空母はミッドウェー攻略に参加できなくなった。[[6月5日]]、[[ミッドウェー海戦]]が発生、米軍は日本海軍の暗号を解読しており、また索敵の失敗もあって、日本海軍は作戦に参加した4隻の空母を失うという大敗を喫した。[[8月7日]]、ソロモン諸島の[[ガダルカナル島]]に米軍が上陸、その後半年間に渡って激しい[[ガダルカナル島の戦い|陸戦・海戦]]が行われ、日本軍はガダルカナル島を放棄、また日米両海軍とも大損害を受け当面の間大規模な艦隊作戦はできなくなった。しかしながら、その後も[[ラバウル航空隊|ラバウル基地]]を中心に航空戦が展開され、日本の航空戦力は消耗していった。
開戦前の「対英米蘭戦争終末促進に関する腹案」では「独伊と提携して先ず英の屈服を図り米の継戦意思を喪失せしむるに勉む」とされており、東南アジアの資源地帯を占領した後には[[持久戦]]に移行する予定であった。しかし、[[連合艦隊司令長官]][[山本五十六]]は長期戦は米国を利するのみであり、連続的な勝利のみが米国との早期講和を実現するとし、[[第二段作戦]]としてハワイ攻略を主張した。その前哨作戦として[[ミッドウェー島]]攻略が実施されることとなったが、それに先立ち[[軍令部]]主導の[[FS作戦|米豪遮断作戦]]のためにインド洋作戦から帰還中の[[第五航空戦隊|空母2隻]]が派遣され、[[5月8日]]に史上初めて空母部隊同士が交戦した([[珊瑚海海戦]])。日本軍は米国空母1隻を撃沈・1隻を中破するという戦術的勝利を収めたが、使用した2隻の空母はミッドウェー攻略に参加できなくなった。[[6月5日]]、[[ミッドウェー海戦]]が発生、米軍は日本海軍の暗号を解読しており、また索敵の失敗もあって、日本海軍は作戦に参加した4隻の空母を失うという大敗を喫した。[[8月7日]]、ソロモン諸島の[[ガダルカナル島]]に米軍が上陸、その後半年間に渡って激しい[[ガダルカナル島の戦い|陸戦・海戦]]が行われ、日本軍はガダルカナル島を放棄、また日米両海軍とも大損害を受け当面の間大規模な艦隊作戦はできなくなった。しかしながら、その後も[[ラバウル航空隊|ラバウル基地]]を中心に航空戦が展開され、日本の航空戦力は消耗していった。


1944年になると、戦力を整えた米軍は本格的な反撃を開始した。[[6月15日]]は[[第31軍 (日本軍)|第31軍]]が守備する[[サイパンの戦い|サイパン島]]に米軍が上陸、[[6月19日]]-20日にはそれに反撃する日本海軍との間に[[マリアナ沖海戦]]が勃発した。日本海軍は[[第一機動艦隊|9隻の空母]]を中心に[[第一航空艦隊#基地機動部隊|基地航空隊]]と協力して米海軍の15隻の空母と決戦を行う計画を立てたが、海戦前に基地航空隊は壊滅しており、また空母航空隊も質量ともに米軍に劣り、空母3隻を失って敗北した。[[7月9日]]にサイパンの日本軍は全滅。[[絶対国防圏]]とされたサイパンの陥落により日本の敗北は時間の問題となり、東條首相は責任をとって辞職し、[[小磯内閣|小磯國昭]]が首相となった。1944年[[10月20日]]、米軍はフィリピンの[[レイテ島の戦い|レイテ島]]に上陸、[[10月23日]]-25日に史上最大の海戦と言われる[[レイテ沖海戦]]が勃発するが、日本海軍はここでも敗北し、以後水上部隊の組織的活動が不可能となった。また、この海戦で[[神風特別攻撃隊|特攻]]が初めて実施された。フィリピンの[[第14方面軍 (日本軍)|第14方面軍]]は翌年6月まで抵抗を続けたが、米軍はフィリピン各地に航空基地を建設し、東南アジアから日本への物資輸送を妨害、潜水艦による[[通商破壊]]もあり、1945年3月には南方航路は完全に遮断された。一方、サイパンを占領した米軍は大規模な航空基地を整備し、[[11月24日]]から[[B-29]]による[[日本本土空襲]]が開始された。当初は軍事施設に対する高空からの[[精密爆撃]]が行われていたが、[[3月10日]]の[[東京大空襲]]からは低空からの[[無差別爆撃]]に切り替えられたために、民間人の死傷者が急増していった。B-29の不時着基地および護衛戦闘機の基地として利用するため、米軍は[[2月19日]]に[[硫黄島の戦い|硫黄島]]に上陸したが、日本軍は頑強に抵抗し米軍は大損害を受けた。[[4月1日]]に米軍は沖縄本島に上陸を開始、日本軍は特攻機を大量投入し、約11万人の[[第32軍 (日本軍)|第32軍]]は5倍の兵力を有する米軍に対して持久戦術を採用して米軍に損害を与えていた。[[5月4日]]に反攻に転じ総攻撃を実施したが失敗し、[[6月23日]]に沖縄での組織的戦闘は終結した。沖縄戦では約9万人の日本軍の戦死者に加え、民間人も10万人近くが犠牲となった、一方米軍も、戦死約14000名、戦傷約72000名という損害を出した。ビルマでは[[第15軍 (日本軍)|第15軍]]が[[インド国民軍]]とともに1944年3月にインドを目指した[[インパール作戦]]を実施したが敗北し、1945年5月にはイギリス軍に[[ラングーン]]を奪回されていた。[[シンガポール]]、[[マレー半島]]、[[オランダ領東インド|蘭印]]は日本軍の支配下にあったが、すでに日本との交通は途絶しており、資源地帯としての意味はなさなくなっていた。中国では[[大陸打通作戦]]に勝利していたものの、戦局の大勢には影響を与えず、単独和平工作([[繆斌#繆斌工作|繆斌工作]])も失敗した。沖縄上陸・繆斌工作失敗の責任を取り、[[小磯國昭|小磯総理]]は辞任、[[4月8日]]に[[鈴木貫太郎内閣]]が組織された。
1944年になると、戦力を整えた米軍は本格的な反撃を開始した。[[6月15日]]は[[第31軍 (日本軍)|第31軍]]が守備する[[サイパンの戦い|サイパン島]]に米軍が上陸、[[6月19日]]-20日にはそれに反撃する日本海軍との間に[[マリアナ沖海戦]]が勃発した。日本海軍は[[第一機動艦隊|9隻の空母]]を中心に[[第一航空艦隊#基地機動部隊|基地航空隊]]と協力して米海軍の15隻の空母と決戦を行う計画を立てたが、海戦前に基地航空隊は壊滅しており、また空母航空隊も質量ともに米軍に劣り、空母3隻を失って敗北した。[[7月9日]]にサイパンの日本軍は全滅。[[絶対国防圏]]とされたサイパンの陥落により日本の敗北は時間の問題となり、東條首相は責任をとって辞職し、[[小磯内閣|小磯國昭]]が首相となった。1944年[[10月20日]]、米軍はフィリピンの[[レイテ島の戦い|レイテ島]]に上陸、[[10月23日]]-25日に史上最大の海戦と言われる[[レイテ沖海戦]]が勃発するが、日本海軍はここでも敗北し、以後水上部隊の組織的活動が不可能となった。また、この海戦で[[神風特別攻撃隊|特攻]]が初めて実施された。フィリピンの[[第14方面軍 (日本軍)|第14方面軍]]は翌年6月まで抵抗を続けたが、米軍はフィリピン各地に航空基地を建設し、東南アジアから日本への物資輸送を妨害、潜水艦による[[通商破壊]]もあり、1945年3月には南方航路は完全に遮断された。一方、サイパンを占領した米軍は大規模な航空基地を整備し、[[11月24日]]から[[B-29]]による[[日本本土空襲]]が開始された。当初は軍事施設に対する高空からの[[精密爆撃]]が行われていたが、[[3月10日]]の[[東京大空襲]]からは低空からの[[無差別爆撃]]に切り替えられたために、民間人の死傷者が急増していった。B-29の不時着基地および護衛戦闘機の基地として利用するため、米軍は[[2月19日]]に[[硫黄島の戦い|硫黄島]]に上陸したが、日本軍は頑強に抵抗し米軍は大損害を受けた。[[4月1日]]に米軍は沖縄本島に上陸を開始、日本軍は特攻機を大量投入し、約11万人の[[第32軍 (日本軍)|第32軍]]は5倍の兵力を有する米軍に対して持久戦術を採用して米軍に損害を与えていた。[[5月4日]]に反攻に転じ総攻撃を実施したが失敗し、[[6月23日]]に沖縄での組織的戦闘は終結した。沖縄戦では約9万人の日本軍の戦死者に加え、民間人も10万人近くが犠牲となった、一方米軍も、戦死約14000名、戦傷約72000名という損害を出した。ビルマでは[[第15軍 (日本軍)|第15軍]]が[[インド国民軍]]とともに1944年3月にインドを目指した[[インパール作戦]]を実施したが敗北し、1945年5月にはイギリス軍に[[ラングーン]]を奪回されていた。[[シンガポール]]、[[マレー半島]]、[[オランダ領東インド|蘭印]]は日本軍の支配下にあったが、すでに日本との交通は途絶しており、資源地帯としての意味はなさなくなっていた。中国では[[大陸打通作戦]]に勝利していたものの、戦局の大勢には影響を与えず、単独和平工作([[繆斌#繆斌工作|繆斌工作]])も失敗した。沖縄上陸・繆斌工作失敗の責任を取り、[[小磯國昭|小磯総理]]は辞任、[[4月8日]]に[[鈴木貫太郎内閣]]が組織された。

2020年9月15日 (火) 13:35時点における版

日本の軍事史(にほんのぐんじし)は、豪族(国造)の私兵から律令制に基づく大規模な国家兵力たる軍団の設立、その廃止に伴う治安悪化のために私的に自己武装した武士の誕生、その武士の武力と主従関係が公的権力となった武家政権封建制)、江戸幕府文治政治による武力の抑制、19世紀の国際関係に対応するための近代的徴兵制に基づく国民軍たる帝国陸軍帝国海軍の設立とその巨大化、第二次世界大戦の敗戦による日本国憲法による武力の放棄、さらに自衛に特化した自衛隊の創設という流れをたどり、現在に至る。

先史時代

縄文時代

考古学の研究によれば縄文時代に既に環濠集落の存在が確認されている。これは周囲に空堀や水堀を設けることで防御機能を高めた施設を伴った集落の形態である。また、殺傷痕のついた縄文の人骨も全国の遺跡で発見されている。しかしながら、縄文時代に戦争があったか否かに関しては、研究者の間で一致を見ていない[注 1]

弥生時代

弥生時代の木製甲冑のレプリカ。国立歴史民俗博物館

弥生時代に入ると環濠集落は一般的となり、また高地性集落も出現することから、戦争も日常的にあったと考えられている。弥生時代の初期に朝鮮半島を経由して銅剣が伝来した。伝来時の銅剣は、細身で鋭いデザインであり、純粋に武器として使用された可能性が高い。その後すぐに鉄剣も伝来した。大陸や朝鮮と違って、銅剣・鉄剣到来の時期的な差が少ないため、銅剣が戦場で使用されていた時期は比較的短いとされる。弓に関しては3世紀の日本を記載した魏志倭人伝に『木弓を使用し、その木弓は下部が短く、上部が長くなっている。矢は竹製で鉄または骨製の鏃を使う』[1]と記されており、和弓の原型が既に出現していたことが伺える。他に矛および盾が武器として記されている。また同書は日本には馬はいないと述べている[2]。武具の考古資料(遺跡出土遺物)としては、漆を塗った木製が出土している[注 2]

縄文時代の殺傷痕は60%が矢じり、26%が石斧であるのに対し、弥生時代になると刀剣が54%、矢じりが44%という統計があるる[3]

弥生時代後期(2世紀後半)には倭国大乱と呼ばれる戦乱があったことが、中国の複数の史書に記述が見られる[4]

古代

古墳時代

東京国立博物館所蔵の古墳時代の板甲(短甲とも)と眉庇付冑
大阪府立近つ飛鳥博物館所蔵の復元された古墳時代の札甲(挂甲とも)と衝角付冑
国宝埴輪 挂甲武人』(東京国立博物館所蔵)。なお、この形式の札甲(胴丸式挂甲)は、奈良時代に「短甲」と呼ばれるものと考えられている。

古墳時代になると、鉄製のを国内で生産することが可能となった。

防御武具(甲冑)としては鉄製の板甲(帯金式甲冑[5]短甲とも)と衝角付冑眉庇付冑)が出現した。板甲は6世紀には出土遺物としては見られなくなり、騎乗に適した札甲(挂甲とも)に代わられている。なお、古墳時代の甲については、末永雅雄の体系的な研究以来[6][7]、板造りのものを「短甲」、小札造りのものを「挂甲」と呼ぶことが一般化しているが、これは後の奈良時代の文献史料に見える奈良時代甲冑の名称を便宜的に当てはめたもので、今日の研究では古墳時代考古資料の甲冑と、奈良時代文献史料の「短甲・挂甲」という語が示す甲冑とが形態的・構造的に一致していないことが解ってきたため[8][9]、古墳時代の甲は「板甲・札甲(小札甲)」と呼ぶべきとの指摘が出てきている[10]

3-4世紀の遺跡からは木製のが出土しており、5世紀頃になると鉄製[11]が登場した。また、4世紀末から5世紀の初頭までには乗馬の風習も伝わったと考えられている[12]

4世紀末から5世紀初には、『(ヤマト)』は朝鮮半島に進出し、百済との同盟関係を構築して、新羅高句麗の軍勢と戦っている(好太王碑)。好太王碑に記載される『倭』を、日本の史学者は大和政権と理解することが一般的であるが、九州地方の地方政権であるとする説もある。また、倭は朝鮮半島南部の任那に、何らかの権益を持っていたと考えられている。日本書紀によると527年~528年に九州で磐井の乱が発生している。これは朝鮮半島南部へ出兵する大和政権軍の進軍を、新羅から賄賂を受けた筑紫君磐井が妨害したことが原因とされている。この磐井の乱を鎮圧した物部麁鹿火の属する物部氏、および大伴氏が古代の有力軍事氏族であった。物部氏は6世紀の終わりには蘇我氏との争いに敗れて没落するが(丁未の乱)、大伴氏は、平安時代初期の桓武朝においても、大伴弟麻呂が初代征夷大将軍となって蝦夷との戦いに出征している。

飛鳥・奈良・平安時代

古代山城鬼ノ城備中国

奈良盆地を拠点とした大和政権は、7世紀初めには冠位十二階の制定などに見られるように国家としての体制を整備していった。7世紀半ば、大化の改新によって天皇中心の中央集権を進める皇太子中大兄皇子(後の天智天皇)は、朝鮮半島の百済が滅亡すると、百済復興を目的として、47,000人もの大軍を朝鮮半島に派遣した。しかし663年にと新羅の連合軍に白村江の戦いで敗北し、朝鮮半島における影響力を失った。その後、唐・新羅の日本列島侵攻が予想されたため、対馬や壱岐などの重要地域に防人や烽火を設置し、各地に山城が築かれた他、北九州の外交と防衛の拠点である大宰府には水城を設置して敵の侵攻に備えた。天智天皇の死後、皇位継承を巡って、671年に大友皇子大海人皇子の間に壬申の乱が発生した。1ヶ月に渡って近畿圏各地で戦闘が繰り広げられ、古代最大の戦争に発展した。このとき、大海人皇子は東海道東山道の諸国から兵を動員し、大友皇子側は東国と吉備筑紫(九州)に兵力動員を命じている。これらの兵力は歴史学で国造軍と呼ばれ、中央・地方の豪族が従者や隷下の人民を武装させて編成していた。

律令制と軍団の設立

白村江の戦いの敗北により、国防力の増強が必要となった。豪族の兵であった国造軍に変わり、国家が兵士を徴兵[13]、民政機構から分独立した[14]軍団[15]が組織されることとなった。律令制が本格的に導入されると軍事制度も整備され(軍防令)、中央官制の兵部省が設置され、徴兵を可能にする戸籍の整備が進んだ(正丁(成年男子)3人に1人が兵士として徴発される規定であった)。徴兵された兵士は各地に設置された軍団に配属された。原則としては現地勤務であるが、一部の兵士は宮中警備を担う衛士と九州防衛を担う防人となった。一個軍団の兵員数は二百人から千人の間であるが、千人を超える例も存在したと考えられている。軍団は3~4郡ごとに設置されており、九州では各国に2~4個軍団(1600~4000人)が置かれていたことが記録に残っている。軍団兵士の数は20万人に達したとの見方もある[16]。但し、軍団の兵士は交代で勤務しており、通常の兵力は定数の数分の一であった。なお蝦夷と対峙する陸奥国には、軍団とは別に鎮守府に属する鎮兵と呼ばれる固有の兵力が常設配備されていた。鎮守府は始め多賀城(現宮城県多賀城市)におかれ、後に胆沢城(現岩手県奥州市)に移された。多賀城は防御のために周囲を長大な柵で囲まれていたが、この内部に陸奥国府がおかれていた。この他にも蝦夷に対する備えとして、軍事・行政機能を有する多数の城柵が築かれた。

軍団兵士は、自弁で弓矢・大刀・小刀等を用意する必要があった[17]。その他の官給の武器としてがあり、弩に関しては体格と腕力に優れた者が隊(50名)ごとに各2名ずつ選ばれて射手の教育を受けた[18]。弓馬が得意なものは騎兵とすることとなっていたが[19]、多くは歩兵であったと考えられる[20]。騎兵は、基本的に弓射騎兵であるが[21]、槍を扱う突撃騎兵も存在したと推定される[22]

奈良時代平安時代前半(8世紀-10世紀)の甲冑については、聖武天皇崩御77回忌にあたる天平勝宝8年6月21日(756年7月22日)に、光明皇太后が亡帝の遺品を東大寺に献納した際の目録『東大寺献物帳』に「短甲挂甲」の名が見える。延長5年(927年)成立の『延喜式』にも見えることから、10世紀代までは存在していた甲冑形式と考えられている[10]。実際にどのような姿であったのかは遺物が小札の残欠程度しか残っておらず明確ではなかったが、今日の研究では「短甲」は「胴丸式挂甲」(どうまるしきけいこう)[注 3]、「挂甲」は「裲襠式挂甲」(りょうとうしきけいこう)と呼ばれる形態だったと推定されている[9][10]。また、鉄製以外のものでは「綿襖甲」・「綿襖冑」[24]や「革製甲」[25]が使用されていた。

遠征軍が組織される場合は、兵一万人以上(一軍)なら将軍一人、三軍ごとに大将軍一人を置くこととなっていた。実際には三軍からなる遠征軍が編成されることはなかったが[26]、大規模な軍や三位以上のものが軍を指揮する場合には、大将軍の呼称が用いられた。著名な例としては、8世紀終わりから9世紀始めにかけての陸奥国での蝦夷に対する戦争征夷大将軍に任ぜられた、坂上田村麻呂がある。

なおこの頃中国から兵法が伝わっている。『続日本紀』によると、大宰府にあった吉備真備のもとへ、760年に『孫子の兵法』を学ぶために下級武官が派遣されたことが記されている。真備は764年に起きた藤原仲麻呂の乱では孫子の兵法を実戦に活用したとされている。

軍団の縮小・廃止と健児の制

軍団制度はもともと唐や新羅の侵攻に備えたものであり、その危険が減ると必要性は薄れてきた。また、貴族層では、穢れ思想が広まり、軍隊を平和を乱す存在として忌み嫌うようになり、また、言霊思想によって、戦争のことを口にすることをはばかるようになり、このため、貴族層の間では、軍団の廃止が叫ばれるようになった。

そこで、792年、桓武天皇により、陸奥国出羽国佐渡国西海道諸国を除いて軍団は廃止され、代わって弓馬に優れたものを選抜する健児の制が布かれた。健児になるためには、経済力と武芸の訓練を行う時間が必要であるため、古墳時代以来の地方首長層に出自する郡司の子弟と、新たに地方経済の発展により成長を遂げた富豪百姓田堵)のみが対象となり、一般農民らの兵役の負担はほぼ解消されることとなった。健児の定員は、国ごとに30~100人程度と、数千人に達する軍団よりはるかに少なく、「試練を行なって1人を以て100人に当り得る強力な兵士」となることが求められた[27]。これら健児は弓射騎兵であり、職能的には次代の武士と連続性を持つといえる。少数精鋭化が実施されたとはいえ、健児を動かすには国衙を通じて中央の承認を得る必要があり、運用の柔軟性が向上したわけではなかった。

なお、防人に関しては東国からの徴兵は廃止されたものの、9世紀初めから10世紀終わりにかけて、しばしば新羅の海賊が九州を襲ったため(新羅の入寇)制度自体は存続し、九州の兵士がそれにあてられた。

しかし、軍団廃止の影響によって、朝廷による地方の治安維持機能は低下し、郡司や富豪百姓は自己防衛のために私的に武装することとなる。

中世

国衙軍制

古代末期から中世初頭にかけて(10世紀 - 12世紀)、個別人身支配を原則とした律令制度は機能しなくなり、土地課税原則の王朝国家へと変質した。中央から派遣された国司は、土着の豪族である郡司や富豪百姓を通じた支配を行った。国司は実績をあげるため、郡司・富豪層へ過度な要求を課することが多くあり、これに対する郡司・富豪層らの抵抗が群盗海賊という形態で現出した。

これに対しては、健児の軍事力だけではこれに対応することができず、富豪百姓が自衛のために武装して対抗した。朝廷は、国衙受領の地方行政に、軍事権に関しても裁量を認め、彼らを軍事力として取り込んだ。これは国衙軍制と呼ばれている[28]。9世紀末に東国で寛平・延喜東国の乱が発生すると、朝廷は発兵(健児以外の臨時徴兵)などの裁量権を受領に与えると共に追捕官符(本来は逃亡者追捕のための太政官符)を国衙へ発給した。国衙軍制における兵士も、また郡司・富豪層であった。

武士の誕生

沢瀉縅大鎧東京国立博物館所蔵)

寛平・延喜東国の乱の鎮圧に勲功をあげた「寛平延喜勲功者」が最初期の武士であったと考えられている。彼らは、田堵負名として田地経営に経済基盤を置きながら、受領のもとで治安維持活動にも従事するという、それまでにない新たに登場した階層であった。在地武士たちは、戦力を一定以上確保するために、自らに従う者を郎党と呼んで主従関係を結すび、また血縁関係者である「家の子」も合わせ、武士団が形成されていった。

武士は堀と土塁を巡らせた屋敷を拠点とし、騎射戦闘を実施した。この頃、丸木弓に代わり、木と竹を張り合わせた合成弓が出現した。また、騎射戦闘に適した大鎧が開発された。刀も、それまでの直刀から蝦夷の蕨手刀の影響を受けて、馬上での使用に適した湾曲した刀、即ち日本刀が誕生した。このような新装備のため、武士の戦闘力は格段に向上した。

10世紀中頃に平将門藤原純友が、朝廷に対して反乱を起こした(承平天慶の乱)が、この鎮圧に功績のあったものたちは、極めて低い官位にある中下級の官人であった。しかし朝廷はこの時、彼らの間の不満が乱の原因になったとの認識のもと、彼らを四位・五位といった受領級の中・下流貴族に昇進させた。この結果、10世紀後半の貴族社会において、承平天慶の乱の勲功者とその子孫たちは軍事に特化した家系、すなわち兵の家(つわもののいえ)として認知されるようになった。桓武平氏清和源氏秀郷流藤原氏などが代表例で、軍事貴族と呼ばれている。

水軍

海上でも陸上と同じように武力をもって世業とする集団が登場するようになった。彼らは水軍と呼ばれ、平時には海上関を設けて帆別銭などの通行料の徴収や金銭を代償に取った船舶航行の警護をおこなったが、海賊となり略奪行為を行うこともあった。戦時には陸上勢力に協力し、治承・寿永の乱(源平合戦)や、南北朝の動乱には、両勢力とも水軍を利用した。

僧兵

武士と並んで、中世の軍事力を支えたのが僧兵である。広大な寺領神領を有して経済的に豊かであった寺社は、自身を防衛する武力を保持する必要が出てきた。京都奈良の大寺院の雑役に服する大衆(堂衆)が自衛武装したものが僧兵の始まりである。平安時代末期には強大な武力集団となり、興福寺延暦寺園城寺東大寺などの寺院を拠点として、寺院同士の勢力争いや、朝廷摂関家に対して強訴をくりかえした。以仁王の挙兵では平家とも争った。中央から離れた地域でも有力寺社は軍事力を持ったり地元軍事力と結びつき、当時のパワーバランスに大きな影響を及ぼしていた。源平の争乱の時には熊野水軍を取り仕切っていた熊野別当にたいし双方から政治的な取引がなされた例などが著名である。

騎馬戦闘を主とする武士の弓矢に対し、徒歩戦闘主体の僧兵の主力武器は薙刀であった。中国に留学した僧が、長柄武器である大刀を伝え、これが変化して薙刀になったと言う説もある。平安末期になって武士も徒歩戦闘を行うようになると、徒歩武者も薙刀を使用するようになった。

平氏政権の誕生

平治物語絵巻』(ボストン美術館蔵)。弓矢を持つ騎乗の武士薙刀を持つ徒歩の武士が描かれている

清和源氏のうち河内源氏前九年の役(1051年-1062年)や後三年の役(1083年-1087年)を通じて関東地方の武士と主従関係を結び勢力を拡大していった。また桓武平氏のうち伊勢平氏(平家)は院や朝廷の重用を受けることとなり、河内源氏を凌ぐ勢いを持つようになった。12世紀半ばに、都で保元の乱(1156年)、平治の乱(1160年)が起こった。前者は皇位継承問題や摂関家の内紛が原因であり、後者は院近臣らの対立により発生した乱であるが、中央の政治権力の争いが武力で解決されたのは、藤原仲麻呂の乱以来およそ400年ぶりのことであった。両乱に功績のあった平清盛参議に任命され、武士で初めて公卿の地位に就いた。やがて一門からも公卿・殿上人が輩出し、平氏政権が誕生した。現在ではこれを最初の武家政権と見る説が有力である。治承三年の政変(1179年)で後白河法皇院政が停止され、平家一門は全国のおよそ半分にあたる32カ国を知行国とすることとなった。平氏の知行国の増加は全国各地において国衙権力を巡る在地勢力の混乱を招いた。東国においてはそれまでの旧知行国主のもと国衙を掌握していた在地豪族が退けられ、新たに知行国主となった平氏と手を組んだ豪族が勢力を伸ばすなど、国衙権力を巡る在地の勢力争いは一触即発という状況となった[29]

源平合戦と鎌倉幕府の成立

狩野元信画『源平合戦図屏風』赤間神宮所蔵

このような中、後白河法皇の皇子である以仁王が平家に対して挙兵した。東国でも伊豆に配流されていた源頼朝が挙兵し、1180年から1185年にかけて、源平合戦とも呼ばれる治承・寿永の乱が発生した。この内乱は、東北地方を除き、ほぼ全国規模で行われた。頼朝は傘下の武士に対して独自の本領安堵や占領した土地の給付などを実施し、これを梃子にして大軍が長期戦に耐え得る軍制の確立に成功した[30]。これに対して平家は、知行国からの動員を図るなどしたが、十分な兵力の確保は出来なかった。平家に勝利した頼朝は、さらに奥州藤原氏を滅ぼして鎌倉幕府を開く。

従来から武士の主従には御恩と奉公という関係があった。御恩とは、主人が従者の所領支配を保障すること、又は新たな土地給与を行うことである。奉公は従者の軍役・経済負担などである。鎌倉幕府の成立によりこの関係は公的なものとなった。鎌倉殿と直接主従関係を結んだ武士は御家人と呼ばれたが、関東地方で一国数十名、地方では一国あたり十名程度であり、御家人は武士の中でも非常に限られた階層だった。鎌倉幕府は、当初は東国の地方政権を目指したが、承久の乱の後はその支配を全国に及ぼした。幕府が任命した守護が全国に派遣されたが、守護の職掌は軍事・警察的な職務に限定され、国司の職権である行政への関与や国衙領の支配は禁じられていた。

文永の役における鳥飼潟の戦い。元軍に突撃する竹崎季長と応戦、敗走する元兵。(『蒙古襲来絵詞』前巻・絵7・第23紙)

幕府の軍事制度はクビライによる元寇に対する防衛でも活用され、1274年の文永の役では博多に上陸した元軍の進撃を内陸部で阻止し、1281年の弘安の役では事前に御家人を動員して防塁を建設し、本土への上陸を許さなかった。しかし、戦いには勝利したものの、鎌倉幕府は報酬として御家人に与える領土を獲得したわけではなく、「御恩」が十分でないことに対する不満が生じ、鎌倉幕府の弱体化の一因となった。

なお、この当時の甲冑や刀剣は明珍や正宗などの名工や鍛冶集団によって高度化されている。

建武の新政と南北朝の動乱・室町幕府

黒韋肩妻取威胴丸東京国立博物館所蔵)

鎌倉時代後期になると、北条得宗家による権力の独占、元寇以来の政局不安など、幕府は次第に武士層からの支持を失っていった。また、諸国では悪党の活動が活発となった。このような中、後醍醐天皇は悪党の楠木正成や幕府側の御家人である新田義貞足利尊氏らの協力を得て、1333年に倒幕に成功する(元弘の乱)。倒幕後、後醍醐天皇は天皇親政による政治を復活しようとした(建武の新政)。

しかし新政では公家が優遇されたために武士らの離反を招いた。足利尊氏も離反し、一旦は敗れて九州に下ったが再度京都を奪回した(延元の乱)。尊氏は室町幕府を成立させ将軍の下で新たな政治秩序を構築した。一方、後醍醐天皇は吉野に逃れ南朝を開き、その後50年以上にわたって南北朝の騒乱が続いた。戦乱は地方にも及んだため、武士は遠隔地への長期遠征を余儀なくされ、領地の支配、特に地方に分散した領地の支配が難しくなった。これを防ぐために武士間による領地の売却や交換が行われ領地の一円化が進んだ。戦費を調達するために、室町幕府は荘園・公領の年貢半分の徴収権を守護に認めたため(半済)守護の経済力は向上した。また守護は地方の武士と直接的な主従関係を結ぶようになり、後の守護大名への発展の基盤が出来た。他方、公家の力は低下していった。

鎌倉末期から南北朝にかけての戦力は、正規の武士に加えて、「野伏(のぶし)」と呼ばれる農民から徴集される兵から構成されていた[31]。兵力の大規模化と共に、従来の騎馬戦闘に代わって集団戦・接近徒歩戦が盛んになり、上級武士の間では胴丸腹巻が多く用いられるようになり、騎馬戦闘に特化した大鎧は廃れていった。また、薙刀に代わって集団戦での使用に適したが使用されるようになった。

元弘の乱において、楠正成は山城である千早城に篭城し鎌倉幕府の大軍を引き付けた。当時の攻城戦術は未熟であり、山城を早期に落城させることは困難であった。南北朝時代においても、戦力に劣る南軍はしばしば山城を利用した。その後戦国時代にかけて山城は防御戦闘の中心的役割を果たすことになる。

守護から守護大名へ

三代将軍足利義満の代に、南北朝は統一され、幕府は全国を掌握した。鎌倉幕府と同じく、室町幕府も各国に守護を派遣したが、次第に守護の権限は拡大されていった。やがて、守護職は世襲されるようになり、守護大名が誕生し、守護領国制と呼ばれる地方支配体制が確立した。中央においても幕府はいわば守護大名の連合政権の様相を呈するようになる。有力な守護大名は数カ国を領国とし、その軍事力は幕府を上回る場合すらあった。南北朝が統一された後も、しばしば戦乱は生じていた。1467年には有力守護大名である山名軍と細川軍が京都で武力衝突した応仁の乱が発生し、戦争は京都から地方にまで拡大した。

武装した農民である野伏は、室町時代に頻発した土一揆の中心兵力となったが、その一部は守護大名に雇用され、軽武装の歩兵である足軽となった。応仁の乱では足軽集団が奇襲戦力として利用されたが、足軽は忠誠心に乏しく無秩序でしばしば暴徒化した。

戦国時代

火縄銃
当世具足の一種である南蛮胴具足。東京国立博物館所蔵

応仁の乱により、室町幕府の権威が失墜すると、中央権力と一線を画し、守護公権のあるなしに関わらず一定地域を統一する権力を有する戦国大名が出現した。戦国大名は有力国衆など被官家臣の統制を強化し家中(家臣団)を構成し、領国内において知行高に応じて軍役を課す貫高制を確立した(大名領国制)。戦乱は日常的となったが、戦国時代も後半になると武田信玄上杉謙信毛利元就北条氏康など、数カ国の領国を有する強力な戦国大名が出現し、数万の兵力を運用できるようになった。このような中、尾張織田信長兵農分離に基づいた軍勢を用いて勢力を拡大し、畿内を中心に平定し、室町幕府をも滅ぼした。

戦国後期になって集団戦が本格化・大規模化していくと、足軽が重要な役割をはたすようになった。初期の足軽は傭兵であったが、やがて戦国大名は自領の農民から足軽を徴募するようにり、正規戦力として整備されていった。戦国時代の戦闘は、と呼ばれる300-1000人程度の集団を基本単位として行われたが、備は騎馬武者、徒武者に加え、訓練された長槍・弓・鉄砲の足軽隊が組織されたものであった。大大名は幾つもの備えを編成し、それを組み合わせて使用した。例えば、姉川の戦いにおいて、織田軍は13段の備を有していた[32]。なお、江戸時代には1万石以上を大名と呼んだが、これは独立した備を編成するには1万石以上の領地が必要なためである。

戦国時代には当世具足と呼ばれる、より機能性の高い甲冑が使用されるようになった。足軽も御貸具足と呼ばれる甲冑を使用した。また武士が戦場で使用する武器は、これまでの弓矢から、騎馬武者・徒武者共にに変わった。弓矢は足軽の武器となったが、後には遠戦武器として鉄砲が加わった。鉄砲は1543年種子島に漂着したポルトガル人が持っていたものであるが(鉄砲伝来)、製造技術が日本に伝わると、鉄砲は急速に普及していった。国友日野根来が鉄砲の主要生産地であった。鉄砲は弓に比べると長い訓練を必要としないため、鉄砲の普及は大部隊の編成を容易にした。黒色火薬も国産化されたが、その原材料である硝石は輸入が主であった。大砲(フランキ砲青銅鋳造砲)も輸入されたが、いくつかの城攻めに使われた程度で普及はしなかった。当時の大砲の砲弾は実体弾であり、運搬の困難を考えるとメリットが少なかったためと考えられる[33]。火薬を使用した武器としては、他に焙烙玉(焙烙火矢)という大型手榴弾があり、主に船戦や城攻めで使用された。また戦国末期[34]には棒火矢というロケット弾が発明され、島原の乱では反乱軍側が使用したとの説もある[35]

近世

豊臣政権

信長の死後、織田氏の家臣の一人である羽柴秀吉が織田家の内紛を収め、信長の事業を引き継いだ。秀吉は、九州及び関東以北を残す日本の中央部を統一した1585年に、関白となった。この関白の権限を持って、九州における戦闘の中止を命令したが(九州停戦令)、これに従わない島津氏を20万の大軍で討った(九州征伐)。また、後北条氏も惣無事令に従わないことを理由に攻め、これを下した(小田原征伐)。さらに、秀吉は中国大陸への進出を計画し、朝鮮半島に出兵するが、足かけ7年に及ぶこの戦役は秀吉の死去により終結した(文禄・慶長の役)。

秀吉は、全国を統一すると各地で太閤検地を実施し、それまでの複雑な土地所有関係を整理し、土地制度を一新した。これにより、平安期以来の荘園制度は完全に崩壊することとなる。また、従来の貫高制に代わって石高制が採用され、軍役も石高に基づいて課された。例えば、朝鮮への出兵に際しては、九州の諸大名には一万石あたり600人の動員が命じられた。他方、農民に対しては刀狩りを行い、百姓身分から帯刀権を奪い、百姓には原則として脇差のみの一本差しを認め、裁判による紛争解決を進めつつ、武器使用を規制するという兵農分離を進めた。

従来兵役においてはある程度の地位以上の場合は兵量の持参が原則であったが、豊臣政権では検地による財政強化もあり、軍役の際に参加する大名に兵量を給付することが可能となった[36]。例えば九州征伐では兵30万人と馬2万頭の1年分の食料を調達しており[37]、小田原征伐では駿河江尻に兵糧米20万石を回航している[38]。しかし、この兵量を前線まで運ぶのは各大名の責任であり、その運搬能力が十分ではなく、九州の役では軍勢が日向に入ったあたりで食料が続かなくなっている[39]。同様の問題は文禄の役でも発生しており、釜山までの食料の補給・備蓄は豊臣政権の責任で行い、実際十分な補給・備蓄があったものの、漢城や他の前線までの輸送は各大名が責任を負っており[40]、前線までの補給は十分とは言えなかった。兵量等の輸送は小荷駄隊が担当したが、荻生徂徠は「戦国の時分に車なき」[41]としており、駄載または人夫による輸送が中心であったと思われる。

江戸幕府の成立と200年の平和

近世城郭の代表例である姫路城

秀吉の死後、再び内紛が勃発し、1600年関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は、1603年江戸幕府を開き、1615年大坂の陣での勝利で豊臣氏を滅ぼした。応仁の乱以降150年もの間断続的に続いた大規模な戦乱は、これで終了した(元和偃武)。その直後に一国一城令が出され、国内に3,000近くもあったといわれる城郭が約170まで激減し[42]、各大名は幕藩体制の下で統制されることになった。三代将軍徳川家光までの治世は武断政治とも言われ、江戸幕府の基盤を固める為の時期であり、幕府に逆らう大名、或いは武家諸法度の法令に違反する大名親藩譜代大名外様大名の区別なく容赦なく改易減封の処置を行った。家光の死後は文治政治へと転換し、1639年に島原の乱が発生した後は、200年以上戦乱が起きることはなかった。また家光の代にいわゆる『鎖国』が始まり、1635年には、九州地方の大名の朱印船貿易への関与が禁止され、貿易の実務は、長崎の有力な商人と、長崎に集住された中国人オランダ人の間の民間貿易で実施されることになり、長崎奉行は貿易の管理と統制に専念するようになった。

家光はオランダから臼砲を輸入したり[43]、中国大陸でと戦うへの援軍を検討するなど軍事面にも関心を持っていたが、家光の死後は幕府の軍事面への関心は急速に薄れていった。幕府の軍事組織としては五番方(小姓組書院番新番大番小十人組)があったが、次第に形骸化していった。

幕末

幕府陸軍歩兵の調練風景(1867年、大坂城内)
1859年型四斤山砲
幕府海軍開陽丸。1990年に復元されたもの(江差町)
箱館湾海戦。上陸支援艦砲射撃を行う新政府軍の春日丸甲鉄艦

軍事面での近代化は幕末に始まった。18世紀の末から19世紀の始めにかけ、欧米の艦船が日本の周辺に出没するようになると、海防論が議論され、砲台の整備も行われるようになった。1854年にアメリカとの間に日米和親条約が結ばれ鎖国が終わると、翌1855年に幕府は長崎海軍伝習所を開き、近代海軍である幕府海軍が設立された。また1862年には幕府陸軍も設立された。訓練はヨーロッパの軍事書籍[44]を参考にして行われていたが、1867年にはフランス軍事顧問団が招聘され、本格的な訓練が開始された。ただし、幕府陸軍はあくまで従来の軍制と並立する組織であった。

1858年には日米修好通商条約を始めとする安政五カ国条約が結ばれ、日本は本格的に開国し、世界経済の中に巻き込まれていく。自由貿易の開始により、近代的な蒸気軍艦、大砲、小銃なども輸入された。当初は武器の輸入は幕府に限られていたが、やがて大名にも武器の購入が認められ[45]、特に西国の大名は藩兵力の近代化を進めていった。1865年にアメリカ南北戦争が終了し、大量の銃砲が余剰となったことも、武器輸入が急増した一因であった。

幕府は安政五カ国条約調印に際し、朝廷からの勅許を得ようとしたが失敗し、幕府と朝廷の関係は悪化した。また攘夷派にとっては、朝廷という支えができることとなった。幕府は朝廷との連携を模索して公武合体を実施したが、公武合体自体により朝廷から将来の攘夷を約束させられる始末で、攘夷派を抑えることはできなかった。このため、開国後の対外政策に一貫性を欠くこととなり、加えて幕府内の開国派は安政の大獄で失脚しており、幕府は諸外国からの信頼も失ってしまった。

攘夷派の中心は長州藩であったが、長州藩は禁門の変第一次長州征伐での恭順で一旦力を失った。しかし、当初は幕府側に立っていた薩摩藩は徐々に反幕府的な立場に変わって行き、ついには薩長同盟が成立する。幕府は第二次長州征伐を実施するが、薩摩を始めとする多くの大名が出兵を拒否し、幕府はこの戦争に敗北した。徳川家茂の死去により徳川慶喜が将軍になると、幕府は一旦勢力を回復することに成功したが、逆に薩長の倒幕の意志を強くすることとなった。慶喜は前土佐藩山内容堂の案を入れ、大政奉還を行い内戦の危機を回避しようとしたが、朝廷は王政復古の大号令によって幕府の廃止と新政府樹立を宣言した。薩長を中心とする新政府と幕府の武力衝突は避けられないものとなった。

1868年1月、鳥羽・伏見の戦いが発生した。幕府軍は幕府陸軍と旗本、親藩・譜代大名の混成軍であったが、戦闘になることは予想しておらず、兵力においては上回っていたものの、組織的に攻撃する新政府軍に敗れた。このなか、幕府陸軍は薩長と互角に戦ったが、慶喜は朝敵となることを恐れ早々と恭順し、小栗忠順ら主戦派を解任、さらに継戦を進めるフランス公使レオン・ロッシュの意見も退けた。このため幕府陸軍、幕府海軍とも新政府軍との本格的な戦闘を行うとはなかった。幕府は新政府に恭順し、江戸城無血開城が行われたが、東国諸藩は奥羽列藩同盟を組織し、新政府軍と引き続き戦った。しかし、列藩同盟諸藩は新政府軍と比べると装備に劣り、庄内藩を最後に降服した。また、榎本武揚を中心とする幕府の脱走部隊が箱館政権を樹立したが、これも翌年には鎮圧された(箱館戦争)。これらの一連の戦争は戊辰戦争と呼ばれている。

幕末は小銃の技術革新時期であったため、日本にも各種の小銃が輸入された。最初に大量に導入された洋式小銃はゲベール銃で、火縄銃と同じ前装式滑腔銃であるが、雷管式の発射機構を有していた。後には国産の火縄銃もゲベール銃に改造されている。続いてミニエー銃が導入されたが、これは銃身にライフリングを刻んだ銃であり、威力が大幅に増大した。ミニエー銃の一種であるエンフィールド銃(1853年式)が、南北戦争の終結により大量に払い下げられ、日本にも約5万挺が輸入され、戊辰戦争の主力小銃として使われた。ボルトアクション後装式歩兵銃である1866年式シャスポー銃も幕府陸軍の伝習隊に配備された[46]。またエンフィールド銃を後装式に改造したスナイドル銃(1866年式)も輸入・国内改造され、戊辰戦争後期には薩摩軍の主力小銃となった。プロイセンドライゼ銃も輸入されている。また、洋式銃は銃剣の装着が可能という特徴があった。大砲としてはオランダ製の12ドイム臼砲やフランス製四斤山砲が使用された。幕府の関口製造所や薩摩藩の集成館では砲身切削用の工作機械を輸入し、四斤山砲を国産している。他方、当時欧米で普及していた野砲は牽引に通常6頭の馬を必要とし、当時の日本では調教された馬の確保が困難であったため、あまり使用されなかった。

洋式海軍の整備も急速に進んだ。幕府は64隻、諸藩合計で127隻の洋式艦船を取得していたとの最近の研究がある[47]。多くは中古の商船を購入して大砲を据え付けたものであったが、幕府海軍の富士山丸開陽丸は軍艦として米国及びオランダに発注されたものであった。特に開陽丸は排水量2,590トンと大型で、ペリーの黒船に匹敵する大きさであった。また小型ではあるが、純国産の蒸気軍艦である千代田形も建造されている。さらに、幕府は米国から装甲艦ストーンウォールも買い付けたが、日本到着は戊辰戦争勃発後であり、結局新政府に引き渡された。造船所としては佐賀藩三重津海軍所や幕府の長崎製鉄所が設立されたが、幕府はさらに大規模な造船所である横須賀造船所の建設にも着手していた。しかしながら、完成は明治になってからで、後に横須賀海軍工廠へと発展した。また、幕府海軍訓練のためにイギリスからトレーシー顧問団が招聘されたが、戊辰戦争により本格的な訓練は出来なかった。

近代

1853年7月にマシュー・ペリー提督が初めて江戸湾を訪れたため、日本は、日本を使用する不平等な条約による西側の執行を防ぐための産業力および軍事力を欠いていた。[48][49] 日本軍は分散化された。 大名は、「不平等条約」として知られるアメリカ人とのいくつかの条約に署名するよう圧力を受けていた。[50]

日本は、西側の帝国軍によって植民地化された他のアジア諸国の運命を避けることを決めた。 日本人と明治天皇の政府は、日本の独立を維持するためには、近代化され、西部の植民地の力に匹敵する必要があることに気づきた。1868年、徳川慶喜は辞任し、徳川王朝と最後の幕府は終わった。明治維新は、明治天皇のもとで実用的な能力と政治体制を回復した。[51] これは、江戸時代後期から明治初期にかけて、日本の政治社会構造に大きな変化をもたらした。 日本は「世界中から知恵を集める」ことに着手し、軍事、社会、政治、経済改革の野心的なプログラムを開始した。 日本は、孤立した封建社会から近代的な工業化された国民国家列強に一世代で急速に変化した。[50]

長い平和期間の後、日本は西洋の武器を輸入し、現地で生産し、最終的に日本のデザインの武器を生産することにより、すぐに再編成され近代化されった。日露戦争後(1904〜1905年)、日本はヨーロッパの国との戦争に勝った最初の近代的なアジアの国になった。 1902年、日本はヨーロッパの国であるイギリス帝国との相互防衛協定に署名した最初のアジアの国になった。

日本はアジアにおける西洋帝国主義の影響を受け、日本は植民地支配力として参加し始めた。日本は世界的な植民地化競争に参加した最後の主要国だった。日本は植民地化により1895年から1942年に急速に拡大した。

兵制の確立

市ヶ谷陸軍士官学校(1874年撮影)

明治新政府は幕府の開国派が提唱していた富国強兵策を引継ぎ、軍備の近代化を進めていく。1869年兵部省を設置し、1872年には海軍省及び陸軍省に分離された。さらに1878年には陸軍省から参謀本部が独立し、1886年には参謀本部海軍部が設置され(1893年海軍軍令部に改称)、軍政軍令が分離されている。陸軍は1872年第二次フランス軍事顧問団を、海軍は1873年にイギリスからダグラス教官団を招いて近代軍の制度的基盤を構築した。1874年には陸軍士官学校が、1876年に海軍兵学校(前身の海軍操練所は1869年設立)が設立された。明治政府の直轄軍事力は、当初薩長土藩士中心にした御親兵(後に近衛師団に発展)のみであったが、廃藩置県後の1871年に4個の鎮台が整備され、各藩が保有していた軍備は廃止された。鎮台兵は当初は士族の志願兵により構成されていたが、1873年には徴兵令が公布されると共に6個鎮台へと拡張され、国民軍への移行が始まった。翌1874年には、新政府初の外征となった台湾出兵が行われたが、派遣兵力は鎮台兵1個大隊、九州で徴募した士族からなる1個大隊で、鎮台兵も士族中心の構成であった。なお、この出兵に対して清国は積極的な対応を取らなかったが、これは日本海軍が2隻の甲鉄艦(東艦龍驤)を保有していたためで、これをきっかけに清は海軍の増強を開始している。1877年西南戦争でも鎮台兵に加えて士族の徴募兵が参加した。1885年には、陸軍大学校教官としてドイツからメッケル少佐が招聘され、その後の帝国陸軍の基礎が作られた。メッケルの指導もあり、国内治安重視の鎮台制は1888年に外征も可能な師団制へ移行された。1889年の徴兵令の改正によって、当初あった徴兵免除の規定も徐々に縮小・廃止され、ほぼ国民皆兵制が実現できた。海軍は横須賀佐世保舞鶴鎮守府を設置し、さらに各鎮守府に海軍工廠を併設して艦艇の建造・修理を行うことを可能にした。

日清戦争

村田銃の一斉射撃を行う帝国陸軍歩兵
防護巡洋艦「橋立」。32cmカネー砲を1門装備

朝鮮においても攘夷思想が盛んであったが、明治政府は江華島事件をきっかけに日朝修好条規を締結し朝鮮を開国させ、その近代化に影響を及ぼそうとした。しかし、1882年の壬午事変をきっかけに、日本の影響力は低下し、朝鮮の内政・外交は旧宗主国であるに握られた。清に対抗すべく、日本は1883年から「軍拡八カ年計画」によって国家予算の20%以上を軍事費に回し、軍備の拡張に務めた。1894年に甲午農民戦争が発生すると、日清両国はその鎮圧を名目に出兵したが、7月25日に豊島沖海戦が発生、7月29日には陸上でも両軍が激突し、8月1日に両国は宣戦布告した。日本は黄海海戦に勝利して制海権を把握、陸戦でも平壌鴨緑江旅順と優勢を維持し、陸海共同の威海衛の戦いに勝利し清国海軍を降伏させた。日本はさらに直隷決戦の準備を進めたが、1895年4月17日に締結された下関条約により戦争は終了した。結果、日本は賠償金2億テール台湾を割譲されたが、三国干渉により遼東半島は返還した。

日本はこの戦争に陸軍7個師団、240,616人を動員し、うち174,017人が国外に出征した。清の兵力はこれを遥かに上回り、日本より優れた兵器も保有していたが、軍事システムは前近代的であった。八カ年計画は陸軍に重点がおかれていたため、陸軍は攻勢戦略に自信を持っていたが、海軍はそうではなかった。しかし、黄海海戦では単縦陣での巡洋艦の速射砲による攻撃で、単横陣での衝角攻撃を試みる清国艦隊に勝利した。戦費は2億3,340万円で、外債は発行せず国内で調達したが、賠償金2億テール(約3億6000万円)を得たことで賄うことができた。

歩兵用の小銃として、第一線部隊は国産の村田銃を使用したが、二線装備として幕末以来のスナイドル銃も使用されていた。大砲類は青銅製の野砲・山砲を大阪砲兵工廠でライセンス生産したが、鋼製の大砲は全て輸入に頼っていた。海軍の艦艇の多くも輸入されたものであったが、当時の最大艦であった松島型防護巡洋艦(三景艦)の三番艦である橋立は、横須賀造船所で建造された。松島型はフランスから招聘したルイ=エミール・ベルタン青年学派思想に基づいて設計したものであったが、海軍はその性能に満足せず英国に本格的な前弩級戦艦である富士型2隻を発注した。しかし、就役は1897年で日清戦争には間に合わなかった。

東アジアの地域支配が初めて中国から日本に移行した。[52]朝鮮半島は完全に日本の支配下にあった。その後、韓国は日本の従属国になった。1910年8月29日に韓国併合ニ関スル条約が成立。大日本帝国はこの条約に基づき大韓帝国を併合した(詳細は韓国併合を参照)。[53]

日露戦争

バルチック艦隊との決戦に出撃する連合艦隊

日清戦争前とは異なり、1896年度-1905年度の軍事費の7割弱が海軍に回されたことにより、日露開戦に先駆けて戦艦6隻・装甲巡洋艦6隻からなる六六艦隊が実現した。また、陸軍も6個師団が増設され、常設師団数は13個となった(日露戦争末期にさらに4個師団が増設された)。

日清戦争には勝利したものの、三国干渉で日本が弱体と見た朝鮮は、今度はロシアに接近した(露館播遷)。さらに、ロシアは1898年に遼東半島の旅順・大連を清から租借し、旅順には軍港を建設した。1900年に義和団の乱が発生すると、ロシアは満州を占領し、鎮圧後も撤兵を行わなかった。このロシアの南下策は日本に脅威を与えただけでなく、中国におけるイギリスの権益にも影響をおよぼすものであったため、これに対抗すべく1902年に日英同盟が締結された。

1904年2月8日、日本駆逐艦の旅順口攻撃により日露戦争が始まった。同日、日本第一軍仁川に上陸・北上し4月30日-5月1日の鴨緑江会戦でロシア軍を破り満州に入った。第二軍は5月末に遼東半島に上陸、大連を占領後北上し、得利寺の戦い大石橋の戦いでロシア軍を破った。旅順のロシア太平洋艦隊は積極的に出撃して来なかったため、旅順要塞を攻略するための第三軍が編成された。これに反応してロシア艦隊はウラジオストクに向けて脱出を試みるするが、黄海海戦で連合艦隊に敗れ旅順に戻った。日本の第一軍、第二軍および第四軍は、8月24日-9月4日の遼陽会戦に勝利したが、ロシアは早期に撤退したため決定的勝利は得られなかった。1905年1月1日、旅順要塞が陥落しロシア太平洋艦隊も壊滅。第三軍は奉天に向けて北上を開始した。3月1日、日本軍全軍24万人(第一~第四軍、鴨緑江軍)、ロシア軍36万人が奉天付近で激突、3月10日に日本軍は奉天に入城したが、ロシア軍の包囲殲滅には失敗した。その後両軍ともに攻勢に出る余力はなく四平街付近での対峙が続いた。海上では5月27日-5月29日に、ヨーロッパから回航してきたバルチック艦隊が連合艦隊と激突し(日本海海戦)、バルチック艦隊は壊滅した。この後、ロシアも和平に向けて動き出し、アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトの仲介により、9月5日にポーツマス条約が締結され講和が成立した。

日露戦争での日本の動員兵力は約109万人であり、日清戦争の5倍に達した。また、外債によって戦費を調達したのも特徴である。約8200万ポンド(8.2億円)の戦費が外債によって賄われたが、これは1903年の一般会計歳入は2.6億円の3倍以上に相当する。当初は外債の引受先を探すのも困難であったが、鴨緑江会戦の勝利後は、高金利であったこともあり、応募が殺到した。

陸軍の主力小銃である三十年式歩兵銃、主力野砲である三十一年式速射砲は国産であったが、重砲や機関砲は輸入品であった。また、この頃から国内の軍事研究に基づいた日本軍独自の戦闘教義が開発されるようになる(1909年版の歩兵操典から翻訳ではない独自体系の運用が追加された)。海軍の戦艦および巡洋艦は全て輸入されたものであったが、日露戦争中に国産初の戦艦である薩摩が起工されている。なお、薩摩は起工時には世界最大の戦艦であったが、最初の弩級戦艦であるドレッドノートが先に就役してしまったため、就役時にはすでに時代遅れとなっていた。

日露戦争では国力では劣勢でありながらも戦力の運用や外交政策によって勝利を収めることができた。日清・日露両戦争の成果として日本は自らの国防圏を朝鮮半島と満州まで拡大することが可能となった。

欧米諸国は、ロシアに対する日本の勝利をアジアにおける新しい地域大国の出現とみなした。日本はこの地域大国であるだけでなく、アジアの支配的な力でもあった。[54]

第一次世界大戦

14インチ砲搭載の超弩級巡洋戦艦金剛
若宮 (水上機母艦)。1914年9月、世界初の海上空襲が行われた。
日本の鳳翔 (空母)(1922年)は、空母として設計および建造された最初の委託船だった。

日露戦争後も軍備の拡張は続けられた。1912年までに海軍は12インチ砲搭載の前弩級戦艦8隻、弩級戦艦2隻を就役させ、日露戦争集結時点での4隻を加えて戦艦は14隻となり、さらに鹵獲戦艦6隻があった。1913年から1917年にかけては、14インチ砲搭載の超弩級戦艦4隻・超弩級巡洋戦艦4隻が加わった。陸軍も4個師団が追加され、合計21個師団となった。ロシアとの間に日露協約が締結され満州の利権の分割に合意、日露関係は良好となり大陸情勢は安定した。

第一次世界大戦が勃発すると英国は日英同盟を理由に参戦を要請し、これに応えて陸軍は青島要塞を攻略し、海軍は南洋諸島のドイツ植民地を占領した。戦争が長引くと、連合国はヨーロッパへの戦艦や陸軍の派遣を繰り返し要請してきたが、陸軍派遣は実施されず海軍もインド洋と地中海に船団護衛のための駆逐艦を派遣したにとどまった。大戦末期にロシア革命が生じるとシベリア出兵を実施したが、得るものは少なく、新たに成立したソ連との関係を悪化させた。また、中国大陸では清が倒れて中華民国が成立していたが、日本は大戦中にドイツの中国権益の善後処理に加え、満蒙の日本権益問題や在華日本人の保護問題を含んだ対華21カ条要求を行った。要求の多くは正当なものであったが、秘密条項として権益拡大を求める日本の希望が含まれており、これがリークされ中国の反日運動を強めることになった。

第一次世界大戦後も海軍は16インチ砲搭載の戦艦8隻・巡洋戦艦8隻からなる八八艦隊の実現を目指したが、2隻が完成した時点でワシントン海軍軍縮条約(1922年)が締結され、ネーバル・ホリデーが始まった。日本は主力艦を英米の6割に制限され、1912年以前に就役していた戦艦は全て廃棄された。また、1930年のロンドン海軍軍縮会議により補助艦を英米の7割とされた。陸軍も大戦後の不況により3次に渡って軍縮が実施され、1925年の宇垣軍縮で4個師団が削減された。

若宮青島の戦いで世界初の海上空襲を行った(1914年9月5日)。これは第一次世界大戦の最初の数ヶ月だった。[55][56]

戦間期の1921年、日本は世界で最初に設計された空母である鳳翔 (空母)を開発し、打ち上げた[57][58]。その後、日本は世界最高の空母艦隊を開発した。

満州事変

喇叭を吹奏しながらチチハルに入城する関東軍(第二師団)
空母加賀。第一次上海事変当時は近代化改装前の三段飛行甲板であった

第一次世界大戦は国家総力戦となった。このため陸軍内に、将来の戦争に備えるために平時からの国家総動員準備、自存のための経済圏と資源の確保、これらを実現するための政治への積極的関与が必要との認識が生まれた。日露戦争後に日本は満州に特殊権益を有していたが、中国は統一政府が存在しない状態であり、さらに国権回復運動もあり、その権益は確固たるものではなくなってきていた。このため、1920年代の後半には、陸軍は満州・内モンゴルの分離・領有という構想を持つに至った。満州には関東州満鉄付属地の守備を目的とした関東軍が設置されており、関東軍は満州の軍閥である張作霖を支援していた。しかし張作霖は満州に留まらず中国本土への野望を示して国民党と抗争し、結果としてはこれに敗れた。この抗争の影響が満州に及ぶことを恐れた関東軍は1928年6月4日に国民党の仕業に見せかけて張作霖を爆殺した。その真相はすぐに知られ、息子で後継者となった張学良は反日的姿勢を明らかにし、満鉄並行線を建設して満鉄を赤字に転落させ、また在留邦人も危険にさらされることとなった。これを一挙に解決するため、関東軍は1931年9月18日柳条湖事件を起こし、自衛を名目に軍事行動を開始した。関東軍は圧倒的に兵力不足であったが、9月21日には朝鮮軍が独断で越境して満州に入った。政府の不拡大方針や陸軍中央の局地解決方針を無視して現地軍は戦線を拡大していった。不拡大方針を貫けなかった若槻内閣12月13日に総辞職し、犬養内閣が成立した。張学良軍が積極的な抗戦を行わなかったこともあり、1932年2月初め頃には、関東軍は満洲全土をほぼ占領、3月1日には清朝最後の皇帝であった溥儀を執政として満洲国が建国された。犬養内閣は満州国を承認しなかったが五・一五事件で暗殺され、齋藤内閣が成立した。国際連盟はリットン調査団を派遣し、およそ3ヶ月の調査を行った。調査団の報告書は10月2日に発表されたが、日本を一方的に非難することはなく「名を捨て実を取る」ことを求めるものであった。しかし日本は公表前に満洲国を承認しており、1933年3月8日に国際連盟を脱退した。

満州事変により上海でも反日運動が発生していたが、1932年1月28日には国民党第19路軍が、日本海軍陸戦隊に対して攻撃を開始した(第一次上海事変)。陸戦隊の兵力は2700人に過ぎなかったため、海軍は空母2隻を含む艦隊と陸戦隊7000人を派遣、さらに陸軍も上海派遣軍を編成・派遣した。3月1日に日本軍が七了口上陸作戦を成功させると19路軍は撤退を開始、3月3日に戦闘は終了した。5月5日には上海停戦協定が締結され、日本軍は上海から撤兵した。第一次上海事変は空母が初めて実戦に参加した他、陸軍が研究していた上陸用舟艇である大発も上陸作戦に使用され、その有効性が証明された。またこの際の戦訓から上陸作戦支援のための陸軍特殊船が建造され、後の日中戦争・太平洋戦争で活躍することになる。

日中戦争

渡洋爆撃に使用された日本海軍の九六式陸上攻撃機

犬養内閣時代に一時的に皇道派が陸軍の主導権を握るが、皇道派はソ連の軍事力が増強される前にこれを叩くべきと主張していた。皇道派に反感を抱くグループは統制派を形成し、その初期の中心人物が永田鉄山であった。永田はソ連との戦争のためには日中関係の安定化が必須で、そのためには中国との戦争も排除するべきでないとしていた。また、欧州で再度の大戦が発生するのは避けられず、これに対応するには自給自足の経済圏が必要であるが、満州だけでは不足であり中国北部をも日本の経済圏とすべきと主張した。この考えに沿って陸軍は華北分離工作を推め、国民党は華北に冀察政務委員会を設置してこの圧力をかわそうとしたが、民衆の反日感情は増大していった。他方、国民党の指導者であった蔣介石中国共産党を主敵として日本軍との直接対決は避ける方針で、同時に中独合作を行ってドイツから軍事顧問団を受け入れ、軍事力の強化を図っていた。

1937年7月7日、北京近郊の盧溝橋で日本軍(支那駐屯軍)と国民党軍(第29軍)の間に偶発的戦闘が発生した。一旦は解決に向かっていたが、ドイツの軍事顧問であったファルケンハウゼンは、交渉を有利にするために上海に対する攻撃を主張した。蔣介石もこれを受け入れたために、8月13日第二次上海事変が発生する。国民党軍はトーチカを中心とした防衛ライン(ゼークト・ライン)に日本軍を誘引し、損害を強要する計画であった。上海の日本軍兵力は少数の海軍陸戦隊のみであったため、8月15日、日本は2個師団からなる上海派遣軍(最終的に4個師団)の派遣を決定すると同時に、海軍の陸上攻撃機による渡洋爆撃も開始された。8月23日、上海派遣軍は上海北部沿岸に上陸。増強された日本軍は損害を蒙りながらもゼークト・ラインを突破し、11月5日に新たに派遣された第10軍(3個師団)による杭州湾上陸作戦が成功すると、国民党軍は南京に向かって退却を開始した。11月7日には上海派遣軍と第10軍を統括する中支那方面軍が創設された。当初参謀本部は南京への攻撃は認めていなかったが、中支那方面軍は南京攻略を主張、12月1日にこれが認められた。12月7日南京攻略戦が開始され、12月13日に南京は陥落した。それに先立つ11月16日に国民政府は重慶へ遷都しており、12月7日には蔣介石も南京から脱出した。

その間も講和交渉は行われていたが、1938年1月16日近衛文麿総理は「国民政府を対手とせず」の声明を出して交渉を打ち切り長期戦へと突入した。同年には国家総動員法が制定された。その後も日本軍は戦域を拡大していくが、東南アジアからの援蔣ルートによる英米の支援を受けた重慶国民政府は講和に応じなかった。重慶政府との早期講和は無理と判断した日本は、1940年3月30日汪兆銘に南京で親日政府を樹立させたが(中華民国南京国民政府)、南京政府を承認した国は少なかった。このような中、日中戦争の単独解決は不可能で、一挙解決のためには武力行使も含む東南アジア進出が必要との考えが生まれ、1940年7月には南進論が国策として決定された。

満州事変後から陸軍は師団の増設を検討していたが、1937年9月1日に12個師団が追加編成され、太平洋戦争開始前までにさらに27個師団が増設された(内、5個師団が解散されたため、太平洋戦争開戦時の総師団数は51個師団)。中国大陸(満州除く)への派遣兵力は最大85万人に達し、「総軍」たる支那派遣軍が設置された。海軍も航空隊を派遣した。実質的な全面戦争であったにも関わらず、両国とも宣戦布告は行わなかったが、これは欧米諸国との貿易が阻害され継戦能力が低下することを避けるためであった。他方海軍は1936年末にワシントン海軍軍縮条約が失効すると、戦艦2隻・空母2隻の建造を含むマル3計画に沿って艦艇・航空機の増強を行った。

太平洋戦争

真珠湾攻撃
日本による占領地域の拡大(1937年から1942年)
大和 (戦艦) (1941年)
日本海軍の主力零式艦上戦闘機
長崎原爆のキノコ雲

1937年、日本は米国の6分の1の産業能力を持っていた。 日本の産業は、日本の海外領土からの原材料の出荷と海外からの輸入に依存していた。 日本の石油禁輸(1940–1941)など、米国からの原材料に対する経済的禁輸がますます厳しくなり、大日本帝国アメリカとの対立を余儀なくされる。[59]

ソ連との間に独ソ不可侵条約を結んだドイツ1939年9月1日ポーランドに侵攻第2次世界大戦が始まった。翌年にはオランダフランスも降伏イギリスもドイツへの対抗で手一杯の状態となった。これは東南アジア植民地の防衛力低下を意味し、このような状況の中南進論が具体化する。1940年9月23日、日本軍は援蔣ルートの封鎖を理由に北部仏印進駐を開始、東南アジア進出の足がかりを構築した。9月27日には日独伊三国同盟が締結されるが、日独ともにアメリカの参戦防止を期待してのものであった。外相松岡洋右はソ連を含めた四国同盟とし、さらなる対米抑止力の向上を主張したが、すでに独ソ関係は悪化しておりこれは実現できず、日ソ中立条約を結ぶに留まった。1941年6月22日独ソ戦が勃発、三国同盟による米国参戦阻止はほぼ期待できなくなった。陸軍は対ソ戦を視野に入れて関東軍特種演習を実施したがすでに南進が既定方針となっており、ソ連侵攻は見送られた。

その後も日米交渉は続けられていたが、7月28日南部仏印進駐をきっかけに米国は態度を硬化させ、日本に対する石油の輸出を全面的に禁止した。参謀本部は10月15日までに交渉が妥結できない場合は開戦を主張していたが、10月18日近衛文麿首相は辞職し、陸軍大臣であった東條英機が総理大臣となった。東條内閣昭和天皇の意向に沿ってなおも交渉を続けたが、11月26日には中国からの撤退を含むハルノートが提出されると交渉妥結は不可能と判断、開戦が決定された。

12月8日、陸軍の第25軍マレー半島へ上陸シンガポール攻略に向かった。同日に海軍の基地航空部隊がフィリピンを空襲、また6隻の空母から出撃した空母航空隊がハワイ真珠湾を攻撃した。真珠湾攻撃でアメリカ太平洋艦隊の戦艦部隊はほぼ壊滅した。12月10日には、イギリス東洋艦隊の戦艦・巡洋戦艦を海軍の陸上攻撃機が撃沈し、水上艦艇に対する航空機の優位性を証明した。その後も南方作戦は順調に進み、12月22日第14軍主力がフィリピン上陸、1942年1月11日第16軍ボルネオ上陸1月18日第15軍ビルマ侵攻2月15日にシンガポール陥落、3月9日に蘭印の連合軍が降伏、5月下旬にはビルマ全土を征服、フィリピン攻略は予定より遅れたが、5月10日にはフィリピンのアメリカ軍は降伏した。また、その間に香港ウェーク島グアム島ラバウルを占領した。海軍は4月にインド洋作戦を実施し、イギリス東洋艦隊をケニアのキリンディニまで後退させ、第一段階作戦は完了した。

1942年までに、大日本帝国は歴史上最大のものの一つだった。これには、満州朝鮮半島台湾中国東部、樺太庁千島列島インドネシアフィリピンマレーシアパプアニューギニアインドシナ半島ビルマおよび多くの太平洋諸島の植民地が含まれていた。

開戦前の「対英米蘭蔣戦争終末促進に関する腹案」では「独伊と提携して先ず英の屈服を図り米の継戦意思を喪失せしむるに勉む」とされており、東南アジアの資源地帯を占領した後には持久戦に移行する予定であった。しかし、連合艦隊司令長官山本五十六は長期戦は米国を利するのみであり、連続的な勝利のみが米国との早期講和を実現するとし、第二段作戦としてハワイ攻略を主張した。その前哨作戦としてミッドウェー島攻略が実施されることとなったが、それに先立ち軍令部主導の米豪遮断作戦のためにインド洋作戦から帰還中の空母2隻が派遣され、5月8日に史上初めて空母部隊同士が交戦した(珊瑚海海戦)。日本軍は米国空母1隻を撃沈・1隻を中破するという戦術的勝利を収めたが、使用した2隻の空母はミッドウェー攻略に参加できなくなった。6月5日ミッドウェー海戦が発生、米軍は日本海軍の暗号を解読しており、また索敵の失敗もあって、日本海軍は作戦に参加した4隻の空母を失うという大敗を喫した。8月7日、ソロモン諸島のガダルカナル島に米軍が上陸、その後半年間に渡って激しい陸戦・海戦が行われ、日本軍はガダルカナル島を放棄、また日米両海軍とも大損害を受け当面の間大規模な艦隊作戦はできなくなった。しかしながら、その後もラバウル基地を中心に航空戦が展開され、日本の航空戦力は消耗していった。

1944年になると、戦力を整えた米軍は本格的な反撃を開始した。6月15日第31軍が守備するサイパン島に米軍が上陸、6月19日-20日にはそれに反撃する日本海軍との間にマリアナ沖海戦が勃発した。日本海軍は9隻の空母を中心に基地航空隊と協力して米海軍の15隻の空母と決戦を行う計画を立てたが、海戦前に基地航空隊は壊滅しており、また空母航空隊も質量ともに米軍に劣り、空母3隻を失って敗北した。7月9日にサイパンの日本軍は全滅。絶対国防圏とされたサイパンの陥落により日本の敗北は時間の問題となり、東條首相は責任をとって辞職し、小磯國昭が首相となった。1944年10月20日、米軍はフィリピンのレイテ島に上陸、10月23日-25日に史上最大の海戦と言われるレイテ沖海戦が勃発するが、日本海軍はここでも敗北し、以後水上部隊の組織的活動が不可能となった。また、この海戦で特攻が初めて実施された。フィリピンの第14方面軍は翌年6月まで抵抗を続けたが、米軍はフィリピン各地に航空基地を建設し、東南アジアから日本への物資輸送を妨害、潜水艦による通商破壊もあり、1945年3月には南方航路は完全に遮断された。一方、サイパンを占領した米軍は大規模な航空基地を整備し、11月24日からB-29による日本本土空襲が開始された。当初は軍事施設に対する高空からの精密爆撃が行われていたが、3月10日東京大空襲からは低空からの無差別爆撃に切り替えられたために、民間人の死傷者が急増していった。B-29の不時着基地および護衛戦闘機の基地として利用するため、米軍は2月19日硫黄島に上陸したが、日本軍は頑強に抵抗し米軍は大損害を受けた。4月1日に米軍は沖縄本島に上陸を開始、日本軍は特攻機を大量投入し、約11万人の第32軍は5倍の兵力を有する米軍に対して持久戦術を採用して米軍に損害を与えていた。5月4日に反攻に転じ総攻撃を実施したが失敗し、6月23日に沖縄での組織的戦闘は終結した。沖縄戦では約9万人の日本軍の戦死者に加え、民間人も10万人近くが犠牲となった、一方米軍も、戦死約14000名、戦傷約72000名という損害を出した。ビルマでは第15軍インド国民軍とともに1944年3月にインドを目指したインパール作戦を実施したが敗北し、1945年5月にはイギリス軍にラングーンを奪回されていた。シンガポールマレー半島蘭印は日本軍の支配下にあったが、すでに日本との交通は途絶しており、資源地帯としての意味はなさなくなっていた。中国では大陸打通作戦に勝利していたものの、戦局の大勢には影響を与えず、単独和平工作(繆斌工作)も失敗した。沖縄上陸・繆斌工作失敗の責任を取り、小磯総理は辞任、4月8日鈴木貫太郎内閣が組織された。

通常、「特別攻撃隊」は、「特攻隊」と呼ばれる。日本海軍は開戦劈頭、真珠湾とマレー沖で航空攻撃の優位性を実証した。衝撃を受けた米国は直ちに航空兵力中心に軍の体制を切り替えたましが、日本は昭和18年に入って漸く航空機の重要性に気がついた。日本は熾烈な航空消耗戦で熟練搭乗員の大半を失いた。飛行搭乗員は一朝一夕に養成出来るものでは無ない。速成搭乗員の技量低下は物量の差に追い打ちをかけた。海軍では、空母着艦訓練で毎回殉職者を出す有様だった。新鋭機を繰り出す敵の物量とレーダー防御網の前に有効な攻撃が困難な状況に立ち至り、且つ搭乗員の練度向上を待つ余裕が無いという背景の中で昭和19年秋に入り、組織的「特攻」という最終手段が採用されった。爆弾や魚雷諸共、敵艦に体当たりする攻撃を「特攻」と呼びる。大戦末期、日本軍に残された最後の手段だった。

日本軍はなおも本土決戦の準備を続けたが、連合国は7月26日に日本軍の無条件降伏を求めるポツダム宣言を出した。1945年8月6日と8月9日、米国は広島長崎に2つの原子爆弾を投下した。[60] これら2つの爆撃の直接の結果として、推定150,000〜246,000人が死亡した。 日本には核兵器技術がなかったため、この新しいタイプの原子爆弾は驚くべきものだった。 広島はまったく準備ができていなかった。 広島の建物の69%が破壊され、6%が損傷した。[61][62] この時点で、8月8日、ソビエト連邦は日本との戦争に参加した。

日本は1945年8月15日に降伏し、1945年9月2日に東京湾の戦艦USSミズーリに関する正式な降伏文書に署名した。[63] この降伏は、ダグラス・マッカーサー将軍、重光葵衛率いる日本代表団によって、各連合国の代表とともに最高連合軍の司令官として受け入れられた。 1945年9月9日、南京で別の降伏式が開催された。

9日深夜から8月10日早朝にかけて御前会議が行われたが紛糾し、鈴木総理は天皇の聖断を仰いだ。天皇はポツダム宣言の受諾を表明、8月15日に日本は降伏した。1945年8月15日、昭和天皇録音されたスピーチが一般に公開された。最後の文は「私は時の巡り合わせに従い、堪え難くまた忍び難い思いをこらえ、永遠に続く未来のために平和な世を切り開こうと思う。」を示している。[64]

日本国憲法(1947年)の施行により、日本の国号は大日本帝国から日本国に変更された。帝国は解体され、すべての海外領土は失われた。日本は1895年以前に伝統的な文化圏に縮小した。4つの主要な島(本州北海道九州四国)、南西諸島南方諸島および千島列島は歴史的に日本に属している[65]。千島列島は最初、アイヌ民族が居住し、その後、江戸時代に日本の松前氏に支配された[66]。しかし、ソビエト連邦との北方領土問題のため、千島列島は含まれていなかった。

戦争の過程で、日本は軍事技術、戦略、戦術において多くの重要な進歩を示した。その中には、大和型戦艦、空母革新、伊四百型潜水艦零式艦上戦闘機神風特別攻撃隊回天は人間魚雷、海龍 (潜水艇)が含まれていた。

現代

昭和時代(1945年 – 1989年)

自衛隊

1952年5月3日警察予備隊
DDH-183いずも型護衛艦

敗戦後に日本は連合国軍により一端は武装解除されるが、1950年に朝鮮戦争が勃発すると共産主義国家に対抗するためにGHQは当初の予定を繰り上げ、段階別に日本の再軍備を進めることになった。1950年に創設された警察予備隊は7万名から成る警察力として組織されたが、1952年には海上警備隊(後に警備隊)、保安隊、1954年には保安隊と警備隊が統合され自衛隊として再編・変容していった。GHQは更に西ドイツ同様に国軍へ再編させる腹積もりであったが、国民の旧陸軍への悪感情を配慮し、自衛隊で留めたという逸話も伝わっている[67]。また日本の国防体制では1951年に締結された日米安全保障条約に基づく在日米軍との連携が強化されるようになり、防衛費も拡大されるようになる。再軍備や日米同盟は、国内での反戦運動から合憲性を疑われた。自衛隊の正当性は、戦前からの戦争責任と合憲性の観点から市民団体等による非難の対象となり、反基地闘争や安保闘争をもたらすことになった。

平成時代(1989年 – 2019年)

冷戦が終結すると、それまで自衛隊を違憲として批判してきた社会党が自衛隊の合憲性を認め、さらに日米安保も堅持する方針が打ち出された。1997年の朝鮮半島有事を想定した日米防衛協力のための指針改定を経て、2015年には自衛隊による米軍の支援を世界規模に広げた日米新ガイドラインが制定されるなど、自衛隊は従来の「専守防衛」から、世界各地でアメリカ軍の世界戦略の一翼を担う戦力に変質しつつある。また有事法制の成立で防衛活動の法的整備が進むとともに、世界各地への平和維持活動イラク派遣などの政策が実施されるようになった。

パキスタン・イスラム共和国で国際緊急援助活動を行う隊員(2005年)
陸上自衛隊アメリカ陸軍、オリエントシールド2017開会式

湾岸戦争(1990年から1991年)の間、日本国憲法の制限のために自衛隊は参加できなかったが、日本は100億ドルの金銭的貢献を行い、軍事ハードウェアを送った[68]。日本が部隊を派遣できないことは大きな屈辱とみなされ、財政的貢献(小切手外交)を行うだけでは日本は国際的な尊敬を得られないことを学んだ。軍事計画者は、日本の平和主義外交政策から離れることを決意した[69]

日本自衛隊は国連の国際連合平和維持活動や災害救援など、数多くの国際平和維持活動に参加してきた。[70] 1991年から2016年まで、自衛隊は約32件の海外派遣をした。これらは主に東南アジア南アジア中東にあった。

2007年(平成19年)1月9日 - 防衛庁設置法等の一部を改正する法律(平成18年法律第118号)の施行により、防衛庁設置法が防衛省設置法に改題され、防衛庁は防衛省(Ministry of Defense)に改められた。

2010年以来、日本は主要な軍事大国として再興した。様々な政策により、外交政策における日本の軍隊の役割が増加した。日本の2010年防衛計画の大綱は、防衛政策を旧ソビエト連邦から中国への焦点から変更した[71]

2013年6月7日、安倍内閣は国家安全保障会議を創設するための関連法案(安全保障会議設置法等の一部を改正する法律案)を閣議決定した[72]

防衛費を10年間削減した後、日本は2013年に防衛予算を増やした。日本の内閣は2013年12月に国家安全保障戦略(National Security Strategy)を承認した。これは、確立された順序と矛盾する中国の主張に基づいている。中国は、南シナ海東シナ海の現状を一方的に変えるために、空と海で軍事力を使用している。中国はまた、軍事および国家安全保障政策の透明性に欠けている[73]

自衛隊は、世界で最も技術的に進歩した軍隊の1つである。自衛隊は、2015年のクレディ・スイスレポートで、従来の能力において世界で4番目に強力な軍隊にランクされた[74]。GDPのわずか1%で世界で8番目に大きい軍事予算を持っている(2011)。

平和安全法制、「我が国及び国際社会の平和及び安全の確保に資するための自衛隊法等の一部を改正する法律案」。2016年(平成28年)3月29日午前0時から施行された[75][76]

内閣府による2018年1月の調査では、89.8%がJSDFに対して良い印象を持っていることがわかった[77]

日本は、2018年4月7日に、第二次世界大戦以来の最初の海兵隊である水陸機動団を起動した。彼らは日本の島を占領している侵略者に対抗するために訓練されている[78]

防衛省は、2018年度に、主に中国とロシアの未確認航空機に対する航空自衛隊ジェット機による999のスクランブルがあったと報告した。638(64%)は中国の航空機であり、343(34%)はロシアの航空機だった。2019年6月20日、2台のロシアの爆撃機(Tu-95 (航空機))が同じ日に2回日本の空域に違反した[79]

令和時代(2019年 –)

日本を平和主義国から軍隊のある「普通の」国に変える支援は、日本人の間で増加している。2019年4月、共同通信社の世論調査では、日本国憲法第9条の変更を支持する45%が見つかった[80]

2019年の時点で、尖閣諸島リアンクール岩千島列島北方領土問題)を含む領土紛争がある。

日本の軍事・戦争博物館

これらは日本の軍事に関する博物館です。

脚注

注釈

  1. ^ 縄文時代にも戦争があったとする代表的な研究者は小林達雄である。
  2. ^ 古代の甲冑は、考古学用語の慣習上「鎧」・「兜」ではなく「甲」・「冑」と表記される。
  3. ^ 現在一般に「短甲」と呼ばれている古墳時代の板造りタイプのものは示していないとされる[23][10]

出典

  1. ^ 木弓短下長上竹箭或鉄鏃或骨鏃
  2. ^ 「其地無牛馬虎豹羊鵲」
  3. ^ 内野那奈『受傷人骨からみた縄文の争い』立命館大学
  4. ^ 三国志』(魏志倭人伝)や『後漢書』(東夷伝)に倭国大乱の記載がある
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  9. ^ a b 宮崎 2006, pp. 6–18.
  10. ^ a b c d 橋本 2009, pp. 27–30.
  11. ^ 物部氏が奉納した鉄盾が著名(一族の威力を示す儀礼用盾とも)
  12. ^ 北海道庁日高振興局ホームページ > 地域政策部 > 地域政策課 > 馬文化ひだか:馬を知る:馬と人間の歴史:馬の伝来から鎌倉時代まで[1]
  13. ^ 山内邦夫「律令制軍団の成立について」184-185頁。
  14. ^ 橋本裕「軍毅についての一考察」9頁。
  15. ^ 軍団が設立された時期は明らかではないが、飛鳥浄御原令によるとする説が有力で、遅くとも大宝律令には規定されている。
  16. ^ 下向井龍彦『軍縮と軍拡の奈良時代』。歴博:71号、1995年
  17. ^ 養老令第十七軍防令 第七 備戎具条
  18. ^ 養老令第十七軍防令 第十 軍団条
  19. ^ 養老令第十七軍防令 第五 隊伍条
  20. ^ 橋本裕著『律令軍団制の研究』、増補(律令軍団制と騎兵)。吉川弘文館(1990年)ISBN 978-4642022446
  21. ^ 近藤好和著『騎兵と歩兵の中世史』 吉川弘文館((2004年)、ISBN 978-4642055840
  22. ^ 『天平六年出雲国計会帳』に熊谷団兵士の紀打原直忍熊と意宇団兵士の蝮部臣稲主が「歩射馬槍試練」を受けたとの記述がある。
  23. ^ 宮崎 2006, pp. 13–15.
  24. ^ 『続日本紀考証巻八』淳仁の条
  25. ^ 続日本紀宝亀11年(780年)
  26. ^ 蝦夷征討のため、太平洋側の征東軍(征夷軍)と日本海側の征狄軍(鎮狄軍)の2つの軍が編成され、征夷将軍と鎮狄将軍が同時に任命されたことはあるが、統率のための大将軍は任命されていない。
  27. ^ 貞観8年(866年)11月の勅
  28. ^ 下向井龍彦、『国衙と武士』(「岩波講座 日本通史 第6巻 古代5」所載)、岩波書店、1995年、ISBN 4000105566
  29. ^ 上横手雅敬/元木泰雄/勝山清次『日本の中世8 院政と平氏、鎌倉政権』中央公論新社、2002年。川合康『日本の中世の歴史3 源平の内乱と公武政権』吉川弘文館、2009年。
  30. ^ 三田武繁『鎌倉幕府体制成立史の研究』吉川弘文館、2007年、序章「一一八〇年代の内乱と鎌倉幕府体制の形成」。
  31. ^ 呉座勇一『戦争の日本中世史: 「下剋上」は本当にあったのか』新潮社(2014年)、ISBN 978-4106037399
  32. ^ 浅井三代記による。ただ同書は同時代ではなく元禄期に書かれたものである。
  33. ^ 久保田正志著『日本の軍事革命』、錦正社、2008年。当時の日本の馬は小型で、また調教が十分でなく多頭立ての馬匹索引ができなかった。このため大砲はソリに乗せて人間が運搬していた。
  34. ^ 和漢三才図会ではその発明は戦国時代ではなく寛永期とされている。
  35. ^ 『天草騒動』、『古今武家盛衰記-南島変乱記』等。坂口安吾の『島原の乱雑記』これを採用している。
  36. ^ 山室恭子著『黄金太閤―夢を演じた天下びと』中央公論社、1992年、P72。ISBN 978-4121011053
  37. ^ 小瀬甫庵著『太閤記』巻十。
  38. ^ 小瀬甫庵著『太閤記』巻十二。
  39. ^ 『川角太閤記』三下
  40. ^ 『文禄二年二月十八日付豊臣秀吉朱印状』
  41. ^ 荻生徂徠『鈐録 巻之六 行軍』該当箇所はPDFの35ページ
  42. ^ 二条城サイト-日本の城の歴史
  43. ^ 東京大学資料編纂所 日本関係海外史料 オランダ商館長日記 訳文編之四(下)
  44. ^ 例えば、ハインリヒ・フォン・ブラント著、高野長英翻訳の『三兵答古知幾(さんぺいたくちき)』等。
  45. ^ 日米修好通商条約第3条では武器は幕府のみが購入できることになっているが、幕府の許可があれば各大名も武器購入ができた。逆に言えば許可がないと購入できない訳であり、長州藩は第一次長州征伐後に洋式武器が入手できなくなった。
  46. ^ 一部の研究者はシャスポー銃は実戦では使用されなかったと主張している。最近では木村益雄『明治陸軍の制式小銃と戦傷者の治療(2007年)』など
  47. ^ 朴 栄濬著『海軍の誕生と近代日本』SGRAレポート第19号
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参考資料

  • 山内邦夫『律令制軍団の成立について』、『律令国家』(鈴木靖民編、論集日本の歴史2)、有精堂、1973年。
  • 橋本裕『軍毅についての一考察』、『律令軍団制の研究』(増補版)、吉川弘文館、1990年(初版は1982年発行)、ISBN 4-642-02244-9 に所収。論文初出は『ヒストリア』62号、1973年5月。
  • 宮崎, 隆旨「文献から見た古代甲冑の覚え書き-「短甲」を中心として-」『関西大学考古学研究室開設参拾周年記念・考古学論叢』関西大学、1983年3月。 NCID BN02825671 
  • 古谷, 毅「古墳時代甲冑研究の方法と課題」『考古学雑誌』第81巻第4号、日本考古学会、1996年3月、58-85頁、NCID AN00081939 
  • 宮崎, 隆旨「令制下の史料からみた短甲と挂甲の構造」『古代武器研究』第7巻、古代武器研究会、2006年12月28日、6-18頁、NCID BA53426580 
  • 橋本, 達也「古墳時代甲冑の形式名称-「短甲」・「挂甲」について-」『考古学ジャーナル』第581巻、ニューサイエンス社、2009年1月30日、27-30頁、ISSN 04541634NCID AN00081950 
  • 川合康『日本の中世の歴史 源平の内乱と公武政権』吉川弘文館 (2009/10)、ISBN 978-4642064033

関連項目