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[[大分県]][[日田市]]生まれ。[[1946年]]、[[武蔵工業大学|武蔵工業専門学校]](現[[東京都市大学]])を中退し、出身地である日田市の市役所に入庁。その後、[[大分県第1区_(中選挙区)|旧大分1区]]選出の衆議院議員・[[広瀬正雄]]の秘書に転じる。
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[[1968年]]、[[日田市]]長選挙に立候補し、初当選。市長を3期11年務め、[[1979年]]に3期目の任期途中で辞職。同年の[[第35回衆議院議員総選挙]]に[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]の公認を受け、旧大分1区から広瀬の地盤を引き継いで出馬し、当選した(当選同期に[[佐藤信二]]・[[保利耕輔]]・[[麻生太郎]]・[[小里貞利]]・[[岸田文武]]・[[白川勝彦]]・[[丹羽雄哉]]・[[亀井静香]]・[[吹田]]・[[宮下創平]]・[[亀井善之]]・[[船田元]]らがいる)。なお、旧大分1区は自民党ベテランの[[村上勇]]や、畑が初当選した当時は中堅議員だった、後に首相を務める[[日本社会党]]の[[村山富市]]、後に大分市長を務める[[民社党]]の[[木下敬之助]]らがおり、これらの有力候補も必ず一度は落選を経験しているが、畑は初当選以来、一度も落選していない。


当選後、[[木曜クラブ|田中派]]に入会し、[[竹下登]]が[[経世会]]を結成した際はこれに参加した。田中派の影響力が強かった逓信・郵政分野の[[族議員]]でもあり、[[郵政省|郵政]][[政務次官]]や[[厚生省|厚生]]政務次官、衆議院逓信委員長を務めた。
当選後、[[木曜クラブ|田中派]]に入会し、[[竹下登]]が[[経世会]]を結成した際はこれに参加した。田中派の影響力が強かった逓信・郵政分野の[[族議員]]でもあり、[[郵政省|郵政]][[政務次官]]や[[厚生省|厚生]]政務次官、衆議院逓信委員長を務めた。

2020年7月25日 (土) 04:14時点における版

畑 英次郎
はた えいじろう
生年月日 (1928-09-10) 1928年9月10日(96歳)
出生地 日本の旗 大分県日田市
出身校 武蔵工業専門学校(中退)
前職 地方公務員日田市
広瀬正雄衆議院議員秘書
所属政党自由民主党→)
新生党→)
新進党→)
太陽党→)
民政党→)
民主党
称号 勲一等瑞宝章

内閣 羽田内閣
在任期間 1994年4月28日 - 1994年6月30日

内閣 細川内閣
在任期間 1993年8月9日 - 1994年4月28日

選挙区旧大分1区→)
大分3区
在任期間 1979年10月8日 - 2000年6月2日

当選回数 3回
在任期間 1968年 - 1979年
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畑 英次郎(はた えいじろう、1928年(昭和3年)9月10日 - )は、日本政治家勲章勲一等瑞宝章

通商産業大臣第58代)、農林水産大臣第19代)、衆議院議員(7期)、民主党副代表、太陽党幹事長大分県日田市長(3期)等を歴任した。

来歴

大分県日田市生まれ。1946年武蔵工業専門学校(現東京都市大学)を中退し、出身地である日田市の市役所に入庁。その後、旧大分1区選出の衆議院議員・広瀬正雄の秘書に転じる。

1968年日田市長選挙に立候補し、初当選。市長を3期11年務め、1979年に3期目の任期途中で辞職。同年の第35回衆議院議員総選挙自由民主党の公認を受け、旧大分1区から広瀬の地盤を引き継いで出馬し、当選した(当選同期に佐藤信二保利耕輔麻生太郎小里貞利岸田文武白川勝彦丹羽雄哉亀井静香吹田愰宮下創平亀井善之船田元らがいる)。なお、旧大分1区は自民党ベテランの村上勇や、畑が初当選した当時は中堅議員だった、後に首相を務める日本社会党村山富市、後に大分市長を務める民社党木下敬之助らがおり、これらの有力候補も必ず一度は落選を経験しているが、畑は初当選以来、一度も落選していない。

当選後、田中派に入会し、竹下登経世会を結成した際はこれに参加した。田中派の影響力が強かった逓信・郵政分野の族議員でもあり、郵政政務次官厚生政務次官、衆議院逓信委員長を務めた。

1992年の竹下派分裂では小沢一郎羽田孜を支持し、羽田派に参加する。1993年宮澤改造内閣不信任決議に賛成票を投じ、自民党を離党。羽田を党首に結成された新生党に参加し、第40回衆議院議員総選挙では新生党公認で再選。選挙後に発足した細川内閣農林水産大臣に任命され、初入閣した。農相在任中はコメの自由化等の懸案を手掛け、1994年1月26日には食糧自給をめぐる問題で、参議院問責決議が提出され、一部の社会党議員が造反して賛成票を投じたが、反対多数で否決された。畑農相への問責決議案の採決は、1955年の自由民主党結党以来、初の非自民閣僚への問責決議案採決の例であった。

細川護煕首相は、不安定な政権運営や自らの政治資金疑惑を追及され、1994年4月に突如、退陣を表明。続く羽田内閣では、通商産業大臣に横滑りしたが、羽田内閣はわずか64日で総辞職に追い込まれた。同年12月、新進党結党に参加する。新進党結党後から反・小沢一郎の旗幟を鮮明にし、羽田孜を支持。1996年第41回衆議院議員総選挙では大分3区から出馬して当選するが、同年末に新進党を離党し、羽田を党首に結成された太陽党で幹事長に就任する。1998年民政党を経て民主党結党に合流した。民主党では副代表を務め、2000年第42回衆議院議員総選挙には立候補せず、政界を引退した。同年、勲一等瑞宝章を受章。

人物

脚注

  1. ^ 『サンケイ日本紳士年鑑 第18版』(サンケイ新聞データシステム) 

関連項目

議会
先代
丹羽雄哉
日本の旗 衆議院社会労働委員長
1990年 - 1991年
次代
浜田卓二郎
先代
塚原俊平
日本の旗 衆議院逓信委員長
1988年 - 1989年
次代
田名部匡省
公職
先代
熊谷弘
羽田孜(事務取扱)
日本の旗 通商産業大臣
第58代:1994年
次代
橋本龍太郎
先代
宮澤喜一
日本の旗 農林水産大臣
第19代:1993年 - 1994年
次代
加藤六月
党職
先代
結党
太陽党幹事長
初代:1996年 - 1998年
次代
民政党に合流