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{{特殊文字|説明=[[Microsoftコードページ932]]([[はしご高]])}} |
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{{タイの歴史}} |
{{タイの歴史}} |
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{{ウィキポータルリンク|歴史学/東洋史}} |
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[[ファイル:Thailand Topography.png|thumb|180px|タイの地勢図]] |
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[[ファイル:Thailand Topography.png|thumb|200px|タイの地勢図]] |
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'''タイの歴史'''(タイのれきし)では、[[タイ王国]]の[[歴史]]を時代ごとに述べる。 |
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'''タイの歴史'''(タイのれきし)は、[[タイ王国]]における[[歴史]]を時代ごとに概説する。 |
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== 先史時代 == |
== 先史時代 == |
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{{main|{{仮リンク|先史時代のタイ|en|Prehistoric |
{{main|{{仮リンク|先史時代のタイ|en|Prehistoric Thailand}}}} |
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[[東南アジア]]における人類([[ホモ・エレクトス]])の居住は、50万年以上遡 |
[[東南アジア]]における人類([[ホモ・エレクトス]])の居住は、50万年以上遡り<ref>[[#dohsei|坂井、西村、新田 (1998)]]、35-36頁</ref>、[[タイ北部]]の[[ラムパーン県]]からは100万年-50万年前とされる痕跡が認められている<ref>{{Cite book |last=Schliesinger |first=Joachim |title=The Kingdom of Phamniet: An Early Port State in Modern Southeastern Thailand |year=2017 |publisher=White Elephant Press |isbn=978-1-63323-986-9 |page=1}}</ref>。現生の[[ヒト]]がタイの地域に住み始めたのは[[旧石器時代]]からである<ref>[[#dohsei|坂井、西村、新田 (1998)]]、38頁</ref>。タイ各地に点在した当時の人々は、[[部族]]単位で移動しながら洞窟や岩陰などに住み、[[狩猟]]・[[狩猟採集社会|採集]]・[[漁撈|漁労]]により生活していた<ref name=textbook_25>[[#textbook|『タイの歴史』 (2002)]]、25頁</ref>。[[中石器時代]]となる約1万年前には世界的な気候の温暖化が進み、海面の上昇により地形は大きく変化したが、東南アジアは位置的環境より動植物相はあまり変化しなかったことから、[[打製石器]]を用いた生活形態が長く続いた<ref>[[#yamakawa5|『東南アジア史 I』 (1999)]]、19頁</ref>。これらの石器を使用した1万1000年前から7500年前の年代とされる{{仮リンク|ホアビニアン|en|Hoabinhian}}による中石器文化(ホビアン文化)が東南アジア各地に広く認められ、タイにも分布が見られる<ref>[[#dohsei|坂井、西村、新田 (1998)]]、41頁</ref><ref>[[#iwanami1|『岩波講座 東南アジア史 1』 (2001)]]、31-33頁</ref>。 |
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=== 東北部 === |
=== 東北部 === |
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{{see also|{{仮リンク|イーサーンの歴史|en|History of Isan}}}} |
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[[ファイル:Isaanmountains.png|thumb|180px|タイ東北部の地勢図]] |
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[[新石器時代]]には様相が大きく変化し、稲作が認められる文化(新石器文化)が出現する<ref>[[#iwanami1|『岩波講座 東南アジア史 1』 (2001)]]、45・55頁</ref>。北部[[イーサーン]]地方の[[バーンチエン遺跡]]などの研究によると、[[紀元前2千年紀]]には<ref group="注">当初は[[紀元前4千年紀]]、最古のものは[[紀元前36世紀|紀元前3600年]]とされた。</ref>、タイに初期の[[青銅]]器文化をもつ集落があったといわれる<ref>[[#dohsei|坂井・西村・新田 (1998)]]、77-84頁</ref><ref>[[#yamakawa5|『東南アジア史 I』 (1999)]]、32頁</ref>。この発展に伴って、[[水稲]]の耕作が認められ<ref group="注">東北部の[[ウドーンターニー県]]バーンチエン遺跡下層、中東部の[[チョンブリー県]]コークパノムディー遺跡から[[イネ]]が出土。</ref><ref>[[#iwanami1|『岩波講座 東南アジア史 1』 (2001)]]、64-65頁</ref>、同時に社会的な組織構成が進んだ<ref>[[#dohsei|坂井・西村・新田 (1998)]]、67-70頁</ref>。これらの文化は、[[中国]]も含めてタイなど東南アジア全域に拡散していた。 |
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タイ東北部となる[[イーサーン]]地方の[[ウボンラーチャターニー県]]の東端に位置する{{仮リンク|パーテーム国立公園|en|Pha Taem National Park|label=パーテーム}}には、4000-3000年前に描かれた多くの[[ペトログリフ|岩絵]]が存在する<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.thailandtravel.or.jp/pha-taem-national-park/ |title=パー・テーム国立公園 |publisher=タイ国政府観光庁 |accessdate=2019-08-29}}</ref>。また、[[ウドーンターニー県]]の{{仮リンク|プープラバート歴史公園|en|Phu Phra Bat Historical Park|label=プープラバート}}の岩絵は約6000年前のものともいわれる<ref>{{cite web |url=http://www.udonthaniattractions.com/phu-phra-bat-historical-park.html |title=Attractions Near Udon Thani - Phu Phra Bat Historical Park |publisher=udonthaniattractions.com |accessdate=2017-10-28}}</ref>。このほか[[ノーンブワラムプー県]]の岩絵などは、中国南部の[[左江花山の岩絵の文化的景観|花山の岩絵]]<ref group="注">花山岩絵を描いた集団は後に[[青銅器時代]]の[[ドンソン文化]]を担った[[雒越]]であるとされる。</ref>などとの類似性が指摘される<ref name=Hauser>{{cite web |url=http://www.sjonhauser.nl/lampang-rock-art.html |last=Hauser |first=Sjon |authorlink=:nl:Sjon Hauser|Sjon Hauser |title=Lampang's rock art at Pratu Pha |publisher=sjonhauser.nl |accessdate=2017-10-28}}</ref>。なお、岩絵はタイ東北部のほか、北部、[[タイ中部|中部]]、[[タイ南部|南部]]にも認められる<ref name=Hauser />。 |
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[[新石器時代]]になると様相が大きく変化し、[[稲作]]が認められる新石器文化が出現する<ref>[[#iwanami1|『岩波講座 東南アジア史 1』 (2001)]]、45・55頁</ref>。社会単位は、[[石器時代]]のうちに部族から[[集落]]に進展し<ref name=textbook_25 />、社会的な組織構成が進んだ<ref>[[#dohsei|坂井、西村、新田 (1998)]]、67-70頁</ref>。[[青銅器]]の時代になると、分散した村落([[ムーバーン]])から、よりまとまった「[[ムアン]]」<ref group="注">「ムアン」 (muang) は、おおよそ国・都市・町などといった自立的単位を意味する。</ref>(くに<ref>[[#Winichakul|ウィニッチャクン 『地図がつくったタイ』 (2003)]]、154頁</ref>)へと発展していった<ref>[[#textbook|『タイの歴史』 (2002)]]、25-26頁</ref>。北部イーサーン地方の{{仮リンク|ノンノクタ|en|Non Nok Tha}}や[[バーンチエン遺跡]]などの研究によると、[[紀元前2千年紀]]には<ref group="注">当初は[[紀元前4千年紀]]、最古のものは[[紀元前36世紀|紀元前3600年]]とされた。</ref>、タイに初期の青銅器文化を持つ集落があったといわれる<ref>[[#dohsei|坂井、西村、新田 (1998)]]、77-84頁</ref><ref>[[#yamakawa5|『東南アジア史 I』 (1999)]]、32頁</ref>。この発展に伴い[[水稲]]の耕作が認められ<ref group="注">東北部の[[ウドーンターニー県]]バーンチエン遺跡下層、中東部の[[チョンブリー県]]コークパノムディー遺跡から[[イネ]]が出土。</ref><ref>[[#iwanami1|『岩波講座 東南アジア史 1』 (2001)]]、64-65頁</ref>、続く[[紀元前3世紀]]までにはタイ東北部で[[鉄#製錬|製鉄]]が開始されたと考えられる<ref>[[#dohsei|坂井、西村、新田 (1998)]]、90頁</ref>。青銅器やそれに続く[[鉄器]]においては、タイのほか中国南部や[[ベトナム]]北部に同様の文化が拡散していた<ref>[[#dohsei|坂井、西村、新田 (1998)]]、84-85頁</ref>。 |
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[[紀元前1000年]]頃には、イーサーン地方の[[ウボンラーチャターニー県]]の東端に位置する{{仮リンク|パーテム国立公園|en|Pha Taem National Park|label=パーテム}} (Pha Taem、{{lang-th|ผาแต้ม}}) に[[ペトログリフ|岩絵]]が描かれた<ref>{{cite web |title=Attractions Near Udon Thani - Phu Phra Bat Historical Park |url=http://www.thailandsworld.com/index.cfm?p=884#axzz1kiqexxVp |work=Thailand's World |publisher=Asia's World Pty Ltd |accessdate=2017-10-28}}</ref>。また、[[ウドーンターニー県]]の{{仮リンク|プープラバート歴史公園|en|Phu Phra Bat Historical Park|label=プープラバート}} (Phu Phra Bat、{{lang-th|ภูพระบาท}}) の岩絵は約6000年前のものともいわれる<ref>{{cite web |title=Attractions Near Udon Thani - Phu Phra Bat Historical Park |url=http://www.udonthaniattractions.com/phu-phra-bat-historical-park.html |publisher=udonthaniattractions.com |accessdate=2017-10-28}}</ref>。このほか[[ノーンブワラムプー県]]の岩絵などは、中国南部の岩絵([[左江花山の岩絵の文化的景観|花山の岩絵]]など<ref group="注">花山岩絵を描いた集団は後に[[青銅器時代]]の[[ドンソン文化]]を担った[[雒越]]であるとされる。</ref>)との類似性が指摘される<ref name=Hauser>{{cite web |last=Hauser |first=Sjon |authorlink=:nl:Sjon Hauser|Sjon Hauser |title=Lampang’s rock art at Pratu Pha |url=http://www.sjonhauser.nl/lampang-rock-art.html |publisher=sjonhauser.nl |accessdate=2017-10-28}}</ref>。岩絵はタイ東北部のほか、北部、[[タイ中部|中部]]、[[タイ南部|南部]]にも認められる<ref name=Hauser />。 |
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== 民族 == |
== 民族 == |
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{{see also|{{仮リンク|マニ族|en|Maniq people}}|モン族 (Mon)|クメール人|タイ族|{{仮リンク|タイの民族|en|Peopling of Thailand}}}} |
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[[ファイル:Se asia lang map.png|thumb|[[オーストロアジア語族]]の分布<br />{{legend|#61FFBD|[[クメール語]]}}{{legend|#d2f740|[[モン語]]}}]] |
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[[ファイル:Se asia lang map.png|thumb|180px|left|[[オーストロアジア語族]]の分布<br />{{legend|#60ffbc|[[クメール語]]}}{{legend|#bbff8c|[[モン語]]}}]] |
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{{main|{{仮リンク|タイの民族移動|en|Peopling of Thailand}}|タイ族#タイ族の南下}} |
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[[ファイル:Taikadai-en.svg|thumb|180px|[[タイ・カダイ語族]]の分布<br />{{legend|#ffec19|{{仮リンク|北部タイ諸語|en|Northern Tai languages|label=北部タイ語}}}}{{legend|#ff4c00|{{仮リンク|中央タイ諸語|en|Central Tai languages|label=中央タイ語}}}}{{legend|#ff9d00|{{仮リンク|南西タイ諸語|en|Southwestern Tai languages|label=南西タイ語}}}}]] |
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東南アジアの[[ネグリト]]である{{仮リンク|マニ族|en|Maniq people}} (Maniq) はタイ南部の先住民として[[マレー半島]]に住み、かつては[[アンダマン諸語]]のような言語を話したとされるが、現在は[[モン・クメール語派]]の{{仮リンク|ケンシウ語|en|Kensiu language}}(マニ語)を話すことから、後に新しい言語を受容したと考えられている<ref name="The Negrito of Thailand">[http://www.andaman.org/BOOK/chapter36/text36.htm The Negrito of Thailand-The Mani]</ref>。次いで、[[東南アジア]]のモン・クメール語派の言語をもつ[[モン族 (Mon)|モン族]]および[[クメール人|クメール族]]が到達していたとされる<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、23-24頁</ref>。現在のタイに居住する[[タイ族]]は、中国の[[長江|揚子江]]以南起源の民族であるとされ、[[6世紀|6]]-[[7世紀]]に、中国南部から東南アジアへと移住した可能性が大きい<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、14-17頁</ref>。タイ族はその[[1千年紀]]中期から[[13世紀]]中頃、[[メコン川]]北部上流([[瀾滄江]])に定住していた<ref>[[#yamakawa5|『東南アジア史 I』 (1999)]]、141頁</ref>。 |
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東南アジアの[[ネグリト]]である{{仮リンク|マニ族|en|Maniq people}}がタイ南部の先住民として[[マレー半島]]に住み、かつては[[アンダマン諸語]]のような言語を話したとされるが、現在は[[オーストロアジア語族]]に分類される[[モン・クメール語派]]の{{仮リンク|ケンシウ語|en|Kensiu language}}(マニ語)を話すことから、後に新しい言語を受容したと考えられている<ref>{{cite web |url=http://originalpeople.org/mani-people-ethnic-negrito-tribe-thailand/ |last=Hauser |first=Sjon |authorlink=:nl:Sjon Hauser|Sjon Hauser |title=Mani people : Ethnic ‘negrito’ tribe of Thailand |work=Asia Australia Middle Eastern South Pacific History |publisher=Originalpeople.org |date=2013-07-07 |accessdate=2019-08-29}}</ref>。次いで、[[東南アジア]]のモン・クメール語派の言語をもつ[[モン族 (Mon)|モン族]]および[[クメール人|クメール族]]が到達していたとされる<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、23-24頁</ref>。 |
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[[紀元前2世紀]]頃より、中国からインド、地中海を結ぶ東西交易における[[シルクロード]]の「海の道」とも呼ばれる海路が注目されるようになると、遠回りの[[マラッカ海峡]]を航行せず、マレー半島を横断するルートが併用されていった<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、24-25頁</ref>。そのマレー半島の付け根を横断する地点に存在したと漢文史料に記された頓遜(典孫)はモン語系民族であったと考えられる<ref>[[#yamakawa5|『東南アジア史 I』 (1999)]]、94頁</ref><ref>[[#iwanami1|『岩波講座 東南アジア史 1』 (2001)]]、125頁</ref>。また、[[3世紀|3]]-[[5世紀]]頃になると、タイ南部には、{{仮リンク|盤盤|en|Pan Pan (kingdom)}}、狼牙脩({{仮リンク|ランカスカ|en|Langkasuka}})といった交易勢力も存在したことが記されており、狼牙脩は後の[[パタニ王国|パタニ]]([[パッターニー県|パッターニー]])であるとされる<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、25頁</ref><ref>{{Cite book |和書 |author=鈴木峻 |title=シュリヴィジャヤの謎 |year=2008 |publisher=朝日クリエ |isbn=978-4-903623-04-7 |pages=200-210}}</ref>。 |
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現在のタイに居住し、一般に[[タイ人]]と呼ばれる主たる民族である[[タイ族]]は、[[タイ・カダイ語族]]に属する民族であり<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、14-15頁</ref>、中国の[[長江|揚子江]]以南の地域がその起源であると考えられる<ref name=thai_194>[[#thai|『タイの事典』 (1993)]]、194頁</ref>。やがて[[黄河]]流域より勢力を拡大した[[漢民族]]の圧迫を受けるようになると、およそ[[6世紀|6]]-[[7世紀]]に中国南部から主に南下もしくは西方に向かって移住し始めたとされ<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、16-17頁</ref>、[[11世紀|11]]-[[12世紀]]になると[[メコン川]]に沿って大ムアンが成立していった<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、33-34頁</ref>。 |
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== 古代国家 == |
== 古代国家 == |
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=== シュリーヴィジャヤ === |
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[[ファイル:Map-of-southeast-asia 900 CE.png|thumb|180px|西暦900年頃の領域図<br/>{{legend|#F94a65|[[真臘]]([[クメール王朝|クメール]])}}{{legend|#41ea85|[[ハリプンチャイ王国|ハリプンチャイ]]}}{{legend|#d2f740|[[シュリーヴィジャヤ王国|シュリーヴィジャヤ]]}}]] |
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[[ファイル: |
[[ファイル:Srivijaya Empire.svg|thumb|180px|8世紀頃の[[シュリーヴィジャヤ王国|シュリーヴィジャヤ]]の勢力図]] |
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{{main|シュリーヴィジャヤ王国}} |
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タイ南部は、7世紀頃に成立した[[シュリーヴィジャヤ王国|シュリーヴィジャヤ]](室利仏逝)の影響下にあった<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、27-29頁</ref>。シュリーヴィジャヤは、交易の要衝であるマラッカ海峡周辺の多くの[[港市国家]]を支配し<ref>[[#iwanami1|『岩波講座 東南アジア史 1』 (2001)]]、268-269頁</ref>、タイ南部の[[チャイヤー郡|チャイヤー]]は、海上交易を支配する[[10世紀]]からのシュリーヴィジャヤ(「三仏斉」<ref>[[#Suzuki|鈴木 (2016)]]、14・50頁</ref>)の都の1つであったとされる<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、28-29頁</ref>。また、[[ムアンナコーンシータンマラート郡|ナコーンシータンマラート]](リゴール)の[[775年]]の碑文により、[[8世紀]]後半には[[ジャワ島|ジャワ]]に興った[[シャイレーンドラ朝]]に属するようになったことが知られる<ref>[[#iwanami1|『岩波講座 東南アジア史 1』 (2001)]]、274頁</ref>。 |
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=== ドヴァーラヴァティー |
=== ドヴァーラヴァティー === |
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{{main|ドヴァーラヴァティー王国}} |
{{main|ドヴァーラヴァティー王国}} |
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[[ファイル:DvaravatiMapThailand.png|thumb|180px|ドヴァーラヴァティーの勢力図]] |
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6-7世紀から<ref>[[#yamakawa5|『東南アジア史 I』 (1999)]]、98頁</ref><ref>[[#Suzuki|鈴木 (2016)]]、48頁</ref>[[11世紀]]頃まで、モン族の[[ムアンナコーンパトム郡|ナコーンパトム]]を中心とした広範囲な連合国家[[ドヴァーラヴァティー王国|ドヴァーラヴァティー]]<ref group="注">ドヴァーラヴァティーの漢訳として、頭和・投和・堕和羅・独和羅・堕和羅鉢・堕羅鉢底・杜和鉢底・堕和羅鉢底などと記される。</ref><ref>[[#iwanami1|『岩波講座 東南アジア史 1』 (2001)]]、134・137頁</ref>が東南アジアで繁栄した<ref name=Kakizaki_26-27>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、26-27頁</ref>。 |
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[[ファイル:Map-of-southeast-asia 900 CE.png|thumb|180px|西暦900年頃の勢力図<br />{{legend|#fa516d|[[クメール王朝|クメール]]}}{{legend|#1df36d|[[ハリプンチャイ王国|ハリプンチャイ]]}}{{legend|#cced47|[[シュリーヴィジャヤ王国|シュリーヴィジャヤ]]}}]] |
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[[ファイル:Map-of-southeast-asia 1000 - 1100 CE.png|thumb|180px|1000-1100年頃の勢力図<br />{{legend|#fa516d|クメール}}{{legend|#1df3cd|[[ラヴォ王国|ラヴォ]]}}{{legend|#1df331|ハリプンチャイ}}{{legend|#cced47|シュリーヴィジャヤ}}{{legend|#fe84da|[[パガン王朝|パガン]]}}]] |
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6世紀末より<ref>[[#Suzuki|鈴木 (2016)]]、48頁</ref><ref>[[#yamakawa5|『東南アジア史 I』 (1999)]]、97-98頁</ref>[[11世紀]]頃まで、[[タイ中部]]の[[ムアンナコーンパトム郡|ナコーンパトム]]を中心とした広範囲なモン族の連合国家である[[ドヴァーラヴァティー王国|ドヴァーラヴァティー]]が繁栄した<ref name=Kakizaki_26-27>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、26-27頁</ref>。 |
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[[紀元前3世紀 |
[[タイの仏教|タイ仏教]]史においては、紀元前3世紀頃、[[アショーカ王]]が諸国に遣わした伝道者による[[上座部仏教]]が、ドヴァーラヴァティーの都ナコーンパトムで信仰され始めたといわれる。それは伝道の地名にある[[インド語群|インド古語]]([[サンスクリット]])の{{仮リンク|スヴァルナブーミ|en|Suvarnabhumi}}(suvarṇabhūmi、[[タイ語]]: スワンナプーム、suphannaphum、「黄金の地」の意)を、中国ではドヴァーラヴァティー<ref group="注">ドヴァーラヴァティーの漢訳として、頭和・投和・堕和羅・独和羅・堕和羅鉢・堕羅鉢底・杜和鉢底・堕和羅鉢底などと記される<!--『岩波講座 東南アジア史 1』 (2001)、134・137頁-->。</ref>と呼称したとして、同一の地であるという説による<ref>[[#Shiraishi|白石 (2010)]]、189・193-194頁</ref>。ナコーンパトムは「最初の町」の意(ナコーン〈Nakorn〉「町」、パトム〈Pathom〉「最初」)で、当地にはアショーカ王時代の創建といわれるタイ最古の[[仏塔]](チェーディー)を内包する[[ワット・プラパトムチェーディー|プラ・パトムチェーディー]]も存在するが<ref>[[#Shiraishi|白石 (2010)]]、193-195頁</ref>、考古学的証拠ならびに[[仏教]][[年代記]]によると、プラ・パトムチェーディーの当初の建設は[[4世紀|4]]-6世紀であったと考えられる<ref>{{Cite web |url=http://thailandforvisitors.com/central/nakhon-pathom/phra-pathom-chedi.php |last=Holland |first=Michael |title=Phra Pathom Chedi, Nakhon Pathom |publisher=Asia for Visitors |accessdate=2017-10-28}}</ref>。 |
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==== ラヴォ王国 ==== |
==== ラヴォ王国 ==== |
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{{main|[[ラヴォ王国]]|{{仮リンク|ロッブリーの歴史|en|History of Lopburi}}}} |
{{main|[[ラヴォ王国]]}} |
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{{see also|{{仮リンク|ロッブリーの歴史|en|History of Lopburi}}}} |
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モン族のドヴァーラヴァティー |
モン族の連合国家ドヴァーラヴァティーの時代には、[[ラヴォ王国|ラヴォ]]([[ムアンロッブリー郡|ロッブリー]]〈羅斛〉)はすでに中心地の1つであったが<ref name=Kakizaki_32>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、32頁</ref><ref name=iwanami2_237>[[#iwanami2|『岩波講座 東南アジア史 2』 (2001)]]、237頁</ref>、[[9世紀]]頃より[[クメール王朝]]の影響を受けるようになると、クメールの拠点としてドヴァーラヴァティーより独立したラヴォ王国が建国された<ref name=thai_364>[[#thai|『タイの事典』 (1993)]]、364頁</ref>。 |
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11世紀初頭に<ref name=iwanami2_237 />クメールの王[[スーリヤヴァルマン1世]](在位[[1002年|1002]]-[[1050年]])が即位すると、[[チャオプラヤー川]]流域まで領土を拡大したクメールに領有された<ref>[[#Kitagawa|北川 (2006)]]、84頁</ref>。その後、[[1113年]]に即位した[[スーリヤヴァルマン2世]](在位1113-[[1150年]])が死去すると、ラヴォはクメールから離反する動きを見せ、[[1155年]]に中国に使節を送っているが<ref name=Kitagawa_85>[[#Kitagawa|北川 (2006)]]、85頁</ref>、クメールの支配は[[13世紀]]まで続き<ref name=iwanami2_237 />、[[ジャヤーヴァルマン7世]](在位[[1181年|1181]]-[[1218年]]/[[1220年]])の時代のものとされる{{仮リンク|クメール建築|en|Khmer architecture}}様式の寺院[[プラーン・サームヨート]]の存在が知られる<ref>{{Cite book |和書 |author=高杉等 |title=東南アジアの遺跡を歩く |year=2001 |publisher=[[めこん]] |isbn=4-8396-0144-5 |page=191}}</ref>。 |
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13世紀中頃、タイ族による[[スコータイ王朝]]の成立により<ref>[[#chuokoron|石澤 |
13世紀中頃、タイ族による[[スコータイ王朝]]の成立により<ref>[[#chuokoron|石澤、生田 (1996)]]、207頁</ref>、クメールのラヴォの支配は衰退した<ref name=thai_364 />。13世紀末にはタイ族の勢力が強まり、[[1289年]]より[[1299年]]まで[[元 (王朝)|元]]に使節を送るなど独立に動き、[[14世紀]]の[[アユタヤ王朝]]成立の頃には、同じくかつてドヴァーラヴァティーの中心地の1つであった[[スパンブリー県|スパンブリー]]とともに重要な位置を占めるようになっていた<ref name=iwanami2_237 />。 |
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==== ハリプンチャイ王国 ==== |
==== ハリプンチャイ王国 ==== |
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{{main|ハリプンチャイ王国}} |
{{main|ハリプンチャイ王国}} |
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伝説によれば、7世紀 |
伝説によれば、7世紀、ドヴァーラヴァティーのもとにあったラヴォの王が、王女{{仮リンク|チャマデヴィ|en|Jamadevi|label=チャーマテーウィー}}(チャマデヴィ、{{lang-pi|Cāmadevī}})をハリプンチャイ([[ラムプーン]])に送ったことにより王国が成立したといわれる<ref name=Kakizaki_32 />。しかし、11世紀以前の史料はなく<ref>[[#yamakawa5|『東南アジア史 I』 (1999)]]、100頁</ref>、ハリプンチャイの繁栄は11-13世紀であったとされる<ref name=Kakizaki_32 />。[[12世紀]]にはクメールのスーリヤヴァルマン2世が進出し<ref name=Kitagawa_85 />、その後、[[1292年]]、タイ族の[[ラーンナー|ラーンナー王国]]の侵入により占領され壊滅した<ref>[[#Suzuki|鈴木 (2016)]]、50頁</ref>。 |
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=== 真臘(クメール) === |
=== 真臘(クメール) === |
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{{main|真臘|クメール王朝}} |
{{main|真臘|クメール王朝}} |
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クメール族の[[真臘]]は、同じくクメール族の[[扶南国]]の属国であったが、 |
クメール族の[[真臘]]は、同じくクメール族の[[扶南国]]の属国であったが、5世紀中頃には{{仮リンク|シーテープ歴史公園|fr|Parc historique de Sri Thep|label=シーテープ}}などを支配下に置き<ref>[[#Suzuki|鈴木 (2016)]]、63-65頁</ref>、7世紀初頭、王{{仮リンク|マヘンドラヴァルマン|en|Mahendravarman (Chenla)}}(チトラセナ)<ref>[[#yamakawa5|『東南アジア史 I』 (1999)]]、87頁</ref>もしくは次の{{仮リンク|イシャーナヴァルマン1世|en|Isanavarman I}}の時代に扶南を占領した<ref>[[#iwanami1|『岩波講座 東南アジア史 1』 (2001)]]、182-184頁</ref>。[[706年]]頃、陸真臘と水真臘に分裂したと中国の史料にあり<ref>[[#Suzuki|鈴木 (2016)]]、81頁</ref><ref>[[#iwanami1|『岩波講座 東南アジア史 1』 (2001)]]、187・191頁</ref>、陸真臘はサンブヴァルマン (Shambhuvarman) が建国し<ref>[[#Suzuki|鈴木 (2016)]]、85頁</ref>、沿海部は{{仮リンク|ラージェンドラヴァルマン1世|fr|Rajendravarman Ier}}が支配したともいわれる<ref>[[#Suzuki|鈴木 (2016)]]、116頁</ref>。8世紀中頃から水真臘はジャワの[[シャイレーンドラ朝]]に侵攻されていたが<ref>[[#iwanami1|『岩波講座 東南アジア史 1』 (2001)]]、193・274頁</ref>、9世紀初頭、クメール王朝として独立した<ref>[[#yamakawa5|『東南アジア史 I』 (1999)]]、88-89頁</ref>。クメール王朝はその後、タイ東北部(イーサーン)よりタイ中部、マレー半島北部へと支配を拡大していった<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、30-31頁</ref>。 |
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[[ファイル:Srivijaya Empire.svg|thumb|180px|8世紀頃の[[シュリーヴィジャヤ王国|シュリーヴィジャヤ]]の領域図]] |
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=== シュリーヴィジャヤ王国 === |
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{{main|シュリーヴィジャヤ王国}} |
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タイ南部は[[シュリーヴィジャヤ王国]]の影響下にあった<ref name=Kakizaki_28-29>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、28-29頁</ref>。シュリーヴィジャヤは7世紀より、交易の要衝である[[マラッカ海峡]]周辺の多くの[[港市国家]]を支配していた<ref>[[#iwanami1|『岩波講座 東南アジア史 1』 (2001)]]、268-269頁</ref>。タイ南部の[[チャイヤー郡|チャイヤー]]は、その海上交易を支配するシュリーヴィジャヤの都の1つであったとされる<ref name=Kakizaki_28-29 />。また、[[ムアンナコーンシータンマラート郡|ナコーンシータンマラート]](リゴール)の[[775年]]の碑文により、8世紀後半には[[ジャワ島|ジャワ]]に興った[[シャイレーンドラ朝]]に属するようになったことが知られる<ref>[[#iwanami1|『岩波講座 東南アジア史 1』 (2001)]]、274頁</ref>。 |
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=== ラーンナー王国 === |
=== ラーンナー王国 === |
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{{main|{{仮リンク|グンヤーン|en|Ngoenyang}}|ラーンナー}} |
{{main|{{仮リンク|グンヤーン|en|Ngoenyang}}|ラーンナー}} |
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メコン支流の[[コック川]]流域のタイ北部には、{{仮リンク|タイ・ユアン族|en|Northern Thai people}} (Tai Yuan |
メコン支流の[[コック川]]流域のタイ北部には、{{仮リンク|タイ・ユアン族|en|Northern Thai people}} (Tai Yuan) を中心に<ref name=ChiangMai>{{Cite web|和書|title=チェンマイの歴史 |url=http://www.thailandsworld.com/ja/chiang-mai/chiang-mai-history/index.cfm |work=Thailand's World |publisher=Asia's World Pty Ltd |year=2017 |accessdate=2017-10-28}}</ref>、タイ族のムアンの連合としてヨーノック ([[w:Singhanavati|Yonok]]) とも呼ばれる国家的形態の1つが認められ、{{仮リンク|グンヤーン|en|Ngoenyang}}([[チエンセーン郡|チエンセーン]])辺りを中心としたその成立は11世紀から<ref name=Kakizaki_34>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、34頁</ref>12世紀頃であったと考えられる<ref>{{Cite book |和書 |author=加藤久美子 |title=盆地世界の国家論 - 雲南、シプソンパンナーのタイ族史 |year=2000 |publisher=[[京都大学学術出版会]] |series=地域研究叢書 |isbn=4-87698-401-8 |pages=28-29}}</ref>。 |
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グンヤーンにおいて、タイ・ルー族 ([[w:Tai Lü language|Tai Lue]]) の君主[[マンラーイ]]が<ref name=ChiangMai />[[1259年]]に即位すると、支配域を広げるとともに南に侵出し、[[1262年]]に首都をグンヤーンから[[ムアンチエンラーイ郡|チエンラーイ]]に、[[1269年]]には[[ファーン郡|ファーン]]に移した。[[1281年]]には、7年間進入を企てていた |
グンヤーンにおいて、タイ・ルー族 ([[w:Tai Lü language|Tai Lue]]) の君主[[マンラーイ]]が<ref name=ChiangMai />[[1259年]]に即位すると、支配域を広げるとともに南に侵出し、[[1262年]]に首都をグンヤーンから[[ムアンチエンラーイ郡|チエンラーイ]]に、[[1269年]]には[[ファーン郡|ファーン]]に移した。[[1281年]]には、7年間進入を企てていたモン族のハリプンチャイ王国(ラムプーン)を攻撃し、壊滅させた<ref>[[#thai|『タイの事典』 (1993)]]、313頁</ref>。[[1296年]]、マンラーイは新しく建設した[[ムアンチエンマイ郡|チエンマイ]]に遷都し<ref>[[#yamakawa5|『東南アジア史 I』 (1999)]]、146頁</ref>、ラーンナー王国(チエンマイ王国)を建国した<ref name=Kakizaki_34 />。 |
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[[ファイル:Location Lanna (under King Tilok).png|thumb|15世紀のラーンナーの王[[ティローカラート]]時代の |
[[ファイル:Location Lanna (under King Tilok).png|thumb|180px|15世紀のラーンナーの王[[ティローカラート]]時代の勢力図]] |
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[[1338年]]、ラーンナーの王[[カムフー]](在位1334-1336年〈1338-1345年〉<ref name=mekong>{{ |
[[1338年]]、ラーンナーの第4代王[[カムフー]](在位[[1334年|1334]]-[[1336年]]〈1338-[[1345年]]〉<ref name=mekong>{{Cite web|和書|title=ランナー王国マンラーイ朝 |url=http://www.mekong.ne.jp/directory/history/mangrai.htm |work=メコンプラザ |publisher=Mekong Creative Support |accessdate=2017-10-09}}</ref>)は、タイ族の[[パヤオ王国]]を併合した<ref name=ChiangMai />。その後、第9代王[[ティローカラート]](在位[[1441年|1441]]〈[[1442年|1442]]〉-[[1487年]]〉<ref name=mekong />)の時代には、[[1443年]]に[[プレー県|プレー]]に侵攻して[[プレー王国]]を併合し<ref>[[#thai|『タイの事典』 (1993)]]、225-226頁</ref>、さらに[[1448年]]頃には[[ナーン県|ナーン]]の[[カーオ王国]]を併合するなど著しく勢力が拡大した<ref>[[#yamakawa5|『東南アジア史 I』 (1999)]]、147頁</ref>。また、{{仮リンク|アユタヤ・ラーンナー戦争|en|Ayutthaya-Lanna War}}では、[[1450年]]から[[1462年]]にティローカラートは数度にわたり南進し、アユタヤ王朝と衝突した<ref>[[#Kamihigashi|上東 (1990)]]、39-40頁</ref>。 |
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ラーンナーの繁栄は、第11代王[[ケーオ (ラーンナー王)|ケーオ]](在位[[1495年|1495]]-[[1525年]])まで続いたが、治世末期の[[1523年]]、[[チャイントン|チェントゥン]]に出兵し敗北したことで、多くの権力者や兵士らを失った。さらに[[1524年]]には水害もあり、人材と人口の減少が国内を大きく疲弊させたことが一因となり、ラーンナーは衰退の一途をたどった<ref>[[#yamakawa5|『東南アジア史 I』 (1999)]]、148頁</ref>。王位の混乱のうちに、[[1546年]]には[[ラーンサーン王朝]]から[[セーターティラート]]を招いてラーンナーの国王に据えたが、2年後、セーターティラートが王位を継ぐためラーンサーンに戻ると、さらに混乱は増した。[[1551年]]、ムアンナーイより{{仮リンク|メクティ|de|Mae Kut}}(メーク、在位[[1551年|1551]]-[[1564年]])が招かれ王位に就いたが、[[1558年]]、[[ビルマ]]の侵攻によりラーンナーは[[タウングー王朝]]の属国となった<ref>[[#iwanami3|『岩波講座 東南アジア史 3』 (2001)]]、300-302頁</ref>。 |
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== スコータイ王朝 == |
== スコータイ王朝 == |
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{{main|スコータイ王朝}} |
{{main|スコータイ王朝}} |
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[[ファイル:Map-of-southeast-asia 1300 CE.png|thumb|180px|1300年頃の |
[[ファイル:Map-of-southeast-asia 1300 CE.png|thumb|180px|1300年頃の勢力図<br />{{legend|#ffbb4a|[[スコータイ王朝|スコータイ]]}}{{legend|#f9516c|クメール}}{{legend|#22f2cb|[[ラヴォ王国|ラヴォ]]}}{{legend|#c84aff|[[ラーンナー]]}}{{legend|#ff6f96|[[ペグー王朝|ペグー]]}}]] |
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クメールの王[[ジャヤーヴァルマン7世]] |
クメールの王[[ジャヤーヴァルマン7世]]が死去した後、クメール王朝が衰退し始めると、[[1240年]]頃<ref>[[#textbook|『タイの歴史』 (2002)]]、16頁</ref><ref>{{Cite book |和書 |author=桃木至朗|authorlink=桃木至朗 |title=歴史世界としての東南アジア |year=1996 |publisher=[[山川出版社]] |series=世界史リブレット 12 |isbn=978-4-7503-1555-3 |page=20}}</ref>、タイ族の指導者バーンクラーンハーオ([[シーインタラーティット]]、在位1240-[[1270年]]頃)が[[ポークン・パームアン|パームアン]]とともに、クメールの支配するラヴォ王国より独立を宣言し、スコータイのクメール領主を追いやりスコータイ王国を建国したとされる<ref group="注">現在のタイ人は、自分たちの国家の設立を、スコータイでクメール(かつてタイではラヴォを統治するクメールをコームと呼んでいる)の領主を倒し、小タイ族の[[スコータイ王朝|スコータイ王国]]を設立した13世紀としている。</ref>。その後、[[ムアンスコータイ郡|スコータイ]]には数多くの[[寺院|仏教寺院]]が建立されたが、そこにはスコータイ王朝以前のジャヤーヴァルマン7世の時代に築かれたクメール建築様式の[[ワット・プラパーイルワン]]も残存する<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、36頁</ref>。 |
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スコータイ王朝の |
スコータイ王朝の初代王シーインタラーティットの子である第3代王[[ラームカムヘーン]](在位[[1279年|1279]]-[[1298年]]頃)の時代に、支配する領域は大きく拡大していった<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、36-37・39-42頁</ref><ref>[[#textbook|『タイの歴史』 (2002)]]、116-117頁</ref>。スコータイ王国はラーンナー王国とも同盟を結んでいた<ref>[[#yamakawa6|『東南アジアの民族と歴史』 (1984)]]、367頁</ref>。[[ラームカムヘーン]]は、[[1292年]]のタイ語最古の[[ラームカムヘーン大王碑文]]「スコータイ第一刻文」で知られ、[[タイ文字]]を考案したとされる<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、37頁</ref>。また、上座部仏教を[[国教]]として推進した<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、38頁</ref>。 |
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しかし、ラームカムヘーンが死去すると、副都[[シーサッチャナーライ郡|シーサッチャナーライ]]を統治していた長子[[ルータイ]](在位1298-[[1346年]]頃)が王位に就いたが、各地で離反が相次ぎ、スコータイ王朝は衰退していった<ref name=thai_170>[[#thai|『タイの事典』 (1993)]]、170頁</ref>。その後、第6代の[[リタイ]](在位[[1347年|1347]]-[[1368年]]頃)が即位して周辺を治めた後、都をスコータイから平定した属領[[ムアンピッサヌローク郡|ピッサヌローク]]に移した<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、43-44頁</ref>。 |
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この時代に成立したアユタヤ王朝の圧力が次第に増し、さらにその攻勢が強まると、[[1378年]]、第7代王[[サイルータイ]](マハータンマラーチャー2世、在位1368-[[1398年]]頃)の時代に属国となった<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、43頁</ref>。その後、[[1438年]]に第9代王[[マハータンマラーチャー4世]](在位[[1419年|1419]]-1438年)が死去し、スコータイの王位継承者が絶えたことで、スコータイ王朝は実質的にアユタヤ王朝に吸収された<ref name=thai_170 />。 |
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== アユタヤ王朝 == |
== アユタヤ王朝 == |
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{{main|アユタヤ王朝}} |
{{main|アユタヤ王朝}} |
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[[ファイル:Map-of-southeast-asia 1400 CE.png|thumb|180px|1400年頃の領域図<br/>{{legend|#665bff|[[アユタヤ王朝|アユタヤ]]}}{{legend|#ffba0c|スコータイ}}{{legend|#F94a65|クメール}}{{legend|#c700ff|ラーンナー}}{{legend|#0e8e70|[[ラーンサーン王朝|ラーンサーン]]}}{{legend|#ef77a0|ペグー}}]] |
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[[ファイル:Southeast Asian history - Around 1540.png|thumb|180px|1540年頃の領域図<br/>{{legend|#5b4cff|アユタヤ}}{{legend|#6afc5f|クメール}}{{legend|#3f85ff|ラーンナー}}{{legend|#ff7f7f|ラーンサーン}}]] |
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=== 前期 === |
=== 前期 === |
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[[ファイル:Map-of-southeast-asia 1400 CE.png|thumb|180px|1400年頃の勢力図<br />{{legend|#7364fb|[[アユタヤ王朝|アユタヤ]]}}{{legend|#ffbd49|スコータイ}}{{legend|#fa516d|クメール}}{{legend|#ca49ff|ラーンナー}}{{legend|#0e8e70|[[ラーンサーン王朝|ラーンサーン]]}}{{legend|#ff7098|ペグー}}]] |
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スコータイ王朝の衰退の後、[[1351年]]<ref>[[#iwanami2|『岩波講座 東南アジア史 2』 (2001)]]、236-237頁</ref>、ウートーン([[ラーマーティボーディー1世]])が[[チャオプラヤー川]]沿いにアユタヤ王朝を開いたとされる<ref name=Kakizaki_46-47>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、46-47頁</ref>。この時代、ウートーンの出身地ともいわれるスパンブリーや<ref group="注">出生は不詳であり、スパンブリーやロッブリーの王家に関係する説のほか、『シアム王統記』では中国の一王族であったとする<!--(弘末雅士 『東南アジアの建国神話』 山川出版社、2003年、25-34頁)-->。[[ムアンペッチャブリー郡|ペッブリー]]付近出身の[[タイの華人|華人]]のもとに生まれたと考える説もある<!--(『岩波講座 東南アジア史 2』 238頁)-->。</ref><ref>[[#yamakawa6|『東南アジアの民族と歴史』 (1984)]]、233頁</ref><ref>[[#thai|『タイの事典』 (1993)]]、171頁</ref>ロッブリー(ラヴォ)の存在が大きかったが、ウートーンがラーマーティボーディー1世(在位1351-1369年<ref>[[#iwanami2|『岩波講座 東南アジア史 2』 (2001)]]、238-239頁</ref>)として即位すると双方を連携させ、[[ムアンスパンブリー郡|スパンブリー]]を義兄(王妃の兄)[[パグワ]]に、ロッブリーを王子[[ラーメースワン]]に統治させた<ref name=Kakizaki_46-47 /><ref>[[#thai|『タイの事典』 (1993)]]、60頁</ref><ref>[[#iwanami2|『岩波講座 東南アジア史 2』 (2001)]]、238頁</ref>。 |
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スコータイ王朝の衰退の後、[[1351年]]<ref>[[#iwanami2|『岩波講座 東南アジア史 2』 (2001)]]、236-237頁</ref>、ウートーン([[ラーマーティボーディー1世]])がチャオプラヤー川と支流の{{仮リンク|ロッブリー川|en|Lopburi River}}および[[パーサック川]]が合流する要衝に、アユタヤ王朝前期の「アヨータヤー」の都を開いたとされる<ref name=Kakizaki_46-47>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、45-47頁</ref>。この時代、ウートーンの出身地ともいわれるスパンブリーや<ref group="注">出生は不詳であり、スパンブリーやロッブリーの王家に関係する説のほか、『シアム王統記』では中国の一王族であったとする<!--(弘末雅士 『東南アジアの建国神話』 山川出版社、2003年、25-34頁)-->。[[ムアンペッチャブリー郡|ペッブリー]]付近出身の[[タイの華人|華人]]のもとに生まれたと考える説もある<!--(『岩波講座 東南アジア史 2』 238頁)-->。</ref><ref>[[#yamakawa6|『東南アジアの民族と歴史』 (1984)]]、233頁</ref><ref>[[#thai|『タイの事典』 (1993)]]、171頁</ref>ロッブリーの存在が大きかったが、ウートーンがラーマーティボーディー1世(在位1351-[[1369年]]<ref name=iwanami2_238-239>[[#iwanami2|『岩波講座 東南アジア史 2』 (2001)]]、238-239頁</ref>)として即位すると双方を連携させ、[[ムアンスパンブリー郡|スパンブリー]]を義兄(王妃の兄)[[パグワ]]に、ロッブリーを王子[[ラーメースワン]]に統治させた<ref name=Kakizaki_46-47 /><ref>[[#thai|『タイの事典』 (1993)]]、60頁</ref><ref>[[#iwanami2|『岩波講座 東南アジア史 2』 (2001)]]、238頁</ref>。 |
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1369年にラーマーティボーディー1世が死去し、ラーメースワン(在位1369-[[1370年]]〈後[[1388年|1388]]-[[1395年]]〉)が即位したが、翌1370年、王位を迫ったスパンブリーのパグワが、ボーロマラーチャー1世<ref name=Kakizaki_43>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、47頁</ref>(在位1370-1388年)として王の座に就いた<ref name=iwanami2_238-239 />。しかし、ボーロマラーチャーの死後、王子[[トーンチャン]](在位1388年)が即位したのを機に、ロッブリーより攻勢に出たラーメースワン(在位1388-1395年)が再び王位に就いた。その後、ラーメースワンが死去すると、王子[[ラーマラーチャーティラート|ラーマラーチャー]](在位1395-[[1409年]])が王位を継承したが、1409年に王位を追われ、それ以降は[[1569年]]、ビルマに占領されるまでスパンブリー王家の時代が続いた<ref>[[#iwanami2|『岩波講座 東南アジア史 2』 (2001)]]、240頁</ref>。 |
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1438年、スコータイ王朝の王位継承者が途絶えたことで、スコータイ王家の血を引く<ref group="注">母がスコータイ王家の王女であり、スコータイ王族に母方の血縁があった。</ref>第8代王[[ボーロマトライローカナート|トライローカナート]](在位[[1448年|1448]]-[[1488年]])が王子ラーメースワンの時代にスコータイの王都ピッサヌロークを統治し<ref name=thai_170 />、[[1431年]]にクメール王朝を攻略して[[アンコール遺跡|アンコール]]を崩壊させた第7代王[[サームプラヤー]](ボーロマラーチャー2世、在位[[1424年|1424]]-1448年)<ref>[[#iwanami2|『岩波講座 東南アジア史 2』 (2001)]]、241頁</ref><ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、50頁</ref>が死去すると、17歳で王位を継承した。トライローカナート(「[[三界]]の王」の意)の治世はその後40年間続き、[[サクディナー]]制([[位階]]田)を定めるなど支配機構を整備した<ref>[[#thai|『タイの事典』 (1993)]]、239-240頁</ref><ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、48-49頁</ref>。 |
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[[1438年]]、スコータイ王朝の王[[マハータンマラーチャー4世]]が死去し、スコータイの王位継承者が絶えたことで、実質的にアユタヤ王朝がスコータイ王朝を吸収した<ref name=thai_170 />。 |
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[[ファイル:Southeast Asian history - Around 1540.png|thumb|180px|1540年頃の勢力図<br />{{legend|#5555ff|アユタヤ}}{{legend|#2b80ff|ラーンナー}}{{legend|#ff8181|ラーンサーン}}{{legend|#81ff81|[[カンボジア]]}}]] |
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[[1540年]]、ビルマのタウングー王朝の王[[タビンシュエーティー]](在位1531-1551年)が[[ポルトガル]]人の鉄砲隊700人の傭兵を雇用し、軍事力を高めた<ref>[[#Ohno|大野 (2002)]]、242頁</ref>。[[第一次緬泰戦争]](1548-1549年)では、タウングー王朝の[[バインナウン]]がアユタヤに侵攻し、[[1549年]]にアユタヤ王朝の王[[チャクラパット]](在位1548-1569年)が危機に陥った際、王妃[[シースリヨータイ]]が身を挺して命を助けたといわれる<ref>[[#thai|『タイの事典』 (1993)]]、148頁</ref>。この戦いでは、アユタヤの王[[チャクラパット]]も防衛にポルトガル人の傭兵を雇用して侵攻を阻んでいる<ref>[[#Ohno|大野 (2002)]]、242-243頁</ref>。 |
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一方、ビルマの[[タウングー]]を拠点とする[[タウングー王朝]]の領土拡大に伴い、[[1540年]]、タウングーの王[[タビンシュエーティー]](在位[[1531年|1531]]-[[1550年]])が、この時代に最も多く渡来していた[[ポルトガル]]人の鉄砲隊700人の傭兵を雇用し、軍事力を高めていた<ref>[[#Ohno|大野 (2002)]]、240-242頁</ref>。[[第一次緬泰戦争]]([[1548年|1548]]-[[1549年]])では、タウングー王朝の将[[バインナウン]]が[[プラナコーンシーアユッタヤー郡|アユタヤ]]に侵攻したが、アユタヤの第16代王[[チャクラパット]](在位1548-[[1569年]])も防衛にポルトガル人の傭兵を雇用して侵攻を阻んでいる<ref>[[#Ohno|大野 (2002)]]、242-243頁</ref>。この戦いでは、1549年に王チャクラパット(「[[転輪聖王]]の意<ref name=thai_216>[[#thai|『タイの事典』 (1993)]]、216頁</ref>)が危機に陥った際、王妃[[シースリヨータイ]]が身を挺して命を助けたといわれる<ref>[[#thai|『タイの事典』 (1993)]]、148頁</ref>。 |
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1551年、タウングー |
[[1551年]]、タウングーの王となったバインナウン(在位1551-[[1581年]])は、現在の[[シャン州]]となる東部の[[シャン族]]を制圧し、[[1558年]]にはラーンナーに侵攻して征服した<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、52-53頁</ref><ref>[[#Ohno|大野 (2002)]]、244頁</ref>。[[第二次緬泰戦争]]([[1563年|1563]]-[[1564年]])では、占領したラーンナーの軍を率いたバインナウンがアユタヤ王朝のピッサヌロークを制圧した。その後、[[1568年]]に再びアユタヤに侵攻し<ref name=Ohno_245>[[#Ohno|大野 (2002)]]、245頁</ref>、翌年、アユタヤはビルマに占領された<ref name=thai_216 />。このビルマ軍に協力したピッサヌロークの[[マハータンマラーチャーティラート|マハータンマラーチャー]](在位[[1569年|1569]]-[[1590年]])が、ビルマ支配下の属国アユタヤの第18代王に就いた<ref>[[#thai|『タイの事典』 (1993)]]、311頁</ref><ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、53頁</ref>。 |
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=== 後期 === |
=== 後期 === |
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[[1581年]]にタウングー王朝のバインナウンが死去した後、タウングー |
[[1581年]]にタウングー王朝のバインナウンが死去した後、タウングーが混乱状態になると、[[1584年]]、マハータンマラーチャーの子[[ナレースワン]]は機が熟したと見て、アユタヤの独立を宣言する<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、57頁</ref><ref>[[#Ohno|大野 (2002)]]、245-246頁</ref>。[[1590年]]に王位を継いだナレースワン(在位1590-[[1605年]])は<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、58頁</ref>、ビルマ軍を退け、[[1594年]]にはタウングーへ侵攻した<ref>[[#heibonsha|『東南アジアを知る事典』 (2008)]]、312頁</ref>({{仮リンク|緬泰戦争 (1594年–1605年)|en|Burmese–Siamese War (1594–1605)|label=緬泰戦争〈1594-1605年〉}})。[[1595年]]、ペグー([[バゴー]])の戦いに勝利し、要衝の[[モッタマ|マルタバン]]を奪い返した<ref>[[#Ohno|大野 (2002)]]、246頁</ref>。[[1598年]]にラーンナーを属国とすると、[[1599年]]には再びペグーからタウングーにかけて侵攻した。この第19代王ナレースワンの時代に「アユッタヤー」(「無敵の国」の意)<ref>[[#yamakawa5|『東南アジア史 I』 (1999)]]、257頁</ref>の勢力範囲は最大にまで拡大し、また、交易とともに対外関係の構築が進められた<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、58-60頁</ref>。 |
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[[1605年]]にナレースワンが死去し<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、59頁</ref>、弟の[[エーカートッサロット]](在位1605-1610/1611年)の時代になると、いっそう対外交易を進展させた<ref>[[#iwanami3|『岩波講座 東南アジア史 3』 (2001)]]、183-184頁</ref>。[[イギリス]]([[イギリス東インド会社]])は[[1605年]]に[[パタニ王国|パタニ]]、[[1612年]]には[[アユタヤ]]での商業活動 |
[[1605年]]にナレースワンが死去し<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、59頁</ref>、弟の[[エーカートッサロット]](在位1605-[[1610年|1610]]/[[1611年|11年]])の時代になると、いっそう対外交易を進展させた<ref>[[#iwanami3|『岩波講座 東南アジア史 3』 (2001)]]、183-184頁</ref>。[[イギリス]]([[イギリス東インド会社]])は[[1605年]]に[[パタニ王国|パタニ]]、[[1612年]]には[[アユタヤ]]での商業活動が許可された<ref name=thai_188>[[#thai|『タイの事典』 (1993)]]、188頁</ref>。 |
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王[[ソンタム]](在位1611-1628年)は、日本人約800人を傭兵として雇い、[[アユタヤ日本人町]]は隆盛を極めた<ref name=thai_188 />。[[1612年]]頃アユタヤに渡来した[[山田長政]] |
[[港市国家|港市]]アユタヤの第21代王[[ソンタム]](在位1611-[[1628年]])は、日本人約800人(200-800人<ref name=thai_257-258>[[#thai|『タイの事典』 (1993)]]、257-258頁</ref>)を傭兵として雇い、[[アユタヤ日本人町]]は隆盛を極めた<ref name=thai_188 />。[[1612年]]頃アユタヤに渡来した[[山田長政]]は、[[津田又左右衛門]]を筆頭とする日本人義勇兵(クロム・アーサー・イープン<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、63頁</ref>、Krom Asa Yipun<ref name=thai_257-258 />)に入ると頭角を現わし、王ソンタムに殊遇された。しかし1628年のソンタム死去による王位継承争いの後、第24代王として[[プラーサートトーン]](在位[[1629年|1629]]-[[1656年]])が王位に就くと<ref>[[#thai|『タイの事典』 (1993)]]、292頁</ref>、[[1630年]]頃、王の命令で山田長政は暗殺され<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、63-64頁</ref>、アユタヤ日本人町は一時焼き払われた<ref name=thai_257-258 />。その後、2年のうちに日本人町は再興されたが、間もなく日本の[[鎖国]]により[[朱印船]]貿易が廃止され、唐船による[[長崎港|長崎]]への貿易は続いたものの<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、64頁</ref>、日本人の往来は途絶えることとなった<ref name=thai_257-258 />。この時代に[[日蘭関係]]をもつ[[オランダ]]が進出した<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、65-66頁</ref>。 |
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[[ファイル:AMH-5626-NA Bird's eye view of the city of Judja.jpg|thumb|1665年頃のアヤタヤの[[鳥瞰図]]]] |
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[[1661年]]に王[[ナーラーイ]](在位1656-1688年)がラーンナーに攻め込み、[[1662年]]にはビルマのペグーまで侵攻した<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、67頁</ref><ref>[[#thai|『タイの事典』 (1993)]]、250頁</ref>。 |
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[[1656年]]、プラーサートトーンが死去すると、王位を巡る争奪の後、プラーサートトーンの子[[ナーラーイ]](在位1656-[[1688年]])が第27代王として即位した<ref name=Kakizaki_66-67>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、66-67頁</ref>。ナーラーイは[[1661年]]にラーンナーに攻め込み、[[1662年]]にはビルマのペグーまで侵攻した<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、67頁</ref>。このビルマへの侵攻により[[インド洋]]側の[[テナセリム]]の港市[[メルギー]]を支配して交易を発展させるなど<ref name=thai_250-251>[[#thai|『タイの事典』 (1993)]]、250-251頁</ref>、この時代に港市国家アユタヤの繁栄は最盛期を迎えた<ref name=Kakizaki_66-67 />。 |
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[[1663年]]11月から翌年2月にかけて、オランダ([[オランダ東インド会社]]) |
アユタヤ王室による唐船を利用した独占貿易に対して、イギリスやオランダが対立姿勢を示すようになると<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、69頁</ref>、[[1663年]]11月から翌[[1664年]]2月にかけて、オランダ([[オランダ東インド会社]])は武装した2隻の船でチャオプラヤー川を封鎖し、中国人の唐船を捕獲するなどして一定の貿易の独占を要求した。ナーラーイはこの要求を受け入れ、1664年8月に条約を締結した<ref>[[#yamakawa5|『東南アジア史 I』 (1999)]]、261-262頁</ref>。このチャオプラヤー川封鎖の事態を踏まえ、王ナーラーイは[[1665年]]、国に大事があった時のためにアユタヤより上流のロッブリーを副都として王宮([[プラ・ナーラーイ・ラチャニウェート]])を建設した<ref name=thai_364 />。 |
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[[ファイル:Alexandre de Chaumont, audience solennelle, Siam, 18 octobre 1685..JPG|thumb|left|160px|王ナーラーイに謁見し[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]の親書を渡すフランス大使{{仮リンク|アレクサンドル・ド・ショーモン|fr|Alexandre de Chaumont|label=ショーモン}}]] |
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アユタヤ王朝は、[[16世紀]]の[[1516年]]にポルトガルとの条約締結から始まって、ヨーロッパと接触をもったが<ref>[[#iwanami2|『岩波講座 東南アジア史 2』 (2001)]]、250頁</ref><ref>[[#chuokoron|石澤・生田 (1996)]]、253頁</ref>、[[中国]]との関係が最も重要であった<ref>{{Cite book |和書 |editor=[[石井米雄]]・[[辛島昇]]・和田久徳 |title=東南アジア世界の歴史的位相 |year=1992 |publisher=[[東京大学出版会]] |isbn=4-13-021055-6 |page=78}}</ref>。1709年に王位に就いた[[プーミンタラーチャー]](ターイサ〈池の端〉王、在位1709-1733年)の時代、中国を中心に[[タイ米]]の輸出が開始され<ref>[[#iwanami3|『岩波講座 東南アジア史 3』 (2001)]]、197頁</ref><ref>[[#yamakawa5|『東南アジア史 I』 (1999)]]、265頁</ref>、オランダ領[[ジャワ島|ジャワ]](オランダ東インド会社)やイギリス領インド(イギリス東インド会社)にも輸出された<ref>[[#thai|『タイの事典』 (1993)]]、194頁</ref>。また、[[ベトナム]]と手を結んだ[[カンボジア]]内の勢力に対して[[1720年]]に派兵し、主権を維持した。しかし、次の王[[ボーロマコート]](在位1733-1758年)の時代も、カンボジアの親タイ派と親ベトナム派の対立が続くと、[[1749年]]、再びカンボジアに派兵し属国とした<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、72頁</ref>。 |
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ナーラーイはまた、イギリスやオランダとの対向により、タイを訪れた[[フランス]]の宣教師と接触し、[[1673年]]には[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]と[[教皇]]に親書を送り、[[1680年]]以降、フランスに4度使節を派遣した<ref name=thai_250-251 />。[[1685年]]12月には[[チャオプラヤー・コーサーパーン|コーサーパーン]]がフランスに3度目のアユタヤ大使として派遣され({{仮リンク|訪仏シャム大使 (1686年)|en|Siamese embassy to France (1686)|label=訪仏シャム大使}} )、[[1686年]]9月、[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]に謁見し、翌年9月に帰国している<ref>[[#thai|『タイの事典』 (1993)]]、122頁</ref>。フランスも1685-[[1687年]]に使節を派遣したが、1687年9月、フランス([[フランス東インド会社]])が6隻の軍艦により500人の兵とともに[[イエズス会]]の神父を送り、王ナーラーイに[[カトリック]]への改宗や、交易の拠点として[[トンブリー]](現在の[[トンブリー区]])とメルギーへの駐屯を求めたことにより、フランス勢力に対する危機が台頭した<ref>[[#yamakawa5|『東南アジア史 I』 (1999)]]、263-264頁</ref>。[[1688年]]3月に王ナーラーイが重病になると、反フランス勢力による{{仮リンク|シャム革命 (1688年)|en|Siamese revolution of 1688|label=シャム革命}}が勃発した。最高顧問であった[[コンスタンティン・フォールコン]]が6月に処刑され、7月に王ナーラーイが死去すると[[ペートラーチャー]](在位1688-[[1703年]])が第28代王として即位し、フランス勢力を一掃した<ref>[[#thai|『タイの事典』 (1993)]]、251・301頁</ref>。 |
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[[ファイル:Laos - Division territòriala vèrs 1750 (vuege).png|thumb|180px|1750年頃の勢力図<br />{{legend|#ba5fd1|[[アユタヤ王朝|アユタヤ]]}}{{legend|#ffeda8|ラーンナー}}{{legend|#eda8ff|[[ルアンパバーン王国|ルアンパバーン]]}}{{legend|#edd5f3|[[ヴィエンチャン王国|ヴィエンチャン]]}}{{legend|#c4ade8|[[チャンパーサック王国|チャンパーサック]]}}{{legend|#fea8a8|カンボジア}}{{legend|#feb17e|[[ビルマ]]}}]] |
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アユタヤ王朝は、400年間以上の繁栄の後、ビルマに興った[[コンバウン王朝]]との[[泰緬戦争 (1759年-1760年)|泰緬戦争(1759-1760年)]]で、[[タニンダーリ管区|テナセリム]](タニンダーリ)、マルタバン(モッタマ)、[[ダウェイ|タヴォイ]](ダウェイ)を失った<ref>[[#Nemoto|根本 (2014)]]、49頁</ref>。[[1765年]]からの[[泰緬戦争 (1765年-1767年)|泰緬戦争(1765-1767年)]]で、ついにコンバウン王朝の侵入により、[[1767年]]4月、首都[[テーサバーンナコーン・プラナコーンシーアユッタヤー|アユタヤ]]は攻め落とされ、アユタヤ王朝は破滅した<ref>[[#iwanami3|『岩波講座 東南アジア史 3』 (2001)]]、201-202頁</ref><ref>[[#Ohno|大野 (2002)]]、252頁</ref>。 |
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アユタヤ王朝は[[16世紀]]、[[1516年]]にポルトガルとの条約締結に始まり、ヨーロッパと接触したが<ref>[[#iwanami2|『岩波講座 東南アジア史 2』 (2001)]]、250頁</ref><ref>[[#chuokoron|石澤、生田 (1996)]]、253頁</ref>、[[中国]]との関係が古くより最も重要であった<ref>{{Cite book |和書 |editor1-first=米雄|editor1-last=石井|editor1-link=石井米雄|editor2-first=昇|editor2-last=辛島|editor2-link=辛島昇|editor3-first=久徳|editor3-last=和田 |title=東南アジア世界の歴史的位相 |year=1992 |publisher=[[東京大学出版会]] |isbn=4-13-021055-6 |pages=78-79}}</ref>。[[1709年]]に王位に就いた第30代王[[プーミンタラーチャー]](ターイサ〈「池の端」の意〉、在位1709-[[1733年]])の時代、中国貿易を中心に[[インディカ米|タイ米]]の輸出が開始され<ref>[[#iwanami3|『岩波講座 東南アジア史 3』 (2001)]]、197頁</ref><ref>[[#yamakawa5|『東南アジア史 I』 (1999)]]、265頁</ref>、オランダ領[[ジャワ島|ジャワ]](オランダ東インド会社)やイギリス領インド(イギリス東インド会社)にも輸出された<ref name=thai_194 />。また、ベトナムと手を結んだ[[カンボジア]]内の勢力に対して[[1720年]]に派兵し主権を維持した。しかし、次の第31代王[[ボーロマコート]](在位1733-[[1758年]])の時代もカンボジアの親タイ派と親ベトナム派の対立が続くと、[[1749年]]、再びカンボジアに派兵し属国とした。しかし、ボーロマコートが死去すると王室の権力争いが顕著になり、アユタヤ王朝の勢力は低下した<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、72-73頁</ref>。 |
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アユタヤ王朝は、400年以上の繁栄の後、ビルマに興った[[コンバウン王朝]]との[[泰緬戦争 (1759年-1760年)|泰緬戦争(1759-1760年)]]により、テナセリム([[タニンダーリ地方域|タニンダーリ]])、マルタバン([[モッタマ]])、タヴォイ([[ダウェイ]])を失った<ref>[[#Nemoto|根本 (2014)]]、49頁</ref>。その後、コンバウン王朝の侵攻による[[1765年]]からの[[泰緬戦争 (1765年-1767年)|泰緬戦争(1765-1767年)]]により、ついに[[1767年]]4月、首都アユタヤは攻め落とされ、アユタヤ王朝は滅亡した<ref>[[#iwanami3|『岩波講座 東南アジア史 3』 (2001)]]、201-202頁</ref><ref>[[#Ohno|大野 (2002)]]、252頁</ref>。 |
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== トンブリー王朝 == |
== トンブリー王朝 == |
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{{main|トンブリー王朝}} |
{{main|トンブリー王朝}} |
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[[1766年]]から[[1769年]]にかけて[[清緬戦争]]が勃発し、[[1776年]]にはコンバウン王朝がタイ領から撤 |
[[1766年]]から[[1769年]]にかけて[[清緬戦争]]が勃発し、[[1776年]]にはコンバウン王朝のビルマ軍がタイ領からほぼ撤収して圧力が弱まったこともあり<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、76頁</ref><ref>[[#Ohno|大野 (2002)]]、253頁</ref>、[[華僑]]の父とタイ人の母をもつ[[タークシン]]が、華僑の支援のもと、[[1767年]]10月に奪還した要衝トンブリーを拠点としてアユタヤのビルマ勢力を排除することに成功し、[[1768年]]12月末にタークシン(在位1768-[[1782年]])は王位に就いた<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、77頁</ref><ref name=thai_199-200>[[#thai|『タイの事典』 (1993)]]、199-200頁</ref>。トンブリー王朝は新首都トンブリーを拠点にアユタヤを取り戻すとともに支配域を回復し、さらに拡大を図った<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、78-80頁</ref>。カンボジアに対しては、王座を巡る争いに介入し<ref>[[#iwanami4|『岩波講座 東南アジア史 4』 (2001)]]、251頁</ref>、[[1771年]]よりカンボジアに2度侵攻している<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、79・82頁</ref><ref>[[#Kitagawa|北川 (2006)]]、175-178頁</ref>。また、ラーンサーンは18世紀初頭、[[ルアンパバーン王国]]、[[ヴィエンチャン王国]]、[[チャンパーサック王国]]に分裂していたが、[[1778年]]にはヴィエンチャンとチャンパーサックを攻略し、ルアンパバーンを属国とした<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、79頁</ref>。 |
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しかし、1770年代末より仏教に専心し、やがて精神的に偏重性を示したとされる王タークシンは<ref name=thai_199-200 /><ref>[[#iwanami4|『岩波講座 東南アジア史 4』 (2001)]]、254頁</ref>、[[1782年]]初頭、[[クーデター]]により追い詰められ、カンボジア遠征から戻ったチャオプラヤー・チャクリーにより同年4月6日処刑された<ref name=thai_199-200 />。 |
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== チャクリー王朝 == |
== チャクリー王朝 == |
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{{main|チャクリー王朝|{{仮リンク|ラッタナーコーシン王国|en|Rattanakosin Kingdom}}}} |
{{main|チャクリー王朝|{{仮リンク|ラッタナーコーシン王国 (1782–1932)|en|Rattanakosin Kingdom (1782–1932)}}}} |
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チャオプラヤー・チャクリーは[[ラーマ1世]](在位1782-[[1809年]])として王を継ぎ、後にプラプッタヨートファーチュラーロークと呼ばれるチャクリー王朝(ラッタナーコーシン王朝)の初代王となった<ref>[[#thai|『タイの事典』 (1993)]]、338頁</ref>。ラーマ1世は、右岸のトンブリーからチャオプラヤー川を渡った左岸に新しい首都[[バンコク]](クルンテープ)を建設し、現在に続くチャクリー王朝が始まった<ref>[[#yamakawa5|『東南アジア史 I』 (1999)]]、268頁</ref>。王宮および王宮内寺院の[[ワット・プラシーラッタナサーサダーラーム|ワット・プラケーオ]](エメラルド寺院)が建造されると、ラーマ1世がかつてのヴィエンチャン攻略により持ち帰り、[[ワット・アルン]]に安置していた[[エメラルド仏]]を移して祀った<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、79・84頁</ref>。新都名にあるラッタナーコーシンとは「[[インドラ]]神の宝石」の意で、エメラルド仏のことを指す<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、84頁</ref>。 |
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[[ファイル:Carte royaume de Siam.png|thumb|180px|1809年のラッタナーコーシン王国の領域図]] |
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その後、精神的偏重性を示したとされる王タークシンは<ref>[[#iwanami4|『岩波講座 東南アジア史 4』 (2001)]]、254頁</ref>、[[1782年]]初頭、クーデターで追い詰められ、カンボジア遠征から戻ったチャオプラヤー・チャクリーにより同年4月6日処刑された<ref name=thai_199-200 />。チャオプラヤー・チャクリーは[[ラーマ1世]](在位1782-1809年)として王を継ぎ、後にプラプッタヨートファーチュラーロークと呼ばれる[[チャクリー王朝]](ラッタナーコーシン王朝)の最初の王となった<ref>[[#thai|『タイの事典』 (1993)]]、338頁</ref>。ラーマ1世は、右岸のトンブリーから[[チャオプラヤー川]]を渡った左岸に新しい首都バンコクを建設し、現在に続くチャクリー王朝が始まった<ref>[[#yamakawa5|『東南アジア史 I』 (1999)]]、268頁</ref>。 |
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[[ファイル:Map of the Rattanakosin Kingdom.svg|thumb|180px|1809年のラッタナーコーシン王国の領域図]] |
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[[ラーマ2世]](在位1809-1824年)の時代になって、[[1821年]]にタイが{{仮リンク|ナコーンシータンマラート王国|en|Nakhon Si Thammarat Kingdom}}により{{仮リンク|ケダ・スルタン国|en|Kedah Sultanate}}を征服し<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、94頁</ref><ref>[[#iwanami4|『岩波講座 東南アジア史 4』 (2001)]]、178-180頁</ref>、統治を開始するなどの対外拡張政策を推進した<ref>[[#thai|『タイの事典』 (1993)]]、341頁</ref>。タイのラーマ1世以後の支配者がアジア地域におけるヨーロッパ列強の力を認識したのは、隣国のコンバウン王朝が[[1824年]]からの{{仮リンク|第一次英緬戦争|en|First Anglo-Burmese War}}によりイギリスに敗北し、一部領土を失うなど<ref>[[#Ohno|大野 (2002)]]、255-256頁</ref>、ヨーロッパ諸国の脅威に晒されたことによる<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、94-96・104頁</ref>。[[ラーマ3世]](在位1824-1851年)は、[[1826年]]、イギリスと通商条約({{仮リンク|バーネイ条約|en|Burney Treaty}})を締結し<ref>[[#yamakawa5|『東南アジア史 I』 (1999)]]、273頁</ref><ref>{{Cite book |和書 |author=[[中西輝政]] |title=国民の文明史 |year=2015 |publisher=[[PHP研究所]] |series=[[PHP文庫]] |isbn=978-4-569-76272-2 |page=468}}</ref>、[[1833年]]には[[アメリカ合衆国|アメリカ]]とも外交上の条約を交わした<ref>[[#thai|『タイの事典』 (1993)]]、342頁</ref>。 |
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長くビルマの勢力下にあったラーンナーが[[1804年]]にビルマ軍を一掃したことで、チャクリー王朝の支配域に置かれるなど、この時代にトンブリー王朝よりさらに勢力は拡大した<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、85-87頁</ref>。[[ラーマ2世]](在位1809-[[1824年]])の時代になると、[[1821年]]にタイが{{仮リンク|ナコーンシータンマラート王国|en|Nakhon Si Thammarat Kingdom}}により{{仮リンク|ケダ・スルタン国|en|Kedah Sultanate}}を征服し<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、95頁</ref><ref>[[#iwanami4|『岩波講座 東南アジア史 4』 (2001)]]、178頁</ref>、統治を開始した<ref name=thai_341>[[#thai|『タイの事典』 (1993)]]、341頁</ref>。当時、[[ペナン島]]を[[1786年]]以来占領により領有していたイギリスは、貿易の混乱を恐れ、使節をバンコクに派遣して外交交渉を行ったがほとんど成功せずに終った<ref name=thai_341 /><ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、94-96頁</ref>。 |
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19世紀、タイのラーマ1世以降の支配者がアジア地域におけるヨーロッパ列強の力を認識したのは、隣国のコンバウン王朝が[[1824年]]からの[[第一次英緬戦争]]によりイギリスに敗北し、一部領土を失うなど<ref>[[#Ohno|大野 (2002)]]、255-256頁</ref>、ヨーロッパ諸国の脅威に晒されたことによる<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、104頁</ref>。[[ラーマ3世]](在位1824-[[1851年]])は、[[1826年]]、イギリスと通商条約({{仮リンク|バーネイ条約|en|Burney Treaty}})を締結し<ref>[[#yamakawa5|『東南アジア史 I』 (1999)]]、273頁</ref><ref>{{Cite book |和書 |author=中西輝政|authorlink=中西輝政 |title=国民の文明史 |year=2015 |publisher=[[PHP研究所]] |series=[[PHP文庫]] |isbn=978-4-569-76272-2 |page=468}}</ref>、[[1833年]]には[[アメリカ合衆国|アメリカ]]とも外交上の条約を交わした<ref>[[#thai|『タイの事典』 (1993)]]、342頁</ref>。 |
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この時代、ベトナムで[[1802年]]に成立した[[阮朝]]が強勢になると、タイとベトナムがカンボジアの覇権を巡る争いが大きくなった。タイがカンボジアの支配を狙って起こした{{仮リンク|泰越戦争 (1831-1834)|en|Siamese–Vietnamese War (1831–34)|label=泰越戦争(1831-1834年)}}において、[[1832年]]にタイはカンボジアに侵攻したが、ベトナム(阮朝)とともにカンボジアが反撃に転じると、タイは撤退し、[[1834年]]にはベトナムがカンボジアを掌握した。その後、タイが再びカンボジアの支配のために起こした{{仮リンク|泰越戦争 (1841-1845)|en|Siamese–Vietnamese War (1841–1845)|label=泰越戦争(1841-1845年)}}の結果、[[1845年]]にタイとベトナム両国でカンボジアを共有する講和条約が締結された<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、90-91頁</ref>。この結果、[[1847年]]に[[アン・ドゥオン]]がカンボジア王に即位したが、ひそかにカンボジア領内の一定の支配権を得るため、[[シンガポール]]のフランス領事を通じて[[ナポレオン3世]]に援助を要請しようとした。しかし、それは事前にタイに情報が漏れたことで失敗に終わった<ref>{{cite book |和書 |author=フーオッ・タット |translator=今川幸雄 |title=アンコール遺跡とカンボジアの歴史 |publisher=[[めこん]] |year=1995 |isbn=4-8396-0095-3 |page=129}}</ref>。 |
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この時代、ベトナムで[[1802年]]に成立した[[阮朝]]が強勢になり、タイとベトナムとのカンボジアの覇権を巡る争いが大きくなった。タイがカンボジアの支配を狙って起こした{{仮リンク|泰越戦争 (1831-1834)|en|Siamese–Vietnamese War (1831–34)|label=泰越戦争(1831-1834年)}}において、[[1832年]]にタイはカンボジアに侵攻したが、ベトナム(阮朝)とともにカンボジアが反撃に転じると、タイは撤退し、[[1834年]]にはベトナムがカンボジアを掌握した。その後、タイが再びカンボジアの支配のために起こした{{仮リンク|泰越戦争 (1841-1845)|en|Siamese–Vietnamese War (1841–1845)|label=泰越戦争(1841-1845年)}}の結果、[[1845年]]、タイとベトナム両国でカンボジアを共有する講和条約が締結された<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、90-91頁</ref>。この結果、[[1847年]]に[[アン・ドゥオン]]がカンボジア王に即位したが、ひそかにカンボジア領内の一定の支配権を得るため、[[シンガポール]]のフランス領事を通じて[[ナポレオン3世]]に援助を要請しようとした。しかし、それは事前にタイに情報が漏れたことで失敗に終わった<ref>{{cite book |和書 |author=フーオッ・タット |translator=今川幸雄 |title=アンコール遺跡とカンボジアの歴史 |year=1995 |publisher=めこん |isbn=4-8396-0095-3 |page=129}}</ref>。 |
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=== 近代化 === |
=== 近代化 === |
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タイがヨーロッパ勢力との間に国交を確立したのは、ラーマ3世の異母弟である[[ラーマ4世]](モンクット、在位1851-[[1868年]])と息子の[[ラーマ5世]](チュラーロンコーン、在位1868-[[1910年]])の統治中のことであった。[[1840年]]からの[[アヘン戦争]]における大国の[[清]]の敗北はタイにとっても大きな衝撃であったが<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、108頁</ref>、この2人の君主の外交手腕がタイ政府の近代化改革([[チャクリー改革]])と結び付いたことによって、タイ王国はヨーロッパによる植民地支配から免れた東南アジアで唯一の国になった。タイはイギリスとフランスの植民地に挟まれて、両大国の[[緩衝国]]となったことも独立の維持に役立った<ref name=iwanami5_214>[[#iwanami5|『岩波講座 東南アジア史 5』 (2001)]]、214頁</ref>。 |
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[[ファイル:Siamese territorial concessions (1867-1909) with flags.gif|thumb|180px|19世紀末-20世紀初頭のタイ領域の割譲<br/>{{legend|#80f8fc|1867年[[フランス]]に<ref>[[#Winichakul|ウィニッチャクン (2003)]]、176頁</ref>}}{{legend|#0d8e0c|1888年[[フランス領インドシナ|フランス]]に<ref>[[#Kamihigashi|上東 (1990)]]、91頁</ref>}}{{legend|#1e8eff|1893年フランスに}}{{legend|#aa9f4b|1893年[[イギリス領インド帝国|イギリス]]に<ref>[[#Winichakul|ウィニッチャクン (2003)]]、199-200頁</ref>}}{{legend|#338c70|1904年フランスに}}{{legend|#4aea00|1907年フランスに}}{{legend|#eaa400|1909年イギリスに}}]] |
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タイが西欧勢力との間に堅固な国交を確立したのは、その後の[[ラーマ4世]](モンクット、在位1851-1868年)と息子の[[ラーマ5世]](チュラーロンコーン、在位1868-1910年)の統治中のことであった。[[1840年]]からの[[アヘン戦争]]における大国の[[清]]の敗北はタイにとっても大きな衝撃であり<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、108頁</ref>、この2人の君主の外交手腕がタイ政府の近代化改革([[チャクリー改革]])と結び付いたことによって、タイ王国はヨーロッパによる植民地支配から免れた東南アジアで唯一の国になった。タイはイギリスとフランスの植民地にはさまれて、両大国の[[緩衝国]]となったことも独立の維持に役立った<ref name=iwanami5_214>[[#iwanami5|『岩波講座 東南アジア史 5』 (2001)]]、214頁</ref>。[[1852年]]の{{仮リンク|第二次英緬戦争|en|Second Anglo-Burmese War}}の結果、イギリスは[[下ビルマ]]を獲得していた<ref>[[#chuokoron|石澤・生田 (1996)]]、409頁</ref><ref>[[#Nemoto|根本 (2014)]]、59-60頁</ref>。ラーマ4世は、[[1855年]]にイギリスと通商貿易に関する条約({{仮リンク|バウリング条約|en|Bowring Treaty}})を締結した<ref name=iwanami5_214 /><ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、107-108頁</ref>。 |
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[[ファイル: Siamese territorial concessions (1867-1909) with flags.gif|thumb|180px|19世紀末-20世紀初頭のタイ領域の割譲<ref name=Amakawa>{{Cite journal|和書|author=天川直子 |year=2001 |title=第1章 カンボジアにおける国民国家形成と国家の担い手をめぐる紛争|journal=カンボジアの復興・開発 |url=https://hdl.handle.net/2344/00012300 |series=研究双書|volume=518 |pages=21-65 |publisher=[[日本貿易振興機構|日本貿易振興会]]アジア経済研究所 |isbn=9784258045181 |accessdate=2019-09-01}}</ref><br />{{legend|#97fdfd|1867年[[フランス]]に}}{{legend|#037d00|1888年[[フランス領インドシナ|フランス]]に<ref>[[#Kamihigashi|上東 (1990)]]、91頁</ref>}}{{legend|#0098fd|1893年フランスに}}{{legend|#999833|1893年[[イギリス統治下のビルマ|イギリス]]に<ref>[[#Winichakul|ウィニッチャクン 『地図がつくったタイ』 (2003)]]、199-200頁</ref>}}{{legend|#018080|1904年フランスに}}{{legend|#01fc00|1907年フランスに}}{{legend|#fd9832|1909年イギリスに}}]] |
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[[1852年]]の[[第二次英緬戦争]]の結果、イギリスは[[下ビルマ]]を獲得していた<ref>[[#chuokoron|石澤、生田 (1996)]]、409頁</ref><ref>[[#Nemoto|根本 (2014)]]、59-60頁</ref>。ラーマ4世は、[[1855年]]にイギリスと通商貿易に関する条約([[ボウリング条約]])を締結した<ref name=iwanami5_214 /><ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、107-108頁</ref>。また、フランスは[[1862年]]にベトナム南部の[[コーチシナ]]を獲得し、翌[[1863年]]にはカンボジアに[[保護国]]条約を結ばせると<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、114頁</ref><ref>[[#yamakawa5|『東南アジア史 I』 (1999)]]、255頁</ref>、タイはカンボジアの宗主権を主張し、カンボジアもタイに対する服属を複合的に示したが、[[1867年]]、ついにタイはフランスの求めに応じ<ref>[[#Winichakul|ウィニッチャクン 『地図がつくったタイ』 (2003)]]、173-176頁</ref>、北西部を除くカンボジアのフランス支配権を認める条約を締結することとなった<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、114-115頁</ref>。 |
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一方、[[1779年]]よりタイの属国となっていた[[ルアンパバーン王国]] |
一方、[[1779年]]よりタイの属国となっていた[[ルアンパバーン王国]]は<ref>[[#heibonsha|『東南アジアを知る事典』 (2008)]]、485頁</ref>、[[太平天国の乱]]の末裔の中国人[[匪賊]]として各地に侵攻したホーにより[[1872年]]以来襲撃された。タイが軍を派遣したことでいったん沈静化していたが、[[1885年]]、再度襲撃が活発になると<ref>[[#Kamihigashi|上東 (1990)]]、81-82頁</ref>、タイは討伐の軍を送り、フランスもまた{{仮リンク|シップソーンチュタイ|en|Sip Song Chau Tai}}に軍を派遣した。これによりホーの襲撃は治まりを見せたが<ref name=Kakizaki_117>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、117頁</ref>、ルアンパバーンにはフランス副領事館が置かれることとなった<ref name=yamakawa5_352>[[#yamakawa5|『東南アジア史 I』 (1999)]]、352頁</ref>。その後、[[1887年]]にルアンパバーンは再びホーにより襲撃された<ref name=Kakizaki_117 />。すでに軍は撤退しており、当時国王であった{{仮リンク|ウンカム|en|Oun Kham}}とその家族はこの襲撃により危機に晒されたが、フランス副領事館の{{仮リンク|オーガスト・パヴィ|en|Auguste Pavie}}により救出され、逃亡に成功している<ref>[[#Kamihigashi|上東 (1990)]]、83頁</ref>。このホー軍の襲撃は、ルアンパバーンに国王を救出したフランスへの信頼感を産み出す契機となった<ref name=yamakawa5_352 />。また、[[清仏戦争]]で1885年に清からベトナムに対する宗主権をフランスが奪取したことも<ref>[[#iwanami5|『岩波講座 東南アジア史 5』 (2001)]]、114頁</ref>、ルアンパバーン王国がフランスの保護を受け入れる選択を後押しした。ルアンパバーン王国のフランスによる保護国化を不服としたタイも、[[1893年]]の{{仮リンク|仏泰戦争|en|Franco-Siamese War}}([[パークナム事件]])に敗戦した結果、[[ラオス]]がフランス保護下に置かれることが確定し<ref>[[#yamakawa5|『東南アジア史 I』 (1999)]]、410-411頁</ref>、[[1899年]]、ラオスは[[フランス領インドシナ]]に編入された<ref>[[#yamakawa5|『東南アジア史 I』 (1999)]]、353-354頁</ref><ref>[[#Kamihigashi|上東 (1990)]]、94頁</ref>。 |
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イギリスは1885年の |
イギリスは1885年の[[第三次英緬戦争]]の結果<ref>[[#Nemoto|根本 (2014)]]、64頁</ref>、[[1886年]]にはビルマ全域を獲得していた<ref>[[#chuokoron|石澤、生田 (1996)]]、411頁</ref>。[[1890年代]]にイギリスとフランスが、ビルマとラオスの接する[[メコン川]]に向い合うようになると<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、122頁</ref>、[[1896年]]、イギリス・フランス両国は、タイのチャオプラヤー川流域に関する英仏宣言を発表して紛争を回避し、タイをイギリス・フランス両国の緩衝地帯として残すことが定められた<ref name=iwanami5_214 />。[[1904年]]にはフランスとの協定で[[ムアンチャンタブリー郡|チャンタブリー]]がタイに返還される代わりに、ルアンパバーンのメコン川西岸([[サイニャブーリー県|ラーンチャーン]]〈ラーンサーン〉)と[[チャンパーサック県|チャンパーサック]]およびマノープライ(ムルプレイ<ref name=Amakawa />)、それに[[ムアントラート郡|トラート]]と{{仮リンク|ダーンサーイ郡|en|Dan Sai District|label=ダーンサーイ}}を割譲し、[[1907年]]の条約では、トラートとダーンサーイが返還されたが、タイはカンボジアの[[バタンバン州|バタンバン]]、[[シェムリアップ州|シェムリアップ]]、[[シソポン]]を割譲した<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、132-133頁</ref><ref name=Takahashi>{{Cite journal |和書 |author=高橋正樹 |date=2016-4 |title=英仏植民地主義及び日本の南進政策とタイの領域主権国家化 |journal=新潟国際情報大学国際学部紀要 |volume=1 |pages=117-133 |publisher=[[新潟国際情報大学]]国際学部 |issn=2189-5864 |url=http://lbir.nuis.ac.jp/infolib/user_contents/lbir/kiyo/kiyo_2016.02.08.pdf |format=PDF |accessdate=2017-10-27}}</ref>。また、[[1909年]]のイギリスとの条約({{仮リンク|英泰条約 (1909年)|en|Anglo-Siamese Treaty of 1909|label=英泰条約}})において、現在のマレー半島の4州([[クランタン州|クランタン]]・[[トレンガヌ州|トレンガヌ]]・[[ケダ州|ケダ]]・[[プルリス州|プルリス]])を割譲した<ref>[[#thai|『タイの事典』 (1993)]]、160頁</ref>。タイはこれらの条約の締結により多くの領土を手放したが、一方でチャオプラヤー川流域以外に、東北部およびマレー半島などのタイ領を維持した<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、122-124頁</ref>。 |
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1910年、ワチラーウットが[[ラーマ6世]](在位1910-[[1925年]])として王位を継承すると、王直属の義勇部隊である国土防衛隊「スアパー」({{仮リンク|野虎隊|en|Wild Tiger Corps}}〈猛虎団<ref>[[#yamakawa8|『東南アジア現代史 IV』 (1983)]]、207-208頁</ref>〉)を創設した<ref>[[#thai|『タイの事典』 (1993)]]、347頁</ref>。これに対して[[1912年]]には[[絶対君主制]]に反対し、立憲主義を求める軍部の青年により、初めての立憲革命計画ともいえるクーデター ({{lang-en-short|[[w:Palace Revolt of 1912|Palace Revolt of 1912]]}}) が企てられたが<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、135頁</ref>、事前に発覚し100人以上が逮捕され失敗に終わった<ref>[[#yamakawa5|『東南アジア史 I』 (1999)]]、420頁</ref>。しかし、この20年後に起こった立憲革命により、長きにわたった絶対君主制は幕を閉じることになる<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、135・155頁</ref>。 |
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[[1914年]]に[[第一次世界大戦]]が発生すると、タイは直後の8月6日に中立を宣言して戦況をうかがい、その後、[[1917年]]4月のアメリカ参戦で[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]が有利と見極めたタイは、7月22日に連合国側として宣戦した。これに伴い、9月28日、タイの国旗を現在の3色旗に変更した<ref>{{Cite book |和書 |author=早瀬晋三 |year=2012 |title=マンダラ国家から国民国家へ - 東南アジア史のなかの第一次世界大戦 |series=レクチャー 第一次世界大戦を考える |publisher=[[人文書院]] |isbn=978-4-409-51116-9 |pages=63-64}}</ref>。 |
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=== 第一次世界大戦 === |
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{{main|{{仮リンク|第一次世界大戦のタイ|en|Siam in World War I}}}} |
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[[ファイル:Firstworldwar.jpg|thumb|タイの遠征軍(1919年、[[パリ]])]] |
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[[1914年]]7月28日、[[第一次世界大戦]]が勃発すると、タイは直後の8月6日に中立を宣言して戦況をうかがい、その後、[[1917年]]4月のアメリカ参戦により[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]が有利と見極めたラーマ6世は、7月22日に連合国側として[[ドイツ帝国]]および[[オーストリア=ハンガリー帝国]]に宣戦した。これにより列強諸国と並んだとして、同年9月28日、[[タイの国旗]]を連合国の[[イギリスの国旗|イギリス]]・[[フランスの国旗|フランス]]・[[アメリカ合衆国の国旗|アメリカの国旗]]の色とも一致する現在の3色旗に変更した<ref>[[#yamakawa5|『東南アジア史 I』 (1999)]]、422頁</ref><ref group="注">3色旗の中央の青色は国王、上下の白色は宗教、外側の赤色は民族を象徴する。</ref>。タイはヨーロッパに自動車輸送部隊と飛行部隊となる遠征軍({{lang-en-short|[[w:Siamese Expeditionary Forces|Siamese Expeditionary Forces]]}})1200人余りを派遣し、輸送部隊の一部はフランス軍とともに一時ドイツの戦地に配備された<ref>{{Cite book |和書 |author=早瀬晋三 |year=2012 |title=マンダラ国家から国民国家へ - 東南アジア史のなかの第一次世界大戦 |series=レクチャー 第一次世界大戦を考える |publisher=[[人文書院]] |isbn=978-4-409-51116-9 |pages=63-64}}</ref><ref>[[#Murashima|村嶋 (1996)]]、53-59頁</ref>。この参戦により戦勝国の地位を得たタイは、[[1919年]]の[[パリ講和会議]]に列席し、[[国際連盟]]にも参加した後、イギリスやフランスなどと結ばれた不平等条約の改正を進め、[[1937年]]にはこれらの条約がすべて改正された<ref>[[#yamakawa8|『東南アジア現代史 IV』 (1983)]]、212-213頁</ref><ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、140-141頁</ref>。 |
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=== 立憲革命 === |
=== 立憲革命 === |
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{{main|立憲革命 (タイ)}} |
{{main|立憲革命 (タイ)}} |
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{{see also|{{仮リンク|タイの歴史 (1932年 - 1973年)|en|History of Thailand (1932–1973)}}|タイの首相}} |
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[[1910年]]にワチラーウットが[[ラーマ6世]](在位1910-1925年)として王位を継承すると、[[1912年]]には[[絶対君主制]]に反対する軍部の青年によるクーデター ([[w:Palace Revolt of 1912|Palace Revolt of 1912]]) が起こったが<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、135頁</ref>失敗に終わった<ref>[[#yamakawa5|『東南アジア史 I』 (1999)]]、420頁</ref>。 |
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[[ファイル:Tanks-outside-ananta-samakhom-throne-hall.jpg|thumb|立憲革命時の[[アナンタサマーコム殿]]([[バンコク]])]] |
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[[1925年]]にラーマ6世の末弟プラチャーティポックが[[ラーマ7世]](在位1925-[[1935年]])として王位を継承すると<ref>[[#Murashima|村嶋 (1996)]]、67-70頁</ref>、前王の近代化政策による財政悪化の改善を図ったが<ref>[[#yamakawa8|『東南アジア現代史 IV』 (1983)]]、213-214頁</ref>、[[1929年]]に始まった[[世界恐慌]]をきっかけにタイの財政が再び悪化し、[[絶対王政]]に対する不満が高まっていった<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、152-154頁</ref>。[[1927年]]、ヨーロッパに留学していた学生7人により<ref name=Murashima_116-117>[[#Murashima|村嶋 (1996)]]、116-117頁</ref>、タイの政治体制の変革を目指す[[秘密結社]]として結成された[[人民党 (タイ)|人民党]]が<ref>[[#yamakawa8|『東南アジア現代史 IV』 (1983)]]、220-222頁</ref>、[[1932年]]初頭、立憲改革をもくろむ軍の内部グループと結束し、同年6月24日、バンコクでクーデターによる「[[立憲革命 (タイ)|立憲革命]]」を決行した<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、154頁</ref>。 |
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ラーマ7世は人民党の要求を受諾し、6月27日に臨時憲法が制定されたことで<ref>[[#yamakawa5|『東南アジア史 I』 (1999)]]、425-427頁</ref>、王や王族は存続するものの、タイの政治体制は[[絶対君主制]](絶対王政)から[[立憲君主制]]へと移行した<ref name=Kakizaki_155>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、155頁</ref>。これに基づき直ちに翌28日、国会として人民代表議会が開会されたが、議会は[[一院制]]であり、全員が人民党の任命議員であった<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、144頁</ref><ref name=yamakawa5_427>[[#yamakawa5|『東南アジア史 I』 (1999)]]、427頁</ref>。この議会において同日、王室との仲介役として非人民党員の[[プラヤー・マノーパコーンニティターダー|プラヤー・マノーパコーン]](在任1932-[[1933年]])が[[首相]]に選出された<ref name=Kakizaki_155 /><ref>[[#Murashima|村嶋 (1996)]]、163頁</ref>。また、12月10日には新憲法が公布されたが、この恒久憲法も実質的に10年後の選挙まで人民党単独政権を確保できるものであった<ref name=yamakawa5_427 /><ref>[[#Murashima|村嶋 (1996)]]、172-174頁</ref>。 |
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立憲革命の後、翌1933年には人民党を主導する急進派の政策案により穏健派との決裂が生じたことで早くも政情が不安定となる。6月20日、一部急進派と人民党派軍部が{{仮リンク|タイの軍事クーデター (1933年)|en|Siamese coup d'état of 1933|label=クーデター}}を起こし<ref>[[#yamakawa8|『東南アジア現代史 IV』 (1983)]]、230-232頁</ref>、その指導者として擁立された[[プラヤー・パホンポンパユハセーナー|ブラヤー・パホン]](1933-[[1938年]])が首相に就任した<ref name=Kakizaki_156-157>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、156-157頁</ref><ref>[[#yamakawa5|『東南アジア史 I』 (1999)]]、427-429頁</ref>。これに対して10月11日、元陸軍大臣の{{仮リンク|ボーウォーラデート親王の反乱|en|Boworadet rebellion}}により東北部の軍が進攻したが失敗し、親王はフランス領インドシナに亡命した<ref>[[#yamakawa8|『東南アジア現代史 IV』 (1983)]]、232頁</ref>。また、人民党政府に反発したラーマ7世も、[[1935年]]3月、当時9歳の甥[[ラーマ8世]](アーナンタマヒドン、在位1935-[[1946年]])に王位を譲った<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、158頁</ref>。 |
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その後、人民党の当初からの構成員であり<ref name=Murashima_116-117 />、1933年のクーデターの中心にもいた<ref name=Kakizaki_156-157 />[[プレーク・ピブーンソンクラーム]](在任1938-1944年〈後1948-[[1957年]]〉)が実権を握り首相に就くと、[[1939年]]6月、国名を「シャム」から「タイ」に変更した<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、159-160頁</ref><ref group="注">国名「タイ」(''Prathet Thai''、{{lang-th|ประเทศไทย}})は、当初[[1939年]]から[[1945年]]に使用され、[[1949年]]5月11日に公式に宣言された。''prathet'' ({{lang-th|ประเทศ}})は「国家」、''thai'' ({{lang-th|ไทย}})「タイ」の語源は「自由」に由来するとした。<!--(『東南アジア史 I 大陸部』 136頁)--></ref>。 |
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=== 第二次世界大戦 === |
=== 第二次世界大戦 === |
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{{main|{{仮リンク|第二次世界大戦のタイ|en|Thailand in World War II}}}} |
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人民党の[[プレーク・ピブーンソンクラーム]](在任1938-1944年〈後1948-1957年〉)が実権を握り首相に就くと、[[1939年]]6月、国名を「シャム」から「タイ」に変更した<ref group="注">国名「タイ」(''Prathet Thai''、{{lang-th|ประเทศไทย}})は、当初[[1939年]]から[[1945年]]に使用され、[[1949年]]5月11日に公式に宣言された。''prathet'' ({{lang-th|ประเทศ}})は「国家」、''thai'' ({{lang-th|ไทย}})「タイ」の語源は「自由」に由来するとした。<!--(『東南アジア史 I 大陸部』 136頁)--></ref>。タイは、1939年9月に[[ヨーロッパ]]で[[第二次世界大戦]]が勃発した直後に中立宣言を出していたが、[[1940年]]に日本軍がフランス領インドシナに進駐すると、ピブーンソンクラームは同年9月10日にフランス領インドシナと国境紛争を起こした<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、159-165頁</ref>。タイの要求を拒否したフランスは11月28日にタイ側を空爆し、[[タイ・フランス領インドシナ紛争]]の開戦となった。翌[[1941年]]の日本の仲介により、5月9日に[[東京条約]]を締結し、1904年と1907年にタイが割譲した領土のほとんどを自国領に併合した<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、165-167頁</ref><ref>[[#yamakawa5|『東南アジア史 I』 (1999)]]、431-432頁</ref>。 |
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{{see also|タイ・フランス領インドシナ紛争|日本軍進駐下のタイ|日本軍のタイ進駐}} |
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1939年9月に[[ヨーロッパ]]で[[第二次世界大戦]]が勃発し、直後にタイは中立宣言を出したが、[[1940年]]9月に日本軍がフランス領インドシナに進駐すると、ピブーンソンクラームはこの変化を機にフランス領インドシナと国境紛争を起こした<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、159-165頁</ref>。タイの要求を拒否したフランスは11月28日にタイ側を空爆し、[[タイ・フランス領インドシナ紛争]]の開戦となった。翌[[1941年]]1月にはフランスの優勢が見えたが、タイは日本の仲介により、5月9日にフランスと[[東京条約]]を締結し、1904年と1907年にタイが割譲した領土のほとんどを自国領として併合するに至った<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、165-167頁</ref><ref>[[#yamakawa5|『東南アジア史 I』 (1999)]]、431-432頁</ref>。 |
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[[ファイル:Japanese Invasion of Thailand 8 Dec 1941.png|thumb|180px|1941年12月8日の日本軍の進路]] |
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その後、1941年[[12月8日]]、イギリスやアメリカなど[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]に宣戦した[[日本軍]]が、イギリスが支配していたマレー半島へ向かい([[マレー作戦]])、[[イギリス領マラヤ]]の[[コタバル]]と同じく、タイ南部の[[ムアンソンクラー郡|ソンクラー]](シンゴラ)や[[ムアンパッターニー郡|パッターニー]](パタニ)に上陸した([[マレー作戦#第一次マレー上陸作戦|第一次マレー上陸作戦]])。タイ軍らは抗戦を開始したが<ref>{{Cite book |和書 |author=倉沢愛子 |authorlink=倉沢愛子 |title=「大東亜」戦争を知っていますか |year=2002 |publisher=[[講談社]] |series=[[講談社現代新書]] |isbn=4-06-149617-4 |page=28}}</ref>、同日、タイは日本軍の通過を認めた<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、172頁</ref>。12月11日に日本と協定を結んだ後、日本軍の緒戦の勝利を背景に、21日には正式に[[日泰攻守同盟条約]]を締結し、日本の同盟国となった<ref>[[#Murashima|村嶋 (1996)]]、239-240頁</ref>。その翌年の[[1942年]]1月8日にイギリス軍がバンコクを爆撃したのを機に、1月25日、ピブーンソンクラームはイギリスとアメリカに宣戦布告し、タイは[[枢軸国]]として参戦することとなった<ref>[[#thai|『タイの事典』 (1993)]]、197頁</ref>。 |
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[[イギリス統治下のビルマ]]に[[ビルマの戦い#日本軍の侵攻(1941-1942年)|日本軍が進攻]]({{仮リンク|日本軍のビルマ進攻作戦|en|Japanese conquest of Burma}})を開始すると、タイは領土の拡大を目指して1942年5月に北部より進軍し、ビルマ東部のシャン州を占領した<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、173-174頁</ref>。また、日本軍はタイの[[ノーンプラードゥック駅|ノーンプラードゥック]]とビルマの[[タンビュザヤ]]の延長415キロメートルを結ぶ[[泰緬鉄道]]の建設を1942年6月に着工し、翌[[1943年]]10月に開通させた<ref>[[#thai|『タイの事典』 (1993)]]、198-199頁</ref><ref>{{Cite book |和書 |author=倉沢愛子 |title=資源の戦争 - 「大東亜共栄圏」の人流・物流 |year=2012 |publisher=[[岩波書店]] |series=戦争の経験を問う |isbn=978-4-00-028377-9 |pages=22,330-331}}</ref>。領土獲得を期待したタイは、当初、同盟を結んだ日本の過大な要求にも応じていたが、その後、タイは日本の一方的な権益拡大に対して不信を強めていった<ref>[[#yamakawa5|『東南アジア史 I』 (1999)]]、433-434頁</ref>。 |
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その後、1941年[[12月8日]]にイギリスやアメリカなどの[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]との間に開戦した[[日本軍]]が、イギリスが支配していたマレー半島へ向かい、[[イギリス領マラヤ]]の[[コタバル]]と同じく、タイ南部の[[ムアンソンクラー郡|ソンクラー]](シンゴラ)や[[ムアンパッターニー郡|パッターニー]](パタニ)に上陸すると、タイ軍らは戦闘を開始したが<ref>{{Cite book |和書 |author=倉沢愛子 |title=「大東亜」戦争を知っていますか |year=2002 |publisher=[[講談社]] |series=[[講談社現代新書]] |isbn=4-06-149617-4 |page=28}}</ref>、同日、タイは日本軍の通過を認めた。日本軍の緒戦の勝利を背景として、12月21日には[[日泰攻守同盟条約]]を締結し、日本の同盟国となった<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、172頁</ref>。その翌年の[[1942年]]1月8日にイギリス軍がバンコクを爆撃したのを機に、1月25日、ピブーンソンクラームはイギリスとアメリカに宣戦布告し、タイは[[枢軸国]]として参戦することになった<ref>[[#thai|『タイの事典』 (1993)]]、197頁</ref>。 |
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一方、日泰攻守同盟条約をもとに、タイが日本の同盟国になり日本軍を駐留させるのを見て、当時、駐米大使であり<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、179頁</ref>後に首相になる[[セーニー・プラーモート]]は、1942年3月、「[[自由タイ運動|自由タイ]]」({{lang-en-short|Free Thai}})という抗日運動をアメリカでタイ人外交官や留学生らと組織した。この活動はイギリスのタイ人留学グループにまでおよび、イギリスは自由タイの志願者をイギリス兵として受け入れ、特殊訓練を施して情報機関員を養成した<ref>[[#thai|『タイの事典』 (1993)]]、117頁</ref>。また、タイ国内においても、ピブーンソンクラーム内閣の閣僚である[[プリーディー・パノムヨン]]([[摂政]]で後の首相)が抗日組織を設けて参加し、連合国側との連絡を図っていた<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、180頁</ref>。1943年12月-<ref>[[#yamakawa5|『東南アジア史 I』 (1999)]]、434頁</ref>1944年1月には連合国軍の空爆が本格化し<ref>[[#Yoshikawa|吉川 (2010)]]、62頁</ref>、戦局の悪化とともに、プリーディーによる自由タイ運動は活発化し、[[1944年]]7月にピブーンソンクラーム内閣が総辞職したことで、[[クアン・アパイウォン]](在任1944-[[1945年]]〈後1946年1-3月・[[1947年|1947]]-[[1948年]]〉)の新内閣が成立した。クアン内閣は閣僚に自由タイの指導者3人が入閣するなど、急速に連合国との関係を強めたが、日本に対しては自由タイ運動の支援などないように振る舞っていた<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、178-182頁</ref>。しかし、1945年には国内各地に自由タイの軍事キャンプが、日本軍への攻撃に向けて設営されていった<ref>[[#Murashima|村嶋 (1996)]]、244頁</ref>。 |
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=== 戦後 === |
=== 戦後 === |
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[[ファイル:Japanese Troops Leave Bangkok, 1945 IND4835.jpg|thumb|武装解除後、収容所に送られる日本兵(1945年9月、バンコク)]] |
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[[ファイル:Provinces of Cambodia loss to Thailand during Franco-Thai War.png|thumb|タイが1941年より併合し、戦後1946年に返還した3県<br/>{{legend|#0b6810|ナコーン・チャンパーサック県}}{{legend|#08158c|ピブーンソンクラーム県}}{{legend|#910505|プレアタボン県}}]] |
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日本との衝突の直前に<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、183頁</ref>、日本が1945年8月に連合国に対して敗北すると、8月16日にプリーディーは「タイの宣戦布告は無効である」と宣言し<ref name=Takahashi />、イギリスに対しては、日本より移管されたシャン州やマラヤの州を返還することを表明するなど<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、183-184頁</ref>、連合国との敵対関係を終結させようとした。アメリカは直接的に利害関係のないことから、8月21日<ref name=Kakizaki_184>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、184頁</ref>、タイは日本の占領国であったとして、この宣戦無効宣言を受け入れたが<ref>[[#Murashima|村嶋 (1996)]]、245頁</ref>、イギリスはすぐに応じず占領軍を派遣することとなった。これを考慮して、総辞職したクアン内閣に代わり<ref name=Kakizaki_184 />、駐米大使で自由タイを組織しアメリカおよびイギリスとも関係の深いセーニー・プラーモート(在任1945-1946年〈後[[1975年]]2-3月・[[1976年]]4-10月〉)が選挙され<ref>[[#Yoshikawa|吉川 (2010)]]、163頁</ref>、[[タウィー・ブンヤケート]]暫定政権の後、9月17日より首相に就いた<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、184-185頁</ref>。その間、9月2日にイギリス領インド軍2万7000人が到着し、日本軍の武装解除が進められた。その後、アメリカの支援のもとにイギリスと交渉した結果、1946年1月に宣戦布告の無効を確認し、原状復帰および領土の返還などの諸条件により平和条約が締結された<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、185頁</ref>。 |
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[[1945年]]8月に日本が連合国に対して敗北すると、8月16日にプリーディーは「タイの宣戦布告は無効である」と宣言し<ref name=Takahashi />、連合国との間の敵対関係を終結させようとした。こうした巧妙な政治手腕により、タイは連合国による敗戦国としての裁きを免れた<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、183-188頁</ref>。 |
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[[ファイル:Provinces of Cambodia loss to Thailand during Franco-Thai War.png|thumb|タイが1941年より併合し、戦後1946年、フランスに返還した3県<br/>{{legend|#006600|ナコーン・チャンパーサック県}}{{legend|#00008c|ピブーンソンクラーム県}}{{legend|#8c0000|プレアタボン県}}]] |
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戦後処理内閣が[[1946年]]1月に退陣して再び就任したクアン・アパイウォンが3か月で首相を辞任し、自由タイのプリーディー・パノムヨン(在任1946年3–8月)が次の首相となった<ref name=Kakizaki_194>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、194頁</ref>。5月にフランス軍がタイ領を攻撃し、国際社会への復帰を優先せざるを得ないタイは、1941年に併合した領土の引き渡しに応じ<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、186頁</ref>、{{仮リンク|ナコーン・チャンパーサック県|en|Nakhon Champassak Province}}(チャンパーサック州)、{{仮リンク|ピブーンソンクラーム県|en|Phibunsongkhram Province}}(シェムリアップ州)、{{仮リンク|プレアタボン県|en|Phra Tabong Province}}(バタンバン州)の3県がフランスに返還された。 |
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セーニー内閣がその1946年1月に退陣し、再び就任したクアン・アパイウォンが3か月で首相を辞任した後、自由タイのプリーディー・パノムヨン(在任1946年3–8月)が次の首相に就いた<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、194頁</ref>。一方、5月に領土の返還を求めるフランスがタイ領を攻撃し、国際社会への復帰を優先せざるを得ないタイは、1941年に併合した領土の引き渡しに応じ、{{仮リンク|ナコーン・チャンパーサック県|en|Nakhon Champassak Province}}(チャンパーサック州)、{{仮リンク|ピブーンソンクラーム県|en|Phibunsongkhram Province}}(シェムリアップ州)、{{仮リンク|プレアタボン県|en|Phra Tabong Province}}(バタンバン州)の3県がフランスに返還された。これにより1946年11月、フランスとも終戦協定が成立することになる<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、186頁</ref>。タイの領域は1909年に定められた状態に戻ったが、巧妙な政治手腕により、タイは連合国による敗戦国としての状況を早期に免れた<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、183-188頁</ref>。 |
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1945年に成人したラーマ8世は、12月にスイスより帰国したが、1946年6月9日、額を銃弾が貫通した不可解な状況で死亡した<ref>[[#thai|『タイの事典』 (1993)]]、348頁</ref>。ラーマ8世に続いて18歳で即位した弟の[[ラーマ9世]](プーミポン・アドゥンヤデート、在位1946-2016年)は、タイ王国で最も長く王位に就き、タイ国民に非常に人気のある君主となった。プリーディーは8月の総選挙後に辞任し、自由タイの |
1945年に成人したラーマ8世は、12月にスイスより帰国したが、1946年6月9日、額を銃弾が貫通した不可解な状況で死亡した<ref>[[#thai|『タイの事典』 (1993)]]、348頁</ref>。変死したラーマ8世に続いて18歳で即位した弟の[[ラーマ9世]](プーミポン・アドゥンヤデート、在位1946-[[2016年]])は、タイ王国で最も長く王位に就き、タイ国民に非常に人気のある君主となった<ref>[[#thai|『タイの事典』 (1993)]]、348-349頁</ref>。プリーディーは、1946年5月に初めて[[複数政党制]]を認める新憲法を制定したが、8月の総選挙後に辞任し、プリーディーの後任として自由タイの[[タワン・タムロンナーワーサワット]](在任1946-1947年)が次の首相に就いた<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、194-195頁</ref>。 |
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=== 軍事政権 === |
=== 軍事政権 === |
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{{see also|{{仮リンク|タイの軍事クーデター (1947年)|en|Siamese coup d'état of 1947}}|{{仮リンク|タイの1947年クーデターグループ|en|1947 Coup Group (Thailand)}}}} |
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[[1947年]]11月、陸軍による{{仮リンク|タイ・クーデター (1947年)|en|Siamese coup d'état of 1947|label=タイ・クーデター}}でプリーディーが亡命し、自由タイは終焉を迎えた。[[民主党 (タイ)|民主党]]のクアン・アパイウォンが首相に擁立されたが、翌[[1948年]]には陸軍の圧力により辞任を余儀なくされ、「ピブーンの返り咲き」と呼ばれるピブーンソンクラームによる軍事政権(1948-1957年)が開始された<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、196-197頁</ref>。 |
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1947年11月、ピブーンソンクラーム退陣以来冷遇されていた陸軍による{{仮リンク|タイ・軍事クーデター (1947年)|en|Siamese coup d'état of 1947|label=軍事クーデター}}が発生し<ref>[[#Murashima|村嶋 (1996)]]、246頁</ref><ref>[[#Kato|加藤 (1995)]]、133頁</ref>、プリーディーは国外に亡命した<ref>[[#yamakawa8|『東南アジア現代史 IV』 (1983)]]、269-270頁</ref>。1946年憲法は廃止され、暫定憲法が公布されると<ref>[[#Kato|加藤 (1995)]]、122・135-136頁</ref>、対外的な配慮により[[民主党 (タイ)|民主党]]のクアン・アパイウォンが首相に擁立された<ref>[[#yamakawa8|『東南アジア現代史 IV』 (1983)]]、270頁</ref>。しかし、国軍司令官となったピブーンソンクラームは、翌1948年4月、陸軍の圧力によりクアンの辞任を余儀なくさせ、「ピブーンの復活」と呼ばれるピブーンソンクラームによる軍事政権(1948-1957年)が開始された<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、196-197頁</ref><ref>[[#yamakawa8|『東南アジア現代史 IV』 (1983)]]、266-270頁</ref>。一方、[[1949年]]2月のプリーディーと海軍によるクーデターは失敗し、自由タイは終焉を迎えた<ref>[[#yamakawa8|『東南アジア現代史 IV』 (1983)]]、270-271頁</ref><ref>[[#Kato|加藤 (1995)]]、121頁</ref>。 |
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1949年3月、1947年暫定憲法とほぼ同じ「永久憲法」が公布されたが<ref>[[#yamakawa8|『東南アジア現代史 IV』 (1983)]]、271頁</ref>、1951年6月に海軍によるクーデターを再び鎮圧するなど政情が不安定となるなか、1951年11月29日、自ら「銃声なきクーデター」({{仮リンク|サイレント・クーデター (タイ)|en|Silent Coup (Thailand)|label=サイレント・クーデター}}〈ラジオ・クーデター<ref>[[#Kato|加藤 (1995)]]、137-138頁</ref>〉<ref>[[#yamakawa8|『東南アジア現代史 IV』 (1983)]]、273頁</ref>)により1932年恒久憲法を復活させ、議会や政党を廃止した<ref>[[#Murashima|村嶋 (1996)]]、247-248頁</ref>。 |
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[[1957年]]9月の[[サリット・タナラット]]のクーデターにより、{{仮リンク|ポット・サーラシン|en|Pote Sarasin}}暫定政権が誕生し、12月に{{仮リンク|タノーム・キッティカチョーン|en|Thanom Kittikachorn}}政権が成立した<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、202頁</ref>。その後、[[1958年]]10月20日のクーデターを経てサリット・タナラット自身による軍事政権(1959-1963年)が誕生した。サリットは[[インフラストラクチャー]]の整備や高い経済成長を実現した<ref>[[#thai|『タイの事典』 (1993)]]、138-139頁</ref>。この時期、[[1961年]]の[[フォード・モーター|フォード]]の工場を初めとして、日本からの自動車メーカーも多く進出した<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、207頁</ref>。[[1963年]]にサリットが死去すると、タノーム・キッティカチョーンが再登板し、長期軍事政権(1963-1973年)となった<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、216頁</ref>。 |
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ピブーンソンクラーム政権下において警察長官であった{{仮リンク|パオ・シーヤーノン|en|Phao Sriyanond}}や陸軍司令官の[[サリット・タナラット]]が重用され勢力が強まると<ref>[[#Kato|加藤 (1995)]]、140-142頁</ref>、1957年9月、「兵士団」を率いたサリットのクーデターにより、[[ポット・サーラシン]]暫定政権が誕生し、12月の総選挙によりサリットの部下(第1管区軍司令官)であった[[タノーム・キッティカチョーン]](在任[[1958年]]1月-12月〈後[[1963年|1963]]-[[1973年]]〉)政権が成立した。その後、1958年10月にサリットが「革命」と称したクーデターを経て、サリット・タナラット(在任1959-1963年)自身による軍事政権が誕生した<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、202頁</ref><ref>[[#Suehiro1993|末廣 (1993)]]、22-23頁</ref>。サリットは国王の威信回復を図る「タイ式民主主義」を説くことで強権的支配体制を正当化し、一方、国の開発を掲げて[[インフラストラクチャー]]の整備や高い経済成長を実現した<ref>[[#thai|『タイの事典』 (1993)]]、138-139頁</ref><ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、203-206頁</ref>。この時期、[[1961年]]の[[フォード・モーター|フォード]]の工場を初めとして、日本からの自動車メーカーも多く進出した<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、207頁</ref>。[[1963年]]12月にサリットが死去すると、タノーム・キッティカチョーンが再登板し、陸軍大将であった補佐役の{{仮リンク|プラパート・チャールサティアン|en|Praphas Charusathien}}とともに「タノーム=プラパート体制」と称される長期軍事政権(1963-1973年)となった<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、216頁</ref><ref>[[#Suehiro1993|末廣 (1993)]]、52-53頁</ref>。 |
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東南アジアの[[冷戦]]期には、ビルマ([[ビルマ式社会主義]])、カンボジア([[クメール・ルージュ]])、ベトナム([[ベトナム民主共和国|北ベトナム]])およびラオス([[パテート・ラーオ]])のような近隣諸国の[[共産主義革命]]に脅かされた。タイは共産主義の防波堤としてアメリカの支援を受け、[[東南アジア条約機構]] (SEATO) の一翼を担った。[[ベトナム戦争]]ではアメリカ側に立ち、南ベトナムへの派兵を行い、北ベトナム爆撃([[ベトナム戦争#北爆|北爆]])のための空軍基地の開設も許可した。また、タイはアメリカ軍の補給や兵の滞在のための後方基地でもあったため、タイは経済的に発展し<ref>[[#yamakawa5|『東南アジア史 I』 (1999)]]、500-501頁</ref>、[[パッタヤー]]などのリゾート開発も進んだ<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、213-214頁</ref>。ベトナム戦争が激化するなか、[[1967年]]8月8日に[[東南アジア諸国連合]] (ASEAN) の設立がタイのバンコクにおいて宣言された<ref>[[#Kano|加納 (2012)]]、148-149頁</ref>。 |
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=== 冷戦 === |
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{{See also|{{仮リンク|ベトナム戦争時のタイ|en|Thailand in the Vietnam War}}}} |
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1949年に[[中華人民共和国]]が成立し、[[共産主義]]の拡大による東南アジアの[[冷戦]]期には、ベトナム([[ベトナム民主共和国|北ベトナム]])およびラオス([[パテート・ラーオ]])<ref name=Kakizaki_213>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、213頁</ref>、ビルマ([[ビルマ式社会主義]])、カンボジア([[クメール・ルージュ]])のような近隣諸国の[[共産主義革命]]に脅かされた。また、国内においても[[タイ共産党]]を中心として拡大する共産主義勢力に対抗し<ref name=Kakizaki_213 />、タイは共産主義の防波堤としてアメリカの支援を受け、[[東南アジア条約機構]]({{lang-en-short|Southeast Asia Treaty Organization}}、略称: SEATO)の一翼を担った<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、198-199頁</ref>。 |
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[[ベトナム戦争]]ではアメリカ側に立ち、南ベトナムへの派兵(クイーンコブラ、{{lang-en-short|[[w:Royal Thai Volunteer Regiment|Queen's Cobras]]}}、後・黒豹師団<ref>[[#Suehiro1993|末廣 (1993)]]、55頁</ref>、{{lang-en-short|[[w:Royal Thai Army Expeditionary Division|Black Panthers]]}})を行い、北ベトナム爆撃([[ベトナム戦争#北爆|北爆]])のための供与として{{仮リンク|在タイ米空軍|en|United States Air Force in Thailand}}基地の開設も許可した<ref>[[#Suehiro1993|末廣 (1993)]]、55-56頁</ref>。[[1966年]]4月には{{仮リンク|ウタパオ海軍航空基地|en|U-Tapao Royal Thai Navy Airfield|label=ウタパオ基地}}より[[ハノイ]]に向けて爆撃機[[B-52 (航空機)|B52]]が進発した<ref>[[#yamakawa5|『東南アジア史 I』 (1999)]]、500頁</ref>。タイはアメリカ軍の補給や兵の滞在のための後方基地であったため、タイは経済的に発展し<ref>[[#yamakawa5|『東南アジア史 I』 (1999)]]、500-501頁</ref>、[[パッタヤー]](パタヤ)などのリゾート開発も進んだ<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、213-214頁</ref>。ベトナム戦争が激化するなか、[[1967年]]8月8日に[[東南アジア諸国連合]]({{lang-en-short|Association of South‐East Asian Nations}}、略称: ASEAN)の設立がタイのバンコクにおいて宣言された<ref>[[#Kano|加納 (2012)]]、148-149頁</ref>。 |
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=== 民主化運動 === |
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{{See also|[[タイの歴史 (1973年 - )]]}} |
{{See also|[[タイの歴史 (1973年 - )]]}} |
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[[ファイル:OTC1406.jpg|thumb|10月14日、{{仮リンク|ラーチャダムヌーン通り|en|Ratchadamnoen Avenue}}の{{仮リンク|民主記念塔|en|Democracy Monument}}に集結した[[デモ活動|デモ]]の掲示(バンコク)]] |
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[[1973年]]10月の学生運動を契機にタノームらが退陣し、民主化が行われた<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、218-219頁</ref><ref>[[#yamakawa5|『東南アジア史 I』 (1999)]]、502-503頁</ref>。[[1974年]]に新憲法が制定されると、翌[[1975年]]に[[セーニー・プラーモート]]や[[ククリット・プラーモート]]が首相を務めた<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、220頁</ref>。セーニー・プラーモートが再登板した[[1976年]]には、学生・市民と右翼組織とが対峙して国家の危機の時期となった。僧となったタノーム・キッティカチョーンの帰国が引き金となり学生運動が暴発すると、10月6日に[[タンマサート大学虐殺事件]]が起こり、学生運動が弾圧された。そして[[反共主義]]をとる{{仮リンク|ターニン・クライウィチエン|en|Tanin Kraivixien}}(在任1976-1977年)がしばらく首相を務めた後、再び軍事政権期に入ることになった<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、222-224頁</ref><ref>[[#yamakawa5|『東南アジア史 I』 (1999)]]、504-505頁</ref>。 |
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学生らのベトナム反戦運動を契機に、タノーム=プラパート政権の[[権威主義]]体制に反対する勢力が次第に増すと、[[1973年]]10月14日、ついに[[タマサート大学]]から{{仮リンク|ラーチャダムヌーン通り|en|Ratchadamnoen Avenue}}にわたり集結した40万人余りの[[デモ活動|デモ隊]]と衝突した警察・軍の発砲により、死者77人・負傷者444人におよぶ大惨事が発生した。この「十月革命」とも呼ばれる<ref>[[#yamakawa8|『東南アジア現代史 IV』 (1983)]]、306-317頁</ref>[[血の日曜日事件 (1973年)|血の日曜日事件]](10月14日政変<ref>[[#Suehiro1993|末廣 (1993)]]、66-75頁</ref><ref>[[#yamakawa5|『東南アジア史 I』 (1999)]]、502-503頁</ref>〈10・14政変<ref>{{Cite book |和書 |author=赤木攻 |authorlink=赤木攻 |title=タイの政治文化 - 剛と柔 |year=1989 |publisher=[[勁草書房]] |isbn=4-326-35083-0 |pages=94・98-133頁}}</ref>〉)の勃発でタノームらは退陣し、国王ラーマ9世により、タマサート大学長であった[[サンヤー・タンマサック]](在任1973-1975年)が暫定政権の首相に任命された<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、218-219頁</ref>。[[1974年]]11月に新憲法が制定され、翌1975年、セーニーの後、弟である[[ククリット・プラーモート]](在任1975-1976年)が首相を務めた<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、220頁</ref>。 |
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1975年7月にアメリカ軍がタイから撤収した後<ref>[[#yamakawa8|『東南アジア現代史 IV』 (1983)]]、333-334頁</ref>、セーニーが再登板した1976年には、学生・市民と右翼組織とが対峙して民主化運動の危機となった。8月、プラパートの一時帰国に続き、僧となったタノームの帰国が引き金となり学生運動が暴発すると、10月6日に[[血の水曜日事件]](タンマサート大学虐殺事件)が起こり、警察・右翼集団({{仮リンク|ヴィレッジスカウト|en|Village Scouts}}・{{仮リンク|赤い野牛|en|Red Gaurs}}<ref>[[#yamakawa8|『東南アジア現代史 IV』 (1983)]]、337頁</ref>・{{仮リンク|ナワポン|en|Nawaphon}}<ref name=Suehiro_80>[[#Suehiro1993|末廣 (1993)]]、80頁</ref>)らにより学生運動が弾圧され<ref>[[#yamakawa8|『東南アジア現代史 IV』 (1983)]]、334-337頁</ref>、死者46人(100-<ref name=Suehiro_80 />200人以上とも<ref>[[#yamakawa5|『東南アジア史 I』 (1999)]]、504頁</ref>)・負傷者160人・逮捕者2000人余り<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、223頁</ref>)におよんだ<ref>[[#Suehiro1993|末廣 (1993)]]、78-80頁</ref>。そして、軍部がクーデターを宣言すると、[[反共主義]]をとる{{仮リンク|ターニン・クライウィチエン|en|Tanin Kraivixien}}(在任1976-[[1977年]])がしばらく首相を務めた後、再びクーデターにより軍事政権期に入ることになった<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、222-224頁</ref><ref>[[#yamakawa5|『東南アジア史 I』 (1999)]]、504-505頁</ref>。 |
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=== 調整型政治 === |
=== 調整型政治 === |
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1977年から軍最高司令官の{{仮リンク|クリエンサック・チョマナン|en|Kriangsak Chomanan}}(在任1977-[[1980年]])による政権が敷かれ、民主化の時代は終ったが、その政治は調整型の姿勢を取り民主化勢力との調和が図られた<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、224頁</ref><ref>[[#yamakawa5|『東南アジア史 I』 (1999)]]、505-506頁</ref>。一方、隣国カンボジアに誕生した[[ポル・ポト]]政権は、1977年よりベトナム国境で紛争をしかけ、1977年末にはベトナムと国交を断交した<ref>[[#Kano|加納 (2012)]]、190頁</ref>。その後、[[1978年]]末から<ref name=Kakizaki_225>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、225頁</ref>[[1979年]]初頭にベトナムがカンボジアに進軍したことから、多くのカンボジア難民がタイに逃れた<ref>{{cite book |和書 |author=ジャン・デルヴェール |translator=[[石澤良昭]]・中島節子 |title=カンボジア |year=1996 |publisher=[[白水社]] |series=[[文庫クセジュ]] |isbn=4-560-05782-6 |pages=133-134}}</ref>。同じく1979年にはベトナムからの[[ボートピープル]]も急増した<ref name=Kakizaki_225 />。 |
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次いで、陸軍司令官であった[[プレーム・ティンスーラーノン]](在任1980-[[1988年]])政権時代は「半分の民主主義」などと称されるように、サリットのタイ式民主主義と同様、国王や軍の存在を前提としつつも議会制民主主義を重視し、タイ共産党勢力とも調整を図った。これにより2回の軍部急進派によるクーデター未遂事件などがあったものの比較的平穏であり、経済成長への道筋をつけた<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、225-229頁</ref><ref>[[#yamakawa5|『東南アジア史 I』 (1999)]]、506-509頁</ref>。ただし、ラオスとの国境においては、[[1980年]]6月14日、メコン川を挟んだタイ・ラオスの国境警備隊の間にて銃撃事件が発生したことより、タイは解除に動きつつあった国境封鎖に対して、再び歯止めをかけた<ref>[[#Kamihigashi|上東 (1990)]]、163-164頁</ref>。加えて[[1984年]]5月には、ラオスの[[サイニャブーリー県]]とタイの[[ウッタラディット県]]の狭間に位置するラオス領の3つの村を[[タイ王国軍|タイ国軍]]が不法に占拠しているとして、領土権を巡る国境紛争が勃発した(三村事件)。タイは同年10月15日、国軍が撤兵したとの声明を発表し、三村事件はいったん沈静化した。その後、[[1987年]]12月に再びタイ・ラオス国境付近で両軍が衝突し、翌1988年2月まで戦闘状態に陥ったが、両国代表団により和平交渉が実施され、停戦協定が結ばれた<ref>[[#Kamihigashi|上東 (1990)]]、168-171頁</ref>。 |
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=== 文民政権 === |
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1988年7月の総選挙で第一党となった[[国民党 (タイ)|国民党]](タイ民族党)の[[チャートチャーイ・チュンハワン]](在任1988-[[1991年]])政権は、1976年の第3次セーニー内閣以来の文民政権であったが、好景気とともに政治的実業家による利権政治が蔓延した<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、230-231頁</ref><ref>[[#Suehiro1993|末廣 (1993)]]、101-107頁</ref>。一方、軍の権益を軽視したことにより<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、234頁</ref>、[[1991年]]2月23日に陸軍司令官[[スチンダー・クラープラユーン]]らが{{仮リンク|タイ軍事クーデター (1991年)|th|รัฐประหารในประเทศไทย พ.ศ. 2534|label=軍事クーデター}}を起こし<ref name=yamakawa5_511>[[#yamakawa5|『東南アジア史 I』 (1999)]]、511頁</ref><ref>[[#Suehiro1993|末廣 (1993)]]、107-111頁</ref>、チャートチャーイは失脚したが<ref>[[#thai|『タイの事典』 (1993)]]、218頁</ref>、プレーム政権以来の民主化の定着やクーデター後の対外的な配慮などにより<ref>[[#Suehiro1993|末廣 (1993)]]、111-112頁</ref>、外交官出身の[[アナン・パンヤーラチュン]](在任1991-[[1992年]])が推薦され<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、242-243頁</ref>、暫定政権として3月6日、一時文民政権が誕生した<ref>[[#Suehiro1993|末廣 (1993)]]、112-114頁</ref>。 |
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==== 暗黒の5月事件 ==== |
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[[ファイル:Black May 1992.jpg|thumb|1992年[[暗黒の5月事件]](5月流血事件)の抗議デモと軍隊]] |
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アナン政権によりクーデター後も経済は順調に推移したが、1992年4月7日、首相に就任しないと明言していたスチンダー・クラープラユーン(在任1992年4-5月)が首相に就き、新政権の成立したことに国民は反発し、4月下旬には辞任を要求する大規模運動に発展した<ref>[[#Kato|加藤 (1995)]]、288-291頁</ref>。その後、5月17日の抗議デモにおいて40万人余りにのぼる群集に対し<ref>[[#Suehiro1993|末廣 (1993)]]、114-116頁</ref>、ラーチャダムヌーン通りで衝突した軍・警察が<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、244頁</ref>、5月18日から19日にかけて発砲し<ref>[[#yamakawa5|『東南アジア史 I』 (1999)]]、511頁</ref><ref>[[#Suehiro2007|末廣 (2007)]]、76頁</ref>、3日間で死者53人・負傷者759人におよぶ[[暗黒の5月事件]](5月流血事件)が発生した<ref>[[#Suehiro1993|末廣 (1993)]]、116頁</ref>。これによりスチンダーは首相を辞任して、アナンが暫定政権の首相に復帰し、文民政権の樹立につながった<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、246-247頁</ref>。 |
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1992年9月の総選挙において、旧野党の[[民主党 (タイ)|民主党]]が躍進し、[[チュワン・リークパイ]](在任1992-[[1995年]]〈後[[1997年|1997]]-[[2001年]]〉)内閣となると、チュワンは王制を堅持する民主主義を唱えた<ref>[[#Suehiro1993|末廣 (1993)]]、212-214頁</ref>。1995年7月、国民党の[[バンハーン・シラパアーチャー]](在任1995-[[1996年]])が首相に就いた後<ref>[[#Suehiro2007|末廣 (2007)]]、85-87頁</ref>、1996年11月には[[新希望党]]の[[チャワリット・ヨンチャイユット]](在任1996-[[1997年]])が首相となり、1997年7月からの[[アジア通貨危機|通貨危機]]のなか、同年9月に新憲法が可決され<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、247-248頁</ref><ref>{{Cite book |和書 |author=西津希久男 |title=[[s:弾劾裁判所報/タイにおける裁判官弾劾制度と懲戒制度について|タイにおける裁判官弾劾制度と懲戒制度について]] |year=2006 |publisher=[[裁判官弾劾裁判所]] |series=弾劾裁判所報 |page=}}</ref>翌10月に公布された後、経済危機により11月に辞職したチャワリットに代わり、民主党のチュワンが再び就任した<ref>[[#Suehiro2007|末廣 (2007)]]、92-95頁</ref>。 |
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==== タクシン体制 ==== |
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{{see also|{{仮リンク|2001年以降のタイの歴史|en|History of Thailand since 2001}}}} |
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[[2001年]]、経済情勢がいまだ通貨危機の影響にあるなか<ref>[[#Suehiro2007|末廣 (2007)]]、159頁</ref>、新憲法のもとで総選挙が行われ、1998年に[[タイ愛国党]]を創設した中国系タイ人の[[タクシン・シナワット]](在任2001-[[2006年]])による新政権が<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、253-257頁</ref>2001年2月に誕生した<ref>[[#Suehiro2007|末廣 (2007)]]、142頁</ref>。タイが[[先進国]]となることを目指した実業家のタクシンは「国は企業であり、首相は国の[[最高経営責任者]]({{lang-en-short|Chief executive officer}}、略称: CEO)である」として、権力集中による強権的な政治運営を行ったが、一連の経済政策の成果などにより、[[2005年]]2月の総選挙においてタイ愛国党が圧勝した<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、257-262頁</ref><ref>[[#Suehiro2007|末廣 (2007)]]、144-174頁</ref>。 |
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== 政治混乱 == |
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=== 2006年クーデター === |
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{{main|タイ軍事クーデター (2006年)}} |
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{{see also|{{仮リンク|2005-2006年タイの政治危機|en|2005–2006 Thai political crisis}}}} |
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[[ファイル:Coup-d'etat-2-web-cnni.jpg|thumb|[[タイ軍事クーデター (2006年)|2006年クーデター]]の戦車部隊(9月19日)]] |
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[[2006年]]1月、首相タクシン一族の不正蓄財疑惑が発端となり、国玉慶賀(在位60年)による「黄色のシャツ」<ref>[[#Takahashi|髙橋 (2015)]]、219頁</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/thailand/jpth120/knowledge/color.html |title=日タイ修好120周年 - タイにおける曜日毎の色と仏像 |year=2014 |publisher=[[外務省]] |accessdate=2019-09-06}}</ref>を着た反タクシン運動が拡大すると、翌2月には[[民主市民連合]]({{lang-en-short|People's Alliance for Democracy}}、略称: PAD)が結成され、集会の規模は一時10万人余りとなった<ref>[[#Suehiro2007|末廣 (2007)]]、180-185頁</ref><ref>[[#Takahashi|髙橋 (2015)]]、164頁</ref>。タクシンは国会の解散と総選挙により一時首相の座を離れたが、再び暫定首相として復帰することに批判が高まり、一方、軍内でも反タクシン派が勢力を争い、事態が膠着するなか、タクシンが[[国際連合総会]]のためタイを離れていた9月19日に[[タイ軍事クーデター (2006年)|軍事クーデター]]が起こった<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、264-266頁</ref><ref>[[#Takahashi|髙橋 (2015)]]、164-170頁</ref>。クーデターより12日後の10月1日には暫定憲法が公布され<ref>[[#Takahashi|髙橋 (2015)]]、174頁</ref>、陸軍総司令官であった[[スラユット・チュラーノン]](在任2006-[[2008年]])が首相に指名された<ref>[[#Suehiro2007|末廣 (2007)]]、188頁</ref>。これ以降、タイではデモや暴動が相次ぎ、政治混乱が続くことになる。 |
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=== 2008年政治危機 === |
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{{main|{{仮リンク|2008年タイの政治危機|en|2008 Thai political crisis}}}} |
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[[ファイル:PAD rally at Sukhumvit Road 2008-10-30.jpg|thumb|[[民主市民連合]] (PAD) の抗議集会(2008年8月)]] |
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[[2007年]]12月の総選挙により、2008年2月に「タクシンの代理人」を標榜する[[サマック・スントラウェート]](在任2008年2月-9月)内閣が成立すると、2月28日、元首相タクシンが帰国した。民主市民連合 (PAD) は反タクシン運動を再開し、8月26日にはサマックの退陣を求める大規模活動を行い、[[首相府 (タイ)|首相府]]などを占拠した<ref>[[#Suehiro2007|末廣 (2007)]]、204-207頁</ref><ref>[[#Takahashi|髙橋 (2015)]]、180-186頁</ref>。これに対してタクシン支持派の[[反独裁民主戦線]]({{lang-en-short|United Front of Democracy Against Dictatorship}}、略称: UDD)らは「赤色のシャツ」を着て民主市民連合 (PAD) に対抗し<ref>[[#Suehiro2007|末廣 (2007)]]、208頁</ref>、9月2日の衝突においては政権派1人が死亡した<ref>[[#Takahashi|髙橋 (2015)]]、186頁</ref>。 |
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9月9日、憲法裁判所の判決によりサマックは失職し、次いでタクシンの妹ヤオワパー・ウォンサワットの夫であり副首相であった[[ソムチャーイ・ウォンサワット]](在任2008年9-12月)が就任したが、その所信表明演説が行われる10月7日、民主市民連合 (PAD) は前夜より国会を包囲し、議員の入構を阻止した。警察はデモ隊に[[催涙剤|催涙弾]]を撃ち、衝突は死者2人・負傷者500人余りの惨事となった。この「10月7日事件」の後、民主市民連合 (PAD) は11月25日、[[スワンナプーム国際空港]]を占拠するという過激行動を起こしたが、12月2日、憲法裁判所が与党3党([[国民の力党]]・国民党・[[中道主義党]])に解党およびソムチャーイらに失職を命じたことで終結した<ref>[[#Suehiro2007|末廣 (2007)]]、209-211頁</ref><ref>[[#Takahashi|髙橋 (2015)]]、186-189頁</ref>。 |
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=== 2009年政情不安 === |
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{{main|2009年タイの政情不安}} |
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ソムチャーイ政権の崩壊後、民主党の[[アピシット・ウェーチャチーワ]](在任2008-[[2011年]])が首相に選出されたが、今度は反独裁民主戦線 (UDD) がアピシットの所信表明を妨害し<ref>[[#Suehiro2007|末廣 (2007)]]、212-214頁</ref>、2009年初頭より反政府集会を繰り返し実施した<ref>[[#Takahashi|髙橋 (2015)]]、210頁</ref>。3月末の2万人の集会では元首相タクシンが動画で演説し、さらに4月11日にはパッタヤー(パタヤ)で開催予定であった[[東アジアサミット]]の会場に乱入した<ref>[[#Suehiro2007|末廣 (2007)]]、214頁</ref>。その後、バンコクでもデモ隊が暴動を起こしたことで軍が制圧を行い、負傷者100人以上となる事態が発生した<ref>[[#Takahashi|髙橋 (2015)]]、210-211頁</ref>。 |
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=== 2010年反政府デモ === |
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{{main|2010年タイ反政府デモ}} |
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[[ファイル:2010 09 19 red shirt protest bkk 09.JPG|thumb|5月19日の[[反独裁民主戦線]] (UDD) 弾圧に対する記念集会(2010年9月19日、バンコク)]] |
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[[2010年]]、タクシン不正蓄財の没収判決を不当として、議会の解散と総選挙の実施を求める反独裁民主戦線 (UDD) の抗議活動が3月より再び活性化すると、3月14日にバンコクの大通りを占拠し、4月3日にはデモ隊が都心の商業地区一帯を占拠する事態となり、その後さらに拡大すると、治安部隊との衝突により4月10日、日本人カメラマンを含む死者25人・負傷者800人以上の大惨事となった<ref>[[#Takahashi|髙橋 (2015)]]、211-221頁</ref>([[2010年タイ反政府デモ#暗黒の土曜日|暗黒の土曜日]])。 |
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4月22日には砲弾6発により一般市民1人が死亡・100人近くが負傷した<ref>[[#Takahashi|髙橋 (2015)]]、215-226頁</ref>。その後、5月13日には反独裁民主戦線 (UDD) 幹部1人が狙撃されたことでデモ隊との衝突が悪化したが、5月19日、治安部隊突入による抗戦の後、反独裁民主戦線 (UDD) はデモ解散を宣言した。この2か月余りにおよぶ反政府デモと治安部隊による犠牲者は、死者90人以上・負傷者2100人以上にのぼった<ref>[[#Takahashi|髙橋 (2015)]]、234-242頁</ref>。 |
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=== タイ洪水 === |
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[[プレーム・ティンスーラーノン]](在任1980-1988年)政権時代は「半分の民主主義」などと呼ばれ、比較的平穏で経済成長への道筋をつけた<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、225-226頁</ref><ref>[[#yamakawa5|『東南アジア史 I』 (1999)]]、506-507頁</ref>。ただしラオスとの国境においては、[[1980年]]6月14日、メコン川を挟んだタイ・ラオスの国境警備隊の間にて銃撃事件が発生したことより、外交努力により解除へ動きつつあったタイの国境封鎖に対して、再び歯止めがかかることとなった<ref>[[#Kamihigashi|上東 (1990)]]、133-134頁</ref>。加えて[[1984年]]5月には、ラオスの[[サイニャブーリー県]]とタイの[[ウッタラディット県]]の狭間に位置するラオス領の3つの村を[[タイ王国軍|タイ国軍]]が不法に占拠しているとして、領土権を巡る国境紛争が勃発した(三村事件)。タイは同年10月15日、国軍が撤兵したとの声明を発表し、三村事件はいったん沈静化した。その後、[[1987年]]12月に再びタイ・ラオス国境付近で両軍が衝突し、翌[[1988年]]2月まで戦闘状態に陥ったが、両国代表団により和平交渉が実施され、停戦協定が結ばれた<ref>[[#Kamihigashi|上東 (1990)]]、168-171頁</ref>。 |
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{{main|タイ洪水 (2011年)}} |
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2011年、タクシンの妹[[インラック・シナワット]](在任2011-2014年)がタイ史上初の女性の首相となると混乱は一時終息したかに見られた<ref>[[#Kano|加納 (2012)]]、226頁</ref>。しかし、8月のインラックの就任後すぐに[[タイ洪水 (2011年)|タイ洪水]]という未曽有の危機に見舞われることとなった。9月下旬、チャオプラヤー川より平野部に氾濫した流水は中部より次第に南下し、10月4日に[[アユタヤ県]]の[[サハラッタナナコーン工業団地]]、9日に[[ローヂャナ・アユタヤ工業団地|ローヂャナ工業団地]]、17日には[[パトゥムターニー県]]の[[ナワナコーン工業団地]]が浸水するなど、合計7か所の工業団地が水没した。また、洪水対策センターを置く[[ドンムアン空港]]が浸水する事態になったほか、水による感電死の多発により死者はタイ全土で800人以上を数え、洪水の被災者は26都県で200万人以上におよんだ<ref>[[#Takahashi|髙橋 (2015)]]、274-279頁</ref>。 |
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=== プレアヴィヒア紛争 === |
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[[チャートチャーイ・チュンハワン]](在任1988-1991年)政権では、軍の権益を軽視したことが災いして<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、234頁</ref>、[[1991年]]2月23日に[[スチンダー・クラープラユーン]]が{{仮リンク|タイ軍事クーデター (1991年)|th|รัฐประหารในประเทศไทย พ.ศ. 2534|label=軍事クーデター}}を起こし<ref name=yamakawa5_511>[[#yamakawa5|『東南アジア史 I』 (1999)]]、511頁</ref>、チャートチャーイが失脚すると<ref>[[#thai|『タイの事典』 (1993)]]、218頁</ref>、[[アナン・パンヤーラチュン]](在任1991-1992年)が推されて一時文民政権が誕生した<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、242-243頁</ref>。 |
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{{main|タイとカンボジアの国境紛争}} |
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{{see also|プレア・ビヘア寺院事件}} |
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[[ファイル:Preah Vihear Temple.png|thumb|180px|[[プレアヴィヒア寺院]]({{lang-en-short|Preah Vihear Temple}})の位置]] |
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タイとカンボジアの国境地域に位置する[[プレアヴィヒア寺院]](プラーサート・プラウィハーン)遺跡が2008年7月、カンボジアにより[[国際連合教育科学文化機関]](ユネスコ、UNESCO)の[[世界遺産]]に登録されたことから、この寺院遺跡のある高台一帯を巡るタイとカンボジアの領域紛争が再燃した。両国軍が国境地域で対峙し、2008年10月より散発した戦闘による死傷者は数十人におよんだ<ref name=Yamashita2010w>{{Cite journal |和書 |author=山下明博 |date=2011-02-28 |title=世界遺産をめぐる国境紛争 : プレアビヒア寺院遺跡 |journal=安田女子大学紀要 |issue=39 |pages=243-253 |publisher=[[安田女子大学]] |issn=02896494 |naid=110008103456 |url=http://id.nii.ac.jp/1226/00000242/ |accessdate=2019-09-08}}</ref>。2009年6月に首相アピシットがプレアヴィヒア寺院の世界遺産登録の見直しを求めたほか<ref name=Yamashita2011>{{Cite journal |和書 |author=山下明博 |year=2011 |title=世界遺産を巡る紛争における国際司法裁判所の役割 |journal=広島平和科学 |volume=33 |pages=1-26 |publisher=[[広島大学]]平和科学研究センター |issn=0386-3565 |url=https://doi.org/10.15027/33606|doi=10.15027/33606 |accessdate=2019-09-08}}</ref>、2010年にはさらに紛争地域が拡大した<ref name=Yamashita2010w />。この2010年に後の首相となる[[プラユット・チャンオチャ]]が陸軍司令官に就任している<ref>[[#Iwasa|岩佐 (2018)]]、149-150頁</ref>。2011年7月、[[国際司法裁判所]]({{lang-en-short|International Court of Justice}}、略称: ICJ)が国境地域からの撤退を両国に命じ、インラックが首相に就任した後、同年12月、両国は同時撤退に合意した<ref name=Yamashita2011 />。その後、[[2013年]]11月に国際司法裁判所が[[1962年]]に次ぎ、プレアヴィヒア寺院一帯をカンボジア領としたことにより、一応の治まりを見せた<ref>{{cite news |和書 |title=世界遺産プレアビヒア一帯はカンボジア領、国際司法裁判所 |date=2013-11-11 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3003110 |agency=AFP |publisher=AFPBB News |accessdate=2019-09-08}}</ref><ref>{{Cite news |和書 |title=今なお続くタイ・カンボジア国境封鎖 領土問題解決後も両軍にらみ合い |url=https://web.archive.org/web/20210415143636/https://www.sankeibiz.jp/macro/news/180522/mcb1805220500003-n1.htm |work=SankeiBiz |date=2018-05-22 |publisher=産経デジタル |accessdate=2019-09-08}}</ref>。 |
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=== 2013年反政府デモ === |
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{{main|2013年タイ反政府デモ}} |
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[[1992年]]3月に行なわれた総選挙の結果、スチンダー・クラープラユーン(在任1992年4-5月)が首相に指名され、4月に就任したが、民主化を望んでいた国民は反発し、5月17日の抗議デモにより衝突した([[暗黒の5月事件]])。スチンダーは首相を辞任して、アナンが暫定政権の首相に復帰し、文民政権の樹立につながった<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、243-247頁</ref>。1992年の民主選挙以来、タイは政府が憲法上の手続きを踏んで機能する民主主義国家となった<ref name=yamakawa5_511 />。 |
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2013年11月、タクシンの恩赦を可能とする[[タイ貢献党]]議員による法案の強行採決が図られると、民主党は猛反発し、反タクシン派以外も多くがこれに抗議して[[2013年タイ反政府デモ|反政府デモ]]は勢いを強めた<ref>[[#Takahashi|髙橋 (2015)]]、296-302頁</ref>。この世論の反発により法案は否決されたが、抗議デモを開催し、アピシット政権では副首相であった[[ステープ・トゥアクスパン]]は、インラック政権の打倒およびタクシン体制の根絶を訴える大規模デモの続行を宣言し<ref>[[#Takahashi|髙橋 (2015)]]、303-304頁</ref><ref>{{Cite news |和書 |title=反タクシン派のデモ激化、財務省に突入 タイ |date=2013-11-26 |url=https://www.cnn.co.jp/world/35040463.html |agency=[[CNN]] |publisher=CNN.co.jp |accessdate=2017-10-28}}</ref>、その後の財務省の占拠をはじめ政府機能に向けて過激なデモを強行した。12月9日、インラックは即時解散・総選挙を発表したがデモは止まらず、25万人が首相府周辺に集結した。12月26日には総選挙の妨害を図るデモ隊との衝突により、死者2人・負傷者150人余りとなった。翌[[2014年]]1月13日には、「バンコク封鎖」({{lang-en-short|Bankok Shutdown}})と称して、デモ隊が都心部の主要7か所の交差点を占拠する事態となった<ref>[[#Takahashi|髙橋 (2015)]]、304-308・316-321頁</ref>。2月2日に総選挙が強行されたが、各地のデモ隊の妨害などにより、それは有名無実なものであった。憲法裁判所は3月21日、この総選挙の無効を決定した<ref>[[#Takahashi|髙橋 (2015)]]、326-330・332-334頁</ref>。 |
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=== 2014年クーデター === |
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{{main|タイ軍事クーデター (2014年)}} |
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{{main|{{仮リンク|タイの政治危機 (2008年 - 2010年)|en|2008–2010 Thai political crisis}}|{{仮リンク|タイの政治危機 (2013年 - 2014年)|en|2008–2010 Thai political crisis}}|[[タイ軍事クーデター (2014年)]]}} |
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2014年5月7日、インラックは政府高官人事の違憲判決により失職し、[[ニワットタムロン・ブンソンパイサン]]が首相代行に就任したが<ref>[[#Takahashi|髙橋 (2015)]]、334-338頁</ref><ref>{{Cite news |和書 |title=タイのインラック首相が失職、違憲判決で |date=2014-05-07 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3014319 |agency=[[フランス通信社|AFP]] |publisher=AFPBB News |accessdate=2017-10-28}}</ref>、5月22日には国軍が再び立憲革命以降19回目の[[タイ軍事クーデター (2014年)|クーデター]]を起こした<ref>[[#Takahashi|髙橋 (2015)]]、341頁</ref><ref>{{Cite news |和書 |title=タイ軍がクーデター、夜間外出禁止令も |date=2014-05-22 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3015679 |agency=AFP |publisher=AFPBB News |accessdate=2017-10-28}}</ref>。軍が全権を掌握し暫定政権を立てた後、8月には最高権力者である陸軍司令官プラユット・チャンオチャ(在任2014年-)が首相に就いた<ref>[[#Takahashi|髙橋 (2015)]]、385-387・390-391頁</ref>。 |
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[[2016年]]10月、王ラーマ9世が死去し<ref>{{Cite news |title=タイのプミポン国王死去 在位70年、88歳 |date=2016-10-13 |url= |
[[2016年]]10月13日、王ラーマ9世(在位70年)が88歳で死去し<ref>[[#Iwasa|岩佐 (2018)]]、168頁</ref><ref>{{Cite news |和書 ||title=タイのプミポン国王死去 在位70年、88歳 |date=2016-10-13 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3104301 |agency=AFP |publisher=AFPBB News |accessdate=2017-10-28}}</ref>、その後、64歳のワチラーロンコーンが[[ラーマ10世]](在位2016年-)として新国王に即位した<ref>{{Cite news |和書 |title=タイのワチラロンコン皇太子、新国王に即位 |newspaper=NEWS JAPAN |date=2016-12-02 |url=http://www.bbc.com/japanese/38178583 |agency=[[英国放送協会|BBC]] |accessdate=2017-10-28}}</ref>。[[2017年]]4月に新憲法が公布されると<ref>[[#Iwasa|岩佐 (2018)]]、188頁</ref><ref>{{Cite news |和書 |title=タイ新憲法ようやく施行 修正経て国王の権限強く |url=https://www.nikkei.com/article/DGXLASGM06H8O_W7A400C1FF1000/|newspaper=[[日本経済新聞]] |date=2017-04-07 |publisher=[[日本経済新聞社]] |accessdate=2019-09-01}}</ref>、[[2019年]]3月の[[2019年タイ総選挙|総選挙]]を経て、プラユットが継続して首相に就き<ref>{{Cite news |和書 |title=タイ新政権、7月中旬にも発足 軍政の影消さず民政移管へ |url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO46965880U9A700C1FF2000/ |newspaper=日本経済新聞 |date=2017-07-04 |publisher=日本経済新聞社 |accessdate=2019-09-01}}</ref>、7月には新政権が発足した<ref>{{Cite news |和書 |title=タイ新政権発足 5年ぶり民政復帰 異例の19党連立 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO47389700W9A710C1FF8000/?n_cid=SPTMG002 |newspaper=日本経済新聞 |date=2017-07-16 |publisher=日本経済新聞社 |accessdate=2019-09-01}}</ref>。 |
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== 脚注 == |
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=== 注釈 === |
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=== 出典 === |
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* {{Cite book |和書 |author1=坂井隆 |author2=西村正雄 |author3=新田栄治 |title=東南アジアの考古学 |year=1998 |publisher=[[同成社]] |series=世界の考古学⑧ |isbn=4-88621-158-5 |ref=dohsei}} |
* {{Cite book |和書 |author1=坂井隆 |author2=西村正雄 |author3=新田栄治 |title=東南アジアの考古学 |year=1998 |publisher=[[同成社]] |series=世界の考古学⑧ |isbn=4-88621-158-5 |ref=dohsei}} |
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* {{Cite book |和書 |author=柿崎一郎 |title=物語 タイの歴史 |year=2007 |publisher=[[中央公論新社]] |series=[[中公新書]] |isbn=978-4-12-101913-4 |ref=Kakizaki}} |
* {{Cite book |和書 |author=柿崎一郎 |title=物語 タイの歴史 |year=2007 |publisher=[[中央公論新社]] |series=[[中公新書]] |isbn=978-4-12-101913-4 |ref=Kakizaki}} |
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* {{Cite book |和書 |editor=中央大学政策文化総合研究所監修 |translator=柿崎千代 |title=タイの歴史 - タイ高校社会科教科書 |year=2002 |publisher=明石書店 |series=世界の教科書シリーズ |isbn=978-4-7503-1555-3 |ref=textbook}} |
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* {{cite book |和書 |author=トンチャイ・ウィニッチャクン |authorlink=トンチャイ・ウィニッチャクーン |translator=[[石井米雄]] |title=地図がつくったタイ - 国民国家誕生の歴史 |publisher=[[明石書店]] |series=明石ライブラリー |origyear=1994 |year=2003 |isbn=4-7503-1819-1 |ref=Winichakul}} |
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* 村嶋英治 『ピブーン : 独立タイ王国の立憲革命』岩波書店、1996年。ISBN 4-00-004864-3 |
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* {{cite book |和書 |author=村嶋英治 |authorlink=村嶋英治 |title=ピブーン - 独立タイ王国の立憲革命 |publisher=[[岩波書店]] |series=現代アジアの肖像 9 |year=1996 |isbn=4-00-004864-3 |ref=Murashima}} |
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* {{cite book |和書 |author=吉川利治 |title=同盟国タイと駐屯日本軍 - 「大東亜戦争」期の知られざる国際関係 |publisher=[[雄山閣]] |year=2010 |isbn=978-4-639-02160-5 |ref=Yoshikawa}} |
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* {{ |
* {{cite book |和書 |author=加藤和英 |title=タイ現代政治史 - 国王を元首とする民主主義 |publisher=[[弘文堂]] |year=1995 |isbn=4-335-46016-3 |ref=Kato}} |
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* {{Cite book |和書 | |
* {{Cite book |和書 |author=末廣昭 |authorlink=末廣昭 |title=タイ 開発と民主主義 |year=1993 |publisher=岩波書店 |series=[[岩波新書]] |isbn=4-00-430298-6 |ref=Suehiro1993}} |
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* {{Cite book |和書 | |
* {{Cite book |和書 |author=末廣昭 |title=タイ 中進国の模索 |year=2009 |publisher=岩波書店 |series=岩波新書 |isbn=978-4-00-431201-7 |ref=Suehiro2007}} |
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* {{ |
* {{cite book |和書 |author=髙橋徹 |title=タイ 混迷からの脱出 - 繰り返すクーデター・迫る中進国の罠 |publisher=[[日本経済新聞出版社]] |year=2015 |isbn=978-4-532-35654-5 |ref=Takahashi}} |
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* {{Cite book |和書 |author=岩佐淳士 |title=王室と不敬罪 - プミポン国王とタイの混迷 |year=2018 |publisher=[[文藝春秋]] |series=[[文春新書]] |isbn=978-4-16-661180-5 |ref=Iwasa}} |
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* {{Cite book |和書 |editor=石井米雄、吉川利治 |year=1993 |title=タイの事典 |publisher=[[同朋舎|同朋舎出版]] |series=東南アジアを知るシリーズ |isbn=4-8104-0853-1 |ref=thai}} |
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* {{Cite book |和書 |editor=桃木至朗(代表)|editor-link=桃木至朗 |title=新版 東南アジアを知る事典 |year=2008 |publisher=[[平凡社]] |isbn=978-4-582-12638-9 |ref=heibonsha}} |
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* {{Cite book |和書 |editor=大林太良|editor-link=大林太良 |title=東南アジアの民族と歴史 |year=1984 |publisher=[[山川出版社]] |series=民族の世界史 6 |isbn=4-634-44060-1 |ref=yamakawa6}} |
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* {{Cite book |和書 |author1=石澤良昭 |authorlink1=石澤良昭 |author2=生田滋 |authorlink2=生田滋 |title=東南アジアの伝統と発展 |year=1996 |publisher=中央公論社 |series=世界の歴史 13 |isbn=4-12-403413-X |ref=chuokoron}} |
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* {{Cite book |和書 |editor1=石井米雄|editor2=桜井由躬雄|editor2-link=桜井由躬雄 |title=東南アジア史 I 大陸部 |year=1999 |publisher=山川出版社 |series=新版 世界各国史 5 |isbn=4-634-41350-7 |ref=yamakawa5}} |
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* {{Cite book |和書 |title=岩波講座 東南アジア史 1 原史東南アジア世界 |year=2001 |publisher=岩波書店 |isbn=4-00-011061-6 |ref=iwanami1}} |
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* {{Cite book |和書 |title=岩波講座 東南アジア史 2 東南アジア古代国家の成立と展開 |year=2001 |publisher=岩波書店 |isbn=4-00-011062-4 |ref=iwanami2}} |
* {{Cite book |和書 |title=岩波講座 東南アジア史 2 東南アジア古代国家の成立と展開 |year=2001 |publisher=岩波書店 |isbn=4-00-011062-4 |ref=iwanami2}} |
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* {{Cite book |和書 |title=岩波講座 東南アジア史 3 東南アジア近世の成立 |year=2001 |publisher=岩波書店 |isbn=4-00-011063-2 |ref=iwanami3}} |
* {{Cite book |和書 |title=岩波講座 東南アジア史 3 東南アジア近世の成立 |year=2001 |publisher=岩波書店 |isbn=4-00-011063-2 |ref=iwanami3}} |
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* {{Cite book |和書 |title=岩波講座 東南アジア史 4 東南アジア近世国家群の展開 |year=2001 |publisher=岩波書店 |isbn=4-00-011064-0 |ref=iwanami4}} |
* {{Cite book |和書 |title=岩波講座 東南アジア史 4 東南アジア近世国家群の展開 |year=2001 |publisher=岩波書店 |isbn=4-00-011064-0 |ref=iwanami4}} |
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* {{Cite book |和書 |title=岩波講座 東南アジア史 5 東南アジア世界の再編 |year=2001 |publisher=岩波書店 |isbn=4-00-011065-9 |ref=iwanami5}} |
* {{Cite book |和書 |title=岩波講座 東南アジア史 5 東南アジア世界の再編 |year=2001 |publisher=岩波書店 |isbn=4-00-011065-9 |ref=iwanami5}} |
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* {{Cite book |和書 | |
* {{Cite book |和書 |author=加納啓良 |authorlink=加納啓良 |title=東大講義 東南アジア近現代史 |year=2012 |publisher=[[めこん]] |isbn=978-4-8396-0261-1 |ref=Kano}} |
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* {{Cite book |和書 | |
* {{Cite book |和書 |author1=荻原弘明 |author2=和田久徳 |author3=生田滋 |title=東南アジア現代史 IV - ビルマ・タイ |year=1983 |publisher=山川出版社 |series=世界現代史 8 |isbn=4-634-42080-5 |ref=yamakawa8}} |
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* {{Cite book |和書 |author= |
* {{Cite book |和書 |author=大野徹 |authorlink=大野徹 |title=謎の仏教王国パガン - 碑文の秘めるビルマ千年史 |year=2002 |publisher=[[NHK出版|日本放送出版協会]] |series=[[NHKブックス]] |isbn=4-14-001953-0 |ref=Ohno}} |
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* {{Cite book |和書 |author=根本敬 |authorlink=根本敬 (ビルマ研究家) |title=物語 ビルマの歴史 |year=2014 |publisher=中央公論新社 |series=中公新書 |isbn=978-4-12-102249-3 |ref=Nemoto}} |
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* {{Cite book |和書 |author=白石凌海 |authorlink=白石凌海 |title=仏陀 南伝の旅 |year=2010 |publisher=[[講談社]] |series=講談社選書メチエ |isbn=978-4-06-258489-0 |ref=Shiraishi}} |
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* {{Cite book |和書 |author=鈴木峻 |title=扶南・真臘・チャンパの歴史 |year=2016 |publisher=めこん |isbn=978-4-8396-0302-1 |ref=Suzuki}} |
* {{Cite book |和書 |author=鈴木峻 |title=扶南・真臘・チャンパの歴史 |year=2016 |publisher=めこん |isbn=978-4-8396-0302-1 |ref=Suzuki}} |
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* {{Cite book |和書 |author=北川香子 |title=カンボジア史再考 |year=2006 |publisher=連合出版 |isbn=4-89772-210-1 |ref=Kitagawa}} |
* {{Cite book |和書 |author=北川香子 |title=カンボジア史再考 |year=2006 |publisher=連合出版 |isbn=4-89772-210-1 |ref=Kitagawa}} |
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* {{cite book |和書 |author=上東輝夫 |authorlink=上東輝夫 |title=ラオスの歴史 |publisher=同文館出版 |year=1990 |isbn=4-495-85541-7 |ref=Kamihigashi}} |
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* {{Cite book |和書 |author=[[根本敬 (ビルマ研究家)|根本敬]] |title=物語 ビルマの歴史 |year=2014 |publisher=中央公論新社 |series=中公新書 |isbn=978-4-12-102249-3 |ref=Nemoto}} |
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* {{cite book |和書 |author=[[上東輝夫]] |title=ラオスの歴史 |publisher=同文館出版 |year=1990 |isbn=4-495-85541-7 |ref=Kamihigashi}} |
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== 関連項目 == |
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* [[タイ王国]] |
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* [[タイ君主一覧]] |
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* [[タイの首相]] |
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* [[タイにおける政変一覧]] |
* [[タイにおける政変一覧]] |
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* [[タイ外交史]] |
* [[タイ外交史]] |
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* [[港市国家]] |
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== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
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* {{citation |title=歴史 |url=https://www.thailandtravel.or.jp/about/history/ |work=amazing Thailand |publisher=[[タイ国政府観光庁]]}} |
* {{citation |title=歴史 |url=https://www.thailandtravel.or.jp/about/history/ |work=amazing Thailand |publisher=[[タイ国政府観光庁]]}} |
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* [https://docsbay.net/a-history-of-thailand A History of Thailand] by [[Cambridge University Press]] (英文) |
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タイの歴史 |
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先史時代 |
古代~中世 (BC3-1238) |
スコータイ王朝 (1238-1448) |
アユタヤ王朝 (1351-1767) |
トンブリー王朝 (1768-1782) |
チャクリー王朝 (1782- ) |
地方の歴史 |
ハリプンチャイ王国 |
ラーンナー王朝 |
タイの歴史(タイのれきし)は、タイ王国における歴史を時代ごとに概説する。
先史時代
[編集]東南アジアにおける人類(ホモ・エレクトス)の居住は、50万年以上遡り[1]、タイ北部のラムパーン県からは100万年-50万年前とされる痕跡が認められている[2]。現生のヒトがタイの地域に住み始めたのは旧石器時代からである[3]。タイ各地に点在した当時の人々は、部族単位で移動しながら洞窟や岩陰などに住み、狩猟・採集・漁労により生活していた[4]。中石器時代となる約1万年前には世界的な気候の温暖化が進み、海面の上昇により地形は大きく変化したが、東南アジアは位置的環境より動植物相はあまり変化しなかったことから、打製石器を用いた生活形態が長く続いた[5]。これらの石器を使用した1万1000年前から7500年前の年代とされるホアビニアンによる中石器文化(ホビアン文化)が東南アジア各地に広く認められ、タイにも分布が見られる[6][7]。
東北部
[編集]タイ東北部となるイーサーン地方のウボンラーチャターニー県の東端に位置するパーテームには、4000-3000年前に描かれた多くの岩絵が存在する[8]。また、ウドーンターニー県のプープラバートの岩絵は約6000年前のものともいわれる[9]。このほかノーンブワラムプー県の岩絵などは、中国南部の花山の岩絵[注 1]などとの類似性が指摘される[10]。なお、岩絵はタイ東北部のほか、北部、中部、南部にも認められる[10]。
新石器時代になると様相が大きく変化し、稲作が認められる新石器文化が出現する[11]。社会単位は、石器時代のうちに部族から集落に進展し[4]、社会的な組織構成が進んだ[12]。青銅器の時代になると、分散した村落(ムーバーン)から、よりまとまった「ムアン」[注 2](くに[13])へと発展していった[14]。北部イーサーン地方のノンノクタやバーンチエン遺跡などの研究によると、紀元前2千年紀には[注 3]、タイに初期の青銅器文化を持つ集落があったといわれる[15][16]。この発展に伴い水稲の耕作が認められ[注 4][17]、続く紀元前3世紀までにはタイ東北部で製鉄が開始されたと考えられる[18]。青銅器やそれに続く鉄器においては、タイのほか中国南部やベトナム北部に同様の文化が拡散していた[19]。
民族
[編集]東南アジアのネグリトであるマニ族がタイ南部の先住民としてマレー半島に住み、かつてはアンダマン諸語のような言語を話したとされるが、現在はオーストロアジア語族に分類されるモン・クメール語派のケンシウ語(マニ語)を話すことから、後に新しい言語を受容したと考えられている[20]。次いで、東南アジアのモン・クメール語派の言語をもつモン族およびクメール族が到達していたとされる[21]。
紀元前2世紀頃より、中国からインド、地中海を結ぶ東西交易におけるシルクロードの「海の道」とも呼ばれる海路が注目されるようになると、遠回りのマラッカ海峡を航行せず、マレー半島を横断するルートが併用されていった[22]。そのマレー半島の付け根を横断する地点に存在したと漢文史料に記された頓遜(典孫)はモン語系民族であったと考えられる[23][24]。また、3-5世紀頃になると、タイ南部には、盤盤、狼牙脩(ランカスカ)といった交易勢力も存在したことが記されており、狼牙脩は後のパタニ(パッターニー)であるとされる[25][26]。
現在のタイに居住し、一般にタイ人と呼ばれる主たる民族であるタイ族は、タイ・カダイ語族に属する民族であり[27]、中国の揚子江以南の地域がその起源であると考えられる[28]。やがて黄河流域より勢力を拡大した漢民族の圧迫を受けるようになると、およそ6-7世紀に中国南部から主に南下もしくは西方に向かって移住し始めたとされ[29]、11-12世紀になるとメコン川に沿って大ムアンが成立していった[30]。
古代国家
[編集]シュリーヴィジャヤ
[編集]タイ南部は、7世紀頃に成立したシュリーヴィジャヤ(室利仏逝)の影響下にあった[31]。シュリーヴィジャヤは、交易の要衝であるマラッカ海峡周辺の多くの港市国家を支配し[32]、タイ南部のチャイヤーは、海上交易を支配する10世紀からのシュリーヴィジャヤ(「三仏斉」[33])の都の1つであったとされる[34]。また、ナコーンシータンマラート(リゴール)の775年の碑文により、8世紀後半にはジャワに興ったシャイレーンドラ朝に属するようになったことが知られる[35]。
ドヴァーラヴァティー
[編集]6世紀末より[36][37]11世紀頃まで、タイ中部のナコーンパトムを中心とした広範囲なモン族の連合国家であるドヴァーラヴァティーが繁栄した[38]。
タイ仏教史においては、紀元前3世紀頃、アショーカ王が諸国に遣わした伝道者による上座部仏教が、ドヴァーラヴァティーの都ナコーンパトムで信仰され始めたといわれる。それは伝道の地名にあるインド古語(サンスクリット)のスヴァルナブーミ(suvarṇabhūmi、タイ語: スワンナプーム、suphannaphum、「黄金の地」の意)を、中国ではドヴァーラヴァティー[注 5]と呼称したとして、同一の地であるという説による[39]。ナコーンパトムは「最初の町」の意(ナコーン〈Nakorn〉「町」、パトム〈Pathom〉「最初」)で、当地にはアショーカ王時代の創建といわれるタイ最古の仏塔(チェーディー)を内包するプラ・パトムチェーディーも存在するが[40]、考古学的証拠ならびに仏教年代記によると、プラ・パトムチェーディーの当初の建設は4-6世紀であったと考えられる[41]。
ラヴォ王国
[編集]モン族の連合国家ドヴァーラヴァティーの時代には、ラヴォ(ロッブリー〈羅斛〉)はすでに中心地の1つであったが[42][43]、9世紀頃よりクメール王朝の影響を受けるようになると、クメールの拠点としてドヴァーラヴァティーより独立したラヴォ王国が建国された[44]。
11世紀初頭に[43]クメールの王スーリヤヴァルマン1世(在位1002-1050年)が即位すると、チャオプラヤー川流域まで領土を拡大したクメールに領有された[45]。その後、1113年に即位したスーリヤヴァルマン2世(在位1113-1150年)が死去すると、ラヴォはクメールから離反する動きを見せ、1155年に中国に使節を送っているが[46]、クメールの支配は13世紀まで続き[43]、ジャヤーヴァルマン7世(在位1181-1218年/1220年)の時代のものとされるクメール建築様式の寺院プラーン・サームヨートの存在が知られる[47]。
13世紀中頃、タイ族によるスコータイ王朝の成立により[48]、クメールのラヴォの支配は衰退した[44]。13世紀末にはタイ族の勢力が強まり、1289年より1299年まで元に使節を送るなど独立に動き、14世紀のアユタヤ王朝成立の頃には、同じくかつてドヴァーラヴァティーの中心地の1つであったスパンブリーとともに重要な位置を占めるようになっていた[43]。
ハリプンチャイ王国
[編集]伝説によれば、7世紀、ドヴァーラヴァティーのもとにあったラヴォの王が、王女チャーマテーウィー(チャマデヴィ、パーリ語: Cāmadevī)をハリプンチャイ(ラムプーン)に送ったことにより王国が成立したといわれる[42]。しかし、11世紀以前の史料はなく[49]、ハリプンチャイの繁栄は11-13世紀であったとされる[42]。12世紀にはクメールのスーリヤヴァルマン2世が進出し[46]、その後、1292年、タイ族のラーンナー王国の侵入により占領され壊滅した[50]。
真臘(クメール)
[編集]クメール族の真臘は、同じくクメール族の扶南国の属国であったが、5世紀中頃にはシーテープなどを支配下に置き[51]、7世紀初頭、王マヘンドラヴァルマン(チトラセナ)[52]もしくは次のイシャーナヴァルマン1世の時代に扶南を占領した[53]。706年頃、陸真臘と水真臘に分裂したと中国の史料にあり[54][55]、陸真臘はサンブヴァルマン (Shambhuvarman) が建国し[56]、沿海部はラージェンドラヴァルマン1世が支配したともいわれる[57]。8世紀中頃から水真臘はジャワのシャイレーンドラ朝に侵攻されていたが[58]、9世紀初頭、クメール王朝として独立した[59]。クメール王朝はその後、タイ東北部(イーサーン)よりタイ中部、マレー半島北部へと支配を拡大していった[60]。
ラーンナー王国
[編集]メコン支流のコック川流域のタイ北部には、タイ・ユアン族 (Tai Yuan) を中心に[61]、タイ族のムアンの連合としてヨーノック (Yonok) とも呼ばれる国家的形態の1つが認められ、グンヤーン(チエンセーン)辺りを中心としたその成立は11世紀から[62]12世紀頃であったと考えられる[63]。
グンヤーンにおいて、タイ・ルー族 (Tai Lue) の君主マンラーイが[61]1259年に即位すると、支配域を広げるとともに南に侵出し、1262年に首都をグンヤーンからチエンラーイに、1269年にはファーンに移した。1281年には、7年間進入を企てていたモン族のハリプンチャイ王国(ラムプーン)を攻撃し、壊滅させた[64]。1296年、マンラーイは新しく建設したチエンマイに遷都し[65]、ラーンナー王国(チエンマイ王国)を建国した[62]。
1338年、ラーンナーの第4代王カムフー(在位1334-1336年〈1338-1345年〉[66])は、タイ族のパヤオ王国を併合した[61]。その後、第9代王ティローカラート(在位1441〈1442〉-1487年〉[66])の時代には、1443年にプレーに侵攻してプレー王国を併合し[67]、さらに1448年頃にはナーンのカーオ王国を併合するなど著しく勢力が拡大した[68]。また、アユタヤ・ラーンナー戦争では、1450年から1462年にティローカラートは数度にわたり南進し、アユタヤ王朝と衝突した[69]。
ラーンナーの繁栄は、第11代王ケーオ(在位1495-1525年)まで続いたが、治世末期の1523年、チェントゥンに出兵し敗北したことで、多くの権力者や兵士らを失った。さらに1524年には水害もあり、人材と人口の減少が国内を大きく疲弊させたことが一因となり、ラーンナーは衰退の一途をたどった[70]。王位の混乱のうちに、1546年にはラーンサーン王朝からセーターティラートを招いてラーンナーの国王に据えたが、2年後、セーターティラートが王位を継ぐためラーンサーンに戻ると、さらに混乱は増した。1551年、ムアンナーイよりメクティ(メーク、在位1551-1564年)が招かれ王位に就いたが、1558年、ビルマの侵攻によりラーンナーはタウングー王朝の属国となった[71]。
スコータイ王朝
[編集]クメールの王ジャヤーヴァルマン7世が死去した後、クメール王朝が衰退し始めると、1240年頃[72][73]、タイ族の指導者バーンクラーンハーオ(シーインタラーティット、在位1240-1270年頃)がパームアンとともに、クメールの支配するラヴォ王国より独立を宣言し、スコータイのクメール領主を追いやりスコータイ王国を建国したとされる[注 6]。その後、スコータイには数多くの仏教寺院が建立されたが、そこにはスコータイ王朝以前のジャヤーヴァルマン7世の時代に築かれたクメール建築様式のワット・プラパーイルワンも残存する[74]。
スコータイ王朝の初代王シーインタラーティットの子である第3代王ラームカムヘーン(在位1279-1298年頃)の時代に、支配する領域は大きく拡大していった[75][76]。スコータイ王国はラーンナー王国とも同盟を結んでいた[77]。ラームカムヘーンは、1292年のタイ語最古のラームカムヘーン大王碑文「スコータイ第一刻文」で知られ、タイ文字を考案したとされる[78]。また、上座部仏教を国教として推進した[79]。
しかし、ラームカムヘーンが死去すると、副都シーサッチャナーライを統治していた長子ルータイ(在位1298-1346年頃)が王位に就いたが、各地で離反が相次ぎ、スコータイ王朝は衰退していった[80]。その後、第6代のリタイ(在位1347-1368年頃)が即位して周辺を治めた後、都をスコータイから平定した属領ピッサヌロークに移した[81]。
この時代に成立したアユタヤ王朝の圧力が次第に増し、さらにその攻勢が強まると、1378年、第7代王サイルータイ(マハータンマラーチャー2世、在位1368-1398年頃)の時代に属国となった[82]。その後、1438年に第9代王マハータンマラーチャー4世(在位1419-1438年)が死去し、スコータイの王位継承者が絶えたことで、スコータイ王朝は実質的にアユタヤ王朝に吸収された[80]。
アユタヤ王朝
[編集]前期
[編集]スコータイ王朝の衰退の後、1351年[83]、ウートーン(ラーマーティボーディー1世)がチャオプラヤー川と支流のロッブリー川およびパーサック川が合流する要衝に、アユタヤ王朝前期の「アヨータヤー」の都を開いたとされる[84]。この時代、ウートーンの出身地ともいわれるスパンブリーや[注 7][85][86]ロッブリーの存在が大きかったが、ウートーンがラーマーティボーディー1世(在位1351-1369年[87])として即位すると双方を連携させ、スパンブリーを義兄(王妃の兄)パグワに、ロッブリーを王子ラーメースワンに統治させた[84][88][89]。
1369年にラーマーティボーディー1世が死去し、ラーメースワン(在位1369-1370年〈後1388-1395年〉)が即位したが、翌1370年、王位を迫ったスパンブリーのパグワが、ボーロマラーチャー1世[90](在位1370-1388年)として王の座に就いた[87]。しかし、ボーロマラーチャーの死後、王子トーンチャン(在位1388年)が即位したのを機に、ロッブリーより攻勢に出たラーメースワン(在位1388-1395年)が再び王位に就いた。その後、ラーメースワンが死去すると、王子ラーマラーチャー(在位1395-1409年)が王位を継承したが、1409年に王位を追われ、それ以降は1569年、ビルマに占領されるまでスパンブリー王家の時代が続いた[91]。
1438年、スコータイ王朝の王位継承者が途絶えたことで、スコータイ王家の血を引く[注 8]第8代王トライローカナート(在位1448-1488年)が王子ラーメースワンの時代にスコータイの王都ピッサヌロークを統治し[80]、1431年にクメール王朝を攻略してアンコールを崩壊させた第7代王サームプラヤー(ボーロマラーチャー2世、在位1424-1448年)[92][93]が死去すると、17歳で王位を継承した。トライローカナート(「三界の王」の意)の治世はその後40年間続き、サクディナー制(位階田)を定めるなど支配機構を整備した[94][95]。
一方、ビルマのタウングーを拠点とするタウングー王朝の領土拡大に伴い、1540年、タウングーの王タビンシュエーティー(在位1531-1550年)が、この時代に最も多く渡来していたポルトガル人の鉄砲隊700人の傭兵を雇用し、軍事力を高めていた[96]。第一次緬泰戦争(1548-1549年)では、タウングー王朝の将バインナウンがアユタヤに侵攻したが、アユタヤの第16代王チャクラパット(在位1548-1569年)も防衛にポルトガル人の傭兵を雇用して侵攻を阻んでいる[97]。この戦いでは、1549年に王チャクラパット(「転輪聖王の意[98])が危機に陥った際、王妃シースリヨータイが身を挺して命を助けたといわれる[99]。
1551年、タウングーの王となったバインナウン(在位1551-1581年)は、現在のシャン州となる東部のシャン族を制圧し、1558年にはラーンナーに侵攻して征服した[100][101]。第二次緬泰戦争(1563-1564年)では、占領したラーンナーの軍を率いたバインナウンがアユタヤ王朝のピッサヌロークを制圧した。その後、1568年に再びアユタヤに侵攻し[102]、翌年、アユタヤはビルマに占領された[98]。このビルマ軍に協力したピッサヌロークのマハータンマラーチャー(在位1569-1590年)が、ビルマ支配下の属国アユタヤの第18代王に就いた[103][104]。
後期
[編集]1581年にタウングー王朝のバインナウンが死去した後、タウングーが混乱状態になると、1584年、マハータンマラーチャーの子ナレースワンは機が熟したと見て、アユタヤの独立を宣言する[105][106]。1590年に王位を継いだナレースワン(在位1590-1605年)は[107]、ビルマ軍を退け、1594年にはタウングーへ侵攻した[108](緬泰戦争〈1594-1605年〉)。1595年、ペグー(バゴー)の戦いに勝利し、要衝のマルタバンを奪い返した[109]。1598年にラーンナーを属国とすると、1599年には再びペグーからタウングーにかけて侵攻した。この第19代王ナレースワンの時代に「アユッタヤー」(「無敵の国」の意)[110]の勢力範囲は最大にまで拡大し、また、交易とともに対外関係の構築が進められた[111]。
1605年にナレースワンが死去し[112]、弟のエーカートッサロット(在位1605-1610/11年)の時代になると、いっそう対外交易を進展させた[113]。イギリス(イギリス東インド会社)は1605年にパタニ、1612年にはアユタヤでの商業活動が許可された[114]。
港市アユタヤの第21代王ソンタム(在位1611-1628年)は、日本人約800人(200-800人[115])を傭兵として雇い、アユタヤ日本人町は隆盛を極めた[114]。1612年頃アユタヤに渡来した山田長政は、津田又左右衛門を筆頭とする日本人義勇兵(クロム・アーサー・イープン[116]、Krom Asa Yipun[115])に入ると頭角を現わし、王ソンタムに殊遇された。しかし1628年のソンタム死去による王位継承争いの後、第24代王としてプラーサートトーン(在位1629-1656年)が王位に就くと[117]、1630年頃、王の命令で山田長政は暗殺され[118]、アユタヤ日本人町は一時焼き払われた[115]。その後、2年のうちに日本人町は再興されたが、間もなく日本の鎖国により朱印船貿易が廃止され、唐船による長崎への貿易は続いたものの[119]、日本人の往来は途絶えることとなった[115]。この時代に日蘭関係をもつオランダが進出した[120]。
1656年、プラーサートトーンが死去すると、王位を巡る争奪の後、プラーサートトーンの子ナーラーイ(在位1656-1688年)が第27代王として即位した[121]。ナーラーイは1661年にラーンナーに攻め込み、1662年にはビルマのペグーまで侵攻した[122]。このビルマへの侵攻によりインド洋側のテナセリムの港市メルギーを支配して交易を発展させるなど[123]、この時代に港市国家アユタヤの繁栄は最盛期を迎えた[121]。
アユタヤ王室による唐船を利用した独占貿易に対して、イギリスやオランダが対立姿勢を示すようになると[124]、1663年11月から翌1664年2月にかけて、オランダ(オランダ東インド会社)は武装した2隻の船でチャオプラヤー川を封鎖し、中国人の唐船を捕獲するなどして一定の貿易の独占を要求した。ナーラーイはこの要求を受け入れ、1664年8月に条約を締結した[125]。このチャオプラヤー川封鎖の事態を踏まえ、王ナーラーイは1665年、国に大事があった時のためにアユタヤより上流のロッブリーを副都として王宮(プラ・ナーラーイ・ラチャニウェート)を建設した[44]。
ナーラーイはまた、イギリスやオランダとの対向により、タイを訪れたフランスの宣教師と接触し、1673年にはルイ14世と教皇に親書を送り、1680年以降、フランスに4度使節を派遣した[123]。1685年12月にはコーサーパーンがフランスに3度目のアユタヤ大使として派遣され(訪仏シャム大使 )、1686年9月、ルイ14世に謁見し、翌年9月に帰国している[126]。フランスも1685-1687年に使節を派遣したが、1687年9月、フランス(フランス東インド会社)が6隻の軍艦により500人の兵とともにイエズス会の神父を送り、王ナーラーイにカトリックへの改宗や、交易の拠点としてトンブリー(現在のトンブリー区)とメルギーへの駐屯を求めたことにより、フランス勢力に対する危機が台頭した[127]。1688年3月に王ナーラーイが重病になると、反フランス勢力によるシャム革命が勃発した。最高顧問であったコンスタンティン・フォールコンが6月に処刑され、7月に王ナーラーイが死去するとペートラーチャー(在位1688-1703年)が第28代王として即位し、フランス勢力を一掃した[128]。
アユタヤ王朝は16世紀、1516年にポルトガルとの条約締結に始まり、ヨーロッパと接触したが[129][130]、中国との関係が古くより最も重要であった[131]。1709年に王位に就いた第30代王プーミンタラーチャー(ターイサ〈「池の端」の意〉、在位1709-1733年)の時代、中国貿易を中心にタイ米の輸出が開始され[132][133]、オランダ領ジャワ(オランダ東インド会社)やイギリス領インド(イギリス東インド会社)にも輸出された[28]。また、ベトナムと手を結んだカンボジア内の勢力に対して1720年に派兵し主権を維持した。しかし、次の第31代王ボーロマコート(在位1733-1758年)の時代もカンボジアの親タイ派と親ベトナム派の対立が続くと、1749年、再びカンボジアに派兵し属国とした。しかし、ボーロマコートが死去すると王室の権力争いが顕著になり、アユタヤ王朝の勢力は低下した[134]。
アユタヤ王朝は、400年以上の繁栄の後、ビルマに興ったコンバウン王朝との泰緬戦争(1759-1760年)により、テナセリム(タニンダーリ)、マルタバン(モッタマ)、タヴォイ(ダウェイ)を失った[135]。その後、コンバウン王朝の侵攻による1765年からの泰緬戦争(1765-1767年)により、ついに1767年4月、首都アユタヤは攻め落とされ、アユタヤ王朝は滅亡した[136][137]。
トンブリー王朝
[編集]1766年から1769年にかけて清緬戦争が勃発し、1776年にはコンバウン王朝のビルマ軍がタイ領からほぼ撤収して圧力が弱まったこともあり[138][139]、華僑の父とタイ人の母をもつタークシンが、華僑の支援のもと、1767年10月に奪還した要衝トンブリーを拠点としてアユタヤのビルマ勢力を排除することに成功し、1768年12月末にタークシン(在位1768-1782年)は王位に就いた[140][141]。トンブリー王朝は新首都トンブリーを拠点にアユタヤを取り戻すとともに支配域を回復し、さらに拡大を図った[142]。カンボジアに対しては、王座を巡る争いに介入し[143]、1771年よりカンボジアに2度侵攻している[144][145]。また、ラーンサーンは18世紀初頭、ルアンパバーン王国、ヴィエンチャン王国、チャンパーサック王国に分裂していたが、1778年にはヴィエンチャンとチャンパーサックを攻略し、ルアンパバーンを属国とした[146]。
しかし、1770年代末より仏教に専心し、やがて精神的に偏重性を示したとされる王タークシンは[141][147]、1782年初頭、クーデターにより追い詰められ、カンボジア遠征から戻ったチャオプラヤー・チャクリーにより同年4月6日処刑された[141]。
チャクリー王朝
[編集]チャオプラヤー・チャクリーはラーマ1世(在位1782-1809年)として王を継ぎ、後にプラプッタヨートファーチュラーロークと呼ばれるチャクリー王朝(ラッタナーコーシン王朝)の初代王となった[148]。ラーマ1世は、右岸のトンブリーからチャオプラヤー川を渡った左岸に新しい首都バンコク(クルンテープ)を建設し、現在に続くチャクリー王朝が始まった[149]。王宮および王宮内寺院のワット・プラケーオ(エメラルド寺院)が建造されると、ラーマ1世がかつてのヴィエンチャン攻略により持ち帰り、ワット・アルンに安置していたエメラルド仏を移して祀った[150]。新都名にあるラッタナーコーシンとは「インドラ神の宝石」の意で、エメラルド仏のことを指す[151]。
長くビルマの勢力下にあったラーンナーが1804年にビルマ軍を一掃したことで、チャクリー王朝の支配域に置かれるなど、この時代にトンブリー王朝よりさらに勢力は拡大した[152]。ラーマ2世(在位1809-1824年)の時代になると、1821年にタイがナコーンシータンマラート王国によりケダ・スルタン国を征服し[153][154]、統治を開始した[155]。当時、ペナン島を1786年以来占領により領有していたイギリスは、貿易の混乱を恐れ、使節をバンコクに派遣して外交交渉を行ったがほとんど成功せずに終った[155][156]。
19世紀、タイのラーマ1世以降の支配者がアジア地域におけるヨーロッパ列強の力を認識したのは、隣国のコンバウン王朝が1824年からの第一次英緬戦争によりイギリスに敗北し、一部領土を失うなど[157]、ヨーロッパ諸国の脅威に晒されたことによる[158]。ラーマ3世(在位1824-1851年)は、1826年、イギリスと通商条約(バーネイ条約)を締結し[159][160]、1833年にはアメリカとも外交上の条約を交わした[161]。
この時代、ベトナムで1802年に成立した阮朝が強勢になり、タイとベトナムとのカンボジアの覇権を巡る争いが大きくなった。タイがカンボジアの支配を狙って起こした泰越戦争(1831-1834年)において、1832年にタイはカンボジアに侵攻したが、ベトナム(阮朝)とともにカンボジアが反撃に転じると、タイは撤退し、1834年にはベトナムがカンボジアを掌握した。その後、タイが再びカンボジアの支配のために起こした泰越戦争(1841-1845年)の結果、1845年、タイとベトナム両国でカンボジアを共有する講和条約が締結された[162]。この結果、1847年にアン・ドゥオンがカンボジア王に即位したが、ひそかにカンボジア領内の一定の支配権を得るため、シンガポールのフランス領事を通じてナポレオン3世に援助を要請しようとした。しかし、それは事前にタイに情報が漏れたことで失敗に終わった[163]。
近代化
[編集]タイがヨーロッパ勢力との間に国交を確立したのは、ラーマ3世の異母弟であるラーマ4世(モンクット、在位1851-1868年)と息子のラーマ5世(チュラーロンコーン、在位1868-1910年)の統治中のことであった。1840年からのアヘン戦争における大国の清の敗北はタイにとっても大きな衝撃であったが[164]、この2人の君主の外交手腕がタイ政府の近代化改革(チャクリー改革)と結び付いたことによって、タイ王国はヨーロッパによる植民地支配から免れた東南アジアで唯一の国になった。タイはイギリスとフランスの植民地に挟まれて、両大国の緩衝国となったことも独立の維持に役立った[165]。
1852年の第二次英緬戦争の結果、イギリスは下ビルマを獲得していた[169][170]。ラーマ4世は、1855年にイギリスと通商貿易に関する条約(ボウリング条約)を締結した[165][171]。また、フランスは1862年にベトナム南部のコーチシナを獲得し、翌1863年にはカンボジアに保護国条約を結ばせると[172][173]、タイはカンボジアの宗主権を主張し、カンボジアもタイに対する服属を複合的に示したが、1867年、ついにタイはフランスの求めに応じ[174]、北西部を除くカンボジアのフランス支配権を認める条約を締結することとなった[175]。
一方、1779年よりタイの属国となっていたルアンパバーン王国は[176]、太平天国の乱の末裔の中国人匪賊として各地に侵攻したホーにより1872年以来襲撃された。タイが軍を派遣したことでいったん沈静化していたが、1885年、再度襲撃が活発になると[177]、タイは討伐の軍を送り、フランスもまたシップソーンチュタイに軍を派遣した。これによりホーの襲撃は治まりを見せたが[178]、ルアンパバーンにはフランス副領事館が置かれることとなった[179]。その後、1887年にルアンパバーンは再びホーにより襲撃された[178]。すでに軍は撤退しており、当時国王であったウンカムとその家族はこの襲撃により危機に晒されたが、フランス副領事館のオーガスト・パヴィにより救出され、逃亡に成功している[180]。このホー軍の襲撃は、ルアンパバーンに国王を救出したフランスへの信頼感を産み出す契機となった[179]。また、清仏戦争で1885年に清からベトナムに対する宗主権をフランスが奪取したことも[181]、ルアンパバーン王国がフランスの保護を受け入れる選択を後押しした。ルアンパバーン王国のフランスによる保護国化を不服としたタイも、1893年の仏泰戦争(パークナム事件)に敗戦した結果、ラオスがフランス保護下に置かれることが確定し[182]、1899年、ラオスはフランス領インドシナに編入された[183][184]。
イギリスは1885年の第三次英緬戦争の結果[185]、1886年にはビルマ全域を獲得していた[186]。1890年代にイギリスとフランスが、ビルマとラオスの接するメコン川に向い合うようになると[187]、1896年、イギリス・フランス両国は、タイのチャオプラヤー川流域に関する英仏宣言を発表して紛争を回避し、タイをイギリス・フランス両国の緩衝地帯として残すことが定められた[165]。1904年にはフランスとの協定でチャンタブリーがタイに返還される代わりに、ルアンパバーンのメコン川西岸(ラーンチャーン〈ラーンサーン〉)とチャンパーサックおよびマノープライ(ムルプレイ[166])、それにトラートとダーンサーイを割譲し、1907年の条約では、トラートとダーンサーイが返還されたが、タイはカンボジアのバタンバン、シェムリアップ、シソポンを割譲した[188][189]。また、1909年のイギリスとの条約(英泰条約)において、現在のマレー半島の4州(クランタン・トレンガヌ・ケダ・プルリス)を割譲した[190]。タイはこれらの条約の締結により多くの領土を手放したが、一方でチャオプラヤー川流域以外に、東北部およびマレー半島などのタイ領を維持した[191]。
1910年、ワチラーウットがラーマ6世(在位1910-1925年)として王位を継承すると、王直属の義勇部隊である国土防衛隊「スアパー」(野虎隊〈猛虎団[192]〉)を創設した[193]。これに対して1912年には絶対君主制に反対し、立憲主義を求める軍部の青年により、初めての立憲革命計画ともいえるクーデター (英: Palace Revolt of 1912) が企てられたが[194]、事前に発覚し100人以上が逮捕され失敗に終わった[195]。しかし、この20年後に起こった立憲革命により、長きにわたった絶対君主制は幕を閉じることになる[196]。
第一次世界大戦
[編集]1914年7月28日、第一次世界大戦が勃発すると、タイは直後の8月6日に中立を宣言して戦況をうかがい、その後、1917年4月のアメリカ参戦により連合国が有利と見極めたラーマ6世は、7月22日に連合国側としてドイツ帝国およびオーストリア=ハンガリー帝国に宣戦した。これにより列強諸国と並んだとして、同年9月28日、タイの国旗を連合国のイギリス・フランス・アメリカの国旗の色とも一致する現在の3色旗に変更した[197][注 9]。タイはヨーロッパに自動車輸送部隊と飛行部隊となる遠征軍(英: Siamese Expeditionary Forces)1200人余りを派遣し、輸送部隊の一部はフランス軍とともに一時ドイツの戦地に配備された[198][199]。この参戦により戦勝国の地位を得たタイは、1919年のパリ講和会議に列席し、国際連盟にも参加した後、イギリスやフランスなどと結ばれた不平等条約の改正を進め、1937年にはこれらの条約がすべて改正された[200][201]。
立憲革命
[編集]1925年にラーマ6世の末弟プラチャーティポックがラーマ7世(在位1925-1935年)として王位を継承すると[202]、前王の近代化政策による財政悪化の改善を図ったが[203]、1929年に始まった世界恐慌をきっかけにタイの財政が再び悪化し、絶対王政に対する不満が高まっていった[204]。1927年、ヨーロッパに留学していた学生7人により[205]、タイの政治体制の変革を目指す秘密結社として結成された人民党が[206]、1932年初頭、立憲改革をもくろむ軍の内部グループと結束し、同年6月24日、バンコクでクーデターによる「立憲革命」を決行した[207]。
ラーマ7世は人民党の要求を受諾し、6月27日に臨時憲法が制定されたことで[208]、王や王族は存続するものの、タイの政治体制は絶対君主制(絶対王政)から立憲君主制へと移行した[209]。これに基づき直ちに翌28日、国会として人民代表議会が開会されたが、議会は一院制であり、全員が人民党の任命議員であった[210][211]。この議会において同日、王室との仲介役として非人民党員のプラヤー・マノーパコーン(在任1932-1933年)が首相に選出された[209][212]。また、12月10日には新憲法が公布されたが、この恒久憲法も実質的に10年後の選挙まで人民党単独政権を確保できるものであった[211][213]。
立憲革命の後、翌1933年には人民党を主導する急進派の政策案により穏健派との決裂が生じたことで早くも政情が不安定となる。6月20日、一部急進派と人民党派軍部がクーデターを起こし[214]、その指導者として擁立されたブラヤー・パホン(1933-1938年)が首相に就任した[215][216]。これに対して10月11日、元陸軍大臣のボーウォーラデート親王の反乱により東北部の軍が進攻したが失敗し、親王はフランス領インドシナに亡命した[217]。また、人民党政府に反発したラーマ7世も、1935年3月、当時9歳の甥ラーマ8世(アーナンタマヒドン、在位1935-1946年)に王位を譲った[218]。
その後、人民党の当初からの構成員であり[205]、1933年のクーデターの中心にもいた[215]プレーク・ピブーンソンクラーム(在任1938-1944年〈後1948-1957年〉)が実権を握り首相に就くと、1939年6月、国名を「シャム」から「タイ」に変更した[219][注 10]。
第二次世界大戦
[編集]1939年9月にヨーロッパで第二次世界大戦が勃発し、直後にタイは中立宣言を出したが、1940年9月に日本軍がフランス領インドシナに進駐すると、ピブーンソンクラームはこの変化を機にフランス領インドシナと国境紛争を起こした[220]。タイの要求を拒否したフランスは11月28日にタイ側を空爆し、タイ・フランス領インドシナ紛争の開戦となった。翌1941年1月にはフランスの優勢が見えたが、タイは日本の仲介により、5月9日にフランスと東京条約を締結し、1904年と1907年にタイが割譲した領土のほとんどを自国領として併合するに至った[221][222]。
その後、1941年12月8日、イギリスやアメリカなど連合国に宣戦した日本軍が、イギリスが支配していたマレー半島へ向かい(マレー作戦)、イギリス領マラヤのコタバルと同じく、タイ南部のソンクラー(シンゴラ)やパッターニー(パタニ)に上陸した(第一次マレー上陸作戦)。タイ軍らは抗戦を開始したが[223]、同日、タイは日本軍の通過を認めた[224]。12月11日に日本と協定を結んだ後、日本軍の緒戦の勝利を背景に、21日には正式に日泰攻守同盟条約を締結し、日本の同盟国となった[225]。その翌年の1942年1月8日にイギリス軍がバンコクを爆撃したのを機に、1月25日、ピブーンソンクラームはイギリスとアメリカに宣戦布告し、タイは枢軸国として参戦することとなった[226]。
イギリス統治下のビルマに日本軍が進攻(日本軍のビルマ進攻作戦)を開始すると、タイは領土の拡大を目指して1942年5月に北部より進軍し、ビルマ東部のシャン州を占領した[227]。また、日本軍はタイのノーンプラードゥックとビルマのタンビュザヤの延長415キロメートルを結ぶ泰緬鉄道の建設を1942年6月に着工し、翌1943年10月に開通させた[228][229]。領土獲得を期待したタイは、当初、同盟を結んだ日本の過大な要求にも応じていたが、その後、タイは日本の一方的な権益拡大に対して不信を強めていった[230]。
一方、日泰攻守同盟条約をもとに、タイが日本の同盟国になり日本軍を駐留させるのを見て、当時、駐米大使であり[231]後に首相になるセーニー・プラーモートは、1942年3月、「自由タイ」(英: Free Thai)という抗日運動をアメリカでタイ人外交官や留学生らと組織した。この活動はイギリスのタイ人留学グループにまでおよび、イギリスは自由タイの志願者をイギリス兵として受け入れ、特殊訓練を施して情報機関員を養成した[232]。また、タイ国内においても、ピブーンソンクラーム内閣の閣僚であるプリーディー・パノムヨン(摂政で後の首相)が抗日組織を設けて参加し、連合国側との連絡を図っていた[233]。1943年12月-[234]1944年1月には連合国軍の空爆が本格化し[235]、戦局の悪化とともに、プリーディーによる自由タイ運動は活発化し、1944年7月にピブーンソンクラーム内閣が総辞職したことで、クアン・アパイウォン(在任1944-1945年〈後1946年1-3月・1947-1948年〉)の新内閣が成立した。クアン内閣は閣僚に自由タイの指導者3人が入閣するなど、急速に連合国との関係を強めたが、日本に対しては自由タイ運動の支援などないように振る舞っていた[236]。しかし、1945年には国内各地に自由タイの軍事キャンプが、日本軍への攻撃に向けて設営されていった[237]。
戦後
[編集]日本との衝突の直前に[238]、日本が1945年8月に連合国に対して敗北すると、8月16日にプリーディーは「タイの宣戦布告は無効である」と宣言し[189]、イギリスに対しては、日本より移管されたシャン州やマラヤの州を返還することを表明するなど[239]、連合国との敵対関係を終結させようとした。アメリカは直接的に利害関係のないことから、8月21日[240]、タイは日本の占領国であったとして、この宣戦無効宣言を受け入れたが[241]、イギリスはすぐに応じず占領軍を派遣することとなった。これを考慮して、総辞職したクアン内閣に代わり[240]、駐米大使で自由タイを組織しアメリカおよびイギリスとも関係の深いセーニー・プラーモート(在任1945-1946年〈後1975年2-3月・1976年4-10月〉)が選挙され[242]、タウィー・ブンヤケート暫定政権の後、9月17日より首相に就いた[243]。その間、9月2日にイギリス領インド軍2万7000人が到着し、日本軍の武装解除が進められた。その後、アメリカの支援のもとにイギリスと交渉した結果、1946年1月に宣戦布告の無効を確認し、原状復帰および領土の返還などの諸条件により平和条約が締結された[244]。
セーニー内閣がその1946年1月に退陣し、再び就任したクアン・アパイウォンが3か月で首相を辞任した後、自由タイのプリーディー・パノムヨン(在任1946年3–8月)が次の首相に就いた[245]。一方、5月に領土の返還を求めるフランスがタイ領を攻撃し、国際社会への復帰を優先せざるを得ないタイは、1941年に併合した領土の引き渡しに応じ、ナコーン・チャンパーサック県(チャンパーサック州)、ピブーンソンクラーム県(シェムリアップ州)、プレアタボン県(バタンバン州)の3県がフランスに返還された。これにより1946年11月、フランスとも終戦協定が成立することになる[246]。タイの領域は1909年に定められた状態に戻ったが、巧妙な政治手腕により、タイは連合国による敗戦国としての状況を早期に免れた[247]。
1945年に成人したラーマ8世は、12月にスイスより帰国したが、1946年6月9日、額を銃弾が貫通した不可解な状況で死亡した[248]。変死したラーマ8世に続いて18歳で即位した弟のラーマ9世(プーミポン・アドゥンヤデート、在位1946-2016年)は、タイ王国で最も長く王位に就き、タイ国民に非常に人気のある君主となった[249]。プリーディーは、1946年5月に初めて複数政党制を認める新憲法を制定したが、8月の総選挙後に辞任し、プリーディーの後任として自由タイのタワン・タムロンナーワーサワット(在任1946-1947年)が次の首相に就いた[250]。
軍事政権
[編集]1947年11月、ピブーンソンクラーム退陣以来冷遇されていた陸軍による軍事クーデターが発生し[251][252]、プリーディーは国外に亡命した[253]。1946年憲法は廃止され、暫定憲法が公布されると[254]、対外的な配慮により民主党のクアン・アパイウォンが首相に擁立された[255]。しかし、国軍司令官となったピブーンソンクラームは、翌1948年4月、陸軍の圧力によりクアンの辞任を余儀なくさせ、「ピブーンの復活」と呼ばれるピブーンソンクラームによる軍事政権(1948-1957年)が開始された[256][257]。一方、1949年2月のプリーディーと海軍によるクーデターは失敗し、自由タイは終焉を迎えた[258][259]。
1949年3月、1947年暫定憲法とほぼ同じ「永久憲法」が公布されたが[260]、1951年6月に海軍によるクーデターを再び鎮圧するなど政情が不安定となるなか、1951年11月29日、自ら「銃声なきクーデター」(サイレント・クーデター〈ラジオ・クーデター[261]〉[262])により1932年恒久憲法を復活させ、議会や政党を廃止した[263]。
ピブーンソンクラーム政権下において警察長官であったパオ・シーヤーノンや陸軍司令官のサリット・タナラットが重用され勢力が強まると[264]、1957年9月、「兵士団」を率いたサリットのクーデターにより、ポット・サーラシン暫定政権が誕生し、12月の総選挙によりサリットの部下(第1管区軍司令官)であったタノーム・キッティカチョーン(在任1958年1月-12月〈後1963-1973年〉)政権が成立した。その後、1958年10月にサリットが「革命」と称したクーデターを経て、サリット・タナラット(在任1959-1963年)自身による軍事政権が誕生した[265][266]。サリットは国王の威信回復を図る「タイ式民主主義」を説くことで強権的支配体制を正当化し、一方、国の開発を掲げてインフラストラクチャーの整備や高い経済成長を実現した[267][268]。この時期、1961年のフォードの工場を初めとして、日本からの自動車メーカーも多く進出した[269]。1963年12月にサリットが死去すると、タノーム・キッティカチョーンが再登板し、陸軍大将であった補佐役のプラパート・チャールサティアンとともに「タノーム=プラパート体制」と称される長期軍事政権(1963-1973年)となった[270][271]。
冷戦
[編集]1949年に中華人民共和国が成立し、共産主義の拡大による東南アジアの冷戦期には、ベトナム(北ベトナム)およびラオス(パテート・ラーオ)[272]、ビルマ(ビルマ式社会主義)、カンボジア(クメール・ルージュ)のような近隣諸国の共産主義革命に脅かされた。また、国内においてもタイ共産党を中心として拡大する共産主義勢力に対抗し[272]、タイは共産主義の防波堤としてアメリカの支援を受け、東南アジア条約機構(英: Southeast Asia Treaty Organization、略称: SEATO)の一翼を担った[273]。
ベトナム戦争ではアメリカ側に立ち、南ベトナムへの派兵(クイーンコブラ、英: Queen's Cobras、後・黒豹師団[274]、英: Black Panthers)を行い、北ベトナム爆撃(北爆)のための供与として在タイ米空軍基地の開設も許可した[275]。1966年4月にはウタパオ基地よりハノイに向けて爆撃機B52が進発した[276]。タイはアメリカ軍の補給や兵の滞在のための後方基地であったため、タイは経済的に発展し[277]、パッタヤー(パタヤ)などのリゾート開発も進んだ[278]。ベトナム戦争が激化するなか、1967年8月8日に東南アジア諸国連合(英: Association of South‐East Asian Nations、略称: ASEAN)の設立がタイのバンコクにおいて宣言された[279]。
民主化運動
[編集]学生らのベトナム反戦運動を契機に、タノーム=プラパート政権の権威主義体制に反対する勢力が次第に増すと、1973年10月14日、ついにタマサート大学からラーチャダムヌーン通りにわたり集結した40万人余りのデモ隊と衝突した警察・軍の発砲により、死者77人・負傷者444人におよぶ大惨事が発生した。この「十月革命」とも呼ばれる[280]血の日曜日事件(10月14日政変[281][282]〈10・14政変[283]〉)の勃発でタノームらは退陣し、国王ラーマ9世により、タマサート大学長であったサンヤー・タンマサック(在任1973-1975年)が暫定政権の首相に任命された[284]。1974年11月に新憲法が制定され、翌1975年、セーニーの後、弟であるククリット・プラーモート(在任1975-1976年)が首相を務めた[285]。
1975年7月にアメリカ軍がタイから撤収した後[286]、セーニーが再登板した1976年には、学生・市民と右翼組織とが対峙して民主化運動の危機となった。8月、プラパートの一時帰国に続き、僧となったタノームの帰国が引き金となり学生運動が暴発すると、10月6日に血の水曜日事件(タンマサート大学虐殺事件)が起こり、警察・右翼集団(ヴィレッジスカウト・赤い野牛[287]・ナワポン[288])らにより学生運動が弾圧され[289]、死者46人(100-[288]200人以上とも[290])・負傷者160人・逮捕者2000人余り[291])におよんだ[292]。そして、軍部がクーデターを宣言すると、反共主義をとるターニン・クライウィチエン(在任1976-1977年)がしばらく首相を務めた後、再びクーデターにより軍事政権期に入ることになった[293][294]。
調整型政治
[編集]1977年から軍最高司令官のクリエンサック・チョマナン(在任1977-1980年)による政権が敷かれ、民主化の時代は終ったが、その政治は調整型の姿勢を取り民主化勢力との調和が図られた[295][296]。一方、隣国カンボジアに誕生したポル・ポト政権は、1977年よりベトナム国境で紛争をしかけ、1977年末にはベトナムと国交を断交した[297]。その後、1978年末から[298]1979年初頭にベトナムがカンボジアに進軍したことから、多くのカンボジア難民がタイに逃れた[299]。同じく1979年にはベトナムからのボートピープルも急増した[298]。
次いで、陸軍司令官であったプレーム・ティンスーラーノン(在任1980-1988年)政権時代は「半分の民主主義」などと称されるように、サリットのタイ式民主主義と同様、国王や軍の存在を前提としつつも議会制民主主義を重視し、タイ共産党勢力とも調整を図った。これにより2回の軍部急進派によるクーデター未遂事件などがあったものの比較的平穏であり、経済成長への道筋をつけた[300][301]。ただし、ラオスとの国境においては、1980年6月14日、メコン川を挟んだタイ・ラオスの国境警備隊の間にて銃撃事件が発生したことより、タイは解除に動きつつあった国境封鎖に対して、再び歯止めをかけた[302]。加えて1984年5月には、ラオスのサイニャブーリー県とタイのウッタラディット県の狭間に位置するラオス領の3つの村をタイ国軍が不法に占拠しているとして、領土権を巡る国境紛争が勃発した(三村事件)。タイは同年10月15日、国軍が撤兵したとの声明を発表し、三村事件はいったん沈静化した。その後、1987年12月に再びタイ・ラオス国境付近で両軍が衝突し、翌1988年2月まで戦闘状態に陥ったが、両国代表団により和平交渉が実施され、停戦協定が結ばれた[303]。
文民政権
[編集]1988年7月の総選挙で第一党となった国民党(タイ民族党)のチャートチャーイ・チュンハワン(在任1988-1991年)政権は、1976年の第3次セーニー内閣以来の文民政権であったが、好景気とともに政治的実業家による利権政治が蔓延した[304][305]。一方、軍の権益を軽視したことにより[306]、1991年2月23日に陸軍司令官スチンダー・クラープラユーンらが軍事クーデターを起こし[307][308]、チャートチャーイは失脚したが[309]、プレーム政権以来の民主化の定着やクーデター後の対外的な配慮などにより[310]、外交官出身のアナン・パンヤーラチュン(在任1991-1992年)が推薦され[311]、暫定政権として3月6日、一時文民政権が誕生した[312]。
暗黒の5月事件
[編集]アナン政権によりクーデター後も経済は順調に推移したが、1992年4月7日、首相に就任しないと明言していたスチンダー・クラープラユーン(在任1992年4-5月)が首相に就き、新政権の成立したことに国民は反発し、4月下旬には辞任を要求する大規模運動に発展した[313]。その後、5月17日の抗議デモにおいて40万人余りにのぼる群集に対し[314]、ラーチャダムヌーン通りで衝突した軍・警察が[315]、5月18日から19日にかけて発砲し[316][317]、3日間で死者53人・負傷者759人におよぶ暗黒の5月事件(5月流血事件)が発生した[318]。これによりスチンダーは首相を辞任して、アナンが暫定政権の首相に復帰し、文民政権の樹立につながった[319]。
1992年9月の総選挙において、旧野党の民主党が躍進し、チュワン・リークパイ(在任1992-1995年〈後1997-2001年〉)内閣となると、チュワンは王制を堅持する民主主義を唱えた[320]。1995年7月、国民党のバンハーン・シラパアーチャー(在任1995-1996年)が首相に就いた後[321]、1996年11月には新希望党のチャワリット・ヨンチャイユット(在任1996-1997年)が首相となり、1997年7月からの通貨危機のなか、同年9月に新憲法が可決され[322][323]翌10月に公布された後、経済危機により11月に辞職したチャワリットに代わり、民主党のチュワンが再び就任した[324]。
タクシン体制
[編集]2001年、経済情勢がいまだ通貨危機の影響にあるなか[325]、新憲法のもとで総選挙が行われ、1998年にタイ愛国党を創設した中国系タイ人のタクシン・シナワット(在任2001-2006年)による新政権が[326]2001年2月に誕生した[327]。タイが先進国となることを目指した実業家のタクシンは「国は企業であり、首相は国の最高経営責任者(英: Chief executive officer、略称: CEO)である」として、権力集中による強権的な政治運営を行ったが、一連の経済政策の成果などにより、2005年2月の総選挙においてタイ愛国党が圧勝した[328][329]。
政治混乱
[編集]2006年クーデター
[編集]2006年1月、首相タクシン一族の不正蓄財疑惑が発端となり、国玉慶賀(在位60年)による「黄色のシャツ」[330][331]を着た反タクシン運動が拡大すると、翌2月には民主市民連合(英: People's Alliance for Democracy、略称: PAD)が結成され、集会の規模は一時10万人余りとなった[332][333]。タクシンは国会の解散と総選挙により一時首相の座を離れたが、再び暫定首相として復帰することに批判が高まり、一方、軍内でも反タクシン派が勢力を争い、事態が膠着するなか、タクシンが国際連合総会のためタイを離れていた9月19日に軍事クーデターが起こった[334][335]。クーデターより12日後の10月1日には暫定憲法が公布され[336]、陸軍総司令官であったスラユット・チュラーノン(在任2006-2008年)が首相に指名された[337]。これ以降、タイではデモや暴動が相次ぎ、政治混乱が続くことになる。
2008年政治危機
[編集]2007年12月の総選挙により、2008年2月に「タクシンの代理人」を標榜するサマック・スントラウェート(在任2008年2月-9月)内閣が成立すると、2月28日、元首相タクシンが帰国した。民主市民連合 (PAD) は反タクシン運動を再開し、8月26日にはサマックの退陣を求める大規模活動を行い、首相府などを占拠した[338][339]。これに対してタクシン支持派の反独裁民主戦線(英: United Front of Democracy Against Dictatorship、略称: UDD)らは「赤色のシャツ」を着て民主市民連合 (PAD) に対抗し[340]、9月2日の衝突においては政権派1人が死亡した[341]。
9月9日、憲法裁判所の判決によりサマックは失職し、次いでタクシンの妹ヤオワパー・ウォンサワットの夫であり副首相であったソムチャーイ・ウォンサワット(在任2008年9-12月)が就任したが、その所信表明演説が行われる10月7日、民主市民連合 (PAD) は前夜より国会を包囲し、議員の入構を阻止した。警察はデモ隊に催涙弾を撃ち、衝突は死者2人・負傷者500人余りの惨事となった。この「10月7日事件」の後、民主市民連合 (PAD) は11月25日、スワンナプーム国際空港を占拠するという過激行動を起こしたが、12月2日、憲法裁判所が与党3党(国民の力党・国民党・中道主義党)に解党およびソムチャーイらに失職を命じたことで終結した[342][343]。
2009年政情不安
[編集]ソムチャーイ政権の崩壊後、民主党のアピシット・ウェーチャチーワ(在任2008-2011年)が首相に選出されたが、今度は反独裁民主戦線 (UDD) がアピシットの所信表明を妨害し[344]、2009年初頭より反政府集会を繰り返し実施した[345]。3月末の2万人の集会では元首相タクシンが動画で演説し、さらに4月11日にはパッタヤー(パタヤ)で開催予定であった東アジアサミットの会場に乱入した[346]。その後、バンコクでもデモ隊が暴動を起こしたことで軍が制圧を行い、負傷者100人以上となる事態が発生した[347]。
2010年反政府デモ
[編集]2010年、タクシン不正蓄財の没収判決を不当として、議会の解散と総選挙の実施を求める反独裁民主戦線 (UDD) の抗議活動が3月より再び活性化すると、3月14日にバンコクの大通りを占拠し、4月3日にはデモ隊が都心の商業地区一帯を占拠する事態となり、その後さらに拡大すると、治安部隊との衝突により4月10日、日本人カメラマンを含む死者25人・負傷者800人以上の大惨事となった[348](暗黒の土曜日)。
4月22日には砲弾6発により一般市民1人が死亡・100人近くが負傷した[349]。その後、5月13日には反独裁民主戦線 (UDD) 幹部1人が狙撃されたことでデモ隊との衝突が悪化したが、5月19日、治安部隊突入による抗戦の後、反独裁民主戦線 (UDD) はデモ解散を宣言した。この2か月余りにおよぶ反政府デモと治安部隊による犠牲者は、死者90人以上・負傷者2100人以上にのぼった[350]。
タイ洪水
[編集]2011年、タクシンの妹インラック・シナワット(在任2011-2014年)がタイ史上初の女性の首相となると混乱は一時終息したかに見られた[351]。しかし、8月のインラックの就任後すぐにタイ洪水という未曽有の危機に見舞われることとなった。9月下旬、チャオプラヤー川より平野部に氾濫した流水は中部より次第に南下し、10月4日にアユタヤ県のサハラッタナナコーン工業団地、9日にローヂャナ工業団地、17日にはパトゥムターニー県のナワナコーン工業団地が浸水するなど、合計7か所の工業団地が水没した。また、洪水対策センターを置くドンムアン空港が浸水する事態になったほか、水による感電死の多発により死者はタイ全土で800人以上を数え、洪水の被災者は26都県で200万人以上におよんだ[352]。
プレアヴィヒア紛争
[編集]タイとカンボジアの国境地域に位置するプレアヴィヒア寺院(プラーサート・プラウィハーン)遺跡が2008年7月、カンボジアにより国際連合教育科学文化機関(ユネスコ、UNESCO)の世界遺産に登録されたことから、この寺院遺跡のある高台一帯を巡るタイとカンボジアの領域紛争が再燃した。両国軍が国境地域で対峙し、2008年10月より散発した戦闘による死傷者は数十人におよんだ[353]。2009年6月に首相アピシットがプレアヴィヒア寺院の世界遺産登録の見直しを求めたほか[354]、2010年にはさらに紛争地域が拡大した[353]。この2010年に後の首相となるプラユット・チャンオチャが陸軍司令官に就任している[355]。2011年7月、国際司法裁判所(英: International Court of Justice、略称: ICJ)が国境地域からの撤退を両国に命じ、インラックが首相に就任した後、同年12月、両国は同時撤退に合意した[354]。その後、2013年11月に国際司法裁判所が1962年に次ぎ、プレアヴィヒア寺院一帯をカンボジア領としたことにより、一応の治まりを見せた[356][357]。
2013年反政府デモ
[編集]2013年11月、タクシンの恩赦を可能とするタイ貢献党議員による法案の強行採決が図られると、民主党は猛反発し、反タクシン派以外も多くがこれに抗議して反政府デモは勢いを強めた[358]。この世論の反発により法案は否決されたが、抗議デモを開催し、アピシット政権では副首相であったステープ・トゥアクスパンは、インラック政権の打倒およびタクシン体制の根絶を訴える大規模デモの続行を宣言し[359][360]、その後の財務省の占拠をはじめ政府機能に向けて過激なデモを強行した。12月9日、インラックは即時解散・総選挙を発表したがデモは止まらず、25万人が首相府周辺に集結した。12月26日には総選挙の妨害を図るデモ隊との衝突により、死者2人・負傷者150人余りとなった。翌2014年1月13日には、「バンコク封鎖」(英: Bankok Shutdown)と称して、デモ隊が都心部の主要7か所の交差点を占拠する事態となった[361]。2月2日に総選挙が強行されたが、各地のデモ隊の妨害などにより、それは有名無実なものであった。憲法裁判所は3月21日、この総選挙の無効を決定した[362]。
2014年クーデター
[編集]2014年5月7日、インラックは政府高官人事の違憲判決により失職し、ニワットタムロン・ブンソンパイサンが首相代行に就任したが[363][364]、5月22日には国軍が再び立憲革命以降19回目のクーデターを起こした[365][366]。軍が全権を掌握し暫定政権を立てた後、8月には最高権力者である陸軍司令官プラユット・チャンオチャ(在任2014年-)が首相に就いた[367]。
2016年10月13日、王ラーマ9世(在位70年)が88歳で死去し[368][369]、その後、64歳のワチラーロンコーンがラーマ10世(在位2016年-)として新国王に即位した[370]。2017年4月に新憲法が公布されると[371][372]、2019年3月の総選挙を経て、プラユットが継続して首相に就き[373]、7月には新政権が発足した[374]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 花山岩絵を描いた集団は後に青銅器時代のドンソン文化を担った雒越であるとされる。
- ^ 「ムアン」 (muang) は、おおよそ国・都市・町などといった自立的単位を意味する。
- ^ 当初は紀元前4千年紀、最古のものは紀元前3600年とされた。
- ^ 東北部のウドーンターニー県バーンチエン遺跡下層、中東部のチョンブリー県コークパノムディー遺跡からイネが出土。
- ^ ドヴァーラヴァティーの漢訳として、頭和・投和・堕和羅・独和羅・堕和羅鉢・堕羅鉢底・杜和鉢底・堕和羅鉢底などと記される。
- ^ 現在のタイ人は、自分たちの国家の設立を、スコータイでクメール(かつてタイではラヴォを統治するクメールをコームと呼んでいる)の領主を倒し、小タイ族のスコータイ王国を設立した13世紀としている。
- ^ 出生は不詳であり、スパンブリーやロッブリーの王家に関係する説のほか、『シアム王統記』では中国の一王族であったとする。ペッブリー付近出身の華人のもとに生まれたと考える説もある。
- ^ 母がスコータイ王家の王女であり、スコータイ王族に母方の血縁があった。
- ^ 3色旗の中央の青色は国王、上下の白色は宗教、外側の赤色は民族を象徴する。
- ^ 国名「タイ」(Prathet Thai、タイ語: ประเทศไทย)は、当初1939年から1945年に使用され、1949年5月11日に公式に宣言された。prathet (タイ語: ประเทศ)は「国家」、thai (タイ語: ไทย)「タイ」の語源は「自由」に由来するとした。
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