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[[フェリス女学院]]大学教授である齋藤孝滋は、「日ロ国境地域領土政策大学」設置による解決策を提言する<ref> [http://linguistic-culture.rindo1.com/index.php?go=DxwEK6 北方領土と日本国のあり方~領土問題から新たな国家・世界への変容を~(要旨)]「日本語と日本人に関する言語・文化・教育・政策の提言」を行う会</ref>。これは多文化共生の新生北方領土社会構築を目的としたものであり、従来の島の返還論のみに終始する日本国側の北方領土問題解決姿勢を根本的に問い直す政策提言であるとする。齋藤によればそもそも「北方領土問題の解決」とは島の返還のみでなく「返還後に実現すべき社会を構築する際の諸問題の解決」まで含まれるべきものであり、北方領土に係る育成すべき後継者についても、単に島の返還にとどまらず、多文化共生の新生北方領土社会(アイヌ人・日本人・場合によりロシア人)において、先住民・旧住民とともに社会の一員となり、指導的立場で、新生北方領土社会のみならず近隣諸国・地域をも経済的・文化的両面で豊かにする政策を、立案・実施できる人材であるべきとする。そこで理想的には日ロ政府共同出資による「日ロ国境地域領土政策大学」を、北方領土内(第1候補は国後島)に「北方研究学園都市」のかたちで設置し、世界的視野で領土・民族問題を研究するために、教官と学生を日本のみならず全世界から募り、北方研究学園都市を、多文化共生の新生北方領土社会のモデル社会として育ていく必要性を説く。大学の設置計画の始動時期は、ロシアの「クリル開発計画」とのタイアップを考慮し、計画が折り返しを迎える年である2011年であるとする。そして、日ロ国境地域領土政策大学を拠点として、(大学設置期間を含め)今後約10年かけての、北方領土問題の完全解決を目指すものとする。 |
[[フェリス女学院]]大学教授である齋藤孝滋は、「日ロ国境地域領土政策大学」設置による解決策を提言する<ref> [http://linguistic-culture.rindo1.com/index.php?go=DxwEK6 北方領土と日本国のあり方~領土問題から新たな国家・世界への変容を~(要旨)]「日本語と日本人に関する言語・文化・教育・政策の提言」を行う会</ref>。これは多文化共生の新生北方領土社会構築を目的としたものであり、従来の島の返還論のみに終始する日本国側の北方領土問題解決姿勢を根本的に問い直す政策提言であるとする。齋藤によればそもそも「北方領土問題の解決」とは島の返還のみでなく「返還後に実現すべき社会を構築する際の諸問題の解決」まで含まれるべきものであり、北方領土に係る育成すべき後継者についても、単に島の返還にとどまらず、多文化共生の新生北方領土社会(アイヌ人・日本人・場合によりロシア人)において、先住民・旧住民とともに社会の一員となり、指導的立場で、新生北方領土社会のみならず近隣諸国・地域をも経済的・文化的両面で豊かにする政策を、立案・実施できる人材であるべきとする。そこで理想的には日ロ政府共同出資による「日ロ国境地域領土政策大学」を、北方領土内(第1候補は国後島)に「北方研究学園都市」のかたちで設置し、世界的視野で領土・民族問題を研究するために、教官と学生を日本のみならず全世界から募り、北方研究学園都市を、多文化共生の新生北方領土社会のモデル社会として育ていく必要性を説く。大学の設置計画の始動時期は、ロシアの「クリル開発計画」とのタイアップを考慮し、計画が折り返しを迎える年である2011年であるとする。そして、日ロ国境地域領土政策大学を拠点として、(大学設置期間を含め)今後約10年かけての、北方領土問題の完全解決を目指すものとする。 |
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===日本の全面放棄論=== |
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南クリール四島に対する日本の領土返還主張を日本政府が全面放棄し、ロシアの支配及び領有を、現実としてだけでなく、法的にも正当なものとして承認し、その上で南クリール四島に対して日本が経済開発などで進出していく解決法。すなわち、日本政府が南クリール四島に対するロシアの統治を、法的にも承認し、領土返還要求を放棄するのであれば、当該諸島への日本の経済投資、進出を歓迎するというものである。 |
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これはヤルタ協定を合法とし、ヤルタ協定及びサンフランシスコ平和条約における千島列島の範囲について国後・択捉だけでなく、歯舞・色丹を含むものとしている。また、1956年の日ソ共同宣言の「平和条約締結後に歯舞群島及び色丹島を日本国に引き渡す」「日ソ間に正常な外交関係が回復された後、平和条約の締結に関する交渉を継続する」とする条文を完全に否定するものである。これについてロシア政府は、領土問題が存在しない以上、最も適切な解決法であるとし、国民の多くにも支持されている、と述べている。だが、四島返還論を求める日本は日ソ共同宣言に不誠実であると反発している。 |
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=== ロシア側からの返還論 === |
=== ロシア側からの返還論 === |
2018年4月10日 (火) 14:08時点における版
北方領土問題(ほっぽうりょうどもんだい、ロシア語: Проблема принадлежности южных Курильских островов)は、北海道根室半島の沖合にあり、現在ロシア連邦が実効支配している択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島の島々、すなわち北方領土に対して、日本が返還を求めている領土問題である。
概要
日本国政府は、ロシア連邦が自国領土だとして占領・実効支配している北方領土について、返還を求めている。1945年(昭和20年)8月14日に日本がポツダム宣言の受諾を決定した後、1945年8月28日から9月5日にかけて赤軍(ソ連軍)は米国の協力により艦船・武器の提供、上陸訓練などの指導を受け、北方領土に上陸し占領した。北方領土は現在に至るまでソビエト社会主義共和国連邦および、それを継承したロシア連邦が実効支配を継続している。ロシアによる事実上の領有状態のため、日本国政府が領有権を主張しているものの、一切の施政権は及んでいない。第二次世界大戦後、現在に至るまで、ソ連・ロシア連邦に不当に占領されており、日本は固有の領土としてその返還を求めている。
千島列島の呼称について、日本国政府は「サンフランシスコ平和条約にいう千島列島のなかにも(国後択捉)両島は含まれない」[2]、色丹島および歯舞諸島は北海道の一部を構成する(属島)[3]とする。ソビエト連邦あるいは現ロシア連邦はサンフランシスコ平和条約に調印していない。
ソビエト連邦(現ロシア連邦)では、色丹・歯舞を合わせて小クリル列島、占守島から国後島までを大クリル列島、小クリル列島と大クリル列島を合わせてクリル列島と呼んでいる。
北方領土関係史
日本国政府は「日本はロシアより早くから北方領土の統治を行っており、ロシアが得撫島より南を支配したことは、太平洋戦争以前は一度もない」と主張している[要出典]。1644年に江戸幕府が作成した『正保御国絵図』には、松前藩が支配している蝦夷地として北海道本島、樺太、千島列島が記されている。国後島や択捉島も記載されている。
この地図は、松前藩が江戸幕府に提出したものを基礎としており、提出された原本は残っていないが、松前藩は1635年に樺太調査を行っており、地図はそれに基づいて作られたものと言われている。択捉島についていえば、アイヌが先住していて、1661年に伊勢国の七郎兵衛らの船が漂流している[4]。1760年代にロシア人のイワン・チョールヌイが、択捉島でアイヌからサヤーク(毛皮税)を取り立てたという記録が残されている。また、最上徳内が徳川幕府の派遣した探検家として最初に択捉島を訪れた1780年代には、択捉島には3名のロシア人が居住し、アイヌの中に正教を信仰する者がいたことが知られており、同時期、既にロシア人の足跡があったことも知られている(ただし正教はロシア人・ロシア国民以外にも信仰されているものであり〈例:ギリシャ正教会、ブルガリア正教会、日本正教会〉正教徒であることイコールロシア人ではない)。
- 1854年
- 1855年
- 日本とロシア帝国は日露和親条約(下田条約)を結び、択捉島と得撫島の間を国境線とした。
- 1869年
- 1875年
- (1904年-1905年 日露戦争。ポーツマス条約により南樺太が日本に割譲された)
- (1917年-1918年 ロシア革命)
- (1918年-1922年 シベリア出兵)
- (1931年 満州事変勃発)
- (1937年 日中戦争勃発)
- 1940年
- 1941年 日米開戦
- 1942年
- 1943年
- 10月、モスクワにおいて米・英・ソ三国外相会談が開かれる(モスクワ会談)。スターリンの通訳によれば、10月30日に開催されたクレムリンのエカテリーナ広間晩餐会で、スターリンは隣に座るハル国務長官に対し、ドイツ戦終了と同時に対日参戦することをソ連の意思として伝えた[10]。ただし、耳打ちという形で告げられ、当分の間秘密とされた。続いて11月末、イランのテヘランにおいて、米・英・ソ首脳会談が開かれる(テヘラン会談)。この会談でルーズベルトとチャーチルは、1944年の5月までにヨーロッパで第二次戦線を開くことを約束した。その見返りにスターリンは、ドイツ敗戦の後に対日戦争に参加することをはっきり約束し、そのためにいかなる「要望」を提出するかは、後で明らかにすると言明した[11]。
- テヘラン会談の直前、カイロで米・英・中三国による首脳会談が開催される。米・英・中三大同盟国は日本国の侵略を制止し、罰するために戦争をしていること、日本の無条件降伏を目指すことが宣言された(カイロ宣言)。カイロ宣言では、第一次世界大戦以後に日本が諸外国より奪取した太平洋諸島の領土を剥奪すること、台湾・満州の中国への返還、日本が暴力・貪欲により略取した地域からの駆逐が定められている。南樺太や千島列島については触れられていない。
- 1944年
- 12月14日、スターリンはアメリカの駐ソ大使W・アヴェレル・ハリマンに対して南樺太や千島列島などの領有を要求する[12][13]。これがのちにヤルタ協定に盛り込まれることとなる。
- 1945年2月
- 1945年4月5日
- 1945年8月~9月
- 1946年~1949年
- 1946年1月29日、GHQ指令第677号により、千島列島・歯舞・色丹などの地域に対する日本の行政権が一時的に停止され[14]、千島はソビエトの行政管轄区域となった。
- 1946年2月2日、ソ連邦最高会議が、千島列島(クリル諸島)の領域を1945年9月20日にさかのぼり国有化宣言する(ソ連邦最高会議一九四六年二月二日付命令)。
- 1946年2月11日、ヤルタ会談における極東密約(ヤルタ協定)が公開された。
- 北方領土には日本国民は約1万7千人住んでいたが、占領当初は、日本国民の本国帰還は認められなかった。1946年12月、GHQとソ連との間で日本国民全員の引き上げが合意されると、1949年7月までにほぼ全員の日本国民が帰国した[* 2]。しかし、朝鮮人はその後も帰還することができず、多くはサハリン(樺太)に移住して在樺コリアンとなった。
- 1951年
- 1956年
- 日ソ共同宣言(昭和31年条約第20号)
- 日ソ交渉に先立って、サンフランシスコ条約起草国である米国や、英国、フランスに対して、同条約中、放棄した千島の範囲について問い合わせをした[いつ?][誰?]。米国は北方領土は常に日本の領土であったので、日本に主権があることは正当として認められなければならないと国務省の覚書として明文化された公式見解を示し、日本の立場を支持している。しかし、英・仏からは日本に好意的な回答は得られなかった。フランスからは、サンフランシスコ会議議事録において日本代表が国後、択捉を南千島として言及しているところに注意を喚起する、との回答があった。
- 平和条約の締結交渉は、北方領土の全面返還を求める日本と、平和条約締結後の二島「譲渡」で決着させようとするソ連の妥協点が見出せないまま、結局日ソ平和条約は締結されず、締結後に歯舞群島・色丹島をソ連が日本に引き渡すと記載された条文を盛り込んだ共同宣言で決着した。
- 日ソ共同宣言で日ソ間の外交関係が回復。日本とソ連は1956年12月7日、日ソ共同宣言の批准書を交換し、日ソ共同宣言は同日発効した。
- 1957年
- 1960年
- 1962年3月9日:日本の衆議院本会議において沖縄・小笠原施政権回復決議とともに、北方領土回復決議が採択される[20][21][22]。
- 1964年7月10日:毛沢東中国共産党主席が中国を訪問していた日本社会党訪中団に対し、ソビエト連邦について「とにかく自分の領内に入れることのできるところは、残らず自分の領内に入れようというのです。」などとしたうえで、「われわれはまだ彼らとの間に、決算が終つて(原文ママ)いないのです。ところで、皆さんの千島列島についてですが、われわれにとって、それは別に問題ではありません。皆さんに返還すべきだと思います。」と述べ、北方領土問題に関し日本を支持する考えを示す[23][24][25]。
- 1970年11月11日:オコニシニコフ在日ソ連臨時代理大使が日本の森外務事務次官に対し、北方領土に関する対日口頭声明を行う。これに対し同年11月17日に、日本の森外務事務次官がオコニシニコフ在日ソ連臨時代理大使に対し、先の声明に対する回答を口頭で行う(対ソ回答)[26][27]。
- 1972年
- 大平正芳外相が北方領土問題の国際司法裁判所への付託を提案したが、ソ連のアンドレイ・グロムイコ外相が拒否する[28]。
- 1973年
- 1981年
- 北方領土の日設定。毎年2月7日を北方領土の日とする。
- 1991年
- ソビエト連邦は解体、ロシア連邦として独立し、領土問題を引き継ぐ。
- 1993年
- 10月:細川護煕首相とエリツィン大統領が会談し、北方四島の島名を列挙した上で北方領土問題をその帰属に関する問題を解決した上で平和条約を早期に締結するとして日露共同文書が発表された。(東京宣言)
- 2010年
- 7月:中国共産党胡錦濤総書記の働きかけもあり、ロシアは日本が第二次世界大戦の降伏文書に署名した9月2日を「終戦記念日」に制定した[29]。
- 11月1日:ドミートリー・メドヴェージェフ大統領は、北方領土の国後島を訪問。「ロシアの領土を訪問」したとしている[30]。
- 11月1日:アメリカのフィリップ・クローリー国務次官補は記者会見の席上で、ロシアのドミートリー・メドヴェージェフ大統領が国後島を訪問したことに関し「北方領土に関して、アメリカは日本を支持している」と述べる[31]。
- 11月2日:アメリカのフィリップ・クローリー国務次官補は記者会見の席上で、「アメリカは北方領土に対する日本の主権を認めている」としたうえで、北方領土に日米安全保障条約が適用されるかについて、「現在は日本の施政下にないため、第5条は適用されない」と述べる[32]。
- 2011年
解説
1945年9月2日、日本は降伏文書に調印した。この時、南樺太・千島の日本軍は赤軍極東戦線に降伏することが命令され、南樺太・千島はソ連の占領地区となった。1952年サンフランシスコ講和条約発効により、日本は独立を回復したが、同条約にしたがって、南樺太・千島列島の領有権を放棄した。この条約にソ連は調印していないため、ソ連との国交回復は、1956年日ソ共同宣言により行われた。この時、日ソ間で領土の帰属に関して合意が得られなかった。その後、日ソ・日ロ間には、幾つかの共同声明や共同コミュニケがあるが、平和条約締結や領土問題での合意に至っていない。
1941年4月、日ソ間で、日ソ中立条約が締結された。その2ヵ月後、ドイツが突如ソ連に侵攻し、独ソ戦が勃発。日本政府は、御前会議において、情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱を策定、独ソ戦が日本に有利に働いたときはソ連に侵攻することを決めた。さらに、日本軍は関東軍特種演習(関特演)を実施、ソ連侵攻の準備を整えた。しかし、日本政府の思惑とは異なって、独ソ戦は膠着し、日本のソ連侵攻の機会は得られなかった。
ソ連はスターリングラード攻防戦・クルスク戦車戦以降、独ソ戦を有利に展開するようになる。こうした中、1943年11月、テヘラン会談が米・英・ソ三国首脳により開かれ、当面の戦争、戦勝権益の連合国間での分割、連合国の覇権に置かれる戦後世界の戦略に関して幅広い協議が行われた。このときの合意は、1945年2月のヤルタ協定に引き継がれた。
当時アメリカは米国人の戦争犠牲をなるべく少なくすることを狙っており、そのためには、ソ連の対日参戦が必要だった。独ソ戦で大きな被害を受けていたソ連国民には、更なる戦争への参加をためらう気持ちも強かったが、戦後世界の勢力バランスを考慮したスターリンは米国の参戦要求を了承した。当初ポツダム宣言への連名は、日本と交戦状態に無いソ連は除外されていたが、ソ連は参戦後、ポツダム宣言に参加した。その後、アメリカ主導で作成されたサンフランシスコ講和条約においても、既にソ連が占領している南樺太や千島をヤルタ会談での取り決め通り日本に放棄させる内容となっている。
1945年ドイツ敗北の3ヵ月後、ソ連は米・英との合意にしたがって対日宣戦布告。翌日、ソ・満国境を越えて満州に進攻、8月14日に締結されたソ華友好同盟条約に基づいて、満州を日本軍から奪取した。満州の日本軍は、蒋介石の国民党軍ではなく、赤軍に対し降伏すると取り決められていた。翌年3月12日、蒋介石の駐留要請を断って、赤軍は、瀋陽から撤退を開始し、5月3日には旅順・大連に一部を残し、完全に撤退した。一方、南樺太では、8月11日、中立条約を侵犯し[36][出典無効]、日本に侵攻した赤軍は8月25日までに南樺太全土を占領した。樺太占領軍の一部は、26日に樺太・大泊港を出航し、28日択捉島に上陸、9月1日までに、択捉・国後・色丹島を占領した。歯舞群島は9月3日から5日にかけて占領されている。
1945年9月2日、日本は降伏文書に調印し、連合国の占領下に入った。千島・南樺太はソ連の占領地区とされた。1946年1月29日、GHQ指令第677号により、南樺太・千島列島・歯舞・色丹などの地域に対する日本の行政権が一時的に停止され、同2月2日に併合措置(ソ連邦最高会議一九四六年二月二日付命令)。サハリン島南部及びクリル諸島の領域を1945年9月20日にさかのぼり国有化宣言。これはヤルタ協定に基づくものの条約によらない一方的行政行為(一方的宣言)であり当該領域についての最終帰属に関する問題が発生する。1946年2月11日に米国とともにヤルタ密約の存在について公表。
1952年サンフランシスコ講和条約発効により、日本は独立を回復したが、同条約にしたがって、南樺太・千島列島の領有権を放棄した。条約締結に先立つ1946年末から、日本は米国に対して36冊に及ぶ資料を提出、日本の立場を説明している。この中の2冊は千島に関する事項であることが知られている。このような経緯があって、千島列島の範囲が、日本に不利なように定義されなかったが、同時に、日本に有利なように定められることもなかった。
1952年3月20日にアメリカ合衆国上院は、「南樺太及びこれに近接する島々、千島列島、色丹島、歯舞群島及びその他の領土、権利、権益をソビエト連邦の利益のためにサンフランシスコ講和条約を曲解し、これらの権利、権限及び権益をソビエト連邦に引き渡すことをこの条約は含んでいない」とする決議を行った。この米上院の決議の趣旨は、サンフランシスコ講和条約第25条として明示的に盛り込まれている。米国上院のこの決議[37]はサンフランシスコ条約批准にさいする解釈宣言であり有効である。但し外交交渉そのものの権限は大統領府にあり議会にあるわけでは無いので、当条約を批准した以降に大統領府がおこなう別の外交交渉を直接拘束する訳ではない。また他の参加・批准国を直接拘束するものではない(他の批准国はサンフランシスコ講和条約により直接的に拘束されている)。
サンフランシスコ講和条約をソ連は調印しておらず、ソ連とは、1956年日ソ共同宣言によって、国交が回復した。このとき、日ソ間では歯舞群島・色丹島の「譲渡」で合意しようとする機運が生まれたが、日本側が択捉島・国後島を含む返還を主張したため交渉は頓挫した。結果、現在もロシアとの平和条約締結に向けて交渉が行われているが、領土問題に関する具体的な成果は得られていない。
日本政府は1997年に在ハバロフスク総領事館サハリン出張駐在官事務所を開所し、2001年にはサハリン州ユジノサハリンスクに総領事館を設置した[38][39]。総領事館の設置に際してはロシア政府と交換公文や往復書簡を交わしロシアの同意を得ており、総領事の配置にもアグレマンを得ているが、日本政府としては南樺太の最終的な帰属先は未定であるとの立場であり[40]、仮に将来において何らかの国際的解決手段により南樺太の帰属が決定される場合にはその内容に応じて必要な措置を取るとしている[41]。鈴木宗男は南樺太についての政府解釈は難しいだろうと指摘したうえで北方領土の帰属は日本であると確認をしている[42]。近藤昭一は総領事館設置を既成事実として南樺太の帰属問題を解釈する危うさを指摘し、日本がロシアに対して依然南樺太の領有権を主張しうるとする説や、日本が領有権を主張し得ないと同様に対日平和条約の当事国でないソ連もこの条約に基づいて南樺太・千島列島の領有権を主張できないとする説に言及する[43]。
カイロ宣言
- 和訳原文(抜粋)
三大同盟國ハ日本國ノ侵掠ヲ制止シ且之ヲ罰スル爲今次ノ戰爭ヲ爲シツツアルモノナリ右同盟國ハ自國ノ爲ニ何等ノ利得ヲモ欲求スルモノニ非ス又領土擴張ノ何等ノ念ヲモ有スルモノニ非ス
右同盟國ノ目的ハ日本國ヨリ千九百十四年ノ第一次世界戰爭ノ開始以後ニ於テ日本國カ奪取シ又ハ占領シタル太平洋ニ於ケル一切ノ島嶼ヲ剥奪スルコト並ニ滿洲、臺灣及澎湖島ノ如キ日本國カ淸國人ヨリ盗取シタル一切ノ地域ヲ中華民國ニ返還スルコトニ在リ
- 現代文
1943年、太平洋戦争中に米・英・中がカイロで首脳会談をおこなった。この時のカイロ宣言では、日本の侵略を制止し、日本を罰し、1914年の第一次世界大戦以後日本が奪取した太平洋上の領土を奪還することや、満州・台湾を中国に返還することを目的としている。また、米・英・中には領土拡張の考えがないとしている。カイロ宣言は、米・英・中の宣言であるため、ソ連と関係した南樺太や千島列島は、同宣言の奪還の直接対象とはなっていない。
ポツダム宣言
- 和訳原文(抜粋)
ポツダム宣言 八
「カイロ」宣言ノ條項ハ履行セラルベク又日本國ノ主權ハ本州、北海道、九州及四國竝ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ
- 現代文
「カイロ」宣言の条項は履行されなければならず、また、日本国の主権は本州、北海道、九州、および四国ならびにわれらの決定する諸小島に限られなければならない
ポツダム宣言ではカイロ宣言を履行されなければならないとしている。カイロ宣言では南樺太・千島には言及されておらず、ポツダム宣言でも千島列島・南樺太に関する言及は無い。ただし、四国よりも大きい樺太が諸小島に含まれるとも解釈できない。宣言ではソ連への千島・南樺太の譲与にも言及がない。
ソ連の対日参戦
詳細はソ連対日参戦参照。
- 8月 8日 ソ連、対日宣戦布告
- 8月10日 ポツダム宣言の受諾を連合国へ伝達
- 8月11日 ソ連、中立条約を侵犯し[44][出典無効]南樺太に侵攻
- 8月14日 ポツダム宣言の受諾を決定。在スイス加瀬公使、在スウェーデン岡本公使を通じ、米・英・ソ・中に、ポツダム宣言の無条件受諾を通告する。
- 8月15日 日本国民に向けて玉音放送
- 8月18日~8月31日 ソ連、カムチャツカ半島方面から千島列島に侵入する(占守島の戦い)。以後、得撫島以北の北千島を占領。
- 8月25日 南樺太を占領
- 8月28日~9月 1日 択捉・国後・色丹島を占領
- 9月 2日 連合国への降伏文書に調印(一般命令第一号発令。本命令により、南樺太と千島列島の日本軍は赤軍極東戦線最高司令官に降伏することが義務付けられた)。
- 9月 3日~9月 5日 赤軍が歯舞群島を占領
南樺太と千島列島のソ連軍占領は連合軍「一般命令第一号(陸、海軍)」にしたがって行われた。トルーマンの「一般命令第一号」原案では、千島列島の日本軍がソ連に降伏すると記載されてなかったため、スターリンは、ヤルタ協定に基づき、赤軍に対し降伏させるようトルーマンに要求。トルーマンはスターリンの要求を受け入れた。しかし、同時にスターリンが要求した、北海道東北部の占領要求は、ヤルタ協定になかったので拒否した。他方、米国側はソ連に対し、千島列島中部の一島に米軍基地を設置させるよう要求したが、スターリンに拒否された。
翌1946年1月、連合軍最高司令官訓令SCAPIN第677号により、日本政府は、琉球・千島・歯舞群島・色丹島・南樺太などの地域における行政権の行使を、正式に中止させられた。その直後、ソ連は占領地を自国の領土に編入している。サンフランシスコ平和条約に調印していないソ連が占領した島々を、ロシアが現在も実効支配している。
サンフランシスコ講和条約(日本国との平和条約)
第二章 領域 第二条(c) (和訳原文)
- 日本国は、千島列島並びに日本国が千九百五年九月五日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。
日本はこの条約でソ連の調印のないまま千島列島を放棄する。条約では千島列島の範囲は明確になっていないが、アメリカ全権のダレスは歯舞群島は千島に含まないとするのが合衆国の見解とし、連合国内で合意をみない旧日本領土の最終処分については22条に基づいて国際司法裁判所に付託することができるとした[45]。日本全権の吉田は、南樺太および千島列島は日本が侵略によって奪取したとのソ連全権の主張は承諾できない、としたうえでソ連による北方占領地の収容を非難する根拠として日露和親条約や千島樺太交換条約での平和的な国境の画定を指摘し、南樺太と千島列島のソビエトによる収容が一方的であると非難し、かつ歯舞・色丹については「日本の本土たる北海道の一部を構成する」と、国後・択捉については「日本領であることについて、帝政ロシアも何ら異議をはさまなかった」とそれぞれ説明している[46]。
国内では、サンフランシスコ講和条約締結前の1950年3月8日の衆議院外務委員会にて島津久大政務局長が[15]、同条約締結直後の1951年10月19日の衆院特別委員会にて西村熊雄条約局長が[17]、同年11月6日の参院特別委員会に草葉隆圓外務政務次官が[16]、それぞれ「南千島は千島に含まれている」と答弁している(但し、西村・草葉は歯舞・色丹に関しては千島列島ではないと答弁した)。この答弁がされていた当時は条約を成立させて主権を回復することが最優先課題であり、占領下にあって実際上政府に答弁の自由が制限されていた[47]。この説明は国内的に1956年2月に森下國雄外務政務次官によって正式に取り消され[18]、その後、日本は「北方領土は日本固有の領土であるので、日本が放棄した千島には含まれていない」としており、1956年頃から国後・択捉を指すものとして使われてきた「南千島」という用語が使われなくなり、その代わりに「北方領土」という用語が使われ始めた。日本政府は1964年に国後・択捉に対する「南千島」という旧来の呼称に代え、四島を返還要求地域として一括する「北方領土」という用語を使用するよう指示した[48][49]。
この条約では日本が放棄した旧領土の帰属先については意図的に除外されており、ソビエト全権のグロムイコはこの英米案からなる講和条約案を非難している[50]。これはすでに朝鮮半島で始まっていた東西陣営による角逐(朝鮮戦争、あるいは封じ込め政策)の緊張のなかで、北方占領地や台湾・沖縄・小笠原などが焦点となったためで、ソビエトは米国による西南諸島・台湾・小笠原諸島の国連信託統治の形での実効支配についても非難している[51]。
また、第二条(c)のほかに、北方領土問題に関する条文として、第二十五条と第二十六条が存在する。 現在、サンフランシスコ講和条約においては以下の条文を適用することによりロシア(旧ソ連)による南樺太・千島列島・色丹島・歯舞群島の領有は否定されているというのが、この条約を批准した日本など46カ国の立場である。
第七章 最終条項 第二十五条 (和訳原文)
- この条約の適用上、連合国とは、日本国と戦争していた国又は以前に第二十三条に列記する国の領域の一部をなしていたものをいう。但し、各場合に当該国がこの条約に署名し且つこれを批准したことを条件とする。第二十一条の規定を留保して、この条約は、ここに定義された連合国の一国でないいずれの国に対しても、いかなる権利、権原又は利益も与えるものではない。また、日本国のいかなる権利、権原又は利益も、この条約のいかなる規定によつても前記のとおり定義された連合国の一国でない国のために減損され、又は害されるものとみなしてはならない。
つまり、ロシア(旧ソ連)はサンフランシスコ講和条約に調印・批准していないのでこの条約上の連合国には該当せず、当該条約はそのような国に対していかなる権利、権原又は利益も与えられてはおらず、すなわち、日本が放棄した千島列島や南樺太をロシアが領有することは認めないということである[52]。
さらに、日本がこの条約に違反した場合の罰則も規定されている。
第二十六条 (和訳原文)
- 日本国は、千九百四十二年一月一日の連合国宣言に署名し若しくは加入しており且つ日本国に対して戦争状態にある国又は以前に第二十三条に列記する国の領域の一部をなしていた国で、この条約の署名国でないものと、この条約に定めるところと同一の又は実質的に同一の条件で二国間の平和条約を締結する用意を有すべきものとする。但し、この日本国の義務は、この条約の最初の効力発生の後三年で満了する。日本国が、いずれかの国との間で、この条約で定めるところよりも大きな利益をその国に与える平和処理又は戦争請求権処理を行つたときは、これと同一の利益は、この条約の当事国にも及ぼさなければならない。
アメリカは、日本がソ連との間で色丹・歯舞の二島「譲渡」で妥協しようとした際、上記の条文を根拠として、沖縄の返還に難色を示した[53]。
日ソ平和条約交渉と日ソ共同宣言
日ソ共同宣言(昭和三十一年条約第二十一号) 9
- 日本国及びソヴィエト社会主義共和国連邦は、両国間に正常な外交関係が回復された後、平和条約の締結に関する交渉を継続することに同意する。ソヴィエト社会主義共和国連邦は、日本国の要望にこたえかつ日本国の利益を考慮して、歯舞群島及び色丹島を日本国に引き渡すことに同意する。ただし、これらの諸島は、日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との間の平和条約が締結された後に現実に引き渡されるものとする。
1955年6月、松本俊一を全権代表として、ロンドンで、日ソ平和条約交渉が始まった。当初、ソ連は一島も渡さないと主張していたが、8月9日、態度を軟化させ、歯舞・色丹を日本領とすることに同意した。松本はこれで、平和条約交渉は妥結すると安堵したが、日本政府は、国後・択捉も含めた北方四島全てが日本領であるとの意向を示したため、交渉は行き詰まった。
1956年7月、重光葵外相を主席全権、松本を全権として、モスクワで、日ソ平和条約交渉が再開された。当初、重光は四島返還を主張したが、ソ連の態度が硬いと見るや、8月12日、歯舞・色丹二島返還で交渉を妥結することを決心し、本国へ打診。しかし、当時、保守合同直後の与党には、派閥間の思惑もあり、重光提案を拒否、日ソ平和条約交渉は膠着した。さらに、8月19日に重光外相はロンドンで行ったアメリカのダレス国務長官との会談の席上、ダレスに択捉島、国後島の領有権をソ連に対し主張するよう強く要求される。この中でダレスは「もし日本が国後、択捉をソ連に帰属せしめたなら、沖縄をアメリカの領土とする」と述べたとされる[54]。なお、この会談の記録は外務省に保管されており、鈴木宗男が2006年2月に、松本の書籍の内容が事実であるかどうかを政府に質問したが、政府は今後の交渉に支障を来たす恐れがあるとして、明確な回答を一切避けた[55]。
保守党内部の反鳩山勢力の思惑や米ソ冷戦下の米国の干渉などにより、平和条約交渉は完全に行き詰まった。
1956年、かねて日ソ関係正常化を政策目標に掲げていた鳩山一郎首相は局面を打開すべく自ら訪ソしようと考えた。領土問題を棚上げにして戦争状態の終了と、いわゆるシベリア抑留未帰還者問題を解決する国交回復方式(アデナウアー方式)に倣うものとし、この場合、国交回復後も領土問題に関する交渉を継続する旨の約束をソ連から取り付けることが重要だった。鳩山訪ソに先立ち松本俊一が訪ソし1956年9月29日グロムイコ第一外務次官との間で「領土問題をも含む平和条約締結交渉」の継続を合意する書簡を取り交わした。
同10月12日に鳩山首相が訪ソ、ブルガーニン首相らと会談。実質的交渉は河野一郎農相とフルシチョフ党第一書記との間で行われた。日本側は歯舞色丹の「譲渡」と国後択捉の継続協議を共同宣言に盛り込むよう主張したが、フルシチョフは歯舞色丹は書いてよいが、その場合は平和条約交渉で領土問題を扱うことはない、歯舞色丹で領土問題は解決する旨主張した。18日午後の会談で、河野が提示した案文に対しフルシチョフは平和条約締結交渉の継続を意味する「領土問題を含む」との字句を削除したいと述べ、河野はソ連側からの案文をそのまま採用したものだとして抗弁、河野は総理と相談するとして辞し、同日中にフルシチョフを再訪し字句削除の受け入れを伝えた。ただし日本側は「松本・グロムイコ書簡」を公表することで説明をつける考えであり、ソ連側の了解を得て公表された[56]。
領土問題の交渉過程
1956年日ソ共同宣言では歯舞、色丹を平和条約締結後に日本に引き渡す取り決めを結ぶ。日ソ共同宣言の締約によりソ連の賛同を得て日本は国際連合に加盟を果たすことになるが、平和条約交渉における領土問題の取り扱いについて日ソ間で直ちに認識の違いが露呈してくることとなる。1960年、日米安全保障条約の改正によりソ連は領土問題の解決交渉を打ち切り、領土問題は日本側の捏造でしかなく、当初から領土問題が存在しないことを表明(日本政府ならびに外務省は、ソ連は領土問題は解決済みと捉えている、としている)。日本もソ連との間では、まず北方領土問題が解決しなければ何もしないとの立場をとった。
1973年10月に田中角栄首相とブレジネフ共産党書記長との会談を経て、「第二次大戦の時からの未解決の諸問題を解決して、平和条約を締結する」との日ソ共同声明が出された。日本政府はこの共同声明において田中・ブレジネフ会談においてブレジネフ共産党書記長から領土問題が未解決であることの言質を得たと認識しているが、日ソの共同文書には領土問題は明記されなかった。
1991年4月にゴルバチョフ大統領が来日し、領土問題の存在を公式に認めた。1992年3月に東京の外相会談で、ロシア側が北方領土問題において歯舞・色丹を引き渡す交渉と国後・択捉の地位に関する交渉を同時並行で行った上で平和条約を締結することを含めた秘密提案を行ったものの、四島返還の保証はなかったことで日本側は同意しなかった。1993年10月、日露首脳が会談をし、日露首脳は北方四島の帰属問題について両国間で作成された文書や法と正義の原則に基づき解決することで平和条約を早期に締結するよう交渉を続けることを日露共同文書で明記した東京宣言が発表された。1997年11月のクラスノヤルスク合意では、東京宣言に基づいて2000年までに平和条約を締結するよう全力を尽くすことで日露首脳が合意した。
1998年4月、日露首脳会談で日本側は「択捉島とウルップ島の間に、国境線を引くことを平和条約で合意し、政府間合意までの間はロシアの四島施政権を合法と認める案」を非公式に提案(川奈提案)。1998年11月、日露首脳会談でロシア側は「国境線確定を先送りして平和友好協力条約を先に結び、別途条約で国境線に関する条約を結ぶ案」が非公式に提案された(モスクワ提案)。2001年3月、日露首脳会談で日ソ共同宣言が平和条約交渉の基本となる法的文書であることを確認し、1993年の東京宣言に基づいて北方四島の帰属問題の解決に向けた交渉を促進することを明記した文書に両首脳が合意した(イルクーツク声明)。
日本側は四島返還が大前提であるが、ロシア側は歯舞・色丹の引き渡し以上の妥協はするつもりがなく、それ以上の交渉は進展していない。
2005年11月21日の未明に、訪日したプーチン大統領と小泉純一郎首相(当時)の間で日露首脳会談が行われた。これによって領土問題の解決を期待する声もあったが、領土問題の交渉と解決への努力の継続を確認する旨を発表したのみに留まり、具体的な進展は何も得られなかった。また、ロシア側も、原油価格の高騰による成長で、ソビエト崩壊直後のような経済支援や投資促進のカードを必要としなくなりつつあり、またラトビア、エストニアなどソ連併合時に国境を変更させられた両国との国境問題とも絡み合い、北方領土問題の解決を複雑にしている。
2009年2月18日サハリンでロシアのメドヴェージェフ大統領と日本の麻生太郎総理大臣が会談し、領土問題を「新たな、独創的で、型にはまらないアプローチ」の下、我々の世代で帰属の問題の最終的な解決につながるよう作業を加速すべく追加的な指示を出すことで一致した[57]。
近年、ロシアはクリミア半島を独断で編入したことにより、現在でも欧米諸国からの経済的制裁を受け、さらに原油価格の大幅な下落により、国力が徐々に低下しつつある。それによりロシア側としても領土問題を解決しようという姿勢が再び活発化している。[要出典]
北方領土に関する日露の枠組み
戦後になると、北方領土を実効支配したソ連が、周辺海域で操業する日本の漁船を領海侵犯等の理由で取り締まるようになった。
日本政府は上述のトラブルを避けて、北方四島の海域で日本の漁船が操業できるようにするための協定が日ロ(日ソ)の間で締結されるようになった。
1963年に発効した「日ソ貝殻島昆布採取協定」(日ロ貝殻島昆布採取協定)は民間協定という形で、歯舞群島の貝殻島付近において、日本の漁業者が昆布漁をできるようにする取り決めで、北海道水産会という民間団体とソ連(ロシア)の関係当局とが毎年話し合って収穫できる昆布の量を決め、採取権料をソ連(ロシア)側に支払って漁を行う内容になっている。
日ソが200海里漁業水域を設定したことに伴い、それぞれ相手国200海里水域内で行う漁業についての交渉が行われ、1978に日ソ漁業暫定協定とソ日漁業暫定協定が同年12月に締結され、発行された。
1985年に発効した日ソ地先沖合漁業協定(日本国政府とソヴィエト社会主義共和国連邦政府との間の両国の地先沖合における漁業の分野の相互の関係に関する協定)は、日ソ漁業暫定協定とソ日漁業暫定協定の一本化し、両国政府が自国の二百海里水域における他方の国の漁船による漁獲を許可することのほか、相手国の漁船のための漁獲割り当て量等の操業条件の決定の方法、許可証の発給、漁船の取り締まり、漁業委員会の設置等について規定されている。有効期間は3年間とし、その後はいずれか一方が終了通告を行わない限り、1年ずつ自動的に延長される。日本側は水域の資源管理という名目で、協力費をソ連(ロシア)側に支払っている。
これらの協定は、1991年12月以降、国家としてソ連を引き継いだロシア連邦との間で引き続き有効である。
1998年には、北方四島の12海里水域(領海)における日本漁船の安全操業の枠組みを定める「日本国政府とロシア連邦政府との間の海洋生物資源についての操業の分野における協力の若干の事項に関する協定」(北方四島周辺水域における日本漁船の操業枠組み協定)が発効された。北方4島周辺の12カイリ水域(領海)で日本の漁業者が漁をできるようにする取り決めであり、毎年協議が行われ、操業条件が話し合われる。この協定には違法操業に対する取締りの規定はない。有効期間は3年間とし、その後はいずれか一方が終了通告を行わない限り、1年ずつ自動的に延長される。日本側は水域の資源管理という名目で、協力費をロシア側に支払っている。
2015年6月にロシアで排他的経済水域内でのサケ・マスの流し網漁を全面的に禁止する法案を可決し、2016年から施行されたが、北方領土におけるロシアの排他的経済水域内の漁業において流し網漁に依存する日本漁船に大きな影響が出ると見られている[58]。
日本国民の北方領土関係者およびロシア人北方領土居住者に対するビザなし渡航が1991年の日ソ首脳会談で提案され、1992年4月から実施されている。
1991年12月のソ連崩壊に伴って、ロシアを含む旧ソ連諸国と日本とで1993年に「支援委員会の設置に関する協定」が締結・発効された。支援委員会は旧ソ連諸国の市場経済への移行を促進するメカニズムとして設置され、ロシアが実効支配する北方四島においては市場経済への移行を促進するためとして北方四島の診療所や発電所や緊急避難所兼宿泊施設に支出された[59]。2002年の鈴木宗男事件発覚により、支援委員会の不透明さが問題視されて廃止された。
また、日本政府は北方四島の地区病院への医療器具や薬品の提供、北方四島の医師・看護師等の研修受け入れ、北方四島の患者の北海道の病院受け入れ[* 3]という形で北方四島へ医療支援をしている[60]。
北方領土の現状
日本の行政区分下の北方領土
北方領土四島には色丹村・泊村・留夜別村・留別村・紗那村・蘂取村・歯舞村の7村が地方自治体として存在していた。1959年に歯舞村が根室市と合併したため、歯舞村であった地域は現在、根室市に属している。
1983年4月1日では「北方領土問題等の解決の促進のための特別措置に関する法律」(昭和57年8月)第11条により日本国民の誰でも本籍を置くことが可能となっている。これは上記6村が元来北海道根室支庁に属する自治体であったため、各村自治体が実効的な存在を喪失して以降も上位の地方自治組織が機能しているためである。現在この手続きは根室市役所が行っている。なお、樺太や北千島に関しては、すでに樺太庁や北千島関連役所が消滅していることに加え、帰属が未確定であることを日本政府及び外務省が公認しているため、このような措置は行われていない[* 4]。1982年3月31日までは、歯舞村を除く6村については本籍を置くことができなかった[61]。
日本側の行政区分の一覧
周辺海域
海上保安庁が開示している「日本の領海等概念図」では、北方領土四島全てが領海に含まれている[62]。
日本小型船舶検査機構が提供する航行区域の水域図では北方領土四島周辺にも、小型漁船であれば船舶検査が不要となる12海里のラインが示されており[63]、東沸湖などの湖には二級小型船舶操縦士を取得すれば航行可能な平水区域の設定も確認できる[64]。
ロシアの行政区分下の北方領土
現在、ロシアの施政権が行使されている状態にある北方四島は、ロシアの行政区分ではサハリン州に属している。国後、択捉、色丹島の現人口は合計約1万7000人で、これはソ連侵攻時に住んでいた日本人とほぼ同規模という。歯舞群島にはロシア国境警備隊のみが駐屯している[65]。
2017年 色丹島に経済特区を設置。
2016年 国後島に国際空港を整備。
サハリン州は開発が遅れたためにカニやウニなどの魚介類を始め、ラッコやシマフクロウなど、北海道本島をはじめとした周辺地域では絶滅あるいはその危険性が高い生物の一種の「聖域」状態となっている。ロシア政府は北方領土を含む千島一帯をクリリスキー自然保護区に指定して、禁猟区・禁漁区を設定するなど、日本の環境保護行政以上の規制措置が取られている。だが、ソ連崩壊後には密猟などが後を絶たず、一部の海産物は日本国内に密輸で流れているという説もある。
現在、一部の環境保護団体の間には北方領土を含む千島一帯の世界遺産登録を求める主張があり、また日本の環境保護行政は水産関係団体や開発業者に対して甘すぎるため、領土返還後には貴重な生態系が破壊される恐れがあるとして返還を危惧する人達もいる。一方、日本国内にも領土問題とは一線を画して、北方領土の対岸で先に世界遺産に登録されている知床とともに、日露両国が共同で一つの世界遺産地域を作っていくべきである、という声もある。だが、世界遺産に登録された状態の北方領土が返還された場合、旧島民の持つ土地所有権や漁業権をどうするのかについて不透明であるために、何らかの特別法制定が必要となる可能性がある。
現在、ビザなし交流を除くと、日本人が北方四島を問題なく訪問するには、ロシアのビザを取得して訪問しなければならない。ロシアのビザ取得後、稚内または新千歳、あるいは函館からサハリンに渡り、ユジノサハリンスクで北方四島への入境許可証を取得し、空路または海路でアクセスすることになる。この方法はロシアの行政権に服する行為であり、ロシアの北方四島領有を認めるとして日本政府が1989年以来自粛を要請している。しかし自粛要請に法的強制力は存在しないため北方四島のロシア企業との取引・技術支援や開発のため、多くの日本人ビジネスマンや技術者がロシアのビザを取得し、北方四島に渡航している。日本政府としてはこの方法での北方四島への渡航者に対して特別な対応などはしていない[66]。
ロシアの北方領土の意義
ロシア側が北方領土を固有の領土とし、領土問題を否定する理由については、以下の要因があげられる。
日本政府ならびに外務省は、ロシア連邦国内の一般国民レベルでは、北方領土問題の存在自体があまり知られておらず、これを踏まえてロシア政府ならびに識者が、ロシアの北方四島領有は国民によって支持されていると主張している、と述べている。だが、実際にはロシア国内の学校では、ロシアの北方四島領有は第二次世界大戦の結果承認された正当な物であり、北方四島はロシア固有の領土であると教えている。このため、ロシア国内にて、北方領土問題は日本政府の一方的な主張に過ぎず、正当性の無い物である、という認識が一般化している。
またオホーツク海には潜水艦発射弾道ミサイル搭載型潜水艦(SSBN)が配備されており、ロシアの核抑止力維持のため戦略的に重要な位置づけにある[67]。地政学的または軍事的見解に因れば、宗谷海峡(ラペルーズ海峡)、根室海峡(クナシルスキー海峡)をふくめ、ロシアは旧ソ連時代にオホーツク海への出入り口をすべて監視下に置いており、事実上そこから米軍を締め出すことに成功しているが、国後・択捉両島を返還してしまえば、国後・択捉間の国後水道(エカチェリーナ海峡)の統括権を失い、オホーツク海に米軍を自由に出入りさせられるようになってしまう。国後水道は、ロシア海軍が冬季に安全に太平洋に出る上での極めて重要なルートでもあり、これが米国(の同盟国である日本)の影響下に入ることは安全保障上の大きな損失となる。ロシア連邦運輸省のエゴーロフは連邦最高総局のレポートのなかで南クリル諸島の海域が凍結しない海峡として太平洋への自由航行のために重要であると報告している[68][* 5] 。
北方領土には、石油に換算しておよそ3億6千万トンと推定される石油や天然ガス、世界の年間産出量の半分近い量の生産が見込まれるレニウムなど手付かずの豊富な地下資源が眠っており[69]、水産資源においても世界3大漁場の内の1つに上げられるほど豊富である[70]。ロシアの天然資源・環境省によると、これら北方領土周辺の資源価値は2兆5000億ドルに上ると推計されており[70]、これらの資源を巡る問題もまた北方領土の日本への返還を困難なものとしている[71]。
サンフランシスコ講和条約に対しても、ロシア側の主張は日本側のものとはかなり食い違っている。当時のソ連側から見れば、大戦当時ソ連・アメリカ・イギリス・中国は連合国であり、日本・ドイツ・イタリアの枢軸国とは敵対していた。枢軸国のイタリアやドイツが降伏した後、ソ連は連合国の求めに応じて対日参戦した。ヤルタ会談で千島・南樺太の割譲は米英ソの三者で合意されているし、ソ連も参加しているポツダム宣言を日本は無条件で受け入れ、1945年9月2日に降伏文書にも調印した。日本が降伏文書に調印する9月2日までは日本とソ連の間でまだ戦争は続いていたというのがロシアの立場であり、降伏文書調印以前の占領は合法であるという立場である。日露の間は平和条約の締結こそしていないがロシアは占領地区を既に自国へ編入している。さらに、サンフランシスコ条約で日本はクリル列島を放棄しており、クリル列島には、択捉島・国後島が含まれているのはもちろんのこと、色丹島・歯舞群島のいわゆる小クリル列島もまた含まれるとしている。そして、敗戦国である日本が領有権を主張している北方四島は第二次世界大戦の結果、戦勝国であるソ連が獲得した正当な領土であるため、日露間に領土問題は存在しないとしている。
ロシアはかねてから、日露平和条約締結により、北方二島「譲渡」に応じる、としている。が、日露平和条約締結には、日米安全保障条約の破棄ならびに米軍を始めとする全外国軍隊の日本からの撤退が第一条件となっており、二島「譲渡」は平和条約締結後、順を追って行うとしている。これは暗黙の了解ではなく、ソ連時代に度々公言されていたことである。そして日米安保問題に抵触していることから、アメリカが日露間に領土問題は存在する、として返還を要求するようになっている。
近年でこそ、ロシア社会において日本に対する認知度は高まってきているものの、いずれも文化的なものや経済的なものであり、その認識にしてもそれほど深いものではない。サハリン州では、当然日本に対する関心が深いが、現状の国境を承認することを前提として交流を深めようとするものである。
以前の日本側には「ロシアは経済的に困窮している。よってそのうちロシア側が経済的困窮に耐えられず日本側に譲歩し、北方領土を引き渡すであろう」という目論見があり、鈴木宗男失脚以後の日本の外務省の基本戦略は、北方諸島への援助を打ち切って困窮させるという、返還の世論を引き出そうとする「北風政策」であるが、問題は経済的に困窮しているかどうかといったレベルの事項ではない。事実、プーチン大統領就任以降驚異的な経済的発展を遂げたロシアは、2015年を目標年次とする「クリル開発計画」を策定し、国後、択捉、色丹島に大規模なインフラ整備を行う方針を打ち出した。結果、二島にあたる色丹島・歯舞群島はかつては無人島になっていたが、近年になって移住者及び定住者の存在が確認されており、ロシア側の主張する二島「譲渡」論も困難な状況となっていった。
現在[いつ?]ではロシア政府は、北方領土という領土問題自体が存在しない、といういわゆる領土問題非存在論にシフトしつつあり、2010年11月には二島「譲渡」論ならびにその根拠となっている日ソ共同宣言を疑問視する見解が外相から出されている[72]。2014年のクリミア侵攻以降は、欧米各国から制裁を受けるようになり、本格的に経済的な困窮するようになり、ロシア側としても日本との国交正常化を促進しようとする姿勢が活発化している。だが、いずれも領土問題が切り離されているため、交渉は一向に進んでいないのが現状である。2016年、日本はロシアとの交渉にあたって、四島一括返還を前提にした領土問題の解決を図る事を明らかにしているが、ロシアがこれに応じる事は無いといった、悲観的な意見も少なくない。[要出典]
日本の北方領土の意義
"北方四島は外国の領土になったことがない日本固有の領土であり、ソ連の対日参戦により占領され不法占拠が続けられている状態であり、この問題が存在するため戦後60年以上を経たにもかかわらず日露間で平和条約が締結されていない"、とするのが日本政府の見解である[73]。内閣府では「固有の領土である北方四島の返還を一日も早く実現するという、まさに国家の主権にかかわる重大な課題」としている[74]。根室・釧路の漁民はソビエト・ロシアの国境違反にもとづく海域警備行動により銃撃を受け死傷者を出している[75]。
北方領土問題についてのロシアの姿勢
2000年以降のロシアの北方領土問題への対応について列記する。
- 2006年8月16日 - 第31吉進丸事件。
- 2010年2月9日 - ロシア外務省が「北方領土返還大会」に不快感を表明。
- 2010年7月 - ロシア軍の択捉島における大規模軍事演習。
- 2010年7月 - ロシア議会でロシア対日戦勝記念日法案の成立。
- 2010年11月1日 - ロシアの大統領ドミトリー・メドベージェフが、国家元首として初めて国後島訪問。
- 2011年5月 - 副首相 セルゲイ・イワノフが択捉島を訪問。
- 2011年5月 - 3人の韓国国会議員の国後島訪問。
- 2011年9月11日 - 安全保障会議書記ニコライ・パトルシェフが、国後島と歯舞群島の水晶島を訪問。
- 2012年1月26日 - 外相セルゲイ・ラブロフ、インタビューで「"北方領土は第二次大戦の結果、法的根拠に基づきロシア領となった"という現実を認めるよう日本に要求する」と発言し、強硬な態度を示した。2016年5月31日にも同様の発言をした[76]。
- 2016年11月22日 - 日露首脳会談に先立ち新型対艦ミサイルを配備[77][78]。
- 2016年12月15日 - 安倍晋三首相とウラジーミル・プーチン大統領が長門市で会談し北方領土での共同経済活動に向けた協議の開始を合意[79]。
- 2017年2月8日 - ロシアのメドベージェフ首相が2017年2月8日に署名した政府令によれば、歯舞群島の秋勇留島近くと色丹島近くの5つ島には、第2次大戦の日本の降伏文書にソ連代表として署名したデレビヤンコ将軍、旧日本軍との戦いで知られるソ連のグネチコ将軍、ロシアサハリン州元知事ファルフトジノフ氏、ソ連の外交官グロムイコ氏、ソ連艦隊の女性船長シェチニナ氏の名前がつけられた。[80][81][82]。
- 2017年2月22日 - 年内に5000人規模の新師団をクリル諸島に配備する計画を発表[83]。
択捉島のロシア空港建設
2014年、択捉島の中央部に民間空港としてヤースヌイ空港が開港した。滑走路の全長は約2,300メートルで、サハリン・ユジノサハリンスクとの間で定期便が運航されている。一方空軍は旧日本軍が建設した空港を使用している。
2018年1月30日、メドベージェフ首相は、ロシア空軍がヤースヌイ空港を基地としても使用する軍民共用化を許可する政令に署名した[84]。
国後島、択捉島におけるロシアによるミサイル及び師団の配備
2016年11月22日、ロシア海軍太平洋艦隊機関紙『ヴォエバヤ・ヴァーフタ』は、択捉島に3K96 リドゥートに代わる対艦ミサイルP-800地上発射型「バスチオン」を配備したこと、及び従来対艦ミサイル配備のなかった国後島にKh-35地対艦ミサイル型3K60バルの移送がなされたことを明らかにした[85][86]。
2017年2月22日には、セルゲイ・ショイグ国防相により、クリル諸島に同年内に5000人規模の師団が新たに配備される計画になっていることが明らかにされ、日本政府側から懸念が出された[87]。
解決策
当事国が領土の帰属問題について合意することが困難な際、国連機関である国際司法裁判所を利用することができる。しかし国際司法裁判所の制度によれば、付託するためには紛争当事国両国の同意が必要であり、仮に日本が提訴した場合、ロシアが国際司法裁判所への付託に同意しない限り審議は開始されない。過去の北方領土問題関連の国際司法裁判所をめぐる外相間交渉については上記「北方領土関係史」の1972年の箇所を参照のこと。 個別交渉の場合、ソビエト・ロシアはサンフランシスコ講和条約に参加していないため、北方領土問題解決には、ロシアの同意が不可欠となっている。これに対して下記各項目のような提案や交渉が行われてきた。
四島返還論
日本の政府が公式に主張する解決策である。「サンフランシスコ平和条約にいう千島列島のなかにも(国後択捉)両島は含まれないというのが政府の見解」である[88]。日露和親条約から樺太・千島交換条約を経過して、ソビエトによる軍事占領に至るまでは北方四島は一度も外国の領土となったことはなく、日露間の平和的な外交交渉により締約された国境線である。
カイロ宣言[* 6]の趣旨においてこの四島を「占領」状態ではなく「併合」宣言したことは信義に対する著しい不誠実であり、ポツダム宣言に明示されている放棄すべき領域がカイロ宣言を指定している以上、「千九百十四年ノ第一次世界戦争ノ開始」以前からの領土である千島列島、あるいは少なくともソビエトの署名がないサンフランシスコ講和条約に立脚したとしても「一度も外国の領土になったことのない」日本固有の領土である北方四島をソビエトが併合宣言したことは承認できない、とする。
連合国は、第二次大戦の処理方針として大西洋憲章やカイロ宣言で領土不拡大の原則を宣言しており、ポツダム宣言にもこの原則は引き継がれている。この原則に照らすならば、日本固有の領土である北方領土の放棄を求められる筋合いはなく、またそのような法的効果を持つ国際的取決めも存在しない。
日本は「北方四島に対する我が国の主権が確認されることを条件として、実際の返還の時期、態様については、柔軟に対応する」「北方領土に現在居住しているロシア人住民については、その人権、利益及び希望は、北方領土返還後も十分に尊重していく」とする四島返還論を主張している[89]。
二島譲渡論
日ソ共同宣言に基づき、宣言通りに平和条約を締結後に歯舞・色丹の二島だけを「引き渡す」ことによって、領土問題を終結するとするのが「唯一の法的根拠がある」[90]解決策だとする。ロシア側は、"この解決策は「返還」にはあたらず、「善意に基づく譲渡」に該当する"との立場を取っている。
ロシア側の根拠は、"日本は既にサンフランシスコ講和条約によって、北方四島を含む千島列島の領有権を放棄しているため、旧ソビエトの領有宣言により、北方領土の領土権はすでにロシアにある"というものである。サンフランシスコ講和条約の第2条(c)で日本は千島列島を放棄している。ロシア側はこの千島列島の定義には北方四島が含まれるとする。その根拠として日本が署名した樺太・千島交換条約のフランス語の原文が示される。この認識の上で、"両国の平和条約締結および、ロシアの千島列島に対する領土権を国際法上で明確に確立するという国益のためならば、平和条約を締結後に歯舞・色丹の二島を日本側に「引き渡し」てもよい"とするのがロシア側の立場である。また"この立場は日ソ共同宣言で日ロの両国が確認しているので、これから遊離することはあり得ないだけでなく、四島「返還」を求める日本は不誠実である"とロシア側は主張している。
実際に当時の全権委員の松本俊一の回想録『モスクワにかける虹』や、原貴美恵による研究においても[16]、日ソ共同宣言がこの解決策を意識したものであったと述べられている。しかし領土に関する国会の情勢は、GHQによる占領下の国会論議においてすでに、沖縄や小笠原などを含め、のちの民社党議員を中心とした日本社会党や日本共産党などの野党議員がこの問題を軸に、現実的外交[* 7]を標榜し右顧左眄する吉田内閣から以降の政権党(自由党)を糾弾する構図であり[91]、左派・右派議員あるいは朝野(与野党)を問わない活動家による四島返還を主張する機運が高まり、四島返還要求が日本の国策になった。
またアメリカ側は、国務長官ダレスがロンドンにおける重光外相との会談のなかで国後択捉に関して忠告を与え、仮に残り二島の返還を放棄するなら米国としても沖縄を米国領として併合することになるとの主旨のメッセージを日本側に伝え[92]二島譲渡を念頭にした鳩山外交は内外からの圧力により挫折することになり、日ソ共同宣言と引き換えに承認された国際連合への加盟を花道に鳩山内閣は総辞職となった。
なお、旧ソビエトはサンフランシスコ講和条約に署名しておらず、同条約からの利益をえることは25条により拒否されている(先述)。結果として、日本はロシアとは未だに平和条約を締結していない。さらに、サンフランシスコ講和条約ならびに日ソ共同宣言では日本が放棄した千島列島および南樺太がどの国に帰属するのかは明記されておらず、不明のままである。これに対してロシアはサハリン州を設置し、千島列島および南樺太の領有を主張しているが、国際法上は法的根拠が無いとされている。
ロシア側は、"日本の領有権そのものがすでに消滅しており、両国の平和条約の締結における条件は日ソ共同宣言で確認済みであり、この合意を破棄した日本に問題の根源がある"と見なしており、現在では後述の日本の領土返還主張全面放棄がよりよい解決策であるとの見解を示すようになっている。これに対して、日本側は"北方領土の全ての「領有権」を主張する立場"を取っており、両国の交渉は平行線をたどる状況にある。
四島内を対象にした議論・言及
ロシア側は日本がすでに北方領土の領有権を放棄していると見なしており、平和条約締結後にその見返りとしてロシア領である二島を「引き渡す」という案以外を認めていない。よってこれらの妥協案は、基本的に日本が国際法上未だに領有権を保持しているという前提に立った上で日本国内で議論されている論である。以下はその主なものである。
- 二島先行(段階的)返還:日ソ共同宣言に基づき、歯舞・色丹の二島を「譲渡」することによって平和条約を締結するが、さらに日本側はその後に残りの二島の返還の交渉を続けるとするもの。ロシア側は、日本の領土権はサンフランシスコ条約によって破棄されているとみなしており、二島は返還でなく平和条約の締結の見返りとしての「譲渡」とみなしている点が問題である。
- 三島返還論:国後島を日本領、択捉島をロシア領とすることで双方が妥協
- 共同統治論:択捉・国後の両島を日露で共同統治
- 面積2等分論:歯舞、色丹、国後の3島に加え、択捉の25%を日本に返還させ、択捉の75%をロシア側に譲渡
平和条約を締結した後に歯舞・色丹の両島を日本に「譲渡」することはロシアと日本の両国が認めている。ただし、ロシア側は既に領土問題は国際法上では解決済みとの立場をとる。日本側は平和条約締結後も残りの領土返還を要求すると主張しているので、これに対して、ロシア側にどれだけの譲歩を引き出すか、あるいは引き出すこと自体が可能なのかが、ほかの案での問題となる。つまり、残りの択捉・国後の両島への対応が争点となる一方で、両国の国際法上の認識そのものが争点となっている。
- 二島返還論
- 日本側においては主に「二島先行返還論」または「2+2方式」と称される案を指す。これは、日ソ共同宣言で日本への引き渡しが確認されている歯舞・色丹の二島を、ひとまず日本側に返還させ、残った択捉・国後の両島については、両国の継続協議とする案である。
- 「二島先行返還論」の支持者としては政治家の鈴木宗男や外交官の東郷和彦がいる。
- 一方ロシア側における二島「譲渡」論とはこれとは異なり、主に歯舞・色丹の「譲渡」のみでこの問題を幕引きさせようとする案のことであり、現在のロシア政府の公式見解である。
- →詳細は「二島返還論」を参照
- 三島返還論
- 別名を「フィフティ・フィフティ」と言い、中国とロシアが係争地の解決に用いた方式である。この方式では、領土紛争における過去の経緯は全く無視し、問題となっている領域を当事国で半分ずつ分割する。これを北方領土に形式的に当てはめると、国後島が日本領、択捉島上に国境線が引かれる、三島返還論に近い状態になる。岩下明裕(政治学者)はこの案を称揚しているが、もともとこの方式は、戦争により獲得した領土ではなく、単に国境をはさんだ2国のフロンティアがぶつかって明確な国境線が決め難かったケースに用いられたもので、北方領土問題には適用し難く、四島返還論に比べ実現する可能性が高いかどうかは不明瞭である。
- 三島返還論に言及した政治家には、鳩山由紀夫、河野太郎、森喜朗らがいる。鳩山の「三島返還論」は、2007年2月にロシアのミハイル・フラトコフ首相(当時)が訪日した際、音羽御殿での雑談の中で飛び出したものである。しかし鳩山は、2009年2月の日露首脳会談で、麻生太郎首相が「面積二等分論」に言及したことに、「国是である4島返還論からの逸脱」と激しく批判しており、主張を変えている。
- 共同統治論
- 「コンドミニウム」とも呼ばれ、近現代史上にいくつかの例がある[93]。成功例として代表的なものにはアンドラがあり、失敗例には樺太やニューヘブリディーズ諸島(現バヌアツ)がある。具体案としては、例えば、かつてのアンドラのように、日露両国に択捉・国後の両島への潜在主権を認めながらも、住民に広い自治権を与えることで自治地域とすることが考えられる。もし日露両政府が島の施政権を直に行使すれば、日露の公権力の混在から、樺太雑居地(1867-1875)のような混乱を招く可能性が指摘されている。このため、住民に自治権を認め、両政府が施政権を任せることで、そうした混乱を防ぐことが必要になる。また、両島を国際連合の信託統治地域とし、日露両国が施政権者となる方法も可能である。この場合は施政権の分担が問題となる。
- 共同統治論の日本側にとってのメリットとしては、難解な択捉・国後の領有問題を棚上げすることで、日本の漁民が両島の周辺で漁業を営めるようになることや、ロシア政府にも行政コストの負担を求められることなどが挙げられる。ロシア側にとってのメリットは、日本から官民を問わず投資や援助が期待でき、また、この地域における貿易の拡大も望めることである。共同統治論には、エリツィンや鳩山由紀夫、プリマコフ、ロシュコフ駐日ロシア大使(当時)、富田武(政治学者)らが言及している。法律的見地からも、日本国憲法前文2項[94]、ロシア連邦憲法9条2項[95]に合致する。
- 面積2等分論
- 「歯舞群島、色丹島、国後島のすべてを足しても、鳥取県と同等の面積を持つ択捉島の半分に満たないこと」から浮上した案。国後など3島に択捉の西部の旧留別村を加えれば半分の面積になる。
- 麻生太郎外務大臣が2006年12月13日の衆議院外務委員会での前原誠司・民主党前代表の質問で明らかにしている。麻生はその前年の2005年に解決を見た中露国境紛争を念頭に解決策として述べているが、中露間の国境問題はウスリー川をはさんだ中州の帰属をめぐる論争であること、同問題は中国側の人口増加に危機感を持ったロシア側が大きく譲歩した側面を持つこと、北方領土問題が旧ソ連側の日ソ中立条約の一方的蹂躙である経緯を度外視した発言であり、前原とのやり取りでは中露国境問題で最終争点となっていた大ウスリー島と、既に解決が成されているダマンスキー島を取り違え答弁している。
- 麻生は安倍内閣発足直後の報道各社のインタビューに「2島でも、4島でもない道を日露トップが決断すべき」と発言しており、この発言は世論の反応を見定めるアドバルーン発言の可能性が強い。現実にその直後、外務省との関係が深い福田康夫元官房長官が麻生案を激しく批判しており、この案が外務省主導ではなく、官邸も一部容認であることを窺わせる。福田は2006年7月に自民党総裁選から撤退して以降、公の場ではほとんど発言していない。2007年8月に外務大臣に再登板した町村信孝は麻生案を「論外だ!」と激しく批判。同領土問題の原則を、従来通り「4島返還」での問題の解決に当たることを強調した。麻生は2009年2月に樺太で行われた日露首脳会談でもこの案を遠まわしに示している。更に同年4月17日、谷内正太郎・元外務事務次官が麻生を後押しするかのように毎日新聞の取材で同案に言及。だが、世論の反発が強まると谷内は一転して発言を否定。翌・5月21日の参議院・予算委員会の参考人質疑においても自身の発言について否定している。一方、二島先行返還が持論の佐藤優は、谷内の面積二等分案には返還後の同領土について日米安保の不適用条項が盛り込まれている点に着目、同案に一定の理解を示している。
千島列島全島返還論
- "北千島を含めた千島列島全体が日本固有の領土であり、日本に返還されるべき"と主張する者たちもいる。日本共産党は、"千島・樺太交換条約は平和裏に締約されており、この樺太・千島交換条約を根拠に得撫島以北を含めた全千島の返還を要求できる"という千島列島全島返還の立場をとっている[96]。
スターリン時代の旧ソ連は、第二次世界大戦の時期に、バルト三国の併合、中国東北部の権益確保、千島列島の併合をおこないました。これは「領土不拡大」という連合国の戦後処理の大原則を乱暴にふみにじるものでした。このなかで、いまだにこの無法が正されていないのは、千島列島だけになっています。ヤルタ協定の「千島引き渡し条項」やサンフランシスコ条約の「千島放棄条項」を不動の前提にせず、スターリンの領土拡張主義を正すという正義の旗を正面から掲げて交渉にのぞむことが、何より大切であることを強調したいのであります。
(2005年2月7日 日本共産党委員長 志位和夫)[97]
日露領土問題の根源は、第2次世界大戦終結時におけるスターリンの覇権主義的な領土拡張政策にある。スターリンは、ヤルタ会談(1945年2月)でソ連の対日参戦の条件として千島列島の「引き渡し」を要求し、米英もそれを認め、この秘密の取り決めを根拠に、日本の歴史的領土である千島列島(国後、択捉(えとろふ)から[98]、占守(しゅむしゅ)までの全千島列島)を併合した。これは「カイロ宣言」(1943年11月)などに明記され、自らも認めた「領土不拡大」という戦後処理の大原則を蹂躙(じゅうりん)するものだった。しかもソ連は、千島列島には含まれない北海道の一部である歯舞群島と色丹島まで占領した。第2次世界大戦終結時に強行された、「領土不拡大」という大原則を破った戦後処理の不公正を正すことこそ、日ロ領土問題解決の根本にすえられなければならない。
(2010年11月9日 日本共産党委員長 志位和夫)[99]
- 民間では、千島及び歯舞諸島返還懇請同盟(現在の北方領土返還要求運動都道府県民会議)が千島全島および歯舞群島の返還を求めていたが[100]、後に国後、択捉、色丹及び歯舞群島のみの返還に主張が変化した。
ロシア側からの返還論
ロシア側にもごく少数ながら、北方領土を返還するべきだと主張する者がいる[101]。
グローバリゼーション問題研究所のミハイル・デリャーギンは、ロシア側が北方領土を返還した場合について言及したことがある[102]。
ノーベル文学賞作家であるアレクサンドル・ソルジェニーツィンは著書『廃墟のなかのロシア』の中で、「ロシア人のものである何十という広大な州を(ソ連崩壊時に)ウクライナやカザフスタンに惜しげもなく譲渡」する一方で「エセ愛国主義」から日本に領土を返還する事を拒んでいるロシア連邦政府を批判し、これらの島がロシアに帰属していた事は一度も無かった事を指摘、さらに日露戦争やシベリア出兵という日本側からの「侮辱」への報復といった予想されるロシア人からの反論に対しては、ソ連が5年期限の日ソ中立条約を一方的に破棄した事が「いっさい(日本に対する)侮辱には当たらないとでもいうのだろうか」と述べ、「国土の狭い日本が領土の返還要求を行っているのは日本にとり国家の威信をかけた大問題だからである」として日本側の主張を擁護。「21世紀においてロシアが西にも南にも友人を見つけられないとすれば、日露の善隣関係・友好関係は充分に実現可能である」とし、日本への北方領土返還を主張した[103]。
2010年11月15日、ロシアのベドモスチ紙は、台頭する中国に日本と協力して対抗するための第一歩として、歯舞群島・色丹島の引き渡しあるいは共同統治が必要であるとした[104]。なお、ソ連崩壊後の日露両国は、日ソ共同宣言に明記されている「平和条約締結後の歯舞群島・色丹島の日本への引き渡し」を再確認しており、国後・択捉両島の取り扱いが領土問題における焦点となっている。
返還に関する西欧の提言
ヨーロッパ議会は北方領土は日本に返還されるべきとの提言を出した。2005年7月7日づけの「EUと中国、台湾関係と極東における安全保障」と題された決議文の中で、ヨーロッパ議会は「極東の関係諸国が未解決の領土問題を解決する2国間協定の締結を目指すことを求める」とし、さらに日本韓国間の竹島問題や日本台湾間の尖閣諸島問題と併記して「第二次世界大戦終結時にソ連により占領され、現在ロシアに占領されている、北方領土の日本への返還」を求めている[105]。ロシア外務省はこの決議に対し、日ロ二国間の問題解決に第三者の仲介は不要とコメントしている。なお、ロシア議会では議論になったこの決議文は日本の議会では取り上げられなかった。
その他
- ソ連で第4代最高指導者を務めたニキータ・フルシチョフは、晩年に記した回想記の中で、平和条約締結後とはいえ歯舞・色丹の引渡しに合意したのは、漁民と軍人しか利用していない島で防衛的、経済的に価値が無く、これらを引き換えに日本から得られる友好関係は極めて大きいと考えており、「ソ連がサンフランシスコ講和条約に調印しなかったことは大きな失策だった」、「たとえ北方領土問題で譲歩してでも日本との関係改善に努めるべきであった」と後悔の念を述べ、「日本との平和条約締結に失敗したのは、スターリンのプライドとモロトフの頑迷さにあった」と指摘した[要検証 ]。この文章はフルシチョフ本人の政治的配慮によって回想記からは削除されていたが、ゴルバチョフ政権下のグラスノスチによって、1989年になってはじめてその内容が公開された[106]。
脚注
注釈
- ^ 1945年4月5日の通告により日ソ中立条約が即時に失効したのか条約の規定にある5年目の更改日46年4月25日まで有効だったのかについては定説はない。極東国際軍事裁判判決では「中立条約が誠意なく結ばれたものであり、またソビエト連邦に対する日本の侵略的な企図を進める手段として結ばれたものであることは、今や確実に立証されるに至った。」とソ連側の行為を合法的なものと規定している。詳しくは日ソ中立条約参照。
- ^ 外務省の公式見解北方領土問題に関するQ&A(平成22年2月1日)
「 戦前、北方四島には、約1万7千人の日本人が住んでいましたが、その全員が、1948年までに強制的に日本本土に引き揚げさせられました。 」 - ^ 名越健郎「北方領土の謎」(海竜社)145頁によると、北方四島の患者について日本の関係者の言葉として「三週間程度で治療が済み、再発しない疾患に限る。領土問題の環境整備に繋がり得る家庭の子弟が望ましい」としている。
- ^ 1945年までに樺太に本籍を置いていた戸籍は第二次世界大戦で大部分が喪失しているが、6村(遠淵村・知床村・富内村・元泊村・内路村・散江村)の戸籍簿については一部が外務省外地整理室に保管されており、戸籍の写しを交付している。旧樺太の本籍に関する戸籍簿は厳密には戸籍法上に規定する戸籍簿ではないが、便宜的に通常の戸籍請求手続に準じた扱いとなっている。
- ^
「 運輸省「サハリン管区」連邦総局長?M.エゴロフは、報告書のなかで次のような強い警告を発している。日本の領土要求に譲歩した場合、ロシアはフリザ海峡とエカチェリーナ海峡(それぞれ択捉海峡と国後水道)という凍結することのない海を失うことになる。つまりそれはロシアが太平洋へと自由に抜ける出口を失うということである。日本が通行に金銭的な対価を求めるか、通行そのものに制限を設けることは間違いない。 」 - ^ 「右同盟国ハ自国ノ為ニ何等ノ利得ヲモ欲求スルモノニ非ス又領土拡張ノ何等ノ念ヲモ有スルモノニ非ス」「右同盟国ノ目的ハ日本国ヨリ千九百十四年ノ第一次世界戦争ノ開始以後ニ於テ日本国カ奪取シ又ハ占領シタル太平洋ニ於ケル一切ノ島嶼ヲ剥奪スルコト並ニ満洲、台湾及澎湖島ノ如キ日本国カ清国人ヨリ盗取シタル一切ノ地域ヲ中華民国ニ返還スルコトニ在リ」
- ^ この時期においては平和条約は未締結であり休戦状態にすぎず、自主独立国として国連への参加がかなうどころか、GHQすなわち実質的な米国による軍事占領が規定事実として永続化する可能性さえあった。
出典
- ^ 北方領土の位置と面積 | 独立行政法人 北方領土問題対策協会
- ^ 「北方領土返還要求に関する政府の公式見解」昭和31年2月11日第24回国会衆議院外務委員会[1]
- ^ 「サンフランシスコ平和会議における吉田全権の発言」1951年9月8日
- ^ 伊勢国松坂船北海を漂流する
- ^ ベレズホフ 1995, p. 63.
- ^ a b ベレズホフ 1995, p. 66
- ^ a b c ベレズホフ 1995, p. 290
- ^ ベレズホフ 1995, p. 291.
- ^ a b ベレズホフ 1995, p. 292
- ^ ベレズホフ 1995, p. 293.
- ^ 長谷川毅 2006, p. 43.
- ^ 長谷川毅 2006, pp. 54–55.
- ^ 長谷川毅『暗闘 スターリン、トルーマンと日本降伏』(上)中公文庫、2011年、 p64 - 65
- ^ なお、同指令第6項には「この指令中のいかなる規定も、ポツダム宣言の第8項に述べられている諸小島の最終的決定に関する連合国の政策を示すものと解釈されてはならない」とある
- ^ a b 第007回国会 外務委員会 第7号「 … ヤルタ協定の千島の意味でございますが、いわゆる南千島、北千島を含めたものを言つておると考えるのです。ただ北海道と近接しておりますハボマイ、シコタンは島に含んでいないと考えます。…」
- ^ a b 平和条約及び日米安全保障条約特別委員会 第11号「…南千島は従来から安政條約以降において問題とならなかつたところである。即ち国後及び択捉の問題は国民的感情から申しますと、千島と違うという考え方を持つて行くことがむしろ国民的感情かも知れません。併し全体的な立場からすると、これはやつぱり千島としての解釈の下にこの解釈を下すのが妥当であります。…」
- ^ a b 第012回国会 平和条約及び日米安全保障条約特別委員会 第4号 「 … 條約にある千島列島の範囲については、北千島と南千島の両者を含むと考えております。しかし南千島と北千島は、歴史的に見てまつたくその立場が違うことは、すでに全権がサンフランシスコ会議の演説において明らかにされた通りでございます。…」
- ^ a b 1956年2月11日第24回国会 衆議院外務委員会における森下外務政務次官答弁「…サン・フランシスコ平和条約はソ連が参加しているものではないが、右平和条約にいう千島列島の中にも両島は含まれていないというのが政府の見解であります。…」
- ^ なお貝殻島は国連海洋法条約で言うところの低潮高地であり、島ではないため、同条約によると領海や排他的経済水域を有しない。
- ^ 日本外交主要文書・年表 第2巻. 鹿島平和研究所. 原書房. 1984年2月28日刊. 「【5】 沖縄・小笠原施政権回復決議および北方領土回復に関する衆議院決議 3月9日」p409
- ^ 衆議院・参議院および各委員会議録『官報(号外)』. 大蔵省印刷局
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- ^ 日本外交主要文書・年表 第2巻. 鹿島平和研究所. 原書房. 1984年2月28日刊. 「【18】 北方領土に関するソ連の対日口頭声明および対ソ回答 11月11日, 17日」pp1008-1011
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ロシアは胡錦濤国家主席の働きかけもあって今年7月、日本が第2次世界大戦の降伏文書に署名した9月2日を「終戦記念日」に制定。 - ^ 【露大統領北方領土訪問】ロ外相、日本の抗議に反発「大統領は行きたいところに行く」 産経新聞 2010年11月1日
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- ^ 第132回衆議院外務委員会7号(平成7年3月10日)、沖縄及び北方問題に関する特別委員会6号(平成7年5月31日)などには、サハリン州への領事館設置について、当時の河野洋平外務大臣に対する鈴木宗男議員の強い要請が見られる。
- ^ 第136回衆議院沖縄及び北方問題に関する特別委員会4号(平成8年6月13日)では、鈴木の強い要望に対し、池田行彦外務大臣「北方領土につきましては、私どもは我が国の固有の領土と考えておりますから、その地域に対するロシアの行政的な管轄権その他についてこれを認めるということはできませんけれども、今委員ご指摘のサハリンにつきましては、これは人的、経済的な交流も大分高まってきております」と答弁がある。
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- ^ 詳しくは無条件降伏の項参照
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- ^ 前文第2項「…全世界の国民が…平和のうちに生存する権利…」
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- ^ 「北方領土返還要求全国大会」での志位委員長のあいさつ[14]
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- ^ 千島及び歯舞諸島返還懇請同盟副会長 岸田利雄の発言
- ^ 「北方四島は日本のもの」 国後島に28年在住ロシア人が一人で表明(北海道新聞、2009年7月23日付の記事より)リンク切れにより2009年7月26日のアーカイヴ
- ^ 「ロシアが経済危機に瀕し、北方領土を引き渡す」@ロシア有力経済学者が指摘
- ^ 出典 著:アレクサンドル・ソルジェニーツィン、訳:井桁貞義・坂庭淳史・上野理恵『廃墟のなかのロシア』60頁 - 61頁、草思社 ISBN 9784794210074
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- ^ ニキータ・フルシチョフ『封印されていた証言』(草思社、1991年)。
関連項目
- ソ連対日参戦
- 北方対策本部(内閣府の特別の機関)
- 北方領土問題対策協会
- 千島歯舞諸島居住者連盟
- 日露関係史
- ロシアの歴史
- 北方領土問題等の解決の促進のための特別措置に関する法律
- 樺太
- 北方領土の日
- ロシアにおけるアイヌ
- 日米安全保障条約
- 日米地位協定
- 日本の外交問題
- 竹島 - 島根県隠岐郡隠岐の島町に所属する島。日本が領有権を主張しているが、1952年に韓国が武力によって占有し、実効支配を続けている。
- 尖閣諸島(中国方:钓鱼岛及其附島嶼群(魚釣島) - 沖縄県石垣市に所属する島。台湾と中国が領有権を主張し問題になっている。尖閣諸島問題を参照。
- その他
参考文献
- ワレンチン・M・ベレズホフ; 栗山洋児訳『私は、スターリンの通訳だった。 : 第二次世界大戦秘話』同朋舎出版、1995年。ISBN 4810422283。
- 長谷川毅『暗闘 : スターリン、トルーマンと日本降伏』中央公論新社、2006年。ISBN 4120037045。
- 安全保障問題研究会編『変わる日ロ関係』(文春新書)
- 和田春樹『北方領土問題――歴史と未来』朝日新聞社(朝日選書621)、1999年、ISBN 4022597216
- 木村汎『新版 日露国境交渉史 北方領土返還への道』角川学芸出版(角川選書)、2005年、ISBN 4047033863
- 長谷川毅『北方領土問題と日露関係』筑摩書房、2000年、ISBN 4480861114
- 岩下明裕『北方領土問題 : 4でも0でも、2でもなく』中央公論新社〈中公新書, 1825〉、2005年。ISBN 4121018257。(中公新書1825)
- 下斗米伸夫『北方領土Q&A80』(小学館文庫)、1999年、ISBN 4094040048
- アイヌ・モシリ自治区を取り戻す会『アイヌ・モシリ――アイヌ民族から見た「北方領土返還」交渉』御茶の水書房、1992年、ISBN 4275014863
- 齋藤孝滋『北方領土と日本国のあり方~領土問題から新たな国家・世界への変容を~』「日本語と日本人に関する言語・文化・教育・政策の提言」を行う会、PDF版、2011年
文献情報
- 「日露間領土問題の歴史に関する共同作成資料集」(The joint compendium of materials on the History of the Territorial Issue)日本国外務省・ロシア連邦外務省 1992年版[17] (PDF) 、2001年版[18] (PDF)
- 「北方領土問題の経緯」塚本孝(国立国会図書館ISSUE BRIEF No.697 2011.2.3)[19]
- 日ソ交渉に関する米国務省覚書(1956.9.7)[20]
- 日ロ関係に関する東京宣言(1993.10.13)[21]
外部リンク
日本の公的機関のサイト
上記以外のサイト
- 北方領土紛争は欠陥外交の好例 グレゴリー・クラーク(記事はジャパンタイムズに掲載されたものの再録)
- 日ロ関係の新しいアプローチを求めて 21世紀COEプログラム研究報告集 北海道大学スラブ研究センター
- 北方領土上陸記 スラブ研究センターニュース
- 北方同盟オンライン 社団法人北方領土復帰期成同盟(略称:北方同盟)
- Новости Курильских островов(クリル諸島ニュース) Sakhalin.info (ロシア語)
- 北方領土と日本国のあり方~領土問題から新たな国家・世界への変容を~(要旨)「日本語と日本人に関する言語・文化・教育・政策の提言」を行う会