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-->本葬は、お別れの会という形で[[4月27日]]に東京都港区の[[青山葬儀所]]で「植木等さん 夢をありがとう さよならの会」として執り行われ、2,000人が参列した。葬儀委員長は谷、犬塚、桜井の3人が共同で務め、弔辞は小松、加藤茶、[[すぎやまこういち]]、[[松任谷由実]]、元[[内閣総理大臣]]・[[森喜朗]]らが読み上げた。また、[[渡辺貞夫]]がサックスを演奏し、[[ミッキー・カーチス]]と[[内田裕也]]は弔辞の後、松任谷を交えて祭壇の前で『スーダラ節』を即興で歌った。他には[[浜美枝]]、[[伊東四朗]]、[[水前寺清子]]、[[仲本工事]]、[[大山のぶ代]]、[[中山秀征]]、[[吉田栄作]]、[[ケーシー高峰]]、[[大竹まこと]]、[[大橋巨泉]]、[[清水アキラ]]、付き人だった[[島崎俊郎]]などが参列した。
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また、2007年[[5月14日]]には母校・[[東洋大学]]主催の「植木等さんとお別れする会」が行われ、総長・[[塩川正十郎]]を始めとする300名の学校関係者が参列して植木を偲んだ<ref>[https://web.archive.org/web/20110104195117/http://www.toyo.ac.jp/news/detail_j/id/453/ 植木等さんとお別れする会](2011年1月4日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]]) - 東洋大学ニュース 2007年6月11日発信</ref>。
また、2007年[[5月14日]]には母校・[[東洋大学]]主催の「植木等さんとお別れする会」が行われ、総長・[[塩川正十郎]]を始めとする300名の学校関係者が参列して植木を偲んだ<ref>[https://web.archive.org/web/20110104195117/http://www.toyo.ac.jp/news/detail_j/id/453/ 植木等さんとお別れする会](2011年1月4日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]]) - 東洋大学ニュース 2007年6月11日発信</ref>。


なお、植木の愛車であった[[日産・シーマ]]FY33型は、植木のことを「お父さん」と呼んで慕い、ドラマ『[[オヨビでない奴!]]』では息子役で共演した[[所ジョージ]]が遺族から譲り受け、所の「世田谷ベース」にて保管されている。
なお、植木の愛車であった[[日産・シーマ]]FY33型は、植木のことを「お父さん」と呼んで慕い、ドラマ『[[オヨビでない奴!]]』では息子役で共演した[[所ジョージ]]が遺族から譲り受け、所の「世田谷ベース」にて保管されている。

2017年9月5日 (火) 03:01時点における版

うえき ひとし
植木 等
植木 等
1963年(キングレコードの広告)
別名義 ハリー植木[1]
生年月日 (1926-12-25) 1926年12月25日
没年月日 (2007-03-27) 2007年3月27日(80歳没)
出生地 日本の旗 日本愛知県名古屋市(出身は三重県度会郡小俣町、現在の伊勢市
死没地 日本の旗 日本東京都
身長 165cm
血液型 AB型
職業 コメディアン
歌手
俳優
タレント
ジャンル 映画
バラエティ番組
テレビドラマ
舞台
活動期間 1957年 - 2007年
配偶者 あり
著名な家族 比呂公一(長男)
主な作品
テレビドラマ
ザ・ハングマン
名古屋嫁入り物語
甘辛しゃん
映画
『無責任男』シリーズ
新・喜びも悲しみも幾歳月
受賞
日本アカデミー賞
最優秀助演男優賞
1961年『新・喜びも悲しみも幾歳月』
ブルーリボン賞
大衆賞
1965年
特別賞
2007年
その他の賞
キネマ旬報 助演男優賞
毎日コンクール 助演男優賞
第8回日刊スポーツ映画大賞 助演男優賞
あした
備考
紫綬褒章1993年
勲四等旭日小綬章1999年
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植木 等(うえき ひとし、1926年12月25日 - 2007年3月27日)は、日本俳優コメディアン歌手ギタリストタレント。仲間内での愛称は「ボンさん」「植木屋」「植木やん」。

長男作曲家比呂公一。妹の夫に部落問題研究者の川村善二郎御木本幸吉は、父方の祖母の親類にあたる[2]

来歴

  • 愛知県名古屋市に生まれる[3]。父・植木徹誠は、真宗大谷派名古屋別院にて僧侶の修行中だった。本人が『徹子の部屋』で語ったところによると、植木は大正天皇崩御した日(1926年)に生まれたが(時間は定かではない)、ちょうど父が体調を崩していたので、叔父・保之助が役所への届けを任された。しかし、叔父が届けを忘れ、翌年ようやく出生届が出されたため、戸籍上は「昭和2年」(1927年)生まれとなったという。戸籍上の誕生日は1927年2月25日である。なお、届けが遅れたため、幾ばくかの罰金を徴収されたという。植木本人は「三世代に亘ってしまいました」と笑い飛ばしていた。本来は「大正15年12月25日」または「昭和元年12月25日」生まれである[4]
  • 3歳の頃、父親が浄土真宗の一つである真宗大谷派常念寺の住職となり移住。移住先は、母親であるいさほ(旧姓:小幡)の実家、真宗大谷派西光寺がある三重県度会郡小俣町(現在の伊勢市の一部)の近く。なお、公式ホームページでは出身地を三重県としている。また一部の文献では出身地を小俣町や伊勢市としているものもある。
  • 1939年 - 僧侶としての修行をするべく、東京・駒込の真浄寺へ小僧になるため上京。
  • 1944年 - 旧制京北中学校卒業後、東洋大学専門部国漢科に入学。在学中からバンドボーイアルバイトを始める。
  • 1946年 - テイチクレコードの新人歌手コンテストに合格。
  • 1947年 - 3月に東洋大学専門部国漢科卒業後、東洋大学文学部(旧制)入学。同年秋にはNHKラジオ『お昼の軽音楽』で『ビロードの月』を歌うが、正規に音楽を勉強していないことに加え、進駐軍の影響から巷ではジャズをはじめとするダンス・ミュージックが流行し始めたことから「歌だけでなく、何か楽器を弾けたほうが収入になる」とのアドバイスを受け、「刀根勝美楽団(刀根勝美とブルームードセクション)」のバンドボーイの傍ら、友人から8000円のギターを月賦で譲り受け、教則本を頼りに練習を開始。この時代に知り合ったのが植木よりも3歳年下の若いドラマー、野々山定夫(のちのハナ肇)だった[5]。ハナとはこの時代からの旧友である。
  • 1950年 - 東洋大学文学部国漢科(旧制)卒業[6]。ほどなくして結婚。「萩原哲晶とデューク・オクテット」にギタリストとして加入。「楽譜が読める」という強みはあったが、ギターの腕前は素人の域を越えることはなかった。デューク・オクテットのドラマーは野々山で、再び顔を合わせることとなった。
  • 1952年 - 自身のトリオ「植木等とニュー・サウンズ」を山崎唯(p)、大石康司(b)と結成。
植木のバンドが演奏していると、進駐軍として日本に滞在していたハンプトン・ホーズがピアニストとして飛び入りで演奏に参加してきたという逸話が残っている。
  • 1954年 - オペラ歌手平山美智子からクラシックの発声レッスンを受けていた折、ギタリストを探していたフランキー堺に誘われ、「フランキー堺とシティ・スリッカーズ」に参加。ここでギタリストとしてではなく、「でたらめスキャット」など、コメディー・リリーフとしての才能を開花させる。当初、「日劇での1ステージだけ」という約束がそのまま残留を請われ、この時点で「ニュー・サウンズ」は解散となる。
  • 1957年3月1日 - 1955年フランキーが俳優に転身し日活に引き抜かれたことで、既に1956年2月、シティ・スリッカーズから移籍していた谷啓らのいるキューバン・キャッツに移籍。その主要メンバーの一人として活躍し、ジャズ喫茶などで人気を博す(のちにバンド名を「ハナ肇とクレージーキャッツ」に改称)。既に知己だったリーダーの野々山定夫(ハナ)は当初からシティ・スリッカーズのような「コメディー路線」を志向していた。
  • 1959年 - クレージーキャッツの一員として、フジテレビのTV番組『おとなの漫画』に出演。
  • 1961年 - クレージーキャッツの一員として、日本テレビの番組『シャボン玉ホリデー』に出演し、「……お呼びでない ?…こりゃまた失礼いたしました !!!」など歴史に残るギャグで爆発的な人気を得る。
  • 1962年 - 古沢憲吾監督の東宝映画『ニッポン無責任時代』に出演し、大ヒット。以降、「無責任男」をキャッチフレーズに数多くの映画に出演。『スーダラ節』『ドント節』をはじめ数々のコミックソングをヒットさせた。
  • 1984年 - 石井聰亙監督の過激なコメディ映画『逆噴射家族』に出演し、健在ぶりをアピールする。
  • 1986年 - 『新・喜びも悲しみも幾歳月』で、キネマ旬報助演男優賞、日本アカデミー賞最優秀助演男優賞、毎日コンクール助演男優賞を受賞。
  • 1989年 - 主演ドラマ『名古屋嫁入り物語』放送。1998年まで計10作作られる人気シリーズとなった。
  • 1990年 - 自身の企画で、ヒット曲をメドレーにして歌った『スーダラ伝説』を発売。話題を呼び、この年のNHK紅白歌合戦に1967年以来2度目の出場を果たし、歌手別最高視聴率56.6%を叩き出す。さらにオリコントップ10入りも果たすという大記録を打ち立てた。その余波で高額納税者番付・芸能人部門でもトップ10入りを果たし、さらに記録を作った。不動産売却以外では還暦を過ぎてのランクインは他に例が無い。
  • 1993年11月3日 - 紫綬褒章受章。
  • 1997年 - 連続テレビ小説甘辛しゃん』に出演中の頃から肺気腫を患う。2003年頃から容態は悪化し出し、体力低下のため舞台公演が出来なくなる。
  • 1999年4月29日 - 勲四等旭日小綬章受章。
  • 2006年12月21日 - 朋友である青島幸男の通夜に、酸素吸入器をつけて参列。これが公の場への最後の出席となる。
  • 2007年3月27日 - 午前10時41分、肺気腫による呼吸不全のため都内の病院で死去。80歳没[7]法名は「宝楽院釋等照」。
  • 2012年、1979年に公開された主演映画『本日ただいま誕生』の紛失していたフィルムが渡辺プロダクションの倉庫で発見。2014年、「幻の主演作」が、第27回東京国際映画祭で特別上映された。

人物

父の影響

植木等の父親である徹誠(てつじょう)は、かつて徹之助と名乗っており、若い頃はキリスト教徒であった。後に浄土真宗の一つである真宗大谷派常念寺の住職となる。たいへんな社会的正義感の持ち主で、被差別部落出身ではないが「自分は部落民ではないと思うことが、すでに相手を差別していることだ」と述べて、水平運動に参加した。治安維持法違反の罪に問われて何度となく投獄をされても、積極的に反差別と反戦を貫いて運動、戦後は日本共産党に入党し、60年安保のデモ隊にも参加するというような「行動する僧侶」だった。ただし父は「謹厳実直」なだけの人物ではなく、息子・等から見ると「支離滅裂」で、義太夫語りになろうとしたこともあり、「いわば蕩児でもあった」という[8]

等の少年時代には、ステテコ一丁の徹誠が等を寺の「仏様」の前に連れて行き、物差しでその頭を叩きながら「この音を聞いてみろ。金ピカだけれども中は木だ。こんなものを拝んでもどうにかなると思ったら大間違いだぞ」と諭したという[9]。「等」という名前は、社会運動家の顔も持っていた父が「平等」にちなんで名づけた。少年時代の等は、投獄された父に代わって僧衣を纏い檀家をまわるという生活を送っている。その経験もあってか、1993年ハナ肇が亡くなった際、その葬儀において自ら読経した。また、代表作『ニッポン無責任時代』でも、植木が演じる主人公は当初「香典泥棒」と設定されていたが、「寺の倅」として耐えられなかったのか、自ら設定を変え、「香典泥棒に限りなく近い人物」という役になっている[10]

自身の性格

映画やドラマで演じた役柄の性格とまったく異なり、自他共に認めるたいへん真面目な性格で、中尾ミエが「毎日同じおかずでも不満を言わないくらい」と例えるほどであったという。『植木等デラックス』ではゲストのさだまさしが、「無責任男」を「植木さんが無理矢理お作りになったキャラクター」と述べたところ、植木は「そうなんだよ、世間はあれが地だと思っているんだよ」とニコニコしながら語っている。

そんな真面目な性格であるから「スーダラ節」の楽譜をはじめて渡された時には、「この曲を歌うと自分の人生が変わってしまうのでは」と真剣に悩んだ。父親に相談すると「どんな歌なんだ?」というので植木はスーダラ節を歌ってみた。激しい正義感の持ち主の父の前で歌ったあまりにふざけた歌詞に激怒されると思いきや、父は「すばらしい!」と涙を流さんばかりに感動した。唖然とする等が理由を尋ねると、「この歌詞は我が浄土真宗の宗祖、親鸞聖人の教えそのものだ。親鸞さまは90歳まで生きられて、あれをやっちゃいけない、これをやっちゃいけない、そういうことを最後までみんなやっちゃった。人類が生きている限り、このわかっちゃいるけどやめられないという生活はなくならない。これこそ親鸞聖人の教えなのだ。そういうものを人類の真理というんだ。上出来だ。がんばってこい!」と諭され、植木は歌うことをついに決意した。このエピソードは、植木が歌手として生きていく上での生涯の支えになったという。

ただし、交友があった小林信彦による評伝『植木等と藤山寛美』によると、あの独特の高笑いは「植木本来のモノ」であったという。また、生真面目ながらも独特の雰囲気があり、日常の座談も「無責任男とは別種のおかしさ」があったという。

また、「貧乏人の倅」を自称し、「どん底でも平気だ」と語っていた。成功前の貧乏時代から性格は非常に明るく、「私生活がわからなかった」という[11]

植木自身は「男は道を自分で切り開け」という気持ちから、長男が「植木浩史」の名で歌手デビューをした時は一切のバックアップをしなかった[12]。その長男は後に作曲家に転向、「比呂公一」名義で活動している。NHK-BSハイビジョン特集で放送された『スーダラ伝説 植木等 夢を食べ続けた男』では終盤に比呂が、クレージーのメンバー、犬塚弘谷啓桜井センリにも参加してもらい、『スーダラ節』のインストゥルメンタル曲を収録し、父・植木に贈呈する場面が登場するが、試聴後には「嬉しいねぇ・・・」と一言呟き、目を潤ませている。

その一方で末娘の植木裕子がバレリーナとなり、ドイツを中心に活動して日本で娘が公演する時は舞台をよく見に行ったり、娘と一緒に舞台を見に行くことを関係者に語ったりしていたという[13]

学生時代

学生時代は陸上選手で、高校時代には100mを11秒4で走った。大学時代には東洋大学陸上競技部に所属し、関東学生陸上競技対校選手権大会にも出場している。その縁で、後に植木は母校東洋大学陸上部の名誉顧問、「箱根駅伝で優勝させる会」の会長も務めていた。また、東洋大学相撲部の後援会長も引き受けていた。そうした傍らで、この時代には既にバンドボーイのアルバイトに精を出していた。

バンドマン

大学を卒業し、バンドマンとして歩み始めると同時に、ソプラノ歌手平山美智子イタリアに長く在住し、当地の現代音楽の作曲家ジャチント・シェルシとのコラボレーションで知られる)のレッスンによって正式に声楽の発声を学んだ。

最初ギターを持ち始めた頃は演奏がまったく出来なかったため、教則本で必死に練習した。人一倍の努力が功を奏して、どんな楽譜も初見で読む技術を手に入れる(当時のジャズギタリストには演奏技術は高いが、楽譜を読めないという者も多かった)。「譜面を読める」ことを買われて萩原哲晶が植木を自分のバンドに加入させたこともある。左肘でリズムを取ったり、音楽コントでは谷啓にトロンボーンのスライドで小突かれ張り倒されながらもギターを弾き続けたりと、ギタリストとしてもある程度の演奏力を身に着けていた。

バンドマン時代に、守安祥太郎穐吉敏子ジョージ川口渡辺貞夫といった人物たちと共にセッションをしていたこともある。

黄金時代

国民的スターとして人気を集めた1960年代、活躍の中心は『植木等ショー』をはじめとするバラエティ番組や、『無責任シリーズ』『日本一の男シリーズ』など東宝映画であった。高度経済成長時代を象徴するコメディアンとして1960年代に一世を風靡し、ギャグも曲をヒットした。

映画に関しては、最初はスーダラ節の大ヒットを受けて大映で2本の映画が作られたが、こちらでの植木やクレージーキャッツは主役の川崎敬三川口浩に花を添える脇役、ゲスト出演であり、植木に主役を演じさせたいと熱望する渡辺プロダクション社長の渡辺晋が自らの足で企画を持ち回った結果、東宝からゴー・サインが出される。そして作られた2部作『ニッポン無責任時代』『ニッポン無責任野郎』は、「無責任」という流行語とともに当時社会現象となった。

この無責任男の破天荒なキャラクターについて、植木は後年「『ニッポン無責任時代』の古澤憲吾監督にはまず“笑ってみろ”と言われて色々演じてみたけどOKがもらえず、そのうち怒り出した監督から“植木君、君が演じようとしているこの男は異常なんだよ!”と言われ、それで吹っ切れてキャラが出来上がった」と回想している[14]

その後、『ニッポン無責任時代』の初期の企画を立てた脚本家・田波靖男のマンネリ化に対する危機感や、当時東宝の製作本部長だった藤本真澄の意向もあって、植木が演じるキャラクターも無責任型から有言実行型のスーパー・サラリーマンへと方針転換していくことになり、「『無責任』シリーズ」は「『日本一の男』シリーズ」へと変化を遂げる。一方、同時進行で製作されていたクレージーキャッツ全体を主人公とした「『クレージー作戦』シリーズ」においては、田波自身が「無責任へのアンチテーゼ」とする『クレージー作戦 くたばれ!無責任』(1963年)も製作された。

その結果、作品によっては古典的な熱血サラリーマン像も顔を覗かせるようになり、小林信彦ら初期作品の支持者に作品的低迷を批判されるようになる(ただし、小林は1963年から渡辺プロダクションでクレージーキャッツのブレーンを務めるようになり、身内として「とにかく作ればあたる」状態になった植木・クレージー映画を「冷静にみて批評することができない」と書いている)。

1960年代後半になると、連戦連勝の爆発的ヒットを受けて「クレージーシリーズ」が大作化していったのに対して、植木主演の「『日本一の男』シリーズ」は、佐々木守早坂暁などの新進脚本家や須川栄三のような時代性を如実に反映する監督の参加もあり、全共闘時代を反映してシニカルで風刺の効いたものとなっていく。1960年代末には徐々に動員力が低下し、ザ・ドリフターズのブレイクも影響して、植木の東宝映画主演は1971年の『日本一のショック男』で打ち止めとなる。このシリーズ最後の作品は、加藤茶とのコンビ主演作であった[15]

性格俳優への転身

1985年には「東宝撮影所でいつもすれ違っていて、そのたび映画に出て欲しいと思っていたのに機会に恵まれなかった」と語る黒澤明の熱烈なラブコールを受けて、『』に助演した。また、木下恵介監督の『新・喜びも悲しみも幾歳月』(1986年)では、日本アカデミー賞助演男優賞を受賞。ただし、喜劇俳優としてのイメージを捨てたわけではなく、1984年には当時気鋭の若手だった石井聰亙小林よしのりの原案を映画化した異色コメディ『逆噴射家族』に出演する。この映画ではアナーキーな老人役を演じて、主題歌『逆噴射家族借景』を共演の小林克也と歌う活躍も見せた。晩年の小林製薬のCMでも、クレージー時代を髣髴させる高笑いを披露している。

性格俳優への転機は、1977年の東京宝塚劇場公演『王将』で坂田三吉を演じたことだった。「役者として年齢的にも経済的にもラクをしたがりそうな時期だったので、これはいかん、それを乗り越えるためには冒険を」[16]という意気込みで臨んだものだった。

以降は、舞台出演もクレージーキャッツとしての公演・ライブに替わって、単独での演劇主演・助演が増えていく。1970年代から80年代初頭にかけては時代劇コメディ『大江戸三門オペラ』や、悪徳政治家が暗躍する『にぎにぎ』などの喜劇作品に主演したほか、谷啓率いるコミックバンド『スーパーマーケット』とのジョイントショーなど数々の作品に出演した。『シカゴ』日本初演(1983年)でのインチキ弁護士・ビリー役のように、無責任男の延長線上に拓いた新境地も少なくない。

また、1993年からは明治座での堺正章座長公演への客演も恒例化し(1996年のみ単独主演『大江戸気まぐれ稼業』)、2002年まで出演したほか、中日劇場で『名古屋嫁入り物語』の舞台版を同じく2002年まで続けた。

1990年にはリバイバルシングル『スーダラ伝説』が大ヒットし、オリコンベスト10入りを果たした。そしてこの年のNHK紅白歌合戦にも久々に出場した(この紅白での歌い方について、「だって歌いながら笑ってたでしょ? あんなものを紅白で…」と、後日自らを戒めていた)。

死去

晩年は肺気腫前立腺癌を患いながらもテレビドラマ映画を中心に仕事を続け、2007年3月27日呼吸不全のため、東京都内の病院で80年の生涯を閉じた。

遺作は映画『舞妓Haaaan!!!』での西陣の会長・斉藤老人役となった。

葬儀は植木の意思で身内だけの密葬として執り行われ、クレージーキャッツの一員だった谷啓犬塚弘桜井センリや、植木の付き人を経てコメディアンになった小松政夫も参列した。臨終の際、小松は植木の着物を着替えさせるなど、付き人として最後の仕事を務めた[17]。本葬は、お別れの会という形で4月27日に東京都港区の青山葬儀所で「植木等さん 夢をありがとう さよならの会」として執り行われ、2,000人が参列した。葬儀委員長は谷、犬塚、桜井の3人が共同で務め、弔辞は小松、加藤茶、すぎやまこういち松任谷由実、元内閣総理大臣森喜朗らが読み上げた。また、渡辺貞夫がサックスを演奏し、ミッキー・カーチス内田裕也は弔辞の後、松任谷を交えて祭壇の前で『スーダラ節』を即興で歌った。他には浜美枝伊東四朗水前寺清子仲本工事大山のぶ代中山秀征吉田栄作ケーシー高峰大竹まこと大橋巨泉清水アキラ、付き人だった島崎俊郎などが参列した。

また、2007年5月14日には母校・東洋大学主催の「植木等さんとお別れする会」が行われ、総長・塩川正十郎を始めとする300名の学校関係者が参列して植木を偲んだ[18]

なお、植木の愛車であった日産・シーマFY33型は、植木のことを「お父さん」と呼んで慕い、ドラマ『オヨビでない奴!』では息子役で共演した所ジョージが遺族から譲り受け、所の「世田谷ベース」にて保管されている。

主なギャグ

  • 「お呼びでない?・・・お呼びでないね。こりゃまた失礼いたしました!」(『シャボン玉ホリデー』より)
当時植木の付き人をしていた小松政夫に呼ばれ、誤って出番以外のコーナーに登場してしまった際に植木が発したアドリブが元ネタ(ただし異論もあり)。
  • 「なんでアル?アイデアル」(「アイデアル傘」のCMで使われたギャグ)
  • 「これでイーヘラ?」(ヴィックスの鼻炎薬「インヘラー」のCMから生まれたギャグ。インヘラーは覚醒剤成分が含まれていたため後年、日本国内での販売が中止になった。現在は同じ名称の吸入器がある)
  • 「この際カアちゃんと別れよう」(1971年、大塚食品「ボンシチュー」(ボンカレーのシチュー版)のCMで使われたギャグ。ドラマ、レコードまで制作された)
  • 「分かっちゃいるけどやめられない」(『スーダラ節』より)

主な出演

映画

テレビドラマ

バラエティ番組

吹き替え

CM

没後に放送されたCMで、桑田佳祐と“共演”。映画『日本一のゴマすり男』からの映像をCGで抽出し、最新の映像に組み合わせて作られた。
谷啓と共演。終わり近くまでカメラに正対した後瓦を持ち上げるバージョンと、「一、二、三、州」と掛け合うバージョンとがある。BGMに自身の「どこまでも空」が使われている。
没後に放送されたCMで、「サラリーマンどんと節 気楽な稼業と来たもんだ」などから映像や写真を使用。

舞台

ほか多数

ディスコグラフィー(ソロ名義)

アルバム

  • ハイ、およびです(1966年)
  • 女の世界(1971年)
  • スーダラ伝説(1990年)
  • 植木等ザ・コンサート“いろいろあるよ、いろいろね”(1991年)
  • スーダラ外伝(1992年)
  • 植木等的音楽(1995年)

シングル

ソノシート

主要歌唱曲

  • 1961年 - スーダラ節、こりゃシャクだった
  • 1962年 - ドント節、五万節無責任一代男、ハイそれまでョ、これが男の生きる道、ショボクレ人生
  • 1963年 - どうしてこんなにもてるんだろう、ホンダラ行進曲、ギターは恋人
  • 1964年 - 馬鹿は死んでも直らない、だまって俺について来い、無責任数え唄
  • 1965年 - ゴマスリ行進曲、悲しきわがこころ、遺憾に存じます、大冒険マーチ
  • 1966年 - 何が何だかわからないのよ、シビレ節、それはないでショ、笑えピエロ
  • 1967年 - 花は花でも何の花、余裕がありゃこそ、万葉集、たそがれ忠治
  • 1969年 - ウンジャラゲアッと驚く為五郎、酒のめば
  • 1970年 - 全国縦断・追っかけのブルース、おとこ節
  • 1971年 - この際カアちゃんと別れよう、こんな女に俺がした
  • 1979年 - これで日本も安心だ!
  • 1986年 - 実年行進曲、新五万節
  • 1991年 - どこまでも空

NHK紅白歌合戦出場歴

  • 1962年(第13回) - 『ハイそれまでョ』
  • 1963年(第14回) - 『どうしてこんなにもてるんだろう・ホンダラ行進曲』
  • 1964年(第15回) - 『だまって俺についてこい』
  • 1965年(第16回) - 『遺憾に存じます』
  • 1990年(第41回) - 『スーダラ伝説』

書籍

  • 植木等伝 「わかっちゃいるけど、やめられない!」(戸井十月がインタビューを行う形でまとめられた初の評伝)

演じた俳優

影響

脚注

  1. ^ 『植木等ショー! クレージーTV大全』p.185
  2. ^ 戸井十月『植木等伝「わかっちゃいるけど、やめられない!」』p.19
  3. ^ 『植木等伝「わかっちゃいるけど、やめられない!」』 戸井十月 小学館
  4. ^ 植木と同じ日に生まれた野球解説者の関根潤三も出生届の提出が遅れ、戸籍上の誕生日は1927年3月15日となっている。
  5. ^ ハイビジョン特集『スーダラ伝説 植木等 夢を食べ続けた男』(2005年11月1日NHK-BS)での植木自身の証言。
  6. ^ 東洋大学の公式サイトや校友会誌などでは「昭和22年3月専門部国漢科卒」という肩書きになっていることから中退という説もある(http://www.toyo.ac.jp/campus/gakuho/196/196toyo14.pdf http://www.toyo.ac.jp/news/detail.php?news_id=752など。※ 長男の生年とも合致しない)
  7. ^ “植木等さん死去、肺気腫10年延命拒む”. asahi.com. (2007年3月28日). オリジナルの2014年2月24日時点におけるアーカイブ。. http://archive.is/3A57T 2014年2月24日閲覧。 
  8. ^ 植木等『夢を食いつづけた男—おやじ徹誠一代記』(朝日文庫)、朝日新聞社、1987年ISBN 402260431X
  9. ^ 小林信彦『喜劇人に花束を』新潮文庫
  10. ^ 小林信彦『喜劇人に花束を』新潮文庫
  11. ^ 小林信彦『喜劇人に花束を』新潮文庫
  12. ^ 歌手としての著名な作品としては1971年の特撮ヒーロー作品『ミラーマン』(円谷プロ / フジテレビ)の主題歌がある。
  13. ^ “植木裕子さん、父・等さんDNAドイツバレエ界で開花”. ZAKZAK. (2007年3月29日). オリジナルの2014年2月24日時点におけるアーカイブ。. http://archive.is/QCbEu 2014年2月24日閲覧。 
  14. ^ 1990年に小堺一機関根勤のラジオ番組『コサキン増刊号』に植木がゲスト出演した際の発言。なお、脚本の田波靖男によると、この「平均(たいらひとし)」にはモデルがおり、東宝の社員でもないのに会議に参加して発言する変な男で、後にハイジャックをして逮捕されたという。(小林信彦『喜劇人に花束を』新潮文庫)
  15. ^ NHK-BSハイビジョン特集『スーダラ伝説 植木等 夢を食べ続けた男』における植木の証言より
  16. ^ 毎日新聞のインタビュー記事(1977年6月)〜産経新聞2007年5月2日『植木等伝説(4)』より
  17. ^ NHK・ラジオビタミン「ときめきインタビュー」で小松語る
  18. ^ 植木等さんとお別れする会(2011年1月4日時点のアーカイブ) - 東洋大学ニュース 2007年6月11日発信
  19. ^ 青島幸男『わかっちゃいるけど…シャボン玉の頃』文春文庫
  20. ^ 小林信彦『日本の喜劇人』新潮文庫

関連項目

外部リンク