「市川一家4人殺害事件」の版間の差分
編集の要約なし タグ: モバイル編集 モバイルアプリ編集 |
m編集の要約なし |
||
(98人の利用者による、間の366版が非表示) | |||
2行目: | 2行目: | ||
{{性的}} |
{{性的}} |
||
{{Infobox 事件・事故 |
{{Infobox 事件・事故 |
||
| |
|名称= 市川一家4人殺害事件 |
||
|正式名称= |
|||
| 画像 = |
|||
|画像= High-rise apartment that became the site of Ichikawa family murder of four people.png |
|||
| 脚注 = |
|||
|脚注= 事件現場となった高層マンション。赤い「×」印がついている箇所が現場の一室(806号室) |
|||
| 場所 = {{JPN}}<br>千葉県市川市幸2丁目(行徳地区)<br>高層マンションの一室 |
|||
{{infobox mapframe|coord={{Coord|35|40|41.83|N|139|55|39.06|E}}|zoom=15|type=point}} |
|||
| 緯度度 =35 |緯度分 =40 |緯度秒 =41.8 |
|||
|場所= {{JPN}}・[[千葉県]][[市川市]]幸二丁目5番1号 行徳南スカイハイツC棟8階(806号室)<ref name="読売新聞1992-03-07">『[[読売新聞]]』1992年3月7日東京朝刊第14版第一社会面31頁「【千葉】市川の一家4人殺し 19歳店員を逮捕 犯行ほぼ自供 帰宅親子を次々」([[読売新聞東京本社]]) - 『読売新聞』[[新聞縮刷版|縮刷版]] 1992年(平成4年)3月号333頁。</ref><ref name="中日新聞1992-03-07">『[[中日新聞]]』1992年3月7日朝刊第12版第一社会面31頁「千葉の一家4人殺し 少年が自供、逮捕 家人帰宅待ち次々凶行 『金が欲しかった』 長女も刺し監禁」([[中日新聞社]]) - 『中日新聞』縮刷版 1992年(平成4年)3月号315頁。</ref>{{Sfn|集刑|2002|p=836}} |
|||
| 経度度 =139 |経度分 =55 |経度秒 =38.8 |
|||
|緯度度= 35 |緯度分= 40 |緯度秒= 41.83 |
|||
| 日付 = 1992年(平成4年) |
|||
|経度度= 139 |経度分= 55 |経度秒= 39.06 |
|||
| 時間 = |
|||
|標的= 会社役員の男性A(当時42歳)一家 |
|||
| 開始時刻 = 3月5日午後4時30分頃 |
|||
|日付= [[1992年]]([[平成]]4年)[[3月5日]] - [[3月6日|6日]] |
|||
| 終了時刻 = 翌3月6日午前9時頃 |
|||
| |
|時間= |
||
|開始時刻= 5日16時30分ごろ(現場一室に侵入) |
|||
| 概要 = 犯行当時19歳の少年が強盗目的で押し入ったマンションの一室に住んでいた一家5人のうち4人を次々に絞殺・刺殺し、以前強姦して身分証明書を脅し取っていた残る1人を再び強姦した。 |
|||
|終了時刻= 6日9時ごろ(身柄確保) |
|||
| 武器 = 電気コード、柳刃包丁<ref group="最高裁判決文" name="hanrei"/> |
|||
|時間帯= [[UTC+9]] |
|||
| 攻撃人数 = 1人 |
|||
|概要= [[暴力団]]に脅されて200万円の支払いを要求された少年Sが、会社役員A宅に侵入し、一家5人のうち4人を殺害、長女Bにも怪我を負わせた。<br />Sは本事件(一家殺害事件)の1か月前、Aの長女B(負傷)を車で轢いて[[強姦]]するなど、本事件前から複数の暴力的犯罪を犯していた。 |
|||
| 標的 = 以前強姦した女子高生(事件当時15歳)一家 |
|||
|懸賞金= |
|||
| 死亡 = 4人 |
|||
|原因= |
|||
| 負傷 = 1人 |
|||
|手段= 電気コードで首を絞める、[[刺身包丁|柳刃包丁]]で刺す |
|||
| 犯人 = 少年(犯行当時19歳) |
|||
|攻撃側人数= 1人 |
|||
| 動機 = 窃盗(後に強盗) |
|||
|武器= 電気コード、柳刃包丁1本(刃渡り22.5 [[センチメートル|cm]]){{Sfn|判例タイムズ|1994|p=111}} |
|||
| 謝罪 = なし |
|||
|死亡= 4人(Aと母親C・妻D・次女E) |
|||
| 賠償 = 死刑([[少年死刑囚]]、[[日本における収監中の死刑囚の一覧|未執行]]) |
|||
|負傷= 1人(Aの長女B) |
|||
|行方不明= |
|||
|被害者= |
|||
|損害= 現金約34万円、預金通帳計9冊(額面合計424万3,412円)、印鑑7個{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=115}} |
|||
|犯人= 少年'''S・T'''(事件当時19歳)<ref name="千葉日報2017-12-20"/> |
|||
|容疑= |
|||
|動機= |
|||
* 侵入の動機 - 暴力団から要求された現金200万円を工面するため、[[空き巣]]目的で |
|||
* 一家殺傷の動機 - 現場で遭遇した被害者から金品を奪い(居直り強盗)、犯行の発覚を阻止するため |
|||
|関与= |
|||
|防御= |
|||
|対処= 犯人Sを[[逮捕 (日本法)|逮捕]]<ref name="千葉日報1992-03-07"/>・[[起訴]]<ref name="千葉日報1992-11-06"/> |
|||
|謝罪= |
|||
|補償= |
|||
|賠償= |
|||
|刑事訴訟= [[日本における死刑|死刑]]([[少年死刑囚]]:[[日本における被死刑執行者の一覧|執行済み]])<ref name="千葉日報2017-12-20"/> |
|||
|少年審判= [[逆送致]] |
|||
|海難審判= |
|||
|民事訴訟= |
|||
|影響= |
|||
* 事件当時少年に対する死刑確定・執行は、いずれも[[永山則夫連続射殺事件|連続ピストル射殺事件]]を起こした[[永山則夫]]以来だった<ref name="千葉日報2001-12-04"/><ref name="千葉日報2017-12-20"/>。 |
|||
* 作家の[[永瀬隼介]](祝康成)が、犯人Sと交流して『[[19歳の結末 一家4人惨殺事件]]』([[#本事件を題材にしたノンフィクション|「参考文献」も参照]])を出版した。 |
|||
|遺族会= |
|||
|被害者の会= |
|||
|管轄= |
|||
* [[千葉県警察]]([[刑事部|捜査一課]]・[[浦安警察署|葛南警察署]]{{Efn2|name="葛南警察署"|事件が発生した1992年当時、現場一帯(市川市行徳地区)の所轄警察署は葛南警察署(管轄区域は行徳地区と[[浦安市]]全域)だったが、事件後の1995年3月7日に同署から独立する形で、行徳地区を管轄する「[[行徳警察署]]」が発足<ref name="千葉日報1995-03-08">『千葉日報』1995年3月8日朝刊第16版県西版16頁「行徳署が業務開始 県内40番目 一斉に街頭活動」(千葉日報社) - 『千葉日報』縮刷版 1995年(平成7年)3月号162頁。</ref>。これに伴い、葛南署は管轄区域を浦安市のみに変更すると同時に、「[[浦安警察署]]」へ改称した<ref name="千葉日報1995-03-08"/>。}})<ref name="千葉日報1992-03-07">『[[千葉日報]]』1992年3月7日朝刊一面1頁「一家4人殺される 市川 店員の少年を逮捕『金欲しさに強盗』と自供」(千葉日報社) - 『千葉日報』[[新聞縮刷版|縮刷版]] 1992年(平成4年)3月号121頁。</ref> |
|||
* [[千葉地方検察庁]]<ref name="千葉日報1992-11-06"/> |
|||
}} |
}} |
||
'''市川一家4人殺害事件'''(いちかわいっかよにんさつがいじけん)は、[[1992年]]([[平成]]4年)[[3月5日]]夕方から翌[[3月6日|6日]]朝にかけ、[[千葉県]][[市川市]]幸二丁目([[行徳]]地区)にあるマンションで発生した[[強盗致死傷罪|強盗殺人]]事件([[少年犯罪]])<ref name="読売新聞1992-03-07"/><ref name="中日新聞1992-03-07"/>。 |
|||
{{最高裁判例 |
|||
|事件名= 市川の一家強盗殺人事件 |
|||
少年'''S・T'''(以下「'''S'''」、事件当時19歳)が3月5日夕方、会社役員の男性A(当時42歳)宅に侵入し、翌朝までに一家5人のうち、4人を次々に殺害した<ref name="千葉日報1992-03-07"/>。Sは[[2001年]](平成13年)12月に[[最高裁判所 (日本)|最高裁]]で[[日本における死刑|死刑]][[判決 (日本法)|判決]]が[[確定判決|確定]]し([[少年死刑囚]])<ref name="千葉日報2001-12-04">『千葉日報』2001年12月4日朝刊一面1頁「市川市の一家4人殺害事件 犯行時少年の死刑確定へ 最高裁が上告棄却」(千葉日報社) - 『千葉日報』縮刷版 2001年(平成13年)12月号61頁。</ref>、[[2017年]](平成29年)[[12月19日]]に[[東京拘置所]]で[[日本における被死刑執行者の一覧|死刑を執行されている]]({{没年齢|1973|1|30|2017|12|19}})<ref name="千葉日報2017-12-20">『千葉日報』2017年12月20日朝刊一面1頁「市川一家4人殺害 元少年の死刑執行 永山元死刑囚以来20年ぶり 再審請求中、群馬3人殺害も」(千葉日報社)</ref>。10歳代の少年による残忍な犯行として社会に衝撃を与え<ref name="千葉日報1992-11-06"/>、その重大性から[[少年法]]の在り方などに論議を呼んだ事件でもある<ref name="千葉日報2017-12-20社会">『千葉日報』2017年12月20日朝刊第一社会面19頁「市川一家4人殺害 元少年死刑執行 重大性、少年法に波紋 県弁護士会『極めて遺憾』」(千葉日報社)</ref>。 |
|||
|事件番号= 平成8年(あ)864 |
|||
|裁判年月日= 2001年(平成13年)12月3日 |
|||
== 概要 == |
|||
|判例集= 集刑 第280号713頁 |
|||
犯人の少年S(事件当時19歳)は、[[暴力団]]と女性関係を巡るトラブルを起こし、現金200万円を要求されたため、その金を工面する目的で、3月5日夕方に雑誌出版・編集会社役員A(当時42歳)宅へ侵入{{Sfn|判例時報|1995|p=60}}。留守番していたAの母親C(83歳)に金品を要求したところ、警察に通報されそうになったことから電気コードで絞殺し{{Sfn|判例時報|1995|pp=60-61}}、次いで帰宅してきたAの妻D(36歳)、A本人、次女E(4歳:保育園児)の一家4人を相次いで柳刃包丁で刺殺したほか、長女B(当時15歳:高校1年生)も包丁で斬りつけて負傷させた{{Sfn|判例時報|1995|pp=61-62}}。この間、SはBを連れ出し、A夫妻が経営していた会社にも金品を奪いに行ったほか、Bを現場の一室や、連れ出したラブホテルで複数回にわたって[[強姦]]した{{Sfn|判例時報|1995|pp=61, 63}}{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=90}}。翌朝、Sは現場に駆けつけた[[千葉県警察|千葉県警]]の警察官により、[[銃砲刀剣類所持等取締法|銃刀法]]違反で[[現行犯]][[逮捕 (日本法)|逮捕]]されたが<ref name="千葉日報1992-03-11">『千葉日報』1992年3月11日朝刊第一社会面19頁「市川の一家4人惨殺 「金が足りない」 家族らを殺害した後で通帳探しに行かせる」(千葉日報社) - 『千葉日報』縮刷版 1992年(平成4年)3月号225頁。</ref>、その直前には抗拒不能状態に陥っていたBに包丁を持たせた上で、彼女が犯人であるかのように偽装工作した上で逃走しようとしていた{{Sfn|判例時報|1995|p=68}}。Sは逮捕直後の取り調べでも容疑を否認し{{Sfn|判例時報|1995|p=68}}、「Bとは事件前から親しかった」と虚偽の供述をしたが、同日夜になって犯行を認め、強盗殺人容疑で逮捕された<ref name="中日新聞1992-03-07"/>。 |
|||
|裁判要旨= * 本件上告を棄却する。 |
|||
* 動機に酌量の余地がなく、4名の生命を奪ったという結果が極めて重大である上、犯行の態様が冷酷、執ようかつ残虐で、家族を一挙に失い、自らも強盗強姦等の被害に遭った少女の被害感情は非常に厳しく、社会的影響も重大である。 |
|||
SがA宅を知ったきっかけは、本事件の約1か月前(同年2月12日)に自転車で夜道を走っていたBを車で轢き、自宅アパートに連れ込んで強姦するという[[強制性交等罪|強姦致傷]]事件を起こした際、Bの持っていた生徒手帳を見たことがきっかけだった{{Sfn|判例タイムズ|1994|pp=110-111}}。Sはその事件に前後して、[[1991年]](平成3年)10月19日 - 1992年2月27日にかけ、[[東京都]]や千葉・[[埼玉県|埼玉]]の両県で、別の行きずりの女性1人に対する[[傷害罪|傷害]]・強姦事件(強姦事件)や、車の運転中に先行車が遅かったことや、後続車から[[あおり運転]]をされたこと、後続車に追い越されたことなどに立腹し、相手の運転手を暴行して負傷させる傷害事件3件(うち2件目では[[恐喝罪|恐喝]]、3件目では[[窃盗罪|窃盗]]を伴う)を起こしていた{{Sfn|判例タイムズ|1994|pp=109-110}}。 |
|||
* その犯行態様、結果ともに悪質であることなどの情状に照らすと、被告人の罪責は誠に重大であり、本件各犯行当時、被告人が18歳から19歳であったことなどの事情を考慮しても、原判決が維持した第1審判決の死刑の科刑は、やむを得ないものとして当裁判所もこれを是認せざるを得ない。 |
|||
|法廷名= 第二小法廷 |
|||
刑事裁判で、[[被告人]]Sは4人に対する強盗殺人罪([[判決 (日本法)|判決]]ではEへの殺害行為のみ[[殺人罪 (日本)|殺人罪]]と[[事実認定|認定]])、Bに対する強姦致傷罪・[[強盗・強制性交等罪|強盗強姦罪]]・傷害罪のほか、余罪事件での傷害・強姦・恐喝・窃盗の罪にも問われた。事件当時のSの[[責任能力]]、そして当時少年だったSへの[[日本における死刑|死刑]]適用の可否が争われたが、[[1994年]](平成6年)8月8日に[[千葉地方裁判所|千葉地裁]]は、Sの完全責任能力を認定した上で、[[永山基準|1983年(昭和58年)に最高裁が示した死刑適用基準]]を引用し、「結果の重大性から、死刑はやむを得ない」などとして、Sを死刑とする[[審級|第一審]]判決を宣告した{{Sfn|判例タイムズ|1994|pp=107-108}}<ref name="千葉日報1994-08-09"/>。Sは[[控訴]]したが、[[東京高等裁判所|東京高裁]]は[[1996年]](平成8年)7月2日に原判決を支持し、Sの控訴を[[棄却]]する判決を宣告{{Sfn|判例タイムズ|1997|p=283}}。Sはさらに[[最高裁判所 (日本)|最高裁]]へ[[上告]]したが、2001年12月3日に第二[[小法廷]]で上告棄却の判決を言い渡され<ref name="千葉日報2001-12-04"/>、同月21日付で死刑が[[確定判決|確定]]{{Efn2|name="死刑確定"}}{{Sfn|集刑289|2006|p=397}}<ref name="福田康夫2007-11-02"/>。それから約16年後、死刑囚Sは第3次[[再審]]請求中の2017年12月19日に[[東京拘置所]]で[[日本における被死刑執行者の一覧|死刑を執行された]]<ref name="読売新聞2017-12-19">『読売新聞』2017年12月19日東京夕刊一面1頁「元少年の死刑執行 一家4人殺害 群馬3人殺害も」(読売新聞東京本社)</ref>。犯行時少年に対する死刑確定・執行は、いずれも[[永山則夫]]([[永山則夫連続射殺事件|連続ピストル射殺事件]]の犯人)以来だった<ref name="千葉日報2001-12-04"/><ref name="千葉日報2017-12-20"/>。 |
|||
|裁判長= [[亀山継夫]] |
|||
|陪席裁判官= [[河合伸一]]、[[福田博]]、[[北川弘治]]、[[梶谷玄]] |
|||
Sが犯行時少年だったことから、死刑判決が言い渡された際には新聞各紙で死刑制度や少年法に関する論議が活発に交わされたが、犯行内容の凄惨さや{{Sfn|飯島真一|1994|p=190}}、犯人S・被害者双方の人権への配慮{{Sfn|飯島真一|1994|p=199}}などの事情が絡まり、[[自主規制|犯行内容はほとんど報じられなかった]]{{Sfn|飯島真一|1994|pp=190-191}}。一方、『[[週刊新潮]]』『[[FOCUS]]』(ともに[[新潮社]]発行)は事件発生直後、Sを[[実名報道]]した{{Sfn|週刊新潮|1992|p=147}}{{Sfn|FOCUS|1992|p=69}}。また、死刑執行時には[[法務省]]([[法務大臣]]:[[上川陽子]])がSの死刑執行を実名とともに公表し<ref name="法務省"/>、新聞各紙もSを実名報道した(後述)。作家の[[永瀬隼介]](祝康成)は事件後、犯人Sの交流や、事件関係者(被害者遺族や、犯人Sの親族ら)への取材を行い、本事件を題材とした[[ノンフィクション]]『[[19歳の結末 一家4人惨殺事件]]』([[#本事件を題材にしたノンフィクション|「参考文献」の節]]も参照)を出版した。 |
|||
|多数意見= 全員一致 |
|||
|意見= なし |
|||
=== 略年表 === |
|||
|反対意見= |
|||
{| class="wikitable" style="font-size:90%" |
|||
|参照法条= [[強盗致死傷罪|強盗殺人]]・[[殺人罪 (日本)|殺人]]・[[強盗強姦罪|強盗強姦]]・[[恐喝罪|恐喝]]・[[窃盗罪|窃盗]]・[[傷害罪|傷害]]・[[強姦罪|強姦]]・[[強姦致傷罪|強姦致傷]] |
|||
|+ |
|||
! colspan="4" |本事件前の経緯 |
|||
|- |
|||
!style="width:2%"|事件 |
|||
!style="width:2%"|年 |
|||
!月日 |
|||
!出来事 |
|||
|- |
|||
!{{nowrap|[[#江戸川事件|江戸川事件]]}} |
|||
|{{nowrap|1991年}}{{nowrap|(平成3年)}} |
|||
|{{nowrap|10月19日}} |
|||
|S、東京都[[江戸川区]]内で傷害事件を起こす{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=109}}。 |
|||
|- |
|||
![[#暴力団とのトラブル|暴力団とのトラブル]] |
|||
| rowspan="5" |{{nowrap|1992年}}{{nowrap|(平成4年)}} |
|||
|2月6日 |
|||
|Sが市川市のフィリピンパブから、店に無断でホステスを連れ出し、自宅アパート(千葉県[[船橋市]])に泊める{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=111}}。<br />それ以降、Sは暴力団関係者から追われる身になる。 |
|||
|- |
|||
![[#中野事件|中野事件]] |
|||
|2月11日 |
|||
|S、東京都[[中野区]]内の路上を歩いていた女性を殴って負傷させ、自宅アパートで強姦する傷害・強姦事件を起こす{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=109}}。 |
|||
|- |
|||
![[#B事件|B事件]] |
|||
|2月12日 |
|||
|S、市川市内で本事件の被害者B(男性Aの長女)を車で轢いて負傷させ、自宅アパートで強姦する強姦致傷事件を起こす{{Sfn|判例タイムズ|1994|pp=109-110}}。この時、Bの住所(市川市幸二丁目)を知る{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=110}}。<br />同日、ホステスの一件で暴力団組長に呼び出され、200万円を要求される([[#暴力団からの取り立て|暴力団からの取り立て]]){{Sfn|判例タイムズ|1994|p=111}}。 |
|||
|- |
|||
![[#河原事件|河原事件]] |
|||
|2月25日 |
|||
|S、市川市内で交通トラブルを発端とした傷害・恐喝事件(河原事件)を起こす{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=110}}。 |
|||
|- |
|||
![[#岩槻事件|岩槻事件]] |
|||
|2月27日 |
|||
|S、埼玉県[[岩槻市]](現:[[さいたま市]][[岩槻区]])内で交通トラブルを発端とした傷害・窃盗事件(岩槻事件)を起こす{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=110}}。 |
|||
|- |
|||
! colspan="4" |事件発生 |
|||
|- |
|||
! |
|||
!年 |
|||
!月日 |
|||
!出来事 |
|||
|- |
|||
! rowspan="2" |本事件 |
|||
| rowspan="2" |1992年 |
|||
|3月5日 |
|||
|S、A宅に窃盗目的で侵入{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=111}}。Aの母親Cを絞殺し、帰宅してきた妻DとA本人を次々と刺殺{{Sfn|判例タイムズ|1994|pp=111-112}}。 |
|||
|- |
|||
|3月6日 |
|||
|S、Bを連れてA・D夫婦が経営していた会社「ルック」の事務所から預金通帳などを奪う{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=112}}。現場に戻った後、Bの妹(Aの次女)を刺殺{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=112}}。 |
|||
|- |
|||
! colspan="4" |捜査の経緯 |
|||
|- |
|||
! rowspan="2" |逮捕 |
|||
| rowspan="6" |1992年 |
|||
|3月6日 |
|||
|S、現場に駆けつけた警察官に銃刀法違反の現行犯で逮捕される<ref name="千葉日報1992-03-11"/>。当初は容疑を否認するが、後に認める。 |
|||
|- |
|||
|3月7日 |
|||
|S、強盗殺人容疑で逮捕<ref name="千葉日報1992-03-07"/>。 |
|||
|- |
|||
!精神鑑定 |
|||
|3月26日 |
|||
|S、[[千葉地方検察庁|千葉地検]]によって[[法律上の身柄拘束処分の一覧#通常の刑事手続による身柄拘束|鑑定留置]]される。同日以降、[[小田晋]]による[[精神鑑定]]([[#起訴まで|小田鑑定]])を受ける。 |
|||
|- |
|||
! rowspan="2" |少年審判 |
|||
|10月1日 |
|||
|千葉地検がSを「刑事処分相当」の意見書付きで<ref name="千葉日報1992-11-06"/>、[[千葉家庭裁判所|千葉家裁]]へ[[送致]]<ref name="朝日新聞1992-10-03"/>。 |
|||
|- |
|||
|10月27日 |
|||
|千葉家裁(宮平隆介裁判官)は少年審判の結果、Sを千葉地検へ[[逆送致]]<ref name="朝日新聞1992-10-28"/>。 |
|||
|- |
|||
!起訴 |
|||
|11月5日 |
|||
|千葉地検、Sを一家殺害事件と江戸川事件に関し、強盗殺人・傷害など5つの罪で千葉地裁へ起訴<ref name="千葉日報1992-11-06"/>。 |
|||
|- |
|||
! colspan="4" |裁判の経緯 |
|||
|- |
|||
!審級<br />裁判所 |
|||
!年 |
|||
!月日 |
|||
!出来事 |
|||
|- |
|||
! rowspan="7" |{{nowrap|[[#第一審|第一審]]}}<br />{{nowrap|千葉地裁}} |
|||
|1992年 |
|||
|12月25日 |
|||
|[[#初公判|初公判]]: 千葉地裁刑事第1部(神作良二裁判長)で初[[公判]]。被告人Sは起訴事実を認めるが、殺意などに関して争う<ref name="千葉日報1992-12-26"/>。 |
|||
|- |
|||
| rowspan="3" |{{nowrap|1993年}}{{nowrap|(平成5年)}} |
|||
|{{nowrap|2月17日<ref name="朝日新聞1993-05-20"/>}} |
|||
|[[#中野事件|中野事件]]・[[#河原事件|河原事件]]・[[#岩槻事件|岩槻事件]]に関しても、傷害・恐喝・窃盗など4つの罪で追起訴<ref name="千葉日報1993-02-18"/>。 |
|||
|- |
|||
|5月19日 |
|||
|[[#再度の精神鑑定申請|再度の精神鑑定申請]]: 第3回公判で、弁護側が新たな精神鑑定を申請。その後、[[福島章]]による再鑑定([[#福島鑑定|福島鑑定]])が実施される<ref name="千葉日報1993-05-20"/>。 |
|||
|- |
|||
|11月22日 |
|||
|第4回公判で、「福島鑑定」結果が提出される<ref name="千葉日報1993-11-23"/>。 |
|||
|- |
|||
| rowspan="3" |{{nowrap|1994年}}{{nowrap|(平成6年)}} |
|||
|4月4日 |
|||
|[[#死刑求刑|死刑求刑]]: [[論告]][[求刑]]公判で、検察官が被告人Sに死刑を求刑<ref name="千葉日報1994-04-05"/>。 |
|||
|- |
|||
|6月1日 |
|||
||[[#最終弁論|最終弁論]]: 第一審は同日の公判で結審。弁護人はSが当時[[責任能力#刑法上の責任能力|心神耗弱]]だった旨などを主張し、死刑回避を求める<ref name="千葉日報1994-06-02"/>。 |
|||
|- |
|||
|8月8日 |
|||
||[[#死刑判決|死刑判決]]: 判決公判、千葉地裁刑事第1部はSに死刑を宣告。Sは即日控訴<ref name="千葉日報1994-08-09"/>。 |
|||
|- |
|||
! rowspan="2" |[[#控訴審|控訴審]]<br />東京高裁 |
|||
|{{nowrap|1995年}}{{nowrap|(平成7年)}} |
|||
|6月29日 |
|||
|東京高裁(神田忠治裁判長)で控訴審初公判。弁護人は死刑回避を強く求める<ref name="千葉日報1995-06-30"/>。 |
|||
|- |
|||
|{{nowrap|1996年}}{{nowrap|(平成8年)}} |
|||
|7月2日 |
|||
|[[#控訴棄却判決|控訴棄却判決]]: 東京高裁は原判決を支持し、Sの控訴を棄却する判決を宣告。Sは即日上告<ref name="千葉日報1996-07-03"/>。 |
|||
|- |
|||
! rowspan="3" |[[#上告審|上告審]]<br />最高裁 |
|||
| rowspan="3" |{{nowrap|2001年}}{{nowrap|(平成13年)}} |
|||
|4月13日 |
|||
|[[#弁論|弁論]]: 第二小法廷([[亀山継夫]]裁判長)で[[公判#上告審における公判|上告審の公判]](弁論)が開かれ、弁護人が死刑回避を求める<ref name="千葉日報2001-04-14"/>。 |
|||
|- |
|||
|12月3日 |
|||
|[[#死刑確定|上告審判決]]: 第二小法廷は原判決を支持し、Sの上告を棄却する判決を宣告<ref name="千葉日報2001-12-04"/>。 |
|||
|- |
|||
|12月20日 |
|||
|[[#死刑確定|死刑確定]]: 第二小法廷、Sからの判決訂正申立を棄却する[[裁判#裁判の形式|決定]]{{Sfn|最高裁判所事務総局2|2001|p=15}}。21日付で死刑が確定{{Efn2|name="死刑確定"}}{{Sfn|集刑289|2006|p=397}}<ref name="福田康夫2007-11-02"/>。 |
|||
|- |
|||
!死刑執行 |
|||
|2017年 |
|||
|12月19日 |
|||
|[[#死刑執行|死刑執行]]: 法務省(法務大臣:上川陽子)の死刑執行命令により、東京拘置所でSの死刑が執行される({{没年齢|1973|1|30|2017|12|19}})<ref name="千葉日報2017-12-20"/>。当時、Sは第3次再審請求中だった([[#再審請求|参照]])<ref name="読売新聞2017-12-19"/>。 |
|||
|} |
|||
== 犯人S == |
|||
{{Infobox 犯罪者 |
|||
|名前=S・T |
|||
|画像= |
|||
|画像サイズ= |
|||
|画像説明= |
|||
|出生名= |
|||
|生年月日={{生年月日|1973|1|30}}{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=108}} |
|||
|出生地={{JPN}}:[[千葉県]][[千葉市]]{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=108}}(後の[[稲毛区]]){{Sfn|集刑|2002|p=757}} |
|||
|失踪= |
|||
|没年月日={{死亡年月日と没年齢|1973|1|30|2017|12|19}}<ref name="千葉日報2017-12-20"/> |
|||
|死没地={{JPN}}:[[東京拘置所]]<ref name="千葉日報2017-12-20"/>([[東京都]][[葛飾区]][[小菅 (葛飾区)|小菅]]) |
|||
|死因=[[絞首刑]] |
|||
|遺体発見= |
|||
|墓地= |
|||
|記念碑= |
|||
|住居= {{JPN}}:千葉県[[船橋市]][[本中山]]二丁目(事件当時)<ref name="千葉日報1992-11-06"/> |
|||
|国籍= |
|||
|別名= |
|||
|民族= |
|||
|市民権= |
|||
|教育= |
|||
|出身校=葛飾区立立石中学校(1988年3月卒業)<br />[[堀越高等学校]](1989年5月中退){{Sfn|判例タイムズ|1994|pp=108-109}} |
|||
|職業=飲食店員(事件当時は無職){{Sfn|判例タイムズ|1994|p=109}} |
|||
|雇用者=祖父(鰻の販売・加工業を経営){{Sfn|判例タイムズ|1994|p=109}} |
|||
|所属= |
|||
|動機=暴力団に脅され、200万円を要求されたこと |
|||
|罪名=傷害、強姦、強姦致傷、強盗殺人、殺人、強盗強姦、恐喝、窃盗{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=107}} |
|||
|有罪判決=死刑([[確定判決|確定]]:2001年12月21日){{Efn2|name="死刑確定"}}{{Sfn|集刑289|2006|p=397}}<ref name="福田康夫2007-11-02"/> |
|||
|刑罰=[[日本における死刑]]([[絞首刑]]) |
|||
|犯罪者現況= |
|||
|国={{JPN}} |
|||
|都道府県=千葉県 |
|||
|現場= |
|||
|標的= |
|||
|死者=4人 |
|||
|負傷者=1人 |
|||
|凶器=柳刃包丁 |
|||
|逮捕日=1992年3月6日<ref name="千葉日報1992-03-07"/> |
|||
|収監場所= |
|||
|配偶者=フィリピン人女性{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=69}} |
|||
|両親= |
|||
|子= |
|||
|署名= |
|||
}} |
}} |
||
本事件の犯人は、男'''S・T'''<ref name="千葉日報2017-12-20"/>{{Sfn|週刊新潮|1992|p=147}}([[1973年]]〈[[昭和]]48年〉[[1月30日]]{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=108}} - [[2017年]]〈平成29年〉[[12月19日]]<ref name="千葉日報2017-12-20"/>、以下「'''S'''」と表記)である。[[本籍]]地は[[東京都]][[江戸川区]]{{Sfn|最高裁第二小法廷|2001|loc=D1-Law.com}}。 |
|||
'''市川一家4人殺人事件'''(いちかわいっか4にんさつじんじけん)は、[[1992年]](平成4年)[[3月5日]]に[[千葉県]][[市川市]][[幸 (市川市)|幸]]2丁目([[行徳]]地区)にあるマンションで発生した当時19歳の少年による強盗殺人事件([[少年犯罪]])である。 |
|||
事件当時、Sは19歳1か月の少年で、千葉県[[船橋市]][[本中山]]二丁目<ref name="千葉日報1992-11-06"/>のアパート({{ウィキ座標|35.713998|||N|139.946683|||E||座標}})で1人暮らしをしていた{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=109}}。また、事件当時は身長178 [[センチメートル|cm]]、体重80 [[キログラム|kg]]と大柄かつ筋肉質な体格で{{Efn2|Sは1991年ごろの時点で、身長・体重とも平均を遥かに凌駕するほどに成長していた{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=109}}。なお、『[[千葉日報]]』および飯島真一 (1994) は第一審判決を言い渡された当時のSについて「身長177 cm、体重90 kg」と述べている<ref name="千葉日報1994-08-09社会"/>{{Sfn|飯島真一|1994|p=190}}。また、『女性自身』 (1994) は事件当時のSについて「身長182 cm」と述べている{{Sfn|女性自身|1994|p=77}}。}}{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=13}}、髪にパーマをかけ{{Sfn|週刊新潮|1992|p=147}}、茶色のメッシュを入れていた{{Sfn|FOCUS|1992|p=69}}。[[堀越高等学校|堀越高校]](2年時に中退)在学時に喫煙・飲酒をするようになり、1991年時点では[[ラーク (たばこ)|ラーク]]5箱程度を常用し、酒はウイスキーを特に好み、ボトル2分の1程度を適量としていた{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=109}}。 |
|||
平成の少年犯罪では初の[[日本における死刑|死刑]][[確定判決|確定]]事件([[少年死刑囚]])であり、10代の少年による底知れぬ残忍な犯行として日本社会を震撼させ、衝撃を与えた<ref group="書籍" name="repo1_p92-93"/><ref group="報道" name="nikkei19921106"/>。 |
|||
逮捕後の獄中生活により、体重は120 kgを超えていた<ref name="中日新聞2018-03-04">『中日新聞』2018年3月4日朝刊第11版第一社会面33頁「少年と罪 第9部 生と死の境界で 1 因果 償いきれぬ 苦悩残し」(中日新聞社)</ref>。後にSの精神鑑定([[#福島鑑定|福島鑑定]])を担当した[[福島章]] (1995) は、自身が鑑定を手掛けた時点で、Sの体重は121 kgに達していた旨を述べている{{Sfn|福島章|1995|p=10}}。上告審結審後に弁護人に就任し、死刑確定後も[[再審]]請求審の弁護人を担当していた[[安田好弘]]は、Sの体格について「僕の横幅を二つぐらい並べた大きさ」と形容した上で、「このぐらいデカければ執行なんてとてもできっこない、S君を持ち上げることもできやしないんじゃないか」と考え、獄中にいたSに対し、死刑執行回避のために体を大きくすることを提案していた{{Sfn|年報・死刑廃止|2018|p=147}}。しかし、その目論見が外れたことから、安田は死刑執行後に抗議集会で「(Sの遺体が入るような)特注の棺も準備したのでしょうし、彼の重さに耐えうるロープも用意したのではないか、予行演習も周到にやったと思うんです。本当に、強固な意志による、周到に用意された計画的な殺人ということです。そこに現れている国家の意思はものすごく強い、無慈悲に強い、という感じがします」と述べ、死刑執行を批判している{{Sfn|年報・死刑廃止|2018|p=147}}。 |
|||
== 事件の概要 == |
|||
=== 事件前の動向 === |
|||
1992年2月6日<ref group="書籍" name="repo1_p73-74">永瀬、2004 p.73-74</ref>、[[ウナギ]]料理店店員の少年S([[1973年]]〈昭和48年〉1月30日<ref group="書籍" name="repo1_p17">永瀬、2004 p.17</ref><ref group="書籍" name="repo1_p70">永瀬、2004 p.70</ref><ref group="書籍" name="impact2006"/> - 、犯行当時19歳。千葉県[[船橋市]]在住)は<ref group="報道" name="asahi19920307">『[[朝日新聞]]』1992年3月7日朝刊31面「19歳の少年を逮捕 カネ目当て、次々襲う 市川の家族4人殺人容疑」<br>『朝日新聞』1992年3月7日朝刊千葉版「残忍な犯行『なぜ』 市川の一家4人殺人、強殺容疑で少年逮捕へ」</ref>、市川市内のスナックバーに勤めるフィリピン人のホステス<!--(後述の結婚相手である別のフィリピン人女性が務めていた店とは違う店で勤務していた女性)-->を連れ出し、店に無断で自宅アパートに泊め<ref group="書籍" name="repo1_p70"/>、性的関係を持ち、このホステスをマンション自室に閉じ込め負傷させた<ref group="報道" name="chunichi19920310">『中日新聞』1992年3月10日夕刊ワイド面右8面「特報ワイド/千葉の一家4人殺害容疑者 19歳少年、犯行の背景 影落とす複雑家庭環境 人への思いやり育たず 一時は甲子園を目指す」</ref>。2月8日に店に帰ったホステスが店の関係者にこのことを泣きながら訴え<ref group="書籍" name="repo1_p70"/>、激怒した店の関係者は暴力団に「落とし前」を依頼し、それ以降Sは暴力団に追われる身となった<ref group="書籍" name="repo1_p70"/>。Sは後述のように暴力団組員から200万円を要求される一方で、一連の犯罪に使ったのは高級セダンの自家用車<ref group="報道" name="asahi19920308_19920309"/>、時価400万円の[[トヨタ・クラウン]]ロイヤルサルーンだった<ref group="書籍" name="repo1_p58">永瀬、2004 p.58</ref><ref group="書籍" name="repo1_p82-84">永瀬、2004 p.72-73</ref><ref group="新潮" name="shincho19920319"/><ref group="新潮" name="focus19920320"/>。[[写真週刊誌]]『[[FOCUS]]』([[新潮社]])1992年3月20日号の特集記事では「自分の車を売ればそれなりの金は工面できるとは思わなかったのだろうか。彼の考えは盗み―動機は単純かつ不可解で、その結末が残忍極まりない一家4人惨殺に繋がってしまった」と記された<ref group="新潮" name="focus19920320"/>。 |
|||
=== 幼少期 === |
|||
2月11日午前4時、Sは[[高円寺]]に住むバンド仲間のアパートからクラウンに乗って帰る途中、[[東京都]][[中野区]]内の路上で当時24歳のOLを襲撃して暴行し、自宅アパートに連れ込んで強姦した<ref group="書籍" name="repo1_p71-72">永瀬、2004 p.71-72</ref>。この時、Sは「強姦は性欲の解消以上に優越感と自信を与えてくれる」と思い、同時にそれまでの鬱屈した気分が嘘のようにスカッとし、「セックスと暴力は繋がっている」とも確信したという<ref group="書籍" name="repo1_p71-72"/>。Sは暴力の持つ達成感・陶酔感について、面会人の[[永瀬隼介]]に対し「傷害にしろ、強姦にしろ、他人の血を見るということは興奮するものです。とくに、しだいに相手が弱ってきて自分に従うようになり、どうにでも好きなように動かせるとなった時に見るそれは、僕の中では勝利の象徴として溜飲を下げるのに大いに役立ちました」「一度強姦や強烈な傷害事件を成功させ、クリアしたことで、変な方向に自信を持ってしまい、もう一度やってみよう、出来るはずだ、出来るだろう、となっていったのです」と語っている<ref group="書籍">永瀬、2004 p.109</ref><ref group="書籍">永瀬、2004 p.241</ref>。また、逮捕後にこの強姦事件について取り調べを受け、その後監獄生活を送るようになっても、しばらくはまったく反省しないどころか「ああ、どうせ捕まるのなら学生の頃、昔から好きだった女の子にしておけばよかったよなぁ」「同じ罪になるならいっそのこと、かねてから憧れだった女性を狙っておけば本望なので納得もできただろう」などという自己中心的な意味の筋違いな後悔しかしておらず、被害者の心情に思いを馳せるようなことなどしていなかったという<ref group="書籍" name="repo1_p172-181"/>。しかしその日の夜、ホステスの件でSの自宅アパートに暴力団組員7人が押し掛け、Sはクラウンに飛び乗って逃げた<ref group="書籍" name="repo1_p72-73"/>。 |
|||
Sは1973年1月30日、男性Z・女性Y{{Efn2|Yは短大卒業後の1967年(昭和42年)、24歳の時に区役所のダンス教室で、[[東芝]]の関連会社に勤務していたZ(当時25歳)と知り合った{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=15}}。Xは当初、娘YがZと結婚することに反対していたが、2人は駆け落ち同然の形で結婚し、Xも初孫となるSの誕生をきっかけに結婚を認めた{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=17}}。『週刊文春』 (1992) によれば、夫婦は結婚直後の1969年(昭和44年)に江戸川区[[松本 (江戸川区)|松本町]]へ転居したが、事件の17、18年前(1974年 - 1975年ごろ)に夜逃げ同然に家を出たという<!--『週刊文春』 (1992) によれば、新婚の両親は江戸川区に転居し、事件の17-18年前に家を出たことになっているが、一審判決の認定(Sの出生した1973年当時、市川市内に居住していた)と矛盾する-->{{Sfn|週刊文春2|1992|p=42}}。}}の夫婦の間に長男として{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=108}}{{Sfn|集刑|2002|p=757}}、[[千葉市]](後の千葉市[[稲毛区]])にあった官川産婦人科で生まれた{{Sfn|集刑|2002|p=757}}。Sの母方の祖父X(Sの母親Yの父親:本事件当時72歳)は{{Sfn|福島章|1995|p=9}}、市川市で[[ウナギ]]の加工・販売などを行う株式会社「X商店」を経営しており{{Efn2|Xは親の代から食品加工と卸の自営業を営んでおり{{Sfn|福島章|1995|p=9}}、[[第二次世界大戦]]の終戦直後、[[茨城県]]から上京し、江戸川区[[松島 (江戸川区)|松島]]でウナギの卸業を始め、後に市川市を中心に10軒近い鰻屋を展開するチェーン店のオーナーとなった{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=15}}。朝倉喬司 (1992) は、Xについて「S・N氏」と表記している{{Sfn|朝倉喬司|芹沢俊介|1992|p=169}}。宇野津光緒 (1993) は、「X商店」について「市川市付近でウナギ屋6店を経営」と述べている{{Sfn|宇野津光緒|1993|p=56}}。}}{{Sfn|判例タイムズ|1994|pp=108-109}}、Sの父親(Xの娘婿)であるZも「X商店」で働いていた{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=108}}。 |
|||
Sの出生当時、Z・Y夫婦は市川市内に居住していたが{{Efn2|永瀬隼介 (2004) は、Z・Y夫婦はSの出生前にZの実家(松戸市)に新婚所帯を構えていた旨を述べている{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=17}}。}}{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=108}}、Sの誕生直後、[[松戸市]]の公団住宅に転居{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=17}}。Sは1977年(昭和52年)に幼稚園に入園し、1979年(昭和54年)4月には{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=108}}、松戸市立和名ケ谷小学校に入学した{{Sfn|週刊文春2|1992|p=42}}。また、Sの誕生から5年後には、Z・Y夫婦の間に次男(Sの弟)が誕生している{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=17}}。1980年(昭和55年)9月{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=108}}、当時小学2年生だったSは{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=17}}、家族が東京都[[江東区]]へ転居し{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=108}}、同区[[越中島]]の公団団地に移住したことをきっかけに{{Efn2|この公団住宅には当時、有名企業の社員・医者・実業家などの高額納税者が多数居住していたが、Sの居室のすぐ上の階には、「当時、日本中を席巻していた[[漫才ブーム]]で一、二の人気を争った漫才コンビのひとり」が住んでおり、その漫才師の息子がSの弟と同年齢だったこともあって、Sはこの漫才師一家と交流があった{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=19}}。}}{{Sfn|週刊新潮|1992|p=148}}、[[江東区立越中島小学校]]に転校した{{Sfn|週刊文春2|1992|p=42}}。当時、Sは水泳教室に通ったり、英会話やピアノを習うなど平穏な生活を続けていたが、父Zが仕事上の失敗から「X商店」に多額の損失を被らせた上、私生活でもギャンブルや女性問題などで[[借金]]を重ね、[[暴力団]]員らによる厳しい取り立てに遭った{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=108}}。また、Zは[[ドメスティックバイオレンス|Yに対し暴力を振るったり]]{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=17}}、Sや次男を[[児童虐待|虐待]]したりするようになり{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=19}}、やがてストレスを溜め込んだYもSを虐待するようになった{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=22}}。そのような生活の中(当時Sは9歳){{Sfn|永瀬隼介|2004|p=29}}、親友であった同級生の少年が一家揃って敬虔な[[エホバの証人]]の信者であることを知り{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=26}}、自らもその教義に魅了され、週に1、2回の勉強会に参加するようになった{{Sfn|永瀬隼介|2004|pp=27-28}}。しかし、Zの借金は膨らみ続け、最終的には熱心に読んでいた経典を破り捨てられたことがきっかけで、Sは初めて恐怖の象徴であったZに歯向かっている{{Sfn|永瀬隼介|2004|pp=29-30}}。また、当時は週末になると、着替えと勉強道具を持って市川市にあったXの家に電車で通い、泊まり込んでおり、祖父Xのことは「お金持ちで、頼りになる働き者」として尊敬していた{{Sfn|永瀬隼介|2004|pp=20-21}}。 |
|||
SがOLを強姦してから約22時間後の2月12日午前2時頃<ref group="書籍" name="repo1_p72-73">永瀬、2004 p.72-73</ref><ref group="報道" name="chunichi19940808"/>、[[帝都高速度交通営団|営団地下鉄]](現・[[東京地下鉄|東京メトロ]])[[東京メトロ東西線|東西線]][[行徳駅]]前で写真雑誌下請け会社の社長を務めていた当時42歳男性Aの長女で<ref group="報道" name="chunichi19920307"/><ref group="報道" name="asahi19920307"/>、行徳駅から南東約2kmの東京湾に面した[[首都高速湾岸線]][[千鳥町出入口]]付近に位置する市川市幸2丁目の新興住宅街に建つ9階建ての高層マンションに住んでいた<ref group="書籍" name="repo1_p82-84"/>、当時15歳で県立高校1年生の少女B子は{{Refnest|group="注釈"|B子はAの実子ではなく、母D子が離婚した前夫との間にもうけた連れ子の養女であった<ref group="書籍">永瀬、2004 p.79-82</ref><ref group="報道" name="asahi19920310"/><ref group="報道" name="chunichi19920315"/><ref group="報道" name="asahi19920310_kadai">『朝日新聞』1992年3月10日朝刊千葉版「重い課題(衝撃の刃・報道検証 市川の一家4人殺人)千葉」</ref>。}}<ref group="書籍">永瀬、2004 p.13</ref><ref group="報道" name="chunichi19920306">『[[中日新聞]]』1992年3月6日夕刊19面「一家4人刺殺される 長女と男友達から聴取 千葉のマンション」</ref><ref group="報道" name="chunichi19920307"/><ref group="報道" name="asahi19920307"/><ref group="報道" name="yomiuri19920307"/><ref group="報道" name="nikkei19920307"/>、夜遅くまで勉強していた中でシャープペンシルの替え芯が切れたため、替え芯を買いに自転車で自宅マンション付近のコンビニエンスストアに行き、買い物を終えて帰宅しようとしていた<ref group="書籍" name="repo1_p72-73"/>。帰宅途中でマンション前の狭い路地で背後から走ってきたSの運転するクラウンに追突され、路上に投げ出されて右膝に擦り傷を負った<ref group="書籍" name="repo1_p72-73"/>。 |
|||
==== 家庭崩壊 ==== |
|||
SはB子に優しく声を掛けて「病院に連れて行く」と車に乗せ、[[浦安市]]内の救急病院で治療を受けさせた<ref group="書籍" name="repo1_p72-73"/><ref group="書籍" name="maruyama2010"/>。B子は初めは警戒していたが、治療をさせてもらった後、自宅まで送り届けてもらうことを約束されて安心した<ref group="書籍" name="maruyama2010"/>。しかし帰り道でSは「このまま帰すのはもったいない、強姦してやろう」という劣情を持ち、突然人気のない路肩に車を停めた<ref group="書籍" name="maruyama2010"/>。Sは車内で本性を現してB子に折り畳み式ナイフを突き付け、手の指の間に刃をこじ入れた<ref group="書籍" name="repo1_p72-73"/>。SはB子の指の間にこじ入れたナイフをぐりぐりとこね回し、抵抗したB子の頬を切り付けて「黙って俺の言うことを聞け」と脅した<ref group="書籍" name="maruyama2010"/><ref group="書籍" name="repo1_p72-73"/>。B子は突如牙を剥いたSに震えおののき、そのままSのアパートまで拉致されて2度強姦された<ref group="書籍" name="repo1_p72-73"/>。Sはその後B子の手足を縛って抵抗できなくしてから、B子の所持品を改めて現金を奪い、B子が通っていた高校の生徒手帳から住所、氏名を控えていったん外に出た<ref group="書籍" name="maruyama2010">丸山、2010</ref><ref group="書籍" name="repo1_p72-73"/>。その後Sが部屋に戻るとB子が自力で逃げ出していたが、Sはそれを特に気に留めなかった<ref group="書籍" name="maruyama2010"/>。B子にはこのようにまったくの偶然が招いたあまりにも悲惨な形でのSとの接点があり<ref group="書籍" name="repo1_p14">永瀬、2004 p.14</ref>、直後にB子から[[千葉県警察|千葉県警]][[浦安警察署|葛南警察署]](事件当時の所轄警察署。現在、現場一帯は[[行徳警察署]]管轄)に被害届が出されたが、顔見知りの犯行ではなかったこともあり、当時Sは捜査線上に上がってこなかった<ref group="報道" name="asahi19920308_19920309"/>。 |
|||
Zは1982年(昭和57年)12月19日、突然S(当時小学4年生)に対し、弟とともに母Yの実家(X宅)へ遊びに行くよう言いつけ、その後、X宅にいたSに電話で、自分が社長をしていた会社が倒産し、[[消費者金融|サラ金]]などから借金をしているので債権者や暴力団の人々が押しかけてくるだろうから、そのまましばらく実家にいるように伝えた{{Sfn|集刑|2002|p=757}}。その後、ZはX宅に来て、子どもたちには「必ず迎えに来るから」と行って出ていったが、子どもたちのために最低限の生活を支えることもせず、自分だけ逃げる格好となった{{Sfn|集刑|2002|pp=756-757}}。Sは母親に連れられ、5歳年下の弟(Z・Y夫婦の次男)とともに夜逃げ同然に家を出て、祖父X宅にしばらく身を寄せた{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=108}}。しかし、Xは自らが築き上げた全財産を吐き出してZの借金を清算せざるを得なくなり{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=31}}、「X商店」も倒産の危機に立たされる{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=96}}。結果、XはYと孫2人(Sとその弟)に絶縁を言い渡し{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=31}}、妻(Sの母方の祖母)とともに入水自殺を決意して橋から川に飛び込んだが、助けられたため未遂に終わっている{{Sfn|福島章|1995|p=9}}。 |
|||
Sは母Yや弟とともに、東京都[[葛飾区]][[立石 (葛飾区)|立石]]のアパートに移住した{{Efn2|中学1年の(1985年)11月ごろまでは立石六丁目のアパートに、それ以降の3年間は立石七丁目の新築アパートに暮らしていた{{Sfn|週刊文春2|1992|p=42}}。}}{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=108}}。1983年(昭和58年)1月、小学4年生の3学期が始まったが、Sはその数日後から転校という形で{{Sfn|集刑|2002|p=756}}、葛飾区立清和小学校に通学するようになった{{Sfn|週刊文春2|1992|p=42}}。同年3月、YがZと調停離婚して「S」姓に復氏し、Sら息子2人の親権者となったことから、Sはそれ以降、会計事務所に務めるYによって女手一つで育てられた{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=108}}。それ以降、Yは息子2人の生活を支えるため、証券情報会社で経理として遅くまで働くようになった{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=35}}。 |
|||
二晩続けて見ず知らずの女性を強姦し、自分の力に自信を持ったSだったが、ヤクザという暴力のプロには情けないほど無抵抗だった<ref group="書籍" name="repo1_p72-73"/>。同日夜、大手暴力団組織傘下の暴力団組長から呼び出され、東京都[[港区 (東京都)|港区]][[赤坂 (東京都港区)|赤坂]]の東京全日空ホテル(現・[[ANAインターコンチネンタルホテル東京]])で組長とその手下(ホステスと関係のある暴力団組員)から散々脅され「お前のやったことは誘拐だ。女(Sが連れ込んだホステス)がこのままフィリピンに帰ったら店の損害は200万円になる。どうしてくれるんだ」と、「けじめ」として現金200万円を要求された<ref group="書籍" name="repo1_p73-74"/><ref group="報道" name="asahi19921106"/><ref group="報道" name="chunichi19920310"/>。金のあてはなく、Sは暴力団の取り立てが怖くて自宅アパートにもありつけず、車の中で寝泊まりする日々が続いた<ref group="書籍" name="repo1_p73-74"/>。 |
|||
このような生活環境の劣化や転校が多かったことなどから、Sは立石に引っ越して以降、[[いじめ]]を受けるようになり、貧しい生活に転落したこと、そして最大の庇護者であった祖父Xに見放されたこともあって、周囲への不信感や猜疑心を募らせるようになった{{Sfn|永瀬隼介|2004|pp=31-32}}。一方、ラジオ放送で[[ジミ・ヘンドリックス]]の[[ロック (音楽)|ロック]]を聴いたことがきっかけで、ロックに熱中するようになったが、レコードを購入できる金がなかったため、近所のディスカウントストアからカセットテープを万引きするようになった{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=33}}。また、同時期には放課後に電車に乗って[[浅草]]に通うようになったが、偶然公衆電話に誰かが忘れて行った財布を置き引きしたことがきっかけで、遊興費を得るために観光客から[[スリ]]や置き引き、かっぱらいを繰り返し、神社での賽銭泥棒もした{{Sfn|永瀬隼介|2004|pp=33-34}}。このような生活を送る中で、地元では「悪のレッテルを貼られると損をする」として、おとなしい真面目な少年を装っていた一方、「貧乏を笑う世の中のやつらからはいくら盗ったっていいんだ。世の中、なんだかんだいったって金なんだ」という考えを抱くようになった{{Sfn|永瀬隼介|2004|pp=34-35}}。 |
|||
この日から一家4人を惨殺するまでの20日間に、「このままだといずれ半殺しにされるか、運が悪ければ殺されてコンクリート詰めにされて東京湾に沈められるかもしれない」と恐れていたSは車絡みで2度の暴力・恐喝沙汰を起こした<ref group="書籍" name="repo1_p74-78">永瀬、2004 p.74-78</ref>。2月25日午前5時、市川市内の[[国道]]を走っていたSは後続車から車間距離を詰められて煽られ、憤慨してクラウンを急停車させ、後続車は接触寸前で急停車した<ref group="書籍" name="repo1_p74-78"/>。Sはクラウンを降り、トランクから鉄筋を取り出して右手に握り、1,2回威嚇するように鉄筋を振り回した後、相手の車のドアを開けた<ref group="書籍" name="repo1_p74-78"/>。相手の運転手がにらみつけ「マジでやる気か」と吠えたが、Sはお構いなしに車のキーを抜いて退路を絶ち、運転手の襟首を掴んで車外に引きずり出し、「てめえのおかげでブレーキパッドがすり減ったじゃねえか」と鉄筋で2,3度殴りつけた<ref group="書籍" name="repo1_p74-78"/>。運転手は血まみれになりつつもSをにらみつけたが、Sは怒りに任せて鉄筋を叩きつけ気絶させた<ref group="書籍" name="repo1_p74-78"/>。Sはヤクザを装って運転手を脅し[[運転免許証]]を取り上げた<ref group="書籍" name="repo1_p74-78"/>。その2日後の2月27日午前零時半、Sは[[埼玉県]][[岩槻市]](現・[[さいたま市]][[岩槻区]])内を走行していたところ、交差点の脇から突然車が突っ込んできてあわや衝突寸前となった<ref group="書籍" name="repo1_p74-78"/>。大学生が運転していた相手の車は何事もなかったかのように立ち去ろうとし、憤慨したSはクラウンを猛スピードで走らせて車を追いかけた<ref group="書籍" name="repo1_p74-78"/>。相手の車は煽られると観念したかのように停車し、Sはクラウンを降りて懐から折り畳み式ナイフを取り出し、相手の助手席に乗り込んだ<ref group="書籍" name="repo1_p74-78"/>。「俺をヤクザもんと知っててやったのか?」とSは大学生の顔を殴り、ナイフを突きつけた<ref group="書籍" name="repo1_p74-78"/>。「てめえが滅茶苦茶な運転しやがるからタイヤが擦り減った」と大学生を恫喝したが、大学生は「はあ」「ああ」などというだけで手応えがなく、激昂したSはナイフを大学生の太ももに突き立てた<ref group="書籍" name="repo1_p74-78"/>。「親父のとこへ連れて行け」とSは助手席に乗り込んだまま、恐怖する大学生に車を運転させたが、10分程度経過したところで元の場所に戻ったため、今度はナイフで肩を刺した<ref group="書籍" name="repo1_p74-78"/>。自宅に向かおうとしない大学生に業を煮やしたSは「お前の親はいったいどんな教育をしやがったんだ?甘やかす一方で育てたからお前みたいな出来損ないになるんだよ。俺が性根を叩き直してやる」と罵りつつ、ナイフの刃を大学生の背中に食い込ませたが、大学生は「あっちです」「いや、こっちかも」と生返事を繰り返し自宅に向かおうとしなかったため、Sは怒りに任せて大学生を切り付けた<ref group="書籍" name="repo1_p74-78"/>。1時間後、大学生は全身に20か所以上の切り傷(全治6週間<ref group="報道" name="asahi19930218"/>)を負い、血まみれになりながらも命からがらSの隙を見て逃げ出した<ref group="書籍" name="repo1_p74-78"/>。Sは車で大学生を追いかけようとしたが、轢き殺すとまずいと思って断念した<ref group="書籍" name="repo1_p74-78"/>。Sは大学生から取り上げていた運転免許証と、大学生の父親名義の車検証を手に、大学生の車を運転して自車に戻った<ref group="書籍" name="repo1_p74-78"/>。大学生からは後から金を巻き上げるつもりだった<ref group="書籍" name="repo1_p74-78"/>。なおこれらの事件については後述のように、逮捕後の1993年2月18日に追起訴された<ref group="報道" name="asahi19930218"/>。 |
|||
=== |
==== 中学生時代 ==== |
||
Sは1985年(昭和60年)4月に葛飾区立立石中学校に入学した{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=108}}。同年冬{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=41}}、母Yや弟とともに葛飾区[[青戸 (葛飾区)|青戸]]のアパート (2DK) に引っ越したが、このアパートの大家夫婦は、Sについて「礼儀正しい子供」という印象を抱いていた{{Sfn|永瀬隼介|2004|pp=36-38}}。このころには水泳の他に空手や野球などを習い{{Sfn|福島章|1995|p=6}}、少年野球チームではエースかつ4番打者として活躍していた{{Sfn|永瀬隼介|2004|pp=38-40}}。一方で体も大きくなり、やられればやり返すようになって、大抵の場合に自己の腕力が通用することを知った{{Sfn|判例タイムズ|1994|pp=108-109}}。当時は逸脱的な行動は学校外にとどめ、校内では目立つことはしなかったが{{Sfn|福島章|1995|p=6}}、地元の不良少年たちから喧嘩の強さを褒められたことがきっかけで喧嘩に明け暮れ、Yや弟への[[家庭内暴力]]も振るうようになった{{Sfn|永瀬隼介|2004|pp=41-42}}。 |
|||
しかし恐喝を繰り返しても200万円は得られず、金の工面に困ったSは「パチンコ店を襲おうか、強盗しようか」などと考えつつ、日増しに膨らむ恐怖と焦燥感を抱えていた<ref group="書籍" name="repo1_p74-78"/>。そして事件当日の3月5日、Sは約1か月前に車で轢いて強姦した際に住所を控えておいたB子宅に強盗に押し入ることを思いついた<ref group="書籍" name="maruyama2010"/>。暴力団から多額の金銭を要求されて追い詰められ、自宅アパートにも近づけず、所持金も底をつき車中泊を続けていたSだったが、この日は朝からパチンコとゲームセンターで時間を潰した<ref group="書籍" name="repo1_p82-84"/>。午後遅くに中華そば屋でラーメン1杯を食べ、4時頃に「B子の自宅から有り金をごっそり奪うつもりで」市川市に向かった<ref group="書籍" name="repo1_p82-84"/>。そして、「ついでに」B子を再び強姦すれば鬱屈した気持ちも晴れるだろうとも考えていた<ref group="書籍" name="repo1_p82-84"/>。 |
|||
Xは元婿Zを追い出して以降、一から出直して事業を年商数十億円規模に回復させた{{Sfn|福島章|1995|p=9}}。このころには、YとXとの関係は修復されていたが、SはXを「一番辛くて寂しいとき、手を差し伸べてくれなかった」と恨んでおり、かつてのように尊敬することはできなくなっていた{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=41}}。また、Sが中学1年になるころから{{Sfn|福島章|1995|p=9}}、父Zが再びYやSら母子3人と接触を持つようになり、3人が暮らすアパートを訪れるようになったり、一家で外食したりするようになったが、SはZを嫌っており、「子供の教育上、男親が必要だから」と元夫Zと付き合う母Yにも良い感情を持たなかった{{Sfn|福島章|1995|p=6}}。 |
|||
Sは事件現場の[[行徳]]一帯の近くに自らの母方の祖父母の家があり、幼少期によく祖父母宅に泊まりに来ては、マンションが建つ以前の空き地だった現場一帯で凧揚げや自転車を乗り回して遊んだ記憶があったため、その後の開発により典型的な東京のベッドタウンになってはいたが、現場一帯には土地勘があった<ref group="書籍" name="repo1_p82-84"/><ref group="書籍" name="hachisu">{{Cite book |和書 |author= [[蜂巣敦]] |author2= [[山本真人]] |title= 殺人現場を歩く |publisher= [[筑摩書房|ちくま文庫]] |date= 2008-02-06 |pages= 59-73 |isbn= 978-4480424006}}「市川市一家四人殺害事件―人間が暴発する直前に見た『意味』と『無意味』のパノラマ」</ref>。付近にはさらに新しい高級マンションもあったが、Sはこのマンションで金を得ようと考え<ref group="書籍" name="hachisu"/>、マンション近くの[[タバコ屋]]の前にクラウンを駐車し、公衆電話でB子の自宅に電話を入れた<ref group="書籍" name="repo1_p82-84"/>。SはB子を強姦した事件以降、何度かマンション周辺をうろついており<ref group="新潮" name="focus19920320"/>、また以前からB子宅には何度か電話しており、午後は留守か、老女(殺害されたB子の父方の祖母C子)が一人でいることを確認していた<ref group="書籍" name="repo1_p82-84"/>。電話に誰も出なかったためSは留守だと思い、クラウンを児童公園の横に回して駐車し、午後4時30分頃<ref group="報道" name="chunichi19940405"/>、[[窃盗]]目的で<ref group="最高裁判決文" name="hanrei">最高裁第二小法廷判決 2001年(平成13年)12月3日、事件番号:平成8(あ)864</ref>、目の前にあるB子の自宅マンション8階の一室(806号室)に入った<ref group="報道" name="asahi19920310_kadai"/><ref group="書籍" name="repo1_p82-84"/><ref group="報道" name="asahi19920307"/><ref group="報道" name="chunichi19920307"/><ref group="報道" name="yomiuri19920307"/><ref group="報道" name="nikkei19920307"/>。 |
|||
中学2年のころ、シンナーを常用していた同年齢の少女と初めて[[性行為|肉体関係を持っている]]{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=42}}。一方でこのころ、「(自分は)何のために生きているんだろう」と考えるようになり、かつて魅了された[[キリスト教]]の教義に救いを求めたこともあったが、Sは既に「神に祈っても幸せにはなれない」という考えを抱いており、教会通いもすぐにやめた{{Sfn|永瀬隼介|2004|pp=43-44}}。[[日本の高校野球#全国大会|甲子園]]に憧れていたことから{{Sfn|週刊文春|1992|p=206}}、中学3年のころには学習塾に通いつつ、大学進学率の悪くない野球強豪校に進学することを希望していた一方、クラスメートの少女から告白され、彼女と交際するようになった{{Sfn|永瀬隼介|2004|pp=45-46}}。しかし、同年秋に自動車事故で右橈骨を骨折して入院したため、学内のテストを受ける機会を失い、公立高校受験のための偏差値が出せなかった{{Sfn|福島章|1995|p=6}}。 |
|||
Sは防犯カメラが設置されているエントランスを避けてマンションの外階段で2階まで上がり、そこから806号室がある8階までエレベーターで上がった<ref group="書籍" name="repo1_p82-84"/>。平日の夕方近くという時間だったが、この日の市川市内は雨が降っていたためか<ref group="書籍" name="repo1_p82-84"/>、誰ともすれ違うことはなかったという<ref group="書籍" name="repo1_p172-181"/>。Sは806号室の玄関でチャイムを鳴らしたが応答はなく、ドアノブを回すとドアが開いたため「誰かがいる」と焦ってすぐその場を離れ、エレベーター横の階段に座って20分ほど様子を見た<ref group="書籍" name="repo1_p82-84"/>。その後、ドアの鍵はかかっていなかったが、家人の気配はなく、照明も点いていなかったため、Sは留守だと思い<ref group="書籍" name="repo1_p82-84"/>、「仮に誰かがいたとしてもB子以外なら、彼女の知人のふりでもしておけばいい」と考えつつ<ref group="書籍" name="repo1_p172-181"/>、再びドアを開けて忍び入った<ref group="書籍" name="repo1_p82-84"/>。Sは後に永瀬への手紙の中で「どう考えても執拗に被害者一家にこだわり、自分の一生を捨ててまで、預金通帳ならまだしも、この普通のマンションからほんのわずかな現金を奪うという犯行を成し遂げる価値があったとは思えません」と送っており<ref group="書籍">永瀬、2004 p.171</ref>、実際普通のマンションに200万円もの現金があるとは思っておらず、貴金属類か預金通帳を見つけたら、気付かれないうちに早めに現場から逃走するつもりだった<ref group="書籍" name="repo1_p82-84"/>。 |
|||
==== 高校時代 ==== |
|||
居間で金品を物色し始めたところ、玄関脇の北側の洋間から音がした<ref group="書籍" name="maruyama2010"/><ref group="書籍" name="repo1_p82-84"/>。その部屋の扉を開けると、一人で留守番をしていた女性C子(Aの母で少女の父方の祖母。当時83歳)<ref group="報道" name="asahi19920307"/><ref group="書籍" name="repo1_p82-84"/>がテレビをつけたまま寝ていた<ref group="書籍" name="repo1_p82-84"/>。Sは自分の靴をベランダに隠し、突き当たり奥の居間に行って室内を物色したが、目当ての現金や預金通帳、貴金属類は出てこなかった<ref group="書籍" name="maruyama2010"/>。自分で探すのが面倒になり<ref group="書籍" name="maruyama2010"/>、C子から預金通帳のありかを聞き出そうと考えて洋間に踏み込んだSは<ref group="書籍" name="maruyama2010"/>、「年寄り一人ぐらいなら、まずどんなことがあったって、力で負けることなどないはず」という過信と短絡的思考から<ref group="書籍" name="repo1_p172-181">永瀬、2004 p.172-181</ref>、C子の足を蹴り上げて起こした<ref group="書籍" name="repo1_p82-84"/>。目を覚ましたC子は見ず知らずの男がいるのに驚いた<ref group="書籍" name="maruyama2010"/>。Sは[[強盗]]に転じ<ref group="最高裁判決文" name="hanrei"/>、預金通帳や現金を出すようすごんだが<ref group="書籍" name="repo1_p82-84"/><ref group="書籍" name="repo1_p172-181"/>、C子はSにおびえることもなく「ここにあるだけならくれてやる」と<ref group="書籍" name="repo1_p172-181"/>、毅然とした態度で、自分の財布の中にあった現金8万円を渡して帰るように諭し<ref group="書籍" name="repo1_p84-86"/>、部屋から出ていこうとした<ref group="書籍" name="maruyama2010"/>。しかしSは「バカにされた」と怒りに打ち震え、C子の襟首につかみかかって引き戻し<ref group="書籍" name="maruyama2010"/>、通帳を出すよう要求したが、C子は頑なに応じなかった<ref group="書籍" name="repo1_p84-86">永瀬、2004 p.84-86</ref>。Sは緊張して尿意を覚えたため、C子に「通帳を探しておけ」と言い置いて一時トイレに行った後で戻ると<ref group="書籍" name="repo1_p84-86"/>、隙を見てC子が居間で電話の受話器を取り上げて110番通報しようとしていた<ref group="書籍" name="repo1_p84-86"/>。Sは「少し痛い目に遭わせて力関係を分からせてやろう」とC子を突き倒し、殴り掛かろうとしたが、C子はSに唾を吐きかけた<ref group="書籍" name="repo1_p84-86"/><ref group="書籍" name="repo1_p172-181"/><ref group="書籍" name="maruyama2010"/>。Sは激昂し、C子を頭ごと激しく床に叩きつけたが、C子はなお果敢に抵抗してSに爪を立ててひっかいた<ref group="書籍" name="repo1_p84-86"/><ref group="書籍" name="repo1_p172-181"/>。逆上したSは近くにあった電気コードでC子の首を絞めて殺害し<ref group="書籍" name="maruyama2010"/>、現金数十万円(起訴状および判決によれば、奪った現金は合計約34万円)<ref group="報道" name="chunichi19940405"/><ref group="報道" name="chunichi19940808"/>を奪った<ref group="書籍" name="repo1_p84-86"/><ref group="報道" name="asahi19920307"/><ref group="報道" name="chunichi19920307"/>。C子が絶命したことを確認すると、SはC子の遺体を引きずって北側の洋間に戻し<ref group="書籍" name="maruyama2010"/>、他人と一緒に箸を使う鍋料理を口にできないほどの[[潔癖症]]だったSは老女の唾液を汚らしく思い、洗面所で頭、顔、首、手を何度も洗った<ref group="書籍" name="repo1_p84-86"/><ref group="書籍" name="repo1_p172-181"/>。当時のSには生まれて初めて人を殺めてしまったという実感は乏しく、唾液を吐きつけたC子に対する怒りや「こんな汚いところにいられるか」という嫌悪感の方が強かったという<ref group="書籍" name="repo1_p172-181"/>。その後、Sはいったん外に出て自動販売機でたばこと、「長期戦を覚悟して」予備の缶ジュースを買い<ref group="書籍" name="repo1_p172-181"/><ref group="書籍" name="maruyama2010"/>、外で30分ほど過ごしてからまた部屋に戻った<ref group="書籍" name="repo1_p84-86"/>。B子はこの時、学校帰りに父Aの会社に寄り、母親D子(Aの妻、当時36歳)と買い物をして家路に向かっていた<ref group="新潮" name="focus19920320"/>。 |
|||
結局、Sは野球強豪校の[[日本大学第一中学校・高等学校|日大一高]]と[[岩倉高等学校|岩倉高校]]を受験したが、いずれも不合格に終わり{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=47}}、1988年(昭和63年)4月にはXからの経済的援助を得て、堀越高校(東京都[[中野区]])に入学した{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=109}}。入学後はクラス委員を務め、成績も上位をキープしていたが、相変わらず喧嘩に明け暮れ続け、家庭内暴力も悪化{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=49}}。気に入らないとしばしば母Yや弟に殴る蹴るなどの暴行を加え、Yに対し暴力を振るう際には「女は頭を抑える者がいないとつけあがるから駄目だ」という性差別的な理由を述べていた{{Sfn|福島章|1995|p=7}}。このため、YはSを連れて[[警視庁]]の少年相談室に相談へ赴くなどしており{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=109}}、ときには一時的に家を出てビジネスホテルに泊まったこともあった{{Sfn|福島章|1995|p=7}}。 |
|||
なお、同年12月には中学時代に在住していたアパートから、[[青砥駅]]近くの3DKのマンションに引っ越している{{Efn2|Yはさらに2年後には船橋市内のテラスハウスへ移住したが、その3、4か月後には市川市の分譲マンション(事件当時、Yが次男とともに住んでいた)に移住した{{Sfn|週刊文春2|1992|pp=42-43}}。}}{{Sfn|永瀬隼介|2004|pp=48-49}}。これは、Yが「長男に個室を与えれば、家庭内暴力も収まるはず」と考えたことから、より広い部屋に引っ越すことを決断したものだったが、結果は裏目に出た{{Sfn|永瀬隼介|2004|pp=49-50}}。 |
|||
部屋に戻って再び金品を物色していた途中、午後7時頃にB子・D子が買い物から帰宅した<ref group="書籍" name="repo1_p86-87">永瀬、2004 p.86-87</ref>。Sは台所にあった刃渡り20cm超の柳刃包丁を手に取って台所の戸棚の陰に身を潜め<ref group="書籍" name="maruyama2010"/>、何も気付かずそのまま今に向かおうとした2人を待ち伏せて台所から飛び出し<ref group="書籍" name="maruyama2010"/>、包丁を突き付けたが<ref group="最高裁判決文" name="hanrei"/><ref group="書籍" name="repo1_p84-86"/><ref group="書籍" name="repo1_p172-181"/>、怯えることもなく「どうしてここにいるの」と厳しく問い詰めてきたD子の「頭の切れそうな」態度に半ば恐れを感じて「騒ぐと殺す」と怒鳴りつけた<ref group="書籍" name="repo1_p86-87"/><ref group="書籍" name="repo1_p172-181"/>。「女とはいえ2人を一度に相手にするのは無理だ。別々の方向に走って逃げられたらどちらか1人は確実に逃げる」「走って逃げ出し、大声でも上げられたら終わりだ」と考えたSは2人を脅してうつぶせにさせた上で所持品をすべて出させた<ref group="書籍" name="repo1_p86-87"/><ref group="書籍" name="repo1_p172-181"/><ref group="書籍" name="maruyama2010"/>。母子2人を無抵抗にした上で、Sは(鑑定書より)「頭が働くずる賢そうな人というか、そういうタイプだったので、それだけ伊達に年取っていないですからそれだけ知恵が働くんじゃないかと思って」D子のみを背中から柳刃包丁で計5回突き刺した<ref group="報道" name="chunichi19920307"/><ref group="書籍" name="maruyama2010"/><ref group="書籍" name="repo1_p86-87"/><ref group="書籍" name="repo1_p172-181"/>。致命傷を負わされてもなお、苦悶に顔を歪めつつ足で床を蹴り、自身のダウンジャケットにしがみつくD子を、Sは「あーあ、血が付いちまうだろう」と言いつつ脇腹を蹴って遠ざけた<ref group="書籍" name="repo1_p84-86"/>。D子は間もなく失血死し、SはそのままB子を脅してD子の遺体を「帰って来る家人に見られてはまずい」と2人がかりで南側の奥にある洋間に運び入れ<ref group="書籍" name="maruyama2010"/>、B子にタオルで床に残ったD子の大量の血と失禁の跡を拭わせた<ref group="書籍" name="maruyama2010"/><ref group="書籍" name="repo1_p86-87"/>。 |
|||
甲子園を目指していたSだったが{{Sfn|週刊文春|1992|p=206}}、堀越高校の硬式野球部の練習場は遠方で通いきれず{{Efn2|堀越高校の硬式野球部グラウンドは[[八王子市]]にあった{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=49}}。また、朝倉喬司 (1992) は甲子園を目指していたはずのSが高校入学後、硬式野球部ではなく軟式野球部に入部した理由について、「中3の冬、自転車で転んで腕に大ケガをしたのが響いたためのようだ」と述べている{{Sfn|朝倉喬司2|1992|p=57}}。}}、軟式野球部に入らざるを得なかった{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=109}}。その軟式野球部も、先輩のしごきがひどくて怪我することもあり、挫折感を味わったことや{{Sfn|福島章|1995|p=7}}、学校のレベルが低く感じられたことなどから、Sは次第に高校生活に対する意欲を失い{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=109}}、「こんな学校にいても大学には行けない」と勉強をなおざりにし{{Sfn|福島章|1995|p=7}}、不良仲間と盛り場を徘徊したりして登校しないことが多くなった{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=109}}。また、遊興費欲しさにアルバイトを始めた一方、高校には悪友が多く、友人と日常的に喧嘩し、「勝つと金を取り、負けると金を払う」習慣が身についた{{Sfn|福島章|1995|p=7}}。このころから、刃物を常時携帯したり、酒や煙草を常用するようになって、ついには他校生に乱暴して停学処分を受けたことを契機に{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=109}}、1989年(平成元年)5月31日付で同校を退学した{{Sfn|週刊新潮|1992|p=148}}。退学理由について、堀越高校は「恐喝事件を起こしたため、停学処分にして生活指導を行ったが、家に待機していなければいけない時間にいなかったり、無断外泊を繰り返していたため、母Yから『退学させてほしい』と申し出があった」と説明している一方{{Sfn|週刊新潮|1992|p=148}}、Yは知人に対し「友だちのスクーターに無免許で乗って警察に補導されたのを誰かが学校に知らせて停学。停学期間中に2度家に(学校から)電話があった時、たまたま家にいなくて(退学させられた)」と話している{{Sfn|朝倉喬司2|1992|p=57}}。その後、Sを別の高校に紹介しようとした知人がおり、母Yも最初はその話に乗り気だったが、最終的には断りの返事を入れている{{Sfn|朝倉喬司2|1992|p=57}}。 |
|||
その後SはB子を監禁し、D子を殺害してから15分後に保育園児のE子(B子の妹でAの次女、当時4歳)<ref group="書籍" name="repo1_p87-89">永瀬、2004 p.87-89</ref><ref group="報道" name="asahi19920307"/><ref group="報道" name="chunichi19920307"/>が保母に連れられて帰って来た<ref group="新潮" name="focus19920320"/>。この際、B子がドアを開けてE子を部屋に入れた<ref group="新潮" name="focus19920320"/>。SはB子に夕食の準備をさせ、3人で食事を摂った<ref group="書籍" name="repo1_p87-89"/>。食後、SはE子を絞殺された祖母C子の部屋に追いやってテレビを観せた<ref group="書籍" name="repo1_p87-89"/>。その後E子が寝付くと<ref group="書籍" name="maruyama2010"/>、少女を前に欲望で全身が火照っていたSは「父親は午後11時過ぎに帰って来る」とB子から聞いていたことから<ref group="書籍" name="repo1_p87-89"/>、午後9時20分頃にB子を包丁で脅して寝室に連れ込み、強姦しようと「服を脱げ」と脅すが<ref group="書籍" name="repo1_p87-89"/>、目の前で母親を惨殺され恐怖に震えるB子は服を脱ごうとしなかったため、いらついたSはB子をベッドに突き倒し、強引に服を剥ぎ取り、自分も素早く全裸になって再び強姦した<ref group="書籍" name="repo1_p87-89"/><ref group="書籍" name="maruyama2010"/>。家族の死体が横たわる傍らでB子を強姦するという想像を絶する凄惨な場面について、当時のSは[[精神鑑定]]時にその心境を「自分としては、時間潰しというか、気分転換というか」と<ref group="書籍" name="maruyama2010"/>、またその言葉の意味について「盗みに入ってすぐに出ていくつもりが、金品を物色している中で2人帰ってきて、まだ慌てている割には目的は達成されていない。何をやっているのかな、というような気持になった。その間にB子から家族構成や、父親が何時頃帰って来るということも聞いていたので『じゃあ(父親の帰宅を)待とう』ということもあった」と語っていた<ref group="書籍" name="repo1_p172-181"/>。 |
|||
=== 高校中退後 === |
|||
しかし、強姦の最中の午後9時40分頃に予想より早くAが帰宅した<ref group="書籍" name="repo1_p87-89"/>。Sは慌てて服を着てD子を刺殺した柳刃包丁を手に取り、台所の食器棚の陰に隠れた<ref group="書籍" name="repo1_p87-89"/>。Aがベッドで横になっている娘を見て「寝てたのか」と声を掛けたところ、SがAの左肩を背後から柳刃包丁で刺した<ref group="書籍" name="maruyama2010"/><ref group="書籍" name="repo1_p87-89"/>。この時のSの心境は「一度刺しておけば力関係もはっきりするだろう。歩いている道の上に石が転がっていて邪魔だから蹴飛ばすようなもの」程度の感覚であり<ref group="書籍" name="repo1_p87-89"/>、また永瀬への手紙の中では「『人間の体なんて思ったよりすうっと力が入っていくものだな』と考えたりしたものです。もっと骨とか筋肉とか、刃応えを感じることがあって、手に力が必要なのだろうと思っていたら、全然そんなことはなくて、あれならウナギを捌く時の方がよっぽど力がいるんじゃないかと思うほど、ケーキに包丁を入れるような感じしか手に残りませんでした」と綴っていた<ref group="書籍" name="repo1_p172-181"/>。SはAに暴力団組員の名刺を突き付け<ref group="書籍" name="maruyama2010"/>、組員を装って「お前が取材して書いた記事で組が迷惑している」と、床に座り込んで立てなくなったAに金目の物200万円を出すよう要求した<ref group="書籍" name="repo1_p87-89"/>。まだ妻D子と母C子が殺されたことを知らず、家族を守ろうと必死だったAはSに母親の通帳のありかを教えてしまい<ref group="書籍" name="repo1_p87-89"/>、娘に指示して家にある現金16万円と預金通帳2冊を集めさせた<ref group="書籍" name="maruyama2010"/>。Sは額面257万6055円の郵便貯金総合通帳と、103万1737円の銀行総合口座通帳を手に入れたがまだ満足せず<ref group="報道" name="asahi19920311">『朝日新聞』1992年3月11日朝刊千葉版「長女を使い、通帳も手に 市川の家族4人殺し」</ref>、Aの職場の事務所にも通帳と印鑑があると聞き出し、B子に電話を入れさせ、職場に残っていた社員にこれから通帳を取りに行くと伝えさせ、従わないと父親まで殺されると恐怖したB子を連れ<ref group="書籍" name="maruyama2010"/>、翌3月6日午前零時半に外に出た<ref group="報道" name="asahi19920311"/><ref group="書籍" name="repo1_p87-89"/><ref group="報道" name="asahi19920307"/>。Sはエレベーターでいったん1階まで下りたが、B子を1階に残して即座に引き返し<ref group="書籍" name="maruyama2010"/>、刺されてから約3時間悶絶しつつ、台所のテーブルにつかまって立ち上がっていたAを刺殺した<ref group="書籍" name="repo1_p87-89"/><ref group="書籍" name="maruyama2010"/><ref group="報道" name="chunichi19940808"/>。 |
|||
[[ファイル:The apartment where the criminal of Ichikawa family murder of four people lived.jpg|thumb|犯人Sが事件当時住んでいた、船橋市本中山二丁目のアパート。『[[週刊新潮]]』 (1992) に、この写真とほぼ同じ構図の写真が掲載されている{{Sfn|週刊新潮|1992|p=147}}。]] |
|||
Sは高校中退後、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]留学を希望したこともあったが、親族や知り合いに止められた{{Sfn|朝倉喬司|芹沢俊介|1992|p=170}}。また、中学時代から交際していた少女とは熱心に交際しており、アルバイトをするだけでなく、互いに親の財布から金を盗んだりもしていたが、1989年秋ごろ、娘がSと交際することに反対していた彼女の父親がYの許へ抗議に訪れ、最終的には親同士で協力して2人を別れさせることになった{{Sfn|永瀬隼介|2004|pp=51-52}}。やがて、彼女は両親の説得に根負けしてSと別れたが、これに激怒したSは、ナイフを持って彼女の父親を脅す事件を起こし、[[軽犯罪法]]違反の罪に問われて家庭裁判所へ[[送致]]された{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=52}}。Sの知人は、Sが高校中退後に暴力事件を繰り返し、その度に祖父Xや母親Yが被害者に謝罪して[[示談]]にしていたという旨を証言している{{Efn2|Sは1991年末、タクシー運転手をナイフで傷つける傷害事件を起こしていたが、これはYが示談にして収めていた{{Sfn|週刊新潮|1992|p=148}}。}}{{Sfn|女性自身|1992|p=218}}。 |
|||
その後、レンタルビデオ店や運送会社などでアルバイトをした後、同年11月ごろから「X商店」の仕事の手伝いをするようになった{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=109}}。この動機は、Xが常に忙しく働いている姿を見て、「仕事というものがそんなに面白いものか、その世界を覗いてみたかった」という理由だったが、昼間は「X商店」で働き、夜は繁華街で水商売の店員をするなどの二重生活をしており、「X商店」での働きぶりについては芳しい評価をされていなかった{{Sfn|福島章|1995|p=7}}。当時、会社の先輩には礼を尽くしており、客にもきちんと応対はしていたが、出勤時間は極めてルーズで、怒り出すとしばしば人が変わっていたという{{Sfn|小田晋|1992|p=208}}。Sの親類は祖父XがSに対し、「また夜遊びか」と言いながら1万円札を数枚手渡すようなことがあった旨を証言している{{Sfn|週刊新潮|1992|p=148}}<ref>{{Cite journal|和書|journal=[[週刊朝日]]|title=不良の成れの果て 市川で一家四人を惨殺した十九歳店員の甘ったれ人生|volume=97|page=199|date=1992-03-20|issue=11|publisher=[[朝日新聞出版|朝日新聞社出版部]]}}</ref>。『[[東京新聞]]』記者の稲熊均は、XがSに後の[[トヨタ・クラウン|クラウン]]の購入費用や、様々な遊興費を与えていたり、Sが補導された際には娘Yとともに被害者に謝罪したり、示談金を払ったりしている旨を報じているが、その背景としてXの知人の「Xは『あの子たちの父親を奪っちまったんだから、おれがその分の愛情を与えなきゃならねえ』と言っていた」という証言を取り上げている{{Sfn|稲熊均|1992|p=15}}。一方、[[永瀬隼介]] (2004) はSの将来を心配したXが「このままだとお前もZのようになる」と忠告したものの、Sは聞く耳を持たなかったという旨を述べている{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=56}}。また、このころには「X商店」の現金がなくなる事件が続き、SはXから盗みの疑いを掛けられたが、それに腹を立て、1990年(平成2年)1月17日22時ごろにX宅へ赴き、就寝中だったXの顔面を蹴り、水晶体脱臼・硝子体出血などの怪我を負わせる事件を起こした{{Efn2|しかし、朝倉の取材を受けたSの家族の知人は「眼球破裂でXの片目が不自由になったという報道は誤りで、Xはこの事件以前から緑内障で[[千葉大学医学部附属病院|千葉大学病院]]に通院していた」と証言している{{Sfn|朝倉喬司2|1992|p=57}}。この一件で、Sは入院したXを見舞って謝罪している{{Sfn|福島章|1995|p=7}}。}}{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=109}}。さらには父親Zと揉み合いになり、台所からパン切り包丁を持ち出す事件も起こしている{{Sfn|中尾幸司|1994|p=144}}。 |
|||
3月6日午前1時頃<ref group="報道" name="asahi19920311"/>、Sは事務所付近にクラウンを駐車すると、B子に「人がいるんじゃヤバい。俺はここで待っているから、お前が行って来い」と命じて行徳駅前の事務所に向かわせた<ref group="書籍" name="repo1_p90-91"/><ref group="新潮" name="focus19920320"/>。B子が駅前のマンション2階にある事務所に行っている間<ref group="新潮" name="focus19920320"/>、空腹を覚えたSは近くのコンビニエンスストアで菓子パンを買って食べた<ref group="書籍" name="repo1_p90-91">永瀬、2004 p.90-91</ref><ref group="新潮" name="focus19920320"/>。当時残業中で、後に警察に通報した男性社員に<ref group="書籍" name="repo1_p90-91"/>、まだ父親が殺されたことを知らないB子は「ヤクザがお父さんの記事が悪いとお金を取りに来ている」と告げたが<ref group="報道" name="asahi19920311"/><ref group="書籍" name="repo1_p90-91"/><ref group="書籍" name="maruyama2010"/><ref group="報道" name="nikkei19920311"/>、助けは特に求めず<ref group="報道" name="asahi19920311"/>、両親名義の預金通帳<ref group="書籍" name="repo1_p90-91"/>(関連書籍によれば額面合計63万5620円<ref group="書籍" name="repo1_p90-91"/>、起訴状および判決によれば計9冊、額面約424万円)<ref group="報道" name="chunichi19940405"/><ref group="報道" name="chunichi19940808"/>と[[印鑑]]7個を受け取った<ref group="報道" name="asahi19920311"/><ref group="書籍" name="repo1_p90-91"/><ref group="書籍" name="maruyama2010"/>。B子が来た約20分後にはSも現れ、B子に「おい、行くぞ」と声を掛け<ref group="新潮" name="focus19920320"/>、2人で印鑑と通帳を持って行ったという<ref group="報道" name="nikkei19920311"/>。不審に思った社員は派出所に連絡し、直後の午前1時半頃に葛南署員とともにA宅に出向いてドアをたたいたり、電話をかけたりしたが<ref group="新潮" name="focus19920320"/>、その時は電気が消えており応答もなかった(この時点でB子の両親・祖母C子は殺害されていたが寝かしつけられていたE子はまだ生存していた)ため、署員は不在と思って引き揚げた<ref group="報道" name="asahi19920311"/>。その間SはB子をクラウンに乗せて市川市内の東京湾沿いのラブホテルに連れ込み、30分ほどかけて通帳の額面を調べ、印鑑と通帳の印影を確認した<ref group="書籍" name="repo1_p90-91"/>。Sはここでも再びB子を強姦し、大胆不敵にも4時間近く熟睡した後、再びB子を強姦した<ref group="書籍" name="maruyama2010"/><ref group="書籍" name="repo1_p90-91"/>。 |
|||
このころ、「X商店」の年上の同僚に市川市内の[[フィリピンパブ|フィリピン・パブ]]へ連れて行かれたことがきっかけで、様々なフィリピン・パブに足繁く通うようになった{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=109}}。また、ギタースクールに通い、バンドの練習もするようになっていたが、バンド仲間や貸スタジオで知り合った者たちとともに[[トリアゾラム|ハルシオン]]や[[LSD (薬物)|LSD]]などの薬物を乱用した{{Sfn|永瀬隼介|2004|pp=56-57}}。その理由について、Sは永瀬への手紙で、自分よりギターが上手な者たちや、幼少期から憧れていたジミ・ヘンドリックスら、多くのロックアーティストたちが薬物を常用していたことを挙げている{{Sfn|永瀬隼介|2004|pp=166-168}}。 |
|||
翌6日午前6時頃、SがB子とともに既に一家3人が死亡していたマンションに戻ってきた<ref group="書籍" name="maruyama2010"/>。Sがしばらく部屋でくつろいでいたところ<ref group="書籍" name="maruyama2010"/>、一旦は寝かせたB子の妹E子<ref group="報道" name="asahi19920307"/><ref group="報道" name="chunichi19920307"/>が目を覚まして泣き始めていた<ref group="書籍" name="repo1_p90-91"/>。隣近所に聞こえてはまずいと考えたSは、祖母C子の部屋で布団の上に座り、背中を向けて泣いていたE子を背中から包丁で突き刺した<ref group="最高裁判決文" name="hanrei"/><ref group="書籍" name="repo1_p90-91"/><ref group="書籍" name="maruyama2010"/>。包丁は体を貫通し、刃先は胸まで突き抜けた<ref group="書籍" name="repo1_p90-91"/><ref group="書籍" name="maruyama2010"/>。「痛い、痛い」と弱々しく声を出し、苦しみもがく妹を前にしてSは「妹を楽にさせてやれよ。首を絞めるとか方法があるだろう」と平然と言い放ったが、B子は全身が凍ったように動けず、Sは激痛で泣き叫ぶE子の首を絞め上げ殺した<ref group="書籍" name="repo1_p90-91"/><ref group="書籍" name="maruyama2010"/>。家族を皆殺しにされ、5度にわたって凌辱されるという想像を絶する恐怖と絶望で心身ともに打ちのめされていたB子だったが、妹E子が殺された直後「どうして妹まで刺したの!」とSに食って掛かった<ref group="書籍" name="maruyama2010"/>。しかしSは突然のB子の反抗に逆上し、包丁を振りかざして左上腕と背中を切り付け全治2週間の怪我を負わせた<ref group="書籍" name="repo1_p90-91"/><ref group="書籍" name="maruyama2010"/><ref group="報道" name="chunichi19940405"/><ref group="報道" name="chunichi19940808"/>。あろうことか、SはE子を刺殺する前後に一家4人が惨殺された凄惨な現場から友人に電話を入れ、取り留めもない話に興じていた<ref group="書籍" name="repo1_p172-181"/>。 |
|||
1990年9月、SはYから80万円出してもらって購入したオートバイに乗っていたところ、交通事故で肋骨8本を骨折したが、その治療が長引くうちに怠け癖がつき、「X商店」を休みがちになった{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=109}}。その間の1991年(平成3年)3月には、合宿講習で運転免許を取得し、同年3月にはYの援助で[[トヨタ・クラウン#8代目 S13#型(1987年 - 1999年)|クラウンロイヤルサルーン]](433万円余)をローンで購入して乗り回すようになった{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=109}}。同年6月、Yから契約金58万円余のほか、月10万円強の部屋代を出してもらい、本中山のアパートで一人暮らしを始めるようになった{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=109}}。それ以降、後述のフィリピン人女性aaと結婚するまでに3人の女性と同棲生活をしたが、いずれも短期間で相手に去られ長続きしなかった{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=109}}。当時のSの行状については、深夜に帰宅した際に大きな音を立ててドアを閉めたり、近隣住民に違法駐車を注意されて逆上したりといったトラブルを起こし、時には暴力団の名前を出して相手を威嚇していたことや{{Sfn|週刊新潮|1992|p=147}}、クラウンの座席には常にバットやナイフなどを置いてあったことなどが証言されている{{Sfn|女性自身|1992|p=219}}。また、1991年には傷害事件で取り調べを受けている{{Sfn|飯島真一|1994|p=199}}。一方、日曜日には朝早くから、野球をしていた中学生の弟を練習のために送り迎えしていたという証言もある{{Sfn|宇野津光緒|1993|p=56}}。 |
|||
8時過ぎ、再びB子から自宅の電話に金の工面を求める電話を受けたAの会社に勤める社員(関連書籍によれば、B子が深夜に訪問してきたことを不審に思った事務所の男性社員)<ref group="書籍" name="repo1_p90-91"/>が「社長宅の様子がおかしい」と不審に思い、同日午前9時過ぎにマンションに電話を入れた<ref group="報道">『日本経済新聞』1992年3月11日朝刊39面「長女使い通帳奪う 千葉の一家殺害の少年」</ref><ref group="書籍" name="repo1_p90-91"/>。しかしB子は「おはよう」と言ったきり黙ってしまい<ref group="新潮" name="focus19920320"/>、社員が「脅している奴が部屋にいるのか」と聞くと尋ね、B子はうなずいたが<ref group="新潮" name="focus19920320"/>、すぐに電話は切れてしまった。B子の対応が不自然で、部屋を訪ねてもドアの鍵がかかっており、呼んでも返事がないことから社員は不審に思い、近隣の葛南署行徳駅前交番に通報した<ref group="報道" name="yomiuri19920307">『[[読売新聞]]』1992年3月6日夕刊19面「一家4人殺される 市川のマンション 部屋に高一の養女 男友達も、事情聴く」<br>『読売新聞』1992年3月7日朝刊31面「19歳店員を逮捕 市川の一家4人殺し 犯行ほぼ自供 帰宅親子を次々 前日から強盗目的で侵入 一家とは面識なし」</ref><ref group="報道" name="nikkei19920307">『[[日本経済新聞]]』1992年3月6日夕刊19面「一家4人殺される? 千葉・市川のマンション」<br>『日本経済新聞』1992年3月7日朝刊31面「金欲しさ、帰宅待ち凶行 市川の一家4人殺害 19歳少年を逮捕 祖母絞殺後、次々と 長女も監禁 金工面の電話させる」「残忍な犯行 大きな衝撃」「少年犯罪、凶悪化の一途」<br>『日本経済新聞』1992年3月7日夕刊11面「市川の一家4人殺害 少年を本格追及 千葉県警」「『園児には話せない』二女の保育園」</ref><ref group="書籍" name="repo1_p90-91"/><ref group="報道" name="chunichi19920306"/><ref group="報道" name="chunichi19920307">『[[中日新聞]]』1992年3月7日朝刊31面「千葉の一家4人殺し 少年が自供、逮捕 家人帰宅待ち次々凶行『金が欲しかった』長女も刺し監禁」「低年齢・凶悪化 相次ぐ少年犯罪」</ref><ref group="書籍" name="maruyama2010"/>。部屋の玄関の鍵がかかっており、呼んでも返事がないため、社員とともに駆け付けた同派出所の[[警察官]]が隣の部屋からベランダを伝って窓から侵入したところ<ref group="書籍" name="repo1_p90-91"/>、Aは居間、D子は6畳の和室、E子はD子が死んでいた和室の隣の6畳の洋室、C子はE子とは別の7畳の洋室と、4人がそれぞれ別の部屋で死亡しており<ref group="報道" name="yomiuri19920307"/>、室内の壁などに血が飛び散り<ref group="報道" name="nikkei19920307"/>、部屋の中でSとB子が呆然と立ち尽くしていた<ref group="報道" name="asahi19920307"/><ref group="報道" name="chunichi19920306"/><ref group="報道" name="yomiuri19920307"/>。警察官が現場に駆けつけるまでの十数時間、B子を監禁していた<ref group="報道" name="asahi19920308_19920309"/>Sは「俺に殺されたいか、それとも一緒についてくるか」とB子に脅し迫ったが<ref group="書籍" name="repo1_p90-91"/>、ドアの外で息を殺して動き回る複数の人間の気配を感じ、Sは放心状態のB子に3人を刺殺した包丁を握らせ、それでも動かないB子にイラついて怒鳴りつけたところ、ドアが開いて怒号とともに警官たちが突入した<ref group="書籍" name="repo1_p12-13">永瀬、2004 p.12-13</ref><ref group="書籍" name="maruyama2010"/>。 |
|||
== 被害者一家 == |
|||
B子は警察によって14時間ぶりに保護され<ref group="書籍" name="repo1_p12-13"/><ref group="書籍" name="repo1_p90-91"/>、警察官は現場から逃走しようとしたSを追跡して取り押さえ葛南署に連行した<ref group="報道" name="chunichi19920307"/>。関連書籍によればSはなだれ込んだ警官隊に取り押さえられており<ref group="書籍" name="repo1_p12-13"/>、また『[[読売新聞]]』の報道によれば、Sは署員らが部屋に入った時に玄関から逃走を図るも、追跡した署員との格闘の末に取り押さえられ、その際「おれはやっていない」と叫んだが<ref group="報道" name="yomiuri19920307"/>、ナイフを所持していたため[[銃砲刀剣類所持等取締法|銃刀法]]違反容疑で現行犯逮捕された<ref group="報道" name="yomiuri19920311">『読売新聞』1992年3月11日朝刊31面「凶行後、養女5時間連れ回す 一家4人殺害“異常な17時間” 『200万円に足りない』と会社から通帳持ち出さす」</ref>。千葉県警がSを参考人として事情聴取したところ、深夜になってSが「金が欲しくてやった」と犯行を認めたため、一旦釈放の手続きを取った上で<ref group="報道" name="yomiuri19920311"/>、3月7日午前零時半頃に強盗殺人容疑で逮捕状を請求してSを逮捕した<ref group="報道" name="asahi19920307"/><ref group="報道" name="yomiuri19920307"/>。Sは身長178cm、体重80kgと大柄で、警察により身柄を拘束された際にはB子に包丁を持たせ、自分を脅しているように見せかけてて罪を逃れようとしており<ref group="書籍" name="repo1_p12-13"/>、また逮捕前の取り調べでは「先月B子と知り合い、A宅の住所と電話番号を聞き出した」「B子とは一緒にコンサートに行った」などと虚偽の供述をしており、これを千葉県警および県警発表を通じて知ったマスメディア関係者も鵜呑みにしたことが後述の[[#報道被害]]につながった一方、被害者のB子はショックのため調べに対して何も話すことができず、それがSの供述に捜査本部が引きずられる結果となったが<ref group="報道" name="asahi19920310"/><ref group="報道" name="chunichi19920307"/>、捜査本部は真偽を丹念に調べ、虚言と突き止めた<ref group="報道" name="asahi19920307"/><ref group="報道" name="asahi19920308_19920309">『朝日新聞』1992年3月8日朝刊千葉版「残忍な手口(衝撃の刃 市川の一家4人殺人:上)千葉」<br>『朝日新聞』1992年3月9日朝刊千葉版「甘えた生活(衝撃の刃 市川の一家4人殺人:下)千葉」</ref>。 |
|||
本事件の被害者一家は事件当時、現場となった市川市幸二丁目5番1号のマンション「行徳南スカイハイツ」C棟({{ウィキ座標|35|40|41.83|N|139|55|39.06|E||座標}})の806号室に3世代5人で居住し<ref name="読売新聞1992-03-07"/>、慎ましくも平穏な暮らしを営んでいた{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=120}}。このマンションは、[[帝都高速度交通営団|営団地下鉄]](現:[[東京地下鉄|東京メトロ]])[[東京メトロ東西線|東西線]]の[[行徳駅]]から南東約1 [[キロメートル|km]]離れた[[東京湾]]沿いの埋立地にある高層住宅街の一角に建つ9階建てのマンションで、[[千葉港|市川水路]]({{ウィキ座標|35.676439|||N|139.927290|||E||座標}})に面して建っていた<ref name="読売新聞1992-03-06">『読売新聞』1992年3月6日東京夕刊第4版第一社会面19頁「一家4人殺される 市川のマンション 部屋に高一の養女 男友達も、事情聞く」(読売新聞東京本社) - 『読売新聞』縮刷版 1992年(平成4年)3月号301頁。</ref>。また、このマンションはX宅の玄関から見える位置に所在していた{{Sfn|集刑|2002|p=794}}。 |
|||
A・D夫婦は1987年(昭和62年)3月に結婚し、同年8月に雑誌の出版・編集などを手掛ける株式会社{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=110}}「ルック」{{Efn2|name="ルック"}}を設立{{Sfn|週刊新潮|1992|p=146}}、Dが代表取締役、Aが取締役をそれぞれ務めていた{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=110}}。 |
|||
千葉県警の取り調べに対し、Sは犯行を認めた上で、犯行の具体的な動機について「付き合っている女性のことで暴力団組員から脅され、200万円ぐらいの金が欲しかった。盗みに入り、見つかったので次々と殺し、B子を監禁していた」<ref group="報道" name="nikkei19920308"/><ref group="報道" name="chunichi19920307"/><ref group="新潮" name="focus19920320"/>「マンションの近くまで行ったことがある。あの家ならやりやすいと思った」と供述した<ref group="報道" name="yomiuri19920308">『読売新聞』1992年3月8日朝刊31面「一家4人殺害 『200万円欲しかった』 容疑者の少年供述『ヤクザに脅されて』」</ref>。捜査本部は、Sが金に困った挙句、標的を絞り下見をした計画的な犯行ではないかと見て追及した<ref group="報道" name="yomiuri19920308"/>。現場の806号室の真下の住民は「昨夜11時半頃、上の部屋でドスンと大きな音がした」と話した<ref group="報道" name="nikkei19920307"/>。 |
|||
一家が居住していた806号室は事件後、1年以上空き部屋になっていたが{{Sfn|宇野津光緒|1993|p=56}}、事件から10年が経過した2002年4月26日時点では{{Sfn|蜂巣敦|2008|p=59}}、別の住民が入居している{{Sfn|蜂巣敦|2008|p=73}}。 |
|||
逮捕後、現場検証で現場から血の付いた包丁が見つかった<ref group="報道" name="nikkei19920308">『日本経済新聞』1992年3月8日朝刊31面「『200万円欲しくて』 市川の一家殺害 逮捕の少年供述」</ref>。捜査本部は包丁の柄などから採取した指紋を鑑定するなどの裏付け捜査を行い<ref group="報道" name="nikkei19920308"/>、翌3月8日午前<ref group="報道" name="nikkei19920309">『日本経済新聞』1992年3月9日朝刊35面「4人殺害の少年送検 千葉県警」</ref>、Sを[[千葉地方検察庁]]に[[送検]]した<ref group="報道" name="nikkei19920309"/><ref group="報道" name="asahi19920308_19920309"/>。また、同日までにSが住んでいたマンションを家宅捜索し、書類などを押収した<ref group="報道" name="nikkei19920309"/>。 |
|||
; <span id="男性A">男性A</span> |
|||
: 1949年(昭和24年)8月10日生まれ({{没年齢|1949|8|10|1992|3|5}}){{Sfn|判例タイムズ|1994|p=110}}。Dの夫およびB・E姉妹の父親で、Cの息子に当たる<ref name="中日新聞1992-03-07"/>。 |
|||
: [[群馬県]]で生まれ{{Sfn|永瀬隼介|1992|p=104}}、[[立教大学]]を卒業後は性風俗関係の雑誌で取材・撮影をしており、[[ロス疑惑]]で注目された[[三浦和義]]の[[スワッピング (性行為)|スワップ]]写真を撮影したこともあった{{Sfn|週刊新潮|1992|p=146}}。後に仕事を通じてDと知り合い、1987年に結婚{{Sfn|永瀬隼介|2004|pp=79-80}}。Dの連れ子であるBのことも実子同然に可愛がっており、仕事仲間に対し「結婚したら大きな娘が出来ちゃったよ」と自慢していた{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=80}}。結婚後は年頃の娘を持ったため、風俗関係の仕事からは離れ{{Sfn|FOCUS|1992|p=69}}、事件の数年前からは料理専門のフリーライター・カメラマンに転身して『月刊食堂』([[柴田書店]])で「繁盛の秘訣」という連載記事を手掛けたり、漫画誌のグルメ欄を担当したりしていた{{Sfn|週刊新潮|1992|pp=145-146}}。また『月刊食堂』の元編集長・玉谷純作に対しては「[[ベルギー]]のペンションを買いたい。ベルギーなら[[ドイツ]]にも[[フランス]]にもすぐに行ける。〔事件の発生した〕1992年に[[欧州諸共同体|EC]]統合があるので、あちらに拠点を持って活動したい」と話していた{{Sfn|週刊新潮|1992|p=146}}。 |
|||
: 3月6日0時30分ごろ、Sに柳刃包丁で背中を刺され失血死した{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=112}}。死亡した被害者4人の中で、3番目に殺害された犠牲者である。 |
|||
; <span id="少女B">少女B</span> |
|||
: 1976年(昭和51年)3月19日生まれ(事件当時{{年数|1976|3|19|1992|3|5}}歳){{Sfn|判例タイムズ|1994|p=110}}。A・D夫婦の長女で、Cの孫、Eの姉に当たる<ref name="中日新聞1992-03-07"/>。 |
|||
: 母Dと前夫との間に生まれ、DがAと結婚した際に養父であるAと[[養子縁組]]して改姓した{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=110}}。事件当時は船橋市内にある県立高校の1年生で、クラスの副委員長を務めたり、演劇部・美術部で活動したりしており、将来は美術関係の大学に進学することを夢見ていた{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=110}}。中学時代の3年間は毎日妹Eを保育園のバスで送迎しており、事件直前には小学校の同級生に対し「将来はお母さんと同じカメラマンになりたい」「新しいお父さんも本当のお父さんのように優しい」と話していた{{Sfn|週刊現代|1992|p=204}}。 |
|||
: 被害者一家5人の中で唯一生存したものの、本事件前にSによって2回強姦され{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=110}}、本事件では目の前で母親D、父親A、妹Eを次々に殺害され、その間にも強姦被害を受けた{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=112}}。事件後は[[熊本県]]の母Dの実家に引き取られた([[#被害者遺族のその後|後述]])。 |
|||
; <span id="女性C">女性C</span> |
|||
: 1908年(明治41年)7月4日生まれ({{没年齢|1908|7|4|1992|3|5}}){{Sfn|判例タイムズ|1994|p=110}}。Aの母親で、Dの義母、B・E姉妹の父方の祖母に当たる<ref name="中日新聞1992-03-07"/>。 |
|||
: [[横浜市|横浜]]で生まれてAの父親と結婚し、夫が電気絶縁材料を扱う大手メーカーの工場で働いていた時期に長男Aを出産した{{Sfn|永瀬隼介|1992|pp=104-105}}。しかし夫はAが中学生の時に胸の病気を悪化させて亡くなっており、それ以降は東京で女手一つで息子を育てていた{{Sfn|永瀬隼介|1992|pp=104-105}}。事件当時は高齢だったため、散歩に出る時以外は玄関北側の自室で過ごすことが多かった{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=110}}。 |
|||
: 3月5日16時30分ごろ、806号室に侵入してきたSによって首を絞められて窒息死した{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=111}}。死亡した4人の中で最初の犠牲者である。 |
|||
; <span id="女性D">女性D</span> |
|||
: 1955年(昭和30年)6月19日生まれ({{没年齢|1955|6|19|1992|3|5}}){{Sfn|判例タイムズ|1994|p=110}}。熊本県[[八代市]]出身<ref name="読売新聞1992-03-07"/>。Aの妻で、Cの義理の娘、そしてB・E姉妹の実母である<ref name="中日新聞1992-03-07"/>。 |
|||
: 地元の高校を卒業後に結婚したが、長女Bを出産した直後に離婚した{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=79}}。それ以降は20歳代前半で上京すると、女手一つでBを育てながら証券会社の事務職、建設会社の経理、ダンプカーの運転手、水商売などの職を転々とし{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=79}}、千葉市[[栄町 (千葉市)|栄町]]の風俗店に勤めていたころに客からの勧めで、風俗誌などのルポライターに転身{{Sfn|週刊現代|1992|pp=203-204}}。「中村小夜子」のペンネームで夕刊紙に[[ソープランド|ソープ]]の探訪記事を書くなどしていたが{{Efn2|『週刊文春』 (1992) は、A・D夫婦の友人の「Dは女性にしかわからない風俗産業の機微を描いて世に出た」という声を報じている{{Sfn|週刊文春|1992|p=204}}。}}{{Sfn|週刊新潮|1992|p=146}}、Bが小学校5年生の時{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=79}}、仕事を通じてAと知り合い{{Sfn|週刊現代|1992|p=204}}、結婚した{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=80}}。Aとの間に生まれた次女Eを出産後は、夫とともに料理関係のライターとして働いていた{{Sfn|週刊新潮|1992|p=146}}。 |
|||
: 3月5日19時過ぎごろに長女Bとともに帰宅した直後、Sに柳刃包丁で背中を刺され失血死した{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=111}}。死亡した4人の中で2番目に殺害された。 |
|||
; <span id="女児E">女児E</span> |
|||
: 1987年(昭和62年)3月17日生まれ({{没年齢|1987|3|17|1992|3|6}}){{Sfn|判例タイムズ|1994|p=110}}。Bの妹で、Cにとっては2人目の孫である<ref name="中日新聞1992-03-07"/>。 |
|||
: A・D夫婦の間に生まれ{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=110}}、事件当時は東京都江戸川区内の保育園に通園していた{{Efn2|千葉地裁 (1994) では市川市内の保育園とされている{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=110}}。}}<ref>『東京新聞』1992年3月7日夕刊E版第一社会面11頁「一家4人殺害 逮捕『子供たちには話しません』衝撃隠せぬ保育園」(中日新聞東京本社)</ref><ref>『東京新聞』1992年3月7日夕刊E版第一社会面11頁「一家4人殺害 逮捕の少年「金目的」供述 惨劇のマンションを検証」(中日新聞東京本社)</ref>。 |
|||
: 3月6日6時30分ごろ、Sに柳刃包丁で背中を刺され失血死した{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=112}}。死亡した4人の中で最後に殺害された。 |
|||
== 事件前の暴力犯罪 == |
|||
千葉県警が殺害された4人の遺体を[[司法解剖]]した結果、絞殺された祖母C子以外(刺殺されたA・D子・E子の3人)の遺体には背後から肺まで達する刺し傷があった<ref group="報道" name="asahi19920310">『朝日新聞』1992年3月10日朝刊第一社会面「生存の長女は少年と無関係と判明 千葉の4人殺害(ニュース三面鏡)」</ref>。死因はAら3人は胸を刺されたことによる失血死、C子は首を絞められたことによる窒息死だった<ref group="報道" name="nikkei19920311">『日本経済新聞』1992年3月11日朝刊39面「長女使い通帳奪う 千葉の一家殺害の少年」</ref>。 |
|||
<span id="江戸川事件">'''江戸川事件(傷害事件)'''</span> |
|||
Sは1991年10月19日16時50分ごろ、当時勤務していた「X商店」の配達の帰り{{Sfn|集刑|2002|p=781}}、クラウンを運転して東京都江戸川区[[上篠崎]]の「X商店」上篠崎店{{Efn2|ゼンリン発行の江戸川区の[[住宅地図]](1991年版および1996年版)によれば、江戸川区上篠崎四丁目12番3号に「(株)S(本事件の死刑囚Sと同一姓)○商店 うな重」という店舗が所在していた<ref>{{Cite book|和書|title=ゼンリン住宅地図 '91 東京都 江戸川区|publisher=[[ゼンリン]]|date=1991-03|series=ゼンリン住宅地図|page=53|NCID=BN06315848|quote=(株)S○(本事件の死刑囚Sと同姓の人物名)商店 うな重 上篠崎四丁目12番3号|volume=23|id={{国立国会図書館書誌ID|000003571283}}・{{全国書誌番号|20528360}}|at=B-1}}</ref><ref>{{Cite book|和書|title=ゼンリン住宅地図 '96 東京都 江戸川区(北部)|publisher=ゼンリン|date=1996-02|series=ゼンリン住宅地図|page=53|NCID=|quote=(株)S○(本事件の死刑囚Sと同姓の人物名)商店 うな重 上篠崎四丁目12番3号|volume=23-1|id={{国立国会図書館書誌ID|000003571292}}・{{全国書誌番号|20528374}}|at=B-1}}</ref>。その後、2000年版では同地は更地になっており<ref>{{Cite book|和書|title=ゼンリン住宅地図 2000 東京都 江戸川区|publisher=ゼンリン|date=2000-01|series=ゼンリン住宅地図|page=53|NCID=|quote=上篠崎四丁目12番3号|volume=23|id={{国立国会図書館書誌ID|000003549418}}・{{全国書誌番号|20528384}}|at=B-1}}</ref>、2022年時点では、篠崎公園9号地になっている<ref>{{Google maps|title=篠崎公園 9号地 〒133-0054 東京都江戸川区上篠崎4丁目12|url=https://www.google.com/maps/place/%E7%AF%A0%E5%B4%8E%E5%85%AC%E5%9C%92+9%E5%8F%B7%E5%9C%B0/@35.7096759,139.8957335,17z/data=!3m1!4b1!4m5!3m4!1s0x60188729adaa0cc1:0x6c7154c705a08509!8m2!3d35.7096759!4d139.8979222?shorturl=1|accessdate=2022-02-03}}</ref>。}}付近の道路を走行していたが{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=109}}、前を走っていた車の速度が遅いなどとして立腹{{Sfn|判例時報|1995|p=59}}。道路が狭かったため、追い越すことができず、自身の後方にも何台か自動車が連なっている状態だったため、Sは先行車両にもっと速度を上げて走るよう、クラクションを鳴らしたが、先行車両の同乗者が窓を開けて顔を出し、Sの方を振り返り「うるせえ」と言って唾を吐いた{{Sfn|集刑|2002|p=781}}。Sは先行車が赤信号に従って停車すると、その運転席側に駆け寄り、「とろとろ走りやがって、邪魔じゃないか」などと怒鳴りつけながら、空いていた窓から手を差し入れてエンジンキーを回し、エンジンを停止させた{{Sfn|判例時報|1995|p=59}}。そして、運転していた男性甲(当時24歳)が降車すると、Sはいきなり甲の顔面を拳で殴りつけ、胸ぐらをつかんで店内に連れ込んだ上で、さらに彼の顔面を殴りつけた上、厨房内に置かれていた鰻焼台用鉄筋(長さ約112 cm)で、背中と左肘をそれぞれ1回殴るなどして、全治3週間の怪我を負わせた{{Sfn|判例時報|1995|p=59}}。弁護人は上告趣意書で同事件について、Sが赤信号で停車した先行車両に文句を言いにいったところ、運転手と同乗者3人からいろいろなことを言われて立腹し、傷害事件に至った旨を主張している{{Sfn|集刑|2002|p=781}}。また、福島 (1995) は本事件を含む交通関係の事件(河原事件・岩槻事件)について、「「相手が悪い」から懲らしめなければならないという「正義感のようなもの」が動機として働いているという」と述べている{{Sfn|福島章|1995|p=6}}。 |
|||
3月12日に殺害された4人の葬儀が市川市内の寺院で営まれ<ref group="報道" name="tokyo20011204"/>、最後に喪主のB子に代わって親類代表は「学識者、マスコミが中心になってこんな惨劇が二度と起こらないように努めてほしい」と挨拶し、その言葉は後述の[[#報道被害]]をB子に与えたマスコミに厳しい課題を課した<ref group="報道" name="chunichi19920315"/>。当時葬儀を仕切った[[住職]]によれば、4人の遺骨はAの親族と、D子の親族にそれぞれ引き取られたという<ref group="報道" name="tokyo20011204"/>。 |
|||
=== 暴力団とのトラブル === |
|||
後にSとの文通をするようになった『[[東京新聞]]』([[中日新聞社]])社会部記者の瀬口晴義も、この犯行の状況について「凶悪、凄惨という形容詞が陳腐に思えるほど残酷な場面の連続に、検察の冒頭陳述を呼んで吐き気を催したほどだ」と記した<ref group="報道" name="tokyo20000729"/>。 |
|||
1991年7月、Sはよく通っていたフィリピン・パブのうちの1軒で働いていたフィリピン国籍の女性aa(当時{{年数|1970|10|29|1991|7|1}}歳{{Efn2|Sの妻となったaaは1970年(昭和45年)10月29日生まれ{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=109}}。}})と知り合い、彼女を追ってフィリピンまで赴き、同年10月31日に正式に婚姻すると、日本に連れ帰ってアパートで同棲するようになった{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=109}}。しかしaaは姉の病気を心配し、1992年(平成4年)1月22日ごろにフィリピンへ帰国し、それ以降は日本に戻らなかったため、Sは再び1人で暮らすようになった{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=109}}。Sはその後も2回ほどフィリピンへ渡航したが、その渡航前に2回ほどX宅に窓ガラスを割るなどして侵入し、現金110万円ほどを奪った{{Sfn|福島章|1995|p=8}}。飯島真一 (1994) は、「1月15日ころには祖父宅に窓ガラスを割って侵入し、現金を奪い、翌日からのフィリピン旅行で費消し、更に、同月下旬ころにも、窓ガラスを割って同宅に押し入り、同人に金員を要求するなどしていた」という[[論告]]の一節を引用している{{Sfn|飯島真一|1994|p=196}}。 |
|||
一方、Sは1991年12月ごろから、aaと知り合った店とは別の市内のフィリピンパブに通うようになり、そこでフィリピン国籍のホステスabと知り合った{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=109}}。1992年2月6日ごろ、Sはabを店の関係者に無断で連れ出し、自宅に泊めたが、同月8日ごろ、abが泣きながら店に戻ってきたため{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=109}}、店が関係する外国人ホステス斡旋業者らは、Sにその件で「落とし前」として多額の金を払わせようと考え、その取り立てを暴力団に依頼することになる{{Sfn|福島章|1995|p=4}}。 |
|||
=== 報道被害 === |
|||
前述のように、Sは「自分はB子の知人である」などのような虚偽の供述をしたため、それを鵜呑みにした千葉県警捜査本部も6日夕方(午後5時)<ref group="報道" name="asahi19920310_kadai"/>の記者会見までは「SはB子の男友達で、ともに参考人として事情聴取している」「警官が現場に駆けつけた時、SとB子は室内で呆然と立っていた」と説明し、Sが金を奪うため連れ出したAの会社では、留守番をしていた知人もSがB子の名前を呼ぶ声から「2人は友人」と思い込み、その時点では疑いを持たなかったという<ref group="報道" name="chunichi19920315">『中日新聞』1992年3月15日朝刊30面「長女が最大の被害者 千葉の一家4人殺害 一時は“共犯”扱い」</ref>。その結果、『朝日新聞』など各報道機関でも6日夕方まで「長女・友人から聴取」「長女・男友達から事情聴く」など、まるでB子が加害者であると疑われるような報道がなされた<ref group="報道" name="chunichi19920315"/><ref group="報道" name="asahi19920310"/><ref group="報道" name="asahi19920310_kadai"/>。県警が報道陣に「Sの単独犯行であり、B子は全くの被害者」という事実を発表したのは6日午後9時半だった<ref group="報道" name="asahi19920310_kadai"/><ref group="報道" name="asahi19920310"/><ref group="報道" name="chunichi19920307"/>。 |
|||
<span id="中野事件">'''中野事件(傷害・強姦事件)'''</span> |
|||
『朝日新聞』1992年3月10日付朝刊千葉県版に掲載された報道内容検証記事によれば、千葉県警本支部の記者クラブに「午前9時頃、市川市内のマンション一室で、家族4人が死亡しているのが発見された」との第一報が伝えられたのは事件発生翌日の3月6日午前10時半だった<ref group="報道" name="asahi19920310_kadai"/>。[[朝日新聞社]]は無理心中と殺人事件の両方の可能性を考えた上で、京葉支局と千葉支局から記者3人を現場に向かわせ、支局に残った記者も電話取材を開始した<ref group="報道" name="asahi19920310_kadai"/>。その結果、「葛南署に通報したのは死亡したAの知人である」「家族のうち長女は生存している」という2つの事実を確認した<ref group="報道" name="asahi19920310_kadai"/>。千葉県警は被害者一家の名前を発表、朝日新聞社では千葉県南部・北東部に配達される夕刊早版用の記事を制作した<ref group="報道" name="asahi19920310_kadai"/>。正午過ぎになって県警クラブの記者から千葉支局に「現場には生き残った長女(B子)のほか、長女の『友人』の若い男(S)がいた。千葉県警は2人から参考人として事情聴取しているようだ」との連絡と、長女(B子)はAの養女であることが伝えられた<ref group="報道" name="asahi19920310_kadai"/>。長女(B子)が事件の加害者であった場合、未成年者の人権に配慮して一家の名前も匿名にせざるを得ないため<ref group="報道" name="asahi19920310_kadai"/>{{Refnest|group="注釈"|[[少年法]][http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S23/S23HO168.html#1000000000004000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000 第61条「第4章雑則:記事等の掲載の禁止」]が法的根拠である。もっとも、B子は全くの被害者であるに留まらず、Sによる複数回の強姦被害者でもあるため、いずれにせよマスメディアはそれに配慮してB子を匿名にせねばならなかった。}}、千葉支局デスクは朝日新聞社本社社会部と連絡を取り、その可能性がある以上、千葉市・[[東葛地域]]・東京都内に配達される夕刊からは一家の名前を匿名にすることを決めた<ref group="報道" group="報道" name="asahi19920310_kadai"/>。千葉県内版の見出しは(いずれも『朝日新聞』1992年3月6日付朝刊)「一家4人殺される 市川」、東京都内版では「一家4人刺殺される 長女・友人から聴取」となった<ref group="報道" name="asahi19920310_kadai"/><ref group="報道" name="asahi19920306">『朝日新聞』1992年3月6日夕刊19面「一家4人刺殺される 長女・友人から聴取 市川」</ref>。なお、第一報で「B子の男友達」と報じられたSは前述のようにこの時点で既に銃刀法違反容疑で現行犯逮捕されていたが、その事実を3月6日付夕刊及び翌3月7日付朝刊で報じた[[全国紙]]はなく、『読売新聞』が事件解決後の3月11日朝刊で報じたのみであった<ref group="報道" name="yomiuri19920311"/>。 |
|||
{{OSM Location map |
|||
| coord = {{coord|35.7130|||N|139.8085|||E}} | zoom = 11 |
|||
| float = right |
|||
| width = 420 | height = 200 |
|||
| caption = 略地図 | auto-caption = 1 |
|||
| scalemark = 60 |
|||
| mark-coord1 = {{coord|35.678285616231406|||N|139.9275160656877|||E}} |
|||
午後から『朝日新聞』記者は現場取材を始めたが、「長女(B子)も事件に関与か」という予断を持ったまま、現場マンションの上下階の7階・9階(事件現場の8階は当時、立ち入り禁止となっていた)の各住民に対し聞き取り取材を開始した<ref group="報道" name="asahi19920310_kadai"/>。7階の住民は「前の晩、どしんどしんと音がした」と話し、記者が「前にもありませんでしたか」と聞くと、「何か月も前から音がしていた」と答えた<ref group="報道" name="asahi19920310_kadai"/>。その後8階住民の主婦に記者が取材したところ、「夫婦仲は良かった」「長女(B子)は普通の女の子」という、予断とは異なる内容の回答が返ってきた<ref group="報道" name="asahi19920310_kadai"/>。それでも、『朝日新聞』以外の他社記者らも加わり「長女(B子)の男女関係はどうか、素行はどうだったのか」という、予断に基づいた質問に終始した<ref group="報道" name="asahi19920310_kadai"/>。「少年は長女(B子)の友人」という千葉県警発表に基づく情報にこだわった記者は予断を捨てきれず、「現場にいた長女(B子)と自称19歳の男友達(S)から参考人として事情聴取している」「警官が現場に駆けつけた時、SとB子は室内で呆然と立っていた」「これは極めて特異な事件」という午後5時の千葉県警による記者会見での説明も現場の記者の予断に追い打ちをかけた上、記者のみならず千葉支局デスクも、本事件と同じ3月5日に[[高知市]]内で発生した、当時高校1年生の少女が中学1年生の妹を刺殺した事件(こちらは事件当日に発覚している)<ref group="報道" name="asahi19920319">『朝日新聞』1992年3月19日朝刊第三社会面29面「原則実名から広がる匿名 2つの殺人事件報道―新聞編(メディア)」(※本事件と、前月に発生した[[飯塚事件]]における犯罪被害者の実名報道のあり方についての記事)</ref>などを連想し、その結果予断に基づいた読者に誤解を与えかねない記事ができるきっかけとなった<ref group="報道" name="asahi19920310_kadai"/>。予断に囚われたまま、千葉県南部・北東部に翌日(3月7日)配達される朝刊早版の締め切りが迫る中、午後9時半になって捜査本部が「事件はSの単独犯」と発表した<ref group="報道" name="asahi19920310_kadai"/>。この結果、社会面では「19歳の少年逮捕へ」との見出しになったが、千葉県版では(いずれも『朝日新聞』1992年3月7日付朝刊)「数カ月間深夜に物音」「詳しい事情聴取 長女と男友達から」という見出しになり<ref group="報道" name="asahi19920306"/>、また『朝日新聞』の一部では前述の少年(S)の虚偽の供述を鵜呑みにした結果、SがB子の知り合いだったかのような記述も入り、結果的にB子が加害者であるかのような誤解を読者に与えかねない内容になり、紙面も整合性を欠いた<ref group="報道" name="asahi19920310_kadai"/>。翌3月7日付朝刊の社会面・千葉県版双方で「事件はSの単独犯」という事実を報じることができたのは千葉市以西の新聞からであった<ref group="報道" name="asahi19920310_kadai"/>。千葉県内でも千葉支局と京葉支局で締め切りの時間差があるとはいえ、読者に誤解を与えかねない内容となってしまった<ref group="報道" name="asahi19920310_kadai"/>。 |
|||
| mark-title1 = 本事件の現場(市川市幸二丁目5番1号) |
|||
| shape1 = n-circle |
|||
| shape-color1 = red |
|||
| shape-outline1 = white |
|||
| mark-size1 = 20 |
|||
| mark-coord2 = {{coord|35.716372|||N|139.669983|||E}} |
|||
そもそも、予断を持っていたのはマスメディア側だけでなく、千葉県警側もそうであった<ref group="報道" name="asahi19920310_kadai"/>。前述のように取り調べの当初、Sが「B子とは昔からの友人」と供述したのに対し、B子はショックのためか何も話さなかったため、千葉県警はSの虚偽の供述を鵜呑みにし、2人を友人と判断し、そのまま記者会見でマスメディアに発表した<ref group="報道" name="asahi19920310_kadai"/>。ある捜査幹部は『朝日新聞』取材に対し、「2人が無関係と分かってからは逮捕前に発表を行うなど、報道陣に誤解を与えないように努めたが、県警にも予断があったことは認めざるを得ない」と述べた<ref group="報道" name="asahi19920310_kadai"/>。 |
|||
| mark-title2 = 東京都[[中野区]][[新井 (中野区)|新井]]五丁目31番2号 |
|||
| shape2 = n-circle |
|||
| shape-color2 = green |
|||
| shape-outline2 = white |
|||
| mark-size2 = 20 |
|||
| mark-coord3 = {{coord|35.713998|||N|139.946683|||E}} |
|||
B子に対する報道被害はこれだけでは終わらなかった。事件発覚翌日(Sが逮捕された日)の3月7日朝刊で、『[[日本経済新聞]]』と『[[中日新聞]]』が(被害者遺族であり、自らもSによる複数回の強姦被害者である)B子を含め一家5人全員を実名報道してしまった<ref group="報道" name="asahi19920319"/><ref group="報道" name="nikkei19920307"/><ref group="報道" name="chunichi19920307"/>。そのため、B子は自らが加害者であると疑われたばかりか、『日本経済新聞』と『中日新聞』による[[性犯罪#「第二の被害」|セカンドレイプ]]の被害者にもなってしまった(ただし、出典元である各新聞記事には「B子がSにより強姦された」という記述はなく、その事実は[[#関連リンク]]の最高裁判決文および[[#関連書籍]]に基づくものである)。一方で『読売新聞』、『朝日新聞』、『毎日新聞』、『東京新聞』(『中日新聞』と同じ[[中日新聞社]]発行)は殺害された4人を実名、B子については匿名で報道し、『産経新聞』は「両親の名前を書けば、結果として生き残った長女(B子)が誰かも特定されてしまう」として一家5人全員を匿名で報道した<ref group="報道" name="asahi19920319"/>。B子を実名報道した『日本経済新聞』は、「第一報では警察が長女(B子)に疑いを持っている状況だったので匿名にしたが、7日の朝刊段階では長女(B子)が完全な被害者であることが判明し、そのことをはっきり示すためにも実名報道の方がいいと判断した。しかし陰惨で気の毒な事件であり、被害者は一刻も事件を忘れたいことだろう。今後の報道の仕方は考えたい」とした<ref group="報道" name="asahi19920319"/>。また、事件3日後の3月9日朝に[[東京放送テレビ|TBSテレビ]]で放送されたワイドショー番組「[[モーニングEYE]]」ではB子の同級生へのインタビューの中でリポーターがB子の実名を口にした<ref group="報道" name="asahi19920318">『朝日新聞』1992年3月18日朝刊29面「『匿名』『実名』分かれる判断 2つの殺人事件報道―テレビ編(メディア)」(※本事件と、前月に発生した[[飯塚事件]]における犯罪被害者の実名報道のあり方についての記事)</ref>。質問に答える同級生もB子の実名を何度か言い、それがそのまま放送された<ref group="報道" name="asahi19920318"/>。同番組プロデューサーの[[島崎忠雄]]は「当然匿名でいくべきケースだったが、VTRの編集で消し忘れた。突発事件の場合には、VTRの仕上がりが放送直前になるから、そういう単純なミスが起きることもある」(同番組ではその後もこの事件について繰り返し取り上げられたが、この「ミス」についての言及はなく)「社内では反省する話し合いの場をもった。ケースによっては番組内でケアすることもあるが、(この時点では)まだ具体的な予定はない」と語ったのに対し、他局のあるプロデューサーは「この場面をハラハラしながら見た」といい、その上で「編集の時間が足りないことはままある。インタビューを撮る前に『こちらはB子ちゃんと呼びますので、実名を言わないようにしてください』と念を押すなどの工夫が必要だ」と釘を刺した<ref group="報道" name="asahi19920318"/>。 |
|||
| mark-title3 = Sのアパート(船橋市本中山二丁目) |
|||
| shape3 = n-circle |
|||
| shape-color3 = green |
|||
| shape-outline3 = white |
|||
| mark-size3 = 20 |
|||
}} |
|||
1992年2月11日4時30分ごろ{{Sfn|判例時報|1995|p=59}}、Sは高円寺に住むバンド仲間の家からクラウンを運転して帰る途中{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=71}}、東京都[[中野区]][[新井 (中野区)|新井]]五丁目31番2号({{ウィキ座標|35.716372|||N|139.669983|||E||座標}})付近の道路を走行していたところ、アルバイト先から帰宅途中の女性乙(当時24歳)が1人で道路左側の歩道を歩いている姿を目撃{{Sfn|判例時報|1995|p=59}}。乙を殴って鬱屈した気分を晴らそうという衝動に駆られ、道を尋ねるふりをして乙に近づくと、いきなり顔面を拳で数回殴り、全治約3か月半の怪我(鼻骨骨折・顔への擦り傷)を負わせた{{Sfn|判例時報|1995|p=59}}。座り込んだ乙の顔を見たところ、意外に若かったことから、Sは乙を強姦しようと企て、髪を鷲掴みにして引っ立て、「車に乗れ」と言いながら抱きかかえるようにして、クラウンの後部座席に押し込んだ{{Sfn|判例時報|1995|p=59}}。そして、「病院に連れて行く」などと言ってクラウンを本中山のアパートまで走らせ{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=109}}、自室(203号室)まで連れ込んだ{{Sfn|判例時報|1995|p=59}}。同日6時30分ごろ、Sは自室アパートで乙の衣服を剥ぎ取り、彼女を強姦した{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=109}}。 |
|||
Sは永瀬宛の手紙で、顔面から流血し、無抵抗になる乙の姿を見て溜飲を下げるとともに「自信」を持ち、さらにそれ以上の悦楽を得ようという欲求を抑えられなくなっていき、暴力がエスカレートしていった旨を述べている{{Sfn|永瀬隼介|2004|pp=109-110}}。しかし同日夜、ホステスを連れ出した件で店から依頼を受けた暴力団の関係者7人がSのアパートに押し寄せ、Sはクラウンで逃げ出したものの、クラウン後部の窓ガラスを粉々に割られている{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=72}}。 |
|||
: この事件について、検察官はSが当初から乙への強姦の犯意を抱いていたことを前提に、一連の犯行は強姦致傷の1罪に該当する旨を主張していたが、千葉地裁 (1994) はSが捜査・公判を通じ、一貫して「乙を殴った後、顔を見て意外に若いと気づいたから強姦しようと思った」と供述しており、客観的状況もそれと矛盾しないことから、傷害罪と強姦罪がそれぞれ別々に成立することを認定している{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=115}}。 |
|||
<span id="B事件">'''B事件(強姦致傷事件)'''</span> |
|||
2月12日未明、少女Bは深夜まで勉強していたところ、シャープペンシルの芯が切れたことから、替芯を買いに自転車で外出した{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=118}}。そして、コンビニエンスストアで替芯を購入し、コピーをして家路についたが{{Sfn|集刑|2002|p=790}}、自宅に戻る途中の2時前ごろ、自転車で市川市幸二丁目2番2号({{ウィキ座標|35.679807|||N|139.925767|||E||座標}})付近を走っていたところ{{Sfn|判例時報|1995|p=59}}、背後から走ってきた車に追突され、自転車ごと路上に転倒、右膝に擦り傷を負った{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=73}}。この車は、Sが運転していたクラウンで、Sはクラウンから降車すると、Bに因縁をつけ始めた{{Efn2|永瀬 (2004) は、}}{{Sfn|女性自身|1994|p=76}}。しかし、Bが自分を病院に連れて行くよう何度も懇願したことから{{Sfn|女性自身|1994|p=76}}、Sは[[ひき逃げ]]と言われないため{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=110}}、[[浦安市]]内の救急病院に向かって治療を受けさせた{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=73}}。しかし治療後、SはBをクラウンに乗せて自宅に送る途中の2時30分過ぎごろ、市川市[[塩浜 (市川市)|塩浜]]の路上で停車すると、車内でBに折りたたみナイフ(刃体の長さ約6.7 [[センチメートル|cm]])を見せつけ、「車のガラスを割ったのはお前だろう」{{Sfn|中尾幸司|1994|p=144}}「黙って俺の言うことを聞け」などと脅迫した{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=110}}。そして、ナイフでBの左頬を切りつけたり{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=110}}、手の指の間に刃先を差し込んでぐりぐりこじるなどの暴行を加え{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=118}}、全治約2週間の怪我(顔面・左手の挫創)を負わせた{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=110}}。そしてBをアパートに連れ込んだSは、3時 - 6時ごろの間、2回にわたってBを強姦し{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=110}}、Bの両手足をビニール紐で縛った{{Sfn|飯島真一|1994|p=191}}。その後、Bのバッグから現金を取り{{Sfn|女性自身|1994|p=76}}、生徒手帳を見て住所・氏名・保護者名などを知った{{Efn2|福島 (1995) は、生徒手帳に書かれていたBの住所氏名について「メモしたか、その部分を破り取って保管した」と述べている{{Sfn|福島章|1995|pp=4-5}}。}}{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=111}}。SがBを強姦しようとした理由について、判決では「クラウンに乗せて自宅に送る途中、劣情を催した」と認定されているが{{Sfn|判例時報|1995|p=59}}、福島 (1995) は「病院での治療中、長時間待たされたことに腹を立てたため」と述べている{{Sfn|福島章|1995|p=4}}。 |
|||
早朝{{Sfn|女性自身|1994|p=76}}、Sは母Yに用事があったため{{Sfn|集刑|2002|p=790}}、Bを置いて外出したが{{Sfn|女性自身|1994|p=76}}、Bはその隙に紐を外し、ゴミ箱に捨ててあった生徒手帳を拾うと、Sのアパートから逃げ出し{{Sfn|飯島真一|1994|p=191}}、1人で帰宅した{{Sfn|女性自身|1994|p=76}}。翌日(2月13日)20時ごろ、Bと中学時代から親しかった同級生の少女がB宅を訪れた際にBの顔の傷を見たが、この時Bは「[[ローソン]]の帰りに道で男に襲われた」と話しており、特に動揺した様子はなかったという{{Sfn|朝倉喬司|1992|pp=50-51}}。一方、別の友人に対しては「高校で先輩にやられた」と話しており、友人たちから「そんなの、負けずにやっちゃいなよ」と言われていた{{Sfn|朝倉喬司|1992|p=51}}。その後、友人らから警察に届け出るよう説得され、2月の終わりごろに被害届を提出した{{Sfn|朝倉喬司|1992|p=51}}。しかし、犯人は不明で{{Sfn|週刊宝石|1992|p=45}}、Sは捜査対象に入っていなかった<ref>『朝日新聞』1992年3月8日東京朝刊第13版ちば首都圏版地方面27頁「市川の一家四人殺人 衝撃の刃 ≫下≪ 甘えた生活 部屋代10万 母親支払い 無断欠勤たびたび」(朝日新聞東京本社・京葉支局)</ref>。 |
|||
<span id="暴力団からの取り立て">'''暴力団からの取り立て'''</span> |
|||
1992年2月12日夜、Sは[[住吉会]]相良興業の代表(以下「組長」)から、[[六本木]]の[[ANAインターコンチネンタルホテル東京|全日空ホテル]]2階のラウンジへ呼び出された{{Sfn|集刑|2002|p=795}}。Sはそこで、組長やその配下の組員から、自身の行為が誘拐罪であり、ホステスが在留期限を待たず帰国すれば店の損害は約200万円になるなど、遠回しに金を払うよう求められ、「女を連れ出した件についてはそれなりのことをするつもりである」と答え、その場を辞去した{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=111}}。 |
|||
しかし、今さらその金をXやYに出してもらうわけにもいかず、他に金策するあてもなかったため、200万円を支払えなければ暴力団から危害を加えられると恐怖したSは、取り立てを恐れてアパートに帰れず、[[車中泊]]をし続けた{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=74}}。その間、組長からは何の連絡もなかったが、Sはこれを「自分の部屋の電話が料金未払いで止められているからだ」と考え、暴力団への恐怖を募らせていき{{Sfn|集刑|2002|pp=794-795}}、「強盗でもするか、パチンコ屋に押し入ろうか」などとあれこれ思案した挙句、B事件の際に住所・氏名などを知ったB宅に侵入し、金品を盗むことを思いついた{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=111}}。そのため、家族の在宅状況を探るべく、時間を変えてB宅に電話したり、同月下旬・3月1日の2回にわたり、「行徳南スカイハイツ」C棟に赴いたりした{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=111}}。2月下旬、最初に赴いた際には、マンション入口から1階エレベーターホールまで行き、防犯カメラがあることを確認しただけで帰ったが{{Sfn|集刑|2002|p=793}}、このころにはマンション住民が、クラウンから髪を赤く染めた大柄な男が降りてきて、マンション周辺をうろついている姿を目撃していた{{Sfn|週刊宝石|1992|p=45}}。そして3月1日昼ごろに訪れた際には、806号室の表札を見てそこがBの父親Aの居室であることを確認し、チャイムを押してみたが、誰も出なかったため、そのまま帰った{{Sfn|集刑|2002|p=793}}。A一家の家族構成や、家人の日常生活のサイクルは把握していなかった{{Sfn|集刑|2002|pp=792-793}}。 |
|||
一方、Sはこの時期、車の運転をめぐるトラブルで2回の暴力・恐喝事件を起こしている{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=74}}。 |
|||
<span id="河原事件">'''河原事件(傷害・恐喝事件)'''</span> |
|||
{{OSM Location map |
|||
| coord = {{coord|35.6821|||N|139.9225|||E}} | zoom = 13 |
|||
| float = left |
|||
| width = 250 | height = 300 |
|||
| caption = 略地図 | auto-caption = 1 |
|||
| scalemark = 60 |
|||
| mark-coord1 = {{coord|35.678285616231406|||N|139.9275160656877|||E}} |
|||
| mark-title1 = 本事件の現場(市川市幸二丁目5番1号) |
|||
| shape1 = n-circle |
|||
| shape-color1 = red |
|||
| shape-outline1 = white |
|||
| mark-size1 = 20 |
|||
| mark-coord2 = {{coord|35.699859|||N|139.921574|||E}} |
|||
| mark-title2 = 市川市河原6番18号 |
|||
| shape2 = n-circle |
|||
| shape-color2 = green |
|||
| shape-outline2 = white |
|||
| mark-size2 = 20 |
|||
| mark-coord3 = {{coord|35.663393|||N|139.923667|||E}} |
|||
| mark-title3 = 市川市塩浜2丁目31番地 |
|||
| shape3 = n-circle |
|||
| shape-color3 = green |
|||
| shape-outline3 = white |
|||
| mark-size3 = 20 |
|||
}} |
|||
Sは2月25日5時ごろ、市川市[[河原 (市川市)|河原]]6番18号({{ウィキ座標|35.699859|||N|139.921574|||E||座標}}、以下「河原現場」)付近の路上をクラウンで走っていたところ、[[あおり運転|接近してきた後続車がパッシングしてきたり、激しくクラクションを鳴らしたりしてきたり、エンジンを激しく空ぶかししたりしてきた]]ことに憤慨{{Sfn|永瀬隼介|2004|pp=74-75}}。後続車の直前で急停車すると、運転していた男性丙(当時22歳{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=110}}:会社員<ref>『朝日新聞』1993年2月18日東京朝刊第13版ちば首都圏版地方面23頁「市川の四人殺害事件 傷害・恐喝など被告を追起訴」(朝日新聞東京本社・京葉支局)</ref>)に近づき、「煽ってんじゃねえよ」などと運転方法に文句を言った{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=110}}。さらに開いていた運転席側の窓から手を差し入れ、丙の車のエンジンキーを抜き取ってクラウンに戻ったが、丙はキーを取り戻そうとSに追いすがってきた{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=110}}。そのため、Sは自車のトランクから取り出した鰻焼台用鉄筋(長さ約112 cm)で丙の左側頭部を1回殴り、両腕で頭を抱え蹲った彼の左半身を多数回殴り、安静加療約10日間を要する頭部挫創の怪我を負わせた{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=110}}。さらにSは丙の車の運転席に乗り込み、丙を助手席に乗せると、同日5時過ぎごろ - 6時ごろまでの間、河原現場から市川市塩浜2丁目31番地({{ウィキ座標|35.663393|||N|139.923667|||E||座標}})付近の路上を経て、再び河原現場まで走らせながら、車内で暴力団員を装いつつ、丙を「おめえ、どうするんだよ」「俺らの相場じゃ、こういう場合は7、8万だ。金曜日までに用意しておけ。免許証はそれまで預かっておく」などと脅迫して畏怖させ、彼の自動車運転免許証1通を奪い取った{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=110}}。 |
|||
<span id="岩槻事件">'''岩槻事件(傷害・窃盗事件)'''</span> |
|||
{{OSM Location map |
|||
| coord = {{coord|35.940258584528124|||N|139.69607|||E}} | zoom = 16 |
|||
| float = right |
|||
| width = 250 | height = 300 |
|||
| caption = 略地図 | auto-caption = 1 |
|||
| scalemark = 60 |
|||
| mark-coord1 = {{coord|35.942354|||N|139.697224|||E}} |
|||
| mark-title1 = 埼玉県岩槻市東町一丁目7番26号 |
|||
| shape1 = n-circle |
|||
| shape-color1 = green |
|||
| shape-outline1 = white |
|||
| mark-size1 = 20 |
|||
| mark-coord2 = {{coord|35.938102|||N|139.694747|||E}} |
|||
| mark-title2 = 岩槻市大字加倉1943番地 |
|||
| shape2 = n-circle |
|||
| shape-color2 = green |
|||
| shape-outline2 = white |
|||
| mark-size2 = 20 |
|||
| mark-coord3 = {{coord|35.942513|||N|139.697263|||E}} |
|||
| mark-title3 = 岩槻市東町一丁目7番24号 |
|||
| shape3 = n-circle |
|||
| shape-color3 = green |
|||
| shape-outline3 = white |
|||
| mark-size3 = 20 |
|||
}} |
|||
同月27日0時30分ごろ、Sはクラウンを運転して[[埼玉県]][[岩槻市]][[東町 (さいたま市岩槻区)|東町]]一丁目7番26号(現:埼玉県[[さいたま市]][[岩槻区]]東町一丁目7番26号、{{ウィキ座標|35.942354|||N|139.697224|||E||座標}}、以下「東町現場」)付近の路上を走っていた{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=110}}。現場の道路は片側2車線だった{{Sfn|集刑|2002|p=778}}。その際、男性丁(当時21歳{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=110}}:大学生{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=76}})が運転する自動車が、走行車線のトレーラーを高速で抜き去った後{{Sfn|集刑|2002|p=778}}、Sの車を追い越した{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=110}}。しかし、Sは丁の運転に腹を立て、赤信号のために停車した丁の車の前方に割り込んで停車{{Efn2|永瀬 (2004) は、この時にSがクラウンを急加速させて丁の車に異様に接近したり、パッシングする、クラクションを鳴らすなどして煽った旨を述べている{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=76}}。}}{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=110}}。降車してきた丁に対し、「ヤクザ者をなめんじゃねえ」などと言いながら、ズボンのポケットから折りたたみ式ナイフを取り出し、「これで刺してもいいんだぜ」と言って丁の左大腿部を突き刺した{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=110}}。そして、丁を彼の運転していた車の助手席に乗せると、Sはその車を運転して、岩槻市大字加倉1943番地(現:岩槻区加倉1943番地、{{ウィキ座標|35.938102|||N|139.694747|||E||座標}})まで移動したが、その車内で折りたたみナイフを使い、丁の左右大腿部、右肩、胸、背中などを二十数か所にわたって突き刺したり、切りつけたりなどして、全治6週間の怪我(全身への刺し傷および切り傷、右手の中指・薬指の伸筋腱断裂など)を負わせた{{Efn2|永瀬 (2004) は、Sが恐怖する丁に対し、自宅まで案内させるよう要求したが、丁が曖昧な内容の返事をして自宅に行こうとしなかったことに憤慨し、何度もナイフで切りつけた旨を述べている{{Sfn|永瀬隼介|2004|pp=77-78}}。}}{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=110}}。同日1時20分ごろ、丁がSの隙を見て車内から逃げ出したため、Sは車で丁を追い掛けようとしたが、轢き殺すとまずいと思って断念した{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=78}}。Sは東町一丁目7番24号(現:岩槻区東町一丁目7番24号、{{ウィキ座標|35.942513|||N|139.697263|||E||座標}})付近の路上まで車を移動させると、車内にあった丁の運転免許証1通と、丁の父親名義の自動車検査証を盗み出し{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=110}}、自分のクラウンまで戻った{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=78}}。これは後日、丁から金品を脅し取る目的だった{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=110}}。 |
|||
弁護人らは上告趣意書で、丁がトレーラーを追い越した後、追越車線を走っていたSのクラウンを追い越すために速度を上げたが、突然Sの進路前方に入ってきた([[道路交通法]]第70条:安全運転の義務に違反する行為)ため、それによって丁の車に追突しそうになったSが憤慨して犯行に至った旨を主張している{{Sfn|集刑|2002|p=778}}。 |
|||
== 一家惨殺 == |
|||
[[ファイル:Site sketch of Ichikawa family murder of four people.svg|thumb|現場となった806号室の見取り図(出典:部屋の配置<ref name="読売新聞1992-03-07"/>{{Sfn|週刊宝石|1992|p=45}}、方角<ref name="中日新聞1992-03-07"/>、被害者たちが倒れていた位置<ref name="産経新聞1992-03-07">『[[産経新聞]]』1992年3月7日東京朝刊社会面「千葉の一家4人惨殺 次々と殺し一夜籠もる 寝ている幼女まで 長女にも切りつけ“監禁” 先月、長女の身分証奪い住所聞き出す」([[産経新聞東京本社]])</ref>)。なお、Dが倒れていた南側の部屋は当時の報道では「和室」となっているが、千葉地裁 (1994) では「洋間」となっている{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=113}}。]] |
|||
しかし、このように暴力沙汰を繰り返しても200万円を工面することはできず{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=78}}、事件当日の3月5日、SはB宅に侵入して現金や預金通帳を盗む意思を最終的に固めた{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=111}}。現場付近にはさらに新しい高級マンションもあったが、Sはこのマンションで金を得ようと考えた{{Sfn|蜂巣敦|2008|p=66}}。 |
|||
同日、Sは朝からパチンコとゲームセンターで時間を潰し{{Sfn|永瀬隼介|2004|pp=82−83}}、16時ごろにクラウンを運転して現場マンションへ向かった{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=111}}。マンション近くのタバコ屋の脇に車を停めると、公衆電話からBの電話番号に電話をかけ、5、6回コールしても誰も出ないことを確認した{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=83}}。Sはクラウンをマンション近くの公園の脇に移動して駐車すると、エントランスに設置してあった防犯カメラを避けるため{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=83}}、まず外階段で2階まで上がってから、エレベーターで8階まで上った{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=111}}。そして、B宅(806号室)の玄関のチャイムを鳴らしてみたが、応答がなかったため、玄関口のドアを試しに開けてみたところ{{Sfn|永瀬隼介|2004|pp=83-84}}、意外にも鍵はかかっていなかった{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=111}}。このため、家人がいる可能性を考えてすぐにその場を離れ、エレベーター横の階段に座って様子を見たが、約20分経っても反応がなかったため{{Sfn|永瀬隼介|2004|pp=83-84}}、16時30分ごろ、玄関口から同室に侵入した{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=111}}。 |
|||
=== C殺害 === |
|||
玄関に入ると、玄関近くの北側洋間からテレビの音が聞こえたため、Sはその中を覗き、その中で女性Cが寝ているのを確認した{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=111}}。Sはその後、玄関の突き当たりにあった居間に入り、現金や預金通帳などを物色し始めたが、なかなか見つからなかったため、Cを脅して現金などを奪おうと決意{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=111}}。寝ていたCの脚あたりを蹴りつけて起こすと、「通帳を出せ。どこにあるんだ」などと脅したが{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=111}}、CはSの予想に反して恐怖することもなく{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=84}}、出入り口付近にあった棚に置かれていた自分の財布から現金8万円(1万円札8枚)を取り出し{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=111}}、「これをやるから帰りなさい」と言い{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=84}}、室外に逃れようとした{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=111}}。Sはその態度に逆上し{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=85}}、Cの後襟首を掴んで通帳を出すよう凄んだが{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=111}}、なおもCは応じなかった{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=85}}。 |
|||
その後、Sは緊張して尿意を覚えたため、Cに「通帳を探しておけよ」と言ってトイレに行ったが{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=85}}、Cはその隙に居間に出て電話をかけようとした{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=111}}。これに気づいたSは、咄嗟に体当たりしてCを仰向けに突き倒すと、その顔を覗き込むようにして「何をするつもりだったんだ」などと言ったが{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=111}}、CはSの顔面に唾を吐きかけた{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=85}}。これに激昂したSは、Cを頭ごと激しく床に突き倒すと{{Efn2|Sに突き飛ばされた際、Cは右尺骨・右骨折を離開骨折している{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=119}}。}}、近くにあった電気コードを引き抜いた{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=85}}。CはなおもSに爪を立てて抵抗したが{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=85}}、SはCの腹部付近に馬乗りになると、電気コードをCの首に巻き付け、両手で電気コードを強く引っ張った{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=111}}。しかし、一度力を緩めるとCが起き上がる気配を示したため、Sは再び力を込めて数分間電気コードで首を絞め続け、Cを絞殺した{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=111}}。そして、Cの死亡を確認すると、首に巻かれていた電気コードを抜き取り、死体を引きずって北側洋間に敷かれていた布団に寝かせた{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=111}}。また、極度の潔癖症だったSは、Cの唾液を汚らしく感じたため、洗面所で頭・顔・首・手を何度も洗い{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=86}}、806号室を出たが、この時点では殺人を犯したことへの実感は乏しく、むしろ唾を吐きかけてきたCへの怒りや、「こんなきったねえところにいられるか」という嫌悪感の方を強く抱いていた{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=175}}。そして「長期戦を覚悟」し{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=175}}、付近の自動販売機でタバコとジュースを買い{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=111}}、約30分後に再び806号室に戻った{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=86}}。Sはさらに室内を物色し、Cの財布の中から現金約10万円を奪ったほか、台所流し台の下から包丁数本を取り出し、冷蔵庫の上に移していた{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=111}}。その包丁のうちの1本が、後にD・A・Eの3人を刺殺する凶器として用いられた柳刃包丁(刃体の長さ22.5 [[センチメートル|cm]])だった{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=111}}。 |
|||
; <span id="Cへの殺意">Cへの殺意について</span> |
|||
: Sは捜査・公判を通じ、Cの首を絞めた際の状況について、「Cから唾をかけられたことに激昂して首を絞めたが、いったん力を緩めるとCが起き上がるような気配を示したため、抵抗がなくなるまで再び強く首を絞め続け、脈を調べて死亡を確認した」という旨を一貫して供述しており、第一審の公判でも「殺してしまおうという思いがあった」など、Cに対する殺意があった旨を供述していた{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=113}}。一方、弁護人は「Sは極度の潔癖症だったため、Cから唾をかけられて冷静さを失い、激怒してとっさに首を絞めてしまったのであり、明確にCに対する殺意を抱いていたわけではない」と主張したが、千葉地裁 (1994) はSの供述や、Cが舌骨や甲状軟骨の左上角などを骨折していた(Sによって強く首を絞められた)ことなどから、SがCに対し確定的な殺意を抱いていたことを認定した{{Sfn|判例タイムズ|1994|pp=112-113}}。 |
|||
=== D殺害 === |
|||
Sは引き続き、806号室の居間内で金品を物色していたが、同日19時過ぎ、Bが母親Dとともに帰宅してきたため、冷蔵庫の上から柳刃包丁を手に取り、台所のカウンター付き食器棚の影に隠れた{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=111}}。そして、2人が居間に入ってくると、包丁を突きつけ、「静かにしろ」「あんまり騒ぐと殺すぞ」「ポケットの物、全部出せ」などと脅した{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=111}}。この時、SはCについて「祖母は睡眠薬で眠っているだけだ」と言っていた{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=118}}。しかし、DはSに怯むことなく、S曰く「何も持っていなかったら、噛みつかれるのでは、と思うような勢い」で{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=175}}、包丁を持っていたSに食って掛かった{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=86}}。 |
|||
Sは2人が別々の方向に走って逃げたり、大声を出したりすることを恐れ、2人を強引にうつ伏せにさせた{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=175}}。そして、Dに対しては「頭が切れそうな感じ」と思ったため、策を練って警察に突き出すような行動に出てくることを危惧し、彼女の動きを封じようと考え、逆手に持った包丁で、左腰付近から背中を立て続けに5回突き刺した{{Sfn|判例タイムズ|1994|pp=111-112}}。Dはうめき声を上げ、身を捩って仰向けになったが、床を足で蹴ってSの脱いだダウンジャケットに近づこうとしたため、「あーあ、血が付いちまうだろう」と言いながらDの脇腹を蹴って遠ざけた{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=87}}。この刺突行為により、Dは左肺に達する3か所の刺し傷を負い{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=113}}、まもなく失血死した{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=112}}。SはBに手伝わせ、失神したDを{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=113}}南側の奥にあった洋間に運び入れ、床に広がっていた血痕と失禁の跡をタオルで拭かせている{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=87}}。 |
|||
; <span id="Dへの殺意">Dへの殺意について</span> |
|||
: Sは捜査段階では、「死亡するかもしれないことを認識しながら、激情のままにあえて意に介さず、突き刺したのだと思う」という旨の供述をしていたが、公判では一転して、弁護人の「動きを封じることが目的で、殺意はなかった」という主張に沿い、当時はDへの殺意はなく、突き刺すことによってDが死亡する可能性も考えていなかったという旨を主張しており{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=113}}、永瀬宛の手紙でも当時の心境を「〔刺した箇所は〕首筋や心臓でもなければ、頭でもないんだから平気なはず、とそう思っていました。計算通り、大量の血が出たり、口から吐くこともなく、服ににじむのが見てとれただけで、まあこんなもんだろうという感じです。これで走りまわれはしないだろうから、そこでおとなしく見てろよ、とそんなことを口にした覚えがあります。まったく怒りも憎しみもなくやったので、力も本人は入れていないつもりでしたので、〔Dは〕ほっといてもしばらくは平気だろうと、あわててこわがるのをみて、少々いい気味だと思ってみていました」と説明しており、出血したDを見ても、特に動揺はなかった旨を述べている{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=176}}。弁護人もそれを踏まえ、「Sは当時19歳になったばかりで、医学的にも社会的にもあらゆる知識に乏しく、人間はどの部位にどの程度の打撃を加えれば死にいたるか知りようもなかった」という趣旨の弁論を行った{{Sfn|飯島真一|1994|p=197}}。 |
|||
: しかし、Sは当時、苦しみ悶えながらのたうち回るDへの救命措置を講じることはなく、その後、BやEとともに食事を摂ったり、Bを強姦したりなどの行動を取った際には、既にDの存在を意識していなかった(Dがいない前提で行動していた){{Sfn|判例タイムズ|1994|p=113}}。また、SはDを洋間に運び入れた後の心境について、捜査段階で「Dが部屋から自力で出てくることはないという気持ちのほうが強かったかもしれない」という旨(Dの死を認識・予見していたと取れる内容)の供述をしていた{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=113}}。千葉地裁 (1994) はそれらの証拠に加え、現にDがSに刺されたことで死亡している点や、その刺突行為も女性であり、かつ無抵抗になっていたDの動きを封じるための行為にしてはあまりにも過剰であることなども併せ考え、Dに対しては「死を意欲していたとまでは認められない」としながらも、「〔Dが〕死に至るべきことを認識、予見しながら、これを認容して、敢えて本件刺突行為に及んだ」として、Dに対する未必の殺意の存在を認定している{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=113}}。 |
|||
=== A殺害 === |
|||
Dを刺して洋間に移した後、Sは柳刃包丁を食器棚のカウンター上に隠した{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=112}}。Dを殺害してから15分後{{Sfn|FOCUS|1992|p=69}}、7時過ぎになってEが保育園のマイクロバスでマンションまで送られてきたが、誰も迎えにこなかったため、保育園の職員が806号室までEを送り届けた<ref name="東京新聞1992-03-08">『東京新聞』1992年3月8日朝刊千葉版21頁「市川の一家四人惨殺 悪びれた様子ない犯人 本格的取り調べ開始」(中日新聞東京本社・千葉支局)</ref>。その際、Bがドアを開けてEを部屋に入れていた<ref name="東京新聞1992-03-08"/>。その後、SはBに命じて夕食の準備をさせると、B・Eとともに3人で食事を摂った{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=87}}。食後、SはEを既に絞殺されていた祖母Cの部屋に追いやり、テレビを観せた{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=87}}。その後、Eは眠りに就いた{{Efn2|当時の状況について、Sは捜査段階で「テレビの前に座らせたらおとなしくじっと見ていたため、そのままにしておいたら眠った」と供述している{{Sfn|朝倉喬司|1992|p=50}}。}}{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=89}}。 |
|||
一方、SはBからAの帰宅が23時ごろになることを聞き出すと、Aの帰宅を待って金品を奪うことを決め、その間にBを強姦して気を紛らわせようと考えた{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=112}}。21時20分ごろ、Sは居間でBに柳刃包丁を突きつけ、「服を脱げ」などと脅したが{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=112}}、目の前でDを殺されて恐怖していたBはうまく手が動かず、服を脱げなかった{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=88}}。このため、SはBのワイシャツの襟を引っ張ってボタンを引きちぎるなどの暴行を加え、全裸になった彼女を寝室のベッド上に寝かせると、自分も全裸になって覆いかぶさり、Bを強姦した{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=112}}。このように、家族を惨殺されて恐怖に打ち震えるBをその場で強姦するという犯行に至った当時の心境について、Sは鑑定書で「自分としては、時間潰しというか、気分転換というか」と説明していた{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=176}}。 |
|||
しかし、Aは予想より早い21時40分ごろに帰宅した{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=112}}。当時、Bを強姦していたSは、慌ててBの身体から離れて台所に行き、衣服を身に着けると、再び柳刃包丁を手に取って食器棚の影に隠れた{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=112}}。そして、居間に入ってきたAが、寝室のベッドで横になっていたBを見て「B、寝てんのか」と声をかけていたところ、SはいきなりAの左肩を背後から柳刃包丁で突き刺した{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=112}}。この時の刺し傷は、左肺下葉を貫通して上葉も損傷し、左脇窩部にまで突き出るほどの深い傷(創胴の長さ約15.8 cm)で、これだけでも十分致命傷になりうるものだった{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=114}}。 |
|||
Sは負傷して動けなくなったAに対し、「俺はこういう者だ」と言って所持していた暴力団員の名刺を見せ{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=88}}、「ある記事が載って組が迷惑している。取材しただろう」などと因縁をつけた上で{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=112}}、「通帳でも現金でも、なんでもいいから300万円くらい出せ」と脅した{{Efn2|千葉地裁 (1994) では「300万円位」{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=112}}、永瀬 (2004) では「200万(円)」となっている{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=89}}。}}。Aは当時、まだ母Cや妻Dが既に殺されていることを知らず、家族を守ろうと{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=89}}、Bに家の中から現金と通帳を集めてくるよう指示した{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=112}}。SはBが室内から集めてきた現金約16万円、C名義の郵便貯金総合通帳1冊(額面257万6,055円)および総合口座通帳1冊(額面103万1,737円)を強取した{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=112}}。しかし、Sはまだ満足せず{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=89}}、Aから「ルック」の事務所には別の預金通帳や印鑑があることを聞き、それらも奪おうと考えた{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=112}}。そのため、Bに「ルック」事務所へ電話を入れさせ、従業員の男性に対し「これから通帳を取りに行く」という旨を伝えさせると、翌6日0時30分ごろ、居間で動けずに横たわったままのAを残し{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=89}}、Bを連れて806号室を出た{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=112}}。Bの捜査段階における供述によれば、Aは当時、起き上がろうとしても起き上がれない状態であり、後にAの死体を解剖した木内政寛は、当時のAは瀕死で立ち上がることはおろか、会話することもできなかった状態と推定している{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=114}}。なお、806号室の階下の住民は5日23時ごろ、806号室から何回かドンドンという音がするのを聞いていたが、音はすぐに止んだため、特に不審には思わなかったという{{Sfn|週刊宝石|1992|p=44}}。 |
|||
2人はエレベーターで1階まで降りたが{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=89}}、SはBを1階に残し{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=112}}、すぐに引き返すと{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=89}}、Aの肩胛間部右側を{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=114}}、柳刃包丁で1回強く突き刺した{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=112}}。これは、Aが警察に通報したりすることを防ぐ目的で彼を殺害することを決意したために取った行動であり、背中を突き刺されたAはまもなく失血死した{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=112}}。この刺し傷(創洞の長さ約12.7 cm)は、右肺の下葉を貫通して上葉も損傷し、さらに心嚢や大動脈後面をも刺切するほど深いものだった{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=114}}。 |
|||
; <span id="Aへの殺意">Aへの殺意について</span> |
|||
: Sは捜査段階では、「ルック」に出向く前にAの背中を刺した行為について、Dと同様に「死亡するかもしれないことを認識しながら、激情のままにあえて意に介さず、突き刺したのだと思う」という旨の供述をしていたが、弁護人は公判で「当時、Aに対する殺意はなかったため、強盗殺人罪ではなく強盗致死罪の成立にとどまる」と主張した{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=114}}。また、Sは「包丁で刺したらAが死ぬかもしれない」とまでは考えなかった旨を主張し、当時の状況について、「『ルック』に行くため、806号室を出て1階まで行ったところで、自動車の鍵を806号室に忘れてきたことに気づいて戻ったら、Aが居間で立ち上がって歩いていたので、警察への通報を恐れて刺した」と弁解しているが、Bは「自分(とS)が『ルック』に出掛ける直前のAの位置と、後に戻ってきたときのAの死体の位置は変化がなかった」と正反対の供述をしていた{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=114}}。 |
|||
: 千葉地裁 (1994) は先述のようなAの状態や、後述のようにSが警察に通報されていないかBに様子を探らせていた点なども踏まえ、「Aが立ち上がっていたとのSの弁解は信用しがたい」と判示し、「Sは通帳の在処を聞き出して無用の長物になったAに対し、後顧の憂いを断つために『とどめ』を刺すべく、確定的殺意を持ってAの背中を包丁で突き刺した」と認定している{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=114}}。 |
|||
=== 会社の通帳を奪う === |
|||
その後、Sは柳刃包丁を再びカウンターの上に戻し、Bをクラウンに同乗させ、「ルック」の事務所があった市川市行徳駅前のビル({{ウィキ座標|35.681381|||N|139.916129|||E||座標}}){{Efn2|name="ルック"|AとDが生前経営していた「株式会社ルック」の事務所は、「渋谷第一ビル」204号室に入居していた{{Sfn|ゼンリン|1991|p=ビル・マンション・アパート別記44頁|loc=677 渋谷第一ビル 174図 D-2・3}}。同ビルの所在地は、市川市行徳駅前二丁目8番6号({{ウィキ座標|35.681381|||N|139.916129|||E||座標}})で{{Sfn|ゼンリン|1991|p=174|loc=D-2}}、1階の101号室にはファミリーマート行徳駅南口店が出店していた{{Sfn|ゼンリン|1991|p=ビル・マンション・アパート別記44頁|loc=677 渋谷第一ビル 174図 D-2・3}}。この部屋は、DがAと結婚する前、写真の勉強をするために借りていた部屋で、Aとの結婚後に会社を設立するにあたり、事務所として使用するようになった<ref name="読売新聞1992-03-07"/>。}}に向かった{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=112}}。0時40分ごろ、SはBに「人がいるんじゃあヤバイから、俺待ってるから、行って来い」と命じ、Bを1人で事務所(同ビル204号室)に行かせた{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=112}}。Bは、事務所内で寝泊まりしていた従業員の男性に「ヤクザが来ていて、お父さんの記事が悪いとお金を取りに来ている」{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=112}}「お金が必要だというので私がとりにきた」{{Sfn|朝倉喬司|1992|p=50}}と告げ、事務所内から預金通帳7冊(額面合63万5,620円、「ルック」およびA・Dらの名義)と印鑑7個を持ってSの待つクラウンまで戻った{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=112}}。この間、Bは約20分間にわたって事務所内に滞在していたが{{Sfn|朝倉喬司|1992|p=50}}、従業員から「大丈夫か」と聞かれると、「うん」と答え、助けは特に求めていなかった<ref name="朝日新聞1992-03-11">『朝日新聞』1992年3月12日東京朝刊第13版ちば首都圏版地方面27頁「祖母・妹の安否気遣う 父の会社で長女 助けを求められず 市川の家族4人殺人(ニュースの周辺)」(朝日新聞東京本社・京葉支局)</ref>。一方、Sは階下の[[ファミリーマート]]でパンを買っており{{Sfn|朝倉喬司|1992|p=50}}、その後事務所に来て、会社関係者の前で「Bちゃん」とBの名前を呼び、友人のように振る舞っていた<ref name="朝日新聞1992-03-11"/>。 |
|||
[[ファイル:Hotel La Seine, Shiohama, Ichikawa, Chiba, Japan, January 21, 2023.jpg|350px|サムネイル|SがBを連れ込んだラブホテル「ラ・セーヌ」(市川市塩浜三丁目)。]] |
|||
SはBが持ってきた通帳類や印鑑を受け取ると、Bを連れ{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=112}}、ラブホテル{{Sfn|中尾幸司|1994|p=145}}「ラセーヌ」(市川市塩浜三丁目{{Efn2|「ホテル ラセーヌ」は、市川市塩浜三丁目10番3号({{ウィキ座標|35.668945|||N|139.924391|||E||座標}})に所在していた{{Sfn|ゼンリン|1991|p=195|loc=D-2}}。}}、{{ウィキ座標|35.668945|||N|139.924391|||E||座標}})に行き、ホテル501号室で一夜を過ごした{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=112}}。Sはそこでも4時間近くの睡眠を挟んで、2度にわたりBを強姦し{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=90}}、Bに電話で、「ルック」の従業員が警察に通報していないか様子を探らせていた{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=114}}。一方、Bの行動を不審に思った従業員は近くの交番に連絡し<ref name="千葉日報1992-03-11"/>、1時30分ごろ、警察官とともに806号室に出向いた上で<ref name="読売新聞1992-03-11">『読売新聞』1992年3月11日東京朝刊第14版第一社会面31頁「凶行後、養女5時間連れ回す 一家4人殺害 "異常な17時間" 「200万円に足りない」と会社から通帳持ち出さす」(読売新聞東京本社)</ref>、部屋のドアを叩いたり室内に電話をかけたりした{{Efn2|現場の上階(9階)に住んでいた住民は、「夜中、下の階でドアを叩く音が聞こえた」<ref name="千葉日報1992-03-07社会">『千葉日報』1992年3月7日朝刊第一社会面19頁「凶行におびえる住民 市川の一家4人殺害事件 「こんな身近な所で…」 新興住宅地に衝撃」「涙浮かべ言葉なく 長女の通う保育園の保母」(千葉日報社) - 『千葉日報』縮刷版 1992年(平成4年)3月号139頁。</ref>「昨夜1時すぎ、ドアを激しくたたく音がした。長く続くので怖くて出られなかった」と証言している<ref name="夕刊フジ1992-03-07">『[[夕刊フジ]]』1992年3月7日付(6日発行)3頁「一家4人殺される マンション室内は血の海 高一養女と若い男性から事情聴く 市川」([[産経新聞東京本社]])</ref>。一方、事件当夜から翌朝まで「物音は何も聞こえなかった」という現場と同じ8階の住民の証言もある<ref name="夕刊フジ1992-03-07"/>。}}{{Sfn|FOCUS|1992|p=69}}。しかし、この時は部屋の照明が消えており、応答もなかったため、署員は不在と思って引き揚げた<ref name="千葉日報1992-03-11"/><ref>『朝日新聞』1992年3月11日東京朝刊第13版ちば首都圏版地方面27頁「長女を使い、通帳も手に 市川の家族四人殺し」(朝日新聞東京本社・京葉支局)</ref>。 |
|||
=== E殺害 === |
|||
その後、SとBは6日6時30分ごろ、クラウンで806号室に戻った{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=112}}。Sはしばらく時を過ごしていたが、寝室で寝ていたEが目を覚ましたため、彼女がもし両親の死を知って泣き叫んだりすれば、近隣の住人にそれまでの犯行が察知されると危惧{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=112}}。その発覚を免れるため、Eを殺害することを決意し、同日6時45分ごろ、カウンターから柳刃包丁を持ち出して右手に持ち、寝室に入った。そして、自分に背を向けて座っていたEに近づくと、Eの背後から顎を左手で押さえつけた上で、背中から包丁を突き刺した{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=112}}。包丁はEの右肺の下葉、中葉、上葉を貫通し、刃先が右胸まで突き抜けた{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=115}}。Eは「痛い、痛い」と苦しみもがいたが、Sはそれを意に介さず、Bに対し「妹を楽にさせてやれば。首を絞めるとかいろいろな方法があるだろう」などと言い放った{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=119}}。しかし、Bは硬直して動けず、Sは痛みで泣き叫ぶEの首を絞め{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=91}}、Eはまもなく失血死した{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=112}}。この犯行の前後、Sは806号室の電話を使って友人に電話をかけ、とりとめもない話に興じていた{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=180}}。 |
|||
6時50分ごろ、Bは寝室でSを「どうして妹まで刺したの。何でこんなことするの」などと責めたが、Sはこれに逆上し、柳刃包丁でBの左上腕部と背中を切りつけ、全治2週間の怪我を負わせた{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=119}}。Bはこの前後、高校で同じクラブに入っていた近所に住む同級生の少女宅に「今日は休む。部室の鍵を持っていけなくてごめんね」と電話していた<ref>『千葉日報』1992年3月12日朝刊第一社会面19頁「悲しみ誘う養女の姿 市川の一家4人殺害 近所の人たちで通夜」(千葉日報社) - 『千葉日報』縮刷版 1992年(平成4年)3月号247頁。</ref>。 |
|||
; <span id="Eへの強盗殺人罪成否">Eへの強盗殺人罪の成否について</span> |
|||
: 検察官はEを刺した行為について、強盗殺人罪の成立を主張した{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=114}}。その根拠として、「ルック」へ行く前に806号室で集めておいた小銭類を同室に残したままだったことを「現場に再び戻ることを予定しての行動」と指摘し、「強盗の犯行を完遂するために現場に戻ったものにほかならない」とした上で、殺害動機もEが騒ぐことで、それまでに犯した強盗殺人などの犯行が発覚することを恐れたためであることなどを主張した{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=114}}。また、S自身も捜査段階で「小さい子供は声が高いので、父親や母親が死んだとわかれば騒ぐだろう。そうすれば、隣り近所の人にも子供の泣き声が聞こえてしまうと思い、『もう死んでしまっても仕方がない』と思って刺した」という旨を供述し、公判でも「静かにさせないと近所に声が漏れて人が来てはいけないと思った」という旨を供述していた{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=114}}。 |
|||
: 一方、弁護人らは「Eを包丁で刺した時点では既に強盗行為は終わっていた」として、強盗の犯意を否定した{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=115}}。また、Eを突き刺した際の殺意も確定的ではなく{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=115}}、「DとAがそれぞれ死亡していることを知って愕然とし、精神的に完全に混乱しきっていたところ、Eに声を出されて狼狽のあまり、Eを静かにさせようととっさに必要以上の方法を用いてしまった」という趣旨の弁論を展開し{{Sfn|飯島真一|1994|pp=197-198}}、単純殺人の成立にとどまると主張した{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=115}}。 |
|||
: 千葉地裁 (1994) は犯行態様や各種証拠を吟味し、弁護人の「殺意は未必のものにとどまる」という主張を退け、「Eの泣き声により、自身の一連の強盗殺人などの犯行が外部に知られることを恐れ、確定的殺意を持ってEを刺殺した」と認定した{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=115}}。しかし、Sはマンションから離れた「ルック」事務所からBが持ってきた通帳や印鑑を奪って以降、それ以上金品を物色する行為に出ず、「ラセーヌ」で一夜を過ごしてから806号室に戻ってからも新たに金品を物色するなどの行為をしていなかったことから、「Sの強盗殺人行為は、遅くとも『ルック』事務所にあった通帳・印鑑を奪った時点ですべて終了したとみるべきである。そのため、Eへの殺害行為は一連の犯行の発覚を阻止するため、新たな犯意に基づいて行ったものである」と指摘{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=115}}。「一旦強盗殺人の行為を終了した後、新たな決意に基づいて別の機会に他人を殺害したときは、右殺人の行為は、たとえ時間的に先の強盗殺人の行為に接近しその犯跡を隠ぺいする意図の下に行われた場合であっても、別個独立の殺人罪を構成し、これを先の強盗殺人の行為と共に包括的に観察して一個の強盗殺人罪とみることは許されない」と判示した最高裁の判例[1948年(昭和23年)3月9日:第三小法廷判決]<ref>{{Cite 判例検索システム|事件番号=昭和22年(れ)第204号|裁判年月日=1948年(昭和23年)3月9日|法廷名=最高裁判所第三小法廷|裁判形式=判決|判例集=刑集 第2巻3号140頁|url=https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=56410|事件名=強盗殺人、殺人、強盗予備窃盗等|判示事項=一 刑訴應急措置法第一二條第一項の規定による被告人の訊問權と裁判長による告知の要否 二 判決に示すべき證據説明の程度 三 判決における證據の適法性に關する判示の要否 四 一箇の強盗罪を犯すために數人を殺害した場合の罪數 五 強盗殺人の犯跡隱ぺいのため新な決意に基いて行われた殺人罪と罪數|裁判要旨=一 刑訴應急措置法第一二條第一項本文は被告人の請求があつた場合に供述者又は作成者を訊問する機曾を被告人にあたえなければ所定の書類を證據にすることができないといつているのであつて公判期日において被告人に對し供述者又は作成者を訊問する權利のあることを告知してその訊問の請求をするかどうかを確めることは望ましいことには違いないが之をしなかつたからといつて前記法條に違反するものとは解することが出來ない。 二 罪となるべき事實につき證據説明をするには、犯罪事實の記載と相まつて證據の内容を知ることができる程度に、その説明をすれば十分である。 三 判決には事實認定の用に供した證據についてその適法な證據である理由を判示する必要はない。 四 一箇の強盗罪を犯すために數を、殺害したときは、たとえその殺人の行爲が同一の目的を遂行するための手段として行われたものであつても數個の強盗殺人罪に問擬すべきである。 五 一旦強盗殺人の行爲を終了した後、新な決意に基いて別の機曾に他人を殺害したときは、右殺人の行爲は、たとえ時間的に先の強盗殺人の行爲に接近し、その犯跡を隱ぺいする意図の下に行われた場合であつても、別個獨立の殺人罪を構成し、之を先の強盗殺人の行爲と共に包括的に観察して一箇の強盗殺人罪とみることは許されない。}} |
|||
* [[最高裁判所裁判官]]:[[長谷川太一郎]](裁判長)・[[井上登 (裁判官)|井上登]]・[[庄野理一]]・[[島保]]・[[河村又介]]</ref>を引用し、「Eに対しては強盗殺人罪ではなく、単純殺人罪が成立する」と認定した{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=115}}。 |
|||
== 捜査 == |
|||
Bが深夜に訪問してきたことを不審に思った「ルック」の社員は、6日7時30分ごろへ806号室に電話をかけたが{{Sfn|中尾幸司|1994|p=145}}、応対したBは「おはよう」と言ったきり、そのまま電話口で押し黙ってしまった{{Sfn|FOCUS|1992|p=69}}。しかし、「脅している奴が部屋にいるのか」と尋ねるとうなずいた<ref name="千葉日報1992-03-11"/>。Bの対応が不自然だったため{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=91}}、[[浦安警察署|葛南警察署]]{{Efn2|name="葛南警察署"}}行徳駅前交番に届け出た<ref name="読売新聞1992-03-06"/>(2度目の通報)<ref name="読売新聞1992-03-11"/>。そして、社員とともに806号室を訪れた警察官が玄関のチャイムを鳴らしたが、玄関は施錠されていて開かず、呼び掛けても反応はなかった<ref name="読売新聞1992-03-07"/>。そこで、ベランダに回って内部に呼び掛けるなどしたところ{{Sfn|中尾幸司|1994|p=145}}、Sは冷蔵庫の上に置いてあった文化包丁{{Efn2|この時、SがBに握らせた包丁は、千葉地裁 (1994) では「文化包丁」とされているが{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=119}}、永瀬隼介 (2004) は、凶器として用いられた柳刃包丁だった旨を述べている{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=12}}。}}を取ってBに持たせ、「俺を脅しているように持て。俺逃げるから」などと言い、Bが犯人であるかのように仮装した上で逃走しようとした{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=119}}。この時、Sは「俺に殺されたいか、それとも一緒についてくるか」とBを脅迫して包丁を持たせようとしていた{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=91}}。しかし、Sは室外に出てエレベーター前まで逃げたものの{{Sfn|週刊宝石|1992|p=44}}、警察官3、4人との格闘の末に取り押さえられ、現場へ連れ戻された<ref name="読売新聞1992-03-07千葉">『読売新聞』1992年3月7日東京朝刊京葉版地方面26頁「市川の一家4人強殺 高層の惨劇 おののく住民 「何もしてない」叫ぶ店員」(読売新聞東京本社・京葉支局)</ref>。これは9時30分ごろのことで、掃除のために8階を訪れたマンションの清掃人が、「俺は何もしちゃあいない」と叫びながら警察官たちに取り押さえられ、部屋に連れ戻されるSと<ref name="読売新聞1992-03-07千葉"/>、保護されて部屋から出てきたBの姿をそれぞれ目撃している{{Sfn|週刊文春|1992|p=204}}。現場は血の海になっており、殺人現場を見慣れている捜査一課の幹部でさえ「あまりにもすさまじい現場。目を覆いたくなる残忍な事件だった」と形容するような惨状だった<ref>『千葉日報』1992年12月16日朝刊第一社会面19頁「92回顧 この1年〈2〉 市川一家4人殺害 少年犯罪が公開法廷で 注目の初公判、25日に」(千葉日報社) - 『千葉日報』縮刷版 1992年(平成4年)12月号299頁。</ref>。 |
|||
Sはナイフを所持していたことから、[[銃砲刀剣類所持等取締法|銃刀法]]違反の[[現行犯]]で[[逮捕 (日本法)|逮捕]]された<ref name="千葉日報1992-03-11"/><ref name="読売新聞1992-03-11"/>。[[千葉県警察]][[刑事部|捜査一課]]と所轄の葛南署は殺人事件として捜査を開始し、同日夕方、[[捜査本部]]を設置した<ref name="千葉日報1992-03-07"/>。しかし、Sは逮捕された当初の取り調べでは、一連の犯行を全面的に否認し{{Sfn|判例タイムズ|1992|p=119}}、「Bとは昔からの友人で、コンサートなどにも行ったことがある」<ref name="中日新聞1992-03-07"/>「女友達のBから急いで部屋に来るように電話があったので、A方(806号室)に行ったら、一家4人が殺害されていた」などと主張した{{Sfn|中尾幸司|1994|p=145}}。一方、Bはショックのためか何も話せず、県警は2人を友人と判断し、報道機関に対しても「長女 (B) と男友達 (S) から事情聴取している」という趣旨の発表をした<ref name="朝日新聞1992-03-10">『朝日新聞』1992年3月10日東京朝刊第12版ちば首都圏版第二地方面22頁「市川の一家四人殺人 衝撃の刃 報道検証 重い課題 長女「参考人」に予断 実は最大の被害者 「単独犯」に記者席騒然」(朝日新聞東京本社・京葉支局)</ref>。その理由について、広報した県警の幹部は「(当初は)SとBの供述が食い違い、(Sの)単独犯とは即決できなかった」と述べている<ref>『東京新聞』1992年12月21日朝刊千葉中央版地方面17頁「事件簿'92 1年を振り返って 1 市川1家4人殺し 動機に身勝手さ 一人残された長女哀れ」(中日新聞東京本社・千葉支局)</ref>。このような「Bも事件に関与しているのではないか」という予断は現場で取材を行っていた新聞記者や、新聞社・テレビ局にも伝播する形となり、6日付の新聞夕刊の一部や、テレビニュースでは「長女・男友達から事情聴取」という形で報じられた<ref name="朝日新聞1992-03-10"/>。 |
|||
しかし同日夜、Sは一転して犯行を認める供述をした<ref name="千葉日報1992-03-07"/><ref name="読売新聞1992-03-07"/>。これは、捜査本部がSの供述の真偽を丹念に調べた末、Sの「Bとは女友達」という供述を虚言と突き止めたことによるもので<ref>『朝日新聞』1992年3月8日東京朝刊第13版ちば首都圏版第二地方面22頁「市川の一家四人殺人 衝撃の刃 ≫上≪ 残忍な手口 計画性も浮き彫りに 多くの人の心に傷」(朝日新聞東京本社・京葉支局)</ref>、同本部は同日21時30分に行われた記者会見で、報道機関向けに「Sの単独犯」と発表した<ref name="朝日新聞1992-03-10"/>。この時点ではまだSへの逮捕状は請求されておらず、令状請求以前に記者会見を行うことは異例だったが<ref name="朝日新聞1992-03-07"/>、これはSの単独犯(=Bは完全な被害者であること)が判明したことから、報道陣の誤解を解こうとした県警側の配慮によるものだった<ref name="朝日新聞1992-03-10"/>。同本部は同日深夜、強盗殺人容疑でSの逮捕状を請求し<ref name="朝日新聞1992-03-07">『朝日新聞』1992年3月7日東京朝刊第13版ちば首都圏版地方面27頁「市川の一家四人殺人 強殺容疑で少年逮捕へ 残忍な犯行「なぜ」 金奪い次々と刺す 長女も背中に刺し傷」「県警幹部「社会的反響大きい」」「近年にはない一家大量殺人」(朝日新聞東京本社・京葉支局)</ref>、翌7日0時30分すぎ、Sを逮捕<ref name="読売新聞1992-03-07"/>。この時、捜査本部は当初の逮捕容疑である銃刀法違反容疑について、いったん釈放の手続きを取った上で、Sを改めて強盗殺人容疑で逮捕した<ref name="読売新聞1992-03-11"/>。 |
|||
[[ねじめ正一]]は、Sの単独犯が発表されるまで、Bが警察から報道機関向けに「養女」と発表され、報道でも単に「長女」ではなく「養女」と報じられていた{{Efn2|一部のスポーツ新聞は、Bが養女である点に注目していた<ref name="朝日新聞1992-03-10"/>。その後、Sの単独犯が判明すると多くのメディアは「養女」から「長女」呼称に切り替えた{{Sfn|ねじめ正一|1992|p=60}}。}}点について言及し、そのような発表や報道は「Bが『両親は自分より、実の子(妹E)を可愛がっている』と僻み、悪い男友達と付き合った末に事件に至った」という筋書き{{Efn2|本事件の少し前には、[[北海道職員夫婦殺害事件|北海道で娘が男友達と共謀し、両親を殺害するという事件]]が発生していた{{Sfn|ねじめ正一|1992|p=60}}。}}を連想させるものであり、読者に対しても予断を植え付けたとして、当時の県警や[[犯罪報道|マスコミ報道]]を強く批判している{{Sfn|ねじめ正一|1992|pp=60-61}}。また、当時Bが通学していた高校の担任教諭は「〔6日〕昼は警察の発表があったにせよ、[[報道被害|各社が〔Bを〕犯人扱いした]]質問をしてきた」と憤慨していた<ref>『[[北日本新聞]]』1992年3月16日夕刊第一社会面7頁「あんぐる92 千葉/一家4人殺害から10日 犯行動機まだ不可解 予断持ったマスコミ報道 生存の長女 最大の被害者」(北日本新聞社)</ref>。このように、県警や報道機関の間に、事件やBに対する予断があったことを踏まえ、『朝日新聞』は事件解決後、Bが被害者であることを明確にする目的で、自社による報道内容を検証する記事を制作し、全国版および千葉版の地方面に掲載している<ref name="朝日新聞1992-03-10"/><ref name="朝日新聞1992-03-19"/>。『[[中日新聞]]』は、同月12日に開かれた被害者4人の葬儀で、喪主のBに代わって挨拶した親類代表の「学識者、マスコミが中心になってこんな惨劇が二度と起こらないように努めてほしい」という言葉について「マスコミに厳しい課題を残した」と言及している<ref>『中日新聞』1992年3月15日朝刊第二社会面30頁「長女が最大の被害者 千葉の一家4人殺害 一時は“共犯”扱い」(中日新聞社)</ref>。 |
|||
=== 起訴まで === |
|||
捜査段階で、今津清(医師)がSの心身鑑別を、原淳(医師)が簡易鑑定をそれぞれ行った{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=116}}。今津はSについて「[[統合失調症|精神分裂病]]の罹患は否定でき、薬物濫用による[[精神病]]又はそれに等価の状態は認められず、爆発性、情性欠如及び意志の持続性欠如を要素とする[[パーソナリティ障害|人格障害]]を認める」という趣旨の診断を下し、原も「意識清明で知能低下も認められず、感情の表出及び疎通性も比較的良好であるが、意志欠如、軽佻、抑鬱、情性稀薄、気分易変等を呈し、これが性格の異常に基づくものであれば、情性欠如型、意志欠如型、爆発性精神病質であって[[責任能力#刑法上の責任能力|完全責任能力]]が認められるが、被告人は高校中退前後から性格変化を来していて、精神分裂病の欠陥状態、前駆状態、同疾患の辺縁型等の疑いもなくはなく、更により詳細な鑑定が必要である」という診断を下した{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=116}}。 |
|||
当初の勾留期限は3月27日までだったが、千葉地検は同月26日から<ref name="千葉日報1992-03-26">『千葉日報』1992年3月26日朝刊第一社会面19頁「市川の一家4人殺し 少年を精神鑑定へ 責任能力など分析」(千葉日報社) - 『千葉日報』縮刷版 1992年(平成4年)3月号513頁。</ref>、約半年間にわたって[[法律上の身柄拘束処分の一覧#通常の刑事手続による身柄拘束|鑑定留置]]し{{Efn2|当初の留置期限は6月25日までだったが、地検はその後、さらに慎重を期すため、鑑定期間を9月上旬まで延長した<ref>『千葉日報』1992年6月17日朝刊第一社会面19頁「市川・一家4人殺害の少年 9月上旬まで鑑定延長 「責任能力」さらに詳しく」(千葉日報社) - 『千葉日報』縮刷版 1993年(平成5年)5月号379頁。</ref>。当時、千葉地検の次席検事を務めていた[[甲斐中辰夫]]は、「Sの精神に異常があるとは考えていないが、凶悪性、残虐性など事件の内容が内容なだけに、あくまで慎重を期していきたい」と話していた<ref name="千葉日報1992-03-26"/>。}}、[[筑波大学]]教授の[[小田晋]]による[[精神鑑定]]('''小田鑑定''')を受けさせた<ref>『千葉日報』1993年11月23日朝刊第一社会面19頁「市川の一家4人殺し 千葉地裁4回公判 「責任問えるが性格異常」弁護側鑑定を採用 情状面で有利な資料」(千葉日報社) - 『千葉日報』縮刷版 1993年(平成5年)11月号447頁。</ref><ref name="読売新聞1993-11-21">『読売新聞』1993年11月21日東京朝刊京葉版地方面26頁「市川の一家4人殺し 「被告の病質は矯正可能」 新たな鑑定出る 上智大の福島教授 小田鑑定とは異なる結果」(読売新聞東京本社・京葉支局)</ref>。小田は原による診断結果を踏まえ{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=116}}、Sに対する検査や面接を行った上で{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=117}}、「正常な知能を有する[[反社会性パーソナリティ障害|反社会性人格障害]]の診断基準にほぼ合致する爆発性―冷情性[[精神病質]]者であるが、犯行当時も現在も精神病またはそれに等価の状態に陥ってはいないし、器質的精神障害の存在も認められない。意識状態は終始清明であった。従って犯行当時事理を弁識し弁識に従って行為する能力を喪失していなかったし、著しく障害された状態にあったということはできない」(=Sは事件当時、[[責任能力#刑法上の責任能力|心神喪失や心神耗弱の状態]]ではなかった)という所見を示した{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=116}}。 |
|||
その結果を踏まえ、千葉地検は「Sはカッとなると歯止めが効かなくなるが、完全な責任能力があった」と結論を出し、同年10月1日付で「刑事処分相当」の意見書を付け<ref name="千葉日報1992-11-06"/>、Sを強盗殺人・傷害など5つの容疑で[[千葉家庭裁判所]]へ送致した<ref name="朝日新聞1992-10-03">『朝日新聞』1992年10月3日東京朝刊第13版ちば首都圏版地方面27頁「市川の家族4人殺害 「刑事処分相当」と少年を家裁に送付」(朝日新聞東京本社・京葉支局)</ref>。その後、Sは4回にわたる[[少年審判]]を経て、千葉家裁(宮平隆介裁判官)から千葉地検へ[[逆送致]]され(同月27日付の[[裁判#裁判の形式|決定]]による)<ref name="朝日新聞1992-10-28">『朝日新聞』1992年10月28日東京朝刊第13版ちば首都圏版地方面27頁「少年を地検へ逆送致 家裁で4回審判 市川の一家4人殺人」(朝日新聞東京本社・京葉支局)</ref>、11月5日には一家殺害事件と[[#江戸川事件|江戸川事件]]に関して、強盗殺人・傷害など5つの罪で[[千葉地方裁判所]]へ[[起訴]]された<ref name="千葉日報1992-11-06">『千葉日報』1992年11月6日朝刊第一社会面19頁「市川の一家4人殺害 強盗殺人で少年起訴 公開の法廷で裁判へ」(千葉日報社) - 『千葉日報』縮刷版 1992年(平成4年)11月号119頁。</ref>。そして[[1993年]](平成5年)2月17日には<ref name="朝日新聞1993-05-20"/>、[[#中野事件|中野事件]]・[[#河原事件|河原事件]]・[[#岩槻事件|岩槻事件]]に関しても、傷害・恐喝・窃盗など4つの罪で追起訴した<ref name="千葉日報1993-02-18">『千葉日報』1993年2月18日朝刊第一社会面19頁「市川の一家4人殺害の少年 事件前にも数々の犯行 千葉地検 4つの罪で追起訴」(千葉日報社) - 『千葉日報』縮刷版 1993年(平成5年)2月号339頁。</ref>。 |
|||
=== 当時のSの心境 === |
|||
少年法第51条は事件当時18歳未満の少年に対する死刑適用を禁じており、そのような少年が死刑相当の罪を犯した場合は無期刑に処すことを規定しているが、Sは当時19歳だったため、その適用外だった{{Sfn|覚正豊和|1995|p=20}}。実際、19歳で[[永山則夫連続射殺事件|連続ピストル射殺事件]]を起こした[[永山則夫]]は1990年に最高裁で死刑が確定しており、また1989年には[[名古屋地方裁判所|名古屋地裁]]が[[名古屋アベック殺人事件]]の犯人である少年たちに対する判決公判で、主犯格の少年(事件当時19歳)を死刑に、殺害実行犯の少年(事件当時17歳)も「死刑相当」とした上で無期懲役に処する判決を言い渡していた<ref>『中日新聞』1989年6月28日夕刊一面1頁「大高緑地アベック殺人 主犯少年(当時)に死刑 「残虐、冷酷な犯罪」 共犯の5被告、無期―不定期刑に 名地裁判決」(中日新聞社)</ref>。なお、17歳少年は第一審で無期懲役が確定した一方、19歳少年は1996年に控訴審([[名古屋高等裁判所|名古屋高裁]])で無期懲役の判決を言い渡され<ref>『中日新聞』1996年12月16日夕刊一面1頁「主犯格19才(当時)に無期 アベック殺人控訴審 死刑破棄し減軽 名古屋高裁 ××被告も13年に」(中日新聞社)</ref>、確定している([[#控訴棄却判決|後述]]){{Sfn|判例時報|1997|p=39}}。 |
|||
しかし、当時のSは後に論告求刑で実際に死刑を求刑されるまで{{Sfn|永瀬隼介|2004|pp=185-186}}、自分が死刑になることは考えておらず、逮捕直後も「ああこれで俺も[[少年院]]行きか」程度にしか考えていなかった{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=181}}。これは当時、Sは少年法や刑事裁判の仕組みについて、「経験したことのある悪友や、先輩達の武勇伝から知るほかなく、それもどこまでが正しいのか、わからないまま鵜呑みにして格好いいなんて思って」いたことや{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=184}}、死刑についても「一度殺人を犯しておきながら、刑期を終えてから、あるいは仮釈放中に懲りずにまた同じ過ちを犯すような、どうしようもない、見込みのない連中の受ける刑罰」「少年院どころか、一度も留置場へ入ったことがない自分(前科もない者)に、いくら殺人という大罪を犯したとはいえ、一発で社会復帰や更生の機会すらあたえられないはずはない」という考えを抱いていたことが原因だった{{Sfn|永瀬隼介|2004|pp=181-182}}。また、本事件の3年前に残忍な少年犯罪として世間を震撼させた[[女子高生コンクリート詰め殺人事件]](1989年1月発生)の犯人である少年4人が、最高でも懲役20年の刑にとどまっていたことも、このような考えに影響しており、Sはコンクリート事件の犯人たちと自身を比較して「まだ俺のほうが長期間ではないし、凶器ひとつ持っていないのだから、まだ頭の中身もまともだ」とまで考えていた{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=182}}。 |
|||
そのため、Sは中野事件については「どうせつかまるのなら学生の頃、昔から好きだった娘にしておけばよかった」という筋違いな後悔をしていた{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=180}}。また出所後に備え、面会に訪れた母Yに頼んで、高校時代に使っていた教科書・参考書・辞書などを差し入れさせていた{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=14}}。結局、Sは後に死刑判決を受けたが、上告中に永瀬から「もし20歳だったらこのような犯罪は起こさなかったのか」という旨の問い掛けをされた際には、「絶対やらなかった、とまでは言い切れないものの、きっかけとなったその前の傷害事件や強姦事件の段階でさえ出来なくなっていたでしょうから、それ以降の雪ダルマ式に発生した殺人へも発展しなかったと思うのです」と述べた上で、周囲の不良仲間たちが19歳と20歳を明確に分けて行動し、20歳になってからは一転して非行を改めていたことを挙げ、自分は事件当時少年だったために後先考えずに犯罪に走った(=成人後は軽微な犯罪でも実名報道されるため、それが抑止力になった可能性がある)という旨の自己分析を述べている{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=185}}。また瀬口晴義宛の手紙では、「いちいち『少年法〜』とか『死刑にならない〜』とか考えながら事件を起こすなら、もう少し頭を使って、指紋が残らないように軍手の一つもはめますよ。高校も満足に行っていないような者に、少年法の中身を丁寧に教えてくれる人がいると思いますか」と述べていたほか、[[神戸連続児童殺傷事件]](1997年)で少年法改正論議が沸騰した際には「大人と同じように処分することにして、いじめや恐喝、リンチ殺人がなくなると思いますか。きっと変わらない。それどころか、これまで以上に陰湿なやり方が増えることになるだけだと思います」と述べ、少年法を改正して少年犯罪を厳罰化しても、衝動的に罪を犯す少年に対する抑止力にはならないという考えを示していた<ref name="東京新聞2000-07-29"/>。 |
|||
=== 判決前の死刑制度を取り巻く社会状況 === |
|||
またスポーツ新聞の中には、事件の主旨とは特に関係ないにも関わらず、長女(B子)が養女である点に注目したり、裏付けを取らないまま被害者一家の生活ぶりを報じたものもあった<ref group="報道" name="asahi19920310_kadai"/>。 |
|||
一方で本事件の裁判が進行していた1990年代当時、世界的には[[死刑存廃問題|死刑廃止]]の風潮が強くなっており<ref name="千葉日報1996-07-03"/>、[[国際連合総会|国連総会]]で「[[市民的及び政治的権利に関する国際規約の第2選択議定書|死刑廃止条約]]」が採択される(1989年12月15日)、1993年10月に[[自由権規約人権委員会|国連規約人権委員会]]が日本に対し死刑廃止を勧告するなどの動きが見られた{{Sfn|菊田幸一|1994|p=32}}。[[アムネスティ・インターナショナル]]日本支部の調査によれば、1995年(平成7年)には死刑廃止国(事実上の死刑廃止国を含む)が100か国に達し、初めて死刑存置国(94か国)を上回っていた<ref name="千葉日報1996-07-03"/>。日本でも1989年11月10日の死刑執行([[後藤正夫]]法務大臣)以降{{Sfn|年報・死刑廃止|2018|p=271}}、3年4か月間にわたって死刑執行がなされておらず{{Efn2|その間、新たに法務大臣に就任した人物は、[[長谷川信]]・[[梶山静六]]・[[左藤恵]]・[[田原隆]]と4人にわたるが、4人とも死刑執行命令を出すことはなかった{{Sfn|年報・死刑廃止|2018|pp=271-272}}。その理由について坂本 (2010) は、「1990年は[[明仁|天皇]][[即位の礼]]などが行われていたが、加盟国すべてが死刑を廃止した[[欧州連合]] (EU) の影響を受けたためではないか」と指摘している{{Sfn|坂本敏夫|2010|p=66}}。}}<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_rchome.nsf/html/rchome/Shiryo/houmu_200806_shikeiseido.pdf/$File/houmu_200806_shikeiseido.pdf|title=死刑制度に関する資料|accessdate=2020-08-30|publisher=衆議院|author=衆議院調査局法務調査室|year=2008|month=6|format=PDF|website=[[衆議院]] 公式ウェブサイト|pages=48-49|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200830100507/http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_rchome.nsf/html/rchome/Shiryo/houmu_200806_shikeiseido.pdf/$File/houmu_200806_shikeiseido.pdf|archivedate=2020年8月30日}}</ref>、過去に[[イギリス]]・[[フランス]]が長期の死刑執行停止を経て死刑廃止に至った経緯があったことから、死刑廃止を求めるグループの間でも、「廃止の日は近い」という機運が高まっていた{{Sfn|週刊読売|1992|pp=20-21}}。また1993年9月には、[[最高裁判所 (日本)|最高裁]]の[[大野正男|大野]]裁判官が補足意見として「死刑制度の前提となる事実に重大な変化が生じていることに注目すべきである」として、最高裁としては[[死刑合憲判決]](1948年)以来48年ぶりに死刑制度に言及し{{Efn2|name="大野補足意見"}}、1994年4月には[[国会 (日本)|国会]]内で憲政史上初めて「[[死刑廃止を推進する議員連盟|死刑廃止議員連盟]]」が結成されるなど、死刑廃止に向けた社会的な動きが活発化していた{{Sfn|菊田幸一|1994|p=33}}。 |
|||
そのような事情から、少年法に詳しい弁護士の秋山昭八や、[[井戸田侃]]([[立命館大学]]教授)は、それぞれ本事件についても死刑適用は難しいという所感を述べていた{{Sfn|週刊新潮|1992|p=149}}{{Sfn|週刊アサヒ芸能|1992|pp=176-177}}。一方で[[板倉宏]]([[日本大学]]教授)は、本事件は単独犯で殺害人数も4人と多いことから、悪質性はコンクリート事件より高く、永山の事件と同等である旨を指摘し、死刑が適用される可能性を指摘していた{{Sfn|週刊新潮|1992|pp=148-149}}{{Sfn|週刊アサヒ芸能|1992|p=176}}。なお、1992年12月12日に法務大臣として就任した[[後藤田正晴]]が「このままでは法秩序が維持できない。(死刑を執行しなかった法務大臣は)怠慢である」として、死刑囚3人の執行命令{{Efn2|3人同時執行は26年ぶり{{Sfn|年報・死刑廃止|2018|p=272}}。}}を発したことにより、1993年3月26日に3人の刑が執行されたが{{Sfn|年報・死刑廃止|2018|p=272}}、[[坂本敏夫]]は本事件が死刑執行再開のきっかけになった可能性を指摘している{{Sfn|坂本敏夫|2010|p=66}}。 |
|||
「B子が最大の被害者だった」(捜査を担当した当時の千葉県警刑事部長の言葉)ことが判明した6日夜、B子が通う県立高校の担任(事件直後には「学校に出てきても慰めの言葉もない」と話していた<ref group="報道" name="nikkei19920307"/>)は「昼間、警察の発表があったにせよ、マスコミの取材はB子を犯人扱いしていた」と憤った<ref group="報道" name="chunichi19920315"/>。また、『朝日新聞』1992年3月10日付朝刊千葉県版に掲載された報道内容検証記事でも、「殺された家族の痛ましさは筆舌に尽くしがたいが、事件を通じて、最大の被害者は1人残された長女(B子)だったかもしれない」と締めくくっている<ref group="報道" name="asahi19920310_kadai"/>。 |
|||
== 刑事裁判 == |
== 刑事裁判 == |
||
=== 第一審 === |
|||
送検後の3月25日、千葉地検は「Sの精神状態に異常があるとは考えていないが、慎重を期した」として精神鑑定のため90日間のSの鑑定留置を[[千葉地方裁判所]]に申請し、認められた<ref group="報道">『日本経済新聞』1992年3月26日朝刊39面「19歳少年精神鑑定へ 千葉の一家4人殺し」</ref><ref group="報道">『読売新聞』1992年3月26日東京朝刊31面「千葉・市川の一家4人殺し 少年を鑑定留置」</ref>。その後、9月まで千葉地検により第1回目の精神鑑定が行われた<ref group="報道" name="yomiuri20011204"/>。 |
|||
[[審級|第一審]]における[[事件記録符号|事件番号]]は、'''平成4年(わ)第1355号'''{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=107}}。審理は[[千葉地方裁判所]]刑事第1部に係属し{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=107}}、神作良二[[裁判長]]と、井上豊・見目明夫の両陪席裁判官が審理を担当{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=121}}。[[公判]]は初公判から結審(最終弁論)まで10回<ref name="千葉日報1994-08-09"/>、[[判決 (日本法)|判決]]公判も含めると11回にわたって開かれた{{Sfn|中尾幸司|1994|p=144}}。 |
|||
Sの弁護人は奥田保(主任弁護人)と<ref name="朝日新聞1994-08-09京葉"/>、桑原慎司の両弁護士が担当した<ref name="千葉日報1994-04-05社会">『千葉日報』1994年4月5日朝刊第一社会面19頁「市川の一家4人殺し 検察側論告 まれにみる凶悪犯罪 情状の余地なしと極刑で 無軌道な犯行厳しく断罪」「弁護側会見 「意外な求刑…」」(千葉日報社) - 『千葉日報』縮刷版 1994年(平成6年)4月号99頁。</ref>。2人はそれぞれ[[司法修習|司法修習生]]同期かつ、元裁判官で、奥田は検察官から裁判官を経て、1992年3月まで[[甲府地方裁判所|甲府地裁]]刑事部で裁判長を務めていたが、退官の前年に2つの少年事件(学生2人による連続放火事件と、浪人生による両親刺殺事件)を扱ったことをきっかけに、「もっと話を聞きたい。何が彼らをそうさせたのか知りたい」「少年たちと直接触れ合いたい」と考え、退官後に弁護士になった<ref name="朝日新聞1994-08-09京葉"/>。そして、Sの母Yの知人を通じて引き受けた本事件が、弁護士としての初仕事だった<ref name="朝日新聞1994-08-09京葉">『朝日新聞』1994年8月9日東京朝刊第13版ちば首都圏版地方面21頁「自らも償い背負う母親 息子の犯した罪は私にも大きな責任」「弁護側 「無期懲役が妥当…」 主張通じず無念さにじむ」(朝日新聞東京本社・京葉支局)</ref>。 |
|||
千葉地検は10月1日に強盗殺人、傷害など5つの容疑でSを「刑事処分相当」との意見付きで[[千葉家庭裁判所]]に送致した<ref group="報道">『中日新聞』1992年10月2日朝刊27面「4人殺害の少年『刑事処分相当』 千葉地検が家裁送致」</ref><ref group="報道">『朝日新聞』1992年10月3日朝刊千葉版「『刑事処分相当』と少年を家裁に送付 市川の家族4人殺害」</ref>。 |
|||
『千葉日報』 (1994) は、第一審の公判におけるSの様子について、「心境を吐露することなく、裁判の進行をひとごとと受け止めているかのような姿勢に終始した」と評した上で、被告人質問で相手からの質問内容について「(相手が死んでも構わないと思ったか?という問いかけに対し)そう思ったかもしれません」「(殺意は)そう言われればあったかもしれません」などといった受け答えをしていたことについて言及し、「供述はほとんど相手任せだった」「自分の言葉で心の奥を語ることはなかった」と報じている<ref name="千葉日報1994-08-09二社"/>。 |
|||
4回にわたる[[少年審判]]を経て、千葉家裁は10月28日に「事件は社会を震撼させ、世間に多大な影響を与えた」「Sは成人に近い年長者である」などの理由で「刑事罰を加えることにより規範意識を覚醒させることが必要」として千葉地検に[[逆送致]]した<ref group="報道">『朝日新聞』1992年10月28日朝刊千葉版「少年を千葉地検に逆送致 家裁で4回審判 市川の一家4人殺人」</ref>。 |
|||
==== 初公判 ==== |
|||
11月5日、千葉地検は逮捕直後から半年間にわたる専門家によるSの精神鑑定の結果「カッとなると歯止めが効かなくなるが、完全な[[責任能力]]があった」と結論を出し、Sを強盗殺人など4つの罪で千葉地裁に起訴した<ref group="書籍" name="maruyama2010"/><ref group="報道" name="asahi19921106">『朝日新聞』1992年11月6日朝刊第二社会面「強盗殺人罪などで少年を起訴 市川の一家4人殺害事件」<br>『朝日新聞』1992年11月6日朝刊千葉版「市川の一家4人殺人で少年起訴 刑事処分妥当と判断」</ref><ref group="報道">『中日新聞』1992年11月6日朝刊31面「一家4人殺害の19歳少年を起訴 千葉、公開法廷へ」</ref><ref group="報道" name="nikkei19921106">『[[日本経済新聞]]』1992年11月6日朝刊39面「公開の法廷へ 社長一家殺人の19歳少年 『強盗殺人』で起訴」</ref><ref group="報道">『読売新聞』1992年11月6日東京朝刊31面「千葉・市川の一家4人殺し 19歳少年を起訴」</ref>。同日に千葉地検はこれに加え、Sが1991年10月に東京都[[江戸川区]]内で起こした別の傷害事件についてもSを起訴した<ref group="報道" name="nikkei19921106"/>。 |
|||
1992年12月25日に千葉地裁刑事第1部(神作良二裁判長)で第一審の初[[公判]]が開かれ、[[罪状認否]]で被告人Sは起訴事実を認めたが<ref name="千葉日報1992-12-26">『千葉日報』1992年12月26日朝刊第一社会面19頁「市川・一家4人殺し初公判 少年、殺意の一部を否認 弁護側 未必の故意主張」「大きな体、小さな声…少年の心の叫び聞こえず」(千葉日報社) - 『千葉日報』縮刷版 1992年(平成4年)12月号499頁。</ref>、以下のように殺意などに関して争った。 |
|||
{| class="wikitable" style="font-size:75%;" |
|||
|+争点の対照表 |
|||
! rowspan="2" |{{nowrap|被害者}} |
|||
! colspan="2" |検察官の主張 |
|||
! colspan="2" |Sおよび弁護人の主張 |
|||
|- |
|||
!罪状 |
|||
! colspan="2" |殺意の有無・程度 |
|||
!罪状 |
|||
|- |
|||
!C |
|||
| rowspan="4" |{{nowrap|強盗殺人罪}} |
|||
|確定的な殺意があった |
|||
|{{nowrap|Cから唾をかけられたことに逆上して首を絞めた。}}{{nowrap|殺意は確定的ではなく、未必にとどまる([[#Cへの殺意|Cへの殺意]]){{Sfn|判例タイムズ|1994|p=112}}}} |
|||
|{{nowrap|強盗殺人罪{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=114}}}} |
|||
|- |
|||
!D |
|||
|未必の殺意があった |
|||
| rowspan="2" |いずれも殺意はなく、刺したら死ぬとも思っていなかった([[#Dへの殺意|Dへの殺意]]、[[#Aへの殺意|Aへの殺意]]){{Sfn|判例タイムズ|1994|pp=113-114}}。{{nowrap|(弁護人)Dを刺した行為は、金品を強奪する目的ではなかった{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=113}}}} |
|||
| rowspan="2" |{{nowrap|強盗致死罪{{Sfn|判例タイムズ|1994|pp=113-114}}}} |
|||
|- |
|||
!A |
|||
| rowspan="2" |{{nowrap|いずれも確定的な殺意があった{{Sfn|判例タイムズ|1994|pp=114-115}}。}}<br />E殺害前にいったん現場を立ち去ってはいるが、その際も現場に戻ることを想定しており、実際にそれまでに集めた小銭類は現場に残したままだった。殺害動機も、それまでの強盗殺人などの発覚を恐れたもので、強盗殺人罪が成立する([[#Eへの強盗殺人罪成否|Eへの強盗殺人罪成否]]){{Sfn|判例タイムズ|1994|pp=114-115}} |
|||
|- |
|||
!E |
|||
|未必の殺意にとどまる。Eを殺害するまでに強盗行為は終わっており、その時点では既に強盗の犯意はなかった([[#Eへの強盗殺人罪成否|Eへの強盗殺人罪成否]]){{Sfn|判例タイムズ|1994|p=115}} |
|||
|殺人罪{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=114}} |
|||
|} |
|||
判決では結果的に、殺意とC・D・Aの3人に対する殺害行為に関しては全面的に検察官の主張が採用された一方、妹Eへの殺害行為に関しては弁護人の主張が一部認められ、強盗殺人罪ではなく殺人罪の成立が認定された。 |
|||
==== 再度の精神鑑定申請 ==== |
|||
翌[[1993年]](平成5年)2月18日に千葉地検は一家殺害事件前の1992年2月25日、Sが市川市内で通りすがりの会社員に因縁をつけて鉄の棒で頭を殴り、自動車運転免許証を奪い金を要求した、同27日には埼玉県岩槻市(現・さいたま市岩槻区)内で通りすがりの大学生の顔を殴り、ナイフで全身数十箇所を刺すなどして全治6週間の怪我を負わせ、免許証などを奪った(いずれも前述)などの容疑で、Sを傷害や恐喝など5つの罪で追起訴した<ref group="報道" name="asahi19930218">『朝日新聞』1993年2月18日朝刊千葉版「傷害・恐喝などの被告を追起訴 市川の四人殺害事件/千葉」</ref>。 |
|||
第2回公判(1993年3月3日)ではまず、2月に追起訴された3事件([[#中野事件|中野事件]]・[[#河原事件|河原事件]]・[[#岩槻事件|岩槻事件]])について罪状認否が行われ、Sはほぼ起訴事実を認めた<ref name="千葉日報1993-03-04">『千葉日報』1993年3月4日朝刊第一社会面19頁「市川一家4人殺し 第2回公判で検察側 残虐な連続犯行を詳述」(千葉日報社) - 『千葉日報』縮刷版 1993年(平成5年)3月号79頁。</ref>。次いで、検察官が冒頭陳述を行い、生い立ちから犯行動機、そして犯行の全貌を明らかにした<ref name="千葉日報1993-03-04"/>。当時、弁護側は「精神鑑定を再度申請することはない」として、責任能力については争わず、情状(Sの反省の態度など)の立証に尽くす方針を表明していた<ref name="千葉日報1993-03-04"/>。このため、次回の第3回公判(5月19日)では[[証拠調べ]]や被告人質問を行い、次々回(同月29日)に弁護側の情状立証を行った上で<ref name="千葉日報1993-03-04"/>、6月21日に[[論告]][[求刑]]公判を開き<ref name="読売新聞1993-05-20">『読売新聞』1993年5月20日東京朝刊第13版京葉讀賣26頁「市川の一家4人殺害 再度、被告の精神鑑定へ 公判の長期化必至」(読売新聞東京本社・京葉支局)</ref>、同月中にも結審する見通しだった<ref name="千葉日報1993-03-04"/>。 |
|||
しかし、弁護側は5月初旬までに一転して、再度の精神鑑定を求める方針に転換し、第3回公判で「犯行時のSの態度や経緯は常人の理解を超えたものであり{{Efn2|『朝日新聞』 (1993) は、弁護側が「常人の理解を超えている」と主張した事件は、同年2月17日に追起訴された事件(中野事件・河原事件・岩槻事件)という旨を述べている<ref name="朝日新聞1993-05-20">『朝日新聞』1993年5月20日東京朝刊第13版ちば首都圏版地方面27頁「市川の4人殺人 弁護側の要求入れ 再度の精神鑑定決定」(朝日新聞東京本社・京葉支局)</ref>。}}、事件の重大性を考えると、再度、([[犯罪心理学]]的観点から)Sの心身の鑑定を行う必要がある」と申請した<ref name="千葉日報1993-05-20">『千葉日報』1993年5月20日朝刊第一社会面19頁「市川市の一家4人殺し 公判中に被告を再鑑定 弁護側申請認める 千葉地裁で異例の展開 「犯罪心理学から」」(千葉日報社) - 『千葉日報』縮刷版 1993年(平成5年)5月号379頁。</ref>。これに対し、検察官は「新たな鑑定は必要ない」と反対意見を表明したが、裁判官3人による合議を経て、神作裁判長は「これまでに精神医学的鑑定から鑑定は十分に時間をかけて行ってきたが、犯罪心理学から見たSの精神状態を見る意味でも鑑定を実施する」として、再度の精神鑑定を行うことを決定した<ref name="千葉日報1993-05-20"/>。結審間近の公判中に、起訴前とは別の視点から再度の精神鑑定が行われる展開は異例のものだった<ref name="千葉日報1993-05-20"/>。その後、被告人質問でSは被害者への殺意を一部否定する供述をした一方{{Efn2|『読売新聞』は、Sが殺意に関する質問で「その時は殺すつもりはなかった」「(背中を刺して)死ぬとは思わなかった」と主張した旨を<ref name="読売新聞1993-05-20"/>、『朝日新聞』はCとEの両名について故意で犯行におよんだことを認めたという旨を報じている<ref name="朝日新聞1993-05-20"/>。}}、「なぜこんな事件を起こしたのか」という質問に対しては「短絡的でした」と述べていた<ref name="読売新聞1993-05-20"/>。 |
|||
過去にSが傷害、強姦、強姦致傷、恐喝、窃盗などの事件を繰り返していた点<ref group="報道" name="chunichi19920310"/><ref group="最高裁判決文" name="hanrei"/>、{{要出典|範囲=逮捕されてから裁判中までSには事件を起こしたことに対して全く反省した態度が見られない点、B子の目の前でその肉親を殺害したという残虐性、警察が踏み込んだ際にB子に包丁を持たせ自分が被害者を演じた計画性などが裁判で重く見られた。|date=2016年2月}} |
|||
その後、第4回公判(同年11月22日)で後述の「福島鑑定」の結果が提出された<ref name="千葉日報1993-11-23">『千葉日報』1993年11月23日朝刊第一社会面19頁「市川の一家4人殺し 千葉地裁4回公判 「責任問えるが性格異常」 弁護側鑑定を採用 情状面で有利な資料」(千葉日報社) - 『千葉日報』縮刷版 1993年(平成5年)11月号447頁。</ref>。1994年(平成6年)1月31日に開かれた第5回公判では、Yが弁護側の証人として出廷したほか、Sへの被告人質問が行われ、Sは「犯行時は自分の行動が理解できなかった。今は拘置所内で聖書を読むなど心を落ち着かせている」と話した<ref name="千葉日報1994-02-01">『千葉日報』1994年2月1日朝刊第二社会面18頁「市川4人殺し第5回公判 情状面を主張」(千葉日報社) - 『千葉日報』縮刷版 1994年(平成6年)2月号18頁。</ref>。また、第6回公判(2月23日)<ref name="千葉日報1994-02-01"/>、第7回公判(3月14日)でも被告人質問が行われ、Sは犯行に至る経緯などに関する質問で、当初は空き巣目的であり、計画的な犯行ではなかったことなどを強調した<ref>『千葉日報』1994年3月15日朝刊第一社会面19頁「市川の親子4人殺し 来月4日に論告求刑」(千葉日報社) - 『千葉日報』縮刷版 1994年(平成6年)3月号305頁。</ref>。 |
|||
=== 第一審(千葉地裁) === |
|||
[[刑事裁判]]でSは強盗殺人、強盗強姦、恐喝、窃盗、傷害、強姦、強姦致傷の7つの罪に問われ{{Refnest|group="注釈"|[[確定判決]]では後述のように、4人のうちB子の妹E子に対する殺害を強盗殺人罪ではなく単純殺人罪と認定した<ref group="最高裁判決文" name="hanrei"/>。}}、1991年10月から一家殺害事件直後に逮捕されるまでの約5ヶ月間に計14の犯罪を繰り返したと認定された<ref group="報道" name="asahi20011204"/>。 |
|||
===== 福島鑑定 ===== |
|||
初公判は同年12月25日に千葉地裁刑事第1部([[神作良二]]裁判長)で開かれ<ref group="報道">『朝日新聞』1992年12月10日朝刊千葉版「市川一家4人殺人(92千葉・あの時その瞬間:1)」</ref>、Sは罪状認否でB子宅を知るきっかけとなった強姦事件などについては全面的に認めた一方、強盗殺人罪の成立を認めたのはB子の祖母C子に対してのみで、D子は「逃げ出されると思い刺した」と傷害致死、Aは「金は奪ったが殺すつもりはなかった」と強盗致死、E子は「朝起きて騒ぎ始めたので驚いて刺した」と単純殺人をそれぞれ主張し、C子・E子については「死ぬかもしれないと思ったが確定的な殺意はなかった」と未必の殺意を主張した<ref group="報道" name="asahi19921226">『朝日新聞』1992年12月26日朝刊千葉版「少年、強盗殺人の一部否認 家族4人殺人事件の初公判 千葉」<br>『朝日新聞』1992年12月26日朝刊23面「2人について殺意を否認 市川市の『4人殺害』事件公判」</ref>。弁護側は公判後の記者会見で「千葉地検に逆送致される際に千葉家裁は我々の主張にほぼ沿う判断をした。検察側が殺意を確定的と主張すれば全面的に争う」と話し、Sについては「『被害者に何とかお詫びをしたい』といつも言っている」と話した<ref group="報道" name="asahi19921226"/>。 |
|||
第3回公判で弁護人の申請が認められたことから、約半年にわたり、[[福島章]]([[上智大学]][[上智大学総合人間科学部#学科|心理学科]]教授)が2度目の精神鑑定('''福島鑑定''')を実施した<ref name="千葉日報1993-05-20"/>。この鑑定結果は、Sが事件当時少年で、脳の発達・人格形成ともまだ成熟途上にあったことなどに着目し、「被告人の本件犯行時の精神状態は、刑事責任能力論において'''心神耗弱であるとまで断言することは困難であるとしても、少なくとも同情すべき事情(情状)を形成している'''と考える」という見解を示したものだった{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=116}}。弁護側は当時、福島鑑定を「情状面では有利な資料」と評価していた<ref name="千葉日報1993-11-23"/>。福島は専門誌『精神療法』第21巻第2号([[#参考文献]]を参照)で、「青年期事例の研究」と題して本事例と自己の鑑定結果を披瀝している{{Sfn|集刑|2002|pp=797-798}}。 |
|||
福島鑑定は、Sの責任能力については起訴前に実施された小田鑑定と同じく「Sに精神病の兆候はなく、刑事責任は問える」としたものの<ref name="千葉日報1993-11-23"/>、Sの鑑定当時の精神状態を「爆発性精神病質者または類[[てんかん]]病質者」と位置づけ、事件当時の成人状態についても「現在(=鑑定当時)と同じ爆発型精神病質者であって、その各犯行には類てんかん病質者の両極的な特徴である爆発性と非流動性という特徴が認められるが、自己の行為の是非善悪を弁識する能力には障害がなかった。ただし、その認識に従って自己の行為を制御する能力(行動制御能力)はかなり低下していた。しかし、その低下が著しい程度にまで達していたかどうかは司法的な判断の問題であろう」と述べていた{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=116}}。 |
|||
事件から1年を前にした1993年3月3日の千葉地裁(神作良二裁判長)での第2回公判では検察側が冒頭陳述で、「Sは暴力団員から要求されていた金以外にも遊興費など欲しさから一家4人を次々に殺害し、現金約34万円と残高約420万円の預金通帳を奪った」などと主張した<ref group="報道" name="asahi19930303">『朝日新聞』1993年3月4日朝刊千葉版「『目的は金』と検察冒頭陳述 市川の一家四人殺害公判/千葉」</ref>。弁護側はこの時点では「検察側による精神鑑定の結果には疑問がある」としながらも再鑑定は求めず、Sの責任能力は争わない考えを示していた<ref group="報道" name="asahi19930303"/>。 |
|||
また、福島鑑定はSの母親YがSを妊娠していた間、流産予防のために約2か月間<ref name="読売新聞1993-11-21"/>、[[黄体ホルモン]]([[17-ヒドロキシプロゲステロン|ヒドロキシプロゲステロン]])を使用していた点に注目し、胎児期の大量の黄体ホルモン投与により、Sの脳が過剰に男性化された特質を持つようになった可能性を指摘した{{Sfn|判例タイムズ|1994|pp=116-117}}。Yは、自身が流産をしやすい体質で、Sを出産する以前に3回ほど妊娠したものの、いずれも流産していたため、Sを妊娠して以降は出産まで、毎週流産予防で有名な病院に通い、黄体ホルモン(商品名「プロルトン・デポー」)の注射を受けていたこと、内服薬「チラージン」(乾燥甲状腺粉末製剤)を1日3回服用していたこと、妊娠5か月で子宮口を結紮する手術を受けていたことなどを証言し{{Sfn|福島章|2000|p=81}}、福島はそれらの「脳の男性化」や、Sの[[尿酸]]血中濃度が高い点(母方からの遺伝と思われる)といった要素が、Sの爆発性や攻撃性の原因となっていた可能性を指摘した{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=116}}。そして、「脳波学的にいえば、暴力行為と関連することがわかっている被告人の前頭部徐波は加齢と共に消失するから、中年期以降は被告人の攻撃性もより制御が容易になることが考えられる」として{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=116}}、Sの攻撃性は年齢を重ねることで矯正できるという可能性も示唆した<ref name="千葉日報1993-11-23"/>。 |
|||
しかし、5月19日の第3回公判までに弁護側は「2月18日に追起訴された傷害や恐喝など別事件についてはいずれも常人の理解を超えている」として再度の精神鑑定を千葉地裁に要求し、神作裁判長もこれを認める決定をした<ref group="報道" name="asahi19930519">『朝日新聞』1993年5月20日朝刊千葉版「再度の精神鑑定決定 市川の4人殺人事件公判/千葉」</ref>。同日の被告人質問では、SはC子・E子両名に対する殺意を認める供述をした<ref group="報道" name="asahi19930519"/>。 |
|||
しかし、尿酸血中濃度が高いという体質が、強い攻撃性の原因となることを実証する例はなかった{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=116}}。また、当時は胎児期に大量の黄体ホルモンを投与された子供が攻撃的な性格になることを立証する証拠も提出されておらず、弁護人らによって提出された文献・資料には、ヒドロキシプロゲステロンを妊婦に投与した場合、出生した男子が男性らしい関心を示さない傾向がある旨の報告も紹介されていたほか、福島鑑定自体もその点に関して、「もともと男性である胎児が大量の男性化ホルモンに曝されても、単に量的に男性化ホルモンが増加したに過ぎないのであって性器の形成の異常は起こらないし、脳が過剰に男性化されるかの点についても心理的に多くの点で正常の男性と変わらず、攻撃性が有意に強いとはいえないという観察がある」と指摘していた{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=117}}。千葉地裁 (1994) は以下のように、Sの血液中の尿酸や[[テストステロン]](代表的な男性ホルモン)の濃度が、いずれも正常値に比して著しく高かったわけではない点を指摘し、福島鑑定を根拠とした「Sは心神耗弱状態」という弁護人らの主張を退けている{{Sfn|判例タイムズ|1994|pp=116-117}}。 |
|||
5月から11月まで2度目の精神鑑定が行われたのを経て、11月22日に第4回公判が開かれ<ref group="報道" name="yomiuri20011204"/>、検察側は被害者遺族の尋問調書などを、弁護側は第3回公判で要求した精神鑑定の結果などをそれぞれ提出した<ref group="報道" name="asahi19931123">『朝日新聞』1993年11月23日朝刊千葉版「市川の4人殺人公判 弁護側から鑑定書提出/千葉」</ref>。この日の公判後の弁護側の記者会見によれば「Sは通常時・犯行当時ともに精神的には正常であり性格に偏りがあるにすぎないが、[[尿酸]]値が高いという体質的要素から自分の感情をコントロールする能力と、刺激に寄って我を忘れやすくなる性格が結びついている」といい、その上で弁護側は「これまでの司法判断で言えば刑事責任能力は取れるが、今回は体質的な要素や、その要素は年をとるにつれて改善されるものであることを考慮して犯行当時未成年であったSの[[情状酌量]]をすべきである」と主張した<ref group="報道" name="asahi19931123"/>。次回の第5回公判(翌[[1994年]]1月31日)でSの母親が情状証人として出廷することも決定した<ref group="報道" name="asahi19931123"/>。 |
|||
{| class="wikitable" style="width:50%" |
|||
|+小田鑑定と福島鑑定の対照表、および正常値との比較 |
|||
! |
|||
!正常値 |
|||
!小田鑑定 |
|||
!福島鑑定 |
|||
|- |
|||
!尿酸血中濃度{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=116}} |
|||
|{{nowrap|小田鑑定:3.5 - 7.8 [[ミリグラム|mg]]/[[デシリットル|dl]]}}<br />福島鑑定:3.8 - 7.5 mg/dl |
|||
|7.8 mg/dl |
|||
|7.7 mg/dl |
|||
|- |
|||
!{{nowrap|テストステロン濃度{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=117}}}} |
|||
|3.8 - 9.9 [[ナノグラム|ng]]/[[ミリリットル|ml]] |
|||
| |
|||
|3.6 ng/ml |
|||
|- |
|||
!脳波検査{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=117}} |
|||
| |
|||
|{{nowrap|脳波は正常範囲内}} |
|||
|{{nowrap|傾眠時の前頭部に徐波が認められるが、}}{{nowrap|少年時代に認められたてんかん性の異常はない}} |
|||
|} |
|||
なお、弁護人は小田鑑定について「小田は鑑定前、警察発表による新聞記事をもとに、週刊誌に『Sを死刑にすべき』という意見を発表していた([[#考察・評価|後述]])ため、小田鑑定は予断偏見に基づくもので、信用性を欠いている」と主張したが、千葉地裁 (1994) は「小田鑑定はSに対する検査・面接を行った上で、専門家としての見解を示したもので、その内容に格別理論的な不整合はない」として、その主張を退けた{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=117}}。 |
|||
==== 死刑求刑 ==== |
|||
1994年(平成6年)4月4日、千葉地裁(神作良二裁判長)で第8回公判となる論告求刑公判が開かれ<ref group="報道" name="yomiuri20011204"/>、検察側はSの責任能力を認めた上で、被害者4人全員への強盗殺人罪が成立するとして「Sは何の落ち度もない一家の平和を決定的に破壊した身勝手、残虐な犯行を犯した<ref group="報道" name="nikkei19940405"/>。本件は計画強盗事件の凄惨な結果であり、犯行は残忍、冷酷、卑劣の極みであって誠に悪質。少年に対する極刑の適用はとりわけ慎重になされるべきであることを考慮しても、情状酌量などにより罪一等を減ずる余地は一片も見出すことはできない<ref group="報道" name="chunichi19940405"/>。罪刑の均衡と犯罪予防の見地から、命をもって罪を償わせ、今後このような凶悪犯罪が起きないようにすることが司法に課せられた責務だ<ref group="報道" name="asahi19940405"/>」と主張し、4人全員への確定的な殺意があったとしてSに対し死刑を求刑した<ref group="報道" name="chunichi19940405">『中日新聞』1994年4月5日朝刊26面「『少年』に死刑求刑 千葉地裁 一家4人強殺で検察側」</ref><ref group="報道" name="asahi19940405">『朝日新聞』1994年4月5日朝刊千葉版「極刑に廷内重苦しく 市川の一家殺害で死刑求刑/千葉」<br>『朝日新聞』1994年4月5日朝刊31面「検察、死刑を求刑 19歳少年の一家4人強盗殺人 千葉地裁」</ref><ref group="報道" name="nikkei19940405">『日本経済新聞』1994年4月5日朝刊35面「少年(当時)に死刑求刑 千葉・市川の一家4人殺害 検察『身勝手、残虐な犯行』」</ref><ref group="報道">『読売新聞』1994年4月5日東京朝刊27面「市川の一家4人殺し 当時19歳少年に死刑求刑 酌量の余地ない/千葉地裁」</ref>。検察官は論告求刑の中で「無抵抗の被害者を虫けらのごとく―」などと指弾し、B子の「私から大切なものをすべて奪ったSが憎くてたまらない。Sをこの手で殺してやりたい、この世に生きていてほしくない」「優しかった父母や祖母、自分に『お姉ちゃん』と甘えてかわいかったE子をなぜ殺した。家族を返せ」などという言葉も読み上げた<ref group="書籍" name="repo1_p92-93"/><ref group="報道" name="asahi19940405"/>。弁護人の[[奥田保]]弁護士は公判後に記者会見で「生育環境など同情すべき事情や矯正の可能性を評価せず、意外な求刑だ。[[少年法]]の精神にも、[[死刑存廃問題|死刑廃止の動き]]にも逆行する」と述べ<ref group="報道" name="asahi19940405"/>、『日本経済新聞』の紙面にも「最近の死刑廃止の動きに逆行する求刑だ。被害者や遺族には申し訳ないと思うが、当時少年のSには矯正の可能性があり、少年法の精神からして厳しすぎる」という奥田の談話が掲載された<ref group="報道" name="nikkei19940405"/>。 |
|||
1994年4月4日に論告求刑公判が開かれ、被告人Sは検察官から[[日本における死刑|死刑]]を求刑された<ref name="千葉日報1994-04-05">『千葉日報』1994年4月5日朝刊一面1頁「市川市の一家4人殺し 残虐な犯行と死刑求刑」(千葉日報社) - 『千葉日報』縮刷版 1994年(平成6年)4月号81頁。</ref>。事件当時少年に対する死刑求刑は、1989年1月、名古屋地裁で名古屋アベック殺人事件の主犯格になされて以来、約5年ぶりだった<ref name="読売新聞1994-04-05"/>。 |
|||
検察官は同日の論告で、被害者4人のうち3人の殺害について、犯行態様などから、確定的殺意と金品強取の目的で敢行されたものであり、強盗殺人罪が成立すると主張<ref name="千葉日報1994-04-05社会"/>。その上で、事件当時のSの責任能力についても、2度の精神鑑定の結果を踏まえ、「完全な責任能力を有していた」と主張した<ref name="千葉日報1994-04-05社会"/>。そして情状面では、動機が自己中心的であり、下見をするなど計画的に押し入ったことや<ref>『読売新聞』1994年4月5日東京朝刊京葉版地方面24頁「市川の一家4人惨殺 当時19歳に死刑求刑 「一命をもって償うべきだ」 犯行厳しく糾弾 検察側 “死刑存廃”揺れる中」(読売新聞東京本社・京葉支局)</ref>、犯行態様も残忍・冷酷である旨を主張し<ref name="読売新聞1994-04-05">『読売新聞』1994年4月5日東京朝刊第14版第一社会面27頁「市川の一家4人殺し 当時19歳少年に死刑求刑 酌量の余地ない/千葉地裁」(読売新聞東京本社) - 『読売新聞』縮刷版 1994年(平成6年)4月号217頁。</ref>、「天人共に到底許すことができないもの」として、情状酌量の余地は皆無で、刑事責任は極めて重大である点を強調<ref name="千葉日報1994-04-05社会"/>。また、以下のように唯一生き残った被害者であるBの心情も交え、遺族の峻烈な処罰感情を表現した{{Sfn|覚正豊和|1994|p=12}}。 |
|||
6月1日の第10回公判で弁護側の最終弁論が行われ<ref group="報道" name="yomiuri20011204"/>、弁護側は「事件は計画的なものでなく、Sは当時精神未発達の少年だった」「(実際には前述の通りB子はSによって監禁されていたにも拘らず)被害者はSの犯行の合間に警察に通報する機会があった」「少年時代Sは不幸な生育環境にあった」「Sは深く反省し矯正する可能性が高い」などとして情状酌量を求め、神作裁判長から「何か言いたいことはあるか」と問われたSは「大変な事件を起こして申し訳ない。私が命を奪った方々は戻ってこないけれど、私はこれから生きていく中で少しでも償うように過ごしていきたいと思っている」と述べ、結審した<ref group="報道">『朝日新聞』1994年6月2日朝刊千葉版「『罪を償いたい』最終弁論で市川の一家4人殺人の被告/千葉」</ref>。 |
|||
{{Quotation| |
|||
「私から大事なものを全部奪った男が憎くて憎くてたまりません。はっきり言って男については、この手で殺してやりたい、生きていて欲しくないという気持ちです」「犯人にこの父や母、妹の写真を見せて『こんなに優しかったお母さん、お父さん、可愛い妹を何故殺した。私のお母さんを返せ、お父さんを返せ、〔E〕ちゃんを返せ、おばあちゃんを返せ。あんたは人間じゃない。(略)犯人を必ず死刑にして下さい」 |
|||
「今でも両親らとの楽しかった思い出を夢に見る。他の人が手に包丁を持っているのを見るだけで、事件のことを思い出して恐怖を感じるし、夜一人で出かけたりしなくなった」「私の家族四人を殺した人が、生きていて何かできるのは嫌だし、そういうのは許せないし、悔しい」|検察官の論告要旨で語られたBの心情|{{Sfn|中尾幸司|1994|p=142}}}} |
|||
同年8月8日の判決公判で千葉地裁刑事第1部(神作良二裁判長)は[[永山則夫連続射殺事件]]における1983年の[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]][[判例]]「永山基準」を引用した上で<ref group="報道" name="yomiuri19940808"/><ref group="報道" name="asahi19940808"/>「何の落ち度もない一家4人の命を奪った犯行は、意に沿わないものは人の命でも奪うという自己中心的、反社会的なもの。殺害ぶりも終始冷静、冷酷非道で、社会に与えた衝撃は計り知れない」<ref group="報道" name="nikkei19940808"/><ref group="報道" name="yomiuri19940808"/>「犯行は残虐、冷酷で身勝手<ref group="報道" name="chunichi19940808"/>。国内外でも死刑廃止の声が根強いが、いくら人を殺しても本人の命は保証される結果になる死刑廃止には多くの国民が疑問を抱いている<ref group="報道" name="asahi19940808"/>。犯行当時少年とはいえ、Sは犯行当時は[[民法 (日本)|民法]]上成年とみなされる19歳の年長少年であり、Sは肉体的にも十分成熟して社会経験も積んでおり、知能も中位で、酒やたばこを常用するなど生活習慣も成年と変わらない<ref group="報道" name="asahi19940808"/><ref group="報道" name="chunichi19940808"/><ref group="報道" name="nikkei19940808"/><ref group="報道" name="yomiuri19940808"/>。少年に対する極刑の適用は慎重に行われるべきだが、多数の命を奪った責任を命をもって償うしかない場合もある<ref group="報道" name="asahi19940808"/>。深く反省していることや、事件当時精神的に未熟な少年だったこと、不遇な家庭環境など、Sに有利な情状を考慮しても、罪刑均衡と一般予防の見地から極刑をもって臨まざるを得ない」などとして<ref group="報道" name="chunichi19940808"/><ref group="報道" name="asahi19940808"/><ref group="報道" name="yomiuri19940808"/>、Sに検察側の求刑通り死刑判決を言い渡した<ref group="書籍" name="repo1_p92-93">永瀬、2004 p.92-93</ref><ref group="書籍" name="maruyama2010"/><ref group="報道" name="chunichi19940808">『中日新聞』1994年8月8日夕刊1面「一家4人殺害事件 19歳少年(当時)に死刑判決 千葉地裁『犯行は残虐で冷酷』」</ref><ref group="報道" name="nikkei19940808">『日本経済新聞』1994年8月8日夕刊1面「少年(当時)に死刑判決 市川の一家4人殺害 千葉地裁『冷酷非道な犯行』」</ref><ref group="報道" name="asahi19940808">『朝日新聞』1994年8月8日夕刊1面「犯行時19歳の被告に死刑 一家4人殺人 千葉地裁、罪刑の均衡重視」</ref><ref group="報道" name="yomiuri19940808">『読売新聞』1994年8月8日東京夕刊1面「犯行時19歳少年に死刑判決 市川の一家4人殺害 未成年、5年ぶり 千葉地裁」<br>『読売新聞』1994年8月8日東京夕刊15面「一家4人殺害 死刑…重苦しい廷内 『尊い命、命で償いを』/千葉地裁」<br>『読売新聞』1994年8月9日東京朝刊11面「事件時19歳少年に死刑判決 『少年法の精神』論議の時期(解説)」</ref>。犯行当時少年への死刑判決は、永山則夫連続射殺事件に対する1990年の最高裁判所・第二次上告審判決(差し戻し控訴審の死刑判決を支持し、[[永山則夫]][[被告人]]の上告を棄却)以来であり、第一審では1989年の[[名古屋地方裁判所|名古屋地裁]]・[[名古屋アベック殺人事件]]判決(控訴審で破棄・無期懲役に減軽)以来であった<ref group="報道" name="yomiuri19940808"/><ref group="報道" name="nikkei19940808"/><ref group="報道" name="chunichi19940808"/><ref group="報道" name="asahi19940808"/>。 |
|||
加えて、Sが本事件以前にも多数の粗暴犯行におよんでおり、粗暴性・犯罪性が極めて強く、矯正の余地がない旨や、真摯に反省悔悟しているとは到底認められない旨も挙げた{{Sfn|覚正豊和|1994|p=12}}。そして、母YがA一家の冥福を祈り、それ以外の被害者たちには誠意ある謝罪や金銭賠償をし、一部事件の被害者相手には示談も成立させている([[#母親Yによる贖罪|後述]])ことや、Sが事件当時19歳の少年だったことなど、Sにとって有利もしくは斟酌すべき情状も挙げた上で{{Sfn|覚正豊和|1994|p=12}}、「少年に対する極刑の適用はとりわけ慎重になされるべきだが、Sに一命をもって大罪を償わせることにより、今後このような凶悪犯罪が二度と起きないようにするための戒めとすることが、司法に課せられた責務」と結論づけた<ref name="千葉日報1994-04-05社会"/>。 |
|||
それまで「自分は死刑にはならないだろう」と考えていたSはこの時、永瀬宛の手紙でかなり強い衝撃を受けた旨を述べているが、一方で強い口調で論告を行った検察官たちに対し、皮肉や逆恨みの念も抱いていた{{Sfn|永瀬隼介|2004|pp=186-187}}。Sは死刑求刑後、監房を変えられ、シーツの使用やタオル・鉛筆の所持などを制限された<ref name="千葉日報1994-04-28">『千葉日報』1994年4月28日朝刊第一社会面19頁「市川の一家4人殺し 弁護側、改めて証拠提出 鑑定の信憑性問う」(千葉日報社) - 『千葉日報』縮刷版 1994年(平成6年)4月号539頁。</ref>。公判後、Sの弁護人を務めていた奥田は、記者会見で「意外な求刑だ」「被害者と遺族には申し訳ないと思うが、少年法の精神からみても厳しすぎる」と述べていた<ref name="千葉日報1994-04-05社会"/>。 |
|||
判決ではE子に対する殺害行為のみ「既に強盗行為はこの時点までに終わっていた」として強盗殺人罪ではなく、Sの弁護人の主張を認め単純殺人罪と認定したが<ref group="報道" name="nikkei19940808"/><ref group="報道" name="chunichi19940808"/><ref group="報道" name="yomiuri19940808"/>、判決は検察側の主張にほぼ沿った内容で、B子の両親については「公判での証言などからAへの殺意は明白。D子の死も予見が可能だったのに、何ら救命措置を行わず金品強奪を企てた」などとして、C子同様強盗殺人罪を認定した上で<ref group="報道" name="nikkei19940808"/><ref group="報道" name="chunichi19940808"/><ref group="報道" name="yomiuri19940808"/>、弁護側が主張していた「殺意は未必の故意もしくは不確定」という主張を退け、4人全員に対しいずれも確定的な殺意があったと認定した<ref group="報道" name="yomiuri19940808"/><ref group="報道" name="nikkei19940808"/><ref group="報道" name="chunichi19940808"/><ref group="報道" name="asahi19940808"/>。 |
|||
==== 最終弁論 ==== |
|||
判決理由の中では「国際的にみると、それぞれの国の歴史的・政治的・文化的その他の事情から、現在死刑制度を採用していない国が多く、我が国においても一部に根強い死刑反対論がある」として、死刑事件では初めて死刑制度を巡る国内外の議論について言及し、国内外の死刑廃止論の高まりを追認した一方で「死刑制度が存置している現法制下で、死刑は極めて抑制的に適用されており、生命は尊いものであるからこそ、自己の命で償わなければならないケースもある。少年犯罪についても異なることではない」と述べられた<ref group="報道" name="yomiuri19940808"/>。 |
|||
同月27日、弁護人による最終弁論が行われる予定だったが、弁護側は新たに証拠調べを申請<ref name="千葉日報1994-04-28"/>。千葉地裁もこれを認め、被告人質問と証拠調べを実施した<ref name="千葉日報1994-04-28"/>。同日の証拠調べで、弁護人は小田鑑定の信憑性を否定する旨を主張したほか、[[死刑廃止を推進する議員連盟|死刑制度廃止へ向けた超党派の国会議員の連盟]]結成([[#判決前の死刑制度を取り巻く社会状況|前述]])など、死刑制度のあり方を問う社会的な流れがあると主張した<ref name="千葉日報1994-04-28"/>。 |
|||
同年6月1日の公判で、弁護人による追加立証と最終弁論が行われ<ref name="千葉日報1994-04-28"/>、第一審は結審した<ref name="千葉日報1994-06-02">『千葉日報』1994年6月2日朝刊第一社会面19頁「市川市の一家殺害 最終弁論で弁護側 「死刑科すべきでない」 8月8日に判決」(千葉日報社) - 『千葉日報』縮刷版 1994年(平成6年)6月号39頁。</ref>。 |
|||
「Sの胎児期に母親が流産予防薬として服用した[[黄体ホルモン]]の影響で、Sは『爆発的[[精神病質者]]』であり犯行当時は[[心神耗弱]]状態だった」という弁護側主張<ref group="書籍" name="repo1_p92-93"/>に対しては「2度の精神鑑定から、心神耗弱だったと断言するのは困難。また『爆発的精神病質者』との鑑定があるが、責任能力に支障をきたすほどではなかった』として退け、責任能力は問題なくあったと結論付けた<ref group="報道" name="chunichi19940808"/>。そして「Sは深く反省し被害者の冥福を祈るなど、更生の余地がないとは言えないが、目の前で家族を次々に殺され、一人遺されたB子の被害感情は峻烈で被害は回復不可能だ」とした<ref group="報道" name="nikkei19940808"/>。 |
|||
最終弁論で、弁護人はそれぞれ被害者4人への殺意を全面的に、もしくは一部否定する旨を主張したほか、事件当時のSの責任能力についても、福島鑑定を根拠に心神耗弱状態であったことを主張<ref name="千葉日報1994-06-02"/>。また、情状面に関しては、Sが不遇な生育環境にあったこと{{Sfn|覚正豊和|1994|p=13}}、各被害者への示談成立や永代供養をしていること<ref name="千葉日報1994-06-02"/>、母Yが遺族と対面し、事件後の苦悩を打ち明けるうちに「恨むだけでは解決にならない。恨み続ければその人の人生まで台無しになる。量刑は裁判所に任せる」という言質を取ったこと([[#母親Yによる贖罪|後述]])<ref name="朝日新聞1994-08-09京葉"/>、死刑廃止は先進国際社会の常識で、死刑制度がある先進国は日本と[[アメリカ合衆国における死刑|アメリカ合衆国の一部の州だけであり]]<ref name="千葉日報1994-06-02"/>、日本国内でも同年4月6日に日本の憲政史上初めて、現職官僚5人を含む「死刑廃止を推進する議員連盟」が発足していること{{Sfn|覚正豊和|1994|p=13}}、そしてSは事件当時19歳で、少年法で死刑適用が禁じられている年齢(18歳未満)とわずか1年1か月しか違わないといった点を挙げ、死刑回避を求めた<ref name="千葉日報1994-06-02"/>。また、一家殺害事件前の各種犯罪については、被害者側にも落ち度(違法な行為や好ましくない行為、不注意など)があったことが発端となったことを主張し{{Sfn|覚正豊和|1994|p=13}}、B事件や、SとBが「ルック」に向かった際の出来事については、以下のような弁論を行った{{Sfn|飯島真一|1994|p=198}}。 |
|||
Sと弁護側は判決を不服として閉廷後の同日午後、[[東京高等裁判所]]に即日[[控訴]]した<ref group="報道">『朝日新聞』1994年8月9日朝刊23面「死刑判決受けた被告が東京高裁に控訴 市川の一家4人強殺事件」</ref><ref group="報道">『中日新聞』1994年8月9日朝刊22面「死刑判決の被告控訴」</ref><ref group="報道">『読売新聞』1994年8月9日東京朝刊23面「千葉の一家4人殺害事件 死刑判決の被告が控訴」</ref>。 |
|||
{{Quotation| |
|||
「(Bは)交通の安全を確認しないまま道路を斜めに横断しようとした。(中略)Sは、夜間速度を上げて進行して来たため避け切れず、Bの自転車に接触する交通事故を起こしてしまった。これが結果としてこの強姦致傷事件に進み、さらにA一家4人の命を奪う重大事件に発展してしまったものである」 |
|||
「Bはその気になれば被告人のこの犯行を警察に通報でき、Sを逮捕させることができる状態にあった。被告人の犯行のやり口が如何に甘いものか、この点だけを見ても明らかである。そして逆にいえばこの時、Bが勇気を出して警察に通報するなり、従業員に事の詳細を報告しておいてくれれば、少なくともEを死なせずに済んでいるし、運がよければDやAの命を救うことができたかもしれないのである。その観点からいえば、真に残念としかいいようがない」|飯島真一 (1994) に掲載された弁論要旨|{{Sfn|飯島真一|1994|p=198}}}} |
|||
=== 控訴審(東京高裁) === |
|||
[[東京高等裁判所]]での控訴審で、弁護側は「未必の故意だったり、Sには殺意がないのに、原判決は確定的な故意があると認定している」として殺意の面で第一審判決には事実誤認があると主張した<ref group="報道" name="nikkei19960702"/><ref group="報道" name="yomiuri19960702"/>。また、第一審における「爆発的精神病質者」という主張については更にアメリカ合衆国の心理学者の論文を添えて補強し、完全責任能力を否定した<ref group="書籍" name="repo1_p92-93"/><ref group="報道" name="yomiuri19960702"/>。世界的な死刑廃止運動や、18歳未満への死刑適用を禁じた少年法の趣旨を強調し「Sは犯行当時の精神年齢は18歳未満で、少年法の精神に照らせば死刑を適用することはできない<ref group="報道" name="asahi19960702"/><ref group="報道" name="yomiuri19960702"/>。『爆発的精神病質者』であるという精神鑑定結果や、深い反省の意を示していることなどから、死刑判決を破棄して無期懲役とするのが相当」と主張していた<ref group="報道" name="chunichi19960702"/><ref group="報道" name="nikkei19960702"/>。 |
|||
==== 死刑判決 ==== |
|||
[[1996年]](平成8年)[[7月2日]]の控訴審判決公判で東京高裁([[神田忠治]]裁判長)は「犯行当時は少年であり、年齢を重ねれば教育によって改善の可能性はある」<ref group="報道" name="chunichi19960702"/><ref group="報道" name="sankei19960702"/><ref group="報道" name="yomiuri19960702"/>としつつも「動機、殺害方法、殺害された被害者数に照らして責任は誠に重大である。特に、幼くして命を奪われた幼女(E子)には深い哀れみを禁じ得ない」<ref group="書籍" name="maruyama2010"/>「弁護側の主張する『黄体ホルモンの影響による心神耗弱』の根拠である学者の研究は、あくまで性格的な傾向を見るにとどまり、攻撃性の異常な増加を示してはいない」<ref group="報道" name="yomiuri19960702"/>「被害者の傷の深さや、犯行後に救命措置を考えていないことなどから原審の殺意の認定は正当である」<ref group="報道" name="nikkei19960702"/>「(Sが犯行当時『爆発的精神病質者』であったとする主張に対しては)犯行当時Sは異常な心理状態にあったとは考えられず、自分より強い者には衝動を抑制し、弱い者には抑制しないなど自己の攻撃行動を区別している<ref group="報道" name="nikkei19960702"/><ref group="報道" name="yomiuri19960702"/>。一家殺害の際もむしろ状況に応じた冷静な行動を取っており、行動制御能力に著しい減退はなかった<ref group="報道" name="asahi19960702"/><ref group="報道" name="nikkei19960702"/><ref group="報道" name="chunichi19960702"/><ref group="報道" name="yomiuri19960702"/>。Sは粗暴な犯行を重ねており、自己の衝動や攻撃性を抑制しようとしない危険な傾向が顕著である<ref group="報道" name="sankei19960702"/>」「犯行当時19歳の少年だったこと、深い反省をしているなど、被告人の有利な事情を十分に考慮し、死刑が究極の刑罰であることを考えても、犯した罪の重大性を見ると犯行は卑劣で残虐であり、生命に対する畏敬の念を見い出せない。その罪の重大性から死刑に処すのはやむを得ない」などとして<ref group="報道" name="asahi19960702"/><ref group="報道" name="nikkei19960702"/><ref group="報道" name="chunichi19960702"/><ref group="報道" name="sankei19960702"/><ref group="報道" name="yomiuri19960702"/>、第一審の死刑判決を支持しSの控訴を[[棄却]]した<ref group="報道" name="asahi19960702">『朝日新聞』1996年7月2日夕刊1面「犯行時、19歳被告の死刑を支持 市川の一家殺人事件 東京高裁判決」</ref><ref group="報道" name="chunichi19960702">『中日新聞』1996年7月2日夕刊15面「千葉の一家4人殺害 当時少年も死刑 東京高裁『犯した罪は重大』」</ref><ref group="報道" name="nikkei19960702">『日本経済新聞』1996年7月2日夕刊17面「当時19歳被告 二審も死刑 千葉・市川の一家4人殺害 東京高裁判決」</ref><ref group="報道" name="sankei19960702">『産経新聞』1996年7月2日東京夕刊社会面「市川の一家4人殺害 当時少年、二審も死刑 東京高裁判決『罪の重大性から相当』」</ref><ref group="報道" name="yomiuri19960702">『読売新聞』1996年7月2日東京夕刊1面「千葉・市川の一家4人殺し 犯行時19歳少年、二審も死刑 東京高裁が控訴棄却」</ref>。 |
|||
1994年8月8日に[[判決 (日本法)|判決]]公判が開かれ、千葉地裁刑事第1部(神作良二裁判長)は求刑通り、被告人Sを死刑とする判決を言い渡した<ref name="千葉日報1994-08-09">『千葉日報』1994年8月9日朝刊一面1頁「市川の一家4人殺害 19歳少年(犯行時)に死刑判決 罪刑の均衡重視 千葉地裁」(千葉日報社) - 『千葉日報』縮刷版 1994年(平成6年)8月号161頁。</ref>。事件当時少年に対する死刑判決は、1989年6月、名古屋地裁が名古屋アベック殺人事件の主犯格に宣告して以来、約5年ぶりだった<ref>『読売新聞』1994年8月8日東京夕刊第4版一面1頁「犯行時19歳少年に死刑判決 市川の一家4人殺害 未成年、5年ぶり/千葉地裁」(読売新聞東京本社) - 『読売新聞』縮刷版 1994年(平成6年)8月号333頁。</ref>。同日、千葉地裁は[[主文]]宣告を後回しにし、1時間35分にわたって以下のような[[判決理由]]を読み上げた上で、11時43分に主文を宣告した<ref name="千葉日報1994-08-09社会"/>。 |
|||
; 強盗殺人罪の成否、殺意の有無に関する判断 |
|||
: 被告人Sや弁護人は、DやAには殺意がなかった旨や、CやEへの殺意は未必にとどまる旨、そしてDやEを死亡させた行為については強盗目的ではなかった旨を主張したが([[#初公判]]を参照)、千葉地裁はCが死亡するまで執拗に首を絞め続けたり、Dを刺した後の行動、一度刺されて瀕死状態になったAを再び刺して殺害したこと、Eを刺した際の言動などから、4人全員に対し殺意(Dは未必、ほか3人は確定的)があったことを認定。その上で、C・D・Aの3人を殺害した行為に関しては強盗殺人罪を適用したが、「Eを殺害した時点では既に強盗行為は終わっていた」という弁護人の主張を認め、Eについては殺人罪を適用した。 |
|||
: {{See also|#Cへの殺意|#Dへの殺意|#Aへの殺意|#Eへの強盗殺人罪成否}} |
|||
; 責任能力に関する判断 |
|||
: 千葉地裁は、Sの事件当時の責任能力に関して、小田鑑定と福島鑑定、そして起訴前に実施された精神診断の結果を踏まえて検討{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=116}}。いずれの診断も、共通して「犯行時、事理を弁識し、その弁識に従って行動する能力(行動制御能力)を喪失していた(=心神喪失状態だった)り、その能力を著しく障害された状態にあった(=心神耗弱状態だった)りしたわけではなかった」という結論を示していたことを指摘した{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=116}}。また、福島鑑定が「Sの尿酸血中濃度や、胎児期に投与された黄体ホルモンが、Sの攻撃的な性格の形成に影響した可能性がある」と指摘した点についても、尿酸血中濃度が著しく正常値を超えていたわけではないことや、血中のテストステロン濃度が正常値よりむしろ低かった点などを挙げて退けた{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=117}}。そして、Sが小学生のころまでは攻撃的な性格ではなかったことや、中学生以降に暴力的傾向が顕著になってからも、「ときところを考え、相手を選んで暴力行為に出る傾向」があったことを踏まえ、「被告人の攻撃性は、それなりに意思のコントロールに服しているもののように思われるのである。このような情況的事実に照らしてみても、被告人が、弁護人らの主張するように生来的、器質的欠陥から生まれながらにして善悪の弁識に従って行動を制御することが著しく困難な状態にあったものとは到底考え難いというべきである」と指摘した上で、「Sが事件当時、心神耗弱の状態にあったことを疑わせる事情は全くない」と結論づけ、Sには事件当時、完全責任能力があったと認定した{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=117}}。 |
|||
;[[量刑]]の理由 |
|||
: そして、本事件前の数々の暴力的犯罪や、金欲しさから唯一遺されたBの目の前で家族4人を次々と惨殺し、その合間に現場で「気分転換」と称してBを強姦したこと、そして逮捕前後にはBに罪をなすりつけようとしたことなどを指摘し{{Sfn|判例タイムズ|1994|pp=118-119}}、以下のように犯行態様を非難した。 |
|||
{{Quotation|被告人はA宅において、いささかの躊躇も逡巡もなく前記のような凶悪な犯行を次々に敢行していく中にあって、極めて冷静に行動していること、また四人もの生命を奪ったことについての一片の悔恨の情も感じさせない平然とした態度をとっていたことが窺われるのであって、金品強取に向けて終始冷静かつ執拗に行動するとともに、被害者らが苦しみ、悶える様を目のあたりにしても一向に意に介さない冷酷非道この上ない所業は、とても人間のすることとは思われないというほかないのである。|千葉地裁 (1994) :量刑の理由|{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=119}}}} |
|||
{{Quotation|各犯行は短絡的、自己中心的で、およそ自分の意に沿わないような行動をとる者やその可能性のある者に対しては、卑劣にもその背後から呵責無く攻撃し、生命すらも躊躇なく奪うという酷薄なものであって、そこには人の生命や尊厳に対するいささかの畏敬の念をも見い出すことができない。|千葉地裁 (1994) :量刑の理由|{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=119}}}} |
|||
: その上で、生き残ったBも事件から約1年5か月後の期日外尋問で、Sに対し極刑を望む旨を述べ、峻烈な処罰感情を示していることや、犯行の社会的影響の大きさ、事件前のSの行状が良くなかったことなどを指摘した{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=120}}。一方、Sが不遇な生い立ちにあったこと、判決時点でも21歳と若年で、改善更生の余地が全くないとはいえないこと、一応は反省の態度を示し、殺害した被害者の冥福を祈っていることや、Sの母YがB(接触を拒否)を除く被害者たちに誠意のある謝罪をした上で、所有していたマンションを売却するなどして金を工面し、それぞれ示談を成立させたり、休業補償・慰謝料を支払うなどしたほか、A一家の菩提寺に墓参の上、供養のため喜捨をするなどして被害者の冥福を祈っていたこと([[#母親Yによる贖罪|後述]])など、Sにとって有利な情状も列挙した{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=120}}。 |
|||
: また、弁護人らによる「死刑が人の生命を奪う極刑であり、その適用に当たっては被告人のために酌みうる諸事情を充分考慮に入れるべきであるのは勿論のこと、被告人のような可塑性に富む若年者に対する極刑の適用は特に慎重であるべきであって、死刑廃止はいまや世界的な趨勢になっていることをみれば、犯行時少年であり、その人格に改善更生の余地が認められる被告人に対しては、少年の健全な育成を期し、少年の性格の矯正と環境調整を目的にかかげ、一八歳未満の者の犯した犯罪について死刑の適用を禁止している少年法や同様の規定を有する児童の権利条約の精神などに照らしても、死刑を科すべきではない」という旨の主張に対しては、以下のように判示した{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=120}}。日本の死刑事件で、死刑制度をめぐる国内外の議論([[#判決前の死刑制度を取り巻く社会状況|前述]])について言及された事例は、本判決が初であった<ref name="読売新聞1994-08-09解説">『読売新聞』1994年8月9日東京朝刊解説面11頁「事件時19歳少年に死刑判決 「少年法の精神」論議の時期(解説)」(読売新聞東京本社・千葉支局 森寛)</ref>。 |
|||
{{Quotation|確かに、国際的にみると、それぞれの国の歴史的、政治的、社会的、文化的その他の諸事情から、現在死刑制度を採用していない国が多くあり、我が国においても一部に根強い死刑反対論があることは弁護人らの指摘するとおりであるが、一方において、殺人行為をいかに反復累行しても当該殺人者の生命だけは法律上予め保証される結果となる死刑廃止に対して、多くの国民が素朴な疑問を抱いていることも、累次の世論調査の結果等が示しているところである。 |
|||
いずれにしても、死刑が人間存在の根元である生命そのものを永遠に奪い去る冷厳な極刑であり、まことにやむをえない場合における究極の刑罰であることに鑑みると、死刑制度を存置する現行法制のもとにおいても、その適用が慎重に行われなければならないことはいうまでもなく、実際にも、過去数十年の間、我が国において、死刑の適用が極めて抑制的になされてきたことは周知のとおりである。|千葉地裁 (1994) :量刑の理由|{{Sfn|判例タイムズ|1994|pp=120-121}}}} |
|||
Sの弁護側は判決を不服として即日[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]に[[上告]]した<ref group="報道" name="asahi19960702"/><ref group="報道" name="nikkei19960702"/><ref group="報道" name="chunichi19960702"/><ref group="報道" name="yomiuri19960702"/>。 |
|||
: その上で、以下のように[[永山基準|最高裁が1983年(昭和58年)7月に言い渡した「永山判決」の中で示した死刑選択基準]]を引用し<ref name="読売新聞1994-08-09解説"/>、 |
|||
{{Quotation|しかしながら、人の生命が無二、至尊でかけがえのないものであるが故に、多数の者の生命を故なく奪ったことの責任を自己のかけがえのない生命で償うほかない場合も絶無でなく、この理は年長少年に関しても基本的に異なるものでない。さればこそ、少年についても、犯行の罪質、動機、態様、殊に殺害の手段方法の執拗性、残虐性、結果の重大性、殊に殺害された被害者の数、遺族の被害感情、社会的影響、犯人の年齢、前科、犯行後の情状等各般の情状を併せ考察したとき、その罪質が誠に重大であって、罪刑の均衡の見地からも、一般予防の見地からも、極刑がやむをえないと認められる場合には、なお、死刑の選択も許されると解されているのである(最高裁判所昭和五八年七月八日第二小法廷判決・刑集三七巻六号六〇九頁、なお、同平成五年九月二一日第三小法廷判決・裁判集刑事二六二号四二一頁{{Efn2|name="大野補足意見"|[[半田保険金殺人事件]]の死刑囚(2001年12月27日に死刑執行)の刑を確定させた、1993年9月21日の上告審判決(最高裁第三小法廷)。[[園部逸夫]]裁判長以下、裁判官5人([[貞家克己]]・[[佐藤庄市郎]]・[[可部恒雄]]・[[大野正男]])全員一致で控訴審判決(死刑を言い渡した第一審判決を支持し、被告人側の控訴を棄却)を支持したものであるが、大野は補足意見で、[[死刑合憲判決]](1948年3月12日[[大法廷]]判決)から45年が経過していることを踏まえ、その間に海外で死刑廃止が進んだこと、死刑囚4人([[免田事件]]・[[財田川事件]]・[[松山事件]]・[[島田事件]]の各死刑囚)が再審によって逆転無罪になったこと、その一方で死刑を支持する日本国民の意識は40年近くほとんど変化していないことなどを踏まえ、「死刑の廃止に向かいつつある国際的動向と、その存続を支持する我が国民の意識とが、このまま大きな隔たりを持ち続けることは好ましいことではないであろう」と指摘し、その整合を図るための方法として、死刑の実験的停止や、現行の無期刑(服役10年を過ぎれば仮出獄の対象となりうる)とは別種の無期刑を設けるなどの提言をしている<ref>[[半田保険金殺人事件]]の死刑囚(2001年12月27日に死刑執行)に対する上告審判決 - {{Cite 判例検索システム|事件番号=昭和62年(あ)第562号|裁判年月日=1993年(平成5年)9月21日|法廷名=最高裁判所第三小法廷|裁判形式=判決|判例集=集刑 第262号421頁|url=https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=58467|事件名=強盗殺人、死体遺棄、殺人、詐欺|判示事項=死刑事件(保険金殺人事件)(補足意見がある)}} |
|||
* 最高裁判所裁判官:[[園部逸夫]](裁判長)・[[貞家克己]]・[[佐藤庄市郎]]・[[可部恒雄]]・[[大野正男]]</ref>。}}参照)。|千葉地裁 (1994) :量刑の理由|{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=121}}}} |
|||
: 犯行態様が残虐・冷酷であること、身勝手な動機から何ら落ち度のない4人の人命を奪った結果の重大性、遺族の被害感情の峻烈さ、社会的影響の甚大さや、Sが事件前から多数の犯罪を犯しており、「凶暴性、反社会的性格は顕著である」ことなどについて言及した上で、「被告人の刑責は誠に重大というほか」ないと指摘{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=121}}。さらに、Sは当時19歳の年長少年で、身体的には十分発育を遂げ、知能も中位で、結婚していたことから民法上は成年に達したとみなされる立場だったことや、酒・タバコを常用するなど、生活習慣は成人と変わらなかったことなども考慮し、「被告人のために酌みうる諸事情を十分考慮に入れ、併せて死刑の重大性にさらに思いを致してみても、被告人に対しては、罪刑の均衡の見地からも、一般予防の見地からも、偶発的犯行と認められる〔C〕に対する強盗殺人罪については別として、〔D〕、〔A〕に対する強盗殺人罪及び〔E〕に対する殺人罪に関し、極刑をもって臨まざるをえない」と結論づけた{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=121}}。 |
|||
:: なお、Cへの強盗殺人罪については無期懲役刑、Bへの強姦致傷・強盗強姦については有期懲役刑を、それ以外の余罪についてはいずれも懲役刑を選択したが、いずれも[[:b:刑法第45条|刑法第45条]]で規定された「[[併合罪]]」の関係にあるため、実際に適用された刑は最も犯情の重いEに対する殺人罪の刑(死刑)と、[[押収]]してあった折りたたみ式ナイフ1丁の[[没収]]のみで、それ以外の刑は科されなかった{{Efn2|[[:b:刑法第46条|刑法第46条1項]]「併合罪のうちの一個の罪について死刑に処するときは、他の刑を科さない。ただし、没収は、この限りでない」に基づく{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=117}}。}}{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=117}}。 |
|||
弁護側は判決を不服として、同日14時30分に[[控訴]]を申し立てた<ref name="千葉日報1994-08-09二社">『千葉日報』1994年8月9日朝刊第二社会面18頁「「極刑」に沈痛な表情 弁護団が会見 犯行時、被告は未成熟」「公判での被告 自分の言葉で事件語らず 「生と死」の裁判 ひとごとのよう」(千葉日報社) - 『千葉日報』縮刷版 1994年(平成6年)8月号178頁。</ref>。Sは永瀬宛の手紙で、死刑判決を受けたことで初めて、被害者たちの心情を理解した旨を述べている{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=188}}。 |
|||
[[死刑廃止を推進する議員連盟|死刑制度廃止議員連盟]](会長:[[田村元]])は同日、[[二見伸明]]事務局長名義で以下の声明を発表した<ref name="千葉日報1994-08-09社会">『千葉日報』1994年8月9日朝刊第一社会面19頁「市川市の一家4人殺害判決 「冷酷、非道」と断罪 被告、判決にも表情変えず 一瞬、静まり返る法廷」「千葉地裁前 傍聴券を求め長い列 異常な犯罪に高い関心」(千葉日報社) - 『千葉日報』縮刷版 1994年(平成6年)8月号179頁。</ref>。 |
|||
=== 上告審(最高裁) === |
|||
{{Quotation|一、少年の死刑事件について少年法51条では、事件当時18歳未満の少年に対しては死刑を適用しない特別の保護規定をも受けている。 |
|||
事件から丸9年となる[[2001年]](平成13年)3月5日までに、最高裁判所第2小法廷([[亀山継夫]]裁判長)は上告審[[口頭弁論]]公判の日程を4月13日に指定した<ref group="報道">『読売新聞』2001年3月6日東京朝刊38面「千葉・市川の一家4人殺害事件 最高裁、来月に弁論」</ref><ref group="報道">『朝日新聞』2001年3月6日朝刊38面「市川の殺害、来月弁論 最高裁」</ref><ref group="報道">『[[毎日新聞]]』2001年3月6日朝刊31面「千葉・少年の死刑事件 来月13日に弁論 最高裁」</ref>。 |
|||
被告は事件当時19歳であり、保護の対象にはなりえないものの、被告が「私はこれから生きていく中で、少しでも償うように過ごしていきたいと思っている」と述べていることや、近年の死刑制度の見直しの世論の高まりなどもあり、少年法の精神にのっとり、被告の今後の生きるべき指針となる判決を期待したが、死刑判決には失望を禁じ得ない。 |
|||
同年4月13日に最高裁第2小法廷(亀山継夫裁判長)で上告審口頭弁論公判が開かれ、弁護側は精神科医の鑑定結果から「幼児期に父親から受けた激しい虐待が[[心的外傷]]となり、人格の同一性が混乱する[[解離性障害]]となり犯行に繋がった」と新たな主張を展開し、「胎児期に流産予防のために投与された黄体ホルモンの影響など複合的要因が重なり、行動制御能力が著しく劣った心神耗弱状態であった」と強調した上で「死刑は残虐な刑を禁じた[[日本国憲法第36条]]に違反し、とりわけ少年への適用は許されない」「少年の成熟の度合いは個人差がある。Sは犯行当時19歳だったが、18歳を1年超えているからといって死刑を科すべきではない。矯正可能性がある少年への量刑は慎重かつ抑制的であるべきだ」として死刑判決の破棄と無期懲役への減軽・もしくは審理の差し戻しを求めた<ref group="報道" name="asahi20010414"/><ref group="報道" name="tokyo20010414"/><ref group="報道" name="nikkei20010414"/><ref group="書籍" name="repo1_p222-225"/><ref group="報道">『毎日新聞』2001年4月13日朝刊27面「千葉・市川の一家殺害 死刑判決の元少年、最高裁で審理」</ref>。一方、検察側は「量刑不当は単なる事実誤認でありとても上告理由とは認められない。自分より弱い者に向けられた冷酷で残虐な行為はとても許されるものではない。被害者に全く落ち度はなく、生き残った少女(B子)も被告人(S)の極刑を望んでいる。一・二審の死刑判決は正当であり、上告は棄却されるべきである」として上告棄却を求めた<ref group="報道" name="asahi20010414">『朝日新聞』2001年4月14日朝刊38面「最高裁で弁論 市川の一家殺害事件」</ref><ref group="報道" name="tokyo20010414">『東京新聞』2001年4月14日朝刊24面「一家殺害上告審『幼児期の虐待影響』犯行時少年被告 弁護側、死刑回避訴える」</ref><ref group="報道" name="nikkei20010414">『日本経済新聞』2001年4月14日朝刊39面「千葉の少年 一家4人殺害弁護側『死刑回避を』最高裁で弁論 今夏にも判決」</ref><ref group="書籍" name="repo1_p222-225"/>。犯行当時少年で、控訴審で死刑判決を言い渡された被告人に対する最高裁での審理は、永山則夫の第二次上告審以来だった<ref group="報道" name="nikkei20010414"/>。公判を傍聴した永瀬隼介曰く、弁護側の「脳科学の知識を踏まえた上で改めて審議すべきである。また、Sは4人の被害者に対して、どんなに謝っても取り返しのつかないことをしてしまったと悔いている」という主張はさして耳目をひくような事柄ではなく、全く説得力のない弁護の連続に法廷内は白けた空気が充満した<ref group="書籍" name="repo1_p222-225"/>。唯一傍聴席が反応した場面は、女性弁護人が虐待の場面を述べた場面であった<ref group="書籍" name="repo1_p222-225"/>。彼女は熱っぽい口調で「父親からまるで[[マイク・タイソン]]のラッシュ攻撃のように殴られ、全身が痣によって赤紫色の世界地図のようになってしまった。これでは大好きなプールにも行けない、と泣いたこともあった」と語ったが、芝居っ気たっぷりに語られたタイソンと世界地図の比喩が妙におかしく、傍聴席からは失笑が沸いたという<ref group="書籍" name="repo1_p222-225"/>。 |
|||
一、この事件は残虐で異常なものである。 |
|||
当初は同年夏までに判決が言い渡される見通しだと思われたが<ref group="報道" name="nikkei20010414"/>、最高裁第2小法廷(亀山継夫裁判長)は11月13日までに、判決公判の日程を12月3日に決定した<ref group="報道">『読売新聞』2001年11月14日東京朝刊京葉30面「市川の一家4人殺害事件 上告審判決、12月3日に=千葉」</ref>。 |
|||
しかし、その残虐性を厳しく非難する国家が、死刑という最も残虐な手段で対処することは論理の矛盾である。 |
|||
12月3日に最高裁第2小法廷(亀山継夫裁判長)は「Sは暴力団関係者から要求された金銭を工面するために強盗殺人を犯し、動機に酌量の余地はない。犯行は冷酷かつ残虐で、自らも被害者となった遺族(B子)の被害感情も非常に厳しい」「4人の生命を奪った刑事責任は極めて重大で、Sの犯行当時の年齢などを考慮しても死刑はやむを得ない。弁護側の主張は適切な上告理由に当たらない」として上告を棄却し<ref group="書籍" name="maruyama2010"/><ref group="書籍" name="repo1_p227-229"/>、Sの死刑が[[確定判決|確定]]することとなった<ref group="最高裁判決文" name="hanrei"/><ref group="報道" name="chunichi20011204">『中日新聞』2001年12月4日朝刊31面「犯行時少年の死刑確定へ 千葉の一家4人殺害 最高裁が上告棄却」「被告が本紙に手記 『僕を反面教師にして』」</ref><ref group="報道" name="tokyo20011204">『東京新聞』2001年12月4日朝刊1面「犯行時19歳の死刑確定へ 市川の一家4人殺害 最高裁が上告棄却」<br>『東京新聞』2001年12月4日朝刊27面「早く消えたい…自暴自棄にも 今は生き抜き罪あがないたい 僕の経験が反面教師になれば 『死刑確定』の当時19歳、心境赤裸々に 市川4人殺害 本紙に告白手記 今なおいえぬ遺族の心の傷」</ref><ref group="報道" name="nikkei20011204">『日本経済新聞』2001年12月4日朝刊39面「当時19歳被告死刑確定へ 千葉の一家4人殺害 最高裁が上告棄却」</ref><ref group="報道" name="asahi20011204">『朝日新聞』2001年12月4日朝刊1面「上告棄却で犯行時19歳の死刑確定 千葉・市川の一家殺傷事件」<br>『朝日新聞』2001年12月4日朝刊33面「『適用基準』改めて確認 市川の殺人、未成年の死刑確定<解説>」</ref><ref group="報道" name="yomiuri20011204">『読売新聞』2001年12月4日東京朝刊1面「犯行当時19歳・市川の一家4人殺害 上告棄却、最高裁も死刑支持」<br>『読売新聞』2001年12月4日東京朝刊38面「千葉・市川の一家4人殺害の元少年死刑 『冷酷、残虐』と極刑選択/最高裁」「3日の千葉・市川の一家4人殺害事件の判決要旨」<br>『読売新聞』2001年12月4日東京朝刊京葉34面「市川の一家4人殺害上告棄却 凶悪犯罪も当時、未成年 住民ら極刑に複雑=千葉 ◇一家4人殺害事件の経過」</ref><ref group="報道">『毎日新聞』2001年12月4日朝刊27面「千葉・市川の一家4人殺害 当時19歳の男性、死刑確定へ 最高裁が上告棄却 ◇少年、1990年以来」</ref>。 |
|||
私は、人間の生命を奪う権利は国家も含め誰も持つべきではないと考える。アメリカ36州と日本を除く先進国は、政治家の主導で死刑制度を廃止した。 |
|||
犯行当時少年だった被告人に言い渡された死刑判決が確定するのは、1990年に最高裁で死刑が確定した永山則夫連続射殺事件の[[永山則夫]]以来、最高裁が統計を取り始めた1966年以降では9人目で<ref group="報道" name="chunichi20011204"/><ref group="報道" name="tokyo20011204"/><ref group="報道" name="nikkei20011204"/><ref group="報道" name="asahi20011204"/><ref group="報道" name="yomiuri20011204"/>、平成の少年事件では初めてであった。事件当時19歳の少年だったSは28歳になっていた<ref group="報道" name="chunichi20011204"/><ref group="報道" name="tokyo20011204"/><ref group="報道" name="nikkei20011204"/><ref group="報道" name="yomiuri20011204"/><ref group="報道" name="asahi20011204"/>。 |
|||
日本でもこの判決を期に、被害者遺族の補償・教済の在り方を見直すとともに、死刑制度の存廃について真正面からの議論を期待したい。そのために死刑にかんする情報を公開することと、死刑の執行を一定期間停止する時限立法の制定をすべきである。|死刑制度廃止議員連盟、1994年8月8日付声明|{{Sfn|覚正豊和|1994|pp=21-22}}}} |
|||
Sは判決を不服として判決訂正申し立てを行なったが、最高裁第2小法廷(亀山継夫裁判長)から12月21日までに棄却された<ref group="報道" name="asahi20011222"/><ref group="報道" name="chunichi20011222"/><ref group="報道" name="yomiuri20011222"/><ref group="報道" name="nikkei20011222"/>。これにより、犯行当時少年としては永山以来となる死刑判決が正式に確定した<ref group="報道" name="asahi20011222">『朝日新聞』2001年12月22日朝刊30面「市川の一家殺害で死刑判決が確定 最高裁、申し立て棄却」</ref><ref group="報道" name="chunichi20011222">『中日新聞』2001年12月22日夕刊10面「当時19歳の死刑確定」</ref><ref group="報道" name="yomiuri20011222">『読売新聞』2001年12月22日東京朝刊30面「千葉・市川の一家4人殺害事件 元少年の死刑確定/最高裁第二小法廷」</ref><ref group="報道" name="nikkei20011222">『日本経済新聞』2001年12月22日西部朝刊17面「当時少年の死刑確定 千葉の一家4人殺害」</ref>。 |
|||
=== 控訴審 === |
|||
== 死刑囚の確定前後から現在 == |
|||
控訴審における事件番号は、'''平成6年(う)第1630号'''{{Sfn|判例タイムズ|1997|p=283}}。審理は[[東京高等裁判所]]第2刑事部に係属し{{Sfn|判例タイムズ|1997|p=283}}、神田忠治裁判長{{Efn2|神田は退官後、弁護士になった。2008年には『毎日新聞』の取材に対し、「人の命が奪われるのだから良かったなんて思わない。被告に憎しみは持たないし持ってはいけないと思う」と回顧している<ref>『毎日新聞』2008年3月23日東京朝刊第二社会面30頁「正義のかたち:裁判官の告白・3 重荷背負う 死刑判決 「被告を憎んではならない」 今でも、苦い思い出」(毎日新聞東京本社) - 『毎日新聞』縮刷版 2008年(平成20年)3月号936頁。</ref>。}}と、[[小出錞一]]・飯田喜信の両陪席裁判官が担当した{{Sfn|判例タイムズ|1997|p=287}}。控訴審初公判は、1995年(平成7年)6月29日に開かれ<ref name="千葉日報1995-06-30">『千葉日報』1995年6月30日朝刊第一社会面19頁「市川の一家4人殺害で東京高裁控訴審始まる 弁護側「死刑は少年法の精神に逆行」」(千葉日報社) - 『千葉日報』縮刷版 1995年(平成7年)6月号583頁。</ref>、1996年(平成8年)2月6日に情状証人 (Y) の尋問、同月15日に被告人質問、3月19日に最終弁論が行われた{{Sfn|年報・死刑廃止|1996|p=64}}。 |
|||
Sは最高裁判決当日の3日までに中日新聞社に手記を寄せ、最高裁判決を伝える『中日新聞』『東京新聞』2001年12月4日朝刊それぞれの記事にその内容が掲載された<ref group="報道" name="chunichi20011204"/><ref group="報道" name="tokyo20011204"/>。手記の中では「二度の死刑判決を受け、生き恥を晒し続けて、自分の家族にさえ迷惑をかけるより、とっとと死んで消えてなくなりたい、それで早く生まれ変わって新しくやり直す方がどんなにか楽だろうと、安易な自暴自棄に陥っていた頃もあった」「そんな僕を見た多くの人から『死んでおしまいなどというのはずるい』『生きて償うべきだ』と言われ、生きていなければ感じられない苦しみを最後の瞬間まで味わい続けようも改めて決意した。何もできないまでも、最後まで生き抜いて罪を贖える方法を模索したい」「僕の経験を反面教師として役立ててもらえば、この世に生まれてきたことに少しでも意味があったと言えるかもしれません」などと当時の心境が吐露されていた<ref group="報道" name="tokyo20011204"/>。関係者によれば、Sは死刑確定を覚悟しつつも、判決までの数日間は落ち着かない様子だったという<ref group="報道" name="tokyo20011204"/>。なお、この手記は最高裁判決から9年後の2010年11月28日、[[裁判員制度|裁判員裁判]]で初めて犯行当時少年の被告人に死刑判決が出た([[石巻3人殺傷事件]]。2016年判決確定)ことについて触れた『中日新聞』朝刊のコラム「中日春秋」および『東京新聞』朝刊のコラム「筆洗」でも引用された<ref group="報道">『中日新聞』2010年11月28日朝刊1面「中日春秋」<br>『東京新聞』2010年11月28日朝刊1面「筆洗」</ref>。 |
|||
控訴審では、第一審の私選弁護人2人のうち1人が辞任した一方、新たに中村治郎が弁護を担当し{{Sfn|年報・死刑廃止|1996|pp=64-65}}、第一審でも弁護を担当していた奥田と連名で控訴趣意書を提出した{{Sfn|判例タイムズ|1997|p=283}}。その内容は、以下の3点である。 |
|||
[[2017年]](平成29年)現在、Sは[[東京拘置所]]に[[収監]]されている<ref group="書籍">{{Cite book |和書 |author= 年報・死刊廃止編集委員会 |title= 死刑と憲法 年報・死刑廃止2016 |publisher= インパクト出版会 |date= 2016-10-10 |page= 220 |isbn= 978-4755402692 }}</ref>。永山はSの死刑確定前の[[1997年]](平成9年)に東京拘置所にて死刑執行されたため、Sは2017年現在、[[日本における収監中の死刑囚の一覧|日本国内の拘置所に収監されている]][[少年死刑囚]]としては最古参である。また、Sより先に死刑判決が確定した日本国内の拘置所に収監中の死刑囚は2017年7月3日時点で21人いるが、その全てが2000年以前(20世紀中)の確定であるため、Sは2001年以降([[21世紀]])に死刑が確定した、日本における拘置所収監中の死刑囚としても最古参である。「死刑廃止国際条約の批准を求めるフォーラム'90」(フォーラム90)による1993年3月26日以降に死刑が確定した死刑囚についての調査によれば、2006年にはSが[[再審]]請求したことが判明したが<ref group="書籍" name="impact2006">{{Cite book |和書 |author= 年報・死刊廃止編集委員会 |title= 光市裁判 年報・死刑廃止2006 |publisher= [[インパクト出版会]] |date= 2006-10-07 |page= 278 |isbn= 978-4755401695 }}</ref>、請求内容・時期などの詳細は不明である。 |
|||
# 殺意についての事実誤認の主張{{Sfn|判例タイムズ|1997|p=283}} |
|||
#: 第一審でC・A・Eの3被害者に対する確定的殺意が、Dに対しても未必の殺意が認定された点についていずれも異を唱え、C・Eへの殺意は未必のものにとどまり、D・Aへの殺意はなかった(=強盗致死罪にとどまる)旨を改めて主張{{Sfn|判例タイムズ|1997|p=284}}。中村は、SがCを殺害後、現場にあった包丁をすべて冷蔵庫の上に乗せ、被害者たちの帰宅を待ち伏せ、柳刃包丁で次々と帰宅した被害者を殺傷した(=Sが包丁を手にすることに抵抗を示さなかった)ことに着目し、「凶器に対する親和性」「凶器を容易に使う性格」を持っているのではないかと考えた{{Sfn|年報・死刑廃止|1996|p=66}}。そこで、Yから話を聞き、「Sは事件前から鰻を捌いていたため、包丁を持つことに抵抗がなかった。また、周囲に『(包丁は)凶器にもなり得るんだから絶対人に向けてはいけない』と指導してくれる大人もいなかったため、容易に包丁を用いた殺傷行動に出たのではないか」という趣旨の論点を組み立て、控訴審での弁論に臨んだ{{Sfn|年報・死刑廃止|1996|pp=66-67}}。 |
|||
# Sの責任能力についての事実誤認の主張{{Sfn|判例タイムズ|1997|p=285}} |
|||
#:弁護人は第一審と同じく、Sは「爆発型精神病質者、類てんかん病質者」であり、心神耗弱である旨を主張した{{Sfn|判例タイムズ|1997|p=286}}。そのため、東京高裁は新たに福島・小田両医師の証人尋問を行ったほか、福島が作成した精神状態鑑定書補充書と意見書、小田が作成した精神鑑定補足意見書および報告書、そして一般的な文献である黄体ホルモンの投与の影響などに関する論文などの証拠を調べた{{Sfn|判例タイムズ|1997|p=285}}。 |
|||
#::弁護側は「心神耗弱」主張の根拠として、血中尿酸値が高いことや、[[前頭葉]]に高振幅徐波があることを挙げた{{Sfn|判例タイムズ|1997|p=285}}。また、胎児期に投与された黄体ホルモンの影響については、第一審で提出された福島鑑定に補足する形で、福島による精神状態鑑定書補充書を提出したほか、福島の証言も得たが、福島は第一審での「〔Sの〕行動制御能力は普通人に比べてかなり減退していたが、著しい減退といえるかどうかは司法的な判断の問題であろう」という見解からさらに踏み込んで、「〔Sの行動制御能力は〕著しい減退があった」と断言した。その根拠として、福島は原判決後に[[:w:June Reinisch|ライニッシュ]]の研究論文(胎児期に黄体ホルモンにさらされると攻撃性が強まるという趣旨){{Efn2|[[:w:June Reinisch|''June Machover Reinisch'' (ジューン・マコーバー・ライニッシュ)]]が1981年、『[[サイエンス]]』誌上で発表した論文「''Prenatal Exposure to Synthetic Progestins Increases Potential for Aggression in Humans''」(訳題:合成[[プロゲスチン]]への出生前曝露は、人の攻撃行動を潜在的に高める)<ref>{{Cite journal|和書|journal=[[サイエンス|Science]]|author=June Machover Reinisch|title=Prenatal Exposure to Synthetic Progestins Increases Potential for Aggression in Humans|volume=211|date=1981-03-13|url=https://www.jstor.org/stable/1685242|issue=4487|pages=1171-1173|publisher=[[アメリカ科学振興協会|American Association for the Advancement of Science]]|DOI=10.1126/science.7466388|PMID=7466388}}</ref>。}}の存在を知り、それを検討した結果、Sもそのような状態にあったことが十分に裏付けられたと主張した{{Sfn|判例タイムズ|1997|p=285}}。また、福島は第3回公判で、Sの犯行時の精神年齢について「12、3歳程度ではないか」と供述している{{Sfn|集刑|2002|p=721}}。 |
|||
#::一方、小田は「胎児期に黄体ホルモンにさらされたことによる脳の男性化、攻撃的な性格の形成は、検証されているとはいえず、むしろ否定的な結論が出されている」という論文を引用した上で、Sは「爆発性・冷情性精神病質者」で、完全責任能力が認められるという第一審における主張を維持した{{Sfn|判例タイムズ|1997|p=286}}。 |
|||
# 量刑不当の主張 - 死刑は重すぎて不当であるという旨の主張{{Sfn|判例タイムズ|1997|p=286}}。 |
|||
==== 控訴棄却判決 ==== |
|||
== 永瀬隼介と死刑囚Sの交流 == |
|||
1996年7月2日に控訴審判決公判が開かれ、東京高裁第2刑事部(神田忠治裁判長)は原判決を支持し、被告人Sからなされていた控訴を棄却する判決を言い渡した<ref name="千葉日報1996-07-03">『千葉日報』1996年7月3日朝刊一面1頁「市川の一家4人殺害 犯行時19歳少年 2審も死刑 「残虐、冷酷な犯行」 弁護側は即日上告」(千葉日報社) - 『千葉日報』縮刷版 1996年(平成8年)7月号59頁。</ref>。弁護側は判決を不服として、即日[[上告]]した<ref name="千葉日報1996-07-03"/>。 |
|||
Sが最高裁上告中の1998年(平成10年)10月から作家の永瀬隼介は本事件についての書籍出版を目的に、当時既に東京拘置所に収監されていたSと面会や文通を重ね<ref group="書籍" name="repo1_p107">永瀬、2004 p.107</ref>、死刑が確定するまでの約3年間に事件の様々な関係者(Sの家族や被害者遺族、Sと結婚したフィリピン人女性の家族ら)への取材活動も含め、Sの内面や事件の深層に迫った。 |
|||
; 殺意についての事実誤認の主張に対する判断 |
|||
: 第一審判決を改めて検討したが、被害者たちの遺体の傷や、殺害行為の前後の行動などから、原判決の殺意に関する認定を全面的に支持し、弁護人らによる論旨を退けた{{Sfn|判例タイムズ|1997|pp=283-285}}。 |
|||
; 責任能力についての事実誤認の主張について |
|||
: 東京高裁は、第一審で提出されていた証拠に加え、新たに行った事実取調べも踏まえた上で、原判決の「Sには完全責任能力があった」という主張を維持し、弁護人の「心神耗弱」主張を退けた{{Sfn|判例タイムズ|1997|p=285}}。 |
|||
:: その根拠として、弁護側が控訴審で提出したライニッシュの論文について、「(胎児期に投与された黄体ホルモンの影響により)攻撃性の増加が認められるかどうかという観点からの研究であって、その内容はあくまでも性格的な傾向を見るものにとどまり、行動制御能力自体の制約につながるかどうかの見地からの研究とは考えにくいものである。その上、攻撃性の増加があるとされる程度も、遺伝的負因等から生ずる性格の粗暴さの程度と比較するなどしているものではなく、通常の遺伝的負因に比べてその性格的偏りが異常に大きいという結果が出ているものではない、しかも、胎児期に黄体ホルモンの投与を受けた者はかなりの数に上ることが考えられるのに、その投与を受けたことにより行動制御能力が低下したとされる事例は、これまでに特に指摘されていない」と指摘。Sの血中尿酸値濃度が異常に高いとはいえないこと、脳波の傾向(前頭葉高振幅徐波)も粗暴犯や爆発的精神病質者によく現れる特徴に過ぎないことを挙げ、「証拠から認められる爆発性精神病質等の性格的な偏りに、(中略)総合考慮しても、これだけで被告人の行動制御能力がときに著しく減退することの可能性を肯定することはできない」と結論づけた{{Sfn|判例タイムズ|1997|p=286}} |
|||
:: その上で、Sが本犯行時に取った行動などから、Sは自己より強い者に対しては衝動を抑制して大人しく振る舞う一方、弱い者に対しては粗暴・支配的に振る舞う(自分と相手の力関係次第で、自己の攻撃行動を区別・選択する)という傾向が存在することを認め、一家殺害事件の際も状況に対応した冷静な行動を取っていた点から、Sの行動制御能力は著しく減退していなかった(心神喪失ではなかった)と結論づけた{{Sfn|判例タイムズ|1997|p=286}}。 |
|||
; 量刑不当の主張について |
|||
: 一家殺害事件について、「罪質、動機、殺害の手段方法、殺害された被害者の数などに照らして、その罪責が誠に重大なものである」と判示した上で、強盗の動機に同情の余地はなく、殺人の動機も「邪魔になる者を排除する」という悪質極まりないものであることを指摘し、犯行態様について以下のように非難{{Sfn|判例タイムズ|1997|pp=286-287}}。本事件前から数々の粗暴な犯罪を繰り返していたことにも言及した{{Sfn|判例タイムズ|1997|p=287}}。 |
|||
{{Quotation|その殺人の犯行態様は、電気コードで頚部を締め付け、あるいは鋭利な刃物で背後から一回ないし数回突き刺すという卑劣で残虐なものであるとともに、何のためらいもなく敢行しているところに冷酷さと非情さが認められる。このような犯行からは、原判決が判示するとおり人の生命、尊厳に対するいささかの畏敬の念も見いだすことができない。一方、何らの落ち度もないのに非業の死を遂げた〔C〕、〔D〕及び〔A〕の苦痛と無念の情には計り知れないものがあり、特に幼くして生命を奪われた〔E〕に対して深い哀れみを禁じ得ない。さらに、残された〔B〕に対する強盗強姦、傷害の犯行自体ももとより重視すべきであるが、それに加えて、同女が祖母、両親、妹の一家四人を一挙に失い、自らも長時間極限状態にさらされて、一生癒すことのできない深刻な心の傷を負わされたことの重大さも見逃すことができない。|東京高裁 (1996) :三 量刑不当の主張(控訴趣意[3])について|{{Sfn|判例タイムズ|1997|p=287}}}} |
|||
: 一方、以下のようにSにとって有利な事情も列挙したが、それらを十分に考慮し、「死刑がやむを得ない場合における究極の刑罰であることに思いを致しても、その犯した罪の重大性にかんがみると、被告人を死刑に処するのは誠にやむを得ない」と結論づけた{{Sfn|判例タイムズ|1997|p=287}}。 |
|||
:# 犯行はいずれも事前の綿密な計画に基づくものではなく、偶発的な犯行としての面があること |
|||
:# 一家殺害事件については「当初から殺害が計画されていたわけではなく、その場の成り行きにより発展し、拡大していったものである」こと |
|||
:# Sは事件当時少年で、福島鑑定でも指摘されたように「年齢を重ねるにつれ、また今後の矯正教育により改善の可能性がある」こと、生育環境も「特に劣悪とはいえないにせよ、所論が指摘するように、両親の離婚等のために恵まれない面があった」こと |
|||
:# Sは獄中で後悔と反省の情を深め、Yら家族が贖罪のための努力をしていること |
|||
同年12月16日には名古屋高裁で、名古屋アベック殺人事件(2人殺害)の控訴審判決が言い渡されているが、同判決では犯行時19歳の少年だった主犯格の被告人が、死刑を適用した原判決(名古屋地裁:1989年6月28日)を破棄されて無期懲役を言い渡され、確定している{{Sfn|判例時報|1997|p=39}}。両判決とも年長少年による凶悪犯罪であり、「[[永山基準]]」に従って死刑選択の当否が検討されているが、『判例時報』 (1997) や[[宮澤浩一]]([[中央大学]]教授)はこのように両事件において死刑選択の可否に関する判断を分けた可能性のある要素として、被害人数の違いを指摘している{{Sfn|判例時報|1997|p=39}}{{Sfn|宮澤浩一|1998|p=223}}。上告審の弁護団も上告趣意書で、名古屋アベック殺人事件の判例を斟酌するよう求めているほか、本事件の凶器である包丁は永山事件で用いられた拳銃より殺傷力が相当低いこと、近年の第一審裁判所による死刑の宣告・執行の人数はいずれも減少傾向にあること、およびそのような死刑適用に慎重な傾向に言及した上で検察官の死刑求刑を退け、無期懲役判決を言い渡した判決例(1998年3月10日に[[那覇地方裁判所|那覇地裁]]が宣告した[[名護市女子中学生拉致殺害事件]]の第一審判決など)もあることなどを主張している{{Sfn|集刑|2002|p=720}}。 |
|||
=== 上告審 === |
|||
永瀬への手紙の中でSは「残された彼女(B子)のために毎日祈り、お詫びの言葉をつぶやいてみても、何にもならないどころか、考えてみればこれ以上、自分勝手でひとりよがりな行為もありません」「加害者の側の僕がいくら熱心に経文を唱えようとも、それは結局自分自身が自己満足するための儀式でしかないように思えてきます」などと綴っていた<ref group="書籍" name="repo1_p186-189"/>。[[2000年]](平成12年)春、永瀬は面会中にSに対し「ならば、あなたにとって本当の意味での反省は何なのか」と尋ね、Sは「今でも、反省して何にもならないと思っています。本当に謝るべき人々を殺しておいて、いったい何やってんだ、という気持ちはあります。どうやって反省していいのか分からないのです」と<ref group="書籍" name="repo1_p202-211">永瀬、2004 p.202-211</ref>、また「次こそは、絶対に、真っ当な人間に生まれ変わりたいと願う次第です」とも書いてあったが<ref group="書籍" name="repo1_p197-199"/>、それについて「あなたは本当に生まれ変われると信じているのですか?」という永瀬の質問に、Sは「信じています。信じていないと目標がなくなります。僕の場合、判決は目標にならないから……でも、自分がもっともっと深いところまで下りて行かないと……またダメかもしれませんね」と答えた<ref group="書籍" name="repo1_p202-211"/>。永瀬は手紙の殺害場面が記された箇所で、それまで整然としていたSの筆跡が、まるで別人が書いたかのように突然大きく乱れていたことから<ref group="書籍" name="repo1_p172-181"/>、その心の揺れについて「殺害現場を書くことが怖かったのですか」「当時の自分を直視するのが怖いのですか」などと尋ねたが<ref group="書籍" name="repo1_p202-211"/>、Sは「みっともないんです」と答え、その言葉の意味については「誰に対してという訳ではありません」(「ああいう事件を引き起こした自分が人間としてみっともない、ということですか」という永瀬の問いに対し)「そうじゃありません。ただ、みっともないと…」とちぐはぐな返答をした<ref group="書籍" name="repo1_p202-211"/>。永瀬の感想は「そうなると、みっともないことをした自分を直視するのが嫌だということになる。みっともない自分を正面から捉えないで、反省しても仕方ないと思います」というものだった<ref group="書籍" name="repo1_p202-211"/>。さらに永瀬が「自分の人生を振り返って、何か言いたいことはありますか」と問うと、Sは「チャラというか、すべてがなかったことにしてほしいんです。Sという人間はこの世にいなかったということになれば一番いい」「自分という存在そのものをゼロにしたい」と答えた<ref group="書籍" name="repo1_p202-211"/>。永瀬はSの「全てがなかったことになればいい」という言葉について「この言葉を耳にした時、私は面会室の床にへたり込んでしまいたいような脱力感に襲われた。この期に及んで、自分の人生の全てをなかったことにした、と口にするSの真意は、もはや理解不能だった。Sが抱える心の闇は、私の想像をはるかに超えて、冥く、深く、広がっていった」と綴った<ref group="書籍" name="repo1_p202-211"/>。 |
|||
上告審における事件番号は、'''平成8年(あ)第864号'''で、審理は[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]第二[[小法廷]]([[亀山継夫]]裁判長)に係属した{{Sfn|最高裁第二小法廷|2001}}。上告趣意書{{Efn2|上告趣意書にはSの両親(父Z・母Y)らが行った数々の贖罪のための行動について記されているが、その中で最新の日付は1998年9月23日(父Xが熊本を訪れた日)である{{Sfn|集刑|2002|p=759}}。}}を執筆した弁護人は、奥田と中村、そして粕谷芙美子の3名で{{Sfn|集刑|2002|p=870}}、その要旨は「[[死刑合憲判決|死刑の違憲性]]」{{Sfn|集刑|2002|p=869}}「重大な事実誤認」{{Sfn|集刑|2002|p=836}}「量刑不当」{{Sfn|集刑|2002|p=796}}の3点であった。 |
|||
また、上告審から一場順子(死刑確定後も再審請求審でSの弁護人を担当)も弁護団に加わった<ref name="中日新聞2018-03-04"/>。 |
|||
永瀬は著書出版準備を進めていた2000年初夏、慢性的な精神的ストレスから[[自律神経失調症]]を発症し、満員電車での帰宅途中に気分が悪くなり、途中駅で下車した際に意識を失い、プラットホームの上にうつ伏せに転倒した<ref group="書籍" name="repo1_p217-221"/>。その際に顎を強打して歯が砕け、後日病院で検査をした際に転倒の衝撃で顎の骨が割れていることが判明し、その治療のため3週間入院した<ref group="書籍" name="repo1_p217-221"/>。それ以前から永瀬は「Sというモンスターと付き合うようになり、じきに心のどこかで、このままでは済まないな、と感じるようになった。手痛い代償を払わされるに違いない、との確信めいた思いもあった。口では『切腹でもして死にたい』『潔く終わりたい』と殊勝に語るSは、実は底知れぬ生命力の塊である。わたしは面会を重ねるたびに、一夜にして4人を殺しながら、生への欲望が全く枯れない男(S)のエネルギーに翻弄され、心身ともに削られていく気がした」という<ref group="書籍" name="repo1_p217-221"/>。また、Sについても「Sは、わたしが過去、取材したどの殺人者よりも遥かに深い、桁外れの闇を抱えている(中略。[[広島タクシー運転手連続殺人事件]]の死刑囚の例を挙げ)少なくとも(その死刑囚は)分かり易い。だが、Sは分かりにくい。分からないから、取材者はより接近を試み、その黒々とした邪悪な渦に巻き込まれていく。無事で済むはずがない」と綴っている<ref group="書籍" name="repo1_p217-221">永瀬、2004 p.217-221</ref>。退院後永瀬は東京拘置所に再び通い、最初の面会でSに対し怪我と入院で面会に来られなかった旨を説明すると、Sは心配そうな表情で「身体には気を付けてください。人間、健康が一番ですから」と言った<ref group="書籍" name="repo1_p217-221"/>。永瀬は単行本『19歳の結末 一家4人惨殺事件』のあとがきで「面会を重ね、本を差し入れ、手紙をかわすうちに、いつしか私はSに対し、悔恨と反省に満ちた『まっとうな心』を期待していた。人間的な感情が迸る場面や、滂沱の涙とともに発せられる懺悔の言葉と言った瞬間をどこかで望んでいた」「4歳の幼女まで刺殺した悪鬼の所業の前では、もはやどのような悔恨も反省も虚しい」「この本を書き終え、虚脱感と徒労感に支配されている自分がいる」と綴った<ref group="書籍">永瀬、2004 p.231-232</ref>。 |
|||
==== 加藤鑑定 ==== |
|||
2000年9月、永瀬はそれまでの取材結果をまとめて単行本『19歳の結末』を出版しSに差し入れた<ref group="書籍" name="repo1_p213-217">永瀬、2004 p.213-217</ref>。しかしSは「『1991年10月、当時フィリピン滞在中で結婚相手の女性の兄とともにマニラのカラオケスナックに来ていたSが、そこで現地の警察官を殴って拳銃を突き付けられた』という記述<ref group="書籍">永瀬、2004 p.146</ref>は出鱈目だ。警官にあんなことをしたら、自分は今頃向こうの刑務所に入っている。マニラには街中で金をせびってくるやつがいて、あの警官もそうだった。だからうるさい、と腕で払ったら拳銃を突き付けられた」と主張した<ref group="書籍" name="repo1_p213-217"/>。永瀬が「フィリピンで取材した事実を帰国後面会の席でSに直接確認した」と指摘したが、Sは「向こうの兄貴(女性の兄)が言ってるだけ。彼とは一緒に仲良く遊んだのに、恨んでいるのか。だとしたらあなた(永瀬)のことを僕の身内の者だと思っていたんじゃないか」と的外れな子供っぽい言い分を返した<ref group="書籍" name="repo1_p213-217"/>。永瀬はこの時の心境を「許されるなら『お前が言うべきはそういうことじゃないだろう』と胸倉を掴んで揺さぶり、諭してやりたかった」と記した<ref group="書籍" name="repo1_p213-217"/>。しかしSが怒った理由は弁護士から「『お前、あんなこともやってたのか。どうして隠してたんだ、けしからんじゃないか』と責められた」からであった<ref group="書籍" name="repo1_p213-217"/>。永瀬が「あなたが今言うべきはそういうことじゃないと思う。拳銃云々は些末なことだ。あの本にはあなたに殺された被害者の遺族の悲しみとか怒りがいっぱい詰まっていたでしょう。あなたはそれについてどう感じたのか、まず語らなければならない」と指摘したが、Sは「そんなの、わかってますよ」と子供のように拗ねてそっぽを向くだけであった<ref group="書籍" name="repo1_p213-217"/>。永瀬は「愛する娘と4歳の孫を刺し殺された祖母<ref group="注釈">本事件で殺害されたB子の父方の祖母C子とは別人の、事件後B子を引き取った熊本県在住のB子の母方の祖母のこと。</ref>の地獄の日々に思いを馳せることのできないこいつ(S)は、やっぱり救いようのないクズだ」と唾棄した<ref group="書籍" name="repo1_p213-217"/>。 |
|||
上告審の段階で、過去に名古屋アベック殺人事件の犯人少年らの犯罪心理鑑定を実施した[[加藤幸雄]]が、Sの犯罪心理鑑定を実施し{{Sfn|加藤幸雄|2003|p=180}}、1998年(平成10年)8月15日付で「被告人〔S〕、犯罪心理鑑定書」を提出した{{Sfn|集刑|2002|p=786}}。加藤は事件の未解明点として、Sにとって身近な生活圏での犯行であること、特段を計画・準備や証拠隠滅を図ることもなく同じ家に何度も出入りしたこと、逃亡を試みることなく現場に長時間滞在していたことなどを挙げた一方、「真相解明の手がかり」として、本人の人格形成上での多くの問題、家族間葛藤の強さ、自立と依存の間での心の揺らぎ、現実的問題解決力の弱さなどといった点に着目した{{Sfn|加藤幸雄|2003|p=181}}。その上で、第一審・控訴審の判決や、それまでに3回行われていた精神鑑定の内容を批判的に検討しながら、Sの生育過程における親子関係や、人格形成の理解に重点を置いた鑑定を実施した{{Sfn|加藤幸雄|2003|p=180}}。その結果、Sは事件当時、思い通りにならない現実に嫌気が差し、現実から遊離した世界に自由を求め、可愛がってくれた祖母の家の近くに住んでいた少女に幻想的な一体感を求め、その一体感を邪魔するものを排除(殺害)した……という、原判決の認定とは異なる事件の構図を推測した{{Sfn|加藤幸雄|2003|pp=191-192}}。 |
|||
また、加藤は事件当時、SとBとの間に異夢同舟の特異な心理的関係が生じていた可能性も指摘している{{Sfn|加藤幸雄|2003|p=181}}。その内容は、SにはBに対する加害者意識が乏しく、Bとのやり取りから彼女に親近感を覚え、「自分に寄り添って協力してくれる者と思い込んでしまっている」として、BがSの「潜在的共犯」出会ったとする内容であった{{Sfn|集刑|2002|p=786}}。その根拠として、SがBの口から出た言葉で印象に強く残っていることとして「殺されても保険金は出るの」「父親はサラリーマンではないので、出社しなくても怪しまれない」という言葉を挙げていることや、Bが過去に母親Dや養父Aとの深刻な確執を抱えていたことを主張した上で、「たとえ意識の表層には出ないまでも、自己の父母殺害に関しては、被告人との『潜在的共犯』といってよいほどの被告人よりの意識が存したと推認され得る」という推論を展開している{{Sfn|集刑|2002|pp=785-786}}。 |
|||
その後も永瀬はSと面会や手紙のやり取りを続けたが、翌10月にSは永瀬との面会の中で、自らが強姦し、事件でひとり生き残ったB子について、唇をねじ曲げ、薄笑いを浮かべて、ヘラヘラと挑発するように「あの子は僕のことがわかっている。すべてを知っている。なのに、本当のことを言わない。おかしいですよ」「あなた(永瀬)の取材にもまともに答えない。とんでもない人間だと思いませんか」などと口を極めて罵った<ref group="書籍" name="repo1_p213-217"/>。永瀬は「とんでもないのはお前だろう」と怒鳴ろうとしたのを辛うじて堪え、Sの聞くに堪えない罵詈を咎めると、Sはがらりと態度を変え、肩をすぼめて俯き「もっと早くあなた(永瀬)に出会っていればよかった。塀の外で会っていれば僕も変わっていたと思うんです。僕にはそうやって叱ってくれる人間がいなかった」と言った<ref group="書籍" name="repo1_p213-217"/>。永瀬はこのSの言葉について「同情を買おうとしたのだろうか、それとも本音なのか、わたしにはわからなかった。分かったのはただひとつ。この男(S)は反省していない、ということだけだ」と切り捨てた<ref group="書籍" name="repo1_p213-217"/>。 |
|||
==== 弁論 ==== |
|||
[[2001年]](平成13年)1月下旬、永瀬はSと2か月ぶり(前年12月以来)に面会し、Sは永瀬に「面会できることは世間との接点があってうれしい。これからもどんどん本を読みたいし、あなた(永瀬)とも会いたい」(面会できなかった場合を含め、永瀬から本を差し入れてもらっていることについて)「いつも本の差し入れをしていただき、有り難く思っております」と言い、永瀬がどんな本が読みたいか問うと『[[永遠の仔]]』を読みたいと答え、永瀬はSに次回の面会時に差し入れると約束したが、結果的にこれが最後の面会となった<ref group="書籍" name="repo1_p222-225">永瀬、2004 p.217-221</ref>。 |
|||
[[2001年]](平成13年)4月13日、最高裁第二小法廷(亀山継夫裁判長)で[[公判#上告審における公判|上告審の公判]]が開かれ、弁護側(弁護士6人)と検察官の双方による弁論が行われた{{Sfn|永瀬隼介|2004|pp=223-225}}。弁護側は、「Sは幼少期に父から虐待を受けていた」という新主張を展開し、家族機能研究所を主宰する[[斎藤学 (精神科医)|斎藤学]]による精神状態鑑定意見書も提出<ref>{{Cite journal|和書|journal=[[法学セミナー]]|author=|title=裁判と争点 市川の一家四人殺し――一、二審死刑の元少年の上告を最高裁が棄却|volume=47|page=124|date=2002-02-01|issue=2|publisher=[[日本評論社]]|id={{国立国会図書館書誌ID|6035773}}}} - 通巻:第566号(2002年2月号)。</ref>。「Sは犯行時、行動制御能力が著しく劣った心神耗弱状態で、それを認定しなかった控訴審の判断は不当」という主張や、「Sは犯行時19歳1か月で、改善可能性が高い」という主張に加えて<ref name="千葉日報2001-04-14">『千葉日報』2001年4月14日朝刊第一社会面19頁「市川の一家4人殺害で弁護側 死刑回避求める」(千葉日報社) - 『千葉日報』縮刷版 2001年(平成13年)4月号263頁。</ref>、懲役刑か高裁への差し戻しを求めた{{Sfn|永瀬隼介|2004|pp=223-224}}。一方、検察官は確定的な殺意や完全責任能力の存在を主張し<ref name="千葉日報2001-04-14"/>、「死刑は正当であり、上告は棄却すべきである」と主張した{{Sfn|永瀬隼介|2004|pp=224-225}}。 |
|||
また、弁論後に[[安田好弘]]が新たに弁護人として就任し、事実関係について全面的に争うべく、最高裁に弁論再開を申し立てたが、これは認められず{{Sfn|年報・死刑廃止|2018|p=141}}、第二小法廷は同年11月13日付で、判決期日を同年12月3日に指定し、関係者に通知した{{Efn2|2001年11月27日付で、最高裁第二小法廷が被告人Sからなされていた申立を却下する決定[平成13年(す)第509号]を出している{{Sfn|最高裁判所事務総局|2001|p=15}}。}}<ref>『千葉日報』2001年11月14日朝刊第一社会面19頁「92年市川 19歳の一家4人殺害 来月3日に上告審判決」(千葉日報社) - 『千葉日報』縮刷版 2001年(平成13年)11月号259頁。</ref>。このため、安田は死刑確定前、Sと「とにかく生き延びよう、とことん生きるための闘いを続けよう」と約束していた{{Sfn|年報・死刑廃止|2018|p=141}}。 |
|||
上告審口頭弁論公判から約8か月後の11月下旬、Sから永瀬宛に最後の手紙が届き、上告審判決公判の日程が[[12月3日]]に決定したこと、またそれ(死刑確定)により、[[死刑囚]]となったSに対する親族でない永瀬からの書籍の差し入れや、永瀬との文通ができなくなることなどが記され、最後に永瀬への気遣いの言葉で締めくくられていた<ref group="書籍" name="repo1_p227-229">永瀬、2004 p.227-229</ref>。 |
|||
==== 死刑確定 ==== |
|||
そして12月3日、Sの上告棄却を言い渡した上告審判決公判を傍聴した永瀬は閉廷後、最高裁の中庭から[[熊本県]]に住むB子の母方の祖母宅に電話を入れ、母方の祖母はSの死刑が確定した旨を永瀬から伝えられると「やっと死刑になっとですか。よかった、本当によかった」と嗚咽した<ref group="書籍" name="repo1_p227-229"/>。その後B子の叔父(B子の母の弟)が電話を代わり、「死刑が決まりましたか。あれ(事件発生)から9年ですか、長かった」と語った<ref group="書籍" name="repo1_p227-229"/>。Sの死刑確定の知らせを聞いたB子はじっと押し黙ったままだったという<ref group="書籍" name="repo1_p227-229"/>。 |
|||
2001年12月3日{{Efn2|同日付で、最高裁第二小法廷はSからなされていた裁判官忌避の申立てを却下する決定[事件番号:平成13年(す)第518号]を出している{{Sfn|最高裁判所事務総局3|2001|p=18}}。これに対し、Sは異議申立てを行ったが、同月11日付の決定[事件番号:平成13年(す)第530号]で棄却されている{{Sfn|最高裁判所事務総局4|2001|p=18}}。}}に上告審判決公判が開かれ、最高裁第二小法廷(亀山継夫裁判長)は原判決を支持し、被告人S側の上告を棄却する判決を言い渡した<ref name="千葉日報2001-12-04"/>。Sは判決への訂正を申し立てたが<ref name="読売新聞2001-12-22">『読売新聞』2001年12月22日東京朝刊第14版第二社会面30頁「千葉・市川の一家4人殺害事件 元少年の死刑確定/最高裁第二小法廷」(読売新聞東京本社) - 『読売新聞』縮刷版 2001年(平成13年)12月号1210頁。</ref>、2001年12月20日付の第二小法廷[[裁判#裁判の形式|決定]][事件番号:平成13年(み)第7号、平成13年(み)第9号]で棄却された{{Efn2|それに先立ち、Sは判決訂正の申立て期間延長を(2件)申し立てたが、同月12日付[平成13年(す)第534号]、および13日付の決定[平成13年(す)第539号]で、いずれも棄却されている{{Sfn|最高裁判所事務総局5|2001|p=18}}{{Sfn|最高裁判所事務総局6|2001|p=18}}。}}{{Sfn|最高裁判所事務総局2|2001|p=15}}。このため、同月21日付でSの死刑が[[確定判決|確定]]した{{Efn2|name="死刑確定"|Sの上告審判決に対する訂正の申立は、2001年12月20日付の決定で棄却された{{Sfn|最高裁判所事務総局2|2001|p=15}}。『読売新聞』 (2001) では「決定が出されてから21日までに死刑が確定した」と<ref name="読売新聞2001-12-22"/>、『中日新聞』 (2001) では、「〔2001年12月〕21日に判決が確定した」とそれぞれ報道されている<ref>『中日新聞』2001年12月31日朝刊県内版14頁「【愛知県】事件ファイル2001(下) 連続リンチ殺人判決 木曽川・長良川事件 元少年のA (KM) 被告に死刑 3被告全員を検察側控訴 遺族の強い不満後押し」(中日新聞社 社会部記者・吉枝道生) - [[大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件]]の関連記事。</ref>。光市母子殺害事件における検察官の上告趣意書および{{Sfn|集刑289|2006|p=397}}、2007年(平成19年)11月に[[福田康夫]](当時の[[内閣総理大臣]])が[[第168回国会]]で提出した答弁書(1977年1月1日 - 2007年9月30日までの30年間に確定した死刑判決の事件名および確定年月日がまとめられている)によれば、Sの死刑確定は12月21日付である<ref name="福田康夫2007-11-02"/>。厳密には訂正申立を棄却する決定が、被告人の下に送達された時点をもって刑が確定する<ref>『東京新聞』1998年10月10日朝刊第一社会面27頁「M被告、死刑確定 富山・長野連続殺人」(中日新聞東京本社) - [[富山・長野連続女性誘拐殺人事件]](1980年発生)の[[女性死刑囚]]Mが上告棄却判決に対しなしていた訂正申立が棄却され、Mの死刑判決が正式に確定することとなったことを伝える記事。</ref>。}}{{Sfn|集刑289|2006|p=397}}<ref name="福田康夫2007-11-02">{{Cite web|和書|url=https://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/syuisyo/168/toup/t168031.pdf#page=14 |title=第168回国会(臨時会) 答弁書 答弁書第三一号 内閣参質一六八第三一号 |access-date=2022-08-22 |publisher=[[参議院]] |author=[[福田康夫]] |date=2007-11-02 |format=PDF |work=参議院議員松野信夫君提出鳩山邦夫法務大臣の死刑執行に関してなされた発言等に関する質問に対する答弁書 |page=12 |quote=(24) 平成十三年に確定したもの > ④傷害、強姦、強姦致傷、強盗殺人、殺人、強盗強姦、恐喝、窃盗事件、十二月二十一日確定 |language=ja |archive-url=https://web.archive.org/web/20220822130800/https://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/syuisyo/168/toup/t168031.pdf#page=14 |archive-date=2022-08-22 |ref=}} - [[第168回国会]]における[[内閣総理大臣]]・[[福田康夫]]の答弁書([https://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/syuisyo/168/touh/t168031.htm HTM版])。死刑執行に関する[[鳩山邦夫]][[法務大臣]]の発言などに関して、[[松野信夫]]議員が行った質問に対する答弁書である。この答弁書には、1977年(昭和52年)1月1日から2007年(平成19年)9月30日までの30年間に確定した死刑判決の事件名および確定年月日がまとめられている。</ref>。 |
|||
事件当時少年の被告人に言い渡された死刑判決が確定した事例([[少年死刑囚]])は、永山則夫(1990年に死刑確定)以来で、最高裁が統計を取り始めた1966年(昭和41年)以降では9人目だった<ref name="千葉日報2001-12-04"/>。また、少年による死刑事件では死刑適用の判断が分かれる傾向が強いとされるが、本事件は第一審・控訴審・上告審と一度も死刑が回避されることなく確定する結果となった<ref>『朝日新聞』2010年11月26日東京朝刊宮城全県版第一地方面29頁「向き合った極刑の重み 石巻・3人殺傷に死刑判決 ドキュメント/宮城県」(朝日新聞東京本社・仙台総局) - [[石巻3人殺傷事件]]の被告人(2016年に死刑確定)に対し、裁判員裁判により死刑判決が言い渡されたことを伝える記事。</ref><ref>{{Cite news|title=少年の死刑確定は平成で4件 判断揺れるケースも(1/2ページ)|newspaper=産経ニュース|date=2017-12-19|url=https://www.sankei.com/article/20171219-MK65AYMHRVK3PDRR7SY2P5JW5U/|accessdate=2022-01-29|publisher=産経デジタル|language=ja|archivedate=2022年1月29日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220129020202/https://www.sankei.com/article/20171219-MK65AYMHRVK3PDRR7SY2P5JW5U/}}</ref>。 |
|||
== 死刑囚の生い立ち == |
|||
* Sの母方の祖父Xは[[第二次世界大戦]][[終戦]]直後の青年時代、[[荒川 (関東)|荒川]]の土手沿いに位置する東京都[[江戸川区]][[松島 (江戸川区)|松島]]で[[ウナギ]]の卸売業を興した<ref group="書籍" name="repo1_p15-23">永瀬、2004 p.15-23</ref>。Xは「生まれつき視力が弱かった兵役を免除され、命拾いした身だ。徴兵されて戦死した幼馴染たちに比べればはるかに恵まれている」と文字通り死んだ気になって寸暇を惜しんで働き続けた<ref group="書籍" name="repo1_p15-23"/>。「仕事の鬼」と周囲から一目置かれた彼は自分にも他人にも厳しく、あまりの厳しさについていけず辞める従業員も続出したが、その猛烈な働きっぷりから事業を順調に拡大し、市川市・[[東京都区部|東京23区]]東部を中心に10件近くの鰻屋を構えるウナギ料理チェーン店のオーナーとなった成功者だった<ref group="書籍" name="repo1_p15-23"/>。 |
|||
* そんな祖父の長女として生まれたSの母親Y子は短期大学卒業後の1967年(当時24歳)、[[江戸川区役所]]のダンス教室で[[東芝]]関連会社勤務のサラリーマンだったSの父親Z(当時25歳)と知り合い、交際を始めた<ref group="書籍" name="repo1_p15-23"/>。Y子はデートで手腕を発揮する父親に惹かれていったが、コネ・カネ・学歴何一つない身一つで己の努力と才覚だけでのし上がってきたXにしてみれば、半端なサラリーマンのZは「そこら辺りのチンピラと一緒」であり、初めて挨拶に訪れた日から「こいつはろくでもない遊び人だ」「仕事に対する熱意がうかがえない」と快く思っていなかった<ref group="書籍" name="repo1_p15-23"/>。その日の夜、Y子が「Zを家に泊める」と言ったが、Xは「結婚前の自分の娘が、こんなろくでもない男と俺の家でひとつ屋根の下にいる」と思った途端憤慨し、仁王立ちになって怒鳴りZを叩き出した<ref group="書籍" name="repo1_p15-23"/>。しかし2人は駆け落ち同然で結婚し、千葉県松戸市内のZの実家に新婚所帯を構えた<ref group="書籍" name="repo1_p15-23"/>。なおXは結婚に反対していたが、1973年1月30日に夫婦の長男としてSが生まれ、Y子が父に初孫の顔を見せに行くと、祖父となったXは渋々ながらも結婚を認めた<ref group="書籍" name="repo1_p15-23"/>。ほどなくして一家は[[松戸市]]内の公団住宅に移住し、教育熱心なSの母親は息子が歩けるようになるとすぐスイミングスクールに通わせ、小学校入学後からはピアノ、英会話も習わせ始めた<ref group="書籍" name="repo1_p15-23"/>。Sが生まれた5年後の1978年には次男(Sの弟)も生まれたが、生活が落ち着いてくるや否やZの「ろくでもない遊び人」な本性が現れ始め、仕事よりギャンブルや酒、女遊びを優先するようになり、Y子との夫婦喧嘩も日常茶飯事になった<ref group="書籍" name="repo1_p15-23"/>。 |
|||
* Sが小学2年生の時、S一家は母方の祖父の援助で買った東京都[[江東区]][[越中島]]の高級マンションに移住した<ref group="書籍" name="repo1_p15-23"/>。このマンションには有名企業の社員や医者、実業家などの高額所得者が多数在住しており、S一家の部屋のすぐ上の階には、当時日本中を接見した漫才ブームで一、二の人気を争った漫才コンビの一人が家族とともに住んでおり、その息子がSの弟と同い年だったため、Sは自然とお互いの家を行き来するようになったという<ref group="書籍" name="repo1_p15-23"/>。時折その漫才師と出会うと、彼はテレビに出ている時と同じ笑顔で「どや、元気か」と声を掛けてくれ、息子も父親と同じように屈託のない大阪弁で話しかけてくれることから、Sはこの陽気な漫才師一家を気に入っていた<ref group="書籍" name="repo1_p15-23"/>。一方で自分の一家は高級マンションに住んでいるとはいえ、祖父の援助と借金によるものであり、Zは会社勤めを辞めてから義父Xから鰻屋を1件任されるようになったが、日銭が入るようになったために遊びにますます拍車がかかり、愛人の家での外泊を繰り返し、時折帰ると浮気を責めてくる母Y子に対して殴る蹴るなどの[[ドメスティック・バイオレンス]]や、S自身や5歳年下の弟に対して何時間も正座をさせる、食事抜き、徹底した無視、真冬の夜中に外に放り出すなどの苛烈な[[児童虐待]]を繰り返していた<ref group="書籍" name="repo1_p15-23"/>。 |
|||
* 自宅を居場所と感じられなくなっていったSは毎週末、自分で着替えと勉強道具をリュックサックに詰め込んで、一人で電車に乗って市川市内の祖父X宅に寝泊まりするようになり、特に夏休み・冬休みの長期休暇はほとんど祖父宅に泊まり込んでいた<ref group="書籍" name="repo1_p15-23"/>。Xは常に孫Sを笑顔で出迎え、一緒に風呂に入り、祖母が作ってくれる手作りの夕食を食べた<ref group="書籍" name="repo1_p15-23"/>。祖父は晩酌のビールを飲みつつ、普段いかつい表情をした顔をほころばせつつ、Sの話を嬉しそうに聞いていた<ref group="書籍" name="repo1_p15-23"/>。そんな祖父Xは従業員にしてみれば「一切の妥協を許さない厳しい人」ではあったが、彼らから見れば一見単調な生活にすら見えた、Xや鰻屋の従業員たちと過ごす毎日は、Sにとっては至福の時であり、当時のSは「いつも怖いだけの父親とは違う、お金持ちで頼りになる働き者」として祖父Xを心から尊敬しており「自分も祖父のように強くて立派な大人になりたい」と思っていた<ref group="書籍" name="repo1_p15-23"/>。 |
|||
* やがてストレスを溜め込んだ母親もSを虐待するようになり<ref group="書籍" name="repo1_p15-23"/>。敬虔な[[エホバの証人]]の信者であった親友に勧められて聖書の勉強をするようになったが<ref group="書籍">永瀬、2004 p.23-30</ref>、9歳の時、Sが熱心に読んでいた聖書を「こんなくだらないものばかり読みやがって」と父親が破り捨て、Sは初めて恐れていた父親に対して歯向かっている<ref group="書籍">永瀬、2004 p.29-30</ref>。1982年(昭和57年)12月にSは母親に連れられて弟とともに夜逃げ同然に家を出て、[[葛飾区]]内([[青砥駅]]付近)に移住した<ref group="書籍">永瀬、2004 p.17-30</ref>。 |
|||
* Sが小学生の時、父親Zのギャンブル好きによる約3億円の借金が原因で<ref group="報道" name="asahi19920308_19920309"/>、1983年に両親が離婚し、親権は母親Y子に移った<ref group="新潮" name="focus19920320"/>。Sを溺愛しており、Sからも慕われていた母方の祖父からも、Sの父親の多額の借金が原因で見放された<ref group="書籍">永瀬、2004 p.17-30</ref>。ランドセル代わりに風呂敷で登校し、一着しかない服を毎日着てくるSは周囲からはいじめの対象になり、担任が電話連絡網を作るためにクラス全員の前で電話番号を聞いた際、Sが「そんなもの(電話)、うちにはありません」と答えたところ、担任やクラスメートに大笑いされたという<ref group="書籍" name="repo1_p31-32"/>。Sは月に1、2回、母Y子の財布から小銭を抜き取っては電車でかつて住んでいた越中島に行き、その度に劣等感に苛まれた<ref group="書籍" name="repo1_p31-32">永瀬、2004 p.31-32</ref>。この頃、[[ジミ・ヘンドリックス]]の音楽を知ってロックにハマり、カセットテープを近所のディスカウントストアから万引きするようになった<ref group="書籍">永瀬、2004 p.32-33</ref>。その後放課後に気分転換のためひとりで電車に乗って[[浅草]]に通うようになり、公衆電話の横で現金約6万円の入った財布を置き引きしたのをきっかけに浅草で観光客を狙った[[置き引き]]や[[スリ]]、かっぱらいを繰り返すようになり、[[賽銭]]泥棒もしたSはこの頃、「貧乏を笑う世の中のやつらからはいくら盗ったっていいんだ。世の中、なんだかんだいったってカネなんだ」と手前勝手な論理に酔いしれるようになった<ref group="書籍">永瀬、2004 p.33-34</ref>。一方で「ワルのレッテルを張られると損をする」として、地元ではおとなしい真面目な少年を装い続けた<ref group="書籍">永瀬、2004 p.34-35</ref>。 |
|||
* その後S一家は葛飾区内でアパートを経営する大家夫妻の紹介を受け<ref group="書籍">永瀬、2004 p.36-41</ref>、新築のアパートに転居した<ref group="書籍" name="repo1_p41">永瀬、2004 p.41</ref>。この頃祖父Xも母親Y子と関係を修復し<ref group="書籍" name="repo1_p41"/>、SたちはXからの経済的な援助を受けつつ不自由なく暮らせるようになったが<ref group="報道" name="chunichi19920310"/>、Sは「一番つらくて寂しい時に俺を裏切って、手を差し伸べてくれなかった」として、以前のように祖父を尊敬することはできなくなっていた<ref group="書籍" name="repo1_p40">永瀬、2004 p.40-42</ref>。[[葛飾区立立石中学校]]入学後<ref group="新潮" name="shincho19920319"/><ref group="新潮" name="focus19920320"/>、Sは少年野球チームに所属してエース兼4番打者として活躍する一方で非行の度合いが一気にエスカレートし、地元の不良少年たちから喧嘩の強さを褒められて仲間に誘われ、放課後には街をうろついて喧嘩を繰り返し、ゲームセンターを根城に不良仲間とつるんで遊び歩き、恐喝を繰り返していた<ref group="書籍" name="repo1_p40"/>。バイク盗<ref group="新潮" name="focus19920320"/>、飲酒や喫煙などの非行もするようになった<ref group="書籍" name="repo1_p40"/>。この頃からSによる母親Y子や弟への家庭内暴力が始まり<ref group="新潮" name="shincho19920319"/><ref group="新潮" name="focus19920320"/>、また家庭崩壊の元凶となった父親Zが現れるようになったこともSが荒れる原因となった<ref group="書籍" name="repo1_p40"/>。Sは中学2年の時、シンナー中毒の女性との初体験を経験している<ref group="書籍">永瀬、2004 p.42</ref>。次第に「自分は何のために生きているのだろう」と考えるようになり、再びキリスト教の教会に通うようになるが、すぐにやめた<ref group="書籍">永瀬、2004 p.42-44</ref>。中学3年の頃に同級生の女子生徒と交際し始めたが<ref group="書籍">永瀬、2004 p.44-47</ref>、高校中退後にその少女の両親が苦情を入れてきて、その後少女を東北地方の親戚の家に連れ帰ったため、Sは少女の父親を脅迫し、ナイフを手に少女を連れてくるよう迫ったことから[[軽犯罪法]]違反に問われ、[[家庭裁判所]]に書類送致された<ref group="書籍">永瀬、2004 p.51-53</ref>。 |
|||
* Sは志望校の[[日本大学第一中学校・高等学校|日本大学第一高校]]と[[岩倉高等学校|岩倉高校]]を受験するも不合格に終わったため、祖父Xの援助を得て<ref group="書籍" name="repo1_p47"/>、1988年(昭和63年)4月に中学卒業後野球の強豪校として知られる[[中野区]]内の私立高校([[堀越高等学校]]普通科大学進学コース)に入学した<ref group="新潮" name="shincho19920319"/><ref group="書籍" name="repo1_p47">永瀬、2004 p.47</ref><ref group="報道" name="chunichi19920310"/>。一時は[[日本の高校野球|甲子園]]を目指して[[学生野球|野球部]]に所属し<ref group="報道" name="chunichi19920310"/>、高校1年時はクラス委員を務めて無欠席で成績も上位をキープしていたが<ref group="新潮" name="shincho19920319"/>、その一方で地元では相変わらずの喧嘩三昧で、折り畳み式ナイフも常時携帯するようになった<ref group="書籍" name="repo1_p49">永瀬、2004 p.49</ref>。野球部の練習用グラウンドは[[八王子市]]内にあり、「そんな遠いところまで行けるか」とあっさり退部、家庭内暴力も悪化するようになった<ref group="書籍" name="repo1_p49"/>。その後、Sが高校1年の冬にS一家は大家夫妻の紹介したアパートからさらに広いマンションに移住し、母親Y子が「長男(S)に個室を与えれば家庭内暴力も収まるはず」と思ったためにSは一人部屋を与えられたが、結果は裏目に出、自分の城を持ったことで妙な自信を持ったSによる家庭内暴力はさらに深刻になった<ref group="書籍">永瀬、2004 p.49-50</ref>。2年に進級すると「こんな程度の低い高校では大学に進めない」と欠席がちになり、喧嘩に明け暮れるようになり、母親Y子はその度に怪我をした相手の家に謝りに行き、治療費や見舞金を払った<ref group="書籍">永瀬、2004 p.50</ref>。この頃、祖父Xは母Y子が離婚した夫Zと会っていることを知って激怒し「カネを出せば、またあのろくでなしに渡るだけだ」としてS一家への一切の援助を再び断ち切っていた<ref group="書籍" name="repo1_p50">永瀬、2004 p.50-51</ref>。Sは2年生進級直後に恐喝事件への関与が発覚して停学処分になるが、自宅に待機していなければならない時間帯に不在だったり、無断外泊を繰り返していたため、母親から退学させてほしいと申し入れがあった<ref group="新潮" name="shincho19920319"/>。暴力沙汰を繰り返しながらも反省の色を見せないSは進級2か月後の[[1989年]](平成元年)5月31日付で高校を自主退学した<ref group="新潮" name="shincho19920319"/><ref group="書籍" name="repo1_p50"/><ref group="報道" name="chunichi19920310"/><ref group="報道" name="yomiuri19920308"/>。 |
|||
* 高校中退後Sは警備員や運転手などのアルバイトをするが<ref group="新潮" name="shincho19920319"/>、どれも1週間と続かず、事件直前は祖父Xが経営していたウナギ料理のチェーン店を時々手伝う程度で<ref group="報道" name="chunichi19920310"/><ref group="新潮" name="focus19920320"/>、夕方過ぎからの出勤や無断欠勤も多く、おとなしそうな反面、レジを足蹴にすることもあり、ギャンブルなどの遊びや飲酒に明け暮れる生活だったという<ref group="新潮" name="shincho19920319"/><ref group="報道" name="chunichi19920310"/><ref group="報道" name="asahi19920308_19920309"/><ref group="報道" name="yomiuri19920308"/>。働き始めた動機も真剣に将来を考えた末の決断ではなく、祖父Xの猛烈な働きっぷりに「仕事ってそんなに面白いものなのか」と興味を覚えたから、ということに過ぎなかった<ref group="書籍" name="repo1_p53">永瀬、2004 p.53-54</ref>。頑固で仕事一筋な一方、人情家として地元で知られていた祖父Xは付き合いのある信用金庫職員や商工会関係者から「面倒を見てほしい」と頼まれると、鑑別所や少年院から出てきたばかりのような者や現役の暴走族メンバー、暴力団事務所に出入りするようなチンピラも含め、どんな不良でも引き受けていたために仕事仲間には不良崩れが多く<ref group="書籍" name="repo1_p53"/>、長距離トラックの荷抜きの方法、自動販売機荒らしのテクニック、盗んだバイクの転売先、高価な輸入アルミホイールとタイヤの外し方や買取先、変造ナンバープレートを請け負う板金工の紹介、シンナーの売人の連絡先などなど、休憩時間に先輩たちから様々な悪事のノウハウを習った<ref group="書籍" name="repo1_p53"/>。「本物の喧嘩のやり方」として、「ナイフやビール瓶など何でも使って、こっちの顔も見たくなくなるくらい徹底的に相手をぶちのめさないと必ず復讐される」とも習い、このことから、腕力に任せた素手での喧嘩など子供の自己満足にすぎないとSは悟ったという<ref group="書籍" name="repo1_p53"/>。店のワゴン車でウナギの配達に向かう途中、前方を走る車の運転手たち(一目でワルとわかるような4人の男)と揉めて喧嘩になり、焼き台で使う長さ110cmほどの鉄筋で相手を殴りつけて負傷させ、警察に連行されたこともあった<ref group="書籍">永瀬、2004 p.55</ref>。最も年齢が近い店の仕事仲間から挑発され、スパナで殴打して負傷させ、その仕事仲間が以降店に来なくなるという事件も起こした<ref group="書籍">永瀬、2004 p.55-56</ref>。祖父Xは孫の将来を心配し、Sに「お前は顔も声も父親に近くなってきた。ほっといたら、お前もああなっちまうぞ」と諫めたが、Sは全く意に介さなかった<ref group="書籍" name="repo1_p56">永瀬、2004 p.56</ref>。結局、ウナギ店は半年ほどでやめた<ref group="書籍" name="repo1_p56"/>。 |
|||
** なお、親類の一人によればSは真面目に働かないばかりか店の売り上げを勝手に持ち出すこともしばしばで、その際は各支店から集まってくる売上金の袋の中でも二十数万円と入った一番大きな袋を持って行ったという<ref group="新潮" name="shincho19920319"/>。事件の2年前の[[1990年]](平成2年)、Sは夜中に店のドアを破って侵入し、売上金の現金120万円を盗んだ<ref group="書籍" name="repo1_p93-97"/><ref group="新潮" name="focus19920320"/>。その1か月後、店の金庫から現金6万円がなくなり「娘(Sの母親Y子)にそのことをそれとなく伝えたが、娘は自分の息子(S)が疑われたと思って頭に来たんだろうな。あいつに言っちゃったんだ(Sの母方の祖父X談)」<ref group="書籍" name="repo1_p93-97">永瀬、2004 p.94-95</ref>。その日の夕方、祖父Xは早朝からの重労働で疲れ切って寝ていたが、そこにSが突然訪ねてきて「俺のこと、疑いやがって」と怒鳴りつけ、祖父Xの顔を蹴り上げた<ref group="書籍" name="repo1_p93-97"/>。Sの足の親指が祖父の左目に突き刺さり、祖父Xは眼球破裂で失明し入院し、その後祖父Xは糖尿病で右目も視力が低下しほとんど見えなくなったという<ref group="書籍" name="repo1_p93-97"/>。祖父Xは永瀬の取材に対し、Sについて「俺はもう、死にたい。一日も早く死にたいんだよ。生きていても、なんにもいいことはない。苦しい事ばっかりだ。なぜ、あいつが今でも生きていられるか。不思議でならねえんだ。俺だったら死んでるよ。自殺して死んでる」「あの日(Sが逮捕された日)は、突然新聞記者がきたんだ。何が何だか分からなくてな。あいつが人を殺したとかなんとか。(Sは)バカのろくでなしだとは承知していたが、まさか人様を殺めるとは…それも4人も…俺はもう、血の気が引いたよ。腰が抜けそうだった。それ以来、すべてがあのバカ(S)のおかげで滅茶苦茶になっちまった」「あいつにはもう、関わりたくない。あれだけのことをやったんだ。もう生きちゃいられねえだろう。法に従えばいいんだ」「(Sの父親である娘婿Zは)俺は初めっから気に食わなかった。第一、人相が良くなかった。真面目に働く顔じゃなかった。だから結婚させたくなかったんだ。娘が俺の言うことをちゃんと聞いていりゃあ、あんなろくでなしの孫なんか生まれていない。いっそのこと、離婚するとき、向こうにくれてやりゃあよかったんだ」となど吐き捨てた<ref group="書籍" name="repo1_p93-97"/>。事件直前の1992年1月下旬にもSは親類の家に出かけ<ref group="報道" name="chunichi19920310"/>、親類が子供(従兄弟)の高校受験用に用意していた現金110万円を盗んでいた<ref group="新潮" name="focus19920320"/>。 |
|||
*** その一方で、Sは祖父からギターやオーディオ購入費などの遊興費や、一人暮らしをしていた船橋市内のマンションの家賃、犯行に用いた高級車(トヨタ・クラウン)などの代金の援助を受け続け、中山競馬場での競馬開催日には競馬場でSの姿もよく見られた、という報道がなされている<ref group="報道" name="chunichi19920310"/>。中学入学頃からSは祖父や母親に多額の[[現金]]をせびっていたとも報道されており、その報道によれば祖父は従業員の前で「また夜遊びか」と笑いながらSに1万円札数枚を手渡すこともよくあったという<ref group="新潮" name="shincho19920319"/><ref group="報道" name="asahi19920308_19920309"/>。『週刊新潮』1992年3月19日号によれば、Sが住んでいたマンションの近隣住民によれば「Sは髪にはパーマをかけ、身長180cmもある大柄ながっちりした男だった。毎日、夕方どこかに出掛けては真夜中の2時、3時頃に帰ってきて、力いっぱいドアをバタンと閉めて近所迷惑を顧みない人だった。3000ccのクラウンを乗り回し、肩で風を切って歩いていた。歩き方も与太った雰囲気で、その姿はとても19歳とは思えない。25、26歳ぐらいだと思っていた」といい、前年の秋には近隣住民と違法駐車によるトラブルを起こして警察が出動する騒ぎとなっていた<ref group="新潮" name="shincho19920319"/>。 |
|||
** 中学時代からSを知る水産加工品店(ウナギ料理店)の同僚は事件直後、『中日新聞』の取材に対し「やりたいことはなんでもやった。中学時代から飲酒、喫煙をしていたし、ギャンブルも好き。野球も結構やっていたけど、適当にサボってバンドなどもやっていた。最近は女ばかり追いかけまわしていた。金で思うようにならないと暴力で、というパターンだった」と証言する一方、「店でも年上の従業員などにはいつもペコペコ頭を下げて従順だった。中学時代もつっぱり連中とは適度に距離を置いて目を付けられないようにしていた。結局、優しい人や弱いものに徹底的につけ込む性格」というSの気弱な一面も明かした<ref group="報道" name="chunichi19920310"/>。こうした証言からSの素顔は、他人への思いやりを知らない本能むき出しの人間像であり、その人格形成には複雑な家庭環境が影を落としていると伺えた、と1992年3月10日付の『中日新聞』は述べている<ref group="報道" name="chunichi19920310"/>。 |
|||
** 「祖父に甘やかされ気ままに育ってきた」というSについて<ref group="報道" name="chunichi19920310"/>、親類は事件直後『朝日新聞』の取材に対し「あいつはやりたいようにやってきたからなあ」と冷たい言葉で語った<ref group="報道" name="asahi19920308_19920309"/>。逮捕当時Sの自宅マンションの部屋にはギター4本、オーディオ機器があり、ラックにぎっしりと詰められたCDがあった<ref group="報道" name="asahi19920308_19920309"/>。Sは英字新聞を購読しており、取り調べに対し「英語と[[タガログ語]]は日常会話程度はできる」と話しており、海外旅行もフィリピンなどに数回行ったことがあったという<ref group="報道" name="asahi19920308_19920309"/>。 |
|||
* ウナギ店をやめた後、Sはギタースクールに通い、バンドの練習や、[[ファッションヘルス]]の店員やラブホテルのルームボーイなどのアルバイトに明け暮れ<ref group="書籍" name="repo1_p56"/>、職を転々とし定職に就いていなかった<ref group="報道" name="yomiuri19920308"/>。バンド仲間や貸しスタジオで知り合った仲間たちとともに[[ハルシオン]]、[[ジヒドロコデインリン酸塩|ブロン]]、[[LSD (薬物)|LSD]]などの薬物乱用にも手を染め、自分以上に激しい家庭内暴力(そのうちのある少年は木刀で家族を殴り倒して歯を全部折り、顎の骨を粉々に砕き、恐れをなした家族がそろって家から逃げ出すと父親の職場に押しかけて暴れ回り、家族を路頭に迷わせた)や非行(敵対するグループのメンバーの家に放火を繰り返していた者、自分の交際していた女性をピンサロに売り飛ばし、昼間からパチンコや競馬に没頭している者などがいた。覚醒剤の打ちすぎで精神科病院に入院させられ、そこから逃げ出して街を徘徊している廃人寸前の覚醒剤中毒者もいた)に手を染めている者たちともつるむようになっていたが、Sは「こういう荒んだ連中に比べれば自分はまだずっとましだ」と思っていたという<ref group="書籍">永瀬、2004 p.57</ref>。事件1年前の1991年3月、Sは家を出て[[中山競馬場]]近くの船橋市内の、[[東日本旅客鉄道|JR]][[総武本線]][[下総中山駅]]および[[京成本線]][[京成中山駅]]から徒歩圏内にある<ref group="書籍" name="repo1_p58"/>、高級ワンルームマンションで一人暮らしを始めた<ref group="書籍" name="repo1_p58"/>。マンションの家賃は7万円<ref group="書籍" name="repo1_p58"/>、共益費込みで約10万1000円で<ref group="報道" name="asahi19920308_19920309"/>、1991年秋に家賃を滞納し、その後は母親が振り込んでいた<ref group="報道" name="yomiuri19920308"/>。『中日新聞』報道では同年10月頃に弟や母親への家庭内暴力のため、母親が前述のマンションの部屋を与えて別居させたと報道されている<ref group="報道" name="chunichi19920310"/>。 |
|||
* その2か月後の1991年5月、Sは犯行に用いたトヨタ・クラウンロイヤルサルーンを自ら自動車ローンを組んで購入した<ref group="書籍" name="repo1_p58"/>。クラウンは価格400万円近く、4年間48回払いで購入し、頭金50万円はそれまで乗っていた400ccのバイクを売った上で、アルバイトで貯めた金を足して払った<ref group="書籍" name="repo1_p58"/>。ローンの支払いが遅れると母親が代わりに払った<ref group="書籍" name="repo1_p58"/>。クラウンのトランクには常に前述の暴力事件で凶器として使用した鉄筋を3、4本隠し持っていた<ref group="書籍" name="repo1_p59">永瀬、2004 p.59</ref>。その一方で幼少期に自分たちを捨てた父親Zへの憎悪や、制御できない暴力、荒んだ不安定な生活からSの苛立ちは募る一方だった<ref group="書籍" name="repo1_p59"/>。母親Y子のマンションでたびたび父親Zと出くわす度に父親Zと口論となり、父親ZはSを幼少期に苛烈な虐待の挙句見捨てた身でありながらSに対して母Y子や弟への家庭内暴力などを注意したが、Sは憎悪をたぎらせて反発し喧嘩となり、Sが包丁を持ち出して暴れたため[[救急車]]が出動したこともあった<ref group="書籍" name="repo1_p59"/>。 |
|||
* Sは美容師やフリーターの女性との同棲も経験したが、暴力が原因でいずれも1、2か月で別れている<ref group="書籍">永瀬、2004 p.59-60</ref>。しかし1991年4月、Sはウナギ屋の同僚たちに連れて行かれた市川市内のフィリピンパブで[[マニラ]]出身のホステスの女性(当時21歳)と出会って恋に落ち、時折店外デートをするようになった<ref group="書籍">永瀬、2004 p.61</ref>。やがてその女性から結婚を持ちかけられ、Sは初めは長期滞在が目的だとみて断っていたが、女性の必死の懇願は続き、「彼女は料理も掃除も得意だし、何より自分に尽くしてくれる。一緒に生活したら楽しいかな」と考えるようになり結婚を決意した<ref group="書籍" name="repo1_p62">永瀬、2004 p.62-63</ref>。母親にその女性のことを話すが、母は「日本人かせめて白人にしろ、フィリピン人は絶対にダメだ」と人種差別的な発言までして反対したためSは激怒、しまいには父親までやってきてSを説得するがSの火に油を注ぎ、家族との話し合いは決裂し、Sは一人で結婚の手続きをとった<ref group="書籍" name="repo1_p62"/>。同年10月9日に女性がフィリピンに帰国し、Sもその10日後に女性の家族への挨拶と結婚手続きのためにフィリピンに渡った<ref group="書籍">永瀬、2004 p.64</ref>。女性の実家は東南アジア最大のスラム街と言われるマニラ近郊の地区[[トンド]]にあったが<ref group="書籍">永瀬、2004 p.67</ref>、極端な潔癖症であるSもこの時ばかりは特に意に介さず、のんびりとリラックスした<ref group="書籍">永瀬、2004 p.67-68</ref>。翌朝から日本領事館やマニラ市役所に通い、10月25日にマニラ市役所で結婚の宣誓を行い、10月30日には日本領事館に結婚の書類を届け、女性が洗礼を受けたカトリック教会での講習を経て、11月にはマニラで結婚式を挙げた<ref group="書籍">永瀬、2004 p.68</ref>。翌1992年1月に女性の妊娠が判明したが、女性は言葉が通じにくい日本の産婦人科を嫌がり、マニラの母親の下で産みたいと訴えた<ref group="書籍" name="repo1_p70">永瀬、2004 p.70</ref>。Sは了承し、女性は1月26日にフィリピンに帰国した<ref group="書籍" name="repo1_p70"/>。その4日後の1月30日にSは19歳の誕生日を迎えたが、妻がいなくなったことで鬱屈した気分になったSは新しい女性を引っ張り込もうと考え、それが凶行の遠因となった<ref group="書籍" name="repo1_p70"/>。 |
|||
== |
== 獄中におけるS == |
||
=== 獄外の人間との交流 === |
|||
* 殺害された会社社長男性Aは、事件7年前の[[1985年]]に写真週刊誌『[[Emma]]』([[文藝春秋]])記事に掲載された<!--参考文献では、写真週刊誌掲載は1984年となっており、三浦和義氏の写真が掲載された雑誌は他記事の情報だとEmmaとなっていますが、Emmaは1985年創刊なので矛盾が生じます。後日国立国会図書館などで調査いたします-->、当時[[ロス疑惑]]で注目されていた[[三浦和義]]が[[スワッピング]]・パーティーに参加した際のプライベート写真を撮影した、[[フリーランス]]のカメラマンであった<ref group="書籍">永瀬、2004 p.105</ref><ref group="新潮" name="shincho19920319"/><ref group="新潮" name="focus19920320"/>。『読売新聞』報道によれば、D子は前夫との間に生まれたB子と一緒に出身地の[[熊本県]][[八代市]]から市川市に転居し、行徳駅前のマンションに部屋を借りて写真の勉強をしていた<ref group="報道" name="yomiuri19920307"/>。その後、フリーカメラマンだったAと知り合って結婚、1988年8月に現場マンションに引っ越し<ref group="報道" name="asahi19920307"/>、行徳駅前のマンションを事務所に写真の編集会社を設立した<ref group="報道" name="yomiuri19920307"/>。会社ではD子が代表取締役を、Aが取締役をそれぞれ務めており、近隣住民の話によると夫婦揃ってカメラボックスを抱えて事務所に出入りする姿も見られたという<ref group="報道" name="yomiuri19920307"/>。Aは雑誌の写真などを撮影しており、結婚後は年頃の娘を持つようになったことから、それまでの風俗関連から離れ<ref group="新潮" name="focus19920320"/>、事件直前まで妻D子とともに料理雑誌の仕事を中心にしていた<ref group="新潮" name="shincho19920319"/><ref group="報道" name="yomiuri19920307"/><ref group="新潮" name="focus19920320"/>。D子も「中村小夜子」というペンネームでライターとして活動していた<ref group="新潮" name="shincho19920319"/><ref group="新潮" name="focus19920320"/>。1990年頃、Aは「[[ベルギー]]のペンションを買いたい。ベルギーなら[[ドイツ]]にも[[フランス]]にもすぐに行ける。(事件の発生した)1992年にEC([[欧州諸共同体]])統合があるので、あちらに拠点を持って活動したい」と語っていたが、その夢はSの凶行によって無惨にも断ち切られた<ref group="新潮" name="shincho19920319"/><ref group="書籍">永瀬、2004 p.106</ref>。 |
|||
==== 永瀬隼介との交流 ==== |
|||
* 本事件の被害者遺族であり、自身もSによる複数回の強姦被害者となったB子は、共働きの両親に代わって10歳以上離れた妹E子(両親・E子ともSに殺害された)を朝夕、東京都[[江戸川区]][[本一色]]の私立保育園(同園の職員は園児たちに対し、E子については事件のことは伏せて「遠くに引っ越した」と伝えたという)<ref group="報道" name="asahi19920308_19920309"/><ref group="報道" name="nikkei19920307"/>に送迎するなど優しい性格であり、通学する県立高校では演劇部や美術部などに所属し、クラスの副委員長も務め<ref group="報道" name="asahi19920310"/>、将来は美術関係の大学進学を希望するごく普通の女子高生だった<ref group="書籍" name="repo1_p12-13"/>。B子は事件後両親の知人の下に身を寄せた後、事件1年後の1993年に熊本県の母方の実家に引き取られた<ref group="書籍">永瀬、2004 p.97</ref>。高校を卒業後故郷の熊本を離れ、事件前から夢見ていた美術系大学に進学して2000年春に卒業した<ref group="書籍" name="repo1_p211-212">永瀬、2004 p.211-212</ref>。永瀬の取材に対しB子は「もう、事件のことは忘れました。でないと前に進めませんから。(犯人のSが)どういう刑を受けようと、まったく関心ありません。でも(極刑は)当然だと思います」と気丈に語っており、知人に対しては「バリバリ働いて私を育ててくれた母のようなキャリアウーマンになりたい」と将来の希望を語っていた<ref group="書籍" name="repo1_p211-212"/>。その後、Sの死刑確定後の[[2004年]](平成16年)春にかねてから交際していた男性と結婚して日本を離れ、生前の両親の夢であったヨーロッパで暮らしているという<ref group="書籍">永瀬、2004 p.230</ref>。『東京新聞』の取材に対し、事件現場近所の主婦は一人遺されたB子について「心に受けた深い傷は想像を絶する。幸せを願い、そっとしておいてあげたい」と気遣い、現場に駆けつけた当時の捜査幹部は「とにかく酷かった。母親に息子夫婦、幼い子まで…被害者のために、間違いのないようになんとか裁判まで持っていこうと全力を尽くした」と振り返った<ref group="報道" name="tokyo20011204"/>。 |
|||
Sは上告中の1998年10月以降、収監先の[[東京拘置所]]で祝康成(後に筆名を「[[永瀬隼介]]」に変更)と面会を行うようになり、自身の半生や事件に至るまでの経緯、現在の心境などを詳細に書いた手紙も送った{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=107}}。Sはそれらの手紙の中で、両親や祖父Xに対する強い憎しみの念や{{Sfn|永瀬隼介|2004|pp=111-116}}、元妻aaへの思い{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=128}}、そして「犯人でなければ書けない、異様な迫力に満ちている」殺害現場の描写や{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=172}}、逮捕後もしばらくは自身の罪の重大さを認識していなかったこと([[#当時のSの心境|前述]]){{Sfn|永瀬隼介|2004|p=180}}などを書き綴っていた。一方、永瀬から5歳年下の弟(当時大学生)は自身のような犯罪を犯さず、真っ当な社会生活を送っていることや、自身よりさらに劣悪な環境で生まれ育っても正しく生きている人間もいることを指摘されると、「血のせいばかりではない」とその問いかけを肯定する旨を述べている{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=203}}。また、被害者の菩提寺の住職が、加害者である自身にも親身になって接していることについては、「ああいう人が親戚にいたら良かった」と述べている{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=205}}。 |
|||
* 強盗目的で一晩のうちに一家4人を惨殺し、遺された少女を血の海の中で強姦するという凶行に及んだSだが、少年犯罪なら少年法により処罰は軽くなると考えており、逮捕当時は「これで俺も少年院行きか」「未成年ならどんな凶悪犯罪を犯しても[[少年鑑別所]]に送られて、そこから[[少年院]]に入れられるだけだろう」程度にしか考えておらず<ref group="書籍" name="repo1_p14"/><ref group="書籍" name="repo1_p181-184">永瀬、2004 p.181-184</ref>、その上「死刑なんてものは自分とはおよそ縁遠いもの。一度殺人を犯しておきながら、刑期を終えてから、あるいは仮釈放中に再犯するような者ぐらいしか死刑にならない{{Refnest|group="注釈"|Sに限らず、[[麻原彰晃]]など[[オウム真理教事件]]の死刑囚や永山、[[秋葉原通り魔事件]]の加藤智大、[[東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件]]の[[宮崎勤]]など、実際には過去に殺人前科のない初犯で死刑が確定した死刑囚は多数存在する。}}。だから自分には関係ない、違う世界のもの」だと確信していた<ref group="書籍" name="repo1_p181-184"/>。その理由の一つには〈[[1989年]]1月にSの住んでいた東京都[[葛飾区]][[青戸]]の近隣、[[足立区]][[綾瀬 (足立区)|綾瀬]]で発生した〉「[[女子高生コンクリート詰め殺人事件]]の犯人の少年たちでさえ、あれだけのことをやっておきながら死刑どころか無期懲役にすらなっていない{{Refnest|group="注釈"|女子高生コンクリート詰め殺人事件と同年に発生した[[名古屋アベック殺人事件]]では第一審で死刑や無期懲役という極刑が当時少年2人に下されているが、そのことについては言及していない<ref group="書籍" name="repo1_p181-184"/>。}}。それなら俺の方が犯行は長期間ではないし、犯行にあたって凶器一つ用意していないからまだ頭の中身もまともだ」という不遜な考えもあった<ref group="書籍" name="repo1_p181-184"/>。そのためSは逮捕後、出所後の生活設計のために母親に教科書や参考書、辞書類を差し入れさせ、勉学に励んでいた<ref group="書籍" name="repo1_p14"/><ref group="書籍" name="repo1_p181-184"/>。しかしその考えも虚しく、第一審の論告求刑で死刑が求刑され、Sは後の死刑判決宣告以上にこの論告求刑で大きなショックを受けたという<ref group="書籍" name="repo1_p186-189">永瀬、2004 p.186-189</ref>。その期に及んでもSはなお死刑求刑とともに論告で自らの行為を糾弾した検察官を逆恨みするような感情を抱いていたが、第一審・控訴審と相次いで死刑判決を受けたことでその罪の重さを思い知らされ、犠牲者の苦痛と身も凍る恐怖を知ることとなった<ref group="書籍" name="repo1_p186-189"/>。その後もSは永瀬への手紙の中で、幼少期に苛烈な虐待を加えた父親ばかりか、身を粉にして働き、自分や弟の生活を支えていた母親や、一代でウナギ料理チェーン店を興し、孫の自分を可愛がってくれた祖父に対しても逆恨みする上に罵詈雑言を書き連ねた挙句<ref group="書籍">永瀬、2004 p.111-116</ref><ref group="書籍">永瀬、2004 p.154-155</ref><ref group="書籍" name="repo1_p197-199">永瀬、2004 p.197-199</ref>、前述のように面会中に反省のない態度まで見せるという有様だったが、ついに上告審に至るまで一度たりとも減軽されることなく一貫して死刑判決が支持されて確定し{{Refnest|group="注釈"|[[永山則夫連続射殺事件]]や[[大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件]]、[[光市母子殺害事件]]といった死刑が確定した少年事件でさえ下級審は無期懲役判決だった<ref group="報道" name="asahi20101126miyagi"/>。永山事件以降(および平成)に発生した少年犯罪では、第一審から上告審まで一貫して死刑判決が支持されたのは2016年(平成28年)に[[石巻3人殺傷事件]]の最高裁判決(一・二審の死刑判決を支持)が出るまでの間、長らく本事件のみであった<ref group="報道" name="asahi20101126miyagi">『朝日新聞』2010年11月26日朝刊宮城全県版第一地方面29面「向き合った極刑の重み 石巻・3人殺傷に死刑判決 ドキュメント/宮城県」(※[[石巻3人殺傷事件]]で[[裁判員制度|裁判員裁判]]により死刑判決が言い渡されたことを伝える記事)</ref>。}}、戦後日本で37人目([[永山則夫連続射殺事件]]の最高裁判決以降、および平成の少年事件では初)の少年死刑囚となった。 |
|||
** その一方で、Sが最高裁上告中の2000年に中日新聞社に送った手記が同年7月29日付の『中日新聞』『東京新聞』夕刊に掲載された<ref group="報道" name="tokyo20000729">『東京新聞』2000年7月29日夕刊11面「前線日記 19歳で一家4人殺害 拘置所からの手紙 『凶悪犯罪生む勝ち組社会』『夢も希望もない』 少年法厳罰化『きっと変わらない』」<br>『中日新聞』2000年7月29日夕刊11面「死刑判決元少年からの手紙 『少年法考えなかった』『私は将来を求めない』 あの日がフラッシュバック 法改正しても『変わらぬ』 『勝ち組』社会に不平等感」</ref>。収監先の東京拘置所では「570番」と呼ばれ「狭い独房で壁に向き合う孤独な日々を過ごしていた」Sは、3年前の1997年から同社『東京新聞』社会部記者の瀬口晴義と文通をしていたが、その手記の中では「いちいち『少年法』とか『死刑にならない』とか考えながら事件を起こすなら、もう少し頭を使って、指紋が残らないように軍手の1つもはめますよ。高校も満足に行っていないようなものに、少年法の中身を丁寧に教えてくれる人がいると思いますか」と記し、犯行当時は少年法については熟知しておらず、法律など眼中になく衝動的な犯行だったと主張した<ref group="報道" name="tokyo20000729"/>。また、1997年に発生した[[神戸連続児童殺傷事件]]を受け、少年法改正論議が沸騰した頃には「大人と同じように処分することにして、いじめや恐喝、[[私刑|リンチ]]殺人がなくなると思いますか。きっと変わらない。それどころか、これまで以上に陰湿なやり方が増えることになるだけだと思います」として、少年法改正により凶悪少年犯罪が減少することはないという考えを示していた<ref group="報道" name="tokyo20000729"/>。その一方で、手記の中では精神鑑定や、教誨師として面会に訪れてくれた修道会関係者との関わりなどを機に、罪を正面から受け止められるようになったと明かし「己の罪深さを恥じ、真に償いを求めるならば、私は自分の将来を求めてはいけないと思えます」と記し、恵まれない家庭環境や、小学生時代のいじめの経験も赤裸々に曝け出し「義務教育の9年間、一度も無邪気にはしゃいだ記憶がない。尊敬できる先生には一人も出会えませんでした」「(小学校の高学年は)痣だらけにされて過ごしたつらい時期だった。人生をやり直すなら、これより前まで戻らないと、何度やり直しても同じことをしてしまうと思う」と述べた<ref group="報道" name="tokyo20000729"/>。また、凶悪な少年犯罪を生む素地は大多数の「負け組」の上に一握りの「勝ち組」が君臨する社会構造にあるとして「現代は金か能力のある者だけが正義ともてはやされ、勝ち誇る社会。一部の裕福で恵まれた人間以外は、子供でさえ夢も、希望も見ることもできない」という心境も記した<ref group="報道" name="tokyo20000729"/>。 |
|||
* Sは東京拘置所からの手紙を初めて永瀬に送った際その手紙に香水を付けていたが、永瀬は「独房で書き上がった手紙に香水を振りかけている大量殺人犯―どこか歪んでいる」と記した<ref group="書籍" name="repo1_p213-217"/>。 |
|||
* Sは永瀬との文通の中で、死刑の恐怖について「もう一度、死刑判決(上告棄却)を受けて、確定囚となっても、当分は生かされていることになります。文字通り死ぬことで刑になるわけですから、その時までは刑務所の懲役とも違って仕事をするわけでもなく、償うこともできずに、ただ鉄格子の中で過ごすだけの毎日が待ち受けているのです。そして何年か過ぎて、平静を取り戻したころ、ある朝複数の刑務官の靴音が響きわたり、近づいてきたと思ったら、自分の房の前で立ち止まる。独房の錠をまわす金属音がしたところで『本日刑の執行だ』と言われて連れて行かれる。いつか必ず来るそんな日のために、[[絞首刑|首を吊るされる]]ことが決まっているのに、毎日今日か明日かと、死の足音に怖えながら暮らさなくてはなりません。想像するのも嫌な生活です」<ref group="書籍">永瀬、2004 p.192-193</ref>「これから先何年も、死んでいくためだけにどうやって生きていけばいいのかもわかりません。外界から一切遮断されたコンクリートむきだしの監獄の中で、一年中誰とも会話をせず、希望を抱くことも許されず、何年も何十年も狂わずにやっていく自信も持てないのです。死ぬことが怖くない、と言えば嘘になりますが、それ以上に、先のない毎日を怯えながら生きていかねばならないことの方が怖いです」と記した<ref group="書籍">永瀬、2004 p.196-197</ref>。 |
|||
* 後の少年死刑事件である[[大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件]]、[[光市母子殺害事件]]、[[石巻3人殺傷事件]]では『毎日新聞』を除く全国メディア(『読売新聞』・『朝日新聞』・『産経新聞』・『日本経済新聞』の各全国紙と各テレビ局)は死刑判決確定後に[[実名報道]]に切り替えたが、本事件では死刑確定時点でも新聞各紙はSを匿名で報じた<ref group="報道">『中日新聞』2011年3月11日朝刊30面「リンチ殺人死刑確定へ 実名『更生する可能性なく』匿名『少年法の精神基づく』 報道各社対応割れる」(※[[大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件]]の最高裁判決を報じる記事)</ref>。その後、確認できる限りでは『朝日新聞』が本事件の死刑判決確定から3年後の2004年に少年死刑囚の実名報道を是認する方針を決め<ref group="報道">『朝日新聞』2004年6月21日朝刊30面「朝日新聞指針『事件の取材と報道2004』 4年ぶり全面改訂」</ref>、大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件の最高裁判決が初の適用例となった<ref group="報道">『朝日新聞』2011年3月11日朝刊1面「元少年3人死刑確定へ 最高裁 4人殺害『責任重大』」(※大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件の最高裁判決を報じる記事)</ref>。 |
|||
** 新聞・テレビの報道では事件発生から2017年現在に至るまでSの実名報道はなされていないが{{Refnest|group="注釈"|2017年4月16日現在は『ヨミダス歴史館』(読売新聞)『聞蔵』(朝日新聞)など、全国紙5紙の記事データベースおよび『中日新聞・東京新聞データベース』にてSの実名を検索しても、この事件についての記事は1件もヒットしない。}}、事件直後に発売された[[週刊誌]]『[[週刊新潮]]』[[写真週刊誌]]『[[FOCUS]]』(共に[[新潮社]])がSを実名報道した<ref group="新潮" name="shincho19920319">『週刊新潮』(新潮社)1992年3月19日号p.145-149 特集「時代遅れ『少年法』でこの『凶悪』事件をどう始末する」</ref><ref group="新潮" name="focus19920320">『FOCUS』(新潮社)1992年3月20日号p.68-73「『待伏せ刺殺』『溶解炉』『伯母撲殺』『妹殺し』 続発『残酷殺人』若者の動機」●一家4人を待伏せして殺した「19歳のワル」</ref><ref group="報道" name="asahi19920327">『朝日新聞』1992年3月27日朝刊29面「論議呼ぶ19歳容疑者の実名報道 少年法巡り異なる見方(メディア)」</ref>。『週刊新潮』は1992年3月19日号(3月12日発売)にて「時代遅れ『少年法』でこの『凶悪』事件をどう始末する」というタイトルの特集記事を組み、その中でSを実名報道した上でSの中学時代の顔写真、事件当時在住していた船橋市内のマンションの写真も掲載した<ref group="新潮" name="shincho19920319"/><ref group="報道" name="asahi19920319"/><ref group="報道" name="asahi19920327"/>。また、『FOCUS』は1992年3月20日号でSの実名、当時『FOCUS』記者の[[清水潔 (ジャーナリスト)|清水潔]]が撮影した送検されるSの写真を掲載した<ref group="新潮" name="focus19920320"/>。当時『週刊新潮』編集部次長であった宮沢章友は「今回の犯行は未熟な少年が弾みで起こしたようなものではなく、少年法で保護しなければならない『少年』の枠を超えている。加害者の人権に比べて被害者の人権が軽視されている。少年による凶悪事件が増加している今、20歳未満ならばどんな犯罪を犯しても守られる現行の少年法は時代遅れ。問題提起する意味で実名報道した」と述べた<ref group="報道" name="asahi19920319"/><ref group="報道" name="asahi19920327"/>。その上で、実名報道するかどうかの判断はケース・バイ・ケースであるとした<ref group="報道" name="asahi19920319"/>。これに対しては[[東京弁護士会]]([[小堀樹]]会長)が3月25日、「少年法の趣旨に反し、人権を損なう行為だ」として「良識と節度を持った少年報道」を求める要望書を新潮社に郵送し<ref group="報道">『朝日新聞』1992年3月26日朝刊29面「新潮社の少年報道、人権を損なう 東京弁護士会が要望書」</ref>、「マスコミが少年を裁くようなことをしていいのか」と問題を提起した<ref group="報道" name="asahi19920327"/>。 |
|||
*** 『週刊新潮』のライバル誌であり、過去に[[女子高生コンクリート詰め殺人事件]]の加害者少年4人を実名報道して物議を醸した『[[週刊文春]]』([[文藝春秋]])は「今回も実名報道すべきではないか」と検討したが「前回の実名報道の動機である『少年法への問題提起』は既にしている」という[[花田紀凱]]編集長(コンクリート事件の際に実名報道を決定した)の判断で、今回は実名報道は見送り、匿名報道とした<ref group="報道" name="asahi19920327"/>。 |
|||
** また、上告中の2000年(平成12年)[[9月]]に出版された永瀬隼介の著書『19歳の結末 一家4人惨殺事件』および死刑確定後の2004年(平成16年)8月に加筆の上で再出版された『19歳 一家四人惨殺犯の告白』(前者は祝康成名義、[[#関連書籍]]参照)でもSの実名が記載されている<ref group="書籍" name="repo1_p107"/>。本文内での表記「S」はそれらの文献で示されている実名に基づいたイニシャルである<ref group="新潮" name="shincho19920319"/><ref group="書籍" name="repo1_p107"/>。 |
|||
その一方で、二度にわたり死刑判決を受けて以降は獄中で被害者たちの冥福を祈るため、読経を繰り返しているものの、生き残ったBへの幸せを祈ることも含めて「自己満足のための儀式でしかない」と感じていることや{{Sfn|永瀬隼介|2004|pp=188-189}}、死刑が確定すればいつか必ずやってくる(しかし、いつやってくるかはわからない)死を獄中で待ち続けなければならなくなることに対する恐怖なども吐露していた{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=192}}。実際、1999年(平成11年)12月17日に、東京・[[福岡拘置所|福岡]]の両拘置所で死刑囚2人の刑が執行された{{Efn2|[[大宮母娘殺害事件]]で刑が確定した死刑囚(当時48歳:東京拘置所在監)と、長崎雨宿り殺人事件で刑が確定した死刑囚(当時62歳:福岡拘置所在監)の2人で、後者は第7次再審請求中だった<ref>『読売新聞』1999年12月17日東京夕刊一面1頁「2人の死刑を執行 埼玉・長崎の強盗殺人 1人は再審請求中/法務省」(読売新聞東京本社)</ref>。}}ことを新聞報道で知った際には、面会時に祝に対し「眠れない」「この先も正気を保てるか自信がない」と明かすほど動揺しており、その日からしばらくは手紙を送ってこなくなった{{Sfn|永瀬隼介|2004|pp=127-128}}。また、永瀬は獄中のSだけでなく、祖父Xや{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=94}}、事件後にBを引き取った熊本在住の母方の祖母(Dの母親){{Sfn|永瀬隼介|2004|p=97}}、東北地方のAの実家にもそれぞれ取材し{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=104}}、1999年には『[[新潮45]]』6月号([[新潮社]])に本事件を題材としたルポルタージュを寄稿した{{Sfn|祝康成|1999|p=195}}。その後、2000年(平成12年)1月にはaaの行方を追い、フィリピンまで渡航した{{Sfn|永瀬隼介|2004|pp=128-132}}。そしてaaの実家を特定・訪問することに成功し、彼女の家族たちからもSの人となりなどを聞くことに成功したが{{Sfn|永瀬隼介|2004|pp=143-147}}、aa本人に会うことは叶わなかった{{Sfn|永瀬隼介|2004|pp=152-153}}。 |
|||
== 参考文献 == |
|||
=== 参考判決文 === |
|||
* '''{{Cite 判例検索システム |裁判所=[[千葉地方裁判所]]刑事第4部 |事件番号=平成4年(わ)1355号/平成5年(わ)150号 |事件名=[[傷害罪|傷害]]、[[強姦致傷罪|強姦致傷]]、[[強盗致死傷罪|強盗殺人]]、[[強盗強姦罪|強盗強姦]]、[[恐喝罪|恐喝]]、[[窃盗罪|窃盗]]被告事件 |裁判年月日=1994年(平成6年)8月8日 |判例集=[[判例時報]]1520号56頁・[[判例タイムズ]]858号107号 |判示事項= |裁判要旨= |url= }}''' |
|||
** D1-Law.com([[第一法規]]法情報総合データベース)判例体系 ID:28019082 |
|||
* '''{{Cite 判例検索システム |裁判所=[[東京高等裁判所]]刑事第2部 |事件番号=平成6年(う)1630号 |事件名=傷害、強姦致傷、強盗殺人、強盗強姦、恐喝、窃盗被告事件 |裁判年月日=1996年(平成8年)7月2日 |判例集=判例時報1595号53頁、判例タイムズ924号283頁、東京高等裁判所(刑事)判決時報47巻1 - 12号76頁、高等裁判所刑事裁判速報集(平8)78頁 |判示事項= |裁判要旨= |url= }}''' |
|||
** D1-Law.com(第一法規法情報総合データベース)判例体系 ID:28025020 |
|||
* '''{{Cite 判例検索システム |法廷名=[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]第二小法廷 |事件番号=平成8年(あ)864号 |事件名=傷害、強姦、強姦致傷、強盗殺人、殺人、強盗強姦、恐喝、窃盗被告事件 |裁判年月日=2001年(平成13年)12月3日 |判例集=最高裁判所裁判集刑事編(集刑)第280号713頁 |判示事項=死刑の量刑が維持された事例(市川の一家強盗殺人事件) |裁判要旨= |url=http://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=74587 }}''' |
|||
** D1-Law.com(第一法規法情報総合データベース)判例体系 ID:28075105 |
|||
このような永瀬とSの交流は、Sの死刑が確定する直前まで続き{{Efn2|Sと永瀬の面会は2001年1月下旬で{{Sfn|永瀬隼介|2004|pp=222-223}}、それ以降は死刑確定が迫ったことから、関係者らが交代でSと面会するスケジュールを組んでいたため、永瀬は面会できなかった{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=226}}。Sから届いた最後の手紙は同年11月下旬の、判決期日が指定された旨を連絡するものだった{{Sfn|永瀬隼介|2004|pp=227-228}}。}}、永瀬はSに対し、Sが希望する本や{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=223}}、『新潮45』を定期的に差し入れていた{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=221}}。しかし、永瀬はやがて「自分の人生のすべてをなかったことにしたい」と語るSの真意を「理解不能」と断じるようになっていた{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=210}}。2000年初夏、永瀬は精神的な疲弊から[[自律神経失調症]]を患い、電車で帰宅する途中に駅のホームで倒れ、顎を強打したことで歯が砕け、3週間入院するほどの大怪我を負った{{Sfn|永瀬隼介|2004|pp=219-220}}。また、同年9月にはそれまでの取材結果をまとめた著書『[[19歳の結末 一家4人惨殺事件]]』をSに差し入れ、同月と10月にそれぞれ1回ずつ面会したが、その際にSが同書に書かれていた被害者遺族の怒りや悲しみに対する感想を述べるのではなく、事件前にフィリピンで起こした騒動について「嘘が書かれている」と文句を言ってきたことや、Bを「あなたの取材にもまともに応えない。とんでもない人間だと思いませんか」などと罵倒したことなどに強く失望し、「愛する娘と四歳の孫を刺し殺された〔母方の〕祖母の地獄の日々に思いを馳せることのできないこいつは、やっぱり救いようのないクズだ」「分かったのはただひとつ。この男は反省していない、ということだけだ」と唾棄している{{Sfn|永瀬隼介|2004|pp=213-217}}。永瀬は、S以外にも[[広島タクシー運転手連続殺人事件]]の死刑囚(2000年に死刑確定)ら、過去に複数の殺人犯を取材していたが、Sについては「理解できないモンスター」「わたしが過去、取材したどの殺人者よりも遥かに深い、桁外れの闇を抱えている」と形容している{{Sfn|永瀬隼介|2004|pp=216-217}}。 |
|||
=== 関連書籍 === |
|||
{{See also|#本事件を題材にしたノンフィクション}} |
|||
* [[週刊誌]]『[[週刊新潮]]』([[新潮社]])1992年3月19日号p.145-149 特集「時代遅れ『少年法』でこの『凶悪』事件をどう始末する」 |
|||
** Sの実名及び中学卒業時の顔写真、Sが事件当時住んでいた船橋市内のマンションの写真が掲載された。この中では「この事件は死刑に値する犯行」([[板倉宏]]・当時[[日本大学]][[法学部]]教授)「もし死刑にできないようならば[[保安処分]]にすべき」([[小田晋]]・当時[[筑波大学]]教授)という識者の意見の一方で「(当時)死刑が廃止に向かっている時代の趨勢の中、少年の場合は殺人が行われやすい環境だったかがどうかが争点になるため、この事件でも求刑段階で死刑は難しい」(少年法に詳しい[[秋山昭八]]弁護士)という意見も載せ、その上で元[[法務大臣]]の[[奥野誠亮]]の「今の時代、20歳未満だからと言って甘やかしておれる時代ではないでしょう。運転免許だって18歳で取得できるわけですから、凶悪な犯罪を犯した少年が5歳や10歳の子どもと同じ扱いにされるというのはおかしな話ですよ」などの識者意見を載せ、少年法の改正を訴える内容となっている。 |
|||
==== その他の人物との交流 ==== |
|||
* [[写真週刊誌]]『[[FOCUS]]』(新潮社)1992年3月20日号p.68-73「『待伏せ刺殺』『溶解炉』『伯母撲殺』『妹殺し』 続発『残酷殺人』若者の動機」●一家4人を待伏せして殺した「19歳のワル」 |
|||
被害者の菩提寺である熊本の寺の住職([[#事件後の関係者|後述]])は事件翌年、Yらに頼まれたことがきっかけで、当時[[千葉刑務所]]に収監されていたSと初めて面会した<ref name="中日新聞2018-03-04"/>。この住職は当初、Sに怒りを感じていたが、第一審判決以降はSが罪の大きさに苦しんでいることを感じ取り、Sからの頼みで被害者たちの供養を行うようになり、Sの死刑確定後には彼が書いた[[写経]](2,500字)を送られている<ref name="中日新聞2018-03-04"/>。Sの死刑執行の翌日(2017年12月20日)、彼は「事件から二十六年間、彼なりに罪と向き合い続けた。それを否定するだけの根拠は、私にはないから」とSを供養したが、[[戒名]]は与えなかった<ref name="中日新聞2018-03-04"/>。 |
|||
** Sの実名、当時『FOCUS』記者の[[清水潔 (ジャーナリスト)|清水潔]]が撮影した送検されるSの写真、被害者一家のうち男性Aと妻D子の顔写真を掲載した。 |
|||
* {{Cite book|和書 |author= 祝康成(永瀬隼介) |title= 19歳の結末 一家4人惨殺事件 |publisher= [[新潮社]] |date= 2000-09-15 |isbn= 978-4104398010 |ref= }} |
|||
1997年(平成9年)ごろから<ref name="東京新聞2000-07-29"/>、Sは『[[東京新聞]]』([[中日新聞東京本社]])の司法担当記者だった瀬口晴義と文通や面会を重ね<ref name="中日新聞2018-03-04"/>、2000年7月時点で瀬口宛に計20通近くの手紙を送っていた<ref name="東京新聞2000-07-29">『東京新聞』2000年7月29日夕刊第一社会面11頁「前線日記 19歳で一家4人殺害 拘置所からの手紙 「凶悪犯罪生む勝ち組社会」 『夢も希望もない』 少年法厳罰化『きっと変わらない』」(中日新聞東京本社 瀬口晴義)</ref>。当時、Sは「己の罪深さを恥じ、真に償いを求めるならば、私は自分の将来を求めてはいけないと思えます」と述べていた<ref name="東京新聞2000-07-29"/>。瀬口は、Sが礼儀正しく、大腸がんを患った自身を本気で気遣う姿を目の当たりにしており、「相対した印象と、残虐非道な犯行との差は、最後まで埋まらなかった」と述べている<ref name="中日新聞2018-03-04"/>。 |
|||
** 著者の永瀬がSとの面会やSの家族、Sと結婚したフィリピン人女性の家族、[[熊本県]]在住の被害者遺族ら事件当事者たちへの取材などを重ね、Sの最高裁上告中に出版した[[ノンフィクション]]。Sは実名で登場するがその他の人物は全て仮名である。 |
|||
* {{Cite book|和書 |author= [[永瀬隼介]] |title= 19歳 一家四人惨殺犯の告白 |publisher= [[角川文庫]] |date= 2004-08-25 |isbn= 978-4043759019 |ref= {{Sfnref|永瀬|2004}}}} |
|||
Sは[[辺見庸]](作家)とも、死刑執行までに計数十回の面会を行っていた<ref>{{Cite news|title=やまゆり園 事件考 死刑と命(3)被告の命は「生きるに値しない」のか|newspaper=[[神奈川新聞]]|publisher=神奈川新聞社|date=2020-03-18|url=https://www.kanaloco.jp/article/entry-302086.html|language=ja|accessdate=2020-03-25|archivedate=2020年3月25日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200325140740/https://www.kanaloco.jp/article/entry-302086.html}} - [[相模原障害者施設殺傷事件]]の関連記事。</ref>。辺見は死刑執行まで10年超にわたってSと交流しており、『いま、抗暴のときに』をはじめとした自身のエッセーで、「私の作品をもっとも深く理解する読者」としてSを匿名で登場させている<ref>{{Cite news|和書 |title=死刑・原発・東京新聞 ── 不整合な一年が暮れる |newspaper=デジタル鹿砦社通信 |date=2017-12-31 |author=田所敏夫 |url=https://www.rokusaisha.com/wp/?p=24187 |access-date=2023-05-04 |publisher=[[鹿砦社]] |language=ja |archive-url=https://web.archive.org/web/20230504172257/https://www.rokusaisha.com/wp/?p=24187 |archive-date=2023年5月4日}}</ref>。 |
|||
** Sの死刑が確定した3年後の2004年、『19歳の結末』を新たに第9章「死刑」(2000年の『19歳の結末』刊行から2001年の最高裁判決まで)を描き下ろしとして加えた上で文庫化した書籍。前者同様、Sは実名で登場するがその他の人物は全て仮名である。 |
|||
* {{Cite book|和書 |author= [[丸山佑介]] |title= 判決から見る猟奇殺人ファイル |publisher= [[彩図社]] |date= 2010-01-20 |pages= 122-131 |isbn= 978-4883927180 |ref= {{Sfnref|丸山|2010}}}}「13【少年犯罪】市川一家殺人事件」 |
|||
また、再審請求の弁護人を担当していた一場順子とは約2か月おきに面会していた(最後の面会は2017年10月末)が、Sは一場に対し、「4人がいつも自分にくっついていて、おまえのことを許せないと言っているようで苦しい」と打ち明けたこともあった<ref name="産経新聞2017-12-20">{{Cite news|title=一家4人殺害で死刑執行のS死刑囚「4人が許せないと自分にくっついている」弁護士に心境|newspaper=産経新聞|publisher=産業経済新聞社|date=2017-12-20|url=http://www.sankei.com/affairs/news/171220/afr1712200045-n1.html|language=ja|accessdate=2017-12-20|archivedate=2017-12-20|archiveurl=https://web.archive.org/web/20171220133209/http://www.sankei.com/affairs/news/171220/afr1712200045-n1.html}}</ref>。 |
|||
* {{Cite book|和書 |author= [[福田洋 (作家)|福田洋]] |title= 20世紀にっぽん殺人事典 |publisher= [[社会思想社]] |date= 2001-08-15 |pages= 687-688 |isbn= 978-4390502122 }}「千葉・十九歳少年、一家四人殺し」 |
|||
** この文献では「事件当日午後にSが路上でB子と出会い、脅してB子宅に案内するよう命じた」とあるが、これは誤りである。 |
|||
=== 再審請求 === |
|||
* {{Cite book|和書 |author= [[村野薫]](編集)、事件・犯罪研究会 (編集) |title= 明治・大正・昭和・平成 事件・犯罪大事典 |publisher= [[東京法経学院]] |date= 2002-07-05 |pages= 45-46 |isbn= 978-4808940034 }}「市川の一家4人殺害事件」([[鎌田正文]]) |
|||
「死刑廃止の会」(2006年当時){{Efn2|2018年時点では、「死刑廃止国際条約の批准を求めるフォーラム'90」(フォーラム90)が同様の調査を実施している{{Sfn|年報・死刑廃止|2018}}。}}が1993年3月26日以降の死刑囚(死刑確定者){{Efn2|1993年3月26日に死刑を執行された死刑囚3人のほか、同日時点で拘置中だった死刑囚、そして同日以降に死刑が確定した死刑囚たちが調査対象である。}}について調査した結果{{Sfn|年報・死刑廃止|2006|p=287}}、東京拘置所に[[日本における収監中の死刑囚の一覧|収監されていた]]Sは2005年8月1日 - 2006年9月15日までの間に[[再審]]請求を起こしていたことが確認されている{{Efn2|Sの死刑確定以降、2002年5月10日{{Sfn|年報・死刑廃止|2002|p=234}}、2003年5月末{{Sfn|年報・死刑廃止|2003|p=360}}、2004年7月末{{Sfn|年報・死刑廃止|2004|p=292}}、2005年7月31日と{{Sfn|年報・死刑廃止|2005|p=204}}、「死刑廃止の会」が計4回にわたって収監中の死刑確定者について調査を行ったが、いずれもSが再審請求をした旨の記述はなかった{{Sfn|年報・死刑廃止|2002|p=238}}{{Sfn|年報・死刑廃止|2003|p=365}}{{Sfn|年報・死刑廃止|2004|p=299}}{{Sfn|年報・死刑廃止|2005|p=196}}。2006年9月15日付の調査で{{Sfn|年報・死刑廃止|2006|p=287}}、初めて「再審請求中」との記載が出ている{{Sfn|年報・死刑廃止|2006|p=278}}。}}{{Sfn|年報・死刑廃止|2006|p=278}}。第一次再審請求では、確定審で弁護人を務めていた弁護士が、確定審で提出された福島鑑定の結果に加え、Sの生育歴・脳の[[核磁気共鳴画像法|MRI]]検査の結果も考慮して再度行った精神鑑定の結果を基に、「犯行当時、Sは心神喪失状態だった」と主張していた{{Sfn|年報・死刑廃止|2018|p=141}}。その後、脳機能障害の最先端の研究者による鑑定も行われ、MRI検査のやり直しなども請求されていたが、死刑執行までに再審請求は2度棄却されていた{{Sfn|年報・死刑廃止|2018|p=141}}。なお、『読売新聞』は法務省関係者の「〔Sは〕実質的に同じ理由で請求を繰り返していた」という声を報じている<ref>『読売新聞』2017年12月20日朝刊第14版第二社会面32頁「元少年ら2人死刑執行 市川一家殺害と群馬3人殺害」(読売新聞社)</ref>。 |
|||
== 死刑執行 == |
|||
[[2017年]](平成29年)12月19日、死刑囚Sは収監先の[[東京拘置所]]で死刑を執行された({{没年齢|1973|1|30|2017|12|19}})<ref name="千葉日報2017-12-20"/>。事件発生から25年<ref>{{Cite news|title=市川一家4人殺害 元少年の死刑執行|newspaper=[[NEWSチバ]]|publisher=[[千葉テレビ放送]]|date=2017-12-20|url=http://www.chiba-tv.com/info/detail/14287|language=ja|accessdate=2017-12-20|archivedate=2017-12-20|archiveurl=https://web.archive.org/web/20171220150409/http://www.chiba-tv.com/info/detail/14287}}</ref>、死刑確定から16年が経過していた<ref>{{Cite news|title=【主張】元少年に死刑執行 法改正の論議に踏み込め(1/2ページ)|newspaper=[[産経新聞ニュース|産経ニュース]]|date=2017-12-21|url=https://www.sankei.com/article/20171221-YMEKWWN5HZJTNFYQ3XHMR3UGHA/|accessdate=2022-01-25|publisher=[[産経デジタル]]|page=1|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220125143214/https://www.sankei.com/article/20171221-YMEKWWN5HZJTNFYQ3XHMR3UGHA/|archivedate=2022年1月25日}}</ref>。Sは遺言として、裁判記録を一場のもとへ送るよう言い残していた<ref name="中日新聞2018-03-04"/>。同日には同じ東京拘置所で、[[群馬県]][[安中市]]親子3人殺害事件(1994年2月発生)の死刑囚である松井喜代司{{Efn2|松井喜代司は上告中、『[[週刊金曜日]]』宛に実名で「死刑制度は犯罪防止にならない」というタイトルの投書を寄稿し、同誌1999年1月22日号にその投書が掲載されている<ref>{{Cite journal|和書|journal=[[週刊金曜日]]|author=東京都葛飾区 松井喜代司 東京拘置所在監(50歳)|title=投書 死刑制度は犯罪防止にならない|volume=7|page=63|date=1999-01-22|issue=2|publisher=株式会社金曜日}} - 通巻256号(1999年1月22日号)。群馬県安中市親子3人殺害事件の死刑囚・松井喜代司(1999年に死刑確定、2017年に死刑執行)による投書。</ref>。}}(69歳没、当時第4次再審請求中)の死刑も執行されている<ref name="読売新聞2017-12-19"/>。この2人の死刑執行指揮書は、いずれも[[上川陽子]][[法務大臣]]が同月15日付で署名した<ref name="法務省">{{Cite press release|和書|title=法務大臣臨時記者会見の概要|publisher=[[法務省]]([[法務大臣]]:[[上川陽子]])|date=2017-12-19|url=http://www.moj.go.jp/hisho/kouhou/hisho08_00961.html|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220125142400/https://www.moj.go.jp/hisho/kouhou/hisho08_00961.html|archivedate=2022-01-25}}</ref>。 |
|||
死刑執行当時、Sは第3次[[再審]]請求の即時抗告中だった{{Sfn|年報・死刑廃止|2018|p=141}}。これは、事件当時の責任能力を争点とした請求だったが、安田は他の弁護人2人(いずれも上告審で弁護を担当)とともに次の再審請求に向けて準備を進め、再審請求書も作成していた{{Sfn|年報・死刑廃止|2018|pp=141-142}}。その内容は、凶器と刺し傷の違いや、Sが長時間現場を離れていたことなどを挙げ、第三者が犯行に関与した可能性{{Efn2|安田はこの再審請求書の内容について、「本当に全ての行為を彼がやったのかどうか、つまり、第三者が関与した可能性はなかったのか……(中略)……特に、重要参考人が行方不明になっており、私たちは、その人が事件に関与しているのではないかと、探し続けていました」と述べている{{Sfn|年報・死刑廃止|2018|p=142}}。}}を示唆するとともに、刺し傷の場所・死因から、4人全員への殺意の有無についても再検討を求めるものだった{{Sfn|年報・死刑廃止|2018|p=142}}。 |
|||
また、安田は死刑執行から数日後、東京拘置所でSとは別の死刑囚(Sの房から見て斜め前の房に収監されていた)と接見した際、「Sはかなり前から一番端の房(刑場に連行される際に目立たない場所)に収監されており、死刑執行当日の朝、2人の刑務官から面会か何かという話で呼び出され、ごく普通の形で連れ出されていった」という証言を得ている{{Sfn|年報・死刑廃止|2018|p=142}}。 |
|||
=== 死刑執行に対する反応 === |
|||
事件当時少年で、かつ再審請求中だった死刑囚Sの死刑執行を受け、「死刑廃止国際条約の批准を求めるフォーラム'90」(フォーラム90)<ref>{{Cite web|和書|url=http://forum90.net/info/archives/5 |title=【抗議声明】2017年12月19日 松井喜代司さん(東京拘置所)、Sさん (東京拘置所)死刑執行に対する抗議声明 |accessdate=2022-02-28 |publisher=死刑廃止国際条約の批准を求めるフォーラム'90 |date=2017-12-19 |language=ja |archiveurl=https://web.archive.org/web/20220228151629/http://forum90.net/info/archives/5 |archivedate=2022-02-28}}</ref>、[[日本弁護士連合会]](日弁連、会長:[[中本和洋]])はそれぞれ同日中に抗議声明を発表{{Efn2|日弁連死刑廃止検討委員会事務局長・[[小川原優之]]は『中日新聞』の取材に対し「犯行当時少年の場合は判断能力が成人より劣っている上、家庭環境・社会の影響も強く受けている。事件の責任を個人に負わせるのは相当ではなく、死刑を執行すべきではない」「死刑確定者も『犯人性への疑い』だけでなく『責任能力の問題』『量刑不当』など様々な論点で再審を請求しているため、そのような人々から裁判で争う機会を奪うのは問題だ」と意見を述べた<ref>『中日新聞』2017年12月19日夕刊第一社会面11頁「『少年 執行すべきでない』 小川原優之・日弁連死刑廃止検討委員会事務局長の話」(中日新聞社)</ref>。}}<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nichibenren.or.jp/document/statement/year/2017/171219.html |title=死刑執行に強く抗議し、改めて死刑執行を停止し、2020年までに死刑制度の廃止を目指すべきであることを求める会長声明 |accessdate=2022-02-28 |publisher=[[日本弁護士連合会]] |author=[[中本和洋]] |date=2017-12-19 |language=ja |archiveurl=https://web.archive.org/web/20220228151915/https://www.nichibenren.or.jp/document/statement/year/2017/171219.html |archivedate=2022-02-28}}</ref>。千葉県弁護士会(会長:及川智志)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.chiba-ben.or.jp/opinion/pdf/voicelist/364825ed781021aa7f3850681625082c.pdf |title=死刑執行に対する会長談話 |accessdate=2022-02-28 |publisher=千葉県弁護士会 |author=会長:及川智志 |date=2017-12-20 |format=PDF |language=ja |archiveurl=https://web.archive.org/web/20220228152318/https://www.chiba-ben.or.jp/opinion/pdf/voicelist/364825ed781021aa7f3850681625082c.pdf |archivedate=2022-02-28}}</ref>、駐日[[欧州連合]] (EU) 代表部も翌日までに、それぞれ抗議声明を発表した<ref name="東京新聞2017-12-22">『東京新聞』2017年12月22日朝刊特報面28頁「こちら特報部 死刑 存廃議論進まぬ中(上) 再審請求中、犯行時少年に執行 廃止が世界の潮流◆欧州から非難声明」(中日新聞東京本社)</ref>。 |
|||
一方、「犯罪被害者支援弁護士フォーラム」(VSフォーラム、共同代表:杉本吉史・山田廣)は同日、死刑執行を支持する声明を発表した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.vs-forum.jp/wp-content/uploads/2017/12/171219.pdf |title=死刑執行に関する声明 |accessdate=2022-02-28 |publisher=犯罪被害者支援弁護士フォーラム(VSフォーラム) |author=共同代表:杉本吉史・山田廣 |date=2017-12-19 |format=PDF |language=ja |archiveurl=https://web.archive.org/web/20220228152530/https://www.vs-forum.jp/wp-content/uploads/2017/12/171219.pdf |archivedate=2022-02-28}}</ref>。また、「少年犯罪被害当事者の会」代表・武るり子は[[時事通信社]]の取材に対し「少年でも、罪に合った罰を受けることが犯罪抑止力につながる」と話している<ref>{{Cite news|title=元少年の死刑「罰受けるべき」=犯罪被害者ら評価、日弁連は抗議|newspaper=時事ドットコムニュース|date=2017-12-19|url=https://jiji.com/jc/article?k=2017121901126&g=soc|agency=[[時事通信社]]|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180130111717/https://jiji.com/jc/article?k=2017121901126&g=soc|archivedate=2018年1月30日}}</ref>。[[諸澤英道]]([[常磐大学]]元学長:被害者学)は、「『少年の更生可能性』という非科学的・曖昧な基準で死刑執行を回避するのは相当ではない。死刑執行の先送りを目的とした再審請求も多いため、再審請求中でも死刑執行対象から除外すべきではない」という見解を示した<ref>『千葉日報』2017年12月20日朝刊第一社会面19頁「市川一家4人殺害 元少年死刑執行 重大で執行は当然 諸沢英道・元常磐大学長(被害者学)の話」(千葉日報社)</ref><ref>『中日新聞』2017年12月19日夕刊第一社会面11頁「『事件の重大性から当然』 諸沢英道・元常磐大学長(被害者学)の話」(中日新聞社)</ref>。 |
|||
Sと同じく19歳で殺人を犯し、第一審で死刑判決を受けたが、控訴審で無期懲役が確定した[[名古屋アベック殺人事件]](1988年発生)の受刑者である男(事件当時19歳:2018年3月時点で49歳、[[岡山刑務所]]に無期懲役囚として服役中)は、Sの死刑執行を伝える新聞記事を読んだ感想として、「人ごととは思えなかった」「生きていることへの感謝と申し訳なさを感じた」と述べている<ref>『中日新聞』2018年3月5日朝刊第11版第一社会面27頁「少年と罪 第9部 生と死の境界で 中 贖罪 許されずとも 続ける」(中日新聞社)</ref>。 |
|||
== 実名報道 == |
|||
=== 被害者一家の実名報道 === |
|||
事件後、被害者一家の[[実名報道]]については以下のように、新聞各社ごとに判断が分かれる結果となった<ref name="朝日新聞1992-03-19">『朝日新聞』1992年3月19日東京朝刊第14版第三社会面29頁「メディア 2つの殺人事件報道―新聞編(メディア) 「原則実名」から広がる「匿名」 産経「残る関係者」配慮 被害者含め匿名に」(朝日新聞東京本社) - 『朝日新聞』縮刷版 1992年(平成4年)3月号943頁。本事件と、[[飯塚事件]](1992年2月発覚)における被害者の実名/匿名報道の判断が各社で分かれた旨を伝える記事。</ref>。以下、1992年3月7日付の朝刊(地方紙を除き、すべて東京版)における被害者の実名/匿名報道の様子である。 |
|||
{| class="wikitable" |
|||
|+<!--以下の表では特記なき場合、『朝日新聞』1992年3月19日東京朝刊29頁が出典<ref name="朝日新聞1992-03-19"/>。--> |
|||
!新聞社 |
|||
!実名報道/匿名報道 |
|||
!備考 |
|||
|- |
|||
!『[[千葉日報]]』 |
|||
| rowspan="2" |5人全員を匿名で報道<ref name="千葉日報1992-03-07"/> |
|||
| |
|||
|- |
|||
!『[[産経新聞]]』 |
|||
|{{Efn2|稲田幸男(社会部長)は、5人全員を匿名で報道した理由について「長女 (B) が生き残っているという点を重視した。両親(AおよびD)の名前を書けば、結果として長女が誰かも特定されてしまう」と述べている<ref name="朝日新聞1992-03-19"/>。}} |
|||
|- |
|||
!『[[読売新聞]]』 |
|||
| rowspan="4" |死亡した4人を実名、Bを匿名で報道 |
|||
| |
|||
|- |
|||
!『[[朝日新聞]]』 |
|||
| |
|||
|- |
|||
!『[[毎日新聞]]』 |
|||
| |
|||
|- |
|||
!『[[東京新聞]]』 |
|||
| |
|||
|- |
|||
!{{nowrap|『[[日本経済新聞]]』}} |
|||
| rowspan="3" |Bを含め、5人全員を実名報道<ref name="中日新聞1992-03-07"/><ref>『[[神奈川新聞]]』1992年3月7日朝刊B版第一社会面21頁「市川 金狙い一家4人殺害 19歳店員の逮捕状請求」(神奈川新聞社)</ref> |
|||
|{{Efn2|橋本直(編集局次長)は、Bを実名報道した理由について「一報では、警察が長女 (B) に疑いを持っている状況だったので匿名にしたが、7日の朝刊段階では長女が完全な被害者であることが判明し、そのことをはっきり示すためにも実名の方がいいと判断した。しかし陰惨で気の毒な事件であり、被害者は一刻も早く事件を忘れたいだろう。今後の報道の仕方は考えたい」と述べている<ref name="朝日新聞1992-03-19"/>。}} |
|||
|- |
|||
!『[[中日新聞]]』 |
|||
| |
|||
|- |
|||
!『[[神奈川新聞]]』 |
|||
| |
|||
|} |
|||
=== 犯人Sの実名報道 === |
|||
少年法第61条は、罪を犯した少年について、氏名や容貌など「本人であることが推知できるような記事または写真」の掲載を禁止しているが{{Efn2|2022年(令和4年)4月1日に施行された改正少年法では、罪を犯した18歳・19歳の者(民法上は「成人」として扱われるが、引き続き少年法の適用対象となる)を「特定少年」として扱い、同日以降に起訴された「特定少年」については氏名・年齢・職業などの個人が特定できる内容の報道(推知報道)を認める規定がなされた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.moj.go.jp/keiji1/keiji14_00015.html |title=少年法が変わります! |access-date=2022-04-27 |publisher=法務省 |year=2021 |month=6 |language=ja |archive-url=https://web.archive.org/web/20220427134612/https://www.moj.go.jp/keiji1/keiji14_00015.html |archive-date=2022-04-27}}</ref>。同改正で新設された第68条の規定によるもので、同年4月8日に起訴された事件当時19歳の少年([[甲府市殺人放火事件]]の犯人)が初適用例となった<ref>{{Cite news|title=甲府夫婦殺害で「特定少年」実名公表 19歳男起訴|newspaper=産経ニュース|date=2022-04-08|url=https://www.sankei.com/article/20220408-SOZ6LTYMFJJNPAT3BY2FSNJUAE/|access-date=2022-04-27|publisher=産経デジタル|language=ja|archive-url=https://web.archive.org/web/20220409141452/https://www.sankei.com/article/20220408-SOZ6LTYMFJJNPAT3BY2FSNJUAE/|archive-date=2022年4月9日}}</ref>。}}、[[日本新聞協会]]は同条について、「社会的利益の擁護が少年保護より強く優先する場合は氏名、写真の掲載を認める」という例外を設けている<ref name="朝日新聞1992-03-27"/>。 |
|||
Sは犯行時少年だったため、新聞各紙は事件直後、Sを匿名で報道していたが、『[[週刊新潮]]』『[[FOCUS]]』(いずれも[[新潮社]]発行)はSを実名報道した{{Sfn|週刊新潮|1992|p=147}}{{Sfn|FOCUS|1992|p=69}}<ref name="朝日新聞1992-03-27"/>。前者はさらに、Sの中学卒業時の顔写真や、当時住んでいたアパートの写真を掲載し{{Sfn|週刊新潮|1992|p=147}}、後者はフードを被されて送検されるSの写真(撮影:[[清水潔 (ジャーナリスト)|清水潔]])を掲載した{{Sfn|FOCUS|1992|p=69}}。その後、同社発行の『[[新潮45]]』1999年6月号に掲載された祝のルポルタージュでも、Sの実名が掲載されている{{Sfn|祝康成|1999|p=212}}。このように実名報道を行った理由について、『週刊新潮』編集部次長の宮澤章友は、「少年法への問題提起のため」と説明している<ref name="朝日新聞1992-03-19"/><ref name="産経新聞1992-03-14">『産経新聞』1992年3月14日東京朝刊21頁「千葉・一家4人殺害の19歳少年 週刊新潮が実名報道 旧態依然と問題提起 「少年法」再び論議」(産経新聞東京本社)</ref>。一方、女子高生コンクリート詰め殺人事件の際に犯人の少年4人を実名報道した『[[週刊文春]]』編集長の[[花田紀凱]]は、「当時の報道で、少年法への問題提起は既になされている」として、今回は実名報道を見送っている<ref name="産経新聞1992-03-14"/>。『週刊新潮』『FOCUS』の実名報道に対し、[[東京弁護士会]](小堀樹会長)は3月25日付で「少年法の趣旨に反し、人権を損なう行為だ」として、新潮社に「良識と節度を持った少年報道」を求める要望書を郵送<ref>『朝日新聞』1992年3月26日東京朝刊第14版第三社会面29頁「千葉の家族4人殺害 新潮社の少年報道人権を損なう 東京弁護士会が要望書」(朝日新聞社) - 『朝日新聞』縮刷版 1992年(平成4年)3月号1279頁。</ref>、「一マスコミが少年を裁くようなことをしていいのか」と問題を提起した<ref name="朝日新聞1992-03-27">『朝日新聞』1992年3月27日東京朝刊第14版第三社会面29頁「(メディア)論議呼ぶ19歳容疑者実名報道 少年法巡り異なる見方 「時代遅れ」と4人殺害事件で「週刊新潮」が掲載 女高生殺害で実名報道の「週刊文春」、今回は匿名 東京弁護士会「一報道機関の“制裁"はおかしい」」(朝日新聞社) - 『朝日新聞』縮刷版 1992年(平成4年)3月号1335頁。</ref>。 |
|||
2001年の死刑確定時も、新聞各紙はSを実名報道することはなかったが<ref>『中日新聞』2011年3月11日朝刊第二社会面30頁「リンチ殺人死刑確定へ 実名『更生する可能性なく』匿名『少年法の精神基づく』 報道各社対応割れる」(中日新聞社) - [[大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件]](1994年発生)の上告審判決により、犯行時少年(18歳ないし19歳)だった被告人3人の死刑が確定することになったことを報じる記事。</ref><ref>『中日新聞』2017年12月20日朝刊第一社会面27頁「少年と罪 凶悪犯に厳罰の流れ 少年法引き下げで論議■97年神戸連続殺傷が転機に■判決確定時の実名報道主流」(中日新聞社)</ref>、『朝日新聞』は2004年(平成16年)に作成した事件報道のガイドライン『事件の取材と報道』で、「事件当時は少年でも、死刑が確定する場合、原則として実名で報道する」という方針を策定<ref>{{Cite book|和書|title=事件の取材と報道|publisher=[[朝日新聞出版|朝日新聞社出版本部]]|date=2005-03-25|page=58|last=「事件の取材と報道」編集委員会|isbn=978-4022199010|NCID=BA72229689|chapter=|id={{国立国会図書館書誌ID|000007723779}}・{{全国書誌番号|20781120}}}}</ref><ref>『朝日新聞』2016年7月2日東京朝刊第三社会面33頁「(Media Times)元少年の実名報道、割れた判断 石巻3人殺傷事件の被告」(朝日新聞東京本社 記者:貞国聖子)</ref>。[[テレビ朝日]]も、2005年までに「仮に死刑が確定した場合、事件当時少年でも実名報道する」という方針を策定していた<ref>『朝日新聞』2005年11月5日東京朝刊第一社会面33頁「(メディア)死刑判決の少年事件報道 『確定後は実名』の動き」(朝日新聞東京本社)</ref>。2011年(平成23年)、最高裁で[[大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件]](1994年発生)の3被告人(いずれも事件当時、18歳ないし19歳の少年)の死刑が確定した際には、『毎日新聞』や『東京新聞』『中日新聞』は、それぞれ匿名報道を継続した一方、『朝日新聞』『読売新聞』『産経新聞』『日本経済新聞』は実名報道に切り替えた<ref>『毎日新聞』2011年5月7日東京朝刊第13版メディア面17頁「メディア 死刑が確定した元少年3人 匿名か実名か判断分かれた理由」(毎日新聞東京本社 臺宏士、内藤陽) - 大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件(1994年発生)の上告審判決により、犯行時少年(18歳ないし19歳)だった被告人3人の死刑が確定した際、報道各社それぞれが取った対応(実名報道への切り替え、匿名報道の継続)に言及した記事。</ref><ref name="中日新聞2017-08-27">『中日新聞』2017年8月27日朝刊特集面27頁「少年と罪 第3部 塀の中へ再び 実名・匿名 割れ続け 死刑確定後 配慮の必要あるか 成人後再犯 「元少年」報道 批判も」(中日新聞社) - </ref>。同判決後、それぞれ事件当時18歳だった少年の死刑が確定した[[光市母子殺害事件]](1999年発生:2012年に死刑確定)や、[[石巻3人殺傷事件]](2010年発生:2016年に死刑確定)の上告審判決時にも、各社は連続リンチ殺人事件と同様の対応を取った<ref name="中日新聞2017-08-27"/><ref>{{Cite news|title=【プレミアム】▽ 実名報道と匿名報道 光市母子殺害事件で分かれる : 47トピックス|newspaper=[[47NEWS]]|date=2012-02-21|author=今井克|url=http://www.47news.jp/47topics/premium/e/225841.php|agency=[[共同通信社]]|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170617165514/http://www.47news.jp/47topics/premium/e/225841.php|archivedate=2017年6月17日}} - 光市母子殺害事件(1999年発生)の上告審判決により、犯行時少年(18歳)だった被告人の死刑が確定した際、報道各社それぞれが取った対応(実名報道への切り替え、匿名報道の継続)に言及した記事。</ref><ref>{{Cite news|title=【「Journalism」6月号より】 変わる事件報道 「実名か匿名か」 光市母子殺害事件報道|newspaper=[[論座]]|date=2012-06-09|author=長谷川玲|url=https://webronza.asahi.com/journalism/articles/2012060800009.html|accessdate=2022-02-13|publisher=朝日新聞社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220213141548/https://webronza.asahi.com/journalism/articles/2012060800009.html|archivedate=2022年2月13日}} - 光市母子殺害事件の関連記事。</ref><ref>{{Cite news|title=紙面審ダイジェスト:死刑確定の元少年 匿名の判断は|newspaper=毎日新聞|date=2016-07-05|url=https://mainichi.jp/articles/20160705/org/00m/040/027000c|publisher=毎日新聞社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180511121929/https://mainichi.jp/articles/20160705/org/00m/040/027000c|archivedate=2018年5月11日}} - 石巻3人殺傷事件(2010年発生)の上告審判決により、犯行時少年(18歳)だった被告人の死刑が確定した際、報道各社それぞれが取った対応(実名報道への切り替え、匿名報道の継続)に言及した記事。</ref><ref>{{Cite news|title=“死刑確定なら元少年でも実名報道”のご都合主義 スジを通したのは「毎日新聞」「東京新聞」のみ|newspaper=デイリー新潮|date=2016-07-05|url=https://www.dailyshincho.jp/article/2016/07050553/?all=1|accessdate=2022-02-13|publisher=新潮社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220213141916/https://www.dailyshincho.jp/article/2016/07050553/?all=1|archivedate=2022年2月13日}} - 石巻3人殺傷事件の関連記事。</ref>。 |
|||
そしてSの死刑執行にあたり、法務省は被死刑執行者としてSの実名を公表したほか{{Efn2|法務省は2007年12月7日の死刑執行([[藤沢市母娘ら5人殺害事件]]の死刑囚ら、3人が対象)以降、被死刑執行者の氏名・犯罪事実の概要を公表している<ref>『神奈川新聞』2007年12月8日朝刊A版一面1頁「死刑、初の氏名公表 F確定囚ら3人執行 法相『理解得るため』」(神奈川新聞社)</ref>。}}<ref name="法務省"/>、新聞各紙もそれぞれSを実名報道した<ref name="千葉日報2017-12-20"/><ref name="読売新聞2017-12-19"/><ref>『朝日新聞』2017年12月19日東京夕刊第一総合面1頁「犯行時に少年、死刑執行 再審請求中、他1人も」(朝日新聞東京本社)</ref>。それまで少年事件の死刑確定時に匿名報道を続けていた毎日・中日・東京の各紙も、匿名報道継続の根拠としていた更生や社会復帰の可能性が失われたことや、死刑は国家が人命を奪う究極の刑罰であり、その対象者が誰なのかを明らかにすべきとの判断から、実名報道に切り替えている<ref>『毎日新聞』2017年12月29日東京夕刊政治面1頁「死刑執行:千葉・市川の一家4人殺害、元少年 永山元死刑囚以来」(毎日新聞東京本社 記者:鈴木一生)</ref><ref>『中日新聞』2019年12月20日朝刊第一社会面27頁「一家4人殺害 進む厳罰 元少年の死刑執行 永山元死刑囚以来20年ぶり」(中日新聞社)</ref><ref>『東京新聞』2019年12月20日朝刊第一社会面27頁「元少年20年ぶり死刑執行 法相、判断の根拠なく 再審請求中」(中日新聞東京本社)</ref>。 |
|||
== 事件後の関係者 == |
|||
=== 被害者遺族のその後 === |
|||
AとCの遺骨は事件後、[[秋田県]][[鹿角市]]<!--出典では鹿角郡となっているが、1972年には既に鹿角市が成立している-->の仁叟寺({{ウィキ座標|40.274589|||N|140.770624|||E||座標}})に安置され、D・Eの遺骨も同所に分骨安置された{{Sfn|集刑|2002|p=774}}{{Sfn|集刑|2002|p=768}}。またD・Eの墓は、Dの故郷である熊本県八代市の本成寺({{ウィキ座標|32.503634|||N|130.602056|||E||座標}})に建てられた{{Sfn|集刑|2002|p=774}}。 |
|||
Bは事件から1年後に高校3年生になり{{Efn2|1993年3月時点で、Bが通学していた千葉県立高校の学校関係者は宇野津光緒の取材に対し、裁判が始まって以降は動揺が激しく、在学はしているものの通学は困難な(まだ普通の生活ができていない)状態である旨を述べている{{Sfn|宇野津光緒|1993|p=57}}。}}{{Sfn|女性自身|1994|p=76}}、1993年12月時点から遡って約1年前に東京から母Dの故郷である八代市に転校、Dの実家で母方の祖母(Dの母親)や叔父(Dの弟)とともに暮らすようになった{{Sfn|集刑|2002|p=772}}。Bは1994年3月に高校を卒業し{{Sfn|女性自身|1994|p=74}}、同年4月4日の[[論告]][[求刑]]を控え、『[[女性自身]]』の記者から取材を受けた{{Efn2|記者は三浦春子・堀ノ内雅一の両名{{Sfn|女性自身|1994|p=78}}。Bがマスコミからの取材を受けたのはこれが初だった{{Sfn|女性自身|1994|p=74}}。}}{{Sfn|女性自身|1994|p=74}}。その後、同年春には大阪の芸術系大学に進学し{{Efn2|美術系の大学{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=211}}。Bは『女性自身』の記者に対し、(事件当時在学していた)千葉の高校はみな専門学校に通学するため、同校にいた当時は大学進学は考えていなかったが、転校先の高校は進学校で、周囲の影響を受けて自分も大学進学を決めたことや、転校前に文化祭で舞台美術をした経験などがあったため、そのような方向を志して美術大学を受験したという旨を述べている{{Sfn|女性自身|1994|p=76}}。当時、担任も親戚もBが現役で大学の入試に合格することは不可能と考えており、担任は高校の卒業式の前日、Bから合格の報告を受けて驚いていた{{Sfn|女性自身|1994|p=77}}。}}{{Sfn|集刑|2002|p=768}}、Sに第一審判決が言い渡された同年8月時点では、[[関西]]で一人暮らしをしていた{{Sfn|飯島真一|1994|p=201}}。同年から2000年(平成12年)ごろにかけ、Bは『女性自身』の記者や永瀬の取材に対し、「将来は母のようなキャリアウーマンになりたい」と話していた{{Sfn|女性自身|1994|p=78}}{{Sfn|永瀬隼介|2004|pp=211-212}}。 |
|||
永瀬によればBは2000年春に大学を卒業し{{Efn2|1997年にはベルギーに行っていたため留年したという{{Sfn|集刑|2002|p=760}}。}}{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=211}}、2004年(平成16年)春に28歳で結婚、亡き両親がかつて移住することを夢見ていたヨーロッパへ移住した{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=230}}。 |
|||
=== 犯人Sの親族のその後 === |
|||
==== 母親Yによる贖罪 ==== |
|||
Sの母親Y(1992年5月時点で49歳){{Sfn|朝倉喬司2|1992|p=56}}は事件後、被害者や遺族への贖罪のため、何度もD・Eの遺骨が納骨された九州の寺や、事件後にBを引き取ったDの実家へ出向いた{{Sfn|山岸朋央|1995|p=56}}。Sの弁護人は上告趣意書で、Yは資力が乏しい中、第一審の段階で「御花料」と称し、遺族側代理人弁護士に500万円を提供した旨を述べている{{Sfn|集刑|2002|p=775}}。しかし、B本人からは接触を拒否され{{Sfn|山岸朋央|1995|p=56}}、母方の祖母(Dの母親)も謝罪金の受領を拒否している{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=100}}。一方で1994年3月にはDの弟(Bの母方の叔父)との対面を許され、当初はDの弟から強い口調で問いただされたものの、事件後の苦悩や反省を打ち明けるうちに、「恨むだけでは解決にならない。量刑に関してはすべて裁判所に委ねる」という言質を得ている{{Sfn|山岸朋央|1995|p=56}}。 |
|||
また、以下のように被害者たちとの示談を成立させた。 |
|||
# [[#江戸川事件|江戸川事件]]の被害者甲 - 1993年8月8日付で、S本人が弁護人の桑原を通じて謝罪の手紙を送ったほか、同年10月6日付で母Yが慰謝料・医療費などの損害賠償金として45万円を支払い、示談が成立{{Sfn|集刑|2002|p=777}}。 |
|||
# [[#中野事件|中野事件]]の被害者乙 - Yは弁護人の奥田とともに、乙に多数回会い、謝罪の気持ちを伝えた上で、1993年11月20日付で治療費・休業損・慰謝料などとして155万8,475円を支払い、示談成立{{Sfn|集刑|2002|pp=776-777}}。乙は同日付で、千葉地裁宛にSの減刑嘆願書を書いている{{Sfn|集刑|2002|p=776}}。 |
|||
# [[#河原事件|河原事件]]の被害者丙 - Yが奥田とともに面会して謝罪するとともに、Sの謝罪の気持ちを伝え、1993年11月20日付で奥田が謝罪の手紙とともに、治療費・休業損・慰謝料として50万円を送付した{{Sfn|集刑|2002|p=776}}。 |
|||
# [[#岩槻事件|岩槻事件]]の被害者丁 - 1993年8月8日付で、S本人が桑原を通じて謝罪の手紙と損害賠償金の一部(20万円)を送付したほか、同年10月17日にはYが桑原とともに謝罪に訪れ、同年12月23日付で謝罪文と損害賠償金の残金(30万円)を送付{{Sfn|集刑|2002|pp=775-776}}。1995年11月26日にはYが弁護人の粕谷とともに丁宅を訪れ、その後の具合を尋ねた上で、重ね重ねSに代わって謝罪して示談も申し出たが、丁側の要求に応じることができず、後日謝罪の手紙とともに10万円を送付した{{Sfn|集刑|2002|p=775}}。 |
|||
一方で獄中にいた長男Sに対しては、東京拘置所まで週1の割合で面会に訪れ、衣類や嗜好品、書籍などの差し入れも頻繁に行っていた{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=197}}。『[[FRIDAY (雑誌)|FRIDAY]]』記者の山岸朋央から取材を受けたこの寺の住職は、Y(1995年時点で51歳)から「今となってはどうにも手をうつことはできないが、せめて房の外にいる私が息子のかわりにご遺族の方々にお詫びし続け、お亡くなりになった人たちのご冥福を祈り続け、罪を少しでも償いたい…」という心境を聞かされており、彼女について「精神的、肉体的にも追いつめられ、自殺を考えたこともあったようですが、今は現実を直視し、S君と二人で罪を償っている。その真摯な態度には、心うたれるものがあります」と話している{{Sfn|山岸朋央|1995|p=56}}。永瀬はSと交流していた時期、次男(Sの5歳年下の弟、2000年当時は大学生)と2人で暮らしていたYへの取材を試みたが、Yは取材を拒否している{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=115}}。 |
|||
==== 祖父X・父親Zのその後 ==== |
|||
Xの経営していた鰻屋は事件後、客が激減し{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=96}}{{Sfn|朝倉喬司2|1992|p=58}}、店舗も手放さざるを得なくなり、営業規模縮小を余儀なくされた{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=96}}。宇野津光緒からの取材要請に対し、Xは持病(糖尿病・高血圧症)で入退院を繰り返していることや、事件のショックを受けて安静加療中であることを理由に、断りの返事を出している{{Sfn|宇野津光緒|1993|p=57}}。X(1999年時点で76歳{{Sfn|祝康成|1999|p=208}}、2000年時点で77歳{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=94}})は事件後、マスコミからの取材を受けておらず、永瀬もXから取材を受けられる可能性はゼロに等しいと考えていたが、ロングインタビューを行うことに成功している<ref>{{Cite news|title=純粋な悪…19歳で一家4人を惨殺した男の「恐るべき素顔」と「誤算」|newspaper=[[週刊現代|現代ビジネス]]|date=2019-09-03|author=永瀬隼介|url=https://gendai.ismedia.jp/articles/-/66775?page=6|accessdate=2022-01-30|publisher=[[講談社]]|page=6|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220130162700/https://gendai.ismedia.jp/articles/-/66775?page=6|archivedate=2022年1月30日}}</ref>。その時期は、東京拘置所に収監されていたSと初めて面会した時期(1998年10月)の直前で{{Sfn|永瀬隼介|2004|pp=7-8}}、Xは永瀬に対し、「生きていてもいいことはないから死にたい」「なぜあいつ (S) が生きていられるのかわからない。自分なら自殺している」などと心情を吐露している{{Sfn|永瀬隼介|2004|pp=93-94}}。なお、「X商店」の跡を継ぐはずだったXの長男(Sの叔父)は事件の3年前、くも膜下出血により44歳で死去し{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=96}}、Xの妻(Yの母親、Sの母方の祖母)も事件後の1995年に死去している<ref>『朝日新聞』1996年7月2日東京夕刊第一社会面15頁「「残虐さ」減刑退ける 市川の一家4人殺害に死刑判決 東京高裁」(朝日新聞東京本社)</ref>。 |
|||
Sの父親Z(1992年5月時点で50歳)は[[朝倉喬司]]の取材に対し、事件について問われると「何分にも私の理解の範囲を超えちゃってます。もう、何がどうしたのか」と第三者的な困惑した態度で話し、借金についてもギャンブルではなく、事業絡みの保証人になったことであると主張していた{{Sfn|朝倉喬司2|1992|pp=56-57}}。一方、1998年9月には元妻Yとともに、遺族への謝罪と供養のため熊本を訪れていた{{Sfn|永瀬隼介|2004|p=202}}。 |
|||
== 考察 == |
|||
Bは目の前で家族を次々と殺害されている間、1人で外部の人間と応対する機会が2度あった(Eが保育園から帰ってきた時と、「ルック」へ預金通帳を取りに行った時)にもかかわらず、助けを求めることができなかった{{Sfn|朝倉喬司|1992|p=162}}。県警はその理由について、Bは当時、目の前で両親を殺されたショックと恐怖で茫然自失状態に近かった上、当時はまだ(戸が閉められたままの室内で死んでいた)Cの死を知らず、Eにも危害がおよぶことを恐れていたためであると説明している{{Sfn|朝倉喬司|1992|pp=162-163}}。また、[[平井富雄]]([[東京家政大学]]教授:精神医学)は「極端な異常事態に置かれて自律神経が“喪失”、相手の言いなりになってしまうことはあり得る」と考察している<ref name="千葉日報1992-03-13">『千葉日報』1992年3月13日朝刊第一社会面19頁「市川の4人殺害事件から1週間 惨劇の記憶生々しく 欲しいものは欲しい 容疑者の少年 幼児のような人間性」「遺影に最後の別れ 悲しみの中、4人の葬儀 養女を気遣う友人も」(千葉日報社) - 『千葉日報』縮刷版 1992年(平成4年)3月号269頁。</ref>。 |
|||
起訴前にSの精神鑑定(小田鑑定)を担当した[[小田晋]]は、Sの実名を報じた『週刊新潮』 (1992) で、本事件と[[名古屋アベック殺人事件]]・[[女子高生コンクリート詰め殺人事件]]の共通点として、「犯罪衝動の抑制が利かない」「犯行に遊びの要素が含まれている」「犯人は少年期から放任されて育てられていた」「犯行には極端な冷淡さが見られる」といった4点、そしてアベック事件・コンクリート事件の犯人たちが事件当時「少年だから大した罪にはならない」と思っていたことを挙げた上で{{Sfn|週刊新潮|1992|p=146}}、「犯行が報道の通りなら極刑にすべき。もし極刑にならないなら、保安処分とすべき」というコメントを出していた{{Sfn|週刊新潮|1992|p=149}}。その上で、少年法の問題点として、本事件や先述の2事件のような18歳・19歳の年長少年による残虐な犯行でも、犯人の実名や職業などが報道されていないことを挙げ、「少年事件なら何でもかんでも報道を控えるといったマスメディアの姿勢が、実は本来なら防げるべき犯罪を防げないようにしている」と指摘していた{{Sfn|週刊新潮|1992|p=147}}。 |
|||
『東京新聞』記者の稲熊均は、Sが父親に反発していた一方、祖父から溺愛されていたことについて、[[東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件]]の犯人である[[宮崎勤]]との類似性を指摘し、「複雑な家庭環境が事件に与えた点は大きい」と述べている{{Sfn|稲熊均|1992|p=15}}。また、[[佐木隆三]]もその点について言及した上で、東京都[[目黒区]]で発生した中学生による両親・祖母殺害事件{{Efn2|1987年7月8日未明、東京都目黒区[[東が丘]]一丁目で、[[目黒区立第十中学校|区立第十中学校]]の2年生男子生徒(当時14歳)が、就寝中だった父親(当時44歳:会社役員)、母親(当時40歳)、父方の祖母(当時70歳)の3人を、肉切り包丁(刃渡り21 cm)で滅多刺しにして殺害した事件<ref name="読売新聞1987-07-09"/>。犯人はまず、金属バットで母親の顔面を殴ったところ、父親に気づかれてバットを取り上げられ、母親も電話しようとしたため、あらかじめ用意していた肉切り包丁を使って両親を滅多刺しにし、さらにそれに気づいた祖母も滅多刺しにした<ref name="読売新聞1987-07-09">『読売新聞』1988年7月9日東京朝刊第14版一面1頁「目黒 中2、両親と祖母殺す 成績、部活注意され バット・包丁で寝室襲う」(読売新聞東京本社) - 『読売新聞』縮刷版 1988年(昭和63年)7月号413頁。</ref>。犯人は両親から厳しく勉強させられていた一方、祖母からは溺愛されていた{{Sfn|稲熊均|1992|p=15}}。事件は、同年5月の中間試験での成績不良を両親から厳しく叱責され、父親から「期末テストの成績が悪かったら家から追い出す」と頭を2回げんこつで殴られていた犯人が、期末試験でも数学のテスト(数量テスト50点+図形テスト50点=100点満点)の数量テストでわずか5点しか取れなかったことから、両親や祖父母を殺害した上で、かねてから抱いていた「好きなタレントにいたずらしてから自殺しよう」という考えを実現させるべく決行したもので、3人を殺害する前夜には、同級生の友人に両親殺害と、タレントへのいたずらの計画を手伝ってほしいという電話をかけていた<ref name="読売新聞1988-07-30"/>。犯人は事件後、同月29日付で[[東京地方検察庁|東京地検]]から「長期(原則2年)の少年院送致が相当」という意見付きで[[東京家庭裁判所|東京家裁]]へ送致され<ref name="読売新聞1988-07-30">『読売新聞』1988年7月30日東京朝刊第14版第一社会面27頁「中二少年を家裁送致 惨劇呼んだ数学「5点」 「しかられる」と決心」(読売新聞東京本社) - 『読売新聞』縮刷版 1988年(昭和63年)7月号1407頁。</ref>、同年10月6日付で、東京家裁から初頭少年院送致の決定を下されている<ref>『読売新聞』1988年10月7日東京朝刊第14版第二社会面30頁「肉親殺し中2、少年院へ」(読売新聞東京本社) - 『読売新聞』縮刷版 1988年(昭和63年)10月号336頁。</ref>。}}との類似性を指摘し、「子にシビアな父母と違い、祖父母は愛情のあまり、孫を金銭でコントロールしたがる。特に父母の愛情が何らかの要因で欠落すると、バランスを失った祖父母の愛情で抑制の利きにくい子を育てることもあるのではないか」と述べている{{Sfn|稲熊均|1992|p=15}}。[[石川弘義]]([[成城大学]]教授:社会心理学)も同様に、Sが周囲から甘やかされて育ったことを挙げ、「非行少年生育の典型。“欲しいものは欲しい”だだっ子と同じだ」と指摘している<ref name="千葉日報1992-03-13"/>。 |
|||
[[久田将義]]は自著で、それぞれ自身とほぼ同年代の少年たちが起こした事件である本事件と、女子高生コンクリート詰め殺人事件の2事件から大きな衝撃を受けたことを述べている{{Sfn|久田将義|2015|p=21}}。また、その両事件や名古屋アベック殺人事件、[[大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件|木曽川リンチ殺人事件]]といった、1980年代後半から1990年代前半にかけて発生した少年による凶悪事件を「一九八〇〜九〇年代型犯罪」と分類し、これらの事件の特徴について「不良グループ内でも軽んじられているような中途半端な不良少年が、中途半端な集団意識から『ノリ』で卑劣で残虐な犯罪を犯した」と述べた上で{{Sfn|久田将義|2015|pp=46-47}}、これらの事件と[[川崎市中1男子生徒殺害事件]](2015年)との類似性を指摘している{{Sfn|久田将義|2015|p=21}}。そして、これらの事件の加害者たちの特徴として、弱者に対しては強く出て暴力を振るう一方、自身以上の強者(Sの場合は暴力団)に対しては無力だったことを挙げている{{Sfn|久田将義|2015|pp=51-52}}。 |
|||
== 評価 == |
|||
ジャーナリストの飯島真一 (1994) は、本事件について「実際に起こった一家四人惨殺事件を題材にした[[トルーマン・カポーティ]]の『[[冷血]]』を彷彿とさせる」と述べている{{Sfn|飯島真一|1994|p=201}}。 |
|||
間庭充幸 (1997) は事件前のSの半生を踏まえ、Sは合理的な「システム型社会」「情報管理社会」から落ちこぼれたコンプレックスを抱え、離婚・高校中退・転職などといった経験がマイナスに作用し、不満や疎外感を味わっていたところ、暴力団から多額の金銭を要求されたことをきっかけにそれらの感情が噴出する形で本事件を起こしたのではないかと指摘している{{Sfn|間庭充幸|1997|pp=239-240}}。 |
|||
=== 判決に対する評価 === |
|||
[[覚正豊和]]([[千葉敬愛短期大学]]教授)は、「少年の健全な育成を期し、非行のある少年に対して性格の矯正及び環境の調整に関する保護処分を行う……」と規定した少年法の基本理念を挙げ、「たとえ行為時に18歳を超えた少年であったとしても死刑を科すことは少年法の精神には合致しない。(中略)被告人は、本件犯行時19歳1カ月の年齢にあり、少年法51条によって死刑が禁止される犯行年齢に1年1カ月余加齢しているのみである。その僅か1年1カ月余の年月の経過が、一人の人間の生と死を分けるほどに大きな意味をもつ年齢差であろうか」{{Sfn|覚正豊和|1995|p=20}}「福島鑑定等でも証明された改善可能性の問題よりも、社会的影響や結果の重大性により重きを置いた判決といわざるをえない」{{Sfn|覚正豊和|1995|p=21}}と指摘し、死刑を適用した第一審判決に疑義を呈した上で、「こうした少年事件に対する死刑判決につき、もし、死刑制度が存在するからであって一裁判官の力量を大きく超えるべきものであるとするならば、死刑廃止を実現させる以外の解決はないだろう」と述べている{{Sfn|覚正豊和|1995|p=21}}。また、覚正は一連の判決を福島鑑定などが示した「矯正による改善可能性」より、「結果の深刻重大性」「社会的影響」「遺族の被害者感情」などをより重視した判決と評している{{Sfn|覚正豊和|2002|pp=865-866}}。 |
|||
神田宏 (1996) は、本事件と名古屋アベック殺人事件それぞれの第一審判決について、1980年代後半に「少年犯罪の凶悪化の傾向」が指摘され始め、マスコミ主導ともいえる形で少年法および少年に対する寛大な処分の見直しの必要性がセンセーショナルに叫ばれたことを受け、裁判所がそれぞれ厳罰という形で少年犯罪に対し厳格な対応を取ったと評している{{Sfn|神田宏|1996|p=26}}。 |
|||
前田忠弘([[愛媛大学]]教授)は、「[[市民的及び政治的権利に関する国際規約]]」第6条(1966年)や「[[児童の権利に関する条約|子どもの権利条約]]」第37条(1989年)で18歳未満の者が行った犯罪について死刑の禁止が明言されていることや、「少年司法運営に関する国連最低基準規則」17・2(1985年:「北京ルール」)で「死刑は、少年{{Efn2|同規則2.2 (a) で「少年」 (juvenile) とは、「各国の法制度の下で犯罪のゆえに成人とは異なる仕方で扱われることのある児童 (child) もしくは青少年 (young person) 」と定義されている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kodomo-hou21.net/_action/giffiles/Beijing_Rules.pdf |title=少年司法運営に関する国連最低基準規則 |access-date=2022-11-20 |publisher=子どもの育ちと法制度を考える21世紀市民の会 |year=1985 |format=PDF |website=子どもと法21 |language=ja |archive-url=https://web.archive.org/web/20221016100306/http://www.kodomo-hou21.net/_action/giffiles/Beijing_Rules.pdf |archive-date=2022-11-20}}</ref>。}}が行ったどのような犯罪に対しても、これを科してはならない」と規定されていることを踏まえ、日本の少年法は20歳未満を適用基準としている一方、同法第51条で年長少年(18歳・19歳)に対する死刑適用が認められている現状を「北京ルールの趣旨には合致せず、したがって、年長少年の刑事事件に対しても死刑の適用は避けるべきであろう」と指摘している{{Sfn|前田忠弘|1998|p=225}}。 |
|||
[[菊田幸一]]も「北京ルール」や「子どもの権利条約」の存在について言及し{{Sfn|菊田幸一|1994|p=32}}、少年に対する死刑は少年法の精神にも[[日本国憲法第36条|「残虐な刑罰の禁止」を規定した現行憲法]]にも相容れないため、直ちに廃止すべきと主張している{{Sfn|菊田幸一|1994|p=35}}。 |
|||
== 本事件を題材とした作品 == |
|||
* 福島章『彼女はなぜ人を殺したのか』([[講談社]]) - 本事件でSの精神鑑定を担当した福島が、本事件をモデルとして書いた小説{{Sfn|集刑|2002|p=798}}。 |
|||
* [[永瀬隼介|祝康成]]『[[19歳の結末 一家4人惨殺事件]]』([[新潮社]]) - 本事件を題材とした[[ノンフィクション]]。著者の祝が『[[新潮45]]』1999年6月号に寄稿したルポルタージュ「一家四人惨殺「十九歳」犯人の現在(いま)」{{Sfn|祝康成|1999|p=195}}に、新たな取材結果を加えて書籍化したもの<ref>{{Cite journal|和書|journal=[[週刊ポスト]]|author=[[高山文彦 (作家)|高山文彦]]|title=(味わい本 発見!)『19歳の結末 一家4人惨殺事件』祝康成 少年犯罪から何を読み取るべきか|volume=32|page=166|date=2000-10-20|issue=40|publisher=[[小学館]]|ref={{SfnRef|高山文彦|2000}}|id={{NDLJP|3380727/84}}}} - 通巻:第1564号(2000年10月20日号)。</ref>。その後、2004年8月には筆名を「永瀬隼介」に変更の上、本書を加筆・改題した[[角川文庫|文庫本]]『19歳 一家四人惨殺犯の告白』が[[角川書店]]より発売されている。 |
|||
{{See also|#本事件を題材にしたノンフィクション}} |
|||
* 『[[YUMENO]]』 - 本事件をモデルとして制作された映画([[映画監督|監督]]・脚本:[[鎌田義孝]])<ref>{{Cite web|和書|url=http://blog.livedoor.jp/yumeno_movie/archives/13693174.html|title=イベントレポート 2/4|accessdate=2005-03-24|date=2005-02-05|website=「YUMENOレポート」|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20050324183951/http://blog.livedoor.jp/yumeno_movie/archives/13693174.html|archivedate=2005-03-24}}</ref>。 |
|||
== 脚注 == |
== 脚注 == |
||
{{脚注ヘルプ}} |
{{脚注ヘルプ}} |
||
=== 注釈 === |
=== 注釈 === |
||
{{Notelist2|30em}} |
|||
{{Reflist|group="注釈"}} |
|||
=== 出典 === |
=== 出典 === |
||
''記事の見出しに事件当事者の実名が用いられている場合、その箇所を本文中で使われている仮名に置き換えている。'' |
|||
; 最高裁判決文 |
|||
{{Reflist| |
{{Reflist|30em}} |
||
; 書籍出典 |
|||
{{Reflist|group="書籍"}} |
|||
== 参考文献 == |
|||
; 『週刊新潮』1992年3月19日号p.145-149、『FOCUS』1992年3月20日号p.68-73の出典 |
|||
<span id="本事件を題材にしたノンフィクション">'''本事件を題材にしたノンフィクション'''</span> |
|||
{{Reflist|group="新潮"}} |
|||
* {{Cite journal|和書|journal=[[新潮45]]|author=祝康成|title=特別ノンフィクション 一家四人惨殺「十九歳」犯人の現在(いま)|volume=18|date=1999-05-18|issue=6|pages=195-231|publisher=[[新潮社]]|ref={{SfnRef|祝康成|1999}}|id={{NDLJP|3374836/98}}}} - 通巻:第206号(1999年6月号)。2000年9月15日に新潮社から発行された、本事件を題材にしたノンフィクション『[[19歳の結末 一家4人惨殺事件]]』(当時の筆名は本名の「祝康成」名義)の原典となったルポルタージュ。 |
|||
; 報道出典 |
|||
* {{Cite book|和書|title=19歳 一家四人惨殺犯の告白|publisher=[[角川書店]]|date=2004-08-25|ref={{SfnRef|永瀬隼介|2004}}|author=永瀬隼介|authorlink=永瀬隼介|url=https://www.kadokawa.co.jp/product/200403000363|edition=初版|series=[[角川文庫]]|isbn=978-4043759019|NCID=BA69111909|issue=13462|id={{国立国会図書館書誌ID|000007474890}}・{{全国書誌番号|20657474}}}} - 祝康成の著書『19歳の結末 一家4人惨殺事件』を改題・加筆、筆名変更の上で文庫化した書籍。 |
|||
{{Reflist|group="報道"}} |
|||
'''裁判資料(刑事裁判の[[判決 (日本法)|判決]]文など)''' |
|||
* [[審級|第一審]]判決 - {{Cite 判例検索システム|事件番号=平成4年(わ)第1355号、平成5年(わ)第150号|裁判年月日=[[1994年]](平成6年)8月8日|裁判所=[[千葉地方裁判所]]|法廷=刑事第1部|裁判形式=判決|判例集=『[[判例時報]]』第1520号56頁・『[[判例タイムズ]]』第858号107号|事件名=傷害、強姦致傷、強盗殺人、強盗強姦、恐喝、窃盗被告事件}} |
|||
** 判決[[主文]]:[[被告人]]を[[日本における死刑|死刑]]に処する。押収してある折りたたみ式ナイフ1丁(平成5年押第52号の2)を[[没収]]する。 |
|||
** [[裁判官]]:神作良二([[裁判長]])・井上豊・見目明夫 |
|||
** {{Cite journal|和書|journal=判例タイムズ|title=市川の一家四人殺害事件 〔'''千葉地裁'''平四(わ)第一三五五号、平五(わ)第一五〇号、傷害、強姦致傷、強盗殺人、強盗強姦、恐喝、窃盗(認定罪名・傷害、強姦、強姦致傷、強盗殺人、殺人、強盗強姦、恐喝、窃盗)被告事件、'''平6・8・8刑事第一部'''判決、有罪、控訴〕 |volume=45|date=1994-12-01|url=|issue=31|pages=107-120|publisher=判例タイムズ社|DOI=|ref={{SfnRef|判例タイムズ|1994}}|id={{NDLJP|}}}} - 通巻:第858号(1994年12月1日号)。 |
|||
<div style="border: 1px solid #aaa; margin-left: 25px; padding: 2px; background: #eee; font-size: 90%;"><!--以下、漢数字は可読性重視のためアラビア数字に置き換え--> |
|||
# 3名に対する強盗殺人罪、1名に対する殺人罪のほか、強盗強姦、強姦、傷害、恐喝、窃盗等の犯罪を連続して敢行した、犯行当時少年の被告人に対し死刑が言い渡された事例 |
|||
# 被告人の尿酸血中濃度や胎児期における大量の黄体ホルモンの投与あるいは被告人の脳波の微細な異常等と被告人の過度の攻撃性との関連性を否定し被告人に完全責任能力を認めた事例 |
|||
# いったん強盗殺人の行為を終了したあと、新たな決意に基づいて別の機会に他人を殺害したときは、右殺人の行為は、たとえ時間的に先の強盗殺人の行為に接近し、その犯跡を隠蔽する意図の下に行われた場合であっても別個独立の殺人罪を構成するとされた事例</div> |
|||
:* {{Cite journal|和書|journal=判例時報|title=千葉地裁 6. 8. 8. 判決― 被害者三名の強盗殺人、被害者一名の殺人等を犯した犯行時少年の被告人に対し、死刑が言い渡された事例 二 強盗殺人の後の殺害行為につき、新たな決意に基づいて殺人がなされたものであるとして、強盗殺人罪ではなく、殺人罪の成立を認めた事例――市川の一家四人殺害事件第一審判決|date=1995-04-21|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2795534/29|issue=1520|pages=56-70|publisher=判例時報社|DOI=10.11501/2795534|ref={{SfnRef|判例時報|1995}}|id={{NDLJP|2795534/29}}}} - 通巻:第1520号(1995年4月21日号)。 |
|||
* [[控訴]]審判決 - {{Cite 判例検索システム|事件番号=平成6年(う)第1630号|裁判年月日=[[1996年]](平成8年)7月2日|裁判所=[[東京高等裁判所]]|法廷=第2刑事部|裁判形式=判決|判例集=『東京高等裁判所(刑事)判決時報』第47巻7号76頁|事件名=傷害、強姦、強姦致傷、強盗殺人、殺人、強盗強姦、恐喝、窃盗事件|判示事項=|裁判要旨=}} |
|||
** 判決主文:本件控訴を[[棄却]]する。 |
|||
** 裁判官:神田忠治(裁判長)・[[小出錞一]]・飯田喜信(飯田は転補のため署名押印できず) |
|||
** 弁護人・検察官 |
|||
*** 弁護人:奥田保・中村治郎(控訴趣意書を連名で提出) |
|||
*** 検察官:梅村裕司(控訴趣意に対する答弁書を提出) |
|||
:* {{Cite journal|和書|journal=判例タイムズ|title=刑事裁判例 市川の一家四人殺害事件控訴審判決 〔'''東京高裁'''平六(う)第一六三〇号、傷害、強姦致傷、強盗殺人、強盗強姦、恐喝、窃盗被告事件、'''平8・7・2第二刑事部'''判決、控訴棄却・上告、原審千葉地裁平四(わ)第一三五五号、平五(わ)第一五〇号、平6・8・8判決、本誌八五八号一〇七頁〕 |volume=48|date=1997-02-01|url=|issue=3|pages=283-287|publisher=判例タイムズ社|DOI=|ref={{SfnRef|判例タイムズ|1997}}|id={{NDLJP|}}}} - 通巻:第924号(1997年2月1日号)。 |
|||
:* {{Cite journal|和書|journal=判例時報|title=名古屋高裁 8.12.16 判決― 少年ら数名が共謀して犯した強盗致傷、殺人等の事案につき、犯行時一九歳の少年であった主犯格の被告人に対して死刑を言い渡した原判決が破棄され、無期懲役が言い渡された事例――いわゆるアベック殺人事件控訴審判決|date=1997-05-11|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2795609/20|issue=1595|pages=38-57|publisher=判例時報社|DOI=10.11501/2795609|ref={{SfnRef|判例時報|1997}}|id={{NDLJP|2795609/20}}}} - 通巻:第1595号(1997年5月11日号)。事件当時19歳だった被告人に対する死刑判決を破棄した[[名古屋アベック殺人事件]]の控訴審判決(1996年12月16日:名古屋高裁刑事第2部)の参考事例として、本事件の控訴審判決を収録している。 |
|||
:* {{Cite book|和書|title=高等裁判所刑事裁判速報集(平成8年)|publisher=[[法曹会]]|date=1998-05-20|pages=78-81|ref={{SfnRef|高刑速|1998}}|editor=法務大臣官房司法法制調査部|editor-link=法務大臣|edition=第1版第1刷発行|NCID=BN0630822X|chapter=速報番号 3052号 被告人が犯行時19歳の少年であり、今後の矯正教育により改善の可能性があることは否定できないとしても、被告人に対し死刑を言い渡した原判決の量刑は相当であるとして被告人の控訴を棄却した事例|id={{国立国会図書館書誌ID|026159742}}・{{全国書誌番号|22537076}}}} |
|||
* [[上告]]審判決 - {{Cite 判例検索システム|法廷名=[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]第二[[小法廷]]|裁判形式=判決|事件番号=平成8年(あ)第864号|事件名=傷害、強姦、強姦致傷、強盗殺人、殺人、強盗強姦、恐喝、窃盗被告事件|裁判年月日=[[2001年]](平成13年)12月3日|判例集=『最高裁判所裁判集刑事編』(集刑)第280号713頁|判示事項=|裁判要旨=|url=https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=74587|ref={{SfnRef|最高裁第二小法廷|2001}}}} |
|||
** 判決主文:本件上告を棄却する。 |
|||
** [[最高裁判所裁判官]]:[[亀山継夫]](裁判長)・[[河合伸一]]・[[福田博]]・[[北川弘治]]・[[梶谷玄]] |
|||
** 検察官・弁護人 |
|||
*** 検察官:飼手義彦 |
|||
*** 弁護人:奥田保・粕谷芙美子・中村治郎 |
|||
<div style="border: 1px solid #aaa; margin-left: 25px; padding: 2px; background: #eee; font-size: 90%;"> |
|||
;裁判所ウェブサイト |
|||
# 死刑の量刑が維持された事例(市川の一家強盗殺人事件) |
|||
;『[[TKC]]ローライブラリー』(LEX/DBインターネット) 文献番号:28075105 |
|||
# 被告人が、B方に赴き、在宅していたBの祖母を殺害し、その後帰宅したBの母と父を順次柳刃包丁で殺害した上、現金、預金通帳等を強取するなどした事案で、被告人は、上記強盗の最中、Bを強姦するなどしたほか、傷害、強姦、強姦致傷、恐喝、窃盗を繰り返しているところ、その犯行態様、結果ともに悪質であることなどの情状に照らすと、被告人の罪責はまことに重大であり、本件各犯行当時、被告人が18歳から19歳であったことなどの事情を考慮しても、原判決が維持した第1審判決の死刑の科刑は、やむを得ないとし、上告を棄却した事例。 |
|||
; 『D1-Law.com』([[第一法規]]法情報総合データベース)判例体系 ID:28075105</div> |
|||
:* {{Cite journal|和書|journal=最高裁判所裁判集 刑事|title=|date=2002-01-01|issue=280|pages=|publisher=最高裁判所|ref={{SfnRef|集刑|2002}}}} - 『最高裁判所裁判集 刑事』(集刑)第280号(平成13年1月-12月)。上告審判決文のほか、弁護人による上告趣意書が収録されている。また、同書の巻末付録として、最高裁判所事務総局発行の『最高裁判所刑事裁判書総目次』(平成13年1月 - 12月分)が収録されているが、11月分(15頁)、12月分(15頁・18頁)にそれぞれ、Sに対する以下の決定が出された旨が記載されている。 |
|||
:** {{Cite journal|和書|journal=最高裁判所刑事裁判書総目次 平成13年11月分|year=2001|title=刑事雑(全) > 決定に対する異議申立 > 事件番号:平成13年(す)第509号 事件名:傷害、強姦致傷、強盗殺人、強盗強姦、殺人 申立人又は被告人氏名:S 裁判月日:(平成13年)11月27日 法廷:第二小法廷 結果:却下 原本綴丁数:194|page=15|month=11|publisher=最高裁判所事務総局|ref={{SfnRef|最高裁判所事務総局|2001}}}} |
|||
:** {{Cite journal|和書|journal=最高裁判所刑事裁判書総目次 平成13年12月分|year=2001|title=刑事雑(全) > 判決訂正申立 > 事件番号:平成13年(み)第7号、平成13年(み)第9号 事件名:傷害、強姦致傷、強盗殺人、殺人、強盗強姦、恐喝、窃盗 申立人又は被告人氏名:S 裁判月日:(平成13年)12月20日 法廷:第二小法廷 結果:棄却 原本綴丁数:218|page=15|month=12|publisher=最高裁判所事務総局|ref={{SfnRef|最高裁判所事務総局2|2001}}}} |
|||
:** {{Cite journal|和書|journal=最高裁判所刑事裁判書総目次 平成13年12月分|year=2001|title=刑事雑(全) > その他 > 事件番号:平成13年(す)第518号 事件名:裁判官忌避の申立て 申立人又は被告人氏名:S 裁判月日:(平成13年)12月3日 法廷:第二小法廷 結果:却下 原本綴丁数:344|page=18|month=12|publisher=最高裁判所事務総局|ref={{SfnRef|最高裁判所事務総局3|2001}}}} |
|||
:** {{Cite journal|和書|journal=最高裁判所刑事裁判書総目次 平成13年12月分|year=2001|title=刑事雑(全) > その他 > 事件番号:平成13年(す)第530号 事件名:忌避申立て却下決定に対する異議の申立て(表題は「抗告申立書」) 申立人又は被告人氏名:S 裁判月日:(平成13年)12月11日 法廷:第二小法廷 結果:棄却 原本綴丁数:349|page=18|month=12|publisher=最高裁判所事務総局|ref={{SfnRef|最高裁判所事務総局4|2001}}}} |
|||
:** {{Cite journal|和書|journal=最高裁判所刑事裁判書総目次 平成13年12月分|year=2001|title=刑事雑(全) > その他 > 事件番号:平成13年(す)第534号 事件名:判決訂正の申立て期間延長の申立て 申立人又は被告人氏名:S 裁判月日:(平成13年)12月12日 法廷:第二小法廷 結果:却下 原本綴丁数:352|page=18|month=12|publisher=最高裁判所事務総局|ref={{SfnRef|最高裁判所事務総局5|2001}}}} |
|||
:** {{Cite journal|和書|journal=最高裁判所刑事裁判書総目次 平成13年12月分|year=2001|title=刑事雑(全) > その他 > 事件番号:平成13年(す)第539号 事件名:判決訂正の申立て期間延長の申立て 申立人又は被告人氏名:S 裁判月日:(平成13年)12月13日 法廷:第二小法廷 結果:却下 原本綴丁数:354|page=18|month=12|publisher=最高裁判所事務総局|ref={{SfnRef|最高裁判所事務総局6|2001}}}} |
|||
* [[光市母子殺害事件]]の第一次上告審判決 - {{Cite journal|和書|journal=最高裁判所裁判集 刑事|title=平成18年6月20日判決 平成14年(あ)第730号|date=2006-08|issue=289|pages=383-479|publisher=最高裁判所|ref={{SfnRef|集刑289|2006}}}} - 『最高裁判所裁判集 刑事』(集刑)第289号(平成18年1月-8月)に収録。上告審判決文のほか、検察官による上告趣意書が収録されている。 |
|||
'''論文・判例評釈''' |
|||
* {{Cite journal|和書|journal=JCCD 犯罪と非行に関する全国協議会機関誌|author=[[菊田幸一]]|title=少年に対する死刑の適用|date=1994-10|url=https://dl.ndl.go.jp/pid/2855530/1/17|issue=70|pages=32-36|publisher=犯罪と非行に関する全国協議会|ref={{SfnRef|菊田幸一|1994}}|id={{NDLJP|2855530/1/17}}}} |
|||
* {{Cite journal|和書|journal=千葉敬愛短期大学紀要|author=[[覚正豊和]]|title=少年の死刑事件 : 千葉地裁平成6年8月8日判決に関する一考察(The Death Penalty for Minors : A Case Study of the Chiba District Court Trial of Aug. 8,1994)|date=1995-02-15|url=https://cir.nii.ac.jp/crid/1050845763771938176|issue=17|pages=7-22|publisher=[[敬愛大学]]・[[千葉敬愛短期大学]]|NAID=110004724876|ref={{SfnRef|覚正豊和|1995}}}} |
|||
** {{Cite book|和書 |title=三原憲三先生古稀祝賀論文集 |publisher=[[成文堂]] |date=2002-11-24 |pages=843-871 |ref={{SfnRef|覚正豊和|2002}} |author=覚正豊和 |editor=三原憲三先生古稀祝賀論文集編集委員会 |edition=初版第1刷発行 |isbn=978-4792315993 |NCID=BA60147758 |chapter=市川一家四人殺害事件に関する考察 |id={{国立国会図書館書誌ID|000003998814}}・{{全国書誌番号|20366614}}}} |
|||
* {{Cite journal|和書|journal=精神療法|author=[[福島章]]|title=特集 青年期事例の研究――精神療法に何ができるか――青年期危機犯罪の一例|volume=21|date=1995-04-05|issue=2|pages=3-15|publisher=金剛出版|ISBN=978-4772404792|ISSN=0916-8710|ref={{SfnRef|福島章|1995}}|id={{国立国会図書館書誌ID|000000082044}}・{{全国書誌番号|00087715}}}} - 通巻:第87号(1995年4月号)。Sの2度目の精神鑑定([[#福島鑑定]])を担当した福島が、自身の鑑定結果を専門誌上で発表したもの。 |
|||
* {{Cite journal|和書|journal=関西非行問題研究|author=神田宏|title=少年と死刑|date=1996-08-31|issue=15|pages=24-37|publisher=関西非行問題研究会|ref={{SfnRef|神田宏|1996}}|location={{JPN}}:[[兵庫県]][[西宮市]]上ケ原1-1-155 [[関西学院大学法学部]]共同研究室内 関西非行問題研究会事務局}} |
|||
* {{Cite book|和書|title=少年法判例百選|publisher=[[有斐閣]]|date=1998-06-30|pages=222-223|ref=|author=[[宮澤浩一]]([[中央大学]]教授)|editor=[[田宮裕]]|url=http://www.yuhikaku.co.jp/books/detail/4641114471|series=|isbn=978-4641114470|NCID=BA36345824|chapter=XVI 少年の刑事事件 (4) 108 少年の刑事事件における量刑――女子高生監禁殺人事件 東京高裁平成三年七月一二日判決(平成二年(う)第一〇五八号猥褻誘拐・略取、監禁、強姦、殺人等被告事件)(高刑集四四巻二号一二三頁、判時一三九六号一五頁)|volume=|issue=147|id={{国立国会図書館書誌ID|000000021418}}・{{全国書誌番号|00021572}}}} - 『[[ジュリスト|別冊ジュリスト]]判例百選』第34巻第3号(通巻:第147号)。[[女子高生コンクリート詰め殺人事件]]の控訴審判決(1991年7月12日:東京高裁)や名古屋アベック殺人事件、そして本事件の控訴審判決などについて解説している。 |
|||
* {{Cite book|和書|title=少年法判例百選|publisher=有斐閣|date=1998-06-30|pages=224-225|ref={{SfnRef|前田忠弘|1998}}|author=前田忠弘([[愛媛大学]]教授)|editor=田宮裕|url=http://www.yuhikaku.co.jp/books/detail/4641114471|series=|isbn=978-4641114470|NCID=BA36345824|chapter=XVI 少年の刑事事件 (4) 109 少年に対する死刑適用の是非――名古屋高裁平成八年一二月一六日判決(平成元年(う)第二六二号強盗致傷、殺人、死体遺棄、強盗未遂、強盗強姦被告事件)(判例時報一五九五号三八頁)|volume=|issue=147|id={{国立国会図書館書誌ID|000000021418}}・{{全国書誌番号|00021572}}}} - 『別冊ジュリスト判例百選』第34巻第3号(通巻:第147号)。名古屋アベック殺人事件の控訴審判決について解説している。 |
|||
'''新聞・雑誌記事''' |
|||
* {{Cite news|title=ニュースの追跡 話題の発掘 千葉・市川の一家4人殺し容疑者 19歳少年の犯行の背景 別れた父親に強い反発 他人への思いやり欠落 一時は甲子園目指す 家賃や高級車代を祖父負担 遊興費などをせびる 愛情のバランス失う|newspaper=[[東京新聞]]|date=1992-03-10|edition=朝刊第11版特報面|author=稲熊均|publisher=[[中日新聞東京本社]]|pages=10、15|language=ja|ref={{SfnRef|稲熊均|1992}}}} |
|||
* {{Cite journal|和書|journal=[[週刊新潮]]|title=特集 時代遅れ「少年法」でこの「凶悪」事件をどう始末する|volume=37|date=1992-03-19|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3378720/73|issue=11|pages=145-149|publisher=[[新潮社]]|DOI=10.11501/3378720|ref={{SfnRef|週刊新潮|1992}}|id={{NDLJP|3378720/73}}}} - 通巻:第1850号(1992年3月19日号)。1992年3月12日発売。犯人Sの実名や、中学卒業時の顔写真、そしてSが事件当時住んでいたマンション(船橋市本中山二丁目)の写真が掲載された。 |
|||
* {{Cite journal|和書|journal=[[週刊文春]]|title=一家四人惨殺事件 少年法を嘲笑う「19歳」悪の履歴|volume=34|date=1992-03-19|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3376439/110|issue=11|pages=204-207|publisher=[[文藝春秋]]|DOI=10.11501/3376439|ref={{SfnRef|週刊文春|1992}}|id={{NDLJP|3376439/110}}}} - 通巻:第1677号(1992年3月19日号)。 |
|||
* {{Cite journal|和書|journal=[[FOCUS]]|title=FOCUS REPORT 「待伏せ刺殺」「溶解炉」「伯母撲殺」「妹殺し」 続発「残酷殺人」若者の動機 一家4人を待伏せして殺した「19歳のワル」|volume=12|date=1992-03-20|issue=12|pages=68-73|publisher=新潮社|ref={{SfnRef|FOCUS|1992}}}} - 通巻:第527号(1992年3月20日号)。1992年3月13日発売。犯人Sの実名や、フードを被されて送検されるSの写真(撮影:[[清水潔]])が掲載された。 |
|||
* {{Cite journal|和書|journal=週刊文春|title=一家四人惨殺事件 少年法を問い直す 19歳少年の作文と自画像 一挙掲載|volume=34|date=1992-03-26|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3376440/21|issue=12|pages=40-43|publisher=文藝春秋|DOI=10.11501/3376440|ref={{SfnRef|週刊文春2|1992}}|id={{NDLJP|3376440/21}}}} - 通巻:第1678号(1992年3月26日号)。 |
|||
* {{Cite journal|和書|journal=[[週刊宝石]]|title=市川・一家4人惨殺 祖母、母、父、妹が順ぐりに毒牙に…… 監禁された15歳少女が凶悪犯と過こした「恐怖の一夜」|volume=12|date=1992-03-26|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3374244/23|issue=11|pages=44-45|publisher=[[光文社]]|DOI=10.11501/3374244|ref={{SfnRef|週刊宝石|1992}}|id={{NDLJP|3374244/23}}}} - 通巻:第503号(1992年3月26日号)。 |
|||
* {{Cite journal|和書|journal=[[アサヒ芸能|週刊アサヒ芸能]]|title=19歳凶悪犯に「死刑」は適用できるか?!|volume=47|date=1992-03-26|issue=12|pages=176-177|publisher=[[徳間書店]]|ref={{SfnRef|週刊アサヒ芸能|1992}}}} - 通巻:第2359号(1992年3月26日号)。 |
|||
* {{Cite journal|和書|journal=[[週刊現代]]|title=月曜「特ダネ」スクランブル 2 ダンプ運転手→風俗嬢→ルポライター 「流転人生」の末やっと手にした幸せも暗転 千葉県市川市一家4人惨殺事件の母・Dさんの「悲運」|volume=34|date=1992-03-28|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3372698/102|issue=12|pages=203-204|publisher=[[講談社]]|ref={{SfnRef|週刊現代|1992}}|id={{NDLJP|3372698/102}}}} - 通巻:第1685号(1992年3月28日号)。 |
|||
* {{Cite journal|和書|journal=[[女性自身]]|author=|title=市川一家4人惨殺核心レポート! 祖父の“金まみれ”の溺愛、母の無関心が狂わせた「19才少年A」の無軌道人生! 「俺は、お前らなんかより金があるんだ!」|volume=35|date=1992-03-31|issue=13|pages=217-220|publisher=[[光文社]]|ref={{SfnRef|女性自身|1992}}}} - 通巻:第1593号(1992年3月31日号)。 |
|||
* {{Cite journal|和書|journal=[[読売ウイークリー|週刊読売]]|title=死刑大胆分析 このまま廃止か 法相4代続いて執行のハン押さず|volume=51|date=1992-04-05|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1815097/11|issue=15|pages=20-25|publisher=[[読売新聞社]]|DOI=10.11501/1815097|ref={{SfnRef|週刊読売|1992}}|id={{NDLJP|1815097/11}}}} - 通巻:第2276号(1992年4月5日号)。 |
|||
* {{Cite journal|和書|journal=週刊読売|author=[[ねじめ正一]]|title=きょうもサッサと日が暮れる。連載20|volume=51|date=1992-04-05|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1815097/31|issue=15|pages=20-25|publisher=[[読売新聞社]]|DOI=10.11501/1815097|ref={{SfnRef|ねじめ正一|1992}}|id={{NDLJP|1815097/31}}}} - 通巻:第2276号(1992年4月5日号)。 |
|||
* {{Cite journal|和書|journal=[[FRIDAY (雑誌)|FRIDAY]]|author=[[朝倉喬司]](事件ジャーナリスト)|title=一家4人惨殺事件 母が父が次々殺される… 15歳の少女は「その夜」何を見たのか|volume=9|date=1992-05-01|issue=18|pages=48-51|publisher=講談社|ref={{SfnRef|朝倉喬司|1992}}}} - 通巻:第399号(1992年5月1日号)。1992年4月18日発売。 |
|||
* {{Cite journal|和書|journal=FRIDAY|author=朝倉喬司(事件ジャーナリスト)|title=一家4人惨殺事件 野球好きな内気少年が凶行に及ぶまでの「心の軌跡」を追う!|volume=9|date=1992-05-15|issue=19|pages=48-51|publisher=講談社|ref={{SfnRef|朝倉喬司2|1992}}}} - 通巻:第400号(1992年5月8日・15日GW〈ゴールデンウィーク〉特大号)。 |
|||
* {{Cite journal|和書|journal=週刊アサヒ芸能|author=宇野津光緒|title=●好評シリーズ22 人と事件 だれもが知りたい「その後」を衝く!床に伏せた主婦の背中を包丁で突き刺し…19歳少年「一家4人惨殺」公判が再現した「戦慄現場」|volume=48|date=1993-03-25|issue=12|pages=54-57|publisher=徳間書店|ref={{SfnRef|宇野津光緒|1993}}}} - 通巻:第2408号(1993年3月25日号)。 |
|||
* {{Cite journal|和書|journal=女性自身|author=文/加藤賢治、取材/三浦春子、堀ノ内雅一、写真/高野博、小口隆志|title=本誌独占インタビュー!「19才少年、一家4人惨殺事件」がついに論告求刑を!たったひとり生き残った長女がいま初めて真情を―記憶がないんです。あの惨劇の日のことが…|volume=37|date=1994-04-19|issue=16|pages=72-78|publisher=光文社|ref={{SfnRef|女性自身|1994}}}} - 通巻:第1690号(1994年4月19日号)。事件で唯一生き残った被害者Bへのロングインタビュー記事。Bの後ろ姿の写真が掲載されている。 |
|||
* {{Cite journal|和書|journal=[[マルコポーロ (雑誌)|マルコポーロ]]|author=中尾幸司|title=判決要旨 一家四人惨殺事件。死刑判決文が明かした、十九歳少年の「暴虐と凌辱。」|volume=4|editor=[[花田紀凱]]|date=1994-09-01|issue=8|pages=142-145|publisher=文藝春秋|ref={{SfnRef|中尾幸司|1994}}}} - 1994年9月号。 |
|||
* {{Cite journal|和書|journal=[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]|author=飯島真一(ジャーナリスト)|title=少年法を問い直す十九歳の「冷血」 一家四人を惨殺した「少年」が犯した最大の罪|volume=72|date=1994-10-01|issue=13|pages=190-201|publisher=文藝春秋|ref={{SfnRef|飯島真一|1994}}|id={{NDLJP|3198616/126}}}} - 1994年10月号。 |
|||
* {{Cite journal|和書|journal=FRIDAY|author=取材/文 山岸朋央|title=連載ドキュメント 追跡ファイル'84〜'95 「事件の現場」から 第7回 千葉「19歳少年」一家4人殺害 被告の母が歩む“終わりなき懺悔の日々”|volume=12|date=1995-01-27|issue=4|pages=56-57|publisher=講談社|ref={{SfnRef|山岸朋央|1995}}}} - 通巻:第556号(1995年1月27日号)。 |
|||
'''事件を取り扱った書籍''' |
|||
* {{Cite book|和書|title=少年犯罪論|publisher=[[青弓社]]|date=1992-12-20|pages=151-178|ref={{SfnRef|朝倉喬司|芹沢俊介|1992}}|author=朝倉喬司(当該コラムを執筆)|editor=芹沢俊介(編著)|editor-link=芹沢俊介|url=https://www.seikyusha.co.jp/bd/isbn/9784787230607/|edition=第一版第一刷発行|isbn=978-4787230607|NCID=BN0844350X|chapter=二つの事件の「場所」|id={{国立国会図書館書誌ID|000002222981}}・{{全国書誌番号|93016053}}}} |
|||
* {{Cite book|和書|title=精神変容のドラマ 鑑定例と狂気誌|publisher=[[青土社]]|date=1992-07-25|pages=191-216|ref={{SfnRef|小田晋|1992}}|author=小田晋|authorlink=小田晋|isbn=978-4791753253|NCID=BN11343547|chapter=殺人のパレオサイコロジー|id={{国立国会図書館書誌ID|000002373183}}・{{全国書誌番号|95018804}}}} - 起訴前の1回目の精神鑑定([[#起訴まで|小田鑑定]])を手掛けた小田による著書。 |
|||
* {{Cite book|和書 |title=若者犯罪の社会文化史 犯罪が映し出す時代の病像 |publisher=有斐閣 |date=1997-08-30 |pages=238-243 |ref={{SfnRef|間庭充幸|1997}} |author=間庭充幸 |edition=初版第1刷発行 |series=有斐閣選書 |isbn=978-4641182882 |ncid=BA31985691 |chapter=第3部 2章 イメージに生きる青少年のゲーム型犯罪 > 3 ゲーム化した殺人といじめ――生と死 > A スペクタクル社会と罪障感の消失 |id={{国立国会図書館書誌ID|000002625737}}・{{全国書誌番号|98034399}}}} |
|||
* {{Cite book|和書|title=子どもの脳が危ない|publisher=[[PHP研究所]](発行者:江口克彦)|date=2000-01-10|pages=73-98|ref={{SfnRef|福島章|2000}}|author=福島章|url=https://www.php.co.jp/books/detail.php?isbn=978-4-569-60920-1|edition=第一版第一刷|series=[[PHP新書]]|isbn=978-4569609201|NCID=BA4480665X|chapter=第4章 ある少年死刑囚の場合|issue=101|id={{国立国会図書館書誌ID|000002852853}}・{{全国書誌番号|20026471}}}} - 「福島鑑定」を手掛けた福島による著書。 |
|||
* {{Cite book|和書|title=非行臨床と司法福祉 少年の心とどう向きあうのか|publisher=[[ミネルヴァ書房]]|date=2003-11-20|pages=179-193|ref={{SfnRef|加藤幸雄|2003}}|author=[[加藤幸雄]]|url=https://www.minervashobo.co.jp/book/b48543.html|edition=初版第1刷発行|isbn=978-4623038831|NCID=BA64415065|chapter=5章 非行臨床における専門家の役割 > 「3] 犯罪心理鑑定の意義と方法|id={{国立国会図書館書誌ID|000004282823}}・{{全国書誌番号|20513562}}}} - 初出は加藤の著書『子どもと青年の心の援助』(ミネルヴァ書房、2000年)に収録された「犯罪心理鑑定の意義と方法」。 |
|||
* {{Cite book|和書|title=殺人現場を歩く|publisher=[[筑摩書房]](発行人:菊池明郎)|date=2008-02-10|pages=59-73|ref={{SfnRef|蜂巣敦|2008}}|author=蜂巣敦|url=https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480424006/|edition=第一刷発行|series=[[ちくま文庫]]|isbn=978-4480424006|NCID=BA84792674|chapter=市川市一家四人殺害事件-人間が暴発する直前に見た「意味」と「無意味」のパノラマ|issue=は-29-2|id={{国立国会図書館書誌ID|000009278001}}・{{全国書誌番号|21379026}}|coauthor=山本真人(写真)}} |
|||
'''『年報・死刑廃止』シリーズ([[インパクト出版会]])''' |
|||
* {{Cite book|和書|title=「オウムに死刑を」にどう応えるか 年報・死刑廃止96|publisher=インパクト出版会|date=1996-05-10|pages=50-71|ref={{SfnRef|年報・死刑廃止|1996}}|author1=中道武美|author2=高橋美成|author3=安田好弘|authorlink3=安田好弘|author4=中村治郎|author5=小川原優之|editor=(編集)年報・死刑廃止編集委員会(編集委員)安田好弘・菊池さよこ・対馬滋・江頭純二・島谷直子・永井迅・岩井信・阿部圭太・深田卓(インパクト出版会)|url=http://impact-shuppankai.com/products/detail/50|edition=第1刷発行|isbn=978-4755400551|NCID=BN14778659|chapter=死刑と無期の境界線|id={{国立国会図書館書誌ID|000002499056}}・{{全国書誌番号|96061424}}}} |
|||
* {{Cite book|和書|title=世界のなかの日本の死刑 年報・死刑廃止2002|publisher=インパクト出版会|date=2002-07-15|pages=234,238|ref={{SfnRef|年報・死刑廃止|2002}}|author=年報・死刑廃止編集委員会|editor=|url=http://impact-shuppankai.com/products/detail/113|edition=第1刷発行|isbn=978-4755401237|NCID=BA58218070|id={{国立国会図書館書誌ID|000003672514}}・{{全国書誌番号|20319859}}}} |
|||
* {{Cite book|和書|title=死刑廃止法案 年報・死刑廃止2003|publisher=インパクト出版会|date=2003-07-15|pages=360,365|ref={{SfnRef|年報・死刑廃止|2003}}|author=年報・死刑廃止編集委員会|editor=|url=http://impact-shuppankai.com/products/detail/124|edition=第1刷発行|isbn=978-4755401312|NCID=BA62765055|id={{国立国会図書館書誌ID|000004195414}}・{{全国書誌番号|20511842}}}} |
|||
* {{Cite book|和書|title=無実の死刑囚たち 年報・死刑廃止2004|publisher=インパクト出版会|date=2004-09-20|pages=292,299|ref={{SfnRef|年報・死刑廃止|2004}}|author=年報・死刑廃止編集委員会|editor=|url=http://impact-shuppankai.com/products/detail/134|edition=第1刷発行|isbn=978-4755401442|NCID=BA6881640X|id={{国立国会図書館書誌ID|000007499011}}・{{全国書誌番号|20781088}}}} |
|||
* {{Cite book|和書|title=オウム事件10年 年報・死刑廃止2005|publisher=インパクト出版会|date=2005-10-08|pages=196,204|ref={{SfnRef|年報・死刑廃止|2005}}|author=年報・死刑廃止編集委員会|editor=|url=http://impact-shuppankai.com/products/detail/145|edition=第1刷発行|isbn=978-4755401572|NCID=BA73512470|id={{国立国会図書館書誌ID|000007926932}}・{{全国書誌番号|20966941}}}} |
|||
* {{Cite book|和書|title=光市裁判 なぜテレビは死刑を求めるのか 年報・死刑廃止2006|publisher=インパクト出版会|date=2006-10-07|pages=278,287|ref={{SfnRef|年報・死刑廃止|2006}}|author=年報・死刑廃止編集委員会|editor=|url=http://impact-shuppankai.com/products/detail/158|edition=第1刷発行|isbn=978-4755401695|NCID=BA78669775|id={{国立国会図書館書誌ID|000008329809}}・{{全国書誌番号|21219025}}}} |
|||
* {{Cite book|和書|title=オウム死刑囚からあなたへ 年報・死刑廃止2018|publisher=インパクト出版会|date=2018-10-25|pages=140-148|ref={{SfnRef|年報・死刑廃止|2018}}|author=安田好弘|editors=(編集)年報・死刑廃止編集委員会(編集委員)岩井信・可知亮・笹原恵・島谷直子・高田章子・永井迅・安田好弘・深田卓(インパクト出版会) / (協力:死刑廃止国際条約の批准を求めるフォーラム90、死刑廃止のための大道寺幸子・[[島田事件|赤堀政夫]]基金、深瀬暢子・国分葉子・岡本真菜)|url=http://impact-shuppankai.com/products/detail/276|edition=第1刷発行|isbn=978-4755402883|NCID=BB27008886|chapter=死刑執行と抗議行動 二〇一七年一二月一九日の死刑執行 上川陽子法務大臣は裁判所の判断を仰がないで、自分たちで再審事由がないと判断して死刑を執行した|id={{国立国会図書館書誌ID|029261195}}・{{全国書誌番号|23165608}}}} - 2018年1月25日に開催された死刑執行抗議集会での安田の発言。『フォーラム90』第158号に収録。 |
|||
'''その他''' |
|||
* {{Cite 判例検索システム|事件番号=昭和61年(ワ)第13561号|裁判年月日=1990年(平成2年)3月14日|裁判所=[[東京地方裁判所]]|法廷=民事第12部|裁判形式=判決|事件名=[[損害賠償]]等請求事件}} |
|||
** 掲載誌 - {{Cite journal|和書|journal=判例時報|title=無修正の全裸写真を写真報道誌に掲載されたことが人格的利益の侵害として、雑誌発行元・編集人・発行人に損害賠償義務が認められた事例 〔損害賠償等請求事件、'''東京地裁'''昭六一年(ワ)第一三五六一号、平'''2・3・14'''民事第一二部'''判決'''、一部認容、一部棄却(確定)〕|volume=|date=1990-10-21|issue=1357|pages=85-93|publisher=判例時報社|ref={{SfnRef|判例時報|1990}}}} - 通巻:第1357号(1990年10月21日号)。 |
|||
** 掲載誌 - {{Cite journal|和書|journal=判例タイムズ|title=6 民・商事、民法、一般不法行為 無修正の全裸写真の写真報道誌への掲載が人格的利益の侵害として、雑誌発行元・編集人・発行人に不法行為責任が認められた事例 〔'''東京地裁'''昭六一年(ワ)第一三五六一号、損害賠償等請求事件、'''平2・3・14民事第一二部判決'''、一部認容・確定〕|volume=42|date=1991-01-01|issue=1|pages=189-199|publisher=判例タイムズ社|ref={{SfnRef|判例タイムズ|1991}}}} - 通巻:第741号(1991年1月1日号)。[[三浦和義]]が『[[Emma (雑誌)|Emma]]』1985年10月10日号に掲載された自身の全裸写真(本事件の被害者Aが撮影)をめぐり、同誌の発行元である文藝春秋社などを訴えた[[民事訴訟]]の判決文。 |
|||
** 裁判官:大喜多啓光(裁判長)・小澤一郎・相澤眞木 |
|||
** 判決主文 |
|||
**# 被告らは、原告に対し、各自金100万円及びこれに対する昭和60年10月10日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。 |
|||
**# 原告のその余の請求をいずれも棄却する。 |
|||
**# 訴訟費用はこれを一〇分し、その九を原告の、その余を、被告らの負担とする。 |
|||
**# この判決は、第一項に限り、仮に執行することができる。 |
|||
** [[原告]]:三浦和義(訴訟代理人弁護士:林浩二・樋渡俊一) |
|||
** [[被告]]:株式会社文藝春秋(右代表者代表取締役 上林吾郎)・松尾秀助・鈴木琢二 - 被告らの訴訟代理人弁護士:佐藤忠宏 |
|||
* {{Cite book|和書|title=ゼンリン住宅地図'92 千葉県 市川市|publisher=[[ゼンリン]]|date=1991-09|ref={{SfnRef|ゼンリン|1991}}|series=ゼンリン住宅地図|id={{国立国会図書館書誌ID|000003555506}}・{{全国書誌番号|20446013}}}} |
|||
* {{Cite book|和書|title=死刑と無期懲役|publisher=[[筑摩書房]]|date=2010-02-10|pages=66-68|ref={{SfnRef|坂本敏夫|2010}}|author=坂本敏夫|authorlink=坂本敏夫|url=https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480065339/|edition=第一刷発行|series=[[ちくま新書]]|isbn=978-4480065339|NCID=BB01060563|chapter=第三章 死刑執行というメッセージ > 死刑執行再開のきっかけになった事件|issue=830|id={{国立国会図書館書誌ID|000010702641}}・{{全国書誌番号|21725532}}}} |
|||
* {{Cite book|和書|title=生身の暴力論|publisher=講談社|date=2015-09-20|pages=|ref={{SfnRef|久田将義|2015}}|author=久田将義|authorlink=久田将義|url=https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000210822|edition=第一刷発行|series=[[講談社現代新書]]|isbn=978-4062883368|NCID=BB19529817|chapter=|issue=2336|id={{国立国会図書館書誌ID|026719051}}・{{全国書誌番号|22650409}}}} |
|||
== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
||
* [[日本における死刑囚の一覧 (2000年代)]] |
|||
* [[少年犯罪]] |
|||
* [[ |
** [[日本における被死刑執行者の一覧]] |
||
{{死刑囚}} |
|||
* [[YUMENO]] |
|||
** 本事件を基に制作された映画。 |
|||
* [[リンゼイ・アン・ホーカーさん殺害事件]] |
|||
** 本事件から15年後の2007年、本事件と同じ市川市行徳地区のマンションで発生した凶悪事件。 |
|||
{{ |
{{Good article}} |
||
{{デフォルトソート:いちかわいつか |
{{デフォルトソート:いちかわいつかよにんさつかいしけん}} |
||
[[Category:平成時代の殺人事件]] |
[[Category:平成時代の殺人事件]] |
||
[[Category: |
[[Category:1992年の日本の事件]] |
||
[[Category:日本の少年犯罪]] |
|||
[[Category:日本の性犯罪]] |
[[Category:日本の性犯罪]] |
||
[[Category:日本の強盗事件]] |
[[Category:日本の強盗事件]] |
||
[[Category: |
[[Category:一家殺傷事件]] |
||
[[Category:市川市の歴史|いつか4にんさつしんしけん]] |
|||
[[Category:1992年の日本の事件]] |
|||
[[Category:1992年3月]] |
|||
[[Category:メディア問題]] |
[[Category:メディア問題]] |
||
[[Category:市川市の歴史|いつかよにんさつかいしけん]] |
|||
[[Category:行徳]] |
|||
[[Category:1992年3月]] |
|||
[[Category:日本の死刑確定事件]] |
2024年11月20日 (水) 14:31時点における最新版
この項目には暴力的または猟奇的な記述・表現が含まれています。 |
この項目には性的な表現や記述が含まれます。 |
市川一家4人殺害事件 | |
---|---|
場所 | 日本・千葉県市川市幸二丁目5番1号 行徳南スカイハイツC棟8階(806号室)[1][2][3] |
座標 | |
標的 | 会社役員の男性A(当時42歳)一家 |
日付 |
1992年(平成4年)3月5日 - 6日 5日16時30分ごろ(現場一室に侵入) – 6日9時ごろ(身柄確保) (UTC+9) |
概要 |
暴力団に脅されて200万円の支払いを要求された少年Sが、会社役員A宅に侵入し、一家5人のうち4人を殺害、長女Bにも怪我を負わせた。 Sは本事件(一家殺害事件)の1か月前、Aの長女B(負傷)を車で轢いて強姦するなど、本事件前から複数の暴力的犯罪を犯していた。 |
攻撃手段 | 電気コードで首を絞める、柳刃包丁で刺す |
攻撃側人数 | 1人 |
武器 | 電気コード、柳刃包丁1本(刃渡り22.5 cm)[4] |
死亡者 | 4人(Aと母親C・妻D・次女E) |
負傷者 | 1人(Aの長女B) |
損害 | 現金約34万円、預金通帳計9冊(額面合計424万3,412円)、印鑑7個[5] |
犯人 | 少年S・T(事件当時19歳)[6] |
動機 |
|
対処 | 犯人Sを逮捕[7]・起訴[8] |
刑事訴訟 | 死刑(少年死刑囚:執行済み)[6] |
少年審判 | 逆送致 |
影響 |
|
管轄 |
|
市川一家4人殺害事件(いちかわいっかよにんさつがいじけん)は、1992年(平成4年)3月5日夕方から翌6日朝にかけ、千葉県市川市幸二丁目(行徳地区)にあるマンションで発生した強盗殺人事件(少年犯罪)[1][2]。
少年S・T(以下「S」、事件当時19歳)が3月5日夕方、会社役員の男性A(当時42歳)宅に侵入し、翌朝までに一家5人のうち、4人を次々に殺害した[7]。Sは2001年(平成13年)12月に最高裁で死刑判決が確定し(少年死刑囚)[9]、2017年(平成29年)12月19日に東京拘置所で死刑を執行されている(44歳没)[6]。10歳代の少年による残忍な犯行として社会に衝撃を与え[8]、その重大性から少年法の在り方などに論議を呼んだ事件でもある[11]。
概要
[編集]犯人の少年S(事件当時19歳)は、暴力団と女性関係を巡るトラブルを起こし、現金200万円を要求されたため、その金を工面する目的で、3月5日夕方に雑誌出版・編集会社役員A(当時42歳)宅へ侵入[12]。留守番していたAの母親C(83歳)に金品を要求したところ、警察に通報されそうになったことから電気コードで絞殺し[13]、次いで帰宅してきたAの妻D(36歳)、A本人、次女E(4歳:保育園児)の一家4人を相次いで柳刃包丁で刺殺したほか、長女B(当時15歳:高校1年生)も包丁で斬りつけて負傷させた[14]。この間、SはBを連れ出し、A夫妻が経営していた会社にも金品を奪いに行ったほか、Bを現場の一室や、連れ出したラブホテルで複数回にわたって強姦した[15][16]。翌朝、Sは現場に駆けつけた千葉県警の警察官により、銃刀法違反で現行犯逮捕されたが[17]、その直前には抗拒不能状態に陥っていたBに包丁を持たせた上で、彼女が犯人であるかのように偽装工作した上で逃走しようとしていた[18]。Sは逮捕直後の取り調べでも容疑を否認し[18]、「Bとは事件前から親しかった」と虚偽の供述をしたが、同日夜になって犯行を認め、強盗殺人容疑で逮捕された[2]。
SがA宅を知ったきっかけは、本事件の約1か月前(同年2月12日)に自転車で夜道を走っていたBを車で轢き、自宅アパートに連れ込んで強姦するという強姦致傷事件を起こした際、Bの持っていた生徒手帳を見たことがきっかけだった[19]。Sはその事件に前後して、1991年(平成3年)10月19日 - 1992年2月27日にかけ、東京都や千葉・埼玉の両県で、別の行きずりの女性1人に対する傷害・強姦事件(強姦事件)や、車の運転中に先行車が遅かったことや、後続車からあおり運転をされたこと、後続車に追い越されたことなどに立腹し、相手の運転手を暴行して負傷させる傷害事件3件(うち2件目では恐喝、3件目では窃盗を伴う)を起こしていた[20]。
刑事裁判で、被告人Sは4人に対する強盗殺人罪(判決ではEへの殺害行為のみ殺人罪と認定)、Bに対する強姦致傷罪・強盗強姦罪・傷害罪のほか、余罪事件での傷害・強姦・恐喝・窃盗の罪にも問われた。事件当時のSの責任能力、そして当時少年だったSへの死刑適用の可否が争われたが、1994年(平成6年)8月8日に千葉地裁は、Sの完全責任能力を認定した上で、1983年(昭和58年)に最高裁が示した死刑適用基準を引用し、「結果の重大性から、死刑はやむを得ない」などとして、Sを死刑とする第一審判決を宣告した[21][22]。Sは控訴したが、東京高裁は1996年(平成8年)7月2日に原判決を支持し、Sの控訴を棄却する判決を宣告[23]。Sはさらに最高裁へ上告したが、2001年12月3日に第二小法廷で上告棄却の判決を言い渡され[9]、同月21日付で死刑が確定[注 2][24][25]。それから約16年後、死刑囚Sは第3次再審請求中の2017年12月19日に東京拘置所で死刑を執行された[26]。犯行時少年に対する死刑確定・執行は、いずれも永山則夫(連続ピストル射殺事件の犯人)以来だった[9][6]。
Sが犯行時少年だったことから、死刑判決が言い渡された際には新聞各紙で死刑制度や少年法に関する論議が活発に交わされたが、犯行内容の凄惨さや[27]、犯人S・被害者双方の人権への配慮[28]などの事情が絡まり、犯行内容はほとんど報じられなかった[29]。一方、『週刊新潮』『FOCUS』(ともに新潮社発行)は事件発生直後、Sを実名報道した[30][31]。また、死刑執行時には法務省(法務大臣:上川陽子)がSの死刑執行を実名とともに公表し[32]、新聞各紙もSを実名報道した(後述)。作家の永瀬隼介(祝康成)は事件後、犯人Sの交流や、事件関係者(被害者遺族や、犯人Sの親族ら)への取材を行い、本事件を題材としたノンフィクション『19歳の結末 一家4人惨殺事件』(「参考文献」の節も参照)を出版した。
略年表
[編集]本事件前の経緯 | |||
---|---|---|---|
事件 | 年 | 月日 | 出来事 |
江戸川事件 | 1991年(平成3年) | 10月19日 | S、東京都江戸川区内で傷害事件を起こす[33]。 |
暴力団とのトラブル | 1992年(平成4年) | 2月6日 | Sが市川市のフィリピンパブから、店に無断でホステスを連れ出し、自宅アパート(千葉県船橋市)に泊める[4]。 それ以降、Sは暴力団関係者から追われる身になる。 |
中野事件 | 2月11日 | S、東京都中野区内の路上を歩いていた女性を殴って負傷させ、自宅アパートで強姦する傷害・強姦事件を起こす[33]。 | |
B事件 | 2月12日 | S、市川市内で本事件の被害者B(男性Aの長女)を車で轢いて負傷させ、自宅アパートで強姦する強姦致傷事件を起こす[20]。この時、Bの住所(市川市幸二丁目)を知る[34]。 同日、ホステスの一件で暴力団組長に呼び出され、200万円を要求される(暴力団からの取り立て)[4]。 | |
河原事件 | 2月25日 | S、市川市内で交通トラブルを発端とした傷害・恐喝事件(河原事件)を起こす[34]。 | |
岩槻事件 | 2月27日 | S、埼玉県岩槻市(現:さいたま市岩槻区)内で交通トラブルを発端とした傷害・窃盗事件(岩槻事件)を起こす[34]。 | |
事件発生 | |||
年 | 月日 | 出来事 | |
本事件 | 1992年 | 3月5日 | S、A宅に窃盗目的で侵入[4]。Aの母親Cを絞殺し、帰宅してきた妻DとA本人を次々と刺殺[35]。 |
3月6日 | S、Bを連れてA・D夫婦が経営していた会社「ルック」の事務所から預金通帳などを奪う[36]。現場に戻った後、Bの妹(Aの次女)を刺殺[36]。 | ||
捜査の経緯 | |||
逮捕 | 1992年 | 3月6日 | S、現場に駆けつけた警察官に銃刀法違反の現行犯で逮捕される[17]。当初は容疑を否認するが、後に認める。 |
3月7日 | S、強盗殺人容疑で逮捕[7]。 | ||
精神鑑定 | 3月26日 | S、千葉地検によって鑑定留置される。同日以降、小田晋による精神鑑定(小田鑑定)を受ける。 | |
少年審判 | 10月1日 | 千葉地検がSを「刑事処分相当」の意見書付きで[8]、千葉家裁へ送致[37]。 | |
10月27日 | 千葉家裁(宮平隆介裁判官)は少年審判の結果、Sを千葉地検へ逆送致[38]。 | ||
起訴 | 11月5日 | 千葉地検、Sを一家殺害事件と江戸川事件に関し、強盗殺人・傷害など5つの罪で千葉地裁へ起訴[8]。 | |
裁判の経緯 | |||
審級 裁判所 |
年 | 月日 | 出来事 |
第一審 千葉地裁 |
1992年 | 12月25日 | 初公判: 千葉地裁刑事第1部(神作良二裁判長)で初公判。被告人Sは起訴事実を認めるが、殺意などに関して争う[39]。 |
1993年(平成5年) | 2月17日[40] | 中野事件・河原事件・岩槻事件に関しても、傷害・恐喝・窃盗など4つの罪で追起訴[41]。 | |
5月19日 | 再度の精神鑑定申請: 第3回公判で、弁護側が新たな精神鑑定を申請。その後、福島章による再鑑定(福島鑑定)が実施される[42]。 | ||
11月22日 | 第4回公判で、「福島鑑定」結果が提出される[43]。 | ||
1994年(平成6年) | 4月4日 | 死刑求刑: 論告求刑公判で、検察官が被告人Sに死刑を求刑[44]。 | |
6月1日 | 最終弁論: 第一審は同日の公判で結審。弁護人はSが当時心神耗弱だった旨などを主張し、死刑回避を求める[45]。 | ||
8月8日 | 死刑判決: 判決公判、千葉地裁刑事第1部はSに死刑を宣告。Sは即日控訴[22]。 | ||
控訴審 東京高裁 |
1995年(平成7年) | 6月29日 | 東京高裁(神田忠治裁判長)で控訴審初公判。弁護人は死刑回避を強く求める[46]。 |
1996年(平成8年) | 7月2日 | 控訴棄却判決: 東京高裁は原判決を支持し、Sの控訴を棄却する判決を宣告。Sは即日上告[47]。 | |
上告審 最高裁 |
2001年(平成13年) | 4月13日 | 弁論: 第二小法廷(亀山継夫裁判長)で上告審の公判(弁論)が開かれ、弁護人が死刑回避を求める[48]。 |
12月3日 | 上告審判決: 第二小法廷は原判決を支持し、Sの上告を棄却する判決を宣告[9]。 | ||
12月20日 | 死刑確定: 第二小法廷、Sからの判決訂正申立を棄却する決定[49]。21日付で死刑が確定[注 2][24][25]。 | ||
死刑執行 | 2017年 | 12月19日 | 死刑執行: 法務省(法務大臣:上川陽子)の死刑執行命令により、東京拘置所でSの死刑が執行される(44歳没)[6]。当時、Sは第3次再審請求中だった(参照)[26]。 |
犯人S
[編集]S・T | |
---|---|
生誕 |
1973年1月30日[50] 日本:千葉県千葉市[50](後の稲毛区)[51] |
死没 |
2017年12月19日(44歳没)[6] 日本:東京拘置所[6](東京都葛飾区小菅) |
死因 | 絞首刑 |
住居 | 日本:千葉県船橋市本中山二丁目(事件当時)[8] |
出身校 |
葛飾区立立石中学校(1988年3月卒業) 堀越高等学校(1989年5月中退)[52] |
職業 | 飲食店員(事件当時は無職)[33] |
雇用者 | 祖父(鰻の販売・加工業を経営)[33] |
罪名 | 傷害、強姦、強姦致傷、強盗殺人、殺人、強盗強姦、恐喝、窃盗[53] |
刑罰 | 日本における死刑(絞首刑) |
配偶者 | フィリピン人女性[54] |
動機 | 暴力団に脅され、200万円を要求されたこと |
有罪判決 | 死刑(確定:2001年12月21日)[注 2][24][25] |
国 | 日本 |
都道府県 | 千葉県 |
死者 | 4人 |
負傷者 | 1人 |
凶器 | 柳刃包丁 |
逮捕日 | 1992年3月6日[7] |
本事件の犯人は、男S・T[6][30](1973年〈昭和48年〉1月30日[50] - 2017年〈平成29年〉12月19日[6]、以下「S」と表記)である。本籍地は東京都江戸川区[55]。
事件当時、Sは19歳1か月の少年で、千葉県船橋市本中山二丁目[8]のアパート(座標)で1人暮らしをしていた[33]。また、事件当時は身長178 cm、体重80 kgと大柄かつ筋肉質な体格で[注 3][58]、髪にパーマをかけ[30]、茶色のメッシュを入れていた[31]。堀越高校(2年時に中退)在学時に喫煙・飲酒をするようになり、1991年時点ではラーク5箱程度を常用し、酒はウイスキーを特に好み、ボトル2分の1程度を適量としていた[33]。
逮捕後の獄中生活により、体重は120 kgを超えていた[59]。後にSの精神鑑定(福島鑑定)を担当した福島章 (1995) は、自身が鑑定を手掛けた時点で、Sの体重は121 kgに達していた旨を述べている[60]。上告審結審後に弁護人に就任し、死刑確定後も再審請求審の弁護人を担当していた安田好弘は、Sの体格について「僕の横幅を二つぐらい並べた大きさ」と形容した上で、「このぐらいデカければ執行なんてとてもできっこない、S君を持ち上げることもできやしないんじゃないか」と考え、獄中にいたSに対し、死刑執行回避のために体を大きくすることを提案していた[61]。しかし、その目論見が外れたことから、安田は死刑執行後に抗議集会で「(Sの遺体が入るような)特注の棺も準備したのでしょうし、彼の重さに耐えうるロープも用意したのではないか、予行演習も周到にやったと思うんです。本当に、強固な意志による、周到に用意された計画的な殺人ということです。そこに現れている国家の意思はものすごく強い、無慈悲に強い、という感じがします」と述べ、死刑執行を批判している[61]。
幼少期
[編集]Sは1973年1月30日、男性Z・女性Y[注 4]の夫婦の間に長男として[50][51]、千葉市(後の千葉市稲毛区)にあった官川産婦人科で生まれた[51]。Sの母方の祖父X(Sの母親Yの父親:本事件当時72歳)は[65]、市川市でウナギの加工・販売などを行う株式会社「X商店」を経営しており[注 5][52]、Sの父親(Xの娘婿)であるZも「X商店」で働いていた[50]。
Sの出生当時、Z・Y夫婦は市川市内に居住していたが[注 6][50]、Sの誕生直後、松戸市の公団住宅に転居[63]。Sは1977年(昭和52年)に幼稚園に入園し、1979年(昭和54年)4月には[50]、松戸市立和名ケ谷小学校に入学した[64]。また、Sの誕生から5年後には、Z・Y夫婦の間に次男(Sの弟)が誕生している[63]。1980年(昭和55年)9月[50]、当時小学2年生だったSは[63]、家族が東京都江東区へ転居し[50]、同区越中島の公団団地に移住したことをきっかけに[注 7][69]、江東区立越中島小学校に転校した[64]。当時、Sは水泳教室に通ったり、英会話やピアノを習うなど平穏な生活を続けていたが、父Zが仕事上の失敗から「X商店」に多額の損失を被らせた上、私生活でもギャンブルや女性問題などで借金を重ね、暴力団員らによる厳しい取り立てに遭った[50]。また、ZはYに対し暴力を振るったり[63]、Sや次男を虐待したりするようになり[68]、やがてストレスを溜め込んだYもSを虐待するようになった[70]。そのような生活の中(当時Sは9歳)[71]、親友であった同級生の少年が一家揃って敬虔なエホバの証人の信者であることを知り[72]、自らもその教義に魅了され、週に1、2回の勉強会に参加するようになった[73]。しかし、Zの借金は膨らみ続け、最終的には熱心に読んでいた経典を破り捨てられたことがきっかけで、Sは初めて恐怖の象徴であったZに歯向かっている[74]。また、当時は週末になると、着替えと勉強道具を持って市川市にあったXの家に電車で通い、泊まり込んでおり、祖父Xのことは「お金持ちで、頼りになる働き者」として尊敬していた[75]。
家庭崩壊
[編集]Zは1982年(昭和57年)12月19日、突然S(当時小学4年生)に対し、弟とともに母Yの実家(X宅)へ遊びに行くよう言いつけ、その後、X宅にいたSに電話で、自分が社長をしていた会社が倒産し、サラ金などから借金をしているので債権者や暴力団の人々が押しかけてくるだろうから、そのまましばらく実家にいるように伝えた[51]。その後、ZはX宅に来て、子どもたちには「必ず迎えに来るから」と行って出ていったが、子どもたちのために最低限の生活を支えることもせず、自分だけ逃げる格好となった[76]。Sは母親に連れられ、5歳年下の弟(Z・Y夫婦の次男)とともに夜逃げ同然に家を出て、祖父X宅にしばらく身を寄せた[50]。しかし、Xは自らが築き上げた全財産を吐き出してZの借金を清算せざるを得なくなり[77]、「X商店」も倒産の危機に立たされる[78]。結果、XはYと孫2人(Sとその弟)に絶縁を言い渡し[77]、妻(Sの母方の祖母)とともに入水自殺を決意して橋から川に飛び込んだが、助けられたため未遂に終わっている[65]。
Sは母Yや弟とともに、東京都葛飾区立石のアパートに移住した[注 8][50]。1983年(昭和58年)1月、小学4年生の3学期が始まったが、Sはその数日後から転校という形で[79]、葛飾区立清和小学校に通学するようになった[64]。同年3月、YがZと調停離婚して「S」姓に復氏し、Sら息子2人の親権者となったことから、Sはそれ以降、会計事務所に務めるYによって女手一つで育てられた[50]。それ以降、Yは息子2人の生活を支えるため、証券情報会社で経理として遅くまで働くようになった[80]。
このような生活環境の劣化や転校が多かったことなどから、Sは立石に引っ越して以降、いじめを受けるようになり、貧しい生活に転落したこと、そして最大の庇護者であった祖父Xに見放されたこともあって、周囲への不信感や猜疑心を募らせるようになった[81]。一方、ラジオ放送でジミ・ヘンドリックスのロックを聴いたことがきっかけで、ロックに熱中するようになったが、レコードを購入できる金がなかったため、近所のディスカウントストアからカセットテープを万引きするようになった[82]。また、同時期には放課後に電車に乗って浅草に通うようになったが、偶然公衆電話に誰かが忘れて行った財布を置き引きしたことがきっかけで、遊興費を得るために観光客からスリや置き引き、かっぱらいを繰り返し、神社での賽銭泥棒もした[83]。このような生活を送る中で、地元では「悪のレッテルを貼られると損をする」として、おとなしい真面目な少年を装っていた一方、「貧乏を笑う世の中のやつらからはいくら盗ったっていいんだ。世の中、なんだかんだいったって金なんだ」という考えを抱くようになった[84]。
中学生時代
[編集]Sは1985年(昭和60年)4月に葛飾区立立石中学校に入学した[50]。同年冬[85]、母Yや弟とともに葛飾区青戸のアパート (2DK) に引っ越したが、このアパートの大家夫婦は、Sについて「礼儀正しい子供」という印象を抱いていた[86]。このころには水泳の他に空手や野球などを習い[87]、少年野球チームではエースかつ4番打者として活躍していた[88]。一方で体も大きくなり、やられればやり返すようになって、大抵の場合に自己の腕力が通用することを知った[52]。当時は逸脱的な行動は学校外にとどめ、校内では目立つことはしなかったが[87]、地元の不良少年たちから喧嘩の強さを褒められたことがきっかけで喧嘩に明け暮れ、Yや弟への家庭内暴力も振るうようになった[89]。
Xは元婿Zを追い出して以降、一から出直して事業を年商数十億円規模に回復させた[65]。このころには、YとXとの関係は修復されていたが、SはXを「一番辛くて寂しいとき、手を差し伸べてくれなかった」と恨んでおり、かつてのように尊敬することはできなくなっていた[85]。また、Sが中学1年になるころから[65]、父Zが再びYやSら母子3人と接触を持つようになり、3人が暮らすアパートを訪れるようになったり、一家で外食したりするようになったが、SはZを嫌っており、「子供の教育上、男親が必要だから」と元夫Zと付き合う母Yにも良い感情を持たなかった[87]。
中学2年のころ、シンナーを常用していた同年齢の少女と初めて肉体関係を持っている[90]。一方でこのころ、「(自分は)何のために生きているんだろう」と考えるようになり、かつて魅了されたキリスト教の教義に救いを求めたこともあったが、Sは既に「神に祈っても幸せにはなれない」という考えを抱いており、教会通いもすぐにやめた[91]。甲子園に憧れていたことから[92]、中学3年のころには学習塾に通いつつ、大学進学率の悪くない野球強豪校に進学することを希望していた一方、クラスメートの少女から告白され、彼女と交際するようになった[93]。しかし、同年秋に自動車事故で右橈骨を骨折して入院したため、学内のテストを受ける機会を失い、公立高校受験のための偏差値が出せなかった[87]。
高校時代
[編集]結局、Sは野球強豪校の日大一高と岩倉高校を受験したが、いずれも不合格に終わり[94]、1988年(昭和63年)4月にはXからの経済的援助を得て、堀越高校(東京都中野区)に入学した[33]。入学後はクラス委員を務め、成績も上位をキープしていたが、相変わらず喧嘩に明け暮れ続け、家庭内暴力も悪化[95]。気に入らないとしばしば母Yや弟に殴る蹴るなどの暴行を加え、Yに対し暴力を振るう際には「女は頭を抑える者がいないとつけあがるから駄目だ」という性差別的な理由を述べていた[96]。このため、YはSを連れて警視庁の少年相談室に相談へ赴くなどしており[33]、ときには一時的に家を出てビジネスホテルに泊まったこともあった[96]。
なお、同年12月には中学時代に在住していたアパートから、青砥駅近くの3DKのマンションに引っ越している[注 9][98]。これは、Yが「長男に個室を与えれば、家庭内暴力も収まるはず」と考えたことから、より広い部屋に引っ越すことを決断したものだったが、結果は裏目に出た[99]。
甲子園を目指していたSだったが[92]、堀越高校の硬式野球部の練習場は遠方で通いきれず[注 10]、軟式野球部に入らざるを得なかった[33]。その軟式野球部も、先輩のしごきがひどくて怪我することもあり、挫折感を味わったことや[96]、学校のレベルが低く感じられたことなどから、Sは次第に高校生活に対する意欲を失い[33]、「こんな学校にいても大学には行けない」と勉強をなおざりにし[96]、不良仲間と盛り場を徘徊したりして登校しないことが多くなった[33]。また、遊興費欲しさにアルバイトを始めた一方、高校には悪友が多く、友人と日常的に喧嘩し、「勝つと金を取り、負けると金を払う」習慣が身についた[96]。このころから、刃物を常時携帯したり、酒や煙草を常用するようになって、ついには他校生に乱暴して停学処分を受けたことを契機に[33]、1989年(平成元年)5月31日付で同校を退学した[69]。退学理由について、堀越高校は「恐喝事件を起こしたため、停学処分にして生活指導を行ったが、家に待機していなければいけない時間にいなかったり、無断外泊を繰り返していたため、母Yから『退学させてほしい』と申し出があった」と説明している一方[69]、Yは知人に対し「友だちのスクーターに無免許で乗って警察に補導されたのを誰かが学校に知らせて停学。停学期間中に2度家に(学校から)電話があった時、たまたま家にいなくて(退学させられた)」と話している[100]。その後、Sを別の高校に紹介しようとした知人がおり、母Yも最初はその話に乗り気だったが、最終的には断りの返事を入れている[100]。
高校中退後
[編集]Sは高校中退後、アメリカ留学を希望したこともあったが、親族や知り合いに止められた[101]。また、中学時代から交際していた少女とは熱心に交際しており、アルバイトをするだけでなく、互いに親の財布から金を盗んだりもしていたが、1989年秋ごろ、娘がSと交際することに反対していた彼女の父親がYの許へ抗議に訪れ、最終的には親同士で協力して2人を別れさせることになった[102]。やがて、彼女は両親の説得に根負けしてSと別れたが、これに激怒したSは、ナイフを持って彼女の父親を脅す事件を起こし、軽犯罪法違反の罪に問われて家庭裁判所へ送致された[103]。Sの知人は、Sが高校中退後に暴力事件を繰り返し、その度に祖父Xや母親Yが被害者に謝罪して示談にしていたという旨を証言している[注 11][104]。
その後、レンタルビデオ店や運送会社などでアルバイトをした後、同年11月ごろから「X商店」の仕事の手伝いをするようになった[33]。この動機は、Xが常に忙しく働いている姿を見て、「仕事というものがそんなに面白いものか、その世界を覗いてみたかった」という理由だったが、昼間は「X商店」で働き、夜は繁華街で水商売の店員をするなどの二重生活をしており、「X商店」での働きぶりについては芳しい評価をされていなかった[96]。当時、会社の先輩には礼を尽くしており、客にもきちんと応対はしていたが、出勤時間は極めてルーズで、怒り出すとしばしば人が変わっていたという[105]。Sの親類は祖父XがSに対し、「また夜遊びか」と言いながら1万円札を数枚手渡すようなことがあった旨を証言している[69][106]。『東京新聞』記者の稲熊均は、XがSに後のクラウンの購入費用や、様々な遊興費を与えていたり、Sが補導された際には娘Yとともに被害者に謝罪したり、示談金を払ったりしている旨を報じているが、その背景としてXの知人の「Xは『あの子たちの父親を奪っちまったんだから、おれがその分の愛情を与えなきゃならねえ』と言っていた」という証言を取り上げている[107]。一方、永瀬隼介 (2004) はSの将来を心配したXが「このままだとお前もZのようになる」と忠告したものの、Sは聞く耳を持たなかったという旨を述べている[108]。また、このころには「X商店」の現金がなくなる事件が続き、SはXから盗みの疑いを掛けられたが、それに腹を立て、1990年(平成2年)1月17日22時ごろにX宅へ赴き、就寝中だったXの顔面を蹴り、水晶体脱臼・硝子体出血などの怪我を負わせる事件を起こした[注 12][33]。さらには父親Zと揉み合いになり、台所からパン切り包丁を持ち出す事件も起こしている[109]。
このころ、「X商店」の年上の同僚に市川市内のフィリピン・パブへ連れて行かれたことがきっかけで、様々なフィリピン・パブに足繁く通うようになった[33]。また、ギタースクールに通い、バンドの練習もするようになっていたが、バンド仲間や貸スタジオで知り合った者たちとともにハルシオンやLSDなどの薬物を乱用した[110]。その理由について、Sは永瀬への手紙で、自分よりギターが上手な者たちや、幼少期から憧れていたジミ・ヘンドリックスら、多くのロックアーティストたちが薬物を常用していたことを挙げている[111]。
1990年9月、SはYから80万円出してもらって購入したオートバイに乗っていたところ、交通事故で肋骨8本を骨折したが、その治療が長引くうちに怠け癖がつき、「X商店」を休みがちになった[33]。その間の1991年(平成3年)3月には、合宿講習で運転免許を取得し、同年3月にはYの援助でクラウンロイヤルサルーン(433万円余)をローンで購入して乗り回すようになった[33]。同年6月、Yから契約金58万円余のほか、月10万円強の部屋代を出してもらい、本中山のアパートで一人暮らしを始めるようになった[33]。それ以降、後述のフィリピン人女性aaと結婚するまでに3人の女性と同棲生活をしたが、いずれも短期間で相手に去られ長続きしなかった[33]。当時のSの行状については、深夜に帰宅した際に大きな音を立ててドアを閉めたり、近隣住民に違法駐車を注意されて逆上したりといったトラブルを起こし、時には暴力団の名前を出して相手を威嚇していたことや[30]、クラウンの座席には常にバットやナイフなどを置いてあったことなどが証言されている[112]。また、1991年には傷害事件で取り調べを受けている[28]。一方、日曜日には朝早くから、野球をしていた中学生の弟を練習のために送り迎えしていたという証言もある[67]。
被害者一家
[編集]本事件の被害者一家は事件当時、現場となった市川市幸二丁目5番1号のマンション「行徳南スカイハイツ」C棟(座標)の806号室に3世代5人で居住し[1]、慎ましくも平穏な暮らしを営んでいた[113]。このマンションは、営団地下鉄(現:東京メトロ)東西線の行徳駅から南東約1 km離れた東京湾沿いの埋立地にある高層住宅街の一角に建つ9階建てのマンションで、市川水路(座標)に面して建っていた[114]。また、このマンションはX宅の玄関から見える位置に所在していた[115]。
A・D夫婦は1987年(昭和62年)3月に結婚し、同年8月に雑誌の出版・編集などを手掛ける株式会社[34]「ルック」[注 13]を設立[116]、Dが代表取締役、Aが取締役をそれぞれ務めていた[34]。
一家が居住していた806号室は事件後、1年以上空き部屋になっていたが[67]、事件から10年が経過した2002年4月26日時点では[117]、別の住民が入居している[118]。
- 男性A
- 1949年(昭和24年)8月10日生まれ(42歳没)[34]。Dの夫およびB・E姉妹の父親で、Cの息子に当たる[2]。
- 群馬県で生まれ[119]、立教大学を卒業後は性風俗関係の雑誌で取材・撮影をしており、ロス疑惑で注目された三浦和義のスワップ写真を撮影したこともあった[116]。後に仕事を通じてDと知り合い、1987年に結婚[120]。Dの連れ子であるBのことも実子同然に可愛がっており、仕事仲間に対し「結婚したら大きな娘が出来ちゃったよ」と自慢していた[121]。結婚後は年頃の娘を持ったため、風俗関係の仕事からは離れ[31]、事件の数年前からは料理専門のフリーライター・カメラマンに転身して『月刊食堂』(柴田書店)で「繁盛の秘訣」という連載記事を手掛けたり、漫画誌のグルメ欄を担当したりしていた[122]。また『月刊食堂』の元編集長・玉谷純作に対しては「ベルギーのペンションを買いたい。ベルギーならドイツにもフランスにもすぐに行ける。〔事件の発生した〕1992年にEC統合があるので、あちらに拠点を持って活動したい」と話していた[116]。
- 3月6日0時30分ごろ、Sに柳刃包丁で背中を刺され失血死した[36]。死亡した被害者4人の中で、3番目に殺害された犠牲者である。
- 少女B
- 1976年(昭和51年)3月19日生まれ(事件当時15歳)[34]。A・D夫婦の長女で、Cの孫、Eの姉に当たる[2]。
- 母Dと前夫との間に生まれ、DがAと結婚した際に養父であるAと養子縁組して改姓した[34]。事件当時は船橋市内にある県立高校の1年生で、クラスの副委員長を務めたり、演劇部・美術部で活動したりしており、将来は美術関係の大学に進学することを夢見ていた[34]。中学時代の3年間は毎日妹Eを保育園のバスで送迎しており、事件直前には小学校の同級生に対し「将来はお母さんと同じカメラマンになりたい」「新しいお父さんも本当のお父さんのように優しい」と話していた[123]。
- 被害者一家5人の中で唯一生存したものの、本事件前にSによって2回強姦され[34]、本事件では目の前で母親D、父親A、妹Eを次々に殺害され、その間にも強姦被害を受けた[36]。事件後は熊本県の母Dの実家に引き取られた(後述)。
- 女性C
- 1908年(明治41年)7月4日生まれ(83歳没)[34]。Aの母親で、Dの義母、B・E姉妹の父方の祖母に当たる[2]。
- 横浜で生まれてAの父親と結婚し、夫が電気絶縁材料を扱う大手メーカーの工場で働いていた時期に長男Aを出産した[124]。しかし夫はAが中学生の時に胸の病気を悪化させて亡くなっており、それ以降は東京で女手一つで息子を育てていた[124]。事件当時は高齢だったため、散歩に出る時以外は玄関北側の自室で過ごすことが多かった[34]。
- 3月5日16時30分ごろ、806号室に侵入してきたSによって首を絞められて窒息死した[4]。死亡した4人の中で最初の犠牲者である。
- 女性D
- 1955年(昭和30年)6月19日生まれ(36歳没)[34]。熊本県八代市出身[1]。Aの妻で、Cの義理の娘、そしてB・E姉妹の実母である[2]。
- 地元の高校を卒業後に結婚したが、長女Bを出産した直後に離婚した[125]。それ以降は20歳代前半で上京すると、女手一つでBを育てながら証券会社の事務職、建設会社の経理、ダンプカーの運転手、水商売などの職を転々とし[125]、千葉市栄町の風俗店に勤めていたころに客からの勧めで、風俗誌などのルポライターに転身[126]。「中村小夜子」のペンネームで夕刊紙にソープの探訪記事を書くなどしていたが[注 14][116]、Bが小学校5年生の時[125]、仕事を通じてAと知り合い[123]、結婚した[121]。Aとの間に生まれた次女Eを出産後は、夫とともに料理関係のライターとして働いていた[116]。
- 3月5日19時過ぎごろに長女Bとともに帰宅した直後、Sに柳刃包丁で背中を刺され失血死した[4]。死亡した4人の中で2番目に殺害された。
- 女児E
- 1987年(昭和62年)3月17日生まれ(4歳没)[34]。Bの妹で、Cにとっては2人目の孫である[2]。
- A・D夫婦の間に生まれ[34]、事件当時は東京都江戸川区内の保育園に通園していた[注 15][128][129]。
- 3月6日6時30分ごろ、Sに柳刃包丁で背中を刺され失血死した[36]。死亡した4人の中で最後に殺害された。
事件前の暴力犯罪
[編集]江戸川事件(傷害事件)
Sは1991年10月19日16時50分ごろ、当時勤務していた「X商店」の配達の帰り[130]、クラウンを運転して東京都江戸川区上篠崎の「X商店」上篠崎店[注 16]付近の道路を走行していたが[33]、前を走っていた車の速度が遅いなどとして立腹[135]。道路が狭かったため、追い越すことができず、自身の後方にも何台か自動車が連なっている状態だったため、Sは先行車両にもっと速度を上げて走るよう、クラクションを鳴らしたが、先行車両の同乗者が窓を開けて顔を出し、Sの方を振り返り「うるせえ」と言って唾を吐いた[130]。Sは先行車が赤信号に従って停車すると、その運転席側に駆け寄り、「とろとろ走りやがって、邪魔じゃないか」などと怒鳴りつけながら、空いていた窓から手を差し入れてエンジンキーを回し、エンジンを停止させた[135]。そして、運転していた男性甲(当時24歳)が降車すると、Sはいきなり甲の顔面を拳で殴りつけ、胸ぐらをつかんで店内に連れ込んだ上で、さらに彼の顔面を殴りつけた上、厨房内に置かれていた鰻焼台用鉄筋(長さ約112 cm)で、背中と左肘をそれぞれ1回殴るなどして、全治3週間の怪我を負わせた[135]。弁護人は上告趣意書で同事件について、Sが赤信号で停車した先行車両に文句を言いにいったところ、運転手と同乗者3人からいろいろなことを言われて立腹し、傷害事件に至った旨を主張している[130]。また、福島 (1995) は本事件を含む交通関係の事件(河原事件・岩槻事件)について、「「相手が悪い」から懲らしめなければならないという「正義感のようなもの」が動機として働いているという」と述べている[87]。
暴力団とのトラブル
[編集]1991年7月、Sはよく通っていたフィリピン・パブのうちの1軒で働いていたフィリピン国籍の女性aa(当時20歳[注 17])と知り合い、彼女を追ってフィリピンまで赴き、同年10月31日に正式に婚姻すると、日本に連れ帰ってアパートで同棲するようになった[33]。しかしaaは姉の病気を心配し、1992年(平成4年)1月22日ごろにフィリピンへ帰国し、それ以降は日本に戻らなかったため、Sは再び1人で暮らすようになった[33]。Sはその後も2回ほどフィリピンへ渡航したが、その渡航前に2回ほどX宅に窓ガラスを割るなどして侵入し、現金110万円ほどを奪った[136]。飯島真一 (1994) は、「1月15日ころには祖父宅に窓ガラスを割って侵入し、現金を奪い、翌日からのフィリピン旅行で費消し、更に、同月下旬ころにも、窓ガラスを割って同宅に押し入り、同人に金員を要求するなどしていた」という論告の一節を引用している[137]。
一方、Sは1991年12月ごろから、aaと知り合った店とは別の市内のフィリピンパブに通うようになり、そこでフィリピン国籍のホステスabと知り合った[33]。1992年2月6日ごろ、Sはabを店の関係者に無断で連れ出し、自宅に泊めたが、同月8日ごろ、abが泣きながら店に戻ってきたため[33]、店が関係する外国人ホステス斡旋業者らは、Sにその件で「落とし前」として多額の金を払わせようと考え、その取り立てを暴力団に依頼することになる[138]。
中野事件(傷害・強姦事件)
1992年2月11日4時30分ごろ[135]、Sは高円寺に住むバンド仲間の家からクラウンを運転して帰る途中[139]、東京都中野区新井五丁目31番2号(座標)付近の道路を走行していたところ、アルバイト先から帰宅途中の女性乙(当時24歳)が1人で道路左側の歩道を歩いている姿を目撃[135]。乙を殴って鬱屈した気分を晴らそうという衝動に駆られ、道を尋ねるふりをして乙に近づくと、いきなり顔面を拳で数回殴り、全治約3か月半の怪我(鼻骨骨折・顔への擦り傷)を負わせた[135]。座り込んだ乙の顔を見たところ、意外に若かったことから、Sは乙を強姦しようと企て、髪を鷲掴みにして引っ立て、「車に乗れ」と言いながら抱きかかえるようにして、クラウンの後部座席に押し込んだ[135]。そして、「病院に連れて行く」などと言ってクラウンを本中山のアパートまで走らせ[33]、自室(203号室)まで連れ込んだ[135]。同日6時30分ごろ、Sは自室アパートで乙の衣服を剥ぎ取り、彼女を強姦した[33]。
Sは永瀬宛の手紙で、顔面から流血し、無抵抗になる乙の姿を見て溜飲を下げるとともに「自信」を持ち、さらにそれ以上の悦楽を得ようという欲求を抑えられなくなっていき、暴力がエスカレートしていった旨を述べている[140]。しかし同日夜、ホステスを連れ出した件で店から依頼を受けた暴力団の関係者7人がSのアパートに押し寄せ、Sはクラウンで逃げ出したものの、クラウン後部の窓ガラスを粉々に割られている[141]。
- この事件について、検察官はSが当初から乙への強姦の犯意を抱いていたことを前提に、一連の犯行は強姦致傷の1罪に該当する旨を主張していたが、千葉地裁 (1994) はSが捜査・公判を通じ、一貫して「乙を殴った後、顔を見て意外に若いと気づいたから強姦しようと思った」と供述しており、客観的状況もそれと矛盾しないことから、傷害罪と強姦罪がそれぞれ別々に成立することを認定している[5]。
B事件(強姦致傷事件)
2月12日未明、少女Bは深夜まで勉強していたところ、シャープペンシルの芯が切れたことから、替芯を買いに自転車で外出した[142]。そして、コンビニエンスストアで替芯を購入し、コピーをして家路についたが[143]、自宅に戻る途中の2時前ごろ、自転車で市川市幸二丁目2番2号(座標)付近を走っていたところ[135]、背後から走ってきた車に追突され、自転車ごと路上に転倒、右膝に擦り傷を負った[144]。この車は、Sが運転していたクラウンで、Sはクラウンから降車すると、Bに因縁をつけ始めた[注 18][145]。しかし、Bが自分を病院に連れて行くよう何度も懇願したことから[145]、Sはひき逃げと言われないため[34]、浦安市内の救急病院に向かって治療を受けさせた[144]。しかし治療後、SはBをクラウンに乗せて自宅に送る途中の2時30分過ぎごろ、市川市塩浜の路上で停車すると、車内でBに折りたたみナイフ(刃体の長さ約6.7 cm)を見せつけ、「車のガラスを割ったのはお前だろう」[109]「黙って俺の言うことを聞け」などと脅迫した[34]。そして、ナイフでBの左頬を切りつけたり[34]、手の指の間に刃先を差し込んでぐりぐりこじるなどの暴行を加え[142]、全治約2週間の怪我(顔面・左手の挫創)を負わせた[34]。そしてBをアパートに連れ込んだSは、3時 - 6時ごろの間、2回にわたってBを強姦し[34]、Bの両手足をビニール紐で縛った[146]。その後、Bのバッグから現金を取り[145]、生徒手帳を見て住所・氏名・保護者名などを知った[注 19][4]。SがBを強姦しようとした理由について、判決では「クラウンに乗せて自宅に送る途中、劣情を催した」と認定されているが[135]、福島 (1995) は「病院での治療中、長時間待たされたことに腹を立てたため」と述べている[138]。
早朝[145]、Sは母Yに用事があったため[143]、Bを置いて外出したが[145]、Bはその隙に紐を外し、ゴミ箱に捨ててあった生徒手帳を拾うと、Sのアパートから逃げ出し[146]、1人で帰宅した[145]。翌日(2月13日)20時ごろ、Bと中学時代から親しかった同級生の少女がB宅を訪れた際にBの顔の傷を見たが、この時Bは「ローソンの帰りに道で男に襲われた」と話しており、特に動揺した様子はなかったという[148]。一方、別の友人に対しては「高校で先輩にやられた」と話しており、友人たちから「そんなの、負けずにやっちゃいなよ」と言われていた[149]。その後、友人らから警察に届け出るよう説得され、2月の終わりごろに被害届を提出した[149]。しかし、犯人は不明で[150]、Sは捜査対象に入っていなかった[151]。
暴力団からの取り立て
1992年2月12日夜、Sは住吉会相良興業の代表(以下「組長」)から、六本木の全日空ホテル2階のラウンジへ呼び出された[152]。Sはそこで、組長やその配下の組員から、自身の行為が誘拐罪であり、ホステスが在留期限を待たず帰国すれば店の損害は約200万円になるなど、遠回しに金を払うよう求められ、「女を連れ出した件についてはそれなりのことをするつもりである」と答え、その場を辞去した[4]。
しかし、今さらその金をXやYに出してもらうわけにもいかず、他に金策するあてもなかったため、200万円を支払えなければ暴力団から危害を加えられると恐怖したSは、取り立てを恐れてアパートに帰れず、車中泊をし続けた[153]。その間、組長からは何の連絡もなかったが、Sはこれを「自分の部屋の電話が料金未払いで止められているからだ」と考え、暴力団への恐怖を募らせていき[154]、「強盗でもするか、パチンコ屋に押し入ろうか」などとあれこれ思案した挙句、B事件の際に住所・氏名などを知ったB宅に侵入し、金品を盗むことを思いついた[4]。そのため、家族の在宅状況を探るべく、時間を変えてB宅に電話したり、同月下旬・3月1日の2回にわたり、「行徳南スカイハイツ」C棟に赴いたりした[4]。2月下旬、最初に赴いた際には、マンション入口から1階エレベーターホールまで行き、防犯カメラがあることを確認しただけで帰ったが[155]、このころにはマンション住民が、クラウンから髪を赤く染めた大柄な男が降りてきて、マンション周辺をうろついている姿を目撃していた[150]。そして3月1日昼ごろに訪れた際には、806号室の表札を見てそこがBの父親Aの居室であることを確認し、チャイムを押してみたが、誰も出なかったため、そのまま帰った[155]。A一家の家族構成や、家人の日常生活のサイクルは把握していなかった[156]。
一方、Sはこの時期、車の運転をめぐるトラブルで2回の暴力・恐喝事件を起こしている[153]。
河原事件(傷害・恐喝事件)
Sは2月25日5時ごろ、市川市河原6番18号(座標、以下「河原現場」)付近の路上をクラウンで走っていたところ、接近してきた後続車がパッシングしてきたり、激しくクラクションを鳴らしたりしてきたり、エンジンを激しく空ぶかししたりしてきたことに憤慨[157]。後続車の直前で急停車すると、運転していた男性丙(当時22歳[34]:会社員[158])に近づき、「煽ってんじゃねえよ」などと運転方法に文句を言った[34]。さらに開いていた運転席側の窓から手を差し入れ、丙の車のエンジンキーを抜き取ってクラウンに戻ったが、丙はキーを取り戻そうとSに追いすがってきた[34]。そのため、Sは自車のトランクから取り出した鰻焼台用鉄筋(長さ約112 cm)で丙の左側頭部を1回殴り、両腕で頭を抱え蹲った彼の左半身を多数回殴り、安静加療約10日間を要する頭部挫創の怪我を負わせた[34]。さらにSは丙の車の運転席に乗り込み、丙を助手席に乗せると、同日5時過ぎごろ - 6時ごろまでの間、河原現場から市川市塩浜2丁目31番地(座標)付近の路上を経て、再び河原現場まで走らせながら、車内で暴力団員を装いつつ、丙を「おめえ、どうするんだよ」「俺らの相場じゃ、こういう場合は7、8万だ。金曜日までに用意しておけ。免許証はそれまで預かっておく」などと脅迫して畏怖させ、彼の自動車運転免許証1通を奪い取った[34]。
岩槻事件(傷害・窃盗事件)
同月27日0時30分ごろ、Sはクラウンを運転して埼玉県岩槻市東町一丁目7番26号(現:埼玉県さいたま市岩槻区東町一丁目7番26号、座標、以下「東町現場」)付近の路上を走っていた[34]。現場の道路は片側2車線だった[159]。その際、男性丁(当時21歳[34]:大学生[160])が運転する自動車が、走行車線のトレーラーを高速で抜き去った後[159]、Sの車を追い越した[34]。しかし、Sは丁の運転に腹を立て、赤信号のために停車した丁の車の前方に割り込んで停車[注 20][34]。降車してきた丁に対し、「ヤクザ者をなめんじゃねえ」などと言いながら、ズボンのポケットから折りたたみ式ナイフを取り出し、「これで刺してもいいんだぜ」と言って丁の左大腿部を突き刺した[34]。そして、丁を彼の運転していた車の助手席に乗せると、Sはその車を運転して、岩槻市大字加倉1943番地(現:岩槻区加倉1943番地、座標)まで移動したが、その車内で折りたたみナイフを使い、丁の左右大腿部、右肩、胸、背中などを二十数か所にわたって突き刺したり、切りつけたりなどして、全治6週間の怪我(全身への刺し傷および切り傷、右手の中指・薬指の伸筋腱断裂など)を負わせた[注 21][34]。同日1時20分ごろ、丁がSの隙を見て車内から逃げ出したため、Sは車で丁を追い掛けようとしたが、轢き殺すとまずいと思って断念した[162]。Sは東町一丁目7番24号(現:岩槻区東町一丁目7番24号、座標)付近の路上まで車を移動させると、車内にあった丁の運転免許証1通と、丁の父親名義の自動車検査証を盗み出し[34]、自分のクラウンまで戻った[162]。これは後日、丁から金品を脅し取る目的だった[34]。
弁護人らは上告趣意書で、丁がトレーラーを追い越した後、追越車線を走っていたSのクラウンを追い越すために速度を上げたが、突然Sの進路前方に入ってきた(道路交通法第70条:安全運転の義務に違反する行為)ため、それによって丁の車に追突しそうになったSが憤慨して犯行に至った旨を主張している[159]。
一家惨殺
[編集]しかし、このように暴力沙汰を繰り返しても200万円を工面することはできず[162]、事件当日の3月5日、SはB宅に侵入して現金や預金通帳を盗む意思を最終的に固めた[4]。現場付近にはさらに新しい高級マンションもあったが、Sはこのマンションで金を得ようと考えた[165]。
同日、Sは朝からパチンコとゲームセンターで時間を潰し[166]、16時ごろにクラウンを運転して現場マンションへ向かった[4]。マンション近くのタバコ屋の脇に車を停めると、公衆電話からBの電話番号に電話をかけ、5、6回コールしても誰も出ないことを確認した[167]。Sはクラウンをマンション近くの公園の脇に移動して駐車すると、エントランスに設置してあった防犯カメラを避けるため[167]、まず外階段で2階まで上がってから、エレベーターで8階まで上った[4]。そして、B宅(806号室)の玄関のチャイムを鳴らしてみたが、応答がなかったため、玄関口のドアを試しに開けてみたところ[168]、意外にも鍵はかかっていなかった[4]。このため、家人がいる可能性を考えてすぐにその場を離れ、エレベーター横の階段に座って様子を見たが、約20分経っても反応がなかったため[168]、16時30分ごろ、玄関口から同室に侵入した[4]。
C殺害
[編集]玄関に入ると、玄関近くの北側洋間からテレビの音が聞こえたため、Sはその中を覗き、その中で女性Cが寝ているのを確認した[4]。Sはその後、玄関の突き当たりにあった居間に入り、現金や預金通帳などを物色し始めたが、なかなか見つからなかったため、Cを脅して現金などを奪おうと決意[4]。寝ていたCの脚あたりを蹴りつけて起こすと、「通帳を出せ。どこにあるんだ」などと脅したが[4]、CはSの予想に反して恐怖することもなく[169]、出入り口付近にあった棚に置かれていた自分の財布から現金8万円(1万円札8枚)を取り出し[4]、「これをやるから帰りなさい」と言い[169]、室外に逃れようとした[4]。Sはその態度に逆上し[170]、Cの後襟首を掴んで通帳を出すよう凄んだが[4]、なおもCは応じなかった[170]。
その後、Sは緊張して尿意を覚えたため、Cに「通帳を探しておけよ」と言ってトイレに行ったが[170]、Cはその隙に居間に出て電話をかけようとした[4]。これに気づいたSは、咄嗟に体当たりしてCを仰向けに突き倒すと、その顔を覗き込むようにして「何をするつもりだったんだ」などと言ったが[4]、CはSの顔面に唾を吐きかけた[170]。これに激昂したSは、Cを頭ごと激しく床に突き倒すと[注 22]、近くにあった電気コードを引き抜いた[170]。CはなおもSに爪を立てて抵抗したが[170]、SはCの腹部付近に馬乗りになると、電気コードをCの首に巻き付け、両手で電気コードを強く引っ張った[4]。しかし、一度力を緩めるとCが起き上がる気配を示したため、Sは再び力を込めて数分間電気コードで首を絞め続け、Cを絞殺した[4]。そして、Cの死亡を確認すると、首に巻かれていた電気コードを抜き取り、死体を引きずって北側洋間に敷かれていた布団に寝かせた[4]。また、極度の潔癖症だったSは、Cの唾液を汚らしく感じたため、洗面所で頭・顔・首・手を何度も洗い[172]、806号室を出たが、この時点では殺人を犯したことへの実感は乏しく、むしろ唾を吐きかけてきたCへの怒りや、「こんなきったねえところにいられるか」という嫌悪感の方を強く抱いていた[173]。そして「長期戦を覚悟」し[173]、付近の自動販売機でタバコとジュースを買い[4]、約30分後に再び806号室に戻った[172]。Sはさらに室内を物色し、Cの財布の中から現金約10万円を奪ったほか、台所流し台の下から包丁数本を取り出し、冷蔵庫の上に移していた[4]。その包丁のうちの1本が、後にD・A・Eの3人を刺殺する凶器として用いられた柳刃包丁(刃体の長さ22.5 cm)だった[4]。
- Cへの殺意について
- Sは捜査・公判を通じ、Cの首を絞めた際の状況について、「Cから唾をかけられたことに激昂して首を絞めたが、いったん力を緩めるとCが起き上がるような気配を示したため、抵抗がなくなるまで再び強く首を絞め続け、脈を調べて死亡を確認した」という旨を一貫して供述しており、第一審の公判でも「殺してしまおうという思いがあった」など、Cに対する殺意があった旨を供述していた[164]。一方、弁護人は「Sは極度の潔癖症だったため、Cから唾をかけられて冷静さを失い、激怒してとっさに首を絞めてしまったのであり、明確にCに対する殺意を抱いていたわけではない」と主張したが、千葉地裁 (1994) はSの供述や、Cが舌骨や甲状軟骨の左上角などを骨折していた(Sによって強く首を絞められた)ことなどから、SがCに対し確定的な殺意を抱いていたことを認定した[174]。
D殺害
[編集]Sは引き続き、806号室の居間内で金品を物色していたが、同日19時過ぎ、Bが母親Dとともに帰宅してきたため、冷蔵庫の上から柳刃包丁を手に取り、台所のカウンター付き食器棚の影に隠れた[4]。そして、2人が居間に入ってくると、包丁を突きつけ、「静かにしろ」「あんまり騒ぐと殺すぞ」「ポケットの物、全部出せ」などと脅した[4]。この時、SはCについて「祖母は睡眠薬で眠っているだけだ」と言っていた[142]。しかし、DはSに怯むことなく、S曰く「何も持っていなかったら、噛みつかれるのでは、と思うような勢い」で[173]、包丁を持っていたSに食って掛かった[172]。
Sは2人が別々の方向に走って逃げたり、大声を出したりすることを恐れ、2人を強引にうつ伏せにさせた[173]。そして、Dに対しては「頭が切れそうな感じ」と思ったため、策を練って警察に突き出すような行動に出てくることを危惧し、彼女の動きを封じようと考え、逆手に持った包丁で、左腰付近から背中を立て続けに5回突き刺した[35]。Dはうめき声を上げ、身を捩って仰向けになったが、床を足で蹴ってSの脱いだダウンジャケットに近づこうとしたため、「あーあ、血が付いちまうだろう」と言いながらDの脇腹を蹴って遠ざけた[175]。この刺突行為により、Dは左肺に達する3か所の刺し傷を負い[164]、まもなく失血死した[36]。SはBに手伝わせ、失神したDを[164]南側の奥にあった洋間に運び入れ、床に広がっていた血痕と失禁の跡をタオルで拭かせている[175]。
- Dへの殺意について
- Sは捜査段階では、「死亡するかもしれないことを認識しながら、激情のままにあえて意に介さず、突き刺したのだと思う」という旨の供述をしていたが、公判では一転して、弁護人の「動きを封じることが目的で、殺意はなかった」という主張に沿い、当時はDへの殺意はなく、突き刺すことによってDが死亡する可能性も考えていなかったという旨を主張しており[164]、永瀬宛の手紙でも当時の心境を「〔刺した箇所は〕首筋や心臓でもなければ、頭でもないんだから平気なはず、とそう思っていました。計算通り、大量の血が出たり、口から吐くこともなく、服ににじむのが見てとれただけで、まあこんなもんだろうという感じです。これで走りまわれはしないだろうから、そこでおとなしく見てろよ、とそんなことを口にした覚えがあります。まったく怒りも憎しみもなくやったので、力も本人は入れていないつもりでしたので、〔Dは〕ほっといてもしばらくは平気だろうと、あわててこわがるのをみて、少々いい気味だと思ってみていました」と説明しており、出血したDを見ても、特に動揺はなかった旨を述べている[176]。弁護人もそれを踏まえ、「Sは当時19歳になったばかりで、医学的にも社会的にもあらゆる知識に乏しく、人間はどの部位にどの程度の打撃を加えれば死にいたるか知りようもなかった」という趣旨の弁論を行った[177]。
- しかし、Sは当時、苦しみ悶えながらのたうち回るDへの救命措置を講じることはなく、その後、BやEとともに食事を摂ったり、Bを強姦したりなどの行動を取った際には、既にDの存在を意識していなかった(Dがいない前提で行動していた)[164]。また、SはDを洋間に運び入れた後の心境について、捜査段階で「Dが部屋から自力で出てくることはないという気持ちのほうが強かったかもしれない」という旨(Dの死を認識・予見していたと取れる内容)の供述をしていた[164]。千葉地裁 (1994) はそれらの証拠に加え、現にDがSに刺されたことで死亡している点や、その刺突行為も女性であり、かつ無抵抗になっていたDの動きを封じるための行為にしてはあまりにも過剰であることなども併せ考え、Dに対しては「死を意欲していたとまでは認められない」としながらも、「〔Dが〕死に至るべきことを認識、予見しながら、これを認容して、敢えて本件刺突行為に及んだ」として、Dに対する未必の殺意の存在を認定している[164]。
A殺害
[編集]Dを刺して洋間に移した後、Sは柳刃包丁を食器棚のカウンター上に隠した[36]。Dを殺害してから15分後[31]、7時過ぎになってEが保育園のマイクロバスでマンションまで送られてきたが、誰も迎えにこなかったため、保育園の職員が806号室までEを送り届けた[178]。その際、Bがドアを開けてEを部屋に入れていた[178]。その後、SはBに命じて夕食の準備をさせると、B・Eとともに3人で食事を摂った[175]。食後、SはEを既に絞殺されていた祖母Cの部屋に追いやり、テレビを観せた[175]。その後、Eは眠りに就いた[注 23][180]。
一方、SはBからAの帰宅が23時ごろになることを聞き出すと、Aの帰宅を待って金品を奪うことを決め、その間にBを強姦して気を紛らわせようと考えた[36]。21時20分ごろ、Sは居間でBに柳刃包丁を突きつけ、「服を脱げ」などと脅したが[36]、目の前でDを殺されて恐怖していたBはうまく手が動かず、服を脱げなかった[181]。このため、SはBのワイシャツの襟を引っ張ってボタンを引きちぎるなどの暴行を加え、全裸になった彼女を寝室のベッド上に寝かせると、自分も全裸になって覆いかぶさり、Bを強姦した[36]。このように、家族を惨殺されて恐怖に打ち震えるBをその場で強姦するという犯行に至った当時の心境について、Sは鑑定書で「自分としては、時間潰しというか、気分転換というか」と説明していた[176]。
しかし、Aは予想より早い21時40分ごろに帰宅した[36]。当時、Bを強姦していたSは、慌ててBの身体から離れて台所に行き、衣服を身に着けると、再び柳刃包丁を手に取って食器棚の影に隠れた[36]。そして、居間に入ってきたAが、寝室のベッドで横になっていたBを見て「B、寝てんのか」と声をかけていたところ、SはいきなりAの左肩を背後から柳刃包丁で突き刺した[36]。この時の刺し傷は、左肺下葉を貫通して上葉も損傷し、左脇窩部にまで突き出るほどの深い傷(創胴の長さ約15.8 cm)で、これだけでも十分致命傷になりうるものだった[182]。
Sは負傷して動けなくなったAに対し、「俺はこういう者だ」と言って所持していた暴力団員の名刺を見せ[181]、「ある記事が載って組が迷惑している。取材しただろう」などと因縁をつけた上で[36]、「通帳でも現金でも、なんでもいいから300万円くらい出せ」と脅した[注 24]。Aは当時、まだ母Cや妻Dが既に殺されていることを知らず、家族を守ろうと[180]、Bに家の中から現金と通帳を集めてくるよう指示した[36]。SはBが室内から集めてきた現金約16万円、C名義の郵便貯金総合通帳1冊(額面257万6,055円)および総合口座通帳1冊(額面103万1,737円)を強取した[36]。しかし、Sはまだ満足せず[180]、Aから「ルック」の事務所には別の預金通帳や印鑑があることを聞き、それらも奪おうと考えた[36]。そのため、Bに「ルック」事務所へ電話を入れさせ、従業員の男性に対し「これから通帳を取りに行く」という旨を伝えさせると、翌6日0時30分ごろ、居間で動けずに横たわったままのAを残し[180]、Bを連れて806号室を出た[36]。Bの捜査段階における供述によれば、Aは当時、起き上がろうとしても起き上がれない状態であり、後にAの死体を解剖した木内政寛は、当時のAは瀕死で立ち上がることはおろか、会話することもできなかった状態と推定している[182]。なお、806号室の階下の住民は5日23時ごろ、806号室から何回かドンドンという音がするのを聞いていたが、音はすぐに止んだため、特に不審には思わなかったという[183]。
2人はエレベーターで1階まで降りたが[180]、SはBを1階に残し[36]、すぐに引き返すと[180]、Aの肩胛間部右側を[182]、柳刃包丁で1回強く突き刺した[36]。これは、Aが警察に通報したりすることを防ぐ目的で彼を殺害することを決意したために取った行動であり、背中を突き刺されたAはまもなく失血死した[36]。この刺し傷(創洞の長さ約12.7 cm)は、右肺の下葉を貫通して上葉も損傷し、さらに心嚢や大動脈後面をも刺切するほど深いものだった[182]。
- Aへの殺意について
- Sは捜査段階では、「ルック」に出向く前にAの背中を刺した行為について、Dと同様に「死亡するかもしれないことを認識しながら、激情のままにあえて意に介さず、突き刺したのだと思う」という旨の供述をしていたが、弁護人は公判で「当時、Aに対する殺意はなかったため、強盗殺人罪ではなく強盗致死罪の成立にとどまる」と主張した[182]。また、Sは「包丁で刺したらAが死ぬかもしれない」とまでは考えなかった旨を主張し、当時の状況について、「『ルック』に行くため、806号室を出て1階まで行ったところで、自動車の鍵を806号室に忘れてきたことに気づいて戻ったら、Aが居間で立ち上がって歩いていたので、警察への通報を恐れて刺した」と弁解しているが、Bは「自分(とS)が『ルック』に出掛ける直前のAの位置と、後に戻ってきたときのAの死体の位置は変化がなかった」と正反対の供述をしていた[182]。
- 千葉地裁 (1994) は先述のようなAの状態や、後述のようにSが警察に通報されていないかBに様子を探らせていた点なども踏まえ、「Aが立ち上がっていたとのSの弁解は信用しがたい」と判示し、「Sは通帳の在処を聞き出して無用の長物になったAに対し、後顧の憂いを断つために『とどめ』を刺すべく、確定的殺意を持ってAの背中を包丁で突き刺した」と認定している[182]。
会社の通帳を奪う
[編集]その後、Sは柳刃包丁を再びカウンターの上に戻し、Bをクラウンに同乗させ、「ルック」の事務所があった市川市行徳駅前のビル(座標)[注 13]に向かった[36]。0時40分ごろ、SはBに「人がいるんじゃあヤバイから、俺待ってるから、行って来い」と命じ、Bを1人で事務所(同ビル204号室)に行かせた[36]。Bは、事務所内で寝泊まりしていた従業員の男性に「ヤクザが来ていて、お父さんの記事が悪いとお金を取りに来ている」[36]「お金が必要だというので私がとりにきた」[179]と告げ、事務所内から預金通帳7冊(額面合63万5,620円、「ルック」およびA・Dらの名義)と印鑑7個を持ってSの待つクラウンまで戻った[36]。この間、Bは約20分間にわたって事務所内に滞在していたが[179]、従業員から「大丈夫か」と聞かれると、「うん」と答え、助けは特に求めていなかった[186]。一方、Sは階下のファミリーマートでパンを買っており[179]、その後事務所に来て、会社関係者の前で「Bちゃん」とBの名前を呼び、友人のように振る舞っていた[186]。
SはBが持ってきた通帳類や印鑑を受け取ると、Bを連れ[36]、ラブホテル[187]「ラセーヌ」(市川市塩浜三丁目[注 25]、座標)に行き、ホテル501号室で一夜を過ごした[36]。Sはそこでも4時間近くの睡眠を挟んで、2度にわたりBを強姦し[16]、Bに電話で、「ルック」の従業員が警察に通報していないか様子を探らせていた[182]。一方、Bの行動を不審に思った従業員は近くの交番に連絡し[17]、1時30分ごろ、警察官とともに806号室に出向いた上で[189]、部屋のドアを叩いたり室内に電話をかけたりした[注 26][31]。しかし、この時は部屋の照明が消えており、応答もなかったため、署員は不在と思って引き揚げた[17][192]。
E殺害
[編集]その後、SとBは6日6時30分ごろ、クラウンで806号室に戻った[36]。Sはしばらく時を過ごしていたが、寝室で寝ていたEが目を覚ましたため、彼女がもし両親の死を知って泣き叫んだりすれば、近隣の住人にそれまでの犯行が察知されると危惧[36]。その発覚を免れるため、Eを殺害することを決意し、同日6時45分ごろ、カウンターから柳刃包丁を持ち出して右手に持ち、寝室に入った。そして、自分に背を向けて座っていたEに近づくと、Eの背後から顎を左手で押さえつけた上で、背中から包丁を突き刺した[36]。包丁はEの右肺の下葉、中葉、上葉を貫通し、刃先が右胸まで突き抜けた[5]。Eは「痛い、痛い」と苦しみもがいたが、Sはそれを意に介さず、Bに対し「妹を楽にさせてやれば。首を絞めるとかいろいろな方法があるだろう」などと言い放った[171]。しかし、Bは硬直して動けず、Sは痛みで泣き叫ぶEの首を絞め[193]、Eはまもなく失血死した[36]。この犯行の前後、Sは806号室の電話を使って友人に電話をかけ、とりとめもない話に興じていた[194]。
6時50分ごろ、Bは寝室でSを「どうして妹まで刺したの。何でこんなことするの」などと責めたが、Sはこれに逆上し、柳刃包丁でBの左上腕部と背中を切りつけ、全治2週間の怪我を負わせた[171]。Bはこの前後、高校で同じクラブに入っていた近所に住む同級生の少女宅に「今日は休む。部室の鍵を持っていけなくてごめんね」と電話していた[195]。
- Eへの強盗殺人罪の成否について
- 検察官はEを刺した行為について、強盗殺人罪の成立を主張した[182]。その根拠として、「ルック」へ行く前に806号室で集めておいた小銭類を同室に残したままだったことを「現場に再び戻ることを予定しての行動」と指摘し、「強盗の犯行を完遂するために現場に戻ったものにほかならない」とした上で、殺害動機もEが騒ぐことで、それまでに犯した強盗殺人などの犯行が発覚することを恐れたためであることなどを主張した[182]。また、S自身も捜査段階で「小さい子供は声が高いので、父親や母親が死んだとわかれば騒ぐだろう。そうすれば、隣り近所の人にも子供の泣き声が聞こえてしまうと思い、『もう死んでしまっても仕方がない』と思って刺した」という旨を供述し、公判でも「静かにさせないと近所に声が漏れて人が来てはいけないと思った」という旨を供述していた[182]。
- 一方、弁護人らは「Eを包丁で刺した時点では既に強盗行為は終わっていた」として、強盗の犯意を否定した[5]。また、Eを突き刺した際の殺意も確定的ではなく[5]、「DとAがそれぞれ死亡していることを知って愕然とし、精神的に完全に混乱しきっていたところ、Eに声を出されて狼狽のあまり、Eを静かにさせようととっさに必要以上の方法を用いてしまった」という趣旨の弁論を展開し[196]、単純殺人の成立にとどまると主張した[5]。
- 千葉地裁 (1994) は犯行態様や各種証拠を吟味し、弁護人の「殺意は未必のものにとどまる」という主張を退け、「Eの泣き声により、自身の一連の強盗殺人などの犯行が外部に知られることを恐れ、確定的殺意を持ってEを刺殺した」と認定した[5]。しかし、Sはマンションから離れた「ルック」事務所からBが持ってきた通帳や印鑑を奪って以降、それ以上金品を物色する行為に出ず、「ラセーヌ」で一夜を過ごしてから806号室に戻ってからも新たに金品を物色するなどの行為をしていなかったことから、「Sの強盗殺人行為は、遅くとも『ルック』事務所にあった通帳・印鑑を奪った時点ですべて終了したとみるべきである。そのため、Eへの殺害行為は一連の犯行の発覚を阻止するため、新たな犯意に基づいて行ったものである」と指摘[5]。「一旦強盗殺人の行為を終了した後、新たな決意に基づいて別の機会に他人を殺害したときは、右殺人の行為は、たとえ時間的に先の強盗殺人の行為に接近しその犯跡を隠ぺいする意図の下に行われた場合であっても、別個独立の殺人罪を構成し、これを先の強盗殺人の行為と共に包括的に観察して一個の強盗殺人罪とみることは許されない」と判示した最高裁の判例[1948年(昭和23年)3月9日:第三小法廷判決][197]を引用し、「Eに対しては強盗殺人罪ではなく、単純殺人罪が成立する」と認定した[5]。
捜査
[編集]Bが深夜に訪問してきたことを不審に思った「ルック」の社員は、6日7時30分ごろへ806号室に電話をかけたが[187]、応対したBは「おはよう」と言ったきり、そのまま電話口で押し黙ってしまった[31]。しかし、「脅している奴が部屋にいるのか」と尋ねるとうなずいた[17]。Bの対応が不自然だったため[193]、葛南警察署[注 1]行徳駅前交番に届け出た[114](2度目の通報)[189]。そして、社員とともに806号室を訪れた警察官が玄関のチャイムを鳴らしたが、玄関は施錠されていて開かず、呼び掛けても反応はなかった[1]。そこで、ベランダに回って内部に呼び掛けるなどしたところ[187]、Sは冷蔵庫の上に置いてあった文化包丁[注 27]を取ってBに持たせ、「俺を脅しているように持て。俺逃げるから」などと言い、Bが犯人であるかのように仮装した上で逃走しようとした[171]。この時、Sは「俺に殺されたいか、それとも一緒についてくるか」とBを脅迫して包丁を持たせようとしていた[193]。しかし、Sは室外に出てエレベーター前まで逃げたものの[183]、警察官3、4人との格闘の末に取り押さえられ、現場へ連れ戻された[199]。これは9時30分ごろのことで、掃除のために8階を訪れたマンションの清掃人が、「俺は何もしちゃあいない」と叫びながら警察官たちに取り押さえられ、部屋に連れ戻されるSと[199]、保護されて部屋から出てきたBの姿をそれぞれ目撃している[127]。現場は血の海になっており、殺人現場を見慣れている捜査一課の幹部でさえ「あまりにもすさまじい現場。目を覆いたくなる残忍な事件だった」と形容するような惨状だった[200]。
Sはナイフを所持していたことから、銃刀法違反の現行犯で逮捕された[17][189]。千葉県警察捜査一課と所轄の葛南署は殺人事件として捜査を開始し、同日夕方、捜査本部を設置した[7]。しかし、Sは逮捕された当初の取り調べでは、一連の犯行を全面的に否認し[201]、「Bとは昔からの友人で、コンサートなどにも行ったことがある」[2]「女友達のBから急いで部屋に来るように電話があったので、A方(806号室)に行ったら、一家4人が殺害されていた」などと主張した[187]。一方、Bはショックのためか何も話せず、県警は2人を友人と判断し、報道機関に対しても「長女 (B) と男友達 (S) から事情聴取している」という趣旨の発表をした[202]。その理由について、広報した県警の幹部は「(当初は)SとBの供述が食い違い、(Sの)単独犯とは即決できなかった」と述べている[203]。このような「Bも事件に関与しているのではないか」という予断は現場で取材を行っていた新聞記者や、新聞社・テレビ局にも伝播する形となり、6日付の新聞夕刊の一部や、テレビニュースでは「長女・男友達から事情聴取」という形で報じられた[202]。
しかし同日夜、Sは一転して犯行を認める供述をした[7][1]。これは、捜査本部がSの供述の真偽を丹念に調べた末、Sの「Bとは女友達」という供述を虚言と突き止めたことによるもので[204]、同本部は同日21時30分に行われた記者会見で、報道機関向けに「Sの単独犯」と発表した[202]。この時点ではまだSへの逮捕状は請求されておらず、令状請求以前に記者会見を行うことは異例だったが[205]、これはSの単独犯(=Bは完全な被害者であること)が判明したことから、報道陣の誤解を解こうとした県警側の配慮によるものだった[202]。同本部は同日深夜、強盗殺人容疑でSの逮捕状を請求し[205]、翌7日0時30分すぎ、Sを逮捕[1]。この時、捜査本部は当初の逮捕容疑である銃刀法違反容疑について、いったん釈放の手続きを取った上で、Sを改めて強盗殺人容疑で逮捕した[189]。
ねじめ正一は、Sの単独犯が発表されるまで、Bが警察から報道機関向けに「養女」と発表され、報道でも単に「長女」ではなく「養女」と報じられていた[注 28]点について言及し、そのような発表や報道は「Bが『両親は自分より、実の子(妹E)を可愛がっている』と僻み、悪い男友達と付き合った末に事件に至った」という筋書き[注 29]を連想させるものであり、読者に対しても予断を植え付けたとして、当時の県警やマスコミ報道を強く批判している[207]。また、当時Bが通学していた高校の担任教諭は「〔6日〕昼は警察の発表があったにせよ、各社が〔Bを〕犯人扱いした質問をしてきた」と憤慨していた[208]。このように、県警や報道機関の間に、事件やBに対する予断があったことを踏まえ、『朝日新聞』は事件解決後、Bが被害者であることを明確にする目的で、自社による報道内容を検証する記事を制作し、全国版および千葉版の地方面に掲載している[202][209]。『中日新聞』は、同月12日に開かれた被害者4人の葬儀で、喪主のBに代わって挨拶した親類代表の「学識者、マスコミが中心になってこんな惨劇が二度と起こらないように努めてほしい」という言葉について「マスコミに厳しい課題を残した」と言及している[210]。
起訴まで
[編集]捜査段階で、今津清(医師)がSの心身鑑別を、原淳(医師)が簡易鑑定をそれぞれ行った[211]。今津はSについて「精神分裂病の罹患は否定でき、薬物濫用による精神病又はそれに等価の状態は認められず、爆発性、情性欠如及び意志の持続性欠如を要素とする人格障害を認める」という趣旨の診断を下し、原も「意識清明で知能低下も認められず、感情の表出及び疎通性も比較的良好であるが、意志欠如、軽佻、抑鬱、情性稀薄、気分易変等を呈し、これが性格の異常に基づくものであれば、情性欠如型、意志欠如型、爆発性精神病質であって完全責任能力が認められるが、被告人は高校中退前後から性格変化を来していて、精神分裂病の欠陥状態、前駆状態、同疾患の辺縁型等の疑いもなくはなく、更により詳細な鑑定が必要である」という診断を下した[211]。
当初の勾留期限は3月27日までだったが、千葉地検は同月26日から[212]、約半年間にわたって鑑定留置し[注 30]、筑波大学教授の小田晋による精神鑑定(小田鑑定)を受けさせた[214][215]。小田は原による診断結果を踏まえ[211]、Sに対する検査や面接を行った上で[216]、「正常な知能を有する反社会性人格障害の診断基準にほぼ合致する爆発性―冷情性精神病質者であるが、犯行当時も現在も精神病またはそれに等価の状態に陥ってはいないし、器質的精神障害の存在も認められない。意識状態は終始清明であった。従って犯行当時事理を弁識し弁識に従って行為する能力を喪失していなかったし、著しく障害された状態にあったということはできない」(=Sは事件当時、心神喪失や心神耗弱の状態ではなかった)という所見を示した[211]。
その結果を踏まえ、千葉地検は「Sはカッとなると歯止めが効かなくなるが、完全な責任能力があった」と結論を出し、同年10月1日付で「刑事処分相当」の意見書を付け[8]、Sを強盗殺人・傷害など5つの容疑で千葉家庭裁判所へ送致した[37]。その後、Sは4回にわたる少年審判を経て、千葉家裁(宮平隆介裁判官)から千葉地検へ逆送致され(同月27日付の決定による)[38]、11月5日には一家殺害事件と江戸川事件に関して、強盗殺人・傷害など5つの罪で千葉地方裁判所へ起訴された[8]。そして1993年(平成5年)2月17日には[40]、中野事件・河原事件・岩槻事件に関しても、傷害・恐喝・窃盗など4つの罪で追起訴した[41]。
当時のSの心境
[編集]少年法第51条は事件当時18歳未満の少年に対する死刑適用を禁じており、そのような少年が死刑相当の罪を犯した場合は無期刑に処すことを規定しているが、Sは当時19歳だったため、その適用外だった[217]。実際、19歳で連続ピストル射殺事件を起こした永山則夫は1990年に最高裁で死刑が確定しており、また1989年には名古屋地裁が名古屋アベック殺人事件の犯人である少年たちに対する判決公判で、主犯格の少年(事件当時19歳)を死刑に、殺害実行犯の少年(事件当時17歳)も「死刑相当」とした上で無期懲役に処する判決を言い渡していた[218]。なお、17歳少年は第一審で無期懲役が確定した一方、19歳少年は1996年に控訴審(名古屋高裁)で無期懲役の判決を言い渡され[219]、確定している(後述)[220]。
しかし、当時のSは後に論告求刑で実際に死刑を求刑されるまで[221]、自分が死刑になることは考えておらず、逮捕直後も「ああこれで俺も少年院行きか」程度にしか考えていなかった[222]。これは当時、Sは少年法や刑事裁判の仕組みについて、「経験したことのある悪友や、先輩達の武勇伝から知るほかなく、それもどこまでが正しいのか、わからないまま鵜呑みにして格好いいなんて思って」いたことや[223]、死刑についても「一度殺人を犯しておきながら、刑期を終えてから、あるいは仮釈放中に懲りずにまた同じ過ちを犯すような、どうしようもない、見込みのない連中の受ける刑罰」「少年院どころか、一度も留置場へ入ったことがない自分(前科もない者)に、いくら殺人という大罪を犯したとはいえ、一発で社会復帰や更生の機会すらあたえられないはずはない」という考えを抱いていたことが原因だった[224]。また、本事件の3年前に残忍な少年犯罪として世間を震撼させた女子高生コンクリート詰め殺人事件(1989年1月発生)の犯人である少年4人が、最高でも懲役20年の刑にとどまっていたことも、このような考えに影響しており、Sはコンクリート事件の犯人たちと自身を比較して「まだ俺のほうが長期間ではないし、凶器ひとつ持っていないのだから、まだ頭の中身もまともだ」とまで考えていた[225]。
そのため、Sは中野事件については「どうせつかまるのなら学生の頃、昔から好きだった娘にしておけばよかった」という筋違いな後悔をしていた[194]。また出所後に備え、面会に訪れた母Yに頼んで、高校時代に使っていた教科書・参考書・辞書などを差し入れさせていた[226]。結局、Sは後に死刑判決を受けたが、上告中に永瀬から「もし20歳だったらこのような犯罪は起こさなかったのか」という旨の問い掛けをされた際には、「絶対やらなかった、とまでは言い切れないものの、きっかけとなったその前の傷害事件や強姦事件の段階でさえ出来なくなっていたでしょうから、それ以降の雪ダルマ式に発生した殺人へも発展しなかったと思うのです」と述べた上で、周囲の不良仲間たちが19歳と20歳を明確に分けて行動し、20歳になってからは一転して非行を改めていたことを挙げ、自分は事件当時少年だったために後先考えずに犯罪に走った(=成人後は軽微な犯罪でも実名報道されるため、それが抑止力になった可能性がある)という旨の自己分析を述べている[227]。また瀬口晴義宛の手紙では、「いちいち『少年法〜』とか『死刑にならない〜』とか考えながら事件を起こすなら、もう少し頭を使って、指紋が残らないように軍手の一つもはめますよ。高校も満足に行っていないような者に、少年法の中身を丁寧に教えてくれる人がいると思いますか」と述べていたほか、神戸連続児童殺傷事件(1997年)で少年法改正論議が沸騰した際には「大人と同じように処分することにして、いじめや恐喝、リンチ殺人がなくなると思いますか。きっと変わらない。それどころか、これまで以上に陰湿なやり方が増えることになるだけだと思います」と述べ、少年法を改正して少年犯罪を厳罰化しても、衝動的に罪を犯す少年に対する抑止力にはならないという考えを示していた[228]。
判決前の死刑制度を取り巻く社会状況
[編集]一方で本事件の裁判が進行していた1990年代当時、世界的には死刑廃止の風潮が強くなっており[47]、国連総会で「死刑廃止条約」が採択される(1989年12月15日)、1993年10月に国連規約人権委員会が日本に対し死刑廃止を勧告するなどの動きが見られた[229]。アムネスティ・インターナショナル日本支部の調査によれば、1995年(平成7年)には死刑廃止国(事実上の死刑廃止国を含む)が100か国に達し、初めて死刑存置国(94か国)を上回っていた[47]。日本でも1989年11月10日の死刑執行(後藤正夫法務大臣)以降[230]、3年4か月間にわたって死刑執行がなされておらず[注 31][233]、過去にイギリス・フランスが長期の死刑執行停止を経て死刑廃止に至った経緯があったことから、死刑廃止を求めるグループの間でも、「廃止の日は近い」という機運が高まっていた[234]。また1993年9月には、最高裁の大野裁判官が補足意見として「死刑制度の前提となる事実に重大な変化が生じていることに注目すべきである」として、最高裁としては死刑合憲判決(1948年)以来48年ぶりに死刑制度に言及し[注 32]、1994年4月には国会内で憲政史上初めて「死刑廃止議員連盟」が結成されるなど、死刑廃止に向けた社会的な動きが活発化していた[235]。
そのような事情から、少年法に詳しい弁護士の秋山昭八や、井戸田侃(立命館大学教授)は、それぞれ本事件についても死刑適用は難しいという所感を述べていた[236][237]。一方で板倉宏(日本大学教授)は、本事件は単独犯で殺害人数も4人と多いことから、悪質性はコンクリート事件より高く、永山の事件と同等である旨を指摘し、死刑が適用される可能性を指摘していた[238][239]。なお、1992年12月12日に法務大臣として就任した後藤田正晴が「このままでは法秩序が維持できない。(死刑を執行しなかった法務大臣は)怠慢である」として、死刑囚3人の執行命令[注 33]を発したことにより、1993年3月26日に3人の刑が執行されたが[240]、坂本敏夫は本事件が死刑執行再開のきっかけになった可能性を指摘している[232]。
刑事裁判
[編集]第一審
[編集]第一審における事件番号は、平成4年(わ)第1355号[53]。審理は千葉地方裁判所刑事第1部に係属し[53]、神作良二裁判長と、井上豊・見目明夫の両陪席裁判官が審理を担当[241]。公判は初公判から結審(最終弁論)まで10回[22]、判決公判も含めると11回にわたって開かれた[109]。
Sの弁護人は奥田保(主任弁護人)と[242]、桑原慎司の両弁護士が担当した[243]。2人はそれぞれ司法修習生同期かつ、元裁判官で、奥田は検察官から裁判官を経て、1992年3月まで甲府地裁刑事部で裁判長を務めていたが、退官の前年に2つの少年事件(学生2人による連続放火事件と、浪人生による両親刺殺事件)を扱ったことをきっかけに、「もっと話を聞きたい。何が彼らをそうさせたのか知りたい」「少年たちと直接触れ合いたい」と考え、退官後に弁護士になった[242]。そして、Sの母Yの知人を通じて引き受けた本事件が、弁護士としての初仕事だった[242]。
『千葉日報』 (1994) は、第一審の公判におけるSの様子について、「心境を吐露することなく、裁判の進行をひとごとと受け止めているかのような姿勢に終始した」と評した上で、被告人質問で相手からの質問内容について「(相手が死んでも構わないと思ったか?という問いかけに対し)そう思ったかもしれません」「(殺意は)そう言われればあったかもしれません」などといった受け答えをしていたことについて言及し、「供述はほとんど相手任せだった」「自分の言葉で心の奥を語ることはなかった」と報じている[244]。
初公判
[編集]1992年12月25日に千葉地裁刑事第1部(神作良二裁判長)で第一審の初公判が開かれ、罪状認否で被告人Sは起訴事実を認めたが[39]、以下のように殺意などに関して争った。
被害者 | 検察官の主張 | Sおよび弁護人の主張 | ||
---|---|---|---|---|
罪状 | 殺意の有無・程度 | 罪状 | ||
C | 強盗殺人罪 | 確定的な殺意があった | Cから唾をかけられたことに逆上して首を絞めた。殺意は確定的ではなく、未必にとどまる(Cへの殺意)[36] | 強盗殺人罪[182] |
D | 未必の殺意があった | いずれも殺意はなく、刺したら死ぬとも思っていなかった(Dへの殺意、Aへの殺意)[245]。(弁護人)Dを刺した行為は、金品を強奪する目的ではなかった[164] | 強盗致死罪[245] | |
A | いずれも確定的な殺意があった[246]。 E殺害前にいったん現場を立ち去ってはいるが、その際も現場に戻ることを想定しており、実際にそれまでに集めた小銭類は現場に残したままだった。殺害動機も、それまでの強盗殺人などの発覚を恐れたもので、強盗殺人罪が成立する(Eへの強盗殺人罪成否)[246] | |||
E | 未必の殺意にとどまる。Eを殺害するまでに強盗行為は終わっており、その時点では既に強盗の犯意はなかった(Eへの強盗殺人罪成否)[5] | 殺人罪[182] |
判決では結果的に、殺意とC・D・Aの3人に対する殺害行為に関しては全面的に検察官の主張が採用された一方、妹Eへの殺害行為に関しては弁護人の主張が一部認められ、強盗殺人罪ではなく殺人罪の成立が認定された。
再度の精神鑑定申請
[編集]第2回公判(1993年3月3日)ではまず、2月に追起訴された3事件(中野事件・河原事件・岩槻事件)について罪状認否が行われ、Sはほぼ起訴事実を認めた[247]。次いで、検察官が冒頭陳述を行い、生い立ちから犯行動機、そして犯行の全貌を明らかにした[247]。当時、弁護側は「精神鑑定を再度申請することはない」として、責任能力については争わず、情状(Sの反省の態度など)の立証に尽くす方針を表明していた[247]。このため、次回の第3回公判(5月19日)では証拠調べや被告人質問を行い、次々回(同月29日)に弁護側の情状立証を行った上で[247]、6月21日に論告求刑公判を開き[248]、同月中にも結審する見通しだった[247]。
しかし、弁護側は5月初旬までに一転して、再度の精神鑑定を求める方針に転換し、第3回公判で「犯行時のSの態度や経緯は常人の理解を超えたものであり[注 34]、事件の重大性を考えると、再度、(犯罪心理学的観点から)Sの心身の鑑定を行う必要がある」と申請した[42]。これに対し、検察官は「新たな鑑定は必要ない」と反対意見を表明したが、裁判官3人による合議を経て、神作裁判長は「これまでに精神医学的鑑定から鑑定は十分に時間をかけて行ってきたが、犯罪心理学から見たSの精神状態を見る意味でも鑑定を実施する」として、再度の精神鑑定を行うことを決定した[42]。結審間近の公判中に、起訴前とは別の視点から再度の精神鑑定が行われる展開は異例のものだった[42]。その後、被告人質問でSは被害者への殺意を一部否定する供述をした一方[注 35]、「なぜこんな事件を起こしたのか」という質問に対しては「短絡的でした」と述べていた[248]。
その後、第4回公判(同年11月22日)で後述の「福島鑑定」の結果が提出された[43]。1994年(平成6年)1月31日に開かれた第5回公判では、Yが弁護側の証人として出廷したほか、Sへの被告人質問が行われ、Sは「犯行時は自分の行動が理解できなかった。今は拘置所内で聖書を読むなど心を落ち着かせている」と話した[249]。また、第6回公判(2月23日)[249]、第7回公判(3月14日)でも被告人質問が行われ、Sは犯行に至る経緯などに関する質問で、当初は空き巣目的であり、計画的な犯行ではなかったことなどを強調した[250]。
福島鑑定
[編集]第3回公判で弁護人の申請が認められたことから、約半年にわたり、福島章(上智大学心理学科教授)が2度目の精神鑑定(福島鑑定)を実施した[42]。この鑑定結果は、Sが事件当時少年で、脳の発達・人格形成ともまだ成熟途上にあったことなどに着目し、「被告人の本件犯行時の精神状態は、刑事責任能力論において心神耗弱であるとまで断言することは困難であるとしても、少なくとも同情すべき事情(情状)を形成していると考える」という見解を示したものだった[211]。弁護側は当時、福島鑑定を「情状面では有利な資料」と評価していた[43]。福島は専門誌『精神療法』第21巻第2号(#参考文献を参照)で、「青年期事例の研究」と題して本事例と自己の鑑定結果を披瀝している[251]。
福島鑑定は、Sの責任能力については起訴前に実施された小田鑑定と同じく「Sに精神病の兆候はなく、刑事責任は問える」としたものの[43]、Sの鑑定当時の精神状態を「爆発性精神病質者または類てんかん病質者」と位置づけ、事件当時の成人状態についても「現在(=鑑定当時)と同じ爆発型精神病質者であって、その各犯行には類てんかん病質者の両極的な特徴である爆発性と非流動性という特徴が認められるが、自己の行為の是非善悪を弁識する能力には障害がなかった。ただし、その認識に従って自己の行為を制御する能力(行動制御能力)はかなり低下していた。しかし、その低下が著しい程度にまで達していたかどうかは司法的な判断の問題であろう」と述べていた[211]。
また、福島鑑定はSの母親YがSを妊娠していた間、流産予防のために約2か月間[215]、黄体ホルモン(ヒドロキシプロゲステロン)を使用していた点に注目し、胎児期の大量の黄体ホルモン投与により、Sの脳が過剰に男性化された特質を持つようになった可能性を指摘した[252]。Yは、自身が流産をしやすい体質で、Sを出産する以前に3回ほど妊娠したものの、いずれも流産していたため、Sを妊娠して以降は出産まで、毎週流産予防で有名な病院に通い、黄体ホルモン(商品名「プロルトン・デポー」)の注射を受けていたこと、内服薬「チラージン」(乾燥甲状腺粉末製剤)を1日3回服用していたこと、妊娠5か月で子宮口を結紮する手術を受けていたことなどを証言し[253]、福島はそれらの「脳の男性化」や、Sの尿酸血中濃度が高い点(母方からの遺伝と思われる)といった要素が、Sの爆発性や攻撃性の原因となっていた可能性を指摘した[211]。そして、「脳波学的にいえば、暴力行為と関連することがわかっている被告人の前頭部徐波は加齢と共に消失するから、中年期以降は被告人の攻撃性もより制御が容易になることが考えられる」として[211]、Sの攻撃性は年齢を重ねることで矯正できるという可能性も示唆した[43]。
しかし、尿酸血中濃度が高いという体質が、強い攻撃性の原因となることを実証する例はなかった[211]。また、当時は胎児期に大量の黄体ホルモンを投与された子供が攻撃的な性格になることを立証する証拠も提出されておらず、弁護人らによって提出された文献・資料には、ヒドロキシプロゲステロンを妊婦に投与した場合、出生した男子が男性らしい関心を示さない傾向がある旨の報告も紹介されていたほか、福島鑑定自体もその点に関して、「もともと男性である胎児が大量の男性化ホルモンに曝されても、単に量的に男性化ホルモンが増加したに過ぎないのであって性器の形成の異常は起こらないし、脳が過剰に男性化されるかの点についても心理的に多くの点で正常の男性と変わらず、攻撃性が有意に強いとはいえないという観察がある」と指摘していた[216]。千葉地裁 (1994) は以下のように、Sの血液中の尿酸やテストステロン(代表的な男性ホルモン)の濃度が、いずれも正常値に比して著しく高かったわけではない点を指摘し、福島鑑定を根拠とした「Sは心神耗弱状態」という弁護人らの主張を退けている[252]。
正常値 | 小田鑑定 | 福島鑑定 | |
---|---|---|---|
尿酸血中濃度[211] | 小田鑑定:3.5 - 7.8 mg/dl 福島鑑定:3.8 - 7.5 mg/dl |
7.8 mg/dl | 7.7 mg/dl |
テストステロン濃度[216] | 3.8 - 9.9 ng/ml | 3.6 ng/ml | |
脳波検査[216] | 脳波は正常範囲内 | 傾眠時の前頭部に徐波が認められるが、少年時代に認められたてんかん性の異常はない |
なお、弁護人は小田鑑定について「小田は鑑定前、警察発表による新聞記事をもとに、週刊誌に『Sを死刑にすべき』という意見を発表していた(後述)ため、小田鑑定は予断偏見に基づくもので、信用性を欠いている」と主張したが、千葉地裁 (1994) は「小田鑑定はSに対する検査・面接を行った上で、専門家としての見解を示したもので、その内容に格別理論的な不整合はない」として、その主張を退けた[216]。
死刑求刑
[編集]1994年4月4日に論告求刑公判が開かれ、被告人Sは検察官から死刑を求刑された[44]。事件当時少年に対する死刑求刑は、1989年1月、名古屋地裁で名古屋アベック殺人事件の主犯格になされて以来、約5年ぶりだった[254]。
検察官は同日の論告で、被害者4人のうち3人の殺害について、犯行態様などから、確定的殺意と金品強取の目的で敢行されたものであり、強盗殺人罪が成立すると主張[243]。その上で、事件当時のSの責任能力についても、2度の精神鑑定の結果を踏まえ、「完全な責任能力を有していた」と主張した[243]。そして情状面では、動機が自己中心的であり、下見をするなど計画的に押し入ったことや[255]、犯行態様も残忍・冷酷である旨を主張し[254]、「天人共に到底許すことができないもの」として、情状酌量の余地は皆無で、刑事責任は極めて重大である点を強調[243]。また、以下のように唯一生き残った被害者であるBの心情も交え、遺族の峻烈な処罰感情を表現した[256]。
「私から大事なものを全部奪った男が憎くて憎くてたまりません。はっきり言って男については、この手で殺してやりたい、生きていて欲しくないという気持ちです」「犯人にこの父や母、妹の写真を見せて『こんなに優しかったお母さん、お父さん、可愛い妹を何故殺した。私のお母さんを返せ、お父さんを返せ、〔E〕ちゃんを返せ、おばあちゃんを返せ。あんたは人間じゃない。(略)犯人を必ず死刑にして下さい」
「今でも両親らとの楽しかった思い出を夢に見る。他の人が手に包丁を持っているのを見るだけで、事件のことを思い出して恐怖を感じるし、夜一人で出かけたりしなくなった」「私の家族四人を殺した人が、生きていて何かできるのは嫌だし、そういうのは許せないし、悔しい」 — 検察官の論告要旨で語られたBの心情、[257]
加えて、Sが本事件以前にも多数の粗暴犯行におよんでおり、粗暴性・犯罪性が極めて強く、矯正の余地がない旨や、真摯に反省悔悟しているとは到底認められない旨も挙げた[256]。そして、母YがA一家の冥福を祈り、それ以外の被害者たちには誠意ある謝罪や金銭賠償をし、一部事件の被害者相手には示談も成立させている(後述)ことや、Sが事件当時19歳の少年だったことなど、Sにとって有利もしくは斟酌すべき情状も挙げた上で[256]、「少年に対する極刑の適用はとりわけ慎重になされるべきだが、Sに一命をもって大罪を償わせることにより、今後このような凶悪犯罪が二度と起きないようにするための戒めとすることが、司法に課せられた責務」と結論づけた[243]。
それまで「自分は死刑にはならないだろう」と考えていたSはこの時、永瀬宛の手紙でかなり強い衝撃を受けた旨を述べているが、一方で強い口調で論告を行った検察官たちに対し、皮肉や逆恨みの念も抱いていた[258]。Sは死刑求刑後、監房を変えられ、シーツの使用やタオル・鉛筆の所持などを制限された[259]。公判後、Sの弁護人を務めていた奥田は、記者会見で「意外な求刑だ」「被害者と遺族には申し訳ないと思うが、少年法の精神からみても厳しすぎる」と述べていた[243]。
最終弁論
[編集]同月27日、弁護人による最終弁論が行われる予定だったが、弁護側は新たに証拠調べを申請[259]。千葉地裁もこれを認め、被告人質問と証拠調べを実施した[259]。同日の証拠調べで、弁護人は小田鑑定の信憑性を否定する旨を主張したほか、死刑制度廃止へ向けた超党派の国会議員の連盟結成(前述)など、死刑制度のあり方を問う社会的な流れがあると主張した[259]。
同年6月1日の公判で、弁護人による追加立証と最終弁論が行われ[259]、第一審は結審した[45]。
最終弁論で、弁護人はそれぞれ被害者4人への殺意を全面的に、もしくは一部否定する旨を主張したほか、事件当時のSの責任能力についても、福島鑑定を根拠に心神耗弱状態であったことを主張[45]。また、情状面に関しては、Sが不遇な生育環境にあったこと[260]、各被害者への示談成立や永代供養をしていること[45]、母Yが遺族と対面し、事件後の苦悩を打ち明けるうちに「恨むだけでは解決にならない。恨み続ければその人の人生まで台無しになる。量刑は裁判所に任せる」という言質を取ったこと(後述)[242]、死刑廃止は先進国際社会の常識で、死刑制度がある先進国は日本とアメリカ合衆国の一部の州だけであり[45]、日本国内でも同年4月6日に日本の憲政史上初めて、現職官僚5人を含む「死刑廃止を推進する議員連盟」が発足していること[260]、そしてSは事件当時19歳で、少年法で死刑適用が禁じられている年齢(18歳未満)とわずか1年1か月しか違わないといった点を挙げ、死刑回避を求めた[45]。また、一家殺害事件前の各種犯罪については、被害者側にも落ち度(違法な行為や好ましくない行為、不注意など)があったことが発端となったことを主張し[260]、B事件や、SとBが「ルック」に向かった際の出来事については、以下のような弁論を行った[261]。
「(Bは)交通の安全を確認しないまま道路を斜めに横断しようとした。(中略)Sは、夜間速度を上げて進行して来たため避け切れず、Bの自転車に接触する交通事故を起こしてしまった。これが結果としてこの強姦致傷事件に進み、さらにA一家4人の命を奪う重大事件に発展してしまったものである」
「Bはその気になれば被告人のこの犯行を警察に通報でき、Sを逮捕させることができる状態にあった。被告人の犯行のやり口が如何に甘いものか、この点だけを見ても明らかである。そして逆にいえばこの時、Bが勇気を出して警察に通報するなり、従業員に事の詳細を報告しておいてくれれば、少なくともEを死なせずに済んでいるし、運がよければDやAの命を救うことができたかもしれないのである。その観点からいえば、真に残念としかいいようがない」 — 飯島真一 (1994) に掲載された弁論要旨、[261]
死刑判決
[編集]1994年8月8日に判決公判が開かれ、千葉地裁刑事第1部(神作良二裁判長)は求刑通り、被告人Sを死刑とする判決を言い渡した[22]。事件当時少年に対する死刑判決は、1989年6月、名古屋地裁が名古屋アベック殺人事件の主犯格に宣告して以来、約5年ぶりだった[262]。同日、千葉地裁は主文宣告を後回しにし、1時間35分にわたって以下のような判決理由を読み上げた上で、11時43分に主文を宣告した[56]。
- 強盗殺人罪の成否、殺意の有無に関する判断
- 被告人Sや弁護人は、DやAには殺意がなかった旨や、CやEへの殺意は未必にとどまる旨、そしてDやEを死亡させた行為については強盗目的ではなかった旨を主張したが(#初公判を参照)、千葉地裁はCが死亡するまで執拗に首を絞め続けたり、Dを刺した後の行動、一度刺されて瀕死状態になったAを再び刺して殺害したこと、Eを刺した際の言動などから、4人全員に対し殺意(Dは未必、ほか3人は確定的)があったことを認定。その上で、C・D・Aの3人を殺害した行為に関しては強盗殺人罪を適用したが、「Eを殺害した時点では既に強盗行為は終わっていた」という弁護人の主張を認め、Eについては殺人罪を適用した。
- 責任能力に関する判断
- 千葉地裁は、Sの事件当時の責任能力に関して、小田鑑定と福島鑑定、そして起訴前に実施された精神診断の結果を踏まえて検討[211]。いずれの診断も、共通して「犯行時、事理を弁識し、その弁識に従って行動する能力(行動制御能力)を喪失していた(=心神喪失状態だった)り、その能力を著しく障害された状態にあった(=心神耗弱状態だった)りしたわけではなかった」という結論を示していたことを指摘した[211]。また、福島鑑定が「Sの尿酸血中濃度や、胎児期に投与された黄体ホルモンが、Sの攻撃的な性格の形成に影響した可能性がある」と指摘した点についても、尿酸血中濃度が著しく正常値を超えていたわけではないことや、血中のテストステロン濃度が正常値よりむしろ低かった点などを挙げて退けた[216]。そして、Sが小学生のころまでは攻撃的な性格ではなかったことや、中学生以降に暴力的傾向が顕著になってからも、「ときところを考え、相手を選んで暴力行為に出る傾向」があったことを踏まえ、「被告人の攻撃性は、それなりに意思のコントロールに服しているもののように思われるのである。このような情況的事実に照らしてみても、被告人が、弁護人らの主張するように生来的、器質的欠陥から生まれながらにして善悪の弁識に従って行動を制御することが著しく困難な状態にあったものとは到底考え難いというべきである」と指摘した上で、「Sが事件当時、心神耗弱の状態にあったことを疑わせる事情は全くない」と結論づけ、Sには事件当時、完全責任能力があったと認定した[216]。
- 量刑の理由
- そして、本事件前の数々の暴力的犯罪や、金欲しさから唯一遺されたBの目の前で家族4人を次々と惨殺し、その合間に現場で「気分転換」と称してBを強姦したこと、そして逮捕前後にはBに罪をなすりつけようとしたことなどを指摘し[263]、以下のように犯行態様を非難した。
被告人はA宅において、いささかの躊躇も逡巡もなく前記のような凶悪な犯行を次々に敢行していく中にあって、極めて冷静に行動していること、また四人もの生命を奪ったことについての一片の悔恨の情も感じさせない平然とした態度をとっていたことが窺われるのであって、金品強取に向けて終始冷静かつ執拗に行動するとともに、被害者らが苦しみ、悶える様を目のあたりにしても一向に意に介さない冷酷非道この上ない所業は、とても人間のすることとは思われないというほかないのである。 — 千葉地裁 (1994) :量刑の理由、[171]
各犯行は短絡的、自己中心的で、およそ自分の意に沿わないような行動をとる者やその可能性のある者に対しては、卑劣にもその背後から呵責無く攻撃し、生命すらも躊躇なく奪うという酷薄なものであって、そこには人の生命や尊厳に対するいささかの畏敬の念をも見い出すことができない。 — 千葉地裁 (1994) :量刑の理由、[171]
- その上で、生き残ったBも事件から約1年5か月後の期日外尋問で、Sに対し極刑を望む旨を述べ、峻烈な処罰感情を示していることや、犯行の社会的影響の大きさ、事件前のSの行状が良くなかったことなどを指摘した[113]。一方、Sが不遇な生い立ちにあったこと、判決時点でも21歳と若年で、改善更生の余地が全くないとはいえないこと、一応は反省の態度を示し、殺害した被害者の冥福を祈っていることや、Sの母YがB(接触を拒否)を除く被害者たちに誠意のある謝罪をした上で、所有していたマンションを売却するなどして金を工面し、それぞれ示談を成立させたり、休業補償・慰謝料を支払うなどしたほか、A一家の菩提寺に墓参の上、供養のため喜捨をするなどして被害者の冥福を祈っていたこと(後述)など、Sにとって有利な情状も列挙した[113]。
- また、弁護人らによる「死刑が人の生命を奪う極刑であり、その適用に当たっては被告人のために酌みうる諸事情を充分考慮に入れるべきであるのは勿論のこと、被告人のような可塑性に富む若年者に対する極刑の適用は特に慎重であるべきであって、死刑廃止はいまや世界的な趨勢になっていることをみれば、犯行時少年であり、その人格に改善更生の余地が認められる被告人に対しては、少年の健全な育成を期し、少年の性格の矯正と環境調整を目的にかかげ、一八歳未満の者の犯した犯罪について死刑の適用を禁止している少年法や同様の規定を有する児童の権利条約の精神などに照らしても、死刑を科すべきではない」という旨の主張に対しては、以下のように判示した[113]。日本の死刑事件で、死刑制度をめぐる国内外の議論(前述)について言及された事例は、本判決が初であった[264]。
確かに、国際的にみると、それぞれの国の歴史的、政治的、社会的、文化的その他の諸事情から、現在死刑制度を採用していない国が多くあり、我が国においても一部に根強い死刑反対論があることは弁護人らの指摘するとおりであるが、一方において、殺人行為をいかに反復累行しても当該殺人者の生命だけは法律上予め保証される結果となる死刑廃止に対して、多くの国民が素朴な疑問を抱いていることも、累次の世論調査の結果等が示しているところである。 いずれにしても、死刑が人間存在の根元である生命そのものを永遠に奪い去る冷厳な極刑であり、まことにやむをえない場合における究極の刑罰であることに鑑みると、死刑制度を存置する現行法制のもとにおいても、その適用が慎重に行われなければならないことはいうまでもなく、実際にも、過去数十年の間、我が国において、死刑の適用が極めて抑制的になされてきたことは周知のとおりである。 — 千葉地裁 (1994) :量刑の理由、[265]
- その上で、以下のように最高裁が1983年(昭和58年)7月に言い渡した「永山判決」の中で示した死刑選択基準を引用し[264]、
しかしながら、人の生命が無二、至尊でかけがえのないものであるが故に、多数の者の生命を故なく奪ったことの責任を自己のかけがえのない生命で償うほかない場合も絶無でなく、この理は年長少年に関しても基本的に異なるものでない。さればこそ、少年についても、犯行の罪質、動機、態様、殊に殺害の手段方法の執拗性、残虐性、結果の重大性、殊に殺害された被害者の数、遺族の被害感情、社会的影響、犯人の年齢、前科、犯行後の情状等各般の情状を併せ考察したとき、その罪質が誠に重大であって、罪刑の均衡の見地からも、一般予防の見地からも、極刑がやむをえないと認められる場合には、なお、死刑の選択も許されると解されているのである(最高裁判所昭和五八年七月八日第二小法廷判決・刑集三七巻六号六〇九頁、なお、同平成五年九月二一日第三小法廷判決・裁判集刑事二六二号四二一頁[注 32]参照)。 — 千葉地裁 (1994) :量刑の理由、[241]
- 犯行態様が残虐・冷酷であること、身勝手な動機から何ら落ち度のない4人の人命を奪った結果の重大性、遺族の被害感情の峻烈さ、社会的影響の甚大さや、Sが事件前から多数の犯罪を犯しており、「凶暴性、反社会的性格は顕著である」ことなどについて言及した上で、「被告人の刑責は誠に重大というほか」ないと指摘[241]。さらに、Sは当時19歳の年長少年で、身体的には十分発育を遂げ、知能も中位で、結婚していたことから民法上は成年に達したとみなされる立場だったことや、酒・タバコを常用するなど、生活習慣は成人と変わらなかったことなども考慮し、「被告人のために酌みうる諸事情を十分考慮に入れ、併せて死刑の重大性にさらに思いを致してみても、被告人に対しては、罪刑の均衡の見地からも、一般予防の見地からも、偶発的犯行と認められる〔C〕に対する強盗殺人罪については別として、〔D〕、〔A〕に対する強盗殺人罪及び〔E〕に対する殺人罪に関し、極刑をもって臨まざるをえない」と結論づけた[241]。
弁護側は判決を不服として、同日14時30分に控訴を申し立てた[244]。Sは永瀬宛の手紙で、死刑判決を受けたことで初めて、被害者たちの心情を理解した旨を述べている[267]。
死刑制度廃止議員連盟(会長:田村元)は同日、二見伸明事務局長名義で以下の声明を発表した[56]。
一、少年の死刑事件について少年法51条では、事件当時18歳未満の少年に対しては死刑を適用しない特別の保護規定をも受けている。被告は事件当時19歳であり、保護の対象にはなりえないものの、被告が「私はこれから生きていく中で、少しでも償うように過ごしていきたいと思っている」と述べていることや、近年の死刑制度の見直しの世論の高まりなどもあり、少年法の精神にのっとり、被告の今後の生きるべき指針となる判決を期待したが、死刑判決には失望を禁じ得ない。
一、この事件は残虐で異常なものである。
しかし、その残虐性を厳しく非難する国家が、死刑という最も残虐な手段で対処することは論理の矛盾である。
私は、人間の生命を奪う権利は国家も含め誰も持つべきではないと考える。アメリカ36州と日本を除く先進国は、政治家の主導で死刑制度を廃止した。
日本でもこの判決を期に、被害者遺族の補償・教済の在り方を見直すとともに、死刑制度の存廃について真正面からの議論を期待したい。そのために死刑にかんする情報を公開することと、死刑の執行を一定期間停止する時限立法の制定をすべきである。 — 死刑制度廃止議員連盟、1994年8月8日付声明、[268]
控訴審
[編集]控訴審における事件番号は、平成6年(う)第1630号[23]。審理は東京高等裁判所第2刑事部に係属し[23]、神田忠治裁判長[注 37]と、小出錞一・飯田喜信の両陪席裁判官が担当した[270]。控訴審初公判は、1995年(平成7年)6月29日に開かれ[46]、1996年(平成8年)2月6日に情状証人 (Y) の尋問、同月15日に被告人質問、3月19日に最終弁論が行われた[271]。
控訴審では、第一審の私選弁護人2人のうち1人が辞任した一方、新たに中村治郎が弁護を担当し[272]、第一審でも弁護を担当していた奥田と連名で控訴趣意書を提出した[23]。その内容は、以下の3点である。
- 殺意についての事実誤認の主張[23]
- 第一審でC・A・Eの3被害者に対する確定的殺意が、Dに対しても未必の殺意が認定された点についていずれも異を唱え、C・Eへの殺意は未必のものにとどまり、D・Aへの殺意はなかった(=強盗致死罪にとどまる)旨を改めて主張[273]。中村は、SがCを殺害後、現場にあった包丁をすべて冷蔵庫の上に乗せ、被害者たちの帰宅を待ち伏せ、柳刃包丁で次々と帰宅した被害者を殺傷した(=Sが包丁を手にすることに抵抗を示さなかった)ことに着目し、「凶器に対する親和性」「凶器を容易に使う性格」を持っているのではないかと考えた[274]。そこで、Yから話を聞き、「Sは事件前から鰻を捌いていたため、包丁を持つことに抵抗がなかった。また、周囲に『(包丁は)凶器にもなり得るんだから絶対人に向けてはいけない』と指導してくれる大人もいなかったため、容易に包丁を用いた殺傷行動に出たのではないか」という趣旨の論点を組み立て、控訴審での弁論に臨んだ[275]。
- Sの責任能力についての事実誤認の主張[276]
- 弁護人は第一審と同じく、Sは「爆発型精神病質者、類てんかん病質者」であり、心神耗弱である旨を主張した[277]。そのため、東京高裁は新たに福島・小田両医師の証人尋問を行ったほか、福島が作成した精神状態鑑定書補充書と意見書、小田が作成した精神鑑定補足意見書および報告書、そして一般的な文献である黄体ホルモンの投与の影響などに関する論文などの証拠を調べた[276]。
- 弁護側は「心神耗弱」主張の根拠として、血中尿酸値が高いことや、前頭葉に高振幅徐波があることを挙げた[276]。また、胎児期に投与された黄体ホルモンの影響については、第一審で提出された福島鑑定に補足する形で、福島による精神状態鑑定書補充書を提出したほか、福島の証言も得たが、福島は第一審での「〔Sの〕行動制御能力は普通人に比べてかなり減退していたが、著しい減退といえるかどうかは司法的な判断の問題であろう」という見解からさらに踏み込んで、「〔Sの行動制御能力は〕著しい減退があった」と断言した。その根拠として、福島は原判決後にライニッシュの研究論文(胎児期に黄体ホルモンにさらされると攻撃性が強まるという趣旨)[注 38]の存在を知り、それを検討した結果、Sもそのような状態にあったことが十分に裏付けられたと主張した[276]。また、福島は第3回公判で、Sの犯行時の精神年齢について「12、3歳程度ではないか」と供述している[279]。
- 一方、小田は「胎児期に黄体ホルモンにさらされたことによる脳の男性化、攻撃的な性格の形成は、検証されているとはいえず、むしろ否定的な結論が出されている」という論文を引用した上で、Sは「爆発性・冷情性精神病質者」で、完全責任能力が認められるという第一審における主張を維持した[277]。
- 弁護人は第一審と同じく、Sは「爆発型精神病質者、類てんかん病質者」であり、心神耗弱である旨を主張した[277]。そのため、東京高裁は新たに福島・小田両医師の証人尋問を行ったほか、福島が作成した精神状態鑑定書補充書と意見書、小田が作成した精神鑑定補足意見書および報告書、そして一般的な文献である黄体ホルモンの投与の影響などに関する論文などの証拠を調べた[276]。
- 量刑不当の主張 - 死刑は重すぎて不当であるという旨の主張[277]。
控訴棄却判決
[編集]1996年7月2日に控訴審判決公判が開かれ、東京高裁第2刑事部(神田忠治裁判長)は原判決を支持し、被告人Sからなされていた控訴を棄却する判決を言い渡した[47]。弁護側は判決を不服として、即日上告した[47]。
- 殺意についての事実誤認の主張に対する判断
- 第一審判決を改めて検討したが、被害者たちの遺体の傷や、殺害行為の前後の行動などから、原判決の殺意に関する認定を全面的に支持し、弁護人らによる論旨を退けた[280]。
- 責任能力についての事実誤認の主張について
- 東京高裁は、第一審で提出されていた証拠に加え、新たに行った事実取調べも踏まえた上で、原判決の「Sには完全責任能力があった」という主張を維持し、弁護人の「心神耗弱」主張を退けた[276]。
- その根拠として、弁護側が控訴審で提出したライニッシュの論文について、「(胎児期に投与された黄体ホルモンの影響により)攻撃性の増加が認められるかどうかという観点からの研究であって、その内容はあくまでも性格的な傾向を見るものにとどまり、行動制御能力自体の制約につながるかどうかの見地からの研究とは考えにくいものである。その上、攻撃性の増加があるとされる程度も、遺伝的負因等から生ずる性格の粗暴さの程度と比較するなどしているものではなく、通常の遺伝的負因に比べてその性格的偏りが異常に大きいという結果が出ているものではない、しかも、胎児期に黄体ホルモンの投与を受けた者はかなりの数に上ることが考えられるのに、その投与を受けたことにより行動制御能力が低下したとされる事例は、これまでに特に指摘されていない」と指摘。Sの血中尿酸値濃度が異常に高いとはいえないこと、脳波の傾向(前頭葉高振幅徐波)も粗暴犯や爆発的精神病質者によく現れる特徴に過ぎないことを挙げ、「証拠から認められる爆発性精神病質等の性格的な偏りに、(中略)総合考慮しても、これだけで被告人の行動制御能力がときに著しく減退することの可能性を肯定することはできない」と結論づけた[277]
- その上で、Sが本犯行時に取った行動などから、Sは自己より強い者に対しては衝動を抑制して大人しく振る舞う一方、弱い者に対しては粗暴・支配的に振る舞う(自分と相手の力関係次第で、自己の攻撃行動を区別・選択する)という傾向が存在することを認め、一家殺害事件の際も状況に対応した冷静な行動を取っていた点から、Sの行動制御能力は著しく減退していなかった(心神喪失ではなかった)と結論づけた[277]。
- 量刑不当の主張について
- 一家殺害事件について、「罪質、動機、殺害の手段方法、殺害された被害者の数などに照らして、その罪責が誠に重大なものである」と判示した上で、強盗の動機に同情の余地はなく、殺人の動機も「邪魔になる者を排除する」という悪質極まりないものであることを指摘し、犯行態様について以下のように非難[281]。本事件前から数々の粗暴な犯罪を繰り返していたことにも言及した[270]。
その殺人の犯行態様は、電気コードで頚部を締め付け、あるいは鋭利な刃物で背後から一回ないし数回突き刺すという卑劣で残虐なものであるとともに、何のためらいもなく敢行しているところに冷酷さと非情さが認められる。このような犯行からは、原判決が判示するとおり人の生命、尊厳に対するいささかの畏敬の念も見いだすことができない。一方、何らの落ち度もないのに非業の死を遂げた〔C〕、〔D〕及び〔A〕の苦痛と無念の情には計り知れないものがあり、特に幼くして生命を奪われた〔E〕に対して深い哀れみを禁じ得ない。さらに、残された〔B〕に対する強盗強姦、傷害の犯行自体ももとより重視すべきであるが、それに加えて、同女が祖母、両親、妹の一家四人を一挙に失い、自らも長時間極限状態にさらされて、一生癒すことのできない深刻な心の傷を負わされたことの重大さも見逃すことができない。 — 東京高裁 (1996) :三 量刑不当の主張(控訴趣意[3])について、[270]
- 一方、以下のようにSにとって有利な事情も列挙したが、それらを十分に考慮し、「死刑がやむを得ない場合における究極の刑罰であることに思いを致しても、その犯した罪の重大性にかんがみると、被告人を死刑に処するのは誠にやむを得ない」と結論づけた[270]。
- 犯行はいずれも事前の綿密な計画に基づくものではなく、偶発的な犯行としての面があること
- 一家殺害事件については「当初から殺害が計画されていたわけではなく、その場の成り行きにより発展し、拡大していったものである」こと
- Sは事件当時少年で、福島鑑定でも指摘されたように「年齢を重ねるにつれ、また今後の矯正教育により改善の可能性がある」こと、生育環境も「特に劣悪とはいえないにせよ、所論が指摘するように、両親の離婚等のために恵まれない面があった」こと
- Sは獄中で後悔と反省の情を深め、Yら家族が贖罪のための努力をしていること
同年12月16日には名古屋高裁で、名古屋アベック殺人事件(2人殺害)の控訴審判決が言い渡されているが、同判決では犯行時19歳の少年だった主犯格の被告人が、死刑を適用した原判決(名古屋地裁:1989年6月28日)を破棄されて無期懲役を言い渡され、確定している[220]。両判決とも年長少年による凶悪犯罪であり、「永山基準」に従って死刑選択の当否が検討されているが、『判例時報』 (1997) や宮澤浩一(中央大学教授)はこのように両事件において死刑選択の可否に関する判断を分けた可能性のある要素として、被害人数の違いを指摘している[220][282]。上告審の弁護団も上告趣意書で、名古屋アベック殺人事件の判例を斟酌するよう求めているほか、本事件の凶器である包丁は永山事件で用いられた拳銃より殺傷力が相当低いこと、近年の第一審裁判所による死刑の宣告・執行の人数はいずれも減少傾向にあること、およびそのような死刑適用に慎重な傾向に言及した上で検察官の死刑求刑を退け、無期懲役判決を言い渡した判決例(1998年3月10日に那覇地裁が宣告した名護市女子中学生拉致殺害事件の第一審判決など)もあることなどを主張している[283]。
上告審
[編集]上告審における事件番号は、平成8年(あ)第864号で、審理は最高裁判所第二小法廷(亀山継夫裁判長)に係属した[284]。上告趣意書[注 39]を執筆した弁護人は、奥田と中村、そして粕谷芙美子の3名で[286]、その要旨は「死刑の違憲性」[287]「重大な事実誤認」[3]「量刑不当」[288]の3点であった。
また、上告審から一場順子(死刑確定後も再審請求審でSの弁護人を担当)も弁護団に加わった[59]。
加藤鑑定
[編集]上告審の段階で、過去に名古屋アベック殺人事件の犯人少年らの犯罪心理鑑定を実施した加藤幸雄が、Sの犯罪心理鑑定を実施し[289]、1998年(平成10年)8月15日付で「被告人〔S〕、犯罪心理鑑定書」を提出した[290]。加藤は事件の未解明点として、Sにとって身近な生活圏での犯行であること、特段を計画・準備や証拠隠滅を図ることもなく同じ家に何度も出入りしたこと、逃亡を試みることなく現場に長時間滞在していたことなどを挙げた一方、「真相解明の手がかり」として、本人の人格形成上での多くの問題、家族間葛藤の強さ、自立と依存の間での心の揺らぎ、現実的問題解決力の弱さなどといった点に着目した[291]。その上で、第一審・控訴審の判決や、それまでに3回行われていた精神鑑定の内容を批判的に検討しながら、Sの生育過程における親子関係や、人格形成の理解に重点を置いた鑑定を実施した[289]。その結果、Sは事件当時、思い通りにならない現実に嫌気が差し、現実から遊離した世界に自由を求め、可愛がってくれた祖母の家の近くに住んでいた少女に幻想的な一体感を求め、その一体感を邪魔するものを排除(殺害)した……という、原判決の認定とは異なる事件の構図を推測した[292]。
また、加藤は事件当時、SとBとの間に異夢同舟の特異な心理的関係が生じていた可能性も指摘している[291]。その内容は、SにはBに対する加害者意識が乏しく、Bとのやり取りから彼女に親近感を覚え、「自分に寄り添って協力してくれる者と思い込んでしまっている」として、BがSの「潜在的共犯」出会ったとする内容であった[290]。その根拠として、SがBの口から出た言葉で印象に強く残っていることとして「殺されても保険金は出るの」「父親はサラリーマンではないので、出社しなくても怪しまれない」という言葉を挙げていることや、Bが過去に母親Dや養父Aとの深刻な確執を抱えていたことを主張した上で、「たとえ意識の表層には出ないまでも、自己の父母殺害に関しては、被告人との『潜在的共犯』といってよいほどの被告人よりの意識が存したと推認され得る」という推論を展開している[293]。
弁論
[編集]2001年(平成13年)4月13日、最高裁第二小法廷(亀山継夫裁判長)で上告審の公判が開かれ、弁護側(弁護士6人)と検察官の双方による弁論が行われた[294]。弁護側は、「Sは幼少期に父から虐待を受けていた」という新主張を展開し、家族機能研究所を主宰する斎藤学による精神状態鑑定意見書も提出[295]。「Sは犯行時、行動制御能力が著しく劣った心神耗弱状態で、それを認定しなかった控訴審の判断は不当」という主張や、「Sは犯行時19歳1か月で、改善可能性が高い」という主張に加えて[48]、懲役刑か高裁への差し戻しを求めた[296]。一方、検察官は確定的な殺意や完全責任能力の存在を主張し[48]、「死刑は正当であり、上告は棄却すべきである」と主張した[297]。
また、弁論後に安田好弘が新たに弁護人として就任し、事実関係について全面的に争うべく、最高裁に弁論再開を申し立てたが、これは認められず[298]、第二小法廷は同年11月13日付で、判決期日を同年12月3日に指定し、関係者に通知した[注 40][300]。このため、安田は死刑確定前、Sと「とにかく生き延びよう、とことん生きるための闘いを続けよう」と約束していた[298]。
死刑確定
[編集]2001年12月3日[注 41]に上告審判決公判が開かれ、最高裁第二小法廷(亀山継夫裁判長)は原判決を支持し、被告人S側の上告を棄却する判決を言い渡した[9]。Sは判決への訂正を申し立てたが[303]、2001年12月20日付の第二小法廷決定[事件番号:平成13年(み)第7号、平成13年(み)第9号]で棄却された[注 42][49]。このため、同月21日付でSの死刑が確定した[注 2][24][25]。
事件当時少年の被告人に言い渡された死刑判決が確定した事例(少年死刑囚)は、永山則夫(1990年に死刑確定)以来で、最高裁が統計を取り始めた1966年(昭和41年)以降では9人目だった[9]。また、少年による死刑事件では死刑適用の判断が分かれる傾向が強いとされるが、本事件は第一審・控訴審・上告審と一度も死刑が回避されることなく確定する結果となった[308][309]。
獄中におけるS
[編集]獄外の人間との交流
[編集]永瀬隼介との交流
[編集]Sは上告中の1998年10月以降、収監先の東京拘置所で祝康成(後に筆名を「永瀬隼介」に変更)と面会を行うようになり、自身の半生や事件に至るまでの経緯、現在の心境などを詳細に書いた手紙も送った[310]。Sはそれらの手紙の中で、両親や祖父Xに対する強い憎しみの念や[311]、元妻aaへの思い[312]、そして「犯人でなければ書けない、異様な迫力に満ちている」殺害現場の描写や[313]、逮捕後もしばらくは自身の罪の重大さを認識していなかったこと(前述)[194]などを書き綴っていた。一方、永瀬から5歳年下の弟(当時大学生)は自身のような犯罪を犯さず、真っ当な社会生活を送っていることや、自身よりさらに劣悪な環境で生まれ育っても正しく生きている人間もいることを指摘されると、「血のせいばかりではない」とその問いかけを肯定する旨を述べている[314]。また、被害者の菩提寺の住職が、加害者である自身にも親身になって接していることについては、「ああいう人が親戚にいたら良かった」と述べている[315]。
その一方で、二度にわたり死刑判決を受けて以降は獄中で被害者たちの冥福を祈るため、読経を繰り返しているものの、生き残ったBへの幸せを祈ることも含めて「自己満足のための儀式でしかない」と感じていることや[316]、死刑が確定すればいつか必ずやってくる(しかし、いつやってくるかはわからない)死を獄中で待ち続けなければならなくなることに対する恐怖なども吐露していた[317]。実際、1999年(平成11年)12月17日に、東京・福岡の両拘置所で死刑囚2人の刑が執行された[注 43]ことを新聞報道で知った際には、面会時に祝に対し「眠れない」「この先も正気を保てるか自信がない」と明かすほど動揺しており、その日からしばらくは手紙を送ってこなくなった[319]。また、永瀬は獄中のSだけでなく、祖父Xや[320]、事件後にBを引き取った熊本在住の母方の祖母(Dの母親)[321]、東北地方のAの実家にもそれぞれ取材し[322]、1999年には『新潮45』6月号(新潮社)に本事件を題材としたルポルタージュを寄稿した[323]。その後、2000年(平成12年)1月にはaaの行方を追い、フィリピンまで渡航した[324]。そしてaaの実家を特定・訪問することに成功し、彼女の家族たちからもSの人となりなどを聞くことに成功したが[325]、aa本人に会うことは叶わなかった[326]。
このような永瀬とSの交流は、Sの死刑が確定する直前まで続き[注 44]、永瀬はSに対し、Sが希望する本や[330]、『新潮45』を定期的に差し入れていた[331]。しかし、永瀬はやがて「自分の人生のすべてをなかったことにしたい」と語るSの真意を「理解不能」と断じるようになっていた[332]。2000年初夏、永瀬は精神的な疲弊から自律神経失調症を患い、電車で帰宅する途中に駅のホームで倒れ、顎を強打したことで歯が砕け、3週間入院するほどの大怪我を負った[333]。また、同年9月にはそれまでの取材結果をまとめた著書『19歳の結末 一家4人惨殺事件』をSに差し入れ、同月と10月にそれぞれ1回ずつ面会したが、その際にSが同書に書かれていた被害者遺族の怒りや悲しみに対する感想を述べるのではなく、事件前にフィリピンで起こした騒動について「嘘が書かれている」と文句を言ってきたことや、Bを「あなたの取材にもまともに応えない。とんでもない人間だと思いませんか」などと罵倒したことなどに強く失望し、「愛する娘と四歳の孫を刺し殺された〔母方の〕祖母の地獄の日々に思いを馳せることのできないこいつは、やっぱり救いようのないクズだ」「分かったのはただひとつ。この男は反省していない、ということだけだ」と唾棄している[334]。永瀬は、S以外にも広島タクシー運転手連続殺人事件の死刑囚(2000年に死刑確定)ら、過去に複数の殺人犯を取材していたが、Sについては「理解できないモンスター」「わたしが過去、取材したどの殺人者よりも遥かに深い、桁外れの闇を抱えている」と形容している[335]。
その他の人物との交流
[編集]被害者の菩提寺である熊本の寺の住職(後述)は事件翌年、Yらに頼まれたことがきっかけで、当時千葉刑務所に収監されていたSと初めて面会した[59]。この住職は当初、Sに怒りを感じていたが、第一審判決以降はSが罪の大きさに苦しんでいることを感じ取り、Sからの頼みで被害者たちの供養を行うようになり、Sの死刑確定後には彼が書いた写経(2,500字)を送られている[59]。Sの死刑執行の翌日(2017年12月20日)、彼は「事件から二十六年間、彼なりに罪と向き合い続けた。それを否定するだけの根拠は、私にはないから」とSを供養したが、戒名は与えなかった[59]。
1997年(平成9年)ごろから[228]、Sは『東京新聞』(中日新聞東京本社)の司法担当記者だった瀬口晴義と文通や面会を重ね[59]、2000年7月時点で瀬口宛に計20通近くの手紙を送っていた[228]。当時、Sは「己の罪深さを恥じ、真に償いを求めるならば、私は自分の将来を求めてはいけないと思えます」と述べていた[228]。瀬口は、Sが礼儀正しく、大腸がんを患った自身を本気で気遣う姿を目の当たりにしており、「相対した印象と、残虐非道な犯行との差は、最後まで埋まらなかった」と述べている[59]。
Sは辺見庸(作家)とも、死刑執行までに計数十回の面会を行っていた[336]。辺見は死刑執行まで10年超にわたってSと交流しており、『いま、抗暴のときに』をはじめとした自身のエッセーで、「私の作品をもっとも深く理解する読者」としてSを匿名で登場させている[337]。
また、再審請求の弁護人を担当していた一場順子とは約2か月おきに面会していた(最後の面会は2017年10月末)が、Sは一場に対し、「4人がいつも自分にくっついていて、おまえのことを許せないと言っているようで苦しい」と打ち明けたこともあった[338]。
再審請求
[編集]「死刑廃止の会」(2006年当時)[注 45]が1993年3月26日以降の死刑囚(死刑確定者)[注 46]について調査した結果[340]、東京拘置所に収監されていたSは2005年8月1日 - 2006年9月15日までの間に再審請求を起こしていたことが確認されている[注 47][349]。第一次再審請求では、確定審で弁護人を務めていた弁護士が、確定審で提出された福島鑑定の結果に加え、Sの生育歴・脳のMRI検査の結果も考慮して再度行った精神鑑定の結果を基に、「犯行当時、Sは心神喪失状態だった」と主張していた[298]。その後、脳機能障害の最先端の研究者による鑑定も行われ、MRI検査のやり直しなども請求されていたが、死刑執行までに再審請求は2度棄却されていた[298]。なお、『読売新聞』は法務省関係者の「〔Sは〕実質的に同じ理由で請求を繰り返していた」という声を報じている[350]。
死刑執行
[編集]2017年(平成29年)12月19日、死刑囚Sは収監先の東京拘置所で死刑を執行された(44歳没)[6]。事件発生から25年[351]、死刑確定から16年が経過していた[352]。Sは遺言として、裁判記録を一場のもとへ送るよう言い残していた[59]。同日には同じ東京拘置所で、群馬県安中市親子3人殺害事件(1994年2月発生)の死刑囚である松井喜代司[注 48](69歳没、当時第4次再審請求中)の死刑も執行されている[26]。この2人の死刑執行指揮書は、いずれも上川陽子法務大臣が同月15日付で署名した[32]。
死刑執行当時、Sは第3次再審請求の即時抗告中だった[298]。これは、事件当時の責任能力を争点とした請求だったが、安田は他の弁護人2人(いずれも上告審で弁護を担当)とともに次の再審請求に向けて準備を進め、再審請求書も作成していた[354]。その内容は、凶器と刺し傷の違いや、Sが長時間現場を離れていたことなどを挙げ、第三者が犯行に関与した可能性[注 49]を示唆するとともに、刺し傷の場所・死因から、4人全員への殺意の有無についても再検討を求めるものだった[355]。
また、安田は死刑執行から数日後、東京拘置所でSとは別の死刑囚(Sの房から見て斜め前の房に収監されていた)と接見した際、「Sはかなり前から一番端の房(刑場に連行される際に目立たない場所)に収監されており、死刑執行当日の朝、2人の刑務官から面会か何かという話で呼び出され、ごく普通の形で連れ出されていった」という証言を得ている[355]。
死刑執行に対する反応
[編集]事件当時少年で、かつ再審請求中だった死刑囚Sの死刑執行を受け、「死刑廃止国際条約の批准を求めるフォーラム'90」(フォーラム90)[356]、日本弁護士連合会(日弁連、会長:中本和洋)はそれぞれ同日中に抗議声明を発表[注 50][358]。千葉県弁護士会(会長:及川智志)[359]、駐日欧州連合 (EU) 代表部も翌日までに、それぞれ抗議声明を発表した[360]。
一方、「犯罪被害者支援弁護士フォーラム」(VSフォーラム、共同代表:杉本吉史・山田廣)は同日、死刑執行を支持する声明を発表した[361]。また、「少年犯罪被害当事者の会」代表・武るり子は時事通信社の取材に対し「少年でも、罪に合った罰を受けることが犯罪抑止力につながる」と話している[362]。諸澤英道(常磐大学元学長:被害者学)は、「『少年の更生可能性』という非科学的・曖昧な基準で死刑執行を回避するのは相当ではない。死刑執行の先送りを目的とした再審請求も多いため、再審請求中でも死刑執行対象から除外すべきではない」という見解を示した[363][364]。
Sと同じく19歳で殺人を犯し、第一審で死刑判決を受けたが、控訴審で無期懲役が確定した名古屋アベック殺人事件(1988年発生)の受刑者である男(事件当時19歳:2018年3月時点で49歳、岡山刑務所に無期懲役囚として服役中)は、Sの死刑執行を伝える新聞記事を読んだ感想として、「人ごととは思えなかった」「生きていることへの感謝と申し訳なさを感じた」と述べている[365]。
実名報道
[編集]被害者一家の実名報道
[編集]事件後、被害者一家の実名報道については以下のように、新聞各社ごとに判断が分かれる結果となった[209]。以下、1992年3月7日付の朝刊(地方紙を除き、すべて東京版)における被害者の実名/匿名報道の様子である。
新聞社 | 実名報道/匿名報道 | 備考 |
---|---|---|
『千葉日報』 | 5人全員を匿名で報道[7] | |
『産経新聞』 | [注 51] | |
『読売新聞』 | 死亡した4人を実名、Bを匿名で報道 | |
『朝日新聞』 | ||
『毎日新聞』 | ||
『東京新聞』 | ||
『日本経済新聞』 | Bを含め、5人全員を実名報道[2][366] | [注 52] |
『中日新聞』 | ||
『神奈川新聞』 |
犯人Sの実名報道
[編集]少年法第61条は、罪を犯した少年について、氏名や容貌など「本人であることが推知できるような記事または写真」の掲載を禁止しているが[注 53]、日本新聞協会は同条について、「社会的利益の擁護が少年保護より強く優先する場合は氏名、写真の掲載を認める」という例外を設けている[369]。
Sは犯行時少年だったため、新聞各紙は事件直後、Sを匿名で報道していたが、『週刊新潮』『FOCUS』(いずれも新潮社発行)はSを実名報道した[30][31][369]。前者はさらに、Sの中学卒業時の顔写真や、当時住んでいたアパートの写真を掲載し[30]、後者はフードを被されて送検されるSの写真(撮影:清水潔)を掲載した[31]。その後、同社発行の『新潮45』1999年6月号に掲載された祝のルポルタージュでも、Sの実名が掲載されている[370]。このように実名報道を行った理由について、『週刊新潮』編集部次長の宮澤章友は、「少年法への問題提起のため」と説明している[209][371]。一方、女子高生コンクリート詰め殺人事件の際に犯人の少年4人を実名報道した『週刊文春』編集長の花田紀凱は、「当時の報道で、少年法への問題提起は既になされている」として、今回は実名報道を見送っている[371]。『週刊新潮』『FOCUS』の実名報道に対し、東京弁護士会(小堀樹会長)は3月25日付で「少年法の趣旨に反し、人権を損なう行為だ」として、新潮社に「良識と節度を持った少年報道」を求める要望書を郵送[372]、「一マスコミが少年を裁くようなことをしていいのか」と問題を提起した[369]。
2001年の死刑確定時も、新聞各紙はSを実名報道することはなかったが[373][374]、『朝日新聞』は2004年(平成16年)に作成した事件報道のガイドライン『事件の取材と報道』で、「事件当時は少年でも、死刑が確定する場合、原則として実名で報道する」という方針を策定[375][376]。テレビ朝日も、2005年までに「仮に死刑が確定した場合、事件当時少年でも実名報道する」という方針を策定していた[377]。2011年(平成23年)、最高裁で大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件(1994年発生)の3被告人(いずれも事件当時、18歳ないし19歳の少年)の死刑が確定した際には、『毎日新聞』や『東京新聞』『中日新聞』は、それぞれ匿名報道を継続した一方、『朝日新聞』『読売新聞』『産経新聞』『日本経済新聞』は実名報道に切り替えた[378][379]。同判決後、それぞれ事件当時18歳だった少年の死刑が確定した光市母子殺害事件(1999年発生:2012年に死刑確定)や、石巻3人殺傷事件(2010年発生:2016年に死刑確定)の上告審判決時にも、各社は連続リンチ殺人事件と同様の対応を取った[379][380][381][382][383]。
そしてSの死刑執行にあたり、法務省は被死刑執行者としてSの実名を公表したほか[注 54][32]、新聞各紙もそれぞれSを実名報道した[6][26][385]。それまで少年事件の死刑確定時に匿名報道を続けていた毎日・中日・東京の各紙も、匿名報道継続の根拠としていた更生や社会復帰の可能性が失われたことや、死刑は国家が人命を奪う究極の刑罰であり、その対象者が誰なのかを明らかにすべきとの判断から、実名報道に切り替えている[386][387][388]。
事件後の関係者
[編集]被害者遺族のその後
[編集]AとCの遺骨は事件後、秋田県鹿角市の仁叟寺(座標)に安置され、D・Eの遺骨も同所に分骨安置された[389][390]。またD・Eの墓は、Dの故郷である熊本県八代市の本成寺(座標)に建てられた[389]。
Bは事件から1年後に高校3年生になり[注 55][145]、1993年12月時点から遡って約1年前に東京から母Dの故郷である八代市に転校、Dの実家で母方の祖母(Dの母親)や叔父(Dの弟)とともに暮らすようになった[392]。Bは1994年3月に高校を卒業し[393]、同年4月4日の論告求刑を控え、『女性自身』の記者から取材を受けた[注 56][393]。その後、同年春には大阪の芸術系大学に進学し[注 57][390]、Sに第一審判決が言い渡された同年8月時点では、関西で一人暮らしをしていた[396]。同年から2000年(平成12年)ごろにかけ、Bは『女性自身』の記者や永瀬の取材に対し、「将来は母のようなキャリアウーマンになりたい」と話していた[394][397]。
永瀬によればBは2000年春に大学を卒業し[注 58][395]、2004年(平成16年)春に28歳で結婚、亡き両親がかつて移住することを夢見ていたヨーロッパへ移住した[399]。
犯人Sの親族のその後
[編集]母親Yによる贖罪
[編集]Sの母親Y(1992年5月時点で49歳)[400]は事件後、被害者や遺族への贖罪のため、何度もD・Eの遺骨が納骨された九州の寺や、事件後にBを引き取ったDの実家へ出向いた[401]。Sの弁護人は上告趣意書で、Yは資力が乏しい中、第一審の段階で「御花料」と称し、遺族側代理人弁護士に500万円を提供した旨を述べている[402]。しかし、B本人からは接触を拒否され[401]、母方の祖母(Dの母親)も謝罪金の受領を拒否している[403]。一方で1994年3月にはDの弟(Bの母方の叔父)との対面を許され、当初はDの弟から強い口調で問いただされたものの、事件後の苦悩や反省を打ち明けるうちに、「恨むだけでは解決にならない。量刑に関してはすべて裁判所に委ねる」という言質を得ている[401]。
また、以下のように被害者たちとの示談を成立させた。
- 江戸川事件の被害者甲 - 1993年8月8日付で、S本人が弁護人の桑原を通じて謝罪の手紙を送ったほか、同年10月6日付で母Yが慰謝料・医療費などの損害賠償金として45万円を支払い、示談が成立[404]。
- 中野事件の被害者乙 - Yは弁護人の奥田とともに、乙に多数回会い、謝罪の気持ちを伝えた上で、1993年11月20日付で治療費・休業損・慰謝料などとして155万8,475円を支払い、示談成立[405]。乙は同日付で、千葉地裁宛にSの減刑嘆願書を書いている[406]。
- 河原事件の被害者丙 - Yが奥田とともに面会して謝罪するとともに、Sの謝罪の気持ちを伝え、1993年11月20日付で奥田が謝罪の手紙とともに、治療費・休業損・慰謝料として50万円を送付した[406]。
- 岩槻事件の被害者丁 - 1993年8月8日付で、S本人が桑原を通じて謝罪の手紙と損害賠償金の一部(20万円)を送付したほか、同年10月17日にはYが桑原とともに謝罪に訪れ、同年12月23日付で謝罪文と損害賠償金の残金(30万円)を送付[407]。1995年11月26日にはYが弁護人の粕谷とともに丁宅を訪れ、その後の具合を尋ねた上で、重ね重ねSに代わって謝罪して示談も申し出たが、丁側の要求に応じることができず、後日謝罪の手紙とともに10万円を送付した[402]。
一方で獄中にいた長男Sに対しては、東京拘置所まで週1の割合で面会に訪れ、衣類や嗜好品、書籍などの差し入れも頻繁に行っていた[408]。『FRIDAY』記者の山岸朋央から取材を受けたこの寺の住職は、Y(1995年時点で51歳)から「今となってはどうにも手をうつことはできないが、せめて房の外にいる私が息子のかわりにご遺族の方々にお詫びし続け、お亡くなりになった人たちのご冥福を祈り続け、罪を少しでも償いたい…」という心境を聞かされており、彼女について「精神的、肉体的にも追いつめられ、自殺を考えたこともあったようですが、今は現実を直視し、S君と二人で罪を償っている。その真摯な態度には、心うたれるものがあります」と話している[401]。永瀬はSと交流していた時期、次男(Sの5歳年下の弟、2000年当時は大学生)と2人で暮らしていたYへの取材を試みたが、Yは取材を拒否している[409]。
祖父X・父親Zのその後
[編集]Xの経営していた鰻屋は事件後、客が激減し[78][410]、店舗も手放さざるを得なくなり、営業規模縮小を余儀なくされた[78]。宇野津光緒からの取材要請に対し、Xは持病(糖尿病・高血圧症)で入退院を繰り返していることや、事件のショックを受けて安静加療中であることを理由に、断りの返事を出している[391]。X(1999年時点で76歳[411]、2000年時点で77歳[320])は事件後、マスコミからの取材を受けておらず、永瀬もXから取材を受けられる可能性はゼロに等しいと考えていたが、ロングインタビューを行うことに成功している[412]。その時期は、東京拘置所に収監されていたSと初めて面会した時期(1998年10月)の直前で[413]、Xは永瀬に対し、「生きていてもいいことはないから死にたい」「なぜあいつ (S) が生きていられるのかわからない。自分なら自殺している」などと心情を吐露している[414]。なお、「X商店」の跡を継ぐはずだったXの長男(Sの叔父)は事件の3年前、くも膜下出血により44歳で死去し[78]、Xの妻(Yの母親、Sの母方の祖母)も事件後の1995年に死去している[415]。
Sの父親Z(1992年5月時点で50歳)は朝倉喬司の取材に対し、事件について問われると「何分にも私の理解の範囲を超えちゃってます。もう、何がどうしたのか」と第三者的な困惑した態度で話し、借金についてもギャンブルではなく、事業絡みの保証人になったことであると主張していた[416]。一方、1998年9月には元妻Yとともに、遺族への謝罪と供養のため熊本を訪れていた[417]。
考察
[編集]Bは目の前で家族を次々と殺害されている間、1人で外部の人間と応対する機会が2度あった(Eが保育園から帰ってきた時と、「ルック」へ預金通帳を取りに行った時)にもかかわらず、助けを求めることができなかった[418]。県警はその理由について、Bは当時、目の前で両親を殺されたショックと恐怖で茫然自失状態に近かった上、当時はまだ(戸が閉められたままの室内で死んでいた)Cの死を知らず、Eにも危害がおよぶことを恐れていたためであると説明している[419]。また、平井富雄(東京家政大学教授:精神医学)は「極端な異常事態に置かれて自律神経が“喪失”、相手の言いなりになってしまうことはあり得る」と考察している[420]。
起訴前にSの精神鑑定(小田鑑定)を担当した小田晋は、Sの実名を報じた『週刊新潮』 (1992) で、本事件と名古屋アベック殺人事件・女子高生コンクリート詰め殺人事件の共通点として、「犯罪衝動の抑制が利かない」「犯行に遊びの要素が含まれている」「犯人は少年期から放任されて育てられていた」「犯行には極端な冷淡さが見られる」といった4点、そしてアベック事件・コンクリート事件の犯人たちが事件当時「少年だから大した罪にはならない」と思っていたことを挙げた上で[116]、「犯行が報道の通りなら極刑にすべき。もし極刑にならないなら、保安処分とすべき」というコメントを出していた[236]。その上で、少年法の問題点として、本事件や先述の2事件のような18歳・19歳の年長少年による残虐な犯行でも、犯人の実名や職業などが報道されていないことを挙げ、「少年事件なら何でもかんでも報道を控えるといったマスメディアの姿勢が、実は本来なら防げるべき犯罪を防げないようにしている」と指摘していた[30]。
『東京新聞』記者の稲熊均は、Sが父親に反発していた一方、祖父から溺愛されていたことについて、東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の犯人である宮崎勤との類似性を指摘し、「複雑な家庭環境が事件に与えた点は大きい」と述べている[107]。また、佐木隆三もその点について言及した上で、東京都目黒区で発生した中学生による両親・祖母殺害事件[注 59]との類似性を指摘し、「子にシビアな父母と違い、祖父母は愛情のあまり、孫を金銭でコントロールしたがる。特に父母の愛情が何らかの要因で欠落すると、バランスを失った祖父母の愛情で抑制の利きにくい子を育てることもあるのではないか」と述べている[107]。石川弘義(成城大学教授:社会心理学)も同様に、Sが周囲から甘やかされて育ったことを挙げ、「非行少年生育の典型。“欲しいものは欲しい”だだっ子と同じだ」と指摘している[420]。
久田将義は自著で、それぞれ自身とほぼ同年代の少年たちが起こした事件である本事件と、女子高生コンクリート詰め殺人事件の2事件から大きな衝撃を受けたことを述べている[424]。また、その両事件や名古屋アベック殺人事件、木曽川リンチ殺人事件といった、1980年代後半から1990年代前半にかけて発生した少年による凶悪事件を「一九八〇〜九〇年代型犯罪」と分類し、これらの事件の特徴について「不良グループ内でも軽んじられているような中途半端な不良少年が、中途半端な集団意識から『ノリ』で卑劣で残虐な犯罪を犯した」と述べた上で[425]、これらの事件と川崎市中1男子生徒殺害事件(2015年)との類似性を指摘している[424]。そして、これらの事件の加害者たちの特徴として、弱者に対しては強く出て暴力を振るう一方、自身以上の強者(Sの場合は暴力団)に対しては無力だったことを挙げている[426]。
評価
[編集]ジャーナリストの飯島真一 (1994) は、本事件について「実際に起こった一家四人惨殺事件を題材にしたトルーマン・カポーティの『冷血』を彷彿とさせる」と述べている[396]。
間庭充幸 (1997) は事件前のSの半生を踏まえ、Sは合理的な「システム型社会」「情報管理社会」から落ちこぼれたコンプレックスを抱え、離婚・高校中退・転職などといった経験がマイナスに作用し、不満や疎外感を味わっていたところ、暴力団から多額の金銭を要求されたことをきっかけにそれらの感情が噴出する形で本事件を起こしたのではないかと指摘している[427]。
判決に対する評価
[編集]覚正豊和(千葉敬愛短期大学教授)は、「少年の健全な育成を期し、非行のある少年に対して性格の矯正及び環境の調整に関する保護処分を行う……」と規定した少年法の基本理念を挙げ、「たとえ行為時に18歳を超えた少年であったとしても死刑を科すことは少年法の精神には合致しない。(中略)被告人は、本件犯行時19歳1カ月の年齢にあり、少年法51条によって死刑が禁止される犯行年齢に1年1カ月余加齢しているのみである。その僅か1年1カ月余の年月の経過が、一人の人間の生と死を分けるほどに大きな意味をもつ年齢差であろうか」[217]「福島鑑定等でも証明された改善可能性の問題よりも、社会的影響や結果の重大性により重きを置いた判決といわざるをえない」[428]と指摘し、死刑を適用した第一審判決に疑義を呈した上で、「こうした少年事件に対する死刑判決につき、もし、死刑制度が存在するからであって一裁判官の力量を大きく超えるべきものであるとするならば、死刑廃止を実現させる以外の解決はないだろう」と述べている[428]。また、覚正は一連の判決を福島鑑定などが示した「矯正による改善可能性」より、「結果の深刻重大性」「社会的影響」「遺族の被害者感情」などをより重視した判決と評している[429]。
神田宏 (1996) は、本事件と名古屋アベック殺人事件それぞれの第一審判決について、1980年代後半に「少年犯罪の凶悪化の傾向」が指摘され始め、マスコミ主導ともいえる形で少年法および少年に対する寛大な処分の見直しの必要性がセンセーショナルに叫ばれたことを受け、裁判所がそれぞれ厳罰という形で少年犯罪に対し厳格な対応を取ったと評している[430]。
前田忠弘(愛媛大学教授)は、「市民的及び政治的権利に関する国際規約」第6条(1966年)や「子どもの権利条約」第37条(1989年)で18歳未満の者が行った犯罪について死刑の禁止が明言されていることや、「少年司法運営に関する国連最低基準規則」17・2(1985年:「北京ルール」)で「死刑は、少年[注 60]が行ったどのような犯罪に対しても、これを科してはならない」と規定されていることを踏まえ、日本の少年法は20歳未満を適用基準としている一方、同法第51条で年長少年(18歳・19歳)に対する死刑適用が認められている現状を「北京ルールの趣旨には合致せず、したがって、年長少年の刑事事件に対しても死刑の適用は避けるべきであろう」と指摘している[432]。
菊田幸一も「北京ルール」や「子どもの権利条約」の存在について言及し[229]、少年に対する死刑は少年法の精神にも「残虐な刑罰の禁止」を規定した現行憲法にも相容れないため、直ちに廃止すべきと主張している[433]。
本事件を題材とした作品
[編集]- 福島章『彼女はなぜ人を殺したのか』(講談社) - 本事件でSの精神鑑定を担当した福島が、本事件をモデルとして書いた小説[434]。
- 祝康成『19歳の結末 一家4人惨殺事件』(新潮社) - 本事件を題材としたノンフィクション。著者の祝が『新潮45』1999年6月号に寄稿したルポルタージュ「一家四人惨殺「十九歳」犯人の現在(いま)」[323]に、新たな取材結果を加えて書籍化したもの[435]。その後、2004年8月には筆名を「永瀬隼介」に変更の上、本書を加筆・改題した文庫本『19歳 一家四人惨殺犯の告白』が角川書店より発売されている。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ a b 事件が発生した1992年当時、現場一帯(市川市行徳地区)の所轄警察署は葛南警察署(管轄区域は行徳地区と浦安市全域)だったが、事件後の1995年3月7日に同署から独立する形で、行徳地区を管轄する「行徳警察署」が発足[10]。これに伴い、葛南署は管轄区域を浦安市のみに変更すると同時に、「浦安警察署」へ改称した[10]。
- ^ a b c d Sの上告審判決に対する訂正の申立は、2001年12月20日付の決定で棄却された[49]。『読売新聞』 (2001) では「決定が出されてから21日までに死刑が確定した」と[303]、『中日新聞』 (2001) では、「〔2001年12月〕21日に判決が確定した」とそれぞれ報道されている[306]。光市母子殺害事件における検察官の上告趣意書および[24]、2007年(平成19年)11月に福田康夫(当時の内閣総理大臣)が第168回国会で提出した答弁書(1977年1月1日 - 2007年9月30日までの30年間に確定した死刑判決の事件名および確定年月日がまとめられている)によれば、Sの死刑確定は12月21日付である[25]。厳密には訂正申立を棄却する決定が、被告人の下に送達された時点をもって刑が確定する[307]。
- ^ Sは1991年ごろの時点で、身長・体重とも平均を遥かに凌駕するほどに成長していた[33]。なお、『千葉日報』および飯島真一 (1994) は第一審判決を言い渡された当時のSについて「身長177 cm、体重90 kg」と述べている[56][27]。また、『女性自身』 (1994) は事件当時のSについて「身長182 cm」と述べている[57]。
- ^ Yは短大卒業後の1967年(昭和42年)、24歳の時に区役所のダンス教室で、東芝の関連会社に勤務していたZ(当時25歳)と知り合った[62]。Xは当初、娘YがZと結婚することに反対していたが、2人は駆け落ち同然の形で結婚し、Xも初孫となるSの誕生をきっかけに結婚を認めた[63]。『週刊文春』 (1992) によれば、夫婦は結婚直後の1969年(昭和44年)に江戸川区松本町へ転居したが、事件の17、18年前(1974年 - 1975年ごろ)に夜逃げ同然に家を出たという[64]。
- ^ Xは親の代から食品加工と卸の自営業を営んでおり[65]、第二次世界大戦の終戦直後、茨城県から上京し、江戸川区松島でウナギの卸業を始め、後に市川市を中心に10軒近い鰻屋を展開するチェーン店のオーナーとなった[62]。朝倉喬司 (1992) は、Xについて「S・N氏」と表記している[66]。宇野津光緒 (1993) は、「X商店」について「市川市付近でウナギ屋6店を経営」と述べている[67]。
- ^ 永瀬隼介 (2004) は、Z・Y夫婦はSの出生前にZの実家(松戸市)に新婚所帯を構えていた旨を述べている[63]。
- ^ この公団住宅には当時、有名企業の社員・医者・実業家などの高額納税者が多数居住していたが、Sの居室のすぐ上の階には、「当時、日本中を席巻していた漫才ブームで一、二の人気を争った漫才コンビのひとり」が住んでおり、その漫才師の息子がSの弟と同年齢だったこともあって、Sはこの漫才師一家と交流があった[68]。
- ^ 中学1年の(1985年)11月ごろまでは立石六丁目のアパートに、それ以降の3年間は立石七丁目の新築アパートに暮らしていた[64]。
- ^ Yはさらに2年後には船橋市内のテラスハウスへ移住したが、その3、4か月後には市川市の分譲マンション(事件当時、Yが次男とともに住んでいた)に移住した[97]。
- ^ 堀越高校の硬式野球部グラウンドは八王子市にあった[95]。また、朝倉喬司 (1992) は甲子園を目指していたはずのSが高校入学後、硬式野球部ではなく軟式野球部に入部した理由について、「中3の冬、自転車で転んで腕に大ケガをしたのが響いたためのようだ」と述べている[100]。
- ^ Sは1991年末、タクシー運転手をナイフで傷つける傷害事件を起こしていたが、これはYが示談にして収めていた[69]。
- ^ しかし、朝倉の取材を受けたSの家族の知人は「眼球破裂でXの片目が不自由になったという報道は誤りで、Xはこの事件以前から緑内障で千葉大学病院に通院していた」と証言している[100]。この一件で、Sは入院したXを見舞って謝罪している[96]。
- ^ a b AとDが生前経営していた「株式会社ルック」の事務所は、「渋谷第一ビル」204号室に入居していた[184]。同ビルの所在地は、市川市行徳駅前二丁目8番6号(座標)で[185]、1階の101号室にはファミリーマート行徳駅南口店が出店していた[184]。この部屋は、DがAと結婚する前、写真の勉強をするために借りていた部屋で、Aとの結婚後に会社を設立するにあたり、事務所として使用するようになった[1]。
- ^ 『週刊文春』 (1992) は、A・D夫婦の友人の「Dは女性にしかわからない風俗産業の機微を描いて世に出た」という声を報じている[127]。
- ^ 千葉地裁 (1994) では市川市内の保育園とされている[34]。
- ^ ゼンリン発行の江戸川区の住宅地図(1991年版および1996年版)によれば、江戸川区上篠崎四丁目12番3号に「(株)S(本事件の死刑囚Sと同一姓)○商店 うな重」という店舗が所在していた[131][132]。その後、2000年版では同地は更地になっており[133]、2022年時点では、篠崎公園9号地になっている[134]。
- ^ Sの妻となったaaは1970年(昭和45年)10月29日生まれ[33]。
- ^ 永瀬 (2004) は、
- ^ 福島 (1995) は、生徒手帳に書かれていたBの住所氏名について「メモしたか、その部分を破り取って保管した」と述べている[147]。
- ^ 永瀬 (2004) は、この時にSがクラウンを急加速させて丁の車に異様に接近したり、パッシングする、クラクションを鳴らすなどして煽った旨を述べている[160]。
- ^ 永瀬 (2004) は、Sが恐怖する丁に対し、自宅まで案内させるよう要求したが、丁が曖昧な内容の返事をして自宅に行こうとしなかったことに憤慨し、何度もナイフで切りつけた旨を述べている[161]。
- ^ Sに突き飛ばされた際、Cは右尺骨・右骨折を離開骨折している[171]。
- ^ 当時の状況について、Sは捜査段階で「テレビの前に座らせたらおとなしくじっと見ていたため、そのままにしておいたら眠った」と供述している[179]。
- ^ 千葉地裁 (1994) では「300万円位」[36]、永瀬 (2004) では「200万(円)」となっている[180]。
- ^ 「ホテル ラセーヌ」は、市川市塩浜三丁目10番3号(座標)に所在していた[188]。
- ^ 現場の上階(9階)に住んでいた住民は、「夜中、下の階でドアを叩く音が聞こえた」[190]「昨夜1時すぎ、ドアを激しくたたく音がした。長く続くので怖くて出られなかった」と証言している[191]。一方、事件当夜から翌朝まで「物音は何も聞こえなかった」という現場と同じ8階の住民の証言もある[191]。
- ^ この時、SがBに握らせた包丁は、千葉地裁 (1994) では「文化包丁」とされているが[171]、永瀬隼介 (2004) は、凶器として用いられた柳刃包丁だった旨を述べている[198]。
- ^ 一部のスポーツ新聞は、Bが養女である点に注目していた[202]。その後、Sの単独犯が判明すると多くのメディアは「養女」から「長女」呼称に切り替えた[206]。
- ^ 本事件の少し前には、北海道で娘が男友達と共謀し、両親を殺害するという事件が発生していた[206]。
- ^ 当初の留置期限は6月25日までだったが、地検はその後、さらに慎重を期すため、鑑定期間を9月上旬まで延長した[213]。当時、千葉地検の次席検事を務めていた甲斐中辰夫は、「Sの精神に異常があるとは考えていないが、凶悪性、残虐性など事件の内容が内容なだけに、あくまで慎重を期していきたい」と話していた[212]。
- ^ その間、新たに法務大臣に就任した人物は、長谷川信・梶山静六・左藤恵・田原隆と4人にわたるが、4人とも死刑執行命令を出すことはなかった[231]。その理由について坂本 (2010) は、「1990年は天皇即位の礼などが行われていたが、加盟国すべてが死刑を廃止した欧州連合 (EU) の影響を受けたためではないか」と指摘している[232]。
- ^ a b 半田保険金殺人事件の死刑囚(2001年12月27日に死刑執行)の刑を確定させた、1993年9月21日の上告審判決(最高裁第三小法廷)。園部逸夫裁判長以下、裁判官5人(貞家克己・佐藤庄市郎・可部恒雄・大野正男)全員一致で控訴審判決(死刑を言い渡した第一審判決を支持し、被告人側の控訴を棄却)を支持したものであるが、大野は補足意見で、死刑合憲判決(1948年3月12日大法廷判決)から45年が経過していることを踏まえ、その間に海外で死刑廃止が進んだこと、死刑囚4人(免田事件・財田川事件・松山事件・島田事件の各死刑囚)が再審によって逆転無罪になったこと、その一方で死刑を支持する日本国民の意識は40年近くほとんど変化していないことなどを踏まえ、「死刑の廃止に向かいつつある国際的動向と、その存続を支持する我が国民の意識とが、このまま大きな隔たりを持ち続けることは好ましいことではないであろう」と指摘し、その整合を図るための方法として、死刑の実験的停止や、現行の無期刑(服役10年を過ぎれば仮出獄の対象となりうる)とは別種の無期刑を設けるなどの提言をしている[266]。
- ^ 3人同時執行は26年ぶり[240]。
- ^ 『朝日新聞』 (1993) は、弁護側が「常人の理解を超えている」と主張した事件は、同年2月17日に追起訴された事件(中野事件・河原事件・岩槻事件)という旨を述べている[40]。
- ^ 『読売新聞』は、Sが殺意に関する質問で「その時は殺すつもりはなかった」「(背中を刺して)死ぬとは思わなかった」と主張した旨を[248]、『朝日新聞』はCとEの両名について故意で犯行におよんだことを認めたという旨を報じている[40]。
- ^ 刑法第46条1項「併合罪のうちの一個の罪について死刑に処するときは、他の刑を科さない。ただし、没収は、この限りでない」に基づく[216]。
- ^ 神田は退官後、弁護士になった。2008年には『毎日新聞』の取材に対し、「人の命が奪われるのだから良かったなんて思わない。被告に憎しみは持たないし持ってはいけないと思う」と回顧している[269]。
- ^ June Machover Reinisch (ジューン・マコーバー・ライニッシュ)が1981年、『サイエンス』誌上で発表した論文「Prenatal Exposure to Synthetic Progestins Increases Potential for Aggression in Humans」(訳題:合成プロゲスチンへの出生前曝露は、人の攻撃行動を潜在的に高める)[278]。
- ^ 上告趣意書にはSの両親(父Z・母Y)らが行った数々の贖罪のための行動について記されているが、その中で最新の日付は1998年9月23日(父Xが熊本を訪れた日)である[285]。
- ^ 2001年11月27日付で、最高裁第二小法廷が被告人Sからなされていた申立を却下する決定[平成13年(す)第509号]を出している[299]。
- ^ 同日付で、最高裁第二小法廷はSからなされていた裁判官忌避の申立てを却下する決定[事件番号:平成13年(す)第518号]を出している[301]。これに対し、Sは異議申立てを行ったが、同月11日付の決定[事件番号:平成13年(す)第530号]で棄却されている[302]。
- ^ それに先立ち、Sは判決訂正の申立て期間延長を(2件)申し立てたが、同月12日付[平成13年(す)第534号]、および13日付の決定[平成13年(す)第539号]で、いずれも棄却されている[304][305]。
- ^ 大宮母娘殺害事件で刑が確定した死刑囚(当時48歳:東京拘置所在監)と、長崎雨宿り殺人事件で刑が確定した死刑囚(当時62歳:福岡拘置所在監)の2人で、後者は第7次再審請求中だった[318]。
- ^ Sと永瀬の面会は2001年1月下旬で[327]、それ以降は死刑確定が迫ったことから、関係者らが交代でSと面会するスケジュールを組んでいたため、永瀬は面会できなかった[328]。Sから届いた最後の手紙は同年11月下旬の、判決期日が指定された旨を連絡するものだった[329]。
- ^ 2018年時点では、「死刑廃止国際条約の批准を求めるフォーラム'90」(フォーラム90)が同様の調査を実施している[339]。
- ^ 1993年3月26日に死刑を執行された死刑囚3人のほか、同日時点で拘置中だった死刑囚、そして同日以降に死刑が確定した死刑囚たちが調査対象である。
- ^ Sの死刑確定以降、2002年5月10日[341]、2003年5月末[342]、2004年7月末[343]、2005年7月31日と[344]、「死刑廃止の会」が計4回にわたって収監中の死刑確定者について調査を行ったが、いずれもSが再審請求をした旨の記述はなかった[345][346][347][348]。2006年9月15日付の調査で[340]、初めて「再審請求中」との記載が出ている[349]。
- ^ 松井喜代司は上告中、『週刊金曜日』宛に実名で「死刑制度は犯罪防止にならない」というタイトルの投書を寄稿し、同誌1999年1月22日号にその投書が掲載されている[353]。
- ^ 安田はこの再審請求書の内容について、「本当に全ての行為を彼がやったのかどうか、つまり、第三者が関与した可能性はなかったのか……(中略)……特に、重要参考人が行方不明になっており、私たちは、その人が事件に関与しているのではないかと、探し続けていました」と述べている[355]。
- ^ 日弁連死刑廃止検討委員会事務局長・小川原優之は『中日新聞』の取材に対し「犯行当時少年の場合は判断能力が成人より劣っている上、家庭環境・社会の影響も強く受けている。事件の責任を個人に負わせるのは相当ではなく、死刑を執行すべきではない」「死刑確定者も『犯人性への疑い』だけでなく『責任能力の問題』『量刑不当』など様々な論点で再審を請求しているため、そのような人々から裁判で争う機会を奪うのは問題だ」と意見を述べた[357]。
- ^ 稲田幸男(社会部長)は、5人全員を匿名で報道した理由について「長女 (B) が生き残っているという点を重視した。両親(AおよびD)の名前を書けば、結果として長女が誰かも特定されてしまう」と述べている[209]。
- ^ 橋本直(編集局次長)は、Bを実名報道した理由について「一報では、警察が長女 (B) に疑いを持っている状況だったので匿名にしたが、7日の朝刊段階では長女が完全な被害者であることが判明し、そのことをはっきり示すためにも実名の方がいいと判断した。しかし陰惨で気の毒な事件であり、被害者は一刻も早く事件を忘れたいだろう。今後の報道の仕方は考えたい」と述べている[209]。
- ^ 2022年(令和4年)4月1日に施行された改正少年法では、罪を犯した18歳・19歳の者(民法上は「成人」として扱われるが、引き続き少年法の適用対象となる)を「特定少年」として扱い、同日以降に起訴された「特定少年」については氏名・年齢・職業などの個人が特定できる内容の報道(推知報道)を認める規定がなされた[367]。同改正で新設された第68条の規定によるもので、同年4月8日に起訴された事件当時19歳の少年(甲府市殺人放火事件の犯人)が初適用例となった[368]。
- ^ 法務省は2007年12月7日の死刑執行(藤沢市母娘ら5人殺害事件の死刑囚ら、3人が対象)以降、被死刑執行者の氏名・犯罪事実の概要を公表している[384]。
- ^ 1993年3月時点で、Bが通学していた千葉県立高校の学校関係者は宇野津光緒の取材に対し、裁判が始まって以降は動揺が激しく、在学はしているものの通学は困難な(まだ普通の生活ができていない)状態である旨を述べている[391]。
- ^ 記者は三浦春子・堀ノ内雅一の両名[394]。Bがマスコミからの取材を受けたのはこれが初だった[393]。
- ^ 美術系の大学[395]。Bは『女性自身』の記者に対し、(事件当時在学していた)千葉の高校はみな専門学校に通学するため、同校にいた当時は大学進学は考えていなかったが、転校先の高校は進学校で、周囲の影響を受けて自分も大学進学を決めたことや、転校前に文化祭で舞台美術をした経験などがあったため、そのような方向を志して美術大学を受験したという旨を述べている[145]。当時、担任も親戚もBが現役で大学の入試に合格することは不可能と考えており、担任は高校の卒業式の前日、Bから合格の報告を受けて驚いていた[57]。
- ^ 1997年にはベルギーに行っていたため留年したという[398]。
- ^ 1987年7月8日未明、東京都目黒区東が丘一丁目で、区立第十中学校の2年生男子生徒(当時14歳)が、就寝中だった父親(当時44歳:会社役員)、母親(当時40歳)、父方の祖母(当時70歳)の3人を、肉切り包丁(刃渡り21 cm)で滅多刺しにして殺害した事件[421]。犯人はまず、金属バットで母親の顔面を殴ったところ、父親に気づかれてバットを取り上げられ、母親も電話しようとしたため、あらかじめ用意していた肉切り包丁を使って両親を滅多刺しにし、さらにそれに気づいた祖母も滅多刺しにした[421]。犯人は両親から厳しく勉強させられていた一方、祖母からは溺愛されていた[107]。事件は、同年5月の中間試験での成績不良を両親から厳しく叱責され、父親から「期末テストの成績が悪かったら家から追い出す」と頭を2回げんこつで殴られていた犯人が、期末試験でも数学のテスト(数量テスト50点+図形テスト50点=100点満点)の数量テストでわずか5点しか取れなかったことから、両親や祖父母を殺害した上で、かねてから抱いていた「好きなタレントにいたずらしてから自殺しよう」という考えを実現させるべく決行したもので、3人を殺害する前夜には、同級生の友人に両親殺害と、タレントへのいたずらの計画を手伝ってほしいという電話をかけていた[422]。犯人は事件後、同月29日付で東京地検から「長期(原則2年)の少年院送致が相当」という意見付きで東京家裁へ送致され[422]、同年10月6日付で、東京家裁から初頭少年院送致の決定を下されている[423]。
- ^ 同規則2.2 (a) で「少年」 (juvenile) とは、「各国の法制度の下で犯罪のゆえに成人とは異なる仕方で扱われることのある児童 (child) もしくは青少年 (young person) 」と定義されている[431]。
出典
[編集]記事の見出しに事件当事者の実名が用いられている場合、その箇所を本文中で使われている仮名に置き換えている。
- ^ a b c d e f g h i 『読売新聞』1992年3月7日東京朝刊第14版第一社会面31頁「【千葉】市川の一家4人殺し 19歳店員を逮捕 犯行ほぼ自供 帰宅親子を次々」(読売新聞東京本社) - 『読売新聞』縮刷版 1992年(平成4年)3月号333頁。
- ^ a b c d e f g h i j k 『中日新聞』1992年3月7日朝刊第12版第一社会面31頁「千葉の一家4人殺し 少年が自供、逮捕 家人帰宅待ち次々凶行 『金が欲しかった』 長女も刺し監禁」(中日新聞社) - 『中日新聞』縮刷版 1992年(平成4年)3月号315頁。
- ^ a b 集刑 2002, p. 836.
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae 判例タイムズ 1994, p. 111.
- ^ a b c d e f g h i j 判例タイムズ 1994, p. 115.
- ^ a b c d e f g h i j k l 『千葉日報』2017年12月20日朝刊一面1頁「市川一家4人殺害 元少年の死刑執行 永山元死刑囚以来20年ぶり 再審請求中、群馬3人殺害も」(千葉日報社)
- ^ a b c d e f g h 『千葉日報』1992年3月7日朝刊一面1頁「一家4人殺される 市川 店員の少年を逮捕『金欲しさに強盗』と自供」(千葉日報社) - 『千葉日報』縮刷版 1992年(平成4年)3月号121頁。
- ^ a b c d e f g h i 『千葉日報』1992年11月6日朝刊第一社会面19頁「市川の一家4人殺害 強盗殺人で少年起訴 公開の法廷で裁判へ」(千葉日報社) - 『千葉日報』縮刷版 1992年(平成4年)11月号119頁。
- ^ a b c d e f g 『千葉日報』2001年12月4日朝刊一面1頁「市川市の一家4人殺害事件 犯行時少年の死刑確定へ 最高裁が上告棄却」(千葉日報社) - 『千葉日報』縮刷版 2001年(平成13年)12月号61頁。
- ^ a b 『千葉日報』1995年3月8日朝刊第16版県西版16頁「行徳署が業務開始 県内40番目 一斉に街頭活動」(千葉日報社) - 『千葉日報』縮刷版 1995年(平成7年)3月号162頁。
- ^ 『千葉日報』2017年12月20日朝刊第一社会面19頁「市川一家4人殺害 元少年死刑執行 重大性、少年法に波紋 県弁護士会『極めて遺憾』」(千葉日報社)
- ^ 判例時報 1995, p. 60.
- ^ 判例時報 1995, pp. 60–61.
- ^ 判例時報 1995, pp. 61–62.
- ^ 判例時報 1995, pp. 61, 63.
- ^ a b 永瀬隼介 2004, p. 90.
- ^ a b c d e f 『千葉日報』1992年3月11日朝刊第一社会面19頁「市川の一家4人惨殺 「金が足りない」 家族らを殺害した後で通帳探しに行かせる」(千葉日報社) - 『千葉日報』縮刷版 1992年(平成4年)3月号225頁。
- ^ a b 判例時報 1995, p. 68.
- ^ 判例タイムズ 1994, pp. 110–111.
- ^ a b 判例タイムズ 1994, pp. 109–110.
- ^ 判例タイムズ 1994, pp. 107–108.
- ^ a b c d 『千葉日報』1994年8月9日朝刊一面1頁「市川の一家4人殺害 19歳少年(犯行時)に死刑判決 罪刑の均衡重視 千葉地裁」(千葉日報社) - 『千葉日報』縮刷版 1994年(平成6年)8月号161頁。
- ^ a b c d e 判例タイムズ 1997, p. 283.
- ^ a b c d e 集刑289 2006, p. 397.
- ^ a b c d e 福田康夫 (2007年11月2日). “第168回国会(臨時会) 答弁書 答弁書第三一号 内閣参質一六八第三一号” (PDF). 参議院議員松野信夫君提出鳩山邦夫法務大臣の死刑執行に関してなされた発言等に関する質問に対する答弁書. 参議院. p. 12. 2022年8月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年8月22日閲覧。 “(24) 平成十三年に確定したもの > ④傷害、強姦、強姦致傷、強盗殺人、殺人、強盗強姦、恐喝、窃盗事件、十二月二十一日確定” - 第168回国会における内閣総理大臣・福田康夫の答弁書(HTM版)。死刑執行に関する鳩山邦夫法務大臣の発言などに関して、松野信夫議員が行った質問に対する答弁書である。この答弁書には、1977年(昭和52年)1月1日から2007年(平成19年)9月30日までの30年間に確定した死刑判決の事件名および確定年月日がまとめられている。
- ^ a b c d 『読売新聞』2017年12月19日東京夕刊一面1頁「元少年の死刑執行 一家4人殺害 群馬3人殺害も」(読売新聞東京本社)
- ^ a b 飯島真一 1994, p. 190.
- ^ a b 飯島真一 1994, p. 199.
- ^ 飯島真一 1994, pp. 190–191.
- ^ a b c d e f g h 週刊新潮 1992, p. 147.
- ^ a b c d e f g h FOCUS 1992, p. 69.
- ^ a b c 『法務大臣臨時記者会見の概要』(プレスリリース)法務省(法務大臣:上川陽子)、2017年12月19日。オリジナルの2022年1月25日時点におけるアーカイブ 。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab 判例タイムズ 1994, p. 109.
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah 判例タイムズ 1994, p. 110.
- ^ a b 判例タイムズ 1994, pp. 111–112.
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag 判例タイムズ 1994, p. 112.
- ^ a b 『朝日新聞』1992年10月3日東京朝刊第13版ちば首都圏版地方面27頁「市川の家族4人殺害 「刑事処分相当」と少年を家裁に送付」(朝日新聞東京本社・京葉支局)
- ^ a b 『朝日新聞』1992年10月28日東京朝刊第13版ちば首都圏版地方面27頁「少年を地検へ逆送致 家裁で4回審判 市川の一家4人殺人」(朝日新聞東京本社・京葉支局)
- ^ a b 『千葉日報』1992年12月26日朝刊第一社会面19頁「市川・一家4人殺し初公判 少年、殺意の一部を否認 弁護側 未必の故意主張」「大きな体、小さな声…少年の心の叫び聞こえず」(千葉日報社) - 『千葉日報』縮刷版 1992年(平成4年)12月号499頁。
- ^ a b c d 『朝日新聞』1993年5月20日東京朝刊第13版ちば首都圏版地方面27頁「市川の4人殺人 弁護側の要求入れ 再度の精神鑑定決定」(朝日新聞東京本社・京葉支局)
- ^ a b 『千葉日報』1993年2月18日朝刊第一社会面19頁「市川の一家4人殺害の少年 事件前にも数々の犯行 千葉地検 4つの罪で追起訴」(千葉日報社) - 『千葉日報』縮刷版 1993年(平成5年)2月号339頁。
- ^ a b c d e 『千葉日報』1993年5月20日朝刊第一社会面19頁「市川市の一家4人殺し 公判中に被告を再鑑定 弁護側申請認める 千葉地裁で異例の展開 「犯罪心理学から」」(千葉日報社) - 『千葉日報』縮刷版 1993年(平成5年)5月号379頁。
- ^ a b c d e 『千葉日報』1993年11月23日朝刊第一社会面19頁「市川の一家4人殺し 千葉地裁4回公判 「責任問えるが性格異常」 弁護側鑑定を採用 情状面で有利な資料」(千葉日報社) - 『千葉日報』縮刷版 1993年(平成5年)11月号447頁。
- ^ a b 『千葉日報』1994年4月5日朝刊一面1頁「市川市の一家4人殺し 残虐な犯行と死刑求刑」(千葉日報社) - 『千葉日報』縮刷版 1994年(平成6年)4月号81頁。
- ^ a b c d e f 『千葉日報』1994年6月2日朝刊第一社会面19頁「市川市の一家殺害 最終弁論で弁護側 「死刑科すべきでない」 8月8日に判決」(千葉日報社) - 『千葉日報』縮刷版 1994年(平成6年)6月号39頁。
- ^ a b 『千葉日報』1995年6月30日朝刊第一社会面19頁「市川の一家4人殺害で東京高裁控訴審始まる 弁護側「死刑は少年法の精神に逆行」」(千葉日報社) - 『千葉日報』縮刷版 1995年(平成7年)6月号583頁。
- ^ a b c d e 『千葉日報』1996年7月3日朝刊一面1頁「市川の一家4人殺害 犯行時19歳少年 2審も死刑 「残虐、冷酷な犯行」 弁護側は即日上告」(千葉日報社) - 『千葉日報』縮刷版 1996年(平成8年)7月号59頁。
- ^ a b c 『千葉日報』2001年4月14日朝刊第一社会面19頁「市川の一家4人殺害で弁護側 死刑回避求める」(千葉日報社) - 『千葉日報』縮刷版 2001年(平成13年)4月号263頁。
- ^ a b c 最高裁判所事務総局2 2001, p. 15.
- ^ a b c d e f g h i j k l m n 判例タイムズ 1994, p. 108.
- ^ a b c d 集刑 2002, p. 757.
- ^ a b c 判例タイムズ 1994, pp. 108–109.
- ^ a b c 判例タイムズ 1994, p. 107.
- ^ 永瀬隼介 2004, p. 69.
- ^ 最高裁第二小法廷 2001, D1-Law.com.
- ^ a b c 『千葉日報』1994年8月9日朝刊第一社会面19頁「市川市の一家4人殺害判決 「冷酷、非道」と断罪 被告、判決にも表情変えず 一瞬、静まり返る法廷」「千葉地裁前 傍聴券を求め長い列 異常な犯罪に高い関心」(千葉日報社) - 『千葉日報』縮刷版 1994年(平成6年)8月号179頁。
- ^ a b 女性自身 1994, p. 77.
- ^ 永瀬隼介 2004, p. 13.
- ^ a b c d e f g h 『中日新聞』2018年3月4日朝刊第11版第一社会面33頁「少年と罪 第9部 生と死の境界で 1 因果 償いきれぬ 苦悩残し」(中日新聞社)
- ^ 福島章 1995, p. 10.
- ^ a b 年報・死刑廃止 2018, p. 147.
- ^ a b 永瀬隼介 2004, p. 15.
- ^ a b c d e f 永瀬隼介 2004, p. 17.
- ^ a b c d e 週刊文春2 1992, p. 42.
- ^ a b c d e 福島章 1995, p. 9.
- ^ 朝倉喬司 & 芹沢俊介 1992, p. 169.
- ^ a b c 宇野津光緒 1993, p. 56.
- ^ a b 永瀬隼介 2004, p. 19.
- ^ a b c d e 週刊新潮 1992, p. 148.
- ^ 永瀬隼介 2004, p. 22.
- ^ 永瀬隼介 2004, p. 29.
- ^ 永瀬隼介 2004, p. 26.
- ^ 永瀬隼介 2004, pp. 27–28.
- ^ 永瀬隼介 2004, pp. 29–30.
- ^ 永瀬隼介 2004, pp. 20–21.
- ^ 集刑 2002, pp. 756–757.
- ^ a b 永瀬隼介 2004, p. 31.
- ^ a b c d 永瀬隼介 2004, p. 96.
- ^ 集刑 2002, p. 756.
- ^ 永瀬隼介 2004, p. 35.
- ^ 永瀬隼介 2004, pp. 31–32.
- ^ 永瀬隼介 2004, p. 33.
- ^ 永瀬隼介 2004, pp. 33–34.
- ^ 永瀬隼介 2004, pp. 34–35.
- ^ a b 永瀬隼介 2004, p. 41.
- ^ 永瀬隼介 2004, pp. 36–38.
- ^ a b c d e 福島章 1995, p. 6.
- ^ 永瀬隼介 2004, pp. 38–40.
- ^ 永瀬隼介 2004, pp. 41–42.
- ^ 永瀬隼介 2004, p. 42.
- ^ 永瀬隼介 2004, pp. 43–44.
- ^ a b 週刊文春 1992, p. 206.
- ^ 永瀬隼介 2004, pp. 45–46.
- ^ 永瀬隼介 2004, p. 47.
- ^ a b 永瀬隼介 2004, p. 49.
- ^ a b c d e f g 福島章 1995, p. 7.
- ^ 週刊文春2 1992, pp. 42–43.
- ^ 永瀬隼介 2004, pp. 48–49.
- ^ 永瀬隼介 2004, pp. 49–50.
- ^ a b c d 朝倉喬司2 1992, p. 57.
- ^ 朝倉喬司 & 芹沢俊介 1992, p. 170.
- ^ 永瀬隼介 2004, pp. 51–52.
- ^ 永瀬隼介 2004, p. 52.
- ^ 女性自身 1992, p. 218.
- ^ 小田晋 1992, p. 208.
- ^ 「不良の成れの果て 市川で一家四人を惨殺した十九歳店員の甘ったれ人生」『週刊朝日』第97巻第11号、朝日新聞社出版部、1992年3月20日、199頁。
- ^ a b c d 稲熊均 1992, p. 15.
- ^ 永瀬隼介 2004, p. 56.
- ^ a b c 中尾幸司 1994, p. 144.
- ^ 永瀬隼介 2004, pp. 56–57.
- ^ 永瀬隼介 2004, pp. 166–168.
- ^ 女性自身 1992, p. 219.
- ^ a b c d 判例タイムズ 1994, p. 120.
- ^ a b 『読売新聞』1992年3月6日東京夕刊第4版第一社会面19頁「一家4人殺される 市川のマンション 部屋に高一の養女 男友達も、事情聞く」(読売新聞東京本社) - 『読売新聞』縮刷版 1992年(平成4年)3月号301頁。
- ^ 集刑 2002, p. 794.
- ^ a b c d e f 週刊新潮 1992, p. 146.
- ^ 蜂巣敦 2008, p. 59.
- ^ 蜂巣敦 2008, p. 73.
- ^ 永瀬隼介 1992, p. 104.
- ^ 永瀬隼介 2004, pp. 79–80.
- ^ a b 永瀬隼介 2004, p. 80.
- ^ 週刊新潮 1992, pp. 145–146.
- ^ a b 週刊現代 1992, p. 204.
- ^ a b 永瀬隼介 1992, pp. 104–105.
- ^ a b c 永瀬隼介 2004, p. 79.
- ^ 週刊現代 1992, pp. 203–204.
- ^ a b 週刊文春 1992, p. 204.
- ^ 『東京新聞』1992年3月7日夕刊E版第一社会面11頁「一家4人殺害 逮捕『子供たちには話しません』衝撃隠せぬ保育園」(中日新聞東京本社)
- ^ 『東京新聞』1992年3月7日夕刊E版第一社会面11頁「一家4人殺害 逮捕の少年「金目的」供述 惨劇のマンションを検証」(中日新聞東京本社)
- ^ a b c 集刑 2002, p. 781.
- ^ 『ゼンリン住宅地図 '91 東京都 江戸川区』 23巻、ゼンリン〈ゼンリン住宅地図〉、1991年3月、53頁。 NCID BN06315848。国立国会図書館書誌ID:000003571283・全国書誌番号:20528360。「(株)S○(本事件の死刑囚Sと同姓の人物名)商店 うな重 上篠崎四丁目12番3号」
- ^ 『ゼンリン住宅地図 '96 東京都 江戸川区(北部)』 23-1巻、ゼンリン〈ゼンリン住宅地図〉、1996年2月、53頁。国立国会図書館書誌ID:000003571292・全国書誌番号:20528374。「(株)S○(本事件の死刑囚Sと同姓の人物名)商店 うな重 上篠崎四丁目12番3号」
- ^ 『ゼンリン住宅地図 2000 東京都 江戸川区』 23巻、ゼンリン〈ゼンリン住宅地図〉、2000年1月、53頁。国立国会図書館書誌ID:000003549418・全国書誌番号:20528384。「上篠崎四丁目12番3号」
- ^ Google Maps – 篠崎公園 9号地 〒133-0054 東京都江戸川区上篠崎4丁目12 (Map). Cartography by Google, Inc. Google, Inc. 2022年2月3日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j 判例時報 1995, p. 59.
- ^ 福島章 1995, p. 8.
- ^ 飯島真一 1994, p. 196.
- ^ a b 福島章 1995, p. 4.
- ^ 永瀬隼介 2004, p. 71.
- ^ 永瀬隼介 2004, pp. 109–110.
- ^ 永瀬隼介 2004, p. 72.
- ^ a b c 判例タイムズ 1994, p. 118.
- ^ a b 集刑 2002, p. 790.
- ^ a b 永瀬隼介 2004, p. 73.
- ^ a b c d e f g h 女性自身 1994, p. 76.
- ^ a b 飯島真一 1994, p. 191.
- ^ 福島章 1995, pp. 4–5.
- ^ 朝倉喬司 1992, pp. 50–51.
- ^ a b 朝倉喬司 1992, p. 51.
- ^ a b c 週刊宝石 1992, p. 45.
- ^ 『朝日新聞』1992年3月8日東京朝刊第13版ちば首都圏版地方面27頁「市川の一家四人殺人 衝撃の刃 ≫下≪ 甘えた生活 部屋代10万 母親支払い 無断欠勤たびたび」(朝日新聞東京本社・京葉支局)
- ^ 集刑 2002, p. 795.
- ^ a b 永瀬隼介 2004, p. 74.
- ^ 集刑 2002, pp. 794–795.
- ^ a b 集刑 2002, p. 793.
- ^ 集刑 2002, pp. 792–793.
- ^ 永瀬隼介 2004, pp. 74–75.
- ^ 『朝日新聞』1993年2月18日東京朝刊第13版ちば首都圏版地方面23頁「市川の四人殺害事件 傷害・恐喝など被告を追起訴」(朝日新聞東京本社・京葉支局)
- ^ a b c 集刑 2002, p. 778.
- ^ a b 永瀬隼介 2004, p. 76.
- ^ 永瀬隼介 2004, pp. 77–78.
- ^ a b c 永瀬隼介 2004, p. 78.
- ^ 『産経新聞』1992年3月7日東京朝刊社会面「千葉の一家4人惨殺 次々と殺し一夜籠もる 寝ている幼女まで 長女にも切りつけ“監禁” 先月、長女の身分証奪い住所聞き出す」(産経新聞東京本社)
- ^ a b c d e f g h i 判例タイムズ 1994, p. 113.
- ^ 蜂巣敦 2008, p. 66.
- ^ 永瀬隼介 2004, pp. 82−83.
- ^ a b 永瀬隼介 2004, p. 83.
- ^ a b 永瀬隼介 2004, pp. 83–84.
- ^ a b 永瀬隼介 2004, p. 84.
- ^ a b c d e f 永瀬隼介 2004, p. 85.
- ^ a b c d e f g 判例タイムズ 1994, p. 119.
- ^ a b c 永瀬隼介 2004, p. 86.
- ^ a b c d 永瀬隼介 2004, p. 175.
- ^ 判例タイムズ 1994, pp. 112–113.
- ^ a b c d 永瀬隼介 2004, p. 87.
- ^ a b 永瀬隼介 2004, p. 176.
- ^ 飯島真一 1994, p. 197.
- ^ a b 『東京新聞』1992年3月8日朝刊千葉版21頁「市川の一家四人惨殺 悪びれた様子ない犯人 本格的取り調べ開始」(中日新聞東京本社・千葉支局)
- ^ a b c d 朝倉喬司 1992, p. 50.
- ^ a b c d e f g 永瀬隼介 2004, p. 89.
- ^ a b 永瀬隼介 2004, p. 88.
- ^ a b c d e f g h i j k l m 判例タイムズ 1994, p. 114.
- ^ a b 週刊宝石 1992, p. 44.
- ^ a b ゼンリン 1991, p. ビル・マンション・アパート別記44頁, 677 渋谷第一ビル 174図 D-2・3.
- ^ ゼンリン 1991, p. 174, D-2.
- ^ a b 『朝日新聞』1992年3月12日東京朝刊第13版ちば首都圏版地方面27頁「祖母・妹の安否気遣う 父の会社で長女 助けを求められず 市川の家族4人殺人(ニュースの周辺)」(朝日新聞東京本社・京葉支局)
- ^ a b c d 中尾幸司 1994, p. 145.
- ^ ゼンリン 1991, p. 195, D-2.
- ^ a b c d 『読売新聞』1992年3月11日東京朝刊第14版第一社会面31頁「凶行後、養女5時間連れ回す 一家4人殺害 "異常な17時間" 「200万円に足りない」と会社から通帳持ち出さす」(読売新聞東京本社)
- ^ 『千葉日報』1992年3月7日朝刊第一社会面19頁「凶行におびえる住民 市川の一家4人殺害事件 「こんな身近な所で…」 新興住宅地に衝撃」「涙浮かべ言葉なく 長女の通う保育園の保母」(千葉日報社) - 『千葉日報』縮刷版 1992年(平成4年)3月号139頁。
- ^ a b 『夕刊フジ』1992年3月7日付(6日発行)3頁「一家4人殺される マンション室内は血の海 高一養女と若い男性から事情聴く 市川」(産経新聞東京本社)
- ^ 『朝日新聞』1992年3月11日東京朝刊第13版ちば首都圏版地方面27頁「長女を使い、通帳も手に 市川の家族四人殺し」(朝日新聞東京本社・京葉支局)
- ^ a b c 永瀬隼介 2004, p. 91.
- ^ a b c 永瀬隼介 2004, p. 180.
- ^ 『千葉日報』1992年3月12日朝刊第一社会面19頁「悲しみ誘う養女の姿 市川の一家4人殺害 近所の人たちで通夜」(千葉日報社) - 『千葉日報』縮刷版 1992年(平成4年)3月号247頁。
- ^ 飯島真一 1994, pp. 197–198.
- ^ 最高裁判所第三小法廷判決 1948年(昭和23年)3月9日 刑集 第2巻3号140頁、昭和22年(れ)第204号、『強盗殺人、殺人、強盗予備窃盗等』「一 刑訴應急措置法第一二條第一項の規定による被告人の訊問權と裁判長による告知の要否 二 判決に示すべき證據説明の程度 三 判決における證據の適法性に關する判示の要否 四 一箇の強盗罪を犯すために數人を殺害した場合の罪數 五 強盗殺人の犯跡隱ぺいのため新な決意に基いて行われた殺人罪と罪數」、“一 刑訴應急措置法第一二條第一項本文は被告人の請求があつた場合に供述者又は作成者を訊問する機曾を被告人にあたえなければ所定の書類を證據にすることができないといつているのであつて公判期日において被告人に對し供述者又は作成者を訊問する權利のあることを告知してその訊問の請求をするかどうかを確めることは望ましいことには違いないが之をしなかつたからといつて前記法條に違反するものとは解することが出來ない。 二 罪となるべき事實につき證據説明をするには、犯罪事實の記載と相まつて證據の内容を知ることができる程度に、その説明をすれば十分である。 三 判決には事實認定の用に供した證據についてその適法な證據である理由を判示する必要はない。 四 一箇の強盗罪を犯すために數を、殺害したときは、たとえその殺人の行爲が同一の目的を遂行するための手段として行われたものであつても數個の強盗殺人罪に問擬すべきである。 五 一旦強盗殺人の行爲を終了した後、新な決意に基いて別の機曾に他人を殺害したときは、右殺人の行爲は、たとえ時間的に先の強盗殺人の行爲に接近し、その犯跡を隱ぺいする意図の下に行われた場合であつても、別個獨立の殺人罪を構成し、之を先の強盗殺人の行爲と共に包括的に観察して一箇の強盗殺人罪とみることは許されない。”。
- ^ 永瀬隼介 2004, p. 12.
- ^ a b 『読売新聞』1992年3月7日東京朝刊京葉版地方面26頁「市川の一家4人強殺 高層の惨劇 おののく住民 「何もしてない」叫ぶ店員」(読売新聞東京本社・京葉支局)
- ^ 『千葉日報』1992年12月16日朝刊第一社会面19頁「92回顧 この1年〈2〉 市川一家4人殺害 少年犯罪が公開法廷で 注目の初公判、25日に」(千葉日報社) - 『千葉日報』縮刷版 1992年(平成4年)12月号299頁。
- ^ 判例タイムズ 1992, p. 119.
- ^ a b c d e f 『朝日新聞』1992年3月10日東京朝刊第12版ちば首都圏版第二地方面22頁「市川の一家四人殺人 衝撃の刃 報道検証 重い課題 長女「参考人」に予断 実は最大の被害者 「単独犯」に記者席騒然」(朝日新聞東京本社・京葉支局)
- ^ 『東京新聞』1992年12月21日朝刊千葉中央版地方面17頁「事件簿'92 1年を振り返って 1 市川1家4人殺し 動機に身勝手さ 一人残された長女哀れ」(中日新聞東京本社・千葉支局)
- ^ 『朝日新聞』1992年3月8日東京朝刊第13版ちば首都圏版第二地方面22頁「市川の一家四人殺人 衝撃の刃 ≫上≪ 残忍な手口 計画性も浮き彫りに 多くの人の心に傷」(朝日新聞東京本社・京葉支局)
- ^ a b 『朝日新聞』1992年3月7日東京朝刊第13版ちば首都圏版地方面27頁「市川の一家四人殺人 強殺容疑で少年逮捕へ 残忍な犯行「なぜ」 金奪い次々と刺す 長女も背中に刺し傷」「県警幹部「社会的反響大きい」」「近年にはない一家大量殺人」(朝日新聞東京本社・京葉支局)
- ^ a b ねじめ正一 1992, p. 60.
- ^ ねじめ正一 1992, pp. 60–61.
- ^ 『北日本新聞』1992年3月16日夕刊第一社会面7頁「あんぐる92 千葉/一家4人殺害から10日 犯行動機まだ不可解 予断持ったマスコミ報道 生存の長女 最大の被害者」(北日本新聞社)
- ^ a b c d e 『朝日新聞』1992年3月19日東京朝刊第14版第三社会面29頁「メディア 2つの殺人事件報道―新聞編(メディア) 「原則実名」から広がる「匿名」 産経「残る関係者」配慮 被害者含め匿名に」(朝日新聞東京本社) - 『朝日新聞』縮刷版 1992年(平成4年)3月号943頁。本事件と、飯塚事件(1992年2月発覚)における被害者の実名/匿名報道の判断が各社で分かれた旨を伝える記事。
- ^ 『中日新聞』1992年3月15日朝刊第二社会面30頁「長女が最大の被害者 千葉の一家4人殺害 一時は“共犯”扱い」(中日新聞社)
- ^ a b c d e f g h i j k l 判例タイムズ 1994, p. 116.
- ^ a b 『千葉日報』1992年3月26日朝刊第一社会面19頁「市川の一家4人殺し 少年を精神鑑定へ 責任能力など分析」(千葉日報社) - 『千葉日報』縮刷版 1992年(平成4年)3月号513頁。
- ^ 『千葉日報』1992年6月17日朝刊第一社会面19頁「市川・一家4人殺害の少年 9月上旬まで鑑定延長 「責任能力」さらに詳しく」(千葉日報社) - 『千葉日報』縮刷版 1993年(平成5年)5月号379頁。
- ^ 『千葉日報』1993年11月23日朝刊第一社会面19頁「市川の一家4人殺し 千葉地裁4回公判 「責任問えるが性格異常」弁護側鑑定を採用 情状面で有利な資料」(千葉日報社) - 『千葉日報』縮刷版 1993年(平成5年)11月号447頁。
- ^ a b 『読売新聞』1993年11月21日東京朝刊京葉版地方面26頁「市川の一家4人殺し 「被告の病質は矯正可能」 新たな鑑定出る 上智大の福島教授 小田鑑定とは異なる結果」(読売新聞東京本社・京葉支局)
- ^ a b c d e f g h i 判例タイムズ 1994, p. 117.
- ^ a b 覚正豊和 1995, p. 20.
- ^ 『中日新聞』1989年6月28日夕刊一面1頁「大高緑地アベック殺人 主犯少年(当時)に死刑 「残虐、冷酷な犯罪」 共犯の5被告、無期―不定期刑に 名地裁判決」(中日新聞社)
- ^ 『中日新聞』1996年12月16日夕刊一面1頁「主犯格19才(当時)に無期 アベック殺人控訴審 死刑破棄し減軽 名古屋高裁 ××被告も13年に」(中日新聞社)
- ^ a b c 判例時報 1997, p. 39.
- ^ 永瀬隼介 2004, pp. 185–186.
- ^ 永瀬隼介 2004, p. 181.
- ^ 永瀬隼介 2004, p. 184.
- ^ 永瀬隼介 2004, pp. 181–182.
- ^ 永瀬隼介 2004, p. 182.
- ^ 永瀬隼介 2004, p. 14.
- ^ 永瀬隼介 2004, p. 185.
- ^ a b c d 『東京新聞』2000年7月29日夕刊第一社会面11頁「前線日記 19歳で一家4人殺害 拘置所からの手紙 「凶悪犯罪生む勝ち組社会」 『夢も希望もない』 少年法厳罰化『きっと変わらない』」(中日新聞東京本社 瀬口晴義)
- ^ a b 菊田幸一 1994, p. 32.
- ^ 年報・死刑廃止 2018, p. 271.
- ^ 年報・死刑廃止 2018, pp. 271–272.
- ^ a b 坂本敏夫 2010, p. 66.
- ^ 衆議院調査局法務調査室 (2008年6月). “死刑制度に関する資料” (PDF). 衆議院 公式ウェブサイト. 衆議院. pp. 48-49. 2020年8月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年8月30日閲覧。
- ^ 週刊読売 1992, pp. 20–21.
- ^ 菊田幸一 1994, p. 33.
- ^ a b 週刊新潮 1992, p. 149.
- ^ 週刊アサヒ芸能 1992, pp. 176–177.
- ^ 週刊新潮 1992, pp. 148–149.
- ^ 週刊アサヒ芸能 1992, p. 176.
- ^ a b 年報・死刑廃止 2018, p. 272.
- ^ a b c d 判例タイムズ 1994, p. 121.
- ^ a b c d 『朝日新聞』1994年8月9日東京朝刊第13版ちば首都圏版地方面21頁「自らも償い背負う母親 息子の犯した罪は私にも大きな責任」「弁護側 「無期懲役が妥当…」 主張通じず無念さにじむ」(朝日新聞東京本社・京葉支局)
- ^ a b c d e f 『千葉日報』1994年4月5日朝刊第一社会面19頁「市川の一家4人殺し 検察側論告 まれにみる凶悪犯罪 情状の余地なしと極刑で 無軌道な犯行厳しく断罪」「弁護側会見 「意外な求刑…」」(千葉日報社) - 『千葉日報』縮刷版 1994年(平成6年)4月号99頁。
- ^ a b 『千葉日報』1994年8月9日朝刊第二社会面18頁「「極刑」に沈痛な表情 弁護団が会見 犯行時、被告は未成熟」「公判での被告 自分の言葉で事件語らず 「生と死」の裁判 ひとごとのよう」(千葉日報社) - 『千葉日報』縮刷版 1994年(平成6年)8月号178頁。
- ^ a b 判例タイムズ 1994, pp. 113–114.
- ^ a b 判例タイムズ 1994, pp. 114–115.
- ^ a b c d e 『千葉日報』1993年3月4日朝刊第一社会面19頁「市川一家4人殺し 第2回公判で検察側 残虐な連続犯行を詳述」(千葉日報社) - 『千葉日報』縮刷版 1993年(平成5年)3月号79頁。
- ^ a b c 『読売新聞』1993年5月20日東京朝刊第13版京葉讀賣26頁「市川の一家4人殺害 再度、被告の精神鑑定へ 公判の長期化必至」(読売新聞東京本社・京葉支局)
- ^ a b 『千葉日報』1994年2月1日朝刊第二社会面18頁「市川4人殺し第5回公判 情状面を主張」(千葉日報社) - 『千葉日報』縮刷版 1994年(平成6年)2月号18頁。
- ^ 『千葉日報』1994年3月15日朝刊第一社会面19頁「市川の親子4人殺し 来月4日に論告求刑」(千葉日報社) - 『千葉日報』縮刷版 1994年(平成6年)3月号305頁。
- ^ 集刑 2002, pp. 797–798.
- ^ a b 判例タイムズ 1994, pp. 116–117.
- ^ 福島章 2000, p. 81.
- ^ a b 『読売新聞』1994年4月5日東京朝刊第14版第一社会面27頁「市川の一家4人殺し 当時19歳少年に死刑求刑 酌量の余地ない/千葉地裁」(読売新聞東京本社) - 『読売新聞』縮刷版 1994年(平成6年)4月号217頁。
- ^ 『読売新聞』1994年4月5日東京朝刊京葉版地方面24頁「市川の一家4人惨殺 当時19歳に死刑求刑 「一命をもって償うべきだ」 犯行厳しく糾弾 検察側 “死刑存廃”揺れる中」(読売新聞東京本社・京葉支局)
- ^ a b c 覚正豊和 1994, p. 12.
- ^ 中尾幸司 1994, p. 142.
- ^ 永瀬隼介 2004, pp. 186–187.
- ^ a b c d e 『千葉日報』1994年4月28日朝刊第一社会面19頁「市川の一家4人殺し 弁護側、改めて証拠提出 鑑定の信憑性問う」(千葉日報社) - 『千葉日報』縮刷版 1994年(平成6年)4月号539頁。
- ^ a b c 覚正豊和 1994, p. 13.
- ^ a b 飯島真一 1994, p. 198.
- ^ 『読売新聞』1994年8月8日東京夕刊第4版一面1頁「犯行時19歳少年に死刑判決 市川の一家4人殺害 未成年、5年ぶり/千葉地裁」(読売新聞東京本社) - 『読売新聞』縮刷版 1994年(平成6年)8月号333頁。
- ^ 判例タイムズ 1994, pp. 118–119.
- ^ a b 『読売新聞』1994年8月9日東京朝刊解説面11頁「事件時19歳少年に死刑判決 「少年法の精神」論議の時期(解説)」(読売新聞東京本社・千葉支局 森寛)
- ^ 判例タイムズ 1994, pp. 120–121.
- ^ 半田保険金殺人事件の死刑囚(2001年12月27日に死刑執行)に対する上告審判決 - 最高裁判所第三小法廷判決 1993年(平成5年)9月21日 集刑 第262号421頁、昭和62年(あ)第562号、『強盗殺人、死体遺棄、殺人、詐欺』「死刑事件(保険金殺人事件)(補足意見がある)」。
- ^ 永瀬隼介 2004, p. 188.
- ^ 覚正豊和 1994, pp. 21–22.
- ^ 『毎日新聞』2008年3月23日東京朝刊第二社会面30頁「正義のかたち:裁判官の告白・3 重荷背負う 死刑判決 「被告を憎んではならない」 今でも、苦い思い出」(毎日新聞東京本社) - 『毎日新聞』縮刷版 2008年(平成20年)3月号936頁。
- ^ a b c d 判例タイムズ 1997, p. 287.
- ^ 年報・死刑廃止 1996, p. 64.
- ^ 年報・死刑廃止 1996, pp. 64–65.
- ^ 判例タイムズ 1997, p. 284.
- ^ 年報・死刑廃止 1996, p. 66.
- ^ 年報・死刑廃止 1996, pp. 66–67.
- ^ a b c d e 判例タイムズ 1997, p. 285.
- ^ a b c d e 判例タイムズ 1997, p. 286.
- ^ June Machover Reinisch「Prenatal Exposure to Synthetic Progestins Increases Potential for Aggression in Humans」『Science』第211巻第4487号、American Association for the Advancement of Science、1981年3月13日、1171-1173頁、doi:10.1126/science.7466388、PMID 7466388。
- ^ 集刑 2002, p. 721.
- ^ 判例タイムズ 1997, pp. 283–285.
- ^ 判例タイムズ 1997, pp. 286–287.
- ^ 宮澤浩一 1998, p. 223.
- ^ 集刑 2002, p. 720.
- ^ 最高裁第二小法廷 2001.
- ^ 集刑 2002, p. 759.
- ^ 集刑 2002, p. 870.
- ^ 集刑 2002, p. 869.
- ^ 集刑 2002, p. 796.
- ^ a b 加藤幸雄 2003, p. 180.
- ^ a b 集刑 2002, p. 786.
- ^ a b 加藤幸雄 2003, p. 181.
- ^ 加藤幸雄 2003, pp. 191–192.
- ^ 集刑 2002, pp. 785–786.
- ^ 永瀬隼介 2004, pp. 223–225.
- ^ 「裁判と争点 市川の一家四人殺し――一、二審死刑の元少年の上告を最高裁が棄却」『法学セミナー』第47巻第2号、日本評論社、2002年2月1日、124頁、国立国会図書館書誌ID:6035773。 - 通巻:第566号(2002年2月号)。
- ^ 永瀬隼介 2004, pp. 223–224.
- ^ 永瀬隼介 2004, pp. 224–225.
- ^ a b c d e 年報・死刑廃止 2018, p. 141.
- ^ 最高裁判所事務総局 2001, p. 15.
- ^ 『千葉日報』2001年11月14日朝刊第一社会面19頁「92年市川 19歳の一家4人殺害 来月3日に上告審判決」(千葉日報社) - 『千葉日報』縮刷版 2001年(平成13年)11月号259頁。
- ^ 最高裁判所事務総局3 2001, p. 18.
- ^ 最高裁判所事務総局4 2001, p. 18.
- ^ a b 『読売新聞』2001年12月22日東京朝刊第14版第二社会面30頁「千葉・市川の一家4人殺害事件 元少年の死刑確定/最高裁第二小法廷」(読売新聞東京本社) - 『読売新聞』縮刷版 2001年(平成13年)12月号1210頁。
- ^ 最高裁判所事務総局5 2001, p. 18.
- ^ 最高裁判所事務総局6 2001, p. 18.
- ^ 『中日新聞』2001年12月31日朝刊県内版14頁「【愛知県】事件ファイル2001(下) 連続リンチ殺人判決 木曽川・長良川事件 元少年のA (KM) 被告に死刑 3被告全員を検察側控訴 遺族の強い不満後押し」(中日新聞社 社会部記者・吉枝道生) - 大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件の関連記事。
- ^ 『東京新聞』1998年10月10日朝刊第一社会面27頁「M被告、死刑確定 富山・長野連続殺人」(中日新聞東京本社) - 富山・長野連続女性誘拐殺人事件(1980年発生)の女性死刑囚Mが上告棄却判決に対しなしていた訂正申立が棄却され、Mの死刑判決が正式に確定することとなったことを伝える記事。
- ^ 『朝日新聞』2010年11月26日東京朝刊宮城全県版第一地方面29頁「向き合った極刑の重み 石巻・3人殺傷に死刑判決 ドキュメント/宮城県」(朝日新聞東京本社・仙台総局) - 石巻3人殺傷事件の被告人(2016年に死刑確定)に対し、裁判員裁判により死刑判決が言い渡されたことを伝える記事。
- ^ 「少年の死刑確定は平成で4件 判断揺れるケースも(1/2ページ)」『産経ニュース』産経デジタル、2017年12月19日。オリジナルの2022年1月29日時点におけるアーカイブ。2022年1月29日閲覧。
- ^ 永瀬隼介 2004, p. 107.
- ^ 永瀬隼介 2004, pp. 111–116.
- ^ 永瀬隼介 2004, p. 128.
- ^ 永瀬隼介 2004, p. 172.
- ^ 永瀬隼介 2004, p. 203.
- ^ 永瀬隼介 2004, p. 205.
- ^ 永瀬隼介 2004, pp. 188–189.
- ^ 永瀬隼介 2004, p. 192.
- ^ 『読売新聞』1999年12月17日東京夕刊一面1頁「2人の死刑を執行 埼玉・長崎の強盗殺人 1人は再審請求中/法務省」(読売新聞東京本社)
- ^ 永瀬隼介 2004, pp. 127–128.
- ^ a b 永瀬隼介 2004, p. 94.
- ^ 永瀬隼介 2004, p. 97.
- ^ 永瀬隼介 2004, p. 104.
- ^ a b 祝康成 1999, p. 195.
- ^ 永瀬隼介 2004, pp. 128–132.
- ^ 永瀬隼介 2004, pp. 143–147.
- ^ 永瀬隼介 2004, pp. 152–153.
- ^ 永瀬隼介 2004, pp. 222–223.
- ^ 永瀬隼介 2004, p. 226.
- ^ 永瀬隼介 2004, pp. 227–228.
- ^ 永瀬隼介 2004, p. 223.
- ^ 永瀬隼介 2004, p. 221.
- ^ 永瀬隼介 2004, p. 210.
- ^ 永瀬隼介 2004, pp. 219–220.
- ^ 永瀬隼介 2004, pp. 213–217.
- ^ 永瀬隼介 2004, pp. 216–217.
- ^ 「やまゆり園 事件考 死刑と命(3)被告の命は「生きるに値しない」のか」『神奈川新聞』神奈川新聞社、2020年3月18日。オリジナルの2020年3月25日時点におけるアーカイブ。2020年3月25日閲覧。 - 相模原障害者施設殺傷事件の関連記事。
- ^ 田所敏夫「死刑・原発・東京新聞 ── 不整合な一年が暮れる」『デジタル鹿砦社通信』鹿砦社、2017年12月31日。オリジナルの2023年5月4日時点におけるアーカイブ。2023年5月4日閲覧。
- ^ 「一家4人殺害で死刑執行のS死刑囚「4人が許せないと自分にくっついている」弁護士に心境」『産経新聞』産業経済新聞社、2017年12月20日。オリジナルの2017年12月20日時点におけるアーカイブ。2017年12月20日閲覧。
- ^ 年報・死刑廃止 2018.
- ^ a b 年報・死刑廃止 2006, p. 287.
- ^ 年報・死刑廃止 2002, p. 234.
- ^ 年報・死刑廃止 2003, p. 360.
- ^ 年報・死刑廃止 2004, p. 292.
- ^ 年報・死刑廃止 2005, p. 204.
- ^ 年報・死刑廃止 2002, p. 238.
- ^ 年報・死刑廃止 2003, p. 365.
- ^ 年報・死刑廃止 2004, p. 299.
- ^ 年報・死刑廃止 2005, p. 196.
- ^ a b 年報・死刑廃止 2006, p. 278.
- ^ 『読売新聞』2017年12月20日朝刊第14版第二社会面32頁「元少年ら2人死刑執行 市川一家殺害と群馬3人殺害」(読売新聞社)
- ^ 「市川一家4人殺害 元少年の死刑執行」『NEWSチバ』千葉テレビ放送、2017年12月20日。オリジナルの2017年12月20日時点におけるアーカイブ。2017年12月20日閲覧。
- ^ 「【主張】元少年に死刑執行 法改正の論議に踏み込め(1/2ページ)」『産経ニュース』産経デジタル、2017年12月21日、1面。オリジナルの2022年1月25日時点におけるアーカイブ。2022年1月25日閲覧。
- ^ 東京都葛飾区 松井喜代司 東京拘置所在監(50歳)「投書 死刑制度は犯罪防止にならない」『週刊金曜日』第7巻第2号、株式会社金曜日、1999年1月22日、63頁。 - 通巻256号(1999年1月22日号)。群馬県安中市親子3人殺害事件の死刑囚・松井喜代司(1999年に死刑確定、2017年に死刑執行)による投書。
- ^ 年報・死刑廃止 2018, pp. 141–142.
- ^ a b c 年報・死刑廃止 2018, p. 142.
- ^ “【抗議声明】2017年12月19日 松井喜代司さん(東京拘置所)、Sさん (東京拘置所)死刑執行に対する抗議声明”. 死刑廃止国際条約の批准を求めるフォーラム'90 (2017年12月19日). 2022年2月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年2月28日閲覧。
- ^ 『中日新聞』2017年12月19日夕刊第一社会面11頁「『少年 執行すべきでない』 小川原優之・日弁連死刑廃止検討委員会事務局長の話」(中日新聞社)
- ^ 中本和洋 (2017年12月19日). “死刑執行に強く抗議し、改めて死刑執行を停止し、2020年までに死刑制度の廃止を目指すべきであることを求める会長声明”. 日本弁護士連合会. 2022年2月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年2月28日閲覧。
- ^ 会長:及川智志 (2017年12月20日). “死刑執行に対する会長談話” (PDF). 千葉県弁護士会. 2022年2月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年2月28日閲覧。
- ^ 『東京新聞』2017年12月22日朝刊特報面28頁「こちら特報部 死刑 存廃議論進まぬ中(上) 再審請求中、犯行時少年に執行 廃止が世界の潮流◆欧州から非難声明」(中日新聞東京本社)
- ^ 共同代表:杉本吉史・山田廣 (2017年12月19日). “死刑執行に関する声明” (PDF). 犯罪被害者支援弁護士フォーラム(VSフォーラム). 2022年2月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年2月28日閲覧。
- ^ 「元少年の死刑「罰受けるべき」=犯罪被害者ら評価、日弁連は抗議」『時事ドットコムニュース』(時事通信社)2017年12月19日。オリジナルの2018年1月30日時点におけるアーカイブ。
- ^ 『千葉日報』2017年12月20日朝刊第一社会面19頁「市川一家4人殺害 元少年死刑執行 重大で執行は当然 諸沢英道・元常磐大学長(被害者学)の話」(千葉日報社)
- ^ 『中日新聞』2017年12月19日夕刊第一社会面11頁「『事件の重大性から当然』 諸沢英道・元常磐大学長(被害者学)の話」(中日新聞社)
- ^ 『中日新聞』2018年3月5日朝刊第11版第一社会面27頁「少年と罪 第9部 生と死の境界で 中 贖罪 許されずとも 続ける」(中日新聞社)
- ^ 『神奈川新聞』1992年3月7日朝刊B版第一社会面21頁「市川 金狙い一家4人殺害 19歳店員の逮捕状請求」(神奈川新聞社)
- ^ “少年法が変わります!”. 法務省 (2021年6月). 2022年4月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月27日閲覧。
- ^ 「甲府夫婦殺害で「特定少年」実名公表 19歳男起訴」『産経ニュース』産経デジタル、2022年4月8日。オリジナルの2022年4月9日時点におけるアーカイブ。2022年4月27日閲覧。
- ^ a b c 『朝日新聞』1992年3月27日東京朝刊第14版第三社会面29頁「(メディア)論議呼ぶ19歳容疑者実名報道 少年法巡り異なる見方 「時代遅れ」と4人殺害事件で「週刊新潮」が掲載 女高生殺害で実名報道の「週刊文春」、今回は匿名 東京弁護士会「一報道機関の“制裁"はおかしい」」(朝日新聞社) - 『朝日新聞』縮刷版 1992年(平成4年)3月号1335頁。
- ^ 祝康成 1999, p. 212.
- ^ a b 『産経新聞』1992年3月14日東京朝刊21頁「千葉・一家4人殺害の19歳少年 週刊新潮が実名報道 旧態依然と問題提起 「少年法」再び論議」(産経新聞東京本社)
- ^ 『朝日新聞』1992年3月26日東京朝刊第14版第三社会面29頁「千葉の家族4人殺害 新潮社の少年報道人権を損なう 東京弁護士会が要望書」(朝日新聞社) - 『朝日新聞』縮刷版 1992年(平成4年)3月号1279頁。
- ^ 『中日新聞』2011年3月11日朝刊第二社会面30頁「リンチ殺人死刑確定へ 実名『更生する可能性なく』匿名『少年法の精神基づく』 報道各社対応割れる」(中日新聞社) - 大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件(1994年発生)の上告審判決により、犯行時少年(18歳ないし19歳)だった被告人3人の死刑が確定することになったことを報じる記事。
- ^ 『中日新聞』2017年12月20日朝刊第一社会面27頁「少年と罪 凶悪犯に厳罰の流れ 少年法引き下げで論議■97年神戸連続殺傷が転機に■判決確定時の実名報道主流」(中日新聞社)
- ^ 「事件の取材と報道」編集委員会『事件の取材と報道』朝日新聞社出版本部、2005年3月25日、58頁。ISBN 978-4022199010。 NCID BA72229689。国立国会図書館書誌ID:000007723779・全国書誌番号:20781120。
- ^ 『朝日新聞』2016年7月2日東京朝刊第三社会面33頁「(Media Times)元少年の実名報道、割れた判断 石巻3人殺傷事件の被告」(朝日新聞東京本社 記者:貞国聖子)
- ^ 『朝日新聞』2005年11月5日東京朝刊第一社会面33頁「(メディア)死刑判決の少年事件報道 『確定後は実名』の動き」(朝日新聞東京本社)
- ^ 『毎日新聞』2011年5月7日東京朝刊第13版メディア面17頁「メディア 死刑が確定した元少年3人 匿名か実名か判断分かれた理由」(毎日新聞東京本社 臺宏士、内藤陽) - 大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件(1994年発生)の上告審判決により、犯行時少年(18歳ないし19歳)だった被告人3人の死刑が確定した際、報道各社それぞれが取った対応(実名報道への切り替え、匿名報道の継続)に言及した記事。
- ^ a b 『中日新聞』2017年8月27日朝刊特集面27頁「少年と罪 第3部 塀の中へ再び 実名・匿名 割れ続け 死刑確定後 配慮の必要あるか 成人後再犯 「元少年」報道 批判も」(中日新聞社) -
- ^ 今井克「【プレミアム】▽ 実名報道と匿名報道 光市母子殺害事件で分かれる : 47トピックス」『47NEWS』(共同通信社)2012年2月21日。オリジナルの2017年6月17日時点におけるアーカイブ。 - 光市母子殺害事件(1999年発生)の上告審判決により、犯行時少年(18歳)だった被告人の死刑が確定した際、報道各社それぞれが取った対応(実名報道への切り替え、匿名報道の継続)に言及した記事。
- ^ 長谷川玲「【「Journalism」6月号より】 変わる事件報道 「実名か匿名か」 光市母子殺害事件報道」『論座』朝日新聞社、2012年6月9日。オリジナルの2022年2月13日時点におけるアーカイブ。2022年2月13日閲覧。 - 光市母子殺害事件の関連記事。
- ^ 「紙面審ダイジェスト:死刑確定の元少年 匿名の判断は」『毎日新聞』毎日新聞社、2016年7月5日。オリジナルの2018年5月11日時点におけるアーカイブ。 - 石巻3人殺傷事件(2010年発生)の上告審判決により、犯行時少年(18歳)だった被告人の死刑が確定した際、報道各社それぞれが取った対応(実名報道への切り替え、匿名報道の継続)に言及した記事。
- ^ 「“死刑確定なら元少年でも実名報道”のご都合主義 スジを通したのは「毎日新聞」「東京新聞」のみ」『デイリー新潮』新潮社、2016年7月5日。オリジナルの2022年2月13日時点におけるアーカイブ。2022年2月13日閲覧。 - 石巻3人殺傷事件の関連記事。
- ^ 『神奈川新聞』2007年12月8日朝刊A版一面1頁「死刑、初の氏名公表 F確定囚ら3人執行 法相『理解得るため』」(神奈川新聞社)
- ^ 『朝日新聞』2017年12月19日東京夕刊第一総合面1頁「犯行時に少年、死刑執行 再審請求中、他1人も」(朝日新聞東京本社)
- ^ 『毎日新聞』2017年12月29日東京夕刊政治面1頁「死刑執行:千葉・市川の一家4人殺害、元少年 永山元死刑囚以来」(毎日新聞東京本社 記者:鈴木一生)
- ^ 『中日新聞』2019年12月20日朝刊第一社会面27頁「一家4人殺害 進む厳罰 元少年の死刑執行 永山元死刑囚以来20年ぶり」(中日新聞社)
- ^ 『東京新聞』2019年12月20日朝刊第一社会面27頁「元少年20年ぶり死刑執行 法相、判断の根拠なく 再審請求中」(中日新聞東京本社)
- ^ a b 集刑 2002, p. 774.
- ^ a b 集刑 2002, p. 768.
- ^ a b 宇野津光緒 1993, p. 57.
- ^ 集刑 2002, p. 772.
- ^ a b c 女性自身 1994, p. 74.
- ^ a b 女性自身 1994, p. 78.
- ^ a b 永瀬隼介 2004, p. 211.
- ^ a b 飯島真一 1994, p. 201.
- ^ 永瀬隼介 2004, pp. 211–212.
- ^ 集刑 2002, p. 760.
- ^ 永瀬隼介 2004, p. 230.
- ^ 朝倉喬司2 1992, p. 56.
- ^ a b c d 山岸朋央 1995, p. 56.
- ^ a b 集刑 2002, p. 775.
- ^ 永瀬隼介 2004, p. 100.
- ^ 集刑 2002, p. 777.
- ^ 集刑 2002, pp. 776–777.
- ^ a b 集刑 2002, p. 776.
- ^ 集刑 2002, pp. 775–776.
- ^ 永瀬隼介 2004, p. 197.
- ^ 永瀬隼介 2004, p. 115.
- ^ 朝倉喬司2 1992, p. 58.
- ^ 祝康成 1999, p. 208.
- ^ 永瀬隼介「純粋な悪…19歳で一家4人を惨殺した男の「恐るべき素顔」と「誤算」」『現代ビジネス』講談社、2019年9月3日、6面。オリジナルの2022年1月30日時点におけるアーカイブ。2022年1月30日閲覧。
- ^ 永瀬隼介 2004, pp. 7–8.
- ^ 永瀬隼介 2004, pp. 93–94.
- ^ 『朝日新聞』1996年7月2日東京夕刊第一社会面15頁「「残虐さ」減刑退ける 市川の一家4人殺害に死刑判決 東京高裁」(朝日新聞東京本社)
- ^ 朝倉喬司2 1992, pp. 56–57.
- ^ 永瀬隼介 2004, p. 202.
- ^ 朝倉喬司 1992, p. 162.
- ^ 朝倉喬司 1992, pp. 162–163.
- ^ a b 『千葉日報』1992年3月13日朝刊第一社会面19頁「市川の4人殺害事件から1週間 惨劇の記憶生々しく 欲しいものは欲しい 容疑者の少年 幼児のような人間性」「遺影に最後の別れ 悲しみの中、4人の葬儀 養女を気遣う友人も」(千葉日報社) - 『千葉日報』縮刷版 1992年(平成4年)3月号269頁。
- ^ a b 『読売新聞』1988年7月9日東京朝刊第14版一面1頁「目黒 中2、両親と祖母殺す 成績、部活注意され バット・包丁で寝室襲う」(読売新聞東京本社) - 『読売新聞』縮刷版 1988年(昭和63年)7月号413頁。
- ^ a b 『読売新聞』1988年7月30日東京朝刊第14版第一社会面27頁「中二少年を家裁送致 惨劇呼んだ数学「5点」 「しかられる」と決心」(読売新聞東京本社) - 『読売新聞』縮刷版 1988年(昭和63年)7月号1407頁。
- ^ 『読売新聞』1988年10月7日東京朝刊第14版第二社会面30頁「肉親殺し中2、少年院へ」(読売新聞東京本社) - 『読売新聞』縮刷版 1988年(昭和63年)10月号336頁。
- ^ a b 久田将義 2015, p. 21.
- ^ 久田将義 2015, pp. 46–47.
- ^ 久田将義 2015, pp. 51–52.
- ^ 間庭充幸 1997, pp. 239–240.
- ^ a b 覚正豊和 1995, p. 21.
- ^ 覚正豊和 2002, pp. 865–866.
- ^ 神田宏 1996, p. 26.
- ^ “少年司法運営に関する国連最低基準規則” (PDF). 子どもと法21. 子どもの育ちと法制度を考える21世紀市民の会 (1985年). 2022年11月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年11月20日閲覧。
- ^ 前田忠弘 1998, p. 225.
- ^ 菊田幸一 1994, p. 35.
- ^ 集刑 2002, p. 798.
- ^ 高山文彦「(味わい本 発見!)『19歳の結末 一家4人惨殺事件』祝康成 少年犯罪から何を読み取るべきか」『週刊ポスト』第32巻第40号、小学館、2000年10月20日、166頁、NDLJP:3380727/84。 - 通巻:第1564号(2000年10月20日号)。
- ^ “イベントレポート 2/4”. 「YUMENOレポート」 (2005年2月5日). 2005年3月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2005年3月24日閲覧。
参考文献
[編集]本事件を題材にしたノンフィクション
- 祝康成「特別ノンフィクション 一家四人惨殺「十九歳」犯人の現在(いま)」『新潮45』第18巻第6号、新潮社、1999年5月18日、195-231頁、NDLJP:3374836/98。 - 通巻:第206号(1999年6月号)。2000年9月15日に新潮社から発行された、本事件を題材にしたノンフィクション『19歳の結末 一家4人惨殺事件』(当時の筆名は本名の「祝康成」名義)の原典となったルポルタージュ。
- 永瀬隼介『19歳 一家四人惨殺犯の告白』13462号(初版)、角川書店〈角川文庫〉、2004年8月25日。ISBN 978-4043759019。 NCID BA69111909。国立国会図書館書誌ID:000007474890・全国書誌番号:20657474 。 - 祝康成の著書『19歳の結末 一家4人惨殺事件』を改題・加筆、筆名変更の上で文庫化した書籍。
裁判資料(刑事裁判の判決文など)
- 第一審判決 - 千葉地方裁判所刑事第1部判決 1994年(平成6年)8月8日 『判例時報』第1520号56頁・『判例タイムズ』第858号107号、平成4年(わ)第1355号、平成5年(わ)第150号、『傷害、強姦致傷、強盗殺人、強盗強姦、恐喝、窃盗被告事件』。
- 3名に対する強盗殺人罪、1名に対する殺人罪のほか、強盗強姦、強姦、傷害、恐喝、窃盗等の犯罪を連続して敢行した、犯行当時少年の被告人に対し死刑が言い渡された事例
- 被告人の尿酸血中濃度や胎児期における大量の黄体ホルモンの投与あるいは被告人の脳波の微細な異常等と被告人の過度の攻撃性との関連性を否定し被告人に完全責任能力を認めた事例
- いったん強盗殺人の行為を終了したあと、新たな決意に基づいて別の機会に他人を殺害したときは、右殺人の行為は、たとえ時間的に先の強盗殺人の行為に接近し、その犯跡を隠蔽する意図の下に行われた場合であっても別個独立の殺人罪を構成するとされた事例
- 「千葉地裁 6. 8. 8. 判決― 被害者三名の強盗殺人、被害者一名の殺人等を犯した犯行時少年の被告人に対し、死刑が言い渡された事例 二 強盗殺人の後の殺害行為につき、新たな決意に基づいて殺人がなされたものであるとして、強盗殺人罪ではなく、殺人罪の成立を認めた事例――市川の一家四人殺害事件第一審判決」『判例時報』第1520号、判例時報社、1995年4月21日、56-70頁、doi:10.11501/2795534、NDLJP:2795534/29。 - 通巻:第1520号(1995年4月21日号)。
- 控訴審判決 - 東京高等裁判所第2刑事部判決 1996年(平成8年)7月2日 『東京高等裁判所(刑事)判決時報』第47巻7号76頁、平成6年(う)第1630号、『傷害、強姦、強姦致傷、強盗殺人、殺人、強盗強姦、恐喝、窃盗事件』。
- 「刑事裁判例 市川の一家四人殺害事件控訴審判決 〔東京高裁平六(う)第一六三〇号、傷害、強姦致傷、強盗殺人、強盗強姦、恐喝、窃盗被告事件、平8・7・2第二刑事部判決、控訴棄却・上告、原審千葉地裁平四(わ)第一三五五号、平五(わ)第一五〇号、平6・8・8判決、本誌八五八号一〇七頁〕」『判例タイムズ』第48巻第3号、判例タイムズ社、1997年2月1日、283-287頁、NDLJP:。 - 通巻:第924号(1997年2月1日号)。
- 「名古屋高裁 8.12.16 判決― 少年ら数名が共謀して犯した強盗致傷、殺人等の事案につき、犯行時一九歳の少年であった主犯格の被告人に対して死刑を言い渡した原判決が破棄され、無期懲役が言い渡された事例――いわゆるアベック殺人事件控訴審判決」『判例時報』第1595号、判例時報社、1997年5月11日、38-57頁、doi:10.11501/2795609、NDLJP:2795609/20。 - 通巻:第1595号(1997年5月11日号)。事件当時19歳だった被告人に対する死刑判決を破棄した名古屋アベック殺人事件の控訴審判決(1996年12月16日:名古屋高裁刑事第2部)の参考事例として、本事件の控訴審判決を収録している。
- 法務大臣官房司法法制調査部 編「速報番号 3052号 被告人が犯行時19歳の少年であり、今後の矯正教育により改善の可能性があることは否定できないとしても、被告人に対し死刑を言い渡した原判決の量刑は相当であるとして被告人の控訴を棄却した事例」『高等裁判所刑事裁判速報集(平成8年)』(第1版第1刷発行)法曹会、1998年5月20日、78-81頁。 NCID BN0630822X。国立国会図書館書誌ID:026159742・全国書誌番号:22537076。
- 上告審判決 - 最高裁判所第二小法廷判決 2001年(平成13年)12月3日 『最高裁判所裁判集刑事編』(集刑)第280号713頁、平成8年(あ)第864号、『傷害、強姦、強姦致傷、強盗殺人、殺人、強盗強姦、恐喝、窃盗被告事件』。
- 裁判所ウェブサイト
- 死刑の量刑が維持された事例(市川の一家強盗殺人事件)
- 『TKCローライブラリー』(LEX/DBインターネット) 文献番号:28075105
- 被告人が、B方に赴き、在宅していたBの祖母を殺害し、その後帰宅したBの母と父を順次柳刃包丁で殺害した上、現金、預金通帳等を強取するなどした事案で、被告人は、上記強盗の最中、Bを強姦するなどしたほか、傷害、強姦、強姦致傷、恐喝、窃盗を繰り返しているところ、その犯行態様、結果ともに悪質であることなどの情状に照らすと、被告人の罪責はまことに重大であり、本件各犯行当時、被告人が18歳から19歳であったことなどの事情を考慮しても、原判決が維持した第1審判決の死刑の科刑は、やむを得ないとし、上告を棄却した事例。
- 『D1-Law.com』(第一法規法情報総合データベース)判例体系 ID:28075105
- 『最高裁判所裁判集 刑事』第280号、最高裁判所、2002年1月1日。 - 『最高裁判所裁判集 刑事』(集刑)第280号(平成13年1月-12月)。上告審判決文のほか、弁護人による上告趣意書が収録されている。また、同書の巻末付録として、最高裁判所事務総局発行の『最高裁判所刑事裁判書総目次』(平成13年1月 - 12月分)が収録されているが、11月分(15頁)、12月分(15頁・18頁)にそれぞれ、Sに対する以下の決定が出された旨が記載されている。
- 「刑事雑(全) > 決定に対する異議申立 > 事件番号:平成13年(す)第509号 事件名:傷害、強姦致傷、強盗殺人、強盗強姦、殺人 申立人又は被告人氏名:S 裁判月日:(平成13年)11月27日 法廷:第二小法廷 結果:却下 原本綴丁数:194」『最高裁判所刑事裁判書総目次 平成13年11月分』、最高裁判所事務総局、2001年11月、15頁。
- 「刑事雑(全) > 判決訂正申立 > 事件番号:平成13年(み)第7号、平成13年(み)第9号 事件名:傷害、強姦致傷、強盗殺人、殺人、強盗強姦、恐喝、窃盗 申立人又は被告人氏名:S 裁判月日:(平成13年)12月20日 法廷:第二小法廷 結果:棄却 原本綴丁数:218」『最高裁判所刑事裁判書総目次 平成13年12月分』、最高裁判所事務総局、2001年12月、15頁。
- 「刑事雑(全) > その他 > 事件番号:平成13年(す)第518号 事件名:裁判官忌避の申立て 申立人又は被告人氏名:S 裁判月日:(平成13年)12月3日 法廷:第二小法廷 結果:却下 原本綴丁数:344」『最高裁判所刑事裁判書総目次 平成13年12月分』、最高裁判所事務総局、2001年12月、18頁。
- 「刑事雑(全) > その他 > 事件番号:平成13年(す)第530号 事件名:忌避申立て却下決定に対する異議の申立て(表題は「抗告申立書」) 申立人又は被告人氏名:S 裁判月日:(平成13年)12月11日 法廷:第二小法廷 結果:棄却 原本綴丁数:349」『最高裁判所刑事裁判書総目次 平成13年12月分』、最高裁判所事務総局、2001年12月、18頁。
- 「刑事雑(全) > その他 > 事件番号:平成13年(す)第534号 事件名:判決訂正の申立て期間延長の申立て 申立人又は被告人氏名:S 裁判月日:(平成13年)12月12日 法廷:第二小法廷 結果:却下 原本綴丁数:352」『最高裁判所刑事裁判書総目次 平成13年12月分』、最高裁判所事務総局、2001年12月、18頁。
- 「刑事雑(全) > その他 > 事件番号:平成13年(す)第539号 事件名:判決訂正の申立て期間延長の申立て 申立人又は被告人氏名:S 裁判月日:(平成13年)12月13日 法廷:第二小法廷 結果:却下 原本綴丁数:354」『最高裁判所刑事裁判書総目次 平成13年12月分』、最高裁判所事務総局、2001年12月、18頁。
- 光市母子殺害事件の第一次上告審判決 - 「平成18年6月20日判決 平成14年(あ)第730号」『最高裁判所裁判集 刑事』第289号、最高裁判所、2006年8月、383-479頁。 - 『最高裁判所裁判集 刑事』(集刑)第289号(平成18年1月-8月)に収録。上告審判決文のほか、検察官による上告趣意書が収録されている。
論文・判例評釈
- 菊田幸一「少年に対する死刑の適用」『JCCD 犯罪と非行に関する全国協議会機関誌』第70号、犯罪と非行に関する全国協議会、1994年10月、32-36頁、NDLJP:2855530/1/17。
- 覚正豊和「少年の死刑事件 : 千葉地裁平成6年8月8日判決に関する一考察(The Death Penalty for Minors : A Case Study of the Chiba District Court Trial of Aug. 8,1994)」『千葉敬愛短期大学紀要』第17号、敬愛大学・千葉敬愛短期大学、1995年2月15日、7-22頁、NAID 110004724876。
- 覚正豊和 著「市川一家四人殺害事件に関する考察」、三原憲三先生古稀祝賀論文集編集委員会 編『三原憲三先生古稀祝賀論文集』(初版第1刷発行)成文堂、2002年11月24日、843-871頁。ISBN 978-4792315993。 NCID BA60147758。国立国会図書館書誌ID:000003998814・全国書誌番号:20366614。
- 福島章「特集 青年期事例の研究――精神療法に何ができるか――青年期危機犯罪の一例」『精神療法』第21巻第2号、金剛出版、1995年4月5日、3-15頁、ISBN 978-4772404792、ISSN 0916-8710、国立国会図書館書誌ID:000000082044・全国書誌番号:00087715。 - 通巻:第87号(1995年4月号)。Sの2度目の精神鑑定(#福島鑑定)を担当した福島が、自身の鑑定結果を専門誌上で発表したもの。
- 神田宏「少年と死刑」『関西非行問題研究』第15号、関西非行問題研究会、 日本:兵庫県西宮市上ケ原1-1-155 関西学院大学法学部共同研究室内 関西非行問題研究会事務局、1996年8月31日、24-37頁。
- 宮澤浩一(中央大学教授) 著「XVI 少年の刑事事件 (4) 108 少年の刑事事件における量刑――女子高生監禁殺人事件 東京高裁平成三年七月一二日判決(平成二年(う)第一〇五八号猥褻誘拐・略取、監禁、強姦、殺人等被告事件)(高刑集四四巻二号一二三頁、判時一三九六号一五頁)」、田宮裕 編『少年法判例百選』147号、有斐閣、1998年6月30日、222-223頁。ISBN 978-4641114470。 NCID BA36345824。国立国会図書館書誌ID:000000021418・全国書誌番号:00021572 。 - 『別冊ジュリスト判例百選』第34巻第3号(通巻:第147号)。女子高生コンクリート詰め殺人事件の控訴審判決(1991年7月12日:東京高裁)や名古屋アベック殺人事件、そして本事件の控訴審判決などについて解説している。
- 前田忠弘(愛媛大学教授) 著「XVI 少年の刑事事件 (4) 109 少年に対する死刑適用の是非――名古屋高裁平成八年一二月一六日判決(平成元年(う)第二六二号強盗致傷、殺人、死体遺棄、強盗未遂、強盗強姦被告事件)(判例時報一五九五号三八頁)」、田宮裕 編『少年法判例百選』147号、有斐閣、1998年6月30日、224-225頁。ISBN 978-4641114470。 NCID BA36345824。国立国会図書館書誌ID:000000021418・全国書誌番号:00021572 。 - 『別冊ジュリスト判例百選』第34巻第3号(通巻:第147号)。名古屋アベック殺人事件の控訴審判決について解説している。
新聞・雑誌記事
- 稲熊均「ニュースの追跡 話題の発掘 千葉・市川の一家4人殺し容疑者 19歳少年の犯行の背景 別れた父親に強い反発 他人への思いやり欠落 一時は甲子園目指す 家賃や高級車代を祖父負担 遊興費などをせびる 愛情のバランス失う」『東京新聞』中日新聞東京本社、1992年3月10日、朝刊第11版特報面、10、15。
- 「特集 時代遅れ「少年法」でこの「凶悪」事件をどう始末する」『週刊新潮』第37巻第11号、新潮社、1992年3月19日、145-149頁、doi:10.11501/3378720、NDLJP:3378720/73。 - 通巻:第1850号(1992年3月19日号)。1992年3月12日発売。犯人Sの実名や、中学卒業時の顔写真、そしてSが事件当時住んでいたマンション(船橋市本中山二丁目)の写真が掲載された。
- 「一家四人惨殺事件 少年法を嘲笑う「19歳」悪の履歴」『週刊文春』第34巻第11号、文藝春秋、1992年3月19日、204-207頁、doi:10.11501/3376439、NDLJP:3376439/110。 - 通巻:第1677号(1992年3月19日号)。
- 「FOCUS REPORT 「待伏せ刺殺」「溶解炉」「伯母撲殺」「妹殺し」 続発「残酷殺人」若者の動機 一家4人を待伏せして殺した「19歳のワル」」『FOCUS』第12巻第12号、新潮社、1992年3月20日、68-73頁。 - 通巻:第527号(1992年3月20日号)。1992年3月13日発売。犯人Sの実名や、フードを被されて送検されるSの写真(撮影:清水潔)が掲載された。
- 「一家四人惨殺事件 少年法を問い直す 19歳少年の作文と自画像 一挙掲載」『週刊文春』第34巻第12号、文藝春秋、1992年3月26日、40-43頁、doi:10.11501/3376440、NDLJP:3376440/21。 - 通巻:第1678号(1992年3月26日号)。
- 「市川・一家4人惨殺 祖母、母、父、妹が順ぐりに毒牙に…… 監禁された15歳少女が凶悪犯と過こした「恐怖の一夜」」『週刊宝石』第12巻第11号、光文社、1992年3月26日、44-45頁、doi:10.11501/3374244、NDLJP:3374244/23。 - 通巻:第503号(1992年3月26日号)。
- 「19歳凶悪犯に「死刑」は適用できるか?!」『週刊アサヒ芸能』第47巻第12号、徳間書店、1992年3月26日、176-177頁。 - 通巻:第2359号(1992年3月26日号)。
- 「月曜「特ダネ」スクランブル 2 ダンプ運転手→風俗嬢→ルポライター 「流転人生」の末やっと手にした幸せも暗転 千葉県市川市一家4人惨殺事件の母・Dさんの「悲運」」『週刊現代』第34巻第12号、講談社、1992年3月28日、203-204頁、NDLJP:3372698/102。 - 通巻:第1685号(1992年3月28日号)。
- 「市川一家4人惨殺核心レポート! 祖父の“金まみれ”の溺愛、母の無関心が狂わせた「19才少年A」の無軌道人生! 「俺は、お前らなんかより金があるんだ!」」『女性自身』第35巻第13号、光文社、1992年3月31日、217-220頁。 - 通巻:第1593号(1992年3月31日号)。
- 「死刑大胆分析 このまま廃止か 法相4代続いて執行のハン押さず」『週刊読売』第51巻第15号、読売新聞社、1992年4月5日、20-25頁、doi:10.11501/1815097、NDLJP:1815097/11。 - 通巻:第2276号(1992年4月5日号)。
- ねじめ正一「きょうもサッサと日が暮れる。連載20」『週刊読売』第51巻第15号、読売新聞社、1992年4月5日、20-25頁、doi:10.11501/1815097、NDLJP:1815097/31。 - 通巻:第2276号(1992年4月5日号)。
- 朝倉喬司(事件ジャーナリスト)「一家4人惨殺事件 母が父が次々殺される… 15歳の少女は「その夜」何を見たのか」『FRIDAY』第9巻第18号、講談社、1992年5月1日、48-51頁。 - 通巻:第399号(1992年5月1日号)。1992年4月18日発売。
- 朝倉喬司(事件ジャーナリスト)「一家4人惨殺事件 野球好きな内気少年が凶行に及ぶまでの「心の軌跡」を追う!」『FRIDAY』第9巻第19号、講談社、1992年5月15日、48-51頁。 - 通巻:第400号(1992年5月8日・15日GW〈ゴールデンウィーク〉特大号)。
- 宇野津光緒「●好評シリーズ22 人と事件 だれもが知りたい「その後」を衝く!床に伏せた主婦の背中を包丁で突き刺し…19歳少年「一家4人惨殺」公判が再現した「戦慄現場」」『週刊アサヒ芸能』第48巻第12号、徳間書店、1993年3月25日、54-57頁。 - 通巻:第2408号(1993年3月25日号)。
- 文/加藤賢治、取材/三浦春子、堀ノ内雅一、写真/高野博、小口隆志「本誌独占インタビュー!「19才少年、一家4人惨殺事件」がついに論告求刑を!たったひとり生き残った長女がいま初めて真情を―記憶がないんです。あの惨劇の日のことが…」『女性自身』第37巻第16号、光文社、1994年4月19日、72-78頁。 - 通巻:第1690号(1994年4月19日号)。事件で唯一生き残った被害者Bへのロングインタビュー記事。Bの後ろ姿の写真が掲載されている。
- 中尾幸司(著)、花田紀凱(編)「判決要旨 一家四人惨殺事件。死刑判決文が明かした、十九歳少年の「暴虐と凌辱。」」『マルコポーロ』第4巻第8号、文藝春秋、1994年9月1日、142-145頁。 - 1994年9月号。
- 飯島真一(ジャーナリスト)「少年法を問い直す十九歳の「冷血」 一家四人を惨殺した「少年」が犯した最大の罪」『文藝春秋』第72巻第13号、文藝春秋、1994年10月1日、190-201頁、NDLJP:3198616/126。 - 1994年10月号。
- 取材/文 山岸朋央「連載ドキュメント 追跡ファイル'84〜'95 「事件の現場」から 第7回 千葉「19歳少年」一家4人殺害 被告の母が歩む“終わりなき懺悔の日々”」『FRIDAY』第12巻第4号、講談社、1995年1月27日、56-57頁。 - 通巻:第556号(1995年1月27日号)。
事件を取り扱った書籍
- 朝倉喬司(当該コラムを執筆) 著「二つの事件の「場所」」、芹沢俊介(編著) 編『少年犯罪論』(第一版第一刷発行)青弓社、1992年12月20日、151-178頁。ISBN 978-4787230607。 NCID BN0844350X。国立国会図書館書誌ID:000002222981・全国書誌番号:93016053 。
- 小田晋「殺人のパレオサイコロジー」『精神変容のドラマ 鑑定例と狂気誌』青土社、1992年7月25日、191-216頁。ISBN 978-4791753253。 NCID BN11343547。国立国会図書館書誌ID:000002373183・全国書誌番号:95018804。 - 起訴前の1回目の精神鑑定(小田鑑定)を手掛けた小田による著書。
- 間庭充幸「第3部 2章 イメージに生きる青少年のゲーム型犯罪 > 3 ゲーム化した殺人といじめ――生と死 > A スペクタクル社会と罪障感の消失」『若者犯罪の社会文化史 犯罪が映し出す時代の病像』(初版第1刷発行)有斐閣〈有斐閣選書〉、1997年8月30日、238-243頁。ISBN 978-4641182882。 NCID BA31985691。国立国会図書館書誌ID:000002625737・全国書誌番号:98034399。
- 福島章「第4章 ある少年死刑囚の場合」『子どもの脳が危ない』101号(第一版第一刷)、PHP研究所(発行者:江口克彦)〈PHP新書〉、2000年1月10日、73-98頁。ISBN 978-4569609201。 NCID BA4480665X。国立国会図書館書誌ID:000002852853・全国書誌番号:20026471 。 - 「福島鑑定」を手掛けた福島による著書。
- 加藤幸雄「5章 非行臨床における専門家の役割 > 「3] 犯罪心理鑑定の意義と方法」『非行臨床と司法福祉 少年の心とどう向きあうのか』(初版第1刷発行)ミネルヴァ書房、2003年11月20日、179-193頁。ISBN 978-4623038831。 NCID BA64415065。国立国会図書館書誌ID:000004282823・全国書誌番号:20513562 。 - 初出は加藤の著書『子どもと青年の心の援助』(ミネルヴァ書房、2000年)に収録された「犯罪心理鑑定の意義と方法」。
- 蜂巣敦「市川市一家四人殺害事件-人間が暴発する直前に見た「意味」と「無意味」のパノラマ」『殺人現場を歩く』は-29-2(第一刷発行)、筑摩書房(発行人:菊池明郎)〈ちくま文庫〉、2008年2月10日、59-73頁。ISBN 978-4480424006。 NCID BA84792674。国立国会図書館書誌ID:000009278001・全国書誌番号:21379026 。
『年報・死刑廃止』シリーズ(インパクト出版会)
- 中道武美、高橋美成、安田好弘、中村治郎、小川原優之 著「死刑と無期の境界線」、(編集)年報・死刑廃止編集委員会(編集委員)安田好弘・菊池さよこ・対馬滋・江頭純二・島谷直子・永井迅・岩井信・阿部圭太・深田卓(インパクト出版会) 編『「オウムに死刑を」にどう応えるか 年報・死刑廃止96』(第1刷発行)インパクト出版会、1996年5月10日、50-71頁。ISBN 978-4755400551。 NCID BN14778659。国立国会図書館書誌ID:000002499056・全国書誌番号:96061424 。
- 年報・死刑廃止編集委員会『世界のなかの日本の死刑 年報・死刑廃止2002』(第1刷発行)インパクト出版会、2002年7月15日、234,238頁。ISBN 978-4755401237。 NCID BA58218070。国立国会図書館書誌ID:000003672514・全国書誌番号:20319859 。
- 年報・死刑廃止編集委員会『死刑廃止法案 年報・死刑廃止2003』(第1刷発行)インパクト出版会、2003年7月15日、360,365頁。ISBN 978-4755401312。 NCID BA62765055。国立国会図書館書誌ID:000004195414・全国書誌番号:20511842 。
- 年報・死刑廃止編集委員会『無実の死刑囚たち 年報・死刑廃止2004』(第1刷発行)インパクト出版会、2004年9月20日、292,299頁。ISBN 978-4755401442。 NCID BA6881640X。国立国会図書館書誌ID:000007499011・全国書誌番号:20781088 。
- 年報・死刑廃止編集委員会『オウム事件10年 年報・死刑廃止2005』(第1刷発行)インパクト出版会、2005年10月8日、196,204頁。ISBN 978-4755401572。 NCID BA73512470。国立国会図書館書誌ID:000007926932・全国書誌番号:20966941 。
- 年報・死刑廃止編集委員会『光市裁判 なぜテレビは死刑を求めるのか 年報・死刑廃止2006』(第1刷発行)インパクト出版会、2006年10月7日、278,287頁。ISBN 978-4755401695。 NCID BA78669775。国立国会図書館書誌ID:000008329809・全国書誌番号:21219025 。
- 安田好弘 著「死刑執行と抗議行動 二〇一七年一二月一九日の死刑執行 上川陽子法務大臣は裁判所の判断を仰がないで、自分たちで再審事由がないと判断して死刑を執行した」、(編集)年報・死刑廃止編集委員会(編集委員)岩井信・可知亮・笹原恵・島谷直子・高田章子・永井迅・安田好弘・深田卓(インパクト出版会) / (協力:死刑廃止国際条約の批准を求めるフォーラム90、死刑廃止のための大道寺幸子・赤堀政夫基金、深瀬暢子・国分葉子・岡本真菜) 編『オウム死刑囚からあなたへ 年報・死刑廃止2018』(第1刷発行)インパクト出版会、2018年10月25日、140-148頁。ISBN 978-4755402883。 NCID BB27008886。国立国会図書館書誌ID:029261195・全国書誌番号:23165608 。 - 2018年1月25日に開催された死刑執行抗議集会での安田の発言。『フォーラム90』第158号に収録。
その他
- 東京地方裁判所民事第12部判決 1990年(平成2年)3月14日 、昭和61年(ワ)第13561号、『損害賠償等請求事件』。
- 掲載誌 - 「無修正の全裸写真を写真報道誌に掲載されたことが人格的利益の侵害として、雑誌発行元・編集人・発行人に損害賠償義務が認められた事例 〔損害賠償等請求事件、東京地裁昭六一年(ワ)第一三五六一号、平2・3・14民事第一二部判決、一部認容、一部棄却(確定)〕」『判例時報』第1357号、判例時報社、1990年10月21日、85-93頁。 - 通巻:第1357号(1990年10月21日号)。
- 掲載誌 - 「6 民・商事、民法、一般不法行為 無修正の全裸写真の写真報道誌への掲載が人格的利益の侵害として、雑誌発行元・編集人・発行人に不法行為責任が認められた事例 〔東京地裁昭六一年(ワ)第一三五六一号、損害賠償等請求事件、平2・3・14民事第一二部判決、一部認容・確定〕」『判例タイムズ』第42巻第1号、判例タイムズ社、1991年1月1日、189-199頁。 - 通巻:第741号(1991年1月1日号)。三浦和義が『Emma』1985年10月10日号に掲載された自身の全裸写真(本事件の被害者Aが撮影)をめぐり、同誌の発行元である文藝春秋社などを訴えた民事訴訟の判決文。
- 裁判官:大喜多啓光(裁判長)・小澤一郎・相澤眞木
- 判決主文
- 被告らは、原告に対し、各自金100万円及びこれに対する昭和60年10月10日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
- 原告のその余の請求をいずれも棄却する。
- 訴訟費用はこれを一〇分し、その九を原告の、その余を、被告らの負担とする。
- この判決は、第一項に限り、仮に執行することができる。
- 原告:三浦和義(訴訟代理人弁護士:林浩二・樋渡俊一)
- 被告:株式会社文藝春秋(右代表者代表取締役 上林吾郎)・松尾秀助・鈴木琢二 - 被告らの訴訟代理人弁護士:佐藤忠宏
- 『ゼンリン住宅地図'92 千葉県 市川市』ゼンリン〈ゼンリン住宅地図〉、1991年9月。国立国会図書館書誌ID:000003555506・全国書誌番号:20446013。
- 坂本敏夫「第三章 死刑執行というメッセージ > 死刑執行再開のきっかけになった事件」『死刑と無期懲役』830号(第一刷発行)、筑摩書房〈ちくま新書〉、2010年2月10日、66-68頁。ISBN 978-4480065339。 NCID BB01060563。国立国会図書館書誌ID:000010702641・全国書誌番号:21725532 。
- 久田将義『生身の暴力論』2336号(第一刷発行)、講談社〈講談社現代新書〉、2015年9月20日。ISBN 978-4062883368。 NCID BB19529817。国立国会図書館書誌ID:026719051・全国書誌番号:22650409 。
関連項目
[編集]