「エドゥアール・マネ」の版間の差分
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{{Redirect|マネ|スペイン出身のサッカー選手|ホセ・マヌエル・ヒメネス・オルティス}} |
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{{Infobox 芸術家 |
{{Infobox 芸術家 |
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| 称号 = |
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| 名前 = エドゥアール・マネ<br />{{Lang|fr|Édouard Manet}} |
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| イニシャル = |
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| image = Édouard Manet.jpg |
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| 画像 = ファイル:Édouard Manet.jpg |
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| 画像サイズ = 240px |
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| caption = [[ナダール]]による肖像写真 |
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| 画像テキスト = |
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| birthdate = [[1832年]][[1月23日]] |
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| 画像説明文 = 肖像写真([[ナダール]]撮影、1867年) |
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| location = {{FRA1830}}, [[パリ]] |
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| 現地語名 = |
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| deathdate = {{死亡年月日と没年齢|1832|1|23|1883|4|30}} |
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| 現地言語 = |
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| deathplace = {{FRA1870}}, [[パリ]] |
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| 本名 = |
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| 誕生日 = {{生年月日と年齢|1832|1|23|no}} |
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| field = [[絵画]]、[[版画]] |
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| 出生地 = {{FRA1830}}・[[パリ]] |
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| 死没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1832|1|23|1883|4|30}} |
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| movement = [[写実主義]]、[[印象派]] |
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| 死没地 = {{FRA1870}}・[[パリ]] |
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| 墓地 = {{FRA}}・[[パリ]] [[パッシー墓地]]<ref>{{Cite web |url=https://www.findagrave.com/memorial/2245 |title=Edouard Manet |publisher=Find a Grave |accessdate=2017-11-08}}</ref> |
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| patrons = |
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| 墓地座標 = {{Coord|48|51|45|N|2|17|07|E|type:landmark|display=inline}} |
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| influenced by = |
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| 国籍 = {{FRA}} |
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| 教育 = [[トマ・クチュール]]のアトリエ |
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| awards = |
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| 出身校 = |
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| 芸術分野 = [[絵画]]、[[版画]] |
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| 代表作 = 『[[草上の昼食]]』、『[[オランピア (絵画)|オランピア]]』、『[[笛を吹く少年]]』 |
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| 流派 = |
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| 運動・動向 = [[写実主義]]、[[印象派]] |
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| 配偶者 = |
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| 受賞 = [[レジオンドヌール勲章]]騎士章(1881年)<ref name="#1">[[#高橋|高橋 (2010: 57)]]。</ref> |
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| 会員選出組織 = |
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| patrons = [[ポール・デュラン=リュエル]]、[[ジャン=バティスト・フォール]] |
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| メモリアル = |
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| 被影響芸術家 = [[ティントレット]]、[[ティツィアーノ・ヴェチェッリオ|ティツィアーノ]]、[[ディエゴ・ベラスケス|ベラスケス]]、[[フランシスコ・デ・ゴヤ|ゴヤ]]、[[エドガー・ドガ]]、[[印象派]]<ref>[[#高階・絵画史|高階 (1975: 上73-74)]]。</ref> |
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| 与影響芸術家 = [[印象派]] |
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| ウェブサイト = |
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'''エドゥアール・マネ'''({{Lang-fr|Édouard Manet}}, [[1832年]][[1月23日]] - [[1883年]][[4月30日]])は、[[19世紀]]の[[フランス]]の[[画家]]。近代化する[[パリ]]の情景や人物を、伝統的な絵画の約束事にとらわれずに描き出し、絵画の革新の担い手となった。特に1860年代に発表した代表作『[[草上の昼食]]』と『[[オランピア (絵画)|オランピア]]』は、絵画界にスキャンダルを巻き起こした。[[印象派]]の画家にも影響を与えたことから、印象派の指導者あるいは先駆者として位置付けられる。 |
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[[ファイル:Manet autograph.png|thumb|180px|right|マネのサイン]] |
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== 概要== |
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'''エドゥアール・マネ'''({{lang-fr|Édouard Manet}}, [[1832年]][[1月23日]] - [[1883年]][[4月30日]])は、[[19世紀]]の[[フランス]]の[[画家]]。 |
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エドゥアール・マネは、パリの裕福なブルジョワジーの家庭に生まれた。父はマネが法律家となることを希望していたが、中学校時代から、伯父の影響もあって絵画に興味を持った。[[海軍兵学校 (フランス)|海軍兵学校]]の入学試験に2回失敗すると、父も諦め、芸術家の道を歩むことを許した(→''[[#出生、少年時代|出生、少年時代]]'')。歴史画家であった[[トマ・クチュール]]に師事したが、マネは、伝統的なクチュールの姿勢に飽き足らず、[[ルーヴル美術館]]や、ヨーロッパ各地への旅行で、[[ヴェネツィア派]]やスペインの巨匠の作品を模写した(→''[[#修業時代(1850年代)|修業時代(1850年代)]]'')。 |
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{{Multiple image |
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== 人物 == |
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|align = left |direction = horizontal |
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[[ギュスターヴ・クールベ]]と並び、西洋近代絵画史の冒頭を飾る画家の一人である。マネは1860年代後半、[[パリ]]、バティニョール街の「カフェ・ゲルボワ」に集まって芸術論を戦わせ、後に「[[印象派]]」となる画家グループの中心的存在であった。しかし、マネ自身が印象派展には一度も参加していないことからも分かるように、近年の研究ではマネと印象派は各々の創作活動を行っていたと考えられている。 |
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|image1 =Édouard Manet - Le Déjeuner sur l'herbe.jpg |width1 =120 |
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|image2 =Edouard Manet - Olympia - Google Art Project 3.jpg |width2 = 140 |
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|footer =酷評を浴びた『[[草上の昼食]]』(左)と『[[オランピア (絵画)|オランピア]]』 |
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[[1859年]]以降、[[サロン・ド・パリ]]への応募を続け、[[1861年]]にスペインの写実主義的絵画に影響を受けた『スペインの歌手』などで初入選を果たした。理想化された主題や造形を追求する[[アカデミズム絵画]]とは一線を画し、近代パリの都市生活を、はっきりした輪郭や平面的な色面を用いながら描く作品は、サロンでは非難にさらされることが多かったが、詩人[[シャルル・ボードレール]]のように支持する論者もいた(→''[[#サロン入選の努力(1860年代初頭)|サロン入選の努力(1860年代初頭)]]'')。[[1863年]]に[[ナポレオン3世]]の号令により開催された[[落選展]]で、『[[草上の昼食]]』を出展すると、パリの裸の女性が着衣の男性と談笑しているという主題が風紀に反すると非難を浴び、スキャンダルとなった。さらに[[1865年]]のサロンに『[[オランピア (絵画)|オランピア]]』を出品すると、パリの娼婦を描いたものであることが明らかであったことから、『草上の昼食』を上回る非難を浴びた。意気消沈したマネは、パリを離れてスペインに旅行し、ベラスケスの作品に接して影響を受けた(→''[[#絵画界のスキャンダル(1860年代半ば)|絵画界のスキャンダル(1860年代半ば)]]'')。ベラスケス研究の成果といえる『[[笛を吹く少年]]』を[[1866年]]のサロンに提出したが、落選した。この時、作家[[エミール・ゾラ]]の援護を受けた。マネは、パリのバティニョール地区にアトリエと住居を置き、[[カフェ・ゲルボワ]]に足繁く通っていたが、マネの周りには、ゾラを含む文筆家や芸術家が集まっていた。1860年代後半には、[[クロード・モネ|モネ]]、[[ピエール=オーギュスト・ルノワール|ルノワール]]などの若手画家もマネを慕って集まりに加わるようになり、バティニョール派と呼ばれるようになった(→''[[#バティニョール派の形成(1860年代後半)|バティニョール派の形成(1860年代後半)]]'')。 |
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[[ファイル:Edouard Manet, A Bar at the Folies-Bergère.jpg|thumb|right|140px|最後の大作『[[フォリー・ベルジェールのバー]]』]] |
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[[1870年]]に[[普仏戦争]]が勃発しプロイセン軍がパリに迫ると、マネは国民軍に入隊し、首都防衛戦に加わった。普仏戦争と[[パリ・コミューン]]の混乱が終息して[[フランス第三共和政|第三共和政]]の時代になると、バティニョール派の若手画家たちはサロンから独立したグループ展を立ち上げ、[[印象派]]と呼ばれるようになった。マネは、批評家からは印象派のリーダー格と目されていたが、自身はサロンで成功することを重視し、印象派グループ展への参加を拒絶した。それでも、特にモネとの親しい関係は続き、モネの[[アルジャントゥイユ]]の家を度々訪れ、[[戸外制作]]などの印象派の手法を取り入れた作品も制作している。また、詩人[[ステファヌ・マラルメ]]と親しくなり、その影響も受けた(→''[[#第三共和政のパリ(1870年代)|第三共和政のパリ(1870年代)]]'')。[[1880年]]頃からは、[[梅毒]]により左脚の壊疽が進み、パリ郊外で療養しながら制作を続けた。[[1882年]]のサロンに最後の大作『[[フォリー・ベルジェールのバー]]』を出品した。[[1883年]]4月、壊疽が進行した左脚を切断する手術を受けたが、経過が悪く、51歳で亡くなった(→''[[#晩年(1880年代初頭)|晩年(1880年代初頭)]]'')。 |
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マネの死後、[[1890年]]にモネの働きにより『オランピア』が国の[[リュクサンブール美術館]]に受け入れられ、[[1896年]]に[[ギュスターヴ・カイユボット]]の遺贈により『[[バルコニー (マネの絵画)|バルコニー]]』などが政府に受け入れられるなど、マネに対する公的な認知は進んだ。もっとも、これらの受入れの際にも美術界の保守派からは反対の声が上がり、マネと印象派に対する抵抗は根強いものがあった(→''[[#名声の確立|名声の確立]]'')。しかし、その後、美術市場でのマネの評価は急速に上がり、[[1989年]]には『旗で飾られたモニエ通り』が2400万ドル(34億7520万円)で落札され、[[2014年]]には『[[春 (マネ)|春(ジャンヌ)]]』が6512万ドル余り(約74億円)で落札されるなど、美術市場の上位を占めるに至っている(→''[[#市場での評価|市場での評価]]'')。 |
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マネの油彩画は400点余りとされている(→''[[#カタログ|カタログ]]'')。マネは、保守的なブルジョワであり、サロンでの成功を切望していたが、『草上の昼食』と『オランピア』は本人の意図と裏腹にスキャンダルを呼び、美術界の革命を起こすことになった。主題の面では、娼婦の存在や、近代社会における人間同士の冷ややかな関係をありのまま描き出したことが、革新的であり、非難の的ともなった。造形の面では、陰影による肉付けや遠近法といった伝統的な約束事にとらわれない描写を生み出していった(→''[[#時代背景、画風|時代背景、画風]]'')。同時に、伝統的なイタリア絵画、スペイン絵画、フランス絵画から学んでいる点も多く、[[オールド・マスター]]の作品から主題や[[モチーフ]]を引用し、現代的な文脈に置き直していったといえる(→''[[#伝統的絵画からの影響|伝統的絵画からの影響]]'')。また、平面的な彩色やモチーフを切り取る構図などに日本の[[浮世絵]]の影響を受けていると考えられる(→''[[#ジャポニスム|ジャポニスム]]'')。印象派の画家たちから敬愛され、彼らに大きな影響を与えた一方、マネ自身が後輩の印象派から影響を受けた。マネには印象主義的な要素の濃い作品もあるが、印象派グループ展には参加していないことから、印象派には含めず、印象派の指導者あるいは先駆者として位置付けられるのが一般的である(→''[[#印象派との関係|印象派との関係]]'')。マネの作品は、[[ポール・セザンヌ|セザンヌ]]、[[ポール・ゴーギャン|ゴーギャン]]、[[パブロ・ピカソ|ピカソ]]などによって、模倣や再解釈の題材とされており、彼らの芸術に様々な影響を残していると考えられる(→''[[#印象派以後への影響|印象派以後への影響]]'')。 |
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== 生涯 == |
== 生涯 == |
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=== 出生、少年時代 === |
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[[ファイル:Carolus-Duran - Portrait of Edouard Manet.jpg|thumb|190px|left|カルロス・デュランによるマネの肖像画<br />(1880年)]] |
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[[ファイル:P1070498 Paris VI rue Bonaparte n°5 rwk.JPG|thumb|left|180px|プティ=ゾーギュスタン通りに残るマネの生家の門。[[エコール・デ・ボザール]]の目の前である<ref>[[#高橋|高橋 (2010: 6)]]。</ref>。]] |
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マネは1832年、パリの[[セーヌ川]]左岸の一角で対岸に[[ルーブル宮殿]]を望むボナパルト街で、謹厳な[[ブルジョワジー|ブルジョワ]]の家庭に3人兄弟の長男として生まれた。父は法務省の高級官僚で[[レジオンドヌール勲章]]も授与されており、母ウジェニーは[[ストックホルム]]駐在の外交官フルエニ家の娘であった。[[1844年]]名門中学コレージュ・ロランに入学。この頃から画家になることを考え始め、美術好きの伯父フルエニ大佐に連れられ、[[ルーブル美術館]]などで古典絵画作品に親しく接する。特に[[ルイ・フィリップ (フランス王)|ルイ・フィリップ国王]]がルーブル宮内に開設していた「[[スペイン]]絵画館」(1838~48年)で、当時一般には余り知られていなかった17世紀[[スペイン]]絵画の真摯な[[リアリズム]]に触れ、決定的な影響を受ける。 |
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マネは、1832年、パリのプティ=ゾーギュスタン通り(現在の{{仮リンク|ボナパルト通り|en|Rue Bonaparte}})で、裕福な[[ブルジョワジー]]の家庭に長男として生まれた。マネの父オーギュストは、法務省の高級官僚(司法官)で、共和主義者であった。母ウジェニーは、[[ストックホルム]]駐在の外交官フルニエ家の娘であった。マネの弟に、[[ウジェーヌ・マネ|ウジェーヌ]](1833年生)とギュスターヴ(1835年生)が生まれた<ref>[[#カシャン|カシャン (2008: 16-17)]]、[[#高橋|高橋 (2010: 6)]]。</ref>。 |
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[[ファイル:Daguerreotype - Édouard Manet - 1846.jpg|thumb|right|180px|少年時代のマネ(1846年頃)。]] |
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[[1848年]]両親の意向で[[海軍兵学校]]を受験するも早々に落第。再試験を待つ間練習船に見習い船員となり、[[南アメリカ]]へ半年間航海に出る。帰国後の翌年、再試験を受けるがまたもや失敗。両親はマネの希望を受け入れ、17歳の時に本格的に画家への道に邁進出来るようになった。翌[[1850年]]に当時のアカデミスムの大家、[[トマ・クーチュール]]に弟子入りし、[[1856年]]まで学んだ。この6年間、マネは精力的に過去の巨匠たちの作品を模写、研究した。[[1859年]]、初めて[[サロン・ド・パリ|サロン]](官展)に出品した『[[アブサン]]を飲む男』が落選したが、審査員を務めた[[ウジェーヌ・ドラクロワ|ドラクロワ]]や、詩人の[[シャルル・ボードレール|ボードレール]]からは高く評価された。[[1861年]]、『スペインの歌手』と『オーギュスト・マネ夫妻の肖像』をサロンに出品し、2作とも初入選する。マネの画風は、[[ディエゴ・ベラスケス|ベラスケス]]を始めとするスペイン絵画や[[ヴェネツィア派]]、17世紀のフランドル・[[オランダ黄金時代の絵画|オランダ絵画]]の影響を受けつつも、明快な色彩、立体感や遠近感の表現を抑えた平面的な処理などは、近代絵画の到来を告げるものである。 |
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[[1844年]]から[[1848年]]まで、トリュデール大通りの中学校{{仮リンク|コレージュ・ロラン|fr|Collège-lycée Jacques-Decour}}に通った。父は、マネが法律家の道を継ぐことを望んでいた。一方、母方の伯父エドゥアール・フルニエ大尉は、芸術家肌の人物で、マネにデッサンの手ほどきをしたり、マネら3兄弟や、マネの中学校の友人[[アントナン・プルースト]](後に美術大臣)を[[ルーヴル美術館]]に連れて行ったりした。マネは、この頃から、絵画に興味を持っていたようであり、[[ルイ・フィリップ (フランス王)|ルイ・フィリップ]]がルーヴル美術館に設けたスペイン絵画館で17世紀スペインのレアリスム絵画に触れ、影響を受けた。プルーストの回想によれば、コレージュの歴史の授業で、画家が流行遅れの帽子を描いていることを[[ドゥニ・ディドロ]]が批判した展覧会評を読んだ時、マネが、「ぼくたちは、時代に即していなければならない。流行など気にせず、見たままを描かなければならないんだ。」と発言したという。また、伯父フルニエが絵画の課外授業に出席させてくれたが、言われたお手本を模写するのではなく、近くにいる生徒たちの顔をスケッチしていたという<ref>[[#カシャン|カシャン (2008: 17-19)]]、[[#高橋|高橋 (2010: 6-7)]]、[[#木村|木村 (2012: 96-97)]]。</ref>。 |
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マネは、芸術家の道を不安視する両親の意向を受け、水兵(海軍将校)になると父に宣言して[[海軍兵学校 (フランス)|海軍兵学校]]の入学試験を受けたが、落第した。1848年12月、実習船に乗って[[リオデジャネイロ]]まで航海した。後に、マネは、「私は[[ブラジル]]旅行でたくさんのものを得た。毎夜毎夜、船の航跡のなかに、光と影の働きを見たものだった! 昼間は上甲板で、水平線をじっと見つめていた。それで、空の位置を確定する方法がわかったのだ。」と述べている<ref>[[#カシャン|カシャン (2008: 20-21)]]。</ref>。[[1849年]]6月にパリに戻ると、海軍兵学校の入学試験を再び受けたが、また落第した。これに父も諦め、マネは芸術家の道を歩むことを許された<ref>[[#カシャン|カシャン (2008: 21)]]、[[#木村|木村 (2012: 97)]]。</ref>。 |
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[[1863年]]の[[落選展]]に出品した『[[草上の昼食]]』は物議をかもし、2年後の[[1865年]]のサロンに展示された『[[オランピア (絵画)|オランピア]]』は、さらに大きなスキャンダルとなった(その理由については[[#評価|評価]]の節を参照)。 |
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=== 修業時代(1850年代) === |
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1870年代以降は、自らが示唆を与えた[[印象派|印象主義]]から逆に影響を受け、戸外での制作を積極的に行い、作風も印象派に特有の素早い筆致が目立つようになった。ただし上記の通り、印象派展には一度も参加せず、あくまでも(芸術運動としての)印象派とは一定の距離を置き続けた。 |
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[[ファイル:Thomas Couture Carjat BNF.jpg|thumb|left|120px|マネが1849年-1856年(17-24歳頃)師事した[[トマ・クチュール]]。]] |
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マネは、1849年秋頃、[[トマ・クチュール]]のアトリエに入り、ここで6年間修業した。クチュールは、[[1847年]]の[[サロン・ド・パリ]]に『退廃期のローマ人』を出品して成功した、当時の[[アカデミズム絵画]]界の中では革新的な歴史画家であった。マネは、クチュールの近代性から影響を受ける反面、伝統的な歴史画にこだわるクチュールの姿勢には反発した。マネがモデルに服を着させたままポーズをとらせていると、クチュールが入ってきて、「君は君の時代の[[オノレ・ドーミエ|ドーミエ]]にしかなれない」と批判した。また、マネは、アトリエで学ぶ傍ら、ルーヴル美術館で[[ティントレット]]、[[ティツィアーノ・ヴェチェッリオ]]、[[フランソワ・ブーシェ]]、[[ピーテル・パウル・ルーベンス]]などの作品を模写した。[[1852年]]には[[アムステルダム国立美術館]]を訪れ、[[1853年]]には弟ウジェーヌとともに[[ヴェネツィア]]、[[フィレンツェ]]を旅行し、ティツィアーノの『[[ウルビーノのヴィーナス]]』を模写した。さらに、この時、[[ドイツ]]や中央ヨーロッパまで足を延ばし、各地の美術館を訪れたようである。存命中の画家の中では、[[ギュスターヴ・クールベ]]の『オルナンの埋葬』、[[ジャン=バティスト・カミーユ・コロー]]、[[シャルル=フランソワ・ドービニー]]、[[ヨハン・ヨンキント]]らの風景画を高く評価していた<ref>[[#カシャン|カシャン (2008: 22-26)]]。</ref>。友人[[アントナン・プルースト]]とともに[[ウジェーヌ・ドラクロワ]]のもとを訪れ、作品の模写の許可を求めたが、ドラクロワからは許可をもらったものの、冷淡な対応をされたようである<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 44)]]。</ref>。この頃、弟たちのピアノの家庭教師[[シュザンヌ・マネ|シュザンヌ・レーンホフ]]と恋仲になった(後に妻となる)。1852年1月にはシュザンヌに男の子レオンが生まれ、戸籍上はシュザンヌの弟({{仮リンク|レオン・コエラ=レーンホフ|fr|Léon Koëlla-Leenhoff}})として届け出られた。実際には、レオンは、マネの子であった可能性が大きいと考えられている<ref>[[#カシャン|カシャン (2008: 40, 43-44)]]、[[#高橋|高橋 (2010: 7)]]。</ref><ref group="注釈">ただし、マネ自身は、シュザンヌと結婚した後もレオンを[[認知 (親子関係)|認知]]していない。このこともあって、近年では、マネの父オーギュストがレオンの父親だという説も浮上している([[#吉川|吉川 (2010: 142)]])。</ref>。 |
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1856年にクチュールのアトリエを去ると、友人の画家、[[アルベール・ド・バルロワ]]との共有で、{{仮リンク|バティニョール地区|en|Batignolles}}の{{仮リンク|ラヴォワジエ通り|fr|Rue Lavoisier}}にアトリエを構えた<ref name="#2">[[#高橋|高橋 (2010: 30)]]。</ref>。しばらくはサロンへの応募をせず、ルーヴル美術館で、ティントレット、[[ディエゴ・ベラスケス]]、ルーベンスなどの巨匠の模写を続けた。その中で、画家の[[アンリ・ファンタン=ラトゥール]]、[[エドガー・ドガ]]と知り合った<ref>[[#カシャン|カシャン (2008: 30)]]、[[#高橋|高橋 (2010: 63)]]。</ref>。1857年にはフィレンツェを再訪し、{{仮リンク|サンティッシマ・アヌンツィアータ教会|en|Santissima Annunziata, Florence}}の[[アンドレア・デル・サルト]]の壁画を模写した<ref>[[#カシャン|カシャン (2008: 25)]]。</ref>。 |
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[[1878年]]から体調が不安定になり、1880年代に入ると左足が[[壊死|壊疽]]にかかり歩行困難となった。[[1882年]]、晩年の代表作である『[[フォリー・ベルジェールのバー]]』をサロンに出品した。翌1883年に左足を切断したが、同年4月30日に死去した。 |
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=== サロン入選の努力(1860年代初頭) === |
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== 評価 == |
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[[ファイル:Edouard Dantan Un Coin du Salon en 1880.jpg|thumb|left|160px|[[サロン・ド・パリ|サロン]]の様子(1880年)。サロンに入選することが画家としての成功の道であった。]] |
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[[Image:Edouard Manet 024.jpg|thumb|right|300px|[[草上の昼食]](1862-63、[[オルセー美術館]])]][[Image:Edouard Manet 038.jpg|thumb|right|300px|[[オランピア (絵画)|オランピア]](1863、オルセー美術館)]] |
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'''[[1859年]]のサロン'''に、『アブサンを飲む男』を初めて提出したが、下絵のような無造作な描き方が不評だったのに加え、酔った男や足元の酒瓶という露骨な現実を画題とすることがサロンにふさわしくないと酷評され、落選した。もっとも、審査員だった[[ウジェーヌ・ドラクロワ]]からは評価された。詩人の[[シャルル・ボードレール]]も、この作品を賞賛した。この頃には、マネとボードレールは親しく交流していた<ref>[[#カシャン|カシャン (2008: 30-32)]]。</ref>。サロン落選に続いて、1860年には、マネが制作した肖像画『ブリュネ夫人』が、モデルの家族から受取りを拒否されるということもあった<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 49-50)]]。</ref>。 |
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『草上の昼食』と『オランピア』はいずれも激しいスキャンダルを巻き起こした作品として知られる。『草上の昼食』では、戸外にいる正装の男性と裸体の女性を描いたことから、不道徳であるとして物議をかもした。また、『オランピア』に描かれた裸体の女性は、部屋の雰囲気や道具立てなどから、明かに当時のフランスの娼婦であることがわかり、それが当時の人々の反感を買った。 |
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この頃、マネが住むバティニョール地区の近くには{{仮リンク|小ポーランド地区|fr|Petite-Pologne (quartier parisien)}}という貧民街があったが、[[ジョルジュ・オスマン]]による[[パリ改造]]の中で{{仮リンク|マルゼルブ大通り|fr|Boulevard Malesherbes}}が縦貫することになり(1861年開通)、古い家屋は取り壊されていった。マネが1861年にアトリエを構えたギュイヨ通り(現{{仮リンク|メデリック通り|fr|Rue Médéric}})もその近くである。友人マルセル・プルーストの回想によれば、マネは、一緒に小ポーランドを通った時、家屋が埃を上げて取り壊されている情景を見て、長い間押し黙って心を奪われていたという。1860年代初頭のマネの作品には、小ポーランド界隈の貧しい人々を描いたと思われる作品が多い<ref>[[#三浦・マネ|三浦 (2018: 128-34)]]。</ref>。 |
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西洋絵画史において裸婦像は数多く描かれてきたが、それらはあくまでもただの「裸婦」ではなく、[[ヴィーナス]]、ディアナなど神話の世界の「女神」たちの姿を描いたものであった。あるいは寝室や浴室など、描かれた女性が裸でいる事が自然なシチュエーションを選んで描いていた。しかし『草上の昼食』は着衣の男性と全裸の女性の組み合わせという明らかに不自然なシチュエーションを選んだ事、そして『オランピア』では娼婦を描いたため、「不道徳」だとされたのである。しかし、マネの絵画の抱える問題は、そのような社会的なものに留まらず、むしろ造形的な問題へと発展する。 |
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[[ファイル:Victorine Louise Meurent (1844 – 1927).jpg|thumb|right|100px|ヴィクトリーヌ・ムーラン。『草上の昼食』や『オランピア』のモデルにもなった。]] |
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マネは他の近代画家の大多数と異なり、古典絵画を非常に尊敬し、その伝統を踏襲しつつ、西洋絵画を解体していった。[[写実主義]]から受け継いだ思想は、マネを「近代」の画家へと導いた。研究が高度に進んだ現代においても、最も謎を残す画家の一人である。なぜ彼がそれまでの伝統を打ち壊し、近代の画家となりえたのか。あるいは彼が描く絵画そのものに隠された謎のモチーフの数々の意味するところは何か(『草上の昼食』における蛙や鳥、『オランピア』における黒猫など)。これらの謎も、マネの大きな魅力の一つでもある。 |
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'''[[1861年]]のサロン'''に、『スペインの歌手』と、両親を描いた『オーギュスト・マネ夫妻の肖像』を応募し、いずれも初入選した。当時のフランスではスペイン趣味が流行しており、マネは、イタリア風の古典的作品に反発する立場から、スペインの写実主義的絵画に傾倒していた。彼は、マドリードの巨匠たちや[[フランス・ハルス]]を思い浮かべながら『スペインの歌手』を描いたと語っている<ref>[[#カシャン|カシャン (2008: 33-36)]]。</ref>。『スペインの歌手』は、サロン会場の人目につかない隅に展示されていたが、[[テオフィル・ゴーティエ]]が絶賛したことから、急に中央の良い場所に移され、優秀賞(佳作)の評価まで受けた<ref>[[#高階・絵画史|高階 (1975: 上75)]]、[[#カシャン|カシャン (2008: 35)]]。</ref>。[[アルフォンス・ルグロ]]、[[アンリ・ファンタン=ラトゥール]]、[[カロリュス=デュラン]]、[[フェリックス・ブラックモン]]など、若いレアリスムの画家たちはこの作品に衝撃を受け、そろってマネの家を訪れた。マネは彼ら画家集団の核となっていった<ref>[[#尾関ほか|尾関ほか (2017: 322-23)]]、[[#リウォルド|リウォルド (2004: 66-67)]]。</ref>。一方、『オーギュスト・マネ夫妻の肖像』については、両親の間に奇妙な冷たさが流れていることから、批評家から、「マネは最も神聖な肉親の絆でさえも土足で踏みにじる」と非難された<ref>[[#吉川|吉川 (2010: 137-38)]]。</ref>。それでも、サロンでの成功を重んじる父に対し、約束を果たすことができた<ref>[[#木村|木村 (2012: 100)]]。</ref>。 |
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同年秋には、イタリアン大通りのルイ・マルティネの画廊で主要作品を展示する展覧会を開いた。この時以来、マルティネ画廊ではマネ作品を取り扱うようになった<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 70)]]。</ref>。 |
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== 交流 == |
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マネは画家仲間のみならず詩人、作家との交流もあり、近代詩人の祖である[[シャルル・ボードレール]]、[[エミール・ゾラ]]、そして[[ステファヌ・マラルメ]]などと深い親交があった。ボードレールは[[エッチング]]、ゾラとマラルメは油彩による肖像画がマネによって描かれている。 |
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[[1862年]]には、[[テュイルリー宮殿]]に隣接する庭園で開かれたコンサートを題材とした『[[テュイルリー公園の音楽会]]』を制作し、テオフィル・ゴーティエ、ボードレール、[[ジャック・オッフェンバック]]、[[ザカリー・アストリュク]]、[[アンリ・ファンタン=ラトゥール]]といった社交界の友人たちをモデルとして登場させた。[[フランス第二帝政|第二帝政]]下の華やかなブルジョワ社会を描いた作品である<ref>[[#吉川|吉川 (2010: 94)]]、[[#カシャン|カシャン (2008: 37-39)]]。</ref>。マネは、1863年、マルティネ画廊での個展に『テュイルリー公園の音楽会』や『ローラ・ド・ヴァランス』を展示したが、輪郭がはっきりした筆遣いや、平面的な色面の処理が奇妙だと捉えられ、激しい非難にさらされた<ref>[[#木村|木村 (2012: 101)]]。</ref>。 |
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[[クロード・モネ]]とは、[[1866年]]のサロンにモネが出品した海景画がマネの作品と間違えられたのをきっかけに交際するようになった。マネは7歳年下の画家が持つ卓越した水の描写力をいち早く見抜き、モネを「水の[[ラファエロ・サンティ|ラファエロ]]」と讃えている。また、[[エドガー・ドガ|ドガ]]に描かれた室内画を「妻の顔が太りすぎている」という理由で一部を破り捨て、その後ドガとは一時険悪な関係になった。しかし、そのけんかも長くは続かず、マネの死後ドガはその作品を数多く購入している。なおこの絵は現在、[[北九州市立美術館]]で見ることが出来る[http://kmma.jp/collect/_dega01/dega0101.html]。 |
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この時期、マネは、内縁の妻シュザンヌをモデルにした『驚くニンフ』や、レオン少年をモデルにした『剣を持つ少年』などを制作している<ref>[[#カシャン|カシャン (2008: 40, 44)]]。</ref>。[[1862年]]にマネの父が亡くなると、[[1863年]]10月、マネはシュザンヌと結婚した<ref>[[#カシャン|カシャン (2008: 42)]]。</ref>。また、この頃知り合った女性[[ヴィクトリーヌ・ムーラン]]にモデルを依頼して、『街の女歌手』、『ヴィクトリーヌ・ムーランの肖像』などを制作している<ref>[[#カシャン|カシャン (2008: 46-47)]]。</ref>。 |
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女性画家[[エヴァ・ゴンザレス]]はマネに師事し、マネ唯一の弟子と言われる。 |
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== 日本の美術館が所蔵する主なマネ作品 == |
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ファイル:Edouard Manet - The Absinthe Drinker - Google Art Project.jpg|『{{仮リンク|アブサンを飲む男|en|The Absinthe Drinker (Manet painting)}}』1859年。油彩、キャンバス、180.5 × 105.6 cm。[[ニイ・カールスベルグ・グリプトテク美術館]]([[コペンハーゲン]])。同年サロン落選<ref>[[#三浦・マネ|三浦 (2018: 173)]]。</ref>。 |
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* サラマンカの学生たち ([[ポーラ美術館]]) 1860年 |
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ファイル:Edouard Manet - Le chanteur espagnol.jpg|『{{仮リンク|スペインの歌手|en|The Spanish Singer}}』1860年。油彩、キャンバス、147.3 × 114.3 cm。[[メトロポリタン美術館]]<ref>{{Cite web |url=https://www.metmuseum.org/art/collection/search/436944 |title=The Spanish Singer |publisher=The Metropolitan Museum of Art |accessdate=2017-11-05}}</ref>。1861年サロン入選<ref name="#3">[[#三浦・マネ|三浦 (2018: 173-74)]]。</ref>。 |
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* 腕白小僧・犬と少年 ([[茨城県近代美術館]]) 1868~74年 |
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ファイル:Edouard Manet 077.jpg|『{{仮リンク|オーギュスト・マネ夫妻の肖像|fr|Portrait de M. et Mme Auguste Manet}}』1860年。油彩、キャンバス、135 × 115 cm。[[オルセー美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.musee-orsay.fr/en/collections/index-of-works/notice.html?no_cache=1&nnumid=009990&cHash=b4576a8374 |title=Monsieur et Madame Auguste Manet |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2017-11-05}}</ref>。1861年サロン入選<ref name="#3"/>。 |
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* バラ色のくつ([[ベルト・モリゾ]]) ([[ひろしま美術館]]) 1872年 |
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ファイル:Edouard Manet Die ueberraschte Nymphe.jpg|『{{仮リンク|驚くニンフ|en|La Nymphe surprise}}』1860-1861年。油彩、キャンバス、146 × 114 cm。[[ブエノスアイレス国立美術館]]。 |
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* オペラ座の仮面舞踏会 ([[ブリヂストン美術館]]) 1873年 |
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ファイル:Édouard Manet - L'Enfant à l'épée.jpg|『{{仮リンク|剣を持つ少年|en|Boy Carrying a Sword}}』1861年。油彩、キャンバス、131.1 × 93.4 cm。メトロポリタン美術館<ref>{{Cite web |url=https://www.metmuseum.org/art/collection/search/436948 |title=Boy with a Sword |publisher=The Metropolitan Museum of Art |accessdate=2017-11-06}}</ref>。 |
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* 花の中の子ども ([[国立西洋美術館]]) 1876年 |
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ファイル:MANET - Música en las Tullerías (National Gallery, Londres, 1862).jpg|『[[テュイルリー公園の音楽会]]』1862年。油彩、キャンバス、76.2 × 118.1 cm。[[ナショナル・ギャラリー (ロンドン)|ナショナル・ギャラリー]]([[ロンドン]])<ref>{{Cite web |url=http://www.nationalgallery.org.uk/paintings/edouard-manet-music-in-the-tuileries-gardens |title=Music in the Tuileries Gardens |publisher=The National Gallery |accessdate=2017-11-06}}</ref>。 |
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* 自画像 (ブリヂストン美術館) 1878~79年 |
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ファイル:Manet, Edouard - Lola de Valence.jpg|『{{仮リンク|ローラ・ド・ヴァランス|fr|Lola de Valence}}』1862年。油彩、キャンバス、123 × 92 cm。オルセー美術館<ref>{{Cite web |url=http://www.musee-orsay.fr/en/collections/index-of-works/notice.html?no_cache=1&zsz=5&lnum=&nnumid=710 |title=Lola de Valence |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2017-11-08}}</ref>。 |
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:*[[肖像画]]を得意としたマネだったが、自画像は生涯2点しか描かなかったうちの1枚。ちなみにもう一枚は「パレットを持った自画像」(個人蔵、1879年)。 |
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ファイル:Édouard Manet - Le Vieux Musicien.jpg|『[[老音楽師]]』1862年。油彩、キャンバス、187.4 × 248.2 cm。[[ナショナル・ギャラリー (ワシントン)|ナショナル・ギャラリー]]([[ワシントンD.C.]])<ref>{{Cite web |url=https://www.nga.gov/Collection/art-object-page.46637.html |title=The Old Musician |publisher=National Gallery of Art |accessdate=2017-11-08}}</ref>。 |
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* ブラン氏の肖像 (国立西洋美術館) 1879年 |
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ファイル:Edouard Manet - Street Singer - Google Art Project.jpg|『街の女歌手』1862年頃。油彩、キャンバス、171.1 × 105.8 cm。[[ボストン美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.mfa.org/collections/object/street-singer-33971 |title=Street Singer |publisher=Museum of Fine Arts, Boston |accessdate=2017-11-08}}</ref>。 |
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* スペインの舞踏家 ([[村内美術館]]) 1879年 |
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ファイル:Edouard Manet 088.jpg|『{{仮リンク|ヴィクトリーヌ・ムーランの肖像|fr|Portrait de Victorine Meurent}}』1862年頃。油彩、キャンバス、42.9 × 43.8 cm。ボストン美術館<ref>{{Cite web |url=http://www.mfa.org/collections/object/victorine-meurent-32976 |title=Victorine Meurent |publisher=Museum of Fine Arts, Boston |accessdate=2017-11-08}}</ref>。 |
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* ベンチにて (ポーラ美術館) 1879年 |
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* 散歩 ([[東京富士美術館]]) 1880年 |
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* 黒い帽子のマルタン夫人 ([[メナード美術館]]) 1881年 |
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=== 絵画界のスキャンダル(1860年代半ば) === |
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* 薄布のある帽子をかぶる女 ([[大原美術館]]) 1881年 |
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==== 『草上の昼食』 ==== |
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* メリー・ローラン (ブリヂストン美術館) 1882年 |
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[[ファイル:1863 Alexandre Cabanel - The Birth of Venus.jpg|thumb|left|『草上の昼食』が落選したのと同じ1863年のサロンで絶賛を浴びた[[アレクサンドル・カバネル]]『[[ヴィーナスの誕生 (カバネル)|ヴィーナスの誕生]]』<ref>油彩、キャンバス、177 × 272.5 cm。[[オルセー美術館]]。{{Cite web |url=http://www.musee-orsay.fr/en/collections/index-of-works/notice.html?no_cache=1&nnumid=000098&cHash=ea1d63f48e |title=Naissance de Vénus |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2017-11-08}}</ref>。]] |
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* 灰色の羽根帽子の夫人 (ひろしま美術館) 1882年 |
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マネは、'''[[1863年]]のサロン'''に応募したが、落選した。この年のサロンの審査は例年に比べ非常に厳しく、落選者の不満が高まった。これを懸念した[[ナポレオン3世]]が、サロンと並行して、サロン落選作で構成する'''[[落選展]]'''を開催することを命じた<ref>[[#吉川|吉川 (2010: 55)]]。</ref>。マネの『水浴』(後に『[[草上の昼食]]』と改題)、『マホの衣装を着けた若者』、『エスパダの衣装を着けたヴィクトリーヌ・ムーラン』も落選展に展示された<ref>[[#カシャン|カシャン (2008: 52)]]。</ref><ref group="注釈">落選展に展示されたこの3作品は、『水浴』(『草上の昼食』)を中央にスペイン趣味の仮装人物画2点を組み合わせた三連画ないし三幅対であるとの指摘がある([[#三浦・マネ|三浦 (2018: 95-96)]])。</ref>。ところが、特に『草上の昼食』は、批評家たちから酷評と嘲笑を浴び、一大スキャンダルとなった。当時、裸婦を描くこと自体は珍しいものではなく、実際、この年のサロンで賞賛された[[アレクサンドル・カバネル]]の『[[ヴィーナスの誕生 (カバネル)|ヴィーナスの誕生]]』は、官能的な裸婦を描いているが、現実ではなく神話の世界を描いたものであるため、良識に反することはなかった。また、マネが発想源としたティツィアーノの『[[田園の奏楽]]』でも、裸のニンフと着衣の男性が描かれている。しかし、『草上の昼食』の裸婦は、パリの現実の女性が着衣の男性と談笑するというもので、風紀に反すると考えられた。裸婦の周りに、果物などの食べ物や、脱いだ後の流行のドレスが描かれることによって、裸婦がニンフなどではなく現実の女性であることが露骨に強調されることになった<ref>[[#吉川|吉川 (2010: 57-67)]]、[[#カシャン|カシャン (2008: 54-55)]]。</ref>。当時の鑑賞者は、この作品から、社会の陰の部分である[[売春]]の世界を読み取った<ref>[[#木村|木村 (2012: 103)]]。</ref>。批評家{{仮リンク|エルネスト・シェノー|fr|Ernest Chesneau}}は、「デッサンと遠近法を学べば、マネも才能を手に入れることができるだろう」と、描き方の稚拙さを指摘するとともに、「ベレー帽をかぶり短いコートを着た学生たちにかこまれ、葉の影しか身にまとっていない娘を木々の下に座らせている絵が、申し分なく清純な作品だとは思えない。[中略]彼は俗悪な趣味の持ち主だ。」と、テーマ自体を厳しく批判した<ref>[[#カシャン|カシャン (2008: 52-53)]]。</ref>。 |
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[[ファイル:Edouard Manet At the Café Guerbois.jpg|thumb|right|マネ『カフェにて』([[リトグラフ]])。カフェ・ゲルボワの様子と思われる<ref>[[#カシャン|カシャン (2008: 97)]]。</ref>。]] |
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[[1864年]]、[[バティニョール大通り]]34番地に引っ越した<ref name="#2"/>。マネは、自由奔放な私生活を送っており、以前から、[[イタリアン大通り]]の{{仮リンク|カフェ・トルトーニ (パリ)|fr|Café Tortoni de Paris|label=カフェ・トルトーニ}}や、カフェ・ド・バードに足繁く通っていたが、バティニョール大通りに移った頃から、[[カフェ・ゲルボワ]]に足を運ぶようになったと思われる。カフェ・ゲルボワのマネの周りには、次第に美術家や文学者が集まり始めた。その中には、詩人の[[ザカリー・アストリュク]]、中学時代・クチュール画塾時代からの友人アントナン・プルースト、写真家[[ナダール]]、批評家[[ルイ・エドモン・デュランティ]]、[[テオドール・デュレ]]、[[フィリップ・ビュルティ]]、画家[[アンリ・ファンタン=ラトゥール]]、[[アントワーヌ・ギユメ]]、版画家[[マルスラン・デブータン]]などがいた<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 15-18)]]。</ref>。 |
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作家の{{仮リンク|アルマン・シルヴェストル|fr|Armand Silvestre}}は、カフェ・ゲルボワでのマネについて、次のように描写している<ref>[[#デンヴァー|デンヴァー編 (1991: 70-78)]]。</ref>。 |
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{{Quotation|この革命家{{Interp|中略}}は完璧な紳士のマナーをもっていた。しばしば派手なズボンをはき、ショート・ジャケットを着て、つばの平らな帽子を後頭部にかぶり、いつも汚れひとつない[[スエード]]の手袋をはめているので、マネは[[ボヘミアニズム|ボヘミアン]]のようには見えなかったし、実際、彼にはボヘミアンらしいところは少しもなかったのである。彼は一種のダンディーだった。{{Interp|中略}}彼はとても寛大で親切であったけれども、会話ではわざと皮肉でしばしば毒をふくんでいた。ひとを打ちのめす痛烈な言い回しをすばらしく流暢にあやつった。しかし同時に彼の言葉づかいは好意に満ちていて、そこに込められた考えはまったく正しかった。|アルマン・シルヴェストル|『回想の国で』(1892年)}} |
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== ギャラリー == |
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ファイル:Jeune Homme en costume de majo (1863) - Edouard Manet (MET, New York).jpg|『{{仮リンク|マホの衣装を着けた若者|fr|Jeune homme en costume de majo}}』1863年。油彩、キャンバス、188 × 124.8 cm。メトロポリタン美術館<ref>{{Cite web |url=https://www.metmuseum.org/art/collection/search/438819 |title=Young Man in the Costume of a Majo |publisher=The Metropolitan Museum of Art |accessdate=2017-11-08}}</ref>。1863年サロン落選、落選展展示<ref name="#4">[[#三浦・マネ|三浦 (2018: 174)]]。</ref>。 |
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画像:Edouard Manet Music in the Tuileries 1862.jpg|テュイルリーの音楽会(1862) |
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ファイル:Édouard Manet - Le Déjeuner sur l'herbe.jpg|『[[草上の昼食]]』(当初の題は『水浴』)1863年。油彩、キャンバス、207 × 265 cm。[[オルセー美術館]]。1863年サロン落選、落選展展示<ref>{{Cite web |url=http://www.musee-orsay.fr/en/collections/index-of-works/notice.html?no_cache=1&nnumid=000904&cHash=0ac4f8868a |title=Le déjeuner sur l'herbe |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2017-11-08}}</ref>。 |
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画像:Manet, Edouard - Young Flautist, or The Fifer, 1866 (2).jpg|[[笛を吹く少年]](1866) |
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ファイル:Edouard Manet - Mlle Victorine Meurent in the Costume of an Espada.JPG|『{{仮リンク|エスパダの衣装を着けたヴィクトリーヌ・ムーラン|fr|Mlle V. en costume d'espada}}』1862年。油彩、キャンバス、165.1 × 127.6 cm。[[メトロポリタン美術館]]<ref>{{Cite web |url=https://www.metmuseum.org/art/collection/search/436945 |title=Mademoiselle V... in the Costume of an Espada |publisher=The Metropolitan Museum of Art |accessdate=2017-11-08}}</ref>。1863年サロン落選、落選展展示<ref name="#4"/>。 |
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画像:Edouard Manet 022.jpg|[[皇帝マキシミリアンの処刑]](1867) |
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ファイル:Édouard Manet - Le Christ mort et les anges.jpg|『死せるキリストと天使たち』1864年。油彩、キャンバス、179.4 × 149.9 cm。メトロポリタン美術館<ref>{{Cite web |url=https://www.metmuseum.org/art/collection/search/436950 |title=The Dead Christ with Angels |publisher=The Metropolitan Museum of Art |accessdate=2017-11-08}}</ref>。1864年サロン入選<ref name="#4"/>。 |
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画像:Edouard Manet 049.jpg|[[エミール・ゾラの肖像|エミール・ゾラ]](1868) |
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画像:Edouard Manet 016.jpg|バルコニー(1868) |
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画像:Edouard Manet 040.jpg|[[すみれの花束をつけたベルト・モリゾ|ベルト・モリゾ]](1872) |
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画像:Edouard Manet 003.jpg|アルジャントゥイユ(1874) |
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画像:Portrait of Stéphane Mallarmé (Manet).jpg|[[ステファヌ・マラルメ]](1876) |
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画像:Edouard Manet 037.jpg|ナナ(1877) |
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画像:Edouard Manet 031.jpg|ラテュイユ親父の店にて(1879) |
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画像:Édouard Manet - Portrait of George Clemeceau.jpg|[[ジョルジュ・クレマンソー]](1880) |
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画像:Edouard Manet 004.jpg|[[フォリー・ベルジェールのバー]](1882) |
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==== 『オランピア』 ==== |
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== 関連項目 == |
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'''1864年のサロン'''には、『死せるキリストと天使たち』とスペインの闘牛の絵を提出し、入選した。ボードレールは、審査委員であった友人に、マネの作品を良い場所にかけてくれるように依頼したり、マネがゴヤやベラスケスを模倣しているとの批判的意見に反論したりしている。しかし、批判は強く、マネはこれに落胆し、闘牛の絵を切断して二つの部分だけを残した<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 103-04)]]。</ref>。 |
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'''作品''' |
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*[[草上の昼食]] |
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*[[オランピア (絵画)|オランピア]] |
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*[[笛を吹く少年]] |
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*[[皇帝マキシミリアンの処刑]] |
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*[[エミール・ゾラの肖像]] |
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*[[すみれの花束をつけたベルト・モリゾ]] |
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*[[フォリー・ベルジェールのバー]] |
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'''絵画技法''' |
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*[[印象派]] |
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'''その他''' |
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*[[トリビアの泉]]([[クロード・モネ|モネ]]と勘違いされ絶賛されたことがあるエピソードが紹介された) |
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[[ファイル:Tiziano - Venere di Urbino - Google Art Project.jpg|thumb|left|140px|『[[オランピア (絵画)|オランピア]]』の参照源となった[[ティツィアーノ・ヴェチェッリオ|ティツィアーノ]]の『[[ウルビーノのヴィーナス]]』]] |
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== 参考資料・画集 == |
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マネは、'''[[1865年]]のサロン'''に、ヴィクトリーヌをモデルとした『[[オランピア (絵画)|オランピア]]』を出品し、入選した。ところが、この作品は、『草上の昼食』以上のスキャンダルを巻き起こした。裸婦がベッドに寝そべる構図は、ティツィアーノの『ウルビーノのヴィーナス』を発想源としていたが、マネの作品は、ヴィーナスとは程遠い、パリの娼婦を描くものであることが明らかであった。表題の「オランピア」とは、娼婦(ドゥミ・モンデーヌ)の源氏名として広く使われる名前であったし、黒人のメイドは娼館に多かった。メイドが運ぶ花束は、前夜の客から贈られたものである。『ウルビーノのヴィーナス』に描かれていた犬は忠誠・貞節のシンボルだが、マネが描き入れた黒猫は、性的なイメージを暗示するものと受け止められた。マネは、急速に近代化が進むパリのブルジョワ社会の暗部を赤裸々に描き出したのであった<ref>[[#吉川|吉川 (2010: 84-87)]]、[[#カシャン|カシャン (2008: 60-63)]]、[[#木村|木村 (2012: 104-05)]]。</ref>。 |
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{{参照方法|date=2012年12月}} |
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* [[高橋明也]] 『もっと知りたいマネ 生涯と作品』 [[東京美術]]〈アート・ビギナーズ・コレクション〉、2010年 ISBN 978-4-8087-0867-2 |
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なお、この時のサロンで、[[クロード・モネ]]が海景画2点を提出し、アルファベット順でマネと同じ部屋に並べられていたが、この海景画を見た人が、名前の似たマネの作品と誤解し、マネに祝福の言葉をかけた。マネは、自分の名前を悪用して名を売ろうとする画家がいると思い、憤慨したという<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 19)]]、[[#カシャン|カシャン (2008: 97-98)]]。</ref><ref group="注釈">モネが1900年に雑誌「ル・タン(現代)」のインタビューで語ったエピソードである。モネは、インタビューで、1866年のこととして述べているが([[#デンヴァー|デンヴァー (1991: 32-34)]])、記憶違いと思われる([[#島田・挑戦|島田 (2009: 19)]])。</ref>。 |
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* アントナン・プルースト著/野村太郎訳 『マネの思い出』 美術公論社、1983年 |
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* アンリ・ペリュシュ著/[[河盛好蔵]]・市川慎一訳 『マネの生涯』 [[講談社]]、1983年 |
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[[ファイル:Pablo de Valladolid, por Diego Velázquez.jpg|thumb|right|100px|スペイン旅行で影響を受けた[[ディエゴ・ベラスケス|ベラスケス]]による肖像画<ref group="注釈">ベラスケス『道化師パブロ・デ・ヴァリャドリード』(当時の表題『フェリペ4世の時代のある有名な俳優の肖像』)1635年頃。油彩、キャンバス、209 × 123 cm。[[プラド美術館]]。{{Cite web |url=https://www.museodelprado.es/coleccion/obra-de-arte/pablo-de-valladolid/774285f3-fb64-4b00-96a9-df799ab10222 |title=Pablo de Valladolid |publisher=Museo Nacional del Prado |accessdate=2017-11-17}}</ref>。]] |
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マネは、『オランピア』への批判に意気消沈し、[[ブリュッセル]]にいたボードレールに宛てて、「あなたがここにいてくださったら、と思います。ぼくの上には、罵詈雑言が雨あられと降っています。」と書き送り、ボードレールから励ましを受けている<ref>[[#カシャン|カシャン (2008: 65)]]。</ref>。マネは、物議に辟易し、8月から[[スペイン]]に旅行をした。[[マドリード]]の王立美術館(現[[プラド美術館]])でベラスケスを中心とするスペイン絵画に触れ、友人ファンタン=ラトゥールに、「ベラスケスを観るだけでも旅に出る意味がある。」と書き送っている<ref>[[#高橋|高橋 (2010: 23)]]。</ref>。また、マネは、「これらの素晴らしい作品の中で最も驚くべき作品、おそらくこれまでに描かれた最も驚くべき絵画作品は、フェリーペ四世の時代のある有名な俳優の肖像と目録に記載されている絵だ。背景が消えている。黒一色の服を着て生き生きとしたこの男を取り囲んでいるのは空気なのだ。」と書いている<ref>[[#三浦・謎|三浦 (2012: 18-19)]]、[[#デンヴァー|デンヴァー編 (1991: 28-29)]]。</ref>。この旅の中で、批評家[[テオドール・デュレ]]と知り合い、親友となった<ref>[[#カシャン|カシャン (2008: 135-37)]]。</ref>。 |
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ファイル:Edouard Manet - Olympia - Google Art Project 3.jpg|『[[オランピア (絵画)|オランピア]]』1863年。130.5 × 191 cm。オルセー美術館<ref>{{Cite web |url=http://www.musee-orsay.fr/en/collections/index-of-works/notice.html?no_cache=1&nnumid=000712&cHash=3ebae2ac84 |title=Olympia |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2017-11-08}}</ref>。1865年サロン入選<ref>[[#三浦・マネ|三浦 (2018: 176)]]。</ref>。 |
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ファイル:Edouard Manet 073 (Toter Torero).jpg|『{{仮リンク|死せる闘牛士|fr|L'Homme mort}}』1864年? 油彩、キャンバス、75.9 ×153.3 cm。[[ナショナル・ギャラリー (ワシントン)|ナショナル・ギャラリー]]([[ワシントンD.C.]])<ref>{{Cite web |url=https://www.nga.gov/Collection/art-object-page.1179.html |title=The Dead Toreador |publisher=National Gallery of Art |accessdate=2017-11-08}}</ref>。1864年サロン入選作『闘牛のエピソード』をマネ自身が上下に分断した下部<ref name="#4"/>。 |
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ファイル:Edouard Manet 056.jpg|『[[キアサージ号とアラバマ号の海戦]]』1864年。油彩、キャンバス、137.8 × 128.9 cm。[[フィラデルフィア美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.philamuseum.org/collections/permanent/101707.html |title=The Battle of the U.S.S. "Kearsarge" and the C.S.S. "Alabama" |publisher=Philadelphia Museum of Art |accessdate=2017-11-11}}</ref>。1872年サロン入選<ref name="#5">[[#三浦・マネ|三浦 (2018: 181)]]。</ref>。 |
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</gallery> |
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=== バティニョール派の形成(1860年代後半) === |
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[[ファイル:Plaque Manet2.jpg|thumb|left|150px|サン=ペテルスブール通り4番地のマネが住んでいた家。]] |
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[[ファイル:Manet par Fantin-Latour.jpg|thumb|right|160px|[[アンリ・ファンタン=ラトゥール]]によるマネの肖像画(1867年)<ref>油彩、キャンバス、117.5 × 90 cm。[[シカゴ美術館]]。{{Cite web |url=http://www.artic.edu/aic/collections/artwork/87467 |title=Édouard Manet, 1867 |publisher=Art Institute of Chicago |accessdate=2017-11-05}}</ref>。]] |
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マネは、[[1866年]]、[[サン=ラザール駅]]近くの[[サン=ペテルスブール通り]]に住居を移し、死去までこの通りに住んだ<ref name="#2"/>。 |
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マネは、'''1866年のサロン'''に『[[笛を吹く少年]]』を提出したが、落選した。この作品は、スペイン旅行でベラスケスに学んだ単純で平坦な背景処理を実践したものであった<ref>[[#高橋|高橋 (2010: 29)]]。</ref>。駆け出しの作家だった[[エミール・ゾラ]]が、この年の春、画家[[アントワーヌ・ギユメ]]の紹介でマネのアトリエを訪れ、マネに心酔するようになった。ゾラは、『レヴェヌマン』紙で、サロンで落選した『笛を吹く少年』について、「私はこれほどまでに複雑でない方法で、これ以上力強い効果を得ることはできないように思う。」とマネを強く擁護した<ref>[[#カシャン|カシャン (2008: 72)]]。</ref>。 |
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[[1867年]]の[[パリ万国博覧会 (1867年)|パリ万国博覧会]]では、[[ジャン=レオン・ジェローム]]やカバネルのような[[アカデミズム絵画]]のほか、[[ジャン=バティスト・カミーユ・コロー]]、[[ジャン=フランソワ・ミレー]]のような[[バルビゾン派]]の作品が展示されたが、マネの作品は展示されなかった。そこで、マネは、展覧会場から遠くない[[アルマ橋]]付近に、多額の費用をかけてパビリオンを建て<ref group="注釈">費用は1万8000フランで、高級官僚の年収1年分に相当した。マネの母親が費用を出した([[#木村|木村 (2012: 108)]])。</ref>、10年近くにわたる主要作品50点を展示する個展を開いた。マネは、ゾラに宛てて、「私は危険な賭けをしようとしていますが、あなたのような人びとの助けがあるので成功を確信しています。」と書いている。しかし、賞賛した批評家もわずかにいたものの、マネが期待したような社会的評価は得られなかった。ただ、マネの傑作全てを一堂に見られる充実した内容であり、これを見た若い画家たちは大きな影響を受けた<ref>[[#カシャン|カシャン (2008: 86-88)]]。</ref>。モネや[[フレデリック・バジール]]が、サロンに頼らずに自分たちのグループ展を計画するきっかけにもなった<ref>[[#木村|木村 (2012: 107-08)]]。</ref>。マネは、自分の作品についてほとんど文章を残していないが、個展に際しての「趣意書」の中では、次のように書いている<ref>[[#吉川|吉川 (2010: 144)]]。</ref>。 |
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{{Quotation|今日、芸術家{{Interp|マネ}}は、「欠点のない作品を見に来てくれ」とは言わず、「真摯な作品を見に来てくれ」と言う。この真摯さゆえに、画家はひたすら自分の印象を描いているにもかかわらず、作品は図らずも抗議の色合いを帯びてしまうのである。マネは抗議しようとしたことなど断じてない。{{Interp|中略}}彼は他の誰でもなく自分自身であろうと努めたに過ぎない。|マネ<ref group="注釈">[[#デンヴァー|デンヴァー編 (1991: 34-35)]]は、[[ザカリー・アストリュク]]の文章とする。</ref>|趣意書}} |
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ゾラは、1867年、『レヴェヌマン』紙の記事を発展させて小冊子「マネ論」を発表し、マネの個展の中で販売した。ゾラは、その中で、次のように書いている。これは、絵画は純粋に色彩と形態を追求するものだというモダン・アートの先駆けとなる考え方であった<ref>[[#吉川|吉川 (2010: 123-24)]]。</ref>。 |
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{{Quotation|いかなる対象を前にしても画家{{Interp|マネ}}は対象の様々な色調を識別する自らの眼に従う。それは、壁を背に立つ人物の顔は灰色の地に塗られた白っぽい円に過ぎず、顔の横に見える洋服は青みがかった色斑でしかない、といった具合なのだ。{{Interp|中略}}多くの画家たちは絵画で思想を表現しようと躍起になるが、この馬鹿げた過ちを彼は決して犯さない。{{Interp|中略}}複数のオブジェや人物を描く対象として選択するときの彼の方針は、自在な筆捌きによって色調の美しい煌きを創り出せるか否かということだけだ。|[[エミール・ゾラ]]|「マネ論」}} |
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[[ファイル:Henri Fantin-Latour - A Studio at Les Batignolles - Google Art Project.jpg|thumb|right|180px|[[アンリ・ファンタン=ラトゥール]]『バティニョールのアトリエ』1870年。[[ザカリー・アストリュク|アストリュク]]をモデルに絵筆を持つマネを、[[ピエール=オーギュスト・ルノワール|ルノワール]]、[[フレデリック・バジール|バジール]]、[[エミール・ゾラ|ゾラ]]、[[クロード・モネ|モネ]]らが囲んでいる<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 23)]]。</ref>。]] |
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マネは、ゾラの応援に意を強くし、'''[[1868年]]のサロン'''にはゾラの肖像を出品している。その画中の机の上には、青い表紙の「マネ論」小冊子が描かれている<ref>[[#カシャン|カシャン (2008: 74)]]。</ref>。 |
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1860年代後半には、[[クロード・モネ]]も、アストリュクの紹介でマネと知り合った。ゾラやモネのほか、[[ピエール=オーギュスト・ルノワール]]、[[フレデリック・バジール]]、[[カミーユ・ピサロ]]など、[[アカデミー・シュイス]]や[[シャルル・グレール]]画塾を中心として集まった若手画家たちも、カフェ・ゲルボワに顔を出すようになった。こうした若手画家たちは、「バティニョール派」と呼ばれるようになった。ファンタン=ラトゥールが描いた『バティニョールのアトリエ』には、マネを中心とする若手画家たちの集まりが描かれている<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 21-23)]]。</ref>。1868年には、ファンタン=ラトゥールを通じて、女性画家[[ベルト・モリゾ]]とその姉{{仮リンク|エドマ・モリゾ|en|Edma Morisot}}と知り合った。ベルト・モリゾは、マネの作品のモデルを務めるようになる<ref>[[#木村|木村 (2012: 111)]]。</ref>。[[1869年]]2月には、[[エヴァ・ゴンザレス]]がマネのアトリエに弟子入りした<ref name="Eva" />。 |
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[[ファイル:Edgar Degas - Monsieur et Madame Edouard Manet.jpg|thumb|left|160px|ドガ『マネとマネ夫人』1868-69年頃<ref group="注釈">油彩、キャンバス、65 × 71 cm。[[北九州市立美術館]]。</ref>。マネが切断し、怒ったドガが描き直すためにキャンバスを右側に継ぎ足したが、結局描かれないまま終わった<ref>[[#カシャン|カシャン (2008: 105)]]。</ref>。]] |
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[[エドガー・ドガ]]とは、ルーヴル美術館で模写をしている時に知り合って親しくなったが、ドガがカフェ・ゲルボワに出入りするようになったのは1868年春頃からである。2人は、互いに敬意を持ちながらも、遠慮なく辛辣な言葉の応酬を繰り返す関係だった<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 22)]]、[[#カシャン|カシャン (2008: 104-05)]]。</ref>。ドガが、ピアノを弾くシュザンヌとマネを描いた作品を贈ったが、マネは、妻の姿が気に入らず、絵を切断してしまった。ドガは、その絵をマネの家で目にして激怒し、マネからもらった静物画をマネに送り返した。ドガは、晩年、画商[[アンブロワーズ・ヴォラール]]から、「でも、その後マネと仲直りしましたよね」と聞かれると、「マネと仲違いしたままでいられるはずはないよ!」と答えている<ref>[[#カシャン|カシャン (2008: 104-05)]]、[[#高橋|高橋 (2010: 53)]]、[[#ロワレット|ロワレット (2012: 50-52)]]。</ref>。 |
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マネは、1867年にフランスが擁立していたメキシコ皇帝[[マクシミリアン (メキシコ皇帝)|マクシミリアン]]が銃殺された事件を題材に、『[[皇帝マキシミリアンの処刑]]』の油彩画3点と石版画1点を制作していたが、1869年1月、内務省から、[[検閲]]により絵画がサロンに受け入れられないこと、石版画の印刷が禁止されることを通知された。ゾラは、『ラ・トリビューヌ』紙に、この検閲を批判する記事を載せた<ref>[[#デンヴァー|デンヴァー編 (1991: 40-41)]]。</ref>。 |
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'''[[1869年]]のサロン'''には、『[[バルコニー (マネの絵画)|バルコニー]]』と『アトリエでの昼食』が入選した。『バルコニー』には、[[ベルト・モリゾ]]がモデルとして登場している。左手前を見つめるモリゾを含め、3人の人物はぎこちなく、視線は虚ろで、かみ合っていない。モリゾは、サロン会場で見たこの作品について、「マネの作品は、いつものことですが、熟していない硬い果実のような印象を醸し出しています……『バルコニー』に描かれた私は醜いというよりも奇妙です。」と書いている。批評家たちは、登場人物が何を考えているのか不明瞭で、静物画のようだと言ってけなした。しかし、現在では、近代の人間の中に存在する無関心を描き出すことこそがマネの本質であったと評されている<ref>[[#吉川|吉川 (2010: 111-19)]]、[[#木村|木村 (2012: 112)]]。</ref>。 |
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マネは、機知に富んだ言葉で相手をやっつけようとするところがあり、[[1870年]]には、[[エドモン・デュランティ]]と口論の末、剣で[[決闘]]をするという出来事もあった。2人は、大きな怪我はなく、その日の夜には和解した<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 162)]]。</ref>。 |
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[[フランス第二帝政|第二帝政]]下最後のサロンとなった'''1870年のサロン'''には、『エヴァ・ゴンザレスの肖像』を提出したが、保守派の批評家{{仮リンク|アルベール・ヴォルフ (ジャーナリスト)|en|Albert Wolff (journalist)|label=アルベール・ヴォルフ}}は、「油彩で描かれた醜い平坦なカリカチュア」、「注目を引くためだけのお粗末な絵」とこき下ろした。他方、[[テオドール・デュレ]]やエドモン・デュランティは、マネを擁護する論評を書いた<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 190)]]。</ref>。 |
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ファイル:Manet, Edouard - Young Flautist, or The Fifer, 1866 (2).jpg|『[[笛を吹く少年]]』1866年。油彩、キャンバス、160.5 × 97 cm。[[オルセー美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.musee-orsay.fr/en/collections/index-of-works/notice.html?no_cache=1&nnumid=000709&cHash=eb006f298d |title=Le fifre |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2017-11-08}}</ref>。1866年サロン落選<ref>[[#三浦・マネ|三浦 (2018: 177)]]。</ref>。 |
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ファイル:Edouard Manet 053.jpg|『{{仮リンク|ロンシャンの競馬場|en|The Races at Longchamp}}』1866年。油彩、キャンバス、44 × 84.2 cm。[[シカゴ美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.artic.edu/aic/collections/artwork/81533 |title=The Races at Longchamp, 1866 |publisher=Art Institute of Chicago |accessdate=2017-11-09}}</ref>。 |
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ファイル:Manet - Blick auf die Weltausstellung von 1867.jpg|『1867年のパリ万国博覧会の光景』1867年。油彩、キャンバス、108 × 196 cm。[[オスロ国立美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://samling.nasjonalmuseet.no/en/object/NG.M.01293 |title=View of the 1867 Exposition Universelle |publisher=Nasjonalmuseet |accessdate=2019-04-27}}</ref>。 |
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ファイル:Edouard Manet 049.jpg|『[[エミール・ゾラの肖像]]』1868年。油彩、キャンバス、146 × 114 cm。オルセー美術館<ref>{{Cite web |url=http://www.musee-orsay.fr/en/collections/index-of-works/notice.html?no_cache=1&nnumid=000713&cHash=6aa6b1d647 |title=Emile Zola |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2017-11-08}}</ref>。1868年サロン入選<ref>[[#三浦・マネ|三浦 (2018: 178)]]。</ref>。 |
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ファイル:Edouard Manet 022.jpg|『[[皇帝マキシミリアンの処刑]]』1868年。油彩、キャンバス、252 × 305 cm。[[マンハイム市立美術館]]。 |
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ファイル:Edouard Manet 025.jpg|『{{仮リンク|アトリエでの昼食|en|Luncheon in the Studio}}』1868年。油彩、キャンバス、118 × 153.9 cm。[[ノイエ・ピナコテーク]]。1869年サロン入選<ref name="#6">[[#三浦・マネ|三浦 (2018: 180)]]。</ref>。 |
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ファイル:Edouard Manet - The Balcony - Google Art Project.jpg|『[[バルコニー (マネの絵画)|バルコニー]]』1868-69年。油彩、キャンバス、170 × 125 cm。[[オルセー美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.musee-orsay.fr/en/collections/index-of-works/notice.html?no_cache=1&nnumid=000707 |title=Le balcon |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2017-11-09}}</ref>。1869年サロン入選<ref name="#6"/>。 |
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ファイル:Edouard Manet 091.jpg|『{{仮リンク|フォークストンの汽船の出航|fr|Le Départ du vapeur de Folkestone}}』1869年。油彩、キャンバス、63 × 73.5 cm。[[フィラデルフィア美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.philamuseum.org/collections/permanent/59193.html?mulR=1569835165 |title=The Folkestone Boat, Boulogne |publisher=Philadelphia Museum of Art |accessdate=2017-11-09}}</ref>。 |
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ファイル:Edouard Manet 041.jpg|『エヴァ・ゴンザレスの肖像』1870年。油彩、キャンバス、191.1 × 133.4 cm。[[ナショナル・ギャラリー (ロンドン)|ナショナル・ギャラリー]]([[ロンドン]])。1870年サロン入選<ref name="Eva">{{Cite web |url=https://www.nationalgallery.org.uk/paintings/edouard-manet-eva-gonzales |title=Eva Gonzalès |publisher=The National Gallery |accessdate=2017-11-15}}</ref><ref name="#5"/>。 |
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</gallery> |
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=== 第三共和政のパリ(1870年代) === |
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==== 普仏戦争から1870年代初頭 ==== |
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[[1870年]]7月、[[普仏戦争]]が勃発し、[[ナポレオン3世]]は9月に[[スダン]]で[[プロイセン王国|プロイセン]]軍に降伏した。マネは、プロイセン軍のパリ侵攻に備えて、家族を[[ピレネー山脈]]の[[オロロン=サント=マリー]]に疎開させた。11月、国民軍に[[中尉]]として入隊し、首都防衛戦に加わったが<ref group="注釈">マネは、ドガとともに砲兵隊に志願した。戦争中のパリは、飢餓と流行病が蔓延し、マネは、妻に、人々が猫、犬、ネズミを食べており、運が良い人は馬の肉を手に入れていると、パリの惨状を書き送っている([[#リウォルド|リウォルド (2004: 197)]])。</ref>、[[1871年]]1月、フランス軍はパリを包囲していたプロイセン軍に降伏し、開城した。マネは、2月、パリを去り、疎開していた家族と合流してパリに帰ろうとしたが、3月のパリ蜂起、[[パリ・コミューン]]成立と引き続く内戦によって足止めされ、5月の「血の1週間」でパリ・コミューンが鎮圧された頃にパリに戻ったと思われる。[[ベルト・モリゾ]]の弟が、戦闘中のパリでマネとドガの2人連れを目撃したという記録がある<ref>[[#高橋|高橋 (2010: 32-33, 44-45)]]、[[#島田・挑戦|島田 (2009: 43-44)]]。</ref>。 |
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普仏戦争とパリ・コミューンの混乱が終息すると、[[ロンドン]]に難を逃れていたモネやピサロなど、「バティニョール派」の若い画家たちがパリに戻ってきた。モネは、パリ郊外の[[アルジャントゥイユ]]にアトリエを構えたが、その借家を周旋したのは、[[セーヌ川]]の対岸[[ジュヌヴィリエ]]に広大な土地を所有していたマネであった。マネや、ルノワール、[[アルフレッド・シスレー|シスレー]]らは、頻繁にモネのアトリエを訪れ、一緒に制作した<ref>[[#吉川|吉川 (2010: 167)]]。</ref>。マネは、モネら若い画家から敬愛される一方、モネらの新しい手法からも影響を受けていった<ref>[[#高橋|高橋 (2010: 33)]]。</ref>。 |
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ロンドンでモネやピサロと知り合った画商[[ポール・デュラン=リュエル]]が、他のバティニョール派の画家たちにも興味を持つようになり、1872年にはマネの作品24点を購入した<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 47)]]、[[#高橋|高橋 (2010: 33)]]。</ref><ref group="注釈">デュラン=リュエルが購入したのは、『スペインの歌手』、『エスパダの衣装を着たヴィクトリーヌ・ムーラン』、『キアサージ号とアラバマ号の戦い』などで、1点400フランから3000フラン、合計3万5000フランに上った([[#リウォルド|リウォルド (2004: 209)]])。</ref>。 |
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[[フランス第三共和政|第三共和政]]の下で最初に行われた'''1872年のサロン'''には、マネは1864年制作の『キアサージ号とアラバマ号の海戦』を提出し、入選した。'''[[1873年]]のサロン'''には、『ル・ボン・ボック』と『休息(ベルト・モリゾの肖像)』が入選した。『ル・ボン・ボック』は、伝統的な表現手法による肖像画で、サロンでは好評だったが、バティニョール派からは評価されなかった<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 50)]]。</ref>。シルヴェストルは、マネの絵が大衆に少しずつ受け入れられつつあることを感じ、「マネはいまだ議論の場にいるものの、すでに困惑の対象ではない」と書いている<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 221)]]。</ref>。 |
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[[ファイル:Café de le Nouvelle Athènes. (before 1900).jpg|thumb|right|180px|19世紀の[[カフェ・ド・ラ・ヌーヴェル・アテーヌ]]。]] |
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マネとその仲間たちのたまり場は、1873年半ばころ、カフェ・ゲルボワから、[[マルスラン・デブータン]]に先導されるように、{{仮リンク|ピガール広場|en|Place Pigalle}}の[[カフェ・ド・ラ・ヌーヴェル・アテーヌ]]に移っていったようである。そこには、カフェ・ゲルボワからの常連に加え、新しいメンバーも加わった<ref>[[#三浦・マネ|三浦 (2018: 139-40)]]。</ref>。小説家[[ジョージ・ムーア (小説家)|ジョージ・ムーア]]は、カフェで隣り合って座るマネとドガだが、マネは明るさと率直さに満ちた性格で、芸術においては必ず自然に即して描くのに対し、ドガは目がきつく皮肉屋で、絵はデッサンと覚書から組み立てるなど、あらゆる点で対照的であったことを書き留めている<ref>[[#デンヴァー|デンヴァー編 (1991: 78)]]。</ref>。 |
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ファイル:Edouard Manet - Guerre civile (Civil War) - Google Art Project.jpg|『内戦』1871-73年。[[リトグラフ]]、39.4 ×50.5 cm。[[ブラントン美術館]]。 |
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ファイル:Édouard Manet - Le repos.jpg|『{{仮リンク|休息(ベルト・モリゾの肖像)|fr|Le Repos (Manet)}}』1871年頃。油彩、キャンバス、150.2 × 114 cm。[[ロードアイランド・スクール・オブ・デザイン]]付設美術館<ref>{{Cite web |url=https://risdmuseum.org/art-design/collection/repose-le-repos-59027?return=%2Fart-design%2Fcollection%3Fsearch_api_fulltext%3DLe%2BRepos%26field_type%3DAll |title=Repose |publisher= Rhode Island School of Design |accessdate=2019-06-21}}</ref>。1873年サロン入選<ref name="#7">[[#三浦・マネ|三浦 (2018: 182)]]。</ref>。 |
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ファイル:Edouard Manet - Berthe Morisot With a Bouquet of Violets - Google Art Project.jpg|『[[すみれの花束をつけたベルト・モリゾ]]』1872年<ref>『[[芸術新潮]]』2018年6月号、[[新潮社]]、 36頁。</ref>。油彩、キャンバス、55.5 × 40.5 cm。[[オルセー美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.musee-orsay.fr/en/collections/index-of-works/notice.html?no_cache=1&nnumid=100102&cHash=5a0dec3204 |title=Berthe Morisot au bouquet de violettes |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2017-11-11}}</ref>。 |
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ファイル:Édouard Manet, French - Le Bon Bock - Google Art Project.jpg|『ル・ボン・ボック』1873年。油彩、キャンバス、94.6 × 83.3 cm。[[フィラデルフィア美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.philamuseum.org/collections/permanent/59213.html |title=Le Bon Bock |publisher=Philadelphia Museum of Art |accessdate=2017-11-11}}</ref>。1873年サロン入選<ref name="#7"/>。 |
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==== 印象派展への不参加 ==== |
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モネやピサロは、1873年のサロンには応募しなかった。彼らは、この頃から、サロンとは独立したグループ展の開催を計画していた。モネは、この年4月、ピサロへの手紙の中で、「マネ以外は、全ての人が賛同しています。」と書いている<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 55-56)]]。</ref>。そして、[[1874年]]4月、モネ、ピサロ、ルノワール、シスレー、ドガ、ベルト・モリゾなど30人の参加者で第1回グループ展を開いた。後に[[第1回印象派展]]と呼ばれる画期的な展覧会であった<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 67-68)]]。</ref>。マネは、1873年のサロンで『ル・ボン・ボック』が好評だったこともあって、サロンこそ画家の唯一の道であると考え、グループ展を開くことには反対であった。そのため、モネやドガから熱心に参加を勧められたが、断った。参加しない口実として、「コテで描く左官にすぎないような[[ポール・セザンヌ|セザンヌ]]とかかわりをもちたくない」と公言していたという<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 69-70)]]、[[#カシャン|カシャン (2008: 102)]]。</ref>。マネは、同じ'''1874年のサロン'''に、『[[鉄道 (マネの絵画)|鉄道]]』を出品している。深い愛情で結ばれた理想的な母子像ではなく、読書に熱中する母親と、退屈そうに[[サン=ラザール駅]]の構内を眺める娘を冷ややかに描き出した作品である<ref>[[#吉川|吉川 (2010: 105-11)]]、[[#木村|木村 (2012: 112-13)]]。</ref>。マネは、こうした現代都市の人間像に関心を寄せていた点でも、戸外制作による風景画を主にしたモネら印象派とは方向性が違っていた<ref>[[#カシャン|カシャン (2008: 106)]]、[[#高橋|高橋 (2010: 56)]]。</ref>。 |
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ドガは、グループ展に参加しないマネについて、「写実主義のサロンが必要だ。マネはそのことをわかっていない。どう考えても、彼は利口というよりうぬぼれやだ。」と批判した<ref>[[#カシャン|カシャン (2008: 103)]]。</ref>。とはいえ、この年、グループ展の入場者数は30日で延べ約3500人だったのに対し、サロンの入場者数は40日間で延べ50万人を超えていたと見られ、公衆の認知はまだまだサロンが大きな力を持っていた。グループ展は、批評家[[ルイ・ルロワ]]の風刺的な記事<ref group="注釈">{{Wikisource-inline|印象派の展覧会|ルイ・ルロワ「印象派の展覧会」|3=日本語訳}}</ref>を筆頭に、嘲笑する声が大きく、経済的にも赤字に終わった<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 102-03)]]。</ref>。マネはグループ展に参加しなかったにもかかわらず、批評家たちは、「使徒マネ氏とその弟子たち」と書くなど、マネを印象派のリーダー格と目していた<ref>[[#吉川|吉川 (2010: 189-90)]]。</ref>。 |
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モネとの親しい関係は続き、マネは度々アルジャントゥイユを訪れていた。モネが経済的困窮に陥り、マネに苦境を訴える手紙を送ると、マネは援助に応じた<ref>[[#パタン|パタン (1997: 47-52)]]。</ref>。モネは、小さなボートをアトリエ舟に仕立て、セーヌ川に浮かべて制作したが、その様子をマネが描いている<ref>[[#吉川|吉川 (2010: 168-70)]]。</ref>。モネの回想によれば、1874年、マネと[[ピエール=オーギュスト・ルノワール|ルノワール]]が、アルジャントゥイユのモネの家で、モネの妻カミーユと息子ジャンを一緒に描いたことがあったが(『庭のモネ一家』)、マネは、モネに、「あの青年には才能がない。君は友人なら、絵を諦めるように勧めなさい。」と言ったという。もっとも、マネは、心からルノワールを賞賛していたので、このエピソードは、ルノワールと競い合ったマネの苛立ちを表したものにすぎないとも指摘されている<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 254)]]。</ref>。ところで、マネはこの時初めて戸外にイーゼルを立てて制作したと思われるが、これは、戸外の明るい光の下で自然の印象を正確にとらえようというモネの[[戸外制作]]の手法に従ったものであった<ref>[[#カシャン|カシャン (2008: 98)]]、[[#リウォルド|リウォルド (2004: 253)]]。</ref>。マネは、印象派の技法をとりいれた『アルジャントゥイユ』を'''[[1875年]]のサロン'''に出品した。印象派に対するマネの支持表明といえる<ref>[[#カシャン|カシャン (2008: 98-99)]]。</ref>。しかし、背景のセーヌ川の描き方が青い壁のようだなどと酷評を浴びた<ref>[[#カシャン|カシャン (2008: 98-99)]]、[[#島田・挑戦|島田 (2009: 111)]]、[[#三浦・マネ|三浦 (2018: 214)]]。</ref>。1874年12月には、マネの弟ウジェーヌ・マネと、ベルト・モリゾが結婚した<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 111)]]。</ref>。1875年頃、エコール・デ・ボザールの教師に対し反乱を起こした若手画家の[[フラン=ラミ]]や{{仮リンク|フレデリック・コルデー|fr|Frédéric Samuel Cordey}}が、マネに自由なアトリエを開いてほしいと言って受入れを求めたが、マネは、公的な評価を気にして、これを断ったようである<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 275)]]。</ref>。 |
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ファイル:Edouard Manet - Le Chemin de fer - Google Art Project.jpg|『[[鉄道 (マネの絵画)|鉄道]]』1873年。油彩、キャンバス、93.3 × 111.5 cm 。[[ナショナル・ギャラリー (ワシントン)|ナショナル・ギャラリー]]([[ワシントンD.C.]])<ref>{{Cite web |url=https://www.nga.gov/Collection/art-object-page.43624.html |title=The Railway |publisher=National Gallery of Art |accessdate=2017-11-11}}</ref>。1874年サロン入選<ref name="#7"/>。 |
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ファイル:Edouard Manet 093.jpg|『オペラ座の仮面舞踏会』1873年。油彩、キャンバス、59.1 × 72.5 cm。[[ナショナル・ギャラリー (ワシントン)|ナショナル・ギャラリー]]([[ワシントンD.C.]])<ref>{{Cite web |url=https://www.nga.gov/Collection/art-object-page.61246.html |title=Masked Ball at the Opera |publisher=National Gallery of Art |accessdate=2017-11-11}}</ref>。1874年サロン落選<ref name="#7"/>。 |
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ファイル:Edouard Manet 010.jpg|『{{仮リンク|アトリエ舟で描くクロード・モネ|fr|Claude Monet peignant dans son atelier}}』1874年。油彩、キャンバス、80 × 98 cm。[[ノイエ・ピナコテーク]]。 |
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ファイル:Edouard Manet Boating.jpg|『{{仮リンク|ボート遊び|fr|En bateau}}』1874年。油彩、キャンバス、97.2 × 130.2 cm。[[メトロポリタン美術館]]<ref>{{Cite web |url=https://www.metmuseum.org/art/collection/search/436947 |title=Boating |publisher=The Metropolitan Museum of Art |accessdate=2017-11-11}}</ref>。1879年サロン入選<ref name="#8">[[#三浦・マネ|三浦 (2018: 187-88)]]。</ref>。 |
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ファイル:Edouard Manet 003.jpg|『{{仮リンク|アルジャントゥイユ (マネ)|fr|Argenteuil (Manet)|label=アルジャントゥイユ}}』1874年。油彩、キャンバス、149 ×115 cm。[[トゥルネー美術館]]([[ベルギー]])。1875年サロン入選<ref name="#9">[[#三浦・マネ|三浦 (2018: 184)]]。</ref>。 |
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ファイル:Édouard Manet --The Monet Family in Their Garden at Argenteuil.jpg|『庭のモネ一家』1874年。油彩、キャンバス、61 × 99.7 cm。[[メトロポリタン美術館]]<ref>{{Cite web |url=https://www.metmuseum.org/art/collection/search/436965 |title=The Monet Family in Their Garden at Argenteuil |publisher=The Metropolitan Museum of Art |accessdate=2017-11-11}}</ref>。 |
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==== マラルメとの親交 ==== |
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マネは、1873年頃、詩人[[ステファヌ・マラルメ]]と知り合い、親しくなった。1875年、マラルメが[[エドガー・アラン・ポー]]の『[[大鴉]]』を訳した時、その挿絵のために[[リトグラフ]]を制作した。翌[[1876年]]には、マラルメの『牧神の午後』の挿絵のために木版画を制作した<ref>[[#高橋|高橋 (2010: 60-61)]]。</ref>。 |
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マネは、'''1876年のサロン'''に、『洗濯』と、マルスラン・デブータンを描いた『画家』を応募したが、落選した。そこで、マネは、個展を開き、これらの落選作を公開した。招待状には、金色の文字で、「ありのままに描く、言いたいように言わせる」と書かれていた。この個展には、1日に400人もの来場者があり、新聞は大々的に報じた。「なんということ! 目鼻だちがすっきりとして、おだやかなまなざしをした、手入れされたブロンドのひげのこの紳士、{{Interp|中略}}パリッとしたシャツを着て、きちんと手袋をはめたこの紳士が、ボート遊びをする人びと{{Interp|『アルジャントゥイユ』}}の作者なのだ!」と驚きをもって伝えており、相変わらずマネの作品に対する評価は低かった<ref>[[#カシャン|カシャン (2008: 106-08)]]。</ref>。 |
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一方、マラルメは、『洗濯』について、「おそらく画家{{Interp|マネ}}の経歴において、そして確実に美術史上、時代を画する作品」だと賞賛した。マネは、マラルメに肖像画を贈り、マラルメはこれをずっと自分の家に飾っていた<ref>[[#カシャン|カシャン (2008: 108)]]、[[#高橋|高橋 (2010: 60)]]。</ref>。マラルメは、ボードレール、ゾラに続くマネの擁護者としての役割を果たした<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 120-21)]]。</ref>。マネの死後、マラルメは、マネについて次のように述べている<ref>[[#カシャン|カシャン (2008: 109)]]、[[#高橋|高橋 (2010: 61)]]。</ref>。 |
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{{Quotation|失望のなかにも、{{Interp|中略}}男らしい無邪気さがあった。つまり、カフェ・トルトーニでは、からかい好きで、粋な人間だった。その一方、アトリエでは、まるで一度も絵を描いたことがないかのように、白いカンバスに激情を投げつけていた。|[[ステファヌ・マラルメ]]|『とりとめのない話』「マネ」}} |
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ファイル:Edouard Manet 087.jpg|『{{仮リンク|洗濯 (マネ)|fr|Le Linge|label=洗濯}}』1875年。油彩、キャンバス、145 × 115 cm。[[バーンズ・コレクション]]。1876年サロン落選<ref name="#9"/>。 |
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ファイル:Manet - O artista – Retrato de Marcellin Desboutin 1875 3.jpg|『画家(マルスラン・デブータンの肖像)』1875年。油彩、キャンバス、195.5 × 131.5 cm。[[サンパウロ美術館]]<ref>{{Cite web |url=https://masp.org.br/acervo/obra/o-artista-retrato-de-marcellin-desboutin |title=O Artista - Retrato de Marcellin Desboutin |publisher=Museu de Arte de São Paulo |accessdate=2019-06-21}}</ref>。1876年サロン落選<ref name="#9"/>。 |
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ファイル:Le Corbeau - Manet, Plate 2.jpg|マラルメ訳『[[大鴉]]』のための挿絵、1875年。リトグラフ。 |
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ファイル:Portrait of Stéphane Mallarmé (Manet).jpg|『ステファヌ・マラルメの肖像』1876年。油彩、キャンバス、27.2 × 35.7 cm。[[オルセー美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.musee-orsay.fr/en/collections/index-of-works/notice.html?no_cache=1&nnumid=001133&cHash=b941a9d924 |title=Stéphane Mallarmé |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2017-11-11}}</ref>。 |
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==== 1870年代末のサロン ==== |
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'''[[1877年]]のサロン'''には、『ハムレットを演じるフォール』が入選した。モデルの[[ジャン=バティスト・フォール]]は、有名なバリトン歌手で、印象派の作品を愛好しており、マネの作品を67点も収集していた。この絵は、フォールの当たり役[[ハムレット]]を演じるところを描いたものだが、サロンでは、「滑稽な肖像画だ」、「狂人になったハムレットが、マネ氏によって描かれた」などと風刺された<ref>[[#カシャン|カシャン (2008: 117-21)]]。</ref>。また、同じく1877年のサロンに応募した『ナナ』は、『オランピア』と同様、高級娼婦を描いた[[自然主義]]的な主題の作品だったが、落選した<ref>[[#カシャン|カシャン (2008: 122-23)]]、[[#高橋|高橋 (2010: 64-65)]]。</ref>。 |
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1877年の冬から[[1878年]]にかけて、サロンに出品するため、[[カフェ・コンセール]]を舞台にした大作にとりかかった。結局、マネはその作品を2分割し、『ビヤホールのウェイトレス』と『カフェにて』という2つの作品となった<ref>[[#カシャン|カシャン (2008: 126)]]。</ref>。1878年の[[パリ万国博覧会 (1878年)|パリ万国博覧会]]とサロンには応募していない<ref>[[#三浦・マネ|三浦 (2018: 187)]]。</ref>。友人[[ジュゼッペ・デ・ニッティス]]が[[レジオンドヌール勲章]]を受章すると、マネは、勲章への切望を隠そうとせず、ドガに、「僕が勲章をもらっていないですって? でもこれは僕のせいではありませんない{{ママ}}。できればもらいたいですし、その目的のために必要なことは何でもするとあなたに誓いましょう。」と話した。これに対し、外的な成功を侮蔑していたドガは、「あなたがたいそうなブルジョワなのはずっとわかっていました。」と返した<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 289-90)]]。</ref>。1878年、実業家[[エルネスト・オシュデ]]が破産し、マネや印象派のコレクションが競売に付されたが、マネの作品は平均583フランであり、相当低い値しか付かなかった<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 294-95)]]。</ref>。モネをはじめとする印象派の画家の経済状況も苦しく、マネはモネに金銭的な援助をしている<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 294)]]。</ref>。 |
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'''[[1879年]]のサロン'''には、『ボート遊び』(1774年)と『温室にて』を出品した<ref name="#8"/>。 |
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'''[[1880年]]のサロン'''には、現代生活の情景を描いた『ラテュイユ親父の店』と中学時代からの親友を描いた『アントナン・プルーストの肖像』を出品した<ref name="#10">[[#三浦・マネ|三浦 (2018: 189)]]。</ref>。マネは、サロン開会後、プルーストに次のような手紙を送っている<ref>[[#デンヴァー|デンヴァー編 (1991: 123-25)]]。</ref>。 |
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{{Quotation|3週間前から、サロンにあなたの肖像画が陳列されています。ドアに近い、展示場から切り離されたひどい壁面に掛けられました。場所がそうなら、評判はもっと悪いのです。しかし悪口を言われるのは私の宿命ですから、達観してそれを受け止めています。それにしても、人物をひとりだけ画面におくこと、そしてこの単独像に関心を集中させ、なおも生き生きとしているように見せることが、いかに難しいか、あなたにはほとんど信じがたいでしょう。2人の人物を描くことは、それに比べれば子供の遊びです。|マネ|アントナン・プルースト宛て書簡(1880年)}} |
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ファイル:Edouard Manet Faure as Hamlet.JPG|『ハムレットを演じるフォール』1877年。油彩、キャンバス、196 × 131 cm。[[フォルクヴァンク美術館]]。同年サロン入選<ref name="#9"/>。 |
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ファイル:Edouard Manet 037.jpg|『{{仮リンク|ナナ (絵画)|en|Nana (painting)|label=ナナ}}』1877年。油彩、キャンバス、154 × 115 cm。[[ハンブルク美術館]]。同年サロン落選<ref name="#9"/>。 |
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ファイル:Edouard Manet - The Plum - National Gallery of Art.jpg|『{{仮リンク|プラム (絵画)|en|The Plum|label=プラム}}』1877年頃。油彩、キャンバス、73.6 × 50.2 cm。[[ナショナル・ギャラリー (ワシントン)|ナショナル・ギャラリー]]([[ワシントンD.C.]])<ref>{{Cite web |url=https://www.nga.gov/Collection/art-object-page.53034.html |title=Plum Brandy |publisher=National Gallery of Art |accessdate=2017-11-11}}</ref>。 |
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ファイル:Édouard Manet, The Rue Mosnier with Flags, 1878.jpg|『{{仮リンク|旗で飾られたモニエ通り|fr|La Rue Mosnier aux drapeaux}}』1878年。油彩、キャンバス、65.4 × 80 cm。[[J・ポール・ゲティ美術館|ゲティ・センター]]<ref>{{Cite web |url=https://www.getty.edu/art/collection/objects/825/edouard-manet-the-rue-mosnier-with-flags-french-1878-000/ |title=The Rue Mosnier with Flags |publisher=The J. Paul Getty Trust |accessdate=2017-11-11}}</ref>。 |
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File:Manet, Edouard - Blonde Woman with Bare Breasts.jpg|『胸をはだけたブロンドの娘』1878年。油彩、キャンバス、62.5×51cm。[[オルセー美術館]]。 |
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ファイル:Edouard Manet - Self-Portrait - Google Art Project.jpg|『自画像』1878-79年。油彩、キャンバス、94 × 63 cm。[[ブリヂストン美術館]]。 |
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ファイル:Edouard Manet 006.jpg|『{{仮リンク|ビヤホールのウェイトレス|fr|Coin de café-concert}}』推定1878-80年。油彩、キャンバス97.1 × 77.5 cm。[[ナショナル・ギャラリー (ロンドン)|ナショナル・ギャラリー]]([[ロンドン]])<ref>{{Cite web |url=http://www.nationalgallery.org.uk/paintings/edouard-manet-corner-of-a-cafe-concert |title=Corner of a Café-Concert |publisher= |accessdate=2017-11-11}}</ref>。 |
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ファイル:Edouard Manet 060.jpg|『{{仮リンク|パレットを持った自画像 (マネ)|en|Self-Portrait with Palette (Manet)|label=パレットを持った自画像}}』1879年。油彩、キャンバス、83 × 67 cm。私蔵。 |
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ファイル:In the Conservatory - edited.jpg|『温室にて』1879年。油彩、キャンバス、62 × 51 cm。[[旧国立美術館 (ベルリン)|旧国立美術館]]([[ベルリン]])。同年サロン入選<ref name="#8"/>。 |
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ファイル:Edouard Manet 031.jpg|『ラテュイユ親父の店』1879年。油彩、キャンバス、92 × 112 cm。[[トゥルネー美術館]]。1880年サロン入選<ref name="#10"/>。 |
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ファイル:Édouard Manet - Antonin Proust - Google Art Project.jpg|『[[アントナン・プルースト]]の肖像』1880年。油彩、キャンバス、129.5 × 95.9 cm。[[トレド美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://emuseum.toledomuseum.org/objects/55067 |title=Antonin Proust |publisher=Toledo Museum of Art |accessdate=2019-06-02}}</ref>。1880年サロン入選<ref name="#10"/>。 |
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=== 晩年(1880年代初頭) === |
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[[ファイル:Carolus-Duran - Portrait of Edouard Manet.jpg|thumb|160px|right|[[カロリュス=デュラン]]によるマネの肖像画(1880年頃)。]] |
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マネは、[[1880年]]頃から、16歳の時にブラジルで感染した[[梅毒]]の症状が悪化し、左脚の[[壊疽]]が進んできた<ref>[[#木村|木村 (2012: 114-15)]]。</ref>。医師から、田舎での静養を指示され、1880年の夏はパリ郊外のベルビューに滞在した。マネは、暇をまぎらわすため、友人たちや、お気に入りのモデル、イザベル・ルモニエに多くの手紙を送っている<ref>[[#高橋|高橋 (2010: 57, 77)]]、[[#カシャン|カシャン (2008: 117)]]。</ref>。晩年の2年間は、病気のため、大きな油彩画を制作することが難しくなり、[[パステル画]]を数多く描いている<ref>[[#カシャン|カシャン (2008: 116)]]。</ref>。 |
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'''[[1881年]]のサロン'''<ref group="注釈">この年からは、サロンは、官営ではなくなり、[[フランス芸術家協会]]が主催するものとなった([[#島田・挑戦|島田 (2009: 298)]])。</ref>に、『アンリ・ロシュフォールの肖像』を含む肖像画2点を出品し、銀メダルを獲得した。これによって、以後のサロンには無審査で出品できることになった<ref>[[#木村|木村 (2012: 113)]]。</ref>。この年の夏は、[[ヴェルサイユ]]で療養した<ref name="#1"/>。庭付きの家を借り、庭で明るい色彩や躍動感のあるタッチを用いて光の変化を捉えた作品は、印象主義に近づいている<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 328)]]。</ref>。11月、親友アントナン・プルーストが[[レオン・ガンベタ]]内閣の美術大臣に任命されると、その働きかけにより、マネは同年12月末、[[レジオンドヌール勲章]]を受章することができた<ref>[[#木村|木村 (2012: 113)]]、[[#高橋|高橋 (2010: 57)]]。</ref>。 |
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左脚の痛みに耐えながら、[[1881年]]冬から翌[[1882年]]にかけて、最後の大作『[[フォリー・ベルジェールのバー]]』の制作に取り組んだ。[[フォリー・ベルジェール]]劇場のバーで実際に働いていたシュゾンというウェイトレスに、モデルを依頼した。正面を向いたウェイトレスは、虚ろな視線であるが、鏡に映った後ろ姿では、飲み物を注文する男性客に向かって身をかがめ、話をしている。正面の姿と後ろ姿が一致しないことや、[[遠近法]]の歪みは、観る者を困惑させた<ref>[[#カシャン|カシャン (2008: 126-30)]]。</ref>。もっとも、これは、意図的に遠近法を無視し、ウェイトレスの空虚な表情に全力で焦点を当てたものとも説明されている<ref>[[#吉川|吉川 (2010: 145-52)]]。</ref>。'''1882年のサロン'''には、無審査の権利を行使して、この作品と『[[春 (マネ)|春(ジャンヌ)]]』を出品したが、これが権利行使の最後の機会となった。『春(ジャンヌ)』は、女優{{仮リンク|ジャンヌ・ドマルシー|de|Jeanne Demarsy}}をモデルとし、四季連作の一つとして構想されたものである<ref name="#11">[[#三浦・マネ|三浦 (2018: 190)]]。</ref>。 |
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1882年7月から10月にかけて、パリ西郊の[[リュエイユ=マルメゾン|リュエイユ]]に滞在した。マネのもとには、上流階級の男たちの愛人{{仮リンク|メリー・ローラン|fr|Méry Laurent}}、オペラ歌手{{仮リンク|エミリー・アンブル|en|Émilie Ambre}}、宝石商人の娘イザベル・ルモニエなど、多くの女性たちが訪れた。マネは、これらの女性の肖像画を数多く描いている<ref>[[#高橋|高橋 (2010: 57, 70)]]。</ref>。四季連作の一つとして、メリー・ローランをモデルとする『[[秋 (マネ)|秋]]』も制作されたが、四季連作はついに完成に至らなかった<ref>[[#三浦・マネ|三浦 (2018: 248)]]。</ref>。この頃、マネは、唯一の相続人として妻シュザンヌを指名する[[遺言]]を作成した。ただし、死後の作品売立ての売却益から5万フランをレオン・コエラに遺贈することとし、シュザンヌが相続した遺産は、彼女の死亡時、全てをレオンに相続させることとされていた<ref>[[#吉川|吉川 (2010: 141-42)]]。</ref>。 |
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[[1883年]]初め、マネの体力が目に見えて衰え、ベッドから起き上がれなくなった<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 339)]]。</ref>。4月20日、壊疽が進行した左脚を切断する手術を受けた。しかし、経過は悪く、高熱に浮かされた末、4月30日、51歳で亡くなった<ref name="#12">[[#木村|木村 (2012: 115)]]、[[#高橋|高橋 (2010: 76)]]。</ref>。死の直前まで、[[アレクサンドル・カバネル]]への敵意に取りつかれており、病床で「あの男は健康なのに」とうめいていたという<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 340)]]。</ref>。葬儀は5月3日に行われ、パリの[[パッシー墓地]]に埋葬された。あらゆるグループの画家たちが葬儀に参列した。ドガは、「われわれが考えていた以上に、彼は偉大だった」と語った<ref>[[#カシャン|カシャン (2008: 131)]]。</ref>。 |
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ファイル:Édouard Manet - La Promenade (Mme Gamby).jpg|『散歩』1880年頃。油彩、キャンバス、92.3 × 70.5 cm。[[東京富士美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.fujibi.or.jp/our-collection/profile-of-works.html?work_id=1114 |title=散歩 |publisher=東京富士美術館 |accessdate=2017-11-23}}</ref>。 |
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ファイル:Manet Emilie Ambre as Carmen.jpg|『カルメン姿のエミリー・アンブル』1880年。油彩、キャンバス、92.4 × 73.5 cm。[[フィラデルフィア美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.philamuseum.org/collections/permanent/59866.html |title=Portrait of Émilie Ambre as Carmen |publisher=Philadelphia Museum of Art |accessdate=2017-11-23}}</ref>。 |
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ファイル:Edouard Manet - Asparagus - Google Art Project.jpg|『{{仮リンク|アスパラガス (絵画)|fr|L'Asperge|label=アスパラガス}}』1880年。油彩、キャンバス、16.9 × 21.9 cm。[[オルセー美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.musee-orsay.fr/en/collections/index-of-works/notice.html?no_cache=1&nnumid=1134 |title=L'asperge |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2017-11-23}}</ref>。 |
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ファイル:Édouard Manet - Jeanne (Spring).jpg|『[[春 (マネ)|春]]』1881年。油彩、キャンバス、74 × 51.5 cm。[[J・ポール・ゲティ美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.getty.edu/art/collection/objects/268843/edouard-manet-jeanne-spring-french-1881/ |title=Jeanne (Spring) |publisher=The J. Paul Getty Trust |accessdate=2019-05-03}}</ref>。1882年サロン出展<ref name="#11"/>。 |
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ファイル:Edouard Manet Automne Mery Laurent.jpg|『[[秋 (マネ)|秋(メリー・ローラン)]]』1881年。油彩、キャンバス、73 × 51 cm。[[ナンシー美術館]]。 |
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ファイル:Edouard Manet, A Bar at the Folies-Bergère.jpg|『[[フォリー・ベルジェールのバー]]』1882年。油彩、キャンバス、96 × 130 cm。[[コートールド・ギャラリー]]([[ロンドン]])<ref>{{Cite web |url=http://courtauld.ac.uk/gallery/collection/impressionism-post-impressionism/edouard-manet-a-bar-at-the-folies-bergere |title=A Bar at the Folies-Bergère |publisher=The Courtauld Institute Of Art |accessdate=2017-11-11}}</ref>。1882年サロン出展<ref name="#11"/>。 |
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ファイル:Edouard Manet - Landhaus in Rueil - Google Art Project.jpg|『リュエイユの家』1882年。油彩、キャンバス、71.5 × 92.3 cm。[[旧国立美術館 (ベルリン)|旧国立美術館]]([[ベルリン]])<ref>{{Cite web |url=https://www.google.com/culturalinstitute/beta/asset/RQHFJGIHSuisMQ |title=The House at Rueil |publisher=Google Arts & Culture |accessdate=2017-11-23}}</ref>。 |
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== 死後 == |
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=== 名声の確立 === |
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[[ファイル:Manet-grave.jpg|thumb|right|150px|パリ・[[パッシー墓地]]にあるマネの墓。]] |
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[[1884年]]1月、ウジェーヌ・マネとその妻ベルト・モリゾの企画により、[[エコール・デ・ボザール]](官立美術学校)でマネの回顧展が開かれた。116点の油彩のほか、版画、デッサン、水彩、パステル画など合計200点を集めた大規模なものであり、成功を収めた。ただ、マネの評価が高まりつつあったアメリカと比べ、フランスでの評価はまだまだ低かった<ref name="#12"/>。『笛を吹く少年』について、その平面的な彩色を嫌い、「これは扉に貼り付けられたダイヤのジャックだ」とけなした保守的な批評家もいた<ref>[[#三浦・謎|三浦 (2012: 23)]]。</ref>。回顧展後に[[オテル・ドゥルオ]]で行われた競売は順調に行かず、ベルト・モリゾは、姉への手紙に「美術学校での展覧会が成功したあとで、競売の方は完全に失敗したのです。{{Interp|中略}}とにかく私はとてもがっかりしました。唯一の慰めは、マネの作品はみな心の美術愛好家や芸術家たちの手に渡ったということです。売立ては全部で11万[[フランス・フラン|フラン]]の収益がありました。本当をいうと、私たちは最低でも20万フランと見積もっていたのです。」と書いている<ref>[[#デンヴァー|デンヴァー編 (1991: 148-49)]]。</ref>。 |
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[[1889年]]の[[パリ万国博覧会 (1889年)|パリ万国博覧会]]を記念して開かれた「フランス美術100年展」に、マネの『オランピア』が展示された。この頃、お金に困ったマネの妻シュザンヌが『オランピア』をアメリカ人に売却しようとしていることを聞いたモネは、マネの代表作の海外流出を憂い、この作品を購入してルーヴル美術館に寄贈する計画を立てた。モネは、[[オーギュスト・ロダン]]宛ての手紙で、「これは、マネの業績に対するすばらしい賛辞ですし、同時にこの絵の持ち主であるマネ夫人の経済状態をさりげなく援助することにもなります」と書いている<ref>[[#パタン|パタン (1997: 98-99)]]、[[#三浦・マネ|三浦 (2018: 218)]]。</ref>。元美術大臣アントナン・プルーストの反対に遭ったが、最終的に、モネは、『オランピア』を購入し、[[1890年]]11月、国の[[リュクサンブール美術館]]に展示させることに成功した。その時でも、ルーヴル美術館にはふさわしくないという保守的アカデミズムの抵抗はまだ強かった。[[1907年]]に[[ジョルジュ・クレマンソー]]の働きかけにより、ようやくルーヴル美術館に移送された<ref>[[#パタン|パタン (1997: 100-01)]]、[[#木村|木村 (2012: 115-16)]]。</ref><ref>{{Cite web |url=http://www.musee-orsay.fr/en/events/exhibitions/in-the-musee-dorsay/exhibitions-in-the-musee-dorsay/article/a-hundred-years-ago-olympia-4374.html?cHash=0445507a91 |title=A Hundred Years Ago : Olympia |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2016-11-26}}</ref><ref group="注釈">規定では、リュクサンブール美術館の所蔵作品は、作者の死後10年たつとルーヴル美術館に移管されることになっていたが、『オランピア』の場合は、マネの死後10年の1893年になってもルーヴル美術館に移管されず、ルーヴル入りがかなり遅れた。その当時はまだマネが問題のある画家としてとらえられていたことが分かる([[#三浦・マネ|三浦 (2018: 220)]])。</ref>。 |
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[[1894年]]、印象派の画家で収集家でもあった[[ギュスターヴ・カイユボット]]が亡くなった時、マネや印象派の作品68点をリュクサンブール美術館に[[遺贈]]するとの遺言を残した。この当時も、美術界の保守派の抵抗は根強く、受入れには反対の声が強かった。結局、[[1896年]]2月、コレクションの中から40点が選ばれて、フランス政府が受け入れることになった。この中にマネの『バルコニー』も含まれている<ref>[[#木村|木村 (2012: 171)]]、[[#高橋|高橋 (2010: 76)]]。</ref><ref group="注釈">リュクサンブール美術館に収蔵されたのは、『バルコニー』と、女性像『アンジェリーナ』の2点である([[#三浦・マネ|三浦 (2018: 249)]])。</ref>。 |
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[[1905年]]、[[サロン・ドートンヌ]]で、マネの油彩画25点、パステル画5点、水彩画1点の合計31点から成る回顧展が開かれた。『エミール・ゾラの肖像』などサロン出品作5点を含む充実した内容の展覧会であった<ref>[[#三浦・マネ|三浦 (2018: 249-50)]]。</ref>。 |
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[[1906年]]、近代美術の大収集家{{仮リンク|エティエンヌ・モロー・ネラトン|en|Étienne Moreau-Nélaton}}がルーヴル美術館に寄贈したコレクションの中に、マネの『草上の昼食』など5作品が含まれていた<ref>[[#高橋|高橋 (2010: 76)]]。</ref>。 |
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[[1932年]]、パリの[[オランジュリー美術館]]で生誕100年の記念展覧会が開かれた<ref>[[#高橋|高橋 (2010: 76)]]、[[#三浦・マネ|三浦 (2018: 261)]]。</ref>。この時、マネは国家レベルで最終的な承認を得たといえ、[[ポール・ヴァレリー]]は、展覧会カタログに「マネの勝利」と題する序文を寄せた<ref>[[#三浦・マネ|三浦 (2018: 237)]]。</ref>。 |
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[[1983年]]には、パリの[[グラン・パレ]]美術館とニューヨークの[[メトロポリタン美術館]]で、没後100年の回顧展が行われた。それまでのマネ研究が集大成された展覧会であり、近代絵画の巨匠としてのマネの地位は決定的なものとなった<ref>[[#三浦・マネ|三浦 (2018: 271-72)]]。</ref>。同じ年、[[ポンピドゥー・センター]]の[[国立近代美術館 (フランス)|国立近代美術館]]で「ボンジュール・ムッシュー・マネ」展が開かれ、マネの絵画に触発された19世紀以降の作品と現存画家の作品が展示され、『オランピア』をはじめとするマネ作品が後世に及ぼした影響を物語る内容となった<ref>[[#三浦・マネ|三浦 (2018: 272)]]。</ref>。 |
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=== 市場での評価 === |
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マネの生前の1878年、ジャン=バティスト・フォールが資金難により{{仮リンク|オテル・ドゥルオ|en|Hôtel Drouot}}でマネの作品を競売に出した時、1点が2000フラン(80ポンド)で売れただけで、その他は売れなかった。[[エルネスト・オシュデ]]が破産して同じ年にマネの作品を競売に出したが、1点当たり35フランから800フランの間でしか落札されなかった<ref>[[#瀬木|瀬木 (1999: 85)]]。</ref>。 |
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死の翌年1884年の回顧展後、オテル・ドゥルオでその作品の多くが競売されたが、『オランピア』が400ポンド(1万フラン)、『アルジャントゥイユ』が500ポンド(1万2500フラン)というのが高い方で、油絵93点ほかパステル画、水彩、デッサン、[[エッチング]]、リトグラフの総売上は4665ポンド(11万6637フラン)と、マネ家の期待を大きく下回った。落札者も大部分が遺族と友人であった<ref>[[#瀬木|瀬木 (1999: 85-86)]]。</ref>。 |
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マネの市場価格は、徐々に上がり、1898年に『ギターを持つ女』が2800ポンド(7万フラン)で売られた。1910年以降、マンハイム市立美術館が『[[皇帝マキシミリアンの処刑]]』を4500ポンドで購入するなど、ポンドで4桁台が常態となり、1920年代にはポンドで5桁台のものも現れるようになった。1926年には、{{仮リンク|サミュエル・コートールド|en|Samuel Courtauld (art collector)}}が『[[フォリー・ベルジェールのバー]]』を2万4100ポンド(手数料込み)で購入し、[[第二次世界大戦]]前のマネの最高記録となった<ref>[[#瀬木|瀬木 (1999: 87-88)]]。</ref>。 |
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第2次世界大戦後は、ポンドで5桁台が常態となり、1958年に『旗で飾られたモニエ通り』が11万3000ポンドで落札され、ポンド6桁台が現れるようになった。それでも、ルノワールに比べると、市場での人気は高くなかった。ところが、1980年代以降、美術市場全体で良品が払底するに従い、マネ作品の価格は更に高騰した。1986年12月1日、ロンドンの[[クリスティーズ]]で『舗装工のいるモニエ通り』が700万ポンド(1017万ドル、16億5410万円)という高値を記録した。1989年11月14日、[[ニューヨーク]]のクリスティーズで、『旗で飾られたモニエ通り』が[[J・ポール・ゲティ美術館]]によって2400万ドル(34億7520万円)で落札され、マネの史上最高値を更新した。1997年には、『{{仮リンク|パレットを持った自画像|en|Self-Portrait with Palette (Manet)}}』が1700万ドル(20億3320万円)で、当時2番目の高値で落札された<ref>[[#瀬木|瀬木 (1999: 90-92)]]。</ref>。同じ『パレットを持った自画像』が2010年にロンドンで3320万ドルで落札されて更に記録を更新したが、2014年にニューヨークの[[クリスティーズ]]で『春(ジャンヌ)』が6512万ドル余りで[[J・ポール・ゲティ美術館]]に落札されたのが新たなマネ最高記録となった<ref>{{Cite web |url=http://www.latimes.com/entertainment/arts/culture/la-et-cm-getty-manet-spring-auction-record-20141105-story.html |title=Getty breaks record with $65.1-million purchase of Manet's 'Spring' |publisher=Los Angeles Times |accessdate=2019-05-26}}</ref><ref>{{Cite web |url=http://www.christies.com/lotfinder/Lot/edouard-manet-1832-1883-le-printemps-5840859-details.aspx |title=Edouard Manet (1832-1883): Le Printemps |publisher=Christie's |accessdate=2019-05-26}}</ref>。 |
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== 作品 == |
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=== カタログ === |
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[[ファイル:Manet autograph.png|thumb|180px|right|マネのサイン]] |
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マネは、遅筆で、生涯の制作数が比較的少ない。油絵は400点余り、水彩画100点余り、版画100種余りである<ref>[[#瀬木|瀬木 (1999: 91)]]。</ref>。 |
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マネにはこれまで何種類かの[[カタログ・レゾネ]]が刊行されている<ref>{{Cite web |url=http://www.ifar.org/artist_name.php?nameid=642&published=1&inPrep=1 |title=Manet, Edouard (1832-1883) |publisher=International FOundation for Art Research (IFAR) |accessdate=2019-05-26}}</ref>。[[1932年]]、{{仮リンク|ジョルジュ・ウィルデンシュタイン|en|Georges Wildenstein}}らにより2巻から成るカタログ・レゾネが発刊され、546点の絵画・パステル画が時系列的に収録された<ref>{{Cite web |url=https://wpi.art/2019/01/07/manet-2/ |title=Manet |publisher=Wildenstein Plattner Institute |accessdate=2019-05-26}}</ref>。これを改訂したのが[[ダニエル・ウィルデンシュタイン]]らの[[1975年]]のカタログ・レゾネである<ref>{{Cite web |url=https://wpi.art/2019/01/07/manet/ |title=Manet |publisher=Wildenstein Plattner Institute |accessdate=2019-05-26}}</ref>。 |
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{{See also|{{ill2|エドゥアール・マネの油彩画リスト|de|Liste der Gemälde von Édouard Manet}}|{{ill2|エドゥアール・マネの版画と素描のリスト|fr|Liste des gravures et dessins d'Édouard Manet}}}} |
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=== 時代背景、画風 === |
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[[ファイル:Hommage à Delacroix - Henri Fantin-Latour.jpg|thumb|left|200px|ファンタン=ラトゥール『ドラクロワ礼賛』1864年。マネ(後列右から3番目)やルグロ、[[ジェームズ・マクニール・ホイッスラー|ホイッスラー]]、ブラックモン、ファンタン=ラトゥール、[[ルイ・エドモン・デュランティ|デュランティ]]、ボードレールなどの若い画家・批評家は、ドラクロワの革新性を継承していた<ref>[[#尾関ほか|尾関ほか (2017: 323-26)]]。</ref>。]] |
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19世紀半ば、フランスの絵画を支配していたのは、[[芸術アカデミー]]と[[サロン・ド・パリ]]を牙城とする[[アカデミズム絵画]]であった。その主流を占める[[新古典主義]]は、[[古代ギリシア]]において完成された「理想の美」を規範とし、明快で安定した構図を追求した。また、色彩よりも、正確なデッサン(輪郭線)と、陰影による肉付法を重視していた<ref>[[#高階・絵画史|高階 (1975: 上34-36)]]。</ref>。[[歴史画]]や神話画が高貴なジャンルとされたのに対し、肖像画や[[風景画]]は低俗なジャンルとされていた<ref>[[#高階・絵画史|高階 (1975: 上52)]]。</ref>。明確な美の基準を持たない新興のブルジョワ階級は、伝統的なサロンの権威に盲従していたため、画家が絵を売って生活しようとすれば、サロンで入選し、賞をとることが絶対的な条件となっていた<ref>[[#高階・フランス|高階 (1990: 257)]]。</ref>。 |
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もっとも、こうした新古典主義に対抗して、[[ロマン主義]]を代表する[[ウジェーヌ・ドラクロワ]]は、[[ヴェネツィア派]]や[[ピーテル・パウル・ルーベンス]]を信奉して、豊かな色彩表現を追求し、革命の第1の波をもたらした<ref>[[#ゴンブリッチ|ゴンブリッチ (2011: 384)]]。</ref>。次いで、[[ギュスターヴ・クールベ]]は、[[写実主義]]を標榜し、卑近な題材を誠実に描こうとした。これは革命の第2の波であった<ref>[[#ゴンブリッチ|ゴンブリッチ (2011: 388)]]。</ref>。 |
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[[ファイル:Olympia Bertall.JPG|thumb|right|200px|{{仮リンク|ベルタール|en|Bertall}}による『オランピア』の風刺画。1865年。]] |
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マネは、保守的なブルジョワであり、彼自身はサロンに対する反旗を掲げるつもりはなく、むしろ過去の巨匠から積極的に学ぶことによって、サロンで成功することを切望していた。そのため、印象派グループ展が立ち上げられても参加せず、サロンへの応募を続けた<ref>[[#高階・絵画史|高階 (1975: 上72-73)]]。</ref>。しかし、マネの『草上の昼食』や『オランピア』は、本人の意図に反して絵画界にとっての大スキャンダルを巻き起こし、第3の革命の引き金を引くことになった<ref>[[#ゴンブリッチ|ゴンブリッチ (2011: 390)]]。</ref>。その革命には、主題の問題と、造形の問題があった<ref>[[#高階・絵画史|高階 (1975: 上76-77)]]、[[#高階・フランス|高階 (1990: 266)]]。</ref>。 |
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主題の面では、ニンフでも女神でもない現実の女性が、裸身をさらすということ自体、[[フランス第二帝政]]時代の厳格な道徳観の下では、強い非難に値した<ref>[[#高階・フランス|高階 (1990: 266-67)]]。</ref>。当時のフランスは、[[産業革命]]が急速に進行し、[[ブルジョワ]]が台頭する時代であり、パリには大量の人口が流入し、都市として急拡大していた。[[ナポレオン3世]]が[[セーヌ県]]知事に任命した[[ジョルジュ・オスマン]]によって、[[パリ改造]]が行われ、中世以来のごみごみした街並みや貧民区が一掃され、大通り、上下水道、アパルトマン、公園、鉄道などのインフラが整備されるとともに、劇場、競馬場、洗練されたレストラン、カフェ、デパートなど、文化や娯楽が花開いた<ref>[[#尾関ほか|尾関ほか (2017: 301)]]。</ref>。その中で、娼婦は享楽に湧くパリの裏面を象徴する存在であり、それを露骨に描いた『オランピア』は、ブルジョワ社会に冷や水を浴びせる作品であった<ref>[[#吉川|吉川 (2010: 72, 85-87)]]。</ref>。『鉄道』や『バルコニー』では、近代社会における人間同士の冷ややかな関係や、[[人間疎外]]の様子を、冷徹に描いた。このように、近代化・都市化する時代をありのままに描くことがマネの本質であった<ref>[[#吉川|吉川 (2010: 105-124)]]。</ref>。 |
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一方、造形の面では、『草上の昼食』も、『オランピア』も、伝統的な陰影による肉付けが施されておらず、平面的に見える。『笛を吹く少年』では、背景は無地で、奥行きが感じられない。『フォリー・ベルジェールのバー』では、ウェイトレスの正面の姿と、背後の鏡に写った後ろ姿とが、遠近法的に矛盾を来している。このように、マネの作品は、伝統的な約束事にとらわれず、画家が目撃した現実を伝えようとする点で革新的であった<ref>[[#高階・絵画史|高階 (1975: 上77-78)]]、[[#高階・フランス|高階 (1990: 267)]]、[[#ゴンブリッチ|ゴンブリッチ (2011: 393)]]。</ref>。この傾向は、絵画が三次元空間の中で主題や物語性を伝えるという役割を捨て去り、二次元の画面上で造形自体の表現性を追求していく{{仮リンク|フォーマリズム (芸術)|en|Formalism (art)|label=フォーマリズム}}、[[モダニズム]]につながるものであった<ref>[[#三浦・歴史3|三浦 (2016: 120-22)]]。</ref>。 |
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=== 伝統的絵画からの影響 === |
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マネの生まれた家は、[[ルーヴル美術館]]のすぐ近くにあり、マネは、小さい頃から伯父に連れられてここを訪れていた。画家を志した1850年代には、トマ・クチュールの弟子としてルーヴル美術館に登録し、模写をしており、ティツィアーノなどの[[ヴェネツィア派]]を中心に、フランドル絵画、スペイン絵画の作品の模写が現存している<ref>[[#三浦・マネ|三浦 (2018: 23-26)]]。</ref>。オランダの[[アムステルダム国立美術館]]、[[フィレンツェ]]の[[ウフィツィ美術館]]などヨーロッパ各地の美術館を訪れた際も、模写を残している<ref>[[#三浦・マネ|三浦 (2018: 28-29)]]。</ref>。また、当時、過去の主要画家の作品を網羅する美術全集や、エッチング図版入りの美術雑誌が刊行されるようになっており、マネは、伝統的な絵画や同時代・外国の作品を複製図版で目にすることができる環境にあった<ref>[[#三浦・マネ|三浦 (2018: 33-38)]]、[[#尾関ほか|尾関ほか (2017: 327-28)]]。</ref>。 |
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{{Multiple image |
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|align = left |direction = horizontal |
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|image1=Fiesta campestre.jpg |width1 =140 |caption1 =ティツィアーノ『田園の奏楽』 |
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|image2=Urteil des Paris.jpg |width2 =160 |caption2 = ラファエロ『パリスの審判』に基づく[[マルカントニオ・ライモンディ]]の版画 |
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}} |
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19世紀フランスの画家にとって、[[ルネサンス期のイタリア絵画]]は基礎として必ず学ぶべき絵画であり、マネもこれを研究していた<ref>[[#三浦・マネ|三浦 (2018: 41)]]。</ref>。マネの『草上の昼食』は、友人マルセル・プルーストの回想によれば、ティツィアーノ(当時は[[ジョルジョーネ]]作とされていた)の『田園の奏楽』に発想を得たものである。加えて、3人の人物像を描くに当たっては、[[ラファエロ・サンティ|ラファエロ]]の『[[パリスの審判]]』の右下の3人のポーズを採用し、モデルにポーズをとってもらって制作している<ref>[[#三浦・マネ|三浦 (2018: 42-49)]]。</ref>。『オランピア』は、ティツィアーノの『[[ウルビーノのヴィーナス]]』に依拠しつつ、その構成要素をことごとく変更することによって、原作の「美しいヌード」を否定した作品である<ref>[[#三浦・マネ|三浦 (2018: 52-56)]]。</ref>。 |
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[[ファイル:El Tres de Mayo, by Francisco de Goya, from Prado in Google Earth.jpg|thumb|right|150px|ゴヤ『マドリード、1808年5月3日』]] |
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また、マネは、スペイン絵画からも大きな影響を受け、特に1865年のスペイン旅行後は、[[ディエゴ・ベラスケス]]や[[フランシスコ・デ・ゴヤ]]の影響が明らかな作品を多数制作している。マネの『皇帝マクシミリアンの処刑』は、ゴヤの『[[マドリード、1808年5月3日]]』を下敷きにした絵であるが、ゴヤが民衆の英雄性、悲劇性を強調しているのに対し、マネの作品には高揚感はなく、冷徹なレアリスムに徹しているのが特徴である<ref>[[#三浦・マネ|三浦 (2018: 61-66)]]。</ref>。背景のない全身像である『悲劇俳優』や『笛を吹く少年』は、ベラスケスの『道化師パブロ・デ・ヴァリャドリード』に基づいたことが明らかである。マネは、スペイン旅行の直後、手紙に「絵画における自分の理想の実現を彼(ベラスケス)のなかに見出した」と書いている<ref>[[#三浦・マネ|三浦 (2018: 72-75)]]。</ref>。 |
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そのほか、フランドル絵画([[ピーテル・パウル・ルーベンス]]など)、オランダ絵画([[フランス・ハルス]]など)、フランス絵画([[ル・ナン兄弟]]、[[アントワーヌ・ヴァトー]]、[[ジャン・シメオン・シャルダン]]など)の影響を受けた作品も指摘されている<ref>[[#三浦・マネ|三浦 (2018: 81-94)]]。</ref>。 |
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マネは、[[オールド・マスター]]の作品から、様々な主題や[[モチーフ]]を引用し、現代的な文脈に置き直していったといえる<ref>[[#三浦・マネ|三浦 (2018: 97)]]。</ref>。 |
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=== ジャポニスム === |
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[[ファイル:Edouard Manet - Woman with Fans - Google Art Project.jpg|thumb|left|180px|マネ『婦人と扇』<ref group="注釈">1873年。油彩、キャンバス、113.5 × 166.5 cm。[[オルセー美術館]]。{{Cite web |url=https://www.musee-orsay.fr/en/collections/index-of-works/notice.html?no_cache=1&nnumid=1136 |title=La dame aux éventails |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2019-05-14}}</ref>。マネの絵画・版画には、日本の美術工芸品が画中に描き込まれた作品や、『[[北斎漫画]]』のモチーフを転用した作品も多い<ref>[[#ジャポニスム学会|ジャポニスム学会 (2000: 36)]]。</ref>。]] |
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マネの絵画には、1860年代から流行した[[ジャポニスム]]の影響も指摘されている<ref>[[#三浦・謎|三浦 (2012: 21)]]、[[#高階・フランス|高階 (1990: 251)]]。</ref>。マネの『エミール・ゾラの肖像』の背景には、日本の花鳥図屏風と[[浮世絵]]が飾られており、浮世絵への関心が窺える。マネの場合、単なる異国趣味として浮世絵を取り入れただけではなく、造形の中にこれを生かしている。『笛を吹く少年』の平面的な彩色には、ベラスケスからのほかに、浮世絵からの影響があると考えられる。『キアサージ号とアラバマ号の海戦』には、伝統的な遠近法と異なり、高い視点と水平線、船を画面の端に寄せる構図が採用されており、日本風の空間表現である。『ボート遊び』の、水平線をなくし背景全体を水面とする構図、モチーフを切り取る手法も、同様である<ref>[[#ジャポニスム学会|ジャポニスム学会 (2000: 36-37)]]。</ref>。 |
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ゾラは、「マネの単純化された絵画を日本の版画と比較するのは興味深かろう。日本の版画は未知の優美さと見事な色斑によって、マネの絵と似ているのだから。」と書いている<ref>[[#三浦・謎|三浦 (2012: 21)]]。</ref>。 |
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また、色彩の点では、マネの『笛を吹く少年』などに見られる平坦で強い黒は、スペイン絵画からの影響とともに、[[浮世絵]]や[[水墨画]]の影響を受けたことが指摘されている<ref>[[#宮崎|宮崎 (2018: 147-152)]]。</ref>。 |
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=== 印象派との関係 === |
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[[ファイル:Frédéric Bazille - Bazille's Studio - Google Art Project.jpg|thumb|right|200px|[[フレデリック・バジール|バジール]]『バジールのアトリエ(ラ・コンダミンヌ通り)』1870年<ref group="注釈">油彩、キャンバス、98 × 128 cm。オルセー美術館。{{Cite web |url=http://www.musee-orsay.fr/fr/collections/oeuvres-commentees/recherche/commentaire/commentaire_id/latelier-de-bazille-11400.html |title=L'atelier de Bazille |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2017-11-22}}</ref>。]] |
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マネは、若い印象派の画家たちから敬愛を受け、前述のように伝統的な約束事にとらわれない造形という点でも印象派に影響を与えた。[[フレデリック・バジール]]の『バジールのアトリエ』では、キャンバスの前でマネがバジールに助言を与えているところが描かれている<ref>[[#吉川|吉川 (2010: 15)]]。</ref>。明示的にマネにならった作品もあり、モネは、マネの『草上の昼食(水浴)』に発想を得て1865年-66年に同様の主題で『草上の昼食』を制作し<ref>[[#カシャン|カシャン (2008: 55)]]。</ref><ref group="注釈">『草上の昼食』という題はモネの作品の方が先であり、マネは、これにならって、1867年の個展で『水浴』を『草上の昼食』と変更した([[#カシャン|カシャン (2008: 55)]])。</ref>、[[ポール・セザンヌ]]も、[[#印象派以後への影響|後述]]のように、『モデルヌ・オランピア(現代版オランピア)』を制作した<ref>[[#吉川|吉川 (2010: 87)]]。</ref>。 |
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[[ファイル:Édouard Manet - Les Courses (The Races at Longchamps) - Google Art Project.jpg|thumb|left|180px|マネ『ロンシャンの競馬場』1864/65-72年<ref group="注釈">リトグラフ、50.8 × 38.7 cm。[[ヒューストン美術館]]。{{Cite web |url=https://www.google.com/culturalinstitute/beta/asset/PAEn8bhDcecl0w |title=Les Courses (The Races at Longchamps) |publisher=Google Arts & Culture |accessdate=2017-11-22}}</ref>。]] |
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1864年-65年の『ロンシャンの競馬場』のリトグラフでは、馬は4本脚というような既存の知識に頼ることなく、一見殴り描きのような線で、一瞬の力強い動きを描写している。このような手法は、印象派に引き継がれている<ref>[[#ゴンブリッチ|ゴンブリッチ (2011: 394-95)]]。</ref>。 |
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他方、マネが、後輩のモネや弟子のベルト・モリゾら印象派から影響を受けた面もあり、1870年代には、印象派的な様式に近づいている<ref>[[#高階・絵画史|高階 (1975: 上74)]]。</ref>。モネにならって戸外制作を取り入れたり、印象派風の筆触分割を用いたりしている。もっとも、モネに代表される印象派が、光と大気の揺らぎをキャンバスに留めることに集中し、人物をラフな筆触で幻影のように描いたのとは異なり、マネの描く人物には存在感と現実感があり、印象派とはやや関心が異なっていた<ref>[[#カシャン|カシャン (2008: 98-100)]]、[[#吉川|吉川 (2010: 202-06)]]。</ref>。印象派が避けようとした黒も積極的に使用している<ref>[[#尾関ほか|尾関ほか (2017: 401)]]。</ref>。また、印象派の画家たちが、サイズの小さい作品を多数制作する傾向にあったのに対し、マネは、大きな作品を、毎回2点程度に集約して制作し、サロンに提出していた。これは、マネが、伝統的な[[歴史画]]に匹敵する作品を現代の主題と新しい手法で作り上げ、伝統の枠組みの中で認めさせようという野心を持っていたことを示唆する<ref>[[#三浦・マネ|三浦 (2018: 199)]]。</ref>。 |
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このように、マネは、印象派の画家たちと影響を与え合っており、印象主義的な要素の濃い作品もあることから、印象派の1人として語られることもあるが、印象派グループ展に参加しなかったことから、印象派そのものには含めず、印象派の指導者あるいは先駆者として位置付けられるのが一般的である<ref>[[#高階・絵画史|高階 (1975: 上72)]]、[[#吉川|吉川 (2010: 192-93)]]、[[#木村|木村 (2012: 96, 111)]]。</ref>。 |
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=== 印象派以後への影響 === |
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{{Multiple image |
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|align = right |direction = horizontal |
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|image1=Le Déjeuner sur l’herbe, par Paul Cézanne, coll. privée, Yorck.jpg |width1=130 |caption1 = セザンヌ『草上の昼食』<ref group="注釈">1870-71年頃、60 × 81 cm。私蔵。</ref> |
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|image2=Paul Cezanne, A Modern Olympia, c. 1873-1874.jpg |width2=120 |caption2 = セザンヌ『モデルヌ・オランピア』<ref group="注釈">第2作。1873年頃、46 × 55 cm。オルセー美術館。</ref> |
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}} |
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[[ポール・セザンヌ]]は、マネの『草上の昼食』、『オランピア』に影響を受け、自ら『草上の昼食』、『モデルヌ・オランピア(現代版オランピア)』を制作した。こうした作品を通じ、セザンヌは、男女関係や女性のヌードをどのように描くのかという課題と向き合い、性的なエネルギーを暴発させるのではなく造形作品として仕上げていくことを学んでいった。また、マネの『温室にて』や『フォリー=ベルジェールのバー』では、厳密な遠近法がとられず、複数の視点から見た形が画面上に統合されているが、これはセザンヌの静物画でも見られる特徴である。現実を単純に模倣するのではなく、自らの感覚で素材を操作し、絵画作品として造形するという発想は、マネからセザンヌ、ピカソにも受け継がれていく<ref>[[#三浦・マネ|三浦 (2018: 221-34)]]。</ref>。 |
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{{Multiple image |
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|align = left |direction = horizontal |
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|image1 =Paul Gauguin - Copy of Manet's Olympia.jpg |width1 =150 |caption1 =ゴーギャン『マネ「オランピア」の模写』<ref group="注釈">1891年。油彩、キャンバス、89 × 130 cm。私蔵。</ref> |
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|image2 =Paul Gauguin- Manao tupapau (The Spirit of the Dead Keep Watch).JPG |width2 =130 |caption2 = ゴーギャン『[[死霊が見ている]]』 |
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}} |
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[[ポール・ゴーギャン]]も、『オランピア』のかなり忠実な模写を制作している。ゴーギャンのタヒチ時代の作品『[[死霊が見ている]](マナオ・トゥパパウ)』、『テ・アリイ・ヴァヒネ(王の妻)』などの裸婦像には、『オランピア』のイメージが見て取れ、しかも、平坦な色彩を更に押し進めたものとなっている。マネの作品には、ゴーギャンにつながる[[オリエンタリズム]]や[[プリミティヴィスム]]の要素も隠れていることがうかがえる<ref>[[#三浦・マネ|三浦 (2018: 237-43)]]。</ref>。 |
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[[アンリ・マティス]]は、「マネは本能を解放することで自らの感覚の直接的な表現を行った最初の画家です。」と書いている。マティスの『コリウールのフランス窓』に、マネの『バルコニー』からの刺激が見られるとの指摘もある<ref>[[#三浦・マネ|三浦 (2018: 250-53)]]。</ref>。 |
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明示的なパロディとして有名なのは、[[シュルレアリスム]]の画家[[ルネ・マグリット]]が『バルコニー』の人物を[[棺桶]]に置き換えた作品であり、現代人の孤独や孤立性を誇張している<ref>[[#三浦・マネ|三浦 (2018: 252)]]、[[#吉川|吉川 (2010: 119-21)]]。</ref>。 |
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[[パブロ・ピカソ]]は、1901年に『「オランピア」のパロディー』を描いている。白人の裸婦が黒人になっており、召使いが黒人女性から白人男性に変わり、猫に犬が加わり、裸の自画像が客として描かれている。娼館を舞台とした大作『[[アビニヨンの娘たち]]』(1907年)の参照源の一つとなっているとされる<ref>[[#三浦・マネ|三浦 (2018: 253-57)]]、[[#吉川|吉川 (2010: 90-92)]]。</ref>。『恋人たち』(1919年)はマネの『ナナ』に依拠しながら大胆に変更を加えた作品で、画面の右上に「Manet」という文字が入っている。そのほかにもマネ作品を引用、再解釈したと考えられる作品がある。晩年のピカソは、過去の名作のヴァリエーション(変奏)を多数制作しているが、1959年8月から1962年7月にかけて、『草上の昼食』のヴァリエーションを手がけ、油彩画27点、デッサン140点、厚紙模型、彫刻などを残している<ref>[[#三浦・マネ|三浦 (2018: 258-65)]]。</ref>。 |
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== 脚注 == |
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{{脚注ヘルプ}} |
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=== 注釈 === |
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{{Reflist|group="注釈"|2}} |
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=== 出典 === |
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{{Reflist|20em}} |
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== 作家論 == |
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*『マネ 岩波 世界の巨匠』 サラ・カー=ゴム解説、[[高階絵里加]]訳、[[岩波書店]]、1994年 |
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*『マネ 印象派の巨匠』 アンリ・ララマン解説、[[宮下規久朗]]訳、[[日本経済新聞社]]、1996年 |
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*『マネ アート・ライブラリー』西村書店、1999年、新装版2012年 |
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::ジョン・リチャードソン/キャスリーン・アドラー解説、三浦篤・田村義也訳 |
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*[[ミシェル・フーコー]]『マネの絵画』 阿部崇訳、[[筑摩書房]]、2006年/[[ちくま学芸文庫]]、2019年 |
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*[[ジョルジュ・バタイユ]]『マネ 芸術論叢書』 江澤健一郎訳、[[月曜社]]、2016年 |
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*[[エミール・ゾラ]]『エドゥアール・マネを見つめて』 [[林卓行]]監訳、神田由布子訳、[[東京書籍]]、2020年 |
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*[[アントナン・プルースト]]『エドゥアール・マネの思い出』中央公論美術出版、三浦篤監修、泉美知子・井口俊訳、2024年 |
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::第一次史料の研究訳書。旧訳版『マネの想い出』野村太郎訳、美術公論社、1983年 |
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== 参考文献 == |
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* {{Cite book |和書 |author=アンリ・ロワレット |others=[[千足伸行]]監修、遠藤ゆかり訳 |title=ドガ――踊り子の画家 |publisher=創元社 |series=「知の再発見」双書 |year=2012 |origyear=1988 |isbn=978-4-422-21216-6 |ref=ロワレット}} |
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== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
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{{wikisource author}} |
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*{{Commonscat-inline|Édouard Manet}} |
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{{Commons&cat|Édouard Manet}} |
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{{wikiquotelang|en|Édouard Manet}} |
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* {{Internet Archive author |sname=Édouard Manet |sopt=t|name=Édouard Manet}} |
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* {{Art UK bio|manet-douard-18321883}} |
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* [http://www.getty.edu/vow/ULANFullDisplay?find=manet&role=&nation=&prev_page=1&subjectid=500010363 Union List of Artist Names, Getty Vocabularies.] ULAN Full Record Display for Édouard Manet, Getty Research Institute |
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*[http://libmma.contentdm.oclc.org/cdm/compoundobject/collection/p15324coll10/id/78705/rec/222 ''Impressionism: a centenary exhibition''], an exhibition catalog from The Metropolitan Museum of Art (p. 110–130) |
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*[http://gildedage2.omeka.net/exhibits/show/highlights/artists/manet Documenting the Gilded Age: New York City Exhibitions at the Turn of the 20th Century] |
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*[http://libmma.contentdm.oclc.org/cdm/ref/collection/p15324coll10/id/67210 ''The Private Collection of Edgar Degas''], material on Manet's relationship with Degas, Metropolitan Museum of Art |
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*[https://www.project-archive.org/0/051.html エドゥアール・マネ「ゾラへの手紙(原文・訳文)」(1866〜67年)]- ARCHIVE。マネがゾラに宛てた手紙 |
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*[https://www.project-archive.org/0/084.html エドゥアール・マネ「航海通信[リオ・デ・ジャネイロへ]」(1848年12月12日ごろ〜1849年3月11日)] - ARCHIVE。少年時代のマネによるブラジル実習中の手紙 |
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2024年12月17日 (火) 14:13時点における最新版
エドゥアール・マネ Édouard Manet | |
---|---|
肖像写真(ナダール撮影、1867年) | |
生誕 |
1832年1月23日 フランス王国・パリ |
死没 |
1883年4月30日(51歳没) フランス共和国・パリ |
墓地 |
フランス・パリ パッシー墓地[2] 北緯48度51分45秒 東経2度17分07秒 / 北緯48.86250度 東経2.28528度 |
国籍 | フランス |
教育 | トマ・クチュールのアトリエ |
著名な実績 | 絵画、版画 |
代表作 | 『草上の昼食』、『オランピア』、『笛を吹く少年』 |
運動・動向 | 写実主義、印象派 |
受賞 | レジオンドヌール勲章騎士章(1881年)[3] |
後援者 | ポール・デュラン=リュエル、ジャン=バティスト・フォール |
影響を受けた 芸術家 | ティントレット、ティツィアーノ、ベラスケス、ゴヤ、エドガー・ドガ、印象派[1] |
影響を与えた 芸術家 | 印象派 |
エドゥアール・マネ(フランス語: Édouard Manet, 1832年1月23日 - 1883年4月30日)は、19世紀のフランスの画家。近代化するパリの情景や人物を、伝統的な絵画の約束事にとらわれずに描き出し、絵画の革新の担い手となった。特に1860年代に発表した代表作『草上の昼食』と『オランピア』は、絵画界にスキャンダルを巻き起こした。印象派の画家にも影響を与えたことから、印象派の指導者あるいは先駆者として位置付けられる。
概要
[編集]エドゥアール・マネは、パリの裕福なブルジョワジーの家庭に生まれた。父はマネが法律家となることを希望していたが、中学校時代から、伯父の影響もあって絵画に興味を持った。海軍兵学校の入学試験に2回失敗すると、父も諦め、芸術家の道を歩むことを許した(→出生、少年時代)。歴史画家であったトマ・クチュールに師事したが、マネは、伝統的なクチュールの姿勢に飽き足らず、ルーヴル美術館や、ヨーロッパ各地への旅行で、ヴェネツィア派やスペインの巨匠の作品を模写した(→修業時代(1850年代))。
1859年以降、サロン・ド・パリへの応募を続け、1861年にスペインの写実主義的絵画に影響を受けた『スペインの歌手』などで初入選を果たした。理想化された主題や造形を追求するアカデミズム絵画とは一線を画し、近代パリの都市生活を、はっきりした輪郭や平面的な色面を用いながら描く作品は、サロンでは非難にさらされることが多かったが、詩人シャルル・ボードレールのように支持する論者もいた(→サロン入選の努力(1860年代初頭))。1863年にナポレオン3世の号令により開催された落選展で、『草上の昼食』を出展すると、パリの裸の女性が着衣の男性と談笑しているという主題が風紀に反すると非難を浴び、スキャンダルとなった。さらに1865年のサロンに『オランピア』を出品すると、パリの娼婦を描いたものであることが明らかであったことから、『草上の昼食』を上回る非難を浴びた。意気消沈したマネは、パリを離れてスペインに旅行し、ベラスケスの作品に接して影響を受けた(→絵画界のスキャンダル(1860年代半ば))。ベラスケス研究の成果といえる『笛を吹く少年』を1866年のサロンに提出したが、落選した。この時、作家エミール・ゾラの援護を受けた。マネは、パリのバティニョール地区にアトリエと住居を置き、カフェ・ゲルボワに足繁く通っていたが、マネの周りには、ゾラを含む文筆家や芸術家が集まっていた。1860年代後半には、モネ、ルノワールなどの若手画家もマネを慕って集まりに加わるようになり、バティニョール派と呼ばれるようになった(→バティニョール派の形成(1860年代後半))。
1870年に普仏戦争が勃発しプロイセン軍がパリに迫ると、マネは国民軍に入隊し、首都防衛戦に加わった。普仏戦争とパリ・コミューンの混乱が終息して第三共和政の時代になると、バティニョール派の若手画家たちはサロンから独立したグループ展を立ち上げ、印象派と呼ばれるようになった。マネは、批評家からは印象派のリーダー格と目されていたが、自身はサロンで成功することを重視し、印象派グループ展への参加を拒絶した。それでも、特にモネとの親しい関係は続き、モネのアルジャントゥイユの家を度々訪れ、戸外制作などの印象派の手法を取り入れた作品も制作している。また、詩人ステファヌ・マラルメと親しくなり、その影響も受けた(→第三共和政のパリ(1870年代))。1880年頃からは、梅毒により左脚の壊疽が進み、パリ郊外で療養しながら制作を続けた。1882年のサロンに最後の大作『フォリー・ベルジェールのバー』を出品した。1883年4月、壊疽が進行した左脚を切断する手術を受けたが、経過が悪く、51歳で亡くなった(→晩年(1880年代初頭))。
マネの死後、1890年にモネの働きにより『オランピア』が国のリュクサンブール美術館に受け入れられ、1896年にギュスターヴ・カイユボットの遺贈により『バルコニー』などが政府に受け入れられるなど、マネに対する公的な認知は進んだ。もっとも、これらの受入れの際にも美術界の保守派からは反対の声が上がり、マネと印象派に対する抵抗は根強いものがあった(→名声の確立)。しかし、その後、美術市場でのマネの評価は急速に上がり、1989年には『旗で飾られたモニエ通り』が2400万ドル(34億7520万円)で落札され、2014年には『春(ジャンヌ)』が6512万ドル余り(約74億円)で落札されるなど、美術市場の上位を占めるに至っている(→市場での評価)。
マネの油彩画は400点余りとされている(→カタログ)。マネは、保守的なブルジョワであり、サロンでの成功を切望していたが、『草上の昼食』と『オランピア』は本人の意図と裏腹にスキャンダルを呼び、美術界の革命を起こすことになった。主題の面では、娼婦の存在や、近代社会における人間同士の冷ややかな関係をありのまま描き出したことが、革新的であり、非難の的ともなった。造形の面では、陰影による肉付けや遠近法といった伝統的な約束事にとらわれない描写を生み出していった(→時代背景、画風)。同時に、伝統的なイタリア絵画、スペイン絵画、フランス絵画から学んでいる点も多く、オールド・マスターの作品から主題やモチーフを引用し、現代的な文脈に置き直していったといえる(→伝統的絵画からの影響)。また、平面的な彩色やモチーフを切り取る構図などに日本の浮世絵の影響を受けていると考えられる(→ジャポニスム)。印象派の画家たちから敬愛され、彼らに大きな影響を与えた一方、マネ自身が後輩の印象派から影響を受けた。マネには印象主義的な要素の濃い作品もあるが、印象派グループ展には参加していないことから、印象派には含めず、印象派の指導者あるいは先駆者として位置付けられるのが一般的である(→印象派との関係)。マネの作品は、セザンヌ、ゴーギャン、ピカソなどによって、模倣や再解釈の題材とされており、彼らの芸術に様々な影響を残していると考えられる(→印象派以後への影響)。
生涯
[編集]出生、少年時代
[編集]マネは、1832年、パリのプティ=ゾーギュスタン通り(現在のボナパルト通り)で、裕福なブルジョワジーの家庭に長男として生まれた。マネの父オーギュストは、法務省の高級官僚(司法官)で、共和主義者であった。母ウジェニーは、ストックホルム駐在の外交官フルニエ家の娘であった。マネの弟に、ウジェーヌ(1833年生)とギュスターヴ(1835年生)が生まれた[5]。
1844年から1848年まで、トリュデール大通りの中学校コレージュ・ロランに通った。父は、マネが法律家の道を継ぐことを望んでいた。一方、母方の伯父エドゥアール・フルニエ大尉は、芸術家肌の人物で、マネにデッサンの手ほどきをしたり、マネら3兄弟や、マネの中学校の友人アントナン・プルースト(後に美術大臣)をルーヴル美術館に連れて行ったりした。マネは、この頃から、絵画に興味を持っていたようであり、ルイ・フィリップがルーヴル美術館に設けたスペイン絵画館で17世紀スペインのレアリスム絵画に触れ、影響を受けた。プルーストの回想によれば、コレージュの歴史の授業で、画家が流行遅れの帽子を描いていることをドゥニ・ディドロが批判した展覧会評を読んだ時、マネが、「ぼくたちは、時代に即していなければならない。流行など気にせず、見たままを描かなければならないんだ。」と発言したという。また、伯父フルニエが絵画の課外授業に出席させてくれたが、言われたお手本を模写するのではなく、近くにいる生徒たちの顔をスケッチしていたという[6]。
マネは、芸術家の道を不安視する両親の意向を受け、水兵(海軍将校)になると父に宣言して海軍兵学校の入学試験を受けたが、落第した。1848年12月、実習船に乗ってリオデジャネイロまで航海した。後に、マネは、「私はブラジル旅行でたくさんのものを得た。毎夜毎夜、船の航跡のなかに、光と影の働きを見たものだった! 昼間は上甲板で、水平線をじっと見つめていた。それで、空の位置を確定する方法がわかったのだ。」と述べている[7]。1849年6月にパリに戻ると、海軍兵学校の入学試験を再び受けたが、また落第した。これに父も諦め、マネは芸術家の道を歩むことを許された[8]。
修業時代(1850年代)
[編集]マネは、1849年秋頃、トマ・クチュールのアトリエに入り、ここで6年間修業した。クチュールは、1847年のサロン・ド・パリに『退廃期のローマ人』を出品して成功した、当時のアカデミズム絵画界の中では革新的な歴史画家であった。マネは、クチュールの近代性から影響を受ける反面、伝統的な歴史画にこだわるクチュールの姿勢には反発した。マネがモデルに服を着させたままポーズをとらせていると、クチュールが入ってきて、「君は君の時代のドーミエにしかなれない」と批判した。また、マネは、アトリエで学ぶ傍ら、ルーヴル美術館でティントレット、ティツィアーノ・ヴェチェッリオ、フランソワ・ブーシェ、ピーテル・パウル・ルーベンスなどの作品を模写した。1852年にはアムステルダム国立美術館を訪れ、1853年には弟ウジェーヌとともにヴェネツィア、フィレンツェを旅行し、ティツィアーノの『ウルビーノのヴィーナス』を模写した。さらに、この時、ドイツや中央ヨーロッパまで足を延ばし、各地の美術館を訪れたようである。存命中の画家の中では、ギュスターヴ・クールベの『オルナンの埋葬』、ジャン=バティスト・カミーユ・コロー、シャルル=フランソワ・ドービニー、ヨハン・ヨンキントらの風景画を高く評価していた[9]。友人アントナン・プルーストとともにウジェーヌ・ドラクロワのもとを訪れ、作品の模写の許可を求めたが、ドラクロワからは許可をもらったものの、冷淡な対応をされたようである[10]。この頃、弟たちのピアノの家庭教師シュザンヌ・レーンホフと恋仲になった(後に妻となる)。1852年1月にはシュザンヌに男の子レオンが生まれ、戸籍上はシュザンヌの弟(レオン・コエラ=レーンホフ)として届け出られた。実際には、レオンは、マネの子であった可能性が大きいと考えられている[11][注釈 1]。
1856年にクチュールのアトリエを去ると、友人の画家、アルベール・ド・バルロワとの共有で、バティニョール地区のラヴォワジエ通りにアトリエを構えた[12]。しばらくはサロンへの応募をせず、ルーヴル美術館で、ティントレット、ディエゴ・ベラスケス、ルーベンスなどの巨匠の模写を続けた。その中で、画家のアンリ・ファンタン=ラトゥール、エドガー・ドガと知り合った[13]。1857年にはフィレンツェを再訪し、サンティッシマ・アヌンツィアータ教会のアンドレア・デル・サルトの壁画を模写した[14]。
サロン入選の努力(1860年代初頭)
[編集]1859年のサロンに、『アブサンを飲む男』を初めて提出したが、下絵のような無造作な描き方が不評だったのに加え、酔った男や足元の酒瓶という露骨な現実を画題とすることがサロンにふさわしくないと酷評され、落選した。もっとも、審査員だったウジェーヌ・ドラクロワからは評価された。詩人のシャルル・ボードレールも、この作品を賞賛した。この頃には、マネとボードレールは親しく交流していた[15]。サロン落選に続いて、1860年には、マネが制作した肖像画『ブリュネ夫人』が、モデルの家族から受取りを拒否されるということもあった[16]。
この頃、マネが住むバティニョール地区の近くには小ポーランド地区という貧民街があったが、ジョルジュ・オスマンによるパリ改造の中でマルゼルブ大通りが縦貫することになり(1861年開通)、古い家屋は取り壊されていった。マネが1861年にアトリエを構えたギュイヨ通り(現メデリック通り)もその近くである。友人マルセル・プルーストの回想によれば、マネは、一緒に小ポーランドを通った時、家屋が埃を上げて取り壊されている情景を見て、長い間押し黙って心を奪われていたという。1860年代初頭のマネの作品には、小ポーランド界隈の貧しい人々を描いたと思われる作品が多い[17]。
1861年のサロンに、『スペインの歌手』と、両親を描いた『オーギュスト・マネ夫妻の肖像』を応募し、いずれも初入選した。当時のフランスではスペイン趣味が流行しており、マネは、イタリア風の古典的作品に反発する立場から、スペインの写実主義的絵画に傾倒していた。彼は、マドリードの巨匠たちやフランス・ハルスを思い浮かべながら『スペインの歌手』を描いたと語っている[18]。『スペインの歌手』は、サロン会場の人目につかない隅に展示されていたが、テオフィル・ゴーティエが絶賛したことから、急に中央の良い場所に移され、優秀賞(佳作)の評価まで受けた[19]。アルフォンス・ルグロ、アンリ・ファンタン=ラトゥール、カロリュス=デュラン、フェリックス・ブラックモンなど、若いレアリスムの画家たちはこの作品に衝撃を受け、そろってマネの家を訪れた。マネは彼ら画家集団の核となっていった[20]。一方、『オーギュスト・マネ夫妻の肖像』については、両親の間に奇妙な冷たさが流れていることから、批評家から、「マネは最も神聖な肉親の絆でさえも土足で踏みにじる」と非難された[21]。それでも、サロンでの成功を重んじる父に対し、約束を果たすことができた[22]。
同年秋には、イタリアン大通りのルイ・マルティネの画廊で主要作品を展示する展覧会を開いた。この時以来、マルティネ画廊ではマネ作品を取り扱うようになった[23]。
1862年には、テュイルリー宮殿に隣接する庭園で開かれたコンサートを題材とした『テュイルリー公園の音楽会』を制作し、テオフィル・ゴーティエ、ボードレール、ジャック・オッフェンバック、ザカリー・アストリュク、アンリ・ファンタン=ラトゥールといった社交界の友人たちをモデルとして登場させた。第二帝政下の華やかなブルジョワ社会を描いた作品である[24]。マネは、1863年、マルティネ画廊での個展に『テュイルリー公園の音楽会』や『ローラ・ド・ヴァランス』を展示したが、輪郭がはっきりした筆遣いや、平面的な色面の処理が奇妙だと捉えられ、激しい非難にさらされた[25]。
この時期、マネは、内縁の妻シュザンヌをモデルにした『驚くニンフ』や、レオン少年をモデルにした『剣を持つ少年』などを制作している[26]。1862年にマネの父が亡くなると、1863年10月、マネはシュザンヌと結婚した[27]。また、この頃知り合った女性ヴィクトリーヌ・ムーランにモデルを依頼して、『街の女歌手』、『ヴィクトリーヌ・ムーランの肖像』などを制作している[28]。
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『驚くニンフ』1860-1861年。油彩、キャンバス、146 × 114 cm。ブエノスアイレス国立美術館。
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『ローラ・ド・ヴァランス』1862年。油彩、キャンバス、123 × 92 cm。オルセー美術館[35]。
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『ヴィクトリーヌ・ムーランの肖像』1862年頃。油彩、キャンバス、42.9 × 43.8 cm。ボストン美術館[38]。
絵画界のスキャンダル(1860年代半ば)
[編集]『草上の昼食』
[編集]マネは、1863年のサロンに応募したが、落選した。この年のサロンの審査は例年に比べ非常に厳しく、落選者の不満が高まった。これを懸念したナポレオン3世が、サロンと並行して、サロン落選作で構成する落選展を開催することを命じた[40]。マネの『水浴』(後に『草上の昼食』と改題)、『マホの衣装を着けた若者』、『エスパダの衣装を着けたヴィクトリーヌ・ムーラン』も落選展に展示された[41][注釈 2]。ところが、特に『草上の昼食』は、批評家たちから酷評と嘲笑を浴び、一大スキャンダルとなった。当時、裸婦を描くこと自体は珍しいものではなく、実際、この年のサロンで賞賛されたアレクサンドル・カバネルの『ヴィーナスの誕生』は、官能的な裸婦を描いているが、現実ではなく神話の世界を描いたものであるため、良識に反することはなかった。また、マネが発想源としたティツィアーノの『田園の奏楽』でも、裸のニンフと着衣の男性が描かれている。しかし、『草上の昼食』の裸婦は、パリの現実の女性が着衣の男性と談笑するというもので、風紀に反すると考えられた。裸婦の周りに、果物などの食べ物や、脱いだ後の流行のドレスが描かれることによって、裸婦がニンフなどではなく現実の女性であることが露骨に強調されることになった[42]。当時の鑑賞者は、この作品から、社会の陰の部分である売春の世界を読み取った[43]。批評家エルネスト・シェノーは、「デッサンと遠近法を学べば、マネも才能を手に入れることができるだろう」と、描き方の稚拙さを指摘するとともに、「ベレー帽をかぶり短いコートを着た学生たちにかこまれ、葉の影しか身にまとっていない娘を木々の下に座らせている絵が、申し分なく清純な作品だとは思えない。[中略]彼は俗悪な趣味の持ち主だ。」と、テーマ自体を厳しく批判した[44]。
1864年、バティニョール大通り34番地に引っ越した[12]。マネは、自由奔放な私生活を送っており、以前から、イタリアン大通りのカフェ・トルトーニや、カフェ・ド・バードに足繁く通っていたが、バティニョール大通りに移った頃から、カフェ・ゲルボワに足を運ぶようになったと思われる。カフェ・ゲルボワのマネの周りには、次第に美術家や文学者が集まり始めた。その中には、詩人のザカリー・アストリュク、中学時代・クチュール画塾時代からの友人アントナン・プルースト、写真家ナダール、批評家ルイ・エドモン・デュランティ、テオドール・デュレ、フィリップ・ビュルティ、画家アンリ・ファンタン=ラトゥール、アントワーヌ・ギユメ、版画家マルスラン・デブータンなどがいた[46]。
作家のアルマン・シルヴェストルは、カフェ・ゲルボワでのマネについて、次のように描写している[47]。
この革命家[中略]は完璧な紳士のマナーをもっていた。しばしば派手なズボンをはき、ショート・ジャケットを着て、つばの平らな帽子を後頭部にかぶり、いつも汚れひとつないスエードの手袋をはめているので、マネはボヘミアンのようには見えなかったし、実際、彼にはボヘミアンらしいところは少しもなかったのである。彼は一種のダンディーだった。[中略]彼はとても寛大で親切であったけれども、会話ではわざと皮肉でしばしば毒をふくんでいた。ひとを打ちのめす痛烈な言い回しをすばらしく流暢にあやつった。しかし同時に彼の言葉づかいは好意に満ちていて、そこに込められた考えはまったく正しかった。 — アルマン・シルヴェストル、『回想の国で』(1892年)
『オランピア』
[編集]1864年のサロンには、『死せるキリストと天使たち』とスペインの闘牛の絵を提出し、入選した。ボードレールは、審査委員であった友人に、マネの作品を良い場所にかけてくれるように依頼したり、マネがゴヤやベラスケスを模倣しているとの批判的意見に反論したりしている。しかし、批判は強く、マネはこれに落胆し、闘牛の絵を切断して二つの部分だけを残した[53]。
マネは、1865年のサロンに、ヴィクトリーヌをモデルとした『オランピア』を出品し、入選した。ところが、この作品は、『草上の昼食』以上のスキャンダルを巻き起こした。裸婦がベッドに寝そべる構図は、ティツィアーノの『ウルビーノのヴィーナス』を発想源としていたが、マネの作品は、ヴィーナスとは程遠い、パリの娼婦を描くものであることが明らかであった。表題の「オランピア」とは、娼婦(ドゥミ・モンデーヌ)の源氏名として広く使われる名前であったし、黒人のメイドは娼館に多かった。メイドが運ぶ花束は、前夜の客から贈られたものである。『ウルビーノのヴィーナス』に描かれていた犬は忠誠・貞節のシンボルだが、マネが描き入れた黒猫は、性的なイメージを暗示するものと受け止められた。マネは、急速に近代化が進むパリのブルジョワ社会の暗部を赤裸々に描き出したのであった[54]。
なお、この時のサロンで、クロード・モネが海景画2点を提出し、アルファベット順でマネと同じ部屋に並べられていたが、この海景画を見た人が、名前の似たマネの作品と誤解し、マネに祝福の言葉をかけた。マネは、自分の名前を悪用して名を売ろうとする画家がいると思い、憤慨したという[55][注釈 3]。
マネは、『オランピア』への批判に意気消沈し、ブリュッセルにいたボードレールに宛てて、「あなたがここにいてくださったら、と思います。ぼくの上には、罵詈雑言が雨あられと降っています。」と書き送り、ボードレールから励ましを受けている[56]。マネは、物議に辟易し、8月からスペインに旅行をした。マドリードの王立美術館(現プラド美術館)でベラスケスを中心とするスペイン絵画に触れ、友人ファンタン=ラトゥールに、「ベラスケスを観るだけでも旅に出る意味がある。」と書き送っている[57]。また、マネは、「これらの素晴らしい作品の中で最も驚くべき作品、おそらくこれまでに描かれた最も驚くべき絵画作品は、フェリーペ四世の時代のある有名な俳優の肖像と目録に記載されている絵だ。背景が消えている。黒一色の服を着て生き生きとしたこの男を取り囲んでいるのは空気なのだ。」と書いている[58]。この旅の中で、批評家テオドール・デュレと知り合い、親友となった[59]。
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『死せる闘牛士』1864年? 油彩、キャンバス、75.9 ×153.3 cm。ナショナル・ギャラリー(ワシントンD.C.)[62]。1864年サロン入選作『闘牛のエピソード』をマネ自身が上下に分断した下部[49]。
バティニョール派の形成(1860年代後半)
[編集]マネは、1866年、サン=ラザール駅近くのサン=ペテルスブール通りに住居を移し、死去までこの通りに住んだ[12]。
マネは、1866年のサロンに『笛を吹く少年』を提出したが、落選した。この作品は、スペイン旅行でベラスケスに学んだ単純で平坦な背景処理を実践したものであった[66]。駆け出しの作家だったエミール・ゾラが、この年の春、画家アントワーヌ・ギユメの紹介でマネのアトリエを訪れ、マネに心酔するようになった。ゾラは、『レヴェヌマン』紙で、サロンで落選した『笛を吹く少年』について、「私はこれほどまでに複雑でない方法で、これ以上力強い効果を得ることはできないように思う。」とマネを強く擁護した[67]。
1867年のパリ万国博覧会では、ジャン=レオン・ジェロームやカバネルのようなアカデミズム絵画のほか、ジャン=バティスト・カミーユ・コロー、ジャン=フランソワ・ミレーのようなバルビゾン派の作品が展示されたが、マネの作品は展示されなかった。そこで、マネは、展覧会場から遠くないアルマ橋付近に、多額の費用をかけてパビリオンを建て[注釈 5]、10年近くにわたる主要作品50点を展示する個展を開いた。マネは、ゾラに宛てて、「私は危険な賭けをしようとしていますが、あなたのような人びとの助けがあるので成功を確信しています。」と書いている。しかし、賞賛した批評家もわずかにいたものの、マネが期待したような社会的評価は得られなかった。ただ、マネの傑作全てを一堂に見られる充実した内容であり、これを見た若い画家たちは大きな影響を受けた[68]。モネやフレデリック・バジールが、サロンに頼らずに自分たちのグループ展を計画するきっかけにもなった[69]。マネは、自分の作品についてほとんど文章を残していないが、個展に際しての「趣意書」の中では、次のように書いている[70]。
今日、芸術家[マネ]は、「欠点のない作品を見に来てくれ」とは言わず、「真摯な作品を見に来てくれ」と言う。この真摯さゆえに、画家はひたすら自分の印象を描いているにもかかわらず、作品は図らずも抗議の色合いを帯びてしまうのである。マネは抗議しようとしたことなど断じてない。[中略]彼は他の誰でもなく自分自身であろうと努めたに過ぎない。 — マネ[注釈 6]、趣意書
ゾラは、1867年、『レヴェヌマン』紙の記事を発展させて小冊子「マネ論」を発表し、マネの個展の中で販売した。ゾラは、その中で、次のように書いている。これは、絵画は純粋に色彩と形態を追求するものだというモダン・アートの先駆けとなる考え方であった[71]。
いかなる対象を前にしても画家[マネ]は対象の様々な色調を識別する自らの眼に従う。それは、壁を背に立つ人物の顔は灰色の地に塗られた白っぽい円に過ぎず、顔の横に見える洋服は青みがかった色斑でしかない、といった具合なのだ。[中略]多くの画家たちは絵画で思想を表現しようと躍起になるが、この馬鹿げた過ちを彼は決して犯さない。[中略]複数のオブジェや人物を描く対象として選択するときの彼の方針は、自在な筆捌きによって色調の美しい煌きを創り出せるか否かということだけだ。 — エミール・ゾラ、「マネ論」
マネは、ゾラの応援に意を強くし、1868年のサロンにはゾラの肖像を出品している。その画中の机の上には、青い表紙の「マネ論」小冊子が描かれている[73]。
1860年代後半には、クロード・モネも、アストリュクの紹介でマネと知り合った。ゾラやモネのほか、ピエール=オーギュスト・ルノワール、フレデリック・バジール、カミーユ・ピサロなど、アカデミー・シュイスやシャルル・グレール画塾を中心として集まった若手画家たちも、カフェ・ゲルボワに顔を出すようになった。こうした若手画家たちは、「バティニョール派」と呼ばれるようになった。ファンタン=ラトゥールが描いた『バティニョールのアトリエ』には、マネを中心とする若手画家たちの集まりが描かれている[74]。1868年には、ファンタン=ラトゥールを通じて、女性画家ベルト・モリゾとその姉エドマ・モリゾと知り合った。ベルト・モリゾは、マネの作品のモデルを務めるようになる[75]。1869年2月には、エヴァ・ゴンザレスがマネのアトリエに弟子入りした[76]。
エドガー・ドガとは、ルーヴル美術館で模写をしている時に知り合って親しくなったが、ドガがカフェ・ゲルボワに出入りするようになったのは1868年春頃からである。2人は、互いに敬意を持ちながらも、遠慮なく辛辣な言葉の応酬を繰り返す関係だった[78]。ドガが、ピアノを弾くシュザンヌとマネを描いた作品を贈ったが、マネは、妻の姿が気に入らず、絵を切断してしまった。ドガは、その絵をマネの家で目にして激怒し、マネからもらった静物画をマネに送り返した。ドガは、晩年、画商アンブロワーズ・ヴォラールから、「でも、その後マネと仲直りしましたよね」と聞かれると、「マネと仲違いしたままでいられるはずはないよ!」と答えている[79]。
マネは、1867年にフランスが擁立していたメキシコ皇帝マクシミリアンが銃殺された事件を題材に、『皇帝マキシミリアンの処刑』の油彩画3点と石版画1点を制作していたが、1869年1月、内務省から、検閲により絵画がサロンに受け入れられないこと、石版画の印刷が禁止されることを通知された。ゾラは、『ラ・トリビューヌ』紙に、この検閲を批判する記事を載せた[80]。
1869年のサロンには、『バルコニー』と『アトリエでの昼食』が入選した。『バルコニー』には、ベルト・モリゾがモデルとして登場している。左手前を見つめるモリゾを含め、3人の人物はぎこちなく、視線は虚ろで、かみ合っていない。モリゾは、サロン会場で見たこの作品について、「マネの作品は、いつものことですが、熟していない硬い果実のような印象を醸し出しています……『バルコニー』に描かれた私は醜いというよりも奇妙です。」と書いている。批評家たちは、登場人物が何を考えているのか不明瞭で、静物画のようだと言ってけなした。しかし、現在では、近代の人間の中に存在する無関心を描き出すことこそがマネの本質であったと評されている[81]。
マネは、機知に富んだ言葉で相手をやっつけようとするところがあり、1870年には、エドモン・デュランティと口論の末、剣で決闘をするという出来事もあった。2人は、大きな怪我はなく、その日の夜には和解した[82]。
第二帝政下最後のサロンとなった1870年のサロンには、『エヴァ・ゴンザレスの肖像』を提出したが、保守派の批評家アルベール・ヴォルフは、「油彩で描かれた醜い平坦なカリカチュア」、「注目を引くためだけのお粗末な絵」とこき下ろした。他方、テオドール・デュレやエドモン・デュランティは、マネを擁護する論評を書いた[83]。
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『皇帝マキシミリアンの処刑』1868年。油彩、キャンバス、252 × 305 cm。マンハイム市立美術館。
第三共和政のパリ(1870年代)
[編集]普仏戦争から1870年代初頭
[編集]1870年7月、普仏戦争が勃発し、ナポレオン3世は9月にスダンでプロイセン軍に降伏した。マネは、プロイセン軍のパリ侵攻に備えて、家族をピレネー山脈のオロロン=サント=マリーに疎開させた。11月、国民軍に中尉として入隊し、首都防衛戦に加わったが[注釈 8]、1871年1月、フランス軍はパリを包囲していたプロイセン軍に降伏し、開城した。マネは、2月、パリを去り、疎開していた家族と合流してパリに帰ろうとしたが、3月のパリ蜂起、パリ・コミューン成立と引き続く内戦によって足止めされ、5月の「血の1週間」でパリ・コミューンが鎮圧された頃にパリに戻ったと思われる。ベルト・モリゾの弟が、戦闘中のパリでマネとドガの2人連れを目撃したという記録がある[93]。
普仏戦争とパリ・コミューンの混乱が終息すると、ロンドンに難を逃れていたモネやピサロなど、「バティニョール派」の若い画家たちがパリに戻ってきた。モネは、パリ郊外のアルジャントゥイユにアトリエを構えたが、その借家を周旋したのは、セーヌ川の対岸ジュヌヴィリエに広大な土地を所有していたマネであった。マネや、ルノワール、シスレーらは、頻繁にモネのアトリエを訪れ、一緒に制作した[94]。マネは、モネら若い画家から敬愛される一方、モネらの新しい手法からも影響を受けていった[95]。
ロンドンでモネやピサロと知り合った画商ポール・デュラン=リュエルが、他のバティニョール派の画家たちにも興味を持つようになり、1872年にはマネの作品24点を購入した[96][注釈 9]。
第三共和政の下で最初に行われた1872年のサロンには、マネは1864年制作の『キアサージ号とアラバマ号の海戦』を提出し、入選した。1873年のサロンには、『ル・ボン・ボック』と『休息(ベルト・モリゾの肖像)』が入選した。『ル・ボン・ボック』は、伝統的な表現手法による肖像画で、サロンでは好評だったが、バティニョール派からは評価されなかった[97]。シルヴェストルは、マネの絵が大衆に少しずつ受け入れられつつあることを感じ、「マネはいまだ議論の場にいるものの、すでに困惑の対象ではない」と書いている[98]。
マネとその仲間たちのたまり場は、1873年半ばころ、カフェ・ゲルボワから、マルスラン・デブータンに先導されるように、ピガール広場のカフェ・ド・ラ・ヌーヴェル・アテーヌに移っていったようである。そこには、カフェ・ゲルボワからの常連に加え、新しいメンバーも加わった[99]。小説家ジョージ・ムーアは、カフェで隣り合って座るマネとドガだが、マネは明るさと率直さに満ちた性格で、芸術においては必ず自然に即して描くのに対し、ドガは目がきつく皮肉屋で、絵はデッサンと覚書から組み立てるなど、あらゆる点で対照的であったことを書き留めている[100]。
印象派展への不参加
[編集]モネやピサロは、1873年のサロンには応募しなかった。彼らは、この頃から、サロンとは独立したグループ展の開催を計画していた。モネは、この年4月、ピサロへの手紙の中で、「マネ以外は、全ての人が賛同しています。」と書いている[106]。そして、1874年4月、モネ、ピサロ、ルノワール、シスレー、ドガ、ベルト・モリゾなど30人の参加者で第1回グループ展を開いた。後に第1回印象派展と呼ばれる画期的な展覧会であった[107]。マネは、1873年のサロンで『ル・ボン・ボック』が好評だったこともあって、サロンこそ画家の唯一の道であると考え、グループ展を開くことには反対であった。そのため、モネやドガから熱心に参加を勧められたが、断った。参加しない口実として、「コテで描く左官にすぎないようなセザンヌとかかわりをもちたくない」と公言していたという[108]。マネは、同じ1874年のサロンに、『鉄道』を出品している。深い愛情で結ばれた理想的な母子像ではなく、読書に熱中する母親と、退屈そうにサン=ラザール駅の構内を眺める娘を冷ややかに描き出した作品である[109]。マネは、こうした現代都市の人間像に関心を寄せていた点でも、戸外制作による風景画を主にしたモネら印象派とは方向性が違っていた[110]。
ドガは、グループ展に参加しないマネについて、「写実主義のサロンが必要だ。マネはそのことをわかっていない。どう考えても、彼は利口というよりうぬぼれやだ。」と批判した[111]。とはいえ、この年、グループ展の入場者数は30日で延べ約3500人だったのに対し、サロンの入場者数は40日間で延べ50万人を超えていたと見られ、公衆の認知はまだまだサロンが大きな力を持っていた。グループ展は、批評家ルイ・ルロワの風刺的な記事[注釈 10]を筆頭に、嘲笑する声が大きく、経済的にも赤字に終わった[112]。マネはグループ展に参加しなかったにもかかわらず、批評家たちは、「使徒マネ氏とその弟子たち」と書くなど、マネを印象派のリーダー格と目していた[113]。
モネとの親しい関係は続き、マネは度々アルジャントゥイユを訪れていた。モネが経済的困窮に陥り、マネに苦境を訴える手紙を送ると、マネは援助に応じた[114]。モネは、小さなボートをアトリエ舟に仕立て、セーヌ川に浮かべて制作したが、その様子をマネが描いている[115]。モネの回想によれば、1874年、マネとルノワールが、アルジャントゥイユのモネの家で、モネの妻カミーユと息子ジャンを一緒に描いたことがあったが(『庭のモネ一家』)、マネは、モネに、「あの青年には才能がない。君は友人なら、絵を諦めるように勧めなさい。」と言ったという。もっとも、マネは、心からルノワールを賞賛していたので、このエピソードは、ルノワールと競い合ったマネの苛立ちを表したものにすぎないとも指摘されている[116]。ところで、マネはこの時初めて戸外にイーゼルを立てて制作したと思われるが、これは、戸外の明るい光の下で自然の印象を正確にとらえようというモネの戸外制作の手法に従ったものであった[117]。マネは、印象派の技法をとりいれた『アルジャントゥイユ』を1875年のサロンに出品した。印象派に対するマネの支持表明といえる[118]。しかし、背景のセーヌ川の描き方が青い壁のようだなどと酷評を浴びた[119]。1874年12月には、マネの弟ウジェーヌ・マネと、ベルト・モリゾが結婚した[120]。1875年頃、エコール・デ・ボザールの教師に対し反乱を起こした若手画家のフラン=ラミやフレデリック・コルデーが、マネに自由なアトリエを開いてほしいと言って受入れを求めたが、マネは、公的な評価を気にして、これを断ったようである[121]。
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『アトリエ舟で描くクロード・モネ』1874年。油彩、キャンバス、80 × 98 cm。ノイエ・ピナコテーク。
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『庭のモネ一家』1874年。油彩、キャンバス、61 × 99.7 cm。メトロポリタン美術館[127]。
マラルメとの親交
[編集]マネは、1873年頃、詩人ステファヌ・マラルメと知り合い、親しくなった。1875年、マラルメがエドガー・アラン・ポーの『大鴉』を訳した時、その挿絵のためにリトグラフを制作した。翌1876年には、マラルメの『牧神の午後』の挿絵のために木版画を制作した[128]。
マネは、1876年のサロンに、『洗濯』と、マルスラン・デブータンを描いた『画家』を応募したが、落選した。そこで、マネは、個展を開き、これらの落選作を公開した。招待状には、金色の文字で、「ありのままに描く、言いたいように言わせる」と書かれていた。この個展には、1日に400人もの来場者があり、新聞は大々的に報じた。「なんということ! 目鼻だちがすっきりとして、おだやかなまなざしをした、手入れされたブロンドのひげのこの紳士、[中略]パリッとしたシャツを着て、きちんと手袋をはめたこの紳士が、ボート遊びをする人びと[『アルジャントゥイユ』]の作者なのだ!」と驚きをもって伝えており、相変わらずマネの作品に対する評価は低かった[129]。
一方、マラルメは、『洗濯』について、「おそらく画家[マネ]の経歴において、そして確実に美術史上、時代を画する作品」だと賞賛した。マネは、マラルメに肖像画を贈り、マラルメはこれをずっと自分の家に飾っていた[130]。マラルメは、ボードレール、ゾラに続くマネの擁護者としての役割を果たした[131]。マネの死後、マラルメは、マネについて次のように述べている[132]。
失望のなかにも、[中略]男らしい無邪気さがあった。つまり、カフェ・トルトーニでは、からかい好きで、粋な人間だった。その一方、アトリエでは、まるで一度も絵を描いたことがないかのように、白いカンバスに激情を投げつけていた。 — ステファヌ・マラルメ、『とりとめのない話』「マネ」
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マラルメ訳『大鴉』のための挿絵、1875年。リトグラフ。
1870年代末のサロン
[編集]1877年のサロンには、『ハムレットを演じるフォール』が入選した。モデルのジャン=バティスト・フォールは、有名なバリトン歌手で、印象派の作品を愛好しており、マネの作品を67点も収集していた。この絵は、フォールの当たり役ハムレットを演じるところを描いたものだが、サロンでは、「滑稽な肖像画だ」、「狂人になったハムレットが、マネ氏によって描かれた」などと風刺された[135]。また、同じく1877年のサロンに応募した『ナナ』は、『オランピア』と同様、高級娼婦を描いた自然主義的な主題の作品だったが、落選した[136]。
1877年の冬から1878年にかけて、サロンに出品するため、カフェ・コンセールを舞台にした大作にとりかかった。結局、マネはその作品を2分割し、『ビヤホールのウェイトレス』と『カフェにて』という2つの作品となった[137]。1878年のパリ万国博覧会とサロンには応募していない[138]。友人ジュゼッペ・デ・ニッティスがレジオンドヌール勲章を受章すると、マネは、勲章への切望を隠そうとせず、ドガに、「僕が勲章をもらっていないですって? でもこれは僕のせいではありませんない〔ママ〕。できればもらいたいですし、その目的のために必要なことは何でもするとあなたに誓いましょう。」と話した。これに対し、外的な成功を侮蔑していたドガは、「あなたがたいそうなブルジョワなのはずっとわかっていました。」と返した[139]。1878年、実業家エルネスト・オシュデが破産し、マネや印象派のコレクションが競売に付されたが、マネの作品は平均583フランであり、相当低い値しか付かなかった[140]。モネをはじめとする印象派の画家の経済状況も苦しく、マネはモネに金銭的な援助をしている[141]。
1879年のサロンには、『ボート遊び』(1774年)と『温室にて』を出品した[125]。
1880年のサロンには、現代生活の情景を描いた『ラテュイユ親父の店』と中学時代からの親友を描いた『アントナン・プルーストの肖像』を出品した[142]。マネは、サロン開会後、プルーストに次のような手紙を送っている[143]。
3週間前から、サロンにあなたの肖像画が陳列されています。ドアに近い、展示場から切り離されたひどい壁面に掛けられました。場所がそうなら、評判はもっと悪いのです。しかし悪口を言われるのは私の宿命ですから、達観してそれを受け止めています。それにしても、人物をひとりだけ画面におくこと、そしてこの単独像に関心を集中させ、なおも生き生きとしているように見せることが、いかに難しいか、あなたにはほとんど信じがたいでしょう。2人の人物を描くことは、それに比べれば子供の遊びです。 — マネ、アントナン・プルースト宛て書簡(1880年)
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『ハムレットを演じるフォール』1877年。油彩、キャンバス、196 × 131 cm。フォルクヴァンク美術館。同年サロン入選[126]。
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『胸をはだけたブロンドの娘』1878年。油彩、キャンバス、62.5×51cm。オルセー美術館。
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『自画像』1878-79年。油彩、キャンバス、94 × 63 cm。ブリヂストン美術館。
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『パレットを持った自画像』1879年。油彩、キャンバス、83 × 67 cm。私蔵。
晩年(1880年代初頭)
[編集]マネは、1880年頃から、16歳の時にブラジルで感染した梅毒の症状が悪化し、左脚の壊疽が進んできた[148]。医師から、田舎での静養を指示され、1880年の夏はパリ郊外のベルビューに滞在した。マネは、暇をまぎらわすため、友人たちや、お気に入りのモデル、イザベル・ルモニエに多くの手紙を送っている[149]。晩年の2年間は、病気のため、大きな油彩画を制作することが難しくなり、パステル画を数多く描いている[150]。
1881年のサロン[注釈 11]に、『アンリ・ロシュフォールの肖像』を含む肖像画2点を出品し、銀メダルを獲得した。これによって、以後のサロンには無審査で出品できることになった[151]。この年の夏は、ヴェルサイユで療養した[3]。庭付きの家を借り、庭で明るい色彩や躍動感のあるタッチを用いて光の変化を捉えた作品は、印象主義に近づいている[152]。11月、親友アントナン・プルーストがレオン・ガンベタ内閣の美術大臣に任命されると、その働きかけにより、マネは同年12月末、レジオンドヌール勲章を受章することができた[153]。
左脚の痛みに耐えながら、1881年冬から翌1882年にかけて、最後の大作『フォリー・ベルジェールのバー』の制作に取り組んだ。フォリー・ベルジェール劇場のバーで実際に働いていたシュゾンというウェイトレスに、モデルを依頼した。正面を向いたウェイトレスは、虚ろな視線であるが、鏡に映った後ろ姿では、飲み物を注文する男性客に向かって身をかがめ、話をしている。正面の姿と後ろ姿が一致しないことや、遠近法の歪みは、観る者を困惑させた[154]。もっとも、これは、意図的に遠近法を無視し、ウェイトレスの空虚な表情に全力で焦点を当てたものとも説明されている[155]。1882年のサロンには、無審査の権利を行使して、この作品と『春(ジャンヌ)』を出品したが、これが権利行使の最後の機会となった。『春(ジャンヌ)』は、女優ジャンヌ・ドマルシーをモデルとし、四季連作の一つとして構想されたものである[156]。
1882年7月から10月にかけて、パリ西郊のリュエイユに滞在した。マネのもとには、上流階級の男たちの愛人メリー・ローラン、オペラ歌手エミリー・アンブル、宝石商人の娘イザベル・ルモニエなど、多くの女性たちが訪れた。マネは、これらの女性の肖像画を数多く描いている[157]。四季連作の一つとして、メリー・ローランをモデルとする『秋』も制作されたが、四季連作はついに完成に至らなかった[158]。この頃、マネは、唯一の相続人として妻シュザンヌを指名する遺言を作成した。ただし、死後の作品売立ての売却益から5万フランをレオン・コエラに遺贈することとし、シュザンヌが相続した遺産は、彼女の死亡時、全てをレオンに相続させることとされていた[159]。
1883年初め、マネの体力が目に見えて衰え、ベッドから起き上がれなくなった[160]。4月20日、壊疽が進行した左脚を切断する手術を受けた。しかし、経過は悪く、高熱に浮かされた末、4月30日、51歳で亡くなった[161]。死の直前まで、アレクサンドル・カバネルへの敵意に取りつかれており、病床で「あの男は健康なのに」とうめいていたという[162]。葬儀は5月3日に行われ、パリのパッシー墓地に埋葬された。あらゆるグループの画家たちが葬儀に参列した。ドガは、「われわれが考えていた以上に、彼は偉大だった」と語った[163]。
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『カルメン姿のエミリー・アンブル』1880年。油彩、キャンバス、92.4 × 73.5 cm。フィラデルフィア美術館[165]。
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『秋(メリー・ローラン)』1881年。油彩、キャンバス、73 × 51 cm。ナンシー美術館。
死後
[編集]名声の確立
[編集]1884年1月、ウジェーヌ・マネとその妻ベルト・モリゾの企画により、エコール・デ・ボザール(官立美術学校)でマネの回顧展が開かれた。116点の油彩のほか、版画、デッサン、水彩、パステル画など合計200点を集めた大規模なものであり、成功を収めた。ただ、マネの評価が高まりつつあったアメリカと比べ、フランスでの評価はまだまだ低かった[161]。『笛を吹く少年』について、その平面的な彩色を嫌い、「これは扉に貼り付けられたダイヤのジャックだ」とけなした保守的な批評家もいた[170]。回顧展後にオテル・ドゥルオで行われた競売は順調に行かず、ベルト・モリゾは、姉への手紙に「美術学校での展覧会が成功したあとで、競売の方は完全に失敗したのです。[中略]とにかく私はとてもがっかりしました。唯一の慰めは、マネの作品はみな心の美術愛好家や芸術家たちの手に渡ったということです。売立ては全部で11万フランの収益がありました。本当をいうと、私たちは最低でも20万フランと見積もっていたのです。」と書いている[171]。
1889年のパリ万国博覧会を記念して開かれた「フランス美術100年展」に、マネの『オランピア』が展示された。この頃、お金に困ったマネの妻シュザンヌが『オランピア』をアメリカ人に売却しようとしていることを聞いたモネは、マネの代表作の海外流出を憂い、この作品を購入してルーヴル美術館に寄贈する計画を立てた。モネは、オーギュスト・ロダン宛ての手紙で、「これは、マネの業績に対するすばらしい賛辞ですし、同時にこの絵の持ち主であるマネ夫人の経済状態をさりげなく援助することにもなります」と書いている[172]。元美術大臣アントナン・プルーストの反対に遭ったが、最終的に、モネは、『オランピア』を購入し、1890年11月、国のリュクサンブール美術館に展示させることに成功した。その時でも、ルーヴル美術館にはふさわしくないという保守的アカデミズムの抵抗はまだ強かった。1907年にジョルジュ・クレマンソーの働きかけにより、ようやくルーヴル美術館に移送された[173][174][注釈 12]。
1894年、印象派の画家で収集家でもあったギュスターヴ・カイユボットが亡くなった時、マネや印象派の作品68点をリュクサンブール美術館に遺贈するとの遺言を残した。この当時も、美術界の保守派の抵抗は根強く、受入れには反対の声が強かった。結局、1896年2月、コレクションの中から40点が選ばれて、フランス政府が受け入れることになった。この中にマネの『バルコニー』も含まれている[175][注釈 13]。
1905年、サロン・ドートンヌで、マネの油彩画25点、パステル画5点、水彩画1点の合計31点から成る回顧展が開かれた。『エミール・ゾラの肖像』などサロン出品作5点を含む充実した内容の展覧会であった[176]。
1906年、近代美術の大収集家エティエンヌ・モロー・ネラトンがルーヴル美術館に寄贈したコレクションの中に、マネの『草上の昼食』など5作品が含まれていた[177]。
1932年、パリのオランジュリー美術館で生誕100年の記念展覧会が開かれた[178]。この時、マネは国家レベルで最終的な承認を得たといえ、ポール・ヴァレリーは、展覧会カタログに「マネの勝利」と題する序文を寄せた[179]。
1983年には、パリのグラン・パレ美術館とニューヨークのメトロポリタン美術館で、没後100年の回顧展が行われた。それまでのマネ研究が集大成された展覧会であり、近代絵画の巨匠としてのマネの地位は決定的なものとなった[180]。同じ年、ポンピドゥー・センターの国立近代美術館で「ボンジュール・ムッシュー・マネ」展が開かれ、マネの絵画に触発された19世紀以降の作品と現存画家の作品が展示され、『オランピア』をはじめとするマネ作品が後世に及ぼした影響を物語る内容となった[181]。
市場での評価
[編集]マネの生前の1878年、ジャン=バティスト・フォールが資金難によりオテル・ドゥルオでマネの作品を競売に出した時、1点が2000フラン(80ポンド)で売れただけで、その他は売れなかった。エルネスト・オシュデが破産して同じ年にマネの作品を競売に出したが、1点当たり35フランから800フランの間でしか落札されなかった[182]。
死の翌年1884年の回顧展後、オテル・ドゥルオでその作品の多くが競売されたが、『オランピア』が400ポンド(1万フラン)、『アルジャントゥイユ』が500ポンド(1万2500フラン)というのが高い方で、油絵93点ほかパステル画、水彩、デッサン、エッチング、リトグラフの総売上は4665ポンド(11万6637フラン)と、マネ家の期待を大きく下回った。落札者も大部分が遺族と友人であった[183]。
マネの市場価格は、徐々に上がり、1898年に『ギターを持つ女』が2800ポンド(7万フラン)で売られた。1910年以降、マンハイム市立美術館が『皇帝マキシミリアンの処刑』を4500ポンドで購入するなど、ポンドで4桁台が常態となり、1920年代にはポンドで5桁台のものも現れるようになった。1926年には、サミュエル・コートールドが『フォリー・ベルジェールのバー』を2万4100ポンド(手数料込み)で購入し、第二次世界大戦前のマネの最高記録となった[184]。
第2次世界大戦後は、ポンドで5桁台が常態となり、1958年に『旗で飾られたモニエ通り』が11万3000ポンドで落札され、ポンド6桁台が現れるようになった。それでも、ルノワールに比べると、市場での人気は高くなかった。ところが、1980年代以降、美術市場全体で良品が払底するに従い、マネ作品の価格は更に高騰した。1986年12月1日、ロンドンのクリスティーズで『舗装工のいるモニエ通り』が700万ポンド(1017万ドル、16億5410万円)という高値を記録した。1989年11月14日、ニューヨークのクリスティーズで、『旗で飾られたモニエ通り』がJ・ポール・ゲティ美術館によって2400万ドル(34億7520万円)で落札され、マネの史上最高値を更新した。1997年には、『パレットを持った自画像』が1700万ドル(20億3320万円)で、当時2番目の高値で落札された[185]。同じ『パレットを持った自画像』が2010年にロンドンで3320万ドルで落札されて更に記録を更新したが、2014年にニューヨークのクリスティーズで『春(ジャンヌ)』が6512万ドル余りでJ・ポール・ゲティ美術館に落札されたのが新たなマネ最高記録となった[186][187]。
作品
[編集]カタログ
[編集]マネは、遅筆で、生涯の制作数が比較的少ない。油絵は400点余り、水彩画100点余り、版画100種余りである[188]。
マネにはこれまで何種類かのカタログ・レゾネが刊行されている[189]。1932年、ジョルジュ・ウィルデンシュタインらにより2巻から成るカタログ・レゾネが発刊され、546点の絵画・パステル画が時系列的に収録された[190]。これを改訂したのがダニエル・ウィルデンシュタインらの1975年のカタログ・レゾネである[191]。
時代背景、画風
[編集]19世紀半ば、フランスの絵画を支配していたのは、芸術アカデミーとサロン・ド・パリを牙城とするアカデミズム絵画であった。その主流を占める新古典主義は、古代ギリシアにおいて完成された「理想の美」を規範とし、明快で安定した構図を追求した。また、色彩よりも、正確なデッサン(輪郭線)と、陰影による肉付法を重視していた[193]。歴史画や神話画が高貴なジャンルとされたのに対し、肖像画や風景画は低俗なジャンルとされていた[194]。明確な美の基準を持たない新興のブルジョワ階級は、伝統的なサロンの権威に盲従していたため、画家が絵を売って生活しようとすれば、サロンで入選し、賞をとることが絶対的な条件となっていた[195]。
もっとも、こうした新古典主義に対抗して、ロマン主義を代表するウジェーヌ・ドラクロワは、ヴェネツィア派やピーテル・パウル・ルーベンスを信奉して、豊かな色彩表現を追求し、革命の第1の波をもたらした[196]。次いで、ギュスターヴ・クールベは、写実主義を標榜し、卑近な題材を誠実に描こうとした。これは革命の第2の波であった[197]。
マネは、保守的なブルジョワであり、彼自身はサロンに対する反旗を掲げるつもりはなく、むしろ過去の巨匠から積極的に学ぶことによって、サロンで成功することを切望していた。そのため、印象派グループ展が立ち上げられても参加せず、サロンへの応募を続けた[198]。しかし、マネの『草上の昼食』や『オランピア』は、本人の意図に反して絵画界にとっての大スキャンダルを巻き起こし、第3の革命の引き金を引くことになった[199]。その革命には、主題の問題と、造形の問題があった[200]。
主題の面では、ニンフでも女神でもない現実の女性が、裸身をさらすということ自体、フランス第二帝政時代の厳格な道徳観の下では、強い非難に値した[201]。当時のフランスは、産業革命が急速に進行し、ブルジョワが台頭する時代であり、パリには大量の人口が流入し、都市として急拡大していた。ナポレオン3世がセーヌ県知事に任命したジョルジュ・オスマンによって、パリ改造が行われ、中世以来のごみごみした街並みや貧民区が一掃され、大通り、上下水道、アパルトマン、公園、鉄道などのインフラが整備されるとともに、劇場、競馬場、洗練されたレストラン、カフェ、デパートなど、文化や娯楽が花開いた[202]。その中で、娼婦は享楽に湧くパリの裏面を象徴する存在であり、それを露骨に描いた『オランピア』は、ブルジョワ社会に冷や水を浴びせる作品であった[203]。『鉄道』や『バルコニー』では、近代社会における人間同士の冷ややかな関係や、人間疎外の様子を、冷徹に描いた。このように、近代化・都市化する時代をありのままに描くことがマネの本質であった[204]。
一方、造形の面では、『草上の昼食』も、『オランピア』も、伝統的な陰影による肉付けが施されておらず、平面的に見える。『笛を吹く少年』では、背景は無地で、奥行きが感じられない。『フォリー・ベルジェールのバー』では、ウェイトレスの正面の姿と、背後の鏡に写った後ろ姿とが、遠近法的に矛盾を来している。このように、マネの作品は、伝統的な約束事にとらわれず、画家が目撃した現実を伝えようとする点で革新的であった[205]。この傾向は、絵画が三次元空間の中で主題や物語性を伝えるという役割を捨て去り、二次元の画面上で造形自体の表現性を追求していくフォーマリズム、モダニズムにつながるものであった[206]。
伝統的絵画からの影響
[編集]マネの生まれた家は、ルーヴル美術館のすぐ近くにあり、マネは、小さい頃から伯父に連れられてここを訪れていた。画家を志した1850年代には、トマ・クチュールの弟子としてルーヴル美術館に登録し、模写をしており、ティツィアーノなどのヴェネツィア派を中心に、フランドル絵画、スペイン絵画の作品の模写が現存している[207]。オランダのアムステルダム国立美術館、フィレンツェのウフィツィ美術館などヨーロッパ各地の美術館を訪れた際も、模写を残している[208]。また、当時、過去の主要画家の作品を網羅する美術全集や、エッチング図版入りの美術雑誌が刊行されるようになっており、マネは、伝統的な絵画や同時代・外国の作品を複製図版で目にすることができる環境にあった[209]。
19世紀フランスの画家にとって、ルネサンス期のイタリア絵画は基礎として必ず学ぶべき絵画であり、マネもこれを研究していた[210]。マネの『草上の昼食』は、友人マルセル・プルーストの回想によれば、ティツィアーノ(当時はジョルジョーネ作とされていた)の『田園の奏楽』に発想を得たものである。加えて、3人の人物像を描くに当たっては、ラファエロの『パリスの審判』の右下の3人のポーズを採用し、モデルにポーズをとってもらって制作している[211]。『オランピア』は、ティツィアーノの『ウルビーノのヴィーナス』に依拠しつつ、その構成要素をことごとく変更することによって、原作の「美しいヌード」を否定した作品である[212]。
また、マネは、スペイン絵画からも大きな影響を受け、特に1865年のスペイン旅行後は、ディエゴ・ベラスケスやフランシスコ・デ・ゴヤの影響が明らかな作品を多数制作している。マネの『皇帝マクシミリアンの処刑』は、ゴヤの『マドリード、1808年5月3日』を下敷きにした絵であるが、ゴヤが民衆の英雄性、悲劇性を強調しているのに対し、マネの作品には高揚感はなく、冷徹なレアリスムに徹しているのが特徴である[213]。背景のない全身像である『悲劇俳優』や『笛を吹く少年』は、ベラスケスの『道化師パブロ・デ・ヴァリャドリード』に基づいたことが明らかである。マネは、スペイン旅行の直後、手紙に「絵画における自分の理想の実現を彼(ベラスケス)のなかに見出した」と書いている[214]。
そのほか、フランドル絵画(ピーテル・パウル・ルーベンスなど)、オランダ絵画(フランス・ハルスなど)、フランス絵画(ル・ナン兄弟、アントワーヌ・ヴァトー、ジャン・シメオン・シャルダンなど)の影響を受けた作品も指摘されている[215]。
マネは、オールド・マスターの作品から、様々な主題やモチーフを引用し、現代的な文脈に置き直していったといえる[216]。
ジャポニスム
[編集]マネの絵画には、1860年代から流行したジャポニスムの影響も指摘されている[218]。マネの『エミール・ゾラの肖像』の背景には、日本の花鳥図屏風と浮世絵が飾られており、浮世絵への関心が窺える。マネの場合、単なる異国趣味として浮世絵を取り入れただけではなく、造形の中にこれを生かしている。『笛を吹く少年』の平面的な彩色には、ベラスケスからのほかに、浮世絵からの影響があると考えられる。『キアサージ号とアラバマ号の海戦』には、伝統的な遠近法と異なり、高い視点と水平線、船を画面の端に寄せる構図が採用されており、日本風の空間表現である。『ボート遊び』の、水平線をなくし背景全体を水面とする構図、モチーフを切り取る手法も、同様である[219]。
ゾラは、「マネの単純化された絵画を日本の版画と比較するのは興味深かろう。日本の版画は未知の優美さと見事な色斑によって、マネの絵と似ているのだから。」と書いている[220]。
また、色彩の点では、マネの『笛を吹く少年』などに見られる平坦で強い黒は、スペイン絵画からの影響とともに、浮世絵や水墨画の影響を受けたことが指摘されている[221]。
印象派との関係
[編集]マネは、若い印象派の画家たちから敬愛を受け、前述のように伝統的な約束事にとらわれない造形という点でも印象派に影響を与えた。フレデリック・バジールの『バジールのアトリエ』では、キャンバスの前でマネがバジールに助言を与えているところが描かれている[222]。明示的にマネにならった作品もあり、モネは、マネの『草上の昼食(水浴)』に発想を得て1865年-66年に同様の主題で『草上の昼食』を制作し[223][注釈 16]、ポール・セザンヌも、後述のように、『モデルヌ・オランピア(現代版オランピア)』を制作した[224]。
1864年-65年の『ロンシャンの競馬場』のリトグラフでは、馬は4本脚というような既存の知識に頼ることなく、一見殴り描きのような線で、一瞬の力強い動きを描写している。このような手法は、印象派に引き継がれている[225]。
他方、マネが、後輩のモネや弟子のベルト・モリゾら印象派から影響を受けた面もあり、1870年代には、印象派的な様式に近づいている[226]。モネにならって戸外制作を取り入れたり、印象派風の筆触分割を用いたりしている。もっとも、モネに代表される印象派が、光と大気の揺らぎをキャンバスに留めることに集中し、人物をラフな筆触で幻影のように描いたのとは異なり、マネの描く人物には存在感と現実感があり、印象派とはやや関心が異なっていた[227]。印象派が避けようとした黒も積極的に使用している[228]。また、印象派の画家たちが、サイズの小さい作品を多数制作する傾向にあったのに対し、マネは、大きな作品を、毎回2点程度に集約して制作し、サロンに提出していた。これは、マネが、伝統的な歴史画に匹敵する作品を現代の主題と新しい手法で作り上げ、伝統の枠組みの中で認めさせようという野心を持っていたことを示唆する[229]。
このように、マネは、印象派の画家たちと影響を与え合っており、印象主義的な要素の濃い作品もあることから、印象派の1人として語られることもあるが、印象派グループ展に参加しなかったことから、印象派そのものには含めず、印象派の指導者あるいは先駆者として位置付けられるのが一般的である[230]。
印象派以後への影響
[編集]ポール・セザンヌは、マネの『草上の昼食』、『オランピア』に影響を受け、自ら『草上の昼食』、『モデルヌ・オランピア(現代版オランピア)』を制作した。こうした作品を通じ、セザンヌは、男女関係や女性のヌードをどのように描くのかという課題と向き合い、性的なエネルギーを暴発させるのではなく造形作品として仕上げていくことを学んでいった。また、マネの『温室にて』や『フォリー=ベルジェールのバー』では、厳密な遠近法がとられず、複数の視点から見た形が画面上に統合されているが、これはセザンヌの静物画でも見られる特徴である。現実を単純に模倣するのではなく、自らの感覚で素材を操作し、絵画作品として造形するという発想は、マネからセザンヌ、ピカソにも受け継がれていく[231]。
ポール・ゴーギャンも、『オランピア』のかなり忠実な模写を制作している。ゴーギャンのタヒチ時代の作品『死霊が見ている(マナオ・トゥパパウ)』、『テ・アリイ・ヴァヒネ(王の妻)』などの裸婦像には、『オランピア』のイメージが見て取れ、しかも、平坦な色彩を更に押し進めたものとなっている。マネの作品には、ゴーギャンにつながるオリエンタリズムやプリミティヴィスムの要素も隠れていることがうかがえる[232]。
アンリ・マティスは、「マネは本能を解放することで自らの感覚の直接的な表現を行った最初の画家です。」と書いている。マティスの『コリウールのフランス窓』に、マネの『バルコニー』からの刺激が見られるとの指摘もある[233]。
明示的なパロディとして有名なのは、シュルレアリスムの画家ルネ・マグリットが『バルコニー』の人物を棺桶に置き換えた作品であり、現代人の孤独や孤立性を誇張している[234]。
パブロ・ピカソは、1901年に『「オランピア」のパロディー』を描いている。白人の裸婦が黒人になっており、召使いが黒人女性から白人男性に変わり、猫に犬が加わり、裸の自画像が客として描かれている。娼館を舞台とした大作『アビニヨンの娘たち』(1907年)の参照源の一つとなっているとされる[235]。『恋人たち』(1919年)はマネの『ナナ』に依拠しながら大胆に変更を加えた作品で、画面の右上に「Manet」という文字が入っている。そのほかにもマネ作品を引用、再解釈したと考えられる作品がある。晩年のピカソは、過去の名作のヴァリエーション(変奏)を多数制作しているが、1959年8月から1962年7月にかけて、『草上の昼食』のヴァリエーションを手がけ、油彩画27点、デッサン140点、厚紙模型、彫刻などを残している[236]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ ただし、マネ自身は、シュザンヌと結婚した後もレオンを認知していない。このこともあって、近年では、マネの父オーギュストがレオンの父親だという説も浮上している(吉川 (2010: 142))。
- ^ 落選展に展示されたこの3作品は、『水浴』(『草上の昼食』)を中央にスペイン趣味の仮装人物画2点を組み合わせた三連画ないし三幅対であるとの指摘がある(三浦 (2018: 95-96))。
- ^ モネが1900年に雑誌「ル・タン(現代)」のインタビューで語ったエピソードである。モネは、インタビューで、1866年のこととして述べているが(デンヴァー (1991: 32-34))、記憶違いと思われる(島田 (2009: 19))。
- ^ ベラスケス『道化師パブロ・デ・ヴァリャドリード』(当時の表題『フェリペ4世の時代のある有名な俳優の肖像』)1635年頃。油彩、キャンバス、209 × 123 cm。プラド美術館。“Pablo de Valladolid”. Museo Nacional del Prado. 2017年11月17日閲覧。
- ^ 費用は1万8000フランで、高級官僚の年収1年分に相当した。マネの母親が費用を出した(木村 (2012: 108))。
- ^ デンヴァー編 (1991: 34-35)は、ザカリー・アストリュクの文章とする。
- ^ 油彩、キャンバス、65 × 71 cm。北九州市立美術館。
- ^ マネは、ドガとともに砲兵隊に志願した。戦争中のパリは、飢餓と流行病が蔓延し、マネは、妻に、人々が猫、犬、ネズミを食べており、運が良い人は馬の肉を手に入れていると、パリの惨状を書き送っている(リウォルド (2004: 197))。
- ^ デュラン=リュエルが購入したのは、『スペインの歌手』、『エスパダの衣装を着たヴィクトリーヌ・ムーラン』、『キアサージ号とアラバマ号の戦い』などで、1点400フランから3000フラン、合計3万5000フランに上った(リウォルド (2004: 209))。
- ^ ウィキソースには、ルイ・ルロワ「印象派の展覧会」の日本語訳があります。
- ^ この年からは、サロンは、官営ではなくなり、フランス芸術家協会が主催するものとなった(島田 (2009: 298))。
- ^ 規定では、リュクサンブール美術館の所蔵作品は、作者の死後10年たつとルーヴル美術館に移管されることになっていたが、『オランピア』の場合は、マネの死後10年の1893年になってもルーヴル美術館に移管されず、ルーヴル入りがかなり遅れた。その当時はまだマネが問題のある画家としてとらえられていたことが分かる(三浦 (2018: 220))。
- ^ リュクサンブール美術館に収蔵されたのは、『バルコニー』と、女性像『アンジェリーナ』の2点である(三浦 (2018: 249))。
- ^ 1873年。油彩、キャンバス、113.5 × 166.5 cm。オルセー美術館。“La dame aux éventails”. Musée d'Orsay. 2019年5月14日閲覧。
- ^ 油彩、キャンバス、98 × 128 cm。オルセー美術館。“L'atelier de Bazille”. Musée d'Orsay. 2017年11月22日閲覧。
- ^ 『草上の昼食』という題はモネの作品の方が先であり、マネは、これにならって、1867年の個展で『水浴』を『草上の昼食』と変更した(カシャン (2008: 55))。
- ^ リトグラフ、50.8 × 38.7 cm。ヒューストン美術館。“Les Courses (The Races at Longchamps)”. Google Arts & Culture. 2017年11月22日閲覧。
- ^ 1870-71年頃、60 × 81 cm。私蔵。
- ^ 第2作。1873年頃、46 × 55 cm。オルセー美術館。
- ^ 1891年。油彩、キャンバス、89 × 130 cm。私蔵。
出典
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作家論
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- 『マネ 印象派の巨匠』 アンリ・ララマン解説、宮下規久朗訳、日本経済新聞社、1996年
- 『マネ アート・ライブラリー』西村書店、1999年、新装版2012年
- ジョン・リチャードソン/キャスリーン・アドラー解説、三浦篤・田村義也訳
- ミシェル・フーコー『マネの絵画』 阿部崇訳、筑摩書房、2006年/ちくま学芸文庫、2019年
- ジョルジュ・バタイユ『マネ 芸術論叢書』 江澤健一郎訳、月曜社、2016年
- エミール・ゾラ『エドゥアール・マネを見つめて』 林卓行監訳、神田由布子訳、東京書籍、2020年
- アントナン・プルースト『エドゥアール・マネの思い出』中央公論美術出版、三浦篤監修、泉美知子・井口俊訳、2024年
- 第一次史料の研究訳書。旧訳版『マネの想い出』野村太郎訳、美術公論社、1983年
参考文献
[編集]- 尾関幸、陳岡めぐみ、三浦篤『西洋美術の歴史7 19世紀――近代美術の誕生、ロマン派から印象派へ』中央公論新社、2017年。ISBN 978-4-12-403597-1。
- フランソワーズ・カシャン『マネ――近代絵画の誕生』藤田治彦監修、遠藤ゆかり訳、創元社〈「知の再発見」双書〉、2008年(原著1994年)。ISBN 978-4-422-21197-8。
- 木村泰司『印象派という革命』集英社、2012年。ISBN 978-4-08-781496-5。ちくま文庫、2018年
- エルンスト・ゴンブリッチ『美術の物語〔ポケット版〕』ファイドン、2011年(原著1950年)。ISBN 978-4-86441-006-9。新版・河出書房新社、2019年
- 島田紀夫『印象派の挑戦――モネ、ルノワール、ドガたちの友情と闘い』小学館、2009年。ISBN 978-4-09-682021-6。
- ジャポニスム学会編『ジャポニスム入門』思文閣出版、2000年。ISBN 978-4-7842-1053-4。
- 瀬木慎一『西洋名画の値段』新潮社〈新潮選書〉、1999年。ISBN 4-10-600576-X。
- 高階秀爾『近代絵画史――ゴヤからモンドリアンまで』中央公論新社〈中公新書〉、1975年。(上)ISBN 4-12-100385-3 (下)ISBN 4-12-100386-1。
- 高階秀爾『フランス絵画史――ルネサンスから世紀末まで』講談社〈講談社学術文庫〉、1990年。ISBN 4-06-158894-X。
- 高橋明也『もっと知りたいマネ 生涯と作品』東京美術〈アート・ビギナーズ・コレクション〉、2010年。ISBN 978-4-8087-0867-2。
- バーナード・デンヴァー編『素顔の印象派』末永照和訳、美術出版社、1991年(原著1987年)。ISBN 4-568-20141-1。
- シルヴィ・パタン『モネ――印象派の誕生』高階秀爾監修、渡辺隆司・村上伸子訳、創元社〈「知の再発見」双書〉、1997年(原著1991年)。ISBN 4-422-21127-7。
- 三浦篤『名画に隠された「二重の謎」』小学館〈小学館101ビジュアル新書〉、2012年。ISBN 978-4-09-823023-5。
- 三浦篤『西洋絵画の歴史3――近代から現代へと続く問いかけ』高階秀爾監修、小学館〈小学館101ビジュアル新書〉、2016年。ISBN 978-4-09-823028-0。
- 三浦篤『エドゥアール・マネ――西洋絵画史の革命』KADOKAWA〈角川選書〉、2018年。ISBN 978-4-04-703581-2。
- 宮崎克己『ジャポニスム――流行としての「日本」』講談社〈講談社現代新書〉、2018年。ISBN 978-4-06-514188-5。
- 吉川節子『印象派の誕生――マネとモネ』中央公論新社〈中公新書〉、2010年。ISBN 978-4-12-102052-9。
- ジョン・リウォルド『印象派の歴史』三浦篤・坂上桂子訳、角川学芸出版、2004年(原著(1st ed.) 1946)。ISBN 4-04-651912-6。角川ソフィア文庫(上下)、2019年
- アンリ・ロワレット『ドガ――踊り子の画家』千足伸行監修、遠藤ゆかり訳、創元社〈「知の再発見」双書〉、2012年(原著1988年)。ISBN 978-4-422-21216-6。
外部リンク
[編集]- Édouard Manetに関連する著作物 - インターネットアーカイブ
- エドゥアール・マネの絵画作品 - Art UK
- Union List of Artist Names, Getty Vocabularies. ULAN Full Record Display for Édouard Manet, Getty Research Institute
- Impressionism: a centenary exhibition, an exhibition catalog from The Metropolitan Museum of Art (p. 110–130)
- Documenting the Gilded Age: New York City Exhibitions at the Turn of the 20th Century
- The Private Collection of Edgar Degas, material on Manet's relationship with Degas, Metropolitan Museum of Art
- エドゥアール・マネ「ゾラへの手紙(原文・訳文)」(1866〜67年)- ARCHIVE。マネがゾラに宛てた手紙
- エドゥアール・マネ「航海通信[リオ・デ・ジャネイロへ]」(1848年12月12日ごろ〜1849年3月11日) - ARCHIVE。少年時代のマネによるブラジル実習中の手紙