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フランシスコ・デ・ゴヤ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
フランシスコ・デ・ゴヤ
「フランシスコ・ゴヤの肖像画」(1826年、ヴィセンテ・ロペス・イ・ポルターニャ画)
油彩、93×75cm、プラド美術館
生誕 フランシスコ・ホセ・デ・ゴヤ・イ・ルシエンテス(Francisco José de Goya y Lucientes)
(1746-03-30) 1746年3月30日
スペイン帝国アラゴン フエンデトドス
死没 1828年4月16日(1828-04-16)(82歳没)
フランス王国ボルドー [1]
墓地 Royal Chapel of St. Anthony of La Florida
北緯40度25分31秒 西経3度43分32秒 / 北緯40.42536度 西経3.72560度 / 40.42536; -3.72560
国籍 スペインの旗 スペイン
教育 José Luzán
著名な実績 絵画、デッサン、彫刻、版画
代表作裸のマハ/着衣のマハ
1808年5月3日、マドリード
カルロス4世の家族
我が子を食らうサトゥルヌス
運動・動向 ロマン主義
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フランシスコ・ホセ・デ・ゴヤ・イ・ルシエンテススペイン語: Francisco José de Goya y Lucientes, 1746年3月30日 - 1828年4月16日)は、スペイン画家ディエゴ・ベラスケス同様、宮廷画家として重きをなし、スペイン最大の画家と謳われる。西洋ではゴヤは最後のオールド・マスターと呼ばれている[2]

生涯

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自画像(1815年)
カルロス4世の家族』(1800-1801年、プラド美術館所属)
1808年5月3日、マドリード』(1814年、プラド美術館所属)

1746年3月30日、スペイン北東部サラゴサ近郊のフエンデトードススペイン語版鍍金師の次男として生まれた[3]

14歳の時から画家ホセ・ルサン・イ・マルティネス英語版に師事して絵画の修行をする[4]。この間、後に義兄となる兄弟子フランシスコ・バイユー、その弟ラモーン・バイユー英語版に出会う。1764年と1766年の2回、サン・フェルナンド王立アカデミーの奨学生試験に応募したが落選している[3]

19歳のときにマドリードに移った後、自腹で教皇領ローマを目指したが、後援者が見つからず、ローマに着いたときには健康が悪化したうえ破産に近い状態だった[4]。イタリア滞在中にルネサンスの傑作に出会い、フレスコ画の技法を学んだ。パレルモ・アカデミーから奨励賞を受け、1771年に帰国した。1772年にサラゴザのピラール聖母教会から大聖堂の天井装飾の注文も受け、そのほかのことも任された[5]。1773年にバイユーの妹ホセーファ・バイユースペイン語版(1812年6月没)と結婚した[3]。その後、バイユーの手引きでマドリードへ出て、1775年までに1子が生まれている[4]

1775年から1792年まで、王立タペストリー工場でタペストリーの下絵描きの仕事に携わる[3]

1786年、40歳で国王カルロス3世付き画家となり、1789年4月には新王カルロス4世の宮廷画家となる[3]

このように、40歳代にさしかかって、ようやくスペイン最高の画家としての地位を得たが、1792年、不治の病に侵され聴力を失う[3]。代表作として知られる『カルロス4世の家族』、『着衣のマハ』、『裸のマハ[注釈 1][5]、『1808年5月3日、マドリード[注釈 2][5]、『巨人』などはいずれも聴力を失って以後の後半生に描かれたものである。

1807年ナポレオン率いるフランス軍がスペインへ侵攻し、翌1808年7月にはナポレオンの兄ジョゼフをホセ1世としてスペイン王位につけた。事実上、ナポレオン軍の支配下に置かれたスペインは、1808年から1814年にかけてスペイン独立戦争のさなかにあった。

こうした動乱の時期に描かれたのが『1808年5月3日、マドリード』(1814年)、『巨人』などの作品群である。1810年には版画集『戦争の惨禍英語版』に着手し、1820年に完成した[3]1815年、すでに69歳に達していたゴヤは、40歳以上も年下のレオカディア・ワイスというドイツ系の家政婦と同棲していた。

1819年2月、マドリード郊外に「聾の家スペイン語版」と通称される別荘を購入した[3]1820年から1823年にかけて、この「聾の家」のサロンや食堂を飾るために描かれた14枚の壁画群が、今日「黒い絵」と通称されるものである[3]。その後、1823年9月に「聾の家」を孫に与えた[3]

当時のスペインの自由主義者弾圧を避けて1824年5月、78歳の時にフランスに亡命し、ボルドーに居を構えた[6]。同年6月から9月にかけてパリに滞在した[3]。1826年5月から6月にかけてにマドリードに一時帰国し、宮廷画家の辞職を認められた後[3]、1828年4月16日に亡命先のボルドーにおいて82年の波乱に満ちた生涯を閉じた[4]

死後

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現在はマドリードのプリンシペ・ピオ駅にほど近いサン・アントーニオ・デ・ラ・フロリーダ礼拝堂スペイン語版、通称:ゴヤのパンテオン (Panteón de Goya) に眠っている。この聖堂の天井に描かれたフレスコ画、『聖アントニオの奇跡』もゴヤの作品である。なお、遺骸の頭蓋骨は失われている。亡命先の墓地に埋葬されている期間に盗掘に遭ったためだが、その犯人も目的も、その後の頭蓋骨の所在についても一切が不明のままである。

日本にあるゴヤの油彩画としては、東京富士美術館の『ブルボン=ブラガンサ家の王子、ドン・セバスティアン・マリー・ガブリエル[注釈 3]』、三重県立美術館の『アルベルト・フォラステールの肖像[注釈 4]』が挙げられる。版画となるともう少し多くなり、国立西洋美術館町田市立国際版画美術館神奈川県立近代美術館姫路市立美術館長崎県美術館などが所蔵し、企画展などの際に展示される。また、大塚国際美術館では、「聾者の家」を当時そのままの配置で再現している。

『巨人』の作者について

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助手の作とされた『巨人』(プラド美術館蔵)

2009年1月、プラド美術館は、従来代表作とされていた『巨人』はゴヤの作ではないと結論する報告書を公表した。この作品は1931年に同美術館に寄贈されたもので、当時はゴヤについての研究が進展していなかったため、疑いなく真筆とされていた。しかし、ゴヤの作にしては、逃げまどう群衆や動物の筆致が粗い点などが指摘され、プラド美術館が様式、伝来等を総合的に検討した結果、本人ではなくその追随者の作であると結論付けられた。決め手の1つは画面左下に「AJ」というサインが発見されたことで、同じイニシャルを持つ弟子、アセンシオ・フリアが作者と見られている[7]。もっとも、フリアは自身の作品にイニシャルではなくJuliaと記入しているため、これはフリアの作品ではないという反論もある。

代表作

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主な日本語文献

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主な作品集

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関連作品

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脚注

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注釈

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  1. ^ 1805年完成、ときの首相マヌエル・デ・ゴドイの注文。2枚を重ねて鑑賞するように工夫されている[要出典]。ゴドイは『鏡の中のヴィーナス』と一緒に飾っていた。1814年ゴヤは異端審問所で釈明を求められている。
  2. ^ 1814年の「5月2日」と「5月3日」の2つの作品は、マドリードの蜂起に立ちあがった英雄的行為を描いている。特に後者の作品がゴヤの才能を如実に表しているといわれる。
  3. ^ ブルボン=ブラガンサ家の王子、ドン・セバスティアン・マリー・ガブリエル | フランシスコ・デ・ゴヤ・イ・ルシエンテス - 東京富士美術館
  4. ^ アルベルト・フォラステールの肖像 - 三重県立美術館

出典

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  1. ^ ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説”. コトバンク. 2018年2月12日閲覧。
  2. ^ ""The Frick Collection: Exhibitions"" (英語). 2021年4月18日閲覧
  3. ^ a b c d e f g h i j k l 神吉敬三「ゴヤ」『日本大百科全書(ニッポニカ)』小学館https://kotobank.jp/word/%E3%82%B4%E3%83%A4コトバンクより2024年11月10日閲覧 
  4. ^ a b c d Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Goya y Lucientes, Francisco" . Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 12 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 303.
  5. ^ a b c フランソワ・トレモリエール、カトリーヌ・リシ編著、樺山紘一日本語版監修『ラルース 図説 世界史人物百科』Ⅲ「フランス革命ー世界大戦前夜」、原書房、2005年、88ページ
  6. ^ 山田のぞみ「ゴヤとマドリード」(川成洋・下山静香編著『マドリードとカスティーリャを知るための60章』明石書店〈エリア・スタディーズ131〉、2014年6月30日、212ページ)
  7. ^ 大高保二郎「『巨人』は助手の作品 ゴヤ様式問い直すとき」、2009年2月19日付『読売新聞』

外部リンク

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