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「四條畷市」の版間の差分

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== 歴史 ==
== 歴史 ==
=== 紋章 ===
=== 紋章 ===
* 町章は[[1961年]]に田原村の編入合併を記念して2回にわたって公募で募集して同年[[12月]]に議会によって制定された。<ref name="町だより 5号">町だより 5号</ref><ref name="広報 5号">町だより 5号</ref><ref name="町だより 10号>町だより 10号</ref><ref name="広報 10号>広報 10号</ref> 市章は市制施行に合わせて住民意識の向上のために公募で募集し、募集した結果、「し」と畷の「ナ」を鳩に図案化したもので未来に向かって羽ばたく姿を意味して、[[1970年]][[7月1日]]の市制施行の日に合わせて制定された。<ref name="市章"/> <ref name="序論"/> <ref name="財政"/> <ref name="市章・市民憲章"/> <ref name="町だより 特別号">町だより 特別号</ref>
* 町章は[[1961年]]に田原村の編入合併を記念して2回にわたって公募で募集して同年[[12月]]に議会によって制定された。<ref name="町だより 5号">町だより 5号</ref><ref name="広報 5号">町だより 5号</ref><ref name="町だより 10号">町だより 10号</ref><ref name="広報 10号">広報 10号</ref> 市章は市制施行に合わせて住民意識の向上のために公募で募集し、募集した結果、「し」と畷の「ナ」を鳩に図案化したもので未来に向かって羽ばたく姿を意味して、[[1970年]][[7月1日]]の市制施行の日に合わせて制定された。<ref name="市章"/> <ref name="序論"/> <ref name="財政"/> <ref name="市章・市民憲章"/> <ref name="町だより 特別号">町だより 特別号</ref>
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2016年11月15日 (火) 14:27時点における版

しじょうなわてし ウィキデータを編集
四條畷市
四條畷市旗
四條畷市章
1970年7月1日制定
日本の旗 日本
地方 近畿地方
都道府県 大阪府
市町村コード 27229-9
法人番号 6000020272299 ウィキデータを編集
面積 18.69km2
総人口 53,408[編集]
推計人口、2024年11月1日)
人口密度 2,858人/km2
隣接自治体 寝屋川市交野市大東市
奈良県生駒市
市の木 クスノキ
市の花 サツキ
市のキャラクター くっすん
四條畷市役所
市長 東修平
所在地 575-8501
大阪府四條畷市中野本町1番1号
北緯34度44分23.7秒 東経135度38分22.3秒 / 北緯34.739917度 東経135.639528度 / 34.739917; 135.639528座標: 北緯34度44分23.7秒 東経135度38分22.3秒 / 北緯34.739917度 東経135.639528度 / 34.739917; 135.639528
四條畷市役所
外部リンク 四條畷市ホームページ

四條畷市位置図

― 政令指定都市 / ― 市 / ― 町・村

ウィキプロジェクト

四條畷市(しじょうなわてし)は、大阪府北河内地域に位置するである。

概要

大阪市から約15kmほどの近郊に位置しており、奈良県と接する。市域の3分の2は生駒山地の一部である北生駒山地であり、市の中心部は生駒山地の西麓に広がる。 市東部の田原地区は大阪府で唯一生駒山地の東麓に位置しており、しばしば奈良県域と誤解される[1]。なお、奈良県生駒市北田原町・南田原町に隣接しており、当市域を西田原、生駒市域を東田原と呼ぶこともある。

市中心部では国道163号国道170号が交差しており、かつJR片町線の沿線でもあり、四條畷地区の東側は金剛生駒紀泉国定公園に指定されている。反対に生駒山地の東側は農業地帯・新興住宅地である。
遺跡が多く、貝塚跡があり古墳も少なくない。飛鳥時代までには馬飼を行う渡来人の定住があったと伝わる。白鳳時代には持統天皇が幼少期を過ごしたと伝わる正法寺の大伽藍が聳え立ち、平安時代には荘園、延喜式神名帳には市域内の神社3社が記載され、1000年以上経た現在も残っている。また、1000年以上の歴史のある寺院も存在している。南北朝時代には四條畷の戦いの舞台となり、戦国時代初期には飯盛山城の攻防戦が幾度かあり、キリシタン教会も存在した。江戸時代には天領となり農業地帯であった。明治時代に入ると、北河内地区に四条畷中学(現在の大阪府立四條畷高等学校)が開校して、教育の中心となる。第二次世界大戦以降は「住宅都市」を目標とし、1955年頃から大阪市の近郊都市として四條畷地区を中心として開発が進み、大阪外環状線の開通・JR片町線が四条畷駅まで複線化され、都市化が進んだ。その結果、1970年7月1日市制を施行するにまで至った。市制施行後は、田原地区が関西文化学術研究都市に指定されると、それに則った開発が進められ、田原台などの新興住宅地が誕生した[2][3][4][5][6][7][8][9]

地理

四条畷市中心部周辺の空中写真。1985年撮影の3枚を合成作成。
国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成。

面積

  • 18.74km²[11]
    • 四條畷地区 - 10.766km²[12]
    • 田原地区 - 7.974km²[12]

面積の変遷

広袤(こうぼう)