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== 来歴・人物 ==
== 来歴・人物 ==
[[ファイル:Fumihiko Maki Hiroshi Ishii and Gary Kamemoto 20100303.jpg|thumb|left|200px|[[2010年]][[3月3日]]、[[マサチューセッツ工科大学]][[教授]][[石井裕 (コンピューター研究者)|石井裕]](中央)、槇総合計画事務所副所長亀本ゲイリー(右)と]]
[[ファイル:Fumihiko Maki Hiroshi Ishii and Gary Kamemoto 20100303.jpg|thumb|left|200px|[[2010年]][[3月3日]]、[[マサチューセッツ工科大学]][[教授]][[石井裕 (コンピューター研究者)|石井裕]](中央)、槇総合計画事務所副所長亀本ゲイリー(右)と]]
[[東京都]]出身。母方の祖父は[[竹中工務店]]の会長を務めた竹中藤右衛門。[[1941年]]([[昭和]]16年)[[慶應義塾幼稚舎]]卒業、[[慶應義塾普通部]]を経て[[慶應義塾大学]][[予科]]を中退し、[[建築学科]]のある[[東京大学工学部]]建築学科に入り、[[1952年]]卒業。[[丹下健三]]の研究室で外務省庁舎のコンペを担当した後、[[アメリカ合衆国]]に留学し、クランブルック美術学院および[[ハーバード大学]][[大学院]]建築修士課程修了。1954年に、[[スキッドモア・オーウィングズ・アンド・メリル]]、翌1955年には、セルト・ジャクソン[[建築設計事務所]]に勤務。その後は[[ワシントン大学 (セントルイス)]]とハーバード大学で都市デザインを講じた。[[1965年]]に槇総合計画事務所を設立。[[1979年]] - [[1989年]]に東京大学教授を務めた。
[[東京都]]出身。母方の祖父は[[竹中工務店]]の会長を務めた竹中藤右衛門。[[1941年]]([[昭和]]16年)[[慶應義塾幼稚舎]]卒業、[[慶應義塾普通部]]を経て[[慶應義塾大学]][[予科]]を中退し、[[建築学科]]のある[[東京大学工学部]]建築学科に入り、[[1952年]]卒業。[[丹下健三]]の研究室で外務省庁舎のコンペを担当した後、[[アメリカ合衆国]]に留学し、クランブルック美術学院および[[ハーバード大学]][[大学院]]建築修士課程修了。1954年に、[[スキッドモア・オーウィングズ・アンド・メリル]]、翌1955年には、セルト・ジャクソン[[建築設計事務所]]に勤務。その後は[[セントルイス・ ワシントン大学]]とハーバード大学で都市デザインを講じた。[[1965年]]に槇総合計画事務所を設立。[[1979年]] - [[1989年]]に東京大学教授を務めた。
ハーバード大学時代に[[ホセ・ルイ・セルト]]の[[スタジオ]]で学んでいたこともある。
ハーバード大学時代に[[ホセ・ルイ・セルト]]の[[スタジオ]]で学んでいたこともある。
2016年6月28日 (火) 13:14時点における版
槇 文彦 (まき ふみひこ、1928年 (昭和 3年)9月6日 - )は、日本 の建築家 (一級建築士 )。モダニズム建築 の作品や幕張メッセ などのメタリックな作品で知られる。
来歴・人物
2010年 3月3日 、マサチューセッツ工科大学 教授 石井裕 (中央)、槇総合計画事務所副所長亀本ゲイリー(右)と
東京都 出身。母方の祖父は竹中工務店 の会長を務めた竹中藤右衛門。1941年 (昭和 16年)慶應義塾幼稚舎 卒業、慶應義塾普通部 を経て慶應義塾大学 予科 を中退し、建築学科 のある東京大学工学部 建築学科に入り、1952年 卒業。丹下健三 の研究室で外務省庁舎のコンペを担当した後、アメリカ合衆国 に留学し、クランブルック美術学院およびハーバード大学 大学院 建築修士課程修了。1954年に、スキッドモア・オーウィングズ・アンド・メリル 、翌1955年には、セルト・ジャクソン建築設計事務所 に勤務。その後はセントルイス・ワシントン大学 とハーバード大学で都市デザインを講じた。1965年 に槇総合計画事務所を設立。1979年 - 1989年 に東京大学教授を務めた。
ハーバード大学時代にホセ・ルイ・セルト のスタジオ で学んでいたこともある。
ヒルサイドテラスは旧山手通り沿いで数次にかけて実施したプロジェクトであるが、10m軒線 を守り、用途地域 が変わった第六期では、10m以上の部分をセットバックさせている。
家族
受賞
作品
建築作品
名称
年
所在地
国
状態
備考
せんとるいすわしんとんたいかくすたいん/ セントルイス・ワシントン大学 スタインバーグホール
1960年
ミズーリ州セントルイス
アメリカ
なこやたいかくとよた/ 名古屋大学豊田講堂
1960年
23 愛知県名古屋市
日本
ちはたいかくきねん/ 千葉大学 医学部記念講堂
1964年
12 千葉市中央区
日本
りつしようたいかくくま/ 立正大学 熊谷校舎1期
1967年
11 埼玉県熊谷市
日本
おおさかりんかいせんた/ 大阪臨海センタービル
1967年
27 大阪府堺市
日本
現存せず
りつしようたいかくくま/ 立正大学 熊谷校舎2期
1968年
11 埼玉県熊谷市
日本
ひるさいとてらすえい/ ヒルサイドテラス A・B棟
1969年
13 東京都渋谷区
日本
もくさたんちちゆうしんしせつ/ 百草団地中心施設
1969年
13 東京都多摩市
日本
せんりちゆうおう/ 千里中央地区センタービル
1970年
27 大阪府豊中市
日本
はくはうすしろかね/ パークハウス白金
1970年
13 東京都港区
日本
せんほくこうこしりよう/ 旧泉北考古資料館
1970年
27 大阪府堺市
日本
現 堺市立泉北すえむら資料館
よこはましかなさわくそうこう/ 横浜市金沢区総合庁舎
1971年
14 神奈川県横浜市金沢区
日本
へるていしよとくそう/ ペルー低所得層低層住宅
1972年
リマ
ペルー
こくさいせいまり/ 国際聖マリア学院
1972年
13 東京都世田谷区
日本
おおさかふりつりんかいすほ/ 大阪府立臨海スポーツセンター
1972年
27 大阪府高石市
日本
かとうかくえん/ 加藤学園初等学校
1972年
22 静岡県沼津市
日本
現 加藤学園暁秀初等学校
ひろおほむす/ 広尾ホームズ・広尾タワーズ
1972年
13 東京都渋谷区
日本
さいふらしるにほん/ 在ブラジル日本大使館
1972年
ブラジリア
ブラジル
ひるさいとてらすしい/ ヒルサイドテラス C棟
1973年
13 東京都渋谷区
日本
ういんさはうすいつき/ ウィンザーハウス1期
1973年
13 東京都港区
日本
のはようちえん/ 野庭幼稚園
1974年
14 神奈川県横浜市港南区
日本
つくはたいかくたいいく/ 筑波大学体育芸術専門学群中央棟・図書館
1974年
08 茨城県つくば市
日本
とよたくらかいけ/ トヨタ鞍ヶ池記念館
1975年
23 愛知県豊田市
日本
おきなわかいようはくらんかいすい/ 沖繩海洋博覧会水族館
1975年
47 沖縄県本部町
日本
さいにちおすとりあ/ 在日オーストリア大使館
1976年
13 東京都港区
日本
ひるさいとてらすてい/ ヒルサイドテラス D・E棟
1977年
13 東京都渋谷区
日本
こたきなはるすほつ/ コタキナバル・スポーツコンプレックス
1977年
コタキナバル
マレーシア
よこはましりつなみき/ 横浜市立並木第一小学校
1978年
14 神奈川県横浜市金沢区
日本
まきてい/ 槇邸(自邸)
1978年
13 東京都
日本
いわさきひしゆつかん/ 岩崎美術館
1978年
46 鹿児島県指宿市
日本
かなさわしさいとたうん/ 金沢シーサイドタウン
1978年
14 神奈川県横浜市金沢区
日本
さいにちてんまく/ 在日デンマーク大使館
1979年
13 東京都渋谷区
日本
シユンアシタサロン/ ジュン・アシダ・サロン
1979年
13 東京都渋谷区
日本
ういんさはうすいつき/ ウィンザーハウス2期
1979年
13 東京都港区
日本
たかなわのいえ/ 高輪の家
1980年
13 東京都港区
日本
よこはましりつかわわ/ 横浜市立川和中学校
1980年
14 神奈川県横浜市都筑区
日本
とらのもんえぬえぬひる/ 虎ノ門NNビル
1981年
13 東京都港区
日本
きようとくらふとせ/ 京都クラフトセンター
1981年
26 京都市左京区
日本
いそのふとうさんひろお/ 磯野不動産広尾ビル 三菱東京UFJ銀行広尾支店
1981年
13 東京都渋谷区
日本
けいおうきしゆくとしよかんしんかん/ 慶應義塾 図書館新館
1981年
13 東京都港区
日本
まえさわかてんはうす/ 前沢ガーデンハウス
1982年
16 富山県黒部市
日本
てんつうかんさい/ 電通 関西支社
1983年
27 大阪市北区
日本
しろかねたいのいえ/ 白金台の家
1983年
13 東京都港区
日本
とえいたまにうたんみなみ/ 都営多摩ニュータウン南大沢住宅
1984年
13 東京都八王子市
日本
せたすとんひら/ セダ・ストーン・ヴィラ
1984年
13 東京都渋谷区
日本
かてんふらさひろお/ ガーデンプラザ広尾
1984年
13 東京都渋谷区
日本
ふしさわしあきはたい/ 藤沢市秋葉台文化体育館
1984年
14 神奈川県藤沢市
日本
けいおうきしゆくひよし/ 慶應義塾 日吉図書館
1985年
14 神奈川県横浜市港北区
日本
けいおうきしゆくたいかくたいかくいん/ 慶應義塾大学・大学院棟
1985年
13 東京都港区
日本
こくさいかかくきしゆつ/ 国際科学技術博覧会 Aブロック外国展示館
1985年
08 茨城県つくば市
日本
すはいらる/ スパイラル
1985年
13 東京都港区
日本
きようとこくりつきんたい/ 京都国立近代美術館
1986年
26 京都市左京区
日本
いわさきこうけいかん/ 岩崎美術工芸館
1987年
46 鹿児島県指宿市
日本
ひるさいとふらさ/ ヒルサイドプラザ
1987年
13 東京都渋谷区
日本
つたほる/ 津田ホール
1988年
13 東京都渋谷区
日本
たいとうきようかさい/ 大東京火災新宿ビル
1989年
13 東京都新宿区
日本
現あいおい損保 新宿ビル
てひあ/ テピア
1989年
13 東京都港区
日本
まくはりめつせ/ 幕張メッセ
1989年
12 千葉市美浜区
日本
とやましみんふら/ 富山市民プラザ
1989年
16 富山県富山市
日本
とうきようたいいく/ 東京体育館
1990年
13 東京都渋谷区
日本
けいおうきしゆくたいかくしようなん/ 慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス (SFC)
1990年
14 神奈川県藤沢市
日本
ひるさいとてらすとえふ/ ヒルサイドテラス F・G・N棟
1992年
13 東京都渋谷区
日本
わいけいけいあるあんと/ YKK R&Dセンター
1993年
13 東京都墨田区
日本
いえるはふえな/ イエルハブエナ公園視覚芸術センター
1993年
サンフランシスコ
アメリカ
なかつしりつおはた/ 中津市立小幡記念図書館
1993年
44 大分県中津市
日本
わいひしけいしゆつ/ YBG芸術センター
1994年
サンフランシスコ
アメリカ
きりしまおんかく/ 霧島国際音楽ホール
1994年
46 鹿児島県霧島市
日本
とうきようきりすと/ 東京キリストの教会
1995年
13 東京都渋谷区
日本
ドラマ「協奏曲」で木村拓哉 が設計した教会の舞台となった
さんとやくひん/ サンド薬品筑波総合研究所
1995年
08 茨城県つくば市
日本
いさるひゆろはく/ イザール・ビューロ・パーク
1995年
ミュンヘン
ドイツ
ふくおかたいかくろく/ 福岡大学 60周年記念館
1996年
40 福岡市城南区
日本
うかふけきしよう/ 浮かぶ劇場
1996年
フローニンゲン
オランダ
現存せず
かなかわたいかくしゆう/ 神奈川大学16号舘
1997年
14 神奈川県横浜市神奈川区
日本
かせのおかさいしよう/ 風の丘葬斎場
1997年
44 大分県中津市
日本
よこはまししのはらちくせん/ 横浜市篠原地区センター・ケアプラザ
1997年
14 神奈川県横浜市港北区
日本
まくはりめつせしんてんししよう/ 幕張メッセ新展示場・北ホール
1998年
12 千葉市美浜区
日本
なとりふんかかいかん/ 名取市文化会館
1998年
04 宮城県名取市
日本
ひるさいとうえすと/ ヒルサイドウエスト
1999年
13 東京都渋谷区
日本
とやまこくさいかいき/ 富山国際会議場 (大手町フォーラム)
1999年
16 富山県富山市
日本
ふくしまけんたんしよきよう/ 福島県男女共生センター
2000年
07 福島県二本松市
日本
まきそりていあ/ マキ・ソリティア
2001年
デュッセルドルフ
ドイツ
あいえぬひてい/ INB邸
2002年
13 東京都
日本
とらいあと/ TRAID
2002年
20 長野県安曇野市
日本
ふくいけんりつとしよかん/ 福井県立図書館・福井県文書館
2002年
18 福井県福井市
日本
ろれつくすとうよう/ ロレックス東陽町ビル
2003年
13 東京都江東区
日本
てれひあさひ/ テレビ朝日 (六本木ヒルズ )
2003年
13 東京都港区
日本
ときめつせ/ 朱鷺メッセ
2003年
15 新潟市中央区
日本
よこはまあいらんとたわ/ 横浜アイランドタワー
2003年
14 神奈川県横浜市中区
日本
とうきようたいかくほうかくけいきよういく/ 東京大学法学系教育棟
2004年
13 東京都文京区
日本
きゆうふしきんこうよこはましてん/ 旧富士銀行横浜支店 映像文化施設
2005年
14 神奈川県横浜市中区
日本
こくりつこくこけん/ 国立国語研究所
2005年
13 東京都立川市
日本
しまねけんりつこたいいつも/ 島根県立古代出雲歴史博物館
2007年
32 島根県出雲市
日本
せんとるいすわしんとんたいかくさむ/ セントルイス・ワシントン大学 サム・フォックス視覚芸術学部
2007年
ミズーリ州セントルイス
アメリカ
しんかほるりこうけい/ シンガポール理工系専門学校キャンパス
2007年
ウッドランド
シンガポール
みはらしけいしゆつふ/ 三原市芸術文化センター
2007年
34 広島県三原市
日本
いすまいりいままつとき/ イズマイリ・イママット記念館
2008年
オンタリオ
カナダ
へんしるへにあたいかくあねんはく/ ペンシルベニア大学 アネンバーグ・パブリックポリシーセンター
2009年
ペンシルバニア
アメリカ
ろれつくすなかつ/ ロレックス中津ビル
2009年
27 大阪市北区
日本
のはるていすきやんはすすくえあ/ ノバルティス・キャンパス・スクエア3
2009年
バーゼル
スイス
みつとめていあらほ/ MITメディアラボ新館
2009年
マサチューセッツ
アメリカ
まくはりめつせへてすとりあん/ 幕張メッセ ペデストリアンブリッジ
2009年
12 千葉市美浜区
日本
かなかわたいかくしようなんひらつか/ 神奈川大学湘南ひらつかキャンパス11号館
2009年
14 神奈川県平塚市
日本
にほんゆたやきようたん/ 日本ユダヤ教団
2009年
13 東京都渋谷区
日本
とうきようてんきたいかくとうきようせんしゆきやんはすたいいつき/ 東京電機大学 東京千住キャンパス第一期
2012年
13 東京都足立区
日本
まちたしやくしよ/ 町田市役所
2012年
13 東京都町田市
日本
しすおかししみすふんか/ 静岡市清水文化会館
2012年
22 静岡市清水区
日本
4わるととれとせんた/ フォー・ワールド・トレード・センター
2013年
ニューヨーク
アメリカ
あかかんみゆしあむ/ アガ・カーン ミュージアム
2013年
オンタリオ
カナダ
ふいふていわんあすた/ 51アスタープレイス
2013年
ニューヨーク
アメリカ
すりはんとれっとふおていふあいふいすと/ 345イースト・ヴィレッジ・プロムナード
2014年
ニューヨーク
アメリカ
しんかほるめていあこふ/ シンガポール・メディアコープ
2016年
シンガポール
シンガポール
なかのしやくしよ/ 長野市役所・長野市芸術館
2016年
長野県長野市
日本
主な作品・外観画像
名古屋大学豊田講堂 1960
千葉大学医学部記念講堂
立正大学熊谷校舎
ヒルサイドテラス第1期
ヒルサイドテラス第3期
スパイラル
京都国立近代美術館
津田ホール
テピア
幕張メッセ
東京体育館
ヒルサイドテラス第5期
慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス
中津市立小幡記念図書館
風の丘葬斎場
ヒルサイドウエスト
ロレックス東陽町ビル
テレビ朝日本社ビル
朱鷺メッセ
横浜アイランドタワー
東京大学法科大学院棟
国立国語研究所
島根県立古代出雲歴史博物館
ワシントン大学サム・フォックス視覚芸術学部
MITメディアラボ新館
フォー・ワールド・トレード・センター
進行中のプロジェクト
構想・都市計画
新宿副都心ターミナル再開発(大高正人・ミド設計研究所と) 1960年
サンフランシスコ再開発競技設計案 1961年
堂島再開発計画 1961年
ローゼンバーグ部庭園計画・ボストン 1966年
後楽園総合開発計画 1967年-1968年
立正大学熊谷キャンパス総合計画 1965年-1967年
環境整備計画(大阪府高石市) 1967年
羽衣駅周辺都市改造事業計画(大阪府高石市) 1968年
百草団地センター 1968年-1969年
ウィーン国際会議場・国連事務機構都市国際設計競技応募案・群造形 1969年
国連ペルー低所得者層集合住宅国際指名競技設計 1969年
泉北大蓮公園計画(大阪府堺市) 1969年
横浜市海の公園基本構想 1969年-1970年
小田原駅前再開発計画の協力 1970年
ボストン市交通網計画
筑波大学キャンパス計画
著作・作品集
日本の都市・建築の「奥」について述べている。槇事務所スタッフの若月幸敏 、大野秀敏 、高谷時彦 (後者2名については現在は独立)も一章ずつ執筆している。
記憶の形象 (筑摩書房)
槇文彦(新建築社 JAの作品集)
現代の建築家槇文彦 1~4(鹿島出版会)
4でのヒルサイドテラスの特集では、槇が隅入りや円柱について述べている。当時は進行中のプロジェクトであったテレビ朝日なども掲載されている。
槇事務所のディテール(鹿島出版会)
ヒルサイドテラス+ウエストの世界(鹿島出版会)
漂うモダニズム(左右社)
その他
新国立競技場関連
新国立競技場 の建設計画の問題点を、早くから指摘してきた(2013年8月の論文[ 2] )。大枠では、景観への影響やキールアーチ[ 3] について。細部では、ライブ会場として使用するには残響時間 に対する高度な電気補助機能が必要になること、透過型屋根による室内温度上昇の懸念[ 4] など。
槇グループとして、大野秀敏 、中村勉 、元倉眞琴 、山本圭介 、古市徹雄 らも問題点追及に加わった[ 3] 。
なお、槇自身2012年の国際デザインコンペ の応募資格を満たしていたが、応募しなかった。逆にほぼ著名建築家しか応募できないという条件への疑問、そして第一には敷地が広くないところでその10倍の施設をつくるという設計条件をミスマッチだと直感的に感じたため、という[ 5] 。「コンペへの不参加声明を出して、メッセージを出してもよかったのでは」という意見(高崎正治 )もあった[ 6] 。
2015年7月のザハ・ハディド 案の白紙化決定後も、縮小案を提案するなど活動している。ただし同月、やり直しとなる国際コンペへの参加を否定し、その審査委員の依頼があっても受けない姿勢を示した[ 7] 。
(8万人でなく)5万 - 6万人規模を推奨する理由として、立地上、災害などで避難誘導するのは難しいことも挙げている[ 8] 。
脚注
関連項目
外部リンク
ウィキメディア・コモンズには、
槇文彦 に関連するメディアがあります。
1907年-1920年 1921年-1940年 1941年-1960年 1961年-1980年 1981年-2000年 2001年-
1940年代 1950年代 1960年代 1970年代 1980年代 1990年代 2000年代 2010年代 2020年代
太字 は恩賜賞 受賞者。名跡は受賞時のもの。表記揺れによる混乱を避けるため漢字は便宜上すべて新字体に統一した。