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「エルコンドルパサー」の版間の差分

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|英 = El Condor Pasa<ref name="profile">{{Cite web |url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000299155/ |title=エルコンドルパサー |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年11月9日 |date=}}</ref>
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'''エルコンドルパサー'''([[1995年]][[3月17日]] - [[2002年]][[7月16日]])は[[アメリカ合衆国]]で生産され、[[日本]]で[[調教]]された[[競走馬]]、のち[[種牡馬]]。
'''エルコンドルパサー'''<ref>同じ渡邊の所有馬で'''エルコンドルパサー'''という同名の競走馬が1990年代の前半に存在したことがある(1989年産 父スリルショー・母トウコウボレロ。渡邊隆の父喜八郎の代表所有馬であるノボルトウコウ・[[プレストウコウ]]兄弟の甥にあたる)。こちらは調教中に故障し未出走のまま死亡している。渡邊にとって「エルコンドルパサー」という馬名は思い入れがあるようで、“初代”のエルコンドルパサーが引退した後に「これはと思う馬に出会うことが出来たらその時はまたエルコンドルパサーと名付けたい」と語った。</ref>([[英語]]表記:''El Condor Pasa'' [[スペイン語|西語]]表記:''El Cóndor Pasa'' 漢字表記:''神鷹'')は[[アメリカ合衆国]]で生産され、[[日本]]で[[調教]]された[[競走馬]]([[外国産馬]])。馬名の由来は馬主の[[渡邊隆]]が好きだったという[[サイモン&ガーファンクル]]の『[[コンドルは飛んでいく]]』より。4歳(旧5歳)時に国外遠征を行い、[[フランス]]のG1競走[[サンクルー大賞]]を勝ち、[[凱旋門賞]]で2着になるなど、日本競馬界に大きな足跡を残した。1998年[[JRA賞最優秀3歳牡馬|JRA賞最優秀4歳牡馬]]、1999年[[JRA賞#歴代年度代表馬|年度代表馬]]、[[JRA賞最優秀4歳以上牡馬|JRA賞最優秀5歳以上牡馬]](部門名は、いずれも当時のもの)、2014年[[JRA顕彰馬]]。


日本人実業家・[[渡邊隆]]による生産所有馬で、1998年に[[中央競馬]](JRA)でデビュー。同年[[NHKマイルカップ]]と[[ジャパンカップ]]を制し、[[JRA賞最優秀4歳牡馬]]に選出される。1999年には[[フランスの競馬|フランス]]への長期遠征を行い、[[サンクルー大賞]]などに優勝したほか、ヨーロッパ最高峰の競走とされる[[凱旋門賞]]で2着の成績を残して引退。同年は日本で走らなかったにもかかわらず[[JRA賞|JRA年度代表馬]]と[[JRA賞最優秀5歳以上牡馬|最優秀5歳以上牡馬]]に選ばれた。通算11戦8勝(うちフランスで4戦2勝)。[[ワールド・サラブレッド・ランキング|インターナショナル・クラシフィケーション]]によるレート「134」、[[タイムフォーム]]によるレート「136」は、いずれも日本調教馬についての史上最高数値として保持されている。
== 競走馬時代 ==
=== 1997年 ===
デビューは[[1997年]]11月8日の[[東京競馬場]]、[[ダート]]1600mの新馬戦であった。スタートは悪く、出遅れるものの、直線に入ると1頭だけ次元の違う脚を見せ、最後はのちに京成杯を勝つマンダリンスターに7馬身差をつけての圧勝だった。


2000年より種牡馬となったが、産駒デビュー前の2002年に[[腸捻転]]で死亡。遺された3世代からは[[ヴァーミリアン]]、[[ソングオブウインド]]、[[アロンダイト (競走馬)|アロンダイト]]と3頭のGI優勝馬が輩出された。2014年、[[JRA顕彰馬]]に選出。
=== 1998年 ===
年明けの1月11日、2戦目の[[中山競馬場]]500万条件レースも9馬身差で圧勝。この頃から同期の外国産馬で当時無敵を誇っていた[[グラスワンダー]]に対抗できる大物として認識されるようになる。これまでダートコースしか走っていなかったため、陣営は芝コースを経験させるべく[[共同通信杯|共同通信杯4歳ステークス]]に出走させるが、[[雪]]のため東京競馬場芝コースが使えず、皮肉にもダートに変更となってしまった。レースは同じくダート2戦2勝のハイパーナカヤマとの一騎打ちムードであったが、直線に入り初めて鞭を入れられると必死で食い下がるハイパーナカヤマをあっさり突き放し、力の違いを見せ付けて重賞(ただしダート変更のため[[競馬の競走格付け|格付け]]無し)初制覇を飾った。


== 経歴 ==
2か月後には[[ニュージーランドトロフィー|ニュージーランドトロフィー4歳ステークス]]に出走、これが初めての芝のレースで[[朝日杯フューチュリティステークス|朝日杯3歳ステークス]]2着の[[マイネルラヴ]]などメンバーもそれなりに揃っていたが、出遅れをものともせず一番人気に応え圧勝した。
''以下、競走馬時代の馬齢については、日本で2000年まで使用された[[数え年]]で、種牡馬時代の馬齢表記は2001年以降に使用されている[[満年齢]]で記述。''
=== 出生までの経緯 ===
生産者・馬主の[[渡邊隆]]は本業の東江運輸を興した父・喜八郎から親子2代の馬主であり、元より血統に造詣が深かった。渡邊は[[サドラーズウェルズ]]や[[ヌレイエフ]]といった世界的な大種牡馬を輩出するソングの[[ファミリーライン|牝系]]に憧れを抱いており、イギリスのセールにおいて、ソングの曾孫にして父にサドラーズウェルズを持ち、「ソングの3×4」という[[インブリード|クロス]]を有する牝馬・サドラーズギャルに目を付けた<ref name="yushun9910" />。サドラーズギャルはセリを欠場してアイルランドの牧場に戻されてしまったが、諦められなかった渡邊は代理人に依頼して所有者と直接交渉し、あらためて買い取ることに成功。そしてサドラーズギャルをアメリカ・ケンタッキー州のレーンズエンドファームへ預託した<ref name="yushun9910">『優駿』1999年10月号、pp.20-22</ref>。


同場はフランスとイギリスでG1競走3勝を挙げた[[キングマンボ]]の生産者であり、同馬がこれもソングの血を引くヌレイエフとG1競走10勝の名牝[[ミエスク]]の子であることに惹かれるものがあった渡邊は、手持ちの別の種牡馬株とキングマンボの株を交換し、サドラーズギャルにキングマンボを交配した<ref name="yushun9910" />。両馬の配合はソング、[[ノーザンダンサー]]、[[ネイティヴダンサー]]、[[フォルリ (競走馬)|フォルリ]]、[[スペシャル (競走馬)|スペシャル]]といった多くのクロスが重なっており<ref name="shosai">『書斎の競馬(1)』pp.41-49</ref>、渡邊にキングマンボの株を斡旋した人物は「プロは怖くてこんな配合はできない」としきりに口にしていたという<ref name="yushun9910" />。渡邊自身、「アマチュアでありながらまんざら素人でもないからこそできた」としている<ref>『優駿』1998年6月号、p.146</ref>。
4戦無傷で迎えた春の大目標である[[NHKマイルカップ]]にはトキオパーフェクトやロードアックスなど本馬のほか3頭の無敗馬も駒を進めてきたが、圧倒的1番人気に支持される。レースは中団を進み、3角から進出を開始すると、手前を変えず外へ寄れながらも、早めに抜け出し、最後にシンコウエドワードが詰め寄ってくるも余裕の勝利。無傷の5連勝で初のGIタイトルを手中にした。二ノ宮調教師としても開業10年目にして初のGI勝利であった。


==== 毎日王冠 ====
=== 生い立ち ===
{{Double image aside|right|Yoshitaka-Ninomiya20110403.jpg|150|Matoba_hitoshi_on_rice_shower.jpg|150|二ノ宮敬宇(2011年)|的場均(1993年)}}
秋は[[第49回毎日王冠]]から始動。このレースには[[サイレンススズカ]]と、骨折でNHKマイルカップには出走できなかったグラスワンダーが出走してきた。当時外国産馬には[[天皇賞]]への出走権がなく、これが最初で最後の対決になるかもしれないと、当日の東京競馬場にはGIIとしては異例の13万人が詰めかけ、異様な盛り上がりを見せていた(事実、前述2頭との対戦はこれが唯一となった)。グラスワンダーとエルコンドルパサーは共に[[的場均]](現調教師)がデビュー以来騎乗しており、同騎手がどちらに騎乗するか注目されたが、結局グラスワンダーに騎乗することになった。的場によると、当初からエルコンドルパサーの騎乗はグラスワンダーが復帰するまでということは決まっており、調教師の二ノ宮も理解していたという。しかしこれは苦渋の選択であり、『体がふたつあったら、どちらにも騎乗したかった』と語っている<ref>『夢無限』(的場均 著)より</ref>。
1995年3月17日、サドラーズギャルはレーンズエンドファーム・オークツリー分場で牡馬、後のエルコンドルパサーを出産。生後4カ月のころ、競り市参加のためケンタッキーを訪れていた[[二ノ宮敬宇]](にのみや・よしたか。後の管理調教師)の検分を受けた。二ノ宮の印象は「ごろっとした四角い馬」というのみで、渡邊への報告も「普通の馬」というものだった<ref name="yushun0210">『優駿』2002年10月号、pp.100-104</ref>。翌1996年1月には日本へ送られ、北海道門別町のファンタストクラブ内にある木村牧場で育成調教に入った<ref name="yushun0210" />。以後は至極順調に過ごし、競走年齢の3歳に達した1997年8月末、茨城県・[[美浦トレーニングセンター]]の二ノ宮のもとへ入厩した<ref name="yushun0210" />。トレセンでも怪我や病気は一切なく、装蹄を嫌がるという以外には気性も落ち着いていた<ref name="yushun0210" />。ただし、この段階に至っても厩舎スタッフによる評価は「少しは走るか」という程度であった<ref name="monogatari">『名馬物語2』pp.116-124</ref>。一方、デビュー当週の併走による調教で、パートナーを務めた馬に騎乗した[[的場均]]はその走りにいたく感心し、二ノ宮に希望して初戦の騎手を務めることになった<ref name="matoba">的場(2001)pp.177-182</ref>。


==== 馬名の由来 ====
このためエルコンドルパサー陣営は[[蛯名正義]]に騎乗を依頼、このコンビは引退まで続くことになる。レースは4コーナーで逃げるサイレンススズカに詰め寄るが、直線で突き放されて2馬身半の2着。
競走馬名「エルコンドルパサー」はペルー民謡「[[コンドルは飛んでいく]]」に由来する<ref name="yushun0209" />。渡邊が[[慶應義塾大学体育会ソッカー部|慶応大学サッカー部]]在籍時に、中学2年次までペルーに住んでいた先輩がおり、その人物に強い印象を残していたことから、父名の一部「[[マンボ]]」から「南米の音楽」と解釈を広げ命名された<ref name="yushun9905">『優駿』1999年5月号、pp.86-89</ref>。渡邊の所有馬では2頭目の「エルコンドルパサー」であり、初代はデビュー前の骨折で[[予後不良 (競馬)|予後不良]]となっていた<ref name="yushun9905" />。


==== ジャパンカップ ====
=== 戦績 ===
==== 3-4歳時(1997-1998年) ====
毎日王冠後、[[マイルチャンピオンシップ]]と[[ジャパンカップ]]のどちらに出走するかということで注目された。その際、馬主の渡邊が調教師の二ノ宮に「ジャパンカップに出走したい。マイルチャンピオンシップなら勝てるかもしれないのに、負けに行くようで悪いね」と述べたところ、二ノ宮からは「いや、こっちでも勝っちゃいますからいいですよ」と返ってきたらしい<ref>『王者の飛翔』([[ポニーキャニオン]])より</ref>。こうしてジャパンカップに出走。当時は血統背景や戦歴から距離適性はマイルから中距離までという見方が一般的で、2400mという距離に対する不安から3番人気に留まったものの、レースでは抜群のスタートから4番手を進み、直線持ったまま先頭に立つという力強い競馬で2着[[エアグルーヴ]]に2馬身半差の快勝を収めた。これはジャパンカップにおける最大着差(当時)であり、また日本の3歳(旧4歳)馬がジャパンカップを制するのも初めてである。同期の[[東京優駿|日本ダービー]]優勝馬[[スペシャルウィーク]]が3着だったため、前走でグラスワンダーに先着したこともあり、世代最強馬との評価を得た。年度代表馬は逃すものの、この年の二冠馬[[セイウンスカイ]]を抑えこの年の最優秀4歳牡馬に選ばれた。
===== デビュー - ダートでの快走 =====
デビュー戦は11月8日の[[東京競馬場|東京開催]]で迎えた。まだ身体ができあがっておらず、芝コースでスピード勝負をさせるのは時期尚早であるという二ノ宮の判断から、[[ダート]]の1600メートル戦が選ばれた<ref name="yushun0210" />。単勝オッズ2.5倍でほか1頭と並び1番人気に推されたが<ref name="yushun0712">『優駿』2007年12月号、pp.56-63</ref>、ゲートからの発走練習を充分に積んでいなかったこともあり、スタートで出遅れて最後方からのレース運びとなった<ref name="yushun0210" />。そのまま直線入口まで最後方を追走していたが、スパートを掛けると先行勢を一気にかわしていき、さらに先頭に立ってからは突き放す一方となり<ref name="yushun0712" />、後に[[京成杯]]を勝つマンダリンスターに7馬身差をつけての勝利を挙げた<ref name="matoba" />。[[上がり (競馬)|上がり]]3[[ハロン (単位)|ハロン]]<ref group="注">1ハロン=約200メートル</ref>(ゴールまでの600メートル)のタイムでは、マンダリンスターが39秒台、ほかはすべて40秒以上掛かったなか、エルコンドルパサーのそれは37秒2という突出したものだった<ref name="yushun0712" />。的場は「『シャーン』と金属音が聞こえてくるかのような、凄い切れ味だった<ref name="matoba" />」とし、二ノ宮は「この馬はもしかたら凄く強いかもしれないと思ったのはこのときがはじめて」だったと回顧している<ref name="yushun0210" />。他方、的場はエルコンドルパサーが他馬の姿を極端に気にする様子があったことから「小心な馬」とも感じていたという<ref name="matoba" />。


翌1998年1月に2戦目(ダート1800メートル)に臨む。ここでもスタートで出遅れたが、第3コーナーからスパートを掛けて直線では独走状態となり、2着に9馬身差をつけて連勝した<ref name="100meiba">『週刊100名馬vol.83 エルコンドルパサー』pp.12-20</ref>。
なお、この最優秀4歳牡馬選出について、[[皐月賞]]、[[菊花賞]]という伝統と権威ある[[クラシック (競馬)|クラシック]]二冠を制したセイウンスカイを差し置いて、エルコンドルパサーが選出されるとは如何なものかという声もあった。これに関するエピソードとして、[[杉本清]]は「これではクラシックとは一体何なのかと言われてしまう」と[[ドリーム競馬]]内で嘆いた。


[[ファイル:Grass_Wonder_19991226.jpg|thumb|200px|グラスワンダー(画像)は朝日杯をレコードタイムで圧勝し、レーティングではJRA所属の3歳馬として史上最高の評価を得ていた<ref>『優駿』1998年2月号、p.125</ref>。]]
=== 1999年 ===
このあと二ノ宮は的場へ、この競走を最後としての騎手交代を告げた。エルコンドルパサーの同期馬に、同じく的場が主戦騎手を務める[[朝日杯フューチュリティステークス|朝日杯3歳ステークス]]優勝馬・[[グラスワンダー]]がおり、近く両馬の対戦があることは明らかだったからである<ref name="matoba" />。しかし的場はエルコンドルパサーの精神的成長が不充分であり、他の騎手に手綱を委ねることにはまだ不安が残るとしてもう1戦の猶予を願い出、これを了承された<ref name="matoba" />。
ジャパンカップを優勝したこと、またサイレンススズカ、[[タイキシャトル]]という1世代上の実力馬がいなくなったことで、国内での勝負付けは済んだと判断した陣営は海外遠征を決断。現地ではトニー・クラウト厩舎が預かることになったが、馬が環境の変化に戸惑うことが無いように飲料水、食べ物(飼葉)まで共にコンテナで運んだ。なお、エルコンドルパサーはフランスに向け輸送された後、凱旋門賞を戦い終えるまで、一度として日本に戻されること無く現地で調教が施されている。[[帯同馬]]として、同じく二ノ宮厩舎所属で、同じく渡邊オーナーの所有馬だったハッピーウッドマンが同行した。


3戦目・[[共同通信杯|共同通信杯4歳ステークス]]で重賞に初出走。ここは芝コースへの適性が試される場となるはずだったが、降雪によりダート施行へと変更された<ref name="yushun0712" />。当日は単勝1.2倍と圧倒的な支持を集めると、レースでは5番手追走から直線で逃げ馬をかわし、2馬身差で勝利した<ref name="yushun0712" />。的場はインタビューにおいて「1戦ごとに精神、肉体の両面で成長しているし、まだまだ良くなると思う。グラスワンダーとも甲乙つけがたいほど素晴らしい馬。同じレースを使ってほしくないし、身体が2つほしい」と語った<ref name="100meiba" />。的場は後にこの競走を回顧し「経験と、そこからさまざまなことを学習できる頭の良さが、唯一の弱点である臆病さを1戦ごとに埋めていくかのようだった。今では、どんなタフなレースにも耐えられそうに思えた」と述べている<ref name="matoba2">的場(2001)pp.182-188</ref>。なお、これは二ノ宮厩舎開業10年目にしての重賞初勝利であったが、コース変更のため「GIII」の格付けは取り消された。これは1995年の[[東京新聞杯]](優勝馬[[ゴールデンアイ]])以来2度目の事例となった<ref name="100meiba" />。
初戦の[[イスパーン賞]]では[[クロコルージュ]]にゴール直前に交わされ4分の3馬身差で敗れる。このレースの結果で、ヨーロッパに残ることを陣営は決断し、次走はブリガディアジェラードステークスか[[サンクルー大賞]]のどちらかに出走という予定であったが、サンクルー大賞に出走した。なお、イスパーン賞の後に、帯同していた厩務員の根来邦雄は持病が悪化したため長期滞在を断念して帰国。その後は凱旋門賞まで、調教助手の佐々木幸二がいわゆる「持ち乗り」の形で担当した。


===== 芝路線へ - GI制覇 =====
サンクルー大賞は前年の凱旋門賞馬[[サガミックス]]や、フランスとアイルランドのダービー馬で[[カルティエ賞|ヨーロッパ年度代表馬]]の[[ドリームウェル]]、前年の[[バーデン大賞]]馬[[タイガーヒル]]などヨーロッパの一線級の[[馬齢|古馬]]が揃った。61kgという近年日本の平地競走では殆ど見かけなくなった重い[[負担重量|斤量]]を背負っての戦いとなった。レースは縦長の隊列を4番手で追走、直線では早目先頭に立ったタイガーヒルに持ったままで並びかけ、最後は2馬身半の差をつけ勝利した。ヨーロッパのチャンピオンディスタンスのG1での初の日本調教馬による優勝となった。現地メディアのParis Turfはこの勝利を名馬[[シーバード]](1965年第57回同レースに勝利)になぞらえ、ヨーロッパの競馬界でも凱旋門賞の有力候補と認識されるようになる。本馬はソエや疾病とは無縁な健康な馬であり、二ノ宮調教師は順調に予定を消化できるのが強みのひとつと語っているが、レース中、ドリームウェルに蹴られるアクシデントがあり、それが原因でフレグモーネを発症している。
競走後、二ノ宮は騎手確保の必要性から的場に改めて決断を促した。的場は悩み抜いた末にグラスワンダーへの騎乗を選択し、その意向を伝えたが<ref name="matoba2" />、3月15日、グラスワンダーは右後脚を骨折し、春の出走が絶望的な状態となった<ref>『週刊100名馬vol.89 グラスワンダー』p.11</ref>。これを受け、同馬の管理調教師である[[尾形充弘]]はエルコンドルパサー陣営へ的場の騎乗継続を進言したが、すでに後任が決まり、それが覆ることもないとみていた的場は半ば諦めていたという<ref name="matoba2" />。しかし結果として的場はエルコンドルパサーの鞍上に据え置かれ、春の目標とした[[NHKマイルカップ]]の前哨戦・[[ニュージーランドトロフィー|ニュージーランドトロフィー4歳ステークス]]へ臨むことになった<ref name="matoba2" />。


ニュージーランドトロフィーでは前年の朝日杯でグラスワンダーの2着としていた[[マイネルラヴ]]、[[フラワーカップ]]優勝馬スギノキューティーらが相手となったが<ref name="yushun9806">『優駿』1998年6月号、p.67</ref>、エルコンドルパサーはオッズ2.0倍の1番人気に支持された<ref name="yushun0712" />。初の芝コースに、返し馬<ref group="注">ウォーミングアップを兼ねた待機所への移動</ref>ではやや戸惑う様を見せ、スタートでも立ち後れた<ref name="yushun9806" />。的場は1400メートルの速い流れについていけるか否かを懸念していたが<ref name="yushun9806" />、すぐに好位にとりつくと、最終コーナーで外に持ちだしてから直線で抜け出し、スギノキューティーに2馬身差をつけて勝利した<ref name="100meiba" />。的場は「2000メートルぐらい距離があった方が、もっと強い競馬ができると思う。本番で1ハロン伸びるのは、間違いなくプラス」とNHKマイルカップへの展望を述べ<ref name="100meiba" />、また二ノ宮は「この距離と出走頭数<ref group="注">フルゲートの18頭</ref>では馬群をさばくのが大変だろうと思っていたので少々心配だったが、的場君が意識的に早めにいって、馬ごみを上手くさばいてくれた。今回の勝利はジョッキーの腕によるところが大きい<ref name="yushun9806" />」と的場の騎乗を称えた。
2ヶ月休養した後の次走[[フォワ賞]]はサガミックスが直前に回避し、3頭立てという日本ではまず見かけない少頭数となったが、同時にG2レースながら出走馬は全てG1馬であった。レースでは押し出される格好で先頭に立ち他の2頭([[ボルジア (競走馬)|ボルジア]]と、一度敗れているクロコルージュ)にマークされるという状況で、直線ではインを突いたボルジアが一旦先頭に立つも差し返して勝利し、いよいよ大目標である凱旋門賞に向かう。


5月17日に迎えたNHKマイルカップでは、エルコンドルパサーの他に[[トキオパーフェクト]]、ロードアックス、シンコウエドワードという3頭の無敗馬が揃った<ref name="yushun9807">『優駿』1998年7月号、pp.29-33</ref>。当日はエルコンドルパサーがこれらを抑えてオッズ1.8倍の1番人気に支持され、トキオパーフェクトが3.6倍で続いた<ref name="yushun9807" />。レースではそれまでにない好スタートを切ると、道中では3、4番手を追走。最終コーナーでは大外へ膨れながらも直線で先頭に立ち、シンコウエドワードに1馬身3/4差をつけての優勝を果たした<ref name="yushun9807" />。これは二ノ宮にとっても初めてのGI制覇となった<ref name="yushun9807" />。
==== 凱旋門賞 ====
凱旋門賞ではその年の[[ジョッケクルブ賞]]、[[アイリッシュダービー]]を制し、ヨーロッパの3歳最強馬と評価されていたモンジュー、当年の[[キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス|キングジョージ6世&クイーンエリザベスダイヤモンドステークス]]及び[[アイリッシュチャンピオンステークス]]をそれぞれ圧勝していたヨーロッパ古馬チャンピオンである[[デイラミ]]が出走した。


的場は「4コーナーで3頭分ぐらい外にふられてしまい、あわてて修正した分、最後は止まってしまうのではないかと不安になったが、よくきついレースを凌ぎきってくれた。本当に素晴らしい能力を持っている」などと述べた<ref name="yushun98072">『優駿』1998年7月号、pp.134-135</ref>。また渡邊は「今回本当に嬉しかったのは、自分の責任の中で繁殖牝馬を捜して配合から取り組んだ結果、エルコンドルパサーという強い馬が育ってくれたこと」と述べた<ref name="yushun98072" />。
当日レースの舞台となるロンシャン競馬場はペネトロメーター5.1というレース史上類を見ないほど大量に水分を含んだ状態の[[馬場状態#不良馬場|不良馬場]]だったため、道悪を苦としないエルコンドルパサーとモンジューの一騎打ちというのが戦前の評判であった(優勝候補の一角だったデイラミの陣営は直前まで出走を躊躇していた)。


===== 毎日王冠 - 騎手交代 =====
レースはモンジュー陣営のペースメーカーであるジンギスカンが先頭に立つ予定だったが、ジンギスカンが出遅れ、エルコンドルパサーが押し出されるような格好で先頭を進み、エルコンドルパサーをモンジューが後方から見る格好となった。これが功を奏し、単騎逃げで折り合った本馬は、最後の直線まで脚を溜めながら抜群の手応えでレースを進め、直線半ばでは更に後続を突き放した。モンジューはまだ馬群の中にあり、日本競馬の悲願がついに達成かと思われた。しかし残り200mでようやく馬群をこじ開けたモンジューが一気に追い込み、ゴール前でついにエルコンドルパサーを捉えた。結局半馬身差でモンジューが優勝、エルコンドルパサーは2着となった。
NHKマイルカップのあと、二ノ宮はエルコンドルパサーの休養と、秋の目標を[[マイルチャンピオンシップ]]に据えることを明言したが<ref name="yushun98072" />、のちに方針が変わり、目標は国際招待競走の[[ジャパンカップ]]に改められた。当時、エルコンドルパサーはNHKマイルカップ優勝の実績、そして血統からみても「[[マイル]]」、つまり1600メートル前後に向くのではないかとみられていたが<ref name="yushun9901">『優駿』1999年1月号、pp.12-19</ref>、ジャパンカップはそれよりも800メートル長い2400メートルで行われる競走であった。


この変更は[[JRA賞|年度代表馬]]争いを見据えたものであった。渡邊は、同世代の[[東京優駿|東京優駿(日本ダービー)]]優勝馬・[[スペシャルウィーク]]、そして春夏に[[安田記念]]とフランスのG1競走[[ジャック・ル・マロワ賞]]を制していた[[タイキシャトル]]に対抗するためには、ジャパンカップに勝つしかないと考えたのである<ref name="yushun9901" />。また、渡邊の父・喜八郎がかつて所有した[[ホスピタリテイ]]が、1982年のジャパンカップを前に故障のため出走できなかったという経緯も踏まえていた<ref name="yushun99012" />。さらに的場によれば、渡邊はマイルチャンピオンシップが行われる[[京都競馬場|京都コース]]が馬に良くないと嫌がっていたともいう<ref name="matoba2" />。
2着に敗れはしたものの凱旋門賞の3歳と古馬の斤量差(エルコンドルパサーが59.5キロであるのに対し、モンジューは56キロ)や、3着馬との間につけた6馬身差(4着はさらに5馬身差)により、{{どこ範囲|現地のメディア|date=2013年2月}}から「'''2頭チャンピオンが存在した'''」という評価を受けた。日本国内でも[[シンボリルドルフ]]や[[サクラローレル]]など歴代の強豪馬が海外遠征で敗れており、歴史的快挙と評された。現在においても、2着は日本調教馬による凱旋門賞の最高着順記録(タイ記録)<ref>2010年の[[ナカヤマフェスタ]](エルコンドルパサーと同じく二ノ宮厩舎所属)、2012年および2013年の[[オルフェーヴル]]も同着順を記録している。</ref>であり、これはニュージーランド調教馬Balmerino(バルメリーノ)と並んでヨーロッパ以外での調教馬による最上位着順記録でもある<ref>ヨーロッパの調教師によるUAE調教馬を除く。</ref>。


ジャパンカップを目指すに当たり、前哨戦として選ばれたのは1800メートル戦の毎日王冠であった。ここで、的場は棚上げされていた選択に再び迫られた。毎日王冠には骨折からの復帰戦としてグラスワンダーも出走が決まっていたのである。調教師の尾形は「グラスワンダーの調子は今ひとつだ。後のことも考えて、自分で決めてくれ」と、的場に選択を委ねていた<ref name="yushun0102">『優駿』2001年2月号、pp.92-95</ref>。的場は「馬の状態ならば、今回に限ればエルコンドルパサーが上」とみていたものの、グラスワンダーが休養前にみせた能力や先々までを考慮すると結論が出せず、3週間ほど悩んだという<ref name="matoba3">的場(2001)pp.199-202</ref>。そして、最終的に的場はグラスワンダーを選択した<ref name="matoba3" />。
このレースを最後に引退<ref>[[ブリーダーズカップクラシック]]に出走するプランもあったが既に4戦消化しており、しかもいずれも激走であったことから消耗が激しく、受け入れ先の問題等もあり、実現しなかった。</ref>。奇しくも死闘の相手であるモンジューやタイガーヒル、ボルジアといった顔ぶれが集まったジャパンカップ当日の昼休み「コンドルは飛んで行く」が流れる中、引退式が行われた。なお、この日のジャパンカップはスペシャルウィークがモンジュー他に勝利している。


[[File:Masayoshi-Ebina.jpg|thumb|蛯名正義(右、2009年)|200px]]
上記のような半年に及ぶ海外遠征での成績が評価され、1999年の[[JRA賞#歴代年度代表馬|年度代表馬]]にも選ばれたが、この年の国内GIをスペシャルウィークが3勝、またグラスワンダーがこのスペシャルウィークを2度下す形で2勝していたために、両馬を差し置いて国内のレースに一度も出走していないエルコンドルパサーが選ばれるのは不適当ではないかという意見も相次いだ。また、記者投票の結果、一旦はスペシャルウィークが首位に立ったにも関わらず、審議委員による決定でこれを覆し、エルコンドルパサーを年度代表馬に決定したために、1993年にビワハヤヒデが選ばれた時以上の大論争となった(詳細については[[1999年度JRA賞年度代表馬選考]]を参照)。
的場の後任としては、翌年の遠征を念頭に[[フランス人]]騎手の[[オリビエ・ペリエ]]が第一候補として挙がったが、日本中央競馬会(JRA)から「短期免許で1日だけの騎乗を許可することはできない」と通告され断念<ref name="100meiba5">『週刊100名馬vol.83 エルコンドルパサー』pp.3-9</ref>。次いで国際経験も豊富な[[武豊]]に打診したが、春のグランプリ・[[宝塚記念]]を含め5連勝中の[[サイレンススズカ]]と共に毎日王冠に臨むとの理由で断られ、最終的には当時関東の騎手ランキングでトップを走っていた[[蛯名正義]]に決まった<ref name="100meiba5" />。蛯名は最近、これも渡邊の所有馬である[[オフサイドトラップ (競走馬)|オフサイドトラップ]]で重賞を連勝しており、また喜八郎が最初の所有馬を預けた[[蛯名武五郎]]の遠縁にも当たり、「なんとなく縁を感じた」という<ref name="100meiba5" />。騎乗依頼を受けた蛯名は「凄い馬を頼まれちゃったな、これまで負けてないだけに大変だ」と重圧を覚えたと振り返っている<ref name="yushun9901" />。


10月11日の毎日王冠には、GII競走ながら13万人を越える観衆が詰めかけた<ref name="yushun0102" />。当日はサイレンススズカが単勝オッズ1.4倍という断然の1番人気となり、2番人気には休養前の怪物的なイメージや、的場の選択も影響して休み明けのグラスワンダーが推され、エルコンドルパサーは3番人気となった<ref name="yushun0102" />。スタートが切られると、[[脚質#逃げ|逃げ馬]]のサイレンススズカが前半600メートルを34秒6<ref name="yushun0102" />、1000メートルを57秒7<ref name="yushun0712" />というハイペースで飛ばし、エルコンドルパサーは2番手集団のなかでこれを追走<ref name="yushun0102" />。第3コーナーから最終コーナーにかけてはグラスワンダーがスパートを掛けて直線入口でサイレンススズカに並びかけたが、そこから伸びを欠く<ref name="yushun0102" />。一方のエルコンドルパサーは逃げ脚の衰えないサイレンススズカを追走したが、2馬身半及ばず2着となった<ref name="yushun0102" />。3着サンライズフラッグとは5馬身差がついており、グラスワンダーは5着であった<ref name="yushun0102" />。
引退後の[[JRA顕彰馬|顕彰馬]]の選出においては長らく落選が続いていたが、本馬は平成26年(2014年)度顕彰馬に選定された。


蛯名は「相手が強かった。完敗だった<ref name="yushun9901" />」としたが、二ノ宮は「勝った馬はうちの馬とは違う脚質の馬で、レースも相手の馬の流れになってしまってのもの。負けはしたけれどもいいレースをしてくれたと思った。決して落胆するようなことはなかった」と述べている<ref name="yushun9901" />。また二ノ宮は後年この競走について、「あの毎日王冠で、サイレンススズカを追いかけていたらどうだったかな、と思うことはある。でも、それで失速していたらジャパンカップ挑戦は諦めていただろう。エルコンドルパサーの将来を決定づけたレースだった」と回顧している<ref name="yushun0102" />。一方、苦渋の選択を経た的場は、エルコンドルパサーが無事に秋初戦を終えたことを喜んだとしつつ、「未練もあった。正直な話、エルコンドルパサーへの未練はそのあともずっとあった。それでも、選んだのは僕だ。割り切ってはいる。ただそれと未練とは、また別の次元の話なのだ」と後年著書に記している<ref name="matoba3" />。
なおエルコンドルパサーのヨーロッパ長期キャンペーンは、日本はもとよりフランスにおいても極めて高い評価を受け、渡邊はその年もっとも活躍した競馬関係者に贈られるランセル・ゴールド賞を現在に至るまで外国人としてただ1人受賞している。毎年凱旋門賞を取材しているカメラマンの白田敏行は、現地のファンや関係者の間でも[[2006年]]に凱旋門賞だけ出走して日本に帰国した[[ディープインパクト (競走馬)|ディープインパクト]]よりも、凱旋門賞に照準を絞り1年がかりでヨーロッパに遠征したエルコンドルパサーのほうが認知されているという見解を示している<ref>[http://www.plus-blog.sportsnavi.com/saikyokeiba/article/575 【最強ヒストリー】 エルコンドルパサー 第10話]</ref>。「20世紀世界の平地競走馬トップ200」では日本馬として唯一86位にランクインしている。


なお、勝ったサイレンススズカはエルコンドルパサーとグラスワンダーに出走権のない[[天皇賞|天皇賞(秋)]]を経て、ジャパンカップへ向かう予定となっていたが<ref name="yushun0102" />、天皇賞で骨折し、安楽死処分となった。優勝したのは渡邊の所有馬オフサイドトラップであった。
また生涯で一度も[[連対]]を外さなかったが、11戦連続連対は生涯戦績で連対を外さなかった中央競馬所属馬の中では[[シンザン]]の19戦連続、[[ダイワスカーレット]]の12戦連続に次ぐもので、グレード制導入以降では2番目の記録となっている(なお、生涯戦績で連対を外した中央競馬所属馬には15戦連続連対の[[ビワハヤヒデ]]や12戦連続連対のタイキシャトルなど、地方競馬所属馬には生涯戦績23戦23連続連対の[[ゴールドレット]]や15戦全勝のツルマルサンデーなどがいる)。

===== ジャパンカップ制覇 - 最優秀4歳牡馬となる =====
11月29日、秋の目標としたジャパンカップに出走。当年は目玉といわれた外国招待馬がほとんど辞退、あるいは受諾後に回避し、外国勢で注目されるのは前年の[[ブリーダーズカップ・ターフ]]優勝馬・[[チーフベアハート]]のみで、日本馬優勢の前評判であった<ref name="yushun9901" />。1番人気には本競走と同じ東京競馬場・2400メートルで行われる日本ダービーの優勝馬・スペシャルウィークが推され、2番人気には、かねてより陣営がここを目標と公言していた前年度2着の牝馬[[エアグルーヴ]]が入り、エルコンドルパサーが続く3番人気と、日本馬が人気上位を占めた<ref name="yushun9901" />。エルコンドルパサーには一部で距離に対する不安が囁かれており、蛯名も戦前「能力は信用しているが、距離は走ってみなければわからない」と口にしていた<ref name="yushun9901" />。

レースでは[[サイレントハンター]]が単騎での逃げを打ち、エルコンドルパサーはスペシャルウィーク、エアグルーヴと共に3番手集団の中で並んで進んだ<ref name="yushun9901" />。最終コーナーではエアグルーヴ、スペシャルウィークがスパートを遅らせたのに対しエルコンドルパサーはいち早く先頭に並びかけ、最後の直線で抜け出す<ref name="yushun9901" />。その後も最後まで失速することなくエアグルーヴとの差を広げ、同馬に2馬身半差をつけての優勝を果たした<ref name="yushun9901" />。

蛯名は「4コーナーを回って、直線を向いたところで勝てると思った。それまでは慎重に距離をもたそうと思って乗っていた。ペースもレースのレベルにしてはすごく遅かった。だから良い位置にいられたのも良かったんだろう。後ろから行ったのでは駄目だったんじゃないか」と振り返り<ref name="yushun9901" />、二ノ宮は「走る馬は極端な[[ステイヤー]]や[[スプリンター]]でない限り、ある程度の距離なら走ってくれると思っているので、期待に応えてくれると思っていた。春より精神的に強くなり、気持ちも身体も最高の状態だった」などと述べた<ref name="yushun99012">『優駿』1999年1月号、pp.144-145</ref>。また渡邊は「未経験の距離についていろいろ言われていたが、私はこなせると思っていた。それに父も『[[プレストウコウ]]で[[菊花賞]]を勝ったときもそう言われていたから大丈夫だ』と言っていた」と語り<ref name="yushun99012" />、さらに記者から翌年の国外遠征について水を向けられると、具体的な内容は決まっていないとしつつ「ぜひ行ってみたい」と明言した<ref name="yushun9901" />。

秋は2戦のみという予定に沿って年末のグランプリ競走・有馬記念へは出走せず<ref name="yushun9901" />、当年はこれで終えた。渡邊は「欧州の競馬などを見ていても、本当のオープン馬というものは数を使わないものだと思う。あえて言えば、ここで有馬記念を使わないことも馬主としての見識」と語った<ref name="yushun9901" />。また、「日本で一番馬券の売れるレースは有馬記念だが、世界的な視野で見たら日本の最高レースはジャパンカップであり、そちらを勝ったのだからあえて無理をすることもない」という考えもあったとしている<ref name="shosai" />。なお、有馬記念は復帰から2戦を経て復活したグラスワンダーが的場を背に優勝した<ref>『優駿』1998年2月号、p.141</ref>。

当年の年度表彰・JRA賞において、エルコンドルパサーは[[皐月賞]]と[[菊花賞]]に優勝した[[セイウンスカイ]]を抑え、最優秀4歳牡馬に選出された<ref name="yushun9902">『優駿』1999年2月号、p.22</ref>。一方、狙っていた年度代表馬には年間5戦4勝、うち日・仏でGI競走3勝という成績を挙げたタイキシャトルが208票中174票獲得という大差で選出され、エルコンドルパサーは11票獲得にとどまった<ref name="yushun9902" />。

仮定の[[負担重量]]数値で各馬の序列化を図るJPNクラシフィケーションでは、ジャパンカップでの走りが国際的に高く評価され、Lコラム(2200-2700メートル)で126ポンドの評価を獲得。日本国内ではMコラム(1400-1800メートル)122ポンドのタイキシャトルとサイレンススズカを上回った。この数値はLコラムに限れば[[ダービーステークス|イギリスダービー]]優勝馬[[ハイライズ]](127ポンド)に次ぎ、フランスの凱旋門賞優勝馬[[サガミックス]]と並ぶ世界第2位の評価であった<ref name="rating98">『優駿』1999年2月号、pp.30-35</ref>。

==== 5歳時(1999年) ====
===== ヨーロッパ遠征へ =====
1999年は日本国外への遠征を念頭に、渡邊、二ノ宮に加え、欧米の競馬に通じた桜井盛夫、[[合田直弘]]、奥野庸介の3人をブレーンとして遠征先についての討議が行われた。イギリスの[[キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス]]、アメリカの[[ブリーダーズカップ]]、UAEの[[ドバイワールドカップ]]といった競走が候補に挙げられるなか、最終的にはフランスの凱旋門賞を目指すことに決定<ref name="yushun0210" />。1月25日に行われたJRA賞授賞式の場で、渡邊からエルコンドルパサーのヨーロッパ遠征が発表された<ref name="100meiba2">『週刊100名馬vol.83 エルコンドルパサー』p.11</ref>。このころまだ具体的なローテーションは決まっておらず、渡邊は雑誌のインタビューに「春2戦、秋2戦。春は[[イスパーン賞]]かブリガディアジェラードステークスを経て、[[エクリプスステークス]]へ」という展望を語っていた<ref name="shosai" />。

2月10日、エルコンドルパサーは休養を終えて美浦に戻り、4月14日に二ノ宮厩舎の僚馬・ハッピーウッドマンを帯同馬として伴いフランスへ出発<ref name="100meiba2" />。翌15日に到着し、現地の受け入れ先となる[[シャンティイ調教場]]の[[トニー・クラウト]]厩舎に入った<ref name="100meiba2" />。21日には二ノ宮から初戦をイスパーン賞(G1)とすることが正式に発表された<ref name="100meiba2" />。なお、フランス滞在に当たっては、タイキシャトルのフランス遠征にも随行した多田信尊が現地スタッフとの調整を担当するマネージャーとして起用され<ref name="100meiba3" />、二ノ宮不在の際には現場監督としての役割も担うことになった<ref name="100meiba5" />。

調教開始後、エルコンドルパサーは日本よりはるかに丈の長い芝に苦労し、1ハロンごとを15秒というごく軽い調教でも疲れた様子を見せていた<ref name="yushun0210" />。より地盤が緩む降雨の日などは「めちゃくちゃなフォーム」で走っていたという<ref name="yushun0210" />。しかしやがてそうした馬場に合わせた走法に変化していき、それに伴い筋肉の付き方も変わり、胴長で細身の馬体となっていった<ref name="yushun0210" />。それでも、[[調教助手]]の佐々木幸二はこの頃の状態について「もともと調教では動く馬なのに、とにかく動かなかった」と述べている<ref name="100meiba3">『週刊100名馬vol.83 エルコンドルパサー』pp.34-39</ref>。

===== イスパーン賞、サンクルー大賞 =====
5月23日、イスパーン賞を迎える。当日は地元馬を抑えオッズ2.75倍の1番人気となった。レースでは中団追走から最終コーナーで3番手に位置を上げ、最後の直線で先頭に立つ。しかし2番人気の[[クロコルージュ]]にゴール前で外から差され、4分の3馬身差の2着と敗れた<ref>『優駿』1999年7月号、pp.46-51</ref>。競走後、蛯名は「手応えは充分にあったし、追い出しも待って待って、残り200メートルまで仕掛けを我慢したんだけど。でも、初めての馬場も上手に走っていたし、次は楽しみになった」とし、二ノ宮は「落ち着いていたし、力は出せたと思う。頭数も少なく、理想的な流れだったが、久しぶりもあった。内容はあったと思う」と述べた<ref name="100meiba4">『週刊100名馬vol.83 エルコンドルパサー』pp.24-33</ref>。渡仏した時点では、厩舎スタッフは「果たしていつまでフランスにいられるのか」、「初戦で惨敗したら帰るんだろう」などと話しあっていたが<ref name="yushun0210" />、佐々木は「すぐ帰ることになったらもったいない」と現地で買い控えていた日用品の類を、この競走後に一気に買い込んだという<ref name="100meiba3" />。

6月2日には、エルコンドルパサーが年内で引退し、[[種牡馬]]として18億円の[[シンジケート]]が組まれたうえで[[社台スタリオンステーション]]で繋養されることが明らかとなった<ref name="100meiba2" />。

イスパーン賞を終えてから、エルコンドルパサーの状態は急速に上向いていった<ref name="100meiba3" />。次走はイギリスの[[ロイヤルアスコット開催]]で行われる[[プリンスオブウェールズステークス (イギリス)|プリンスオブウェールズステークス]](G2)や、かねて計画にあったエクリプスステークスへ向かうという選択肢もあったが、二ノ宮と多田で両競走が行われる各競馬場の状態を下見したのち候補から外され、フランスに留まることになった<ref name="100meiba5" />。
[[ファイル:Saint-Cloud_Racecourse_001.jpg|thumb|エルコンドルパサーがフランス初勝利を挙げたサンクルー競馬場。|250px]]
7月4日、G1・[[サンクルー大賞]]へ出走。芝丈が長く起伏に富んだ[[サンクルー競馬場]]のコース、距離不安が囁かれたジャパンカップと同じ2400メートルの距離、さらに日本ではまず背負うことのない61キログラムの[[負担重量|斤量]]といった諸条件を前に、蛯名はエルコンドルパサーの好調を感じてなお、スタミナ面への不安を抱いていた<ref name="100meiba5" />。また、相手は大幅に強化され、前年の[[ジョッケクルブ賞|フランスダービー]]、[[アイリッシュダービー]]を制し[[カルティエ賞|全欧年度代表馬]]に選ばれた[[ドリームウェル]]、前年の凱旋門賞優勝馬サガミックス、ドイツの年度代表馬[[タイガーヒル]]、[[ドイチェスダービー]]優勝馬でアメリカの[[ブリーダーズカップ・ターフ]]でも2着の実績がある[[ボルジア]]といった全欧の一線級が揃った<ref name="yushun9908">『優駿』1999年8月号、pp.48-51</ref>。

当日、エルコンドルパサーはサガミックスに次ぐ2番人気の支持を受ける<ref name="yushun9908" />。レースでは3、4番手追走から、最後の直線半ばでタイガーヒルを楽にかわし、同馬に2馬身半の差を付けて優勝<ref name="100meiba4" />。フランスでの初勝利を挙げた。競走後、蛯名は涙をみせ<ref name="100meiba5" />、「本当に嬉しい。自分が乗ってきた中でも最高レベルで、性格的にも走ることが大好きな、素晴らしい馬。凱旋門賞も楽しみ」と感想を述べ<ref name="100meiba4" />、また「どうしてもっと馬を信用してやれなかったのか」とその心中を吐露した<ref name="100meiba5" />。二ノ宮は「他馬の標的にされているようなレースだったが、自分の競馬ができたと思う。確かに強い相手に勝つことができたが、彼らが万全の状態だったか分からないし、またこれから気を引き締めていきたい」と述べた<ref name="100meiba4" />。

サンクルー大賞の結果、エルコンドルパサーには暫定的に128ポンドのレートが与えられた。これはフランスダービー、アイリッシュダービーを圧勝していた4歳馬・[[モンジュー]]に並び<ref name="100meiba5" />、5歳以上馬では当年のヨーロッパで最高評価となる数値だった<ref>『優駿』1999年9月号、p.122</ref>。二ノ宮は後年この競走について「結果を出さなければ残っている意味がなくなってしまうレースだった。フランスの4戦で一番緊張した。これで最後まで残れるなと思うとホッとした」と振り返り<ref name="100meiba5" />、また渡邊のブレーンのひとりであった合田直弘は「遠征の成否を分ける[[剣ヶ峰#剣が峰|剣が峰]]だった」と述べている<ref>『競馬名馬&名勝負年鑑 1999&#x301C;2000』pp.24-25</ref>。

===== フォワ賞 =====
サンクルー大賞のあと、エルコンドルパサーは右後脚に異常をきたす。競走中に二つの外傷を負っており、その傷口に[[菌]]が入り炎症を起こす[[フレグモーネ]]の症状であった<ref name="100meiba3" />。一般的にはすぐに腫れが引くほどのもので、マスコミには「軽症」と発表していたが、このときは治りが遅く[[屈腱炎]]に似た症状にまでなっており、完治に1カ月を要した<ref name="100meiba3" />。このため、7月下旬に再開される予定だった本格的な調教は、8月にずれ込んだ<ref name="100meiba3" />。

凱旋門賞に向けての前哨戦として、二ノ宮は1996年度の優勝馬・[[エリシオ]]が使った1600メートル戦、[[ムーラン・ド・ロンシャン賞]]を考えていた。しかし渡邊らが「常道とはいえない」と反対し、本番と同じ[[ロンシャン競馬場]]の2400メートルで行われる[[フォワ賞]](G2)が選択された<ref name="100meiba5" />。

9月12日の競走当日はサガミックスが馬場の硬さを嫌って出走を取り消し、エルコンドルパサーを含めても3頭立てという少頭数となった<ref name="yushun99101">『優駿』1999年10月号、pp.44-45</ref>。他の2頭はイスパーン賞で敗れたクロコルージュ、サンクルー大賞で対戦したボルジアであった。エルコンドルパサーの単勝オッズは一時1.1倍、最終的に1.3倍の1番人気となる<ref name="yushun99101" />。スタートが切られるとエルコンドルパサーは先頭でレースを進めると、ロンシャン特有の「フォルス・ストレート」を経て、最終コーナーいったんボルジアに先頭を譲った。しかし最後の直線でスパートをかけるとこれを再びかわし、同馬との競り合いを短首差制して勝利した<ref>『優駿』1999年10月号、pp.4-5</ref>。蛯名は「惰性をつけてきたボルジアに、いったんクビくらい前に出られたけど、そこから差し返した。こういう競馬もできたということは、収穫だったと思う」と感想を述べた<ref name="100meiba4" />。

同日、同じく凱旋門賞への前哨戦として知られる[[ニエユ賞]]では[[モンジュー]]が、[[ヴェルメイユ賞]]ではダルヤバがそれぞれ大本命の評判通りに勝利を挙げた<ref name="yushun99101" />。モンジューは終始進路が塞がっていたなか、強引に位置を下げて外へ持ち出してから先行勢を差し切るというレースぶりで、多田は「もしあれでスムーズな競馬ができたら、どのくらい強いのか」と感じたという<ref name="100meiba3" />。また、前日のアイリッシュチャンピオンステークスでは、これも凱旋門賞への有力馬とみられていた[[デイラミ]]が圧勝していた<ref name="100meiba3" />。

===== 凱旋門賞 =====
フォワ賞のあとはやや反動があったものの、最終調教を経て好調な仕上がりをみせた<ref name="100meiba3" />。このころにはエルコンドルパサーは調整を行っていたラモレー調教場全体から応援される存在となっており、決まった順番を無視して整地直後の絶好の馬場を優先的に使わせてもらったことに、調教助手の佐々木は感激したという<ref name="100meiba3" />。

10月3日、凱旋門賞を迎える。当年のパリは悪天候が続き、前日から当日午前10時までに13.5ミリの降雨があった。当日雨は上がったものの、馬場硬度は1972年以降で最も軟らかい5.1を示した。これを嫌ったデイラミ陣営は競馬開始後まで出否を保留していたが、第1競走終了後に出走が決定した<ref name="yushun9911">『優駿』1999年11月号、pp.120-121</ref>。当年は出走14頭中、エルコンドルパサーを含む8頭がG1優勝馬という顔触れで、人気はモンジューが2.5倍、エルコンドルパサーが4.6倍、馬場状態悪化で人気を下げたデイラミが5.0倍、ダルヤバ8.6倍と続いた<ref name="yushun9911" />。
[[ファイル:Montjeu_19991128C1.jpg|thumb|モンジュー(ジャパンカップ出走時)|250px]]
スタートが切られると、エルコンドルパサーは最内枠から飛び出すように先頭に立った。モンジュー陣営が用意していた[[ペースメーカー]]・ジンギスカンが戦前の予想に反して逃げず、蛯名は「前走も先頭から競馬をしたし、この馬のペースを守って馬と喧嘩しないよう流れに乗ろうと」そのまま先頭でレースを進めるた<ref name="yushun9911" />。モンジューは6番手前後、デイラミは中団後方を進んだ<ref name="yushun9911" />。エルコンドルパサーは後続に2馬身ほどの差をつけたまま最後の直線に入り、その差を広げていったが、残り400メートルあたりから外に持ちだしたモンジューが急追し、残り100メートルほどでこれに並ばれる<ref name="yushun9911" />。いったん前に出られたあとエルコンドルパサーはさらにモンジューを差し返しにいったものの、半馬身およばずの2着と敗れた<ref name="yushun9911" />。3着クロコルージュとは6馬身差がついていた<ref name="yushun9911" />。

敗れはしたものの、健闘したエルコンドルパサーには日本から駆けつけたファン以外からも大きな喝采が送られた<ref name="yushun9911" />。現地メディアは「チャンピオンが2頭いた」と伝え<ref name="100meiba4" />、モンジューを管理したジョン・ハモンドも後に「おそらく硬い馬場だったら敵わなかったと思う。あれだけモンジューにとって好条件が揃ったのに、2頭の勝ち馬がいたも同然の結果だったのだから」と振り返っている<ref name="yushun0209">『優駿』2002年9月号、pp.38-41</ref>。蛯名は「負けは負けだから、結果は悔しい。それでも、力と力の勝負ができたので、その点での悔いはない」と述べ、二ノ宮は「パドックからレースまでを見ていて、泣けてきそうになった。力は出し切ったと思うが、2着だから負けは負け。でも、無事ならいい」と述べた<ref name="100meiba4" />。また渡邊は「ここまでナイス・トライだった。よくやってくれたと思う」と労い、またこれを最後としての引退を改めて発表した<ref name="100meiba4" />。

===== 引退式 - 年度代表馬となる =====
エルコンドルパサーは10月11日に日本へ帰国。11月28日、モンジュー、タイガーヒル、ボルジアといった馬も顔を揃えるジャパンカップ当日の昼休みに東京競馬場で引退式を行った<ref name="yushun0001">『優駿』2000年1月号、pp.6-7</ref>。凱旋門賞で使用したゼッケンを着け、パドック周回を経て本馬場に姿を現すと、蛯名を背に第4コーナーからゴールまで駆け抜け、ファンに最後の走りを見せた<ref name="yushun0001" />。挨拶に立った渡邊は「ファンの皆様はじめ、ジャパンカップか有馬記念に出走して欲しいという声をうかがいましたが、今日で終わらせた馬主の決断をファンの皆様にもおわかりいただける日がくると確信しております。長い間応援していただき、本当にありがとうございました」と語り<ref name="100meiba4" />、また蛯名は「日本の競馬史に残る偉大な馬だった。ずっと乗っていたいと思っていたので寂しいような気がする。この馬の子で、また世界のG1に挑戦できる日を夢に見ています」と語った<ref name="100meiba4" />。式を終えたエルコンドルパサーは、この日同時に引退した<ref name="100meiba4" />厩務員・根来邦雄に付き添われ、種牡馬としての繋養先となる北海道早来町の社台スタリオンステーションへ向かった<ref name="yushun0001" />。なお、ジャパンカップはエルコンドルパサーが前年3着に退けたスペシャルウィークが優勝、1番人気に推されたモンジューは4着に終わっている<ref>『優駿』2000年1月号、p.15</ref>。

翌2000年1月、JRA賞を決定する投票が行われた。当年はエルコンドルパサーのほか、春秋の[[天皇賞]]とジャパンカップを制したスペシャルウィーク、同馬を破って宝塚記念、有馬記念という春秋のグランプリ競走を制したグラスワンダーがおり、「年度代表馬が3頭いてもおかしくない」といわれたほどの混戦であった<ref name="yushun0002">『優駿』2000年2月号、pp.30-36</ref>。年度代表馬への投票はスペシャルウィークが83票、エルコンドルパサーが72票という結果だったが、得票1位が投票選出の規定となる過半数(107票)に達していなかったことから、11人で構成された選考委員会で審議されることになった<ref name="yushun0002" />。委員会ではまず最優秀5歳以上馬を誰にするかという審議が行われ、最初の採択でまずグラスワンダーが落選。次いでエルコンドルパサーとスペシャルウィークの間で決選投票が行われ、7対4でエルコンドルパサーが最優秀5歳以上牡馬に選出された<ref name="yushun0002" />。さらに「年度代表馬は各部門賞馬から選ぶ」という規定に沿い、年度代表馬投票で1票を獲得していた[[エアジハード]](最優秀短距離馬・父内国産馬)との間で審議が行われた結果、満場一致でエルコンドルパサーが年度代表馬と決定した<ref name="yushun0002" />。ただしこの結果は議論を呼び、スペシャルウィークの調教師・[[白井寿昭]]<ref>『競馬名馬&名勝負年鑑 1999&#x301C;2000』pp.28-29</ref>や[[伊藤雄二]]<ref>鶴木(2000)、pp.106-108</ref>といったホースマンからも異議が唱えられた。

JPNクラシフィケーションにおいては、日本調教馬として過去最高の134ポンドの評価を得た。これはモンジュー、デイラミの135ポンドにこそ及ばないが、古馬のLコラム(2200-2799メートル)では世界最高評価であり、歴代の凱旋門賞優勝馬と比較しても遜色のない数値であった<ref name="rating99">『優駿』2000年2月号、pp.40-45</ref>。

なお、当年は馬主の渡邊に対しても[[東京競馬記者クラブ賞]]<ref>{{Cite web |url=http://web.archive.org/web/20020804213620/http://keibanihon.co.jp/free/news/h120109.htm |title=東京競馬記者クラブ賞に渡邊隆氏 |author= |publisher=競馬ニホン |accessdate=2015年11月8日 |date=2000-1-9}}</ref>が贈られたほか、フランスにおいてはその年の競馬界で最も顕著な活躍をしたホースマンに贈られるゴールド賞を<ref name="100meiba3" />、翌年3月にはアメリカのケンタッキー競馬協会より最優秀生産者賞が贈られた<ref name="100meiba2" />。

=== 種牡馬時代 - 死後 ===
種牡馬としてはリーディングサイアーの地位を占め続けていた[[サンデーサイレンス]]に代わる存在として期待を掛けられ、同馬を所有する[[社台グループ]]の繋養牝馬を中心として初年度から137頭の交配相手を集めた<ref name="yushun0209" />。2年目には158頭、3年目には154頭と高水準の推移を続けた<ref name="yushun0209" />。しかし3年目の種付けを終えて後の2002年7月16日、エルコンドルパサーは[[腸捻転]]により社台スタリオンステーションで死亡した<ref name="yushun02092">『優駿』2002年9月号、p.7</ref>。7歳没。8月8日には同場で「お別れ会」が開かれ、渡邊、二ノ宮、蛯名、的場ら関係者のほか、一般ファン約300人も参列し、聖歌の斉唱で送られた<ref name="yushun02092" />。[[遺骨]]は分骨され、社台スタリオンステーション内に墓が建立されている<ref name="monogatari" />。

2004年、2年目の産駒である[[ヴァーミリアン]]が[[ホープフルステークス (中央競馬)|ラジオたんぱ杯2歳ステークス]]を制し、種牡馬としての重賞初勝利。2006年秋には[[ソングオブウインド]]が[[菊花賞]]、[[アロンダイト]]が[[ジャパンカップダート]]と、産駒のGI制覇が相次いだ。また、ダート路線に転じたヴァーミリアンは2007年1月に勝った[[川崎記念]]を皮切りに、2010年までにGI・JpnI競走で計9勝いう日本記録を樹立<ref name="ver">『優駿』2012年2月号、p.81</ref>。また、[[トウカイトリック]]はGI・JpnI競走の勝利こそなかったが、11年にわたり競走生活を続け、中央競馬における平地競走勝利の最高齢タイ記録(10歳、2012年[[ステイヤーズステークス]])、同一重賞最多出走記録(8回、2006-2013年[[阪神大賞典]])を打ち立てた<ref name="trick">{{Cite web |url=http://web.archive.org/web/20140209111059/http://www.nikkansports.com/race/news/p-rc-tp0-20140208-1254710.html |title=トウカイトリック引退 中央平地最高齢V |author= |publisher=nikkansports.com |accessdate=2014年2月8日 |date=}}</ref>。同馬が中央競馬における最後のエルコンドルパサー産駒となったが、2014年2月に競走生活から退いた<ref name="trick" />。

JRA顕彰馬の投票においては、毎年多くの票を集めながら選出規定にわずかに及ばない状況が続いていた<ref>{{Cite web |url=http://web.archive.org/web/20140529140719/http://www.zakzak.co.jp/sports/etc_sports/news/20140426/spo1404261454002-n1.htm |title=【馬じぃの継続は非力なり】エルコンドルパサー殿堂入り 凱旋門賞の門戸こじ開けたパイオニア |author=品川達夫 |publisher=[[夕刊フジ]] |accessdate=2015年11月8日 |date=2014-4-22}}</ref>。しかしJRA発足60周年を記念した2014年の投票において例年1人2票の投票権が最大4票に拡大されると、有効票4分の3以上という規定を満たす156票(総数195)を獲得し、史上30頭目の殿堂入りを果たした<ref>{{Cite web |url=http://web.archive.org/web/20151107194515/http://keiba.radionikkei.jp/keiba/post_3194.html |title=エルコンドルパサー、顕彰馬に選定される |author= |publisher=[[ラジオNIKKEI]] 競馬実況web |accessdate=2015年11月8日 |date=2014-4-22}}</ref>。

== 評価 ==
=== 競走馬としての評価 ===
1999年のインターナショナル・クラシフィケーションで得た134というレートは、日本調教馬に与えられた史上最高の数値である。合田直弘はレーティングの数値について「115あれば一流馬、125あればチャンピオン級と言われる」とした上で、2010年時点で史上2位の127というレートを付された[[ディープインパクト (競走馬)|ディープインパクト]]を引き、「12ハロンという距離区分では1.5ポンド=1馬身が換算基準だから、エルコンドルパサーは2番手以下に4馬身半の差をつける、断トツの日本最強馬なのである。彼がディープより4馬身半強かったと断じるつもりもないが、エルコンドルパサーが世界的にこれだけ高い評価を受けていることを、日本の競馬人はもっと知るべきであろう」と述べている<ref name="yushun1008">『優駿』2010年8月号、pp.24-25</ref>。なお、『優駿』が2012年に行った「距離別最強馬」アンケートにおいて、エルコンドルパサーは「2400メートル」部門でディープインパクトに次ぐ2位となっている<ref name="kyori24">『優駿』2012年9月号、p.26</ref>。

蛯名正義はその特長として、芝・ダート、馬場状態、距離、ペースの緩急といった諸条件を難なく克服できる精神力の強さを挙げ、「本当にパーフェクトと言っていい<ref>『競馬名馬&名勝負年鑑 1999&#x301C;2000』pp.26-27</ref>」、「日本の競馬界では20世紀最高の馬<ref name="yushun0010">『優駿』2000年10月号、p.20</ref>」と評価している。また[[二ノ宮敬宇]]は他馬との違いについて「勝とうとする気持ち。最後は負けないという、その精神力」を挙げている<ref name="yushun0210" />。

=== 身体面の特徴 ===
社台スタリオンステーションの徳武英介によれば、エルコンドルパサーの馬体には一流の競走馬が大抵備えているなにがしかの個性が全く感じられず、「スピードタイプなのかスタミナタイプなのか、芝が良いのかダートが良いのか、[[サドラーズウェルズ]]が出ているのか[[ミスタープロスペクター]]が出ているのか、全く判別がつかないタイプ」であったという。この話を受けたライターの後藤正俊は「その特徴のなさが、エルコンドルパサーの最大の特徴と言えるのだろう。すべてに均整がとれていて、馬体はしっかりとしており、欠点もない。これこそ究極のサラブレッドの形と言えるのかもしれない」と述べている<ref>『優駿』2000年9月号、p.27</ref>。

=== フランス遠征についての評価 ===
エルコンドルパサーがフランスへ渡った前後には、[[シーキングザパール]]、[[タイキシャトル]]、[[アグネスワールド]]といった馬もヨーロッパ遠征を行い、1000-1600メートル戦でそれぞれ良績を残していた。しかし『優駿』は特にエルコンルパサーの遠征を「別格の重みがあった」と評し、その理由について「欧州競馬の牙城ともいえる中距離路線の王道を歩んだから」としている<ref name="yushun0010" />。また伊藤雄二はサンクルー大賞勝利についての所感を尋ねられ、ヨーロッパの短距離戦について「ヨーロッパでは盲点のように弱いところでもある」としたうえで、「サンクルー大賞の場合は、ヨーロッパ馬が最も得意とする距離だから、その意味でも価値はある」と述べた<ref>鶴木(2000)p.45</ref>。[[日本馬主協会連合会]]はその年史において、1990年代末に相次いだ日本調教あるいは生産馬による国外GI制覇が相次いだことに絡めて「しかもエルコンドルパサーはフランスGIで、というより世界で最も権威あるレースのひとつ凱旋門賞で2番人気に支持され、あわやの2着に惜敗したのである。ジャパンカップでの度重なる勝利とともに、[[1979年|1979(昭和54)年]]以来の合言葉『世界に通用する強い馬づくり』の努力が本格的に実を結んだといってよい」とこれを評した<ref>『日本馬主協会連合会40年史』pp.126-127</ref>。

なお、2010年には二ノ宮厩舎所属の[[ナカヤマフェスタ]]が蛯名、佐々木、クラウトといった「チーム・エルコンドル」の布陣で凱旋門賞に臨み<ref>『優駿』2010年10月号、pp.38-41</ref>、イギリスの[[ワークフォース]]から頭差の2着となった。ヨーロッパ調教馬のみに優勝経験がある凱旋門賞で、他地域の調教馬が複数回2着になったのはこれがはじめてのことだった<ref>『優駿』2010年10月号、pp.112-113</ref>。また、2012年と2013年の凱旋門賞では[[オルフェーヴル]]が2着となっている<ref>『優駿』2014年2月号、p.13</ref>。

=== 投票企画などの結果 ===
{| class="wikitable"
!年度!!企画者!!企画!!順位||出典
|-
||1999年||[[Sports Graphic Number]]||ホースメンが選ぶ20世紀最強馬||第4位||<ref>『Sports Graphic Number PLUS - 20世紀スポーツ最強伝説(4)』p.15 </ref>
|-
|rowspan="2"|2000年||日本中央競馬会||20世紀の名馬大投票||第10位||<ref name="yushun0010" />
|-
||優駿(日本中央競馬会)||プロの目で厳選した20世紀のベストホース100||選出||<ref>『優駿』2000年11月号、p.29</ref>
|-
|rowspan="3"|2001年||rowspan="3"|[[日本馬主協会連合会]]||アンケート「一番の名馬と思う競走馬は?」||第10位||rowspan="3"|<ref>『日本馬主協会連合会40年史』pp.198-199</ref>
|-
||アンケート「一番好きな競走馬は?」||第21位
|-
||アンケート「一番印象に残る競走馬は?」||第24位
|-
||2004年||rowspan="5"|優駿(日本中央競馬会)||年代別代表馬BEST10(1990年代)||第2位||<ref>『優駿』2004年3月号、p.26</ref>
|-
||2010年||未来に語り継ぎたい不滅の名馬たち||第7位||<ref name="yushun1008" />
|-
|rowspan="2"|2012年||距離別「最強馬」はこの馬だ!(2400メートル部門)||第2位||<ref name="kyori24" />
|-
||距離別「最強馬」はこの馬だ!(ダート部門)||第7位||<ref>『優駿』2012年9月号、p.41</ref>
|-
||2015年||未来に語り継ぎたい名馬BEST100||第10位||<ref>『優駿』2015年3月号、pp.36-37</ref>
|}


== 競走成績 ==
== 競走成績 ==
87行目: 201行目:
|1人
|1人
|2.5
|2.5
|{{color|red|1着}}
|{{color|darkred|1着}}
|ダ1600m(良)
|ダ1600m(良)
|1:39.3
|1:39.3
103行目: 217行目:
|1人
|1人
|1.3
|1.3
|{{color|red|1着}}
|{{color|darkred|1着}}
|ダ1800m(不)
|ダ1800m(不)
|1:52.3
|1:52.3
119行目: 233行目:
|1人
|1人
|1.2
|1.2
|{{color|red|1着}}
|{{color|darkred|1着}}
|ダ1600m(不)
|ダ1600m(不)
|1:36.9
|1:36.9
135行目: 249行目:
|1人
|1人
|2.0
|2.0
|{{color|red|1着}}
|{{color|darkred|1着}}
|芝1400m(重)
|芝1400m(重)
|1:22.2
|1:22.2
148行目: 262行目:
|東京
|東京
|[[NHKマイルカップ|NHKマイルC]]
|[[NHKマイルカップ|NHKマイルC]]
|GI
|{{color|red|GI}}
|1人
|1人
|1.8
|1.8
|{{color|red|1着}}
|{{color|darkred|1着}}
|芝1600m(稍)
|芝1600m(稍)
|1:33.7
|1:33.7
164行目: 278行目:
|東京
|東京
|[[毎日王冠]]
|[[毎日王冠]]
|{{color|blue|GII}}
|GII
|3人
|3人
|5.3
|5.3
180行目: 294行目:
|東京
|東京
|[[ジャパンカップ|ジャパンC]]
|[[ジャパンカップ|ジャパンC]]
|GI
|{{color|red|GI}}
|3人
|3人
|6.0
|6.0
|{{color|red|1着}}
|{{color|darkred|1着}}
|芝2400m(良)
|芝2400m(良)
|2:25.9
|2:25.9
196行目: 310行目:
|[[ロンシャン競馬場|ロンシャン]]
|[[ロンシャン競馬場|ロンシャン]]
|[[イスパーン賞]]
|[[イスパーン賞]]
|G1
|{{color|red|G1}}
|
|
|
|
212行目: 326行目:
|[[サンクルー競馬場|サンクルー]]
|[[サンクルー競馬場|サンクルー]]
|[[サンクルー大賞]]
|[[サンクルー大賞]]
|G1
|{{color|red|G1}}
|
|
|
|
|{{color|red|1着}}
|{{color|darkred|1着}}
|芝2400m(稍)
|芝2400m(稍)
|2:28.8
|2:28.8
228行目: 342行目:
|ロンシャン
|ロンシャン
|[[フォワ賞]]
|[[フォワ賞]]
|G2
|{{color|blue|G2}}
|
|
|
|
|{{color|red|1着}}
|{{color|darkred|1着}}
|芝2400m(稍)
|芝2400m(稍)
|2:31.4
|2:31.4
244行目: 358行目:
|ロンシャン
|ロンシャン
|[[凱旋門賞]]
|[[凱旋門賞]]
|G1
|{{color|red|G1}}
|
|
|
|
255行目: 369行目:
|[[モンジュー|Montjeu]]
|[[モンジュー|Montjeu]]
|}
|}
出典:[http://db.netkeiba.com/horse/1995108742/ netkeiba.com エルコンドルパサー]、『週刊100名馬vol.83 エルコンドルパサー』(着差および走破タイムについて)
*共同通信杯4歳ステークスは、本来、芝1800mで行われる重賞(GIII)競走であるが、1998年は積雪の影響のためグレード格付け無し(重賞)のダート1600mで施行された。


=== 表彰 ===
'''[[ワールド・サラブレッド・レースホース・ランキング|国際クラシフィケイション]]'''
{| class="wikitable"
126-T/L (1998年), 134-T/L (1999年)<br />1999年の134ポンドというレートは日本調教馬としては最高レート。1998年の126ポンドは日本国内で記録されたレートとしては[[オルフェーヴル]]が2013年に記録した129ポンド、[[エピファネイア]]が2014年に記録した129ポンド、[[ディープインパクト (競走馬)|ディープインパクト]]が2006年に記録した127ポンドに次ぐ歴代4位の記録で、3歳馬が記録したレートでは現在でも1位である。
!年度!!表彰!!票数!!出典
|-
||1998年||JRA賞最優秀4歳牡馬||119/208||<ref name="yushun9902" />
|-
|rowspan="2"|1999年||JRA賞年度代表馬||-||rowspan="2"|<ref name="yushun0002" />
|-
||JRA賞最優秀5歳以上牡馬||73/212<br />(決選投票:7/11)
|}


== 種牡馬時代 ==
=== レーティング ===
{| class="wikitable"
ジャパンカップ後に総額18億円の[[種牡馬#シンジケート|シンジケート]]が組まれ、イスパーン賞後に社台スタリオンステーションで繋養されることが発表された。渡邊オーナーはサンクルー大賞を勝って凱旋門賞で2着になった後でも(ヨーロッパ遠征の)リスクを引き受けてくれたシンジケート会員のために、シンジケート価格の値上げは行わないとして、シンジケート総額は18億円のまま据え置かれた。
!年度!!馬齢!!馬場!!距離区分([[メートル|m]])!!値!!対象!!出典
種牡馬生活に入った3年目の2002年7月16日、[[イレウス|腸捻転]]を発症し死亡。本馬が残した血は3世代の産駒だけとなった。
|-
|rowspan="2"|1998年||rowspan="2"|4歳||芝||M(1400-1800)||117||rowspan="3"|インターナショナル・クラシフィケーション||rowspan="2"|<ref name="rating98" />
|-
||芝||L(2200-2700)||126
|-
||1999年|||5歳||芝||L(2200-2799)||134||<ref name="rating99" />
|}
※馬齢と距離区分はいずれも当時のもの。


== 重賞勝利産駒 ==
初年度の産駒が期待通りに走らず、種牡馬として心配されたが、2年目の[[ヴァーミリアン]]が[[ホープフルステークス (中央競馬)|ラジオたんぱ杯2歳ステークス]]を[[ローゼンクロイツ]]、[[アドマイヤジャパン]]、[[シックスセンス (競走馬)|シックスセンス]]などのクラシックを賑わす評判馬を相手に勝つと、市場セールの取引価格が急騰した。さらに、[[種牡馬|ラストクロップ]]となった2003年産の[[ソングオブウインド]]が[[菊花賞]]を優勝、これに続いて[[アロンダイト (競走馬)|アロンダイト]]とヴァーミリアンがGI(JpnI)競走を勝っている。既にソングオブウインドは2007年より種牡馬入りして200頭近くの繁殖牝馬を集めた。また、2011年よりヴァーミリアン、[[サクラオリオン]]、ルースリンド(南関東重賞4勝)が後継種牡馬に加わっている。

[[2014年]][[2月8日]]に[[トウカイトリック]]がJRAの競走馬登録を抹消したことにより、全ての産駒が中央競馬から姿を消した。

=== 産駒の傾向 ===
本馬はデビューから3戦をダートで圧勝し、ヨーロッパのチャンピオンディスタンスでも活躍しただけあって、パワーとスタミナに優れ、ヨーロッパから日本に輸入されたチャンピオン級の種牡馬が示す傾向と同じように、産駒にはスピードよりもパワーを要求されるダートで活躍する馬や中距離以上でその真価を発揮する馬が多い傾向にある。

全体として極端な早熟や晩成傾向は見られないが、2歳夏から息の長い活躍をするトウカイトリックや条件戦で頭打ちと見られていたサクラオリオンが7歳で重賞を2勝するなど、成長力を備えた産駒も多い。古馬の重賞においては極端な長距離戦や短距離戦を勝利する産駒ばかり出ていたが、サクラオリオンが重馬場の中京記念と洋芝の函館記念というパワーを必要とする条件で中距離重賞に勝った。

牡馬に比べると牝馬の成績が極めて劣るという傾向が顕著であり、殆ど活躍馬が出ていなかったが、ラストクロップ世代のラピッドオレンジが2008年の[[TCK女王盃]]を制し、初の牝馬重賞勝ち馬となった。

なお、本馬はレコードとは無縁だったが、産駒はソングオブウインドの菊花賞(京都芝3000m)、ヴァーミリアンのジャパンカップダート(東京ダート2100m)・JBCクラシック(2008年、園田ダート1870m)、アイルラヴァゲインのクリスマスローズステークス(中山芝1200m・2歳)、コンドルクエストのきんもくせい特別(福島芝1700m・2歳)、ブラックコンドルの中京2歳ステークス(中京ダート1700m・2歳)、トウカイポリシーの障害オープン(中山芝3210m)と多くのレコードタイムを記録している。特に2005年の葉牡丹賞を勝ったナイトレセプションは、1分59秒9と日本で初めて2歳馬が2000mで2分を切るものであった。

2008年のメイショウサムソンの凱旋門賞出走にともない、産駒のファンドリコンドルが帯同馬を務めた。同馬はロンシャン競馬場で行われたダニエルウィルデンシュタイン賞(フランスG2・芝1600m)への出走も果たしている(結果は6着)。ファンドリコンドルはその後高知に移籍し9連勝を果たしている。

=== おもな産駒 ===
[[ファイル:Vermilion 20071229P1.jpg|thumb|180px|ヴァーミリアン(2002年産)]]
[[ファイル:Vermilion 20071229P1.jpg|thumb|180px|ヴァーミリアン(2002年産)]]
[[ファイル:2006-10-22-songofwind.JPG|thumb|180px|ソングオブウインド(2003年産)]]
[[ファイル:2006-10-22-songofwind.JPG|thumb|180px|ソングオブウインド(2003年産)]]
[[ファイル:Alondite horse.jpg|thumb|180px|アロンダイト(2003年産)]]
[[ファイル:Alondite horse.jpg|thumb|180px|アロンダイト(2003年産)]]
=== 中央競馬重賞・ダートグレード競走勝利馬 ===
*2001年産
*2001年産
**[[ビッググラス]][[根岸ステークス]])
**[[ビッググラス]](2007年[[根岸ステークス]])<ref>{{Cite web |url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000726973/ |title=ビッググラス |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年11月4日 |date=}}</ref>
*2002年産
*2002年産
**[[ヴァーミリアン]][[チャンピオンズカップ (中央競馬)|ジャパンカップダート]]、[[フェブラリーステークス]][[JBCクラシック]](2007年、2008年、2009年)、[[東京大賞典]]、[[帝王賞]][[川崎記念]](2007年、2010年、[[浦和記念]]、[[ダイオライト記念]]、[[名古屋グラプリ]]、[[ホープフルステークス (中央競馬)|ラジオたんぱ杯2歳ステクス]])
**[[ヴァーミリアン]](2004年ラジオたんぱ杯2歳ステークス 2005年[[浦和記念]] 2006年[[ダイオライト記念]]、[[名古屋グランプリ]] 2007年'''[[川崎記念]]'''、'''[[JBCクラシック]]'''、'''[[チャンピオンズカップ (中央競馬)|ジャパンカップダート]]''''''[[東京大賞典]]''' 2008年'''フェブラリーステークス''''''JBCクラシック''' 2009年'''帝王賞''''''JBCクラシック''' 2010年'''川崎記念'''<ref>{{Cite web |url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000742999/ |title=ヴァーミリアン |author= |publisher=JBISサチ |accessdate=2015年11月4日 |date=}}</ref>
**[[トウカイトリック]][[ステイヤーズステークス]][[阪神大賞典]][[イヤモンドステークス]])
**[[トウカイトリック]](2007年[[イヤモンドステークス]] 2010年[[阪神大賞典]] 2012年[[ステイヤーズステークス]])<ref>{{Cite web |url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000734588/ |title=トウカイトリック |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年11月4日 |date=}}</ref>
**[[アイルラヴァゲイン]][[オーシャンステークス]])
**[[アイルラヴァゲイン]](2007年[[オーシャンステークス]])<ref>{{Cite web |url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000742986/ |title=アイルラヴァゲイン |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年11月4日 |date=}}</ref>
**[[サクラオリオン]][[中京記念]]、[[函館記念]])
**[[サクラオリオン]](2008年[[中京記念]]、[[函館記念]])<ref>{{Cite web |url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000735520/ |title=サクラオリオン |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年11月4日 |date=}}</ref>

**バンブージーコ([[新春賞 (園田競馬場)|新春賞]])
*2003年産
*2003年産
**[[ソングオブウインド]][[菊花賞]])
**[[ソングオブウインド]](2006年'''[[菊花賞]]'''<ref>{{Cite web |url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000760831/ |title=ソングオブウインド |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年11月4日 |date=}}</ref>
**[[アロンダイト (競走馬)|アロンダイト]]ジャパンカップダート)
**[[アロンダイト (競走馬)|アロンダイト]](2006年'''ジャパンカップダート'''<ref>{{Cite web |url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000762374/ |title=アロンダイト |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年11月4日 |date=}}</ref>
**[[ラピッドオレンジ]](2008年[[TCK女王盃]])<ref>{{Cite web |url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000757693/ |title=ラピッドオレンジ |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年11月4日 |date=}}</ref>
**[[エアジパング]](ステイヤーズステークス)
**[[エアジパング]](2008年ステイヤーズステークス)<ref>{{Cite web |url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000756900/ |title=エアジパング |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年11月4日 |date=}}</ref>
**[[ラピッドオレンジ]]([[TCK女王盃]])
**ディスパーロ([[新春盃]])


=== 地方競馬重賞勝利馬 ===
=== ブルードメアサイアーとしての主な産駒 ===
*2001年産
*[[クリソライト]](父[[ゴールドアリュール]]) - [[ジャパンダートダービー]]、[[日本テレビ盃]]、[[ダイオライト記念]]<ref>[http://www.nankankeiba.com/win_uma/53.do ダイオライト記念競走優勝馬] - 南関東4競馬公式サイト 2015年3月12日閲覧</ref>
**ジュークジョイント(2008年[[北上川大賞典]]・[[水沢競馬場|水沢]])<ref>{{Cite web |url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000725172/ |title=ジュークジョイント |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年11月4日 |date=}}</ref>
*[[アイムユアーズ]](父[[ファルブラヴ]]) - [[ファンタジーステークス]]、[[フィリーズレビュー]]、[[クイーンステークス]](2012年、2013年)
*2002年産
*オメガハートランド(父[[アグネスタキオン]]) - [[フラワーカップ]]
**バンブージーコ(2008年[[新春賞 (園田競馬場)|新春賞]]・[[園田競馬場|園田]])<ref>{{Cite web |url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000734076/ |title=バンブージーコ |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年11月4日 |date=}}</ref>
*マサノブルース(父[[マヤノトップガン]]) - [[京都ジャンプステークス]]
*2003年産
*オメガハートロック(父[[ネオユニヴァース]]) - [[フェアリーステークス]]
**ファンドリコンドル(2009年福山スプリントカップ・[[福山競馬場|福山]])<ref>{{Cite web |url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000759373/ |title=ファンドリコンドル |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年11月4日 |date=}}</ref>
*アンビシャス(父[[ディープインパクト (競走馬)|ディープインパクト]]) - [[ラジオNIKKEI賞]]
**ディスパーロ(2010年新春盃・名古屋)<ref>{{Cite web |url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000762369/ |title=ディスパーロ |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年11月4日 |date=}}</ref>


=== ブルードメアサイアーとしての重賞勝利産駒 ===
== 特徴 ==
*[[アイムユアーズ]](2011年[[ファンタジーステークス]] 2012年[[フィリーズレビュー]]、[[クイーンステークス]] 2013年クイーンステークス。父[[ファルブラヴ]])<ref>{{Cite web |url=http://www.jbis.or.jp/horse/0001109443/ |title=アイムユアーズ |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年11月9日 |date=}}</ref>
本馬の特徴に挙げられるのがその万能性である。ダートと芝の両方に適性を示し、日本とフランスの芝の違いにも対応した。また、マイルからクラシックディスタンスまで幅広い距離をこなし、馬場の状態に左右される事もなかった。レース中は[[脚質#先行|先行]]して早めに抜け出し、そのままゴール板を駆け抜けるということが多かった。本馬はマイル戦においても楽に先行できるスピード、そして早めに抜け出してからも余裕を持って押し切る競馬ができる非常に優れたスタミナを備えており、総合的に高い身体能力を持ち合わせていた。しかし、上がり3ハロンは35秒程度で目を見張るような末脚を芝で繰り出すことはなかった。また、当初はヨーロッパ特有の馬場に足を取られていたというが、徐々にこなせるようになり、サンクルー大賞のころにはヨーロッパ調教馬と変わらぬ走法になっていた(『王者の飛翔』(ポニーキャニオン)より)。
*オメガハートランド(2012年[[フラワーカップ]]。父[[アグネスタキオン]])<ref>{{Cite web |url=http://www.jbis.or.jp/horse/0001109214/ |title=オメガハートランド |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年11月9日 |date=}}</ref>

*マサノブルース(2012年[[京都ジャンプステークス]]。父[[マヤノトップガン]])<ref>{{Cite web |url=http://www.jbis.or.jp/horse/0001049127/ |title=マサノブルース |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年11月9日 |date=}}</ref>
なお、本馬の誕生には馬主である渡邊隆の思い入れを欠かすことはできない。当時外国産馬といえば著名なセールで購入する馬が多かった中、渡邊はラフショッドの血を引く肌馬を探し続け、[[アイルランド]]で行われるタタソールズ社の繁殖牝馬セールに出場予定だったサドラーズギャルに注目。その後サドラーズギャルは体調不良のためセールへの上場を取消したが、どうしても同馬の欲しかった渡邊は現地のエージェントを通じて牧場と直接交渉し、ようやく購入に漕ぎ着けた。初年度はエーピーインディと配合、2年目の種付け相手としてサイヤーデビューシーズンでまだ実績のなかったキングマンボを選び、誕生したのがエルコンドルパサーというオーナーブリーダースタイルの馬である。
*[[クリソライト]](2013年'''[[ジャパンダートダービー]]''' 2014年[[日本テレビ盃]] 2015年[[ダイオライト記念]]。父[[ゴールドアリュール]])<ref>{{Cite web |url=http://www.jbis.or.jp/horse/0001124299/ |title=クリソライト |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年11月9日 |date=}}</ref>
*オメガハートロック(2014年[[フェアリーステークス]]。父[[ネオユニヴァース]])<ref>{{Cite web |url=http://www.jbis.or.jp/horse/0001139198/ |title=オメガハートロック |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年11月9日 |date=}}</ref>
*ミュゼエイリアン(2015年[[毎日杯]]。父[[スクリーンヒーロー]])<ref>{{Cite web |url=http://www.jbis.or.jp/horse/0001153655/ |title=ミュゼエイリアン |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年11月9日 |date=}}</ref>
*アンビシャス(2015年[[ラジオNIKKEI賞]]。父[[ディープインパクト (競走馬)|ディープインパクト]])<ref>{{Cite web |url=http://www.jbis.or.jp/horse/0001152157/ |title=アンビシャス |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年11月9日 |date=}}</ref>
*リアファル(2015年[[神戸新聞杯]]。父[[ゼンノロブロイ]])<ref>{{Cite web |url=http://www.jbis.or.jp/horse/0001153334/ |title=リアファル |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年11月9日 |date=}}</ref>
*[[マリアライト]](2015年[[エリザベス女王杯]]。父ディープインパクト)<ref>{{Cite web |url=http://db.netkeiba.com/horse/2011103832/|title=マリアライト|author=|publisher=[[netkeiba.com]]|accessdate=2015.11.17|date=}}</ref>


== 血統表 ==
== 血統表 ==
父キングマンボはフランスとイギリスで走り、G1競走を3勝をしている<ref name="yushun98072" />。エルコンドルパサー誕生時にはまだ5歳と若かったが、後に世界中で活躍馬を輩出する大種牡馬となった<ref>{{Cite web |url=http://web.archive.org/web/20101222013042/http://uma36.com/?pid=column_view&id=400020&no=424055 |title=大種牡馬キングマンボが引退 |author= |publisher=デイリー馬三郎 |accessdate=2015年11月8日 |date=2010-9-17}}</ref>。母サドラーズギャルはイギリスで9戦0勝<ref name="yushun98072" />。曾祖母リサベルはイギリスとアイルランドで走り、重賞2勝を挙げている<ref name="yushun98072" />。5代母ラフショッド(''Rough Shod''。ソング ''Thong''の母)からは世界的に[[ファミリーライン|牝系]]が広がっており、特にリサデルの姉・スペシャルの系統からはエルコンドルパサーの血統表にもみえるサドラーズウェルズ、ヌレイエフなど数多くの名馬が輩出されている<ref name="hiraide">平出(2014)pp.192-193</ref>。
{{競走馬血統表
{{競走馬血統表
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|name = エルコンドルパサー
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|mm = Glenveagh<br />1986 鹿毛
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|fmm = Pasadoble
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340行目: 462行目:
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}}
|mlin = [[ミスタープロスペクター系]]
本馬は距離に融通が利く馬であり、マイラーである父Kingmamboのスピードに、[[ブルードメアサイアー|母父]]Sadler's Wellsのスタミナを補った配合となっている。エルコンドルパサーの血統で特徴的なのがSpecialとLisadellの全姉妹による近親牝馬クロスであり、これはオーナーである渡邊の意図による交配である。Kingmamboの配合を考えていた渡邊は常に[[繁殖牝馬]]のセリをチェックしており、その末に父の母方と母の母方にSpecialとLisadellの全姉妹クロスを持つSaddler's Galを発見した。この配合ではさらに全姉妹クロスが重なるのみならず、NureyevとSadler's Wellsの4分の3同血クロス<ref>NureyevとSadler's Wellsはともに父がNorthern Dancerであり、またNureyevの母SpecialはSadler's Wellsの祖母でもある。</ref>が発生し、極めて近親度の高い配合となる。この配合意図に関しては当馬の現役初期に激論が戦わされたが、本馬の活躍により結果的には目標を達成した形となっている。
|ref2 = [http://db.netkeiba.com/horse/ped/1995108742/ netkeiba.com エルコンドルパサー 5代血統表]2015年11月7日閲覧。
|flin = [[5号族]]
|FN = 5-h
|ref3 = [http://www.jbis.or.jp/horse/0000299155/pedigree/ JBISサーチ エルコンドルパサー 5代血統表]2015年11月7日閲覧。
|inbr = [[ノーザンダンサー|Northern Dancer]] 3×4、[[スペシャル (競走馬)|Special]] 4×4、[[ネイティヴダンサー|Native Dancer]] 4×5、[[フォルリ (競走馬)|Forli]] 4×5×5、Thong 4×5×5
|ref4 = [http://www.jbis.or.jp/horse/0000299155/pedigree/ JBISサーチ エルコンドルパサー 5代血統表]2015年11月7日閲覧。
|}}


=== 近親 ===
父Kingmambo×母父Sadler's WellsというNorthern Dancer3×4とSpecial4×4が発生する配合自体、近親度が高めの配合であるが(母母母父ForliはSpecialの父でありForli4×5×5でもある)、本馬の活躍はヨーロッパの生産界にも影響を与えており、近年になって同様の配合で[[ディヴァインプロポーションズ|Divine Proportions]]、[[ウィッパー|Whipper]](父の[[ミエスクズサン|Miesque's Son]]=Kingmambo)、[[バージニアウォーターズ|Virginia Waters]]、[[ザウェイユーアー|Thewayyouare]]、[[ヘンリーザナビゲーター|Henrythenavigator]]といった活躍馬が出ている。
*弟 - ナイスベンゲル(種牡馬)<ref>{{Cite web |url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000616236/ |title=ナイスベンゲル |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年11月8日 |date=}}</ref>
*曾祖母 - リサデル(コロネーションステークス、アサシステークス)<ref name="hiraide" />
*[[はとこ]] - バチェラーデューク([[アイリッシュ2000ギニー]])<ref name="hiraide" />


== 脚注 ==
[[競走馬の血統#競走馬の血縁関係|半弟]]のナイスベンゲルも中央競馬で1戦1勝という成績<ref name="netkeiba">{{Cite web|date=2004-02-23|url=http://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=5336&type=1|title=エルコンドルパサー半弟が種牡馬入り|publisher=[[netkeiba.com]]|language=日本語|accessdate=2012-06-21}}</ref>ながら、引退後の2004年から種牡馬となり<ref name="netkeiba" />、2009年まで供用された<ref>{{Cite web|url=http://www.studbook.jp/ja/kyokai/tokei_pdf/09-13.pdf|title=2009年供用停止種雄馬一覧|format=PDF|publisher=[[ジャパン・スタッドブック・インターナショナル]]|language=日本語|accessdate=2012-06-21}}</ref>。
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=注}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}


===兄弟===
== 参考文献 ==
*鶴木遵『調教師伊藤雄二 - ウソのないニッポン競馬 』(ベストセラーズ、2000年)ISBN 978-4584185452
*Gal From Seattle(1996、不出走、父A.P. Indy)
*的場均『夢無限』(流星社、2001年)ISBN 978-4947770035
*メモリーズオブユー(1997、3戦1勝、父Gulch)
*日本馬主協会連合会(編)『日本馬主協会連合会40年史』(日本馬主協会連合会、2001年)
*ナイスベンゲル(1999、1戦1勝、父Seeking The Gold、種牡馬)<ref name="netkeiba" />
*平出貴昭『覚えておきたい日本の牝系100』(スタンダードマガジン、2014年)ISBN 978-4938280642
*システィンチャペル(2000、3戦1勝、父サンデーサイレンス)
*『競馬名馬&名勝負年鑑 - ファンのファンによるファンのための年度代表馬 (1999&#x301C;2000) 』(宝島社、2000年)ISBN 978-4796694926

*『名馬物語 - The best selection (2)』(エンターブレイン、2003年)ISBN 978-4757714977
== 脚注 ==
*『週刊100名馬Vol.83 エルコンドルパサー』(産経新聞社、2000年)
{{Reflist}}
*『優駿』(日本中央競馬会)各号


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==

2016年1月7日 (木) 13:41時点における版

エルコンドルパサー
1999年11月28日 東京競馬場
欧字表記 El Condor Pasa[1]
品種 サラブレッド[1]
性別 [1]
毛色 黒鹿毛[1]
生誕 1995年3月17日[1]
死没 2002年7月16日(7歳没)
Kingmambo[1]
サドラーズギャル[1]
母の父 Sadler's Wells[1]
生国 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国[1]
生産者 Takashi Watanabe[1]
馬主 渡邊隆[1]
調教師 二ノ宮敬宇美浦[1]
厩務員 根来邦雄→佐々木幸二
競走成績
生涯成績 11戦8勝
内訳
国内:7戦6勝
国外:4戦2勝
獲得賞金 3億7607万8000[2]
380万フラン[2]
勝ち鞍 GI:NHKマイルカップジャパンカップ(1998年)
サンクルー大賞(1999年)
GII:ニュージーランドトロフィー4歳ステークス(1998年)
フォワ賞(1999年)
テンプレートを表示

エルコンドルパサー1995年3月17日 - 2002年7月16日)はアメリカ合衆国で生産され、日本調教された競走馬、のち種牡馬

日本人実業家・渡邊隆による生産所有馬で、1998年に中央競馬(JRA)でデビュー。同年NHKマイルカップジャパンカップを制し、JRA賞最優秀4歳牡馬に選出される。1999年にはフランスへの長期遠征を行い、サンクルー大賞などに優勝したほか、ヨーロッパ最高峰の競走とされる凱旋門賞で2着の成績を残して引退。同年は日本で走らなかったにもかかわらずJRA年度代表馬最優秀5歳以上牡馬に選ばれた。通算11戦8勝(うちフランスで4戦2勝)。インターナショナル・クラシフィケーションによるレート「134」、タイムフォームによるレート「136」は、いずれも日本調教馬についての史上最高数値として保持されている。

2000年より種牡馬となったが、産駒デビュー前の2002年に腸捻転で死亡。遺された3世代からはヴァーミリアンソングオブウインドアロンダイトと3頭のGI優勝馬が輩出された。2014年、JRA顕彰馬に選出。

経歴

以下、競走馬時代の馬齢については、日本で2000年まで使用された数え年で、種牡馬時代の馬齢表記は2001年以降に使用されている満年齢で記述。

出生までの経緯

生産者・馬主の渡邊隆は本業の東江運輸を興した父・喜八郎から親子2代の馬主であり、元より血統に造詣が深かった。渡邊はサドラーズウェルズヌレイエフといった世界的な大種牡馬を輩出するソングの牝系に憧れを抱いており、イギリスのセールにおいて、ソングの曾孫にして父にサドラーズウェルズを持ち、「ソングの3×4」というクロスを有する牝馬・サドラーズギャルに目を付けた[3]。サドラーズギャルはセリを欠場してアイルランドの牧場に戻されてしまったが、諦められなかった渡邊は代理人に依頼して所有者と直接交渉し、あらためて買い取ることに成功。そしてサドラーズギャルをアメリカ・ケンタッキー州のレーンズエンドファームへ預託した[3]

同場はフランスとイギリスでG1競走3勝を挙げたキングマンボの生産者であり、同馬がこれもソングの血を引くヌレイエフとG1競走10勝の名牝ミエスクの子であることに惹かれるものがあった渡邊は、手持ちの別の種牡馬株とキングマンボの株を交換し、サドラーズギャルにキングマンボを交配した[3]。両馬の配合はソング、ノーザンダンサーネイティヴダンサーフォルリスペシャルといった多くのクロスが重なっており[4]、渡邊にキングマンボの株を斡旋した人物は「プロは怖くてこんな配合はできない」としきりに口にしていたという[3]。渡邊自身、「アマチュアでありながらまんざら素人でもないからこそできた」としている[5]

生い立ち

二ノ宮敬宇(2011年) 的場均(1993年)
二ノ宮敬宇(2011年)
的場均(1993年)

1995年3月17日、サドラーズギャルはレーンズエンドファーム・オークツリー分場で牡馬、後のエルコンドルパサーを出産。生後4カ月のころ、競り市参加のためケンタッキーを訪れていた二ノ宮敬宇(にのみや・よしたか。後の管理調教師)の検分を受けた。二ノ宮の印象は「ごろっとした四角い馬」というのみで、渡邊への報告も「普通の馬」というものだった[6]。翌1996年1月には日本へ送られ、北海道門別町のファンタストクラブ内にある木村牧場で育成調教に入った[6]。以後は至極順調に過ごし、競走年齢の3歳に達した1997年8月末、茨城県・美浦トレーニングセンターの二ノ宮のもとへ入厩した[6]。トレセンでも怪我や病気は一切なく、装蹄を嫌がるという以外には気性も落ち着いていた[6]。ただし、この段階に至っても厩舎スタッフによる評価は「少しは走るか」という程度であった[7]。一方、デビュー当週の併走による調教で、パートナーを務めた馬に騎乗した的場均はその走りにいたく感心し、二ノ宮に希望して初戦の騎手を務めることになった[8]

馬名の由来

競走馬名「エルコンドルパサー」はペルー民謡「コンドルは飛んでいく」に由来する[9]。渡邊が慶応大学サッカー部在籍時に、中学2年次までペルーに住んでいた先輩がおり、その人物に強い印象を残していたことから、父名の一部「マンボ」から「南米の音楽」と解釈を広げ命名された[10]。渡邊の所有馬では2頭目の「エルコンドルパサー」であり、初代はデビュー前の骨折で予後不良となっていた[10]

戦績

3-4歳時(1997-1998年)

デビュー - ダートでの快走

デビュー戦は11月8日の東京開催で迎えた。まだ身体ができあがっておらず、芝コースでスピード勝負をさせるのは時期尚早であるという二ノ宮の判断から、ダートの1600メートル戦が選ばれた[6]。単勝オッズ2.5倍でほか1頭と並び1番人気に推されたが[11]、ゲートからの発走練習を充分に積んでいなかったこともあり、スタートで出遅れて最後方からのレース運びとなった[6]。そのまま直線入口まで最後方を追走していたが、スパートを掛けると先行勢を一気にかわしていき、さらに先頭に立ってからは突き放す一方となり[11]、後に京成杯を勝つマンダリンスターに7馬身差をつけての勝利を挙げた[8]上がり3ハロン[注 1](ゴールまでの600メートル)のタイムでは、マンダリンスターが39秒台、ほかはすべて40秒以上掛かったなか、エルコンドルパサーのそれは37秒2という突出したものだった[11]。的場は「『シャーン』と金属音が聞こえてくるかのような、凄い切れ味だった[8]」とし、二ノ宮は「この馬はもしかたら凄く強いかもしれないと思ったのはこのときがはじめて」だったと回顧している[6]。他方、的場はエルコンドルパサーが他馬の姿を極端に気にする様子があったことから「小心な馬」とも感じていたという[8]

翌1998年1月に2戦目(ダート1800メートル)に臨む。ここでもスタートで出遅れたが、第3コーナーからスパートを掛けて直線では独走状態となり、2着に9馬身差をつけて連勝した[12]

グラスワンダー(画像)は朝日杯をレコードタイムで圧勝し、レーティングではJRA所属の3歳馬として史上最高の評価を得ていた[13]

このあと二ノ宮は的場へ、この競走を最後としての騎手交代を告げた。エルコンドルパサーの同期馬に、同じく的場が主戦騎手を務める朝日杯3歳ステークス優勝馬・グラスワンダーがおり、近く両馬の対戦があることは明らかだったからである[8]。しかし的場はエルコンドルパサーの精神的成長が不充分であり、他の騎手に手綱を委ねることにはまだ不安が残るとしてもう1戦の猶予を願い出、これを了承された[8]

3戦目・共同通信杯4歳ステークスで重賞に初出走。ここは芝コースへの適性が試される場となるはずだったが、降雪によりダート施行へと変更された[11]。当日は単勝1.2倍と圧倒的な支持を集めると、レースでは5番手追走から直線で逃げ馬をかわし、2馬身差で勝利した[11]。的場はインタビューにおいて「1戦ごとに精神、肉体の両面で成長しているし、まだまだ良くなると思う。グラスワンダーとも甲乙つけがたいほど素晴らしい馬。同じレースを使ってほしくないし、身体が2つほしい」と語った[12]。的場は後にこの競走を回顧し「経験と、そこからさまざまなことを学習できる頭の良さが、唯一の弱点である臆病さを1戦ごとに埋めていくかのようだった。今では、どんなタフなレースにも耐えられそうに思えた」と述べている[14]。なお、これは二ノ宮厩舎開業10年目にしての重賞初勝利であったが、コース変更のため「GIII」の格付けは取り消された。これは1995年の東京新聞杯(優勝馬ゴールデンアイ)以来2度目の事例となった[12]

芝路線へ - GI制覇

競走後、二ノ宮は騎手確保の必要性から的場に改めて決断を促した。的場は悩み抜いた末にグラスワンダーへの騎乗を選択し、その意向を伝えたが[14]、3月15日、グラスワンダーは右後脚を骨折し、春の出走が絶望的な状態となった[15]。これを受け、同馬の管理調教師である尾形充弘はエルコンドルパサー陣営へ的場の騎乗継続を進言したが、すでに後任が決まり、それが覆ることもないとみていた的場は半ば諦めていたという[14]。しかし結果として的場はエルコンドルパサーの鞍上に据え置かれ、春の目標としたNHKマイルカップの前哨戦・ニュージーランドトロフィー4歳ステークスへ臨むことになった[14]

ニュージーランドトロフィーでは前年の朝日杯でグラスワンダーの2着としていたマイネルラヴフラワーカップ優勝馬スギノキューティーらが相手となったが[16]、エルコンドルパサーはオッズ2.0倍の1番人気に支持された[11]。初の芝コースに、返し馬[注 2]ではやや戸惑う様を見せ、スタートでも立ち後れた[16]。的場は1400メートルの速い流れについていけるか否かを懸念していたが[16]、すぐに好位にとりつくと、最終コーナーで外に持ちだしてから直線で抜け出し、スギノキューティーに2馬身差をつけて勝利した[12]。的場は「2000メートルぐらい距離があった方が、もっと強い競馬ができると思う。本番で1ハロン伸びるのは、間違いなくプラス」とNHKマイルカップへの展望を述べ[12]、また二ノ宮は「この距離と出走頭数[注 3]では馬群をさばくのが大変だろうと思っていたので少々心配だったが、的場君が意識的に早めにいって、馬ごみを上手くさばいてくれた。今回の勝利はジョッキーの腕によるところが大きい[16]」と的場の騎乗を称えた。

5月17日に迎えたNHKマイルカップでは、エルコンドルパサーの他にトキオパーフェクト、ロードアックス、シンコウエドワードという3頭の無敗馬が揃った[17]。当日はエルコンドルパサーがこれらを抑えてオッズ1.8倍の1番人気に支持され、トキオパーフェクトが3.6倍で続いた[17]。レースではそれまでにない好スタートを切ると、道中では3、4番手を追走。最終コーナーでは大外へ膨れながらも直線で先頭に立ち、シンコウエドワードに1馬身3/4差をつけての優勝を果たした[17]。これは二ノ宮にとっても初めてのGI制覇となった[17]

的場は「4コーナーで3頭分ぐらい外にふられてしまい、あわてて修正した分、最後は止まってしまうのではないかと不安になったが、よくきついレースを凌ぎきってくれた。本当に素晴らしい能力を持っている」などと述べた[18]。また渡邊は「今回本当に嬉しかったのは、自分の責任の中で繁殖牝馬を捜して配合から取り組んだ結果、エルコンドルパサーという強い馬が育ってくれたこと」と述べた[18]

毎日王冠 - 騎手交代

NHKマイルカップのあと、二ノ宮はエルコンドルパサーの休養と、秋の目標をマイルチャンピオンシップに据えることを明言したが[18]、のちに方針が変わり、目標は国際招待競走のジャパンカップに改められた。当時、エルコンドルパサーはNHKマイルカップ優勝の実績、そして血統からみても「マイル」、つまり1600メートル前後に向くのではないかとみられていたが[19]、ジャパンカップはそれよりも800メートル長い2400メートルで行われる競走であった。

この変更は年度代表馬争いを見据えたものであった。渡邊は、同世代の東京優駿(日本ダービー)優勝馬・スペシャルウィーク、そして春夏に安田記念とフランスのG1競走ジャック・ル・マロワ賞を制していたタイキシャトルに対抗するためには、ジャパンカップに勝つしかないと考えたのである[19]。また、渡邊の父・喜八郎がかつて所有したホスピタリテイが、1982年のジャパンカップを前に故障のため出走できなかったという経緯も踏まえていた[20]。さらに的場によれば、渡邊はマイルチャンピオンシップが行われる京都コースが馬に良くないと嫌がっていたともいう[14]

ジャパンカップを目指すに当たり、前哨戦として選ばれたのは1800メートル戦の毎日王冠であった。ここで、的場は棚上げされていた選択に再び迫られた。毎日王冠には骨折からの復帰戦としてグラスワンダーも出走が決まっていたのである。調教師の尾形は「グラスワンダーの調子は今ひとつだ。後のことも考えて、自分で決めてくれ」と、的場に選択を委ねていた[21]。的場は「馬の状態ならば、今回に限ればエルコンドルパサーが上」とみていたものの、グラスワンダーが休養前にみせた能力や先々までを考慮すると結論が出せず、3週間ほど悩んだという[22]。そして、最終的に的場はグラスワンダーを選択した[22]

蛯名正義(右、2009年)

的場の後任としては、翌年の遠征を念頭にフランス人騎手のオリビエ・ペリエが第一候補として挙がったが、日本中央競馬会(JRA)から「短期免許で1日だけの騎乗を許可することはできない」と通告され断念[23]。次いで国際経験も豊富な武豊に打診したが、春のグランプリ・宝塚記念を含め5連勝中のサイレンススズカと共に毎日王冠に臨むとの理由で断られ、最終的には当時関東の騎手ランキングでトップを走っていた蛯名正義に決まった[23]。蛯名は最近、これも渡邊の所有馬であるオフサイドトラップで重賞を連勝しており、また喜八郎が最初の所有馬を預けた蛯名武五郎の遠縁にも当たり、「なんとなく縁を感じた」という[23]。騎乗依頼を受けた蛯名は「凄い馬を頼まれちゃったな、これまで負けてないだけに大変だ」と重圧を覚えたと振り返っている[19]

10月11日の毎日王冠には、GII競走ながら13万人を越える観衆が詰めかけた[21]。当日はサイレンススズカが単勝オッズ1.4倍という断然の1番人気となり、2番人気には休養前の怪物的なイメージや、的場の選択も影響して休み明けのグラスワンダーが推され、エルコンドルパサーは3番人気となった[21]。スタートが切られると、逃げ馬のサイレンススズカが前半600メートルを34秒6[21]、1000メートルを57秒7[11]というハイペースで飛ばし、エルコンドルパサーは2番手集団のなかでこれを追走[21]。第3コーナーから最終コーナーにかけてはグラスワンダーがスパートを掛けて直線入口でサイレンススズカに並びかけたが、そこから伸びを欠く[21]。一方のエルコンドルパサーは逃げ脚の衰えないサイレンススズカを追走したが、2馬身半及ばず2着となった[21]。3着サンライズフラッグとは5馬身差がついており、グラスワンダーは5着であった[21]

蛯名は「相手が強かった。完敗だった[19]」としたが、二ノ宮は「勝った馬はうちの馬とは違う脚質の馬で、レースも相手の馬の流れになってしまってのもの。負けはしたけれどもいいレースをしてくれたと思った。決して落胆するようなことはなかった」と述べている[19]。また二ノ宮は後年この競走について、「あの毎日王冠で、サイレンススズカを追いかけていたらどうだったかな、と思うことはある。でも、それで失速していたらジャパンカップ挑戦は諦めていただろう。エルコンドルパサーの将来を決定づけたレースだった」と回顧している[21]。一方、苦渋の選択を経た的場は、エルコンドルパサーが無事に秋初戦を終えたことを喜んだとしつつ、「未練もあった。正直な話、エルコンドルパサーへの未練はそのあともずっとあった。それでも、選んだのは僕だ。割り切ってはいる。ただそれと未練とは、また別の次元の話なのだ」と後年著書に記している[22]

なお、勝ったサイレンススズカはエルコンドルパサーとグラスワンダーに出走権のない天皇賞(秋)を経て、ジャパンカップへ向かう予定となっていたが[21]、天皇賞で骨折し、安楽死処分となった。優勝したのは渡邊の所有馬オフサイドトラップであった。

ジャパンカップ制覇 - 最優秀4歳牡馬となる

11月29日、秋の目標としたジャパンカップに出走。当年は目玉といわれた外国招待馬がほとんど辞退、あるいは受諾後に回避し、外国勢で注目されるのは前年のブリーダーズカップ・ターフ優勝馬・チーフベアハートのみで、日本馬優勢の前評判であった[19]。1番人気には本競走と同じ東京競馬場・2400メートルで行われる日本ダービーの優勝馬・スペシャルウィークが推され、2番人気には、かねてより陣営がここを目標と公言していた前年度2着の牝馬エアグルーヴが入り、エルコンドルパサーが続く3番人気と、日本馬が人気上位を占めた[19]。エルコンドルパサーには一部で距離に対する不安が囁かれており、蛯名も戦前「能力は信用しているが、距離は走ってみなければわからない」と口にしていた[19]

レースではサイレントハンターが単騎での逃げを打ち、エルコンドルパサーはスペシャルウィーク、エアグルーヴと共に3番手集団の中で並んで進んだ[19]。最終コーナーではエアグルーヴ、スペシャルウィークがスパートを遅らせたのに対しエルコンドルパサーはいち早く先頭に並びかけ、最後の直線で抜け出す[19]。その後も最後まで失速することなくエアグルーヴとの差を広げ、同馬に2馬身半差をつけての優勝を果たした[19]

蛯名は「4コーナーを回って、直線を向いたところで勝てると思った。それまでは慎重に距離をもたそうと思って乗っていた。ペースもレースのレベルにしてはすごく遅かった。だから良い位置にいられたのも良かったんだろう。後ろから行ったのでは駄目だったんじゃないか」と振り返り[19]、二ノ宮は「走る馬は極端なステイヤースプリンターでない限り、ある程度の距離なら走ってくれると思っているので、期待に応えてくれると思っていた。春より精神的に強くなり、気持ちも身体も最高の状態だった」などと述べた[20]。また渡邊は「未経験の距離についていろいろ言われていたが、私はこなせると思っていた。それに父も『プレストウコウ菊花賞を勝ったときもそう言われていたから大丈夫だ』と言っていた」と語り[20]、さらに記者から翌年の国外遠征について水を向けられると、具体的な内容は決まっていないとしつつ「ぜひ行ってみたい」と明言した[19]

秋は2戦のみという予定に沿って年末のグランプリ競走・有馬記念へは出走せず[19]、当年はこれで終えた。渡邊は「欧州の競馬などを見ていても、本当のオープン馬というものは数を使わないものだと思う。あえて言えば、ここで有馬記念を使わないことも馬主としての見識」と語った[19]。また、「日本で一番馬券の売れるレースは有馬記念だが、世界的な視野で見たら日本の最高レースはジャパンカップであり、そちらを勝ったのだからあえて無理をすることもない」という考えもあったとしている[4]。なお、有馬記念は復帰から2戦を経て復活したグラスワンダーが的場を背に優勝した[24]

当年の年度表彰・JRA賞において、エルコンドルパサーは皐月賞菊花賞に優勝したセイウンスカイを抑え、最優秀4歳牡馬に選出された[25]。一方、狙っていた年度代表馬には年間5戦4勝、うち日・仏でGI競走3勝という成績を挙げたタイキシャトルが208票中174票獲得という大差で選出され、エルコンドルパサーは11票獲得にとどまった[25]

仮定の負担重量数値で各馬の序列化を図るJPNクラシフィケーションでは、ジャパンカップでの走りが国際的に高く評価され、Lコラム(2200-2700メートル)で126ポンドの評価を獲得。日本国内ではMコラム(1400-1800メートル)122ポンドのタイキシャトルとサイレンススズカを上回った。この数値はLコラムに限ればイギリスダービー優勝馬ハイライズ(127ポンド)に次ぎ、フランスの凱旋門賞優勝馬サガミックスと並ぶ世界第2位の評価であった[26]

5歳時(1999年)

ヨーロッパ遠征へ

1999年は日本国外への遠征を念頭に、渡邊、二ノ宮に加え、欧米の競馬に通じた桜井盛夫、合田直弘、奥野庸介の3人をブレーンとして遠征先についての討議が行われた。イギリスのキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス、アメリカのブリーダーズカップ、UAEのドバイワールドカップといった競走が候補に挙げられるなか、最終的にはフランスの凱旋門賞を目指すことに決定[6]。1月25日に行われたJRA賞授賞式の場で、渡邊からエルコンドルパサーのヨーロッパ遠征が発表された[27]。このころまだ具体的なローテーションは決まっておらず、渡邊は雑誌のインタビューに「春2戦、秋2戦。春はイスパーン賞かブリガディアジェラードステークスを経て、エクリプスステークスへ」という展望を語っていた[4]

2月10日、エルコンドルパサーは休養を終えて美浦に戻り、4月14日に二ノ宮厩舎の僚馬・ハッピーウッドマンを帯同馬として伴いフランスへ出発[27]。翌15日に到着し、現地の受け入れ先となるシャンティイ調教場トニー・クラウト厩舎に入った[27]。21日には二ノ宮から初戦をイスパーン賞(G1)とすることが正式に発表された[27]。なお、フランス滞在に当たっては、タイキシャトルのフランス遠征にも随行した多田信尊が現地スタッフとの調整を担当するマネージャーとして起用され[28]、二ノ宮不在の際には現場監督としての役割も担うことになった[23]

調教開始後、エルコンドルパサーは日本よりはるかに丈の長い芝に苦労し、1ハロンごとを15秒というごく軽い調教でも疲れた様子を見せていた[6]。より地盤が緩む降雨の日などは「めちゃくちゃなフォーム」で走っていたという[6]。しかしやがてそうした馬場に合わせた走法に変化していき、それに伴い筋肉の付き方も変わり、胴長で細身の馬体となっていった[6]。それでも、調教助手の佐々木幸二はこの頃の状態について「もともと調教では動く馬なのに、とにかく動かなかった」と述べている[28]

イスパーン賞、サンクルー大賞

5月23日、イスパーン賞を迎える。当日は地元馬を抑えオッズ2.75倍の1番人気となった。レースでは中団追走から最終コーナーで3番手に位置を上げ、最後の直線で先頭に立つ。しかし2番人気のクロコルージュにゴール前で外から差され、4分の3馬身差の2着と敗れた[29]。競走後、蛯名は「手応えは充分にあったし、追い出しも待って待って、残り200メートルまで仕掛けを我慢したんだけど。でも、初めての馬場も上手に走っていたし、次は楽しみになった」とし、二ノ宮は「落ち着いていたし、力は出せたと思う。頭数も少なく、理想的な流れだったが、久しぶりもあった。内容はあったと思う」と述べた[30]。渡仏した時点では、厩舎スタッフは「果たしていつまでフランスにいられるのか」、「初戦で惨敗したら帰るんだろう」などと話しあっていたが[6]、佐々木は「すぐ帰ることになったらもったいない」と現地で買い控えていた日用品の類を、この競走後に一気に買い込んだという[28]

6月2日には、エルコンドルパサーが年内で引退し、種牡馬として18億円のシンジケートが組まれたうえで社台スタリオンステーションで繋養されることが明らかとなった[27]

イスパーン賞を終えてから、エルコンドルパサーの状態は急速に上向いていった[28]。次走はイギリスのロイヤルアスコット開催で行われるプリンスオブウェールズステークス(G2)や、かねて計画にあったエクリプスステークスへ向かうという選択肢もあったが、二ノ宮と多田で両競走が行われる各競馬場の状態を下見したのち候補から外され、フランスに留まることになった[23]

エルコンドルパサーがフランス初勝利を挙げたサンクルー競馬場。

7月4日、G1・サンクルー大賞へ出走。芝丈が長く起伏に富んだサンクルー競馬場のコース、距離不安が囁かれたジャパンカップと同じ2400メートルの距離、さらに日本ではまず背負うことのない61キログラムの斤量といった諸条件を前に、蛯名はエルコンドルパサーの好調を感じてなお、スタミナ面への不安を抱いていた[23]。また、相手は大幅に強化され、前年のフランスダービーアイリッシュダービーを制し全欧年度代表馬に選ばれたドリームウェル、前年の凱旋門賞優勝馬サガミックス、ドイツの年度代表馬タイガーヒルドイチェスダービー優勝馬でアメリカのブリーダーズカップ・ターフでも2着の実績があるボルジアといった全欧の一線級が揃った[31]

当日、エルコンドルパサーはサガミックスに次ぐ2番人気の支持を受ける[31]。レースでは3、4番手追走から、最後の直線半ばでタイガーヒルを楽にかわし、同馬に2馬身半の差を付けて優勝[30]。フランスでの初勝利を挙げた。競走後、蛯名は涙をみせ[23]、「本当に嬉しい。自分が乗ってきた中でも最高レベルで、性格的にも走ることが大好きな、素晴らしい馬。凱旋門賞も楽しみ」と感想を述べ[30]、また「どうしてもっと馬を信用してやれなかったのか」とその心中を吐露した[23]。二ノ宮は「他馬の標的にされているようなレースだったが、自分の競馬ができたと思う。確かに強い相手に勝つことができたが、彼らが万全の状態だったか分からないし、またこれから気を引き締めていきたい」と述べた[30]

サンクルー大賞の結果、エルコンドルパサーには暫定的に128ポンドのレートが与えられた。これはフランスダービー、アイリッシュダービーを圧勝していた4歳馬・モンジューに並び[23]、5歳以上馬では当年のヨーロッパで最高評価となる数値だった[32]。二ノ宮は後年この競走について「結果を出さなければ残っている意味がなくなってしまうレースだった。フランスの4戦で一番緊張した。これで最後まで残れるなと思うとホッとした」と振り返り[23]、また渡邊のブレーンのひとりであった合田直弘は「遠征の成否を分ける剣が峰だった」と述べている[33]

フォワ賞

サンクルー大賞のあと、エルコンドルパサーは右後脚に異常をきたす。競走中に二つの外傷を負っており、その傷口にが入り炎症を起こすフレグモーネの症状であった[28]。一般的にはすぐに腫れが引くほどのもので、マスコミには「軽症」と発表していたが、このときは治りが遅く屈腱炎に似た症状にまでなっており、完治に1カ月を要した[28]。このため、7月下旬に再開される予定だった本格的な調教は、8月にずれ込んだ[28]

凱旋門賞に向けての前哨戦として、二ノ宮は1996年度の優勝馬・エリシオが使った1600メートル戦、ムーラン・ド・ロンシャン賞を考えていた。しかし渡邊らが「常道とはいえない」と反対し、本番と同じロンシャン競馬場の2400メートルで行われるフォワ賞(G2)が選択された[23]

9月12日の競走当日はサガミックスが馬場の硬さを嫌って出走を取り消し、エルコンドルパサーを含めても3頭立てという少頭数となった[34]。他の2頭はイスパーン賞で敗れたクロコルージュ、サンクルー大賞で対戦したボルジアであった。エルコンドルパサーの単勝オッズは一時1.1倍、最終的に1.3倍の1番人気となる[34]。スタートが切られるとエルコンドルパサーは先頭でレースを進めると、ロンシャン特有の「フォルス・ストレート」を経て、最終コーナーいったんボルジアに先頭を譲った。しかし最後の直線でスパートをかけるとこれを再びかわし、同馬との競り合いを短首差制して勝利した[35]。蛯名は「惰性をつけてきたボルジアに、いったんクビくらい前に出られたけど、そこから差し返した。こういう競馬もできたということは、収穫だったと思う」と感想を述べた[30]

同日、同じく凱旋門賞への前哨戦として知られるニエユ賞ではモンジューが、ヴェルメイユ賞ではダルヤバがそれぞれ大本命の評判通りに勝利を挙げた[34]。モンジューは終始進路が塞がっていたなか、強引に位置を下げて外へ持ち出してから先行勢を差し切るというレースぶりで、多田は「もしあれでスムーズな競馬ができたら、どのくらい強いのか」と感じたという[28]。また、前日のアイリッシュチャンピオンステークスでは、これも凱旋門賞への有力馬とみられていたデイラミが圧勝していた[28]

凱旋門賞

フォワ賞のあとはやや反動があったものの、最終調教を経て好調な仕上がりをみせた[28]。このころにはエルコンドルパサーは調整を行っていたラモレー調教場全体から応援される存在となっており、決まった順番を無視して整地直後の絶好の馬場を優先的に使わせてもらったことに、調教助手の佐々木は感激したという[28]

10月3日、凱旋門賞を迎える。当年のパリは悪天候が続き、前日から当日午前10時までに13.5ミリの降雨があった。当日雨は上がったものの、馬場硬度は1972年以降で最も軟らかい5.1を示した。これを嫌ったデイラミ陣営は競馬開始後まで出否を保留していたが、第1競走終了後に出走が決定した[36]。当年は出走14頭中、エルコンドルパサーを含む8頭がG1優勝馬という顔触れで、人気はモンジューが2.5倍、エルコンドルパサーが4.6倍、馬場状態悪化で人気を下げたデイラミが5.0倍、ダルヤバ8.6倍と続いた[36]

モンジュー(ジャパンカップ出走時)

スタートが切られると、エルコンドルパサーは最内枠から飛び出すように先頭に立った。モンジュー陣営が用意していたペースメーカー・ジンギスカンが戦前の予想に反して逃げず、蛯名は「前走も先頭から競馬をしたし、この馬のペースを守って馬と喧嘩しないよう流れに乗ろうと」そのまま先頭でレースを進めるた[36]。モンジューは6番手前後、デイラミは中団後方を進んだ[36]。エルコンドルパサーは後続に2馬身ほどの差をつけたまま最後の直線に入り、その差を広げていったが、残り400メートルあたりから外に持ちだしたモンジューが急追し、残り100メートルほどでこれに並ばれる[36]。いったん前に出られたあとエルコンドルパサーはさらにモンジューを差し返しにいったものの、半馬身およばずの2着と敗れた[36]。3着クロコルージュとは6馬身差がついていた[36]

敗れはしたものの、健闘したエルコンドルパサーには日本から駆けつけたファン以外からも大きな喝采が送られた[36]。現地メディアは「チャンピオンが2頭いた」と伝え[30]、モンジューを管理したジョン・ハモンドも後に「おそらく硬い馬場だったら敵わなかったと思う。あれだけモンジューにとって好条件が揃ったのに、2頭の勝ち馬がいたも同然の結果だったのだから」と振り返っている[9]。蛯名は「負けは負けだから、結果は悔しい。それでも、力と力の勝負ができたので、その点での悔いはない」と述べ、二ノ宮は「パドックからレースまでを見ていて、泣けてきそうになった。力は出し切ったと思うが、2着だから負けは負け。でも、無事ならいい」と述べた[30]。また渡邊は「ここまでナイス・トライだった。よくやってくれたと思う」と労い、またこれを最後としての引退を改めて発表した[30]

引退式 - 年度代表馬となる

エルコンドルパサーは10月11日に日本へ帰国。11月28日、モンジュー、タイガーヒル、ボルジアといった馬も顔を揃えるジャパンカップ当日の昼休みに東京競馬場で引退式を行った[37]。凱旋門賞で使用したゼッケンを着け、パドック周回を経て本馬場に姿を現すと、蛯名を背に第4コーナーからゴールまで駆け抜け、ファンに最後の走りを見せた[37]。挨拶に立った渡邊は「ファンの皆様はじめ、ジャパンカップか有馬記念に出走して欲しいという声をうかがいましたが、今日で終わらせた馬主の決断をファンの皆様にもおわかりいただける日がくると確信しております。長い間応援していただき、本当にありがとうございました」と語り[30]、また蛯名は「日本の競馬史に残る偉大な馬だった。ずっと乗っていたいと思っていたので寂しいような気がする。この馬の子で、また世界のG1に挑戦できる日を夢に見ています」と語った[30]。式を終えたエルコンドルパサーは、この日同時に引退した[30]厩務員・根来邦雄に付き添われ、種牡馬としての繋養先となる北海道早来町の社台スタリオンステーションへ向かった[37]。なお、ジャパンカップはエルコンドルパサーが前年3着に退けたスペシャルウィークが優勝、1番人気に推されたモンジューは4着に終わっている[38]

翌2000年1月、JRA賞を決定する投票が行われた。当年はエルコンドルパサーのほか、春秋の天皇賞とジャパンカップを制したスペシャルウィーク、同馬を破って宝塚記念、有馬記念という春秋のグランプリ競走を制したグラスワンダーがおり、「年度代表馬が3頭いてもおかしくない」といわれたほどの混戦であった[39]。年度代表馬への投票はスペシャルウィークが83票、エルコンドルパサーが72票という結果だったが、得票1位が投票選出の規定となる過半数(107票)に達していなかったことから、11人で構成された選考委員会で審議されることになった[39]。委員会ではまず最優秀5歳以上馬を誰にするかという審議が行われ、最初の採択でまずグラスワンダーが落選。次いでエルコンドルパサーとスペシャルウィークの間で決選投票が行われ、7対4でエルコンドルパサーが最優秀5歳以上牡馬に選出された[39]。さらに「年度代表馬は各部門賞馬から選ぶ」という規定に沿い、年度代表馬投票で1票を獲得していたエアジハード(最優秀短距離馬・父内国産馬)との間で審議が行われた結果、満場一致でエルコンドルパサーが年度代表馬と決定した[39]。ただしこの結果は議論を呼び、スペシャルウィークの調教師・白井寿昭[40]伊藤雄二[41]といったホースマンからも異議が唱えられた。

JPNクラシフィケーションにおいては、日本調教馬として過去最高の134ポンドの評価を得た。これはモンジュー、デイラミの135ポンドにこそ及ばないが、古馬のLコラム(2200-2799メートル)では世界最高評価であり、歴代の凱旋門賞優勝馬と比較しても遜色のない数値であった[42]

なお、当年は馬主の渡邊に対しても東京競馬記者クラブ賞[43]が贈られたほか、フランスにおいてはその年の競馬界で最も顕著な活躍をしたホースマンに贈られるゴールド賞を[28]、翌年3月にはアメリカのケンタッキー競馬協会より最優秀生産者賞が贈られた[27]

種牡馬時代 - 死後

種牡馬としてはリーディングサイアーの地位を占め続けていたサンデーサイレンスに代わる存在として期待を掛けられ、同馬を所有する社台グループの繋養牝馬を中心として初年度から137頭の交配相手を集めた[9]。2年目には158頭、3年目には154頭と高水準の推移を続けた[9]。しかし3年目の種付けを終えて後の2002年7月16日、エルコンドルパサーは腸捻転により社台スタリオンステーションで死亡した[44]。7歳没。8月8日には同場で「お別れ会」が開かれ、渡邊、二ノ宮、蛯名、的場ら関係者のほか、一般ファン約300人も参列し、聖歌の斉唱で送られた[44]遺骨は分骨され、社台スタリオンステーション内に墓が建立されている[7]

2004年、2年目の産駒であるヴァーミリアンラジオたんぱ杯2歳ステークスを制し、種牡馬としての重賞初勝利。2006年秋にはソングオブウインド菊花賞アロンダイトジャパンカップダートと、産駒のGI制覇が相次いだ。また、ダート路線に転じたヴァーミリアンは2007年1月に勝った川崎記念を皮切りに、2010年までにGI・JpnI競走で計9勝いう日本記録を樹立[45]。また、トウカイトリックはGI・JpnI競走の勝利こそなかったが、11年にわたり競走生活を続け、中央競馬における平地競走勝利の最高齢タイ記録(10歳、2012年ステイヤーズステークス)、同一重賞最多出走記録(8回、2006-2013年阪神大賞典)を打ち立てた[46]。同馬が中央競馬における最後のエルコンドルパサー産駒となったが、2014年2月に競走生活から退いた[46]

JRA顕彰馬の投票においては、毎年多くの票を集めながら選出規定にわずかに及ばない状況が続いていた[47]。しかしJRA発足60周年を記念した2014年の投票において例年1人2票の投票権が最大4票に拡大されると、有効票4分の3以上という規定を満たす156票(総数195)を獲得し、史上30頭目の殿堂入りを果たした[48]

評価

競走馬としての評価

1999年のインターナショナル・クラシフィケーションで得た134というレートは、日本調教馬に与えられた史上最高の数値である。合田直弘はレーティングの数値について「115あれば一流馬、125あればチャンピオン級と言われる」とした上で、2010年時点で史上2位の127というレートを付されたディープインパクトを引き、「12ハロンという距離区分では1.5ポンド=1馬身が換算基準だから、エルコンドルパサーは2番手以下に4馬身半の差をつける、断トツの日本最強馬なのである。彼がディープより4馬身半強かったと断じるつもりもないが、エルコンドルパサーが世界的にこれだけ高い評価を受けていることを、日本の競馬人はもっと知るべきであろう」と述べている[49]。なお、『優駿』が2012年に行った「距離別最強馬」アンケートにおいて、エルコンドルパサーは「2400メートル」部門でディープインパクトに次ぐ2位となっている[50]

蛯名正義はその特長として、芝・ダート、馬場状態、距離、ペースの緩急といった諸条件を難なく克服できる精神力の強さを挙げ、「本当にパーフェクトと言っていい[51]」、「日本の競馬界では20世紀最高の馬[52]」と評価している。また二ノ宮敬宇は他馬との違いについて「勝とうとする気持ち。最後は負けないという、その精神力」を挙げている[6]

身体面の特徴

社台スタリオンステーションの徳武英介によれば、エルコンドルパサーの馬体には一流の競走馬が大抵備えているなにがしかの個性が全く感じられず、「スピードタイプなのかスタミナタイプなのか、芝が良いのかダートが良いのか、サドラーズウェルズが出ているのかミスタープロスペクターが出ているのか、全く判別がつかないタイプ」であったという。この話を受けたライターの後藤正俊は「その特徴のなさが、エルコンドルパサーの最大の特徴と言えるのだろう。すべてに均整がとれていて、馬体はしっかりとしており、欠点もない。これこそ究極のサラブレッドの形と言えるのかもしれない」と述べている[53]

フランス遠征についての評価

エルコンドルパサーがフランスへ渡った前後には、シーキングザパールタイキシャトルアグネスワールドといった馬もヨーロッパ遠征を行い、1000-1600メートル戦でそれぞれ良績を残していた。しかし『優駿』は特にエルコンルパサーの遠征を「別格の重みがあった」と評し、その理由について「欧州競馬の牙城ともいえる中距離路線の王道を歩んだから」としている[52]。また伊藤雄二はサンクルー大賞勝利についての所感を尋ねられ、ヨーロッパの短距離戦について「ヨーロッパでは盲点のように弱いところでもある」としたうえで、「サンクルー大賞の場合は、ヨーロッパ馬が最も得意とする距離だから、その意味でも価値はある」と述べた[54]日本馬主協会連合会はその年史において、1990年代末に相次いだ日本調教あるいは生産馬による国外GI制覇が相次いだことに絡めて「しかもエルコンドルパサーはフランスGIで、というより世界で最も権威あるレースのひとつ凱旋門賞で2番人気に支持され、あわやの2着に惜敗したのである。ジャパンカップでの度重なる勝利とともに、1979(昭和54)年以来の合言葉『世界に通用する強い馬づくり』の努力が本格的に実を結んだといってよい」とこれを評した[55]

なお、2010年には二ノ宮厩舎所属のナカヤマフェスタが蛯名、佐々木、クラウトといった「チーム・エルコンドル」の布陣で凱旋門賞に臨み[56]、イギリスのワークフォースから頭差の2着となった。ヨーロッパ調教馬のみに優勝経験がある凱旋門賞で、他地域の調教馬が複数回2着になったのはこれがはじめてのことだった[57]。また、2012年と2013年の凱旋門賞ではオルフェーヴルが2着となっている[58]

投票企画などの結果

年度 企画者 企画 順位 出典
1999年 Sports Graphic Number ホースメンが選ぶ20世紀最強馬 第4位 [59]
2000年 日本中央競馬会 20世紀の名馬大投票 第10位 [52]
優駿(日本中央競馬会) プロの目で厳選した20世紀のベストホース100 選出 [60]
2001年 日本馬主協会連合会 アンケート「一番の名馬と思う競走馬は?」 第10位 [61]
アンケート「一番好きな競走馬は?」 第21位
アンケート「一番印象に残る競走馬は?」 第24位
2004年 優駿(日本中央競馬会) 年代別代表馬BEST10(1990年代) 第2位 [62]
2010年 未来に語り継ぎたい不滅の名馬たち 第7位 [49]
2012年 距離別「最強馬」はこの馬だ!(2400メートル部門) 第2位 [50]
距離別「最強馬」はこの馬だ!(ダート部門) 第7位 [63]
2015年 未来に語り継ぎたい名馬BEST100 第10位 [64]

競走成績

年月日 競馬場 競走名 人気 倍率 着順 距離 タイム 3F 着差 騎手 勝ち馬/(2着馬)
1997 11. 8 東京 3歳新馬 1人 2.5 1着 ダ1600m(良) 1:39.3 (37.2) 7身 的場均 (マンダリンスター)
1998 1. 11 中山 4歳500万下 1人 1.3 1着 ダ1800m(不) 1:52.3 (37.5) 9身 的場均 (タイホウウンリュウ)
2. 15 東京 共同通信杯4歳S 重賞 1人 1.2 1着 ダ1600m(不) 1:36.9 (35.6) 2身 的場均 (ハイパーナカヤマ)
4. 26 東京 NZT4歳S GII 1人 2.0 1着 芝1400m(重) 1:22.2 (35.8) 2身 的場均 (スギノキューティー)
5. 17 東京 NHKマイルC GI 1人 1.8 1着 芝1600m(稍) 1:33.7 (34.9) 1 3/4身 的場均 (シンコウエドワード)
10. 11 東京 毎日王冠 GII 3人 5.3 2着 芝1800m(良) 1:45.3 (35.0) (2 1/2身) 蛯名正義 サイレンススズカ
11. 29 東京 ジャパンC GI 3人 6.0 1着 芝2400m(良) 2:25.9 (35.0) 2 1/2身 蛯名正義 エアグルーヴ
1999 5. 23 ロンシャン イスパーン賞 G1 2着 芝1850m(重) 1:53.8 (3/4身) 蛯名正義 Croco Rouge
7. 4 サンクルー サンクルー大賞 G1 1着 芝2400m(稍) 2:28.8 2 1/2身 蛯名正義 (Tiger Hill)
9. 12 ロンシャン フォワ賞 G2 1着 芝2400m(稍) 2:31.4 アタマ 蛯名正義 Borgia
10. 3 ロンシャン 凱旋門賞 G1 2着 芝2400m(不) 2:38.6 (1/2身) 蛯名正義 Montjeu

出典:netkeiba.com エルコンドルパサー、『週刊100名馬vol.83 エルコンドルパサー』(着差および走破タイムについて)

表彰

年度 表彰 票数 出典
1998年 JRA賞最優秀4歳牡馬 119/208 [25]
1999年 JRA賞年度代表馬 [39]
JRA賞最優秀5歳以上牡馬 73/212
(決選投票:7/11)

レーティング

年度 馬齢 馬場 距離区分(m 対象 出典
1998年 4歳 M(1400-1800) 117 インターナショナル・クラシフィケーション [26]
L(2200-2700) 126
1999年 5歳 L(2200-2799) 134 [42]

※馬齢と距離区分はいずれも当時のもの。

重賞勝利産駒

ヴァーミリアン(2002年産)
ソングオブウインド(2003年産)
アロンダイト(2003年産)

中央競馬重賞・ダートグレード競走勝利馬

地方競馬重賞勝利馬

ブルードメアサイアーとしての重賞勝利産駒

血統表

父キングマンボはフランスとイギリスで走り、G1競走を3勝をしている[18]。エルコンドルパサー誕生時にはまだ5歳と若かったが、後に世界中で活躍馬を輩出する大種牡馬となった[87]。母サドラーズギャルはイギリスで9戦0勝[18]。曾祖母リサベルはイギリスとアイルランドで走り、重賞2勝を挙げている[18]。5代母ラフショッド(Rough Shod。ソング Thongの母)からは世界的に牝系が広がっており、特にリサデルの姉・スペシャルの系統からはエルコンドルパサーの血統表にもみえるサドラーズウェルズ、ヌレイエフなど数多くの名馬が輩出されている[88]

エルコンドルパサー血統 (血統表の出典)[§ 1]
父系 ミスタープロスペクター系
[§ 2]

Kingmambo
1990 鹿毛
父の父
Mr.Prospector
1970 鹿毛
Raise a Native Native Dancer
Raise You
Gold Digger Nashua
Sequence
父の母
Miesque
1984 鹿毛
Nureyev Northern Dancer
Special
Pasadoble Prove Out
Santa Quilla

*サドラーズギャル
Saddlers Gal
1989 鹿毛
Sadler's Wells
1981 鹿毛
Northern Dancer Nearctic
Natalma
Fairy Bridge Bold Reason
Special
母の母
Glenveagh
1986 鹿毛
Seattle Slew Bold Reasoning
My Charmer
Lisadell Forli
Thong
母系(F-No.) 5号族(FN:5-h) [§ 3]
5代内の近親交配 Northern Dancer 3×4、Special 4×4、Native Dancer 4×5、Forli 4×5×5、Thong 4×5×5 [§ 4]
出典
  1. ^ JBISサーチ エルコンドルパサー 5代血統表2015年11月7日閲覧。
  2. ^ netkeiba.com エルコンドルパサー 5代血統表2015年11月7日閲覧。
  3. ^ JBISサーチ エルコンドルパサー 5代血統表2015年11月7日閲覧。
  4. ^ JBISサーチ エルコンドルパサー 5代血統表2015年11月7日閲覧。


近親

脚注

注釈

  1. ^ 1ハロン=約200メートル
  2. ^ ウォーミングアップを兼ねた待機所への移動
  3. ^ フルゲートの18頭

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l エルコンドルパサー”. JBISサーチ. 2015年11月9日閲覧。
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  4. ^ a b c 『書斎の競馬(1)』pp.41-49
  5. ^ 『優駿』1998年6月号、p.146
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m 『優駿』2002年10月号、pp.100-104
  7. ^ a b 『名馬物語2』pp.116-124
  8. ^ a b c d e f 的場(2001)pp.177-182
  9. ^ a b c d 『優駿』2002年9月号、pp.38-41
  10. ^ a b 『優駿』1999年5月号、pp.86-89
  11. ^ a b c d e f g 『優駿』2007年12月号、pp.56-63
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参考文献

  • 鶴木遵『調教師伊藤雄二 - ウソのないニッポン競馬 』(ベストセラーズ、2000年)ISBN 978-4584185452
  • 的場均『夢無限』(流星社、2001年)ISBN 978-4947770035
  • 日本馬主協会連合会(編)『日本馬主協会連合会40年史』(日本馬主協会連合会、2001年)
  • 平出貴昭『覚えておきたい日本の牝系100』(スタンダードマガジン、2014年)ISBN 978-4938280642
  • 『競馬名馬&名勝負年鑑 - ファンのファンによるファンのための年度代表馬 (1999〜2000) 』(宝島社、2000年)ISBN 978-4796694926
  • 『名馬物語 - The best selection (2)』(エンターブレイン、2003年)ISBN 978-4757714977
  • 『週刊100名馬Vol.83 エルコンドルパサー』(産経新聞社、2000年)
  • 『優駿』(日本中央競馬会)各号

関連項目

外部リンク