「松岡洋右」の版間の差分
編集の要約なし |
|||
57行目: | 57行目: | ||
[[オレゴン州]][[ポートランド (オレゴン州)|ポートランド]]、[[カリフォルニア州]][[オークランド (カリフォルニア州)|オークランド]]などで勉学の末、[[オレゴン大学]][[法学部]]に入学、[[1900年]](明治33年)に卒業する。オレゴン大学と並行して[[早稲田大学]]の法学講義録を取り寄せ勉強するなど、勉学心旺盛であった一方、学生仲間によると、[[ポーカー]]の名手だったともいう。 |
[[オレゴン州]][[ポートランド (オレゴン州)|ポートランド]]、[[カリフォルニア州]][[オークランド (カリフォルニア州)|オークランド]]などで勉学の末、[[オレゴン大学]][[法学部]]に入学、[[1900年]](明治33年)に卒業する。オレゴン大学と並行して[[早稲田大学]]の法学講義録を取り寄せ勉強するなど、勉学心旺盛であった一方、学生仲間によると、[[ポーカー]]の名手だったともいう。 |
||
卒業後も滞米し様々の職種で働いていることから、[[アイヴィー・リーグ]]等の大学(あるいは大学院)に進学することを目指していたとも考えられる<ref>三輪(1989)、p.33。</ref>が、母親の健康状態悪化などを理由に[[1902年]](明治35年)、9年振りに帰国する。 |
卒業後も滞米し様々の職種で働いていることから、[[アイヴィー・リーグ]]等の大学(あるいは大学院)に進学することを目指していたとも考えられる<ref>三輪(1989)、p.33。</ref>が、母親の健康状態悪化などを理由に[[1902年]](明治35年)、9年振りに帰国する。松岡はアメリカを第二の母国と呼び、英語を第二の母語と呼んでいたが、これは終生変わらなかった{{sfn|斉藤良衛|pp=509}}。 |
||
=== 外務省時代 === |
=== 外務省時代 === |
||
95行目: | 95行目: | ||
20年近く遠ざかっていた外務省にトップとして復帰した松岡はまず、官僚主導の外交を排除するとして、赴任したばかりの[[重光葵]](駐イギリス[[特命全権大使]])以外の主要な在外外交官40数名を更迭、[[代議士]]や[[軍人]]など各界の要人を新任大使に任命、また「革新派外交官」として知られていた[[白鳥敏夫]]を外務省顧問に任命した(「松岡人事」)。更に有力な外交官たちには辞表を出させて外務省から退職させようとするが、駐[[ソビエト連邦|ソ連]]大使を更迭された[[東郷茂徳]]らは辞表提出を拒否して抵抗した。また松岡は以前から外交官批判を繰り広げており、就任直後には公の場で外交官を罵倒した{{sfn|斉藤良衛|pp=437}}。 |
20年近く遠ざかっていた外務省にトップとして復帰した松岡はまず、官僚主導の外交を排除するとして、赴任したばかりの[[重光葵]](駐イギリス[[特命全権大使]])以外の主要な在外外交官40数名を更迭、[[代議士]]や[[軍人]]など各界の要人を新任大使に任命、また「革新派外交官」として知られていた[[白鳥敏夫]]を外務省顧問に任命した(「松岡人事」)。更に有力な外交官たちには辞表を出させて外務省から退職させようとするが、駐[[ソビエト連邦|ソ連]]大使を更迭された[[東郷茂徳]]らは辞表提出を拒否して抵抗した。また松岡は以前から外交官批判を繰り広げており、就任直後には公の場で外交官を罵倒した{{sfn|斉藤良衛|pp=437}}。 |
||
当時の大きな外交問題は、泥沼となっていた[[日中戦争]]、険悪となっていた日米関係、そして陸軍が主張していたドイツ・イタリアとの三国同盟案であった。松岡は太平洋を挟んだ二大国が固く手を握って、世界の平和を確立すべきと唱えていた |
当時の大きな外交問題は、泥沼となっていた[[日中戦争]]、険悪となっていた日米関係、そして陸軍が主張していたドイツ・イタリアとの三国同盟案であった。松岡は太平洋を挟んだ二大国が固く手を握って、世界の平和を確立すべきと唱えていた。 |
||
松岡は就任後、早速[[香港工作]]とよばれる[[重慶]]国民党政府と[[汪兆銘政権]]の合体工作を行った。しかしこの政策は汪兆銘政権を支援していた陸軍の猛反発にあい、工作は打ち切られた{{sfn|斉藤良衛|pp=420}}。日本が汪兆銘政権を正当な中国政府として承認されたのは、松岡の外務大臣在任時である。松岡は「外交がむづかしいことを今更知ったわけではないが、外交一文化の四巨頭会談の了解事項が踏みにじられたのは残念だ。満州国だけを確保して、中国からは全面的に撤退するのが一番良いかと思うが、それは少なくとも当分実行不可能である」と嘆いた{{sfn|斉藤良衛|pp=426}}。 |
松岡は就任後、早速[[香港工作]]とよばれる[[重慶]]国民党政府と[[汪兆銘政権]]の合体工作を行った。しかしこの政策は汪兆銘政権を支援していた陸軍の猛反発にあい、工作は打ち切られた{{sfn|斉藤良衛|pp=420}}。日本が汪兆銘政権を正当な中国政府として承認されたのは、松岡の外務大臣在任時である。松岡は「外交がむづかしいことを今更知ったわけではないが、外交一文化の四巨頭会談の了解事項が踏みにじられたのは残念だ。満州国だけを確保して、中国からは全面的に撤退するのが一番良いかと思うが、それは少なくとも当分実行不可能である」と嘆いた{{sfn|斉藤良衛|pp=426}}。 |
||
=== |
=== 四国同盟構想とその失敗 === |
||
[[ファイル:Matsuoka visits Hitler.jpg|thumb|250px|ドイツ[[総統官邸]]でヒトラーとの会談に臨む松岡]] |
[[ファイル:Matsuoka visits Hitler.jpg|thumb|250px|ドイツ[[総統官邸]]でヒトラーとの会談に臨む松岡]] |
||
松岡は世界を、それぞれ「指導国家」が指導する4つのブロック構造(アメリカ、ロシア、西欧、東亜)に分けるべきと考えており{{sfn|斉藤良衛|pp=397}}、日本・中国・[[満州国]]を中核とする東亜ブロック、つまり[[大東亜共栄圏]](この語句自体、松岡が[[ラジオ]]談話で使ったのが公人の言としては初出)の完成を目指すことを唱えていた。松岡は世界各国がブロックごとに分けられることで[[ナショナリズム]]を超越し、やがて[[世界国家]]に至ると考えていた{{sfn|斉藤良衛|pp=399-400、408}}。この説は満鉄時代からの彼の持論であり、内外の研究者に協力を仰いで研究を進めていた{{sfn|斉藤良衛|pp=398-399}}。松岡はこの構想を実現させるためには、各ブロックを形成する他の指導国家と協調する必要があると考えていた。 |
松岡は世界を、それぞれ「指導国家」が指導する4つのブロック構造(アメリカ、ロシア、西欧、東亜)に分けるべきと考えており{{sfn|斉藤良衛|pp=397}}、日本・中国・[[満州国]]を中核とする東亜ブロック、つまり[[大東亜共栄圏]](この語句自体、松岡が[[ラジオ]]談話で使ったのが公人の言としては初出)の完成を目指すことを唱えていた。松岡は世界各国がブロックごとに分けられることで[[ナショナリズム]]を超越し、やがて[[世界国家]]に至ると考えていた{{sfn|斉藤良衛|pp=399-400、408}}。この説は満鉄時代からの彼の持論であり、内外の研究者に協力を仰いで研究を進めていた{{sfn|斉藤良衛|pp=398-399}}。松岡はこの構想を実現させるためには、各ブロックを形成する他の指導国家と協調する必要があると考えていた。 |
||
松岡は外相就任当時、「独逸人ほど信用のできない人種はない」と語っており{{sfn|斉藤良衛|pp=373}}、ドイツに対して好感を持っていたわけではなかった。しかし就任当初からドイツ・イタリア・日本による三国同盟を唱える陸軍の使者が松岡の元を訪れ、三国同盟を推進するよう働きかけていた{{sfn|斉藤良衛|pp=379}}。[[武藤章]]軍務局長もその一人であり、もし承諾せねば内閣をつぶすまでだと意気込んで松岡の元を訪れた。対談後、武藤は松岡も三国同盟に賛成であるかのように認識していたが、松岡自身は武藤を丸め込んだと考えていた。しかし松岡は自分の議論に酔う悪癖があり、度重なる陸軍の接客と「議論」を行う中で、次第に三国同盟に傾斜していった{{sfn|斉藤良衛|pp=379}}。 |
|||
当時ヨーロッパはドイツの軍事力に席巻されており、松岡は遠からず西欧ブロックがドイツの指導の下形成されるであろうと考え、1940年の8月頃から三国同盟案を検討するようになった{{sfn|斉藤良衛|pp=418}}。一方で当時中国問題を巡って日米・日英関係が悪化していたことも影響した。ドイツはたびたび日中和平の仲介を行うよう松岡に働きかけ、ドイツに対する松岡の心証は改善されていった{{sfn|斉藤良衛|pp=421-422}}。陸海軍からの三国同盟推進の動きが活発となる中で、[[小幡酉吉]]・[[松平恒雄]]・[[吉田茂]]といったOB達をふくむ外務省の一部は日独提携に強く反発していた{{sfn|斉藤良衛|pp=426}}。しかし松岡の方針はなかなか定まらず、推進派の[[白鳥敏夫]]外務省顧問(元駐伊大使)は「松岡の三国条約に対する態度はちっともはっきりしない。」といらだちをみせ、辞職をちらつかせて松岡の決断を迫った{{sfn|斉藤良衛|pp=426}}。松岡はこの時期暴漢に襲われることもあり、外務省顧問を務めていた[[斉藤良衛]]は陸軍や右翼の指示によるものであったと考えている{{sfn|斉藤良衛|pp=427}}。 |
当時ヨーロッパはドイツの軍事力に席巻されており、松岡は遠からず西欧ブロックがドイツの指導の下形成されるであろうと考え、1940年の8月頃から三国同盟案を検討するようになった{{sfn|斉藤良衛|pp=418}}。一方で当時中国問題を巡って日米・日英関係が悪化していたことも影響した。ドイツはたびたび日中和平の仲介を行うよう松岡に働きかけ、ドイツに対する松岡の心証は改善されていった{{sfn|斉藤良衛|pp=421-422}}。陸海軍からの三国同盟推進の動きが活発となる中で、[[小幡酉吉]]・[[松平恒雄]]・[[吉田茂]]といったOB達をふくむ外務省の一部は日独提携に強く反発していた{{sfn|斉藤良衛|pp=426}}。しかし松岡の方針はなかなか定まらず、推進派の[[白鳥敏夫]]外務省顧問(元駐伊大使)は「松岡の三国条約に対する態度はちっともはっきりしない。」といらだちをみせ、辞職をちらつかせて松岡の決断を迫った{{sfn|斉藤良衛|pp=426}}。松岡はこの時期暴漢に襲われることもあり、外務省顧問を務めていた[[斉藤良衛]]は陸軍や右翼の指示によるものであったと考えている{{sfn|斉藤良衛|pp=427}}。 |
||
107行目: | 109行目: | ||
一方で松岡は伊藤博文の影響もあって昔から親ロシアを唱えており、伊藤門下の親露派の首領を自ら任じていた{{sfn|斉藤良衛|pp=427}}。松岡はロシアブロックの指導国家[[ソビエト連邦]]にパキスタン・インドへの進出を認めることで、その東進を防げると考えていた{{sfn|斉藤良衛|pp=400}}。松岡は「軍部の主張する三国同盟に乗ったと見せかけ、ドイツが日ソの仲介を買って出れば、軍部の反対を抑えたまま日ソ関係を構築できる」とし、「ドイツを通じてソ連と手を結ぶには、今を置いては好機はない」と語っている{{sfn|斉藤良衛|pp=427}}。 |
一方で松岡は伊藤博文の影響もあって昔から親ロシアを唱えており、伊藤門下の親露派の首領を自ら任じていた{{sfn|斉藤良衛|pp=427}}。松岡はロシアブロックの指導国家[[ソビエト連邦]]にパキスタン・インドへの進出を認めることで、その東進を防げると考えていた{{sfn|斉藤良衛|pp=400}}。松岡は「軍部の主張する三国同盟に乗ったと見せかけ、ドイツが日ソの仲介を買って出れば、軍部の反対を抑えたまま日ソ関係を構築できる」とし、「ドイツを通じてソ連と手を結ぶには、今を置いては好機はない」と語っている{{sfn|斉藤良衛|pp=427}}。 |
||
8月13日、松岡はドイツの使者[[ハインリヒ・ゲオルク・スターマー]]と会談し、三国同盟への交渉を本格的に開始した。ドイツの外相[[ヨアヒム・フォン・リッベントロップ]]もまたソ連を加えた日独伊ソ四カ国同盟を構想しており、スターマーに託されたリッベントロップのメモでは日ソ関係の仲介が提案されていた{{sfn|斉藤良衛|pp=431}}。自らの構想と同様の提案に、松岡はドイツ側に好感を抱いた。また松岡は日独の提携はアメリカに脅威を与え、西欧や東亜への介入を防ぐことができると考えるようになった{{sfn|斉藤良衛|pp=432}}。以降、一刻も早く同盟を成立させるよう促したドイツや陸軍の運動もあり、松岡は三国同盟成立に邁進することとなった{{sfn|斉藤良衛|pp=431-432}}。松岡は極端な秘密主義をとり、交渉は松岡の私邸で行われた。しかも出入りに用心させたため、新聞記者やアメリカ大使館関係者ですら同盟交渉に気づかなかった{{sfn|斉藤良衛|pp=439-440}}。 |
8月13日、松岡はドイツの使者[[ハインリヒ・ゲオルク・スターマー]]と会談し、三国同盟への交渉を本格的に開始した。ドイツの外相[[ヨアヒム・フォン・リッベントロップ]]もまたソ連を加えた日独伊ソ四カ国同盟を構想しており、スターマーに託されたリッベントロップのメモでは日ソ関係の仲介が提案されていた{{sfn|斉藤良衛|pp=431}}。自らの構想と同様の提案に、松岡はドイツ側に好感を抱いた。また松岡は日独の提携はアメリカに脅威を与え、西欧や東亜への介入を防ぐことができると考えるようになった{{sfn|斉藤良衛|pp=432}}。また条約締結後にアメリカの世論は沸騰するだろうが、日本の真意がわかればアメリカ人の心証は一転するであろうと極めて楽観的であった{{sfn|斉藤良衛|pp=373}}。以降、一刻も早く同盟を成立させるよう促したドイツや陸軍の運動もあり、松岡は三国同盟成立に邁進することとなった{{sfn|斉藤良衛|pp=431-432}}。松岡は極端な秘密主義をとり、交渉は松岡の私邸で行われた。しかも出入りに用心させたため、新聞記者やアメリカ大使館関係者ですら同盟交渉に気づかなかった{{sfn|斉藤良衛|pp=439-440}}。 |
||
日独伊三国軍事同盟は[[1940年]](昭和15年)9月27日成立した。しかしそののち独ソ関係は急速に悪化し、その情報が日本にも伝えられ、四国連合はおろか、日ソ関係の改善の橋渡しをドイツに期待することもむずかしくなってしまった。これはソビエトが四国連合参加の条件として、多数の領土要求をドイツに出してドイツの怒りを買ったためである。 |
日独伊三国軍事同盟は[[1940年]](昭和15年)9月27日成立した。しかしそののち独ソ関係は急速に悪化し、その情報が日本にも伝えられ、四国連合はおろか、日ソ関係の改善の橋渡しをドイツに期待することもむずかしくなってしまった。これはソビエトが四国連合参加の条件として、多数の領土要求をドイツに出してドイツの怒りを買ったためである。 |
||
115行目: | 117行目: | ||
=== 日米交渉 === |
=== 日米交渉 === |
||
{{see also|日米交渉}} |
{{see also|日米交渉}} |
||
一方松岡のこの外遊中、外相の松岡を抜きにした形で日米交渉に進展が見られていた。駐アメリカ大使[[野村吉三郎]]とアメリカ[[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]][[コーデル・ハル]]の会談で |
一方松岡のこの外遊中、外相の松岡を抜きにした形で日米交渉に進展が見られていた。駐アメリカ大使[[野村吉三郎]]とアメリカ[[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]][[コーデル・ハル]]の会談で合意された「[[日米諒解案]]」(日本には4月18日に伝達)がそれである。同案には、[[日本軍]]の中国大陸からの段階的な撤兵と引き換えに、「アメリカ側の満州国の事実上の承認」や、「日本の南方における平和的資源確保にアメリカが協力すること」が盛り込まれている一方で、「三国同盟の事実上の死文化」は含まれていなかった。こ |
||
この諒解案は日米の民間人が共同で作成し、野村・ハル会談で「交渉の前提」として合意されたものであったが<ref>[http://www.jacar.go.jp/nichibei/reference/index13.html 参考資料室●日米諒解案] - インターネット特別展 公文書に見る日米交渉</ref>、これを「アメリカ側提案」と誤解した日本では、対アメリカ最強硬派の[[大日本帝国陸軍|陸軍]]も含めて諸手を挙げて交渉開始に賛成の状況であった。ところが4月22日に意気揚々と帰国した松岡はこの案に猛反対し、静養と称して閣議をしばらく欠席するという行動に出る。松岡は自分が外交を主導することを条件に外相を受けており、交渉が自分の不在の間に頭越しで進められていたことを自尊心が許さなかったのである。松岡は「野村提案(日米諒解案に基づく日米交渉)ハ話ガ違フ」と不快感をあらわにしている<ref>[http://www.jacar.go.jp/nichibei/popup/19410422b.html 昭和16年(1941年)4月22日第20回大本営政府連絡懇談会(議題:松岡外務大臣帰朝報告、対米国交調整)] - 公文書に見る日米交渉 -</ref>。松岡はこの間に修正案を仕上げ、5月8日の[[大本営政府連絡懇談会]]にこれを提出した。松岡はアメリカが参戦すれば世界文明は破壊され戦争は長期戦になると言い、アメリカを参戦させないことが必要であると唱えた。陸軍参謀総長[[杉山元]]は「外相独舞台ノ感アリ」と述懐している<ref>[http://www.jacar.go.jp/nichibei/popup/19410508b.html 昭和16年(1941年)5月8日第22回大本営政府連絡懇談会(議題:対米国交調整その後の状況)] - 公文書に見る日米交渉 -</ref>。その後の会議でも松岡は「例ニ依ツテ外相ノ独舞台ナルガ如シ」と呼ばれる有様であり、軍部からも批判的に見られるようになった<ref>[http://www.jacar.go.jp/nichibei/popup/19410522b.html 昭和16年(1941年)5月22日第25回大本営政府連絡懇談会(議題:蘭領インドシナ交渉、対米国交調整その後の状況、国民政府承認)] - 公文書に見る日米交渉</ref>。 |
|||
この際の松岡修正案は陸軍に配慮し、満州国の承認と、防共のための駐兵が条件に組み込まれているものであり、アメリカ側の対応はしばらく時間がかかった。松岡はさらに提案を修正し、回答を待っている状態で提案の修正を行うべきではないという野村大使の建言を却下して手交させた<ref>[http://www.jacar.go.jp/nichibei/popup/19410513a.html 昭和16年(1941年)5月13日 野村大使、本国に対し、松岡外務大臣の覚書手交を見合わせるよう意見具申] - 公文書に見る日米交渉 -</ref>。近衛や東條は松岡がアメリカに言いがかりをつけ、交渉決裂を期待していたと批判しているが、顧問を務めていた斉藤良衛は松岡は一度もアメリカと戦うべきだと言ったことはないと反論している{{sfn|斉藤良衛|pp=509}}。6月22日にハルは松岡修正案への回答を行っているが、この回答に松岡は反発し、<ref>[http://www.jacar.go.jp/nichibei/popup/pop_08.html 昭和16年(1941年)6月22日野村大使・ハル米国務長官会談、ハルは、オーラル・ステートメントを手交、また、5月31日案(日本時間6月1日手交)のアメリカ政府訂正案を提示]- 公文書に見る日米交渉</ref>受け入れなかった<ref>[http://www.jacar.go.jp/nichibei/popup/19410710a.html 昭和16年(1941年)7月10日第38回大本営政府連絡会議(議題:日米国交調整、6月21日付ハル国務長官の回答に関する外務省側の意見)]- 公文書に見る日米交渉</ref>。 |
|||
実際はこの諒解案そのものは日米交渉開始のための叩き台に過ぎなかったが、これを「アメリカ側提案」と誤解した日本では、対アメリカ最強硬派の[[大日本帝国陸軍|陸軍]]も含めて諸手を挙げて交渉開始に賛成の状況であった。ところが4月22日に意気揚々と帰国した松岡はこの案に猛反対し、静養と称して閣議をしばらく欠席するという行動に出る。松岡は自分が外交を主導することを条件に外相を受けており、交渉が自分の不在の間に頭越しで進められていたことを自尊心が許さなかったのである。この松岡の反対行動のため、対アメリカ交渉は出遅れてしまい、外交上の無用な混乱を招くことになったという批判がある。しかし、5月12日にアメリカ側に送られた松岡修正案に対し、アメリカ側が返答したのは6月21日であり、アメリカの方が日本側よりも回答に時間をかけている。また、松岡修正案は諒解案を下敷きにしたものであり、条件が諒解案よりも強硬であるというわけではない。 |
|||
[[6月22日]]に開戦した[[独ソ戦]]によって、松岡のユーラシア枢軸構想自体・四国連合案は、その基盤から瓦解する。独ソ開戦については、ドイツ訪問時に[[リッベントロップ]]外相から独ソ関係は今後どうなるか分からず、独ソ衝突などありえないなどと日本政府には伝えないようにと言われ、ヒトラーも独ソ国境に150個師団を展開したことを明かすなど、それとなくドイツ側が独ソ戦について匂わす発言をしたのにも関わらず、松岡はこれらのことを閣議で報告しなかったばかりか、独ソ開戦について否定する発言を繰り返していた。松岡が独ソ開戦が間近なことを認識していてなぜ日ソ中立条約を締結したかについてはさまざまな説がある。 |
|||
独ソ開戦とともに三国同盟の目的が有名無実になったとして日独伊三国同盟の即時破棄を主張する閣僚([[鈴木貞一]]、[[平沼騏一郎]]ら)もいたが、松岡は締結したばかりの日ソ中立条約を破棄して対ソ宣戦し、ソビエトをドイツとともに挟撃することを閣内で主張し、[[南部仏印進駐]]に関しては閣内で強硬に反対、いわゆる北進論を主張する。しかし政府首脳や世論は北進論に関しては全体的に消極的で、独ソ戦によってソビエトの脅威が消滅したことにより、南方に戦力を集中して進出すべきとする南進論が優勢になった。この頃の松岡はそのあまりの独断専行ぶりから、かつては協力関係にあった陸軍とも対立するようになっており、また閣内でも[[平沼騏一郎]]ら反ドイツ的見解の閣僚と対立、孤立を深めていた。ついには[[昭和天皇]]までもが松岡の解任を主張するようになり、近衛文麿首相は松岡に外相辞任を迫るが拒否。近衛は[[7月16日]]内閣総辞職し、松岡外相をはずした上で[[第3次近衛内閣]]を発足させた。松岡 |
独ソ開戦とともに三国同盟の目的が有名無実になったとして日独伊三国同盟の即時破棄を主張する閣僚([[鈴木貞一]]、[[平沼騏一郎]]ら)もいたが、松岡は締結したばかりの日ソ中立条約を破棄して対ソ宣戦し、ソビエトをドイツとともに挟撃することを閣内で主張し、[[南部仏印進駐]]に関しては閣内で強硬に反対、いわゆる北進論を主張する。しかし政府首脳や世論は北進論に関しては全体的に消極的で、独ソ戦によってソビエトの脅威が消滅したことにより、南方に戦力を集中して進出すべきとする[[南進論]]が優勢になった。この頃の松岡はそのあまりの独断専行ぶりから、かつては協力関係にあった陸軍とも対立するようになっており、また閣内でも[[平沼騏一郎]]ら反ドイツ的見解の閣僚と対立、孤立を深めていた。また日米交渉が継続不可能であるという見解を示すようになった<ref>[http://www.jacar.go.jp/nichibei/popup/19410712a.html 昭和16年(1941年)7月12日第39回大本営政府連絡懇談会(議題:日米国交調整、対ソ戦争に伴う満州国取り扱い要領決定)] - 公文書に見る日米交渉</ref>。ついには[[昭和天皇]]までもが松岡の解任を主張するようになり、近衛文麿首相は松岡に外相辞任を迫るが拒否。近衛は[[7月16日]]内閣総辞職し、松岡外相をはずした上で[[第3次近衛内閣]]を発足させた。この事実上の松岡更迭によって南部仏印進駐は実行されることとなり、アメリカ・イギリスとの対立はよりいっそう深まっていくことになる。 |
||
松岡は常々からイギリスとの戦争は避け得ないと考えていたが、アメリカとの戦争は臨んでいなかった{{sfn|斉藤良衛|pp=510}}。彼は「[[英米一体論]]」を強く批判し、イギリスと戦争中であるドイツと結んでも、アメリカとは戦争になるはずがないと考えていた{{sfn|斉藤良衛|pp=510}}。 |
|||
その後、松岡の推測通りに現実に対米英戦争の直接的な原因(対日禁石油政策)となっている。もし松岡の主張通り、北進論を採用して対ソビエト戦争を開始していれば、アメリカ・イギリスとの衝突は回避できたかどうかについては、いまなお多くの歴史家の議論の種になっている。 |
|||
=== 外相離任後 === |
=== 外相離任後 === |
||
[[1941年]](昭和16年)[[12月8日]]、日米開戦のニュースを聞いて「こんなことになってしまって、三国同盟は僕一生の不覚であった」、「死んでも死にきれない。陛下に対し奉り、大和民族八千万同胞に対し、何ともお詫びの仕様がない」と無念の思いを周囲に漏らし号泣したという |
[[1941年]](昭和16年)[[12月8日]]、日米開戦のニュースを聞いて「こんなことになってしまって、三国同盟は僕一生の不覚であった」、「死んでも死にきれない。陛下に対し奉り、大和民族八千万同胞に対し、何ともお詫びの仕様がない」と無念の思いを周囲に漏らし号泣したという{{sfn|斉藤良衛|pp=510}}。 |
||
しかし、開戦二日目に[[徳富蘇峰]]に送った書簡が最近発見され、それによると松岡は緒戦の勝利に興奮し、多大な戦果に「欣喜雀躍」と記している。また同じ書簡で松岡は、開戦に至った理由として、アメリカ人をよく理解出来なかった日本政府の外交上の失敗であることを指摘し、アメリカをよく知っている自分の外交が、第二次近衛内閣に理解されず、失脚したことへの無念さを訴えている。その一方で開戦したからにはその外交の失敗を反省し、日英米の[[国交]]処理をいつかはしなければならない、と蘇峰に書き送ってい |
しかし、開戦二日目に[[徳富蘇峰]]に送った書簡が最近発見され、それによると松岡は緒戦の勝利に興奮し、多大な戦果に「欣喜雀躍」と記している。また同じ書簡で松岡は、開戦に至った理由として、アメリカ人をよく理解出来なかった日本政府の外交上の失敗であることを指摘し、アメリカをよく知っている自分の外交が、第二次近衛内閣に理解されず、失脚したことへの無念さを訴えている。その一方で開戦したからにはその外交の失敗を反省し、日英米の[[国交]]処理をいつかはしなければならない、と蘇峰に書き送っている。 |
||
その後[[結核]]に罹患した松岡は以前とは別人となったように痩せ細ってしまった。1945年、旧友であり終戦工作に奔走していた[[吉田茂]]から和平交渉のため[[モスクワ]]を訪れるよう相談される。松岡も乗り気ではあったが、ソ連が拒否したため幻に終わった。 |
その後[[結核]]に罹患した松岡は以前とは別人となったように痩せ細ってしまった。1945年、旧友であり終戦工作に奔走していた[[吉田茂]]から和平交渉のため[[モスクワ]]を訪れるよう相談される。松岡も乗り気ではあったが、ソ連が拒否したため幻に終わった。 |
2012年10月20日 (土) 14:29時点における版
松岡 洋右 まつおか ようすけ | |
---|---|
| |
生年月日 | 1880年3月4日 |
出生地 | 山口県熊毛郡室積村(現・山口県光市) |
没年月日 | 1946年6月27日(66歳没) |
死没地 | 東京都文京区 |
出身校 |
明治法律学校(現・明治大学) オレゴン大学 |
前職 |
外務省官僚 南満州鉄道理事・総裁 |
所属政党 |
(立憲政友会→) (政党解消連盟→) 無所属 |
第63代 外務大臣 | |
内閣 | 第2次近衛内閣 |
在任期間 | 1940年7月22日 - 1941年7月18日 |
第18代 拓務大臣 | |
内閣 | 第2次近衛内閣 |
在任期間 | 1940年7月22日 - 1940年9月28日 |
選挙区 | 山口県第2区 |
当選回数 | 2回 |
在任期間 | 1930年2月21日 - 1933年12月28日 |
松岡 洋右(まつおか ようすけ、1880年(明治13年)3月4日 - 1946年(昭和21年)6月27日)は日本の外交官、政治家。日本の国際連盟脱退、日独伊三国同盟の締結、日ソ中立条約の締結など第二次世界大戦前夜の日本外交の重要な局面に代表的な外交官ないしは外務大臣として関与した。敗戦後、極東国際軍事裁判の公判中に病死。
生涯
アメリカ留学
1880年(明治13年)に山口県熊毛郡室積村(のち光市室積)にて、廻船問屋の四男として生まれる。
洋右が11歳の時、父親が事業に失敗し破産したこと、親戚が既に渡米して成功を収めていたことなどから1893年(明治26年)に留学のため渡米する。アメリカでは周囲の人々からキリスト教の影響を受け、入信に至る。特に来日経験のあるオレゴン州ポートランドのアメリカ・メソジスト監督教会牧師メリマン・ハリス(Merriman Colbert Harris)のあたたかい信仰に見守られつつ、日本自由メソヂスト教会の指導者となる河辺貞吉から大きな影響を受け、洗礼(記録では1893年とある)を受けた。彼は河辺を信仰の父、実父に代わる第二の父とし、終生交わりを大切にした。後年に至っても米国ではメソジスト派の信者と述べ、「キリストの十字架と復活を信じている」と公言していた。アメリカでの生活は苦しく、最初の寄宿先に到着した早々薪割りを命じられるなど、使用人としてのノルマをこなしながら学校へ通わなくてはならなかった。また、たびたび人種差別の被害にあった。この頃の体験が「アメリカ人には、たとえ脅されたとしても、自分が正しい場合は道を譲ってはならない。対等の立場を欲するものは、対等の立場で望まなければならない」を信条とする彼の対米意識を育んでいった。
オレゴン州ポートランド、カリフォルニア州オークランドなどで勉学の末、オレゴン大学法学部に入学、1900年(明治33年)に卒業する。オレゴン大学と並行して早稲田大学の法学講義録を取り寄せ勉強するなど、勉学心旺盛であった一方、学生仲間によると、ポーカーの名手だったともいう。
卒業後も滞米し様々の職種で働いていることから、アイヴィー・リーグ等の大学(あるいは大学院)に進学することを目指していたとも考えられる[1]が、母親の健康状態悪化などを理由に1902年(明治35年)、9年振りに帰国する。松岡はアメリカを第二の母国と呼び、英語を第二の母語と呼んでいたが、これは終生変わらなかった[2]。
外務省時代
帰国後は、東京麹町に山口県人会の寮があったこともあり、駿河台の明治法律学校(明治大学の前身)に籍を置きながら東京帝国大学を目指すことにした[3]。しかし帝国大学の授業内容を調べ、物足りなさを感じた洋右は独学で外交官試験を目指すことを決意。1904年(明治37年)に外交官試験に首席で合格し、外務省に入省する。なお、この外務省入りはそれほど積極的な動機に基づくのでなく、折からの日露戦争に対する一種の徴兵忌避的意味合いがあったのではないかとの説もある[4]。
外務省では、はじめ領事官補として中華民国上海、その後関東都督府などに赴任。その頃、満鉄総裁だった後藤新平や三井物産の山本条太郎の知遇を得る。松岡の中国大陸での勤務が長かったのは、一説には一旦はベルギー勤務を命ぜられたものの「これからの日本には大陸が大切だから」といって中華民国勤務の継続を望んだともいう。短期間のロシア、アメリカ勤務の後、寺内内閣(外務大臣は後藤新平)のとき総理大臣秘書官兼外務書記官として両大臣をサポート、特にシベリア出兵に深く関与した。1919年(大正8年)からのパリ講和会議には随員(報道係主任)として派遣され、日本政府のスポークスマンとして英語での弁舌に力を発揮、また同じく随員であった近衛文麿とも出会う。帰国後は総領事として再び中華民国勤務となるが、1921年(大正10年)、外務省を41歳の若さで退官。
満鉄から代議士へ
退官後はすぐに、上海時代に交友を結んだ山本条太郎の引き抜きにより、南満州鉄道(満鉄)に理事として着任、1927年(昭和2年)には副総裁となる(総裁は山本)。松岡本人も撫順炭鉱での石炭液化プラント拡充などを指導していた。
1930年(昭和5年)、満鉄を退職。2月の第17回衆議院議員総選挙に郷里山口2区から立候補(政友会所属)、当選する。議会内では対米英協調・対中内政不干渉方針とする幣原外交を厳しく批判し、国民から喝采を浴びる事となる。
ジュネーブ総会派遣・連盟脱退
1931年(昭和6年)の満州事変をうけて、1932年(昭和7年)、国際連盟はリットン調査団を派遣、その報告書(対日勧告案)が9月に提出され、ジュネーブ特別総会での採択を待つ状況だった。報告書の内容は日本の満州における特殊権益の存在を認める等、日本にとって必ずしも不利な内容ではない。しかし報告書は、「9月18日以前原状復帰は現実にそぐわないという認識・滿洲の自治・日本権益の有効性を認め」ながらも結果として「滿洲を国際管理下に置く事」を提案し、滿洲を滿洲国として認めない内容だったため日本国内の世論は硬化、政府は報告書正式提出の直前(9月15日)に滿洲国を正式承認するなど、政策の選択肢が限定される状況であった。
このような中の10月、松岡は連盟総会に日本首席全権として派遣される。その類まれな英語での弁舌を期待されての人選である。「日本の主張が認められないならば国際聯盟脱退はやむをえない」は松岡全権の単独行為ではなく、あくまでも日本外務省の最後の方針であり、脱退を既定路線としてジュネーブに赴いた訳ではなく、松岡はできうる限り脱退を避ける方針で連盟総会に臨んだ。
連盟総会は日本に対して厳しい雰囲気の中、開催される。到着早々の松岡は12月8日、1時間20分にわたる原稿なしの大演説を総会で行う。それは「十字架上の日本」とでも題すべきもので、「欧米諸国は20世紀の日本を十字架上に磔刑に処しようとしているが、イエスが後世においてようやく理解された如く、日本の正当性は必ず後に明らかになるだろう」、との趣旨のものだった。しかし、日本国内では喝采を浴びたこの演説も、諸外国、特にキリスト教国においてはむしろ逆効果的だったともいわれる。もっとも、会議場での松岡の「十字架上の日本」と題せられる演説に関しては絶賛の拍手で渦巻いた。仏国代表ボンクール陸相が握手を求めたのを皮切りに、多数の代表・随員が握手を求め、英国代表サイモン外相、陸相ヘールサム卿が松岡に賛辞の言葉を述べた。これら各国代表の賛辞は、演説の内容もさることながら、松岡の英語能力に驚嘆し「日本にもこれほど外国語が堪能な人物がいたのか」と感心した面にもよるものだった。なお、聯盟総会において、最も対日批判の急先鋒であったのは中華民国、およびヨーロッパの中小国であったことに注意すべきである(スペイン、スイス、チェコ、インドネシアに植民地である「オランダ領東インド」を有するオランダ)。
松岡の「十字架上の日本」の演説の後、「リットン卿一行の滿洲視察」という滿鉄広報課の作成した映画が上映され、各国代表を含め約600人程が観覧した。併合した朝鮮や台湾と同じく多大な開発と生活文化振興を目標とする日本の満洲開発姿勢に、日本反対の急先鋒であったチェコ代表ベネシュも絶賛と共に日本の対外宣伝の不足を感じ、松岡にその感想を伝える程であった。当時の文藝春秋の報道によると「松岡が来てから日本はサイレント版からトーキーになった」と会衆は口々に世辞を言ったという。
日本政府は、リットン報告書が連盟総会で採択された場合は代表を引き揚げることを決定(1933年2月21日)。2月24日、軍縮分館で行われた連盟総会で報告書は予想通り賛成42票、反対1票(日本)の圧倒的多数で可決採択された。松岡は予め用意の宣言書を朗読して総会から退場した。この際、松岡が日本語で「さよなら!」と叫んで議場を退場したといわれることもあるが、これは注[5]の事実との混同によって発生した誤りである。
松岡の「宣言書」そのものには国際連盟脱退を示唆する文言は含まれていないが、3月8日に日本政府は脱退を決定(同27日連盟に通告)することになる。翌日の新聞には『連盟よさらば!/連盟、報告書を採択 わが代表堂々退場す』の文字が一面に大きく掲載された。「英雄」として迎えられた帰国後のインタビューでは「私が平素申しております通り、桜の花も散り際が大切」、「いまこそ日本精神の発揚が必要」と答えている。
その後、ジュネーヴからの帰国途中にイタリアとイギリスを訪れ、ローマでは独裁体制を確立していたベニート・ムッソリーニ首相と会見している。ロンドンでは、満州における日本の行動に抗議する英国市民に遭遇し、松岡は「日本は賊の国だ」と罵られた。
議員辞職・再び満鉄へ
帰国した松岡は「言うべきことを言ってのけた」「国民の溜飲を下げさせた」初めての外交官として、国民には「ジュネーブの英雄」として、凱旋将軍のように大歓迎された。言論界でも、清沢洌など一部の識者を除けば、松岡の総会でのパフォーマンスを支持する声が大だった。もっとも本人は「日本の立場を理解させることが叶わなかったのだから自分は敗北者だ。国民に陳謝する」との意のコメントを出している。
帰国後は「国民精神作興、昭和維新」などを唱え、1933年(昭和8年)12月には政友会を離党、「政党解消連盟」を結成し議員を辞職した。それから1年間にわたって全国遊説を行い、政党解消連盟の会員は200万人を数えたという。このころからファシズム的な論調を展開し、「ローマ進軍ならぬ東京進軍を」などと唱えた。特にみるべき政治活動もないまま1935年(昭和10年)8月には再び満鉄に、今度は総裁として着任する(1939年(昭和14年)2月まで)。1938年(昭和13年)3月のオトポール事件では樋口季一郎と協力してユダヤ人難民を保護している。
外務大臣就任
1940年(昭和15年)、近衛文麿が大命降下を受け、外相として松岡を指名した。松岡は軍部に人気があり、また彼の強い性格が軍部を押さえるであろうという近衛の目算があった[6]。外相就任が内定した松岡は「私が外相を引き受ける以上、軍人などに外交に口出しはさせません」と大見得を切った[6]。内閣成立直前の7月19日、近衛が松岡、陸海軍大臣予定者の東條英機陸軍中将、吉田善吾海軍中将を別宅荻外荘に招いて行ったいわゆる「荻窪会談」で、松岡は外交における自らのリーダーシップの確保を強く要求、近衛や東條・吉田も了承した。ところが翌日東條が持ち込んだ「協議事項」の大部分は外交案件であり、軍部の外交介入は以降も続くことが明白であった[6]。7月22日に成立した第2次近衛内閣で松岡は外相に就任した。
20年近く遠ざかっていた外務省にトップとして復帰した松岡はまず、官僚主導の外交を排除するとして、赴任したばかりの重光葵(駐イギリス特命全権大使)以外の主要な在外外交官40数名を更迭、代議士や軍人など各界の要人を新任大使に任命、また「革新派外交官」として知られていた白鳥敏夫を外務省顧問に任命した(「松岡人事」)。更に有力な外交官たちには辞表を出させて外務省から退職させようとするが、駐ソ連大使を更迭された東郷茂徳らは辞表提出を拒否して抵抗した。また松岡は以前から外交官批判を繰り広げており、就任直後には公の場で外交官を罵倒した[7]。
当時の大きな外交問題は、泥沼となっていた日中戦争、険悪となっていた日米関係、そして陸軍が主張していたドイツ・イタリアとの三国同盟案であった。松岡は太平洋を挟んだ二大国が固く手を握って、世界の平和を確立すべきと唱えていた。
松岡は就任後、早速香港工作とよばれる重慶国民党政府と汪兆銘政権の合体工作を行った。しかしこの政策は汪兆銘政権を支援していた陸軍の猛反発にあい、工作は打ち切られた[8]。日本が汪兆銘政権を正当な中国政府として承認されたのは、松岡の外務大臣在任時である。松岡は「外交がむづかしいことを今更知ったわけではないが、外交一文化の四巨頭会談の了解事項が踏みにじられたのは残念だ。満州国だけを確保して、中国からは全面的に撤退するのが一番良いかと思うが、それは少なくとも当分実行不可能である」と嘆いた[9]。
四国同盟構想とその失敗
松岡は世界を、それぞれ「指導国家」が指導する4つのブロック構造(アメリカ、ロシア、西欧、東亜)に分けるべきと考えており[10]、日本・中国・満州国を中核とする東亜ブロック、つまり大東亜共栄圏(この語句自体、松岡がラジオ談話で使ったのが公人の言としては初出)の完成を目指すことを唱えていた。松岡は世界各国がブロックごとに分けられることでナショナリズムを超越し、やがて世界国家に至ると考えていた[11]。この説は満鉄時代からの彼の持論であり、内外の研究者に協力を仰いで研究を進めていた[12]。松岡はこの構想を実現させるためには、各ブロックを形成する他の指導国家と協調する必要があると考えていた。
松岡は外相就任当時、「独逸人ほど信用のできない人種はない」と語っており[13]、ドイツに対して好感を持っていたわけではなかった。しかし就任当初からドイツ・イタリア・日本による三国同盟を唱える陸軍の使者が松岡の元を訪れ、三国同盟を推進するよう働きかけていた[14]。武藤章軍務局長もその一人であり、もし承諾せねば内閣をつぶすまでだと意気込んで松岡の元を訪れた。対談後、武藤は松岡も三国同盟に賛成であるかのように認識していたが、松岡自身は武藤を丸め込んだと考えていた。しかし松岡は自分の議論に酔う悪癖があり、度重なる陸軍の接客と「議論」を行う中で、次第に三国同盟に傾斜していった[14]。
当時ヨーロッパはドイツの軍事力に席巻されており、松岡は遠からず西欧ブロックがドイツの指導の下形成されるであろうと考え、1940年の8月頃から三国同盟案を検討するようになった[15]。一方で当時中国問題を巡って日米・日英関係が悪化していたことも影響した。ドイツはたびたび日中和平の仲介を行うよう松岡に働きかけ、ドイツに対する松岡の心証は改善されていった[16]。陸海軍からの三国同盟推進の動きが活発となる中で、小幡酉吉・松平恒雄・吉田茂といったOB達をふくむ外務省の一部は日独提携に強く反発していた[9]。しかし松岡の方針はなかなか定まらず、推進派の白鳥敏夫外務省顧問(元駐伊大使)は「松岡の三国条約に対する態度はちっともはっきりしない。」といらだちをみせ、辞職をちらつかせて松岡の決断を迫った[9]。松岡はこの時期暴漢に襲われることもあり、外務省顧問を務めていた斉藤良衛は陸軍や右翼の指示によるものであったと考えている[17]。
一方で松岡は伊藤博文の影響もあって昔から親ロシアを唱えており、伊藤門下の親露派の首領を自ら任じていた[17]。松岡はロシアブロックの指導国家ソビエト連邦にパキスタン・インドへの進出を認めることで、その東進を防げると考えていた[18]。松岡は「軍部の主張する三国同盟に乗ったと見せかけ、ドイツが日ソの仲介を買って出れば、軍部の反対を抑えたまま日ソ関係を構築できる」とし、「ドイツを通じてソ連と手を結ぶには、今を置いては好機はない」と語っている[17]。
8月13日、松岡はドイツの使者ハインリヒ・ゲオルク・スターマーと会談し、三国同盟への交渉を本格的に開始した。ドイツの外相ヨアヒム・フォン・リッベントロップもまたソ連を加えた日独伊ソ四カ国同盟を構想しており、スターマーに託されたリッベントロップのメモでは日ソ関係の仲介が提案されていた[19]。自らの構想と同様の提案に、松岡はドイツ側に好感を抱いた。また松岡は日独の提携はアメリカに脅威を与え、西欧や東亜への介入を防ぐことができると考えるようになった[20]。また条約締結後にアメリカの世論は沸騰するだろうが、日本の真意がわかればアメリカ人の心証は一転するであろうと極めて楽観的であった[13]。以降、一刻も早く同盟を成立させるよう促したドイツや陸軍の運動もあり、松岡は三国同盟成立に邁進することとなった[21]。松岡は極端な秘密主義をとり、交渉は松岡の私邸で行われた。しかも出入りに用心させたため、新聞記者やアメリカ大使館関係者ですら同盟交渉に気づかなかった[22]。
日独伊三国軍事同盟は1940年(昭和15年)9月27日成立した。しかしそののち独ソ関係は急速に悪化し、その情報が日本にも伝えられ、四国連合はおろか、日ソ関係の改善の橋渡しをドイツに期待することもむずかしくなってしまった。これはソビエトが四国連合参加の条件として、多数の領土要求をドイツに出してドイツの怒りを買ったためである。
この状況の急変に直面し、松岡は自ら赴いて外交的駆け引きをすることを決意し、1941年(昭和16年)3月、同盟成立慶祝を名目として独伊を歴訪、アドルフ・ヒトラーとベニート・ムッソリーニの両首脳と首脳会談を行い大歓迎を受け、両国との親睦を深めた。この際、ドイツから、対イギリスへの軍事的圧力の確約を迫られるが、「私は日本の指導者ではないので確約はできない。帰国後貴国の希望を討議する」と巧みにかわしている。往路と帰路の二度モスクワに立ち寄り、帰路の4月13日には日ソ中立条約を電撃的に調印、日本が単独でソビエトとの相互不可侵を確約する外交的成果をあげた。シベリア鉄道で帰京する際には、きわめて異例なことにヨシフ・スターリン首相自らが駅頭で見送り、抱擁しあうという場面があった。この時が松岡外交の全盛期であり、首相の座も狙っていたと言われている。日ソ中立条約締結前、イギリスのチャーチルは松岡宛に「ヒトラー(ドイツ)は近いうちに必ずソ連と戦争状態へ突入する」とMI6情報部から仕入れた情報を手紙として送ったが松岡はこれを無視し日ソ中立条約を締結したとされる。これは後年、極東国際軍事裁判の公判でイギリス側の証拠としてこの手紙が提示され明らかにされた。
日米交渉
一方松岡のこの外遊中、外相の松岡を抜きにした形で日米交渉に進展が見られていた。駐アメリカ大使野村吉三郎とアメリカ国務長官コーデル・ハルの会談で合意された「日米諒解案」(日本には4月18日に伝達)がそれである。同案には、日本軍の中国大陸からの段階的な撤兵と引き換えに、「アメリカ側の満州国の事実上の承認」や、「日本の南方における平和的資源確保にアメリカが協力すること」が盛り込まれている一方で、「三国同盟の事実上の死文化」は含まれていなかった。こ
この諒解案は日米の民間人が共同で作成し、野村・ハル会談で「交渉の前提」として合意されたものであったが[23]、これを「アメリカ側提案」と誤解した日本では、対アメリカ最強硬派の陸軍も含めて諸手を挙げて交渉開始に賛成の状況であった。ところが4月22日に意気揚々と帰国した松岡はこの案に猛反対し、静養と称して閣議をしばらく欠席するという行動に出る。松岡は自分が外交を主導することを条件に外相を受けており、交渉が自分の不在の間に頭越しで進められていたことを自尊心が許さなかったのである。松岡は「野村提案(日米諒解案に基づく日米交渉)ハ話ガ違フ」と不快感をあらわにしている[24]。松岡はこの間に修正案を仕上げ、5月8日の大本営政府連絡懇談会にこれを提出した。松岡はアメリカが参戦すれば世界文明は破壊され戦争は長期戦になると言い、アメリカを参戦させないことが必要であると唱えた。陸軍参謀総長杉山元は「外相独舞台ノ感アリ」と述懐している[25]。その後の会議でも松岡は「例ニ依ツテ外相ノ独舞台ナルガ如シ」と呼ばれる有様であり、軍部からも批判的に見られるようになった[26]。
この際の松岡修正案は陸軍に配慮し、満州国の承認と、防共のための駐兵が条件に組み込まれているものであり、アメリカ側の対応はしばらく時間がかかった。松岡はさらに提案を修正し、回答を待っている状態で提案の修正を行うべきではないという野村大使の建言を却下して手交させた[27]。近衛や東條は松岡がアメリカに言いがかりをつけ、交渉決裂を期待していたと批判しているが、顧問を務めていた斉藤良衛は松岡は一度もアメリカと戦うべきだと言ったことはないと反論している[2]。6月22日にハルは松岡修正案への回答を行っているが、この回答に松岡は反発し、[28]受け入れなかった[29]。
6月22日に開戦した独ソ戦によって、松岡のユーラシア枢軸構想自体・四国連合案は、その基盤から瓦解する。独ソ開戦については、ドイツ訪問時にリッベントロップ外相から独ソ関係は今後どうなるか分からず、独ソ衝突などありえないなどと日本政府には伝えないようにと言われ、ヒトラーも独ソ国境に150個師団を展開したことを明かすなど、それとなくドイツ側が独ソ戦について匂わす発言をしたのにも関わらず、松岡はこれらのことを閣議で報告しなかったばかりか、独ソ開戦について否定する発言を繰り返していた。松岡が独ソ開戦が間近なことを認識していてなぜ日ソ中立条約を締結したかについてはさまざまな説がある。
独ソ開戦とともに三国同盟の目的が有名無実になったとして日独伊三国同盟の即時破棄を主張する閣僚(鈴木貞一、平沼騏一郎ら)もいたが、松岡は締結したばかりの日ソ中立条約を破棄して対ソ宣戦し、ソビエトをドイツとともに挟撃することを閣内で主張し、南部仏印進駐に関しては閣内で強硬に反対、いわゆる北進論を主張する。しかし政府首脳や世論は北進論に関しては全体的に消極的で、独ソ戦によってソビエトの脅威が消滅したことにより、南方に戦力を集中して進出すべきとする南進論が優勢になった。この頃の松岡はそのあまりの独断専行ぶりから、かつては協力関係にあった陸軍とも対立するようになっており、また閣内でも平沼騏一郎ら反ドイツ的見解の閣僚と対立、孤立を深めていた。また日米交渉が継続不可能であるという見解を示すようになった[30]。ついには昭和天皇までもが松岡の解任を主張するようになり、近衛文麿首相は松岡に外相辞任を迫るが拒否。近衛は7月16日内閣総辞職し、松岡外相をはずした上で第3次近衛内閣を発足させた。この事実上の松岡更迭によって南部仏印進駐は実行されることとなり、アメリカ・イギリスとの対立はよりいっそう深まっていくことになる。
松岡は常々からイギリスとの戦争は避け得ないと考えていたが、アメリカとの戦争は臨んでいなかった[31]。彼は「英米一体論」を強く批判し、イギリスと戦争中であるドイツと結んでも、アメリカとは戦争になるはずがないと考えていた[31]。
外相離任後
1941年(昭和16年)12月8日、日米開戦のニュースを聞いて「こんなことになってしまって、三国同盟は僕一生の不覚であった」、「死んでも死にきれない。陛下に対し奉り、大和民族八千万同胞に対し、何ともお詫びの仕様がない」と無念の思いを周囲に漏らし号泣したという[31]。
しかし、開戦二日目に徳富蘇峰に送った書簡が最近発見され、それによると松岡は緒戦の勝利に興奮し、多大な戦果に「欣喜雀躍」と記している。また同じ書簡で松岡は、開戦に至った理由として、アメリカ人をよく理解出来なかった日本政府の外交上の失敗であることを指摘し、アメリカをよく知っている自分の外交が、第二次近衛内閣に理解されず、失脚したことへの無念さを訴えている。その一方で開戦したからにはその外交の失敗を反省し、日英米の国交処理をいつかはしなければならない、と蘇峰に書き送っている。
その後結核に罹患した松岡は以前とは別人となったように痩せ細ってしまった。1945年、旧友であり終戦工作に奔走していた吉田茂から和平交渉のためモスクワを訪れるよう相談される。松岡も乗り気ではあったが、ソ連が拒否したため幻に終わった。
A級戦犯容疑者
敗戦後はA級戦犯容疑者としてGHQ命令により逮捕される。連盟脱退、三国同盟の主導、対ソビエト戦争の主張などから死刑判決は免れないとの予想の中、痩せ衰えながらも周囲に「俺もいよいよ男になった」と力強く語り、巣鴨プリズンに向かった。しかし、結核悪化のため極東国際軍事裁判公判法廷には一度のみ出席となった。その一度の出席での罪状認否では無罪を全被告人中ただ一人、英語で主張している。1946年(昭和21年)6月27日、駐留アメリカ軍病院から転院を許された東大病院で病死。66歳であった。
辞世の句は次のとおりであった。
- 「悔いもなく 怨みもなくて 行く黄泉(よみじ)」
逸話
- 山田風太郎は自著『人間臨終図鑑』の中で、「松岡は相手の手を全然見ずに、己の手ばかりを見ている麻雀打ちであった。彼はヤクマンを志してヤクマンに振り込んだ」と寸評している。
- 松岡の支援者であった山本条太郎は、「三つに一つは人の及ばぬことを考える」と松岡を高く評価していたが、一方であまりにも自信過剰であったと指摘している。松岡自身は「僕は誰にも議論で負けたことがない。また誰の前でも気後れなどしたことがない」と語っており、例外は山本と山県有朋ぐらいであったと述べている[32]。また山本は「才がはじけすぎて行き過ぎるのがいけない」とも指摘している[33]。
- 松岡は大変な話し好きであり、朝から晩まで喋っていたという細川護貞の回想がある。細川が近衛首相の使いで書類を持って松岡のところへ伺っても、その書類を出す機会がないほど喋り続けていて、仕方なしにまた書類を持って帰ったということもあったという。また、ドイツに行くシベリア鉄道の汽車の中でも、朝起きると話し始め、寝るまで話していたということである。話が途中でも、時間がくれば一時間なら一時間で話し相手となる随員が代わるようにしたが、相手が代わってもかまわずに、同じ話を続けていたという(伊藤隆編『語りつぐ昭和史』第二巻)。松岡の饒舌は、アメリカ留学時より愛好していたコカイン中毒による覚醒症状によるものとする説もある。
- この饒舌さは相手が誰であろうと変わることはなかった。同じような饒舌さで知られるヒトラーの通訳であった{{|パウル=オットー・シュミット}}は、「ヒトラーに数多くの訪問者があったが、ヒトラーに臆することなく真っ向うから対談できたのはソ連外相モロトフと「東洋の使者マツオカ」の二人だけであった」と述べている。また日米交渉で対談したジョセフ・グルー大使は、国務省への報告電報において、対談で語っていたのは「90%松岡、10%が自分」であったと報告している[34]。
- スターリンとの会談でも松岡はまったく饒舌であった。松岡はスターリンの前で「我々は同じアジア人である(スターリンはソビエトの中でもアジア地域にあたるグルジアの出身である)」「日本は元来、共産主義的民族であるが、アメリカ文化に侵されて資本主義的になってしまった」などと次から次へとお世辞を言い、スターリンの機嫌をよくしてから外交交渉の話に移ろうとした。最初、中立条約締結に消極的だったスターリンは喋りまくる松岡をじっと見つめて「君は約束を守りそうだな」と言い、中立条約締結を決断したという。また瀧澤一郎は、雑誌『治安フォーラム』平成18年2月号で、松岡が、クレムリン宮殿で開催された日ソ中立条約成立の祝賀会の座上、ウォッカに酔い、お世辞を込めて「私は共産主義者だ」と語ったとされる逸話を紹介している。スターリンは松岡のこうした饒舌をかなり好んだようで、既述のように、松岡の帰国の際は、異例中の異例ともいえる駅での見送り、抱擁をしている。
- しかし一方で自らの議論に酔い、引きずられる傾向があった。また他人の発想を自分のものであると主張することも彼の悪癖であった。ヒトラーとの会談でシンガポール攻撃を勧められると、むしろ攻撃は自分が考えていたことであると言いだし、ドイツ側に不要な言質を与えてしまった[35]。
- 旧友だった吉田茂は、戦後松岡が結核で衰弱しているという話を聞き、少ない物資の中からミルクを送ったとされる。
- 昭和天皇は松岡を徹底して嫌っていた。『昭和天皇独白録』にも「松岡は帰国してからは別人の様に非常なドイツびいきになった。恐らくはヒットラーに買収でもされたのではないかと思われる」、「一体松岡のやる事は不可解の事が多いが彼の性格を呑み込めば了解がつく。彼は他人の立てた計畫には常に反対する、また条約などは破棄しても別段苦にしない、特別な性格を持っている」、「5月、松岡はソ連との中立条約を破ること(イルクーツクまで兵を進めよ)を私の処にいってきた。こんな大臣は困るから私は近衛に松岡を罷めさせるようにいった」というような非常に厳しい言葉を残している。1978年に靖国神社がA級戦犯らを合祀した際、昭和天皇の意を汲んだ宮内庁が、「軍人でもなく、死刑にもならなかった人を合祀するのはおかしい」と、同じく文官の白鳥敏夫と並んで、松岡の合祀に強く抗議したというエピソードもある(詳細は富田メモを参照)。
- 満州事変以降よく使われたスローガンである「満蒙は日本の生命線」という標語は、1931年1月(満州事変が始まるのはこの年9月)の第59議会で、野党政友会の議員であった松岡が、当時政権にあった濱口内閣の幣原喜重郎外務大臣による協調外交を批判する演説で利用したのが最初。大ヒットして、龍角散のキャッチコピーに引用されたりもした。「咽喉は身体の生命線、咳や痰には龍角散」がそうである。
- 在カウナス日本領事代理、杉原千畝が行ったユダヤ人向け通過ビザ発給に対して、松岡はビザ発給を拒否したが、実は「黙認」していたのではないか、との説があるが[誰?]、真相は未だ不明である。ただし、満鉄総裁時代のオトポール事件ではユダヤ人難民救援用の列車を出動させるなど積極的に動いており、ナチスの不興を買っている。また、1940年12月31日には、在日ユダヤ人の実業家らとの会合の中で、「人間ヒトラーとの提携が、ただちに日本で反ユダヤ政策を実施するということでは無い」と約束している。また、「これは私個人の見解では無く、日本の見解である」とまで述べており、反ユダヤ主義者では無かった。
- 1934年1月21日付大阪毎日新聞に以下のような話が掲載された。
「 | 松岡氏はシカゴドレーク・ホテルに滞在中にホテルにギデオン協会から寄贈された聖書を手にして感激し、同地のキデオン協会本部に宛てて、「旅の疲れを休めたホテルに貴会から寄贈になる聖書を必ず見受ける。余の今泊まっている当ホテルの一室にもその聖書がある。余もメソヂスト派の信者だ。故国への一大みやげはこの聖書である。僅かであるが100ドルをこの事業のために有意義に使われたい」と100ドルを添えて送った。同会でも大いに感激し、米国の各新聞紙上に大々的に賞賛されたという。 | 」 |
- アメリカ留学時にキリスト教に関心を持ち、プロテスタントの信者となったクリスチャンである。しかし、戦後に肺結核を発病したまま収監された際、主治医の井上泰代(ベタニア修道女会所属の女医)の影響でカトリックへの関心を強めてカトリックへの改宗を決意し、臨終のわずか数時間前、井上医師の手によって洗礼を受けた。洗礼名は「ヨゼフ」である。
- 東京の青山霊園にも墓所があるが、カトリックの洗礼名を記したもの。
- 外交の基本として「アメリカ人には、たとえ脅されたとしても、自分が正しい場合は道を譲ってはならない。対等の立場を欲するものは、対等の立場で望まなければならない」と唱えていた。
- 数十年ぶりに米国の留学先を訪れた際、「余はかつて人生の発育期をこの地で過ごし、生涯忘れべからざる愛着の情を持つに至った」と発言している。
- 終戦を迎えたある日、松岡のもとに出入りしていた新聞記者が、アメリカ人はどういう人間か聞くと以下のように述べた。
「 | 野中に一本道があるとする。人一人、やっと通れる細い道だ。君がこっちから歩いて行くと、アメリカ人が向こうから歩いてくる。野原の真ん中で、君達は鉢合わせだ。こっちも退かない。むこうも退かない。そうやってしばらく、互いに睨み逢っているうちに、しびれを切らしたアメリカ人は、拳骨を固めてポカンときみの横っつらを殴ってくるよ。さあ、そのとき、ハッと思って頭を下げて横に退いて相手を通して見給え。この次からは、そんな道で出会えば、彼は必ずものもいわずに殴ってくる。それが一番効果的な解決手段だと思う訳だ。しかし、その一回目に、君がヘコタレないで、何くそッと相手を殴り返してやるのだ。するとアメリカ人はビックリして君を見直すんだ。コイツは、ちょっとやれる奴だ、という訳だな。そしてそれからは無二の親友になれるチャンスがでてくる。[36] | 」 |
家族・親族
- 妹:藤枝(山口県、医学者佐藤松介に嫁する) - 佐藤松介は佐藤栄作元首相、岸信介元首相の叔父にあたる。藤枝・松介の長女・寛子は佐藤栄作に嫁いだ。寛子、栄作の次男が元通産大臣の佐藤信二。
- 妻:龍(工学博士進経太長女)
- 長男:謙一郎(実業家・元日本教育テレビ副社長) - 山口淑子の恋人
- 長女:周子(愛知県、元宮内庁長官田島道治の長男譲治に嫁する)
- 甥:松岡三雄(政治家・元山口県光市長) - 三雄の長男は元参議院議員(自民党、無所属の会、民主党)、元衆議院議員(日本新党)、元光市長の松岡満寿男である。
関連項目
脚注
- ^ 三輪(1989)、p.33。
- ^ a b 斉藤良衛, pp. 509.
- ^ 豊田(2003) 上巻 p.68、『松岡洋右 その人と生涯』pp.49-50。
- ^ 三輪(1989)、p.42-44。
- ^ 1933年(昭和8年)5月28日大日本雄弁会講談社発行の『松岡全権大演説集』では総会退場の日には「さよなら」は発言していない。「サヨナラ」演説は1933年(昭和8年)4月12日サンフランシスコにて放送された全米向けNBCラジオ演説が「SAYONARA SPEECH」として記載され、この演説の場合は「I say it to you ─SAYONARA」とラストを締め括っている
- ^ a b c 斉藤良衛, pp. 383.
- ^ 斉藤良衛, pp. 437.
- ^ 斉藤良衛, pp. 420.
- ^ a b c 斉藤良衛, pp. 426.
- ^ 斉藤良衛, pp. 397.
- ^ 斉藤良衛, pp. 399-400、408.
- ^ 斉藤良衛, pp. 398–399.
- ^ a b 斉藤良衛, pp. 373.
- ^ a b 斉藤良衛, pp. 379.
- ^ 斉藤良衛, pp. 418.
- ^ 斉藤良衛, pp. 421–422.
- ^ a b c 斉藤良衛, pp. 427.
- ^ 斉藤良衛, pp. 400.
- ^ 斉藤良衛, pp. 431.
- ^ 斉藤良衛, pp. 432.
- ^ 斉藤良衛, pp. 431–432.
- ^ 斉藤良衛, pp. 439–440.
- ^ 参考資料室●日米諒解案 - インターネット特別展 公文書に見る日米交渉
- ^ 昭和16年(1941年)4月22日第20回大本営政府連絡懇談会(議題:松岡外務大臣帰朝報告、対米国交調整) - 公文書に見る日米交渉 -
- ^ 昭和16年(1941年)5月8日第22回大本営政府連絡懇談会(議題:対米国交調整その後の状況) - 公文書に見る日米交渉 -
- ^ 昭和16年(1941年)5月22日第25回大本営政府連絡懇談会(議題:蘭領インドシナ交渉、対米国交調整その後の状況、国民政府承認) - 公文書に見る日米交渉
- ^ 昭和16年(1941年)5月13日 野村大使、本国に対し、松岡外務大臣の覚書手交を見合わせるよう意見具申 - 公文書に見る日米交渉 -
- ^ 昭和16年(1941年)6月22日野村大使・ハル米国務長官会談、ハルは、オーラル・ステートメントを手交、また、5月31日案(日本時間6月1日手交)のアメリカ政府訂正案を提示- 公文書に見る日米交渉
- ^ 昭和16年(1941年)7月10日第38回大本営政府連絡会議(議題:日米国交調整、6月21日付ハル国務長官の回答に関する外務省側の意見)- 公文書に見る日米交渉
- ^ 昭和16年(1941年)7月12日第39回大本営政府連絡懇談会(議題:日米国交調整、対ソ戦争に伴う満州国取り扱い要領決定) - 公文書に見る日米交渉
- ^ a b c 斉藤良衛, pp. 510.
- ^ 斉藤良衛, pp. 375.
- ^ 斉藤良衛, pp. 380.
- ^ 斉藤良衛, pp. 378.
- ^ 斉藤良衛, pp. 378–379.
- ^ 三好徹 「夕陽と怒濤」p51
参考文献
- 豊田穣 『松岡洋右 : 悲劇の外交官』上・下、新潮社、2003年OD版。
- 三輪公忠 『松岡洋右 : その人間と外交』 中央公論社〈中公新書〉、1971年。ISBN 4121002598
- 笹本駿二 『第二次世界大戦下のヨーロッパ 』 岩波文庫〈岩波新書〉、1970年。ISBN 4-00-413035-2
- 松岡洋右伝記刊行会編 『松岡洋右 その人と生涯』 講談社、1974年。ASIN: B000J9IK7W
- 竹内夏積編 『松岡全権大演説集』 大日本雄弁会講談社、1933年初版。
- 松岡洋右著 『満鉄を語る』 慧文社、2007年。 ISBN 9784905849841
- 松岡洋右著 『東亞全局の動搖』 先進社 1931年9月25日
- 河辺全集刊行会 『河辺貞吉説教集』(10)神の河 聖化社 1941年
- 斉藤良衛. “日本外交文書デジタルアーカイブ 日独伊三国同盟関係調書集『日独伊三国同盟回顧』” (pdf). 外務省. 2012年10月18日閲覧。
映像
外部リンク
公職 | ||
---|---|---|
先代 有田八郎 |
外務大臣 第63代:1940 - 1941 |
次代 豊田貞次郎 |
先代 小磯國昭 |
拓務大臣 第18代:1940 |
次代 秋田清 |
ビジネス | ||
先代 林博太郎 |
南満州鉄道総裁 第14代:1935 - 1939 |
次代 大村卓一 |