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| 主君 = [[足利義政]]→[[足利義尚|義尚]]→[[足利義視|義視]]→[[足利義澄|義澄]]→[[今川氏親]] |
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| 氏族 = [[伊勢氏]]([[後北条氏]]) |
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'''北条 早雲''' / '''伊勢 盛時'''(ほうじょう そううん / いせ もりとき)は、[[室町時代]]中後期([[戦国時代 (日本)|戦国時代]]初期)の[[武将]]で、[[戦国大名]]となった[[後北条氏]]の祖である。'''伊勢 宗瑞'''(いせ そうずい)とも呼ばれる。北条早雲は戦国大名の嚆矢であり、早雲の活動は[[東国]]の戦国時代の端緒として歴史的意義がある。 |
'''北条 早雲''' / '''伊勢 盛時'''(ほうじょう そううん / いせ もりとき)は、[[室町時代]]中後期([[戦国時代 (日本)|戦国時代]]初期)の[[武将]]で、[[戦国大名]]となった[[後北条氏]]の祖である。'''伊勢 宗瑞'''(いせ そうずい)とも呼ばれる。北条早雲は戦国大名の嚆矢であり、早雲の活動は[[東国]]の戦国時代の端緒として歴史的意義がある。 |
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== 名称と生年 == |
== 名称と生年 == |
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[[諱]]は長らく'''長氏'''(ながうじ)または'''氏茂'''(うじしげ)などと伝えられてきたが、現在では'''盛時'''(もりとき)が定説となっている。[[仮名 (通称)|通称]]は'''新九郎'''(しんくろう)。[[戒名|号]]は'''早雲庵宗瑞'''(そううんあんそうずい)。生年は、長らく永享4年(1432年)が定説とされてきたが、近年新たに提唱された康正2年(1456年)説が有力視されつつある。 |
[[諱]]は長らく'''長氏'''(ながうじ)または'''氏茂'''(うじしげ)、'''氏盛'''(うじもり)などと伝えられてきたが、現在では'''盛時'''(もりとき)が定説となっている<ref>[[#黒田(1997)|黒田(1997)]],p.38.</ref>。[[仮名 (通称)|通称]]は'''新九郎'''(しんくろう)。[[戒名|号]]は'''早雲庵宗瑞'''(そううんあんそうずい)。生年は、長らく永享4年(1432年)が定説とされてきたが、近年新たに提唱された康正2年(1456年)説が有力視されつつある<ref name=ienaga45/>。 |
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なお伊勢家が、北条姓を称したのは盛時の嫡男・氏綱からであり、'''盛時の存命中に「北条早雲」の名が使われたことは一度もない'''点に注意する必要があるが、通例では伊勢盛時も遡って「北条早雲」と呼ばれる。 |
なお伊勢家が、北条姓を称したのは盛時の嫡男・氏綱からであり、'''盛時の存命中に「北条早雲」の名が使われたことは一度もない'''点に注意する必要があるが、通例では伊勢盛時も遡って「北条早雲」と呼ばれる<ref>[[#相模国盗り物語(2008)|相模国盗り物語(2008)]],p.24;[[#家永(2005)|家永(2005)]],p.35.</ref>。 |
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これらの点に関しては、[[#早雲の出自と生年の論争|早雲の出自と生年の論争]]節に詳述する。なお、この項目での呼称は便宜上「(北条)早雲」で統一する。 |
これらの点に関しては、[[#早雲の出自と生年の論争|早雲の出自と生年の論争]]節に詳述する。なお、この項目での呼称は便宜上「(北条)早雲」で統一する。 |
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== 生涯 == |
== 生涯 == |
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=== 出自 === |
=== 出自 === |
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[[File:Ibara Tutumi.JPG|thumb|250px|伊勢盛時の出身地とされる[[岡山県]][[井原市]]]] |
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一介の素浪人から[[戦国大名]]にのし上がった[[下剋上]]の典型とする説が近代になって風聞され、通説とされてきた。しかし、近年の研究では[[室町幕府]]の[[政所]]執事を務めた[[伊勢氏]]を出自とする考えが主流である。[[1950年]]代に発表された藤井論文以降、伊勢氏のうちで[[備中国]]に居住した支流で、備中荏原荘(現[[井原市]])で生まれたという説が有力となり、その後の資料検証によって荏原荘の半分を領する領主(300貫といわれる)であることがほぼ確定した。 |
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一介の素浪人から[[戦国大名]]にのし上がった[[下剋上]]の典型とする説が近代になって風聞され、通説とされてきた<ref>[[#家永(2005)|家永(2005)]],p.37;[[#桑田(1990)|桑田(1990)]],pp.110-113.</ref>。しかし、近年の研究では[[室町幕府]]の[[政所]]執事を務めた伊勢氏を出自とする考えが主流である<ref name=ikegamiyahoo/>。[[1950年]]代に発表された藤井論文以降、[[伊勢氏]]のうちで[[備中国]]に居住した支流で、備中荏原荘(現[[井原市]])で生まれたという説が有力となり、その後の資料検証によって荏原荘の半分を領する領主(300貫といわれる<ref>[[#下山(1999)|下山(1999)]],p.16.</ref>)であることがほぼ確定した<ref>[[#市村(2009)|市村(2009)]],p.12;[[#家永(2005)|家永(2005)]],pp.42-43</ref>。 |
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幕府[[申次衆]]の書状と[[駿河国]]関連の書状において照らし合わせたところ、記載された史料の「伊勢新九郎盛時」なる人物が同一である事も決め手となった。従来の説は文献の解釈の違いによるところが大きく、さらに「備中伊勢氏」説は史料が最も豊富で多岐にわたる事も出自解明に寄与した。 |
幕府[[申次衆]]の書状と[[駿河国]]関連の書状において照らし合わせたところ、記載された史料の「伊勢新九郎盛時」なる人物が同一である事も決め手となった<ref name=owada198951/>。従来の説は文献の解釈の違いによるところが大きく、さらに「備中伊勢氏」説は史料が最も豊富で多岐にわたる事も出自解明に寄与した<ref name=owada198951>[[#小和田(1989)|小和田(1989)]],pp.51-53.</ref>。 |
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近年の研究で早雲の父・[[伊勢盛定]]が幕府[[政所]]執事 |
近年の研究で早雲の父・[[伊勢盛定]]が幕府[[政所]]執事[[伊勢貞親]]と共に8代[[征夷大将軍|将軍]][[足利義政]]の[[申次衆]]として重要な位置にいた事も明らかになってきている<ref name=ienaga43>[[#家永(2005)|家永(2005)]],p.43.</ref>。早雲は伊勢盛定と京都伊勢氏当主で政所執事の[[伊勢貞国]]の娘との間に生まれた。決して身分の低い素浪人ではない。 |
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早雲は盛定の所領、備中荏原荘で生まれ、若い頃はここに居住したと考えられる。荏原荘には[[文明 (日本)|文明]]3年([[1471年]])付けの「平盛時」<ref>伊勢氏は[[平氏|桓武平氏]]の[[平維衡]]の末裔であり、本姓は平氏。</ref>の署名の禁制が残されている(ただし、[[花押]]が後のものとは異なる)。 |
早雲は盛定の所領、備中荏原荘で生まれ、若い頃はここに居住したと考えられる<ref>[[#下山(1999)|下山(1999)]],p.20.</ref>。荏原荘には[[文明 (日本)|文明]]3年([[1471年]])付けの「平盛時」<ref group="注釈">伊勢氏は[[平氏|桓武平氏]]の[[平維衡]]の末裔であり、本姓は平氏。</ref>の署名の禁制が残されている<ref name=sugiyama67>[[#杉山(1974)|杉山(1974)]],p.67.</ref>(ただし、[[花押]]が後のものとは異なる<ref>[[#下山(1999)|下山(1999)]],p.29.</ref>)。井原市神代町の[[高越城]]址には「北条早雲生誕の地」碑が建てられている<ref>{{cite web|title=高越城址:歴史・文化:史跡・名勝:観光情報|url=http://www.ibarakankou.jp/data/DB004/DB004.html|publisher=井原市観光協会|author=|page=|accessdate=2012年7月15日}}</ref>。備中からは[[大道寺氏]]、[[内藤氏]]、[[笠原氏]]など後北条氏の家臣が出ている<ref>[[#下山(1999)|下山(1999)]],pp.25-29.</ref>。 |
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=== 幕府申次衆・奉公衆 === |
=== 幕府申次衆・奉公衆 === |
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[[応仁]]元年([[1467年]])に[[応仁の乱]]が起こり、駿河[[守護]] |
[[応仁]]元年([[1467年]])に[[応仁の乱]]が起こり、駿河[[守護]][[今川義忠]]が上洛して東軍に加わった。義忠はしばしば伊勢貞親を訪れており、その申次を早雲の父盛定が務めている<ref name=ienaga43/>。その縁で早雲の姉(または妹)の北川殿が義忠と結婚したと考えられる<ref>[[#黒田(2005)|黒田(2005)]],pp.17-18.</ref>。早雲が素浪人とされていた頃は北川殿は[[側室]]であろうとされていたが、備中伊勢氏は[[今川氏]]と家格的に遜色なく、近年では正室であると見られている<ref name=owada133>[[#小和田(1983)|小和田(1983)]],pp.133-134.</ref>。文明5年([[1473年]])に北川殿は嫡男龍王丸(後の[[今川氏親]])を生んだ。 |
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[[京都]]で早雲は将軍 |
[[京都]]で早雲は将軍義政の弟の[[足利義視|義視]]に仕えたとされるが、近年有力視される康正2年(1456年)生まれとすると、義視が将軍後継者と擬されていた時期([[1464年]] - [[1467年]])には10歳前後で幼すぎ、応仁元年([[1467年]])以降、義視は西軍に走っている<ref name=kunitori25>[[#相模国盗り物語(2008)|相模国盗り物語(2008)]],p.25.</ref>。 |
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「伊勢新九郎盛時」の名は文明13年([[1481年]])から文書に現れる。文明15年([[1483年]])に9代将軍 |
「伊勢新九郎盛時」の名は文明13年([[1481年]])から文書に現れる<ref name=simoyama29>[[#下山(1999)|下山(1999)]],pp.29-30.</ref>。文明15年([[1483年]])に9代将軍[[足利義尚]]の申次衆に任命されている。[[長享]]元年([[1487年]])奉公衆となる。 |
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京で幕府に出仕している間、早雲は[[建仁寺]]と[[大徳寺]]で禅を学んでいる。 |
京で幕府に出仕している間、早雲は[[建仁寺]]と[[大徳寺]]で禅を学んでいる<ref name=owada198943>[[#小和田(1989)|小和田(1989)]],p.43.</ref>。 |
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=== 駿河下向 === |
=== 駿河下向 === |
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文明8年([[1476年]])、今川義忠は[[遠江国]]の[[塩売坂の戦い]]で西軍に属していた遠江の守護 |
文明8年([[1476年]])、今川義忠は[[遠江国|遠江]]の[[塩売坂の戦い]]で西軍に属していた遠江の守護、[[斯波義廉]]の家臣[[横地氏]]、[[勝間田氏]]の襲撃を受けて討ち死にした。しかし、遠江の政情は複雑で、近年の研究ではこれらの国人は東軍の[[斯波義寛|斯波義良]]に属するものだと考察されており、義忠は同じ東軍と戦っていたことになる<ref>[[#家永(2005)|家永(2005)]],p.45.</ref>。 |
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残された嫡男の龍王丸は幼少であり |
残された嫡男の龍王丸は幼少であり、このため今川氏の家臣三浦氏、[[朝比奈氏]]などが一族の[[小鹿範満]](義忠の従兄弟)を擁立して、家中が二分される家督争いとなった。これに[[堀越公方]][[足利政知]]と[[扇谷上杉家]]が介入し、それぞれ執事の[[上杉政憲]]と家宰の[[太田道灌]]を駿河国へ兵を率いて派遣させた。範満と上杉政憲は血縁があり、太田道灌も史料に範満の「合力」と記されている<ref>[[#家永(2005)|家永(2005)]],p.46.</ref>。龍王丸派にとって情勢は不利であった。 |
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北川殿の弟(または兄)である早雲は駿河へ下り、「和睦に反対する方を上杉氏らは攻撃する」と双方を騙して調停を行い龍王丸が成人するまで範満を家督代行とすることで決着させた。上杉政憲と太田道灌も撤兵させた(この時に道灌と会談したという話もある。旧来の説なら、早雲と道灌は同年齢であった)。両派は[[浅間神社]]で神水を酌み交わして和議を誓った。家督を代行した範満が[[駿府城|駿河館]]に入り、龍王丸は母 |
北川殿の弟(または兄)である早雲は駿河へ下り、「和睦に反対する方を上杉氏らは攻撃する」と双方を騙して調停を行い龍王丸が成人するまで範満を家督代行とすることで決着させた。上杉政憲と太田道灌も撤兵させた(この時に道灌と会談したという話もある。旧来の説なら、早雲と道灌は同年齢であった)。両派は[[浅間神社]]で神水を酌み交わして和議を誓った。家督を代行した範満が[[駿府城|駿河館]]に入り、龍王丸は母北川殿と小川の法永長者([[長谷川政宣]])の[[小川城 (駿河国)|小川城]]([[焼津市]])に身を寄せた。 |
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従来、この調停成功は早雲の抜群の知略による立身出世の第一歩とされるが、これは貞親・盛定の命により駿河守護家今川氏の家督相続介入の為に下向したものであるとの説が有力となっている。 |
従来、この調停成功は早雲の抜群の知略による立身出世の第一歩とされるが、これは貞親・盛定の命により駿河守護家今川氏の家督相続介入の為に下向したものであるとの説が有力となっている<ref>[[#市村(2009)|市村(2009)]],p.12;[[#家永(2005)|家永(2005)]],p.46;[[#下山(1999)|下山(1999)]],pp.35-36.</ref>。この最初の駿河下向と家督争い調停について、[[黒田基樹]]は新説による早雲の推定年齢の若さ(20歳)と、事件について記している『[[鎌倉大草紙]]』には宗瑞(早雲)の名が見えないことから考えて、この話の信憑性に疑問を呈している<ref>[[#黒田(2005)|黒田(2005)]],pp.18-19.</ref>。 |
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早雲の駿河下向については以下のような話が知られている。 |
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今川氏の家督争いが収まると早雲は京都へ戻り、将軍・足利義尚に仕えて奉公衆になっている。 |
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『北条記』『[[名将言行録]]』に見える早雲駿河下向時の一節には、[[大道寺重時|大道寺太郎]]、[[荒木兵庫]]、[[多目権兵衛]]・[[山中才四郎]]・[[荒川又次郎]]・[[在竹兵衛]]らの仲間6人([[御由緒六家]])と、[[伊勢国|伊勢]]で神水を酌み交わして、一人が[[大名]]になったら他の者は家臣になろうと誓い合ったという話が残っている<ref name=owada198943/>。『公方両将記』には、[[陸奥国]]へ下ろうとしていた早雲は駿河の薩埵峠で盗賊に遭い身ぐるみはがされて難渋していたところを守護の奥方の輿と出会い衣服を与えられた。それが「叔母」の北川殿であった。その縁で今川氏に仕えるようになったという話になっている<ref>[[#海音寺(1975)|海音寺(1975)]],pp.155-156.</ref><ref group="注釈">『公方両将記』のエピソードは[[司馬遼太郎]]の小説『[[箱根の坂]]』でも使われている。</ref>。いずれも、いかにも大志を抱く素浪人にふさわしい話となっている。 |
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この最初の駿河下向と家督争い調停については、[[黒田基樹]]は新説による早雲の推定年齢の若さ(20歳)と、事件について記している『[[鎌倉大草紙]]』には早雲の名が見えないことから考えて、この逸話の信憑性に疑問を呈している。 |
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今川氏の家督争いが収まると早雲は京都へ戻り、9代将軍義尚に仕えて奉公衆になっている。 |
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早雲の駿河下向については以下のような逸話が知られている。 |
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文明11年([[1479年]])、前将軍義政は龍王丸の家督継承を認めて本領を安堵する内書を出している<ref>[[#家永(2005)|家永(2005)]],p.46.</ref><ref name=owada148149 group="注釈">内書は慈照院殿(足利義政の法名)の名義で出されている。[[#小和田(1983)|小和田(1983)]],pp.148-149.</ref>。ところが、龍王丸が15歳を過ぎて成人しても範満は家督を戻そうとはしなかった。 |
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『北条記』に見える早雲駿河下向時の一節には、[[大道寺重時|大道寺太郎]]・[[荒木兵庫]]・[[多目権兵衛]]・[[山中才四郎]]・[[荒川又次郎]]・[[在竹兵衛]]らの仲間6人([[御由緒六家]])と、[[伊勢国|伊勢]]で神水を酌み交わして、一人が[[大名]]になったら他の者は家臣になろうと誓い合ったという、[[三国志]]の[[桃園の誓い]]のような話が残っている。『公方両将記』には、[[陸奥国]]へ下ろうとしていた早雲は駿河の[[薩埵峠]]で盗賊に遭い身ぐるみはがされて難渋していたところを守護の奥方の輿と出会い衣服を与えられた。それが「叔母」の北川殿であった。その縁で今川氏に仕えるようになったという話になっている。このエピソードは[[司馬遼太郎]]の小説『[[箱根の坂]]』でも使われている。いずれも、いかにも大志を抱く素浪人にふさわしい話となっている。 |
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長享元年([[1487年]])、早雲は再び駿河へ下り、龍王丸を補佐すると共に[[石脇城]](焼津市)に入って同志を集めた。同年11月、早雲は兵を起こし、駿河館を襲撃して範満とその弟[[小鹿孫五郎]]を殺した。龍王丸は駿河館に入り、2年後に元服して氏親を名乗り正式に今川家当主となる。 |
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文明11年([[1479年]])、前将軍・足利義政は龍王丸の家督継承を認めて本領を安堵する内書を出している。ところが、龍王丸が15歳を過ぎて成人しても範満は家督を戻そうとはしなかった。 |
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早雲は[[伊豆国|伊豆]]との国境に近い[[興国寺城]](現[[沼津市]])と所領を与えられた<ref name=ikegamiyahoo/>。通説である興国寺城拝領については史料の確認が取れないとして異論もあり、[[善得寺城]]とする説もある<ref name=kuroda200520>[[#黒田(2005)|黒田(2005)]],p.20.</ref>。駿河へ留まり、今川氏の家臣となった早雲は甥である氏親を補佐し、[[守護代]]の出す「打渡状」を発行していることから駿河守護代の地位にあったとも考えられている<ref>[[#小和田(1989)|小和田(1989)]],p.44.</ref>。 |
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長享元年([[1487年]])、早雲は再び駿河へ下り、龍王丸を補佐すると共に[[石脇城]](焼津市)に入って同志を集めた。同年11月、早雲は兵を起こし、駿河館を襲撃して範満とその弟・[[小鹿孫五郎]]を殺した。龍王丸は駿河館に入り、2年後に元服して氏親を名乗り正式に今川家当主となる。 |
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この頃に早雲は幕府奉公衆[[小笠原政清]]の娘(南陽院殿)と結婚し、長享元年([[1487年]])に嫡男の[[北条氏綱|氏綱]]が生まれている。 |
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早雲は[[伊豆国]]との国境に近い[[興国寺城]](現[[沼津市]])と所領を与えられた。駿河へ留まり、今川氏の家臣となった早雲は甥である氏親を補佐、[[守護代]]の出す「打渡状」を発行していることから駿河守護代の地位にあったとも考えられている。 |
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なお、この時期において興味深い話として早雲が借金問題を抱えていたとする話がある。これは、文明13年(1481年)に備中国に本拠を持つ細川京兆家の内衆[[庄元資]]の家臣渡辺帯刀丞が早雲に金を貸したところ、翌年には訴訟に至ったことが知られている<ref>[[#室町幕府引付史料集成(1980)|室町幕府引付史料集成(1980)]]</ref>。この問題がどう決着したかは不明であるが、借金問題が早雲を京都から東国に向かわせる一因になった可能性がある<ref>[[#古野(2008)|古野(2008)]],p.131.</ref>。 |
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この頃に早雲は幕府奉公衆[[小笠原政清]]の娘(南陽院殿)と結婚し、嫡男の[[北条氏綱|氏綱]]が生まれている。 |
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なお、この時期において興味深い話として早雲が借金問題を抱えていたとする話がある。これは、文明13年(1481年)に備中国に本拠を持つ細川京兆家の内衆・[[庄元資]]の家臣・渡辺帯刀丞が早雲に金を貸したところ、翌年には訴訟に至ったことが知られている<ref>「政所賦引付」(『室町幕府引付史料集成』下巻、近藤出版社、1980年)所収</ref>。 |
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この問題がどう決着したかは不明であるが、借金問題が早雲を京都から東国に向かわせる一因になった可能性がある<ref>古野貢「『中世後期細川氏の政治構造』(吉川弘文館、2008年)P131</ref>。 |
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=== 伊豆討入り === |
=== 伊豆討入り === |
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早雲が堀越公方 |
早雲が堀越公方足利政知の子[[足利茶々丸|茶々丸]](11代将軍[[足利義澄]]の兄弟)を襲撃して滅ぼし、伊豆を奪った事件は、旧勢力が滅び、新興勢力が勃興する下克上の嚆矢とされ、戦国時代の幕開けとされている。政治が腐敗した京都を捨てて、[[関東地方|関東]]の沃野に志を立てたように描かれてきた早雲だが、中央の政治と連動した動きを取っていることが近年の研究で分ってきた<ref>[[#市村(2009)|市村(2009)]],p.13;[[#黒田(2005)|黒田(2005)]],pp.21-22</ref>。 |
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[[享徳の乱]]で[[鎌倉公方]] |
[[享徳の乱]]で[[鎌倉公方]][[足利成氏]]が幕府に叛き、将軍の命を受けた今川氏が[[鎌倉]]を攻めて占領。成氏は[[古河城]]に逃れて[[古河公方]]と呼ばれる反対勢力となり、幕府方の[[関東管領]][[上杉氏]]と激しく戦った([[享徳の乱]])。将軍義政は成氏に代る鎌倉公方として異母兄の政知を送るが、成氏方の力が強く、鎌倉に入ることもできず伊豆北条に本拠に留まって堀越公方と呼ばれるようになった。文明14年([[1483年]])に成氏と上杉氏との和睦が成立。政知の存在は宙に浮いてしまい、伊豆一国のみを支配する存在となった。 |
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政知には長男に茶々丸がいたが、正室の円満院との間に潤童子と清晃をもうけていた。清晃は[[出家]]して京にいたが、政知は勢力挽回のために[[日野富子]]や[[管領]] |
政知には長男に茶々丸がいたが、正室の円満院との間に潤童子と清晃をもうけていた。清晃は[[出家]]して京にいたが、政知は勢力挽回のために[[日野富子]]や[[管領]][[細川政元]]と連携してこの清晃を将軍に擁立しようと図っていたとの噂があったと長享元年の[[興福寺]][[別当]][[尋尊]]の日記に残っており、この計画に早雲と氏親が関与していたとする説もある<ref name=simoyama43>[[#下山(1999)|下山(1999)]],pp.43-44.</ref>。 |
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延徳3年([[1491年]])に政知が没すると、茶々丸 |
延徳3年([[1491年]])に政知が没すると、茶々丸が円満院と潤童子を殺害して強引に跡目を継ぐという事件が起きた。 |
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早雲は延徳3年(1491年)5月までは「伊勢新九郎」の文書が残っているが、[[明応]] |
早雲は延徳3年(1491年)5月までは「伊勢新九郎」の文書が残っているが、[[明応]]4年([[1495年]])の史料では「早雲庵宗瑞」と法名になっており、この間に[[出家]]したようだ<ref name=kuroda200520/>。この時代の武士の出家には政治的な意味があることが多く、清晃の母の円満院の[[横難横死|横死]]が理由とする見方<ref>[[#家永(2005)|家永(2005)]],p.48.</ref>または伊豆乱入に伴う幕府奉公衆からの退任を意味するとする見方<ref>[[#黒田(2005)|黒田(2005)]],p.20-21.</ref>などがある。 |
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[[明応]]2年([[1493年]])4月、管領細川政元が[[明応の政変]]を起こして10代将軍[[足利義稙|義材]](後に義稙と改名)を追放。清晃を[[花の御所|室町殿]](実質上の将軍)に擁立した。清晃は還俗して義遐を名乗る(後に義澄と改名)。権力の座に就いた義遐は母と兄の敵討ちを幕府官僚の経歴を持ち、茶々丸の近隣に城を持つ早雲へ命じた<ref>[[#市村(2009)|市村(2009)]],p.15.</ref>。これを受けて早雲は、同年夏か秋頃に伊豆堀越御所の茶々丸を攻撃した。この事件を'''伊豆討入り'''といい、この時期に東国戦国期が始まったと考えられている<ref>[[#市村(2009)|市村(2009)]],p.4.</ref><ref group="注釈">享徳3年([[1454年]])に始まった[[享徳の乱]]を東国戦国期の始期とする見方もある。[[#市村(2009)|市村(2009)]],p.3.</ref>。 |
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[[画像:伊豆討入り.png|thumb|275px|伊豆討入り[[media:伊豆討入り.png|拡大]]]] |
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[[明応]]2年([[1493年]])4月、管領・細川政元が[[明応の政変]]を起こして10代将軍・[[足利義稙|足利義材]](後に義稙と改名)を追放。清晃を[[花の御所|室町殿]](実質上の将軍)に擁立した。清晃は還俗して義遐を名乗る(後に義澄と改名)。権力の座に就いた義遐は母と兄の敵討ちを幕府官僚の経歴を持ち、茶々丸の近隣に城を持つ早雲へ命じた。これを受けて早雲は、同年夏か秋頃に伊豆堀越御所の茶々丸を攻撃した。この事件を'''伊豆討入り'''といい、東国戦国期の幕開けと評価されている。 |
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[[画像:伊豆討入り.png|thumb|276px|伊豆討入り[[media:伊豆討入り.png|拡大]]]] |
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後世の軍記物には、この伊豆討入りに際して、早雲が[[修善寺]]に湯治と称して自ら密偵となり伊豆の世情を調べたとしている。また、「討入りは、伊豆国の兵の多くが[[山内上杉家]]に動員され[[上野国]]の合戦に出て手薄になったのを好機とした。早雲の手勢200人と氏親に頼んで借りた300人の合わせて500人が、10艘の船に乗って[[清水港|清水浦]]を出港。[[駿河湾]]を渡って西伊豆の海岸に上陸すると、住民は[[海賊]]の襲来と恐れて家財道具を持って山へ逃げた。早雲の兵は一挙に堀越御所を急襲して火を放ち、茶々丸は山中に逃げ自害に追い込まれた」と書かれている。しかし、どこまで真実か分らない。 |
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後世の軍記物には、この伊豆討入りに際して、早雲が[[修善寺]]に湯治と称して自ら密偵となり伊豆の世情を調べたとしている。また、「討入りは、伊豆国の兵の多くが[[山内上杉家]]に動員され[[上野国]]の合戦に出て手薄になったのを好機とした。早雲の手勢200人と氏親に頼んで借りた300人の合わせて500人が、10艘の船に乗って[[清水港|清水浦]]を出港。[[駿河湾]]を渡って西伊豆の海岸に上陸すると、住民は[[海賊]]の襲来と恐れて家財道具を持って山へ逃げた。早雲の兵は一挙に堀越御所を急襲して火を放ち、茶々丸は山中に逃げ自害に追い込まれた」と書かれている<ref>[[#桑田(1990)|桑田(1990)]],pp.119-120.</ref>。 |
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この他「早雲は伊豆国[[韮山城]](現[[伊豆の国市]])を新たな居城として伊豆国の統治を始めた。高札を立てて味方に参じれば本領を安堵すると約束し、一方で参じなければ作物を荒らして住居を破壊すると布告した。また、兵の乱暴狼藉を厳重に禁止し、病人を看護するなど善政を施し、茶々丸の悪政に苦しんでいた伊豆の武士や領民はたちまち早雲に従った。抵抗する[[関戸吉信]]の[[深根城]]([[下田市]])を落として皆殺しにして力を示した。そして、それまでの煩瑣で重い税制を廃して四公六民の租税を定め領民は歓喜し、伊豆一国は30日で平定された」と言われる。 |
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この他「早雲は伊豆国[[韮山城]](現[[伊豆の国市]])を新たな居城として伊豆国の統治を始めた。高札を立てて味方に参じれば本領を安堵すると約束し、一方で参じなければ作物を荒らして住居を破壊すると布告した。また、兵の乱暴狼藉を厳重に禁止し、病人を看護するなど善政を施し、茶々丸の悪政に苦しんでいた伊豆の武士や領民はたちまち早雲に従った。抵抗する[[関戸吉信]]の[[深根城]]([[下田市]])を落として皆殺しにして力を示した。そして、それまでの煩瑣で重い税制を廃して四公六民の租税を定め領民は歓喜し、伊豆一国は30日で平定された」と言われる<ref>[[#桑田(1990)|桑田(1990)]],pp.121-124.</ref>。 |
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軍記物語などでは自害したと言われる茶々丸は史書においては堀越御所から逃亡しており、[[武田氏]]・[[関戸氏]]・[[狩野氏]]・[[土肥氏]]らに擁せられて早雲に数年に渡って抵抗した。早雲は伊豆の[[国人]]を味方につけながら茶々丸方を徐々に追い込み、明応7年([[1497年]])に南伊豆の深根城を落として、5年かかってようやく伊豆を平定している。 |
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軍記物語などでは自害したと言われる茶々丸は史書においては堀越御所から逃亡しており、[[武田氏]]、[[関戸氏]]、[[狩野氏]]、[[土肥氏]]らに擁せられて早雲に数年に渡って抵抗した。早雲は伊豆の[[国人]]を味方につけながら茶々丸方を徐々に追い込み、明応7年([[1497年]])に南伊豆の深根城を落として、5年かかってようやく伊豆を平定している<ref>[[#家永(2005)|家永(2005)]],pp.49-50</ref>。 |
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伊豆の平定をする一方で、早雲は今川氏の武将としての活動も行っており、明応3年([[1494年]])頃から今川氏の兵を指揮して遠江へ侵攻して、中遠まで制圧している。早雲と氏親は連携して領国を拡大していく。 |
伊豆の平定をする一方で、早雲は今川氏の武将としての活動も行っており、明応3年([[1494年]])頃から今川氏の兵を指揮して遠江へ侵攻して、中遠まで制圧している。早雲と氏親は連携して領国を拡大していく。 |
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=== 小田原城奪取 === |
=== 小田原城奪取 === |
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二本の大きな[[杉]]の木を[[ネズミ|鼠]]が根本から食い倒し、やがて鼠は[[トラ|虎]]に変じる。という霊夢を早雲が見たという話が『北条記』に書かれている。二本の杉とは関東管領の |
二本の大きな[[杉]]の木を[[ネズミ|鼠]]が根本から食い倒し、やがて鼠は[[トラ|虎]]に変じる。という霊夢を早雲が見たという話が『北条記』に書かれている。二本の杉とは関東管領の山内上杉家と扇谷上杉家、鼠とは子の年生まれの早雲のことである<ref>[[#杉山(1974)|杉山(1974)]],p.71.</ref>。 |
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明応3年([[1494年]])、関東では山内上杉家と扇谷上杉家の抗争([[長享の乱]])が再燃し、扇谷家の[[上杉定正]]は早雲に援軍を依頼。定正と早雲は[[荒川 (関東)|荒川]]で山内家当主で関東管領 |
明応3年([[1494年]])、関東では山内上杉家と扇谷上杉家の抗争([[長享の乱]])が再燃し、扇谷家の[[上杉定正]]は早雲に援軍を依頼。定正と早雲は[[荒川 (関東)|荒川]]で山内家当主で関東管領[[上杉顕定]]の軍と対峙するが、定正が落馬して死去したことにより、早雲は兵を返した。 |
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扇谷家は[[相模国]]の[[三浦氏]]と[[大森氏]]を支柱としていたが、この年にそれぞれの当主である扇谷定正 |
扇谷家は[[相模国|相模]]の[[三浦氏]]と[[大森氏]]を支柱としていたが、この年にそれぞれの当主である扇谷定正、[[三浦時高]]、[[大森氏頼]]の3人が死去するという不運に見舞われている。 |
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[[Image:OdawaraJo2.jpg |
[[Image:OdawaraJo2.jpg|thumb|200x|left|小田原城]] |
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早雲は茶々丸の討伐・捜索を大義名分として、明応4年([[1495年]])に[[甲斐国]]には攻め込み、守護 |
早雲は茶々丸の討伐・捜索を大義名分として、明応4年([[1495年]])に[[甲斐国|甲斐]]には攻め込み、甲斐[[守護]][[武田信縄]]と戦っている<ref group="注釈">甲斐は前守護[[武田信昌]]と信昌の次男の[[油川信恵]]と嫡男で守護信縄との内訌が、相甲国境のある[[都留郡]]の[[小山田氏]]など甲斐国内の有力国衆の争いと関係して乱国状態にあり、対外的に信縄は堀越公方について足利茶々丸を庇護し、信昌・信恵は早雲や氏親と結び信縄と対立していた。早雲と甲斐情勢の関わりは明応7年の[[明応の大地震]]で信縄と信昌・信恵間の抗争は一時収束するが再開され、信縄の後継である[[武田信虎|信虎]](信直)期には収束し武田氏と北条氏も和睦に至る(1498年)。</ref>。同年9月、相模[[小田原市|小田原]]の[[大森藤頼]]を討ち[[小田原城]]を奪取した<ref>[[#クロニック戦国全史(1995)|クロニック戦国全史(1995)]],p.148.</ref>。 |
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同年9月、相模[[小田原市|小田原]]の[[大森藤頼]]を討ち[[小田原城]]を奪取した。 |
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『北条記』によれば、早雲は大森藤頼にたびたび進物を贈るようになり、最初は警戒していた藤頼も心を許して早雲と親しく歓談するようになった。ある日、早雲は[[箱根山]]での鹿狩りのために領内に勢子を入れさせて欲しいと願い、藤頼は快く許した。早雲は屈強の兵を勢子に仕立てて箱根山に入れる。 |
『北条記』によれば、早雲は大森藤頼にたびたび進物を贈るようになり、最初は警戒していた藤頼も心を許して早雲と親しく歓談するようになった。ある日、早雲は[[箱根山]]での[[シカ|鹿]]狩りのために領内に勢子を入れさせて欲しいと願い、藤頼は快く許した。早雲は屈強の兵を勢子に仕立てて箱根山に入れる。 |
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その夜、千頭の牛の角に松明を灯した早雲の兵が小田原城へ迫り、勢子に扮して背後の箱根山に伏せていた兵たちが鬨の声を上げて火を放つ。数万の兵が攻め寄せてきたと、おびえた小田原城は大混乱になり、藤頼は命からがら逃げ出して、早雲は易々と小田原城を手に入れたという。典型的な城盗りの物語で、似たような話は[[織田信秀]]の[[那古野城]]奪取、[[尼子経久]]の[[月山富田城]]奪取にもあり、どこまで真実か分らない。 |
その夜、千頭の牛の角に松明を灯した早雲の兵が小田原城へ迫り、勢子に扮して背後の箱根山に伏せていた兵たちが鬨の声を上げて火を放つ。数万の兵が攻め寄せてきたと、おびえた小田原城は大混乱になり、藤頼は命からがら逃げ出して、早雲は易々と小田原城を手に入れたという。典型的な城盗りの物語で、似たような話は[[織田信秀]]の[[那古野城]]奪取、[[尼子経久]]の[[月山富田城]]奪取にもあり、どこまで真実か分らない。 |
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この小田原城奪取は明応4年(1495年)9月とされているが、史料によって年月が異なる。黒田基樹は明応5年([[1496年]])に山内家が小田原城と思われる要害を攻撃し、扇谷家の守備側の名に大森藤頼と早雲の弟 |
この小田原城奪取は明応4年(1495年)9月とされているが、史料によって年月が異なる。黒田基樹は明応5年([[1496年]])に山内家が小田原城と思われる要害を攻撃し、扇谷家の守備側の名に大森藤頼と早雲の弟[[伊勢弥二郎|弥二郎]]の名が山内顕定の書状にあったことを根拠に年次に疑問を呈し、それ以降のことではないかとしている<ref name=kuroda20052630>[[#黒田(2005)|黒田(2005)]],pp.26-30.</ref>。『小田原市史』で小田原城奪取の件を執筆した佐藤博信も黒田と同様の見解を採るとともに、早雲の子・幻庵が大森氏出身の海実から箱根権現別当の地位を譲られたことや享徳の乱の頃(藤頼の父とされる氏頼の時代)に大森氏で内紛があったことを指摘し、早雲の進出もこの大森氏の内情に乗じたものと推定している。 |
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また、明応10年 |
また、明応10年[[3月28日 (旧暦)|3月28日]]([[文亀]]元年/[[1501年]])に早雲が小田原城下にあった[[伊豆山神社]]の所有地を自領の1ヶ村と交換した文書が残されており、この時点では早雲が小田原城を既に領有していたとみられている<ref>[[#黒田(2005)|黒田(2005)]],p.28.</ref>。 |
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小田原城は後に後北条氏の本城となるが、早雲は終生、伊豆韮山城を居城としている。 |
小田原城は後に後北条氏の本城となるが、早雲は終生、伊豆韮山城を居城としている。 |
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小田原城奪取など早雲の一連の行動は茶々丸討伐という目的だけでなく、自らの勢力範囲を拡大しようとする意図もあったと見られていた。だが近年の研究では |
小田原城奪取など早雲の一連の行動は茶々丸討伐という目的だけでなく、自らの勢力範囲を拡大しようとする意図もあったと見られていた。だが近年の研究では義澄-細川政元-今川氏親-早雲のラインと、足利義稙-[[大内政弘]]-足利茶々丸-[[武田信虎]]のライン、即ち明応の政変による対立構図の中での軍事行動であることが明らかになってきている。旧来の説では同じ扇谷方の大森氏を早雲がだまし討ちにしたことになるが、近年の研究ではこの小田原城奪取も大森藤頼が山内上杉氏に寝返った為のものと考えられている<ref>[[#市村(2009)|市村(2009)]],pp.18-19;[[#黒田(2005)|黒田(2005)]],p.29.</ref>。 |
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明応8年([[1498年]])、早雲は甲斐で茶々丸を捕捉し、殺害することに成功した<ref>[[#クロニック戦国全史(1995)|クロニック戦国全史(1995)]],p.145.</ref>。茶々丸を討った場所については、伊豆国の深根城とする説もある<ref name=ienaga50>[[#家永(2005)|家永(2005)]],p.50.</ref>。 |
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今川氏の武将としての活動も続き、[[文亀]]年間([[1501年]] - [[1504年]])には[[三河国]]にまで進んでいる。『[[柳営秘鑑]]』によると文亀元年(1501年)9月、[[岩津城|岩付(岩津)城]]下にて[[松平長親]]([[徳川家康]]の[[高祖父]])と戦って敗北し、三河侵攻は失敗に終わっている。松平方の先陣の[[酒井氏]] |
今川氏の武将としての活動も続き、[[文亀]]年間([[1501年]] - [[1504年]])には[[三河国|三河]]にまで進んでいる。『[[柳営秘鑑]]』によると文亀元年(1501年)9月、[[岩津城|岩付(岩津)城]]下にて[[松平長親]]([[徳川家康]]の[[高祖父]])と戦って敗北し、三河侵攻は失敗に終わっている。松平方の先陣の[[酒井氏]]、[[本多氏]]、[[大久保氏]]の働きがあったという。ただし、徳川実紀では永正3年(1506年)[[8月20日 (旧暦)|8月20日]]のこととされている。 |
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=== 相模平定 === |
=== 相模平定 === |
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その後、早雲は相模方面へ本格的に転進し、関東南部の制圧に乗り出したが、茶々丸討伐の名目を失ったため、この後の軍事行動には多大な困難が伴った。更に、伊豆・西相模を失った山内顕定 |
その後、早雲は相模方面へ本格的に転進し、関東南部の制圧に乗り出したが、茶々丸討伐の名目を失ったため、この後の軍事行動には多大な困難が伴った。更に、伊豆・西相模を失った山内顕定が義澄・政元に接近したため、氏親・早雲の政治的な立場が弱くなった<ref>[[#家永(2005)|家永(2005)]],p.52.</ref>。 |
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[[画像:早雲関係図.png|thumb|360px|北条早雲関係図[[media:早雲関係図.png|拡大]]]] |
[[画像:早雲関係図.png|thumb|360px|北条早雲関係図[[media:早雲関係図.png|拡大]]]] |
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それでも早雲は |
それでも早雲と氏親は、今度は義稙-大内ラインに与し、徐々に相模に勢力を拡大していった<ref>[[#家永(2005)|家永(2005)]],p.53.</ref>。こうした関東進出の大きな画期となったのは、[[永正]]元年([[1504年]])8月の[[武蔵国|武蔵]][[立河原の戦い]]であり、扇谷定正の甥で扇谷家当主[[上杉朝良]]に味方した早雲は、氏親と共に出陣して山内顕定に勝利した<ref>[[#クロニック戦国全史(1995)|クロニック戦国全史(1995)]],p.176.</ref>。 |
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この敗戦後に顕定は弟の[[越後国|越後]]守護 |
この敗戦後に顕定は弟の[[越後国|越後]]守護[[上杉房能]]と同[[守護代]][[長尾能景]]の来援を得て反撃に出る。相模へ乱入して、扇谷家の諸城を攻略。翌永正2年([[1505年]])、[[川越城|河越城]]に追い込まれた朝良は降伏した。これにより、早雲は山内家、扇谷家の両上杉家と敵対することになる。 |
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永正6年([[1509年]])以降は早雲の今川氏の武将としての活動はほとんど見られなくなり、早雲は相模進出に集中する。永正3年(1506年)に相模で[[検地]]を初めて実施して支配の強化を図っている。 |
永正6年([[1509年]])以降は早雲の今川氏の武将としての活動はほとんど見られなくなり、早雲は相模進出に集中する<ref>[[#黒田(2005)|黒田(2005)]],p.44.</ref>。永正3年(1506年)に相模で[[検地]]を初めて実施して支配の強化を図っている<ref>[[#クロニック戦国全史(1995)|クロニック戦国全史(1995)]],p.181.</ref>。 |
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永正4年([[1507年]])、管領 |
永正4年([[1507年]])、管領細川政元が家臣の[[香西元長]]・[[竹田孫七]]・[[薬師寺長忠]]に[[暗殺]]される([[永正の錯乱]])。同年、越後守護上杉房能が守護代の[[長尾為景]]([[上杉謙信]]の父)に殺される事件が起きた。早雲は為景や[[長尾景春]]と結んで顕定を牽制した。 |
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永正6年7月、 |
永正6年7月、顕定は大軍を率いて越後へ出陣。同年8月、この隙を突いて早雲は扇谷朝良の本拠地[[江戸城]]に迫った。[[上野国|上野]]に出陣していた朝良は兵を返して反撃に出て、翌永正7年([[1510年]])まで早雲と武蔵、相模で戦った。 |
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早雲は[[権現山城]]([[横浜市]])の[[上田政盛]]を扇谷家から離反させ攻勢に出るが、同年7月になって山内家の援軍を得た扇谷家が反撃に出て、権現山城は落城。[[三浦義同]](道寸)が早雲方の住吉要害([[平塚市]])を攻略して小田原城まで迫る。早雲は手痛い敗北を喫し、扇谷家との和睦で切り抜けた。一方、同年[[6月20日 (旧暦)|6月20日]]には越後に出陣していた |
早雲は[[権現山城]]([[横浜市]])の[[上田政盛]]を扇谷家から離反させ攻勢に出るが、同年7月になって山内家の援軍を得た扇谷家が反撃に出て、権現山城は落城。[[三浦義同]](道寸)が早雲方の住吉要害([[平塚市]])を攻略して小田原城まで迫る。早雲は手痛い敗北を喫し、扇谷家との和睦で切り抜けた。一方、同年[[6月20日 (旧暦)|6月20日]]には越後に出陣していた顕定は長尾為景の逆襲を受けて敗死、死後に2人の養子[[上杉顕実|顕実]]と[[上杉憲房 (戦国時代)|憲房]]の争いが発生、古河公方家でも[[足利政氏]]・[[足利高基|高基]]父子の抗争が起こり、朝良はこれらの調停に追われた([[永正の乱]])。 |
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[[三浦氏]]は相模の名族で[[源頼朝]]の挙兵に参じ、[[鎌倉幕府]]創立の功臣として大きな勢力を有していたが、嫡流は[[執権]]の[[北条氏]]に[[宝治合戦]]で滅ぼされている。しかし、傍流は相模の豪族として続き、相模で大きな力を持っていた([[相模三浦氏]])。この頃の三浦氏は扇谷家に属し、同氏の出身で当主の義同(道寸)が相模中央部の[[岡崎城 (相模国)|岡崎城]](現[[伊勢原市]])を本拠とし、三浦半島の[[ |
[[三浦氏]]は相模の名族で[[源頼朝]]の挙兵に参じ、[[鎌倉幕府]]創立の功臣として大きな勢力を有していたが、嫡流は[[執権]]の[[北条氏]]に[[宝治合戦]]で滅ぼされている。しかし、傍流は相模の豪族として続き、相模で大きな力を持っていた([[相模三浦氏]])。この頃の三浦氏は扇谷家に属し、同氏の出身で当主の義同(道寸)が相模中央部の[[岡崎城 (相模国)|岡崎城]](現[[伊勢原市]])を本拠とし、三浦半島の[[新井城]]<ref>[[#市村(2009)|市村(2009)]],p.21;[[#家永(2005)|家永(2005)]],p.53.</ref>または[[三崎城]]<ref>[[#黒田(2005)|黒田(2005)]],p.48-49;[[#下山(1999)|下山(1999)]],p.68.</ref>(現[[三浦市]])を子の[[三浦義意|義意]]が守っていた。早雲の相模平定のためには、どうしても三浦氏を滅ぼさねばならなかった。 |
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敗戦から体勢を立て直した早雲は、永正9年([[1512年]])8月に岡崎城を攻略し、義同を住吉城([[逗子市]])に敗走させ、勢いに乗って[[住吉城]]も落とし、義同は義意の守る三崎城に逃げ込んだ。早雲は鎌倉に入り、相模の支配権をほぼ掌握する。朝良の甥の[[上杉朝興|朝興]]が江戸城から救援に駆けつけるが、早雲はこれを撃破する。さらに三浦氏を攻略するため、同年10月、鎌倉に[[玉縄城]]を築いた。 |
敗戦から体勢を立て直した早雲は、永正9年([[1512年]])8月に岡崎城を攻略し、義同を住吉城([[逗子市]])に敗走させ、勢いに乗って[[住吉城]]も落とし、義同は義意の守る三崎城に逃げ込んだ。早雲は鎌倉に入り、相模の支配権をほぼ掌握する。朝良の甥の[[上杉朝興|朝興]]が江戸城から救援に駆けつけるが、早雲はこれを撃破する。さらに三浦氏を攻略するため、同年10月、鎌倉に[[玉縄城]]を築いた。 |
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義同はしばしば兵を繰り出して早雲と戦火を交えるが、次第に圧迫され[[三浦半島]]に封じ込められてしまった。扇谷家も救援の兵を送るがことごとく撃退された。 |
義同はしばしば兵を繰り出して早雲と戦火を交えるが、次第に圧迫され[[三浦半島]]に封じ込められてしまった。扇谷家も救援の兵を送るがことごとく撃退された。 |
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永正13年([[1516年]])7月、扇谷朝興が三浦氏救援のため玉縄城を攻めるが早雲はこれを打ち破り、義同・義意父子の篭る三崎城に攻め寄せた。激戦の末に義同・義意父子は討ち死にする。名族三浦氏は滅び、早雲は相模全域を平定した。 |
永正13年([[1516年]])7月、扇谷朝興が三浦氏救援のため玉縄城を攻めるが早雲はこれを打ち破り、義同・義意父子の篭る三崎城に攻め寄せた。激戦の末に義同・義意父子は討ち死にする。名族三浦氏は滅び、早雲は相模全域を平定した<ref>[[#クロニック戦国全史(1995)|クロニック戦国全史(1995)]],p.203.</ref>。 |
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その後、早雲は[[上総国|上総]]の |
その後、早雲は[[上総国|上総]]の[[武田氏|真里谷武田氏]]を支援して、[[房総半島]]に渡り、翌永正14年([[1517年]])まで転戦している<ref>[[#黒田(2005)|黒田(2005)]],pp.49-50.</ref>。 |
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永正15年([[1518年]])、家督を嫡男 |
永正15年([[1518年]])、家督を嫡男氏綱に譲り、翌永正16年(1519年)に死去した。[[享年]]は64または88。後嗣の氏綱は2年後に[[菩提寺]]として[[早雲寺]](神奈川県[[箱根町]])を創建させていいる<ref>[[#クロニック戦国全史(1995)|クロニック戦国全史(1995)]],p.216.</ref><ref>{{cite web|title=早雲寺- Yahoo!百科事典|url=http://100.yahoo.co.jp/detail/%E6%97%A9%E9%9B%B2%E5%AF%BA/|author=[[菅沼晃]]|publisher=日本大百科全書(小学館)|accessdate=2012年7月17日}}</ref>。 |
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早雲は、領国支配の強化を積極的に進めた最初期の大名であり、 |
早雲は、領国支配の強化を積極的に進めた最初期の大名であり、その点から、[[戦国大名]]の先駆けと評価されている<ref>[[#クロニック戦国全史(1995)|クロニック戦国全史(1995)]],p.26.</ref>。『[[早雲寺殿廿一箇条]]』という家法を定め、これは[[分国法]]の祖形となった<ref>{{cite web|title=早雲寺殿廿一箇条- Yahoo!百科事典|url=http://100.yahoo.co.jp/detail/%E6%97%A9%E9%9B%B2%E5%AF%BA%E6%AE%BF%E5%BB%BF%E4%B8%80%E7%AE%87%E6%9D%A1/|author=大久保俊昭|publisher=日本大百科全書(小学館)|accessdate=2012年7月16日}}</ref><ref group="注釈">『早雲寺殿廿一箇条』の成立時期については明らかではなく、早雲の制定によるものとするのは今のところ所伝に過ぎない。[[#黒田(2005)|黒田(2005)]],pp.53-54;[[#クロニック戦国全史(1995)|クロニック戦国全史(1995)]],p.216.</ref>。永正3年(1506年)に小田原周辺で[[指出検地]](在地領主に土地面積・年貢量を申告させる検地)を実施しているが、これは、戦国大名による[[検地]]として最古の事例とされている<ref>[[#黒田(2005)|黒田(2005)]],p.43</ref>。 |
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また、死の前年から虎の[[印判状]]を用いるようになっている。 |
また、死の前年から伊勢(後北条)氏は虎の[[印判状]]を用いるようになっている<ref>[[#家永(2005)|家永(2005)]],p.55.</ref>。印判状のない徴収命令は無効とし、郡代・代官による百姓・職人への違法な搾取を止める体制が整えられた<ref>[[#クロニック戦国全史(1995)|クロニック戦国全史(1995)]],p.207.</ref>。 |
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早雲の後を継いだ氏綱は北条氏([[後北条氏]])を称して武蔵国へ領国を拡大。以後、[[北条氏康|氏康]] |
早雲の後を継いだ氏綱は北条氏([[後北条氏]])を称して武蔵国へ領国を拡大。以後、[[北条氏康|氏康]]、[[北条氏政|氏政]]、[[北条氏直|氏直]]と勢力を伸ばし、5代に渡って関東に覇を唱えることになる。 |
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== 年表 == |
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{| class="wikitable" |
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! 和暦!! 西暦 !! <small>年齢<br>享年88説</small> !! <small>年齢<br>享年64説</small> !! 北条早雲(伊勢盛時)関連事項 !! 参考事項 |
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|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |[[永享]]4年 |
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|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |[[1432年]] |
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|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" |1 |
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|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" | |
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|style="vertical-align:top" |早雲、[[備中国]][[高越城]]で出生。(享年88説) |
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|style="vertical-align:top" | |
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|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |永享10年 |
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|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |[[1438年]] |
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|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" |7 |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" | |
|||
|style="vertical-align:top" | |
|||
|style="vertical-align:top" |[[永享の乱]]、[[鎌倉公方]][[足利持氏]]自害。鎌倉公方一旦滅亡。 |
|||
|- |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |永享13年<br>[[嘉吉]]元年 |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |[[1441年]] |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" |10 |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" | |
|||
|style="vertical-align:top" | |
|||
|style="vertical-align:top" |[[嘉吉の乱]]、[[征夷大将軍|将軍]][[足利義教]]が[[赤松満祐]]に暗殺される。 |
|||
|- |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |嘉吉3年 |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |[[1443年]] |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" |12 |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" | |
|||
|style="vertical-align:top" | |
|||
|style="vertical-align:top" |[[禁闕の変]]、[[八尺瓊勾玉|神璽]]が[[後南朝]]に奪われる。 |
|||
|- |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |文安6年<br>[[宝徳]]元年 |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |[[1449年]] |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" |18 |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" | |
|||
|style="vertical-align:top" | |
|||
|style="vertical-align:top" |[[足利義政]]に将軍宣下。<br>鎌倉公方が再興され、持氏の遺児[[足利成氏|成氏]]が任命される。 |
|||
|- |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |[[享徳]]3年 |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |[[1454年]] |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" |23 |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" | |
|||
|style="vertical-align:top" | |
|||
|style="vertical-align:top" |鎌倉公方足利成氏、[[関東管領]][[上杉憲忠]]を謀殺。[[享徳の乱]]はじまる。 |
|||
|- |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |享徳4年<br>[[康正]]元年 |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |[[1455年]] |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" |24 |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" | |
|||
|style="vertical-align:top" | |
|||
|style="vertical-align:top" |[[駿河国|駿河]][[守護]][[今川範忠]]の軍勢が[[鎌倉]]を占領、成氏は[[下総国|下総]][[古河城|古河]]に逃れる。([[古河公方]])<br>将軍足利義政と[[日野富子]]が結婚。 |
|||
|- |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |康正2年 |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |[[1456年]] |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" |25 |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" |1 |
|||
|style="vertical-align:top" |早雲、備中国高越城で出生。(享年64説) |
|||
|style="vertical-align:top" | |
|||
|- |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |康正3年<br>[[長禄]]元年 |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |[[1457年]] |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" |26 |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" |2 |
|||
|style="vertical-align:top" | |
|||
|style="vertical-align:top" |[[太田道灌]]、[[江戸城]]を築く。<br>将軍足利義政が弟の[[足利政知|政知]]を関東に送る。([[堀越公方]])<br>[[長禄の変]]、後南朝に奪われていた神璽を赤松家遺臣が奪回。 |
|||
|- |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |[[寛正]]2年 |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |[[1461年]] |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" |30 |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" |6 |
|||
|style="vertical-align:top" | |
|||
|style="vertical-align:top" |[[寛正の大飢饉]]、洛中の餓死者8万人以上。 |
|||
|- |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |寛正5年 |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |[[1464年]] |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" |33 |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" |9 |
|||
|style="vertical-align:top" |この頃に足利義視の近侍となる。 |
|||
|style="vertical-align:top" |将軍義政の弟義尋、還俗して将軍後継者となる。([[足利義視]])<br>[[土御門天皇]]践祚。 |
|||
|- |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |寛正7年<br>[[文正]]元年 |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |[[1466年]] |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" |35 |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" |11 |
|||
|style="vertical-align:top" | |
|||
|style="vertical-align:top" |[[細川勝元]]、[[山名宗全]]と対立した[[政所執事]][[伊勢貞親]]が[[近江国|近江]]に逃亡。 |
|||
|- |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |文正2年<br>[[応仁]]元年 |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |[[1467年]] |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" |36 |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" |12 |
|||
|style="vertical-align:top" |この頃に姉妹の[[北川殿]]と駿河守護[[今川義忠]]が結婚<ref name=owada133/>。 |
|||
|style="vertical-align:top" |[[応仁の乱]]勃発。[[京都]]で細川方・山名方の軍勢数万が合戦。<br>足利義視、[[伊勢国|伊勢]]に出奔。 |
|||
|- |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |応仁2年 |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |[[1468年]] |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" |37 |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" |13 |
|||
|style="vertical-align:top" | |
|||
|style="vertical-align:top" |足利義視、西軍(山名方)の大将に迎えられる。 |
|||
|- |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |[[文明 (日本)|文明]]3年 |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |[[1471年]] |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" |40 |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" |16 |
|||
|style="vertical-align:top" |[[備中国]]荏原荘に「平盛時禁制」を発する<ref name=sugiyama67/>。 |
|||
|style="vertical-align:top" |関東管領山内顕定が成氏の居城古河城を攻略。 |
|||
|- |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |文明5年 |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |[[1473年]] |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" |42 |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" |18 |
|||
|style="vertical-align:top" |北川殿が龍王丸(後の[[今川氏親]])を生む。 |
|||
|style="vertical-align:top" |山名宗全、細川勝元が死去。<br>[[足利義尚]]に将軍宣下。 |
|||
|- |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |文明8年 |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |[[1476年]] |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" |45 |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" |21 |
|||
|style="vertical-align:top" |駿河に下向して龍王丸派と[[小鹿範満]]派との家督争いを調停。 |
|||
|style="vertical-align:top" |今川義忠が[[遠江国|遠江]]の[[塩売坂の戦い]]で戦死。<br>[[長尾景春]]が上杉方の[[五十子の戦い|五十子の陣]]を襲撃する。([[長尾景春の乱]]) |
|||
|- |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |文明9年 |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |[[1477年]] |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" |46 |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" |22 |
|||
|style="vertical-align:top" | |
|||
|style="vertical-align:top" |扇谷氏家宰太田道灌、[[江古田・沼袋原の戦い]]などで景春方を連破する。<br>京都で東西両軍の和睦がほぼ成立し、応仁の乱終わる。 |
|||
|- |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |文明11年 |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |[[1479年]] |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" |48 |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" |24 |
|||
|style="vertical-align:top" |前将軍足利義政、龍王丸に本領安堵の内書を発する<ref name=owada148149 group="注釈"/>。 |
|||
|style="vertical-align:top" | |
|||
|- |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |文明13年 |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |[[1481年]] |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" |50 |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" |26 |
|||
|style="vertical-align:top" |文書での「伊勢新九郎盛時」の初見<ref name=simoyama29/>。 |
|||
|style="vertical-align:top" | |
|||
|- |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |文明14年 |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |[[1482年]] |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" |51 |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" |27 |
|||
|style="vertical-align:top" |金銭貸借を巡り、[[庄元資]]と訴訟沙汰になる。 |
|||
|style="vertical-align:top" |幕府と古河公方足利成氏との和睦が成立、享徳の乱終わる。(都鄙合体) |
|||
|- |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |文明15年 |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |[[1483年]] |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" |52 |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" |28 |
|||
|style="vertical-align:top" |将軍足利義尚の申次衆となる。 |
|||
|style="vertical-align:top" | |
|||
|- |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |文明17年 |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |[[1485年]] |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" |54 |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" |30 |
|||
|style="vertical-align:top" | |
|||
|style="vertical-align:top" |[[山城国一揆]]起こる。 |
|||
|- |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |文明18年 |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |[[1486年]] |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" |55 |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" |31 |
|||
|style="vertical-align:top" | |
|||
|style="vertical-align:top" |[[尼子経久]]が[[出雲国]][[富田城]]を奪回。<br>太田道灌、主君[[上杉定正|扇谷定正]]に謀殺される。 |
|||
|- |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |文明19年<br>[[長享]]元年 |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |[[1487年]] |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" |56 |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" |32 |
|||
|style="vertical-align:top" |将軍足利義尚の奉公衆となる。<br>駿河に下り、[[駿府城|駿河館]]を襲撃して小鹿範満を討つ。<br>[[興国寺城]]主となる。<br>嫡男の伊豆千代丸([[北条氏綱]])生まれる。 |
|||
|style="vertical-align:top" |龍王丸、元服して今川氏親を名乗る。<br>将軍足利義尚、[[六角高頼]]を攻めるために近江に出陣。 |
|||
|- |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |長享2年 |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |[[1488年]] |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" |57 |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" |33 |
|||
|style="vertical-align:top" | |
|||
|style="vertical-align:top" |山内上杉家と扇谷上杉家の抗争([[長享の乱]])が勃発。<br>[[加賀一向一揆]]、一揆勢が加賀守護[[富樫政親]]を攻め、自害に追い込む。 |
|||
|- |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |長享3年<br>[[延徳]]元年 |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |[[1489年]] |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" |58 |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" |34 |
|||
|style="vertical-align:top" |日野富子と[[管領]][[細川政元]]が清晃擁立を図ったとの風聞。(早雲関与の説あり<ref name=simoyama43/>。) |
|||
|style="vertical-align:top" |将軍足利義尚死去、義視の子[[足利義材|義材]]が将軍に迎えられる。 |
|||
|- |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |延徳2年 |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |[[1490年]] |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" |59 |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" |35 |
|||
|style="vertical-align:top" | |
|||
|style="vertical-align:top" |足利義政死去。 |
|||
|- |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |延徳3年 |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |[[1491年]] |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" |60 |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" |36 |
|||
|style="vertical-align:top" |「伊勢新九郎」の名の最後の文書。明応4年(1495年)までに出家して'''早雲庵宗瑞'''を名乗る<ref name=kuroda200520/>。 |
|||
|style="vertical-align:top" |足利義視死去<br>堀越公方足利政知死去。<br>茶々丸が継母円満院と弟の潤童子を殺害して堀越公方の家督を継ぐ。<br>将軍足利義材、近江に出兵して[[六角氏]]を攻める。 |
|||
|- |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |延徳4年<br>[[明応]]元年 |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |[[1492年]] |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" |61 |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" |37 |
|||
|style="vertical-align:top" | |
|||
|style="vertical-align:top" |甲斐武田家の[[武田信縄]]・[[武田信恵|信恵]]兄弟が家督争いを起こす。 |
|||
|- |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |明応2年 |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |[[1493年]] |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" |62 |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" |38 |
|||
|style="vertical-align:top" |伊豆堀越御所の茶々丸を襲撃。('''伊豆討ち入り''') |
|||
|style="vertical-align:top" |[[明応の政変]]、管領細川政元がクーデターを起こして将軍足利義材を追放。清晃([[足利義澄]])を擁立する。 |
|||
|- |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |明応3年 |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |[[1494年]] |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" |63 |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" |39 |
|||
|style="vertical-align:top" |扇谷方として武蔵国高見原に出兵するが、扇谷定正の急死により撤退する。<br>今川氏の武将として遠江へ侵攻。 |
|||
|style="vertical-align:top" |[[三浦義同]]、養父[[三浦時高]]を攻め殺して三浦氏の家督を継承。<br>[[小田原城]]主[[大森氏頼]]死去。 |
|||
|- |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |明応4年 |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |[[1495年]] |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" |64 |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" |40 |
|||
|style="vertical-align:top" |[[甲斐国|甲斐]]に出兵して守護武田信縄と戦う。<br>[[大森藤頼]]を討ち小田原城を奪取。事件の年次については明応5年(1496年)以降、明応10年(1501年)までの間とする説もある<ref name=kuroda20052630/>。 |
|||
|style="vertical-align:top" | |
|||
|- |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |明応5年 |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |[[1496年]] |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" |65 |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" |41 |
|||
|style="vertical-align:top" |山内方が相模西部に進軍して小田原城を攻める。城を守る弟の[[伊勢弥二郎|弥二郎]]と大森氏は敗走<ref name=kuroda20052630/>。 |
|||
|style="vertical-align:top" |日野富子死去。 |
|||
|- |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |明応6年 |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |[[1497年]] |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" |66 |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" |42 |
|||
|style="vertical-align:top" |[[関戸吉信]]の守る[[深根城]]を陥れる。'''伊豆平定'''。 |
|||
|style="vertical-align:top" |古河公方足利成氏死去。 |
|||
|- |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |明応7年 |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |[[1498年]] |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" |67 |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" |43 |
|||
|style="vertical-align:top" |甲斐で茶々丸を捕捉して殺害する。伊豆の深根城で討ち取ったとする説もある<ref name=ienaga50/>。 |
|||
|style="vertical-align:top" | |
|||
|- |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |明応8年 |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |[[1499年]] |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" |68 |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" |44 |
|||
|style="vertical-align:top" | |
|||
|style="vertical-align:top" |[[蓮如]]死去 |
|||
|- |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |明応9年 |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |[[1500年]] |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" |69 |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" |45 |
|||
|style="vertical-align:top" | |
|||
|style="vertical-align:top" |土御門天皇崩御。[[後柏原天皇]]践祚。 |
|||
|- |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |明応10年<br>[[文亀]]元年 |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |[[1501年]] |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" |70 |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" |46 |
|||
|style="vertical-align:top" |今川家の武将として[[三河国|三河]]に出兵し、[[松平長親]]と戦う。 |
|||
|style="vertical-align:top" | |
|||
|- |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |文亀4年<br>[[永正]]元年 |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |[[1504年]] |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" |73 |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" |49 |
|||
|style="vertical-align:top" |[[上杉朝良|扇谷朝良]]・氏親・早雲の連合軍、[[立河原の戦い]]で山内顕定に勝利する。 |
|||
|style="vertical-align:top" | |
|||
|- |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |永正2年 |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |[[1505年]] |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" |74 |
|||
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" |50 |
|||
|style="vertical-align:top" | |
|||
|style="vertical-align:top" |扇谷朝良が河越城で山内方に降伏。長享の乱終わる。 |
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|- |
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|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |永正3年 |
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|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |[[1506年]] |
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|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" |75 |
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|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" |51 |
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|style="vertical-align:top" |相模で初めて[[検地]]を実施。 |
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|style="vertical-align:top" | |
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|- |
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|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |永正4年 |
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|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |[[1507年]] |
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|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" |76 |
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|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" |52 |
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|style="vertical-align:top" | |
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|style="vertical-align:top" |管領細川政元が養子[[細川澄之]]と家臣[[薬師寺長忠]]に暗殺される。細川氏の内訌はじまる。([[永正の錯乱]])<br>[[細川澄元]]が京を制圧。<br>越後守護[[上杉房能]]が守護代[[長尾為景]]に殺害される。 |
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|- |
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|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |永正5年 |
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|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |[[1508年]] |
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|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" |77 |
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|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" |53 |
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|style="vertical-align:top" |今川勢を率いて三河に侵攻するが松平長親に敗れる。 |
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|style="vertical-align:top" |前将軍足利義稙が[[大内義興]]・[[細川高国]]とともに入京。将軍足利義澄は近江に逃亡し、義稙が将軍復帰。<br>甲斐守護[[武田信虎]]、叔父の油川信恵一族を滅ぼす。<br>今川氏親、遠江守護に任じられる。 |
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|- |
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|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |永正6年 |
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|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |[[1509年]] |
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|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" |78 |
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|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" |54 |
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|style="vertical-align:top" |早雲、武蔵に出兵して江戸城に迫る。 |
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|style="vertical-align:top" |管領山内顕定、越後に出兵し、長尾為景を[[佐渡国|佐渡]]に追う。 |
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|- |
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|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |永正7年 |
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|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |[[1510年]] |
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|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" |79 |
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|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" |55 |
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|style="vertical-align:top" |[[上田政盛]]を扇谷家から離反させ[[権現山城]]で挙兵させるが、両上杉方の反攻により敗北する。([[権現山城の戦い]]) |
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|style="vertical-align:top" |山内顕定が長尾為景に討たれる。([[長森原の戦い]]) |
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|- |
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|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |永正8年 |
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|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |[[1511年]] |
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|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" |80 |
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|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" |56 |
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|style="vertical-align:top" | |
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|style="vertical-align:top" |足利義澄が細川澄元とともに入京を図るが、急死する。<br>[[船岡山の戦い]]で義稙方が義澄方に勝利。澄元は没落。<br>今川氏親、遠江の[[刑部城]]の戦いで尾張守護[[斯波義達]]に勝利。 |
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|- |
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|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |永正9年 |
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|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |[[1512年]] |
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|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" |81 |
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|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" |57 |
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|style="vertical-align:top" |相模の[[岡崎城 (相模国)|岡崎城]]と[[住吉城]]を攻略、[[三浦義同]]・[[三浦義意|義意]]父子を[[三崎城]](新井城)に追い込む。 |
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|style="vertical-align:top" |古河公方[[足利政氏]]と子の[[足利高基|高基]]が内訌を起こす。政氏は[[下野国|下野]]に逃亡。 |
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|- |
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|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |永正13年 |
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|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |[[1516年]] |
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|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" |85 |
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|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" |61 |
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|style="vertical-align:top" |[[三崎城]](新井城)を攻略、[[相模三浦氏]]を滅ぼす。'''相模平定'''。<br>[[上総国|上総]]の[[武田氏|真里谷武田氏]]を支援して[[房総半島]]に渡り、翌年まで転戦。 |
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|style="vertical-align:top" | |
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|- |
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|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |永正14年 |
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|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |[[1517年]] |
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|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" |86 |
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|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" |62 |
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|style="vertical-align:top" | |
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|style="vertical-align:top" |今川氏親、[[引馬城]]を攻略し、遠江を制圧。<br>[[足利義明]]が下総小弓御所に入る。([[小弓公方]]) |
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|- |
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|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |永正15年 |
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|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |[[1518年]] |
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|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" |87 |
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|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" |63 |
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|style="vertical-align:top" |家督を嫡男氏綱に譲る。<br>伊勢(後北条)氏、虎の[[印判状]]の使用を開始。 |
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|style="vertical-align:top" |扇谷朝良死去。 |
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|- |
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|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |永正16年 |
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|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |[[1519年]] |
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|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" |88 |
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|style="white-space:nowrap;vertical-align:top;text-align:right" |64 |
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|style="vertical-align:top" |早雲、韮山城で死去。 |
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|style="vertical-align:top" | |
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|- |
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|} |
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※年齢は数え歳、名は便宜上'''早雲'''で統一。 |
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== 妻子 == |
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早雲には3人の妻と4男2女の存在が確認されている<ref>[[#黒田(2005)|黒田(2005)]],p.54,56.</ref>。 |
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*[[正室]]:南陽院殿([[小笠原政清]]の娘) |
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**長男:[[北条氏綱]](1487年 - 1541年):後北条氏第二代当主。 |
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**次男?:[[北条氏時]]<ref name=kuroda200557/>(生年不明 - 1531年):[[玉縄城]]主。 |
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*[[側室]]:[[葛山氏]]の娘 |
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**三男?:[[葛山氏広]]<ref>[[#黒田(2005)|黒田(2005)]],pp.58-60.</ref>(生年不明- 1538年/1539年):駿河葛山氏へ養子。 |
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*側室:善修寺殿<ref>[[#黒田(2005)|黒田(2005)]],p.55.</ref> |
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**女子:長松院殿(生年不明 - 1585年):[[三浦氏員]]室。 |
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**四男:[[北条幻庵|幻庵宗哲]](1493年? - 1589年?):[[箱根権現]]別当。 |
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**女子:青松院殿(生没年不明) |
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氏綱が長男で宗哲が四男であり、善修寺殿の子は長松院殿が宗哲の姉、青松院殿が妹であることは判明しているが、氏時と氏広の長幼の順は分かっていない<ref>[[#黒田(2005)|黒田(2005)]],p.56,60</ref>。氏時の母は不明だが、氏綱と同腹の次男と推定されている<ref name=kuroda200557>[[#黒田(2005)|黒田(2005)]],p.57.</ref>。 |
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== 早雲の出自と生年の論争 == |
== 早雲の出自と生年の論争 == |
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既に老いの境に入った一介の[[伊勢国]]の素浪人が、妹が守護の愛妾となっていたのを頼りに駿河へ下って身を興し、後に関東を切り取る一代の梟雄 |
既に老いの境に入った一介の[[伊勢国|伊勢]]の素浪人が、妹が守護の愛妾となっていたのを頼りに駿河へ下って身を興し、後に関東を切り取る一代の梟雄北条早雲となる、というストーリーが従来小説などでよく描かれていた。 |
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[[江戸時代]]前期までは後北条氏は名門伊勢氏の出と考えられていた様子だが、江戸時代中期以降、『[[太閤記]]』の影響で戦国時代を身分の低い者が実力で身を興す「[[下克上]]の時代」と捉える考えが民衆の願望もあいまって形成され、[[明治|明治時代]]になって定着し、戦後まで続いた。その下克上 |
[[江戸時代]]前期までは後北条氏は名門伊勢氏の出と考えられていた様子だが、江戸時代中期以降、『[[太閤記]]』の影響で戦国時代を身分の低い者が実力で身を興す「[[下克上]]の時代」と捉える考えが民衆の願望もあいまって形成され、[[明治|明治時代]]になって定着し、戦後まで続いた<ref>[[#家永(2005)|家永(2005)]],pp.35-36</ref>。その下克上を代表する梟雄として北条早雲、[[斎藤道三]]、[[松永久秀]]が語られ、早雲は身分の低い素浪人とすることが通説となった<ref>[[#家永(2005)|家永(2005)]],p.34.</ref>。 |
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=== 出自に関する論争 === |
=== 出自に関する論争 === |
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早雲の出自については長年明らかにならず、主なものに、[[大和国]]在原説、[[山城国]]宇治説、伊勢説、京都説、備中説があった。 |
早雲の出自については長年明らかにならず、主なものに、[[大和国|大和]]在原説、[[山城国|山城]]宇治説、伊勢素浪人説、[[伊勢氏|京都伊勢氏]]説、備中伊勢氏説があった<ref>[[#家永(2005)|家永(2005)]],pp.36-37;[[#杉山(1974)|杉山(1974)]],pp.64-67.</ref>。 |
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大和在原説と山城宇治説は『[[北条五代記]]』に異説として紹介されたもので有力視はされなかった。伊勢説は『北条記』『相州兵乱記』に書かれており、早雲が[[信濃国|信濃]]守護・[[小笠原定基]]に宛てた書状で「伊勢の[[関氏]]と同族である」と書いていたことを根拠に[[1901年]]に[[藤井継平]]が主張し、[[田中義成]]がこれを支持した。 |
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大和在原説と山城宇治説は『[[北条五代記]]』に異説として紹介されたもので有力視はされなかった<ref>[[#杉山(1974)|杉山(1974)]],p.64.</ref>。伊勢説は『北条記』『相州兵乱記』に書かれており、早雲が[[信濃国|信濃]]守護[[小笠原定基]]に宛てた書状で「伊勢の[[関氏]]と同族である」と書いていたことを根拠に[[1901年]]に[[藤岡継平]]が早雲を伊勢出身の地方武士であるとする説を主張し、[[田中義成]]がこれを支持した<ref>[[#相模国盗り物語(2008)|相模国盗り物語(2008)]],p.27;[[#家永(2005)|家永(2005)]],pp.35-37,40-41;[[#杉山(1974)|杉山(1974)]],pp.65-66.</ref>。 |
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これに対して[[渡辺世祐]]は『[[寛政重修諸家譜]]』などにある幕府政所執事の京都伊勢氏の出身で、伊勢貞親の弟[[伊勢貞藤|貞藤]]またはその子供であろうとする京都説を主張した。一般には伊勢説が定着して「伊勢素浪人」という早雲像ができあがる。一方、研究者の間では京都説が有力視されていた。 |
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これに対して[[渡辺世祐]]は『[[寛政重修諸家譜]]』などにある幕府政所執事の京都伊勢氏の出身で、伊勢貞親の弟[[伊勢貞藤|貞藤]]の子供であろうとする京都説を主張した<ref>[[#杉山(1974)|杉山(1974)]],p.66.</ref>。一般には伊勢説が定着して「伊勢素浪人」という早雲像ができあがり、一方、研究者の間では京都説が有力視されていた<ref>[[#家永(2005)|家永(2005)]],p.37.</ref>。 |
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備中説は『今川記』および『太閤記』に書かれており、井原市法泉寺の古文書を調査した[[藤井駿]]が[[1956年]]に早雲を備中伊勢氏で将軍足利義尚の側近であった「伊勢新九郎盛時」とする論文を発表した。 |
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[[1980年]]前後に[[奥野高広]]、[[今谷明]]、[[小和田哲男]]が史料調査の結果として「伊勢新九郎盛時」を後の北条早雲とする論文を発表し、その後、有効な反論も出ず |
備中説は『今川記』および『太閤記』に書かれており、井原市法泉寺の古文書を調査した[[藤井駿]]が[[1956年]]に早雲を備中伊勢氏で将軍足利義尚の側近であった「伊勢新九郎盛時」とする論文を発表した<ref>[[#家永(2005)|家永(2005)]],pp.37-38.</ref>。[[1980年]]前後に[[奥野高広]]、[[今谷明]]、[[小和田哲男]]が史料調査の結果として「伊勢新九郎盛時」を後の北条早雲とする論文を発表し、その後、有効な反論も出ず、ほぼ定説化した<ref>[[#家永(2005)|家永(2005)]],pp.42-43.</ref>。江戸時代前期成立の『今川記』に戻った訳で「本卦返り」と呼ばれている<ref>[[#家永(2005)|家永(2005)]],p.40.</ref>。早雲は氏素性のない素浪人ではなく、将軍に直接仕える名門の出であったことになる。 |
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=== 生年に関する論争 === |
=== 生年に関する論争 === |
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早雲の年齢については江戸時代以来、享年88(永享4年(1432年)生)とされていた。当時としては非常に長命である。これだと、駿河に下向して興国寺城主となり、長男 |
早雲の年齢については江戸時代以来、享年88(永享4年(1432年)生)とされていた。当時としては非常に長命である。これだと、駿河に下向して興国寺城主となり、長男氏綱が生まれた時点で数え年で56歳、伊豆討ち入りの時点で62歳となる。江戸時代前期の史料で姉とされる北川殿が今川義忠と結婚した応仁元年(1467年)で早雲は36歳になっており、姉だと当時の女性としては晩婚に過ぎ、明治以降に享年88説に合わせて歳の離れた妹とされていた<ref>[[#黒田(2005)|黒田(2005)]],pp.14-15.</ref>。 |
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早雲は小説家や評論家から「大器晩成」の典型としてよく取り上げられた。しかしながら、早雲が歴史上に登場するのが50歳近く、本格的に活動するのが60歳を過ぎてから、最晩年の80歳を過ぎても自ら兵を率いて戦っており、いかに矍鑠としていても少々異様であるとして、疑問を呈する者もいた |
早雲は小説家や評論家から「大器晩成」の典型としてよく取り上げられた<ref name=kunitori25/>。しかしながら、早雲が歴史上に登場するのが50歳近く、本格的に活動するのが60歳を過ぎてから、最晩年の80歳を過ぎても自ら兵を率いて戦っており、いかに矍鑠としていても少々異様であるとして、疑問を呈する研究者もいた<ref name=kuroda200513>[[#黒田(2005)|黒田(2005)]],p.13;[[#下山(1999)|下山(1999)]],p.14.</ref>。 |
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1995年に[[黒田基樹]]は享年88は江戸時代中期以降の系図類から出たものであり江戸時代前期の史料には存在しないことを明らかにした<ref group="注釈">「北条早雲の事績に関する諸問題」『おだわら-歴史と文化』9号所収</ref><ref>[[#黒田(2005)|黒田(2005)]],pp.13-14.</ref>。永享4年(1432年)生まれだと近年有力視された幕臣伊勢盛時の父盛定の活動時期とも伊勢貞親(盛時の母の兄弟)の甥という系譜関係も成り立たなくなる<ref name=kuroda200513/>。 |
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これは長年、早雲と思われた伊勢貞藤の生年と混同されてしまった結果であるとし、江戸時代前期成立の軍記物で「子の年」生まれと記載されていること、姉の北川殿の結婚時期と考え合わせて、24歳若い康正2年(1456年)生まれであろうとした。これだと、姉の北川殿の結婚の時期に11歳頃、駿河下向時点で32歳、享年は64歳となり、当時の人間の活動としては妥当な年齢であることから、 |
これは長年、早雲と思われた伊勢貞藤の生年と混同されてしまった結果であるとし、江戸時代前期成立の軍記物で「子の年」生まれと記載されていること、姉の北川殿の結婚時期と考え合わせて、24歳若い康正2年(1456年)生まれであろうとした<ref>[[#黒田(2005)|黒田(2005)]],pp.16-17.</ref>。これだと、姉の北川殿の結婚の時期に11歳頃、駿河下向時点で32歳、享年は64歳となり、当時の人間の活動としては妥当な年齢であることから、この説を支持する研究者も出るようになった<ref name=ienaga45>[[#家永(2005)|家永(2005)]],p.45.</ref>。 |
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しかしながら、この説については未だ検討中の段階で、これを採らず享年88説を採る研究者もいる。 |
しかしながら、この説については未だ検討中の段階で、これを採らず享年88説を採る研究者もいる<ref name=ikegamiyahoo>{{cite web|title=北条早雲- Yahoo!百科事典|url=http://100.yahoo.co.jp/detail/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%97%A9%E9%9B%B2/|author=[[池上裕子]]|publisher=日本大百科全書(小学館)|accessdate=2012年7月14日}}</ref><ref>{{cite web|title=小田原城奪取|url=http://www.city.odawara.kanagawa.jp/encycl/neohojo5/004/|author=[[小和田哲男]]|publisher=小田原市|accessdate=2012年7月14日}}</ref>。小説や評論の類、インターネットなどでも早雲を「大器晩成」の典型として享年88説を採っているものが多く、必ずしも1456年生まれ説が一般に定着したわけではない。 |
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[[尼子経久]](享年84)、[[武田信虎]](享年81)など80代まで生きた著名な人物は存在する。[[龍造寺家兼]]のように、90代になってから挙兵、合戦をし、家を再興している事例がある。早雲と血縁が近い人物では、三男の[[北条幻庵]]が享年97(あるいは89)と、たいへん長寿であったとされる。 |
[[尼子経久]](享年84)、[[武田信虎]](享年81)など80代まで生きた著名な人物は存在する。[[龍造寺家兼]]のように、90代になってから挙兵、合戦をし、家を再興している事例がある。早雲と血縁が近い人物では、三男の[[北条幻庵]]が享年97(あるいは89)と、たいへん長寿であったとされる。 |
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=== 新説に対する一般の受容 === |
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=== 現況 === |
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作家などは身分が低く人生の辛酸を舐め、十分に老成した人間でなければ早雲のような活躍はできまいと長年論じてきたが、近年の研究を反映した早雲像は全く別であり、将軍に直接仕える名門一族の青年が幕府の命を帯びて駿河に下り、中央の政治と連動しながら関東で活躍して、後北条氏の祖となったことになる。 |
作家などは身分が低く人生の辛酸を舐め、十分に老成した人間でなければ早雲のような活躍はできまいと長年論じてきた<ref>[[#海音寺(1975)|海音寺(1975)]],pp.186-190.</ref>。しかしながら、近年の研究を反映した早雲像は全く別であり、将軍に直接仕える名門一族の青年が幕府の命を帯びて駿河に下り、中央の政治と連動しながら関東で活躍して、後北条氏の祖となったことになる<ref>[[#相川(2009)|相川(2009)]],pp.63,65,84-86.</ref>。 |
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1980年代に研究者の間で出自がほぼ定説化され、1990年代に生年についての新説が提示された以降の小説やメディア、自治体ではこれらの新説は以下のように扱われている。 |
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* [[司馬遼太郎]]の『[[箱根の坂]]』([[1984年]])では、その時期の研究を反映して単純な伊勢素浪人とせず、備中伊勢氏とし、政所執事[[伊勢貞親]]の屋敷に寄宿しながら京で足利義視に仕える設定である。しかしながら、大衆小説として「身分の低い素浪人」のイメージを守り、早雲を伊勢氏の末流とし、[[鞍]]作りを業にする職人的人物として描かれている。年齢については当時の通説の享年88説で「大器晩成」として描かれている。なお、北川殿は血の繋がらない妹とされている。 |
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* [[南原幹雄]]の『謀将 北条早雲』([[2002年]])では、近年の研究を反映して康正2年生まれ説を採り、北川殿は姉となっている。 |
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* [[2005年]]放送の「[[その時歴史が動いた]]:戦国をひらいた男~北条早雲 56才からの挑戦~」([[日本放送協会|NHK]]、ゲスト:[[小和田哲男]][[静岡大学]]教授)では、早雲を幕府の高級官僚としているが、年齢については享年88説を採り「大器晩成」として描いている(諸説を検討の結果一般的な説を採用したとのこと)。 |
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*[[司馬遼太郎]]の『[[箱根の坂]]』([[1984年]])では、その時期の研究を反映して単純な伊勢素浪人とせず、備中伊勢氏とし、政所執事[[伊勢貞親]]の屋敷に寄宿しながら京で足利義視に仕える設定である。しかしながら、大衆小説として「身分の低い素浪人」のイメージを守り、早雲を伊勢氏の末流とし、[[鞍]]作りを業にする職人的人物として描かれている。年齢については当時の通説の享年88説で「大器晩成」として描かれている。なお、北川殿は血の繋がらない妹とされている。 |
|||
[[1980年]]代以前の小説や一般向け書籍では、早雲を「非常に長命な大器晩成」「徒手空拳の素浪人」として書かれているものが多く、[[海音寺潮五郎]]の早雲の史伝などは典型であり、現在でもそのイメージで高齢者の再チャレンジの見本のように早雲を語る作家が少なくない。 |
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*21世紀に入って出版された[[南原幹雄]]の『謀将 北条早雲』([[2002年]])や[[伊東潤]] 『疾き雲のごとく~早雲と戦国黎明の男たち~』([[2008年]])、[[海道龍一朗]]『早雲立志伝』([[2011年]])では、近年の研究を反映して名門伊勢氏出身の幕府高級官僚とし、また康正2年生まれ説を採り、北川殿は姉となっている。 |
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== 関連作品 == |
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[[ファイル:Statue of soun hojo odawara station kanagawa ja wiki.JPG|thumb|220px|北条早雲の銅像(小田原駅西口前)]] |
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*[[2005年]]放送の「[[その時歴史が動いた]]:戦国をひらいた男~北条早雲 56才からの挑戦~」([[日本放送協会|NHK]]、ゲスト:[[小和田哲男]][[静岡大学]]教授)では、早雲を幕府の高級官僚としているが、年齢については享年88説を採り「大器晩成」として描いている<ref name=sonotoki>{{cite web|title=その時歴史が動いた#2005年 5月分 放映リスト(Internet Archive)|url=http://web.archive.org/web/20060503041110/http://www.nhk.or.jp/sonotoki/2005_05.html#02|publisher=[[日本放送協会]]|author=|page=|accessdate=2012年7月14日}}</ref>。 |
|||
*[http://www.city.odawara.kanagawa.jp/kanko/hojo/ 北条五代観光推進協議会](北条氏ゆかりの8市2町で構成)は早雲の出自を備中伊勢氏の幕臣として、生年については享年88説と享年64説を併記している<ref>{{cite web|title=北条氏五代100年の歴史|url=http://www.city.odawara.kanagawa.jp/kanko/hojo/p09347.html|publisher=北条五代観光推進協議会(小田原市公式サイト内)|author=|page=|accessdate=2012年7月16日}}</ref>。 |
|||
小説や一般向け書籍では、早雲は長らく「非常に長命な大器晩成」「徒手空拳の素浪人」として書かれており<ref>[[#相川(2009)|相川(2009)]],p.58.</ref>、歴史学者[[桑田忠親]]の著作<ref>[[#桑田(1990)|桑田(1990)]],pp.110-136.</ref>や小説家[[海音寺潮五郎]]の早雲の史伝<ref>[[#海音寺(1975)|海音寺(1975)]],pp.147-190.</ref>などはその典型である。2000年代以降でもそのイメージで中高年の再チャレンジの見本のように早雲を語るメディア<ref name=sonotoki/>や作家<ref>[[#井沢(2008)|井沢(2008)]],pp.22-23</ref>も少なくない。 |
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== 作品 == |
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| caption1 = 北条早雲像(小田原駅西口前) |
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| caption2 = 北条早雲像(早雲の里荏原駅) |
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'''銅像''' |
'''銅像''' |
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*[[小田原駅]]、[[早雲の里荏原駅]] |
*[[小田原駅]]、[[早雲の里荏原駅]]に北条早雲の像が建てられている。 |
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'''小説''' |
'''小説''' |
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*[[尾崎士郎]]『伊勢新九郎』[[講談社|大日本雄弁会講談社]]、1954年 |
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*[[早乙女貢]]『北条早雲(1)~(5) 』 [[文藝春秋]] 、1980年、ISBN B000J883W0 他 ※TVドラマ『若き日の北條早雲』の原作。 |
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*尾崎士郎『北条早雲』[[東方社]]、1955年 |
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*[[司馬遼太郎]] 『[[箱根の坂]](上)(下)』 [[講談社]]、1984年、ISBN 4062748010 ISBN 4062748037 |
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*[[土橋治重]] 『北条早雲―物語と史蹟をたずねて』[[成美堂出版]]、 |
*[[土橋治重]] 『北条早雲―物語と史蹟をたずねて』[[成美堂出版]]、1974年 |
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*[[早乙女貢]]『北条早雲(1)~(5) 』 [[文藝春秋]] 、1976年/1980年(文庫)、ISBN B000J883W0 他 ※TVドラマ『若き日の北條早雲』の原作。 |
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*[[司馬遼太郎]] 『[[箱根の坂]](上)(下)』 [[講談社]]、1984年、ISBN 4062748010 ISBN 4062748037 |
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*[[大栗丹後]]『大盗 乱世を奔る―小説・北条早雲』[[春陽堂書店]]、1995年、ISBN 978-4394161202 |
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*[[中村晃]]『北条早雲―理想郷を夢見た風雲児』[[PHP研究所]]、1996年、ISBN 978-4569569444 |
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*[[浜野卓]]『義の旗風―小説 北条早雲』東洋経済新報社、2001年、ISBN 4492061275 |
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*[[高野澄]]『北条早雲』[[学習研究社]]、2002年、978-4059002116 |
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*[[南原幹雄]]『謀将 北条早雲(上)(下)』[[角川書店]]、2002年、ISBN 4041633443 ISBN 4041633451 |
*[[南原幹雄]]『謀将 北条早雲(上)(下)』[[角川書店]]、2002年、ISBN 4041633443 ISBN 4041633451 |
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*[[前田徳男]]『戦国時代の魁―北条早雲』[[郁朋社]]、2006年、ISBN 978-4873023564 |
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*[[伊東潤]] 『疾き雲のごとく~早雲と戦国黎明の男たち~』[[宮帯出版社]]、2008年、ISBN 978-4900833531 |
*[[伊東潤]] 『疾き雲のごとく~早雲と戦国黎明の男たち~』[[宮帯出版社]]、2008年、ISBN 978-4900833531 |
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*[[海道龍一朗]]『早雲立志伝』[[角川書店]]、2011年、ISBN 4048741578 ISBN 978-4048741576 |
*[[海道龍一朗]]『早雲立志伝』[[角川書店]]、2011年、ISBN 4048741578 ISBN 978-4048741576 |
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*[[富樫倫太郎]]『北条早雲』月刊誌『[[中央公論]]』連載、2012年6月号~ ※[[風魔小太郎]]を主人公とした『早雲の軍配者』(中央公論新社、2010年)の前日譚。 |
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'''漫画''' |
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*[[永井豪]]、[[ダイナミック・プロ]]『北条早雲』 [[リイド社]]、2005年、ISBN 978-4845829019 |
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'''TVドラマ''' |
'''TVドラマ''' |
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*『[[若き日の北條早雲]]』([[1980年]]、[[テレビ朝日]])北条早雲:[[北大路欣也]]、足利茶々丸:[[志垣太郎]]他 |
*『[[若き日の北條早雲]]』([[1980年]]、[[テレビ朝日]])北条早雲:[[北大路欣也]]、足利茶々丸:[[志垣太郎]]他 |
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*『[[塚原卜伝 (テレビドラマ)|塚原卜伝]]』([[2011年]]、[[日本放送協会|NHK]]、[[BS時代劇]])伊勢宗瑞:[[中尾彬]] |
*『[[塚原卜伝 (テレビドラマ)|塚原卜伝]]』([[2011年]]、[[日本放送協会|NHK]]、[[BS時代劇]])伊勢宗瑞:[[中尾彬]] |
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==脚注== |
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=== 注釈 === |
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===出典=== |
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== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
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*{{Cite book|和書|author=|translator=|editor=[[池上裕子]]、[[小和田哲男]]、小林清治、[[池享]]、黒川直則 (編集) |year=1995|chapter=|title=クロニック戦国全史|series=|publisher=[[講談社]]|isbn=978-4062060165|ref=クロニック戦国全史(1995)}} |
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*『戦国の魁早雲と北条一族―北条五代百年の興亡の軌跡』[[新人物往来社]]、2005年。ISBN 4404033168 |
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*{{Cite book|和書|author=|translator=|editor=|year=1980|chapter=政所賦引付|title=室町幕府引付史料集成 下巻|series=|publisher=[[近藤出版社]]|isbn=|ref=室町幕府引付史料集成(1980)}} |
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*[[黒田基樹]]『戦国 北条一族』新人物往来社、2005年。ISBN 440403251X |
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*{{Cite book|和書|author=相川司|translator=|editor=|year=2009|chapter=|title=戦国・北条一族|series=Truth In History 17|publisher=[[新紀元社]]|isbn=978-4775307748|ref=相川(2009)}} |
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*[[下山治久]]『北条早雲と家臣団』[[有隣堂]]、1999年。ISBN 4896601564 |
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*{{Cite book|和書|author=[[家永遵嗣]]|translator=|editor=|year=2005|chapter=北条早雲の素性をさぐる」、「初代 北条早雲|title=戦国の魁早雲と北条一族―北条五代百年の興亡の軌跡|series=|publisher=[[新人物往来社]]|isbn=4404033168|ref=家永(2005)}} |
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*『戦国合戦大全(上巻)』[[学研ホールディングス|学研]]、1997年。ISBN 4056015287 |
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*{{Cite book|和書|author=[[市村高男]]|translator=|editor=|year=2009|chapter=|title=東国の戦国合戦|series=戦争の日本史10|publisher=[[吉川弘文館]]|isbn=978-4642063203|ref=市村(2009)}} |
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*『クロニック戦国全史』[[講談社]]、1995年。ISBN 4062060167 |
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*{{Cite book|和書|author=[[小和田哲男]]|translator=|editor=|year=1983|chapter=|title=駿河今川一族|series=|publisher=新人物往来社|isbn=B000J7HXUY|ref=小和田(1983)}} |
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*『真説戦国北条五代―早雲と一族、百年の興亡』学習研究社、1989年。ISBN 405105151X |
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*{{Cite book|和書|author=小和田哲男|translator=|editor=|year=1989|chapter=風雲児早雲の足跡」、「早雲の出自|title=真説戦国北条五代―早雲と一族、百年の興亡|series=|publisher=[[学研ホールディングス|学研]]|isbn=405105151X|ref=小和田(1989)}} |
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*[[小和田哲男]]『駿河今川一族』新人物往来社、1983年。ISBN B000J7HXUY |
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*[[海音寺潮五郎]] |
*{{Cite book|和書|author=[[海音寺潮五郎]]|translator=|editor=|year=1975|chapter=|title=武将列伝(2)|series=|publisher=[[文藝春秋]]|isbn=4167135027|ref=海音寺(1975)}} |
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*{{Cite book|和書|author=[[黒田基樹]]|translator=|editor=|year=2005|chapter=|title=戦国 北条一族|series=|publisher=新人物往来社|isbn=440403251X|ref=黒田(2005)}} |
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*[[杉山博]]『日本の歴史 (11) 戦国大名』[[中央公論新社]]、1974年。ISBN 4122000866 |
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*{{Cite book|和書|author=黒田基樹|translator=|editor=|year=1997|chapter=早雲、下克上の背景|title=戦国合戦大全(上巻)|series=|publisher=[[学研ホールディングス|学研]]|isbn=4056015287|ref=黒田(1997)}} |
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*[[桑田忠親]] 『新編日本合戦全集 応仁室町編』[[秋田書店]]、1990年。ISBN 4253003796 |
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*{{Cite book|和書|author=[[桑田忠親]]|translator=|editor=|year=1990|chapter=|title=新編日本合戦全集 応仁室町編|series=|publisher=[[秋田書店]]|isbn=4253003796|ref=桑田(1990)}}※1973年出版の新装版。 |
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*[[佐藤博信]] 『中世東国足利・北条氏の研究』[[岩田書院]]、2006年。ISBN 4872944267 |
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*{{Cite book|和書|author=[[佐藤博信]]|translator=|editor=|year=2006|chapter=|title=中世東国足利・北条氏の研究|series=|publisher=[[岩田書院]]|isbn=4872944267|ref=佐藤(2006)}} |
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*{{Cite book|和書|author=[[下山治久]]|translator=|editor=|year=1999|chapter=|title=北条早雲と家臣団|series=|publisher=[[有隣堂]]|isbn=4896601564|ref=下山(1999)}} |
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*{{Cite book|和書|author=[[杉山博]]|translator=|editor=|year=1974|chapter=|title=戦国大名|series=日本の歴史 (11)|publisher=[[中央公論新社]]|isbn=4122000866|ref=杉山(1974)}} |
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*{{Cite book|和書|author=古野貢|translator=|editor=|year=2008|chapter=|title=中世後期細川氏の政治構造|series=|publisher=[[吉川弘文館]]|isbn=|ref=古野(2008)}} |
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*{{Cite book|和書|author=|translator=|editor=|year=2008|chapter=|title=相模国盗り物語|series=週刊新說戦乱の日本史|publisher=[[小学館]]|isbn=|ref=相模国盗り物語(2008)}} |
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**{{Cite book|和書|author=[[井沢元彦]]|translator=|editor=|year=2008|chapter=中高年の星 北条早雲|title=相模国盗り物語|series=週刊新說戦乱の日本史|publisher=[[小学館]]|isbn=|ref=井沢(2008)}} |
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== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
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== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
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* [http://www.city.odawara.kanagawa.jp/encycl/neohojo5/ 新・北条五代記(小田原市)] |
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* [http://www.ibarakankou.jp/data/DB004/DB004.html 早雲の里(井原市観光協会)] |
* [http://www.ibarakankou.jp/data/DB004/DB004.html 早雲の里(井原市観光協会)] |
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{{後北条氏歴代当主||初代:1487年 - 1516年}} |
{{後北条氏歴代当主||初代:1487年 - 1516年}} |
2012年7月18日 (水) 10:46時点における版
北条早雲画像(小田原城所蔵) | |
時代 | 室町時代 - 戦国時代 |
生誕 | 永享4年(1432年)又は康正2年(1456年) |
死没 | 永正16年8月15日(1519年9月8日) |
改名 | 盛時 → 早雲庵宗瑞(号) |
別名 |
通称:新九郎 諱:長氏、氏茂 |
戒名 | 早雲寺殿天岳宗瑞公大禅定門 |
墓所 |
金剛峯寺(和歌山県伊都郡高野町) 早雲寺(神奈川県足柄下郡箱根町) |
幕府 | 室町幕府申次衆、奉公衆 |
主君 | 足利義政→義尚→義視→義澄→今川氏親 |
氏族 | 伊勢氏(後北条氏) |
父母 |
父:伊勢盛定、母:伊勢貞国女 養父:伊勢貞道 |
兄弟 | 盛時、弥二郎、北川殿(今川義忠室) |
妻 |
正室:南陽院殿(小笠原政清女) 側室:葛山氏、善修寺殿 |
子 |
氏綱、氏時、葛山氏広、長綱 長松院殿(三浦氏員室、高橋高種室) |
北条 早雲 / 伊勢 盛時(ほうじょう そううん / いせ もりとき)は、室町時代中後期(戦国時代初期)の武将で、戦国大名となった後北条氏の祖である。伊勢 宗瑞(いせ そうずい)とも呼ばれる。北条早雲は戦国大名の嚆矢であり、早雲の活動は東国の戦国時代の端緒として歴史的意義がある。
名称と生年
諱は長らく長氏(ながうじ)または氏茂(うじしげ)、氏盛(うじもり)などと伝えられてきたが、現在では盛時(もりとき)が定説となっている[1]。通称は新九郎(しんくろう)。号は早雲庵宗瑞(そううんあんそうずい)。生年は、長らく永享4年(1432年)が定説とされてきたが、近年新たに提唱された康正2年(1456年)説が有力視されつつある[2]。
なお伊勢家が、北条姓を称したのは盛時の嫡男・氏綱からであり、盛時の存命中に「北条早雲」の名が使われたことは一度もない点に注意する必要があるが、通例では伊勢盛時も遡って「北条早雲」と呼ばれる[3]。
これらの点に関しては、早雲の出自と生年の論争節に詳述する。なお、この項目での呼称は便宜上「(北条)早雲」で統一する。
生涯
出自
一介の素浪人から戦国大名にのし上がった下剋上の典型とする説が近代になって風聞され、通説とされてきた[4]。しかし、近年の研究では室町幕府の政所執事を務めた伊勢氏を出自とする考えが主流である[5]。1950年代に発表された藤井論文以降、伊勢氏のうちで備中国に居住した支流で、備中荏原荘(現井原市)で生まれたという説が有力となり、その後の資料検証によって荏原荘の半分を領する領主(300貫といわれる[6])であることがほぼ確定した[7]。
幕府申次衆の書状と駿河国関連の書状において照らし合わせたところ、記載された史料の「伊勢新九郎盛時」なる人物が同一である事も決め手となった[8]。従来の説は文献の解釈の違いによるところが大きく、さらに「備中伊勢氏」説は史料が最も豊富で多岐にわたる事も出自解明に寄与した[8]。
近年の研究で早雲の父・伊勢盛定が幕府政所執事伊勢貞親と共に8代将軍足利義政の申次衆として重要な位置にいた事も明らかになってきている[9]。早雲は伊勢盛定と京都伊勢氏当主で政所執事の伊勢貞国の娘との間に生まれた。決して身分の低い素浪人ではない。
早雲は盛定の所領、備中荏原荘で生まれ、若い頃はここに居住したと考えられる[10]。荏原荘には文明3年(1471年)付けの「平盛時」[注釈 1]の署名の禁制が残されている[11](ただし、花押が後のものとは異なる[12])。井原市神代町の高越城址には「北条早雲生誕の地」碑が建てられている[13]。備中からは大道寺氏、内藤氏、笠原氏など後北条氏の家臣が出ている[14]。
幕府申次衆・奉公衆
応仁元年(1467年)に応仁の乱が起こり、駿河守護今川義忠が上洛して東軍に加わった。義忠はしばしば伊勢貞親を訪れており、その申次を早雲の父盛定が務めている[9]。その縁で早雲の姉(または妹)の北川殿が義忠と結婚したと考えられる[15]。早雲が素浪人とされていた頃は北川殿は側室であろうとされていたが、備中伊勢氏は今川氏と家格的に遜色なく、近年では正室であると見られている[16]。文明5年(1473年)に北川殿は嫡男龍王丸(後の今川氏親)を生んだ。
京都で早雲は将軍義政の弟の義視に仕えたとされるが、近年有力視される康正2年(1456年)生まれとすると、義視が将軍後継者と擬されていた時期(1464年 - 1467年)には10歳前後で幼すぎ、応仁元年(1467年)以降、義視は西軍に走っている[17]。
「伊勢新九郎盛時」の名は文明13年(1481年)から文書に現れる[18]。文明15年(1483年)に9代将軍足利義尚の申次衆に任命されている。長享元年(1487年)奉公衆となる。
京で幕府に出仕している間、早雲は建仁寺と大徳寺で禅を学んでいる[19]。
駿河下向
文明8年(1476年)、今川義忠は遠江の塩売坂の戦いで西軍に属していた遠江の守護、斯波義廉の家臣横地氏、勝間田氏の襲撃を受けて討ち死にした。しかし、遠江の政情は複雑で、近年の研究ではこれらの国人は東軍の斯波義良に属するものだと考察されており、義忠は同じ東軍と戦っていたことになる[20]。
残された嫡男の龍王丸は幼少であり、このため今川氏の家臣三浦氏、朝比奈氏などが一族の小鹿範満(義忠の従兄弟)を擁立して、家中が二分される家督争いとなった。これに堀越公方足利政知と扇谷上杉家が介入し、それぞれ執事の上杉政憲と家宰の太田道灌を駿河国へ兵を率いて派遣させた。範満と上杉政憲は血縁があり、太田道灌も史料に範満の「合力」と記されている[21]。龍王丸派にとって情勢は不利であった。
北川殿の弟(または兄)である早雲は駿河へ下り、「和睦に反対する方を上杉氏らは攻撃する」と双方を騙して調停を行い龍王丸が成人するまで範満を家督代行とすることで決着させた。上杉政憲と太田道灌も撤兵させた(この時に道灌と会談したという話もある。旧来の説なら、早雲と道灌は同年齢であった)。両派は浅間神社で神水を酌み交わして和議を誓った。家督を代行した範満が駿河館に入り、龍王丸は母北川殿と小川の法永長者(長谷川政宣)の小川城(焼津市)に身を寄せた。
従来、この調停成功は早雲の抜群の知略による立身出世の第一歩とされるが、これは貞親・盛定の命により駿河守護家今川氏の家督相続介入の為に下向したものであるとの説が有力となっている[22]。この最初の駿河下向と家督争い調停について、黒田基樹は新説による早雲の推定年齢の若さ(20歳)と、事件について記している『鎌倉大草紙』には宗瑞(早雲)の名が見えないことから考えて、この話の信憑性に疑問を呈している[23]。
早雲の駿河下向については以下のような話が知られている。
『北条記』『名将言行録』に見える早雲駿河下向時の一節には、大道寺太郎、荒木兵庫、多目権兵衛・山中才四郎・荒川又次郎・在竹兵衛らの仲間6人(御由緒六家)と、伊勢で神水を酌み交わして、一人が大名になったら他の者は家臣になろうと誓い合ったという話が残っている[19]。『公方両将記』には、陸奥国へ下ろうとしていた早雲は駿河の薩埵峠で盗賊に遭い身ぐるみはがされて難渋していたところを守護の奥方の輿と出会い衣服を与えられた。それが「叔母」の北川殿であった。その縁で今川氏に仕えるようになったという話になっている[24][注釈 2]。いずれも、いかにも大志を抱く素浪人にふさわしい話となっている。
今川氏の家督争いが収まると早雲は京都へ戻り、9代将軍義尚に仕えて奉公衆になっている。
文明11年(1479年)、前将軍義政は龍王丸の家督継承を認めて本領を安堵する内書を出している[25][注釈 3]。ところが、龍王丸が15歳を過ぎて成人しても範満は家督を戻そうとはしなかった。
長享元年(1487年)、早雲は再び駿河へ下り、龍王丸を補佐すると共に石脇城(焼津市)に入って同志を集めた。同年11月、早雲は兵を起こし、駿河館を襲撃して範満とその弟小鹿孫五郎を殺した。龍王丸は駿河館に入り、2年後に元服して氏親を名乗り正式に今川家当主となる。
早雲は伊豆との国境に近い興国寺城(現沼津市)と所領を与えられた[5]。通説である興国寺城拝領については史料の確認が取れないとして異論もあり、善得寺城とする説もある[26]。駿河へ留まり、今川氏の家臣となった早雲は甥である氏親を補佐し、守護代の出す「打渡状」を発行していることから駿河守護代の地位にあったとも考えられている[27]。
この頃に早雲は幕府奉公衆小笠原政清の娘(南陽院殿)と結婚し、長享元年(1487年)に嫡男の氏綱が生まれている。
なお、この時期において興味深い話として早雲が借金問題を抱えていたとする話がある。これは、文明13年(1481年)に備中国に本拠を持つ細川京兆家の内衆庄元資の家臣渡辺帯刀丞が早雲に金を貸したところ、翌年には訴訟に至ったことが知られている[28]。この問題がどう決着したかは不明であるが、借金問題が早雲を京都から東国に向かわせる一因になった可能性がある[29]。
伊豆討入り
早雲が堀越公方足利政知の子茶々丸(11代将軍足利義澄の兄弟)を襲撃して滅ぼし、伊豆を奪った事件は、旧勢力が滅び、新興勢力が勃興する下克上の嚆矢とされ、戦国時代の幕開けとされている。政治が腐敗した京都を捨てて、関東の沃野に志を立てたように描かれてきた早雲だが、中央の政治と連動した動きを取っていることが近年の研究で分ってきた[30]。
享徳の乱で鎌倉公方足利成氏が幕府に叛き、将軍の命を受けた今川氏が鎌倉を攻めて占領。成氏は古河城に逃れて古河公方と呼ばれる反対勢力となり、幕府方の関東管領上杉氏と激しく戦った(享徳の乱)。将軍義政は成氏に代る鎌倉公方として異母兄の政知を送るが、成氏方の力が強く、鎌倉に入ることもできず伊豆北条に本拠に留まって堀越公方と呼ばれるようになった。文明14年(1483年)に成氏と上杉氏との和睦が成立。政知の存在は宙に浮いてしまい、伊豆一国のみを支配する存在となった。
政知には長男に茶々丸がいたが、正室の円満院との間に潤童子と清晃をもうけていた。清晃は出家して京にいたが、政知は勢力挽回のために日野富子や管領細川政元と連携してこの清晃を将軍に擁立しようと図っていたとの噂があったと長享元年の興福寺別当尋尊の日記に残っており、この計画に早雲と氏親が関与していたとする説もある[31]。
延徳3年(1491年)に政知が没すると、茶々丸が円満院と潤童子を殺害して強引に跡目を継ぐという事件が起きた。
早雲は延徳3年(1491年)5月までは「伊勢新九郎」の文書が残っているが、明応4年(1495年)の史料では「早雲庵宗瑞」と法名になっており、この間に出家したようだ[26]。この時代の武士の出家には政治的な意味があることが多く、清晃の母の円満院の横死が理由とする見方[32]または伊豆乱入に伴う幕府奉公衆からの退任を意味するとする見方[33]などがある。
明応2年(1493年)4月、管領細川政元が明応の政変を起こして10代将軍義材(後に義稙と改名)を追放。清晃を室町殿(実質上の将軍)に擁立した。清晃は還俗して義遐を名乗る(後に義澄と改名)。権力の座に就いた義遐は母と兄の敵討ちを幕府官僚の経歴を持ち、茶々丸の近隣に城を持つ早雲へ命じた[34]。これを受けて早雲は、同年夏か秋頃に伊豆堀越御所の茶々丸を攻撃した。この事件を伊豆討入りといい、この時期に東国戦国期が始まったと考えられている[35][注釈 4]。
後世の軍記物には、この伊豆討入りに際して、早雲が修善寺に湯治と称して自ら密偵となり伊豆の世情を調べたとしている。また、「討入りは、伊豆国の兵の多くが山内上杉家に動員され上野国の合戦に出て手薄になったのを好機とした。早雲の手勢200人と氏親に頼んで借りた300人の合わせて500人が、10艘の船に乗って清水浦を出港。駿河湾を渡って西伊豆の海岸に上陸すると、住民は海賊の襲来と恐れて家財道具を持って山へ逃げた。早雲の兵は一挙に堀越御所を急襲して火を放ち、茶々丸は山中に逃げ自害に追い込まれた」と書かれている[36]。
この他「早雲は伊豆国韮山城(現伊豆の国市)を新たな居城として伊豆国の統治を始めた。高札を立てて味方に参じれば本領を安堵すると約束し、一方で参じなければ作物を荒らして住居を破壊すると布告した。また、兵の乱暴狼藉を厳重に禁止し、病人を看護するなど善政を施し、茶々丸の悪政に苦しんでいた伊豆の武士や領民はたちまち早雲に従った。抵抗する関戸吉信の深根城(下田市)を落として皆殺しにして力を示した。そして、それまでの煩瑣で重い税制を廃して四公六民の租税を定め領民は歓喜し、伊豆一国は30日で平定された」と言われる[37]。
軍記物語などでは自害したと言われる茶々丸は史書においては堀越御所から逃亡しており、武田氏、関戸氏、狩野氏、土肥氏らに擁せられて早雲に数年に渡って抵抗した。早雲は伊豆の国人を味方につけながら茶々丸方を徐々に追い込み、明応7年(1497年)に南伊豆の深根城を落として、5年かかってようやく伊豆を平定している[38]。
伊豆の平定をする一方で、早雲は今川氏の武将としての活動も行っており、明応3年(1494年)頃から今川氏の兵を指揮して遠江へ侵攻して、中遠まで制圧している。早雲と氏親は連携して領国を拡大していく。
小田原城奪取
二本の大きな杉の木を鼠が根本から食い倒し、やがて鼠は虎に変じる。という霊夢を早雲が見たという話が『北条記』に書かれている。二本の杉とは関東管領の山内上杉家と扇谷上杉家、鼠とは子の年生まれの早雲のことである[39]。
明応3年(1494年)、関東では山内上杉家と扇谷上杉家の抗争(長享の乱)が再燃し、扇谷家の上杉定正は早雲に援軍を依頼。定正と早雲は荒川で山内家当主で関東管領上杉顕定の軍と対峙するが、定正が落馬して死去したことにより、早雲は兵を返した。
扇谷家は相模の三浦氏と大森氏を支柱としていたが、この年にそれぞれの当主である扇谷定正、三浦時高、大森氏頼の3人が死去するという不運に見舞われている。
早雲は茶々丸の討伐・捜索を大義名分として、明応4年(1495年)に甲斐には攻め込み、甲斐守護武田信縄と戦っている[注釈 5]。同年9月、相模小田原の大森藤頼を討ち小田原城を奪取した[40]。
『北条記』によれば、早雲は大森藤頼にたびたび進物を贈るようになり、最初は警戒していた藤頼も心を許して早雲と親しく歓談するようになった。ある日、早雲は箱根山での鹿狩りのために領内に勢子を入れさせて欲しいと願い、藤頼は快く許した。早雲は屈強の兵を勢子に仕立てて箱根山に入れる。
その夜、千頭の牛の角に松明を灯した早雲の兵が小田原城へ迫り、勢子に扮して背後の箱根山に伏せていた兵たちが鬨の声を上げて火を放つ。数万の兵が攻め寄せてきたと、おびえた小田原城は大混乱になり、藤頼は命からがら逃げ出して、早雲は易々と小田原城を手に入れたという。典型的な城盗りの物語で、似たような話は織田信秀の那古野城奪取、尼子経久の月山富田城奪取にもあり、どこまで真実か分らない。
この小田原城奪取は明応4年(1495年)9月とされているが、史料によって年月が異なる。黒田基樹は明応5年(1496年)に山内家が小田原城と思われる要害を攻撃し、扇谷家の守備側の名に大森藤頼と早雲の弟弥二郎の名が山内顕定の書状にあったことを根拠に年次に疑問を呈し、それ以降のことではないかとしている[41]。『小田原市史』で小田原城奪取の件を執筆した佐藤博信も黒田と同様の見解を採るとともに、早雲の子・幻庵が大森氏出身の海実から箱根権現別当の地位を譲られたことや享徳の乱の頃(藤頼の父とされる氏頼の時代)に大森氏で内紛があったことを指摘し、早雲の進出もこの大森氏の内情に乗じたものと推定している。
また、明応10年3月28日(文亀元年/1501年)に早雲が小田原城下にあった伊豆山神社の所有地を自領の1ヶ村と交換した文書が残されており、この時点では早雲が小田原城を既に領有していたとみられている[42]。
小田原城は後に後北条氏の本城となるが、早雲は終生、伊豆韮山城を居城としている。
小田原城奪取など早雲の一連の行動は茶々丸討伐という目的だけでなく、自らの勢力範囲を拡大しようとする意図もあったと見られていた。だが近年の研究では義澄-細川政元-今川氏親-早雲のラインと、足利義稙-大内政弘-足利茶々丸-武田信虎のライン、即ち明応の政変による対立構図の中での軍事行動であることが明らかになってきている。旧来の説では同じ扇谷方の大森氏を早雲がだまし討ちにしたことになるが、近年の研究ではこの小田原城奪取も大森藤頼が山内上杉氏に寝返った為のものと考えられている[43]。
明応8年(1498年)、早雲は甲斐で茶々丸を捕捉し、殺害することに成功した[44]。茶々丸を討った場所については、伊豆国の深根城とする説もある[45]。
今川氏の武将としての活動も続き、文亀年間(1501年 - 1504年)には三河にまで進んでいる。『柳営秘鑑』によると文亀元年(1501年)9月、岩付(岩津)城下にて松平長親(徳川家康の高祖父)と戦って敗北し、三河侵攻は失敗に終わっている。松平方の先陣の酒井氏、本多氏、大久保氏の働きがあったという。ただし、徳川実紀では永正3年(1506年)8月20日のこととされている。
相模平定
その後、早雲は相模方面へ本格的に転進し、関東南部の制圧に乗り出したが、茶々丸討伐の名目を失ったため、この後の軍事行動には多大な困難が伴った。更に、伊豆・西相模を失った山内顕定が義澄・政元に接近したため、氏親・早雲の政治的な立場が弱くなった[46]。
それでも早雲と氏親は、今度は義稙-大内ラインに与し、徐々に相模に勢力を拡大していった[47]。こうした関東進出の大きな画期となったのは、永正元年(1504年)8月の武蔵立河原の戦いであり、扇谷定正の甥で扇谷家当主上杉朝良に味方した早雲は、氏親と共に出陣して山内顕定に勝利した[48]。
この敗戦後に顕定は弟の越後守護上杉房能と同守護代長尾能景の来援を得て反撃に出る。相模へ乱入して、扇谷家の諸城を攻略。翌永正2年(1505年)、河越城に追い込まれた朝良は降伏した。これにより、早雲は山内家、扇谷家の両上杉家と敵対することになる。
永正6年(1509年)以降は早雲の今川氏の武将としての活動はほとんど見られなくなり、早雲は相模進出に集中する[49]。永正3年(1506年)に相模で検地を初めて実施して支配の強化を図っている[50]。
永正4年(1507年)、管領細川政元が家臣の香西元長・竹田孫七・薬師寺長忠に暗殺される(永正の錯乱)。同年、越後守護上杉房能が守護代の長尾為景(上杉謙信の父)に殺される事件が起きた。早雲は為景や長尾景春と結んで顕定を牽制した。
永正6年7月、顕定は大軍を率いて越後へ出陣。同年8月、この隙を突いて早雲は扇谷朝良の本拠地江戸城に迫った。上野に出陣していた朝良は兵を返して反撃に出て、翌永正7年(1510年)まで早雲と武蔵、相模で戦った。
早雲は権現山城(横浜市)の上田政盛を扇谷家から離反させ攻勢に出るが、同年7月になって山内家の援軍を得た扇谷家が反撃に出て、権現山城は落城。三浦義同(道寸)が早雲方の住吉要害(平塚市)を攻略して小田原城まで迫る。早雲は手痛い敗北を喫し、扇谷家との和睦で切り抜けた。一方、同年6月20日には越後に出陣していた顕定は長尾為景の逆襲を受けて敗死、死後に2人の養子顕実と憲房の争いが発生、古河公方家でも足利政氏・高基父子の抗争が起こり、朝良はこれらの調停に追われた(永正の乱)。
三浦氏は相模の名族で源頼朝の挙兵に参じ、鎌倉幕府創立の功臣として大きな勢力を有していたが、嫡流は執権の北条氏に宝治合戦で滅ぼされている。しかし、傍流は相模の豪族として続き、相模で大きな力を持っていた(相模三浦氏)。この頃の三浦氏は扇谷家に属し、同氏の出身で当主の義同(道寸)が相模中央部の岡崎城(現伊勢原市)を本拠とし、三浦半島の新井城[51]または三崎城[52](現三浦市)を子の義意が守っていた。早雲の相模平定のためには、どうしても三浦氏を滅ぼさねばならなかった。
敗戦から体勢を立て直した早雲は、永正9年(1512年)8月に岡崎城を攻略し、義同を住吉城(逗子市)に敗走させ、勢いに乗って住吉城も落とし、義同は義意の守る三崎城に逃げ込んだ。早雲は鎌倉に入り、相模の支配権をほぼ掌握する。朝良の甥の朝興が江戸城から救援に駆けつけるが、早雲はこれを撃破する。さらに三浦氏を攻略するため、同年10月、鎌倉に玉縄城を築いた。
義同はしばしば兵を繰り出して早雲と戦火を交えるが、次第に圧迫され三浦半島に封じ込められてしまった。扇谷家も救援の兵を送るがことごとく撃退された。
永正13年(1516年)7月、扇谷朝興が三浦氏救援のため玉縄城を攻めるが早雲はこれを打ち破り、義同・義意父子の篭る三崎城に攻め寄せた。激戦の末に義同・義意父子は討ち死にする。名族三浦氏は滅び、早雲は相模全域を平定した[53]。
その後、早雲は上総の真里谷武田氏を支援して、房総半島に渡り、翌永正14年(1517年)まで転戦している[54]。
永正15年(1518年)、家督を嫡男氏綱に譲り、翌永正16年(1519年)に死去した。享年は64または88。後嗣の氏綱は2年後に菩提寺として早雲寺(神奈川県箱根町)を創建させていいる[55][56]。
早雲は、領国支配の強化を積極的に進めた最初期の大名であり、その点から、戦国大名の先駆けと評価されている[57]。『早雲寺殿廿一箇条』という家法を定め、これは分国法の祖形となった[58][注釈 6]。永正3年(1506年)に小田原周辺で指出検地(在地領主に土地面積・年貢量を申告させる検地)を実施しているが、これは、戦国大名による検地として最古の事例とされている[59]。
また、死の前年から伊勢(後北条)氏は虎の印判状を用いるようになっている[60]。印判状のない徴収命令は無効とし、郡代・代官による百姓・職人への違法な搾取を止める体制が整えられた[61]。
早雲の後を継いだ氏綱は北条氏(後北条氏)を称して武蔵国へ領国を拡大。以後、氏康、氏政、氏直と勢力を伸ばし、5代に渡って関東に覇を唱えることになる。
年表
和暦 | 西暦 | 年齢 享年88説 |
年齢 享年64説 |
北条早雲(伊勢盛時)関連事項 | 参考事項 |
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永享4年 | 1432年 | 1 | 早雲、備中国高越城で出生。(享年88説) | ||
永享10年 | 1438年 | 7 | 永享の乱、鎌倉公方足利持氏自害。鎌倉公方一旦滅亡。 | ||
永享13年 嘉吉元年 |
1441年 | 10 | 嘉吉の乱、将軍足利義教が赤松満祐に暗殺される。 | ||
嘉吉3年 | 1443年 | 12 | 禁闕の変、神璽が後南朝に奪われる。 | ||
文安6年 宝徳元年 |
1449年 | 18 | 足利義政に将軍宣下。 鎌倉公方が再興され、持氏の遺児成氏が任命される。 | ||
享徳3年 | 1454年 | 23 | 鎌倉公方足利成氏、関東管領上杉憲忠を謀殺。享徳の乱はじまる。 | ||
享徳4年 康正元年 |
1455年 | 24 | 駿河守護今川範忠の軍勢が鎌倉を占領、成氏は下総古河に逃れる。(古河公方) 将軍足利義政と日野富子が結婚。 | ||
康正2年 | 1456年 | 25 | 1 | 早雲、備中国高越城で出生。(享年64説) | |
康正3年 長禄元年 |
1457年 | 26 | 2 | 太田道灌、江戸城を築く。 将軍足利義政が弟の政知を関東に送る。(堀越公方) 長禄の変、後南朝に奪われていた神璽を赤松家遺臣が奪回。 | |
寛正2年 | 1461年 | 30 | 6 | 寛正の大飢饉、洛中の餓死者8万人以上。 | |
寛正5年 | 1464年 | 33 | 9 | この頃に足利義視の近侍となる。 | 将軍義政の弟義尋、還俗して将軍後継者となる。(足利義視) 土御門天皇践祚。 |
寛正7年 文正元年 |
1466年 | 35 | 11 | 細川勝元、山名宗全と対立した政所執事伊勢貞親が近江に逃亡。 | |
文正2年 応仁元年 |
1467年 | 36 | 12 | この頃に姉妹の北川殿と駿河守護今川義忠が結婚[16]。 | 応仁の乱勃発。京都で細川方・山名方の軍勢数万が合戦。 足利義視、伊勢に出奔。 |
応仁2年 | 1468年 | 37 | 13 | 足利義視、西軍(山名方)の大将に迎えられる。 | |
文明3年 | 1471年 | 40 | 16 | 備中国荏原荘に「平盛時禁制」を発する[11]。 | 関東管領山内顕定が成氏の居城古河城を攻略。 |
文明5年 | 1473年 | 42 | 18 | 北川殿が龍王丸(後の今川氏親)を生む。 | 山名宗全、細川勝元が死去。 足利義尚に将軍宣下。 |
文明8年 | 1476年 | 45 | 21 | 駿河に下向して龍王丸派と小鹿範満派との家督争いを調停。 | 今川義忠が遠江の塩売坂の戦いで戦死。 長尾景春が上杉方の五十子の陣を襲撃する。(長尾景春の乱) |
文明9年 | 1477年 | 46 | 22 | 扇谷氏家宰太田道灌、江古田・沼袋原の戦いなどで景春方を連破する。 京都で東西両軍の和睦がほぼ成立し、応仁の乱終わる。 | |
文明11年 | 1479年 | 48 | 24 | 前将軍足利義政、龍王丸に本領安堵の内書を発する[注釈 3]。 | |
文明13年 | 1481年 | 50 | 26 | 文書での「伊勢新九郎盛時」の初見[18]。 | |
文明14年 | 1482年 | 51 | 27 | 金銭貸借を巡り、庄元資と訴訟沙汰になる。 | 幕府と古河公方足利成氏との和睦が成立、享徳の乱終わる。(都鄙合体) |
文明15年 | 1483年 | 52 | 28 | 将軍足利義尚の申次衆となる。 | |
文明17年 | 1485年 | 54 | 30 | 山城国一揆起こる。 | |
文明18年 | 1486年 | 55 | 31 | 尼子経久が出雲国富田城を奪回。 太田道灌、主君扇谷定正に謀殺される。 | |
文明19年 長享元年 |
1487年 | 56 | 32 | 将軍足利義尚の奉公衆となる。 駿河に下り、駿河館を襲撃して小鹿範満を討つ。 興国寺城主となる。 嫡男の伊豆千代丸(北条氏綱)生まれる。 |
龍王丸、元服して今川氏親を名乗る。 将軍足利義尚、六角高頼を攻めるために近江に出陣。 |
長享2年 | 1488年 | 57 | 33 | 山内上杉家と扇谷上杉家の抗争(長享の乱)が勃発。 加賀一向一揆、一揆勢が加賀守護富樫政親を攻め、自害に追い込む。 | |
長享3年 延徳元年 |
1489年 | 58 | 34 | 日野富子と管領細川政元が清晃擁立を図ったとの風聞。(早雲関与の説あり[31]。) | 将軍足利義尚死去、義視の子義材が将軍に迎えられる。 |
延徳2年 | 1490年 | 59 | 35 | 足利義政死去。 | |
延徳3年 | 1491年 | 60 | 36 | 「伊勢新九郎」の名の最後の文書。明応4年(1495年)までに出家して早雲庵宗瑞を名乗る[26]。 | 足利義視死去 堀越公方足利政知死去。 茶々丸が継母円満院と弟の潤童子を殺害して堀越公方の家督を継ぐ。 将軍足利義材、近江に出兵して六角氏を攻める。 |
延徳4年 明応元年 |
1492年 | 61 | 37 | 甲斐武田家の武田信縄・信恵兄弟が家督争いを起こす。 | |
明応2年 | 1493年 | 62 | 38 | 伊豆堀越御所の茶々丸を襲撃。(伊豆討ち入り) | 明応の政変、管領細川政元がクーデターを起こして将軍足利義材を追放。清晃(足利義澄)を擁立する。 |
明応3年 | 1494年 | 63 | 39 | 扇谷方として武蔵国高見原に出兵するが、扇谷定正の急死により撤退する。 今川氏の武将として遠江へ侵攻。 |
三浦義同、養父三浦時高を攻め殺して三浦氏の家督を継承。 小田原城主大森氏頼死去。 |
明応4年 | 1495年 | 64 | 40 | 甲斐に出兵して守護武田信縄と戦う。 大森藤頼を討ち小田原城を奪取。事件の年次については明応5年(1496年)以降、明応10年(1501年)までの間とする説もある[41]。 |
|
明応5年 | 1496年 | 65 | 41 | 山内方が相模西部に進軍して小田原城を攻める。城を守る弟の弥二郎と大森氏は敗走[41]。 | 日野富子死去。 |
明応6年 | 1497年 | 66 | 42 | 関戸吉信の守る深根城を陥れる。伊豆平定。 | 古河公方足利成氏死去。 |
明応7年 | 1498年 | 67 | 43 | 甲斐で茶々丸を捕捉して殺害する。伊豆の深根城で討ち取ったとする説もある[45]。 | |
明応8年 | 1499年 | 68 | 44 | 蓮如死去 | |
明応9年 | 1500年 | 69 | 45 | 土御門天皇崩御。後柏原天皇践祚。 | |
明応10年 文亀元年 |
1501年 | 70 | 46 | 今川家の武将として三河に出兵し、松平長親と戦う。 | |
文亀4年 永正元年 |
1504年 | 73 | 49 | 扇谷朝良・氏親・早雲の連合軍、立河原の戦いで山内顕定に勝利する。 | |
永正2年 | 1505年 | 74 | 50 | 扇谷朝良が河越城で山内方に降伏。長享の乱終わる。 | |
永正3年 | 1506年 | 75 | 51 | 相模で初めて検地を実施。 | |
永正4年 | 1507年 | 76 | 52 | 管領細川政元が養子細川澄之と家臣薬師寺長忠に暗殺される。細川氏の内訌はじまる。(永正の錯乱) 細川澄元が京を制圧。 越後守護上杉房能が守護代長尾為景に殺害される。 | |
永正5年 | 1508年 | 77 | 53 | 今川勢を率いて三河に侵攻するが松平長親に敗れる。 | 前将軍足利義稙が大内義興・細川高国とともに入京。将軍足利義澄は近江に逃亡し、義稙が将軍復帰。 甲斐守護武田信虎、叔父の油川信恵一族を滅ぼす。 今川氏親、遠江守護に任じられる。 |
永正6年 | 1509年 | 78 | 54 | 早雲、武蔵に出兵して江戸城に迫る。 | 管領山内顕定、越後に出兵し、長尾為景を佐渡に追う。 |
永正7年 | 1510年 | 79 | 55 | 上田政盛を扇谷家から離反させ権現山城で挙兵させるが、両上杉方の反攻により敗北する。(権現山城の戦い) | 山内顕定が長尾為景に討たれる。(長森原の戦い) |
永正8年 | 1511年 | 80 | 56 | 足利義澄が細川澄元とともに入京を図るが、急死する。 船岡山の戦いで義稙方が義澄方に勝利。澄元は没落。 今川氏親、遠江の刑部城の戦いで尾張守護斯波義達に勝利。 | |
永正9年 | 1512年 | 81 | 57 | 相模の岡崎城と住吉城を攻略、三浦義同・義意父子を三崎城(新井城)に追い込む。 | 古河公方足利政氏と子の高基が内訌を起こす。政氏は下野に逃亡。 |
永正13年 | 1516年 | 85 | 61 | 三崎城(新井城)を攻略、相模三浦氏を滅ぼす。相模平定。 上総の真里谷武田氏を支援して房総半島に渡り、翌年まで転戦。 |
|
永正14年 | 1517年 | 86 | 62 | 今川氏親、引馬城を攻略し、遠江を制圧。 足利義明が下総小弓御所に入る。(小弓公方) | |
永正15年 | 1518年 | 87 | 63 | 家督を嫡男氏綱に譲る。 伊勢(後北条)氏、虎の印判状の使用を開始。 |
扇谷朝良死去。 |
永正16年 | 1519年 | 88 | 64 | 早雲、韮山城で死去。 |
※年齢は数え歳、名は便宜上早雲で統一。
妻子
早雲には3人の妻と4男2女の存在が確認されている[62]。
氏綱が長男で宗哲が四男であり、善修寺殿の子は長松院殿が宗哲の姉、青松院殿が妹であることは判明しているが、氏時と氏広の長幼の順は分かっていない[66]。氏時の母は不明だが、氏綱と同腹の次男と推定されている[63]。
早雲の出自と生年の論争
既に老いの境に入った一介の伊勢の素浪人が、妹が守護の愛妾となっていたのを頼りに駿河へ下って身を興し、後に関東を切り取る一代の梟雄北条早雲となる、というストーリーが従来小説などでよく描かれていた。
江戸時代前期までは後北条氏は名門伊勢氏の出と考えられていた様子だが、江戸時代中期以降、『太閤記』の影響で戦国時代を身分の低い者が実力で身を興す「下克上の時代」と捉える考えが民衆の願望もあいまって形成され、明治時代になって定着し、戦後まで続いた[67]。その下克上を代表する梟雄として北条早雲、斎藤道三、松永久秀が語られ、早雲は身分の低い素浪人とすることが通説となった[68]。
出自に関する論争
早雲の出自については長年明らかにならず、主なものに、大和在原説、山城宇治説、伊勢素浪人説、京都伊勢氏説、備中伊勢氏説があった[69]。
大和在原説と山城宇治説は『北条五代記』に異説として紹介されたもので有力視はされなかった[70]。伊勢説は『北条記』『相州兵乱記』に書かれており、早雲が信濃守護小笠原定基に宛てた書状で「伊勢の関氏と同族である」と書いていたことを根拠に1901年に藤岡継平が早雲を伊勢出身の地方武士であるとする説を主張し、田中義成がこれを支持した[71]。
これに対して渡辺世祐は『寛政重修諸家譜』などにある幕府政所執事の京都伊勢氏の出身で、伊勢貞親の弟貞藤の子供であろうとする京都説を主張した[72]。一般には伊勢説が定着して「伊勢素浪人」という早雲像ができあがり、一方、研究者の間では京都説が有力視されていた[73]。
備中説は『今川記』および『太閤記』に書かれており、井原市法泉寺の古文書を調査した藤井駿が1956年に早雲を備中伊勢氏で将軍足利義尚の側近であった「伊勢新九郎盛時」とする論文を発表した[74]。1980年前後に奥野高広、今谷明、小和田哲男が史料調査の結果として「伊勢新九郎盛時」を後の北条早雲とする論文を発表し、その後、有効な反論も出ず、ほぼ定説化した[75]。江戸時代前期成立の『今川記』に戻った訳で「本卦返り」と呼ばれている[76]。早雲は氏素性のない素浪人ではなく、将軍に直接仕える名門の出であったことになる。
生年に関する論争
早雲の年齢については江戸時代以来、享年88(永享4年(1432年)生)とされていた。当時としては非常に長命である。これだと、駿河に下向して興国寺城主となり、長男氏綱が生まれた時点で数え年で56歳、伊豆討ち入りの時点で62歳となる。江戸時代前期の史料で姉とされる北川殿が今川義忠と結婚した応仁元年(1467年)で早雲は36歳になっており、姉だと当時の女性としては晩婚に過ぎ、明治以降に享年88説に合わせて歳の離れた妹とされていた[77]。
早雲は小説家や評論家から「大器晩成」の典型としてよく取り上げられた[17]。しかしながら、早雲が歴史上に登場するのが50歳近く、本格的に活動するのが60歳を過ぎてから、最晩年の80歳を過ぎても自ら兵を率いて戦っており、いかに矍鑠としていても少々異様であるとして、疑問を呈する研究者もいた[78]。
1995年に黒田基樹は享年88は江戸時代中期以降の系図類から出たものであり江戸時代前期の史料には存在しないことを明らかにした[注釈 7][79]。永享4年(1432年)生まれだと近年有力視された幕臣伊勢盛時の父盛定の活動時期とも伊勢貞親(盛時の母の兄弟)の甥という系譜関係も成り立たなくなる[78]。
これは長年、早雲と思われた伊勢貞藤の生年と混同されてしまった結果であるとし、江戸時代前期成立の軍記物で「子の年」生まれと記載されていること、姉の北川殿の結婚時期と考え合わせて、24歳若い康正2年(1456年)生まれであろうとした[80]。これだと、姉の北川殿の結婚の時期に11歳頃、駿河下向時点で32歳、享年は64歳となり、当時の人間の活動としては妥当な年齢であることから、この説を支持する研究者も出るようになった[2]。
しかしながら、この説については未だ検討中の段階で、これを採らず享年88説を採る研究者もいる[5][81]。小説や評論の類、インターネットなどでも早雲を「大器晩成」の典型として享年88説を採っているものが多く、必ずしも1456年生まれ説が一般に定着したわけではない。
尼子経久(享年84)、武田信虎(享年81)など80代まで生きた著名な人物は存在する。龍造寺家兼のように、90代になってから挙兵、合戦をし、家を再興している事例がある。早雲と血縁が近い人物では、三男の北条幻庵が享年97(あるいは89)と、たいへん長寿であったとされる。
新説に対する一般の受容
作家などは身分が低く人生の辛酸を舐め、十分に老成した人間でなければ早雲のような活躍はできまいと長年論じてきた[82]。しかしながら、近年の研究を反映した早雲像は全く別であり、将軍に直接仕える名門一族の青年が幕府の命を帯びて駿河に下り、中央の政治と連動しながら関東で活躍して、後北条氏の祖となったことになる[83]。
1980年代に研究者の間で出自がほぼ定説化され、1990年代に生年についての新説が提示された以降の小説やメディア、自治体ではこれらの新説は以下のように扱われている。
- 司馬遼太郎の『箱根の坂』(1984年)では、その時期の研究を反映して単純な伊勢素浪人とせず、備中伊勢氏とし、政所執事伊勢貞親の屋敷に寄宿しながら京で足利義視に仕える設定である。しかしながら、大衆小説として「身分の低い素浪人」のイメージを守り、早雲を伊勢氏の末流とし、鞍作りを業にする職人的人物として描かれている。年齢については当時の通説の享年88説で「大器晩成」として描かれている。なお、北川殿は血の繋がらない妹とされている。
- 21世紀に入って出版された南原幹雄の『謀将 北条早雲』(2002年)や伊東潤 『疾き雲のごとく~早雲と戦国黎明の男たち~』(2008年)、海道龍一朗『早雲立志伝』(2011年)では、近年の研究を反映して名門伊勢氏出身の幕府高級官僚とし、また康正2年生まれ説を採り、北川殿は姉となっている。
- 2005年放送の「その時歴史が動いた:戦国をひらいた男~北条早雲 56才からの挑戦~」(NHK、ゲスト:小和田哲男静岡大学教授)では、早雲を幕府の高級官僚としているが、年齢については享年88説を採り「大器晩成」として描いている[84]。
- 北条五代観光推進協議会(北条氏ゆかりの8市2町で構成)は早雲の出自を備中伊勢氏の幕臣として、生年については享年88説と享年64説を併記している[85]。
小説や一般向け書籍では、早雲は長らく「非常に長命な大器晩成」「徒手空拳の素浪人」として書かれており[86]、歴史学者桑田忠親の著作[87]や小説家海音寺潮五郎の早雲の史伝[88]などはその典型である。2000年代以降でもそのイメージで中高年の再チャレンジの見本のように早雲を語るメディア[84]や作家[89]も少なくない。
作品
銅像
小説
- 尾崎士郎『伊勢新九郎』大日本雄弁会講談社、1954年
- 尾崎士郎『北条早雲』東方社、1955年
- 土橋治重 『北条早雲―物語と史蹟をたずねて』成美堂出版、1974年
- 早乙女貢『北条早雲(1)~(5) 』 文藝春秋 、1976年/1980年(文庫)、ISBN B000J883W0 他 ※TVドラマ『若き日の北條早雲』の原作。
- 司馬遼太郎 『箱根の坂(上)(下)』 講談社、1984年、ISBN 4062748010 ISBN 4062748037
- 大栗丹後『大盗 乱世を奔る―小説・北条早雲』春陽堂書店、1995年、ISBN 978-4394161202
- 中村晃『北条早雲―理想郷を夢見た風雲児』PHP研究所、1996年、ISBN 978-4569569444
- 浜野卓『義の旗風―小説 北条早雲』東洋経済新報社、2001年、ISBN 4492061275
- 高野澄『北条早雲』学習研究社、2002年、978-4059002116
- 南原幹雄『謀将 北条早雲(上)(下)』角川書店、2002年、ISBN 4041633443 ISBN 4041633451
- 前田徳男『戦国時代の魁―北条早雲』郁朋社、2006年、ISBN 978-4873023564
- 伊東潤 『疾き雲のごとく~早雲と戦国黎明の男たち~』宮帯出版社、2008年、ISBN 978-4900833531
- 海道龍一朗『早雲立志伝』角川書店、2011年、ISBN 4048741578 ISBN 978-4048741576
- 富樫倫太郎『北条早雲』月刊誌『中央公論』連載、2012年6月号~ ※風魔小太郎を主人公とした『早雲の軍配者』(中央公論新社、2010年)の前日譚。
漫画
- 永井豪、ダイナミック・プロ『北条早雲』 リイド社、2005年、ISBN 978-4845829019
TVドラマ
脚注
注釈
- ^ 伊勢氏は桓武平氏の平維衡の末裔であり、本姓は平氏。
- ^ 『公方両将記』のエピソードは司馬遼太郎の小説『箱根の坂』でも使われている。
- ^ a b 内書は慈照院殿(足利義政の法名)の名義で出されている。小和田(1983),pp.148-149.
- ^ 享徳3年(1454年)に始まった享徳の乱を東国戦国期の始期とする見方もある。市村(2009),p.3.
- ^ 甲斐は前守護武田信昌と信昌の次男の油川信恵と嫡男で守護信縄との内訌が、相甲国境のある都留郡の小山田氏など甲斐国内の有力国衆の争いと関係して乱国状態にあり、対外的に信縄は堀越公方について足利茶々丸を庇護し、信昌・信恵は早雲や氏親と結び信縄と対立していた。早雲と甲斐情勢の関わりは明応7年の明応の大地震で信縄と信昌・信恵間の抗争は一時収束するが再開され、信縄の後継である信虎(信直)期には収束し武田氏と北条氏も和睦に至る(1498年)。
- ^ 『早雲寺殿廿一箇条』の成立時期については明らかではなく、早雲の制定によるものとするのは今のところ所伝に過ぎない。黒田(2005),pp.53-54;クロニック戦国全史(1995),p.216.
- ^ 「北条早雲の事績に関する諸問題」『おだわら-歴史と文化』9号所収
出典
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参考文献
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- 小和田哲男「風雲児早雲の足跡」、「早雲の出自」『真説戦国北条五代―早雲と一族、百年の興亡』学研、1989年。ISBN 405105151X。
- 海音寺潮五郎『武将列伝(2)』文藝春秋、1975年。ISBN 4167135027。
- 黒田基樹『戦国 北条一族』新人物往来社、2005年。ISBN 440403251X。
- 黒田基樹「早雲、下克上の背景」『戦国合戦大全(上巻)』学研、1997年。ISBN 4056015287。
- 桑田忠親『新編日本合戦全集 応仁室町編』秋田書店、1990年。ISBN 4253003796。※1973年出版の新装版。
- 佐藤博信『中世東国足利・北条氏の研究』岩田書院、2006年。ISBN 4872944267。
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- 杉山博『戦国大名』中央公論新社〈日本の歴史 (11)〉、1974年。ISBN 4122000866。
- 古野貢『中世後期細川氏の政治構造』吉川弘文館、2008年。
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