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柳営秘鑑

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

柳営秘鑑』(りゅうえいひかん)は、江戸幕府年中行事、諸士勤務の執務内規、格式故事、旧例などを記した書物。幕臣の菊池弥門著。寛保3年(1743年)に成立した。10巻。

概要

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『柳営秘鑑』は、江戸幕府の年中儀礼、殿中の格式、故事、旧例、武家方の法規などを記載しており、三つ葉葵紋の由来、扇の馬印の由来、譜代の列(安祥譜代、岡崎譜代、駿河譜代など)などが記載されている。著者は菊池弥門。原本(定本)は10巻。ただし続巻が多く、『後編柳営秘鑑』(12巻)、『拾遺柳営秘鑑』(5巻)、『柳営秘鑑脱漏』(12巻)、『温知柳営秘鑑』(12巻)、『残集柳営秘鑑』(10巻)、『新益柳営秘鑑』(10巻)がある。

江戸幕府の教育施設で林羅山に由来する昌平坂学問所の旧蔵本が、はじめの10巻と続巻を含めた形で原本として存在する。国立国会図書館所蔵。この複製が『内閣文庫所蔵史籍叢刊』(汲古書院、1981年)から「柳営秘鑑」の題で刊行されている。

大名の格式等に関する法曹法(役所の執務内規)として用いられた。書名にある柳営とは、幕府将軍将軍家を指す用語である。ただし内容は江戸時代を通してのものではなく、享保期中心に記載されている。

幕府の『柳営秘鑑』に範をとり、編纂されたものに、金沢藩前田家の『北藩秘鑑』、姫路藩の『姫陽秘鑑』(姫路市)がある。

柳営秘鑑は、民間に出回ったものではないと言う。(一橋大学附属図書館)

内容

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御普代の規定

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譜代大名たる「御普代」にあたる家や該当する譜代の種類を以下のように記す。

扇の御馬印について

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徳川家康馬印の一つ「大馬印」の由来を述べている。大馬印の由来は諸説あるが、柳営秘鑑では本多中務大輔家由来説を次のように示している。

  • 「一、扇の御馬印ハ五本骨ニ而親骨の方を竿付尓して被為持。元来、本多平八郎忠高所持之持物尓て数度の戦功顕し。天文十八年(1549年安祥城責の時、一番乗りして討死之後、其子中書忠勝相伝、用之処、文禄二年(1594年)大神君御所望有て、御当家随一の御馬印ニ被成置。」

この記述は常山紀談でも、類似した話が掲載されている。

  • 「金の七本骨の扇の御馬印の事/東照宮、金の七本骨の扇に日丸(ひのまる)附けたる馬印は、参河の設楽郡(注;宝飯郡の誤り)牛窪の牧野半右衛門が印なりしを、永禄六年(1563年)に乞ひ得させられて馬印となし給ふ。夫より前の御印は厭離穢土欣求浄土の八字を書きたるにて、大樹寺の登誉が筆なり。其印明暦丁酉の火災にかかれりと言へり。然れども扇の御印は其前よりの事にや。天文十四年(1545年),公矢矧川にて織田家と軍ありし時、利無くて危かりしに、本多吉右衛門忠豊、疾く岡崎に入らせ給へ。御馬印を賜はり討死すべし、と申せ共許されず。扇の御馬印を取て清田畷にて討死しける。其隙に危きを逓れ給へり。御印は忠豊が嫡子平八郎忠高が家に相伝へ、忠高も又戦死しける。其子忠勝が時に至りて、永禄二年(1559年)東照宮乞ひ返させ給ひたりと云へり。」

三つ葉葵紋の由来

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徳川氏の家紋である三つ葉葵紋の由来を解説している。由来には諸説あるが、柳営秘鑑に記載されるのは酒井家由来説である。その内容は次のとおり。

  • 文明11年7月15日(1479年新暦8月2日)の安祥城攻の時、酒井家始祖・酒井親清が、丸盆に葵葉三つを鼎のごとく置き、熨斗、搗栗、昆布を盛って松平信光に献じた。その後この合戦に勝利をしたため、この三つ葵を酒井家の紋とすることになった。五代松平長親の時、文亀元年9月(1501年新暦10月)今川方の伊勢新九郎を撃退した際、酒井氏忠親重からこの紋を返してもらう形をとって松平家の家紋と定め、酒井家には酢漿草の紋を与えたという。

研究会

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  • 『柳営秘鑑』研究会(國學院大學史学科日本近世史、根岸茂夫)

写本

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関連項目

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