油川信恵
時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 永正5年10月4日(1508年10月27日) |
戒名 | 蓮阿弥陀仏、春叟 |
墓所 | 円光院 (甲府市)、一蓮寺、油川山泉龍寺 |
幕府 | 室町幕府 |
主君 | 武田信昌→武田信縄→武田信虎 |
氏族 | 甲斐武田氏→油川氏 |
父母 |
父:武田信昌、 母:小山田信長姉妹?[1][2] |
兄弟 | 武田信縄[2]、信恵、岩手縄美、松尾信賢、帰雲軒宗存 |
子 | 油川弥九郎、油川清九郎、油川珍宝丸、油川信友(源左衛門尉) |
油川 信恵(あぶらかわ のぶよし/のぶさと[2])は、戦国時代の武将。甲斐国勝山城主。武田信玄の大叔父。兄の武田信縄と争っていたが、永正5年(1508年)10月4日の勝山合戦によって一党が壊滅した。子の油川信友が家督を継いだと見られる。
略歴
[編集]甲斐の守護大名武田氏当主・武田信昌(刑部大輔)の子として誕生[2]。母は不詳であるが、「甲州郡内小山田氏系図」により、郡内領主・小山田信長の姉妹とする説もある[1][2]。中郡の山梨郡油川に拠り油川姓を名乗った。
甲斐では室町時代の応永23年(1416年)に4代鎌倉公方・足利持氏に対して前関東管領の上杉禅秀が挙兵した上杉禅秀の乱において、守護・武田信満が禅秀方に加担したことで滅ぼされ、守護不在状態となる。これにより有力国人が守護代の跡部氏が台頭する状況となったが、信恵の父・信昌は寛正5年(1464年)に跡部氏を排斥する。一方で、この頃には河内領主の穴山氏や郡内領主の小山田氏など、新たな国人勢力も台頭していた。
武田信縄との対立
[編集]明応元年(1492年)、武田信昌は嫡男の武田信縄に家督を譲り、東郡の落合(山梨県山梨市)に隠居する。『王代記』によれば、信昌は後に信縄と対立し、油川を本拠としていた信恵に家督を譲る意向を示したという。また、この頃には守護武田氏と国人勢力の争いも激化しており、国衆同士の抗争に連動して武田宗家の内訌が発生していたと考えられている。
信昌・信恵方は栗原氏・穴山氏の武田一門の甲斐国人に加え、駿河国の今川氏、伊豆国の伊勢盛時(北条早雲)の後援を得て、信縄方にも同様に甲斐の国人勢力や関東管領の山内上杉家が加担し、両者の間で抗争が繰り広げられた。
油川信恵は父・武田信昌の支援を受け信縄と対立し、『勝山記』明応元年(1492年)6月11日条では「甲州乱国ニ成リ初テ候也」と記しており、これは信恵と信縄の抗争が開始されたことを指すと考えられている[2]。『王代記』では、同年7月22日に市川(山梨県山梨市)で合戦があり、これを「兄弟相論」と記している[2]。明応2年(1493年)には東郡塩後原(山梨県甲州市塩山)において信縄方に大勝するが(『王代記』)、翌明応3年(1494年)の合戦では郡内領主小山田氏や郡内の国人・加藤氏の加勢も得たものの信縄方に大敗し、劣勢にまわった。『勝山記』によれば、明応4年(1495年)8月、伊豆の伊勢宗瑞(北条早雲)が甲斐へ侵攻するが、甲斐をはじめ東海一帯に被害を及ぼした明応の大地震が発生し、地震後には信昌・信恵方と信縄方間、駿河・伊勢氏の間で一時的な和睦が成立している[2]。
武田信虎との対立
[編集]『高白斎記』によれば、武田宗家内部の抗争は永正2年(1505年)信昌・信縄の相次ぐ死去の後にも継続した。信縄死去後、武田宗家の家督は信縄嫡男の信直(武田信虎)が継承したが、若年の信直に対して信恵方には岩手(山梨市)を本拠とする同母弟の岩手縄美や郡内の小山田弥太郎、栗原昌種(惣次郎)らが荷担して信直方に対抗した。「向嶽寺文書」によれば、この最中、年未詳9月19日には向嶽寺(甲州市塩山上於曽)に郡中の寺領を再寄進しており、郡内小山田氏の支援を得た信恵が郡内の所領を寄進したと考えられている。年未詳正月18日にも、伊勢師の幸福大夫から御札を送られ、信恵の側近・河村重家が返信を行っている[3]。
勝山合戦にて油川氏壊滅
[編集]『勝山記』『高白斎記』『一蓮寺過去帳』によれば、永正5年(1508年)10月4日、信直との合戦において油川信恵と子の弥九郎・清九郎・御珍宝丸、岩手縄美、栗原昌種らが戦死し、武田宗家は信直の系統に統一された[3]。(勝山合戦) ただし、江戸時代に書かれた書物である為、油川信恵と一緒に戦死した子の名前が後の資料と一致しない。
『一蓮寺過去帳』によれば、法名は「蓮阿弥陀仏」[3]。『平塩寺過去帳』にも「彦八郎信恵」として記載されている[3]。『円光院武田系図』では号を「春叟」としている。
子の油川信友が泉龍寺建立
[編集]永正11年(1514年)、生き残った子の油川信友が、父油川信恵の菩提を弔うため、油川山泉龍寺を建立した。
一族
[編集]油川氏の系譜は資料によって混乱・誤記・重複が多く見られる。詳細は油川氏参照。
- 油川氏はその後有力氏族としては見られないが、一族の動向が確認される。信虎の嫡男・武田晴信(信玄)の側室となった油川夫人は享禄元年(1528年)出生であるが、父は甲斐国志にて、油川源左衛門信友が父親とされる。
- その信友は武田信虎に仕え天文19年(1550年)に信濃海野原で戦死しており、信友の子・油川信吉は、従兄で信守(信友と同人物説あり)の子油川信連(兄弟の説あり)とともに永禄4年(1561年)の第四次川中島の戦いで戦死している。
- 信吉の子・油川信次(四郎左衛門)は長篠合戦で討死。
- 信次の子・武田信貞は徳川家に仕え、江戸時代に旗本となる。