「ミッドウェー海戦」の版間の差分
リンク整理 |
|||
(100人を超える利用者による、間の835版が非表示) | |||
1行目: | 1行目: | ||
{{出典の明記|date=2023-11-16}} |
|||
{{脚注の不足|date=2023-11-16}} |
|||
{{観点|date=2023-11-16}} |
|||
{{Battlebox |
{{Battlebox |
||
|battle_name=ミッドウェー海戦 |
| battle_name = ミッドウェー海戦 |
||
|campaign= |
| campaign = 太平洋戦争 |
||
|colour_scheme=background:#ffccaa |
|colour_scheme = background:#ffccaa |
||
|image=[[ |
| image = [[File:Collage Battle Midway.jpg|300px]] |
||
| caption = 左上から時計回りに、日本海軍の[[零式艦上戦闘機]]、攻撃を受ける日本海軍の空母[[飛龍 (空母)|飛龍]]、アメリカ海軍の空母[[ホーネット (CV-8)|ホーネット]]上の[[F4F (航空機)|F4F]]艦上戦闘機、攻撃を受けるアメリカ海軍の空母[[ヨークタウン (CV-5)|ヨークタウン]]。 |
|||
|caption=<small>B-17爆撃機の攻撃を受け、回避行動中の空母「[[飛龍 (空母)|飛龍]]」。</small> |
|||
| conflict = [[太平洋戦争]]<ref name="kotobank">{{Cite web |url=https://kotobank.jp/word/%E3%83%9F%E3%83%83%E3%83%89%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%BC%E6%B5%B7%E6%88%A6-138912 |title=ミッドウェー海戦 |publisher=[[コトバンク]] |accessdate=2023-11-15}}</ref> |
|||
|conflict=[[太平洋戦争]]/[[大東亜戦争]] |
|||
|date=[[1942年]][[6月5日]] |
| date = [[1942年]][[6月5日]] - [[6月7日]](6月3日から5日とする見解もある){{R|"kotobank"}} |
||
|place=[[ミッドウェ |
| place = 中部[[太平洋]]、[[ハワイ諸島]]北西の[[ミッドウェー島]]とその周辺海域{{R|"kotobank"}}。 |
||
| result = [[アメリカ軍]]の勝利。[[日本軍]]は制空・制海権を失い、戦局の主導権がアメリカ側に移行{{R|"kotobank"}}。 |
|||
|result=アメリカ海軍の勝利 |
|||
|combatant1={{ |
| combatant1 = {{JPN1889}} |
||
|combatant2={{ |
| combatant2 = {{USA1912}} |
||
|commander1=[[山本五十六]] |
| commander1 = {{Flagicon|JPN1889}} [[山本五十六]]<br/>{{Flagicon|JPN1889}} [[近藤信竹]]<br/>{{Flagicon|JPN1889}} [[南雲忠一]]<br/>{{Flagicon|JPN1889}} [[山口多聞]]{{KIA}} |
||
|commander2=[[フランク |
| commander2 = {{Flagicon|USA1912}} [[チェスター・ニミッツ]]<br/>{{Flagicon|USA1912}} [[フランク・J・フレッチャー]]<br/>{{Flagicon|USA1912}} [[レイモンド・スプルーアンス]] |
||
| strength1 = [[大日本帝国海軍|日本海軍]]主力<br/>[[航空母艦|空母]]4隻{{R|"kotobank"}}(艦載機248機)<ref name="aviation">[https://www.worldwariiaviation.org/battle-of-midway-american-intelligence-sbds-and-luck-made-the-difference Battle of Midway: American Intelligence, SBDs - and Luck - Made the Difference - National Museum of World War II Aviation]</ref> |
|||
|strength1=航空母艦4<br />戦艦11<br />重巡洋艦10<br />軽巡洋艦6<br />駆逐艦53他<br />参加兵力10万 |
|||
| strength2 = [[アメリカ海軍]]主力<br/>空母3隻{{R|"kotobank"}}(艦載機233機)<ref name="名前なし-20240629110804">Parshall & Tully(2005), pp.90-91. </ref><br/>ミッドウェー島基地航空隊(126機)<ref name="名前なし-20240629110804"/><br/>艦上機と基地航空隊の合計359機 |
|||
|strength2=航空母艦3<br />重巡洋艦7<br />軽巡洋艦1<br />駆逐艦15<br />ミッドウェー島の基地航空隊 |
|||
| casualties1 = 空母4隻沈没<br/>[[重巡洋艦]]1隻沈没<br/>兵員3,057人[[戦死]]<ref name="result">Jonathan Parshall, [https://www.usni.org/magazines/naval-history-magazine/2022/june/timeless-battle-evolving-interpretations Timeless Battle, Evolving Interpretations], Naval History Magazine June 2022.</ref> |
|||
|casualties1=航空母艦4、重巡洋艦1沈没<br />重巡洋艦1大破<br />駆逐艦1中破<br />戦死3,057(航空機搭乗員の戦死者は110名) |
|||
|casualties2= |
| casualties2 = 空母1隻沈没<br/>[[駆逐艦]]1隻沈没<br/>兵員362人戦死{{R|"aviation"}} |
||
}} |
}} |
||
'''ミッドウェー海戦'''( |
'''ミッドウェー海戦'''(みっどうぇーかいせん、{{lang-en|Battle of Midway}})は、[[1942年]][[6月5日]]から[[6月7日]]にかけて中部太平洋[[ミッドウェー島]]周辺で行われた[[大日本帝国海軍|日本海軍]]と[[アメリカ海軍]]による[[海戦]]である。[[太平洋戦争]]の転換点と言われ、この戦闘における敗北により日本側は[[制空権]]と[[制海権]]を失い、以後は戦争の主導権がアメリカ側に移ったことで知られている{{R|"kotobank"}}。 |
||
1942年4月、[[山本五十六]]司令長官率いる[[連合艦隊]]が中心となり、[[アメリカ軍]]の基地となっていた[[ハワイ諸島]]北西のミッドウェー島を攻略し、アメリカ艦隊の早期壊滅を目指す作戦が立案される。それに対し、日本側の[[暗号]]を解読することにより作戦を察知したアメリカ軍の[[チェスター・ニミッツ]]司令官はハワイから空母部隊を出撃させ迎撃を行った。それぞれの主力は日本側が[[南雲忠一]]司令官率いる[[第一航空艦隊]]の[[航空母艦|空母]]4隻(艦載機248機)、アメリカ側は[[フランク・J・フレッチャー]]と[[レイモンド・スプルーアンス]]の両司令官率いる機動部隊の空母3隻(艦載機233機)とミッドウェー島基地の航空部隊(126機)であった。航空兵力で100機以上劣勢の日本空母部隊は、[[索敵]]の失敗もあって攻撃準備中にアメリカ軍[[急降下爆撃機]]の急襲を受けることとなり、壊滅的な損害を被った。日本軍は空母4隻と[[重巡洋艦]]1隻を失い、3,000人を超える[[兵士]]が[[戦死]]し、艦載機も全て喪失した。勝利したアメリカ軍も、空母1隻と[[駆逐艦]]1隻を撃沈され航空機約150機を失った{{R|"kotobank"}}。ただし、日本の航空機搭乗員は多くが脱出に成功したため戦死者は121名にとどまり、200名を超える搭乗員が戦死したアメリカ軍を下回った<Ref>神立尚紀(2022).[https://gendai.media/articles/-/94354?page=3 落とせるはずの敵機を見逃し、「日本本土初空襲」を許してしまった零戦搭乗員の「深すぎる後悔」]. 現代ビジネスオンライン</Ref>。この戦い以後、太平洋戦争の主戦場は[[ソロモン諸島]]とその周辺に移り、再編された日本機動部隊とアメリカ軍の間で激戦が繰り広げられることになる。 |
|||
== 日本の作戦決定の背景 == |
|||
=== 山本長官の作戦思想 === |
|||
日本海軍の対米作戦における基本的な方針としては守勢の邀撃作戦を採っていたが、連合艦隊の司令長官であった[[山本五十六]]大将は以前よりこの方針に疑問を持ち、独自の対米作戦構想として積極的な攻勢作戦を考えていた<ref>大島一太郎大尉(後に大佐、昭和三年[[海軍水雷学校]]高等科学生)の戦後の回想によれば、1928年に海軍水雷学校で「対米作戦はハワイを攻略するような積極作戦を採るべきである」と述べている。</ref>。これは、まず国力から見て圧倒的な劣勢にある日本が守勢を採っても、時期・方面などを自主的に決めて優勢な戦力で攻撃する米国に勝ち目がなく、また短期戦に持ち込むためには、早期に敵の弱点を叩くことで相手国の戦意を喪失させる方法しか勝機を見出しえないと判断したためと言われている。さらに山本長官は太平洋戦争開戦当初より、敵の空母部隊が日本を航空攻撃した場合、国内へ物質的な打撃だけでなく精神的な打撃が大きいと考えていた点も関係している<ref>及川海軍大臣宛の書簡、黒島参謀の回想によると、山本長官のミッドウェイ作戦の第一の狙いが米海軍・米国民の士気を喪失させることであったこと、また本土空襲の精神的な打撃を大きいと認めている点が分かる。</ref>。すなわち相当の危険性を承知の上でも、米国に対し、戦争で勝利を収めるためには、積極的な攻勢を進めるしかないと考えていた。 |
|||
== 背景 == |
|||
=== ミッドウェー作戦の着想 === |
|||
=== MI作戦の成立 === |
|||
山本長官が懸念していた通り、昭和17年になってから米空母部隊はハワイを出撃し、その度に日本軍は来襲の企図や方面の判断に悩まされた。そのため、日本軍は[[マーシャル諸島]]、[[ウェーク島]]、本土どれにも警戒処置をとっており、加えて戦力に余裕がなかったために哨戒は不十分であった。アメリカ軍の奇襲は技量が低かったために被害は小さかったが、連合艦隊は受け身の作戦の困難性を認識した。また、連合艦隊はセイロン島攻略作戦案が採用されなかったために、連合艦隊幕僚は第二段作戦の移行までに残された4週間に代替案を作成しなければいけない立場に置かれていた。連合艦隊幕僚は戦争早期終結に貢献できるような作戦が思いつかず、またこれまで示した作戦案が陸軍部隊を用いるから反対されたと考えており、加えて守勢に回ることの困難性を認識していたために、海上戦力のみで行う攻勢作戦計画の立案を応急的に進めなければいけないと判断し、[[黒島亀人]][[連合艦隊]]先任参謀を中心に作戦計画を立案した。 |
|||
{{Main|MI作戦}} |
|||
太平洋戦争開戦前、日本海軍は対米戦に対しては、アメリカ艦隊が日本近海に進出してきたところで艦隊決戦を行う方針を考えていた<ref>[[#亀井戦記]]72頁</ref>。しかし[[連合艦隊司令長官]]であった山本五十六[[海軍大将]]は以前よりこれに疑問を持ち、対米戦になったら積極的な攻勢作戦をとるべきだと考えていた<ref>[[#亀井戦記]]73頁</ref>。大島一太郎[[大尉]](後に[[大佐]]、[[1928年]]〈昭和3年〉[[海軍水雷学校]]高等科学生)の回想によれば、山本は1928年(昭和3年)に海軍水雷学校で「対米作戦はハワイを攻略するような積極作戦を採るべきである」と述べていたという。これは、日本が日本近海の艦隊決戦を望んだところで、アメリカ軍は時期・方面などを自主的に決めて攻撃することができるのだから無意味であり、勝つには短期戦、リスクを承知の上での積極的攻勢しかなく、早期に敵の主力を叩き、相手国の戦意を喪失させようとの判断からであった<ref>[[#勝つ戦略負ける戦略]]97頁</ref>。実際、アメリカ海軍は、[[1941年]](昭和16年)12月の[[真珠湾攻撃]]で主力の[[戦艦]]部隊を行動不能に陥れられたものの、無傷であった機動部隊による一撃離脱攻撃を各方面で繰り返し、哨戒でカバーしきれない日本軍を悩ませた<ref>『第1航空艦隊戦闘詳報(1)』pp.9-10</ref>。アメリカ軍の[[奇襲]]による被害は小さかったが、連合艦隊は日本近海での艦隊決戦が困難であることに気付かざるを得なかった<ref>[[#戦藻録(九版)]]74-76,87,93頁等「第三節、米機動部隊の牽制作戦」</ref>。 |
|||
{{Main|第二段作戦}} |
|||
このミッドウェー作戦では空母の捕捉撃滅を主眼とした。それにはミッドウェイ島を攻略し、米艦隊、特に空母部隊を誘い出すことが必要であった。日本軍が米軍の要点であるミッドウェイ島を占領した場合、軍事上・国内政治上からアメリカ軍はこれを全力で奪回しようとすることは明白であり、米空母部隊もまた出撃する確率は高い、と日本海軍は計算していた。しかし日本海軍は、ミッドウェイ島を占領してからの確保は極めて困難であると考えていた。連合艦隊はあくまでこの作戦は米空母を撃滅することを目的とし、さらに占領後には他方面で攻勢を行い、敵にミッドウェー奪回の余裕を与えなければ、10月のハワイ攻略作戦までミッドウェイ島を確保できると考えた。すなわち、このミッドウェイ島の占領は直接的なハワイ攻略作戦の準備ではなく、空母の捕捉撃滅を第一の目標として考えたものであり、ハワイ攻略作戦にとっては間接的、補助的な役割に限定した作戦であった。 |
|||
日本の連合艦隊は、真珠湾攻撃後は[[南方作戦]]に機動部隊主力を投入していた。[[インド洋作戦]]が実施され、[[セイロン沖海戦]]で[[イギリス海軍|英国海軍]]に勝利したものの、[[インド洋]]の英領[[セイロン島]]を攻略する作戦案は採用されなかった。このため、連合艦隊幕僚は第二段作戦の移行までに残された4週間で代替案を作成しなければならなかったが<ref>[[#勝つ戦略負ける戦略]]108-109頁、[[#海軍驕り]]193-194頁</ref>、連合艦隊幕僚は戦争を早期終結できる作戦が思いつかなかった。連合艦隊幕僚は、これまで示した作戦案が[[大日本帝国陸軍|陸軍]]部隊を用いるから反対されたと考えており、かといって守勢の困難性を認識していたために、海上戦力のみで行う攻勢作戦計画の立案を応急的に進めなければいけないと判断した。結果、[[黒島亀人]]連合艦隊先任[[参謀]]を中心に、ハワイ諸島攻略を見据えた作戦計画を立案した<ref>[[#戦藻録(九版)]]68、72頁(1月14日・27日等)</ref>。軍令部は日本の国力からみてハワイ諸島の攻略と維持など不可能と判断し、むしろインド洋方面の作戦を強化してイギリスを追い詰め、[[日独伊三国同盟|同盟国]][[ナチス・ドイツ]]支援を構想していたという意見もある<ref>[[#川崎戦歴]]120頁</ref>。 |
|||
[[ |
ハワイ攻略が企図できるようになるまで間隔が空くため、連合艦隊は[[MI作戦]]を提案した。これはハワイ攻略の準備ではなく、つなぎであったが、この作戦によって米空母を撃滅できれば、ハワイ攻略作戦は容易になるとは見ていた<ref>『戦史叢書43ミッドウェー海戦』40頁</ref>。[[軍令部]]と連合艦隊司令部は、この作戦について対立した。軍令部はアメリカと[[オーストラリア]](豪州)の[[シーレーン]]を断ち切る米豪遮断を企図して、[[フィジー諸島]]方面の攻略を計画していた{{Sfn|戦史叢書43|1971|pp=44}}。軍令部航空担当部員の三代辰吉[[中佐]]は「仮に日本軍が同島を占領しても、米艦隊は本当に来るのか。日本軍の補給路が米軍に遮断され、疲弊したところを簡単に奪回されるだけではないか」と考え反対し、[[FS作戦]]([[ニューカレドニア島]]とフィジー諸島の攻略)重視の立場を崩さなかった<ref>[[#勝つ戦略負ける戦略]]110頁、[[#海軍驕り]]239頁</ref>。連合艦隊司令部の黒島参謀と[[渡辺安次]]参謀は、山本長官が「この作戦が認められないのであれば司令長官の職を辞する」との固い決意を持っているとして、真珠湾攻撃で空母6隻の使用を認めさせた時と同様の交渉をしたが、話は進まなかった<ref>『戦史叢書43ミッドウェー海戦』44頁、[[#亀井戦記]]73頁、[[#海軍驕り]]240-242頁</ref>。大本営海軍部との交渉に見込みなしと判断した渡邉参謀は、[[伊藤整一]]軍令部次長に直接連合艦隊のミッドウェー作戦案を説明し、山本長官の意向を伝えた<ref>[[#海軍驕り]]243頁</ref>。伊藤次長はこれを踏まえてさらに審議を行い、FS作戦に修正を加え、連合艦隊の作戦案を採用することを4月5日に内定した<ref>[[#戦藻録(九版)]]99頁</ref>、[[永野修身]]軍令部総長の認可も得て、ミッドウェー島の占領および米空母部隊の捕捉撃滅を狙うこととなった<ref>[[#亀井戦記]]74頁</ref>。[[古村啓蔵]]([[筑摩 (重巡洋艦)|筑摩]]艦長)は[[海軍兵学校卒業生一覧 (日本)#45期|同期]]の[[富岡定俊]]軍令部作戦課長から、艦隊はミッドウェー攻略成功後に[[チューク諸島|トラック基地]]に集合、米豪遮断のFS作戦実施予定と聞き、驚いていたという<ref>[[#海の武将]]36頁</ref>。 |
||
{{Main|AL作戦}} |
|||
[[5月5日]]に、海軍部は「聯合艦隊司令長官ハ[[大日本帝国陸軍|陸軍]]ト協力シAF及AO西部要地ヲ攻略スベシ」という命令(大海令第18号)を下す。この命令により、ハワイ攻略の前哨戦として山本五十六長官、[[宇垣纏]]参謀長の指揮下で艦艇約350隻、航空機約1000機、総兵力10万人からなる大艦隊が編成された<ref>戦艦[[大和 (戦艦)|大和]]他の戦艦部隊(第一艦隊)が呉の柱島を出撃、参加する初めての作戦であった。</ref>。 |
|||
さらに軍令部はミッドウェーと同時に[[アリューシャン列島]]西部を攻略し、米航空兵力の西進を抑えるとともに、両地に哨戒兵力を進出させれば、米空母の日本本土近接を一層困難にすることができると判断。そのための[[AL作戦]]実施を連合艦隊に諮り、連合艦隊でもその必要性を認めていたし、攻略兵力にも余裕があったので直ちにこれに同意した{{Sfn|戦史叢書43|1971|pp=47-48}}。AL作戦の目的は、アメリカの北方路の進行を阻止するもので、米[[ソビエト連邦|ソ]]間の連絡を妨害し、[[ソビエト連邦]]領[[シベリア]]にアメリカの航空部隊の進出を妨害しようとするものであった。当時、アメリカが大型爆撃機を開発したとの情報があった。[[図上演習]]においてアリューシャン方面からアメリカの最新大型爆撃機が[[東京]][[日本本土空襲|空襲]]を行い、その一部が奇襲に成功するという結果が出ており、海軍部も連合艦隊もこの方面への関心を高めていた背景があり、連合艦隊も同意して第二段作戦の全体像が固まった{{Sfn|戦史叢書43|1971|pp=47-49}}<ref>[[#勝つ戦略負ける戦略]]112頁、[[#海軍驕り]]244頁</ref>。軍令部第一部長[[福留繁]]によれば、「ミッドウェーを攻略しても、劣勢な米艦隊は反撃に出ないのではないかとの懸念が強かった。そこでアリューシャン列島方面への攻略作戦を行えば、同地が米国領であるため、ミッドウェー方面への米艦隊の出撃を強要する補助手段となるだろうとの含みもあり、実施を要望した」という{{Sfn|戦史叢書43|1971|pp=48}}。 |
|||
当初珊瑚海海戦の報告を聞いた時点で海軍首脳部は無傷の瑞鶴をミッドウェーに、大破した翔鶴を修理後アリューシャン作戦に回す予定であった。しかし翔鶴の修理には3ヶ月を要し、また瑞鶴も無傷であるものの参加した搭乗員の損耗が激しく、[[チューク島|トラック島]]に停泊して補充を待っている状態であり、本作戦に参加できなかった。これにより日本側の参加空母数が減ることとなったが、それでも隻数の上では4対3(ただし日本側は先の珊瑚海海戦の結果4対2と認識)と、米軍より優勢であった<ref>しかしながらこの翔鶴・瑞鶴の2隻の運用については、後述のヨークタウンの事例と比較され、本海戦における日本側の敗因の一つとして批判の対象となる事が多い。</ref>。 |
|||
1942年4月5日、海軍の次期作戦構想が内定し、主務者連絡で陸軍に伝えた。ミッドウェー攻略は海軍単独で行うが、できれば陸軍兵力の派出を希望するとした。[[参謀本部 (日本)|陸軍参謀本部]]は、ハワイ攻略の前提ではないことが明言され、海軍単独でも実施してもよいとのことだったので反対できなかった{{Sfn|戦史叢書43|1971|pp=49}}。 |
|||
=== ドーリットル空襲 === |
=== ドーリットル空襲 === |
||
{{main|ドーリットル空襲}} |
{{main|ドーリットル空襲}} |
||
1942年[[4月18日]]ホーネットはミッドウェーで[[エンタープライズ (CV-6)|エンタープライズ]] |
1942年[[4月18日]]、米空母[[ホーネット (CV-8)|ホーネット]]はミッドウェー近海で僚艦[[エンタープライズ (CV-6)|エンタープライズ]]と合流し、[[第16任務部隊]]として日本に向けて進撃した。エンタープライズは航空支援をおこない、ホーネットは日本本土に接近して[[ジミー・ドーリットル]][[中佐]]率いる[[B-25 (航空機)|B-25ミッチェル双発爆撃機]]で編成された[[爆撃機|爆撃隊]]を発艦させる役割分担である。爆撃隊はホーネットから発進後、東京を筆頭に日本の主要都市を攻撃する予定であった。第16任務部隊は、4月18日の朝に[[犬吠埼]]東方で日本の[[特設監視艇]][[第二十三日東丸]]に発見され、[[ウィリアム・ハルゼー]][[中将]]は予定より早い攻撃隊発艦を決意する。爆撃隊は前日に発艦準備を整えていたが、40[[ノット]]を超える強風と30[[フィート]]に及ぶ波が激しいうねりとなり、ホーネットは大きく揺れていた。その中でドーリットル隊は発進し、09:20までに16機のB-25は全て発艦した。 |
||
B-25爆撃隊は、東京、[[名古屋市|名古屋]]、[[大阪]]を12時間かけて散発的に爆撃。[[日中戦争]]下の[[中国大陸]]で日本軍支配地域外への脱出を図り、[[胴体着陸|不時着]]後に機体は放棄された。セイロン沖海戦で勝利した南雲忠一率いる日本機動部隊は、[[台湾]]沖で第16任務部隊追撃命令を受けたが距離が遠すぎ、燃料を浪費しただけだった<ref>[[#草鹿回想]]112-113頁</ref>。 |
|||
空襲による被害は微小であったが、日本本土上空にアメリカ軍機が侵入したことは日本に大きな衝撃を与えた。また米艦隊を発見した際に、アメリカ軍が双発爆撃機を用意していたことまでは見抜けず「米艦載機が来るなら航続距離からして翌日である」という誤った判断をしたため、陸海軍は結果として空襲を防ぐことができなかった。国民の間でも不安が広がり、しばらく敵機来襲の誤報が続き<ref>[[#戦藻録(九版)]]107頁</ref>、山本長官にも国民からの非難の投書があった<ref>[[三和義勇]]大佐(連合艦隊参謀)『三和日誌』</ref>{{Refnest|group="注"|直接届いた手紙はないと近江従兵長は証言<ref>[[#従兵長]]103頁</ref>。}}。 |
|||
山本長官は以前から、本土空襲を行われたときの精神的な影響を重視していたため、既に内定していたミッドウェー攻略作戦の必要をこの空襲で一層感じた。連合艦隊航空参謀[[佐々木彰]]によれば、山本長官は日本空母によるハワイ奇襲が企図できるのであるから、哨戒兵力の不十分な日本本土に対しても、アメリカもまた奇襲を企図できると考えていたようであるという{{Sfn|戦史叢書43|1971|p=62}}。この空襲により日本陸軍もミッドウェー作戦・アリューシャン作戦を重大視するようになり、陸軍兵力の派遣に同意、ミッドウェー作戦は日本陸海軍の総攻撃に発展した<ref>[[#勝つ戦略負ける戦略]]113頁、[[#海軍驕り]]251頁</ref>。[[昭和天皇]]の住む東京を爆撃されたことで山本長官のプライドが傷つき、アリューシャンからミッドウェーにわたる航空哨戒線を築くことで東京に対する二度目の米機動部隊襲撃を阻止する狙いがあったという推測や<ref>[[#淵田自叙伝]]177-178頁</ref>、二度目の東京空襲を防ぐためにミッドウェー攻略作戦を急ぐ必要があり、空母[[瑞鶴 (空母)|瑞鶴]]を有する[[第五航空戦隊]]の戦力が回復するのを待てなかったという推測もある<ref>[[#海軍驕り]]299頁</ref>。 |
|||
== 日本の準備 == |
|||
=== MI作戦の内容 === |
|||
{{Main|MI作戦}} |
|||
連合艦隊が計画したミッドウェー作戦構想は、ミッドウェー島を攻略し、アメリカ艦隊(空母機動部隊)を誘い出し捕捉撃滅することに主眼が置かれた。日本軍は同島をアメリカ軍の要点であり<ref>『第1航空艦隊戦闘詳報(1)』pp.10-11</ref>、占領した場合、軍事上・国内政治上からアメリカ軍は全力で奪回しようとすると考えた<ref>『第1航空艦隊戦闘詳報(1)』pp.14-15</ref>。一方、軍令部ではミッドウェーは攻略後の防衛が困難で、わざわざ米空母が出撃して来るとは考えにくいと見ていた{{Sfn|戦史叢書43|1971|pp=44}}。 |
|||
作戦構想では現時点で豪州方面で活動している米空母部隊がミッドウェー近海に出撃する確率は高い、と計算していた。日本軍は情報分析の結果、アメリカ軍の空母戦力を以下のように推定した<ref>[[#草鹿回想]]126頁、『第1航空艦隊戦闘詳報(1)』p.13</ref>。 |
|||
# 空母[[レンジャー (CV-4)|レンジャー]]は[[大西洋]]で活動中。 |
|||
# [[捕虜]]の供述によれば[[レキシントン (CV-2)|レキシントン]]は撃沈されたようであるが、[[アメリカ合衆国西海岸]]で修理中という供述者もある。 |
|||
# エンタープライズとホーネットは太平洋に存在。 |
|||
# [[ワスプ (CV-7)|ワスプ]]の太平洋への存否については確証を得ない。 |
|||
# [[護衛空母|特設空母]]は6隻程度完成、半数は太平洋方面に存在の可能性があるも、低速なので積極的作戦には使用し得ない。 |
|||
これを踏まえ日本軍は、ミッドウェー攻撃を行った場合に出現するアメリカ軍規模を、「空母2-3隻、[[改造空母|特設空母]]2-3隻、戦艦2隻、甲[[巡洋艦]]4-5隻、乙巡洋艦3-4隻、[[軽巡洋艦]]4隻、[[駆逐艦]]30隻、[[潜水艦]]25隻」と判断した<ref>『第1航空艦隊戦闘詳報(1)』pp.13-14、『輸送船鹿野丸の最後 其の1(2)』p.8</ref>。アメリカ軍が同島に[[アメリカ海兵隊|海兵隊]]を配備し、[[砲台]]を設置して防衛力を高めていることも察知していたが、その戦力は「[[飛行艇]]24機、[[戦闘機]]11、[[爆撃機]]12、海兵隊750、砲台20前後」または「哨戒飛行艇2コ中隊、陸軍爆撃機1乃至2中隊、戦闘機2コ中隊」であり<ref>[[#海軍驕り]]287頁、『MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(1)』pp.18-19「軍令部所報に依るミッドウェー島所在敵航空兵力左の如し」</ref>、状況によってはハワイから「飛行艇60機、爆撃機100機、戦闘機200機」の増強もあると推測した<ref>『第1航空艦隊戦闘詳報(1)』pp.11,13</ref>。同島占領作戦実施の際にはアメリカ軍基地航空隊からの空襲も想定していたが、直掩の[[零式艦上戦闘機|零戦]]と対空砲火で排除できるとしている<ref>『第1航空艦隊戦闘詳報(1)』p.15、[[#澤地記録]]26頁</ref>。日本軍が海兵隊3000名、航空機150機というミッドウェー島の本当の戦力を知るのは、空母部隊が全滅した後の[[捕虜]]の尋問結果からだった<ref>『第1航空艦隊戦闘詳報(3)』pp.21-23</ref>。 |
|||
作戦は、ミッドウェー島上陸日(N日)を6月7日と決定して一切を計画した。[[上陸用舟艇]]で島のリーフを越えて上陸するため、[[弦月#上弦と下弦|下弦月]]が月出する午前0時を選んだ。7月は[[霧]]が多く上陸が困難なため、6月7日に固定した。[[上陸作戦]]の制空と防備破壊は3日前(後に延期で2日前になる)に南雲艦隊が空母6隻で奇襲することで可能と考えた。連合艦隊は奇襲の成功を前提にしており、アメリカが日本の企図を察知して機動部隊をミッドウェー基地の近辺に用意することは考慮していなかった。米機動部隊の反撃は望むところであったが、米機動部隊は真珠湾にあってミッドウェー基地攻撃後に現れることを前提に作戦を計画した。ミッドウェー島占領後、基地航空部隊の哨戒網で敵機動部隊を発見、第一航空艦隊(一航艦)は[[第二艦隊 (日本海軍)|第二艦隊]]と協力してそれを攻撃、山本艦隊は機を見て参加し撃滅するというものだった{{Sfn|千早正隆|1997|pp=85-88}}。 |
|||
MI作戦の主目標はミッドウェー島攻略と米機動部隊(空母部隊)撃滅のどちらにあるのかはっきりしておらず、連合艦隊は米機動部隊撃滅を重視する発言をしていたが、軍令部は主目標を攻略による哨戒基地の前進にあると示していた。軍令部で作戦計画の説明を受けた第一航空艦隊参謀長[[草鹿龍之介]][[少将]]と第二艦隊参謀長[[白石萬隆]]少将は、[[ドーリットル空襲]]の直後だったため、哨戒基地の前進によって米空母による本土再空襲を阻止するものと抵抗なく解釈し、ミッドウェー作戦の主目的は同島攻略という強い先入観を得た。また、5月の[[図上演習]]で、陽動で米艦隊を他に誘導してミッドウェーを攻略する案が出たが、連合艦隊参謀長から、陽動をしたら米艦隊をミッドウェーに引き出せないとの意見が出た。この直後、軍令部に基づく大本営命令、総長指示で攻略が主目標に示されただけに、白石少将は連合艦隊の解釈が間違っているのではと思ったという。連合艦隊は出撃前に再び米艦隊の撃滅が目的と伝えるが、参加部隊には徹底して伝わらなかった{{Sfn|戦史叢書43|1971|p=123}}。 |
|||
戦後、草鹿は作戦目標が曖昧でミッドウェー攻略が優先であったことを指摘し、「二兎を追うことになった」と表現している<ref>[[#草鹿回想]]130頁</ref>。第一航空艦隊[[源田実]]中佐は、日本の兵力が分散し過ぎて目標を見失っており、集中という[[兵学|兵術]]の原則にも反していると感じたため、図上演習後の研究会で連合艦隊参謀黒島亀人に「作戦の重点をアメリカ艦隊撃滅に置くべきである。そのためにはアリューシャン攻撃部隊やあらゆる作戦可能な兵力を、たとえ第五航空戦隊(瑞鶴、[[翔鶴 (空母)|翔鶴]])が参加できるのを待ってもミッドウェーに集中すべきだ」と主張したが、黒島は「連合艦隊長官は一度決めた方針に邪魔が入ることを望まれない。機動部隊の主要任務はミッドウェー攻略支援だ」と答えたため、アメリカ艦隊撃滅は二次的なものと源田は受け止めた<ref>[[#プランゲ上]]51-52頁</ref>。源田は、作戦目標がアメリカ軍機動部隊の撃滅かミッドウェー基地攻略なのか曖昧であったとし、[[戦略]][[戦術]]からいってどうにも納得できない部分があり航空主兵なのか戦艦主兵なのかも曖昧で、戦艦[[大和 (戦艦)|大和]]と山本長官が後ろからついてくる事も疑問だったという<ref>[[#海軍功罪]]302-304頁</ref>。 |
|||
=== 図上演習 === |
|||
4月28日から1週間かけて戦艦大和で「連合艦隊第一段階作戦戦訓研究会」と「第二段作戦図上演習」が行われた<ref>[[#従兵長]]105頁、[[#亀井戦記]]79頁</ref>。そのうち、5月1日から4日間が第二段作戦の図上演習で、ハワイ攻略まで行われた。実演は5月3日午後に終わり、3日夜と4日午前にその研究会を行い、4日午後からは第二期作戦に関する打ち合わせが行われた<ref>『戦史叢書43ミッドウェー海戦』89頁</ref>。図上演習では、連合艦隊参謀長[[宇垣纏]]中将が統監兼審判長兼青軍(日本軍)長官を務め、青軍の各部隊は該当部隊の幕僚が務め、赤軍(アメリカ軍)指揮官は[[松田千秋]]大佐([[日向 (戦艦)|戦艦日向]][[艦長]])が務めた{{Sfn|戦史叢書43|1971|p=89}}。 |
|||
この図上演習において、ミッドウェー攻略作戦の最中に米空母部隊が出現して艦隊戦闘が行われ、日本の空母に大被害が出て攻略作戦続行が難しい状況となったが、審判をやり直して被害を減らし、空母を三隻残した状況で続行させた{{Sfn|戦史叢書43|1971|p=90}}。空母[[加賀 (空母)|加賀]]、[[赤城 (空母)|赤城]]は[[航空爆弾|爆弾]]9発命中判定で沈没判定となったものの<ref name="川崎母艦戦歴121">[[#川崎戦歴]]121頁</ref>、宇垣纏連合艦隊参謀長は「9発命中は多すぎる」として爆弾命中3発に修正させ、赤城を復活させたなどである<ref name="川崎母艦戦歴121"/>。ミッドウェー島攻略は成功したが、計画期日より一週間遅れ、艦艇の燃料が足りなくなり、一部の駆逐艦は[[座礁]]した{{Sfn|戦史叢書43|1971|p=90}}<ref>[[#亀井戦記]]82頁</ref>。宇垣は「連合艦隊はこうならないように作戦を指導する」と明言した{{Sfn|戦史叢書43|1971|p=90}}。{{#tag:ref|この図上演習は、AL作戦では、空母隼鷹、龍驤が濃霧の中、アメリカ軍水上部隊の襲撃を受け撃沈判定となり<ref name="川崎母艦戦歴121"/>、FS作戦では沈没した加賀が復活して参加している<ref>ゴードン・W・プランゲ『ミッドウェーの奇跡 (下)』[[原書房]]、50頁</ref>。|group="注"}}このとき、攻略前に米機動部隊がハワイから出撃してくる可能性はあったのだが、図上演習でアメリカ軍を担当した松田大佐は出撃させることはなかった<ref>[[#プランゲ上]]50頁</ref>。 |
|||
戦訓分科研究会において、連合艦隊司令部の宇垣参謀長は一航艦の草鹿参謀長に対し、「敵に先制空襲を受けたる場合、或は陸上攻撃の際、敵海上部隊より側面をたたかれたる場合如何にする」と尋ねると、草鹿は「かかる事無き様処理する」と答えたため、宇垣が具体的にどうするのかと追及すると、第一航空艦隊の源田参謀が「[[艦上攻撃機|艦攻]]に[[増槽]]を付したる[[偵察機]]を四五〇[[海里|浬]]程度まで伸ばし得るもの近く二、三機配当せらるるを以て、これと巡洋艦の[[零式水上偵察機|零式水偵]]を使用して側面哨戒に当らしむ。敵に先ぜられたる場合は、現に上空にある戦闘機の外全く策無し」と答えた{{Sfn|戦史叢書43|1971|p=584}}<ref>[[#戦藻録(九版)]]128頁、[[#海軍驕り]]294頁</ref>。そのため宇垣は注意喚起を続け、作戦打ち合わせ前に第一航空艦隊は第一波攻撃隊をミッドウェー島攻撃、第二波攻撃隊は敵艦隊に備えることとした{{Sfn|戦史叢書43|1971|p=584}}。米機動部隊が現れた際に反撃するために第一航空艦隊(艦攻)の半数は[[航空魚雷]]装備となったが、連合艦隊首席参謀黒島亀人大佐は命令として書き込む必要はないと航空参謀[[佐々木彰(軍人)|佐々木彰]]中佐に指示した{{Sfn|千早正隆|1997|p=96}}。 |
|||
研究会で作戦参加者から最も要望されたのが、準備が間に合わないことによる作戦延期だった{{Sfn|戦史叢書43|1971|p=91}}。[[第二航空戦隊]]司令官[[山口多聞]]少将と一航艦航空参謀源田実中佐は作戦に反対と食いついたが、連合艦隊司令部は聞く耳を持たなかった<ref>[[#草鹿回想]]40頁、[[#海軍功罪]]303頁</ref>。4日の研究会で、第一航空艦隊参謀長草鹿少将と第二艦隊参謀長白石萬隆少将も作戦に反対したが、受け入れられなかった。5日に再び反対しに行ったが、第二段作戦を手交され反対せずに帰った{{Sfn|戦史叢書43|1971|p=132}}。第二艦隊長官[[近藤信竹]]中将は、米空母がほぼ無傷で残っておりミッドウェー基地にも敵戦力があることから、ミッドウェー作戦を中止して米豪遮断に集中すべきと反対した。しかし、山本長官は奇襲が成功すれば負けないと答えた。また近藤中将は、ミッドウェー島を占領しても補給が続かないと指摘したが、宇垣参謀長は補給が不可能なら守備隊は施設を破壊して撤退すると答え、攻略後の島の確保、補給については何ら考えられていなかった{{Sfn|千早正隆|1997|pp=93-94}}。占領後、他方面で攻勢を行い、アメリカ軍にミッドウェー奪回の余裕を与えなければ10月のハワイ攻略作戦までミッドウェー島を確保できると考えていたという意見もある<ref>[[#勝つ戦略負ける戦略]]109頁</ref>。 |
|||
図上演習と研究会は、ミッドウェー作戦の目的である敵空母捕捉撃滅が難しく、高いリスクを伴う作戦であることを示したが、連合艦隊は問題点を確認することなく作戦を発動した。特に山本長官は「本作戦に異議のある艦長は早速退艦せよ」と強く訓示している<ref>[[#従兵長]]105頁</ref>。[[第五艦隊 (日本海軍)|第五艦隊]]参謀長[[中澤佑]]によれば、中澤が作戦会議で機動部隊と連合艦隊主隊の距離が離れすぎていることを指摘すると、黒島は問題ないと発言したという<ref>[[#勝つ戦略負ける戦略]]123-124頁</ref>。 |
|||
5月25日、MI作戦における艦隊戦闘の図上演習・[[兵棋演習]]、続いて作戦打ち合わせを行い、関係者の思想統一を図った。しかしそれはミッドウェー攻略の次の日から始まっており、アメリカの主力および空母はハワイ諸島[[オアフ島]]の南東450[[海里]]から西方に急進中の状態から立ち上がった{{Sfn|戦史叢書43|1971|p=117}}。ミッドウェー島攻略が奇襲によって成功することが前提で、敵機動部隊が現れることはもはや考慮されていなかったのである{{Sfn|千早正隆|1997|p=117}}。連合艦隊は第一航空艦隊に対し敵艦隊に作戦中備えるように指導しながら、図上演習では攻略の翌日に敵艦隊がハワイにいるものとし、研究会では「敵艦隊が出現すれば、もうけものである」との楽観論さえ出る始末で、敵艦隊出現の可能性を薄く見ており、この空気が各部隊に伝わっていたという意見もある{{Sfn|戦史叢書43|1971|p=127}}。打ち合わせにおいて第一航空艦隊は、部品が間に合わないので延期を要望し、連合艦隊は一日だけ一航艦の出撃延期を認め、6月4日予定の空襲は5日に変更されたが、7日の攻略は変更されなかったため、空襲前に攻略部隊船団が敵飛行哨戒圏内に入り、発見されやすくなった。しかしこれも連合艦隊はこれを敵艦隊誘出に役立つと楽観視した{{Sfn|戦史叢書43|1971|p=121}}<ref>[[千早正隆]]『日本海軍の驕り症候群(下)』[[中公文庫]]、118頁</ref>。 |
|||
出撃前日の5月26日、赤城において作戦計画の説明と作戦打ち合わせが行われた。山口少将から索敵計画が不十分という意見があった<ref>[[#提督山口]]177頁。軍令部参謀[[三代一就]]の証言。</ref>。索敵計画を立案した第一航空艦隊航空参謀[[吉岡忠一]]少佐によれば、当時の敵情判断から索敵計画は改めなかったという。吉岡は、攻略作戦中に敵艦隊が現われるとはほとんど考えていなかったのと、索敵を厳重にするのが良いのはわかっていたが、索敵に[[艦上攻撃機]](艦攻)を使うのは攻撃力の低下を意味するので惜しくてできなかったとして、状況判断が甘かったと回想している{{Sfn|戦史叢書43|1971|p=165}}。 |
|||
この計画での一航艦司令部の心配は、攻撃開始日が決まっているので奇襲について機転を働かせる余地がなかったことと、空母は[[アンテナ]]の関係から受信能力が低いため、敵信傍受が不十分で敵情がわかりにくくなることであった。そのため、一航艦参謀長の草鹿少将は、連合艦隊司令部(主に旗艦の戦艦大和)が敵情を把握して作戦指示することを連合艦隊参謀長の宇垣参謀長に取りつけた{{Sfn|戦史叢書43|1971|p=165}}<ref>[[#草鹿回想]]123-124頁</ref>。[[土井美二]]中佐(第八戦隊首席参謀)によれば、草鹿参謀長が「空母は[[マスト]]が低くて敵信[[傍受]]が期待できない。怪しい徴候をつかんだらくれぐれも頼む」と出撃前に何度も確認していたという<ref>[[#亀井戦記]]39頁。亀井の取材に。</ref>。 |
|||
=== 参加部隊の状態 === |
|||
山本長官の意気込みとは反対に<ref>[[#従兵長]]104頁</ref>、4月下旬に日本本土に戻った第一航空艦隊(南雲機動部隊)は問題を抱えていた。開戦以来、[[ドック]]入りや長期休暇もなく太平洋を奔走したため、艦・人員とも疲労がたまっていた<ref>[[#飛龍生涯]]290頁、[[#亀井戦記]]84-85頁、[[#草鹿回想]]120-122頁</ref>。さらに「相当広範囲の転出入」という人事異動のため<ref name="一1航空艦隊21">『第1航空艦隊戦闘詳報(1)』p.21</ref>、艦艇と航空部隊双方の技量が低下していた<ref>[[#亀井戦記]]85,91-92頁、[[#海軍驕り]]306頁、〈第1航空艦隊戦闘詳報(1)』p.25「各艦は補充交替により個艦戦闘能力相当低下せるに加えて、各母港に於いて出撃の数日前まで整備しやりて、その技量低下は相当大なるものあり」</ref>。 |
|||
ミッドウェー海戦後の[[戦闘詳報]]では「各科共訓練の域を出ず特に新搭乗員は昼間の着艦ようやく可能なる程度」と評している<ref name="一1航空艦隊21"/>。[[雷撃機]]隊は「この技量のものが[[珊瑚海海戦|珊瑚海]]に於いて斯くの如き戦果を収めたるは不思議なり」と講評されている<ref name="一1航空艦隊22">『第1航空艦隊戦闘詳報(1)』p.22-25</ref>。[[水平爆撃]]と[[急降下爆撃]]は満足な訓練ができず、戦闘機隊は基礎訓練のみで編隊訓練は旧搭乗員の一部が行っただけ<ref>『第1航空艦隊戦闘詳報(1)』pp.23-24「所謂基礎訓練を実施せるに過ぎず。編隊空戦は一部旧搭乗員をして3機程度のものを実施せり」</ref>。着艦訓練は訓練使用可能空母が加賀のみだけだったため、新人搭乗員の訓練が優先され、ベテラン搭乗員でも薄暮着艦訓練を行った者は半分程度であった。戦闘詳報は「敵情に関しては殆ど得る所なく、特に敵空母の現存数、その所在は最後まで不明なりや。要するに各艦各飛行機とも訓練不十分にして且つ敵情不明情況に於いて作戦に参加せり」と述べている<ref name="一1航空艦隊22"/>。 |
|||
不安要素があったとはいえ、連合艦隊司令部、軍令部、南雲機動部隊のいずれも自信に満ち溢れていた<ref>[[#亀井戦記]]87頁、[[#草鹿回想]]122頁</ref>。5月5日、永野軍令部総長より山本長官に対し[[大本営|大海令]]第18号が発令された<ref>[[#亀井戦記]]78頁、[[#海軍驕り]]296頁</ref>。 |
|||
# 連合艦隊司令長官は[[大日本帝国陸軍|陸軍]]と協力し「AF」(ミッドウェー)及「AO」(アリューシャン)西部要地を攻略すべし。 |
|||
# 細項に関しては軍令部総長をして指示せしむ。 |
|||
大海令第18号により、ハワイ攻略の前哨戦として山本長官、宇垣参謀長の指揮下で艦艇約350隻、航空機約1000機、総兵力10万人からなる大艦隊が編成された。これは戦艦大和他の戦艦部隊([[第一艦隊 (日本海軍)|第一艦隊]])が[[呉基地]]の[[柱島泊地]]を出撃、参加する初めての作戦であった。 |
|||
[[淵田美津雄]]中佐によれば、第一航空艦隊航空参謀源田実は当時、第一段階作戦の後始末でミッドウェー作戦を検討する暇も無かったと打ち明けており、草鹿参謀長に至っては真珠湾で戦死した航空機搭乗員の二階級進級問題の折衝で走りまわり(航空機搭乗員の士気に関わるため)、ミッドウェー作戦の研究どころではなかったという<ref>[[#淵田自叙伝]]195-196頁、[[#草鹿回想]]115-116頁、[[#海軍驕り]]306-307頁</ref>。草鹿は「準備期間が不十分で不満もあったが強く反対せず、何とかやれるだろうと考えていた。それよりハワイ攻撃の戦死者の2階級特進の方に関心があった」という{{Sfn|千早正隆|1997|pp=109-111}}。 |
|||
当初、瑞鶴、翔鶴を含む空母6隻の計画だったが、[[珊瑚海海戦]]の報告を聞いた時点で海軍首脳部は無傷の瑞鶴をミッドウェーに、大破した翔鶴を修理後アリューシャン作戦に回す予定であった。しかし翔鶴の修理には3ヶ月要し、また瑞鶴も無傷であったものの参加した搭乗員の損耗が激しく、トラック島に停泊、補充を待ちの状態で、本作戦に不参加となった<ref>[[#ヨークタウン]]146頁</ref>。 |
|||
これにより日本側の参加空母数が減ることとなったが、それでも隻数の上では4対3(日本軍は、エンタープライズ、ホーネット、ワスプ出現可能性考慮)と、アメリカ軍より優勢であった。ただしミッドウェー基地の航空機を計算に入れると、航空戦力比は日本軍「戦闘機105、[[急降下爆撃機]]84、雷撃機94、艦偵2、[[水上戦闘機]]24、水上偵察機10、計319(南雲部隊、近藤部隊、輸送部隊合計)」、アメリカ軍機動部隊「戦闘機79、急降下爆撃機112、雷撃機42」、アメリカ軍基地戦力「戦闘機27、急降下爆撃機27、雷撃機6、飛行艇32、大型爆撃機23」総計348機となって、ほぼ互角であった<ref>[[#海軍驕り]]339頁</ref>。 |
|||
また、日本軍では情報管理が徹底しておらず、空母[[飛龍 (空母)|飛龍]]では出発前に誰もがミッドウェー作戦を知っており、一般住民の方が乗組員より先に目的地を知っていたという証言もある{{Sfn|軍艦総覧|1997|p=21}}。異動してきた[[士官]]が「今度はミッドウェーですね」と挨拶し<ref>[[#飛龍生涯]]277頁、浅川(飛龍主計長)談。</ref>、さらに日用品や食料品を機関部の通路にまで詰め込んだ<ref>[[#海軍驕り]]308頁</ref>。連合艦隊司令部も、ミッドウェー島占領後に配備予定の21機の[[零式艦上戦闘機|零戦]](第六航空隊)を4隻の空母に詰め込んだ<ref>[[#海軍驕り]]309頁</ref>。[[野村留吉]]大佐([[佐世保鎮守府]]参謀)によれば、[[海軍陸戦隊|海軍第二特別陸戦隊]]は「6月以降、当隊あての郵便物は左に転送されたし。ミッドウェー」と[[電報]]を打ったという<ref>[[#亀井戦記]]93頁、[[#海軍驕り]]308頁、[[#戦藻録(九版)]]139頁</ref>。また5月下旬に呉に戻った重巡洋艦[[加古 (重巡洋艦)|加古]]の高橋艦長は、息子から近々行われる大作戦について教えてくれとせがまれ困惑していた{{Sfn|高橋雄次|1994|p=76}}。第二艦隊参謀長白石萬隆少将は「連合艦隊は、作戦目標を多少漏らすことで敵艦隊の誘出を図ろうとしていた」との見解を述べている<ref>[[#亀井戦記]]95頁</ref>。そして、連合艦隊長官山本五十六大将は、[[愛人]]の河合千代子と密会し、別離を惜しんだ後の手紙に「5月29日に出撃して、三週間ばかり全軍を指揮する。多分あまり面白いことはないだろう。この戦いが終わったら、全てを捨てて二人きりになろう」と記している<ref>[[#海軍驕り]]310-311頁、[[#勝つ戦略負ける戦略]]126-127頁</ref>。 |
|||
=== K作戦 === |
|||
{{Main|K作戦}} |
|||
作戦では日本側の事前索敵計画として[[6月2日]]までに2個潜水戦隊をもって哨戒線を構築する予定だった。しかし担当する[[第六艦隊 (日本海軍)|第六艦隊]](潜水戦隊で構成された艦隊)で長距離哨戒任務に適した3個潜水戦隊の内、第二潜水戦隊はインド洋での[[通商破壊]]戦後の整備中、第八潜水戦隊は豪州・[[アフリカ]]での作戦任務中、第一潜水戦隊は北方作戦に充てられる事になった為どれも作戦には投入できなかった。 |
|||
このため、「大型」で構成される第三・五潜水戦隊が担当する事になったが、五潜戦は日本から[[クェゼリン環礁|クェゼリン]]への回航途上で(第六艦隊に作戦が通知された[[5月19日]]時点)予定期日に間に合うのは不可能、三潜戦も所属の潜水艦の内3隻が第2次K作戦に充てられたため、両隊あわせて9隻の潜水艦が予定配置についたのは[[6月4日]]になってしまった。特に米海軍[[第16任務部隊]]が[[6月2日]]に五潜戦の担当海域を通過しており、本作戦における大きな禍根になった。 |
|||
爆撃隊は前日に発艦準備を整えていたが、40ノットを超える強風と30フィートに及ぶ波が激しいうねりとなり、艦は猛烈に揺れ艦首からの波は[[飛行甲板]]と乗員達を濡らした。ドーリットル中佐に率いられた爆撃隊は、467フィートに及ぶ飛行甲板に固定されていたが、最後尾のB-25は扇形に搭載された。09:20までに日本の心臓部へ初の空襲を行う部隊として16機のB-25は全て発艦した。 |
|||
次に予定されていたのは第二十四航空戦隊によるミッドウェー周辺への航空索敵である。これは[[二式大艇]]による[[ウェーク島]]を経由した索敵計画であったが、ウェーク環礁が二式大艇を運用するには浅すぎ、経由地が[[ウォッゼ環礁]]に変更された結果ミッドウェー全海域の索敵が不可能となった。更にパイロットの技量不足で夜間着水が困難であり、薄暮までには[[ウォッジェ環礁|ウォッゼ環礁]]に帰還する必要があったので、肝心な北方海域哨戒(5月31日)が短縮された。これにより結局、米艦隊を発見する事は出来なかった。仮に予定通り北方海域を哨戒していれば、米艦隊を発見できた確率は非常に高かった。 |
|||
爆撃隊は、[[東京]][[名古屋市|名古屋]][[大阪]]を12時間かけて散発的に爆撃、中国の[[麗水]]の畑に燃料切れで不時着した。着陸予定地は中国領地の奥地だったが、予定より200マイル手前から発艦したため燃料切れが生じた。また、1機だけ[[ウラジオストク]]へ着陸したが、搭乗員は抑留された。 |
|||
最後に計画され、連合艦隊が最も重視した第2次K作戦は、オアフ島西北西480海里にある[[フレンチフリゲート瀬|フレンチフリゲート礁]]で潜水艦の補給を受けた二十四航戦の二式大艇によるオアフ島の航空索敵である<ref>[[#飛龍生涯]]305頁</ref>。第1次は3月に実施し、さらに二式大艇によるハワイ空襲時にもフレンチフリゲート礁は使用された。しかし、アメリカ軍は日本軍の作戦を[[暗号解読]]で察知すると、海域一帯に警戒艦艇を配置して封鎖した。潜入した[[伊号第百二十三潜水艦]]は、「見込み無し」という報告を送った<ref>[[#飛龍生涯]]306頁</ref>。これを受け、[[第十一航空艦隊]]は5月31日21時23分に作戦中止を二十四航戦に指示した。この偵察作戦が成功すれば、それがもたらす成果は大きいはずだったが<ref> {{Harvnb|亀井|2014a}} 193頁</ref>、大型機による夜間偵察では大型艦を空母と誤認する危険があった{{Sfn|戦史叢書43|1971|p=254}}。また米空母の真珠湾在泊を確認できれば作戦の価値は極めて大きいが、米空母が不在であった場合は、5月末から6月初にかけての日本海軍の状況判断から見て、米空母はまだ南太平洋方面で行動中であろうと判断したのではないかという意見もある{{Sfn|戦史叢書43|1971|p=254-255}}。6月1日、二十四航戦の司令部からミッドウェーの600海里圏付近で敵の潜水艦や飛行艇と会敵したことと、第2次K作戦の中止が連合艦隊司令部、南雲機動部隊司令部に伝達された{{Sfn|戦史叢書43|1971|p=262}}<ref>{{Harvnb|亀井|2014a}} 202頁、{{Harvnb|森史朗|2012a}} 272頁</ref>。無線封止が重要視されたため連合艦隊司令部からは南雲機動部隊に作戦中止の連絡はしていない<ref>[[#飛龍生涯]]307頁</ref>。作戦中止に対し、連合艦隊司令部から作戦再興の指示は出されなかった<ref>{{Harvnb|森史朗|2012a}} 272頁</ref>。南雲機動部隊首脳部も、K作戦の中止を大した問題とは考えなかった{{Sfn|戦史叢書43|1971|p=262}}<ref>{{Harvnb|森史朗|2012a}} 289頁</ref>。連合艦隊参謀らによれば、知敵手段は崩れたが、連合艦隊は米艦隊はハワイからの出撃が遅れるだろうと考えていたので大した心配はしていなかったという{{Sfn|戦史叢書43|1971|p=116-117}}。 |
|||
ホーネットは自艦の艦載機を飛行甲板に待機させ、全速力で[[真珠湾]]に向かった。日本語および英語両方の[[ラジオ放送]]を傍受し、空襲の成功は14:46に確認される。B-25を搭載してからちょうど一週間後にホーネットは真珠湾に帰港した。[[ドーリットル空襲]]による被害は微小であったが、日本上空にやすやすと敵機の侵入を許してしまったことは日本にとって大きな衝撃を与えた。また敵が航続距離の大きいB-25を用いたために対応策が考えられず、陸海軍はより大きな衝撃を受けることとなった。国民の間でも不安が広がり、しばらく敵機来襲の誤報が続き、山本長官にも国民からの非難の投書があった<ref>このことは当時連合艦隊参謀であった三和義勇大佐の『三和日誌』、宇垣連合艦隊参謀長の日誌『戦藻録』より窺える。</ref>。山本長官は米海軍による空襲の危険性については以前より認識しており、この空襲で既に内定していたミッドウェー作戦の必要性を一層痛感し、予定通りに実施するために準備を進めた。 |
|||
== アメリカ軍の対応 == |
== アメリカ軍の対応 == |
||
=== 情報収集と分析 === |
=== 情報収集と分析 === |
||
アメリカ軍は日本軍来襲の情報を収集・分析し、ミッドウェー作戦に備えていた。1942年3月4日、[[太平洋艦隊 (アメリカ海軍)|太平洋艦隊]]司令長官チェスター・ニミッツはオアフ島に日本軍の大型航空機([[二式飛行艇]])2機が爆撃を行い(K作戦)、同月11日にはミッドウェーに新型飛行艇(前同 二式飛行艇)1機が接近、撃墜されたことをふまえ、日本軍の攻勢の兆候と判断した。ただこれは誤解で、実際には日本軍の爆撃は攻勢作戦とは関係のない偵察監視・妨害作戦に過ぎなかった。日本海軍の主力部隊は南方作戦後に日本本土へと帰投しており、次に太平洋のどこかを攻撃することは確実であるものの、ハワイ、ミッドウェー、米本土西岸など可能性が幅広く、判断がまとまっていなかった。米本土西岸への日本軍上陸の誤報(例:[[ロサンゼルスの戦い]])なども影響している。 |
|||
真珠湾攻撃直前に変更された日本海軍の[[海軍暗号書D|戦略暗号 "D"]]は、アメリカ軍の諜報部よりJN-25と呼ばれていた。1942年4月頃には、ハワイ真珠湾に所在するアメリカ海軍[[エドウィン・レイトン]]の情報班が、日本軍の暗号を断片的に[[暗号解読|解読]]し、日本海軍が太平洋正面で新たな大規模作戦を企図していることについても、おおまかに把握していた。この時点では時期・場所などの詳細が不明であったが、5月頃から通信解析の資料が増えてきたことにより暗号解読との検討を繰り返して作戦計画の全体像が明らかになると、略式符号「AF」という場所が主要攻撃目標であることまでわかってきた。「AF」がどこを指しているのかが不明な状態であったが、アメリカ側は<ref>『オールカラーでわかりやすい!太平洋戦争』([[[Kindle]]版])106頁 </ref><!-- Wikipedia:出典を明記する/電子書籍 をご覧下さい -->{{信頼性要検証|date=2017-01}}日本海軍の編成表から「A」「AO」「AOB」がアリューシャン方面であることは明白であると判断した。 |
|||
[[ |
[[ファイル:Japanese Attack at Dutch Harbor.jpg|thumb|250px|爆撃される[[ダッチハーバー]](6月3日)]] |
||
ワシントンの[[アメリカ統合参謀本部]]は攻撃目標をハワイ、陸軍航空隊では[[サンフランシスコ]]だと考え、また[[アラスカ]]、米本土西岸だと考える者もいた。5月中旬になっても決定的な情報は無かったが、ニミッツ大将は各種情報と戦略的な観点からミッドウェーが目標であると予想し、ハワイ所在のレイトン情報主任参謀らも次第にミッドウェーが目標であるとの確信を深めていった。 |
|||
[[ワシントンD.C.|ワシントン]]は攻撃目標をハワイ、陸軍航空部隊では[[サンフランシスコ]]だと考え、また[[アラスカ]]、米本土西岸だと考える者もいた。決定的な情報がなく、5月中旬になっても、米軍は日本軍の進攻目標も時期も分からなかったが、ニミッツ大将はミッドウェイが目標であるとの各種情報と戦略的な観点から予想し、ハワイ情報関係者(レイトン情報主任参謀)らも次第にミッドウェイが目標であるとの確信を深めていった。5月11日ごろ諜報部にいた青年将校ジャスパー・ホームズの提案により、決定的な情報を暴くための一計が案じられた。彼はミッドウェイ島の基地司令官に対して、ハワイ島に向けた、「海水のろ過装置の故障により、飲料水が不足しつつあり」といった緊急の電文を英語の平文で送信するように伝えた(オアフ島、ミッドウェイの間には海底電信もある)。その後程なくして日本のウェーク島守備隊(クワジェリン環礁の在第六艦隊説もあり)から発せられた暗号文に、「AFは真水不足という問題あり、攻撃計画はこれを考慮すべし」という内容が表れたことで、ミッドウェイ島及びアリューシャン方面が次の日本軍の攻撃目標だと確定された<ref>なお、このエピソードについては、実際の暗号解読状況や手法を秘匿するための粉飾とする説もある。[[半藤一利]]らによれば、該当する日本側の電文は残っていないという。</ref>。5月26日までにハワイの情報隊は暗号解読に成功し、各部隊の兵力、指揮官、予定航路、攻撃時期などが判明した。ニミッツ大将はこの結果をミッドウェイの部隊に伝えたが、[[ワシントンD.C.|ワシントン]]ではこの情報を全面的には信用せず、日本軍の[[偽情報]]ではないかと疑問を持つ者もいた。日本軍がサンフランシスコを攻撃するのに陸上戦力を伴うわけがなく、ニミッツ大将は自己の意見がほぼ間違いないと主張した。この論争は続いたが、ニミッツ大将は自己の主張に基づいて作戦準備を進めた。5月26日以降は日本軍が暗号・乱数表を変えたために解読はできなくなった。 |
|||
5月11日ごろ、諜報部にいた青年将校ジャスパー・ホームズの提案により、決定的な情報を暴くための一計が案じられた。彼は、ミッドウェー島の基地司令官に対してオアフ島・ミッドウェー間の[[海底ケーブル]]を使って指示を送り、ミッドウェーからハワイ島宛に「[[海水淡水化|海水ろ過]]装置の故障で、飲料水不足」といった緊急の電文を英語の[[平文]]で送信させた。その後、程なくして日本のウェーク島守備隊([[クェゼリン環礁]]所在の[[第六艦隊 (日本海軍)|第六艦隊]]説もあり)から発せられた暗号文に、「AFは真水不足、攻撃計画はこれを考慮すべし」という内容が表れたことで、AFはミッドウェー島を示す略語と確認された。こうしてミッドウェー島及びアリューシャン方面が次の日本軍の攻撃目標だと確定された。 |
|||
一方、日本軍では情報管理に綻びが見え始めていた。空母「飛龍」では出発前に誰もがミッドウェー作戦を知っており、一般住民の方が乗組員より先に目的地を知っていたという証言もある<ref>別冊歴史読本『日本海軍軍艦総覧 戦記シリーズ37』(新人物往来社、1997)21頁<br>。「空母『飛龍』の機関室 <small>真珠湾からミッドウェーへ</small>」 萬代久男「飛龍」機関長付少尉。</ref>。また5月下旬に呉に戻った重巡洋艦「[[加古 (重巡洋艦)|加古]]」艦長の高橋は、息子から近々行われる大作戦について教えてくれとせがまれ困惑したと述べている<ref>高橋雄次『鉄底海峡<small>重巡「加古」艦長回想記</small>』(光人、1994)76頁</ref>。 |
|||
日本側にも「6月1日における第三部特務班の判断」として、「ミッドウェー島が清水不足を訴えている」と軍令部作戦課佐薙毅中佐の日誌に残されている<ref>『ミッドウェーの決断』[[プレジデント社]]、50頁</ref>。一方、このエピソードについては、実際の暗号解読状況や手法を秘匿するための粉飾とする説もある。沈没する空母飛龍から脱出後、アメリカ軍に救助され捕虜となった相宗邦造中佐ら機関科兵34名は、アメリカ軍情報士官から1942年5月に就役したばかりの[[飛鷹型航空母艦]][[隼鷹 (空母)|隼鷹]]の写真を見せられて仰天している<ref name="飛龍生涯308">[[#飛龍生涯]]308-309頁、[[#海軍艦隊勤務]]205頁</ref>。萬代久男少尉によれば、「隼鷹」の写真は軍極秘回覧簿で見たものと全く同じであった。萬代は暗号解読云々よりも、むしろ連合軍諜報活動の方が連合軍の情報戦勝利に影響を与えたと述べている<ref name="飛龍生涯308"/>。 |
|||
=== 作戦準備 === |
|||
ハワイ諸島とは、米国にとり太平洋正面の防衛・進攻の戦略的に重要な根拠地であった。ミッドウェイはこのハワイ諸島の前哨であり、戦略要点である。ニミッツ大将は日本軍の来襲の危険性があるミッドウェイを5月3日に視察し、同島の指揮官シマード海軍中佐と防備の強化について打ち合わせた。シマード中佐は、兵器と人員が充足すれば防衛は可能であると意見を述べ、ニミッツ大将は要望通りの補強を行うことにして防備を固めようとした。集結した航空機は約120機、人員は3027人に達した。陸上部隊は士気が高かったが、航空部隊は寄せ集めの部隊が多く、整備員の増強がなかったために搭乗員は自前で整備・燃料補給を行っていたため、完全に充足した部隊ではなかった。 |
|||
5月26日までにハワイの情報隊は暗号解読に成功し、各部隊の兵力、指揮官、予定航路、攻撃時期などが判明した。ニミッツ大将はこの結果をミッドウェー基地の部隊に伝えたが、米国首都[[ワシントンD.C.|ワシントン]]ではこの情報を全面的には信用せず、日本軍の[[偽情報]]ではないかと疑問を持つ者もいた。ニミッツ大将は、日本軍がサンフランシスコを攻撃するのに陸上戦力を伴うわけがなく、自己の意見が間違いないと主張、論争は続いたが、ニミッツ大将は自己の主張に基づいて作戦準備を進めた。5月26日以降は日本軍が暗号・[[乱数表]]を変えたために解読できなくなった。 |
|||
日本海軍のミッドウェイへの攻撃は、6月3日から5日までに行われることをハワイの情報隊は事前に察知していた。日本側は陽動作戦として空母「[[龍驤 (空母)|龍驤]]」、「[[隼鷹 (空母)|隼鷹]]」を中心とする部隊をアリューシャン方面に向かわせ、[[アッツ島]]、[[キスカ島]]などを占領、[[ダッチハーバー]]などを空爆する攻略作戦を計画していたが、これは陽動であることは事前に米軍が察知していた。ニミッツ大将はこれらの情報に基づいて邀撃作戦計画を立案した。しかし日本軍の兵力は大きく、ニミッツ大将の使用可能な戦力を全て投入しても対抗するためには不足が大きかった。そのため、アリューシャン、アラスカ方面を最低限の戦力を送り、主力部隊をミッドウェイに集中した。この作戦計画は5月28日に『太平洋艦隊司令長官作戦計画第29-42号』を発令した。そこで第一に敵を遠距離で発見捕捉して奇襲を防止、第二に空母を撃破してミッドウェイ空襲を阻止、第三に潜水艦は哨戒及び攻撃、第四にミッドウェイ守備隊は同島を死守などを述べた。しかし本作戦において、ニミッツ大将は2隻の空母しか使用が期待できなかった。 |
|||
=== 戦力の準備 === |
|||
[[Image:G13065 USS Yorktown Pearl Harbor May 1942.jpg|thumb|250px|<small>真珠湾のドックに入る空母「ヨークタウン」。</small>]] |
|||
ハワイ諸島は、アメリカにとって太平洋正面の防衛・進攻の戦略的に重要な根拠地であった。ミッドウェー島はハワイ諸島の前哨であり、戦略的要衝である。ニミッツ大将は日本軍の来襲の危険性があるミッドウェーを5月3日に視察し、同島守備隊の指揮官シマード海軍中佐と防備の強化について打ち合わせた。このとき、シマード中佐は兵器と人員が充足すれば防衛は可能であると意見を述べ、ニミッツ大将はシマード中佐の要望通りの補強を行うことにして防備を固めようとした。こうして、ミッドウェー島に集結した航空機は当時最新鋭の[[TBF (航空機)|TBF雷撃機]]を含む約120機、アメリカ海兵隊を含む人員の補強は3027人に達し、[[掩体壕|防爆掩蓋]]や砲台も配備していた。陸上部隊は士気が高かったが、航空部隊は寄せ集めが多く、また整備員の増強がなかったために搭乗員自ら整備・燃料補給を行うなど、完全に充足した部隊ではなかった。それでも、[[海軍陸戦隊|日本海軍陸戦隊]]5000名の上陸を撃退するには十分な兵力だった<ref>[[#ヨークタウン]]163頁</ref>。 |
|||
ハワイの情報隊は、日本海軍のミッドウェーへの攻撃が6月3日から5日までに行われることを事前に察知し、日本側が陽動作戦として計画していた、空母[[龍驤 (空母)|龍驤]]と[[隼鷹 (空母)|隼鷹]]を中心とする部隊をアリューシャン方面に向かわせて[[アッツ島]]、[[キスカ島]]などを占領、[[ダッチハーバー]]などを空爆する作戦も陽動であることを事前に見抜いており、ニミッツ大将はこれらの情報に基づいて邀撃作戦計画を立案した。日本軍の兵力は大きく、ニミッツ大将の指揮下にある使用可能な戦力を全て投入しても対抗するためには不足が大きかった。そのため、アリューシャン・アラスカ方面には最低限の戦力を送るにとどめ、主力をミッドウェーに集中することにした。 |
|||
第17任務部隊(TF-17)の[[フランク・J・フレッチャー|フレッチャー]]少将は珊瑚海海戦で日本のポートモレスビー攻略を防ぎ、敵主力空母へもダメージを与えることに成功した。しかし自身も主力空母「[[レキシントン (CV-2)|レキシントン]]」を失い、「[[ヨークタウン (CV-5)|ヨークタウン]]」も中破するという犠牲を払っていた。「ヨークタウン」への命中は爆弾1発のみであったが、排煙経路を破壊されるという重大なダメージを受けていた(機関からの燃焼煙を正常に排出されずにいるためボイラーが出力を出せず、速力が低下していた)。また2発の至近弾により燃料タンクの溶接が外れ、燃料が漏れ出していた。特に珊瑚海で油槽船「ネオショー」をも失っていたため、この燃料漏れは重大な結果(海上で立ち往生)を招きかねなかった。 |
|||
アメリカ軍の作戦計画は5月28日に『太平洋艦隊司令長官作戦計画第29-42号』として発令され、内容は、第1に敵を遠距離で発見捕捉して奇襲を防止、第2に空母を撃破してミッドウェー空襲を阻止、第3に潜水艦は哨戒及び攻撃、第4にミッドウェー島守備隊は同島を死守などというものであった。 |
|||
ニミッツ大将は、来たるべき侵攻に備えて太平洋南西部よりフレッチャー少将の第17任務部隊をハワイに呼び戻した。途中で何とか燃料を補給できた「[[ヨークタウン (CV-5)|ヨークタウン]]」は5月27日に真珠湾に到着、直ちに[[乾ドック]]に入れられ驚異的な応急修理が実施された。燃料タンクの損傷については、アメリカ西海岸の[[ワシントン州]]ブレマートン港で長期の修理を行う必要があるだろうとの見通しがあったが、ハワイでの72時間の不眠不休の作業により応急修理が施され、なんとか戦闘艦としての機能を取り戻すことに成功した。5月28日に第16任務部隊(TF-16)の「[[エンタープライズ (CV-6)|エンタープライズ]]」「[[ホーネット (CV-8)|ホーネット]]」が真珠湾を出撃した。そして「ヨークタウン」は5月30日に乾ドックを出た。出航時、艦には修理工が乗ったままであり、航行中も修理が続けられた。また、珊瑚海海戦にて損害のあった飛行機隊は「[[サラトガ (CV-3)|サラトガ]]」(雷撃の損傷修理のため本国へ戻るときに飛行隊は降ろしていた)の隊と取り替えて乗船させるなど、ニミッツ大将の持ちうるすべての戦力を日本軍に向けさせるという信念と豪腕により、アメリカ軍は3隻目の空母を戦闘に参加させることができた。 |
|||
[[File:G13065 USS Yorktown Pearl Harbor May 1942.jpg|thumb|250px|{{small|真珠湾のドックに入る空母ヨークタウン}}]] |
|||
もしもニミッツ大将が準備できた空母が、(入院した[[ウィリアム・ハルゼー|ハルゼー]]中将に代わった)[[レイモンド・スプルーアンス|スプルーアンス]]少将の第16任務部隊の「エンタープライズ」「ホーネット」の2隻のみだった場合、戦いの様相もまた違っていた可能性は高い<ref>後述にもあるが、日本側はアメリカ海軍の戦闘可能空母をこの時点で2隻と見積もっており、先の珊瑚海海戦で自力航行不能にまで損害を与えた米空母「ヨークタウン」がミッドウェー作戦に間に合うとは夢にも思わなかった。</ref>。 |
|||
5月28日に作戦計画を発した時点で、ニミッツ大将が投入を期待できる空母は2隻のみだった。[[サラトガ (CV-3)|サラトガ]]は日本海軍潜水艦の攻撃で損傷して修理を要する状態にあり、[[第17任務部隊]](TF-17)の2隻は[[珊瑚海海戦]]で大打撃を受けていた。 |
|||
フレッチャー少将の第17任務部隊は、珊瑚海海戦において[[ポートモレスビー]]防衛を成功させ、日本海軍の[[軽空母]]1隻([[祥鳳 (空母)|祥鳳]])を撃沈。主力空母(翔鶴)にもダメージを与えたものの、自身も主力空母レキシントンを失い、[[ヨークタウン (CV-5)|ヨークタウン]]が中破していた。ヨークタウンへの命中は爆弾1発のみであったが、排煙経路を破壊される重大損傷で、機関からの燃焼煙を正常に排出できず[[ボイラー]]が出力を上げられず、速力が24ノットに低下<ref>[[#ヨークタウン]]137-141頁</ref>。また、2発の至近弾で左舷燃料タンクから燃料が漏れ出していた。特に珊瑚海海戦では艦隊付属の[[ネオショー (給油艦)|油槽船ネオショー]]を失い、この燃料漏れは海上での立ち往生になりかねなかった<ref>[[#ヨークタウン]]141頁</ref>。 |
|||
6月2日、フレッチャー少将の第17任務部隊とスプルーアンス少将の第16任務部隊がミッドウェー島の北東で合流。この合流した機動部隊の指揮はフレッチャー少将がとることになった。 |
|||
ニミッツ大将は、日本軍の侵攻に備えて太平洋南西部よりフレッチャー少将の第17任務部隊をハワイに呼び戻した。途中で何とか燃料を補給できたヨークタウンは5月27日に真珠湾に到着、直ちに[[乾ドック]]に入れられて突貫の応急修理工事が実施された。特に燃料タンクの損傷については、アメリカ西海岸の[[ワシントン州]][[ブレマートン]]港にて長期の修理を行う必要があるとの見通しがあったが、ハワイでの72時間の不眠不休の作業によって、空母としての機能を取り戻し、5月30日に乾ドックを出た。出撃時、艦には修理工が乗ったままであり、戦場へ向かって航行中も修理が続けられた。この応急修理について、乗組員は「いいかげんな間に合わせ」と評している<ref>[[#ヨークタウン]]156頁</ref>。ヨークタウンを母艦とする第5航空群は珊瑚海海戦で損耗していたため、修理のために本国に戻るサラトガの第3航空群と入れ替えられた。これで、当時のアメリカ海軍太平洋艦隊が投入できる空母戦力の全てがミッドウェーの戦いに参戦する形が整えられた。 |
|||
もしニミッツ大将が準備できた空母が、第16任務部隊のエンタープライズ、ホーネットの2隻のみであった場合、戦いの様相もまた違っていた可能性は高い。前述にもあるが、日本側はアメリカ海軍の太平洋における戦闘可能空母をこの時点で正規空母2-3隻、軽空母2-3隻と見積もっており、ワスプや軽空母が出現することはあっても、珊瑚海海戦で中破したヨークタウンがミッドウェー作戦に間に合うとは想像だにしていなかった<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.13</ref>。 |
|||
== 戦闘の経過 == |
== 戦闘の経過 == |
||
[[File:Battle_of_midway-deployment_map.svg|thumb|ミッドウェー海戦 戦闘の経過]] |
|||
=== 前哨戦 === |
|||
=== ミッドウェー攻撃前 === |
|||
5月26日、ミッドウェー島占領部隊輸送船がサイパンを出航した。海軍陸戦隊([[大田実]]海軍少将)と設営部隊、陸軍からは[[一木清直]]陸軍大佐率いる陸軍一木支隊が乗船していた。船団は第二水雷戦隊(旗艦 軽巡洋艦[[神通 (軽巡洋艦)|神通]])他に護衛され、北上した。船団は6月5日には、ミッドウェー島から300海里の地点にいた。 |
|||
==== 両軍の移動 ==== |
|||
1942年5月28日、アメリカ海軍太平洋艦隊司令長官発の作戦計画に従い、エンタープライズ、ホーネットを基幹とする第16任務部隊(TF-16)が真珠湾を出撃し、続いて5月30日には第17任務部隊(TF-17)も基幹となるヨークタウンの緊急修理の完了を待つ形で真珠湾を出撃。死守命令を受けたミッドウェー島守備隊を助けるため一路ミッドウェー島を目指し、来襲する日本軍を待ち構えた。 |
|||
[[1942年]](昭和17年)[[5月27日]](日本の[[海軍記念日]])、南雲忠一中将率いる[[第一航空戦隊]]([[赤城 (空母)|赤城]]、[[加賀 (空母)|加賀]])、[[第二航空戦隊]]([[飛龍 (空母)|飛龍]]、[[蒼龍 (空母)|蒼龍]])を中心とする第一航空艦隊が[[広島湾]][[柱島]]から厳重な無線封止を実施しつつ出撃した<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.27</ref>。5月28日、ミッドウェー島占領部隊輸送船団が[[水上機母艦]][[千歳型水上機母艦|千歳]]、駆逐艦[[親潮 (駆逐艦)|親潮]]、[[荒潮 (駆逐艦)|黒潮]]と共に[[サイパン]]を出航した<ref>「輸送船鹿野丸の最後 其の1(2)」p.4、「特設船あるぜんちな丸戦時日誌戦闘詳報」p.29</ref>。[[海軍陸戦隊]]([[大田実]]少将)と設営部隊、陸軍からは[[一木清直]]陸軍大佐率いる陸軍一木支隊が乗船していた。船団は[[第二水雷戦隊]]([[旗艦]]:軽巡洋艦[[神通 (軽巡洋艦)|神通]])他に護衛され北上した。[[5月29日]]、連合艦隊司令長官山本五十六大将が直卒する主力部隊も広島湾柱島を出撃した<ref>[[#戦藻録(九版)]]121頁</ref>。[[三和義勇]]大佐(連合艦隊作戦参謀)は「今は唯よき敵に逢はしめ給えと神に祈るのみ。敵は豪州近海に兵力を集中せる疑あり。かくては大決戦は出来ず。我はこれを恐れる」「長官から兵にいたるまで誰一人として勝利についていささかの疑問をいだく者はいない。戦わずして敵に勝つの概ありと言うべきか」と日記にしたためている<ref>[[#亀井戦記]]119頁、[[#海軍驕り]]330,333頁</ref>。 |
|||
海軍記念日でもある[[5月27日]]午前5時、日本の[[南雲忠一]]中将率いる第一航空戦隊([[赤城 (空母)|赤城]]、[[加賀 (空母)|加賀]])、第二航空戦隊([[飛龍 (空母)|飛龍]]、[[蒼龍 (空母)|蒼龍]])を中心とする南雲機動部隊(第一機動艦隊)が[[広島湾]][[柱島]]から出撃、主力部隊他も2日後に同島を出撃した。 |
|||
5月30日、日本輸送部隊付近の米潜水艦がミッドウェーに長文の緊急電を発信し、日本はこれを傍受した。宇垣連合艦隊参謀長は、輸送部隊を発見して報告するものとすれば、敵が備えるところとなり、獲物がかえって多くなると考えた<ref>千早正隆『日本海軍の驕り症候群 下』中公文庫144-146頁</ref>。また、宇垣は、アメリカ軍の緊急交信が従来の例を見ず、ミッドウェーに向かっていることがばれている可能性もあるが、いずれにせよ変更はしないと考えた<ref>[[#戦藻録(九版)]]122頁(5月31日)</ref>。連合艦隊が何の対応も取らなかったことはこれ以上なく悔やまれることで<ref>[[#海軍驕り]]334頁</ref>、南雲艦隊に空襲を中止させ、米機動部隊を撃滅する方法もあったという意見もある<ref>千早正隆『日本海軍の驕り症候群 下』中公文庫150頁</ref>。 |
|||
作戦では日本側の事前索敵計画として[[6月2日]]までに2個潜水戦隊で哨戒線を構築する予定だった。しかし担当する[[第六艦隊]](潜水戦隊で構成された艦隊)で長距離哨戒任務に適した3個潜水戦隊の内、第2潜水戦隊はインド洋での通商破壊戦後の整備中、第8潜水戦隊は豪州・アフリカでの作戦任務中、第1潜水戦隊は北方作戦に充てられる事になった為どれも作戦には投入できなかった。 |
|||
6月4日夜、主力部隊旗艦大和の連合艦隊司令部敵信班はミッドウェー島付近で敵空母らしい呼び出し符号を傍受した<ref>[[#亀井戦記]]177頁</ref>{{Sfn|戦史叢書43|1971|pp=249-250}}{{#tag:ref|6月3日ごろ東京の軍令部が「敵水上部隊がミッドウェー付近にあるらしい」との情報を出したという話がある。しかし『戦藻録』に「出撃後軍令部は我企図は未だ察知せられあらずと認むる旨電報あり」の記事があり、また同電報の記録も回想ない。したがってこれは何かの間違いである。6月4日に旗艦大和が傍受した敵空母らしい呼出符号は記録に残っている。|group="注"}}。山本は、直ちに南雲機動部隊に通報するよう参謀に伝えた<ref>[[#亀井戦記]]176頁</ref>。だが「無線封鎖を破れば敵に位置を知られる」「一航艦が搭載機の半数をもって反撃に備えている」「南雲機動部隊の方が近く同じく傍受したはず」という判断から見送られた<ref>[[#亀井戦記]]179頁、[[#勝つ戦略負ける戦略]]128頁</ref>。連合艦隊首席参謀黒島亀人大佐は、山本長官が一航艦に知らせるかと尋ねたとき知せないよう具申したのは、自分の大きな失敗の一つであると話している{{#tag:ref|黒島参謀は米機動部隊の情報について「大本営からだったと思うが」と回想するが、別の回想では「空母の呼出符号を傍受した際」と述べ、記憶の混乱している節が見受けられた。|group="注"}}。連合艦隊航空参謀[[佐々木彰(軍人)|佐々木彰]]中佐によると、山本長官はすぐ赤城に知らせてはと注意されたので幕僚が集まって研究したが、結局長官に申し上げて赤城に打電しないこととした。しかし南雲機動部隊は傍受しておらず、予定通りに作戦を続けた{{Sfn|戦史叢書43|1971|pp=249-250}}。 |
|||
この為「海大型」で構成される第3・5潜水戦隊が担当する事になったが5潜戦は日本から[[クウェゼリン]]への回航途上で(第六艦隊に作戦が通知された[[5月19日]]時点)予定期日に間に合うのは不可能、3潜戦も所属の潜水艦の内3隻が第2次K作戦に充てられた為、両隊あわせて9隻の潜水艦が予定配置についたのは[[6月4日]]になってしまった。 |
|||
日本時間6月3日午前10時30分、南雲機動部隊は深い霧の中で混乱し、旗艦赤城は飛龍、蒼龍と2戦艦([[榛名 (戦艦)|榛名]]、[[霧島 (戦艦)|霧島]])の艦影を見失った<ref>[[#亀井戦記]]168頁</ref>。飛龍と霧島は衝突しかけたため、司令部では無電を使用するかどうか議論があったが、[[長波]]無電を使用して艦隊の針路を定めた<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.28、[[#亀井戦記]]173-175頁、[[#草鹿回想]]133頁</ref>。無線の使用によりアメリカ軍が南雲部隊の行動を察知したという説が日本側にあるが、アメリカ軍側にこの通信を傍受した記録はない<ref>[[#海軍驕り]]344頁、[[#プランゲ下]]216頁</ref>。6月4日午前3時37分、南雲部隊は補給隊と駆逐艦[[秋雲 (駆逐艦)|秋雲]]を分離した<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.3</ref>。午前10時25分、南雲司令部は各艦に「敵情に応じ行動に変更あるやも知れず」とし、制空隊の集合や収容に注意するよう通達を出している<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.4「機動部隊信令第100号」</ref>。午後4時30分、赤城と利根がアメリカ軍機らしき機影を発見すると、赤城から3機の零戦が発進して迎撃に向かった<ref>[[#亀井戦記]]205頁、[[#澤地記録]]233頁</ref>。南雲機動部隊は、誤認の可能性が高いと判断している<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.29</ref>。午後11時30分、赤城は雲間にアメリカ軍機を発見して総員を戦闘配置につけたが、その後は平穏に過ぎた<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.5、[[#澤地記録]]234頁</ref>。赤城では日本軍輸送船団が爆撃を受けた(後述)ことを知り、またアメリカ軍索敵機を撃墜できなかったことでミッドウェー基地に対する奇襲効果が失われたことを悟ったが、米空母が出撃してきていることには考え至っていなかった<ref>[[#炎の海]]228-229頁、[[#草鹿回想]]133頁</ref>。 |
|||
特に第16任務部隊が[[6月2日]]に5潜戦の担当海域を通過しており本作戦における大きな禍根になった。 |
|||
==== 日本軍輸送船団への攻撃 ==== |
|||
次に予定されていたのは第24航空戦隊によるミッドウェー周辺への航空索敵である。しかし[[二式大艇]]による[[ウェーク]]島を経由した索敵計画だったがウェーク環礁が二式大艇を運用するには浅すぎた為、経由地が[[ウォッゼ環礁]]に変更された為ミッドウェー全海域の索敵が出来ず、更にパイロットの技量不足で夜間着水が出来ず薄暮までにウォッゼ環礁に帰還する必要があったので肝心な北方海域哨戒(5月31日)短縮された為、結局米艦隊を発見する事は出来なかった。仮に予定通り北方海域を哨戒していたら米艦隊を発見できた確率は非常に高かった。 |
|||
アメリカ軍は5月30日以降、ミッドウェー島基地航空隊の32機の[[PBYカタリナ]]飛行艇による哨戒が行われていた。6月2日、フランク・J・フレッチャー少将の第17任務部隊とレイモンド・スプルーアンス少将の第16任務部隊がミッドウェー島の北東で合流。この合流した機動部隊の指揮はフレッチャー少将がとることになった。6月3日(09:00)、カタリナ飛行艇1機(ジャック・リード少尉機)が日本軍輸送船団と護衛の第二水雷戦隊を発見する<ref>[[#ヨークタウン]]168頁、[[#亀井戦記]]186頁</ref>。(12:30)、ミッドウェー島から第7陸軍航空部隊分遣隊の[[B-17 (航空機)|B-17爆撃機]]9機(指揮官:ウォルター・スウィーニー中佐)が発進、攻撃に向った<ref>[[#亀井戦記]]190頁</ref>。日本時間6月4日午後1時(16:23)、船団を発見したB-17部隊は爆撃を開始し、戦艦、空母、輸送船など、多数の艦艇撃破を報告した<ref>[[#ヨークタウン]]168頁、[[#亀井戦記]]193頁</ref>。実際は輸送船[[あるぜんちな丸]]、霧島丸が至近弾を受けたのみで損害も無かった<ref>「軍艦愛宕戦闘詳報(2)」p.3、「輸送船鹿野丸の最後 其の1 (2)」p.22、「特設船あるぜんちな丸戦時日誌戦闘詳報」pp.36-37、[[#亀井戦記]]194頁</ref>。 |
|||
(21:30)、オアフ島より増援されたPBYカタリナ飛行艇4機(指揮官:チャールズ・ヒッパード中尉)が魚雷を積んで出撃する。(現地時間6月4日01:15)レーダーで船団を発見(1:43)し、雷撃を開始した。夜間だった事で完全な[[奇襲]]になり、輸送船清澄丸が[[機銃掃射]]され、あけぼの丸に魚雷1本が命中し戦死者11名が出たが、両船とも航行に支障はなかった<ref>「軍艦愛宕戦闘詳報(2)」p.4「月明かりを利用して来攻せる敵飛行機1機の雷撃により"あけぼの丸"艦首に若干の被害あり」、[[#亀井戦記]]197-198頁</ref>。この時、船団を護衛すべき第七戦隊([[栗田健男]]少将)の重巡洋艦4隻([[熊野 (重巡洋艦)|熊野]]、[[鈴谷 (重巡洋艦)|鈴谷]]、[[三隈 (重巡洋艦)|三隈]]、[[最上 (重巡洋艦)|最上]])は船団を見失って離れた地点にいた。これは栗田少将のミスというより[[田中頼三]]少将(船団指揮官・第二水雷戦隊司令官)の判断により、輸送船団が予定航路から北100海里地点を航行していたからである<ref>[[#亀井戦記]]198頁</ref>。 |
|||
最後に計画され、連合艦隊が最も重視した第2次K作戦はオアフ島西北西480海里にあるフレンチフリゲート礁で潜水艦の補給を受けた24航戦の二式大艇によるオアフ島の航空索敵である。(第1次は3月に実施)しかしこれは米側の暗号解読で察知され海域一帯に警戒艦艇が配置された為、潜入した[[伊123潜]]から「見込み無し」の連絡を受け[[第十一航空艦隊]]は5月31日21時23分に作戦中止を24航戦に指示した。この作戦ももし実施されていたらオアフ島に米空母がいないことが判明し、以後の作戦が大きく変わった可能性が高かった。 |
|||
ミッドウェー基地からの艦隊発見の報を受け、米太平洋艦隊司令部は、B-17が攻撃した艦隊は敵主力機動部隊にあらずと判断し、第16・17両任務部隊に日本軍機動部隊と間違えて攻撃に向わないよう緊急電を打った<ref>[[#海軍驕り]]347頁</ref>。フレッチャー司令官も同じ判断を下し、行動を行わなかった。午後4時50分(19:50)には予想迎撃地点に向けて南西に進路を変更している<ref name="朝日ヨーク169">[[#ヨークタウン]]169頁</ref>。この段階では、フレッチャーとスプルーアンスも南雲機動部隊の位置を把握していなかった<ref name="朝日ヨーク169"/>。 |
|||
一方の米側は5月30日以降、ミッドウェー島の32機の[[PBYカタリナ]]飛行艇による哨戒が行われていたが6月3日9時頃(現地時間)1機が輸送船団と護衛の[[第二水雷戦隊]]を発見する。12時30分、ミッドウェー島から[[B-17]]爆撃機9機が発進、攻撃に向った。 |
|||
16時23分、船団を発見した攻撃隊は爆撃を開始するが輸送船2隻が至近弾を受けたのみで損害も無かった。 |
|||
=== 米基地航空隊との戦闘 === |
|||
21時30分、オアフ島より増援されたPBY4機による雷撃隊が出撃。翌4日1時15分レーダーで船団を発見し1時43分雷撃を開始した。夜間だった事もあり完全な奇襲になり輸送船1隻に1本が命中したが航行に支障なくそのまま続行した。 |
|||
==== ミッドウェー島空襲 ==== |
|||
[[ファイル:Midway Atoll.jpg|thumb|250px|{{small|ミッドウェー島。手前は飛行場のあるイースタン島。奥は飛行艇基地のあるサンド島。}}]] |
|||
[[ファイル:G17056 Oil tanks burn at Midway after japanese attack 4 june 1942.jpg|thumb|250px|{{small|炎上するミッドウェー基地。}}]] |
|||
ミッドウェー作戦の資料では、2つの時間表示が混在している<ref name="朝日ヨーク155">[[#ヨークタウン]]153頁</ref>。アメリカ軍は[[ハワイ・アリューシャン標準時]]を使用している為、ミッドウェー時間より2時間遅れている<ref name="朝日ヨーク155"/>。日本軍は日本時間を使用している。即ち、ミッドウェー時間はUTC-12であるが、アメリカ軍はUTC-10、日本軍はUTC+9を使っており、各軍の資料は当然ながらその日時によるものとなっている。ここから(00:00)内を現地ミッドウェー時間(UTC-12)とし、戦闘詳報に記載された日本時間(UTC+9)を「午前/午後○○時○○分」で併記する。 |
|||
「軍艦加賀戦闘詳報」によれば、日の出は日本時間6月5日午前2時(現地時間6月4日05:00)、日没は午後4時(19:00)頃、南雲機動部隊上空の天候は曇り、雲量8、雲高500から1000であった<ref>「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(2)」p.7</ref>。 |
|||
基地からの艦隊発見の報を受けた[[太平洋艦隊司令部]]では主力の機動部隊ではないと判断し第16・17両任務部隊に機動部隊と間違えて向わないよう緊急電を打つが司令官[[フランク・J・フレッチャー]]自身もそう判断して軽卒な行動は慎んでいた。19時50分には予想迎撃地点に向けて進路を変更している。 |
|||
日本時間6月4日午後10時30分(現地時間6月4日1:30)、米空母では航空機搭乗員に朝食が出され、その後、出撃待機となり命令を待った<ref>[[#ヨークタウン]]170頁</ref>。一時間後、搭乗員整列が下令、艦長や航空群司令からの指示や注意事項が通達された。日本時間6月5日午前1時15分(4:15)、ミッドウェー基地からPBY飛行艇による哨戒隊、15分後には第17任務部隊の空母ヨークタウンから[[SBD (航空機)|SBD ドーントレス爆撃機]]からなる偵察隊が航空偵察に出撃した<ref name="朝日ヨーク171">[[#ヨークタウン]]171頁</ref>。ウォリィ・ショート大尉の隊は、日本軍水上偵察機1機と交戦したと報告した<ref name="朝日ヨーク171"/>。この時点で南雲機動部隊は、ヨークタウンから西方200海里を航行している<ref name="朝日ヨーク171"/>。 |
|||
6月3日午後、南雲機動部隊に追従する主力部隊旗艦[[大和]]に乗り込んだ連合艦隊司令部敵信班はミッドウェー島付近で敵空母をらしい呼び出し符号を傍受した。夜に報告を受けた山本長官は直ちに南雲機動部隊に通報するよう参謀に伝えたが「無線封鎖を破れば敵に位置を知られる」「南雲機動部隊の方が近く同じく傍受したはず」という判断から見送られた。しかし南雲機動部隊は傍受しておらず、予定通りに作戦を続けた。 |
|||
日本時間6月5日午前1時30分(4:30)、南雲機動部隊はミッドウェー空襲隊([[友永丈市]]大尉指揮:[[零式艦上戦闘機]]36機、[[九九式艦上爆撃機]]36機、[[九七式艦上攻撃機]]36機、合計108機)を発進させた<ref>[[#亀井戦記]]223頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.6</ref>。本来ならば淵田中佐が総指揮官として出撃するはずだったが、淵田は[[虫垂炎]]による[[虫垂切除術|手術]]を行ったばかりで出撃できなかった<ref>[[#淵田自叙伝]]198頁</ref>。源田実航空参謀も[[風邪]]により熱を出していた<ref>[[#亀井戦記]]217頁、[[#海軍驕り]]342頁</ref>。日本軍は「敵空母を基幹とする有力部隊附近海面に大挙行動と推定せず」という方針の元に攻撃を開始する<ref>[[#澤地記録]]26頁</ref>。近藤中将の攻略部隊(第二艦隊)がミッドウェー島に上陸する日は6月7日と決定されており、南雲機動部隊はそれまでにミッドウェー基地の戦闘力を奪わなければならなかった<ref>[[#草鹿回想]]126頁</ref>。奇襲の成立が前提にあり、空襲の攻撃主目標は地上・上空の飛行機、副目標が[[滑走路]]、航空施設、防空陣地であった。源田実参謀によれば、滑走路が副目標であるのは[[支那事変]](日中戦争)の戦訓から長期間使用不能にすることが困難であるから、また艦爆が対空砲火による被害が大きいことも支那事変でわかっていたが命中率の良さから採用し、[[大日本帝国海軍航空爆弾一覧|800キロ爆弾]]は開戦後の経験から陸上攻撃に大きな効果があることが分かっていたため採用したという{{Sfn|戦史叢書43|1971|p=423}}。 |
|||
=== 作戦開始 === |
|||
[[Image:G17056 Oil tanks burn at Midway after japanese attack 4 june 1942.jpg|thumb|250px|<small>炎上するミッドウェー基地。</small>]] |
|||
[[Image:Akagi under air attack.jpg|thumb|250px|<small>B-17爆撃機の攻撃を受け、回避行動中の空母「赤城」。</small>]] |
|||
各空母からの発艦機数は、赤城から零戦9機、九九艦爆18機、加賀から零戦9機、九九艦爆18機、蒼龍から零戦9機、艦攻18機(800キロ爆弾装備)、飛龍から零戦9機、艦攻18機である<ref>[[#亀井戦記]]223頁</ref>。このうち、飛龍艦攻1機(赤松作 飛特少尉)が故障で引き返している<ref>「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」pp.2,60、「飛龍飛行機隊戦闘行動調書(3)」p.56</ref>。四空母に残った戦力は、零戦36(各艦9)、艦爆36(飛龍18、蒼龍18)、艦攻41(赤城17、加賀26)であった<ref>[[#亀井戦記]]224頁</ref>。一航戦の艦攻には航空機用魚雷、二航戦の艦爆には250キロの通常爆弾が装着され、各空母格納庫で待機<ref>[[#亀井戦記]]225頁、[[#電信員遺稿]]115頁、[[#新装版飛龍生涯]]407-408頁、412頁</ref>。アメリカ側記録には、二航戦は[[セイロン沖海戦]]の戦訓を踏まえ陸上攻撃・艦船攻撃どちらでも対応できるようにするため未装備状態だったとする意見もある(何れのアメリカ側記録資料、研究者によるかは不明)<ref>[[#歴群ミッドウェー]]124頁</ref>。 |
|||
6月4日1時30分(現地時間)米空母では航空機搭乗員に朝食が出され、その後出撃待機となり命令を待った。同じ頃、南雲機動部隊でも航空機搭乗員に対して朝食が出され、2時45分には搭乗員整列が下令、艦長や飛行長からの指示や注意事項が通達された。 |
|||
4時15分、ミッドウェーからPBYによる哨戒隊、30分には第17任務部隊の[[ヨークタウン]]から[[SBDドーントレス]]からなる偵察隊が航空偵察に出撃した。 |
|||
また偵察機として赤城 、加賀から九七式艦攻各1機、(赤城は後に飛龍に着艦する[[西森暹]]飛曹長機)重巡洋艦[[利根 (重巡洋艦)|利根]]、[[筑摩 (重巡洋艦)|筑摩]]から[[零式水上偵察機]]各2機、戦艦[[榛名 (戦艦)|榛名]]から[[九五式水上偵察機]]が発進した<ref name="一1航空艦隊19">「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.19「偵察隊編成。右の他、第8戦隊、2D/3S、十三試艦爆偵察あり」</ref><ref>「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(1)」p.32、「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.29</ref>。索敵機の発進は日の出の30分前、午前1時30分と定められていた<ref>[[#海の武将]]38頁</ref>。だが[[第八戦隊]]司令官[[阿部弘毅]]少将の判断で利根は[[対潜哨戒機|対潜哨戒]]につく九五式水上偵察機の発艦が優先された<ref>[[#橋本信号員]]119頁</ref>。このため筑摩機は(04:35)午前1時35分(第5索敵線)、(04:38)午前1時38分(第6索敵線)に零式水上偵察機が発進、(04:50)午前1時50分に対潜哨戒機発進<ref name="一2航空偵察図">「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.6、「第1航空艦隊戦闘詳報(3)」p.24</ref><ref name="澤地記録235">[[#澤地記録]]235頁</ref>。利根は(04:38)午前1時38分に対潜哨戒機、(04:42)午前1時42分(第3索敵線)、(05:00)午前2時(第4索敵線)にそれぞれ水偵が発進した<ref name="一2航空偵察図"/><ref>[[#澤地記録]]235頁、[[#亀井戦記]]229頁</ref>。戦闘詳報には「利根、筑摩とも出発著しく遅延す」「筑摩6号機は天候不良のため午前3時35分に引き返せり」という記載がある<ref name="一1航空艦隊19"/><ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.7</ref>。 |
|||
4時20分、準備の終えた南雲機動部隊は攻撃隊を発艦させる為に針路を風上にかえ空襲隊([[友永丈市]]大尉指揮:[[零式艦上戦闘機|零戦]]36機、[[九九式艦上爆撃機|九九艦爆]]36機、[[九七式艦上攻撃機|九七艦攻]]36機、合計108機)が出撃した。 |
|||
筑摩の遅れは、機長兼飛行長の[[黒田信]]大尉によれば、待機していたが艦長から発艦命令がなかったので催促したという。艦長の[[古村啓蔵]]大佐によれば、発艦が遅れた理由は思い出せないが催促されて判断し発艦させたという{{Sfn|戦史叢書43|1971|p=304}}。利根の遅れは、通信参謀[[矢島源太郎]]と飛行長[[武田春雄]]によれば、射出機の故障は記憶になく、大きく遅れた感じはなかったという。第八戦隊首席参謀[[土井美二]]中佐によれば、なにか滑走車のピンが抜けた入らないで騒いでいた気がするという{{Sfn|戦史叢書43|1971|p=306}}。 |
|||
また偵察機として空母[[赤城]]、[[加賀]]からそれぞれ1機、巡洋艦[[利根]]、[[筑摩]]から2機ずつ、戦艦[[榛名]]から1機索敵機が発進した。だが[[第八戦隊]]司令官[[阿部弘毅]]少将の判断で利根、筑摩は対潜哨戒につく[[二座水偵]]の発艦が優先された為、筑摩機は5分から8分発艦が遅れ利根機は1号機が12分、4号機は30分の遅れとなった。 |
|||
最後に各空母より零戦1個小隊が直掩の |
最後に各空母より零戦1個小隊3機が直掩(援)のため出撃した。このうち、加賀の零戦1機が故障のために飛び立てず合計11機となる。そして南雲艦隊は針路を再びミッドウェー島に向け進撃を開始した。午前2時20分(05:20)、南雲長官より「敵情に変化なければ第二次攻撃は第四編成(指揮官加賀飛行隊長)をもって本日実施予定」という信号が送られた<ref>[[#澤地記録]]237頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.6</ref>。これは米艦隊が出現しない事が明確になった時点で兵装を対地用に変更し、ミッドウェーを再空襲する事を予令として通知したものである。仮に第二次攻撃隊が出撃すると、南雲機動部隊に残された航空兵力は各空母零戦3機となるはずだった<ref>[[#亀井戦記]]232頁</ref>。一方で、複数の関係者からこの予令が存在しない旨の証言がある<ref name="名前なし-1">豊田穣『豊田穣戦記文学集2 ミッドウェー海戦』講談社 316、317、324、331頁</ref>。(「[[#資料の問題]]」節を参照) |
||
午前2時15分(05:15)頃、アディ大尉が操縦するPBYカタリナ飛行艇は日本軍零式水上偵察機(利根4号機)を発見<ref>[[#亀井戦記]]238頁</ref>、近くに日本艦隊がいると判断した大尉は付近を捜索した結果、15分後に南雲部隊を発見して「日本空母1、ミッドウェーの320度、150浬」と平文で報告した<ref name="朝日ヨーク172">[[#ヨークタウン]]172頁</ref>。日本側もPBY飛行艇を発見し、警戒隊の軽巡洋艦[[長良 (軽巡洋艦)|長良]]から、続けて戦艦霧島から敵機発見を知らせる[[煙幕]]があがった<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.6、[[#澤地記録]]237頁</ref>。南雲機動部隊は直掩(援)零戦隊を発進させ始めたが、アメリカ軍飛行艇は雲を利用して回避しつつ接触を続け、零戦隊はとうとうアディ大尉のPBY飛行艇を撃墜できなかった<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.6「0243:各艦戦闘機を発進」、[[#亀井戦記]]263頁</ref>。午前2時40分(05:40)、アディ大尉機と同じ針路を遅れて飛んでいたチェイス大尉のPBY飛行艇もミッドウェー空襲隊を発見・報告した<ref>[[#ヨークタウン]]172頁、[[#亀井戦記]]239頁</ref>。アメリカ軍偵察機が南雲部隊発見を通報した無電はミッドウェー基地や南雲部隊などには傍受されたが、第16・17任務部隊には[[混線]]したため内容が把握できなかった。両部隊が内容を把握できたのはPBYからの続報を元にして、(06:03)にミッドウェー基地が打電した平文の緊急電を傍受してからである。この平文電報は赤城でも傍受している<ref>[[#橋本信号員]]121頁</ref>。 |
|||
6時 |
空襲が予想されるミッドウェー基地では、午前3時(06:00)に迎撃の戦闘機として[[F2A (航空機)|F2Aブリュースター・バッファロー戦闘機]]20機、[[F4F (航空機)|F4Fワイルドキャット戦闘機]]6機が出撃し、続いて[[TBF (航空機)|TBFアベンジャー雷撃機]]6機、[[B-26 (航空機)|B-26マローダー爆撃機]]4機、[[SB2U (航空機)|SB2Uビンジゲーター急降下爆撃機]]12機、[[SBD (航空機)|SBDドーントレス急降下爆撃機]]16機からなる混成攻撃隊が南雲部隊へ向けて発進した<ref>[[#ヨークタウン]]173頁、[[#亀井戦記]]240頁</ref>。基地には予備のSB2U 5機及びSBD 3機が残された<ref>[[#爆撃王列伝]]174頁</ref>。午前3時7分(06:07)、ミッドウェー基地経由で日本軍空母発見の報告を受けたフレッチャー少将は直ちに行動を開始すると、エンタープライズのスプルーアンスに対して攻撃を命令した<ref name="朝日ヨーク173">[[#ヨークタウン]]173頁</ref>。アメリカ海軍の3空母は直ちに出撃準備を開始、スプルーアンスはエンタープライズとホーネットの攻撃隊発進を午前4時(07:00)と指定した<ref name="朝日ヨーク173"/>。 |
||
午前3時16分(06:16)、ミッドウェー基地上空の米軍戦闘機隊は艦攻、艦爆、戦闘機隊の順で進撃して来る<ref>[[#空母雷撃隊]]198頁</ref>日本軍攻撃隊(友永隊)107機を発見する。戦闘はカタリナ飛行艇の[[吊光弾]]投下と米軍機の奇襲で始まり、先頭の友永隊長機を始め艦攻多数が被弾<ref>[[#空母雷撃隊]]199頁</ref>、直後に零戦隊が逆襲に転じて戦闘機同士の制空戦となった<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.30</ref>。約15分の空中戦は日本側の勝利に終わる。迎撃したバッファロー20機のうち13機、ワイルドキャット6機のうち2機が撃墜され、帰還したバッファロー5機、ワイルドキャット2機が使用不能となった。アメリカ軍の妨害を排除した日本軍攻撃隊は、午前3時30分(06:30)から午前4時10分(07:10)にかけて空襲を実施した<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.30、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.6、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(1)」p.20</ref>。映像撮影のため派遣されていた[[映画監督]]の[[ジョン・フォード]]などが見守る中、重油タンクや水上機格納庫、戦闘指揮所、発電所、一部の対空砲台を破壊し基地施設に打撃を与えたが、滑走路の損傷は小さく、死傷者も20名と少なかった<ref>[[#ヨークタウン]]174頁、[[#プランゲ上]]257頁</ref>。九九艦爆の搭乗員は、飛行機のない滑走路を爆撃して虚しい思いをしたと回想している<ref>[[#川崎戦歴]]121-122頁。古田清人(赤城爆撃隊、千早大尉機操縦士)</ref>。日本軍攻撃隊は、アメリカ軍戦闘機41機撃墜確実・9機不確実を主張し、艦攻5機、艦爆1機、零戦2機を失った<ref name="プランゲ上255">[[#プランゲ上]]255-256頁</ref>。残る機も相当数が被弾しており、艦攻16、艦爆4、戦闘機12(修理不能2)が損傷した<ref name="プランゲ上255"/>。友永大尉機も被弾によって無線機が使用不能となり、小型黒板を通じて二番機に中継代行をさせている<ref>[[#飛龍生涯]]349頁</ref>。アメリカ軍側は空中戦で日本軍機40-50機を撃墜・地上砲火で10機撃墜を主張し、バッファロー13機、ワイルドキャット2機を失い、残る戦闘機も被弾して出撃可能機は2機となった<ref name="プランゲ上255"/>。また、帰途につく艦攻隊に最初の空戦で海面に不時着した艦航隊第二中隊長機[[菊池六郎]]中隊長以下3名がゴム[[筏]]の上でマフラーを振っているのが発見され非常食が投下されたが、その後の戦況のため救助されることはなかった<ref>[[#空母雷撃隊]]208-210頁</ref>。 |
|||
空襲が予想されるミッドウェー基地では6時、迎撃の戦闘機25機が出撃し、続いて6時04分以降各種航空機による攻撃隊が南雲機動部隊に向け発進した。 |
|||
攻撃の成果が不十分と判断した友永大尉は午前4時(07:00)、南雲機動部隊に対し「カワ・カワ・カワ(第二次攻撃の要あり)」と打電して第一次攻撃隊の攻撃は不十分であることを伝えた<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.7、「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.31、[[#ヨークタウン]]174頁、[[#澤地記録]]240頁</ref>。ミッドウェー基地攻撃中の午前3時49分(06:49)、筑摩の4号機が天候不良のため引き返すと報告(受信午前3時55分)<ref>[[#澤地記録]]239頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.7</ref>。午前3時55分(06:55)、利根の1号機から「敵15機わが艦隊に向け移動中」という報告を受け、更に零戦6機を直掩に加えた。アメリカ軍側の記録によれば、ヨークタウンから発進した10機の索敵機である<ref>[[#プランゲ下]]12頁</ref>。同じく四空母に分乗している第六航空隊の零戦21機を使用できるよう準備を指示している。直掩隊は弾薬と燃料補給のため頻繁に着艦・交替を繰り返したため、飛行甲板に艦攻や艦爆を並べることが出来なかった<ref>[[#炎の海]]252頁、MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(2)」pp.10-13,69(蒼龍戦闘概要)。</ref>。 |
|||
6時16分、ミッドウェー上空の直衛戦闘機隊が接近する日本軍空襲隊を発見。突撃体形を作る空襲隊を奇襲攻撃した。奇襲を受けた2航戦の艦攻隊は3機を落とされ3機が被弾したが直後に零戦隊が襲いかかり空中戦となった。約15分の空戦後制空権は完全に日本側となり空襲を開始、映像撮影の為派遣されていた映画監督の[[ジョン・フォード]]などが見守る中、日本軍は重油タンクや水上機格納庫、戦闘指揮所、発電所、対空砲台を破壊し基地施設に大打撃を与えた。米直掩機は10機が帰還するも8機は使用不能となり壊滅した。 |
|||
==== 米基地航空隊の空襲 ==== |
|||
攻撃の成果が不十分と判断した友永丈市大尉は7時、南雲機動部隊の旗艦である「赤城」に対し「カワ・カワ・カワ(第二次攻撃の要あり)」と打電して第一次攻撃隊の攻撃は不十分であることを伝えた。 |
|||
[[ファイル:Akagi under air attack.jpg|thumb|250px|{{small|B-17爆撃機の攻撃を受け、回避行動中の空母赤城。}}]] |
|||
南雲機動部隊では敵機に発見された事を受け5時32分前後より直掩機を増強(赤城・飛龍より計6機)直掩機は23機となる。5時55分、利根1号機から「敵15機わが艦隊に向け移動中」という報告を受け更に6機を直掩に加えた。同じく四空母に分乗している第六航空隊の零戦21機を使用できるよう準備を指示している。7時10分には利根からの報告を受け六空機の2機を含む16機が追加で直掩に加わっている。(同じく直掩の5機が補給の為帰還し1機が事故で失われたので直掩機は33機となる) |
|||
日本軍空襲隊(友永隊)がミッドウェー島を攻撃していた頃、南雲機動部隊は「0400に至り敵第一次攻撃あり、その後0730頃迄殆ど連続執拗なる敵機の襲撃を受ける」というようにアメリカ軍機の継続的な空襲に悩まされていた<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.31、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(2)」p.24(蒼龍戦闘詳報)、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」p.22(飛龍戦闘詳報)</ref>。午前4時5分(07:05)、重巡洋艦[[利根 (重巡洋艦)|利根]]はアメリカ軍重爆撃機10機を発見する<ref>[[#澤地記録]]241頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.8</ref>。アメリカ軍攻撃隊の正体は、ミッドウェー基地から発進したTBFアベンジャー雷撃機6機(フィバリング大尉)と、爆弾の代わりに[[航空魚雷]]を抱えた[[B-26 (航空機)|B-26マローダー双発爆撃機]]4機(コリンズ大尉機)だった<ref>[[#ヨークタウン]]175頁</ref>。シマード大佐(ミッドウェー司令官)が友永隊の迎撃に全戦闘機を投入してしまったため、彼らは戦闘機の護衛なしに進撃してきたのである<ref>[[#プランゲ下]]2頁</ref>。赤城と利根が発砲し、直掩の[[零式艦上戦闘機|零戦]]10機が迎撃する<ref>[[#電信員遺稿]]118-119頁、[[#澤地記録]]241頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.8</ref>。アベンジャー6機のうち3機は直掩機により撃墜され、残り2機も投下後に撃墜、アーネスト中尉機だけが生還した<ref>[[#プランゲ下]]5頁</ref>。赤城はアメリカ軍の魚雷を全て回避した。被害は[[機銃掃射]]で赤城三番高角砲が旋回不能(30分後に修理完了)、砲員に負傷者が出たほか、両舷送信用空中線が使用不能となり、赤城(旗艦)の通信能力に支障が生じた<ref>[[#澤地記録]]242頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.8「0412:敵飛行機の機銃掃射を受け(中略)両舷送信用空中線切断、左舷使用不能」</ref>。赤城を狙ったB-26隊は魚雷2-3本命中を主張しているが、実際には回避されている<ref>[[#プランゲ下]]8頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.9</ref>。B-26は2機が撃墜され、生還した2機もひどく損傷して放棄された。 |
|||
ミッドウェー基地から発進したアメリカ軍陸上機による空襲は、ミッドウェー島の基地戦力が健在である証拠であった<ref>[[#プランゲ下]]9頁</ref>。友永隊の報告をふまえ、南雲中将はミッドウェー島基地への再空襲を決定する。近藤信竹中将の率いるミッドウェー攻略部隊(第二艦隊)の上陸開始は6月7日と決定されている。それまでにアメリカ軍基地航空戦力を壊滅させなくてはならなかったからである<ref>[[#淵田自叙伝]]202頁、[[#草鹿回想]]126頁</ref>。午前4時15分(07:15)、南雲司令部は各艦で待機中の攻撃隊に対し、「本日航空機による攻撃を実施する為第二次攻撃隊を編成せよ。兵装は爆装に転換(0415通達、第二次攻撃隊本日実施、待機攻撃隊爆装に換え)」と通知し、陸上攻撃用爆弾への換装を命じた<ref>[[#澤地記録]]243頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.33「0415の発令により艦攻は既に雷装を80番陸に変更中」、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.9「0415:第二次攻撃隊本日実施、待機攻撃隊爆装に換え」、「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.31「(ミッドウェー)攻撃隊発進後、艦隊は第四編成(艦攻雷撃)にて水上艦艇に備えて居りしが」、[[#新装版飛龍生涯]]409-412頁</ref>。アメリカの研究調査によれば第二航空戦隊(飛龍、蒼龍)に対しては特に兵装転換の指示は出されず、爆装しない状態で待機中だったとの意見もある(但しどの記録資料か、誰の研究かについては明記がない)<ref>[[#歴群ミッドウェー]]131, 132頁</ref>。海戦前に飛龍で行われた実験では、魚雷から爆弾への転換に1時間半から2時間かかっている<ref>[[#飛龍生涯]]347頁</ref>。燃料補給と弾薬補給を求める直掩戦闘機が着艦するため飛行甲板を開けねばならず、兵装転換作業は各空母格納庫で行われた<ref>[[#電信員遺稿]]117頁、[[#亀井戦記]]273頁</ref>。 |
|||
そして友永機からの通報を受けた直後の7時05分、利根が接近する[[TBFアヴェンジャー]]6機と雷装した[[B-26]]爆撃機4機(共にミッドウェー基地所属機)を発見し警告射撃を実施。それに気付いた直掩の零戦3機が迎撃した。TBF6機は3機が直掩機により撃墜され残り2機も投下後に撃墜、狙われた飛龍は魚雷を全て回避した。赤城を狙ったB-26は1機を撃墜されるも3機が投下に成功、しかし此方も全てかわされた挙句更に1機を撃墜されてしまった。 |
|||
その頃、アメリカ海軍第17任務部隊の指揮官フレッチャー少将は、ミッドウェー基地航空隊の活躍によって南雲機動部隊の位置をほぼ特定することに成功し、攻撃するタイミングをうかがっていた。午前3時7分(06:07)、フレッチャー少将はスプルーアンス少将に「南西に進み、敵空母を確認せば、それを攻撃せよ」と命じ<ref>[[#プランゲ下]]40頁</ref>、これを受けたスプルーアンス少将は午前4時(07:00)過ぎに攻撃隊発進を命令、第16任務部隊は次からなる117機の攻撃隊を発進させた。 |
|||
ミッドウェー基地からの陸上機による空襲と友永大尉の報告を踏まえ南雲長官はミッドウェーへの再空襲を決定。7時15分、全艦隊に対し「本日航空機による攻撃を実施する為第二次攻撃隊を編成せよ。兵装は爆装に転換」と通知した。ただし2航戦には兵装転換指示は出されておらず爆装せず待機のままだった<ref>米側の2航戦の資料より。これは雷装から爆装へ転換し終わるにはかなりの時間がかかるので(海戦前に飛龍で行われた実験では魚雷から爆弾への転換に1時間半から2時間かかっている)その後から艦爆の準備を始めても間に合う事と帰投する空襲隊の収容をしなければならなかった為である。</ref>。 |
|||
*空母エンタープライズ |
|||
**F4F戦闘機10機(VF-6、指揮官:[[ジェームズ・グレイ(軍人)|ジェームズ・グレイ]]大尉) |
|||
**SBD爆撃機33機(指揮官:第6航空群司令[[クラレンス・マクラスキー]]少佐、VB-6、指揮官:[[リチャード・ベスト]]大尉、VS-6、指揮官:[[ウィルマー・ギャラハー]]大尉) |
|||
**TBD雷撃機14機(VT-6、指揮官:[[ユージン・リンゼー]]少佐) |
|||
*空母ホーネット |
|||
**F4F戦闘機10機(VF-8、指揮官:[[サミュエル・ミッチェル]]少佐) |
|||
**SBD爆撃機35機(VB-8、指揮官:[[ロバート・ジョンソン(軍人)|ロバート・ジョンソン]]少佐、VS-8、指揮官:[[ウォルター・ローディ]]少佐) |
|||
**TBD雷撃機15機(VT-8、指揮官:[[ジョン・ウォルドロン]]少佐) |
|||
しかし午前4時28分(7:28)に日本軍の偵察機が艦隊上空に現れたことから、スプルーアンス少将は全機を飛行甲板に並べて一気に発艦させるのを待たず、出撃準備ができた飛行隊から逐次発艦、攻撃に向かわせた。中には戦闘機隊の護衛なしの攻撃隊もあったものの、結果的に、このスプルーアンス少将の決断が勝因の一つになる。 |
|||
その頃、アメリカ海軍機動部隊の指揮官フレッチャー少将は、ミッドウェー基地航空隊の活躍によって、日本側より先に南雲機動部隊の位置をほぼ特定することに成功し、攻撃するタイミングを窺っていた。スプルーアンス少将は7時過ぎ、指揮下の空母エンタープライズから[[F4Fワイルドキャット]]戦闘機10機(VF-6)、[[SBDドーントレス]]爆撃機33機(VB-6, VS-6)、[[TBD (航空機)|TBD デバステイター]]雷撃機14機(VT-6)、および空母ホーネットからF4F戦闘機10機(VF-8)、SBD爆撃機35機(VB-8, VS-8)、TBD雷撃機15機(VT-8)の計117機、ほぼ全力の発進を開始した。しかし、7時28分に日本軍の偵察機(利根4号機)が艦隊上空に現れたことから、まだ日本側には空母を発見されていなかった上、発艦した飛行隊を小出しにすることは戦術としては非常にまずいにもかかわらず、スプルーアンス少将は発進を終えた飛行隊から攻撃に向かわせるように指示した(全力攻撃なので、全機を飛行甲板に並べて一度に発進させることができないからである)。また、日本軍の空母4隻すべての所在を確認したフレッチャー少将も、警戒のため出していた偵察機(当日はヨークタウンが警戒担当だった)の収容を終えた後の8時30分に、空母ヨークタウンからF4F戦闘機6機(VF-3)、SBD爆撃機17機(VB-3)、TBD雷撃機12機(VT-3)の35機を発進させた。結果的にこのスプルーアンス少将の決断が勝因の一つになる<ref>ヨークタウン攻撃隊だけは戦闘機と爆撃機の数が少ないのはつい一か月前の珊瑚海海戦の教訓から、母艦を守る戦闘機の数を増やすためと、SBD装備の偵察機隊(VS-5)を用心のため残していたからである。</ref>。 |
|||
また、日本軍の空母4隻全ての所在を確認した第17任務部隊(フレッチャー少将)も、警戒のために出していた偵察機(当日はヨークタウンが警戒担当)の収容を終えた後の午前5時30分(8:30)に、次からなる35機の攻撃隊を発進させた<ref name="朝日ヨーク185">[[#ヨークタウン]]185頁</ref>。 |
|||
7時40分、南雲機動部隊司令部に7時28分発の利根4号機の「敵らしきもの10隻見ゆ」の報告を受けた。45分には南雲は「艦攻の雷装そのまま」を下令し兵装転換を一時中断させ、47分には「接触を維持せよ」と利根4号機に指示している<ref>これについて生存者に南雲司令部に敵艦隊発見の報が届いたのは8時という証言が多いので以後の下令は戦闘詳報が作られた際の作文であるという説もあるが47分の命令は米側の戦闘情報班で傍受され記録が残っているので戦闘詳報の方が正しいと思われる</ref>。7時53分、霧島から敵機発見を意味する煙幕が展開、[[ヘンダーソン]]少佐が指揮するミッドウェー所属のSBD16機が襲来した。7時55分、同隊は直掩機の迎撃を受け少佐機以下6機が撃墜、飛龍を空襲するも命中弾を得られず更に2機を失った。 |
|||
*空母ヨークタウン |
|||
**F4F戦闘機6機(VF-3、指揮官:[[ジョン・サッチ]]少佐) |
|||
**SBD爆撃機17機(VB-3、指揮官:[[マクスウェル・レスリー]]少佐) |
|||
**TBD雷撃機12機(VT-3、指揮官:[[ランス・マッセイ]]少佐) |
|||
ヨークタウンは(09:05)に攻撃隊を発進させると、すぐに[[ウォリー・ショート]]大尉のSBD爆撃機17機(VB-5)、戦闘機6機を甲板に並べ、発進準備を行った<ref name="朝日ヨーク185"/>。また米潜水艦[[ノーチラス (潜水艦)#第1の哨戒 1942年5月 - 7月・ミッドウェー海戦と山風|ノーチラス]]は日本戦艦を雷撃したあと、午前6時10分(09:10)に「敵巡洋艦(駆逐艦[[嵐 (駆逐艦)|嵐]])を雷撃するも命中せず、[[爆雷]]6発で攻撃される」と日誌に記録したが、誰にも報告しなかった<ref>[[#プランゲ下]]45頁</ref>。 |
|||
空襲は更に続き8時10分、B-17爆撃機14機による空襲が行われ赤城、蒼龍、飛龍が狙われるが損害は無かった。(B-17側も損害なし)最後に[[SB2U]]11機による空襲が8時17分より行われる。この隊は戦艦榛名を狙うが直掩機の迎撃で2機を失い命中弾もなかった。 |
|||
午前4時28分(7:28)、利根の4号機(機長は偵察員の甘利洋司 一等飛行兵曹、操縦員は鴨池源 一等飛行兵、電信員は内山博 一等飛行兵)は赤城の南雲機動部隊司令部に対して「敵らしきもの10隻見ゆ、ミッドウェーより方位10度、240浬 (南雲機動部隊から200浬)」と発信した<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.32、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.10</ref><ref>[[#澤地記録]]24-25頁、244頁、246頁。[[#ヨークタウン]]177頁。[[#プランゲ下]]13頁</ref>。草鹿参謀長によれば、利根4号機の報告を南雲司令部のある赤城が受信したのは午前5時(08:00)ちょうどと述べている<ref>[[#草鹿回想]]137-138頁</ref>。一方、戦闘詳報(功績調査用に書き直されたもの)では、午前4時45分(7:45)に魚雷から陸用爆弾への兵装転換を一時中断したとあり<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.11「0445:敵艦隊攻撃準備、攻撃機雷装、其の侭」</ref>、南雲司令部は発信から約10分後に受信したという意見もある<ref>[[#澤地記録]]24-25頁、[[#プランゲ下]]14頁</ref>。この位置報告はずれており、実際の米艦隊の位置は160kmも南であった<ref name="驕り154">[[#海軍驕り]]354頁</ref>。新規に搭載した機体であったため、コンパスの自差修正ができず、コンパスに10度のずれがあった為という意見もある<ref>[[#海の武将]]40頁</ref>。この位置情報の錯誤は南雲の判断に極めて重大な影響を及ぼした{{Sfn|戦史叢書43|1971|p=291}}。一航艦航空参謀吉岡少佐によれば、この報告を受けた際の南雲司令部は特に動揺もなく平静だったという<ref>[[#亀井戦記]]、吉岡忠一(南雲機動部隊航空参謀)談。</ref>。しかし発着指揮所から様子を聞いていた淵田中佐によれば、予期せぬ米艦隊発見報告に南雲司令部は興奮していたという<ref>[[#淵田自叙伝]]204頁</ref>。利根機の報告を受け、参謀長の草鹿龍之介少将は、敵空母が付近にいると感じたものの「敵らしき」だけでは命令の変更には不十分であり、「艦種知らせ」と指示した<ref>ゴードン・プランゲ『ミッドウェーの奇跡 下』原書房14頁</ref>。しかし利根4号機は鈍足の零式水上偵察機であり、敵が空母であれば直掩機もいるので敵への接近は容易ではなかった。また、利根4号機からの電報を受ける前<ref>[[#提督山口]]190頁</ref>、あるいは受けた直後、第二航空戦隊司令官山口多聞少将が「本朝来種々の敵機来襲にかんがみ、敵機動部隊出撃の算あり。考慮せられたし」という信号文を赤城に送ったという主張もある<ref>{{Harvnb|森史朗|2012b}} 89-91頁</ref>。午前4時47分(07:47)、南雲司令部は「艦種を確かめ触接せよ」と利根4号機に命令した<ref>[[#澤地記録]]24-25頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.10</ref>。 |
|||
これら一連の空襲の最中、一向に連絡を寄こさない利根4号機に対し8時、南雲は「敵艦隊の艦種知らせ」と命じる。8時05分にはミッドウェー空襲隊が帰投してくるが空襲中であった為上空待機となった。 |
|||
なお、利根の4号機が米艦隊の位置を報告する前、筑摩1号機(機長:黒田信大尉/筑摩飛行長)が米軍機動部隊上空を通過していたが、雲の上を飛んでおり米艦隊を発見できなかった。さらに、アメリカ艦載機と接触しながらこれを報告しなかった<ref>[[#海の武将]]39頁</ref>。 |
|||
=== 急降下爆撃 === |
|||
[[Image:VT-6TBDs.jpg|thumb|250px|<small>空母「エンタープライズ」艦上のTBD雷撃隊。</small>]] |
|||
8時9分になって利根4号偵察機から、「敵兵力は巡洋艦5隻、駆逐艦5隻なり」といった続報がようやく届き危急性はないと判断された。しかし、8時20分に、「敵はその後方に空母らしきもの一隻を伴う」との打電が入った。 |
|||
[[Image:SBDs and Mikuma.jpg|thumb|250px|<small>[[重巡洋艦]] [[三隈]]に急降下爆撃を行う[[SBD ドーントレス]]</small>]] |
|||
ただ偵察機の報告によれば敵までの距離はまだ遠い(実際は敵はもっと近くにいた)のと兵装転換自体7時15分の転換開始から45分の一時中止まで30分しかたっておらず殆どしていなかった(赤城で6機、加賀で9機が済んでいたのみ)ので再変更及び2航戦の爆装は短時間で済む事、上空待機中の空襲隊の燃料がつき掛けておりこれ以上待たせる事は出来ない事、飛行甲板はこの時点でクリアーであり着艦作業はすぐ行えた事、などを考慮し首脳部は間に合うと判断、8時30分に空襲隊を収容し攻撃隊を準備、2航戦に爆装指示と準備が出来るまで艦隊を北上させるという命令を下した。 |
|||
利根の4号機からの返信を待つ南雲機動部隊に、新たなアメリカ軍航空隊が接近していた。日本時間午前4時53分(07:53)、戦艦霧島から敵機発見を意味する煙幕が展開され、[[ヘンダーソン]]少佐が指揮するミッドウェー基地のアメリカ海兵隊所属SBD ドーントレス爆撃機16機が艦隊上空に到達した<ref>[[#澤地記録]]247頁、[[#プランゲ下]]15-16頁</ref>。午前4時55分(7:55)、同隊は日本軍直掩機(零戦)の迎撃を受けヘンダーソン機以下6機が撃墜され、なおも空母飛龍と蒼龍を空襲するも命中弾を得られず、ヘンダーソン隊長機を含む合計8機を失った<ref>[[#プランゲ下]]17-18頁、[[#爆撃王列伝]]176頁</ref>。ヘンダーソン戦死後に攻撃隊を率いた[[エルマー・G・グリデン]]大尉は、航行する日本空母の甲板に[[日の丸]]が描かれており容易に見分けられたと述べている<ref>[[#爆撃王列伝]]176頁</ref>。アメリカ軍側は飛龍に命中弾2、加賀に命中弾3を主張しているが、命中した爆弾は1発もない<ref>[[#プランゲ下]]17-18頁</ref>。アメリカ軍機の攻撃は続いた。午前5時10分(8:10)、B-17爆撃機17機(スウィニー中佐指揮)による空襲が行われ、赤城、蒼龍、飛龍が狙われたが損害は無かった。攻撃したB-17隊も無傷だったが、空母に直撃弾1、不確実1発を主張している<ref>[[#プランゲ下]]23頁</ref>。1機のB-17乗組員達は基地に戻ると、彼らの爆撃が日本艦隊を撃破したと主張した<ref name="朝日ヨーク177">[[#ヨークタウン]]177頁</ref>。最後に[[アメリカ海兵隊|海兵隊]]の[[SB2U (航空機)|SB2Uビンディケーター爆撃機]]11機(ノリス少佐)による空襲が行われた<ref name="朝日ヨーク177"/>。この隊は零戦の防御網をくぐり抜けて空母を狙うのは困難と判断し、戦艦榛名を狙った<ref name="プランゲ下25">[[#ヨークタウン]]177頁、[[#プランゲ下]]25頁</ref>。直掩機の迎撃で1機を失い、2機が燃料切れで不時着、直撃弾2発を主張したが、榛名は無傷だった<ref name="プランゲ下25"/>。日本軍の戦闘詳報は「0510:赤城、飛竜ニ爆弾命中スルヲ認ム(誤認)」、「敵飛行機、蒼竜(原文ママ)ニ急降下、利根(水偵)揚収」、「加賀後方ニ爆弾投下命中セズ」、「赤城左120及500mニ爆弾2個弾着スルヲ認ム」、「利根左100及4000mに爆弾投下、蒼竜飛竜、盛ニ発砲、蒼竜周囲ニ猛烈爆弾投下」、「赤城後方ニ爆弾投下、命中セズ」、「敵飛行機10機、榛名ニ対シ急降下、爆弾投下命中セズ」など、断続的に空襲を受けていることを記録している<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.13-15</ref>。ニミッツ提督は「ミッドウェー基地隊は日本軍艦艇10隻に損傷を与え、1-2隻を沈めたかもれないが阻止に失敗し、基地隊主戦力は失われた」とキング大将に報告した<ref>[[#プランゲ下]]27頁</ref>。この後、ミッドウェー基地航空隊はSB2U 5機、SBD 6機で夜間攻撃に出撃したが会敵せず、SB2U 1機を事故で喪失した<ref>[[#爆撃王列伝]]178-179頁</ref>。 |
|||
直後、第二航空戦隊を率いていた[[山口多聞]]少将は、「現状況は一分一秒を争う。空襲隊を犠牲にしてでも敵空母攻撃隊の発進準備を急ぎ用意でき次第攻撃隊を出すべき」との考えから、信号で駆逐艦[[野分]]を中継して「直ちに発艦の要ありと認む」と進言したが却下された<ref>通説ではこの進言時点で各空母は兵装転換を終え飛行甲板に並んでいたかのようにされているがJ・パーシャルやA・タリーの調査によりこの直前のBー17の空襲で撮影された蒼龍と飛龍の上空写真には飛行甲板に航空機は並んでおらず直ちに攻撃隊を飛び立たせるのは不可能だという事がわかっている。又仮に出撃させたとしても相次ぐ直掩機の増強で艦内に戦闘機がなく護衛が付けられないので米迎撃機によって攻撃前に大損害を蒙った可能性が高い。また米軍の高いダメージコントロール能力により陸用爆弾でどこまで米空母を無力化できたかは疑問である</ref>。 |
|||
8時37分、各空母は空襲隊の収容を開始する。 |
|||
=== 米機動部隊との戦闘 === |
|||
収容中の8時45分、利根4号機から「われ帰途に着く」という電報が届く。第八戦隊の阿部司令は交代の偵察機発進を筑摩に命じると共に「帰投まて」を命じ、南雲も無線方位測定ので位置を把握する為長波の輻射を利根4号機に命じるが同機は8時55分に雷撃機発見の報のみを行い輻射は行わなかった。 |
|||
==== 米機動部隊発見 ==== |
|||
日本時間午前5時(08:00)から午前5時30分(08:30)にかけて、ミッドウェー基地を攻撃した日本軍攻撃隊(友永隊)が南雲部隊上空に戻ってきた<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.30、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(1)」p.21、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(2)」p.8、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」p.2</ref>。ちょうどアメリカ軍ミッドウェー基地航空隊が南雲機動部隊を攻撃している最中であり、日本軍攻撃隊は母艦上空での待機を余儀なくされている。赤城からは護衛の駆逐艦が友永隊を誤射する光景が見られ、後に着艦した千早大尉(赤城艦爆隊)と山田大尉(赤城艦戦隊)は友軍に激怒している<ref>[[#炎の海]]248頁</ref>。混乱した状況下、南雲中将は利根4号機に対し「敵艦隊の艦種知らせ」と命じた<ref>[[#澤地記録]]249頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.32</ref>。すると午前5時20分(08:20)ごろ、「敵兵力は巡洋艦5隻、駆逐艦5隻(0509発信)」という報告があった<ref>[[#澤地記録]]249頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.13</ref>。この段階での南雲司令部は、アメリカ軍空母が存在するという確証を持っていない<ref>[[#プランゲ下]]22頁</ref>。しかし、午前5時30分(08:30)、「敵はその後方に空母らしきもの一隻を伴う。ミッドウェー島より方位8度、250浬(発午前5時20分)」との打電が入った<ref>[[#澤地記録]]251頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.32 、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.14</ref>。この空母はホーネットである<ref>[[#プランゲ下]]43頁</ref>。偵察機からの通信は、母艦側の受信と暗号解読により10分の差が生じている。 |
|||
草鹿龍之介参謀長は「予想していなかったわけではないが、さすがに愕然とした」と述べている<ref>[[#草鹿回想]]138頁、[[#亀井戦記]]295頁、[[#プランゲ下]]28頁</ref>。南雲司令部は米艦隊の正確な情報を知る必要に迫られた。南雲司令部は山口少将に対し、空母蒼龍に2機だけ配備されていた試作高速偵察機[[彗星 (航空機)#十三試艦上爆撃機|十三試艦上爆撃機]](艦上爆撃機[[彗星 (航空機)|彗星]]の[[試作機]])の投入を命じ、同機はただちに発進した<ref>[[#亀井戦記]]298頁、「蒼龍飛行機隊戦闘行動調書(3)」p.54、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(2)」p.66</ref>。この偵察機の最高速度は約519[[キロメートル毎時|km/h]]、巡航速度約426km/h。利根4号機などの零式水上偵察機は最高速度367km/h、アメリカ海軍の主力戦闘機F4Fワイルドキャットの最高速度は514km/hである。十三試艦爆は当時のアメリカ軍戦闘機の追撃を受けても十分退避可能であるため、敵艦隊により接近して艦種、数を確認することが期待できた。 |
|||
空襲隊を収容した各空母は直ちに敵空母攻撃へ向け準備を開始する。南雲の元には1航戦で10時半、2航戦で11時には準備が終了すると報告が入る。この状況下、9時20分頃にウォルドロン少佐率いるホーネット雷撃隊15機が日本の機動部隊上空に襲来する。この時点で直掩機は18機に減少していたが直ちに加賀6機、蒼龍3機が迎撃に上がる。部隊毎に進撃したので連携が取れず戦闘機隊とはぐれていたホーネット雷撃隊は護衛の無いまま蒼龍を狙うが対空砲火と直掩機により全機が撃墜され不時着水した機体から負傷しつつも脱出したゲイ少尉1人を除く隊員29名が戦死した<ref>ホーネットの戦闘機隊と爆撃隊は雲で雷撃隊を見失い8時25分の雷撃隊の針路変更に気付かず、南雲部隊も発見できなかったので帰投を決意、燃料不足の為戦闘機隊とSBD13機はミッドウェー基地へ向うが燃料切れで戦闘機全機とSBD2機が不時着水する。残りのSBD20機はかろうじでホーネットに帰艦した。</ref>。 |
|||
偵察に出発した十三試艦爆と入れ替わるようにミッドウェー島の攻撃を終えた蒼龍攻撃隊が艦隊上空に戻ってきた。この時第二航空戦隊(飛龍、蒼龍)を率いていた山口少将は、一刻を争う状況と判断して、駆逐艦[[野分 (陽炎型駆逐艦)|野分]]を中継し、あらゆることを放棄し、現装備の陸用爆弾のままですぐに攻撃隊を発進させるように、南雲長官に進言した<ref>[[#草鹿回想]]138頁、[[#橋本信号員]]143頁、[[#飛龍生涯]]425・426頁</ref>。文面には諸説ある。一説には「直チニ攻撃隊発進ノ要アリト認ム」だったとされる{{Sfn|その時4|2001|p=185}}{{Sfn|源田実|1996|p=174}}{{Sfn|豊田穣|1985|p=72}}。一航艦航空参謀だった源田中佐{{Sfn|源田実|1996|p=174}}、一航艦信号員だった橋本広<ref>[[#橋本信号員]]143頁</ref>、「日映」特派員として従軍していた司令部付の牧島貞一記者が証言している{{Sfn|豊田穣|1985|p=72}}。第二航空戦隊通信参謀だった[[安井真二]]少佐によれば、「攻撃隊ヲ」の形で山口自ら起案し(普通は起案は参謀に任せる)、発信するように二航戦航空参謀の[[橋口喬]]少佐に指示したという<ref>豊田穣『豊田穣文学戦記全集 第三巻』光人社436-437頁</ref>。赤城の発着指揮所で一航艦司令部の様子を伝聞していた淵田中佐も「攻撃隊ヲ」の形で証言している<ref>淵田美津雄・奥宮正武『ミッドウェー』[[朝日ソノラマ]] 1982年276-277頁</ref>。一方で、「現装備ノママ直チニ攻撃隊ヲ発進セシムルヲ至当ト認ム」という説もある<ref>[[#提督山口]]196頁、{{Harvnb|森史朗|2012b}} 109-110頁</ref>。一般的にこの進言は「〜の要ありと認む」と記されるが、飛龍の掌航海長だった田村士郎兵曹長によれば、山口少将から発信の指示を田村が直接受けたとして、文面は「現装備ノママ〜」「〜至当ト認ム」であり、南雲長官が雷装準備が完了するまで出撃を引き伸ばさないよう促しているという<ref>{{Harvnb|森史朗|2012b}} 110頁</ref>。 |
|||
その間利根4号機から再度「帰投する」と連絡が入り阿部司令は「交代機のつく10時まで待て」と命じるが「我できず」との返答を受けたので帰還を許可した。その為一時的に米艦隊の接敵を中断する事になる。(現場に向かった蒼龍搭載の彗星試作機が再接敵するのは11時半頃) |
|||
進言時点で第二次攻撃隊は出撃の準備態勢に入っており、発進は可能だった<ref>[[#亀井戦記]]191頁(草鹿龍之介など)、[[#海軍功罪]]123頁(源田実「心を鬼にした理由」)、[[#淵田自叙伝]]206頁</ref>。ただ、この時点で赤城・加賀の攻撃隊は陸上攻撃用の兵装転換はまだ終えていない<ref name="歴群ミッドウェー134">[[#歴群ミッドウェー]] 134頁</ref>。草鹿参謀長、源田参謀の証言では、すぐに発艦準備に入れるものは第二航空戦隊の艦爆隊だけだったという{{Sfn|戦史叢書43|1971|loc=p.289(草鹿)}}{{Sfn|源田実|1996|p=174}}。一方、淵田中佐による、敵艦隊発見報告時点で、第二次攻撃隊・九七艦攻の魚雷から陸用爆弾への転換がほぼ終わっていたという証言もある<ref>[[#淵田自叙伝]]203頁</ref>。 |
|||
9時40分、リンゼー少佐率いるエンタープライズ雷撃隊14機が来襲。通信不良や連係ミスで戦闘機隊の援護が受けられなかった同隊は加賀を目標にするが30機もの直掩機の迎撃で10機を失い29名が戦死し命中弾も得られなかった<ref>戦闘機隊の連係ミスで護衛を受けられず多くの隊員を失った事に生き残った隊員達は激怒し、帰還後に戦闘機隊隊員の控室に拳銃を持って怒鳴りこんだと同隊の戦闘詳報に記載されている。</ref>。(但し直掩の零戦1機を撃墜している) |
|||
午前5時30分(08:30)、赤城からの「艦爆隊二次攻撃準備、250キロ爆弾揚弾セヨ」との信令を受け、第二航空戦隊(飛龍、蒼龍)は二次攻撃に備え250kg爆弾の揚弾を開始する<ref name="澤地記録252">[[#澤地記録]]252頁、{{Harvnb|森史朗|2012b}} 122-123頁</ref>。 |
|||
10時10分頃に襲来したマッセイ少佐指揮のヨークタウンの雷撃機隊12機が、飛龍を攻撃する。唯一戦闘機隊の護衛がつく事が出来ていた同隊では戦闘機隊指揮官[[ジョン・S・サッチ]]少佐の発案した対ゼロ戦空戦戦術「サッチ・ウィーブ」が初めて試され、5機を撃墜する成果を挙げたが数の差が歴然としていた(この時点での直掩機は30機以上でその内の20数機が襲いかかってきたがヨークタウン戦闘機隊は6機だけだった)ので雷撃隊全てを護衛できず10機が撃墜され、残りの2機も燃料切れで不時着水し全機損失、24名中21名が戦死した。戦闘機隊も1機を失っている<ref>20機以上の零戦に6機で挑み5機を撃墜し損害1という結果はこの戦法の有効性を証明し米戦闘機隊隊員に自信を持たせた。サッチ・ウィーブが浸透していくにつれ米戦闘機隊は無敵零戦と互角に渡り合うようになっていく。</ref>。 |
|||
各空母の状況に加え、偵察機の報告ではアメリカ軍機動部隊までの距離はまだ遠い(実際のアメリカ軍機動部隊はもっと近くにいた)事も踏まえ、南雲司令部は幾つかの条件を検討した<ref name="淵田自叙206">[[#淵田自叙伝]]206頁</ref><ref name="亀井296">[[#亀井戦記]]296-297頁</ref><ref name="プランゲ下30">[[#プランゲ下]]30-31頁</ref>。 |
|||
# 九七艦攻への陸用爆弾から魚雷への転換は、陸用爆弾に換装した機が少なく元々少なく、短時間で終わる。水平爆撃の命中率は悪く、急降下爆撃でも敵空母に致命傷を与えることは困難である<ref name="プランゲ下30"/>。 |
|||
その頃先に発艦していた[[クラレンス・マクラスキー|マクラスキー]]少佐率いるエンタープライズ爆撃機隊33機は日本の機動部隊を見つけられず、予想海域の周辺を捜索した。その時、駆逐艦「嵐」を発見する。ただし「嵐」の戦友会は、同時刻の嵐は赤城直衛で傍を離れていなかったと結論づけている<ref>生出寿『戦艦「大和」最後の艦長』150頁</ref>。この駆逐艦(爆撃機隊は巡洋艦と判断)は空母部隊へ向かっているものと判断してその進路上を索敵した結果、10時20分頃日本の機動部隊を発見した。 |
|||
# 第二航空戦隊(飛龍、蒼龍)の九九艦爆の爆装は短時間で行える。 |
|||
# 上空待機中の日本軍ミッドウェー基地空襲隊(約100機)の燃料が尽き掛けており、これ以上待たせる事は出来ない<ref name="亀井296"/>。貴重な機体と200名以上の熟練搭乗員を危険にさらすことは大問題である<ref name="プランゲ下30"/>。 |
|||
# 敵艦隊攻撃隊を護衛する零戦が、南雲部隊を守るためにほとんど発進しており、一度着艦して補給する必要がある<ref name="亀井296"/>。弾薬と燃料を使い果たした零戦隊を護衛につけても意味がない<ref name="プランゲ下30"/>。 |
|||
# 戦闘機の護衛のない攻撃隊は、艦隊護衛戦闘機の餌食になることを珊瑚海海戦やアメリカ軍ミッドウェー基地航空隊が実証している。南雲にとって、大損害を受けることがわかっていながら「はだか」の航空隊を出すことは出来ない<ref>[[#淵田自叙伝]]206頁、[[#プランゲ下]]30-31頁</ref>。 |
|||
南雲は山口の進言を却下。南雲は米機動部隊艦隊から攻撃を受ける前に兵装転換を行い、日本軍攻撃隊は発進可能と判断した<ref name="プランゲ下30"/>。南雲の幕僚らによれば、戦闘機の護衛をつけずに攻撃隊を出す危険性や第一次攻撃隊を見捨てることへの懸念から帰還した第一次攻撃隊の収容を優先すべきと考えたという{{Sfn|戦史叢書43|1971|pp=290-291}}(詳細は「勝敗の要因」)。午前5時37分(8:37)、各空母は日本軍ミッドウェー基地攻撃隊の収容を開始する<ref name="一2航空艦隊15">「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.15</ref>。午前5時55分(08:55)、「(第一次攻撃隊)収容終らば一旦北に向ひ敵機動部隊を捕捉撃滅せんとす」と命じた<ref name="一2航空艦隊16">[[#澤地記録]]257頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.16「午前5時55分:タナ10収容終わらば一旦北に向へ敵機動部隊を捕捉撃滅せんとす」→KDB(午前6時13分受信)、第二艦隊・連合艦隊(午前6時30分受信)</ref>。同時刻、重巡洋艦[[筑摩 (重巡洋艦)|筑摩]]から「水上偵察機、午前6時30分(09:30)発進予定」との報告がある<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.16「筑摩艦長→8S(午前6時20分光):午前6時30分発進の予定。(午前6時53分光)タナ5、5号機発艦(午前6時35分)」</ref>。南雲には、第一航空戦隊(赤城・加賀)の艦攻(雷装)は午前7時30分(10:30)発進可能との報告、第二航空戦隊(飛龍、蒼龍)は午前7時30分(10:30)から午前8時(11:00)に発進可能との報告があった<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.33、[[#橋本信号員]]135頁</ref>。 |
|||
10時23分、レズリー少佐率いるヨークタウン爆撃機隊も戦場に到着、エンタープライズ爆撃機隊とヨークタウン爆撃機隊の同時攻撃となった。日本側は先ほどのヨークタウン雷撃機隊に対応して直掩機のほとんどが低空に降りており、さらに見張り員も雷撃機の動向や発艦寸前の直掩機<ref>「この時、甲板上には発進準備を終えた攻撃隊が整列しており、敵の攻撃があと5分遅ければ全機発進できた」という「運命の5分間」説が巷間に広まっているが、これは誤りである。日米生存者の証言や戦闘詳報の調査によりこの時点では各空母は直掩機の発着艦を行っており攻撃隊は飛行甲板に並んですらいなかった(草鹿あるいは[[淵田美津雄]]による脚色とも言われている)。</ref>に気をとられていたため発見が遅れ「敵、急降下!」と見張り員が叫んだときにはすでに手遅れだった。 |
|||
午前5時45分(08:45)、「更に巡洋艦らしきもの2隻を見ゆ(発信午前5時30分)」という利根4号機からの追加情報が入る<ref>[[#澤地記録]]252頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.32、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.14、16</ref>。攻撃隊収容中の午前5時48分(08:48)、利根4号機から帰投するという電報が届いた<ref>[[#澤地記録]]256頁、[[#亀井戦記]]298頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.15-16</ref>。阿部少将は第八戦隊「利根」、「筑摩」に交代の偵察機発進を命じると<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.15「タナ2、零式水偵を発進、利根4号機の発見せし敵に触接せしめよ」</ref>、利根4号機に「帰投まて」を命じた<ref>[[#澤地記録]]257頁、[[#亀井戦記]]298頁</ref>。零式水上偵察機の航続距離は通常10時間であるため、まだ十分飛べると考えたためである。南雲も午前5時54分に無線方位測定で位置を把握するための長波輻射を利根4号機に命じた<ref>[[#澤地記録]]256頁、[[#亀井戦記]]299頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.16</ref>。だが利根4号機は午前5時55分(8:55)に「敵攻撃機10機貴方に向かう」の通報のみを行い、輻射は行わなかった<ref>[[#プランゲ下]]37頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.16</ref>。 |
|||
先陣を切ったのはマクラスキー少佐のエンタープライズ艦爆隊25機で加賀を狙った。日本艦隊はまったく気付かず降下途中で発見し対空砲が火をふいた。マクラスキー少佐の率いる小隊の攻撃は至近弾だったが続くギャラファー大尉機の投弾した4発目が飛行甲板後部に命中、続いて3発が短時間の内に命中した。 |
|||
後方の戦艦大和で南雲機動部隊からの電報を受信していた山本五十六以下連合艦隊司令部は、予期せぬ米軍機動部隊が出現した事にたいして慌てなかった<ref>[[#勝つ戦略負ける戦略]]131頁</ref>。宇垣纏参謀長は司令部の雰囲気が「さては敵の機動部隊の激撃なる、よき敵御座んなれ、第二次攻撃は速に之に指向に、先づ敵空母を屠り、残敵を如何に処分すべきかと楽観的気分に在り」と述べている<ref>[[#戦藻録(九版)]]138頁、[[#海軍驕り]]361頁</ref>。山本が黒島亀人先任参謀に「米艦隊への攻撃命令を出すか否か」を尋ねると、黒島は「南雲は兵力の半数を米空母機動部隊に対して準備しているから必要なし」と答え、連合艦隊司令部は何も発信しなかった<ref>[[#勝つ戦略負ける戦略]]132頁、[[#海軍驕り]]362頁</ref>。 |
|||
10時24分、レズリー少佐のヨークタウン艦爆隊17機がエンタープライズ艦爆隊に続く形で蒼龍へ攻撃を開始する。発艦直後のアクシデントで少佐を含む数機は爆弾を誤投下していたが自ら先頭にたって突入した。2番機ホルムベルク大尉機の爆弾が蒼竜前部エレベーター前に命中し大爆発、続けて2発が命中した。後続のうち4機が目標を変更し、そばにいた艦艇を狙う。命中弾はなかったが、駆逐艦[[磯風 (陽炎型駆逐艦)|磯風]]の後部に至近弾となった。磯風は重油タンクに海水が混入し、一時的に航行不能となった<ref>井上理二『駆逐艦磯風と三人の特年兵』39頁</ref>。 |
|||
==== 米艦載機の雷撃 ==== |
|||
同時刻、ヨークタウン艦爆隊の内ベスト大尉率いる一隊は連携に失敗したため、4機のみで旗艦の赤城を狙った。10時26分、あわてて零戦1機が赤城より発艦したが既にベスト大尉機は突入しており手遅れだった。2発の爆弾が命中して大火災が発生する。 |
|||
[[ファイル:VT-6TBDs.jpg|thumb|250px|{{small|空母エンタープライズ艦上のTBD雷撃隊}}]] |
|||
第一次攻撃隊の収容は午前6時30分(9:30)までに完了したとされるが<ref>「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(1)」p.21、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.17、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」p.2</ref>、蒼龍では午前6時50分頃までかかっている<ref>「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(2)」pp.50、57、「蒼龍飛行機隊戦闘行動調書(3)」pp.55、57</ref>。南雲中将は連合艦隊(山本五十六長官)に米空母発見を知らせると、直ちに米空母攻撃へ向け準備を開始する<ref name="名前なし-2">[[#プランゲ下]]36頁</ref>。赤城では第一次攻撃隊の収容が終わると九七艦攻の雷装への復旧作業が開始された<ref> [[#雷撃機電信員]]141頁</ref>。この状況下、午前6時20分(9:20)頃にジョン・ウォルドロン少佐率いるホーネット雷撃隊[[TBD (航空機)|TBDデヴァステイター雷撃機]]15機が日本の機動部隊上空に到達<ref>[[#プランゲ下]]48頁</ref><ref>[http://www.ibiblio.org/hyperwar/USN/USN-CN-Midway/USN-CN-Midway-7.html#fn20 The Battle of Midway June 3 - 6, 1942] --22--</ref>、日本側では赤城や筑摩が確認した<ref name="一2航空艦隊敵機17">「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.17-18</ref>。この時点で南雲機動部隊の直掩機は18機に減少していたが、直ちに加賀5機、赤城3機が迎撃に上がる<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.19-20</ref>。アメリカ軍攻撃隊は部隊毎に進撃したので連携が取れず、ホーネット雷撃隊は戦闘機の護衛の無いまま赤城を狙った。一機の雷撃機は赤城の艦橋に接近して墜落し、草鹿参謀長は死を覚悟している<ref>[[#プランゲ下]]49頁</ref>。[[TBD (航空機)|デヴァステイター]]隊は零戦により全機が撃墜され、不時着水した機体から脱出したジョージ・ゲイ少尉1人を除く隊員29名が戦死した<ref name="朝日ヨーク182">[[#ヨークタウン]]182頁、[[#プランゲ下]]46頁</ref>。ゲイ機は蒼龍を雷撃して飛行甲板上を通過したが、魚雷は命中せず、直後に零戦に撃墜されたとされる<ref>[[#プランゲ下]]50頁</ref>。戦闘後の[[名誉勲章]]推薦状には「ホーネット雷撃隊は日本空母に魚雷を命中させ、日本の空母に最初に大打撃を与えた」とあり、後にホーネット隊は他の部隊から恨みを買うことになる<ref>[[#プランゲ下]]51頁</ref>。一方「ホーネット」の戦闘機隊と爆撃隊は雲で雷撃隊を見失い、南雲部隊も発見できなかった<ref name="朝日ヨーク182"/>。戦闘機隊とドーントレス13機はミッドウェー基地へ向ったが、燃料切れでワイルドキャット全機とドーントレス3機が不時着水、残りのドーントレス20機はホーネットに帰艦した<ref name="朝日ヨーク182"/>。 |
|||
午前6時37分(09:37)、利根の4号機から「燃料不足のため帰投する(発午前6時30分)」と連絡が入る<ref>[[#澤地記録]]264頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.19、20</ref>。阿部司令は午前7時(10:00)まで接触を維持することを命じたが「我れ出来ず」との返答を受け、帰還を許可した<ref name="一2航空艦隊20">[[#澤地記録]]264頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.20、21</ref>。同時刻、利根の4号機と交代すべく筑摩の5号機が発進した<ref name="一2航空艦隊20"/><ref>[[#澤地記録]]264頁、[[#海の武将]]41頁</ref>。午前7時(10:00)、蒼龍の十三試艦爆は索敵線上に米艦隊を発見できず、引き返した<ref>[[#澤地記録]]266頁、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(2)」p.66「午前7時8分:索敵線上敵を見ず帰途につく」、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.22「午前7時(機動部隊受信午前7時15分):タナ1、敵を見ず。我れ(蒼竜偵察機)ミッドウェー島よりの方位20度距離290浬(午前7時)」</ref>。これは前述のように、利根4号機が報告した米艦隊の位置が100km以上ずれていたためである<ref name="驕り154"/>。 |
|||
約6分間のできごとであったが、太平洋戦争の転換点となる6分間となった。加賀では艦橋近くの命中弾により、燃料車が爆発して艦橋が破壊され、中にいた[[岡田次作]]艦長以下指揮官らが戦死した。13時23分、艦長に代わって鎮火の指揮をとっていた[[天谷孝久]]飛行長が総員退去を決め、駆逐艦[[萩風]]、[[舞風]]に移乗。なおも機を見て救出を行おうとしたが果たせず、16時25分、大爆発が2回起きた<ref name="生出161">生出寿『戦艦「大和」最後の艦長』161頁</ref>。18時26分、自沈処分となり萩風からの魚雷により加賀は沈没する<ref>従来は沈没とされていたが生存者の証言などから自沈ではないかと思われえる。後述の蒼龍も同じ。</ref>。戦死者は閉じ込められた機関部員を含めて800名弱で航空機搭乗員では[[楠美正]]飛行隊長以下、機上・艦上合わせて21名が戦死した。 |
|||
午前6時50分(09:50)、ユージン・リンゼー少佐率いるエンタープライズの雷撃隊14機が南雲部隊上空に到達した<ref name="朝日ヨーク186">[[#ヨークタウン]]186頁、[[#BIG E上]]119頁</ref>。通信不良と連携ミスにより10機のワイルドキャットはホーネット雷撃隊を護衛していたため、エンタープライズの雷撃隊を掩護できなかった<ref>[[#BIG E上]]118頁</ref>。エンタープライズの雷撃隊は加賀を目標にするが9機を失い、帰還中の1機が着水、1機が帰還後投棄、残存3機だった。零戦1機撃墜と引き換えに隊長を含む29名が戦死する<ref>[[#BIG E上]]120頁</ref>。その上、命中魚雷も得られなかった。戦闘機隊の連携ミスで護衛を受けられず多くの隊員を失ったことに生き残った隊員達は激怒し、帰還後に戦闘機隊隊員の控室に拳銃を持って怒鳴りこんだと同隊の戦闘詳報に記載されている。一方で、零戦の攻撃に積極性が見られず、度重なる発進、戦闘、着艦の連続で疲労がたまっていたという推測もなされている<ref>[[#プランゲ下]]57頁</ref>。 |
|||
蒼龍と赤城は爆弾そのものの被害は復旧可能な範疇であったが、被弾して生じた火災が、兵装転換時に格納庫内に乱雑に置かれた爆弾、魚雷、また準備中だった航空機の燃料へと次々と誘爆を起こし、大火災が発生した。両艦のダメージコントロールの悪さもたたって(蒼龍では応急班の応援に駆け付ける筈の機関部員が火災で機関部に取り残され人出が不足していた。これは加賀も同じであった)火災の鎮火ができなかったため復旧が進まず、蒼龍は17時32分過ぎから乗員の駆逐艦への移乗を開始。19時頃に火災が少し収まったので[[楠本幾登]]飛行長は防火隊を編成して再度乗艦の準備を始めるが直後に再度の爆発が起こり救出は不可能と判断、19時13分に磯風の魚雷により自沈された。あえて艦内に残った[[柳本柳作]]艦長以下准士官以上35名、下士官兵683名、計718名が戦死した。搭乗員戦死者は機上・艦上合わせて10名で、[[江草隆繁]]飛行隊長以下、搭乗員の多くは救助された。 |
|||
午前7時10分(10:10)、ランス・マッセイ少佐指揮のヨークタウン第3雷撃隊が南雲部隊上空に到達した。飛龍は他の3空母より前方を進み、雲の下を航行していたという<ref name="朝日ヨーク188">[[#ヨークタウン]]188頁</ref>。ヨークタウン雷撃隊12機は、突出した飛龍を挟撃すべく2個小隊(6機)にわかれると、攻撃を開始した<ref name="朝日ヨーク187">[[#ヨークタウン]]187-190頁</ref>。その上空では、戦闘機隊指揮官[[ジョン・サッチ]]少佐によって、彼の発案した対ゼロ戦空戦戦術[[サッチウィーブ]]が初めて試されようとしていた<ref>[[#プランゲ下]]59頁</ref>。この時点でヨークタウン戦闘機隊は6機だけである<ref name="朝日ヨーク187"/>。雷撃隊全てを護衛できず[[TBD (航空機)|TBDデヴァステイター]]10機が撃墜され、帰還中の残りの2機も燃料切れで不時着水し全機損失、24名中21名(隊長含)が戦死、飛龍に魚雷5本を発射したが全て回避された。空母から出撃した[[TBD (航空機)|TBDデヴァステイター雷撃機]]41機中、生き残ったのは僅かに3機のみという文字通りの全滅となってしまった。だが15機の零戦に6機で挑み、損害1機に対し5機撃墜というアメリカ軍側記録はサッチ・ウィーブ戦法の有効性を証明し、米戦闘機隊隊員に自信を持たせたという<ref name="朝日ヨーク187"/>。一方プランゲは「サッチ戦法はあまり効果がなかった。主任務である雷撃隊の掩護に関する限り、戦闘機隊は何の役にも立たなかった」と評している<ref>[[#プランゲ下]]60頁</ref>。生還した雷撃隊操縦者ハリイ・コールは、零戦24機に襲われたと証言している<ref name="朝日ヨーク188"/>。コールの証言によれば、この時点でほとんどの日本軍直掩機がヨークタウン隊戦闘機隊と雷撃機隊に集中し、低空で戦っていたことになる<ref name="朝日ヨーク188"/><ref>「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(2)」p.47「所見:敵雷撃機に味方戦闘機過集中の傾向大なり」</ref>。この時、駆逐艦嵐に救助されて捕虜になったヨークタウン隊雷撃機隊員が重大な情報を供述した(「[[#飛龍の反撃]]」参照)。 |
|||
赤城では、南雲以下第一機動部隊指揮官達が内火艇に乗り、駆逐艦「野分」に移乗した(直接軽巡洋艦「長良」に移乗したという牧島貞一従軍カメラマンや乗員の証言もある<ref>牧島『続・炎の海』165頁</ref>。)赤城では、11時半に負傷者と搭乗員の移送が始まり13時50分には機関が停止する。[[青木泰二郎]]艦長は消火作業を続行させるが4時半に総員退艦を決意<ref name="生出161"/>、乗組員は嵐と野分に移乗を開始する。南雲は赤城の処分を承認し、駆逐艦に雷撃させる許可を山本に申請した<ref name="生出161"/>。赤城の処置をめぐって連合艦隊司令部では議論が交わされたが、山本長官は赤城の処分を中止させた。青木は錨甲板の柱に綱で身体を縛り付けていたが、20時半に[[増田正吾]]飛行長によって無理やり退艦させられ、嵐に移乗した<ref>生出寿『戦艦「大和」最後の艦長』162-163頁</ref>。翌5日午前1時50分に処分命令が下り第四駆逐隊の4隻(萩風・舞風・野分・嵐)が雷撃。午前2時40分、赤城は艦尾から沈没していった。上記2隻と比べて赤城では機関部員が閉じ込められずに脱出できたので戦死者はそれらと比べ少なく准士官以上8名、下士官兵213名の計221名で搭乗員の戦死者は機上・艦上合わせて7名である。[[淵田美津雄]]中佐、[[板谷茂]]少佐、[[村田重治]]少佐の3飛行隊長ら多くの搭乗員が救助された。 |
|||
=== 空母 |
==== 日本軍三空母の炎上 ==== |
||
[[ファイル:Battle_of_Midway.jpg|サムネイル|日本空母が被弾した状況を再現した、{{仮リンク|ノーマン・ベル・ゲッデス|en|Norman Bel Geddes|label=}}による[[ジオラマ]]。大戦中に作成されたものであるため、不正確な部分がある。]] |
|||
[[Image:USS Yorktown hit-740px.jpg|thumb|250px|<small>空襲下の空母「ヨークタウン」。</small>]] |
|||
その頃、[[クラレンス・マクラスキー]]少佐率いるエンタープライズの艦爆隊SBDドーントレス32機は日本の機動部隊を見つけられず、燃料消耗のために飛行範囲限界を迎えつつ、予想海域の周辺を捜索していた<ref>[[#BIG E上]]122頁、[[#プランゲ下]]64頁</ref>。マクラスキーは日本軍機動部隊が北方に退避すると推測し、変針しつつ捜索を続行する<ref>[[#BIG E上]]123頁</ref>。午前6時55分(09:55)、アメリカの潜水艦ノーチラスを攻撃したのち南雲機動部隊へ戻ろうとしている駆逐艦嵐を発見した<ref>[[#ヨークタウン]]191頁、[[#BIG E上]]124頁</ref>。エンタープライズ艦爆隊は「巡洋艦」と報告する<ref name="プランゲ下66">[[#プランゲ下]]66頁</ref>。嵐は午前6時30分に「敵潜水艦(注:ノーチラス)の雷撃を受け、直ちに爆雷攻撃するも効果不明」と報告していた<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.19</ref>。ただし嵐の戦友会は、空襲直前の日本時間午前7時(10:00)の段階で、嵐は赤城の直衛で傍を離れていなかったと主張している<ref>[[#大和最後の艦長]]150頁</ref>。エンタープライズの艦爆隊は、眼下の日本軍駆逐艦(爆撃機隊は巡洋艦と判断)は空母部隊へ向かっているものと判断して北東進路上を索敵した結果、午前7時24分(10:24)頃、南雲機動部隊を発見した<ref>[[#ヨークタウン]]191頁</ref>。この間、ドーントレス1機が不時着、1機が行方不明となったので、エンタープライズの艦爆隊は30機となった<ref name="プランゲ下66"/>。 |
|||
[[Image:HiryuBurning.jpg|thumb|250px|<small>急降下爆撃を受けて炎上する空母「飛龍」。</small>]] |
|||
雲下にあり、また、雷撃機回避のため他の3隻の空母からやや離れていた空母飛龍はこの難を免れた。10時54分、山口少将は南雲中将の指示を待つことなく独断で即時攻撃を決意し、「全機発進」を指示した<ref>参考『ミッドウェー』:8時50分になって次席指揮官[[阿部弘毅]]少将が赤城、加賀、蒼龍が被弾炎上していることを主力部隊に通報。なお山口は、先任であり次席指揮官である阿部に「我'''航空戦'''の指揮をとる」と報告し、戦闘指揮の継承による混乱を巧みに回避している。</ref>。そして第一次攻撃隊として[[小林道雄]]大尉指揮する零戦6機、九九艦爆18機の計24機(急降下爆撃機隊)を発艦させた。11時20分、帰還するエンタープライズ艦爆隊を日本艦隊へ向う攻撃隊と勘違いした[[重松康弘]]大尉指揮の零戦隊が迎撃に向かい1機が不時着、1機が弾薬を使い果たして帰還してしまい護衛機が4機に減ってしまう。それでも敵空母に接敵する筑摩5号機からの電波を頼りに進む小林隊はヨークタウンを発見。12時から攻撃を開始する。米直掩機の猛攻にさらされ小林隊長機を含む艦戦3機、艦爆13機を損失しながらも、12時10分頃に250kg爆弾3発を空母ヨークタウンに命中させ、航行不能に陥れた。しかし「ヨークタウン」は14時過ぎに爆撃による火災を鎮火し航行可能に復する。 |
|||
日本時間午前7時22分(現地時間10:23)、[[マクスウェル・レスリー]]少佐率いるヨークタウン艦爆隊も戦場に到着する。こうして南雲機動部隊への空襲は、エンタープライズの艦爆隊とヨークタウンの艦爆隊の同時攻撃となった。日本側は先ほどのヨークタウン雷撃隊に対応して直掩[[零式艦上戦闘機|零戦]]のほとんどが低空に降りており<ref>[[#ヨークタウン]]188頁、[[#海軍驕り]]365頁</ref>、さらに見張り員も雷撃機の動向や発艦寸前の直掩機に気をとられていたため発見が遅れ<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.39「各母艦共主としてこの雷撃機に対し回避しありし時」</ref>、「敵、急降下!」と加賀の見張り員が叫んだときにはすでに手遅れだった<ref>[[#川崎戦歴]]、[[#プランゲ下]]67頁</ref>。 |
|||
続いて飛龍は13時半に零戦6機、九七式艦攻10機の友永大尉率いる第二次攻撃隊(雷撃機隊)16機を発進させた。また、第一次攻撃隊を収容する直前に空母蒼龍から飛び立っていた[[彗星 (航空機)|彗星]](爆弾倉にカメラを装備して偵察機に改造した試作機<ref>この偵察機タイプが「二式艦上偵察機」として制式採用されるのは本海戦よりも後のことである。</ref>)が11時半頃にアメリカ軍機動部隊を発見していたが、無線機の故障で報告できていなかった。蒼龍上空に帰ってきた時にはすでに母艦は炎に包まれており、13時45分に空母飛龍へ着艦して山口少将に対しアメリカ海軍の空母が3隻であることを報告した。14時半、雷撃機隊はアメリカ海軍艦隊を発見するが、それは復旧作業中のヨークタウンだった。火災を鎮火し、戦闘航行中の米空母を見た友永大尉は、ヨークタウンを、損傷を受けていない別の空母と判断して攻撃し、友永隊長機を含む艦戦2機、艦攻5機が撃墜されながらも魚雷2本を命中させヨークタウンを大破させた<ref>友永大尉の九七式艦攻は、ミッドウェイ島を攻撃した際に被弾し、燃料タンクに穴が開いていた。修理する十分な時間も無く、搭乗機を譲る部下の提案を拒否して出撃した。なお、これを片道燃料による決死の出撃とするのは誤りで、敵艦隊までの距離は近く、通常ならば往復には充分であったという。ただし片翼のタンクにしか燃料を積まず、しかも重い魚雷を抱えての飛行はバランスを欠いて操縦が難しく、決死の覚悟であった事は間違いない。黄色い尾翼の友永機は魚雷を投下するまでは部下により確認されているが、その後に友永機を見ていないため体当たりを試みたのではないかとその部下は述べている。</ref>。山口少将は先の攻撃と合わせて合計2隻の空母を大破させたものと判断し、同じ空母へ二度攻撃したことに気付かなかった。この頃、フレッチャー少将は空母ヨークタウンが攻撃を受ける前に放っていた偵察機(VS-5)から、空母飛龍発見の報告を受けた(離れた所にいたため発見されていなかった)。 |
|||
先陣を切ったのはマクラスキー少佐のエンタープライズの[[艦上爆撃機|艦爆]]隊で、加賀を狙った<ref>[[#BIG E上]]125頁</ref>。日本艦隊は急降下爆撃隊に気付かず、対空砲火も間にあわなかった<ref>[[#澤地記録]]270頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.25「0723:〃左50度敵航空機加賀に急降下爆撃」</ref>。午前7時22-24分(10:22-24)、マクラスキー少佐率いる小隊の攻撃は至近弾だったが、続くギャラハー大尉機の投弾した4発目が飛行甲板後部に命中<ref name="big上126">[[#BIG E上]]126-127頁</ref>、続いて3発が短時間の内に命中した<ref>[[#BIG E上]]126-127頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.41</ref>。なお加賀を攻撃したのはレスリー少佐と部下のヨークタウン艦爆12機と主張するアメリカ研究者もいる<ref>[[#ヨークタウン]]193-196頁「日本空母に痛打」</ref>。 |
|||
山口少将は、帰還した攻撃隊の損害がひどい(半分以下に減っていた)ために白昼の攻撃を断念し、15時半に南雲中将へ「薄暮敵残存空母を撃滅せんとす」と報告した。第三次攻撃隊(14機)が[[薄暮]]攻撃を待って待機している時にアメリカ軍の急降下爆撃機隊の奇襲を受けた。17時30分頃、エンタープライズと<!-- 「エンタープライズ」に退避していた-->ヨークタウンのSBD爆撃機が襲いかかり、4発の爆弾が命中・炎上し、戦闘不能状態に陥った。機関は当初は無事だったが、艦橋と機関科間の電話が不通となったため、機関科は全滅と判断された<ref>別冊歴史読本『日本海軍軍艦総覧 戦記シリーズ37』22頁</ref>。 |
|||
午前7時25分(10:24)、レスリー少佐のヨークタウンの艦爆隊17機がエンタープライズの艦爆隊に続く形で蒼龍へ攻撃を開始した<ref name="一1航空艦隊44">「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.4</ref><ref name="プランゲ下77">[[#プランゲ下]]77頁</ref>。蒼龍は艦爆12-13機と記録<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.44、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(2)」p.42「0725:敵艦爆(12機)、母艦上空高度4000米に発見、爆撃により母艦に3弾命中火災」</ref>。発艦直後のアクシデントでレスリー少佐を含む数機は爆弾を誤投下していたが、自ら先頭にたって「赤褐色の飛行甲板、右舷に小さな艦橋、その後方に直立煙突がある空母」へ[[機銃掃射]]をもって突入した<ref>[[#プランゲ下]]75頁</ref>。2番機ホルムベルク大尉機の爆弾は蒼龍の前部エレベーター前に命中し大爆発を起こし、大尉は発艦中の日本軍機が空中に跳ね飛ばされるのを見た<ref name="プランゲ下77"/>。[[ヨークタウン (CV-5)|ヨークタウン]]艦爆隊は直撃弾5発、至近弾3発を主張しているが、実際の命中弾は3発である<ref name="プランゲ下77" />。後続のうち4機が目標を変更し、そばにいた艦艇を狙う。命中弾はなかったが、駆逐艦[[磯風 (陽炎型駆逐艦)|磯風]]の後部に至近弾となった<ref>[[#井上 磯風]]39頁</ref>。 |
|||
飛龍はしばらくは洋上に浮いていた。横付けされた駆逐艦が消火に協力したものの復旧の見込みがたたないことから、山口少将は南雲中将に総員退艦させると報告した。山口少将は、加来艦長と共に、駆逐艦[[巻雲]]の[[雷撃]]によって沈む艦と運命を共にした。ただし空母飛龍が雷撃処分されたのは6日5時だが、沈没は8時である可能性が高く、空母[[鳳翔 (空母)|鳳翔]]の偵察機が写真を撮影している。加えて、連絡不通だった機関部から脱出した機関科勤務34名が飛龍から短艇で脱出したのは、巻風の魚雷が命中してから2時間後だったという<ref>別冊歴史読本『日本海軍軍艦総覧 戦記シリーズ37』23頁</ref>。彼らは15日後に米軍に救助された。戦死者は山口司令、加来艦長、准士官以上29名、下士官兵387名の計416名で、搭乗員も友永、小林両隊長を含め72名が戦死した。 |
|||
同時刻、エンタープライズの艦爆隊のうちベスト大尉率いる一隊は連携に失敗したため、ベスト大尉とクルーガー中尉とウェバー中尉、3機のみで旗艦赤城を狙った。赤城では直衛の零戦が着艦し、補給を行い、ふたたび発艦する瞬間だった<ref>[[#電信員遺稿]]123頁</ref>。午前7時26分(10:26)、直衛隊の零戦1機(木村惟雄 一等飛行兵曹)が赤城より発艦した時点で急降下がはじまった<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.26、「赤城飛行機隊戦闘行動調書(2)」p.32、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(1)」p.34、[[#澤地記録]]21頁、272頁</ref>。木村一飛曹によると、加賀・蒼龍炎上直後、赤城上空の敵機が急降下に入ったところで、先頭のAⅠ-101号(戦闘機隊長機)の発動機が起動しており、整備兵がエンジンを回していた。同時に赤城が風に立ち始めたため指揮所に合図して隊長機に飛び乗り発艦し、高度50メートル付近で赤城を見ると、発艦前にいた位置に爆弾が落ち、2番機と思われる零戦が甲板前部で逆立ちになって炎上していた。他の飛行機は皆無であった、と回想している<ref>「赤城」戦闘機隊痛恨の記『運命の海戦 ミッドウェー敗残記』[[潮書房]],1987年,115頁</ref><ref>『証言ミッドウェー海戦』精鋭二一型で知った母艦屋の天国と地獄 [[光人社NF文庫]],1999年,100頁</ref>最初クルーガー中尉機の1弾は左舷艦首約10mに外れたが、続いてウェバー中尉機は至近弾1発そしてベスト大尉機は1発の爆弾が命中し<ref>Jonathan Parshall, Anthony Tully: Shattered Sword: The Untold Story of the Battle of Midway, Washington 2005、p.241-242</ref>、第二次攻撃隊準備機や爆弾・魚雷に誘爆して大火災が発生した<ref>[[#プランゲ下]]69頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.39</ref>。命中したのは飛行甲板三番リフト前方に命中した1発だけという艦橋勤務信号兵や従軍カメラマンの証言もある<ref>[[#橋本信号員]]138頁</ref>。そのほかに初弾は赤城艦首至近弾、二発目は艦橋付近命中、三発目は舵付近至近弾でこれが赤城の舵を損傷・固定させた原因、といった証言もある。発艦寸前だった零戦1機が爆風で赤城[[艦橋]]付近で逆立ちとなり、飛行甲板にいた[[淵田美津雄|淵田]]中佐も爆風により両足[[骨折]]の重傷を負った<ref>[[#電信員遺稿]]124頁、[[#淵田自叙伝]]207頁</ref>。エンタープライズ隊はドーントレス14機を失った<ref name="big上126"/>。約6分間の出来事であったが、太平洋戦争のターニングポイントとなった<ref>[[#海軍驕り]]366頁</ref>。 |
|||
=== 撤退 === |
|||
[[Image:Sinking of japanese cruiser Mikuma 6 june 1942.jpg|thumb|250px|{{Smaller|炎上傾斜する三隈。}}]] |
|||
飛龍の攻撃隊により空母ヨークタウンは深刻な損害を二度も負った。応急修理で沈没こそしなかったものの(一時は総員退艦まで出した)、ヨークタウンの戦闘継続不可能と判断したフレッチャー少将は撤退を決め、同艦を率いて真珠湾に向かった。 |
|||
{{Main|加賀 (空母)}} |
|||
指揮権を引き継いだスプルーアンス少将の第16任務部隊も、日本艦隊の動向が把握し切れていなかったため、一時的に東へ退避した。翌7日の黎明、第16任務部隊はミッドウェーの防衛と日本艦隊の追撃のため西進を開始し、3時頃に艦載機が退避中の三隈、最上を発見した。 |
|||
加賀は、艦橋近くの命中弾と燃料車の爆発により艦橋が破壊され、中の[[岡田次作]]艦長以下指揮官らが戦死した<ref>[[#亀井戦記]]331頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.41</ref>。午後1時23分(16:23)、艦長に代わって鎮火の指揮をとっていた[[天谷孝久]]飛行長が総員退去を決め、乗組員は駆逐艦萩風、舞風に移乗した<ref name="一1航空艦隊42">「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.42</ref>。なおも機を見て救出を行おうとしたが果たせず、午後4時25分(19:25)、大爆発が2回起きた<ref>[[#亀井戦記]]356頁、[[#大和最後の艦長]]161頁</ref>。加賀は艦首と艦尾が水平になりながら沈んだ。戦死者は閉じ込められた機関部員を含め800名弱で、航空機搭乗員では[[楠美正]]飛行隊長以下、機上・艦上合わせて21名が戦死した<ref>[[#亀井戦記]]356頁</ref>。 |
|||
{{Main|蒼龍 (空母)}} |
|||
支援隊の第7戦隊([[巡洋艦|重巡洋艦]]・[[三隈 (重巡洋艦)|三隈]]、[[最上 (重巡洋艦)|最上]]、[[鈴谷 (重巡洋艦)|鈴谷]]、[[熊野 (重巡洋艦)|熊野]])は上陸する輸送船団の護衛として警戒任務に従事していたが、南雲機動部隊の壊滅によって、新たにミッドウェー基地砲撃の命を受け、全速力で前進した。その後、第7戦隊がミッドウェーまで距離があると判明したため、夜戦中止に先立って山本長官から砲撃中止命令が出された。しかし第7戦隊は、転進を行おうとした矢先にアメリカ海軍[[潜水艦]]タンバー(SS-198)を発見して緊急回頭を行い、その際に衝突事故を起こした。三隈に衝突した最上は砲塔前部の艦首を切断、速力は10ノット程度に落ちた。第7戦隊司令官の[[栗田健男]]中将は最上の護衛に三隈と駆逐艦2隻をあてて残存艦を率いて主力部隊との合流に向かった。残された4隻には9時40分頃からエンタープライズとホーネットの攻撃隊が襲来、最上を護衛していた三隈が炎上し、13時半頃に沈没した。また最上や駆逐艦[[朝潮]]、[[荒潮]]も被弾した。翌8日3時過ぎ、最上は応急修理の結果、速力20ノットまで復帰し、駆逐艦の護衛を受けながら空襲圏外へ脱した。 |
|||
蒼龍は、3発の爆弾が命中し被害は最も深刻だった<ref>[[#亀井戦記]]333頁</ref>。被弾からわずか20分後の午前7時45分(10:45)、総員退去が発令された<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.45</ref>。午後4時(19:00)に火災の勢いが衰え、[[楠本幾登]]飛行長は防火隊を編成して再度乗艦の準備を始めた。直後、再度の爆発が起き、楠本飛行長は救出不可能と判断した。午後4時13分(19:13)に沈没した<ref name="一1航空艦隊46">「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.46</ref>。あえて艦内に残った[[柳本柳作]]艦長以下准士官以上35名、下士官兵683名、計718名が戦死した<ref>[[#亀井戦記]]348頁</ref>。搭乗員の戦死は機上・艦上合わせ10名で、[[江草隆繁]]飛行隊長以下、搭乗員の多くは救助された。 |
|||
{{Main|赤城 (空母)}} |
|||
戦艦[[大和]]をはじめとした主力部隊は夜戦を企図して東進していたが、飛龍を失ったことで再考して翌0時に夜戦を中止し、3時頃には作戦自体の中止も余儀なくされた。南雲機動部隊の残存艦と第7戦隊を含む第2艦隊を率いて撤退した<ref>参考『ミッドウェー』:主力部隊はミッドウェー島の遥か数百キロ後方におり、本海戦には参加できず、駆逐艦が救出した生存者を医療設備の規模が大きい戦艦に移乗させ、収容と手当てを行ったに留まる。</ref>。 |
|||
赤城は、被弾した爆弾は1-2発程度で機関部へのダメージはなく、十分復旧可能であった<ref>[[#橋本信号員]]140頁</ref>。しかし、被弾による火災が兵装転換時に格納庫内に乱雑に置かれた爆弾、魚雷、航空機燃料へ次々と誘爆を起こし、大火災が発生した<ref>[[#電信員遺稿]]126頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」pp.39,44</ref>。さらに、被弾直後に雷撃機4機を発見し回避のため左舵をとったところ、舵が固定して動かなくなり<ref>[[#亀井戦記]]358頁</ref>洋上に停止した<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.28</ref>。赤城の南雲司令部は内火艇に乗り退艦、駆逐艦[[野分 (陽炎型駆逐艦)|野分]]に移乗したあと軽巡洋艦[[長良 (軽巡洋艦)|長良]]に移った<ref>[[#澤地記録]]275頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.28「午前7時45分:赤城司令部移乗のため駆逐艦野分近接す」</ref>。直接長良に移乗したという[[牧島貞一]]従軍カメラマンや乗組員の証言もある<ref>[[#続 炎の海]]165頁、[[#橋本信号員]]146頁</ref>。午前8時30分(11:30)、南雲は長良に将旗を掲げた<ref name="一1航空艦隊34">「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.34</ref>。[[青木泰二郎]]艦長は消火作業を続行させるが、再度の誘爆により、午後4時25分(19:25)に総員退艦を命令した<ref name="一1航空艦隊40">「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.40</ref>。赤城の処置をめぐって連合艦隊司令部では議論が交わされ、午後7時25分(10:25)、山本長官は赤城の処分を中止させた<ref>[[#戦藻録(九版)]]133頁、第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.40</ref>。南雲は、[[木村進 (海軍軍人)|木村進]]少将(第十戦隊司令官)に「長良で赤城を曳航できないか」と尋ねている<ref>[[#亀井戦記]]44頁、亀井の取材に答えて。</ref>。結局、6月6日午前1時50分(6月5日4:50)に処分命令が下り午前2時に第四駆逐隊の4隻(萩風・舞風・野分・嵐)が雷撃処分した<ref>[[#電信員遺稿]]131-132頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.40</ref>。上記2隻と比べて赤城では機関部員が閉じ込められずに脱出できたので戦死者はそれらより少なく、准士官以上8名、下士官兵213名の計221名。搭乗員の戦死者は、機上・艦上合わせ7名である。淵田美津雄中佐、[[板谷茂]]少佐、[[村田重治]]少佐の3飛行隊長ら多くの搭乗員が救助された。 |
|||
==== 飛龍の反撃 ==== |
|||
[[Image:USS Hammann sinking 1942-06-06 seen from USS Yorktown.jpg|thumbnail|250px|{{Smaller|伊-168の雷撃により轟沈するハンマン}}]] |
|||
[[ファイル:USS Yorktown hit-740px.jpg|thumb|250px|{{small|友永雷撃隊の攻撃により、空母[[ヨークタウン (CV-5)|ヨークタウン]]の左舷に2本目の魚雷が命中した瞬間。}}]] |
|||
[[6月7日]]、ヨークタウンは曳船に引かれつつ真珠湾に向かっていたが、ヨークタウン撃沈の任を受けて接近した潜水艦「[[伊号第一六八潜水艦|伊-168]]」の放った4本の魚雷のうち2本が命中、空母対空母の戦いを連戦、日本軍の侵攻阻止に活躍したヨークタウンは沈没した。また同空母に同行していた駆逐艦ハンマンにも1本が命中して沈没した。 |
|||
飛龍は雲下にあり、またヨークタウン雷撃機の攻撃回避のため他の3隻の空母から離れており、アメリカ軍急降下爆撃機群の攻撃を受けなかった<ref>[[#飛龍生涯]]397頁</ref>。 |
|||
午前7時50分(10:50)、[[第一航空艦隊|一航艦]]の次席指揮官である第八戦隊司令官の[[阿部弘毅]]少将は赤城、加賀、蒼龍の被弾炎上を主力部隊に通報する<ref name="一2航空艦隊29">[[#澤地記録]]275-276頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.29</ref>。阿部は「飛龍ヲシテ敵空母ヲ攻撃セシメ、機動部隊ハ一応北方ニ避退、兵力ヲ結集セントス」と述べ、続いて第二航空戦隊に「敵空母ヲ攻撃セヨ」と命じた<ref name="一2航空艦隊29" />。 |
|||
[[6月13日]]、第16任務部隊のエンタープライズ、ホーネットは艦載機に損失を出しながらも無事に真珠湾に帰港した。 |
|||
午前7時50分(10:50)の時点で、第二航空戦隊司令官の山口多聞少将は独自の判断で飛龍を単艦で北東方向に進めており、被爆した三空母とそれを取り巻く[[第一航空艦隊|一航艦]]の各艦からは相当離れた位置にあった<ref name=":5">{{Cite journal ja-jp|author=大塚好古|title=ドキュメント「ミッドウェー海戦」第7章-空母同士の決戦[2] 「飛龍」の逆襲と最期|journal=[[歴史群像]]|serial=太平洋戦史シリーズ55 日米空母決戦ミッドウェー 運命の三日間!戦局を一変させた史上空前の大海空戦ドキュメント|publisher=[[学習研究社]]|pages=151-165}}</ref>。山口少将は、来襲した艦載機の数から敵空母は2隻と判断しており、飛龍1隻の航空戦力で十分に戦えると考えていた<ref name=":5" />。艦爆は攻撃の準備を終えて艦攻は雷装中であり、間に合った零戦をつけた{{Sfn|戦史叢書43|1971|p=336}}。山口少将は、阿部少将の命令と入れ替わりに「全機今より発進、敵空母を撃滅せんとす」と全部隊に発信した<ref name=":5" />。先任の阿部をさしおいて山口少将が反撃を主導したのは{{Refnest|group="注"|阿部と山口はいずれも昭和13年11月に海軍少将に進級しているが<ref>{{Harvnb|秦|2005|p=176|pp=|loc=阿部弘毅}}</ref><ref>{{Harvnb|秦|2005|p=261|pp=|loc=山口多聞}}</ref>、海兵39期の阿部が海兵40期の山口より先任となる。}}、山口少将の性格と、二航戦が現時点での主力であり重要な戦機であると考えたためとする意見もある。敵空母は攻撃を終えた艦載機を収容中であり、接近して攻撃力を発揮できる好機だった{{Sfn|戦史叢書43|1971|p=337}}。 |
|||
== 両軍の損害 == |
|||
=== 日本軍側 === |
|||
* 沈没喪失 |
|||
** 重巡洋艦:[[三隈 (重巡洋艦)|三隈]] |
|||
* 大破、のち自沈処分 |
|||
** 航空母艦:[[赤城 (空母)|赤城]]、[[加賀 (空母)|加賀]]、[[蒼龍 (空母)|蒼龍]]、[[飛龍 (空母)|飛龍]] |
|||
* 大破 |
|||
** 駆逐艦:[[荒潮 (駆逐艦)|荒潮]] |
|||
* 中破 |
|||
** 重巡洋艦:[[最上 (重巡洋艦)|最上]] |
|||
* 航空機:喪失艦載機289機(内、水偵4機) |
|||
** この中には「[[彗星 (航空機)|彗星]]」試作機の偵察型改造型<!---脚注にもあるとおり、二式艦上偵察機として制式採用されたのは本海戦よりも後--->を含む。 |
|||
* 戦死 |
|||
** [[山口多聞]]少将(戦死後中将に特進) |
|||
** [[岡田次作]]大佐(戦死後少将に特進) |
|||
** [[柳本柳作]]大佐(戦死後少将に特進) |
|||
** [[加来止男]]大佐(戦死後少将に特進) |
|||
** [[崎山釈夫]]大佐(戦死後少将に特進) |
|||
他3,000名以上を失い、その中には[[友永丈市]]大尉(戦死後中佐に二階級特進)ら110名の空母搭載機搭乗員を含んでいた。各母艦別の搭乗員損失率は反撃を実施した飛龍が最も多い。 |
|||
午前7時54分(10:54)、南の水平線上に炎上する3空母が見える状況で、飛龍は攻撃隊発艦のために風上の東に針路を変更した。<ref name=":5" /> |
|||
なお、文献によっては熟練搭乗員'''多数'''を失い、以後の航空作戦に支障をきたしたとする論調で評価するものがあるが、これは誤解である。搭乗員の多くは空母が沈没する前に脱出しており、激戦を経た飛龍を除く三空母の搭乗員は大半が健在であり、以後も活躍を続けた。 |
|||
午前8時(11:00)、第一波攻撃隊として[[小林道雄]]大尉(艦爆)指揮する[[九九式艦上爆撃機|九九艦爆]]18機、[[零式艦上戦闘機|零戦]]6機の計24機が発艦した<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」pp.18、34、「飛龍飛行機隊戦闘行動調書(3)」p.61、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」pp.2、30-31</ref><ref>[[#澤地記録]]277頁、[[#亀井戦記]]387頁</ref>。九九艦爆のうち、12機は250kg通常爆弾、陸用爆弾装備機は6機だった<ref name="一4航空艦隊1">「第1航空艦隊戦闘詳報(4)」p.1「25番通12、同陸6。エンタープライズ型25番通5、同陸1」</ref>。飛龍は第一波攻撃隊を発進させるとすぐに第二波攻撃隊の準備にかかり、同時に米機動部隊の方向に進撃した<ref>[[#澤地記録]]277頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.31-32</ref>。同じ時間帯には蒼龍が搭載していた十三試艦爆がアメリカ軍航空隊を発見し、南雲部隊に通報<ref>[[#澤地記録]]277頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.31</ref>。飛龍の第一波攻撃隊が発進するのと同時刻、筑摩5号機が発信した米艦隊の位置情報が届いた<ref>[[#澤地記録]]275頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.30</ref>。第八戦隊は、筑摩4号機・5号機に対し「敵空母ノ位置ヲ知ラセ、攻撃隊ヲ誘導セヨ」と連絡している<ref>[[#澤地記録]]277頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.30</ref>。すぐに筑摩5号機から「敵空母の位置味方の70度90浬、我今より攻撃隊を誘導す0810」との連絡があり、飛龍第一波攻撃隊の誘導を開始した<ref>[[#海の武将]]41頁</ref>。第一波攻撃隊を指揮する小林大尉は、米軍艦上機の飛行経路を辿る事で筑摩5号機の誘導に頼ることなく米軍空母部隊に辿り着く戦法をとったが、米軍艦爆隊との小戦闘に巻き込まれる遠因にもなった<ref>{{Harvnb|森史朗|2012b}} 226頁</ref>。 |
|||
* 大本営発表は、空母エンタープライズ型1隻、ホーネット型1隻撃沈。米軍機120機。<br> 日本軍損害 空母1隻喪失、巡洋艦1隻大破、35機喪失。 |
|||
ミッドウェー島攻撃から帰還した友永大尉の[[九七式艦上攻撃機|九七艦攻]](左右の両翼に計4つの燃料タンクがあり、それぞれ機体側に350リットルの主タンク、翼端側に225リットルの補助タンクがある<ref name=":0">{{Harvnb|森史朗|2012b|p=|pp=27-35|loc=第八章 ミッドウェー島攻撃-友永機被弾す-3}}</ref>)は、ミッドウェー島を攻撃した際に、F4F戦闘機の機銃弾が左翼つけ根付近を貫通し、左翼主タンクを射抜かれていた<ref name=":0" />。第二波攻撃隊を編成する時点で、出撃可能な艦攻は友永機を除くと9機であった<ref name=":2">{{Harvnb|森史朗|2012b|p=|pp=254-258|loc=第十二章 空母飛龍の反撃-還らざる出撃-1}}</ref>。友永大尉の次席指揮官となった[[橋本敏男]]大尉は、ミッドウェー攻撃時は友永機の偵察員であり、左翼主タンクへの被弾を目の当たりにしていた<ref name=":0" />。橋本大尉は乗機の交換を友永大尉に進言したが、友永大尉は攻撃機数を確保するため交換を拒否し<ref name=":2" />、友永大尉が第一中隊(艦攻5機)を率い、橋本大尉が第二中隊(艦攻5機)を率いることとなった<ref name=":2" />。 |
|||
=== アメリカ軍側 === |
|||
* 沈没喪失 |
|||
** 航空母艦:[[ヨークタウン (CV-5)|ヨークタウン]] |
|||
** 駆逐艦:ハンマン |
|||
* 航空機:基地航空隊を含め、約150機を喪失。この数字には修理不能の損傷を受けた機も含まれる。<ref>Office of Navy Intelligence, The Battle of Midway: June3-June 6, 1942, pp.55.</ref> |
|||
橋本大尉は、友永機について「左翼タンクの応急修理くらいはしたはず」と戦後に推定していた<ref>{{Harvnb|亀井|2014b|p=|pp=74-84|loc=第二部「喪失」-第六章「飛龍死闘」-二}}</ref>。飛龍で友永機の機付整備員であった谷井繁義によると、射抜かれたタンクの交換には半日を要し、もとより不可能であり、貫通孔を麻布と接着剤でふさぐ応急修理のみが可能であった<ref name=":1">{{Harvnb|森史朗|2012b|p=|pp=211-216|loc=第十二章 空母飛龍の反撃-山口司令官の決意-1}}</ref>。谷井ら整備員が応急修理を終えて燃料を入れてみると、気がつかなかった別の破孔から燃料が漏れ出し、既に再修理の時間はなく、友永機の左翼主タンクは使えなかった<ref>{{Harvnb|森史朗|2012b|p=|pp=258-262|loc=第十二章 空母飛龍の反撃-還らざる出撃-2}}</ref>。友永大尉は、整備分隊士の野依武夫・整備兵曹長が「片道燃料では出撃させられない」と制止するのを振り切って出撃した<ref>{{Harvnb|森史朗|2012b|p=|pp=258-261|loc=第十二章 空母飛龍の反撃-還らざる出撃-2}}</ref>。蒼龍乗組の戦闘機搭乗員で、機動部隊上空直衛任務に就いており、蒼龍大火災のため飛龍に着艦した[[原田要]]は、友永雷撃隊の出撃を見送っており、その際に「友永大尉の艦攻は修理のいとまがなく、片道燃料で出撃した」と整備員たちが話していたと戦後に証言している<ref>[[神立尚紀]]『証言 零戦 生存率二割の戦場を生き抜いた男たち』講談社(講談社+α文庫)、2016年、154頁。</ref>。米艦隊までの距離は近く、友永大尉は「敵はもう近いから、これで十分帰れる」と告げている<ref>[[#プランゲ下]]97頁</ref>。 |
|||
米軍は日本機動部隊の撃滅に成功したものの、航空部隊の損害は大きいものがあった。特に護衛戦闘機を伴わずに攻撃を行った雷撃隊、急降下爆撃隊の損害は甚大であり、日本側を上回る数の搭乗員が戦死した。 |
|||
午前8時15分(11:15)、ヨークタウンでは攻撃隊着艦作業が始まったが、着艦事故が発生し甲板が損傷<ref>[[#ヨークタウン]]199頁</ref>、11:50、修理が終わり、SBD爆撃機10機に索敵任務が与えられた<ref name="朝日ヨーク200">[[#ヨークタウン]]200頁</ref>。 |
|||
* '''第16任務部隊:''' |
|||
;* '''エンタープライズ''':6月4日時点でエンタープライズの可動機はF4F戦闘機27機、SBD急降下爆撃機35機、TBD雷撃機14機の計76機であった。<ref>Ibid, pp.3.</ref> |
|||
;;* 6月4日:南雲機動部隊に対して可動機すべてを発進させ攻撃。雷撃隊14機は護衛戦闘機の援護がないまま南雲機動部隊に攻撃を行い10機を喪失。エンタープライズの報告書では日本軍の対空砲火は効果的ではなく損失のほとんどは零戦の攻撃によるものであった(対空砲火は主に目標指示に使用されていた模様である)。続いて急降下爆撃を行った第6爆撃機隊及び第6索敵爆撃機隊の33機は目標突入時には攻撃を受けなかったものの爆撃後に強力な対空砲火と零戦の攻撃に遭い18機が未帰還となった。同日夕刻に行われた飛龍に対する第二次攻撃にはエンタープライズ、ヨークタウン隊混成のSBD急降下爆撃機24機が出撃、攻撃時にエンタープライズのSBD1機が零戦に撃墜されたものの飛龍に直撃弾4発を命中させ大破、炎上させた。<ref>United States Navy, Action Report (Serial 0137) -4-6 June 1942, http://www.cv6.org/ship/logs/action19420604.htm. (accessed in December 2008).</ref> |
|||
;;* 6月5日:衝突事故で落伍した重巡最上、三隈へ対しエンタープライズ、ヨークタウン混成のSBD急降下爆撃機32機が発進。目標を発見できず付近を航行中の香取型軽巡洋艦(駆逐艦谷風の誤認)を攻撃。谷風から激しい対空砲火を浴び命中弾はなかったもののエンタープライズ隊は全機帰還。<ref>Ibid. </ref> |
|||
;;* 6月6日:第16任務部隊は最上、三隈、及び護衛の駆逐艦2隻に対する攻撃を続行。F4F戦闘機12機、SBD急降下爆撃機31機、TBD雷撃機3機が攻撃に参加。エンタープライズの航空隊は損害を受けずに最上型重巡に5発の命中弾を与え帰還。攻撃後2機のSBDが炎上する三隈の偵察に向かい米軍は最上型重巡を誤って2万トンクラス、30センチ砲装備の巡洋戦艦であると結論づけている。<ref>Ibid. </ref> |
|||
;;* 6月4日から6月6日の3日間の戦闘でエンタープライズはF4F戦闘機1機(燃料切れ)SBD急降下爆撃機20機、TBD雷撃機10機の計31機を喪失。全航空団の40パーセントに及ぶ損害を受けパイロット24名、銃手25名の計49名が戦死した。<ref>Ibid. </ref> |
|||
;* '''ホーネット''':5月28日から29日にかけて事故等によりSBD急降下爆撃機2機が失われ6月4日時点ではF4F戦闘機27機、SBD急降下爆撃機35機、TBD雷撃機15機の計77機が可動状態にあった。<ref>United States Navy, Battle of Midway: 4-7 June 1942, Online Action Reports: Commanding Officer, USS Hornet, Serial 0018 of 13 June 1942, http://www.history.navy.mil/docs/wwii/mid5.htm. (accessed in December 2008).</ref> |
|||
;;* 6月4日:南雲部隊へ向けてF4F戦闘機10機、SBD急降下爆撃機35機、TBD雷撃機15機が発進。真っ先に攻撃を行った雷撃隊15機は零戦の集中攻撃を受け全滅。ホーネット雷撃隊の生存者はゲイ少尉ただ一人であった。F4F、SBD隊は日本機動部隊を発見できずにミッドウェイ島へ不時着。一部は燃料が足りず海上に不時着した。<ref>Ibid. </ref> 飛龍攻撃に向かった第二次攻撃隊のSBD 16機は付近を航行中の護衛艦艇を攻撃。戦艦1隻に3発、重巡1隻に2発の命中弾を与えたと報告(日本側には該当する記録がなく誤認の可能性が高い)、全機無事に帰還した。飛龍はすでにエンタープライズ、ヨークタウン隊の攻撃を受けて激しく炎上しており目標としての価値がないと判断されたため攻撃されなかった。<ref>Ibid. </ref> |
|||
;;* 6月5日:衝突事故で損傷を負った最上、三隈へ対しSBD26機が発進。目標を発見できず付近を航行中の軽巡1隻(谷風の誤認)を攻撃。5発が目標の30メートル以内に着弾したものの命中弾なし。燃料切れで不時着水した1機を除く全機が帰還した。<ref>Ibid. </ref> なお谷風は合計58機もの急降下爆撃機から攻撃を受けたものの艦長・勝見基中佐の的確な操艦により全弾を回避した。 |
|||
;;* 6月6日:エンタープライズ隊と合同で撤退する最上、三隈に対して再攻撃を実施。ホーネットからF4F 8機、SBD 26機が発進。対空砲火でSBD1機を失ったものの戦艦1隻に命中弾3発、重巡1隻に命中弾2発を与えたと報告した。帰投後SBD 24機は最上、三隈に止めを刺すために再び出撃、2隻にさらに命中弾を与え全機無事に帰還した。<ref>Ibid. </ref> |
|||
;;* 6月4日から6月6日にかけてホーネット航空団はF4F戦闘機12機、SBD急降下爆撃機5機、TBD雷撃機15機の計32機を損失。全航空団の41パーセントが失われパイロット21名と銃手16名の計37名が戦死した。<ref>Ibid. </ref> |
|||
*''' 第17任務部隊''' |
|||
;* '''ヨークタウン''':6月4日時点での可動機はF4F戦闘機25機、SBD急降下爆撃機36機、TBD雷撃機12機の計73機であった。<ref>Office of Navy Intelligence, pp.4.</ref> |
|||
;;* 6月4日:南雲機動部隊に対してF4F戦闘機6機、SBD急降下爆撃機17機、TBD雷撃機12機の計35機が発進。最初に攻撃を行った雷撃機12機は魚雷投下前に7機が零戦に撃墜され更に魚雷投下後に3機が撃ち落とされた。TBD雷撃隊の援護に回った第3戦闘機隊の6機は零戦20機以上に襲われ1機を失いさらに1機が修理不能の損害を受ける。残った4機は零戦6機の撃墜を報告し帰還。TBD雷撃隊に続いて蒼龍に急降下爆撃を行ったSBD 17機は5発の命中を報告し全機無事に帰還。<ref> United States Navy, Battle of Midway: 4-7 June 1942, Online Action Reports: Commanding Officer, USS Yorktown, of 18 June 1942, http://www.history.navy.mil/docs/wwii/mid7.htm. (accessed in December 2008).</ref>ヨークタウンはその後飛龍から2度に渡る攻撃を受け大破、放棄され飛行隊はエンタープライズに乗艦して戦闘を継続した。飛龍に対する第2次攻撃にはヨークタウンの急降下爆撃隊も加わり飛龍を大破、炎上させるも2機のSBDが零戦に撃墜された。<ref> United States Navy, Action Report (Serial 0137) -4-6 June 1942, http://www.cv6.org/ship/logs/action19420604.htm. (accessed in December 2008).</ref> |
|||
;;* 6月5日:衝突事故で落伍した最上、三隈へ対しエンタープライズ、ヨークタウン混成のSBD急降下爆撃機32機が発進。目標を発見できずに付近を航行中の軽巡1隻(谷風の誤認)を攻撃。命中弾はなく激しい対空砲火を浴びヨークタウンのSBD1機が撃墜された。<ref>United States Navy, Action Report (Serial 0137) -4-6 June 1942, http://www.cv6.org/ship/logs/action19420604.htm. (accessed in December 2008).</ref> |
|||
;;* ヨークタウンの航空団は6月4日から6月6日の作戦行動でF4F戦闘機9機(5機が撃墜、2機が不時着で失われ、ヨークタウン沈没時にさらに2機が失われた)SBD爆撃機13機(10機が不時着とヨークタウン沈没時に失われ、飛龍攻撃時に2機、谷風攻撃時に更に1機を喪失)TBD雷撃機12機(2機が不時着水で失われ10機が機動部隊攻撃時に未帰還)の計34機を喪失。全航空団の47パーセントが失われパイロット15名と銃手13名の計28名が戦死した。<ref> Ibid. ヨークタウンの戦闘報告書では急降下爆撃隊の人員の損失は0でSBD10機が燃料切れとヨークタウン沈没時に失われたとある。しかしエンタープライズの戦闘報告書ではヨークタウン被弾後に移乗してきた同艦の急降下爆撃隊3機が撃墜され6名が行方不明と記載されている。ヨークタウンの報告書は海戦後わずか2週間で纏められたため記載ミスがあったものと思われる。</ref> |
|||
*''' 基地航空隊''' |
|||
ミッドウェー基地には第22海兵航空群、第7陸軍航空軍分遣隊、海軍航空部隊など計116機が展開していた。防空戦闘と日本海軍機動部隊に対する攻撃で基地航空隊も甚大な損害を受けた。 |
|||
;* '''可動機''' |
|||
;;*海兵隊第221戦闘航空隊(VMF-221):F2A 21機、F4F 7機 |
|||
;;*海兵隊第240索敵爆撃隊(VMSB-240):SBD 18機、SB2U 16機(この飛行隊にはパイロット29人しか所属していなかったのでVMF-221からパイロット1名を借りて戦闘に参加。パイロットの人数の関係上SBD 18機とSB2U 12機しか戦闘に参加できなかった) |
|||
;;*海軍航空隊:PBY 28機、TBF 6機 |
|||
;;*第7陸軍航空軍分遣隊:B-17 16機、B-26 4機 <ref> Office of Navy Intelligence, pp.5-6.</ref> |
|||
;* '''防空戦闘''':ミッドウェー基地レーダーサイトから大編隊接近の報を受け、直ちに可動機すべてのF2A 20機 F4F 6機が発進。上空有利な位置から日本軍攻撃隊に襲い掛かった。しかし護衛の零戦36機が直ちに反撃、旧式のF2Aは零戦に対して全く歯がたたず隊長のパークス少佐機を含むF2A 13機 F4F 2機が撃墜された。また帰還した11機も被弾により大きく破損しておりF2A 5機とF4F 2機が再使用不能の損害を受けた。<ref>Ibid, pp.15.</ref> 第221戦闘航空隊の報告書には以下の証言が記載されている。 |
|||
午前8時20分(11:20)、飛龍の第一波攻撃隊は空母に帰還するエンタープライズの艦爆隊を発見。日本艦隊へ向う攻撃隊と勘違いした零戦隊([[重松康弘]]大尉指揮)から2機が迎撃に向かい、峰岸第2小隊長機が弾薬を使い果たして帰還<ref>「飛龍飛行機隊戦闘行動調書(3)」p.62、{{Harvnb|森史朗|2012b}} 226頁</ref>、1機が被弾し日本軍艦隊付近に不時着救助された<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.18、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」p.12</ref>。このため攻撃隊護衛機は4機に減った。それでも米空母に接敵する筑摩5号機からの電波を頼りに進む日本軍飛龍第一波攻撃隊(22機)はついにヨークタウンを発見した<ref>「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」pp.2,11</ref>。F4F直掩隊12機の迎撃により零戦3機、九九艦爆10機が撃墜され、九九艦爆8機のみがヨークタウンを攻撃した<ref>[[#プランゲ下]]89頁</ref>。急降下中に艦爆3機が撃墜されたが、5機が投下に成功、爆弾3発が命中、1発がボイラー室に火災を発生させ、ヨークタウンは動力を失い航行不能となり<ref>[[#ヨークタウン]]216頁</ref>、フレッチャー司令官は重巡洋艦アストリアに移乗した<ref>[[#ヨークタウン]]220頁、[[#プランゲ下]]91頁</ref>。 |
|||
{{Quotation|I saw two Brewsters trying to fight the Zeros. One was shot down, and the other was saved by ground fire covering his tail. Both looked like they were tied to a string while the Zeros made passes at them.(私は2機のブリュースターが零戦と戦おうとしているのを目撃した。1機は撃墜されもう1機は地上からの防御砲火によって救われた。2機はまるで縄で縛られて零戦から攻撃されているようであった)。<ref> R.D. Heinl, Jr., Marines at Midway, (USMC: 1948), pp.29-30. </ref>}} |
|||
代償として、飛龍第一波攻撃隊は艦爆13機(小林隊長機を含む)と零戦3機を失い、艦爆5機と零戦1機が飛龍に帰還しただけだった<ref>「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」pp.2-3、[[#亀井戦記]]393頁</ref>。帰還機も、零戦1が海面に不時着(搭乗員は救助)、艦爆1が修理不能であり、修理後使用可能艦爆2・零戦1という状況だった<ref name="名前なし-3">「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」p.21</ref>。飛龍攻撃隊はエンタープライズ型空母に爆弾5発、陸用爆弾1発を命中させ、大破あるいは大火災、撃沈と報告した<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.34、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」p.11</ref>。 |
|||
;* '''南雲機動部隊への攻撃:'''PBY哨戒機からの通報を受け、ミッドウェー島にあったすべての航空機は逐次南雲機動部隊へ攻撃に向かった。最初に南雲機動部隊を攻撃したB-26 4機はアメリカ陸軍航空隊初となる雷撃を実施。しかし命中弾はなく2機が撃墜され、帰還した2機も被弾により激しく損傷しており再使用不能になった(帰還した内の1機は500発以上も被弾していた)。続いて攻撃に向かった最新鋭のTBF雷撃機6機も直衛の零戦に攻撃され、5機を失い、辛うじて帰還した1機も激しく被弾しており銃手は機上戦死していた。<ref>Naval Historical Center, Midway-based Torpedo Attacks on the Japanese Carrier Striking Force, 4 June 1942, http://www.history.navy.mil/photos/events/wwii-pac/midway/mid-4a.htm. (このウェブサイトでは唯一生還したTBF雷撃機の写真を見ることができる)。 </ref> ミッドウェー基地を発進したSBD 16機,SB2U 11機 (SBD 2機とSB2U 1機はエンジン故障により引き返した)も程なく機動部隊を発見。ヘンダーソン少佐指揮のSBD 16機はパイロットが経験不足なこともあり、より危険で効率の悪い緩降下爆撃を行った。しかし零戦から激しい攻撃を受け、命中弾はなくヘンダーソン少佐機を含む8機が撃墜された。残る8機も被弾により大きく損傷していた。(米軍は戦死したヘンダーソン少佐の勇気を称えガダルカナル島の飛行場をヘンダーソン飛行場と命名した)。SBD 隊の後に戦場に到着したノリス少佐指揮のSB2U 11機は、零戦が補給の為に一時的に空母に着艦していたこともあり、4機を失っただけで済んだ。しかし命中弾を与える事はできなかった。<ref> Jack McKillop, Chance-Vought SB2U Vindicator, http://www.microworks.net/pacific/aviation/sb2u_vindicator.htm. (accessed in December 2008). </ref>最後に陸軍航空隊のB-17 16機が高高度から爆撃を行ったが、高速で回避運動を行う南雲部隊へ1発も命中させることができず全機ミッドウェー基地に帰還した。<ref>Battle of Midway: Action Report (米軍の報告書では飛龍に爆弾3発を命中させ撃沈とあるが誤認である)</ref> |
|||
;* 6月5日:ミッドウェー基地航空隊は前日の戦闘で激しく消耗していたものの、可動機全機をもって退却する日本艦隊に向け攻撃隊を発進させた。第240索敵爆撃隊は稼動機すべてのSBD 6機とSB2U 6機を出撃させ最上、三隈を攻撃。しかしながら命中弾を得られず、対空砲火に被弾したフレミング大尉は三隈に体当たりしたとも言われている。<ref>R.D. Heinl, Jr., pp.41.</ref> またB-17部隊もこの攻撃に参加したが、爆弾はすべて外れた。対空砲火で1機を、燃料切れで1機を失った。<ref> United States Army Air Forces, Combat Chronology of the United States Army Air Forces in World War II, http://www.usaaf.net/chron/42/jun42.htm. (accessed in December 2008).</ref> |
|||
;* 3日間に及ぶ戦闘で、第22海兵航空群は42名の搭乗員を失い負傷者も25名に及んだ。<ref>R.D. Heinl, Jr., pp.41.</ref> また南雲部隊へ雷撃を行ったTBF隊も16名の戦死者を出した。<ref> Naval Historical Center.</ref> |
|||
しかし、ヨークタウンは午前11時(14:00)過ぎに爆撃による火災を鎮火し、速力20ノット発揮可能となった<ref>[[#ヨークタウン]]219頁、[[#プランゲ下]]91頁</ref>。 |
|||
'''戦死''' |
|||
* 約300名、高級士官の戦死は無かった。 |
|||
午前8時30分、十三試艦爆はアメリカ軍機動部隊発見を発信している<ref>「蒼龍飛行機隊戦闘行動調書(3)」p.54、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(2)」p.66「0800:敵艦上機1機発見、之を追跡す」「0810:敵機動部隊発見、触接開始」「0830:我敵航空部隊見ゆ。地点ミッドウェー5度、120浬、針路80度、速力25ノット」「0840:敵航空部隊は空母3隻を基幹とし駆逐艦22隻をともなう」</ref><ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.33「0837:敵航空部隊見ゆ、ミッドウェーよりの方位4度、150浬」「0840:敵航空部隊は空母3隻を基幹とし駆逐艦22隻を伴ふ(0840)」</ref>。十三試艦爆は発信5分後帰路についたが<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.34「0845:触接を止む(〇八四五)」(機動部隊受信0854)</ref>、無線機の故障により、南雲部隊ではアメリカ軍機動部隊発見の報告を受信しなかったという<ref name="一1航空艦隊34-2">「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.34「偶々電信機故障の為通信不能にて、帰投後の報告により(以下略)」</ref>。この頃、赤城の零戦隊7機、艦攻1機が飛龍に着艦した<ref>「赤城飛行機隊戦闘行動調書(2)」pp.31-32、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(1)」p.34。白根大尉、菊地、小山内、大森、井石、石田、木村</ref>。加賀からは零戦9機<ref>「加賀飛行機隊戦闘行動調書」pp.24、26-27、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(2)」pp.11-12</ref>、蒼龍からも零戦4機、艦攻1機が飛龍に着艦した<ref>「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(2)」pp.45、59、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」pp.36-37</ref>。 |
|||
== 本海戦の影響 == |
|||
; 日本軍側 |
|||
: 山本五十六は戦前に「日本は開戦から半年、もって1年は優勢を維持することができるが、それ以降はアメリカ(と連合軍)の国力が日本を圧倒するだろう」と述べていた。しかし国力で圧倒される以前に、戦略、戦術、用兵などの拙劣により、約2倍の戦力を有しながら、ミッドウェー海戦で空母機動艦隊を壊滅させる損害を受けた。事後、作戦戦訓研究会は開かれず、敗戦の責任者が処罰されることもなかった。もっとも[[軍令部]]は、この敗北を国民には伝えなかったものの、[[参謀本部]]に対しては迅速に伝えている<ref>井上陽介「陸軍による海戦情報入手とその後の意志決定」『東京大学日本史学研究室紀要』第14号、2010年、P189-190。この論文(P191)によれば、ミッドウェー海戦の実態について、海軍内はもとより陸軍内でも情報統制がなされ、前陸相の[[畑俊六]]にさえも真相は伝えられていなかったという。尚、[[東条英機]]首相兼陸相に対する情報提供があったか否かについては諸説あり不明である。</ref>。水上部隊の戦力では優位を保っていたとは言え、連合艦隊の中核戦力を一挙に失ったことによる高級指揮官らの困惑は甚だしく、「航空基地の偉大なる威力」という戦訓が生み出され、[[ラバウル]]から1,000kmもかなたの[[ガダルカナル島]]に飛行場が建設され、また、ガ島基地奪回作戦が行われた。開戦から6ヶ月目に当たるミッドウェーの被害以降、同年に行われた[[第一次ソロモン海戦]]や[[南太平洋海戦]]、翌年初頭に行われた[[レンネル島沖海戦]]などいくつかの局所的な戦いでは日本は勝利を手にするものの、[[ガダルカナル島の戦い|ガダルカナル]]、[[東部ニューギニアの戦い|ニューギニア]]や[[マキンの戦い|マキン]]・[[タラワの戦い|タラワ島]]をめぐる戦いで戦局に影が生じるなど、1年を経過せずに日本の戦局は徐々に乱れ始めた。[[1943年]]の年末には日本軍の勢いが落ち始め、後年ミッドウェー海戦は[[太平洋戦争]]の転換点とも評されるようになった。 |
|||
: 機動部隊の主力であった第一、第二航空戦隊が壊滅したため、新たに[[翔鶴]]、[[瑞鶴]]を中心として機動部隊の再建が図られたが、日中戦争以来のベテランである一、二航戦の穴は、最新鋭とは言え経験不足の二艦で埋められるものではなかった。このことは、ミッドウェー海戦直後の参謀本部への説明の中で、軍令部側が「残存空母2隻(瑞鶴、翔鶴)では守勢の外はない」、「残りの空母は大したものではない」と述べていることからも明らかである<ref>井上陽介「陸軍による海戦情報入手とその後の意志決定」『東京大学日本史学研究室紀要』第14号、2010年、P190</ref>。ミッドウェーでの各空母のパイロットの喪失は、反撃を行った飛龍を除けばさほどでもなかったが、正規空母4隻を失ったことは取り返しがつかず、これ以後米機動部隊に対して数的劣勢に立たされることになり、本来二線級の戦力である軽空母や改装空母まで主力として投入せざるを得なかった。 |
|||
: また、本海戦で損失した航空戦力を補うため、大和型戦艦の3番艦は急遽装甲空母への改装が決定され、空母「[[信濃 (空母)|信濃]]」となる。戦艦[[伊勢 (戦艦)|伊勢]]・[[日向 (戦艦)|日向]]は航空戦艦となった。さらに、商船改装の空母の建造や、飛龍を元にした[[雲龍 (空母)|雲龍]]型空母の15隻追加建造が計画された。しかし、本海戦に続いてガダルカナル島をめぐる消耗戦等で熟練搭乗員を失っていったことにより、若手搭乗員の訓練・補充が追いつかず、この後の日本機動部隊は、規模的にはミッドウェー海戦時を上回っても、質的には上回ることができなかった。これに対して、アメリカの戦力が量・質ともに時間とともに桁違いに充実していったことを考えれば、この時点において日本は実質的に太平洋戦争の勝利の機会を失ったといえる。 |
|||
: 作戦の混乱により短期決戦早期講和派は発言力を失い、軍令部、大本営は長期戦を主軸とした戦略への転換を行わざるを得なくなった。また、大本営は本海戦の戦果を「空母ホーネット、エンタープライズを撃沈、味方の損害は空母一隻、重巡洋艦1隻沈没、空母一隻大破」と国民に発表することによって士気の阻喪を防ごうとしたが、これ以降国民に対して(天皇に対しても)歪曲を施した戦果報告を行なうようになり、この状態は[[第二次世界大戦]]の終結まで続く。これは戦果を正確に記録できていた開戦初頭に比べて、搭乗員の経験不足もさることながら、海軍上層部の冷静な判断力の欠如、また期待感や同情から搭乗員の過大な戦果報告を鵜呑みにしたことも大きい(但し、過大戦果報告はアメリカ軍もおこなっている<ref>国を問わず戦闘では、自身や戦死者の名誉の為からか、戦果を多く報告する傾向が有り、また戦闘で戦果の誤認は付き物である。事実、ミッドウェイ海戦に先立つフィリピン防衛戦では、アメリカはまったく架空の[[ヒラヌマ|日本戦艦撃沈の報]]を国民に伝え、終戦までそれを訂正することはなかった。また珊瑚海海戦でもアメリカは、自軍の戦果を過大宣伝している。しかしながら、総じて米英の場合は日本やソ連ほど極端ではない。</ref>。) |
|||
; アメリカ軍側 |
|||
: アメリカ軍は、それまでは隻数が確保できなかったため、止むを得ず単鑑による作戦行動が多かった空母を、戦前から建造を進めていた[[エセックス級航空母艦|エセックス級]]空母の整備に伴い、空母機動部隊として集中運用するようになる<ref>スプルーアンス個人は「空母を全滅させていたとしても、(大和以下の)戦艦群が突撃してきたら防げなかっただろう」と感想を残している。[[レイテ沖海戦]]でもハルゼーがこれと同義の意見を残している。スプルーアンスは戦後、本海戦の勝因について問われた時、「我々は幸運だった」と繰り返し答えている。</ref>。大戦後期の[[マリアナ沖海戦]]や[[レイテ沖海戦]]では、20隻もの空母を含む大艦隊を運用するようになる。 |
|||
: もしも日本軍が勝利し、ハワイ攻略に成功しても、<!--早期講和が成ったか、またさらにはアメリカ西海岸への上陸作戦が行われたかについての議論があるが、アメリカ人の国民性から考えて戦意喪失するとは考えにくく、-->国力の差が歴然としていることから結局戦争全体が長引いたに過ぎないという説が主流である<ref>参考[ [http://www.combinedfleet.com/economic.htm Why Japan Really Lost The War] ]:国力の差とアメリカから見た危険度の差などの観点から、主戦場として予定していたのは欧州における対ドイツ戦で、対日戦は片手間に過ぎなかったとする説もある。</ref>。 |
|||
: 太平洋の戦局に余裕を得た[[フランクリン・ルーズベルト|ルーズベルト]]は、装備したばかりの[[M4中戦車]]300両を回収して、他の武器と共に[[北アフリカ戦線]]に急送し、9月3日に[[スエズ]]に到着。10月23日、英軍は[[エル・アラメイン]]から反攻し、[[エルヴィン・ロンメル|ロンメル]]軍を撃破した。ロンメル軍の敗退により、日本軍が企図した西亜作戦(2個師団を当ててインド洋の北西部の要衝を占領し、日独連携を図る)も潰えた。 |
|||
午前8時40分、残存する南雲部隊に十三試艦爆が発した航空隊発見の電文が届いた。 |
|||
== 戦闘の分析 == |
|||
=== 指揮体系 === |
|||
航空戦では、刻一刻と変わる情勢の変化に即応できる指揮体系が要求される。[[アメリカ軍]]は、現場の戦闘部隊の指揮官で、[[空母部隊]]指揮経験のある(しかも直前に史上初の空母対空母の戦いを指揮した)[[フランク・J・フレッチャー|フランク・フレッチャー]]少将が作戦全体を指揮した。彼は戦闘中に自分の空母を失うと、即座に指揮権を[[スプルーアンス]]少将に移し、その[[空母]]によって[[日本]]の残存空母を仕留めることに成功した(南雲も、乗艦を失った際に[[山口多聞]]少将の具申に従って指揮権を委譲し、ヨークタウンの撃破に成功している)。一方、[[日本]]の[[機動部隊]]の司令官は、利根4号機のアメリカ海軍空母発見の報告の際、山口の即時攻撃要請を却下し、再度の兵装転換命令を出さざるを得なかった(理由は後述)。これらのことは、司令官が空母部隊の指揮運用に不安要素を持つ[[南雲忠一]]中将であった事に加えて、アメリカ空母部隊とミッドウェー基地攻撃との二方面作戦を厳命されていた日本海軍と、日本機動部隊のみの捕捉撃滅を目指すアメリカとの戦略の根本的な違いなどに起因すると思われる<ref>南雲が航空畑出身ではないことを真っ先に上げられがちだが、山口も、対比して上げられやすい[[小沢治三郎]]中将も、さらにはスプルーアンスも水雷出身(元巡洋艦部隊指揮官)であることを考慮すべきである。ただし、独力で航空戦についての知識を身に着けた彼らに対し、自らの航空戦知識の不足を自覚していた為に、全てを参謀長の[[草鹿龍之介]]に(更に彼から[[源田実]]に)ほぼ委任の状態であった南雲の姿勢は空母部隊指揮官としての是非を問われざるを得ない。</ref>。 |
|||
午前9時(12:00)、偵察隊発進後まもない中で[[レーダー]]が南西46海里に日本軍機を探知する<ref name="朝日ヨーク200" />。ヨークタウンは重巡洋艦[[アストリア (重巡洋艦)|アストリア]]と[[ポートランド (重巡洋艦)|ポートランド]]、駆逐艦[[ハムマン (駆逐艦)|ハムマン]]、[[シムス級駆逐艦#同型艦|アンダースン、ラッセル、モーリス、ヒューズ]]に[[輪形陣]]を組むよう命じ、F4Fワイルドキャット戦闘機12機を発進させた<ref>[[#ヨークタウン]]201-202頁</ref>。 |
|||
== 日本軍の敗因 == |
|||
本作戦が失敗した原因は多岐にわたる要素が挙げられるが、ここでは主要なものに関してのみ述べる。 |
|||
また偵察と攻撃部隊誘導に活躍した筑摩の5号機は、午前9時5分(12:05)にアメリカ軍戦闘機の追跡を受け退避<ref>[[#澤地記録]]284頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.36「0917:我れ敵航空機の追撃を受け触接を失せり(0905)」</ref>、その15分後、新たなアメリカ軍機動部隊を発見した。 |
|||
=== 艦隊構成 === |
|||
戦艦を主戦力とし、その概念で空母部隊も編成した。空母は、広い攻撃圏を有する飛行部隊を持っており、戦力の集中が簡単で、各艦の距離を戦艦の10倍以上持てる。しかし、あえて戦艦並みの距離で4隻が一緒に行動したため、同時攻撃を受けて3隻が壊滅した。 |
|||
同じ時間帯に、南雲も長良の周囲に第三戦隊(戦艦榛名、霧島)、第八戦隊(利根、筑摩)、駆逐艦4隻を集め、速力30ノットで北東に向かった<ref>[[#橋本信号員]]148-149頁、[[#亀井戦記]]394-395頁</ref>。 |
|||
空母の集中運用は、各艦との連絡が取りやすく、指揮官の意思伝達を容易にし、艦隊すべての航空戦力を集中的に管理しやすい反面、空母自体の防御力の脆弱性もあり、攻撃を受けると一挙に大損害をこうむる危険もある。また、空母の艦長も各航空戦隊の司令官にも、自分の飛行隊を自由に使える権限がなく、不測の事態に対する柔軟性に欠ける。対して米艦隊は空母を分散運用し、結果的に被害をヨークタウンのみにとどめている。しかし、本海戦における米軍の航空運用は、各空母飛行隊間の連携がほとんど取れておらず、兵法における愚策とされる戦力の分散と逐次投入という状況を招いた。これは空母の分散運用の最大の欠点が現れた形である。現に、戦闘機隊と連携できずに単独で突入した雷撃機隊は有効な攻撃もできずに壊滅している。米軍にとって幸運だったのは、兵力の分散が偶然にも波状攻撃の形となり、日本艦隊の防空の意識が低空に向けられていた隙を突くことになったことである。本海戦は、日本側に空母集中の最大の欠点が如実に現れ<ref>実際、赤城・加賀・蒼龍が一度に攻撃にさらされながら飛龍が攻撃を免れたのは、わざと艦隊から少し離れた位置にいたからである</ref>、米側は逆に分散運用の欠点が利点に転じた結果となった。 |
|||
午前10時(13:00)、駆逐艦[[嵐 (駆逐艦)|嵐]]は海面に漂うヨークタウン雷撃隊隊員ウェスレイ・フランク・オスマス(Wesley Frank Osmus)海軍予備少尉を救助し、尋問を行った<ref name="一2航空38尋問">[[#大和最後の艦長]]149-50頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.38「1000:4dg機密第140番電。捕虜(ヨークタウン)搭乗員海軍少尉言左の如し」</ref>。[[有賀幸作]]第四駆逐隊司令は尋問内容を受けて以下の内容を発信した<ref name="一2航空38尋問" /><ref name="澤地記録287">[[#澤地記録]]287-288頁</ref>。この電文は攻略部隊・第二艦隊の重巡洋艦愛宕(旗艦)も受信している<ref name="愛宕奮戦88">[[#愛宕奮戦記]]88頁</ref>。 |
|||
南雲機動部隊は[[赤城 (空母)|赤城]]、[[加賀 (空母)|加賀]]、[[蒼龍 (空母)|蒼龍]]、[[飛龍 (空母)|飛龍]]の空母4隻に、[[霧島 (戦艦)|霧島]]、[[榛名 (戦艦)|榛名]]の戦艦2隻、重巡2隻、軽巡2隻、駆逐艦12隻、油槽艦8隻と、空母4隻の護衛艦が貧弱であった。機動部隊の300浬(約550km)も後方に、[[大和 (戦艦)|大和]]、[[長門 (戦艦)|長門]]、[[陸奥 (戦艦)|陸奥]]の戦艦3隻、[[鳳翔 (空母)|鳳翔]]、[[千代田 (空母)|千代田]]の空母2隻、水母、軽巡各1隻、駆逐艦22隻の主隊、および[[伊勢 (戦艦)|伊勢]]、[[日向 (戦艦)|日向]]、[[扶桑 (戦艦)|扶桑]]、[[山城 (戦艦)|山城]]の戦艦4隻、軽巡1隻、駆逐艦12隻の警戒部隊からなる、山本五十六率いる主力部隊、そして、[[金剛 (戦艦)|金剛]]、[[比叡 (戦艦)|比叡]]の戦艦2隻、[[瑞鳳 (空母)|瑞鳳]]、[[千歳 (空母)|千歳]]の空母2隻、水母1隻、重巡8隻、軽巡2隻、駆逐艦21隻、輸送艦12隻の攻略部隊が続くという編成であった。この編成では当初の予定通りミッドウェー攻略作戦を行っていたとしても機動艦隊のみで戦うことになってしまい、後衛の主力艦隊はまったく役に立たない。また、大型戦艦は空母の前に布陣していれば、おとりとなって空母を守れた可能性もあることから、そもそもの編成に不備があったとの指摘がある。 |
|||
# 空母はヨークタウン、エンタープライズ、ホーネット、巡洋艦6隻、駆逐艦約10隻<ref name="一2航空38尋問"/><ref name="プランゲ下111">[[#プランゲ下]]111頁</ref>。 |
|||
また、南雲機動部隊に、本来与えられてしかるべき海上航空戦力が与えられなかった、という批判もある。ミッドウェー攻略作戦の陽動作戦として、主戦場より遠く離れたアリューシャン攻略作戦には、貴重な2隻の空母[[隼鷹 (空母)|隼鷹]]と[[龍驤 (空母)|龍驤]]を基幹とする艦隊が投入された。また、[[珊瑚海海戦]]を戦った2隻の空母のうち、[[翔鶴 (空母)|翔鶴]]は中破していたが、もう一隻の[[瑞鶴 (空母)|瑞鶴]]についてはほとんど無傷であり、搭載機と搭乗員の手配をすればミッドウェー海戦への参加も不可能ではなかったにもかかわらず、なんら、このような努力はなされなかった。 |
|||
# ヨークタウンは巡洋艦2隻、駆逐艦3隻とを一団とし、他の部隊とは別働しつつあり<ref name="一2航空38尋問"/><ref name="プランゲ下111"/>。 |
|||
# (米機動部隊)5月31日午前真珠港発、6月1日「ミッドウェー」附着、その後南北に移動哨戒をなし今日に及べり<ref name="一2航空38尋問"/><ref name="プランゲ下111"/>。 |
|||
# 5月31日真珠港在泊主力艦なし(本人は5月31日まで基地訓練に従事、ハワイ方面主力艦の状況明らかならず)<ref name="一2航空38尋問"/><ref name="プランゲ下111"/>。 |
|||
連合艦隊は、アメリカ軍機動部隊の戦力と出動空母の名前を知った。この時、オスマスはエンタープライズ型空母の搭載機数(爆撃機18、偵察機18、雷撃機12、戦闘機27)や、真珠湾攻撃で沈没した米戦艦群のうち、戦艦[[アリゾナ (戦艦)|アリゾナ]]、[[ユタ (戦艦)|ユタ]]、艦型不詳を除く戦艦4隻が回航修理中であることも証言している<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(3)」p.39</ref>。後に、オスマス少尉は兵の独断で殺害されてしまったという<ref>[[#大和最後の艦長]]155頁</ref>。オスマスは[[水葬]]に附された<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(3)」p.37「6月6日死亡、水葬」</ref>。彼の名前は[[バックレイ級護衛駆逐艦]]「{{仮リンク|オスマス (護衛駆逐艦)|en|USS Osmus (DE-701)}}」に受け継がれている。 |
|||
=== 南雲忠一に対する批判と擁護論 === |
|||
<!--元記事が南雲擁護に偏りすぎていること、同じ内容を反復して強調していること、独自研究に過ぎることから本当は削除が妥当と考えますが…。ただ、誇張や強調の過ぎる部分、同じことを何度も反復して論を誘導している内容はカットしました。--> |
|||
本作戦における南雲に対しては、兵装転換による無駄な時間を生じた点などで、その作戦指揮に対する批判が多い。また、それに対して当時の背景状況や、部下の進言・不手際にこそ問題点があったとする反論もみられる。なお、これらについては、[[南雲忠一]]の記事にも詳しい記載がある。 |
|||
午前10時15分(13:15)、第八戦隊(阿部司令官)は南雲部隊各艦(霧島、榛名、利根、筑摩)に対して直ちに索敵機を発進させよと命じた<ref name="澤地記録290">[[#澤地記録]]290頁</ref>。 |
|||
==== (1) 指揮官としての経歴やパーソナリティに関する問題点について ==== |
|||
南雲は、本来水雷戦隊を率いての戦いが専門であり、航空戦を理解しておらず、敵の見えない戦いについての訓練もされていなかった。しかもリーダーシップに欠けて優柔不断だったとよく言われている。航空隊の指揮官だった淵田は後に、自著に「少々耄碌(もうろく)していた」と記している |
|||
午前10時30分(13:30)、飛龍から第二波攻撃隊(艦攻10機、零戦6機)が発進<ref>[[#澤地記録]]290頁、「飛龍飛行機隊戦闘行動調書(3)」p.63、「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.35、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」pp.2,32-33</ref>。うち、零戦2機(山本、坂東)は飛龍に着艦した加賀所属機、艦攻1機は赤城所属機(AI‐316号機西森暹飛曹長機)だった。蒼龍所属の艦攻は発動機不調で出撃できなかった。これらの艦攻はみな索敵機であり、攻撃機でないことから「運命の五分間」は軍令部の負け惜しみの可能性が高い。<ref>「加賀飛行機隊戦闘行動調書」p.24、「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.18、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(2)」p.13</ref>。筑摩4号機も発進した<ref>[[#澤地記録]]290頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.41</ref>。入れ替わるように飛龍第一波攻撃隊が飛龍に着艦した<ref name="名前なし-4">「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」p.3</ref>。 |
|||
こうした批判に対しては、そのような人物を年功序列で司令官においていた海軍の人事自体も問題視するべきで、ミッドウェーの敗因を南雲ひとりに負わせてしまうのは酷であるとする意見がある。 |
|||
午前10時30分(13:45)に着艦した十三試艦爆(近藤機)が三群の米機動部隊に接触したものの、無線機故障で発信できなかったことを報告した<ref>[[#亀井戦記]]406頁、「蒼龍飛行機隊戦闘行動調書(3)」p.54、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(2)」pp.67-68「0950、飛龍上空着。1030、飛龍着艦」</ref>。十三式試艦爆の偵察に対し、戦闘詳報は「敵機動部隊の情況不明なりし際、極めて適切に捜索、触接に任じ、その後の攻撃を容易ならしめたり。功績抜群なり」と高く評価している<ref>「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(2)」p.69。「別紙第一、発受信記録、略(資料なし)」</ref>。この時点で、山口少将は利根4号機、筑摩5号機が通報した空母1隻の他に、エンタープライズ型空母、ホーネット型空母(原文ママ)が存在することを知った<ref>[[#亀井戦記]]406頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.34、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.45</ref>。 |
|||
また、そもそも空母同士による航空機主体の海戦自体、この直前に行われた[[珊瑚海海戦]]が史上初であり、各国とも運用のノウハウは無く経験がない事自体は誰もが一緒という事も重要だろう。 |
|||
午前11時(14:00)、母艦利根で補給を終えた利根3号機、4号機が再び発進する<ref>[[#澤地記録]]292頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.42</ref>。 |
|||
山口にしても航空戦の実戦経験は基地航空隊でのみであり消耗したら直には航空戦力を補充できない空母同士の海戦を理解していたかについては疑問がある<ref>空母艦内では基地と違って補修に限界がありちょっとした被弾でも修理不能で放棄する事はざらにある。意見具申の時点で飛行甲板に準備はできておらず意見具申が通ったとしても発進に45分以上かかり燃料の少ない空襲隊は不時着水を余儀なくされる。更に艦戦を艦隊直掩に出しつくしているので護衛は付けられない。護衛の無い攻撃隊がいかに脆いかは珊瑚海海戦で日本軍は経験しているし目の前で米軍が実証している。航空戦を理解してるならこの様な無謀で戦果を期待できない具申はしないだろう。</ref>。米側も空母を初めて指揮するスプルーアンス少将は航空機を逐次投入するという本来なら愚策である決定をしている。運よく波状攻撃という形になり艦爆隊が奇襲できたが其々が各個撃破されていた可能性も充分ある。(実際雷撃隊はほぼ全滅している。) |
|||
午前11時30分(14:30)、戦艦榛名の偵察機(榛名1号機)も附近に空母がいる可能性を知らせた<ref>[[#澤地記録]]293頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.42「附近に空母居るものの如し」</ref>。この時、飛龍の第二波攻撃隊はアメリカ軍機動艦隊を発見するが、それは復旧作業中のヨークタウンだった<ref>[[#ヨークタウン]]224頁、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」p.15</ref>。筑摩5号機が撃墜されたため、友永隊は自力でアメリカ軍機動部隊を探さねばならず、火災もなく航行する米空母を見た友永丈市大尉はヨークタウンを「損傷を受けていない別の空母」と判断した<ref>[[#亀井戦記]]409頁</ref>。友永隊は左右から挟撃雷撃をおこなうため運動を開始する<ref>[[#亀井戦記]]412頁、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」p.3「一中隊は右、二中隊は左より挟撃し」</ref>。 |
|||
また南雲の判断自体当時の艦隊の状況を考えれば至極真っ当であり機動部隊指揮官として今作戦の目的完遂の実質的指揮官である以上、作戦初期の段階で航空戦力をすり潰し戦果は低い可能性の高い運用はできないだろう。 |
|||
ヨークタウンは直掩F4F戦闘機16機を迎撃に向かわせ、艦攻4機と零戦2機を撃墜し<ref>[[#ヨークタウン]]224-227頁</ref>、続いて艦攻1機を対空砲火で撃墜したが、4本の魚雷が両舷から挟み撃ちの形でヨークタウンに向かい、2本が左舷に命中した<ref>[[#ヨークタウン]]229頁</ref>。ボイラー室と発電機を破壊されたヨークタウンは航行不能となり左舷に傾斜して総員退艦が命じられ、艦長を含む乗組員全員が脱出した<ref>[[#ヨークタウン]]233頁</ref>。(以上はアメリカ側の文献による) |
|||
==== (2) 作戦指揮そのものに対する問題点について ==== |
|||
敵発見後に即時攻撃せず、爆撃装備から雷撃装備に換装させるという判断を下し、貴重な時間をとられたということが最大の失敗との分析が今まで多くなされてきた。通常の爆弾でも、特に対空母であれば甲板を破壊することで沈めずとも艦種としての主要機能を無力化できるし、対砲艦であっても、爆撃で露出した対空装備や甲板上の戦闘要員をなぎ払えば戦力低下をもたらすことができる。事実、本海戦での日本側空母は、米側の魚雷よりも爆弾による攻撃がもたらした火災被害が喪失の大きな原因となった艦が複数あった。早期に発艦すれば攻撃の機会があった上、換装途中の航空機や弾薬の誘爆による被害拡大を防ぐことができたと見られ、南雲の戦闘指揮に対する批判としてよく挙がるものとなっている。 |
|||
この批判に対しては、結果を知っているからこそ言えるいわゆる「後知恵」が多分に含まれているものが多いという意見や、南雲がこの判断を下したのは源田の進言に従っての事であることも考慮されるべきという意見がある。 |
|||
第二波攻撃隊の艦攻10機は第一中隊5機を友永大尉が、第二中隊5機を橋本大尉が率いていたが、ヨークタウンの巧妙な回避運動のために挟撃雷撃はいったん失敗した<ref name=":3">{{Harvnb|亀井|2014b|p=|pp=84-99|loc=第二部「喪失」-第六章「飛龍死闘」-三}}</ref>。のちに有名になる[[ジョン・サッチ]]のF4Fが、友永機と思われる隊長標識をつけた艦攻を撃墜したが、サッチ機の攻撃で両翼が炎上したその艦攻は、海面に突入する寸前に、ヨークタウンに向けて魚雷を投下した(命中せず)<ref>{{Harvnb|森史朗|2012b|p=|pp=281-285|loc=第十三章 友永雷撃隊の最期-友永機の突入-1}}</ref>。[[戦闘詳報]]は、第二中隊第二小隊機の目撃談(電信員の浜田義一・一等飛行兵<ref>{{Harvnb|森史朗|2012b|p=|pp=294-297|loc=第十三章 友永雷撃隊の最期-友永機の突入-3}}</ref>)をもとに、黄色い尾翼の友永機は<ref>「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」p.16「尾部方向舵の指揮官機マークを確認す」</ref>対空砲火で被弾炎上し「ヨークタウン型艦橋付近に激突自爆せること判明す」と記録している<ref>「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」p.16「</ref>。橋本大尉の率いる第二中隊はいったん雲の中に退避して態勢を立て直し、ヨークタウンを雷撃、魚雷2本を命中させ、その旨を飛龍に打電した<ref name=":3" />。第二中隊5機のうち1機(赤城から編入された操縦、鈴木重男飛曹長、偵察、西森進飛曹長、電信、堀井孝行一飛曹)は手違い、または投下装置の故障で魚雷が投下できなかったが(帰路で魚雷が落ちている。故障による投下装置の作動の遅れか、搭乗員が投下したか。)<ref name=":4">{{Harvnb|森史朗|2012b|p=|pp=302-306|loc=第十三章 友永雷撃隊の最期-「魚雷命中!」-2}}</ref>、第二中隊は全機(艦攻5機)が飛龍に帰還できた<ref name=":4" /><ref>{{Harvnb|森史朗|2012b|p=|pp=306-308|loc=第十三章 空母飛龍の反撃-「魚雷命中!」-3}}</ref><ref>{{Harvnb|森史朗|2012b|p=|pp=314-318|loc=第十四章 刀折れ矢尽きて-最後の薄暮攻撃計画-2}}</ref>。(以上は日本側の文献による) |
|||
また、兵装転換をはじめとする作戦指揮への批判には、近年以下のような用兵等の観点からの反論がでており、従来の定説が覆されてきている。これらについての詳細は下記に述べる。 |
|||
飛龍第二波攻撃隊は、艦攻5機(友永大尉の第一中隊全機)と零戦3機を失った<ref name="名前なし-4" />。戦闘詳報には「エンタープライズ型空母の左舷に魚雷'''3本'''命中大爆発、400-500mの高さにまで達する大爆発を認む。(爆発の内一つは対空砲の着水の誤認と思われる)空母の後方、サンフランシスコ型重巡洋艦爆発するを認む。同爆発は(魚雷)発射後相当時間の経過あるに鑑み、魚雷命中せしものと認む」と記載されている<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.35、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」pp.3,15-16。</ref>。 |
|||
[[Image:Hiryu f075712.jpg|thumb|300px|<small>8時21分~24分、B-17爆撃機の攻撃を受け、回避行動中の空母「[[飛龍 (空母)|飛龍]]」。この数分後に山口は南雲に対し「ただちに発進の要ありと認む」と具申している。</small>]] |
|||
[[Image:Soryu under B-17 attack.jpg|thumb|250px|上記の飛龍と同時刻にB-17爆撃機の空襲を受け回避運動を続ける蒼龍。こちらにも飛行甲板には艦載機は見えない。]] |
|||
[[Image:Akagi under air attack.jpg|thumb|250px|<small>上記写真と同じ頃に撮影された回避行動中の空母「赤城」。飛行甲板の後ろ半分が写っているが拡大すると艦載機が並んでいない事が判る。</small>]] |
|||
山口少将は第一波攻撃隊(小林隊)と第二波攻撃隊(友永隊)の攻撃を合わせて合計2隻の空母を大破させたものと判断し、同じ空母へ2度攻撃したことに気付かなかった<ref name="一2航空艦隊47">「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.47「我が攻撃により空母2隻は大破」</ref><ref>[[#戦藻録(九版)]]142頁、[[#澤地記録]]299頁、[[#プランゲ下]]104頁</ref>。これは第二波飛龍攻撃隊が、雷撃したヨークタウンの後方に「別の空母炎上中」と報告した為である<ref>「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」p.19「雷撃終了後、該空母の西方約30浬乃至40浬に第一次敵空母攻撃に依り大火災を生じたる空母と覚しき炎上中の艦船の爆発らしき褐色煙を認む」</ref>。第二波攻撃隊は、別の米空母が健在である可能性も報告している<ref>「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」p.19「該空母(ヨークタウン)の東方約30浬を高速東進する三重の円形陣の敵艦隊を認む」</ref>。この頃、フレッチャー少将は空母ヨークタウンが攻撃を受ける前に放っていた偵察機(VS-5)から、空母飛龍発見の報告を受けた。ヨークタウンを航行不能とされたフレッチャー少将は、スプルーアンス少将の「何か指示があれば承りたし」という信号に「なし、貴官の行動に順応す」と答え、全権を委譲している<ref>[[#プランゲ下]]102頁</ref>。 |
|||
A 山口司令官の意見具申を採用して攻撃隊を向かわせていたら勝てた。 |
|||
*右記の3枚の写真から見て意見具申時に空母にはなんら攻撃隊は準備なされていない事が判っている。即時攻撃自体が出来ない状況である以上それを南雲の失敗の一つとするのは明らかな誤りである。仮に敵発見の報告後、直ちに攻撃隊を準備し発進させたとしても、それまでの防空戦に大半の戦闘機を割いている状況だった。これは戦闘機の護衛がほとんど無い実質丸裸の攻撃機/爆撃機隊を送り出す事になることを意味する。(先の珊瑚海海戦で攻撃隊が米軍戦闘機の迎撃を受けて大きな損害を出している例があり、適切な措置であるとはいえない。)実際の飛龍攻撃隊によるヨークタウン空襲での結果から見ても攻撃隊が大損害を被り米空母にはあまり損害を与えられなかった可能性の方が高い。また米空母発見の報が届いた時間帯は、ミッドウェーを攻撃した第一次攻撃隊がちょうど帰還してきた頃である。当時の空母は、発艦・着艦を同時に行うことはできない。攻撃隊発進を優先することは、第一次攻撃隊の着艦を妨げるし燃料の残余から考えても実質不可能であり、反復した波状攻撃としては間が空く。これは米空母に復旧・反撃の時間的猶予を与えることになる。 |
|||
==== 飛龍沈没 ==== |
|||
B 兵装転換せず陸用爆弾のままでも攻撃隊をだすべきだった。 |
|||
[[ファイル:HiryuBurning.jpg|thumb|250px|{{small|急降下爆撃を受けて炎上する空母飛龍}}]] |
|||
*対地爆撃装備のままでの艦船攻撃は(直接的に浮力を奪うための攻撃という観点で)効果をさほど期待できない。実際飛龍の反撃で爆弾を3発受けたヨークタウンは2時間ほどで復旧している。また、艦攻による水平爆撃は命中率が悪く、充分な成果を挙げ得るとは考えにくい。時間的に見ても陸用爆弾への変更は殆どなされておらず対艦兵装への転換はそれほどかかるものでは無いと判断したのは誤りともいえない。 |
|||
空母ヨークタウンが飛龍第二波攻撃隊(友永隊)の攻撃で航行不能となった午前11時30分(14:45)、偵察中のサッチ・アダムス大尉は平文で「敵発見、空母1、戦艦1、重巡2、駆逐艦4、北緯31度15分、西経175度5分、15ノットで北上」(アメリカ軍機動部隊から72浬)と発信した<ref name="朝日ヨーク239">[[#ヨークタウン]]239頁、[[#プランゲ下]]102頁</ref>。 |
|||
駆逐艦のうち1隻は軽巡洋艦[[長良 (軽巡洋艦)|長良]](南雲忠一中将乗艦の旗艦)で<ref name="朝日ヨーク239" />、戦艦榛名、重巡洋艦利根、筑摩、軽巡洋艦長良、駆逐艦3隻は飛龍の周辺に集結していたのである<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.43、[[#澤地記録]]294頁</ref>。飛龍発見の電文を受信した空母エンタープライズは[[ウィルマー・ギャラハー]]大尉率いるエンタープライズの爆撃隊10機、[[デイヴ・シャムウェイ]]大尉率いるヨークタウン爆撃隊11機(エンタープライズに退避中)を戦闘機の護衛なしで発進させた<ref>[[#ヨークタウン]]240頁、[[#プランゲ下]]102頁</ref>。 |
|||
C 利根4号機の報告に対する決断が間違っていた。 |
|||
*利根4号機が知らせてきた米空母の位置が、実際よりも遠方であった。このため、時間的余裕があると判断したがそう決断することは決して不自然なものではなく、第一次攻撃隊の収容と、それに平行して艦内での対艦攻撃装備への転換を実施して、完全な攻撃隊を編成することは、誤った措置であるとは言い切れない。 |
|||
午後0時40分(15:40)、飛龍第二波攻撃隊が着艦した<ref>「飛龍飛行機隊戦闘行動調書(3)」p.63</ref>。零戦2機、艦攻5機(友永隊長機を含む)を失い、艦攻4機が修理不能、零戦1機が不時着(乗員は救助)、零戦3機が修理後戦闘可能、艦攻1機が修理後戦闘可能と報告している<ref name="名前なし-3"/>。飛龍の鹿江隆副長は「(米空母2隻撃沈により)これで1対1だ。これで勝てるし、悪くても相討ちにできる」と感じたという<ref>[[#亀井戦記]]418頁。公刊戦史証言より。</ref>。だが飛龍の戦力は戦闘機6、艦爆5、艦攻4、十三試艦爆1機に減少し<ref name="名前なし-5">「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.37</ref>、炎上する赤城に「もし発艦出来る飛行機があったら、飛龍に収容されたし」と伝えた<ref>[[#澤地記録]]293頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.42</ref>。山口少将は十三試艦爆によりアメリカ軍空母の位置を把握し、同機の誘導により、修理の見込まれる全兵力で薄暮攻撃をかけることを伝える<ref>[[#澤地記録]]296頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.37、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.44「1231:タナ135、十三試艦爆により触接を確保したる後、残存全兵力(爆5、攻4、戦10)を以て薄暮敵残存空母を殲滅せんとす」</ref><ref>[[#亀井戦記]]428-429頁</ref>。ただし攻撃機の消耗度から三隻目の撃破は難しいと考えた{{Sfn|戦史叢書43|1971|p=342}}。山口の幕僚によれば、一次攻撃、二次攻撃での被害が山口少将の予想をはるかに上回るもので、山口少将は三次攻撃の断行に逡巡をしめしたという{{Sfn|戦史叢書43|1971|pp=365-366}}。この間、赤城・加賀・蒼龍から飛龍に着艦した零戦が交替で飛龍の上空を守っていた<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.45、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(2)」p.12、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」pp.5,35-36</ref>。敵からの攻撃に関して山口少将は「現在の上空警戒機で阻止できる」という意向を話した{{Sfn|戦史叢書43|1971|p=342}}。 |
|||
D 偵察を1回のみの1段索敵しかせずおろそかにした。 |
|||
*索敵軽視と評する批判自体、その論拠となる「発進の遅れた利根4号機の報告を待たずに、攻撃目標をミッドウェーに切り替えたこと」については、代替機でより早く確実な情報を得ようとしても、要員や機材の準備が間に合う確証がないことからやむを得ないものである。また、索敵方法自体も従来から行われているものであり、むしろその問題点の発覚は本海戦の戦訓によるものであった。雲上を飛行したために見逃してはいるが、筑摩の偵察機は米軍艦隊上空を飛行しており、水平方向の索敵範囲としては問題の無いものである。レーダーも無い機体で視界の不十分な雲上を飛行して見逃したことは、そのパイロットに責を問うべきで、南雲が直接批判されるべき問題ではない。 |
|||
十三試艦爆の発進準備が終わり<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.38「1403に至り特に触接機十三試艦爆を発艦せしめんとありし時」</ref>、友永隊を護衛していた加賀所属零戦1機([[山本旭]]一飛曹)が着艦しようとした時<ref>「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(2)」pp.13、26</ref>、アメリカ軍急降下爆撃隊24機は飛龍の上空に到達した。エンタープライズの艦爆隊指揮官ギャラハー大尉は、ヨークタウン隊に戦艦を狙うよう命令すると、飛龍の飛行甲板の日の丸マークを目標に突入した<ref>[[#プランゲ下]]104頁</ref>。 |
|||
==== (3) ミッドウェー攻略の作戦自体を問題視する意見 ==== |
|||
以下のようにミッドウェー攻略の計画自体の破綻を指摘し、南雲に責を問えないとする意見もある。ただし、米軍の待ち伏せは日本軍が作戦実施前に把握できなかったことであり、これを以っての擁護論は現場の戦術レベルの問題と戦略レベルの問題を混同している側面があると言える。また、これ自体が批判と同様に結果を知っているからこその後付けの指摘に過ぎないともいえる。 |
|||
*もともと、作戦の方針はミッドウェーを攻撃して、その後反撃の為に進出してきた米空母部隊を撃滅するというものであり、米軍があらかじめ待ち伏せていることは想定外に近い状況であった。米軍が待ち伏せていたという時点で作戦そのものが破綻していたと言える。これを踏まえて、期せずしてミッドウェーと、米空母を同時に相手するという状態に陥ったことが、雷爆装転換による混乱という形になって現れ、結果空母部隊をもっとも弱い状態で米軍の攻撃にさらす事になった。これは機動部隊の指揮をとる南雲だけに問われる責任ではない。 |
|||
午後2時(17:30)、直衛の零戦6機の迎撃と飛龍の操艦によってエンタープライズ隊6機の攻撃は失敗した<ref>[[#ヨークタウン]]240頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.49</ref>。続いてヨークタウンの爆撃隊、エンタープライズ隊3機が太陽を背にするようにして攻撃した<ref>[[#橋本信号員]]154頁、[[#プランゲ下]]105頁</ref>。護衛の利根と筑摩が対空砲火で迎撃したが阻止できず、飛龍に爆弾4発が命中した<ref>[[#ヨークタウン]]242頁、[[#澤地記録]]302頁</ref>。長良からは、飛龍のエレベーターが飛龍の艦橋の前に突き刺さっているのが目撃されている<ref>[[#炎の海]]268頁、[[#橋本信号員]]155頁、[[#亀井戦記]]433頁</ref>。またヨークタウン隊の2機は付近を航行していた戦艦榛名を爆撃したが、至近弾に終わった<ref>[[#ヨークタウン]]243頁、[[#亀井戦記]]444頁</ref>。ヨークタウン隊に遅れて戦場に到着したホーネットの艦爆隊15機は利根と筑摩を攻撃したが、全て回避されている<ref>[[#プランゲ下]]106頁</ref>。 |
|||
=== レーダー === |
|||
米艦隊にはレーダーがあり、日本空母にはないという装備上の大きな差があった。米軍はレーダーを用い、接近する航空機や艦船に対して有効な対応が直ちにできたため、奇襲を受けることはなかった。また、攻撃機の空中退避、戦闘機の邀撃、艦隊自体の退避が行えた。そして、米空母の管制により性能で日本側に劣る米戦闘機も空母の近くでは有利に防空戦を行えた。 |
|||
もし日本に対空レーダーが装備されていれば、奇襲を受けて空母が全滅することはなかったと当時から言われ、以後、空母翔鶴を最初に21号電探等の装備が始まった。ただし、そのためにはレーダー探知情報に基づいて自軍戦闘機を誘導するCICのような体制がなければならないが、当時の日本軍戦闘機が装備していた無線電話機は近距離でもまともに交信できない劣悪な性能であった、従ってレーダー単体が完備されていたとしても、組織的な防空体制を整えていなければ、状況はほとんど変わらなかったとも言える。 |
|||
この他にも飛龍と筑摩は午後2時30分(17:30)、午後3時15分(18:15)にハワイから飛来したB-17爆撃機から攻撃されたが、これによる被害はなかった<ref>[[#炎の海]]269頁、[[#亀井戦記]]445頁</ref>。 |
|||
なお、主隊の伊勢と日向には、試作型の水上レーダーと対空対水上兼用レーダーが日本海軍で最初に装備されていた。 |
|||
{{Main|飛龍 (空母)}} |
|||
炎上した飛龍は、午後6時23分(21:23)まで機関は無事だったため、離脱と消火に努めた。だが艦橋と機関科間の電話が不通で、機関科は全滅と判断された<ref name="一1航空艦隊43">「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.43</ref>。しばらく洋上に浮いていた飛龍に横付けされた駆逐艦が消火協力したものの、誘爆が発生して消火不能となった<ref>[[#亀井戦記]]446頁、吉田正義(巻雲艦長)談。</ref>。午後11時30分(現地時間6月5日2時30分)、山口少将は南雲司令部に総員退艦させると報告し<ref name="一1航空艦隊43"/>、加来艦長と共に、駆逐艦[[巻雲 (夕雲型駆逐艦)|巻雲]]の[[雷撃]]によって沈む飛龍と運命を共にした。飛龍が雷撃処分されたのは日本時間6月6日午前2時10分だが<ref name="一1航空艦隊44"/>、艦底部から脱出した機関科員34名が沈みゆく飛龍から短艇によって離艦したのは、巻雲の魚雷が命中してから数時間後の午前6時6-15分だったという{{Sfn|軍艦総覧|1997|p=23}}。彼らは15日後にアメリカ軍に救助された。戦死者は、戦闘詳報によれば1416名(傭人6名含)のうち、山口司令、加来艦長ら准士官以上30名、下士官兵387名の計417名である<ref>「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」p.37</ref>。搭乗員も友永、小林両隊長を含め72名が戦死した。ただし417名には、先のアメリカ軍に救助された機関科員34名が入っている。 |
|||
=== 夜戦の検討 === |
|||
軽巡洋艦長良に移乗した南雲中将は、日本時間6月5日午前8時28分(現地時間6月4日11:28)に筑摩偵察機から「敵は北東90浬」の報告を受けて水上戦闘を決意し、午前8時53分に「今より攻撃に向かう、集まれ」と集合命令を出した<ref>[[#亀井戦記]]44頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.46、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.34</ref>。日本軍三空母炎上の報告を受けた連合艦隊旗艦大和の艦橋は雰囲気が一変し、黒島亀人首席参謀は涙を浮かべてテーブルを叩いた<ref>[[#プランゲ下]]108頁。渡辺安次参謀談。</ref>。山本五十六長官は渡辺と[[将棋]]を指している時に「赤城、被爆大、総員退去」との報告を受けたが、「ほう、またやられたか」「南雲は帰ってくるだろう」とつぶやいただけでそのまま将棋を続けたという<ref>[[#勝つ戦略負ける戦略]]133-135頁、[[#従兵長]]109頁,111頁</ref>。この時、連合艦隊主隊は濃霧の中で戦艦[[長門 (戦艦)|長門]]が連絡不能になるなど混乱しており、焦りがつのるばかりであったという<ref>[[#戦藻録(九版)]]138頁</ref>。午前9時20分(11:20)、山本五十六長官は[[連合艦隊|GF]]電令作第133号で輸送船団の一時北西撤退を命じる。日本軍攻略部隊(第二艦隊)の近藤信竹中将は、これを受けて占領隊(日本軍輸送船団)に北西退避を命じ、栗田健男少将の支援隊(第七戦隊)に合同するよう命じた<ref>「第4水雷戦隊戦時日誌(3)」p.14</ref>。同時に山本長官は、アリューシャン方面に投入されていた第二機動部隊([[角田覚治]]少将、空母隼鷹および龍驤)に対し、第一機動部隊(南雲機動部隊)と合流するよう打電した<ref>[[#プランゲ下]]110頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.36-37</ref>。だが両艦隊の距離は遠く、合流は早くとも9日で、[[宇垣纏]]連合艦隊参謀長は空母を分散させたことを後悔している<ref>[[#戦藻録(九版)]]130頁</ref>。同時刻、南雲中将も各艦に「昼戦をもって敵を撃滅せんとす」と伝え、第八戦隊(利根、筑摩)は魚雷戦を挑む準備を整える<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.37</ref>。午前10時、山本長官はGF電令作第号、156号にて第二艦隊に以下の命令を伝えた<ref>[[#澤地記録]]289頁、[[#プランゲ下]]112頁、「第4水雷戦隊戦時日誌(3)」pp.14-15、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.39-40</ref>。 |
|||
# 敵艦隊攻撃C法をとれ(全兵力を集中し、敵を撃滅する)。 |
|||
# 攻略部隊は一部の兵力を以て、今夜ミッドウェーの陸上軍事施設、航空基地を[[艦砲射撃|砲撃]]破壊せよ。 |
|||
# ミッドウェー、アリューシャン群島の攻略を一時延期す。 |
|||
山本長官の命令により、近藤信竹中将は第七戦隊(熊野、鈴谷、三隈、最上)にミッドウェー島へ向かうよう命じ、同時に南雲機動部隊と策応してアメリカ軍機動部隊に夜戦を挑む方針を示した<ref>[[#澤地記録]]31頁、「第4水雷戦隊戦時日誌(3)」p.16、18</ref>。連合艦隊は、ミッドウェー基地のアメリカ軍航空兵力が稼働状態にあるか、南雲部隊に尋ねている<ref>[[#澤地記録]]301頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.48</ref>。長良には空母飛龍が米空母2隻を撃破したという連絡が入り(ヨークタウンを2度攻撃したことの誤認)、草鹿参謀長は希望を抱いた<ref>[[#草鹿回想]]142頁</ref>。しかし、夜戦を企図しつつ北上中の午後2時5分(17:05)、飛龍大破の報により、アメリカ軍機動部隊とミッドウェー基地航空隊[[制空権]]下での水上戦闘は困難と南雲は判断する<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.48</ref>。そこで一旦西方に反転し、改めての夜襲を企図した。草鹿参謀長によれば「万事休す<ref>[[#草鹿回想]]143頁</ref>で、「レーダーもなく、駆逐艦も少なく、望みのない夜戦に一縷の望みをかけて、当てもなくただ走りまわっていた」と回想している<ref>[[#プランゲ下]]121頁、[[#草鹿回想]]144頁</ref>。宇垣参謀長は空母4隻を目前で失ったからには当然の反応だろうと理解を示しながらも<ref>[[#戦藻録(九版)]]131頁</ref>、戦艦や重巡洋艦から水上偵察機を発進させて索敵を行わない南雲司令部を「消極的、退廃的」と批判している。近藤中将の第二艦隊は軽空母[[瑞鳳 (空母)|瑞鳳]]を有しており、米艦隊に積極的に戦闘を挑む方針を示した<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.54「1450:2F機密第762番電攻略部隊電」、[[#澤地記録]]303,307-308頁</ref>。炎上する日本空母を護衛していた第四駆逐隊司令有賀幸作大佐(後に戦艦大和艦長)は、「敵機動部隊接近すれば刺し違えよ」と配下駆逐艦に下令していた<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」pp.48-49、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.3「各艦は担任母艦付近に在りて敵潜水艦及び機動部隊に対し警戒を厳にし、敵機動部隊来らば刺違戦法を以て敵を撃滅せよ」</ref>。 |
|||
午後2時13分(17:13)、筑摩の2号偵察機は、甲板に損傷なく傾斜停止したエンタープライズ型空母を発見し、周囲の護衛艦艇が空母をその場に残して東に去ったと報告した<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.35</ref>。南雲司令部は、飛龍第一波攻撃隊(小林隊)が爆撃を行った空母(ヨークタウン)は既に沈没・飛龍第二波攻撃隊(友永隊)が雷撃した空母(ヨークタウン)は漂流と判定した<ref name="名前なし-5"/>。1時間後、筑摩2号機は米空母1、巡洋艦2、駆逐艦4発見を報告、続いて米空母1隻の存在を報告する<ref name="一3航空艦隊2">「第1航空艦隊戦闘詳報(3)」p.2</ref>。先任参謀の[[大石保]]中佐が長良の偵察機を夜間発進させ索敵するように進言し、他の幕僚は懐疑的であったが、南雲はその案に同意した<ref>[[#プランゲ下]]121頁</ref>。その後、筑摩2号機が「炎上米空母の後方に、更に米空母4隻を発見」と報告してくる<ref name="一1航空艦隊49">「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.49、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.3-4「本艦2号機午後2時13分頃傾斜火災中の敵空母の東方30浬に敵空母4、巡洋艦6、駆逐艦15西航するを認めたり。その後は敵戦闘機の追跡を受け敵を見ず」</ref>。南雲司令部では「まさか」という声があがったが、これを信じ<ref>[[#亀井戦記]]451-452頁</ref>、戦闘詳報には「南下中順次にこれ等の敵を発見せるものにして同一部隊ノ重複ナキ事確実ナリ」と記録<ref name="一1航空艦隊36">「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.36「1510、敵航空母艦2隻(ヨークタウンまたはホーネット型)(中略)其の南方約4浬に巡洋艦5、駆逐艦6を伴う航空母艦2隻(艦型不明)針路260度速力12ノット」</ref><ref>[[#澤地記録]]327-328頁、[[#亀井戦記]]451頁</ref>、南雲中将は「敵航空母艦の予想外に優勢なるを始めて知れり」と驚いている。午後4時15分、[[山本五十六]]長官と[[宇垣纏]]参謀長は南雲部隊に対し、GF電令第158号として以下の命令を伝えた<ref>[[#亀井戦記]]453頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.49、「第1航空艦隊戦闘詳報(3)」p.5、第4水雷戦隊戦時日誌(3)」p.19、「第1水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)」p.38</ref>。 |
|||
# 敵機動部隊は東方へ避退中にして、空母は概ねこれを撃破せり<ref name="プランゲ下172"/>。 |
|||
# 当方面連合艦隊は敵を急追、撃滅すると共にAF(ミッドウェー島)を攻略せんとす<ref name="プランゲ下172"/>。 |
|||
# 主隊は6日午前零時、地点フメリ32に達す。針路90度速力20ノット<ref name="プランゲ下172"/>。 |
|||
# 機動部隊、攻略部隊(7戦隊欠)および先攻部隊(潜水艦隊)は速やかに敵を捕捉撃滅すべし<ref name="プランゲ下172"/>。 |
|||
午後5時30分(20:30)、山本長官はGF電令159号にて[[伊号第百六十八潜水艦|伊168号潜水艦]]に対して「伊168潜水艦は2300迄AF(イースタン)島航空基地の砲撃破壊に任ずべし。同時刻以降は第七戦隊(栗田少将)が砲撃の予定」と告げ、ミッドウェー基地を夜間砲撃するよう命じた<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(3)」p.7、[[#プランゲ下]]124頁</ref>。南雲中将は山本の敵情判断が間違っているとみて、午後6時30分(21:30)、機動部隊機密第560番電において筑摩の2号機の「空母5隻」発見とミッドウェー基地航空隊の活動を伝達する<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.50、[[#澤地記録]]317頁</ref>。南雲中将は続く午後7時50分(22:50)の電信で「GF電令作第158号に関係し敵空母(特空母艦含むやも知れず)は尚4隻あり」と、自軍空母の全滅を報告した<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.51、[[#澤地記録]]158頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(3)」p.9</ref>。すると山本長官より、第二艦隊司令官近藤信竹中将に赤城と飛龍を除く機動部隊戦力の統一指揮を任すという命令が届いた<ref>[[#戦藻録(九版)]]139頁、[[#澤地記録]]319頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(3)」p.9「GF電令作160号」</ref>。南雲部隊第八戦隊は第二艦隊と合流し、アメリカ軍と戦闘を継続したい旨を伝えている。 |
|||
=== 日本軍の撤退 === |
|||
[[File:SBD-3 Dauntless bombers of VS-8 over the burning Japanese cruiser Mikuma on 6 June 1942.jpg|thumb|250px|{{small|重巡洋艦[[三隈 (重巡洋艦)|三隈]]に急降下爆撃を行う[[SBD ドーントレス]]}}]] |
|||
[[File:Sinking of japanese cruiser Mikuma 6 june 1942.jpg|thumb|250px|{{Smaller|炎上傾斜する三隈。}}]] |
|||
日本時間6月5日午後9時15分、山本長官は第二艦隊と南雲機動部隊(赤城・飛龍)に対し、夜戦の中止と主隊(大和以下、第一艦隊)への合流を命じ<ref>[[#澤地記録]]321頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(3)」p.11、「第4水雷戦隊戦時日誌(3)」p.23「GF機密第303番電」</ref>、午後10時11分、南雲部隊は反転した。午後11時55分、山本長官は連合艦隊電令161号で以下の命令を伝達した<ref>[[#澤地記録]]324頁、「第4水雷戦隊戦時日誌(3)」p.24、「第1航空艦隊戦闘詳報(3)」pp.13-14</ref>。 |
|||
# AF(ミッドウェー島)攻略を中止す<ref name="プランゲ下144">[[#プランゲ下]]144頁</ref>。 |
|||
# 主隊は攻略部隊(第二艦隊)、第一機動部隊(欠、飛龍及び及び同警戒艦)を集結し、予定地点に至り補給を受くべし<ref name="プランゲ下144"/>。 |
|||
# 警戒部隊、飛龍同警戒艦、及び[[日進 (水上機母艦)|日進]]は、右地点に回航すべし<ref name="プランゲ下144"/>。 |
|||
# 占領部隊は西進し、ミッドウェー飛行圏外に脱出すべし<ref name="プランゲ下144"/>。 |
|||
ミッドウェー作戦の中止が決定した瞬間であった。日本軍は撤退を開始する。追撃して来る敵空母群を叩くため、第二艦隊の艦載水上機をもって索敵攻撃を企図、各機250kg爆弾を搭載し進出300カイリ、側程60カイリの扇形索敵で6月6日午前1時(現地時間6月5日04:00)にカタパルト射出で発進。敵を発見した場合は全機その地点に集結し爆弾を抱いたまま敵艦に体当たり攻撃せよとの命令であったが敵を見ずに帰投している<ref>{{Cite book|和書 |title=予科練のつばさ |date=2003年10月 |publisher=光人社 |pages=138-139 |author=七期雄飛会}}</ref>。6月6日午前4時30分(現地時間6月5日07:30)、軽空母[[鳳翔 (空母)|鳳翔]]の[[九六式艦上攻撃機]]が漂流する飛龍と甲板上の生存者を発見、連合艦隊司令部は南雲司令部に飛龍が沈没したかどうかを確認せよとの命令をだした<ref>[[#戦藻録(九版)]]143頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.1、「第1航空艦隊戦闘詳報(3)」p.15「GF機密第310番電」</ref>。飛龍の現状を知らなかった南雲部隊司令部は午前9時45分(12:45)、長良より偵察機を発進させ、駆逐艦[[谷風 (陽炎型駆逐艦)|谷風]]を飛龍の処分と生存者救助のために派遣した<ref name="名前なし-6">「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.2</ref>。谷風はエンタープライズから発進したSBDドーントレス16機の攻撃を受けたが、4機の撃墜を報告して生還した<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.2、[[#BIG E上]]136頁</ref>。谷風を攻撃したホーネット隊は「[[香取型練習巡洋艦]]を攻撃した」と報告したが(実際は駆逐艦谷風)、撃墜されたのは1機であった<ref>[[#プランゲ下]]162下頁</ref>。午前中に、山本の主隊、近藤の攻略部隊、南雲の残存部隊は合流した<ref>[[#戦藻録(九版)]]142頁</ref>。 |
|||
{{Main|三隈 (重巡洋艦)}} |
|||
支援隊の第七戦隊(重巡洋艦:旗艦熊野と、鈴谷、三隈、最上)は上陸する輸送船団の護衛として警戒任務に従事していたが、南雲機動部隊の壊滅によって山本から新たにミッドウェー基地砲撃の命を受け、全速で前進していた<ref>[[#澤地記録]]31頁、「軍艦愛宕戦闘詳報(2)」p.4「GFの電令に依り七戦隊にミッドウェーの陸上航空基地施設の砲撃破壊を下令せり」</ref>。その後、夜戦中止に先立ってミッドウェー島砲撃中止命令が出された。第七戦隊はミッドウェー島90浬の地点で転進を行ったが、その1時間20分後、米潜水艦[[タンバー (潜水艦)|タンバー]](SS-198)を発見して緊急回頭を行い、その際に三番艦三隈と最後尾の最上が衝突<ref>「軍艦愛宕戦闘詳報(2)」p.4「敵潜回避時に三隈最上触衝最上は艦首を大破し」</ref>。最上は艦首を切断、速力10ノットに落ちた。第七戦隊司令官の栗田健男少将は最上の護衛に三隈と駆逐艦2隻(第八駆逐隊:荒潮、[[朝潮 (朝潮型駆逐艦)|朝潮]])をあてると南西のトラック島への退避を命じ、栗田少将は熊野と鈴谷を率いて主力部隊と合流するため北西に向かった<ref>[[#戦藻録(九版)]]139頁</ref>。 |
|||
一方のアメリカ軍では、飛龍攻撃隊により空母ヨークタウンが大破し漂流していた。駆逐艦ヒューズだけがヨークタウンの護衛として残された<ref>[[#ヨークタウン]]249頁</ref>。その後ヨークタウンではサルベージ作業が進み、艦隊曳船ヴィレオが救助に向かう<ref>[[#ヨークタウン]]250頁</ref>。フレッチャーから指揮権を渡されたスプルーアンス少将の第16任務部隊も日本艦隊の動向が把握できず夜戦に持ちこまれる可能性を考慮、一時的に東へ退避する<ref>[[#ヨークタウン]]248頁</ref>。しかし翌7日の黎明、第16任務部隊はミッドウェーの防衛と日本艦隊の追撃のため西進する。 |
|||
日本時間6月6日、潜水艦タンバーの報告を受けたアメリカ軍は、まずミッドウェー島の航空戦力で三隈と最上を攻撃した。SBDドーントレス6機、SB2Uビンディケーター6機、B-17爆撃機8機が攻撃、SB2U指揮官機が三隈の後部砲塔に体当たりし、最上が至近弾で戦死者2名を出した<ref>[[#爆撃王列伝]]180頁、[[#プランゲ下]]153頁</ref>。アメリカ軍機動部隊の追撃を受けた三隈と最上は[[ウェーク島]]に向かい、連合艦隊主隊と攻略部隊も三隈の救援と米機動部隊の捕捉に向けて動き出す<ref>[[#戦藻録(九版)]]144頁</ref>。6月7日、スプルーアンスは「空母1隻、駆逐艦5隻発見」という索敵機の報告を元に、ホーネットとエンタープライズから撃隊を発進させた<ref>[[#プランゲ下]]169頁</ref>。アメリカ軍攻撃隊は空母の代わりに「戦艦」を発見し、最初は航空母艦、次は戦艦と誤認された三隈は集中攻撃を受けて沈没<ref>[[#プランゲ下]]170頁</ref>。また最上や駆逐艦朝潮、荒潮も被弾。近藤信竹中将は第二艦隊に「敵空母部隊を捕捉撃滅して三隈・最上を救援せんとす」と命じて反転したが、アメリカ軍機動部隊の捕捉に失敗している<ref>「第4水雷戦隊戦時日誌(3)」p.28-29</ref>。翌8日午前中、最上は救援にかけつけた第二艦隊と合流、空襲圏外へ脱した<ref>「軍艦愛宕戦闘詳報(2)」p.4</ref>。 |
|||
戦艦大和以下の主力部隊は夜戦を企図し東進していたが、飛龍を失い、再考して翌0時に夜戦の中止を決定し、3時頃には作戦自体を中止。主力部隊は結局ミッドウェー島の遥か数百キロメートル後方におり、本海戦には参加できず、駆逐艦が救出した生存者を医療設備の整った戦艦で手当てを行ったに留まる。赤城の生存者達は、大和以下本隊が戦闘に全く関与しなかったことを罵ったという<ref>[[#炎の海]]277頁</ref>。日本軍輸送船団は、アメリカ軍機動部隊の追撃に備えて陣形を変更した<ref>「輸送船鹿野丸の最後 其の1(ミッドウェー作戦)(2)」pp.35-36</ref>。山本長官は艦隊主力が安全圏へ退却するまで第五戦隊に"囮(おとり)艦隊"の役割を下命、すでに占領済みのウェーク島方面へ回航し、欺瞞電波の発信を繰り返しながらアメリカ軍の追撃部隊を引き付け<ref>{{Cite book|和書 |title=予科練のつばさ |date=2003年10月 |publisher=光人社 |pages=139 |author=七期雄飛会}}</ref>、ウェーク島の航空戦力で叩く計略だったが<ref>「第4水雷戦隊戦時日誌(3)」p.31</ref>、アメリカ軍はそこまで深追いしなかった。 |
|||
[[File:USS Hammann sinking 1942-06-06 seen from USS Yorktown.jpg|thumbnail|250px|{{Smaller|伊168の雷撃により轟沈するハムマン}}]] |
|||
[[6月7日]]、ヨークタウンは曳船に引かれつつ真珠湾に向かっていた。このとき駆逐艦ハムマンに移乗していたヨークタウン艦長[[エリオット・バックマスター]]と161名が再びヨークタウンに乗艦している<ref name="朝日ヨーク253">[[#ヨークタウン]]253頁</ref>。さらに駆逐艦[[モナハン (DD-354)|モナガン]]、[[グウィン (DD-433)|グウィン]]、[[バルチ (DD-363)|バルチ]]、[[ベンハム (DD-397)|ベンハム]]が護衛に加わった<ref name="朝日ヨーク253"/>。その頃、ミッドウェー島を砲撃後に同島海域に留まっていた伊168潜水艦がヨークタウン撃沈の任を受け、同艦に接近<ref>[[#戦藻録(九版)]]145頁、「第6艦隊戦時日誌戦闘詳報(1)」</ref>。(13:34)、4本の九五式魚雷を発射し、2本をヨークタウンの左舷に命中させ、<ref name="朝日ヨーク262">[[#ヨークタウン]]262頁</ref>撃沈した。さらに、同行の駆逐艦ハンマンにも1本が命中しこれも沈没<ref name="朝日ヨーク262"/>。このときのヨークタウンを日本軍は「甲板の損傷なき模様」として、飛龍が最初に攻撃したのとは別の空母だと考えていた<ref name="名前なし-6"/>。 |
|||
[[6月13日]]、第16任務部隊のエンタープライズ、ホーネットは艦載機と搭乗員に大きな損失を出しながらも無事に真珠湾に帰港した。アメリカ軍は救助したゲイ少尉の証言から日本軍空母2隻の沈没を確認し、ボートに乗って漂流していた飛龍の機関科員を救助・尋問して飛龍の沈没を知り、計3隻の撃沈を確信した{{Sfn|豊田穣|2000|p=102}}。赤城については暗号解読から沈没推定としていたが、確信するのは日本軍捕虜を尋問して得た情報を分析した結果によるものであった。 |
|||
== 参加兵力 == |
|||
=== 日本 === |
|||
;海戦に参加した兵力※()表記の搭載機数は定数(補用機数含む) |
|||
'''第一機動部隊(第一航空艦隊基幹)''' 指揮官:[[南雲忠一]]中将 |
|||
第一航空戦隊 司令官:南雲忠一中将 |
|||
*航空母艦:[[赤城 (空母)|赤城]](零戦二一型×21機、九九艦爆一一型×21機、九七式艦攻一二型×21機) |
|||
*航空母艦:[[加賀 (空母)|加賀]](零戦二一型×21機、九九艦爆一一型×21機、九七式艦攻一二型×30機) |
|||
第二航空戦隊 司令官:[[山口多聞]]少将 |
|||
*航空母艦:[[飛龍 (空母)|飛龍]](零戦二一型×21機、九九艦爆一一型×21機、九七式艦攻一二型×21機) |
|||
*航空母艦:[[蒼龍 (空母)|蒼龍]](零戦二一型×21機、九九艦爆一一型×21機、九七式艦攻一二型×21機、二式艦偵一一型×2機) |
|||
第八戦隊 司令官:[[阿部弘毅]]少将 |
|||
*利根型重巡洋艦;[[利根 (重巡洋艦)|利根]]、[[筑摩 (重巡洋艦)|筑摩]](零式三座水偵×6機、九五式水偵×4機) |
|||
第三戦隊第二小隊 ※先任の[[高間完]]榛名艦長が指揮 |
|||
*金剛型戦艦:[[榛名 (戦艦)|榛名]]、[[霧島 (戦艦)|霧島]](九五式水偵×6機) |
|||
第十戦隊 司令官:[[木村進 (海軍軍人)|木村進]]少将 |
|||
*長良型軽巡洋艦:[[長良 (軽巡洋艦)|長良]](九四式水偵×1機) |
|||
*第四駆逐隊 司令:[[有賀幸作]]大佐 |
|||
**陽炎型駆逐艦:[[嵐 (駆逐艦)|嵐]]、[[野分 (駆逐艦)|野分]]、[[萩風 (駆逐艦)|萩風]]、[[舞風 (駆逐艦)|舞風]] |
|||
*第十駆逐隊 司令:[[阿部俊雄]]大佐 |
|||
**夕雲型駆逐艦:[[風雲 (駆逐艦)|風雲]]、[[夕雲 (駆逐艦)|夕雲]]、[[巻雲 (夕雲型駆逐艦)|巻雲]] |
|||
**陽炎型駆逐艦:[[秋雲 (駆逐艦)|秋雲]] |
|||
*第十七駆逐隊 司令:[[北村昌幸]]大佐 |
|||
**陽炎型駆逐艦:[[磯風 (陽炎型駆逐艦)|磯風]]、[[浦風 (陽炎型駆逐艦)|浦風]]、[[浜風 (駆逐艦)|浜風]]、[[谷風 (駆逐艦)|谷風]] |
|||
部隊直率 |
|||
*油槽艦:[[東邦丸]]、[[極東丸]]、[[日本丸 (山下汽船)|日本丸]]、[[国洋丸]]、[[神国丸]]、[[日朗丸]]、[[豊光丸]]、[[第2共栄丸]] |
|||
*艦載機(空母機以外)合計 |
|||
*零式三座水偵×6機、九五式水偵×10機、九四式水偵×1機 |
|||
;その他のMI作戦の兵力 |
|||
'''主力部隊主隊(連合艦隊直率基幹)''' 指揮官:[[山本五十六]]大将 |
|||
本隊(第一戦隊)連合艦隊司令長官直率 |
|||
*大和型戦艦:[[大和 (戦艦)|大和]](零式観測機×3機 、零式三座水偵×3機) |
|||
*長門型戦艦:[[長門 (戦艦)|長門]]、[[陸奥 (戦艦)|陸奥]](零式観測機×合計6機) |
|||
警戒隊(第三水雷戦隊)指揮官:[[橋本信太郎]]少将 |
|||
*川内型軽巡洋艦:[[川内 (軽巡洋艦)|川内]](九一式水偵×1機) |
|||
*第一一駆逐隊 司令:[[荘司喜一郎]]中佐 |
|||
**吹雪型駆逐艦:[[吹雪 (吹雪型駆逐艦)|吹雪]]、[[白雪 (吹雪型駆逐艦)|白雪]]、[[初雪 (吹雪型駆逐艦)|初雪]]、[[叢雲 (吹雪型駆逐艦)|叢雲]] |
|||
*第一九駆逐隊 司令:[[大江覧治]]大佐 |
|||
**吹雪型駆逐艦:[[磯波 (吹雪型駆逐艦)|磯波]]、[[浦波 (吹雪型駆逐艦)|浦波]]、[[敷波 (吹雪型駆逐艦)|敷波]]、[[綾波 (吹雪型駆逐艦)|綾波]] |
|||
空母隊 ※[[梅谷薫]]鳳翔艦長が指揮 |
|||
*軽空母:[[鳳翔 (空母)|鳳翔]](九六式艦戦×11機、九六式艦攻×8機) |
|||
*峯風型駆逐艦:[[夕風 (駆逐艦)|夕風]] |
|||
特務隊 ※先任の[[原田覚]]千代田艦長が指揮 |
|||
*千歳型水上機母艦:[[千代田 (空母)|千代田]](零式三座水偵×28機) |
|||
*日進型水上機母艦:[[日進 (水上機母艦)|日進]](魚雷艇×5隻) |
|||
第一補給隊 主力部隊主隊直率 |
|||
*初春型駆逐艦:[[有明 (初春型駆逐艦)|有明]] |
|||
*油槽艦:鳴戸丸、[[東栄丸]] |
|||
''主力部隊警戒部隊(第一艦隊基幹)''' 指揮官:[[高須四郎]]中将 |
|||
本隊(第二戦隊)指揮官:高須四郎中将 |
|||
*伊勢型戦艦:[[伊勢 (戦艦)|伊勢]]、[[日向 (戦艦)|日向]](零観×合計6機) |
|||
*扶桑型戦艦:[[扶桑 (戦艦)|扶桑]]、[[山城 (戦艦)|山城]](零観×合計6機) |
|||
警戒隊(第九戦隊基幹) 指揮官:[[岸福治|岸福治少将]] |
|||
*球磨型軽巡洋艦:[[北上 (軽巡洋艦)|北上]]、[[大井 (軽巡洋艦)|大井]] |
|||
*第二四駆逐隊 司令:[[平井泰次]]大佐 |
|||
**白露型駆逐艦:[[海風 (白露型駆逐艦)|海風]]、[[江風 (白露型駆逐艦)|江風]] |
|||
*第二七駆逐隊 司令:[[吉村真武]]大佐 |
|||
**初春型駆逐艦:[[夕暮 (初春型駆逐艦)|夕暮]] |
|||
**白露型駆逐艦:[[白露 (白露型駆逐艦)|白露]]、[[時雨 (白露型駆逐艦)|時雨]] |
|||
*第二〇駆逐隊 司令:[[山田雄二]]大佐 |
|||
**吹雪型駆逐艦:[[天霧 (駆逐艦)|天霧]]、[[朝霧 (吹雪型駆逐艦)|朝霧]]、[[夕霧 (吹雪型駆逐艦)|夕霧]]、[[白雲 (吹雪型駆逐艦)|白雲]] |
|||
第二補給隊 警戒部隊直率 |
|||
*白露型駆逐艦:[[山風 (白露型駆逐艦)|山風]] |
|||
*油槽艦:さくらめんて丸、東亜丸 |
|||
* |
|||
*艦載機合計(空母機以外) |
|||
*零観×21機、零式三座水偵×31機、九一式水偵×1機 |
|||
'''攻略部隊(第二艦隊基幹)本隊''' 指揮官:[[近藤信竹]]中将 |
|||
第四戦隊第一小隊 司令官:近藤信竹中将 |
|||
*高雄型重巡洋艦:[[愛宕 (重巡洋艦)|愛宕]]、[[鳥海 (重巡洋艦)|鳥海]](零観×4機、零偵×2機) |
|||
第五戦隊 司令官:[[高木武雄|高木武雄中将]] |
|||
*妙高型重巡洋艦:[[妙高 (重巡洋艦)|妙高]]、[[羽黒 (重巡洋艦)|羽黒]](零観×4機、零偵×2機) |
|||
第三戦隊第一小隊 司令官:[[三川軍一|三川軍一中将]] |
|||
*金剛型戦艦:[[金剛 (戦艦)|金剛]]、[[比叡 (戦艦)|比叡]](九五式水偵×6機) |
|||
第四水雷戦隊 司令官:[[西村祥治|西村祥治少将]] |
|||
*長良型軽巡洋艦:[[由良 (軽巡洋艦)|由良]](九四式水偵×1機) |
|||
*第二駆逐隊 司令:[[橘正雄]]大佐 |
|||
**白露型駆逐艦:[[五月雨 (駆逐艦)|五月雨]]、[[春雨 (白露型駆逐艦)|春雨]]、[[村雨 (白露型駆逐艦)|村雨]]、[[夕立 (白露型駆逐艦)|夕立]] |
|||
*第九駆逐隊 司令:[[佐藤康夫]]大佐 |
|||
**朝潮型駆逐艦:[[朝雲 (駆逐艦)|朝雲]]、[[峯雲 (駆逐艦)|峯雲]]、[[夏雲 (駆逐艦)|夏雲]] |
|||
**睦月型駆逐艦:[[三日月 (睦月型駆逐艦)|三日月]] |
|||
攻略部隊本隊直率 |
|||
*瑞鳳型航空母艦:[[瑞鳳 (空母)|瑞鳳]](九六式艦戦×6機、零戦二一型×6機、九七式艦攻一二型×9機) |
|||
*油槽艦:健洋丸、玄洋丸、佐多丸、鶴見丸 |
|||
* |
|||
*艦載機合計 |
|||
*零観×8機、零式三座水偵×4機、九五式水偵×6機、九四式水偵×1機 |
|||
'''攻略部隊支援隊(第七戦隊基幹)''' 司令官:[[栗田健男]]少将 |
|||
第七戦隊 司令官:栗田健男少将 |
|||
*最上型重巡洋艦:[[最上 (重巡洋艦)|最上]]、[[熊野 (重巡洋艦)|熊野]]、[[三隈 (重巡洋艦)|三隈]]、[[鈴谷 (重巡洋艦)|鈴谷]](零観×8機、零偵×4機) |
|||
*第八駆逐隊 司令:[[小川莚喜]]大佐 |
|||
**朝潮型駆逐艦:[[朝潮 (朝潮型駆逐艦)|朝潮]]、[[荒潮 (駆逐艦)|荒潮]] |
|||
支援隊直率 |
|||
*油槽艦:[[日栄丸]] |
|||
* |
|||
*艦載機合計 |
|||
*零観×8機、零式三座水偵×4機 |
|||
'''攻略部隊護衛隊(第二水雷戦隊基幹)''' 司令官:[[田中頼三]]少将 |
|||
第二水雷戦隊 司令官:田中頼三少将 |
|||
*川内型軽巡洋艦:[[神通 (軽巡洋艦)|神通]](九四式水偵×1機) |
|||
*第一五駆逐隊 司令:[[佐藤寅治郎]]大佐 |
|||
**陽炎型駆逐艦:[[親潮 (駆逐艦)|親潮]]、[[黒潮 (駆逐艦)|黒潮]] |
|||
*第一六駆逐隊 司令:[[渋谷紫郎]]大佐 |
|||
**陽炎型駆逐艦:[[雪風 (駆逐艦)|雪風]]、[[時津風 (陽炎型駆逐艦)|時津風]]、[[天津風 (陽炎型駆逐艦)|天津風]]、[[初風 (駆逐艦)|初風]] |
|||
*第一八駆逐隊 司令:[[宮坂義登]]大佐 |
|||
**陽炎型駆逐艦:[[陽炎 (陽炎型駆逐艦)|陽炎]]、[[不知火 (陽炎型駆逐艦)|不知火]] |
|||
**朝潮型駆逐艦:[[霞 (朝潮型駆逐艦)|霞]]、[[霰 (朝潮型駆逐艦)|霰]] |
|||
*艦載機合計 |
|||
**九四式水偵×1機 |
|||
護衛隊直率 |
|||
*第一号型哨戒艇:第1号哨戒艇、第2号哨戒艇 |
|||
*第三十一号型哨戒艇:第34号哨戒艇 |
|||
*油槽艦:あけぼの丸 |
|||
*輸送船:[[清澄丸 (特設巡洋艦)|清澄丸]]、ぶらじる丸、[[あるぜんちな丸]]、北陸丸、吾妻丸、霧島丸、[[東亜丸 (大阪商船)|第二号東亜丸]]、鹿野丸、明陽丸、山福丸、南海丸、善洋丸 |
|||
'''攻略部隊占領隊''' 司令官:[[太田実]]少将 |
|||
第二連合特別陸戦隊 司令官:[[大田実]](海軍)大佐 |
|||
*横須賀第五特別陸戦隊(約1,450名) |
|||
*呉第五特別陸戦隊(約1,100名) |
|||
*第一一設営隊(約1,750名) |
|||
*第一二設営隊(約1,300名) |
|||
*第四測量隊 |
|||
陸軍一木支隊 支隊長:[[一木清直]](陸軍)大佐(合計約2,000名) |
|||
*第二十八歩兵連隊(1個大隊) |
|||
*工兵第七連隊第一中隊 |
|||
*独立速射砲第八中隊 |
|||
'''攻略部隊航空隊''' 指揮官:[[藤田類太郎]]少将 |
|||
第一一航空戦隊 司令官:藤田類太郎少将 |
|||
*千歳型水上機母艦:[[千歳 (空母)|千歳]](零観×12、零偵×12) |
|||
*神川丸級特設水上機母艦:[[神川丸]](零偵×4、零観×8) |
|||
*陽炎型駆逐艦:[[早潮 (駆逐艦)|早潮]] |
|||
*哨戒艇:第35号[[哨戒艇]] |
|||
*工作艦:[[明石 (工作艦)|明石]] |
|||
* |
|||
*艦載機合計 |
|||
*零観×20機、零式三座水偵×16機 |
|||
'''先遣部隊本隊''' 指揮官:[[小松輝久]]中将 |
|||
*香取型軽巡洋艦:[[香取 (練習巡洋艦)|香取]](九四式二号水偵×1機) |
|||
* |
|||
*艦載機合計 |
|||
*九四式二号水偵×1機 |
|||
'''先遣支隊(第八潜水戦隊基幹)''' |
|||
**報国丸級[[特設巡洋艦]]:[[報国丸 (特設巡洋艦)|報国丸]]、[[愛国丸 (特設巡洋艦)|愛国丸]](合計:九四式水偵×4機) |
|||
**[[伊十五型潜水艦]]:[[伊号第十五潜水艦 (初代)|伊15]]、[[伊号第十七潜水艦|伊17]]、[[伊号第十九潜水艦|伊19]]、[[伊号第二十五潜水艦|伊25]]、[[伊号第二十六潜水艦|伊26]](合計:零式小型水偵×5機) |
|||
**[[伊百七十四型潜水艦]]:[[伊号第百七十四潜水艦|伊174]]、[[伊号第百七十五潜水艦|伊175]] |
|||
**[[伊百二十一型潜水艦]]:[[伊号第百二十二潜水艦|伊122]] |
|||
*第三潜水戦隊 |
|||
**特設潜水母艦:[[靖国丸]] |
|||
**[[伊百六十八型潜水艦]]:[[伊号第百六十八潜水艦|伊168]]、[[伊号第百六十九潜水艦|伊169]]、[[伊号第百七十一潜水艦|伊171]]、[[伊号第百七十二潜水艦|伊172]] |
|||
**伊九型潜水艦:[[伊号第九潜水艦|伊9(合計:零式小型水偵×1機)]] |
|||
**[[伊百二十一型潜水艦]]:[[伊号第百二十三潜水艦|伊123]] |
|||
*第五潜水戦隊 |
|||
**特設潜水母艦:[[りおでじゃねろ丸#りおで𛁈゙やねろ丸|りおで志゛やねろ丸]] |
|||
**[[伊百五十六型潜水艦]]:[[伊号第百五十六潜水艦|伊156]]、[[伊号第百五十七潜水艦|伊157]]、[[伊号第百五十九潜水艦|伊159]] |
|||
**[[伊百五十三型潜水艦]]:[[伊号第百五十八潜水艦|伊158]] |
|||
**[[伊百六十二型潜水艦|伊百六十一型潜水艦]]:[[伊号第百六十二潜水艦|伊162]]、[[伊号第百六十四潜水艦|伊164]] |
|||
**[[伊百六十五型潜水艦]]:[[伊号第百六十五潜水艦|伊165]]、[[伊号第百六十六潜水艦|伊166]] |
|||
**[[伊百二十一型潜水艦]]:[[伊号第百二十一潜水艦|伊121]] |
|||
*艦載機合計 |
|||
*九四式水偵×4機、零式小型水偵×6機 |
|||
'''第11航空艦隊''' |
|||
*ミッドウェー諸島派遣航空隊 |
|||
**零戦×36機 |
|||
**一式陸上攻撃機×10機 |
|||
**飛行艇×6機 |
|||
*千歳海軍航空隊 |
|||
**零戦×36機 |
|||
**九七式三号艦上攻撃機×36機 |
|||
*[[オール環礁]]/[[ウォッジェ環礁]]方面航空隊並びに第1航空群 |
|||
**零戦×36機 |
|||
**九七式三号艦上攻撃機×36機 |
|||
**九七式飛行艇×36機 |
|||
;注釈 |
|||
:*榛名、霧島には九五式水偵が3機ずつ搭載されていた。 |
|||
:*利根型にはそれぞれ零式三座水偵が3機、九五式水偵が2機積まれていた。 |
|||
:*大和型には零観3機と零偵3機、長門型にはそれぞれ零偵が3機ずつ搭載されていた。 |
|||
:*日進には水上機ではなく魚雷艇が搭載されていた。 |
|||
:*伊勢型・扶桑型にはそれぞれ水偵が3機ずつ搭載されていた。 |
|||
:*愛宕と鳥海には水偵が3機ずつ搭載されていた。 |
|||
:*妙高には水偵が3機、羽黒には4機搭載されていた。 |
|||
:*比叡と金剛には水偵が3機ずつ積まれていた。 |
|||
:*最上型には3機ずつ積まれていた。 |
|||
:*報国丸と愛国丸には水偵がそれぞれ2機ずつ積まれていた。 |
|||
:*伊9のみ水偵1機を搭載。 |
|||
=== アメリカ === |
|||
'''第17任務部隊'''(Task Force 17) 司令官 [[フランク・J・フレッチャー]]少将 |
|||
*第2群(Task Group 17.2 Cruiser Group) 司令官:ウィリアム・W・スミス少将 |
|||
**重巡 アストリア - ポートランド |
|||
*第4群(Task Group 17.4 Destroyer Screen) 司令官:ギルバート・C・フーバー大佐 |
|||
**第2駆逐戦隊(COMDESRON 2) |
|||
***駆逐艦 ハムマン - アンダーソン - グウィン - ヒューズ - モリス - ラッセル |
|||
*第5群(Task Group 17.5 Carrier Group) 司令官:[[エリオット・バックマスター]]大佐(兼ヨークタウン艦長) |
|||
**空母 [[ヨークタウン (CV-5)|ヨークタウン]] |
|||
***ヨークタウン航空群 |
|||
****第3戦闘機隊(VF-3/F4F-4/27機)、第3爆撃機隊(VB-3/SBD-3/18機)、第5索敵爆撃機隊(VS-5/SBD-3/19機)、第3雷撃機隊(VT-3/TBD-1/15機) |
|||
※ヨークタウンの第5航空群は珊瑚海海戦で損失、[[サラトガ (CV-3)|サラトガ]]の第3航空群と残存した第5航空群を搭載。 |
|||
'''[[第16任務部隊]]'''(Task Force 16) 司令官 [[レイモンド・スプルーアンス|レイモンド・A・スプルーアンス]]少将 |
|||
*第2群(Task Group 16.2 Cruiser Group) 司令官:[[トーマス・C・キンケイド]]少将 |
|||
**第6巡洋隊(COMCRUDIV 6) |
|||
***重巡 [[ミネアポリス (重巡洋艦)|ミネアポリス]] - [[ニューオーリンズ (重巡洋艦)|ニューオーリンズ]] - [[ノーザンプトン (重巡洋艦)|ノーザンプトン]] - [[ペンサコラ (重巡洋艦)|ペンサコラ]] - [[ヴィンセンス (重巡洋艦)|ヴィンセンス]] |
|||
***軽巡 アトランタ |
|||
*第4群(Task Group 16.4 Destroyer Screen) 司令官:アレキサンダー・R・アーリー大佐 |
|||
**第1駆逐戦隊(COMDESRON 1) |
|||
***駆逐艦 [[ポーター級駆逐艦#同型艦|フェルプス]] - [[ウォーデン (DD-352)|ウォーデン]] - モナハン - [[エールウィン (DD-355)|エイルウィン]] - バルチ - カニンガム - [[ベンハム級駆逐艦#同型艦|ベンハム - エレット]] - [[モーリー (DD-401)|モーリー]] |
|||
*第5群(Task Group 16.5 Carrier Group) 司令官:ジョージ・D・マーレ大佐(兼「エンタープライズ」艦長) |
|||
**空母 [[エンタープライズ (CV-6)|エンタープライズ]] |
|||
***エンタープライズ航空群 |
|||
****第6戦闘機隊(VF-6/F4F-4/27機)、第6爆撃機隊(VB-6/SBD-2、3/18機)、第6索敵爆撃機隊(VS-6/SBD-2、3/18機)、第6雷撃機隊(VS-6/TBD-1/14機) |
|||
**空母 [[ホーネット (CV-8)|ホーネット]] |
|||
***ホーネット航空群 |
|||
****第8戦闘機隊(VF-8/F4F-4/27機)、第8爆撃機隊(VB-8/SBD-3/18機)、第8索敵爆撃機隊(VS-8/SBD-3/16機)、第8雷撃機隊(VT-8/TBD-1/15機) |
|||
**第16任務部隊 給油群(Oilers Group) |
|||
***駆逐艦 デューイ - [[グリーブス級駆逐艦#同型艦|モンセン]] |
|||
***艦隊給油艦 シマロン - プラット |
|||
'''潜水艦部隊''' 司令官:[[ロバート・H・イングリッシュ]]少将 |
|||
*潜水艦20隻 |
|||
'''ミッドウェー島守備隊''' |
|||
*ミッドウェー基地海軍航空部隊 司令:シリル・T・シマード大佐 |
|||
**PBY-5Aカタリナ飛行艇×31機、TBF-1アベンジャー艦上雷撃機×6機 |
|||
*第22海兵航空群 司令:イラ・L・キムス海兵中佐 |
|||
**F2A-3バッファロー艦上戦闘機×20機、F4F-3ワイルドキャット艦上戦闘機×7機 SB2U-3ヴィンディケーター艦上爆撃機×11機 SBD-2ドーントレス艦上爆撃機×16機 |
|||
*第7陸軍航空軍分遣隊 司令:ウイリス・P・ヘール陸軍少将 |
|||
**B-26Aマローダー爆撃機×4機、B-17Eフライングフォートレス戦略爆撃機×17機 |
|||
*地上部隊 司令:シマード大佐(兼任) |
|||
**第2急襲大隊 |
|||
**第6<!--守備-->海兵大隊 司令:ハロルド・D・シャノン海兵大佐 |
|||
**第1[[魚雷艇]]戦隊 |
|||
== 損害 == |
|||
=== 日本 === |
|||
*沈没 |
|||
**航空母艦:[[赤城 (空母)|赤城]]267名(航空搭乗員含む)<ref>[[#澤地記録]]364頁</ref>、[[加賀 (空母)|加賀]] 811名<ref>[[#澤地記録]]404頁</ref>、[[蒼龍 (空母)|蒼龍]] 711名<ref>[[#澤地記録]]459頁</ref>、[[飛龍 (空母)|飛龍]] 392名(米軍救助者含まず) <ref>[[#澤地記録]]392頁</ref> |
|||
**重巡洋艦:[[三隈 (重巡洋艦)|三隈]]700名<ref>[[#澤地記録]]493頁</ref> |
|||
*損傷 |
|||
**重巡洋艦:[[最上 (重巡洋艦)|最上]]92名<ref>[[#澤地記録]]498頁</ref> |
|||
**駆逐艦:[[荒潮 (駆逐艦)|荒潮]] |
|||
*航空機:喪失艦載機289機(内、21機はミッドウェー配備予定の第六航空隊。水偵4機) |
|||
**この中には「[[彗星 (航空機)|十三試艦爆]]」を含む。 |
|||
*戦死<ref>[[#澤地記録]]498-549頁</ref> |
|||
**[[山口多聞]]少将(戦死後中将に特進) |
|||
**[[岡田次作]]大佐(戦死後少将に特進) |
|||
**[[柳本柳作]]大佐(戦死後少将に特進) |
|||
**[[加来止男]]大佐(戦死後少将に特進) |
|||
**[[崎山釈夫]]大佐(戦死後少将に特進) |
|||
上記の沈没・損傷艦の他、筑摩の航空搭乗員3名、利根の航空搭乗員2名、駆逐艦谷風11名、朝潮21名、荒潮35名、嵐1名、風雲1名、給油艦あけぼの丸10名が戦死した。総計3,057名を失い、その中に加賀の飛行隊長:[[楠美正]]少佐(戦死後中佐に一階級特進)、飛龍の飛行隊長:[[友永丈市]]大尉(戦死後中佐に二階級特進)ら110名の空母艦載機搭乗員を含む。各母艦別の搭乗員損失は、赤城7名(艦戦4、艦爆1、艦攻2)、加賀21名(艦戦6、艦爆6、艦攻9)、蒼龍10名(艦戦4、艦爆1、艦攻5)、飛龍72名(艦戦11、艦爆27、艦攻34) <ref name="澤地記録549">[[#澤地記録]]549頁</ref>。搭乗員損失率は反撃した飛龍が最多。空母上でアメリカ軍機空襲とその後の誘爆により戦死した搭乗員は赤城4名、加賀13名、蒼龍4名、飛龍8名である<ref name="澤地記録549"/>。 |
|||
海戦直後の混乱や作戦後の被害秘匿のための特殊な人事処理で、海戦直後の資料は不正確。第一航空艦隊が6月12日に行った報告では、第一航空戦隊、第二航空戦隊で、戦闘機45名、艦上爆撃機51組、艦上攻撃機57組が残存となっている。内地に帰還したのちに作成された第一航空艦隊戦闘詳報では消耗52組となっている{{Sfn|戦史叢書43|1971|p=598}}。 |
|||
6月10日の[[大本営発表]]は「空母エンタープライズ型1隻、ホーネット型1隻撃沈。米軍機120機。日本軍損害 空母1隻喪失、巡洋艦1隻大破、35機喪失」<ref name="澤地記録31">[[#澤地記録]]31頁</ref>、6月18日の大本営発表で「空母1隻撃沈を取り消し、大破認定。巡洋艦1隻、潜水艦1隻撃沈」と訂正発表した<ref name="澤地記録31"/>。南雲機動部隊の戦闘詳報では、エンタープライズ型空母2隻撃沈、サンフランシスコ型大巡1隻大破、米軍機173機撃墜である<ref>「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(4)」pp.31、45</ref>。 |
|||
=== アメリカ === |
|||
[[File:Midway survivor on PBY.jpg|thumb|right|救助されたアメリカの航空兵]] |
|||
*沈没 |
|||
**航空母艦:[[ヨークタウン (CV-5)|ヨークタウン]] |
|||
**駆逐艦:[[ハムマン (駆逐艦)|ハムマン]] |
|||
*航空機:基地航空隊を含め、約150機を喪失。この数字には修理不能の損傷を受けた機も含まれる<ref>Office of Navy Intelligence, The Battle of Midway: June3-June 6, 1942, p.55.</ref>。 |
|||
*戦死 |
|||
**空母ヨークタウン86名(航空搭乗員含む)、空母ホーネット53名、空母エンタープライズ44名、駆逐艦ハムマン84名、駆逐艦ベンハム1名、ミッドウェー基地46名。合計362名(航空搭乗員208名、基地・艦乗組員154名) 。高級士官の戦死は無かった。 |
|||
== 影響 == |
|||
=== 日本 === |
|||
この作戦後、山本連合艦隊長官やその幕僚の責任は問われず、一航艦も長官南雲忠一、参謀長草鹿龍之介は一航艦の後継である[[第三艦隊 (日本海軍)|第三艦隊]]の指揮をそのまま受け継いだ。しかし、それ以外の一航艦の幕僚は全て降ろされ、また士官も転出させられた(一航艦航空参謀[[吉岡忠一]]はミッドウェー海戦の資料作成のためしばらく残留した)<ref>[[#炎の海]]285-286頁</ref>。 |
|||
開戦時に山本長官は「日本は開戦から半年、もって1年は優勢を維持できるが、それ以降はアメリカ(と連合軍)の国力が日本を圧倒する」と述べ、短期決戦早期講和を目指していたが、当作戦の失敗、大敗北により発言力を失った。また実質短期決戦は不可能となったため、軍令部、大本営は長期戦を主軸とした戦略への転換せざるを得なくなった。ミッドウェー海戦直後の参謀本部への説明の中でも、軍令部は「主力空母が2隻([[翔鶴 (空母)|翔鶴]]、[[瑞鶴 (空母)|瑞鶴]])では守勢の外はない」と述べている{{Sfn|井上|2010|p=190}}。しかし国力で圧倒される以前に、戦略、戦術、用兵など全ての拙劣さにより喫した敗北だったにも拘らず、事後に作戦戦訓研究会は開かれず、国民にもこの敗北は伝えられなかった。唯一上記のように[[参謀本部 (日本)|参謀本部]](陸軍)に対してのみ迅速に伝えられ{{Sfn|井上|2010|pp=189-190}}、ミッドウェー海戦の実態については海軍内はもとより陸軍内でも情報統制がなされた。これは前[[陸軍大臣]]の[[畑俊六]]にさえも真相は伝えられていなかったほどである{{Sfn|井上|2010|p=191}}。 |
|||
[[珊瑚海海戦]]の大本営発表から戦果の大きな水増しが始まったが{{Sfn|千早正隆|1997|pp=78-81}}、本海戦でも戦果を「空母ホーネット、エンタープライズを撃沈、敵飛行機120機を撃墜。味方の損害は空母一隻、重巡洋艦1隻沈没、空母一隻大破、未帰還機35機」と国民に発表、士気の阻喪を防ごうとした<ref>[[#愛宕奮戦記]]94頁</ref>。 |
|||
本海戦で空母4隻とその搭載飛行機全てを失ったことは大きな痛手であった。既に珊瑚海海戦で[[祥鳳 (空母)|空母祥鳳]]を失い、第五航空戦隊も多数の機を失っていた。艦上機は戦闘機会が少ないので生産要求が小さく、この損失はすぐに補填できないものであった{{Sfn|戦史叢書43|1971|p=599}}。ただし本海戦で、搭乗員はほとんどが脱出に成功したため、大きな損失はなかった。アメリカ攻撃隊の技量が低かったこと、飛龍が少数機で戦果を上げたこと、今回の仇うちを目指すことなどで搭乗員の士気はむしろ上がっていた{{Sfn|戦史叢書43|1971|p=598}}。しかし搭乗員もまたすぐに補填がきくものでないことは同様で、今後後継者育成は追いつかないまま、熟練パイロットも失われていく一方となる。 |
|||
ミッドウェー海戦後、立て直しの好機として、従来の要求、本海戦の戦訓を取り入れた空母部隊再建の打ち合わせが一航艦、連合艦隊で行われた。内容は、機動部隊の建制化、警戒兵力の増強、航空戦隊の再編、索敵の強化、火災予防の強化、消火訓練の徹底などであった。航空戦隊再編はミッドウェー海戦の戦訓から、大型空母2隻を攻撃の主体、小型空母1隻を自隊の防御とした三隻編制を一個航空戦隊とする。さらに従来の戦艦を中心とした艦隊決戦から空母を使用不能にして制空権を獲得する航空決戦の方針へと変わった{{Sfn|戦史叢書43|1971|pp=638-639}}。 |
|||
海戦後日本海軍保有の正規空母は瑞鶴、翔鶴のみとなったが、上記のように水上機母艦を改装した空母がその穴を補った。空母の再建については、戦前より認識されていた空母の脆弱性を払拭するために飛行甲板に装甲を施した大型正規空母[[大鳳 (空母)|大鳳]]が[[④計画]]で既に建造中であったものの、装甲空母は費用、工期ともにかかるため今後は、正規空母としては飛龍の設計に若干の改変を加えた[[雲龍型航空母艦]]の増産が、また多数の他艦種、商船などからの[[改造空母]]の工事が進められることとなり、空母の脆弱性是正については据え置かれたままとなった。6月21日に開かれた空母急増対策委員会(山本、草鹿、南雲、源田実、宇垣纏、[[鈴木義尾]]軍令部第二部長、[[大西瀧治郎]]航空本部総務部長、[[江崎岩吉]]造船少将)では、四空母生存者から日本空母の脆弱性に対する厳しい指摘がなされたが{{Sfn|豊田穣|2000|p=83}}、山本五十六が「計画変更の必要なし。空母に脆弱性あるとも、使いこなす自信がある」と発言し、出席者一同は沈黙したという{{Sfn|豊田穣|2000|p=84}}。 |
|||
=== アメリカ === |
|||
[[ファイル:Starr_080604-6331_Unknown_orchidaceae.jpg|サムネイル|ミッドウェー島の慰霊碑]] |
|||
[[File:Japanese Attack at Dutch Harbor.jpg|サムネイル|日本軍空襲後のダッチハーバー基地(1942年6月3日)]] |
|||
アメリカ海軍は、ミッドウェー海戦で正規空母1隻と多数の航空機、200名の航空兵が犠牲になるという決して軽くない損害を受けるも、真珠湾を攻撃した空母6隻のうち4隻を撃沈しその報復を果たし、半年に及ぶ日本機動部隊の快進撃をついに食い止めたことはアメリカ軍にとって非常に大きいことであった。アメリカは国威発揚のためにマスコミを総動員し、映画や新聞、ラジオを使いこの勝利を世紀の大勝利のように喧伝した(それは現在も続いている)。 |
|||
そして、アメリカは戦前から建造を進めていた、大型の[[エセックス級航空母艦]]が1943年中旬以降に大量配備されるまでの時間を何とか確保することができた。しかし、まだ新しい航空母艦の就役と戦力化に時間がかかるため、アメリカ軍は、止むを得ず単艦による作戦行動が多かった航空母艦を集中運用するようになる。 |
|||
しかし、この後1942年8月に行われた[[ガダルカナル島の戦い]]で日本海軍潜水艦の雷撃によってワスプが沈没し、サラトガも損傷を受けて修理のために戦線離脱する状況が生じた。さらに、1942年10月に行われた[[南太平洋海戦]]で空母ホーネットが日本海軍に沈められて、エンタープライズも損傷した。それにより、アメリカ海軍は一時的に太平洋戦線での稼動空母が0になるという危機的状況へ陥った。 |
|||
またこの後も日本海軍との海戦での相次ぐ敗北や、同時期に行われたアラスカ準州の領土の日本軍による占領、さらにアメリカ本土空襲と本土砲撃を受けるなど、アメリカ軍の敗北と後退は各地でまだまだ続いた。 |
|||
一方、ミッドウェー海戦で駆逐艦[[嵐 (駆逐艦)|嵐]]が6月5日に撃墜されて漂流する空母ヨークタウンの雷撃隊生存者ウェスリー・フランク・オスマス(オスムス)海軍予備少尉を救助して捕虜にしたが、6月6日に艦船の何者かに斬殺されるという事件が起き、水葬された<ref>[[#大和最後の艦長]]166頁</ref>。ミッドウェー海戦で救助され捕虜になった米軍将兵はオスムスを含めて3人で、救助した艦船の何者かによって皆殺されたという{{Sfn|Barde|1983|pp=188-192}}<ref>[https://navy.togetherweserved.com/usn/servlet/tws.webapp.WebApp?cmd=ShadowBoxProfile&type=Person&ID=436566 "Navy.togetherweserved: Osmus, Wesley, ENS"]</ref><ref>[https://navy.togetherweserved.com/usn/servlet/tws.webapp.WebApp?cmd=ShadowBoxProfile&type=Person&ID=398258 "Navy.togetherweserved: O'Flaherty, Frank Woodrow, ENS"]</ref><ref>[https://navy.togetherweserved.com/usn/servlet/tws.webapp.WebApp?cmd=ShadowBoxProfile&type=Person&ID=557720 "Navy.togetherweserved: Gaido, Bruno Peter, PO1"]</ref>。 |
|||
アメリカ海軍情報局の暗号解読が今回の勝利の大きな要因となったことから、以後アメリカ海軍は軍内部の対立を避け組織を統一化して暗号解読により予算強化を行い、第二次世界大戦中での主導的な成果をあげた。 |
|||
== 勝敗の要因 == |
|||
=== 連合艦隊司令部 === |
|||
==== 作戦内容 ==== |
|||
連合艦隊がこの作戦計画案を関係者に配布したのは、4月28日であった。その後図上演習開始まで関係者は戦訓研究会に出席していたので、作戦計画について深く研究する時間的余裕はなかった{{Sfn|戦史叢書43|1971|p=123}}。 |
|||
図上演習でも、ミッドウェー攻略の最中に米空母部隊が出現して日本の空母に大被害が出る、攻略の遅れや燃料不足など問題が続出し、攻略作戦続行が難しい状況となったが、連合艦隊参謀長の宇垣纏が空母を復活させるなど審判をやり直させて続行させた{{Sfn|戦史叢書43|1971|p=90}}<ref name="川崎母艦戦歴121"/> 。宇垣の強引な判定には、ミッドウェー作戦からハワイ攻略までの図上演習を行う時間が3日間しかなく、スケジュールが{{読み仮名|逼迫|ひっぱく}}していたという事情もあった<ref>[[#戦藻録(九版)]]110頁、[[#海軍驕り]]292-293頁</ref>。この研究会で麾下各部隊が最も強く要望したことは、作戦準備が間に合わないゆえの作戦期日の延期であり、軍令部からも2-3週間遅らせることを勧められたが、連合艦隊はこれに応じなかった{{Sfn|戦史叢書43|1971|p=91}}{{Sfn|千早正隆|1997|pp=116-117}}。 |
|||
また連合艦隊と軍令部の意思統一ができておらず、本作戦の主目標がミッドウェー島攻略にあるのか敵機動部隊の撃滅にあるのか、はっきりしていなかった。軍令部は主目標をミッドウェー島攻略にあるとし、大本営命令においてもそれが主目標と指示されていたが、連合艦隊首脳は敵機動部隊撃滅を重視する発言をしていた。そのため最前線部隊の第一航空艦隊には、どちらの目標も周知徹底されることがなかった{{Sfn|戦史叢書43|1971|p=123}}。 |
|||
アメリカ軍は、本作戦では戦力が分散していたが、空母3隻、重巡7隻ほか合計57隻を決戦海面に集めた。日本側がミッドウェー・アリューシャン作戦に動員した戦力は、戦艦11隻、空母6隻、重巡17隻ほか合計350隻に達していたが、決戦海面で戦うことができたのは戦艦2隻、空母4隻、重巡2隻ほかに過ぎなかった。空母1隻あたりの護衛能力は下回り、しかも航空兵力の半分を陸上攻撃に向かわせるという致命的な失敗を犯した。ニミッツ司令長官は「日本軍が6隻の空母、11隻の戦艦などを集中運用していたならば、いかなる幸運や技量をもってしても敗走させることはできなかったであろう。日本海軍は奇襲を必要としない場合も奇襲に依存するという錯誤を犯したのである」と語り、日本の作戦構想の誤りを指摘した{{Sfn|別宮|2011|pp=}}{{要ページ番号|date=2017年1月}}。[[ゴードン・ウィリアム・プランゲ]](元GHQ戦史室長)は、アリューシャン方面に空母龍驤、隼鷹を投入したことが、山本五十六最大の失策だったと指摘している<ref>[[#プランゲ下]]226-227頁</ref>。 |
|||
[[防衛大学校]]戦略教育室は、日本が兵力を分散したためミッドウェー沖で戦闘に参加した航空機の数がアメリカより少なかったことが根本的な原因であるとしている<ref>{{Cite web|和書|author=四方義博 |url=https://www.mod.go.jp/nda/obaradai/boudaitimes/btms200707/sikata/sikata200707.htm |title=受験生のために “防衛学ってなあに” (戦略教育室の紹介)|work=戦略教育室 |publisher=防衛大学校 |accessdate=2017-01-08}}</ref>。日本機動部隊の空母4隻が有する艦載機が合計248機だったのに対し、米側は空母3隻の艦載機合計233機に加えてミッドウェー島基地に126機の航空機を配備しており、海戦の勝敗を決した初日の戦闘に参加可能な航空機の数は日本側が100機以上の劣勢を強いられていた<ref>[https://www.worldwariiaviation.org/battle-of-midway-american-intelligence-sbds-and-luck-made-the-difference Battle of Midway: American Intelligence, SBDs - and Luck - Made the Difference - National Museum of World War II Aviation]</ref><ref name="名前なし-20240629110804"/><ref name="名前なし-20240629110804"/>。 |
|||
連合艦隊が機動部隊で上陸点の制空を獲得することを前提として、開戦時と違い十分に警戒された敵要地に奇襲が成功すると決め、奇襲不可なら反撃され損害を受けることを考慮しなかった点{{Sfn|千早正隆|1997|pp=21-24}}{{Sfn|戦史叢書43|1971|loc=付録2頁}}、敵情判断を誤り、南方攻略作戦の成功から日本の希望通りに予定が進むと思い込み敵を軽視し、予期せぬ事態に対処する余裕のない作戦立案を行った点{{Sfn|千早正隆|1997|pp=21-24}}{{Sfn|戦史叢書43|1971|loc=付録1頁}}、ミッドウェー攻略を早く認めさせるために大本営の要望するFS作戦を組み入れたことで、作戦に無理を招いた点について批判がある{{Sfn|千早正隆|1997|pp=21-24}}。また、連合艦隊はミッドウェー島上陸を6月7日に固定したため作戦の柔軟性が失われた{{Sfn|千早正隆|1997|p=85}}。機動部隊の草鹿参謀長は、この作戦では機動部隊の後から上陸部隊など他の艦隊がやってくるので、非常に窮屈なものであったと語っている{{sfn|草鹿|1979|p=122-123}}。 |
|||
連合艦隊は占領後の基地航空部隊の進出を急いでおり、機動部隊の空母4隻に第6航空隊の航空機21機を輸送のため積んだので、格納庫は窮屈になり、不要な物を載せないという被害局限の原則にも反していた{{Sfn|千早正隆|1997|pp=112-114}}。 |
|||
==== 作戦指導 ==== |
|||
連合艦隊は第一航空艦隊から、連合艦隊が敵情を把握し米機動部隊の動向は機を逸せず通報するように懇願されて、重要な作戦転換は連合艦隊司令部から一航艦に発せられることになっていた{{Sfn|奥宮正武|2001|p=213}}{{Sfn|戦史叢書43|1971|p=165}}。また、機密連合艦隊命令作第14号には、主力部隊の内地出撃から帰投までの太平洋方面の敵情通報は東京から放送することが定められ、東京には連合艦隊通信部隊の中枢に第1連合通信隊司令官[[柿本権一郎]]少将がいた{{Sfn|戦史叢書43|1971|pp=593-594}}。 |
|||
しかし、連合艦隊は付近に敵空母の疑いを感じ、情勢が緊迫してきたと判断しながら甘い状況判断の放送を東京から全部隊に流したまま、自己判断を麾下に知らせなかった{{Sfn|戦史叢書43|1971|pp=585-586}}。そのため、第一航空艦隊は敵潜水艦に発見された情報も知らされず、その後の敵の緊急信増加、動きの活発化が何を意味するのか判断がつかず、敵がこちらの企図を察知していないもの、敵空母はハワイにあるものとして行動することになった{{Sfn|戦史叢書43|1971|pp=251-252}}。連合艦隊の宇垣参謀長は海戦後の日記に第一航空艦隊に対して「当司令部も至らざる処あり相済まずと思慮しあり」と残している{{Sfn|戦史叢書43|1971|p=251}}。機動部隊の草鹿参謀長は、大和が無線封止を徹底し機動部隊に敵情を伝えなかったのは本末転倒であると批判している{{sfn|草鹿|1979|p=124}}。 |
|||
==== 哨戒 ==== |
|||
ミッドウェー作戦は、真珠湾に米機動部隊が在泊していることを前提として計画しており、そのため連合艦隊は、真珠湾の動静確認が重要で知敵手段として[[散開線]]への潜水艦哨戒配備と二式飛行艇での敵情偵察を行う[[K作戦]]を計画したが、間に合わず失敗した。この報告を受けた連合艦隊は、計画が崩れたことに何ら対策を取らなかった。戦後、連合艦隊参謀の黒島亀人は「海軍の常識からいえば、この場合の散開線構成は、西方で散開隊形を概成したのち東進して、所定配備に潜水艦をつけるべきである。ところが私の敵情判断の間違いなどから、あんな配備のつき方を計画してしまった。そのうえ、連合艦隊の指導が至らず潜水艦の準備が遅れてしまった。また、今次作戦は連合艦隊の主兵力を使って行なう作戦であるから、潜水部隊は連合艦隊の全兵力を集中すべきであった」と語っている{{Sfn|戦史叢書43|1971|p=199}}。K作戦失敗で完全に日本は敵機動部隊の知敵手段を失ったが、黒島は「わが機動部隊は無敵で、敵を圧倒できると信じていたので、このため特別な処置は考えなかった」という{{Sfn|戦史叢書43|1971|p=246}}。 |
|||
この潜水艦と飛行艇による哨戒網は6月2日の予定だったため、計画通り進んでも5月28日にサイパンを出発するミッドウェー攻略部隊が発見されて真珠湾の米機動部隊が動いた場合、間に合わない作戦だった{{Sfn|千早正隆|1997|pp=87-88}}。 |
|||
=== 機動部隊司令部 === |
|||
==== 指揮官の資質 ==== |
|||
連合艦隊の幕僚たちは南雲中将に批判的であり、交代を要望しており、草鹿参謀長にも批判的であった{{Sfn|戦史叢書43|1971|p=583}}。また宇垣によれば、「(一航艦)司令部は誰が握り居るや」の質問に二航戦司令官の山口少将は「(南雲)長官は一言も云はぬ、参謀長先任参謀等どちらがどちらか知らぬが臆怯屋揃いである」と答えている{{Sfn|戦史叢書43|1971|p=583}}。攻撃隊の指揮官だった淵田美津雄によれば、戦前の南雲中将の印象は末頼もしい提督の面影があり、[[第一水雷戦隊]]司令官としても抜群の武将であるとの評判が高かったが、開戦後は航空という畑違いのせいもあってかはつらつとした昔の闘志が失われ、何としても冴えない長官であり、作戦を指導する態度は消極的で、長官自ら乗り出してイニシアチブをとるというようなことはなく、最後にうんそうかで採決するだけのようであったという。また当時、航空参謀の源田実から、大西瀧治郎や山口多聞あたりが上にいてくれるとあらゆる角度から叩き直して突っ返してくるから安心して自由奔放に作戦を練られるが、南雲司令部のように国運を左右するかもしれない案がチェックされずに通っていくと責任感で圧迫されて自然と萎縮してしまうという苦衷も聞いたという{{Sfn|淵田|奥宮|2008|pp=383-384}}。 |
|||
そもそも南雲中将は[[第二艦隊 (日本海軍)|第二艦隊]]などの水上艦部隊の方が適任であり、年功序列で第一航空艦隊司令長官を決めた海軍人事行政に問題があったという指摘もある{{Sfn|松島慶三|1967|p=259}}。一方で、戦術戦略には共通分母があり、水雷出身者でもあっても空母に乗って半年も経てばそれが判るはずだったとの批判もある<ref>{{Harvnb|亀井|2014a}} 75-76頁</ref>。ミッドウェー海戦で米機動部隊を率いたスプルーアンスは、病気に倒れた[[ウィリアム・ハルゼー・ジュニア|ハルゼー]]の代理で、ハルゼー麾下の巡洋艦戦隊の司令官から急遽抜擢された人物だった。空母勤務の経験は無く、この海戦の時点では南雲以上に航空に疎い提督だった<ref>{{Harvnb|亀井|2014a}} 168-171頁、[[#提督山口]]180頁</ref>。 |
|||
==== 攻撃の判断 ==== |
|||
;攻撃隊半数待機の解除 |
|||
南雲長官は、敵機動部隊の出現に備えて攻撃隊の半数を雷装で待機させることを連合艦隊と約束したが、ミッドウェー基地攻撃が不十分であるとの報告を受け、その攻撃隊を陸用爆弾に兵装転換するように命じ、敵機動部隊出現の際に攻撃できなかった。 |
|||
草鹿参謀長は「山本の望みは南雲も幕僚もよく知っていた。事実状況が許す限りそうした。しかしミッドウェー基地の敵航空兵力がわれわれに攻撃を開始し敵空母も発見されていない状況でいるのかどうかわからない敵に半数を無期限に控置しておくのは前線指揮官にとして耐えられないことだった。後で問題だったとしてもあの当時の状況では南雲の決定は正当だった」と語っている<ref>[[#プランゲ上]]9-11頁</ref>。戦後、[[連合国軍最高司令官総司令部]](GHQ)で戦史室長を務めたゴードン・ウィリアム・プランゲは、当時の南雲の状況に加えて、連合艦隊からの敵情情報も敵艦隊なしだったことから南雲の判断は妥当とし、指揮上の失策ではなく情報上の失策であると分析している<ref>[[#プランゲ下]]11頁</ref>。一方、南雲司令が攻撃隊の半数待機を破る命令を出したのは索敵機が索敵範囲の先端に達する前であり、(攻略中の)図上演習において不意に米空母部隊が出現して日本が大損害を受けたことから警戒が足りなかったという批判もある<ref name="名前なし-7">{{Harvnb|森史朗|2012b}} 77-78頁</ref>。蒼龍に乗船していた攻撃隊パイロットは「ミッドウェーで日本軍が従来の教科書的な戦法から脱し得ず、敵空母確認の報告が入るまで艦船攻撃の用意をしないで基地攻撃に囚われ続けてしまった」と述べている<ref name="名前なし-8">{{Harvnb|亀井|2014a}} 76-77頁</ref>。加賀の艦攻隊分隊長の牧大尉は「空母はいるかどうかわからない」と考えておらず、「ミッドウェー攻撃のあいだに敵空母が出現したら味方はお手上げだ」と飛行長に雷装を解かないよう抗議したが、聞き入れてもらえなかったという<ref name="名前なし-7"/>。 |
|||
南雲司令部は、第一次攻撃隊発進直後「敵情に変化なければ第二次攻撃は第四編制をもって本日実施予定」と発信している<ref name="名前なし-9">「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.6</ref>。この予令は存在しないという証言もある<ref name="名前なし-1"/>(「[[#資料の問題]]」節を参照)。第四編制では、上空警戒機は各空母で3機ずつとなる計画だった。この予令には、ミッドウェー基地への奇襲が成立するという判断があったという意見もある{{Sfn|戦史叢書43|1971|p=287}}。この予令が存在したとして、予令で兵装転換の作業を開始することはない<ref>豊田穣『豊田穣戦記文学集2 ミッドウェー海戦』講談社 313-315頁</ref>。 |
|||
南雲の敵状判断は、第一次攻撃隊を発進させる直前のものとして、敵機動部隊は付近海面に行動中と推定する資料がないこと、攻略作戦が始まれば出動してくる算があることが述べられている<ref>淵田美津雄・奥宮正武『ミッドウェー』朝日ソノラマ 1982年 245-246頁</ref>。南雲の幕僚も敵がこちらの企図を察知していないもの、敵空母はハワイにあるものとして行動していたと証言している{{Sfn|戦史叢書43|1971|pp=251-252}}<ref>{{Harvnb|森史朗|2012b}} 423-424頁</ref>。敵機動部隊については連合艦隊が把握し、動向は機を逸せず南雲に通報し、また重要な作戦転換は連合艦隊司令部から発せられることになっていた{{Sfn|戦史叢書43|1971|p=165}}{{Sfn|奥宮正武|2001|p=213}}。しかし、連合艦隊は付近に敵空母の疑いを感じ情勢が緊迫してきたと判断しながら、甘い状況判断の放送を東京から全部隊に流したまま自己判断を麾下に知らせなかった{{Sfn|戦史叢書43|1971|pp=585-586}}。航空参謀の吉岡少佐は、敵機動部隊の出現がないと思い込んだ判断を敗因として、「敗北の責任は連合艦隊司令部も同罪」と語っている<ref>{{Harvnb|森史朗|2012b}} 422-424頁</ref>。 |
|||
;敵機動部隊発見時 |
|||
敵艦隊を発見した報告があった際、攻撃隊は艦船攻撃兵装から陸上攻撃兵装に換装中だったため、南雲は艦船攻撃兵装への再転換を命じた。二航戦司令官山口少将は、準備中の陸用爆弾のままで攻撃させるように意見具申したが、却下された{{Sfn|戦史叢書43|1971|pp=290-291}}<ref>{{Harvnb|亀井|2014a}} 370頁、[[#海軍功罪]]123頁、[[#淵田自叙伝]]206頁</ref>。参謀長草鹿龍之介少将によれば、九七艦攻を雷装に戻すよう命令した南雲長官の判断は命中率の差があったという。九七艦攻の艦船攻撃方法には、爆弾の水平爆撃と魚雷攻撃の2つがあるが、水平爆撃の命中率は10パーセント前後であり魚雷攻撃は60パーセント以上だった{{Sfn|戦史叢書43|1971|p=313}}。 |
|||
この判断を下した南雲司令部の回想は以下の通り。草鹿参謀長によれば、敵の来襲状況を見ると敵は戦闘機をつけずに面白いように撃墜され、全く攻撃効果をあげておらず、これを目前に見ていたので、どうしても艦戦隊を付けずに艦爆隊を出す決心がつかなかったという{{Sfn|戦史叢書43|1971|p=290}}。航空参謀[[源田実]]中佐は、当時入手していた敵空母の位置(誤情報)は味方からまだ約210海里離れており、敵の艦戦は航続力不足でついてこられず、敵が艦戦を伴わないとすれば上空の警戒機で十分に防御できる、敵空母の攻撃隊が戦闘機を付けて来るとすれば、もっと距離をつめる必要ができるため、時間的余裕があると判断した{{Sfn|戦史叢書43|1971|pp=290-291}}。また、図上演習ならば文句なしに第一次攻撃隊を見捨てたが、苦楽を共にしてきた戦友達に「不時着して駆逐艦に助けてもらえ」とは言えず<ref>[[#海軍功罪]]307頁</ref>、機動部隊が移動すれば、不時着した搭乗員達は見殺しになるので歴戦の搭乗員達の回収を優先させることを進言し、部下の生命を惜しんだために決定的な敗北に終わったと語っている<ref>[[#海軍功罪]]123-124頁</ref>。航空参謀[[吉岡忠一]]少佐は「いままでの防空戦闘の成果からみて、敵機の来襲は艦戦で防御できると漠然と判断していた。また敵空母までの距離はまだ遠いので、次の来襲はミッドウェーの航空兵力であろうが、それにはまだ相当の時間的余裕があると判断した。さらに攻撃は大兵力を集中して行なう方が戦果も大きく損害も少ないので、若干攻撃隊の発進を遅らせても、大兵力が整うのを待つ方が有利であると考えた。この決定は司令部内では問題もなく簡単に決まった」と語っている{{Sfn|戦史叢書43|1971|p=291}}。 |
|||
南雲中将には陸用爆弾への兵装転換を下令してから30分しか経っていない上、防空戦があり、飛行甲板も使えなかったため、転換作業はほぼ進んでおらず、雷装に簡単に復旧できるという判断があったという意見がある{{Sfn|戦史叢書43|1971|p=313-314}}。しかし、兵装復旧を命令したものの防空戦が続いたため、南雲中将の予想に反し復旧作業は進捗しなかった{{Sfn|戦史叢書43|1971|p=313-314}}。当時の進捗状況については、空母に搭載されていた航空兵装運搬用の台車の数や、海戦前に第二航空戦隊が行った兵装転換実験での所要時間から考えても、兵装転換を開始した午前4時15分(07:15)から一時中止を命令した午前4時45分(07:45)までの間に赤城と加賀の兵装転換はそれぞれ1個中隊(9機)が済んでいただけではないかという意見もある<ref name="歴群ミッドウェー134">[[#歴群ミッドウェー]] 134頁</ref>。一方、整備員や乗組員たちの懸命の作業で南雲司令の予想に反し兵装転換はかなり進んでおり、九七艦攻の大半が陸用爆弾の搭載を終えていたとの意見がある<ref> [[#新装版飛龍生涯]]413頁</ref>。赤城に搭乗していた第二次攻撃隊の電信員も、5時40分(8:40)頃、赤城艦内で(17機中)15~16機の九七艦攻の陸用爆弾の搭載が完了していたと回想している<ref>[[#雷撃機電信員]]138頁</ref>。第一次攻撃隊の収容が終わった6時半(9:30)頃、「一航戦の雷装艦攻は7時30分(10:30)発進可能、二航戦の艦爆隊は7時30分(10:30)ないし8時(11:00)に可能」との報告があったが、加賀で発進準備の完了を待っていた艦攻隊分隊長の牧大尉によれば、7時20分(10:20)の時点でも「(換装終了まで)あと小一時間かかる」という状況だったという<ref>{{Harvnb|森史朗|2012b}} 175-177頁</ref>。二航戦の飛龍、蒼龍においてもミッドウェー攻撃隊を収容した事で九七艦攻への魚雷の装備を開始することとなった。蒼龍艦内で兵装転換作業に当った整備兵も、戦闘中の艦では平常航海中のように順調な作業はできず、右に左に転舵する蒼龍の動きに「どうなってるんだ」と途方に暮れ、作業は遅々として進まなかったと述べている<ref>{{Harvnb|森史朗|2012b}} 149-151頁</ref>。赤城艦内で兵装転換を行った整備兵は、度重なる兵装転換で疲労が溜まった上、回避運動で揺れる艦内では「気は焦っても体は伴わなかった」と証言している<ref>{{Harvnb|森史朗|2012b}} 124-125頁、148-149頁</ref>。 |
|||
同様の兵装転換作業がミッドウェー海戦の2か月前の[[セイロン沖海戦]]でも発生しており、その戦訓を生かせなかったという批判もある<ref>[[#驕りの始まり]]34頁、{{Harvnb|森史朗|2012b}} 75-76頁</ref>。ただセイロン沖海戦では1時間半では済んだものが、ミッドウェー海戦では2時間でも完成しなかった。敵襲を考慮しても2時間あれば十分で、原因としてミッドウェー海戦では直掩戦闘機の補給も同時に行っていたことが挙げられる<ref>豊田穣『豊田穣戦記文学集2 ミッドウェー海戦』講談社 324頁</ref>。また、第一航空艦隊はこの海戦において敵の来襲の無い好条件下でも艦攻の出撃が間に合わなかったので、兵装転換の実験を飛龍で実施した。問題の通常爆弾から魚雷への転換は2時間という結果が出ている{{Sfn|戦史叢書43|1971|p=313-314}}。飛龍で実験が行われたことから、艦長の[[加来止男]]大佐から<ref>{{Harvnb|森史朗|2012b}} 75-76頁</ref>、あるいは第二航空戦隊司令官の山口少将から何らかの改善に関する報告があって、問題を未然に防ぎえたかもしれないという意見もある<ref>[[#驕りの始まり]]34頁</ref>。兵装転換に関しては、加来艦長が飛龍の整備兵に対し転換作業の訓練を行い、陸用爆弾から通常爆弾への転換なら30分以内に完了できるまで上達していたが、それも5月に大幅な人事異動があったため訓練は振出しに戻っていた<ref>{{Harvnb|森史朗|2012b}} 76頁</ref>。飛龍の航空整備兵は「バカな命令を出したなと思った。爆装から雷装への転換なんて一度も訓練をした事がないのに、偉い人はそんな事も考えていなかったんだろう」と述べている<ref>[[#最後の証言記録]]28頁</ref>。 |
|||
陸用爆弾のまま攻撃させることについて、以下のような意見がある。参謀長の草鹿少将は、空母は攻撃に対して脆弱であるため、護衛戦闘機を付けられるだけ付けて、陸用爆弾であっても、一切の人情を放棄して第二次攻撃隊の出撃を優先すべきだったと反省している<ref>[[#草鹿回想]]138頁</ref>。航空参謀の源田中佐も、心を鬼にして出撃させていれば、相打ちくらいにはできたと反省している<ref>[[#海軍功罪]]122-124頁</ref>。戦後の批判でも同様の点があげられる<ref>[[#海軍敗レタリ]]208頁、[[#提督山口]]204-205頁</ref>。6時23分(9:23)から7時(10:00)までの間、赤城から8機(後に2機を収容)、加賀、蒼龍から合計15機、飛龍から7機の戦闘機が上空直掩のため度々着艦、再出撃を繰り返しており{{Sfn|戦史叢書43|1971|p=327}}、二航戦の艦爆隊36機に、在空の戦闘機隊から選抜して燃料、弾薬を補給すれば、遅くとも7時(10:00)には、12機の護衛戦闘機を付けて出撃できたとする見解もある<ref>[[#提督山口]]204-205頁</ref>。蒼龍攻撃隊のパイロットは攻撃隊の出撃に関して「近くに敵空母の所在がほぼ明らかとなり、確実に発見していない時点で攻撃隊をいち早く発艦させて、索敵機の発見報告があるまで上空待機させておくべきだった」と述べている<ref name="名前なし-8"/>。二航戦の艦爆隊を緊急発進させた後に第一攻撃隊を収容させ、雷装の準備で特に手間取っていた一航戦の空母の負担を減らすといった平時ではない対応や、南雲中将が四空母全てを指揮せずに、二航戦の飛龍、蒼龍を山口の指揮下として分離させる選択肢もあったとする意見もある<ref>{{Harvnb|森史朗|2012b}} 119頁</ref>。混乱する艦内で取り外した爆弾を整理する余裕もなく、格納庫内は多くの魚雷、爆弾、燃料を搭載した艦載機で満載となり、三空母被弾の際の誘爆原因となったとする意見もある<ref>[[#提督山口]]209頁</ref>。アメリカ海軍歴史センター所長(1988年当時)のロナルド・H・スペクター博士は「アメリカの戦闘機は、戦争のこの段階では日本より劣っていた」とする見解から、戦闘機の護衛無しに日本の艦爆隊36機が出撃した場合でもアメリカ空母の上空哨戒機によって全て撃ち落される事は有り得ないと述べ、二航戦の艦爆隊がアメリカ空母部隊に多大な損害を与えただろうと分析している<ref>[[#艦爆隊長江草]]238-241頁</ref>。 |
|||
一方、プランゲ元GHQ戦史室長は、山口の進言は余計なもので、南雲は航空攻撃の奇襲性と迅速性の価値を理解しているが、山本や天皇に対して責任を負い、幾千の将兵の命を預かる立場であったことを指摘している<ref>[[#プランゲ下]]30頁</ref>。また南雲は理論的には非難の余地のない作戦決定をしたものの裏目に出ただけで、主導権を失っていることに気づかなかったことも入手情報から非難できず、当時南雲は中途半端な攻撃をさせる必要もなかったと述べている<ref name="名前なし-2"/>。そもそも、山口が即時発進の意見具申を行った時点では機動部隊は敵空母の位置を正確に把握できておらず(利根4号機の報告位置が実際の位置から大きくズレていたため)、攻撃隊を送り込んだとしても敵空母を発見できずに帰投せざるを得なかった可能性が高い<ref>Dallas Woodbury Isom. [https://www.jstor.org/stable/44638333 The Battle of Midway: Why the Japanese Lost]. Naval War College Review, Vol. 53, No. 3 (SUMMER 2000), pp. 60-100.</ref>。 |
|||
==== 索敵 ==== |
|||
南雲司令部は、[[偵察]]を1回のみの一段索敵として巡洋艦の水上機が割り当てられ、空母艦載機が出した索敵機は[[九七式艦上攻撃機|九七艦攻]]2機のみである。この索敵計画の立案を担当した[[吉岡忠一]]少佐は「当時攻略作戦中敵艦隊が出現することは、ほとんど考えていなかった。そのため、索敵は厳重にするのがよいことはわかっていたが、索敵には艦攻を使わなければならないので、攻撃兵力が減り、惜しくて索敵にさけなかった。全く情況判断の甘さが原因である」と語っている{{Sfn|戦史叢書43|1971|p=165}}。一段索敵と決めた参謀長草鹿龍之介は「攻撃兵力を増やそうとして偵察を軽視した」と語っている<ref>[[#プランゲ上]]234頁</ref>。 |
|||
南雲司令部の草鹿龍之介少将、源田実中佐、淵田美津雄中佐は、二段索敵にするべきだったと戦後語っている<ref>吉田俊雄『栄光と悲劇 連合艦隊 東郷平八郎と山本五十六』秋田書店 358頁(源田、淵田)、[[#草鹿回想]]134-135頁(草鹿)</ref><!-- 吉田著の『栄光と悲劇』は複数存在。何年刊行のもの?-->{{信頼性要検証|date=2017-01}}。吉岡参謀は索敵の密度をもっと濃くするべきだったと反省している{{Sfn|戦史叢書43|1971|pp=425-426}} |
|||
もっとも、索敵計画はこれまでの経験から早くに出すように改善はされていた<ref>吉田俊雄『栄光と悲劇・連合艦隊 東郷平八郎と山本五十六』秋田書店 326頁</ref>。そのため、利根の4号機がカタパルトの故障がなく定刻に発進し、偵察搭乗員に気の緩みがなければ、索敵計画に問題はなかったという指摘もある<ref>吉田俊雄『栄光と悲劇・連合艦隊 東郷平八郎と山本五十六』秋田書店 358頁</ref>。利根の4号機が定刻に発進した場合、[[航空計器|コンパス]]のずれによる実際の索敵線から計算すると敵位置を飛び越えていて発見できないが<ref name="ミッドウェー戦記115">豊田穣『ミッドウェー戦記』文藝春秋社 115頁</ref>{{Sfn|やっぱり|2005|pp=}}{{要ページ番号|date=2017年1月}}、コンパスの故障がなく定刻通り発進し、計画通りの索敵線を進めば30分早く発見できる<ref name="ミッドウェー戦記115"/>。また、利根の四号機が報告した敵空母位置は誤りであり、これに第一航空艦隊、第八戦隊司令部、利根が気付かなかったことは、南雲中将の戦闘指導に大きな影響を与えている{{Sfn|戦史叢書43|1971|p=291}}。 |
|||
利根には[[カタパルト]]が2基あったにもかかわらず、索敵機の発進が遅れた。その理由について、軍令部参謀だった宮崎勇の調査によると、利根では水兵を整列させて尻を棒で叩く制裁が常態化して士気が低下しており、故障していないカタパルトを担当する乗組員が動かなかったという<ref name="毎日20200912"/>。 |
|||
筑摩の機も敵艦隊を見逃した。筑摩の機長兼飛行長の[[黒田信]]大尉によれば、敵艦隊が発見された地点は自分のところだが、敵方天候不良で見逃したのは仕方なかったという。しかし、アメリカの資料では天候不良ではなく第四索敵線機も発見しているので、索敵機の雲上飛行が原因であった{{Sfn|戦史叢書43|1971|p=305}}。また、南雲が夜戦を検討している時も、索敵機からの敵情報告はくるくる変わり、南雲を悩ませ<ref>[[#プランゲ下]]171頁</ref>、苛立たせただろうという意見もある<ref name="プランゲ下172">[[#プランゲ下]]172頁</ref>。 |
|||
GHQ戦史室長だったプランゲは、そもそも日本海軍では航空偵察に使用する兵力は全力の1割以内であり、特別な教育や訓練もなく、艦上偵察機の価値を認識しておらず、あらゆる作戦で南雲に不利になっていたこと、セイロン沖海戦で索敵機の回収に必要な電波を発したことで、自分の艦隊位置が露見して航行中に英軍爆撃機の奇襲を受けたせいで索敵を必要最小限にしていたこと、ミッドウェーの索敵でさらに時間を早めると、ミッドウェー島に事前偵察に向かった第二索敵線の加賀機がミッドウェー島に届かなくなること、そして連合艦隊からの情報で敵機動部隊はミッドウェーにいないものと思い込んでいたことから、索敵計画はミッドウェー島に対する攻撃に重点を置いたものと指摘している<ref>[[#プランゲ上]]236頁</ref>。これに対し、プランゲの著書『ミッドウェーの奇跡』を翻訳した[[千早正隆]]は、インド洋作戦での南雲艦隊は[[ジェームズ・サマヴィル]]中将旗下の[[東洋艦隊 (イギリス)|イギリス東洋艦隊]]に待ち伏せされており、ミッドウェーに近似した状況だったことをプランゲが認識していない点がその著書の問題として、その著書の編集者からも賛意を得られたと主張している<ref>[[#驕りの始まり]]12-15頁</ref>。千早は、セイロン沖海戦で南雲機動部隊のごく近くにサマヴィル中将旗下のイギリス東洋艦隊が存在し、南雲司令部ではサマヴィルが放った[[複葉機]]を発見していながら索敵を行わなかった事について取り上げ、索敵の怠慢は繰り返されたものと批判している<ref>[[#驕りの始まり]]27-30頁</ref>。 |
|||
===艦隊構成=== |
|||
南雲機動部隊は[[赤城 (空母)|赤城]]、[[加賀 (空母)|加賀]]、[[蒼龍 (空母)|蒼龍]]、[[飛龍 (空母)|飛龍]]の空母4隻に対し、護衛艦は[[霧島 (戦艦)|霧島]]、[[榛名 (戦艦)|榛名]]の戦艦2隻、重巡2隻、軽巡1隻、駆逐艦12隻、油槽艦8隻であった。 |
|||
機動部隊の300海里(約550km)後方に、[[大和 (戦艦)|大和]]、[[長門 (戦艦)|長門]]、[[陸奥 (戦艦)|陸奥]]の戦艦3隻、空母[[鳳翔 (空母)|鳳翔]]、特殊潜航艇母艦[[千代田 (空母)|千代田]]、水母、軽巡各1隻、駆逐艦22隻の主隊、および[[伊勢 (戦艦)|伊勢]]、[[日向 (戦艦)|日向]]、[[扶桑 (戦艦)|扶桑]]、[[山城 (戦艦)|山城]]の戦艦4隻、軽巡1隻、駆逐艦12隻の警戒部隊からなる、山本五十六率いる主力部隊、そして、[[金剛 (戦艦)|金剛]]、[[比叡 (戦艦)|比叡]]の戦艦2隻、空母[[瑞鳳 (空母)|瑞鳳]]、[[千歳 (空母)|千歳]]含む水母2隻、重巡8隻、軽巡2隻、駆逐艦21隻、輸送艦12隻の攻略部隊が続くという編成であった。この編成では当初の予定通りミッドウェー攻略作戦を行っていたとしても機動艦隊のみで戦うことになってしまい、後衛の主力艦隊は全く役に立たない。 |
|||
そもそも一航艦は艦隊全体が建制化されていなかったため、南雲中将は部隊としての思想統一や訓練に苦しみ、建制化を望んでいた。連合艦隊も要望して軍令部も必要性を認めていたが、一航艦では実現せずミッドウェー海戦の戦訓を取り入れた後継の第三艦隊から建制化された{{Sfn|戦史叢書43|1971|pp=638-639}}。 |
|||
空母の集団使用は、指揮運用が容易で攻撃力の集中が可能という利点があるが、攻撃を受ける際に一挙に損害を被る危険性があることが最大の欠点である{{Sfn|戦史叢書43|1971|p=161}}。海戦後、軍令部次長以下と連合艦隊司令部の打ち合わせにおいて、問題だった点として「空母が団子になっていた」こと(集団使用)が挙げられている。しかし、当時の無線電話の現状や無線封止、警戒艦数から見ても分散配備は却って不適当であったと『[[戦史叢書]]』では指摘されている{{Sfn|戦史叢書43|1971|p=417}}。また打ち合わせでは、艦上戦闘機をミッドウェー基地への攻撃隊の援護に使い過ぎたことも言及されている。もっとも、第一航空艦隊はミッドウェー基地の航空兵力を捕捉撃滅することが主目的であるため、援護に機数を割くのは必要なことであり、連合艦隊も承知していたことで所見にすぎない{{Sfn|戦史叢書43|1971|p=417}}。海戦後の検討で得られた戦訓には、四空母が同一の状況となり、戦闘機の発着、帰還した攻撃隊の収容などの混雑を招き、第二攻撃隊が発進する前に攻撃を受けたので、戦闘機の発着する艦を一艦に指定するほうが良いことや、攻撃隊の役割ごとで各艦に区分することが挙げられている{{Sfn|戦史叢書43|1971|pp=416-417}}。 |
|||
一航艦の戦力としてミッドウェー作戦に参加する予定だった第五航空戦隊は、5月14日に五航戦から[[珊瑚海海戦]]の戦死者の報告があり、その損害があまりにも大きかったので、[[翔鶴 (空母)|翔鶴]]と[[瑞鶴 (空母)|瑞鶴]]の両艦とも到底次期作戦に使えないことが判明した。さらに17日に[[呉基地]]へ帰港した翔鶴は修理に三ケ月は必要であることがわかった。こうして一航艦は3分の1の戦力を失った状態になったが、延期は認められずに実施が決定した{{Sfn|戦史叢書43|1971|p=114}}{{Sfn|千早正隆|1997|pp=101-102}}。偵察機も能力不足であった。[[降着装置#水上用|フロート]]付きの[[九五式水上偵察機]]は速力、航続力も不十分であり、高速の[[二式艦上偵察機]]は蒼龍に2機用意されたが、まだ試作段階の機体であり[[液冷エンジン]]に故障が多かった{{Sfn|戦史叢書43|1971|p=152}}。 |
|||
=== 情報戦 === |
=== 情報戦 === |
||
日本はそれまでの勝利や誇大戦果を報じた珊瑚海海戦などで気が緩み、作戦の機密保持が杜撰になっていた。取り締まる立場にある連合艦隊もその傾向が出ていた{{Sfn|千早正隆|1997|pp=112-114}}。また、連合艦隊は敵情が緊迫していることを知りながら前線部隊に知らせないことが何度もあった{{Sfn|戦史叢書43|1971|loc=付録}}。連合艦隊は、5月中旬から敵の通信が増加していることから何らかの動きがあると把握しつつも気にとめず、出撃から6月3日までに入手した情報から敵が日本の動静を偵知して活発に動いていると判断するも、警戒すべきではあるが、敵をおびき出せるものと受け止め好ましいことだと考えていた{{Sfn|戦史叢書43|1971|pp=243-246}}。第二艦隊の白石萬隆参謀長は、連合艦隊は作戦がばれてでも米艦隊を呼び出そうとしていたと語っている{{Sfn|戦史叢書43|1971|pp=126-127}}。6月4日頃、連合艦隊は大本営の知らせあるいは通信符号の傍受でミッドウェーに機動部隊がいる兆候をつかんでいたが、無線封止を理由に一航艦に知らせなかった{{Sfn|戦史叢書43|1971|pp=249-250}}。 |
|||
米海軍が日本海軍の暗号解読に成功し、これに状況判断を加えることで、作戦計画の概要をほぼ完全に把握し、的確な邀撃作戦を準備していたことがまず挙げられる。一方日本軍は米軍の暗号をほとんど解読できず、主に通信状況、方位測定、平文傍受などの情報から状況判断を加えて分析しており、確度は低かった。 |
|||
また日本は太平洋にある米空母は3、4隻と考えていたが、珊瑚海海戦で米空母2隻撃沈、[[マーシャル諸島]]南方で西航する米空母2隻発見の情報から、残っている米空母2隻は全て南太平洋のハワイ方面にあると誤った敵情判断をしていた{{Sfn|戦史叢書43|1971|loc=付録}}。 |
|||
日本の「[[海軍暗号書D]]」系統は[[戦略常務用一般暗号書]]でよく用いられていたが、乱数表を用いて二重に暗号化した複雑な暗号であり、これに特定地点表示表、特定地点略語表、歴日換字表を併用したものではあったものの、開戦前より使用していたため寿命が尽きかけていた。ハワイの米軍情報隊に暗号は解読され、作戦概要や主力部隊以外のすべての参加艦艇が判明しており、作戦全体像がほぼ察知されていた。日本軍としては暗号書などを改訂しようとしていたが主力部隊の出撃に間に合わず、作戦準備期間の電報が大量に解読されてしまう事態があった。 |
|||
アメリカ海軍は戦術情報班ハイポ(HYPO)を重用し、日本海軍の暗号解読と無線傍受でミッドウェー作戦を事前に把握して迎撃準備を整えていた。日本の「[[海軍暗号書D]]」系統は[[戦略常務用一般暗号書]]でよく用いられていたが、乱数表を用いて二重に暗号化した複雑な暗号であり、これに特定地点表示表、特定地点略語表、歴日換字表を併用したものだった。しかし開戦前から使用していたうえ、作戦前に行われる予定であった更新も遅れ、作戦概要や主力部隊以外のすべての参加艦艇などの作戦全体像がアメリカにほぼ察知されていた{{Sfn|千早正隆|1997|pp=46-60}}。 |
|||
加えて珊瑚海海戦、5月15日にマーシャル諸島南方において敵空母を発見したことにより、敵空母の所在についての判断を誤る結果となったことも作戦行動に影響している。日本側が想定した米空母数は2隻。日本側の4隻と比べると倍の戦力差があり、このため今まで通り米空母は決戦を避けるのではないかということも考えられていた。情報戦における敗北については戦闘後に宇垣連合艦隊参謀長も「程度は別としてわが企図が敵に判っていた疑いがある」「敵情偵察不十分」を敗因として挙げている。 |
|||
ニミッツは4月下旬には日本が大規模な作戦を企図していることをつかみ、ミッドウェーの可能性が高いと判断した。5月2日からミッドウェーで環礁視察し、兵力、警戒態勢を整え、その後の情報でさらにミッドウェーの感が強まった。5月14日第二艦隊司令部がAF攻略部隊にあてた電文を傍受して攻略があると知り、19日にはAFを特定するためにアメリカは「ミッドウェーで真水製造機が故障」の偽の電文を傍受させ、罠にかかった軍令部は「AFで真水欠乏」という電文を打ち、アメリカはAFをミッドウェーと特定した。26日には攻略が6月7日であることも特定し、日本の作戦を把握して態勢を整えミッドウェー海戦で一航艦の迎撃に成功した{{Sfn|千早正隆|1997|pp=121-127}}。 |
|||
この情報戦は日本海軍の組織の中で最も稚拙なところで、連合艦隊に情報参謀という情報分析を専門に行う参謀が無く、その価値が軽視されていた為におこった事である。 |
|||
=== |
=== 日本軍の楽観 === |
||
この時期の日本海軍航空隊の搭乗員の精強さについては、[[日中戦争]]([[支那事変]])以来の戦果に対する大きな自信と長い実戦経験があり、さらに日米戦争開戦後は「真珠湾以来すべて完勝してきた」との自信もあった。そのため、珊瑚海海戦で空母同士の決戦を初めて経験し、訓練された敵の空母部隊と交戦して大損害を受けた後も、敗北(戦術的には[[珊瑚海海戦|日本の勝利]])の検証さえ十分に行わなかった。第一航空戦隊(赤城、加賀の飛行隊)のパイロットたちも「珊瑚海で米艦隊を撃ちもらしたのは五航戦がだらしないからだ」「妾の子でも勝てたのだから、自分達なら問題ではない」と信じていた<ref>[[#亀井戦記]]89頁</ref>。当時の一航艦を含む日本海軍は、南方作戦において、爆撃、雷撃で高い命中率をあげていたことで、敵の戦闘機の妨害や敵艦艇の防御砲火にあまり関心を払わなくなっており、敵の戦力を軽視したという指摘もある<ref>[[#驕りの始まり]]31-33頁、35頁、[[#セ号作戦]]22頁</ref>。ただ敵の戦闘機による妨害に関しては、第一航空艦隊自身の直掩機の有効性から重視されている{{Sfn|戦史叢書43|1971|pp=290-291}}。 |
|||
南雲機動部隊を前衛に出し、後方を戦艦大和を旗艦とする本隊が進んでいたのだが、大和には高性能の受信設備と優秀な情報収集班が配置され、ミッドウェー付近の敵の状況を推測の範囲ではあるが、ある程度まで把握していた。片や南雲機動部隊側の通信設備は性能が劣り、敵の情報をつかむことが困難であるため、本隊からの情報が必要であったが、最後まで的確な情報提供がなされなかった。<!--映画「[[連合艦隊 (映画)|連合艦隊]]」で-->この情報伝達の不備が敗因のひとつであったと指摘されている。アメリカ太平洋艦隊司令長官ニミッツ提督はハワイで指揮を執り、空母部隊に逐次連絡していたのに比べ、同じく前線部隊に情報を提供する立場にある連合艦隊司令長官山本提督は無線封鎖中の戦艦大和で指揮を執り、情報は一切発信しないという状況であった。また日本軍は全てを暗号に組み替えており(米軍は緊急時には平文のまま打電することもある)、通信自体に時間がかかった。 |
|||
連合艦隊は過信から、日本の機動部隊が最強なので、たとえ敵情判断が間違っていても簡単に処理してくれるだろうと考え、作戦は奇襲成功が前提、索敵も不十分であり、知敵手段が崩れても対応せず、意図が察知されてもかえって敵機動部隊を誘出し撃滅できると甘い判断で行われた。しかし開戦前の図上演習で複数の航空参謀が見通しの甘さを指摘し、作戦計画の修正を求めている。航空作戦においても索敵は念のため程度であり、ミッドウェーの航空基地制圧にも艦上攻撃機の全力が使用されなかった{{Sfn|戦史叢書43|1971|loc=付録}}。また、機動部隊の草鹿参謀長も、敗因は何より機動部隊の慢心にあるとし{{sfn|草鹿|1979|p=122}}、またこの慢心は日本全体に及んでおり機密保持が全く不徹底なものであったと語っている{{sfn|草鹿|1979|p=124-125}}。 |
|||
=== 作戦計画 === |
|||
ミッドウェー海戦前に行われた兵棋図演(シミュレーション)で、統裁官であった連合艦隊司令部宇垣纏参謀長は、アメリカ海軍の急降下爆撃と雷撃の命中率を過度に低いものと誤り、参謀らに「三分の一」に減じさせ兵棋図演をやり直させた。ハワイとミッドウェー間で、潜水艦によるアメリカ空母部隊の偵察を十分に実施せず、このためハワイのパールハーバー基地から米空母部隊がミッドウェー島東部海上に移動する情報を、連合艦隊は得ることができなかった。宇垣参謀長は南雲忠一司令官の空母部隊に対し、第一の攻撃目標を敵艦隊とするという明確な指示を出していなかった。南雲司令官はミッドウェーのアメリカ軍基地第二次攻撃のため、艦隊攻撃用の魚雷を陸用爆弾へ変更する兵装転換命令を、現場で比較的安易に出した。 |
|||
=== |
=== ダメージコントロール === |
||
{{seealso|ダメージコントロール}} |
|||
第一に作戦事前のハワイとミッドウェー間の日本軍哨戒網に問題があった。当時の日本軍潜水艦はレーダーを装備しておらず哨戒能力に問題があった。さらに哨戒線への潜水艦の到着が遅れてしまい米軍空母の通過後に展開しているのも敗北の原因だった。また、ハワイ真珠湾を[[二式飛行艇|二式大艇]]で事前偵察を行い、米艦隊の動向を探る[[K作戦|第二次K作戦]]も、偵察機の給油・中継地とされていた地点に米軍艦艇が出現した為、直前で中止になっている。これらにより南雲機動部隊は、事前段階の敵情報をほとんど掴めないまま作戦にあたることになってしまった。このことが、アメリカ海軍空母部隊の進出は「作戦通り」ミッドウェー攻撃が起こってからという先入観に拍車をかけてしまった<ref>敵発見の報告がない=敵は進出していない</ref>。 |
|||
日本の空母は防御力が弱く、また防御に関する研究、システム、訓練も不足していた。これは海軍全般の傾向であった。空母の防空指揮組織も完備しておらず、無線も不良、戦闘機、援護艦艇、見張りも、消火訓練も不足していた。航空戦訓練も全ては攻撃に集中していた{{Sfn|戦史叢書43|1971|loc=付録}}。 |
|||
赤城は爆弾2発直撃で大破したが、これは第二次大戦で撃沈された正規空母のうち最も少ない被弾数である。これについては、後部命中の爆弾は命中せず至近弾の可能性もある<ref>[[#歴群ミッドウェー]]{{要ページ番号|date=2017年1月}}頁</ref>。 反面、アメリカ軍のヨークタウンは第一次攻撃隊の急降下爆撃時に被弾したがすぐに復旧し、第二次攻撃隊が無傷の空母と誤認するほど回復していた。また、第二次攻撃隊によっても被弾したが(両攻撃で計3発)自力航行可能なまでに復旧している。この艦船被害時の回復力の違いが明暗を分けたとの指摘がある<ref>石渡幸二『名艦物語』</ref><!-- 『名艦物語』には単行本と文庫版の2種類が存在。どちらの何ページ? -->{{信頼性要検証|date=2017-01}}。 |
|||
第二に、南雲艦隊による索敵である。当時の日本海軍では主に巡洋艦に搭載された[[零式水上偵察機|水上偵察機]]を主力として索敵を行っていた。空母の攻撃力を重視し他の艦艇との役割分担を明確にするために空母には偵察機を搭載しておらず、攻撃機や爆撃機等の艦載機による索敵にも消極的であった。 |
|||
本海戦においても索敵には主に巡洋艦の水上機が割り当てられ、空母艦載機が出した索敵機は[[九七式艦上攻撃機|九七艦攻]]の2機のみである。また、後に米機動部隊を発見する利根4号偵察機の発進遅延については、南雲司令部では把握していなかったという説もある。 |
|||
回復力の差には、日米の空母設計思想の違いもある。日本の空母は多層の密閉式格納庫で、米空母は一層で開放式である。日本の密閉式は、風雨や波浪から保護されるが、直撃弾を受け艦内で爆発すると爆風の逃げ場がなく、甚大な被害を及ぼす。米空母の開放式は、艦内で爆発があっても爆風は外に逃げ、被害を最小にできる。また緊急時に艦載機や燃料弾薬等を投棄でき、二次被害を抑えることもできた。ただし波浪に弱く、台風に遭遇して艦載機を失うこともあった。 |
|||
また、作戦全体の見通しの段階で、日本軍の将兵には、米空母のミッドウェー進出は、自分たちのミッドウェー攻撃後に行なわれるだろうという先入観が大きかったと思われる。この先入観による錯誤は、利根4号偵察機が実際に敵を発見した際の南雲部隊首脳部の混乱ぶりからも明らかである。 |
|||
== 資料の問題 == |
|||
なお、利根4号機が定刻に発進できていれば、米空母発見が早まっていたのではないかとする説もある。定刻発進した場合、米艦隊が利根機の策敵線に差し掛かる前に利根機が通過していることになり、策敵そのものが失敗していた可能性が高いとも言われる。空母艦載機を積極的に索敵に投入し、濃密な索敵網を形成できればより発見が早まった可能性もあるが、実際に行われた従来道りの方法による索敵は、本海戦まで必要充分の成果を挙げていたことから、従来の方法以外の索敵を適用する発想を当時の日本海軍に求めることは酷であるともいえる<ref>なお、実際には、真珠湾攻撃やインド洋作戦の際は攻撃圏内にいた敵艦隊を発見できずに大魚を逸する結果となり、また珊瑚海では敵発見の遅れから必要以上の損害を出して本海戦の帰趨にも影響があった。これらが充分に戦訓化されていなかった事実は、問題点として考慮すべきである。</ref>。 |
|||
=== 運命の5分間 === |
|||
戦後、日本の空母三隻が被弾、炎上する直前に赤城では攻撃隊の戦闘機が発進しようとしており、あと5分あれば攻撃隊は発艦できたとする話が紹介された<ref>[[#草鹿回想]]139頁</ref>。これは「運命の5分間」として広まったが、第一航空艦隊参謀長だった草鹿龍之介が『[[文藝春秋]]』の昭和24年10月号に書いた手記「運命の海戦 ミッドウエイ洋上、五分間の遅れが太平洋全海戦の運命を決した!!」が最初である<ref name="毎日20200912"/><ref>豊田穣『豊田穣戦記文学集2 ミッドウェー海戦』講談社 328頁、[[#戦場の教訓]]136頁</ref>。また、昭和26年に出版された淵田美津雄(海戦時、病気で横になって赤城の発着指揮所から見ていた)と[[奥宮正武]]との著書でも「運命の5分間」が書かれた<ref name="名前なし-10">[[#戦場の教訓]]136頁</ref>。「被弾した時(日本の三空母が急降下爆撃された時)、各空母甲板上には発進準備を終えた戦闘機隊、雷撃機が整列しており、アメリカ軍の攻撃があと5分遅ければ全機発進できた」と淵田中佐は記述している<ref name="淵田自叙2067">[[#淵田自叙伝]]206-207頁</ref>。この本は『ミッドウェー』であるが、その影響は大きく以後日本のミッドウェー海戦に関する戦記はこの本の記載を概ね踏襲したものとなった<ref name="歴群ミッドウェー150">[[#歴群ミッドウェー]] 150頁</ref>。また『ミッドウェー』は昭和30年代に英語版で出版されており、アメリカ海軍の歴史家[[サミュエル・モリソン]]の著書『History of United States Naval Operations in World War II』のミッドウェー海戦に関する章が、英語版『ミッドウェー』の記載に沿う形で増補改訂されたことから一般的な説として広まったという意見もある<ref name="歴群ミッドウェー150"/>。英語版『ミッドウェー』が出版された後に出版されたミッドウェー海戦の戦記では、執筆に協力したマクラスキー少佐やベスト大尉等のアメリカ海軍のパイロット達が「各空母の甲板には航空機は並んでいた」と述べたことも相まって、海外においても「運命の5分間」はほぼ定説と見られるようになったとする意見もある<ref name="歴群ミッドウェー150"/>。 |
|||
しかし、[[戦史叢書]]『ミッドウェー海戦』には、第一航空艦隊の戦闘詳報を元に「この時点で攻撃隊の発艦準備は終了していない」と記載されており、10:20に出されたとされる発艦命令は10:22に出された「上空直掩機は準備ができ次第発艦せよ」という命令が誤解して広まったものだとしている。また、各空母の複数乗員は「攻撃隊は並んでいなかった」「上空直掩を行う戦闘機の準備がなされていた」という回想を残している<ref>[[#澤地記録]]20, 28-29頁、[[#橋本信号員]]138頁</ref>。第一航空艦隊航空参謀だった源田実も5分説を採用していない<ref>豊田穣『豊田穣戦記文学集2 ミッドウェー海戦』講談社 332頁</ref>。赤城雷撃隊の松田憲雄電信員は、ちょうど「第二次攻撃隊員整列」のアナウンスがあり、搭乗員達が出撃前に[[お茶]]を飲もうと一息ついた時だったと証言している<ref>[[#電信員遺稿]]123-124頁</ref>。蒼龍雷撃隊の森拾三兵曹は被弾後に搭乗員待機室から外に出た際に、「艦爆搭載の250kg爆弾が格納庫の中で誘爆している」と聞いたという<ref>[[#森 生還]]249頁</ref>。また、アメリカに残された赤城の日誌等の日本資料を調査したJ・パーシャルやA・タリーの調査では、B-17が撮影した蒼龍、飛龍、赤城の飛行甲板の写真に航空機は並んでいない事から、山口の進言に従っていれば「運命の5分間」は避けられたとする説には無理があるという意見もある<ref name="歴群ミッドウェー137">[[#歴群ミッドウェー]] 137頁</ref>。しばしば使用される「運命の5分間」というのは単なるたとえであって、実情が5分でないことは昔からわかっていてはるか以前から死語になっているという主張もある{{Sfn|豊田穣|1985|p=11}}。 |
|||
もともと日本海軍はその数的劣勢に鑑み、攻撃力を温存するために空母艦載機を索敵にあまり使用せず、水上機を策敵の主力に据えていた。日本海軍はこの思想にのっとり、他国の水準を凌駕する水上偵察機や、それを最大限活用して機動部隊の策敵を担う為の「利根」型重巡洋艦を開発・運用しており、有力な艦載水上偵察機を開発できなかった米英海軍とは事情が大きく異なる。こうしたことから、結果的に不十分な内容となった哨戒には問題があったが、そのいくつかは背景状況からみて不可避のものでもあった。 |
|||
「運命の5分間」が生まれた理由は次のように考察されている。戦時中捕虜となった[[豊田穣]]は、ハワイでミッドウェーの報道を新聞で読んだ中に、数分あれば日本の攻撃隊は全機発艦完了して勝敗は逆になっていたというものがあり、草鹿、淵田は戦争直後にアメリカの調査と接触しているため、5分説はこの辺から出てきた可能性を述べている<ref>豊田穣『豊田穣戦記文学集2 ミッドウェー海戦』講談社 326-328頁</ref>。攻撃隊の発艦準備が進んでいれば戦闘機の発着艦も不可能なはずだが、各空母は被爆する15分前から上空直掩用の戦闘機を複数回発着しており、各空母が攻撃隊の準備を完了していたとは考え難いこと<ref name="歴群ミッドウェー150" />、合わせて当時攻撃を行ったアメリカ海軍のパイロット達も「各空母の甲板に航空機は並んでいたのは確かだが、そんなに多くは並んでいなかった」との証言を残していることを踏まえ、アメリカ軍の急降下爆撃を受けた際には攻撃隊の発艦準備は終わっていなかったと考え、「運命の5分間」は当初第一航空艦隊司令部が出した発艦準備完了時刻が10:30であったことと、南雲長官が10:22に出した上空直掩機の発艦命令が誤解されて広まったのではないか、という意見もある<ref name="歴群ミッドウェー150" />。再度の兵装転換であと30分も40分もかかってしまったでは身も蓋もない。あと5分の方が読む方も口惜しく感じること、一瞬で負け戦に転じた事への万感胸に迫る思いがこの言葉にあることから定着してしまったという意見もある<ref name="名前なし-10"/>。草鹿参謀長や淵田中佐が、攻撃隊の発艦準備が整っていなかったにもかかわらず「あと5分の余裕があれば」と劇的なストーリーに脚色した事について、南雲司令部の決断ミスによって敵空母対策が後手に回った失態を包み隠そうとしているとの意見もあるが<ref>{{Harvnb|森史朗|2012b}} 425-427頁</ref>、草鹿参謀長は著書で敵空母への攻撃が後手になった責任を記述している<ref>[[#草鹿回想]]134-138頁「運命決す5分間の遅速」</ref>。 |
|||
この海戦の結果によって、従来の索敵法では不十分であるとされ、後の[[南太平洋海戦]]における二段索敵や、空母搭載用の高速偵察専用機[[彩雲 (偵察機)|彩雲]]の開発などにその教訓が生かされることになる。 |
|||
第一航空艦隊司令部航海参謀だった雀部利三郎は、5分間というのは草鹿のその場の実感だろうという<ref>豊田穣『豊田穣戦記文学集2 ミッドウェー海戦』講談社 331頁</ref>。 |
|||
=== 楽観的気運 === |
|||
日本海軍航空隊の精強さについては、[[日中戦争]]([[支那事変]])以来の戦果に対する大きな自信と長い実戦経験があり、さらに日米戦争開戦後は「真珠湾以来すべて完勝してきた」との自信もあった。そのため、珊瑚海海戦で空母同士の戦闘を初めて経験し、訓練された敵の空母部隊と交戦して大損害を受けた後も、その敗北の検証さえ十分に行われなかった。1航戦(赤城、加賀の飛行隊)のパイロットたちも「珊瑚海で米艦隊を撃ちもらしたのは5航戦がだらしないからだ」と信じていた。さらに、淵田によるとミッドウェーでの米軍の初期の攻撃の拙さに、彼らは哀れみさえ感じていたという。 |
|||
確かに経験・練度・士気など、いずれの点でも当時の南雲艦隊に勝る空母航空部隊はなかったといえるが、日本海軍はそのことを過信するあまり、自軍を脅かす可能性のある情報や兆候にひたすら目をつむり、希望的観測のみで作戦を進めてしまった。その結果、ミッドウェーで4隻もの正規空母を失うという取り返しのつかない敗北を招いたといえるだろう。 |
|||
戦史研究家の[[戸高一成]]は、草鹿らが戦後「あと少しで勝てた」という言い訳のため広めたと推測し、[[赤城毅|大木毅]]はアメリカ側でも「危機一髪のところで勝った」というストーリーの方が気分が良いため受け入れられたという見解を示している<ref name="毎日20200912"/>。 |
|||
=== ダメージ・コントロールの欠如 === |
|||
日本海軍では艦船被弾時に備えた防火・消火設備がほとんど整備されていず、火災に備えた訓練も行われていなかった。そのため空母が数発被弾して火災が発生しただけで沈没してしまう結果となった。とくに赤城は(発火しやすい航空機や弾薬を被弾時に格納庫に並べていた不幸はあったものの)爆弾2発で沈んでおり(爆弾により沈んだのではなく一時は曳航も検討されたが断念され日本駆逐艦の雷撃により処分されている)、これは第二次世界大戦で撃沈された正規空母のうち最も少ない被弾数である<ref>これについては後部に命中したとされる爆弾は命中せず至近弾だった可能性がある。《小学館「日米空母決戦ミッドウェー」 ([歴史群像]太平洋戦史シリーズ Vol.55)より》赤城の右舷後部主機室が浸水し舵に損害が出ており爆弾が命中しただけで損害がでる場所ではないからである。船体すれすれに落下して水中内で爆発、舵に損害を与え浸水を招いたのではないかとも言われているが確証はない。それならそれで赤城は1発の爆弾で沈んだ事になり記録を更新する事になる。</ref>。 |
|||
作家の[[澤地久枝]]は、『戦史叢書ミッドウェー海戦』と『機動部隊戦闘詳報』に基づき、1942年6月3日から6日までの空母赤城を主体とした戦闘経過、重要通信の発着時間と内容、更には淵田美津雄・奥宮正武共著『ミッドウェー』の関連部分を引用して時系列で検証している。要点としては、三空母被弾の時点では兵装転換・発艦準備は完了しておらず「運命の5分間」説は虚構・創作であろうというものである<ref>澤地久枝『記録ミッドウェー海戦』ちくま学芸文庫</ref>。 |
|||
反面、アメリカ軍のヨークタウンは第一次攻撃隊の急降下爆撃時に被弾したがすぐに復旧し、第二次攻撃隊が無傷の空母と誤認するほど回復していた。また、第二次攻撃隊によっても被弾したが(両攻撃で計3発)自力航行可能なまでに復旧している。 |
|||
結局「運命の5分間」の責任は、陸上基地破壊の方針に執着するあまり、敵艦隊出現という優先度の高い報告に機敏な対応ができなかった司令部にあり、定説は司令部の責任を他に転嫁して軽くしようとするものである<ref>[[小室直樹]] [[日下公人]]『大東亜戦争、こうすれば勝てた』講談社+α文庫 118頁</ref>。 |
|||
この艦船被害時の回復力の違いが明暗を分けたとの指摘がある<ref>『名鑑物語』(石渡幸二)</ref>。 |
|||
=== 0220信 === |
|||
== ミッドウェー海戦を扱った作品 == |
|||
戦後残された戦闘詳報には、午前2時20分に「敵情に変化なければ第二次攻撃は第四編成(指揮官加賀飛行隊長)をもって本日実施予定」という信号が送られたことが記載されている<ref name="名前なし-9"/>。この戦闘詳報は、第一航空艦隊司令部の乙航空参謀だった[[吉岡忠一]]が海戦直後に作成した戦闘詳報から功績調査用に抜粋し書き直したとされるもので、吉岡の作成したものは残されていない<ref>『[[歴史と人物]]』165号』([[中央公論社]]、1984年9月)29頁</ref>。 |
|||
<!--* '''本''' |
|||
** [[ミッドウェー ]]--><!-- 文献も載せると重複になる --> |
|||
元海軍航空隊のパイロットで、戦後は作家となった豊田穣は、3月2日に吉岡航空乙参謀に電話をし、0220信について質問した所、「司令部が出す航空に関する信号は全て航空参謀が文面を起案し、参謀長、長官の許可を取って発信するものだが、私(吉岡)は全然知らんし源田甲航空参謀も知らんだろう」との証言を得たと主張し、昭和58年の著書『豊田穣戦記文学集2 ミッドウェー海戦』で発表した<ref>豊田穣『豊田穣戦記文学集2 ミッドウェー海戦』講談社 321-322頁</ref>。また豊田は同著で、第一航空艦隊司令部の航海参謀[[雀部利三郎]]中佐、赤城の飛行士兼飛行隊士後藤仁一、加賀の飛行長[[天谷孝久]]、加賀の艦攻先任分隊長[[牧秀雄]]からもこの予令を知らないとの証言を得たと主張した<ref>豊田穣『豊田穣戦記文学集2 ミッドウェー海戦』講談社 後藤315、牧316、天谷317、雀部331頁</ref>。 |
|||
* '''映画''' |
|||
** [[太平洋の鷲]] (1953,日本) |
|||
作家の[[森史朗]]は、昭和51年3月19日に吉岡の元を訪ねて取材した所<ref>{{Harvnb|森史朗|2012b}} 54頁</ref>、「220信は源田航空甲参謀の指示で吉岡が書き、草鹿参謀長、南雲司令を経た通常の手順で発信されたもの」<ref>{{Harvnb|森史朗|2012b}} 423頁</ref>、「第一航空艦隊の戦闘詳報に「本日敵機動部隊出撃ノ算ナシ」の箇所が記載されていない<ref>{{Harvnb|森史朗|2012b}} 54頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.6</ref>のは、南雲司令部にとってみっともない事実であったため隠蔽したから」との証言を得たと主張し、平成24年の著書「ミッドウェー海戦 第二部 運命の日」で発表した<ref>{{Harvnb|森史朗|2012b}} 424-425頁</ref>(吉岡は平成12年没)。 |
|||
** [[ハワイ・ミッドウェイ大海空戦 太平洋の嵐]] (1960,日本) |
|||
** [[ミッドウェイ (映画)|ミッドウェイ]] (1976,アメリカ) |
|||
== 暗号解読を報じた米新聞 == |
|||
** [[連合艦隊 (映画)|連合艦隊]] (1981,日本) |
|||
アメリカ海軍が日本海軍の暗号を解読して待ち伏せしていたことは、ミッドウェー開戦直後の6月7日、『[[シカゴ・トリビューン]]』紙と系列の『[[ワシントン・タイムズ=ヘラルド]]』紙において"Navy Had Word of Jap Plan to Strike at Sea."という見出しの特ダネ記事として報じられた<ref>[https://www.usni.org/magazines/proceedings/1977/september/freedom-press-or-treason Freedom of the Press or Treason] by Grant Sanger, M. D. September 1977, ''Proceedings'', Vol. 103/9/895</ref><ref>[https://www.chicagotribune.com/opinion/ct-xpm-2013-08-11-ct-edit-midway-20130811-story.html Editorial: The Battle of Midway -- A secrets storm]''Chicago Tribune'', August 11, 2013</ref><ref>[https://www.chicagotribune.com/opinion/editorials/ct-battle-midway-japan-war-code-tribune-roosevelt-edit-0924-md-20160922-story.html Breaking the code on a Chicago mystery from World War II]''Chicago Tribune'', September 23, 2016</ref>。トリビューン紙は、[[アメリカ合衆国海軍長官|海軍長官]]の[[フランク・ノックス]]が経営する『{{仮リンク|シカゴ・デイリー・ニュース|en|Chicago Daily News}}』と競合する、反[[ニューディール]]派の新聞だった。この記事はアメリカ側で大問題となり、日本側が暗号被解読を察知する機会は存在していた。この暴露についてルーズベルトは激怒し、トリビューン紙とタイムズ=ヘラルド紙をスパイ容疑で起訴したが、世間の注目を浴びたことや、発行前に海軍による2度の検閲をクリアしたものであり、無罪となる可能性が高かったことから、提訴を取り下げた。 |
|||
* '''漫画''' |
|||
** [[ジパング (かわぐちかいじ)|ジパング]] |
|||
== 関連作品 == |
|||
* '''ゲーム''' |
|||
=== 歴史映画・小説、ノンフィクション、ドキュメンタリー === |
|||
** [[提督の決断シリーズ]] |
|||
*'''映画''' |
|||
** [[空母戦記]] |
|||
**[[ミッドウェイ囮作戦]] (1944年,アメリカ) |
|||
** [[Battlestations: Midway]] |
|||
**[[太平洋の鷲]] (1953年,日本) |
|||
** [[空母決戦]] |
|||
**[[ハワイ・ミッドウェイ大海空戦 太平洋の嵐]] (1960年,日本) |
|||
* '''アーケードゲーム''' |
|||
** |
**[[ミッドウェイ (1976年の映画)|ミッドウェイ]] (1976年,アメリカ) |
||
**[[連合艦隊 (映画)|連合艦隊]] (1981年,日本) |
|||
* '''シミュレーションゲーム(ボード)''' |
|||
**[[永遠の0]] (2013年,日本) |
|||
** [[ミッドウェー (シミュレーションゲーム)|ミッドウェー]]([[:en:Avalon hill|アバロンヒル]]社) |
|||
**[[ミッドウェイ 運命の海]] (2019年,アメリカ) |
|||
** [[日米航空母艦の戦い]]([[:en:Avalon hill|アバロンヒル]]社) |
|||
**[[ミッドウェイ (2019年の映画)|ミッドウェイ]] (2019年,アメリカ) |
|||
** [[日本機動部隊]]([[エポック]]社) |
|||
*'''ドキュメンタリー番組''' |
|||
*ゲームブック |
|||
**スーパーシミュレーション ミッドウェー大空海戦 (鈴木巌:新星出版社:1985年 |
|||
* '''ドキュメンタリー番組''' |
|||
**[[バトル360 空母エンタープライズの戦い]] |
**[[バトル360 空母エンタープライズの戦い]] |
||
*'''小説''' |
|||
**[[ミッドウェイ (小説)|ミッドウェイ]]([[森村誠一]])(2000年,日本) |
|||
=== 架空戦記・SF、ゲーム === |
|||
*'''小説''' |
|||
**連合艦隊ついに勝つ([[高木彬光]]) |
|||
**烈日 ミッドウェー1942([[横山信義]]) |
|||
**絶海戦線(横山信義) |
|||
*'''漫画''' |
|||
**[[ジパング (漫画)|ジパング]] |
|||
*'''シミュレーションゲーム(ボード)''' |
|||
**ミッドウェー([[アバロンヒル]]社) |
|||
**日米航空母艦の戦い(アバロンヒル社) |
|||
**ミッドウェー海戦([[ツクダホビー]]) |
|||
**日本機動部隊([[エポック社]]) |
|||
*'''コンピューターゲーム''' |
|||
**[[太平洋の嵐 (ゲーム)|太平洋の嵐]] - ボックスフォーメーションというミッドウェー海戦を扱ったシナリオがある<ref>戦略要務令『太平洋の嵐DX』ルール 174~175頁</ref>。 |
|||
**[[提督の決断シリーズ]] |
|||
**[[空母戦記]] |
|||
**[[Battlestations: Midway]] |
|||
**[[空母決戦]] |
|||
**[[艦隊これくしょん~艦これ~]] |
|||
**[[アズールレーン]] |
|||
**世界の覇者4 - 太平洋戦争シナリオの連合国ステージ3にて登場。また、定期イベントの太平洋戦線にも登場している。 |
|||
*'''ゲームブック''' |
|||
**スーパーシミュレーション ミッドウェー大空海戦 (鈴木巌:新星出版社:1985年) |
|||
== 脚注 == |
== 脚注 == |
||
{{脚注ヘルプ}} |
{{脚注ヘルプ}} |
||
{{Reflist}} |
|||
== |
=== 注釈 === |
||
{{Reflist|group="注"}} |
|||
{{Refbegin}} |
|||
=== 公刊戦史 === |
|||
* [[防衛庁]][[防衛研修所]][[戦史室]]『[[戦史叢書]] ミッドウェー海戦』[[朝雲新聞社]]、1971年3月1日 |
|||
**『第一航空艦隊戦闘詳報』 |
|||
* 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 大本営海軍部・聯合艦隊(2)』朝雲新聞社、1975年2月 |
|||
=== 出典 === |
|||
* [http://www.jacar.go.jp/index.html アジア歴史資料センター(公式)](防衛省防衛研究所) |
|||
{{Reflist|2|refs= |
|||
**Ref.C08030023800「昭和17年5月27日~昭和17年6月9日 機動部隊 第1航空艦隊戦闘詳報 ミッドウェー作戦(1)」 |
|||
<ref name="毎日20200912">『[[毎日新聞]]』朝刊2020年9月12日[https://mainichi.jp/articles/20200911/dde/012/040/018000c 【特集ワイド】旧日本軍の舞台裏「帝国軍人」共著者に聞く:誇張と改ざんの戦史/偵察機発進30分遅れの謎]([[赤城毅|大木毅]]と[[戸高一成]]への取材で構成)2021年5月4日閲覧</ref> |
|||
**Ref.C08030023900「昭和17年5月27日~昭和17年6月9日 機動部隊 第1航空艦隊戦闘詳報 ミッドウェー作戦(2)」 |
|||
}} |
|||
**Ref.C08030024000「昭和17年5月27日~昭和17年6月9日 機動部隊 第1航空艦隊戦闘詳報 ミッドウェー作戦(3)」 |
|||
**Ref.C08030024100「昭和17年5月27日~昭和17年6月9日 機動部隊 第1航空艦隊戦闘詳報 ミッドウェー作戦(4)」 |
|||
**Ref.C08030040400「昭和17年6月1日~昭和17年6月30日 ミッドウエー海戦 戦時日誌戦闘詳報(1)」 |
|||
**Ref.C08030040500「昭和17年6月1日~昭和17年6月30日 ミッドウエー海戦 戦時日誌戦闘詳報(2)」 |
|||
**Ref.C08030040600「昭和17年6月1日~昭和17年6月30日 ミッドウエー海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」 |
|||
**Ref.C08051579700「昭和16年12月~昭和17年6月 赤城飛行機隊戦闘行動調書(2)」 |
|||
**Ref.C08051585400「昭和16年12月~昭和17年6月 加賀飛行機隊戦闘行動調書」 |
|||
**Ref.C08051579300「昭和16年12月~昭和17年4月 飛龍飛行機隊戦闘行動調書(3)」(MI作戦出撃分含) |
|||
**Ref.C08051578800「昭和16年12月~昭和17年4月 蒼龍飛行機隊戦闘行動調書(3)」(MI作戦出撃分含) |
|||
**Ref.C08030761000「昭和17年4月1日~昭和17年6月21日 輸送船鹿野丸の最後 其の1(ミッドウェー作戦)(1)」 |
|||
**Ref.C08030761100「昭和17年4月1日~昭和17年6月21日 輸送船鹿野丸の最後 其の1(ミッドウェー作戦)(2)」 |
|||
**Ref.C08030680800「昭和17年5月1日~昭和19年9月30日 特設船あるぜんちな丸戦時日誌戦闘詳報 巌嶋丸.敵潜に依る被襲撃報告(1)」 |
|||
== 関連文献 == |
|||
{{Refbegin}} |
|||
* サミュエル・エリオット・[[モリソン]] 著/[[中野五郎]] 訳『ミッドウェイ海戦』([[筑摩書房]]、1966年) 「真珠湾攻撃」「サイパン日記」と同時収録 |
|||
*[https://www.jacar.go.jp/index.html アジア歴史資料センター(公式)]([[防衛省]][[防衛研究所]]) |
|||
* P・フランク、J・D・[[ハリントン]] 著/[[谷浦英男]] 訳『空母ヨークタウン』([[朝日ソノラマ]]文庫、1984年) ISBN 4-257-17048-4 |
|||
**Ref.A06031045900『週報』第297号(昭和17年6月17日)「敵の『空母集団』殲滅」 |
|||
* [[澤地久枝]] |
|||
**Ref.A06031046100『週報』 第299号(昭和17年7月1日)「米本土に深刻な脅威」 |
|||
** 『滄海よ眠れ』(全6巻)、毎日新聞社、1984年9月~1985年3月、のち[[文春文庫]](全3巻) |
|||
**Ref.C08030023800「昭和17年5月27日〜昭和17年6月9日 機動部隊 第1航空艦隊戦闘詳報(1)」 |
|||
** 『記録ミッドウェー海戦』、文藝春秋社、1986年5月 |
|||
**Ref.C08030023900「昭和17年5月27日〜昭和17年6月9日 機動部隊 第1航空艦隊戦闘詳報(2)」 |
|||
* 小林昌信ほか『戦艦「大和」檣頭下に死す』(光人社、1995) ISBN 4-7698-2087-9 |
|||
**Ref.C08030024000「昭和17年5月27日〜昭和17年6月9日 機動部隊 第1航空艦隊戦闘詳報(3)」 |
|||
** 佐々木確治「戦艦『陸奥』ミッドウェー海戦従軍記」(戦艦陸奥二番砲塔員)談 |
|||
**Ref.C08030024100「昭和17年5月27日〜昭和17年6月9日 機動部隊 第1航空艦隊戦闘詳報(4)」 |
|||
* [[亀井宏]]『ミッドウェー戦記 <small>さきもりの歌</small>』(光人社NF文庫、1995年) ISBN 4-7698-2074-7 |
|||
**Ref.C08030040400「昭和17年6月1日〜昭和17年6月30日 ミッドウェー海戦 戦時日誌戦闘詳報(1)」 |
|||
* [[淵田美津雄]]・[[奥宮正武]]『ミッドウェー』(学研M文庫、2008年) ISBN 978-4-05-901221-4 |
|||
**Ref.C08030040500「昭和17年6月1日〜昭和17年6月30日 ミッドウェー海戦 戦時日誌戦闘詳報(2)」 |
|||
* [[小学館]]「日米空母決戦ミッドウェー」 ([歴史群像]太平洋戦史シリーズ Vol.55) |
|||
**Ref.C08030040600「昭和17年6月1日〜昭和17年6月30日 ミッドウェー海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」 |
|||
**Ref.C08051579700「昭和16年12月〜昭和17年6月 赤城飛行機隊戦闘行動調書(2)」 |
|||
=== 論文 === |
|||
**Ref.C08051585400「昭和16年12月〜昭和17年6月 加賀飛行機隊戦闘行動調書」 |
|||
* [[外山三郎]]「大東亜戦争の軍事的教訓-3-ミッドウェ-海戦について」『[[防衛大学校紀要]] 人文・社会科学編』第35号、1977年 |
|||
**Ref.C08051579300「昭和16年12月〜昭和17年4月 飛龍飛行機隊戦闘行動調書(3)」(MI作戦出撃分含) |
|||
* [[滝沢民夫]]「戦争責任問題と歴史教育--ミッドウェ-海戦の教材化を通して」『[[歴史評論]]』第460号、1988年 |
|||
**Ref.C08051578800「昭和16年12月〜昭和17年4月 蒼龍飛行機隊戦闘行動調書(3)」(MI作戦出撃分含) |
|||
* [[高橋弘道]]「防衛庁からの戦史 ハワイ攻撃とミッドウェー海戦」『[[セキュリタリアン]]』第504号、[[防衛弘済会]]、2000年 |
|||
**Ref.C08030761000「昭和17年4月1日〜昭和17年6月21日 輸送船鹿野丸の最後 其の1(ミッドウェー作戦)(1)」 |
|||
* [[平間洋一]]「日本人特有の国民性とミッドウェー海戦」『[[丸]]』第55-7号、[[潮書房]]、2002年 |
|||
**Ref.C08030761100「昭和17年4月1日〜昭和17年6月21日 輸送船鹿野丸の最後 其の1(ミッドウェー作戦)(2)」 |
|||
* [[相澤淳]]「大本営発表とミッドウェー海戦」防衛庁[[防衛研究所]]『[[戦史研究年報]]』第7号 2004年 |
|||
**Ref.C08030680800「昭和17年5月1日〜昭和19年9月30日 特設船あるぜんちな丸戦時日誌戦闘詳報 巌嶋丸。敵潜に依る被襲撃報告(1)」 |
|||
* [[吉田昭彦]]「ミッドウェー海戦に見る日米艦隊の蹉跌」『丸』第58-6号、潮書房、2005年 |
|||
**Ref.C08030020900「昭和17年5月15日〜昭和17年12月31日 第6艦隊戦時日誌戦闘詳報(1)」 |
|||
* [[岩橋幹弘]]「ミッドウェー海戦--研究最前線」『[[歴史読本]]』第52号、[[新人物往来社]]、2007年 |
|||
**Ref.C08030081200「昭和17年5月29日〜昭和17年7月31日 第1水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)」 |
|||
* [[大塚好古]]「ミッドウェー海戦 (特集 日米空母 太平洋の戦い)」『[[世界の艦船]]』第715号、[[海人社]]、2009年 |
|||
**Ref.C08030112500「昭和17年4月1日〜昭和17年6月30日 第4水雷戦隊戦時日誌(3)」 |
|||
* 井上陽介「陸軍による海戦情報入手とその後の意志決定」『東京大学日本史学研究室紀要』第14号、2010年 |
|||
**Ref.C08030745600「昭和17年3月〜 軍艦愛宕戦闘詳報(2)」 |
|||
<!-- 著者名五十音順 --> |
|||
*[[相澤淳]]「大本営発表とミッドウェー海戦」防衛庁防衛研究所『[[戦史研究年報]]』第7号 2004年 |
|||
*{{Cite book|和書|ref=飛龍生涯|author1=碇義朗|authorlink1=碇義朗|title=飛龍 天に在り 航空母艦「飛龍」の生涯|year=1994|publisher=[[潮書房光人社|光人社]]|isbn=4-7698-0700-7|authorlink=碇義朗}} |
|||
**{{Cite book|和書|ref=新装版飛龍生涯|author=碇義朗|title=飛龍 天に在り 航空母艦「飛龍」の生涯|series=光人社NF文庫新装版|year=2013|publisher=[[潮書房光人社]] |isbn=978-4-7698-2800-6}} |
|||
*{{Cite book|和書|ref=海軍艦隊勤務|author1=池田清|authorlink1=池田清 (政治学者)|author2=野村実ほか|authorlink2=野村実|title=海軍艦隊勤務|year=2001|publisher=新人物往来社|isbn=4-404-02914-4|coauthors=近現代史編纂会 編}} |
|||
**萬代久男(飛龍機関長付少尉)「空母『飛龍』の機関室 真珠湾からミッドウェーへ」 |
|||
**: 別冊[[歴史読本]]『日本海軍軍艦総覧 戦記シリーズ37』([[新人物往来社]]、1997年)を再録 |
|||
*{{Cite book|和書|ref=井上 磯風|author=井上理二|title=駆逐艦磯風と三人の特年兵|year=1999|publisher=光人社|isbn=4-7698-0935-2|authorlink=井上理二}} |
|||
*{{Cite journal|和書 |author=井上陽介|year=2010|title=陸軍による海戦情報入手とその後の意志決定|journal=[[東京大学]]日本史学研究室紀要|issue=14|ref={{SfnRef|井上|2010}}}} |
|||
*[[岩橋幹弘]]「ミッドウェー海戦--研究最前線」『歴史読本』第52号、新人物往来社、2007年 |
|||
*{{Cite book|和書|ref=艦爆隊長江草|author=上原光晴|title=艦爆隊長 江草隆繁|series=光人社NF文庫|year=2015|publisher=[[潮書房光人社]] |isbn=978-4769828877|authorlink=上原光晴}} |
|||
*{{Cite book|和書|ref=戦藻録(九版)|author=宇垣纏|authorlink=宇垣纏|title=[[戦藻録]]|year=1968|publisher=原書房|coauthors=[[成瀬恭]](発行人)}} |
|||
*{{Cite book|和書|ref=大和最後の艦長|author=生出寿|title=戦艦「大和」最後の艦長 海上修羅の指揮官|series=光人社NF文庫|year=1996|publisher=光人社 |authorlink=生出寿}} |
|||
*: [[有賀幸作]](後の[[大和 (戦艦)|大和]]艦長)は1942年6月時点で第四駆逐隊司令。駆逐艦「嵐」に乗艦し、本海戦に参加した。 |
|||
*{{Cite book|和書|ref=勝つ戦略負ける戦略|author=生出寿|title=勝つ戦略 負ける戦略 東郷平八郎と山本五十六|series=徳間文庫|year=1997|month=7|publisher=[[徳間書店]] |isbn=4-19-890714-5}} |
|||
*{{Cite book|和書|ref=提督山口|author=生出寿|title=勇断提督・山口多聞|year=1985|month=7|publisher=徳間書店|isbn=4-19-223118-2}} |
|||
*生出寿『凡将山本五十六 烈将山口多聞』徳間文庫 ISBN 4198922829 |
|||
*<!-- エヌエイチケイ 2001 -->{{Cite book |和書 |ref={{SfnRef|その時4|2001}} |editor=NHK取材班 |title=その時歴史が動いた |year=2001 |publisher=[[中央出版|KTC中央出版]] |isbn=4877581901 |volume=4 }} |
|||
*{{Cite book|和書|ref=従兵長|author=<!--{{small|元連合艦隊司令部従兵長}}-->近江兵治郎|authorlink=近江兵治郎|title=連合艦隊司令長官 山本五十六とその参謀たち|year=2000|month=7|publisher=テイ・アイ・エス|isbn=4-88618-240-2}} |
|||
*[[大塚好古]]「ミッドウェー海戦 (特集 日米空母 太平洋の戦い)」『[[世界の艦船]]』第715号、[[海人社]]、2009年 |
|||
*{{Cite book |和書 |ref=harv|author=奥宮正武|authorlink=奥宮正武 |title=太平洋戦争と十人の提督 |series=[[学研M文庫]] |year=2001 |publisher=[[学研ホールディングス|学習研究社]] |isbn=4059010790 |volume=下 }} |
|||
*{{Cite book|和書|ref=海軍敗レタリ|author=越智春海|title=海軍敗レタリ [[大艦巨砲主義]]から先に進めない日本海軍の思考法 |series=光人社NF文庫|year=2015|publisher=[[潮書房光人社]] |isbn=978-4769829010|authorlink=越智春海}} |
|||
*{{Cite book|和書|ref=空母雷撃隊|author=金沢秀利|title=空母雷撃隊 艦攻搭乗員の太平洋海空戦記|year=2002|publisher=光人社|isbn=4-7698-1055-5|authorlink=金沢秀利}} |
|||
*: 飛龍艦攻電信員(機銃手)。記述と戦闘詳報では同乗搭乗員が異なる部分がある。 |
|||
*{{Cite book|和書|ref=亀井戦記|author=亀井宏|authorlink=亀井宏|title=ミッドウェー戦記 さきもりの歌|year=1995|month=2|publisher=光人社|isbn=4-7698-2074-7}} |
|||
**{{Citation|和書|last=亀井 |first=宏 |authorlink=亀井宏 |year=2014a |title=ミッドウェー戦記|volume=上 |publisher=講談社(講談社文庫)|isbn=978-4-06-277746-9}} |
|||
**{{Citation|和書|last=亀井 |first=宏 |authorlink=亀井宏 |year=2014b |title=ミッドウェー戦記|volume=下 |publisher=講談社(講談社文庫)|isbn=978-4-06-277747-6}} |
|||
*{{Cite book|和書|ref=川崎戦歴|author=川崎まなぶ|title=日本海軍の航空母艦 その生い立ちと戦歴|year=2009|publisher=大日本絵画|isbn=978-4-499-23003-2|authorlink=川崎まなぶ}} |
|||
*{{Citation| title = 連合艦隊参謀長の回想 | year = 1979 |ref=草鹿回想|last=草鹿|first=龍之介| publisher = 光和堂}} - 1952年、毎日新聞社『聯合艦隊』および1972年行政通信社『聯合艦隊の栄光と終焉』の再版。戦後明らかになった米軍側の情報などは敢えて訂正していないという(p.18)。 |
|||
*{{Cite book |和書 |ref=harv|author=源田実|authorlink=源田実 |title=海軍航空隊始末記 |series=文春文庫 |year=1996 |publisher=文藝春秋 |isbn=4167310031 }} |
|||
*{{Cite book|和書|ref=愛宕奮戦記|author=小板橋孝策|title=「愛宕」奮戦記 旗艦乗組員の見たソロモン海戦|year=2008|publisher=光人社NF文庫|isbn=978-4-7698-2560-9|authorlink=小板橋孝策}} |
|||
*: 高橋武士(艦長伝令、艦橋勤務)の戦時日記を元に小板橋が編集。小板橋は重巡愛宕沈没時の航海士。 |
|||
*小林昌信ほか『戦艦「大和」檣頭下に死す』(光人社、1995年) ISBN 4-7698-2087-9 |
|||
**佐々木確治「戦艦『陸奥』ミッドウェー海戦従軍記」(戦艦陸奥二番砲塔員)談 |
|||
**小谷光四郎「海は燃えている」(加賀整備員、昭和42年7月号) |
|||
*{{Cite book|和書|ref=海の武将|author=古村啓蔵回想録刊行会編|title=海の武将-古村啓蔵回想録|year=1982|month=2|publisher=[[原書房]]|isbn=4-562-01216-1}} |
|||
*{{Cite book | 和書 |ref=左近允| title = ミッドウェー海戦「運命の5分」の真実 | year = 2011 | publisher = 新人物往来社 | isbn = 978-4404040305| author = [[左近允尚敏]] }} |
|||
*[[澤地久枝]]『滄海よ眠れ』(全6巻)、毎日新聞社、1984年9月〜1985年3月、のち[[文春文庫]](全3巻) |
|||
*{{Cite book|和書|ref=澤地記録|author=澤地久枝|title=記録ミッドウェー海戦|year=1986|month=5|publisher=文藝春秋社|authorlink=澤地久枝}} |
|||
*{{Cite book|和書|ref=澤地記録|author=澤地久枝|title=記録ミッドウェー海戦|year=2023|month=6|publisher=ちくま学芸文庫|authorlink=澤地久枝 |isbn=978-4-480-51187-4}} |
|||
*<!-- スタッフォード 2007 -->{{Cite book|和書|ref=BIG E上|author=エドワード・P・スタッフォード|title=空母エンタープライズ THE BIG E |year=2007|publisher=元就出版社|isbn=978-4-86106-157-8|volume=上 |coauthors=井原裕司 訳}} |
|||
*<!-- スミス 1987 -->{{Cite book|和書|ref=爆撃王列伝|author=ピーター・C・スミス|authorlink=ピーター・C・スミス|title=日仏伊英米独ソ七人のサムライ 爆撃王列伝|year=1987|publisher=[[潮書房光人社|光人社]]|isbn=4-7698-0332-X|others=[[妹尾作太郎]](訳)}} |
|||
*: 第5章 アメリカ海兵隊 エルマー・グリデン大佐 勇気と秀でた統率能力と義務に対する献身をもって貢献した不死身の伝説的戦士 |
|||
*[[外山三郎]]「大東亜戦争の軍事的教訓-3-ミッドウェー海戦について」『[[防衛大学校紀要]] 人文・社会科学編』第35号、1977年 |
|||
*{{Cite book|和書|ref=最後の証言記録|author=宝島社|title=最後の証言記録 太平洋戦争 生き証人たちが「意を決して」語るあの戦争の真実|series=[[別冊宝島]]2363 |year=2015|month=7|publisher=[[宝島社]] |isbn=978-4800241528}} |
|||
*[[高橋弘道]]「防衛庁からの戦史 ハワイ攻撃とミッドウェー海戦」『[[セキュリタリアン]]』第504号、[[防衛弘済会]]、2000年 |
|||
*{{Cite book |和書 |ref=harv|author=高橋雄次 |title=鉄底海峡 重巡「加古」艦長回想記 |series=光人社NF文庫 |year=1994 |publisher=光人社 |isbn=4769820623 }} |
|||
*[[滝沢民夫]]「戦争責任問題と歴史教育--ミッドウェー海戦の教材化を通して」『[[歴史評論]]』第460号、1988年 |
|||
*{{Cite book|和書|ref=セ号作戦|author=種子島洋二|title=ソロモン海「セ」号作戦|series=光人社NF文庫|year=2003|publisher=光人社 |isbn=4-7698-2394-0|authorlink=種子島洋二}} |
|||
*{{Cite book|和書|ref=驕りの始まり|author=千早正隆|authorlink=千早正隆|title=日本海軍の驕りの始まり 元連合艦隊参謀の語る昭和海軍 |year=1989|publisher=並木書房|isbn=4-89063-002-3}} |
|||
*{{Cite book|和書|ref=海軍驕り|author=千早正隆|title=日本海軍の驕り症候群|year=1990|publisher=[[プレジデント社]]|isbn=4-8334-1385-X}} |
|||
**{{Cite book |和書 |ref=harv|author=千早正隆 |title=日本海軍の驕り症候群 |series=中公文庫 |year=1997 |publisher=[[中央公論新社|中央公論社]] |isbn=4122029937 |volume=下 }} |
|||
*{{Cite book|和書|ref=海軍功罪|author=千早正隆ほか|title=日本海軍の功罪 五人の佐官が語る歴史の教訓 |year=1994|publisher=プレジデント社|isbn=4-8334-1530-5}} |
|||
*<!-- トヨダ 1985 -->{{Cite book |和書 |ref={{SfnRef|豊田穣|1985}} |editor=豊田穣(責任編集)|editor-link=豊田穣 |title=昭和の戦争 ジャーナリストの証言 |year=1985 |publisher=4061872540 |volume=4 ミッドウェー海戦 }} |
|||
*{{Cite book |和書 |ref=harv|author=豊田穣 |title=空母「信濃」の生涯 |series=光人社NF文庫 |year=2000 |publisher=光人社 |isbn=4769822758 }} |
|||
*<!-- ニホンカイグン 1997 -->{{Cite book |和書 |ref={{SfnRef|軍艦総覧|1997}} |title=日本海軍軍艦総覧 |series=別冊歴史読本 戦記シリーズ37 |year=1997 |publisher=新人物往来社 |isbn=4404025130 |chapter=萬代久男(「飛龍」機関長付少尉)「空母『飛龍』の機関室 真珠湾からミッドウェーへ」 }} |
|||
*{{Cite book|和書|ref=橋本信号員|author=橋本廣|title=機動部隊の栄光 艦隊司令部信号員の太平洋海戦記 |year=2001|publisher=光人社|isbn=4-7698-1028-8|authorlink=橋本廣}} |
|||
*{{Cite book|和書|ref=証言|author=橋本敏男|authorlink=橋本敏男|title=証言・ミッドウェー海戦 私は炎の海で戦い生還した!|year=1992|publisher=光人社|isbn=4-7698-0606-X|coauthors=[[田辺弥八]]ほか}} |
|||
*{{Citation |和書 |last=秦 |first=郁彦 編著 |authorlink=秦郁彦 |year=2005 |title=日本陸海軍総合事典 |edition=第2 |publisher=東京大学出版会}} |
|||
*{{Cite book|和書|ref=戦場の教訓|author=半藤一利 他|title=太平洋戦争 日本海軍 戦場の教訓|year=2003|publisher=[[PHP研究所]]|isbn=978-4569660011}} |
|||
*[[平間洋一]]「日本人特有の国民性とミッドウェー海戦」『[[丸 (雑誌)|丸]]』第55-7号、[[潮書房光人社|潮書房]]、2002年 |
|||
*{{Cite book |和書 |ref={{SfnRef|淵田|奥宮|2008}} |author=淵田美津雄|authorlink=淵田美津雄 |title=ミッドウェー |series=学研M文庫 |year=2008 |publisher=学習研究社 |isbn=978-4-05-901221-4 |author2=奥宮正武|authorlink2=奥宮正武 }} |
|||
*{{Cite book|和書|ref=淵田自叙伝|author=淵田美津雄|title=真珠湾攻撃総隊長の回想 淵田美津雄自叙伝|year=2007|publisher=[[講談社]]|isbn=978-4-06-214402-5|coauthors=[[中田整一]](解説)}} |
|||
*<!-- フランク 1994 -->{{Cite book|和書|ref=ヨークタウン|author=パット・フランク |title=空母ヨークタウン|series=航空戦史シリーズ 48 |year=1994|publisher=朝日ソノラマ |isbn=4-257-17048-4|author2=ヨーゼフ・D・ハリントン著|others=[[谷浦英男]](訳)}} |
|||
*<!-- プランゲ 2005 -->{{Cite book|和書|ref=プランゲ上|author=ゴードン・ウィリアム・プランゲ|authorlink=ゴードン・ウィリアム・プランゲ|title=ミッドウェーの奇跡 上巻|year=2005|publisher=原書房|isbn=4-562-03874-8|others=[[千早正隆]](訳)}} |
|||
*<!-- プランゲ 2005 -->{{Cite book|和書|ref=プランゲ下|author=ゴードン・ウィリアム・プランゲ|title=ミッドウェーの奇跡 下巻|year=2005|publisher=原書房|isbn=4-562-03875-6|others=千早正隆(訳)}} |
|||
*別冊歴史読本『第22(517)号 海軍機動部隊全史』(新人物往来社、1999年) ISBN 4-404-02722-2 |
|||
*<!-- ボウエイ 1971 -->{{Cite book |和書 |ref={{SfnRef|戦史叢書43|1971}} |editor=防衛庁防衛研究所戦史室|editor-link=防衛研究所 |title=ミッドウェー海戦 |series=[[戦史叢書]]43 |year=1971 |publisher=[[朝雲新聞社]] }} |
|||
*防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 大本営海軍部・聯合艦隊(2)』朝雲新聞社、1975年2月 |
|||
*{{Cite journal|和書 |author=[[別宮暖朗]]|month=5|year=2011|title=逃げる山本五十六、隠れる戦艦大和|journal=[[歴史通]]|publisher=[[ワック・マガジンズ]]|ref={{SfnRef|別宮|2011}}}} |
|||
*{{Cite book|和書|ref=炎の海|author=牧島貞一|authorlink=牧島貞一|title=炎の海 報道カメラマン空母と共に|series=光人社NF文庫 |year=2001|publisher=光人社 |isbn=4-7698-2328-2}} |
|||
*: 牧島は日映カメラマン。「赤城」に乗艦し、ミッドウェー海戦を体験。 |
|||
*{{Cite book|和書|ref=続 炎の海|author=牧島貞一|title=続・炎の海 激撮報道カメラマン戦記|series=光人社NF文庫 |year=2002|publisher=光人社 |isbn=4-7698-2339-8}} |
|||
*: 『炎の海』より、ミッドウェー海戦部分のみ詳しく描写している。赤城被弾後は長良へ移動。 |
|||
*{{Cite book |和書 |ref=harv|author=松島慶三 |title=悲劇の南雲中将 真珠湾からサイパンまで |year=1967 |publisher=徳間書店 }} |
|||
*{{Cite book|和書|ref=電信員遺稿|author=松田憲雄|authorlink=松田憲雄|title=忘れ得ぬ「ト連送」 雷撃機電信員50年目の遺稿|year=1993|month=10|publisher=光人社|isbn=4-7698-0663-9}} |
|||
**{{Cite book|和書|author=松田憲雄|authorlink=松田憲雄|year=2000|month=11|title=雷撃機電信員の死闘 {{small|「ト連送」で始まった太平洋戦争}}|publisher=光人社|isbn=4-7698-2290-1|ref=雷撃機電信員}} 本書は『忘れ得ぬ「ト連送」 {{small|雷撃機電信員50年目の遺稿}}』を改題したもの。 |
|||
*[[松田十刻]]『山口多聞』[[光人社]] |
|||
*{{Cite book|和書|ref=森 生還|author=森拾三|title=奇蹟の雷撃隊 ある雷撃機操縦員の生還|year=2004|publisher=光人社|isbn=4-7698-2064-X|authorlink=森拾三}} |
|||
*:森は「蒼龍」艦攻操縦員。真珠湾攻撃から沈没まで乗艦。 |
|||
*{{Citation|和書|last=森史朗 |first= |authorlink=森史朗|title=ミッドウェー海戦 第一部 知略と傲慢|year=2012a|publisher=[[新潮社]](新潮選書)|isbn=978-4-10-603706-1}} |
|||
*{{Citation|和書|last=森史朗 |first= |authorlink=森史朗|title=ミッドウェー海戦 第二部 運命の日|year=2012b|publisher=新潮社(新潮選書)|isbn=978-4-10-603707-8}} |
|||
*<!-- モリソン 1966 -->[[サミュエル・モリソン|サミュエル・エリオット・モリソン]] 著/[[中野五郎 (著述家)|中野五郎]] 訳『ミッドウェー海戦』([[筑摩書房]]、1966年) |
|||
*:「真珠湾攻撃」「サイパン日記」と同時収録 |
|||
*<!-- ヤッパリ 2005 -->{{Cite book |和書 |ref={{SfnRef|やっぱり|2005}} |editor=「やっぱり勝てない?太平洋戦争」制作委員会 |title=やっぱり勝てない?太平洋戦争 日本海軍は本当に強かったのか |year=2005 |publisher=[[並木書房]] |isbn=4890631860 }} |
|||
*{{Cite book |和書 |ref={{SfnRef|横井俊之|2016}} |author=横井俊之ほか|authorlink=横井俊之 |title=空母二十九隻 日本空母の興亡変遷と戦場の実相 |year=2016 |publisher=潮書房光人社 |isbn=978-4769816119 }} |
|||
*[[吉田昭彦]]「ミッドウェー海戦に見る日米艦隊の蹉跌」『丸』第58-6号、潮書房、2005年 |
|||
*{{Cite book|和書|ref=歴群ミッドウェー|title=日米空母決戦ミッドウェー 運命の三日間!戦局を一変させた史上空前の大海空戦ドキュメント |series=「歴史群像」太平洋戦史シリーズVol.55 |year=2006|month=6|publisher=学習研究社 |ISBN=4-05-604471-6|origyear=}} |
|||
*{{Cite book |和書 |author= |authorlink=|editor = |year=1947|title=ミッドウエイ作戦(自一九四二年四月至一九四二年六月)|publisher=第二復員局残務処理部|id={{NDLJP|8815611}}|quote= }} |
|||
*<!-- トール 2012 -->[[イアン・トール]] 著/[[村上和久 (翻訳家)|村上和久]] 訳『太平洋の試練』下([[文藝春秋]]、2013年) |
|||
*{{cite book2 |last=Parshall |first=Jonathan |last2=Tully |first2=Anthony |title=Shattered Sword - The Untold Story of The Battle of Midway |publisher=Potomac Books |year=2005 |isbn=978-1-57488-924-6}} |
|||
{{Refend}} |
{{Refend}} |
||
*{{cite journal |last=Barde |first=Robert E. |title=Midway: Tarnished Victory |journal=[https://www.smh-hq.org/jmh.html Military Affairs] |volume=47 |issue=4 |date=December, 1983|year=1983 |issn=0899-3718 |ref={{SfnRef|Barde|1983}}}} |
|||
== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
||
{{ |
{{commonscat|Battle of Midway}} |
||
*[[ミッドウェイ (空母)]] |
|||
* [[大日本帝国海軍艦艇一覧]] |
|||
*[[シカゴ・ミッドウェー国際空港]] |
|||
* [[海軍]] - [[大日本帝国海軍]]- [[アメリカ合衆国海軍]] |
|||
* [[ミッドウェイ (空母)]] |
|||
* [[シカゴ・ミッドウェー国際空港]] |
|||
* [[Battlestations: Midway]] |
|||
* [[エンタープライズ (CV-6)]] |
|||
== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
||
*[https://www.youtube.com/watch?v=7OBw0r28qC0 The Battle Of Midway (1942)] アメリカ海軍省制作。 |
|||
* [http://ww2db.com/battle_spec.php?battle_id=6 WW2DB: ミッドウェー海戦] |
|||
{{ミッドウェー海戦参加兵力}} |
{{ミッドウェー海戦参加兵力}} |
||
{{太平洋戦争・詳細}} |
{{太平洋戦争・詳細}} |
||
{{戦前日本の経済史}} |
|||
{{Normdaten}} |
|||
{{DEFAULTSORT:みつとうええかいせん}} |
{{DEFAULTSORT:みつとうええかいせん}} |
||
[[Category:太平洋戦争の海戦]] |
[[Category:太平洋戦争の海戦]] |
||
[[Category:日本の海戦]] |
|||
[[Category:空戦]] |
[[Category:空戦]] |
||
[[Category:1942年の戦闘]] |
|||
[[Category:1942年のアメリカ合衆国]] |
|||
{{Link FA en}} |
|||
[[Category:1942年6月]] |
|||
{{Link FA he}} |
|||
[[Category:フランク・J・フレッチャー]] |
|||
{{Link FA pl}} |
|||
[[Category:レイモンド・スプルーアンス]] |
|||
[[Category:山本五十六]] |
|||
{{Link FA|en}} |
|||
[[Category:南雲忠一]] |
|||
{{Link FA|he}} |
|||
{{Link FA|pl}} |
|||
{{Link FA|pt}} |
|||
{{Link GA|de}} |
|||
{{Link GA|da}} |
|||
{{Link GA|no}} |
|||
[[ar:معركة ميدواي]] |
|||
[[bg:Битка при Мидуей]] |
|||
[[br:Emgann Midway]] |
|||
[[bs:Bitka kod Midwaya]] |
|||
[[ca:Batalla de Midway]] |
|||
[[cs:Bitva u Midway]] |
|||
[[da:Slaget om Midway]] |
|||
[[de:Schlacht um Midway]] |
|||
[[el:Μάχη του Μίντγουεϊ]] |
|||
[[en:Battle of Midway]] |
|||
[[es:Batalla de Midway]] |
|||
[[et:Midway lahing]] |
|||
[[eu:Midwayko gudua]] |
|||
[[fa:نبرد میدوی]] |
|||
[[fi:Midwayn taistelu]] |
|||
[[fr:Bataille de Midway]] |
|||
[[he:קרב מידוויי]] |
|||
[[hr:Pomorska bitka kod Midwaya]] |
|||
[[hu:Midwayi csata]] |
|||
[[id:Pertempuran Midway]] |
|||
[[io:Midway-batalio]] |
|||
[[it:Battaglia delle Midway]] |
|||
[[ko:미드웨이 해전]] |
|||
[[mk:Битката кај Мидвеј]] |
|||
[[mr:मिडवेची लढाई]] |
|||
[[ms:Pertempuran Midway]] |
|||
[[nl:Slag bij Midway]] |
|||
[[no:Slaget ved Midway]] |
|||
[[pl:Bitwa o Midway]] |
|||
[[pt:Batalha de Midway]] |
|||
[[ro:Bătălia de la Midway]] |
|||
[[ru:Битва за Мидуэй]] |
|||
[[simple:Battle of Midway]] |
|||
[[sk:Bitka o Midway]] |
|||
[[sl:Bitka za Midway]] |
|||
[[sr:Битка код Мидвеја]] |
|||
[[sv:Slaget vid Midway]] |
|||
[[th:ยุทธนาวีมิดเวย์]] |
|||
[[tr:Midway Muharebesi]] |
|||
[[uk:Битва за Мідвей]] |
|||
[[vi:Trận Midway]] |
|||
[[zh:中途岛海战]] |
2024年12月29日 (日) 15:09時点における最新版
この記事は中立的な観点に基づく疑問が提出されているか、議論中です。 (2023年11月) |
ミッドウェー海戦 | |
---|---|
左上から時計回りに、日本海軍の零式艦上戦闘機、攻撃を受ける日本海軍の空母飛龍、アメリカ海軍の空母ホーネット上のF4F艦上戦闘機、攻撃を受けるアメリカ海軍の空母ヨークタウン。 | |
戦争:太平洋戦争[1] | |
年月日:1942年6月5日 - 6月7日(6月3日から5日とする見解もある)[1] | |
場所:中部太平洋、ハワイ諸島北西のミッドウェー島とその周辺海域[1]。 | |
結果:アメリカ軍の勝利。日本軍は制空・制海権を失い、戦局の主導権がアメリカ側に移行[1]。 | |
交戦勢力 | |
大日本帝国 | アメリカ合衆国 |
指導者・指揮官 | |
山本五十六 近藤信竹 南雲忠一 山口多聞 † |
チェスター・ニミッツ フランク・J・フレッチャー レイモンド・スプルーアンス |
戦力 | |
日本海軍主力 空母4隻[1](艦載機248機)[2] |
アメリカ海軍主力 空母3隻[1](艦載機233機)[3] ミッドウェー島基地航空隊(126機)[3] 艦上機と基地航空隊の合計359機 |
損害 | |
空母4隻沈没 重巡洋艦1隻沈没 兵員3,057人戦死[4] |
空母1隻沈没 駆逐艦1隻沈没 兵員362人戦死[2] |
ミッドウェー海戦(みっどうぇーかいせん、英語: Battle of Midway)は、1942年6月5日から6月7日にかけて中部太平洋ミッドウェー島周辺で行われた日本海軍とアメリカ海軍による海戦である。太平洋戦争の転換点と言われ、この戦闘における敗北により日本側は制空権と制海権を失い、以後は戦争の主導権がアメリカ側に移ったことで知られている[1]。
1942年4月、山本五十六司令長官率いる連合艦隊が中心となり、アメリカ軍の基地となっていたハワイ諸島北西のミッドウェー島を攻略し、アメリカ艦隊の早期壊滅を目指す作戦が立案される。それに対し、日本側の暗号を解読することにより作戦を察知したアメリカ軍のチェスター・ニミッツ司令官はハワイから空母部隊を出撃させ迎撃を行った。それぞれの主力は日本側が南雲忠一司令官率いる第一航空艦隊の空母4隻(艦載機248機)、アメリカ側はフランク・J・フレッチャーとレイモンド・スプルーアンスの両司令官率いる機動部隊の空母3隻(艦載機233機)とミッドウェー島基地の航空部隊(126機)であった。航空兵力で100機以上劣勢の日本空母部隊は、索敵の失敗もあって攻撃準備中にアメリカ軍急降下爆撃機の急襲を受けることとなり、壊滅的な損害を被った。日本軍は空母4隻と重巡洋艦1隻を失い、3,000人を超える兵士が戦死し、艦載機も全て喪失した。勝利したアメリカ軍も、空母1隻と駆逐艦1隻を撃沈され航空機約150機を失った[1]。ただし、日本の航空機搭乗員は多くが脱出に成功したため戦死者は121名にとどまり、200名を超える搭乗員が戦死したアメリカ軍を下回った[5]。この戦い以後、太平洋戦争の主戦場はソロモン諸島とその周辺に移り、再編された日本機動部隊とアメリカ軍の間で激戦が繰り広げられることになる。
背景
[編集]MI作戦の成立
[編集]太平洋戦争開戦前、日本海軍は対米戦に対しては、アメリカ艦隊が日本近海に進出してきたところで艦隊決戦を行う方針を考えていた[6]。しかし連合艦隊司令長官であった山本五十六海軍大将は以前よりこれに疑問を持ち、対米戦になったら積極的な攻勢作戦をとるべきだと考えていた[7]。大島一太郎大尉(後に大佐、1928年〈昭和3年〉海軍水雷学校高等科学生)の回想によれば、山本は1928年(昭和3年)に海軍水雷学校で「対米作戦はハワイを攻略するような積極作戦を採るべきである」と述べていたという。これは、日本が日本近海の艦隊決戦を望んだところで、アメリカ軍は時期・方面などを自主的に決めて攻撃することができるのだから無意味であり、勝つには短期戦、リスクを承知の上での積極的攻勢しかなく、早期に敵の主力を叩き、相手国の戦意を喪失させようとの判断からであった[8]。実際、アメリカ海軍は、1941年(昭和16年)12月の真珠湾攻撃で主力の戦艦部隊を行動不能に陥れられたものの、無傷であった機動部隊による一撃離脱攻撃を各方面で繰り返し、哨戒でカバーしきれない日本軍を悩ませた[9]。アメリカ軍の奇襲による被害は小さかったが、連合艦隊は日本近海での艦隊決戦が困難であることに気付かざるを得なかった[10]。
日本の連合艦隊は、真珠湾攻撃後は南方作戦に機動部隊主力を投入していた。インド洋作戦が実施され、セイロン沖海戦で英国海軍に勝利したものの、インド洋の英領セイロン島を攻略する作戦案は採用されなかった。このため、連合艦隊幕僚は第二段作戦の移行までに残された4週間で代替案を作成しなければならなかったが[11]、連合艦隊幕僚は戦争を早期終結できる作戦が思いつかなかった。連合艦隊幕僚は、これまで示した作戦案が陸軍部隊を用いるから反対されたと考えており、かといって守勢の困難性を認識していたために、海上戦力のみで行う攻勢作戦計画の立案を応急的に進めなければいけないと判断した。結果、黒島亀人連合艦隊先任参謀を中心に、ハワイ諸島攻略を見据えた作戦計画を立案した[12]。軍令部は日本の国力からみてハワイ諸島の攻略と維持など不可能と判断し、むしろインド洋方面の作戦を強化してイギリスを追い詰め、同盟国ナチス・ドイツ支援を構想していたという意見もある[13]。
ハワイ攻略が企図できるようになるまで間隔が空くため、連合艦隊はMI作戦を提案した。これはハワイ攻略の準備ではなく、つなぎであったが、この作戦によって米空母を撃滅できれば、ハワイ攻略作戦は容易になるとは見ていた[14]。軍令部と連合艦隊司令部は、この作戦について対立した。軍令部はアメリカとオーストラリア(豪州)のシーレーンを断ち切る米豪遮断を企図して、フィジー諸島方面の攻略を計画していた[15]。軍令部航空担当部員の三代辰吉中佐は「仮に日本軍が同島を占領しても、米艦隊は本当に来るのか。日本軍の補給路が米軍に遮断され、疲弊したところを簡単に奪回されるだけではないか」と考え反対し、FS作戦(ニューカレドニア島とフィジー諸島の攻略)重視の立場を崩さなかった[16]。連合艦隊司令部の黒島参謀と渡辺安次参謀は、山本長官が「この作戦が認められないのであれば司令長官の職を辞する」との固い決意を持っているとして、真珠湾攻撃で空母6隻の使用を認めさせた時と同様の交渉をしたが、話は進まなかった[17]。大本営海軍部との交渉に見込みなしと判断した渡邉参謀は、伊藤整一軍令部次長に直接連合艦隊のミッドウェー作戦案を説明し、山本長官の意向を伝えた[18]。伊藤次長はこれを踏まえてさらに審議を行い、FS作戦に修正を加え、連合艦隊の作戦案を採用することを4月5日に内定した[19]、永野修身軍令部総長の認可も得て、ミッドウェー島の占領および米空母部隊の捕捉撃滅を狙うこととなった[20]。古村啓蔵(筑摩艦長)は同期の富岡定俊軍令部作戦課長から、艦隊はミッドウェー攻略成功後にトラック基地に集合、米豪遮断のFS作戦実施予定と聞き、驚いていたという[21]。
さらに軍令部はミッドウェーと同時にアリューシャン列島西部を攻略し、米航空兵力の西進を抑えるとともに、両地に哨戒兵力を進出させれば、米空母の日本本土近接を一層困難にすることができると判断。そのためのAL作戦実施を連合艦隊に諮り、連合艦隊でもその必要性を認めていたし、攻略兵力にも余裕があったので直ちにこれに同意した[22]。AL作戦の目的は、アメリカの北方路の進行を阻止するもので、米ソ間の連絡を妨害し、ソビエト連邦領シベリアにアメリカの航空部隊の進出を妨害しようとするものであった。当時、アメリカが大型爆撃機を開発したとの情報があった。図上演習においてアリューシャン方面からアメリカの最新大型爆撃機が東京空襲を行い、その一部が奇襲に成功するという結果が出ており、海軍部も連合艦隊もこの方面への関心を高めていた背景があり、連合艦隊も同意して第二段作戦の全体像が固まった[23][24]。軍令部第一部長福留繁によれば、「ミッドウェーを攻略しても、劣勢な米艦隊は反撃に出ないのではないかとの懸念が強かった。そこでアリューシャン列島方面への攻略作戦を行えば、同地が米国領であるため、ミッドウェー方面への米艦隊の出撃を強要する補助手段となるだろうとの含みもあり、実施を要望した」という[25]。
1942年4月5日、海軍の次期作戦構想が内定し、主務者連絡で陸軍に伝えた。ミッドウェー攻略は海軍単独で行うが、できれば陸軍兵力の派出を希望するとした。陸軍参謀本部は、ハワイ攻略の前提ではないことが明言され、海軍単独でも実施してもよいとのことだったので反対できなかった[26]。
ドーリットル空襲
[編集]1942年4月18日、米空母ホーネットはミッドウェー近海で僚艦エンタープライズと合流し、第16任務部隊として日本に向けて進撃した。エンタープライズは航空支援をおこない、ホーネットは日本本土に接近してジミー・ドーリットル中佐率いるB-25ミッチェル双発爆撃機で編成された爆撃隊を発艦させる役割分担である。爆撃隊はホーネットから発進後、東京を筆頭に日本の主要都市を攻撃する予定であった。第16任務部隊は、4月18日の朝に犬吠埼東方で日本の特設監視艇第二十三日東丸に発見され、ウィリアム・ハルゼー中将は予定より早い攻撃隊発艦を決意する。爆撃隊は前日に発艦準備を整えていたが、40ノットを超える強風と30フィートに及ぶ波が激しいうねりとなり、ホーネットは大きく揺れていた。その中でドーリットル隊は発進し、09:20までに16機のB-25は全て発艦した。
B-25爆撃隊は、東京、名古屋、大阪を12時間かけて散発的に爆撃。日中戦争下の中国大陸で日本軍支配地域外への脱出を図り、不時着後に機体は放棄された。セイロン沖海戦で勝利した南雲忠一率いる日本機動部隊は、台湾沖で第16任務部隊追撃命令を受けたが距離が遠すぎ、燃料を浪費しただけだった[27]。
空襲による被害は微小であったが、日本本土上空にアメリカ軍機が侵入したことは日本に大きな衝撃を与えた。また米艦隊を発見した際に、アメリカ軍が双発爆撃機を用意していたことまでは見抜けず「米艦載機が来るなら航続距離からして翌日である」という誤った判断をしたため、陸海軍は結果として空襲を防ぐことができなかった。国民の間でも不安が広がり、しばらく敵機来襲の誤報が続き[28]、山本長官にも国民からの非難の投書があった[29][注 1]。
山本長官は以前から、本土空襲を行われたときの精神的な影響を重視していたため、既に内定していたミッドウェー攻略作戦の必要をこの空襲で一層感じた。連合艦隊航空参謀佐々木彰によれば、山本長官は日本空母によるハワイ奇襲が企図できるのであるから、哨戒兵力の不十分な日本本土に対しても、アメリカもまた奇襲を企図できると考えていたようであるという[31]。この空襲により日本陸軍もミッドウェー作戦・アリューシャン作戦を重大視するようになり、陸軍兵力の派遣に同意、ミッドウェー作戦は日本陸海軍の総攻撃に発展した[32]。昭和天皇の住む東京を爆撃されたことで山本長官のプライドが傷つき、アリューシャンからミッドウェーにわたる航空哨戒線を築くことで東京に対する二度目の米機動部隊襲撃を阻止する狙いがあったという推測や[33]、二度目の東京空襲を防ぐためにミッドウェー攻略作戦を急ぐ必要があり、空母瑞鶴を有する第五航空戦隊の戦力が回復するのを待てなかったという推測もある[34]。
日本の準備
[編集]MI作戦の内容
[編集]連合艦隊が計画したミッドウェー作戦構想は、ミッドウェー島を攻略し、アメリカ艦隊(空母機動部隊)を誘い出し捕捉撃滅することに主眼が置かれた。日本軍は同島をアメリカ軍の要点であり[35]、占領した場合、軍事上・国内政治上からアメリカ軍は全力で奪回しようとすると考えた[36]。一方、軍令部ではミッドウェーは攻略後の防衛が困難で、わざわざ米空母が出撃して来るとは考えにくいと見ていた[15]。
作戦構想では現時点で豪州方面で活動している米空母部隊がミッドウェー近海に出撃する確率は高い、と計算していた。日本軍は情報分析の結果、アメリカ軍の空母戦力を以下のように推定した[37]。
- 空母レンジャーは大西洋で活動中。
- 捕虜の供述によればレキシントンは撃沈されたようであるが、アメリカ合衆国西海岸で修理中という供述者もある。
- エンタープライズとホーネットは太平洋に存在。
- ワスプの太平洋への存否については確証を得ない。
- 特設空母は6隻程度完成、半数は太平洋方面に存在の可能性があるも、低速なので積極的作戦には使用し得ない。
これを踏まえ日本軍は、ミッドウェー攻撃を行った場合に出現するアメリカ軍規模を、「空母2-3隻、特設空母2-3隻、戦艦2隻、甲巡洋艦4-5隻、乙巡洋艦3-4隻、軽巡洋艦4隻、駆逐艦30隻、潜水艦25隻」と判断した[38]。アメリカ軍が同島に海兵隊を配備し、砲台を設置して防衛力を高めていることも察知していたが、その戦力は「飛行艇24機、戦闘機11、爆撃機12、海兵隊750、砲台20前後」または「哨戒飛行艇2コ中隊、陸軍爆撃機1乃至2中隊、戦闘機2コ中隊」であり[39]、状況によってはハワイから「飛行艇60機、爆撃機100機、戦闘機200機」の増強もあると推測した[40]。同島占領作戦実施の際にはアメリカ軍基地航空隊からの空襲も想定していたが、直掩の零戦と対空砲火で排除できるとしている[41]。日本軍が海兵隊3000名、航空機150機というミッドウェー島の本当の戦力を知るのは、空母部隊が全滅した後の捕虜の尋問結果からだった[42]。
作戦は、ミッドウェー島上陸日(N日)を6月7日と決定して一切を計画した。上陸用舟艇で島のリーフを越えて上陸するため、下弦月が月出する午前0時を選んだ。7月は霧が多く上陸が困難なため、6月7日に固定した。上陸作戦の制空と防備破壊は3日前(後に延期で2日前になる)に南雲艦隊が空母6隻で奇襲することで可能と考えた。連合艦隊は奇襲の成功を前提にしており、アメリカが日本の企図を察知して機動部隊をミッドウェー基地の近辺に用意することは考慮していなかった。米機動部隊の反撃は望むところであったが、米機動部隊は真珠湾にあってミッドウェー基地攻撃後に現れることを前提に作戦を計画した。ミッドウェー島占領後、基地航空部隊の哨戒網で敵機動部隊を発見、第一航空艦隊(一航艦)は第二艦隊と協力してそれを攻撃、山本艦隊は機を見て参加し撃滅するというものだった[43]。
MI作戦の主目標はミッドウェー島攻略と米機動部隊(空母部隊)撃滅のどちらにあるのかはっきりしておらず、連合艦隊は米機動部隊撃滅を重視する発言をしていたが、軍令部は主目標を攻略による哨戒基地の前進にあると示していた。軍令部で作戦計画の説明を受けた第一航空艦隊参謀長草鹿龍之介少将と第二艦隊参謀長白石萬隆少将は、ドーリットル空襲の直後だったため、哨戒基地の前進によって米空母による本土再空襲を阻止するものと抵抗なく解釈し、ミッドウェー作戦の主目的は同島攻略という強い先入観を得た。また、5月の図上演習で、陽動で米艦隊を他に誘導してミッドウェーを攻略する案が出たが、連合艦隊参謀長から、陽動をしたら米艦隊をミッドウェーに引き出せないとの意見が出た。この直後、軍令部に基づく大本営命令、総長指示で攻略が主目標に示されただけに、白石少将は連合艦隊の解釈が間違っているのではと思ったという。連合艦隊は出撃前に再び米艦隊の撃滅が目的と伝えるが、参加部隊には徹底して伝わらなかった[44]。
戦後、草鹿は作戦目標が曖昧でミッドウェー攻略が優先であったことを指摘し、「二兎を追うことになった」と表現している[45]。第一航空艦隊源田実中佐は、日本の兵力が分散し過ぎて目標を見失っており、集中という兵術の原則にも反していると感じたため、図上演習後の研究会で連合艦隊参謀黒島亀人に「作戦の重点をアメリカ艦隊撃滅に置くべきである。そのためにはアリューシャン攻撃部隊やあらゆる作戦可能な兵力を、たとえ第五航空戦隊(瑞鶴、翔鶴)が参加できるのを待ってもミッドウェーに集中すべきだ」と主張したが、黒島は「連合艦隊長官は一度決めた方針に邪魔が入ることを望まれない。機動部隊の主要任務はミッドウェー攻略支援だ」と答えたため、アメリカ艦隊撃滅は二次的なものと源田は受け止めた[46]。源田は、作戦目標がアメリカ軍機動部隊の撃滅かミッドウェー基地攻略なのか曖昧であったとし、戦略戦術からいってどうにも納得できない部分があり航空主兵なのか戦艦主兵なのかも曖昧で、戦艦大和と山本長官が後ろからついてくる事も疑問だったという[47]。
図上演習
[編集]4月28日から1週間かけて戦艦大和で「連合艦隊第一段階作戦戦訓研究会」と「第二段作戦図上演習」が行われた[48]。そのうち、5月1日から4日間が第二段作戦の図上演習で、ハワイ攻略まで行われた。実演は5月3日午後に終わり、3日夜と4日午前にその研究会を行い、4日午後からは第二期作戦に関する打ち合わせが行われた[49]。図上演習では、連合艦隊参謀長宇垣纏中将が統監兼審判長兼青軍(日本軍)長官を務め、青軍の各部隊は該当部隊の幕僚が務め、赤軍(アメリカ軍)指揮官は松田千秋大佐(戦艦日向艦長)が務めた[50]。
この図上演習において、ミッドウェー攻略作戦の最中に米空母部隊が出現して艦隊戦闘が行われ、日本の空母に大被害が出て攻略作戦続行が難しい状況となったが、審判をやり直して被害を減らし、空母を三隻残した状況で続行させた[51]。空母加賀、赤城は爆弾9発命中判定で沈没判定となったものの[52]、宇垣纏連合艦隊参謀長は「9発命中は多すぎる」として爆弾命中3発に修正させ、赤城を復活させたなどである[52]。ミッドウェー島攻略は成功したが、計画期日より一週間遅れ、艦艇の燃料が足りなくなり、一部の駆逐艦は座礁した[51][53]。宇垣は「連合艦隊はこうならないように作戦を指導する」と明言した[51]。[注 2]このとき、攻略前に米機動部隊がハワイから出撃してくる可能性はあったのだが、図上演習でアメリカ軍を担当した松田大佐は出撃させることはなかった[55]。
戦訓分科研究会において、連合艦隊司令部の宇垣参謀長は一航艦の草鹿参謀長に対し、「敵に先制空襲を受けたる場合、或は陸上攻撃の際、敵海上部隊より側面をたたかれたる場合如何にする」と尋ねると、草鹿は「かかる事無き様処理する」と答えたため、宇垣が具体的にどうするのかと追及すると、第一航空艦隊の源田参謀が「艦攻に増槽を付したる偵察機を四五〇浬程度まで伸ばし得るもの近く二、三機配当せらるるを以て、これと巡洋艦の零式水偵を使用して側面哨戒に当らしむ。敵に先ぜられたる場合は、現に上空にある戦闘機の外全く策無し」と答えた[56][57]。そのため宇垣は注意喚起を続け、作戦打ち合わせ前に第一航空艦隊は第一波攻撃隊をミッドウェー島攻撃、第二波攻撃隊は敵艦隊に備えることとした[56]。米機動部隊が現れた際に反撃するために第一航空艦隊(艦攻)の半数は航空魚雷装備となったが、連合艦隊首席参謀黒島亀人大佐は命令として書き込む必要はないと航空参謀佐々木彰中佐に指示した[58]。
研究会で作戦参加者から最も要望されたのが、準備が間に合わないことによる作戦延期だった[59]。第二航空戦隊司令官山口多聞少将と一航艦航空参謀源田実中佐は作戦に反対と食いついたが、連合艦隊司令部は聞く耳を持たなかった[60]。4日の研究会で、第一航空艦隊参謀長草鹿少将と第二艦隊参謀長白石萬隆少将も作戦に反対したが、受け入れられなかった。5日に再び反対しに行ったが、第二段作戦を手交され反対せずに帰った[61]。第二艦隊長官近藤信竹中将は、米空母がほぼ無傷で残っておりミッドウェー基地にも敵戦力があることから、ミッドウェー作戦を中止して米豪遮断に集中すべきと反対した。しかし、山本長官は奇襲が成功すれば負けないと答えた。また近藤中将は、ミッドウェー島を占領しても補給が続かないと指摘したが、宇垣参謀長は補給が不可能なら守備隊は施設を破壊して撤退すると答え、攻略後の島の確保、補給については何ら考えられていなかった[62]。占領後、他方面で攻勢を行い、アメリカ軍にミッドウェー奪回の余裕を与えなければ10月のハワイ攻略作戦までミッドウェー島を確保できると考えていたという意見もある[63]。
図上演習と研究会は、ミッドウェー作戦の目的である敵空母捕捉撃滅が難しく、高いリスクを伴う作戦であることを示したが、連合艦隊は問題点を確認することなく作戦を発動した。特に山本長官は「本作戦に異議のある艦長は早速退艦せよ」と強く訓示している[64]。第五艦隊参謀長中澤佑によれば、中澤が作戦会議で機動部隊と連合艦隊主隊の距離が離れすぎていることを指摘すると、黒島は問題ないと発言したという[65]。
5月25日、MI作戦における艦隊戦闘の図上演習・兵棋演習、続いて作戦打ち合わせを行い、関係者の思想統一を図った。しかしそれはミッドウェー攻略の次の日から始まっており、アメリカの主力および空母はハワイ諸島オアフ島の南東450海里から西方に急進中の状態から立ち上がった[66]。ミッドウェー島攻略が奇襲によって成功することが前提で、敵機動部隊が現れることはもはや考慮されていなかったのである[67]。連合艦隊は第一航空艦隊に対し敵艦隊に作戦中備えるように指導しながら、図上演習では攻略の翌日に敵艦隊がハワイにいるものとし、研究会では「敵艦隊が出現すれば、もうけものである」との楽観論さえ出る始末で、敵艦隊出現の可能性を薄く見ており、この空気が各部隊に伝わっていたという意見もある[68]。打ち合わせにおいて第一航空艦隊は、部品が間に合わないので延期を要望し、連合艦隊は一日だけ一航艦の出撃延期を認め、6月4日予定の空襲は5日に変更されたが、7日の攻略は変更されなかったため、空襲前に攻略部隊船団が敵飛行哨戒圏内に入り、発見されやすくなった。しかしこれも連合艦隊はこれを敵艦隊誘出に役立つと楽観視した[69][70]。
出撃前日の5月26日、赤城において作戦計画の説明と作戦打ち合わせが行われた。山口少将から索敵計画が不十分という意見があった[71]。索敵計画を立案した第一航空艦隊航空参謀吉岡忠一少佐によれば、当時の敵情判断から索敵計画は改めなかったという。吉岡は、攻略作戦中に敵艦隊が現われるとはほとんど考えていなかったのと、索敵を厳重にするのが良いのはわかっていたが、索敵に艦上攻撃機(艦攻)を使うのは攻撃力の低下を意味するので惜しくてできなかったとして、状況判断が甘かったと回想している[72]。
この計画での一航艦司令部の心配は、攻撃開始日が決まっているので奇襲について機転を働かせる余地がなかったことと、空母はアンテナの関係から受信能力が低いため、敵信傍受が不十分で敵情がわかりにくくなることであった。そのため、一航艦参謀長の草鹿少将は、連合艦隊司令部(主に旗艦の戦艦大和)が敵情を把握して作戦指示することを連合艦隊参謀長の宇垣参謀長に取りつけた[72][73]。土井美二中佐(第八戦隊首席参謀)によれば、草鹿参謀長が「空母はマストが低くて敵信傍受が期待できない。怪しい徴候をつかんだらくれぐれも頼む」と出撃前に何度も確認していたという[74]。
参加部隊の状態
[編集]山本長官の意気込みとは反対に[75]、4月下旬に日本本土に戻った第一航空艦隊(南雲機動部隊)は問題を抱えていた。開戦以来、ドック入りや長期休暇もなく太平洋を奔走したため、艦・人員とも疲労がたまっていた[76]。さらに「相当広範囲の転出入」という人事異動のため[77]、艦艇と航空部隊双方の技量が低下していた[78]。
ミッドウェー海戦後の戦闘詳報では「各科共訓練の域を出ず特に新搭乗員は昼間の着艦ようやく可能なる程度」と評している[77]。雷撃機隊は「この技量のものが珊瑚海に於いて斯くの如き戦果を収めたるは不思議なり」と講評されている[79]。水平爆撃と急降下爆撃は満足な訓練ができず、戦闘機隊は基礎訓練のみで編隊訓練は旧搭乗員の一部が行っただけ[80]。着艦訓練は訓練使用可能空母が加賀のみだけだったため、新人搭乗員の訓練が優先され、ベテラン搭乗員でも薄暮着艦訓練を行った者は半分程度であった。戦闘詳報は「敵情に関しては殆ど得る所なく、特に敵空母の現存数、その所在は最後まで不明なりや。要するに各艦各飛行機とも訓練不十分にして且つ敵情不明情況に於いて作戦に参加せり」と述べている[79]。
不安要素があったとはいえ、連合艦隊司令部、軍令部、南雲機動部隊のいずれも自信に満ち溢れていた[81]。5月5日、永野軍令部総長より山本長官に対し大海令第18号が発令された[82]。
- 連合艦隊司令長官は陸軍と協力し「AF」(ミッドウェー)及「AO」(アリューシャン)西部要地を攻略すべし。
- 細項に関しては軍令部総長をして指示せしむ。
大海令第18号により、ハワイ攻略の前哨戦として山本長官、宇垣参謀長の指揮下で艦艇約350隻、航空機約1000機、総兵力10万人からなる大艦隊が編成された。これは戦艦大和他の戦艦部隊(第一艦隊)が呉基地の柱島泊地を出撃、参加する初めての作戦であった。
淵田美津雄中佐によれば、第一航空艦隊航空参謀源田実は当時、第一段階作戦の後始末でミッドウェー作戦を検討する暇も無かったと打ち明けており、草鹿参謀長に至っては真珠湾で戦死した航空機搭乗員の二階級進級問題の折衝で走りまわり(航空機搭乗員の士気に関わるため)、ミッドウェー作戦の研究どころではなかったという[83]。草鹿は「準備期間が不十分で不満もあったが強く反対せず、何とかやれるだろうと考えていた。それよりハワイ攻撃の戦死者の2階級特進の方に関心があった」という[84]。
当初、瑞鶴、翔鶴を含む空母6隻の計画だったが、珊瑚海海戦の報告を聞いた時点で海軍首脳部は無傷の瑞鶴をミッドウェーに、大破した翔鶴を修理後アリューシャン作戦に回す予定であった。しかし翔鶴の修理には3ヶ月要し、また瑞鶴も無傷であったものの参加した搭乗員の損耗が激しく、トラック島に停泊、補充を待ちの状態で、本作戦に不参加となった[85]。
これにより日本側の参加空母数が減ることとなったが、それでも隻数の上では4対3(日本軍は、エンタープライズ、ホーネット、ワスプ出現可能性考慮)と、アメリカ軍より優勢であった。ただしミッドウェー基地の航空機を計算に入れると、航空戦力比は日本軍「戦闘機105、急降下爆撃機84、雷撃機94、艦偵2、水上戦闘機24、水上偵察機10、計319(南雲部隊、近藤部隊、輸送部隊合計)」、アメリカ軍機動部隊「戦闘機79、急降下爆撃機112、雷撃機42」、アメリカ軍基地戦力「戦闘機27、急降下爆撃機27、雷撃機6、飛行艇32、大型爆撃機23」総計348機となって、ほぼ互角であった[86]。
また、日本軍では情報管理が徹底しておらず、空母飛龍では出発前に誰もがミッドウェー作戦を知っており、一般住民の方が乗組員より先に目的地を知っていたという証言もある[87]。異動してきた士官が「今度はミッドウェーですね」と挨拶し[88]、さらに日用品や食料品を機関部の通路にまで詰め込んだ[89]。連合艦隊司令部も、ミッドウェー島占領後に配備予定の21機の零戦(第六航空隊)を4隻の空母に詰め込んだ[90]。野村留吉大佐(佐世保鎮守府参謀)によれば、海軍第二特別陸戦隊は「6月以降、当隊あての郵便物は左に転送されたし。ミッドウェー」と電報を打ったという[91]。また5月下旬に呉に戻った重巡洋艦加古の高橋艦長は、息子から近々行われる大作戦について教えてくれとせがまれ困惑していた[92]。第二艦隊参謀長白石萬隆少将は「連合艦隊は、作戦目標を多少漏らすことで敵艦隊の誘出を図ろうとしていた」との見解を述べている[93]。そして、連合艦隊長官山本五十六大将は、愛人の河合千代子と密会し、別離を惜しんだ後の手紙に「5月29日に出撃して、三週間ばかり全軍を指揮する。多分あまり面白いことはないだろう。この戦いが終わったら、全てを捨てて二人きりになろう」と記している[94]。
K作戦
[編集]作戦では日本側の事前索敵計画として6月2日までに2個潜水戦隊をもって哨戒線を構築する予定だった。しかし担当する第六艦隊(潜水戦隊で構成された艦隊)で長距離哨戒任務に適した3個潜水戦隊の内、第二潜水戦隊はインド洋での通商破壊戦後の整備中、第八潜水戦隊は豪州・アフリカでの作戦任務中、第一潜水戦隊は北方作戦に充てられる事になった為どれも作戦には投入できなかった。
このため、「大型」で構成される第三・五潜水戦隊が担当する事になったが、五潜戦は日本からクェゼリンへの回航途上で(第六艦隊に作戦が通知された5月19日時点)予定期日に間に合うのは不可能、三潜戦も所属の潜水艦の内3隻が第2次K作戦に充てられたため、両隊あわせて9隻の潜水艦が予定配置についたのは6月4日になってしまった。特に米海軍第16任務部隊が6月2日に五潜戦の担当海域を通過しており、本作戦における大きな禍根になった。
次に予定されていたのは第二十四航空戦隊によるミッドウェー周辺への航空索敵である。これは二式大艇によるウェーク島を経由した索敵計画であったが、ウェーク環礁が二式大艇を運用するには浅すぎ、経由地がウォッゼ環礁に変更された結果ミッドウェー全海域の索敵が不可能となった。更にパイロットの技量不足で夜間着水が困難であり、薄暮までにはウォッゼ環礁に帰還する必要があったので、肝心な北方海域哨戒(5月31日)が短縮された。これにより結局、米艦隊を発見する事は出来なかった。仮に予定通り北方海域を哨戒していれば、米艦隊を発見できた確率は非常に高かった。
最後に計画され、連合艦隊が最も重視した第2次K作戦は、オアフ島西北西480海里にあるフレンチフリゲート礁で潜水艦の補給を受けた二十四航戦の二式大艇によるオアフ島の航空索敵である[95]。第1次は3月に実施し、さらに二式大艇によるハワイ空襲時にもフレンチフリゲート礁は使用された。しかし、アメリカ軍は日本軍の作戦を暗号解読で察知すると、海域一帯に警戒艦艇を配置して封鎖した。潜入した伊号第百二十三潜水艦は、「見込み無し」という報告を送った[96]。これを受け、第十一航空艦隊は5月31日21時23分に作戦中止を二十四航戦に指示した。この偵察作戦が成功すれば、それがもたらす成果は大きいはずだったが[97]、大型機による夜間偵察では大型艦を空母と誤認する危険があった[98]。また米空母の真珠湾在泊を確認できれば作戦の価値は極めて大きいが、米空母が不在であった場合は、5月末から6月初にかけての日本海軍の状況判断から見て、米空母はまだ南太平洋方面で行動中であろうと判断したのではないかという意見もある[99]。6月1日、二十四航戦の司令部からミッドウェーの600海里圏付近で敵の潜水艦や飛行艇と会敵したことと、第2次K作戦の中止が連合艦隊司令部、南雲機動部隊司令部に伝達された[100][101]。無線封止が重要視されたため連合艦隊司令部からは南雲機動部隊に作戦中止の連絡はしていない[102]。作戦中止に対し、連合艦隊司令部から作戦再興の指示は出されなかった[103]。南雲機動部隊首脳部も、K作戦の中止を大した問題とは考えなかった[100][104]。連合艦隊参謀らによれば、知敵手段は崩れたが、連合艦隊は米艦隊はハワイからの出撃が遅れるだろうと考えていたので大した心配はしていなかったという[105]。
アメリカ軍の対応
[編集]情報収集と分析
[編集]アメリカ軍は日本軍来襲の情報を収集・分析し、ミッドウェー作戦に備えていた。1942年3月4日、太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツはオアフ島に日本軍の大型航空機(二式飛行艇)2機が爆撃を行い(K作戦)、同月11日にはミッドウェーに新型飛行艇(前同 二式飛行艇)1機が接近、撃墜されたことをふまえ、日本軍の攻勢の兆候と判断した。ただこれは誤解で、実際には日本軍の爆撃は攻勢作戦とは関係のない偵察監視・妨害作戦に過ぎなかった。日本海軍の主力部隊は南方作戦後に日本本土へと帰投しており、次に太平洋のどこかを攻撃することは確実であるものの、ハワイ、ミッドウェー、米本土西岸など可能性が幅広く、判断がまとまっていなかった。米本土西岸への日本軍上陸の誤報(例:ロサンゼルスの戦い)なども影響している。
真珠湾攻撃直前に変更された日本海軍の戦略暗号 "D"は、アメリカ軍の諜報部よりJN-25と呼ばれていた。1942年4月頃には、ハワイ真珠湾に所在するアメリカ海軍エドウィン・レイトンの情報班が、日本軍の暗号を断片的に解読し、日本海軍が太平洋正面で新たな大規模作戦を企図していることについても、おおまかに把握していた。この時点では時期・場所などの詳細が不明であったが、5月頃から通信解析の資料が増えてきたことにより暗号解読との検討を繰り返して作戦計画の全体像が明らかになると、略式符号「AF」という場所が主要攻撃目標であることまでわかってきた。「AF」がどこを指しているのかが不明な状態であったが、アメリカ側は[106][信頼性要検証]日本海軍の編成表から「A」「AO」「AOB」がアリューシャン方面であることは明白であると判断した。
ワシントンのアメリカ統合参謀本部は攻撃目標をハワイ、陸軍航空隊ではサンフランシスコだと考え、またアラスカ、米本土西岸だと考える者もいた。5月中旬になっても決定的な情報は無かったが、ニミッツ大将は各種情報と戦略的な観点からミッドウェーが目標であると予想し、ハワイ所在のレイトン情報主任参謀らも次第にミッドウェーが目標であるとの確信を深めていった。
5月11日ごろ、諜報部にいた青年将校ジャスパー・ホームズの提案により、決定的な情報を暴くための一計が案じられた。彼は、ミッドウェー島の基地司令官に対してオアフ島・ミッドウェー間の海底ケーブルを使って指示を送り、ミッドウェーからハワイ島宛に「海水ろ過装置の故障で、飲料水不足」といった緊急の電文を英語の平文で送信させた。その後、程なくして日本のウェーク島守備隊(クェゼリン環礁所在の第六艦隊説もあり)から発せられた暗号文に、「AFは真水不足、攻撃計画はこれを考慮すべし」という内容が表れたことで、AFはミッドウェー島を示す略語と確認された。こうしてミッドウェー島及びアリューシャン方面が次の日本軍の攻撃目標だと確定された。
日本側にも「6月1日における第三部特務班の判断」として、「ミッドウェー島が清水不足を訴えている」と軍令部作戦課佐薙毅中佐の日誌に残されている[107]。一方、このエピソードについては、実際の暗号解読状況や手法を秘匿するための粉飾とする説もある。沈没する空母飛龍から脱出後、アメリカ軍に救助され捕虜となった相宗邦造中佐ら機関科兵34名は、アメリカ軍情報士官から1942年5月に就役したばかりの飛鷹型航空母艦隼鷹の写真を見せられて仰天している[108]。萬代久男少尉によれば、「隼鷹」の写真は軍極秘回覧簿で見たものと全く同じであった。萬代は暗号解読云々よりも、むしろ連合軍諜報活動の方が連合軍の情報戦勝利に影響を与えたと述べている[108]。
5月26日までにハワイの情報隊は暗号解読に成功し、各部隊の兵力、指揮官、予定航路、攻撃時期などが判明した。ニミッツ大将はこの結果をミッドウェー基地の部隊に伝えたが、米国首都ワシントンではこの情報を全面的には信用せず、日本軍の偽情報ではないかと疑問を持つ者もいた。ニミッツ大将は、日本軍がサンフランシスコを攻撃するのに陸上戦力を伴うわけがなく、自己の意見が間違いないと主張、論争は続いたが、ニミッツ大将は自己の主張に基づいて作戦準備を進めた。5月26日以降は日本軍が暗号・乱数表を変えたために解読できなくなった。
戦力の準備
[編集]ハワイ諸島は、アメリカにとって太平洋正面の防衛・進攻の戦略的に重要な根拠地であった。ミッドウェー島はハワイ諸島の前哨であり、戦略的要衝である。ニミッツ大将は日本軍の来襲の危険性があるミッドウェーを5月3日に視察し、同島守備隊の指揮官シマード海軍中佐と防備の強化について打ち合わせた。このとき、シマード中佐は兵器と人員が充足すれば防衛は可能であると意見を述べ、ニミッツ大将はシマード中佐の要望通りの補強を行うことにして防備を固めようとした。こうして、ミッドウェー島に集結した航空機は当時最新鋭のTBF雷撃機を含む約120機、アメリカ海兵隊を含む人員の補強は3027人に達し、防爆掩蓋や砲台も配備していた。陸上部隊は士気が高かったが、航空部隊は寄せ集めが多く、また整備員の増強がなかったために搭乗員自ら整備・燃料補給を行うなど、完全に充足した部隊ではなかった。それでも、日本海軍陸戦隊5000名の上陸を撃退するには十分な兵力だった[109]。
ハワイの情報隊は、日本海軍のミッドウェーへの攻撃が6月3日から5日までに行われることを事前に察知し、日本側が陽動作戦として計画していた、空母龍驤と隼鷹を中心とする部隊をアリューシャン方面に向かわせてアッツ島、キスカ島などを占領、ダッチハーバーなどを空爆する作戦も陽動であることを事前に見抜いており、ニミッツ大将はこれらの情報に基づいて邀撃作戦計画を立案した。日本軍の兵力は大きく、ニミッツ大将の指揮下にある使用可能な戦力を全て投入しても対抗するためには不足が大きかった。そのため、アリューシャン・アラスカ方面には最低限の戦力を送るにとどめ、主力をミッドウェーに集中することにした。
アメリカ軍の作戦計画は5月28日に『太平洋艦隊司令長官作戦計画第29-42号』として発令され、内容は、第1に敵を遠距離で発見捕捉して奇襲を防止、第2に空母を撃破してミッドウェー空襲を阻止、第3に潜水艦は哨戒及び攻撃、第4にミッドウェー島守備隊は同島を死守などというものであった。
5月28日に作戦計画を発した時点で、ニミッツ大将が投入を期待できる空母は2隻のみだった。サラトガは日本海軍潜水艦の攻撃で損傷して修理を要する状態にあり、第17任務部隊(TF-17)の2隻は珊瑚海海戦で大打撃を受けていた。
フレッチャー少将の第17任務部隊は、珊瑚海海戦においてポートモレスビー防衛を成功させ、日本海軍の軽空母1隻(祥鳳)を撃沈。主力空母(翔鶴)にもダメージを与えたものの、自身も主力空母レキシントンを失い、ヨークタウンが中破していた。ヨークタウンへの命中は爆弾1発のみであったが、排煙経路を破壊される重大損傷で、機関からの燃焼煙を正常に排出できずボイラーが出力を上げられず、速力が24ノットに低下[110]。また、2発の至近弾で左舷燃料タンクから燃料が漏れ出していた。特に珊瑚海海戦では艦隊付属の油槽船ネオショーを失い、この燃料漏れは海上での立ち往生になりかねなかった[111]。
ニミッツ大将は、日本軍の侵攻に備えて太平洋南西部よりフレッチャー少将の第17任務部隊をハワイに呼び戻した。途中で何とか燃料を補給できたヨークタウンは5月27日に真珠湾に到着、直ちに乾ドックに入れられて突貫の応急修理工事が実施された。特に燃料タンクの損傷については、アメリカ西海岸のワシントン州ブレマートン港にて長期の修理を行う必要があるとの見通しがあったが、ハワイでの72時間の不眠不休の作業によって、空母としての機能を取り戻し、5月30日に乾ドックを出た。出撃時、艦には修理工が乗ったままであり、戦場へ向かって航行中も修理が続けられた。この応急修理について、乗組員は「いいかげんな間に合わせ」と評している[112]。ヨークタウンを母艦とする第5航空群は珊瑚海海戦で損耗していたため、修理のために本国に戻るサラトガの第3航空群と入れ替えられた。これで、当時のアメリカ海軍太平洋艦隊が投入できる空母戦力の全てがミッドウェーの戦いに参戦する形が整えられた。
もしニミッツ大将が準備できた空母が、第16任務部隊のエンタープライズ、ホーネットの2隻のみであった場合、戦いの様相もまた違っていた可能性は高い。前述にもあるが、日本側はアメリカ海軍の太平洋における戦闘可能空母をこの時点で正規空母2-3隻、軽空母2-3隻と見積もっており、ワスプや軽空母が出現することはあっても、珊瑚海海戦で中破したヨークタウンがミッドウェー作戦に間に合うとは想像だにしていなかった[113]。
戦闘の経過
[編集]ミッドウェー攻撃前
[編集]両軍の移動
[編集]1942年5月28日、アメリカ海軍太平洋艦隊司令長官発の作戦計画に従い、エンタープライズ、ホーネットを基幹とする第16任務部隊(TF-16)が真珠湾を出撃し、続いて5月30日には第17任務部隊(TF-17)も基幹となるヨークタウンの緊急修理の完了を待つ形で真珠湾を出撃。死守命令を受けたミッドウェー島守備隊を助けるため一路ミッドウェー島を目指し、来襲する日本軍を待ち構えた。
1942年(昭和17年)5月27日(日本の海軍記念日)、南雲忠一中将率いる第一航空戦隊(赤城、加賀)、第二航空戦隊(飛龍、蒼龍)を中心とする第一航空艦隊が広島湾柱島から厳重な無線封止を実施しつつ出撃した[114]。5月28日、ミッドウェー島占領部隊輸送船団が水上機母艦千歳、駆逐艦親潮、黒潮と共にサイパンを出航した[115]。海軍陸戦隊(大田実少将)と設営部隊、陸軍からは一木清直陸軍大佐率いる陸軍一木支隊が乗船していた。船団は第二水雷戦隊(旗艦:軽巡洋艦神通)他に護衛され北上した。5月29日、連合艦隊司令長官山本五十六大将が直卒する主力部隊も広島湾柱島を出撃した[116]。三和義勇大佐(連合艦隊作戦参謀)は「今は唯よき敵に逢はしめ給えと神に祈るのみ。敵は豪州近海に兵力を集中せる疑あり。かくては大決戦は出来ず。我はこれを恐れる」「長官から兵にいたるまで誰一人として勝利についていささかの疑問をいだく者はいない。戦わずして敵に勝つの概ありと言うべきか」と日記にしたためている[117]。
5月30日、日本輸送部隊付近の米潜水艦がミッドウェーに長文の緊急電を発信し、日本はこれを傍受した。宇垣連合艦隊参謀長は、輸送部隊を発見して報告するものとすれば、敵が備えるところとなり、獲物がかえって多くなると考えた[118]。また、宇垣は、アメリカ軍の緊急交信が従来の例を見ず、ミッドウェーに向かっていることがばれている可能性もあるが、いずれにせよ変更はしないと考えた[119]。連合艦隊が何の対応も取らなかったことはこれ以上なく悔やまれることで[120]、南雲艦隊に空襲を中止させ、米機動部隊を撃滅する方法もあったという意見もある[121]。
6月4日夜、主力部隊旗艦大和の連合艦隊司令部敵信班はミッドウェー島付近で敵空母らしい呼び出し符号を傍受した[122][123][注 3]。山本は、直ちに南雲機動部隊に通報するよう参謀に伝えた[124]。だが「無線封鎖を破れば敵に位置を知られる」「一航艦が搭載機の半数をもって反撃に備えている」「南雲機動部隊の方が近く同じく傍受したはず」という判断から見送られた[125]。連合艦隊首席参謀黒島亀人大佐は、山本長官が一航艦に知らせるかと尋ねたとき知せないよう具申したのは、自分の大きな失敗の一つであると話している[注 4]。連合艦隊航空参謀佐々木彰中佐によると、山本長官はすぐ赤城に知らせてはと注意されたので幕僚が集まって研究したが、結局長官に申し上げて赤城に打電しないこととした。しかし南雲機動部隊は傍受しておらず、予定通りに作戦を続けた[123]。
日本時間6月3日午前10時30分、南雲機動部隊は深い霧の中で混乱し、旗艦赤城は飛龍、蒼龍と2戦艦(榛名、霧島)の艦影を見失った[126]。飛龍と霧島は衝突しかけたため、司令部では無電を使用するかどうか議論があったが、長波無電を使用して艦隊の針路を定めた[127]。無線の使用によりアメリカ軍が南雲部隊の行動を察知したという説が日本側にあるが、アメリカ軍側にこの通信を傍受した記録はない[128]。6月4日午前3時37分、南雲部隊は補給隊と駆逐艦秋雲を分離した[129]。午前10時25分、南雲司令部は各艦に「敵情に応じ行動に変更あるやも知れず」とし、制空隊の集合や収容に注意するよう通達を出している[130]。午後4時30分、赤城と利根がアメリカ軍機らしき機影を発見すると、赤城から3機の零戦が発進して迎撃に向かった[131]。南雲機動部隊は、誤認の可能性が高いと判断している[132]。午後11時30分、赤城は雲間にアメリカ軍機を発見して総員を戦闘配置につけたが、その後は平穏に過ぎた[133]。赤城では日本軍輸送船団が爆撃を受けた(後述)ことを知り、またアメリカ軍索敵機を撃墜できなかったことでミッドウェー基地に対する奇襲効果が失われたことを悟ったが、米空母が出撃してきていることには考え至っていなかった[134]。
日本軍輸送船団への攻撃
[編集]アメリカ軍は5月30日以降、ミッドウェー島基地航空隊の32機のPBYカタリナ飛行艇による哨戒が行われていた。6月2日、フランク・J・フレッチャー少将の第17任務部隊とレイモンド・スプルーアンス少将の第16任務部隊がミッドウェー島の北東で合流。この合流した機動部隊の指揮はフレッチャー少将がとることになった。6月3日(09:00)、カタリナ飛行艇1機(ジャック・リード少尉機)が日本軍輸送船団と護衛の第二水雷戦隊を発見する[135]。(12:30)、ミッドウェー島から第7陸軍航空部隊分遣隊のB-17爆撃機9機(指揮官:ウォルター・スウィーニー中佐)が発進、攻撃に向った[136]。日本時間6月4日午後1時(16:23)、船団を発見したB-17部隊は爆撃を開始し、戦艦、空母、輸送船など、多数の艦艇撃破を報告した[137]。実際は輸送船あるぜんちな丸、霧島丸が至近弾を受けたのみで損害も無かった[138]。
(21:30)、オアフ島より増援されたPBYカタリナ飛行艇4機(指揮官:チャールズ・ヒッパード中尉)が魚雷を積んで出撃する。(現地時間6月4日01:15)レーダーで船団を発見(1:43)し、雷撃を開始した。夜間だった事で完全な奇襲になり、輸送船清澄丸が機銃掃射され、あけぼの丸に魚雷1本が命中し戦死者11名が出たが、両船とも航行に支障はなかった[139]。この時、船団を護衛すべき第七戦隊(栗田健男少将)の重巡洋艦4隻(熊野、鈴谷、三隈、最上)は船団を見失って離れた地点にいた。これは栗田少将のミスというより田中頼三少将(船団指揮官・第二水雷戦隊司令官)の判断により、輸送船団が予定航路から北100海里地点を航行していたからである[140]。
ミッドウェー基地からの艦隊発見の報を受け、米太平洋艦隊司令部は、B-17が攻撃した艦隊は敵主力機動部隊にあらずと判断し、第16・17両任務部隊に日本軍機動部隊と間違えて攻撃に向わないよう緊急電を打った[141]。フレッチャー司令官も同じ判断を下し、行動を行わなかった。午後4時50分(19:50)には予想迎撃地点に向けて南西に進路を変更している[142]。この段階では、フレッチャーとスプルーアンスも南雲機動部隊の位置を把握していなかった[142]。
米基地航空隊との戦闘
[編集]ミッドウェー島空襲
[編集]ミッドウェー作戦の資料では、2つの時間表示が混在している[143]。アメリカ軍はハワイ・アリューシャン標準時を使用している為、ミッドウェー時間より2時間遅れている[143]。日本軍は日本時間を使用している。即ち、ミッドウェー時間はUTC-12であるが、アメリカ軍はUTC-10、日本軍はUTC+9を使っており、各軍の資料は当然ながらその日時によるものとなっている。ここから(00:00)内を現地ミッドウェー時間(UTC-12)とし、戦闘詳報に記載された日本時間(UTC+9)を「午前/午後○○時○○分」で併記する。
「軍艦加賀戦闘詳報」によれば、日の出は日本時間6月5日午前2時(現地時間6月4日05:00)、日没は午後4時(19:00)頃、南雲機動部隊上空の天候は曇り、雲量8、雲高500から1000であった[144]。
日本時間6月4日午後10時30分(現地時間6月4日1:30)、米空母では航空機搭乗員に朝食が出され、その後、出撃待機となり命令を待った[145]。一時間後、搭乗員整列が下令、艦長や航空群司令からの指示や注意事項が通達された。日本時間6月5日午前1時15分(4:15)、ミッドウェー基地からPBY飛行艇による哨戒隊、15分後には第17任務部隊の空母ヨークタウンからSBD ドーントレス爆撃機からなる偵察隊が航空偵察に出撃した[146]。ウォリィ・ショート大尉の隊は、日本軍水上偵察機1機と交戦したと報告した[146]。この時点で南雲機動部隊は、ヨークタウンから西方200海里を航行している[146]。
日本時間6月5日午前1時30分(4:30)、南雲機動部隊はミッドウェー空襲隊(友永丈市大尉指揮:零式艦上戦闘機36機、九九式艦上爆撃機36機、九七式艦上攻撃機36機、合計108機)を発進させた[147]。本来ならば淵田中佐が総指揮官として出撃するはずだったが、淵田は虫垂炎による手術を行ったばかりで出撃できなかった[148]。源田実航空参謀も風邪により熱を出していた[149]。日本軍は「敵空母を基幹とする有力部隊附近海面に大挙行動と推定せず」という方針の元に攻撃を開始する[150]。近藤中将の攻略部隊(第二艦隊)がミッドウェー島に上陸する日は6月7日と決定されており、南雲機動部隊はそれまでにミッドウェー基地の戦闘力を奪わなければならなかった[151]。奇襲の成立が前提にあり、空襲の攻撃主目標は地上・上空の飛行機、副目標が滑走路、航空施設、防空陣地であった。源田実参謀によれば、滑走路が副目標であるのは支那事変(日中戦争)の戦訓から長期間使用不能にすることが困難であるから、また艦爆が対空砲火による被害が大きいことも支那事変でわかっていたが命中率の良さから採用し、800キロ爆弾は開戦後の経験から陸上攻撃に大きな効果があることが分かっていたため採用したという[152]。
各空母からの発艦機数は、赤城から零戦9機、九九艦爆18機、加賀から零戦9機、九九艦爆18機、蒼龍から零戦9機、艦攻18機(800キロ爆弾装備)、飛龍から零戦9機、艦攻18機である[153]。このうち、飛龍艦攻1機(赤松作 飛特少尉)が故障で引き返している[154]。四空母に残った戦力は、零戦36(各艦9)、艦爆36(飛龍18、蒼龍18)、艦攻41(赤城17、加賀26)であった[155]。一航戦の艦攻には航空機用魚雷、二航戦の艦爆には250キロの通常爆弾が装着され、各空母格納庫で待機[156]。アメリカ側記録には、二航戦はセイロン沖海戦の戦訓を踏まえ陸上攻撃・艦船攻撃どちらでも対応できるようにするため未装備状態だったとする意見もある(何れのアメリカ側記録資料、研究者によるかは不明)[157]。
また偵察機として赤城 、加賀から九七式艦攻各1機、(赤城は後に飛龍に着艦する西森暹飛曹長機)重巡洋艦利根、筑摩から零式水上偵察機各2機、戦艦榛名から九五式水上偵察機が発進した[158][159]。索敵機の発進は日の出の30分前、午前1時30分と定められていた[160]。だが第八戦隊司令官阿部弘毅少将の判断で利根は対潜哨戒につく九五式水上偵察機の発艦が優先された[161]。このため筑摩機は(04:35)午前1時35分(第5索敵線)、(04:38)午前1時38分(第6索敵線)に零式水上偵察機が発進、(04:50)午前1時50分に対潜哨戒機発進[162][163]。利根は(04:38)午前1時38分に対潜哨戒機、(04:42)午前1時42分(第3索敵線)、(05:00)午前2時(第4索敵線)にそれぞれ水偵が発進した[162][164]。戦闘詳報には「利根、筑摩とも出発著しく遅延す」「筑摩6号機は天候不良のため午前3時35分に引き返せり」という記載がある[158][165]。
筑摩の遅れは、機長兼飛行長の黒田信大尉によれば、待機していたが艦長から発艦命令がなかったので催促したという。艦長の古村啓蔵大佐によれば、発艦が遅れた理由は思い出せないが催促されて判断し発艦させたという[166]。利根の遅れは、通信参謀矢島源太郎と飛行長武田春雄によれば、射出機の故障は記憶になく、大きく遅れた感じはなかったという。第八戦隊首席参謀土井美二中佐によれば、なにか滑走車のピンが抜けた入らないで騒いでいた気がするという[167]。
最後に各空母より零戦1個小隊3機が直掩(援)のため出撃した。このうち、加賀の零戦1機が故障のために飛び立てず合計11機となる。そして南雲艦隊は針路を再びミッドウェー島に向け進撃を開始した。午前2時20分(05:20)、南雲長官より「敵情に変化なければ第二次攻撃は第四編成(指揮官加賀飛行隊長)をもって本日実施予定」という信号が送られた[168]。これは米艦隊が出現しない事が明確になった時点で兵装を対地用に変更し、ミッドウェーを再空襲する事を予令として通知したものである。仮に第二次攻撃隊が出撃すると、南雲機動部隊に残された航空兵力は各空母零戦3機となるはずだった[169]。一方で、複数の関係者からこの予令が存在しない旨の証言がある[170]。(「#資料の問題」節を参照)
午前2時15分(05:15)頃、アディ大尉が操縦するPBYカタリナ飛行艇は日本軍零式水上偵察機(利根4号機)を発見[171]、近くに日本艦隊がいると判断した大尉は付近を捜索した結果、15分後に南雲部隊を発見して「日本空母1、ミッドウェーの320度、150浬」と平文で報告した[172]。日本側もPBY飛行艇を発見し、警戒隊の軽巡洋艦長良から、続けて戦艦霧島から敵機発見を知らせる煙幕があがった[173]。南雲機動部隊は直掩(援)零戦隊を発進させ始めたが、アメリカ軍飛行艇は雲を利用して回避しつつ接触を続け、零戦隊はとうとうアディ大尉のPBY飛行艇を撃墜できなかった[174]。午前2時40分(05:40)、アディ大尉機と同じ針路を遅れて飛んでいたチェイス大尉のPBY飛行艇もミッドウェー空襲隊を発見・報告した[175]。アメリカ軍偵察機が南雲部隊発見を通報した無電はミッドウェー基地や南雲部隊などには傍受されたが、第16・17任務部隊には混線したため内容が把握できなかった。両部隊が内容を把握できたのはPBYからの続報を元にして、(06:03)にミッドウェー基地が打電した平文の緊急電を傍受してからである。この平文電報は赤城でも傍受している[176]。
空襲が予想されるミッドウェー基地では、午前3時(06:00)に迎撃の戦闘機としてF2Aブリュースター・バッファロー戦闘機20機、F4Fワイルドキャット戦闘機6機が出撃し、続いてTBFアベンジャー雷撃機6機、B-26マローダー爆撃機4機、SB2Uビンジゲーター急降下爆撃機12機、SBDドーントレス急降下爆撃機16機からなる混成攻撃隊が南雲部隊へ向けて発進した[177]。基地には予備のSB2U 5機及びSBD 3機が残された[178]。午前3時7分(06:07)、ミッドウェー基地経由で日本軍空母発見の報告を受けたフレッチャー少将は直ちに行動を開始すると、エンタープライズのスプルーアンスに対して攻撃を命令した[179]。アメリカ海軍の3空母は直ちに出撃準備を開始、スプルーアンスはエンタープライズとホーネットの攻撃隊発進を午前4時(07:00)と指定した[179]。
午前3時16分(06:16)、ミッドウェー基地上空の米軍戦闘機隊は艦攻、艦爆、戦闘機隊の順で進撃して来る[180]日本軍攻撃隊(友永隊)107機を発見する。戦闘はカタリナ飛行艇の吊光弾投下と米軍機の奇襲で始まり、先頭の友永隊長機を始め艦攻多数が被弾[181]、直後に零戦隊が逆襲に転じて戦闘機同士の制空戦となった[182]。約15分の空中戦は日本側の勝利に終わる。迎撃したバッファロー20機のうち13機、ワイルドキャット6機のうち2機が撃墜され、帰還したバッファロー5機、ワイルドキャット2機が使用不能となった。アメリカ軍の妨害を排除した日本軍攻撃隊は、午前3時30分(06:30)から午前4時10分(07:10)にかけて空襲を実施した[183]。映像撮影のため派遣されていた映画監督のジョン・フォードなどが見守る中、重油タンクや水上機格納庫、戦闘指揮所、発電所、一部の対空砲台を破壊し基地施設に打撃を与えたが、滑走路の損傷は小さく、死傷者も20名と少なかった[184]。九九艦爆の搭乗員は、飛行機のない滑走路を爆撃して虚しい思いをしたと回想している[185]。日本軍攻撃隊は、アメリカ軍戦闘機41機撃墜確実・9機不確実を主張し、艦攻5機、艦爆1機、零戦2機を失った[186]。残る機も相当数が被弾しており、艦攻16、艦爆4、戦闘機12(修理不能2)が損傷した[186]。友永大尉機も被弾によって無線機が使用不能となり、小型黒板を通じて二番機に中継代行をさせている[187]。アメリカ軍側は空中戦で日本軍機40-50機を撃墜・地上砲火で10機撃墜を主張し、バッファロー13機、ワイルドキャット2機を失い、残る戦闘機も被弾して出撃可能機は2機となった[186]。また、帰途につく艦攻隊に最初の空戦で海面に不時着した艦航隊第二中隊長機菊池六郎中隊長以下3名がゴム筏の上でマフラーを振っているのが発見され非常食が投下されたが、その後の戦況のため救助されることはなかった[188]。
攻撃の成果が不十分と判断した友永大尉は午前4時(07:00)、南雲機動部隊に対し「カワ・カワ・カワ(第二次攻撃の要あり)」と打電して第一次攻撃隊の攻撃は不十分であることを伝えた[189]。ミッドウェー基地攻撃中の午前3時49分(06:49)、筑摩の4号機が天候不良のため引き返すと報告(受信午前3時55分)[190]。午前3時55分(06:55)、利根の1号機から「敵15機わが艦隊に向け移動中」という報告を受け、更に零戦6機を直掩に加えた。アメリカ軍側の記録によれば、ヨークタウンから発進した10機の索敵機である[191]。同じく四空母に分乗している第六航空隊の零戦21機を使用できるよう準備を指示している。直掩隊は弾薬と燃料補給のため頻繁に着艦・交替を繰り返したため、飛行甲板に艦攻や艦爆を並べることが出来なかった[192]。
米基地航空隊の空襲
[編集]日本軍空襲隊(友永隊)がミッドウェー島を攻撃していた頃、南雲機動部隊は「0400に至り敵第一次攻撃あり、その後0730頃迄殆ど連続執拗なる敵機の襲撃を受ける」というようにアメリカ軍機の継続的な空襲に悩まされていた[193]。午前4時5分(07:05)、重巡洋艦利根はアメリカ軍重爆撃機10機を発見する[194]。アメリカ軍攻撃隊の正体は、ミッドウェー基地から発進したTBFアベンジャー雷撃機6機(フィバリング大尉)と、爆弾の代わりに航空魚雷を抱えたB-26マローダー双発爆撃機4機(コリンズ大尉機)だった[195]。シマード大佐(ミッドウェー司令官)が友永隊の迎撃に全戦闘機を投入してしまったため、彼らは戦闘機の護衛なしに進撃してきたのである[196]。赤城と利根が発砲し、直掩の零戦10機が迎撃する[197]。アベンジャー6機のうち3機は直掩機により撃墜され、残り2機も投下後に撃墜、アーネスト中尉機だけが生還した[198]。赤城はアメリカ軍の魚雷を全て回避した。被害は機銃掃射で赤城三番高角砲が旋回不能(30分後に修理完了)、砲員に負傷者が出たほか、両舷送信用空中線が使用不能となり、赤城(旗艦)の通信能力に支障が生じた[199]。赤城を狙ったB-26隊は魚雷2-3本命中を主張しているが、実際には回避されている[200]。B-26は2機が撃墜され、生還した2機もひどく損傷して放棄された。
ミッドウェー基地から発進したアメリカ軍陸上機による空襲は、ミッドウェー島の基地戦力が健在である証拠であった[201]。友永隊の報告をふまえ、南雲中将はミッドウェー島基地への再空襲を決定する。近藤信竹中将の率いるミッドウェー攻略部隊(第二艦隊)の上陸開始は6月7日と決定されている。それまでにアメリカ軍基地航空戦力を壊滅させなくてはならなかったからである[202]。午前4時15分(07:15)、南雲司令部は各艦で待機中の攻撃隊に対し、「本日航空機による攻撃を実施する為第二次攻撃隊を編成せよ。兵装は爆装に転換(0415通達、第二次攻撃隊本日実施、待機攻撃隊爆装に換え)」と通知し、陸上攻撃用爆弾への換装を命じた[203]。アメリカの研究調査によれば第二航空戦隊(飛龍、蒼龍)に対しては特に兵装転換の指示は出されず、爆装しない状態で待機中だったとの意見もある(但しどの記録資料か、誰の研究かについては明記がない)[204]。海戦前に飛龍で行われた実験では、魚雷から爆弾への転換に1時間半から2時間かかっている[205]。燃料補給と弾薬補給を求める直掩戦闘機が着艦するため飛行甲板を開けねばならず、兵装転換作業は各空母格納庫で行われた[206]。
その頃、アメリカ海軍第17任務部隊の指揮官フレッチャー少将は、ミッドウェー基地航空隊の活躍によって南雲機動部隊の位置をほぼ特定することに成功し、攻撃するタイミングをうかがっていた。午前3時7分(06:07)、フレッチャー少将はスプルーアンス少将に「南西に進み、敵空母を確認せば、それを攻撃せよ」と命じ[207]、これを受けたスプルーアンス少将は午前4時(07:00)過ぎに攻撃隊発進を命令、第16任務部隊は次からなる117機の攻撃隊を発進させた。
- 空母エンタープライズ
- F4F戦闘機10機(VF-6、指揮官:ジェームズ・グレイ大尉)
- SBD爆撃機33機(指揮官:第6航空群司令クラレンス・マクラスキー少佐、VB-6、指揮官:リチャード・ベスト大尉、VS-6、指揮官:ウィルマー・ギャラハー大尉)
- TBD雷撃機14機(VT-6、指揮官:ユージン・リンゼー少佐)
- 空母ホーネット
- F4F戦闘機10機(VF-8、指揮官:サミュエル・ミッチェル少佐)
- SBD爆撃機35機(VB-8、指揮官:ロバート・ジョンソン少佐、VS-8、指揮官:ウォルター・ローディ少佐)
- TBD雷撃機15機(VT-8、指揮官:ジョン・ウォルドロン少佐)
しかし午前4時28分(7:28)に日本軍の偵察機が艦隊上空に現れたことから、スプルーアンス少将は全機を飛行甲板に並べて一気に発艦させるのを待たず、出撃準備ができた飛行隊から逐次発艦、攻撃に向かわせた。中には戦闘機隊の護衛なしの攻撃隊もあったものの、結果的に、このスプルーアンス少将の決断が勝因の一つになる。
また、日本軍の空母4隻全ての所在を確認した第17任務部隊(フレッチャー少将)も、警戒のために出していた偵察機(当日はヨークタウンが警戒担当)の収容を終えた後の午前5時30分(8:30)に、次からなる35機の攻撃隊を発進させた[208]。
- 空母ヨークタウン
- F4F戦闘機6機(VF-3、指揮官:ジョン・サッチ少佐)
- SBD爆撃機17機(VB-3、指揮官:マクスウェル・レスリー少佐)
- TBD雷撃機12機(VT-3、指揮官:ランス・マッセイ少佐)
ヨークタウンは(09:05)に攻撃隊を発進させると、すぐにウォリー・ショート大尉のSBD爆撃機17機(VB-5)、戦闘機6機を甲板に並べ、発進準備を行った[208]。また米潜水艦ノーチラスは日本戦艦を雷撃したあと、午前6時10分(09:10)に「敵巡洋艦(駆逐艦嵐)を雷撃するも命中せず、爆雷6発で攻撃される」と日誌に記録したが、誰にも報告しなかった[209]。
午前4時28分(7:28)、利根の4号機(機長は偵察員の甘利洋司 一等飛行兵曹、操縦員は鴨池源 一等飛行兵、電信員は内山博 一等飛行兵)は赤城の南雲機動部隊司令部に対して「敵らしきもの10隻見ゆ、ミッドウェーより方位10度、240浬 (南雲機動部隊から200浬)」と発信した[210][211]。草鹿参謀長によれば、利根4号機の報告を南雲司令部のある赤城が受信したのは午前5時(08:00)ちょうどと述べている[212]。一方、戦闘詳報(功績調査用に書き直されたもの)では、午前4時45分(7:45)に魚雷から陸用爆弾への兵装転換を一時中断したとあり[213]、南雲司令部は発信から約10分後に受信したという意見もある[214]。この位置報告はずれており、実際の米艦隊の位置は160kmも南であった[215]。新規に搭載した機体であったため、コンパスの自差修正ができず、コンパスに10度のずれがあった為という意見もある[216]。この位置情報の錯誤は南雲の判断に極めて重大な影響を及ぼした[217]。一航艦航空参謀吉岡少佐によれば、この報告を受けた際の南雲司令部は特に動揺もなく平静だったという[218]。しかし発着指揮所から様子を聞いていた淵田中佐によれば、予期せぬ米艦隊発見報告に南雲司令部は興奮していたという[219]。利根機の報告を受け、参謀長の草鹿龍之介少将は、敵空母が付近にいると感じたものの「敵らしき」だけでは命令の変更には不十分であり、「艦種知らせ」と指示した[220]。しかし利根4号機は鈍足の零式水上偵察機であり、敵が空母であれば直掩機もいるので敵への接近は容易ではなかった。また、利根4号機からの電報を受ける前[221]、あるいは受けた直後、第二航空戦隊司令官山口多聞少将が「本朝来種々の敵機来襲にかんがみ、敵機動部隊出撃の算あり。考慮せられたし」という信号文を赤城に送ったという主張もある[222]。午前4時47分(07:47)、南雲司令部は「艦種を確かめ触接せよ」と利根4号機に命令した[223]。
なお、利根の4号機が米艦隊の位置を報告する前、筑摩1号機(機長:黒田信大尉/筑摩飛行長)が米軍機動部隊上空を通過していたが、雲の上を飛んでおり米艦隊を発見できなかった。さらに、アメリカ艦載機と接触しながらこれを報告しなかった[224]。
利根の4号機からの返信を待つ南雲機動部隊に、新たなアメリカ軍航空隊が接近していた。日本時間午前4時53分(07:53)、戦艦霧島から敵機発見を意味する煙幕が展開され、ヘンダーソン少佐が指揮するミッドウェー基地のアメリカ海兵隊所属SBD ドーントレス爆撃機16機が艦隊上空に到達した[225]。午前4時55分(7:55)、同隊は日本軍直掩機(零戦)の迎撃を受けヘンダーソン機以下6機が撃墜され、なおも空母飛龍と蒼龍を空襲するも命中弾を得られず、ヘンダーソン隊長機を含む合計8機を失った[226]。ヘンダーソン戦死後に攻撃隊を率いたエルマー・G・グリデン大尉は、航行する日本空母の甲板に日の丸が描かれており容易に見分けられたと述べている[227]。アメリカ軍側は飛龍に命中弾2、加賀に命中弾3を主張しているが、命中した爆弾は1発もない[228]。アメリカ軍機の攻撃は続いた。午前5時10分(8:10)、B-17爆撃機17機(スウィニー中佐指揮)による空襲が行われ、赤城、蒼龍、飛龍が狙われたが損害は無かった。攻撃したB-17隊も無傷だったが、空母に直撃弾1、不確実1発を主張している[229]。1機のB-17乗組員達は基地に戻ると、彼らの爆撃が日本艦隊を撃破したと主張した[230]。最後に海兵隊のSB2Uビンディケーター爆撃機11機(ノリス少佐)による空襲が行われた[230]。この隊は零戦の防御網をくぐり抜けて空母を狙うのは困難と判断し、戦艦榛名を狙った[231]。直掩機の迎撃で1機を失い、2機が燃料切れで不時着、直撃弾2発を主張したが、榛名は無傷だった[231]。日本軍の戦闘詳報は「0510:赤城、飛竜ニ爆弾命中スルヲ認ム(誤認)」、「敵飛行機、蒼竜(原文ママ)ニ急降下、利根(水偵)揚収」、「加賀後方ニ爆弾投下命中セズ」、「赤城左120及500mニ爆弾2個弾着スルヲ認ム」、「利根左100及4000mに爆弾投下、蒼竜飛竜、盛ニ発砲、蒼竜周囲ニ猛烈爆弾投下」、「赤城後方ニ爆弾投下、命中セズ」、「敵飛行機10機、榛名ニ対シ急降下、爆弾投下命中セズ」など、断続的に空襲を受けていることを記録している[232]。ニミッツ提督は「ミッドウェー基地隊は日本軍艦艇10隻に損傷を与え、1-2隻を沈めたかもれないが阻止に失敗し、基地隊主戦力は失われた」とキング大将に報告した[233]。この後、ミッドウェー基地航空隊はSB2U 5機、SBD 6機で夜間攻撃に出撃したが会敵せず、SB2U 1機を事故で喪失した[234]。
米機動部隊との戦闘
[編集]米機動部隊発見
[編集]日本時間午前5時(08:00)から午前5時30分(08:30)にかけて、ミッドウェー基地を攻撃した日本軍攻撃隊(友永隊)が南雲部隊上空に戻ってきた[235]。ちょうどアメリカ軍ミッドウェー基地航空隊が南雲機動部隊を攻撃している最中であり、日本軍攻撃隊は母艦上空での待機を余儀なくされている。赤城からは護衛の駆逐艦が友永隊を誤射する光景が見られ、後に着艦した千早大尉(赤城艦爆隊)と山田大尉(赤城艦戦隊)は友軍に激怒している[236]。混乱した状況下、南雲中将は利根4号機に対し「敵艦隊の艦種知らせ」と命じた[237]。すると午前5時20分(08:20)ごろ、「敵兵力は巡洋艦5隻、駆逐艦5隻(0509発信)」という報告があった[238]。この段階での南雲司令部は、アメリカ軍空母が存在するという確証を持っていない[239]。しかし、午前5時30分(08:30)、「敵はその後方に空母らしきもの一隻を伴う。ミッドウェー島より方位8度、250浬(発午前5時20分)」との打電が入った[240]。この空母はホーネットである[241]。偵察機からの通信は、母艦側の受信と暗号解読により10分の差が生じている。
草鹿龍之介参謀長は「予想していなかったわけではないが、さすがに愕然とした」と述べている[242]。南雲司令部は米艦隊の正確な情報を知る必要に迫られた。南雲司令部は山口少将に対し、空母蒼龍に2機だけ配備されていた試作高速偵察機十三試艦上爆撃機(艦上爆撃機彗星の試作機)の投入を命じ、同機はただちに発進した[243]。この偵察機の最高速度は約519km/h、巡航速度約426km/h。利根4号機などの零式水上偵察機は最高速度367km/h、アメリカ海軍の主力戦闘機F4Fワイルドキャットの最高速度は514km/hである。十三試艦爆は当時のアメリカ軍戦闘機の追撃を受けても十分退避可能であるため、敵艦隊により接近して艦種、数を確認することが期待できた。
偵察に出発した十三試艦爆と入れ替わるようにミッドウェー島の攻撃を終えた蒼龍攻撃隊が艦隊上空に戻ってきた。この時第二航空戦隊(飛龍、蒼龍)を率いていた山口少将は、一刻を争う状況と判断して、駆逐艦野分を中継し、あらゆることを放棄し、現装備の陸用爆弾のままですぐに攻撃隊を発進させるように、南雲長官に進言した[244]。文面には諸説ある。一説には「直チニ攻撃隊発進ノ要アリト認ム」だったとされる[245][246][247]。一航艦航空参謀だった源田中佐[246]、一航艦信号員だった橋本広[248]、「日映」特派員として従軍していた司令部付の牧島貞一記者が証言している[247]。第二航空戦隊通信参謀だった安井真二少佐によれば、「攻撃隊ヲ」の形で山口自ら起案し(普通は起案は参謀に任せる)、発信するように二航戦航空参謀の橋口喬少佐に指示したという[249]。赤城の発着指揮所で一航艦司令部の様子を伝聞していた淵田中佐も「攻撃隊ヲ」の形で証言している[250]。一方で、「現装備ノママ直チニ攻撃隊ヲ発進セシムルヲ至当ト認ム」という説もある[251]。一般的にこの進言は「〜の要ありと認む」と記されるが、飛龍の掌航海長だった田村士郎兵曹長によれば、山口少将から発信の指示を田村が直接受けたとして、文面は「現装備ノママ〜」「〜至当ト認ム」であり、南雲長官が雷装準備が完了するまで出撃を引き伸ばさないよう促しているという[252]。
進言時点で第二次攻撃隊は出撃の準備態勢に入っており、発進は可能だった[253]。ただ、この時点で赤城・加賀の攻撃隊は陸上攻撃用の兵装転換はまだ終えていない[254]。草鹿参謀長、源田参謀の証言では、すぐに発艦準備に入れるものは第二航空戦隊の艦爆隊だけだったという[255][246]。一方、淵田中佐による、敵艦隊発見報告時点で、第二次攻撃隊・九七艦攻の魚雷から陸用爆弾への転換がほぼ終わっていたという証言もある[256]。
午前5時30分(08:30)、赤城からの「艦爆隊二次攻撃準備、250キロ爆弾揚弾セヨ」との信令を受け、第二航空戦隊(飛龍、蒼龍)は二次攻撃に備え250kg爆弾の揚弾を開始する[257]。
各空母の状況に加え、偵察機の報告ではアメリカ軍機動部隊までの距離はまだ遠い(実際のアメリカ軍機動部隊はもっと近くにいた)事も踏まえ、南雲司令部は幾つかの条件を検討した[258][259][260]。
- 九七艦攻への陸用爆弾から魚雷への転換は、陸用爆弾に換装した機が少なく元々少なく、短時間で終わる。水平爆撃の命中率は悪く、急降下爆撃でも敵空母に致命傷を与えることは困難である[260]。
- 第二航空戦隊(飛龍、蒼龍)の九九艦爆の爆装は短時間で行える。
- 上空待機中の日本軍ミッドウェー基地空襲隊(約100機)の燃料が尽き掛けており、これ以上待たせる事は出来ない[259]。貴重な機体と200名以上の熟練搭乗員を危険にさらすことは大問題である[260]。
- 敵艦隊攻撃隊を護衛する零戦が、南雲部隊を守るためにほとんど発進しており、一度着艦して補給する必要がある[259]。弾薬と燃料を使い果たした零戦隊を護衛につけても意味がない[260]。
- 戦闘機の護衛のない攻撃隊は、艦隊護衛戦闘機の餌食になることを珊瑚海海戦やアメリカ軍ミッドウェー基地航空隊が実証している。南雲にとって、大損害を受けることがわかっていながら「はだか」の航空隊を出すことは出来ない[261]。
南雲は山口の進言を却下。南雲は米機動部隊艦隊から攻撃を受ける前に兵装転換を行い、日本軍攻撃隊は発進可能と判断した[260]。南雲の幕僚らによれば、戦闘機の護衛をつけずに攻撃隊を出す危険性や第一次攻撃隊を見捨てることへの懸念から帰還した第一次攻撃隊の収容を優先すべきと考えたという[262](詳細は「勝敗の要因」)。午前5時37分(8:37)、各空母は日本軍ミッドウェー基地攻撃隊の収容を開始する[263]。午前5時55分(08:55)、「(第一次攻撃隊)収容終らば一旦北に向ひ敵機動部隊を捕捉撃滅せんとす」と命じた[264]。同時刻、重巡洋艦筑摩から「水上偵察機、午前6時30分(09:30)発進予定」との報告がある[265]。南雲には、第一航空戦隊(赤城・加賀)の艦攻(雷装)は午前7時30分(10:30)発進可能との報告、第二航空戦隊(飛龍、蒼龍)は午前7時30分(10:30)から午前8時(11:00)に発進可能との報告があった[266]。
午前5時45分(08:45)、「更に巡洋艦らしきもの2隻を見ゆ(発信午前5時30分)」という利根4号機からの追加情報が入る[267]。攻撃隊収容中の午前5時48分(08:48)、利根4号機から帰投するという電報が届いた[268]。阿部少将は第八戦隊「利根」、「筑摩」に交代の偵察機発進を命じると[269]、利根4号機に「帰投まて」を命じた[270]。零式水上偵察機の航続距離は通常10時間であるため、まだ十分飛べると考えたためである。南雲も午前5時54分に無線方位測定で位置を把握するための長波輻射を利根4号機に命じた[271]。だが利根4号機は午前5時55分(8:55)に「敵攻撃機10機貴方に向かう」の通報のみを行い、輻射は行わなかった[272]。
後方の戦艦大和で南雲機動部隊からの電報を受信していた山本五十六以下連合艦隊司令部は、予期せぬ米軍機動部隊が出現した事にたいして慌てなかった[273]。宇垣纏参謀長は司令部の雰囲気が「さては敵の機動部隊の激撃なる、よき敵御座んなれ、第二次攻撃は速に之に指向に、先づ敵空母を屠り、残敵を如何に処分すべきかと楽観的気分に在り」と述べている[274]。山本が黒島亀人先任参謀に「米艦隊への攻撃命令を出すか否か」を尋ねると、黒島は「南雲は兵力の半数を米空母機動部隊に対して準備しているから必要なし」と答え、連合艦隊司令部は何も発信しなかった[275]。
米艦載機の雷撃
[編集]第一次攻撃隊の収容は午前6時30分(9:30)までに完了したとされるが[276]、蒼龍では午前6時50分頃までかかっている[277]。南雲中将は連合艦隊(山本五十六長官)に米空母発見を知らせると、直ちに米空母攻撃へ向け準備を開始する[278]。赤城では第一次攻撃隊の収容が終わると九七艦攻の雷装への復旧作業が開始された[279]。この状況下、午前6時20分(9:20)頃にジョン・ウォルドロン少佐率いるホーネット雷撃隊TBDデヴァステイター雷撃機15機が日本の機動部隊上空に到達[280][281]、日本側では赤城や筑摩が確認した[282]。この時点で南雲機動部隊の直掩機は18機に減少していたが、直ちに加賀5機、赤城3機が迎撃に上がる[283]。アメリカ軍攻撃隊は部隊毎に進撃したので連携が取れず、ホーネット雷撃隊は戦闘機の護衛の無いまま赤城を狙った。一機の雷撃機は赤城の艦橋に接近して墜落し、草鹿参謀長は死を覚悟している[284]。デヴァステイター隊は零戦により全機が撃墜され、不時着水した機体から脱出したジョージ・ゲイ少尉1人を除く隊員29名が戦死した[285]。ゲイ機は蒼龍を雷撃して飛行甲板上を通過したが、魚雷は命中せず、直後に零戦に撃墜されたとされる[286]。戦闘後の名誉勲章推薦状には「ホーネット雷撃隊は日本空母に魚雷を命中させ、日本の空母に最初に大打撃を与えた」とあり、後にホーネット隊は他の部隊から恨みを買うことになる[287]。一方「ホーネット」の戦闘機隊と爆撃隊は雲で雷撃隊を見失い、南雲部隊も発見できなかった[285]。戦闘機隊とドーントレス13機はミッドウェー基地へ向ったが、燃料切れでワイルドキャット全機とドーントレス3機が不時着水、残りのドーントレス20機はホーネットに帰艦した[285]。
午前6時37分(09:37)、利根の4号機から「燃料不足のため帰投する(発午前6時30分)」と連絡が入る[288]。阿部司令は午前7時(10:00)まで接触を維持することを命じたが「我れ出来ず」との返答を受け、帰還を許可した[289]。同時刻、利根の4号機と交代すべく筑摩の5号機が発進した[289][290]。午前7時(10:00)、蒼龍の十三試艦爆は索敵線上に米艦隊を発見できず、引き返した[291]。これは前述のように、利根4号機が報告した米艦隊の位置が100km以上ずれていたためである[215]。
午前6時50分(09:50)、ユージン・リンゼー少佐率いるエンタープライズの雷撃隊14機が南雲部隊上空に到達した[292]。通信不良と連携ミスにより10機のワイルドキャットはホーネット雷撃隊を護衛していたため、エンタープライズの雷撃隊を掩護できなかった[293]。エンタープライズの雷撃隊は加賀を目標にするが9機を失い、帰還中の1機が着水、1機が帰還後投棄、残存3機だった。零戦1機撃墜と引き換えに隊長を含む29名が戦死する[294]。その上、命中魚雷も得られなかった。戦闘機隊の連携ミスで護衛を受けられず多くの隊員を失ったことに生き残った隊員達は激怒し、帰還後に戦闘機隊隊員の控室に拳銃を持って怒鳴りこんだと同隊の戦闘詳報に記載されている。一方で、零戦の攻撃に積極性が見られず、度重なる発進、戦闘、着艦の連続で疲労がたまっていたという推測もなされている[295]。
午前7時10分(10:10)、ランス・マッセイ少佐指揮のヨークタウン第3雷撃隊が南雲部隊上空に到達した。飛龍は他の3空母より前方を進み、雲の下を航行していたという[296]。ヨークタウン雷撃隊12機は、突出した飛龍を挟撃すべく2個小隊(6機)にわかれると、攻撃を開始した[297]。その上空では、戦闘機隊指揮官ジョン・サッチ少佐によって、彼の発案した対ゼロ戦空戦戦術サッチウィーブが初めて試されようとしていた[298]。この時点でヨークタウン戦闘機隊は6機だけである[297]。雷撃隊全てを護衛できずTBDデヴァステイター10機が撃墜され、帰還中の残りの2機も燃料切れで不時着水し全機損失、24名中21名(隊長含)が戦死、飛龍に魚雷5本を発射したが全て回避された。空母から出撃したTBDデヴァステイター雷撃機41機中、生き残ったのは僅かに3機のみという文字通りの全滅となってしまった。だが15機の零戦に6機で挑み、損害1機に対し5機撃墜というアメリカ軍側記録はサッチ・ウィーブ戦法の有効性を証明し、米戦闘機隊隊員に自信を持たせたという[297]。一方プランゲは「サッチ戦法はあまり効果がなかった。主任務である雷撃隊の掩護に関する限り、戦闘機隊は何の役にも立たなかった」と評している[299]。生還した雷撃隊操縦者ハリイ・コールは、零戦24機に襲われたと証言している[296]。コールの証言によれば、この時点でほとんどの日本軍直掩機がヨークタウン隊戦闘機隊と雷撃機隊に集中し、低空で戦っていたことになる[296][300]。この時、駆逐艦嵐に救助されて捕虜になったヨークタウン隊雷撃機隊員が重大な情報を供述した(「#飛龍の反撃」参照)。
日本軍三空母の炎上
[編集]その頃、クラレンス・マクラスキー少佐率いるエンタープライズの艦爆隊SBDドーントレス32機は日本の機動部隊を見つけられず、燃料消耗のために飛行範囲限界を迎えつつ、予想海域の周辺を捜索していた[301]。マクラスキーは日本軍機動部隊が北方に退避すると推測し、変針しつつ捜索を続行する[302]。午前6時55分(09:55)、アメリカの潜水艦ノーチラスを攻撃したのち南雲機動部隊へ戻ろうとしている駆逐艦嵐を発見した[303]。エンタープライズ艦爆隊は「巡洋艦」と報告する[304]。嵐は午前6時30分に「敵潜水艦(注:ノーチラス)の雷撃を受け、直ちに爆雷攻撃するも効果不明」と報告していた[305]。ただし嵐の戦友会は、空襲直前の日本時間午前7時(10:00)の段階で、嵐は赤城の直衛で傍を離れていなかったと主張している[306]。エンタープライズの艦爆隊は、眼下の日本軍駆逐艦(爆撃機隊は巡洋艦と判断)は空母部隊へ向かっているものと判断して北東進路上を索敵した結果、午前7時24分(10:24)頃、南雲機動部隊を発見した[307]。この間、ドーントレス1機が不時着、1機が行方不明となったので、エンタープライズの艦爆隊は30機となった[304]。
日本時間午前7時22分(現地時間10:23)、マクスウェル・レスリー少佐率いるヨークタウン艦爆隊も戦場に到着する。こうして南雲機動部隊への空襲は、エンタープライズの艦爆隊とヨークタウンの艦爆隊の同時攻撃となった。日本側は先ほどのヨークタウン雷撃隊に対応して直掩零戦のほとんどが低空に降りており[308]、さらに見張り員も雷撃機の動向や発艦寸前の直掩機に気をとられていたため発見が遅れ[309]、「敵、急降下!」と加賀の見張り員が叫んだときにはすでに手遅れだった[310]。
先陣を切ったのはマクラスキー少佐のエンタープライズの艦爆隊で、加賀を狙った[311]。日本艦隊は急降下爆撃隊に気付かず、対空砲火も間にあわなかった[312]。午前7時22-24分(10:22-24)、マクラスキー少佐率いる小隊の攻撃は至近弾だったが、続くギャラハー大尉機の投弾した4発目が飛行甲板後部に命中[313]、続いて3発が短時間の内に命中した[314]。なお加賀を攻撃したのはレスリー少佐と部下のヨークタウン艦爆12機と主張するアメリカ研究者もいる[315]。
午前7時25分(10:24)、レスリー少佐のヨークタウンの艦爆隊17機がエンタープライズの艦爆隊に続く形で蒼龍へ攻撃を開始した[316][317]。蒼龍は艦爆12-13機と記録[318]。発艦直後のアクシデントでレスリー少佐を含む数機は爆弾を誤投下していたが、自ら先頭にたって「赤褐色の飛行甲板、右舷に小さな艦橋、その後方に直立煙突がある空母」へ機銃掃射をもって突入した[319]。2番機ホルムベルク大尉機の爆弾は蒼龍の前部エレベーター前に命中し大爆発を起こし、大尉は発艦中の日本軍機が空中に跳ね飛ばされるのを見た[317]。ヨークタウン艦爆隊は直撃弾5発、至近弾3発を主張しているが、実際の命中弾は3発である[317]。後続のうち4機が目標を変更し、そばにいた艦艇を狙う。命中弾はなかったが、駆逐艦磯風の後部に至近弾となった[320]。
同時刻、エンタープライズの艦爆隊のうちベスト大尉率いる一隊は連携に失敗したため、ベスト大尉とクルーガー中尉とウェバー中尉、3機のみで旗艦赤城を狙った。赤城では直衛の零戦が着艦し、補給を行い、ふたたび発艦する瞬間だった[321]。午前7時26分(10:26)、直衛隊の零戦1機(木村惟雄 一等飛行兵曹)が赤城より発艦した時点で急降下がはじまった[322]。木村一飛曹によると、加賀・蒼龍炎上直後、赤城上空の敵機が急降下に入ったところで、先頭のAⅠ-101号(戦闘機隊長機)の発動機が起動しており、整備兵がエンジンを回していた。同時に赤城が風に立ち始めたため指揮所に合図して隊長機に飛び乗り発艦し、高度50メートル付近で赤城を見ると、発艦前にいた位置に爆弾が落ち、2番機と思われる零戦が甲板前部で逆立ちになって炎上していた。他の飛行機は皆無であった、と回想している[323][324]最初クルーガー中尉機の1弾は左舷艦首約10mに外れたが、続いてウェバー中尉機は至近弾1発そしてベスト大尉機は1発の爆弾が命中し[325]、第二次攻撃隊準備機や爆弾・魚雷に誘爆して大火災が発生した[326]。命中したのは飛行甲板三番リフト前方に命中した1発だけという艦橋勤務信号兵や従軍カメラマンの証言もある[327]。そのほかに初弾は赤城艦首至近弾、二発目は艦橋付近命中、三発目は舵付近至近弾でこれが赤城の舵を損傷・固定させた原因、といった証言もある。発艦寸前だった零戦1機が爆風で赤城艦橋付近で逆立ちとなり、飛行甲板にいた淵田中佐も爆風により両足骨折の重傷を負った[328]。エンタープライズ隊はドーントレス14機を失った[313]。約6分間の出来事であったが、太平洋戦争のターニングポイントとなった[329]。
加賀は、艦橋近くの命中弾と燃料車の爆発により艦橋が破壊され、中の岡田次作艦長以下指揮官らが戦死した[330]。午後1時23分(16:23)、艦長に代わって鎮火の指揮をとっていた天谷孝久飛行長が総員退去を決め、乗組員は駆逐艦萩風、舞風に移乗した[331]。なおも機を見て救出を行おうとしたが果たせず、午後4時25分(19:25)、大爆発が2回起きた[332]。加賀は艦首と艦尾が水平になりながら沈んだ。戦死者は閉じ込められた機関部員を含め800名弱で、航空機搭乗員では楠美正飛行隊長以下、機上・艦上合わせて21名が戦死した[333]。
蒼龍は、3発の爆弾が命中し被害は最も深刻だった[334]。被弾からわずか20分後の午前7時45分(10:45)、総員退去が発令された[335]。午後4時(19:00)に火災の勢いが衰え、楠本幾登飛行長は防火隊を編成して再度乗艦の準備を始めた。直後、再度の爆発が起き、楠本飛行長は救出不可能と判断した。午後4時13分(19:13)に沈没した[336]。あえて艦内に残った柳本柳作艦長以下准士官以上35名、下士官兵683名、計718名が戦死した[337]。搭乗員の戦死は機上・艦上合わせ10名で、江草隆繁飛行隊長以下、搭乗員の多くは救助された。
赤城は、被弾した爆弾は1-2発程度で機関部へのダメージはなく、十分復旧可能であった[338]。しかし、被弾による火災が兵装転換時に格納庫内に乱雑に置かれた爆弾、魚雷、航空機燃料へ次々と誘爆を起こし、大火災が発生した[339]。さらに、被弾直後に雷撃機4機を発見し回避のため左舵をとったところ、舵が固定して動かなくなり[340]洋上に停止した[341]。赤城の南雲司令部は内火艇に乗り退艦、駆逐艦野分に移乗したあと軽巡洋艦長良に移った[342]。直接長良に移乗したという牧島貞一従軍カメラマンや乗組員の証言もある[343]。午前8時30分(11:30)、南雲は長良に将旗を掲げた[344]。青木泰二郎艦長は消火作業を続行させるが、再度の誘爆により、午後4時25分(19:25)に総員退艦を命令した[345]。赤城の処置をめぐって連合艦隊司令部では議論が交わされ、午後7時25分(10:25)、山本長官は赤城の処分を中止させた[346]。南雲は、木村進少将(第十戦隊司令官)に「長良で赤城を曳航できないか」と尋ねている[347]。結局、6月6日午前1時50分(6月5日4:50)に処分命令が下り午前2時に第四駆逐隊の4隻(萩風・舞風・野分・嵐)が雷撃処分した[348]。上記2隻と比べて赤城では機関部員が閉じ込められずに脱出できたので戦死者はそれらより少なく、准士官以上8名、下士官兵213名の計221名。搭乗員の戦死者は、機上・艦上合わせ7名である。淵田美津雄中佐、板谷茂少佐、村田重治少佐の3飛行隊長ら多くの搭乗員が救助された。
飛龍の反撃
[編集]飛龍は雲下にあり、またヨークタウン雷撃機の攻撃回避のため他の3隻の空母から離れており、アメリカ軍急降下爆撃機群の攻撃を受けなかった[349]。
午前7時50分(10:50)、一航艦の次席指揮官である第八戦隊司令官の阿部弘毅少将は赤城、加賀、蒼龍の被弾炎上を主力部隊に通報する[350]。阿部は「飛龍ヲシテ敵空母ヲ攻撃セシメ、機動部隊ハ一応北方ニ避退、兵力ヲ結集セントス」と述べ、続いて第二航空戦隊に「敵空母ヲ攻撃セヨ」と命じた[350]。
午前7時50分(10:50)の時点で、第二航空戦隊司令官の山口多聞少将は独自の判断で飛龍を単艦で北東方向に進めており、被爆した三空母とそれを取り巻く一航艦の各艦からは相当離れた位置にあった[351]。山口少将は、来襲した艦載機の数から敵空母は2隻と判断しており、飛龍1隻の航空戦力で十分に戦えると考えていた[351]。艦爆は攻撃の準備を終えて艦攻は雷装中であり、間に合った零戦をつけた[352]。山口少将は、阿部少将の命令と入れ替わりに「全機今より発進、敵空母を撃滅せんとす」と全部隊に発信した[351]。先任の阿部をさしおいて山口少将が反撃を主導したのは[注 5]、山口少将の性格と、二航戦が現時点での主力であり重要な戦機であると考えたためとする意見もある。敵空母は攻撃を終えた艦載機を収容中であり、接近して攻撃力を発揮できる好機だった[355]。
午前7時54分(10:54)、南の水平線上に炎上する3空母が見える状況で、飛龍は攻撃隊発艦のために風上の東に針路を変更した。[351]
午前8時(11:00)、第一波攻撃隊として小林道雄大尉(艦爆)指揮する九九艦爆18機、零戦6機の計24機が発艦した[356][357]。九九艦爆のうち、12機は250kg通常爆弾、陸用爆弾装備機は6機だった[358]。飛龍は第一波攻撃隊を発進させるとすぐに第二波攻撃隊の準備にかかり、同時に米機動部隊の方向に進撃した[359]。同じ時間帯には蒼龍が搭載していた十三試艦爆がアメリカ軍航空隊を発見し、南雲部隊に通報[360]。飛龍の第一波攻撃隊が発進するのと同時刻、筑摩5号機が発信した米艦隊の位置情報が届いた[361]。第八戦隊は、筑摩4号機・5号機に対し「敵空母ノ位置ヲ知ラセ、攻撃隊ヲ誘導セヨ」と連絡している[362]。すぐに筑摩5号機から「敵空母の位置味方の70度90浬、我今より攻撃隊を誘導す0810」との連絡があり、飛龍第一波攻撃隊の誘導を開始した[363]。第一波攻撃隊を指揮する小林大尉は、米軍艦上機の飛行経路を辿る事で筑摩5号機の誘導に頼ることなく米軍空母部隊に辿り着く戦法をとったが、米軍艦爆隊との小戦闘に巻き込まれる遠因にもなった[364]。
ミッドウェー島攻撃から帰還した友永大尉の九七艦攻(左右の両翼に計4つの燃料タンクがあり、それぞれ機体側に350リットルの主タンク、翼端側に225リットルの補助タンクがある[365])は、ミッドウェー島を攻撃した際に、F4F戦闘機の機銃弾が左翼つけ根付近を貫通し、左翼主タンクを射抜かれていた[365]。第二波攻撃隊を編成する時点で、出撃可能な艦攻は友永機を除くと9機であった[366]。友永大尉の次席指揮官となった橋本敏男大尉は、ミッドウェー攻撃時は友永機の偵察員であり、左翼主タンクへの被弾を目の当たりにしていた[365]。橋本大尉は乗機の交換を友永大尉に進言したが、友永大尉は攻撃機数を確保するため交換を拒否し[366]、友永大尉が第一中隊(艦攻5機)を率い、橋本大尉が第二中隊(艦攻5機)を率いることとなった[366]。
橋本大尉は、友永機について「左翼タンクの応急修理くらいはしたはず」と戦後に推定していた[367]。飛龍で友永機の機付整備員であった谷井繁義によると、射抜かれたタンクの交換には半日を要し、もとより不可能であり、貫通孔を麻布と接着剤でふさぐ応急修理のみが可能であった[368]。谷井ら整備員が応急修理を終えて燃料を入れてみると、気がつかなかった別の破孔から燃料が漏れ出し、既に再修理の時間はなく、友永機の左翼主タンクは使えなかった[369]。友永大尉は、整備分隊士の野依武夫・整備兵曹長が「片道燃料では出撃させられない」と制止するのを振り切って出撃した[370]。蒼龍乗組の戦闘機搭乗員で、機動部隊上空直衛任務に就いており、蒼龍大火災のため飛龍に着艦した原田要は、友永雷撃隊の出撃を見送っており、その際に「友永大尉の艦攻は修理のいとまがなく、片道燃料で出撃した」と整備員たちが話していたと戦後に証言している[371]。米艦隊までの距離は近く、友永大尉は「敵はもう近いから、これで十分帰れる」と告げている[372]。
午前8時15分(11:15)、ヨークタウンでは攻撃隊着艦作業が始まったが、着艦事故が発生し甲板が損傷[373]、11:50、修理が終わり、SBD爆撃機10機に索敵任務が与えられた[374]。
午前8時20分(11:20)、飛龍の第一波攻撃隊は空母に帰還するエンタープライズの艦爆隊を発見。日本艦隊へ向う攻撃隊と勘違いした零戦隊(重松康弘大尉指揮)から2機が迎撃に向かい、峰岸第2小隊長機が弾薬を使い果たして帰還[375]、1機が被弾し日本軍艦隊付近に不時着救助された[376]。このため攻撃隊護衛機は4機に減った。それでも米空母に接敵する筑摩5号機からの電波を頼りに進む日本軍飛龍第一波攻撃隊(22機)はついにヨークタウンを発見した[377]。F4F直掩隊12機の迎撃により零戦3機、九九艦爆10機が撃墜され、九九艦爆8機のみがヨークタウンを攻撃した[378]。急降下中に艦爆3機が撃墜されたが、5機が投下に成功、爆弾3発が命中、1発がボイラー室に火災を発生させ、ヨークタウンは動力を失い航行不能となり[379]、フレッチャー司令官は重巡洋艦アストリアに移乗した[380]。
代償として、飛龍第一波攻撃隊は艦爆13機(小林隊長機を含む)と零戦3機を失い、艦爆5機と零戦1機が飛龍に帰還しただけだった[381]。帰還機も、零戦1が海面に不時着(搭乗員は救助)、艦爆1が修理不能であり、修理後使用可能艦爆2・零戦1という状況だった[382]。飛龍攻撃隊はエンタープライズ型空母に爆弾5発、陸用爆弾1発を命中させ、大破あるいは大火災、撃沈と報告した[383]。
しかし、ヨークタウンは午前11時(14:00)過ぎに爆撃による火災を鎮火し、速力20ノット発揮可能となった[384]。
午前8時30分、十三試艦爆はアメリカ軍機動部隊発見を発信している[385][386]。十三試艦爆は発信5分後帰路についたが[387]、無線機の故障により、南雲部隊ではアメリカ軍機動部隊発見の報告を受信しなかったという[388]。この頃、赤城の零戦隊7機、艦攻1機が飛龍に着艦した[389]。加賀からは零戦9機[390]、蒼龍からも零戦4機、艦攻1機が飛龍に着艦した[391]。
午前8時40分、残存する南雲部隊に十三試艦爆が発した航空隊発見の電文が届いた。
午前9時(12:00)、偵察隊発進後まもない中でレーダーが南西46海里に日本軍機を探知する[374]。ヨークタウンは重巡洋艦アストリアとポートランド、駆逐艦ハムマン、アンダースン、ラッセル、モーリス、ヒューズに輪形陣を組むよう命じ、F4Fワイルドキャット戦闘機12機を発進させた[392]。
また偵察と攻撃部隊誘導に活躍した筑摩の5号機は、午前9時5分(12:05)にアメリカ軍戦闘機の追跡を受け退避[393]、その15分後、新たなアメリカ軍機動部隊を発見した。
同じ時間帯に、南雲も長良の周囲に第三戦隊(戦艦榛名、霧島)、第八戦隊(利根、筑摩)、駆逐艦4隻を集め、速力30ノットで北東に向かった[394]。
午前10時(13:00)、駆逐艦嵐は海面に漂うヨークタウン雷撃隊隊員ウェスレイ・フランク・オスマス(Wesley Frank Osmus)海軍予備少尉を救助し、尋問を行った[395]。有賀幸作第四駆逐隊司令は尋問内容を受けて以下の内容を発信した[395][396]。この電文は攻略部隊・第二艦隊の重巡洋艦愛宕(旗艦)も受信している[397]。
- 空母はヨークタウン、エンタープライズ、ホーネット、巡洋艦6隻、駆逐艦約10隻[395][398]。
- ヨークタウンは巡洋艦2隻、駆逐艦3隻とを一団とし、他の部隊とは別働しつつあり[395][398]。
- (米機動部隊)5月31日午前真珠港発、6月1日「ミッドウェー」附着、その後南北に移動哨戒をなし今日に及べり[395][398]。
- 5月31日真珠港在泊主力艦なし(本人は5月31日まで基地訓練に従事、ハワイ方面主力艦の状況明らかならず)[395][398]。
連合艦隊は、アメリカ軍機動部隊の戦力と出動空母の名前を知った。この時、オスマスはエンタープライズ型空母の搭載機数(爆撃機18、偵察機18、雷撃機12、戦闘機27)や、真珠湾攻撃で沈没した米戦艦群のうち、戦艦アリゾナ、ユタ、艦型不詳を除く戦艦4隻が回航修理中であることも証言している[399]。後に、オスマス少尉は兵の独断で殺害されてしまったという[400]。オスマスは水葬に附された[401]。彼の名前はバックレイ級護衛駆逐艦「オスマス (護衛駆逐艦)」に受け継がれている。
午前10時15分(13:15)、第八戦隊(阿部司令官)は南雲部隊各艦(霧島、榛名、利根、筑摩)に対して直ちに索敵機を発進させよと命じた[402]。
午前10時30分(13:30)、飛龍から第二波攻撃隊(艦攻10機、零戦6機)が発進[403]。うち、零戦2機(山本、坂東)は飛龍に着艦した加賀所属機、艦攻1機は赤城所属機(AI‐316号機西森暹飛曹長機)だった。蒼龍所属の艦攻は発動機不調で出撃できなかった。これらの艦攻はみな索敵機であり、攻撃機でないことから「運命の五分間」は軍令部の負け惜しみの可能性が高い。[404]。筑摩4号機も発進した[405]。入れ替わるように飛龍第一波攻撃隊が飛龍に着艦した[406]。
午前10時30分(13:45)に着艦した十三試艦爆(近藤機)が三群の米機動部隊に接触したものの、無線機故障で発信できなかったことを報告した[407]。十三式試艦爆の偵察に対し、戦闘詳報は「敵機動部隊の情況不明なりし際、極めて適切に捜索、触接に任じ、その後の攻撃を容易ならしめたり。功績抜群なり」と高く評価している[408]。この時点で、山口少将は利根4号機、筑摩5号機が通報した空母1隻の他に、エンタープライズ型空母、ホーネット型空母(原文ママ)が存在することを知った[409]。
午前11時(14:00)、母艦利根で補給を終えた利根3号機、4号機が再び発進する[410]。
午前11時30分(14:30)、戦艦榛名の偵察機(榛名1号機)も附近に空母がいる可能性を知らせた[411]。この時、飛龍の第二波攻撃隊はアメリカ軍機動艦隊を発見するが、それは復旧作業中のヨークタウンだった[412]。筑摩5号機が撃墜されたため、友永隊は自力でアメリカ軍機動部隊を探さねばならず、火災もなく航行する米空母を見た友永丈市大尉はヨークタウンを「損傷を受けていない別の空母」と判断した[413]。友永隊は左右から挟撃雷撃をおこなうため運動を開始する[414]。
ヨークタウンは直掩F4F戦闘機16機を迎撃に向かわせ、艦攻4機と零戦2機を撃墜し[415]、続いて艦攻1機を対空砲火で撃墜したが、4本の魚雷が両舷から挟み撃ちの形でヨークタウンに向かい、2本が左舷に命中した[416]。ボイラー室と発電機を破壊されたヨークタウンは航行不能となり左舷に傾斜して総員退艦が命じられ、艦長を含む乗組員全員が脱出した[417]。(以上はアメリカ側の文献による)
第二波攻撃隊の艦攻10機は第一中隊5機を友永大尉が、第二中隊5機を橋本大尉が率いていたが、ヨークタウンの巧妙な回避運動のために挟撃雷撃はいったん失敗した[418]。のちに有名になるジョン・サッチのF4Fが、友永機と思われる隊長標識をつけた艦攻を撃墜したが、サッチ機の攻撃で両翼が炎上したその艦攻は、海面に突入する寸前に、ヨークタウンに向けて魚雷を投下した(命中せず)[419]。戦闘詳報は、第二中隊第二小隊機の目撃談(電信員の浜田義一・一等飛行兵[420])をもとに、黄色い尾翼の友永機は[421]対空砲火で被弾炎上し「ヨークタウン型艦橋付近に激突自爆せること判明す」と記録している[422]。橋本大尉の率いる第二中隊はいったん雲の中に退避して態勢を立て直し、ヨークタウンを雷撃、魚雷2本を命中させ、その旨を飛龍に打電した[418]。第二中隊5機のうち1機(赤城から編入された操縦、鈴木重男飛曹長、偵察、西森進飛曹長、電信、堀井孝行一飛曹)は手違い、または投下装置の故障で魚雷が投下できなかったが(帰路で魚雷が落ちている。故障による投下装置の作動の遅れか、搭乗員が投下したか。)[423]、第二中隊は全機(艦攻5機)が飛龍に帰還できた[423][424][425]。(以上は日本側の文献による)
飛龍第二波攻撃隊は、艦攻5機(友永大尉の第一中隊全機)と零戦3機を失った[406]。戦闘詳報には「エンタープライズ型空母の左舷に魚雷3本命中大爆発、400-500mの高さにまで達する大爆発を認む。(爆発の内一つは対空砲の着水の誤認と思われる)空母の後方、サンフランシスコ型重巡洋艦爆発するを認む。同爆発は(魚雷)発射後相当時間の経過あるに鑑み、魚雷命中せしものと認む」と記載されている[426]。
山口少将は第一波攻撃隊(小林隊)と第二波攻撃隊(友永隊)の攻撃を合わせて合計2隻の空母を大破させたものと判断し、同じ空母へ2度攻撃したことに気付かなかった[427][428]。これは第二波飛龍攻撃隊が、雷撃したヨークタウンの後方に「別の空母炎上中」と報告した為である[429]。第二波攻撃隊は、別の米空母が健在である可能性も報告している[430]。この頃、フレッチャー少将は空母ヨークタウンが攻撃を受ける前に放っていた偵察機(VS-5)から、空母飛龍発見の報告を受けた。ヨークタウンを航行不能とされたフレッチャー少将は、スプルーアンス少将の「何か指示があれば承りたし」という信号に「なし、貴官の行動に順応す」と答え、全権を委譲している[431]。
飛龍沈没
[編集]空母ヨークタウンが飛龍第二波攻撃隊(友永隊)の攻撃で航行不能となった午前11時30分(14:45)、偵察中のサッチ・アダムス大尉は平文で「敵発見、空母1、戦艦1、重巡2、駆逐艦4、北緯31度15分、西経175度5分、15ノットで北上」(アメリカ軍機動部隊から72浬)と発信した[432]。
駆逐艦のうち1隻は軽巡洋艦長良(南雲忠一中将乗艦の旗艦)で[432]、戦艦榛名、重巡洋艦利根、筑摩、軽巡洋艦長良、駆逐艦3隻は飛龍の周辺に集結していたのである[433]。飛龍発見の電文を受信した空母エンタープライズはウィルマー・ギャラハー大尉率いるエンタープライズの爆撃隊10機、デイヴ・シャムウェイ大尉率いるヨークタウン爆撃隊11機(エンタープライズに退避中)を戦闘機の護衛なしで発進させた[434]。
午後0時40分(15:40)、飛龍第二波攻撃隊が着艦した[435]。零戦2機、艦攻5機(友永隊長機を含む)を失い、艦攻4機が修理不能、零戦1機が不時着(乗員は救助)、零戦3機が修理後戦闘可能、艦攻1機が修理後戦闘可能と報告している[382]。飛龍の鹿江隆副長は「(米空母2隻撃沈により)これで1対1だ。これで勝てるし、悪くても相討ちにできる」と感じたという[436]。だが飛龍の戦力は戦闘機6、艦爆5、艦攻4、十三試艦爆1機に減少し[437]、炎上する赤城に「もし発艦出来る飛行機があったら、飛龍に収容されたし」と伝えた[438]。山口少将は十三試艦爆によりアメリカ軍空母の位置を把握し、同機の誘導により、修理の見込まれる全兵力で薄暮攻撃をかけることを伝える[439][440]。ただし攻撃機の消耗度から三隻目の撃破は難しいと考えた[441]。山口の幕僚によれば、一次攻撃、二次攻撃での被害が山口少将の予想をはるかに上回るもので、山口少将は三次攻撃の断行に逡巡をしめしたという[442]。この間、赤城・加賀・蒼龍から飛龍に着艦した零戦が交替で飛龍の上空を守っていた[443]。敵からの攻撃に関して山口少将は「現在の上空警戒機で阻止できる」という意向を話した[441]。
十三試艦爆の発進準備が終わり[444]、友永隊を護衛していた加賀所属零戦1機(山本旭一飛曹)が着艦しようとした時[445]、アメリカ軍急降下爆撃隊24機は飛龍の上空に到達した。エンタープライズの艦爆隊指揮官ギャラハー大尉は、ヨークタウン隊に戦艦を狙うよう命令すると、飛龍の飛行甲板の日の丸マークを目標に突入した[446]。
午後2時(17:30)、直衛の零戦6機の迎撃と飛龍の操艦によってエンタープライズ隊6機の攻撃は失敗した[447]。続いてヨークタウンの爆撃隊、エンタープライズ隊3機が太陽を背にするようにして攻撃した[448]。護衛の利根と筑摩が対空砲火で迎撃したが阻止できず、飛龍に爆弾4発が命中した[449]。長良からは、飛龍のエレベーターが飛龍の艦橋の前に突き刺さっているのが目撃されている[450]。またヨークタウン隊の2機は付近を航行していた戦艦榛名を爆撃したが、至近弾に終わった[451]。ヨークタウン隊に遅れて戦場に到着したホーネットの艦爆隊15機は利根と筑摩を攻撃したが、全て回避されている[452]。
この他にも飛龍と筑摩は午後2時30分(17:30)、午後3時15分(18:15)にハワイから飛来したB-17爆撃機から攻撃されたが、これによる被害はなかった[453]。
炎上した飛龍は、午後6時23分(21:23)まで機関は無事だったため、離脱と消火に努めた。だが艦橋と機関科間の電話が不通で、機関科は全滅と判断された[454]。しばらく洋上に浮いていた飛龍に横付けされた駆逐艦が消火協力したものの、誘爆が発生して消火不能となった[455]。午後11時30分(現地時間6月5日2時30分)、山口少将は南雲司令部に総員退艦させると報告し[454]、加来艦長と共に、駆逐艦巻雲の雷撃によって沈む飛龍と運命を共にした。飛龍が雷撃処分されたのは日本時間6月6日午前2時10分だが[316]、艦底部から脱出した機関科員34名が沈みゆく飛龍から短艇によって離艦したのは、巻雲の魚雷が命中してから数時間後の午前6時6-15分だったという[456]。彼らは15日後にアメリカ軍に救助された。戦死者は、戦闘詳報によれば1416名(傭人6名含)のうち、山口司令、加来艦長ら准士官以上30名、下士官兵387名の計417名である[457]。搭乗員も友永、小林両隊長を含め72名が戦死した。ただし417名には、先のアメリカ軍に救助された機関科員34名が入っている。
夜戦の検討
[編集]軽巡洋艦長良に移乗した南雲中将は、日本時間6月5日午前8時28分(現地時間6月4日11:28)に筑摩偵察機から「敵は北東90浬」の報告を受けて水上戦闘を決意し、午前8時53分に「今より攻撃に向かう、集まれ」と集合命令を出した[458]。日本軍三空母炎上の報告を受けた連合艦隊旗艦大和の艦橋は雰囲気が一変し、黒島亀人首席参謀は涙を浮かべてテーブルを叩いた[459]。山本五十六長官は渡辺と将棋を指している時に「赤城、被爆大、総員退去」との報告を受けたが、「ほう、またやられたか」「南雲は帰ってくるだろう」とつぶやいただけでそのまま将棋を続けたという[460]。この時、連合艦隊主隊は濃霧の中で戦艦長門が連絡不能になるなど混乱しており、焦りがつのるばかりであったという[461]。午前9時20分(11:20)、山本五十六長官はGF電令作第133号で輸送船団の一時北西撤退を命じる。日本軍攻略部隊(第二艦隊)の近藤信竹中将は、これを受けて占領隊(日本軍輸送船団)に北西退避を命じ、栗田健男少将の支援隊(第七戦隊)に合同するよう命じた[462]。同時に山本長官は、アリューシャン方面に投入されていた第二機動部隊(角田覚治少将、空母隼鷹および龍驤)に対し、第一機動部隊(南雲機動部隊)と合流するよう打電した[463]。だが両艦隊の距離は遠く、合流は早くとも9日で、宇垣纏連合艦隊参謀長は空母を分散させたことを後悔している[464]。同時刻、南雲中将も各艦に「昼戦をもって敵を撃滅せんとす」と伝え、第八戦隊(利根、筑摩)は魚雷戦を挑む準備を整える[465]。午前10時、山本長官はGF電令作第号、156号にて第二艦隊に以下の命令を伝えた[466]。
- 敵艦隊攻撃C法をとれ(全兵力を集中し、敵を撃滅する)。
- 攻略部隊は一部の兵力を以て、今夜ミッドウェーの陸上軍事施設、航空基地を砲撃破壊せよ。
- ミッドウェー、アリューシャン群島の攻略を一時延期す。
山本長官の命令により、近藤信竹中将は第七戦隊(熊野、鈴谷、三隈、最上)にミッドウェー島へ向かうよう命じ、同時に南雲機動部隊と策応してアメリカ軍機動部隊に夜戦を挑む方針を示した[467]。連合艦隊は、ミッドウェー基地のアメリカ軍航空兵力が稼働状態にあるか、南雲部隊に尋ねている[468]。長良には空母飛龍が米空母2隻を撃破したという連絡が入り(ヨークタウンを2度攻撃したことの誤認)、草鹿参謀長は希望を抱いた[469]。しかし、夜戦を企図しつつ北上中の午後2時5分(17:05)、飛龍大破の報により、アメリカ軍機動部隊とミッドウェー基地航空隊制空権下での水上戦闘は困難と南雲は判断する[470]。そこで一旦西方に反転し、改めての夜襲を企図した。草鹿参謀長によれば「万事休す[471]で、「レーダーもなく、駆逐艦も少なく、望みのない夜戦に一縷の望みをかけて、当てもなくただ走りまわっていた」と回想している[472]。宇垣参謀長は空母4隻を目前で失ったからには当然の反応だろうと理解を示しながらも[473]、戦艦や重巡洋艦から水上偵察機を発進させて索敵を行わない南雲司令部を「消極的、退廃的」と批判している。近藤中将の第二艦隊は軽空母瑞鳳を有しており、米艦隊に積極的に戦闘を挑む方針を示した[474]。炎上する日本空母を護衛していた第四駆逐隊司令有賀幸作大佐(後に戦艦大和艦長)は、「敵機動部隊接近すれば刺し違えよ」と配下駆逐艦に下令していた[475]。
午後2時13分(17:13)、筑摩の2号偵察機は、甲板に損傷なく傾斜停止したエンタープライズ型空母を発見し、周囲の護衛艦艇が空母をその場に残して東に去ったと報告した[476]。南雲司令部は、飛龍第一波攻撃隊(小林隊)が爆撃を行った空母(ヨークタウン)は既に沈没・飛龍第二波攻撃隊(友永隊)が雷撃した空母(ヨークタウン)は漂流と判定した[437]。1時間後、筑摩2号機は米空母1、巡洋艦2、駆逐艦4発見を報告、続いて米空母1隻の存在を報告する[477]。先任参謀の大石保中佐が長良の偵察機を夜間発進させ索敵するように進言し、他の幕僚は懐疑的であったが、南雲はその案に同意した[478]。その後、筑摩2号機が「炎上米空母の後方に、更に米空母4隻を発見」と報告してくる[479]。南雲司令部では「まさか」という声があがったが、これを信じ[480]、戦闘詳報には「南下中順次にこれ等の敵を発見せるものにして同一部隊ノ重複ナキ事確実ナリ」と記録[481][482]、南雲中将は「敵航空母艦の予想外に優勢なるを始めて知れり」と驚いている。午後4時15分、山本五十六長官と宇垣纏参謀長は南雲部隊に対し、GF電令第158号として以下の命令を伝えた[483]。
- 敵機動部隊は東方へ避退中にして、空母は概ねこれを撃破せり[484]。
- 当方面連合艦隊は敵を急追、撃滅すると共にAF(ミッドウェー島)を攻略せんとす[484]。
- 主隊は6日午前零時、地点フメリ32に達す。針路90度速力20ノット[484]。
- 機動部隊、攻略部隊(7戦隊欠)および先攻部隊(潜水艦隊)は速やかに敵を捕捉撃滅すべし[484]。
午後5時30分(20:30)、山本長官はGF電令159号にて伊168号潜水艦に対して「伊168潜水艦は2300迄AF(イースタン)島航空基地の砲撃破壊に任ずべし。同時刻以降は第七戦隊(栗田少将)が砲撃の予定」と告げ、ミッドウェー基地を夜間砲撃するよう命じた[485]。南雲中将は山本の敵情判断が間違っているとみて、午後6時30分(21:30)、機動部隊機密第560番電において筑摩の2号機の「空母5隻」発見とミッドウェー基地航空隊の活動を伝達する[486]。南雲中将は続く午後7時50分(22:50)の電信で「GF電令作第158号に関係し敵空母(特空母艦含むやも知れず)は尚4隻あり」と、自軍空母の全滅を報告した[487]。すると山本長官より、第二艦隊司令官近藤信竹中将に赤城と飛龍を除く機動部隊戦力の統一指揮を任すという命令が届いた[488]。南雲部隊第八戦隊は第二艦隊と合流し、アメリカ軍と戦闘を継続したい旨を伝えている。
日本軍の撤退
[編集]日本時間6月5日午後9時15分、山本長官は第二艦隊と南雲機動部隊(赤城・飛龍)に対し、夜戦の中止と主隊(大和以下、第一艦隊)への合流を命じ[489]、午後10時11分、南雲部隊は反転した。午後11時55分、山本長官は連合艦隊電令161号で以下の命令を伝達した[490]。
- AF(ミッドウェー島)攻略を中止す[491]。
- 主隊は攻略部隊(第二艦隊)、第一機動部隊(欠、飛龍及び及び同警戒艦)を集結し、予定地点に至り補給を受くべし[491]。
- 警戒部隊、飛龍同警戒艦、及び日進は、右地点に回航すべし[491]。
- 占領部隊は西進し、ミッドウェー飛行圏外に脱出すべし[491]。
ミッドウェー作戦の中止が決定した瞬間であった。日本軍は撤退を開始する。追撃して来る敵空母群を叩くため、第二艦隊の艦載水上機をもって索敵攻撃を企図、各機250kg爆弾を搭載し進出300カイリ、側程60カイリの扇形索敵で6月6日午前1時(現地時間6月5日04:00)にカタパルト射出で発進。敵を発見した場合は全機その地点に集結し爆弾を抱いたまま敵艦に体当たり攻撃せよとの命令であったが敵を見ずに帰投している[492]。6月6日午前4時30分(現地時間6月5日07:30)、軽空母鳳翔の九六式艦上攻撃機が漂流する飛龍と甲板上の生存者を発見、連合艦隊司令部は南雲司令部に飛龍が沈没したかどうかを確認せよとの命令をだした[493]。飛龍の現状を知らなかった南雲部隊司令部は午前9時45分(12:45)、長良より偵察機を発進させ、駆逐艦谷風を飛龍の処分と生存者救助のために派遣した[494]。谷風はエンタープライズから発進したSBDドーントレス16機の攻撃を受けたが、4機の撃墜を報告して生還した[495]。谷風を攻撃したホーネット隊は「香取型練習巡洋艦を攻撃した」と報告したが(実際は駆逐艦谷風)、撃墜されたのは1機であった[496]。午前中に、山本の主隊、近藤の攻略部隊、南雲の残存部隊は合流した[497]。
支援隊の第七戦隊(重巡洋艦:旗艦熊野と、鈴谷、三隈、最上)は上陸する輸送船団の護衛として警戒任務に従事していたが、南雲機動部隊の壊滅によって山本から新たにミッドウェー基地砲撃の命を受け、全速で前進していた[498]。その後、夜戦中止に先立ってミッドウェー島砲撃中止命令が出された。第七戦隊はミッドウェー島90浬の地点で転進を行ったが、その1時間20分後、米潜水艦タンバー(SS-198)を発見して緊急回頭を行い、その際に三番艦三隈と最後尾の最上が衝突[499]。最上は艦首を切断、速力10ノットに落ちた。第七戦隊司令官の栗田健男少将は最上の護衛に三隈と駆逐艦2隻(第八駆逐隊:荒潮、朝潮)をあてると南西のトラック島への退避を命じ、栗田少将は熊野と鈴谷を率いて主力部隊と合流するため北西に向かった[500]。
一方のアメリカ軍では、飛龍攻撃隊により空母ヨークタウンが大破し漂流していた。駆逐艦ヒューズだけがヨークタウンの護衛として残された[501]。その後ヨークタウンではサルベージ作業が進み、艦隊曳船ヴィレオが救助に向かう[502]。フレッチャーから指揮権を渡されたスプルーアンス少将の第16任務部隊も日本艦隊の動向が把握できず夜戦に持ちこまれる可能性を考慮、一時的に東へ退避する[503]。しかし翌7日の黎明、第16任務部隊はミッドウェーの防衛と日本艦隊の追撃のため西進する。
日本時間6月6日、潜水艦タンバーの報告を受けたアメリカ軍は、まずミッドウェー島の航空戦力で三隈と最上を攻撃した。SBDドーントレス6機、SB2Uビンディケーター6機、B-17爆撃機8機が攻撃、SB2U指揮官機が三隈の後部砲塔に体当たりし、最上が至近弾で戦死者2名を出した[504]。アメリカ軍機動部隊の追撃を受けた三隈と最上はウェーク島に向かい、連合艦隊主隊と攻略部隊も三隈の救援と米機動部隊の捕捉に向けて動き出す[505]。6月7日、スプルーアンスは「空母1隻、駆逐艦5隻発見」という索敵機の報告を元に、ホーネットとエンタープライズから撃隊を発進させた[506]。アメリカ軍攻撃隊は空母の代わりに「戦艦」を発見し、最初は航空母艦、次は戦艦と誤認された三隈は集中攻撃を受けて沈没[507]。また最上や駆逐艦朝潮、荒潮も被弾。近藤信竹中将は第二艦隊に「敵空母部隊を捕捉撃滅して三隈・最上を救援せんとす」と命じて反転したが、アメリカ軍機動部隊の捕捉に失敗している[508]。翌8日午前中、最上は救援にかけつけた第二艦隊と合流、空襲圏外へ脱した[509]。
戦艦大和以下の主力部隊は夜戦を企図し東進していたが、飛龍を失い、再考して翌0時に夜戦の中止を決定し、3時頃には作戦自体を中止。主力部隊は結局ミッドウェー島の遥か数百キロメートル後方におり、本海戦には参加できず、駆逐艦が救出した生存者を医療設備の整った戦艦で手当てを行ったに留まる。赤城の生存者達は、大和以下本隊が戦闘に全く関与しなかったことを罵ったという[510]。日本軍輸送船団は、アメリカ軍機動部隊の追撃に備えて陣形を変更した[511]。山本長官は艦隊主力が安全圏へ退却するまで第五戦隊に"囮(おとり)艦隊"の役割を下命、すでに占領済みのウェーク島方面へ回航し、欺瞞電波の発信を繰り返しながらアメリカ軍の追撃部隊を引き付け[512]、ウェーク島の航空戦力で叩く計略だったが[513]、アメリカ軍はそこまで深追いしなかった。
6月7日、ヨークタウンは曳船に引かれつつ真珠湾に向かっていた。このとき駆逐艦ハムマンに移乗していたヨークタウン艦長エリオット・バックマスターと161名が再びヨークタウンに乗艦している[514]。さらに駆逐艦モナガン、グウィン、バルチ、ベンハムが護衛に加わった[514]。その頃、ミッドウェー島を砲撃後に同島海域に留まっていた伊168潜水艦がヨークタウン撃沈の任を受け、同艦に接近[515]。(13:34)、4本の九五式魚雷を発射し、2本をヨークタウンの左舷に命中させ、[516]撃沈した。さらに、同行の駆逐艦ハンマンにも1本が命中しこれも沈没[516]。このときのヨークタウンを日本軍は「甲板の損傷なき模様」として、飛龍が最初に攻撃したのとは別の空母だと考えていた[494]。
6月13日、第16任務部隊のエンタープライズ、ホーネットは艦載機と搭乗員に大きな損失を出しながらも無事に真珠湾に帰港した。アメリカ軍は救助したゲイ少尉の証言から日本軍空母2隻の沈没を確認し、ボートに乗って漂流していた飛龍の機関科員を救助・尋問して飛龍の沈没を知り、計3隻の撃沈を確信した[517]。赤城については暗号解読から沈没推定としていたが、確信するのは日本軍捕虜を尋問して得た情報を分析した結果によるものであった。
参加兵力
[編集]日本
[編集]- 海戦に参加した兵力※()表記の搭載機数は定数(補用機数含む)
第一機動部隊(第一航空艦隊基幹) 指揮官:南雲忠一中将
第一航空戦隊 司令官:南雲忠一中将
第二航空戦隊 司令官:山口多聞少将
第八戦隊 司令官:阿部弘毅少将
第三戦隊第二小隊 ※先任の高間完榛名艦長が指揮
第十戦隊 司令官:木村進少将
部隊直率
- その他のMI作戦の兵力
主力部隊主隊(連合艦隊直率基幹) 指揮官:山本五十六大将
本隊(第一戦隊)連合艦隊司令長官直率
警戒隊(第三水雷戦隊)指揮官:橋本信太郎少将
空母隊 ※梅谷薫鳳翔艦長が指揮
特務隊 ※先任の原田覚千代田艦長が指揮
第一補給隊 主力部隊主隊直率
主力部隊警戒部隊(第一艦隊基幹)' 指揮官:高須四郎中将
本隊(第二戦隊)指揮官:高須四郎中将
警戒隊(第九戦隊基幹) 指揮官:岸福治少将
第二補給隊 警戒部隊直率
- 白露型駆逐艦:山風
- 油槽艦:さくらめんて丸、東亜丸
- 艦載機合計(空母機以外)
- 零観×21機、零式三座水偵×31機、九一式水偵×1機
攻略部隊(第二艦隊基幹)本隊 指揮官:近藤信竹中将
第四戦隊第一小隊 司令官:近藤信竹中将
第五戦隊 司令官:高木武雄中将
第三戦隊第一小隊 司令官:三川軍一中将
第四水雷戦隊 司令官:西村祥治少将
攻略部隊本隊直率
- 瑞鳳型航空母艦:瑞鳳(九六式艦戦×6機、零戦二一型×6機、九七式艦攻一二型×9機)
- 油槽艦:健洋丸、玄洋丸、佐多丸、鶴見丸
- 艦載機合計
- 零観×8機、零式三座水偵×4機、九五式水偵×6機、九四式水偵×1機
攻略部隊支援隊(第七戦隊基幹) 司令官:栗田健男少将
第七戦隊 司令官:栗田健男少将
支援隊直率
- 油槽艦:日栄丸
- 艦載機合計
- 零観×8機、零式三座水偵×4機
攻略部隊護衛隊(第二水雷戦隊基幹) 司令官:田中頼三少将
第二水雷戦隊 司令官:田中頼三少将
護衛隊直率
- 第一号型哨戒艇:第1号哨戒艇、第2号哨戒艇
- 第三十一号型哨戒艇:第34号哨戒艇
- 油槽艦:あけぼの丸
- 輸送船:清澄丸、ぶらじる丸、あるぜんちな丸、北陸丸、吾妻丸、霧島丸、第二号東亜丸、鹿野丸、明陽丸、山福丸、南海丸、善洋丸
攻略部隊占領隊 司令官:太田実少将
第二連合特別陸戦隊 司令官:大田実(海軍)大佐
- 横須賀第五特別陸戦隊(約1,450名)
- 呉第五特別陸戦隊(約1,100名)
- 第一一設営隊(約1,750名)
- 第一二設営隊(約1,300名)
- 第四測量隊
陸軍一木支隊 支隊長:一木清直(陸軍)大佐(合計約2,000名)
- 第二十八歩兵連隊(1個大隊)
- 工兵第七連隊第一中隊
- 独立速射砲第八中隊
攻略部隊航空隊 指揮官:藤田類太郎少将
第一一航空戦隊 司令官:藤田類太郎少将
- 千歳型水上機母艦:千歳(零観×12、零偵×12)
- 神川丸級特設水上機母艦:神川丸(零偵×4、零観×8)
- 陽炎型駆逐艦:早潮
- 哨戒艇:第35号哨戒艇
- 工作艦:明石
- 艦載機合計
- 零観×20機、零式三座水偵×16機
先遣部隊本隊 指揮官:小松輝久中将
- 香取型軽巡洋艦:香取(九四式二号水偵×1機)
- 艦載機合計
- 九四式二号水偵×1機
先遣支隊(第八潜水戦隊基幹)
- 第三潜水戦隊
- 第五潜水戦隊
- 艦載機合計
- 九四式水偵×4機、零式小型水偵×6機
第11航空艦隊
- ミッドウェー諸島派遣航空隊
- 零戦×36機
- 一式陸上攻撃機×10機
- 飛行艇×6機
- 千歳海軍航空隊
- 零戦×36機
- 九七式三号艦上攻撃機×36機
- オール環礁/ウォッジェ環礁方面航空隊並びに第1航空群
- 零戦×36機
- 九七式三号艦上攻撃機×36機
- 九七式飛行艇×36機
- 注釈
:*榛名、霧島には九五式水偵が3機ずつ搭載されていた。 :*利根型にはそれぞれ零式三座水偵が3機、九五式水偵が2機積まれていた。 :*大和型には零観3機と零偵3機、長門型にはそれぞれ零偵が3機ずつ搭載されていた。 :*日進には水上機ではなく魚雷艇が搭載されていた。 :*伊勢型・扶桑型にはそれぞれ水偵が3機ずつ搭載されていた。 :*愛宕と鳥海には水偵が3機ずつ搭載されていた。 :*妙高には水偵が3機、羽黒には4機搭載されていた。 :*比叡と金剛には水偵が3機ずつ積まれていた。 :*最上型には3機ずつ積まれていた。 :*報国丸と愛国丸には水偵がそれぞれ2機ずつ積まれていた。 :*伊9のみ水偵1機を搭載。
アメリカ
[編集]第17任務部隊(Task Force 17) 司令官 フランク・J・フレッチャー少将
- 第2群(Task Group 17.2 Cruiser Group) 司令官:ウィリアム・W・スミス少将
- 重巡 アストリア - ポートランド
- 第4群(Task Group 17.4 Destroyer Screen) 司令官:ギルバート・C・フーバー大佐
- 第2駆逐戦隊(COMDESRON 2)
- 駆逐艦 ハムマン - アンダーソン - グウィン - ヒューズ - モリス - ラッセル
- 第2駆逐戦隊(COMDESRON 2)
- 第5群(Task Group 17.5 Carrier Group) 司令官:エリオット・バックマスター大佐(兼ヨークタウン艦長)
- 空母 ヨークタウン
- ヨークタウン航空群
- 第3戦闘機隊(VF-3/F4F-4/27機)、第3爆撃機隊(VB-3/SBD-3/18機)、第5索敵爆撃機隊(VS-5/SBD-3/19機)、第3雷撃機隊(VT-3/TBD-1/15機)
- ヨークタウン航空群
- 空母 ヨークタウン
※ヨークタウンの第5航空群は珊瑚海海戦で損失、サラトガの第3航空群と残存した第5航空群を搭載。
第16任務部隊(Task Force 16) 司令官 レイモンド・A・スプルーアンス少将
- 第2群(Task Group 16.2 Cruiser Group) 司令官:トーマス・C・キンケイド少将
- 第4群(Task Group 16.4 Destroyer Screen) 司令官:アレキサンダー・R・アーリー大佐
- 第1駆逐戦隊(COMDESRON 1)
- 駆逐艦 フェルプス - ウォーデン - モナハン - エイルウィン - バルチ - カニンガム - ベンハム - エレット - モーリー
- 第1駆逐戦隊(COMDESRON 1)
- 第5群(Task Group 16.5 Carrier Group) 司令官:ジョージ・D・マーレ大佐(兼「エンタープライズ」艦長)
潜水艦部隊 司令官:ロバート・H・イングリッシュ少将
- 潜水艦20隻
ミッドウェー島守備隊
- ミッドウェー基地海軍航空部隊 司令:シリル・T・シマード大佐
- PBY-5Aカタリナ飛行艇×31機、TBF-1アベンジャー艦上雷撃機×6機
- 第22海兵航空群 司令:イラ・L・キムス海兵中佐
- F2A-3バッファロー艦上戦闘機×20機、F4F-3ワイルドキャット艦上戦闘機×7機 SB2U-3ヴィンディケーター艦上爆撃機×11機 SBD-2ドーントレス艦上爆撃機×16機
- 第7陸軍航空軍分遣隊 司令:ウイリス・P・ヘール陸軍少将
- B-26Aマローダー爆撃機×4機、B-17Eフライングフォートレス戦略爆撃機×17機
- 地上部隊 司令:シマード大佐(兼任)
- 第2急襲大隊
- 第6海兵大隊 司令:ハロルド・D・シャノン海兵大佐
- 第1魚雷艇戦隊
損害
[編集]日本
[編集]上記の沈没・損傷艦の他、筑摩の航空搭乗員3名、利根の航空搭乗員2名、駆逐艦谷風11名、朝潮21名、荒潮35名、嵐1名、風雲1名、給油艦あけぼの丸10名が戦死した。総計3,057名を失い、その中に加賀の飛行隊長:楠美正少佐(戦死後中佐に一階級特進)、飛龍の飛行隊長:友永丈市大尉(戦死後中佐に二階級特進)ら110名の空母艦載機搭乗員を含む。各母艦別の搭乗員損失は、赤城7名(艦戦4、艦爆1、艦攻2)、加賀21名(艦戦6、艦爆6、艦攻9)、蒼龍10名(艦戦4、艦爆1、艦攻5)、飛龍72名(艦戦11、艦爆27、艦攻34) [525]。搭乗員損失率は反撃した飛龍が最多。空母上でアメリカ軍機空襲とその後の誘爆により戦死した搭乗員は赤城4名、加賀13名、蒼龍4名、飛龍8名である[525]。
海戦直後の混乱や作戦後の被害秘匿のための特殊な人事処理で、海戦直後の資料は不正確。第一航空艦隊が6月12日に行った報告では、第一航空戦隊、第二航空戦隊で、戦闘機45名、艦上爆撃機51組、艦上攻撃機57組が残存となっている。内地に帰還したのちに作成された第一航空艦隊戦闘詳報では消耗52組となっている[526]。
6月10日の大本営発表は「空母エンタープライズ型1隻、ホーネット型1隻撃沈。米軍機120機。日本軍損害 空母1隻喪失、巡洋艦1隻大破、35機喪失」[527]、6月18日の大本営発表で「空母1隻撃沈を取り消し、大破認定。巡洋艦1隻、潜水艦1隻撃沈」と訂正発表した[527]。南雲機動部隊の戦闘詳報では、エンタープライズ型空母2隻撃沈、サンフランシスコ型大巡1隻大破、米軍機173機撃墜である[528]。
アメリカ
[編集]- 沈没
- 航空機:基地航空隊を含め、約150機を喪失。この数字には修理不能の損傷を受けた機も含まれる[529]。
- 戦死
- 空母ヨークタウン86名(航空搭乗員含む)、空母ホーネット53名、空母エンタープライズ44名、駆逐艦ハムマン84名、駆逐艦ベンハム1名、ミッドウェー基地46名。合計362名(航空搭乗員208名、基地・艦乗組員154名) 。高級士官の戦死は無かった。
影響
[編集]日本
[編集]この作戦後、山本連合艦隊長官やその幕僚の責任は問われず、一航艦も長官南雲忠一、参謀長草鹿龍之介は一航艦の後継である第三艦隊の指揮をそのまま受け継いだ。しかし、それ以外の一航艦の幕僚は全て降ろされ、また士官も転出させられた(一航艦航空参謀吉岡忠一はミッドウェー海戦の資料作成のためしばらく残留した)[530]。
開戦時に山本長官は「日本は開戦から半年、もって1年は優勢を維持できるが、それ以降はアメリカ(と連合軍)の国力が日本を圧倒する」と述べ、短期決戦早期講和を目指していたが、当作戦の失敗、大敗北により発言力を失った。また実質短期決戦は不可能となったため、軍令部、大本営は長期戦を主軸とした戦略への転換せざるを得なくなった。ミッドウェー海戦直後の参謀本部への説明の中でも、軍令部は「主力空母が2隻(翔鶴、瑞鶴)では守勢の外はない」と述べている[531]。しかし国力で圧倒される以前に、戦略、戦術、用兵など全ての拙劣さにより喫した敗北だったにも拘らず、事後に作戦戦訓研究会は開かれず、国民にもこの敗北は伝えられなかった。唯一上記のように参謀本部(陸軍)に対してのみ迅速に伝えられ[532]、ミッドウェー海戦の実態については海軍内はもとより陸軍内でも情報統制がなされた。これは前陸軍大臣の畑俊六にさえも真相は伝えられていなかったほどである[533]。
珊瑚海海戦の大本営発表から戦果の大きな水増しが始まったが[534]、本海戦でも戦果を「空母ホーネット、エンタープライズを撃沈、敵飛行機120機を撃墜。味方の損害は空母一隻、重巡洋艦1隻沈没、空母一隻大破、未帰還機35機」と国民に発表、士気の阻喪を防ごうとした[535]。
本海戦で空母4隻とその搭載飛行機全てを失ったことは大きな痛手であった。既に珊瑚海海戦で空母祥鳳を失い、第五航空戦隊も多数の機を失っていた。艦上機は戦闘機会が少ないので生産要求が小さく、この損失はすぐに補填できないものであった[536]。ただし本海戦で、搭乗員はほとんどが脱出に成功したため、大きな損失はなかった。アメリカ攻撃隊の技量が低かったこと、飛龍が少数機で戦果を上げたこと、今回の仇うちを目指すことなどで搭乗員の士気はむしろ上がっていた[526]。しかし搭乗員もまたすぐに補填がきくものでないことは同様で、今後後継者育成は追いつかないまま、熟練パイロットも失われていく一方となる。
ミッドウェー海戦後、立て直しの好機として、従来の要求、本海戦の戦訓を取り入れた空母部隊再建の打ち合わせが一航艦、連合艦隊で行われた。内容は、機動部隊の建制化、警戒兵力の増強、航空戦隊の再編、索敵の強化、火災予防の強化、消火訓練の徹底などであった。航空戦隊再編はミッドウェー海戦の戦訓から、大型空母2隻を攻撃の主体、小型空母1隻を自隊の防御とした三隻編制を一個航空戦隊とする。さらに従来の戦艦を中心とした艦隊決戦から空母を使用不能にして制空権を獲得する航空決戦の方針へと変わった[537]。
海戦後日本海軍保有の正規空母は瑞鶴、翔鶴のみとなったが、上記のように水上機母艦を改装した空母がその穴を補った。空母の再建については、戦前より認識されていた空母の脆弱性を払拭するために飛行甲板に装甲を施した大型正規空母大鳳が④計画で既に建造中であったものの、装甲空母は費用、工期ともにかかるため今後は、正規空母としては飛龍の設計に若干の改変を加えた雲龍型航空母艦の増産が、また多数の他艦種、商船などからの改造空母の工事が進められることとなり、空母の脆弱性是正については据え置かれたままとなった。6月21日に開かれた空母急増対策委員会(山本、草鹿、南雲、源田実、宇垣纏、鈴木義尾軍令部第二部長、大西瀧治郎航空本部総務部長、江崎岩吉造船少将)では、四空母生存者から日本空母の脆弱性に対する厳しい指摘がなされたが[538]、山本五十六が「計画変更の必要なし。空母に脆弱性あるとも、使いこなす自信がある」と発言し、出席者一同は沈黙したという[539]。
アメリカ
[編集]アメリカ海軍は、ミッドウェー海戦で正規空母1隻と多数の航空機、200名の航空兵が犠牲になるという決して軽くない損害を受けるも、真珠湾を攻撃した空母6隻のうち4隻を撃沈しその報復を果たし、半年に及ぶ日本機動部隊の快進撃をついに食い止めたことはアメリカ軍にとって非常に大きいことであった。アメリカは国威発揚のためにマスコミを総動員し、映画や新聞、ラジオを使いこの勝利を世紀の大勝利のように喧伝した(それは現在も続いている)。
そして、アメリカは戦前から建造を進めていた、大型のエセックス級航空母艦が1943年中旬以降に大量配備されるまでの時間を何とか確保することができた。しかし、まだ新しい航空母艦の就役と戦力化に時間がかかるため、アメリカ軍は、止むを得ず単艦による作戦行動が多かった航空母艦を集中運用するようになる。
しかし、この後1942年8月に行われたガダルカナル島の戦いで日本海軍潜水艦の雷撃によってワスプが沈没し、サラトガも損傷を受けて修理のために戦線離脱する状況が生じた。さらに、1942年10月に行われた南太平洋海戦で空母ホーネットが日本海軍に沈められて、エンタープライズも損傷した。それにより、アメリカ海軍は一時的に太平洋戦線での稼動空母が0になるという危機的状況へ陥った。
またこの後も日本海軍との海戦での相次ぐ敗北や、同時期に行われたアラスカ準州の領土の日本軍による占領、さらにアメリカ本土空襲と本土砲撃を受けるなど、アメリカ軍の敗北と後退は各地でまだまだ続いた。
一方、ミッドウェー海戦で駆逐艦嵐が6月5日に撃墜されて漂流する空母ヨークタウンの雷撃隊生存者ウェスリー・フランク・オスマス(オスムス)海軍予備少尉を救助して捕虜にしたが、6月6日に艦船の何者かに斬殺されるという事件が起き、水葬された[540]。ミッドウェー海戦で救助され捕虜になった米軍将兵はオスムスを含めて3人で、救助した艦船の何者かによって皆殺されたという[541][542][543][544]。
アメリカ海軍情報局の暗号解読が今回の勝利の大きな要因となったことから、以後アメリカ海軍は軍内部の対立を避け組織を統一化して暗号解読により予算強化を行い、第二次世界大戦中での主導的な成果をあげた。
勝敗の要因
[編集]連合艦隊司令部
[編集]作戦内容
[編集]連合艦隊がこの作戦計画案を関係者に配布したのは、4月28日であった。その後図上演習開始まで関係者は戦訓研究会に出席していたので、作戦計画について深く研究する時間的余裕はなかった[44]。
図上演習でも、ミッドウェー攻略の最中に米空母部隊が出現して日本の空母に大被害が出る、攻略の遅れや燃料不足など問題が続出し、攻略作戦続行が難しい状況となったが、連合艦隊参謀長の宇垣纏が空母を復活させるなど審判をやり直させて続行させた[51][52] 。宇垣の強引な判定には、ミッドウェー作戦からハワイ攻略までの図上演習を行う時間が3日間しかなく、スケジュールが
また連合艦隊と軍令部の意思統一ができておらず、本作戦の主目標がミッドウェー島攻略にあるのか敵機動部隊の撃滅にあるのか、はっきりしていなかった。軍令部は主目標をミッドウェー島攻略にあるとし、大本営命令においてもそれが主目標と指示されていたが、連合艦隊首脳は敵機動部隊撃滅を重視する発言をしていた。そのため最前線部隊の第一航空艦隊には、どちらの目標も周知徹底されることがなかった[44]。
アメリカ軍は、本作戦では戦力が分散していたが、空母3隻、重巡7隻ほか合計57隻を決戦海面に集めた。日本側がミッドウェー・アリューシャン作戦に動員した戦力は、戦艦11隻、空母6隻、重巡17隻ほか合計350隻に達していたが、決戦海面で戦うことができたのは戦艦2隻、空母4隻、重巡2隻ほかに過ぎなかった。空母1隻あたりの護衛能力は下回り、しかも航空兵力の半分を陸上攻撃に向かわせるという致命的な失敗を犯した。ニミッツ司令長官は「日本軍が6隻の空母、11隻の戦艦などを集中運用していたならば、いかなる幸運や技量をもってしても敗走させることはできなかったであろう。日本海軍は奇襲を必要としない場合も奇襲に依存するという錯誤を犯したのである」と語り、日本の作戦構想の誤りを指摘した[547][要ページ番号]。ゴードン・ウィリアム・プランゲ(元GHQ戦史室長)は、アリューシャン方面に空母龍驤、隼鷹を投入したことが、山本五十六最大の失策だったと指摘している[548]。
防衛大学校戦略教育室は、日本が兵力を分散したためミッドウェー沖で戦闘に参加した航空機の数がアメリカより少なかったことが根本的な原因であるとしている[549]。日本機動部隊の空母4隻が有する艦載機が合計248機だったのに対し、米側は空母3隻の艦載機合計233機に加えてミッドウェー島基地に126機の航空機を配備しており、海戦の勝敗を決した初日の戦闘に参加可能な航空機の数は日本側が100機以上の劣勢を強いられていた[550][3][3]。
連合艦隊が機動部隊で上陸点の制空を獲得することを前提として、開戦時と違い十分に警戒された敵要地に奇襲が成功すると決め、奇襲不可なら反撃され損害を受けることを考慮しなかった点[551][552]、敵情判断を誤り、南方攻略作戦の成功から日本の希望通りに予定が進むと思い込み敵を軽視し、予期せぬ事態に対処する余裕のない作戦立案を行った点[551][553]、ミッドウェー攻略を早く認めさせるために大本営の要望するFS作戦を組み入れたことで、作戦に無理を招いた点について批判がある[551]。また、連合艦隊はミッドウェー島上陸を6月7日に固定したため作戦の柔軟性が失われた[554]。機動部隊の草鹿参謀長は、この作戦では機動部隊の後から上陸部隊など他の艦隊がやってくるので、非常に窮屈なものであったと語っている[555]。
連合艦隊は占領後の基地航空部隊の進出を急いでおり、機動部隊の空母4隻に第6航空隊の航空機21機を輸送のため積んだので、格納庫は窮屈になり、不要な物を載せないという被害局限の原則にも反していた[556]。
作戦指導
[編集]連合艦隊は第一航空艦隊から、連合艦隊が敵情を把握し米機動部隊の動向は機を逸せず通報するように懇願されて、重要な作戦転換は連合艦隊司令部から一航艦に発せられることになっていた[557][72]。また、機密連合艦隊命令作第14号には、主力部隊の内地出撃から帰投までの太平洋方面の敵情通報は東京から放送することが定められ、東京には連合艦隊通信部隊の中枢に第1連合通信隊司令官柿本権一郎少将がいた[558]。
しかし、連合艦隊は付近に敵空母の疑いを感じ、情勢が緊迫してきたと判断しながら甘い状況判断の放送を東京から全部隊に流したまま、自己判断を麾下に知らせなかった[559]。そのため、第一航空艦隊は敵潜水艦に発見された情報も知らされず、その後の敵の緊急信増加、動きの活発化が何を意味するのか判断がつかず、敵がこちらの企図を察知していないもの、敵空母はハワイにあるものとして行動することになった[560]。連合艦隊の宇垣参謀長は海戦後の日記に第一航空艦隊に対して「当司令部も至らざる処あり相済まずと思慮しあり」と残している[561]。機動部隊の草鹿参謀長は、大和が無線封止を徹底し機動部隊に敵情を伝えなかったのは本末転倒であると批判している[562]。
哨戒
[編集]ミッドウェー作戦は、真珠湾に米機動部隊が在泊していることを前提として計画しており、そのため連合艦隊は、真珠湾の動静確認が重要で知敵手段として散開線への潜水艦哨戒配備と二式飛行艇での敵情偵察を行うK作戦を計画したが、間に合わず失敗した。この報告を受けた連合艦隊は、計画が崩れたことに何ら対策を取らなかった。戦後、連合艦隊参謀の黒島亀人は「海軍の常識からいえば、この場合の散開線構成は、西方で散開隊形を概成したのち東進して、所定配備に潜水艦をつけるべきである。ところが私の敵情判断の間違いなどから、あんな配備のつき方を計画してしまった。そのうえ、連合艦隊の指導が至らず潜水艦の準備が遅れてしまった。また、今次作戦は連合艦隊の主兵力を使って行なう作戦であるから、潜水部隊は連合艦隊の全兵力を集中すべきであった」と語っている[563]。K作戦失敗で完全に日本は敵機動部隊の知敵手段を失ったが、黒島は「わが機動部隊は無敵で、敵を圧倒できると信じていたので、このため特別な処置は考えなかった」という[564]。
この潜水艦と飛行艇による哨戒網は6月2日の予定だったため、計画通り進んでも5月28日にサイパンを出発するミッドウェー攻略部隊が発見されて真珠湾の米機動部隊が動いた場合、間に合わない作戦だった[565]。
機動部隊司令部
[編集]指揮官の資質
[編集]連合艦隊の幕僚たちは南雲中将に批判的であり、交代を要望しており、草鹿参謀長にも批判的であった[566]。また宇垣によれば、「(一航艦)司令部は誰が握り居るや」の質問に二航戦司令官の山口少将は「(南雲)長官は一言も云はぬ、参謀長先任参謀等どちらがどちらか知らぬが臆怯屋揃いである」と答えている[566]。攻撃隊の指揮官だった淵田美津雄によれば、戦前の南雲中将の印象は末頼もしい提督の面影があり、第一水雷戦隊司令官としても抜群の武将であるとの評判が高かったが、開戦後は航空という畑違いのせいもあってかはつらつとした昔の闘志が失われ、何としても冴えない長官であり、作戦を指導する態度は消極的で、長官自ら乗り出してイニシアチブをとるというようなことはなく、最後にうんそうかで採決するだけのようであったという。また当時、航空参謀の源田実から、大西瀧治郎や山口多聞あたりが上にいてくれるとあらゆる角度から叩き直して突っ返してくるから安心して自由奔放に作戦を練られるが、南雲司令部のように国運を左右するかもしれない案がチェックされずに通っていくと責任感で圧迫されて自然と萎縮してしまうという苦衷も聞いたという[567]。
そもそも南雲中将は第二艦隊などの水上艦部隊の方が適任であり、年功序列で第一航空艦隊司令長官を決めた海軍人事行政に問題があったという指摘もある[568]。一方で、戦術戦略には共通分母があり、水雷出身者でもあっても空母に乗って半年も経てばそれが判るはずだったとの批判もある[569]。ミッドウェー海戦で米機動部隊を率いたスプルーアンスは、病気に倒れたハルゼーの代理で、ハルゼー麾下の巡洋艦戦隊の司令官から急遽抜擢された人物だった。空母勤務の経験は無く、この海戦の時点では南雲以上に航空に疎い提督だった[570]。
攻撃の判断
[編集]- 攻撃隊半数待機の解除
南雲長官は、敵機動部隊の出現に備えて攻撃隊の半数を雷装で待機させることを連合艦隊と約束したが、ミッドウェー基地攻撃が不十分であるとの報告を受け、その攻撃隊を陸用爆弾に兵装転換するように命じ、敵機動部隊出現の際に攻撃できなかった。
草鹿参謀長は「山本の望みは南雲も幕僚もよく知っていた。事実状況が許す限りそうした。しかしミッドウェー基地の敵航空兵力がわれわれに攻撃を開始し敵空母も発見されていない状況でいるのかどうかわからない敵に半数を無期限に控置しておくのは前線指揮官にとして耐えられないことだった。後で問題だったとしてもあの当時の状況では南雲の決定は正当だった」と語っている[571]。戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)で戦史室長を務めたゴードン・ウィリアム・プランゲは、当時の南雲の状況に加えて、連合艦隊からの敵情情報も敵艦隊なしだったことから南雲の判断は妥当とし、指揮上の失策ではなく情報上の失策であると分析している[572]。一方、南雲司令が攻撃隊の半数待機を破る命令を出したのは索敵機が索敵範囲の先端に達する前であり、(攻略中の)図上演習において不意に米空母部隊が出現して日本が大損害を受けたことから警戒が足りなかったという批判もある[573]。蒼龍に乗船していた攻撃隊パイロットは「ミッドウェーで日本軍が従来の教科書的な戦法から脱し得ず、敵空母確認の報告が入るまで艦船攻撃の用意をしないで基地攻撃に囚われ続けてしまった」と述べている[574]。加賀の艦攻隊分隊長の牧大尉は「空母はいるかどうかわからない」と考えておらず、「ミッドウェー攻撃のあいだに敵空母が出現したら味方はお手上げだ」と飛行長に雷装を解かないよう抗議したが、聞き入れてもらえなかったという[573]。
南雲司令部は、第一次攻撃隊発進直後「敵情に変化なければ第二次攻撃は第四編制をもって本日実施予定」と発信している[575]。この予令は存在しないという証言もある[170](「#資料の問題」節を参照)。第四編制では、上空警戒機は各空母で3機ずつとなる計画だった。この予令には、ミッドウェー基地への奇襲が成立するという判断があったという意見もある[576]。この予令が存在したとして、予令で兵装転換の作業を開始することはない[577]。
南雲の敵状判断は、第一次攻撃隊を発進させる直前のものとして、敵機動部隊は付近海面に行動中と推定する資料がないこと、攻略作戦が始まれば出動してくる算があることが述べられている[578]。南雲の幕僚も敵がこちらの企図を察知していないもの、敵空母はハワイにあるものとして行動していたと証言している[560][579]。敵機動部隊については連合艦隊が把握し、動向は機を逸せず南雲に通報し、また重要な作戦転換は連合艦隊司令部から発せられることになっていた[72][557]。しかし、連合艦隊は付近に敵空母の疑いを感じ情勢が緊迫してきたと判断しながら、甘い状況判断の放送を東京から全部隊に流したまま自己判断を麾下に知らせなかった[559]。航空参謀の吉岡少佐は、敵機動部隊の出現がないと思い込んだ判断を敗因として、「敗北の責任は連合艦隊司令部も同罪」と語っている[580]。
- 敵機動部隊発見時
敵艦隊を発見した報告があった際、攻撃隊は艦船攻撃兵装から陸上攻撃兵装に換装中だったため、南雲は艦船攻撃兵装への再転換を命じた。二航戦司令官山口少将は、準備中の陸用爆弾のままで攻撃させるように意見具申したが、却下された[262][581]。参謀長草鹿龍之介少将によれば、九七艦攻を雷装に戻すよう命令した南雲長官の判断は命中率の差があったという。九七艦攻の艦船攻撃方法には、爆弾の水平爆撃と魚雷攻撃の2つがあるが、水平爆撃の命中率は10パーセント前後であり魚雷攻撃は60パーセント以上だった[582]。
この判断を下した南雲司令部の回想は以下の通り。草鹿参謀長によれば、敵の来襲状況を見ると敵は戦闘機をつけずに面白いように撃墜され、全く攻撃効果をあげておらず、これを目前に見ていたので、どうしても艦戦隊を付けずに艦爆隊を出す決心がつかなかったという[583]。航空参謀源田実中佐は、当時入手していた敵空母の位置(誤情報)は味方からまだ約210海里離れており、敵の艦戦は航続力不足でついてこられず、敵が艦戦を伴わないとすれば上空の警戒機で十分に防御できる、敵空母の攻撃隊が戦闘機を付けて来るとすれば、もっと距離をつめる必要ができるため、時間的余裕があると判断した[262]。また、図上演習ならば文句なしに第一次攻撃隊を見捨てたが、苦楽を共にしてきた戦友達に「不時着して駆逐艦に助けてもらえ」とは言えず[584]、機動部隊が移動すれば、不時着した搭乗員達は見殺しになるので歴戦の搭乗員達の回収を優先させることを進言し、部下の生命を惜しんだために決定的な敗北に終わったと語っている[585]。航空参謀吉岡忠一少佐は「いままでの防空戦闘の成果からみて、敵機の来襲は艦戦で防御できると漠然と判断していた。また敵空母までの距離はまだ遠いので、次の来襲はミッドウェーの航空兵力であろうが、それにはまだ相当の時間的余裕があると判断した。さらに攻撃は大兵力を集中して行なう方が戦果も大きく損害も少ないので、若干攻撃隊の発進を遅らせても、大兵力が整うのを待つ方が有利であると考えた。この決定は司令部内では問題もなく簡単に決まった」と語っている[217]。
南雲中将には陸用爆弾への兵装転換を下令してから30分しか経っていない上、防空戦があり、飛行甲板も使えなかったため、転換作業はほぼ進んでおらず、雷装に簡単に復旧できるという判断があったという意見がある[586]。しかし、兵装復旧を命令したものの防空戦が続いたため、南雲中将の予想に反し復旧作業は進捗しなかった[586]。当時の進捗状況については、空母に搭載されていた航空兵装運搬用の台車の数や、海戦前に第二航空戦隊が行った兵装転換実験での所要時間から考えても、兵装転換を開始した午前4時15分(07:15)から一時中止を命令した午前4時45分(07:45)までの間に赤城と加賀の兵装転換はそれぞれ1個中隊(9機)が済んでいただけではないかという意見もある[254]。一方、整備員や乗組員たちの懸命の作業で南雲司令の予想に反し兵装転換はかなり進んでおり、九七艦攻の大半が陸用爆弾の搭載を終えていたとの意見がある[587]。赤城に搭乗していた第二次攻撃隊の電信員も、5時40分(8:40)頃、赤城艦内で(17機中)15~16機の九七艦攻の陸用爆弾の搭載が完了していたと回想している[588]。第一次攻撃隊の収容が終わった6時半(9:30)頃、「一航戦の雷装艦攻は7時30分(10:30)発進可能、二航戦の艦爆隊は7時30分(10:30)ないし8時(11:00)に可能」との報告があったが、加賀で発進準備の完了を待っていた艦攻隊分隊長の牧大尉によれば、7時20分(10:20)の時点でも「(換装終了まで)あと小一時間かかる」という状況だったという[589]。二航戦の飛龍、蒼龍においてもミッドウェー攻撃隊を収容した事で九七艦攻への魚雷の装備を開始することとなった。蒼龍艦内で兵装転換作業に当った整備兵も、戦闘中の艦では平常航海中のように順調な作業はできず、右に左に転舵する蒼龍の動きに「どうなってるんだ」と途方に暮れ、作業は遅々として進まなかったと述べている[590]。赤城艦内で兵装転換を行った整備兵は、度重なる兵装転換で疲労が溜まった上、回避運動で揺れる艦内では「気は焦っても体は伴わなかった」と証言している[591]。
同様の兵装転換作業がミッドウェー海戦の2か月前のセイロン沖海戦でも発生しており、その戦訓を生かせなかったという批判もある[592]。ただセイロン沖海戦では1時間半では済んだものが、ミッドウェー海戦では2時間でも完成しなかった。敵襲を考慮しても2時間あれば十分で、原因としてミッドウェー海戦では直掩戦闘機の補給も同時に行っていたことが挙げられる[593]。また、第一航空艦隊はこの海戦において敵の来襲の無い好条件下でも艦攻の出撃が間に合わなかったので、兵装転換の実験を飛龍で実施した。問題の通常爆弾から魚雷への転換は2時間という結果が出ている[586]。飛龍で実験が行われたことから、艦長の加来止男大佐から[594]、あるいは第二航空戦隊司令官の山口少将から何らかの改善に関する報告があって、問題を未然に防ぎえたかもしれないという意見もある[595]。兵装転換に関しては、加来艦長が飛龍の整備兵に対し転換作業の訓練を行い、陸用爆弾から通常爆弾への転換なら30分以内に完了できるまで上達していたが、それも5月に大幅な人事異動があったため訓練は振出しに戻っていた[596]。飛龍の航空整備兵は「バカな命令を出したなと思った。爆装から雷装への転換なんて一度も訓練をした事がないのに、偉い人はそんな事も考えていなかったんだろう」と述べている[597]。
陸用爆弾のまま攻撃させることについて、以下のような意見がある。参謀長の草鹿少将は、空母は攻撃に対して脆弱であるため、護衛戦闘機を付けられるだけ付けて、陸用爆弾であっても、一切の人情を放棄して第二次攻撃隊の出撃を優先すべきだったと反省している[598]。航空参謀の源田中佐も、心を鬼にして出撃させていれば、相打ちくらいにはできたと反省している[599]。戦後の批判でも同様の点があげられる[600]。6時23分(9:23)から7時(10:00)までの間、赤城から8機(後に2機を収容)、加賀、蒼龍から合計15機、飛龍から7機の戦闘機が上空直掩のため度々着艦、再出撃を繰り返しており[601]、二航戦の艦爆隊36機に、在空の戦闘機隊から選抜して燃料、弾薬を補給すれば、遅くとも7時(10:00)には、12機の護衛戦闘機を付けて出撃できたとする見解もある[602]。蒼龍攻撃隊のパイロットは攻撃隊の出撃に関して「近くに敵空母の所在がほぼ明らかとなり、確実に発見していない時点で攻撃隊をいち早く発艦させて、索敵機の発見報告があるまで上空待機させておくべきだった」と述べている[574]。二航戦の艦爆隊を緊急発進させた後に第一攻撃隊を収容させ、雷装の準備で特に手間取っていた一航戦の空母の負担を減らすといった平時ではない対応や、南雲中将が四空母全てを指揮せずに、二航戦の飛龍、蒼龍を山口の指揮下として分離させる選択肢もあったとする意見もある[603]。混乱する艦内で取り外した爆弾を整理する余裕もなく、格納庫内は多くの魚雷、爆弾、燃料を搭載した艦載機で満載となり、三空母被弾の際の誘爆原因となったとする意見もある[604]。アメリカ海軍歴史センター所長(1988年当時)のロナルド・H・スペクター博士は「アメリカの戦闘機は、戦争のこの段階では日本より劣っていた」とする見解から、戦闘機の護衛無しに日本の艦爆隊36機が出撃した場合でもアメリカ空母の上空哨戒機によって全て撃ち落される事は有り得ないと述べ、二航戦の艦爆隊がアメリカ空母部隊に多大な損害を与えただろうと分析している[605]。
一方、プランゲ元GHQ戦史室長は、山口の進言は余計なもので、南雲は航空攻撃の奇襲性と迅速性の価値を理解しているが、山本や天皇に対して責任を負い、幾千の将兵の命を預かる立場であったことを指摘している[606]。また南雲は理論的には非難の余地のない作戦決定をしたものの裏目に出ただけで、主導権を失っていることに気づかなかったことも入手情報から非難できず、当時南雲は中途半端な攻撃をさせる必要もなかったと述べている[278]。そもそも、山口が即時発進の意見具申を行った時点では機動部隊は敵空母の位置を正確に把握できておらず(利根4号機の報告位置が実際の位置から大きくズレていたため)、攻撃隊を送り込んだとしても敵空母を発見できずに帰投せざるを得なかった可能性が高い[607]。
索敵
[編集]南雲司令部は、偵察を1回のみの一段索敵として巡洋艦の水上機が割り当てられ、空母艦載機が出した索敵機は九七艦攻2機のみである。この索敵計画の立案を担当した吉岡忠一少佐は「当時攻略作戦中敵艦隊が出現することは、ほとんど考えていなかった。そのため、索敵は厳重にするのがよいことはわかっていたが、索敵には艦攻を使わなければならないので、攻撃兵力が減り、惜しくて索敵にさけなかった。全く情況判断の甘さが原因である」と語っている[72]。一段索敵と決めた参謀長草鹿龍之介は「攻撃兵力を増やそうとして偵察を軽視した」と語っている[608]。
南雲司令部の草鹿龍之介少将、源田実中佐、淵田美津雄中佐は、二段索敵にするべきだったと戦後語っている[609][信頼性要検証]。吉岡参謀は索敵の密度をもっと濃くするべきだったと反省している[610]
もっとも、索敵計画はこれまでの経験から早くに出すように改善はされていた[611]。そのため、利根の4号機がカタパルトの故障がなく定刻に発進し、偵察搭乗員に気の緩みがなければ、索敵計画に問題はなかったという指摘もある[612]。利根の4号機が定刻に発進した場合、コンパスのずれによる実際の索敵線から計算すると敵位置を飛び越えていて発見できないが[613][614][要ページ番号]、コンパスの故障がなく定刻通り発進し、計画通りの索敵線を進めば30分早く発見できる[613]。また、利根の四号機が報告した敵空母位置は誤りであり、これに第一航空艦隊、第八戦隊司令部、利根が気付かなかったことは、南雲中将の戦闘指導に大きな影響を与えている[217]。
利根にはカタパルトが2基あったにもかかわらず、索敵機の発進が遅れた。その理由について、軍令部参謀だった宮崎勇の調査によると、利根では水兵を整列させて尻を棒で叩く制裁が常態化して士気が低下しており、故障していないカタパルトを担当する乗組員が動かなかったという[615]。
筑摩の機も敵艦隊を見逃した。筑摩の機長兼飛行長の黒田信大尉によれば、敵艦隊が発見された地点は自分のところだが、敵方天候不良で見逃したのは仕方なかったという。しかし、アメリカの資料では天候不良ではなく第四索敵線機も発見しているので、索敵機の雲上飛行が原因であった[616]。また、南雲が夜戦を検討している時も、索敵機からの敵情報告はくるくる変わり、南雲を悩ませ[617]、苛立たせただろうという意見もある[484]。
GHQ戦史室長だったプランゲは、そもそも日本海軍では航空偵察に使用する兵力は全力の1割以内であり、特別な教育や訓練もなく、艦上偵察機の価値を認識しておらず、あらゆる作戦で南雲に不利になっていたこと、セイロン沖海戦で索敵機の回収に必要な電波を発したことで、自分の艦隊位置が露見して航行中に英軍爆撃機の奇襲を受けたせいで索敵を必要最小限にしていたこと、ミッドウェーの索敵でさらに時間を早めると、ミッドウェー島に事前偵察に向かった第二索敵線の加賀機がミッドウェー島に届かなくなること、そして連合艦隊からの情報で敵機動部隊はミッドウェーにいないものと思い込んでいたことから、索敵計画はミッドウェー島に対する攻撃に重点を置いたものと指摘している[618]。これに対し、プランゲの著書『ミッドウェーの奇跡』を翻訳した千早正隆は、インド洋作戦での南雲艦隊はジェームズ・サマヴィル中将旗下のイギリス東洋艦隊に待ち伏せされており、ミッドウェーに近似した状況だったことをプランゲが認識していない点がその著書の問題として、その著書の編集者からも賛意を得られたと主張している[619]。千早は、セイロン沖海戦で南雲機動部隊のごく近くにサマヴィル中将旗下のイギリス東洋艦隊が存在し、南雲司令部ではサマヴィルが放った複葉機を発見していながら索敵を行わなかった事について取り上げ、索敵の怠慢は繰り返されたものと批判している[620]。
艦隊構成
[編集]南雲機動部隊は赤城、加賀、蒼龍、飛龍の空母4隻に対し、護衛艦は霧島、榛名の戦艦2隻、重巡2隻、軽巡1隻、駆逐艦12隻、油槽艦8隻であった。
機動部隊の300海里(約550km)後方に、大和、長門、陸奥の戦艦3隻、空母鳳翔、特殊潜航艇母艦千代田、水母、軽巡各1隻、駆逐艦22隻の主隊、および伊勢、日向、扶桑、山城の戦艦4隻、軽巡1隻、駆逐艦12隻の警戒部隊からなる、山本五十六率いる主力部隊、そして、金剛、比叡の戦艦2隻、空母瑞鳳、千歳含む水母2隻、重巡8隻、軽巡2隻、駆逐艦21隻、輸送艦12隻の攻略部隊が続くという編成であった。この編成では当初の予定通りミッドウェー攻略作戦を行っていたとしても機動艦隊のみで戦うことになってしまい、後衛の主力艦隊は全く役に立たない。
そもそも一航艦は艦隊全体が建制化されていなかったため、南雲中将は部隊としての思想統一や訓練に苦しみ、建制化を望んでいた。連合艦隊も要望して軍令部も必要性を認めていたが、一航艦では実現せずミッドウェー海戦の戦訓を取り入れた後継の第三艦隊から建制化された[537]。
空母の集団使用は、指揮運用が容易で攻撃力の集中が可能という利点があるが、攻撃を受ける際に一挙に損害を被る危険性があることが最大の欠点である[621]。海戦後、軍令部次長以下と連合艦隊司令部の打ち合わせにおいて、問題だった点として「空母が団子になっていた」こと(集団使用)が挙げられている。しかし、当時の無線電話の現状や無線封止、警戒艦数から見ても分散配備は却って不適当であったと『戦史叢書』では指摘されている[622]。また打ち合わせでは、艦上戦闘機をミッドウェー基地への攻撃隊の援護に使い過ぎたことも言及されている。もっとも、第一航空艦隊はミッドウェー基地の航空兵力を捕捉撃滅することが主目的であるため、援護に機数を割くのは必要なことであり、連合艦隊も承知していたことで所見にすぎない[622]。海戦後の検討で得られた戦訓には、四空母が同一の状況となり、戦闘機の発着、帰還した攻撃隊の収容などの混雑を招き、第二攻撃隊が発進する前に攻撃を受けたので、戦闘機の発着する艦を一艦に指定するほうが良いことや、攻撃隊の役割ごとで各艦に区分することが挙げられている[623]。
一航艦の戦力としてミッドウェー作戦に参加する予定だった第五航空戦隊は、5月14日に五航戦から珊瑚海海戦の戦死者の報告があり、その損害があまりにも大きかったので、翔鶴と瑞鶴の両艦とも到底次期作戦に使えないことが判明した。さらに17日に呉基地へ帰港した翔鶴は修理に三ケ月は必要であることがわかった。こうして一航艦は3分の1の戦力を失った状態になったが、延期は認められずに実施が決定した[624][625]。偵察機も能力不足であった。フロート付きの九五式水上偵察機は速力、航続力も不十分であり、高速の二式艦上偵察機は蒼龍に2機用意されたが、まだ試作段階の機体であり液冷エンジンに故障が多かった[626]。
情報戦
[編集]日本はそれまでの勝利や誇大戦果を報じた珊瑚海海戦などで気が緩み、作戦の機密保持が杜撰になっていた。取り締まる立場にある連合艦隊もその傾向が出ていた[556]。また、連合艦隊は敵情が緊迫していることを知りながら前線部隊に知らせないことが何度もあった[627]。連合艦隊は、5月中旬から敵の通信が増加していることから何らかの動きがあると把握しつつも気にとめず、出撃から6月3日までに入手した情報から敵が日本の動静を偵知して活発に動いていると判断するも、警戒すべきではあるが、敵をおびき出せるものと受け止め好ましいことだと考えていた[628]。第二艦隊の白石萬隆参謀長は、連合艦隊は作戦がばれてでも米艦隊を呼び出そうとしていたと語っている[629]。6月4日頃、連合艦隊は大本営の知らせあるいは通信符号の傍受でミッドウェーに機動部隊がいる兆候をつかんでいたが、無線封止を理由に一航艦に知らせなかった[123]。
また日本は太平洋にある米空母は3、4隻と考えていたが、珊瑚海海戦で米空母2隻撃沈、マーシャル諸島南方で西航する米空母2隻発見の情報から、残っている米空母2隻は全て南太平洋のハワイ方面にあると誤った敵情判断をしていた[627]。
アメリカ海軍は戦術情報班ハイポ(HYPO)を重用し、日本海軍の暗号解読と無線傍受でミッドウェー作戦を事前に把握して迎撃準備を整えていた。日本の「海軍暗号書D」系統は戦略常務用一般暗号書でよく用いられていたが、乱数表を用いて二重に暗号化した複雑な暗号であり、これに特定地点表示表、特定地点略語表、歴日換字表を併用したものだった。しかし開戦前から使用していたうえ、作戦前に行われる予定であった更新も遅れ、作戦概要や主力部隊以外のすべての参加艦艇などの作戦全体像がアメリカにほぼ察知されていた[630]。
ニミッツは4月下旬には日本が大規模な作戦を企図していることをつかみ、ミッドウェーの可能性が高いと判断した。5月2日からミッドウェーで環礁視察し、兵力、警戒態勢を整え、その後の情報でさらにミッドウェーの感が強まった。5月14日第二艦隊司令部がAF攻略部隊にあてた電文を傍受して攻略があると知り、19日にはAFを特定するためにアメリカは「ミッドウェーで真水製造機が故障」の偽の電文を傍受させ、罠にかかった軍令部は「AFで真水欠乏」という電文を打ち、アメリカはAFをミッドウェーと特定した。26日には攻略が6月7日であることも特定し、日本の作戦を把握して態勢を整えミッドウェー海戦で一航艦の迎撃に成功した[631]。
日本軍の楽観
[編集]この時期の日本海軍航空隊の搭乗員の精強さについては、日中戦争(支那事変)以来の戦果に対する大きな自信と長い実戦経験があり、さらに日米戦争開戦後は「真珠湾以来すべて完勝してきた」との自信もあった。そのため、珊瑚海海戦で空母同士の決戦を初めて経験し、訓練された敵の空母部隊と交戦して大損害を受けた後も、敗北(戦術的には日本の勝利)の検証さえ十分に行わなかった。第一航空戦隊(赤城、加賀の飛行隊)のパイロットたちも「珊瑚海で米艦隊を撃ちもらしたのは五航戦がだらしないからだ」「妾の子でも勝てたのだから、自分達なら問題ではない」と信じていた[632]。当時の一航艦を含む日本海軍は、南方作戦において、爆撃、雷撃で高い命中率をあげていたことで、敵の戦闘機の妨害や敵艦艇の防御砲火にあまり関心を払わなくなっており、敵の戦力を軽視したという指摘もある[633]。ただ敵の戦闘機による妨害に関しては、第一航空艦隊自身の直掩機の有効性から重視されている[262]。
連合艦隊は過信から、日本の機動部隊が最強なので、たとえ敵情判断が間違っていても簡単に処理してくれるだろうと考え、作戦は奇襲成功が前提、索敵も不十分であり、知敵手段が崩れても対応せず、意図が察知されてもかえって敵機動部隊を誘出し撃滅できると甘い判断で行われた。しかし開戦前の図上演習で複数の航空参謀が見通しの甘さを指摘し、作戦計画の修正を求めている。航空作戦においても索敵は念のため程度であり、ミッドウェーの航空基地制圧にも艦上攻撃機の全力が使用されなかった[627]。また、機動部隊の草鹿参謀長も、敗因は何より機動部隊の慢心にあるとし[634]、またこの慢心は日本全体に及んでおり機密保持が全く不徹底なものであったと語っている[635]。
ダメージコントロール
[編集]日本の空母は防御力が弱く、また防御に関する研究、システム、訓練も不足していた。これは海軍全般の傾向であった。空母の防空指揮組織も完備しておらず、無線も不良、戦闘機、援護艦艇、見張りも、消火訓練も不足していた。航空戦訓練も全ては攻撃に集中していた[627]。
赤城は爆弾2発直撃で大破したが、これは第二次大戦で撃沈された正規空母のうち最も少ない被弾数である。これについては、後部命中の爆弾は命中せず至近弾の可能性もある[636]。 反面、アメリカ軍のヨークタウンは第一次攻撃隊の急降下爆撃時に被弾したがすぐに復旧し、第二次攻撃隊が無傷の空母と誤認するほど回復していた。また、第二次攻撃隊によっても被弾したが(両攻撃で計3発)自力航行可能なまでに復旧している。この艦船被害時の回復力の違いが明暗を分けたとの指摘がある[637][信頼性要検証]。
回復力の差には、日米の空母設計思想の違いもある。日本の空母は多層の密閉式格納庫で、米空母は一層で開放式である。日本の密閉式は、風雨や波浪から保護されるが、直撃弾を受け艦内で爆発すると爆風の逃げ場がなく、甚大な被害を及ぼす。米空母の開放式は、艦内で爆発があっても爆風は外に逃げ、被害を最小にできる。また緊急時に艦載機や燃料弾薬等を投棄でき、二次被害を抑えることもできた。ただし波浪に弱く、台風に遭遇して艦載機を失うこともあった。
資料の問題
[編集]運命の5分間
[編集]戦後、日本の空母三隻が被弾、炎上する直前に赤城では攻撃隊の戦闘機が発進しようとしており、あと5分あれば攻撃隊は発艦できたとする話が紹介された[638]。これは「運命の5分間」として広まったが、第一航空艦隊参謀長だった草鹿龍之介が『文藝春秋』の昭和24年10月号に書いた手記「運命の海戦 ミッドウエイ洋上、五分間の遅れが太平洋全海戦の運命を決した!!」が最初である[615][639]。また、昭和26年に出版された淵田美津雄(海戦時、病気で横になって赤城の発着指揮所から見ていた)と奥宮正武との著書でも「運命の5分間」が書かれた[640]。「被弾した時(日本の三空母が急降下爆撃された時)、各空母甲板上には発進準備を終えた戦闘機隊、雷撃機が整列しており、アメリカ軍の攻撃があと5分遅ければ全機発進できた」と淵田中佐は記述している[641]。この本は『ミッドウェー』であるが、その影響は大きく以後日本のミッドウェー海戦に関する戦記はこの本の記載を概ね踏襲したものとなった[642]。また『ミッドウェー』は昭和30年代に英語版で出版されており、アメリカ海軍の歴史家サミュエル・モリソンの著書『History of United States Naval Operations in World War II』のミッドウェー海戦に関する章が、英語版『ミッドウェー』の記載に沿う形で増補改訂されたことから一般的な説として広まったという意見もある[642]。英語版『ミッドウェー』が出版された後に出版されたミッドウェー海戦の戦記では、執筆に協力したマクラスキー少佐やベスト大尉等のアメリカ海軍のパイロット達が「各空母の甲板には航空機は並んでいた」と述べたことも相まって、海外においても「運命の5分間」はほぼ定説と見られるようになったとする意見もある[642]。
しかし、戦史叢書『ミッドウェー海戦』には、第一航空艦隊の戦闘詳報を元に「この時点で攻撃隊の発艦準備は終了していない」と記載されており、10:20に出されたとされる発艦命令は10:22に出された「上空直掩機は準備ができ次第発艦せよ」という命令が誤解して広まったものだとしている。また、各空母の複数乗員は「攻撃隊は並んでいなかった」「上空直掩を行う戦闘機の準備がなされていた」という回想を残している[643]。第一航空艦隊航空参謀だった源田実も5分説を採用していない[644]。赤城雷撃隊の松田憲雄電信員は、ちょうど「第二次攻撃隊員整列」のアナウンスがあり、搭乗員達が出撃前にお茶を飲もうと一息ついた時だったと証言している[645]。蒼龍雷撃隊の森拾三兵曹は被弾後に搭乗員待機室から外に出た際に、「艦爆搭載の250kg爆弾が格納庫の中で誘爆している」と聞いたという[646]。また、アメリカに残された赤城の日誌等の日本資料を調査したJ・パーシャルやA・タリーの調査では、B-17が撮影した蒼龍、飛龍、赤城の飛行甲板の写真に航空機は並んでいない事から、山口の進言に従っていれば「運命の5分間」は避けられたとする説には無理があるという意見もある[647]。しばしば使用される「運命の5分間」というのは単なるたとえであって、実情が5分でないことは昔からわかっていてはるか以前から死語になっているという主張もある[648]。
「運命の5分間」が生まれた理由は次のように考察されている。戦時中捕虜となった豊田穣は、ハワイでミッドウェーの報道を新聞で読んだ中に、数分あれば日本の攻撃隊は全機発艦完了して勝敗は逆になっていたというものがあり、草鹿、淵田は戦争直後にアメリカの調査と接触しているため、5分説はこの辺から出てきた可能性を述べている[649]。攻撃隊の発艦準備が進んでいれば戦闘機の発着艦も不可能なはずだが、各空母は被爆する15分前から上空直掩用の戦闘機を複数回発着しており、各空母が攻撃隊の準備を完了していたとは考え難いこと[642]、合わせて当時攻撃を行ったアメリカ海軍のパイロット達も「各空母の甲板に航空機は並んでいたのは確かだが、そんなに多くは並んでいなかった」との証言を残していることを踏まえ、アメリカ軍の急降下爆撃を受けた際には攻撃隊の発艦準備は終わっていなかったと考え、「運命の5分間」は当初第一航空艦隊司令部が出した発艦準備完了時刻が10:30であったことと、南雲長官が10:22に出した上空直掩機の発艦命令が誤解されて広まったのではないか、という意見もある[642]。再度の兵装転換であと30分も40分もかかってしまったでは身も蓋もない。あと5分の方が読む方も口惜しく感じること、一瞬で負け戦に転じた事への万感胸に迫る思いがこの言葉にあることから定着してしまったという意見もある[640]。草鹿参謀長や淵田中佐が、攻撃隊の発艦準備が整っていなかったにもかかわらず「あと5分の余裕があれば」と劇的なストーリーに脚色した事について、南雲司令部の決断ミスによって敵空母対策が後手に回った失態を包み隠そうとしているとの意見もあるが[650]、草鹿参謀長は著書で敵空母への攻撃が後手になった責任を記述している[651]。
第一航空艦隊司令部航海参謀だった雀部利三郎は、5分間というのは草鹿のその場の実感だろうという[652]。
戦史研究家の戸高一成は、草鹿らが戦後「あと少しで勝てた」という言い訳のため広めたと推測し、大木毅はアメリカ側でも「危機一髪のところで勝った」というストーリーの方が気分が良いため受け入れられたという見解を示している[615]。
作家の澤地久枝は、『戦史叢書ミッドウェー海戦』と『機動部隊戦闘詳報』に基づき、1942年6月3日から6日までの空母赤城を主体とした戦闘経過、重要通信の発着時間と内容、更には淵田美津雄・奥宮正武共著『ミッドウェー』の関連部分を引用して時系列で検証している。要点としては、三空母被弾の時点では兵装転換・発艦準備は完了しておらず「運命の5分間」説は虚構・創作であろうというものである[653]。
結局「運命の5分間」の責任は、陸上基地破壊の方針に執着するあまり、敵艦隊出現という優先度の高い報告に機敏な対応ができなかった司令部にあり、定説は司令部の責任を他に転嫁して軽くしようとするものである[654]。
0220信
[編集]戦後残された戦闘詳報には、午前2時20分に「敵情に変化なければ第二次攻撃は第四編成(指揮官加賀飛行隊長)をもって本日実施予定」という信号が送られたことが記載されている[575]。この戦闘詳報は、第一航空艦隊司令部の乙航空参謀だった吉岡忠一が海戦直後に作成した戦闘詳報から功績調査用に抜粋し書き直したとされるもので、吉岡の作成したものは残されていない[655]。
元海軍航空隊のパイロットで、戦後は作家となった豊田穣は、3月2日に吉岡航空乙参謀に電話をし、0220信について質問した所、「司令部が出す航空に関する信号は全て航空参謀が文面を起案し、参謀長、長官の許可を取って発信するものだが、私(吉岡)は全然知らんし源田甲航空参謀も知らんだろう」との証言を得たと主張し、昭和58年の著書『豊田穣戦記文学集2 ミッドウェー海戦』で発表した[656]。また豊田は同著で、第一航空艦隊司令部の航海参謀雀部利三郎中佐、赤城の飛行士兼飛行隊士後藤仁一、加賀の飛行長天谷孝久、加賀の艦攻先任分隊長牧秀雄からもこの予令を知らないとの証言を得たと主張した[657]。
作家の森史朗は、昭和51年3月19日に吉岡の元を訪ねて取材した所[658]、「220信は源田航空甲参謀の指示で吉岡が書き、草鹿参謀長、南雲司令を経た通常の手順で発信されたもの」[659]、「第一航空艦隊の戦闘詳報に「本日敵機動部隊出撃ノ算ナシ」の箇所が記載されていない[660]のは、南雲司令部にとってみっともない事実であったため隠蔽したから」との証言を得たと主張し、平成24年の著書「ミッドウェー海戦 第二部 運命の日」で発表した[661](吉岡は平成12年没)。
暗号解読を報じた米新聞
[編集]アメリカ海軍が日本海軍の暗号を解読して待ち伏せしていたことは、ミッドウェー開戦直後の6月7日、『シカゴ・トリビューン』紙と系列の『ワシントン・タイムズ=ヘラルド』紙において"Navy Had Word of Jap Plan to Strike at Sea."という見出しの特ダネ記事として報じられた[662][663][664]。トリビューン紙は、海軍長官のフランク・ノックスが経営する『シカゴ・デイリー・ニュース』と競合する、反ニューディール派の新聞だった。この記事はアメリカ側で大問題となり、日本側が暗号被解読を察知する機会は存在していた。この暴露についてルーズベルトは激怒し、トリビューン紙とタイムズ=ヘラルド紙をスパイ容疑で起訴したが、世間の注目を浴びたことや、発行前に海軍による2度の検閲をクリアしたものであり、無罪となる可能性が高かったことから、提訴を取り下げた。
関連作品
[編集]歴史映画・小説、ノンフィクション、ドキュメンタリー
[編集]- 映画
- ミッドウェイ囮作戦 (1944年,アメリカ)
- 太平洋の鷲 (1953年,日本)
- ハワイ・ミッドウェイ大海空戦 太平洋の嵐 (1960年,日本)
- ミッドウェイ (1976年,アメリカ)
- 連合艦隊 (1981年,日本)
- 永遠の0 (2013年,日本)
- ミッドウェイ 運命の海 (2019年,アメリカ)
- ミッドウェイ (2019年,アメリカ)
- ドキュメンタリー番組
- 小説
架空戦記・SF、ゲーム
[編集]- 漫画
- コンピューターゲーム
- 太平洋の嵐 - ボックスフォーメーションというミッドウェー海戦を扱ったシナリオがある[665]。
- 提督の決断シリーズ
- 空母戦記
- Battlestations: Midway
- 空母決戦
- 艦隊これくしょん~艦これ~
- アズールレーン
- 世界の覇者4 - 太平洋戦争シナリオの連合国ステージ3にて登場。また、定期イベントの太平洋戦線にも登場している。
- ゲームブック
- スーパーシミュレーション ミッドウェー大空海戦 (鈴木巌:新星出版社:1985年)
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 直接届いた手紙はないと近江従兵長は証言[30]。
- ^ この図上演習は、AL作戦では、空母隼鷹、龍驤が濃霧の中、アメリカ軍水上部隊の襲撃を受け撃沈判定となり[52]、FS作戦では沈没した加賀が復活して参加している[54]。
- ^ 6月3日ごろ東京の軍令部が「敵水上部隊がミッドウェー付近にあるらしい」との情報を出したという話がある。しかし『戦藻録』に「出撃後軍令部は我企図は未だ察知せられあらずと認むる旨電報あり」の記事があり、また同電報の記録も回想ない。したがってこれは何かの間違いである。6月4日に旗艦大和が傍受した敵空母らしい呼出符号は記録に残っている。
- ^ 黒島参謀は米機動部隊の情報について「大本営からだったと思うが」と回想するが、別の回想では「空母の呼出符号を傍受した際」と述べ、記憶の混乱している節が見受けられた。
- ^ 阿部と山口はいずれも昭和13年11月に海軍少将に進級しているが[353][354]、海兵39期の阿部が海兵40期の山口より先任となる。
出典
[編集]- ^ a b c d e f g h “ミッドウェー海戦”. コトバンク. 2023年11月15日閲覧。
- ^ a b Battle of Midway: American Intelligence, SBDs - and Luck - Made the Difference - National Museum of World War II Aviation
- ^ a b c d Parshall & Tully(2005), pp.90-91.
- ^ Jonathan Parshall, Timeless Battle, Evolving Interpretations, Naval History Magazine June 2022.
- ^ 神立尚紀(2022).落とせるはずの敵機を見逃し、「日本本土初空襲」を許してしまった零戦搭乗員の「深すぎる後悔」. 現代ビジネスオンライン
- ^ #亀井戦記72頁
- ^ #亀井戦記73頁
- ^ #勝つ戦略負ける戦略97頁
- ^ 『第1航空艦隊戦闘詳報(1)』pp.9-10
- ^ #戦藻録(九版)74-76,87,93頁等「第三節、米機動部隊の牽制作戦」
- ^ #勝つ戦略負ける戦略108-109頁、#海軍驕り193-194頁
- ^ #戦藻録(九版)68、72頁(1月14日・27日等)
- ^ #川崎戦歴120頁
- ^ 『戦史叢書43ミッドウェー海戦』40頁
- ^ a b 戦史叢書43 1971, pp. 44.
- ^ #勝つ戦略負ける戦略110頁、#海軍驕り239頁
- ^ 『戦史叢書43ミッドウェー海戦』44頁、#亀井戦記73頁、#海軍驕り240-242頁
- ^ #海軍驕り243頁
- ^ #戦藻録(九版)99頁
- ^ #亀井戦記74頁
- ^ #海の武将36頁
- ^ 戦史叢書43 1971, pp. 47–48.
- ^ 戦史叢書43 1971, pp. 47–49.
- ^ #勝つ戦略負ける戦略112頁、#海軍驕り244頁
- ^ 戦史叢書43 1971, pp. 48.
- ^ 戦史叢書43 1971, pp. 49.
- ^ #草鹿回想112-113頁
- ^ #戦藻録(九版)107頁
- ^ 三和義勇大佐(連合艦隊参謀)『三和日誌』
- ^ #従兵長103頁
- ^ 戦史叢書43 1971, p. 62.
- ^ #勝つ戦略負ける戦略113頁、#海軍驕り251頁
- ^ #淵田自叙伝177-178頁
- ^ #海軍驕り299頁
- ^ 『第1航空艦隊戦闘詳報(1)』pp.10-11
- ^ 『第1航空艦隊戦闘詳報(1)』pp.14-15
- ^ #草鹿回想126頁、『第1航空艦隊戦闘詳報(1)』p.13
- ^ 『第1航空艦隊戦闘詳報(1)』pp.13-14、『輸送船鹿野丸の最後 其の1(2)』p.8
- ^ #海軍驕り287頁、『MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(1)』pp.18-19「軍令部所報に依るミッドウェー島所在敵航空兵力左の如し」
- ^ 『第1航空艦隊戦闘詳報(1)』pp.11,13
- ^ 『第1航空艦隊戦闘詳報(1)』p.15、#澤地記録26頁
- ^ 『第1航空艦隊戦闘詳報(3)』pp.21-23
- ^ 千早正隆 1997, pp. 85–88.
- ^ a b c 戦史叢書43 1971, p. 123.
- ^ #草鹿回想130頁
- ^ #プランゲ上51-52頁
- ^ #海軍功罪302-304頁
- ^ #従兵長105頁、#亀井戦記79頁
- ^ 『戦史叢書43ミッドウェー海戦』89頁
- ^ 戦史叢書43 1971, p. 89.
- ^ a b c d 戦史叢書43 1971, p. 90.
- ^ a b c d #川崎戦歴121頁
- ^ #亀井戦記82頁
- ^ ゴードン・W・プランゲ『ミッドウェーの奇跡 (下)』原書房、50頁
- ^ #プランゲ上50頁
- ^ a b 戦史叢書43 1971, p. 584.
- ^ #戦藻録(九版)128頁、#海軍驕り294頁
- ^ 千早正隆 1997, p. 96.
- ^ a b 戦史叢書43 1971, p. 91.
- ^ #草鹿回想40頁、#海軍功罪303頁
- ^ 戦史叢書43 1971, p. 132.
- ^ 千早正隆 1997, pp. 93–94.
- ^ #勝つ戦略負ける戦略109頁
- ^ #従兵長105頁
- ^ #勝つ戦略負ける戦略123-124頁
- ^ 戦史叢書43 1971, p. 117.
- ^ 千早正隆 1997, p. 117.
- ^ 戦史叢書43 1971, p. 127.
- ^ 戦史叢書43 1971, p. 121.
- ^ 千早正隆『日本海軍の驕り症候群(下)』中公文庫、118頁
- ^ #提督山口177頁。軍令部参謀三代一就の証言。
- ^ a b c d e 戦史叢書43 1971, p. 165.
- ^ #草鹿回想123-124頁
- ^ #亀井戦記39頁。亀井の取材に。
- ^ #従兵長104頁
- ^ #飛龍生涯290頁、#亀井戦記84-85頁、#草鹿回想120-122頁
- ^ a b 『第1航空艦隊戦闘詳報(1)』p.21
- ^ #亀井戦記85,91-92頁、#海軍驕り306頁、〈第1航空艦隊戦闘詳報(1)』p.25「各艦は補充交替により個艦戦闘能力相当低下せるに加えて、各母港に於いて出撃の数日前まで整備しやりて、その技量低下は相当大なるものあり」
- ^ a b 『第1航空艦隊戦闘詳報(1)』p.22-25
- ^ 『第1航空艦隊戦闘詳報(1)』pp.23-24「所謂基礎訓練を実施せるに過ぎず。編隊空戦は一部旧搭乗員をして3機程度のものを実施せり」
- ^ #亀井戦記87頁、#草鹿回想122頁
- ^ #亀井戦記78頁、#海軍驕り296頁
- ^ #淵田自叙伝195-196頁、#草鹿回想115-116頁、#海軍驕り306-307頁
- ^ 千早正隆 1997, pp. 109–111.
- ^ #ヨークタウン146頁
- ^ #海軍驕り339頁
- ^ 軍艦総覧 1997, p. 21.
- ^ #飛龍生涯277頁、浅川(飛龍主計長)談。
- ^ #海軍驕り308頁
- ^ #海軍驕り309頁
- ^ #亀井戦記93頁、#海軍驕り308頁、#戦藻録(九版)139頁
- ^ 高橋雄次 1994, p. 76.
- ^ #亀井戦記95頁
- ^ #海軍驕り310-311頁、#勝つ戦略負ける戦略126-127頁
- ^ #飛龍生涯305頁
- ^ #飛龍生涯306頁
- ^ 亀井 2014a 193頁
- ^ 戦史叢書43 1971, p. 254.
- ^ 戦史叢書43 1971, p. 254-255.
- ^ a b 戦史叢書43 1971, p. 262.
- ^ 亀井 2014a 202頁、森史朗 2012a 272頁
- ^ #飛龍生涯307頁
- ^ 森史朗 2012a 272頁
- ^ 森史朗 2012a 289頁
- ^ 戦史叢書43 1971, p. 116-117.
- ^ 『オールカラーでわかりやすい!太平洋戦争』([[[Kindle]]版])106頁
- ^ 『ミッドウェーの決断』プレジデント社、50頁
- ^ a b #飛龍生涯308-309頁、#海軍艦隊勤務205頁
- ^ #ヨークタウン163頁
- ^ #ヨークタウン137-141頁
- ^ #ヨークタウン141頁
- ^ #ヨークタウン156頁
- ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.13
- ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.27
- ^ 「輸送船鹿野丸の最後 其の1(2)」p.4、「特設船あるぜんちな丸戦時日誌戦闘詳報」p.29
- ^ #戦藻録(九版)121頁
- ^ #亀井戦記119頁、#海軍驕り330,333頁
- ^ 千早正隆『日本海軍の驕り症候群 下』中公文庫144-146頁
- ^ #戦藻録(九版)122頁(5月31日)
- ^ #海軍驕り334頁
- ^ 千早正隆『日本海軍の驕り症候群 下』中公文庫150頁
- ^ #亀井戦記177頁
- ^ a b c 戦史叢書43 1971, pp. 249–250.
- ^ #亀井戦記176頁
- ^ #亀井戦記179頁、#勝つ戦略負ける戦略128頁
- ^ #亀井戦記168頁
- ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.28、#亀井戦記173-175頁、#草鹿回想133頁
- ^ #海軍驕り344頁、#プランゲ下216頁
- ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.3
- ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.4「機動部隊信令第100号」
- ^ #亀井戦記205頁、#澤地記録233頁
- ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.29
- ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.5、#澤地記録234頁
- ^ #炎の海228-229頁、#草鹿回想133頁
- ^ #ヨークタウン168頁、#亀井戦記186頁
- ^ #亀井戦記190頁
- ^ #ヨークタウン168頁、#亀井戦記193頁
- ^ 「軍艦愛宕戦闘詳報(2)」p.3、「輸送船鹿野丸の最後 其の1 (2)」p.22、「特設船あるぜんちな丸戦時日誌戦闘詳報」pp.36-37、#亀井戦記194頁
- ^ 「軍艦愛宕戦闘詳報(2)」p.4「月明かりを利用して来攻せる敵飛行機1機の雷撃により"あけぼの丸"艦首に若干の被害あり」、#亀井戦記197-198頁
- ^ #亀井戦記198頁
- ^ #海軍驕り347頁
- ^ a b #ヨークタウン169頁
- ^ a b #ヨークタウン153頁
- ^ 「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(2)」p.7
- ^ #ヨークタウン170頁
- ^ a b c #ヨークタウン171頁
- ^ #亀井戦記223頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.6
- ^ #淵田自叙伝198頁
- ^ #亀井戦記217頁、#海軍驕り342頁
- ^ #澤地記録26頁
- ^ #草鹿回想126頁
- ^ 戦史叢書43 1971, p. 423.
- ^ #亀井戦記223頁
- ^ 「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」pp.2,60、「飛龍飛行機隊戦闘行動調書(3)」p.56
- ^ #亀井戦記224頁
- ^ #亀井戦記225頁、#電信員遺稿115頁、#新装版飛龍生涯407-408頁、412頁
- ^ #歴群ミッドウェー124頁
- ^ a b 「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.19「偵察隊編成。右の他、第8戦隊、2D/3S、十三試艦爆偵察あり」
- ^ 「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(1)」p.32、「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.29
- ^ #海の武将38頁
- ^ #橋本信号員119頁
- ^ a b 「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.6、「第1航空艦隊戦闘詳報(3)」p.24
- ^ #澤地記録235頁
- ^ #澤地記録235頁、#亀井戦記229頁
- ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.7
- ^ 戦史叢書43 1971, p. 304.
- ^ 戦史叢書43 1971, p. 306.
- ^ #澤地記録237頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.6
- ^ #亀井戦記232頁
- ^ a b 豊田穣『豊田穣戦記文学集2 ミッドウェー海戦』講談社 316、317、324、331頁
- ^ #亀井戦記238頁
- ^ #ヨークタウン172頁
- ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.6、#澤地記録237頁
- ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.6「0243:各艦戦闘機を発進」、#亀井戦記263頁
- ^ #ヨークタウン172頁、#亀井戦記239頁
- ^ #橋本信号員121頁
- ^ #ヨークタウン173頁、#亀井戦記240頁
- ^ #爆撃王列伝174頁
- ^ a b #ヨークタウン173頁
- ^ #空母雷撃隊198頁
- ^ #空母雷撃隊199頁
- ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.30
- ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.30、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.6、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(1)」p.20
- ^ #ヨークタウン174頁、#プランゲ上257頁
- ^ #川崎戦歴121-122頁。古田清人(赤城爆撃隊、千早大尉機操縦士)
- ^ a b c #プランゲ上255-256頁
- ^ #飛龍生涯349頁
- ^ #空母雷撃隊208-210頁
- ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.7、「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.31、#ヨークタウン174頁、#澤地記録240頁
- ^ #澤地記録239頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.7
- ^ #プランゲ下12頁
- ^ #炎の海252頁、MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(2)」pp.10-13,69(蒼龍戦闘概要)。
- ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.31、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(2)」p.24(蒼龍戦闘詳報)、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」p.22(飛龍戦闘詳報)
- ^ #澤地記録241頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.8
- ^ #ヨークタウン175頁
- ^ #プランゲ下2頁
- ^ #電信員遺稿118-119頁、#澤地記録241頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.8
- ^ #プランゲ下5頁
- ^ #澤地記録242頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.8「0412:敵飛行機の機銃掃射を受け(中略)両舷送信用空中線切断、左舷使用不能」
- ^ #プランゲ下8頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.9
- ^ #プランゲ下9頁
- ^ #淵田自叙伝202頁、#草鹿回想126頁
- ^ #澤地記録243頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.33「0415の発令により艦攻は既に雷装を80番陸に変更中」、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.9「0415:第二次攻撃隊本日実施、待機攻撃隊爆装に換え」、「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.31「(ミッドウェー)攻撃隊発進後、艦隊は第四編成(艦攻雷撃)にて水上艦艇に備えて居りしが」、#新装版飛龍生涯409-412頁
- ^ #歴群ミッドウェー131, 132頁
- ^ #飛龍生涯347頁
- ^ #電信員遺稿117頁、#亀井戦記273頁
- ^ #プランゲ下40頁
- ^ a b #ヨークタウン185頁
- ^ #プランゲ下45頁
- ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.32、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.10
- ^ #澤地記録24-25頁、244頁、246頁。#ヨークタウン177頁。#プランゲ下13頁
- ^ #草鹿回想137-138頁
- ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.11「0445:敵艦隊攻撃準備、攻撃機雷装、其の侭」
- ^ #澤地記録24-25頁、#プランゲ下14頁
- ^ a b #海軍驕り354頁
- ^ #海の武将40頁
- ^ a b c 戦史叢書43 1971, p. 291.
- ^ #亀井戦記、吉岡忠一(南雲機動部隊航空参謀)談。
- ^ #淵田自叙伝204頁
- ^ ゴードン・プランゲ『ミッドウェーの奇跡 下』原書房14頁
- ^ #提督山口190頁
- ^ 森史朗 2012b 89-91頁
- ^ #澤地記録24-25頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.10
- ^ #海の武将39頁
- ^ #澤地記録247頁、#プランゲ下15-16頁
- ^ #プランゲ下17-18頁、#爆撃王列伝176頁
- ^ #爆撃王列伝176頁
- ^ #プランゲ下17-18頁
- ^ #プランゲ下23頁
- ^ a b #ヨークタウン177頁
- ^ a b #ヨークタウン177頁、#プランゲ下25頁
- ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.13-15
- ^ #プランゲ下27頁
- ^ #爆撃王列伝178-179頁
- ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.30、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(1)」p.21、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(2)」p.8、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」p.2
- ^ #炎の海248頁
- ^ #澤地記録249頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.32
- ^ #澤地記録249頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.13
- ^ #プランゲ下22頁
- ^ #澤地記録251頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.32 、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.14
- ^ #プランゲ下43頁
- ^ #草鹿回想138頁、#亀井戦記295頁、#プランゲ下28頁
- ^ #亀井戦記298頁、「蒼龍飛行機隊戦闘行動調書(3)」p.54、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(2)」p.66
- ^ #草鹿回想138頁、#橋本信号員143頁、#飛龍生涯425・426頁
- ^ その時4 2001, p. 185.
- ^ a b c 源田実 1996, p. 174.
- ^ a b 豊田穣 1985, p. 72.
- ^ #橋本信号員143頁
- ^ 豊田穣『豊田穣文学戦記全集 第三巻』光人社436-437頁
- ^ 淵田美津雄・奥宮正武『ミッドウェー』朝日ソノラマ 1982年276-277頁
- ^ #提督山口196頁、森史朗 2012b 109-110頁
- ^ 森史朗 2012b 110頁
- ^ #亀井戦記191頁(草鹿龍之介など)、#海軍功罪123頁(源田実「心を鬼にした理由」)、#淵田自叙伝206頁
- ^ a b #歴群ミッドウェー 134頁
- ^ 戦史叢書43 1971, p.289(草鹿).
- ^ #淵田自叙伝203頁
- ^ #澤地記録252頁、森史朗 2012b 122-123頁
- ^ #淵田自叙伝206頁
- ^ a b c #亀井戦記296-297頁
- ^ a b c d e #プランゲ下30-31頁
- ^ #淵田自叙伝206頁、#プランゲ下30-31頁
- ^ a b c d 戦史叢書43 1971, pp. 290–291.
- ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.15
- ^ #澤地記録257頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.16「午前5時55分:タナ10収容終わらば一旦北に向へ敵機動部隊を捕捉撃滅せんとす」→KDB(午前6時13分受信)、第二艦隊・連合艦隊(午前6時30分受信)
- ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.16「筑摩艦長→8S(午前6時20分光):午前6時30分発進の予定。(午前6時53分光)タナ5、5号機発艦(午前6時35分)」
- ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.33、#橋本信号員135頁
- ^ #澤地記録252頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.32、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.14、16
- ^ #澤地記録256頁、#亀井戦記298頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.15-16
- ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.15「タナ2、零式水偵を発進、利根4号機の発見せし敵に触接せしめよ」
- ^ #澤地記録257頁、#亀井戦記298頁
- ^ #澤地記録256頁、#亀井戦記299頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.16
- ^ #プランゲ下37頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.16
- ^ #勝つ戦略負ける戦略131頁
- ^ #戦藻録(九版)138頁、#海軍驕り361頁
- ^ #勝つ戦略負ける戦略132頁、#海軍驕り362頁
- ^ 「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(1)」p.21、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.17、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」p.2
- ^ 「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(2)」pp.50、57、「蒼龍飛行機隊戦闘行動調書(3)」pp.55、57
- ^ a b #プランゲ下36頁
- ^ #雷撃機電信員141頁
- ^ #プランゲ下48頁
- ^ The Battle of Midway June 3 - 6, 1942 --22--
- ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.17-18
- ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.19-20
- ^ #プランゲ下49頁
- ^ a b c #ヨークタウン182頁、#プランゲ下46頁
- ^ #プランゲ下50頁
- ^ #プランゲ下51頁
- ^ #澤地記録264頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.19、20
- ^ a b #澤地記録264頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.20、21
- ^ #澤地記録264頁、#海の武将41頁
- ^ #澤地記録266頁、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(2)」p.66「午前7時8分:索敵線上敵を見ず帰途につく」、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.22「午前7時(機動部隊受信午前7時15分):タナ1、敵を見ず。我れ(蒼竜偵察機)ミッドウェー島よりの方位20度距離290浬(午前7時)」
- ^ #ヨークタウン186頁、#BIG E上119頁
- ^ #BIG E上118頁
- ^ #BIG E上120頁
- ^ #プランゲ下57頁
- ^ a b c #ヨークタウン188頁
- ^ a b c #ヨークタウン187-190頁
- ^ #プランゲ下59頁
- ^ #プランゲ下60頁
- ^ 「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(2)」p.47「所見:敵雷撃機に味方戦闘機過集中の傾向大なり」
- ^ #BIG E上122頁、#プランゲ下64頁
- ^ #BIG E上123頁
- ^ #ヨークタウン191頁、#BIG E上124頁
- ^ a b #プランゲ下66頁
- ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.19
- ^ #大和最後の艦長150頁
- ^ #ヨークタウン191頁
- ^ #ヨークタウン188頁、#海軍驕り365頁
- ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.39「各母艦共主としてこの雷撃機に対し回避しありし時」
- ^ #川崎戦歴、#プランゲ下67頁
- ^ #BIG E上125頁
- ^ #澤地記録270頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.25「0723:〃左50度敵航空機加賀に急降下爆撃」
- ^ a b #BIG E上126-127頁
- ^ #BIG E上126-127頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.41
- ^ #ヨークタウン193-196頁「日本空母に痛打」
- ^ a b 「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.4
- ^ a b c #プランゲ下77頁
- ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.44、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(2)」p.42「0725:敵艦爆(12機)、母艦上空高度4000米に発見、爆撃により母艦に3弾命中火災」
- ^ #プランゲ下75頁
- ^ #井上 磯風39頁
- ^ #電信員遺稿123頁
- ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.26、「赤城飛行機隊戦闘行動調書(2)」p.32、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(1)」p.34、#澤地記録21頁、272頁
- ^ 「赤城」戦闘機隊痛恨の記『運命の海戦 ミッドウェー敗残記』潮書房,1987年,115頁
- ^ 『証言ミッドウェー海戦』精鋭二一型で知った母艦屋の天国と地獄 光人社NF文庫,1999年,100頁
- ^ Jonathan Parshall, Anthony Tully: Shattered Sword: The Untold Story of the Battle of Midway, Washington 2005、p.241-242
- ^ #プランゲ下69頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.39
- ^ #橋本信号員138頁
- ^ #電信員遺稿124頁、#淵田自叙伝207頁
- ^ #海軍驕り366頁
- ^ #亀井戦記331頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.41
- ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.42
- ^ #亀井戦記356頁、#大和最後の艦長161頁
- ^ #亀井戦記356頁
- ^ #亀井戦記333頁
- ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.45
- ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.46
- ^ #亀井戦記348頁
- ^ #橋本信号員140頁
- ^ #電信員遺稿126頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」pp.39,44
- ^ #亀井戦記358頁
- ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.28
- ^ #澤地記録275頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.28「午前7時45分:赤城司令部移乗のため駆逐艦野分近接す」
- ^ #続 炎の海165頁、#橋本信号員146頁
- ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.34
- ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.40
- ^ #戦藻録(九版)133頁、第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.40
- ^ #亀井戦記44頁、亀井の取材に答えて。
- ^ #電信員遺稿131-132頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.40
- ^ #飛龍生涯397頁
- ^ a b #澤地記録275-276頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.29
- ^ a b c d 大塚好古「ドキュメント「ミッドウェー海戦」第7章-空母同士の決戦[2] 「飛龍」の逆襲と最期」、『歴史群像』(太平洋戦史シリーズ55 日米空母決戦ミッドウェー 運命の三日間!戦局を一変させた史上空前の大海空戦ドキュメント)、学習研究社 pp. 151-165
- ^ 戦史叢書43 1971, p. 336.
- ^ 秦 2005, p. 176, 阿部弘毅
- ^ 秦 2005, p. 261, 山口多聞
- ^ 戦史叢書43 1971, p. 337.
- ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」pp.18、34、「飛龍飛行機隊戦闘行動調書(3)」p.61、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」pp.2、30-31
- ^ #澤地記録277頁、#亀井戦記387頁
- ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(4)」p.1「25番通12、同陸6。エンタープライズ型25番通5、同陸1」
- ^ #澤地記録277頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.31-32
- ^ #澤地記録277頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.31
- ^ #澤地記録275頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.30
- ^ #澤地記録277頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.30
- ^ #海の武将41頁
- ^ 森史朗 2012b 226頁
- ^ a b c 森史朗 2012b, pp. 27–35, 第八章 ミッドウェー島攻撃-友永機被弾す-3
- ^ a b c 森史朗 2012b, pp. 254–258, 第十二章 空母飛龍の反撃-還らざる出撃-1
- ^ 亀井 2014b, pp. 74–84, 第二部「喪失」-第六章「飛龍死闘」-二
- ^ 森史朗 2012b, pp. 211–216, 第十二章 空母飛龍の反撃-山口司令官の決意-1
- ^ 森史朗 2012b, pp. 258–262, 第十二章 空母飛龍の反撃-還らざる出撃-2
- ^ 森史朗 2012b, pp. 258–261, 第十二章 空母飛龍の反撃-還らざる出撃-2
- ^ 神立尚紀『証言 零戦 生存率二割の戦場を生き抜いた男たち』講談社(講談社+α文庫)、2016年、154頁。
- ^ #プランゲ下97頁
- ^ #ヨークタウン199頁
- ^ a b #ヨークタウン200頁
- ^ 「飛龍飛行機隊戦闘行動調書(3)」p.62、森史朗 2012b 226頁
- ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.18、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」p.12
- ^ 「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」pp.2,11
- ^ #プランゲ下89頁
- ^ #ヨークタウン216頁
- ^ #ヨークタウン220頁、#プランゲ下91頁
- ^ 「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」pp.2-3、#亀井戦記393頁
- ^ a b 「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」p.21
- ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.34、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」p.11
- ^ #ヨークタウン219頁、#プランゲ下91頁
- ^ 「蒼龍飛行機隊戦闘行動調書(3)」p.54、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(2)」p.66「0800:敵艦上機1機発見、之を追跡す」「0810:敵機動部隊発見、触接開始」「0830:我敵航空部隊見ゆ。地点ミッドウェー5度、120浬、針路80度、速力25ノット」「0840:敵航空部隊は空母3隻を基幹とし駆逐艦22隻をともなう」
- ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.33「0837:敵航空部隊見ゆ、ミッドウェーよりの方位4度、150浬」「0840:敵航空部隊は空母3隻を基幹とし駆逐艦22隻を伴ふ(0840)」
- ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.34「0845:触接を止む(〇八四五)」(機動部隊受信0854)
- ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.34「偶々電信機故障の為通信不能にて、帰投後の報告により(以下略)」
- ^ 「赤城飛行機隊戦闘行動調書(2)」pp.31-32、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(1)」p.34。白根大尉、菊地、小山内、大森、井石、石田、木村
- ^ 「加賀飛行機隊戦闘行動調書」pp.24、26-27、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(2)」pp.11-12
- ^ 「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(2)」pp.45、59、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」pp.36-37
- ^ #ヨークタウン201-202頁
- ^ #澤地記録284頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.36「0917:我れ敵航空機の追撃を受け触接を失せり(0905)」
- ^ #橋本信号員148-149頁、#亀井戦記394-395頁
- ^ a b c d e f #大和最後の艦長149-50頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.38「1000:4dg機密第140番電。捕虜(ヨークタウン)搭乗員海軍少尉言左の如し」
- ^ #澤地記録287-288頁
- ^ #愛宕奮戦記88頁
- ^ a b c d #プランゲ下111頁
- ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(3)」p.39
- ^ #大和最後の艦長155頁
- ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(3)」p.37「6月6日死亡、水葬」
- ^ #澤地記録290頁
- ^ #澤地記録290頁、「飛龍飛行機隊戦闘行動調書(3)」p.63、「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.35、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」pp.2,32-33
- ^ 「加賀飛行機隊戦闘行動調書」p.24、「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.18、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(2)」p.13
- ^ #澤地記録290頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.41
- ^ a b 「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」p.3
- ^ #亀井戦記406頁、「蒼龍飛行機隊戦闘行動調書(3)」p.54、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(2)」pp.67-68「0950、飛龍上空着。1030、飛龍着艦」
- ^ 「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(2)」p.69。「別紙第一、発受信記録、略(資料なし)」
- ^ #亀井戦記406頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.34、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.45
- ^ #澤地記録292頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.42
- ^ #澤地記録293頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.42「附近に空母居るものの如し」
- ^ #ヨークタウン224頁、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」p.15
- ^ #亀井戦記409頁
- ^ #亀井戦記412頁、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」p.3「一中隊は右、二中隊は左より挟撃し」
- ^ #ヨークタウン224-227頁
- ^ #ヨークタウン229頁
- ^ #ヨークタウン233頁
- ^ a b 亀井 2014b, pp. 84–99, 第二部「喪失」-第六章「飛龍死闘」-三
- ^ 森史朗 2012b, pp. 281–285, 第十三章 友永雷撃隊の最期-友永機の突入-1
- ^ 森史朗 2012b, pp. 294–297, 第十三章 友永雷撃隊の最期-友永機の突入-3
- ^ 「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」p.16「尾部方向舵の指揮官機マークを確認す」
- ^ 「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」p.16「
- ^ a b 森史朗 2012b, pp. 302–306, 第十三章 友永雷撃隊の最期-「魚雷命中!」-2
- ^ 森史朗 2012b, pp. 306–308, 第十三章 空母飛龍の反撃-「魚雷命中!」-3
- ^ 森史朗 2012b, pp. 314–318, 第十四章 刀折れ矢尽きて-最後の薄暮攻撃計画-2
- ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.35、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」pp.3,15-16。
- ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.47「我が攻撃により空母2隻は大破」
- ^ #戦藻録(九版)142頁、#澤地記録299頁、#プランゲ下104頁
- ^ 「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」p.19「雷撃終了後、該空母の西方約30浬乃至40浬に第一次敵空母攻撃に依り大火災を生じたる空母と覚しき炎上中の艦船の爆発らしき褐色煙を認む」
- ^ 「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」p.19「該空母(ヨークタウン)の東方約30浬を高速東進する三重の円形陣の敵艦隊を認む」
- ^ #プランゲ下102頁
- ^ a b #ヨークタウン239頁、#プランゲ下102頁
- ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.43、#澤地記録294頁
- ^ #ヨークタウン240頁、#プランゲ下102頁
- ^ 「飛龍飛行機隊戦闘行動調書(3)」p.63
- ^ #亀井戦記418頁。公刊戦史証言より。
- ^ a b 「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.37
- ^ #澤地記録293頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.42
- ^ #澤地記録296頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.37、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.44「1231:タナ135、十三試艦爆により触接を確保したる後、残存全兵力(爆5、攻4、戦10)を以て薄暮敵残存空母を殲滅せんとす」
- ^ #亀井戦記428-429頁
- ^ a b 戦史叢書43 1971, p. 342.
- ^ 戦史叢書43 1971, pp. 365–366.
- ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.45、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(2)」p.12、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」pp.5,35-36
- ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.38「1403に至り特に触接機十三試艦爆を発艦せしめんとありし時」
- ^ 「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(2)」pp.13、26
- ^ #プランゲ下104頁
- ^ #ヨークタウン240頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.49
- ^ #橋本信号員154頁、#プランゲ下105頁
- ^ #ヨークタウン242頁、#澤地記録302頁
- ^ #炎の海268頁、#橋本信号員155頁、#亀井戦記433頁
- ^ #ヨークタウン243頁、#亀井戦記444頁
- ^ #プランゲ下106頁
- ^ #炎の海269頁、#亀井戦記445頁
- ^ a b 「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.43
- ^ #亀井戦記446頁、吉田正義(巻雲艦長)談。
- ^ 軍艦総覧 1997, p. 23.
- ^ 「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」p.37
- ^ #亀井戦記44頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.46、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.34
- ^ #プランゲ下108頁。渡辺安次参謀談。
- ^ #勝つ戦略負ける戦略133-135頁、#従兵長109頁,111頁
- ^ #戦藻録(九版)138頁
- ^ 「第4水雷戦隊戦時日誌(3)」p.14
- ^ #プランゲ下110頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.36-37
- ^ #戦藻録(九版)130頁
- ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.37
- ^ #澤地記録289頁、#プランゲ下112頁、「第4水雷戦隊戦時日誌(3)」pp.14-15、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.39-40
- ^ #澤地記録31頁、「第4水雷戦隊戦時日誌(3)」p.16、18
- ^ #澤地記録301頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.48
- ^ #草鹿回想142頁
- ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.48
- ^ #草鹿回想143頁
- ^ #プランゲ下121頁、#草鹿回想144頁
- ^ #戦藻録(九版)131頁
- ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.54「1450:2F機密第762番電攻略部隊電」、#澤地記録303,307-308頁
- ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」pp.48-49、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.3「各艦は担任母艦付近に在りて敵潜水艦及び機動部隊に対し警戒を厳にし、敵機動部隊来らば刺違戦法を以て敵を撃滅せよ」
- ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.35
- ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(3)」p.2
- ^ #プランゲ下121頁
- ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.49、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.3-4「本艦2号機午後2時13分頃傾斜火災中の敵空母の東方30浬に敵空母4、巡洋艦6、駆逐艦15西航するを認めたり。その後は敵戦闘機の追跡を受け敵を見ず」
- ^ #亀井戦記451-452頁
- ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.36「1510、敵航空母艦2隻(ヨークタウンまたはホーネット型)(中略)其の南方約4浬に巡洋艦5、駆逐艦6を伴う航空母艦2隻(艦型不明)針路260度速力12ノット」
- ^ #澤地記録327-328頁、#亀井戦記451頁
- ^ #亀井戦記453頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.49、「第1航空艦隊戦闘詳報(3)」p.5、第4水雷戦隊戦時日誌(3)」p.19、「第1水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)」p.38
- ^ a b c d e #プランゲ下172頁
- ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(3)」p.7、#プランゲ下124頁
- ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.50、#澤地記録317頁
- ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.51、#澤地記録158頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(3)」p.9
- ^ #戦藻録(九版)139頁、#澤地記録319頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(3)」p.9「GF電令作160号」
- ^ #澤地記録321頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(3)」p.11、「第4水雷戦隊戦時日誌(3)」p.23「GF機密第303番電」
- ^ #澤地記録324頁、「第4水雷戦隊戦時日誌(3)」p.24、「第1航空艦隊戦闘詳報(3)」pp.13-14
- ^ a b c d #プランゲ下144頁
- ^ 七期雄飛会『予科練のつばさ』光人社、2003年10月、138-139頁。
- ^ #戦藻録(九版)143頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.1、「第1航空艦隊戦闘詳報(3)」p.15「GF機密第310番電」
- ^ a b 「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.2
- ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.2、#BIG E上136頁
- ^ #プランゲ下162下頁
- ^ #戦藻録(九版)142頁
- ^ #澤地記録31頁、「軍艦愛宕戦闘詳報(2)」p.4「GFの電令に依り七戦隊にミッドウェーの陸上航空基地施設の砲撃破壊を下令せり」
- ^ 「軍艦愛宕戦闘詳報(2)」p.4「敵潜回避時に三隈最上触衝最上は艦首を大破し」
- ^ #戦藻録(九版)139頁
- ^ #ヨークタウン249頁
- ^ #ヨークタウン250頁
- ^ #ヨークタウン248頁
- ^ #爆撃王列伝180頁、#プランゲ下153頁
- ^ #戦藻録(九版)144頁
- ^ #プランゲ下169頁
- ^ #プランゲ下170頁
- ^ 「第4水雷戦隊戦時日誌(3)」p.28-29
- ^ 「軍艦愛宕戦闘詳報(2)」p.4
- ^ #炎の海277頁
- ^ 「輸送船鹿野丸の最後 其の1(ミッドウェー作戦)(2)」pp.35-36
- ^ 七期雄飛会『予科練のつばさ』光人社、2003年10月、139頁。
- ^ 「第4水雷戦隊戦時日誌(3)」p.31
- ^ a b #ヨークタウン253頁
- ^ #戦藻録(九版)145頁、「第6艦隊戦時日誌戦闘詳報(1)」
- ^ a b #ヨークタウン262頁
- ^ 豊田穣 2000, p. 102.
- ^ #澤地記録364頁
- ^ #澤地記録404頁
- ^ #澤地記録459頁
- ^ #澤地記録392頁
- ^ #澤地記録493頁
- ^ #澤地記録498頁
- ^ #澤地記録498-549頁
- ^ a b #澤地記録549頁
- ^ a b 戦史叢書43 1971, p. 598.
- ^ a b #澤地記録31頁
- ^ 「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(4)」pp.31、45
- ^ Office of Navy Intelligence, The Battle of Midway: June3-June 6, 1942, p.55.
- ^ #炎の海285-286頁
- ^ 井上 2010, p. 190.
- ^ 井上 2010, pp. 189–190.
- ^ 井上 2010, p. 191.
- ^ 千早正隆 1997, pp. 78–81.
- ^ #愛宕奮戦記94頁
- ^ 戦史叢書43 1971, p. 599.
- ^ a b 戦史叢書43 1971, pp. 638–639.
- ^ 豊田穣 2000, p. 83.
- ^ 豊田穣 2000, p. 84.
- ^ #大和最後の艦長166頁
- ^ Barde 1983, pp. 188–192.
- ^ "Navy.togetherweserved: Osmus, Wesley, ENS"
- ^ "Navy.togetherweserved: O'Flaherty, Frank Woodrow, ENS"
- ^ "Navy.togetherweserved: Gaido, Bruno Peter, PO1"
- ^ #戦藻録(九版)110頁、#海軍驕り292-293頁
- ^ 千早正隆 1997, pp. 116–117.
- ^ 別宮 2011.
- ^ #プランゲ下226-227頁
- ^ 四方義博. “受験生のために “防衛学ってなあに” (戦略教育室の紹介)”. 戦略教育室. 防衛大学校. 2017年1月8日閲覧。
- ^ Battle of Midway: American Intelligence, SBDs - and Luck - Made the Difference - National Museum of World War II Aviation
- ^ a b c 千早正隆 1997, pp. 21–24.
- ^ 戦史叢書43 1971, 付録2頁.
- ^ 戦史叢書43 1971, 付録1頁.
- ^ 千早正隆 1997, p. 85.
- ^ 草鹿 1979, p. 122-123.
- ^ a b 千早正隆 1997, pp. 112–114.
- ^ a b 奥宮正武 2001, p. 213.
- ^ 戦史叢書43 1971, pp. 593–594.
- ^ a b 戦史叢書43 1971, pp. 585–586.
- ^ a b 戦史叢書43 1971, pp. 251–252.
- ^ 戦史叢書43 1971, p. 251.
- ^ 草鹿 1979, p. 124.
- ^ 戦史叢書43 1971, p. 199.
- ^ 戦史叢書43 1971, p. 246.
- ^ 千早正隆 1997, pp. 87–88.
- ^ a b 戦史叢書43 1971, p. 583.
- ^ 淵田 & 奥宮 2008, pp. 383–384.
- ^ 松島慶三 1967, p. 259.
- ^ 亀井 2014a 75-76頁
- ^ 亀井 2014a 168-171頁、#提督山口180頁
- ^ #プランゲ上9-11頁
- ^ #プランゲ下11頁
- ^ a b 森史朗 2012b 77-78頁
- ^ a b 亀井 2014a 76-77頁
- ^ a b 「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.6
- ^ 戦史叢書43 1971, p. 287.
- ^ 豊田穣『豊田穣戦記文学集2 ミッドウェー海戦』講談社 313-315頁
- ^ 淵田美津雄・奥宮正武『ミッドウェー』朝日ソノラマ 1982年 245-246頁
- ^ 森史朗 2012b 423-424頁
- ^ 森史朗 2012b 422-424頁
- ^ 亀井 2014a 370頁、#海軍功罪123頁、#淵田自叙伝206頁
- ^ 戦史叢書43 1971, p. 313.
- ^ 戦史叢書43 1971, p. 290.
- ^ #海軍功罪307頁
- ^ #海軍功罪123-124頁
- ^ a b c 戦史叢書43 1971, p. 313-314.
- ^ #新装版飛龍生涯413頁
- ^ #雷撃機電信員138頁
- ^ 森史朗 2012b 175-177頁
- ^ 森史朗 2012b 149-151頁
- ^ 森史朗 2012b 124-125頁、148-149頁
- ^ #驕りの始まり34頁、森史朗 2012b 75-76頁
- ^ 豊田穣『豊田穣戦記文学集2 ミッドウェー海戦』講談社 324頁
- ^ 森史朗 2012b 75-76頁
- ^ #驕りの始まり34頁
- ^ 森史朗 2012b 76頁
- ^ #最後の証言記録28頁
- ^ #草鹿回想138頁
- ^ #海軍功罪122-124頁
- ^ #海軍敗レタリ208頁、#提督山口204-205頁
- ^ 戦史叢書43 1971, p. 327.
- ^ #提督山口204-205頁
- ^ 森史朗 2012b 119頁
- ^ #提督山口209頁
- ^ #艦爆隊長江草238-241頁
- ^ #プランゲ下30頁
- ^ Dallas Woodbury Isom. The Battle of Midway: Why the Japanese Lost. Naval War College Review, Vol. 53, No. 3 (SUMMER 2000), pp. 60-100.
- ^ #プランゲ上234頁
- ^ 吉田俊雄『栄光と悲劇 連合艦隊 東郷平八郎と山本五十六』秋田書店 358頁(源田、淵田)、#草鹿回想134-135頁(草鹿)
- ^ 戦史叢書43 1971, pp. 425–426.
- ^ 吉田俊雄『栄光と悲劇・連合艦隊 東郷平八郎と山本五十六』秋田書店 326頁
- ^ 吉田俊雄『栄光と悲劇・連合艦隊 東郷平八郎と山本五十六』秋田書店 358頁
- ^ a b 豊田穣『ミッドウェー戦記』文藝春秋社 115頁
- ^ やっぱり 2005.
- ^ a b c 『毎日新聞』朝刊2020年9月12日【特集ワイド】旧日本軍の舞台裏「帝国軍人」共著者に聞く:誇張と改ざんの戦史/偵察機発進30分遅れの謎(大木毅と戸高一成への取材で構成)2021年5月4日閲覧
- ^ 戦史叢書43 1971, p. 305.
- ^ #プランゲ下171頁
- ^ #プランゲ上236頁
- ^ #驕りの始まり12-15頁
- ^ #驕りの始まり27-30頁
- ^ 戦史叢書43 1971, p. 161.
- ^ a b 戦史叢書43 1971, p. 417.
- ^ 戦史叢書43 1971, pp. 416–417.
- ^ 戦史叢書43 1971, p. 114.
- ^ 千早正隆 1997, pp. 101–102.
- ^ 戦史叢書43 1971, p. 152.
- ^ a b c d 戦史叢書43 1971, 付録.
- ^ 戦史叢書43 1971, pp. 243–246.
- ^ 戦史叢書43 1971, pp. 126–127.
- ^ 千早正隆 1997, pp. 46–60.
- ^ 千早正隆 1997, pp. 121–127.
- ^ #亀井戦記89頁
- ^ #驕りの始まり31-33頁、35頁、#セ号作戦22頁
- ^ 草鹿 1979, p. 122.
- ^ 草鹿 1979, p. 124-125.
- ^ #歴群ミッドウェー[要ページ番号]頁
- ^ 石渡幸二『名艦物語』
- ^ #草鹿回想139頁
- ^ 豊田穣『豊田穣戦記文学集2 ミッドウェー海戦』講談社 328頁、#戦場の教訓136頁
- ^ a b #戦場の教訓136頁
- ^ #淵田自叙伝206-207頁
- ^ a b c d e #歴群ミッドウェー 150頁
- ^ #澤地記録20, 28-29頁、#橋本信号員138頁
- ^ 豊田穣『豊田穣戦記文学集2 ミッドウェー海戦』講談社 332頁
- ^ #電信員遺稿123-124頁
- ^ #森 生還249頁
- ^ #歴群ミッドウェー 137頁
- ^ 豊田穣 1985, p. 11.
- ^ 豊田穣『豊田穣戦記文学集2 ミッドウェー海戦』講談社 326-328頁
- ^ 森史朗 2012b 425-427頁
- ^ #草鹿回想134-138頁「運命決す5分間の遅速」
- ^ 豊田穣『豊田穣戦記文学集2 ミッドウェー海戦』講談社 331頁
- ^ 澤地久枝『記録ミッドウェー海戦』ちくま学芸文庫
- ^ 小室直樹 日下公人『大東亜戦争、こうすれば勝てた』講談社+α文庫 118頁
- ^ 『歴史と人物』165号』(中央公論社、1984年9月)29頁
- ^ 豊田穣『豊田穣戦記文学集2 ミッドウェー海戦』講談社 321-322頁
- ^ 豊田穣『豊田穣戦記文学集2 ミッドウェー海戦』講談社 後藤315、牧316、天谷317、雀部331頁
- ^ 森史朗 2012b 54頁
- ^ 森史朗 2012b 423頁
- ^ 森史朗 2012b 54頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.6
- ^ 森史朗 2012b 424-425頁
- ^ Freedom of the Press or Treason by Grant Sanger, M. D. September 1977, Proceedings, Vol. 103/9/895
- ^ Editorial: The Battle of Midway -- A secrets stormChicago Tribune, August 11, 2013
- ^ Breaking the code on a Chicago mystery from World War IIChicago Tribune, September 23, 2016
- ^ 戦略要務令『太平洋の嵐DX』ルール 174~175頁
関連文献
[編集]- アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
- Ref.A06031045900『週報』第297号(昭和17年6月17日)「敵の『空母集団』殲滅」
- Ref.A06031046100『週報』 第299号(昭和17年7月1日)「米本土に深刻な脅威」
- Ref.C08030023800「昭和17年5月27日〜昭和17年6月9日 機動部隊 第1航空艦隊戦闘詳報(1)」
- Ref.C08030023900「昭和17年5月27日〜昭和17年6月9日 機動部隊 第1航空艦隊戦闘詳報(2)」
- Ref.C08030024000「昭和17年5月27日〜昭和17年6月9日 機動部隊 第1航空艦隊戦闘詳報(3)」
- Ref.C08030024100「昭和17年5月27日〜昭和17年6月9日 機動部隊 第1航空艦隊戦闘詳報(4)」
- Ref.C08030040400「昭和17年6月1日〜昭和17年6月30日 ミッドウェー海戦 戦時日誌戦闘詳報(1)」
- Ref.C08030040500「昭和17年6月1日〜昭和17年6月30日 ミッドウェー海戦 戦時日誌戦闘詳報(2)」
- Ref.C08030040600「昭和17年6月1日〜昭和17年6月30日 ミッドウェー海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」
- Ref.C08051579700「昭和16年12月〜昭和17年6月 赤城飛行機隊戦闘行動調書(2)」
- Ref.C08051585400「昭和16年12月〜昭和17年6月 加賀飛行機隊戦闘行動調書」
- Ref.C08051579300「昭和16年12月〜昭和17年4月 飛龍飛行機隊戦闘行動調書(3)」(MI作戦出撃分含)
- Ref.C08051578800「昭和16年12月〜昭和17年4月 蒼龍飛行機隊戦闘行動調書(3)」(MI作戦出撃分含)
- Ref.C08030761000「昭和17年4月1日〜昭和17年6月21日 輸送船鹿野丸の最後 其の1(ミッドウェー作戦)(1)」
- Ref.C08030761100「昭和17年4月1日〜昭和17年6月21日 輸送船鹿野丸の最後 其の1(ミッドウェー作戦)(2)」
- Ref.C08030680800「昭和17年5月1日〜昭和19年9月30日 特設船あるぜんちな丸戦時日誌戦闘詳報 巌嶋丸。敵潜に依る被襲撃報告(1)」
- Ref.C08030020900「昭和17年5月15日〜昭和17年12月31日 第6艦隊戦時日誌戦闘詳報(1)」
- Ref.C08030081200「昭和17年5月29日〜昭和17年7月31日 第1水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)」
- Ref.C08030112500「昭和17年4月1日〜昭和17年6月30日 第4水雷戦隊戦時日誌(3)」
- Ref.C08030745600「昭和17年3月〜 軍艦愛宕戦闘詳報(2)」
- 相澤淳「大本営発表とミッドウェー海戦」防衛庁防衛研究所『戦史研究年報』第7号 2004年
- 碇義朗『飛龍 天に在り 航空母艦「飛龍」の生涯』光人社、1994年。ISBN 4-7698-0700-7。
- 碇義朗『飛龍 天に在り 航空母艦「飛龍」の生涯』潮書房光人社〈光人社NF文庫新装版〉、2013年。ISBN 978-4-7698-2800-6。
- 池田清、野村実ほか、近現代史編纂会 編『海軍艦隊勤務』新人物往来社、2001年。ISBN 4-404-02914-4。
- 井上理二『駆逐艦磯風と三人の特年兵』光人社、1999年。ISBN 4-7698-0935-2。
- 井上陽介「陸軍による海戦情報入手とその後の意志決定」『東京大学日本史学研究室紀要』第14号、2010年。
- 岩橋幹弘「ミッドウェー海戦--研究最前線」『歴史読本』第52号、新人物往来社、2007年
- 上原光晴『艦爆隊長 江草隆繁』潮書房光人社〈光人社NF文庫〉、2015年。ISBN 978-4769828877。
- 宇垣纏、成瀬恭(発行人)『戦藻録』原書房、1968年。
- 生出寿『戦艦「大和」最後の艦長 海上修羅の指揮官』光人社〈光人社NF文庫〉、1996年。
- 生出寿『勝つ戦略 負ける戦略 東郷平八郎と山本五十六』徳間書店〈徳間文庫〉、1997年7月。ISBN 4-19-890714-5。
- 生出寿『勇断提督・山口多聞』徳間書店、1985年7月。ISBN 4-19-223118-2。
- 生出寿『凡将山本五十六 烈将山口多聞』徳間文庫 ISBN 4198922829
- NHK取材班 編『その時歴史が動いた』 4巻、KTC中央出版、2001年。ISBN 4877581901。
- 近江兵治郎『連合艦隊司令長官 山本五十六とその参謀たち』テイ・アイ・エス、2000年7月。ISBN 4-88618-240-2。
- 大塚好古「ミッドウェー海戦 (特集 日米空母 太平洋の戦い)」『世界の艦船』第715号、海人社、2009年
- 奥宮正武『太平洋戦争と十人の提督』 下、学習研究社〈学研M文庫〉、2001年。ISBN 4059010790。
- 越智春海『海軍敗レタリ 大艦巨砲主義から先に進めない日本海軍の思考法』潮書房光人社〈光人社NF文庫〉、2015年。ISBN 978-4769829010。
- 金沢秀利『空母雷撃隊 艦攻搭乗員の太平洋海空戦記』光人社、2002年。ISBN 4-7698-1055-5。
- 飛龍艦攻電信員(機銃手)。記述と戦闘詳報では同乗搭乗員が異なる部分がある。
- 亀井宏『ミッドウェー戦記 さきもりの歌』光人社、1995年2月。ISBN 4-7698-2074-7。
- 亀井宏『ミッドウェー戦記』 上、講談社(講談社文庫)、2014a。ISBN 978-4-06-277746-9。
- 亀井宏『ミッドウェー戦記』 下、講談社(講談社文庫)、2014b。ISBN 978-4-06-277747-6。
- 川崎まなぶ『日本海軍の航空母艦 その生い立ちと戦歴』大日本絵画、2009年。ISBN 978-4-499-23003-2。
- 草鹿, 龍之介 (1979), 連合艦隊参謀長の回想, 光和堂 - 1952年、毎日新聞社『聯合艦隊』および1972年行政通信社『聯合艦隊の栄光と終焉』の再版。戦後明らかになった米軍側の情報などは敢えて訂正していないという(p.18)。
- 源田実『海軍航空隊始末記』文藝春秋〈文春文庫〉、1996年。ISBN 4167310031。
- 小板橋孝策『「愛宕」奮戦記 旗艦乗組員の見たソロモン海戦』光人社NF文庫、2008年。ISBN 978-4-7698-2560-9。
- 高橋武士(艦長伝令、艦橋勤務)の戦時日記を元に小板橋が編集。小板橋は重巡愛宕沈没時の航海士。
- 小林昌信ほか『戦艦「大和」檣頭下に死す』(光人社、1995年) ISBN 4-7698-2087-9
- 佐々木確治「戦艦『陸奥』ミッドウェー海戦従軍記」(戦艦陸奥二番砲塔員)談
- 小谷光四郎「海は燃えている」(加賀整備員、昭和42年7月号)
- 古村啓蔵回想録刊行会編『海の武将-古村啓蔵回想録』原書房、1982年2月。ISBN 4-562-01216-1。
- 左近允尚敏『ミッドウェー海戦「運命の5分」の真実』新人物往来社、2011年。ISBN 978-4404040305。
- 澤地久枝『滄海よ眠れ』(全6巻)、毎日新聞社、1984年9月〜1985年3月、のち文春文庫(全3巻)
- 澤地久枝『記録ミッドウェー海戦』文藝春秋社、1986年5月。
- 澤地久枝『記録ミッドウェー海戦』ちくま学芸文庫、2023年6月。ISBN 978-4-480-51187-4。
- エドワード・P・スタッフォード、井原裕司 訳『空母エンタープライズ THE BIG E』 上、元就出版社、2007年。ISBN 978-4-86106-157-8。
- ピーター・C・スミス『日仏伊英米独ソ七人のサムライ 爆撃王列伝』妹尾作太郎(訳)、光人社、1987年。ISBN 4-7698-0332-X。
- 第5章 アメリカ海兵隊 エルマー・グリデン大佐 勇気と秀でた統率能力と義務に対する献身をもって貢献した不死身の伝説的戦士
- 外山三郎「大東亜戦争の軍事的教訓-3-ミッドウェー海戦について」『防衛大学校紀要 人文・社会科学編』第35号、1977年
- 宝島社『最後の証言記録 太平洋戦争 生き証人たちが「意を決して」語るあの戦争の真実』宝島社〈別冊宝島2363〉、2015年7月。ISBN 978-4800241528。
- 高橋弘道「防衛庁からの戦史 ハワイ攻撃とミッドウェー海戦」『セキュリタリアン』第504号、防衛弘済会、2000年
- 高橋雄次『鉄底海峡 重巡「加古」艦長回想記』光人社〈光人社NF文庫〉、1994年。ISBN 4769820623。
- 滝沢民夫「戦争責任問題と歴史教育--ミッドウェー海戦の教材化を通して」『歴史評論』第460号、1988年
- 種子島洋二『ソロモン海「セ」号作戦』光人社〈光人社NF文庫〉、2003年。ISBN 4-7698-2394-0。
- 千早正隆『日本海軍の驕りの始まり 元連合艦隊参謀の語る昭和海軍』並木書房、1989年。ISBN 4-89063-002-3。
- 千早正隆『日本海軍の驕り症候群』プレジデント社、1990年。ISBN 4-8334-1385-X。
- 千早正隆『日本海軍の驕り症候群』 下、中央公論社〈中公文庫〉、1997年。ISBN 4122029937。
- 千早正隆ほか『日本海軍の功罪 五人の佐官が語る歴史の教訓』プレジデント社、1994年。ISBN 4-8334-1530-5。
- 豊田穣(責任編集) 編『昭和の戦争 ジャーナリストの証言』 4 ミッドウェー海戦、4061872540、1985年。
- 豊田穣『空母「信濃」の生涯』光人社〈光人社NF文庫〉、2000年。ISBN 4769822758。
- 「萬代久男(「飛龍」機関長付少尉)「空母『飛龍』の機関室 真珠湾からミッドウェーへ」」『日本海軍軍艦総覧』新人物往来社〈別冊歴史読本 戦記シリーズ37〉、1997年。ISBN 4404025130。
- 橋本廣『機動部隊の栄光 艦隊司令部信号員の太平洋海戦記』光人社、2001年。ISBN 4-7698-1028-8。
- 橋本敏男、田辺弥八ほか『証言・ミッドウェー海戦 私は炎の海で戦い生還した!』光人社、1992年。ISBN 4-7698-0606-X。
- 秦郁彦 編著『日本陸海軍総合事典』(第2)東京大学出版会、2005年。
- 半藤一利 他『太平洋戦争 日本海軍 戦場の教訓』PHP研究所、2003年。ISBN 978-4569660011。
- 平間洋一「日本人特有の国民性とミッドウェー海戦」『丸』第55-7号、潮書房、2002年
- 淵田美津雄、奥宮正武『ミッドウェー』学習研究社〈学研M文庫〉、2008年。ISBN 978-4-05-901221-4。
- 淵田美津雄、中田整一(解説)『真珠湾攻撃総隊長の回想 淵田美津雄自叙伝』講談社、2007年。ISBN 978-4-06-214402-5。
- パット・フランク、ヨーゼフ・D・ハリントン著『空母ヨークタウン』谷浦英男(訳)、朝日ソノラマ〈航空戦史シリーズ 48〉、1994年。ISBN 4-257-17048-4。
- ゴードン・ウィリアム・プランゲ『ミッドウェーの奇跡 上巻』千早正隆(訳)、原書房、2005年。ISBN 4-562-03874-8。
- ゴードン・ウィリアム・プランゲ『ミッドウェーの奇跡 下巻』千早正隆(訳)、原書房、2005年。ISBN 4-562-03875-6。
- 別冊歴史読本『第22(517)号 海軍機動部隊全史』(新人物往来社、1999年) ISBN 4-404-02722-2
- 防衛庁防衛研究所戦史室 編『ミッドウェー海戦』朝雲新聞社〈戦史叢書43〉、1971年。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 大本営海軍部・聯合艦隊(2)』朝雲新聞社、1975年2月
- 別宮暖朗「逃げる山本五十六、隠れる戦艦大和」『歴史通』、ワック・マガジンズ、2011年5月。
- 牧島貞一『炎の海 報道カメラマン空母と共に』光人社〈光人社NF文庫〉、2001年。ISBN 4-7698-2328-2。
- 牧島は日映カメラマン。「赤城」に乗艦し、ミッドウェー海戦を体験。
- 牧島貞一『続・炎の海 激撮報道カメラマン戦記』光人社〈光人社NF文庫〉、2002年。ISBN 4-7698-2339-8。
- 『炎の海』より、ミッドウェー海戦部分のみ詳しく描写している。赤城被弾後は長良へ移動。
- 松島慶三『悲劇の南雲中将 真珠湾からサイパンまで』徳間書店、1967年。
- 松田憲雄『忘れ得ぬ「ト連送」 雷撃機電信員50年目の遺稿』光人社、1993年10月。ISBN 4-7698-0663-9。
- 松田憲雄『雷撃機電信員の死闘 「ト連送」で始まった太平洋戦争』光人社、2000年11月。ISBN 4-7698-2290-1。 本書は『忘れ得ぬ「ト連送」 雷撃機電信員50年目の遺稿』を改題したもの。
- 松田十刻『山口多聞』光人社
- 森拾三『奇蹟の雷撃隊 ある雷撃機操縦員の生還』光人社、2004年。ISBN 4-7698-2064-X。
- 森は「蒼龍」艦攻操縦員。真珠湾攻撃から沈没まで乗艦。
- 森史朗『ミッドウェー海戦 第一部 知略と傲慢』新潮社(新潮選書)、2012a。ISBN 978-4-10-603706-1。
- 森史朗『ミッドウェー海戦 第二部 運命の日』新潮社(新潮選書)、2012b。ISBN 978-4-10-603707-8。
- サミュエル・エリオット・モリソン 著/中野五郎 訳『ミッドウェー海戦』(筑摩書房、1966年)
- 「真珠湾攻撃」「サイパン日記」と同時収録
- 「やっぱり勝てない?太平洋戦争」制作委員会 編『やっぱり勝てない?太平洋戦争 日本海軍は本当に強かったのか』並木書房、2005年。ISBN 4890631860。
- 横井俊之ほか『空母二十九隻 日本空母の興亡変遷と戦場の実相』潮書房光人社、2016年。ISBN 978-4769816119。
- 吉田昭彦「ミッドウェー海戦に見る日米艦隊の蹉跌」『丸』第58-6号、潮書房、2005年
- 『日米空母決戦ミッドウェー 運命の三日間!戦局を一変させた史上空前の大海空戦ドキュメント』学習研究社〈「歴史群像」太平洋戦史シリーズVol.55〉、2006年6月。ISBN 4-05-604471-6。
- 『ミッドウエイ作戦(自一九四二年四月至一九四二年六月)』第二復員局残務処理部、1947年。NDLJP:8815611。
- イアン・トール 著/村上和久 訳『太平洋の試練』下(文藝春秋、2013年)
- Parshall, Jonathan; Tully, Anthony (2005). Shattered Sword - The Untold Story of The Battle of Midway. Potomac Books. ISBN 978-1-57488-924-6。
- Barde, Robert E. (December, 1983). “Midway: Tarnished Victory”. Military Affairs 47 (4). ISSN 0899-3718.
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- The Battle Of Midway (1942) アメリカ海軍省制作。