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一木清直

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一木 清直
一木清直
生誕 1892年10月16日
日本の旗 日本 長野県高森町
(本籍地は静岡県森町
死没 (1942-08-21) 1942年8月21日(49歳没)
イギリスの旗 イギリス保護領 ガダルカナル島
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1916年 - 1942年
最終階級 陸軍少将[1]
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一木 清直(いちき[2] [注 1]きよなお、1892年明治25年)10月16日 - 1942年昭和17年)8月21日)は、日本陸軍軍人陸軍士官学校卒(28期)[3]

軍歴

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エピソード

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盧溝橋事件当時、牟田口廉也連隊長の指揮下で中国軍陣地への発砲命令を受けた際に「本当に発砲しろという命令ですね」と確認の記録を残している。盧溝橋では永定河中州に進出し、29軍と交戦している。

ミッドウェー作戦ではミッドウェー島占領部隊として一木支隊(約2,400名)を率い[11]、第二聯合特別陸戦隊(司令官大田實海軍少将)の指揮下にあった。辻政信(当時、陸軍中佐。大本営陸軍部作戦課・作戦班長)[18]によれば、一木支隊は、海軍独力でのミッドウェー島占領は無理だろうと考え、応援に派遣した陸軍部隊であるという[19]

一木支隊の編成は下記の通り。

  • 歩兵第28連隊 本部
  • 歩兵第28連隊 第1大隊
  • 歩兵第28連隊 連隊砲第1中隊
  • 歩兵第28連隊 速射砲中隊
  • 工兵第7連隊 第1中隊
  • 独立速射砲第8中隊
  • その他、通信隊、衛生隊、輜重隊

8月7日に連合軍がガダルカナル島フロリダ諸島に来襲してガダルカナル島の戦いがはじまると、一木支隊は海軍の要請もありガダルカナル島奪回作戦に投入された[20][21]グアム島からトラック泊地へ輸送船で移動し、同地で一木大佐直率の先遣隊916名と後続部隊(第二梯団)約1500名に分割される[22]第十七軍(司令官百武晴吉陸軍中将、参謀長二見秋三郎陸軍少将)より飛行場奪回命令をうけた一木支隊先遣隊は駆逐艦6隻に分乗し8月16日出発、8月18日深夜になりガダルカナル島へ上陸した[23]。同8月21日未明、一木支隊先遣隊はヘンダーソン飛行場を目指してイル川を渡河したところ、アメリカ海兵隊が守備するイル川西岸陣地に突入することになり、大損害を受ける[24]。つづいて一木支隊先遣隊は米軍が投入した戦車部隊によって包囲殲滅された(イル川渡河戦[注 5] 。一木大佐も戦死したが、詳しい死亡状況は不明(後述)[26]

最期の状況

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ミッドウェー作戦失敗後の6月13日、一木大佐と一木支隊は同行していた第二聯合特別陸戦隊(司令官大田實海軍少将)と共にグアム島(日本軍名、大宮島)に到着した[27]第二艦隊(司令長官近藤信竹中将)からの指揮を解かれ、グアム島での待機を命じられた[注 6]。これは作戦失敗を秘匿する意味もあった[29]。続いて内地に帰投し[注 7]、その後はアリューシャン諸島のアッツ島に配備予定であったという[31]

1942年(昭和17年)8月7日、一木支隊は輸送船2隻(ぼすとん丸、大福丸)に分乗し、第4駆逐隊司令有賀幸作大佐[注 8]指揮下の駆逐艦2隻(萩風)に護衛されてグアム島を出発[33]サイパン島を経由して内地にむかうことになった[34]。 その日、連合軍はガダルカナル島フロリダ諸島に来攻してガダルカナル島の戦いが始まる[35][36]第八艦隊の重巡洋艦部隊は第一次ソロモン海戦で大勝し、大本営および現地陸海軍は予定通りポートモレスビー作戦を遂行することになった[37][38][注 9]。一木支隊に対しては南東方面の作戦に従事させる旨を内報し、グァム島待機を命じた[40][41]

大本営からの命令で船団はたびたび目的地を変更したあと[42][注 10]8月12日夕刻トラック泊地に到着した[44][注 11]。 8月13日、南東方面の日本軍(海軍の第十一航空艦隊第八艦隊、陸軍の第十七軍)は協議をおこない、「ガ島の米軍兵力詳細不明なるも有力部隊ではない」「時間がたてば不利になるので、一木支隊と海軍陸戦隊を8月18日にガ島へ上陸させ急速奪還に決す」と発令した[46][注 12]。 8月14日、日本軍は「キ」号作戦を発動する[48][注 13]

8月16日朝、一木大佐以下支隊先遣隊(キ号作戦挺身隊)916名は有賀大佐指揮下の陽炎型駆逐艦6隻(嵐、萩風、浦風、谷風、浜風、陽炎)に分乗してトラック泊地を出撃した[50]。一木支隊の士気は、非常に高かったという[31][51]。なお一木支隊第二梯団約1500名は輸送船(ぼすとん丸、大福丸)に分乗し、第二水雷戦隊(司令官田中頼三少将)護衛下で一木支隊先遣隊と同時にトラック泊地を出撃、速力8.5ノットでガダルカナル島に向かった[13](先遣隊より4日遅れた8月22日ガ島上陸予定)[52]。海軍陸戦隊を乗せた輸送船金龍丸も第二梯団を追及しており、途中で合流している[53]

8月18日夜、一木支隊先遣隊はガダルカナル島タイボ岬に到着し[54][注 14]、8月19日午前0時までに上陸した[33][注 15]。一木支隊先遣隊は軍旗を奉持し、携帯弾薬は各自250発、糧食は約一週間分であった[57][注 16]。 日本陸軍は一木支隊の練度に自信をもっており、飛行場占領を疑っていなかった[59][注 17]。 第17駆逐隊(浦風、谷風、浜風)はラビの戦いに従事するため命令どおり撤収し、援護のために残った駆逐艦は3隻(嵐、萩風、陽炎)になった[33][60]。このあと「萩風」はB-17型重爆の攻撃で大破し「嵐」に護衛されてトラック泊地に撤退[注 18]、ガ島に残ったのは「陽炎」1隻となった[62]

同時期、ヘンダーソン基地に取り残されていたアメリカ海兵隊は食糧不足と物資不足に悩まされつつ、鹵獲した日本軍のロードローラーやトラックを活用して飛行場を復旧しつつあった[63]。護衛空母「ロングアイランド」がガダルカナル島に接近し、同島ヘンダーソン飛行場にF4Fワイルドキャット戦闘機 19機とSBDドーントレス急降下爆撃機 12機を進出させた[14][注 19]。南東方面部隊指揮官(第十一航空艦隊司令長官)はアメリカ軍機動部隊発見の報告により一木支隊第二梯団に反転退避を命じ、基地航空部隊と外南洋部隊海上兵力に対応を命じた[15]宇垣纏連合艦隊参謀長は「彼の企図は飛行機運搬にありしか。但し之は全機と認むるを得ず、更に同様の特空母二の矢として同様任務に服しあるやも知れず。/本移動せる飛行機を速に撃破し尚敵の飛行場使用を不可能ならしむる如く空襲夜間砲撃等現下の急務たり。根を卸さしむべからずと焦慮するも出先は仲々思ふ通りに動かず。」と記録している[65]

一方、一木支隊先遣隊は夜間に前進し、昼間に待機休養するという方式でヘンダーソン飛行場に向け進撃した[66][注 20]。 アメリカ海兵隊側の観察では、一木支隊先遣隊は機関銃、火炎放射器、軽野戦砲などを有しており、精兵であったと評価している[注 21]。上陸地点のタイボ岬から2昼夜を費やし、ヘンダーソン飛行場東方約3キロにあるイル川河口付近に進出した[68]。一木支隊先遣隊の上陸は、コースト・ウォッチャーズ(沿岸監視員、ジェイコブ・C・ヴォウザ曹長のほか[69][70]、現地人を含む諜報部隊)によって米軍海兵隊に通報されていた[71]。一木支隊先遣隊の斥候部隊は[70]、情報にもとづき待ち伏せしていた海兵隊の攻撃で全滅状態となった[72]


8月20日22時30分より、一木支隊先遣隊はエドウィン・ポロック中佐率いる第1海兵連隊第2大隊のイル川(テナル河)西岸陣地に夜襲を決行する[注 22]。 同20日深夜から8月21日未明にかけての戦闘で、一木支隊先遣隊は幾度か強襲や迂回攻撃を試みるも、河西岸に設けられたアメリカ海兵隊の陣地を突破できなかった[注 23]。 さらに迫撃砲榴弾砲の集中射撃により、一木支隊先遣隊は大きな損害を受けた[74]。一木支隊先遣隊の小数兵はアメリカ海兵隊の橋頭堡に突入して白兵戦が繰り広げられたが、最終的に夜襲を断念し、イル川東岸の海岸付近に後退した[75]。日の出後、アメリカ海兵隊はイル川上流から迂回渡河して支隊残存兵を東南方より包囲圧迫、さらにM3軽戦車を投入して掃討を開始する[75]。21日15時(米国側記録では14時に主な戦闘は終了、負傷兵15名を捕虜としたとされている[76])、死者行方不明者777名を出したところで軍旗を奉焼し自決したとされている[77]。なお一木大佐の死因が自決については、どうにか連隊本部に合流できた30名余りの負傷兵の誰もが連隊旗を所持せず(米国側の記録にも連隊旗の所在は記載が無い)、一木支隊長の最期を確認していないため日本側の戦闘詳報では「一五〇〇 連隊旗を奉焼し自決」となっている。「自決」ではなく「戦死」との米側記録[78]も一部に見られ、確かな状況は分かっていない[79]

8月28日、大本営陸軍部辻政信陸軍中佐は、軍令部で一木大佐の最期について語った[80]。大本営海軍部の高松宮宣仁親王(海軍中佐、昭和天皇弟宮)[81]は以下のように記述している。

参本辻中佐ノ話。一木支隊ハ敵包囲ヲ受ケ一木聯隊長ハ軍旗ヲ焼キ切腹、自刃セリト。約一〇〇名包囲ヲトキ後退セリ、海軍ノ救援ニ赴キ殆ンド全滅セルワケナリ。
 一木支隊長モ「ミッドウェイ」攻略ニユキ仝作戦中止シテ大宮島ニ一時上陸シタ処ガ、仝地ノ警備隊長林弘中佐(海兵49)ガヨッパラッテヰテ「陸軍何シニ来タカ帰レ」ト云ツタトカデ、甚ダマヅイコトニナツテヰタ。ソレガヤット原籍地北海道ニ皈ルコトシママテ出発シタラ、又南ヘユケト云フワケデ、ソノマヽ少シ積ミカヘテ、地上ノ研究ヲスル暇ナク急進シテアノ結果トナツタ次第ナリ。海軍トシテ「ガダルカナル」ニ敵ヲシテ奇襲セシメタ失敗モアリ、一木支隊ニ対シ特別ナル感ジヲ表明スベキナリ。 — 高松宮日記 第四巻 476ページ(昭和17年8月28日記事)

アメリカ海兵隊に従軍記者として同行した作家リチャード・トレガスキー英語版はガダルカナル上陸当初から記録をとっており[82][83][84]、のちに『ガダルカナル日記英語版』として公表した。8月20日から21日にかけてのテナル河攻防戦についての描写や記載もある[25][75][70]

1943年(昭和18年)7月、陸軍省は少将進級を公表した[17]

栄典

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脚注

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注釈

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  1. ^ 「一木」のヨミを「いちぎ」とする説もある。
  2. ^ 【東京二十七日發】[5] 國通=陸軍省ではさきに西南太平洋方面で戰死を遂げた一木清直陸軍大佐に對し陸軍少将に進級せしめられた旨左の通り発表した 陸軍省發表(七月二十七日)今般左の通り発令せられたり 陸軍大佐 一木清直 任陸軍少将/一木少将略歴 静岡縣出身、昭和二年三月歩兵聯隊中隊長、同年七月歩兵聯對隊機關銃隊長、同年十月四日歩兵學校教官、同十一年五月北支駐屯軍大隊長、同十三年三月歩兵學校教官、同十四年八月歩兵學校教導聯隊附、同年九月戸山學校研究部部員、同十五年八月歩兵學校教官、同年十二月歩兵學校材料廠長、同十六年一月兵器學校研究部部員、同年七月歩兵部隊長、同十七年五月現地部隊長、その後南太平洋方面で戰死を遂げた、同少将は十二年七月七日盧溝橋事件當面の大隊長であつた(記事おわり)
  3. ^ ○第十五駆逐隊(一三-一六〇〇)「親潮」「黒潮」、第一第二第三五第三四哨戒艇、2聯陸、一木支隊、あけぼの丸、大宮島着。[10]
  4. ^ 【同盟東京二十七日発】[17] 陸軍省は曩に西南太平洋方面で戰死を遂げた一木清直陸軍大佐に対し陸軍少将に進級せしめられた旨次の通り発表した 陸軍省發表(七月廿七日)今般左の通り発令せられたり 陸軍大佐 一木 清直 任陸軍少将(以下略)
  5. ^ 〔 ソロモン諸島グワダルカナル島にて トレガスキINS特派員 八月二十九日發東京二十七日發〕=遅着、最近グワダルカナル島の激戰で米國陸戰隊によつて殲滅された日本軍上陸部隊の死体八百七十個が發見された、テナル河流域に埋葬された、以上はテナル河激戰に關する今日までの公表戰果で、米軍部隊の包圍作戰から脱出せんとした日本兵の死体は依然海濱に漂着してゐる、日本軍上陸部隊は約一千名と概算され、調査の結果装具は完備し火炎放射器、手榴弾放射器等をも携帯していゐたことが判明した [25] 〔 ソロモン諸島 グワダルカナル島米國陸戰隊本部にてトレガスキスINS特派員八月二十一日發 〕=遅着、グワダルカナル島のテナル河戰は十四時間にわたる激戰であつたが日本軍上陸部隊は包圍殲滅され、戰死者七百五十名の見込みで、大敗の一つを喫した、以下はテナル河激戰記である(以下略)
  6. ^ ○(第二艦隊(六八七-=一四-一九〇〇)大宮島到着ノ時期、一木支隊ニ対スル本職ノ作戦指揮ヲ解ク。[28]
  7. ^ 陸軍 ○一木支隊、大宮島七日発皈還ノ処ヲ呼ビ返ヘシ、一応大宮島ニ戻リ搭載変シ、「十七軍」ニ編入ノ予定。[30]
  8. ^ 第4駆逐隊司令を佐藤康夫大佐とする二次資料がある[20]。だが佐藤大佐は朝潮型駆逐艦で編制された第9駆逐隊司令である[32]
  9. ^ 〔上欄〕昨夜ノ第八艦隊ノ夜襲ノ成果デ大イニ気ヲヨクシテ、ソレナラMO作戦ハ極力予定通リヤリ、「ツラギ」「ガダルカナル」ニハ成ルベク早ク陸軍ヲ上陸セシメ、飛行場ヲ敵ニ使ハセズニ我陸戦隊ノ対抗中ニ救援スルコトガ出来ルカモ知レヌトシテ一木支隊ト四一聯隊ヲ手配スレバ、二十二、三日ニハ上陸出来ルコトニ参本側ハ手配ス。(以下略)[39]
  10. ^ ○聯合艦隊(九-二一〇〇)第四駆逐隊(第二小隊欠)ハ一木支隊ヲ護衛シ トラックニ回航スベシ。トラック着後外南洋部隊ニ編入。《一木支隊ハ大宮島ヨリ皈還セントスルヲ止メ、初メ ラボールニ使フタメ トラックニ向ケシメシガ、陸軍部隊集結上「パラオ」ニ向カハシメ、再ビ速ニ「ツラギ」方面ニ赴カシムルタ〔メ〕トラックニ向ケタルナリ》[43]
  11. ^ ○一木支隊、十二日一八三〇「トラック」着、糧秣、石炭補給、十四日終了見込。第二水雷戦隊ハ之ヲ護衛スベク準備中ニシテ、十五日到着ノ予定。支隊ハ同隊来着ヲマツテ、出港スル時ハ十六日朝ノ見込、何レニスベキヤ至急返。[45]
  12. ^ ○第十一航空艦隊(一三一九〇〇-一一=一三-一九〇〇)八月十三日一二〇〇迠ニ得タルガダルカナル、ツラギ方面情〔況〕ハ既電ノ通、敵兵力ノ概数、ガダルカナル友軍警備隊及通信隊ノ情況等、猶不明ナルモ、所在敵兵力ハ有力部隊ニ非ラザル算少カラザルノミナラズ、此際ガダルカナル攻撃ヲ遷延スルハ有ユル方面ヨリ見テ不利ヲ増大スベキヲ以テ、第十一航空艦隊、第ママ艦隊、第十七軍協議ノ結果、急速之ヲ奪回スルニ決セリ。上陸作戦兵力、一木支隊及横五特。上陸日、ガダルカナル八月十八日。陸戦隊ハ飛行場及附近確保迠、上陸後一木支隊長ノ指揮ヲ受ク。敵空母出現等ノ場合ハ延期スルコトアリ。[47]
  13. ^ 〔上欄〕○〇八一〇軍令部 第八艦隊(二三九=一四-〇八五〇)十四日付「キ」号作戦命令[49]
  14. ^ ○第四駆逐隊(十八-二一〇〇)上陸成功反撃ナシ《「ガダルカナル」挺進隊一木支隊》[55]
  15. ^ ○第四駆逐隊(一九-〇〇〇〇)揚陸終了。各艦所命ノ行動(?)ヲナセ《「ツラギ」砲撃ヲ敵放送ス。之モソノ行動ナルベシ》。[56]
  16. ^ 陸軍デハ一木支隊先遣隊ハ軍旗ヲ奉ジテ行ツテヰルノデ之ヲ全滅セシメテハ参謀本部トシテモコマル、一週間以上ニナルママ食モナクナルカラ海軍トシテ是非ナントカシテ欲シイトノコト。海軍ノタメニ「ガダルカナル」救援ニツギ込ンダノデ、海軍トシテモ何ントカセネバナラヌ。二十五日ハ一木支隊ニ対シ物糧投下ノ予定ナルモ、果シテ連絡所在ヲツキトメ得ルヤ猶疑問ナリ。[58]
  17. ^ ○第十一航空艦隊(二一-一二一八)聯合艦隊二一〇一〇二九四番電《「ガダルカナル」飛行場ニ敵機着陸、又敵空母出現等ニ鑑ミ、一木支隊ノ主力等ヲ海軍艦艇ニテ急送スル件》ニ対シ、第十七軍ト協議セル処、一木支隊ノ後続部隊ハ速射砲隊ナルヲ以テ洋上移動困難ナルノミナラズ、地形上戦闘力少シ。先発一木支隊ハ精兵ナルヲ以テ飛行場占領ニハ充分確信有リトノ陸軍意見ニ鑑ミ、増援急派ノ要アリトセバ金龍丸ノ海軍特陸ヲ哨戒艇ニ移乗セシメ急行セシムルヲ可ト認ム。一木支隊後続隊ノ上陸ハ二十四日ヨリ遅延セシメザルコトトシテ、海軍特陸ノ急派ハ第八艦隊ニ一任セラル。[12]
  18. ^ ○〔第四駆逐隊司令〕(一九-一六〇五)「萩風」ヲ視察ス、トラック回航可能ト認ム、「嵐」護衛ノ下ニ一六三〇発。[61]
  19. ^ ○第八艦隊(二〇-二〇一七)ガダルカナル通信基地ノ報告ニ依レバ敵艦上機二〇(?)機、内戦闘機二、一四二五旧飛行場ニ着陸セルモノノ如シ。[64]
  20. ^ ○第四駆逐隊(一九-一一〇七)挺身隊情報第一号/一、一木支隊ハ夜間前進、昼間休養シ、二十日(敵情ニヨリ二十一日)夜、飛行場奪取ノ予定、目下「テテレ」(タイボ西方一五粁)ニアリ。/二、敵兵約三〇〇名味方陣地ノ西5000米ニ上陸、基地隊ハ腹背ニ敵ヲ受クルニ至レリ。尚敵砲撃ノ為二粁後退セルハ既電ノ如シ。[67]
  21. ^ (中略)◇正に午後四時、今、日本軍陣地を下方より挟撃すべく日本軍を包圍してゐた陸戰車隊は我等の軍隊に参加した、我が戰車隊は、日本軍の猛射撃にも拘らず、敵軍掃蕩戰より歸つて來た、一戰車は戰車反撃榴彈のため活動不能とされた(但し死傷者無し)、日本軍最後の組織された陣地は掃蕩された、日本主力軍確保の椰子林には未だ狙撃兵がゐるが併し少數だから數時間を經ずして一掃されるだらう、だから、信じ難い程の殺戮を演じて重に日本兵の死體が遺棄されてゐる中を歩くにもかなり安全だ、日本兵の死骸がテナル河口にある沙洲に沿ふて長い不規則な線を成して散亂してゐる、之等の死骸は、日本軍が橋頭を渡河して、テナルの西岸にゐる強力な米軍になだれ込まうとした努力を證明していゐる/ ◇沙洲の向ふ側、テナル河東岸にある椰子林の、野戰砲弾の爲め撃ち折られた株や戰車に壓し潰されて平たくなつた樹幹の中央に山積されてゐる彈丸や狐穴は、日本軍の機關銃や輕野戰砲陣地の遺棄物である、實際の遺棄死體數は、沙洲に百七十六個、林の前方に並ぶトタン家屋内に三十六個、それから泳いで逃亡せんとして射殺された者は約五十名と見積まれた、之が一日半前夜夜陰に乗じて當島へ遠征した日本軍の最後だ、彼等は六隻の驅逐艦に便乗して、テナル河東岸約三十哩の地點に上陸したのであつた/ ◇彼等は確に第一戰に立つ精兵軍で、我々が當島で捕虜にした貧弱な兵隊よりも大きな體軀であつた、それして彼等は銃、機關銃、野戰砲、臼砲、榴彈及び火炎放射器等で軍装されてゐた、陸軍現役兵よりなるこの軍隊は上陸に成功して、開戰前迄にこのテナル河迄降つて來た、カネツテカ州マデソン出身のクレスウェル中佐の數隊より成る一團は、その時日本軍團を下方より包圍してその袋口を閉鎖した、ケース中尉の指揮する戰車隊が日本陣地へ突入した、之が大體日本軍敗北の戰話概要である[25](以下略)
  22. ^ ○「ガダルカナル」通信基地(二一-〇六〇〇)〇四〇〇離陸セル戦闘機五ハ〇五〇〇乃至〇五三〇間ニ着陸、其ノ後ハ離陸セズ。銃砲声ハ引続キ飛行場附近ニアリ《一木支隊飛行場ニ夜襲セルモノラン、支隊ノ挺身上陸セルモノ九〇〇名トノコト、大丈夫占領スルナラン》。[73]
  23. ^ (中略)◇我が陸戰隊は、兵數、軍備、總ての點に於て優勢であつた、テナル河岸に對陣を敷いてゐた一小隊が對岸の狙撃兵と會戰し出したのは夜半を少し過ぎた今朝のことであつた、狙撃兵の發射それ自信は當島に於て敵兵力を指示する程のものではなかつた、多分未だ數十名の狙撃兵がゐて時々前哨戰を惱ます程度のものだらう、最初、我が小隊はさほど驚かされなかつた、併し午前二時十分になつて小隊は單なる一二名の浮浪狙撃兵に反抗されてゐるのでは無いことが判つた、日本軍の機關銃や自動車隊が射撃を開始したので此方の河岸からもそれに應戰した/ ◇後方へ援兵を要求すべく通信を發したが、三時頃になつてテナル河の沙洲へ渡ることに成功した日本軍は我が陣地へ突撃を始めた、日本兵多數が射殺されたが少數は沙洲を渡つて一人が榴弾を我が陣地へ投下した、出洲を渡らうとした他の日本兵も又射殺され殘存兵は我が陣よりの猛撃に會つて退却した、未明の數時間中、日本兵は幾回となく渡河して米陣地を掃蕩せんと試みたがその度毎不成功に終つて多數の死體を河岸に遺棄い去つた 陸戰隊の増援軍が重武器を備へて前哨線へ到着しつゝあつた、そして、次々と試みたれた日本軍の攻撃は以前に増して損害を大ならしめた、米軍は射撃線を敷設した日本軍が沙洲へ這ひ寄らうとする度に猛射撃が爆發され突撃軍に應戰した 併し日本軍は米軍陣地に用心する所となり、朝の四時頃彼等は丁度米軍が伏せてゐる個所へ照明彈を發射し出した、だが米軍は地面を掘下げ陣地を改善した、そして其の時暫時的に敵が優勢になることを知りつゝも彼等を喰い止めた、我が野戰砲が日本陣地へ發砲を開始した[25](記事おわり)

出典

[編集]
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参考文献

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  • 阿川弘之『高松宮と海軍』中央公論新社〈中公文庫〉、1999年4月。ISBN 4-12-203391-8 
  • 生出寿悪魔的作戦参謀辻政信 稀代の風雲児の罪と罰』光人社〈光人社NF文庫〉、2007年4月(原著1987年)。ISBN 978-4-7698-2029-1 
  • 生出寿『戦艦「大和」最後の艦長 海上修羅の指揮官』光人社〈光人社NF文庫〉、2011年7月(原著1993年)。ISBN 978-4-7698-2143-4 
  • 倉橋, 友二郎『駆逐艦隊悲劇の記録 海ゆかば・・・』徳間書店、1967年6月。  著者は萩風砲術長として、一木支隊先遣隊を輸送した。
  • 倉橋, 友二郎『激闘駆逐艦隊』朝日ソノラマ、1987年12月。 
  • 芙蓉書房出版、2018年。ISBN 978-4-8295-0732-2 
  • 高松宮宣仁親王高松宮日記 第四巻 昭和十七年 一月~九月』中央公論社(発行嶋中鵬二)、1996年7月。ISBN 4-12-403394-X 
  • 高松宮宣仁親王著『高松宮日記 第五巻 昭和十七年十月一日~昭和十八年二月十一日』中央公論社、1996年11月。ISBN 4-12-403395-8 
    • 編集委員市来俊男、元海軍大尉(ガ島戦時、陽炎航海長)『極北の海から南溟の地へ』(第五巻付録5)
  • 秦郁彦 編著『日本陸海軍総合事典』(第2版)東京大学出版会、2005年。ISBN 4-13-030135-7 
  • C・W・ニミッツ、E・B・ポッター『ニミッツの太平洋海戦史』実松譲冨永謙吾訳、恒文社、1962年12月。 
  • 平塚柾雄「第6章 連合軍が布いた残置諜者網/米軍上陸前夜に消えたガ島現地住民」『太平洋戦争裏面史 日米諜報戦 勝敗を決した作戦にスパイあり』株式会社ビジネス社、2016年8月。ISBN 978-4-8284-1902-2 
  • 辻政信著「ガダルカナル」」『完本・太平洋戦争(上)』文藝春秋編、文藝春秋、1991年12月、218-236頁。ISBN 4-16-345920-0 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 ミッドウェー海戦』 第43巻、朝雲新聞社、1971年3月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 南東方面海軍作戦<1> ガ島奪還作戦開始まで』 第49巻、朝雲新聞社、1971年9月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 中部太平洋方面海軍作戦<2> 昭和十七年六月以降』 第62巻、朝雲新聞社、1973年2月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 大本營海軍部・聯合艦隊<3> ―昭和18年2月まで―』 第77巻、朝雲新聞社、1974年9月。 
  • 歴史群像編集部編『ミッドウェー海戦 主力空母四隻喪失。戦勢の転換点となった大海空戦の全貌を解明する』 第4巻、学習研究社〈歴史群像 太平洋戦史シリーズ〉、1994年9月。ISBN 4-05-600596-6 
(126-127頁)文・亀井宏「検証コラム 悲運の陸軍 一木支隊」
  • 歴史群像編集部編『ソロモン海戦 米軍ガダルカナル島上陸により惹起されたソロモンの制海権争奪の前半戦を徹底解析』 第5巻、学習研究社〈歴史群像 太平洋戦史シリーズ〉、1994年11月。 

関連項目

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