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二見秋三郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
二見 秋三郎
生誕 1895年1月3日
神奈川県
死没 (1987-03-10) 1987年3月10日(92歳没)
最終階級 陸軍少将
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二見 秋三郎(ふたみ あきさぶろう、1895年明治28年)1月3日[1][2] - 1987年昭和62年)3月10日[1][注 1])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将

経歴

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神奈川県出身[1][2][3]。地主・二見元次郎の二男として生まれる[1]。横浜第一中学校(現神奈川県立希望ヶ丘高等学校)、陸軍中央幼年学校予科中央幼年学校本科を経て、1916年(大正5年)5月、陸軍士官学校(28期)を卒業[1][2][4]。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第4連隊付となる[1][4]。1918年(大正7年)3月から1920年(大正9年)10月までシベリア出兵に出征した[1]。1925年(大正14年)11月、陸軍大学校(37期)を卒業した[1][2][3]

1926年(大正15年)12月、参謀本部付勤務となる[1]。以後、参謀本部員、第3師団参謀、参謀本部員、歩兵第79連隊大隊長、参謀本部員(動員班)などを務め、1936年(昭和11年)3月、歩兵中佐に昇進[1]。1937年(昭和12年)8月、兵科航空兵に転じ航空兵中佐となる[1]。1938年(昭和13年)3月、航空兵大佐に進み参謀本部付となる[1][3]

1938年(昭和13年)月、朝鮮軍参謀に就任し、張鼓峰事件の対応に当たった[1][2][3]。1940年(昭和15年)8月、第11軍参謀に転じ日中戦争に出征[1][2]。同年5月、同軍参謀副長に就任し、1941年(昭和16年)10月、陸軍少将に進級[1][3]。1942年(昭和17年)1月、東部軍司令部付に転じて帰国した[1][2][3]

同年5月、二見は第17軍参謀長に発令され太平洋戦争に出征[1][2][3]。第十七軍はポートモレスビー攻略のため、ポートモレスビー作戦を開始しようとしていた[5]。 同年7月14日、日本海軍は第八艦隊(司令長官三川軍一海軍中将、参謀長大西新蔵海軍少将、先任参謀神重徳海軍大佐ほか)を新編し、第八艦隊は7月30日ニューブリテン島ラバウルに到着した[6]。作戦参謀大前敏一海軍中佐によれば、第十七軍と作戦協定を結んだときに二見参謀長は「米軍は熱帯のジャングル戦には慣れていないから、上陸してくれたらむしろチャンスだ。必ず撃滅してみせる」と語っていたという[7]。三川長官も日本陸軍の意気込みに頼もしさを抱いていた[8]。 直後の8月7日、連合国軍はガダルカナル島に来攻してガダルカナル島の戦いがはじまる。二見参謀長は十分な兵力と弾薬・糧食の補給なしの作戦発動を控えるべきとの意見を表明していたため更迭された[2]。大本営陸軍部参謀辻政信中佐は「二見参謀長は病気のため宮崎周一少将とその職を交代した」と回想している[9]。9月29日に内報をうけた宮崎少将は大本営陸軍部より事情を説明されている[10]。宮崎少将は10月6日にラバウル到着、翌7日になり二見少将は宮崎少将に事情を語っている[11]。10月10日、二見少将はラバウルを離れた[12]。 1942年10月、東部軍司令部付となり、同年12月1日に予備役編入と同時に召集され羅津要塞司令官に発令された[1][2][3]。1945年(昭和20年)4月、独立混成第107旅団長(第16方面軍)に転じて帰国し、同年7月、第154師団長心得となり宮崎県本土決戦に備える中で終戦を迎えた[1][2][3]。同年9月に召集解除となった[1]

1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[13]

親族

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脚注

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注釈

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  1. ^ 『日本陸軍将官辞典』641頁では3月9日。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w 『日本陸海軍総合事典』第2版、139頁。
  2. ^ a b c d e f g h i j k 『日本陸軍将官辞典』641頁。
  3. ^ a b c d e f g h i 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』395頁。
  4. ^ a b 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』388、395頁。
  5. ^ 完本太平洋戦争(上) 1991, p. 219.
  6. ^ サボ島沖海戦 1998, p. 43.
  7. ^ サボ島沖海戦 1998, p. 328.
  8. ^ サボ島沖海戦 1998, p. 320.
  9. ^ 完本太平洋戦争(上) 1991, p. 225.
  10. ^ 宮崎周一中将日誌 2003, p. 215(昭和17年9月29日)朝早ク、下村校長ヨリ急遽出発準備ノ内命伝達アリ。午後大本営ニ至リ、第二課長(服部大佐)、井本中佐、竹田宮殿下ヨリ、全般ノ状況聴取。容易ナラサル事態ト覚ユ。前任者二見少将病ノ為ト称スルモ、内面ニ根本的理由アリテ、予ノ急遽交代トナレルモノノ如シ。
  11. ^ 宮崎周一中将日誌 2003, p. 218(昭和17年10月7日)(略)前任二見少将ヨリ、従来ノ海軍トノ協調甚々不快ナリシコト及今次転出ニ至ル事情及予ノ進出ニ至ル経緯ニ就テ語リアリ。一切ハ、「鼓動記」ニ載スト。
  12. ^ 宮崎周一中将日誌 2003, p. 216(昭和17年10月10日)二見少将内地赴任ノ為帰京ノ途ニ就ク、飛行艇発航場ニ見送ル、帰途東南方台上ニ到リ「ラヴァール」一帯ヲ鳥瞰ス、景色佳ナルモ狭シ。
  13. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」13頁。

参考文献

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  • 軍事史学会「ガダルカナル島作戦秘録『残骸録』」『防衛研究所図書館所蔵 大本営陸軍部作戦部長 宮崎周一中将日誌』錦正社、2003年6月。ISBN 4-7646-0316-0 
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
  • リチャード・F・ニューカム(著)、田中至(訳)『サボ島沖海戦 米海軍史上最大の敗北』光人社〈光人社NF文庫〉、1998年4月(原著1963年)。ISBN 4-7698-2192-1 
  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 文藝春秋編「辻政信著「ガダルカナル」」『完本・太平洋戦争(上)』文藝春秋、1991年12月、218-236頁。ISBN 4-16-345920-0 

関連項目

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