歩兵第57連隊
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歩兵第57連隊 | |
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創設 | 1905年(明治38年) |
廃止 | 1945年(昭和20年) |
所属政体 | 日本 |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
部隊編制単位 | 連隊 |
兵科 | 歩兵 |
所在地 | 青森 - 習志野 - 佐倉 |
通称号/略称 | 玉5916 |
上級単位 | 第15師団 - 第1師団 |
最終上級単位 | 第1師団 |
最終位置 | フィリピン セブ島 |
戦歴 | 日露 - 日中 - 第二次世界大戦 |
歩兵第57連隊(ほへいだい57れんたい、歩兵第五十七聯隊)は、大日本帝国陸軍の連隊のひとつ。
駐屯地は歩兵第2連隊と同じ佐倉城址(現在の佐倉城趾公園)。公園内には弾薬庫跡、訓練用施設などの遺構が残存している[1]。
沿革
[編集]- 1905年(明治38年)8月8日 - 軍旗拝受
- 1908年(明治41年)9月 - 第15師団から第1師団へ所属変更、習志野へ転営
- 1909年(明治42年)3月 - 歩兵第2連隊が水戸へ移駐のため、替わりに佐倉へ転営する
- 1936年(昭和11年)
- 1944年(昭和19年)
- グアムに第3大隊を派遣
- 7月 - アメリカ軍が上陸開始(グアムの戦い)、マンガン山で激戦を繰り広げるも損害大
- 8月11日 - 第3大隊は玉砕する
- 11月1日 - 連隊主力はレイテ島オルモックに上陸
- 11月4日 - リモン峠の戦いが始まる。米陸軍第24師団と戦闘。第24師団の損耗激しく、後に米第32師団、第11空挺師団が増援され日本軍は劣勢に。第二大隊長の長嶺秀雄少佐も三度負傷[2]。
- 12月 - リモン峠からの撤退命令で、第一師団司令部にたどり着いた頃には連隊の兵力はわずか90名程で、ほとんど全滅状態であった[3]。カンギポットへ転進
- 1945年(昭和20 年)
歴代連隊長
[編集]代 | 氏名 | 在任期間 | 備考 |
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1 | 勝賀瀬元 | 1905.7.13 - | 中佐 |
2 | 小沢徳平 | 1906.3.12 - 1907.10.4 | |
3 | 竹迫弥彦 | 1907.10.7 - 1912.9.28 | 中佐、大佐昇進 |
4 | 湯地藤吉郎 | 1912.9.28 - 1915.8.10 | |
5 | 金谷範三 | 1915.8.10 - 1916.5.2 | |
6 | 福原佳哉 | 1916.5.2 - | |
7 | 林銑十郎 | 1918.7.24 - | |
8 | 野口猪雄次 | 1920.1.30 - | |
9 | 原田敬一 | 1922.2.8 - | |
10 | 安田郷輔 | 1923.2.1 - | |
11 | 山中三郎 | 1924.2.4 - 1925.3.18 | 現職で死去 |
12 | 山崎定義 | 1925.3.18 - | |
13 | 佐藤信亮 | 1927.2.10 - | |
14 | 大串敬吉 | 1928.3.8 - | |
15 | 小松原道太郎 | 1930.8.1 - | |
16 | 今村均 | 1932.4.11 - | |
17 | 羽守清一郎 | 1933.8.1 - | |
18 | 山口直人 | 1935.3.15 - | |
19 | 秦彦三郎 | 1937.8.2 - | |
20 | 木村松治郎 | 1938.7.15 - | |
21 | 斎俊男 | 1939.8.1 - | |
末 | 宮内良夫 | 1941.12.1 - |
脚注
[編集]- ^ “佐倉城址公園内連隊遺構マップ - 佐倉市” (PDF). 佐倉市 (2018年3月). 2018年8月26日閲覧。
- ^ 太平洋戦争 最後の証言 第二部 陸軍玉砕編 小学館、2011年、173頁。
- ^ 太平洋戦争 最後の証言 第二部 陸軍玉砕編 小学館、2011年、174頁。
参考文献
[編集]- 『日本陸軍連隊総覧 歩兵編(別冊歴史読本)』新人物往来社、1990年。
- 外山操・森松俊夫編著『帝国陸軍編制総覧』芙蓉書房出版、1987年。
- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 『官報』