霰 (朝潮型駆逐艦)
艦歴 | |
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計画 | ②計画 |
起工 | 1937年3月5日 |
進水 | 1937年11月16日 |
就役 | 1939年4月15日 |
その後 | 1942年7月4日戦没 |
除籍 | 1942年7月31日 |
性能諸元 | |
排水量 | 基準:約2,000t、公試:2,400t |
全長 | 118.00m |
全幅 | 10.386m |
吃水 | 3.71m(平均) |
機関 | 艦本式オール・ギアードタービン2基2軸 ロ号艦本式重油専焼缶3基 51,000hp |
最大速力 | 34.85kt |
航続距離 | 18ktで5,190浬 |
燃料 | 重油580t |
乗員 | 230名 |
武装(新造時) | 50口径12.7cm連装砲 3基6門 25mm機銃 II×2 (または13mm機銃 II×2) 61cm4連装魚雷発射管 2基8門 (九〇式魚雷16本) 九一式爆雷×36 |
霰(あられ)は、大日本帝国海軍の駆逐艦[1]。一等駆逐艦朝潮型の10番艦(最終艦)である[2]。この名を持つ帝国海軍の艦船としては春雨型駆逐艦「霰」に続き2隻目。朝潮型は速力と航続距離の性能不足の面から霰をもって建造が打ち切られ、以降は新設計の陽炎型駆逐艦が建造された。
艦歴
[編集]太平洋戦争まで
[編集]1936年(昭和11年)12月14日、海軍省は建造予定の水上機母艦2隻に千代田と瑞穂、朝潮型駆逐艦2隻に峯雲と霰の艦名を与える[1]。舞鶴海軍工廠で建造された朝潮型は、2番艦大潮と霰のみである。霰は1937年(昭和12年)3月5日に起工[3]。同年11月16日に進水[3][4]。空母飛龍と同日附の進水である[4]。
1938年(昭和13年)3月15日、吹雪型駆逐艦磯波駆逐艦長大原利通少佐は霰の艤装員長に任命される[5]。3月23日、舞鶴海軍工廠に霰艤装員事務所を設置する[6]。
1939年(昭和14年)3月1日、大原艤装員長は正式に霰初代駆逐艦長となる[7]。同日附で霰艤装員事務所を撤去[8]。霰は4月15日に竣工した[3]。 7月10日、第18駆逐隊司令として久宗米次郎大佐が着任[9]。霰も同駆逐隊に編入された。 同年11月6日、陽炎型駆逐艦1番艦陽炎が竣工し、第18駆逐隊(霞、霰)に編入される[10]。 11月15日、第18駆逐隊は第二艦隊・第二水雷戦隊に編入された[10]。同時に第二水雷戦隊司令官も後藤英次少将から五藤存知少将に交代[11]。第二水雷戦隊旗艦も川内型軽巡洋艦3番艦那珂から川内型軽巡2番艦神通に変更される[12]。 また久宗大佐(18駆司令)も川内型軽巡1番艦川内艦長へ転任[13]。新司令として佐藤寅次郎大佐が着任した[11]。 12月20日、陽炎型2番艦不知火が竣工して第18駆逐隊に編入され、同隊は定数4隻(霞、霰、陽炎、不知火)を揃えた[10]。
1940年(昭和15年)10月11日、横浜港沖で行われた紀元二千六百年特別観艦式に第18駆逐隊の僚艦と共に参加[14]。18駆は第三列(金剛、榛名、熊野、鈴谷、最上、利根、筑摩、《陽炎》、大潮、朝潮、荒潮、満潮、《霰、霞、不知火》、黒潮、雪風、初風)に配置された。12月7日、第18駆逐隊司令は佐藤大佐から荒木傳大佐に交代[15]、佐藤大佐は翌年3月31日より第4駆逐隊初代司令となる[16]。
1941年(昭和16年)9月1日、荒木大佐(18駆司令)は軽巡北上艦長へ転任[17]、新司令として駆逐艦初霜、漣、電艦長等を歴任した宮坂義登大佐(前職、第30駆逐隊司令)が着任した[18]。 9月15日、第二水雷戦隊司令官五藤存知少将も第六戦隊(青葉、加古、衣笠、古鷹)司令官へ転出、後任の二水戦司令官は田中頼三少将となった[19]。 9月20日、霰駆逐艦長は大原中佐から吹雪型駆逐艦磯波駆逐艦長緒方友兄少佐に交代する[20]。 それまで第18駆逐隊司令駆逐艦は臨時移動以外霰に指定されていたが、9月29日より不知火に変更された[21]。
太平洋戦争
[編集]太平洋戦争開戦時の第18駆逐隊(駆逐隊司令:宮坂大佐)は朝潮型2隻(霰、霞)、陽炎型駆逐艦2隻(陽炎、不知火)で編制されていた。さらに第二水雷戦隊(司令官田中頼三少将)は軽巡神通を旗艦とし、第8駆逐隊(朝潮、大潮、満潮、荒潮)、第15駆逐隊(黒潮、親潮、早潮、夏潮)、第16駆逐隊(雪風、時津風、初風、天津風)、第18駆逐隊で編制されていた。だが第8駆逐隊は第二艦隊司令長官近藤信竹中将(旗艦:重巡洋艦愛宕)直率の南方部隊本隊に編入されている。第18駆逐隊も第二水雷戦隊の指揮下を離れ、南雲機動部隊(司令長官南雲忠一中将)の警戒隊(指揮官大森仙太郎第一水雷戦隊司令官:旗艦阿武隈)に編入[22]。第17駆逐隊(谷風、浦風、浜風、磯風)および陽炎型19番艦秋雲(第五航空戦隊所属[23])と行動を共にした。
1941年(昭和16年)11月26日、ハワイ攻撃機動部隊の空母6隻(赤城、加賀、蒼龍、飛龍、翔鶴、瑞鶴)の護衛として単冠湾を出港、ハワイ作戦(真珠湾攻撃)に参加した。緒方(霞艦長)によれば、朝潮型駆逐艦には航続力の点で不安があったため燃料を入れた大量の18リットル缶を艦内に積み上げており、煙草も吸えなかったという[24]。12月14日から呉海軍工廠で修理を行った。
1942年(昭和17年)1月8日、呉を出港して引き続き南雲機動部隊を護衛する。ラバウル攻撃を筆頭に、2月には第二航空戦隊のポートダウィン攻撃、ジャワ南方機動作戦、4月のセイロン沖海戦に参加した。4月23日、呉に帰着して入渠整備を行った[25]。一連の作戦終了後、機動部隊の護衛を主任務とする第十戦隊(旗艦長良)の新編にともない、第18駆逐隊は原隊(第二水雷戦隊)に復帰[26]。当時の第18駆逐隊は第1小隊(不知火、霞)、第2小隊(陽炎、霰)という編制である[27]。また第8駆逐隊が第二水雷戦隊からのぞかれた[28]。
5月下旬、第二水雷戦隊(神通、第15駆逐隊、第16駆逐隊、第18駆逐隊)はサイパンに集結。6月上旬のミッドウェー海戦には攻略部隊輸送船団の護衛として参加した[29][30]。6月8日、18駆は第七戦隊(司令官栗田健男少将)の指揮下に入る[31]。6月14日に第七戦隊を護衛してトラックに帰投。大破した重巡洋艦最上を同地に残し、6月23日、第18駆逐隊は第七戦隊の重巡洋艦熊野、鈴谷を護衛して呉に帰投した[32]。
この後、第18駆逐隊は第五艦隊(司令長官細萱戊子郎中将:旗艦那智)の指揮下に入った[33]。6月23日、大本営はアッツ島およびキスカ島の長期確保を指示し、連合艦隊および北方部隊は兵力増強のため輸送部隊(千代田、あるぜんちな丸、鹿野丸、菊川丸、第18駆逐隊)を編制[34]。6月28日、第18駆逐隊(不知火、霞、霰)は横須賀から水上機母艦千代田と輸送船あるぜんちな丸の護衛としてキスカ島(鳴神島)に向かった[35][32]。
沈没
[編集]7月5日未明、千代田、あるせんちな丸はキスカ島キスカ湾に入港した[36]。第18駆逐隊3隻(不知火〔司令駆逐艦〕、霞、霰)はキスカ島沖で濃霧のため仮泊中、ハワード・W・ギルモア艦長が指揮する米潜水艦グロウラーに襲撃された[37][38]。18駆司令宮坂義登大佐(兵47期)は、乗員の疲労を考えて転錨を遅らせたこと、霧のため予想より沖合に停泊してしまったこと、米潜水艦の活動は仮泊地には及ばないと考えていたこと、などが大被害の要因になったと回想している[36]。また第五艦隊参謀長中澤佑大佐は、南方からきて疲労していた第18駆逐隊が北方地域の日の出の時刻を勘違いしていたのでは…と推測している[39]。
グロウラーの発射した魚雷1本が霰の左舷前檣下に命中。前部魚雷発射管を吹き飛ばされた霰は主砲と残された魚雷発射管で反撃を試みたが、成功しなかった[40]。さらにもう1本魚雷を撃ち込まれ[41]、霰の船体はV字に折れたのち、沈没した[40]。104名が戦死した。その様子は陸上の第五警備隊からも見ることが出来たという[42]。 さらに霞および不知火にも魚雷が命中しており、2隻とも大破している[36][43]。
7月31日、霰は第18駆逐隊[44]、帝国駆逐艦籍[45]のそれぞれから除籍された。 緒方中佐は霰の除籍と同時附の7月31日をもって霰駆逐艦長の職務を解かれた[46]。
2006年8月、沈没した米潜水艦グラニオンの捜索チームがソナーで水深100mに沈没している霰を発見した。ソナー画像によると、霰は前部魚雷発射管が装備されていた部分で船体が分断され、折れ口には機関や缶の残骸がある。その近くの海底には前部魚雷発射管の残骸がある。艦尾側は正立状態で、艦首側は約170度ほど右に回転し、艦橋が艦尾側に重なって横転した状態で沈んでいる。霰の1番砲塔は直立していて、グロウラーにむけて砲撃していたことを示している。
歴代艦長
[編集]- 艤装員長
- 駆逐艦長
脚注
[編集]- ^ a b #達昭和11年12月(1)p.5『達第百八十二號 艦艇製造費ヲ以テ昭和十一年度ニ於テ建造ニ着手ノ水上機母艦二隻及驅逐艦二隻ニ左ノ通命名ス|昭和十一年十二月十四日 海軍大臣永野修身|呉海軍工廠ニ於テ建造 水上機母艦 千代田(チヨダ)|株式會社川崎造船所ニ於テ建造 水上機母艦 瑞穂(ミヅホ)|株式會社藤永田造船所ニ於テ建造 驅逐艦 峯雲(ミネグモ)|舞鶴海軍工廠ニ於テ建造 驅逐艦 霰(アラレ)』
- ^ #艦艇類別等級表(昭和16年6月30日)p.4『艦艇類別等級表|驅逐艦|一等|朝潮型|朝潮、大潮、満潮、荒潮、朝雲、山雲、夏雲、峯雲、霞、霰』
- ^ a b c #艦船要目公表範囲(昭和16年6月30日)p.20『霰|一等駆逐艦|(艦要目略)|舞鶴工廠|12-3-5|12-11-16|14-4-15|(艦装備略)』
- ^ a b 「昭和12年11月17日 海軍公報 第3199号 p.26」 アジア歴史資料センター Ref.C12070364000 『○進水 本月十六日軍艦飛龍横須賀海軍工廠ニ於テ、驅逐艦霰舞鶴海軍工廠ニ於テ孰モ進水セリ』
- ^ a b 「昭和13年3月15日(発令3月15日付)海軍辞令公報(部内限)第149号 p.24」 アジア歴史資料センター Ref.C13072073500
- ^ 「昭和13年3月30日 海軍公報(部内限)第2873号 p.49」 アジア歴史資料センター Ref.C12070372300 『○艤装員事務所設置 驅逐艦霰艤装員事務所ヲ舞鶴海軍工廠内ニ設置シ三月二十三日ヨリ事務ヲ開始セリ/伊號第七十四潜水艦艤装員事務所ヲ佐世保海軍工廠内ニ設置シ三月二十三日ヨリ事務ヲ開始セリ』
- ^ a b c 「昭和14年3月1日(発令3月1日付)海軍辞令公報(部内限)第308号 p.1」 アジア歴史資料センター Ref.C13072075500
- ^ 「昭和14年3月13日 海軍公報(部内限)第3157号 p.2」 アジア歴史資料センター Ref.C12070380000 『○艤装員事務所撤去 霰艤装員事務所ヲ三月一日撤去セリ』
- ^ 「昭和14年7月11日(発令7月10日付)海軍辞令公報(部内限)第356号 p.25」 アジア歴史資料センター Ref.C13072076000
- ^ a b c #陽炎型(2014)122頁『第十八駆逐隊(陽炎・不知火)』
- ^ a b 「昭和14年11月15日(発令11月15日付)海軍辞令公報(部内限)第402号 p.36」 アジア歴史資料センター Ref.C13072076700
- ^ 「昭和14年11月15日 海軍公報(部内限)第3360号 p.35」 アジア歴史資料センター Ref.C12070381900 『○将旗移揚 第二水雷戰隊司令官ハ十一月十五日将旗ヲ那珂ヨリ神通ニ移揚セリ』
- ^ 「昭和14年11月15日(発令11月15日付)海軍辞令公報(部内限)第402号 p.33」 アジア歴史資料センター Ref.C13072076700
- ^ 『紀元二千六百年祝典記録・第六冊』、369頁
- ^ 「昭和15年12月7日(発令12月6日付)海軍辞令公報(部内限)第566号 p.3」 アジア歴史資料センター Ref.C13072079900
- ^ 「昭和16年3月31日(発令3月31日付)海軍辞令公報(部内限)第606号 p.57」 アジア歴史資料センター Ref.C13072080500
- ^ 「昭和16年9月1日(発令9月1日付)海軍辞令公報(部内限)第701号 p.3」 アジア歴史資料センター Ref.C13072081900
- ^ 「昭和16年9月1日付(発令9月1日)海軍辞令公報(部内限)第701号 p.5」 アジア歴史資料センター Ref.C13072081900
- ^ 「昭和16年9月15日(発令9月15日付)海軍辞令公報(部内限)第713号 p.26」 アジア歴史資料センター Ref.C13072082100
- ^ a b c 「昭和16年9月20日(発令9月20日付)海軍辞令公報(部内限)第716号 pp.46-47」 アジア歴史資料センター Ref.C13072082100
- ^ 「昭和16年10月2日 海軍公報(部内限)第3912号 p.12」 アジア歴史資料センター Ref.C12070397700 『○司令驅逐艦變更 第十八驅逐隊司令ハ九月二十九日司令驅逐艦ヲ霰ヨリ不知火ニ變更セリ/第二十四驅逐隊司令ハ九月三十日司令驅逐艦ヲ一時海風ヨリ江風ニ變更セリ』
- ^ #支那事変第10回功績(18駆)p.1『第十八驅逐隊/不知火霞陽炎霰|勲功乙|自昭和十六年十一月十八日至昭和十六年十二月七日|所定ノ準備ヲナシ布哇ニ向ケ佐伯湾出撃空襲部隊ノ前路警戒飛行警戒及補給部隊ノ護衛ニ任ズ|上記ノ目的ヲ達ス』
- ^ 支那事変第10回功績(秋雲)p.1『記事|昭和一六.九.二七 第一航空艦隊第五航空戦隊ニ編入』
- ^ #佐藤 艦長(文庫)194頁
- ^ #S1703二水戦日誌(3)p.4『(4)18dg 機動部隊ニ編入印度洋機動部隊ヲ終了シ二十三日呉歸着修理整備工事ニ従事(五月一日前進部隊ニ編入ノ豫定)』
- ^ #S1703二水戦日誌(5)p.4『(4)18dg 五月一日附機動部隊ヨリ前進部隊ニ編入當隊ニ復歸呉ニ於テ修理整備作業ニ従事五月十一日桂島ニ回航訓練待機 五月十五日桂島發第一類戰斗訓練實施ノ上十六日18dg(陽炎霰欠)呉着MI作戰準備ニ従事陽炎霰ハ十六日早朝分離MI作戰参加輸送船護衛ノ為横須賀ニ向ケ發十七日横須賀着作戰準備、五月十九日1D/18 2D/18夫々MI作戰参加輸送船ノ一部ヲ護衛集合呉及横須賀發』
- ^ #S1703二水戦日誌(5)p.5『(ハ)五月中ノ2sd艦隊區分』
- ^ #S1703二水戦日誌(3)p.47『四.参考 麾下艦船部隊ノ行動』
- ^ #S1703二水戦日誌(5)pp.4-5『(ロ)自五月二十日至五月三十一日 五月二十日附GF第二段作戰第二期兵力部署トナリ尓後2sd(早潮欠)ハ攻略部隊護衛隊トシテ早潮ハ攻略部隊航空隊ニ編入MI作戰ニ従事』
- ^ #S1705二水戦日誌(2)p.35『四参考(イ)麾下艦船部隊ノ行動』
- ^ #あ号作戦日誌(4)p.15『18dgハ六月八日以後7S司令官ノ指揮下ニ入リ行動』
- ^ a b #あ号作戦日誌(4)p.17『(三)18dg 六月二十三日1D/7Sヲ護衛呉歸着補給整備 六月二十五日千代田ヲ護衛呉發途中2D/18dgヲ圖南丸救援ニ分派 1D/18二十六日2D/18dg二十七日夫々横須賀着 六月二十八日18dg(陽炎欠)千代田あるぜんちな丸ヲ護衛「キスカ」ニ向ケ横須賀發 六月二十九日陽炎横須賀出撃尓後野島埼南方ノ敵潜掃蕩ニ従事』
- ^ #第五艦隊日誌(2)p.8『麾下(指揮下)艦船部隊ノ行動 其ノ六 十八駆逐隊|霰|霞|不知火|陽炎』
- ^ #叢書29北東方面271頁
- ^ #S1705二水戦日誌(2)p.52『自7月1日至7月4日18dg(陽炎缺)ハ5F長官ノ指揮下ニ入リ千代田あるぜんちな丸護衛任務ニ従事7月5日「キスカ」警泊中遭難』
- ^ a b c #叢書29北東方面272-273頁
- ^ #第五艦隊日誌(2)p.15『麾下艦船部隊ノ行動 其ノ二|十八駆逐隊|霰/4日一七一〇}USS GROWLER/5日〇三二〇沈没SUNK』
- ^ #潜水艦戦争196頁
- ^ #高松宮日記4巻314-315頁『当時第十八駆逐隊ハ一度配置ニツケテヰタカドウカ不明ナルモソレモ一因ナルベシ』
- ^ a b #佐藤 艦長(文庫)197頁
- ^ #木俣水雷p.152
- ^ #S1705一水戦日誌(4)p.17『五日0320五警隊司令|五日0350第五艦隊司令長官|味方駆逐艦一隻沈没中他ノ一隻火災』
- ^ #S1705一水戦日誌(4)p.17『五日0345十八驅司令(宛略)18dg機密第109番電 當隊「リトルキスカヘッド」ノ0度1500米附近假泊中0256ヨリ敵潜ノ雷撃ヲ受ケ霰沈没不知火霞ハ各魚雷一本命中防水作業中』
- ^ #内令昭和17年7月(4)p.38『内令第千三百九十號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十七年七月三十一日 海軍大臣 嶋田繁太郎|第十八驅逐隊ノ項中「霰、」ヲ削ル|第二十一驅逐隊ノ項中「子日、」ヲ削ル』
- ^ #内令昭和17年7月(4)p.39『内令第千三百九十二號 呉鎮守府在籍 驅逐艦 霰|佐世保鎮守府在籍 驅逐艦 子日|右帝國驅逐艦籍ヨリ除カル|昭和十七年七月三十一日 海軍大臣 嶋田繁太郎』
- ^ a b 「昭和17年8月1日(発令7月31日付)海軍辞令公報(部内限)第910号 p.1」 アジア歴史資料センター Ref.C13072086500
参考文献
[編集]- アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
- Ref.C12070101000『昭和11年達完/12月(1)』。
- Ref.C12070164200『昭和17年7月~9月 内令3巻/昭和17年7月分(3)』。
- Ref.C12070164300『昭和17年7月~9月 内令3巻/昭和17年7月分(4)』。
- Ref.C12070164500『昭和17年7月~9月 内令3巻/昭和17年8月分(2)』。
- Ref.C12070164600『昭和17年7月~9月 内令3巻/昭和17年8月分(3)』。
- Ref.C12070164700『昭和17年7月~9月 内令3巻/昭和17年8月分(4)』。
- Ref.C12070196900『昭和19年1月~7月 内令/昭和19年3月(5)』。
- Ref.C13071997700『昭和16年6月30日現在10版内令提要追録第9号(上)原稿:巻1追録/第6類機密保護』。
- Ref.C13071998900『昭和16年6月30日現在10版内令提要追録第9号(下)原稿:巻3追録/第16類艦船』。
- Ref.C14120970200『支那事変 第8回功績概見表綴 駆逐隊潜水隊水雷隊掃海隊 海軍武功調査/18駆機密第17号の38 第18駆逐隊支那事変第8回功績概見表』。
- Ref.C14120979800『支那事変 第9回功績概見表綴/支那事変第9回功績概見表/9駆機密第17号の5 第18駆逐隊支那事変第9回功績概見表』。
- Ref.C14120988600『支那事変 第10回功績概見表綴/支那事変駆逐隊第10回功績概見表/18駆機密第4号の46 第18駆逐隊支那事変第10回功績概見表』。
- Ref.C08030019100『昭和16年12月1日~昭和19年6月30日 第5艦隊戦時日誌AL作戦(2)』。
- Ref.C08030079500『昭和17年1月1日~昭和17年2月28日 第1水雷戦隊戦時日誌(1)』。
- Ref.C08030081500『昭和17年5月29日~昭和17年7月31日 第1水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。
- Ref.C08030081600『昭和17年5月29日~昭和17年7月31日 第1水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)』。
- Ref.C08030094400『昭和17年3月1日~昭和17年5月31日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)』。
- Ref.C08030094500『昭和17年3月1日~昭和17年5月31日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(4)』。
- Ref.C08030094600『昭和17年3月1日~昭和17年5月31日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(5)』。
- Ref.C08030094900『昭和17年5月1日~昭和17年8月7日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。
- Ref.C08030095000『昭和17年5月1日~昭和17年8月7日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)』。
- Ref.C08030095100『昭和17年5月1日~昭和17年8月7日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)』。
- Ref.C08030095200『昭和17年5月1日~昭和17年8月7日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(4)』。
- Ref.C08030040100『昭和17年6月1日~昭和19年6月30日 あ号作戦戦時日誌戦闘詳報(4)』。 表題は『あ号作戦』だが昭和17年6月二水戦日誌収録。
- 重本俊一ほか『陽炎型駆逐艦 水雷戦隊の中核となった精鋭たちの実力と奮戦』潮書房光人社、2014年10月。ISBN 978-4-7698-1577-8。
- 戦史研究家落合康夫『駆逐隊別「陽炎型駆逐艦」全作戦行動ダイアリィ 第四、第十五、第十六、第十七、第十八駆逐隊 太平洋奮迅録』
- 当時第十八駆逐隊軍医長・海軍軍医大尉林靖『隠密ハワイ航路「陽炎」艦橋で見た機動部隊強し 真珠湾、インド洋、ミッドウェーを疾駆した陽炎の奮戦と不知火の損傷』
- 佐藤和正『艦長たちの太平洋戦争 34人の艦長が語った勇者の条件』光人社、1983年。ISBN 4-7698-0207-2。
- 佐藤和正『艦長たちの太平洋戦争 34人の艦長が語った勇者の条件』光人社NF文庫、1993年。ISBN 47698-2009-7。
- 高松宮宣仁親王、嶋中鵬二発行人『高松宮日記 第四巻 昭和十七年一月一日~昭和十七年九月三十日』中央公論社、1996年7月。ISBN 4-12-403394-X。
- 寺内正道ほか『海軍駆逐隊 駆逐艦群の戦闘部隊編成と戦場の実相』潮書房光人社、2015年9月。ISBN 978-47698-1601-0。
- 元大本営参謀・海軍中佐吉田俊雄『陽炎型駆逐艦十七&十八駆逐隊の航跡 谷風ミッドウェーの奮戦と浦風、不知火、磯風、浜風の最後』
- レオンス・ペイヤール著、長塚隆二訳『潜水艦戦争 1939-1945』早川書房、1973年12月。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書29 北東方面海軍作戦』朝雲新聞社、1969年8月。
- 雑誌「丸」編集部『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集17 駆逐艦 初春型・白露型・朝潮型・陽炎型・夕雲型・島風』光人社、1997年。
- 木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- グラニオンはどこに……沈没した霰の探索の詳細が掲載。