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三日月 (睦月型駆逐艦)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
艦歴
建造所 佐世保海軍工廠
起工 1925年8月21日
進水 1926年7月12日
竣工 1927年5月5日(第三十二号駆逐艦)
喪失 1943年7月29日
除籍 1943年10月15日
要目(計画)
排水量 基準:1,315トン、常備:1,445トン
全長 102.72m
全幅 9.16m
吃水 2.92m
機関 ロ号艦本式缶4基
艦本式タービン2基
2軸、38,500馬力
速力 37.25ノット
航続距離 14ノットで4,500海里
燃料 重油450トン
乗員 154名
兵装 45口径三年式12cm単装砲4門
留式7.7mm機銃2挺
61cm3連装魚雷発射管2基6門
(八年式魚雷12本)
爆雷投射器
爆雷12個

三日月(みかづき)は日本海軍駆逐艦[1]一等駆逐艦睦月型(卯月型)の10番艦である[2]。艦名は旧暦3日ののこと。艦名は初代神風型駆逐艦の「三日月」に続いて2代目。

艦歴

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1923年(大正12年)度計画艦。1925年(大正14年)2月16日、佐世保にて建造予定の睦月型駆逐艦は「第三十二号駆逐艦」と命名される[3]。なお同日附で妙高型重巡洋艦足柄」と「羽黒」も命名されている[4]。同日附で「足柄、羽黒」は一等巡洋艦に、「第32号駆逐艦」は一等駆逐艦に類別された[5]。 「第32号駆逐艦」は佐世保海軍工廠で同年8月21日起工、1926年(大正15年)7月12日進水、1927年(昭和2年)5月5日に竣工[6]佐世保鎮守府に所属した。1928年(昭和3年)8月1日附で「第32号駆逐艦」は「三日月」と改名された[1]。「三日月」、「菊月」、「望月」、「夕月」の睦月型4隻で第23駆逐隊を編制していた。

1937年(昭和12年)からの支那事変により中支、南支方面に進出する。1940年(昭和15年)11月15日、「望月」が第30駆逐隊に転出し、同隊より睦月型「卯月」が23駆逐隊に編入された。1941年(昭和16年)4月10日、「三日月」は第三航空戦隊付に転出した。

太平洋戦争

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1941年(昭和16年)12月8日以降の太平洋戦争では、第1艦隊・第三航空戦隊の所属として空母「鳳翔」や「瑞鳳」の護衛任務につき、緒戦は内海で待機する。1942年(昭和17年)6月上旬のミッドウェー海戦に第二艦隊司令長官近藤信竹中将(重巡洋艦「愛宕」)指揮下の攻略部隊本隊として参加[7]。7月以降は内地と台湾間の船団護衛に従事する。

1943年(昭和18年)3月31日、卯月型3隻(三日月、望月卯月)で第30駆逐隊が再編成された[8]。1942年8月-9月に睦月型「睦月弥生」の2隻を喪失していた30駆は、12月1日附で解隊されていたのである[9]。第30駆逐隊は4月1日附で外南洋部隊と第三水雷戦隊のそれぞれに編入された[10]。この頃の「三日月」は3月から6月まで佐世保海軍工廠で修理、その後はラバウル方面に進出し、ソロモン諸島における強行輸送任務に従事する。「三日月」以下第30駆逐隊は第三水雷戦隊(旗艦「川内」)の指揮下にあり、第16駆逐隊「雪風」や第17駆逐隊「浜風谷風」等と数々の海戦や輸送作戦に参加する事になった。

6月30日、アメリカ軍はニュージョージア諸島レンドバ島に上陸を開始、増援部隊指揮官(三水戦司令官秋山輝男少将)は直率部隊(秋月型駆逐艦新月》、第30駆逐隊《望月》、皐月夕凪)と先行部隊(第11駆逐隊《天霧初雪》、第22駆逐隊《長月水無月》、三日月)を率いて7月1日午前零時レンドバ島西方に到達したが、米艦艇の姿はなかった[11]。7月2日23時〜3日午前1時、秋山司令官は突撃隊(新月/旗艦、第11駆逐隊《天霧、初雪》、第22駆逐隊《長月、皐月》、第30駆逐隊《望月》)、陽動隊(軽巡夕張、駆逐艦《夕凪、三日月》)を率いてレンドバ島沖合に進出、陸上砲撃は失敗したが、米軍魚雷艇2隻を撃沈した[11]。7月5日深夜、支援隊(新月、涼風谷風)・第一次輸送隊(望月、三日月、浜風)・第二次輸送隊(天霧、初雪、長月、皐月)はコロンバンガラ島輸送作戦中に米軍巡洋艦3隻・駆逐艦4隻と交戦、「新月、長月」と米巡「ヘレナ」が沈没し、「新月」と共に秋山司令官以下第三水雷戦隊司令部は全滅した[11]

7月9日17時、外南洋部隊指揮官は主隊(重巡鳥海、軽巡川内)、警戒隊(雪風夕暮、谷風、浜風)、輸送隊(皐月、三日月、松風、夕凪)を率いてブインを出撃、コロンバンガラ島へ進出するが米艦隊は出現せず、陸兵1200名と軍需物資の輸送作戦は成功した[12]。 7月10日、戦死した秋山少将の後任として伊集院松治大佐が着任し、軽巡「川内」に将旗を掲げた。新司令部の準備がととのうまでの間、第二水雷戦隊が輸送任務を担当することになった。 7月12日、第二水雷戦隊司令官伊崎俊二少将(旗艦「神通」)率いる増援部隊は再びコロンバンガラ島への輸送任務に従事する[12]。警戒隊(神通、清波、雪風、浜風、夕暮、三日月)はラバウルを、輸送隊(皐月、水無月、夕凪、松風)はブインを出撃、合同してコロンバンガラ島へ向かう[12]。同日23時、第二水雷戦隊は米軍巡洋艦3・駆逐艦10隻と遭遇、コロンバンガラ島沖海戦が勃発する[12]。合戦時、警戒隊は「三日月、神通《旗艦》、雪風、浜風、清波、夕暮」という単縦陣である[12]。魚雷次発装填装置のない「三日月」は最初の魚雷発射後、「雪風」以下警戒隊と分離して北上した。米側は巡洋艦3隻が大破し駆逐艦1隻が沈没、日本側は「神通」が沈没し伊崎二水戦司令官以下第二水雷戦隊司令部は全滅した[12]

沈没

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1943年(昭和18年)7月25日、トラック泊地より第27駆逐隊の駆逐艦2隻(時雨有明)が「三日月」の停泊するラバウルに到着した[13]。東部「ニューギニア」方面作戦輸送に参加するためである[14]。ただし「有明」は機関部の故障により最大発揮可能速力28ノットであった[15]。「時雨」はラバウル到着後、レカタ〜ブイン輸送任務に従事するため[16]、「三日月、有明」とは別行動を取っていた。

27日午前10時、第30駆逐隊司令(折田常雄中佐)が座乗する「三日月」は、臨時編入された「有明」と共にラバウルを出撃、ニューブリテン島ツルブへの輸送任務に従事する[17][18]。途中ココボで陸軍兵及び軍需物資を移載し目的地へ向かうが、23時、「三日月、有明」ともグロスター岬49度5浬のリーフに速力26ノットで座礁してしまう[19][18]。両艦の損傷は重大であった。「三日月」は兵員室下部倉庫に浸水、左舷推進軸屈曲使用不能、屈曲した右舷推進器は午前3時1分に脱落した[20]。「有明」は左舷後部の座礁により最大速力6ノットとなった[21]。「有明」は28日0時43-45分離礁に成功したため、駆逐隊司令は「有明」に移乗。三日月搭載人員や物資も移載した「有明」は「三日月」を残置して現場を離れ、6時-7時40分の間ツルブで揚陸作業を行う[22][23]。 一方、ラバウルの第三水雷戦隊司令部も遭難した「三日月、有明」のため救援艦の派遣を検討する。28日午前2時、「川内、皐月、望月」は救援のためにラバウルを出撃するが、途中で反転し帰投[24]。かわりに駆逐艦「秋風」が現場へ向かうことになった[25]

その頃、座礁現場に残された「三日月」は燃料や糧食を投棄し重量物を減らして離礁を試みていたが、無事だった右舷推進軸も脱落して完全に行動不能となり、10時30分頃に戻ってきた「有明」による救援作業も失敗、13時30分をもって折田司令は「有明」にラバウル帰投を命じた[26]。 しかし、両艦はアメリカ陸軍B-25爆撃機約20機の空襲を受ける。「有明」は爆弾3発が命中して14時40分に沈没。「三日月」には右舷機械室水線近くに命中弾1があり、横4.5m-縦1.5mの破孔が生じた他、船体各部に被害が生じた[27]。進退不能となった「三日月」の現状に対し、折田司令は駆逐艦「秋風」の到着をもって「三日月」の放棄を決定、「三日月、有明」生存者は同艦に移乗した[28][29]。戦死者7名、重傷者12名、軽傷者25名、未収容者85名、「秋風」に170名移乗と記録されている[30]。沈没地点南緯5度27分 東経148度25分 / 南緯5.450度 東経148.417度 / -5.450; 148.417

8月2日深夜、駆逐艦2隻(江風松風)がツルブに到着[31]。ツルブ行の便では7月28日に座礁沈没した「三日月」を調査するため調査員4名(同艦駆逐艦長ふくむ)が便乗しており、有明生存者のうち56名はラバウルへ帰投する「江風、松風」に便乗してツルブを離れた[32]

10月15日、「三日月」は卯月型駆逐艦[33]、 第30駆逐隊[34]、 帝国駆逐艦籍[35]、 それぞれから除籍された。10月24日、姉妹艦「望月」も撃沈され、第30駆逐隊所属の駆逐艦は次々に喪失した。

歴代艦長

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※『艦長たちの軍艦史』259-260頁による。

艤装員長

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  1. 一ノ瀬英太 中佐:1926年12月1日 - 1927年3月1日[36]

艦長

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  1. 一ノ瀬英太 中佐:1927年3月1日[36] - 1927年11月1日
  2. 山中順一 中佐:1927年11月1日 - 1928年5月7日[37]
  3. 石戸勇三 中佐:1928年5月7日[37] - 1928年12月10日[38]
  4. 中円尾義三 中佐:1928年12月10日 - 1929年11月1日
  5. 西村祥治 少佐:1929年11月1日 - 1930年11月15日[39]
  6. (兼)岡野慶三郎 少佐:1930年11月15日 - 1931年1月8日[40]
  7. (兼)佐藤俊美 少佐:1931年1月8日[40] - 1931年12月1日[41]
  8. 岡野慶三郎 少佐:1931年12月1日 - 1933年11月15日
  9. 篠田勝清 少佐:1933年11月15日 - 1934年11月15日[42]
  10. 小西要人 少佐:1934年11月15日[42] - 1935年11月15日[43]
  11. 金岡国三 少佐:1935年11月15日 - 1937年1月15日
  12. 田口正一 少佐:1937年1月15日 - 1938年5月20日[44]
  13. 大島一太郎 少佐:1938年5月20日 - 1938年12月1日[45]
  14. 竹大孝志 少佐:1938年12月1日 - 1939年4月1日[46]
  15. (兼)浜中脩一 少佐:1939年4月1日[46] - 1939年6月24日[47]
  16. 杉岡幸七 少佐:1939年6月24日 - 1939年10月10日[48]
  17. 杉谷永秀 少佐:1939年10月10日 - 1940年1月6日[49]
  18. 志摩岑 少佐:1940年1月6日 -
  19. 坂元常男 少佐:1940年11月15日[50] - 1941年8月20日[51]
  20. 前田実穂 少佐:1941年8月20日 -
  21. 山崎仁太郎 少佐:1942年8月5日 -

脚注

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  1. ^ a b #達昭和3年6月pp7-8『達第八十號 驅逐艦及掃海艇中左ノ通改名ス 本達ハ昭和三年八月一日ヨリ之ヲ施行ス|昭和三年六月二十日 海軍大臣岡田啓介|(略) 第三十二號驅逐艦 ヲ 驅逐艦 三日月(ミカヅキ)トス (略)』
  2. ^ #艦艇類別等級表(昭和16年12月31日)p.1『艦艇類別等級表|驅逐艦|一等|睦月型|睦月、如月、彌生、卯月、皐月、水無月、文月、長月、菊月、三日月、望月、夕月』
  3. ^ #達大正14年2月p.14『達第二十三號 補助艦艇製造費ヲ以テ大正十四年度ニ於テ建造ニ着手スヘキ一等驅逐艦一隻ニ左ノ通リ命名ス|大正十四年二月十六日 海軍大臣財部彪|佐世保海軍工廠ニ於テ建造 第三十二號驅逐艦』
  4. ^ #達大正14年2月p.14『達第二十二號 補助艦艇製造費ヲ以テ大正十三年度ニ於テ建造ニ着手スヘキ一等巡洋艦二隻ニ左ノ通リ命名セラル|大正十四年二月十六日 海軍大臣財部彪|川崎造船所ニ於テ建造 一萬頓級巡洋艦 足柄(アシガラ)|長崎三菱造船所ニ於テ建造 一萬頓級巡洋艦 羽黒(ハグロ)』
  5. ^ #達大正14年2月p.14『達第二十四號 艦艇類別等級表中巡洋艦一等ノ項「那智」ノ下ニ「、足柄、羽黒」ヲ、驅逐艦一等ノ項「第三十一號」ノ下ニ「、第三十二號」ヲ加フ|大正十四年二月十六日 海軍大臣財部彪』
  6. ^ #艦船要目(昭和12年12月1日現在)p.4『三日月|一等驅逐艦|(艦要目略)|佐世保工廠|大正14-8-21|15-7-12|昭和2-5-7|(兵装略)』
  7. ^ #ミッドウエー海戦日誌(1)pp.3-4『別報第二 MI作戦部隊兵力部署』
  8. ^ #内令昭和18年3月(3)p.47『内令第五百二十五號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十八年三月三十一日 海軍大臣嶋田繁太郎|第二十九驅逐隊ノ項ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ||第三十驅逐隊|三日月、望月、卯月|』
  9. ^ #内令昭和17年12月(1)p.4『内令第二千二百十一號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十七年十二月一日 海軍大臣嶋田繁太郎|第三十驅逐隊ノ項ヲ削ル』
  10. ^ #戦史叢書96ガ島撤収後130頁『外南洋部隊の作戦の概要』
  11. ^ a b c #戦史叢書96ガ島撤収後226-230頁『外南洋部隊水上部隊』
  12. ^ a b c d e f #戦史叢書96ガ島撤収後245-247『水上部隊の作戦』
  13. ^ #S1806二水戦日誌(1)p.30『23日両艦[時雨、有明]共魚雷準備其ノ他戦備ヲ完了 1600「トラック」発「ラボール」ニ回航ス』
  14. ^ #S1807三水戦日誌(1)p.20『(四)東部「ニューギニア」方面作戦輸送 (イ)7月24日1430SNB電令作第402号接受左ニ依リ之ヲ実施ス』
  15. ^ #S1806二水戦日誌(1)p.30『但シ有明ハ2号重噴ポンプ破損ノタメ最大速力28節ナリ』
  16. ^ #S1806二水戦日誌(1)pp.79-80『25日二.27dg(時雨有明)「ラボール」着 三.27dg(時雨)「ラボール」発/27dg(時雨)「レカタ」ニ向ケ陸兵輸送』-『27日一.27dg(時雨)0010「レカタ」着 2330「ブイン」着 三.有明1000「ラボール」発』-『28日三.27dg(時雨)0030「ブイン」発1600「ラボール」着』
  17. ^ #S1807三水戦日誌(1)p.20『30dg(三日月)有明7月27日1000「ラバウル」発「ココボ」ニ於テ陸兵搭載1059同地発航行中2300三日月有明相次デ「グロセスター」岬ノ49度5浬ノ地点ニ坐礁…』
  18. ^ a b #戦史叢書96ガ島撤収後249-250『経過概要と南東方面部隊等の作戦指導』
  19. ^ #S1806二水戦日誌(1)pp.56-59『30日0927将旗30dg→各隊/30dg機密第29215番電 「ツルブ」作戦輸送戦闘概報 30dg(三日月)有明ヲ率ヰ1000「ラボール」発0030「ココボ」ニ於テ陸兵ヲ搭載ノ上「ツルブ」ニ輸送作戦中2300針路263度速力26節ニテ「グロスター」岬ノ49度5浬「リーフ」ニ両艦トモ坐礁セリ』
  20. ^ #S1806二水戦日誌(1)pp.56-59『四.被害 (ロ)船体兵器機関(一)坐礁ニ依ルモノ 三日月』
  21. ^ #S1806二水戦日誌(1)pp.56-59『四.被害 (ロ)船体兵器機関(一)坐礁ニ依ルモノ 有明』
  22. ^ #S1806二水戦日誌(1)pp.56-59『予定ノ作戦困難ノ為揚搭点ヲ坐礁位ニ変更セントセシモ0045有明離礁セルヲ以テ三日月搭乗中ノ陸戦隊生存者ヲ同艦ニ移シ0330発「ツルブ」ニ向カハシム 0600着 0740揚搭(陸兵510名物件25頓)ヲ終了セリ』
  23. ^ #S1807三水戦日誌(1)p.20『28日0043有明離礁、0115ヨリ三日月搭乗中ノ陸兵ヲ有明ニ移乗0330有明「ツルブ」ニ向ケ現場発…』
  24. ^ #S1807三水戦日誌(1)p.44『二八(天候略)二.0155 3sd(川内、皐月、望月)三日月有明救難ノ為遭難現場ニ向ケ「ラバウル」発、途中0400反転0710「ラバウル」着』
  25. ^ #S1807三水戦日誌(1)pp.44-45『三.0800秋風遭難現場ニ向ケ「ラバウル」発/二九(天候略)二.0735秋風「ラバウル」着』
  26. ^ #S1806二水戦日誌(1)pp.56-59『三日月ハ極力離洲ノ手段ヲ講ジタルモ成功セズ 有明1030三日月附近ニ来着同艦ニテ曳航離礁ヲ試ミタルモ低潮時スル迄坐礁ニ依ル損傷ニ依リ出シ得ル最大速力6節ノ為遂ニ功ヲ奏セズ 1330作業ヲ打切リ有明ニ「ラボール」ニ帰投ヲ命ゼリ』
  27. ^ #S1806二水戦日誌(1)pp.56-59『四.被害(ロ)船体兵器機関(二)交戦ニ依ルモノ 三日月:機械室右舷水線附近命中弾1、破孔1、横4.5米縦1.5米 浸水船体屈曲中小破孔各部ニ亘リ無数、通信不能』
  28. ^ #S1806二水戦日誌(1)pp.56-59『五.処置 三日月坐礁後燃料糧食ノ大部等対空戦闘ニ関係ナキ重量物投棄 右舷機前後進一杯使用セルモ成功セズ 推進軸脱落後両舷トモ損ヒ離礁ノ見込ナク秋風ノ来着ヲ待チ離礁作業ヲ行フ事ニ準備シ居リタル処前記爆撃被害(以下13符字不明)搬出可能眼鏡、機銃々身ト共ニ総員退去秋風に移乗セリ「処分済」収容人数 三日月170名 有明179名』
  29. ^ #S1807三水戦日誌(1)p.21『三日月亦大破離礁ノ見込ナキニ至リシ處、1800秋風現地着、30dg司令ハ総員退去ヲ決意、両艦ノ乗員ノ大部分ヲ同艦ニ収容、29日0730「ラバウル」帰着』
  30. ^ #S1806二水戦日誌(1)pp.56-59『四.被害(イ)人員 三日月 戦死7(内准士官以上2)重傷者12(2)軽傷者25(1)未収容者85』
  31. ^ #S1806二水戦日誌(2)p.77-78『8月2日(天候略)|江風1000「ラバウル」発、2340「ツルブ」着/3日(天候略)江風 0030「ツルブ」発1230「ラバウル」着』
  32. ^ #S1806二水戦日誌(2)pp.19-20『3日2134ZOB(宛先略)一.江風、松風ヲ率ヰ2日1000「ラボール」発「ココボ」ニ於テ陸兵ヲ搭載1050同地発2340「ツルブ」泊地着敵機来襲吊光投弾投下及爆撃アリシモ強行揚陸シ0030作業終了同地発(略)「ツルブ」輸送物件陸兵508名及三日月駆逐艦長外4名(三日月調査員)弾薬糧秣・・約50頓時期ヲ得後送者陸兵330(内患者197名)有明乗員航海長以下56名三日月兵1 19fg整備員13名』
  33. ^ #内令昭和18年10月(3)p.46『内令第二千百四十四號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 昭和十八年十月十五日海軍大臣嶋田繁太郎|駆逐艦、一等卯月型ノ項中「、三日月」ヲ、同初雪型ノ項中「初雪、」ヲ、同初春型ノ項中「、有明、夕暮」ヲ、同白露型ノ項中「、江風」ヲ、同不知火型ノ項中「、嵐、萩風」ヲ、同夕雲型ノ項中「、清波」ヲ削ル|潜水艦、一等伊百六十八型ノ項中「伊號第百六十八、」ヲ削ル』
  34. ^ #内令昭和18年10月(4)p.8『内令第二千百五十九號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十八年十月十五日 海軍大臣嶋田繁太郎|第四驅逐隊ノ項中「嵐、萩風、」ヲ、第十一驅逐隊ノ項中「初雪、」ヲ、第二十四驅逐隊ノ項中「江風、」ヲ、第二十七驅逐隊ノ項中「有明、夕暮」ヲ、第三十驅逐隊ノ項中「三日月、」ヲ、第三十一驅逐隊ノ項中「、清波」ヲ削ル』
  35. ^ #内令昭和18年10月(4)pp.9-10『内令第二千百六十一號 横須賀鎮守府在籍:驅逐艦嵐、驅逐艦萩風|呉鎮守府隻:驅逐艦初雪|佐世保鎮守府在籍:驅逐艦 三日月、驅逐艦有明、驅逐艦夕暮、驅逐艦江風|舞鶴鎮守府籍:驅逐艦 清波|右帝国驅逐艦籍ヨリ除カル|呉鎮守府籍 伊号第百六十八潜水艦 右帝国潜水艦籍ヨリ除カル|昭和十八年十月十五日 海軍大臣嶋田繁太郎』
  36. ^ a b 『官報』第49号、昭和2年3月2日。
  37. ^ a b 『官報』第406号、昭和3年5月8日。
  38. ^ 『官報』第587号、昭和3年12月11日。
  39. ^ 『官報』第1166号、昭和5年11月17日。
  40. ^ a b 『官報』第1206号、昭和6年1月9日。
  41. ^ 『官報』第1478号、昭和6年12月2日。
  42. ^ a b 『官報』第2364号、昭和9年11月16日。
  43. ^ 『官報』第2663号、昭和10年11月16日。
  44. ^ 海軍辞令公報(部内限)号外 第184号 昭和13年5月20日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072073800 
  45. ^ 海軍辞令公報(部内限)号外 第267号 昭和13年12月1日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072074700 
  46. ^ a b 海軍辞令公報(部内限)第321号 昭和14年4月1日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072075600 
  47. ^ 海軍辞令公報(部内限)第350号 昭和14年6月24日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072075900 
  48. ^ 海軍辞令公報(部内限)第389号 昭和14年10月10日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072076400 
  49. ^ 海軍辞令公報(部内限)第427号 昭和15年1月8日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072077600 
  50. ^ 海軍辞令公報(部内限)第555号 昭和15年11月15日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072079500 
  51. ^ 海軍辞令公報(部内限)第695号 昭和16年8月20日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072081800 

参考文献

[編集]
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • Ref.C12070084600『大正14年達完/2月』。 
    • Ref.C12070089800『昭和3年達完/6月』。 
    • Ref.C13071968200『巻1 追録/第6類 機密保護(昭和11年12月11日現在 10版 内令提要追録第1号原稿)』。 
    • Ref.C13072000700『巻1 追録/第2類 編制(昭和16年12月31日現在 10版 内令提要追録第10号原稿巻1)』。 
    • Ref.C12070166700『昭和17年10月~12月内令4巻止/昭和17年12月(1)』。 
    • Ref.C12070181300『昭和18年9~10月 内令4巻/昭和18年10月(3)』。 
    • Ref.C12070181400『昭和18年9~10月 内令4巻/昭和18年10月(4)』。 
    • Ref.C08030040400『昭和17年6月1日~昭和17年6月30日 ミッドウエー海戦戦時日誌戦闘詳報(1)』。 
    • Ref.C08030105800『昭和18年7月1日~昭和18年12月2日 第3水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。 
    • Ref.C08030101000『昭和18年6月14日~昭和18年11月11日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。 
    • Ref.C08030101100『昭和18年6月14日~昭和18年11月11日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)』。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書96 南東方面海軍作戦(3) ガ島撤収後』朝雲新聞社、1976年8月。 
  • 日本造船学会『昭和造船史 第1巻』(原書房、1981年、第3刷)ISBN 4-562-00302-2
  • 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第10巻 駆逐艦I』(光人社、1990年) ISBN 4-7698-0460-1
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史 第7巻』(第一法規出版、1995年)
  • 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。