夕張 (軽巡洋艦)
夕張 | |
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1924年の夕張 | |
基本情報 | |
建造所 | 佐世保海軍工廠[1] |
運用者 | 大日本帝国海軍 |
艦種 | 二等巡洋艦[2](軽巡洋艦)[3] |
母港 |
竣工時:佐世保[4] 1934年11月15日から:横須賀[4] |
艦歴 | |
計画 | 大正6年度(1917年)、八四艦隊案[5] |
発注 | 1921年12月5日製造訓令[6] |
起工 | 1922年6月5日[1] |
進水 | 1923年3月5日[1][7] |
竣工 | 1923年7月31日[1][8] |
最期 |
1944年4月28日沈没 北緯5度38分 東経131度45分 / 北緯5.633度 東経131.750度 |
除籍 | 1944年6月10日[9] |
要目(計画) | |
基準排水量 | 公表値 2,890トン[10] |
常備排水量 |
計画:3,141.13トン[11]、または3,300トン[12] 竣工時:3,509.1トン[12]、または3,560トン[13] 公表値 3,100トン[10] |
満載排水量 | 竣工時:4,377.711トン[11] |
全長 | 456 ft 0 in (138.99 m)[11] |
水線長 | 450 ft 0 in (137.16 m)[11] |
垂線間長 | 435 ft 0 in (132.59 m)[11] |
最大幅 | 39 ft 6 in (12.04 m)[11] |
深さ | 23 ft 9 in (7.24 m)[11] |
吃水 |
常備 11 ft 9 in (3.58 m)[11][14][注釈 1] 満載 14 ft 11+27⁄32 in (4.57 m)[11] |
ボイラー |
ロ号艦本式缶重油専焼大型6基[15] 同小型2基[15] 補助缶(1941年)[16] |
主機 | 三菱パーソンズ式ギアードタービン3基[17][注釈 2] |
推進 |
3軸 x 400rpm[15] 直径10 ft 3 in (3.12 m)[15] ピッチ3.429m[18] |
出力 |
計画 57,900馬力[11][注釈 3] 公試全力 61,328馬力[19]、または61,336馬力[12] |
速力 |
計画 35.5ノット[11] 公試全力 34.78ノット[19][速力注釈 1] |
燃料 |
計画:重油916トン[17]、または918トン[12] 石炭(平常用)[20][注釈 4] |
航続距離 |
計画:5,000カイリ / 14ノット[13] 実際:3,310カイリ / 14ノット[13][17] |
乗員 |
計画乗員 328名[21] 竣工時定員 328名[22] |
兵装 |
計画 50口径三年式14cm砲 連装2基4門、同単装2基2門[23] 40口径8cm高角砲1基1門[13][23] 八年式(61cm)連装発射管2基4門[24] 八年式(61cm)魚雷10本[24] 八一式爆雷投射機2基[24] 爆雷投下台3個載 2基[24] 機雷投下軌道2条[24] 一号機雷48個[17] 中防雷具2基[23] 90cm探照灯2基[25] 最終時(推定)[26] 50口径14cm連装砲2基4門 45口径12cm単装高角砲1門 25mm機銃3連装3基、同連装4基、同単装8挺、計25挺 61cm連装発射管2基 八年式(2号改2)魚雷10本 爆雷投下軌条2条 爆雷36個 探照灯1基 |
装甲 |
舷側:60lb(38.1mm)NVNC鋼+30lb(19.05mm)HT鋼[14][27] 甲板:40lb(25.4mm)NVNC鋼[14][27] |
搭載艇 | 30ft(フィート)内火艇2隻、30ftカッター2隻、20ft通船1隻[28] |
レーダー | 最終時:22号電探1基、逆探1基[26] |
ソナー | 最終時:九三式探信儀、九三式水中聴音機[26] |
その他 |
信号符字:GQAT(竣工時)[29] 無線略符号:JRO(竣工時)[30] |
トンは英トン |
夕張(ゆうばり / ゆふばり[31])は、日本海軍の二等巡洋艦(軽巡洋艦)[32]。艦名は、夕張川(石狩川の支流)に由来する[33][34]。1隻のみの建造で、同型艦はない[35]。主砲・発射管を全て中心線上に配置し、2890トンの船体に5500トン型の軽巡洋艦と同等の砲備雷装を備え、速力も同等だった[36]。建造当時、世界の海軍から注目され、設計者の平賀譲大佐(当時のち将官)の名を一躍有名にした艦であった[37]。
概要
[編集]軍艦(ぐんかん)夕張(ゆふばり / ゆうばり)は、日本海軍が佐世保海軍工廠において1922年(大正11年)6月から1923年(大正12年)7月にかけて建造した軽巡洋艦(二等巡洋艦)[34][38]。 設計は平賀譲ら。当時の不況の中での海軍予算の逼迫により、球磨型をはじめとする5500トン型軽巡洋艦(球磨型軽巡洋艦、長良型軽巡洋艦)と同等の戦闘力をできるだけ小型の艦に詰め込むことを目標とし、3,100トン の小さい船体ながら砲力、雷力等の攻撃力は同等であった[34][36]。
これら今までになかった新機軸は、軽巡洋艦のイメージを一新させるものであった[36][39]。海外の反響も大きく、ジェーン海軍年鑑に特記項目付きで掲載されるなど各国関係者を驚かせた。平賀譲の才能が遺憾なく発揮された、海軍史上特筆される艦とされる[34][39]。
しかし、夕張は小型艦であるため航続力は劣り(峯風型駆逐艦が14ノットで3,600海里に対して夕張は14ノットで3,300海里だった)、また小型の船体に重武装・高速性を追求したため船体の余裕に欠けていた。5500トン型軽巡洋艦が改装で航空機を搭載できたのに対し夕張では不可能であり、大きな欠点となった。太平洋戦争後半では防空力強化のため主砲2門を撤去せざるを得なかった。このように、夕張の設計は後年の軍艦に対する要求に十分に応えられない部分もあったが、ワシントン海軍軍縮条約等の制限下で建造された古鷹型重巡洋艦(加古級巡洋艦)[39] 以降のコンパクトな艦体に重武装を施す設計思想の礎となった[38][40]。以上のことから、夕張は言わば「実験艦」として、その建造意義は大きかったといえる。
略歴
[編集]軍艦(軽巡洋艦)夕張は1923年(大正12年)7月31日、佐世保海軍工廠で竣工[38]。同年10月10日、摂政宮裕仁親王(後の昭和天皇)が関東大震災後の横須賀視察を行うにあたり、夕張は摂政宮御召艦となった[41]。支那事変(日中戦争)従軍中の1937年(昭和12年)9月中旬、駆逐艦2隻(追風、疾風)と共に珠江を遡上、虎門要塞近海で中華民国海軍の巡洋艦と交戦、撃沈する。
1940年(昭和15年)11月15日より、夕張は第四艦隊麾下の第六水雷戦隊に所属[42]、同水戦の旗艦として行動する[43]。 1941年(昭和16年)12月の太平洋戦争開戦と同時にウェーク島攻略戦に従事するが[44]、12月11日の第一次攻略作戦で所属艦2隻(疾風、如月)を喪失する[45]。第二次攻略作戦では夕張副長以下、乗組員を海軍陸戦隊としてウェーク島に派遣した[35]。
1942年(昭和17年)1月下旬より、ラバウル攻略戦、ニューギニア攻略戦に従事。3月10日、ラエ・サラモアへの空襲で夕張は損傷し、輸送船団も大損害を受けた[35]。トラック泊地で応急修理を実施。5月上旬の珊瑚海海戦では、MO攻略部隊(輸送船団)の護衛に従事[35]。5月下旬、内地に戻って修理をおこなう[46]。 6月5日のミッドウェー海戦敗北後、日本海軍は航空基地建設を重要視[47] するとともにソロモン諸島やニューギニア島での作戦を活発化、第六水雷戦隊も同方面任務に投入される[48]。
同年7月10日に第六水雷戦隊が解隊されると、第二海上護衛隊に編入された[49]。ソロモン諸島で行動中の8月上旬、連合軍はウォッチタワー作戦を発動、ガダルカナル島の戦いがはじまる。第二海上護衛隊の2隻(夕張、夕凪)は第八艦隊(旗艦鳥海)の指揮下に入り、重巡洋艦部隊と共にガダルカナル島に突入、第一次ソロモン海戦で活躍した[35][44]。8月下旬より中部太平洋諸島で行動し、第二海上護衛隊の任務に従事[50]。12月9日、夕張は横須賀に戻った[51]。
1943年(昭和18年)3月まで修理を実施[35]。ラバウル進出後の4月1日、第八艦隊(外南洋部隊)に編入[52]。6月末から生起したニュージョージア島攻防戦従事中の7月5日、ショートランド泊地で機雷により損傷[35]。内地にもどり、10月まで修理した[35]。11月よりラバウルを拠点に行動[53]。先の夜戦で沈んだ軽巡川内にかわり、11月8日より第三水雷戦隊の旗艦となる[54]。夕張は三水戦各艦と共に、最前線での輸送作戦に従事した[55]。12月2日、三水戦司令部はラバウル陸上に移動[56]。夕張はトラック泊地に後退したあと[57]、五月雨と共に横須賀へ帰投する[58][59]。
1944年(昭和19年)3月下旬、修理を終えた夕張は松輸送(東松三号船団)に従事した[35][60]。4月中旬以降、西カロリン諸島の輸送作戦に従事[35]。しかし、パラオ諸島方面で行動中の4月27日、夕張はアメリカの潜水艦ブルーギルの雷撃で大破[44][61]。駆逐艦五月雨と夕月により救援作業中、4月28日に夕張は浸水が進行して沈没した[62]。
計画・建造
[編集]八四艦隊案での巡洋艦建造計画(天龍型6隻と7,200トン型軽巡3隻)は、1918年(大正7年)に5,500トン型9隻(球磨型5隻、長良型4隻)に計画変更になった[63]。 そのうち最後の1隻は更に計画が変更され試作巡洋艦(夕張)として建造された[63]。 最終的には佐世保海軍工廠で建造された[6] が、イギリスの造船所に発注する案もあった[64]。 建造は起工から竣工までわずか1年2カ月ほどであり、艦の実績を確認するため特急工事で建造を進めたと言われている[65]。
艦名
[編集]夕張の艦名は、2等巡洋艦の命名慣例である川の名に従い北海道を流れる石狩川の支流である夕張川にちなんで名づけられた[33][34]。
当初の仮名は綾瀬としていたが、名前に「瀬」を使う艦はあまり艦命が良くないという話があった[64] (例えば初瀬等)。 艦政本部では加茂(かも)と木津(きづ)を提案したが、加茂(kamo)はローマ字にすると既に艦名として使われている球磨(kuma)に近く、木津の方は傷(きず)と響きが同じとの意見が出た[66]。 北海道の河川名が無い事に遺憾の声もあり[66]、 候補艦名として北海道の河川名である夕張(ゆうばろ/ゆふばろ)と名寄(なよろ)が内定した[64]。 この読みでは川名を連想させず一般的な読みでもない、と艦政本部から意見があり[64] 読みは「ゆうばり/ゆふばり」と「なより」に変更して[67] 治定を仰ぐ[68]。 最終的に艦名は夕張(ゆうばり/ゆふばり)になった[31]。
艦型
[編集]基本計画主任は平賀譲造船大佐、藤本喜久雄造船少佐が詳細設計を行い[63]、 基本計画番号はF42[69]。 基本計画番号のFは駆逐艦の設計に用いられるアルファベットであり、 船体、艤装、機関などが駆逐艦式の考えで設計された[70]。
兵装
[編集]主砲は、5500トン型軽巡洋艦と同じ14cm砲であるが、砲塔類似の形式の連装砲を2基4門搭載し、単装砲2基2門と合わせて合計4基6門を全て中心線上に搭載した[36][70]。5,500トン型より搭載砲は1門減少したが[36]、片舷に指向できるのは主砲6門、首尾線上3門で、砲力は同等であった[39][70]。魚雷発射管の間には、四十口径三年式八糎高角砲を1門搭載した。これも5,500トン型が2門を舷側に装備したのに対して、両舷に指向できることから、同等の対空能力を有した。
魚雷発射管も、61cm連装発射管2基を中心線に搭載したため雷撃力は4射線となり[39]、連装4基を舷側に装備した5,500トン型と同等の能力になった[70]。
その他の兵装として、当時の日本海軍巡洋艦が通常装備していた1号機雷の敷設設備を後部甲板部に設け、機雷48個を搭載した[70]。 搭載・敷設の方法は、5,500トン型などのような機雷敷設軌道は設置せず、艦尾に半埋め込み式の機雷格納筺を設置し、艦尾端に6カ所の水密扉があり、そこから機雷を敷設した[65]。
装甲
[編集]夕張は防御面では日本海軍の軽巡洋艦で初めて防御甲鈑を設け、19mmHT甲鈑(高張力甲鈑)による船体外板のさらに内側に38mmのNVNC甲鈑(ニッケル・クローム鋼均質甲鈑)をインターナル・アーマー形式で装着し、また上甲板には25mmのNVNC甲鈑を取り付けた[65]。
これにより舷側を突破した砲弾の破片を後方の粘り強いNVNC甲鈑で受け止める形となり、瞬発弾であれば川内型より優秀と平賀譲自身が評価している[71]。
また装甲となるNVNC甲鈑は船体構造の一部とされ、船体重量の軽減に役立っている[72]。
機関
[編集]機関も駆逐艦形式として小型軽量化が図られた[65]。 主缶(ボイラー)は第1缶室に小型缶2基、第2缶室に大型缶4基、第3缶室に大型缶2基、合計8基を搭載する[65]。 主機(メイン・エンジン)は神風型駆逐艦に搭載したのと同じ三菱パーソンズ式ギヤード・タービンを3基搭載し3軸推進となった[65]。
燃料は重油のみの計画であったが、竣工時の主缶は重油専焼ではないという意見もある(これは海軍が水雷戦隊旗艦としてだけでなく、偵察巡洋艦としても使用したいと考え、石炭の使用で航続距離を伸ばす意図があったと思われる)[71]。 この点について石炭の搭載実績はあるが搭載量・消費量共に少なく、また航海中は重油のみを使用している[20]。 航行に使用する主缶(メイン・ボイラー)は重油専焼であり[73]、 烹炊室及暖房用補助缶(ドンキー・ボイラー)を搭載していた[16]。
その他
[編集]艤装面では艦橋は塔型の構造を初めて採用し、2本の煙突を屈曲させて上部でまとめた誘導煙突を採用した[65]。 その他に従来では士官居住区はイギリス海軍の伝統と同じく艦後部に設けていたが、これを艦橋直下に移動させた[65]。 これにより艦橋と士官居住区の連絡が便利になり、以後建造の日本海軍艦艇の標準となった[65]。
艦型変遷
[編集]開戦まで
[編集]夕張は大規模な改装は最後までなかったが、 改装は毎年のように行われている[74]。 そのうち主な変更点は以下の通り。
- 1924年(大正13年)夏、排煙の逆流を防ぐために煙突頂部を(2.8m[注釈 5])延長[74][75]。
- 1931年(昭和6年)、作戦室新設や無線装置の改装など[75]。
- 1932年7月、魚雷発射管に盾をつける[74][75][76]。
- 1934年(昭和9年)半ばまで、8cm高角砲を撤去、その跡に13mm連装機銃1基と5cm礼砲2門を設置。機雷敷設装置の撤去[75]。
- 1941年(昭和16年)の開戦までに、13mm連装機銃2基になったと推定される[77]。
なお大正末から昭和の初めまでは観測気球の係留装置が艦尾に装備されていた[78]。
開戦以後
[編集]- 14cm連装砲2基、同単装砲2門
- 13mm連装機銃2基
- 7.7mm単装機銃2挺
- 5cm礼砲2門
- 61cm連装発射管2基
- 八年式魚雷定数4本、予備6本(計10本)
- 八一式爆雷投射機2基
- 爆雷投下台2基
- 爆雷18個
- 舷外電路
開戦直後のウェーク島攻略作戦では対空火力の不足に直面し、1942年1月3日から13日のトラック在泊中に5cm礼砲2門を撤去、艦橋横に13mm連装機銃を両舷各1基(計2基)を装備した[79]。
3月25日トラックに入港し、4月1日から11日に間に後部(1番、2番発射管の間の機銃台上)13mm連装機銃2基を25mm連装機銃2基と交換、艦橋に防弾板(天蓋10mmDS鋼、前壁側壁8mm [80] )を装備した[81]。 代償重量として爆雷投射機2基(装填台、爆雷投下箭も)や6m通船、中錨、旧8cm高角砲支筒、魚雷取り入れ用ダビットとブーム(片舷)、烹炊室及暖房用補助缶などが撤去された[16][81]。
5月23日横須賀港に帰港し、横須賀海軍工廠で同日から6月19日まで修理を行った[82]。 この時に前後マストを短縮、魚雷頭部に防弾板装備、逆探を装備したと思われる[82]。
第一次ソロモン海戦に参加した夕張は機関故障を起こして中央軸が使用不能となり、12月9日から翌1943年(昭和18年)3月22日まで横須賀海軍工廠で修理が行われた[82]。 この時は、中甲板舷窓の全てを閉塞、艦橋両舷にあった13mm連装機銃を25mm連装機銃に換装したものと思われる[83]。
同年7月5日艦首に触雷、7月30日から10月16日まで横須賀で修理が行われた[84]。 この時は九三式水中聴音機と九三式探信儀を装備、艦橋上の90cm探照灯を撤去して22号電探を装備した[85]。 (艦尾4番砲を撤去し25mm3連装機銃1基を増備した可能性もある[86]。)
最終状態
[編集]1943年も軽微な損傷が続き、同年11月に横須賀に帰港、12月19日から翌1944年(昭和19年)3月4日まで損傷復旧工事と同時に対空兵装の増備も実施した[86]。兵装増備状況は以下の通り。
- 1番単装砲を撤去し12cm単装高角砲を装備。
- 後部マスト両舷に機銃台を設置し、25mm3連装機銃2基を増備。
- 各所に25mm単装機銃8挺を装備。
- 爆雷投下軌道2条を設置。
- 4番単装砲を撤去し25mm3連装機銃1基を増備した可能性もある。
工事直後の4月27日に戦没しているためこれが最終状態と思われる[75]。 最終時の兵装は要目表を参照のこと。この時の夕張の公試排水量は3,500トン、速力は32ノット程度に落ちていたと思われる[75]。
艦歴
[編集]建造
[編集]夕張は1921年(大正10年)12月5日に製造訓令が出され[6]、製造予算は大正10年度(1921年4月1日)から大正11年度(1923年3月31日まで)の2年間[87]。 同年12月23日附達により夕張と命名[31]。 当初は1922年(大正11年)4月1日起工、1923年(大正12年)3月31日竣工の予定だったが[88]、 鋼材の到着が遅れ[89]、 1922年(大正11年)6月5日に佐世保海軍工廠で起工した[1]。 また竣工予定も1923年7月31日に変更された[90]。 竣工後に大演習に参加する予定があり、これ以上延期しないよう軍令部が注文を出している[91]。 同年8月24日艦艇類別等級表で二等巡洋艦に記載[2]。
1923年(大正12年)3月5日午前10時進水[1][7]、 同年7月31日、竣工[1][8]。 佐世保鎮守府籍[4]。
1923年
[編集]竣工からまもない1923年(大正12年)9月1日、関東大震災が発生する。夕張は品川方面において戦艦霧島・比叡、軽巡洋艦北上、名取、木曾、由良等と救援活動を行った。 10月10日、摂政宮裕仁親王(大正天皇皇太子、のちの昭和天皇。当時22歳)は震災で大被害を受けた横浜および横須賀を視察する[41]。摂政宮行幸にあたり、夕張は御召艦になった[41][92]。 摂政宮は横浜税関岸壁より夕張に乗艦、横須賀軍港に移動した[92]。横須賀海軍工廠(建造中の天城型巡洋戦艦1番艦天城大破中)や横須賀市内を巡視[41]。再び夕張に乗艦し、横浜港に戻った[92]。
12月1日より1年間は第1艦隊・第3戦隊所属であった[93](1924年12月1日まで[94])。
1924年
[編集]1924年(大正13年)3月8日佐世保港を出港、中国方面で行動、3月20日馬公着[95]。 4月4日、高速航続力試験のために佐世保を出港用意中に右舷高圧タービン翼が損傷した[96]。
12月1日予備艦となる[4]。
1925年
[編集]この年は馬公要港部所属で、1925年(大正14年)1月6日馬公着[95]。 2月24日馬公を出港し厦門方面で行動、3月4日佐世保着[95]。 4月6日横須賀港出港、南洋方面へ遠洋航海[95]。 この時はアメリカ海軍の大演習を無線傍受するため、軍機行動でハワイ方面に行動していた[97]。 母港佐世保の地方紙に”新鋭艦夕張消息不明”の記事が出たという[97]。 6月23日佐世保着[95]。 8月4日馬公に帰港[95]。 8月29日馬公を出港し30日まで金門島へ派遣、9月12日から10月1日迄は仙頭へ、10月7日から中国方面へ、ブラネス・海口・香港などに寄港し10月21日馬公に帰港した[95]。 11月27日馬公を出港[95](内地へ)。
12月1日に第1艦隊・第1水雷戦隊に編入[98]。
1926年
[編集]1926年(大正15年)3月24日佐世保を出港し揚子江流域へ進出、4月26日寺島水道に帰着[99]。
1926年(大正15年)12月1日第2艦隊・第二水雷戦隊へ編入[100](翌1927年(昭和2年)12月1日まで[101])。
1927年
[編集]1927年(昭和2年)3月27日佐伯を出港し厦門へ、4月5日馬公着[99]。 4月26日馬公を出港し仙頭・厦門へ、5月6日馬公着[99]。7月、美保関事件が発生した。
12月1日予備艦となる[4]。
1931年
[編集]1931年(昭和6年)9月4日、佐世保海軍工廠で特定修理[4]。
12月1日より第1艦隊・第1水雷戦隊に編入[102](1933年(昭和8年)11月15日までの約2年間[103])。
1932年
[編集]第一次上海事変が発生し、1932年(昭和7年)1月26日に佐世保を出発[99]、 2月2日に夕張を旗艦とする第1水雷戦隊は第3艦隊に編入され(3月20日まで)[4]、 呉淞・上海方面での敵地への砲撃、味方陸上部隊への協力、物資や兵員の輸送などを行った[104]。 3月22日寺島水道(佐世保[4])に帰着[99]。 事変で船体に若干の被害を受け[105]、佐世保海軍工廠で損傷箇所の補強修理を行う[4]。
1933年
[編集]1933年(昭和8年)6月25日佐世保発、馬鞍群島へ行き、7月4日基隆着[99]。 7月13日馬公発、南洋方面へ進出し、8月21日木更津沖に帰着[99]。 8月25日の横浜沖大演習特別観艦式に参列した[106]。
11月15日予備艦となり[4]、 12月11日佐世保警備戦隊に編入[4]。
1934年
[編集]1934年(昭和9年)10月12日、赤軍第8戦隊3番艦として大演習に参加していた夕張は[107]、砲弾命中の判定で二軸運転(中軸停止)、20ノットで航行中[108]、午後8時28分に由良の右舷後部発射管付近に艦首から衝突した[107]。 それにより艦首の先端が変形[109]、艦首付近の3カ所(最前部防水区画、前部釣合庫、麺麭庫[110])が浸水した[111]。 由良を発見後に後進全速を掛けて殆ど停止の状態で衝突したために大きな被害にはならなかった[111]。
11月15日、佐世保鎮守府から横須賀鎮守府へ転籍[4]、 同日横須賀警備戦隊に編入された[112]。
1935年
[編集]1935年(昭和10年)7月9日、横須賀海軍工廠で特定修理[4]。 11月15日、第13駆逐隊(若竹・呉竹・早苗[113])・第16駆逐隊(朝顔・芙蓉・刈萱[113])と第3艦隊・第5水雷戦隊[4] を編成した[114]。
1936年
[編集]1936年(昭和11年)6月3日馬公を出港し油頭・厦門方面へ、6月23日馬公着[115]。 6月30日馬公を出港し[115]、7月14日基隆着[116]。 7月29日馬公を出港し[116]、8月31日旅順着[117]。 9月12日旅順を出港し9月16日馬公着[118]。 同日馬公を出港し、海口・北海方面へ[118]、10月2日馬公着[119]。 10月3日馬公発、揚子江・馬鞍群島・福州・厦門方面へ、10月21日高雄着[119]。 10月25日高雄発、油頭・福州方面へ[119]、11月9日基隆着[120]。 11月30日馬公発、厦門へ[120]、12月3日馬公着[121]。 12月11日馬公発、揚子江・福州方面へ、12月23日馬公着[121]。 12月26日馬公発、福州方面で行動した[121]。
1937年
[編集]1937年(昭和12年)1月19日馬公着[122]。 2月6日高雄発、2月8日馬公着[123]。 3月7日馬公発、福州・厦門方面へ、3月17日枋寮着[124][注釈 6]。 4月1枋寮発、油頭・厦門方面へ、4月13日馬公着[125]。 4月29日基隆発[125]、5月8日旅順着[126]。 5月23日旅順発[126]、6月20日高雄着[127]。 6月23日馬公発、厦門方面へ、6月27日馬公着[127]。 7月9日馬公発、南支方面へ、8月29日馬公着[128]。 8月31日馬公発[128]、9月9日馬公着[129]。 9月11日馬公発、南支方面へ、9月26日高雄着[129]。 9月29日馬公発、南支方面へ、10月15日馬公着[129]。 10月19日馬公発、南支方面へ[129]、11月15日高雄着[130]。 11月18日高雄発、南支方面へ、12月4日馬公着[130]。
日中戦争時には、夕張は第五水雷戦隊旗艦として中国沿岸の封鎖任務にあたった[131]。1937年(昭和12年)9月13日、夕張は香港西方大産島泊地に到着、第29駆逐隊(追風、疾風)と合流する[132]。翌日、夕張は珠江を遡行、虎門要塞から出撃してきた中華民国海軍肇和級防護巡洋艦「肇和(Chao Ho)」と交戦し、砲撃戦により「肇和」を座礁に追い込んだ[132]。泊地に戻る途中、中華民国空軍ノースロップA-17軽爆撃機とカーチス・ホークⅢ戦闘機の空襲により至近弾を受け、5名の戦傷者を出した[133]。
12月7日予備艦となる[4]。
1939年
[編集]1939年(昭和14年)3月4日、大湊要港部所属となる[42]。 6月1日予備艦となる[42]。 7月16日、大湊要港部所属となる[42]。 7月20日大湊を出港し、樺太沿岸を行動、10月4日大湊に帰港[42]。 10月10日予備艦となる[42]。
1940年
[編集]1940年(昭和15年)11月15日、日本海軍は中部太平洋方面の戦力を再編する[134]。第四艦隊に水上機保有の根拠地隊と第六水雷戦隊(軽巡夕張、第29駆逐隊《追風、疾風、朝凪、夕凪》、第30駆逐隊《睦月、如月、弥生、望月》)を編入および増強したほか、司令部を大幅に増員[134][135]。最新鋭の香取型練習巡洋艦2番艦鹿島を第十八戦隊に加え、同戦隊は巡洋艦3隻(鹿島、天龍、龍田)となった[134][135]。戦力を増した第四艦隊は、連合艦隊に編入された[134]。
1941年
[編集]1941年(昭和16年)2月2日、高知沖発[42]。第四艦隊各隊・各艦とサイパン・パラオ・トラック方面を行動し、訓練に従事する[136][137]。 4月14日、横須賀港に帰港[42][138]。 4月20日から5月1日まで横浜で入渠[42]。 5月20日、横須賀を出港[42]。25日、第六水雷戦隊は内地を出撃する[138]。第四艦隊各艦や他部隊(第四航空戦隊の空母龍驤、第六艦隊の潜水艦部隊)と共にマーシャル諸島方面で訓練に従事した[139][140]。 7月5日、聯合艦隊司令長官より南洋常住の電令を受けたため、各艦は南洋に常駐しつつ、交代で内地に戻り修理と整備をすることになった[139][141]。夕張は内地に戻ることなく、南洋諸島に常駐した[138]。10月25日トラック入港、訓練や臨戦準備を行い、11月29日出港、12月3日ルオットに到着した[42][142]。ウェーク島攻略部隊は翌日までにルオット島に集結した[143]。
第六水雷戦隊
[編集]太平洋戦争開戦時、第四艦隊(司令長官井上成美中将、旗艦鹿島)・第六水雷戦隊(司令官梶岡定道少将:旗艦・軽巡夕張)に所属していた[144]。六水戦には第29駆逐隊(追風、疾風、夕凪、朝凪)と第30駆逐隊 (睦月、如月、弥生、望月) が所属していた[144]。
12月8日、開戦と共に第四艦隊はウェーク島に対する攻略作戦を開始した[145]。別働の第29駆逐隊第2小隊(夕凪、朝凪)を除く夕張以下第六水雷戦隊・特設巡洋艦2隻(金龍丸、金剛丸)・哨戒艇2隻[146][147]、第十八戦隊(司令官丸茂邦則少将)の軽巡2隻(天龍、龍田)は[148]、ウェーク島攻略部隊(指揮官梶岡定道第六水雷戦隊司令官)を編制し、ルオット島(クェゼリン環礁)を出撃、日本軍航空隊の空襲を受けるウェーク島へ向かった[143][149][150]。 12月11日からの攻略戦では、生き残っていたF4F ワイルドキャット戦闘機4機と陸上砲台の反撃により2隻の駆逐艦(疾風、如月)を喪失し、追風・弥生・第33號哨戒艇・天龍・龍田・金剛丸・金龍丸等に若干の損傷と死傷者があった[45][151]。 クェゼリン環礁への退却中、天龍は夕張に対し『貴部隊ニ対シ援助ヲ要スルコトアラバ知ラサレ度』と通信するが、応答はなかったという[152]。12月13日、ウェーク島攻略部隊はルオットに戻る[150][153]。
12月21日、ウェーク島第二次攻略部隊はルオットを出撃[150][154]。 この第二次攻略作戦には、南雲機動部隊より派遣された第八戦隊(司令官阿部弘毅少将)重巡2隻(利根、筑摩)・第二航空戦隊(司令官山口多聞少将)空母2隻(蒼龍、飛龍)・第17駆逐隊(谷風、浦風)が航空支援をおこない[155]、第六戦隊(司令官五藤存知少将)重巡4隻(青葉、衣笠、加古、古鷹)[156][157] が陸上支援に加わった。 さらに、日本軍上陸部隊(海軍陸戦隊)には夕張副長田中光夫中佐がくわわり、連合陸戦隊を指揮することになった[158]。 哨戒艇2隻擱座という激戦の末、ウェーク島のアメリカ軍は12月23日に降伏した[159][160]。 12月29日、ウェーク島攻略部隊はルオットに戻る[150][160]。
1942年(昭和17年)1月3日、第六水雷戦隊はトラック泊地に帰投した[161][162]。 その後も第六水雷戦隊(夕張、第23駆逐隊《4月10日編入:菊月、夕月、卯月》[163]、第29駆逐隊、第30駆逐隊)・第十八戦隊・第六戦隊はラバウル方面[164]、ラエとサラモア、ブーゲンビル島、ポートモレスビーの各攻略作戦に参加した。
3月5日、第六水雷戦隊司令官(旗艦夕張)指揮下のラエ・サラモア攻略部隊(第六水雷戦隊《夕張、追風、朝凪、夕凪、睦月、弥生、望月》、津軽、特設巡洋艦5隻)、攻略戦支援部隊(第六戦隊、第十八戦隊、第23駆逐隊)はラバウルを出撃、東部ニューギニアに向かった[165]。3月8日未明、攻略部隊はラエとサラモアを占領する[165]。 3月10日、米空母機動部隊(レキシントン、ヨークタウン)艦載機の空襲により攻略部隊は大損害を受け、六水戦も夕張・朝凪・夕凪に損害があった[166][167]。攻略各隊はラバウルに引き揚げ、3月17日附で解散した[166]。トラック泊地に後退した夕張は、3月25日から4月10日まで修理をおこなった[35]。
5月5日、ツラギ攻略作戦に従事中の駆逐艦菊月(第23駆逐隊)が空母ヨークタウンの艦載機に撃沈された。一方、夕張以下六水戦の大部分は5月7-8日の珊瑚海海戦にMO攻略部隊として参戦した[168]。MO攻略部隊全体の被害は限定的だったが、空母祥鳳の沈没、第五航空戦隊(翔鶴、瑞鶴)の消耗にともない、日本海軍はモレスビー攻略作戦を延期してナウル/オーシャン攻略作戦(RY作戦)を発動したが、のちに同作戦も延期されている[169]。 夕張は5月19日にトラック泊地を出発、5月24日以降横須賀で整備・補給・休養を行った[46][168]。なお5月25日附の第23駆逐隊解隊にともない夕月は第29駆逐隊に、卯月は第30駆逐隊に、それぞれ編入された[48][170]。
1942年(昭和17年)6月中旬、ミッドウェー海戦の敗北により空母機動部隊の主力を失った日本海軍は、南方での連合国軍拠点攻略作戦を延期すると同時に、航空基地の強化と整備を行う必要に迫られる[47]。母港での修理・整備を終えた第六戦隊重巡4隻、第十八戦隊軽巡2隻、第六水雷戦隊各艦はトラック泊地やラバウルへと進出[171]。同時期に夕張もトラック泊地に到着した[46]。 6月24日附で南洋諸島の航空基地確保・設営および強化を目的とした『SN作戦』が下令され、支援部隊(第六戦隊・第十八戦隊)、第一護衛隊(夕張、卯月、第29駆逐隊《追風、夕月》)、第二護衛隊(第30駆逐隊《睦月》)という兵力部署が決まる[172]。6月下旬以降、第六水雷戦隊はガダルカナル島占領作戦に従事し、並行して同島飛行場建設をおこなう陸戦隊や基地設営隊輸送船の護衛をおこなった[48][173]。
第二海上護衛隊
[編集]1942年(昭和17年)7月10日に第六水雷戦隊は解隊され、「夕張」は第二十九駆逐隊、第三十駆逐隊と共に第二海上護衛隊に編入された[49]。
8月7日、アメリカ軍はウォッチタワー作戦を発動、ガダルカナル島とフロリダ諸島に上陸を開始してガダルカナル島の戦いが始まった。外南洋部隊指揮官三川軍一中将(第八艦隊司令長官)は旗艦/重巡鳥海、第六戦隊(青葉、加古、古鷹、衣笠)を率いてガダルカナル島ルンガ泊地への突入を企図する[174]。このときラバウルにあった「夕張」、「夕凪」や第十八戦隊の「天龍」は旧式、訓練不足で足手まといと見られていたものの、第十八戦隊司令官などの要望を受けて作戦に参加することになったが、夜戦の邪魔にならないようにと後方に配置された[175]。同日、「鳥海」、「天龍」、「夕張」、「夕凪」はラバウルを出撃し、ラバウル港外で第六戦隊と合流した[176]。進撃中、「夕張」では機関でトラブルが発生した。まず復水器の腐蝕口からの海水混入により罐水の塩分濃度が上昇し、それによって湿潤蒸気がタービンに送り込まれたことでタービン1機が故障[177]。中央機使用停止で2軸運転となったが、幸いにも艦隊に同行できるだけの速度(26ノット)は発揮できたため落伍はまぬがれた[178]。 このように機関の不調を抱えながらであったが、8月8-9日の第一次ソロモン海戦において、夕張は連合国軍艦隊の撃破に貢献した[179][180]。 戦闘中、重巡古鷹、軽巡天龍・夕張から砲撃されて損傷した米駆逐艦パターソンは、『最上型重巡洋艦、神通型軽巡洋艦、香取型練習巡洋艦と交戦』と報告している。夜戦でほとんど損害を受けなかった第八艦隊だが、ラバウル帰投の4隻(鳥海、天龍、夕張、夕凪)、カビエン帰投の第六戦隊(青葉、加古、衣笠、古鷹)に分離したあと、米潜水艦S-44の雷撃で重巡加古を喪失した[181][182]。
夕張と第29駆逐隊は8月下旬までソロモン方面作戦に従事した[183][184]。
ソロモン諸島での行動を終えた第二海上護衛隊各艦(夕張、追風、夕凪、夕月)は、8月下旬迄にトラック泊地へ到着[50][185](夕張は8月20日トラック帰着)[50][186]。 続いて夕張と第29駆逐隊(追風、夕凪、夕月)はナウル島とオーシャン島攻略作戦に従事する[184][187][188]。 9月9日、ウートロック見張所が敵襲を報じた[189]。「夕張」と駆逐艦「夕月」がトラックから救援に向かったが、結局敵襲は誤認であろうということになった[189]。 9月18日、2隻(夕張、夕月)はギルバート諸島掃蕩戦に従事、各隊と協力しアメリカ軍の情報通信網を掃蕩した[190][191]。 9月25日から29日にかけて、夕張はトラック泊地からパラオに向かう輸送船3隻(妙高丸、良洋丸、立石丸)を護衛する[192][193]。9月29日、夕張は輸送船3隻の護衛を駆逐艦白露(第27駆逐隊)に引き継いだ[194]。
ソロモン諸島やニューギニア方面の戦局激化にともない中部太平洋方面の重要性が増し[195]、第二海上護衛隊の任務も重大化した[196]。 だが第二海上護衛隊は兵力微弱のため、他部隊からの応援を得て辛うじて護衛任務を遂行していた[196]。 10月上旬、駆逐艦旗風(横須賀鎮守府警備駆逐艦)が第二海上護衛隊に臨時編入[197][198]。 第二海上護衛隊(夕張、第29駆逐隊《追風、夕凪、朝凪、夕月》、浮島丸、長運丸)や他部隊応援艦(旗風、峯風等)は[199][200]、トラック泊地やパラオを拠点として[201][202]、中部太平洋各方面の船団護衛任務に従事した[203][204]。 10月中旬[205]、夕張はパラオからラバウルまで、沼兵団の輸送船4隻を護衛する[206][207]。 10月21日、パラオ帰着[205][208]。トラック泊地を経由して[209]、10月31日タラワに到着[205][210]。 3隻(夕張、夕凪、朝凪)はマーシャル方面防備隊に編入され(朝凪は中旬から)[211]、タラワやヤルート方面で行動した[212][213]。
12月1日、夕張は修理と整備のためヤルート環礁を出発[51][214]。12月5日サイパンを経由し、内地に向かった[215][216]。 12月9日、横須賀に帰投[216][217]。以降は横須賀で修理・整備を実施した[51]。 1943年(昭和18年)1月[218]、2月[219]、横須賀に所在[35]。 3月22日[220]、特設水上機母艦神川丸を護衛して横須賀を出撃し、3月28日トラック泊地に到着した[221][222]。すぐに2隻(夕張、神川丸)はトラックを出港、4月1日ラバウル(ニューブリテン島)に到着した[221][222]。
外南洋部隊
[編集]1943年(昭和18年)4月1日[52]、帝国海軍戦時編制の発令により2隻(夕張、夕凪)は第四艦隊から除かれ[223][224]、かわりに第十四戦隊(司令官伊藤賢三少将)の軽巡洋艦2隻(那珂、五十鈴)が第四艦隊(内南洋部隊)に編入された[195][225]。 一方、第八艦隊からは軽巡龍田が除かれ、同艦隊に2隻(夕張、夕凪)が編入[224][226][227]。第八艦隊司令長官直率の主隊(鳥海、青葉、夕張、天津風、谷風)となった[52][227]。 4月3日、夕張は外南洋部隊増援部隊(指揮官は第三水雷戦隊司令官)附属となる[228]。 夕張が最前線に進出した同時期、ラバウルやカビエン(ニューアイルランド島)は既に連合軍機の空襲に晒されており、カビエンで重巡青葉が大破着底、駆逐艦文月が中破している[227][229]。
6月末、連合軍はレンドバ島(ニュージョージア諸島)に上陸を開始[230]、ニュージョージア島の戦いが始まった(カートホイール作戦)[231][232]。 連合軍反攻作戦開始時のラバウルには、外南洋部隊関係艦艇(主隊《新月、秋風》、増援部隊《夕張、望月、皐月、夕凪》)が所在だった[233][234]。6月30日、第三水雷戦隊司令官秋山輝男少将(増援部隊指揮官)は秋月型駆逐艦5番艦「新月」に将旗を掲げ、増援部隊各艦を率いて出撃したが、会敵できなかった[234][235]。 7月2日、秋山少将は突撃隊(新月《三水戦旗艦》、天霧、初雪、皐月、長月、望月)を率いてブイン(ブーゲンビル島)を出撃し、夕張艦長は陽動隊(夕張、夕凪、三日月)を率いてブインを出撃した[234][236]。突撃隊は空襲と米軍魚雷艇の妨害により戦果をあげられず、陽動隊も適宜行動してブインに戻った(各艦とも損害なし)[234][236]。
7月5日、夕張はショートランド泊地にて磁気機雷を左舷後部に被雷、推進器を損傷して作戦に参加できなくなる[237]。このため、同日勃発したクラ湾夜戦に参加出来なかった(本海戦で新月と長月が沈没、新月沈没時に第三水雷戦隊司令官秋山輝男少将戦死)[237][238][239]。 秋山少将の戦死により、7月7日附で伊集院松治大佐(当時、戦艦金剛艦長)が第三水雷戦隊司令官に任命された(旗艦川内。7月10日の着任まで、鳥海艦長有賀幸作大佐が増援部隊指揮官を代行)[239][240]。 7月10日、夕張は第八艦隊附属となる[241]。本艦は内地に戻り[237]、7月30日から10月まで横須賀で修理をおこなった[35]。
同年11月3日、夕張はラバウル(ニューブリテン島)に再進出する[53]。同日、トラックよりラバウルに向かっていたT四号輸送部隊第二部隊(第十四戦隊《那珂、五十鈴》、第17駆逐隊《磯風、浦風》、輸送船《護国丸、清澄丸》)は[242]、カビエン沖合で空襲を受け清澄丸が深刻な損害を受ける[243][244]。 ラバウル所在の2隻(夕張、水無月)はカビエンに入泊し、部隊の救援および輸送物件の一部輸送を担当した[53][243]。 11月5日、夕張(輸送人員搭載)はラバウルに到着[53]。同日、アメリカ軍機動部隊(サラトガ、プリンストン)はラバウルに大空襲を敢行する(ラバウル空襲)[245]。夕張は、機銃掃射により負傷者2名を出した[246]。 11月6日夕刻から7日朝にかけて、3隻(夕張、時雨、水無月)はブカ島輸送を実施する[54]。同日夕刻、2隻(夕張、水無月)でブカ島輸送を試みるが、米軍機の空襲により断念してラバウルに帰投した[54]。 11月8日、伊集院松治第三水雷戦隊司令官(ブーゲンビル島沖海戦で三水戦旗艦川内沈没後、潜水艦に救助されラバウル帰投)は将旗を駆逐艦天霧から夕張に移揚した[54]。 続いて11月11日の空襲でも機銃掃射により負傷者3名を出し、さらに11月14日にも空襲で負傷者が出た[247]。水上艦艇の大部分はトラック泊地に引き揚げ、襲撃部隊の戦力は11隻(夕張、天霧、文月、水無月、卯月、夕凪、大波、巻波、長波《航行不能》、秋風、夕霧)となった[248]。
11月下旬、第三水雷戦隊(夕張、巻波、天霧、卯月、夕凪)はニューブリテン島北方のガロペ島への輸送任務に従事[249]。その3回目の際の11月24日夜、空襲を受けて至近弾により損傷した[249][250]。 12月上旬は月明期のため夜間輸送が難しかったので、南東方面艦隊は4隻(夕張、文月、水無月、卯月)をトラック泊地に後退させることにした[56]。ラバウル残留艦は3隻(天霧、秋風、夕凪)となったので、12月2日より三水戦司令官は将旗をラバウル陸上へ移した[56]。
12月3日、夕張は駆逐艦3隻(第22駆逐隊《水無月、文月》、第31駆逐隊《長波》)を指揮してラバウルを出発、トラックへ向かった[57][251]。 水無月は、11月11日のラバウル空襲で被弾・航行不能となっていた長波を曳航していた[57][252]。3回程連合軍機と遭遇したが被害はなく、12月8日トラックへ着いた[57][253]。 夕張は入渠のため日本本土に戻る[254][255]。 12月14日、夕張艦長指揮下の2隻(夕張、五月雨)はトラック泊地を出発[59][256]。12月19日、横須賀に到着した[59][257]。 夕張航海中の12月16日、第三水雷戦隊司令官は伊集院少将から中川浩少将に交代した[254]。
沈没
[編集]1944年(昭和19年)1月から3月上旬にかけて、夕張は横須賀海軍工廠で修理と整備をおこなう[35]。この間、第三水雷戦隊は中部太平洋方面部隊に編入されていた[258]。 3月3日、軍令部総長嶋田繁太郎大将は、大海指第346号により及川古志郎海上護衛総司令長官および古賀峯一連合艦隊司令長官に対し、内南洋諸島への緊急輸送作戦を発令した[259]。 3月22日、夕張は東松三号船団の旗艦(船団部隊指揮官伊集院松治第一特設船団司令官)として東京湾を出撃する[60][260]。 東松三号船団は、護衛艦10隻(旗艦《夕張》、駆逐艦《旗風、雷、玉波》、水雷艇《鴻》、海防艦《平戸、能美》、駆潜艇3隻)と加入船舶10隻という規模だった[60]。 3月25日、駆潜艇54号がアメリカ潜水艦「ポラック」に撃沈される[261]。 3月28日、パラオ行船団(玉波、平戸、能美、辰浦丸、乾安丸、富津丸、長白山丸、南洋丸、早﨑)を分離[60]。残る船団は30日にサイパン到着する[60]。ここで夕張は東松三号船団から外れ、復航は駆逐艦卯月(伊集院少将指揮)以下護衛艦6隻・加入船舶4隻で4月3日にサイパンを出港、横須賀に向かった(4月10日横須賀着)[60]。
4月中旬、夕張はソンソル島への陸軍兵員と軍需品の輸送を命じられる[262]。4月23日[262]、輸送隊はサイパンを出港[263]。4月25日、パラオ到着[35]。
4月26日18時15分にパラオを出港し、4月27日早朝にソンソル島に到着[262]。揚陸作業を完了後、午前9時以降には「夕月」とともにパラオに向けて出港した[262]。19ノットで之の字運動にて航行中、10時1分にソンソル島南端の95度35海里のところでアメリカ潜水艦「ブルーギル」に発見された。ブルーギルは駆逐艦(「夕月」)を狙っていたが、軽巡洋艦(「夕張」)を発見して目標を変更[61]。魚雷6本を発射し、3本の命中を確認した[61]。実際は、1本が右舷第1缶室に命中し、1,2缶室および付近に浸水して区画満水となり、「夕張」は航行不能に陥った[264]。排水作業と共に駆逐艦「五月雨」に曳航が命じられるが、「夕張」の排水量が大きくうまく曳航できずにいた[265]。 翌4月28日、浸水区画が広がり沈み始めたため、「夕張」の生存者全員(第三水雷戦隊司令部含む)は「夕月」に移乗した[62][264]。さらに曳航作業を続けたが午前10時15分、北緯5度38分東経131度45分の地点で艦首より沈没した。「夕張」の戦死者は19名であった。
年表
[編集]- 1922年6月5日 - 佐世保海軍工廠にて起工。
- 1923年3月5日 - 進水。
- 1923年7月31日 - 竣工。
- 1935年11月18日 - 第3艦隊に配備 日華事変(日中戦争)、華中作戦に参加。
- 1941年12月7日 - 開戦時は第4艦隊に所属し、太平洋戦争に参加 ウェーク島攻略戦などに参加。
- 1942年6月19日 - 横須賀を出港、トラックに配備し第一次ソロモン海戦等に参加。
- 1943年11月24日 - 輸送任務中にアメリカ軍機の攻撃を受け損傷、翌年修理並びに武装強化の改修が行われた。
- 1944年4月27日 - パラオ諸島南西で米潜水艦ブルーギルの雷撃で大破。4月28日、沈没。
- 6月10日 - 除籍
歴代艦長
[編集]※『艦長たちの軍艦史』pp. 169–171、『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。
艤装員長
[編集]艦長
[編集]- 杉浦正雄 大佐:1923年5月15日[266] - 1923年12月1日
- 山口延一 大佐:1923年12月1日 - 1924年11月10日
- 富岡愛次郎 中佐:1924年11月10日[267] - 1925年10月20日
- 阿武清 大佐:1925年10月20日 - 1926年11月1日
- 木田新平 大佐:1926年11月1日 - 1927年12月1日
- 森田重房 大佐:1927年12月1日 - 1929年11月30日
- 川名彪雄 大佐:1929年11月30日 - 1930年11月15日
- 原精太郎 大佐:1930年11月15日 - 1931年12月1日
- 斎藤二朗 大佐:1931年12月1日 - 1933年11月15日
- 清宮弘 大佐:1933年11月15日 - 1934年11月15日
- 醍醐忠重 大佐:1934年11月15日 - 1935年5月25日
- 原田清一 大佐:1935年5月25日 - 1935年10月31日
- 山本正夫 大佐:1935年10月31日 - 1936年12月1日
- 広瀬末人 大佐:1936年12月1日 - 1937年11月25日[268]
- 堀勇五郎 大佐:1937年11月25日[268] - 1938年7月20日[269]
- 宮里秀徳 大佐:1938年7月20日 - 1938年12月15日[270]
- 古宇田武郎 大佐:1938年12月15日 - 1939年11月1日[271]
- (兼)鎌田道章 大佐:1939年11月1日 - 1939年11月15日
- 江戸兵太郎 大佐:1939年11月15日 - 1940年11月1日
- 阪匡身 大佐:1940年11月1日 - 1942年8月15日
- 平井泰次 大佐:1942年8月15日 - 1943年5月3日
- 舟木守衛 大佐:1943年5月3日 -
- (兼)大江覧治 大佐:1944年1月20日 - 1944年2月20日
- 奈良孝雄 大佐:1944年2月20日 -
公試成績
[編集]実施日 | 種類 | 排水量 | 回転数 | 出力 | 速力 | 場所 | 備考 | 出典 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1923年6月29日 | 全力予行 | 3,495トン | 400rpm | 58,885馬力 | 34.619ノット | 三重沖(佐世保・長崎間) | [272] | |
1923年7月5日 | 公試全力 | 3,468トン | 409.7rpm | 61,328馬力 | 34.784ノット | 甑列島 | 密閉排気 [速力注釈 1] |
大正12年公文備考巻22[19] |
1923年7月5日 | 公試全力 | 3,463.25トン | 409.870rpm | 61,336馬力 | 34.786ノット | 下甑島標柱間 | [速力注釈 1] | #海軍艦艇史2[273] |
1923年7月5日 | 公試全力 | 3,463トン | 61,323馬力 | 34.786ノット | 甑列島 | [速力注釈 1] | #JapaneseCruisers(1997)[274] |
注釈
[編集]その他
[編集]参考文献
[編集]- Eric Lacroix; Linton Wells II (1997). Japanese Cruisers of the Pacific War. Naval Institute Press
- 浅井将秀/編『日本海軍艦船名考』東京水交社、1928年12月。
- 海軍省/編『海軍制度沿革 巻四の1』 明治百年史叢書 第175巻、原書房、1971年11月(原著1939年)。
- 海軍省/編『海軍制度沿革 巻八』 明治百年史叢書 第180巻、原書房、1971年10月(原著1941年)。
- 海軍省/編『海軍制度沿革 巻十の1』 明治百年史叢書 第182巻、原書房、1972年4月(原著1940年)。
- 海軍省/編『海軍制度沿革 巻十一の2』 明治百年史叢書 第185巻、原書房、1972年5月(原著1941年)。
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
- 木俣滋郎、『日本軽巡戦史』、図書出版社、1989年
- 木俣滋郎「第8章 護送駆逐艦の登場」『駆逐艦入門 水雷戦の花形徹底研究』光人社〈光人社NF文庫〉、2006年7月。ISBN 4-7698-2217-0。
- 宮内庁 編『昭和天皇実録 第三 自大正十年至大正十二年』東京書籍株式会社、2015年3月。ISBN 9784487744039。
- 須藤幸助『駆逐艦「五月雨」出撃す ソロモン海の火柱』光人社〈光人社NF文庫〉、2010年1月。ISBN 978-4-7698-2630-9。
- 『近代巡洋艦史』 世界の艦船 2010年1月号増刊 第718集(増刊第89集)、海人社、2009年12月。
- 『日本巡洋艦史』世界の艦船2012年1月号増刊第754集(増刊第101集)、海人社、2012年。
- 高橋雄次『鉄底海峡 重巡「加古」艦長回想記』光人社〈光人社NF文庫〉、1994年10月(原著1967年)。ISBN 4-7698-2062-3。
- 竹村悟『太平洋戦記ノンフィクション 軍艦青葉は沈まず 完勝!第一次ソロモン海戦』今日の話題社、1986年4月。ISBN 4-87565-117-1。
- 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。
- 原為一ほか『軽巡二十五隻 駆逐艦群の先頭に立った戦隊旗艦の奮戦と全貌』潮書房光人社、2014年12月。ISBN 978-4-7698-1580-8。
- (75-86頁)戦史研究家伊達久『航跡でたどる軽巡二十五隻の栄光と悲惨』
- (131-141頁)当時「那珂」二十四代目艦長・海軍大佐今和泉喜次郎『十四戦隊旗艦那珂ラバウルに健在なり』
- (148-161頁)当時「夕張」航海長・海軍少佐津田武彦『袖珍軽巡「夕張」ソロモンへの片道切符 船団を護衛して魔の海域に作戦する小型軽巡を襲った痛恨の一撃』
- (162-184頁)当時「夕張」機関科燃料係・海軍二等機関兵曹樋沼福次『夕張もうひとつの第一次ソロモン海戦 機関故障に耐え克服しながら一大海戦を戦いぬいた機関兵曹の証言』
- (185-206頁)「丸」編集部『外国戦史に見る日本軽巡の最後』
- (319-350頁)戦史研究家落合康夫『日本海軍軽巡洋艦戦歴一覧』
- 福井静夫『海軍艦艇史 2 巡洋艦コルベット・スループ』KKベストセラーズ、1980年6月。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 海軍軍戦備<1> 昭和十六年十一月まで』 第31巻、朝雲新聞社、1969年。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 中部太平洋方面海軍作戦<1> 昭和17年5月まで』 第38巻、朝雲新聞社、1970年10月。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 海上護衛戦』 第46巻、朝雲新聞社、1971年5月。
- 防衛庁防衛研修所 戦史室『戦史叢書第49巻 南東方面海軍作戦<1>ガ島奪回作戦開始まで』朝雲新聞社
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 中部太平洋方面海軍作戦(2) 昭和十七年六月以降』 第62巻、朝雲新聞社、1973年2月。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 南東方面海軍作戦(3) ガ島撤収後』 第96巻、朝雲新聞社、1976年8月。
- 牧野茂、福井静夫 編『海軍造船技術概要』今日の話題社、1987年5月。ISBN 4-87565-205-4。
- 松田源吾ほか『軽巡海戦史 駆逐艦を率いて突撃した戦隊旗艦の奮戦と最後』潮書房光人社、2017年3月。ISBN 978-4-7698-1639-3。
- (143-168頁)当時第六水雷戦隊通信参謀・海軍大尉山本唯志『六水戦旗艦「夕張」ウェーキ島攻略戦 悪天下の苦難と駆逐艦沈没を克服やり直しの実相を綴る参謀の手記』
- (261-287頁)戦史研究家落合康夫『日本海軍軽巡洋艦戦歴一覧』
- 雑誌『丸』編集部 編『写真日本の軍艦 第8巻 軽巡I』光人社、1990年3月。ISBN 4-7698-0458-X。
- 解説・東清二/作図・石橋孝夫「図で見る軽巡『大井・北上・夕張』変遷史」。
- 伊達久「軽巡洋艦『大井・北上・夕張』行動年表」。
- 『帝国海軍 真実の艦艇史』 歴史群像 太平洋戦史シリーズ Vol.45、学習研究社、2004年5月。ISBN 4-05-603412-5。
- 田村俊夫「軽巡「夕張」の戦時の兵装増強調査リポート」。
- 横山一郎『海へ帰る 横山一郎海軍少将回想録』原書房、1980年3月。 横山は第五水雷戦隊首席参謀。
- 「二等巡洋艦 一般計画要領書 附現状調査」。
- 樋沼福次「軽巡「夕張」もうひとつの第一次ソロモン海戦」『丸エキストラ 戦史と旅8』潮書房、1998年、58-67ページ
- アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
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- 『大正12年 公文備考 巻21 艦船/軍艦夕張製造一件』。Ref.C08050709900。
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- 『大正12年 公文備考 巻22 艦船/諸公試(4)』。Ref.C08050714800。
- 『大正13年 公文備考 巻32 艦船/夕張「タルビン」翼故障一件』。Ref.C08051115800。
- 『大正13年 公文備考 巻66 検閲/第1艦隊(3)』。Ref.C08051187300。
- 『昭和16年~昭和20年 戦隊 水戦輸送戦隊 行動調書』。Ref.C08051772000。
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- 『昭和19年1月~7月 内令/昭和19年6月』。Ref.C12070197700。
- 『昭和11年 海軍公報 (部内限) 下巻/8月(3)』。Ref.C12070361000。
- 『昭和11年 海軍公報 (部内限) 下巻/9月(2)』。Ref.C12070361200。
- 『昭和11年 海軍公報 (部内限) 下巻/11月(1)』。Ref.C12070361600。
- 『昭和12年 海軍公報(部内限)上巻/1月(1)』。Ref.C12070364500。
- 『昭和12年 海軍公報(部内限)上巻/1月(2)』。Ref.C12070364600。
- 『昭和12年 海軍公報(部内限)上巻/2月』。Ref.C12070364700。
- 『昭和12年 海軍公報(部内限)上巻/3月(2)』。Ref.C12070364900。
- 『昭和12年 海軍公報(部内限)上巻/4月(3)』。Ref.C12070365300。
- 『昭和12年 海軍公報(部内限)中巻/6月(1)』。Ref.C12070366200。
- 『昭和12年 海軍公報(部内限)中巻/6月(3)』。Ref.C12070366400。
- 『昭和12年 海軍公報(部内限)中巻/8月(3)』。Ref.C12070367200。
- 『昭和12年 海軍公報(部内限)下巻/10月(1)』。Ref.C12070368200。
- 『昭和12年 海軍公報(部内限)下巻/12月(2)』。Ref.C12070369000。
- 『昭和12年 海軍公報(部内限)下巻/12月(5)』。Ref.C12070369300。
- 『昭和13年 海軍公報 (部内限) 上巻/3月(2)』。Ref.C12070372100。
- 『昭和12年12月1日現在10版内令提要追録第3号原稿/ 巻1追録/第6類機密保護』。Ref.C13071974300。
- 『恩給叙勲年加算調査 上巻 参考法例 在籍艦艇 昭和9年12月31日/艦艇/軍艦(4)』。Ref.C14010002900。
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- 海軍有終会編『幕末以降帝国軍艦写真と史実』海軍有終会、1935年11月 。
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- 海軍大臣官房『海軍制度沿革. 巻8(1940年印刷)』海軍大臣官房、1940年 。
- 海軍大臣官房『海軍制度沿革. 巻11(1940年印刷)』海軍大臣官房、1940年 。
- 海軍研究社編輯部 編『ポケット海軍年鑑 : 日英米仏伊軍艦集. 1935年版』海軍研究社、1935年5月 。
- 海軍研究社編輯部 編『ポケット海軍年鑑 : 日英米仏伊独軍艦集. 1937,1940年版』海軍研究社、1937年2月 。
- 海軍研究社編輯部 編『日本軍艦集 2600年版』海軍研究社、1940年7月 。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 海軍軍戦備(1)付表第二その一「大正十二年三月調艦艇要目等一覧表 その一 軍艦」によると吃水は14 ft 9 in (4.50 m)
- ^ 海軍軍戦備(1)付表第二その一「大正十二年三月調艦艇要目等一覧表 その一 軍艦」による艦本式オールギヤードタービン。
- ^ 海軍軍戦備(1)付表第二その一「大正十二年三月調艦艇要目等一覧表 その一 軍艦」によると57,990馬力、また#海軍造船技術概要(1987)下巻p.1698、機関大体要目によると57,750馬力
- ^ 海軍軍戦備(1)付表第三その一「昭和六年三月調艦艇要目等一覧表 その一 軍艦」によると重油640トン、石炭100トン。海軍軍戦備(1)付表第二その一「大正十二年三月調艦艇要目等一覧表 その一 軍艦」では石炭100トン、重油100トンとなっている。
- ^ #近代巡洋艦史(2009)p.51。他の雑誌では約2mとしている
- ^ 文献で「寮」の字は「くさかんむりに寮」となっている。当時の読み仮名は「バウリアウ」現地の読みは「パンリァウ」(吉田東伍『増補 大日本地名辞書 北海道・樺太・琉球・台湾 第8巻続編』冨山房、1970年9月、原著1909年12月。pp.806-807。)
出典
[編集]- ^ a b c d e f g #現在艦船要目公表範囲(昭和12年12月1日)p.3『夕張|二等巡洋艦|(艦要目略)|佐世保工廠|大正11-6-5|12-3-5|12-7-31|(艦装備略)』
- ^ a b #海軍制度沿革8(1971)pp.78-79『 大正十一年八月二十四日(達一五四) 艦艇類別等級別表中巡洋艦二等ノ欄「神通」ノ次ニ「、夕張」ヲ 驅逐艦一等ノ欄「波風」ノ次ニ「、第一」「、第三」「、第五」「、第七」「、第九」「、第十一」「、第十三」ヲ 驅逐艦二等ノ欄「蓼」ノ次ニ「、第二」「、第四」「、第六」「、第八」「、第十」「、第十二」「、第十六」「、第十八」ヲ加フ 』
- ^ #写真日本の軍艦第8巻p.108、「図で見る軽巡『大井・北上・夕張』変遷史」
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o #大井北上夕張行動年表p.131
- ^ 海軍軍戦備(1)pp.251-255
- ^ a b c #T12公文備考巻21/軍艦夕張製造一件画像9-11、官房機密第1815号『大正十年十二月五日 大臣 佐鎮司令長官宛 軽巡洋艦一隻製造ノ件 軍備補充費ヲ以テ大正十年度ニ於テ建造ニ著手スヘキ軽巡洋艦一隻別紙図面及要領書並豫算書ニ依リ其府工廠ヲシテ製造セシムヘシ 但主機「タルビン」及減速装置三組ノ内二組ハ海軍艦政本部長ヲシテ別ニ配給セシム 右訓令ス (別紙豫算書一葉船体部要領書一通図面三葉目録一通添) 但要領書二.図面六製図室保管(了)』
- ^ a b #T12公文備考巻21/軍艦夕張製造一件画像44『大正十二年三月五日午前十時二十分佐世保発 十時四十八分海軍局着 佐世保鎮守府司令長官 海軍大臣 軍令部長 軍艦夕張午前十時無事進水ス』
- ^ a b #T12公文備考巻21/軍艦夕張製造一件画像48『大正十二年七月三十一日午後一時十五分佐世保発 三時三分海軍局着 佐世保鎮守府司令長官 海軍大臣 夕張本日授受結了ス』
- ^ #S19.1-7内令/昭和19年6月画像21-23、 『内令第七百四十六號 佐世保鎮守府警備敷設艇 敷設艇 鴎 右役務ト解カル 横須賀鎮守府在籍 軍艦夕張 右帝國軍艦籍ヨリ除カル 横須賀鎮守府在籍 驅逐艦雷 驅逐艦電 驅逐艦秋雲 呉鎮守府在籍 驅逐艦天霧 右帝國驅逐艦籍ヨリ除カル 横須賀鎮守府在籍 伊號第二潜水艦 呉鎮守府在籍 伊號第三十二潜水艦 伊號第百六十九潜水艦 伊號第百七十四潜水艦 右帝國潜水艦籍ヨリ除カル 佐世保鎮守府在籍 第七號掃海艇 右帝國掃海艇籍ヨリ除カル 佐世保鎮守府在籍 敷設艇鴎 右帝國敷設艇籍ヨリ除カル 昭和十九年六月十日 海軍大臣嶋田繁太郎』
- ^ a b #海軍制度沿革11-2(1972)pp.1057-1087、昭和3年2月14日(内令43)艦船要目公表範囲、うちpp1060-1061。
- ^ a b c d e f g h i j k #一般計画要領書(二等巡洋艦)p.1、但しページ数が振っていないので戦後複写版と同じく表紙の次を1ページとして数えている(以下同様)。
- ^ a b c d #海軍造船技術概要(1987)上巻pp.313-314、(1)夕張完成当時の状態、(2)夕張完成重量。
- ^ a b c d #JapaneseCruisers(1997)p.798-790, Yubari Class".
- ^ a b c #JapaneseCruisers(1997)p.45, Drawing1.21, "Yubari Mideships Section".
- ^ a b c d #一般計画要領書(二等巡洋艦)p.17
- ^ a b c #S1703第6水戦日誌詳報(1)画像15-17、昭和17年3月12日官房機密第440番電
- ^ a b c d #東・石橋(1990)大井北上夕張p.113、(第4表)新造時の「夕張」要目
- ^ #海軍造船技術概要(1987)下巻p.1698、機関大体要目。
- ^ a b c #T12公文備考巻22/諸公試(4)画像2-3『大正十二年七月五日午後七時四八分佐世保局發 午後八時五〇分海軍省著 (秘密暗号) 發信者ミカワ 受信者艦政本部長 電報譯 本日(七月五日)夕張全力公試運転施行結果良好異常無シ 速力三四、七八四 馬力六一三二八 回転数四〇九、七 排水量三四六八 排気種類密閉 施行場所甑列島』
- ^ a b #S9公文備考T1/由良機密第60号 9.10.16 軍艦由良触衝事件報告(3)画像13、昭和9年10月12日の航海日誌(抜粋)
- ^ #一般計画要領書(二等巡洋艦)p.21、士官19人、特務士官3人、准士官7人、下士官77人、兵222人
- ^ #海軍制度沿革10-1(1972)p.665、大正12年3月5日(内令48)|第四十八表|二等巡洋艦定員法其二|。士官19人、特務士官3人、准士官7人、下士官77人、兵222人。
- ^ a b c #一般計画要領書(二等巡洋艦)p.3
- ^ a b c d e #一般計画要領書(二等巡洋艦)p.5
- ^ #一般計画要領書(二等巡洋艦)p.11
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- ^ a b #一般計画要領書(二等巡洋艦)p.19
- ^ #一般計画要領書(二等巡洋艦)p.23
- ^ #大正11年達/1月画像24、大正11年1月24日附達第14号
- ^ #大正11年達/4月(1)画像17、大正11年4月1日附達第73号
- ^ a b c #海軍制度沿革8(1971)p.364『
大正十年十二月二十三日(達二二二)
軍備補充費ヲ以テ大正十年度佐世保海軍工廠ニ於テ建造ニ著手スヘキ二等巡洋艦一隻ニ左ノ通命名セラル
夕 張 』 - ^ 藤田精一「二等巡洋艦夕張」『大日本軍艦写真帖』海上協会、1924年9月 。
- ^ a b #日本海軍艦船名考pp.264-265
- ^ a b c d e 幕末以降帝国軍艦写真と史実コマ135(原本216頁)『夕張(ゆふばり) 艦種二等巡洋艦 艦名考川名に採る、夕張川は北海道石狩國夕張山勇拂境の山中に發する諸川の集合に名づく、下流は石狩川に會す。
艦歴昭和6・7年事變(日支)從軍:同7年1月上海及揚子江方面警備(艦長齋藤二郎)。本艦は輕巡洋艦として最小の艦型にて最大の武力を有する艦である、球磨級以後の輕巡洋艦14隻が何れも排水量5,000噸以上で速力30節を有するのに對し、本艦は3,000噸に充たざる排水量を以て同一速力38節を出だし、武力は14糎砲1門を減じて6門を装備す、これら主砲は凡て艦首尾線上にありて兩舷に發射し得るのみならず、二聯装砲塔2基を備ふるなど、世界海軍國を驚かしたる艦にて實に造艦上劃期的のものである。
―要目― 長132.59米/幅12.04米/喫水3.58米/排水量2,890噸/機關タルビン3基 艦本式罐8臺/馬力57,000/速力33/兵装 14糎砲6/8糎高角砲1/發射管4 起工 大正11-6-5/進水 同12-3-5/竣工 同12-7-31/建造所 佐世保工廠』 - ^ a b c d e f g h i j k l m n o 軽巡二十五隻335-336頁『夕張型(一隻)夕張(ゆうばり)』
- ^ a b c d e ポケット海軍年鑑(1935)コマ38(原本58-59頁)『二等巡洋艦"夕張 ゆふばり" 全要目{排水量2,890頓 速力33.0節 備砲14糎砲6門 8糎高角砲1門 魚雷發射管4門 起工大正11年6月 竣工大正12年7月 建造所佐世保海軍工廠} 由良又は鬼怒などの輕巡洋艦が申し合せたやうに同型艦として續々出現し、どれが由良か鬼怒か見分けがつかない思ひをしてゐる中へ大正12年7月忽然として現はれた甚だ輕快さうな巡洋艦、ナリは小さいが由良や鬼怒に比べて全然艦型を異にしたスマートな姿であつたから見る者凡てが目を瞠つた。それが夕張であつた。排水量僅かに2,890頓で上記の兵装も而もその悉くが首尾線上に装備されてゐるのみならず、14糎砲は各2門宛を砲塔式に即ち2連装砲塔として備へて、速力は5,000頓級と同じ33節である。全く素晴らしい進歩である。今後はこれだと人々に思はせたが果たせるかな後年になつて計畫されたのがあの7,100頓の加古級である。即ちこの夕張は現在の一等巡洋艦完成の手引であつたとも見られるものである。』
- ^ 雑誌丸編集部「写真集 日本の軽巡洋艦」光人社 P58 夕張
- ^ a b c 日本軍艦集:2600年版コマ37(原本45頁)『二等巡洋艦 夕張(ゆふばり) 基準排水量2,890噸、長さ132.59米、平均吃水3,58米、速力33節、備砲14糎砲6門、8糎高角砲1門、魚雷發射管4門、起工大正11年6月5日、進水大正12年3月5日、竣工大正12年7月31日、建造所佐世保海軍工廠 ― 攻撃力、防禦力竝に速力は優に球磨級に匹敵する驚異的な艦。古鷹級の母體』
- ^ a b c d e ポケット海軍年鑑(1937)コマ41(原本64-65頁)『二等巡洋艦"夕張 ゆふばり" 全要目{排水量2,890頓 速力33.0節 備砲14糎砲6門 8糎高角砲1門 魚雷發射管4門 起工大正11年6月 竣工大正12年7月 建造所佐世保海軍工廠} 大正12年7月忽然として現はれた甚だ輕快さうな異色の巡洋艦、極小の排水量で由良や鬼怒の型を思ひ切り打破つたスマートな姿、それが夕張であつた。排水量僅かに2,890頓で 上記の兵装も而もその悉くが首尾線上に装備されてゐるのみならず、14糎砲は單複兩様、速力は33節である。全く素晴らしい進歩である。今後はこれだと人々に思はせたが果たせるかな後年になつて計畫されたのがあの7,100頓の加古級である。即ちこの夕張は現在の一等巡洋艦完成の手引であつたとも見られる特に異色ある注目すべき輕巡である。』
- ^ ポケット海軍年鑑(1937)コマ32(原本46-47頁)『一等巡洋艦"古鷹 ふるたか" 全要目{排水量7,100頓 速力33.0節 備砲20糎砲6門 12糎高角砲4門 魚雷發射管12門 起工大正11年12月 竣工大正15年3月 建造所三菱長崎造船所} 飛躍的進歩を遂げた我が造艦技術は、世界の驚異とされ1隻の艦艇が我に出現すれば忽ちそれは世界列強の注目研究するところとなつたが、この古鷹の出現ほど世界をあつといはせたものはなく、外國人は口を揃へて、「わづか7,100噸の排水量の艦に20糎砲が6門その上に魚雷發射管が12門も積めるわけがない」と云つて信じなかつたものである。が「これですつかり出來上つたから見て呉れ」とばかり大正15年3月竣工した古鷹を見せつけられた世界は二度吃驚した。計畫通りの兵装が施されてゐるばかりでなく、それまでの巡洋艦型を美事に脱却したスマートさ。即ち古鷹の出現は世界の巡洋艦に大革新をもたらし、わが20糎砲、15糎砲畫巡洋艦の基本的艦型を造り出したのである。』
- ^ a b c d 昭和天皇実録三巻948-949頁『(大正十二年十月)十日 水曜日(横浜横須賀震災地御視察)』
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- ^ a b c d #T12公文備考巻21/軍艦夕張製造一件画像6の附箋用紙
『大正一〇年十一月八日 海軍艦政本部
第 部本艦ハ仮名綾瀬ヲ○トテ建造スルニ至リタルモノニシテ○ニ英国註文ノ議アリ 夕張又ハ名寄ト命名スル様内定サラレタルモ斯○フハ地名ト混同シ河名ヲ連想セス 且ツ「ユウバロ」「ナヨロ」ト呼称スルハ一般的ノモノナラス正当ニ称スルモノ少ナク間違ヲ生シ易シ 依テ本名称ハ適当ナラストスルモノ○シ 又綾瀬ハ従来仮名トシテ使用シ来レルモ瀬ヲ付シタルモノノ運命ニ○○ノ評アリ 上記名称ヲ選定シリア○モタルヲ以テ○治定ヲ仰ク次第ナリ』 - ^ a b c d e f g h i #東・石橋(1990)大井北上夕張p.114
- ^ a b #T12公文備考巻21/軍艦夕張製造一件画像4の添付文
『十一月十四日 (印) 従来艦名ノ選定ニ方リ来メ曽テ北海道ノ川名ニ及ヒタルコトナキヲ遺憾トストノ声アリ 依テ此ノ英注ノ軽巡(三、七〇〇噸)推補選定ノ際、夕張川又ハ名寄川ヲ採リ大臣ノ○内定ヲ仰キタル次第也
去リ乍ラ艦本附○ノ主張モ一理ナキニアラスト○認○ニ付他ニ北海道ノ川名ニ於テ適当ノモナキニ於テハ従来通リ内地ノ分ニテ候補名ヲ採リ御治定ヲ仰リノ外ナシト○存○
但艦本提案ノ加茂(kamo)球磨(kuma)二疑似セズヤ マタ
木津 ハ傷 ニ同シク響キ通節ヲ読ムモノト○○ニ影○セズヤ』 - ^ #T12公文備考巻21/軍艦夕張製造一件画像3の添付文
『本件軽巡ノ候補名ヲ
夕張 又ハ名寄 トシ奏請ノ事ニ○○裁ヲ仰ク (理由)最初候補名○○定ノ○夕張 又ハ名寄 トシ○○裁ヲ○ケ○○○艦政本部ニ於テハ夕張 又ハ名寄 ト一般的○○ヲ用ヰルヲ可トスルノ意見アリ是レナラバ同部ニテモ依存ナキ○ニ○、依テ○フルニ固ト此川名○土語ニ因ル○ナルモ現下一般的ニ夕張 名寄 ト呼称スル○多キヲ以テ之ニ代フルモ○テ支障ナカルヘシト存シ慈○前○ノ如ク仰裁○第ニ○』 - ^ #T12公文備考巻21/軍艦夕張製造一件画像2,5、
『大正十年十一月十八日 大臣 侍従長宛
軍艦命名ノ件
軍備補充費ヲ以テ大正十年度建造ニ著手スヘキ二等巡洋艦一隻ノ艦名御治定相仰足候条可然○執奏相成度別紙要領書相添
右照会ス
追テ○命名可然ト思考推候名称○参考迄ニ左ニ附記致候
二等巡洋艦一隻
加茂夕張 又ハ名寄 (要領書一葉添) (了) 』木津 - ^ 『日本巡洋艦史』p.100
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- ^ #S9公文備考T1/由良機密第60号 9.10.16 軍艦由良触衝事件報告(2)画像6-7、軍艦夕張損傷調書
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- ^ #S17.04第二海護日誌(2)p.27〔昭和17年8月30日(日)作戰経過ノ概要〕
- ^ #S17.04第二海護日誌(2)pp.33-34『(四)作戰指導(イ)護衛計画實施概要 夕張 第二十九駆逐隊(朝凪欠)ハ初旬「ナウル」「オーシヤン」攻略作戰ヲ終ヘ「トラツク」ニ回航シタルモ尓後ノ「マーシャル」方面状勢ノ変化ニ備フル爲内南洋部隊命令ニ依リ更ニ夕張浮島丸ハ同方面ニ回航引續キ行動中ナリシ夕月ト共ニ第六根拠地隊ノ指揮下ニ入リ専ラ同方面ノ船団護衛任務ニ從事セリ(以下略)』
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- ^ 中部太平洋方面海軍作戦(2)pp.165-168『ギルバート掃蕩隊の編成』
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- ^ a b #S18.04第14戦隊日誌(1)pp.4-5『一.経過 (イ)一般情勢及敵軍ノ情勢 (一)戰局ノ進展ト共ニ内南洋方面殊ニ「マーシヤル」「ギルバート」「ナウル」「オーシヤン」方面ノ海域ハ益々其ノ重要性ヲ倍加シ内南洋部隊ハ該方面ヨリノ敵ニ対シ防備並ニ警戒ヲ嚴ニシ之ヲ邀撃々滅ノ態勢ニアリ 當戰隊ハ四月一日附編成内南洋部隊ニ編入セラレ四月二十五日横須賀出撃四月三十日「トラツク」着警戒任務ニ就ク/(二)敵ハ東部「ニューギニア」方面ノ飛行場ヲ着々整備シ「モレスビー」ヨリハ常ニ偵察攻撃ヲ行ヒ、其ノ他「ソロモン」「フイジー」「カントン」諸島、布哇「ミツドウエー」方面ハ敵飛行機ノ哨戒偵察「ガダルカナル」島方面ハ敵艦ノ蠢動極メテ頻繁ナリ 又「アリユーシヤン」方面ニ於テモ中旬ヨリ下旬ニ亙リ敵機ノ偵察攻撃及敵海上部隊ノ出現アリ 尚在支米空軍ハ下旬南支、台湾方面ヲ偵察空襲ヲ企圖シアルモノヽ如シ 敵潜水艦ハ中旬ヨリ下旬ニ亙リ本邦近海特ニ津軽海峡及東「カロリン」諸島方面ニ出没跳梁極メテ大ナリ』
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- ^ #S17.04第二海護日誌(3)pp.28-29『二四(土)(天候略)一.夕張ハPPヨリ航海中ノ処PT着(以下略)』/『二五(日)(天候略)一.夕張ハPT発PYニ向ケ航海中(以下略)』
- ^ #S17.04第二海護日誌(3)p.32『三一(土)(天候略)一.夕張ハRYB着(以下略)』
- ^ #S17.04第二海護日誌(3)p.43『(一)麾下艦船部隊ノ行動』(昭和17年11月)
- ^ #S17.04第二海護日誌(3)pp.37-38『(三)作戰指導(イ)護衛計画ノ實施概要(略)夕張 夕凪ハ先月末当隊所属ヲ離レ一時「マーシヤル」方面防備部隊ニ編入サレ引續キ仝方面ニ行動シ(以下略)』
- ^ 第四艦隊日誌(3)pp.3-5『四.参考(イ)麾下艦船部隊ノ行動(其ノ一)』(昭和17年11月)
- ^ #S17.04第二海護日誌(4)p.13『一(火)(天候略)一.夕張ハ修理整備ノ爲横須賀ニ向ケヤルート発(以下略)』
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- ^ a b 第四艦隊日誌(3)pp.9-11『四.参考(イ)麾下艦船部隊ノ行動(其ノ一)』(昭和17年12月)
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- ^ a b #S16.12四根日誌(2)pp.49-50〔(ホ)直接護衛及運航指揮船舶表(自三月一日至三月三十一日〕『護衛艦 運航指揮官:夕張|被護衛艦船名:神川丸|護衛区域(自 至):横須賀―トラツク|期間(自-至):二二-二八|隻数:一』/『夕張|神川丸|トラツク―ラバウル|二九-四月一|一』
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- ^ a b 第四艦隊日誌(3)p.31『五.作戰經過概要 昭和十八年四月 第四艦隊』(4月1日)『14S編制(那珂、五十鈴)夕張 夕凪ヲ除キ8Fヘ、夕月 追風 朝凪 鵯鴻2KEgヘ編入(以下略)』
- ^ #S18.04第14戦隊日誌(1)p.5『(ロ)任務行動 當戰隊ハ四月一日附新設セラレ第四艦隊ニ属ス(以下略)』
- ^ 第八艦隊日誌(7)pp.3-4〔(二)三月二十六日以後ニ於ケル艦隊編制竝ニ軍隊區分ノ変更アリタルモノ左ノ如シ〕『四月一日|夕張ヲ加フ 3sdヨリ8dgヲ除ク 7SSヲ除ク、夕凪ヲ加フ、竜田ヲ除ク K7Lg 一四防空隊 一五防空隊ヲ加フ|17dg(谷風)天津風ヲ編入 夕張ヲ主隊ニ30dg(望月欠)夕凪ヲ附属トス』
- ^ a b c 南東方面海軍作戦(3)130-131頁『外南洋部隊の作戦の概要』
- ^ 第八艦隊日誌(7)p.5『三日| |夕張ヲZOBニ、K7LgヲRX方面防備部隊ニ編入』
- ^ 第八艦隊日誌(7)p.19『(ト)四月三日「メーウエ」泊地碇泊ノ青葉及「スエツフエン」水道南方回避行動ノ文月ハ〇三二〇ヨリ〇四一〇ノ間ニ敵機ノ攻撃ヲ受ケ青葉ハ浸水擱坐 文月ハ中破セリ』
- ^ 第八艦隊日誌(8)p.14『三 經過(イ)敵「レントバ」島及「ナツソウ」方面ニ上陸』
- ^ 南東方面海軍作戦(3)205-207頁『連合軍のレンドバ島及びナッソウ湾来攻』
- ^ 南東方面海軍作戦(3)233頁『連合軍の作戦計画』
- ^ 第八艦隊日誌(8)p.15『敵上陸時ノ外南洋部隊兵力(主要部隊ノミ)配備所在左ノ通』
- ^ a b c d 南東方面海軍作戦(3)226-227頁『外南洋部隊水上部隊』
- ^ 第八艦隊日誌(8)pp.23-24『第一次「レントバ」突入作戰』
- ^ a b 第八艦隊日誌(8)pp.25-27『第二次「レントバ」突入作戰(略)(二)陽動隊 一五〇〇「ブイン」發「モノ」島東方ヨリ「ウイルソン」海峡ニ向ケ速力二十二節ニテ南下一九〇〇反転「ブイン」ニ歸投ス、途中一六五〇敵機ノ觸接ヲ認メタル外異状ナシ』
- ^ a b c 軽巡二十五隻150-151頁
- ^ 第八艦隊日誌(8)pp.29-30『七.五 夜間 半晴/七.六 半晴|増援部隊(中略)(ハ)戰果 乙巡一轟沈 巡洋艦一撃沈 駆逐艦一炎上(沈没確實)被害 新月沈没 長月坐礁放棄』
- ^ a b 南東方面海軍作戦(3)230頁
- ^ 南東方面海軍作戦(3)245頁『水上部隊の作戦』
- ^ 第八艦隊日誌(8)p.7〔七月一日以後ニ於ケル艦隊編制及軍隊区分ノ変更〕『一〇|鳥海 松風ヲ主隊ニ/夕張 新月ヲ附属ニ/24dg(涼風)16dg(雪風)夕暮 谷風 浜風ヲ支援部隊第二水雷戰隊司令官指揮下ニ/30dg(三日月)夕凪ヲZOBニ/22dg(皐月)ヲ主隊ニ改ム』
- ^ #S18.04第14戦隊日誌(6)p.16『一|月|T四號輸送部隊第二輸送隊(当隊、護國丸、清澄丸、十七駆)一五四五PT發』
- ^ a b 南東方面海軍作戦(3)358-359頁
- ^ #S18.04第14戦隊日誌(6)pp.16-17『三|水|第二輸送隊〇四二〇以後敵大型機一機ノ触接ヲ受ク、二度〇分南 一五一度三一分東ニテ 一一二九第一次B-24型十九機 一二二〇第二次B-24型二十一機來襲之ト交戰 戰果二機撃墜、被害那珂(司令部ヲ含ム)戰死七(内准士官以上一)重軽傷二〇(内准士官以上八) 護國丸戰死亡陸兵一、清澄丸至近彈ニテ機械室浸水航行不能 一二三五護國丸、十七駆(浦風)ヲRRニ先行セシム/一五〇〇清澄丸ヲ五十鈴ニテ曳航/二二五五水無月來援/第三次輸送隊(四駆、日枝丸)日威丸、神風丸〇四三〇PT發』
- ^ 南東方面海軍作戦(3)399-400頁『米空母機による第一次空襲と被害 ― 十一月五日』
- ^ 日本軽巡戦史、323ページ
- ^ 日本軽巡戦史、323-324ページ
- ^ 南東方面海軍作戦(3)414-415頁『邀撃空戦と艦艇の被害』
- ^ a b 南東方面海軍作戦(3)440-441頁『十一月下旬の作戦輸送再開』
- ^ 日本軽巡戦史、324-325ページ
- ^ #S18.12二水戦日誌(1)p.15『(4)31dg(長波)「ラバウル」ニ在リテ待機修理中ノ所 三日水無月曳航夕張22dg(文月)護衛ノ下ニ「ラバウル」発 八日「トラツク」着原隊ニ復皈(NTB SyBヨリ除カル)爾後「トラツク」ニ在リテ修理内地回航準備ヲナス 下旬内地回航下令セラレタルモ延期セラル』
- ^ #S18.12二水戦日誌(1)p.6『長波「ラバウル」ニ在リテ待機中ノ所應急修理完成 三日水無月曳航夕張護衛ノ下ニ「ラバウル」発八日「トラツク」着』
- ^ #S18.12二水戦日誌(1)p.30『八日一八四五 夕張(宛略)|夕張機密第〇八一八四五番電 夕張22dg(文月、水無月)長波「トラツク」着』
- ^ a b 南東方面海軍作戦(3)442頁『第三水雷戦隊司令官交迭』
- ^ 日本軽巡戦史、325-236ページ
- ^ #S18.12二水戦日誌(1)p.7『五月雨「トラツク」ニテ待機中應急修理完成/十四日夕張艦長ノ指揮ヲ受ケ「トラツク」発/十九日横須賀着』
- ^ #S18.12二水戦日誌(1)p.42『一九日一一一〇 夕張(宛略)|夕張機密第一九一一〇番電 夕張 五月雨、横須賀着』
- ^ 南東方面海軍作戦(3)488-489頁『最後の駆逐艦輸送』
- ^ 海上護衛戦(戦史叢書)356-358頁『松輸送作戦実施の経緯/護衛の計画』
- ^ 海上護衛戦(戦史叢書)586頁『四 内地ニ於テ漸ク修理成リタル夕張ヲ旗艦トシテ使用サレタル為司令部トシテハ如何ニシテ無事ニ作戦地ニ到着セシムルカニ苦労セリ、斯クノ如キ状態ノ軍艦ヲ護衛艦ニ使用スルハ一考ノ要アリ』
- ^ 海上護衛戦(戦史叢書)585頁『第五十四号駆潜艇行方不明ノ状況』
- ^ a b c d 軽巡二十五隻154-155頁『涙でみまもる軍艦旗降下』
- ^ 五月雨出撃す271-272頁『四月二十三日(航海中)』
- ^ a b 軽巡二十五隻155-157頁
- ^ 五月雨出撃す272-273頁『四月二十七日(ソンソル島近海)』
- ^ a b 『官報』第3236号、大正12年5月16日。
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- ^ a b 「海軍辞令公報 号外 第97号 昭和12年11月25日付」 アジア歴史資料センター Ref.C13072072600
- ^ 「海軍辞令公報(部内限)号外 第214号 昭和13年7月20日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072074100
- ^ 「海軍辞令公報(部内限)号外 第273号 昭和13年12月15日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072074800
- ^ 「海軍辞令公報(部内限)第397号 昭和14年11月1日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072076600
- ^ #T12公文備考巻22/諸公試(3)画像2-3『大正十二年六月二十九日午後四時五〇分佐世保局発 午後六時五分海軍省著 (秘密暗号) 發信者佐世保工廠長 受信者艦政本部長 電報譯 夕張全力豫行運転結果良好 回転数四〇〇 馬力五八、八八五 速力三四、六一九 排水量三四九五 標柱三重沖』
- ^ #海軍艦艇史2p.224の写真解説
- ^ #JapaneseCruisers(1997)p.23, TABLE1.7, "Comparative Full Powaer(10/10) Trial Results".
- ^ “日本海軍の軽巡洋艦「夕張」を1/700スケールで再現したプラモデルがピットロードより登場!”. Hobby Watch (2022年3月14日). 2023年9月11日閲覧。