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|本名=ディエゴ・アルマンド・マラドーナ |
|本名=ディエゴ・アルマンド・マラドーナ |
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|愛称=Pelusa(毛深い奴/縮れ髪)<br />El Pibe de Oro(ゴールデンボーイ) |
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|愛称=ペルーサ<br />ピベ・デ・オロ(神の子) |
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|アルファベット表記=Diego Armando MARADONA |
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|国={{ARG}} |
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|誕生日={{生年月日と年齢|1960|10|30}} |
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|出身地=[[ラヌース |
|出身地=[[ブエノスアイレス州]],ラヌース |
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|身長=166cm |
|身長=166cm |
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|体重=67kg |
|体重=67kg |
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|代表出場(得点)=91 (34) |
|代表出場(得点)=91 (34) |
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'''ディエゴ・アルマンド・マラドーナ'''(Diego Armando Maradona, [[1960年]][[10月30日]] - )は、[[アルゼンチン]]出身の元[[プロフェッショナル (サッカー)|サッカー選手]] |
'''ディエゴ・アルマンド・マラドーナ'''(Diego Armando Maradona, [[1960年]][[10月30日]] - )は、[[アルゼンチン]]・[[ブエノスアイレス州]]出身の元[[プロフェッショナル (サッカー)|サッカー選手]]、サッカー指導者。[[サッカーアルゼンチン代表|アルゼンチン代表]]。現役時代のポジションは[[フォワード (サッカー)|フォワード]]または[[ミッドフィールダー]]。 |
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[[アルフレッド・ディ・ステファノ]]や[[ペレ]]と共に20世紀のサッカー史に名を残すスター選手である<ref name="国吉">国吉好弘『サッカーマルチ大辞典 改討版』、[[ベースボール・マガジン社]]、2006年、469頁</ref>。 |
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== 概要 == |
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[[プリメーラ・ディビシオン (アルゼンチン)|アルゼンチン・リーグ]]史上最年少でプロデビューし、[[ボカ・ジュニアーズ]]を経て欧州に渡った。[[FCバルセロナ]]ではさまざまな問題に悩まされたが、[[SSCナポリ]]では[[セリエA (サッカー) |セリエA]]優勝2回、[[UEFAヨーロッパリーグ|UEFAカップ]]優勝1回の立役者となり、「'''ナポリの王様'''」としてファンに愛された。[[セビージャFC]]、[[ニューウェルズ・オールドボーイズ]]、ボカ・ジュニアーズでの在籍は短期間に終わり、1997年に現役引退した。 |
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1977年に歴代最年少でアルゼンチンA代表にデビューし、1979年にはU-20アルゼンチン代表として[[FIFAワールドユース選手権]]で優勝して大会最優秀選手に選ばれた。[[FIFAワールドカップ]]には1982年大会から4大会連続で出場し、[[1986 FIFAワールドカップ]]ではチームを牽引して優勝に導いた。準々決勝の[[サッカーイングランド代表|イングランド]]戦で見せた「'''神の手'''」ゴールと「'''5人抜き'''」ドリブルは彼のスタイルを象徴するプレーとして後世に語り継がれている。[[1994 FIFAワールドカップ]]では大会中のドーピング検査で陽性と判定され大会から追放処分を受けた。 |
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== 略歴 == |
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=== 華々しいデビュー === |
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[[ファイル:Maradona y la copa - Mundial Juvenil 1979 - Gente sept 1979.jpg|thumb|200px|1979年ワールドユース優勝時のマラドーナ]] |
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1960年10月30日に[[ブエノスアイレス]]南部のラヌースに貧しい家庭の子として生まれる。幼少の頃から天才サッカー少年として脚光を浴びると11歳でロス・セボジータス(Los Cebollitas =小さな玉葱)と云う地元の少年サッカークラブに入団。12歳で[[アルヘンティノス・ジュニアーズ]]の下部組織に入団し、1976年10月20日、15歳11か月の若さでタジェレス・デ・コルドバ戦でトップチームの公式戦に初出場する。その4か月後の1977年2月27日には[[サッカーアルゼンチン代表|アルゼンチン代表]]に選ばれ対[[サッカーハンガリー代表|ハンガリー]]戦に出場した。 |
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選手時代からたびたび違法薬物の使用が取り沙汰され、現役引退後は入退院を繰り返した。2008年に[[サッカーアルゼンチン代表|アルゼンチン代表]]監督に就任し、[[2010 FIFAワールドカップ]]南米予選を辛くも突破したが、本大会では準々決勝で敗れ、2010年7月に解任された。 |
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しかし翌[[1978年]]の、母国アルゼンチンで開かれた[[1978_ FIFAワールドカップ|ワールドカップ・アルゼンチン大会]]には年齢を理由に代表チームには選ばれなかった。その翌年に[[日本]]で開催された第2回[[FIFA_U-20ワールドカップ|ワールドユース]]では、W杯不出場の鬱憤を晴らすような活躍でアルゼンチンを優勝に導いた。 |
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1981年にマラドーナ自身も熱狂的なサポーターである名門[[ボカ・ジュニアーズ]]に400万ドルで移籍、翌年にはスペインの[[FCバルセロナ]]に600万ドルで移籍するなど絶頂期にあった。 |
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== 経歴 == |
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=== スペインでの挫折 === |
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=== 幼少期 === |
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ここからは暫らく不運が続く。[[1982年]][[1982 FIFAワールドカップ|ワールドカップ・スペイン大会]]では対戦相手の執拗なマークに苦しみ、2次リーグのブラジル戦ではマークを受けていた[[ジョアン・バティスタ・デ・シルヴァ|バティスタ]]の腹を蹴り退場処分を受けた。移籍したバルセロナでは入団早々に[[肝炎]]を患い、また1983年9月24日の[[アスレティック・ビルバオ]]戦では相手DFのアンドニ・ゴイコチェアによる悪質なタックルで左足首と[[靭帯]]に重傷を負い6か月の長期離脱を余儀なくされ、失意のうちに[[1984年]]にイタリアの[[SSCナポリ]]に移籍する事になった。 |
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[[ファイル:Maradona y la copa - Mundial Juvenil 1979 - Gente sept 1979.jpg|thumb|150px|1979年ワールドユース優勝時のマラドーナ]] |
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1960年10月30日、ディエゴ・マラドーナは[[ブエノスアイレス]]南部のラヌース([[:en:Lanús|Lanús]])に貧しい家庭の子として生まれた。幼少時から天才サッカー少年として脚光を浴び、9歳の時に[[アルヘンティノス・ジュニアーズ]]の少年チームであるセボリータス(Los Cebollitas、小さな玉葱)に入団した<ref>ウィリアムズ2007、210頁</ref>。幼少時代はペルーサ(Pelusa、毛深い奴/縮れ髪)と呼ばれるおとなしい少年だったが<ref>リベイロ・レモス2008、123頁</ref>、10歳の時にはプロリーグ戦のハーフタイムショーでリフティングを披露して拍手喝采を浴びるほどの技術を身に付けていた<ref>バーンズ1997、29頁</ref>。1973年、12歳の時には[[リバープレート]]から契約金200万ペソでのオファーがあったが、クラブや父親が時期尚早だと反対したためセボリータスにとどまった(マラドーナ35-36)<ref>オルティズ1994、35-36頁</ref> <ref>バーンズ1997、36頁</ref>。13歳の時に学校を辞めてサッカーに専念し<ref>クリストファー・ヒルトン、イアン・コール『南米サッカーのすべて』、野間けい子訳、DAI-X出版、2002年、3○○頁</ref>、1974年にアルヘンティノス・ジュニアーズのトップチーム昇格を果たし<ref>バーンズ1997、36-38頁</ref>、15歳の誕生日にはクラブからアパートが提供された<ref>バーンズ1997、39頁</ref>。 |
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=== ナポリとメキシコW杯の栄光 === |
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1984年6月30日に[[SSCナポリ]]入団、7月5日にスタディオ・サン・パオロで行われたお披露目会見には多数のサポーターが駆けつけた。そしてこのクラブと都市で失われた本来の輝きを取り戻す。マラドーナのプレーは人々を魅了し、ナポリではサポーターから「ナポリの王」と呼ばれ愛された。彼が入団を決めた直後から、ナポリのシーズンシートが瞬く間に売れ、莫大な移籍金および給料を払ってもなお、数年後に[[サッカーブラジル代表|ブラジル代表]]のエースストライカー・[[アントニオ・デ・オリベイラ・フィーリョ|カレカ]]を獲得出来るほどナポリの財政は潤った。 |
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=== 選手時代 === |
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在籍期間中にクラブを2度の[[スクデット]]と1度の[[UEFAヨーロッパリーグ|UEFAカップ]]制覇に導き、カレカ、[[リカルド・ロジェーリオ・デ・ブリト|アレモン]]、[[チロ・フェラーラ]]らと共に黄金時代を築きあげた。イタリア北部の都市にサッカーだけでなく政治、経済、全ての分野を独占されていた南部の人々にとっては素晴らしい時をもたらした。 |
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==== アルヘンティノス ==== |
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[[ファイル:Maradona1980.jpg|thumb|right|150px|アルヘンティノス時代のマラドーナ(1980年)]] |
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アルヘンティノス時代にはエル・ピベ・デ・オロ(El Pibe de Oro、ゴールデンボーイ)という愛称を授かった<ref>リベイロ・レモス2008、124頁</ref>。1976年10月20日、アルゼンチン・リーグ史上最年少の15歳11カ月で[[タジェレス・デ・コルドバ]]([[:en:Talleres de Córdoba|Talleres de Córdoba]])戦に出場し、公式戦初出場を果たした<ref>バーンズ1997、50頁</ref>。この試合は[[サッカーアルゼンチン代表|アルゼンチン代表]]の[[セサル・ルイス・メノッティ]]監督も観戦しており、4ヶ月後の1977年2月27日に[[サッカーハンガリー代表|ハンガリー]]との親善試合に補欠選手として招集されると、試合の大勢が決まった後に途中出場し、アルゼンチン代表の最年少出場記録を更新した<ref>バーンズ1997、59頁</ref>。同年の[[コパ・アメリカ]]では「アルゼンチンの白い[[ペレ]]」として注目を集めたが、チームは最下位に終わった。 |
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一番の大舞台は[[1986年]]の[[1986 FIFAワールドカップ|ワールドカップ・メキシコ大会]]である。心身共に万全な状態で大会に挑み、5ゴール、5アシストの大活躍でチームを優勝に導いた事から同大会は「マラドーナのための大会」と呼ばれた。また、準々決勝における、[[フォークランド紛争]]の因縁が残る対[[サッカーイングランド代表|イングランド]]戦の「'''神の手'''」ゴール(ゴールする際に手でボールを叩いていた([[ハンドリング]]の反則)にもかかわらず審判がゴールを認めた)や「'''5人抜きドリブル'''」等、サッカー史上に残るプレーを残している(後述)。 |
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[[1978 FIFAワールドカップ]]のための25人の代表候補に選ばれたが、[[オズワルド・アルディレス]]や[[ホセ・ノルベルト・アロンソ|ノルベルト・アロンソ]]([[:en:Norberto Alonso|Norberto Alonso]])など10番タイプの選手が多数いたことや<ref>ウィリアムズ2007、212頁</ref>、自国開催の重圧によって彼が押しつぶされるのを嫌がったメノッティ監督の判断で22人の本大会出場メンバーから外された<ref>ウィリアムズ2007、203頁</ref>。1978年には21得点を決めて[[プリメーラ・ディビシオン (アルゼンチン)|プリメーラ・ディビシオン]](1部)の得点王に輝いた。1979年夏に日本で開催された[[FIFA U-20ワールドカップ|FIFAワールドユース選手権]]では、アルゼンチンを優勝に導くとともに大会最優秀選手に選ばれ、その直後に行われたA代表の[[サッカースコットランド代表|スコットランド]]戦でA代表初得点を記録した<ref>ウィリアムズ2007、213頁</ref>。同年の[[南米年間最優秀選手賞|南米年間最優秀選手]]に選ばれ、12月にはイングランドの[[シェフィールド・ユナイテッドFC]]が移籍金90万ドルのオファーを出し<ref>バーンズ1997、77頁</ref>、[[ユヴェントス]]や[[FCバルセロナ]]も彼を追いかけたが、アルヘンティノスが首を縦に振らなかった。 |
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=== 転落の日々 === |
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しかし、[[1990年]]の[[1990 FIFAワールドカップ|ワールドカップ・イタリア大会]]はマラドーナにとって不幸な大会となった。準決勝でイタリアと地元ナポリで対戦、PK戦でアルゼンチンが勝利した事で、イタリア国民のみならずマラドーナとナポリサポーターとの関係も悪化してしまい、コカイン使用発覚により15か月間の出場停止処分を受けた事で、[[1992年]]、スペインの[[セビージャFC]]に移籍せざるをえなくなってしまった。 |
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==== ボカ・ジュニアーズ ==== |
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その後、[[1994年]]の[[1994 FIFAワールドカップ|ワールドカップ・アメリカ大会]]でのドーピング違反による大会からの追放、監督業への挑戦を経て、[[1995年]]に[[ボカ・ジュニアーズ]]へ復帰、[[1997年]]自身の37歳の誕生日に現役引退を発表した。 |
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[[ファイル:Boca diego retro.jpg|thumb||150px|1981年のマラドーナ]] |
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1981年2月13日、幼少時からの熱狂的なファンであった[[ボカ・ジュニアーズ]]へのレンタル移籍交渉がまとまった。アルヘンティノスへ400万ドルの移籍金が支払われ、さらにボカはアルヘンティノスの負債110万ドルを肩代わりすることになった。4月10日の[[スーペル・クラシコ]]ではボカの全3得点を挙げる活躍で[[リバープレート]]を下し、移籍してすぐにファンのアイドルになった<ref>バーンズ1997、102頁</ref>。この年にはリーグ優勝を果たしたが、マラドーナ獲得時の莫大な移籍金などが負担となってボカの財政状況は悪化し、また彼は20歳にしてリーグ戦200試合以上に出場していたことから疲労がピークに達していた。1982年5月末、約700万ドルの移籍金でスペインの[[FCバルセロナ]]に移籍することで合意に達した<ref>バーンズ1997、120頁</ref>。[[1982 FIFAワールドカップ]]では1次リーグ2戦目の[[サッカーハンガリー代表|ハンガリー]]戦で2得点したが、2次リーグの[[サッカーブラジル代表|ブラジル]]戦ではジョアン・バティスタ([[:en:João Batista da Silva|João Batista da Silva]])の執拗なマークに苦しみ、彼への報復行為によってレッドカードを受け、1-3で大敗して大会を去った。 |
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=== 引退後 === |
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引退後もマラドーナの薬物癖は抜けず、コカインや覚せい剤の摂取がしばしば明るみに出た。また、薬物過剰摂取、[[アルコール依存症]]、極度の肥満などにより大きく体調を崩してしばしば入院、ときには危篤状態にまで陥るなど、現在の人間としてのマラドーナの評価は、お世辞にも高いとは言えない。 |
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==== FCバルセロナ ==== |
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しかし、そのような状態でも、アルゼンチンにおけるマラドーナの人気は不動である。2005年から始まったマラドーナが司会を務めるテレビ番組『10番の夜』は、視聴率30%を超える人気番組となり、その言動は常に注目される。またアルゼンチンの期待の若手選手は「[[マラドーナ2世]]」と呼ばれることが多く、そのサッカー選手としての名声は今なお衰えを知らない。現在経済危機に陥っているアルゼンチンでは、マラドーナを復活と再生のシンボルとして崇めている。 |
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1982年6月4日、FCバルセロナとの移籍契約に調印し、アルヘンティノスに移籍金510万ドル、ボカに移籍金220万ドルが分割払いで支払われた<ref>バーンズ1997、132-133頁</ref>。 [[カンプ・ノウ]]で行われたお披露目にはクラブ新記録の5万人が詰めかけた。シーズン序盤のバルセロナ・ダービーでは試合唯一となる得点を決め、その2日後の[[UEFAカップウィナーズカップ]]決勝・[[レッドスター・ベオグラード]]戦では2得点を決めて華々しいスタートを切ったが<ref>バーンズ1997、139-140頁</ref>、度重なる夜遊びやコカイン使用疑惑でクラブから不信感を持たれ、ウイルス性肝炎や鬱状態などの病気、[[ヨン・アンドニ・ゴイコエチェア|アンドニ・ゴイコチェア]]からタックルを受けた際の左膝腱損傷などにも悩まされた。1983-84シーズンの[[コパ・デル・レイ]]決勝・[[アスレティック・ビルバオ]]戦で相手選手を殴って乱闘を引き起こしたことが決定打となり、クラブは彼の放出を決断した<ref>バーンズ1997、166-167頁</ref>。 |
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==== SSCナポリ ==== |
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=== アルゼンチン代表監督時代 === |
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1984年6月29日、イタリア・[[セリエA (サッカー)|セリエA]]の[[SSCナポリ]]への移籍が実現し、サッカー史上最高額の推定移籍金1300万ドルがFCバルセロナに支払われた<ref>バーンズ1997、175-176頁</ref>。7月5日に[[スタディオ・サン・パオロ]]で行われたお披露目会見にはヘリコプターからピッチに降り立つパフォーマンスで登場し<ref>ウィリアムズ2007、219頁</ref>、7万人のサポーターが駆け付けたこの日の入場料収益は7000万リラに上った。サポーターから「ナポリの王」と呼ばれて愛され、シーズンチケットが瞬く間に売れたことから、莫大な移籍金および給料を払ってもなおクラブの財政は潤った。[[チロ・フェラーラ]]、[[アントニオ・デ・オリベイラ・フィーリョ|カレカ]]らとともにクラブの黄金時代を築き上げ、1984-85シーズンは14得点を決めて得点ランキング3位に入り、1985-86シーズンはチームをリーグ3位に押し上げた。 |
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マラドーナはかねてからアルゼンチン代表監督への意欲を公言していたが、監督としての実績がほとんどないこと、前述のような問題行動が多いことから、実際に就任が取りざたされることはほとんどなかった。しかし2008年10月、[[2010 FIFAワールドカップ・南米予選]]におけるアルゼンチン代表の成績不振により、[[アルフィオ・バシーレ]]監督が辞任すると、アルゼンチンサッカー協会はマラドーナへ監督就任を要請。同年11月、バシーレの後任としてアルゼンチン代表監督に正式就任。 |
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[[1986 FIFAワールドカップ]]南米予選の[[サッカーコロンビア代表|コロンビア代表]]戦では相手サポーターが投げたオレンジを足の先で受け止め、突然リフティングを始めた<ref>バーンズ1997、214頁</ref>。この時期のアルゼンチン代表の成績は芳しいものではなかったが、[[1986 FIFAワールドカップ]]が始まるとマラドーナが軸となって華々しい活躍を見せた。5得点5アシストの大活躍でチームを優勝に導いた事から、同大会は「マラドーナのための大会」と呼ばれ、大会最優秀選手に輝いた。6月22日に行われた準々決勝の[[サッカーイングランド代表|イングランド]]戦試合前には3年前の[[フォークランド紛争]](マルビナス戦争)の因縁もあって両国メディアの舌戦が続いたが、その試合はいわゆる「神の手」ゴールと「5人抜き」ドリブルを記録した試合として知られている。後半4分、ペナルティエリアに走りこんだマラドーナと浮き玉を処理しようとした相手GK[[ピーター・シルトン]]と交錯したが、マラドーナは空中のボールを素早く左手ではたき、ボールはそのままゴールインした。シルトンをはじめイングランドの選手はマラドーナのハンドを主張したが、審判は彼の得点を認めた。その4分後にはセンターライン付近でボールを奪い、ドリブルで5人を抜いて無人のゴールにボールを蹴りこんだ。前者の得点については「本当は手で触れたのだが、神の思し召しにより許された」という趣旨の発言をしたことから「神の手」ゴールという呼称が広まった<ref>バーンズ1997、228頁</ref>。2007年には後者の得点がイギリスの[[ワールドサッカー (雑誌)|ワールドサッカー]]誌によって史上最優秀得点に選ばれた<ref>{{cite news |url=http://members.jcom.home.ne.jp/wcup/WORLDSOCCERGreatest.htm |title=英『ワールド・サッカー』誌:史上グレーテストゴール:トップ10 |publisher=World Cup's World |accessdate=2010-11-04}}</ref>。[[ラモン・ディアス]]とマラドーナは犬猿の仲だとされ、1986 FIFAワールドカップと1990 FIFAワールドカップへのディアスの出場をマラドーナが妨げたと言われることがある。しかし、マラドーナは自伝の中で不仲説を否定し、[[カルロス・ビラルド]]監督にディアスの招集メンバー入りを進言したと主張している<ref>{{cite news |url=http://www.independent.co.uk/news/people/profiles/ramon-diaz-globetrotting-thoroughbred-commits-to-oxford-cause-485829.html |title=Globe-trotting thoroughbred commits to Oxford cause |publisher=The Independent |date=2005-01-01 |accessdate=2010-11-29}}</ref>。 |
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伝説的な選手の監督就任として国際的に注目を受けたマラドーナだったが、その手腕には就任当初から疑問符をつける報道が多かった。就任直後の親善試合こそ連勝したものの、重要なワールドカップ南米予選において格下の[[サッカーボリビア代表|ボリビア]]相手に1-6というまさかの大敗を喫すると、以降も[[サッカーエクアドル代表|エクアドル]]、ブラジル、[[サッカーパラグアイ代表|パラグアイ]]相手に3連敗を喫し、一時は予選6位にまで転落。予選敗退の瀬戸際にまで追い込まれた。最後の2試合を何とか勝利し、4位に滑り込んでワールドカップ出場を果たしたが、最終戦後の記者会見で、自身の采配を批判してきた記者たちを、卑猥な言葉を用いて激しく罵倒。これにより、FIFAから練習参加などを含む2ヶ月間のサッカー活動禁止と、日本円で220万円の罰金処分を受けた<ref>[http://www.sanspo.com/soccer/news/091117/scd0911170505000-n1.htm マラドーナ、W杯抽選会アウト…活動禁止2カ月 (1/2ページ) - サッカー - SANSPO.COM]</ref>。、このため、[[サッカーカタルーニャ選抜]]との親善試合もベンチ入りできなかった。 |
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1986-87シーズンはクラブ史上初の[[セリエA (サッカー)|セリエA]]優勝を飾ったが、愛人がマラドーナの子どもを出産したシナグラ事件(後述)などもあって気分が不安定で、子どもの認知を渋ったために地元メディアから攻撃された<ref>バーンズ1997、238-239頁</ref>。1987-88シーズンには15得点を決めてセリエA得点王に輝き、1988-89シーズンには[[UEFAヨーロッパリーグ|UEFAカップ]]を獲得したが、1988年以降は負傷で試合を欠場する頻度が増え、監督やクラブ会長との確執も取り沙汰された。[[1990 FIFAワールドカップ]]を控えた1989-90シーズンは2度目のリーグ優勝を飾った。本大会では不調といわれながらもグループリーグ全試合に出場し、[[サッカーソビエト連邦代表|ソビエト連邦]]戦では自陣ペナルティエリア内で手を使ってピンチを防ぐ場面が見られた。決勝トーナメント1回戦の[[サッカーブラジル代表|ブラジル]]戦では後半終了間際に決勝点をアシストし、準々決勝は[[サッカーユーゴスラビア代表|ユーゴスラビア代表]]にPK戦の末に勝利した。準決勝は地元イタリアとの対戦であったが、試合前にイタリアファンを煽るような発言をしたことや、PK戦で最後に蹴って勝利を決めたのがマラドーナであったことから、イタリア国民やSSCナポリファンとの関係が悪化した。敗れた[[サッカー西ドイツ代表|西ドイツ]]との決勝戦では試合終了とともに涙を流し、イングランド代表の[[ポール・ガスコイン]]が準決勝で流した涙とともに人々に記憶されている<ref>バーンズ1997、260-262頁</ref>。1990年から1991年にかけて、麻薬使用やマフィアとの関連が報道されてマスコミから集中砲火を浴び、イタリアサッカー協会から15ヶ月間の出場停止処分を受けた。喧嘩別れのような形になったが、後に[[SSCナポリ]]はマラドーナの功績を称えて彼の背番号10を[[永久欠番]]とした<ref>ウィリアムズ2007、240頁</ref>。SSCナポリ時代には税金を滞納し、税務局から3700万ユーロ(約40億円)もの支払いを求められており、イタリアに入国する際にはその都度金品を没収されている<ref>『週刊新潮』、新潮社、2010年7月8日号、136頁</ref> <ref>{{cite news |url=http://www.jiji.com/jc/a?g=afp_spo&k=20100906025618a |title=マラドーナ氏、50歳誕生日をナポリで |publisher=時事通信 |date=2010-09-06 |accessdate=2010-11-04}}</ref>。 |
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その後、[[2010 FIFAワールドカップ]]では、グループリーグB組になったアルゼンチンを率い、事前の下馬評を覆して三試合全勝で決勝トーナメント進出を決めるも、準々決勝で[[サッカードイツ代表|ドイツ]]に0-4と大敗を喫し敗因を「個人に頼りすぎ」と評された<ref>[http://southafrica2010.yahoo.co.jp/news/ndetail/20100704-00000532-san-socc 傷心マラドーナ 個人技頼みの限界暴かれる]</ref>。この大会では監督としての采配だけでなく、試合中などにマラドーナが見せる様々なリアクションや会見での発言も話題となった。 |
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==== 選手生活の晩年 ==== |
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2010年[[7月27日]]、[[アルゼンチンサッカー協会]]はマラドーナを代表監督から解任することを発表した<ref>[http://www.jiji.com/jc/c?g=spo&k=2010072800128 マラドーナ監督を解任=コーチ刷新で協会と対立-アルゼンチン代表] 時事通信 2010年7月28日閲覧</ref>。 |
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会見では、「うそつき」と協会を批判するコメント。 |
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|align=right |
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|quote="'''俺がしたドーピングは努力だけだ'''" |
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|source=ドーピング疑惑の渦中で}} |
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== プレースタイル・評価 == |
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[[ファイル:Maradona1980.jpg|thumb|right|200px|1980年、アルヘンティノス時代のマラドーナ]] |
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|align=right |
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得意の左足を駆使した[[ドリブル]]の技術は特に優れており、小柄ながら上半身のフィジカルが強く、下半身のしっかりした地を這うようなフォームで、ボールを持っているときはどんなにつっかけられようとボールを持ち続けた。まさに足に吸い付くという表現がふさわしいドリブルであり、イタリアで対戦した[[ジーコ]]をして「笑うしかなかった」といわしめした。マラドーナ自身は、体が小さいことから接触プレーでは不利なので、相手が届かない所にボールをコントロールしてドリブル突破していこうと考えて練習を積んできたことで、技術が身に付いたのだろうと語っている。 |
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|quote="'''俺は多くの過ちを犯したが、サッカーボールは汚れない'''" |
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|source=1997年の引退会見にて}} |
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1991年には[[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]発足に向けて補強を進めていた[[名古屋グランパスエイト]]へ、総額15億円の契約で入団がほぼ内定していた<ref>2010年11月26日 中日スポーツ5面。</ref>が、薬物問題により日本行きは立ち消えとなり、名古屋はマラドーナにかわる補強の目玉として[[ゲーリー・リネカー]]を獲得することになる。 |
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また、30メートルを3.9秒で走るスピードを生かした、強引ともいえるドリブルは相手チームにとって脅威となったため、相手DFがあからさまな[[ファウル (サッカー)|ファウル]]でボールを奪おうとする事も多かった。1990年イタリアW杯では、マラドーナを止めるために、ボールでなく体めがけての[[チャージ]]を繰り返してきた[[サッカーカメルーン代表|カメルーン]]のようなチームも出るほどで、これが後のバックチャージの厳罰化等の一要因になった。また、マラドーナ対策としてイタリアACミランの[[アリーゴ・サッキ]]監督が[[ゾーンプレス]]を確立したことも有名である。 |
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その後、[[国際サッカー連盟|FIFA]]が移籍交渉に介入したこともあり、1992年9月にスペインの[[セビージャFC]]移籍が決定した。チケットの売り上げという点ではクラブに貢献したが、荒んだ生活や怠慢な練習態度などから監督と対立し、26試合に出場してわずか5得点しか挙げることができなかった<ref>ウィリアムズ2007、234頁</ref>。 |
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キックの精度も非常に高く、左足から繰り出すシュートやフリーキックはスピード、タイミング、コースともに絶妙なものだった。それでいて、1990年のワールドカップ・イタリア大会、ブラジル戦で[[ディフェンダー (サッカー)|DF]]を4人引き連れて[[クラウディオ・カニーヒア|クラウディオ・カニージャ]]に出したラストパスのように絶妙のアシストを出せる選手でもあった。 |
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1993年10月、セビージャFCとの契約の残り期間に対して400万ドルを支払う条件でアルゼンチンの[[ニューウェルズ・オールドボーイズ]]に移籍した<ref>バーンズ1997、298頁</ref>。[[アルフィオ・バシーレ]]監督によってアルゼンチン代表にも復帰したが、契約問題のこじれからニューウェルズでは7試合しか出場できず、練習不参加や試合欠場などの理由により1994年2月に解雇された。 |
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傑出したボールキープ力とパスセンス、得点能力を持っており、彼のプレーの出来が当時のアルゼンチン代表やクラブの成績にも反映された。 |
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1994年2月には自身の別荘で空気銃を乱射する事件を起こして負傷した記者によって告訴され、アルゼンチンサッカー協会のグロンドーナ会長などはマラドーナの罪を重く見たが、アルゼンチン国民やメネム大統領はより同情的で、法的な処置は未決定となった<ref>バーンズ1997、301-303頁</ref>。[[1994 FIFAワールドカップ]]では1次リーグで2連勝したが、[[サッカーギリシャ代表|ギリシャ]]戦後のドーピング検査で陽性と判定され、大会からの追放と15ヶ月の出場停止処分を受けて世界中に衝撃を与えた。出場停止期間中にはデポルティーボ・マンディージュ・デ・コリエンテスと[[ラシン・クラブ]]で監督を経験したが、マンディージュを降格させるなど、期待された成績は残せなかった。1995年に[[ボカ・ジュニアーズ]]へ復帰し、1997年10月30日、自身の37歳の誕生日に現役引退を発表した。 |
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== 「神の手」ゴールと5人抜き == |
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数々の名プレーを残しているマラドーナであるが、中でも「'''伝説の5人抜き'''」と「『'''神の手'''』ゴール」は最も有名である。1986年6月22日、ワールドカップ・メキシコ大会準々決勝・対[[サッカーイングランド代表|イングランド]]戦の後半4分、イングランドDFが[[ゴールキーパー (サッカー)|GK]][[ピーター・シルトン]]へバックパスを送った瞬間、マラドーナがペナルティーエリア内に走り込んだ。焦ったシルトンとマラドーナとの競り合いになったが、マラドーナはボールを素早く左手で叩き、ボールはそのままゴールインした。 |
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=== 引退後 === |
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シルトンをはじめイングランドの選手はマラドーナの[[ハンドリング|ハンド]]を主張したが、審判はマラドーナのゴールを認め、後にマラドーナがこのプレーを「'''あれは神の手と、マラドーナの頭から生まれたゴールだ'''」と発言した事から、「神の手ゴール」という呼称で巷間に知られるようになった。 |
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[[ファイル:Maradona Soccer Aid 2.jpg|thumb|150px|right|2006年のマラドーナ]] |
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現役引退後は薬物依存や不摂生による体重増加などが原因で入院・手術などを繰り返し、必ずしも健康体とは言えない状態であった。2004年4月にはボカの試合観戦中に突然倒れ、集中治療室で生死の境をさまよった。このときの彼の体重は122kgにも達していたが、回復後に食を細くするための[[胃切除術]]を受け、70kg台半ばまで減量した<ref>ウィリアムズ2007、241頁</ref>。 |
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さらに、それから4分後、センターライン付近でボールを奪ったマラドーナは、そこから右サイド寄りに猛然とドリブルを始めた。次々とイングランドの5人の[[サッカー#ポジション|フィールドプレーヤー]]がかわされていき、そのまま驚異的なスピードでペナルティエリアに進入。そしてGKのシルトンをもかわして、マラドーナはそのまま無人のゴールにボールを蹴り込んだ。このゴールは「伝説の5人抜き」(単に「5人抜き」とも)と呼ばれ、マラドーナのプレースタイルを象徴する物として知られている。 |
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=== アルゼンチン代表監督時代 === |
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現在でも○人抜きのゴールなどと取り上げられるゴールがあるが、「マラドーナの5人抜き」で一番重要なのは、炎天下かつ、アステカスタジアムという2,300メートルの高地、そして、左足のみを使ったこと、さらには、当時のイングランド代表の守備が世界トップクラスだったということが言える。なお、このゴールについて本人は「イングランド代表がフェアだった」との主旨のコメントも出している。 |
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2008年10月16日に[[サッカーアルゼンチン代表|アルゼンチン代表]]の[[アルフィオ・バシーレ]]監督が辞任すると、マラドーナは後任の座に自薦し、10月28日に代表監督就任が発表された<ref>藤坂ガルシア2010、9-11頁</ref>。11月4日に就任記者会見が行われ、[[ハビエル・マスチェラーノ]]のキャプテン任命と[[カルロス・ビラルド]]のテクニカル・セクレタリー(サッカー協会とチームの架け橋役)就任が発表されたが、ヘッドコーチに人事は明かされなかった<ref>藤坂ガルシア2010、21-24頁</ref>。マラドーナの監督就任に関してアルゼンチン国内の反応は冷ややかだったが、代表選手からは期待と賛同の声が上がり、初采配となった[[サッカースコットランド代表|スコットランド]]との親善試合に1-0で勝利したことからメディアからもまずまずの評価を得た。2009年1月にはスペイン、イングランド、イタリアなどを訪問し、欧州各国に散らばるアルゼンチン代表選手を視察した<ref>藤坂ガルシア2010、54-57頁、現役時代以来25年ぶりにカンプ・ノウを訪れ、FCバルセロナのジョゼップ・グアルディオラ監督と歓談した</ref>。 |
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2009年3月、テレビの深夜番組でチームの中心選手である[[フアン・ロマン・リケルメ]]のプレーに苦言を呈し、その発言に敏感に反応したリケルメが代表引退を表明する問題が起こった<ref>藤坂ガルシア2010、79-80頁</ref>。就任後初となる[[2010 FIFAワールドカップ・南米予選]]の[[サッカーベネズエラ代表|ベネズエラ]]戦には4-0で快勝したが、4日後の[[サッカーボリビア代表|ボリビア]]戦は高地の利を得た相手に手も足も出ず、1-6で大敗してメディアからの批判を浴びた。5月の親善試合には国内組のみから選手を招集して臨み、それ以後は海外組と国内組の融合を重要視するようになった<ref>藤坂ガルシア2010、134頁</ref>。 |
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以上の2つのゴールは、「マラドーナの大会」と言われた1986年大会の象徴的なシーンとして、サッカーファンのみならず、サッカーを知らない人々にもマラドーナの名を知らしめる物となった。 |
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2009年6月に行われたFIFAワールドカップ予選でコロンビアに辛勝しエクアドルに惜敗し、9月の予選で[[サッカーブラジル代表|ブラジル]]に敗れてアルゼンチンが長年継続してきたホームでの連続無敗記録(34戦)が途切れたため<ref>藤坂ガルシア2010、199頁</ref>、元代表選手やファンから厳しい批判を受けた。[[サッカーパラグアイ代表|パラグアイ]]に敗れてついに予選の自力突破圏内(4位以内)から落ちたが、10月の[[サッカーペルー代表|ペルー]]戦では[[マルティン・パレルモ]]のロスタイム弾で辛くも勝利し、最終節の[[サッカーウルグアイ代表|ウルグアイ]]戦では虎の子の1点を守り抜いて、予選4位でのFIFAワールドカップ本大会出場を決めた<ref>藤坂ガルシア2010、243頁</ref>。ウルグアイ戦後の記者会見では、これまで数々の批判を浴びせて来たメディアに対して「女性の方々には失礼するが…アレでもしゃぶってろ。お前らは好きなだけしゃぶり続けてればいいんだよ。俺をコケにしやがったからな」と最大級の侮辱語を並べたため、メディアから激しい非難の声が上がった<ref>藤坂ガルシア2010、245-247頁</ref>。記者会見での出来事は[[国際サッカー連盟|FIFA]]からも問題視され、練習参加などを含む2ヶ月間のサッカー活動禁止と、2万5000スイスフラン(約220万円)の罰金処分を受けた<ref>{{cite news |url=http://www.afpbb.com/article/sports/soccer/soccer-others/2664282/4916033 |title=マラドーナ監督 2か月の活動禁止と罰金、暴言騒ぎで |publisher=AFP BB News |date=2009-11-16 |accessdate=2010-11-4}}</ref>。 |
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なお1986年W杯を評してイングランド記者が第16代アメリカ合衆国大統領[[エイブラハム・リンカーン]]の有名な「人民の人民による人民のための」という言葉にかけて「マラドーナの、マラドーナによる、マラドーナのための大会」と評した。{{要出典範囲|この言い回しは日本で広まり「マラドーナの大会」、「マラドーナのための大会」という言葉とともに日本でよく使われるようになったが海外ではそれほどよく使われる言い回しではない。|date=2008年9月}} |
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[[2010 FIFAワールドカップ]]本大会グループリーグ初戦の[[サッカーナイジェリア代表|ナイジェリア]]戦は90分間ベンチに座ることなく選手たちに指示を与え続け<ref>『2010 南アフリカ・ワールドカップ決算号』、ベースボール・マガジン社、2010年、114頁</ref>、勝利後の記者会見ではリンゴをかじりながら質問に答えた<ref>『週刊文春』、文藝春秋、2010年7月8日号、144頁</ref>。2戦目の[[サッカー韓国代表|韓国]]戦では采配が冴え、後半途中から起用した[[セルヒオ・アグエロ]]が2得点に絡んで4-1と格の違いを見せつけた<ref>『2010 南アフリカ・ワールドカップ決算号』、ベースボール・マガジン社、2010年、116頁</ref>。3戦目の[[サッカーギリシャ代表|ギリシャ]]戦でも途中出場の[[マルティン・パレルモ]]が駄目押しとなる2点目を決めて勝利し<ref>『2010 南アフリカ・ワールドカップ決算号』、ベースボール・マガジン社、2010年、120頁</ref>、グループリーグを3戦全勝の首位で通過した。 |
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現役引退したのちもホームビデオなどで巧みなボールコントロールを披露することがある。 |
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決勝トーナメント1回戦の[[サッカーメキシコ代表|メキシコ]]戦は[[カルロス・テベス]]の疑惑の残る先制点で試合の主導権を握り、3-1で勝利した<ref>『2010 南アフリカ・ワールドカップ決算号』、ベースボール・マガジン社、2010年、91頁</ref>。準々決勝の[[サッカードイツ代表|ドイツ]]戦は試合開始早々に失点し、以後は焦りから攻撃に逸るマラドーナの心が見透かされているかのように、カウンターから立て続けに失点した<ref name="2010決算号80頁">『2010 南アフリカ・ワールドカップ決算号』、ベースボール・マガジン社、2010年、80頁</ref>。ハーフタイムの指示や後半の選手交代でも流れを変えることができず、0-4で惨敗して大会からの敗退が決定した<ref name="2010決算号80頁"></ref>。初采配から24戦を指揮して18勝6敗の成績を残し、引き分けは1試合もなかった<ref name="2010決算号48頁">『2010 南アフリカ・ワールドカップ決算号』、ベースボール・マガジン社、2010年、48頁</ref>。 |
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== 薬物と健康問題 == |
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[[ファイル:Maradona Soccer Aid 2.jpg|thumb|right|2006年のマラドーナ]] |
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===コカインとエフェドリン=== |
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マラドーナがコカインに手を染め始めたのは、FCバルセロナに在籍していたた時期だと言われている。 |
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当初は[[アルゼンチンサッカー協会]]、マラドーナとも留任の意向だったが、コーチ陣の処遇を巡って対立し、2010年7月27日に解任された<ref>{{cite news |url=http://www.jiji.com/jc/zc?k=201007/2010072800128 |title=マラドーナ監督を解任=コーチ刷新で協会と対立 |publisher=時事通信 |date=2010-07-28 |accessdate=2010-11-4}}</ref>。 |
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[[1994年]]のワールドカップ・アメリカ大会では大会途中に禁止薬物[[エフェドリン]]使用で大会を追放された。この年はそれ以前に犯した麻薬の使用を理由に[[キリンカップ・サッカー]]アルゼンチン代表としての入国を拒否されており(結果、アルゼンチン代表そのものが来日をキャンセルし、オーストラリア代表が急遽代わりに招待された)、薬物使用のイメージが日本でも強く意識された。なお、[[2002年]]の[[2002 FIFAワールドカップ|ワールドカップ・日韓大会]]では「アルゼンチン政府代表」という肩書きで日本に入国している。 |
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== 人物 == |
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=== 家族 === |
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引退後は薬物依存や不摂生による体重増加などが原因で入院・手術などを繰り返しており、必ずしも健康体とは言えない状態である。2003年、極度の[[肥満]]と薬物の影響から一時危篤状態となったが、一命を取り留めた。また[[胃切除術|胃の切除手術]]を行い、[[ダイエット]]にも成功している。 |
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; 家族 |
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母方の祖母はイタリア・[[ナポリ]]出身の移民であり<ref>オルティズ1994、25頁</ref>、父と母はともにアルゼンチン北東部の[[コリエンテス州]]エスキーナの出身である。マラドーナは8人兄弟姉妹の5番目であり、かつ3人の男子のうちの長男である<ref>ウィリアムズ2007、210頁</ref>。実弟の[[ウーゴ・マラドーナ]]は日本の[[鳥栖フューチャーズ|PJMフューチャーズ]]、[[アビスパ福岡]]、[[コンサドーレ札幌]]などでプレーしたサッカー選手である。 |
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; 2人の娘たち |
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[[2007年]][[4月25日]]、マラドーナに[[死亡説]]が流れ、アルゼンチン政府が事実調査に乗り出すほどであったが、マラドーナが腹痛で入院していただけであり、マラドーナの担当医が記者会見で死亡説を否定した。 |
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自身の薬物乱用や育児放棄などもあり、娘たちとの間にはキスを拒まれるほど深刻な確執が存在していた。その後和解し、[[2006 FIFAワールドカップ]]ではユニフォームを頭上で振り回しながら一緒に応援する姿がテレビカメラに写された。次女は[[セルヒオ・アグエロ]]の婚約者で、2009年2月に初孫が誕生した。 |
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=== 交友関係 === |
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===ブラジル代表への睡眠薬混入=== |
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; 女性関係 |
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1990年のワールドカップ・イタリア大会では、アルゼンチンはマラドーナが決勝トーナメントの[[ブラジル]]戦で見事なアシストを決めるなどの活躍で決勝にまで駒を進めたが、敗れたブラジルが、「試合中にマラドーナからサイドバックのブランコに渡されたコップの水に薬が入っていた」と主張していた。そして実際に近年、マラドーナ自身が給水ボトルに睡眠薬を混ぜていたことをテレビで暴露し物議を醸した<ref>[http://southafrica2010.yahoo.co.jp/news/cdetail/201007070006-spnavi スポーツナビ 2010年7月6日]</ref>。 |
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15歳の時に近所に住んでいたクラウディアと知り合い、すぐに深い関係になった<ref>バーンズ1997、41-42頁</ref>。[[FCバルセロナ]]移籍後しばらくして家族とともにクラウディアも呼び寄せたが、[[SSCナポリ]]に所属していた1985年1月にはアメリカ人モデルと関係を持ち、クラウディアとの関係が険悪になった。同年12月にはナポリの女性と結婚まで考えた恋愛関係に陥ったが、彼女が妊娠すると中絶することを強要した<ref>バーンズ1997、196頁</ref>。その後、クラウディアとよりを戻し、1989年11月7日に盛大な結婚式を挙げた<ref>バーンズ1997、251頁</ref>。この時には既に娘をふたりもうけていた<ref>『スポーツ20世紀①サッカー 英雄たちの世紀』、ベースボール・マガジン社、2000年、11頁</ref>。 |
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1986年9月20日、ナポリの女性が[[ディエゴ・マラドーナ・ジュニア]]を出産したが、マラドーナは自分の子どもであると認知せず、裁判で争うことになった。この時にはクラウディアも妊娠しており、それからの2年間に女児を2人授かった。クラウディアとは2004年に離婚し、同年に20歳のキューバ人女性と再婚した。ディエゴ・マラドーナ・ジュニアは2001年にU-17イタリア代表に選ばれたが、2009年からはビーチサッカーに舞台を移して活躍している。 |
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== 私生活 == |
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* 1989年11月7日に幼馴染のクラウディアと結婚、ダルマとジャニーナの二人の娘を授かった。クラウディアとは擦違いから2004年に離婚をし、同年に20歳のキューバ人女性との再婚をしたが、長女のダルマとは、試合を一緒に観戦する姿が頻繁に目撃される。ペットは犬がおり、マラドーナが愛犬に噛まれ、簡単な手術を受けたこともある。 |
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; ペレとの関係 |
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* 次女のジャニーナは[[セルヒオ・アグエロ]]の婚約者で、2008年7月に第一子の懐妊が発表され2009年2月に初孫が誕生した。 |
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自身と同じスラム街に生まれて偉大なサッカー選手になった[[ペレ]]には幼少期から憧れを抱いており、1978年にはペレを訪ねて話をするためにリオデジャネイロ巡礼の旅に出た<ref name="バーンズ128頁">バーンズ1997、128頁</ref>。[[1979 FIFAワールドユース選手権]]南米予選で活躍したことでブラジルメディアがマラドーナのことを「ペレ以来の逸材」と称賛した<ref>バーンズ1997、70頁</ref>。[[1982 FIFAワールドカップ]]で失望しか残せなかったことからペレ本人に批判され、この後は彼に対して嫌悪感情を抱くようになった<ref name="バーンズ128頁"></ref>。折に触れて互いを批判し合っているが、『10番の夜』(後述)にペレがゲスト出演し、ペレとマラドーナのどちらが偉大だったか聞かれた際には「私の母は私だと言うし、ペレの母はペレだと言うだろう」と模範解答を答えた<ref>ウィリアムズ2007、242頁</ref>。 |
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ペレとはしばしば比較される<ref>ウルフェルト・シュレーダー「PELE VS MARADONA 新旧キングを徹底比較 ペレVSマラドーナ」『イレブン』、日本スポーツ出版社、1988年2月号</ref> <ref>『ペレ自伝』伊藤淳訳、白泉社、2008年、365頁</ref>。2000年にはFIFAによる20世紀最優秀選手が発表されることになったが、FIFA公式サイトによるインターネット投票ではマラドーナが1位(ペレが2位)の得票を得たのにもかかわらず、FIFAの役員を始めとしたサッカー関係者による投票では3位(ペレが1位)にとどまり、双方の結果に対しブラジルとアルゼンチンの両国間で激しい論争となった。FIFAは最終的にペレをFIFA選考委員会による最優秀選手とし、マラドーナはインターネット投票による最優秀選手として賞を分け合うことに決めた<ref>{{cite web|url=http://www.fcjapan.co.jp/news/001212_07.html |title=20世紀最優秀選手にペレとマラドーナ |publisher=FC JAPAN |date= |accessdate=2010-09-12}}</ref>。 |
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* 近年まで娘達とは自身の薬物乱用、育児放棄などもあってキスをするのを拒んでいたというほど深刻な確執が存在していた。自身もドキュメンタリー映画の劇中で「俺の最大の過ちは娘達の成長を見ることができなかったこと」と嘆いていたが、自身が司会を勤める番組においてアシスタント、観客がマラドーナに「パパ、愛してる」という娘達のメッセージの入ったTシャツを見せるなど、現在では完全に和解に成功した。 |
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* ナポリ時代に愛人との間にもうけた隠し子[[ディエゴ・マラドーナ・ジュニア]]も、イタリアU-16代表に参加するなど活躍している。 |
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; カストロとの関係 |
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* マラドーナはイタリアのナポリにいた頃、ジュリアーノ・ファミリーという[[カモッラ]](イタリアのマフィア)の構成員と交際があった。決定的な証拠として捜査当局が構成員の家からマラドーナと構成員が一緒に写っている写真を見つけたことだった。マラドーナは「カモッラとは知らなかった」と弁解したが、何年も付き合いがあった事は公然の秘密で、その言い訳を信じる者は少ない。 |
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1987年7月28日に[[フィデル・カストロ]][[キューバの国家元首|キューバ議長]]と初めて対面して以来<ref>陣野俊史「あなたが右? 左ウイングであるべきでしょう」『現代思想』、青土社、2008年5月臨時増刊号、192頁</ref>友人関係を築いており、1989年の自身の結婚式にはカストロを招待した<ref>陣野俊史「あなたが右? 左ウイングであるべきでしょう」『現代思想』、青土社、2008年5月臨時増刊号、194頁、結局カストロは参列しなかった</ref>。現役引退後、ウルグアイ滞在中に心臓発作を起こした時にはカストロを頼ってキューバの医療施設に入所し<ref>ウィリアムズ2007、239頁</ref>、その後数年間はカストロの世話になった。『10番の夜』の12回目放送ではカストロにプレゼントされたジャケットを羽織って登場し、カストロに対する思いや自身の思想観を語った<ref name="現代思想199頁"></ref>。 |
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; カモッラ一家との関係 |
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* 選手生活の晩年に、素行の悪さ、薬物使用などのスキャンダルがマスコミのターゲットとなり、サッカー以外の場面で世間を騒がせるようになった。 |
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[[SSCナポリ]]への移籍金はナポリのマフィア組織[[カモッラ]]一家によって捻出されたという説がある<ref>バーンズ1997、177頁</ref>。1986年にカモッラ一家の中の一族であるジュリアーノ・ファミリーと初対面し、その後はジュリアーノ家の結婚式やカモッラ一家のパーティに熱心に参加した<ref>バーンズ1997、186頁</ref>。1991年初頭、カモッラ一家の手の内にある売春宿から相当量のコカインを入手している事実が発覚し、マフィアの殺し屋とともに麻薬売買に手を出しているというマフィア側の供述とともに法的な追及がなされた<ref>バーンズ1997、273頁</ref>。 |
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; メッシとの関係 |
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* 2006年、[[2006 FIFAワールドカップ|W杯ドイツ大会]]では、アルゼンチン代表のサポーターとして、ユニフォームを頭上で振り回しながら娘と一緒に応援する姿が放送されている。 |
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左利きで小柄であること、ドリブルとスピードにおいてずば抜けていること、FCバルセロナでのプレー経験があること、アルゼンチン人であること、A代表デビュー戦が[[サッカーハンガリー代表|ハンガリー]]戦であることなど、[[リオネル・メッシ]]とマラドーナにはいくつかの共通点がある<ref>ルーカ・カイオーリ『メッシ -169センチの本気』、井上知訳、東邦出版、2010年、132頁</ref>。2007年4月18日の[[FCバルセロナ]]対[[ヘタフェCF]]戦において[[リオネル・メッシ]]がマラドーナの「5人抜き」ドリブルそっくりのプレーを見せ、メッシは「ゴールはディエゴ(マラドーナ)に捧げる」と発言したが、マラドーナは「比較は大げさすぎる。俺のゴールとは関係ない」と冷たくあしらった<ref>ルーカ・カイオーリ『メッシ -169センチの本気』、井上知訳、東邦出版、2010年、125-126頁</ref>。同年6月9日のバルセロナ・ダービーにおいてメッシは「神の手」ゴールそっくりのプレーを見せた<ref>ルーカ・カイオーリ『メッシ -169センチの本気』、井上知訳、東邦出版、2010年、127頁</ref>。 |
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=== メディアとの関係 === |
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== エピソード == |
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1996年、イギリスのフィナンシャル・タイムズ紙の記者ジミー・バーンズによってマラドーナの評伝が出版されたが<ref>ウィリアムズ2007、203頁</ref>、薬物使用問題や[[国際サッカー連盟|FIFA]]の権力構造について踏み込んだ追及をしているため、アルゼンチン国内では出版を快く思われなかった<ref>バーンズ1997、346頁</ref>。2000年には自伝が出版され、それ以後もマラドーナに関する多数の著作が世に出ている。 |
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[[ファイル:Boca diego retro.jpg|thumb||180px|1981年のマラドーナ]] |
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* 実弟の[[ウーゴ・マラドーナ|ウーゴ・エルナン・マラドーナ]]は、[[鳥栖フューチャーズ|PJMフューチャーズ]]・[[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]の[[アビスパ福岡]]・[[コンサドーレ札幌]]でもプレーしていた。 |
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* その兄ディエゴ本人も、PJMフューチャーズがJリーグ入りする条件として「マラドーナの参加」を協会から求められ、契約寸前まで行くが麻薬スキャンダルで消滅。 |
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* [[SSCナポリ]]ではマラドーナの功績を称え、彼が背負った背番号10を[[永久欠番]]としている。 |
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* W杯ドイツ大会終了後はアルゼンチン代表の次期代表監督候補として名前が挙がったこともあった(2008年11月に同監督に就任)。 |
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* スパイク契約はずっと[[プーマ]]であった。日本においても、彼の影響でプーマのスパイクを使用する選手が多かった。 |
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: しかし、契約の関係で公にはなっていないが、ラインを黒く塗りつぶして、[[ミズノ]]や[[アディダス]]のスパイクを履いていた事もあった。 |
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* 同時期のアルゼンチン代表選手、[[ラモン・ディアス]]とは犬猿の仲といわれている。 |
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* [[ピーター・シルトン]]の引退試合に自分を呼んでくれなかったことを恨んでいるらしい。 |
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* [[2005年]]に放送された『10番の夜』というテレビ番組のMCとして活躍。同番組は最高視聴率34.9%を記録し常時視聴率が30%を超えるなど人気番組となり、日本([[GyaO]]など、[http://www.maradona.jp 日本語版サイト])を含む各国でも放送される。また同番組上にて'''神の手はハンドだった'''と自らコメントしている。自分に駆け寄ってこないチームメイトに自分から抱きつき、祝福するふりをしろと言った所、チームメイトは『これって万引きだよね』と発言し動揺していたらしい。 |
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* マラドーナの生き様を歌った「神の手」 (La mano de Dios) という歌もあり、アルゼンチンではこの曲も非常に人気が高い。前述の『10番の夜』の第1回放送ではマラドーナ自身がこれを歌って登場した([http://www.youtube.com/watch?v=GYuJj6aP5zU 出典]。なお、本人が歌っているので、歌詞の一部が変更されている。たとえば、En una villa nació(スラム街で彼は生まれた)→En una villa nací(スラム街でオレは生まれた))。また、アルゼンチンのバンドやソロシンガーの多くが彼に捧げる歌を製作した。 |
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* 政治的発言も多いことで知られる。[[2005年]]にアルゼンチンの[[マル・デル・プラタ]]で米州機構の会議が行われた際には、同市のサッカー場で行われた反ブッシュ集会に参加し、[[ベネズエラ]]大統領である[[ウーゴ・チャベス]]の演説のあとに「[[ジョージ・ウォーカー・ブッシュ|ブッシュ]]を倒そう!」と発言[http://news.bbc.co.uk/2/hi/americas/4407300.stm 出典]。また、[[キューバ]][[国家評議会議長]]である[[フィデル・カストロ]]とも親密な関係にある。 |
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* また、[[プラティニ]]がボールでできることはマラドーナは[[オレンジ]]でできるなどと言われるほど。相手サポーターの投げたオレンジでリフティングを始めたこともある。 |
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* 一時期[[ボランチ]]や[[リベロ (サッカー)|リベロ]]も経験し、守備能力は[[フォワード (サッカー)|フォワード]]にしては高いといわれている。 |
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* アルゼンチンでは話題を盛り上げる為、マラドーナを喜ばしく思わない人などが、しばしば嘘の死亡事故を報道し、誤解を招く。 |
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* 1980年代後半に[[アサヒ飲料]]の缶コーヒーのCMに出た。イタリア在住時にサッカー競技場で撮った。 |
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* ブラジルの清涼飲料水メーカーの[[コマーシャルメッセージ|CM]]に出演。[[サッカーブラジル代表|ブラジル代表]]として国歌を歌っている所を夢から覚め「悪夢だ・・・」と嫌悪感に悩まされる内容の物だった。 |
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* 上記の通り現役を通して悪童として名を馳せた。薬物、ドーピング、マフィアとの関係だけでなく自分を批判した評論家が出ているテレビ番組に突然乱入して新聞紙を口に突っ込んだり、代表から外された腹いせに相手のチームを公然と応援したり、[[ペレ]]や大統領をも巻き込んだ移籍劇を演じるなど枚挙にいとまがない。 |
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* 『10番の夜』ではMCという肩書きだが、アニメ、美人女優を招いてのプチメロドラマ、ダンス、[[エルナン・クレスポ]]らを招いて行ったゲームでは強引に判定を覆すなど、やりたい放題である。 |
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* 地元には[[マラドーナ教]]という[[宗教]]まである。 |
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* 2009年にはフランス・スペイン合作、[[エミール・クストリッツァ]]監督作で自身のドキュメント映画『[[マラドーナ (映画)|マラドーナ]]』が公開された。 |
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* 2010年10月26日、南アフリカ大会の順々決勝戦でアルゼンチン代表がドイツ代表に敗北すると予言した[[タコ]]「[[パウル (タコ)|パウル]]」死亡のニュースに対し、「お前が死んで嬉しいよ」と自身の[[Twitter]]上でつぶやいたと報道された。<ref>[http://sankei.jp.msn.com/sports/soccer/101027/scr1010271454009-n1.htm 【海外サッカー】マラドーナがパウル君の死に過激なつぶやき 「このタコ野郎、お前が死んでうれしい」]産経新聞 2010.10.27 14:51</ref> |
|||
2001年にはイタリアのマルコ・ポンティ([[:en:Marco Ponti|Marco Ponti]])監督作の映画『サンタ・マラドーナ』が公開された<ref>堤康徳「聖マラドーナの奇蹟」『ユリイカ』、青土社、2002年6月5号、200頁</ref>。2009年にはフランス・スペイン合作、[[エミール・クストリッツァ]]監督作のドキュメント映画『[[マラドーナ (映画)]]』が公開された<ref>{{cite news |url=http://www.afpbb.com/article/entertainment/movie/2394134/2951858 |title=カンヌ映画祭『Maradona by Kusturica』上映会にクストリッツァ監督、マラドーナ登場 |publisher=AFP BB News |date=2008-05-21 |accessdate=2010-11-04}}</ref>。 |
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== 語録 == |
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{{出典の明記|section=1|date=2008年7月}} |
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2005年に放送されたテレビ番組『10番の夜』では司会を務め、スポーツ選手、俳優、タレント、映画監督など、マラドーナの顔が利くさまざまな分野の著名人が出演した<ref>陣野俊史「あなたが右? 左ウイングであるべきでしょう」『現代思想』、青土社、2008年5月臨時増刊号、196頁</ref>。サッカー選手では[[ペレ]]、[[ジネディーヌ・ジダン]]、[[アリエル・オルテガ]]、[[リオネル・メッシ]]などが出演している<ref name="現代思想199頁">陣野俊史「あなたが右? 左ウイングであるべきでしょう」『現代思想』、青土社、2008年5月臨時増刊号、199頁</ref>。 |
|||
* 「俺がしたドーピングは努力だけだ」(1994年W杯ドーピング疑惑の渦中で) |
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* 「俺は多くの過ちを犯したが、サッカーボールは汚れない(サッカーのせいではないという意)」(引退会見にて) |
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政治的発言が多いことで知られ、2005年に米州機構会議が行われた際には、同市のサッカー場で行われた反[[ジョージ・ウォーカー・ブッシュ|ジョージ・W・ブッシュ]]集会に参加し、ベネズエラの[[ウーゴ・チャベス]]大統領の演説のあとに「ブッシュを倒そう!」と発言した<ref>{{cite news |url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/americas/4407300.stm |title=Protesters mass to confront Bush |publisher=BBC Sport |date=2005-11-04 |accessdate=2010-11-04}}</ref>。 |
|||
* 「歩く時は使うよ」(「君は左足ばかり使うけど、右足は使わないのかい?」と聞かれ) |
|||
* 「ペレは天才だが、マラドーナは神だ」 |
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== プレースタイルと戦術 == |
|||
* 「もし天国にもサッカーがあって、そこでプレーできるなら嬉しいね。ただ、ペレにはいて欲しくないね」 |
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; 選手時代のプレースタイル |
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* 「金玉を食ったからサッカーがうまくなった」 |
|||
身長は160cm台半ばと小柄でずんぐりとした体格であるが、フィジカルが強靭で<ref name="千田善">千田善『ワールドカップの世界史』みすず書房、2006年、107頁</ref>ボディバランスと洞察力に優れ<ref>クリストファー・ヒルトン、イアン・コール『南米サッカーのすべて』、野間けい子訳、DAI-X出版、2002年、304頁</ref>、卓越したテクニックとパスセンスを持っている<ref>『スポーツ20世紀①サッカー 英雄たちの世紀』、ベースボール・マガジン社、2000年、6頁</ref>。ほとんどすべてのプレーを左足一本で行い、前述の「五人抜き」ドリブルの際も左足しかボールに触れていない<ref name="千田善"></ref>。類稀な得点能力を持っており、フリーキックも得意である。 |
|||
* 「ペレの母ちゃんに訊いたらペレの方が上だというだろうし、俺の母ちゃんは俺だと答えるよ」(ペレとアルゼンチンのTV番組に共演したとき、司会者に「あなたとペレ、どちらが巧いと思うか?」と訊かれ) |
|||
* 「私はサッカーボールのように太っている」(引退後に体重が激増して) |
|||
; 指導者としての戦術 |
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* 「飛んだ瞬間、目の前が真っ白になって神が僕に手を差し伸べた。あれは神の手によるゴールだ」 |
|||
[[サッカーアルゼンチン代表|アルゼンチン代表]]監督時代には[[リオネル・メッシ]]など突出した個に自由を与え、戦術を二の次にしても個人技での局面打開を目指した<ref name="2010決算号48頁"></ref>。複数の戦術を使い分けるのではなく、終始一貫して攻撃的な姿勢を貫き、準々決勝・[[サッカードイツ代表|ドイツ]]戦では劣勢に陥った時に別策がないことを露呈した<ref name="2010決算号48頁">『2010 南アフリカ・ワールドカップ決算号』、ベースボール・マガジン社、2010年、48頁</ref>。常に選手の目線に立って物事を考えるため、選手のモチベーションを上げる人心掌握術は評価されており、選手からの信頼は厚い<ref name="2010決算号49頁">『2010 南アフリカ・ワールドカップ決算号』、ベースボール・マガジン社、2010年、49頁</ref>。 |
|||
* 「あの5人抜きはイングランドの選手がフェアだったからこそやれた」 |
|||
* 「とにかくボールを預けてくれるだけでいい、あとは俺がなんとかするから」 |
|||
== 薬物と健康問題 == |
|||
* 「母国の監督をやりたい。給料なんかいらないし、今すぐでも構わない」 |
|||
; 幼少時の人工的な筋肉増強 |
|||
* 「本当のプレッシャーはゴール前やピッチにはない。いつ貧困に陥るのかという不安、そしてアルゼンチン代表としてのプレッシャー、それだけだ」 |
|||
セボリータス時代には体が小さかったことから、発育を助ける薬物やビタミンを使用して肉体改造を施した<ref>バーンズ1997、26頁</ref>。10代の頃に人工的な筋肉補強をし、その後は負傷するたびに痛み止めの注射を打って試合に出たため、トレーニングを中断するとすぐに体重が増加するという副作用が現れ<ref>バーンズ1997、250頁</ref>、怪我しやすい体質にもつながった。 |
|||
* 「おまえらはオレの[[性器]]をしゃぶってろ!」(2009年10月15日ウルグアイ戦後、マスコミに対して発言しFIFAから罰則を受ける元になった発言) |
|||
* 「俺自身あの試合は興奮した。イングランド人の財布を抜き取ってバカにしてやった気分だ」(1986年W杯 イングランド戦の「神の手」「五人抜き」について) |
|||
; コカイン使用問題 |
|||
* 「ペレは博物館に帰れ」(ペレがマラドーナに対して優れた指揮官では無いと発言して) |
|||
[[FCバルセロナ]]時代にはコカイン使用疑惑が浮上した。クラブ役員によって隠蔽工作が行われたために在籍時には明るみにされなかったが、1996年1月に「私が初めてコカインを試したのはバルセロナにいた1982年だ」と自白した<ref>バーンズ1997、149-150頁</ref>。[[1986 FIFAワールドカップ]]でマラドーナは3度のドーピング検査を受け、いずれも陰性と診断されたが、アルゼンチン代表の不正薬物使用疑惑は大会期間中常に付きまとった。1991年初めにはコカイン所持と売買の容疑で逮捕され<ref>バーンズ1997、270頁</ref>、チームが行った抜き打ちのドーピング検査にも引っ掛かったことから15ヶ月間の出場停止処分を下された。彼はのちに「ナポリでは麻薬はいたるところにあり、ウェイターがトレーに乗せて持ってくるように簡単に手に入った」と述べている<ref>バーンズ1997、278頁</ref>。1991年4月からは精神科医をともなったリハビリ作戦が進められ、限られた者しか面会できない状態で数ヶ月にも渡って治療が行われた<ref>バーンズ1997、282-283頁</ref>。 |
|||
; ブラジル戦での睡眠薬混入事件 |
|||
[[1990 FIFAワールドカップ]]決勝トーナメント1回戦の[[サッカーブラジル代表|ブラジル]]戦では1アシストを決めて勝利したが、敗れたブラジルが「試合中にマラドーナからブランコ([[:en:Branco (footballer)|Branco]])に渡されたコップの水に薬が入っていた」と主張した。後にマラドーナ自身が給水ボトルに睡眠薬を混ぜていたことを暴露して物議を醸した<ref>{{cite news |url=http://sportsnavi.yahoo.co.jp/soccer/wcup/10southafrica/text/201007070006-spnavi.html |title=涙と怒りのブラジル、心はすでに2014年へ |publisher=スポーツナビ |date=2010-07-09 |accessdate=2010-11-4}}</ref>。 |
|||
; エフェドリン検出による大会追放 |
|||
1994年の[[1994 FIFAワールドカップ]]では2戦目の[[サッカーナイジェリア代表|ナイジェリア]]戦後に受けたドーピング検査でエフェドリンを含む5種類の禁止薬物が検出され<ref>ウィリアムズ2007、201頁</ref>、特に国外のメディアから強い非難を受けた。マラドーナが政治的利用価値の高い選手であることから、彼に対するペナルティの軽重にはFIFAの内部でもさまざまな意見があったが、大会の残り試合への出場停止処分が下された<ref>バーンズ1997、320頁</ref>。その2ヶ月後の8月24日には「意図的に薬物を使用したとは認められず、薬物の構成成分が何であるかも全く知らなかった。しかし、そのような事情はあっても、マラドーナはFIFAのドーピング・コントロールに関する規則に違反している」として15ヶ月間の出場停止処分と2万フラン(約150万円)の罰金が課された<ref>バーンズ1997、324頁</ref>。 |
|||
1994年には、それ以前に犯した麻薬の使用を理由に[[キリンカップ・サッカー]]アルゼンチン代表としての日本入国を拒否された。[[ボカ・ジュニアーズ]]でプレーしていた1997年8月にはまたもやコカインの陽性反応が出て、医師に「薬物の使用を続ければ命が危ない」と告げられた<ref>ウィリアムズ2007、239頁</ref>。 |
|||
== 所属クラブ == |
== 所属クラブ == |
||
'''選手''' |
'''選手''' |
||
* 1974 |
* 1974-1980 {{Flagicon|ARG}} [[アルヘンティノス・ジュニアーズ]] |
||
* 1981 |
* 1981-1982 {{Flagicon|ARG}} [[ボカ・ジュニアーズ]] |
||
* 1982 |
* 1982-1984 {{Flagicon|ESP}} [[FCバルセロナ]] |
||
* 1984 |
* 1984-1991 {{Flagicon|ITA}} [[SSCナポリ]] |
||
* 1992 |
* 1992-1993 {{Flagicon|ESP}} [[セビージャFC]] |
||
* 1993 |
* 1993 {{Flagicon|ARG}} [[ニューウェルズ・オールドボーイズ]] |
||
* 1995 |
* 1995-1996 {{Flagicon|ARG}} [[ボカ・ジュニアーズ]] |
||
'''監督''' |
'''監督''' |
||
* 1994 |
* 1994 {{Flagicon|ARG}} デポルティーボ・マンディージュ・デ・コリエンテス |
||
* 1995 |
* 1995 {{Flagicon|ARG}} [[ラシン・クラブ]] |
||
* 2008 |
* 2008-2010 {{Flagicon|ARG}} '''[[サッカーアルゼンチン代表|アルゼンチン代表]]''' |
||
== 獲得タイトル == |
== 獲得タイトル == |
||
=== 代表 === |
=== 代表 === |
||
; {{Flagicon|ARG}} U-20アルゼンチン代表 |
|||
* FIFA ワールドカップ 1回(1986) |
|||
* FIFA ワールドユース |
* [[FIFA U-20ワールドカップ|FIFAワールドユース選手権]]:1回(1979) |
||
* [[FIFA U-20ワールドカップ|FIFAワールドユース選手権]]最優秀選手:1回(1979) |
|||
; {{Flagicon|ARG}}アルゼンチン代表 |
|||
* [[FIFAワールドカップ]]:1回(1986) |
|||
* [[FIFAワールドカップ]]最優秀選手:1回(1986) |
|||
* [[アルテミオ・フランキ・トロフィー]]:1回(1993) |
|||
=== クラブ === |
=== クラブ === |
||
; {{Flagicon|ARG}} アルヘンティノス |
|||
'''ボカ・ジュニアーズ''' |
|||
* [[プリメーラ・ディビシオン (アルゼンチン)|アルゼンチンリーグ]] |
* [[プリメーラ・ディビシオン (アルゼンチン)|アルゼンチン・リーグ]]得点王:2回(1978メトロポリタン、1979メトロポリタン、1980メトロポリタン、1979全国リーグ、1980全国リーグ) |
||
; {{Flagicon|ARG}} ボカ・ジュニアーズ |
|||
'''FCバルセロナ''' |
|||
* [[プリメーラ・ディビシオン (アルゼンチン)|アルゼンチン・リーグ]]得点王:1回(1981全国リーグ) |
|||
* [[コパ・デル・レイ|スペイン国王杯]] 1回(1983) |
|||
* [[プリメーラ・ディビシオン (アルゼンチン)|アルゼンチン・リーグ]]:1回(1982) |
|||
; {{Flagicon|ESP}} FCバルセロナ |
|||
'''SSCナポリ''' |
|||
* [[コパ・デル・レイ]]:1回(1983) |
|||
* [[UEFAカップ]] 1回(1988-1989) |
|||
* [[コパ・デ・ラ・リーガ]]:1回(1983) |
|||
* [[セリエA (サッカー)|セリエA]] 2回(1986-87, 1989-90) |
|||
* [[コ |
* [[スーペルコパ・デ・エスパーニャ]]:1回(1983) |
||
* [[イタリア・スーパーカップ]] 1回(1990) |
|||
; {{Flagicon|ITA}} SSCナポリ |
|||
* グエリン・ドーロ:1回(1985) |
|||
* [[コッパ・イタリア]]:1回(1986-87) |
|||
* [[セリエA (サッカー)|セリエA]]:2回(1986-87、1989-90) |
|||
* [[セリエA (サッカー)|セリエA]] 得点王:1回(1987-88) |
|||
* [[UEFAヨーロッパリーグ|UEFAカップ]]:1回(1988-1989) |
|||
* [[スーペルコッパ・イタリアーナ]]:1回(1990) |
|||
=== 個人 === |
=== 個人 === |
||
* [[南米年間最優秀選手賞]](エル・ムンド紙):6回<ref>1986年からはエル・パイス紙による選考も行われ、そちらが公式の選考扱いになっている</ref>(1979、1980、1986、1989、1990、1992) |
|||
* FIFA20世紀最優秀選手 (people's choice) (2000) |
|||
* 記者選出アルゼンチン最優秀サッカー選手賞:4回(1979、1980、1981、1986) |
|||
* 記者選出アルゼンチン最優秀スポーツ選手賞:1回(1986) |
|||
* [[ワールドサッカー (雑誌)|世界年間最優秀選手]](ワールドサッカー誌):1回(1986) |
|||
* [[オンズドール]]:2回(1986、1987) |
|||
* [[ワールドサッカー (雑誌)|20世紀の偉大なサッカー選手100人]]2位(ワールドサッカー誌)(1999) |
|||
* 記者選出20世紀アルゼンチン最優秀スポーツ選手賞(1999) |
|||
* FIFA20世紀最優秀選手<ref>ファン投票による結果</ref>(2000) |
|||
* ゴール・オブ・ザ・センチュリー<ref>1986 FIFAワールドカップのイングランド戦で決めた2点目が選ばれた</ref>(2002) |
|||
* [[ゴールデンフット賞]]All Time Legend(2003) |
|||
* [[FIFA 100]](2004) |
* [[FIFA 100]](2004) |
||
* [[ワールドサッカー (雑誌)|20世紀の偉大なサッカー選手100人]] 2位(ワールドサッカー誌)(1999) |
|||
* [[ワールドサッカー (雑誌)|世界年間最優秀選手]](ワールドサッカー誌) 1回(1986) |
|||
* [[南米年間最優秀選手賞]](エル・ムンド紙) 2回(1979, 1980) |
|||
* FIFA ワールドカップ ゴールデンボール賞 1回(1986) |
|||
* FIFA ワールドユース ゴールデンボール賞 1回(1979) |
|||
* [[ゴールデンフット賞]](all time legend)(2003) |
|||
* アルゼンチンリーグ得点王 3回(1979, 1980, 1981) |
|||
* セリエA 得点王 1回(1987-88) |
|||
== 個人成績 == |
== 個人成績 == |
||
; 選手としての成績 |
|||
すべての所属クラブを合わせた場合の国内大会での得点率は0.526である。 |
|||
{{:利用者:Bcjp/t/fbp国内表 top|yy}} |
{{:利用者:Bcjp/t/fbp国内表 top|yy}} |
||
{{:利用者:Bcjp/t/fbp国内表 th|アルゼンチン|all}} |
{{:利用者:Bcjp/t/fbp国内表 th|アルゼンチン|all}} |
||
259行目: | 276行目: | ||
{{:利用者:Bcjp/t/fbp国内表 通算終}}490||258||66||36||32||13||588||307 |
{{:利用者:Bcjp/t/fbp国内表 通算終}}490||258||66||36||32||13||588||307 |
||
|} |
|} |
||
; 代表での年別出場試合数 |
|||
1982 FIFAワールドカップから1994 FIFAワールドカップまでの4大会に連続出場し、歴代3位タイの通算21試合に出場した。そのうち16試合でキャプテンを務めており、これはFIFAワールドカップにおける最多記録である。21試合で8得点8アシストを記録している。 |
|||
{{サッカー代表個人成績|アルゼンチン|1}} |
|||
|- |
|||
|1998||6||7 |
|||
|- |
|||
|1999||6||2 |
|||
|- |
|||
|2000||0||0 |
|||
|- |
|||
|2001||4||3 |
|||
|- |
|||
|2002||11||5 |
|||
|- |
|||
|2003||3||3 |
|||
|- |
|||
|2004||8||4 |
|||
|- |
|||
|2005||4||2 |
|||
|- |
|||
|2006||2||0 |
|||
|- |
|||
|2007||3||1 |
|||
|- |
|||
!通算 |
|||
|47||27 |
|||
|} |
|||
; 指導者としての成績 |
|||
{| class="wikitable" style="font-size:90%; text-align: center;" |
|||
|- |
|||
!rowspan="2"|チーム |
|||
!rowspan="2"|国 |
|||
!rowspan="2"|就任 |
|||
!rowspan="2"|退任 |
|||
!colspan="5"|記録 |
|||
|- |
|||
!試合数!!勝!!負!!分!!勝率 |
|||
|- |
|||
|align=left|デポルティーボ・マンディージュ |
|||
|align=left|{{Flagicon|Argentina}} |
|||
|align=left|1994年 |
|||
|align=left|1994年 |
|||
|12||1||6||5||{{#expr: 1/12 * 100 round 2}}% |
|||
|- |
|||
|align=left|[[ラシン・クラブ]] |
|||
|align=left|{{Flagicon|Argentina}} |
|||
|align=left|1995年 |
|||
|align=left|1995年 |
|||
|11||2||6||3||{{#expr: 2/11 * 100 round 2}}% |
|||
|- |
|||
|align=left|'''[[サッカーアルゼンチン代表|アルゼンチン代表]]''' |
|||
|align=left|{{Flagicon|Argentina}} |
|||
|align=left|2008年11月 |
|||
|align=left|2010年7月 |
|||
|19||14||5||0||{{#expr: 14/19 * 100 round 2}}% |
|||
|} |
|||
== 脚注 == |
== 脚注 == |
||
{{Reflist}} |
{{Reflist|2}} |
||
== 参考文献 == |
|||
* アリシア・オルティズ『マラドーナ –新たなる神話への挑戦-』、阪田由美子訳、徳間書店、1994年 |
|||
* ジミー・バーンズ『ディエゴ・マラドーナの真実』、宮川穀訳、ベースボール・マガジン社、1997年 |
|||
* リチャード・ウィリアムズ『背番号10のファンタジスタ』、町田敦夫訳、ベースボール・マガジン社、2007年 |
|||
* アンドレ・リベイロ、ヴラジール・レモス『背番号10 -サッカーに「魔法」をかけた名選手たち』、市之瀬敦訳、白水社、2008年 |
|||
* 藤坂ガルシア千鶴『マラドーナ -新たなる戦い-』、河出書房新社、2010年 |
|||
== 関連項目 == |
|||
* [[マラドーナ2世]] – 育ちやプレースタイルがマラドーナと似ているアルゼンチン人選手はマラドーナ2世と形容されることがある。 |
|||
* [[マラドーナ教]] - 1998年に創設された[[冗談宗教]]。世界中に10万人を越える信徒がいるとされている。 |
|||
* 東欧のマラドーナ - ルーマニア出身のサッカー選手、[[ゲオルゲ・ハジ]]の愛称。そのプレースタイルがマラドーナと比較された。 |
|||
* 砂漠のマラドーナ - サウジアラビア出身のサッカー選手、[[サイード・オワイラン]]の愛称。 |
|||
== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
||
{{commons|Diego Maradona}} |
{{commons|Diego Maradona}} |
||
* [http://www.diegomaradona.com/ Diego Maradona.com] |
* [http://www.diegomaradona.com/ Diego Maradona.com] |
||
* {{Twitter|Diego_Maradona}} |
|||
{{Navboxes|title = <span style="color:#FFFFFF">アルゼンチン代表 - 出場大会</span> |
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||
273行目: | 363行目: | ||
|list1= |
|list1= |
||
<span/> |
<span/> |
||
{{コパ・アメリカ1979アルゼンチン代表}} |
|||
{{1982 FIFAワールドカップアルゼンチン代表}} |
{{1982 FIFAワールドカップアルゼンチン代表}} |
||
{{1986 FIFAワールドカップアルゼンチン代表}} |
{{1986 FIFAワールドカップアルゼンチン代表}} |
||
294行目: | 383行目: | ||
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{{DEFAULTSORT:まらとな ていえこ}} |
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||
{{Link FA|es}} |
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346行目: | 435行目: | ||
[[hr:Diego Maradona]] |
[[hr:Diego Maradona]] |
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[[hu:Diego Maradona]] |
[[hu:Diego Maradona]] |
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[[hy:Դիեգո Մարադոնա]] |
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[[id:Diego Maradona]] |
[[id:Diego Maradona]] |
||
[[io:Diego Armando Maradona]] |
[[io:Diego Armando Maradona]] |
2010年11月29日 (月) 10:05時点における版
| ||||||
---|---|---|---|---|---|---|
名前 | ||||||
本名 | ディエゴ・アルマンド・マラドーナ | |||||
愛称 |
Pelusa(毛深い奴/縮れ髪) El Pibe de Oro(ゴールデンボーイ) | |||||
ラテン文字 | Diego Armando MARADONA | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | アルゼンチン | |||||
生年月日 | 1960年10月30日(64歳) | |||||
出身地 | ブエノスアイレス州,ラヌース | |||||
身長 | 166cm | |||||
体重 | 67kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW、MF | |||||
利き足 | 左足 | |||||
代表歴 | ||||||
1977-1994 | アルゼンチン | 91 (34) | ||||
■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
ディエゴ・アルマンド・マラドーナ(Diego Armando Maradona, 1960年10月30日 - )は、アルゼンチン・ブエノスアイレス州出身の元サッカー選手、サッカー指導者。アルゼンチン代表。現役時代のポジションはフォワードまたはミッドフィールダー。
アルフレッド・ディ・ステファノやペレと共に20世紀のサッカー史に名を残すスター選手である[1]。
概要
アルゼンチン・リーグ史上最年少でプロデビューし、ボカ・ジュニアーズを経て欧州に渡った。FCバルセロナではさまざまな問題に悩まされたが、SSCナポリではセリエA優勝2回、UEFAカップ優勝1回の立役者となり、「ナポリの王様」としてファンに愛された。セビージャFC、ニューウェルズ・オールドボーイズ、ボカ・ジュニアーズでの在籍は短期間に終わり、1997年に現役引退した。
1977年に歴代最年少でアルゼンチンA代表にデビューし、1979年にはU-20アルゼンチン代表としてFIFAワールドユース選手権で優勝して大会最優秀選手に選ばれた。FIFAワールドカップには1982年大会から4大会連続で出場し、1986 FIFAワールドカップではチームを牽引して優勝に導いた。準々決勝のイングランド戦で見せた「神の手」ゴールと「5人抜き」ドリブルは彼のスタイルを象徴するプレーとして後世に語り継がれている。1994 FIFAワールドカップでは大会中のドーピング検査で陽性と判定され大会から追放処分を受けた。
選手時代からたびたび違法薬物の使用が取り沙汰され、現役引退後は入退院を繰り返した。2008年にアルゼンチン代表監督に就任し、2010 FIFAワールドカップ南米予選を辛くも突破したが、本大会では準々決勝で敗れ、2010年7月に解任された。
経歴
幼少期
1960年10月30日、ディエゴ・マラドーナはブエノスアイレス南部のラヌース(Lanús)に貧しい家庭の子として生まれた。幼少時から天才サッカー少年として脚光を浴び、9歳の時にアルヘンティノス・ジュニアーズの少年チームであるセボリータス(Los Cebollitas、小さな玉葱)に入団した[2]。幼少時代はペルーサ(Pelusa、毛深い奴/縮れ髪)と呼ばれるおとなしい少年だったが[3]、10歳の時にはプロリーグ戦のハーフタイムショーでリフティングを披露して拍手喝采を浴びるほどの技術を身に付けていた[4]。1973年、12歳の時にはリバープレートから契約金200万ペソでのオファーがあったが、クラブや父親が時期尚早だと反対したためセボリータスにとどまった(マラドーナ35-36)[5] [6]。13歳の時に学校を辞めてサッカーに専念し[7]、1974年にアルヘンティノス・ジュニアーズのトップチーム昇格を果たし[8]、15歳の誕生日にはクラブからアパートが提供された[9]。
選手時代
アルヘンティノス
アルヘンティノス時代にはエル・ピベ・デ・オロ(El Pibe de Oro、ゴールデンボーイ)という愛称を授かった[10]。1976年10月20日、アルゼンチン・リーグ史上最年少の15歳11カ月でタジェレス・デ・コルドバ(Talleres de Córdoba)戦に出場し、公式戦初出場を果たした[11]。この試合はアルゼンチン代表のセサル・ルイス・メノッティ監督も観戦しており、4ヶ月後の1977年2月27日にハンガリーとの親善試合に補欠選手として招集されると、試合の大勢が決まった後に途中出場し、アルゼンチン代表の最年少出場記録を更新した[12]。同年のコパ・アメリカでは「アルゼンチンの白いペレ」として注目を集めたが、チームは最下位に終わった。
1978 FIFAワールドカップのための25人の代表候補に選ばれたが、オズワルド・アルディレスやノルベルト・アロンソ(Norberto Alonso)など10番タイプの選手が多数いたことや[13]、自国開催の重圧によって彼が押しつぶされるのを嫌がったメノッティ監督の判断で22人の本大会出場メンバーから外された[14]。1978年には21得点を決めてプリメーラ・ディビシオン(1部)の得点王に輝いた。1979年夏に日本で開催されたFIFAワールドユース選手権では、アルゼンチンを優勝に導くとともに大会最優秀選手に選ばれ、その直後に行われたA代表のスコットランド戦でA代表初得点を記録した[15]。同年の南米年間最優秀選手に選ばれ、12月にはイングランドのシェフィールド・ユナイテッドFCが移籍金90万ドルのオファーを出し[16]、ユヴェントスやFCバルセロナも彼を追いかけたが、アルヘンティノスが首を縦に振らなかった。
ボカ・ジュニアーズ
1981年2月13日、幼少時からの熱狂的なファンであったボカ・ジュニアーズへのレンタル移籍交渉がまとまった。アルヘンティノスへ400万ドルの移籍金が支払われ、さらにボカはアルヘンティノスの負債110万ドルを肩代わりすることになった。4月10日のスーペル・クラシコではボカの全3得点を挙げる活躍でリバープレートを下し、移籍してすぐにファンのアイドルになった[17]。この年にはリーグ優勝を果たしたが、マラドーナ獲得時の莫大な移籍金などが負担となってボカの財政状況は悪化し、また彼は20歳にしてリーグ戦200試合以上に出場していたことから疲労がピークに達していた。1982年5月末、約700万ドルの移籍金でスペインのFCバルセロナに移籍することで合意に達した[18]。1982 FIFAワールドカップでは1次リーグ2戦目のハンガリー戦で2得点したが、2次リーグのブラジル戦ではジョアン・バティスタ(João Batista da Silva)の執拗なマークに苦しみ、彼への報復行為によってレッドカードを受け、1-3で大敗して大会を去った。
FCバルセロナ
1982年6月4日、FCバルセロナとの移籍契約に調印し、アルヘンティノスに移籍金510万ドル、ボカに移籍金220万ドルが分割払いで支払われた[19]。 カンプ・ノウで行われたお披露目にはクラブ新記録の5万人が詰めかけた。シーズン序盤のバルセロナ・ダービーでは試合唯一となる得点を決め、その2日後のUEFAカップウィナーズカップ決勝・レッドスター・ベオグラード戦では2得点を決めて華々しいスタートを切ったが[20]、度重なる夜遊びやコカイン使用疑惑でクラブから不信感を持たれ、ウイルス性肝炎や鬱状態などの病気、アンドニ・ゴイコチェアからタックルを受けた際の左膝腱損傷などにも悩まされた。1983-84シーズンのコパ・デル・レイ決勝・アスレティック・ビルバオ戦で相手選手を殴って乱闘を引き起こしたことが決定打となり、クラブは彼の放出を決断した[21]。
SSCナポリ
1984年6月29日、イタリア・セリエAのSSCナポリへの移籍が実現し、サッカー史上最高額の推定移籍金1300万ドルがFCバルセロナに支払われた[22]。7月5日にスタディオ・サン・パオロで行われたお披露目会見にはヘリコプターからピッチに降り立つパフォーマンスで登場し[23]、7万人のサポーターが駆け付けたこの日の入場料収益は7000万リラに上った。サポーターから「ナポリの王」と呼ばれて愛され、シーズンチケットが瞬く間に売れたことから、莫大な移籍金および給料を払ってもなおクラブの財政は潤った。チロ・フェラーラ、カレカらとともにクラブの黄金時代を築き上げ、1984-85シーズンは14得点を決めて得点ランキング3位に入り、1985-86シーズンはチームをリーグ3位に押し上げた。
1986 FIFAワールドカップ南米予選のコロンビア代表戦では相手サポーターが投げたオレンジを足の先で受け止め、突然リフティングを始めた[24]。この時期のアルゼンチン代表の成績は芳しいものではなかったが、1986 FIFAワールドカップが始まるとマラドーナが軸となって華々しい活躍を見せた。5得点5アシストの大活躍でチームを優勝に導いた事から、同大会は「マラドーナのための大会」と呼ばれ、大会最優秀選手に輝いた。6月22日に行われた準々決勝のイングランド戦試合前には3年前のフォークランド紛争(マルビナス戦争)の因縁もあって両国メディアの舌戦が続いたが、その試合はいわゆる「神の手」ゴールと「5人抜き」ドリブルを記録した試合として知られている。後半4分、ペナルティエリアに走りこんだマラドーナと浮き玉を処理しようとした相手GKピーター・シルトンと交錯したが、マラドーナは空中のボールを素早く左手ではたき、ボールはそのままゴールインした。シルトンをはじめイングランドの選手はマラドーナのハンドを主張したが、審判は彼の得点を認めた。その4分後にはセンターライン付近でボールを奪い、ドリブルで5人を抜いて無人のゴールにボールを蹴りこんだ。前者の得点については「本当は手で触れたのだが、神の思し召しにより許された」という趣旨の発言をしたことから「神の手」ゴールという呼称が広まった[25]。2007年には後者の得点がイギリスのワールドサッカー誌によって史上最優秀得点に選ばれた[26]。ラモン・ディアスとマラドーナは犬猿の仲だとされ、1986 FIFAワールドカップと1990 FIFAワールドカップへのディアスの出場をマラドーナが妨げたと言われることがある。しかし、マラドーナは自伝の中で不仲説を否定し、カルロス・ビラルド監督にディアスの招集メンバー入りを進言したと主張している[27]。
1986-87シーズンはクラブ史上初のセリエA優勝を飾ったが、愛人がマラドーナの子どもを出産したシナグラ事件(後述)などもあって気分が不安定で、子どもの認知を渋ったために地元メディアから攻撃された[28]。1987-88シーズンには15得点を決めてセリエA得点王に輝き、1988-89シーズンにはUEFAカップを獲得したが、1988年以降は負傷で試合を欠場する頻度が増え、監督やクラブ会長との確執も取り沙汰された。1990 FIFAワールドカップを控えた1989-90シーズンは2度目のリーグ優勝を飾った。本大会では不調といわれながらもグループリーグ全試合に出場し、ソビエト連邦戦では自陣ペナルティエリア内で手を使ってピンチを防ぐ場面が見られた。決勝トーナメント1回戦のブラジル戦では後半終了間際に決勝点をアシストし、準々決勝はユーゴスラビア代表にPK戦の末に勝利した。準決勝は地元イタリアとの対戦であったが、試合前にイタリアファンを煽るような発言をしたことや、PK戦で最後に蹴って勝利を決めたのがマラドーナであったことから、イタリア国民やSSCナポリファンとの関係が悪化した。敗れた西ドイツとの決勝戦では試合終了とともに涙を流し、イングランド代表のポール・ガスコインが準決勝で流した涙とともに人々に記憶されている[29]。1990年から1991年にかけて、麻薬使用やマフィアとの関連が報道されてマスコミから集中砲火を浴び、イタリアサッカー協会から15ヶ月間の出場停止処分を受けた。喧嘩別れのような形になったが、後にSSCナポリはマラドーナの功績を称えて彼の背番号10を永久欠番とした[30]。SSCナポリ時代には税金を滞納し、税務局から3700万ユーロ(約40億円)もの支払いを求められており、イタリアに入国する際にはその都度金品を没収されている[31] [32]。
選手生活の晩年
1991年にはJリーグ発足に向けて補強を進めていた名古屋グランパスエイトへ、総額15億円の契約で入団がほぼ内定していた[33]が、薬物問題により日本行きは立ち消えとなり、名古屋はマラドーナにかわる補強の目玉としてゲーリー・リネカーを獲得することになる。
その後、FIFAが移籍交渉に介入したこともあり、1992年9月にスペインのセビージャFC移籍が決定した。チケットの売り上げという点ではクラブに貢献したが、荒んだ生活や怠慢な練習態度などから監督と対立し、26試合に出場してわずか5得点しか挙げることができなかった[34]。
1993年10月、セビージャFCとの契約の残り期間に対して400万ドルを支払う条件でアルゼンチンのニューウェルズ・オールドボーイズに移籍した[35]。アルフィオ・バシーレ監督によってアルゼンチン代表にも復帰したが、契約問題のこじれからニューウェルズでは7試合しか出場できず、練習不参加や試合欠場などの理由により1994年2月に解雇された。
1994年2月には自身の別荘で空気銃を乱射する事件を起こして負傷した記者によって告訴され、アルゼンチンサッカー協会のグロンドーナ会長などはマラドーナの罪を重く見たが、アルゼンチン国民やメネム大統領はより同情的で、法的な処置は未決定となった[36]。1994 FIFAワールドカップでは1次リーグで2連勝したが、ギリシャ戦後のドーピング検査で陽性と判定され、大会からの追放と15ヶ月の出場停止処分を受けて世界中に衝撃を与えた。出場停止期間中にはデポルティーボ・マンディージュ・デ・コリエンテスとラシン・クラブで監督を経験したが、マンディージュを降格させるなど、期待された成績は残せなかった。1995年にボカ・ジュニアーズへ復帰し、1997年10月30日、自身の37歳の誕生日に現役引退を発表した。
引退後
現役引退後は薬物依存や不摂生による体重増加などが原因で入院・手術などを繰り返し、必ずしも健康体とは言えない状態であった。2004年4月にはボカの試合観戦中に突然倒れ、集中治療室で生死の境をさまよった。このときの彼の体重は122kgにも達していたが、回復後に食を細くするための胃切除術を受け、70kg台半ばまで減量した[37]。
アルゼンチン代表監督時代
2008年10月16日にアルゼンチン代表のアルフィオ・バシーレ監督が辞任すると、マラドーナは後任の座に自薦し、10月28日に代表監督就任が発表された[38]。11月4日に就任記者会見が行われ、ハビエル・マスチェラーノのキャプテン任命とカルロス・ビラルドのテクニカル・セクレタリー(サッカー協会とチームの架け橋役)就任が発表されたが、ヘッドコーチに人事は明かされなかった[39]。マラドーナの監督就任に関してアルゼンチン国内の反応は冷ややかだったが、代表選手からは期待と賛同の声が上がり、初采配となったスコットランドとの親善試合に1-0で勝利したことからメディアからもまずまずの評価を得た。2009年1月にはスペイン、イングランド、イタリアなどを訪問し、欧州各国に散らばるアルゼンチン代表選手を視察した[40]。
2009年3月、テレビの深夜番組でチームの中心選手であるフアン・ロマン・リケルメのプレーに苦言を呈し、その発言に敏感に反応したリケルメが代表引退を表明する問題が起こった[41]。就任後初となる2010 FIFAワールドカップ・南米予選のベネズエラ戦には4-0で快勝したが、4日後のボリビア戦は高地の利を得た相手に手も足も出ず、1-6で大敗してメディアからの批判を浴びた。5月の親善試合には国内組のみから選手を招集して臨み、それ以後は海外組と国内組の融合を重要視するようになった[42]。
2009年6月に行われたFIFAワールドカップ予選でコロンビアに辛勝しエクアドルに惜敗し、9月の予選でブラジルに敗れてアルゼンチンが長年継続してきたホームでの連続無敗記録(34戦)が途切れたため[43]、元代表選手やファンから厳しい批判を受けた。パラグアイに敗れてついに予選の自力突破圏内(4位以内)から落ちたが、10月のペルー戦ではマルティン・パレルモのロスタイム弾で辛くも勝利し、最終節のウルグアイ戦では虎の子の1点を守り抜いて、予選4位でのFIFAワールドカップ本大会出場を決めた[44]。ウルグアイ戦後の記者会見では、これまで数々の批判を浴びせて来たメディアに対して「女性の方々には失礼するが…アレでもしゃぶってろ。お前らは好きなだけしゃぶり続けてればいいんだよ。俺をコケにしやがったからな」と最大級の侮辱語を並べたため、メディアから激しい非難の声が上がった[45]。記者会見での出来事はFIFAからも問題視され、練習参加などを含む2ヶ月間のサッカー活動禁止と、2万5000スイスフラン(約220万円)の罰金処分を受けた[46]。
2010 FIFAワールドカップ本大会グループリーグ初戦のナイジェリア戦は90分間ベンチに座ることなく選手たちに指示を与え続け[47]、勝利後の記者会見ではリンゴをかじりながら質問に答えた[48]。2戦目の韓国戦では采配が冴え、後半途中から起用したセルヒオ・アグエロが2得点に絡んで4-1と格の違いを見せつけた[49]。3戦目のギリシャ戦でも途中出場のマルティン・パレルモが駄目押しとなる2点目を決めて勝利し[50]、グループリーグを3戦全勝の首位で通過した。
決勝トーナメント1回戦のメキシコ戦はカルロス・テベスの疑惑の残る先制点で試合の主導権を握り、3-1で勝利した[51]。準々決勝のドイツ戦は試合開始早々に失点し、以後は焦りから攻撃に逸るマラドーナの心が見透かされているかのように、カウンターから立て続けに失点した[52]。ハーフタイムの指示や後半の選手交代でも流れを変えることができず、0-4で惨敗して大会からの敗退が決定した[52]。初采配から24戦を指揮して18勝6敗の成績を残し、引き分けは1試合もなかった[53]。
当初はアルゼンチンサッカー協会、マラドーナとも留任の意向だったが、コーチ陣の処遇を巡って対立し、2010年7月27日に解任された[54]。
人物
家族
- 家族
母方の祖母はイタリア・ナポリ出身の移民であり[55]、父と母はともにアルゼンチン北東部のコリエンテス州エスキーナの出身である。マラドーナは8人兄弟姉妹の5番目であり、かつ3人の男子のうちの長男である[56]。実弟のウーゴ・マラドーナは日本のPJMフューチャーズ、アビスパ福岡、コンサドーレ札幌などでプレーしたサッカー選手である。
- 2人の娘たち
自身の薬物乱用や育児放棄などもあり、娘たちとの間にはキスを拒まれるほど深刻な確執が存在していた。その後和解し、2006 FIFAワールドカップではユニフォームを頭上で振り回しながら一緒に応援する姿がテレビカメラに写された。次女はセルヒオ・アグエロの婚約者で、2009年2月に初孫が誕生した。
交友関係
- 女性関係
15歳の時に近所に住んでいたクラウディアと知り合い、すぐに深い関係になった[57]。FCバルセロナ移籍後しばらくして家族とともにクラウディアも呼び寄せたが、SSCナポリに所属していた1985年1月にはアメリカ人モデルと関係を持ち、クラウディアとの関係が険悪になった。同年12月にはナポリの女性と結婚まで考えた恋愛関係に陥ったが、彼女が妊娠すると中絶することを強要した[58]。その後、クラウディアとよりを戻し、1989年11月7日に盛大な結婚式を挙げた[59]。この時には既に娘をふたりもうけていた[60]。
1986年9月20日、ナポリの女性がディエゴ・マラドーナ・ジュニアを出産したが、マラドーナは自分の子どもであると認知せず、裁判で争うことになった。この時にはクラウディアも妊娠しており、それからの2年間に女児を2人授かった。クラウディアとは2004年に離婚し、同年に20歳のキューバ人女性と再婚した。ディエゴ・マラドーナ・ジュニアは2001年にU-17イタリア代表に選ばれたが、2009年からはビーチサッカーに舞台を移して活躍している。
- ペレとの関係
自身と同じスラム街に生まれて偉大なサッカー選手になったペレには幼少期から憧れを抱いており、1978年にはペレを訪ねて話をするためにリオデジャネイロ巡礼の旅に出た[61]。1979 FIFAワールドユース選手権南米予選で活躍したことでブラジルメディアがマラドーナのことを「ペレ以来の逸材」と称賛した[62]。1982 FIFAワールドカップで失望しか残せなかったことからペレ本人に批判され、この後は彼に対して嫌悪感情を抱くようになった[61]。折に触れて互いを批判し合っているが、『10番の夜』(後述)にペレがゲスト出演し、ペレとマラドーナのどちらが偉大だったか聞かれた際には「私の母は私だと言うし、ペレの母はペレだと言うだろう」と模範解答を答えた[63]。
ペレとはしばしば比較される[64] [65]。2000年にはFIFAによる20世紀最優秀選手が発表されることになったが、FIFA公式サイトによるインターネット投票ではマラドーナが1位(ペレが2位)の得票を得たのにもかかわらず、FIFAの役員を始めとしたサッカー関係者による投票では3位(ペレが1位)にとどまり、双方の結果に対しブラジルとアルゼンチンの両国間で激しい論争となった。FIFAは最終的にペレをFIFA選考委員会による最優秀選手とし、マラドーナはインターネット投票による最優秀選手として賞を分け合うことに決めた[66]。
- カストロとの関係
1987年7月28日にフィデル・カストロキューバ議長と初めて対面して以来[67]友人関係を築いており、1989年の自身の結婚式にはカストロを招待した[68]。現役引退後、ウルグアイ滞在中に心臓発作を起こした時にはカストロを頼ってキューバの医療施設に入所し[69]、その後数年間はカストロの世話になった。『10番の夜』の12回目放送ではカストロにプレゼントされたジャケットを羽織って登場し、カストロに対する思いや自身の思想観を語った[70]。
- カモッラ一家との関係
SSCナポリへの移籍金はナポリのマフィア組織カモッラ一家によって捻出されたという説がある[71]。1986年にカモッラ一家の中の一族であるジュリアーノ・ファミリーと初対面し、その後はジュリアーノ家の結婚式やカモッラ一家のパーティに熱心に参加した[72]。1991年初頭、カモッラ一家の手の内にある売春宿から相当量のコカインを入手している事実が発覚し、マフィアの殺し屋とともに麻薬売買に手を出しているというマフィア側の供述とともに法的な追及がなされた[73]。
- メッシとの関係
左利きで小柄であること、ドリブルとスピードにおいてずば抜けていること、FCバルセロナでのプレー経験があること、アルゼンチン人であること、A代表デビュー戦がハンガリー戦であることなど、リオネル・メッシとマラドーナにはいくつかの共通点がある[74]。2007年4月18日のFCバルセロナ対ヘタフェCF戦においてリオネル・メッシがマラドーナの「5人抜き」ドリブルそっくりのプレーを見せ、メッシは「ゴールはディエゴ(マラドーナ)に捧げる」と発言したが、マラドーナは「比較は大げさすぎる。俺のゴールとは関係ない」と冷たくあしらった[75]。同年6月9日のバルセロナ・ダービーにおいてメッシは「神の手」ゴールそっくりのプレーを見せた[76]。
メディアとの関係
1996年、イギリスのフィナンシャル・タイムズ紙の記者ジミー・バーンズによってマラドーナの評伝が出版されたが[77]、薬物使用問題やFIFAの権力構造について踏み込んだ追及をしているため、アルゼンチン国内では出版を快く思われなかった[78]。2000年には自伝が出版され、それ以後もマラドーナに関する多数の著作が世に出ている。
2001年にはイタリアのマルコ・ポンティ(Marco Ponti)監督作の映画『サンタ・マラドーナ』が公開された[79]。2009年にはフランス・スペイン合作、エミール・クストリッツァ監督作のドキュメント映画『マラドーナ (映画)』が公開された[80]。
2005年に放送されたテレビ番組『10番の夜』では司会を務め、スポーツ選手、俳優、タレント、映画監督など、マラドーナの顔が利くさまざまな分野の著名人が出演した[81]。サッカー選手ではペレ、ジネディーヌ・ジダン、アリエル・オルテガ、リオネル・メッシなどが出演している[70]。
政治的発言が多いことで知られ、2005年に米州機構会議が行われた際には、同市のサッカー場で行われた反ジョージ・W・ブッシュ集会に参加し、ベネズエラのウーゴ・チャベス大統領の演説のあとに「ブッシュを倒そう!」と発言した[82]。
プレースタイルと戦術
- 選手時代のプレースタイル
身長は160cm台半ばと小柄でずんぐりとした体格であるが、フィジカルが強靭で[83]ボディバランスと洞察力に優れ[84]、卓越したテクニックとパスセンスを持っている[85]。ほとんどすべてのプレーを左足一本で行い、前述の「五人抜き」ドリブルの際も左足しかボールに触れていない[83]。類稀な得点能力を持っており、フリーキックも得意である。
- 指導者としての戦術
アルゼンチン代表監督時代にはリオネル・メッシなど突出した個に自由を与え、戦術を二の次にしても個人技での局面打開を目指した[53]。複数の戦術を使い分けるのではなく、終始一貫して攻撃的な姿勢を貫き、準々決勝・ドイツ戦では劣勢に陥った時に別策がないことを露呈した[53]。常に選手の目線に立って物事を考えるため、選手のモチベーションを上げる人心掌握術は評価されており、選手からの信頼は厚い[86]。
薬物と健康問題
- 幼少時の人工的な筋肉増強
セボリータス時代には体が小さかったことから、発育を助ける薬物やビタミンを使用して肉体改造を施した[87]。10代の頃に人工的な筋肉補強をし、その後は負傷するたびに痛み止めの注射を打って試合に出たため、トレーニングを中断するとすぐに体重が増加するという副作用が現れ[88]、怪我しやすい体質にもつながった。
- コカイン使用問題
FCバルセロナ時代にはコカイン使用疑惑が浮上した。クラブ役員によって隠蔽工作が行われたために在籍時には明るみにされなかったが、1996年1月に「私が初めてコカインを試したのはバルセロナにいた1982年だ」と自白した[89]。1986 FIFAワールドカップでマラドーナは3度のドーピング検査を受け、いずれも陰性と診断されたが、アルゼンチン代表の不正薬物使用疑惑は大会期間中常に付きまとった。1991年初めにはコカイン所持と売買の容疑で逮捕され[90]、チームが行った抜き打ちのドーピング検査にも引っ掛かったことから15ヶ月間の出場停止処分を下された。彼はのちに「ナポリでは麻薬はいたるところにあり、ウェイターがトレーに乗せて持ってくるように簡単に手に入った」と述べている[91]。1991年4月からは精神科医をともなったリハビリ作戦が進められ、限られた者しか面会できない状態で数ヶ月にも渡って治療が行われた[92]。
- ブラジル戦での睡眠薬混入事件
1990 FIFAワールドカップ決勝トーナメント1回戦のブラジル戦では1アシストを決めて勝利したが、敗れたブラジルが「試合中にマラドーナからブランコ(Branco)に渡されたコップの水に薬が入っていた」と主張した。後にマラドーナ自身が給水ボトルに睡眠薬を混ぜていたことを暴露して物議を醸した[93]。
- エフェドリン検出による大会追放
1994年の1994 FIFAワールドカップでは2戦目のナイジェリア戦後に受けたドーピング検査でエフェドリンを含む5種類の禁止薬物が検出され[94]、特に国外のメディアから強い非難を受けた。マラドーナが政治的利用価値の高い選手であることから、彼に対するペナルティの軽重にはFIFAの内部でもさまざまな意見があったが、大会の残り試合への出場停止処分が下された[95]。その2ヶ月後の8月24日には「意図的に薬物を使用したとは認められず、薬物の構成成分が何であるかも全く知らなかった。しかし、そのような事情はあっても、マラドーナはFIFAのドーピング・コントロールに関する規則に違反している」として15ヶ月間の出場停止処分と2万フラン(約150万円)の罰金が課された[96]。
1994年には、それ以前に犯した麻薬の使用を理由にキリンカップ・サッカーアルゼンチン代表としての日本入国を拒否された。ボカ・ジュニアーズでプレーしていた1997年8月にはまたもやコカインの陽性反応が出て、医師に「薬物の使用を続ければ命が危ない」と告げられた[97]。
所属クラブ
選手
- 1974-1980 アルヘンティノス・ジュニアーズ
- 1981-1982 ボカ・ジュニアーズ
- 1982-1984 FCバルセロナ
- 1984-1991 SSCナポリ
- 1992-1993 セビージャFC
- 1993 ニューウェルズ・オールドボーイズ
- 1995-1996 ボカ・ジュニアーズ
監督
獲得タイトル
代表
- FIFAワールドユース選手権:1回(1979)
- FIFAワールドユース選手権最優秀選手:1回(1979)
- FIFAワールドカップ:1回(1986)
- FIFAワールドカップ最優秀選手:1回(1986)
- アルテミオ・フランキ・トロフィー:1回(1993)
クラブ
- アルゼンチン・リーグ得点王:2回(1978メトロポリタン、1979メトロポリタン、1980メトロポリタン、1979全国リーグ、1980全国リーグ)
- アルゼンチン・リーグ得点王:1回(1981全国リーグ)
- アルゼンチン・リーグ:1回(1982)
- コパ・デル・レイ:1回(1983)
- コパ・デ・ラ・リーガ:1回(1983)
- スーペルコパ・デ・エスパーニャ:1回(1983)
- グエリン・ドーロ:1回(1985)
- コッパ・イタリア:1回(1986-87)
- セリエA:2回(1986-87、1989-90)
- セリエA 得点王:1回(1987-88)
- UEFAカップ:1回(1988-1989)
- スーペルコッパ・イタリアーナ:1回(1990)
個人
- 南米年間最優秀選手賞(エル・ムンド紙):6回[98](1979、1980、1986、1989、1990、1992)
- 記者選出アルゼンチン最優秀サッカー選手賞:4回(1979、1980、1981、1986)
- 記者選出アルゼンチン最優秀スポーツ選手賞:1回(1986)
- 世界年間最優秀選手(ワールドサッカー誌):1回(1986)
- オンズドール:2回(1986、1987)
- 20世紀の偉大なサッカー選手100人2位(ワールドサッカー誌)(1999)
- 記者選出20世紀アルゼンチン最優秀スポーツ選手賞(1999)
- FIFA20世紀最優秀選手[99](2000)
- ゴール・オブ・ザ・センチュリー[100](2002)
- ゴールデンフット賞All Time Legend(2003)
- FIFA 100(2004)
個人成績
- 選手としての成績
すべての所属クラブを合わせた場合の国内大会での得点率は0.526である。
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国内大会個人成績 | |||||||||||
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年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
アルゼンチン | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
1976 | アルヘンティノス | 16 | プリメーラ | 11 | 2 | - | - | 11 | 2 | ||
1977 | アルヘンティノス | プリメーラ | 49 | 19 | - | - | 49 | 19 | |||
1978 | アルヘンティノス | プリメーラ | 35 | 25 | - | - | 35 | 25 | |||
1979 | アルヘンティノス | プリメーラ | 27 | 26 | - | - | 27 | 26 | |||
1980 | アルヘンティノス | プリメーラ | 45 | 43 | - | - | 45 | 43 | |||
1981 | ボカ | 10 | プリメーラ | 40 | 28 | - | - | 40 | 28 | ||
スペイン | リーグ戦 | 国王杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
1982-83 | バルセロナ | 10 | プリメーラ | 20 | 11 | 5 | 3 | 4 | 5 | 29 | 19 |
1983-84 | バルセロナ | 10 | プリメーラ | 16 | 11 | 4 | 1 | 3 | 3 | 23 | 15 |
イタリア | リーグ戦 | イタリア杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
1984-85 | ナポリ | 10 | セリエA | 30 | 14 | 6 | 3 | - | 36 | 17 | |
1985-86 | ナポリ | 10 | セリエA | 29 | 11 | 2 | 2 | - | 31 | 13 | |
1986-87 | ナポリ | 10 | セリエA | 29 | 10 | 10 | 7 | 2 | 0 | 41 | 17 |
1987-88 | ナポリ | 10 | セリエA | 28 | 15 | 9 | 6 | 2 | 0 | 39 | 21 |
1988-89 | ナポリ | 10 | セリエA | 26 | 9 | 21 | 7 | 12 | 3 | 50 | 19 |
1989-90 | ナポリ | 10 | セリエA | 28 | 16 | 3 | 2 | 5 | 0 | 36 | 18 |
1990-91 | ナポリ | 10 | セリエA | 18 | 6 | 3 | 2 | 4 | 2 | 25 | 10 |
スペイン | リーグ戦 | 国王杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
1992-93 | セビージャ | 10 | プリメーラ | 26 | 5 | 3 | 3 | - | 29 | 7 | |
アルゼンチン | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
1993-94 | ニューウェルズ | 10 | プリメーラ | 3 | 0 | - | - | 3 | 0 | ||
1995-96 | ボカ | 10 | プリメーラ | 11 | 3 | - | - | 11 | 3 | ||
1996-97 | ボカ | 10 | プリメーラ | 13 | 2 | - | - | 13 | 2 | ||
1997-98 | ボカ | 10 | プリメーラ | 6 | 2 | - | - | 6 | 2 | ||
通算 | アルゼンチン | プリメーラ | 240 | 150 | - | - | 240 | 150 | |||
スペイン | プリメーラ | 62 | 27 | 12 | 7 | 7 | 8 | 81 | 42 | ||
イタリア | セリエA | 188 | 81 | 54 | 29 | 25 | 5 | 267 | 115 | ||
総通算 | 490 | 258 | 66 | 36 | 32 | 13 | 588 | 307 |
- 代表での年別出場試合数
1982 FIFAワールドカップから1994 FIFAワールドカップまでの4大会に連続出場し、歴代3位タイの通算21試合に出場した。そのうち16試合でキャプテンを務めており、これはFIFAワールドカップにおける最多記録である。21試合で8得点8アシストを記録している。
アルゼンチン代表 | 国際Aマッチ | |
---|---|---|
年 | 出場 | 得点 |
1998 | 6 | 7 |
1999 | 6 | 2 |
2000 | 0 | 0 |
2001 | 4 | 3 |
2002 | 11 | 5 |
2003 | 3 | 3 |
2004 | 8 | 4 |
2005 | 4 | 2 |
2006 | 2 | 0 |
2007 | 3 | 1 |
通算 | 47 | 27 |
- 指導者としての成績
チーム | 国 | 就任 | 退任 | 記録 | ||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
試合数 | 勝 | 負 | 分 | 勝率 | ||||
デポルティーボ・マンディージュ | 1994年 | 1994年 | 12 | 1 | 6 | 5 | 8.33% | |
ラシン・クラブ | 1995年 | 1995年 | 11 | 2 | 6 | 3 | 18.18% | |
アルゼンチン代表 | 2008年11月 | 2010年7月 | 19 | 14 | 5 | 0 | 73.68% |
脚注
- ^ 国吉好弘『サッカーマルチ大辞典 改討版』、ベースボール・マガジン社、2006年、469頁
- ^ ウィリアムズ2007、210頁
- ^ リベイロ・レモス2008、123頁
- ^ バーンズ1997、29頁
- ^ オルティズ1994、35-36頁
- ^ バーンズ1997、36頁
- ^ クリストファー・ヒルトン、イアン・コール『南米サッカーのすべて』、野間けい子訳、DAI-X出版、2002年、3○○頁
- ^ バーンズ1997、36-38頁
- ^ バーンズ1997、39頁
- ^ リベイロ・レモス2008、124頁
- ^ バーンズ1997、50頁
- ^ バーンズ1997、59頁
- ^ ウィリアムズ2007、212頁
- ^ ウィリアムズ2007、203頁
- ^ ウィリアムズ2007、213頁
- ^ バーンズ1997、77頁
- ^ バーンズ1997、102頁
- ^ バーンズ1997、120頁
- ^ バーンズ1997、132-133頁
- ^ バーンズ1997、139-140頁
- ^ バーンズ1997、166-167頁
- ^ バーンズ1997、175-176頁
- ^ ウィリアムズ2007、219頁
- ^ バーンズ1997、214頁
- ^ バーンズ1997、228頁
- ^ “英『ワールド・サッカー』誌:史上グレーテストゴール:トップ10”. World Cup's World 2010年11月4日閲覧。
- ^ “Globe-trotting thoroughbred commits to Oxford cause”. The Independent. (2005年1月1日) 2010年11月29日閲覧。
- ^ バーンズ1997、238-239頁
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- ^ 『週刊新潮』、新潮社、2010年7月8日号、136頁
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- ^ 2010年11月26日 中日スポーツ5面。
- ^ ウィリアムズ2007、234頁
- ^ バーンズ1997、298頁
- ^ バーンズ1997、301-303頁
- ^ ウィリアムズ2007、241頁
- ^ 藤坂ガルシア2010、9-11頁
- ^ 藤坂ガルシア2010、21-24頁
- ^ 藤坂ガルシア2010、54-57頁、現役時代以来25年ぶりにカンプ・ノウを訪れ、FCバルセロナのジョゼップ・グアルディオラ監督と歓談した
- ^ 藤坂ガルシア2010、79-80頁
- ^ 藤坂ガルシア2010、134頁
- ^ 藤坂ガルシア2010、199頁
- ^ 藤坂ガルシア2010、243頁
- ^ 藤坂ガルシア2010、245-247頁
- ^ “マラドーナ監督 2か月の活動禁止と罰金、暴言騒ぎで”. AFP BB News. (2009年11月16日) 2010年11月4日閲覧。
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- ^ 陣野俊史「あなたが右? 左ウイングであるべきでしょう」『現代思想』、青土社、2008年5月臨時増刊号、192頁
- ^ 陣野俊史「あなたが右? 左ウイングであるべきでしょう」『現代思想』、青土社、2008年5月臨時増刊号、194頁、結局カストロは参列しなかった
- ^ ウィリアムズ2007、239頁
- ^ a b 陣野俊史「あなたが右? 左ウイングであるべきでしょう」『現代思想』、青土社、2008年5月臨時増刊号、199頁
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- ^ ルーカ・カイオーリ『メッシ -169センチの本気』、井上知訳、東邦出版、2010年、125-126頁
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- ^ ウィリアムズ2007、203頁
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- ^ 堤康徳「聖マラドーナの奇蹟」『ユリイカ』、青土社、2002年6月5号、200頁
- ^ “カンヌ映画祭『Maradona by Kusturica』上映会にクストリッツァ監督、マラドーナ登場”. AFP BB News. (2008年5月21日) 2010年11月4日閲覧。
- ^ 陣野俊史「あなたが右? 左ウイングであるべきでしょう」『現代思想』、青土社、2008年5月臨時増刊号、196頁
- ^ “Protesters mass to confront Bush”. BBC Sport. (2005年11月4日) 2010年11月4日閲覧。
- ^ a b 千田善『ワールドカップの世界史』みすず書房、2006年、107頁
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- ^ バーンズ1997、26頁
- ^ バーンズ1997、250頁
- ^ バーンズ1997、149-150頁
- ^ バーンズ1997、270頁
- ^ バーンズ1997、278頁
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- ^ “涙と怒りのブラジル、心はすでに2014年へ”. スポーツナビ. (2010年7月9日) 2010年11月4日閲覧。
- ^ ウィリアムズ2007、201頁
- ^ バーンズ1997、320頁
- ^ バーンズ1997、324頁
- ^ ウィリアムズ2007、239頁
- ^ 1986年からはエル・パイス紙による選考も行われ、そちらが公式の選考扱いになっている
- ^ ファン投票による結果
- ^ 1986 FIFAワールドカップのイングランド戦で決めた2点目が選ばれた
参考文献
- アリシア・オルティズ『マラドーナ –新たなる神話への挑戦-』、阪田由美子訳、徳間書店、1994年
- ジミー・バーンズ『ディエゴ・マラドーナの真実』、宮川穀訳、ベースボール・マガジン社、1997年
- リチャード・ウィリアムズ『背番号10のファンタジスタ』、町田敦夫訳、ベースボール・マガジン社、2007年
- アンドレ・リベイロ、ヴラジール・レモス『背番号10 -サッカーに「魔法」をかけた名選手たち』、市之瀬敦訳、白水社、2008年
- 藤坂ガルシア千鶴『マラドーナ -新たなる戦い-』、河出書房新社、2010年
関連項目
- マラドーナ2世 – 育ちやプレースタイルがマラドーナと似ているアルゼンチン人選手はマラドーナ2世と形容されることがある。
- マラドーナ教 - 1998年に創設された冗談宗教。世界中に10万人を越える信徒がいるとされている。
- 東欧のマラドーナ - ルーマニア出身のサッカー選手、ゲオルゲ・ハジの愛称。そのプレースタイルがマラドーナと比較された。
- 砂漠のマラドーナ - サウジアラビア出身のサッカー選手、サイード・オワイランの愛称。