クラウディオ・カニーヒア
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名前 | ||||||
本名 |
クラウディオ・パウル・カニーヒア Claudio Paul Caniggia | |||||
愛称 |
Hijo del Viento (風の申し子), El Pájaro (スズメ) | |||||
ラテン文字 | Claudio CANIGGIA | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | アルゼンチン | |||||
生年月日 | 1967年1月9日(57歳) | |||||
出身地 | エンデルソン | |||||
身長 | 172cm | |||||
体重 | 67kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW | |||||
利き足 | 右足 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1985-1988 | リーベル・プレート | 53 | (8) | |||
1988-1989 | エラス・ヴェローナ | 21 | (3) | |||
1989-1992 | アタランタ | 85 | (26) | |||
1992-1994 | ローマ | 15 | (4) | |||
1994-1995 | ベンフィカ | 23 | (8) | |||
1995-1999 | ボカ・ジュニアーズ | 74 | (32) | |||
1999-2000 | アタランタ | 17 | (1) | |||
2000-2001 | ダンディー | 21 | (7) | |||
2001-2003 | レンジャーズ | 50 | (12) | |||
2003-2005 | カタールSC | 15 | (5) | |||
2012 | ウェンブリー | 0 | (0) | |||
通算 | 360 | (107) | ||||
代表歴 | ||||||
1987-2002 | アルゼンチン [1] | 50 | (16) | |||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
クラウディオ・パウル・カニーヒア(スペイン語: Claudio Paul Caniggia, 1967年1月9日 - )は、アルゼンチン出身の元サッカー選手であり、元同国代表。ポジションはフォワード。アルゼンチン代表として、50試合に出場した[1]。カニーヒアはFIFAワールドカップに3度出場し、ライバルチームであるCAリーベル・プレートとボカ・ジュニアーズの双方でプレーした。フィジカルの強さと高い技術力を兼ね備えたストライカーであり[2]、スピードの速さで知られていた[3][4][5]。サッカー選手としての活動を開始する以前には、地方の競技大会の100メートル走などにも参加していた[6]。彼は高い得点力に加えて[2]、アシストなどチャンスを創出する能力にも優れており、そのためしばしば司令塔やセンターフォワードなどのポジションでもプレーした[4]。
経歴
[編集]クラブ
[編集]1985年にリーベル・プレートのトップチームに昇格[6]。当時から瞬間的なスピードとドリブルの技術で知られており、1986年には国内リーグ、コパ・リベルタドーレス、インターコンチネンタルカップ、コパ・インテラメリカーナ優勝を経験した[6]。
1988年にイタリアのエラス・ヴェローナFCへ移籍し、1989年からはアタランタBCでプレー[6]。
1992年にASローマに移籍し、コパ・イタリア準決勝ではACミランを破るゴールを決め[7]、決勝進出に貢献した。
1993年3月21日に行われたSSCナポリ戦後の尿検査の結果、コカインが検出され[8]、リーグの懲罰委員会により13か月の出場停止処分が科せられた[9][10]。
処分明け後の1994年8月、ASローマと大手食品会社のパルマラットとの合意によりポルトガルのSLベンフィカへ移籍[11]。UEFAチャンピオンズリーグ 1994-95ではチームのベスト8進出に貢献した。
1995年1月、リーベル・プレートと伝統的にライバル関係にあるボカ・ジュニアーズへ移籍した[12]。代表のチームメイトであるマラドーナと共にプレーし、自身のキャリアの中でも充実した時間を過ごし[6]、1998年5月31日に行われたヒムナシア・イ・ティロ戦を最後に退団した[13]
1999年8月、セリエBに所属していた古巣のアタランタBCと契約したが[13]、監督のジョヴァンニ・ヴァヴァッソリとの意見の相違を理由に、1シーズン限りで退団[14]。
2000年10月、スコットランドのダンディーFCと契約[15]。ダンディーでは好調なプレーを維持したことから、2001年1月に契約期間を2年半に延長した[16]。
2001年5月、スコットランドのレンジャーズFCと契約[17]。レンジャーズではスコティッシュ・プレミアリーグ、2度のスコティッシュリーグカップ、 2度のスコティッシュカップ優勝に貢献した[18]。2001-02シーズンのスコティッシュリーグカップ決勝、エア・ユナイテッドFC戦では2得点を挙げる活躍を見せた[19]。
2003年にカタールのカタールSCでプレーをした後、2005年に現役を引退した[18]。2012年6月、イングランド9部リーグのウェンブリーFCで現役復帰を果たし、レイ・パーラー、マーティン・キーオン、グレアム・ル・ソー、ブライアン・マクブライドらとともにプレー[20]。同年、再び現役を引退した。
代表
[編集]アルゼンチン代表としては1987年6月7日に行われたイタリア代表との国際親善試合でデビュー[21]。同年6月から7月にかけて母国アルゼンチンで行われたコパ・アメリカ1987のグループリーグ第2戦、エクアドル代表戦で初得点を決めた[21]。
1990年にイタリアで開催された1990 FIFAワールドカップでは、ディエゴ・マラドーナと2トップを組み、決勝トーナメント1回戦のブラジル代表戦では、マラドーナのスルーパスからブラジルを破るゴールを挙げた[21]。自身は後のインタビューで「私のキャリアにおいて最も重要な得点だ。なぜなら長年に渡るライバルチームとの対戦で、終始劣勢に立たされた状況の中であげた得点だからだ」と語っている[6]。準決勝のイタリア代表戦でもヘディングシュートを決め決勝進出に貢献したが[21]、この試合で不用意なハンドを犯し、累積警告により決勝戦の出場は叶わなかった[6]。このハンドについては「私のキャリアにおいて最も挫折を味わった瞬間のひとつ」と語っている[6]。
翌1991年にチリで開催されたコパ・アメリカ1991では、新たに代表入りをしたガブリエル・バティストゥータとのコンビで優勝に貢献[6]。自身はグループリーグの初戦のベネズエラ代表戦、第3戦のパラグアイ代表戦でそれぞれ1得点、合計2得点をあげた[22]
所属クラブでのコカイン服用の処分のためコパ・アメリカ1993の優勝メンバーには名を連ねることはできなかったが、処分明け後に代表に復帰すると、1994 FIFAワールドカップグループリーグ第2戦のナイジェリア代表戦で2得点をあげる活躍を見せた[6]。続くグループリーグ第3戦のブルガリア代表戦は怪我のため途中退場、決勝トーナメント1回戦のルーマニア代表戦では出場機会はなく、チームも敗退した[6]。
アメリカ大会後、新たに監督に就任したダニエル・パサレラから選手達に課せられていた「長髪禁止令」について、これを受け入れる意向を示し[23]、1996年には3試合に出場した[21]。その一方で、同年7月7日に行われた1998 FIFAワールドカップ・南米予選のペルー代表戦を最後に出場機会を失ったが[21]、本大会前にはクラブで好調を維持していたため、パサレラも代表複帰の可能性を口にしていたものの[24]、代表入りを逃した[10]。
その後、6年間にわたり代表から遠ざかっていたが、2002年2月に監督のマルセロ・ビエルサの下で代表復帰を果たし、ウェールズ代表とカメルーン代表との国際親善試合でプレーした[10]。2002 FIFAワールドカップのメンバーにも選出されたが怪我のため出場機会はなく[25]、グループリーグ第3戦のスウェーデン代表戦では試合中の判定を巡りベンチから抗議を行った際、主審のアリ・ブジサイムから退場処分を受けた[25]。
代表歴
[編集]- 1987年 - 2002年 アルゼンチン代表
- 代表通算 - 50試合16得点
- 1987年 - コパ・アメリカ(4位)
- 1989年 - コパ・アメリカ(3位)
- 1990年 - ワールドカップ・イタリア大会 6試合2得点(準優勝)
- 1991年 - コパ・アメリカ(優勝)
- 1992年 - キング・ファハド・カップ(優勝)
- 1994年 - ワールドカップ・アメリカ大会 3試合2得点(ベスト16)
- 2002年 - ワールドカップ・日韓大会 出場なし(グループリーグ敗退)
試合数
[編集]- 出典[26]
アルゼンチン代表 | 国際Aマッチ | |
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年 | 出場 | 得点 |
1987 | 6 | 2 |
1988 | 3 | 1 |
1989 | 7 | 2 |
1990 | 10 | 2 |
1991 | 6 | 3 |
1992 | 5 | 1 |
1993 | 2 | 1 |
1994 | 6 | 3 |
1995 | 0 | 0 |
1996 | 3 | 0 |
1997 | 0 | 0 |
1998 | 0 | 0 |
1999 | 0 | 0 |
2000 | 0 | 0 |
2001 | 0 | 0 |
2002 | 2 | 0 |
通算 | 50 | 16 |
脚注
[編集]- ^ a b “Appearances for Argentina National Team”. rsssf.com. 2017年12月16日閲覧。
- ^ a b “Caniggia, Claudio Paul” (Italian). Treccani: Enciclopedia dello Sport. 3 June 2015閲覧。
- ^ “IL CANIGGIA RISCOPERTO” (Italian). La Repubblica (11 May 1994). 3 June 2015閲覧。
- ^ a b “Che fine ha fatto? Claudio Caniggia” (Italian). Calcio Mercato (31 January 2015). 3 June 2015閲覧。
- ^ “Baggio Takes Great Strides Toward Soccer Greatness”. The Orlando Sentinel (15 June 1994). 24 September 2015閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k “Argentina's 'Son of the Wind': Claudio Caniggia”. FIFA.com. 2017年12月16日閲覧。
- ^ 10. marzo 1993 Roma-Milan-Calcio.com
- ^ “SPORTS PEOPLE: SOCCER; Italian Star Faces Ban After Failing Test”. The New York Times (1993年4月7日). 2017年12月16日閲覧。
- ^ “Darkness descends on the Stadium of Light”. The Scotsman. (22 June 1997)
- ^ a b c “Mit 35 kehrt Claudio Caniggia in die argentinische Nationalmannschaft zurück Der letzte Rockstar”. Berliner Zeitun (2002年4月17日). 2017年12月16日閲覧。
- ^ “Caniggia jugará en el Benfica de Lisboa”. EL PAÍS (1994年8月7日). 2017年12月16日閲覧。
- ^ “Caniggia jugará en el Benfica de Lisboa”. EL PAÍS (1994年8月7日). 2017年12月16日閲覧。
- ^ a b “Caniggia jugará en Atalanta”. LA NACION (1999年8月13日). 2017年12月16日閲覧。
- ^ “Tirando paredes”. LA NACION (2000年5月14日). 2017年12月16日閲覧。
- ^ “El Dundee ficha a Caniggia”. LA NACION (2000年10月5日). 2017年12月16日閲覧。
- ^ “Caniggia signs £1.5m deal to stay at Dundee”. telegraph (2001年1月4日). 2017年12月16日閲覧。
- ^ “Caniggia agrees Rangers move”. Telegraph (2001年5月15日). 2017年12月16日閲覧。
- ^ a b “Argentine great Caniggia retires”. BBC SPORT (2005年2月19日). 2017年12月16日閲覧。
- ^ “Caniggia, la gran figura del Rangers”. LA NACION (2002年3月18日). 2017年12月16日閲覧。
- ^ “Terry Venables' Wembley FC recruit former stars for FA Cup”. BBC SPORT (2012年6月21日). 2017年12月16日閲覧。
- ^ a b c d e f “Caniggia vuela a los 35”. LA NACION (2002年2月7日). 2017年12月16日閲覧。
- ^ “Copa América 1991”. rsssf.com. 2017年12月16日閲覧。
- ^ “Caniggia se niega a obedecer a Pasarella”. EL PAÍS (1995年1月3日). 2017年12月16日閲覧。
- ^ ワールドサッカーグラフィック 1998年5月号 34ページ
- ^ a b “Caniggia's World Cup ends in disgrace”. BBC SPORT (2002年6月12日). 2017年12月16日閲覧。
- ^ “Caniggia, Claudio”. National-Football-Teams.com. 2017年12月16日閲覧。
外部リンク
[編集]- クラウディオ・カニーヒア - National-Football-Teams.com
- プロフィール at Argentine Soccer
- BDFA.comによるプロフィール
- Futbol Factory profile (Archived)
- アルゼンチンのサッカー選手
- サッカーアルゼンチン代表選手
- CAリーベル・プレートの選手
- エラス・ヴェローナFCの選手
- アタランタBCの選手
- ASローマの選手
- SLベンフィカの選手
- ボカ・ジュニアーズの選手
- ダンディーFCの選手
- レンジャーズFCの選手
- カタールSCの選手
- コパ・アメリカ1987出場選手
- コパ・アメリカ1989出場選手
- コパ・アメリカ1991出場選手
- FIFAワールドカップアルゼンチン代表選手
- 1990 FIFAワールドカップ出場選手
- 1994 FIFAワールドカップ出場選手
- 2002 FIFAワールドカップ出場選手
- キング・ファハド・カップ1992出場選手
- アルゼンチンのドーピング違反選手
- ドーピング違反のサッカー選手
- イタリア系アルゼンチン人
- ブエノスアイレス州出身の人物
- 1967年生
- 存命人物