熱田大宮司家
熱田大宮司家(あつただいぐうじけ)は、尾張国熱田神宮の長官・大宮司職を世襲した日本の氏族[1]。古来より熱田社の大宮司職は尾張氏が世襲していたが、平安時代後期に藤原季範が熱田大宮司職を継いだことで、明治9年(1876年)に千秋季福が没するまでの間、藤原氏一門から大宮司職が輩出された。季範の一女が源義朝の室となり、その間に生まれた源頼朝が鎌倉幕府を開いたことで、大宮司家は武家側にも親しい存在となり[1]、季範の子の範忠、範信、範雅の3流からそれぞれに大宮司が輩出し、多くが京官をも兼ねて勢力を伸張した。範忠流は大江氏から猶子を迎えたため、一時は大江氏が大宮司職を占めたこともある[1]。室町時代には野田(のち千秋に統合)・萩・星野といった分家が生まれたが、江戸時代には千秋家のみ残った。明治17年(1884年)の華族令公布に際し千秋季隆は男爵に列せられた[1]。
概要
[編集]藤原姓大宮司家の始まり
[編集]熱田社の大宮司職は、天武天皇朱鳥元年(688年)稲置見がこれを称して以来、代々尾張氏が務めていた[2]。
寛徳2年(1045年)から応徳年間(1084年 - 1087年)に大宮司職にあった尾張員職は[3]、娘の1人を尾張国目代であった藤原季兼の妻にした。季兼は有力な家格ではないものの、文学博士・大学頭の父・藤原実範を持つ学者の家柄の生まれで、叔父の保相は長元元年(1028年)から同4年(1031年)まで三河守、兄弟の季綱も三河守に任ぜられたことがあり[4]、父実範の従兄弟の資良は尾張守[4]という一族であった。このため季兼本人も、三河と尾張の両国に影響力があり、季兼は三河国西部に土着してこの地域の開発領主として勢力を持っていたという[4]。三河国額田郡一帯は季兼以来、藤原大宮司家の本貫にふさわしい地域といえる[4]。
寛治4年(1090年)、季兼と尾張員職息女の間に、藤原季範が生まれる。この季範が大宮司職を引き継いだことで、以降の大宮司職は尾張氏ではなく、女婿系統である藤原氏が継ぐことになった。このことについて後世では、正和元年(1312年)成立の『玉葉和歌集』には「櫻花ちらなむ後のかたみにはまつにかかれるふぢをたのまん」と詠まれ[5]、熱田大明神の託宣によるものと記された。しかし、この娘婿への大宮司職の譲渡については、『尊卑分脈』などは、神の告に従って応徳年間までにその地位を季範に譲ったというが、その場合、季範は幼年か青年期に大宮司職を受けたことになるためやや不自然であり、実際に大宮司を他氏に継承させる決断をしたのは尾張員職の息子の代で、その行為を正当権威づける必要から員職の意向としたのではないか、という推測がある[6]。
この頃の熱田社は尾張国の国衙・庶民から厚く崇敬されていたが、『宇治拾遺物語』には長久3年(1042年)に尾張守として赴任した橘俊綱のもとに熱田大宮司が挨拶に参上しなかったため、大宮司の所領没収を命じたという話が伝わっている[7]。この話は、当時の大宮司家の威勢に対して国司が危機感を高め、ついには大宮司家が国司の実力の前に屈服させられるという、11世紀半ば頃の大宮司家の実力を物語っていると考えられ[8]、熱田大宮司家と目代藤原氏との婚姻は、国衙との和解・関係改善を求める大宮司家側と、国司代理として自身の責務を果たすためにあった藤原季兼(藤原季範の父)側も望むところであったと考えられている[8]。なお、宮司職が藤原氏へ譲られた後も、尾張氏は副官である権宮司として、熱田社の祭祀と組織運営の中枢を担った[9]。
藤原季範と息子の代
[編集]大宮司職を継いだ藤原季範は、尾張にとどまることなく、京都に在住し、従四位まで昇進した[11]。季範は鳥羽上皇の乳母・藤原悦子の従兄弟にあたり、こうした縁もあって蔵人所雑色を務めるなど、鳥羽上皇に接近して娘たちを待賢門院(藤原璋子)や上西門院(統子内親王、鳥羽上皇と待賢門院の娘)の女房として出仕させた[12]。
また季範自身も北面の武士である源行遠の娘と結婚し[13]、藤原範忠(季忠)を儲けた[12]。また季範の娘が源義朝と夫婦となり、源頼朝が生まれた。季範の孫娘(季範の子で院近臣であった範忠の息女)は足利義康に嫁ぎ、足利義兼が生まれた。また義兼の娘も大宮司一門野田家に嫁いでいる[14]。このように大宮司家と源氏との間には婚姻関係が生じることとなり、鎌倉幕府と室町幕府の二つの将軍家の家系に、熱田大宮司家は繋がっている[15]。また藤原大宮司家は在京貴族へと転身を遂げた[12]。
季範の息子の代で、大宮司家は範忠・範信・範雅の三つの系統に別れる事になる[13]。季範以降の大宮司職は、情勢によりたびたび嫡子の藤原範忠と庶子の藤原雅忠の間で交代した。
まず庶子であった範雅が保延3年(1137年)に父の季範から譲られる形で大宮司職に就いたが、範雅の在職19年目かつ季範の没年である久寿2年(1155年)に、大宮司職が範忠に交替した[16]。この動きについては父の季範と子の範忠の間に何らかの対立があったことを窺わせるもので、父の死と共に範雅が職を退いたと考えられている[16]。応保元年(1161年)10月、二条天皇呪詛事件において範忠が平時忠と関係したことに起因して、雅忠が大宮司職に再任されるが、範忠は赦免されると承安2年(1172年)に平清盛によって再び大宮司職に復帰した[17]。
この頃には保元の乱と平治の乱がおきているが、熱田大宮司家は婚姻関係がある源義朝に加担したと考えられている[18]。『熱田大宮司千秋家譜』によると、範忠は保元の乱に際しては後白河天皇側に家子・郎党を送ったが、平治の乱では義朝方に家子・郎党を遣わしたという[19]。しかし平治の乱で義朝側が敗退したにもかかわらず、むしろ乱後の範忠の官職上の地位は却って高くなり[20]、承安2年(1172年)には平清盛によって範忠は大宮司職に復帰している[21]。学習院本『平治物語』に、範忠が、自身の甥で源頼朝の同母弟である源希義を駿河国において搦めとり、平家に渡したという記事があることや[22]、範忠は早くから後白河院の近臣であり、範忠の姉妹と平時忠の姉妹(平滋子)がともに上西門院の女房、清盛と時忠は上西門院の院司であったなど、範忠と平氏の間に後白河院・上西門院系列下において関係があったことから、範忠は平治の乱で義朝に関与しなかった[23]、あるいは最後まで行動を共にしなかったのではないか、と考えられている[21]。
なお『保元物語』では源義朝軍に属した諸国武士の代表例の中に尾張国の熱田大宮司の家子・郎党、『平治物語』にも尾張国ではやはり熱田大宮司の子息や家子・郎党が挙げられている[24]。しかしこの資料は、在京しているはずの宮司を在国と誤解するなど信が置けないこと、治承・寿永の乱の際にも熱田大宮司が軍事的活動をしたとする史料が見当たらないこと、熱田大宮司家が鎌倉時代に武士化することから、後代の事実が両軍記物語作成時において、過去の事実を誤認させたのではと考えられている[23]。なお、こうした範忠の動きとは逆に、範忠の弟で姉(頼朝母)の七々仏事を修した僧の祐範は、頼朝が伊豆に配流されたときに従者を付け、さらに毎月使者を頼朝のもとに送り援助するという動きを見せ[25]、権宮司家の尾張奉忠も同様であった[23]。
治承2年(1178年)に、平時子(平清盛の妻)の命によって範忠は孫の忠兼に大宮司職を継承させることに成功する[26]。しかし治承5年(1181年)3月、この年の閏2月に平清盛が死去した影響かは不明だが、範雅が三度目の大宮司職に就いた。この3月には墨俣川で大宮司一門ともみられる慶範の娘を室にしていた義円(頼朝異母弟)が、平重衡らの追討軍と戦っているが、この時に範雅も源行家・義円軍に従って平氏と戦ったとみられている[27]。元暦2年(1185年)に平家が壇ノ浦で滅亡すると、範雅の子息・範常が大宮司に就いた。範雅は頼朝在世中に限って在職し、頼朝から何度も奉幣を受け、別禄も賜っていることからも、大宮司家の中で、範雅の系列が明らかに源氏に従っていたことを示している[27]。
平家滅亡後の範忠については『吾妻鑑』では一言も触れられておらず、範忠の子息・忠季については源実朝に仕え、孫の忠兼は平治2年(1200年)に大宮司に再任されているが、頼朝生存中は『吾妻鑑』にこの2人の名も見えない[28]。これについては、平家滅亡頃までに範忠が死去していたためであり、大宮司家との関係を配慮してのことではないかと考えられている[28]。
鎌倉時代初期
[編集]鎌倉幕府の初代征夷大将軍・源頼朝の外戚であった大宮司家は、幕府内において特殊な一門となった[29]。頼朝の熱田社および大宮司家に対する厚意はよく知られており、頼朝は流人時代に援助を続けた祐範やその子仁憲、権宮司・尾張奉忠の後家尼を厚遇するだけでなく、熱田社も鎌倉の鶴岡八幡宮の摂社として勧請するなど、熱田社への尊崇の念を表した[30]。
熱田大宮司家一門の中には御家人化したとみられる人物もおり、藤原季範の子息の1人である範信とその子息の憲朝は、文和元年(1185年)に頼朝の父・義朝の納骨堂南御堂勝長寿院供養、建久5年(1194年)同所で鎌田正清の娘が義朝および父の仏事を修した時などに随行参列しており、かつ上野介に任官していることから、鎌倉に住み御家人となった可能性が高いという。また同じく兄弟の範智の娘の三条局は、源頼朝家の女房として出仕するようになった[30]。憲朝はまた八条院判官代として女院に仕えた。一門のうち、範信の子の中条範清もまた上西門院蔵人で、女院崩御後には七条院に仕えるとともに頼朝の任右大将拝賀において前駈10人の内の1人に名を連ねた御家人であった。
鎌倉時代の熱田大宮司家は、職(廷臣・幕府御家人)や本拠地(京・西国・東国)が多様で[15]、憲朝や範清のように女院に仕えるとともに御家人として幕府に使えるという二元的主従関係をもつ人物は大宮司家一門のなかに少なくなかったと推定されている[31]。熱田大宮司一族は京都と鎌倉の双方に参仕するようになるが[30]、これが承久の乱における一門の動静に関わることになる。
承久の乱
[編集]鎌倉幕府源氏三代の間、頼朝の外戚として特に実力のある家柄ではなかったものの、一般御家人に比べると殊遇された熱田大宮司家一門だったが、頼朝が没し実朝が暗殺された後、幕府と大宮司家一門は一部を除き疎遠となった[32]。
承久の乱がおきると、大宮司家一門の多くが後鳥羽上皇らの京方に参じた[33]。また大宮司家の一族である中条氏も、乱の前から後鳥羽院権力によって動員される存在であり、この乱においても当初は院方の軍事力となっていた[34]。承久の乱で京方が敗北した結果、大宮司家一族の範朝は尾張国海東荘地頭職に補任されていたが所職を没収、憲朝の子とみられる範俊は春日部郡郡司職を没収、さらには藤原大宮司家の本貫ともいうべき三河国額田郡の所職が大宮司家の手から離れるなど大打撃を被った。大宮司職についても混乱があったようで、忠兼の養子となって承元2年(1208年)に大宮司職を嗣いだ大江広元の子・大江忠成の子息である大江忠茂が、変の混乱に乗じて幕府から大宮司として派遣され、正式補任を待たずにあわただしく熱田社に入ったことが『熱田大宮司千秋家譜』に記されている[35]。大宮司職は幕府の意向に左右されるもので、京方についた藤原範直の大宮司在任を、幕府軍が尾張国に進行した段階で、大宮司就任資格を持つ忠茂が強引に就任することで実力で否認し、大江広元が乱の混乱に乗じて熱田社を押えたと考えられている[36]。
その一方で、熱田社が幕府に敵対行動をとった様子はなく、『承久記』には幕府軍を迎え撃つために東海道に派遣された京方所将が、大宮司に攻撃を受け討死したという記事があり[37]、幕府方についた大宮司家一門もいた。この幕府軍に属した大宮司については、大江忠成・忠茂か、もしくは範忠の曾孫で足利義氏の部隊に属していた[38]野田朝氏が候補にあげられている[37]。
朝氏の大宮司在任期間は時間的には整合しないものの、朝氏は天福2年(1234年)下野国鑁阿寺大御堂建立の時に「方方雑掌」の1人として「巽、藤原朝氏私云、野田大宮司殿」と名がみえ、さらに足利義氏の姉妹を室にもっている[2]。朝氏の父・朝季は健保元年(1212年)和田合戦の折に足利義氏の軍勢に属して和田方の朝比奈義秀と戦い討死し[39]、朝氏の孫の家季は、足利尊氏が多々良浜の戦いで南朝方と戦った際に、足利家重代の鎧小袖を着用し、尊氏の死去に際して出家した尊氏の近習である[2]。このように範忠-清季―朝季―朝氏の系列は足利氏と極めて関係性が深く、幕府東海道方面第三陣指揮官であった足利義氏に従軍して、朝氏が大宮司を名乗った可能性は捨てきれないと指摘されている。
大宮司家が承久の乱に際し京方と幕府方に分裂した原因として、京方についた範信―憲朝―範俊の系列ならびに、範雅―範経-保範・能範―範直・範広―範行の系列は西国を基盤としており、また幕府との関わりは源頼朝との個人的な結びつきに支えられたもので、それよりも朝廷と関係の方が時間的に先行していたという事情や、熱田社が草薙剣を祀り、古来皇室と密接なかかわりを持つ一門であることが理由に挙げられる[40]。 一方で、幕府方についた藤原範忠からの系列は、範忠時代の後白河院・平家への追従以外、朝廷との直接関係をもった人物はあまり見られず、範兼(範忠の子)は、前代に平家寄りとなったことを跳ね返すために幕府重臣・大江広元の子を自分の猶子にし、鎌倉寄りであることを鮮明にすることで、大宮司職を競合する範雅流に対抗するなど[39]、源実朝暗殺後も大江氏や義氏などの足利氏とも関係を持ち、大宮司家嫡流ながらも関東に基盤を築いていた系列であった。朝氏の孫が野田常陸介、その孫・範重が野田常陸太郎と称していることも、その本拠地との関係性が考えられている[40]。
承久の乱の後、足利義氏と二階堂元行の二人が三河の領主となる。足利義氏は祖母が熱田大宮司季範の孫娘で、和田合戦の際に熱田大宮司家の朝季が従軍するなど、大宮司家とは、血縁だけでなく人的な繋がりも有する人物で[41]、二階堂元行も『尊卑分脈』によれば祖父・行政の母が「季範妹」とされており、曾祖母が藤原季範の妹であったという[41]。このように承久の乱後、熱田大宮司家と血縁のある新領主が三河に複数登場したことについては、幕府側が三河国内に影響力を有した熱田大宮司家との関わりを持つ人選を考慮した可能性が指摘されている[34]。
額田郡の領主が足利義氏に代わった後も、大宮司家の勢力は様々な形で三河に根付き続けたと考えられている[42]。憲朝の子・範時は蔵人・六波羅評定衆、ひ孫の範宗は蔵人・上野介に任じられ、一条大宮篝番役・六波羅評定衆を務めるなど、在京人として幕府に再編された[35]。また京方に参陣したものの、能範は嘉禄元年(1225年)7月、範広は宝治2年(1248年)3月頃に各々大宮司職に補任されるなど、京方についたものの後に幕府に赦免される者もいた[35]。
また中条氏(三河国宝飯郡中条(現豊川市)を苗字とする熱田大宮司藤原氏一族(愛知県史))も、中条信綱(憲朝)・憲俊父子が後鳥羽院の陣営から離脱した結果、乱後に所職・所領の没収などの一定の処分は受けたものの、三河における御家人として生き残った[34]。建長2年(1250年)の閑院内裏造営役を「中条右馬助入道」という人物が御家人として分担しており、この人物は中条範俊のこととみられ、幕府方軍勢の中にも名は見られないものの、少なくとも範俊は京方に加わらなかったと考えられている[36]。乱に際して中条氏は去就に迷い、立場を鮮明にしないまま、乱が終わるのを待ったとみられる[36]。
霜月騒動による混乱
[編集]弘安8年(1285年)11月に起きた霜月騒動では、平頼綱と対立していた安達泰盛らが粛清され、三河国内の重原荘の地頭を務めていた二階堂行景と、足利氏の一族である吉良満氏も犠牲となり、さらには足利氏当主の足利家時の自害にも関係したとみられるなど、熱田大宮司家と三河との間に深刻なダメージを与えた[42]。三河国重原荘の地頭職にあった二階堂氏はおそらくその職を失い、代わりに北条一族の大仏氏がそれを得たとみられている[43]。足利氏の動揺と立場の低下も明らかで、承久の乱後に大宮司家とのつながりをもって再結成されていた三河の支配体制は、この事件後、北条氏から加えられた圧力によって急速に揺らぎ始めることになる[43]。
また当時の三河国守で、熱田大宮司家の血縁でもあった高倉範春(季範の弟・季綱の七代の子孫)は、霜月騒動の直前にあたる同年10月28日、在任わずか1年数カ月でその官を辞している[43]。この動きについては、範春の守護就任は、政局絡みで足利氏を頼みにできなくなった大宮司家が、自らの影響力を維持できるような人物を三河の国守に就任してもらえるように貴族社会に働きかけた結果だったが、事態が大宮司家や範春の想定を超えており、吉良満氏や二階堂行景ら三河国の関係者が得宗御内人として権勢をふるう平頼綱らと対立を深める中で、保身のためにも範春が三河守を投げ出さざるを得なくなったのではないか、と考えられている[44]。霜月騒動をきっかけに、三河における大宮司家の影響力は後退し、弘安11年(1287年)以降、三河支配の主導権は、西園寺家という関東申次の地位を相伝し、さらに幕府と強く結びついている貴族の手に移った[45]。
大宮司職を巡る争いについても影響があり、大宮司家一族の間で範忠流と範雅流が長らく拮抗していたが、13世紀中期ごろから、範忠流ながらも曾祖父以来大宮司の実績がない系統であった野田行氏が「城入道(安達泰盛)の威を募て(振りかざして)」大宮司の座を獲得し、これに対して範雅流の宗範は、子息の永範を「平禅門(平頼綱)の
鎌倉後期から建武の新政期
[編集]鎌倉後期、三河には得宗など北条氏一門の勢力が浸透し、熱田社の神宮寺座主に北条経時の子・醍醐寺理性院の頼助が就任するなど、熱田社にも北条氏の力が及ぶようになる[47]。一方で東海道筋の諸国の中で、三河のみが足利氏の守護支配に属していたことも事実であった[45]。このころの大宮司家の明示的な動きを物語る史料はないが、先述の元三河守・高倉範春が正中の変に際して幕府側に「誤認逮捕」されるなど、倒幕運動の中で「誤解」を受けるような立場にいたと捉えることはできるという[48]。
元弘3年(1333年)に鎌倉幕府が滅亡し、後醍醐天皇による建武の新政が開始される。建武政権下においては、熱田社が官社化されるなど、後醍醐天皇に評価されていたことがわかる[48]。また中先代の乱の後、足利尊氏に敗れて、海路で熱田浦に漂着した三浦時継らに対し、熱田大宮司は明確に敵対的な姿勢をとっており(到津文書[注釈 1])[48]、『太平記』にも三浦らが船から上陸したところを捕らえられて京都に送られ、六条河原で首をはねられたという話が伝わる[49]。こうした大宮司家の「反北条」的姿勢については、かつての本貫地三河をめぐって熱田大宮司家と北条氏との間に次第に形成されていった摩擦も原因のひとつではないか、と指摘されている[48]。
南北朝時代
[編集]建武2年(1335年)に足利尊氏が鎌倉で政権に反旗を翻すが、その後敗れて九州に逃れる。しかし翌年には後醍醐方を破って北朝の光明天皇が即位したことで、建武政権はその幕を下ろすが、後醍醐天皇は吉野に逃れ南朝を開いたことで、南北朝時代が始まる。
南朝方に属したと『尊卑分脈』からわかる大宮司一門は、大宮司昌能ただ一人である[50]。また『太平記』の箱根竹の下の戦いで南朝方で奮戦した「摂津大宮司入道源雄」は親昌だと言われている[51]。『熱田大宮司千秋家系譜』は『太平記』における昌能の行動を昌能の養子・昌胤や、忠氏(忠季流)、季氏(清季流)、範経流の親昌・昌能・昌胤、5名の大宮司に分散して記している[52]が、室町幕府盛期に萩氏(忠季流)や野田氏(清季隆)が南朝側で活躍した先祖の記事を偽ってまで系図に書き込む必要はまずあり得ず、これは室町幕府が滅びるころ、南朝の英雄をたたえ、かつ悼む『太平記』の語りが社会に浸透した時代にこうした補訂が『千秋家譜』に加えられたと考えられ[52]、『千秋家譜』の記事はすべて昌能のことと解すべきという指摘がある[53][54]。
昌能の本拠地は尾張国であることは疑いないが、熱田社だとは考えられておらず[54]、『太平記』の「尾張國波津ガ﨑」との記載や、南朝側の伊勢外宮禰宣村松家行の行動を記した「外宮禰宣目安状案」から、現在羽豆神社が鎮座する知多半島の南端・宮崎(羽豆崎)が北畠顕信らも入った南朝の拠点のひとつであったこと、羽豆神社の社記の中に昌能の名が見られること、「熱田大宮司家由緒書」に季忠の代まで羽豆崎を根拠地にしていたと伝えられていることから、羽豆崎周辺と考えられている[55]。昌能は南朝に属して活躍したが、その名は『園太暦』の観応3年(1352年)以降史料上に見えなくなり、昌能の系列は、猶子の昌胤を最後に姿を消しているため、その後に羽豆先を根拠地にしたという大宮司家は、足利氏に被官した系列と考えられている[56]。
昌能が南朝に仕えた一方で、星野・千秋・野田家などの藤原範忠・範信の子孫の大宮司家一門は、足利氏に被官して近習の立場となった[57]。『御的日記』建武元年(1334年)の中に、仁木頼章・細川頼春らとならんで「三番星野左近藏人・千秋左近藏人」の名が見え、範信の子孫にあたる大宮司家一門の星野家・千秋家がこの時に足利氏へ被官していたことがわかる[57]。また建武3年(1336年)3月に足利尊氏が筑前国多々良浜で菊池武敏を破った時に、足利家重代の鎧・小袖を「熱田の野田の大宮司」が着用していた[57]といい、嫡流の野田一族も尊氏に従っていた[15]。
足利尊氏は建武2年(1335年)の10月と12月、中先代の乱の後の時期に、熱田社に対して祭主職の交代と祈禱命令を相次いで下しているが、これは尊氏の熱田社への介入ならびに熱田社を自身の勢力下に組み込もうとした動きと考えられている[58] 。12月の祈禱は馬場良継(馬場氏は大宮司正信の次男・信頼に始まる神宮西門の西南・馬場を姓名とした大宮司一族[59])によるものと確認され、この良継は暦応2年(1339年)8月に尊氏から本領を安堵されていることから、北朝側にあったことを否定できないという[60]。大宮司昌能が建武政権下で活躍する中で、尊氏は熱田社の内部からの切り崩しに成功したとみられ[58]、鎌倉幕府滅亡に際して足利氏が大宮司家嫡流の野田氏、在京人の系譜を引く千秋家、三河国を本拠としていた萩・星野氏とその分流を掌握していたらしいと考えられている[61]。
なお、藤原姓熱田大宮司家の祖・季範の嫡子である藤原範忠の子・寛伝は藤原大宮司家の氏寺ともいうべき[62]三河国額田郡瀧山寺の僧侶で、頼朝とも従兄弟としてかなり親密な関係にあった[62]。足利義氏は貞応元年(1222年)に瀧山寺本堂造営の援助をしたり、義氏室が同寺へ参詣するなど、鎌倉期を通じて足利氏は瀧山寺を厚く庇護しており[62]、中先代の乱の折には、鎌倉から落ち延びた千寿王(後の2代将軍足利義詮)を同寺が保護していたという[63]。
室町時代の大宮司家
[編集]室町幕府の奉公衆(足利将軍直臣)となった千秋(野田)・萩・星野家などの熱田大宮司一門は、足利将軍家への在京奉公の傍ら、必要に応じて京と熱田社・尾張国を往来し、室町幕府と熱田社・地域をつないだ[15]。室町時代を通じて大宮司職に就任する系統は確定しておらず、熱田大宮司には野田氏や、三河に拠点を持つ萩・星野家もなることがあった[64]。延徳2年(1490年)の段階でも千秋政範と萩入道某が争っていることから、千秋家が大宮司を独占するようになるのは戦国期以降とみられている[65]。
千秋家・野田家
[編集]千秋家は、祖の藤原季範の嫡子・範忠が自身の一女を足利義康の室とし、その間に源頼朝と義兄弟かつ熱田大宮司家の母を持つ足利義兼が生まれるなど、源氏嫡流や足利氏と密接な関係にあった。もとは一門の中では庶流で越前国丹生北郡に本拠があったが、承久の乱では鎌倉方につき、南北朝期には足利氏に属し、室町幕府の元では外様衆・番衆(二番衆、三番衆、五番衆)を輩出し、申次衆の一員も務め[66]、千秋政範以降大宮司職を世襲化し[64]、明治初期まで大宮司職を継承した家柄である[67]。
南北朝期、嫡流野田氏・星野・萩(大江氏)・千秋氏などの大宮司諸家が大宮司職を競望したが、この時代、はじめて千秋家からの熱田大宮司が誕生したとみられる[68]。千秋高範といい、父親は千秋家の千秋範世、母親が野田大宮司家の系列・家季の娘であった[69]。洞院公賢の日記『園太暦』の貞和2年(1346年)12月21日条に、萩忠広・野田範重・千秋高範・星野永能の4名の大宮司職競望が伝わる。この時に公賢は、高範・永能は「非當職相續之流」として退けて野田範重を推挙しており[70]、範重が大宮司職に就任したとみられている。高範が大宮司職に就任したのはそれ以降とみられ、室町期に初めて千秋家から高範が大宮司職に就いた要因として、野田家出身の母が父季氏の所領・所職の一部を相続し、その一部を高範に伝えたからではないか、という説がある。
高範は、康永3年(1344年)足利尊氏・足利直義兄弟が高野山金剛三昧院で仏名和歌会を開き、その後奉納された和歌120首の中に高範の2首が含まれている[71]。翌貞和元年(1345年)の尊氏の天龍寺供養で諸大夫・布施取役を勤め、高範の兄弟の惟範もこの時の直義の御傘役を務めた。貞和2年(1346年)には尊氏の御使を務め醍醐寺三宝院に出向くなど、高範は尊氏の近習としての位置にいた[72]。越前国の千秋氏が足利氏の近習になれた理由として、母が鎌倉以来足利氏と関係の深い野田氏の出自だったこと、高範が在京人の系譜を引く千秋政範の養子になっていたことが挙げられる[72]。この千秋高範が千秋熱田大宮司始祖と称してよいといえる[73]。
これ以降、室町期の将軍出御の際、千秋家が衛府侍・御沓役などとして随行していることが『花営三代記』などの諸史料に散見され、5代足利義量の社参における「御ワラジヤノ役、千秋二郎持季」、6代足利義教の右大将参賀の「衛府侍、十騎一行、千秋刑部少輔持季」、13代足利義輝の御産所の所役の「御祈禱奉行、千秋左近大夫睛季」などのように千秋家の人間の名がが明記されている[72]。また千秋家は節句・朔日に将軍に目通りする節朔衆の一員でもあった[72]。
千秋家は奉公衆としても、三番衆と五番衆に千秋家系列の人物の名が2名以上確認できる[74]。3代足利義満以降、家の官職が世襲化されたことから、所属番習は固定化しており、数なくとも千秋家は本家・庶家ともども四家以上にわたって将軍に仕えたことになる[75]。所領は越前・加賀・越中にあり[66]、高範が大宮司職に就くようになってからは、奉公衆三番衆の高範の子孫(持季―勝季―政範―高範―春季)の系列が熱田社領を相伝したものと考えられている[76]。高範の子・満範は応永4年(1397年)に大宮司になるが、京都に住み、たまに熱田社へと往復したという[64]。
室町時代も、大宮司職は藤原季範の家筋から選ばれる枠組みは維持されていたが、大宮司家嫡流野田氏と結合した結果、千秋氏が大宮司職を世襲し、室町・戦国・江戸時代を通じて熱田大宮司家嫡流に成長する[15]。大宮司家本流が野田姓ではなく千秋姓となった確実な答えはないものの、足利氏が京都を拠点にしたこと、それに在京人であった千秋氏の実績が有効であったことが考えられている[73]。
萩氏
[編集]萩氏は『尊卑分脈』によると範忠の子孫・忠氏に始まり、忠氏の父・忠成は大江広元の子で忠兼の猶子となり、忠氏もまた大江姓で忠成の猶子であった[77]。忠氏の子・康広をふくめたこの3人はいずれも大宮司職に就いた[78]。『千秋家譜』には、萩忠氏が足利方に属し、足利尊氏が新田義貞と戦った箱根竹ノ下の戦いで奮戦したと記録されている[51]。なお、文和(1353年)頃には萩忠広が大宮司にあったが、尾張国国衙領である智多郡英比郷北方を巡り、忠広の濫妨押領と本所皇室への年貢未進から、押暴を止めるよう後光厳天皇が綸旨を発し、足利義詮がそれを命じる御行書を出している[78]。また応永11年(1404年)には忠広の子孫と考えられる大宮司萩駿河守が、熱田社領と号しておそらく英比郷北領を押妨したことで、国衙方知行主日野氏から幕府に訴えられている[78]。
萩氏は『文安番帳』四番衆に「萩内匠介」、同在国衆に「萩左京亮」、『永享番帳』の四番衆に「萩内匠助入道」「萩小太郎」「萩彌五郎」「萩内八郎」など、奉公衆としての萩氏を確認することができる。延徳2年(1490年)の足利義政の葬儀にあたり、足利義稙の警固についた走衆の中に「萩三郎」が見えるが、この人物も『文安番帳』四番衆の「萩左京亮」が萩忠広と同官職にあったことに唯一の根拠をもとめると、大宮司萩氏とかすかにつながってくるようであり、大宮司職を輩出した萩氏と、幕府の奉公衆・走衆にあった萩氏は、系図上はそのつながりを確認できないが、同一系列にあったと考えられている[79]。
星野氏
[編集]星野氏は 『尊卑文脈』によれば藤原範忠の兄弟・範信に始まり、その子の範清の子孫に継がれた[80]。範清は上西門院蔵人であり、建久元年(1190年)源頼朝の任右大将拝賀行列前駈10名の1人に名を連ねた人物である[80]。分家に一宮・篠田・長山氏がいる。
星野氏から大宮司職に就いた人物は、貞和2年(1346年)に大宮司を競望していた永能、永享6年(1434年)に大宮司職に就いた星野義信、文明16年(1484年)の星野政茂が確認でき、『尊卑分脈』からは、分流した一宮氏の国茂も大宮司職に就いたことがわかる。
足利氏との関係については、建武元年(1334年)の『御的日記』に「星野左近将監」の名が見られ、貞和元年(1345年)の足利尊氏の天龍寺供養に「諸大夫 星野行部大輔」、応安3年(1370年)足利義満の六条新八幡宮・北野社・祇園社の社参に「御沓、星野左近大夫」が見られるなど、足利将軍近習の位置にあったことがわかる[81]。また『太平記』には延文5年(1360年)に畠山国清が細川清氏・土岐頼康らと図って三河守の仁木義長を討とうとした際に、星野・行明が義長にではなく清氏側に加わったため、所領を没収されたことが伝わっており、義長が失脚したことで星野・行明は所領を回復したとみられるが、詳細は不明である[82]。また1435年(永享7年)6月に、当時大宮司職に就いていた星野義信が、6代将軍足利義教にいとまごいをせず勝手に尾張国に帰国したことで義教の逆鱗に触れ、大宮司職を罷免され、その後10月に遠江で討伐された[65]。義信の後任には千秋(野田)季貞が任命された。
星野氏は、本領の三河国宝飯郡星野荘の知行権を文生元年(1466年)までに失っていたため、譜代の所役として勤仕していた「大嘗會天羽織所役」を務めることができなくなっており、星野宗範が天羽衣織所役勤仕のため、星野荘の返還を申し入れたが、既に幕府御料所として政所執事の伊勢貞親に預け置かれているため認められなかったとの記事が『親長卿記』にある[82]。しかしその後『長享番帳』には五番衆として「星野宮内少輔」がみえ、星野荘が御料所のまま星野氏に返付されたと考えられている[82]。星野氏から別れた一宮・長山氏は『文安番帳』『永享番帳』の五番衆に名が見えることから、本家星野氏とともに幕府の奉公衆であった[61]。
また「星野氏は足利尊氏・義教・義尚といった個性ある将軍に個人的に取り入ることによって、大宮司職の獲得を実現した」という指摘があり、9代足利義尚の時代には、星野政茂が義尚の歌会に度々参仕し、時には講師役を務めたという義尚・政茂間の歌壇における交流が指摘されている[83]。
戦国時代以降
[編集]足利将軍の権力が衰退したこの時期に奉公衆を務める熱田大宮司一門は千秋家のみとなる。室町時代後期には千秋高季・晴季・輝季と続く奉公衆流と、季国以降の大宮司流に分家し、大宮司職を世襲した季国系千秋氏が近世の大宮司家を成立させた。この系列は遅くとも天文3年(1354年)8月に死去した季通の代から尾張国織田氏と関係を持ち始めたようで、季通は尾張国に在国していた(愛知県史p.526)。しかし季通の孫の千秋季光は同年に織田信秀の美濃出兵に従軍して戦死し[84]、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで、季光の子・千秋季忠が織田信長に従い討死した。この時まだ胎児だった季忠の子の千秋季信は、成人後の天正4年(1576年)1月に信長・信忠親子の判物により熱田社の大宮司職を与えられ、その前後、季信は従軍を免除され、神職に専念することになったという[85]。
大宮司に就任しなかった千秋家当主の晴季・輝季は、情勢不安定な中で幕府の奉公衆として足利家への奉公に専一した[15]。特に輝季は足利義輝の申次であり『永禄六年諸役人付』の中に「千秋左近将監輝季」と名がみえ、義輝と同じ「輝」の一字を冠しており、将軍家との緊密な関係を伺わせる。しかし15代足利義昭と織田信長の対決に当たり、千秋家は足利将軍家を離れ[14]、明智家につき織田方となった[86]。ただし春季は足利義晴・義輝・義昭と3代にわたって足利将軍に仕えており、信長の義昭追放を以て室町幕府が滅亡したと考えるならば、晴季と奉公衆千秋家は幕府滅亡寸前まで奉公したといえる[87]。輝季はやがて足利・織田の対立に際して明智光秀に従軍して討死した[88]。
ここに12世紀以来の藤原姓熱田大宮司家の軍事的側面は幕を下ろし、江戸時代を通しては大宮司家領尾張国愛智郡野並郷717石を知行する祭祀者という立場になる[73]。分家の中で千秋氏のみが残り、江戸時代を通じて尾張国を本拠とした同家が大宮司職を継承した[14]。将軍近臣の武家ではなく尾張国の社家となったことで、熱田大宮司家は戦わずして社務に専念できるようになった[89]。明治8年(1884年)の華族令公布に際し、千秋季隆は男爵に列せられた。国文学者であった季隆は明治33年(1900年)東京帝国大学文科卒業後に学習院大学教授となり、のち貴族院議員として連続当選した[90]ことで、宮司家を離れた大宮司家は国政の場に復帰した[14]ことになる。また季隆は皇典講究所理事、尾三銀行、尾張貯蓄銀行、金剛山電気鉄道の重役もつとめた[90]。
千秋家は明治中期に住居を熱田から東京に移し、熱田の旧社家にあった文献・文書等も当時の渋谷区原宿の邸内に移して土蔵に厳重に保管していたが、多くは昭和20年(1945年)5月25日に焼夷弾が文庫収納庫を直撃したことで焼失し、地下書庫にあった貴重文書類のみが難を逃れた[91]。
平成30年(2018年)9月27日、熱田神宮の宮司に千秋氏の千秋季賴が就任している[92]。
歴代熱田大宮司
[編集]- 藤本元啓(2003)『中世熱田社の構造と展開』(続群書類従完成会)pp.146-149に掲載の【表1】熱田大宮司職補任一覧による。
- 系図に大宮司とあっても、藤原高範など、年代が不明な場合は表に記されていない[93]。
順番 | 人名 | 在任期間 | 備考 |
---|---|---|---|
1 | 尾張員職 | 寛徳2年(1045年) - 応徳4年(1087年) | |
2 | 尾張季宗 | 不詳 | 信濃国へ落下 |
3 | 尾張季員 | 不詳 | |
4 | 尾張職実 | 不詳 | |
5 | 藤原季範 | 永久2年(1114年) - 保延3年(1137年) | |
6 | 藤原範雅 | 保延3年(1137年) - 久寿2年(1155年) | 季範五男 |
7 | 藤原範忠 | 保元元年?(1156年) - 応保元年(1161年) | 季範長男、内匠頭、応保元解官 |
8 | 野田清季 | 保元3年?(1158年) - 承安元年(1171年) | |
9 | 藤原範雅 | 応保元年(1161年) - 嘉応元年(1169年) | 再任。後白河院上北面 |
10 | 藤原範忠 | 承安2年(1172年) - 治承2年(1178年) | 再任。後白河院北面 |
11 | 藤原忠兼 | 治承2年(1172年) - 養和元年(1188年) | 平時子による補任 |
12 | 藤原範雅 | 養和元年(1181年) - 不明 | 3度目 |
13 | 藤原範経 | 元暦2年(1185年) - 正治元年(1199年) | 父譲りで補任、薦野大宮司 |
14 | 藤原忠兼 | 正治元年(1199年) - 承元2年(1208年) | 再任、承元2年死去 |
15 | 藤原保範 | 承元2年(1208年) - 不明 | 五条大宮司、高松院蔵人 |
16 | 大江忠成 | 承元2年(1208年) - 不明 | 大江広元五男、忠兼猶子、庁宣披露 |
17 | 藤原範直 | 承久2年(1231年) - 不明 | 白川大宮司、庁宣披露 |
18 | 大江忠茂 | 承久3年(1231年) | 庁宣到着前に熱田社に入社、7月庁宣 |
19 | 藤原能範 | 嘉禄元年(1135年) - 不明 | 薦野と号す。庁宣披露 |
20 | 大江元成 | 嘉禎3年(1237年) - 不明 | 早良大宮司 |
21 | 藤原能範 | 嘉禎4年(1238年) - 不明 | 再任 |
22 | 藤原範広 | 宝亀2年(1248年) - 不明) | 承久の乱で京方。在職8年とあるも不審 |
23 | 野田朝氏 | 建長6年(1254年) - 康元2年(1257年) | 早良大宮司 |
24 | 藤原範広 | 康元2年(1257年) - 不明 | 再任 |
25 | 藤原宗範 | 文永2年(1265年) - 不明 | 大喜大宮司。伯耆守 |
26 | 藤原範行 | 文永8年(1271年) - 不明 | 承久の乱で京方。但馬蔵人 |
27 | 藤原宗範 | 文永8年(1271年) - 長不明 | 再任、大喜大宮司 |
28 | 大江行氏 | 弘安7年(1284年) - 不明 | 大江忠成の子、常陸介 |
29 | 藤原宗範 | 弘安8年(1285年) - 不明 | 3度目。大喜大宮司 |
30 | 大江行氏 | 正応3年(1290年)2月6日 - 正応3年(1257年)3月3日 | 再任 |
31 | 藤原宗範 | 正応3年(1290年)3月28日 - 正応5年(1292年) | 4度目。大喜大宮司 |
32 | 藤原範春 | 正応5年(1292年)4月 - 不明 | 入社せず |
33 | 大江行氏 | 正応5年(1292年)5月 - 不明 | 3度目 |
34 | 大江時光 | 永仁3年(1295年) - 不明 | 行名大宮司、右近将監、因幡守 |
35 | 野田家季 | 永仁4年(1296年) - 不明 | 藤原大宮司、日向守、刑部権少輔 |
36 | 藤原宗範 | 永仁5年(1297年) - 不明 | 5度目。大喜大宮司 |
37 | 藤原永範 | 永仁6年(1298年) - 不明 | |
38 | 大江時光 | 正安2年(1300年) - 不明 | 再任 |
39 | 藤原永範 | 正安3年(1301年) - 不明 | 再任 |
40 | 藤原永範 | 乾元2年(1303年) - 不明 | 3度目 |
41 | 野田家季 | 嘉元2年(1304年) - 嘉元3年(1305年) | 再任・解任 |
42 | 藤原永範 | 嘉元3年(1305年) - 不明 | 4度目 |
43 | 萩忠氏 | 嘉元4年(1306年) - 不明 | 刑部権少輔 |
44 | 藤原永範 | 徳治2年(1307年) - 不明 | 5度目 |
45 | 藤原範房 | 延慶2年(1309年) - 不明 | |
46 | 野田家季 | 延慶3年(1310年) | 3度目。大喜大宮司、足利尊氏被官 |
47 | 藤原範房 | 正和2年(1313年) - 文保元年(1317年) | 再任 |
48 | 藤原親昌 | 正和5年(1316年) - 不明 | 摂津守 |
49 | 藤原親昌 | 文保元年(1317年)5月 - 文保元年(1265年)7月 | 再任 |
50 | 萩忠氏 | 文保元年(1317年) - 不明 | 再任 |
51 | 野田季宣 | 文保2年(1318年) - 不明 | |
52 | 野田朝重 | 元応元年(1319年) - 元徳元年(1329年) | 毛受八郎。経広・季宣の就任拒否 |
53 | 大江経広 | 嘉暦3年(1328年) - 不明 | 毛利四郎。朝重に拒否 |
54 | 野田季宣 | 元徳元年(1329年) - 不明 | 再任。朝重に拒否。元徳元年死去 |
55 | 大江経広 | 元徳2年(1330年) - 不明 | 再任。関東御行書・打渡状により朝重退去 |
56 | 藤原昌能 | 元弘元年(1331年) - 建武元年(1331年) | 南朝祇候 |
57 | 萩忠氏 | 正慶元年(1332年) - 不明 | 3度目 |
58 | 藤原親昌 | 正慶2年(1333年) - 不明 | 3度目 |
59 | 藤原昌胤 | 正慶2年(1333年) - 不明 | |
60 | 野田季氏 | 建武2年(1336年) - 貞和3年(1347年) | 上野介 |
61 | 野田高季 | 建武2年(1336年) - 貞和3年(1347年) | |
62 | 野田範重 | 貞和元年(1345年) - 貞和2年(1368年) | 常陸介 |
63 | 萩忠広 | 貞和3年(1347年)3月 - 貞和3年12月 | 常陸介、左京亮 |
64 | 萩行広 | 貞和3年(1347年)12月 - 不明 | |
65 | 野田清重 | 貞和6年(1350年)前後 - 不明 | 大宮司にあらず |
66 | 萩忠広 | 応安年間(1368年) - 応安年間(1375年) | 再任 |
67 | 萩康広 | 永和元年(1375年) - 永徳年間(1384年) | |
68 | 萩康広 | 嘉慶元年(1387年) - 不明 | 再任? |
69 | 野田満範 | 応永4年(1397年) - 応永22年(1415年) | 従五位上、左近将監、駿河守、刑部少輔 |
70 | 野田貞範 | 応永24年(1417年) - 永享元年(1429年) | 内匠頭 |
71 | 千秋持季 | 永享2年(1430年) - 永享6年(1434年) | 従五位上、左近将監、駿河守、刑部少輔 |
72 | 星野義信 | 永享6年(1434年) - 永享7年(1435年) | |
73 | 千秋季貞 | 永享7年(1435年) - 嘉吉3年(1343年) | |
74 | 千秋季貞 | 嘉吉3年(1343年)9月4日 - 9月29日 | 再任 |
75 | 千秋持季 | 文安元年(1444年) - 宝徳3年(1451年) | 再任 |
76 | 千秋勝季 | 長禄2年(1458年) - 不明 | 従五位上、左近将監、駿河守、刑部少輔 |
77 | 千秋四郎 | 文明元年(1469年) - 不明 | |
78 | 千秋政範 | 文明2年(1470年) - 文明13年(1481年) | 従五位上、左近将監、駿河守、刑部少輔 |
79 | 星野政茂 | 文明16年(1484年) - 不明 | |
80 | 千秋政範 | 永正2年(1533年) - 永正12年(1515年) | 再任 |
81 | 千秋季通 | 天文2年(1533年) - 天文3年(1534年) | 再任。天文3年死去 |
82 | 千秋季平 | 不明 - 天文6年(1537年) | 紀伊守、天文6年死去 |
83 | 千秋季光 | 不明 - 天文13年(1544年) | 紀伊守、織田信秀に属す、天文13年討死 |
84 | 千秋季直 | 天文16年(1547年) - 不明 | |
85 | 千秋季忠 | 不明 - 永禄3年(1560年) | 加賀守、織田信長に属す、永禄3年討死 |
86 | 千秋秀信 | 天正4年(1576年) - 慶長17年(1612年) | 慶長17年死去。以後従軍を止め、社務を務むべし(系図纂要) |
系譜
[編集]- 藤本元啓(2003)『中世熱田社の構造と展開』(続群書類従完成会)【関係図1】熱田大宮司職相伝略系図(pp.144-145掲載)ならびに『熱田神宮文書 千秋家文書 下巻』の「尊卑分脈熱田大宮司流(前田育徳会尊閣文庫所蔵)」(pp.352-360掲載)による。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d 「熱田神宮氏家」『改訂新版 世界大百科事典』 。
- ^ a b c 藤本 2003, p. 51.
- ^ 藤本 2003, p. 9.
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- ^ 藤本 2003, p. 13.
- ^ a b c 愛知県 2018, p. 46.
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参考文献
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