コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

淵上房太郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
渕上房太郎から転送)
淵上房太郎
Fuchigami Fusataro
沖縄県の旗沖縄県知事
任期
1938年6月 – 1941年1月
君主昭和天皇
前任者蔵重久
後任者早川元
選挙区官選
日本の旗衆議院運輸委員長
任期
1948年 – 1957年
前任者松山義雄
後任者赤沢正道
個人情報
生誕 (1893-06-02) 1893年6月2日
死没 (1976-02-28) 1976年2月28日(82歳没)
国籍日本の旗 日本

淵上 房太郎(ふちがみ ふさたろう、1893年明治26年)6月2日[1] - 1976年昭和51年)2月28日[2])は、日本の政治家内務官僚衆議院議員、官選沖縄県知事

経歴

[編集]

福岡県出身。淵上仁七郎の長男として生まれる[1]第一高等学校を経て、1918年東京帝国大学法科大学政治科を卒業。大蔵省に入省し専売局書記、同副参事を務める。1920年10月、高等試験行政科試験に合格[3]

1923年内務省に転じ兵庫県明石郡長に就任[3]。以後、同県川辺郡長、長崎県地方課長、石川県商工水産課長、宮崎県地方課長、三重県学務部長、青森県書記官警察部長、岩手県書記官・総務部長、大分県書記官・総務部長、広島県書記官・総務部長などを歴任[2]

1938年6月、沖縄県知事に就任し、1941年1月まで在任。柳宗悦からの批判を受け論争となった標準語励行運動を推進した[1]

1939年6月に元内閣総理大臣、大日本武徳會會長、林銑十郎陸軍大将以下関係者を招き挙行された大日本武徳會沖縄支部武徳殿開殿式では、大日本武徳會沖縄支部長。

1947年4月、第23回衆議院議員総選挙福岡県第2区から日本自由党の所属で出馬して当選。炭鉱国管疑獄では、1948年(昭和23年)衆議院不当財産取引調査委員会に証人喚問されている[4]。その後、第24回第27回総選挙で当選し、衆議院議員を3期務め、衆議院運輸委員長、日本自由党総務、自由民主党沖縄問題特別副委員長などを歴任[2]

その他、日本医療団理事、福岡燃料(株)社長、南方同胞援護会副会長、沖縄協会副会長などを務めた[2]

著作

[編集]
  • 『ひうが : 歌集』淵上房太郎、1932年。
  • 『現代日本と生産方式 : 炭鑛國家管理になぜ反對するか』政經書房、1947年。
  • 『「沖縄」の再検討』南方同胞援護会、1957年。
  • 『これが沖繩だ! : 米国の指導者に直言する』南方同胞援護会、1957年。
  • 『沖縄の施政権 : 返還方式案提唱』淵上房太郎、1965年。

栄典

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ a b c 『新編日本の歴代知事』1131頁。
  2. ^ a b c d 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』560頁。
  3. ^ a b 『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』228頁。
  4. ^ 『戦後政治裁判史録 1』336-337頁。
  5. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。

参考文献

[編集]
  • 田中二郎、佐藤功、野村二郎編『戦後政治裁判史録 1』第一法規出版、1980年。
  • 歴代知事編纂会編『新編日本の歴代知事』歴代知事編纂会、1991年。
  • 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。
議会
先代
松山義雄
日本の旗 衆議院運輸委員長
1957年
次代
赤沢正道
官職
先代
蔵重久
沖縄県の旗 沖縄県知事
官選第20代:1938年 - 1941年
次代
早川元